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2008年6月27日 (金)

富士山の植物

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   富士山の植物の種類は豊富で、900種以上の種子植物、190種以上のシダ植物、70種以上の蘚苔類、200種以上のキノコ類がみられる。しかし、新しい火山のため地形が単純で土壌化も進んでおらず、珍しい植物は少なく、高山でありながらハイマツもない。整然とした植物の垂直分布がみられる。常緑広葉樹を主とする山麓帯は海抜500メートル以下で、アカガシなどが多いが、ほとんど農地になっている。1600メートル以下はブナ・ミズナラなどの落葉広葉樹を主とする山地帯、2500メートル以下はシラベ・コメツガなどの針葉樹を主とする亜高山帯で、カラマツやダケカンバも多い。これ以上は高山帯で、安定した所には低木状のダケカンバ・カラマツ・ミヤマハンノキ・コケモモなどが、不安定な砂地にはオンタデ・イワオウギ・ミヤマオトコヨモギなどの高山植物がみられるが、植物の種類は少ない。高等植物は約3400メートル以下に分布し、頂上には火口壁を中心にフジサンギボウシゴケなど24種のコケ類がはえている。なお、溶岩流れに成立した青木ヶ原の天然林は樹海として、忍野のハリモミ純林は世界にもまれな林として有名。(引用文献:「原色現代新百科事典」学研)

グラジオラス

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   夏の庭を飾る花のなかでも、その華麗な花姿でひときわ目を引くグラジオラスは、世界中で3万を超すという園芸品種が作出されている。その原種は、熱帯および南アフリカを中心に250種以上が分布し、これらの植物がアヤメ科グラジオラス属と総称される。

   イギリスでは16世紀から栽培され、本格的な園芸化は18世紀中頃から始まった。19世紀には、ベルギーの園芸家によって、さまざまな花色が組み合わさったナターレンシス種と、白やピンクの花を咲かせるオッポシティフロルス種の交配に成功。この交配種から大きな花を多数つける豪華な花姿をもち、7~9月に花を開く夏咲き系統の品種が誕生した。以来、多くの育種家が改良を行い、12種をおもな交配親として、より優美な花姿や多彩な花色をもつ品種が多数咲く出されてきた。

2008年6月15日 (日)

猫のシッポ

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①ニホンネコ②アビシニアン③コラット

④シャム⑤ヒマラヤン⑥ペルシャ

    英雄ナポレオンは大の猫嫌いで知られている。子猫を見ても冷や汗をかいて、震えが止まらなかったらしい。それほどではないにしてもケペルも犬猫はほとんど無関心である。ブログで取り上げることもまずない。猫の種類も知らない。猫のシッポの動きで気持ちがわかるそうだ。たとえばシッポを垂直に立てているときは、うれしいときや甘えているときのしぐさで、ご飯が欲かったり、なでたり遊んだりかまってもらいたいのだ。また、シッポの先をやや前向きにすると、あいさつの表現といわれる。

   夏目漱石の弟子である寺田寅彦にも、科学者としての味のある短文がある。

   猫のしっぽは猫の感情の動きに応じてさまざまの位置形状運動を示す。よく観察していると、どういう場合にどんな格好をするかということはいくらかわかって来る。しかし、しっぽのないわれわれ人間には猫の「しっぽの気持ち」を想像することは困難である。舌でなめたりあと足でかいたりする気持ちはおおよそ想像してみることはできてもしっぽの振りごこちや曲げごこちは夢想することもできない。従ってわれわれは猫のしっぽの行動について「批評」する資格を持ち合わせない。科学の研究に体験を持たない言わばただの「科学学者」の科学論には往々人間の書いた「猫のしっぽ論」のようなものがあるのも誠にやむを得ない次第なのである。

2008年5月19日 (月)

キリンの心臓

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   キリンの心臓の実物を一度も見たことはないが、話によれば、きわめて大きく(重さ10㎏、人間は200g~300g)、働きも強力だという。それは長い首の上の脳に血液を送るため、かなりの血圧が必要だからである。キリンの血圧は心臓の近い位置では、上が260、下が160という超高血圧である。動物のなかでも最高だろう。ただし首のところだと、上は150、下は100で人間並みである。

2008年4月15日 (火)

レオポン誕生

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   甲子園阪神パークは昭和4年「甲子園娯楽場」が前身で、昭和7年に「阪神パーク」と改称した。遊園地であるが、戦後ライオンとヒョウを交配した雑種「レオポン」誕生で一躍、動物園として有名になった。昭和34年11月に2頭、昭和35年6月に3頭のレオポンが誕生した。このような存在しない珍種を狙った異種交配に対してはのちに批判も出てきた。現在では生命倫理の観点からも、動物の個体管理が必要であり、人工的に異種交配をする動物園はないかもしれない。(中国でライオンとトラとの交配によるライガーがいるというが)戦後、阪神パークの動物園としての不十分な設備のため、様々な動物たちを雑居家族として住まわせていたことと関係するであろう。昭和31年の「動物園への招待」(アサヒ写真ブック32)に次のような記事が掲載されている。

   甲子園の阪神パーク動物園のサル山には次の動物が一緒にすんでいる。アカゲザル6頭、タヌキ2頭、キツネ2頭、イノシシ1頭、山羊1頭、犬2頭、猫3頭であるが、これはおどろくべきことである。しかし各々その個性がちがうらしく、同じ猫でも猿にいじめられて水にほうり込まれるのもあれば、猿と仲良しになってノミとりをしてもらっている白猫もいる。もしこの猿山で生死をかけた闘争がおこなわれるとすれば、それは猿同士がその王位をかける勢力争いであろう。

   阪神パークでは園長の土井弘之や飼育担当の近藤義一郎らの努力で世界でも珍しいレオポンの誕生に成功したのは、昭和34年11月3日のことであった。だがレオポン5頭も昭和60年にはすべて亡くなった。平成14年、元園長の土井弘之も87歳で亡くなり、翌年3月、阪神パークは閉園した。

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   ヒョウを抱く土井園長(昭和31年頃)

2008年4月14日 (月)

初夏の山野を彩るレンゲツツジ

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          富士山を背景に咲く甘利山のレンゲツツジ

   橙色の花と薄緑色の葉が輪状に並び、豪華な雰囲気をかもしだすレンゲツツジは、日本を代表するツツジの一種。北海道から九州まで広範囲に自生し、山野を鮮やかに染め上げるが、その花色は、北にいくほど濃さを増していく。江戸時代までツツジには毒性があると信じられてきた。しかし、毒をもつツツジはほんの一部で、そのひとつがレンゲツツジである。根にはスパラッソル、花にはロードヤポニンなどの有害物質を含むため、家畜の食害から逃れてきた。こうしたレンゲツツジは、きわめて強いその耐寒性と、毒によって日本の山野に生き続け、華麗な花姿を自ら守り抜いてきたともいえる。甘利山(山梨県韮崎市)のレンゲツツジの花は真っ赤で、盛りの6月になると、麓から赤く燃えるような山肌が眺められる。そして富士山がはるか上に浮ぶ景観はみごとである。

   群馬県西部、長野県に隣接する鹿沢・湯の丸高原(吾妻郡嬬恋村)には60万株のレンゲツツジが6月から7月上旬になると見られる。青森県の八甲田山に群生するレンゲツツジも色鮮やかに新緑の野山を染めている。

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                             八甲田山のレンゲツツジ

2008年4月13日 (日)

黒いチューリップ

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フランクフルトで出版された商品カタログ「花譜」(1612年)

    咲いた咲いた チューリップの花が

    並んだ並んだ 赤白黄色

    どの花みても きれいだな

  童謡「チューリップ」でも歌われているように、チューリップの魅力は花姿や花色に富んだ数多くの園芸品種があることであろう。園芸品種は約5000ある。原種は約150種といわれ、その約4割が天山山脈の西側からパミール高原の山岳地帯を原産地とする。そして北はシベリア、東は中国へ、南はカシミールやインド、西へはコーカサス地方へと伝播した。ここからトルコやバルカン半島へ、さらに16世紀末には人の手によってヨーロッパにもち込まれた。

    オランダのライデン大学初代植物学教授カロルス・クルシウス(1526-1609)は、大学の植物園での栽培に成功した。チューリップはたちまちヨーロッパ各国に伝わり、貴族や大商人の間で流行した。やがて球根の先物取引が始まり、1633年には投機ブームとなり、1637年2月、ついに恐慌を引き起こし、球根は暴落した。契約の履行は不可能になり、破産者続出は必死となったが、オランダ政府の介入により取引高の5~10%支払いのみですべて清算され、破局は回避された。この恐慌は、生産の拡張に基づかない前資本主義恐慌の代表的な実例といわれている。

    このような17世紀のチューリップ狂時代を風刺した小説にデュマの『黒いチューリップ』(1850年)がある。青年コルネリウスは黒いチューリップの栽培に成功するが、彼を妬んだボクステルの陰謀により投獄される。牢屋番の娘との恋がうまれ意外な展開の喜劇小説に仕上がっている。ちなみにアラン・ドロン主演の映画「黒いチューリップ」は別なお話だ。

    ところで、黒いチューリップは実際に存在するのだろうか。19世紀半ば頃まで育種家は、黒、緑、青花のチューリップを作出することが長年の夢だった。しかし1891年に、「ラ・チューリップ・ノアール」という黒色品種がついに登場した。さらに1944年、より黒み帯びた「クインオブナイト」が作出され、架空の物語が現実となった。緑色は、花弁に緑色の筋が入るむヴィリディフローラ系があり、「アルバ・コエルレア・オクラータ」と呼ばれる「青いチューリップ」も近年登場している。現在、単色で黒、緑、青のチューリップが育種家により追求されている。

2008年3月25日 (火)

森林は恋人

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     寺田寅彦 (昭和7年10月 月寒にて)

   頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。(寺田寅彦「科学者とあたま」)

   春のいまごろの季節、森林を散歩するのがよい。早春特有の匂いがある。若葉と雪解け水のかもしだす、心のはずむような気配が感じられる。森林には樹の種類によって匂いも異なる。ある場所で何年か過ごしたとする。それから長い年月ののちにそこをふたたび訪れ、かすな匂いをかぐ。もうそれだけで、そこで過ごした時のことを思い出すことがある。匂いはそれくらい強い力があるのだ。寺田寅彦(1878-1935)の言葉どおり「自然を恋人」にしよう。森林へ行けば、野鳥はさえずり、草花は咲いている。行く場所は自由だ。いつでもどこにでも、自然の喜びは満ちあふれている。

2008年3月 9日 (日)

実証された真空の存在

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    ドイツ中部ザクセン・アンハルト州のマグデブルクの名門の家に生まれたオットー・フォン・ゲーリケ(1602-1686)は、初め法律を学んだが、後に数学、力学を勉強しながら1646年、市長に就任した。そして、ゲーリケは真空の問題を実験によって解決しようとして手動式の真空ポンプを製作、これを利用していろいろな実験を試みた。

   まず容器内でベルを鳴らしてもその音が外部に聞えないこと、またロウソクの火は消え、動物も生きていけないことなどを示した。そして1654年には、金属製の半球2個を密着させ内部の空気を抜くと、大気圧のため半球が容易に引き離せないという実験をした。真空にした半球は、両側をそれぞれ8頭の馬が引っぱっても、引き離すことはできなかった。(なぜかウィキペディアには8頭の馬で双方から引っぱり、やっと半球は外れた、とある)

    これが中学理科の教科書でお馴染みの「ゲーリケとマルデブルクの半球実験」である。

2008年2月28日 (木)

万葉の花アセビ

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わが背子にわが恋ふらくは奥山の

            馬酔木の花の今盛りなり

                 (万葉集巻10,1903)

春山の馬酔木の花は悪しからぬ

        君にはしゑや寄そゆともよし

                    (万葉集10,1926)

    スズランのような白い壷形の花を房状につけて早春の風に揺れ、風情に満ちた姿で咲くアセびは、万葉の時代から親しまれてきた花木のひとつである。ただし、有毒植物のひとつでもあり、茎葉を牛や馬が食べると酒に酔ったようになることから「馬酔木」の名が生まれた。

    やや乾燥した山地に生え、高さは2~9メートルになる。葉は互生し、長さ3~8センチの倒披針形で厚い革質。ふちには鈍い鋸歯があり、両面とも無毛。3~5月、枝先に円錐花序をだし、白い花が多数垂れ下がって咲く。花冠は長さ6~8ミリの壷形で先は浅く5裂する。雄しべは10個で、花糸には短毛があり、葯には刺状の突起が2個ある。雌しべは1個。蒴果は直径5~6ミリの扁球形で上向きにつき、9~10月に熟す。(引用文献:「日本の樹木」山と渓谷社)

春を告げるマンサクの花

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まんさくや 小雪となりし 朝の雪(水原秋桜子)

まんさくや 水激しくて 村静か(飯田龍太)

  早春、山では一番早く花を咲かせて、春の訪れを告げる木である。花の形がおもしろく、花の少ない時期に咲くので庭にもよく植えられる。高さは5~6メートルにもなる。葉は互生し、長さ5~11センチ、幅3~7センチの菱形状円形または広卵形で、基部は左右の形が異なる。質は厚く、表面はややしわがあり、裏面の脈上に星状毛があり、下部は全緑。秋には美しく黄葉する。2~3月、葉に先立って黄色ま花が咲く。花弁は4個あり、長さ1~1.5センチの細長い線形。雄しべは4個で短く、内側に4個の仮雄しべがある。葯は暗赤色。雌しべは1個で、花柱は2つに分かれる。萼は4裂する。萼片は長さ約3ミリの楕円形でそりかえり、内側は暗赤紫色で、外側には褐色の短い腺毛が密生する。蒴果は直径1センチほどの卵状球形で、萼片が残り、外側に短い腺毛が密生する。熟すと2つに裂けて光沢のある黒い種子を2個はじき飛ばす。和名は、黄色の花が枝いっぱいに咲くので「豊年満作」からきたという説と、「まず咲く」がなまったという説がある。(引用文献:「日本の樹木」山と渓谷社)     

2008年2月 8日 (金)

脇坂安宅とカタシボ竹林

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   「播磨の小京都」といわれる兵庫県龍野市には、カタシボの竹という珍らしい竹が生育している。マダケの一変種で、幹の半分はふつうの竹と同じツルツルなのに、裏半面は無数のタテしわが走っている。しかも節目が変わると、平らな面としわの面が表裏入れかわり、次の節目にくると、また逆になる。見た目には、節目ごとに平らな面としわのある面が交互にタテにつながるという面白い模様が見える。つまり片側にしわができるので「片皺竹」からこの名前が生まれた。なぜ、このようなしわが出来るのか、諸説あるが、一つには、タテじわの面の組織内の養分を通す管が異常に細く、かつ、それらが何本も束になって固く縮まるのではないかともいわれている。なお、節目の上の芽(枝)の出る側が平滑で、その裏側にしわが出来るのも特徴である。

   片皺竹はもとは淡路島の洲本が原産地であった。幕末期の詩人・梁川星巌(1789-1858)が親交のあった播磨龍野藩主・脇坂安宅(1809-1874)公に珍種として数株を贈った。安宅公は大層喜んで、これを一族の筆頭家老の屋敷内に植えさせ、門外不出を厳命して秘蔵としてきた。これが現在、龍野市龍野町下霞城の梅玉旅館庭園内にあるカタシボ竹林である。約500本が生育していて、昭和33年5月15日、天然記念物に指定された。いま、原産地の淡路島には、カタシボ竹は無いという。

    脇坂安宅は安政4年、老中に列し、中務大輔と改称して外国事務を担当。まもなく職を辞したが、文久3年11月になり、さきの桜田門外の変の際、井伊直弼の遭難を秘した咎により謹慎を命ぜられた。

2008年1月23日 (水)

エジソンは電球の発明者ではなかった!?  

    19世紀はイギリス、フランス、ドイツが科学技術の分野では世界の最先端にあった。だが、アメリカは学問では遅れをとっていたものの、応用科学や実用化、事業化には秀でていた。たとえば蒸気船のロバート・フルトン、電信のサミュエル・モールス、綿繰り機のイーライ・ホイットニー、自動刈り取り機のサイラス・マコーミックそして発明王トーマス・エジソン(1847-1931)である。

    エジソンといえば炭素のフィラメントを使った白熱電球を1879年に発明したことはよく知られている。だが、世界中で電球の発明をエジソンと認識しているのは、アメリカと日本だけだといわれる。なぜなら、エジソンがフィラメントの原料として使ったのは、たまたま部屋にあった日本製の扇の竹であったというエピソードが日本でよく広まっているためである。

   実際には、ジェームス・ボウマン・リンゼイが1835年に電灯の実験を実施したといわれており、1878年にジョセフ・ウィルソン・スワン(1828-1914)が炭化させたセルロースを使い、寿命が40時間程度の白熱電球を開発した。1882年、スワンは「エジソンは発明を侵害している」として訴訟を起こした。エジソンはスワンの主張を認め、示談を成立させる。そして、エジソンはスワン電灯会社を買収し、1883年「エジソン・スワン電灯会社」を設立した。以降、白熱電球の特許権を得た同社は電灯事業を独占し、約300万個の電球を全米に設置し、莫大な収益を上げることに成功した。エジソンは電球の発明者ではなく、電灯の事業化に成功した人というべきであろう。

2008年1月17日 (木)

天災は忘れたころにやってくる

    大正14年、東京帝国大学付属地震研究所が設立された。初代所長は末広恭二(1877-1932)、2代目所長は石本巳四雄(1893-1940)。地震研究所の設立には寺田寅彦(1878-1935)も大きく協力していたようだ。正面玄関の壁には寺田による碑文が今も掲げられている。

明治24年濃尾地震の災害に鑑みて震災予防調査会が設立され、我邦における地震学の研究が漸く其緒に就いた。大正12年帝都並びに関東地方を脅かした大地震の災禍は更に痛切に日本に於ける地震学の基礎的研究の必要を啓示するものであった。この天啓に促されて設置されたのが当東京帝国大学付属地震研究所である。(中略)本所永遠の使命とする所は地震に関する諸現象の科学的研究と直接又は間接に地震に起因する災害の予防並びに軽減方策の探求である。この使命こそは本所の門に出入りする者の日夜心肝に銘じて忘るべからざるものである。

   有名な警句「天災は忘れたころにやってくる」は寺田寅彦全集をはじめ彼の著作物からその出所を明らかにすることはできない。だがこの言葉が寺田が地震研究所にいたころ生まれたのではないだろうか。だれかれということなく、寺田の考えを要約した警句として流布していった。

    寺田寅彦は明治11年11月28日、寺田利正・亀の長男として東京で生まれた。明治14年、郷里の高知に転居。明治30年、熊本第五高等学校の学生だった寅彦は両親のすすめで、阪井重季の娘・阪井夏子(1883-1902)と結婚する。夏子は少女時代から目立つ美人で、松山に住んでいた頃、松山の中学生だった安倍能成(1883-1966)が憧れていたといわれる。目が大きく、「お夏さんの目が光るからランプはいらぬ」と親族の子どもから言われた。だが寅彦と夏子の幼い夫婦は熊本と高知と離れ離れの新婚であった。

    明治31年1月17日の寅彦の日記には次のようにある。「夏子より手紙きたる。先日、送りやりし泰西婦女亀鑑の礼や、夏の休暇の待たるる事やしたためたる末に、近来川田兄のしきりに伉儷を詮索される旨も書き添えたり」とある。伉儷(こうれい)とは夫婦の意。つまり寺田寅彦夫婦は両家公認ながら内密なものであった。その理由は、父親同士が陸軍仲間で夏子は不倫の子であり、祖母に育てられた夏子を幸せにしてあげたいという周囲のおもいやりからでたものという。寅彦の欠落した日記は結婚の経緯を秘密にしておくためだったと朝日新聞は推測している。明治32年東京帝国大学に入学した寅彦は夏子と東京での同居が始まり暮らし、明治34年に長女貞子も生まれるが、翌年の秋、僅か19歳で夏子は肺結核で亡くなる。(参考:牧村健一郎「愛の旅人・ハンカチ振る浜辺の妻」朝日新聞2008.1.12)

2008年1月13日 (日)

キンカンとムヒ

    子どもの頃、冬になると、しもやけで身体全体がかゆくなった。そこで「キンカン」という薬にはたいへんお世話になった。人に話すと、かゆいときには「ムヒ」でしょう、といわれた。キンカンの効能には「虫さされ肩こり」とある。子どもの頃「キンカン素人民謡名人戦」(司会・三輪完児)というテレビ番組があって「♪キンカン塗ってまた塗って、元気に陽気にキンカンコン」とCMが流れていた。「ムヒS」はもう少し後になってでた気がした。

   そこで「キンカン」と「ムヒ」の歴史を調べた。金冠堂の創業者・山崎栄二は経営していた製紙会社が倒産して、朝鮮の京城(現・ソウル)へ渡った。甘酒を売っていたが、製薬をどうしてもやりたくて自宅に研究所をつくった。当時、慶州で新羅の金製王冠が発見されたので、会社名を金冠堂として虫さされ「キンカン」を発売した。キンカンは昭和の幕開けと期を同じくして、一般家庭の常備薬としてロングセラー商品となった。

   かゆみ止め「ムヒ」も戦前からあったようで、池田模範堂(創業者・池田嘉市郎)の創業はなんと明治42年のことである。「ムヒ」とは、「無比」つまり比べるものがないほどすぐれて効き目のある商品という意味。

2007年10月 8日 (月)

台風のダンス「藤原の効果」

   二つの台風が1000キロ以内に近づいてくると、お互いの渦が干渉しあうため、二つの台風はダンスを踊るように反時計回りにグルッと回転する。中央気象台長の藤原咲平(ふじわらさくへい、1884-1950)が大正10年に、この現象を提唱したので「藤原の効果」という名がつけられた。

   藤原咲平は明治17年、長野県諏訪郡上諏訪町字角間新田に生まれる。お天気博士と呼ばれ、気象学・地震学の全体を通観した渦動論は世界的に有名である。作家の新田次郎(1912-1980)は甥にあたる。

2007年8月15日 (水)

牧野富太郎と「本草綱目啓蒙」

   牧野富太郎(1862-1957)は、文久2年4月24日、土佐国高岡郡佐川村西町組101番屋敷に生まれる。生家岸屋は名字帯刀を許された酒造業と雑貨商を営む裕福な商家である。幼少から父母を失い祖母浪子の手で養育された。明治7年、佐川町に小学校が開校されたので、下等一級に入学した。しかし授業に飽き足らず、明治8年退学。これが、彼が受けた正規の学校教育のすべてである。

    この逸話は小学校を退学したころの話。その頃、近くに住む西村尚貞という医師が小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の写本を数冊持っていた。富太郎はたのんでこれを借り、行燈の灯の下で、一心にこの端本を筆写した。この苦心して写した写本をたよりにして、採集してきた植物と照合し、名前を考定してみたが、それらの端本では、ないものが多くて用をなさなくなっていた。なんとかして、完本がほしいと祖母浪子に願ったところ、すでに富太郎の才能を見抜いていた浪子は、高価な「重訂本草綱目啓蒙」全20巻を、すぐに町の洋物屋の鳥羽屋へ命じて、大阪から取り寄せてもらった。牧野少年の喜びと感激は生涯忘れぬものとなった。祖母浪子は、牧野富太郎が26歳の明治20年5月6日、78歳で没した。

2007年8月11日 (土)

赤まんま

    紅葉にはまだ早い初秋の頃、山野に薄紅色の花穂をゆらす赤まんま。赤飯のまんまとも呼ばれ、古よりずっと、秋の野に彩りを添えてきた。その温かさ、素朴さは文人たちも心動かされ、その思いを俳句や短歌にしている。

露草や赤のまんまもなつかしき(泉鏡花)

此辺の道はよく知り赤のまま(高浜虚子)

赤のまま墓累々と焼け残り(三橋鷹女)

立どまりあたり見廻しぬ紅に咲き満ちたるは犬蓼の花(斉藤茂吉)

   赤まんまはタデ科タデ属の一年草で、和名はイヌタデ(犬蓼)。俗称の赤まんまは、ままごと遊びに由来するといわれる。子どもたちは、紅花を赤飯に見立てて遊んだ。「イヌ」がつくのは、辛みに欠けるため食用にもならず、役に立たないためである。同じタデ科の植物でも、独自の辛みで刺身のつまや香辛料、漬物に用いられるのはヤナギダデである。「蓼食う虫も好き好き」という諺は、「辛いタデを食べる虫があるように、人の好みはさまざまなもので、ひとくちにはいえないもの」という意味だが、ヤナギタデのこととされている。タデと酢とを合わせたタデ酢がどんな魚にも合うと室町時代の料理書に書かれており、江戸時代に醤油が登場するまでは、魚料理の調味料として重宝された。現在でも鮎の塩焼きにタデ酢が添えられる。(参考:「赤まんまと秋の山野草」講談社)

2007年3月 7日 (水)

香川綾と実践栄養学

   毎日健康な生活を送り元気な体を保持するためには、運動・休養・栄養バランスのとれた食事が大きな三本柱である。しかしバランスのとれた食事といっても、日常生活で細かな栄養計算をして食事を用意することはとても難しいことである。そこで食品を大きく4グループに分け、各栄養素の目安量を簡単につかめるように考案されたのが香川綾の「四群点数法」である。第一群は乳・乳製品、卵、第ニ群は魚介類、肉類、大豆・大豆製品、第三群は野菜、芋類、くだもの、第四群は穀物(ごはん・パン)、砂糖、油脂。1日の食事の適正量は成人女性では20点(1600kcal)を目安としている。

   横巻綾(1899-1997、後の香川綾)は、明治32年3月28日、和歌山県元宮村で、父・横巻一茂、母・のぶ枝の間に生まれた。母の父は維新前に紀州藩の食膳係をしていたので、食生活の大切さを家風として伝えられていた。その母を若くして病気で亡くした綾は医者になる決意をする。大正3年、和歌山県立師範学校女子部に入学し、卒業後、小学校の教師をしていたが、大正10年に上京。東京女子医学専門学校に入学し、吉岡弥生(1871-1959)との出会いもあった。昭和5年にはビタミンと脚気の研究をしていた香川昇三(1895-1945)と結婚する。綾は昭和3年に「主食は胚芽米、おかずは魚1・豆1・野菜4」を提唱する。その後いろいろ研究を重ねて昭和45年「四群点数法」を完成した。また教育機関として、昭和8年に家庭食養研究会を設立し、昭和10年5月に「栄養と料理」を創刊し、昭和12年に女子栄養学園を設立。その後、学校は財団法人香川栄養学園、女子栄養短期大学、女子栄養大学と発展する。

   香川綾の紹介で「計量カップ・計量スプーンの考案者」という記述をよくみかけるが、これは正しくない。戦後いちはやくメートル法に準拠して計量を普及させた功績はあるものの、こうした計量器具が考案されたのは明治半ば頃である。日本初の料理学校の創設者である赤堀峰吉(1816-1904)によるものである。

   料理と栄養と健康を結びつけた実践栄養学の基礎を築いた香川綾の功績は、いわば日本版チャングムのように偉大なるものであり、晩年も早朝ジョギングを欠かさず、身をもって実践栄養学の成果を示し、平成9年4月2日に永眠した。98歳の生涯であった。

2007年1月14日 (日)

足立の分類

   耳垢には「じとじと」の湿ったタイプと「かさかさ」の乾いたタイプの2種類があることを、学問的に初めて明らかにした学者は、足立文太郎(1865-1945)である。2種類の耳垢があるのはモンゴロイド特有のもので、黒人や白人は「かさかさ」はなく、ほぼ全員が「じとじと」のタイプだという。日本人は先に「じとじと」の縄文人が住みつき、あとから来た渡来人と混血した結果、新モンゴロイドは耳垢が「かさかさ」に変化していったという。この足立文太郎は小金井良精の門下生で、人類学者、解剖学者、嗅覚研究家でもある。解剖学では、とくに「足立の分類」で世界的に知られている。肉眼解剖、とくに腹腔動脈などの血管の破格には「足立の分類」といわれる様々な血管を観察し分類できることが大切であり、足立の「日本人の動脈系統」(昭和3年)「日本人の静脈系統」(昭和8年)の著書は現在でも解剖学者にとって必読の書であるという。なお、作家の井上靖は昭和10年に足立文太郎の長女ふみと結婚している。

2006年11月26日 (日)

田中館愛橘

   田中館愛橘(1856-1952)は、安政3年9月、陸奥国二戸郡福岡町(現:岩手県二戸市)に生まれた。明治5年に盛岡の照井小作熟に入り、その後、慶応英語学校などを経て、明治11年に東京大学理学部に入学してメンデンホール、ユーイングの指導をうける。明治13 年にはメンデンホールに従って東京と富士山頂の重力測定を行ない、その後、明治20年まで日本各地や朝鮮半島で重力測定を実施していった。明治21年にイギリスに渡ってグラスゴー大学で学び、さらに明治23年にはベルリン大学に移って研究を重ね、明治24年に帰国した。

    帰国後、帝国大学教授となったが、その年の10月28日早朝に濃尾大地震が発生した。この地震の被害は建物被害全壊14万2千戸、半壊1万8千戸、死者7,273人に達した。現地には田中館をはじめ、大森房吉(1868-1923)、今村明恒(1870-1948)、小藤文次郎(1856-1935)、長岡半太郎(1865-1950)、巨智部忠承(1854-1944)、そしてミルンらが調査にあたった。田中館はこの地震に際して地磁気観測で根尾谷断層を発見して、その後の地震研究に貢献した。明治25年には、震災予防調査会委員となって、地磁気観測を行ない、明治27年に万国測地学協会委員となり世界各国の国際会議に多数出席し、重力、地磁気、地震などわが国の地球電磁気学の発展に貢献した。

2006年8月10日 (木)

鯨の生態

   鯨は全生涯を水中で生活する唯一の哺乳類であり、現存する動物では最大のものである。鯨は、鯨油や食用としてほとんど無駄なく利用でき、昔から海の資源として重視されてきたが、繁殖力が低いので、近年、欧米を中心に鯨の保護運動が盛んとなり、商業捕鯨の管理のための方策が、国際捕鯨委員会で取り決められている。シロナガスクジラ、マッコウクジラなどの大型鯨13種が管理対象になっている。

   鯨は歯のあるハクジラと歯のないヒゲクジラに分類され、ハクジラの小型の種類がイルカである。ハクジラには、マッコウクジラ、ツチクジラ、シオゴンドウ、アカボウクジラなどがあり、ヒゲクジラには、シロナガスクジラ、ナガスクジラ、イワシクジラ、ホッキョククジラ、ザトウクジラなどがある。

 鯨類は一海域に定着することは少なく、つねに餌を追って回遊しているが、小型種になるほど回遊の範囲は狭くなり、特定の海域に定住して分布域を形成するものもある。またイルカ類では暖海性の種が多く、寒海性の種は少ない。ヒゲクジラ類では、暖海で交尾し、寒海に餌を求めて、南北に広く回遊する。クジラの寿命は、大形の種類ほど寿命が長く、シロナガスクジラで約100歳、マッコウクジラで約70歳と思われる個体もある。 (参考:「鯨を追って」大村秀雄 岩波新書)

2006年6月15日 (木)

くちなしの花

 クチナシはアカネ科の多年生常緑低木で高さは2メートル前後になる。何んともいえぬ芳香があり、6月から7月にかけて、白い花を開く。東洋の名花として知られ、日本の「花暦」でも7月の花に選ばれている。クチナシは「梔子」が一般的であるが、別名「山梔」(さんし)、「山黄枝」(さんおうし)、「林蘭」(りんらん)などと呼ばれている。

 花言葉は、「清潔」「純潔」「閑雅」を表わし、歌謡曲「くちなしの花」は今でもカラオケなどで人気のある曲である。

 クチナシは口無しを意味し、実が熟すると普通の草木は口が開いて種がこぼれるが、このクチナシの実は口が開かないので、クチナシという言葉ができたともいわれる。