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2019年5月21日 (火)

長篠の戦いと松平信康

Obj09    1575年のこの日、織田信長、徳川家康連合軍と武田勝頼とは、三河国南設楽郡(愛知県新城市)の長篠城と、その西南の設楽原で激突した。信長が用意した3000挺の鉄砲が勝敗を分けた。徳川家康の長男、松平信康はこのとき初陣で16歳。その戦いぶりを敵将勝頼は「かの小冠者長生せば必ず天下に旗を立つべし」と評したという。4年後、武田と内通したと信長に問責され自害する。(5月21日)

 

 

 

 

2019年5月20日 (月)

ヴァスコ・ダ・ガマとインド航路

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   16世紀大航海時代をもたらした要因の一つは、香辛料をはじめアジア物産に対するヨーロッパ人の欲求であったが、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)とカリカット領主のやりとりはアジア物産の豊かさを物語っている。1498年5月20日、ガマは香辛料や宝石の交易で賑わうカリカットに上陸すると、この地の領主ザモリンに面会を求めた。ガマが領主に用意した贈物は、布、帽子、珊瑚玉などである。領主の執事はこれを見て、「とても王様に差し出す品物ではない。アジアの最も貧しい商人でもこれ以上の贈物を持ってくる」と罵った。ガマはどうにか香辛料を手に入れたが、結局、贈物は拒否され、出航許可として税金を命じられた。しかし、ガマはその税金も支払わず、出航を強行したのであった。( keyword;Vasco da Gama,Zamorin )

2019年5月19日 (日)

宮本武蔵忌日

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大津街道脇にあった武蔵の墓は平成元年から武蔵塚公園として整備された

  二天一流の創始者で、剣聖と仰がれる宮本武蔵の墓は熊本にある。寛永17年、細川忠利に招かれて来熊。晩年は熊本で過ごした。1年後に忠利に先立たれた後は岩戸観音の霊巌洞にこもる日々が続き、「五輪書」「独行道」などを著し、また画人として水墨画の名品を残した。正保2年5月19日に飽田郡五町手永弓削村(現熊本市龍田弓削1丁目)に葬られた。墓は武蔵塚公園内ある。墓碑には「兵法天下一 新免武蔵居士石塔 正保酉乙年五月十九日」と記されている。武蔵の墓はもう一つある。熊本市島崎町霊寿庵裏の自然石で、碑面に「貞岳玄信居士」とある。その横には、「心月清円信女」という女性の墓石が並んでいる。享年62歳。病名は神経痛と胃癌だった。

2019年5月18日 (土)

古戦場跡は桶狭間ではなく田楽狭間

Tz_22_25    本日は桶狭間の戦いがあった日。永禄3年(1560)5月、天下に野望を抱く今川義元は、斎藤道三の亡きあと衰えた美濃を踏み破り、諸城を落として一気に上洛せんものと25000の大軍を率いて西上の途にのぼった。5月18日、織田領の丸根・鷲津両城にも今川の脅威が迫ったとの報に接した信長は清洲城で軍議を開いた。織田の兵力はわずか3000にすぎず、籠城説が大勢を占めた。しかしその夜信長はにわかに出陣を触れ、真っ先に馬を駆けさせた。信長のあとを追ってきた兵は熱田神宮まできたとき1000人となり、善照寺についたときは3000人にふえていた。今川の25000人に比すれば問題にならない劣勢である。しかし危機に立たされた信長としては、死中に活を求めるしかなかった。翌19日。今川義元はこのとき、桶狭間の北、田楽狭間(愛知県豊明市栄町)に駐屯して、勝ち戦の祝杯をあげていた。兵士にも酒を配り、警備は全くおろそかにしていた。折から空には黒雲がたれこめ、豪雨がふり注ぎ、あたりは全く見通しがきかなくなった。その機をのがさず信長は横合いから義元の旗本めがけて襲いかかった。義元の軍はたちまち混乱し、軍を立て直す暇もなく、ついに義元が毛利新助によって討ち取られたのである。大将を討たれた今川軍はたちまち敗走した。この時徳川家康は義元軍に従軍していたが、この合戦ののち自立し、信長に属している。この戦いには迅速果断な信長の面目がよくあらわれている。信長の武名は一躍とどろき、今川義元に代わって上洛を志すに至った。

 

 

阿部定事件

Photo_2  大河ドラマ「いだてん」の田畑政治役の阿部サダヲは阿部定が由来である。阿部定は戦前の日本国民の間では超有名人だった。どんなに有名だったかというと、昭和11年というのはニ・ニ六事件が起こった年であるが同じ年の5月18日に起きた阿部定事件のほうが国民の関心は遥かに高かったという一事からもわかるであろう。阿部定が細面の美人と報ぜられ、日本中がその話題でもちきりとなった。阿部定は明治38年神田の畳屋の娘として生まれ、32歳当時東京中野の鰻屋の女中として入り、石田吉蔵と昵懇になる。まもなく不倫関係となり吉蔵を絞殺し、東京から逃走し、3日後の20日に捕まった。大阪駅にいた、横浜に飛んだ、いや広島だ、仙台だと怪情報が錯綜した。阿部定逮捕の様子はこうである。高輪署の安藤部長刑事は管内の旅館をしらみつぶしに調べた。「お定さんだね」女はこっくりうなづいた。もう逃れられないと覚悟して「夜になったら死ぬつもりでした」と語った。「例のものはどうした」と聞くと、定は帯の間から、ハトロン紙包みをとり出し、それを大事そうにみせただけですぐにしまい込んでしまった。現在阿部定の消息は1974年以降不明で墓も戒名もわからない。恐らく死没しているであろうが、生存していれば113歳になる。

 

 

 

 

2019年5月16日 (木)

田部井淳子ら日本の女子登山隊が初のエベレスト登頂

    1975年5月16日、田部井淳子ら日本女子登山隊が女性初のエベレスト登頂に成功した。しかし田部井だけが有名だが、実際は女子登山隊15人のメンバー(久野英子隊長)の成果だった。酸素ボンベの不足から頂上アタックを1人選ばねばならなかった。久野隊長は田部井を指名した。№2の渡辺百合子は惜しくも選らばれることはなかった。この決断で田部井は「世界のタベイ」となり、渡辺の名が広く知られることはなかった。ネットで渡辺の近況を調べたが詳しいことは不明だった。メンバー全員の名前を記す。久野英子、田部井淳子、渡辺百合子、真仁田美智子、平島照代、穂谷由美、奈良文枝、塩浦玲子、三浦洋子、永沼雅子、藤原すみ子、中幸子、北村節子、荒山文子、阪口昌子(医師)

 

2019年5月13日 (月)

芭蕉と平泉

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   藤原清衡が平泉に中尊寺金色堂をつくったのは1124年で、松尾芭蕉が憧れの平泉にたどりついたのは元禄2年5月13日(陽暦6月29日)のことで565年後であった。高館に登って一望すると、武士の夢の跡の儚さが感じられる。高館にたてこもった源義経は、応戦むなしく自刃。享年31歳であった。山頂には義経堂が建てられ木像が祀られている。

    高館の丘を下り、中尊寺へと向かうと、金色堂と経堂の二つだけを残して、その他は一面の廃墟であった。さぞかし荒れ果てた景色に芭蕉は涙をおとしたことだろう。明治30年に中尊寺の金色堂が再建・修理された。金色堂内陣には、本尊阿弥陀如来、その前には蓮を持った観音・勢至菩薩、左右に三体ずつ六地蔵が立つ。最前列に持国天と増長天。須弥壇の中央に初代清衡、向かって左に二代基衡、右に三代秀衡の遺骸が納められている。

  夏草や 兵どもが 夢のあと

   五月雨に降り残してや光堂

2019年5月10日 (金)

シパーヒー決起、インド大反乱

210pxbattle_of_vienna_sipahis    1859年5月10日夕刻、北インドのメーラト駐屯地で、イギリス東インド会社傭兵であるシパーヒー(セポイ)が反乱を起こした。反乱は、この年より配付された新式のエシフィールド銃の使用を拒否し禁固刑となったメーラトの第3軽騎兵連隊の85名のシパーヒー釈放を要求して始まった。新式銃の弾薬筒には、ヒンドゥー教徒の神聖視する牛の脂とムスリムの不浄視する豚の脂とが塗られていた。これを装填時に噛み切るために口にすることは、回教徒とも宗教的禁忌だった。シパーヒーは、1757年6月23日のプラッシーの戦い以来用いられ、反乱直前には23万人にも膨れ上がっていた。そのうち13万人を擁したベンガルのシパーヒーには、アウド王国出身で南カーストの者が多くいたが、賃金や階級は低く、国外出兵を強制されるため不満を抱いていた。反乱軍はその日のうちにデリーに進撃し、翌日には、すでに年金受領者となり名目的存在でしかなかったムガール皇帝ハバードゥル・シャー2世を擁立し、皇帝復権宣言をさせる。この時点から反乱は、ムガル帝国対大英帝国の戦いの様相を呈する。北インドの各地でこれに呼応する反乱が続く。失権の原則により実子のないことで所領を没収されたマラーター王国のペーシュワー(宰相)の子孫ナーナー・サーヒブが6月4日にカーンプルで、また同じくイギリスに併合されていた藩王国ジャーンシーの王妃ラクシュミーバーイーが6日に立ち上がる。30日にはラクナウでも反乱が起こる。イギリスのインド支配そのものに対して不満を抱く、市民や農民にも反乱に参加する者が現れ、反乱は都市から、やがて農村へと広がる。地域的にも北インド全体へと拡大し、あらゆる階層の人々を含む民族的な大反乱となる。(sipahi)

2019年5月 8日 (水)

コカ・コーラの歴史

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   1886年5月8日、アメリカ・ジョージア州アトランタの薬剤師・化学者ジョン・ペンバートン(1831-1888)がコカ・コーラの発売を開始した。彼はコカワインの研究をしていた。1885年アトランタで禁酒法が施行されると、ペンバートンはノンアルコールの代用品を作った。発売当時一杯5セントという低価格で人気がでた。1888年、エイサ・キャンドラーがビジネスの権利を購入し、1894年3月12日、ミシシッピー州ヴィックスバーグでボトルのコカ・コーラが販売された。日本には1919年6月、明治屋が「コカ・コーラ」を初輸入している。しかし詩人の高村光太郎は新しいもの好きで「コカコオラ」という詩を1912年にすでに書いているので渡航先で飲んでいたようだ。第二次世界大戦中、ボトリング工場はヨーロッパ、アメリカ、太平洋に建設され市場は世界に拡大された。(John Stith Pemberton,Vicksburg,5月8日)

 

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豊臣国松の消息は?!

    1615年のこの日、大坂夏の陣で大坂城が落城した。ついに秀頼・淀殿母子は自害して、豊臣家は滅んだ。ときに秀頼は23歳、淀殿は49歳である。「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命したとある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ、「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓」だろうということである。秀頼・幸村生存説は怪しげな話であるが、秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この豊臣国松にも生存説がある。

    大坂落城の際、国松は真田大助らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。5月8日 (参考:白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285)

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