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2021年9月28日 (火)

新選組最強の剣士、斎藤一 

Photo  本日は斎藤一(さいとうはじめ)、1915年の忌日である。彼の名前は漫画「るろうに剣心」や大河ドラマ「八重の桜」ですっかり有名になった。

 

  1965年のNETドラマ「新選組血風録」で左右田一平が斎藤一に扮したときは世間の人は斎藤一をまだ誰も知らなかった。「新選組血風録」第24話「風去りぬ」は結束信二のオリジナル脚本だろうが、ついに沖田総司の最期の回となる。沖田総司の役はやはり島田順司以外には考えられないと思う。斎藤一が別れに沖田に詰め将棋の本を贈る。もう一度、誰にも邪魔されないで二人でおもいっきり将棋がしたいという。(泣かせるぜ)このあと土方と沖田の別れのシーンもある。今生の別れであることは知っていても、つくり笑顔で別れる土方がよい。やはりこのシリーズは、土方(栗塚旭)、沖田(島田順司)、斎藤(左右田一平)という三人の息のあった演技が最高なのだ。三人は「新選組血風録」(昭和40年)「われら九人の戦鬼」(41年)「俺は用心棒」(42年)「待っていた用心棒」(43年)「帰って来た用心棒」(43年)「俺は用心棒 2」(44年)「天を斬る」(44年)「燃えよ剣」(45年)までまさに怒涛の快進撃を続けた。

 

  注目すべきは、原作では比較的地味な存在である斎藤一を、ドラマでは自己顕示欲のない誠実な人柄として描いたことだ。「風去りぬ」で近藤・土方二人になったとき、斎藤との出会うシーン。斎藤の懐からだされたのは「誠」の旗だった。新選組の象徴である「誠」は斎藤・左右田一平の茫洋した人柄とマッチして妙な味がでているのである。

 

   ただし、歴史上の人物である斎藤一は、土方と共に箱館まで到っていない。なぜ、土方は、最後の腹心ともいうべき斎藤と袂を分かってしまったのであろうか。この疑問に対する答を満足させてくれる記録は何も残っていないという。これは推測であるが、土方は斎藤を明治の新しい世になっても活躍していける人物とみて、涙を払って彼を突き放したのかもしれない。事実、斎藤は明治になって警察官となり、西南戦争に従軍し、警視庁退職後は教育博物館の看守などに奉職したとある。(「幕末激闘録新選組」成美堂)。また大内美予子によると「斉藤一は、明治になってから、壬生の八木家を訪れたこともあり、旧新選組隊士との交流もあったらしい。山口二郎、一戸伝八、藤田五郎と名を変え、剣道教師をしていたとも、女学校の門衛をしていたとも伝えられるが、おそらく職業も転々としたのではないだろうか。それでも、妻帯(高木時尾)をし、3人の子があったということは確かであるが、庇護を受けた山岡鉄太郎の没後は、彼を理解する人もなく寂しい晩年であったという」(「新選組隊士列伝」新人物往来社)没年は大正4年(享年71歳)で、妻の時尾は大正14年(享年75歳)にそれぞれ死去し、福島県会津若松市七日町駅前にある阿弥陀寺に2人の墓がある。(9月28日)

2021年9月26日 (日)

洞爺丸事故

2091     昭和29年9月26日、青函連絡船洞爺丸(3898トン)は乗客・乗員1314人を乗せて函館港を定刻(14時40分)の4時間遅れの18時39分で就航した。船長の近藤平市は18時頃から風雨が弱くなり晴れ間が見えてきたのを台風の目と判断したのだ。ところが、これは実は閉塞前線のいたずらであった。本当の台風15号の中心は、その時、函館西方の日本海上にあった。結果的に、洞爺丸船長の判断は間違っていたことになる。当時こうした判断はすべて船長一人の決断にゆだねられていたのである。

   同じ頃、青森発16時30分の羊蹄丸の船長の佐藤昌亮は出航を見送る判断をした。「なぜ船を出さぬ」「優柔不断で日和見だ」という乗客たちからの罵声に耐えに耐え、台風と闘った。その羊蹄丸は、洞爺丸が沈没した翌朝、青森からの再開第一便としてうそのように穏やかに函館湾に入ってきた。

    近藤船長は海難で殉職され、洞爺丸沈没の本当の真相ともいうべき船長の行動や心理状態については、まったく不明である。羊蹄丸船長だった佐藤昌亮は、間もなく宇高航路へ転じ、国鉄を定年退職後は海難審判の補佐人(刑事裁判の弁護人にあたる)をつとめた。

   死者行方不明者1155人。わが国最悪の海難事故を契機に青函トンネル計画が具体化された。昭和63年9月19日で青函連絡船は、明治41年3月開業以来80年の歴史を閉じた。

2021年9月24日 (金)

マホメットとヒジュラ

Muhammadarrivalmedina     622年のこの日、ムハンマド(マホメット)はメッカ北方のオアシス都市ヤスリブに逃れた。のちにイスラム教の信者たちはこれを「ヒジュラ(聖遷)」と呼び、ヤスリブをメディナ(「預言者の町」の意)と改め、この年をヒジュラ暦の紀元元年とする。(ちなみに同622年は聖徳太子の没年でもある)その日はラビーウルアウワル12日だったとの伝承がある。

   マホメットはイスラーム教を創始して、これまでの預言者という役割に加えて、政治家・軍司令官となってイスラーム世界を築いた。歴史家アンリ・ピレンヌは「マホメットなくしてカール大帝なし」といった。(Muhammad,Hijra,9月24日,7月16日)

2021年9月23日 (木)

万年筆の日

   万年筆はイギリスで19世紀の初めころから使われていた。1809年のこの日、イギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが金属製の軸内にインクを貯蔵できる筆記具、今日の万年筆を考案し、特許をとった。のち1883年、アメリカのルイス・エドソン・ウォーターマン(1837-1901)が万年筆の実用化に成功した。鉛筆は1565年にスイスのコンラート・ゲスナーが自家製鉛筆を使用していた。1858年アメリカの画家ハイマン・リップマンが消しゴム付き鉛筆の特許を取得した。シャープペンシルの原理は1822年にイギリスのホーキンスとモータンによって考案されたが、1917年にアメリカのチャールズ・キーラン(1883-1948)がエバーシャープという実用的な筆記具を販売した。ボールペンは1943年、ハンガリーの新聞校正係だったラディスラオ・ビロ(1900-1985)が考案した。(9月23日)

 

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      ウォーターマン                   ラディスラオ・ビロ

2021年9月22日 (水)

近代社会事業の父・石井十次

Img_0005   1887年のこの日、石井十次(1865-1914) が日本初の孤児院「孤児教育会」を岡山に創設した。1887年4月、石井は医学研修のため岡山県邑久郡阿知村(現岡山市上阿知)の太田診療所で医師の代診をしていた。ある日、夫が亡くなり生活に困っていた旅の母親に同情して、その男児を引き取った。これがきっかけとなり、他の生活困窮者の子供も預かり、三友寺に孤児教育会(岡山孤児院と改名)を開いた。石井は自分の医学書に石油を注いで焼き捨て、「人は2人の主に兼事ふること能はず」(マタイ伝6・24)との聖書の教えに従って、孤児救済事業に専念することにした。明治39年には孤児は1200人にも達するようになった。(9月22日) 参考:『石井十次の生涯と思想』 柴田善守 春秋社

2021年9月21日 (火)

ショーペンハウエル忌日

Schopenhauer    ドイツ厭世主義の哲学者ショーペンハウエルは1860年9月21日、フランクフルトで死去した。享年72歳。彼の風貌は、背は普通。骨格頑丈、胸広く、輝く青い瞳、薄赤いちちじれた髪、整った鼻、長く広い口、音声強大、手は細く敏活。好男子とはいえなかったが、人を惹きつける魅力があった。オシャレで、人前に出るときはいつも盛装だった。妻子もなく、同胞もなく、1人の友もいない。晩年は愛犬のアートマンが唯一の話相手だった。夕暮れになると愛犬を連れて散歩をする。歩き方は若々しくて速い。太い竹のステッキを持ち、葉巻を吸う。午後8時頃にレストランで夕食。冷肉と赤ワイン。帰宅後、キセルで煙草を一服。英独仏の新聞を読む。音楽は好きでベートーベンを聴く。就寝前にウパ二シャッドを読む。部屋には純金の釈迦像がある。ショーペンハウエルはキリスト教よりも、ウパニシャッドや仏教を哲学に取り入れようとしていた。(Schopenheuer)

2021年9月20日 (月)

サラミスの海戦とテミストクレス

Boatwar1    紀元前480年のこの日、サラミスの海戦でアテネは大勝利をおさめた。ペルシアのクセルクセス王の大軍を目前にして、アテネではテミストクレスの建策により、北に逃げるとみせて狭い海峡に入った。これを追ったペルシアの大艦隊は、操船技術に優れ機動力を発揮するギリシア海軍にかき乱され、狭い海峡の中で互いに衝突しあい惨敗を喫したのである。

    アテネの名門の子供たちが学ぶ校庭での話。みんなが楽しく詩や音楽の話をしていたが、テミストクレスという少年だけは、大志を抱き政治の演説をするのであった。「自分はリュラ(琴)の調子を合わせたり、プサルテリオンを弾いたりすることには疎いが、名もない小さな国を引き受けて、大国に仕上げることは心得ている」と言った。この少年こそ、サラミスの海戦でペルシア艦隊を破った古代ギリシアのアテネの政治家テミストクレス(前528?-前462?)である。しかし、彼の晩年は不遇で、前470年、陶片追放(オストラキスモス)により失脚し、ペルシアに逃れた。牡牛の血を飲んで自殺とも伝えられる。(Salamis,Themistokies、9月20日)

2021年9月19日 (日)

子規忌

Photo_6 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

 

   正岡子規(1867-1902)は慶応3年9月17日に伊予国温泉郡藤原新町で生まれた。ただしこれは旧暦で新暦では10月14日となる。父は松山藩御馬廻加番正岡隼太で、名は常規(つねのり)、幼名は処之助(ところのすけ)でのちに升(のぼる)と改めた。明治35年9月19日、わずか35歳で東京根岸に生涯を閉じた。死の2日前まで「病牀六尺」を書き続け、その前日、「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をととひの糸瓜の水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の三句を絶筆として残した。墓は田端の大龍寺にある。獺祭書屋主人と号した。子規忌を獺祭忌ともいう。獺祭(だっさい)とは「かわうそまつり」。①かわうそが自分の捕らえた魚を四方に陳列すること。②作詩文に数多の参考書を座右に広げること。詩文を作るのに多くの故事を引くこと。つまり、獺祭書屋主人とは、書斎で学者が周囲に参考書を積み重ねることに由来するのであろうか。

 

 夏嵐机上の白紙飛び尽す

 

 雀より鶯多き根岸かな

2021年9月17日 (金)

牧水忌

F0048182_13553372    本日は 「白鳥(しらとり)は哀しからずや 空の青海のあをにも染まずただよふ」(第一歌集「海の声」)などの歌で知られる若山牧水(1885-1928)1928年の忌日。43歳。牧水は宮崎県東臼杵郡郷村字坪谷に医師若山立蔵の長男として生まれた。有名な「白鳥は」の歌の初出(明治40年12月号「新潮」)は「白鳥(はくてう)は哀しからずや海の青そらのあをにも染まずただよふ」だった。そして第三歌集「別離」では「女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ。われその傍らにありて夜も昼も絶えず歌ふ」という詞書がある。この歌は「波間に漂っている白いかもめ鳥はかなしくはないのか。空も青、海も青、そのまっさおな色にまぎれることなく漂っている姿をみると、何ともいいようのない悲しさがわたしの胸にあふれてくることだ」という通釈であるが、制作状況から判断して園田小枝子への恋愛の哀歓がモチーフになっていると考えてさしつかえないだろう。小枝子という女性は「牧水よりも一つ年上である。生まれたのは瀬戸内海のある海岸町、まことに不思議な両親をもち、まだ何もわからぬ幼女時代に既に幾回となくその戸籍が転々としているような数奇な運命の下に成人した。そして16、17歳ぐらいで結婚し、二人の子供さえもっていたが、胸を病み、家を離れて須磨の療養所に入った経験があった。彼女はそれから家庭にかえらず、明治40年の春あたり東京に出て来たのであるが、彼女は非常に美しかった」(大悟法利雄「若山牧水伝記篇」)とある。園田小枝子の郷里は広島県竹原市忠海と福山市鞆町の二説あるが、幼少期転々としていたのかも知れない。ともかく牧水は24歳のとき、病弱の人妻に恋をし、千葉県安房根本海岸に10日余り滞在し、多くの感傷歌が生まれた。しかしこの恋はうまく行くかず、牧水は大いに悩み5年のちに恋は破局する。

 

小枝子への熱い想いがあらわれた歌

 

「わが小枝子おもひいずればふくみたる酒の匂いのさびしくあるかな」「恋人のうまれしといふ安芸の国の山の夕日を見て海を過ぐ」「山を見よ山に日に照る海を見よ海に日には照るいざ唇を君」「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」

 

(9月17日)

2021年9月16日 (木)

マッチ物語

Mizu01kao    本日は「マッチの日」。「マッチ」の愛称を持つ近藤真彦。「丸刈りで顔が小さくてひろっとしていたので、遠くから見るとマッチ棒みたいだった」ことから、周囲から「マッチ棒」と呼ばれていた。でも本当のミスター・マッチは清水誠である。

    1827年にイギリスの薬剤師ジョン・ウォーカー(1781-1859)が、塩素酸カリウムと硫酸アンチモンを頭薬とする摩擦マッチを考案した。1830年、フランス人化学者シャルル・ソーリアが頭薬に黄リンを用いた黄燐マッチを発明し、急速に普及した。日本のマッチ工業は、清水誠(1846-1899)がフランスで習得した技術により1875年に東京で黄燐マッチを製造したのに始まる。John Walker、9月16日  参考文献:「マッチと清水誠」関崎正夫・米田昭二郎著 金沢大学薬学部 1996年

 

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