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2012年5月26日 (土)

「古文の読解」小西甚一

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    小西甚一先生(1915-2007)の命日。先生とお呼びしたが、ケペルは直接の生徒ではなく、ラジオ講座や受験用参考書を通してお世話になったにすぎない。小西先生のユーモアたっぷりのわかりよい文章は受験生に人気があった。画像のように表紙に大きく先生の写真を掲載していることもからその人気のほどが知れるであろう。大正4年、三重県宇治山田市船江町に生れる。父の小西甚吉は伊勢水産株式会社の人で、のち専務取締役になるほどの人物。石炭商としても成功したらしい。宇治山田の市会議員、商工会議所議員。宇治山田市の立志伝中の一人。長男である甚一は秀才の誉れ高く、昭和15年東京文理科大国文科を卒業後も研究を続け、若くして「文鏡秘府論考」で学士院賞を受賞する。昭和32年から33年、スタンフォード大学に客員教授として招かれた。晩年も「日本文藝史」を完成させ、まことに立派な学者人生であった。ともかく小西甚一先生のおかげで無味簡素な国文学が少しは興味がもてるようになった。古文に親しむようになるのは高校時代よりも、むしろ50歳を過ぎてからもう一度読み直すのがよいように思う。

2012年5月23日 (水)

世界亀の日

Tortuga    本日は「亀について知り、亀に敬意を払い、亀の生存と繁栄のために人間の手助けをする日」だそうだ。

    アメリカでは亀を全部、turtle と呼ぶが、陸生のものを tortoise とも言う。イギリスでは turtle はおもに海水産のもので、陸生・淡水産の亀を通例 tortoise と言う。

  陸亀のことをフランス語、ドイツ語、スペイン語では、それぞれ、tortue(トルテュ)、Schildkrote(シルトクレーテ)、tortuga(トルトゥーガ)、海亀のことは、フランス語tortue marine(トルテュ・マリヌ)、ドイツ語Meeress childkrote(メーレスシルトクレーテ)、スペイン語 carey  (カレイ) もしくは tortuga marina(トルトゥーガ・マリーナ)と言う。

   名前に「亀」の漢字がつく有名人たち。亀山天皇、亀井南冥、亀井勝一郎、亀倉雄策(デザイナー)、亀井静香(政治家)、亀田興毅(ボクサー)、亀梨和也(ジャニーズ)、亀井義行(野球)。アトピー治療でモーニング娘を退団した亀井絵里は元気にしているだろうか。

2012年5月20日 (日)

田中館愛橘

Photo_3   本日は「ローマ字の日」。ローマ字国字論を唱えた田中館愛橘の命日に因む(本当は21日が命日)。田中館愛橘(1856-1952)は、安政3年9月、陸奥国二戸郡福岡町(現:岩手県二戸市)に生れた。明治5年に盛岡の照井小作塾に入り、その後、慶応英語学校などを経て、明治11年に東京大学理学部に入学してメンデンホール、ユーイングの指導をうける。明治13年にはメンデンホールに従って東京と富士山頂の重力測定を行ない、その後、明治20年まで日本各地や朝鮮半島で重力測定を実施していった。明治21年にイギリスに渡ってグラスゴー大学で学び、さらに明治23年にはベルリン大学に移って研究を重ね、明治24年に帰国した。

    帰国後、帝国大学教授となったが、その年の10月28日早朝に濃尾大地震が発生した。この地震の被害は建物被害全壊14万2千戸、半壊1万8千戸、死者7,273人に達した。現地には田中館をはじめ、大森房吉(1868-1923)、今村明恒(1870-1948)、小藤文次郎(1856-1935)、長岡半太郎(1865-1950)、巨智部忠承(1854-1944)、そしてミルンらが調査にあたった。田中館はこの地震に際して地磁気観測で根尾谷断層を発見して、その後の地震研究に貢献した。明治25年には、震災予防調査会委員となって、地磁気観測を行ない、明治27年に万国測地学協会委員となり世界各国の国際会議に多数出席し、重力、地磁気、地震などわが国の地球電磁気学の発展に貢献した。

2012年5月19日 (土)

黒板を背にして

Photo   「自分の生涯はその前半は、黒板を前にして座した。その後半は、黒板を後にして立った。けっきょく、黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記はつきるのだ」

   満60歳になって、京都大学退職のおり西田幾多郎(1870-1945)はこう語った。

西田幾多郎は、明治3年5月19日、石川県かほく市(河北郡宇ノ気村字森)に西田得登の長男として生まれた。石川県専門学校で、数学の北条時敬(1858-1929)という先生と出会う。北条から数学者になるように勧められるが、哲学を志した。

 一事を考へ終らざれば他事に移らず。

 一書を読了せざれば他書をとらず。

   西田青年の学問への強い決意が、日記に記されている。

2012年5月15日 (火)

カロザース謎の自殺

W_h_carothers390291402   本日は「ストッキングの日」。1940年5月15日、デュポン社がナイロンストッキングを全米で発売したことにちなむ。「戦後、強くなったのは靴下と女性」という言葉が日本で流行したのは昭和29年のことである。靴下が丈夫になったのはナイロン製ストッキングが製造されたからだ。それ以前の絹のストッキングは、しなやかな肌ざわりと美しい光沢をもつ半面、繊維としては弱いものだった。1935年アメリカの科学者ウォーレス・ヒューム・カロザース(1896-1937)はナイロンの発明に成功した。1938年、デュポン社は「クモの糸よりも細く鋼鉄よりも強い繊維」というキャッチフレーズでナイロンを発売した。「ナイロン」(nylon)という名前は「伝線しない(No run)という言葉をもじって付けられたという説がある。発明者のカロザースは会社から「生涯、どこへ旅行しても、どんな高級レストランやバーで飲食しようが、費用は一切会社が支払う」という高待遇をうけた。にもかかわらずカロザースは41歳で青酸カリを飲んで自殺してしまった。人間とはわからないものである。

( keyword;Wallace Hume Carothers )

2012年5月14日 (月)

種痘記念日

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Edward Jenner was a doctor who invented the vaccination for Smallpox.

エドワード・ジェンナーは天然痘の予防接種を発見した医者だ。

    5月14日はイギリスの外科医エドワード・ジェンナー(1749-1823)が種痘の接種に成功した日である。彼は乳絞りの女性から牛痘にかかると天然痘には罹らないことを聞いた。そこで、牛痘にかかった乳絞りの女性サラ・ネルムズの手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児フィッブス(1788-1823)の腕に接種した。10日後に発症したがすぐに治癒し、その後天然痘を接種しても感染しなかった。ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行なった。(Edward Jenner,James Phipps,Sarah Nelmes)

2012年5月11日 (金)

浜松第一中学校大福餅事件

Img567a3fdezik6zj    昭和11年5月10日、浜松第一中学校の運動会で配られた紅白の大福餅を食べた生徒・家族を中心に患者2244人、死者44人の犠牲者がでる食中毒が発生した。原因はサルモネラ菌の中でも毒性の強いゲルトネル菌。ドブネズミが媒介となった。翌年には受難者慰霊のため慰霊碑が建立された。現在、浜松北高校の校庭にある。

2012年5月 7日 (月)

庶民の食文化「粉もん」

20110130160422   今日は「コナモンの日」。日本コナモン協会(熊谷真菜会長)が2003年に制定。五(こ)七(な)で「こな(粉)」の語呂合せ。たこ焼、お好み焼、うどん、そば、パン、パスタ、餃子、肉まんなど「粉もん」は庶民の味方だ。

2012年5月 2日 (水)

鉛筆の日

Img_938382_13450244_2    1886年のこの日、真崎仁六(1848-1925)が東京四谷で鉛筆工場を創設、国産鉛筆の製造を始めた。その頃の鉛筆は「はさみ鉛筆」といわれるもので、芯を溝にはさんだようなものだった。

鉛筆の「H」「B」は何を意味するのか。「H」はハードの略で、硬い芯を表わす。Hから9Hまであって、数字が大きくなるほど硬い。

Bはブラックの略で、柔らかい芯を表わす。Bから8Bまであって数字が大きくなるほど濃い黒色となる。

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 (参考:畑中忠雄「科学・今日は何の日」2002)

2012年4月26日 (木)

暁斎忌

04kyosai20001   幕末明治に活躍した浮世絵師、河鍋暁斎(1831-1889)の命日。忘れられた絵師であったが、近年テレビ番組「お宝鑑定団」などで一般に知られるようになった。埼玉県蕨市に河鍋暁斎記念館がある。

    安政大地震の直後から江戸で鯰絵が流行した。当時は地底に潜んで地震を起こす大ナマズを、鹿島大明神が要石で動かないように押さえつけているという信仰があった。しかし、安政大地震の発生した10月は神無月であったから、この間に大ナマズが暴れ出し、地震が起きたといわれた。そのころ25歳の暁斎はまだ狩野派の絵師で洞郁と名乗っていたが、仮名垣魯文と交際して、戯作に初めての挿絵「お老なまづ」を描いたのものこの頃である。