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2026年1月25日 (日)

叙任権闘争とカノッサの屈辱

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   1076年2月14日、教皇グレゴリウス7世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した。国王は、王妃、王子と数名の従者を伴い、1076年の暮れ、教皇に謝罪するため、ひそかにブルグンド王国にむかって旅立った。それは異常な寒波がおそった冬だった。国王の一行はブルグンド王国の首都ブザンソンで、護衛の一隊をととのえて、アルプスを越え、おりからグレゴリウスの滞在するカノッサ城外に到着した。ところが、グレゴリウスはなかなかハインリヒに会おうとしなかった。しかしトスカナ女伯マティルダの仲介により、ハインリヒは、三重の城門の第二門のなかに入ることを許された。1077年1月25日から27日までの3日間、かれはただひとり、無帽、はだしで、わずかに粗毛の修道衣をまとったまま、雪の中に立ちつづけ、やっと城門をといてもらうことができた。これが「カノッサの屈辱」とよばれる事件である。ところがカノッサ事件は、これで終わらなかった。

    その後、諸侯を武力で制圧したハインリヒ4世が教皇に軍を差し向け、1084年、ローマを包囲した。グレゴリウス7世は、なんとか追っ手を逃れて脱出したが、翌年、二度とローマに戻ることなく亡くなった。その後も、皇帝と教皇の争は、1122年にウォルムス協約が成立するまで、30年以後も続くものの、ハインリヒとグレゴリウスの闘争は、ハインリヒが勝利をおさめたのである。だが東京大学教授・堀米庸三は次のようにみている。「カノッサ事件は、しばしばいわれるようにハインリヒのグレゴリウスに対する外交的勝利であったのだろうか。短期的な見通しに立てばそういえないこともない。だが、いってみればこれは楯の一面にすぎない。カノッサがたとえ一つの演戯にすぎなかったにせよ、そのような方便に訴えざるをえなかったところにハインリヒの精神的敗北がある。これはハインリッヒが結局、法王をドイツ国内の問題に関し裁定者として認めたことを意味し、1075年12月8日の法王側の要求に屈服したとみるほかないのである」と。(「岩波講座世界歴史10」1970) 歴史事件を皮相的にみるのでなく、多元的、複眼的にみることが必要だ。あなたはカノッサ事件をどうみるでしょうか。(2月14日)

 

 

 

 

2026年1月24日 (土)

ビールの歴史

Fc852665a8481518dfb43de74b3c9b62   職場の同僚や仲間たちが集まって飲み会をするときは「先ずはビール」がお決まりである。ビールは世界中でもっとも親しまれている酒であろう。ビールの起源はメソポタミアや古代エジプトにまでさかのぼる。11世紀後半になるとホップを使った美味しいビールがつくられ、中世ドイツでビールの醸造がさかんになった。ところが品質の悪いものビールが横行するようになり、バイエルン公ウィルヘルム4世が1516年のこの日に「ビールは麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」というビール純粋令が発布され、品質が向上した。1935年1月24日アメリカのクルーガー社が世界初の缶入りビールを発売した。日本人による醸造は、1853年に蘭学者の川本幸民が江戸で醸造実験を行ったのが最初とされる。明治初年から輸入され、中期にはいくつものビール会社ができた。しかし、ひろくビールが飲まれるようになったのは大正期からであり、サラリーマンの時代の到来とともに社交に欠かせない飲み物となった。

ところで最近のキリンやアサヒなどのCMは各社似ていてあまり記憶に残らない。「男は黙ってサッポロビール」三船敏郎が一番インパクトがあった。((4月23日)

2026年1月16日 (金)

鑑真の日本渡来

 唐の高僧、鑑真は日本への渡海を5回にわたり試みたが、悉く失敗した。天宝勝宝6年のこの日、6度目の挑戦で平城京に到着した。(1月16日)

 

 

 

 

禁酒法時代

220px5_prohibition_disposal9 本日は「禁酒の日」。1920年1月16日、アメリカで禁酒法が実施された。(法律が成立したのは、前年の10月28日)正式には、ボルステッド法(国家禁酒法)という。法律の起草者、下院司法委員長アンドリュー・ボルステッドにちなんでつけられた名称である。だがこれによって犯罪組織はかえって跋扈した。オマハのトム・デニスやシカゴのアル・カポネは違法な酒の製造販売で大金を稼いだ。また酒税がなくなったことで政府財源に悪影響を及ぼした。ジョン・F・ケネディの父のように酒の密輸で大きな財源を築いた者もいる。ジャズやダンス、映画が流行った。女性の服装も大きく変化した。コルセットをしなくなり、ブラジャーやストッキングなどが普及した。また女性は安価な既製服を買うようになった。14年間もの間、飲酒が禁止されたのだが、実際には法律発効以前に買いためておいた酒は、取り締まりの対象にならないというザル法であった。1932年の大統領選挙では禁酒法が争点となり、フランクリン・ルーズヴェルトが禁酒法の廃止を訴えて勝利し、1933年12月5日廃止された。(Volstead Act,prohibition)

2026年1月14日 (水)

愛と希望と勇気の日

 1959年のこの日、南極観測船「宗谷」が昭和基地に着き、3年前に置き去りにした15頭の樺太犬のうちのタロとジロを発見。タロは日本に生還し衝撃と感動をもたらした。生きることの希望と愛することを忘れないためにその後この日が制定された。(1月14日)

 

 

2026年1月12日 (月)

絵島生島事件(1714年)

Photo_10  正徳4年1月12日、家継の生母月光院の代参として年寄の絵島が増上寺の家宣の廟に詣でたが、その帰りに木挽町の山村座の芝居を見物して主役の生島新五郎らと遊興したことが露見し、大奥の門限に遅れ、いわゆる「絵島事件」にまで発展した。生島新五郎は当時人気絶頂の歌舞伎役者だった。生島は三宅島に流れされた。三宅島は東京から南南西175km伊豆諸島のほぼ中央で、大島、八丈島についで三番目に大きい島である。事代主命が渡島し、付近の島々を治めたという伝説があり、12の延喜式内社があることから宮家島といったのが島名の起源という。また8世紀に多治比直人三宅麿が流されたことによるとの説もある。源為朝の居住跡、竹内式部の墓などもある。江戸時代は流刑地で生島新五郎は正徳4年(1714)から寛保2年(1742)まで28年間、この島に流された。

    絵島は正徳4年3月5日、信濃高遠(現・長野県伊那市)へ三宅島へ流され、そのほか処罰者は大奥・御用商人・歌舞伎界に及んで1500人にものぼった。28年間、囲屋敷幽閉の末、病に倒れた絵島は生島の名を呼びつづけて、その生涯を終わった。寛保2年2月、生島は徳川吉宗により赦免され、江戸に戻ったが翌年、小網町で没した。舟橋聖一の新聞小説「絵島生島」(東京新聞昭和28年9月~29年11月)を原作に淡島千景、市川海老蔵(11代目市川團十郎)主演で「絵島生島」(大庭秀雄監督、昭和30年)が映画化されている。近年では「大奥」(2006年)で仲間由紀恵、西島秀俊が演じる。

 

 

2026年1月11日 (日)

敵に塩を送る

   永禄12年(1569年)のこの日(新暦1月27日)、上杉謙信が、塩不足に悩む交戦中の武田信玄に塩を送ったとされる。この故事にちなみ本日を「塩の日」としている。甲斐の国は、海に面していないので、塩を作ることができなかった。塩は交易によって他国から購入するしかなかった。そこで今川氏真と北条氏康は共謀して甲斐への塩の輸送を断つ「塩留(しおどめ)」を行った。これを聞いた上杉謙信は今川・北条の行為は卑怯だとして、宿敵信玄に義塩を送ったという。この話は、江戸時代の学者、頼山陽によって有名となった「敵に塩を送る」だが、実際に行われたかどうかは定かではない。塩留は現在の経済制裁によく似ている。(1月11日)

 

 

2026年1月 4日 (日)

夫の生還を祈る女医の日記

    相馬翠(1911-2003)は医学校を卒業し、将来は女医をめざしていた。昭和9年、泉正雄と結婚し、神奈川県二宮町に住んだ。昭和19年に夫は出征し、その後、シベリアで抑留生活を送る。昭和22年1月4日、樺太からの引揚者1013人を乗せた間宮丸が函館港に入港。ソ連からも2500余人が舞鶴に入港するという知らせがあった。

 昭和22年1月5日「第ニ船が明後7日に入港する」と、今ラジオが言いました。これに乗っていて下さいますように、そしたら半ばごろには帰宅できますものね。ナホトカに残っていたら大変だと心配する。零下60度とか。ペチカが焚けないとか聞いたが、生きていられなくなりはしないかと限りなく心配になる。どうかお元気であって下さい。妻子母が待っていますよ。

   夫の泉正雄はこの年の5月に無事に帰国し、のち知足寺の住職となる。神奈川県二宮の浄土宗知足寺は、正式名・塩海山花月院知足寺といい、曽我兄弟の墓で知られる(ただし曽我兄弟の墓の所在地は全国に14ヵ所あるという)。この墓は当時の浩宮殿下も参詣したこともある。(参考;「戦場は星空の彼方に 夫の生還を祈る女医の日記」 相馬翠 毎日新聞出版 1980)

2025年12月29日 (月)

シャンソンの日

5969788  本日はシャンソンの日。1990年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した。

    日本にシャンソンが紹介されたのは、昭和2年11月15日に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー「モン・パリ」を初演したときで、以後「パリゼット」「花詩集」などの主題歌として歌われた。そして無声映画時代「巴里の屋根の下」「巴里祭」など映画主題歌のシャンソンも流行した。またダミアの「暗い日曜日」「人の気も知らないで」が淡谷のり子の歌謡でヒットした。戦後、昭和30年にイベット・ジローが来日して、シャンソン・ブームが起った。そしてエディット・ピアフ、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソアの歌がラジオから流れた。銀座にはシャンソン喫茶「銀巴里」が出現、石井好子や越路吹雪らが活躍した。岩谷時子による訳詩もシャンソンの大衆化に貢献した。ジュリエット・グレコ、シャルル・アズナブール、エンリコ・マシアス、サルバトーレ・アダモら若手も登場した。なかでもアダモは「サン・トワ・マミー」「雪が降る」など日本で最も愛されたシャンソン歌手といえる。シャンソン歌手にはフランスだけでなく他国出身者も多い。イブ・モンタン、アダモはイタリア生れ。エンリコ・マシアスはアルジェリア生れのユダヤ人。エディット・ピアフの「愛の讃歌」。愛をテーマにした曲は数々あるが、このシャンソンほど力強く、感動的な歌がほかにあるだろうか。歌心りえが「日韓歌王戦」で注目され50歳にしてブレイクしたが、今年の紅白歌合戦にはシャンソン歌手から一人も選ばれていないのは残念だ。(12月29日)

 

 

 

 

2025年12月28日 (日)

八百屋お七悲恋物語

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  お七の墓 円乗寺(文京区)

 

    八百屋お七(1668‐1683)。「天和笑委集」によると、江戸本郷追分の森川宿で商いを張る八百屋市左衛門は、もと駿河国富士郡の農民で、その末娘のお七は数え16歳の器量よしだった。天和元年12月28日、駒込大円寺から発した大火で一家は焼け出され、菩提寺の駒込正仙院に難を逃れた。この寺に生田庄之介という小姓がいた。数え17歳の美少年だった。お七と相思相愛の仲となった。そのうちに森川宿の新宅が仕上がり、一家は寺を出ることになったが、お七の恋心はいよいよ燃え上がり、ついには再び焼け出されれば、また寺に戻って庄之介に会えると思い込み、近所の商家に火を放った。しかし、すぐ見つかって放火はボヤで終わり、お七は奉行所に引き出される身となった。

    講釈師の馬場文耕による宝暦7年(1757)の「近世江都著聞集」の説によれば、お七の父親はもと前田家の足場だった山瀬三郎兵衛で、寛文年間に浪人して駒込追分願行寺門前で武家相手の八百屋を開業、八百屋太郎兵衛と名乗る。一家が焼け出されたのは天和元年2月に丸山本妙寺から起きた大火のためで、太郎兵衛の弟が住職をしていた小石川円乗寺に避難、お七はそこで山田左兵衛という修行中の美少年に出会い、恋におちる。お七に放火をそそのかしたのは、近くの吉祥寺の門番の子で、吉三郎という無頼漢。ボヤ騒ぎにまぎれて盗みをはたらこうとした吉三郎が捕らえられ、その自供からお七も縄を打たれた。調べに当たった改役、中山勘解由はお七のあまりの若さに驚き、15歳以下ならば、死罪を免れるという法もあることとて、お七を助けてやろうと考えた。「おまえはまだ十五であろう」「いえ、十六にございます」お七は正直に答えてしまい、死罪が決まった。

 

Ositi_daienji    お七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火刑に処せられた。庄之介は高野山に上り出家したという。庄之介は吉三郎という説もある。吉三郎は大円寺(目黒行人坂)の西運上人だったことが最近判明している。大円寺阿弥陀堂にはお七地蔵尊と西運上人の木像が祀られている。上画像はお地蔵尊。(参考:大島幸夫「伝説の女たち」)

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