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2018年1月16日 (火)

オクタヴィアヌス

Scaugustus   紀元前27年のこの日、ローマ政界一の実力者ガイウス・オクタヴィアヌスが元老院からアウグストゥス(尊厳者)の尊称を受けた。この結果、オクタヴィアヌスが軍隊の駐屯が必要とされる属州の大半を統治することになり、事実上の専制君主、初代皇帝となり、ローマ帝政が開始されることになる。(1月16日、Augustus)

2018年1月14日 (日)

赤坂喰違の変、武市熊吉ら処刑

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    明治7年1月14日の夜、岩倉具視(1823-1883)は公務を終え、赤坂の仮皇居から退出して自宅へ帰る途中高知の征韓論派の武市熊吉ら9名に襲われた。岩倉は眉の下と左腰に軽い負傷はしたものの、皇居の四ッ谷濠へ転落し、辛うじて助かった。前年の秋に西郷隆盛らは征韓論に敗れ、征韓論に反対した岩倉への不満が暗殺の動機だった。同年7月9日、9名全員(武市熊吉、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太)は死刑に処せられた。

2018年1月13日 (土)

万延元年遣米使節咸臨丸の真相

Photo_8   万延元年1月13日、咸臨丸は日米修好通商条約の批准書を交換するため品川を出帆、19日に浦賀を出港した。木村喜毅(1830-1901)が提督、勝海舟(1823-1899)が艦長であった。福澤諭吉やジョン万次郎らも乗船していた。万次郎以外の船員は大半が船酔いで、技量・経験に優れたジョン・ブルック大尉(1826-1906)他、アメリカ人乗員の助けをかりて、2月26日にサンフランシスコに入港した。勝海舟は船酔いで私室にこもつたままで、艦長らしき仕事は何一つやらなかった。ところが上陸が目前になると「俺が艦長だ」といわんばかりの態度だった。福澤は勝の態度に嫌気がさしたのか、終生、2人の仲は悪かった。晩年「痩我慢の説」を著して勝海舟を批判している。福澤と木村との交遊は明治になっても続いた。ジョン・ブルックはサンフランシスコ到着後の咸臨丸の修理や滞在費をアメリカ政府が負担するように働きかけ、歓迎準備に力を尽くしている。日本軍艦初の太平洋横断の快挙の陰にブルック大尉の援助があったのだ。(John Mercer Brooke)

2018年1月12日 (金)

レルヒ少佐とゼッケン

Photo_2   本日は「スキーの日」。スポーツ選手が競技で識別のため用いる番号票をレースナンバー(racing number)、あるいは「ゼッケン」という。このゼッケンという言葉の語源は不詳で広辞苑には「馬の鞍に敷く毛布の意のドイツ語Deckeの転訛など諸説あるが未詳」とある。明治の新聞では「番号票」という語が使われていたが最初に「ゼッケン」が使われたのはいつ頃からであろうか。1911年1月12日に高田歩兵第58連隊営庭でテオドール・レルヒ少佐(1869-1945)が初めてスキー指導を行ったことはスキー史で知られているが、このときの報告書に「レルヒのゼッケンの番号は10」という記述がある。おそらくこれが「ゼッケン」という語が使われた最初であろう。(Theodor Lerch,Decken)

2018年1月 8日 (月)

平成スタートの日

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   1989年1月7日、足掛け64年にわたった「昭和」が幕を閉じた。昭和天皇は87歳と8ヵ月のご生涯だった。翌日から新しい元号「平成」がスタートした。この年、亡くなった方々には著名人が多い。2月9日に漫画家の手塚治虫、4月27日に松下幸之助、6月24日に歌手の美空ひばりが他界し、まさしく昭和の終焉を感じさせた。この年はまだバブル景気といわれた後半の時期にあたる。消費者は高額商品を買うこと、「生活の豊かさ」を感じ、海外の高級ブランド品や高機能の家電製品を買いあさった。しかし1990年をピークに景気は下降し、バブルは崩壊し、長い平成不況が続く。俳優の平泉征は、このころ芸名を「平泉成」と改名した。すると脇役として次々が舞い込み、「平成」期になって売れ出した。(1月8日)

2018年1月 5日 (金)

松井須磨子の墓

E4c141eac3fb65f390685e698c14687e    東京都新宿区弁天町の多聞院に大正時代に一世を風靡した新劇女優松井須磨子の墓がある。長野県清野村に生れた須磨子は17歳で上京。1908年坪内逍遥が主宰する文芸協会演劇研究所第1期生になる。1913年、演出家島村抱月と芸術座を旗揚げし、トルストイ原作の「復活」のカチューチャ役が当たり人気女優になる。「カチューシャの唄」も大ヒットし、日本の流行歌第1号といわれる。しかし、1918年抱月はスペイン風邪のため急死すると、2ヵ月後の1月5日に後を追って自殺した。その遺書には抱月と同じ墓に埋めてほしいと書かれていたが、はたされなかった。

2018年1月 3日 (水)

鴎外、漱石の墓

    明治29年1月3日、根岸の子規庵で俳句会が催された。第1回には夏目漱石、内藤鳴雪、高浜虚子、五百木瓢亭、河東可全、第2回には森鴎外、河東碧梧桐らが加わった。つまり子規、漱石、鴎外の3人が揃ったのはこの時だけであろう。記録によれば、漱石と鴎外が会ったのはこれが初めてであり、両者は互いに言葉をかわすことはなかったという。実際に5歳の年の差があり、漱石が作家となったのも鴎外の存在があったからであるという江藤淳の指摘がある。表面冷ややかで無関心を装い、鴎外と漱石の親しい交友は生まれなかったがお互いに敬意を抱いていたと思われる。

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三鷹禅林寺 鷗外墓 隣に後妻の志げ子の墓がある

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 雑司ヶ谷霊園 漱石、鏡子、ひな子(五女)

2018年1月 1日 (月)

一月一日生まれ「ひふみん」

    豊臣秀吉は俗に1月1日に生れたとして知られるが、これは後世の創作で(絵本太閤記)、実際の誕生日は天文6年2月6日とされる。前田利家やルイス・フロイスの話によれば、秀吉の片手は「親指が1つ多かった」と言っている。専門医によれば、秀吉が多指症だった可能性はあるらしい。

  確実に1月1日生れの有名人は、鳩山一郎、杉原千畝、田中美知太郎、富田常雄、人見絹枝、田端義夫、長門勇、尾崎紀世彦、倉本聰、役所広司、江口洋介、堂本光一など。ジミー大西と増田明美は同年同日の元日生れである。将棋の「ひふみん」こと加藤一二三も一月一日生まれ。

2017年12月29日 (金)

シャンソンの日

5969788  本日はシャンソンの日。1990年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した。

    日本にシャンソンが紹介されたのは、昭和2年11月15日に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー「モン・パリ」を初演したときで、以後「パリゼット」「花詩集」などの主題歌として歌われた。そして無声映画時代「巴里の屋根の下」「巴里祭」など映画主題歌のシャンソンも流行した。またダミアの「暗い日曜日」「人の気も知らないで」が淡谷のり子の歌謡でヒットした。戦後、昭和30年にイベット・ジローが来日して、シャンソン・ブームが起った。そしてエディット・ピアフ、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソアの歌がラジオから流れた。銀座にはシャンソン喫茶「銀巴里」が出現、石井好子や越路吹雪らが活躍した。岩谷時子による訳詩もシャンソンの大衆化に貢献した。シャルル・アズナブール、エンリコ・マシアス、サルバトーレ・アダモら若手も登場した。なかでもアダモは「サン・トワ・マミー」「雪が降る」など日本で最も愛されたシャンソン歌手といえる。シャンソン歌手にはフランスだけでなく他国出身者も多い。イブ・モンタン、アダモはイタリア生れ。エンリコ・マシアスはアルジェリア生れのユダヤ人。エディット・ピアフの「愛の讃歌」。およそ愛をテーマにした曲は数々あるが、このシャンソンほど力強く、感動的な歌がほかにあるだろうか。(12月29日)

2017年12月28日 (木)

八百屋お七に焼かれた芭蕉庵

    枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

    延宝8年、深川に移る。これが芭蕉庵の始まりである。天和2年3月、「武蔵曲」においてはじめて芭蕉の号を用いた。この年12月28日、駒込の大円寺を火元とする大火(お七火事)があって、芭蕉庵も類焼した。芭蕉は辛うじて難を免れ、門人高山麋榯に招かれて甲斐国谷村の高山邸に身をよせ、ここに半年あまり寓居した。翌年5月江戸に帰ったが、其角によれば、この災難によって芭蕉は「猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発」したという。6月には郷里の実母の死去の悲報に接し、冬には素堂ら友人門弟の勧進によって新庵が落成し、ここに落着いた。このころから芭蕉の人生観、俳諧観が大きく変わったものと考えられる。

31  朝顔は 酒盛知らぬ盛りかな

32  蕣は 下手のかくさへ哀なり

33 朝茶のむ 僧静なり菊の花

34 朝露に汚れて涼し瓜の泥

35 朝な朝な 手習すすむきりぎりす

36 あさむつや 月見の旅の明けばなれ

37 あさよさを 誰まつ島ぞ片心

38 紫陽花や 帷子時の薄浅黄

39 明日は粽 難波の枯葉夢なれや

40 遊び来ぬ 鱁釣りかねて七里迄

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