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2019年7月29日 (月)

ゴッホの葬式

Photo   情熱の画家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、パリから北西に約30km離れたアルチュール・ギュスターヴ・ラヴー夫妻が経営するカフェーの2階の小さな部屋で、1890年7月のこの日、火曜日、午前1時半ごろ、息をひきとった。2日前、近くの丘で胸にピストルの弾を撃ちこんだのが原因であった。葬儀は30日の午後2時半に行われた。作家ディヴィッド・スウィートマンの「ゴッホ」によると、次の9人の参列者の名前が知られている。

テオドルス・ファン・ゴッホ(1857-1891) 画商 フィンセントより4歳下の弟。献身的。

ポール・フェルディナン・ガシェ(1828-1909) 医師

ペール・タンギー(1825-1894) (本名はジュリアン・タンギー。モンマルトルに店を構えた画材店主)

アルチュール・ギュスターヴ・ラヴー (ゴッホが部屋を借りた家主)

エミール・ベルナール(1868-1941、フランスの画家、著述家)

アントン・ヒルシック (ゴッホと同じ宿屋にいたオランダ人の画家)

アンドリース・ボンゲル (1861-1936 テオの妻ヨーの兄)

シャルル・ラヴァル(1862-1894 画家)

リシュアン・ピサロ (画家、カミーユ・ピサロの長男)

 棺にはゴッホが好きだった、ヒマワリが覆われていた。(7月29日)

 

 

2019年7月27日 (土)

ゴッホの自殺死はアンナチュラル・デス

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   カラスのいる麦畑

 

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 シャボンヴァルのグレの茅葺き家

 

 ドラマ「アンナチュラル」死因究明の専門家たちが不自然な死の謎を解く。異常死の9割は解明されていない。Unnatural Deathを歴史上の人物であげるとすれば孝明天皇や画家ファン・ゴッホ。とくに敬虔な信仰心を持っていたゴッホの銃での自殺死は不可解である。ゴッホは1890年7月27日にピストルで自殺を図り、29日に死んだ、と一般に知られている。とくに「カラスのいる麦畑」という絵を描き上げて、その場でピストル自殺をしたと思っている人が多い。それはカーク・ダグラスの映画「炎の人ゴッホ」の影響によるもので、あのシーンはあくまで演出でしかない。有名な「カラスのいる麦畑」が絶筆ではないことは、7月10日頃のテオ宛ての手紙にこの絵と思われる記述があることから明らかである。最晩年と思われる作品は全部で25点あるが、どの絵が絶筆であるかは決定する根拠がなく明らかではない。

 

Img_0027  25作品の中でとくに変わった1枚がある。「シャポンヴァルのグレの茅葺き家」である。シャボンヴァルとはオーヴェルから1駅はなれた村である。この絵の中には3人の男性が描かれているが、奇妙なのは左端にいる2人である。身なりのみすぼらしい青年のように見える。ゴッホの死に関する話には2人の不良少年(おそらく兄弟)のことがしばしば噂にあがる。そのころゴッホを変人扱いする不良の少年が、女性たちに偽りの誘惑をさせたり、コーヒーに塩を入れたり、ゴッホをからかったりイジメていたらしい。ゴッホとはピストルの件でもトラブルがあった。当時、フランスで人気のあった「ワイルド・ウエスト・ショー」の真似をして少年たちがピストルで遊んでいた。それをみたゴッホが本物のピストルを少年が持ち歩くのは危険を考え、2人からピストルを取り上げた。だが少年がゴッホのラヴ―下宿屋にしのび込んでピストルを奪い返した。そして27日、下宿屋から1.5キロ離れた場所へゴッホを呼び出し、ゴッホを脅している時に誤ってゴッホの胸を撃ってしまう。2人の少年たちは傷を負ったゴッホを夜中に抱えて下宿屋のベッドまで運び逃走してしまった。ゴッホにはまだ意識はあったが、事件を明らかにすることなくそのまま29日に死んだ。なぜ真相を明らかにしなかったのだろうか。事故死よりも自殺のほうが、経済的な負担をかけているテオのために絵が売れると考えたのか。それはあまりにも穿ちすきな勘ぐりで、不良少年の前途を考え、「もはやこれまで。これも人生」とあきらめ、少年たちをかばったというのが真実に近いのではないだろうか。ともかくも手紙のなかでも自殺を嫌悪するゴッホが、自殺をするというのは不自然である。(Les Chaumes du Gre a Chaponval 作品番号F780/JH2115)

 

 

2019年3月30日 (土)

ゴッホの家系

Photo_6 Annacarb1820   フィンセント・ファン・ゴッホは1853年のこの日、オランダ南部ブラバント地方の小村、フロート・ツンデルトで生まれた。父テオドリウス・ファン・ゴッホは村の牧師。母コルネリアは優しく、芸術に理解のある女性であった。ゴッホには兄がいた。兄のフィンセントが死んだのは、1852年3月30日だったが、次男のフィンセントが生まれたのは、その1年後の1853年3月30日だった。母コルネリアの家系には画商が何人もいた。彼女自身も結婚前には水彩画を描いていた。

 

  ゴッホの祖先は16世紀にはオランダに定住していた。その当時ヤコブ・ファン・ゴッホという人がユトレヒトの公会堂の裏に住んでいた。またその息子のヤンは亜麻布市場に住み、葡萄酒と書物を販売し、また市の守備隊の隊長であったるかれらの紋章は棒に3つのバラがついたものだったが、それはゴッホ家の紋章となっている。

 

  17世紀には、ファン・ゴッホ家からオランダの高官についた人物がたくさんでている。ズドフェンの政務官であったヨハンネス・ファン・ゴッホは、1628年に連邦の高等財務官に任命された。ミケル・ファン・ゴッホは初めブラジルの総領事になったが、後にガーランドの財務官になり、1660年にイギリスのチャールズ2世の即位を歓迎した大使館に所属していた。18世紀になると、この一家の社会的な地位は少し低くなった。ハーグに定住したダヴィッド・ファン・ゴッホは金物師で、その息子ヤンも父の職をつぎ、その息子ヨハンネス(1763-1840)はハーグのクロイステル教会の事務員をつとめた。彼の息子フィンセントは非常に聡明で、ライデン大学を卒業し、牧師となった。6人の息子がいて、みな社会的に重要な地位についたが、父の職業をついだのは一番下のテオドルス(1822-1885)だった。彼はユトレヒトの大学で神学をおさめ、卒業後は1849年にブラバントのフロート・ズンデルトという一寒村の牧師の職につき、村人から尊敬された。テオドルスは一部の人々からは美男の牧師さんとよばれていたが、愛想のよい高潔な人であったが、説教はへたで、20年間も忘れられて、小さなズンデルト村にすんでいたが、その後転勤を命ぜられたところもやはり、エッテン、ヘルフォイルト、ヌエネンというような寒村であった。しかし常にみんなから敬愛されたし、自分の子どもたちからも慕われていた。1851年に、彼は製本所経営者の娘アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819-1905)と結婚した。アンナが3歳年上であったが2人の結婚は、非常に幸福なものであったが、彼女には神経病の遺伝子があった。アンナは87歳の高齢まで生きたが、夫と3人の息子を失っても、落胆して理性を失うことなく、悲しみにたえて生き抜いた。

 

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テオドルス(父)、アンナ・コルネリア(母)、フィンセント(画家)、アンナ(妹)、テオドル(弟・画商)、ヨハンナ・ボンゲル(妻)、エリザベート(妹)、コル(弟)

 

 

 

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左から伯父フィンセント・ファン・ゴッホ(ハーグの画商) 伯父J・ファン・ゴッホ・ヨハンネス(アムステルダムの海軍造船中将)

 

Vinceht Willem Gogh,Theodorus van Gogh,Anna Cornelia Carbentus,Groot-Zundert

 

参考;式場隆三郎「ヴァン・ゴッホ 現代伝記全集7」 日本書房 1960年

2019年2月 4日 (月)

近代画家ゴッホ

   ケペルは幼い頃から絵を描くのが好きで、学校へあがっても図画が得意科目で、高校半ば頃までは美大志望だった。石膏デッサンもやった。高校生のある日、国道沿いにある古本屋で一冊の古い本を見つけた。アトリエ社の「原色版ヴァン・ゴッホ」(昭和17年)である。古い戦前のゴッホの画集であったが、作品に対応する小山敬三、硲伊之介、足立源一郎の解説があった。ゴッホ初期の見たこともなかった絵が気に入り高価だったが購入した。もちろんその後カラー印刷も進歩し、その本よりいいものが出版され手もとにもあるが、なぜかアトリエ社の画集に愛着がある。発行部数は5000部程度で古書店でみたことがなかったので、貴重な本だと人に自慢したこともあるが、ネットで調べたら1200円程度で販売されていた。がっかりもしたが、むかし画家になることを夢みた頃の証の書物であり、大切にしたい。その巻頭に式場隆三郎(1898-1965)の跋がある。

    ヴァン・ゴッホの生涯ほど感動的なものはない。それはただ波瀾曲折にとむからではない。溢れる情熱のためばかりでもない。道徳的な誠実な魂に貫かれているからである。ゴッホの短い生涯は、単なる一画家の興味深い物語ではない。真摯な魂が背負う人間の悲劇的運命の表象だからである。彼を病気に追いこんだのは伝道的宿命が素地とはなったが、不健康な社会との闘争が大きな誘因となった。彼の自殺は退廃的な文明との訣別でもあった。ゴッホほど愛に飢えた作家はない。彼ほど誠実でごまかしのない仕事に精進した作家はない。しかもその背後には、いつも敬虔な宗教的な精神が強く動いていた。哀れなものや貧しいものへの愛が、彼の作物を純粋にした。しかし、一方彼は勇敢であった。この世の不正なものや汚辱と戦った。彼の生涯ほど真面目で、ごまかしのない、熱情的なものはない。この誠実性が、異色ある彼の芸術とともに人を打つのである。ゴッホを奇矯な画家とみるのは、最も浅い理解者である。彼の手紙をよんで泣かないものがあろうか。彼の作物が理解されるに先んじて書簡集がみとめられたのもこのために他ならぬ。

    ゴッホが明治末年から大正時代にかけて、日本の新しい文化的発展に与えた力は大きい。絵の好きなもの、好かないものなど区別なしに、ゴッホの生涯から受けた影響を否定できる人は少ないであろう。芥川龍之介はある日、本屋の店頭でゴッホの複製の入った本を開き豁然として芸術の門の開かれたのを感じたとかいている。(中略)私は欧州で彼の遺跡をしらべ、作品をみ、文献をあつめ、長年こつこつその生涯と作品の研究に従っている。この仕事は私の生きる限りはつづくであろう。私はいつもゴッホの偉大さに打たれる。そして自分の仕事を小さく、まだまだ先のことを感じる。このたびアトリエ社がゴッホ画集を刊行さるるについて、私にも一文を求められた。短い枚数では意をつくせないが、日本で一冊でも彼に関する本の刊行されることを希っている私にとって、欣びに堪えない気持だけでも伝えたいと思って筆をとった。ゴッホの霊に栄光あれ。式場隆三郎」

   白樺派の影響を受けた式場隆三郎に限らず、日本人には熱狂的なゴッホ崇拝者は多い。版画家の棟方志功(1903-1975)の言葉「わだばゴッホになる」はよく知られているとおりである。「ゴッホ展」を開催すれば必ず記録的な入場者数になる。劇団民芸「炎の人」は満員盛況である。ゴッホの作品はもとより、彼の生涯そのものが劇的である。またゴッホが浮世絵を通じて日本美術を愛したことも日本にゴッホのファンが多い原因の一つであろう。近代画家のゴッホが日本の近代前の浮世絵の中に近代性を見出したというのが不思議な謎の一つだ。この過剰ともいえるゴッホ愛のためか企業が豊富な資金にまかせて高額絵画を買うことに対する批判もないわけではない。そして日本人がとくに好きな「ゴッホのひまわり」の真贋論争は今も続いている。

    これまで日本人はあまりにゴッホという人間を愛するあまり、造形作家のゴッホではなく、「炎の人」としての創作されたゴッホ像を勝手につくりあげてきたきらいはないであろうか。いま隣の韓国のソウル市立美術館でも「不滅の画家ゴッホ展」が開かれ、大盛況だそうだ。そういえば韓国ドラマの「初恋」のテーマの一つである兄弟愛はゴッホとテオに似ている。弟のチャヌ(ペ・ヨンジュン)は「兄貴はゴッホになれ。自分はゴッホの弟のテオになって兄貴を支える」という台詞があった。そしてビジネスマンとして成功して日本から帰国した土産にゴッホの画集を兄のチャニョク(チェ・スジョン)に渡す。「また絵を描いてほしい」というと兄は感激で胸を熱くするというシーンがあった。

   これらをみると韓国人もやはりモーレツにゴッホという人間に感動しているようだ。ゴッホの「馬車と汽車がある風景」という絵を相当な高額で韓国が買ったというニュースもある。

    これからは、ドラマチックなゴッホの生涯を忘れて、ゴッホが絵画でどのように表現しようとしたか、作品から受ける美の感動、という美術本来の視点でゴッホの作品を鑑賞していきたい。

日本で観れるゴッホの作品

45b7073a003  フィンセント・ファン・ゴッホは生涯に12点の「ひまわり」を描いている。そのひとつを日本で観ることができる。1987年に58億円で落札した話は人々を驚かした。損保ジャパン東郷青児美術館が所蔵している。現在国内でゴッホの作品を所蔵する美術館は意外と多くある。おそらく20点近くある。画像は「ひろしま美術館」。

「農婦」 1884-85年、ウッドワン美術館(広島県廿日市市)

「ドービニーの庭」1890年 ひろしま美術館

「雪中で薪を集める人々」 1884年 山形美術館寄託

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「座る農婦」 1884年 諸橋近代美術館(福島県耶麻郡)

「サン・レミの道」 1889年12月 笠間日動美術館(茨城県笠間市)

「ニシンとニンニクのある静物」 1887年春頃 ブリヂストン美術館

「モンマルトルの風景」 1886年頃 ブリヂストン美術館

「石膏トルソ(女)」 1887~88年 メナード美術館

「一日の終わり」 1889年11月 メナード美術館

「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」 1888年 ポーラ美術館

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「アザミの花」 ポーラ美術館

「白い花瓶のバラ」 1886年 和泉市久保惣記念美術館

「耕す人」 1882年8月 和泉市久保惣記念美術館

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「ばら」 1889年 国立西洋美術館

「ガッシェの肖像」 東京藝術大学大学美術館

「鋤仕事をする農婦のいる家」 東京富士美術館

「医師ガッシェの肖像(パイプを持つ男)」 横浜美術館

「長い棒を持つ農婦」 新潟県近代美術館

2017年12月 4日 (月)

ゴッホは恋多き男だった

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 シーンの娘 坐像(左向きのプロフィール) 鉛筆 黒の石版用チョーク 水彩用紙

   フィンセント・ファン・ゴッホは37年の短い生涯で、愛した女性は数人いる。孤独のようにみえてかなりの恋愛体質である。カロリーナ・ハーネべーク(初恋の人)、従姉で子持ちの未亡人ケイ・フォス・ストリッケル(通称ケー)、マルゴ・べーへマン、アゴスティーン・セガトーリ(カフェ・タンブランの女)、マルグリット・ガッシェ(医師の娘)。しかしシーンという名前の女性がいちばんよく知られているかもしれない。ゴッホのハーグ時代(1882年から1883年9月までのおよそ20ヵ月)に「悲しみ」(1882年、ロンドン・ウォルソン美術館蔵)という黒チョークで描かれた作品がある。ゴッホは自ら「最上の作品」と呼び、石版画にもしている。上掲の図版「シーンの娘」のモデルはシーンの長女で、暗い表情、やせこけた頬に不幸と貧しさが哀しくも表現されている。

Photo_2    1882年1月、ゴッホは街頭で酔っ払いの妊娠した娼婦に出会った。クラシーナ・マリア・ホールニク。クスクリスティーヌなのでゴッホはシーンとよんだ。二人の20ヵ月間の同棲生活が始まる。やがて赤ちゃんも生まれた。テオへの手紙には次のように書いている。「ちょうど今ここに、女が子供たちといっしょにいる。去年のことを思い出すと大きなちがいだ。女は元気になり、気むずかしさがなくなってきた。赤ん坊は、およそ想像がつく限りで最も可愛らしく、最も健康で、陽気なちびになっている。そしてあの可愛そうな女の子はデッサンを見れば分かるけれど、彼女が受けた恐ろしい不幸が未だ拭い去られてはいない。このことがしばしばぼくの気がかりになるのだ。しかし去年とはすっかり変わった。当時は全くひどかったが、今では彼女の顔はあどけない子供のような表情になっている」

   この手紙を読む限りでは、貧しいながらも4人で暮らすありふれた幸せな家庭が築けそうな期待がする。しかしゴッホとシーンに破局がやってくる。1883年12月、ゴッホは両親のいるヌエネンに戻る。シーンの2人の子供たちがその後どうなったのか、それは誰も知らない。後年、ゴッホは手紙で「自分には愛とは相性が悪い」と書いている。

ゴッホの青年時代

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 雪の中の蒔き拾い 1884年

  ゴッホは、1853年3月30日、オランダのベルギー国境近くのブラバント地方の小村、フロート・ツンデルトで生まれた。父テオドリウス・ファン・ゴッホは村の牧師、母コルネリアは優しく、芸術に理解のある女性だった。ゴッホには兄がいたが数週間で死んだため、ゴッホが長子となった。両親は幼くして逝った子供をひどくいたみ、その子の面影を常にゴッホに影響したことは否めない。彼は頑固で気むずかしい少年で、ひとりで野原を散歩しては時を過ごし、弟のテオや3人の妹たちと遊ぶこともほとんどなかった。

    ゴッホは母親にすすめられ、10代の初めごろからスケッチや水彩画をぴんぱんに描いたようだ。ゴッホにはハーグで手広く事業をやっているセントという伯父がいた。この伯父の経営する画廊は、パリの有名な画商グーピル商会と合併していた。ゴッホは16歳で学校を卒業すると、伯父の紹介でこのグーピル商会ハーグ支店に就職し、美術館通いに熱中する。数年後、ロンドン支店、さらにパリ支店へ移った。その間に恋愛に失敗したり、宗教書に熱中したりして次第に職務にふさわしくない行動が多くなり、1876年に解雇された。その後はロンドン近くの寄宿学校の語学教師、ドルトレヒトの書店員などになったが、いずれも長つづきせず、一方、宗教への情熱はいよいよ高まって、1877年(24歳)アムステルダムへ出て牧師になる勉強をはじめた。そして翌年、ブリッセルの短期牧師養成所を終わると、みずから志願して貧しいベルギーの炭鉱ボリナージュにおもむいた。ここでの彼は熱烈な信仰心から、すべてを犠牲にして伝道に従事したが、結局は失敗し、それとともに宗教的情熱も薄れて、一年に近い放浪生活のなかから、1880年になってようやく画家としての道を選んだ。そして、ブリッッセル、ハーグ、アンベルスの各地で勉強をつづけたが、彼の描くものは絶えず労働者や農民など、現実の下層の人たちの姿であり、その周辺の生活、風景であった。しかもその間、貧困と病苦につきまとわれ、また二度、三度恋愛に失敗した。1883年9月、疲れ果ててドレスデンへ逃れ、同年12月にはヌエネンの両親のもとに移り、孤独に耐えつつ絵画に専念する。彼の初期の傑作といわれる「馬鈴薯をたべる人たち」(1885)は、こうした時期の作品である。

松下奈緒「ゴッホの青春 そして色彩が生まれた」で「なぜヌエネン時代は真っ黒な絵だったのか」という疑問を解き明かしている。若きゴッホが尊敬するオランダの画家レムブラントに憧れていたからだと説く。ゴッホに自画像作品が多いのもレムブラントからの影響の1つである。

( keyword;Vincent van Gogh )

2016年11月12日 (土)

ゴッホとイタリアの女

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  1886年冬から1888年2月19日まで、ゴッホのパリ時代といわれる。パリではロートレック、エミール・ベルナール、ドガ、ピサロら印象派の画家たちと親しくなり、日本の浮世絵版画とも出会った。だがわずか1年ばかりで南仏アルルへ行ったのはなぜだろう。陰鬱なパリの気候、あるいは深酒の習慣を治したかったのか。それともう一つ考えられるのは、13歳年上のイタリア女性アゴスティーナ・セガトーリ(1841-1910)とのただならぬ愛人関係である。彼女をモデルとした数枚の絵が残っている。「カフェー・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」(別名タンブランの女,1887)、「イタリアの女」(1887)である。クリッシー通りにあるいかがわしい酒場デュ・タンブラン(キャバレー)の女主人セガトーリはイタリア生れの46歳。「タンブランの女」(F370)には仕事を終えてほっとしている表情にどこか虚ろにみえる。煙草と飲酒によって疲れている様子がうかがえる。ゴッホもパリでアブサンを飲むことをおぼえ、健康を損なうようになった。「イタリアの女」(F381)もモデルはセガトーリとするのが定説である。ニューヨーク個人蔵の「草原に座る女」(F367)はモネの影響が見えるが、モデルはやはりセガトーリであるかもしれない。

 

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 草原に座る女

( keyword;van Gogh,Agostina Segatori,Paris Clicy,Femme au Tambourin )

2016年7月27日 (水)

ゴッホの自殺は失恋が一因にある?

Img_ 1890年7月27日、ゴッホが夕刻ピストル自殺を図った。29日、テオに見守られながら息を引き取る。37歳。自殺の原因はいろいろ考えられるが本当の理由はわからない。ただその数ヶ月前に描かれたゴッホの一枚の絵のモデルの女性マルグリット・ガシェについて調べてみたい。

   医師ガシェの娘マルグリット(あるいはマルガリット)である。ピアノをひく女性は未婚であるが、あまり若い娘のようにはみえない。30歳前後であろうか。ゴッホは医師ガシェと親しくなり、尊敬していたようである。ガシェの家にも出入りし、娘をモデルにして絵を描いているので、ゴッホとマルグリットは親しく会話もしたであろう。白にピンクの服と黒いコントラスト、装飾的な背景の処理などみると、とても数ヶ月後に自殺する人の絵とは思えない、穏やかで平和な家庭の気分が伝わってくる。ゴッホはマルグリットに恋をしていたようだ。このようなタテに長い絵はゴッホには珍しい。特別な感情のあらわれではないだろうか。しかし、ここでもゴッホの恋はみのることはなかった。それは相当な痛手であったに違いない。生きていることそれ自体が無意味に感じられ、生への希望を奪った原因の一つと考えている。映画「ヴァン・ゴッホ」(1991年)では、マルグリットがゴッホに恋をしたように描かれているが、これは創作だろう。(Vincent van Gogh,Marguerite Gachet)

2016年4月 1日 (金)

ゴッホ耳切り事件

168651_1457627699_2_450    フランス西部ブルターニュにあるポン・タヴァンは、人口500人ほどの小さな村だったが、1886年にポール・ゴーギャン(1848-1903)が最初に訪れたころには、すでに画家たちにはよく知られた保養地となっていた。ゴーギャンはこの町で仕事に熱中するとともに、ボヘミアンのような生活を送ったが、ほかの芸術家たちは彼の強い性格を尊敬していた。ゴーギャンの周囲に集まった若い画家たち、エミール・ベルナール(1868-1941)、ポール・セリュジェ(1863-1927)、クーノ・アミエ(1868-1961)、アルマン・セガン(1869-1903)らは後にポン・タヴァン派と呼ばれ、20世紀美術を予告するような様々な絵画制作上の実験を行なった。

   1888年10月、ゴーギャンは2年ばかり前にパリで会ったことのあるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)からの招きで、南フランスのアルルで共同生活をすることになった。ゴーギャン40歳、ゴッホ35歳。最初の数週間の共同生活は順調だった。しかし、共同生活するには、2人の個性はあまりにも違いすぎた。見たものしか描けないゴッホに対して、ゴーギャンは想像力を駆使して表現した。また、画材の使い方や、お金のやりくりなどで、乱雑さが目立つゴッホは、神経質で几帳面なゴーギャンに、何度もその弱点を指摘されている。そして1888年12月23日、クリスマスをひかえた町を歩くゴーギャンを、突然かみそりを持ったゴッホが追いかけてきた。驚いたゴーギャンが、それでも厳しい視線でにらみつけると、ゴッホは何もできず、そのままうなだれて走り去る。翌日になって、ゴーギャンが家に戻ってみると、ゴッホは血まみれになってシーツにくるまっていた。この「耳切り事件」によって、ゴーギャンとゴッホの2ヵ月間の共同生活は終わった。パリに戻ったゴーギャンは、1891年4月1日、マルセイユから船出してタヒチに向かった。(Paul Gauguin,Pont-Aven)

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