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2009年12月 1日 (火)

四天王の二態

    四天王像は須弥壇の四隅に本尊を守護するかたちで安置される。右手に三叉戟を持つ持国天が東方を、両手で三叉戟をにぎる増長天が南方を、右手に筆を左手に経巻を持つ広目天が西方を、宝塔を持つ多聞天が北方をそれぞれ固めている。四天王のうち多聞天のみは毘沙門天とよばれ、福徳富貴の神として独自の信仰を得ている。

     持国、増長の二天は激しく相手を威嚇する姿であるが、広目・多聞の二天は、仏の静な叡智がうちに秘めていることを現している。このように仏敵の降伏をちかう四天王の形態には、内面的なものと外面的なものとの二態があるといえる。

2009年11月30日 (月)

仏像ブーム

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    仏像ブームだそうだ。お寺で古仏を拝むことはいい。だが最近は、仏様も全国各地に出張して、露な姿にさらされて、お金を稼がされているようで気の毒だ。とくに阿修羅はイケメンが人気をよび、東京国立博物館で94万人もの入場観客数の新記録を作った。それも入館料が1500円なり。(高い!!ぜ)いまは万事が金、金、金の時代だ。来年の平城遷都1300年もどんな経済効果をもくろんでいるのだろうか。

  阿修羅とは梵語「アスラ」で「呼吸」の意味。ペルシアの善神アフラと同義で古くはすぐれた精霊の意味にも用いられたが、のちインドで戦闘を行なう鬼神の一類とみなされるようになり、常にインドラ(帝釈天)と争う闘争的な悪神とされた。仏教では「阿修羅」または「非天」「不端正」として漢訳経典にあり、八部衆の一として仏法を守護する神とされた。とくに興福寺の阿修羅像は知られている。
   光明皇后が亡き母橘三千代のために、その一周忌の天平6年(734年)に造営した西金堂の本尊釈迦三尊像に随侍していた像で、八部衆像中の一帯である。三面六臂の奇怪な姿で、細い蜘蛛手のような六本の腕がある。阿修羅の眉を寄せた憂いの表情には仏の深い愛情がよく表現されている。澄んだ瞳ではるか彼方を凝視する顔には、純真な少年のような親しみが感じられる。仏の真実がこれほど芸術の香気高く表現された例は稀であり、天平芸術の精華が、まさにここにある。

2009年11月18日 (水)

鐘馗と道教

   今も民衆の中に生きる道教の神々。人間に100の願いがあれば、それを専門にする100の神々が存在する。1000あれば1000、1万あれば1万の神々がいるとまでいわれる道教の神々。日本の端午の節句でお馴染みの鐘馗も江戸時代から疱瘡除けの神で知られているが、本来は中国の魔除けの神である。道教神では「辟邪神」と言って、石敢當、方相氏、門神、中檀元帥などと共に鐘馗が歳末に厄除けの神として、鐘馗の絵を護符として家の中に掲げる風習がある。このような伝説がある。

   唐の玄宗皇帝が熱病にかかり、夢をみた。小鬼が香嚢や玉笛を盗んだが、突然大鬼が現われ、小鬼をとらえて目をえぐり、引き裂いて食べてしまった。帝が問うと、終南山の進士の鐘馗というもので、不慮の死を遂げたとき厚く葬ってくださった恩に感じ、帝のために邪悪を除く誓いを立てましたと答えた。その夢からさめると帝の病気はなおっていた。そこで、画家の呉道子に鐘馗の絵「鐘馗、鬼を捕らえる図」を賜ったという伝説が残されている。

   鐘馗の容姿は人並みはずれて大きく、巨眼、ひげが多く、黒冠をつけて長ぐつをはき、右手に剣を握る。元来は終葵(しゅうき)といい、椎(槌の意)のことであった。椎は鬼を追いはらうものであることから、これを魔除けとするようになり、さらに擬人化し神格化して鐘馗になったという説がある。

2009年6月 8日 (月)

現代人にとって神は不要なのか?

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    現代は原子力の時代、宇宙開発の時代といわれ、もはや神の存在は不要になったのであろうか。そんな疑問をいだかせる本が「バカの壁」である。平成15年に出版され400万部という大ベストセラー「バカの壁」を遅まきながら読む。養老孟司は次のようにいう。「私の考え方は、簡単に言えば二元論に集約されます。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です。一元論の欠点というものを、世界は、この150年で、嫌というほどたたき込まれてきたはずです。だから、21世紀こそは、一元論の世界にはならないでほしいのです。男がいれば女もいる、でいいわけです」

   おそらく無信仰の多い日本人には養老孟司の話は受け入れやすいだろう。とくにキリスト教は日本では増えていない。仏教、神道といっても冠婚葬祭だけの話である。つまり養老の説は宗教、思想、哲学を研究しても無意味だという話になりかねない。ほんとうに信頼できるのは合理的に実証できる科学だけだ、といっていることと同じであろう。(データの改竄、捏造はあるが)最近の科学論(科学哲学)の世界でも「パラダイムの転換」にみられるように、一元論ではなく、二元論、多元論が優位であることは事実である。つまり養老のスタンスは科学者の立場からはあたりまえのことを言っているにすぎない。おもえば近代科学の学者たちは、神に対する信仰を弱めさせる説を提唱してきた。ダーウィン、マルクス、ニーチェ、フロイト。文学者の魯迅も儒教が中国の近代化を遅らした弊害を厳しく批判した。20世紀マルクス主義の唯物論の大学教授は隆盛を極めたが今は空しい結果となっている。二元論、多元論が正当性があるかの如く広まっているが、神や宗教が多くの人々にとって時代遅れの代物に思う時代は悲しい。たとえば愛する人を失った時、人はどうするであろうか。現代医学の力をもってしてもどうすることもできない。人は無力であり、ただ哀しむだけである。そして宗教、あるいは信仰によって慰めをうることができるはずである。花束で死者を悼んでも死者は甦らない、と合理的に考えても、心は癒されるはずがない。「一元論か二元論か」、この問題は古代ギリシア以来の哲学の根本問題である。養老孟司のいうように「この世に男と女がいるから二元論だ」という説には賛成できない。信仰者にとっては「まことの神」が唯一であり、一元論も誰にも否定できない。それは21世紀だけの課題でなく、人類永遠の課題でもある。

2009年5月23日 (土)

パンデミックの不安に宗教者のできること

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   ある感染症が世界的に流行することをパンデミックというらしい。もちろん病気を治すのは医者であるが、世界的に流行する感染病の場合、長期にわたれば、病そのものよりも社会病理とでもいうべき、精神不安や経済不況などさまざまな現象が起こるであろう。

   聖書ルカ21に「大地震が起こり、あちこちに疫病や飢饉が起こり、恐ろしい現象や著しい兆しが天に現われる」「イエスは言われた。いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」とある。聖書の予言のようにいま地球的規模で大地震が疫病が流行している。各国政府は科学的に対策を講じているだろう。とくにWHOでは今回の新型インフルにおける日本の対策を評価しているそうだ。日本人のマスク着用率は世界一であろう。当然、マスクが不足するので台湾や中国から緊急輸入するそうだ。もちろんお金で解決できることもあるだろう。しかしマスクパニックという現象は逆に過剰反応として地元経済には大打撃となっている。それに最近ではウィルスは空気中を飛びまわらないので、あまりマスクは効果がない、むしろ手や身の回りのものを消毒することが必要だという情報が流されるようになっている。それでも集団マスク姿は花粉症やアスベスト防塵マスクのように日本人には一番好きなんだろう。西洋人はやはりキリスト教の影響があると思う。イエスはハンセン病の患者や疫病に対しても、手を差し伸べてその人に触れ、「清くなれ」と言った。医学的根拠はないかもしれないが、清めと癒しと愛が病を救うことがある。よくむかしから「病は気から」という。今回の騒動でも、熱が出た、という人は多い。ほとんどは新型インフルではない。気分的に病気になる患者が多数いるのだ。ほんとうに大切なのはお金で薬やマスクを世界中から買い集めることではなくて、日本が貧しい国や人々に援助することであろう。日本国内ですら貧しくてマスクを変えない路上生活者がたくさんいる。都会で働くエリートだけがマスクを着用しても感染病は根絶できまい。宝塚では清荒神のお坊さんがマスク5千枚を宝塚市に寄付していただいた。まことに有り難い話で感謝している。でも枚数に限りがある以上すべての人に行き渡るわけでない。ほんとうに貧しくて買えない人に渡せるのだろうか。それにマスク着用すれば安心というのではなくて、宗教者としてはもっと教えの本質を説いてほしい。たとえば一休が髑髏をかざして、京の街中を「ご用心めされ」と説いてまわったように。自分さえよければいいという「あさましい」自分の愚かな姿を日本人たちに気づかせることこそが宗教者の本当のつとめと信ずる。

2009年5月14日 (木)

儒教における喪礼

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    日本人にとって儒教は宗教ではなく儒学という学問、あるいは「論語」に代表される倫理道徳として理解している人がほとんどであろう。だが加地伸行は「儒教は生命の連続を最も大切にする、家の宗教である」と儒教の宗教性を強調している。(『儒教とは何か』)

    数年前、「千の風になって」がブームとなってから、「亡くなった人はお墓にいない」「風になってそばにいる」という霊魂がみなおされてくるようになった。だが仏教は火葬にして、成仏するか、成仏しない場合、その霊魂は生の時間から、(中陰という)別の時間に入る。死者を成仏させるためお経を唱える仏教では、霊魂がただようことを否定するため、仏教界からは「千の風」ブームを批判する声はつよい。

    儒教の場合は遺体は家に安置しておく。これを殯(もがり)という。今日、お通夜をしたり告別式がすむまで柩を安置しているのは、儒教における殯の残影なのである。そして儒教では、殯の儀式を経て、遺体を地中に葬り、さらにその後の儀式が続く。遺体を埋める「葬」は「喪礼」の一段階にすぎない。儒教的には死者の肉体は焼くべきではない。死とともに脱けでた霊魂が再びもどってきて、憑りつく可能性を持つものとされる。だから、死後、遺体をそのまま地中に葬り、墓を作る。それがお骨を重視する意味である。

    つまり日本の仏式葬儀の中に、儒式葬儀の儀礼が取り込まれているのである。さらに言うと、インドにおける本来の仏教には、焼いたあとの骨を拝むなどということは、なかったはずである。シャカが亡くなってのち、その骨を納めた塔が建てられたのは例外である。つまりインド仏教とはなんの関係もない儒教の喪礼を多く取り入れたのが、日本で普及したといえる。日本人は儒教を真に理解するには倫理道徳だけではなく、その宗教性から根本的に理解しなければならない。

2009年4月18日 (土)

猿丸太夫と二荒山神社

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    二荒山(ふたらやま)の公式名は男体山。栃木県北西部、日光市域に入る日光火山帯の一つ。中禅寺湖北岸にそびえる円錐状成層火山。延暦元年(782年)、下野国の僧勝道が開山したときは、「補陀落山(ほたらやま)」と称したが、のち、二荒山と改めた。弘法大師が二荒山(にこうさん)とよんだことから、「日光」の名が出たといわれている。

   鎌倉時代以後は、幕府を初め武家の尊信をうけて天台系の修験が中心となって地方有数の名社となったが、豊臣秀吉のために社領の大部分を没収されたため一時まったく衰微した。そののち徳川家康から社領を安堵され、ついで天海僧正が山の貫首となったので復興しはじめた。ことに家康を日光に改葬して東照宮を建立するにおよび、二荒山の神は地主神として日光山内に重要な地位を占め、歴代将軍の殊遇をうけて、以前にもまさる盛運となった。

   二荒山神社と猿丸太夫との関係を探っていくと、小野氏が問題の中心となってくる。猿丸太夫は平安時代の歌人として、小倉百人一首に「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」という有名な歌もあるが、その伝記は謎のところが多い。林羅山の文集に小野猿丸の名が見えるているが、朝日長者の子孫で二荒山の女神を助けて赤城の蜈蚣神(むかでがみ)を討った話を録し、二荒山の女体山の神は朝日姫、宇都宮明神は猿麿であると述べている。二荒山の神主小野氏は猿丸太夫の子孫であるともいわれる。また会津、新潟、山形にかけての伝説に猿丸は朝日長者の子であるといい、その猿丸の後裔が、小野氏で二荒山神社の神官をつとめたともいう。二荒の神の信仰を説き歩いた巫覡(ふげき)の徒が猿丸太夫と呼ばれた神職で、このために二荒の信仰が東北地方に相当強力におよんだ時代があったといわれている。(参考:丸山久子「平凡社・世界百科事典・猿丸太夫」)

2009年4月 5日 (日)

宗教は悲しみを癒す手助けとなるか?

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   どんなに健康に気をつけても、人は老化し、病気になり、ついには死ぬ。葬式のあるたびに、死はすべてのものを征服する王であるかのように思える。もっとも、死後にも命があると信じる人はいつの時代にもいる。古代エジプト人やギリシアの哲学者プラトンは、肉体が朽ちても不滅の魂がある、いわゆる霊魂不滅を信じていた。

  数年前、「千の風になって」がヒットしたが、仏教界からすると歌詞に対して異論があった。「亡くなった人はお墓にはいない」「風になってそばにいる」という考え方は、死者を成仏させ、霊魂の存在を否定する仏教の教えにはなじまないものであった。米アカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」もテーマが死なのに宗教が描かれていないことに仏教界では疑問の声がある。これまで死は宗教が取り扱ってきた大きな問題なのに、現代の葬儀の多くは葬儀屋に任せるようになり、「葬式仏教」にもなれない。いまこそ僧侶は悲しみと癒しを手助けをしなければならない、と松長有慶(高野山真言宗)管長は語る(朝日新聞夕刊2009.4.4)

2009年1月 2日 (金)

初夢と七福神

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    初夢とは、元日に見る夢が本当の「初」となるのでしょうが、一般的には、正月2日、つまり、今日の夜から3日の朝にかけて見る夢のことを言うそうです。2日の夜となったのは、初荷、初売り、書初め、等、事始が2日に多いからだそうです。宝船の絵を枕の下に敷いて眠り、一冨士、ニ鷹、三茄子、四扇、五煙草、六座頭の夢が縁起が良いとされている。そして元旦から七草までの7日間に七福神を祀っている社寺を参詣してまわる。七福神とは、寿命の寿老人、有福の大黒天、人望の福禄寿、清廉の恵比寿、愛嬌の弁財天、威光の毘沙門天、寛大の布袋の7神を基本とし、地域によっては吉祥天ほかが加わることもある。江戸の人々は、信心だけでなく、行楽としても七福神めぐりを行ったようです。

2008年7月14日 (月)

初代泉尾教会長・三宅歳雄

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    金光教といえば江戸末期に創設された神道系の新興宗教であるが、現在、その隆盛期を迎えている。高校野球やサッカーなどでも大阪の金光大阪高等学校(高槻市)などの活躍ぶりをみても、建学の精神が横溢しているものを感ずる。ところで大阪の泉尾教会所に布教をはじめたのは、昭和2年ころ、三宅歳雄(1903-1999)によるものである。和歌山県出身で、金光教を通じて献身的な布教を実践した。とくに青少年の教化指導が今日の学校経営にも現れている。三宅恒子夫人、長男の三宅龍雄(1928-2006)と続き、新たな時代が始まっている。ただ史家としては、20世紀を生きた宗教家の伝記研究がおろそかにされている現状は惜しむべきことと考えている。コンサイス日本人名辞典などに収録されていない。