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2009年10月31日 (土)

図書館は社会の未来をはぐくむ

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    活字離れ、不景気などで本をめぐる状況が悪くなっている。かってどこの町にも小さな本屋さんがあったが、ここ数年、閉店が目立っている。もちろんチェーン化している大型書店はかなり儲けているが、もう本屋は小さな店では営業は成り立たないのだろうか。そんなときテレビ番組「エチカの鏡」で江戸川区篠崎町の書店の清水克衛さんのことが紹介されていた。彼は「本のソムリエ」といわれ、お客さんが全国から彼のオススメの本を教えてもらうために来店するという。そこの書店はベストセラーよりも、10年前、5年前に出版された本でも置いていて、お客の悩みにあった本をさがしてくれる。店員が本をよく読んでいて、その本の良いところを紹介するのである。もちろん図書館でも調査相談業務はあるが、個人的なメンタルな部分は業務外であろう。民間がその部分を行っているというユニークな試みが評価されているのだ。だがそのような個人的な努力されているかたもいるものの、本が売れないのもの事実であろう。学習雑誌の老舗「小学5年生」「小学6年生」も休刊するという。少女マンガ誌「ちゅちゅ」も休刊する。アイドル誌「KIDAI」(近代映画)も休刊した。当たり前に小さな書店の店頭にあった雑誌が消えていく。今、なにかが起こっているのだろう。

    図書館をめぐる状況も悪くなっている。図書館雑誌の最新号のデータによると、都道府県立図書館の資料費はグラフのように近年、急激に減少している。学術的な出版物を扱ういい出版社の経営はますます悪くなるだろう。専門書はやはり大学図書館、都道府県立図書館の予算が頼りになるからだ。図書館の人の問題も深刻だ。専任職員が減少して、非常勤、臨時職員が増えている。これは市町村の公立図書館でも見られる現象である。「本のソムリエ」の清水さんのように、本のことをよく知っている人が図書館にいてもらえたら、利用者はよく図書館に来館するだろう。たんに検索して蔵書があるのか、ないのか、ではなくて、さまざまな要求に、会話を通じて応えられるような専門性がいま図書館員にもとめられている。

    そのような厳しい環境であるが、今日、明治大学では米沢嘉博記念図書館がオープンする。マンガとサブカルチュアの専門のユニークな図書館である。2014年には「東京国際マンガ図書館」(千代田区猿楽町)も開館する予定である。

    図書館は名著と向き合い新たな自分を発見する場であるが、マンガも100年以上の歴史があり、ふるい作品にはなかなか出会えることはできない。図書館がもっとマンガを収集保存するべきだと思う。日本の出版物の半分以上はマンガや雑誌であり、海外にも多く流布している。ほとんどがそのとき出版されると数年後に入手しようとしても不可能なものばかりである。マンガや雑誌には時代を反映した情報や広告など総合的な文化が反映されている。公共図書館がマンガの収集に積極的でないことは私の図書館経験から実態を知っている。職場でも無理解な人が多くて呆れ果てた。いま少しずつではあるが図書館内でもその必要性に気づきはじめたようだ。

2009年9月23日 (水)

ウンラート教授のレファレンス教室

Img_0015 「何が彼女をさうさせたか」 鈴木重吉監督

  ウンラート教授は場末の踊り子ローラに恋をして、落ちぶれて、昔の学校に夜間忍び込んでノタレ死ぬ。ケペルもむかし図書館員なので、レファレンスを懐かしんで何故か自分で質問を創り上げて、ネットをつかわずにレファレンス・ブックで調べるようにしている。たとえばこんな問題。

   「貧しい農家に生まれた中村某という娘が叔父にだまされ曲芸団に身売りをさせられ、辛酸をなめ、教会に放火をするという小説はだれの何という作品か?」というレファレンス事例。つまり小説の内容でたずねられた場合、作品を読んでいなければ、思いつかないだろう。キーワードは作品に登場する架空の人物名であることが多い。ここでは「中村某」。このレファレンス・ツールとしては「日本文学作品人名辞典」吉田精一、河出書房、昭和31年刊行が挙げられる。日本の文学作品に登場する架空人名事典で約2000人を収録している。もちろん昭和30年以降の作品は収録されないので、今では誰も利用しないだろう。本書で中村姓を調べると、「中村すみ子」が考えられる。作家は藤森成吉(1892-1977)。作品名は「何が彼女をさうさせたか」である。この作品はもともと築地小劇場で昭和2年、上演されて好評を博して、昭和5年には帝国キネマで映画化されている。いわゆる傾向映画といわれた。この一作で高津慶子はスターになった。「何が彼女をさうさせたか」は戯曲であり、小説化されたという事実はない。国立国会図書館のHPで資料検索すると、戦後の角川文庫に収録されているが戯曲のようである。(参考:長沢雅男「レファレンス・ブック」1974)

2009年9月10日 (木)

幻想図書館

Img_0011 昭和29年の開館時の様子

   はじめに断わっておくが、村上春樹の「海辺のカフカ」に登場する甲村記念図書館は実際にあった、などという気はない。あれはあくまで作家のイメージの図書館なのだ。けれども自分が長い間勤めた最愛の図書館がモデルだといわれるとやはり悪い気はしない。なぜなら自分もその図書館に魅せられ、その児童室の一室でもよいから家庭文庫としてそのイメージを再現したいという野望をもっていたのだから。その幻の図書館は玄関の門、それに続く小道、周囲の庭木、裏にある池、建物だけでなく景観が「世界のくぼみのようなこっそりとした場所」なのだ。ここで図書館員として20歳から34歳まで働けたのだから幸せというほかない。「風にはやはり海岸の匂いがする」と小説にある。私が勤めたころは浜に埋め立てができて、図書館の位置は海岸からだいぶん離れてしまったので、あまり海沿いの図書館というイメージはなかった。しかし古来から打出は「打ち出でる」という意味で山と海が狭くなった場所であり、打出浜古戦場は砂浜であったから、打出はやはり海のイメージが昭和40年頃まではあったであろう。「天井が高い」というのも、旧銀行の建物を移築したものなので、たしかにそのような重厚な印象はあった。

2009年9月 7日 (月)

セーヌ河のイエナ橋

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ゴーギャン セーヌ河のイエナ橋 1875年

   色彩も線もまだゴーギャンの特徴はみられない。広大な展望と緻密な描写による静寂な雰囲気がある。

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   今年4月から公共図書館を辞めて、小さな家庭文庫を開いた。もちろん安定した役所勤めを辞めるからにはそれなりの理由があった。だがそれは言わない。長年、情熱を持って図書館活動に務めたが、仲間とも自然と意見が食違ってきた。貴重な本をどんどん廃棄する考えには疑問があった。金太郎飴のような図書館にも疑問をもっていた。そんなとき朝日新聞に佐野眞一の「売れ筋本ばかりの図書館はいらない」(2009.6.20)という記事が掲載されている。佐野の意見はほぼ「だれが本を殺すのか」という2001年の著書と同じだが、「深度と網羅性をそなえた知の迷路」という考えには、自分の置かれている状況、今やろうとしている漠然と考えていた私設図書館に示唆を与えてくれるものであった。自分の考え方は現状の図書館界には合わない、野に下ってたった一人で闘うしかない、と思った。「図書館界」348号の竹島昭雄「正しい行政施策の選択を」はそのような佐野眞一の記事を痛烈に批判しているが、おそらく図書館界のリーダーとしてはかなり共通した考えなのだろう。だがこれは誰が読むことを想定して書いたのだろう。どうも一般人に理解してもらうように書いたとは思われない。「図書館と利用者が長い時間をかけて積み上げてきた」という業界側の論理だけのような気がする。ほんとうに市民にわかるように書いているとは思えない。つまり雑誌「図書館界」は業界誌なので、それの座標という巻頭言に書くことは名誉なことであり、業界の既得権を主張することは、ひいては図書館界における名誉ある地位を保持できる、ただそれだけの目的にすぎないようにみえる。ほんとうに佐野の図書館論に対して抗議しているのではないのだ。このような所謂「蛸つぼ」に入って発言し、それが館界のオピニオン・リーダーとして賞賛されれば事足れりとすることが日本の図書館全体の低下をさらに招くことになる。図書館長というのは、図書館の現状が見えているようで見えていない。ふだん行政当局と管理者の立場で頭を悩ましているので、所詮は上から目線でしか見ていない。佐野の言わんとすることは、ある程度問題を指摘している点が多く見られるので、それらを真っ向から否定するのではなく、きちんとしたテーブルについて論議することが必要ではないか。今年まで現役の図書館員だったが、いまではただの風変わりな本屋(売らない、貸さない本屋)になったケペルなので、門外漢の図書館論ではあるが。隠居して感じることは、図書館の世界に弓をひいた者への仕打ちは惨いものがある。おそらく有料制ということで批判しているのであろうが、職場の同僚などは誰一人として来館することはない。むしろマスコミはニュースとして取り上げてくれる。やはり図書館の人たちは自分たちの権益を守ることしか頭にないのである。

2009年8月31日 (月)

秋岡梧郎と安全開架

Img_0012 Img_0011 昭和57年、自宅庭内に作られた案内掲示板

   秋岡梧郎(1895-1982)は明治28年、熊本県下益城郡豊福村大字竹崎で生まれる。大正8年、熊本県下益城郡教育会明治文庫司書となり、生涯図書館活動に従事する。大正11年、日比谷図書館に就職後、麻布、両国、京橋の各主任を経て、昭和6年、京橋図書館館長に就任。以後深川図書館、江東図書館などを歴任する。

   秋岡梧郎の功績で知られることは、当時閉架制が全盛であった図書館で、昭和4年から京橋図書館で開架式(安全開架)を実践したことであろう。安全開架式とは、開架式(接架式)の一種で、書庫と閲覧室を区画し、利用者は書庫には自由に出入でき本を選択できるが、閲覧室で本を読むとき、あるいは、貸出をうけるとき書庫・入口カウンターで館員のチェックをうける。館員のチェックをうけず自由に書架から図書を出し入れできる閲覧方式が自由開架式といわれている。

   秋岡梧郎の図書館人生で学ぶことは生涯実践者であることであろう。ともすれば図書館界においては図書館学の研究論文や著書の膨大さを誇る傾向があるが、何らの現場実践なく海外の文献を翻訳して図書館学者として事足れりとする弊風が見受けられる。最近でも若い図書館研究者が海外調査に行き外国の図書館事情の報告をして一定の成果を拝聴したが、大学では研究者は養成するが、実践者は養成できない。87歳にわたる秋岡梧郎の人生は文庫に始まり文庫で終っている。晩年、邸内に私設図書館を開設している事など実にほほえましいものである。(参考:「秋岡梧郎著作集」日本図書館協会)

2009年8月30日 (日)

戦後の或る小図書館の研究(守屋図書館の場合)

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    昭和22年、東京都目黒区にあった柿之木坂旧町会事務所は、柿之木坂文庫に改装された。図書館施設なのに名称を文庫としたのは、図書館令(図書館法制定前の法令)に基づき種々規定が設けられ、一つでも欠けると認可されないためであった。僅か20数畳の居間の回りに簡単な本棚があり、席は六尺机を4つ備えて、30名ほどが利用できる。利用方法は受付で住所氏名を記載すれば、自由に図書を選び読むことができる。昭和24年には宮ヶ丘文庫が設立された。宮ヶ丘文庫の運営規則は次のとおり。
閲覧時間:午前9時から午後5時まで
閲覧料:1回1円
休館日:毎週月曜日、国民の祝日、毎月14日(館内整理のため)

   昭和27年4月には、柿之木坂、宮ヶ丘文庫を一ヶ所にまとめて、目黒区立守屋図書館が誕生した。創設時の守屋図書館は台湾日日新報の創業者・守屋善兵衛(1866‐1930)の邸宅を整備したものである。1階には一般閲覧室、集会室、事務室、書庫がある。2階には30畳のタタミの間の児童読書室と新聞雑誌室がある。また4畳半の和室は児童研究室として使用されていた。このような小図書館の歴史であるが、文庫から図書館へ、閲覧料の有料制から無料化へ、昭和20年代の公共図書館の発展の軌跡が典型的に現われている。

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(参考:「目黒区の図書館、目黒区立図書館創立四十周年記念資料」)

2009年8月 7日 (金)

夏の図書館

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   図書館は学生の城 夏休み

                     冨士谷清也

   受験戦争が激しかった時代は夏休みの図書館は閲覧室の座席を確保することもたいへんだった。朝早くから並んで抽選で当たったものだけが座席券をもらって、勉強ができる。まさに学生のための施設という感じだった。最近は、ひところのような受験戦争もみられなくなり、また学生もあまり勉強しなくなり、高齢者が多いようだ。冨士谷清也は岡山の俳人。

  図書館は老人の城 夏休み

2009年5月27日 (水)

どこまで続く過剰反応

   今日の朝日新聞の「声」の欄に「過剰反応は余分な不安招く」という一文が掲載されている。まことに新型インフルエンザ騒動の本質を言いえている。「新型インフルエンザへの社会の反応は度を超している。過剰反応の原因は、感染予防というよりも責任回避の集団心理が感じられる」とある。この春まで教育委員会にいたケペルには、その指摘には頷くことが多い。役所は万一でも被害者が拡大したら管理者としての責任をとられることを一番に畏れる。国からの指示があれば、従うのが一番の安全策である。学校や保育所はもちろん、図書館までも休館したところがある。もちろん感染拡大を防止するためであり、自己保身というのは酷なことは分かっている。しかし、開館した図書館もある。「新型インフルエンザは毒性が比較的弱く、過剰な反応をすべきではない。市民サービスの低下もできるだけ避けた」という判断をした西宮市立中央図書館の館長、並びに職員にエールをおくりたい。

2008年12月 9日 (火)

土足厳禁

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   今では図書館に入館するときスリッパに履き替えるところは公共図書館ではほとんど見かけなくなったと思われるが(現実には小さな図書館にはまだあるらしい)、いわゆる土足厳禁は昭和戦前期はまだ一般的なスタイルであった。では西洋式の靴履きのままで入館が可能にした最初の図書館はどこか、というと手元にある二、三冊の書物を調べてみたが見当たらなかった。

    土足入店ということなら商売だけにデパートが早かった。通説では、大正12年の関東大震災後、銀座松坂屋が土足での入店を可能にしたところ、繁昌したので、他店も追随したことが土足入店の始まりとされる。また一説によると銀座の三越が11月に改装オープンして全館土足入店にしたといわれる。だがそれより以前に、白木屋(現在の東急百貨店)は大正12年5月15日から神戸出張所で土足入店を始めたとあるし、大丸ではそれよりもずっと前の大正5年5月15日に下足番をなくして、履物のまま入店できるようにした、というデパート各社の競い合いの歴史があるので、なかなか最初を決めることは難しい。

  このブログは一応は図書館系ブログとなっているので、話を図書館の土足入館にもどすと、アメリカ留学から帰国した毛利宮彦(1886-1956)は大正5年、6年ころ、早稲田大学の図書館の新館建設設計に当たっていたが、その図書館はおそらく床をアスファルトにして全館土足入館を考えていたであろうと推測する。毛利宮彦の計画自体は中止され、まぼろしとなったが、日本最初の土足入館の図書館はおそらくいずれかの大学図書館ではないだろうか。

2008年9月28日 (日)

図書館員とエルダーホステル

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    昭和61年3月3日、大阪の中津にあるマンションの一室で4人の女性たち(豊後レイコ、森田美和、南山とよ子、林悦子)が集り、「エルダー国際交流協会」(昭和63年にはエルダーホステル協会と改称)を設立した。これが日本におけるエルダーホステルの始まりである。アメリカで始まったエルダーホステルというのは、まだ日本ではユースホステルのようには知られていないであろう。1975年にユースホステル運動と北欧のフォーク・ハイスクール(全寮制)における教育制度をヒントにニューハンプシャー州の大学で誕生した。大阪のAACに勤務していた女性司書・豊後レイコはアメリカ人から、「日本の伝統・文化についてもっと知りたいが、日本にエルダーホステルのような組織はないか」と訊ねられた。受け入れ先の団体をいろいろ探したが、社会的意義はありそうだが、コスト面で採算性が認められず、どことも尻込みをする。結局、豊後本人が駈けずり回って、米国エルダーホステルEIL本部と連絡をとりつつ、最初の日本学講座が開催された。大阪でのホームステイをはさんで京都と岡山が会場に決まった。昭和61年9月、最初のアメリカ人参加者34人が、京都(関西セミナーハウス)、岡山(ノートルダム清心女子大学)で学んだ。そして現在までに4000人を超えるアメリカ人受講者が来日している。豊後レイコは、長くCIE図書館、AACで勤務された女性司書で関西では図書館関係者の間ではよく知られた人である。情報と人、人と人とをつなぐ経験を生かして、新しい事業に退職後もチャレンジされた。インフォーメーション・スペシャリストとして図書館の専門性が問われている時代、豊後レイコさんの活躍はまことにお手本とすべきものである。(参考文献:「八八歳レイコの軌跡」ドメス出版)