年間約5000万人もの観光客が訪れる観光都市京都。旅行割引が開始され、紅葉シーズン、秋の京都は魅力がいっぱい。人気スポットは、清水寺、嵐山、祇園、鞍馬、貴船、八坂神社、鴨川、金閣寺、二条城、銀閣寺、南禅寺、相国寺、天竜寺、建仁寺、龍安寺、高台寺、平安神宮、嵯峨野、伏見稲荷大社、仁和寺。初めて寺の拝観料をとったのは、清水寺である。京都五山では1386年に南禅寺をその上位とした。でも修学旅行といえばやはり金閣と銀閣。国宝指定は、金閣ではなく銀閣である。銀閣寺の観音殿と東求堂は共に国宝指定。金閣は1950年7月2日、僧侶の放火により焼失。現在の建物は1955年に再建されたが、国宝指定は解除された。犯人の林承賢は「金閣寺の優美さを呪い、反感を抑えきれなかった」と動機を語ったが、いまだ不明な部分も多い。林は1955年に出所したが、翌年、26歳の若さで病死している。

日本の城は、古記録に残る城を含めると、その数3万余りあるともいわれる。慶長20年6月13日(陽暦1615年8月7日)、江戸幕府は一国一城令を布告した。数日のうちに約400の城が壊された。これによって安土桃山時代に3000近くもあった城郭が約170ほどに激減した。また、武家諸法度という法令によって、新築はもちろん櫓や石垣の改築にすら厳しい規制がかかり、城に手が入ることは少なくなった。
城を地形で区分けすると、山城、水城、平山城、平城と区別される。現在、天守閣、櫓、城門、石垣などが揃っている城となると、数百にすぎない。城郭を中心に家臣団の屋敷と町家が集中し、城下町として発達し、明治以降は近代都市が形成された。
世界遺産の姫路城の大天守保存修理が全て完了し、一般公開が始まった。あまりにも白すぎて綺麗に見えないというのが正直な感想である。色が落ち着くまで数年はかかりそうだ。おもな名城を北からあげると、五稜郭、松前城、弘前城、盛岡城、仙台城、山形城、会津若松城、松本城、小諸城、岐阜城、犬山城、小谷城、安土城、彦根城、二条城、名古屋城、大坂城、明石城、赤穂城、篠山城、和歌山城、岡山城、広島城、高松城、高知城、松山城、宇和島城、鳥取城、小倉城、熊本城、人吉城、鹿児島城、今帰仁城、中城城、首里城。いつか全国城めぐりの旅をしたいものである。
琵琶湖の水を京都に運ぶ「琵琶湖疏水」が国宝に指定される。最近、ダム・橋梁・トンネル・閘門・港など近代土木遺産の技術と美が注目されている。琵琶湖疏水は滋賀県大津市観音寺から京都市伏見区堀詰町までの全長約20kmの「第1疎水」、第1疎水の北側を全線トンネルで並行する全長約7.4kmの「第2疎水」、京都市左京区の蹴上付近から分岐し北白川に至る全長約3.3km「疎水分線」などから成ります。大津市から京都市蹴上まで続く運河は明治23年に完成ましたが、現在も利用されています。
田辺朔郎(たなべさくお 1861-1944)は、文久元年、洋式砲術家田辺孫次郎の長男として、江戸に生まれた。工部大学校(東大)を卒業するとともに琵琶湖疏水工事を担当した。これは当時、東京遷都で、経済が衰退した京都を復興させようとする京都府知事・北垣國道(1836-1916)の構想があった。田辺の実地踏査と測量に基づく卒業論文「琵琶湖疎水工事の計画」が、採用されるという大抜擢であった。明治18年に起工するが、機材は乏しく、人員にも事欠く始末。しかも、工事自体がオランダ人技師デ・レーケが「技術的・財政的に無理」と断じた難工事だった。第一疏水の大津市三井寺~京都市蹴上間には全長2436mの長等山トンネルなど、3つのトンネルを掘らねばならず、困難を極めた。工事費も国家予算の1.8倍という巨額で、市民の反対の声も上がった。しかし、田辺らは挫けることなく、トンネルを日本の竪坑方式で掘削し、当初の計画を変更して水力発電を導入するなど、未知の領域に踏み込んで、次々と新しい試みに挑戦した。その結果、明治23年、西欧諸国が驚嘆する疏水を造り上げた。完成後、ここから供給された電力が、京都の日本初の路面電車の動力源となるなど、古都の近代化を支えた。現在、若王子橋から銀閣寺橋までの疏水べりは哲学の道と呼ばれる散策コースとして人気スポットである。
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春日さす疎水の水の諸子魚かな
河東碧梧桐
垣に残る夕顔の雨意疎水べり
野澤節子
朝鮮半島の地形の特徴は75%が山地である。700メートル以上の高峻な山地に富む高山性山地である。それに比べて日本列島は、国土の80パーセントは山地であるものの、中央アルプス以外は高峻な山地は韓国に比べ少なく、高くても標高300メートルくらいの山地である。日本人は大部分は海に近い平野に住むのに比べ、韓国では山地にもかなりの人々が住む習慣がある。水稲耕作の弥生人の時代からの遺伝子が日本人にはあるのだろう。東京、大阪、名古屋、横浜、神戸、福岡、鹿児島、仙台ほとんどの政治的、経済的中心の都市は海岸に面している。ところが韓国では内陸部にも政治的、経済的都市がある。アメリカやフランスでも内陸部に中心都市がある。このことは異常気象の続く現代たいへん危険なことである。100年後の海面上昇は日本で平均9~19cm程度の上昇が予測される。海域によっては30cm近くも上昇するところがある。関東の東で27cm、関東の南で20cm上昇すると予測されている。図書館とかアーカイブスとか水に大変弱い施設にもかかわらず海に近い立地をえらぶ行政政策には首をかしげたくなる。私の以前勤務していた図書館も旧防潮堤の際である。裏庭にはむかしの海岸のなごりの松がそのままある。沈砂地といって地盤も脆弱である。大洪水など付近の地面はコンクリートで固められているので水浸する恐れは十分にある。それも一階部分には集密書架が備えられている。せめて自分で私設文庫を建設するときは高地に建設しようと思い、甲山(標高309m)の山麓を選んだ。お山のてっぺんにあるわけではなく、市街地なので精々標高40メートルのところである。漁業を職業とするのでないなら、なるべく高地に住むことをオススメする。「幸せの700メートル」と呼んでいる。松本市が600m、諏訪湖が800m、軽井沢が700mである。大気汚染の影響が少なく、空気もきれいで、動物・植物が最も快適に暮らすことができる。
スペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿。711年のこの日、イスラム教徒のムーア人が、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入し、アルハンブラの丘を占領し定住した。創建当時、軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた(現在、宮殿の最も西の部分)。アルハンブラ宮殿が完成したのは、13世紀ナスル朝グラナダ王国ムハンマド1世(在位1232-1273)の時代で、ムハンマド7世(在位1392-1408)のとき漸く全体が完成した。したがってアルハンブラ宮殿は13~14世紀にかけて造営された城郭宮殿であると共に、グラナダ王国全盛時代の遺構でもある。アルハンブラとはアラビア語で「赤い城」を意味する。1377年頃の着工の獅子の中庭(パティオ)が有名である。12頭の獅子の口頭から泉水が流出する仕掛けになっている。天井やアーチは繊細な装飾模様(アラベスク)で覆われている。1492年1月2日、グラナダはついにキリスト教徒に攻略され、ナスル朝最後の王ボアブディル(1460-1527)は落城の途中、宮殿を振り返って惜別の涙を流したという。(Alhambra,Granada,Boabdil、4月28日)
映画「ラストコンサート」がムービープラスで放送していた。フランスのノルマンディにある世界遺産モン・サン・ミッシェルが2人の出会いの舞台である。天国に向かって舞い上がる尖塔はお伽話の城のような建物で、フランスの観光地としてトップクラスの人気スポットである。しかし50年前までは海外からの観光客はまだ少なかった。モーパッサンは「レースのように繊細にカットされた、みごとなカメオ細工のごとき巨大な宝石」と評した。サン・マロ湾上に浮かぶ小島モン・サン・ミシェルに築かれた修道院。聖堂の高さは約150m。城郭は満潮時には海に浮かび、干潮時には陸地と繋がっている。この島は、もともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれていたが、先住民ケルト族の間に信じられている海の墓場であったことを示す。708年、アヴランシュ司教オベールが礼拝堂を建てたのが始まりである。966年にはノルマンディー公リシャール1世(在位942-996)がベネディクト会の修道院を建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。1000年近くの間、巡礼地となった。しかしフランス革命で修道院制度が廃止されたため、モン・サンミッシェルは監獄として使用されるようになる。モン・サン・ミシェルはいまだかつて一度も攻略されたことのない城砦といわれている。1254年にルイ9世が島全体を城砦化して、百年戦争、カルヴァン派の攻撃にも耐え守り抜いた堅固な城砦である。( keyword;Mont Saint Michel,Mont Tombe,RichardⅠ,duc de Normandie,Benediccti )
桂離宮は、京都の西南、桂川の西岸に位置する。ここは、急峻な谷あいを過ぎて嵐山に出た保津川が大堰川と名を変え、さらに桂川となって緩やかに蛇行しながら川幅を広げて南下するところである。桂川のほとりにあるこの地は、平安時代から名高い行楽地であったが、慶長の末年に八条宮領となると、智仁(ともひと)親王によって別荘が造られた。八条宮というのは豊臣秀吉が一時智仁親王を猶子に迎えたが、淀の方に鶴松が生まれたので養子わとりやめ、親王のために創立した宮家であった。八条宮智仁親王は幼少の頃よりすぐれた文才があり、早くから細川幽斎に歌道を学び、当代の宮廷を代表する文化人に成長した。工事は1620年から数年のうちに進められ、さらに智忠親王の代になって、寛永の末年から新書院などの増築があり、かつ後水尾天皇を迎えるために整備された。その後も長く宮家のものとなっていたが、1881年絶家によって、2年後宮内省に移され、離宮となった。
桂離宮は敷地約45000㎡、そのうちには桂川の水をひき入れた大きな池があり、建築物はその周囲や島に点在する。主屋である書院は池の西にあり、中書院、新書院と雁行している。中門から古書院御輿寄りにいたる中庭には、苔の中に敷石が直線的に配され、離宮中での見どころの一つである。古書院と中書院は最初の造営のときのもので、ほとんど装飾のない簡素な書院で、数奇屋造りの手法をとりながら端正さを失っていない。観月のための竹簀子露台、中書院奥の庭をみる広い緑と腰掛など、庭園に密着した意匠がみられる。新書院は増築部で、桂棚といわれる複雑な形のたなは名高いが、意匠的には前2者に及ばない。しかし床の高い清素な外観は古書院などとの調和をよく保っている。1933年来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは、「日本建築の最高作」と絶賛している。なおタウトは桂離宮を作ったのは小堀遠州としているが、現在の研究では小堀遠州が直接関わったことはないとされている。
カーテン(curtain)の語源は、ラテン語の「cortina」から変化したものといわれるが、古くは古代エジプト時代に遡ると考えられる。現在のような窓の遮光に使用するカーテンはいつ頃から普及したのか明らかではないが、おそらくルネサンス時代からあったと考えられる。カーテンが日本に伝来したのは江戸時代のことで、長崎の出島に外国公館が出来たころと思われるが、その後、明治に至るまで日本人がカーテンを使用することがほとんどなかったのは、日本古来の生活様式になじまなかったからである。明治になって西洋化が進み、次第に日本人の生活にもカーテンが浸透してくる。尾崎紅葉の「金色夜叉」に「尽く窓帷を引きたる十畳の間」とある。「窓帷」とは「カーテン」のことである。
日本では外来語「カーテン」がそのまま使用されるが、西洋諸国では、それぞれの歴史があるため、カーテンの単語は大きく異なっている。
curtain カートン 英語
Vorhang フォーアハング ドイツ語
rideau リドー フランス語
tenda テンダ イタリア語
cortina コルティーナ スペイン語
zaclona ザーツロナ チェコ語
zaslona ポーランド語
aulaea アウラエア ラテン語
アウライアー ギリシヤ語
シトールイ ロシア語
コトゥン 韓国語
man cua マン クーア ベトナム語
Maanh マーン タイ語
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