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2022年5月16日 (月)

グレッチェン・コルベット

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   刑事コロンボ「自縛の紐」(1974)はシリーズ中でも最高傑作。なかでも健康クラブのオーナーの秘書ジェシカ(グレッチェン・コルベット)に注目したい。秘書の執務中は地味だが、パーティー・ドレス、マイロの豪邸でのビキニなど見事に変身していく。当時は27歳。映画「呪われたジェシカ」の時が24歳。テレビ出演も多く、「ロックフォード氏の事件メモ」の女弁護士ベスなど不思議な魅力のあった70年代ビューティー・ガールだった。現在は74歳になる。
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2022年5月13日 (金)

「蒲団」横山芳子のモデル・岡田美知代

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 本日は「花袋忌」。明治・大正の自然主義の文豪、田山花袋の1930年の忌日。

  芳子が常に用いていた蒲団、萌黄唐草の敷蒲団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引き出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた。

 

    田山花袋(1871-1930)が明治40年9月、「新小説」に短編小説「蒲団」を発表したが、この作品は自然主義文学の代表作といわれたのみならず、私小説のさきがけとして日本近代文学史上の記念碑的作品となった。花袋(当時36歳)の大胆な告白と「蒲団」のモデルとなった「私のアンナ・マアル」こと岡田美知代(当時23歳)との恋愛関係の事実性が当時から世間の注目を浴びた。文学上で言い換えれば「蒲団」の虚実論争であろう。

 

   神戸の女学院の生徒で、生まれは備中の新見町で、渠の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情をもって充てられた一通の手紙を受け取ったのはそのころのことであった。竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手紙はこれまでにも随分多かった。

 

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   芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者、母はことにすぐれた信者で、かつては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。

 

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    最初の一月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、靴下を編む、襟巻を編む、子供を遊ばせるという生き生きした態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供とともに細君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の室に徒に明らかな洋燈も、かえって侘しさを増す種であったが、今はいかに夜更けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧みに編物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉!賑やかな笑い声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。

 

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   けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置くことの不可能なのを覚った。従順なる家妻はあえてそのことに不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。時雄はいろいろに煩悶した後、細君の姉の家、軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮らしている姉の家に奇遇させて、そこから麹町の某女塾に通学させることにした。

 

  後年、花袋の弟子・水守亀之助は「わが文壇紀行」(昭和28年11月)で次のような面白いエピソードを残している。

 

   会の席で、「先生、ああいふ小説を書かれると奥さんに対して具合がわるくないですか」と、中村武羅夫君が質問して大笑いになったことがあった。「そりゃあ わるいよ」といって先生は苦笑された

 

Photo_2     横山芳子こと岡田美知代(1885-1968)は広島県府中市上下町出身で、兄の岡田実麿(1878-1943)は明治期、神戸高商の英語教授だった。明治40年には夏目漱石の後任として旧制第一高等学校の教授となった。まもなく、明治大学に移り、同僚の山崎寿春に誘われて東京高等受験講習会(現在の駿台予備校)で昭和14年まで英語を教えた。妹の岡田美知代は兄を頼って神戸女学院に学んだ。その後上京して田山花袋の弟子となった。美知代は「蒲団」の学生田中のモデルの永代静雄(ながよしずお 1886-1944)とは結婚を反対されたが一男一女をもうけ、大正6年には入籍する。その後離婚し、両者は異なる相手と結婚しそれぞれの道を歩む。永代との間にできた子を花袋はみるにみかねて親友の太田玉茗(1871-1927、「田舎教師」の山形古城のモデル、建福寺住職)に養育をたのんだが、子供は3歳くらいで死んだ。田山花袋と岡田美知代との関係は花袋の書簡などからもあくまで作品は虚構であり、実際上二人の間に恋愛関係があったわけではなく、花袋の胸中にのみあった片思いなのだ。美知代自身も「蒲団」のモデルが自分であることを知らなかったという。(この話には少し無理がある)。美知代は「蒲団」のモデルとされたことに対して花袋に抗議する手紙を書いている。その後の永代(岡田)美知代の文学者としての活動は詳しく知らない。作品には「女学生の恋物語」「森の黄昏」(明治39年10月文芸倶楽部)「縁談」「岡沢の家」「里子」等が残されている。(「岡田美知代作品集」全3巻、上下町教育委員会)のち婦人記者として大正15年、長男を連れて渡米し、17年間を過ごす。晩年はアメリカで再婚した花田氏と庄原市に住み、昭和43年、83歳で他界する。(永代美知子「「蒲団」、「縁」及び私」新潮大正4年9)5月13日。

2022年4月27日 (水)

悪妻の日

Img_0005   「良妻に恵まれれば、幸福になれるだろう。悪妻を持てば哲学者になれる」本日はソクラテスの命日だが、悪妻の日でもある。文豪シェイクスピアの8歳年上のアン・ハサウェイも一般には悪妻として知られている。夏目漱石の妻はどうだろうか。 夏目漱石は第五高等学校(現熊本大学)の英語教師時代に、中根鏡子と見合い結婚している。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」といっている。夏目鏡子は通説では「悪妻」という評判であった。しかし2011年夏、古書市で鏡子の3通の手紙が発見された。明治43年の日付があり、漱石の修善寺大患の容態を心配したり、家庭のことや門下生のことを思いやる妻らしい面がみえる。鏡子は悪妻ではない。(4月27日)

2022年4月13日 (水)

内村鑑三の離婚

    内村鑑三(1861-1930)はその生涯で三度の結婚をしている。1度目は、明治17年24歳のときに浅田タケと恋愛結婚。そして同年に離婚。2度目は、明治22年29歳のときに横浜加寿子と結婚。3度目は、明治25年32歳のときに岡田シズと結婚している。

    浅田タケは1861年3月11日生まれで、内村より12日早い。明治11年、安中教会で洗礼を受け、同志社女学校、横浜の普通学校(共立女学校)で学んだ。内村はタケのことを「おとなしいが、なかなか教養のある頭の切れる女性で、いくつかの困難をなめ、キリストのために働く精神に満ちている。年は21歳。内気で、英語力は劣るが日本語の文は上手である」と手紙に書いている。しかし年齢は実は二歳若く称していて、実際は内村と同年であった。この偽りが破局の一因にもなる。

   明治17年3月28日、結婚式を上野池之端長酡亭で挙げた。出席した太田(新渡戸)稲造も札幌の宮部金吾に結婚式の模様を伝えている。

    ロンの結婚式も、昨夜無事すみました。彼女について、ぼくからなにもお知らせしなかったので、君は心配のあまり速達便をよこしたが、それには子細があって今は話せない。3年か5年のうちには打ち明けましょう。新婦は聡明な女性です。彼らが幸福に暮らすように祈っています。

   「ロン」は長身で脛の長いことからきた内村のニックネームである。とにかく、ある不安材料をかかえながらのスタートだったことがうかがえる。そして、この数日後の宮部金吾あての手紙には「妻の元気がよすぎて、彼女自身性格の情熱を抑えるのに苦労していること」が書かれている。そして、わずか8ヵ月で、二人の生活は崩壊した。破局の理由については、内村は手紙でタケを「悪の張本人」「羊の皮を着た狼」とあり「妻の姦淫」を想像させる内容である。ただし内村のいう「姦淫」は、肉体的なものとはかぎらず、キリスト教での精神的な意味での使用も含まれるであろう。近親者から出ている理由としては、タケの虚言癖、虚栄心である。その第一は、結婚衣装を借りていたにもかかわらず、自分の家のものと言っていたこと、第二は、内村の給料30円の紛失をめぐり疑いをかけられたこと、第三は、年齢が内村と同年であるのに二歳偽っていたこと、などである。そのほか、一説によると高崎教会の星野光多との密会なども挙げられる。ほかにタケの横浜時代からの雨森信成(1856-1906)との男女関係もあげられている。いずれにしても、浅田タケは魅力的な近代女性だったようで、内村の激しい性格とは一致しないことは、周囲の友人たちもわかっていたようであり、太田稲造の手紙の意味もわかるような気がする。浅田タケの離婚後の人生については、何も知らない。(参考:『内村鑑三日録 1 青年の旅』鈴木範久)

2022年2月11日 (金)

皇女和宮と天璋院篤姫

Photo 1862年のこの日、将軍徳川家茂と皇妹の和宮との婚礼が行われる。政略結婚にもかかわらず、家茂と和宮は仲睦まじく暮らすが、家茂は1866年に病死、和宮は21歳で未亡人となる。このとき江戸城大奥を完全に支配していた人物は、天璋院篤姫であった。篤姫は薩摩藩から13代将軍家定に嫁ぎ、家定の死後は14代将軍の家茂を補佐する。皇家から嫁いだ和宮と初めて対面した際、篤姫は上座に座り、菌(しとね)の上に着座したのに対し、和宮は下座に座らされ、しかも菌がなかった。和宮はこれを屈辱に感じ、以後2人の間には確執が生れた。だが、徳川家が窮地に立たされると、それぞれの立場から、官軍に江戸攻撃の中止と徳川家の存続を訴えかけた。和宮は「公武一和」の旗印のもとで、姑である天璋院篤姫とともに、徳川宗家を守り抜くことに婦道を全うした。女の一分を貫きとおした二人である。(2月11日)

 

 

2022年2月 1日 (火)

金髪をなびかせて

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  昭和29年2月1日、マリリン・モンロー夫妻が来日した。東京を吹きまくったモンローのセクシー旋風は、西へ西へと移動し、九州まで及んだ。夫君ジョー・ディマジオが野球コーチに専念しているあいだ、さらにモンロー女史は単身飛行機で24日、朝鮮へと旅立った。ジェ-ン・ラッセルからマリリン・モンローへとGⅠのピンナップ・ガールの今や№1となった折も折、当のご本尊がやって来たとあっては、集まるわ集まるわ、国連軍最大の作戦といえどもこれほどのGⅠが参集することはないと言われる。特設のステージの上にたったマリリンを囲む、男、男、男・・・・。「こんなに男ばっかり集まっているのを見たのは生まれてはじめてだワ!」という彼女、およらくはよくぞ女に生まれけり、と心から思ったに違いない。寒い朝鮮の冬の下で、薄いドレス一枚での歴史的な大熱唱のステージだった。

2022年1月31日 (月)

オードリー・ヘプバーンとグレース・ケリー

  オードリー・ヘプバーンとグレース・ケリーは生まれも同年で活躍時期も1950年代とほぼ重なる。1956年にグレースがモナコ妃となり引退するが、オードリーも1967年以降は半ば引退同然のような状態で女優キャリアも似ている。身長も2人は170cmくらい。趣味もオードリーがガーデニング、グレースも「トコリの橋」で来日し、日本文化に造詣があり、とくに華道には関心が高かった。享年がオードリーが63歳、グレースが52歳、と共にはやくこの世を去っている。いまのところオードリー・ヘプバーン、グレース・ケリーを凌ぐ美女は現れていないというのが大方のみるところ。

 

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少女時代の写真をみると、髪型、襟付きワンピースと同じ

生れ  1929.5.4                1929.11.12

 

         ベルキーブリッセル 米国フィラデルフィア

 

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 麗しのサブリナ            上流社会

2022年1月15日 (土)

グレタ・ガルボ結婚!?

  「結婚をしないで、なんて私は馬鹿だったんでしょう。これまで見たものの中で最も美しかったものは、手を組んで歩く老夫婦の姿でした。」と無声映画時代の美人女優グレタ・ガルボの名言が残されている。彼女が85歳で死去するまで生涯独身だったことはよく知られている。わが国の原節子と並んで「永遠の処女」といわれる。だが昭和史全記録(毎日新聞社)の1934年1月15日付の記事には「ガルボ結婚」とある。お相手は「クリスチナ女王」の監督ルーベン・マムリーアンでアリゾナ州ウィリアムで極秘結婚とのこと。誤報であったが、新聞記事索引にはガルボの結婚報道はいつまでも残っている。

 

 

2021年12月 2日 (木)

ふたりのジーン・ミューア

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ジーン・ミューア 女優    デザイナー

 名前は体を表わす。NHKバラエティ番組「日本人のおなまえ、同姓同名さん、いらっしゃい」有名人と同姓同名に生まれた一般人の悲喜こもごも。著名人同士にも同姓同名がいる。

ジョージ・シーガルという名前は俳優とポップ・アートの彫刻家がいる。同姓同名には混同がつきもの。ジョー・コールはサッカー選手と俳優がいる。現在活躍中のフィギュア・スケートのヴィヴェカ・リンドフォース選手(1999年生まれ)。実は往年の美人女優ヴィヴェカ・リンドフォース(1920ー1995)がいる。女優のジーン・ミューア(1911-1996)にもイギリスのデザイナー、ジーン・ミューア(1928-1995)がいる。ほとんど同時期に活躍している。ジーン・ミューアは1930年代から1940年代にかけてワーナー・ブラザーズの人気女優だったので、デザイナーがその名前を利用したのかもしれない。( Jean Muir,Gerge Segal )

2021年11月21日 (日)

竹柏園歌人、竹屋雅子

     声あげてなくよりも げに悲しきは

               涙かくして  笑ふなりけり

    今日、竹屋雅子(1866-1917)といっても、誰一人として知る人もないであろうが、明治30年前後には、佐佐木弘綱門下に、その人ありと知られた才媛であった。因みに、明治29年4月京都岸本亀次郎発行の「大日本歌人見立鑑」によれば、税所敦子、鶴久子、中島歌子、下田歌子、松廼門三艸子を上位におき、次位に水原未瑳子、小池道子、竹屋雅子の名が見える。

    慶応2年(1866年)5月13日、伊勢亀山に生まれる。家は浄土真宗の寺院で、父は渥美契縁(あつみかいえん、1841-1906)、母は幸子(さちこ)の長女。閑雅(みやび)と名づけられた。筆名雅子、万さ子。渥美契縁は東本願寺火災後の再建に功があり、東本願寺の今日の基を築いたといわれる傑僧で、多く京都に住み、晩年は石川県小松の本覚寺の住職となった。雅子の幼時は京都で過ごしたので、雅子の歌には京都近辺の歌枕をよみこんだものが多い。妹二人弟一人の三人の弟妹があったが、妹の一人は夭折し、一人は、後に東本願寺事務総長・阿部恵水に嫁して、名を亮子(さやこ)といった。弟の渥美契芳(あつみかいほう)は長じて、本覚寺の住職をついだ。

   明治14年、16歳の渥美雅子は女紅場(京都府立第一高女)を卒業し、学習院女子部(華族女学校の前身)に入学。和歌及び古典を竹柏園・佐佐木弘綱に学ぶ。明治19年、子爵竹屋光昭の嗣子、竹屋光富(たけやみつたか)に嫁し、五人の子女を得ている。夫は世間知らずの若様で、人にだまされて手を出した事業に連座して、刑事問題にふれる事件が起こり、嗣子を廃された。税所敦子、小池道子、大塚楠緒子などと交友し、竹柏園の機関誌「心の花」にも関係していた。明治36年頃、光富と離婚し、塩谷吟策(しおのやぎんさく)と再婚した。吟策は、森有礼と共に、明治義会中学校の創始者であった。大正6年11月21日、現在の千代田区富士見町(法政大学の敷地内)において胃癌で死去。享年52歳。

 

 

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