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2008年7月 4日 (金)

兵庫県と全国図書館大会

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ロンドンにあるホランド・ハウスの図書館は空襲を受けたが、それでも市民はいつもと変わらず館内で好きな本を探していた

   明治39年に第1回全国図書館大会が開催されてから102年が経過するが、兵庫県での開催はこれまで一度もなかった。今年第94回全国図書館大会は「はばたこう未来の図書館」をテーマに9月18日、19日兵庫県で開催されることになった。100年以上も全国大会が開かれなかった兵庫県ではあるが、これまで県下での図書館活動が全く低調であったというわけではない。むしろ他府県に比べて戦前から活発な活動をしている市立図書館は存在していた。兵庫県図書館協会は昭和6年9月におきた満州事変の直後、11月に発足している。阪神間では戦前、神戸、尼崎、西宮と市立図書館が設置されていたが、県立図書館の設立は他府県に比べ大きく遅れた。昭和49年10月、我が国最後の県立図書館として兵庫県立図書館は設立されたが、「図書館の図書館」というキャッチフレーズによる運営内容は県下の公立図書館の期待を裏切るサービスであった。また少ない図書費など、課題も多い。ようやく平成13年11月1日より来館者への貸出を実施するようになった。ここでは開設当時をふりかえって、昭和48年に図書館問題研究会兵庫支部(支部長・鬼丸貞彦)が兵庫県知事・坂井時忠に提出した「県立図書館に対する要望」を紹介する。

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    県立図書館に対する要望

   図書館は県民の学習権を保障する唯一の機関です。すなわち、すべての県民は生涯をつうじて自らを豊かにしてゆくために「誰でも、どこに住んでいても、いつでも」必要とする図書館資料を利用する権利があります。従ってその条件を整えることが地方公共団体の責任であります。住民に対してきめの細かいサービスを行なうのは、市町立図書館(その他の図書館機関を含む)でありますから、その活動を徹底して援助することを、県立図書館の基本姿勢としていただきたい。県下の全図書館が有機的に連携して生き生きと活動したとき、県民の心と暮しを豊かにするために役立ち、真に県民の図書館としての誇りと親しみができるのです。私共、公共図書館、大学図書館、学校図書館等に働く職員並びに図書館教育にたずさわる者の有志が集まり、最近の図書館をとりまく情勢を検討し、すでに示されている「県立図書館の基本計画」を検討しました。その結果、つぎの点について再度御検討願い、県民の求めている図書館を建設されるよう要望します。

1.個人貸出の実施

  県下の各図書館を通じて必要とする資料を貸出しすることはもとより必要ですが、しかし県下には市町立図書館設置の所が多く、市町立図書館を通じて貸出しを受ける体制になっていないのです。図書館が近くにある住民が享受している県立図書館のサービスを、近くにサービスポイントがないために受けられないのは不合理です。そこで少なくとも次のことを実施していただきたい。

ア.図書館未設置地区および遠距離の住民、並びに身体障害者に対する郵送による個人貸出。

イ.直接来館した県民に対する個人貸出。

   また、新設図書館の評価は開館時点の姿勢で定まるものです。たとえ、1000冊の蔵書から出発するとしても「必要な資料は誰にでも貸出します」といった姿勢が「県民の図書館として大きく発展する基礎となるのです。従って個人貸出の実施は、開館と同時に行なっていただきたい。

2.児童室の設置

   現在県下でも各地で公共図書館が充実するのを待てないで、眼の前で成長してゆく子どもたちのために、家庭文庫や地域文庫が作られて活動しています。そしてそのほとんどが図書不足に悩んでいます。そうした文庫に対してすぐれた多くの児童図書を供給して正しく育ててゆくことは県立図書館の急務と考えられます。「県立図書館には児童図書は不要である」といった誤った考えがあるが、県立図書館が「図書館の図書館」的機能を標榜している以上、市町立図書館で貸出利用されている図書の約半数が児童図書であるという実態を認識し、すぐれた児童図書の充実に力を入れる必要があります。その業務を行なうために、児童図書館経験豊かな職員と児童図書室が是非必要です。

3.視力障害者に対する対策

   視力障害者に対して「誰でも、どこでも、いつでも」という原則にたって、すべての図書館資料を利用する権利を保障しなければなりません。身体障害者に対する関心が社会的に高まっている中で、次の事柄を実施していただきたい。

ア.対面朗読の実施

   東京都立中央図書館で実施しているように、必要とするインホメーションを朗読によって直接視力障害者に伝えるサービス。

イ.拡大機器の設置

   弱視者と老人のために日本ライトハウスで開発されたもの、又は東京都立中央図書館で使用しているような拡大機器を設置すること。

ウ.専門職員の配置

   点字室(視力障害者に対するサービス室)の運営を効果的にし、かつ充実したものとするために、点字・点訳等についての専門的知識をもった職員を配置し、点訳奉仕者の組織化および点字図書並びに録音資料の充実、配布等の業務を永続的に行なうこと。

4.館長には司書の有資格者をおくこと

   図書館運営は特に長期的展望と業務の一貫性が要求されるとともに、当初の基本方針がその将来におよぼす影響は非常に大きなものがあります。いわゆるお役所的管理運営でなく、常に県民の立場に立っての運営を行なうためにも、専門的知識と経験豊かな司書有資格者を館長として任命していただきたい。

2008年7月 2日 (水)

荒川の図書館職員不当配転事件(1973年)

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家の近所まで巡回にくるブック・モビルの日はお年寄りの唯一の楽しみである

    施設、資料、司書を図書館の三要素という。図書館はこれら3つの要素がととのえられ、結合されていなければならない。なかでも司書の役割は重要であり、経験豊かな司書の存在が、図書館サービスの質を決めるといっても過言ではない。ところが東京の特別区では1963年から司書の採用をしておらず、1996年には司書の職名が廃止された。とくに1973年4月に荒川区で発生した陰山三保子配置転換不服申立事件は、当時図書館問題研究会を中心に全国的な支援活動が展開され、記憶に新しい。ここでは「図書館問題研究会東京支部ニュース1973.4.20(№69)」の記事を引用して、事件の概要を紹介する。

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   荒川で不当配転おこる!

    4月の人事異動シーズンをむかえた折から又しても荒川で図書館職員に対して不当配転がおこりました。以下は18日の東京支部常任委員会で当事者と荒川の会員からうけた報告をもとにした事実経過で、急きょ皆さんに訴える次第です。

  4月14日、会員であり、支部の事務局をうけもっている荒川区立荒川図書館の伊藤由美子さん、陰山三保子さんにとつぜん15日よりそれぞれ土木課、国保課へ異動の内示が出されました。荒川区ではこの二、三年人事内示はたった一日前にされているそうです。組合協定では一係3年、一課10年で異動するという原則になっており、伊藤さんは7年、陰山さんは6年前同一職場であり対象となったということで、同じく管理係の他の二人にも異動が出されました。

   二人は私費で司書資格をとっており、図書館にずっと働く意志を固めていたところからただちにこの辞令を拒否し、組合(都職員労荒川支部)へ訴えました。支部は協定どおりなので仕方がない、個人としての訴えではとりあげられないので図書館分会として討議の上もってくるようにとのことでした。

   ただちに南千住、尾久の職場にも訴え職場委員会を開いた結果、二人の意志を尊重して二人の辞令拒否を支持しようということになり組合へ再度もっていったところ組合では18日の執行委員会にかけると約束しました。

    18日、総務部長に呼ばれ、郵送された辞令を拒否したため再度うけとるように云われ、「一般職として採用されたのだから司書として認めることはできない。司書職制度が問題となっているのは知っているが理事者は反対している。制度ができるまで待ったらどうか、しかしその時に戻すという意志はない」又、「他の職場へ異動しても主義主張はできますよ」などとも云ったそうです。そして「辞令をうけとらないなら別の方法―業務命令―を考える」と強迫的な発言をしました。

   同じ日の執行委員会に二人は傍聴で出席しましたが、一般論として結論は出ているが当人の意見を聞くという前おきで執行委員会の結論は出さぬまま仕事の中味等について逆にいろいろ質問され、「支部では5年ときめて異動している、何故ゴネるのかわからない、他にも泣いている人はいる」などの意見が出されていましたが時間切れで又、次回にもちこすことになりましたが、何日ということは云われないままでした。

   職場にはもう後任の二人の人もきており、机はまだそのままですが、出勤簿はもうなくなっています。職場の組合員はほとんど5年以下の新しい人であり、司書資格をもたない人は一人しかいないという状況なのでこうした問題に積極的になり得ない弱点はありますが二人はあくまで職場に依拠し、「司書職問題に身をもってとりくむために斗う決意をかためています。

   今後の対策としては図書館分会を中心に活動を行い、支部を動かし、内外の組合員に広く支援を訴えていく方向で運動をすすめていくことになっています。

    図問研常任委では図問研としてこの問題にどうとりくむかを討議し、専門職問題対策委員会のナマの問題としてガッチリ四ッにとりくんでいくことになり当面の対策をたてました。①図問研の窓口を専門対策委員長大沢正雄とする。②荒川の会員と毎日連絡をとり情況を知らせてもらう。③必要な時にすぐ対策委員会を召集する。④各委員はそれぞれ自分の職場に知らせ訴えていく。⑤住民運動、生野さんを守る会とも交流していく…で、荒川の会員を激励しながら組合の状況によっては必要な行動をしていく準備をすすめています。

   会員の皆さん、伊藤さん、陰山さん、ならびに荒川の会員の方々にぜひ力強い支援をお寄せくださるようお願いいたします。

2008年6月21日 (土)

国民百科事典に昭和の出版文化をみる

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(左上から)アインシュタイン(岡本一平)、チャップリン(トポスキー)、ゴーリキー(ホフマイスター)、ルナール(ルベール)、小村寿太郎(鹿子木孟郎)、菊池寛(岡本一平)、永井荷風(清水崑)、夏目漱石(下川凹夫)、吉田茂(清水崑)、太田薫(那須良輔)、河上丈太郎(中村伊助)、池田勇人(中村伊助)

   図書館では蔵書の新鮮さを保つことは大切であるが、一方、「図書館とは記憶の社会的装置」といわれるように、過去の知的文化財を後世に伝えていく役割も大切である。例えば、百科事典である。戦前の冨山房や三省堂にも、現在の百科事典では得られない重要な情報が凝縮されている。過去の国民生活を知るうえでの同時代性をもつ一等資料となる。戦後でいえば、昭和37年に平凡社から刊行された「国民百科事典 全7巻」である。図書館員からみると巻数が少ない百科事典なので、ややもすれば軽視しがちであるが、これは家庭への販売を企画したもので、応接間の書棚に置くにはお手ごろである。事実の国民百科事典は数十万セットという大ヒットを記録した。そして内容がよい。たとえば、漫画を調べると、1ページにわたる解説とともに6ページにのぼる図版がある。そこにはダ・ヴィンチ「人間戯画」、ブリューゲル「謝肉祭と四旬節のけんか」、ホガース「説教」、ゴヤ「雀百まで」、ドーミエ「新火器発明者の幻想」、ピカソ「フランコの嘘」、「鳥獣戯画」、葛飾北斎「盲人の川越」、河鍋暁斎「カエルの曲芸」、岡本一平「有島武郎心中」、ペイネ「恋人たちの手紙」、田河水泡「のらくろ」、麻生豊「のんきなトウサン」、プローエン「親父とむすこ」など日本から世界中の漫画が紹介されている。「世界各国の似顔絵」はなんと24人の著名人の似顔絵が掲載されている。これは通り一編の無味簡素な紹介ではなくて、読んで楽しむための百科事典という編集が豊富に盛り込まれている。ただ年数が経過したからといって、図書館では廃棄するのではなく、よく資料的価値をみきわめることが大切である。

2008年6月15日 (日)

図書館の年間除籍数が意味すること

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   岩波茂雄(1881-1946)は昭和20年9月に脳溢血で倒れた。同年12月、雑誌「世界」が吉野源三郎(1899-1981)を編集長に、安倍能成(1883-1966)を最高責任者として、「世界1946年1月号」が発刊された。記念すべき第1号の執筆者は、安倍能成、美濃部達吉、大内兵衛、和辻哲郎、横田喜三郎、東畑精一、三宅雪嶺、武者小路実篤、長与善郎、宮塚清、桑原武夫、中村光夫、湯川秀樹、尾崎咢堂、谷川徹三、羽仁説子、H・バイアス、岩波茂雄である。雑誌「岩波」は創刊以来60有余年、良質な情報と深い学識に支えられた評論によって、戦後史を切り拓いてきた雑誌である。おそらく、バックナンバーを読みたいときは、普通のレベルの公共図書館ならば永年保存して書庫にあるはずである。

   ところが、最近はどうやら事情が変わってきた。保存スペースに限界がきている図書館では、永年保存を有限保存に、あるいは一挙に廃棄するところもでてきた。私の勤める図書館でも雑誌「思想」が廃刊されたのを契機として廃棄されてしまった。雑誌担当者は「世界」「中央公論」も廃棄するという。そのような暴挙には断固ケペルは反対した。「保存スペースの限界を超えたらどんどん捨てる」などというのは図書館員の使命を放棄するものである。分担保存、共同書庫、あるいは空き小学校の教室を借りるなど方策はいろいろあるはずだ。だが現実には、市民のしらないうちに貴重な図書もどんどん廃棄されている。東京都立図書館の何十万冊という大量廃棄が問題となったが、全国各地でも戦後すぐに創設された図書館では書庫の狭隘化のため昭和の出版物が今どんどん廃棄されているのである。「中小図書館は保存館ではない」「必要な時は国立国会図書館から借りればよい」などが館員の意見であるが、他館に依存すればよいという問題ではない。昭和戦後期に出版された図書は紙質も悪く、発行部数も少ないから、せめて今所蔵している公共図書館は保存しておくべきだと考える。だが、現実には自分の勤める図書館でも年間1万4千冊が廃棄された。売れ入れ冊数1万1千冊よりも、廃棄のほうが3千冊も多い。もちろん図書館の図書管理において、淘汰という現象はある。新鮮な開架を維持するために、古くなった図書を開架から除架し、書庫入れをする。廃棄される図書は、破損・汚損・摩耗などが甚だしく補修不能のもの、旅行書のように古くって実用性のなくなったもの、利用度の少ないもので重複本があるもの、などの理由で廃棄される。この理由だと通常蔵書の1%あたりの除籍図書がある。ところが1万冊以上の除籍数というのは、おそらく保存スペースがないために本来ならべ保存すべきであるにかかわらず、外見が汚れている、旧かなづかいである、などの資料的価値とは別なところに理由をつけて職員が強行に除籍してことが多い。現在、『書道全集 全28巻』(平凡社、昭和28年)、『ソビエトアカデミー版世界史』(東京図書、昭和34年)、『図説世界文化史 全26巻』(角川書店、昭和36年)などの著名なシリーズ物が嵩ばるという理由で廃棄候補に取り上げられている。

   大量廃棄には多くの問題が派生する。とくに図書は一冊一冊独自の思想を有する知的文化財であるから、それに正当なる評価を下して選別することは、ベテランの司書でも難かしい作業である。このような事例がある。保存スペースが限界の図書館で、戦前の図書を除籍する際に、歴史分野で「これらの図書は皇国史観だからみんな除籍する」といった図書館員がいた。これでは福島市立図書館の廃棄事件と大差ないではないか。戦後育ちのわれわれから見て、戦前の書かれたものが仮に誤りだといっても、図書館がすべての戦時中の図書を抹殺してしまえば、その同時代性の歴史的記録がなくなるし、真の研究ができなくなる。資料的価値としては、歴史の後知恵の平成の出版物よりも高いはずだ。公立図書館は平成に出版された本だけがあればいい、と考えるのは大きな間違いである。皇国史観(その歴史の図書が本当に皇国史観なのかは明らかでない。ただ図書館の者が狭い知識で戦前期のものをすべて決めつけているにすぎない)の歴史書がこれまで図書館で少なくとも60年以上保存されていたのは事実であるし、今それを一挙に特定の者達だけで判断して廃棄することは大きな問題がある(ただし除籍基準では保存年限20年とあり、合法であり、手続き的には問題はない。ここを廃棄論者は主張するのである)と考えるので、図書館雑誌などで実名・館名を明らかにして世間に知らせるつもりである。「世界」「中央公論」の保存雑誌の廃棄、大量図書の廃棄、特定思想への弾圧。これの暴挙、悪行が館長が認知しながらおこなわれていることを市民に知らせたい。マスコミは、吉兆の賞味期限切れや食べ残しを客に出すこと、赤福の賞味期限改竄など食べ物の不正には飛びつくが、図書館の大量廃棄に関してはほとんど無関心である。「知る自由」を最も大切にする図書館で「図書館員の自由宣言」や「図書館員の倫理綱領」に悖る行為が組織ぐるみで行なわれていることに対して、義憤を感じる。

2007年5月13日 (日)

永井久一郎と東京書籍館

   永井荷風(1879-1959)は、明治12年12月3日、東京市小石川区金富町45番地(現在の文京区春日2-20-25)に永井久一郎、恒(つね)の長男として生まれた。父・永井久一郎(ながいきゅういちろう、1851-1913)は後年の官僚・実業家としての経歴以外に、禾原(かげん)と号し漢詩人として知られ、若い頃は明治初期の公共図書館のはじめである書籍館の運営に尽力したこともある。母・恒は尾張藩儒学・鷲津毅堂(1825-1882)の長女であり、荷風は鷲津の家系であることを誇りにしていた。

   永井久一郎は愛知県愛知郡鳴尾村(:現在の名古屋市南区)に父・永井匡威、母よねの長男として生まれた。永井家は製塩業などを営む豪農として知られていた。名を永井匡温(ながいまさはる)といい、尾張藩儒の鷲津毅堂に漢学を学び、森春涛から漢詩を学び、箕作麒祥に英語を学んだ。

   明治4年7月父の死去にともない、久一郎は家督を二男の永井松右衛門に譲り、名古屋藩の貢進生として渡米し、ラトガーズ大学グラマー・スクールで勉学する。帰国後の明治7年、工学寮二等少師となり、ついで文部省に9等出仕として、東京書籍館(帝国図書館の前身)に配属される。明治8年4月、文部省は書籍館を浅草から湯島に再び移転し再開したが、館長の畠山義成は病気となり、8月2日、8等出仕永井久一郎は書籍館館長補に任ぜられる。

   明治10年2月15日に西郷隆盛が西南戦争を起こしたため、明治政府の財政を圧迫し、経費削減のため東京書籍館は閉鎖することになった。しかしその運営を東京府が申し出たため、3月28日、文部省は書籍館を東京府に引き渡しを決定し、永井久一郎は、諸準備を終えて、5月4日正式引き渡しとなった。この蔵書が完全に今日の国立国会図書館に引き継がれているのは東京府のおかげであり、また永井久一郎の尽力によるものが大きい。

 東京府に引き取られた書籍館は、東京府書籍館と改称されて、5月5日開館となった。明治10年12月7日に専任館長としてニ橋元長が幹事(館長職)に任命され、翌11年11月19日学務課の所属となってその体制をととのえた。次いで明治12年4年9日には、岡千仭が2代目幹事として着任した。永井久一郎は内務書記官となり、明治17年ロンドン万国衛生博覧会に事務官として出張し、デンマーク万国衛生会議委員となる。

2007年5月12日 (土)

漢学の伝統と書籍館

   明治政府は、早くも明治元年3月、京都の学習院を開講、この年6月29日、東京の昌平坂学問所が復興され、その後「昌平学校」と改称され、また単に「学校」とも呼ばれた。同年12月に頭取・教授等が置かれ、また知学事(山内豊信)、判学事(秋月種樹)が置かれた。さらに同年1月入学規則を定めて、明治2年1月「昌平学校」は開校された。明治2年8月には「大学校」となった。しかし、大学校が国学を根幹として、漢学を従属的に位置づけため、漢学派に強い不満をいだかせた。その後国学・漢学両派の激しい抗争があった。

   明治5年4月2日、文部省博物局は湯島の旧昌平坂学問所大成殿に「書籍館」を開館する。これがわが国における近代的公共図書館のはじまりである。書籍は約1万3千部、約13万冊を超えていたと言われる。明治7年には蔵書を浅草に移して「浅草文庫」と改称する。明治8年5月にはふたたび旧昌平坂学問所大成殿に「東京書籍館」を開館する。しかし西南戦争による財政支出削減により、明治10年2月に閉館する。

   明治10年5月に東京府がその後を引き継ぎ「東京府書籍館」として開館する。著名な漢学者の岡千仭が明治11年3月から書籍館傭として着任する。明治13年3月15日には館内参観の日として、名士多数を招待した。湯島聖堂・大成殿にある孔子像参拝の儀を中心としたもので、書籍館が漢学派によって占められた感がある。しかし、文部省の洋学派との対立、藩閥政治の独占などに反対した岡は突如、病気を理由に下野する。そして明治13年7月には、再び文部省へ移管され「東京図書館」となる。

   こうして明治10年代から「洋学でなけりぁ、夜はあけられねぇよ」という風潮となるが、こうした洋学の興隆、西洋文化に心酔に対する反感から、明治時代は逆にこれまでにない漢詩・漢文の隆盛をみる。その理由は当時まだ幕末の老大家は存在し、西郷隆盛・木戸孝允をはじめ元勲たちが漢文を書き、国家のために奔走する有為の士や操觚者たちが漢学書生であったこと、また明治2年大学校に国史編集局を開き、漢文をもって国史を編集する計画があり、明治8年、太政官に修史局を設置して編年史編集の業をはじめたため、諸藩から詞章家が東京に集合した。これらによって、印刷術の発達ともあいまって、明治の漢学による文運はますます盛んになった。尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石といったいわゆる明治の文豪といわれる人たちも、なんらかの意味で幕末から明治初期の漢学者たちの影響を大きくうけているのである。

2007年5月 2日 (水)

明治初期「図書館」は「ヅショカン」か「トショカン」か

   東京図書館の岡千仭が楊守敬との会話で「図書館」を「トショカン」と発音したのか、「ズショカン」と発音したのか、とても気になってしかたがない。今日、中国、朝鮮でも日本で造られた用語「図書館」は、アジアの漢字文化圏では共通して使用されているからである。従来の説に従うなら「ズショカン」と考えるのが普通であろう。明治とは言いながら、岡の半生は江戸時代の人である。明治18年刊行の「東京図書館洋書目録」では、Tokio Dzushokwan と館名が示されている。だがアジアでは明治30年代留学生によって「トショカン」で広まっているし、「ヅショカン」から「トショカン」へと呼び方が一変したとは考えにくいことである。

   そこで、めずらしく先行の研究に当たって調べることにする。岩猿敏生「書籍館から図書館へ」(図書館界35-4、1983)に詳しく記されていた。結論を言うと、「トショカン」「ヅショカン」という呼び方は最初から二通り存在していたという。通説で知られて「図書館は最初はヅショカンと呼んでいた」という言い方は学問的には厳密性を欠く。高野彰「東京大学法理文学図書館史」(図書館界27-5、1976)によると英文でToshokuanと表記されている。永峰光名が初期図書館は「ヅショカン」と呼ばれたとことに対して、高野、岩猿は二通りの呼び方が存在していたことを説いている。岩猿の近著「日本図書館史概説」(日外アソシエーツ)でも「明治の初期、ライブラリーに当る言葉として、書籍館と図書館があり、その読みもそれぞれ二通りあったと思われるが、1890年代には図書館という呼称に、読みもトショカンに統一されていった」とある。これまでトショカンという呼び方は明治30年代から、とくに明治30年に東京図書館が帝国図書館になった年でもあり、明治中期、つまり明治30年以降と書かれた文献が多かったが、岩猿の研究によれば、1990年(明治23年)つまり明治20年代にトショカンという呼び名のほうが普及していったという。ところで夏目漱石の「三四郎」には「図書館」という用語が何度か使用されているが、おそらく「トショカン」と読むのであろう。「ズショカン」ではなく「トショカン」と読まれるようになったのは、なぜか?という素朴な疑問を書いているブログを見つけた。岩猿先生はじめ専門家は残念ながら、その理由を書かれていない。ケペルはその理由を「トショカンのほうがハイカラで若い人に好まれた」と推測している。根拠となる資料はまだ見出せていない。

 ところで最初の岡千仭の疑問であるが、漢学者でもあることから漢語としての語義では「図書」は「ヅショ」であり、「図」が「地図」のことであり、「書」が「書籍」の意味であることから、考えるとすれば、明治13年時点では「ヅショカン」と発音していた可能性のほうが高いような気がする。

2007年4月29日 (日)

楊守敬と岡千仭

    明治13年、駐日大使・何如璋の招きで来日した楊守敬(1839-1915)は、日本に多くの貴重書が残っていることに驚いた。森立之(1807-1885)らの協力によってそれらをことごとく購入した。4年間にわたる日本滞在の成果は、のちに「日本訪書志」「留真譜」「古逸叢書」として公刊された。楊守敬の来日は日本の書道界にも、巌谷一六(1834-1905)、日下部鳴鶴(1838-1922)らの書家に大きな影響を与えた。しかしながら、漢籍の収集については、主に東京府書籍館(東京図書館)の職員がなんらかの関与をしていたと思われるが、詳しい実態は不明である。

    この明治13年という年は、東京府書籍館が再び文部省所管となり、明治13年7月に「東京図書館」と改称されている。岡千仭は明治12年ころは東京府書籍館幹事として漢籍に詳しい館長であった。楊守敬と岡千仭とが筆談をまじえて日中の漢籍の収集方法を話し合っていたと推測している。そして楊守敬は筆談で「図書館」の三文字を見た最初の中国人であり、岡の口から「ずしょかん」あるいは「トショグァン」という耳慣れない言葉を聴いた最初の中国人ではないだろうか。いまだ江戸の名残りのある明治初期の日本人には「図書・館」(ずしょ・かん)と読むのが一般的なのだが、おそらく中国人はこれを「トショグァン」と読むにちがいないだろう。やがて日本人にも図書館(としょかん)と言うほうがハイカラに感じるようになって学生の間で流行した。それでも図書館(ずしょかん)という呼び方は明治中期(明治30年)頃までは残った。

    岡千仭(おかせんじん、1833-1913)。天保4年(1833年)11月2日、仙台藩士・岡蔵治の五男として生まれる。幕末、明治の漢学者。初名は修、本名は岡啓輔。のち岡千仭と改名。字は振衣、子文、天爵。鹿門(ろくもん)と号した。天保4年、仙台で生まれ、7歳で藩校養賢堂で学び、舎長となる。20歳で江戸に出て、昌平黌に入門、佐藤一斎、安積艮斎に師事する。文久元年、双松岡塾を松林飯山(廉太郎)、松本奎堂らと開塾し、清河八郎、本間精一郎らと交際するも、討幕運動の嫌疑をかけられ、わずか半年で閉鎖する。慶応3年には郷里にもどり、奥羽列藩同盟に反対し、養賢堂の指南役となる。翌年、奥羽列藩同盟に反対し、戦争中も伊知地正治官軍参謀とも会い、終戦を画策、藩執行官の怒りに遭い、投獄される。終戦を獄中で迎え、福沢諭吉著「英国議事院談」を読み、仙台藩議事院局を開くよう建言して、明治3年、大学中助教を拝命して上京。太政官修史局協修、東京府書籍館幹事など漢籍の収集に当たる。これら官吏生活を経て、病気のため明治14年には退官し、私塾経営にあたる。そのころ「岡鹿門」の名前は天下に知られ、漢学塾である「綏猷堂」(すいゆうどう)は芝愛宕下の旧仙台藩邸にあり、全国から若き俊英が集まり、一時は三千人の子弟をかかえたといわれる。尾崎徳太郎(のちの尾崎紅葉、1867-1903)、北村門太郎(のちの北村透谷、1868-1894)、加藤拓川(1859-1923)、石井民司(のちの石井研堂、1865-1943)、片山潜(1859-1933)、福本日南(1857-1921)などその門を叩いている。大正3年2月18日、死去。

   考証学者の楊守敬と漢学者の岡がどのような談義をかわしたかは不明であるが、楊守敬は帰国の明治17年には膨大な書籍を携えていたといわれる。その蔵書の多くは北京図書館に収蔵されている。清末・明治初期の図書館交流史の一端を示すだけで、その全貌があきらかでない。今後の図書館史の大きなテーマとなりうる。「図書館」という和製漢語も、そのころ日本で一般化しだしたが、これまでの中国図書館史の定説では20世紀初頭で、中国で「図書館」の呼称が最初につけられた公共図書館は、湖南省立中山図書館であるといわれている。(近刊書に工藤一郎「中国の図書情報文化史」つげ書房新社)このことを公立図書館の開館年で調べてみる。(「中国歴代蔵書史」徐凌志主編、江西人民出版社より)

1904.8 湖北省図書館

1904   福建図書館

1905   湖南省図書館

1906   黒龍江図書館

1908   奉天図書館

1908   直隷図書館

1908   山西図書館

    湖南省立図書館1905年説は、ふるく矢島玄亮「概説支那図書館史」(大東文化6)、大佐三四五「図書館学の展開」、佐野捨一「世界図書館年表」など多くは、「光緒31年(1905年)湖南省立図書館設置」説で、中国の「図書館」の呼称のはじまりは、湖南に始まるとされている。ところが、近年の公刊された「中国歴代蔵書史」をみても、1904年湖北省立図書館説も依然として考えられてよい。ずいぶん昔のはなしではあるが、実際、書面で直接に湖北省立に問い合わせてみたところ、丁寧な返事をいただき「わが湖北省立図書館は中国第一の図書館です」という返書をいただいた。湖北が先か、湖南が先かはそれほど関心はなくなったが、いま重要に思うのは、40代前半の若き楊守敬が日本の図書館員と交流し、図書館事業や図書館思想を中国にもたらしたであろう一事である。おそらく4年の在日期間に和製漢語の「トショグァン」という発音にも馴染んで本国で伝えたことは想像に難くない。(中国では「ずしょかん」は普及していない)そうすると1904年(明治37)という公式な「図書館」よりも1884年(明治17年)に中国に知られたことになり、従来より、「図書館」という語そのものの伝来は20年ほど早まることになるのではないか。

近年、岡千仭の研究は明治期の日中交流史として注目されている。

宇野量介「鹿門岡千仭の生涯」

王暁秋「中日文化交流史話」日本エディタースクール出版部

2007年4月 7日 (土)

土岐善麿と石川啄木

   朝日新聞社の石川啄木と読売新聞社の土岐善麿とは新進歌人として併称されながら未知の関係であった。明治44年1月13日、二人は初めて会い雑誌を出そうという話が成立した。誌名も啄木の案によって「樹木と果実」と決定した。創刊号は3月1日とし、二人はその後、毎日のように会って準備を進めたが、2月1日、啄木は慢性腹膜炎と診断され、帝大青山内科に入院し、退院は3月15日であった。

   土岐善麿(1885-1980)は、明治18年6月8日、東京市浅草市松清町の真宗大谷派等光寺に生まれた。父善静、母観世(藤原家の出身)。土岐善静は学僧として知られた。

   土岐善麿。本名は善麿、筆名は詩作時代は湖友のち哀果。明治37年に早稲田高等予科に入学。同期に若山牧水、北原白秋、服部嘉香がいる。卒業後、読売新聞社の記者として活躍する。処女出版「ローマ字三行詩」の「Nakiwarai」は、啄木に影響を与えた。啄木は善麿を「歌人らしくない歌人」として、その作品が日常生活がモチーフとなっていることを評価していた。明治45年4月13日、石川啄木は一禎、節子、京子、若山牧水に看とられながら死去。土岐善麿の生家の浅草等光寺で葬儀が行なわれた。

   わが友の、寝台の下の

     鞄より

   国禁の書を借りてゆくかな。

    土岐善麿は歌人、国文学者、ジャーナリスト、新作能の作者、杜甫の研究家、田安宗武の研究、日本式ローマ字論者、国語審議会の会長などを歴任したり、多方面に活躍している。かわったところでは、日本最初の駅伝競走の企画実行者は土岐善麿である。京都から東京までのマラソン・リレーを企画・実行し、それを「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競走」と命名したとされる。

   土岐は戦時中も批判的良識を守った。戦争に非協力的な歌人として、歌壇の内部から攻撃にさらされた。戦後の民主主義の時代になり、土岐のリベラルな芸術家、文化人を図書館界は望んだ。昭和26年3月、東京都立日比谷図書館長となる。昭和27年5月、日本図書館協会理事長の中井正一が急死すると、8月に新理事長に土岐善麿に白羽の矢が当たった。善麿はこの時すでに67歳であったが、新生の図書館の問題が山積するなか、本人自ら難局にあたられたようだ。土岐は柔軟な思考力で、知識人らしい生き方を貫いた人である。

2007年1月20日 (土)

団塊の世代の変節

    「図書館幕末血風録・清河八郎の巻」。幕末史には武芸に秀で才覚もありながら、短い命を散らした尊皇攘夷思想を抱く人物も多い。清河八郎(1830-1863)享年31歳、芹沢鴨(1830-1863)34歳、伊藤甲子太郎(1835-1867)33歳。彼らはいずれも哀れな最期を遂げている。

   「改革派」と「市民派」との論戦で、とかく槍玉に上がるのは三人の図書館学者であるが、「これからの図書館の在り方検討協力者会議」の委員は全部で13人であり、学者以外の方がどのような意見、思想をもって会議にのぞんだのか知りたいところであった。「図書館界」(2007.1)では委員の一人であった齋藤明彦からその実態をみることができた。図書館歴2年11ヶ月。(鳥取県立図書館在任期間2002年~2004年)。以下、発言内容の中から興味あるところをピックアップする。

    図書館が持つ趣味的イメージだと議会や行政関係者からみると予算を削減される危険性があるから、イメージを変える必要がある。そのため、新しい「役立つ」事業の集中展開、地域住民・行政への積極的アピールが必要だと考えた。

  貸出しの専門性などにはあまり興味がもてなかった。また「市民の図書館」は古典であるが、今ホットな話題となることは、ピンとこない。

   図書館を離れて2年近くたち、もう図書館に携わることもないでしょうし、私も図書館ももう残り時間がほとんどないことに、焦りと無力感も感じます。

    齋藤は財政や総務畑の管理部門を歴任した自治体の幹部的なエリートであり、図書館については極めて短期間在職しただけである。鳥取県知事が図書館に理解があることで、鳥取県立図書館に脚光が集まり、たまたま図書館畑の生え抜きの館長でなく、行政経営に明るい館長だったために、委員として白羽の矢があたったのであろう。悪く言えば、薬袋に都合よく利用されたにすぎない。談話を読んだ限り、「図書館のことなどもうどうでもいい」「俺には関係ないことさ」というように読み取れる。

   さて、委員の中で気になる人物がいる。常世田良である。これまでの誌上討論でもほとんどその名は上がってこない。著書『浦安図書館にできること』の略歴によると、1950年東京に生まれ、1983年浦安図書館に勤務とある。ここ数十年、その名前は浦安の名声と共に知られ数多くの講演をされてきたであろう。(ケペルは関西なので残念ながら聞いたことがない)2003年刊行の『浦安図書館にできたこと』(剄草書房)には

   「市民の図書館」において述べられている全域奉仕、貸出の重視、児童へのサービスの重視という公共図書館の理念は、現在においてその重要性を減じてはいない。

   とある。この時点においては、「市民の図書館」からの脱却とか、貸出中心の否定などには至っていない。「これからの図書館の在り方検討協力者会議」の委員に要請されるからには、常世田なりに考えるところがあったものと推測される。もちろん彼の古い発言や書き物を調べれば、「市民の図書館」を礼賛したものも多く見つかるであろうが、そのようなことをしてみても余り意味がない。現在まちがいなく常世田は改革派であるのだ。造反とか裏切りとか言わないことにする。彼はただ有名になりたかっただけの人なのだろう。実際、常世田と同世代の図書館員の多くは、行政畑のトップと交流し、指定管理者制度容認あるいは推進となり、人員削減、図書館切捨てのための理論づけをする役割を担われることと交換で昇進という餌を与えられるという現状をこの目でまじかにみている。行政当局に擦り寄れば、行政マンの晩年は明るい。齋藤も常世田も、おそらく全国の団塊世代の図書館員たち、とくに館長クラスの人たちは、図書館員の良心と昇進との間で揺れているのである。しかし、個人レベルで言えばあと数年の図書館人生だが、図書館は永遠にあるもので、安易に直営放棄は後世に大きな禍根をのこすことになる。

    最期に近藤勇が、自らの心情を託して小島鹿之助に送った詩を紹介する。

   富貴利名

   豈羨む可けんや

   悠々として

   官路は浮沈に任す

   此身更に

   辛苦在るに有り

   飽食暖衣は

   我心に非ず

武州のサムライ決起する

   「図書館幕末血風録・武州のサムライ決起するの巻」

   いま図書館界では、「市民の図書館」を評価し、貸出サービスを重視する意見(市民派とよぶ)と、従来の貸出中心のサービスのあり方を批判し、「市民の図書館」からの脱却を主張する意見(改革派)とが対立している。あたかも幕末に佐幕と討幕との間にくりひろげられた死闘をみるかのようである。新着雑誌「図書館界」(2007.1)の特集「誌上討論」もいよいよ第4回をむかえその峻烈さを増している。今回は手嶋(町田)「貸出しを大切にしている図書館からの意見」、石嶋(日野)「小規模分館から見た貸出し:資料提供」が注目される。

 根本彰批判としては、「資料提供論に代わる新しい公共図書館のパラダイムが必要なのだ」(『情報基盤としての図書館』勁草書房)とする根本に対して、手嶋は「資料提供論の否定によって公立図書館が発展するとは到底思えない」と説く。また現場の立場から根本の姿勢には「貸出しに対する無理解ぶりには驚きを禁じえない」と一同あきれている。また根本、糸賀の発言と軌を一にするかのように、東京都が区市町村立図書館への協力貸出しを切捨てる「都立図書館改革の具体的方策」(2006.8.24)が出された。改革派の目指す課題解決型図書館への移行は「協力貸出の見直し」と称して、現実には大きく後退することなのである。

   薬袋批判としては、「読書のための資料・情報を提供すること」と「課題解決に役立つ資料と情報を提供すること」とを分けて考えのではなく、「課題解決のための図書館利用は、貸出そのものによってもなされている」と説く。このことは現場で働く者にはとくに理解できる。「レァレンスは貸出の延長線上にある」という名言は、塩見昇の25年ほど前の司書講習でも聞いた覚えがある。

    手嶋のすぐれた論文の中でもとくに注目すべきは、「これからの図書館像」と「実践事例集」を批判して、「新しい形の図書館整備」として華々しく紹介されている3例(山中湖情報創造館、北九州市立図書館、桑名市立中央図書館)を田井郁夫雄の論文「つくられた現実、虚構としての民営化」「指定管理者制度という後ろ向きの選択」を踏まえて、「直営よりも優れた活動実績を挙げていることを実証できているとは到底思えないのである」と明言していることである。実際にそこで懸命に働いている図書館仲間がいることは現実の事実であり、その図書館を実名で批判することにはどれほどの覚悟がいるか、ケペルにも少しはわかるつもりであるが、「そのことは誰かがやらねばならない」とする、その志に大きな感銘をおぼえる。また図書館未来構想研究会の「実践事例集」が本体の報告書よりも早く公表されているが、文部科学省の見解、さらには報告書の内容を逸脱(つまり、指定管理者制度の容認ではなく推奨)していることに批判を与えている。

    石嶋の論文は実にいい。なによりも率直に書かれている。全国の図書館員に勇気を与えてくれるものである。もし、図書館職場で改革派と市民派の間で悩んでいる仲間がいたらこの論文を読むようにすすめてほしい。

   市民にとって「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」利用できる図書館の実現を目指してきた日野の図書館政策が、時代の大きなゆらぎに翻弄されることなく、確信をもって今後も引き継がれていくことを強く望むものであり、私自身も一職員としてその一翼を担わなければならないと痛感している。(手嶋孝典)

  現在社会において公立図書館の果たすべき役割を考える上において『市民の図書館』は今もなお、読み直すべき価値ある書物であることを確信させられた。

2007年1月 8日 (月)

有山崧と土方歳三

有山崧と土方歳三との関係

   有山崧(1911-1969)と前川恒雄。全国の図書館関係者でその名を知らないものはいない。今、図書館は、いつでもだれでも本を借りられ、気軽るに利用する場所となっている。このような公共図書館の形が40年前に最初に実践されたところが、日野市である。そしてこの図書館を中心となって作り上げたのが、当時の日野市長だった有山崧(ありやまたかし)という人物なのだ。有山市長は、幕末の新選組最大の支援者だった佐藤彦五郎俊正(1827-1902)と妻ノブ(土方歳三の実姉)の曾孫にあたる。その関係を詳しく言えば、佐藤彦五郎の四男の彦吉が有山家に養子となり、維新後、すぐに渡米した。銀行家となった有山彦吉は地元で有数の資産家となった。その後、彦吉の子の有山亮は日野町長となる。亮の子が有山崧である。

有山崧の略伝

   明治44年、日野市に生まれる。東京帝国大学哲学科卒業後、文部省嘱託として社会教育局成人教育課勤務。戦後、日本図書館協会再発足と同時に総務部指導部長となり、昭和24年事務局長に就任。全国各地の研究集会に出席し、戦後の図書館の振興に尽力する一方、図書館法制定にむけて精力的に活動した。昭和38年に刊行された『中小都市における公共図書館の運営』の企画・推進に努め、図書館界を大きく転換させた。昭和40年、日野市長に当選。市政の面から日野市立図書館の創設・発展に努めた。

有山崧と前川恒雄

   有山が市長に選ばれる半年ほど前、一人の男が日野市教育委員会職員に採用されている。後の日野市立図書館の館長になる前川恒雄である。有山は昭和25年ごろから全国各地の図書館で開かれるワークショプで若い人材を捜していたが、前川恒雄は有山の理念を最も実践活動に結びつけた男だった。日図協、図問研で活動したのち、前川はイギリスに留学し、昭和38年、日本図書館協会で「中小レポート」を有山の下で書き上げた。そのレポートの中に「公共図書館の本質的な機能は、資料を求めるあらゆる人々やグループに対して、効果的かつ無料で資料を提供するとともに、住民の資料要求を増大させるのが目的である」と書いている。つまり、閲覧中心の図書館をいつでもだれでも本を借りられる場所にしよう、多く利用してもらえる場にしようとするものだった。レファレンスや読者援助と貸出業務との関係をどう考えるかという議論も、読者援助こそ重要であるとする小田泰正と、資料提供(貸出との追求)こそ読者援助の核心であるという前川恒雄との間に論争がかわされたが、貸出の追及こそが読者のサービスにつながるとする前川理論が実践的で正しいものであることはその後の歴史が明らかに証明している。近年一部学者が唱える「市民の図書館からの脱却」は邪説である。なにごとにも初心を忘れないようにしたいものである。

   なお、このページの作成にあたりましては、このブログに寄せていただいた方からの有益な情報にもとづいています。ここに感謝申し上げます。

2007年1月 1日 (月)

シェラの講演「図書館の社会学的基盤」

   アメリカの図書館学者ジェッシ・H・シェラが、1976年、インドのサラダ・ランガナタン図書館基金のためにおこなった連続講演の記録が「図書館の社会学的基盤」(藤野幸雄訳、日本図書館協会)である。図書館学者でありドキュメンタリストであるシェラの機械文明に対する考えを中心に(インドはガンジーで知られるように反近代、機械文明否定の思想も生まれ、また現在はIT先進国であり、零の観念が古くからあった国、ランナタンの国であるという、思想の多様性が特徴である)その中から「推移と変遷」の一部分を抜粋して紹介する。

               *

   トーマス・ハクスレイはかって次のような問いかけをしました。「これらの新しい物事すべてにたいして、何をしようというのだろうか」。エルティング・モリソンの指摘によれば、「ハクスレイが真に問おうとしたのは、『これらの物事すべてを活用して、いかに自分たちの環境を変えてゆくのか』ということです。これは、図書館員であるとに否とにかかわらず、皆が当面している、真に基本的な根本の問題です。こうした「もの」から本当に利益を受け、技術面で起っているこのような恐るべき変化のゆえに生ずるすべての不幸、苦悩、あらゆる種類の社会的断絶に投げこまれないようにするには、いかなる心構えをすべきでしょうか。これが解かねばならぬ、そして図書館職にあっても解決されねばならない問題なのです。図書館の職業は全く新しい見地から見なおさざるをえなくなっています、そしてそれを始める時期が来ているのであります。

   ところでわれわれは、こうした変化と闘ってゆくことができますし、それを十分に利用できるよう、職業を組織することもできます。しかし明らかに変化はやって来ているのです。ただ、一つのことが明らかであると思います。進歩がオートメーション、情報検索の分野でいかに急激であろうとも、変化はそれでも一晩にして起こるものではありません。突然にまったく見知らぬ新しい世界にとびこんでいたということはありません。いくらかの時間は残されています。これから先も解決しなければならない技術の問題が沢山あるわけですから、確かにいささかの時間は残されていると思います。この変化は長い進化の過程を通って来るので、その中で一歩ずつ前進する、時には恐らく後退ということもあるわけです。

   しかし問わねばならない本当の問題は、エルティング・モリソンが『人間、機械、現代』で指摘している通り、環境、全社会機構、文化的環境を、こうした変化を有利に生かせるようにしておく必要がある、そうでないと破局に直面する、ということであります。これらのメカニズムは当然社会問題をひき起こします。思想統制という最後の問題まで起こるでしょう。われわれの代わりに機械が「考え」させようというのでしょうか。機械は逸脱した情報の強力なチャンネルになりかねないのです。印刷もあらゆる種類の不道徳、反社会的方向に使われうるのと同じ様、機械の発明も、いったん出来上ってしまえば、反社会的目的に使われるのです。これが人間が環境をコントロールする場合の、進歩するごとに起こる問題です。しかし一方では、人間はさらに環境のコントロールを求めて行きます。そして、なlりふり構わず、環境をいじくりまわし、出来る限りは自分の従わせ、自分の要求に合うよう変えてゆく点で何ができるか見たい、というのが人間の本性です。こうした機械の進歩が正しい目的に使われるよう、悪い人の手に渡らないよう、つまり機械が誤って使われないようにするために、歯止め、社会的、政治的な安全装置ができているかどうか確かめておかねばなりません。いうまでもなく原子爆弾がこうした管理を必要とする好例です。新しいこの情報科学全体には、原子爆弾のような潜在的に危険なものが何かありうるかも知れない。これもコントロールすることを学ばねばならないのです。

   全体の問題点が、技術者は何でもできる、というところにあるのはもちろんです。しようと思えば、議会図書館でも空中につり上げることだって出来ます、これは悪くない考えかも知れません。ちょっと時間を要することでしょう、でも結局は実現の方法を見出せるでしょう。問題は、「それをさせたいと思うのか、これはしたいと思っていることなのか。これは社会にとって最上のことなのか」というところにあります。これらは図書館員がぶつかってみたい哲学的問題であると考えます。図書館業務のなかのコンピューター、オートメーションについての熱意(熱意といえなければ楽観といってもよい)の点では誰にもひけをとらない積りであります。

   しかし本にもまだ或る価値があると思いますので、失ないたくありません。図書は何といっても有益な発明品です。磁気テープと比べても多くの有利な点を持つものです。何の装置もなしに、おそらく眼鏡でもあれば読めるものです。持ち回ることもできますし、いづてもどこでもとりかかれるものです。どんな意見でも余白に書きこめますし、磁気テープとかこれから出現する他のこうしたメディアではできないような扱いができるわけです。だから本はすたれないと思います。本はこの世に残ると考える者です。

   しかし、コンピュータもなくならないものだ、とこれも確信を持っていえます。そこでわれわれは二つの世界に生きることになりましょう。図書館員は実際、少なくとも相当長い間は二つの世界に住まねばならないのです。そしてこうした二つの世界に生きるためには、この二面性から生ずる問題は、社会における自己の役割につき再びとり上げてみる、あるいは少なくとも真面目に考えてみる必要があると思います。すなわち、図書館員が行なおうとしているのは何か。トーマス・ハクスレイのいった「これらの新しいことをどうしようとしているのか」。現在の書誌的環境を変えて行くのか。これほど増えてゆく「もの」を可能な限り十分に利用できるよう、新しい社会においては自分たちの役割をどのように確認するのでしょうか。

   さて、ご承知の通り、とくにアメリカ人はこうした新しい発明品には、やみつきになっています。われわれは機械・道具が好きです。したいと思うことを単純に、やさしく、機械なしですます方をとらず、際限もなく機械の道具を使うのです。例えば、多くの人はライターを持ち歩いていますが、それはしよっちゅう燃料が切れたり、新しい石を必要としています。誰か言ったことがあります。もしマッチがライターより後に発明されていたら、誰しも「これは何と簡単ですばらしいのだろう」ということでしょう。しかるにライターは機械であるから好きなのです。このような発明品がわれわれを捕える催眠作用、これは考えておかねばならない人間の一反応であります。

   機械に向かって進めという圧力は図書館員にたいして再三再四行なわれます。大学図書館にいる友人の多く、公共図書館にいる者でさえ、目上の人たち、大学管理者とか公共図書館理事会から、機械化せよとのかなり強い圧力を体験しています。すばらしい機械が持てる今では、誰もがオートメーションを口にしています。そしてもちろん、IBMのセールスマンの一隊が反応をかきたてるよう、あらゆる手段を尽しています。何人かの友人はまったく困った立場に立たされているのです。図書館という職業はこうしてこみ入った機械を扱う準備が整っていないことをよく知っているからです。それでも管理者たちはいうのです。「機械化しよう。そうすれば支出をうんと節約できる」。もちろんこれらの図書館員は、こんないい方が誇張であると知っています。でもオートメーション化の主題はかなり執拗で、図書館員が理のある見方をしようとしても、変化を望まない、時代遅れな奴だと非難されるたげです。この衝突は、現在経験しているような急激な変化を通るとき、職業内部に起る恐るべき断絶となっていることは疑いをいれません。

    しかしながらわれわれは前に進んでおります。このことは疑う余地がないと思います。ランガナタン博士も私と同様、1957年にドーキングで行なわれた有名な分類会議に出席した時のことを憶えておいでと思いますが、イギリスの代表たちは、一週間の会議のうち半日だけを機械のことを話し合うためにとりたいといいだしたのです。他の時間には誰にせよ機械のことをしゃべるのは許されませんでした。それで木曜の午前だったかいつだったか、機械について話し合ったのです。アメリカ人はこの他の時間には機械のことは何もいってはならない、と警告されていたのです。主催者側はこの取りきめを守らせるのに成功したというわけにはいきませんでしたが、ともかくそのように努めていました。ところで、ドーキング会議の続きがエルシノアで開かれた時には、機械はかなり目だった議題となっております。私がウェスタン・リザーヴ大学の図書館学校にドクメンテーション・センターを創設した時、何年もの間機械のことでどんなに「からかわれた」か、よく憶い出すことができます。忘れられないくらいです。機械が図書館の職を奪いさるとか、機械の方が図書館員より利口だ、などと私が思ったとでもいうのでしょうか。「からかわれ」たのは、こればかりではありません。私がこの職業にたいして妨害している、全く真面目な口調でいわれました。私は長くつとめたこの職業を馬鹿にしたことなどなかったのですが。しかし今までオートメーションは恐ろしく真剣にとり上げられています。

   オートメーションはこれからやってくるものではありません、すでに存在していますし、きわめて分化しているほどです。物理的に入手できる方法として、高度に縮小する技術を持っています。地理的に遠い所へもファクシミリで送る利用法を話し合っています、これはいずれは頁、論文、本全部を送れることになり、相互貸借にとって代るでしょう。コンピューターはすでにあらゆる種類の図書館業務に広く使用されつつあります。内容を手に入れる問題もゆっくりではあるがある程度の進歩をとげています。新しい世界はそこまで来ています。図書館職の多くのことが変えられて行くところです。この変化に適応するのがわれわれの責任です。そうしないと他の者がこの職を占領してしまうでしょう。社会史を知っている方なら、18世紀のいわゆるラダイトは、自分たちの工場に入れられた機械を打ち壊した労働者たちだったのを憶えておいででしょう。今日ではきわめて原始的とも見える機械の導入に、彼らとしてはその結果起こる断絶を見たからなのです。その時ラダイトたちは絞首刑にあいました。図書館員もラダイトにならないよう、同じような運命に見舞われないようにしたいものです。まさか図書館員を絞首刑にする者はいないでしょう、しかし忘れられるということはありうるのです。私どもはこの新しい世界の中で生きることを学ばねばなりません。機械とともに生きることを学びとらねばならないのです。目前に横たわる大きな問題は未来の図書館員の教育、明日の世界に生きる図書館員を教育することです。これが最終回のお話で私がとり上げる問題となりましょう。

              *

    引用がたいへん長文となってしまった。少し前の文献であるが、現代の図書館を考えるうえにたいへん示唆に富む文献であることは、読まれたかたは理解されるであろう。情報革命、反機械文明、反情報、オートメーション、イノーベーション、原子力などの20世紀に生み出された図書館のニ面性が生ずる諸問題に関する発言を探していたのだが、日本の図書館学者からの発言や研究は少ない。機械の国、大量生産の国アメリカで、チャプリンの映画「モダンタイムス」のような辛辣な文明批判の作品が生まれるのも、移民がもたらした文明の多様性であろう。アメリカ人は道具や機械の国だが、一方で宗教の国でもあり、自由な精神を尊重している。したがって、図書館学者は政治や国の政策とも一定の距離をおいて、一面に偏ることなく両面を思考しているようだ。後発の日本の図書館学の場合、内発的な研究の成果は少なく、アメリカの図書館学からのうわべだけの導入という外発的なものであるため、韓国より遅れているからなんとかしなければというレベルでしかない。シェラのいうような「機械に向かって進め」の日本版が21世紀になって出た国策的な提言「これからの図書館像」だが、それがもたらした結果は図書館市場が注目されて、関連企業が喜んでいるだけのようだ。

   シェラの講演録を読んで感じるのは、バトラーからの影響があるようで、社会学的な研究方法で、図書館の原理、原論を追求している。ひるがえって、現在の日本の図書館学者はどうだろう。目立つのは、細分化されたテーマの研究であるか、図書館改革とか提言とかいった政治、政策、経済と連動した言説である。そもそも図書館改革とか提言とかは、図書館学者の本分なのだろうか、疑問に感ずる。

2006年12月31日 (日)

図書館関係ケペル蔵書目録

   大晦日、蔵書の整理をしていると古い本がいろいろでてきた。昭和40年代から50年代の図書館白書とか報告書とか冊子類が多い。図書館学関係の本は退職された先輩がらいただいた本も多い。せめて書名でも記した文献リストをつくる。(未完成になることは知りつつ)「市民の図書館」の時代を証言する一級の資料だ。たとえば「愛知の図書館を考える県民集会記録」には前川恒雄の基調講演が3ページから22ページにわたり詳細に記録されており、図書館史的にも貴重。

図書館労働実態調査予備調査報告 1978 日本図書館協会図書館員の問題調査研究委員会編 日本図書館協会  1973.3.30  石塚久芳、池田政弘、市川雄基、工藤又四郎、小島惟孝、小山俊子、加藤トシ子、正能孝一、佐藤寿子、坪内哲雄、戸室幸治、長谷川周、船木俊子、保土田政子、森崎震ニ、盛岡博

公共図書館のサービス指標及び整備基準試案 昭和60年3月全国公共図書館協議会 21p  前田陽一

ニュータウンの中の図書館 吹田市立千里図書館の利用者調査 大阪大学人間科学部 社会教育論講座 図書館利用者の意見調査 質問表 105p 元木健

住民のための図書館を考えよう、理論を学びあおう 第1回神奈川図問研教室の記録 図書館問題研究会神奈川支部 1973.10  48p坪野忠、岡崎文子、木村武子、近藤泰子、酒川玲子、原田淳夫、藤田静江、山本宏義、若杉秀子

予約制度は定着しているか 予約制度調査報告書 1991 図書館問題研究会予約制度調査研究グループ 991.6.30   103p 奥本陽子、西村一夫、森崎震二

昭和48年度 富山市における図書館サービス網整備方策報告書 昭和49年3月 富山県教育委員会刊 増刷図問研富山支部 74p 村上清造、清水正三、菅原峻、佐藤留人、橋本宗ニ、細田英夫、参納哲郎、仲俣新一、堀田多門、江上隆、奥沢利治、北岡義則、萩沢稔、辻沢与三一、桐田正夫、朝日奈満里子

愛知の図書館を考える県民集会記録 1981.7.19 図書館問題研究会愛知支部 自治労愛知県本部 名古屋市職員労働組合教事支部図書館ブロック  1981.9.19  49p 基調講演「図書館システムを考える」前川恒雄、伊藤逞子、船坂清伸、梶川雅宏、小木曽真、福岡泰

住民のなかの図書館をめざして 府中市とその図書館 図書館問題研究会東京支部府中市の図書館調査委員会編 1971.6  148p

青少年と図書館 横浜市の図書館政策と青少年図書館 図書館問題研究会神奈川支部 1971.2.1  81p  乾節子、今村博、木村武子、近藤泰子、酒川玲子、多田秀子、角田あや子、坪野忠、中山立也、長谷川光児、前沢桂子、伊藤美代子、七条光生、若林緑

図書館学の課題 森耕一著 大学図書館問題研究会 1980.4  12p  (1980.1.19 京都教育文化センターでの講演会のレジュメ)

京都の図書館白書 1982 図書館問題研究会京都支部、みんなの京都市立図書館・社会教育センターをつくる会 1982.9.12  大槻政美、大前哲彦、荻野義雄、小野泰昭、芝田幸子、中西俊夫、西村弘、早川幸子、林寺厳州、藤原恵美子、八木隆明、山室真知子、埜上衛、井上晶子、井上英之、今田直弘、尾上日出丸、河原忠、篠原俊夫、芝田正夫、深井耀子、三上啓子

大阪の公共図書館白書 1983 「貸出に関する」報告書 1983.図書館問題研究会大阪支部 129p  柏悦子、斉藤健一、高橋敏一、滝川朗子、武田瑠美、中川徳子、西田博志、西村一夫、前田章夫

大阪の公共図書館白書 1973 図書館問題研究会大阪支部 186p塩見昇、三苫正勝、池内進、宇野知代、栗原均、天満隆之輔、中川徳子、中野照子、拝田顕、橋詰淳子、森耕一

愛知の図書館  1990  図書館問題研究会愛知支部 990.7.8  90p 小木曾真、河合朝子、黒岩弘之、佐藤兼夫、田中敦司、尾頭良造、福岡泰、船坂清伸、若松憲和

これからの図書館は前の時代の経験をふまえて移行すべきだ

    一つの時代が終わってそれで人間が別なものに変わるということはない。そういう時代というものに人間をそのように本質的に変える力はないということとは別に、一つの時代が終わればその時代の人間がつぎの時代を迎えて前の時代のままでいるか、あるいはさらに新しい時代の影響も受けるのだということを我々は忘れてはならない。18世紀の人間が19世紀の人間になったのではない。これはすべて人間とその時代の事物事象の関係すべてについていえることで、図書館の問題も例外ではない。

   近代も現代にはいり、現代人になったのであり、たとえ20世紀が21世紀に変わっても、急激に日本の公共図書館に大きな変化があったわけではなく、日常的な実践では、『市民の図書館』の理念による図書館活動がおこなわれているのである。これに対していま図書館の世界では奇妙な論理がまかりとおっている。いわゆる『市民の図書館』から脱却しよう、という意見である。雑誌「図書館界」の誌上討論で、ある学者は「市民の図書館からの脱却に向けて正確な理解を」で次のように書いている。(2005.11,vol.57 no.4)

  地方分権や行政改革をたたき込まれた役場・役所の一般行政職に「図書館では30年前に刊行された『市民の図書館』の考え方が今後も大事です」などと言ったら、「こんなことを言っている人たちがいる限り図書館はダメだ」「図書館で働く以前に地方公務員として失格だ」と思われるのがオチである。

   数人の学者グループは『市民の図書館』の賞味期限は30年で切れた、というような同様な意味のことを、スローガンのようにいろいろな講演会やセミナーで繰り返しいっている。すくなくとも2000年ごろまでは、『市民の図書館』は公共図書館の基本理念として健在であり、このようなことをいう人はいなかった。ところが、20世紀から21世紀にうつりかわるようになってから、『市民の図書館』からの脱却、というようなことが声高に叫ばれ出した。とくに図書館の世界の人間は情報革命の「光」の部分だけをみて「影」の部分をみない人が多い。いまでは改革派と称してナチスのように政権を掌握し、そして実践的図書館の方は、まるでヒトラーユーゲントのように、『市民の図書館』の理念を口にするだけで、そのブログに攻撃を加えてくる。図書館人は戦前もそうであったが、時代の流れには抵抗することなく、迎合的になる体質がある。この問題には、ケペル先生のブログで連載し、警鐘していることであるが、とくに風刺的に書いた「図書館幕末血風録」がブログ中ではアクセス件数が一番多いページだった。このブログはとくに図書館のことばかりかいているのではないが、やはり図書館記事のアクセスが多い。内容に対するご意見、批判もあろうかと思うが、図書館人としてはどうしても避けられない問題なのである。

    性急な改革というものは、戦後これまで積み上げてきたことを破壊することにな.る。30年賞味期限論といわれるものが真正なものなのか、ほんとうに原理、原則の期限が図書館学者のいわれる30年だろうか、大いに疑問に思う。たしかに30年を一世代として考えるなら、『市民の図書館』が1970年に刊行されたのであるから、それが刊行されたとき図書館員になった人は退職しているか、それに近い世代である。ケペルはまさに『市民の図書館』と共に歩んできた。だが、30年経過した『市民の図書館弁当』が西暦2000年に賞味期限切れとなったので、2006年に『これからの図書館像弁当』という不味い「日の丸弁当」に入れ替えた、というのであれば、図書館員はコンビ二で働いて陳列棚の商品を入れ替えているようなものではないか。たしかに世代交替の時代はあるかもしれないが、それまで基本理念となっていたものにとってかわろうとするのには、過渡期というべき移行期間が必要である。日本の図書館の真の発展を考えるには、戦後の図書館史では「飛躍の時代」を経ているので、むしろこれからは成熟の時代へ移行していくことが健全な進展であって、急激な改革にはなじまないものなのである。

2006年12月 8日 (金)

図書館幕末血風録

   ある図書館改革派の一人が「指定管理者制度は黒船ですね」といった。なるほど、旧態依然たる図書館にとって3年前の指定管理者制度は、アメリカから鋼鉄の船が来て大砲をぶっ放す、黒船来航並の騒動だ。導入の是非論は、攘夷か、開国か、勤皇、佐幕に揺れる幕末史に似ていないこともない。さしずめ、情報系の学者たちは開国論者だろう。幕府側も西洋式の兵器や軍艦をあわてて買ったように、公共図書館でも祝日開館、開館時間の延長などサービスの向上を図って、民営に対抗する動きもでできた。一方、山中湖情報創造館では『これからの図書館像』を錦の御旗として、黒船的役割を果たしたことを強調し、競争効果によって、日本の図書館全体の底上げを図りたいといっている。図書館改革のゆくえは混沌としてきたが、県立図書館の指定管理者については日図協の調査では「当面なし」と回答している。「指定管理者制度にしない」という宣言をしている館が10県程度ある。各地で「図書館は委託には、なじまないのではないか」と過度な民営化に疑問がでてきている。ただ、民間にすべてを託すことでは「安かろう、悪かろう」の図書館になってしまう惧れもある。またアメリカ流の規制緩和が格差社会を生んだとして、国家中心の市場原理主義への批判から、市民中心の共生型社会の資本主義論が浮上している。経済優先の虚妄の図書館未来像から人間中心の「市民の図書館」の原則を堅持する声も根強く残っている。松平肥後守御預新選組副長ケペルは誠一字に命を賭けて、士道「市民の図書館」に生きる。

2006年11月28日 (火)

現代社会と図書館雑誌

   日本図書館協会の機関誌である「図書館雑誌」が今年でちょうど100年になる。何か大きな企画でもあるかと期待したが何もなかった。明治40年(1907)10月、日本文庫協会によって創刊され、昭和19年9月から昭和21年6月復刊されるまでの中断を除くと、ほぼ100年になる。

    図書館雑誌の傾向は会員100名の創刊時から編集傾向は概して講義録風であったが、間宮不二雄が編集発行を担当してから誌面が一新され、記事も多彩になり執筆陣も大きく変わった。昭和15年には編集の根本方針が7項目にわたって打ち出され、昭和18年には戦時下における時局的な新方針が掲げられた。戦後の復興期には、「図書館の抵抗線」などの企画で一般会員からの政治、社会とのかかわりの中での図書館の現場の問題が提起された。それはやがて、図書館の中立性についての討論提案となり、「図書館の自由に関する宣言」の採択に結実する。民主化のムードは60年安保以降低調となり、誌面の傾向は政治問題抜きになり、図書館の発展と業務の拡大により、単なる情報の羅列記事、紹介記事になる。

    図書館雑誌100年を回顧することは重要である。わたしたちが働いている図書館は、過去の長い歴史のなかで形成され、発展してきたものである。そしていま21世紀を着実に歩んでいる。この現代社会と過去と未来のなかで正確に認識し、位置づけることが重要である。現代社会は大衆社会・高度産業社会・情報化社会といった特質をもっている。とくに機械文明の時代、組織化の時代といわれる現代社会においては、エリートや権力に支配される人間が増加する。先に述べた手紡ぎ機(チャルカ)をまわすガンディーや、単純な労働を一日中繰り返すことで、あたかも機械の一部分であるかのような存在となり、人間の主体を喪失した現代を風刺したチャップリンの映画「モダンタイムス」の批判精神を忘れてはいけない。国家主義と資本主義が提案する政策は一部のエリートだけが、うまみを吸うしくみであり、社会的弱者は疎外されるであろう。いまの図書館雑誌は戦後一時期のような自由を得た溌剌さが完全に欠如している。そこに群がるのは情報を産業にしようとする貪欲な者たちである。図書館運営は資料費、建設費、機器の購入費と金のかかるものである。もちろん人件費もかかる。国と自治体と大学、すべて金権体質と成果主義(あるいは出世欲)などとに汚染されるので、腐蝕していく傾向にある。また近年、明治以来定着した「図書館」という名称をあえて避けて「創造館」とか「情報センター」とか「図書館情報学」という擬似用語からは、機械文明と官僚制(ビューロクラシー)の悪弊がうまれ、国家主義、金権体質、利潤追求の競争原理に同調し、抑圧、束縛、不平等、不公平が生ずる。日本図書館協会は科学と技術よりも、人間尊重の精神を基盤として、人類文化の創造に寄与しなければならない。

2006年11月24日 (金)

図書館の危機を煽る学者たち

   今、公共図書館の現場ではさまざまな現象が起こっている。委託、派遣、PFI、指定管理者制度などなど。

   そして某日、わが職場では「館長面談」というのがあった。職員一人一人と館員が30分くらいフリーな内容で話をするのである。もちろん人事異動のための本人の希望をきくことがメインであるが、いろいろな雑談もした。館長は改革派であり(東京出張で糸賀や薬袋の研修を受けている)、終わりに「図書館はどう変わるのか」(図書館の学校2006.No.69)のコピーを渡された。それは2005年11月10日、11日に行われた図書館セミナー「デジタルで変わる図書館」と「公共図書館の運営システムが変わる」をテーマの公開討論記録である。出席者は糸賀雅児、小川俊彦、高山正也、冨江伸治。

   糸賀はすでにいろいろな講演や論文でいっているが、開口一番「日本の公立図書館は、危機的状況をとっくに通り越してもはや手遅れです」と述べている。以下「これからは公務員の方々は図書館で働きたくても働けなくなるでしょう」高山正也は「あなたは公務員をとりますか、図書館員をとりますか、と問う時代になってきている」といい、専門職のグレード制に熱心である。これらの学者たちは政府と情報系企業とアメリカ制度(アメリカと日本とは国情が異なり合わないことのほうが多い)を引き合いに出し、戦後制度の見直し論(実は戦前回帰のことである)を主張しているのでいわば改革派といえばわかりやすいかも知れないが、実は保守系なので「うわべだけの改革派」なのだ。

   現代は恐怖、不安を煽られる時代であるが、多くの場合、それはつくられた「現実」であったり、虚像としての民営化モデルだったりする。つまり、変化は意識の面だけで、現実にはそれほど図書館が変わっていなかったり、変わっていても一部の田舎の図書館だけだったりする。都市部の中核的な図書館はいまも「市民の図書館」を基本に運営しているところが多い。館長にそれを言うと即座に「君は甘い!」と言われた。そうかも知れない。しかし人は恐怖の中よりも希望の中でもっと豊かに成長できるものである。学者は頭がいい。社会学の清水幾太郎という人は戦後の思想界をリードしてきた学者だが、転向するのも早かった。よく彼の経歴を調べたらなんと戦前の専門は「流言蜚語」のプロだった。国民を煽るのはうまいはずだ。当世流行の図書館学者も頭はいいしアジの手口も清水以上だ。危機、恐怖、不安を煽ることにかけてはプロであるが、彼らの著作物や言説が本当の意味での学としての図書館学といえる内容なのであろうか疑問に思っている。曲学阿世という言葉は封印して、30年後に再読して判定するという老後の楽しみができたわけだ。

    ケペルは館長に次の論文を読んでほしいと勧めた。「つくられた現実、虚像としての民営化」田井郁久雄、「みんなの図書館2006年10月号」。本稿は「談論風発、図書館批評誌」創刊号 2006.4.6よりの転載である。とくに「山中湖情報想像館は先進的なモデルか」はいまマスコミなどで話題の図書館であるが、はたして本当に「これからの図書館像」の学者たちがおすすめするような図書館なのだろうか。その結末をみるのがこれからの楽しみである。

   全国の図書館で働く司書資格のない方々へ。ケペルの考えはこうである。「大丈夫。そんなに気にしなくていいよ。学者は政府の構造改革、民営化推進のため恐怖、不安を煽っているのだ。虚妄の論理にだまされないで」

      詩

      生 長 (武者小路実篤)

どうしてもとどかなかった枝に

ふと手を上げて見たら

楽にとどくようになった。

2006年11月18日 (土)

共謀罪と治安維持法

   図書館関係者はじめ多くの団体は反対意見を表明してきたが、ついに教育基本法改正案が衆議院を通過した。例えば、図書館問題研究会は「図書館設置が教育の目的と切り離され、権力による支配や介入を許し、愛国心などを教育の目標として生涯にわたって達成するための機関と位置づけられる。それは現行図書館法そのものの改編・改悪へとつながり、あらゆる市民に知的権利を保障するために資料・情報を提供し続ける民主主義の砦としての図書館にとって、重大な危機といわざるを得ない」(教育基本法改悪法案の廃棄を求める決議)と述べている。

    だが図書館の危機はこれにとどまらない。いま政府は共謀罪の法案の成立を進めている。共謀罪の特徴は、犯罪を実行しなくても、事前に話し合い、合意しただけで罪になることである。内容的には4年以上の懲役・禁固にあたる罪が、「団体の活動として犯罪実行のための組織により行われる場合」の共謀を罰する。対象犯罪が、「死刑、無期、10年を超える懲役・禁固に当たる刑」の場合は5年以下の懲役・禁固。それ以外の場合は2年以下の懲役・禁固。政府は国際的な組織犯罪、テロ行為、地下鉄サリン事件などの事例を想定して、処罰の早期化によって治安強化を図るねらいがある。ところが法の濫用によっては、集団の抗議行動や製品の不買運動などが業務妨害とされ、その協議をすること自体が共謀罪に問われることもありえる。自由にものがいえない世の中になり、民主主義の根幹である表現の自由や市民の言論の自由が脅かされかねないのである。すでに多くの団体が反対声明をだしているところである。マスコミ・ジャーナリズム関係では、日本ペンクラブ、日本ジャーナリスト会議、日本マスコミ文化情報労組会議、出版流通対策協議会、日本新聞労働組合連合などなど。多くの識者は、共謀罪は戦前の治安維持法に勝るとも劣らない悪法と述べている。ところで日本図書館協会はこの共謀罪について明確な見解を発表しているのであろうか。「知る自由」「読む自由」と最も密接な関係にある団体が沈黙することは何か理由があるのだろうか。HPを見たが本年度の見解・意見・要望は「中古電気用品に対する電気用品安全法の運用について」ほか二件のみで共謀罪に関しては見当たらなかった。ちなみに図問研ではすでに「改正手続法、共謀罪の廃案を求める決議」を平成18年7月11日第53回全国大会で決議しいてる。

   日本図書館協会はついに教育基本法改正に対しても反対声明をだすことはなかった。「図書館雑誌」最新号(11月号)ではNEWSのトップで「教育基本法改正について意見表明相次ぐ」の記事があるが、よく読むとまるで他人事のような内容なのだ。学校図書館を考える全国連絡会、図書館問題研究会、学校図書館問題研究会の反対理由を紹介しているが、不思議なことに協会がどういう意見なのか不明なのだ。このような最近の日本図書館協会の重要問題への対応の立ち遅れや貸出重視に対する見直し論議の背景には一部の政府、文部省寄りの図書館学者が協会を支配し、戦後民主主義を軌道修正する動きがみられ、協会の保守化傾向が顕著になってきていることが理由にある。今後、これからの図書館像が愛国心教育と思想統制によって、戦前の治安維持法下のような思想善導機関となることが大いに懸念されるところである。

2006年10月 8日 (日)

図書館界の主導権争いはコップの中の嵐

   日本図書館研究会の「図書館界」(通巻318、321,325)において「現代社会において公立図書館の果たすべき役割は何か」をテーマに誌上討論を3回にわたり特集している。2004年から2005年までなので「これからの図書館像」(2006年3月)が発表される以前であるが、中身は「これからの図書館の在り方検討協力者会議」の開催され報告書のとりまとめがなされていた時期と重なるので、薬袋秀樹、糸賀雅児、根本彰の論旨が明確に述べられている。論文の多くは「市民の図書館」からの脱却論への批判なのだが、その中で馬場俊明「市民社会における公立図書館の役割」に注目する。馬場は「市民の図書館脱却論の錯誤」のなかで「近年は、市民の知る自由を保障する制度として支えてきた公立図書館そのものが大きな曲がり角を迎えたと批判されるようになっている。また、そうした認識と連動しつつ、政府主導の市場原理の導入を軸とする構造改革が図書館界でも声高に論議され、これまで国や自治体がはたしてきた公的責任が相対化されようとしている。そこでは、公共政策論的な枠組みのなかの公立図書館論がくりかえし展開されるが、議論そのものにある危うさを予感せずにいられない」として、「市民の図書館」、貸出論批判の形式を借りた戦後日本の図書館運動の路線批判に着目している。薬袋秀樹「図書館運動は何を残したか」はその典型であろう。馬場は「脱却論の核心は路線問題にあり、誤解を恐れずにいえば図書館界の主導権争いに映る」「いかにすぐれた脱却論であっても、市民や図書館現場にばかり責任を押しつけることは、日本の図書館界にとって不幸なことである。主導権争いのように映るのは筆者だけであれば幸いである」と結んでいる。とくに「図書館運動は何を残したか」は後味の悪い本である。なぜなら、図書館学の研究書というよりも館界の暴露本のようである。そしてこれが図書館の基本原理の究明に役立つ事は全くないといえるが、これまで主導権を握っていた左翼系の運動者を叩くことで、電子図書館をメインに「これからの図書館像」を引っさげて、図書館における主導権をとろうとしているのがわかったのである。バックには政府と産業界(企業)と大学図書館・専門図書館の後押しがある。他方これらに対抗できるだけの勢力はいまあるのだろうか。図問研も日図研も会員数は最盛期に比べ大幅に減少している。地方の公共図書館で頑張ってきた図書館員もいるが高齢化が進んでいる。そして図書館系ブログなどで遇目する若手図書館員は、戦後の「市民の図書館」の運動を「貸出至上主義者」と規定して、ハイブリッド図書館という可能性ばかりが強調され、市民、利用者を見失うようになってきている。糸賀雅児も「市民の図書館からの脱却に向けて正確な理解を」で「所詮それはコップの中の嵐にすぎない」と結んでいる。まずは第1ラウンドは脱却論者が「これからの図書館像」を公刊したことで優勢勝ちと見た。しかしコップの中の争いはまだ始まったばかりだ。

   「いま、市民の図書館は何をすべきか」前川恒雄先生古希記念論文集刊行会には賛同者の名前が掲載されてい