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2021年8月29日 (日)

明治の女学生

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 今年度、大学生262万人で、このうち女子学生は119万人で人数、割合ともに過去最高となった。「女学生」。この言葉は明治初年頃に生まれた。わが国で女学校の最初は、明治3年創立の横浜のフェリス女学院である。明治5年に学制が公布され、明治8年にはお茶の水女子大の前身である東京女子師範学校が開校している。明治32年、高等女学校令によって高等女学校の設置が制度化されると、女学生の数は1万人を超えるようになった。矢絣の着物にエビ茶の袴、そして編上げ靴という和洋折衷が女学生スタイルの典型であった。女学生の髪形は束髪であるが、種類がいろいろあり、夜会巻、揚げ巻、行方不明、カチューシャ、マーガレット、二百三高地、さざえの壷焼きというさまざまな流行の髪形のあった。

2021年5月13日 (木)

「蒲団」のモデル・岡田美知代

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 本日は「花袋忌」。明治・大正の自然主義の文豪、田山花袋の1930年の忌日。

  芳子が常に用いていた蒲団、萌黄唐草の敷蒲団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引き出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた。

 

    田山花袋(1871-1930)が明治40年9月、「新小説」に短編小説「蒲団」を発表したが、この作品は自然主義文学の代表作といわれたのみならず、私小説のさきがけとして日本近代文学史上の記念碑的作品となった。花袋(当時36歳)の大胆な告白と「蒲団」のモデルとなった「私のアンナ・マアル」こと岡田美知代(当時23歳)との恋愛関係の事実性が当時から世間の注目を浴びた。文学上で言い換えれば「蒲団」の虚実論争であろう。

 

   神戸の女学院の生徒で、生まれは備中の新見町で、渠の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情をもって充てられた一通の手紙を受け取ったのはそのころのことであった。竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手紙はこれまでにも随分多かった。

 

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   芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者、母はことにすぐれた信者で、かつては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。

 

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    最初の一月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、靴下を編む、襟巻を編む、子供を遊ばせるという生き生きした態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供とともに細君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の室に徒に明らかな洋燈も、かえって侘しさを増す種であったが、今はいかに夜更けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧みに編物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉!賑やかな笑い声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。

 

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   けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置くことの不可能なのを覚った。従順なる家妻はあえてそのことに不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。時雄はいろいろに煩悶した後、細君の姉の家、軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮らしている姉の家に奇遇させて、そこから麹町の某女塾に通学させることにした。

 

  後年、花袋の弟子・水守亀之助は「わが文壇紀行」(昭和28年11月)で次のような面白いエピソードを残している。

 

   会の席で、「先生、ああいふ小説を書かれると奥さんに対して具合がわるくないですか」と、中村武羅夫君が質問して大笑いになったことがあった。「そりゃあ わるいよ」といって先生は苦笑された

 

Photo_2     横山芳子こと岡田美知代(1885-1968)は広島県府中市上下町出身で、兄の岡田実麿(1878-1943)は明治期、神戸高商の英語教授だった。明治40年には夏目漱石の後任として旧制第一高等学校の教授となった。まもなく、明治大学に移り、同僚の山崎寿春に誘われて東京高等受験講習会(現在の駿台予備校)で昭和14年まで英語を教えた。妹の岡田美知代は兄を頼って神戸女学院に学んだ。その後上京して田山花袋の弟子となった。美知代は「蒲団」の学生田中のモデルの永代静雄(ながよしずお 1886-1944)とは結婚を反対されたが一男一女をもうけ、大正6年には入籍する。その後離婚し、両者は異なる相手と結婚しそれぞれの道を歩む。永代との間にできた子を花袋はみるにみかねて親友の太田玉茗(1871-1927、「田舎教師」の山形古城のモデル、建福寺住職)に養育をたのんだが、子供は3歳くらいで死んだ。田山花袋と岡田美知代との関係は花袋の書簡などからもあくまで作品は虚構であり、実際上二人の間に恋愛関係があったわけではなく、花袋の胸中にのみあった片思いなのだ。美知代自身も「蒲団」のモデルが自分であることを知らなかったという。(この話には少し無理がある)。美知代は「蒲団」のモデルとされたことに対して花袋に抗議する手紙を書いている。その後の永代(岡田)美知代の文学者としての活動は詳しく知らない。作品には「女学生の恋物語」「森の黄昏」(明治39年10月文芸倶楽部)「縁談」「岡沢の家」「里子」等が残されている。(「岡田美知代作品集」全3巻、上下町教育委員会)のち婦人記者として大正15年、長男を連れて渡米し、17年間を過ごす。晩年はアメリカで再婚した花田氏と庄原市に住み、昭和43年、83歳で他界する。(永代美知子「「蒲団」、「縁」及び私」新潮大正4年9)5月13日。

2021年4月10日 (土)

ファム・ファタール

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   ファム・ファタール(Femme fatale)とは、運命の女、宿命の女という意味のフランス語。かかわった男を破滅させる、抗しがたく美しい女。女性美を崇拝した19世紀のラファエル前派の青年画家たちにとって、そのファム・ファタールの女性美の虜となって破滅することは、まさに宿命ともいうべきことであった。エリザベス・シッダルやジェーン・バーデンは背が高く、息をのむように魅力的で、理知的で神秘的な女性であったといわれる。

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)がジェーン・バーデンに初めて出会ったのはロンドンの劇場であった。当時、ロセッティはエリザベス・シッダルと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあった。だが、ジェーンはロセッティの弟子のウィリアム・モリス(1834-1896)と結婚し、ロセッティはエリザベスと結婚する。ロセッティの人妻ジェーンに対する思慕は止むことはなかった。結婚2年後には、美しきリジー(エリザベス)は、アヘンチキンの飲み過ぎで死んだ。

   モリスも妻ジェーンとは不仲であった。ロセッティとジェーンとの仲も続いた。モリスは友人のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-1893)の妻ジョージアナを愛するようになった。

    ロセッティはやがて麻薬とアルコールによって体が蝕まれていった。晩年は、病身で、気力も衰え、外出することもなくなった。1882年4月10日、53歳で亡くなった。

2021年1月27日 (水)

背が高い女性、低い女性

Article016a2241a000005dc574_634x856  最近の若い女性は皆背が高くて170cm以上でも目立たなくなってきた。芸能界でも、松嶋菜々子172cm、松下奈緒174cm、杏177cm、生方ななえ178cm、大林素子182cm、スーザン・アントン183cm。ブラジル北部ブラガンサに住む美少女エリザニー・シルバ(18歳)の身長は何と206cm。恋人フランシナルドとの身長差が45cmもある。

 

  ちなみに世界の有名女優の身長は…

ミミ・マティ    132㎝

 

ヴィヴィアン・リー 161㎝

 

マリリン・モンロー 166.4㎝

 

オードリー・ヘップバーン 170㎝

 

アンジェリーナ・ジョリー 173㎝

 

  日本の女性著名人は…

 

藤原紀香 171㎝

 

宮崎あおい 163㎝

 

広末涼子  161㎝

 

指原莉乃  159㎝

 

井上真央  158cm 

 

広瀬すず  158㎝

 

石原さとみ 157㎝

 

宮間あや  157㎝

 

吉永小百合 157cm

 

田畑智子  157㎝

 

薬師丸ひろ子 155㎝

 

大島優子  152㎝

 

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岸井ゆきの 148.5㎝

 

さくらまや  147㎝

 

 

2020年11月21日 (土)

竹柏園歌人、竹屋雅子

     声あげてなくよりも げに悲しきは

               涙かくして  笑ふなりけり

    今日、竹屋雅子(1866-1917)といっても、誰一人として知る人もないであろうが、明治30年前後には、佐佐木弘綱門下に、その人ありと知られた才媛であった。因みに、明治29年4月京都岸本亀次郎発行の「大日本歌人見立鑑」によれば、税所敦子、鶴久子、中島歌子、下田歌子、松廼門三艸子を上位におき、次位に水原未瑳子、小池道子、竹屋雅子の名が見える。

    慶応2年(1866年)5月13日、伊勢亀山に生まれる。家は浄土真宗の寺院で、父は渥美契縁(あつみかいえん、1841-1906)、母は幸子(さちこ)の長女。閑雅(みやび)と名づけられた。筆名雅子、万さ子。渥美契縁は東本願寺火災後の再建に功があり、東本願寺の今日の基を築いたといわれる傑僧で、多く京都に住み、晩年は石川県小松の本覚寺の住職となった。雅子の幼時は京都で過ごしたので、雅子の歌には京都近辺の歌枕をよみこんだものが多い。妹二人弟一人の三人の弟妹があったが、妹の一人は夭折し、一人は、後に東本願寺事務総長・阿部恵水に嫁して、名を亮子(さやこ)といった。弟の渥美契芳(あつみかいほう)は長じて、本覚寺の住職をついだ。

   明治14年、16歳の渥美雅子は女紅場(京都府立第一高女)を卒業し、学習院女子部(華族女学校の前身)に入学。和歌及び古典を竹柏園・佐佐木弘綱に学ぶ。明治19年、子爵竹屋光昭の嗣子、竹屋光富(たけやみつたか)に嫁し、五人の子女を得ている。夫は世間知らずの若様で、人にだまされて手を出した事業に連座して、刑事問題にふれる事件が起こり、嗣子を廃された。税所敦子、小池道子、大塚楠緒子などと交友し、竹柏園の機関誌「心の花」にも関係していた。明治36年頃、光富と離婚し、塩谷吟策(しおのやぎんさく)と再婚した。吟策は、森有礼と共に、明治義会中学校の創始者であった。大正6年11月21日、現在の千代田区富士見町(法政大学の敷地内)において胃癌で死去。享年52歳。

 

 

2020年10月20日 (火)

皇女和宮と天璋院篤姫

Photo 1861年のこの日、将軍徳川家茂との結婚の為、皇女和宮の一行千数百人が京都を出発した。和宮一行は中山道をへて、11月15日、江戸に到着、清水家に入った。12月11日、和宮は江戸城本丸に入り、翌1862年2月11日家重茂との婚礼が行われる。政略結婚にもかかわらず、家茂と和宮は仲睦まじく暮らすが、家茂は1866年に病死、和宮は21歳で未亡人となる。このとき江戸城大奥を完全に支配していた人物は、天璋院篤姫であった。篤姫は薩摩藩から13代将軍家定に嫁ぎ、家定の死後は14代将軍の家茂を補佐する。皇家から嫁いだ和宮と初めて対面した際、篤姫は上座に座り、菌(しとね)の上に着座したのに対し、和宮は下座に座らされ、しかも菌がなかった。和宮はこれを屈辱に感じ、以後2人の間には確執が生れた。だが、徳川家が窮地に立たされると、それぞれの立場から、官軍に江戸攻撃の中止と徳川家の存続を訴えかけた。和宮は「公武一和」の旗印のもとで、姑である天璋院篤姫とともに、徳川宗家を守り抜くことに婦道を全うした。女の一分を貫きとおした二人である。(10月20日)

 

 

2020年7月29日 (水)

ステラと広瀬すず

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 とても同一人物に見えませんね

 昨夜みた広瀬すずの「四月は君の嘘」。大筋は純愛映画の決定版「ラスト・コンサート」(1976)によく似ている。ヒロインは失意のピアニストを懸命に励ます美少女。だが彼女は不治の病を抱えていた。あの甘美なメロディーと共にヒロイン・ステラを演じたパメラ・ヴィロレージ(1957生まれ)はどうしているだろうか?日本では公開されないので、一発屋だと思っていたら、英語版ウィキペディアで調べると、主演作が多数ある。不治の病に冒された少女ステラは着実にキャリアを重ねて大女優になっていた。

2020年5月14日 (木)

世界女優史 バーバラ・スタンウィック

Photo 「希望の星」(23歳ころのバーバラ・スタンウィック)

 

 BSプレミアム「深夜の告白」(1944)を観る。バーバラ・スタンウィック37歳の作品。戦時中の映画だが、食品店のシーンで缶詰や食料品が山積みされている。日本との物量の差がはっきりとして驚いた。 バーバラ・スタンウィック(1907-1990)は5歳で孤児となり、10代から様々な職業に就いた。やがてコーラスガールとして認められ、20歳で映画デビュー。「ステラ・ダラス」「教授と美女」「深夜の告白」「私は殺される」で4度アカデミー賞にノミネートされるが受賞には至らず。フランク・キャプラ監督の「群衆」(1941)ではゲーリー・クーパーを架空の自殺志願者に仕立て上げる元気な婦人記者を好演している。キャプラとはこのほかに「希望の星」「奇蹟の処女」「たそがれの女」など名作がある。「夜の看護婦」(1931)ではクラーク・ゲイブルと共演。ゲイブルはそのころまだキャスティングの順位が5番目くらいだったけど、バーバラはいい男を発見するのがうまい。二枚目のロバート・テイラーと結婚。それからウィリアム・ホールデンを映画に入れたのも彼女。悪女役を得意としながらも人柄の良さで多くのアメリカ人に愛された女優である。名脚本家ハーマン・マンキウィッツは「バーバラと結婚して、バラを植えこんだ丘の小さな家に住む。疲れきって仕事から帰ると、焼き上げたばかりのアップルパイを手に迎えてくれる。それが男の夢だね」といったのは有名。

2020年4月16日 (木)

ファニイ・フェイス岸井ゆきの

   ファニー・フェイスとは「おかしな顔」。美人というわけではないが、個性的で魅力ある顔立ち。オードリー・ヘプバーン主演の映画「パリの恋人」(1957年)でこの言葉が流行語になった。当時はパスカル・ブチやミレーユ・ダルクなど仏女優がそう呼ばれた。「巴里のアメリカ人」「ジジ」「あしながおじさん」のレスリー・キャロンがファニイ・フェイスの代表的な女優か。日本では若林映子や加賀まりこ、そしてこの尺度を限りなく通俗化して登場したのが研ナオコである。最近人気急上昇の永野芽郁(半分、青い)や岸井ゆきの(モンテクリスト伯)らはファニー・フェイスに分類されるだろう。

 

 

2020年2月16日 (日)

ファーストレディ

   安倍晋三の首相の夫人、安倍昭恵。これまで日本の歴史では総理夫人の活動はほとんどメディアの注目するところではなかった。安倍昭恵さんの頃から海外の例に倣い「ファーストレディ」と呼ばれることもある。女性が輝く時代となったということなのだろうか。隣国中国の習近平夫人、彭麗媛は元歌手。イギリスのボリス・ジョンソン首相はマリナ・ホイーラー夫人。ロシア大統領プーチン元夫人リュドミラ・プーチナ。2013年に二人は離婚した。のちプーチナは21歳年下の実業家と再婚。プーチンは現在独身。さてご本家アメリカ合衆国では現職のファーストレディ、メラニア・トランプは元モデルで、たえずメディアの注目を浴びている。ヒラリー・クリントン、ジャクリーン・ケネディ・オナシス、エレノア・ルーズベルトも活動的なファーストレディとして知られた。初代ファースト・レディのマーサ・ワシントンや第2代大統領ジョン・アダムズの夫人アビゲイル・アダムズもよく知られている。

 

 

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