「良妻に恵まれれば、幸福になれるだろう。悪妻を持てば哲学者になれる」本日はソクラテスの命日だが、悪妻の日でもある。文豪シェイクスピアの8歳年上のアン・ハサウェイも一般には悪妻として知られている。夏目漱石の妻はどうだろうか。 夏目漱石は第五高等学校(現熊本大学)の英語教師時代に、中根鏡子と見合い結婚している。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」といっている。夏目鏡子は通説では「悪妻」という評判であった。しかし2011年夏、古書市で鏡子の3通の手紙が発見された。明治43年の日付があり、漱石の修善寺大患の容態を心配したり、家庭のことや門下生のことを思いやる妻らしい面がみえる。鏡子は悪妻ではない。(4月27日)
内村鑑三(1861-1930)はその生涯で三度の結婚をしている。1度目は、明治17年24歳のときに浅田タケと恋愛結婚。そして同年に離婚。2度目は、明治22年29歳のときに横浜加寿子と結婚。3度目は、明治25年32歳のときに岡田シズと結婚している。
浅田タケは1861年3月11日生まれで、内村より12日早い。明治11年、安中教会で洗礼を受け、同志社女学校、横浜の普通学校(共立女学校)で学んだ。内村はタケのことを「おとなしいが、なかなか教養のある頭の切れる女性で、いくつかの困難をなめ、キリストのために働く精神に満ちている。年は21歳。内気で、英語力は劣るが日本語の文は上手である」と手紙に書いている。しかし年齢は実は二歳若く称していて、実際は内村と同年であった。この偽りが破局の一因にもなる。
明治17年3月28日、結婚式を上野池之端長酡亭で挙げた。出席した太田(新渡戸)稲造も札幌の宮部金吾に結婚式の模様を伝えている。
ロンの結婚式も、昨夜無事すみました。彼女について、ぼくからなにもお知らせしなかったので、君は心配のあまり速達便をよこしたが、それには子細があって今は話せない。3年か5年のうちには打ち明けましょう。新婦は聡明な女性です。彼らが幸福に暮らすように祈っています。
「ロン」は長身で脛の長いことからきた内村のニックネームである。とにかく、ある不安材料をかかえながらのスタートだったことがうかがえる。そして、この数日後の宮部金吾あての手紙には「妻の元気がよすぎて、彼女自身性格の情熱を抑えるのに苦労していること」が書かれている。そして、わずか8ヵ月で、二人の生活は崩壊した。破局の理由については、内村は手紙でタケを「悪の張本人」「羊の皮を着た狼」とあり「妻の姦淫」を想像させる内容である。ただし内村のいう「姦淫」は、肉体的なものとはかぎらず、キリスト教での精神的な意味での使用も含まれるであろう。近親者から出ている理由としては、タケの虚言癖、虚栄心である。その第一は、結婚衣装を借りていたにもかかわらず、自分の家のものと言っていたこと、第二は、内村の給料30円の紛失をめぐり疑いをかけられたこと、第三は、年齢が内村と同年であるのに二歳偽っていたこと、などである。そのほか、一説によると高崎教会の星野光多との密会なども挙げられる。ほかにタケの横浜時代からの雨森信成(1856-1906)との男女関係もあげられている。いずれにしても、浅田タケは魅力的な近代女性だったようで、内村の激しい性格とは一致しないことは、周囲の友人たちもわかっていたようであり、太田稲造の手紙の意味もわかるような気がする。浅田タケの離婚後の人生については、何も知らない。(参考:『内村鑑三日録 1 青年の旅』鈴木範久)
1862年のこの日、将軍徳川家茂と皇妹の和宮との婚礼が行われる。政略結婚にもかかわらず、家茂と和宮は仲睦まじく暮らすが、家茂は1866年に病死、和宮は21歳で未亡人となる。このとき江戸城大奥を完全に支配していた人物は、天璋院篤姫であった。篤姫は薩摩藩から13代将軍家定に嫁ぎ、家定の死後は14代将軍の家茂を補佐する。皇家から嫁いだ和宮と初めて対面した際、篤姫は上座に座り、菌(しとね)の上に着座したのに対し、和宮は下座に座らされ、しかも菌がなかった。和宮はこれを屈辱に感じ、以後2人の間には確執が生れた。だが、徳川家が窮地に立たされると、それぞれの立場から、官軍に江戸攻撃の中止と徳川家の存続を訴えかけた。和宮は「公武一和」の旗印のもとで、姑である天璋院篤姫とともに、徳川宗家を守り抜くことに婦道を全うした。女の一分を貫きとおした二人である。(2月11日)
昭和29年2月1日、マリリン・モンロー夫妻が来日した。東京を吹きまくったモンローのセクシー旋風は、西へ西へと移動し、九州まで及んだ。夫君ジョー・ディマジオが野球コーチに専念しているあいだ、さらにモンロー女史は単身飛行機で24日、朝鮮へと旅立った。ジェ-ン・ラッセルからマリリン・モンローへとGⅠのピンナップ・ガールの今や№1となった折も折、当のご本尊がやって来たとあっては、集まるわ集まるわ、国連軍最大の作戦といえどもこれほどのGⅠが参集することはないと言われる。特設のステージの上にたったマリリンを囲む、男、男、男・・・・。「こんなに男ばっかり集まっているのを見たのは生まれてはじめてだワ!」という彼女、およらくはよくぞ女に生まれけり、と心から思ったに違いない。寒い朝鮮の冬の下で、薄いドレス一枚での歴史的な大熱唱のステージだった。
オードリー・ヘプバーンとグレース・ケリーは生まれも同年で活躍時期も1950年代とほぼ重なる。1956年にグレースがモナコ妃となり引退するが、オードリーも1967年以降は半ば引退同然のような状態で女優キャリアも似ている。身長も2人は170cmくらい。趣味もオードリーがガーデニング、グレースも「トコリの橋」で来日し、日本文化に造詣があり、とくに華道には関心が高かった。享年がオードリーが63歳、グレースが52歳、と共にはやくこの世を去っている。いまのところオードリー・ヘプバーン、グレース・ケリーを凌ぐ美女は現れていないというのが大方のみるところ。
少女時代の写真をみると、髪型、襟付きワンピースと同じ
生れ 1929.5.4 1929.11.12
ベルキーブリッセル 米国フィラデルフィア
「結婚をしないで、なんて私は馬鹿だったんでしょう。これまで見たものの中で最も美しかったものは、手を組んで歩く老夫婦の姿でした。」と無声映画時代の美人女優グレタ・ガルボの名言が残されている。彼女が85歳で死去するまで生涯独身だったことはよく知られている。わが国の原節子と並んで「永遠の処女」といわれる。だが昭和史全記録(毎日新聞社)の1934年1月15日付の記事には「ガルボ結婚」とある。お相手は「クリスチナ女王」の監督ルーベン・マムリーアンでアリゾナ州ウィリアムで極秘結婚とのこと。誤報であったが、新聞記事索引にはガルボの結婚報道はいつまでも残っている。
名前は体を表わす。NHKバラエティ番組「日本人のおなまえ、同姓同名さん、いらっしゃい」有名人と同姓同名に生まれた一般人の悲喜こもごも。著名人同士にも同姓同名がいる。
ジョージ・シーガルという名前は俳優とポップ・アートの彫刻家がいる。同姓同名には混同がつきもの。ジョー・コールはサッカー選手と俳優がいる。現在活躍中のフィギュア・スケートのヴィヴェカ・リンドフォース選手(1999年生まれ)。実は往年の美人女優ヴィヴェカ・リンドフォース(1920ー1995)がいる。女優のジーン・ミューア(1911-1996)にもイギリスのデザイナー、ジーン・ミューア(1928-1995)がいる。ほとんど同時期に活躍している。ジーン・ミューアは1930年代から1940年代にかけてワーナー・ブラザーズの人気女優だったので、デザイナーがその名前を利用したのかもしれない。( Jean Muir,Gerge Segal )
声あげてなくよりも げに悲しきは
涙かくして 笑ふなりけり
今日、竹屋雅子(1866-1917)といっても、誰一人として知る人もないであろうが、明治30年前後には、佐佐木弘綱門下に、その人ありと知られた才媛であった。因みに、明治29年4月京都岸本亀次郎発行の「大日本歌人見立鑑」によれば、税所敦子、鶴久子、中島歌子、下田歌子、松廼門三艸子を上位におき、次位に水原未瑳子、小池道子、竹屋雅子の名が見える。
慶応2年(1866年)5月13日、伊勢亀山に生まれる。家は浄土真宗の寺院で、父は渥美契縁(あつみかいえん、1841-1906)、母は幸子(さちこ)の長女。閑雅(みやび)と名づけられた。筆名雅子、万さ子。渥美契縁は東本願寺火災後の再建に功があり、東本願寺の今日の基を築いたといわれる傑僧で、多く京都に住み、晩年は石川県小松の本覚寺の住職となった。雅子の幼時は京都で過ごしたので、雅子の歌には京都近辺の歌枕をよみこんだものが多い。妹二人弟一人の三人の弟妹があったが、妹の一人は夭折し、一人は、後に東本願寺事務総長・阿部恵水に嫁して、名を亮子(さやこ)といった。弟の渥美契芳(あつみかいほう)は長じて、本覚寺の住職をついだ。
明治14年、16歳の渥美雅子は女紅場(京都府立第一高女)を卒業し、学習院女子部(華族女学校の前身)に入学。和歌及び古典を竹柏園・佐佐木弘綱に学ぶ。明治19年、子爵竹屋光昭の嗣子、竹屋光富(たけやみつたか)に嫁し、五人の子女を得ている。夫は世間知らずの若様で、人にだまされて手を出した事業に連座して、刑事問題にふれる事件が起こり、嗣子を廃された。税所敦子、小池道子、大塚楠緒子などと交友し、竹柏園の機関誌「心の花」にも関係していた。明治36年頃、光富と離婚し、塩谷吟策(しおのやぎんさく)と再婚した。吟策は、森有礼と共に、明治義会中学校の創始者であった。大正6年11月21日、現在の千代田区富士見町(法政大学の敷地内)において胃癌で死去。享年52歳。
明治41年3月、アメリカのヘラルド・トリビューンという新聞社から依頼されて、日本で初めての全国美人写真コンクールがおこなわれた。1位には、九州・小倉市長・末弘直方の令嬢で学習院中等科3年生の末弘ヒロ子(数え年16歳、1892-1942)が選ばれた。日本第1位の彼女は世界では第6位として入選した。しかし、このことが学校で問題となった。当時の学習院長・乃木稀典は粋な計らいをした。末弘ヒロ子を中途退学させて、乃木将軍夫妻の仲人で、野津道貫元帥の長男・野津鎮之助と結婚させ、伯爵夫人となった。
このときの令嬢たちの写真を見ると、細面の愁い顔の美人は少なく、明眸皓歯の明るい感じの美人が多い。大正になると、映画女優が注目されだして、芸者型美人、令嬢型美人と分化される。
明治・大正時代の美人といえば、一中節の名手として有名だった日向きん子がいた。彼女は純粋の日本美人とは違っていたという。因みに日向きん子は藤田まことの伯母にあたるという。
九条武子(1887-1928)、柳原白蓮(1885-1967)、江木欣々(1877-1930)を大正三美人ということがある。九条武子は旧姓・大谷武子。明治20年10月20日、京都西本願寺大谷光尊の二女として生まれる。明治42年、男爵九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られた。柳原白蓮は北小路資武と結婚したがほどなく、離婚。九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚したが、宮崎龍介との恋愛で話題をふりまく。大正12年、宮崎と結婚し、情熱的歌人として知られた。江木欣々は、新橋の芸者で、法律学者江木衷(1858-1925)と結婚し、社交界で名を知られた。昭和5年2月20日、早川徳次(1893-1980)の家で縊死。
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