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2008年5月17日 (土)

不正行為は場所を選ばない

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   関西大学の学生らによる大麻事件の続報によると、乾燥大麻を買った学生らが大学構内で大麻を吸引していた、と供述している。密売は学内で口コミで伝わっており、話を聞きつけて買いに来た学生らに薬物への抵抗感がないことが事件の根深さを物語る。「買いたい人に売っただけ。大麻を吸うことは悪いこととは思わない」「大麻を吸っただけで、なぜ逮捕されるのか分からない」と述べている。ウェブ上でも同様の若者の意見はよく見られ、薬物乱用が恐ろしい事態になるという危機感を持っていないようだ。「不正行為は場所を選ばない」。一刻も早く大麻の栽培と大学キャンパスなどを中心とする販売ルートを根絶しないと、大学生のみならず、高校生、中学生へと大麻汚染は広がっていくであろ。

   「不正行為は場所を選ばない」大麻密売事件の論議の中で、よくでるのは、「日本の大麻取締法は重過ぎる」という意見である。アヘン、麻薬、コカインなどと比べ大麻がどのような人体に悪影響を及ぼすかという医学的、薬物的な知識はケペルには持ち合わせていない。ただ若者の薬物乱用は国家の崩壊、つまり人類の存亡にかかわる大きな問題だということは明らかである。「大麻を吸っても誰にも迷惑かけていない。個人的なことだ」という。確かに、人は誰しも自分の価値観を持つ権利があるといえるが、道徳についてはそう言えない、ということである。個人の自由が尊重される時代でも、人としてあるべき徳と倫理が個人に求められるのである。つまり、現代は世界的にみても道徳が著しく低下し、崩壊に向かっている傾向にある。利己的で厚顔無恥な不道徳行為は、ローマ帝国の場合のように、文明の崩壊を引き起こす要因となったことは歴史が語るところである。不道徳は若者だけでない。むしろ大人に多くみられる。食品や住まいに関する偽装事件、インサイダー取引などの金融に関わる不正行為、スポーツにおけるステロイドの使用、健康医療に関する誇大広告や詐欺行為、倫理上および法律上のあらゆる形態の不正行為が社会に蔓延している。このような社会の現状をみて育った若者たちが、薬物乱用に汚染されたのは、親の怠慢、学校の怠慢、社会の怠慢であるといえる。

2008年4月 5日 (土)

阿修羅

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 阿修羅とは梵語「アスラ」で「呼吸」の意味。ペルシアの善神アフラと同義で古くはすぐれた精霊の意味にも用いられたが、のち戦闘を行なう鬼神の一類とみなされるようになり、常にインドラ(帝釈天)と争う闘争的な悪神とされた。仏教では八部衆の一として仏法を守護する神とされた。とくに興福寺の阿修羅像は知られている。三面六臂の奇怪な姿で、細い蜘蛛手のような六本の腕がある。阿修羅の眉を寄せた憂いの表情には仏の深い愛情がよく表現されている。仏の真実がこれほど芸術の香気高く表現された例は稀であり、天平芸術の精華が、まさにここにある。

2008年3月31日 (月)

京都・霊応山法観寺

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    霊応山法観寺は円徳院の南、二年坂近くのたて込んだ民家の間にあり、八坂の五重の塔で知られる。東山周辺を飾るランドマークとなっている。

    法観寺は臨済宗建仁寺派に属する。寺伝によれば、崇峻天皇2年(589年)、聖徳太子の創建と伝える、市内では最古の由緒をもつ寺である。延喜式七ヶ寺の一つで、四天王寺の伽藍を備え、隆盛を極めたという。八坂の塔は本瓦葺五層、方6m、高さ48mの和様建築。創建以来たびたびの災禍により焼失したが、その都度再建された。現在の塔は室町時代、永享12年(1440年)、足利義政(1436-1490)の再興である。

2008年3月23日 (日)

早春の室生寺五重塔

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    「奈良大和路で最も魅力のある古寺、行ってみたいところは?」と聞かれたら、ケペルは躊躇することなく、室生寺と答える。中学生の春休みを利用して、高校生の兄と二人で行ったのは40年近くも昔の話である。室生口大野から宇陀川に沿って大野寺の磨崖仏を見て、反橋を渡り、境内に入る。緑ふかい杉木立の間に点在する諸堂には、かつての山岳道場としての重みが感じられる。奈良時代末期の宝亀年間(770年~781年)僧賢璟が開創。本尊は釈迦如来立像。仁王門をくぐり、石段を上ると正面に金堂、左に弥勒堂がある。さらに石段を上ると本堂、その上に五重塔がある。杉木立にはえる丹塗りの塔。勾配の緩やかな屋根、細かい組物、相輪などが一つの調べとなって人々を魅了する。室生寺には威圧感は微塵もない。なにか暖かくつつんでくれるようなやさしさがある。女人高野といわれるだけに女性に人気がある。女人ならずともなんどでも訪ねてみたい。だがあの石段を上ることはケペルにはもうできないかもしれない。

2008年2月17日 (日)

蘭渓道隆と建長寺

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      建長寺 蘭渓道隆像 国宝

    鎌倉幕府執権・北条時頼(1227-1263)は源氏三代と北条氏の霊を弔うため、道元(1200-1253)を招き、寺院建立を請うたが、権勢におもねることを嫌う道元は、その申し出を断わる。その時、南宋より来日した蘭渓道隆(1213-1278)が寿福寺にいた。時頼は道隆に帰依して、寺院建立を申し出る。建長5年(1253年)、開山に蘭渓道隆を迎え、我国初の禅宗専門道場建長寺、成る。蘭渓道隆は、その後、迫害されたり、流.謫されたり、苦難の晩年を送った。

    臨済宗大本山建長寺は、鎌倉五山の第一位の格式を彷彿とさせる、関東唯一の七堂伽藍を備えた禅寺。当時日本で盛んであった密教的な禅とは異なり、厳しい清規のもとに修業生活を送る蘭渓の禅風は、宋風禅とよばれた。その門に参じた修行僧は多く、建長寺は一大禅林となった。歴代住職は名僧ぞろいで、兀庵普寧、大休正念、無学祖元、一山一寧、桃渓徳悟、南浦紹明、高峰顕日などがいた。

2007年12月10日 (月)

宗教は阿片である

   ハインリヒ・ハイネ(1797-1855)は、ドイツのライン河畔のデュッセルドルフで生れた。両親はともにユダヤ人。本名はハリー・ハイネ。

「秋を愛する人は心深き人 愛を語るハイネのような僕の恋人」

    芹洋子の「四季の歌」で知られるようにハイネは日本では「愛の詩人」として最も親しまれている。またハイネの詩「ローレライ」はフリードリヒ・フィリップ・ジルヒャー(1789-1860)の曲、近藤朔風の訳詩で今でも多くの人に愛唱されている。ところが、本国ドイツではハイネの評価はさまざまである。ハイネの活動はドイツとフランスの二つの国で行われた。つまり「ドイツ人の間ではユダヤ人、フランス人の間ではドイツ人、ドイツでは排斥された者、フランスでは外国人だった」

    28歳のハイネはゲッチンゲン大学で博士号を取得し、名をハリー・ハイネからハインリヒ・ハイネと改め、キリスト教に改宗した。しかし彼は、すぐこのことを後悔した。「今や私は、キリスト教徒にも、ユダヤ教徒からも憎まれている」と友人宛ての手紙で嘆いている。

    1840年7月に発表した「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」(「ルートヴィヒ・ベルネ覚え書」)という内容は周囲から反感をかうこととなった。1843年12月から1845年2月まで、パリでマルクス夫妻と知り合い、親しく交際する。ハイネ46歳、マルクス25歳。そしてハイネは科学的社会主義を準備する雑誌「フォアヴェルツ(前進)」誌に、社会詩、革命詩を発表する。こうして無神論者ハイネは革命詩人でもあった。しかし、晩年、脊椎の病が悪化する。1849年、52歳のハイネは不安と絶望のうちに日々を過ごし、無神論を捨てて再びキリスト教に改宗する。1856年2月17日、詩人ハイネは多彩な生涯を閉じた。享年58歳。パリのモンマルトルの墓地に埋葬された。

2007年8月18日 (土)

宗教団体「人民寺院」の白い夜

   ジム・ウォーレン・ジョーンズ(1931-1978)は、1931年5月13日、インディアナ州の郊外で生まれた。KKKの一員だった父親は彼が12歳の時に家族を捨て、以後、母親の手で育てられた。12歳の時にはじめて説教をした。1947年に宣教師の娘マーセリン・ボールドウィンと結婚。1957年にインディアナポリスで宗教団体「人民寺院」を設立。1965年、信者140人とカリフォルニア州ユキアに移る。1970年、サンフランシスコに移る。1977年、約1000人が南米ガイアナへ移る。そこでジョーンズ・タウンを建設し、信者は2500人になっていた。元信者であったグレース・ストーンが教団の実態を告発したのをきっかけに、マスコミがジム・ジョーンズを非難しはじめた。1978年11月14日、実態調査のため議員レオ・ライアンらが現地を訪れた。そして、現地を後にしようとした時、信者が急に発砲、議員ら5人が殺害された。

   1978年11月18日、追いつめられたジョーンズは、会衆たちに儀式的な集団自殺「白い夜」を命じた。信者は、桶にシアン化合物を加えた飲料を規律正しく飲んだ。916人の信者(うち200人ほどは子供)が彼の周りで死に、ジョーンズは頭を撃って死んだ。当時ジョーンズタウンにいたのは約1100人ほどだったので180人以上は生存者がいることになる。カルト宗教の集団自殺として最悪の事件である。

2007年4月16日 (月)

能海寛と河口慧海

   明治から大正にかけて秘境チベットに潜入した人は、河口慧海(1866-1945)、能海寛(1869-1901)、寺本婉雅(1872-1940)、成田安輝、矢島保次郎、青木文教、多田等観などで仏教経典取得や政府任務などが主な目的であった。

   能海寛(のうみゆたか)は、すでに明治26年に「世界に於ける仏教徒」を自費出版し、チベット大蔵経の原典入手の重要性、チベット探検の必要性を説いている。明治29年5月7日、能海寛は、東本願寺の執事・渥美契縁あてにチベット探検嘆願書を提出した。そして明治32年と明治33年の二度チベット入りを試みるが失敗している。能海は明治34年4月、消息不明となる。彼の歌が残っている。

    のぞめども 深山の奥の 金沙江

         つばさがなければ 渡りえもせず

  能海と共に哲学館で学んだ河口慧海は、明治31年、31歳の時、和泉丸で神戸を出帆した。インドでサラット・チャンドラ・ダスからチベット語を教わり、明治32年、ネパールからチベットに潜入することに成功した。明治34年、慧海は法王ダライ・ラマに謁した。しかし明治35年5月、日本人であることが露見し、危険を感じた慧海は多くの仏典を荷につくり、チベットを脱出した。明治36年、神戸に着いた。新聞記者たちは「西蔵旅行記」を聞き書きで連載し、博文館から出版された。

2007年2月23日 (金)

山岳信仰

    役小角が始祖とされる修験道は古代の山林仏教などと融合し、中世に入り、全国各地の霊山に浸透してゆき、出羽三山、立山、白山、三峰山、木曽御岳、伯耆大山、英彦山などは山伏の拠点として発展した。

    鎌倉時代は、山伏修行者のもっとも活発だったときで、山中の修行過程について、やかましく組織的秩序が定められ、修験は「道」と意識された。このように密教としての仏教に支えられた修験道であったが、古来固有の神道作法や山岳信仰に集っただけに、山伏の精進潔斎の仕方、参籠奉幣の儀礼は、純仏教にはうかがえぬものを含んできた。室町時代には、その実践について教養も神秘に綴られるに至り、真言系は当山派、天台系は本山派と分かれることになった。また、出羽三山が羽黒派、九州彦山が彦山派と、各地方的に別派を称したものがあるが、全体として、当山、本山の二派が著しい。近世には峯入り修行の面よりも、一般の俗信にこたえ、種々の呪術をおこなう面で世間に接する山伏が多かった。神仏分離を指令した明治維新政府は、明治5年修験道を廃絶させたが、実質的には民族的山岳信仰に包含されている。

2007年2月19日 (月)

西芳寺と夢窓国師

   京都市西京区松尾神ヶ谷町にある西芳寺は、洪隠山と号し、俗に苔寺と呼ばれる。寺伝では、天平年間(729-749)に行基が開いたと伝えられ、その後、暦応2年(1339)に夢窓疎石が禅宗寺院として復興した。この時もと西方寺の名を西芳寺に改め、平地部に二層の楼閣を持つ瑠璃殿をはじめとする庭園建築と花木に彩られた池庭を、また山腹には洪隠山と呼ばれる枯山水石組と座禅堂指東庵を配し、華やかな風景を呈した。

   夢窓疎石(1275-1351)は生前没年を通じて、7人の天皇・上皇から国師号を贈られたことから、「七朝の国師」といわれ夢窓国師といわれる。鎌倉幕府が倒れて、室町幕府となっても、夢窓は宗教的・政治的にはおおいに権勢を振るった。たとえば、全国66国2島に安国寺と利生塔を建立したり、後醍醐天皇の冥福を祈るため、天竜寺を創建した。夢窓は若い頃から全国を巡って自然の中で座禅行につとめ、自然と人間の本性を究めて悟りを開いたが、西芳寺の庭をなぜ苔でおおったのであろうか。彼は「夢中問答」の中でこういっている。

白楽天小池をほりて、そのあたりに竹をうゑて愛せられき。その語に云はく、竹はこれ心虚しければ我が友とす。水はよく性浄ければ吾が師とすと云々。世間に山水をこのみたまふ人、同じくは楽天の意のごとくならば、実にこれ俗塵を混ぜざる人なるべし、或は天性淡白にして俗塵の事をば愛せず、ただ詩歌を吟じ泉石にうそぶきて心をやしなふ人あり、煙霞の痼疾、泉石の膏肓といへるはかやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。

    唐の詩人白楽天は池と竹とを愛した。竹は内部が空洞なので心にわだかまりのない人に似ているし、池の水は清らかに澄んでいるので自分がたえず学ぶべきものであると考えた。苔をめでる心情を俗塵を離れて自己の心を養うのに、苔ほど庭にふさわしいものはないと考えたのであろう。夢窓は天竜寺、西芳寺のほかにも、恵林寺、瑞泉寺、永保寺などにすばらしい庭園を作っている。これらの庭は枯山水様式の源流となり、のちの日本庭園の規範となった。

   だが現実の夢窓国師はなかなか俗塵から離れることはできなかったようである。夢窓はあるとき師の高峰顕日から「弟子をもち、法を後世に伝えよ」とさとされた。夢窓はこの教えに従い、じつに1万人をこえる門人を擁するようになった。しかも彼の門下からは無極志玄、春屋妙葩、龍湫周沢、義堂周信、絶海中津らの、禅宗の中心人物や五山文学の人物が輩出した。このような権勢を誇った夢窓であったが、純粋禅の立場の人々には評判は悪かった。花園上皇と宗峰妙超は、夢窓の禅は天台・真言の範囲を一歩も出ていない。あれでは禅宗も滅びたも同然だ、と酷評されている。

2007年2月17日 (土)

田中智学と磐梯山噴火

   明治21年7月15日、福島県会津磐梯山が突然噴火し、数ヵ村が壊滅し、477人の犠牲者を出すという惨事となった。被災者たちの救済・復興は困難をきわめた。

    日蓮宗の田中智学(1861-1939)は、写真師吉原秀雄を説き伏せて、7月20日に上野駅を立ち、磐梯山周辺に滞在して写真撮影を行い、7月29日に帰京すると、8月上旬から各地で幻燈会を行ない、その入場料、義捐金を罹災地に送ったという。さらに彼は、読売新聞に「磐梯紀行」として30回にわたって連載している。(明治21年8月5日~10月6日)

   このように田中の企画力・実行性がその伝道活動にもおおいに用いられて、その初期から機関紙による文書伝道・幻燈布教などを実施し、日蓮宗の宣伝に努めた。のちに、田中は日蓮宗の革新を志し、還俗仏教者となって、在家主義の新仏教運動に入っていく。明治24年立正安国会(のちの国柱会)を創立する。さらに日本国体学を提唱して高山樗牛、姉崎正治らの支持を得て、明治後期の国粋主義的色彩を強く帯びるようになる。田中は大正3年、新たに国柱会を組織した。

宮沢賢治と国柱会

   宮沢賢治は大正10年1月24日、25歳のとき上京して鶯谷の国柱会館を訪れている。そこで理事をしている高知尾智耀から、文芸によって大乗の教えを広めるように言われ、創作に熱中する。やがて妹トシの病気の知らせをうけて花巻に戻ることになるが、7ヵ月ほどの東京生活で書いた原稿の量はおびただしいものであった。賢治が生前に稿料(5円)を受け取った唯一のものといわれる童話「雪渡り」もこの年に書かれている。田舎青年の宮沢賢治が国柱会の師である田中智学に直接話しができたかどうかは定かではないが、賢治文学を理解するうえで彼の信仰心が国柱会から一定の影響を受けた事実を無視することはできないだろう。ただ現在においては、生涯賢治は国柱会に関係したとする説と早期離脱説とがあり、今後の賢治研究の成果を期待したい。