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2020年11月27日 (金)

聖地奪回の十字軍を宣言(1095年)

Blackcathedral    西ヨーロッパの封建社会は11世紀から13世紀の間にもっとも安定した発展をみせてきた。人口は増加し、国王・諸侯・騎士は外へ向かっての発展欲や冒険心をかきたたせ、ベネチア、ピサ、ジェノバなどの諸都市は経済的利害から東方への進出を求めていた。またこのころの西ヨーロッパでは、人々の宗教心が旺盛であった。11世紀に広まった巡礼は、長い旅程の困難と危険を通じて自己の罪を懺悔し、霊魂の救済を得んとする禁欲精神の一つのあらわれであり、なかんずくトゥールのサン・マルタン教会よりトゥールーズのサン・セルナン教会をへてイベリア半島の西北端、コンポステラのサン・ジャック教会にいたる道程は著名であった。そしてキリストの墳墓のあるイェルサレムは、巡礼者が最後に赴くべきもっとも重要な聖地であった。

 そのころ東方は、8世紀以来、アラビア人にかわって、もとアラビアの傭兵軍であったセルジュク・トルコが支配していた。セルジュク・トルコはパレスチナを奪って巡礼するキリスト教徒を迫害したので、西ヨーロッパ人を激昂させた。こうしたときにビザンチン皇帝アレクセウス1世は、ローマ教皇に東方の実情と西欧騎士団の援助を要請を求めてきた。ローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月17日から27日まで、クレルモン公会議を開いて聖地回復を決議し、ここに十字軍がおこなわれることになった。1096年8月15日の第1回十字軍より1270年の第8回十字軍まで、約2世紀にわたって聖地奪回の遠征がくりかえされた。(Clermont,Crusade,11月27日、世界史)

 

十字軍 とっくむ(1096年) 相手は イスラム教徒

2020年11月25日 (水)

王莽の簒奪

   紀元8年のこの日、王莽が新を建国した。前漢が滅亡。新王朝(AD8-23)は、前漢と後漢との間に王莽(BC45-AD23)が建てたごく短命の封建王朝である。王莽は東平陵(山東省章丘)の人。漢の成帝の生母は、王莽のおばにあたる。彼は外戚の身分で大司馬に任ぜられて尚書を担当し、政治的には最高の職権を掌握した。そのうちに平帝を毒殺し、ついで漢の皇帝孺子嬰をも廃して、国号を新と称した。

   王莽の身長はやや高く、やせ形で、口が大きく、あごが短かく、大きな赤眼がとび出し、声は大きいがしわがれていた。彼は自己のこうした風采が気に入らず、高いかかとの靴、高くつくった冠、剛毛でふくらませた服を用い、臣下と会う時、ことさら胸をそらし、あごを引いて見下すようなポーズをとったという。容貌をかげでけなした臣下を殺したり、常に雲母の扇子を手にし、親しい者と会う時以外は、それで顔を隠した。また、儀式の際には、ひげや髪を黒く染めて、若く見せようとした。

   儒教を信奉していた王莽は、すべての政治を周の制度に復することを理想とした。広く流通していた漢武帝の五銖銭を改めて、軽く小さい王莽銭を鋳て、財政不足を補おうとした。また奴婢の売買を禁じ、土地を国有化して王田と称するなどして、商業利潤の国家独占を図ったため、豪族らの強い反抗をうけた。反乱のうち有力なものは、山東に蜂起した農民集団赤眉と南陽豪族群の援助をえた漢の一族劉秀である。AD23年、長安に突入した劉玄(更始帝)の軍勢によって王莽は殺された。劉玄は酒色におぼれて、側近に政治をまかせた。側近は横暴な政治を行ない、そのため赤眉集団は離反した。25年9月、赤眉軍は劉玄を殺した。赤眉集団は一時的に都長安を占領したものの、豪族連合軍に破られて山東に退却し、結局勝利は劉秀の手に帰した。この劉秀こそ後漢の光武帝(在位25-57)である。(11月25日)

 

 

 

 

2020年11月22日 (日)

ケネディ大統領暗殺

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   1963年11月22日、ケネディ大統領はテキサス州ダラスでオープンカーでパレード中に狙撃され死亡した。

John Fitzgerald Kennedy,the 35th President of the United States.His wit,grace,intelligence,and good-looking,he was a popular person.Kenndy was assassinated in Dealey Plaza,Dallas,Texas.

  ジョン・F・ケネディは第35代アメリカ合衆国大統領。機知、上品さ、知性、すばらしい容貌をもった彼は人気者だった。テキサス州ダラス、デイリー・プラザ広場で暗殺された。健康そうにみえたケネディだが、実は背部痛のためいつもコルセットを装着していた。第1弾を被弾した直後、身体をかがめることができなかったのはこのためで、2弾目を被弾することになる。オズワルドによる単独犯行説に対する多くの疑惑が唱えられ、いまなお真相は闇に中である。11月22日)

 

 

2020年11月19日 (木)

水洗トイレの話

Kani_img_01     本日は「世界トイレの日」。2001年にジャック・シムが設立したWTOが制定した。toiletは「便器」そのものを指し、いちばん直接的。ふつう、家庭内ではbathroom(浴室)、ホテルやレストラン、学校などではrest roomという。飛行機内の表示は主にlavatoryである。

 2010年のヒット曲「トイレの神様」。近代流行歌100年の歴史を振り返っても、トイレ、便所、うんこ・糞尿を歌った楽曲は少ない。「汚穢屋の恋歌」「いぼ痔のバラード」なんて無いよね。な~んでか?それは「トイレの神様」の歌を聴いても多くの人が水洗トイレをイメージするようになったからだ。一部のお年寄りはまだ溜め置き式、汲み取り式を想像する。溜め置き式が一般的で長く続いたのは農業の肥料としてリサイクルしていたことと関係する。水洗化が普及したのは昭和40年代だが遅いところは昭和50年代半ばになっても水洗化していない地域が都市部でもあった。屎尿を肥料としていたころは、回虫の寄生率は高かった。昭和30年代、毎年、小学校では肛門にシールを貼ってぎょう虫検査を行う。半数以上の子どもが回虫をもっていた。立小便はするし、野原で脱糞する女子もいた。昭和でもそんなだから幕末江戸期や明治期はどうだろう。これが意外にも清潔だったらしい。外国人の記録では当時のパリやロンドンでは悪臭が漂うほど路上に汚物があったが、日本は「一滴のこらず」都市の外に出されて、肥料となるというリサイクルシステムが確立されていた。都市に汲み取り人が屎尿を買い取りに来る。だが都市衛生が優れていたということではない。江戸の長屋は共同便所だが、尿は下水に放たれ、川にそのまま流れていた。立小便は当たり前だった。「トイレの神様」では亡くなったお祖母ちゃんを思い出して感動するだろうが、実は影で苦労した汚穢屋さんや下水道整備事業と屎尿処理技術の発達、すなわち地方自治体の半世紀にわたる努力の賜物と考えている。(11月10日,11月19日)

2020年11月18日 (水)

油小路の決闘

Img015   慶応3年3月10日、尊攘思想を抱く伊東甲子太郎は、新選組を脱退し、御陵衛士として五条橋東詰めの長円寺に移り、そのあと東山高台寺の塔頭・月真院に移った。月真院の門前に「禁裏御陵衛士屯所」の標札をかかげた。一派は高台寺党、あるいは伊東派と呼んで、近藤らの本隊と区別している。14名の名を挙げておこう。

  鈴木三樹三郎、篠原泰之進、新井忠雄、毛内有之助、服部武雄、斉藤一、藤堂平助、加納道之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海二郎、中西登、橋本皆助、清原清である。この中で斉藤一は、近藤側の間者として送り込まれていて、内部の様子を逐一、報告していたようだ。

   11月18日、伊東は近藤、土方の饗応の帰途、油公路木津屋橋通りで、大石鍬次郎ら新選組の闇討ちによって斬殺された。土方の指図で、伊東の屍は七条油公路の四ツ辻へ放置した。必ず高台寺の一派が死体を取りにやって来ると読み、新選組の40余人の者が遠巻きにして取り囲んだ。そこに伊東の横死を聞いて駆けつけたのが、篠原、鈴木、加納、藤堂、服部、毛内、富山の7人である。40余人との斬り合いは激しく、「油公路の惨劇」として知られるところだ。藤堂、服部、毛内は斬り死にした。幸運にもこの惨劇を免れた3名の者たち、篠原泰之進(1829-1911)81歳、鈴木三樹三郎(1837-1919)83歳、加納道之助(1839-1902)62歳は、いずれも天寿を全うしている。

ウィリアム・テルは実在したか?

Chwilliamtell   1307年のこの日、ウィリアム・テルが息子の頭上のリンゴを射抜いた日。

    当時スイスは神聖ローマ帝国に支配されていた。ここにテルという弓の上手な猟師がいた。代官ゲスラーに捉えられたテルは、テルの息子の頭にリンゴをのせ、それを射ぬけと命じられた。テルは息子の頭に載せたリンゴに狙いを定めると、見事にリンゴを射落とした。「リンゴが落ちた!」「おお子どもは生きている!」やはりテルの弓矢はたしかだった。が、代官はテルが矢をはなつまえに。もう1本の矢を抜いておいたのをとがめた。テルの矢は代官の胸を貫いた。みんなは敵のとりでをうちこわし、守備兵を追い払った。スイス人は自由と独立をさけんだ。テルの息子の名前はシラーの戯曲によると「ヴァルター」となっている。ヴァルター・テル。ちなみに代官の名前は、ヘルマン・ゲスラー(またはアルブレヒト・ゲスラー、おそらく伝説上の人物か)ウィリアム・テルの名が記された歴史的な史料が見つかってないため実在性は否定されるが、スイス人のおよそ6割はテルが実在したと信じている。(William Tell,Walter,Hermann Gessler,11月18日)

2020年11月16日 (月)

桐生鹵簿誤導事件

Img29130f38zikezj   鹵簿(ろぼ)とは行幸の行列のこと。1934年11月16日、群馬県桐生市で昭和天皇の警備の先導車が道順を間違え、責任を感じた本多重平警部(当時42歳)が翌日自殺を図った。幸い、素手で刃物を持っていたため、突く力が弱く、一命を取り止めた。本多にはその後も後遺症が残った。1969年、68歳で没した。この事件は、天皇がどれほど現人神であったかをまざまざと示している。戦前、すべての小学校には御真影と教育勅語が奉納してある奉安殿が設けられ、火事で御真影を焼失したため責任を取って自殺した校長がいたという。しかし天皇を神のように崇めてみても、日本国民は現世の救いを与えられることはない。松本清張の短編「尊厳」はこの事件を題材にしている。

2020年11月14日 (土)

印象派の巨匠モネ

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アルジャントュイユのセーヌ川  1872年

 

  クロード・オスカール・モネ(1840-1926)は、印象派画家のうちで最もひたむきで、純粋な実践者であった。モネは1840年11月14日、食料品商で元船乗りのアドルフ・モネの長男としてパリに生まれた。1845年、一家はノルマンディーの港町、ル・アーブルに移り、父親は食料品店と船具商の経営を継ぎ、家計は潤っていた。セーヌ河口のこの港町で、クロードは、幸せな子ども時代、そして青年期を過ごした。

   アマチュア画家であった叔母のソフィー・ルカードルがクロード少年の絵画の才能を喚起したようだ。ル・アーブル市の学校へ通うようになったモネは、よく教科書やノートに戯画を落書きしていた。15歳になるころには、彼の絵は町の評判になり、売れるまでになった。

   モネの絵は地元の額縁屋に展示され、これが彼の人生を決定するきっかけとなった。同じように、オンフール出身の風景画家、ウジェーヌ・ブータンもこの店に絵を展示しており、ここで二人は知り合った。ブータンは年若いモネに風景画を描くことを勧め、ともに制作に励んだ。当時、風景画は室内で制作されるのが一般的だったが、海や浜辺の風景画を得意としていたブータンは、「じかにその場で描かれたものこそ、アトリエで描かれたものにはない力強さと躍動感がある」と主張して、外光のもとで描くのを好んだ。

   最初、モネはブータンの作品を「気に染まない」と感じていたが、やがて彼の考え方を理解し、共鳴するようになった。そして1858年の夏、17歳にしてモネは、「突然、目の前のベールが引きはがされ、絵画がどうあるべきかを悟った。独自の姿勢を貫いて自分自身の芸術に専念しているこの画家のただ1枚の絵によって、画家としての私の運命が開かれた」と述懐している。

   1859年、モネはブータンや叔母の推薦状を手にパリに出た。アトリエ・シュイスでは、のちに印象派の中心人物となるカミーユ・ピサロと知り合いになり、また、ギュスターヴ・クールベ、エドゥワール・マネら前衛芸術家のたまり場だった。モンマルトルのブラッスリー・デ・マルティルでしばしば芸術談義にふけったりした。(参考:『モネ 週刊グレート・アーティスト3』同朋舎,Claude Monet)

 

 

2020年11月13日 (金)

13日の金曜日

Friday13b   13日の金曜日が不吉で悪い出来事が起きる、というのは英語圏の多くとドイツ、フランスなどで広まっている迷信である。金曜日がなぜ不吉なのか。イエス・キリストが磔刑されたのが金曜日とされるが、聖書には13日の記述はみられない。Fridayという言葉は北欧神話の神フリッグから来ており、フリッグが「金曜日に悪魔を招いて悪事を企んでいる」と信じられるようになったから。金曜日に13を合わせて13日の金曜日を不吉とする風習は、古文献には見られず、19世紀になってから成立したとする意見がある。13を不吉な数とするのは、キリストの最後の晩餐に13人の人がいたことから生じたものであろう。1980年の映画「13日の金曜日」(1980)では殺人鬼ジェイソンがキャンプ場を舞台に若者たちを次々と惨殺するというホラー作品で、この影響によって、この日を不吉とする考えは世界的に広まった。しかし13日の金曜日=不吉で悪い出来事がおこる、という警戒感から、交通事故などを避けるため、事故件数は通常より少なく、安全な日という報告もなされている。2015年の11月13日の金曜日、パリで同時多発テロが発生し、120人以上が死亡した。

 

 

残虐刑の歴史

Img1e3111ecx344yo   1873年のこの日、明治政府は火あぶり、磔刑などの残虐刑を廃止した。これら残虐刑は古代からあったがとくに戦国武将たちが実施していた。武田信玄の残虐性は父の信虎譲りのものであろう。斎藤道三や蒲生秀行の「牛裂き」の刑も知られている。戦国武将の中でも、最も大量に残虐刑を行ったのは、やはり織田信長でろう。比叡山焼打ち、荒木村重一族の処刑などをみると、始皇帝、ネロ、ジンギスカン、ヒトラーに劣らぬ残酷さである。豊臣秀吉の行ったキリシタン弾圧も有名である。耳をそぎ、首に縄をつけ、全員を数珠つなぎにして京都より博多まで、1ヵ月も見せしめにして、長崎で磔刑にした。戦国乱世の弱肉強食の世が人を狂わし、権力者を全て異常にさせたものであろう。しかし、この残酷刑は江戸時代も踏襲された。主殺し、親殺し、関所破り、キリシタン等の重大犯に科せられる処刑は磔刑であった。受刑者を十字架にかけ手足を縛りつけ、首と腰の所も縛り、全く動けないようにしてから、着物の左右の脇の辺りをさいて肌を出すのである。その左右のわき腹の辺りから肩に突き出す様に処刑用の長い槍を「ありゃ、ありゃ」とかけ声を掛けながら、まず「見せ槍」を行い、その後一気に左右より処刑人が交互に数十回突き刺すのである。初めは血や臓物が飛び出してくるが、そのうちに大きな穴が開いて何も出なくなる。それでも突き刺し続け、最後には咽喉を右から貫いて、止めを刺したという。丸橋忠弥、平井権八、国定忠治、佐倉惣五郎夫妻らが磔刑となった。(11月13日)

 

 

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