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2019年7月12日 (金)

唐詩選二首

 「薛華に別る」    王勃

こつこつ歩む人生には ふくろ小路が多い

せかせかと独り渡し場へのみちをたずねる

荒涼としてつづく千里の道

うらぶれはてた一生百年のこの身

心ばえは どちらもさすらい人

一生涯 二人とも苦労のしつづけ

去るものと止まるものへだてなく

お互いに夢の中の人なんだ

 

 「花を惜しむ」 陸龜蒙

人間は百までも生きたいと望むのに

花の咲くのはただ一春だけ

その間も雨風がやってきて

朝に夕にたちまち落ちて塵となってしまう

もし花に愁いを理解させることができるなら

花ははかないわが身を 花をみる人間よりも悲しく思うだろう

 

2019年2月23日 (土)

人間万事塞翁が馬

Hasi

   人間の一生のうちで、何が幸福になり、何が不幸になるかは予測がつかず、簡単には決められない。禍福は定まりなく、変転するものだから、安易に喜んだり悲しんだりすべきでないということ。出典は、「淮南子」人間訓にある。「人間のあらゆること(人間の禍福)」を意味する「人間万事」を加えて、「人間(じんかん)万事塞翁が馬」とも言う。元の僧、熙晦機の詩「人間万事塞翁が馬、推枕軒中雨を聴いて眠る」がある。「世の中は幸と不幸が、かわるがわる起こる。あれこれ考えないで、そろそろ落ち着いて、自然のまま、雨風に耳を傾けて日々暮らす」という意味か。「推枕軒」とは熙晦機の書斎兼居間の雅称か。

2019年2月 6日 (水)

夜郎国と李白

    李白(701-762)は、安禄山の乱の時、揚子江方面で旗揚げした永王璘(りん)の叛軍に加わった罪で夜郎へ流罪されることになった。夜郎への旅の途中、妻の宗氏にあてた李白の詩「南のかた夜郎に流されて内に寄す」がある。

    南流夜郎寄内

 夜郎 天外 離居を怨む

 明月 楼中 音信疎なり

 北雁 春帰って 看み尽きんと欲し

 南来 得ず 予章の書

(通釈)私は夜郎というさいはての地に向かいつつ、きみと離ればなれの暮らしを嘆いている。月あかりのもとの高楼にいるきみからは、たよりもなかなか届けられない。北へ飛ぶ雁は春となって帰ってゆき、私が見送るうちにすっかりいなくなりそうだが、私は雁たちと反対に南へ来てしまい、予章にいるきみからの手紙を受け取ることができないのだ。

    従来、李白は夜郎に向かう途中で恩赦により引き返したという説が有力であった。「NHK古典講読,漢詩李白、2007年4月ー9月」の年譜を見ても「乾元2年(759年)3月、夜郎に至たらぬうちに恩赦に遇う」とある。しかし、近年の研究によると、李白は夜郎に到着し、逗留したのち、恩赦により引き帰したと考えたほうが妥当であろう。(胡大宇「李白と夜郎」、『夜郎研究』貴州民族出版社、2000年)

    ところで夜郎といえば、「夜郎自大」という四字熟語が想起されるが、この李白の時代の夜郎とは、中心的な所在地が大きくことなる。漢代の夜郎国は貴州省の西部、西南部にあり、唐代の郡県の夜郎は貴州省北部の桐梓(とうし)県夜郎壩に治所が置かれた夜郎郡夜郎県である。唐代夜郎県は五代、北宋と642年から1120年まで設置された。

2018年2月10日 (土)

「少年老い易く学成り難し」のユーモア

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  少年老い易く学成り難し

  一寸の光陰軽んずべからず

  未だ醒めず池塘春草の夢

  階前の梧葉巳に秋声

    古来、日本人にはお馴染みの漢詩である。人間、すぐ老齢にいたるが、学問はなかなか成就しがたい。だから、ほんの少しの時間も無駄にせずに勉強せよ、という教育的な名詩。朱熹の「偶成」という。ところが最近の研究で朱熹の作ではない可能性が高いことがわかった。中国の朱熹全集をいくらさがしても見当たらない。柳瀬喜代志によって「滑稽詩文」に「寄小人」という題で似た詩があることがわかった。この詩が朱熹の作として登場したのは明治の漢文教科書によってである。本来の作者は観中中諦(1342-1406)という五山の僧侶らしい。それにしても、「偶成」が朱熹でなかったというのは、日本人のユーモアを感じる話である。

ところで「池塘春草の夢」とはなにか。これは謝霊運が、ある時「池塘生春草」という句を得て大層得意であった。今この詩にこの句を取ったのは「若いときに自分の才能に得意がっていると、悲しい老いが直ぐに来るぞ」と暗に知らしているのである。(謝霊運「登池上楼」)

参考:「いわゆる朱子の「少年老易く学成り難し」 「偶成」詩考 柳瀬喜代志 岩波「文学1989年2月号

岩山泰三「少年老い易く学成り難し、とその作者について」 月刊しにか8-5、1997.5

2017年8月30日 (水)

項羽と虞美人

   韓国ドラマ「師任堂」。中部学堂の入試問題は、「司馬遷の項羽の評価について」司馬遷は史記で「志は果たせなかった。しかし項羽ほどの人物は再び現れまい」とする。項羽は、古来より「最期に及んで愛人や馬などに未練を見せ、めめしくて武人らしくない」と批判するものが多い。ところが明の呉偉業(1609-1671)の漢詩「虞兮」では、虞美人や騅など、愛する者への思いやりをつねに忘れなかった項羽は、一人の女性から、死を共にするほどの信頼を寄せられた。このことこそ、項羽をまことの英雄と呼ぶにふさわしいと賛辞を送っている。

      虞兮

千夫も辟易す 楚の重瞳

仁謹 居然たり 百戦の中

博し得たり 美人 心に死を肯ずるを

項王 此の処 是れ英雄

         *

瞳が二つずつの両目でにらみつけると、千人の敵兵も圧倒されしりごみをした。あまたの戦の最中、つねに愛する者へのいつくしみを忘れなかった。そのために、虞美人が進んで殉死を受け入れる結果を得たということ。項羽はこの点においてこそ、英雄と呼ぶにふさわしい男だ。(参考:石川忠久「漢詩をよむ」1994)

2017年1月 1日 (日)

成島柳北「歳旦の口占(こうせん)」

婦子朝來甑塵を掃う 

蕭條たる破屋又新春 

書を売り剣を売りて家貲盡く 

幸ひに是れ先生未だ身を売らず

語釈 「歳旦」とは元旦。新年の第一日。「口占」とは詩文を作るのに、草稿を書かず口ずさんで文案を作る。通釈、朝早くから、妻や娘が台所で鍋墨を落とす音の聞こえるのは、貧乏暮らしのこの破屋にも、新年が訪れて来たのだ。思えば年々に生計は苦しくなり、書画を売り刀剣を売り払って、家財も今は尽き果てているが、幸いにこの家の主人柳北先生(私)は、まだその身を売り物にするまでにはおちぶれぬ。

2016年1月 3日 (日)

曹操「烈士暮年、壮心已まず」

  曹操はたんに戦が強いだけでなく、文学者、詩人としても当代一流であった。曹操は誰よりも学問に熱心で、遠征に行くときも、つねに何冊かの古典をもっていて、敵と対陣中でも、暇があるとそれらの本に目を通していたといわれるし、晩年になっても本を手から離さなかったといわれる。

    歩出夏門行

神亀は寿(いのちなが)しといえども

なお終る時あり

騰蛇は霧に乗ずるも

終には土灰となる

老驥は櫃に伏すも

志 千里にあり

烈士暮年 壮心已まず

 曹操は66歳で死去している。「烈士」とは、男らしい男。「暮年」は晩年と同じ。「男らしい男というものは、晩年になっても、ひとつやってやるぞ、というチャレンジ精神を持ち続けるものだ」という意味。

2015年12月13日 (日)

成功者のかげの犠牲

一将功なりて万骨枯る

   ひとりの成功者のかげには多数の犠牲者があることの比喩として、よく知られている句である。出典は晩唐の詩人・曹松。「己亥歳」とあり、西暦879年。この年、将軍高駢は淮南で黄巣の軍を撃破した功績によって報償を受けた。詩はこの事実をふまえてうたった。曹松(830-901)は70歳を過ぎて科挙の試験に合格したが、その後間もなく没した。

2014年7月 6日 (日)

好雨時節

   韓国映画「きみに微笑む雨」(2009)。原題「好雨時節」は杜甫の詩「春夜喜雨」の一節。「良い雨は、その降るべき時を知っている。春に降りはじめ、万物は萌えはじめる」 中国の女優、カオ・ユアン・ユアンが清楚で魅力的である。

2013年2月17日 (日)

峨眉山と三峡

8715     峨眉山は、嘉州(四川省嘉定)の西方にある山で、その美しさは天下随一と讃えられている。初めその形が蛾眉(蚕のまゆ)に似ているために蛾眉と書いたが、のちに二つの山が向き合っているその姿が美女の眉を連想させるというので峨眉と書くようになった。

    峨眉山は様々な樹木が生い茂る険しい山で、古くから「高きこと五岳を出で、秀なること九州の甲たり。天下第一の山なり」と誉め称えられた。五岳とは泰山、崋山、衝山、恒山、嵩山の中国五大名山を指し、九州とはすなわち中国全土のことである。

   李白が故郷を出て三峡に遊んだときの詩「峨眉山月歌」が知られる。

  峨眉山月半輪の秋

  影は平羌江水に入りて流る

  夜清渓を発して三峡に向ふ

  君を思へども見えず渝州に下る

   三峡とは、四川省奉節県より湖北省宜昌までの間に峡をなす所が三箇所あり、これをいう。巫峡・西陵峡・帰峡の三つともいい、また、巫山峡・明月峡・広沢峡の三つともいう。

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