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2024年4月10日 (水)

ファム・ファタール

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   ファム・ファタール(Femme fatale)とは、運命の女、宿命の女という意味のフランス語。かかわった男を破滅させる、抗しがたく美しい女。女性美を崇拝した19世紀のラファエル前派の青年画家たちにとって、そのファム・ファタールの女性美の虜となって破滅することは、まさに宿命ともいうべきことであった。エリザベス・シッダルやジェーン・バーデンは背が高く、息をのむように魅力的で、理知的で神秘的な女性であったといわれる。

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)がジェーン・バーデンに初めて出会ったのはロンドンの劇場であった。当時、ロセッティはエリザベス・シッダルと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあった。だが、ジェーンはロセッティの弟子のウィリアム・モリス(1834-1896)と結婚し、ロセッティはエリザベスと結婚する。ロセッティの人妻ジェーンに対する思慕は止むことはなかった。結婚2年後には、美しきリジー(エリザベス)は、アヘンチキンの飲み過ぎで死んだ。

   モリスも妻ジェーンとは不仲であった。ロセッティとジェーンとの仲も続いた。モリスは友人のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-1893)の妻ジョージアナを愛するようになった。

    ロセッティはやがて麻薬とアルコールによって体が蝕まれていった。晩年は、病身で、気力も衰え、外出することもなくなった。1882年4月10日、53歳で亡くなった。

2024年3月25日 (月)

男装の麗人・川島芳子、銃殺刑(1948年)

  清朝復辟のため日本軍のスパイとして活躍し「東洋のマタハリ」と呼ばれたた川島芳子は歴史上では昭和23年3月25日、北平第一監獄の刑場で銃殺刑にされたことになっている。だが死んだのは替え玉で、川島は処刑を免れて30年近く生きていたとする生存説がある。新証言によると吉林省で1978年まで生存していたとする。戦後育ちにとっては川島芳子はどのような人物かあまりなじみがない。川島芳子は満州王族の血をひくれっきとした中国人である。軍部のためにスパイとして満州事変から満州建国にかけての時期に活躍した。とくに天津に蟄居していた溥儀の皇后・婉容を説得して満州に引き戻したといわれる。だが芳子の諜報活動の詳細な実態はなく、小説・映画などの虚構によるところが大きい。現実には上海の社交界で男遊びに明け暮れていただけだろう。

2024年3月17日 (日)

金髪をなびかせて

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 大谷翔平夫妻が韓国で大ブーム。古い話だがママリン・モンローとジョー・ディマジオのことを思い出すのは私だけだろうか。 昭和29年2月1日、マリリン・モンロー夫妻が新婚旅行で日本に来た。東京を吹きまくったモンローのセクシー旋風は、西へ西へと移動し、九州まで及んだ。夫君ジョー・ディマジオが野球コーチに専念しているあいだ、さらにモンロー女史は単身飛行機で24日、朝鮮へと旅立った。朝鮮戦争中、兵士たちへの慰問である。ジェ-ン・ラッセルからマリリン・モンローへとGⅠのピンナップ・ガールの今や№1となった折も折、当のご本尊がやって来たとあっては、集まるわ集まるわ、国連軍最大の作戦といえどもこれほどのGⅠが参集することはないと言われる。特設のステージの上にたったマリリンを囲む、男、男、男・・・・。「こんなに男ばっかり集まっているのを見たのは生まれてはじめてだワ!」という彼女、およらくはよくぞ女に生まれけり、と心から思ったに違いない。寒い朝鮮の冬の下で、薄いドレス一枚での歴史的な大熱唱のステージだった。

2024年2月11日 (日)

皇女和宮と天璋院篤姫

Photo  文久2年のこの日、将軍徳川家茂と皇妹・和宮との婚礼が行われた。政略結婚にもかかわらず、家茂と和宮は仲睦まじく暮らすが、家茂はその4年後に病死、和宮は21歳で未亡人となる。このとき江戸城大奥を完全に支配していた人物は、天璋院篤姫であった。篤姫は薩摩藩から13代将軍家定に嫁ぎ、家定の死後は14代将軍の家茂を補佐する。皇家から嫁いだ和宮と初めて対面した際、篤姫は上座に座り、菌(しとね)の上に着座したのに対し、和宮は下座に座らされ、しかも菌がなかった。和宮はこれを屈辱に感じ、以後2人の間には確執が生れた。だが、徳川家が窮地に立たされると、それぞれの立場から、官軍に江戸攻撃の中止と徳川家の存続を訴えかけた。和宮は「公武一和」の旗印のもとで、姑である天璋院篤姫とともに、徳川宗家を守り抜くことに婦道を全うした。女の一分を貫きとおした二人である。(2月11日)

 

 

2024年2月10日 (土)

クロエ・グレース・モレッツを知っていますか?

   本日はクロエ・モレッツの27歳の誕生日。いま世界中でトップクラスの人気の若手女優。1997年2月10日、ジョージア州アトランタ生れ。身長163㎝。芳根京子、小芝風花(大奥)、杉咲花(ハケン占い師アタル)、桜井日奈子(僕の初恋をキミに捧ぐ)、今田美桜(3年A組)と同じ年頃。父は医者で母は看護士。兄が4人いて、その中の一人トレヴァー・デューク・モレッツが演劇学校に合格した時に、母や兄と共にニューヨークに移る。7歳のとき映画「悪魔の棲む家」に少女チェルシー役で出演。最初は少女モデルをしていたが、2010年の「キック・アス」で演じたヒット・ガール役が評判を呼び、一躍注目の少女スターとなった。「キャリー」(2013)や「フィフス・ウェイブ」(2016)で人気ナンバーワンとなる。人気絶頂の頃、加工した画像がネット上に拡散され、「身体醜形症」に悩まされた。2年ほど休養後、復帰。夢は郊外に牧場をもつことだそうだ。正式名はクロエ・グレース・モレッツだが、最近はミドルネームのグレースを外した名前でクレジットされる。新作は「トムとジェリー」。Chole Grace Moretz,Hit Girl

2024年1月 7日 (日)

紫式部の本名は藤原香子か!?

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    最近は歴史上の人物の墓を巡って、故人の足跡に思いをはせる「墓マイラー」が急増して、紫式部の墓も京都の新名所の一つとなっている。紫式部の墓は、京都市北区紫野西御所田町の島津製作所の附近にある。右に小野篁、左に紫式部の墓がある。式部の墓がこの地にあるということを最初に書いたのは、室町時代の四辻善成の「河海抄」である。この辺りは、むかし蓮台野と呼ばれる墓地だった。式部の生没年には諸説あるが、およそ1000年前に亡くなったものと考えられる。かつては小野篁と並んでいたが、1989年に墓所が整備されたようである。

   「紫式部」とは渾名で、実名はわかっていない。当時は実名を軽々しく他人に明らかにするものではないとされていた。特に女性が実名を明かすことは結婚を承諾するに等しいとされていた。角田文衛によると、紫式部の本名は藤原香子(たかこ)という説がある。だがこれには批判もあり未だわからない。7日からスタートする大河ドラマ「光る君へ」では「まひろ」となっており、紫式部は吉高由里子が演じている。吉高は2014年に連続テレビ小説「花子とアン」のヒロインであり、朝ドラと大河の両方の作品の主演を演ずるのは、松嶋菜々子、宮崎あおい、井上真央に続いて4人目となる。紫式部の幼少期のことはあまり知られていない。ドラマでは母が藤原道兼に殺害されたことになっていたが、これは脚本家の大石静の創作であろう。(角田文衛「紫式部の本名」『紫式部とその時代』所収 1966年)

 

 

2024年1月 2日 (火)

マリー・アントワネットとクロワッサン

  バターをたっぷり練り込んだ生地を重ねて焼き上げたパン「クロワッサン」。クロワッサンが生まれたのは17世紀後半のオーストリアのウィーンである。オーストリアはトルコと戦争をしていた。ウィーンを包囲したオスマントルコ軍は、地下道を掘ってウィーンを陥落させようと目論んでいた。ところがある日、地下の工房で働いていたウィーンのパン職人が、トンネルの掘る怪しい音に気づいて軍に通報。彼の通報のおかげでオスマントルコ軍を撃退できたのである。オーストリアの皇帝はパン職人の功績をたたえ、喜んだパン職人は、戦勝を記念してオスマントルコの国旗に描かれた三日月の形をパンを焼いた。これがやがてフランスに伝わり、現在のクロワッサンになったといわている。それはあのマリー・アントワネットが大きくかかわっている。1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの第15子としてウィーンのシェーンブルン宮殿で生れた。14歳でフランス王ルイ16世の妃としてベルサイユへ輿入れした。盛大な結婚式のとき、オーストリアからパン職人も連れてきて、「キプフェル」という三日月形のパンも食卓を飾った。その後、パリのパン職人も皇太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった。フランス語では三日月をクロワッサンというので、「キプフェル」は「クロワッサン」と名を変えて世界中で知られるようになった。

    マリー・アントワネットがどんなに思慮のない、浪費家だったかを物語るエピソードは多数の残されているが、お菓子に関する話を一つ。パリの飢えたおかみさんたちが「パンをよこせ」と叫んで、雨の中をベルサイユ宮殿に押し寄せた。その時彼女は、人民どもはなんだってあんなに騒いでいるの、と側近のものにたずねた。パンがないのですからと答えると、彼女は「パンがなければブリオッシュ(一種の菓子パン)を食べればいいじゃないの」と言ったと伝えられている。

 マリー・アントワネットは、軽佻浮薄、乱費贅沢の限りをつくしたといえども、一掬の涙を誘うものがある。むかし深田恭子が「わたしはチョコレートが好きでマリーもチョコが好き」とか、誕生日(11月2日)が同じで「私はマリー・アントワネットの生まれ変わり」と言っていた。

2023年10月15日 (日)

龍馬の婚約者「千葉佐那」

 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。馬によく乗り、剣も強く、長刀もできて、力は並の男より強く、美貌で知られた。龍馬と知り合い、婚約したが、帰国後は疎遠になった。龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごした。明治29年10月15日、59歳で死去した。墓地は、甲府市清運寺にあり、墓石には「坂本龍馬室」と彫られている。

 

 

 

2023年7月 8日 (土)

活動的なファーストレディ

  安倍晋三元首相の襲撃事件からはや1年が経つ。献花台には花が絶えることはないが、昭恵さんには、遺産5億円を注ぎ込み「安倍晋三記念館」を建設する計画があるという。これまでわが国では総理夫人の活動はほとんどメディアの注目するところではなかったが、安倍昭恵さんの頃から海外の例に倣い「ファーストレディ」と呼ばれることもある。女性が輝く時代となったということなのだろうか。さてご本家のアメリカ合衆国バイデン大統領のファーストレディはジル・バイデン。最初の妻は交通事故死し、ジルと再婚。高校の英語教師だった。ヒラリー・クリントン、ジャクリーン・ケネディ・オナシス、エレノア・ルーズベルトも活動的なファーストレディとして知られた。初代ファースト・レディのマーサ・ワシントンや第2代大統領ジョン・アダムズの夫人アビゲイル・アダムズもよく知られている。メアリー・リンカンは悪妻として知られている。明るくて活動的だが、虚栄心が強く、嫉妬心も強かった。

 

 

 

2023年5月13日 (土)

「蒲団」横山芳子のモデル・岡田美知代

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 本日は「花袋忌」。明治・大正の自然主義の文豪、田山花袋の昭和5年の忌日。

  芳子が常に用いていた蒲団、萌黄唐草の敷蒲団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引き出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた。

 

    田山花袋(1871-1930)が明治40年9月、「新小説」に短編小説「蒲団」を発表したが、この作品は自然主義文学の代表作といわれたのみならず、私小説のさきがけとして日本近代文学史上の記念碑的作品となった。花袋(当時36歳)の大胆な告白と「蒲団」のモデルとなった「私のアンナ・マアル」こと岡田美知代(当時23歳)との恋愛関係の事実性が当時から世間の注目を浴びた。文学上で言い換えれば「蒲団」の虚実論争であろう。

   神戸の女学院の生徒で、生まれは備中の新見町で、渠の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情をもって充てられた一通の手紙を受け取ったのはそのころのことであった。竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手紙はこれまでにも随分多かった。

 

                         *

 

   芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者、母はことにすぐれた信者で、かつては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。

 

                       *

 

    最初の一月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、靴下を編む、襟巻を編む、子供を遊ばせるという生き生きした態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供とともに細君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の室に徒に明らかな洋燈も、かえって侘しさを増す種であったが、今はいかに夜更けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧みに編物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉!賑やかな笑い声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。

 

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   けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置くことの不可能なのを覚った。従順なる家妻はあえてそのことに不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。時雄はいろいろに煩悶した後、細君の姉の家、軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮らしている姉の家に奇遇させて、そこから麹町の某女塾に通学させることにした。

 

  後年、花袋の弟子・水守亀之助は「わが文壇紀行」(昭和28年11月)で次のような面白いエピソードを残している。

 

   会の席で、「先生、ああいふ小説を書かれると奥さんに対して具合がわるくないですか」と、中村武羅夫君が質問して大笑いになったことがあった。「そりゃあ わるいよ」といって先生は苦笑された

 

Photo_2     横山芳子こと岡田美知代(1885-1968)は広島県府中市上下町出身で、兄の岡田実麿(1878-1943)は明治期、神戸高商の英語教授だった。明治40年には夏目漱石の後任として旧制第一高等学校の教授となった。まもなく、明治大学に移り、同僚の山崎寿春に誘われて東京高等受験講習会(現在の駿台予備校)で昭和14年まで英語を教えた。妹の岡田美知代は兄を頼って神戸女学院に学んだ。その後上京して田山花袋の弟子となった。美知代は「蒲団」の学生田中のモデルの永代静雄(ながよしずお 1886-1944)とは結婚を反対されたが一男一女をもうけ、大正6年には入籍する。その後離婚し、両者は異なる相手と結婚しそれぞれの道を歩む。永代との間にできた子を花袋はみるにみかねて親友の太田玉茗(1871-1927、「田舎教師」の山形古城のモデル、建福寺住職)に養育をたのんだが、子供は3歳くらいで死んだ。田山花袋と岡田美知代との関係は花袋の書簡などからもあくまで作品は虚構であり、実際上二人の間に恋愛関係があったわけではなく、花袋の胸中にのみあった片思いなのだ。美知代自身も「蒲団」のモデルが自分であることを知らなかったという。(この話には少し無理がある)。美知代は「蒲団」のモデルとされたことに対して花袋に抗議する手紙を書いている。その後の永代(岡田)美知代の文学者としての活動は詳しく知らない。作品には「女学生の恋物語」「森の黄昏」(明治39年10月文芸倶楽部)「縁談」「岡沢の家」「里子」等が残されている。(「岡田美知代作品集」全3巻、上下町教育委員会)のち婦人記者として大正15年、長男を連れて渡米し、17年間を過ごす。晩年はアメリカで再婚した花田氏と庄原市に住み、昭和43年、83歳で他界する。(永代美知子「「蒲団」、「縁」及び私」新潮大正4年9)5月13日。

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