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2019年3月18日 (月)

本当は幸福な晩年だった小野小町

Ca320085211   平安期の六歌仙の一人とされ、その名は美人の代名詞として親しまれている小野小町。俳句の春の季語になっている小町忌。陰暦3月18日を忌日とするが、本当の生没年は明らかではない。小野小町の墓は全国各地に10数か所もある。山口県下関市には小野小町の墓と伝えられるものもある。六歌仙の1人に選ばれた小野小町は恋多き女といわれ、その美しさに男たちは次々と彼女を恋した。文屋康秀、阿倍清行、僧正遍昭、仁明天皇などに求愛される。多くの謎を秘めた歌人で、終焉の地も全国各地にあって晩年のことは分からない。「小野小町の伝記は、結局不明の一語につきる」と言われている。

   在原業平が東下りをして陸奥の八十島で、小野小町がこの地で死んだと聞き宿を取った。夜中に声がして、和歌の上の句が聞こえる。「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」と聞こえ辺りを探したが、人の姿は見えない。ただ髑髏ひとつが転がっている。翌朝、その髑髏を見ると、目の穴からススキが生えていた。「あなめあなめ」とは「ああ目が痛い」という意味。哀れに思った業平は、「小野とはいはじ薄生けり」(小野小町の哀れな最期とはいうまい。ただ薄が生えているだけのことだ)」と下の句を付けた。その場所を小野と呼んだ。「古事談」に見える。

    また京都洛北市原の補陀洛寺にはこのような話が伝わる。流浪の果てに洛北の地にたどり着いた小野小町は、ふと井戸をのぞくと、骨と皮ばかりに痩せ衰えた自分の容姿が水面に映っている。小町は老いの悲しみに身もだえしながら井戸に身をなげて死んだ。Cimg9554 「吾死なば焼くな埋めるな野に晒せ痩せたる犬の腹肥やせ」(私が死んだら野にさらしてお腹をすかした野良犬の餌にしてくださいな)という辞世の歌がのこる。補陀洛寺の境内には「小町姿見の井戸」がある(左画像)

    丹後大宮の五十河地方も小野小町の終焉の地とされている。天橋立に向う途中、病の床についた小町。彼女はここで力つき、里人たちに看取られ亡くなる。「九重の花の都に住まわせではかなくや我は三重にかくるる」(花の都に住んだ私なのに、ついにこの三重の里でなくなるのだわ)という辞世の歌がのこる。

  このように小野小町には晩年は不幸だったとする俗説がある。だが、比較的信頼できる史料とされる「冷泉家記」などによれば、小野小町は京都府井手町にあった井提寺別当の妻となり、幸せな晩年を過ごし、69歳で没したと記されている。(3月18日)

参考文献:武居碩三「小野小町の生涯」 玉文社 昭和4年、黒岩涙香「小野小町論」

2019年3月15日 (金)

ジュリアス・シーザー暗殺

「ブルートゥス、お前もか?」

Photo   シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」で有名なこの台詞は、もともとスエトニウスの「ローマ皇帝伝」から来ている。前48年にポンペイウスを倒し、終身の独裁官となると、シーザーの勢いは並ぶ者がなくなった。元老院のカッシウス、ブルートゥスらはシーザー暗殺を極秘に計画していた。前44年3月15日、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊でシーザーは殺された。そしてこの暗殺者の中にブルートゥスという名前の者は2人いた。マルクス・ユニウス・ブルートゥス(前85-前42)とデキムス・ユニウス・ブルートゥス(前85-前43)である。通説では母セルウィリア・カルピオスがかつてシーザーと恋仲だったため、マルクスを自分の子どもではないかと思い、目をかけていたのでマルクス・ブルートゥスを指すことが多い。スエトニウスの「ローマ皇帝伝」でもマルクスになっている。だが彼の従兄弟にあたるデキムス・ユニウス・ブルートゥスであったとする説も有力で、本当のところは今だにわからない。BC42年10月23日、マルクス・ユニウス・ブルートゥスは自殺した。(Marcus Jurius Brutus,ガイウス・ユリウス・カエサル、世界史)

2019年3月14日 (木)

無血開城と彰義隊の戦い

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福沢先生ウェーランド講術の図 安田靫彦 慶応義塾福沢センター蔵

   年が明けて慶応4年(1868)になるとそうそうに、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の端緒が開かれ、官軍による慶喜追討令が出て、徳川慶喜は大坂を逃れて江戸に帰った。江戸市中では官軍が攻めて来て戦になるのは間違いないと江戸庶民は戦々恐々となり、逃げ出す者たちで街中は大騒ぎだった。旧幕臣の勝海舟は西郷隆盛と会談し、3月14日、江戸城を無血開城したが、その後も新政府軍に反対する旧幕府側との間に争乱は続いた。

   その年の4月、福沢諭吉(1835-1901)は築地鉄砲洲中津藩中屋敷にあった洋学塾を芝新銭座(現・港区浜松町1丁目)へ移し、年号をとって「慶應義塾」と命名した。慶応4年5月15日、福沢諭吉はいつものように塾の教場に立ち、講義していた。突然、はるか北の方角から、江戸中に響き渡る砲声がとどろいた。諭吉はのんびりした調子で「とうとう、戦争が始まったか…」と呟いた。爆音をとどろかせているのは、上野の山であった。将軍慶喜を守るために結成された彰義隊に、官軍が戦闘をしかけたのである。塾生たちは、ざわついた。塾生たちの中には、若い血を燃えたぎらす者たちもすくなからずいて、落ち着きなく講義になかなか身がはいらない様子であった。諭吉は言った。「どうした、大砲の弾も鉄砲の弾も、ここまでは飛んでこないぞ!。上野の山までは、二里も離れているぞ」諭吉の声で、塾生たちも話に集中しだした。

「いいか、みんな、われわれがこうしていま、戦争のなかにもかかわらず学問をしているのは、日本の将来のためなんだぞ。いま、たしかに日本は変わろうとしている。しかし、これまでのような狭いものにとらわれた者たち同士の戦争では、なんにも変わらないんだ。これからの時代を切りひらいていくのは、力でも、鉄砲でもない。それは、学問だ。学問こそが、われわれを導く希望の光なんだ。さあ、大砲の音など、気にするな、講義を続けるぞ!」

   そして諭吉はいつもと変わらず土曜日の日課のフランシス・ウェーランド(1796-1865)の「経済学」の講義を続けた。

   画像「福沢先生ウェーランド講術の図」の中央の人物が福沢諭吉、そして手前の人物は高弟の小幡篤次郎(1842-1905)であろうか。

2019年3月13日 (水)

サンドイッチデー

Photo  3月13日は「1」が「3」で挟まれていることからサンドイッチ・デーという。賭博好きのケントの領主ジョン・モンタギュー・サンドイッチ伯爵はトーストにコールドビーフをはさんで、食事をしながら賭博をできるように工夫した。これがサンドイッチの始まりである。

上杉謙信は女だった!?

6cef0f29    英雄豪傑色を好む、という。しかし色を好まざる英雄もいた。上杉謙信である。謙信は越後を統一し、出羽から能登にいたる広大な領国を支配したが1578年3月9日、春日山城の厠で倒れ、13日、49歳で急死した。死因は脳溢血といわれる。ところが江戸初期の大名松平忠明が編纂した「当代記」によると、「謙信の死因は大虫だった」とある。この「大虫」というのは婦人病のことである。謙信女性説は小説家の八切止夫などの仮説が古くから根強く存在している。スペインの船乗りゴンザレスの書簡にも女性と思わせる記述がみられる。しかし何れも決定的な証拠とはなりえず妄想でしかない。景虎と景勝との間にポスト謙信の家督争いが激化し、御館の乱おこる。

2019年3月12日 (火)

コカ・コーラの歴史

15426     1886年5月8日、アメリカ・ジョージア州アトランタの薬剤師・化学者ジョン・ペンバートン(1831-1888)がコカ・コーラを発売した。彼はコカワインの研究をしていた。1885年アトランタで禁酒法が施行されると、ペンバートンはノンアルコールの代用品を作った。発売当時一杯5セントという低価格で人気がでた。1888年、エイサ・キャンドラーがビジネスの権利を購入し、1894年3月12日、ミシシッピー州ヴィックスバーグでボトルのコカ・コーラが販売された。日本には1919年6月、明治屋が「コカ・コーラ」を初輸入している。しかし詩人の高村光太郎は新しいもの好きで「コカコオラ」という詩を1912年にすでに書いているので渡航先で飲んでいたようだ。

   第二次世界大戦中、ボトリング工場はヨーロッパ、アメリカ、太平洋に建設され市場は世界に拡大された。(John Stith Pemberton,Vicksburg,5月8日)

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2019年3月10日 (日)

1杯のコーヒーと電話

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    ボストン大学の音声生理学教授だったグラハム・ベルは1876年3月10日、いつものように助手のトマス・ワトソンと一緒に電磁石の実験をしていた。ベルは側においてあったコーヒーをこぼしてしまった。すると隣の部屋にいたワトソンがあわててモップをもってやってきた。ベルは「ワトソンくん、どうして、わたしがコーヒーをこぼしたのを知っているんだい?」とたずねるた。「えっ、わたしの部屋の電磁石から先生の声が聞こえてきたんです。あっ、コーヒーをこぼしちゃった、と」

「わたしたちは声を送る機械を発明したんじゃないか」「きっとそうですよ、先生」こうして偶然にも1杯のコーヒーがこぼれたおかげで、電話が発明された。

2019年3月 8日 (金)

ミモザの花

20090301049418_l    今日は「国際女性デー」。1910年、コペンハーゲンで開かれた第二インターナショナルの第七回国際会議で、ドイツの代表として出席したクララ・ツェトキン(1857-1933)が毎年3月8日を国際女性デーとすべきことを提案し、多数の賛成を得て採択された。日本では1922年(大正11年)3月8日、赤瀾会や水曜会に結集しはじめた社会主義婦人たちが中心となり、種まき社の後援を得て神田のキリスト教青年会館で、婦人の政治的、社会的、経済的自由を訴える演説会を開いたのが最初である。イタリアではこの日を「女性の日」(フェスタ・デラ・ドンナ)といい、日頃の感謝を込めて、男性が女性にミモザの花を贈る習慣がある。

2019年3月 7日 (木)

ハワイのキャプテン・クック

Photo     1778年のこの日、キャプテン・クックはハワイ諸島に到達した。ジェームズ・クック(1728-1779)はイギリス・ヨークシャー県マートンにスコットランド出身の農場労働者の息子として生れた。食料品と小間物を扱っている商人のところへ見習い奉公に出された。しかし、逃げ出して、18歳のときホイットビの船主ジョン・ウォーカーのところで働くようになった。東海岸で石炭船やその他の船に乗り、何年もの経験を積んだあと、1755年、海軍に志願して有能な水夫となり、ついで一等航海士に昇進した。1766年、王立協会はクックを金星の日面通過(トランシット)の観測を目的に南太平洋へ派遣する。1768年7月30日、エンデヴァ号でイギリスを発したクックは翌年タヒチ島に達し金星のトランシットの観測を行なった。1772年からレゾリューション号とアドヴェンチャー号を指揮してニュージーランドを周航、測量しこれが南北両島よりなることを明らかにし、さらにオーストラリア東海岸を探検した。1776年には南インド洋を経て、ニュージーランドから北上の途上クリスマス島・サンドイッチ(ハワイ)島を発見。継いで北アメリカの太平洋沿岸をアラスカまで探査し、カナダのヌートカ入江を発見。アリューシャン列島・ベーリング海峡を探索したが失敗におわる。1779年2月14日、帰途ハワイで原住民とのトラブルに巻き込まれ、そこで惨殺される。クックと平賀源内は生没年が同じ。(James Cook、3月7日)

2019年3月 6日 (水)

「乾杯の歌」を聞くとなぜ生命の喜びを感ずるのだろうか?

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ジュゼッピーナ・ストレッポーニは19世紀前半に活躍したイタリアのソプラノ歌手。のちヴェルディの後妻となる

  1853年のこの日、歌劇「椿姫」が初演。ヴェルディ(1813-1901)は右腕のリウマチになやまされていたにもかかわらず、この名作をわずか12日間で書きあげたといわれる(ヴェルディ研究家フランシス・トイの「ヴェルディの生活と作品」)。ヴェルディはこの歌劇のもとになった作品、デュマ・フィスの「椿姫」を異常なほど関心を持った。というのはヴェルディはそのころ、ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815-1897)という人妻と同棲して、そのために父と不仲になっていた。歌劇の主人公である純粋な青年アルフレッド・ジュルモンとヴィオレッタの生活に似通った面があったので、右腕が痛くても、ものすごいエネルギーがでたのである。恋の力は偉大なり。恋愛映画、メロドラマ、歌劇などを観賞するのも些かの効用があるだろうか。「乾杯の歌」を聞くと何故か精神の高揚を感じるが、ヴェルディ効果というものであろうか。(3月6日)

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