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2017年3月27日 (月)

「奥の細道」旅立ち

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   松尾芭蕉が、門人の河合曽良とともに江戸深川の芭蕉庵から奥州へと旅立ったのは、元禄2年3月27日、芭蕉46歳のことであった。これは旧暦であるので、太陽暦でいえば5月16日にあたる。旅に立つには快適のころである。素盞雄神社の境内に文政3年10月12日の芭蕉忌に「松尾芭蕉奥の細道矢立初め碑」が建てられた。亀田鵬斎が銘文を書いている。また碑面の下部の芭蕉像は建部巣兆の筆。

 

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 首途の句碑

2017年3月24日 (金)

マネキン記念日

1725476911479mannequinwithdressinth   かつては小売りの王者だった百貨店だが、近年は世界的不況で存在感を失い、客離れが進んでいる。大型ショッピングセンターには、ブティックなどの専門店が多い。休日の買い物客で賑わうが、やはりモードの主役はマネキン(mannequin)だ。そもそも衣裳を着せて飾る陳列用の人形をマネキンと呼ぶが、これはフランス語の「マヌカン」に由来する。フランス語の「マヌカン」にするか、英語の「マネキン」にするか、論争があった。資生堂取締役の白川虔三は「マヌカン(招かぬ)よりマネキン(招金)の方が縁起がいい」と主張したのが言葉の始まりといわれる。マネキンの黎明期には、人形ではなく本物の女性がマネキンガールとなって立っていた。大正11年3月に東京で開かれた平和博覧会で、盛装した婦人を陳列所にたたせたところ大評判となった。ついで大正14年10月に上野公園で開かれた電気博覧会では東京電気会社マツダランプが小西道子、西村明子を窓飾美人としてマネキンガールにしたところ、大当たりとなったものである。商品を身に着けるマネキンガールの最初は昭和3年3月24日、上野公園で開かれた大礼記念国産振興東京博覧会において高島屋呉服店のコーナーで登場したのが最初である。戦後昭和20年代まで販売促進員としてのマネキンガールは女性の憧れの職業の一つだった。

2017年3月22日 (水)

出歯亀

403ce78f     庭で行水する女性や女湯の板塀の節穴から覗いたりする変態男を「出歯亀」という。近年はあまり耳にしない言葉だが、携帯でスカートの中を盗撮することも「出歯る」行為だろう。「明治の末の変態性欲者、植木職の池田亀太郎に由来。出歯の亀太郎の意。女湯をのぞくなど、変態的なことをする男の蔑称」と広辞苑にある。 出歯るという動詞が出来た。出歯亀事件は当時の新聞に大々的に報道され、「出歯亀」は流行語となった。

  明治41年3月22日、植木職兼鳶職の池田亀太郎(35歳)は、近所の大久保村(東京都新宿区)にある藤の湯の女湯をのぞているうちにムラムラとなり、官吏の妻・幸田ゑん子(28歳)のあとをつけ、空き地に引きずり込んで強姦し、殺害した。この男はものすごい出っ歯だった。彼はすぐに獄舎につながれたが、特赦で5年後には釈放された。だが悪い癖というものはそう簡単には治らない。その後ものぞきを重ね、15年後にふたたび逮捕された。そのとき彼は55歳。雀は百まで踊りを忘れないそうだが、亀太郎は55までのぞきを忘れずというわけか。しかし亀太郎の犯罪はのぞきや痴漢、ストーカーというよりも暴行殺害という凶悪犯人である。出歯がユーモアをさそうのかもしれないが、日本語にその名の一文字を残し、権威ある辞書「広辞苑」にその名前を連ねるとは、なんとも幸運な人であろうか。(参考:小林祥次郎「人名ではない人名録」)

ゲーテ「野の小バラ」

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    ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテはドイツ最大の文学者・小説家・劇作家。ダンテ・シェークスピアと並んで世界三大文豪の一人といわれる。死に際に「もっと光を」(Meht Licht)と言った。1832年3月22日、83歳で没した。

わらべは見つけた 小バラの咲くのを

野に咲く小バラ

若く目ざめる美しさ

近く見ようとかけよって

心うれしくながめたり

小バラよ、小バラ、あかい小バラよ

野に咲く小バラ

          *

わらべは言った「お前を折るよ

野に咲く小バラ!」

小バラは言った「私は刺します

いつも私を忘れぬように

めったに折られぬ私です」

小バラよ、小バラ、あかい小バラよ

野に咲く小バラ

          *

けれども手折った手荒いわらべ

野に咲く小バラ

泣き声、ため息、かいもなく

折られてしまった 是非もなく

小バラよ、小バラよ、あかい小バラよ

野に咲く小バラよ

               高橋健二訳

  この詩は一説によれば、少年の性のめざめと官能の喜び、そのあとにつづく魂の傷あとのうずきをうたっているという。英語にも「Gather roses while you may.」「Gather roses」(バラをつみとる)とは人生の快楽を求める意。

2017年3月21日 (火)

空海の死はなぜ「入定」というのか

Photo_6   真言宗の開祖、空海は835年(承和2年)のこの日、60歳で高野山で没した。通常僧侶の死は入滅、入寂などと表現されるが空海に限ってはそうは言わず、入定という。本来、入定とは生きて禅定の修行に入っている状態をさし、死とは違う意味合いである。それなのにこのように言われ続けられるのは次のような理由からである。空海死後86年経った時、延喜21年、朝廷より空海に弘法大師という諡号が贈られた。そのことを空海に報告するため、観賢は御廟の石室の扉を開けてみたら、そこには言い伝えどおり禅定をする空海の姿があった。しかも驚いたことに頭には30歳ぐらいの長い髪がはえ、まさしく現在も生きているかのごとくであった。感激した観賢僧正は髪を丁寧に剃りあげて浄衣に着せ替えて身支度を調えて退出したが生きている人と別れるのと同じ思いがして悲しみのあまり涙が止まらなかった。そのことがあって以後は今尚、生きて禅定され続けていられるとの思いで入滅ではなくて入定されていると言われ続けている。(3月21日)

2017年3月18日 (土)

本当は幸福な晩年だった小野小町

Ca320085211  日本の美女といえば小野小町だ。本日は平安時代の歌人、小野小町の忌日。いまでも評判の美人を「○○小町」と言ったり、「今小町」「小町娘」と言ったりすることがある。

山口県下関市には小野小町の墓と伝えられるものもある。六歌仙の1人に選ばれた小野小町は恋多き女といわれ、その美しさに男たちは次々と彼女を恋した。文屋康秀、阿倍清行、僧正遍昭、仁明天皇などに求愛される。多くの謎を秘めた歌人で、終焉の地も全国各地にあって晩年のことは分からない。「小野小町の伝記は、結局不明の一語につきる」と言われている。

   在原業平が東下りをして陸奥の八十島で、小野小町がこの地で死んだと聞き宿を取った。夜中に声がして、和歌の上の句が聞こえる。「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」と聞こえ辺りを探したが、人の姿は見えない。ただ髑髏ひとつが転がっている。翌朝、その髑髏を見ると、目の穴からススキが生えていた。「あなめあなめ」とは「ああ目が痛い」という意味。哀れに思った業平は、「小野とはいはじ薄生けり」(小野小町の哀れな最期とはいうまい。ただ薄が生えているだけのことだ)」と下の句を付けた。その場所を小野と呼んだ。「古事談」に見える。

    また京都洛北市原の補陀洛寺にはこのような話が伝わる。流浪の果てに洛北の地にたどり着いた小野小町は、ふと井戸をのぞくと、骨と皮ばかりに痩せ衰えた自分の容姿が水面に映っている。小町は老いの悲しみに身もだえしながら井戸に身をなげて死んだ。Cimg9554 「吾死なば焼くな埋めるな野に晒せ痩せたる犬の腹肥やせ」(私が死んだら野にさらしてお腹をすかした野良犬の餌にしてくださいな)という辞世の歌がのこる。補陀洛寺の境内には「小町姿見の井戸」がある(左画像)

    丹後大宮の五十河地方も小野小町の終焉の地とされている。天橋立に向う途中、病の床についた小町。彼女はここで力つき、里人たちに看取られ亡くなる。「九重の花の都に住まわせではかなくや我は三重にかくるる」(花の都に住んだ私なのに、ついにこの三重の里でなくなるのだわ)という辞世の歌がのこる。

  このように小野小町には晩年は不幸だったとする俗説がある。だが、比較的信頼できる史料とされる「冷泉家記」などによれば、小野小町は京都府井手町にあった井提寺別当の妻となり、幸せな晩年を過ごし、69歳で没したと記されている。(3月18日)

参考文献:武居碩三「小野小町の生涯」 玉文社 昭和4年、黒岩涙香「小野小町論」

2017年3月15日 (水)

シーザー暗殺

「ブルートゥス、お前もか?」

Photo   シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」で有名なこの台詞は、もともとスエトニウスの「ローマ皇帝伝」から来ている。前48年にポンペイウスを倒し、終身の独裁官となると、シーザーの勢いは並ぶ者がなくなった。元老院のカッシウス、ブルートゥスらはシーザー暗殺を極秘に計画していた。前44年3月15日、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊でシーザーは殺された。そしてこの暗殺者の中にブルートゥスという名前の者は2人いた。マルクス・ユニウス・ブルートゥス(前85-前42)とデキムス・ユニウス・ブルートゥス(前85-前43)である。通説では母セルウィリア・カルピオスがかつてシーザーと恋仲だったため、マルクスを自分の子どもではないかと思い、目をかけていたのでマルクス・ブルートゥスを指すことが多い。スエトニウスの「ローマ皇帝伝」でもマルクスになっている。だが彼の従兄弟にあたるデキムス・ユニウス・ブルートゥスであったとする説も有力で、本当のところは今だにわからない。BC42年10月23日、マルクス・ユニウス・ブルートゥスは自殺した。(Marcus Jurius Brutus,ガイウス・ユリウス・カエサル、世界史)

2017年3月13日 (月)

サンドイッチデー

Photo  3月13日は「1」が「3」で挟まれていることからサンドイッチ・デーという。賭博好きのケントの領主ジョン・モンタギュー・サンドイッチ伯爵はトーストにコールドビーフをはさんで、食事をしながら賭博をできるように工夫した。これがサンドイッチの始まりである。

2017年3月12日 (日)

コカ・コーラの歴史

15426     1886年5月8日、アメリカ・ジョージア州アトランタの薬剤師・化学者ジョン・ペンバートン(1831-1888)がコカ・コーラを発売した。彼はコカワインの研究をしていた。1885年アトランタで禁酒法が施行されると、ペンバートンはノンアルコールの代用品を作った。発売当時一杯5セントという低価格で人気がでた。1888年、エイサ・キャンドラーがビジネスの権利を購入し、1894年3月12日、ミシシッピー州ヴィックスバーグでボトルのコカ・コーラが販売された。日本には1919年6月、明治屋が「コカ・コーラ」を初輸入している。

   第二次世界大戦中、ボトリング工場はヨーロッパ、アメリカ、太平洋に建設され市場は世界に拡大された。(John Stith Pemberton,Vicksburg,5月8日)

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2017年3月11日 (土)

パンダに歴史あり

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   1972年11月5日、上野動物園でパンダが一般公開された。この日の入場者は約5万6000人で、このうちパンダ見物は1万8000人だった。野性のパンダが中国奥地の竹林地帯に生息することは19世紀の後半ごろから知られるようになった。1863年3月11日、パンダを発見したフランス人の宣教師で博物学者のアルマン・ダビッド神父(1826-1900)は「風変わりな食肉類」と呼んだ。

Photo_2     クマとアライグマの混血種といった外見をしていて、ずんぐりした四肢や、足の裏で地面をこすりながら歩くことや、短い尾はクマそっくりである。しかし、この動物はほとんど肉を食べない。ほぼ完全な草食性であることがわかった。はじめ神父の名をとり属名を「ダビディア」とつけられた。

    その後、この極めて珍しい動物がジャイアントパンダと名づけられて、欧米の動物園で飼われるようになったのは1930年代になってからである。1939年、シカゴのブルックフィールド動物園が最初で、ニューヨークのブロンクス動物園のパンダはパンドラと名づけられ、1939年の万国博覧会の人気者となった。

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