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2017年2月22日 (水)

古代エジプトの「生類憐れみの令」

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 古代エジプトでは猫もミイラになった(大英博物館)

  人間と最も身近な動物といえば、まず「ネコ」である。2月22日は「猫の日」。野生の猫は、5000年も昔に、最初は穀物をネズミの害から防ぐ目的などで飼い馴らされたらしいが、のちにこまやかな情愛を注がれたペットとしての家猫が現れる。

    大河ドラマ「平清盛」には白河法皇が仏教の教理に従って殺生を禁じているシーンがある。「生類憐れみの令」のような禁令は徳川綱吉が初めてではなかった。古代エジプトにも、猫を殺すと死刑にされるという時代があったそうだ。猫の頭をもった女神バステトBastedがいる。ブバスティスでは猫のミイラが多数出土し、古代エジプトでは猫を家畜化する一方で、神として崇拝するようになったことが明らかになっている。ヘロドトスによれば、「猫が死ねば、家人は悲しみを表明するために眉を剃り落とし、死体をミイラにして手厚く葬る。・・・・火事の際には、真っ先に猫を助けなければならない」と記している。こうした猫崇拝が盛んだったのは紀元前16世紀から紀元前11世紀の新王国時代や紀元前6世紀のときが最盛期で、前525年、ペルシアのカンビュセス2世は最前列に猫を配してエジプトを攻め、矢を放つことができないエジプト軍は滅ぼされてしまったという。(本当の話とは信じ難いが)西洋の諺に「A cat has nine lives.」(猫には九生ある)とある。この起源は古代エジプトで、猫は9つの魂を持ち、9度生まれ変わることができると信じられている。当時流行のライオン狩りなどのスポーツも不信心な行いとしてみられ、バステトの祭りの期間中は禁じられていた。

乃木希典、連隊旗喪失事件

   乃木希典(1849-1912)は、明治9年、前原一誠の乱を鎮定、10年西南戦争には小倉駐屯の熊本鎮台歩兵第14連隊連隊長として熊本に進軍する。2月22日、南関・高瀬を経て向坂(熊本県植木町)で薩軍の村田三介が率いる五番大隊と遭遇する。近代的で優秀な火器を持つ乃木隊が一時優勢だったが、追いついた薩軍の伊東直ニの部隊と合流し、抜刀突撃を受けて敗れ木葉(玉名郡玉東町)に撤退した。向坂の戦いで、旗手の河原林雄太(かはらばやしゆうた)少尉の戦死により、連隊旗は薩軍に奪われた。一説によると、軍隊旗を奪ったのは伊東隊配下の下級指揮官・岩切正九郎が河原林少尉を斬り軍旗を奪い、五番隊の村田三介に渡したという。村田三介は3月12日、山鹿鍋田の戦闘で戦死している。分捕った軍旗はその後、薩軍の桂久武(1830-1878)が谷干城の立て籠もる熊本城に見せたのち、弓で降伏を勧める矢文を射たという。これが日本の戦争で弓が使用された最後だといわれる。

   この旗は桂の判断で、村田三介の夫人の村田佐和子に遺品とともに形見として贈られた。夫人は肌に巻きつけたり、ふとんの中に縫い込んだりして隠して所持していたが、それでも不安なので実家の庭の小さな屋敷神の壷の中に隠していた。

    この軍旗は、薩軍によって熊本城北面の花崗岩に翻され、城兵を嘲弄する種にされた。軍旗を失った乃木はひたすら奪還しようとするが、部下の諌められて取り戻すことができなかった。連隊旗喪失の待罪書を提出し処断を乞うたが許されず、その後、乃木は「死」を願ったという。明治10年9月24日には城山は陥落した。

   歩兵第14連隊に天皇の特旨をもって軍旗が再下賜されたのは、明治11年正月のことであった。その後、鹿児島警察の赤木良彦のもとに奪われた軍旗が村田三介の未亡人が所持しているという折田三之助からの有力情報を入手した。尋問したところ、はじめ佐和子は抵抗したが「子供を殺す」と脅かすと白状した。明治11年1月24日のことであった。村田佐和子のその後の詳しいことは福岡で暮らしたということ以外は判らない。密告者の折田三之助、警察の赤木良彦についてもその後の詳しいことは判らない。

2017年2月19日 (日)

熊本城天守閣炎上の謎

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 熊本城激戦図錦絵(部分)

    天下の三名城の一つにうたわれた熊本城は加藤清正の築城、慶長12年(1607年)以来270年、戦場となることは一度もなかった。ところが日本最後の内戦である西南戦争において、熊本鎮台が薩摩軍の精鋭を迎え撃つ壮絶な攻防戦が明治10年2月22日から繰り広げられた。

   薩摩軍四番大隊長・桐野利秋(1838-1877)は手にした杖のかわりの竹をひと振りし、「熊本城は、これをひと振りすれば一気にも陥ちもす」と豪語した。桐野利秋、池上四郎らは正面軍を指揮して攻撃したが、熊本城の守りは固かった。熊本鎮台司令長官・谷干城(1837-1911)は樺山資紀を参謀として鎮台をよくまとめ、薩軍と交戦し、籠城すること50余日が過ぎても陥落することはなかった。

   この西南戦争熊本城攻防戦での最大の謎は天守閣の炎上であろう。話はさかのぼるが、いよいよ薩摩軍総攻撃の3日前、すなわち明治10年2月19日、午前11時40分、本丸二の天守付近から原因不明の出火により天守閣と本丸御殿一帯は全焼した。出火原因としては①台所からの失火説、②薩軍の放火説、③鎮台自ら火をつけたとする自焼説、がある。食糧として蓄えられていた米1251表が焼け跡から出てこなかったことなどから、③の自焼説が有力である。つまり、熊本鎮台司令長官・谷干城が児玉源太郎(1852-1906)に命じて放火させたともいわれている。現在の天守閣が復元されたのは昭和35年のことであった。平成28年の地震により、熊本城は甚大な被害を受け、その復旧・復元には20年以上の長い年月がかかるといわれている。

2017年2月16日 (木)

天気図記念日

Weather_map002   1883年のこの日、東京気象台が日本初の天気図を作成。ドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッピング(1844-1922)の指導のもと、7色刷りの天気図が作成された。(2月16日)

 

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 Erwin Knipping

2017年2月15日 (水)

西行出家をめぐる謎

   西行忌。1190年のこの日、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)で、73歳の生涯を閉じた。2月15日は釈迦入滅の日でもあり、この前後に亡くなることは仏教の修業をする者にとっては憧れであった。西行、俗名を佐藤義清(1118-1190)という。鳥羽上皇に北面の武士と仕えたので、平清盛と面識があったと考えられるが資料としては残っていない。西行と頼朝とは面識があったことは証明されている。西行が出家隠遁したのは、保延6年、23歳のときで、動機については古来諸説ある。①友人が急死し、無情を感じたという説②待賢門院璋子に失恋したという説③崇徳天皇への同情。

①の無常観説は、明日を約束して別れた同僚が、次の日家を訪ねてみたら死亡していたという。そして、家に帰ってみたところ、4歳になる娘が喜んでむかえてくれた。かわいいと思ったが「この思いが煩悩だ」と悟り、娘を縁の下へ蹴落とし、自ら髻を切って出家したという。②の失恋説は、女性と一夜を共にしたが別れぎわに「これきりですよ」と言われ、身分違いを痛感、世俗の秩序から離れようと出家したという。③の説は、保延6年は崇徳天皇の帝位失墜の前年であり、皇位交替をめぐる宮廷内部の情勢に義憤を感じたという。

2017年2月14日 (火)

バレンタインデー

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 皇帝クラウディウス・ゴチクスの命令で首を刎ねられる聖バレンタイン

    2月14日はバレンタインデー。ローマ帝国では、2月13日から15日まで豊穣と結婚の祭りルペルカリアが盛大に行われ、とくに2月14日はユノ(JUNO)の祭日である。むかしローマ皇帝クラウディウスが帝位についてほどなく、ゴート族を撃退し、「ゴティクス」という添名がついた。皇帝はより軍隊を強くするため、兵士たちが愛する妻がいると勇敢に戦えないとして、結婚を禁じた。ところが、司教のウァレンティヌス(バレンタイン)は秘密に兵士を結婚させたため、捕らえられ処刑された。あえてユナの祭日を処刑の日に選んで2月14日としたという。西暦269年のことである。311年、コンスタンチヌス大帝のキリスト教寛容令が出されてから、殉教者の聖バレンタインの人気がでた。いつしか聖バレンタインデーの記念日とされるようになり、愛する人に贈物をする風習が始まった。日本では1958年頃より流行し、女性から男性にチョコレートを贈る習慣になっている。

2017年2月12日 (日)

催眠術ブーム(昭和50年)

   催眠術ブームに便乗、「異常性格や神経症的体質、苦悩を解消」とビラで宣伝し、若い女性などの患者を集めて3年間に1400人から1億円近くの治療費を騙しとった催眠カウンセラー北野正治が1975年のこの日、逮捕された。北野はインチキ療法を行い、性交、わいせつ行為を繰り返していた。さらに驚くべきことに40年後も北野は2015年スーパーテクニック催眠と称してウェブサイト上で何でも治せると誇大広告していた。特定商取引法違反で逮捕されている。(2月12日)

ブラジャーの日

Mary_phelps_jacobs  ブラジャーは1889年にフランスのエルミニー・カドルが発明し、1913年2月12日、アメリカのメアリー・フェルプス・ジェイコブ(1891-1970)によって発明、特許をとったとされる。これを記念して「ブラジャーの日」が制定されている。

   日本には大正末期に登場し、大正15年に「乳房バンド」の広告が掲載された。昭和4年には「乳房バンド」のほかに「乳バンド」「乳房ホールダー」「胸美帯」「乳おさえ」などの名で広告や通信販売欄に掲載されているから、日本でも製造が始まったと見られる。このほか、松岡錠一もこのころブラジャーを生産した(「日本洋装下着の歴史」)。これらは薬局、小間物店、デパートで売られていた。日本でブラジャーという用語が登場するのは1930年代である。しかし一般に普及するには至らず、広く使用されるのは1950年代以降である。日活映画「憎いあンちくしょう」(1962)で浅丘ルリ子の下着姿が話題となった。

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(横田尚美「1920年代の日本女性洋装下着」『ドレスタディ』vol33)Mary Phelps Jacobs,Hermine Cadille,brassiere

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(左上)1920年代のスリップ(右上)1920年代のブラジャー(右中)1920年代のパンティ、下の2点は1920年代のコルセット

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 主婦の友 昭和4年7月号の乳バンドの広告

2017年2月11日 (土)

これがグリコのモデル、カタロン選手のゴールの雄姿だ!?

Img_990766_29111259_0     「一粒300メートル」ランニングの男性が両手と片足をあげてゴールインのポーズをしている「グリコ」のキャラメル。年とって歯が悪くて食べられないが子供の頃よく食べた。大正11年のこの日の発売であるから90年以上の歴史がある。(画像は昭和30年頃のグリコ)

Photo_7    通説によるとモデルは極東オリンピック(現アジア大会)のマラソンで優勝したフィリピンのカタロン選手であるといわれる。新聞の写真を見ると、たしかに両手を大きく広げてグリコのポーズをしている。初代マークは女学生から「顔が怖い」と不評だったことから数年で変更され、カタロンは2代目だった。その後、モデルが外国人というのもどうもまずいらしく、江崎グリコ70年史では、カタロン選手のほか谷三三五、金栗四三などの名前もあげて複数説をとるようになった。その後のカタロン選手の詳細がわからない。(「おもしろ雑学552」刑部澄徹編著) 2月11日

2017年2月 8日 (水)

最初の郵便マークは「T」だった!?

Ishikawa_hitomi_06    本日は「〒マークの日」。明治20年2月8日、逓信省は郵便マークを制定した。逓信省の頭一文字、片かな「テ」を図案化したものといわれる。「逓」とは「つたえる」という意味。「次々と横に渡していく。リレーする」という意味がある。唐代駅伝の制度は都長安を中心に整備されたが、郵による官文書の逓送が行われた。「長安を出で逓に乗じて行く」と白居易の詩にもある。明の洪武帝は官物の輸送を担当した役所「逓運所」を設置している。日本では江戸時代、飛脚制度が整備され、江戸・大坂間は「定六」といわれて6日間が通例で急行が4日間であった。逓信省の語源は明らかでないが、郵便・電信・船舶管理・灯台業務を処理する機関であることから、駅逓+電信から逓信となったのか、本来から逓信という漢語が使用されていたのか定かではない。しかしながら、「逓」という字は戦前は小学生でも読めただろうが、現在では大人でも読めない人がいるだろう。〒マークは最初は甲乙丙丁の「丁」だったという。ところが外国では郵便料金不足の表示「T」と紛らわしいとわかり、14日に「〒」に変更したといわれる。

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