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2009年10月31日 (土)

図書館は社会の未来をはぐくむ

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    活字離れ、不景気などで本をめぐる状況が悪くなっている。かってどこの町にも小さな本屋さんがあったが、ここ数年、閉店が目立っている。もちろんチェーン化している大型書店はかなり儲けているが、もう本屋は小さな店では営業は成り立たないのだろうか。そんなときテレビ番組「エチカの鏡」で江戸川区篠崎町の書店の清水克衛さんのことが紹介されていた。彼は「本のソムリエ」といわれ、お客さんが全国から彼のオススメの本を教えてもらうために来店するという。そこの書店はベストセラーよりも、10年前、5年前に出版された本でも置いていて、お客の悩みにあった本をさがしてくれる。店員が本をよく読んでいて、その本の良いところを紹介するのである。もちろん図書館でも調査相談業務はあるが、個人的なメンタルな部分は業務外であろう。民間がその部分を行っているというユニークな試みが評価されているのだ。だがそのような個人的な努力されているかたもいるものの、本が売れないのもの事実であろう。学習雑誌の老舗「小学5年生」「小学6年生」も休刊するという。少女マンガ誌「ちゅちゅ」も休刊する。アイドル誌「KIDAI」(近代映画)も休刊した。当たり前に小さな書店の店頭にあった雑誌が消えていく。今、なにかが起こっているのだろう。

    図書館をめぐる状況も悪くなっている。図書館雑誌の最新号のデータによると、都道府県立図書館の資料費はグラフのように近年、急激に減少している。学術的な出版物を扱ういい出版社の経営はますます悪くなるだろう。専門書はやはり大学図書館、都道府県立図書館の予算が頼りになるからだ。図書館の人の問題も深刻だ。専任職員が減少して、非常勤、臨時職員が増えている。これは市町村の公立図書館でも見られる現象である。「本のソムリエ」の清水さんのように、本のことをよく知っている人が図書館にいてもらえたら、利用者はよく図書館に来館するだろう。たんに検索して蔵書があるのか、ないのか、ではなくて、さまざまな要求に、会話を通じて応えられるような専門性がいま図書館員にもとめられている。

    そのような厳しい環境であるが、今日、明治大学では米沢嘉博記念図書館がオープンする。マンガとサブカルチュアの専門のユニークな図書館である。2014年には「東京国際マンガ図書館」(千代田区猿楽町)も開館する予定である。

    図書館は名著と向き合い新たな自分を発見する場であるが、マンガも100年以上の歴史があり、ふるい作品にはなかなか出会えることはできない。図書館がもっとマンガを収集保存するべきだと思う。日本の出版物の半分以上はマンガや雑誌であり、海外にも多く流布している。ほとんどがそのとき出版されると数年後に入手しようとしても不可能なものばかりである。マンガや雑誌には時代を反映した情報や広告など総合的な文化が反映されている。公共図書館がマンガの収集に積極的でないことは私の図書館経験から実態を知っている。職場でも無理解な人が多くて呆れ果てた。いま少しずつではあるが図書館内でもその必要性に気づきはじめたようだ。

2009年9月23日 (水)

ウンラート教授のレファレンス教室

Img_0015 「何が彼女をさうさせたか」 鈴木重吉監督

  ウンラート教授は場末の踊り子ローラに恋をして、落ちぶれて、昔の学校に夜間忍び込んでノタレ死ぬ。ケペルもむかし図書館員なので、レファレンスを懐かしんで何故か自分で質問を創り上げて、ネットをつかわずにレファレンス・ブックで調べるようにしている。たとえばこんな問題。

   「貧しい農家に生まれた中村某という娘が叔父にだまされ曲芸団に身売りをさせられ、辛酸をなめ、教会に放火をするという小説はだれの何という作品か?」というレファレンス事例。つまり小説の内容でたずねられた場合、作品を読んでいなければ、思いつかないだろう。キーワードは作品に登場する架空の人物名であることが多い。ここでは「中村某」。このレファレンス・ツールとしては「日本文学作品人名辞典」吉田精一、河出書房、昭和31年刊行が挙げられる。日本の文学作品に登場する架空人名事典で約2000人を収録している。もちろん昭和30年以降の作品は収録されないので、今では誰も利用しないだろう。本書で中村姓を調べると、「中村すみ子」が考えられる。作家は藤森成吉(1892-1977)。作品名は「何が彼女をさうさせたか」である。この作品はもともと築地小劇場で昭和2年、上演されて好評を博して、昭和5年には帝国キネマで映画化されている。いわゆる傾向映画といわれた。この一作で高津慶子はスターになった。「何が彼女をさうさせたか」は戯曲であり、小説化されたという事実はない。国立国会図書館のHPで資料検索すると、戦後の角川文庫に収録されているが戯曲のようである。(参考:長沢雅男「レファレンス・ブック」1974)

2009年9月10日 (木)

幻想図書館

Img_0011 昭和29年の開館時の様子

   はじめに断わっておくが、村上春樹の「海辺のカフカ」に登場する甲村記念図書館は実際にあった、などという気はない。あれはあくまで作家のイメージの図書館なのだ。けれども自分が長い間勤めた最愛の図書館がモデルだといわれるとやはり悪い気はしない。なぜなら自分もその図書館に魅せられ、その児童室の一室でもよいから家庭文庫としてそのイメージを再現したいという野望をもっていたのだから。その幻の図書館は玄関の門、それに続く小道、周囲の庭木、裏にある池、建物だけでなく景観が「世界のくぼみのようなこっそりとした場所」なのだ。ここで図書館員として20歳から34歳まで働けたのだから幸せというほかない。「風にはやはり海岸の匂いがする」と小説にある。私が勤めたころは浜に埋め立てができて、図書館の位置は海岸からだいぶん離れてしまったので、あまり海沿いの図書館というイメージはなかった。しかし古来から打出は「打ち出でる」という意味で山と海が狭くなった場所であり、打出浜古戦場は砂浜であったから、打出はやはり海のイメージが昭和40年頃まではあったであろう。「天井が高い」というのも、旧銀行の建物を移築したものなので、たしかにそのような重厚な印象はあった。

2009年9月 7日 (月)

セーヌ河のイエナ橋

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ゴーギャン セーヌ河のイエナ橋 1875年

   色彩も線もまだゴーギャンの特徴はみられない。広大な展望と緻密な描写による静寂な雰囲気がある。

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   今年4月から公共図書館を辞めて、小さな家庭文庫を開いた。もちろん安定した役所勤めを辞めるからにはそれなりの理由があった。だがそれは言わない。長年、情熱を持って図書館活動に務めたが、仲間とも自然と意見が食違ってきた。貴重な本をどんどん廃棄する考えには疑問があった。金太郎飴のような図書館にも疑問をもっていた。そんなとき朝日新聞に佐野眞一の「売れ筋本ばかりの図書館はいらない」(2009.6.20)という記事が掲載されている。佐野の意見はほぼ「だれが本を殺すのか」という2001年の著書と同じだが、「深度と網羅性をそなえた知の迷路」という考えには、自分の置かれている状況、今やろうとしている漠然と考えていた私設図書館に示唆を与えてくれるものであった。自分の考え方は現状の図書館界には合わない、野に下ってたった一人で闘うしかない、と思った。「図書館界」348号の竹島昭雄「正しい行政施策の選択を」はそのような佐野眞一の記事を痛烈に批判しているが、おそらく図書館界のリーダーとしてはかなり共通した考えなのだろう。だがこれは誰が読むことを想定して書いたのだろう。どうも一般人に理解してもらうように書いたとは思われない。「図書館と利用者が長い時間をかけて積み上げてきた」という業界側の論理だけのような気がする。ほんとうに市民にわかるように書いているとは思えない。つまり雑誌「図書館界」は業界誌なので、それの座標という巻頭言に書くことは名誉なことであり、業界の既得権を主張することは、ひいては図書館界における名誉ある地位を保持できる、ただそれだけの目的にすぎないようにみえる。ほんとうに佐野の図書館論に対して抗議しているのではないのだ。このような所謂「蛸つぼ」に入って発言し、それが館界のオピニオン・リーダーとして賞賛されれば事足れりとすることが日本の図書館全体の低下をさらに招くことになる。図書館長というのは、図書館の現状が見えているようで見えていない。ふだん行政当局と管理者の立場で頭を悩ましているので、所詮は上から目線でしか見ていない。佐野の言わんとすることは、ある程度問題を指摘している点が多く見られるので、それらを真っ向から否定するのではなく、きちんとしたテーブルについて論議することが必要ではないか。今年まで現役の図書館員だったが、いまではただの風変わりな本屋(売らない、貸さない本屋)になったケペルなので、門外漢の図書館論ではあるが。隠居して感じることは、図書館の世界に弓をひいた者への仕打ちは惨いものがある。おそらく有料制ということで批判しているのであろうが、職場の同僚などは誰一人として来館することはない。むしろマスコミはニュースとして取り上げてくれる。やはり図書館の人たちは自分たちの権益を守ることしか頭にないのである。

2009年8月31日 (月)

秋岡梧郎と安全開架

Img_0012 Img_0011 昭和57年、自宅庭内に作られた案内掲示板

   秋岡梧郎(1895-1982)は明治28年、熊本県下益城郡豊福村大字竹崎で生まれる。大正8年、熊本県下益城郡教育会明治文庫司書となり、生涯図書館活動に従事する。大正11年、日比谷図書館に就職後、麻布、両国、京橋の各主任を経て、昭和6年、京橋図書館館長に就任。以後深川図書館、江東図書館などを歴任する。

   秋岡梧郎の功績で知られることは、当時閉架制が全盛であった図書館で、昭和4年から京橋図書館で開架式(安全開架)を実践したことであろう。安全開架式とは、開架式(接架式)の一種で、書庫と閲覧室を区画し、利用者は書庫には自由に出入でき本を選択できるが、閲覧室で本を読むとき、あるいは、貸出をうけるとき書庫・入口カウンターで館員のチェックをうける。館員のチェックをうけず自由に書架から図書を出し入れできる閲覧方式が自由開架式といわれている。

   秋岡梧郎の図書館人生で学ぶことは生涯実践者であることであろう。ともすれば図書館界においては図書館学の研究論文や著書の膨大さを誇る傾向があるが、何らの現場実践なく海外の文献を翻訳して図書館学者として事足れりとする弊風が見受けられる。最近でも若い図書館研究者が海外調査に行き外国の図書館事情の報告をして一定の成果を拝聴したが、大学では研究者は養成するが、実践者は養成できない。87歳にわたる秋岡梧郎の人生は文庫に始まり文庫で終っている。晩年、邸内に私設図書館を開設している事など実にほほえましいものである。(参考:「秋岡梧郎著作集」日本図書館協会)

2009年8月30日 (日)

戦後の或る小図書館の研究(守屋図書館の場合)

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    昭和22年、東京都目黒区にあった柿之木坂旧町会事務所は、柿之木坂文庫に改装された。図書館施設なのに名称を文庫としたのは、図書館令(図書館法制定前の法令)に基づき種々規定が設けられ、一つでも欠けると認可されないためであった。僅か20数畳の居間の回りに簡単な本棚があり、席は六尺机を4つ備えて、30名ほどが利用できる。利用方法は受付で住所氏名を記載すれば、自由に図書を選び読むことができる。昭和24年には宮ヶ丘文庫が設立された。宮ヶ丘文庫の運営規則は次のとおり。
閲覧時間:午前9時から午後5時まで
閲覧料:1回1円
休館日:毎週月曜日、国民の祝日、毎月14日(館内整理のため)

   昭和27年4月には、柿之木坂、宮ヶ丘文庫を一ヶ所にまとめて、目黒区立守屋図書館が誕生した。創設時の守屋図書館は台湾日日新報の創業者・守屋善兵衛(1866‐1930)の邸宅を整備したものである。1階には一般閲覧室、集会室、事務室、書庫がある。2階には30畳のタタミの間の児童読書室と新聞雑誌室がある。また4畳半の和室は児童研究室として使用されていた。このような小図書館の歴史であるが、文庫から図書館へ、閲覧料の有料制から無料化へ、昭和20年代の公共図書館の発展の軌跡が典型的に現われている。

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(参考:「目黒区の図書館、目黒区立図書館創立四十周年記念資料」)

2009年8月 7日 (金)

夏の図書館

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   図書館は学生の城 夏休み

                     冨士谷清也

   受験戦争が激しかった時代は夏休みの図書館は閲覧室の座席を確保することもたいへんだった。朝早くから並んで抽選で当たったものだけが座席券をもらって、勉強ができる。まさに学生のための施設という感じだった。最近は、ひところのような受験戦争もみられなくなり、また学生もあまり勉強しなくなり、高齢者が多いようだ。冨士谷清也は岡山の俳人。

  図書館は老人の城 夏休み

2009年5月27日 (水)

どこまで続く過剰反応

   今日の朝日新聞の「声」の欄に「過剰反応は余分な不安招く」という一文が掲載されている。まことに新型インフルエンザ騒動の本質を言いえている。「新型インフルエンザへの社会の反応は度を超している。過剰反応の原因は、感染予防というよりも責任回避の集団心理が感じられる」とある。この春まで教育委員会にいたケペルには、その指摘には頷くことが多い。役所は万一でも被害者が拡大したら管理者としての責任をとられることを一番に畏れる。国からの指示があれば、従うのが一番の安全策である。学校や保育所はもちろん、図書館までも休館したところがある。もちろん感染拡大を防止するためであり、自己保身というのは酷なことは分かっている。しかし、開館した図書館もある。「新型インフルエンザは毒性が比較的弱く、過剰な反応をすべきではない。市民サービスの低下もできるだけ避けた」という判断をした西宮市立中央図書館の館長、並びに職員にエールをおくりたい。

2008年12月 9日 (火)

土足厳禁

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   今では図書館に入館するときスリッパに履き替えるところは公共図書館ではほとんど見かけなくなったと思われるが(現実には小さな図書館にはまだあるらしい)、いわゆる土足厳禁は昭和戦前期はまだ一般的なスタイルであった。では西洋式の靴履きのままで入館が可能にした最初の図書館はどこか、というと手元にある二、三冊の書物を調べてみたが見当たらなかった。

    土足入店ということなら商売だけにデパートが早かった。通説では、大正12年の関東大震災後、銀座松坂屋が土足での入店を可能にしたところ、繁昌したので、他店も追随したことが土足入店の始まりとされる。また一説によると銀座の三越が11月に改装オープンして全館土足入店にしたといわれる。だがそれより以前に、白木屋(現在の東急百貨店)は大正12年5月15日から神戸出張所で土足入店を始めたとあるし、大丸ではそれよりもずっと前の大正5年5月15日に下足番をなくして、履物のまま入店できるようにした、というデパート各社の競い合いの歴史があるので、なかなか最初を決めることは難しい。

  このブログは一応は図書館系ブログとなっているので、話を図書館の土足入館にもどすと、アメリカ留学から帰国した毛利宮彦(1886-1956)は大正5年、6年ころ、早稲田大学の図書館の新館建設設計に当たっていたが、その図書館はおそらく床をアスファルトにして全館土足入館を考えていたであろうと推測する。毛利宮彦の計画自体は中止され、まぼろしとなったが、日本最初の土足入館の図書館はおそらくいずれかの大学図書館ではないだろうか。

2008年9月28日 (日)

図書館員とエルダーホステル

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    昭和61年3月3日、大阪の中津にあるマンションの一室で4人の女性たち(豊後レイコ、森田美和、南山とよ子、林悦子)が集り、「エルダー国際交流協会」(昭和63年にはエルダーホステル協会と改称)を設立した。これが日本におけるエルダーホステルの始まりである。アメリカで始まったエルダーホステルというのは、まだ日本ではユースホステルのようには知られていないであろう。1975年にユースホステル運動と北欧のフォーク・ハイスクール(全寮制)における教育制度をヒントにニューハンプシャー州の大学で誕生した。大阪のAACに勤務していた女性司書・豊後レイコはアメリカ人から、「日本の伝統・文化についてもっと知りたいが、日本にエルダーホステルのような組織はないか」と訊ねられた。受け入れ先の団体をいろいろ探したが、社会的意義はありそうだが、コスト面で採算性が認められず、どことも尻込みをする。結局、豊後本人が駈けずり回って、米国エルダーホステルEIL本部と連絡をとりつつ、最初の日本学講座が開催された。大阪でのホームステイをはさんで京都と岡山が会場に決まった。昭和61年9月、最初のアメリカ人参加者34人が、京都(関西セミナーハウス)、岡山(ノートルダム清心女子大学)で学んだ。そして現在までに4000人を超えるアメリカ人受講者が来日している。豊後レイコは、長くCIE図書館、AACで勤務された女性司書で関西では図書館関係者の間ではよく知られた人である。情報と人、人と人とをつなぐ経験を生かして、新しい事業に退職後もチャレンジされた。インフォーメーション・スペシャリストとして図書館の専門性が問われている時代、豊後レイコさんの活躍はまことにお手本とすべきものである。(参考文献:「八八歳レイコの軌跡」ドメス出版)

2008年9月18日 (木)

カバヤ文庫で知った知識の小宇宙

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    むかし10円のカバヤキャラメルを買うと中に「文庫券」が1枚入っていた。その文庫券を50点ためて、岡山のカバヤ本社に送るとカバヤ文庫が一冊もらえた。カバヤ文庫は戦後の少年少女たちの隠れたベストセラーだった。「シンデレラひめ」から「少女コロンバの復讐」まで昭和27年から昭和28年にかけて153タイトルが出版されている。当時「岩波少年文庫」が昭和25年から刊行されているし、昭和26年から講談社の「世界名作童話全集」、昭和28年には「世界少年少女文学全集」(全68巻、創元社)、「日本児童文庫」(全50巻、アルス)の刊行が始まっていたが、カバヤの原敏の企画によりカバヤ文庫は続々と刊行された。実際の執筆は京都の大学院生や高校教師によっておこなわれたが、岩波や講談社をリライトしたものだったらしい。だが各巻頭には錚々たる顔ぶれの序文がついている。伊吹武彦「シンデレラひめ」、重松俊明「ピノキオの冒険」、長広敏雄「母をたずねて」、出雲路敬和「乞食と王子」、大山定一「しらゆきひめ」、吉川幸次郎「アラビアンナイト」、桜井常之輔「可愛い小公女」、佐藤一男「宝島探検」、村上次男「にんぎょのおひめさま」、貝塚茂樹「孫悟空大暴れ」、中西信太郎「若草物語」、山本修ニ「ロビンフッドの冒険」などなど。カバヤ文庫は最初は郵送で贈られてきたが、あまりの人気のため、都会のお菓子屋ではガラスケースにカバヤ文庫が陳列されていて、いつでも文庫券で交換できるところもあったという。カバヤ文庫で本との出合いを知った人は多い。だいたい昭和13年から昭和18年ころまでの世代で、「生めよ増やせよ」の世代なので人口数は多い。本日、全国図書館大会、兵庫大会での池内紀さんの記念講演「図書館の小宇宙」でもあの「カバヤ文庫」の話があった。貧しかったが、貧しいとはおもわなかった、なぜか希望のある時代だった。いまから見ると粗末なつくりのカバヤ文庫だが、池内少年はそこから知識の小宇宙をみたのだろう。ほんとうにいい講演だった。

2008年8月24日 (日)

目賀田逸子

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   近代日本図書館史において目賀田種太郎(1853-1926)の名前はアメリカ図書館事情の紹介者として比較的よく知られているであろう。たとえば「図書館学教育資料集成4図書館史」石井敦編において、「目賀田種太郎の報告(明治11~明治12年)と一項目が掲載されている。ところで目賀田種太郎の妻逸子(1860-?)が、勝海舟の三女にあたることはあまり知られていないであろう。逸子は美しく、性格は社交的で、英会話が巧みであった。明治8年商法講習所教師ウイリアム・C・ハイットニーの娘クララとの交流からキリスト教に感化された。明治13年、種太郎と結婚。家庭にあってニ男六女を育て、晩年は社会福祉に奉仕し、募金運動を進めた。息子の目賀田綱美は1920年代にパリの社交界でダンスを身につけ、昭和元年帰国すると「目賀田ダンス」という社交ダンスを日本に紹介したことで知られる。(参考:関百合子「目賀田家の嫁逸子」歴史研究第298号)

2008年7月 2日 (水)

荒川の図書館職員不当配転事件(1973年)

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家の近所まで巡回にくるブック・モビルの日はお年寄りの唯一の楽しみである

    施設、資料、司書を図書館の三要素という。図書館はこれら3つの要素がととのえられ、結合されていなければならない。なかでも司書の役割は重要であり、経験豊かな司書の存在が、図書館サービスの質を決めるといっても過言ではない。ところが東京の特別区では1963年から司書の採用をしておらず、1996年には司書の職名が廃止された。とくに1973年4月に荒川区で発生した陰山三保子配置転換不服申立事件は、当時図書館問題研究会を中心に全国的な支援活動が展開され、記憶に新しい。ここでは「図書館問題研究会東京支部ニュース1973.4.20(№69)」の記事を引用して、事件の概要を紹介する。

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   荒川で不当配転おこる!

    4月の人事異動シーズンをむかえた折から又しても荒川で図書館職員に対して不当配転がおこりました。以下は18日の東京支部常任委員会で当事者と荒川の会員からうけた報告をもとにした事実経過で、急きょ皆さんに訴える次第です。

  4月14日、会員であり、支部の事務局をうけもっている荒川区立荒川図書館の伊藤由美子さん、陰山三保子さんにとつぜん15日よりそれぞれ土木課、国保課へ異動の内示が出されました。荒川区ではこの二、三年人事内示はたった一日前にされているそうです。組合協定では一係3年、一課10年で異動するという原則になっており、伊藤さんは7年、陰山さんは6年前同一職場であり対象となったということで、同じく管理係の他の二人にも異動が出されました。

   二人は私費で司書資格をとっており、図書館にずっと働く意志を固めていたところからただちにこの辞令を拒否し、組合(都職員労荒川支部)へ訴えました。支部は協定どおりなので仕方がない、個人としての訴えではとりあげられないので図書館分会として討議の上もってくるようにとのことでした。

   ただちに南千住、尾久の職場にも訴え職場委員会を開いた結果、二人の意志を尊重して二人の辞令拒否を支持しようということになり組合へ再度もっていったところ組合では18日の執行委員会にかけると約束しました。

    18日、総務部長に呼ばれ、郵送された辞令を拒否したため再度うけとるように云われ、「一般職として採用されたのだから司書として認めることはできない。司書職制度が問題となっているのは知っているが理事者は反対している。制度ができるまで待ったらどうか、しかしその時に戻すという意志はない」又、「他の職場へ異動しても主義主張はできますよ」などとも云ったそうです。そして「辞令をうけとらないなら別の方法―業務命令―を考える」と強迫的な発言をしました。

   同じ日の執行委員会に二人は傍聴で出席しましたが、一般論として結論は出ているが当人の意見を聞くという前おきで執行委員会の結論は出さぬまま仕事の中味等について逆にいろいろ質問され、「支部では5年ときめて異動している、何故ゴネるのかわからない、他にも泣いている人はいる」などの意見が出されていましたが時間切れで又、次回にもちこすことになりましたが、何日ということは云われないままでした。

   職場にはもう後任の二人の人もきており、机はまだそのままですが、出勤簿はもうなくなっています。職場の組合員はほとんど5年以下の新しい人であり、司書資格をもたない人は一人しかいないという状況なのでこうした問題に積極的になり得ない弱点はありますが二人はあくまで職場に依拠し、「司書職問題に身をもってとりくむために斗う決意をかためています。

   今後の対策としては図書館分会を中心に活動を行い、支部を動かし、内外の組合員に広く支援を訴えていく方向で運動をすすめていくことになっています。

    図問研常任委では図問研としてこの問題にどうとりくむかを討議し、専門職問題対策委員会のナマの問題としてガッチリ四ッにとりくんでいくことになり当面の対策をたてました。①図問研の窓口を専門対策委員長大沢正雄とする。②荒川の会員と毎日連絡をとり情況を知らせてもらう。③必要な時にすぐ対策委員会を召集する。④各委員はそれぞれ自分の職場に知らせ訴えていく。⑤住民運動、生野さんを守る会とも交流していく…で、荒川の会員を激励しながら組合の状況によっては必要な行動をしていく準備をすすめています。

   会員の皆さん、伊藤さん、陰山さん、ならびに荒川の会員の方々にぜひ力強い支援をお寄せくださるようお願いいたします。

2008年6月21日 (土)

国民百科事典に昭和の出版文化をみる

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(左上から)アインシュタイン(岡本一平)、チャップリン(トポスキー)、ゴーリキー(ホフマイスター)、ルナール(ルベール)、小村寿太郎(鹿子木孟郎)、菊池寛(岡本一平)、永井荷風(清水崑)、夏目漱石(下川凹夫)、吉田茂(清水崑)、太田薫(那須良輔)、河上丈太郎(中村伊助)、池田勇人(中村伊助)

   図書館では蔵書の新鮮さを保つことは大切であるが、一方、「図書館とは記憶の社会的装置」といわれるように、過去の知的文化財を後世に伝えていく役割も大切である。例えば、百科事典である。戦前の冨山房や三省堂にも、現在の百科事典では得られない重要な情報が凝縮されている。過去の国民生活を知るうえでの同時代性をもつ一等資料となる。戦後でいえば、昭和37年に平凡社から刊行された「国民百科事典 全7巻」である。図書館員からみると巻数が少ない百科事典なので、ややもすれば軽視しがちであるが、これは家庭への販売を企画したもので、応接間の書棚に置くにはお手ごろである。事実の国民百科事典は数十万セットという大ヒットを記録した。そして内容がよい。たとえば、漫画を調べると、1ページにわたる解説とともに6ページにのぼる図版がある。そこにはダ・ヴィンチ「人間戯画」、ブリューゲル「謝肉祭と四旬節のけんか」、ホガース「説教」、ゴヤ「雀百まで」、ドーミエ「新火器発明者の幻想」、ピカソ「フランコの嘘」、「鳥獣戯画」、葛飾北斎「盲人の川越」、河鍋暁斎「カエルの曲芸」、岡本一平「有島武郎心中」、ペイネ「恋人たちの手紙」、田河水泡「のらくろ」、麻生豊「のんきなトウサン」、プローエン「親父とむすこ」など日本から世界中の漫画が紹介されている。「世界各国の似顔絵」はなんと24人の著名人の似顔絵が掲載されている。これは通り一編の無味簡素な紹介ではなくて、読んで楽しむための百科事典という編集が豊富に盛り込まれている。ただ年数が経過したからといって、図書館では廃棄するのではなく、よく資料的価値をみきわめることが大切である。

2007年5月13日 (日)

永井久一郎と東京書籍館

   永井荷風(1879-1959)は、明治12年12月3日、東京市小石川区金富町45番地(現在の文京区春日2-20-25)に永井久一郎、恒(つね)の長男として生まれた。父・永井久一郎(ながいきゅういちろう、1851-1913)は後年の官僚・実業家としての経歴以外に、禾原(かげん)と号し漢詩人として知られ、若い頃は明治初期の公共図書館のはじめである書籍館の運営に尽力したこともある。母・恒は尾張藩儒学・鷲津毅堂(1825-1882)の長女であり、荷風は鷲津の家系であることを誇りにしていた。

   永井久一郎は愛知県愛知郡鳴尾村(:現在の名古屋市南区)に父・永井匡威、母よねの長男として生まれた。永井家は製塩業などを営む豪農として知られていた。名を永井匡温(ながいまさはる)といい、尾張藩儒の鷲津毅堂に漢学を学び、森春涛から漢詩を学び、箕作麒祥に英語を学んだ。

   明治4年7月父の死去にともない、久一郎は家督を二男の永井松右衛門に譲り、名古屋藩の貢進生として渡米し、ラトガーズ大学グラマー・スクールで勉学する。帰国後の明治7年、工学寮二等少師となり、ついで文部省に9等出仕として、東京書籍館(帝国図書館の前身)に配属される。明治8年4月、文部省は書籍館を浅草から湯島に再び移転し再開したが、館長の畠山義成は病気となり、8月2日、8等出仕永井久一郎は書籍館館長補に任ぜられる。

   明治10年2月15日に西郷隆盛が西南戦争を起こしたため、明治政府の財政を圧迫し、経費削減のため東京書籍館は閉鎖することになった。しかしその運営を東京府が申し出たため、3月28日、文部省は書籍館を東京府に引き渡しを決定し、永井久一郎は、諸準備を終えて、5月4日正式引き渡しとなった。この蔵書が完全に今日の国立国会図書館に引き継がれているのは東京府のおかげであり、また永井久一郎の尽力によるものが大きい。

 東京府に引き取られた書籍館は、東京府書籍館と改称されて、5月5日開館となった。明治10年12月7日に専任館長としてニ橋元長が幹事(館長職)に任命され、翌11年11月19日学務課の所属となってその体制をととのえた。次いで明治12年4年9日には、岡千仭が2代目幹事として着任した。永井久一郎は内務書記官となり、明治17年ロンドン万国衛生博覧会に事務官として出張し、デンマーク万国衛生会議委員となる。

2007年5月12日 (土)

漢学の伝統と書籍館

   明治政府は、早くも明治元年3月、京都の学習院を開講、この年6月29日、東京の昌平坂学問所が復興され、その後「昌平学校」と改称され、また単に「学校」とも呼ばれた。同年12月に頭取・教授等が置かれ、また知学事(山内豊信)、判学事(秋月種樹)が置かれた。さらに同年1月入学規則を定めて、明治2年1月「昌平学校」は開校された。明治2年8月には「大学校」となった。しかし、大学校が国学を根幹として、漢学を従属的に位置づけため、漢学派に強い不満をいだかせた。その後国学・漢学両派の激しい抗争があった。

   明治5年4月2日、文部省博物局は湯島の旧昌平坂学問所大成殿に「書籍館」を開館する。これがわが国における近代的公共図書館のはじまりである。書籍は約1万3千部、約13万冊を超えていたと言われる。明治7年には蔵書を浅草に移して「浅草文庫」と改称する。明治8年5月にはふたたび旧昌平坂学問所大成殿に「東京書籍館」を開館する。しかし西南戦争による財政支出削減により、明治10年2月に閉館する。

   明治10年5月に東京府がその後を引き継ぎ「東京府書籍館」として開館する。著名な漢学者の岡千仭が明治11年3月から書籍館傭として着任する。明治13年3月15日には館内参観の日として、名士多数を招待した。湯島聖堂・大成殿にある孔子像参拝の儀を中心としたもので、書籍館が漢学派によって占められた感がある。しかし、文部省の洋学派との対立、藩閥政治の独占などに反対した岡は突如、病気を理由に下野する。そして明治13年7月には、再び文部省へ移管され「東京図書館」となる。

   こうして明治10年代から「洋学でなけりぁ、夜はあけられねぇよ」という風潮となるが、こうした洋学の興隆、西洋文化に心酔に対する反感から、明治時代は逆にこれまでにない漢詩・漢文の隆盛をみる。その理由は当時まだ幕末の老大家は存在し、西郷隆盛・木戸孝允をはじめ元勲たちが漢文を書き、国家のために奔走する有為の士や操觚者たちが漢学書生であったこと、また明治2年大学校に国史編集局を開き、漢文をもって国史を編集する計画があり、明治8年、太政官に修史局を設置して編年史編集の業をはじめたため、諸藩から詞章家が東京に集合した。これらによって、印刷術の発達ともあいまって、明治の漢学による文運はますます盛んになった。尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石といったいわゆる明治の文豪といわれる人たちも、なんらかの意味で幕末から明治初期の漢学者たちの影響を大きくうけているのである。

2007年5月 2日 (水)

明治初期「図書館」は「ヅショカン」か「トショカン」か

   東京図書館の岡千仭が楊守敬との会話で「図書館」を「トショカン」と発音したのか、「ズショカン」と発音したのか、とても気になってしかたがない。今日、中国、朝鮮でも日本で造られた用語「図書館」は、アジアの漢字文化圏では共通して使用されているからである。従来の説に従うなら「ズショカン」と考えるのが普通であろう。明治とは言いながら、岡の半生は江戸時代の人である。明治18年刊行の「東京図書館洋書目録」では、Tokio Dzushokwan と館名が示されている。だがアジアでは明治30年代留学生によって「トショカン」で広まっているし、「ヅショカン」から「トショカン」へと呼び方が一変したとは考えにくいことである。

   そこで、めずらしく先行の研究に当たって調べることにする。岩猿敏生「書籍館から図書館へ」(図書館界35-4、1983)に詳しく記されていた。結論を言うと、「トショカン」「ヅショカン」という呼び方は最初から二通り存在していたという。通説で知られて「図書館は最初はヅショカンと呼んでいた」という言い方は学問的には厳密性を欠く。高野彰「東京大学法理文学図書館史」(図書館界27-5、1976)によると英文でToshokuanと表記されている。永峰光名が初期図書館は「ヅショカン」と呼ばれたとことに対して、高野、岩猿は二通りの呼び方が存在していたことを説いている。岩猿の近著「日本図書館史概説」(日外アソシエーツ)でも「明治の初期、ライブラリーに当る言葉として、書籍館と図書館があり、その読みもそれぞれ二通りあったと思われるが、1890年代には図書館という呼称に、読みもトショカンに統一されていった」とある。これまでトショカンという呼び方は明治30年代から、とくに明治30年に東京図書館が帝国図書館になった年でもあり、明治中期、つまり明治30年以降と書かれた文献が多かったが、岩猿の研究によれば、1990年(明治23年)つまり明治20年代にトショカンという呼び名のほうが普及していったという。ところで夏目漱石の「三四郎」には「図書館」という用語が何度か使用されているが、おそらく「トショカン」と読むのであろう。「ズショカン」ではなく「トショカン」と読まれるようになったのは、なぜか?という素朴な疑問を書いているブログを見つけた。岩猿先生はじめ専門家は残念ながら、その理由を書かれていない。ケペルはその理由を「トショカンのほうがハイカラで若い人に好まれた」と推測している。根拠となる資料はまだ見出せていない。

 ところで最初の岡千仭の疑問であるが、漢学者でもあることから漢語としての語義では「図書」は「ヅショ」であり、「図」が「地図」のことであり、「書」が「書籍」の意味であることから、考えるとすれば、明治13年時点では「ヅショカン」と発音していた可能性のほうが高いような気がする。

2007年4月29日 (日)

楊守敬と岡千仭

    明治13年、駐日大使・何如璋の招きで来日した楊守敬(1839-1915)は、日本に多くの貴重書が残っていることに驚いた。森立之(1807-1885)らの協力によってそれらをことごとく購入した。4年間にわたる日本滞在の成果は、のちに「日本訪書志」「留真譜」「古逸叢書」として公刊された。楊守敬の来日は日本の書道界にも、巌谷一六(1834-1905)、日下部鳴鶴(1838-1922)らの書家に大きな影響を与えた。しかしながら、漢籍の収集については、主に東京府書籍館(東京図書館)の職員がなんらかの関与をしていたと思われるが、詳しい実態は不明である。

    この明治13年という年は、東京府書籍館が再び文部省所管となり、明治13年7月に「東京図書館」と改称されている。岡千仭は明治12年ころは東京府書籍館幹事として漢籍に詳しい館長であった。楊守敬と岡千仭とが筆談をまじえて日中の漢籍の収集方法を話し合っていたと推測している。そして楊守敬は筆談で「図書館」の三文字を見た最初の中国人であり、岡の口から「ずしょかん」あるいは「トショグァン」という耳慣れない言葉を聴いた最初の中国人ではないだろうか。いまだ江戸の名残りのある明治初期の日本人には「図書・館」(ずしょ・かん)と読むのが一般的なのだが、おそらく中国人はこれを「トショグァン」と読むにちがいないだろう。やがて日本人にも図書館(としょかん)と言うほうがハイカラに感じるようになって学生の間で流行した。それでも図書館(ずしょかん)という呼び方は明治中期(明治30年)頃までは残った。

    岡千仭(おかせんじん、1833-1913)。天保4年(1833年)11月2日、仙台藩士・岡蔵治の五男として生まれる。幕末、明治の漢学者。初名は修、本名は岡啓輔。のち岡千仭と改名。字は振衣、子文、天爵。鹿門(ろくもん)と号した。天保4年、仙台で生まれ、7歳で藩校養賢堂で学び、舎長となる。20歳で江戸に出て、昌平黌に入門、佐藤一斎、安積艮斎に師事する。文久元年、双松岡塾を松林飯山(廉太郎)、松本奎堂らと開塾し、清河八郎、本間精一郎らと交際するも、討幕運動の嫌疑をかけられ、わずか半年で閉鎖する。慶応3年には郷里にもどり、奥羽列藩同盟に反対し、養賢堂の指南役となる。翌年、奥羽列藩同盟に反対し、戦争中も伊知地正治官軍参謀とも会い、終戦を画策、藩執行官の怒りに遭い、投獄される。終戦を獄中で迎え、福沢諭吉著「英国議事院談」を読み、仙台藩議事院局を開くよう建言して、明治3年、大学中助教を拝命して上京。太政官修史局協修、東京府書籍館幹事など漢籍の収集に当たる。これら官吏生活を経て、病気のため明治14年には退官し、私塾経営にあたる。そのころ「岡鹿門」の名前は天下に知られ、漢学塾である「綏猷堂」(すいゆうどう)は芝愛宕下の旧仙台藩邸にあり、全国から若き俊英が集まり、一時は三千人の子弟をかかえたといわれる。尾崎徳太郎(のちの尾崎紅葉、1867-1903)、北村門太郎(のちの北村透谷、1868-1894)、加藤拓川(1859-1923)、石井民司(のちの石井研堂、1865-1943)、片山潜(1859-1933)、福本日南(1857-1921)などその門を叩いている。大正3年2月18日、死去。

   考証学者の楊守敬と漢学者の岡がどのような談義をかわしたかは不明であるが、楊守敬は帰国の明治17年には膨大な書籍を携えていたといわれる。その蔵書の多くは北京図書館に収蔵されている。清末・明治初期の図書館交流史の一端を示すだけで、その全貌があきらかでない。今後の図書館史の大きなテーマとなりうる。「図書館」という和製漢語も、そのころ日本で一般化しだしたが、これまでの中国図書館史の定説では20世紀初頭で、中国で「図書館」の呼称が最初につけられた公共図書館は、湖南省立中山図書館であるといわれている。(近刊書に工藤一郎「中国の図書情報文化史」つげ書房新社)このことを公立図書館の開館年で調べてみる。(「中国歴代蔵書史」徐凌志主編、江西人民出版社より)

1904.8 湖北省図書館

1904   福建図書館

1905   湖南省図書館

1906   黒龍江図書館

1908   奉天図書館

1908   直隷図書館

1908   山西図書館

    湖南省立図書館1905年説は、ふるく矢島玄亮「概説支那図書館史」(大東文化6)、大佐三四五「図書館学の展開」、佐野捨一「世界図書館年表」など多くは、「光緒31年(1905年)湖南省立図書館設置」説で、中国の「図書館」の呼称のはじまりは、湖南に始まるとされている。ところが、近年の公刊された「中国歴代蔵書史」をみても、1904年湖北省立図書館説も依然として考えられてよい。ずいぶん昔のはなしではあるが、実際、書面で直接に湖北省立に問い合わせてみたところ、丁寧な返事をいただき「わが湖北省立図書館は中国第一の図書館です」という返書をいただいた。湖北が先か、湖南が先かはそれほど関心はなくなったが、いま重要に思うのは、40代前半の若き楊守敬が日本の図書館員と交流し、図書館事業や図書館思想を中国にもたらしたであろう一事である。おそらく4年の在日期間に和製漢語の「トショグァン」という発音にも馴染んで本国で伝えたことは想像に難くない。(中国では「ずしょかん」は普及していない)そうすると1904年(明治37)という公式な「図書館」よりも1884年(明治17年)に中国に知られたことになり、従来より、「図書館」という語そのものの伝来は20年ほど早まることになるのではないか。

近年、岡千仭の研究は明治期の日中交流史として注目されている。

宇野量介「鹿門岡千仭の生涯」

王暁秋「中日文化交流史話」日本エディタースクール出版部

2007年4月 7日 (土)

土岐善麿と石川啄木

   朝日新聞社の石川啄木と読売新聞社の土岐善麿とは新進歌人として併称されながら未知の関係であった。明治44年1月13日、二人は初めて会い雑誌を出そうという話が成立した。誌名も啄木の案によって「樹木と果実」と決定した。創刊号は3月1日とし、二人はその後、毎日のように会って準備を進めたが、2月1日、啄木は慢性腹膜炎と診断され、帝大青山内科に入院し、退院は3月15日であった。

   土岐善麿(1885-1980)は、明治18年6月8日、東京市浅草市松清町の真宗大谷派等光寺に生まれた。父善静、母観世(藤原家の出身)。土岐善静は学僧として知られた。

   土岐善麿。本名は善麿、筆名は詩作時代は湖友のち哀果。明治37年に早稲田高等予科に入学。同期に若山牧水、北原白秋、服部嘉香がいる。卒業後、読売新聞社の記者として活躍する。処女出版「ローマ字三行詩」の「Nakiwarai」は、啄木に影響を与えた。啄木は善麿を「歌人らしくない歌人」として、その作品が日常生活がモチーフとなっていることを評価していた。明治45年4月13日、石川啄木は一禎、節子、京子、若山牧水に看とられながら死去。土岐善麿の生家の浅草等光寺で葬儀が行なわれた。

   わが友の、寝台の下の

     鞄より

   国禁の書を借りてゆくかな。

    土岐善麿は歌人、国文学者、ジャーナリスト、新作能の作者、杜甫の研究家、田安宗武の研究、日本式ローマ字論者、国語審議会の会長などを歴任したり、多方面に活躍している。かわったところでは、日本最初の駅伝競走の企画実行者は土岐善麿である。京都から東京までのマラソン・リレーを企画・実行し、それを「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競走」と命名したとされる。

   土岐は戦時中も批判的良識を守った。戦争に非協力的な歌人として、歌壇の内部から攻撃にさらされた。戦後の民主主義の時代になり、土岐のリベラルな芸術家、文化人を図書館界は望んだ。昭和26年3月、東京都立日比谷図書館長となる。昭和27年5月、日本図書館協会理事長の中井正一が急死すると、8月に新理事長に土岐善麿に白羽の矢が当たった。善麿はこの時すでに67歳であったが、新生の図書館の問題が山積するなか、本人自ら難局にあたられたようだ。土岐は柔軟な思考力で、知識人らしい生き方を貫いた人である。

2007年1月 8日 (月)

有山崧と土方歳三

有山崧と土方歳三との関係

   有山崧(1911-1969)と前川恒雄。全国の図書館関係者でその名を知らないものはいない。今、図書館は、いつでもだれでも本を借りられ、気軽るに利用する場所となっている。このような公共図書館の形が40年前に最初に実践されたところが、日野市である。そしてこの図書館を中心となって作り上げたのが、当時の日野市長だった有山崧(ありやまたかし)という人物なのだ。有山市長は、幕末の新選組最大の支援者だった佐藤彦五郎俊正(1827-1902)と妻ノブ(土方歳三の実姉)の曾孫にあたる。その関係を詳しく言えば、佐藤彦五郎の四男の彦吉が有山家に養子となり、維新後、すぐに渡米した。銀行家となった有山彦吉は地元で有数の資産家となった。その後、彦吉の子の有山亮は日野町長となる。亮の子が有山崧である。

有山崧の略伝

   明治44年、日野市に生まれる。東京帝国大学哲学科卒業後、文部省嘱託として社会教育局成人教育課勤務。戦後、日本図書館協会再発足と同時に総務部指導部長となり、昭和24年事務局長に就任。全国各地の研究集会に出席し、戦後の図書館の振興に尽力する一方、図書館法制定にむけて精力的に活動した。昭和38年に刊行された『中小都市における公共図書館の運営』の企画・推進に努め、図書館界を大きく転換させた。昭和40年、日野市長に当選。市政の面から日野市立図書館の創設・発展に努めた。

有山崧と前川恒雄

   有山が市長に選ばれる半年ほど前、一人の男が日野市教育委員会職員に採用されている。後の日野市立図書館の館長になる前川恒雄である。有山は昭和25年ごろから全国各地の図書館で開かれるワークショプで若い人材を捜していたが、前川恒雄は有山の理念を最も実践活動に結びつけた男だった。日図協、図問研で活動したのち、前川はイギリスに留学し、昭和38年、日本図書館協会で「中小レポート」を有山の下で書き上げた。そのレポートの中に「公共図書館の本質的な機能は、資料を求めるあらゆる人々やグループに対して、効果的かつ無料で資料を提供するとともに、住民の資料要求を増大させるのが目的である」と書いている。つまり、閲覧中心の図書館をいつでもだれでも本を借りられる場所にしよう、多く利用してもらえる場にしようとするものだった。レファレンスや読者援助と貸出業務との関係をどう考えるかという議論も、読者援助こそ重要であるとする小田泰正と、資料提供(貸出との追求)こそ読者援助の核心であるという前川恒雄との間に論争がかわされたが、貸出の追及こそが読者のサービスにつながるとする前川理論が実践的で正しいものであることはその後の歴史が明らかに証明している。近年一部学者が唱える「市民の図書館からの脱却」は邪説である。なにごとにも初心を忘れないようにしたいものである。

   なお、このページの作成にあたりましては、このブログに寄せていただいた方からの有益な情報にもとづいています。ここに感謝申し上げます。

2007年1月 1日 (月)

シェラの講演「図書館の社会学的基盤」

   アメリカの図書館学者ジェッシ・H・シェラが、1976年、インドのサラダ・ランガナタン図書館基金のためにおこなった連続講演の記録が「図書館の社会学的基盤」(藤野幸雄訳、日本図書館協会)である。図書館学者でありドキュメンタリストであるシェラの機械文明に対する考えを中心に(インドはガンジーで知られるように反近代、機械文明否定の思想も生まれ、また現在はIT先進国であり、零の観念が古くからあった国、ランナタンの国であるという、思想の多様性が特徴である)その中から「推移と変遷」の一部分を抜粋して紹介する。

               *

   トーマス・ハクスレイはかって次のような問いかけをしました。「これらの新しい物事すべてにたいして、何をしようというのだろうか」。エルティング・モリソンの指摘によれば、「ハクスレイが真に問おうとしたのは、『これらの物事すべてを活用して、いかに自分たちの環境を変えてゆくのか』ということです。これは、図書館員であるとに否とにかかわらず、皆が当面している、真に基本的な根本の問題です。こうした「もの」から本当に利益を受け、技術面で起っているこのような恐るべき変化のゆえに生ずるすべての不幸、苦悩、あらゆる種類の社会的断絶に投げこまれないようにするには、いかなる心構えをすべきでしょうか。これが解かねばならぬ、そして図書館職にあっても解決されねばならない問題なのです。図書館の職業は全く新しい見地から見なおさざるをえなくなっています、そしてそれを始める時期が来ているのであります。

   ところでわれわれは、こうした変化と闘ってゆくことができますし、それを十分に利用できるよう、職業を組織することもできます。しかし明らかに変化はやって来ているのです。ただ、一つのことが明らかであると思います。進歩がオートメーション、情報検索の分野でいかに急激であろうとも、変化はそれでも一晩にして起こるものではありません。突然にまったく見知らぬ新しい世界にとびこんでいたということはありません。いくらかの時間は残されています。これから先も解決しなければならない技術の問題が沢山あるわけですから、確かにいささかの時間は残されていると思います。この変化は長い進化の過程を通って来るので、その中で一歩ずつ前進する、時には恐らく後退ということもあるわけです。

   しかし問わねばならない本当の問題は、エルティング・モリソンが『人間、機械、現代』で指摘している通り、環境、全社会機構、文化的環境を、こうした変化を有利に生かせるようにしておく必要がある、そうでないと破局に直面する、ということであります。これらのメカニズムは当然社会問題をひき起こします。思想統制という最後の問題まで起こるでしょう。われわれの代わりに機械が「考え」させようというのでしょうか。機械は逸脱した情報の強力なチャンネルになりかねないのです。印刷もあらゆる種類の不道徳、反社会的方向に使われうるのと同じ様、機械の発明も、いったん出来上ってしまえば、反社会的目的に使われるのです。これが人間が環境をコントロールする場合の、進歩するごとに起こる問題です。しかし一方では、人間はさらに環境のコントロールを求めて行きます。そして、なlりふり構わず、環境をいじくりまわし、出来る限りは自分の従わせ、自分の要求に合うよう変えてゆく点で何ができるか見たい、というのが人間の本性です。こうした機械の進歩が正しい目的に使われるよう、悪い人の手に渡らないよう、つまり機械が誤って使われないようにするために、歯止め、社会的、政治的な安全装置ができているかどうか確かめておかねばなりません。いうまでもなく原子爆弾がこうした管理を必要とする好例です。新しいこの情報科学全体には、原子爆弾のような潜在的に危険なものが何かありうるかも知れない。これもコントロールすることを学ばねばならないのです。

   全体の問題点が、技術者は何でもできる、というところにあるのはもちろんです。しようと思えば、議会図書館でも空中につり上げることだって出来ます、これは悪くない考えかも知れません。ちょっと時間を要することでしょう、でも結局は実現の方法を見出せるでしょう。問題は、「それをさせたいと思うのか、これはしたいと思っていることなのか。これは社会にとって最上のことなのか」というところにあります。これらは図書館員がぶつかってみたい哲学的問題であると考えます。図書館業務のなかのコンピューター、オートメーションについての熱意(熱意といえなければ楽観といってもよい)の点では誰にもひけをとらない積りであります。

   しかし本にもまだ或る価値があると思いますので、失ないたくありません。図書は何といっても有益な発明品です。磁気テープと比べても多くの有利な点を持つものです。何の装置もなしに、おそらく眼鏡でもあれば読めるものです。持ち回ることもできますし、いづてもどこでもとりかかれるものです。どんな意見でも余白に書きこめますし、磁気テープとかこれから出現する他のこうしたメディアではできないような扱いができるわけです。だから本はすたれないと思います。本はこの世に残ると考える者です。

   しかし、コンピュータもなくならないものだ、とこれも確信を持っていえます。そこでわれわれは二つの世界に生きることになりましょう。図書館員は実際、少なくとも相当長い間は二つの世界に住まねばならないのです。そしてこうした二つの世界に生きるためには、この二面性から生ずる問題は、社会における自己の役割につき再びとり上げてみる、あるいは少なくとも真面目に考えてみる必要があると思います。すなわち、図書館員が行なおうとしているのは何か。トーマス・ハクスレイのいった「これらの新しいことをどうしようとしているのか」。現在の書誌的環境を変えて行くのか。これほど増えてゆく「もの」を可能な限り十分に利用できるよう、新しい社会においては自分たちの役割をどのように確認するのでしょうか。

   さて、ご承知の通り、とくにアメリカ人はこうした新しい発明品には、やみつきになっています。われわれは機械・道具が好きです。したいと思うことを単純に、やさしく、機械なしですます方をとらず、際限もなく機械の道具を使うのです。例えば、多くの人はライターを持ち歩いていますが、それはしよっちゅう燃料が切れたり、新しい石を必要としています。誰か言ったことがあります。もしマッチがライターより後に発明されていたら、誰しも「これは何と簡単ですばらしいのだろう」ということでしょう。しかるにライターは機械であるから好きなのです。このような発明品がわれわれを捕える催眠作用、これは考えておかねばならない人間の一反応であります。

   機械に向かって進めという圧力は図書館員にたいして再三再四行なわれます。大学図書館にいる友人の多く、公共図書館にいる者でさえ、目上の人たち、大学管理者とか公共図書館理事会から、機械化せよとのかなり強い圧力を体験しています。すばらしい機械が持てる今では、誰もがオートメーションを口にしています。そしてもちろん、IBMのセールスマンの一隊が反応をかきたてるよう、あらゆる手段を尽しています。何人かの友人はまったく困った立場に立たされているのです。図書館という職業はこうしてこみ入った機械を扱う準備が整っていないことをよく知っているからです。それでも管理者たちはいうのです。「機械化しよう。そうすれば支出をうんと節約できる」。もちろんこれらの図書館員は、こんないい方が誇張であると知っています。でもオートメーション化の主題はかなり執拗で、図書館員が理のある見方をしようとしても、変化を望まない、時代遅れな奴だと非難されるたげです。この衝突は、現在経験しているような急激な変化を通るとき、職業内部に起る恐るべき断絶となっていることは疑いをいれません。

    しかしながらわれわれは前に進んでおります。このことは疑う余地がないと思います。ランガナタン博士も私と同様、1957年にドーキングで行なわれた有名な分類会議に出席した時のことを憶えておいでと思いますが、イギリスの代表たちは、一週間の会議のうち半日だけを機械のことを話し合うためにとりたいといいだしたのです。他の時間には誰にせよ機械のことをしゃべるのは許されませんでした。それで木曜の午前だったかいつだったか、機械について話し合ったのです。アメリカ人はこの他の時間には機械のことは何もいってはならない、と警告されていたのです。主催者側はこの取りきめを守らせるのに成功したというわけにはいきませんでしたが、ともかくそのように努めていました。ところで、ドーキング会議の続きがエルシノアで開かれた時には、機械はかなり目だった議題となっております。私がウェスタン・リザーヴ大学の図書館学校にドクメンテーション・センターを創設した時、何年もの間機械のことでどんなに「からかわれた」か、よく憶い出すことができます。忘れられないくらいです。機械が図書館の職を奪いさるとか、機械の方が図書館員より利口だ、などと私が思ったとでもいうのでしょうか。「からかわれ」たのは、こればかりではありません。私がこの職業にたいして妨害している、全く真面目な口調でいわれました。私は長くつとめたこの職業を馬鹿にしたことなどなかったのですが。しかし今までオートメーションは恐ろしく真剣にとり上げられています。

   オートメーションはこれからやってくるものではありません、すでに存在していますし、きわめて分化しているほどです。物理的に入手できる方法として、高度に縮小する技術を持っています。地理的に遠い所へもファクシミリで送る利用法を話し合っています、これはいずれは頁、論文、本全部を送れることになり、相互貸借にとって代るでしょう。コンピューターはすでにあらゆる種類の図書館業務に広く使用されつつあります。内容を手に入れる問題もゆっくりではあるがある程度の進歩をとげています。新しい世界はそこまで来ています。図書館職の多くのことが変えられて行くところです。この変化に適応するのがわれわれの責任です。そうしないと他の者がこの職を占領してしまうでしょう。社会史を知っている方なら、18世紀のいわゆるラダイトは、自分たちの工場に入れられた機械を打ち壊した労働者たちだったのを憶えておいででしょう。今日ではきわめて原始的とも見える機械の導入に、彼らとしてはその結果起こる断絶を見たからなのです。その時ラダイトたちは絞首刑にあいました。図書館員もラダイトにならないよう、同じような運命に見舞われないようにしたいものです。まさか図書館員を絞首刑にする者はいないでしょう、しかし忘れられるということはありうるのです。私どもはこの新しい世界の中で生きることを学ばねばなりません。機械とともに生きることを学びとらねばならないのです。目前に横たわる大きな問題は未来の図書館員の教育、明日の世界に生きる図書館員を教育することです。これが最終回のお話で私がとり上げる問題となりましょう。

              *

    引用がたいへん長文となってしまった。少し前の文献であるが、現代の図書館を考えるうえにたいへん示唆に富む文献であることは、読まれたかたは理解されるであろう。情報革命、反機械文明、反情報、オートメーション、イノーベーション、原子力などの20世紀に生み出された図書館のニ面性が生ずる諸問題に関する発言を探していたのだが、日本の図書館学者からの発言や研究は少ない。機械の国、大量生産の国アメリカで、チャプリンの映画「モダンタイムス」のような辛辣な文明批判の作品が生まれるのも、移民がもたらした文明の多様性であろう。アメリカ人は道具や機械の国だが、一方で宗教の国でもあり、自由な精神を尊重している。したがって、図書館学者は政治や国の政策とも一定の距離をおいて、一面に偏ることなく両面を思考しているようだ。後発の日本の図書館学の場合、内発的な研究の成果は少なく、アメリカの図書館学からのうわべだけの導入という外発的なものであるため、韓国より遅れているからなんとかしなければというレベルでしかない。シェラのいうような「機械に向かって進め」の日本版が21世紀になって出た国策的な提言「これからの図書館像」だが、それがもたらした結果は図書館市場が注目されて、関連企業が喜んでいるだけのようだ。

   シェラの講演録を読んで感じるのは、バトラーからの影響があるようで、社会学的な研究方法で、図書館の原理、原論を追求している。ひるがえって、現在の日本の図書館学者はどうだろう。目立つのは、細分化されたテーマの研究であるか、図書館改革とか提言とかいった政治、政策、経済と連動した言説である。そもそも図書館改革とか提言とかは、図書館学者の本分なのだろうか、疑問に感ずる。

2006年12月31日 (日)

図書館関係ケペル蔵書目録

   大晦日、蔵書の整理をしていると古い本がいろいろでてきた。昭和40年代から50年代の図書館白書とか報告書とか冊子類が多い。図書館学関係の本は退職された先輩がらいただいた本も多い。せめて書名でも記した文献リストをつくる。(未完成になることは知りつつ)「市民の図書館」の時代を証言する一級の資料だ。たとえば「愛知の図書館を考える県民集会記録」には前川恒雄の基調講演が3ページから22ページにわたり詳細に記録されており、図書館史的にも貴重。

図書館労働実態調査予備調査報告 1978 日本図書館協会図書館員の問題調査研究委員会編 日本図書館協会  1973.3.30  石塚久芳、池田政弘、市川雄基、工藤又四郎、小島惟孝、小山俊子、加藤トシ子、正能孝一、佐藤寿子、坪内哲雄、戸室幸治、長谷川周、船木俊子、保土田政子、森崎震ニ、盛岡博

公共図書館のサービス指標及び整備基準試案 昭和60年3月全国公共図書館協議会 21p  前田陽一

ニュータウンの中の図書館 吹田市立千里図書館の利用者調査 大阪大学人間科学部 社会教育論講座 図書館利用者の意見調査 質問表 105p 元木健

住民のための図書館を考えよう、理論を学びあおう 第1回神奈川図問研教室の記録 図書館問題研究会神奈川支部 1973.10  48p坪野忠、岡崎文子、木村武子、近藤泰子、酒川玲子、原田淳夫、藤田静江、山本宏義、若杉秀子

予約制度は定着しているか 予約制度調査報告書 1991 図書館問題研究会予約制度調査研究グループ 991.6.30   103p 奥本陽子、西村一夫、森崎震二

昭和48年度 富山市における図書館サービス網整備方策報告書 昭和49年3月 富山県教育委員会刊 増刷図問研富山支部 74p 村上清造、清水正三、菅原峻、佐藤留人、橋本宗ニ、細田英夫、参納哲郎、仲俣新一、堀田多門、江上隆、奥沢利治、北岡義則、萩沢稔、辻沢与三一、桐田正夫、朝日奈満里子

愛知の図書館を考える県民集会記録 1981.7.19 図書館問題研究会愛知支部 自治労愛知県本部 名古屋市職員労働組合教事支部図書館ブロック  1981.9.19  49p 基調講演「図書館システムを考える」前川恒雄、伊藤逞子、船坂清伸、梶川雅宏、小木曽真、福岡泰

住民のなかの図書館をめざして 府中市とその図書館 図書館問題研究会東京支部府中市の図書館調査委員会編 1971.6  148p

青少年と図書館 横浜市の図書館政策と青少年図書館 図書館問題研究会神奈川支部 1971.2.1  81p  乾節子、今村博、木村武子、近藤泰子、酒川玲子、多田秀子、角田あや子、坪野忠、中山立也、長谷川光児、前沢桂子、伊藤美代子、七条光生、若林緑

図書館学の課題 森耕一著 大学図書館問題研究会 1980.4  12p  (1980.1.19 京都教育文化センターでの講演会のレジュメ)

京都の図書館白書 1982 図書館問題研究会京都支部、みんなの京都市立図書館・社会教育センターをつくる会 1982.9.12  大槻政美、大前哲彦、荻野義雄、小野泰昭、芝田幸子、中西俊夫、西村弘、早川幸子、林寺厳州、藤原恵美子、八木隆明、山室真知子、埜上衛、井上晶子、井上英之、今田直弘、尾上日出丸、河原忠、篠原俊夫、芝田正夫、深井耀子、三上啓子

大阪の公共図書館白書 1983 「貸出に関する」報告書 1983.図書館問題研究会大阪支部 129p  柏悦子、斉藤健一、高橋敏一、滝川朗子、武田瑠美、中川徳子、西田博志、西村一夫、前田章夫

大阪の公共図書館白書 1973 図書館問題研究会大阪支部 186p塩見昇、三苫正勝、池内進、宇野知代、栗原均、天満隆之輔、中川徳子、中野照子、拝田顕、橋詰淳子、森耕一

愛知の図書館  1990  図書館問題研究会愛知支部 990.7.8  90p 小木曾真、河合朝子、黒岩弘之、佐藤兼夫、田中敦司、尾頭良造、福岡泰、船坂清伸、若松憲和

2006年11月24日 (金)

図書館の危機を煽る学者たち

   今、公共図書館の現場ではさまざまな現象が起こっている。委託、派遣、PFI、指定管理者制度などなど。

   そして某日、わが職場では「館長面談」というのがあった。職員一人一人と館員が30分くらいフリーな内容で話をするのである。もちろん人事異動のための本人の希望をきくことがメインであるが、いろいろな雑談もした。館長は改革派であり(東京出張で糸賀や薬袋の研修を受けている)、終わりに「図書館はどう変わるのか」(図書館の学校2006.No.69)のコピーを渡された。それは2005年11月10日、11日に行われた図書館セミナー「デジタルで変わる図書館」と「公共図書館の運営システムが変わる」をテーマの公開討論記録である。出席者は糸賀雅児、小川俊彦、高山正也、冨江伸治。

   糸賀はすでにいろいろな講演や論文でいっているが、開口一番「日本の公立図書館は、危機的状況をとっくに通り越してもはや手遅れです」と述べている。以下「これからは公務員の方々は図書館で働きたくても働けなくなるでしょう」高山正也は「あなたは公務員をとりますか、図書館員をとりますか、と問う時代になってきている」といい、専門職のグレード制に熱心である。これらの学者たちは政府と情報系企業とアメリカ制度(アメリカと日本とは国情が異なり合わないことのほうが多い)を引き合いに出し、戦後制度の見直し論(実は戦前回帰のことである)を主張しているのでいわば改革派といえばわかりやすいかも知れないが、実は保守系なので「うわべだけの改革派」なのだ。

   現代は恐怖、不安を煽られる時代であるが、多くの場合、それはつくられた「現実」であったり、虚像としての民営化モデルだったりする。つまり、変化は意識の面だけで、現実にはそれほど図書館が変わっていなかったり、変わっていても一部の田舎の図書館だけだったりする。都市部の中核的な図書館はいまも「市民の図書館」を基本に運営しているところが多い。館長にそれを言うと即座に「君は甘い!」と言われた。そうかも知れない。しかし人は恐怖の中よりも希望の中でもっと豊かに成長できるものである。学者は頭がいい。社会学の清水幾太郎という人は戦後の思想界をリードしてきた学者だが、転向するのも早かった。よく彼の経歴を調べたらなんと戦前の専門は「流言蜚語」のプロだった。国民を煽るのはうまいはずだ。当世流行の図書館学者も頭はいいしアジの手口も清水以上だ。危機、恐怖、不安を煽ることにかけてはプロであるが、彼らの著作物や言説が本当の意味での学としての図書館学といえる内容なのであろうか疑問に思っている。曲学阿世という言葉は封印して、30年後に再読して判定するという老後の楽しみができたわけだ。

    ケペルは館長に次の論文を読んでほしいと勧めた。「つくられた現実、虚像としての民営化」田井郁久雄、「みんなの図書館2006年10月号」。本稿は「談論風発、図書館批評誌」創刊号 2006.4.6よりの転載である。とくに「山中湖情報想像館は先進的なモデルか」はいまマスコミなどで話題の図書館であるが、はたして本当に「これからの図書館像」の学者たちがおすすめするような図書館なのだろうか。その結末をみるのがこれからの楽しみである。

   全国の図書館で働く司書資格のない方々へ。ケペルの考えはこうである。「大丈夫。そんなに気にしなくていいよ。学者は政府の構造改革、民営化推進のため恐怖、不安を煽っているのだ。虚妄の論理にだまされないで」

      詩

      生 長 (武者小路実篤)

どうしてもとどかなかった枝に

ふと手を上げて見たら

楽にとどくようになった。

2006年11月18日 (土)

共謀罪と治安維持法

   図書館関係者はじめ多くの団体は反対意見を表明してきたが、ついに教育基本法改正案が衆議院を通過した。例えば、図書館問題研究会は「図書館設置が教育の目的と切り離され、権力による支配や介入を許し、愛国心などを教育の目標として生涯にわたって達成するための機関と位置づけられる。それは現行図書館法そのものの改編・改悪へとつながり、あらゆる市民に知的権利を保障するために資料・情報を提供し続ける民主主義の砦としての図書館にとって、重大な危機といわざるを得ない」(教育基本法改悪法案の廃棄を求める決議)と述べている。

    だが図書館の危機はこれにとどまらない。いま政府は共謀罪の法案の成立を進めている。共謀罪の特徴は、犯罪を実行しなくても、事前に話し合い、合意しただけで罪になることである。内容的には4年以上の懲役・禁固にあたる罪が、「団体の活動として犯罪実行のための組織により行われる場合」の共謀を罰する。対象犯罪が、「死刑、無期、10年を超える懲役・禁固に当たる刑」の場合は5年以下の懲役・禁固。それ以外の場合は2年以下の懲役・禁固。政府は国際的な組織犯罪、テロ行為、地下鉄サリン事件などの事例を想定して、処罰の早期化によって治安強化を図るねらいがある。ところが法の濫用によっては、集団の抗議行動や製品の不買運動などが業務妨害とされ、その協議をすること自体が共謀罪に問われることもありえる。自由にものがいえない世の中になり、民主主義の根幹である表現の自由や市民の言論の自由が脅かされかねないのである。すでに多くの団体が反対声明をだしているところである。マスコミ・ジャーナリズム関係では、日本ペンクラブ、日本ジャーナリスト会議、日本マスコミ文化情報労組会議、出版流通対策協議会、日本新聞労働組合連合などなど。多くの識者は、共謀罪は戦前の治安維持法に勝るとも劣らない悪法と述べている。ところで日本図書館協会はこの共謀罪について明確な見解を発表しているのであろうか。「知る自由」「読む自由」と最も密接な関係にある団体が沈黙することは何か理由があるのだろうか。HPを見たが本年度の見解・意見・要望は「中古電気用品に対する電気用品安全法の運用について」ほか二件のみで共謀罪に関しては見当たらなかった。ちなみに図問研ではすでに「改正手続法、共謀罪の廃案を求める決議」を平成18年7月11日第53回全国大会で決議しいてる。

   日本図書館協会はついに教育基本法改正に対しても反対声明をだすことはなかった。「図書館雑誌」最新号(11月号)ではNEWSのトップで「教育基本法改正について意見表明相次ぐ」の記事があるが、よく読むとまるで他人事のような内容なのだ。学校図書館を考える全国連絡会、図書館問題研究会、学校図書館問題研究会の反対理由を紹介しているが、不思議なことに協会がどういう意見なのか不明なのだ。このような最近の日本図書館協会の重要問題への対応の立ち遅れや貸出重視に対する見直し論議の背景には一部の政府、文部省寄りの図書館学者が協会を支配し、戦後民主主義を軌道修正する動きがみられ、協会の保守化傾向が顕著になってきていることが理由にある。今後、これからの図書館像が愛国心教育と思想統制によって、戦前の治安維持法下のような思想善導機関となることが大いに懸念されるところである。

2006年10月 2日 (月)

戦前図書館界の功労者たち

    昭和26年10月10日、日本図書館協会創立60周年記念式典において30名の功労者が表彰されている。ここにその氏名と略歴を掲げる。

秋岡梧郎(1895-1982 東京都江東区立深川図書館長) 熊本県に生まれる。1922年講習所第1期卒業。1919年熊本県郡教育会明治文庫司書を振出しに終始図書館事務に従事する。1922年日比谷図書館に就職後、麻布、両国、京橋の各主任を経て1931年京橋図書館長に昇任。1948年現職に就く。

天野敬太郎(1901-1992 関西大学調査部長) 京大司書として法経図書室に長年勤務。傍ら目録法、書誌学に研鑽。戦後、関西大学図書館長に就任し、同大学図書館学校を創設する。

伊東善五郎(1891-? 青森市議会長) 青森中学を卒業後、家業を継ぎ、傍ら市会議員に選出されること数回。図書館に深い関心をもち、古くから本会員として、また青森県図書館運動のために献身。

衛藤利夫(1883-1953 本協会名誉会員 本協会前理事長)熊本県に生まれる。1912年東京帝国大学文学部選科修了。同大学図書館司書を経て1922年に満鉄奉天図書館長となり、大連図書館とともに満鉄図書館の黄金時代を築いた。1942年に同館退職後帰国。敗戦直後の大日本図書館協会理事長兼事務局長、1947年には新生の協会理事長に就任し、戦後の混乱期、3年にわたって協会の社団化と再建に尽くした。

大野史朗(1891-?  東京農業大学図書館) 1918年農大卒業後、同大助手をつとめ、1920年農大図書館に転じ、1944年農大参事同図書館長代理となる。

長田富作 (1880-?  元大阪府立図書館長) 1929年大阪府立図書館司書部長として図書館界に入り、1933年今井貫一の後を継いで二代館長となる。その間、特許公報室を整備し、また印刷部を設けるなど鋭意館の充実に努力する。

柿沼 介(1885-? 国立国会図書館図書館学資料室長) 1911年東大哲学科卒。1913年東京日比谷図書館に就職。1919年満鉄に入社し図書館勤務。1924-1926年図書館管理法研究のため米英独に留学。帰国後、満鉄大連図書館長に就任。1940年辞職。戦後は国立国会図書館に勤務。

加藤宗厚(1895-1981 国立国会図書館支部上野図書館長)愛知県に生まれる。1925年文部省図書館教習所修了後、帝国図書館に奉職。分類・目録など整理技術の分野で活躍し、教鞭をとる一方、「日本件名標目表」を刊行。富山県立図書館長、東京都立深川図書館長を経て、1947年文部省事務嘱託となり、図書館法制定の準備に力を注いだ。

河合博(1901-? 前東京大学司書官) 1928年東大法学部卒。1934年東大助教授に任官、翌年東大司書官となる。1937-1938年文部省在外研究員として大学図書館経営法研究のためアメリカに留学。1950年司書官を退きスタンダード石油会社顧問弁護士となる。

川崎操(1904-? 一橋大学附属図書館事務長) 日大高師部卒。1923年教習所卒業後、東京商科大学図書館に就職し、以来25年にわたり同館のために貢献、傍ら大学図書館部会幹事として活動。

久保七郎(1884-? 東京都立青梅図書館長) 七高中退。1912年京橋図書館長となり、大正年間公開書架制を採用した。1926年衆議院図書館長となる。1946年青梅図書館長となる。その間、図書館生活37年になる。

金光鑑太郎(1909-1991 金光図書館長) 1928年金光教教義講習所卒業。1941年金光教本部教会副教会長に就任。また1943年金光図書館を創設し、その館長となって今日に至る。

佐々木慶成(1885-?  富山県福野町立授眼蔵図書館長) 東大文学部卒。私有の仏典及び一般書を地域社会のために公開することを決め、1919年私財5000円を投じ、館舎52坪を新築するとともに、職員を上野の講習所に入所せしめて、私立授眼蔵図書館を経営する。

佐藤昌二(1908-?  佐藤商事株式会社社長) 1939年母校山形男子国民学校に図書館設置を奨励し、私財を以て図書及び設備を寄附し以後毎年新刊を購入送本し、また友人間宮不二雄をして経営の指導に当たらしめ、かつて「図書館経営の実際」を編集させる。戦後山形第一小学校となるや、援助育成を継続し、或は「佐藤文庫賞」を設けて読書奨励を行う。

椎名六郎(1896-1976  香川県立図書館長) 1921年大谷大学卒業。明善高女の教諭をし文化運動に力む。1941年香川県社会教育課に勤務し、翌年県立図書館長事務取扱を兼務。1948年館長に就任。

志智嘉九郎(1909-1995  神戸市立図書館長) 1934年東大文学部支那文学科卒。1935年洲本のち尼崎中学校教諭。1939年興亜院華北連絡部文化局に就任。1948年現職につく。

鈴木賢祐(1897-?  山口県立山口図書館長) 1919年大阪府立、1924年和歌山高商図を経て1937年上海近代科学図書館総務に、その後九州大学図書館、日本図書館協会、満州国中央図籌備処を歴任。戦後、東大司書官に任ぜられ、1950年現職に転ず。

仙田正雄(1901-1977  天理大学教授) 関西大学専門部国文学科卒。1914年奈良図書館に就職。1919年大阪府立図書館、1926年天理図書館司書に就任。1939-1941年コングレス図書館の東洋部員として在米。帰朝後、野田與風会図書館、八幡製鉄所図書館主任を歴任し、戦後は天理図書館司書研究員、1949年神戸大学図書館事務長に任じられる。本年現職に転じ、図書館学を担当。

武田虎之助(1897-1974 東京学芸大学講師) 宮城県に生まれる。1920年東北帝国大学図書館勤務。台北帝国大学、東京帝国大学等を経て、1948年文部省社会教育調査員に任命され、図書館法制定の準備に尽力した。日本図書館協会では、1950年図書館雑誌編集委員長として活躍。

竹林熊彦(1888-1960  京都市教育委員会指導委員) 京大文科卒。1913-1915年ハワイ・ホノルルにて記者。1916年京大図書館に就職。1918-1924年同志社大学予科教授。1924年九州大学司書官。1939年京大司書官と歴任し、1942年退官。のち関西学院大学図書館等に関係する。

中島正文(1898-?  津沢郵便局長) 1932年自己所有の2000冊をもとに私立中島図書館を創設し、一般に公開する。1940年津沢町に無償寄附を行い、無給館長として奉仕し、その充実発展を図る。また1932年礪波図書館協会を起こし或は県立図書館副会長として地方館界に貢献する。

中田邦造(1897-1956 前日比谷図書館長)滋賀県に生まれる。京都帝国大学卒業。1931年石川県立図書館長。1940年まで在任。その間、県内図書運動の推進に努めた。1940年上京。東京帝国大学附属図書館司書官となり、同時に日本図書館協会理事として「図書館雑誌」の編集にたずさわり、日本図書館協会で全国的読書推進運動を展開した。1944年、東京都立日比谷図書館長に就任。戦時下30万冊の図書の疎開、戦後の図書館の復興に尽力した。

中野栄三郎(1887-? 野田醤油株式会社社長) 1929年與風会設立とともに理事をつとめ1946年理事長に就任。その間よく図書館の経営に当たる。

中山正善(1905-1967 天理教真柱) 奈良県に生まれる。1929年東大宗教史学科卒。1915年天理教管長を襲職し、1946年改正に伴い、真柱となる。

名塩良造(1883-? 北海道北見市菓子問屋業) 京都市に生まれる。26歳のとき渡道して雑貨の行商を営む。北見に雑貨店を開業のち菓子業に転じ今日の大をなす。1942年所有の建物を図書館にあてることを条件として、市に寄附して市立図書館の基礎をつくり、1946年開館以来絶えず図書を寄贈し、同館の拡充発展に力を尽くす。

西森理作(1897-?  富山市文房具商) 富山県神代村に生まれる。幼少の頃富山市に出て文房具商に奉公、至誠一貫営々として働き、ついに店主の経営を引き継ぎ、市内有数の商人として成功。1942年私財を投じて富山県氷見郡神代村立図書館を設け、以来毎年新刊を購入寄附し、戦後は館の更正拡充を図るために尽力。

廿日出逸雄(1901-? 千葉県立図書館長) 広島県に生まれる。1925年龍谷大学卒業後、同大学留学生としてドイツ・ライプティヒ大学に教育学を専攻し、傍ら同大学図書館学校に学ぶ。帰朝後は帝国図書館嘱託を経て、1935年から現職に就く。

村上清造(1901-? 富山大学附属図書館薬学部分館長) 1922年富山薬専卒業後沖縄にて中等教員となる。1927年母校図書館に就職。1940年富山県立図書館が設立されるや同司書に迎えられ、加藤館長を輔けて創設に当たる。1944年退職して上京、技術院の科学論文調査を掌る。戦後、薬専図に戻り、図書館経営とともに教官として学生に利用法を講ず。1949年現職兼文部教官に就任。

村田幸一郎(近江セールズ株式会社社長) 財団法人近江兄弟社理事長として社会教育に深い関心をもち、江近図書館を経営するとともに滋賀県図書館運動を推進する。

渡辺正亥(1905-?  新潟県立図書館長) 1926年講習所卒。大正1923年新潟医大図書館に就職し、1944年退官まで終始同館の整備拡充に精進。

[付記] 30人の功労者の経歴をみるとほとんど戦前期において図書館に何らかの貢献がある者たちだが、なぜか最年少の志智嘉九郎の受賞だけは気になる。(もちろん館界で著名人であることは知っているが)当時においては昭和23年に神戸市立図書館長になってから僅か3年が経過しただけである。大正年間に開架制を導入した久保七郎とキャリアが違いすぎる。また毛利宮彦が選ばれなかったのはなぜだろうか。選考に疑問が残る。

2006年8月30日 (水)

図書館はシュメールに始まる

   シュメール人は、所属系統不明の民族であるが、今日ではイラン高原を出身地とみる説が有力である。前4000年頃、ティグリス河中流域から河にそってくだり、シュメールの地に移住定着したシュメール人は、沼地を干拓し、灌漑農業の高生産性を利用して、最初の都市文明を築いた。楔形文字・神殿建築・円筒印章・羊毛衣料・十二進法などに特色が見られる。これらのシュメール文明は、次第に北部高地のアッカド地方や周辺諸地域に伝播し、ウル第一王朝を頂点としてメソポタミア全土に及んだ。ウル第三王朝の滅亡とともにシュメール文明は急速に衰えたが、バビロニア文明に基礎を与えた。

   メソポタミアにおける図書館成立過程の第一段階は、シュメール人によって実用的な文字の体系がはじめて出現し、発達したことが出発点となっている。現在、シュメール人が書いた文字の中で最も古いと見なされているのは、南メソポタミアのウルク市のエ・アンナ神殿で発見された絵文字である。前3100年頃(ウルク第Ⅳ層)シュメール文字が発明され、前2800年頃(ウルク第Ⅲ層、ジェムデッド・ナスル)まで用いられた。この絵文字から楔形文字が発達し、より多くの記録が残されるようになると、いつでも利用できるように、整理し、保存する必要が生じてくる。このような中から原図書館(Proto-library)が生まれたと考えられる。

2006年8月14日 (月)

坪田譲治と毛利宮彦との奇縁

    アメリカでの図書館学留学を終えて帰国した毛利宮彦が、早稲田大学図書館に辞表を提出したのは、大正6年10月3日、宮彦31歳のことだった。時期を同じくして、童話作家で知られる坪田譲治(1890-1982)は、早稲田大学図書館に勤めるようになった。譲治27歳のことである。

   坪田譲治は、明治41年、早稲田大学英文科1年に進級し、坪内雄蔵、金子馬治、島村滝太郎、五十嵐力、吉江喬松、片上伸、長谷川天渓らの講義を聴く。同級生には、細田民樹、保高徳蔵、鷲尾雨江、西条八十、細田源吉、青野季吉、直木三十五、生田蝶介、国枝史郎、嶋中雄策、広津和郎、谷崎精二らがおり、いずれも大正時代の近代文学を背負って立った人物がこの学窓で育てられていった。坪田は大正4年に前田浪子と結婚し、その翌年10月に早稲田大学図書館に勤めた。その頃、次第に童話創作へと傾いていった坪田にとって、図書館の仕事は単調な仕事の連続でおもしくろないものであった。大正7年3月には図書館をやめることになった。

   毛利宮彦は図書館学専門の司書であり、坪田譲治にはほとんど図書館の知識はなかったものと推測されるので、たまたま時期が前後しただけで、坪田が毛利の後任であるとは考えにくいが、著名人が人生の岐路に交錯することは奇縁といえよう。

   戦後のまもない昭和21年に毛利宮彦は「大泉文庫」を開設している。児童文学者の第一人者となった坪田譲治も、昭和36年に「びわのみ文庫」を雑司ヶ谷の自宅に開設している。はたして大正6年10月頃、毛利と坪田の二人が面識があったのか、なかったのか。文庫開設した二人は青年期の図書館勤務の経験が晩年によみがえったのだろうか。疑問は果てしない。

2006年8月 9日 (水)

京都府立図書館と竹久夢二

    竹久夢二が京都へきて堀内清の家に滞在したのは明治45年7月末から約1ヵ月である。ちょうどこの間、7月30日に明治天皇が崩御され、世は大正と改元された。「大正ロマン」という言葉があるが、それをもっとも創出したのは夢二の作品であろう。そして夢二の大正時代の出発の舞台は京都であった。

    京都で夢二は同志社女学校のミス・デントン先生、竹内栖鳳、鹿子木孟郎らを訪ねているが、富岡鉄斎に会う希望はついに果たせなかった。そして、京都府立図書館の湯浅吉郎(半月)を数回訪ねている。堀内清、そしてミス・デントン先生と同志社とキリスト教のつながりが湯浅吉郎との出会いを生んだのだろう。この高名な図書館長との出会いは夢二の成功へのステップだった。

    第1回夢二作品展覧会(大正元年11月23日~12月2日)は、京都岡崎公園内の京都府立図書館で開催された。同じ公園内で文展が開かれていたが、美術界の末席にも位置しない夢二のほうが、はるかに多い入場者であった。すでに各種の雑誌で人気の高い夢二だったが、その初めて公開される肉筆画を民衆は親しみと驚きをもって眺めたようである。館長の湯浅吉郎は、まだ社会的には充分に評価されない夢二に理解をしめすとともに、やはり同じ時期に台頭してきた白樺派の若い芸術家にも援助を惜しまなかった。そのような図書館人と若き芸術家の交流は、竹久夢二と有島生馬との交流となり、やがて夢二は谷崎潤一郎、小山内薫、吉井勇、長田幹彦、島崎藤村、徳田秋声、与謝野晶子、野上弥生子、正宗白鳥など大家の装幀をすることになる。とかく女性関係が話題になる夢二だが、女性への惜しみない愛情が創造力の源泉であり、成功への道だった。

2006年7月31日 (月)

早稲田大学図書館・大阪毎日新聞社と毛利宮彦

    最近ブログ検索などで毛利宮彦の名前をしばしば目にするようになった。「早稲田大学図書館を追われた毛利宮彦」「謎の毛利宮彦」とか興味をそそられる記事がでている。

    毛利宮彦(1886~1956)の名前は人名事典などにも掲載されず、図書館史研究者だけが知る名前であろう。概略を紹介すると、大正4年にアメリカに留学して図書館学を導入、普及に貢献した。大正5年の秋、全国図書館大会において帰朝講演している。図書館での功績としては、戦前期のレファレンス・ワークの導入に関して「日本で初めて定義を紹介したのは毛利宮彦だといわれている」(『情報サービス論』阪田蓉子、24p)とある。

    昭和3年から6年まで図書館事業研究会を主宰し、『図書館学講座』全12巻を刊行している。当時、これだけまとまった図書館学のシリーズ物を協会事業でなく、個人的事業として成し遂げたことはさぞかし苦労があったと思う。先ごろブログなどで閲覧できる坪内逍遥の日記の日付から判断して、図書刊行の資金繰りに困窮して、早稲田大学に援助を求めたものと推測している。

   しかしながら、毛利宮彦はこれだけ図書館に情熱がありながら、いわゆる図書館界に籍をおく図書館人ではなかった。大正8年から15年まで大阪毎日新聞社に勤務していたジャーナリストであった。大阪毎日新聞社(堂島)は当時発行部数を伸ばし、拡張期であった。毛利は図書資料を中心に調査部を創設した。また『毎日年鑑』(大正9年)の刊行、『サンデー毎日』にも自ら執筆している署名入り記事がある。

    「毛利宮彦の謎」といわれるのは、米国留学の後、早稲田大学の図書館建築などでその米国留学経験の成果を発揮するものの、突然、大正6年11月5日、何故に大学を退職したのか、その理由が不可解・不自然であったことを指すのであろう。坪内逍遥の日記に見られる「湯浅の件」とある湯浅という人物を湯浅吉郎(1858~1948)のことと推理している。その理由としては、湯浅は図書館学にも造詣が深く、明治35年アメリカで図書館学を学んだ経験のある神学者・詩人で京都府立図書館長だった。わざわざ日記に「湯浅来る」とあるからには遠方からの賓客ではないだろうか。京都の湯浅吉郎なら館界の大物であり、毛利宮彦が教えを請うために大正5年秋の全国図書館大会での懇親会で面談したことが考えられる。

   では、事件に関する三つの疑問点を整理してみよう。

1.毛利が全国大会で講演したのが大正5年秋。この同じ年春に湯浅は京都府立図書館長を退職している。

2.大正6年1月早々に毛利宮彦の母は坪内逍遥に相談している。ということは事件は大正5年の秋から年末にかけて発生した可能性が高い。

3.毛利が東京を去り大阪へ行くまで、この事件が収束するのにほぼ1年かかっている。問題解決には長期を要したのは、毛利にとってあまり納得のいかない大学側の決定だったからかも知れない。

    米国留学経験を共有する二人である毛利宮彦と湯浅吉郎との間に何があったのか。新旧の図書館思想あるいは図書館建築の意見の違いからトラブルがあったのか。

    その頃、早稲田大学では市島謙吉館長、毛利宮彦司書を中心に図書館の新館建設を計画していた。そこで経験豊富でちょうどフリーとなった湯浅を図書館顧問に招聘し、熱心な図書館設計をはじめていた頃が大正5年の秋である。湯浅には大正3年に同志社大学図書館建築委員会委員となり、翌年大正4年10月新図書館が完成し、その経験があった。

   ここで思い出すのは、中村初雄の図書館雑誌の追悼文だが、毛利の人柄について述べた下りで「容赦のない批判精神、それは先生のサムライ意識、徹底的合理主義と共に、先生の生涯を特長ずけた3要素とも言われよう。しかしこの三つの組み合わせは或る場合には先生を誤解させる原因ともなり、先生を孤独の人に追いやってしまったともみられぬこともない。」という一文に、それとなく原因を想起させるものがある。

  とにもかくにもアメリカ帰りの新進気鋭の図書館学者の毛利宮彦が館界を去ることは、わが国の図書館にとっては痛恨事であった。この事件を些事とは思わない。今後、毎日新聞社、早稲田大学図書館、京都府立図書館、同志社大学などで保管している資料などからこの事件の真相が明らかになるかもしれない。

追記:高梨章「毛利宮彦の謎」(日本図書館文化史研究会ニューズレター102)の調査によると、毛利宮彦は芸妓上がりの女優・金太郎との恋愛事件により新聞に掲載されるほどの騒動となり退職するに至ったことが明らかとなった。(やまと新聞大正6年4月1日夕刊)

2006年6月10日 (土)

図書分類表の起源

 近代の図書館で採用されている標準分類表であるDC  NDC   LC   ECなどのほとんどの図書分類表に、大なり小なりの影響を与えているといわれるのがフランシス・ベーコン(1561-1626)の知識の分類である。ベーコンは「学問の進歩」(1605)で、学問全体を人間と神学に、大別し、さらに人間の知識には記憶、想像、理性の精神活動があるとして、記憶(歴史)想像(詩)理性(哲学)と三部門に分類している。このベーコンの知識の分類は1870年に発表されたハリスの分類表の主題の配列に取り入れられた。ハリスは、主題の配列がベーコンと逆であることから逆ベーコン式とよばれている。(ここまでは図書館学のテキスト的な内容である。)

: 現代の図書分類表の淵源となるベーコンの知識の三分類法は、経部を除くと中国の四部分類法と共通するものがある。漢籍の分類は今日でも四部分類法が採用されているが、その基本となったのは四庫全書である。四庫全書とは、清の乾隆帝が、当時集められる限り集めた古今の図書を、経・子・史・集の四部に分類編集した一大叢書の名称である。しかしながら、この経・史・子・集という分類は唐の高宗顕慶元年(656)に魏徴らが編集した「隋書経籍志」が基礎となっている。ベーコンは中国文化の影響を強く受けていたので、四部分類法がヒントになったのではないかと考えているが、根拠ある資料で立証できないのが残念である。

2006年6月 8日 (木)

愛知県の明治の図書館

図書館雑誌第1号(明治40年10月号)による、全国図書館一覧表には、官立9、公立50、私立111、総計170館が記されている。そのうち愛知県下には公立1、私立2館、計3館が紹介されている。

公立の「海東郡立戦勝記念図書館」は明治28年創立の現・津島市立図書館と考えられる。図書館雑誌の記事によると「津島町立津島小学校内に設置せる海東郡立図書館を、海東郡立戦勝記念図書館と改称の旨、去る4月その筋へ開申せり」とある。

問題はあとの2館であるが、その後の所在が不明である。「西加茂郡教員組合会付属図書館」(私立)西加茂郡與母町、「私立日露戦争戦役記念黒川図書館」(私立)西加茂郡富貴下村下川口

残念ながら図書館雑誌の第1号には記載されることはできなかったが、愛知県にはその数年後3館の図書館が設立される。明治42年に常滑市、明治45年に豊橋市、岡崎市と合計4館の公立図書館があった。この時代の図書館は、有料制をとり館内閲覧を原則とした。参考までに明治45年の豊橋市立図書館の閲覧料を記す。

普通閲覧料 として1回券は2銭,10回券は12銭,30回券は30銭。特別閲覧券(館外貸出し)として1回券は5銭,10回券は30銭と定められた。当時の郵便料金は封書が3銭,葉書が1銭5厘であったから、この閲覧券の時価が理解できるであろう。

昭和12年の司書検定試験

学科目及び試験方法について山下栄は 「司書試験は先に筆記試験を行い、之に合格したる者に対して引き続いて実地試験が課せられ、中間の休みを通算すれば前後を通して9日間で終了する」と記している。なんと9日間も試験があるとはすごすぎる!!

試験科目が8科目。1.国民道徳要領 2.国語漢文 3.国史 4.外国語(英、独、仏のうち一つを選択) 5.図書館管理法 6,図書目録法 7,図書分類法 8.社会教育概説

各種検定試験に比して相当広範囲である。図書館員必備の知識としてはこのほか哲学的科目、書誌学、第2外国語が要求されるが現在は加えられていない。

専門科目の検定委員に次の7委員の氏名が記されている。 今沢慈海, 松本善一,中田邦造,太田栄次郎,田中敬,加藤宗厚,不和祐俊。

もつとも受験者にとって関心のある記述は司書試験受験対策の項であろう。ここでも親切に各部門の対策として参考書などもあげている。たとえばもつとも重要な科目は「図書館管理法」であろうが8冊をとりあげている。ここでそのうちの3冊を紹介する。

今沢慈海「図書館経営の理論及実際」叢文館 大15年/毛利宮彦「図書の整理と運用の研究」図書館事業研究会 昭11年/和田萬吉「図書管理法大綱」丙午出版社 大11

試験方法であるが、筆記は1日2科目づつ行い4日間で終了する。合格者はさらに4日目に発表され、翌日実地試験がある。実地は図書館事務に関し行われることになっており、口頭試問が行われる。これではまるで巨人軍にテスト生で入団するような難関でないだろうか。

このような厳しい検定試験をパスして図書館現場ではたらいていた戦前の司書たちに、わずか8年後、敗戦による資格失効という状況がまちかまえていた。検定試験の合格者たちは1946年の公立図書館職員令改正によって実質的効力を失った。そして1950年の図書館法附則第2項により廃止された。

さて 山下栄(当時44歳)は昭和26年に第1回図書館専門職員養成講習(東大)で受講し、晴れて図書館法による司書資格を取得した。これを後世の学者たちは「現場からの猛反発」とか「既得権の擁護」として非難しているのである。図書館員にそれぞれ喜びも悲しみも幾年月、山あり谷ありの人生がある。エリートたちの机上の理論だけでかだずけるにはなんとも承服しがたいものが古参の図書館員にはあるのだ。

山下栄の司書検定試験必勝法

    高山正也のわが国の司書に対する評価の低さを昨日ご紹介した。司書の養成と教育は、現在大学教育の系列で行われているものと、文部大臣が各大学に委嘱して行う司書講習と呼ばれているものとが並行して行われている。司書講習は公共図書館の専門職員の養成が目標であり、1950年開設当初の教育課程は当時における現職者の再教育のために編成されたものであった。このような現行からの移行措置を「既得権の擁護」として断罪しているのである。ただわが国の司書職制度を論ずるのであれば戦後からではなく、戦前にさかのぼって論究する必要がある。1906年の「改正図書館令」によって初めて「司書」の任用資格と、館長・司書・書記の職制が規定された。1933年には図書館令・公立職員令の大改正があり、その職員令の中に司書検定試験に関する一項が新設された。山下栄(1907-1979)は戦後神戸市立図書館、尼崎市立図書館長と歴任されたが、若い頃の司書検定試験の体験をもとに「司書検定試験受験ノ栞」(昭和13年)を「図書館研究11-4」に発表している。この試験の特色はなんと受験資格を一切問題にしないことである。山下の文によれば「蓋し文部省の英断であろう。自学自習を原則的に建前とし生命とする我が図書館界にあって尚且つ、受験資格を云々している時代ではなかろう。志ある者に対し機会を均等にし門戸を開放すべきである。」と賞賛している。ところが実際の受験者はさほど集まらなかった。昭和11、12年度あわせて60人に対して35人が合格している。山下は第2回の昭和13年2月に合格している。31歳であった。18歳で今治市立明徳図書館へ書記官として勤務し、23歳で文部省図書館講習所で1年間学ぶ。24歳で大阪帝国大学付属図書館で在職中の31歳のときに合格したのである。どんなにうれしかったかことか推察できる。後輩諸生のために克明なる受験必勝法を執筆したのである。詳しい内容は項を改めて紹介することにする。

2006年6月 7日 (水)

アーキヴィストと司書

    公文書館における適正な保存や利用のための体制整備が検討されている。高山正也(:慶応義塾大学)は「他山の石か、前車の轍か:参考にしたい図書館の経験」(アーカイブズ・ニューズレター№3,2005年9月)で「半世紀前の図書館の失敗を繰り返さないために、アーカイブズの世界では既得権の擁護にこだわらず、関係者が高い識見と自律性をもって、高度な目標の実現に邁進されるであろうことを期待している」と論じている。高山のさす司書の「既得権の擁護」というのは、占領軍はアメリカ型の図書館員を養成するために、学部レベルでジャパン・ライブラリー・スクールを創立し、司書の教育を託そうとした。ここで、図書館の現場から、猛反発が起こった。既存の図書館員が、わずか2ケ月の講習を受ければ司書資格が得られるという司書講習という便法を編み出した。これは現職者を救済するための当分の間のみ開催されるはずのものであったのだが、いまだに存在し続け、司書の労働市場における供給過剰の一因となっている。資格取得者の図書館への就職率は2003年調べで、1%を大きく下回っている。高山の意見では現行の図書館界における専門職員の養成には問題があり、アーキヴィストの養成にはさらに高度な専門性をもった職員の必要性を提唱しているのである。