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2017年4月28日 (金)

宇宙、神、人間

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   ドイツのフリッツ・ロイターFritz Rcuter(1810-1874)は世界的に知られた作家であるが何故か日本ではほとんど知られていない。おそらく宗教的な内容を多く含んでいるからであろうか。かつて神を次の言葉で言い表している。

初めも終りも、主よ、あなたのもの。

その間の短い時、人生はわたしのもの。

されどわたしたちは暗やみの中を迷い、

なにも見いださない。

主よ、あなたは光であり、

光はあなたのみ住まいです。

   われわれは宇宙という天空の幻想の中で生きている。最近は大型望遠鏡によってはるかはなたの宇宙の果てまで画像を見ることができる。科学がもたらした新知識で広大な宇宙の神秘が解き明かされようとしている。現代の知識では宇宙はおよそ140億年前に誕生した。そして何十億という星雲のなかの一つである銀河系のなかの一つの小さな惑星、それが地球である。創造か進化か。なぜ人間は神のことを考えるのか。多くの民族は、表現の違いこそあれ、人間は自分ひとりで立っているのではなく、またそうすることはできないと考えた。人間は自分の外の自然や社会の種々の力を極めて重要な関係を持っており、その力に依存してさえいるのである。人は自分が世から離れて立つことのできる力の中心ではないことをぼんやりとではあれ、はっきりとであれ、知っているのだ。

2017年4月 3日 (月)

平成之大馬鹿門騒動

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   平成8年3月、京都の仏教大学が新図書館などの建設にあわせて正門周辺の改修工事をした際、彫刻家・空充秋(そらみつあき)が制作した門柱が贈られた。大学側は当初、気づかなかったが、4月3日の入学式で、教員が門柱の側面に30cm四方の大きさで「平成之大馬鹿門」と彫り込まれていることを発見した。大学と空とで題名を削るかどうか話し合いが続けられたが、決裂した。大学は「馬鹿という言葉は大学には不適切。削ってほしい」と要求。空は「作品を削るというのは、自殺しろというのと同じ」と対立。大学側が引き取りを拒否したため、2ヶ月後の6月、門柱を香川県木田郡庵治町の自宅に持ち帰った。その後、各地から門柱の要望があり、平成8年8月、空は兵庫県宍粟市へ寄贈した。現在、千種高原へ向かう道路を挟んで相対し聳える、おごしき山(1095m)と空山(901m)の、それぞれの山頂に1基づつ設置されている。(参考文献:中井真孝「平成之大馬鹿門と新聞記事」 鷹陵150号 1996年)

2016年6月 2日 (木)

奈良の大仏さんの身長は?

Photo188077    聖武天皇は747年9月29日、東大寺大仏造立を開始し、5年後の752年4月9日、完成したが、大仏は頭部が欠落するなどの事故をたびたび引き起こし、そのつど修理を加えて維持してきたが、1180年、平重衡の南都焼き討ちに災をこうむり、焼失した。第1回の復興は、源頼朝の援助を受けて俊乗房重源が着手し、1185年には大仏を供養しており、東大寺全体の総供養は1203年盛大に執行された。ところが、1567年三好・松永の兵火がふたたび大仏を焼くにいたった。今回は戦国の世で復興事業はおもうように進まず、江戸期になって公慶上人がよく幕府を動かし、1692年大仏はここに3度雄姿を現した。これが、今日われわれが東大寺に拝む盧舎那仏大像である。奈良の大仏さんを見学する子どもたちの質問で、よくあるのが「大仏の毛髪、これを螺髪(らほつ)という、その数は?」 古くから966個と伝えられてきたが、レーザー光を使った最新技術によって492個だったことがわかった。大仏の身長は、座っているので座高は15m。蓮の台を含めると(つまり下から見上げたときの高さ)は、18mになる。

2016年3月12日 (土)

寒さ暑さもお水取り

Otaimatu1  東大寺二月堂の修二会は、東大寺の実忠和尚が夢の中で、十一面観音悔過の行法を拝み、752年に、これを人間の世界に移して行ったのが始まりである。以来、今年で1261回を数える。この法会は、現在は3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになった。行中の3月12日深夜(13日の午前1時半頃)には、「御水取り」といって、堂前の若狭井という井戸から観音さまにお供えする「お香水」を汲み上げる儀式が行われる。また、この行を勤める練行衆の道明かりとして、夜更、大きな松明が本堂の回廊で振り回される。「おたいまつ」と呼ばれるこの松明の火の粉を浴びると災厄が除かれると伝えられるため、群衆は争って松明から出る火の粉を浴びようとする。

2016年1月28日 (木)

日本の「補陀洛渡海」信仰

Photo   和歌山県の那智勝浦に補陀洛山寺がある。同寺では毎年、立春大護摩祈祷会に合わせて節分を前にして、一足早い豆まきが行われる。今年も1月27日に行われた。補陀洛とは遙か南方海上にあると信じられた山である。中世の観音信仰の1つで、熊野の那智権現には補陀洛山寺がある。補陀洛渡海といって、寺の住職は61歳の11月に観音浄土をめざして生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった。補陀洛というと熊野のほかに有名なのが栃木県の日光である。それにしても、なぜ北関東の一山である男体山が補陀洛山とされたのか不思議である。782年に勝道が開山したときは補陀洛山(ほたらやま)と称した。いつしか「フタアラ」ないし「フタラ」と呼ばれ、弘法大師が二荒山(にこうさん)と呼んだことから、人々も二荒(にこう)、日光となったといわれる。

参考文献

根井浄「補陀洛渡海考」 2001年

神野富一「常世と補陀洛」 甲南国文51号、2004年

2015年7月21日 (火)

クララ童貞会

   「童貞」とは元々カトリック教会の修道女(尼僧)を敬って言う表現である。アッシジの貴族の娘クララがポルツィウンコラで聖フランチェスコの指導のもとに1212年にクララ童貞会を創設した。厳しい清貧、禁欲生活を通じ、神との交わりを目指す観想生活を特色とする。ゼフレッリ監督の映画「ブラザー・サン・シスター・ムーン」(1972)でジュディ・バウカーがクララを演じた。 Klarissenorden

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2015年6月22日 (月)

マクンバの呪い

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Macumba20altar   サンバという踊りは日本でもよく知られるようになったが、ブラジルにはマクンバという邪教がある。奴隷時代、アフリカ西海岸から連れてこられた黒人たちが持ち込んだ伝統宗教とカトリック信仰とが習合してマクンバが生れた。つらい生活を忘れるために歌い、踊ることから生れたのがサンバであり、祈ることで白人に対する憎悪をむき出しにしたのがマクンバである。「マクンバにかけられる」という言い方があるように、一種の呪いの儀式である。パワーの強いマクンベイロ(呪術師)にかけられるとなかなかこの呪いが解けない恐ろしい邪教なのだ。ブラジルでは今でも、大きなお皿に、鶏の死骸などが道端に置かれていることがある。これがマクンバである。

Photo_2   このマクンバが近頃では日本にも侵入していることをネットで知った。家を訪問した人から、1枚は葉っぱをもらい、それを軒などに飾っておくと金運がアップするというのだ。葉を「フォルトゥーナ」Fortuna、ローマ神話の運命の女神のことで「幸福」という意、ポルトガル語では大金、財産という意味があるらしい。釘で壁に打ち付けておくと、根が伸びて成長も早い。このように深く静かに身近な生活の中にマクンバの呪いが広がっている。macumba

参考文献:鈴木一郎「密教マクンバ 文明の中の秘境」 読売新聞社 1974

2015年6月21日 (日)

能登古寺巡礼・妙成寺

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 松本清張「ゼロの焦点」。北陸の冬、金沢、羽咋、七尾、和倉が舞台である。陰鬱な北陸の冬の情景描写が印象に残る。しかし石川県羽咋は、能登一宮である気多神社があることでもわかるように古代から開かれた地であった。とくに妙成寺は北陸における日蓮宗の本山である。1294年に日象聖人が開山した。江戸時代、前田利常の生母寿福院の菩提寺で歴代藩主の帰依をうけて栄えた。広大な境内には本堂、祖師堂、三光堂、書院、庫裡、番神堂、五重塔、仁王門、鐘楼、経堂など多くの堂宇が甍を並べている。

2015年4月23日 (木)

霊柩車を見た日はよいことがある

Img6ebe507cc91ztc   むかし巨人の長嶋茂雄は霊柩車に出会うと、その試合にホームランが打てる、というジンクスがあったと聞いた憶えがある。東宝映画「男ありて」(1955)にも野球人の「験担ぎ」のシーンがある。地方での試合、志村僑演じる弱小チームの監督はわざと葬儀屋に手配して、送迎バスが野球場に向かう途中で、霊柩車とすれ違わせて、選手に今日の試合が勝てる、と思い込ませる。つまり長嶋の逸話は、長嶋以前から野球界にはあった験担ぎだった。もともとはギャンブル好きの人から生れたジンクスで、背景に、易経でいう「陽きわまれば陰生じ、陰きわまれば陽生ず」という考えからきている。

2015年3月26日 (木)

高野山略史

P1000888   高野山は、816年、空海によって開かれた。2世真然の時代に、ようやく諸堂塔が完成した。しかし、916年の無空の三十帖冊子事件、正暦の大火(994年)により諸堂塔が燃え、衰退期を迎える。11世紀に入ってから、祈親上人定誉の努力によって復興する。1023年、藤原道長が参詣し、高野詣がふえる。鎌倉時代には、天皇・貴族から武士が高野詣の中心となっていく。1581年、織田信長が大軍で高野山を攻めるも、本能寺の変により、高野山は難を逃れた。江戸時代以降の高野山は徳川幕府の援助をうけると共に、諸大名の菩提所として繁栄した。明治になり、神仏分離令、女人禁制解除と高野山にも近代化の波がやってきた。近年、世界遺産登録などにより、海外からの外国人観光客が急増している。

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