無料ブログはココログ

2026年3月14日 (土)

ジェニファーといえばジェニファー・ローレンスという現在

  ジェニファー・ローレンスの「世界にひとつのプレイブック」(2012年)を見る。いまや世界で最も注目を集めている女優のひとり。ハワイで大麻疑惑やニコラス・ホルト、クリス・マーティンとのロマンスと公私ともどもゴシップ欄を賑わせている。まだ数本の作品しかしらないので、画像で金髪や黒髪やらで顔や表情がとても変化に富む。映画では3年前に夫を事故で亡くして、職場の男性と片っ端からSEXして気分の浮き沈みが常に激しく情緒不安定。ダンスに情熱をもやし、大会に出場するもセクシーすぎて評価されず。この一作でジェニファーという女性名前はローレンスが独占したようなもの。ジェニファーという名前は1970年代から流行した。これまでジェニファーといえば、ジェニファー・オニール、ジェニファー・グレイ、ジェニファー・ビールス、ジェニファー・ロペス、ジェニファー・アニストン、ジェニファー・コネリー、ジェニファー・ラニヨン、ジェニファー・ラブ・ヒューイット、ジェニファー・グッドウィン等がいた。でも私はやはりジェニファーといえば、ジェニファー・ジョーンズ。

ジェニファー・ローレンスはその後も「ハンガー・ゲーム」と「X‐MEN」の人気シリーズ、「パッセンジャー」や「レッド・スパロー」などヒット作を連発している。その魅力はどこにあるのか。ふわふわとした金髪。スタイルもよく美人そうだけど、そうじゃない気もする。胸は大きくないが、胸チラの露出度は高い。セクシー系というより癒し系。見ていて親近感がわく、ちょうどよい美人。男性客が映画館でみたい女優No.1というだけのことはある。

 

Terminalstationjenniferjones

 




Lajenniferjones1946_kutngnnc






2026年2月16日 (月)

あの娘はもういない「スーザン・オリバー」

Susanolivergallery   ドラマ「「逃亡者」(1963年版)にはいくつか2話連続の物語がある。「さよならはいや」もその一つ。ロサンゼルス近郊の港町。ヨット工房で働くリチャード・キンブル。そこでカレン(スーザン・オリバー)と恋仲になる。ロバート・デュバルはキンブルを怪しげな男とにらんでいる。カレンはヨットレースに出て、そのまま二人でメキシコに逃走する計画を立てる。だがジェラード警部はマッチの捨てかすから工房の場所をつきとめる。

    一緒にヨットを操縦する元気な女優さん。スーザン・オリバー(1932-1990)は「インベーダー」「ルート66」「宇宙大作戦」など多くのTV出演し、アメリカでは誰でも知っている人気女優だった。実は若い頃、日本で育った。戦後、昭和23年から24年ごろ東京の学校に通っていた。日本語が上手で日本文化に興味を持った。16歳の少女スーザンの目には戦後日本がどのように映ったのだろうか。活動的でパイロットの資格もあり、ニューヨーク・モスクワ間を単独飛行しようとした話も伝わる。もっと日本で人気がでてもいい女優さんだった。ヨット工房の職人ロバート・デュヴァルは当時32歳だった既にハゲている。のちアカデミー賞常連の名優になるとは誰が予測しただろうか。そのロバート・デュヴァルも先日、95歳で亡くなった。(Suzan Oliver)

 

 

 

Photo_3

 

Img_0013

 

   代表作は「バタフィールド8」「ハートでキッス」「マードックの拳銃」「底抜け00の男」「底抜け再就職も楽じゃない」など。

2026年2月10日 (火)

クロエ・モレッツの結婚

   本日はクロエ・モレッツの誕生日。いま世界中でトップクラスの旬の人気女優。1997年2月10日、29歳。ジョージア州アトランタ生れ。身長163㎝。日本でいえば、芳根京子(波うららかに、めおと日和)、小芝風花(事件はその周りで起きている)、杉咲花(冬のなんかさ、春のなんかね)、桜井日奈子(人事の人見)、今田美桜(あんぱん)、斎藤京子(恋愛裁判)、上白石萌音(夜明けのすべて)、松本穂香(50分間の恋人)、森田望智(ナイトフラワー)らと同世代女優。つまり今、結婚したらロス確定の美女ばかりだ。ところがクロエ・モレッツは昨年に結婚を公表している。父は医者で母は看護士。兄が4人いて、その中の一人トレヴァー・デューク・モレッツが演劇学校に合格した時に、母や兄と共にニューヨークに移る。7歳のとき映画「悪魔の棲む家」に少女チェルシー役で出演。最初は少女モデルをしていたが、2010年の「キック・アス」で演じたヒット・ガール役が評判を呼び、一躍注目の少女スターとなった。「キャリー」(2013)や「フィフス・ウェイブ」(2016)で若手人気ナンバーワンとなる。人気絶頂の頃、加工した画像がネット上に拡散され、「身体醜形症」に悩まされた。2年ほど休養後、復帰。夢は郊外に牧場をもつことだそうだ。クロエ・モレッツの結婚のお相手は6歳年上のモデルのケイト・ハリソン。つまり同姓婚なのだ。正式名はクロエ・グレース・モレッツだが、最近はミドルネームのグレースを外した名前でクレジットされる。最新作は「なんて楽しいクリスマス」。Chole Grace Moretz,Hit Girl

2026年1月 3日 (土)

ひのえうま迷信

  2026年は「丙午」の年に当たる。 丙午に生れた女は男を喰う、気の強い女という迷信がある。八百屋お七が丙午生まれ、とされたことから女性の結婚に関する迷信に変化した。丙午に生まれた女は「気性が激しく、嫁ぎ先に災いをもたらす」とされた。この迷信は、1906年のときより、昭和になっても根強く残り、1966年の出生率は前年に比べて25%も激減した。テレビや週刊誌などのマスコミの影響も大きかった。丙午の女性有名人には有森裕子、江角マキ子、国生さゆり、小泉今日子、斉藤由貴、鈴木保奈美、財前直見、安田成美、早見優、渡辺美里、広瀬香美、君島十和子、松本明子、村上里佳子、川上麻衣子、伊藤かずえ、大沢逸美ら多数いる。亭主を食い殺す、気の強い女、という説が一部にみられるとしても、同学年の女子全員が同じような性格ということはありえない。むしろ平和で静かな家庭生活を営んでいる女性がほとんどであろう。ひのえうま迷信が60年前メディアで大きく取り上げた反省から、今年はメディアで触れることは全く無くなった。参考文献;「昭和41年丙午に関連する社会人口学的行動の研究」坂井博満 人口学研究18(0) 1995年

 

 

 

2025年10月22日 (水)

柳原白蓮

Img_1403670_39541599_1

 

  人妻の恋愛が姦通罪に問われた時代に、恋愛の自由を実際の行動にうつして世間の注目を浴びた一組の男女がいた。柳原白蓮(37歳)と宮崎龍介(30歳)。閨秀歌人白蓮は九州一の炭鉱王伊藤伝右衛門の妻でありながら、東京大学の社会思想団体「新人会」の宮崎龍介と恋におちた。大正10年10月22日付の東京朝日新聞には、

    「もはや今日はわたしの良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機にのぞみました。すなわち虚偽を去り真実につくときがまいりました。よってこの手紙によりわたしは金力をもって女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の訣別を告げます」という公開絶縁状を掲載した。

    新聞記者たちは、京都祇園の「伊里」へ殺到した。商用を終えた伊藤伝右衛門は妾が経営しているその料理屋にいた。「そんなばかなことがあるものか」事実を知らされた伊藤は怒り叫び、ただちに毎日新聞にその反論を載せ、世論はこの問題に沸いたという。白蓮の行動を勇気ある決断として声援すべきか、それとも、不道徳の名のもとに糾弾すべきか、白蓮夫人は揺れ動く世論の渦に巻き込まれた。この恋の結末は、白蓮の家族からの除籍と総べての財産没収により離婚が成立した。人妻の恋という奔放な行動で世間を騒がせたふたりの恋の結末は、幸福なものだったといえるであろう。

 

 

2025年10月16日 (木)

マリー・アントワネットとクロワッサン

 1793年のこの日、マリー・アントワネットはギロチンで処刑された。パリ五輪の開会式。マリー・アントワネットに扮したと思われる女性が赤いドレスに身にまとい、自身の生首を抱えて歌い始めた。この奇抜な演出には賛否が分かれた。マリー・アントワネットはいまでも世界史で最も有名な女性の一人でエピソードも数多くある。バターをたっぷり練り込んだ生地を重ねて焼き上げたパン「クロワッサン」。クロワッサンが生まれたのは17世紀後半のオーストリアのウィーンである。オーストリアはトルコと戦争をしていた。ウィーンを包囲したオスマントルコ軍は、地下道を掘ってウィーンを陥落させようと目論んでいた。ところがある日、地下の工房で働いていたウィーンのパン職人が、トンネルの掘る怪しい音に気づいて軍に通報。彼の通報のおかげでオスマントルコ軍を撃退できたのである。オーストリアの皇帝はパン職人の功績をたたえ、喜んだパン職人は、戦勝を記念してオスマントルコの国旗に描かれた三日月の形をパンを焼いた。これがやがてフランスに伝わり、現在のクロワッサンになったといわている。それはあのマリー・アントワネットが大きくかかわっている。1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの第15子としてウィーンのシェーンブルン宮殿で生れた。14歳でフランス王ルイ16世の妃としてベルサイユへ輿入れした。盛大な結婚式のとき、オーストリアからパン職人も連れてきて、「キプフェル」という三日月形のパンも食卓を飾った。その後、パリのパン職人も皇太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった。フランス語では三日月をクロワッサンというので、「キプフェル」は「クロワッサン」と名を変えて世界中で知られるようになった。

    マリー・アントワネットがどんなに思慮のない、浪費家だったかを物語るエピソードは多数の残されているが、お菓子に関する話を一つ。パリの飢えたおかみさんたちが「パンをよこせ」と叫んで、雨の中をベルサイユ宮殿に押し寄せた。その時彼女は、人民どもはなんだってあんなに騒いでいるの、と側近のものにたずねた。パンがないのですからと答えると、彼女は「パンがなければブリオッシュ(一種の菓子パン)を食べればいいじゃないの」と言ったと伝えられている。

 マリー・アントワネットは、軽佻浮薄、乱費贅沢の限りをつくしたといえども、一掬の涙を誘うものがある。むかし深田恭子が「わたしはチョコレートが好きでマリーもチョコが好き」とか、誕生日(11月2日)が同じで「私はマリー・アントワネットの生まれ変わり」と言っていた。(10月16日)

 

 

2025年10月15日 (水)

龍馬の婚約者・千葉佐那

 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。馬によく乗り、剣も強く、長刀もできて、力は並の男より強く、美貌で知られた。龍馬と知り合い、婚約したが、帰国後は疎遠になった。龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごした。明治29年10月15日、59歳で死去した。墓地は、甲府市清運寺にあり、墓石には「坂本龍馬室」と彫られている。

 

 

 

2025年5月 2日 (金)

レオナルド・ダ・ヴィンチ

2289dbe0    1519年のこの日レオナルド・ダ・ヴィンチはフランス王フランソワ1世の居城アンポワーズ城近くのクルーの館で死去した。享年65歳。当時フランソワ1世は晩年のレオナルドを支え、レオナルドは王の腕の中で息を引き取ったという伝承が残っている。レオナルドが「モナ・リザ」を描きはじめたのは、1503年10月、彼が51歳の頃だといわれる。そして3年から4年の制作期間を経て1506年ころ、完成した。この西洋絵画史で最も有名な作品ともいえる「モナ・リザ」のモデルとなった女性は誰か?フィレンツェの裕福な織物商人のフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リーザ・ゲラルディーニの肖像であるというのが通説になっている。近年、ドイツでモナ・リザのモデルがリーザであることを裏付ける文献が発見された。古書の欄外に「レオナルド・ダ・ヴィンチは今、リーザ・デル・ジョコンドの肖像画を描いている」との書き込みが見つかった。リーザは4年前に娘を亡くしており、この肖像画が描かれた当時リーザの年齢は24歳であった。リーザがいつも哀しい表情だったので、ダ・ヴィンチは制作中に音楽家と道化師を雇ってリーザを癒していたといわれる。(5月2日)

2025年4月27日 (日)

悪妻の日

Img_0005   「良妻に恵まれれば、幸福になれるだろう。悪妻を持てば哲学者になれる」本日はソクラテスの命日だが、悪妻の日でもある。文豪シェイクスピアの8歳年上のアン・ハサウェイも一般には悪妻として知られている。夏目漱石の妻はどうだろうか。 夏目漱石は第五高等学校(現熊本大学)の英語教師時代に、中根鏡子と見合い結婚している。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」といっている。夏目鏡子は通説では「悪妻」という評判であった。しかし2011年夏、古書市で鏡子の3通の手紙が発見された。明治43年の日付があり、漱石の修善寺大患の容態を心配したり、家庭のことや門下生のことを思いやる妻らしい面がみえる。鏡子は悪妻ではない。(4月27日)

2025年4月19日 (土)

太宰治の死について

Photo_2  「人間失格」「斜陽」「津軽」など死後68 年を経た今でも読み継がれ、日本近代文学作家の中でダントツの人気がある太宰治だが、昭和23 年6月13日、山崎富栄(画像)という戦争未亡人と玉川上水に入水自殺した。山崎富栄(1919-1948)は、日本で最初の美容学校の創立者である山崎晴弘、信子夫妻の末娘として、大正8年9月東京市本郷区東竹町に生まれた。小学校を優等の成績で卒業後、京華高女に進みのち錦秋高女に転じて同校卒業。その後もYWCAに進学して聖書、英語、演劇の研究に励み、さらに慶応義塾大学の聴講生として学ぶかたわら、銀座松屋前の美容院の経営を任されていた。

   昭和19年12月、三井物産本社の飯田富美女史の世話で、同社員・奥名修一と結婚したが、わずか二週間後に修一は単身マニラに赴任となり、そのまま現地入隊して戦闘に参加、激戦のさなか生死不明になってしまった。修一を羽田空港に身送ったあと、銀座の美容院が罹災し、お茶の水美容学校の講師として父母を援けていた富栄は、昭和20年の東京大空襲で学校が全焼してしまい、やむなく家族と共に滋賀県八日市町へ疎開した。

   昭和21年、富栄は義姉と一緒に鎌倉に戻って美容院を経営する。その年の秋、美容学校を再建するまで一時的に三鷹駅前の美容院に勤めることになり、下連雀の野川家に身を寄せた。敗戦直前、甲府から太宰治が、三鷹下連雀の旧居に戻ってきたのも、富栄が鎌倉から三鷹に移ったのと、ほぼ同じ頃であった。

 

   山崎富栄の住む野川家は、太宰の仕事場である小料理屋「千草」と、ほぼ正面に向かい合っていた。昭和22年3月27日の夜、三鷹駅前の屋台で、運命的な二人は出会う。

   その頃、太宰は太田静子の日記をもとに「斜陽」を書き初めていたのだが、静子の存在を出産まぢかの妻に知られ、もはや文通さえ困難になりつつあった。夏も終わりの頃から太宰の病状は悪化の一途を辿り、富栄は勤めを辞めて看病と秘書の仕事に専念することになった。この頃より、仕事部屋は富栄の部屋に移された。秋、静子に女児が誕生し、太宰は「治子」と命名した。養育費の送金は富栄がした。翌23年の冬、たび重なる喀血に死期近しとさとった太宰は、これまでの一切を傾けて「如是我聞」「人間失格」を書き上げる。6月13日の夜、二人は小雨降りしきる玉川上水に入水して心中する。

   病気と闘いながらの太宰の晩年の名作誕生の陰には、太宰治をめぐる三人の女性、津島美知子・太田静子・山崎富栄のそれぞれの愛があった。

参考文献:安藤宏「太宰治の恍惚と不安」国文学 平成元年三月号臨時増刊号

 

「太宰治氏の死について」座談会 椎名麟三、福田恒存、梅崎春生、楢崎勤、林芙美子、伊藤整、豊田三郎 「文芸時代1巻8号」1948年8月

 

「太宰治氏の死について」座談会 林芙美子、福田恒存、梅崎春生、伊藤整、豊田三郎、椎名麟三 「進路」1948年8月

 

辰野隆「太宰治の死について」(『凡愚問答』所収) 1955年

 

志賀直哉「太宰治の死」(『文藝』5-10   河出書房 1948年10月)

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2026年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30