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2026年1月 3日 (土)

ひのえうま迷信

  2026年は「丙午」の年に当たる。 丙午に生れた女は男を喰う、気の強い女という迷信がある。八百屋お七が丙午生まれ、とされたことから女性の結婚に関する迷信に変化した。丙午に生まれた女は「気性が激しく、嫁ぎ先に災いをもたらす」とされた。この迷信は、1906年のときより、昭和になっても根強く残り、1966年の出生率は前年に比べて25%も激減した。テレビや週刊誌などのマスコミの影響も大きかった。丙午の女性有名人には有森裕子、江角マキ子、国生さゆり、小泉今日子、斉藤由貴、鈴木保奈美、財前直見、安田成美、早見優、渡辺美里、広瀬香美、君島十和子、松本明子、村上里佳子、川上麻衣子、伊藤かずえ、大沢逸美ら多数いる。亭主を食い殺す、気の強い女、という説が一部にみられるとしても、同学年の女子全員が同じような性格ということはありえない。むしろ平和で静かな家庭生活を営んでいる女性がほとんどであろう。ひのえうま迷信が60年前メディアで大きく取り上げた反省から、今年はメディアで触れることは全く無くなった。参考文献;「昭和41年丙午に関連する社会人口学的行動の研究」坂井博満 人口学研究18(0) 1995年

 

 

 

2025年10月22日 (水)

柳原白蓮

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  人妻の恋愛が姦通罪に問われた時代に、恋愛の自由を実際の行動にうつして世間の注目を浴びた一組の男女がいた。柳原白蓮(37歳)と宮崎龍介(30歳)。閨秀歌人白蓮は九州一の炭鉱王伊藤伝右衛門の妻でありながら、東京大学の社会思想団体「新人会」の宮崎龍介と恋におちた。大正10年10月22日付の東京朝日新聞には、

    「もはや今日はわたしの良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機にのぞみました。すなわち虚偽を去り真実につくときがまいりました。よってこの手紙によりわたしは金力をもって女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の訣別を告げます」という公開絶縁状を掲載した。

    新聞記者たちは、京都祇園の「伊里」へ殺到した。商用を終えた伊藤伝右衛門は妾が経営しているその料理屋にいた。「そんなばかなことがあるものか」事実を知らされた伊藤は怒り叫び、ただちに毎日新聞にその反論を載せ、世論はこの問題に沸いたという。白蓮の行動を勇気ある決断として声援すべきか、それとも、不道徳の名のもとに糾弾すべきか、白蓮夫人は揺れ動く世論の渦に巻き込まれた。この恋の結末は、白蓮の家族からの除籍と総べての財産没収により離婚が成立した。人妻の恋という奔放な行動で世間を騒がせたふたりの恋の結末は、幸福なものだったといえるであろう。

 

 

2025年10月16日 (木)

マリー・アントワネットとクロワッサン

 1793年のこの日、マリー・アントワネットはギロチンで処刑された。パリ五輪の開会式。マリー・アントワネットに扮したと思われる女性が赤いドレスに身にまとい、自身の生首を抱えて歌い始めた。この奇抜な演出には賛否が分かれた。マリー・アントワネットはいまでも世界史で最も有名な女性の一人でエピソードも数多くある。バターをたっぷり練り込んだ生地を重ねて焼き上げたパン「クロワッサン」。クロワッサンが生まれたのは17世紀後半のオーストリアのウィーンである。オーストリアはトルコと戦争をしていた。ウィーンを包囲したオスマントルコ軍は、地下道を掘ってウィーンを陥落させようと目論んでいた。ところがある日、地下の工房で働いていたウィーンのパン職人が、トンネルの掘る怪しい音に気づいて軍に通報。彼の通報のおかげでオスマントルコ軍を撃退できたのである。オーストリアの皇帝はパン職人の功績をたたえ、喜んだパン職人は、戦勝を記念してオスマントルコの国旗に描かれた三日月の形をパンを焼いた。これがやがてフランスに伝わり、現在のクロワッサンになったといわている。それはあのマリー・アントワネットが大きくかかわっている。1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの第15子としてウィーンのシェーンブルン宮殿で生れた。14歳でフランス王ルイ16世の妃としてベルサイユへ輿入れした。盛大な結婚式のとき、オーストリアからパン職人も連れてきて、「キプフェル」という三日月形のパンも食卓を飾った。その後、パリのパン職人も皇太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった。フランス語では三日月をクロワッサンというので、「キプフェル」は「クロワッサン」と名を変えて世界中で知られるようになった。

    マリー・アントワネットがどんなに思慮のない、浪費家だったかを物語るエピソードは多数の残されているが、お菓子に関する話を一つ。パリの飢えたおかみさんたちが「パンをよこせ」と叫んで、雨の中をベルサイユ宮殿に押し寄せた。その時彼女は、人民どもはなんだってあんなに騒いでいるの、と側近のものにたずねた。パンがないのですからと答えると、彼女は「パンがなければブリオッシュ(一種の菓子パン)を食べればいいじゃないの」と言ったと伝えられている。

 マリー・アントワネットは、軽佻浮薄、乱費贅沢の限りをつくしたといえども、一掬の涙を誘うものがある。むかし深田恭子が「わたしはチョコレートが好きでマリーもチョコが好き」とか、誕生日(11月2日)が同じで「私はマリー・アントワネットの生まれ変わり」と言っていた。(10月16日)

 

 

2025年10月15日 (水)

龍馬の婚約者・千葉佐那

 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。馬によく乗り、剣も強く、長刀もできて、力は並の男より強く、美貌で知られた。龍馬と知り合い、婚約したが、帰国後は疎遠になった。龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごした。明治29年10月15日、59歳で死去した。墓地は、甲府市清運寺にあり、墓石には「坂本龍馬室」と彫られている。

 

 

 

2025年5月 2日 (金)

レオナルド・ダ・ヴィンチ

2289dbe0    1519年のこの日レオナルド・ダ・ヴィンチはフランス王フランソワ1世の居城アンポワーズ城近くのクルーの館で死去した。享年65歳。当時フランソワ1世は晩年のレオナルドを支え、レオナルドは王の腕の中で息を引き取ったという伝承が残っている。レオナルドが「モナ・リザ」を描きはじめたのは、1503年10月、彼が51歳の頃だといわれる。そして3年から4年の制作期間を経て1506年ころ、完成した。この西洋絵画史で最も有名な作品ともいえる「モナ・リザ」のモデルとなった女性は誰か?フィレンツェの裕福な織物商人のフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リーザ・ゲラルディーニの肖像であるというのが通説になっている。近年、ドイツでモナ・リザのモデルがリーザであることを裏付ける文献が発見された。古書の欄外に「レオナルド・ダ・ヴィンチは今、リーザ・デル・ジョコンドの肖像画を描いている」との書き込みが見つかった。リーザは4年前に娘を亡くしており、この肖像画が描かれた当時リーザの年齢は24歳であった。リーザがいつも哀しい表情だったので、ダ・ヴィンチは制作中に音楽家と道化師を雇ってリーザを癒していたといわれる。(5月2日)

2025年4月27日 (日)

悪妻の日

Img_0005   「良妻に恵まれれば、幸福になれるだろう。悪妻を持てば哲学者になれる」本日はソクラテスの命日だが、悪妻の日でもある。文豪シェイクスピアの8歳年上のアン・ハサウェイも一般には悪妻として知られている。夏目漱石の妻はどうだろうか。 夏目漱石は第五高等学校(現熊本大学)の英語教師時代に、中根鏡子と見合い結婚している。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」といっている。夏目鏡子は通説では「悪妻」という評判であった。しかし2011年夏、古書市で鏡子の3通の手紙が発見された。明治43年の日付があり、漱石の修善寺大患の容態を心配したり、家庭のことや門下生のことを思いやる妻らしい面がみえる。鏡子は悪妻ではない。(4月27日)

2025年4月19日 (土)

太宰治の死について

Photo_2  「人間失格」「斜陽」「津軽」など死後68 年を経た今でも読み継がれ、日本近代文学作家の中でダントツの人気がある太宰治だが、昭和23 年6月13日、山崎富栄(画像)という戦争未亡人と玉川上水に入水自殺した。山崎富栄(1919-1948)は、日本で最初の美容学校の創立者である山崎晴弘、信子夫妻の末娘として、大正8年9月東京市本郷区東竹町に生まれた。小学校を優等の成績で卒業後、京華高女に進みのち錦秋高女に転じて同校卒業。その後もYWCAに進学して聖書、英語、演劇の研究に励み、さらに慶応義塾大学の聴講生として学ぶかたわら、銀座松屋前の美容院の経営を任されていた。

   昭和19年12月、三井物産本社の飯田富美女史の世話で、同社員・奥名修一と結婚したが、わずか二週間後に修一は単身マニラに赴任となり、そのまま現地入隊して戦闘に参加、激戦のさなか生死不明になってしまった。修一を羽田空港に身送ったあと、銀座の美容院が罹災し、お茶の水美容学校の講師として父母を援けていた富栄は、昭和20年の東京大空襲で学校が全焼してしまい、やむなく家族と共に滋賀県八日市町へ疎開した。

   昭和21年、富栄は義姉と一緒に鎌倉に戻って美容院を経営する。その年の秋、美容学校を再建するまで一時的に三鷹駅前の美容院に勤めることになり、下連雀の野川家に身を寄せた。敗戦直前、甲府から太宰治が、三鷹下連雀の旧居に戻ってきたのも、富栄が鎌倉から三鷹に移ったのと、ほぼ同じ頃であった。

 

   山崎富栄の住む野川家は、太宰の仕事場である小料理屋「千草」と、ほぼ正面に向かい合っていた。昭和22年3月27日の夜、三鷹駅前の屋台で、運命的な二人は出会う。

 

   その頃、太宰は太田静子の日記をもとに「斜陽」を書き初めていたのだが、静子の存在を出産まぢかの妻に知られ、もはや文通さえ困難になりつつあった。夏も終わりの頃から太宰の病状は悪化の一途を辿り、富栄は勤めを辞めて看病と秘書の仕事に専念することになった。この頃より、仕事部屋は富栄の部屋に移された。秋、静子に女児が誕生し、太宰は「治子」と命名した。養育費の送金は富栄がした。翌23年の冬、たび重なる喀血に死期近しとさとった太宰は、これまでの一切を傾けて「如是我聞」「人間失格」を書き上げる。6月13日の夜、二人は小雨降りしきる玉川上水に入水して心中する。

 

   病気と闘いながらの太宰の晩年の名作誕生の陰には、太宰治をめぐる三人の女性、津島美知子・太田静子・山崎富栄のそれぞれの愛があった。

 

参考文献:安藤宏「太宰治の恍惚と不安」国文学 平成元年三月号臨時増刊号

 

「太宰治氏の死について」座談会 椎名麟三、福田恒存、梅崎春生、楢崎勤、林芙美子、伊藤整、豊田三郎 「文芸時代1巻8号」1948年8月

 

「太宰治氏の死について」座談会 林芙美子、福田恒存、梅崎春生、伊藤整、豊田三郎、椎名麟三 「進路」1948年8月

 

辰野隆「太宰治の死について」(『凡愚問答』所収) 1955年

 

志賀直哉「太宰治の死」(『文藝』5-10   河出書房 1948年10月)

2025年3月26日 (水)

アメリカ東部上流婦人の歩き方

   映画「愛のメモリー」で父のクリフ・ローバトソンが娘ジュヌビエーブ・ビュジョルドに「ブリンマー・ウォーク」を教授する場面がある。この「Bryn Mawr walk」が如何なる作法か。ブリンマーとはペンシルバニア州ブリンマーのこと。津田梅子は、ここブリンマー・カレッジへ明治22年、2度目の留学をし、生物学を学んでいる。当時の女性は裾の長いドレスを着用していた。そこで滑るように歩くのが女性の作法とされていた。これがブリンマー・ウォークの起源であるが、はたして津田梅子もブリンマー・ウォークを身につけて歩いたのであろうか。映画「お熱いのがお好き?」で「あなたブリンマー、ヴァッサーを知っている?」というモンローの台詞がある。2校とも東部の名門女子校である。

 

 

 

 

2024年11月16日 (土)

美しい顔の条件

  人間の身体の部位の中でも顔は特別である。誰でも加齢により、顔の外見的な印象は変化していくが、目など俤は残されている。何万人いようと全く同じ顔などいない。千差万別である。世界でもっとも美しい映画女優は誰れ?グレタ・ガルボ、イングリット・バーグマン、ヴィヴィアン・リー、グレース・ケリー、オードリー・ヘップバーン、エリザベス・テーラー、カトリーヌ・ドヌーヴといったところか。最近ではアメリカのジュリア・ロバーツやナタリー・ポートマン、フランスのエマニュエル・べアール、イタリアのモニカ・ベルッチ、スペインのペネロペ・クルズやエルサ・パタキー、インドのシュリデビ・カプール、韓国のイ・ヨンエ、中国のコン・リー(鞏倒)、ファン・ビンビン(範冰冰)らが代表的美人女優である。

   人間の姿、とくに若い女性の像は、昔から絵画や彫刻で最も好まれた題材である。美しい顔には正面と横顔の基準がある。正面美人の条件は左右対称と輝く笑顔である。また顎からエラにかかるラインを最近では「Vライン」と呼ぶ。美しい横顔には、顎と鼻を結ぶ「Eライン」ができる。唇の位置が意Eラインの内側にあることがポイントである。Eラインはアメリカの矯正歯科医のDr.ロバート・リケッツにより研究発表されたものだが、西洋絵画をみるとすでに15世紀中頃には確立された技法であることがわかる。とくに顔の中央に位置する鼻がポイントである。「忘れ鼻」とは美しく整っているため、後から思い出そうとしてもどんな鼻だったか思い出せないような鼻のことをいう。

 ただし、美人の要件は顔だけではない。とくに古来から日本人は「たたずまい」の美学を重要視する。「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」自然に立っているだけで、落ち着いた雰囲気があるのが美人の要件のひとつである。若手女優はともすればハリキリすぎて落ち着きのないガサツな感じがするものである。そのなかで清原果耶は異色な存在であり、凛とした佇まいと透明感がある容姿で、もはや菩薩の域に達していると思える。ただ現在放送中の「マイダイアリー」は大人しすぎて共感できない。

 

 

 

 

2024年10月 6日 (日)

西アジアと美人考古学者

Photo_2     文明の誕生はメソポタミアであることはよく知られている。しかしメソポタミア流域で灌漑農耕が出現するにいたるまでには、長い先史の前史があったことは言うまでもない。それを解明するには旧石器時代、中石器時代、新石器時代から金属器時代の真の文明段階にいたる綿密な考古学的調査が不可欠である。しかし文明の揺籃地である西アジア一帯は政治的に危険地帯でなかなか調査しにくい場所でもある。前1万5千年から前1万年ころの人類は森林におおわれた山脈の洞穴に住んでいたとおもわれる。シャニダールB層からは細石器をともなう中石器時代のものが発見されている。サルジ洞窟、ハゼル・メルド洞穴から中石器文化のナトゥーフ文化が知られるようになった。この段階の文化は狩猟・採集・漁撈にあるが、野生種の麦類を食糧にしていたかもしれない農耕への動きがみられるという。農耕の存在を確実に示す遺跡はイラク北部のカリム・シャヒル(前8000年)である。ハッスーナ・サマッラ期(前5000年)、初めて灌漑をおこなったハラフ期、ウバイド期、ウルク期、ジュムラト・ナスル期、そして初期シュメール人の王朝時代ウルク第1王朝へと続く。このような西アジアの先史時代の解明に貢献したのは、イギリスの女性考古学者ドロシー・ガロッド(1892-1968)である。なぜ彼女の事績が日本でほとんど紹介されないのか不思議である。(Dorothy Annie Elizabeth Garrod)

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