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2018年5月27日 (日)

日本海海戦

Kinenkan10

  日露戦争。ロシアのバルチック艦隊がシンガポール沖を通過して北上してきた。問題は日本近海におけるバルチック艦隊の航路である。朝鮮海峡を通って日本海を抜けてウラジオストックへと向うのか、太平洋を迂回して津軽海峡を抜けてウラジオストックへと向うのか。東郷平八郎は、朝鮮海峡で待機する決断を下した。参謀たちの不安は消えない。1905年5月27日、哨戒任務に出ていた信濃丸から敵艦隊発見との電報が入った。東郷は「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス」と電文を作成した。首席参謀の秋山真之は、その文に「天気晴朗ナレドモ波高シ」と加筆した。天気が晴れていることは敵艦を狙いやすい。そして波が高ければバルチック艦隊の砲撃の命中率が低くなるということを伝えたと言われる。そして13時55分、戦艦「三笠」のマストにZ旗が掲げられた。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」連合艦隊主力はなんと敵前で横腹を見せるかたちで、相手の進路をさえぎるT字戦法にでた。そして主力以外の艦は、南下して敵艦隊の後尾を突いた。まさに、日本海軍の圧勝であった。

2018年5月26日 (土)

人物没年総覧

   人はみな死ぬ。江戸期の文人、蜀山人(大田南畝)がそのことを素直に歌っている。「今までは人のことだと思ふだに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」。歴史を彩った英雄・偉人たちは、それぞれどのような場所で、どのような死に方をしたのだろうか。奇才・山田風太郎は「人間臨終図鑑」で著名人923名の臨終の模様を描いた。「メメント・モリ」なんじは死を覚悟せよの意味。死について考えることで、今をよりよく生きるようにしたい。

5月26日
木戸孝允、享年43歳。明治10年(1877年)京都で病死。死因は胃癌らしい。

5月24日
伊達政宗、享年68歳。寛永13年(1638年)江戸の伊達藩上屋敷で死去。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌と推定される。

5月23日
ヘンリック・イプセン、享年78歳。オスロにて死去。

5月22日
ヴィクトル・ユーゴー、享年83歳。1885年パリにて死去。急性肺炎。

5月21日
野口英世、享年51歳。1928年ガーナ・アクラで研究中黄熱病に感染し死亡。

5月20日
日野富子、享年57歳。明応5年(1496年)死亡。
生田春月、享年38歳。昭和5年(1930年)播磨灘沖で投身自殺。

5月19日
宮本武蔵、享年62歳。正保2年(1645年)熊本千葉城の自宅で死没。神経痛と胃癌。

5月18日
紀貫之、享年79歳。天慶8年(945年)死去。

5月17日
サンドロ・ボッティチェリ、享年65歳。1510年フィレンツェで死亡。彼の絵は人気を失い、数世紀にわたってほとんど忘れられた存在となった。

5月16日
北村透谷、享年25歳。明治27年(1894年)東京芝公園で首吊り自殺。

5月15日
犬養毅、享年76歳。昭和7年(1932年)五・一五事件で暗殺される。

5月14日
大久保利通、享年49歳。東京紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら6人に襲われ死去。

5月13日
谷干城、享年74歳。明治44年(1911年)
田山花袋、享年60歳。昭和5年(1930年)自宅で死去。咽頭癌。

5月12日
青木昆陽、享年71歳。元禄11年(1698年)
秋田雨雀、享年79歳。昭和37年(1962年)結核と老衰のため自宅で死去。

5月11日
脇屋義助、享年38歳。興国3年、康永元年(1342年)病没。
土方歳三、享年34歳。明治2年(1869年)箱館で戦死。
萩原朔太郎、享年57歳。昭和17年(1942年)急性肺炎により世田谷の自宅で死去。
小泉信三、享年78歳。昭和41年(1966年)。心筋梗塞。

5月10日
二葉亭四迷、享年46歳。明治42年(1909年)シンガポール沖ベンガル湾洋上にて死去。腹膜炎。

5月9日
フリードリヒ・フォン・シラー、享年45歳。ザクセン・ヴァイマルの自宅で病死。
岩野泡鳴、享年47歳。大正9年(1920年)東京帝大病院で病死。腸チフス。

5月8日
テレサ・テン、42歳。1995年タイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。

5月7日
真田信繁、享年49歳。慶長20年(1615年)大坂夏の陣で戦死。

5月6日
足利義満、享年49歳。応永15年(1408年)病死。

5月5日
ナポレオン1世、享年51歳。1821年セントへレナ島で死去。胃癌。

5月4日
藤原旅子、享年30歳。桓武天皇の夫人、藤原百川の長女。延暦7年(788年)死亡。
嘉納治五郎、享年71歳。昭和13年(1938年)カイロからの帰途、氷川丸船中で死去。肺炎。

5月3日
和田義盛、享年67歳。建暦3年(1213年)和田合戦で敗死。
柳宗悦、享年72歳。昭和36年(1961年)脳溢血。
高橋和巳、享年39歳。昭和46年(1971年)結腸がんのため東京女子医科大学病院で死去。

5月2日
レオナルド・ダ・ヴィンチ、享年67歳。1519年フランス、アンボワーズ近郊のクルーの館で死去。
福田英子(景山英子)、享年62歳。昭和2年(1927年)死去。

5月1日
萬鉄五郎、享年41歳。昭和2年(1927年)神奈川県茅ヶ崎の自宅にて死去。結核。

4月30日
源義経、享年31歳。文治元年(1189年)衣川の戦いにて死去。

4月29日
アルフレッド・ヒッチコック、享年80歳。1980年、ロサンゼルスにて死去。腎不全。

4月28日
中里介山、享年59歳。昭和19年(1944年)東京都阿伎留病院にて死去。腸チフス。

4月27日
ソクラテス、享年70歳。紀元前399年、アテネの獄中で自殺。

4月26日
足利基氏、享年28歳。正平22年(1367年)病死。死因は麻疹とされる。

4月25日
近藤勇、享年33歳。明治元年(1868年)東京・板橋で斬首さる。

4月24日
紀伊国屋文左衛門、享年66歳。享保19年(1734年)。

4月23日
ウィリアム・シェイクスピア、享年52歳。死因は腐りきったニシンから伝染した感染症らしい。ストラトフォード。

4月22日
リチャード・ニクソン、享年81歳。ニューヨークシティで脳卒中で死去。

4月21日
ダニエル・デフォー、享年71歳。1731年ロンドンで死去。

4月20日
下村湖人、70歳。昭和30年(1955年)東京都新宿区の自宅で死去。脳軟化症と老衰。

4月19日
チャールズ・ダーウィン、73歳。1882年イギリス・ケント州ダウン村の自宅で死去。

4月18日
孔子、享年71歳。魯国哀公16年(紀元前479年)、魯で没した。

4月17日
徳川家康、享年73歳。元和元年(1616年)駿府城にて死去。胃がん。

4月16日
川端康成、享年72歳。昭和47年(1972年)神奈川県逗子市にてガス自殺。

4月15日
里見成義、享年57歳。永正元年(1504年)没。安房里見氏2代目当主。南総里見八犬伝に名前は義成(よししげ)として登場するが実在は不明。

4月14日
高杉晋作、享年27歳。慶応3年(1867年)下田市桜山にて肺結核のため死去。

4月13日
草壁皇子、享年27歳。持統天皇3年(689年)
伊能忠敬、享年73歳。文化15年(1818年)
石川啄木、享年26歳。明治45年(1912年)小石川区久堅町にて肺結核のため死去。

4月12日
武田信玄、享年53歳。天正元年(1573年)病没。

4月11日
木村正辞(国文学者)、享年87歳。大正2年(1913年)腎炎で死去。
昭憲皇太后、享年64歳。大正3年(1914年)崩御。狭心症。

4月10日
川端龍子、享年80歳。昭和41年(1966年)老衰。
桑原武夫、享年83歳。昭和63年(1988年)病没。

4月9日
藤原家隆、享年80歳。嘉禎3年(1237年)大阪の夕陽丘で死没。
足利義稙、享年56歳。大永3年(1523年)徳島県鳴門で死没。
武者小路実篤、享年91歳。昭和51年(1976年)狛江の慈恵医大第三病院にて死去。尿毒症。

4月8日
結城秀康、享年34歳。慶長12年(1607年)死去。梅毒。
吉田東洋、享年46歳。文久2年(1862年)土佐帯屋町にて暗殺さる。
高浜虚子、享年85歳。鎌倉由比ヶ浜の自宅で死去。脳溢血。

4月7日
弓削道鏡、享年72歳。宝亀3年(772年)栃木県下野市で死去。
浅野長政、享年68歳。慶長16年(1611年)茨城県桜川市で死去。

4月6日
大田南畝、享年75歳。文政6年(1823年)登城の道での転倒が元で死去。
小栗上野介忠順、享年42歳。慶応4年(1868年)群馬県高崎で斬首。

4月5日
九条兼実、享年59歳。建永2年(1207年)
高田屋嘉兵衛、59歳。文政10年(1827年)背中にできた腫物が悪化。

4月4日
北条時宗、享年34歳。弘安7年(1284年)死因は結核とも心臓病ともいわれ明らかでない

4月3日
快川紹喜、享年80歳。天正10年(1582年)恵林寺において焼死。
隠元隆琦、享年80歳。延宝元年(1673年)没。
小林古径、享年74歳。昭和32年(1957年)慶応病院においてパーキンソン病と脳軟化症のため死去。

4月2日
一条兼良、享年78歳。文明13年(1481年)病没。
田沼意知、享年36歳。天明4年(1784年)江戸城内において佐野政信に殺害される。
高村光太郎、享年74歳。昭和31年(1956年)東京中野のアトリエで病没。結核。

4月1日
北條経時、享年23歳。寛元4年(1246年)死去。
岩倉具定、享年58歳。明治43年(1910年)死去。
西東三鬼、享年62歳。昭和37年(1962年)葉山で死去。

3月31日
尾崎一雄、享年83歳。昭和58年(1983年)小田原で死去。

3月30日
大槻玄澤、享年69歳。文政10年(1829年)江戸で病没。
野上彌生子、99歳。昭和60年(1985年)老衰のため成城の自宅で死去。

3月29日
八百屋お七、享年16歳。天和3年(1683年)鈴ヶ森で火刑。
立原道造、享年24歳。昭和14年(1939年)中野区江古田の市立療養所で病没。結核。

3月28日
内村鑑三、享年69歳。昭和5年(1930年)新宿区北新宿の柏木の自宅で病没。
椎名麟三、享年61歳。昭和48年(1973年)脳内出血のため世田谷区松原の自宅で死去。

3月27日
懐良親王、享年54歳。弘和3年・永徳3年(1383年)筑後矢部で病没。
広瀬武夫、享年35歳。明治37年(1904年)旅順港閉塞作戦において福井丸で戦死。

3月26日
足利義尚。享年23歳。延徳元年(1489年)近江鈎の陣中で病死。
与謝野鉄幹、62歳。気管支カタルがもとで慶應義塾大学病院で死去。
室生犀星。享年72歳。昭和37年(1963年)東京都港区虎ノ門病院で死去。肺癌。

3月25日
蘇我倉山田石川麻呂。大化5年(649年)没、享年不詳。山田寺(奈良県桜井市)で自殺。
蓮如、享年84歳。明応8年(1499年)、京都・山科本願寺で死去。

3月24日
平時子、享年59歳。文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで安徳天皇を抱いて入水。

3月23日
水上滝太郎、享年53歳。昭和15年(1940年)東京で病没。脳溢血。

3月22日
新美南吉、享年29歳。昭和18年(1943年)愛知県半田市の自宅で病没。結核。
藤原義江、享年77歳。昭和51年(1976年)日比谷病院で病没。脳血栓症。

3月21日
空海、享年62歳。承和2年(835年)高野山で入定。
柳生十兵衛、享年44歳。慶安3年(1650年)急逝、死因は不明。
田中絹代、享年67歳。昭和52年(1977年)順天堂病院で没。脳腫瘍。

3月20日
黒田如水、享年59歳、慶長9年(1604年)京都伏見の黒田邸で病没。
上杉景勝、享年69歳。元和9年(1623年)米沢城で病没。

2018年5月23日 (水)

サヴォナローラ焚殺される

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サヴォナローラの火刑(サン・マルコ美術館)

  ルネサンスの世俗文化が最高潮に達した15世紀末のフィレンツェで神権政治を行ってきたジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)が、1498年のこの日、シニョーリア広場で火刑に処された。背後には、彼の非難を苦々しく思っていたボルジア家の教皇アレクサンデル6世の圧力があるというのだ。サヴォナローラは、22歳のとき突然ドミニコ会修道士となり、30歳のときフィレンツェにやってきた。しかし、彼はそのとき以来、熱烈な説教とフィレンツェ人の堕落した享楽的な生活を批判しつづけていた。悔い改めなければ、フィレンツェは外敵の侵入によって滅ぶであろうと預言していた。人々は、シャルル8世によってこの預言が成就されようとしていると感じ、彼の神権政治を受け入れたのである。しかし、1498年5月23日、4年間の禁欲生活の強制に退屈してきたフィレンツェ市民はサヴォナローラを捕らえて裁判にかけた。その結果、彼は偽預言者として絞首刑ののち改めて火刑に処された。一時はあれほどのフィレンツェ人を感動させたのに、彼の最期を見とどけたのは2、3名にすぎなかったという。(Girolamo Savonarola)

2018年5月22日 (火)

徳川家康忌日

Photo   徳川家康(1542-1616)の人生はまさに「忍」の一文字であった。天文11年12月26日、三河の岡崎城で呱々の声をあげた。信長よりおくれること8年、秀吉からは5年。歳の順序に気がねしたわけではあるまいが、このとおりの序列で後を追い、天下をとった。元和2年4月17日(1616年5月22日)73歳で没した。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。ちなみにシェークスピアは同年4月23日に世を去っている。

    幼名は竹千代、父は松平広忠、母は刈谷城主水野忠政の娘於大。天文16年、三河岡崎城の広忠は、織田信長の猛攻をうけ、今川義元に援けを求めたが、このとき竹千代はわずか6歳で今川氏へ人質に送られることとなった。今川氏の本拠駿府への途中、義理の祖父である渥美郡田原城主戸田康光にだまされて信秀の手中に落ちた。康光がうけとった礼金は永楽銭五百貫とも一千貫ともいう。いずれにせよ家の仇、父の敵へ売りとばされたわけだ。だが、父広忠が信秀の脅迫にのらず毅然たる態度で臨んだのが逆に幸いして、信秀の心を打ち、人質とはいえその扱いは鄭重であった。幼い竹千代は、尾張の万松寺での人質生活のあいだに、14歳の荒くれ信長と知りあった。8歳のとき一度岡崎に戻ることがてきたが、半月ほどで再び今川氏の人質として駿府に移された。今川義元が桶狭間で仆れるまでのことであるから、前後を通じて足かけ13年の人質生活であった。しかし、その生涯をみると、ものごころついてから秀吉の死後に至るまでの50余年間、家康はいつも誰かに頭を押さえられて過ごしている。ひたすらの「忍」であった。誰にでもできることではない。家康には、信長のような鋭利で独創的な才能はない、また秀吉のような奔放・豪快、しかも機略縦横といった華やかさもない。だが、めだたぬ聡明さと組織力とで、打つ手の一石一石は実に着実であった。だからこそ波瀾ふくみの秀吉死後を無事に切り抜けとおし、ついに天下の覇権を掌中にしたのである。常用の印文には天下の匂いも布武の臭みもなく、「福徳」または「忠恕」という、道学先生を思わすような字句であったのも、いかにも家康らしいといえる。(参考:岡本良一「国民の歴史12 天下人」)

徳川家康関係図書

逸史12巻首1巻7冊 中井竹山、浅井吉兵衛等 明治9年

列祖成績20巻20冊 安積澹泊 徳川昭武 明治11-12年

仮名挿入皇朝名臣伝4 中沢寛一郎編 溝口嘉助 明治13年

東照宮実記仰晃雑誌1-9 細谷蕉露編 仰晃社 明治16年

日本百傑伝 第8編 松井広吉編 博文館 明治26年

東照宮御一代記 沼崎重孝 明治28年

徳川家康 本城正琢 公愛社 明治30年

徳川家康公 吐香散人 日吉堂 明治32年

2018年5月21日 (月)

リンドバーグ愛児誘拐事件

 1927年5月20日、チャールズ・リンドバーグが操縦する単葉機「スピリット・オブ・セントルイス」がニューヨーク郊外のルーズベルト飛行場を飛び立った。それから33時間30分後の21日、彼はパリのブールジュ飛行場に着陸する。大西洋単独無着陸飛行の成功である。飛行場には10万人にのぼる群集が、一目リンドバーグを見ようと押し寄せた。彼は航空機時代を象徴する空の英雄であった。しかし彼の人生には脱ぐ去りようのない暗い事件がある。

   1932年3月1日、チャールズ・リンドバーグの長男が遺体で発見された。これより1年前の3月1日に、ニュージャージー州ホープウェルの自宅から誘拐されるという事件が発生していた。現場には犯人からの身代金5万ドル要求の手紙が残されていた。事件から2日たった4日に、新聞はリンドバーグの声明文を掲載した。「身代金を支払って息子の身柄を引き取ることができるなら、犯人の不利になるようなことは、断じてしない」。これを見た法務長官は「リンドバーグに、犯罪訴追の免責を申し出る権限などはない」と語った。3月8日には、ジョン・コンドンという72歳の老講師が、誘拐事件の仲介役を申し出た。12日に、コンドンはジョンという男(「墓場のジョン」)と会い、子どもは船の中で元気にしていると聞く。16日には、コンドンの家に息子のパジャマと身代金の受け渡し方法が書かれたメモの入った小包が届けられた。リンドバーグは警察には一切干渉しないことを約束させた。4月2日、1通の封筒がタクシー運転手によってコンドンの家に届けられた。コンドンとリンドバーグは、現金を持って指定されたブロンクスのセント・レイモン墓地に着き、コンドンは「墓場のジョン」と会い、子どもが隠されている場所の書いてあるメモの入った封筒と身代金を交換することになった。しかし子どもは発見できなかった。子どもの遺体が発見され、検視結果は、子どもは誘拐された直後に死亡していたことが判明した。

Hauptmann_6 それから2年半後、ドイツ系移民の大工のブルーノ・ハウプトマン(画像)という男が逮捕された。身代金として支払われた紙幣をガソリンスタンドで使ったこと、そして、何よりも自宅から残りの紙幣が大量に発見されたことが決め手になった。法廷では、リンドバーグはハウプトマンを指さして犯人と断言した。コンドンは、公判開始前の段階ではハウプトマンを「墓場のジョン」と断定するのを繰り返し拒んでいたが、証言を翻し、ハウプトマンを「墓場のジョン」と断定した。人間は、たった一度しか聞いたことのない人の声を2年も3年もたってから思い出すことができるのだろうかという疑問は最後まで残った。しかし、デビット・ウィレンツ法務長官は当時広がっていた反独感情をたくみに利用しながら、ハウプトマンを蛇呼ばわりして彼の人格を誹謗し、陪審員に偏見を持たせようとしていた。

    ハウプトマンは最後まで無罪を主張したが、1936年4月3日、トレントン刑務所で電気椅子によって処刑された。しかし、彼の有罪を疑問視する人も少なくなかった。ニュージャージー州知事のハロルド・ホフマンもその一人だ。彼は「私はこの犯罪が1人の人物によってなされ得たとは思えない」と、彼は公式に声明した。70年たった今も真相は謎であり、この事件の裁判は米国司法史上に疑問と汚点を残すことになった。

 疑問は多数ある。ハウプトマン逮捕後も、リンドバーグの身代金に使われた紙幣はいまだに街にながれていた。それに決定的なアリバイがハウプトマンにはあった。1931年3月1日にはニューヨークのアパートで仕事をしていた。それが事実なら、同じ日にニュージャージー州ホープウェルに行って、夜9時すぎにリンドバーグ家に行って、息子を誘拐することは極めて困難になる。アパートの所有者は、ハウプトマンの主張が事実であることを証言したが、作業時間記録表と賃金支払い記録はなくなっていた。記録はすでに検察と警察に押収され、検察側の主張を裏付けるものに改ざんされていた。驚くべきことに弁護人のレイリーは法廷でのこれらの決定的な物証を十分に調べることもせずに、ハウプトマンのアリバイを立証できなかった。弁護人エドワード・レイリーは、反ハウプトマンを標榜していたヒュース・プレス社から金をもらっていただけではなく、以前からリンドバーグの熱烈なファンだった。法廷でのあまりの失策に、次席弁護人のフィッシャーは公判の審理中に「あなたは、ハウプトマンを電気椅子に送ろうとしている。それでも彼を弁護しているつもりなのか?」と公然と非難した。

    検察側は、事件の夜にハウプトマンを見たと証言する87歳のアマンダス・ホークス(彼は1000ドルの賞金を得た)を証人として喚問した。彼はハウプトマンがはしごを積んだ車に乗っているのを見たと主張した。このほとんど目の見えない老人の信頼しがたい証言に対して、弁護側はほとんど反論していない。

    結審後5か月たった1935年7月には、米国法律家協会が「純然たる裁判を公開ショーのように扱うのは、生命そのものを軽んずることと同じだ」と述べ、検察・弁護側双方を手厳しく批判した。

    リンドバーグは、晩年はハワイでひっそりと暮らし、72歳で他界した。ハウプトマンの遺体が霊柩車で刑務所から出で行くのを見守る群集を写した一枚の写真がある。司法が過ちを犯したと考える人々も多かったのだ。(3月1日、5月21日)

2018年5月20日 (日)

ヴァスコ・ダ・ガマとインド航路

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    16世紀大航海時代をもたらした要因の一つは、香辛料をはじめアジア物産に対するヨーロッパ人の欲求であったが、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)とカリカット領主のやりとりはアジア物産の豊かさを物語っている。1498年5月20日、ガマは香辛料や宝石の交易で賑わうカリカットに上陸すると、この地の領主ザモリンに面会を求めた。ガマが領主に用意した贈物は、布、帽子、珊瑚玉などである。領主の執事はこれを見て、「とても王様に差し出す品物ではない。アジアの最も貧しい商人でもこれ以上の贈物を持ってくる」と罵った。ガマはどうにか香辛料を手に入れたが、結局、贈物は拒否され、出航許可として税金を命じられた。しかし、ガマはその税金も支払わず、出航を強行したのであった。( keyword;Vasco da Gama,Zamorin )

2018年5月19日 (土)

宮本武蔵忌日

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大津街道脇にあった武蔵の墓は平成元年から武蔵塚公園として整備された

    二天一流の創始者で、剣聖と仰がれる宮本武蔵の墓は熊本にある。寛永17年、細川忠利に招かれて来熊。晩年は熊本で過ごした。1年後に忠利に先立たれた後は岩戸観音の霊巌洞にこもる日々が続き、「五輪書」「独行道」などを著し、また画人として水墨画の名品を残した。正保2年5月19日に飽田郡五町手永弓削村(現熊本市龍田弓削1丁目)に葬られた。墓は武蔵塚公園内ある。墓碑には「兵法天下一 新免武蔵居士石塔 正保酉乙年五月十九日」と記されている。武蔵の墓はもう一つある。熊本市島崎町霊寿庵裏の自然石で、碑面に「貞岳玄信居士」とある。その横には、「心月清円信女」という女性の墓石が並んでいる。享年62歳。病名は神経痛と胃癌だった。

2018年5月18日 (金)

阿部定事件

Photo_2     昭和11年というのはニ・ニ六事件が起こった年である。しかし同じ年の5月18日に起きた阿部定事件のほうが国民の関心は遥かに高かった。阿部定が細面の美人と報ぜられ、日本中がその話題でもちきりとなった。阿部定は明治38年神田の畳屋の娘として生まれ、32歳当時東京中野の鰻屋の女中として入り、石田吉蔵と昵懇になる。まもなく不倫関係となり吉蔵を絞殺し、東京から逃走し、3日後に捕まった。大阪駅にいた、横浜に飛んだ、いや広島だ、仙台だと怪情報が錯綜した。阿部定逮捕の様子はこうである。高輪署の安藤部長刑事は管内の旅館をしらみつぶしに調べた。「お定さんだね」女はこっくりうなづいた。もう逃れられないと覚悟して「夜になったら死ぬつもりでした」と語った。「例のものはどうした」と聞くと、定は帯の間から、ハトロン紙包みをとり出し、それを大事そうにみせただけですぐにしまい込んでしまった。現在阿部定の消息は不明で墓も戒名もわからない。生存していれば112歳になる。

2018年5月15日 (火)

上野戦争起こる

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福沢先生ウェーランド講術の図 安田靫彦 慶応義塾福沢センター蔵

   年が明けて慶応4年(1868)になるとそうそうに、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の端緒が開かれ、官軍による慶喜追討令が出て、徳川慶喜は大坂を逃れて江戸に帰った。江戸市中では官軍が攻めて来て戦になるのは間違いないと江戸庶民は戦々恐々となり、逃げ出す者たちで街中は大騒ぎだった。

   その年の4月、福沢諭吉(1835-1901)は築地鉄砲洲中津藩中屋敷にあった洋学塾を芝新銭座(現・港区浜松町1丁目)へ移し、年号をとって「慶應義塾」と命名した。慶応4年5月15日、福沢諭吉はいつものように塾の教場に立ち、講義していた。突然、はるか北の方角から、江戸中に響き渡る砲声がとどろいた。諭吉はのんびりした調子で「とうとう、戦争が始まったか…」と呟いた。爆音をとどろかせているのは、上野の山であった。将軍慶喜を守るために結成された彰義隊に、官軍が戦闘をしかけたのである。塾生たちは、ざわついた。塾生たちの中には、若い血を燃えたぎらす者たちもすくなからずいて、落ち着きなく講義になかなか身がはいらない様子であった。諭吉は言った。「どうした、大砲の弾も鉄砲の弾も、ここまでは飛んでこないぞ!。上野の山までは、二里も離れているぞ」諭吉の声で、塾生たちも話に集中しだした。

「いいか、みんな、われわれがこうしていま、戦争のなかにもかかわらず学問をしているのは、日本の将来のためなんだぞ。いま、たしかに日本は変わろうとしている。しかし、これまでのような狭いものにとらわれた者たち同士の戦争では、なんにも変わらないんだ。これからの時代を切りひらいていくのは、力でも、鉄砲でもない。それは、学問だ。学問こそが、われわれを導く希望の光なんだ。さあ、大砲の音など、気にするな、講義を続けるぞ!」

   そして諭吉はいつもと変わらず土曜日の日課のフランシス・ウェーランド(1796-1865)の「経済学」の講義を続けた。

   画像「福沢先生ウェーランド講術の図」の中央の人物が福沢諭吉、そして手前の人物は高弟の小幡篤次郎(1842-1905)であろうか。

2018年5月14日 (月)

種痘記念日

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Edward Jenner was a doctor who invented the vaccination for Smallpox.

エドワード・ジェンナーは天然痘の予防接種を発見した医者だ。

    5月14日はイギリスの外科医エドワード・ジェンナー(1749-1823)が種痘の接種に成功した日である。彼は乳絞りの女性から牛痘にかかると天然痘には罹らないことを聞いた。そこで、牛痘にかかった乳絞りの女性サラ・ネルムズの手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児フィッブス(1788-1823)の腕に接種した。10日後に発症したがすぐに治癒し、その後天然痘を接種しても感染しなかった。ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行なった。(Edward Jenner,James Phipps,Sarah Nelmes)

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