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2025年5月21日 (水)

リンドバーグのその後

 チャールズ・リンドバーグ。1927年のこの日、NY・パリ間を単葉機「スピリット・オブ・セントルイス」号で33時間30分で飛び無事パリに着いた。初の大西洋単独機無着陸横断飛行である。アメリカはもとより、全世界の英雄となったが、32年に幼い息子が誘拐されて殺されるという悲劇が起こる。1932年3月1日、リンドバーグの長男(当時1歳8か月)がニュージャージー州の自宅で誘拐された。同年5月12日、遺体で発見された。現場には犯人からの身代金5万ドル要求の手紙が残されていた。事件から2日たった4日に、新聞はリンドバーグの声明文を掲載した。「身代金を支払って息子の身柄を引き取ることができるなら、犯人の不利になるようなことは、断じてしない」。これを見た法務長官は「リンドバーグに、犯罪訴追の免責を申し出る権限などはない」と語った。3月8日には、ジョン・コンドンという72歳の老講師が、誘拐事件の仲介役を申し出た。12日に、コンドンはジョンという男(「墓場のジョン」)と会い、子どもは船の中で元気にしていると聞く。16日には、コンドンの家に息子のパジャマと身代金の受け渡し方法が書かれたメモの入った小包が届けられた。リンドバーグは警察には一切干渉しないことを約束させた。4月2日、1通の封筒がタクシー運転手によってコンドンの家に届けられた。コンドンとリンドバーグは、現金を持って指定されたブロンクスのセント・レイモン墓地に着き、コンドンは「墓場のジョン」と会い、子どもが隠されている場所の書いてあるメモの入った封筒と身代金を交換することになった。しかし子どもは発見できなかった。子どもの遺体が発見され、検視結果は、子どもは誘拐された直後に死亡していたことが判明した。

 

Hauptmann_6 それから2年半後、ドイツ系移民の大工のブルーノ・ハウプトマン(画像)という男が逮捕された。身代金として支払われた紙幣をガソリンスタンドで使ったこと、そして、何よりも自宅から残りの紙幣が大量に発見されたことが決め手になった。法廷では、リンドバーグはハウプトマンを指さして犯人と断言した。コンドンは、公判開始前の段階ではハウプトマンを「墓場のジョン」と断定するのを繰り返し拒んでいたが、証言を翻し、ハウプトマンを「墓場のジョン」と断定した。人間は、たった一度しか聞いたことのない人の声を2年も3年もたってから思い出すことができるのだろうかという疑問は最後まで残った。しかし、デビット・ウィレンツ法務長官は当時広がっていた反独感情をたくみに利用しながら、ハウプトマンを蛇呼ばわりして彼の人格を誹謗し、陪審員に偏見を持たせようとしていた。

    ハウプトマンは最後まで無罪を主張したが、1936年4月3日、トレントン刑務所で電気椅子によって処刑された。しかし、彼の有罪を疑問視する人も少なくなかった。ニュージャージー州知事のハロルド・ホフマンもその一人だ。彼は「私はこの犯罪が1人の人物によってなされ得たとは思えない」と、彼は公式に声明した。70年たった今も真相は謎であり、この事件の裁判は米国司法史上に疑問と汚点を残すことになった。(5月21日)

 

 疑問は多数ある。ハウプトマン逮捕後も、リンドバーグの身代金に使われた紙幣はいまだに街にながれていた。それに決定的なアリバイがハウプトマンにはあった。1931年3月1日にはニューヨークのアパートで仕事をしていた。それが事実なら、同じ日にニュージャージー州ホープウェルに行って、夜9時すぎにリンドバーグ家に行って、息子を誘拐することは極めて困難になる。アパートの所有者は、ハウプトマンの主張が事実であることを証言したが、作業時間記録表と賃金支払い記録はなくなっていた。記録はすでに検察と警察に押収され、検察側の主張を裏付けるものに改ざんされていた。驚くべきことに弁護人のレイリーは法廷でのこれらの決定的な物証を十分に調べることもせずに、ハウプトマンのアリバイを立証できなかった。弁護人エドワード・レイリーは、反ハウプトマンを標榜していたヒュース・プレス社から金をもらっていただけではなく、以前からリンドバーグの熱烈なファンだった。法廷でのあまりの失策に、次席弁護人のフィッシャーは公判の審理中に「あなたは、ハウプトマンを電気椅子に送ろうとしている。それでも彼を弁護しているつもりなのか?」と公然と非難した。

    検察側は、事件の夜にハウプトマンを見たと証言する87歳のアマンダス・ホークス(彼は1000ドルの賞金を得た)を証人として喚問した。彼はハウプトマンがはしごを積んだ車に乗っているのを見たと主張した。このほとんど目の見えない老人の信頼しがたい証言に対して、弁護側はほとんど反論していない。

    結審後5か月たった1935年7月には、米国法律家協会が「純然たる裁判を公開ショーのように扱うのは、生命そのものを軽んずることと同じだ」と述べ、検察・弁護側双方を手厳しく批判した。

    リンドバーグは、晩年はハワイでひっそりと暮らし、72歳で他界した。ハウプトマンの遺体が霊柩車で刑務所から出で行くのを見守る群集を写した一枚の写真がある。司法が過ちを犯したと考える人々も多かったのだ。(3月1日、5月21日)

 

 

 

 

野口英世の言葉

   1928年のこの日、野口英世は黄熱病に感染してガーナで急死した。享年51歳。現在の千円札の肖像にも描かれて、最も国民に親しまれている偉人の1人と言える。野口は1876年11月9日、野口英世は福島県猪苗代町の貧しい農家に生れる。

 

  志を得ざれば再び此地を踏まず

 

   これは、1896年、野口英世が大志を抱いて単身上京する折、家の床柱にナイフで刻みつけた19歳の時の言葉である。猪苗代湖畔にある茅葺の粗末な生家には、今でもそのまま残されている。野口の言葉としては他に「努力だ。それが天才だ。だれよりも三倍・四倍・五倍勉強する者、それが天才だ」が有名である。

 

Photo   貧しい農家に生れた英世は、母が夕食の野菜を採りに畑に出ている間に、囲炉裏にかけていた鍋の熱湯を浴びてやけどを負う。満足な治療もできず、左手の指は癒着してしまったが、苦難を乗り越えて伝染病研究所の助手となる。1900年に渡米し、1911年に梅毒の病原体であるスピロへータを発見し、1913年に麻痺性痴呆と脊髄癆の患者からトレポネーマを発見し、世界第一級の業績を上げた。1916年9月から11月まで日本に帰省し、故郷で大歓迎を受けた。19歳の時、柱に刻んだ志を果たしたのである。(5月21日)

 

 

 

 

 

 

2025年5月20日 (火)

コロンブス忌

    クリストファー・コロンブスは地位も名誉も失い不遇のうちに、1506年5月20日、マラリアの後遺症と痛風にいためつけられてスペインのバリャドリッドで没した。自身はアメリカ大陸のことは死ぬまでインドだと信じていた。55歳だった。イタリアのジェノヴァの生まれと一般にいわれるが、幼年時代の記録はなく、両親がスペインのバルセロナ出身という説もある。スペインでユーロ切り替え以前に発行された5000ペセタ紙幣にコロンブスの肖像が使用されている。(Christopher Columbus、5月20日)

 

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2025年5月19日 (月)

桶狭間の戦い(1560年)

Tz_22_25    本日は桶狭間の戦いがあった日。永禄3年(1560年)5月、天下に野望を抱く今川義元は、斎藤道三の亡きあと衰えた美濃を踏み破り、諸城を落として一気に上洛せんものと25000の大軍を率いて西上の途にのぼった。5月18日、織田領の丸根・鷲津両城にも今川の脅威が迫ったとの報に接した信長は清洲城で軍議を開いた。織田の兵力はわずか3000にすぎず、籠城説が大勢を占めた。しかしその夜信長はにわかに出陣を触れ、真っ先に馬を駆けさせた。信長のあとを追ってきた兵は熱田神宮まできたとき1000人となり、善照寺についたときは3000人にふえていた。今川の25000人に比すれば問題にならない劣勢である。しかし危機に立たされた信長としては、死中に活を求めるしかなかった。一方、今川義元は18日、沓掛城に入り、翌19日、義元は、桶狭間の北、田楽狭間(愛知県豊明市栄町)に駐屯して、勝ち戦の祝杯をあげていた。兵士にも酒を配り、警備は全くおろそかにしていた。折から空には黒雲がたれこめ、豪雨がふり注ぎ、あたりは全く見通しがきかなくなった。その機をのがさず信長は横合いから義元の旗本めがけて襲いかかった。義元の軍はたちまち混乱し、軍を立て直す暇もなく、ついに義元が毛利新介によって討ち取られたのである。大将を討たれた今川軍はたちまち敗走した。この時徳川家康は義元軍に従軍していたが、この合戦ののち自立し、信長に属している。この戦いには迅速果断な信長の面目がよくあらわれている。信長の武名は一躍とどろき、今川義元に代わって上洛を志すに至った。(5月19日)

 

 

2025年5月18日 (日)

阿部定事件

Photo_2  阿部定は戦前の日本国民の間では超有名人だった。どんなに有名だったかというと、昭和11年というのはニ・ニ六事件が起こった年であるが同じ年の5月18日に起きた阿部定事件のほうが国民の関心は遥かに高かったという一事からもわかるであろう。阿部定が細面の美人と報ぜられ、日本中がその話題でもちきりとなった。阿部定は明治38年神田の畳屋の娘として生まれ、芸者や娼婦として各地を転々とした。32歳当時東京中野の鰻屋「吉田屋」の女中として入り、石田吉蔵と昵懇になる。まもなく不倫関係となり吉蔵を絞殺し、東京から逃走し、3日後の20日に捕まった。大阪駅にいた、横浜に飛んだ、いや広島だ、仙台だと怪情報が錯綜した。阿部定逮捕の様子はこうである。高輪署の安藤部長刑事は管内の旅館をしらみつぶしに調べた。「お定さんだね」女はこっくりうなづいた。もう逃れられないと覚悟して「夜になったら死ぬつもりでした」と語った。「例のものはどうした」と聞くと、定は帯の間から、ハトロン紙包みをとり出し、それを大事そうにみせただけですぐにしまい込んでしまった。定は「あの人が好きでたまらないから殺した。殺してしまえば他の女が指一本触れなくなるから」と供述している。後年、この事件は、渡辺淳一「失楽園」でも重要なモチーフとして取り上げられ大ベストセラーになった。現在阿部定の消息は1974年以降不明で墓も戒名もわからない。

 

 

 

 

2025年5月16日 (金)

田部井淳子ら日本の女子登山隊が初のエベレスト登頂

  吉永小百合主演映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」。吉永は登山家・田部井淳子、のんは青年期を演じる。1975年5月16日、田部井淳子ら日本女子登山隊が女性初のエベレスト登頂に成功した。しかし田部井だけが有名だが、実際は女子登山隊15人のメンバー(久野英子隊長)の成果だった。酸素ボンベの不足から頂上アタックを1人選ばねばならなかった。久野隊長は田部井を指名した。№2の渡辺百合子は惜しくも選らばれることはなかった。この決断で田部井は「世界のタベイ」となり、渡辺の名が広く知られることはなかった。ネットで渡辺の近況を調べたが詳しいことは不明だった。メンバー全員の名前を記す。久野英子、田部井淳子、渡辺百合子、真仁田美智子、平島照代、穂谷由美、奈良文枝、塩浦玲子、三浦洋子、永沼雅子、藤原すみ子、中幸子、北村節子、荒山文子、阪口昌子(医師)

 

旅の日

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   本日は「旅の日」。松尾芭蕉が、門人の河合曽良とともに江戸深川の芭蕉庵から奥州へと旅立ったのは、元禄2年3月27日、芭蕉46歳のことであった。これは旧暦であるので、太陽暦でいえば5月16日にあたる。旅に立つには快適のころである。「行春や烏啼魚の目は泪」 この句を矢立の初めとして、芭蕉は日光街道を北に向かう。素盞雄神社の境内に文政3年10月12日の芭蕉忌に「松尾芭蕉奥の細道矢立初め碑」が建てられた。亀田鵬斎が銘文を書いている。また碑面の下部の芭蕉像は建部巣兆の筆。

 

 

 

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 首途の句碑

2025年5月14日 (水)

種痘記念日

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Edward Jenner was a doctor who invented the vaccination for Smallpox.

 

エドワード・ジェンナーは天然痘の予防接種を発見した医者だ。

 

    1796年5月14日はイギリスの外科医エドワード・ジェンナー(1749-1823)が種痘の接種に成功した日である。彼は乳絞りの女性から牛痘にかかると天然痘には罹らないことを聞いた。そこで、牛痘にかかった乳絞りの女性サラ・ネルムズの手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児フィッブス(1788-1823)の腕に接種した。10日後に発症したがすぐに治癒し、その後天然痘を接種しても感染しなかった。ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行なった。(Edward Jenner,James Phipps,Sarah Nelmes)

2025年5月12日 (月)

実篤論

Clip_saneatsumusya 明治18年のこの日、武者小路実篤は武者小路実世と勘解由小路家出身の秋子夫妻の第8子として東京市麹町区元園町1ノ38(現在は千代田区麹町二番町6)に生まれた。昭和2年創刊の岩波文庫にはすでに実篤が収められている。夏目漱石やトルストイなど文庫23点のうち、意外な感のあるのは武者小路実篤の「幸福者」である。当時実篤は42歳であったし、「幸福者」刊行して8年しか経ておらず古典という評価はなかったと思う。新しき村への世の中の関心が高かったのであろうか。若い頃はトルストイに傾倒しながら、実篤は数年後、戦争協力者になっていく。文体は平易であるが、文学性には乏しい。思ったことをなんでもありののまま素直に書いて作家的地位を確立した人であり、思想的には本質的に死ぬまで貴族の立場の人であった。だが、私は実篤の書いたものは、どんなものでも何度でも繰り返し読みたくなる。単純明快で気持ちがいい。たとえばこんな文章。

   「人間はたえず進むべきである。他の人のことは問題にするな。するなら、自分が尊敬しないでいられない人々を問題にすべきだ。元気に何ものも恐れずに生きる点ではホイットマンを。寂しくってまいっている時は、もっと苦しい谷をさまよったドストエフスキーを。良心のするどさでは、トルストイを。おちつきはらってまちがいない道を悠然と歩く点ではゲーテを。勿論、そう簡単に言い切れないが、我等は我等よりすぐれた人々がこの世界に何人も何人もいてくれたのだから、その人達のことを思って、自分の力の不足を知るべきだ。自分の力の不足を先ず知ることは、人間を不平家にしない。「勉強、勉強、勉強のみよく奇蹟を生む」自分はそう思っている。(「人生論」 昭和13年) 5月12日

2025年5月10日 (土)

阿保船

 

 16世紀の風刺文學「阿呆船」の作者セバスティアン・ブラントが1521年のこの日、ドイツのシュトラースブルクで死去した。彼の代表作「阿呆船」はあらゆる愚か者を乗せた船が阿呆国ナラゴニアを目指して航海する物語。欲張りの者、老いぼれ阿呆、強欲の者、流行をおっかける者、姦通のこと、享楽のことなど全112種の愚者が風刺の対象となっている。(5月10日)

 

 

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