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2024年12月 3日 (火)

みかんの日

Photo_4 きょうは「みかんの日」。「いいみっか(3日)ん」の語呂合わせ。市場でミカンがみかける頃となった。日本の正月風景は、家族で囲んだ炬燵があり、その上に必ずミカンがあるというのが定番である。日本のミカンはオレンジと違い、テレビを観ながらでも手で皮がむけることからアメリカでは「テレビオレンジ」という愛称があるそうだ。とくに温州ミカンは、日本の全柑橘生産量の約4分の3を占めている。温州ミカンの歴史は意外と新しく、明治時代中期以降のことである。有吉佐和子の小説「有田川」には、「紀州ミカン」が「温州ミカン」と移り変わる明治33年当時のようすが描かれている。果実が100gにもなる温州ミカンと50gほどの小ミカンでは勝負は明らかだった。温州(うんしゅう)みかんの呼び名は、江戸時代の本草学者が中国のミカンの名産地である浙江省温州府という古名に因んだものである。原産地は浙江省とは無関係で、鹿児島県出水郡長島町であり、筑後地方に入って各地に広まった。

   近年は温州市は高度な経済発展をとげる中国人が住むところとして、「温州商人」という呼称がある。投資と商才に長けた人たちをさす。(12月3日)

 

 

 

 

2024年12月 2日 (月)

皇帝ナポレオン(1804年)

   1804年のこの日、ナポレオン・ボナパルトの戴冠式がローマ教皇ピウス7世臨席下、パリのノートルダム大聖堂で行われフランス皇帝に即位した。慣例では、フランスのランス大司教が王冠をかぶせるところ、ナポレオンはみずから戴冠し、皇后ジョセフィーヌに自分の手で王冠を授け、自己の権力を誇示した。ナポレオンは、みずからを、1000年前にローマ皇帝として戴冠したカール大帝になぞらえていた。皇帝の依頼で大作を制作した画家ダヴィッドは完成に手こずり、実際に出来上がったのは戴冠式から3年の後のことであった。(12月2日)

2024年12月 1日 (日)

標語誕生

Img_1494464_51243906_0  1972年のこの日、交通安全標語「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」が最優秀となる。それにちなんで本日は「標語の日」(そんなのないよ)。最近は、多くの人が知る標語があまりないようだ。

   戦時中は勇ましいスローガンが巷に氾濫していた。「欲しがりません、勝つまでは」「撃ちてし止まむ」「進め一億火の玉だ」など。1939年8月、国民精神総動員本部は「ぜいたくは敵だ」、1940年8月1日には「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ」の立看板1500本を東京市内に立てた。(12月1日)

 

 

 

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   戦後は交通安全のスローガンが有名だ。「注意一秒、ケガ一生」「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」「とびだすな車は急に止まれない」「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」せまい日本の標語は高知県警土佐署の現役巡査だった岡本定之助の作品で、道の駅梼原に石碑が建てられた。(slogan,12月1日)

 

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ハリウッド物語

Wilcoxdaeida    本日は「映画の日」。映画の聖地ハリウッドは、1923年7月13日、ハリウッドの象徴ともいえる看板が設置された。ロサンゼルス市郊外にある映画産業の中心地ハリウッドは1884年に禁酒運動家であるホーレス・ウィルコックス夫妻がその運動を広めるためにこの地を訪れ、ここに理想の村を建てる計画を立て、48万5600㎡の土地を購入した。1884年2月1日この地を「Hollywood(ひいらぎの森)」と命名した夫人のダイエダ・ウィルコックス(1862-1914)が考えたものといわれている。

 

Al_christie_sm   20世紀の初めの頃、映画はニューヨークやシカゴで撮影製作されていた。MPPCというエジソンのトラストが映画産業を支配していたが、トラストに加入していないアル・クリスティー(1881-1941)が新天地ハリウッドへ逃れ、ここで映画を作った。これがロサンゼルスのタレー座で大いに当たり、これがハリウッドと映画との第一歩となった。

 

 

 

 

 

Laemmlejr     東部でユニヴァーサル映画社を1909年に創立していたカール・レムレ(1867-1939)という映画興業家は1914年にハリウッドに移転。ときあたかも第一次世界大戦の勃発で、これまで映画製作していたイタリア、フランス、ドイツが困難となり、アメリカはその映画市場が発展した。D・W・グリフィス、セシル・B・デミル、さらに喜劇のチャールズ・チャップリンなどがこのハリウッドに集まり、ついにアメリカ映画は世界を征服する勢いを示したのである。

 

(Hollywood,Harvey Wilcox,Daeida Wilcox,Al Christie,Carl Laemmle、7月13日)

2024年11月30日 (土)

老いらくの恋

  本日し「シルバーラブの日」。辻井喬の小説「虹の岬」は、歌人の川田順と鈴鹿俊子の恋愛を描いている。1948年11月30日、2人はともに家出した。太平洋戦争中に愛国詩人として知られた川田順と、京都大学教授経済博士中川与之助の前夫人であった鈴鹿俊子が和歌を通じて恋愛におちいり、順は苦悩のあまり、1948年12月4日に自殺をはかったが未遂に終わった。そのとき彼が友人にあてて送った遺書のなかに、「若き日の恋ははにかみて面赤らめ 壮士時の四十路の恋は世の中に かれこれ心配れども 墓場に近き老いらくの 恋は怖るる何もなし」とうたっていたので、「老いらくの恋」として、一躍世間に広まった。当時、川田順は68歳であったから、俊子とは30歳の隔たりがあった。その後、事態は好転し急転解決に向かう。結婚へとゴールインする様を朝日新聞も「夕映えの恋に勝利。川田順結婚を決意、再生の大手術だった」と2人にエールをおくっている。その後、順は1966年、84歳で死去、俊子は2006年、96歳で長逝した。

 

 

2024年11月27日 (水)

聖地奪回の十字軍を宣言(1095年)

Blackcathedral    西ヨーロッパの封建社会は11世紀から13世紀の間にもっとも安定した発展をみせてきた。人口は増加し、国王・諸侯・騎士は外へ向かっての発展欲や冒険心をかきたたせ、ベネチア、ピサ、ジェノバなどの諸都市は経済的利害から東方への進出を求めていた。またこのころの西ヨーロッパでは、人々の宗教心が旺盛であった。11世紀に広まった巡礼は、長い旅程の困難と危険を通じて自己の罪を懺悔し、霊魂の救済を得んとする禁欲精神の一つのあらわれであり、なかんずくトゥールのサン・マルタン教会よりトゥールーズのサン・セルナン教会をへてイベリア半島の西北端、コンポステラのサン・ジャック教会にいたる道程は著名であった。そしてキリストの墳墓のあるイェルサレムは、巡礼者が最後に赴くべきもっとも重要な聖地であった。

 そのころ東方は、8世紀以来、アラビア人にかわって、もとアラビアの傭兵軍であったセルジュク・トルコが支配していた。セルジュク・トルコはパレスチナを奪って巡礼するキリスト教徒を迫害したので、西ヨーロッパ人を激昂させた。こうしたときにビザンチン皇帝アレクセウス1世は、ローマ教皇に東方の実情と西欧騎士団の援助を要請を求めてきた。ローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月17日から27日まで、クレルモン公会議を開いて聖地回復を決議し、ここに十字軍がおこなわれることになった。1096年8月15日の第1回十字軍より1270年の第8回十字軍まで、約2世紀にわたって聖地奪回の遠征がくりかえされた。(Clermont,Crusade,11月27日、世界史)

 

十字軍 とっくむ(1096年) 相手は イスラム教徒

2024年11月19日 (火)

水洗トイレの話

Kani_img_01     本日は「世界トイレの日」。2001年にジャック・シムが設立したWTOが制定した。toiletは「便器」そのものを指し、いちばん直接的。ふつう、家庭内ではbathroom(浴室)、ホテルやレストラン、学校などではrest roomという。飛行機内の表示は主にlavatoryである。

 2010年のヒット曲「トイレの神様」。近代流行歌100年の歴史を振り返っても、トイレ、便所、うんこ・糞尿を歌った楽曲は少ない。「汚穢屋の恋歌」「いぼ痔のバラード」なんて無いよね。な~んでか?それは「トイレの神様」の歌を聴いても多くの人が水洗トイレをイメージするようになったからだ。一部のお年寄りはまだ溜め置き式、汲み取り式を想像する。溜め置き式が一般的で長く続いたのは農業の肥料としてリサイクルしていたことと関係する。水洗化が普及したのは昭和40年代だが遅いところは昭和50年代半ばになっても水洗化していない地域が都市部でもあった。屎尿を肥料としていたころは、回虫の寄生率は高かった。昭和30年代、毎年、小学校では肛門にシールを貼ってぎょう虫検査を行う。半数以上の子どもが回虫をもっていた。立小便はするし、野原で脱糞する女子もいた。昭和でもそんなだから幕末江戸期や明治期はどうだろう。これが意外にも清潔だったらしい。外国人の記録では当時のパリやロンドンでは悪臭が漂うほど路上に汚物があったが、日本は「一滴のこらず」都市の外に出されて、肥料となるというリサイクルシステムが確立されていた。都市に汲み取り人が屎尿を買い取りに来る。だが都市衛生が優れていたということではない。江戸の長屋は共同便所だが、尿は下水に放たれ、川にそのまま流れていた。立小便は当たり前だった。「トイレの神様」では亡くなったお祖母ちゃんを思い出して感動するだろうが、実は影で苦労した汚穢屋さんや下水道整備事業と屎尿処理技術の発達、すなわち地方自治体の半世紀にわたる努力の賜物と考えている。(11月10日,11月19日)

2024年11月18日 (月)

油小路の決闘

   慶応3年3月10日、尊攘思想を抱く伊東甲子太郎は、新選組を脱退し、御陵衛士として五条橋東詰めの長円寺に移り、そのあと東山高台寺の塔頭・月真院に移った。月真院の門前に「禁裏御陵衛士屯所」の標札をかかげた。一派は高台寺党、あるいは伊東派と呼んで、近藤らの本隊と区別している。14名の名を挙げておこう。

  鈴木三樹三郎、篠原泰之進、新井忠雄、毛内有之助、服部武雄、斉藤一、藤堂平助、加納道之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海二郎、中西登、橋本皆助、清原清である。この中で斉藤一は、近藤側の間者として送り込まれていて、内部の様子を逐一、報告していたようだ。

   11月18日、伊東は近藤、土方の饗応の帰途、油公路木津屋橋通りで、大石鍬次郎ら新選組の闇討ちによって斬殺された。土方の指図で、伊東の屍は七条油公路の四ツ辻へ放置した。必ず高台寺の一派が死体を取りにやって来ると読み、新選組の40余人の者が遠巻きにして取り囲んだ。そこに伊東の横死を聞いて駆けつけたのが、篠原、鈴木、加納、藤堂、服部、毛内、富山の7人である。40余人との斬り合いは激しく、「油公路の惨劇」として知られるところだ。藤堂、服部、毛内は斬り死にした。幸運にもこの惨劇を免れた3名の者たち、篠原泰之進(1829-1911)81歳、鈴木三樹三郎(1837-1919)83歳、加納道之助(1839-1902)62歳は、いずれも天寿を全うしている。

ウィリアム・テルは実在したか?

Chwilliamtell   1307年のこの日、ウィリアム・テルが息子の頭上のリンゴを射抜いた日。

    当時スイスは神聖ローマ帝国に支配されていて、国王アルブレヒトは翌年に甥のヨハンに暗殺されている。スイスのウーリー州にテルという弓の上手な猟師がいた。代官ゲスラーに捉えられたテルは、テルの息子の頭にリンゴをのせ、それを射ぬけと命じられた。テルは息子の頭に載せたリンゴに狙いを定めると、見事にリンゴを射落とした。「リンゴが落ちた!」「おお子どもは生きている!」やはりテルの弓矢はたしかだった。が、代官はテルが矢をはなつまえに。もう1本の矢を抜いておいたのをとがめた。テルの矢は代官の胸を貫いた。みんなは敵のとりでをうちこわし、守備兵を追い払った。スイス人は自由と独立をさけんだ。テルの息子の名前はシラーの戯曲によると「ヴァルター」となっている。ヴァルター・テル。ちなみに代官の名前は、ヘルマン・ゲスラー(またはアルブレヒト・ゲスラー、おそらく伝説上の人物か)ウィリアム・テルの名が記された歴史的な史料が見つかってないため実在性は否定されるが、スイス人のおよそ6割はテルが実在したと信じている。(William Tell,Walter,Hermann Gessler,11月18日)

2024年11月17日 (日)

将棋の日

Photo_6   本日は「将棋の日」。将棋好きの徳川吉宗が、この日を「お将棋の日」として、年に1回の御前対局を制度化したことに因む。将棋の起源は、前300年頃の古代インドにあった4人制のサイコロ将棋「チャトランガ」といわれている。これがインドから各地に広がり、さまざまな類似遊戯に発達した。ペルシャを経て西に伝わったのがヨーロッパでお馴染みのチェス、東に伝わったのが中国の象棋(シャンチー)、朝鮮のチャンギー。日本への伝来は、奈良時代の遣唐使・吉備真備が中国から儒学やあらゆる先端技術を持ち帰ったが将棋も含まれていたといわれる。一説では「駒の種類やルール」の類似性から、タイの「マークルック」がそのルーツではないかとも言われている。ただし取った駒を再使用するルールは日本将棋だけである。2010年には出雲市高浜遺跡から将棋盤(部分)と駒2枚が出土している。15世紀から16世紀初期のもの。

 

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   日本の将棋の原型は室町時代末には成立していた。新奇好きの織田信長は「将棋は戦陣をかたどったもので、武人のたしなみ。よろしく修養せよ」と奨励し、将棋の流行に火をつけた。大橋宗桂(1555-1634)は、信長・秀吉・家康三代に仕え、囲碁の本因坊算砂と度々将棋を披露している。(11月17日)

 

 

 

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