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2017年1月 1日 (日)

成島柳北「歳旦の口占(こうせん)」

婦子朝來甑塵を掃う 

蕭條たる破屋又新春 

書を売り剣を売りて家貲盡く 

幸ひに是れ先生未だ身を売らず

語釈 「歳旦」とは元旦。新年の第一日。「口占」とは詩文を作るのに、草稿を書かず口ずさんで文案を作る。通釈、朝早くから、妻や娘が台所で鍋墨を落とす音の聞こえるのは、貧乏暮らしのこの破屋にも、新年が訪れて来たのだ。思えば年々に生計は苦しくなり、書画を売り刀剣を売り払って、家財も今は尽き果てているが、幸いにこの家の主人柳北先生(私)は、まだその身を売り物にするまでにはおちぶれぬ。

2016年1月 3日 (日)

曹操「烈士暮年、壮心已まず」

  曹操はたんに戦が強いだけでなく、文学者、詩人としても当代一流であった。曹操は誰よりも学問に熱心で、遠征に行くときも、つねに何冊かの古典をもっていて、敵と対陣中でも、暇があるとそれらの本に目を通していたといわれるし、晩年になっても本を手から離さなかったといわれる。

    歩出夏門行

神亀は寿(いのちなが)しといえども

なお終る時あり

騰蛇は霧に乗ずるも

終には土灰となる

老驥は櫃に伏すも

志 千里にあり

烈士暮年 壮心已まず

 曹操は66歳で死去している。「烈士」とは、男らしい男。「暮年」は晩年と同じ。「男らしい男というものは、晩年になっても、ひとつやってやるぞ、というチャレンジ精神を持ち続けるものだ」という意味。

2015年12月13日 (日)

成功者のかげの犠牲

一将功なりて万骨枯る

   ひとりの成功者のかげには多数の犠牲者があることの比喩として、よく知られている句である。出典は晩唐の詩人・曹松。「己亥歳」とあり、西暦879年。この年、将軍高駢は淮南で黄巣の軍を撃破した功績によって報償を受けた。詩はこの事実をふまえてうたった。曹松(830-901)は70歳を過ぎて科挙の試験に合格したが、その後間もなく没した。

2015年7月 2日 (木)

李白と夜郎国

    李白(701-762)は、安禄山の乱の時、揚子江方面で旗揚げした永王璘(りん)の叛軍に加わった罪で夜郎へ流罪されることになった。夜郎への旅の途中、妻の宗氏にあてた李白の詩「南のかた夜郎に流されて内に寄す」がある。

    南流夜郎寄内

 夜郎 天外 離居を怨む

 明月 楼中 音信疎なり

 北雁 春帰って 看み尽きんと欲し

 南来 得ず 予章の書

(通釈)私は夜郎というさいはての地に向かいつつ、きみと離ればなれの暮らしを嘆いている。月あかりのもとの高楼にいるきみからは、たよりもなかなか届けられない。北へ飛ぶ雁は春となって帰ってゆき、私が見送るうちにすっかりいなくなりそうだが、私は雁たちと反対に南へ来てしまい、予章にいるきみからの手紙を受け取ることができないのだ。

    従来、李白は夜郎に向かう途中で恩赦により引き返したという説が有力であった。「NHK古典講読,漢詩李白、2007年4月ー9月」の年譜を見ても「乾元2年(759年)3月、夜郎に至たらぬうちに恩赦に遇う」とある。しかし、近年の研究によると、李白は夜郎に到着し、逗留したのち、恩赦により引き帰したと考えたほうが妥当であろう。(胡大宇「李白と夜郎」、『夜郎研究』貴州民族出版社、2000年)

    ところで夜郎といえば、「夜郎自大」という四字熟語が想起されるが、この李白の時代の夜郎とは、中心的な所在地が大きくことなる。漢代の夜郎国は貴州省の西部、西南部にあり、唐代の郡県の夜郎は貴州省北部の桐梓(とうし)県夜郎壩に治所が置かれた夜郎郡夜郎県である。唐代夜郎県は五代、北宋と642年から1120年まで設置された。

2014年10月23日 (木)

「少年老い易く学成り難し」のユーモア

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  少年老い易く学成り難し

  一寸の光陰軽んずべからず

  未だ醒めず池塘春草の夢

  階前の梧葉巳に秋声

    古来、日本人にはお馴染みの漢詩である。人間、すぐ老齢にいたるが、学問はなかなか成就しがたい。だから、ほんの少しの時間も無駄にせずに勉強せよ、という教育的な名詩。朱熹の「偶成」という。ところが最近の研究で朱熹の作ではない可能性が高いことがわかった。中国の朱熹全集をいくらさがしても見当たらない。柳瀬喜代志によって「滑稽詩文」に「寄小人」という題で似た詩があることがわかった。この詩が朱熹の作として登場したのは明治の漢文教科書によってである。本来の作者は観中中諦(1342-1406)という五山の僧侶らしい。それにしても、「偶成」が朱熹でなかったというのは、日本人のユーモアを感じる話である。

ところで「池塘春草の夢」とはなにか。これは謝霊運が、ある時「池塘生春草」という句を得て大層得意であった。今この詩にこの句を取ったのは「若いときに自分の才能に得意がっていると、悲しい老いが直ぐに来るぞ」と暗に知らしているのである。(謝霊運「登池上楼」)

(参考:岩山泰三「少年老い易く学成り難し、とその作者について」 月刊しにか8-5、1997.5)

2014年7月 6日 (日)

好雨時節

   韓国映画「きみに微笑む雨」(2009)。原題「好雨時節」は杜甫の詩「春夜喜雨」の一節。「良い雨は、その降るべき時を知っている。春に降りはじめ、万物は萌えはじめる」 中国の女優、カオ・ユアン・ユアンが清楚で魅力的である。

2013年2月17日 (日)

峨眉山と三峡

8715     峨眉山は、嘉州(四川省嘉定)の西方にある山で、その美しさは天下随一と讃えられている。初めその形が蛾眉(蚕のまゆ)に似ているために蛾眉と書いたが、のちに二つの山が向き合っているその姿が美女の眉を連想させるというので峨眉と書くようになった。

    峨眉山は様々な樹木が生い茂る険しい山で、古くから「高きこと五岳を出で、秀なること九州の甲たり。天下第一の山なり」と誉め称えられた。五岳とは泰山、崋山、衝山、恒山、嵩山の中国五大名山を指し、九州とはすなわち中国全土のことである。

   李白が故郷を出て三峡に遊んだときの詩「峨眉山月歌」が知られる。

  峨眉山月半輪の秋

  影は平羌江水に入りて流る

  夜清渓を発して三峡に向ふ

  君を思へども見えず渝州に下る

   三峡とは、四川省奉節県より湖北省宜昌までの間に峡をなす所が三箇所あり、これをいう。巫峡・西陵峡・帰峡の三つともいい、また、巫山峡・明月峡・広沢峡の三つともいう。

2012年8月 9日 (木)

中国俳句「漢俳」

    中国語による俳句を「漢俳」という。俳句の5・7・5音の形式をかりて、17の漢字で詠む。たとえば芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を漢俳にすると次のようなものが考えられる。

  閑反古池旁

  青蛙跳入水中央

  撲通一馨響

    漢俳は1980年5月、日本俳人協会代表団の歓迎会の席上、中日友好協会副会長の趙撲初が作った漢俳が最初といわれる。形式的には、日本の俳句の17音形式を参考にし、適宜に平仄を配した3行17字の短詩となっている。中国の絶句や小令、民謡にちかいものであり、短く、凝縮されていて、文語体もあれば口語体もあり、もちろん吟唱できる。なお、中国語は一字一音一意であるため、中国俳句にふくまれる内容や意味は、いきおい、日本の俳句よりも多くなる。2005年3月に漢俳学会が発足し、2年後には日本漢俳学会が発足した。

(参考:趙莘「漢俳 俳句形式の中国詩」 人民中国 1982.1)

2011年12月10日 (土)

熙晦機

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    熙晦機は元の僧。「人間万事塞翁が馬、推枕軒中雨を聴いて眠る」という詩で知られる。「世の中は幸と不幸が、かわるがわる起こる。あれこれ考えないで、そろそろ落ち着いて、自然のまま、雨風に耳を傾けて日々暮らす」という意味か。「推枕軒」とは熙晦機の書斎兼居間の雅称か。年の暮れの一日、酒とおでん、そして風呂に入り、炬燵みかんでテレビをみるのもよい。

2011年11月27日 (日)

漱石・陶潜・王維の東洋的境地

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    漱石は『草枕』の中で、東洋詩人の代表的な境地として、陶潜の「飲酒」と王維の「竹里館」をあげている。

    「飲酒」は全体は20首の連作であるが、漱石は、とくに五首目の詩の第五句と第六句をとりあげて「ただそれだけのうちに暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向こうに隣がのぞいているわけでもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」と言っている。

 菊を 東籬の下で采り

 悠然として 南山を見る

陶潜(365~427)。字は淵明(えんめい)。一説に名が淵明、字は元亮(げんりょう)。29歳のときから官職についたが、なかなか昇進できず、社会情勢も不安定な中、しだいに役人生活に希望を失い、41歳のとき辞職して郷里に帰った。以後は郷里の村人たちと交遊し、酒と菊を愛する隠逸詩人として活躍した。『陶靖節集』4巻がある。その詩は貴族社会では高い評価を受けなかったが、唐代になって真価が見直された。

                          *

   漱石は、王維の「竹里館」について「只二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は『不如帰』や『金色夜叉』の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐっすりと寝込む様な功徳である」と言っている。

 独り坐す 幽篁の裏

 琴を弾じて 復た長嘯す

 深林 人知らず

 明月来たって 相照らす

    結びに漱石は、「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔興だ。」と言っている。

王維(699?~761)。字は摩詰(まきつ)。21歳の若さで進士に及第、以後順調な役人生活を送る一方、自然を愛し、しばしば別荘に赴いて友人たちと閑敵の時を過ごした。また仏教を深く信仰し、その影響は彼の詩の随所に表れている。李白の「詩仙」、杜甫の「詩聖」と並んで「詩仏」と称せられる。『王右丞集』6巻がある。

    cataloging

陶淵明集 岩波文庫 幸田露伴校閲 漆山又四郎訳註 岩波書店 1928陶淵明・王右丞集 続国訳漢文大成 文学部24 釈清潭 国民文庫刊行会 1937
陶淵明 上村忠治 ブックドム社 1933
陶淵明の詩 ラジオ新書 佐久節 日本放送出版協会 1942
陶淵明 村上嘉実 冨山房 1943
陶淵明詳解 鈴木虎雄 弘文堂 1948
陶淵明伝 新潮叢書 吉川幸次郎 新潮社 1956
陶淵明 中国詩人選集4 一海知義注 岩波書店 1958
陶淵明 筑摩叢書 李長之著 松枝茂夫・和田武司訳 筑摩書房 1966
陶淵明 中国詩人選8 星川清孝 集英社 1967
陶淵明 文心雕龍 世界古典文学全集25  一海知義、興膳宏 筑摩書房 1968
陶淵明 中国詩人選1 星河清孝 集英社 1972
陶淵明詩集 カラー版中国の詩集2 富士正晴 角川書店 1972 
陶淵明 中国詩文選11  都留春雄 筑摩書房 1974
陶淵明詩文綜合索引 堀江忠通編 京都・彙文堂書店 1976
陶淵明伝 牟田哲二 勁草出版サービスセンター 1977 
陶淵明 中国の詩人2 松枝茂夫、和田武司 集英社 1983
陶淵明ノート 帰去来の思想 高橋徹 周文社 1981
陶淵明・寒山 新修中国詩人選集1 一海知海、入矢義高 岩波書店 1984
陶淵明 中国古典入門叢書1 廖仲安著 山田侑平訳 日中出版 1984
陶淵明の詩の研究 井出大 嶋屋書店 1984
陶淵明伝 中国におけるその人間像の形成過程 廖仲安著 上田武訳注 汲古書院 1987
陶淵明 鑑賞中国の古典13  都留春雄、釜谷武志 角川書店 1988
陶淵明伝 中公文庫 吉川幸次郎 中央公論社 1989
陶淵明全集 上下 岩波文庫 松枝茂夫・和田武司訳注 岩波書店 1990
陶淵明詩解 東洋文庫529 鈴木虎雄 小川環樹解題 平凡社 1991
陶淵明 中勘助全集10  中勘助 角川書店

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