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2022年7月 3日 (日)

小原保と短歌

Photo_3   昭和40年頃、「犯人はこんな男です。東北弁ナマリで中年男」というチラシが配られ、テレビ・ラジオで犯人の声が放送された。人気歌手のザ・ピーナッツが「かえしておくれ今すぐに」と歌っていた。昭和38年3月31日の事件発生からすでに2年が経過していた。そして昭和40年7月3日、犯人が逮捕された。

   小原保(1933-1971)。この戦後最大の誘拐といわれた「吉展ちゃん事件」の犯人の名前をある年齢以上の方なら多くの人が記憶にとどめているであろう。

   千葉県東金市に住む「土偶短歌会」の主宰者に、獄中の小原保から郵便が届けられた。昭和44年6月のことである。内容は数年前から短歌をしており入会したいということであった。土偶短歌会の主宰者は小原の心境や境遇を理解し、会員たちに説明したが、やはり「吉展ちゃん殺しの小原は駄目だ」という反発の声があった。そこで主宰者は小原の投稿歌を「福島誠一」という筆名で載せることにした。福島は小原の出身県、誠一は「誠実一筋」の意味を込めたという。小原が土偶短歌会の会誌「土偶」に寄せた短歌は、一回の休詠もなく、378首にのぼった。昭和47年の正月3日に小原から手紙が届いた。「思えば二年数ヶ月、縁あって土偶の仲間に加えて頂いたのですが、私のような者をも心温かく迎えて下さり、今日までご指導頂きまして訳ですが、その間先生をはじめ土偶のみなさんの心温まる励ましによって、心たのしく勉強することが出来ましたことは、何よりの幸せでした。明日、最期を迎えるに当り、自分でもおどろくほどの平静をたもって居りますが、これも一重に先生をはじめ土偶のみなさんの温かいお心に触れて、人間としての心を取戻すことが出来たからこそで、心からお礼申し上げる次第です。(中略)それでは、先生を初め土偶の皆さん、さようなら。土偶の発展をお祈りしつつ」昭和46年12月23日朝、死刑台へのぼったのである。満39年にわずかおよばないだけ生涯だった。次の辞世の歌が添えられていた。

 

明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指に聴きつつ眠る

 

ほめられしことも嬉しく六年の祈りの甲斐を見たるつひの日

 

世をあとにいま逝くわれに花びらを降らすか門の若き枇杷の木

 

    死後、小原保の歌集「十三の階段」が関係者によって刊行されている。なお昭和55年に講談社から刊行された「昭和万葉集」には次の一首が収録されている。

 

詫びとしてこの外あらず冥福を炎の如く声に祈るなり(福島誠一)

 

(参考:本田靖春「遺書」)

 

 

2022年7月 2日 (土)

清水寺と坂上田村麻呂 

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    798年のこの日、坂上田村麻呂が清水寺を建立した。寺の起源には諸説あるが、奈良時代にこの地を鹿狩りに訪れた坂上田村麻呂が、修行中の僧延鎮に殺生をいさめられ、十一面観音を作り祀ったのが始まりとも伝わる。

   坂上田村麻呂は蝦夷征伐で知られる武将であるが、坂上氏は東漢(やまとのあや)という渡来系の氏族の一つで武略に秀でていた。田村麻呂より4代前の老(おゆ)は壬申の乱で活躍しているし、田村麻呂の父の苅田麻呂は770年に陸奥鎮守府将軍になっている。田村麻呂は797年に征夷大将軍となり陸奥に赴いている。そして阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)が802年4月15日に降伏し、胆沢城(岩手県奥州市)を平定した。田村麻呂はその助命を嘆願したが、入れられず阿弖流為は河内国椙山で斬首された。その翌年、田村麻呂は、陸奥経営のため、胆沢城のさらに北に志波城(岩手県紫波郡)を築いた。805年、京都に戻り参議となる。これを最後に蝦夷の地に戻ることはなく、田村麻呂は秋田、青森には赴いていない。嵯峨天皇の作といわれる「田村麻呂伝記」には「身長五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸、眼は鷹のように鋭く、黄金色の髪を豊かに蓄えている。怒って睨めば猛獣もたちまち倒れ、笑って眉をゆるめると幼児もたちまち懐く」とあるが、このころから坂上田村麻呂伝説が生れた。清水寺縁起の絵巻は江戸時代後期の画家、古筆了伴が描いたもの。アテルイに関しては詳しいことは不明だが、史料では大墓公阿弖利為(たものきみあてりい)とある。アテルイは蝦夷(えみし)ではあるが、アイヌなのかどうかは不明。(「田村麻呂と阿弖流為」新野直吉 吉川弘文館、7月2日)

2022年7月 1日 (金)

童謡の日

240pxakaitori_first_issue     1918年のこの日、児童文芸誌「赤い鳥」が創刊された。北原白秋は明治42年に「邪宗門」、明治44年に「思ひ出」を刊行し、20代の中頃に詩人としての地位を確立していた。「赤い鳥」に協力して、創作童謡を誌上に発表したのは白秋34歳の時だった。これらの童謡の多くは、成田為三によって曲がつけられ、今も日本の叙情歌として歌いつがれている。(7月1日)

 

               *

 

          雨    (曲・成田為三)

 

雨がふります。雨がふる。

 

遊びに行きたし、傘はなし、

 

紅緒のお下駄も緒が切れた。

 

        *

 

    赤い鳥小鳥 (曲・成田為三)

 

赤い鳥、小鳥、

 

なぜなぜ赤い。

 

赤い実をたべた。

 

         *

 

     あわて床屋 (曲・山田耕筰)

 

春は早うから川辺の葦に、

 

蟹が店出し、床屋でござる。

 

チョッキン、チョッキン、チョッキンナ。

 

         *

 

   ちんちん千鳥 (曲・成田為三)

 

ちんちん千鳥の啼く夜さは

 

   啼く夜さは、

 

硝子戸しめてもまだ寒い

 

   まだ寒い

 

(注)今日、私たちがよく知る曲は、成田為三ではなく、近衛秀麿の作曲である。

2022年6月25日 (土)

朝鮮戦争72年目の夏

Photo_7   朝鮮戦争は今年で72年目を迎える。韓国ドラマ「愛の不時着」など南北問題を取り上げた作品は多いが、国際法上は現在も戦争状態が続いている。1950年のこの日に朝鮮戦争は勃発した。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米国・ソ連の対立を背景として、国際紛争にまで発展、いわゆる朝鮮戦争と呼ばれ、戦後のわが国には特需が増大する。10月8日、国連軍が38度線を突破。1953年7月休戦。その5年後の1958年に建てられた高さ332.6メートルの東京タワー。この東京タワーは、実は米軍の戦車で出来ている。朝鮮戦争が終わって不要になった米軍の戦車は日本の民間業者に払い下げられていた。当時、日本には、基幹産業である高炉会社はまだ十分に育っておらず、戦車のスクラップは貴重である。そこで質のよい戦車90台の精鉄が3000トン分が使用された。それは東京タワーのおよそ3分の1を占めているといわれる。(6月25日、参考:生方幸夫「解体屋の戦後史」)

2022年6月23日 (木)

ヒトラーとエッフェル塔

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    1940年6月14日、パリはドイツ軍によって無血占領され、フランスは降伏した。6月20日、休戦条約の署名がおこなわれ、3日後の6月23日、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)はフゴー・シュペールとともにお忍びでパリの名所観光をしている。朝6時にレ・ブルージュ空港に着いたヒトラーは、同9時には、その飛行場から発った。わずか3時間のパリ見物だったが、ヒトラーは「パリを見物するのが私の夢だった。今日、その夢がかなって、とてもうれしい」と語っている。

   ヒトラーはパリのどこを見物したのだろうか。ドイツの彫刻家アルノ・ブレッカーによると、廃兵院(アンヴァリッド)、シャイヨー宮を廻って、エッフェル塔に上ったという。(『パリ、ヒトラーと私』)ヒトラーがエッフェル塔に上ろうとすると、突然エレベーターが故障した。やむなくヒトラーは最上階まで歩いて上った。ところが、ヒトラーはエッフェル塔には上らなかったとする説もある。この否定説によると、シャイョー宮に行くのにシャン・ド・マルスを横切りながら、下からエッフェル塔を眺めただけだったという。どちらが本当か不明である。真相はエッフェル塔だけが知っている。

   しかし、何故、ヒトラーはエッフェル塔を見物したのだろうか。ナポレオンの柩が納められた廃兵院(アンヴァリッド)や凱旋門ならば話はわかるが、エッフェル塔が花の都パリのシンボルというだけの理由なのだろうか。一説によると、エッフェル塔が完成したのはフランス革命100周年記念のパリ万博で、ヒトラーと「同じ年」だからという。つまりヒトラーは子供のころからエッフェル塔に憧れを持ち続け、エッフェル塔に行きたがっていたという。もともと画家志望であったヒトラーはキュービズムなど現代美術は頽廃芸術として嫌悪していたが、古典芸術であるルーブル美術館やパリには人並み以上の憧憬を抱いていたと想像するのはケペルだけであろうか。

   エッフェル塔を背景としたヒトラーの記念写真には合成もあるかもしれないが、この記事に載せた写真は、愛人エヴァ・ブラウン(1912-1945)に送った写真で、ジャン・ド・マルス公園あたりで撮影された本物とみられている。

2022年6月22日 (水)

それでも地球は回っている

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ヴァチカンの宗教裁判に引き出されたガリレオ ジョゼフ・フルーリ 1846年

   1632年2月22日、ガリレオ・ガリレイは地動説の解説書「天文対話」を刊行した。翌年の4月12日には、ガリレオの異端審問が始まった。ローマ法王庁の機密文書館が開設400年を迎えたのを記念し、一般に公開されるようになった。目玉の一つがガリレオが異端審問にかけられた際の裁判記録。ガリレオの署名がはっきりと確認できる。

  ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)がはじめて望遠鏡を空に向けた時、宇宙の法則はコペルニクスが正しく、プトレマイオスはまちがっていることを確信した。しかし、ガリレオの提示した理論は、いずれも当時において反論の余地ある仮説の域を脱していなかった。1600年にはジョルダーノ・ブルーノが異端として火刑に処せられている。ガリレオもまた宗教裁判において終身の自宅軟禁を言い渡され、2度とふたたびこの問題を取り上げることは禁止された。1633年6月22日、ガリレオに異端判決が下され、「それでも地球は動いている」と呟いたと伝えられる。盲目となってからもガリレオの研究は最後まで衰えることはなかった。1642年、ガリレオは熱病にかかってフィレンチェ郊外のアルチェトリで死んだ。(Galileo Galilei、4月12日)

2022年6月20日 (月)

ヴァレンヌ事件

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  1791年のこの日、フランス国王一家の逃亡が、東部のムーズ県の小村ヴァレンヌで発覚し、阻止された。20日深夜、パリ脱出計画は実行された。従僕に変装したルイ16世は、王妃や2人の子ども(ルイ・シャルル6歳、マリー・テレーズ12歳)らとともに、チュイルリー宮殿を脱出し、馬車でブイエ将軍の軍隊が待つメッスに向かったのである。しかし、計画は失敗する。旅程が大幅に遅れ、護衛のためにブイエ将軍が街道に派遣した騎兵隊が、住民の警戒を招いてしまった。国王は、かつてヴェルサイユに滞在したことのある宿駅長ドルエなよって変装ほ見破られた。そしてとうとうヴァレンヌで、国王一家は、郡総代で薬種商人ソースの家に護送され、そこで逮捕されたのである。国王一家のパリ帰還は、国民の逃亡によって裏切られたと感じたパリの民衆の激しい反応をひきおこす。国王の肖像やシンボルが破壊され、国王廃位を要求する誓願や国王・王妃に対する誹謗文書があふれ返る。22日、東部国境に近いヴァレンヌでルイ16世一家は逮捕され、そして6月23日、国王一家は、重苦しい沈黙のなかをパリに戻った。この事件以降、国王と国民の信頼関係は崩れ、革命はついに王政打倒へと向かっていく。(6月20日)

2022年6月19日 (日)

桜桃忌

Img_2308_5289321_0    本日は太宰治の命日。東京都三鷹市の禅林寺で供養が行われる。「桜桃忌」は文学忌のなかでは河童忌と並んで有名である。

   太宰が東京・玉川上水に入水自殺し、遺体が上がったのが誕生日でもあるこの日。桜桃が熟するころで、太宰の晩年の作品で好評だった「桜桃」から桜桃忌と呼ばれる。

   太宰治の叔母の言ふ。「お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、行ひだけでもよくなさい」

   芥川賞候補の太宰に対して、選考委員だった川端康成は選評の中で太宰の生活態度を「生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる・・・」と批判した。それに激怒した太宰は「小鳥を飼い、舞踏を観るのがそんなに立派な生活なのか」と反論した。

   志賀直哉はある座談会で太宰を「僕は嫌いだ。あのポーズが好きになれない」と評した。これに対して、太宰も志賀を「薄化粧したスポーツマン」などと罵倒した。この対立の背景には、太宰の志賀に対する畏敬とコンプレックスがあったのかも知れない。2020年、孫の石原燃が「赤い砂を蹴る」で芥川賞の候補作に選ばれる。太宰は天国でどう思っているだろう。(6月19日)

 

 

2022年6月12日 (日)

恋人の日

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    6月12日は「恋人の日」。ブラジルでは夫婦や恋人同士が贈り物をしあってお互いの気持ちを確かめあう。伊豆市土肥温泉に恋人岬には「愛の鐘」と呼ばれる鐘があり、この鐘を3回鳴らすと恋愛が成就すると言われている。年間23万人の観光客が訪れる。

2022年6月 7日 (火)

ミッドウェー海戦

   ミッドウェー海戦は1942年6月5日から7日まで続いた。実は日付変更線を越えた海域だったから現地時間では開始日は6月4日である。日本軍はミッドウェイ島を占領して北方の西部アリューシャン攻略の足がかりとする作戦を展開し、反撃のため出現が予想される米空母群を殲滅すべく、ほぼ全力で出撃した。この日本側に対し、暗号を解読していた米側は作戦を看破し、これを迎撃した。結果、日本は赤城・加賀・蒼龍・飛龍の4隻と重巡1隻が沈没し、航空機280機以上を失った。これに対し、米軍は空母1隻、航空機150機喪失にとどまり、日本は制空・制海権を失い、8月にはガダルカナル島への上陸をもって米軍の反撃が始まる。

 

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  沈没寸前の空母赤城

 

 

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