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2009年11月28日 (土)

楓橋夜泊

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月落ち烏啼いて霜天に満つ(張継)

   月は西に没し、烏の啼く声がきこえて、満天霜をはらんで寒さがきびしい

桂樹の冬栄を麗とす(楚辞)

   桂の冬の寒気にもしぼまず青々と栄えるのをうるわしとする

一灯独り寒宵を守る

   一灯に対してさびしく寒い冬を送る

独り残灯を守って断編を理む

   独り夜明の灯に伴うて糸切れた書物を整理する

五更雁を聞き満林の霜

    夜明けに飛雁の声を聞いて霜の林に満ちるを推知する

閑日冬と雖も亦自ら長し(陸遊)

    冬の短き日といえども閑暇なれば長き心地がする

山峰月を染めて寒し(簡文帝)

独り釣す寒江の雪(柳宗元)

寒窓夢成らず(蘇東坡)

霜天酒を煖むる遅し(張宛丘)

冬来りて幽興長し(唐庚)

   冬がきてから殊に物静かなる興趣が深い

書燈茅屋静

   読書する冬の灯火は草屋に於て殊に静かである

山月夜窓寒し

   山より出でた冬の月は夜を照らして寒い

山鐘夜雪の時(鄭城)

   山寺の鐘が鳴るのは丁度夜の雪の降る時である

2009年8月 7日 (金)

隠者を尋ねて遭はず

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    中唐の詩人・賈島(779-843)の詩に「隠者を尋ねて遭(あ)はず」がある。隠者とは、隠遁生活をしている人という意味よりも、唐代では高潔の士で理想的な人物と讃えられる風潮があった。官吏を辞して、田舎に住み、とくに決まった仕事もせずに、一日自然とともに閑適生活を愉しんでいる人である。

 松下 童子に問ふ

 言ふ 師は薬を採りに去ると

 只 此の山中に在らんも

 雲深うして 処を知らず

   この漢詩を読むと劉備が孔明の草廬を尋ねた「三顧の礼」の故事を思いうかべる。隠者の山荘を尋ねて行く。松の木の下に立っていた召使の子どもに、「先生は」とたづねた。「先生は、朝はやくから出かけた」「いつごろかえってくるでしょうか」「さあ、わかりません。いつも、ふいっと出かけられて、1ヵ月も半年もおかえりにならないときがあります」このような三国志でのやりとりを思い出させる味わい深い詩である。

2009年7月26日 (日)

夜半の鐘声

Img_0010 寒山寺山門前の江村橋

   「水の都」とうたわれた蘇州は運河と古い石橋がその昔日の面影を伝えている。中唐の詩人・張継の七言絶句「楓橋夜泊」は我が国で、人々に最もよく知られている漢詩のひとつである。

 月落ち烏啼いて霜天に満つ

 江楓漁火愁眠に対す

 姑蘇城外の寒山寺

 夜半の鐘声客船に到る

   この詩の解釈には異説がある。第一句は、明け方の情景と思われるのに、第四句に「夜半の鐘声」とあるからである。宋の欧陽脩は「句は則ち佳なるも、其れ三更は是れ鐘を打つの時ならざるは如せん」と述べ、真夜中に寺の鐘がなるのはおかしいと言った。その後、多くの反論が出て、唐代には真夜中にも鐘が鳴るという例が挙げられた。つまり、起句で明け方の情景かと思ったが、実はまだ夜中であったということになる。こうして見るまま、聞くまま感ずるままを、そのまま表現したのがこの詩であるようだ。旅の愁いのために眠れぬ心がひしひしと読者の胸に迫ってくるのをおぼえる。

   なおこの詩について、後日再び楓橋に来て作ったという詩「重ねて楓橋に宿す」がある。おそらく後人の偽作であろうと思われる。

 白髪重ねて来る一夢の中(うち)

 青山改めず旧時の容

 烏啼き月落つ寒山寺

 枕を欹(そばだ)てて猶ほ聞く半夜の鐘

   江蘇省蘇州にある寒山寺は梁の時代の天監年間(502-519)に創建された名刹。寒山寺から徒歩5分の地にある楓橋は現在、江村橋とよばれている

2008年3月16日 (日)

柳と別離

Img_0001_2

    3月は別れと旅立ちの季節。送別の歌として古来、有名な、盛唐の王維(699-759)の七言絶句「元二の安西に使いするを送る」の第二句に「客舎青青として柳色新たなり」とある。「柳色新」という表現は、じつは「柳」の語に送別の意をほのめかしたものである。古代の中国では、送別のときに柳の枝を折り取り、これを相手に贈る風習があった。「柳」(りゅう)の字の音が、ひきとめる意の「留」(りゅう)に通じるからとも、柳の枝は曲げてもすぐにもとにもどるので、分かれてもまた会える意を示すからともいう。したがって、別離と柳とは密接な関係があり、漢詩などでも送別の詩には柳をうたうことが多い。別れの笛の曲に「折楊柳」というのがあるが、「楊柳を折る」ことで別れを意味する。

詩全体は、以下のとおり。

 渭城の朝雨 軽塵を浥し

 客舎青青 柳色新たなり

 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

 西のかた陽関を出づれば故人無からん

(口語訳)渭城の朝の春雨は、軽い土ぼこりをしっとりと湿らして、旅館のあたりのあおあおとした柳の色もひとしおみずみずしく鮮やかである。さあ君、もう一杯この酒を飲みほしたまえ。これからあの西の方、陽関の関所を越えたなら、親しい友人はいないだろうから。(引用文献:井波律子「中国名言集一日一言」)

2008年1月17日 (木)

王安石「梅花」「石榴詩」

    寒さの中で、どの花よりも先に春を伝えてくれる梅の花。明治19年に開園した熱海梅園は、日本一の早咲きの梅で知られる。今年も既に梅まつりが開かれているという。

          梅花           王安石

牆(かきね)の角(すみ)なる数枝の梅

寒を凌ぎて独り自ずから開く

遥かに知る 是れ雪ならざるを

暗香の有りて来るが為なり

    土塀の隅にある四、五本の梅が寒さにもめげず咲いている。遠くからみてもそれが雪が降ったのでないことがわかる。どこからともなくよい香りが漂ってくるからだ。

   王安石(1021-1086)は神宗の時、宰相に任ぜられ、改革を断行したが、あまりに急激すぎて反対にあい、ついに失敗してしまった。梅花を見て「凌寒」「独自」の二字に、王安石は心境を託したとみられる。

    王安石は色彩感覚に富んだ詩を残した人のようで、冬が白梅なら春は紅の石榴を歌っている。「万緑叢中一点紅。動人春色不須多」(「万緑叢中に紅一点あり。人を動かす春色は須らく多かるべからず)この句は王安石の詩「咏石榴詩」として人口に膾炙されたが、今日までに全編が残っていない。「事後文集」には「王直方詩話にいう。荊公(王安石)が内相となり、庭園内を散歩していたところ、ざくろが一叢あった。枝はよく茂り、わずかに紅の花がついていた。興を起した荊公はそこで、濃緑万枝に紅一点あり 人を動かす春色は須らく多かるべからず といったそうだが、自分は残念ながらまだその全文を読んでいない」とあり、かなり前から逸文となっていたようだ。

    今日の日本でも「紅一点」という漢語よく使われる。多くの男の中に混じってただ一人の女性を花にたとえて紅一点というようになった。紅一点の出所については「万緑叢中」「万緑枝頭」「濃緑万枝」などあり、王安石より以前の唐代の詩句の可能性もある。中村草田男の俳句「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」の「萬緑」を王安石の詩句に由来するとしたのは山本健吉だそうだが、いささか無理なこじつけのように思える。麻雀の役満に「紅一点」があるそうだが、それは王安石の漢詩に由来するものであろう。(ケペルは麻雀は知らない)

2007年4月 1日 (日)

夜郎と李白

    李白(701-762)は、安禄山の乱の時、揚子江方面で旗揚げした永王璘(りん)の叛軍に加わった罪で夜郎へ流罪されることになった。夜郎への旅の途中、妻の宗氏にあてた李白の詩「南のかた夜郎に流されて内に寄す」がある。

    南流夜郎寄内

 夜郎 天外 離居を怨む

 明月 楼中 音信疎なり

 北雁 春帰って 看み尽きんと欲し

 南来 得ず 予章の書

(通釈)私は夜郎というさいはての地に向かいつつ、きみと離ればなれの暮らしを嘆いている。月あかりのもとの高楼にいるきみからは、たよりもなかなか届けられない。北へ飛ぶ雁は春となって帰ってゆき、私が見送るうちにすっかりいなくなりそうだが、私は雁たちと反対に南へ来てしまい、予章にいるきみからの手紙を受け取ることができないのだ。

    従来、李白は夜郎に向かう途中で恩赦により引き返したという説が有力であった。「NHK古典講読,漢詩李白、2007年4月ー9月」の年譜を見ても「乾元2年(759年)3月、夜郎に至たらぬうちに恩赦に遇う」とある。しかし、近年の研究によると、李白は夜郎に到着し、逗留したのち、恩赦により引き帰したと考えたほうが妥当であろう。(胡大宇「李白と夜郎」、『夜郎研究』貴州民族出版社、2000年)

    ところで夜郎といえば、「夜郎自大」という漢代故事が想起されるが、この李白の時代の夜郎とは、中心的な所在地が大きくことなる。漢代の夜郎国は貴州省の西部、西南部にあり、唐代の郡県の夜郎は貴州省北部の桐梓(とうし)県夜郎壩に治所が置かれた夜郎郡夜郎県である。唐代夜郎県は五代、北宋と642年から1120年まで設置された。

2007年3月24日 (土)

桃 夭

桃は若いよ 燃え立つ花よ

この娘 嫁(ゆ)きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 大きい実だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 茂った葉だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

                      目加田誠訳 「新釈詩経」

(通釈)わかわかしく美しい桃の木に、燃えたつような赤い花が咲いた。このうるわしい花にも似たこの娘はこれからお嫁に行くが、さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、はちきれそうな実がなった。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、緑の葉が茂りに茂った。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

2007年1月 2日 (火)

河上肇と漢詩

    「貧乏物語」で知られるマルクス主義経済学者の河上肇(1879-1946)は、4年半に及ぶ獄中生活で漢詩と親しむ。

            無題       昭和8年2月18日

年少 夙に松陰を欽慕し

後 馬克斯礼忍を学ぶ

読書万巻 竟に何事ぞ

老来 徒に獄裏の人と為る

               *

注釈○松陰ー吉田松陰。河上は若いころから同郷の先輩である松陰を敬慕していた○馬克斯礼忍ーマルクス・レーニン。現代中国語では、馬克思・烈寧と書く。○竟ーついに、と読む。○老来ー年老いてから。

   河上肇は、この年の1月12日、東京中野の隠れ家で検挙され、1月27日、豊多摩刑務所に収容された。容疑は、治安維持法違反。獄中生活は昭和8年1月から昭和12年6月まで4年半に及ぶ。その間、学者として非転向を貫いた。この詩は、翌2月の18日、獄中から夫人にあてた書簡に見える。(参考:一海知義「河上肇詩注」岩波書店)

▼この記事は、ゼファーさんからのご指摘により一部訂正しました。(平成19年6月15日)

2007年1月 1日 (月)

衛八處士に贈る

謹賀新年、今年もよろしくお願いします。

   衛八處士に贈る   杜甫

人生相見ざること

動もすれば参と商との如し

今夕 復た何の夕べぞ

此の燈燭の光を共にす

少壮 能く幾時ぞ

鬚髪 各各巳に蒼たり

舊を訪へば半ば鬼と為る

驚呼すれば中腸熱す

焉んぞ知らん 二十歳

重ねて君子の堂に登らんとは

昔別れしとき 君未だ婚せず

兒女 忽ち行を成す

怡然として父執を敬し

我に問ふ 何れの方より来たると

問答 未だ已むに及ばざるにを

兒を驅りて酒漿を羅ぬ

夜雨 春韮を剪り

新炊 黄梁を間じふ

主は称す 會面難しと

一挙に十觴を累ぬ

子が故意の長きに感ず

明日 山岳を隔てなば

世事 兩つながら茫茫たらん

(大意) この乱世の中で、20年ぶりの友との再会。至難のことだけにうれしい夜だ。友もその家族もわたしをあたたかくもてなしてくれる。わたしは友の厚い友情にかえって胸いっぱいで酔えないのだ。友も同じ気持ちらしい。しかし明朝また別れてしまえば、お互いわからぬままになってしまうだろう。

 

2006年12月12日 (火)

寒山子詩一編

        千雲万水間

                                    中唐 寒山

 千雲万水の間

 中に一閑士あり

 白日 青山に遊ぶ

 夜 帰りて巌下に睡る

 倏爾として春秋を過り

 寂然として塵累無し

 快よき哉 何の依る所ぞ

 静かなること秋江の水の若し

(千層にも重なった雲、万条にも流れる川のあるこの寒山に、のんびりと過ごす一人の隠者がいる。昼は青山に遊び、夜、帰ってからは岩の下で眠る。たちまち歳月が過ぎ去り、ひっそりと静かで、俗世とは縁が切れている。なんと快いことだろう、頼るものの無いことは。心はまるで、秋の大川のように静かである。)

    寒山は生没年不詳。詩の内容その他から、中唐ごろの人と見なされる。浙江省の天台山にある国清寺(こくせいじ)に出入りし、数々の奇行で知られた。その実在性は疑わしく、単なる伝説上の人物ともいわれるが、俗世に背を向け自然と一体になって暮らしたその人物像や、禅の影響を感じさせるその詩風は、後世に大きな影響を与えた。『寒山子詩集』二巻がある。これは、寒山が村の家々の壁や山中の木、石などに書きつけた詩三百余編を集めて作ったものと伝えられる。(参考:石川忠久「漢詩への誘い 杭州の巻」2004.10)

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