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2024年6月13日 (木)

日本名城めぐりの旅

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   日本の城は、古記録に残る城を含めると、その数3万余りあるともいわれる。慶長20年6月13日(陽暦1615年8月7日)、江戸幕府は一国一城令を布告した。数日のうちに約400の城が壊された。これによって安土桃山時代に3000近くもあった城郭が約170ほどに激減した。また、武家諸法度という法令によって、新築はもちろん櫓や石垣の改築にすら厳しい規制がかかり、城に手が入ることは少なくなった。

   城を地形で区分けすると、山城、水城、平山城、平城と区別される。現在、天守閣、櫓、城門、石垣などが揃っている城となると、数百にすぎない。城郭を中心に家臣団の屋敷と町家が集中し、城下町として発達し、明治以降は近代都市が形成された。

   世界遺産の姫路城の大天守保存修理が全て完了し、一般公開が始まった。あまりにも白すぎて綺麗に見えないというのが正直な感想である。色が落ち着くまで数年はかかりそうだ。おもな名城を北からあげると、五稜郭、松前城、弘前城、盛岡城、仙台城、山形城、会津若松城、松本城、小諸城、岐阜城、犬山城、小谷城、安土城、彦根城、名古屋城、大坂城、明石城、赤穂城、岡山城、広島城、高松城、高知城、松山城、宇和島城、鳥取城、小倉城、熊本城、人吉城、鹿児島城、今帰仁城、中城城、首里城。いつか全国城めぐりの旅をしたいものである。

 

 

2023年12月18日 (月)

東京駅開業(大正3年)

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  6年の歳月をかけた東京駅は、大正3年3月19日、完成し、その年の12月18日に完成式と開業が行われた。設計者は辰野金吾(画像 1854-1919)。鉄骨レンガ、石材造りの3階建て。ルネサンス調建造物として近代西洋建築の頂点を示している。 

931   100年以上の歴史ある東京駅だが、最大の事件といえば、大正10年に起きた原首相の暗殺事件であろう。原敬(1856-1921)は11月4日、中岡艮一により刺殺された。66歳。背後関係はいまだ不明である。

2023年4月28日 (金)

世界遺産アルハンブラ宮殿

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Dscn0046   スペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿。711年のこの日、イスラム教徒のムーア人が、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入。アルハンブラの丘を占領し定住した。創建当時、軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた(現在、宮殿の最も西の部分)。アルハンブラ宮殿が完成したのは、13世紀ナスル朝グラナダ王国ムハンマド1世(在位1232-1273)の時代で、ムハンマド7世(在位1392-1408)のとき漸く全体が完成した。したがってアルハンブラ宮殿は13~14世紀にかけて造営された城郭宮殿であると共に、グラナダ王国全盛時代の遺構でもある。アルハンブラとはアラビア語で「赤い城」を意味する。1377年頃の着工の獅子の中庭(パティオ)が有名である。12頭の獅子の口頭から泉水が流出する仕掛けになっている。天井やアーチは繊細な装飾模様(アラベスク)で覆われている。1492年1月2日、グラナダはついにキリスト教徒に攻略され、ナスル朝最後の王ボアブディル(1460-1527)は落城の途中、宮殿を振り返って惜別の涙を流したという。(Alhambra,Granada,Boabdil、4月28日)

2023年4月11日 (火)

修道院モン・サン・ミッシェル

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   映画「ラストコンサート」がムービープラスで放送していた。フランスのノルマンディにある世界遺産モン・サン・ミッシェルが2人の出会いの舞台である。天国に向かって舞い上がる尖塔はお伽話の城のような建物で、フランスの観光地としてトップクラスの人気スポットである。しかし50年前までは海外からの観光客はまだ少なかった。モーパッサンは「レースのように繊細にカットされた、みごとなカメオ細工のごとき巨大な宝石」と評した。サン・マロ湾上に浮かぶ小島モン・サン・ミシェルに築かれた修道院。聖堂の高さは約150m。城郭は満潮時には海に浮かび、干潮時には陸地と繋がっている。この島は、もともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれていたが、先住民ケルト族の間に信じられている海の墓場であったことを示す。708年、アヴランシュ司教オベールが礼拝堂を建てたのが始まりである。966年にはノルマンディー公リシャール1世(在位942-996)がベネディクト会の修道院を建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。1000年近くの間、巡礼地となった。しかしフランス革命で修道院制度が廃止されたため、モン・サンミッシェルは監獄として使用されるようになる。モン・サン・ミシェルはいまだかつて一度も攻略されたことのない城砦といわれている。1254年にルイ9世が島全体を城砦化して、百年戦争、カルヴァン派の攻撃にも耐え守り抜いた堅固な城砦である。( keyword;Mont Saint Michel,Mont Tombe,RichardⅠ,duc de Normandie,Benediccti )

2022年10月24日 (月)

秋の京都名所観光

Kinkakuji1    年間約5000万人もの観光客が訪れる観光都市京都。旅行割引が開始され、紅葉シーズン、秋の京都は魅力がいっぱい。人気スポットは、清水寺、嵐山、祇園、鞍馬、貴船、八坂神社、鴨川、金閣寺、二条城、銀閣寺、南禅寺、相国寺、天竜寺、建仁寺、龍安寺、高台寺、平安神宮、嵯峨野、伏見稲荷大社。初めて寺の拝観料をとったのは、清水寺である。京都五山では1386年に南禅寺をその上位とした。でも修学旅行といえばやはり金閣と銀閣。国宝指定は、金閣ではなく銀閣である。銀閣寺の観音殿と東求堂は共に国宝指定。金閣は1950年7月2日、僧侶の放火により焼失。現在の建物は1955年に再建されたが、国宝指定は解除された。犯人の林承賢は「金閣寺の優美さを呪い、反感を抑えきれなかった」と動機を語ったが、いまだ不明な部分も多い。林は1955年に出所したが、翌年、26歳の若さで病死している。

2019年11月 6日 (水)

桂離宮と八条宮智仁親王

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    桂離宮は、京都の西南、桂川の西岸に位置する。ここは、急峻な谷あいを過ぎて嵐山に出た保津川が大堰川と名を変え、さらに桂川となって緩やかに蛇行しながら川幅を広げて南下するところである。桂川のほとりにあるこの地は、平安時代から名高い行楽地であったが、慶長の末年に八条宮領となると、智仁(ともひと)親王によって別荘が造られた。八条宮というのは豊臣秀吉が一時智仁親王を猶子に迎えたが、淀の方に鶴松が生まれたので養子わとりやめ、親王のために創立した宮家であった。八条宮智仁親王は幼少の頃よりすぐれた文才があり、早くから細川幽斎に歌道を学び、当代の宮廷を代表する文化人に成長した。工事は1620年から数年のうちに進められ、さらに智忠親王の代になって、寛永の末年から新書院などの増築があり、かつ後水尾天皇を迎えるために整備された。その後も長く宮家のものとなっていたが、1881年絶家によって、2年後宮内省に移され、離宮となった。

  桂離宮は敷地約45000㎡、そのうちには桂川の水をひき入れた大きな池があり、建築物はその周囲や島に点在する。主屋である書院は池の西にあり、中書院、新書院と雁行している。中門から古書院御輿寄りにいたる中庭には、苔の中に敷石が直線的に配され、離宮中での見どころの一つである。古書院と中書院は最初の造営のときのもので、ほとんど装飾のない簡素な書院で、数奇屋造りの手法をとりながら端正さを失っていない。観月のための竹簀子露台、中書院奥の庭をみる広い緑と腰掛など、庭園に密着した意匠がみられる。新書院は増築部で、桂棚といわれる複雑な形のたなは名高いが、意匠的には前2者に及ばない。しかし床の高い清素な外観は古書院などとの調和をよく保っている。1933年来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは、「日本建築の最高作」と絶賛している。なおタウトは桂離宮を作ったのは小堀遠州としているが、現在の研究では小堀遠州が直接関わったことはないとされている。

 

 

 

2016年12月 7日 (水)

東京タワーの名付け親は11歳の女の子だった

Photo_3   1958年のこの日、東京タワーの公開がはじまる。東京タワーの正式名称は日本電波塔(にっぽんでんぱとう)。愛称は1958年10月9日に開かれた審査会で決定した。86,269通の応募のうち、一番多かった愛称は「昭和塔」で、続いて「日本塔」「平和塔」だった。審査委員のひとり徳川夢声が「ピタリと表しているのは東京タワーを置いて他にありませんな」と推挙し、その結果「東京タワー」に決定した。「東京タワー」と応募した223通のうち、抽選で当選した神奈川県の小学5年生、高田幸子さんに賞金10万円が贈られた。(12月7日)

2016年1月15日 (金)

カーテンの話

   カーテン(curtain)の語源は、ラテン語の「cortina」から変化したものといわれるが、古くは古代エジプト時代に遡ると考えられる。現在のような窓の遮光に使用するカーテンはいつ頃から普及したのか明らかではないが、おそらくルネサンス時代からあったと考えられる。カーテンが日本に伝来したのは江戸時代のことで、長崎の出島に外国公館が出来たころと思われるが、その後、明治に至るまで日本人がカーテンを使用することがほとんどなかったのは、日本古来の生活様式になじまなかったからである。明治になって西洋化が進み、次第に日本人の生活にもカーテンが浸透してくる。尾崎紅葉の「金色夜叉」に「尽く窓帷を引きたる十畳の間」とある。「窓帷」とは「カーテン」のことである。

  日本では外来語「カーテン」がそのまま使用されるが、西洋諸国では、それぞれの歴史があるため、カーテンの単語は大きく異なっている。

curtain  カートン  英語

Vorhang  フォーアハング ドイツ語

rideau       リドー  フランス語

tenda        テンダ  イタリア語

cortina      コルティーナ  スペイン語

zaclona     ザーツロナ   チェコ語

zaslona                           ポーランド語

aulaea       アウラエア   ラテン語

                アウライアー ギリシヤ語

        シトールイ   ロシア語

         コトゥン     韓国語 

man cua     マン クーア  ベトナム語

Maanh    マーン      タイ語

 

2015年9月 5日 (土)

パルテノン神殿は白くなかった!?

996220044decda90  ギリシアのアクロポリスの丘に立つパルテノン神殿はアテネ市の守護神であるアテナ女神を祀るだけでなく、市民たち自身の記念建造物でもあった。前480年、旧堂はペルシア軍によつて破壊されたが、復興事業により、前447年から建設が始まり、前438年に完成した。現在は白亜の神殿であるが、かつて神殿の上層のモニュメントには色鮮やかな彩色がほどこされ、装飾などは前431年まで続けられた。現在のCGで復元画像が公開されている。

 

  昭和34年夏、辻邦生は初めてアテネのパルテノン神殿を見る。それを見た瞬間、辻は文学的啓示を与えられたという。「秩序をつくり上げることが芸術の目的で、日常のぼくたちの現実は、いわば秩序に対する混沌としたもの、形はあるし、刻々と偶然の様々な要素によって変わってはいくけれども、最終的にはそれを乗り越えてそれを秩序づけることが芸術の仕事であり、それが美というもののあり方なんだということを、説明抜きに、そのときの直感で感じました」(「言葉の箱」)とある。西洋美術の根源にふれた辻は、美の秩序を意識したとき、突如小説が書けるようになった。(Parthenon、世界史)

 

Parthenon_reconstruction_painted Parthenon_east_pediment_reconstruct

2015年7月 8日 (水)

白の文明

  中国の青銅器や日本の縄文土器をみると、たいてい文様が施している。なぜ器物に装飾をするのであろうか。人間は、文様の美しさを発見すると、文様の上に文様を重ねて、文様過多の状態に陥っていく。これは、ひとたび文様の美を知ると、文様の無い空虚さに不安や恐怖心を覚えるからだと考えられている。これを「空白の恐怖(horror vacui)」と呼んでいる。空白を嫌う古代人の心理は、器物に文様をつけるという、激しい表現意欲へと発展していく。

9db327ba    これまで古代ギリシア文明は真白い大理石の彫刻や白亜の神殿に象徴されるように「白い文明」と言われてきた。これは18世紀ドイツの美術史家ヴィンケルマンの説で、彼はエジプトやメソポタミアとは異なったギリシア芸術の独自性を唱えたのである。ところが近年の研究によると、彫刻や建物が白いのは色が年数を経て剥げ落ちたためであり、本来は極彩色の色彩が施されているものが多いことがわかった。ギリシア文明は純粋な「白の文明」ではなかった。しかし未開社会から文明社会になると白への恐怖心も減少していく。白い教会などはその代表例であろう。人間は物質的に豊かになっていくにつれて、白いものに憧れる傾向が増して来る。20世紀の現代建築やインテリアなどをみると、白が基調になっていることが多くみられる。さらに「白の文明」は進展していくであろう。

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