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2017年9月23日 (土)

筆記具の発明者たち

   万年筆はイギリスで19世紀の初めころから使われていた。1809年のこの日、イギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが金属製の軸内にインクを貯蔵できる筆記具を考案し、特許をとった。のち1883年、アメリカのルイス・エドソン・ウォーターマン(1837-1901)が万年筆の実用化に成功した。鉛筆は1565年にスイスのコンラート・ゲスナーが自家製鉛筆を使用していた。シャープペンシルの原理は1822年にイギリスのホーキンスとモータンによって考案されたが、1917年にアメリカのチャールズ・キーラン(1883-1948)がエバーシャープという実用的な筆記具を販売した。ボールペンは1943年、ハンガリーの新聞校正係だったラディスラオ・ビロ(1900-1985)が考案した。(9月23日)

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      ウォーターマン                   ラディスラオ・ビロ

2017年9月22日 (金)

近代社会事業の父・石井十次

Img_0005   1887年のこの日、石井十次(1865-1914) が日本初の孤児院「孤児教育会」を岡山に創設した。1887年4月、石井は医学研修のため岡山県邑久郡阿知村(現岡山市上阿知)の太田診療所で医師の代診をしていた。ある日、夫が亡くなり生活に困っていた旅の母親に同情して、その男児を引き取った。これがきっかけとなり、他の生活困窮者の子供も預かり、三友寺に孤児教育会(岡山孤児院と改名)を開いた。石井は自分の医学書に石油を注いで焼き捨て、「人は2人の主に兼事ふること能はず」(マタイ伝6・24)との聖書の教えに従って、孤児救済事業に専念することにした。明治39年には孤児は1200人にも達するようになった。(9月22日) 参考:『石井十次の生涯と思想』 柴田善守 春秋社

2017年9月21日 (木)

ショーペンハウエル忌日

Schopenhauer    ドイツ厭世主義の哲学者ショーペンハウエルは1860年9月21日、フランクフルトで死去した。享年72歳。彼の風貌は、背は普通。骨格頑丈、胸広く、輝く青い瞳、薄赤いちちじれた髪、整った鼻、長く広い口、音声強大、手は細く敏活。好男子とはいえなかったが、人を惹きつける魅力があった。オシャレで、人前に出るときはいつも盛装だった。妻子もなく、同胞もなく、1人の友もいない。晩年は愛犬のアートマンが唯一の話相手だった。夕暮れになると愛犬を連れて散歩をする。歩き方は若々しくて速い。太い竹のステッキを持ち、葉巻を吸う。午後8時頃にレストランで夕食。冷肉と赤ワイン。帰宅後、キセルで煙草を一服。英独仏の新聞を読む。音楽は好きでベートーベンを聴く。就寝前にウパ二シャッドを読む。部屋には純金の釈迦像がある。ショーペンハウエルはキリスト教よりも、ウパニシャッドや仏教を哲学に取り入れようとしていた。(Schopenheuer)

2017年9月20日 (水)

サラミスの海戦とテミストクレス

Boatwar1    紀元前480年のこの日、サラミスの海戦でアテネは大勝利をおさめた。ペルシアのクセルクセス王の大軍を目前にして、アテネではテミストクレスの建策により、北に逃げるとみせて狭い海峡に入った。これを追ったペルシアの大艦隊は、操船技術に優れ機動力を発揮するギリシア海軍にかき乱され、狭い海峡の中で互いに衝突しあい惨敗を喫したのである。

    アテネの名門の子供たちが学ぶ校庭での話。みんなが楽しく詩や音楽の話をしていたが、テミストクレスという少年だけは、大志を抱き政治の演説をするのであった。「自分はリュラ(琴)の調子を合わせたり、プサルテリオンを弾いたりすることには疎いが、名もない小さな国を引き受けて、大国に仕上げることは心得ている」と言った。この少年こそ、サラミスの海戦でペルシア艦隊を破った古代ギリシアのアテネの政治家テミストクレス(前528?-前462?)である。しかし、彼の晩年は不遇で、前470年、陶片追放(オストラキスモス)により失脚し、ペルシアに逃れた。牡牛の血を飲んで自殺とも伝えられる。(Salamis,Themistokies、9月20日)

2017年9月19日 (火)

子規忌

Photo_6 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

   正岡子規(1867-1902)は慶応3年9月17日に伊予国温泉郡藤原新町で生まれた。ただしこれは旧暦で新暦では10月14日となる。父は松山藩御馬廻加番正岡隼太で、名は常規(つねのり)、幼名は処之助(ところのすけ)でのちに升(のぼる)と改めた。明治35年9月19日、わずか35歳で東京根岸に生涯を閉じた。死の2日前まで「病牀六尺」を書き続け、その前日、「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をととひの糸瓜の水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の三句を絶筆として残した。墓は田端の大龍寺にある。獺祭書屋主人と号した。子規忌を獺祭忌ともいう。獺祭(だっさい)とは「かわうそまつり」。①かわうそが自分の捕らえた魚を四方に陳列すること。②作詩文に数多の参考書を座右に広げること。詩文を作るのに多くの故事を引くこと。つまり、獺祭書屋主人とは、書斎で学者が周囲に参考書を積み重ねることに由来するのであろうか。

 夏嵐机上の白紙飛び尽す

2017年9月17日 (日)

牧水忌

F0048182_13553372    本日は 「白鳥(しらとり)は哀しからずや 空の青海のあをにも染まずただよふ」(第一歌集「海の声」)などの歌で知られる若山牧水(1885-1928)1928年の忌日。43歳。牧水は宮崎県東臼杵郡郷村字坪谷に医師若山立蔵の長男として生まれた。有名な「白鳥は」の歌の初出(明治40年12月号「新潮」)は「白鳥(はくてう)は哀しからずや海の青そらのあをにも染まずただよふ」だった。そして第三歌集「別離」では「女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ。われその傍らにありて夜も昼も絶えず歌ふ」という詞書がある。この歌は「波間に漂っている白いかもめ鳥はかなしくはないのか。空も青、海も青、そのまっさおな色にまぎれることなく漂っている姿をみると、何ともいいようのない悲しさがわたしの胸にあふれてくることだ」という通釈であるが、制作状況から判断して園田小枝子への恋愛の哀歓がモチーフになっていると考えてさしつかえないだろう。小枝子という女性は「牧水よりも一つ年上である。生まれたのは瀬戸内海のある海岸町、まことに不思議な両親をもち、まだ何もわからぬ幼女時代に既に幾回となくその戸籍が転々としているような数奇な運命の下に成人した。そして16、17歳ぐらいで結婚し、二人の子供さえもっていたが、胸を病み、家を離れて須磨の療養所に入った経験があった。彼女はそれから家庭にかえらず、明治40年の春あたり東京に出て来たのであるが、彼女は非常に美しかった」(大悟法利雄「若山牧水伝記篇」)とある。園田小枝子の郷里は広島県竹原市忠海と福山市鞆町の二説あるが、幼少期転々としていたのかも知れない。ともかく牧水は24歳のとき、病弱の人妻に恋をし、千葉県安房根本海岸に10日余り滞在し、多くの感傷歌が生まれた。しかしこの恋はうまく行くかず、牧水は大いに悩み5年のちに恋は破局する。

小枝子への熱い想いがあらわれた歌

「わが小枝子おもひいずればふくみたる酒の匂いのさびしくあるかな」「恋人のうまれしといふ安芸の国の山の夕日を見て海を過ぐ」「山を見よ山に日に照る海を見よ海に日には照るいざ唇を君」「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」

(9月17日)

2017年9月16日 (土)

メキシコ独立記念日

Hidalgo  1810年のこの日、メキシコ・ドロレス教区のミゲル・イダルゴ(1753-1811)神父がメキシコの独立を訴える演説を行い、最後に「メキシコ万歳!」と叫んだ。これによりメキシコ独立革命が始まった。

    ミゲルはスペイン側に捕らえられてチワワで銃殺刑となったが、独立運動の象徴的人物で「メキシコ独立の父」とされている。この日、メキシコ大統領が国民広場のバルコニーに立ってこの言葉を叫ぶのがならわしとなっている。「メキシコ建国の父」はベニート・フアレス(1806-1872)。1861年メキシコ大統領に就任。(Mexico,Miguel Hidalgo,Chihuahua,Benito Juarez,9月16日)

2017年9月15日 (金)

関ヶ原の合戦

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 関ヶ原合戦図屏風

  慶長3年(1598)年8月18日、豊臣秀吉は幼少の秀頼の将来を案じつつ苦悩のうちに伏見城で没した。享年62歳。辞世の歌が残されている。

つゆとをちつゆときへにしわがみかな

   なにはの事もゆめの又ゆめ

    秀吉の死後、遺訓に示された徳川家康、前田利家、宇喜田秀家、上杉景勝、毛利輝元の五大老の合議によって政治が運営された。また前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家が五奉行として庶政を執行した。五大老と五奉行の間に、中村一氏、生駒親正、堀尾吉晴の三中老が、大老と奉行の調停役という意味でおかれた。慶長4年正月、秀頼は伏見城を出て大坂城に入った。前田利家がお守役としてこれに従った。そこで家康が伏見の自邸で政務をとることになった。しかも、かつて、ねねと藤吉郎の仲人役をはたした前田利家は翌年3月病没した。利家の死は、家康の独走への道をひらいたものであり、三成の失脚ともなったわけである。三成は政務執行の実力者であったため、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明らの武将に恨まれることが多かったらしい。暗殺を察した三成は、大坂から伏見に逃げた。しかも、三成はもっとも敵対しているはずの家康に保護を求めて、ようやく近江の佐和山城に帰ることができた。こうして家康は伏見の自邸から伏見城にうって政務を見ることになる。

    石田三成は佐和山城を修築し、浪人団を雇い、反家康派の大谷吉嗣を呼んで作戦をねり、安国寺恵瓊と吉川広家のもとに使者を走らせ、家康打倒の意思をつたえ協力をもとめる。さらに、毛利輝元を大坂城に迎えて、策を告げる。三成派の長束正家、増田長盛、前田玄以らも、軍備をととのえ、大坂城に参集する。そののち三成は鳥居元忠が守る伏見城を落とし、美濃大垣城にはいり、ここに西軍を集結させた。石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家らのひきいる西軍は関ヶ原に陣をしいた。

    慶長5(1600)年9月15日辰の刻の朝(午前8時頃)、天下分け目の戦いが関ヶ原ではじまった。西軍は石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、脇坂安治、小早川秀秋、吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親らの軍勢8万、東軍は徳川家康、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、井伊直政、藤堂高虎、福島正則、山内一豊、浅野幸長、池田輝政ら7万といわれる。西軍は伊吹山麓から松尾山の間に陣をとり、南宮山方面から東軍の側面をつく作戦であったが、松尾山の小早川秀秋の隊1万5000耶蘇のが西軍を裏切り思わぬ展開をみせる。これを機に脇坂安治、朽木元網、赤座直安、小川祐忠の隊が続々と東軍に寝返って西軍は総崩れになっていく。実は、家康は秀秋や吉川広家ら西軍諸将に対して再三再四、味方につけるための根回し工作を行っており、すでに内応していたため、勝敗はおのずと明らかであった。天下を分ける大戦は、たった半日で終わってしまった。この一戦により、家康の覇権は確立した。

   三成は伊吹山中に逃げ、家臣とも別れ、単身近江に入り、幼少のころ手習いをした三重院という寺をたずねて、かくまってくれとたのんだがことわられ、ついに山林をさまようこと数日、ようやくのことで、伊香郡古橋村の与次郎という者の家にたどりついた。与次郎の義侠心で山中の岩窟にかくしてもらったが、とても逃げられると悟った三成は、与次郎にすすめて訴人させ、22日、領主の田中吉政(1548-1609)の手に捕らえられた。石田、小西、安国寺の三人は大坂に拘置されていたが、10月朔日首かせをはめられて、大坂・堺・京の市街を引きまわされて、六条河原で斬首された。その首は自殺した長束正家の首とともに、三条の橋ぎわにさらされたという。

2017年9月13日 (水)

乃木希典殉死

Nogi   7月30日明治天皇崩御。それから6週間後の9月13日、身辺の整理を終えた乃木希典は、天皇の霊轜発引の弔砲を合図として、静子夫人とともに赤坂の自邸で殉死した。

   部屋の机には「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり」など乃木の辞世2首と、夫人の1首があった。遺書には自殺の動機として西南の役で軍旗を奪われたが、その後死所を得ず、天皇から過分の恩顧を受けながらすでに衰老でもはや役に立てない、とだけ記していた。むしろ本当の理由は、旅順戦役で万を越える兵士たちが己の無力ゆえに殺してしまったことの罪を謝し、さらに子煩悩だった乃木にとり二児を失った老残の身になお生き続ける意欲を持てなかったのだろう。

    警視庁警察医員・岩田凡平の『死体検案始末』には次のように記している。

「乃木将軍は大正元年9月13日午後7時40分頃東京市赤坂区自邸居室に於て、明治天皇御真影の下に端座し日本軍刀を用ゐて先づ十文字に割腹し徐に夫人の自尽を見て軍刀の柄を膝下に樹て刀尖を前頭部に当て一刀に気道管左総頸動静脈迷走神経及第三頸椎左横突起を窄刺截断して左頸部に貫きたるまま俯伏し即時絶命せられたるものと推想す」

とある。

2017年9月12日 (火)

マラソンの日

   本日は「マラソンの日」。紀元前490年のこの日、フェイディピデスという兵士が伝令となってマラトンの野からアテネの城門までの約40㎞を走り続けてアテネの勝利を告げたまま絶命したといわれる。この有名な古代ギリシアの故事にちなんで、第1回オリンピック大会では、約40㎞で行われた。これが正式に42.195kmと決められたのは、第4回ロンドンオリンピック大会のウィンザー宮殿からシェファード競技場までの距離を基準にしている。ただし伝令の名前はフェイディピデス、フィリッピデス、フェイディッピデス、ピリッピデスなど諸書によって異なる。その名はローマの史書によるもので、ヘロドトス「歴史」には見えない。フェイディピデスの名前が広く知られるようになったのは、1921年に子ども向きに書かれたヴァン・ルーンの著書からである。

    近代オリンピックが開催され、マラソンは「オリンピックの花」といわれるようになった。1984年ロス五輪から女子マラソンが正式種目になった。女子選手が長い髪をなびかせて、カモシカのような美しい脚で走る光景は素敵だ。だがこんなこともあった。東独のワインホルト選手は、レース中に生理ですごい状態になってしまった。それでも棄権することなく最後まで走った。フランク・ショーターは琵琶湖マラソンで途中ウンコがしたくなって、木陰で用をすませて、また走って優勝した。川内優輝はいつもゴールで倒れて救急搬送される。かつて銅メダリストが過度の期待が重荷となり自殺においつめられた選手もいる。マラソンは過酷なスポーツだ。(marathon,Pheidippides,Phidippides,Van Loon,,9月12日)

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