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2016年12月 7日 (水)

東京タワーの名付け親は11歳の女の子だった

Photo_3   1958年のこの日、東京タワーの公開がはじまる。東京タワーの正式名称は日本電波塔(にっぽんでんぱとう)。愛称は1958年10月9日に開かれた審査会で決定した。86,269通の応募のうち、一番多かった愛称は「昭和塔」で、続いて「日本塔」「平和塔」だった。審査委員のひとり徳川夢声が「ピタリと表しているのは東京タワーを置いて他にありませんな」と推挙し、その結果「東京タワー」に決定した。「東京タワー」と応募した223通のうち、抽選で当選した神奈川県の小学5年生、高田幸子さんに賞金10万円が贈られた。(12月7日)

2016年6月25日 (土)

東京タワーは戦車で出来ている

Photo_7    大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米国・ソ連の対立を背景として、1950年のこの日衝突し、国際紛争にまで発展、いわゆる朝鮮戦争と呼ばれ、わが国は特需が増大する。10月8日、国連軍が38度線を突破。1953年7月休戦。その5年後の1958年に建てられた高さ332.6メートルの東京タワー。この東京タワーは、実は米軍の戦車で出来ている。朝鮮戦争が終わって不要になった米軍の戦車は日本の民間業者に払い下げられていた。当時、日本には、基幹産業である高炉会社はまだ十分に育っておらず、戦車のスクラップは貴重である。そこで質のよい戦車90台の精鉄が3000トン分が使用された。それは東京タワーのおよそ3分の1を占めているといわれる。(6月25日、参考:生方幸夫「解体屋の戦後史」)

2016年2月 6日 (土)

アルハンブラ宮殿

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Dscn0046   アルハンブラ宮殿の創建はナスル朝グラナダ王国ムハンマド1世(在位1232-1273)である。ムハンマッド7世(在位1392-1408)のとき漸く全体が完成した。したがってアルハンブラ宮殿は13~14世紀にかけて造営された城郭宮殿であると共に、グラナダ王国全盛時代の遺構でもある。アルハンブラとはアラビア語で「赤い城」を意味する。1377年頃の着工の獅子の中庭(パティオ)が有名である。12頭の獅子の口頭から泉水が流出する仕掛けになっている。天井やアーチは繊細な装飾模様(アラベスク)で覆われている。1492年、グラナダはついにキリスト教徒に攻略され、ナスル朝最後の王ボアブディル(1460-1527)は落城の途中、宮殿を振り返って惜別の涙を流したという。(Alhambra,Granada,Boabdil)

2016年1月15日 (金)

カーテンの話

   カーテン(curtain)の語源は、ラテン語の「cortina」から変化したものといわれるが、古くは古代エジプト時代に遡ると考えられる。現在のような窓の遮光に使用するカーテンはいつ頃から普及したのか明らかではないが、おそらくルネサンス時代からあったと考えられる。カーテンが日本に伝来したのは江戸時代のことで、長崎の出島に外国公館が出来たころと思われるが、その後、明治に至るまで日本人がカーテンを使用することがほとんどなかったのは、日本古来の生活様式になじまなかったからである。明治になって西洋化が進み、次第に日本人の生活にもカーテンが浸透してくる。尾崎紅葉の「金色夜叉」に「尽く窓帷を引きたる十畳の間」とある。「窓帷」とは「カーテン」のことである。

  日本では外来語「カーテン」がそのまま使用されるが、西洋諸国では、それぞれの歴史があるため、カーテンの単語は大きく異なっている。

curtain  カートン  英語

Vorhang  フォーアハング ドイツ語

rideau       リドー  フランス語

tenda        テンダ  イタリア語

cortina      コルティーナ  スペイン語

zaclona     ザーツロナ   チェコ語

zaslona                           ポーランド語

aulaea       アウラエア   ラテン語

                アウライアー ギリシヤ語

        シトールイ   ロシア語

         コトゥン     韓国語 

man cua     マン クーア  ベトナム語

Maanh    マーン      タイ語

 

2015年9月 5日 (土)

パルテノン神殿は白くなかった!?

996220044decda90  ギリシアのアクロポリスの丘に立つパルテノン神殿はアテネ市の守護神であるアテナ女神を祀るだけでなく、市民たち自身の記念建造物でもあった。前480年、旧堂はペルシア軍によつて破壊されたが、復興事業により、前447年から建設が始まり、前438年に完成した。現在は白亜の神殿であるが、かつて神殿の上層のモニュメントには色鮮やかな彩色がほどこされ、装飾などは前431年まで続けられた。現在のCGで復元画像が公開されている。

  昭和34年夏、辻邦生は初めてアテネのパルテノン神殿を見る。それを見た瞬間、辻は文学的啓示を与えられたという。「秩序をつくり上げることが芸術の目的で、日常のぼくたちの現実は、いわば秩序に対する混沌としたもの、形はあるし、刻々と偶然の様々な要素によって変わってはいくけれども、最終的にはそれを乗り越えてそれを秩序づけることが芸術の仕事であり、それが美というもののあり方なんだということを、説明抜きに、そのときの直感で感じました」(「言葉の箱」)とある。西洋美術の根源にふれた辻は、美の秩序を意識したとき、突如小説が書けるようになった。(Parthenon、世界史)

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2015年7月 8日 (水)

白の文明

  中国の青銅器や日本の縄文土器をみると、たいてい文様が施している。なぜ器物に装飾をするのであろうか。人間は、文様の美しさを発見すると、文様の上に文様を重ねて、文様過多の状態に陥っていく。これは、ひとたび文様の美を知ると、文様の無い空虚さに不安や恐怖心を覚えるからだと考えられている。これを「空白の恐怖(horror vacui)」と呼んでいる。空白を嫌う古代人の心理は、器物に文様をつけるという、激しい表現意欲へと発展していく。

9db327ba    これまで古代ギリシア文明は真白い大理石の彫刻や白亜の神殿に象徴されるように「白い文明」と言われてきた。これは18世紀ドイツの美術史家ヴィンケルマンの説で、彼はエジプトやメソポタミアとは異なったギリシア芸術の独自性を唱えたのである。ところが近年の研究によると、彫刻や建物が白いのは色が年数を経て剥げ落ちたためであり、本来は極彩色の色彩が施されているものが多いことがわかった。ギリシア文明は純粋な「白の文明」ではなかった。しかし未開社会から文明社会になると白への恐怖心も減少していく。白い教会などはその代表例であろう。人間は物質的に豊かになっていくにつれて、白いものに憧れる傾向が増して来る。20世紀の現代建築やインテリアなどをみると、白が基調になっていることが多くみられる。さらに「白の文明」は進展していくであろう。

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2015年6月20日 (土)

京都名所

Kinkakuji1    年間約5000万人もの観光客が訪れる観光都市京都。人気スポットは、清水寺、嵐山、金閣寺、二条城、銀閣寺、南禅寺、八坂神社、高台寺、平安神宮、嵯峨野、伏見稲荷大社。初めて寺の拝観料をとったのは、清水寺である。

   でも修学旅行といえばやはり金閣と銀閣。国宝指定は、金閣ではなく銀閣である。銀閣寺の観音殿と東求堂は共に国宝指定。金閣は1950年7月2日、僧侶の放火により焼失。現在の建物は1955年に再建されたが、国宝指定は解除された。犯人の林承賢は「金閣寺の優美さを呪い、反感を抑えきれなかった」と動機を語ったが、いまだ不明な部分も多い。林は1955年に出所したが、翌年、26歳の若さで病死している。

2015年5月25日 (月)

東京タワー&スカイツリーだけがタワーではない

  東京タワー、333m。スカイツリー634m。超高層ビルも高い。あべのハルカス300m。横浜ランドマークタワー296m。和歌山県の「ごまさんスカイタワー」は高さ33mと日本一低い。

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  あべのハルカス

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  福岡タワー 234m

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  千葉ポートタワー125.2m 

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  横浜マリンタワー106m

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  五稜郭タワー 98m


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  ごま
さんスカイタワー 33m



2015年5月 1日 (金)

桂離宮

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    桂離宮は、京都の西南、桂川の西岸に位置する。ここは、急峻な谷あいを過ぎて嵐山に出た保津川が大堰川と名を変え、さらに桂川となって緩やかに蛇行しながら川幅を広げて南下するところである。桂川のほとりにあるこの地は、平安時代から名高い行楽地であったが、慶長の末年に八条宮領となると、智仁(ともひと)親王によって別荘が造られた。八条宮智仁親王は早くから細川幽斎に歌道を学び、当代の宮廷を代表する文化人に成長した。工事は1620年から数年のうちに進められ、さらに智忠親王の代になって、寛永の末年から新書院などの増築があり、かつ後水尾天皇を迎えるために整備された。その後も長く宮家のものとなっていたが、1881年絶家によって、2年後宮内省に移され、離宮となった。

  桂離宮は敷地約45000㎡、そのうちには桂川の水をひき入れた大きな池があり、建築物はその周囲や島に点在する。主屋である書院は池の西にあり、中書院、新書院と雁行している。中門から古書院御輿寄りにいたる中庭には、苔の中に敷石が直線的に配され、離宮中での見どころの一つである。古書院と中書院は最初の造営のときのもので、ほとんど装飾のない簡素な書院で、数奇屋造りの手法をとりながら端正さを失っていない。観月のための竹簀子露台、中書院奥の庭をみる広い緑と腰掛など、庭園に密着した意匠がみられる。新書院は増築部で、桂棚といわれる複雑な形のたなは名高いが、意匠的には前2者に及ばない。しかし床の高い清素な外観は古書院などとの調和をよく保っている。1933年来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは、「日本建築の最高作」と絶賛している。

2015年4月28日 (火)

コンクリートの歴史

20080927002211   コンクリートの歴史は古く、これを発明したのはローマ人といわれている。橋や水道橋をつくるにあたっても、コンクリートを使用していた。ローマのコロッセオも壁はレンガ造りだが、壁の内部は砂利を混ぜたコンクリートである(画像)。コンクリートの製法は長い間、忘れ去られていたが、1756年にイギリスの技術者ジョン・スミートンが水硬性石灰を使用したコンクリートを考案した。1824年、ジョセフ・アスプディンがポルトランドセメントを発明し、1840年代初めには実用化されている。Jeseph Aspdin

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