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2019年11月13日 (水)

残虐刑の歴史

Img1e3111ecx344yo   1873年のこの日、明治政府は火あぶり、磔刑などの残虐刑を廃止した。これら残虐刑は古代からあったがとくに戦国武将たちが実施していた。武田信玄の残虐性は父の信虎譲りのものであろう。斎藤道三や蒲生秀行の「牛裂き」の刑も知られている。戦国武将の中でも、最も大量に残虐刑を行ったのは、やはり織田信長でろう。比叡山焼打ち、荒木村重一族の処刑などをみると、始皇帝、ネロ、ジンギスカン、ヒトラーに劣らぬ残酷さである。豊臣秀吉の行ったキリシタン弾圧も有名である。耳をそぎ、首に縄をつけ、全員を数珠つなぎにして京都より博多まで、1ヵ月も見せしめにして、長崎で磔刑にした。戦国乱世の弱肉強食の世が人を狂わし、権力者を全て異常にさせたものであろう。しかし、この残酷刑は江戸時代も踏襲された。主殺し、親殺し、関所破り、キリシタン等の重大犯に科せられる処刑は磔刑であった。受刑者を十字架にかけ手足を縛りつけ、首と腰の所も縛り、全く動けないようにしてから、着物の左右の脇の辺りをさいて肌を出すのである。その左右のわき腹の辺りから肩に突き出す様に処刑用の長い槍を「ありゃ、ありゃ」とかけ声を掛けながら、まず「見せ槍」を行い、その後一気に左右より処刑人が交互に数十回突き刺すのである。初めは血や臓物が飛び出してくるが、そのうちに大きな穴が開いて何も出なくなる。それでも突き刺し続け、最後には咽喉を右から貫いて、止めを刺したという。丸橋忠弥、平井権八、国定忠治、佐倉惣五郎夫妻らが磔刑となった。(11月13日)

 

 

2019年11月11日 (月)

第一次世界大戦停戦日

  戦争は泥棒をつくり、平和が彼らを絞首刑にする (西洋の諺) 

 

Img_0001     1918年11月11日、主戦場となったヨーロッパの各国では、この日を祝日にしている。第一次世界大戦の正確な人的被害は特定できないが、死者・行方不明が約1000万人、と推定されている。

    ドイツ代表団のマティアス・エルツベルガー団長(中央党議員)が、コンピエーニュの森(フランス北部オアーズ県)の鉄道列車の中で、休戦協定に調印した。エルツベルガーは「ドイツ国民は50ヵ月にわたりあなた方敵国に対抗してきたが、今後はいかなる暴力にもかかわらず、自由と統一を維持するだろう。7000万国民は苦しんでいる。しかし、死にはしない」

   これに対してフェルデイナン・フォッシュは一言、「たいへん結構だ」と答え、握手もせずに列車から出ていった。(Compiegne)

 

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 この列車の中で休戦協定は署名された

2019年11月 9日 (土)

ベルリンの壁崩壊

Ss20121003b1   1989年のこの日の夜、東西のドイツを二分してきた壁はに市民が殺到し混乱の中で国境閲覧所が開放され、翌日にベルリンの壁の撤去作業が始まった。ドイツ語でMauerfallという。翌年の10月3日、東西ドイツが45年ぶりに統一され、ドイツ連邦共和国が誕生した。

    前夜から、それまで東西ベルリンの境界の象徴だったブランデンブルク門の周囲には、シャンパンや新国旗を手にした約100万人の市民が集い、統一国家誕生の時を待ち受けた。午前0時を期して、門の脇に建つ旧帝国議会前の広場で開催された統一記念式典の壇上に立ったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が「われわれは、みずからの意思にもとづいて統一を自由のうちに完了する」と宣言。この瞬間、人々の頭上には花火がきらめき、ライトアップされたブランデンブルク門をバックにいくつもの国旗が振られ、歓声の渦がまきおこった。新生ドイツは、人口約8000万人、面積約35万7000K㎡、国民総生産1兆4200億ドルの経済大国として欧州の中央に位置する。新生ドイツの大統領は2013年現在まで6人。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー、ローマン・ヘルツォーク、ヨハネス・ラウ、ホルスト・ケーラー、クリスティァン・ヴルフ、ヨアヒム・ガウク。

 

 

2019年11月 7日 (木)

室町幕府の成立

Sc_10     室町幕府の成立時期は、幕府の施政方針が建武式目として確立された1336年11月7日とする説と、足利尊氏が征夷大将軍となった1338年の2説があるが、むかしは1338年説が主流だったが今日では前者1336年が有力説である。尊氏は幕府を開いたのちも、南北朝の対立は続き、なかなか全国を統一することができなかった。尊氏の孫義満の代になってようやく基礎が固まった。1392年南北朝は合一した。現在、京都市上京区今出川室町の東北角に「従是東北足利将軍室町第址」と記された石標が立っている(画像)。室町幕府の遺構が全く確認できず、位置を示す唯一の目安となっている。

2019年11月 1日 (金)

温故知新

Photo     「紫式部日記」の1008年11月1日の記述に源氏物語に関する記事があることから、この日が「古典の日」と定められている。司馬遷は「史記」のなかで孔子が多くの人の知らぬことを明快に説き明かしている逸話を記している。歴史に詳しく、細かな故実を知り、古典の整理をなしとげ、楽器の演奏にも通じていた。孔子はやがて弟子をとって人の師となる。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師為(た)る可(べ)し (為政篇)

先生が言われた。「古いことを学んで新しいことにも通じている、そうであれば人の師となれるだろう」と。

   今日でもよく使われる四字熟語に「温故知新」がある。これは、人を教え導く教師になるためには、昔のことがらをよく研究してそれに精通し、また最新の知見をも得なければならない、というのがその意味である。つまり「温故」のみで、「知新」、新しい知識を持っていないと人の師にはなれない、というのが最近の解釈である。(諏訪原研「四字熟語で読む論語」)

   これまでの多くの解釈では、古典を大切にして、古いものの中から時勢に合うものを汲み取っていくことが「温故知新」の意味とされることが多い。広辞苑にも「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」とある。

   「知新」を「新しい知識」とするか、「時代に合うものを見つける」という意味に解するかでずいぶん違ってくる。たしかに古典に精通した漢文の教師にも、最新のコンピューターや国際情勢の知識が必要であろう。岩波文庫の金谷治の訳にも「古いことに習熟して新しいことにもわきまえれば、教師となれるだろう」とある。古事記、万葉集、源氏物語、枕草子、百人一首など古典の研究も図書館が整備されたことで、新研究が盛んである。

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犬の日

29154f84dad74bc592d4216e5bb50e36    「犬は人とともに生活し、怜悧で従順で、しかも犬ほど人類社会に貢献している動物しない」(大野淳一『犬・その銘柄』)11月1日はワンワンワンの語呂合わせから「犬の日」としている。ドッグショーなどでは、犬種の雄雌、年齢で区別されて審査される。雄犬はドッグ、雌犬はビッチ。

    犬の頭数の世界的な増加は人間の増加に匹敵するといわれる。いまや人間の住む世界各地で犬の姿が見られ、家犬の品種は400を超えるが、これらの品種はいずれも人為的淘汰の恩恵を受けて今日に至っている。というのも、大型犬のグレートデンであれ、小型犬のチワワであれ、犬はすべて、先史時代の猟人に飼い馴らされたオオカミの末裔だからである。

    今日の家犬は長い年代を経て人間に飼育されているので、その形態の変化や大小が非常にちがってきていて、一種の動物として、犬ほど形態や大きさのちがう動物は他に見ることができない。これは犬の遺伝子が多数であることにもよるが、その祖先が多元的であり、長い人為的選択をくり返してきたためと思われる。そして多数の品種が生じたのである。また形態ばかりでなく、性質も非常にちがっているので、古くから世界の各地方で、番犬・狩猟犬・愛玩犬が発達し、北方地方ではそり犬のような運搬用に用いられ、またある地方では食犬として食用に供せられていた。人類の生活が複雑化するにつれて、狩猟犬もその獲物によって特長をもつ犬種が生じ、愛玩犬も種々の形のものが発達し、さらに牧羊犬が生じ、各種の軍用犬・警察犬のような高度の性能の犬や、盲導犬のような特別な性能をもつものもつくられるようになってきた。犬を人間の目の代わりに利用しようとすることは古代ローマ時代からみられるが、近代になっては1819年にウィーンの神父ヨハン・ヴィルヘルム・クライン(1765-1848)が、犬の首輪に細長い棒をつけれ盲導犬として訓練したのがはじまりとされている。

    原始的な犬は現在も野犬となっているオーストラリア産のディンゴー犬、インド産のバリア犬などの一亜種にはいっているが、現在の家犬は次の6亜種に分けられる。ポメラニアン型、北方犬型、番犬型、青銅犬型、狩犬型、グレイハウンド型。そのほかに南米のインカ犬型も一亜種とされている。(11月1日、Johann Wilhelm Klein)

灯台記念日

Photo   灯台の歴史は古く紀元前280年、アレキサンドリア港に対面するファロスPharos島に建てられたファロス灯台、高さ約180mの石積塔、樹脂混合草木燃焼式の大灯台が世界最初のものとされる。現在でもロマンス諸語でファロスという語が灯台を意味するのはこれからきている。(フランス語ファールPhare、イタリア語ファーロfaro、ポルトガル語farol、スペイン語faro)

    わが国では664年に天智天皇が遣唐使船などの船舶に利便を与える目的で、壱岐、対馬、筑紫に烽(とぶひ)をともしたものが始めとされている。それはのちに狼煙(のろし)といわれるようになった。江戸時代の燈明台は、18世紀以後商品流通の増大に伴う海運の発展のため夜間の航海や出入港が頻繁になると、廻船の安全を期して岬や主要港など100ヶ所以上もの燈明台が設けられ、重要なものは航路図上に記入されるようになった。

   幕末の開国後、外国船の出入港と幕府海軍軍艦船の増加を契機に、光力の強い西洋式灯台が必要となり、慶応3年外国貿易税率改訂に伴う約定として剣崎以下15ヶ所の洋式灯台設置が決定し、別に江戸湾付近の整備のため城ヶ島、品川などが追加された。建設事業は外国人技術者と購入機材によって進められたが、幕府倒壊後は新政府がひきつぎ、明治元年11月1日、日本初の洋式灯台、観音崎灯台(神奈川県横須賀市)が起工、明治2年2月に完成、点灯を始めた。その強い光力は旧式の燈明台とは段違いで、近代的照光装置の威力を発揮した。使用燃料は当初は植物性油で、のちに高能率の石油に変えた。また蒸気船の普及などから洋式灯台の設置は急ピッチで進み、明治9年には北は納沙布岬、南は九州南端の佐多岬まで30余ヶ所に達し、明治末年には100ヶ所を超えた。大正末期にはより強力な光源の電気化が始まり、それが普遍化した現代では機械類の自動化が急速に進んでいる。(参考:石井謙治「国史大辞典」,11月1日)

2019年10月30日 (水)

紅葉忌

S0157r     本日は尾崎紅葉、1903年の忌日。内田魯庵は「思ひ出す人々」(大正14年刊)のなかで、尾崎紅葉がつねに外国文学を読んでいたことを回想し、紅葉の小説には外国文学の影響を大きく受けていることを指摘している。門弟の徳田秋声も紅葉はいつも洋書を読んでいたと著作の中でふれている。事実、紅葉自身の日記「十千万堂日録」にはオストロフスキイの戯曲「ストオム」(英訳本)、メーテルリンクの戯曲、ダヌンチオの「死の勝利」などの書名があがっている。紅葉はあまり有名ではない通俗小説もたくさん読んでいる。そして小説のストーリーを日本に置き換えて自分の小説としていることもあったようである。これは今日の著作権に対する意識が未成熟であった当時においては、やむをえないところかもしれない。あの有名な「金色夜叉」も種本が見つかっている。バーサ・M・クレーの「女より弱者」というイギリスの通俗小説である。(1880年代に初版)たぐい稀なる美女が、ダイヤモンドに目がくらみ、恋人を捨てて金持ちの紳士と結婚するが、後悔するという話でほとんどストーリーは同じである。尾崎紅葉は日本橋の丸善の洋書売り場で購入したらしい。(10月30日)

2019年10月28日 (月)

ミルウィウス橋の戦い

Battle20of20milvio   312年のこの日、コンスタンティヌス帝(274-337)が、マクセンティウスをローマ郊外のミルウィウス橋で敗死させる。戦いのときコンスタンティヌス帝は天空に十字架(ラバルム)と「汝これに勝て」との文字が浮かんでいるのを見て勝利を収め、ローマに入城した。マクセンティウスは橋から落ちて溺死した。彼の2人の遺児は処刑され、彼に連なる者はみな殺害された。(Millvio,ConstantinusⅠ、10月28日)

2019年10月27日 (日)

吉田松陰先生御真影の謎

0045_r  大河ドラマ「花燃ゆ」は幕末・明治維新の精神的支柱であった吉田松陰の妹「文(ふみ)」の目を通して幕末・維新の動乱を描いたドラマだった。これまで吉田松陰の御真影は存在しないと思っていた。だが国立国会図書館の「近代日本人の肖像」に左のような画像が掲載されている。写実的な絵画のような、絵画に修正を加えた写真のような怪しげなシロモノである。実物と似ているのか、松下村塾生の渡辺嵩蔵にみせたところ、松陰のものではないと否定している。真相は謎に包まれている。

   1859年のこの日、安政の大獄で捕らえられた吉田松陰が小塚原刑場で処刑された。松陰が萩の野山獄から江戸に送られた理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が、萩で吉田松陰に会ったことを話したためだった。評定所が松陰に質問したのは、安政3年冬、雲浜と話した内容と、京都の御所に手紙を置いたのが松陰ではないのか、という2点。これは違うという松陰の主張が了解された。そこで、松陰は意見を聞いてもらえる絶好の機会だと思い、「倒幕のために公卿に手紙を出した。そして幕府の間部詮勝を迎え撃つことを計画した」と告白した。評定所の役人は、予想もしなかった老中暗殺計画に驚いた。評定所の判断は最初島流しだったが、大老井伊直弼が死罪に書き直したといわれている。死刑を受けると松陰は、辞世の詩を詠み、人々に別れを告げた。「吾れ今、国の為に死す。死して君親に負(そむ)かず。悠々たり、天地の事、鑑照、明神に在り」 維新の先覚者として種をまいた松陰は30歳でこの世を去った。(10月27日)

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