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2017年5月23日 (火)

サヴォナローラ焚殺される

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サヴォナローラの火刑(サン・マルコ美術館)

  ルネサンスの世俗文化が最高潮に達した15世紀末のフィレンツェで神権政治を行ってきたジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)が、1498年のこの日、シニョーリア広場で火刑に処された。背後には、彼の非難を苦々しく思っていたボルジア家の教皇アレクサンデル6世の圧力があるというのだ。サヴォナローラは、22歳のとき突然ドミニコ会修道士となり、30歳のときフィレンツェにやってきた。しかし、彼はそのとき以来、熱烈な説教とフィレンツェ人の堕落した享楽的な生活を批判しつづけていた。悔い改めなければ、フィレンツェは外敵の侵入によって滅ぶであろうと預言していた。人々は、シャルル8世によってこの預言が成就されようとしていると感じ、彼の神権政治を受け入れたのである。しかし、1498年5月23日、4年間の禁欲生活の強制に退屈してきたフィレンツェ市民はサヴォナローラを捕らえて裁判にかけた。その結果、彼は偽預言者として絞首刑ののち改めて火刑に処された。一時はあれほどのフィレンツェ人を感動させたのに、彼の最期を見とどけたのは2、3名にすぎなかったという。(Girolamo Savonarola)

2017年5月22日 (月)

徳川家康忌日

Photo   徳川家康(1542-1616)の人生はまさに「忍」の一文字であった。天文11年12月26日、三河の岡崎城で呱々の声をあげた。信長よりおくれること8年、秀吉からは5年。歳の順序に気がねしたわけではあるまいが、このとおりの序列で後を追い、天下をとった。元和2年4月17日(1616年5月22日)73歳で没した。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。ちなみにシェークスピアは同年4月23日に世を去っている。

    幼名は竹千代、父は松平広忠、母は刈谷城主水野忠政の娘於大。天文16年、三河岡崎城の広忠は、織田信長の猛攻をうけ、今川義元に援けを求めたが、このとき竹千代はわずか6歳で今川氏へ人質に送られることとなった。今川氏の本拠駿府への途中、義理の祖父である渥美郡田原城主戸田康光にだまされて信秀の手中に落ちた。康光がうけとった礼金は永楽銭五百貫とも一千貫ともいう。いずれにせよ家の仇、父の敵へ売りとばされたわけだ。だが、父広忠が信秀の脅迫にのらず毅然たる態度で臨んだのが逆に幸いして、信秀の心を打ち、人質とはいえその扱いは鄭重であった。幼い竹千代は、尾張の万松寺での人質生活のあいだに、14歳の荒くれ信長と知りあった。8歳のとき一度岡崎に戻ることがてきたが、半月ほどで再び今川氏の人質として駿府に移された。今川義元が桶狭間で仆れるまでのことであるから、前後を通じて足かけ13年の人質生活であった。しかし、その生涯をみると、ものごころついてから秀吉の死後に至るまでの50余年間、家康はいつも誰かに頭を押さえられて過ごしている。ひたすらの「忍」であった。誰にでもできることではない。家康には、信長のような鋭利で独創的な才能はない、また秀吉のような奔放・豪快、しかも機略縦横といった華やかさもない。だが、めだたぬ聡明さと組織力とで、打つ手の一石一石は実に着実であった。だからこそ波瀾ふくみの秀吉死後を無事に切り抜けとおし、ついに天下の覇権を掌中にしたのである。常用の印文には天下の匂いも布武の臭みもなく、「福徳」または「忠恕」という、道学先生を思わすような字句であったのも、いかにも家康らしいといえる。(参考:岡本良一「国民の歴史12 天下人」)

徳川家康関係図書

逸史12巻首1巻7冊 中井竹山、浅井吉兵衛等 明治9年

列祖成績20巻20冊 安積澹泊 徳川昭武 明治11-12年

仮名挿入皇朝名臣伝4 中沢寛一郎編 溝口嘉助 明治13年

東照宮実記仰晃雑誌1-9 細谷蕉露編 仰晃社 明治16年

日本百傑伝 第8編 松井広吉編 博文館 明治26年

東照宮御一代記 沼崎重孝 明治28年

徳川家康 本城正琢 公愛社 明治30年

徳川家康公 吐香散人 日吉堂 明治32年

2017年5月21日 (日)

野口英世の言葉

   1928年のこの日、野口英世は黄熱病に感染してガーナで急死した。享年51歳。現在の千円札の肖像にも描かれて、最も国民に親しまれている偉人の1人と言える。野口は1876年11月9日、野口英世は福島県猪苗代町の貧しい農家に生れる。

  志を得ざれば再び此地を踏まず

   これは、1896年、野口英世が大志を抱いて単身上京する折、家の床柱にナイフで刻みつけた19歳の時の言葉である。猪苗代湖畔にある茅葺の粗末な生家には、今でもそのまま残されている。野口の言葉としては他に「努力だ。それが天才だ。だれよりも三倍・四倍・五倍勉強する者、それが天才だ」が有名である。

Photo   貧しい農家に生れた英世は、母が夕食の野菜を採りに畑に出ている間に、囲炉裏にかけていた鍋の熱湯を浴びてやけどを負う。満足な治療もできず、左手の指は癒着してしまったが、苦難を乗り越えて伝染病研究所の助手となる。1900年に渡米し、1911年に梅毒の病原体であるスピロへータを発見し、1913年に麻痺性痴呆と脊髄癆の患者からトレポネーマを発見し、世界第一級の業績を上げた。1916年9月から11月まで日本に帰省し、故郷で大歓迎を受けた。19歳の時、柱に刻んだ志を果たしたのである。(5月21日)

2017年5月20日 (土)

アレクサンドル・ウリヤノフ

Aleksandr_ulyanov   1887年のこの日、アレクサンドル・ウリヤノフ(1866-1887)が絞首刑にされた。ウラジミール・レーニンの4歳年上の兄である。 レーニン17歳のときアレクサンドルは皇帝暗殺未遂事件の犯人として絞首刑にされ、姉のアンナも追放処分になった。レーニンは、このことに強い衝撃をうけ、革命運動に加わったといわれる。兄はサンクトペテルブルク大学で動物学で金メダルを得るほどの秀才だった。(5月20日)

2017年5月19日 (金)

宮本武蔵忌日

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大津街道脇にあった武蔵の墓は平成元年から武蔵塚公園として整備された

    二天一流の創始者で、剣聖と仰がれる宮本武蔵の墓は熊本にある。寛永17年、細川忠利に招かれて来熊。晩年は熊本で過ごした。1年後に忠利に先立たれた後は岩戸観音の霊巌洞にこもる日々が続き、「五輪書」「独行道」などを著し、また画人として水墨画の名品を残した。正保2年5月19日に飽田郡五町手永弓削村(現熊本市龍田弓削1丁目)に葬られた。墓は武蔵塚公園内ある。墓碑には「兵法天下一 新免武蔵居士石塔 正保酉乙年五月十九日」と記されている。武蔵の墓はもう一つある。熊本市島崎町霊寿庵裏の自然石で、碑面に「貞岳玄信居士」とある。その横には、「心月清円信女」という女性の墓石が並んでいる。享年62歳。病名は神経痛と胃癌だった。

2017年5月18日 (木)

阿部定事件

Photo_2     昭和11年というのはニ・ニ六事件が起こった年である。しかし同じ年の5月18日に起きた阿部定事件のほうが国民の関心は遥かに高かった。阿部定が細面の美人と報ぜられ、日本中がその話題でもちきり。大阪駅にいた、横浜に飛んだ、いや広島だ、仙台だと怪情報が錯綜した。阿部定逮捕の様子はこうである。高輪署の安藤部長刑事は管内の旅館をしらみつぶしに調べた。「お定さんだね」女はこっくりうなづいた。もう逃れられないと覚悟して「夜になったら死ぬつもりでした」と語った。「例のものはどうした」と聞くと、定は帯の間から、ハトロン紙包みをとり出し、それを大事そうにみせただけですぐにしまい込んでしまった。

2017年5月14日 (日)

種痘記念日

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Edward Jenner was a doctor who invented the vaccination for Smallpox.

エドワード・ジェンナーは天然痘の予防接種を発見した医者だ。

    5月14日はイギリスの外科医エドワード・ジェンナー(1749-1823)が種痘の接種に成功した日である。彼は乳絞りの女性から牛痘にかかると天然痘には罹らないことを聞いた。そこで、牛痘にかかった乳絞りの女性サラ・ネルムズの手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児フィッブス(1788-1823)の腕に接種した。10日後に発症したがすぐに治癒し、その後天然痘を接種しても感染しなかった。ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行なった。(Edward Jenner,James Phipps,Sarah Nelmes)

2017年5月10日 (水)

シパーヒー決起、インド大反乱

210pxbattle_of_vienna_sipahis    1859年5月10日夕刻、北インドのメーラト駐屯地で、イギリス東インド会社傭兵であるシパーヒー(セポイ)が反乱を起こした。反乱は、この年より配付された新式のエシフィールド銃の使用を拒否し禁固刑となったメーラトの第3軽騎兵連隊の85名のシパーヒー釈放を要求して始まった。新式銃の弾薬筒には、ヒンドゥー教徒の神聖視する牛の脂とムスリムの不浄視する豚の脂とが塗られていた。これを装填時に噛み切るために口にすることは、回教徒とも宗教的禁忌だった。シパーヒーは、1757年6月23日のプラッシーの戦い以来用いられ、反乱直前には23万人にも膨れ上がっていた。そのうち13万人を擁したベンガルのシパーヒーには、アウド王国出身で南カーストの者が多くいたが、賃金や階級は低く、国外出兵を強制されるため不満を抱いていた。反乱軍はその日のうちにデリーに進撃し、翌日には、すでに年金受領者となり名目的存在でしかなかったムガール皇帝ハバードゥル・シャー2世を擁立し、皇帝復権宣言をさせる。この時点から反乱は、ムガル帝国対大英帝国の戦いの様相を呈する。北インドの各地でこれに呼応する反乱が続く。失権の原則により実子のないことで所領を没収されたマラーター王国のペーシュワー(宰相)の子孫ナーナー・サーヒブが6月4日にカーンプルで、また同じくイギリスに併合されていた藩王国ジャーンシーの王妃ラクシュミーバーイーが6日に立ち上がる。30日にはラクナウでも反乱が起こる。イギリスのインド支配そのものに対して不満を抱く、市民や農民にも反乱に参加する者が現れ、反乱は都市から、やがて農村へと広がる。地域的にも北インド全体へと拡大し、あらゆる階層の人々を含む民族的な大反乱となる。(sipahi)

2017年5月 9日 (火)

坂田山心中

128920121702616210692     昭和32年12月4日、伊豆の天城山で、大久保武道と愛新覚羅慧生がピストル自殺を図った。天城山心中として世間の耳目を集め、三ツ矢歌子で映画化された。題名は「天城心中 天国に結ぶ恋」。もともと「天国に結ぶ恋」は昭和7年の坂田山心中を映画化したときの題名だったが、観客動員には効果的だった。

    昭和7年5月9日、神奈川県大磯の海に近い坂田山というところで、若い男女の心中死体が発見された。遺書その他から2人はキリスト教の教会で知り合ったことから、この心中事件を「東京日日新聞」は「天国に結ぶ恋」と称して報道した。坂田山心中というよりは、そのほうがロマンチックだった。「今宵名残の三日月も 消えて淋しき相模灘」という歌も流行し、続いてそれを主題歌とした映画「天国に結ぶ恋」は竹内良一、川崎弘子の美男美女のコンビで大ヒットとなった。そして、この映画にあやかろうとする自殺志願者が、しきりに大磯の坂田山へきた。昭和7年5月中旬以降、約3年間に、坂田山で心中しようとした男女は合計600人にものぼったという。

    日本の支配層は不況と社会不安の打開を中国侵略に求めた。中国との戦争による軍需景気が昭和8年の初夏ごろから起こる。そして軍需景気が失業者をなくしていったが、その次には、戦争による死の恐怖が日本人に襲いかかっていく。

    ところで地図には坂田山という名の山はみえない。大磯駅周辺は坂になった場所の田、坂田と呼んでいたが、記者が坂田山がゴロがいいので使って有名になったらしい。

2017年5月 7日 (日)

薩摩に亡命した豊臣国松?!

    1615年のこの日、大坂夏の陣で大坂城が落城した。「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命したとある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ、「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓」だろうということである。秀頼・幸村生存説は怪しげな話であるが、秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この豊臣国松にも生存説がある。

    大坂落城の際、国松は真田大助らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。5月7日 (参考:白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285)

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