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2017年6月28日 (水)

パフェの日

175171_kmc4svpiynm6lz4ht8teascwh   パフェとはアイスクリームに生クリーム、フルーツ、シロップ、チョコレートなどを添えたデザート。語源はフランス語で「完璧」を意味するパフェ(parfait)からきている。昭和25年のこの日、巨人の藤本英雄(1918-1997)が日本プロ野球史上初のパーフェクトゲームを達成したことにちなんで6月28日を「パフェの日」に制定したという。こじつけ記念日の代表例。アメリカではサンデー Sundaeという。1881年ウィスコンシン州のエド・バーナーズ(1863-1939)が創案した。日曜日は安息日で質素な Sunday を売り出したところ大評判。しかしキリスト教徒からの反発もあって、つづりをSundae と変更したという。(Ed Berners)

2017年6月24日 (土)

石上宅嗣忌日

62839f65290b6786adaf0293e9288bd2    781年この日、石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)の忌日。761年、奈良県山辺の邸宅にわが国最初といわれる公開図書館「芸亭(うんてい)」を開設した。しかし宅嗣の没後、都が長岡京へ遷都されたために芸亭は消滅したらしい。宅嗣は淡海三船と並び称される漢詩文の文人で、その詩は「経国集」に収められている。なお芸亭の所在地については、古来多くの学者によって研究されてきたが、現在では奈良市立一条高校付近(奈良市法華寺町1351番地)だと考えられる。その根拠となったのは、林宗甫が天和元年に著した「和州旧跡幽考巻4」に阿閦(あしゅく)寺の跡地が記されており、そうしたことから、法華寺の南東方面である一条高校の近くと推定したものである。(6月24日)

2017年6月19日 (月)

桜桃忌

Img_2308_5289321_0    本日は太宰治の命日。東京都三鷹市の禅林寺で供養が行われる。太宰が東京・玉川上水に入水自殺し、遺体が上がったのが誕生日でもあるこの日。桜桃が熟するころで、太宰の晩年の作品で好評だった「桜桃」から桜桃忌と呼ばれる。

   太宰治の叔母の言ふ。「お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、行ひだけでもよくなさい」

   芥川賞候補の太宰に対して、選考委員だった川端康成は選評の中で太宰の生活態度を「生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる・・・」と批判した。それに激怒した太宰は「小鳥を飼い、舞踏を観るのがそんなに立派な生活なのか」と反論した。

   志賀直哉はある座談会で太宰を「僕は嫌いだ。あのポーズが好きになれない」と評した。これに対して、太宰も志賀を「薄化粧したスポーツマン」などと罵倒した。この対立の背景には、太宰の志賀に対する畏敬とコンプレックスがあったのかも知れない。(6月19日)

2017年6月18日 (日)

イギリスとスペインとの同盟

Aragon    イギリス(イングランド)では、ばら戦争終結後成立したテューダー朝のもとで中央集権化が進められ絶対王政が成立した。イギリス王ヘンリー7世の長男で王位継承者のアーサーは、1489年のメディナ・デル・カンポ条約によって、スペイン王フェルディナンドと女王イサベルの娘であるアラゴン王家出身のキャサリン(画像)と婚約した。この条約はたびたび更新された末に、1497年6月18日にヘンリー7世の手で裁可された。アーサーはまだ11歳で、キャサリンは1歳年上にすぎなかった。スペインとの同盟は明らかに、当時におけるヘンリー7世の外交政策のうえで重要な位置を占めていたのである。1501年に2人が結婚して5か月後、アーサーが死んだ。そこで、キャサリンはアーサーの弟のヘンリーと婚約させられた。この結婚は血族との理由で許されないはずだったから、教皇の特赦を得たに違いない。のちにキャサリンとの離婚問題からイギリス国教会が成立する。その後キャサリンは囚人扱いを受けても離婚を認めず、あくまで王妃としての毅然たる態度でイギリスにとどまり、信仰篤い修道生活に明け暮れた。(Catherine of Aragon)

2017年6月15日 (木)

フランクリンと功利主義

Benjaminfranklin   「もし自分の好きなようにしてよいといわれたら、もう一度これと同じ生涯を最初からくりかえすことにまったく異存はない」(フランクリン自伝)

   福沢諭吉も「福翁自伝」で「私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快なことばかりである」といった。洋の東西を問わず、傑出した人間は自分の生涯をこのように肯定する。(中公クラシックス)

   1752年のこの日、ベンジャミン・フランクリンは、雷雨の中で凧を揚げ、雷が電気であることを証明した。印刷工から身をおこし、ジャーナリスト・科学者となった。政界に入って優れた外交官になると、独立と建国の基本的な4文書である独立宣言・米仏同盟条約・パリ条約・合衆国憲法の作成に重要な役割をはたした。彼のつくった『貧しいリチャードの暦』は「台所が太れば意志がやせる」などのピューリタン的な格言に満ちている。彼は人間完成に努力するとともに自己の経済的基盤を固め、その後に地域社会の改良に努めた。熱の伝導の研究から、暖炉にかわるストーブ、二重焦点眼鏡などを発明、そして電気の研究から避雷針を考案した。人生の目的は幸福であり、幸福の構成要素は健康・富・知恵であるとし、いかに役立つかによってすべての価値を評価した彼は、典型的なアメリカ人とよばれた。(Benjamin Franklin、6月15日)

2017年6月14日 (水)

カービン銃事件とアプレゲール犯罪

    アプレゲールとは戦後派を意味するフランス語。(アプレとは「後に」、「ゲール」は戦争)日本では第二次世界大戦後、既存の道徳観を欠いた無軌道な若者により犯罪が頻発し、彼らが起こした犯罪を「アプレゲール犯罪」と呼んだ。昭和29年6月14日、元保安庁職員の大津健一がカービン銃で仲間3人とギャングを働き、小切手2000万円を強奪した。その後仲間割れを起こして、郷里の大分・湯平温泉へ愛人の中田みさおと逃亡。住吉旅館にいるところを逮捕されたが、東京に護送された際、東京駅に5000人の野次馬がでたというほど、当時、社会の関心の高い事件だった。大津は死刑判決を受けたが高裁で無期に減刑され、昭和53年に釈放されて「赤いルージュと機関銃」という本を出版している。昭和29年、天知茂主演「恐怖のカービン銃」というタイトルで映画化された。

2017年6月13日 (火)

謎の中村長兵衛

Photo  1582年のこの日、山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を破る。光秀は敗走中に一人の雑兵に刺殺される。享年55歳。雑兵の名は中村長兵衛という。歴史を大きく変えた人物でありながら、彼がその後どのような人生を送ったのか、本当に実在したのか、詳しいことは何も分からない。(6月13日)

2017年6月12日 (月)

エスペラントの日

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    ポーランドの眼科医ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ(1859-1917)によって1887年に考案された国際語「エスペラント」という名は「希望をもつ者」という意味である。ザメンホフは聖書や多くの文学作品をエスペラントに訳し、1905年には「エスペラント語の基礎」を出版して、その言語の構造の原理を示した。エスペラントの使用人口は確定されないが、母語話者200人から2000人、第二言語話者100万人から200万人と推定される。戦前は日本でもエスペラントを学習する人がいた。宮沢賢治の「イーハトーブ」(岩手をもじった理想郷を意味する造語)はエスペラント風の言葉であり、宮沢は世界の人に解ってもらえるようにエスペラント語を勉強しようとしていた。また安部公房の父・安部浅吉は満州で医業のかたわら「奉天エスペラント会」の中心人物として活動していた。しかし近年、エスペラント運動はあまりマスコミでも取り上げられることはない。欧米においてもエスペラント運動は停滞ないしは衰退しているそうだ。インターネットの普及でエスペラントの用途が増える可能性もあるのでエスペラントにこれからも注目していきたい。( keyword;Lazarus Ludwik Zamenhof,Esperanto ) 6月12日

2017年6月10日 (土)

時の記念日

June02_m10     671年のこの日、天智天皇のとき「漏刻を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す」(日本書紀)とある。漏刻とは水時計のこと。

「時計」という言葉は世界各国でまちまちで共通点が見当たらない。(6月10日)

英語 clock  クロック

ドイツ語 Uhr ウーア

フランス語 pendule パンデュール

イタリア語 orologio  オロロージョ

スペイン語 reloj   レロー

ギリシア語  ホーロロギオン

ロシア語  スチイー

スウェーデン語 klocka  クロッカ

フィンランド語 kello  ケッロ

韓国語 シゲ

2017年6月 9日 (金)

軽井沢心中(有島武郎の情死)

Hatanoakiko   有島武郎忌日。45歳。「殊に婦人が愛なき結婚関係によって自己の物質生活の安固を得るが如きは、何と考へても一種の奴隷的売淫生活であり、野蛮時代の売買結婚の遺風に過ぎない。又たとひ一夜の契と雖も、そこに恋愛が存在して居たならば、それは確かに一種の結婚であって売淫ではない」(有島武郎)

   大正12年7月12日の各新聞の見出し「有島武郎、美人記者と情死」を見たものは、誰もどんなに驚いたことか。人道主義、博愛主義的な作風で大正文壇の中心的存在であった有島は、妻の安子(旧姓名、神尾安子)に先立たれ、三人の子供をかかえ、当時45歳の独身だった。波多野秋子は、18歳で波多野春房と結婚し、大正7年に高島米峰の紹介で中央公論社に入社、以来「婦人公論」の記者として活躍し、当時30歳だった。有島武郎と波多野秋子が知り合いになったのは、事件の1年ほど前のことで、それ以来、二人はおたがいに深くひきつけられ、愛し合うようになった。波多野春房は、有島に対し、「秋子をここまで育てあげたのだから、ただでは渡せない、1万円よこせ」という意味の脅迫をした。有島にこの不純な言葉がのみ込めるわけがない。有島は妻を病死させていたが、その傷心を癒すため妻の入院していた病院の患者すべてに花束を贈ったという人だ。愛情を金銭にかえることをできるわけがない。その翌日(6月9日)、軽井沢の別荘で二人は縊死した。

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