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2008年3月16日 (日)

柳と別離

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    3月は別れと旅立ちの季節。送別の歌として古来、有名な、盛唐の王維(699-759)の七言絶句「元二の安西に使いするを送る」の第二句に「客舎青青として柳色新たなり」とある。「柳色新」という表現は、じつは「柳」の語に送別の意をほのめかしたものである。古代の中国では、送別のときに柳の枝を折り取り、これを相手に贈る風習があった。「柳」(りゅう)の字の音が、ひきとめる意の「留」(りゅう)に通じるからとも、柳の枝は曲げてもすぐにもとにもどるので、分かれてもまた会える意を示すからともいう。したがって、別離と柳とは密接な関係があり、漢詩などでも送別の詩には柳をうたうことが多い。別れの笛の曲に「折楊柳」というのがあるが、「楊柳を折る」ことで別れを意味する。

詩全体は、以下のとおり。

 渭城の朝雨 軽塵を浥し

 客舎青青 柳色新たなり

 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

 西のかた陽関を出づれば故人無からん

(口語訳)渭城の朝の春雨は、軽い土ぼこりをしっとりと湿らして、旅館のあたりのあおあおとした柳の色もひとしおみずみずしく鮮やかである。さあ君、もう一杯この酒を飲みほしたまえ。これからあの西の方、陽関の関所を越えたなら、親しい友人はいないだろうから。(引用文献:井波律子「中国名言集一日一言」)

2008年1月17日 (木)

王安石「梅花」「石榴詩」

    寒さの中で、どの花よりも先に春を伝えてくれる梅の花。明治19年に開園した熱海梅園は、日本一の早咲きの梅で知られる。今年も既に梅まつりが開かれているという。

          梅花           王安石

牆(かきね)の角(すみ)なる数枝の梅

寒を凌ぎて独り自ずから開く

遥かに知る 是れ雪ならざるを

暗香の有りて来るが為なり

    土塀の隅にある四、五本の梅が寒さにもめげず咲いている。遠くからみてもそれが雪が降ったのでないことがわかる。どこからともなくよい香りが漂ってくるからだ。

   王安石(1021-1086)は神宗の時、宰相に任ぜられ、改革を断行したが、あまりに急激すぎて反対にあい、ついに失敗してしまった。梅花を見て「凌寒」「独自」の二字に、王安石は心境を託したとみられる。

    王安石は色彩感覚に富んだ詩を残した人のようで、冬が白梅なら春は紅の石榴を歌っている。「万緑叢中一点紅。動人春色不須多」(「万緑叢中に紅一点あり。人を動かす春色は須らく多かるべからず)この句は王安石の詩「咏石榴詩」として人口に膾炙されたが、今日までに全編が残っていない。「事後文集」には「王直方詩話にいう。荊公(王安石)が内相となり、庭園内を散歩していたところ、ざくろが一叢あった。枝はよく茂り、わずかに紅の花がついていた。興を起した荊公はそこで、濃緑万枝に紅一点あり 人を動かす春色は須らく多かるべからず といったそうだが、自分は残念ながらまだその全文を読んでいない」とあり、かなり前から逸文となっていたようだ。

    今日の日本でも「紅一点」という漢語よく使われる。多くの男の中に混じってただ一人の女性を花にたとえて紅一点というようになった。紅一点の出所については「万緑叢中」「万緑枝頭」「濃緑万枝」などあり、王安石より以前の唐代の詩句の可能性もある。中村草田男の俳句「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」の「萬緑」を王安石の詩句に由来するとしたのは山本健吉だそうだが、いささか無理なこじつけのように思える。麻雀の役満に「紅一点」があるそうだが、それは王安石の漢詩に由来するものであろう。(ケペルは麻雀は知らない)

2007年4月 1日 (日)

夜郎と李白

    李白(701-762)は、安禄山の乱の時、揚子江方面で旗揚げした永王璘(りん)の叛軍に加わった罪で夜郎へ流罪されることになった。夜郎への旅の途中、妻の宗氏にあてた李白の詩「南のかた夜郎に流されて内に寄す」がある。

    南流夜郎寄内

 夜郎 天外 離居を怨む

 明月 楼中 音信疎なり

 北雁 春帰って 看み尽きんと欲し

 南来 得ず 予章の書

(通釈)私は夜郎というさいはての地に向かいつつ、きみと離ればなれの暮らしを嘆いている。月あかりのもとの高楼にいるきみからは、たよりもなかなか届けられない。北へ飛ぶ雁は春となって帰ってゆき、私が見送るうちにすっかりいなくなりそうだが、私は雁たちと反対に南へ来てしまい、予章にいるきみからの手紙を受け取ることができないのだ。

    従来、李白は夜郎に向かう途中で恩赦により引き返したという説が有力であった。「NHK古典講読,漢詩李白、2007年4月ー9月」の年譜を見ても「乾元2年(759年)3月、夜郎に至たらぬうちに恩赦に遇う」とある。しかし、近年の研究によると、李白は夜郎に到着し、逗留したのち、恩赦により引き帰したと考えたほうが妥当であろう。(胡大宇「李白と夜郎」、『夜郎研究』貴州民族出版社、2000年)

    ところで夜郎といえば、「夜郎自大」という漢代故事が想起されるが、この李白の時代の夜郎とは、中心的な所在地が大きくことなる。漢代の夜郎国は貴州省の西部、西南部にあり、唐代の郡県の夜郎は貴州省北部の桐梓(とうし)県夜郎壩に治所が置かれた夜郎郡夜郎県である。唐代夜郎県は五代、北宋と642年から1120年まで設置された。

2007年3月24日 (土)

桃 夭

桃は若いよ 燃え立つ花よ

この娘 嫁(ゆ)きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 大きい実だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 茂った葉だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

                      目加田誠訳 「新釈詩経」

(通釈)わかわかしく美しい桃の木に、燃えたつような赤い花が咲いた。このうるわしい花にも似たこの娘はこれからお嫁に行くが、さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、はちきれそうな実がなった。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、緑の葉が茂りに茂った。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

2007年1月 2日 (火)

河上肇と漢詩

    「貧乏物語」で知られるマルクス主義経済学者の河上肇(1879-1946)は、4年半に及ぶ獄中生活で漢詩と親しむ。

            無題       昭和8年2月18日

年少 夙に松陰を欽慕し

後 馬克斯礼忍を学ぶ

読書万巻 竟に何事ぞ

老来 徒に獄裏の人と為る

               *

注釈○松陰ー吉田松陰。河上は若いころから同郷の先輩である松陰を敬慕していた○馬克斯礼忍ーマルクス・レーニン。現代中国語では、馬克思・烈寧と書く。○竟ーついに、と読む。○老来ー年老いてから。

   河上肇は、この年の1月12日、東京中野の隠れ家で検挙され、1月27日、豊多摩刑務所に収容された。容疑は、治安維持法違反。獄中生活は昭和8年1月から昭和12年6月まで4年半に及ぶ。その間、学者として非転向を貫いた。この詩は、翌2月の18日、獄中から夫人にあてた書簡に見える。(参考:一海知義「河上肇詩注」岩波書店)

▼この記事は、ゼファーさんからのご指摘により一部訂正しました。(平成19年6月15日)

2007年1月 1日 (月)

衛八處士に贈る

謹賀新年、今年もよろしくお願いします。

   衛八處士に贈る   杜甫

人生相見ざること

動もすれば参と商との如し

今夕 復た何の夕べぞ

此の燈燭の光を共にす

少壮 能く幾時ぞ

鬚髪 各各巳に蒼たり

舊を訪へば半ば鬼と為る

驚呼すれば中腸熱す

焉んぞ知らん 二十歳

重ねて君子の堂に登らんとは

昔別れしとき 君未だ婚せず

兒女 忽ち行を成す

怡然として父執を敬し

我に問ふ 何れの方より来たると

問答 未だ已むに及ばざるにを

兒を驅りて酒漿を羅ぬ

夜雨 春韮を剪り

新炊 黄梁を間じふ

主は称す 會面難しと

一挙に十觴を累ぬ

子が故意の長きに感ず

明日 山岳を隔てなば

世事 兩つながら茫茫たらん

(大意) この乱世の中で、20年ぶりの友との再会。至難のことだけにうれしい夜だ。友もその家族もわたしをあたたかくもてなしてくれる。わたしは友の厚い友情にかえって胸いっぱいで酔えないのだ。友も同じ気持ちらしい。しかし明朝また別れてしまえば、お互いわからぬままになってしまうだろう。

 

2006年12月12日 (火)

寒山子詩一編

        千雲万水間

                                    中唐 寒山

 千雲万水の間

 中に一閑士あり

 白日 青山に遊ぶ

 夜 帰りて巌下に睡る

 倏爾として春秋を過り

 寂然として塵累無し

 快よき哉 何の依る所ぞ

 静かなること秋江の水の若し

(千層にも重なった雲、万条にも流れる川のあるこの寒山に、のんびりと過ごす一人の隠者がいる。昼は青山に遊び、夜、帰ってからは岩の下で眠る。たちまち歳月が過ぎ去り、ひっそりと静かで、俗世とは縁が切れている。なんと快いことだろう、頼るものの無いことは。心はまるで、秋の大川のように静かである。)

    寒山は生没年不詳。詩の内容その他から、中唐ごろの人と見なされる。浙江省の天台山にある国清寺(こくせいじ)に出入りし、数々の奇行で知られた。その実在性は疑わしく、単なる伝説上の人物ともいわれるが、俗世に背を向け自然と一体になって暮らしたその人物像や、禅の影響を感じさせるその詩風は、後世に大きな影響を与えた。『寒山子詩集』二巻がある。これは、寒山が村の家々の壁や山中の木、石などに書きつけた詩三百余編を集めて作ったものと伝えられる。(参考:石川忠久「漢詩への誘い 杭州の巻」2004.10)

2006年11月25日 (土)

石川丈山と詩仙堂

   ケペルがまだ青年の頃、京都をしばしば逍遥した。宮本武蔵と吉岡一門との決闘で知られる一乗寺下り松を見た際、洛北詩仙堂凹凸窠を訪れた。石川丈山(1583-1672)は、大坂夏の陣で一番乗りで敵将を討ち取って功をあげるが、この時の軍律では先陣争いを禁じていたため、蟄居の身となった。そこで武士をやめ、学問に没頭した。その後、詩仙堂で30数年の閑適生活をし、90歳で没した。

    閑適を写す

              石川丈山

山棲 静幽に熟し

天性 伊優を辟く

黄巻 観れども尽くること無く

白駒 挽けども留まらず

暮堂 蚊蚋沸き

泉水 月星流る

酒に対して元亮を怜れみ

杖に倚りて阮修を憶う

病羸 双雪鬢

行理 一虚舟

淡を茹いて安楽に居り

道心 万事休す

    山中の隠棲も長くなり、閑静な暮らしにもすっかり慣れた。自分は生まれつき、他人に媚びへつらうことをきらってきた。書物は、いくら読んでも尽きることなく無限にある。だが歳月は、ひきとどめようにも過ぎ去ってゆく。夕暮れの座敷には蚊やブヨが沸いたように襲来するが、庭の池水には、月や星が影を映していく。酒に向かうと、あの酒好きの陶潜のことを慕わしく思い、杖をついて出ようとすると、阮修の故事が思い出される。病みつかれたこの身は、すでに両鬢とも雪のように白くなってしまったが、生き方としては、虚舟のように気ままにしてきた。あっさりした食べ物で安らかに楽しみ、道心を抱いて、何事に対しても、心のはたらきをとめてしまう。(参考:石川忠久「漢詩を読む」1999)

2006年11月24日 (金)

鏡に照らして白髪を見る

   若いころには大志を抱くが、はたせぬままに年老いることを詠ったもの。

   鏡に照らして白髪を見る

               張九齢(初唐)

宿昔 青雲の志

蹉跎たり 白髪の年

誰か知らん 明鏡の裏

形影 自ら相憐れまんとは

  昔は、功名をあげて出世する大志をいだいていた。しかし、人生、失敗が多く、いつのまにか白髪の年になってしまった。だれが予想したであろう、鏡の中で、私と私の影とが互いに憐れみ合うようになろうとは。

          *

               偶成

                     朱熹(南宋)

少年老い易く学成り難し

一寸の光陰軽んずべからず

未だ覚めず 池塘春草の夢

階前の梧葉 已に秋声

    若い時代はうつろいやすく、学問というものはなかなか成就しない。それ故、ほんのちょっとした時間すらも、おろそかにしてはならない。池のほとりに春の草が萌え出した楽しい夢からいまださめきらないうちに、早くも庭先のあお桐の葉を落とす秋が来たことに驚くのだ。(参考:石川忠久「漢詩をよむ」1985)

項羽と虞美人

  項羽は、古来より「最期に及んで愛人や馬などに未練を見せ、めめしくて武人らしくない」と批判するものが多い。ところが明の呉偉業(1609-1671)の漢詩「虞兮」では、虞美人や騅など、愛する者への思いやりをつねに忘れなかった項羽は、一人の女性から、死を共にするほどの信頼を寄せられた。このことこそ、項羽をまことの英雄と呼ぶにふさわしいと賛辞を送っている。

      虞兮

千夫も辟易す 楚の重瞳

仁謹 居然たり 百戦の中

博し得たり 美人 心に死を肯ずるを

項王 此の処 是れ英雄

         *

瞳が二つずつの両目でにらみつけると、千人の敵兵も圧倒されしりごみをした。あまたの戦の最中、つねに愛する者へのいつくしみを忘れなかった。そのために、虞美人が進んで殉死を受け入れる結果を得たということ。項羽はこの点においてこそ、英雄と呼ぶにふさわしい男だ。(参考:石川忠久「漢詩をよむ」1994)

2006年7月30日 (日)

峨眉山と三峡

    峨眉山は、嘉州(四川省嘉定)の西方にある山で、その美しさは天下随一と讃えられている。初めその形が蛾眉(蚕のまゆ)に似ているために蛾眉と書いたが、のちに二つの山が向き合っているその姿が美女の眉を連想させるというので峨眉と書くようになった。

    峨眉山は様々な樹木が生い茂る険しい山で、古くから「高きこと五岳を出で、秀なること九州の甲たり。天下第一の山なり」と誉め称えられた。五岳とは泰山、崋山、衝山、恒山、嵩山の中国五大名山を指し、九州とはすなわち中国全土のことである。

   李白が故郷を出て三峡に遊んだときの詩「峨眉山月歌」が知られる。

  峨眉山月半輪の秋

  影は平羌江水に入りて流る

  夜清渓を発して三峡に向ふ

  君を思へども見えず渝州に下る

   三峡とは、四川省奉節県より湖北省宜昌までの間に峡をなす所が三箇所あり、これをいう。巫峡・西陵峡・帰峡の三つともいい、また、巫山峡・明月峡・広沢峡の三つともいう。

2006年7月22日 (土)

漱石・陶潜・王維の東洋的境地

    夏目漱石は『草枕』の中で、東洋詩人の代表的な境地として、陶潜の「飲酒」と王維の「竹里館」をあげている。

    「飲酒」は全体は20首の連作であるが、漱石は、とくに五首目の詩の第五句と第六句をとりあげて「ただそれだけのうちに暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向こうに隣がのぞいているわけて゜もなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」と言っている。

 菊を 東籬の下で采り

 悠然として 南山を見る

陶潜略伝 (365~427)

    字は淵明(えんめい)。一説に名が淵明、字は元亮(げんりょう)。29歳のときから官職についたが、なかなか昇進できず、社会情勢も不安定な中、しだいに役人生活に希望を失い、41歳のとき辞職して郷里に帰った。以後は郷里の村人たちと交遊し、酒と菊を愛する隠逸詩人として活躍した。『陶靖節集』4巻がある。その詩は貴族社会では高い評価を受けなかったが、唐代になって真価が見直された。

                          *

   漱石は、王維の「竹里館」について「只二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は『不如帰』や『金色夜叉』の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐっすりと寝込む様な功徳である」と言っている。

 独り坐す 幽篁の裏

 琴を弾じて 復た長嘯す

 深林 人知らず

 明月来たって 相照らす

    結びに漱石は、「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔興だ。」と言っている。

王維略伝(699?~761)

    字は摩詰(まきつ)。21歳の若さで進士に及第、以後順調な役人生活を送る一方、自然を愛し、しばしば別荘に赴いて友人たちと閑敵の時を過ごした。また仏教を深く信仰し、その影響は彼の詩の随所に表れている。李白の「詩仙」、杜甫の「詩聖」と並んで「詩仏」と称せられる。『王右丞集』6巻がある。

2006年6月15日 (木)

閑居偶成

    自画に題す    夏目漱石

 幽居 人到らず

 独座 衣の寛なるを覚ゆ

 偶(たまたま)解す 春風の意

 来たりて吹く 竹と蘭と