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2023年9月29日 (金)

洋菓子の日

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 トトロのシュークリーム

    フランスではサン・ミシェル(大天使ミカエル)が菓子職人の守護聖人となっており、その祝日が9月29日であることから、「洋菓子の日」が定められた。洋菓子の定番といえばシュークリーム。関西の者は駅構内の売店にあるヒロタを思い浮かべるが、東京では「しろたえ」(港区赤坂)が人気だそうだ。ほかにも店ごとに工夫されているらしい。「白髭のシュークリーム工房」にはトトロの形をした可愛いシュークリームが売られている。

     シュークリームは明治のころからあったらしく、フランス語のシュ(chu)と英語のクリーム(cream)からなる和製外来語。シュとはキャベツのこと。寺田寅彦の随筆に鍋町の風月の2階の喫茶室に「ミルクのはいったおまんじゅう」という言葉が見える。(「銀座アルプス」昭和8年)寺田はハイカラでモダンな人だった。ミカエルマスMichaelmas

2023年7月16日 (日)

最初の駅弁は握り飯だった

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    一般に日本最初の駅弁は明治18年7月16日、旅館「白木屋」の嘉平が宇都宮駅で竹皮に包んだ梅干し入りの握り飯を5銭で販売したのが始まりとされ、現在この日が「駅弁記念日」と制定されている。しかし最初の駅弁は他にも梅田駅(明治10年)、神戸駅(明治10年)、敦賀駅(明治15年)、上野駅(明治15年)、高崎駅(明治17年)など諸説あるようだ。ちなみに現在のような折り詰め「幕の内駅弁」は明治22年に「まねき食品」の竹田木八(画像 1851-1903)の発売したものが最初とされる。当初は列車が少なく、一緒に始めた友人は撤退したが、日清・日露戦争時には軍隊弁当がよく売れ、現「まねき食品」を創業した。(7月16日)

 

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  竹田木八

2023年7月10日 (月)

江戸っ子と納豆

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 本日は納豆の日。よく煮た大豆を納豆菌で発酵させた食品が納豆である。納豆を入れた縄文土器が出土しており、日本人が古くから大豆を蛋白源として利用していたことがわかる。縄文人が何と呼んでいたか明らかではないが、後漢の中国では「豉(し)」と文献にある。平安朝の「和名抄」に「クキ」と見える。平安時代、寺院の納所(納屋)に置いていた豆が発酵して美味しかったので、売り出され、それが「納所の豆」と言われ納豆という語が生まれた。もともと納豆がよく食べるようになったのは山国である京都の人が最初であり、昔から納豆が作られ食されてきたが、江戸時代になって江戸で納豆が大流行した。早食いものが江戸っ子の気性に合っていたらしい。紀州田辺藩の原田某が書き記した随筆「江戸自慢」(安政年間成立か)の中で、「江戸に烏の鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし」とある。このように江戸の町では、毎朝、夜明けと共に納豆売りが長屋の隅々までやってきたのである。納豆といえば水戸の名産が有名だが、意外と新しく明治になってからのことである。笹沼清左衛門が明治22年、天狗納豆を水戸駅で売り始め評判となった。

 

 

 

 

2023年6月18日 (日)

おにぎりの日

Onigiri_01  本日は「おにぎりの日」。「おにぎり」は英語で、rice ball。おにぎりと思われる米粒の塊が弥生時代の遺跡から発見されている。おにぎりの直接の起源は平安時代の「頓食」(とんじき)という食べ物だと考えられている。この頃のおにぎりは楕円形のかなり大型で、使われているのは蒸したもち米であった。鎌倉時代の末期頃には、うるち米が使われるようになった。おにぎりに海苔が巻かれ、現在のような形になったのは、そんなに古いことではなく、江戸時代中期と言われている。加工された四角い板海苔が「浅草海苔」などの名称で一般に普及したのは元禄の頃である。海苔は、栄養が豊富でかつ、手にご飯がつかないという便利さも相まってむ、おにぎりに海苔を巻く習慣が定着した。今や国民食となった「おにぎり」だが、もっとも一番好まれる具は何か?ある調査によると、1位が鮭で、以下、ツナマヨ、梅干し、明太子、昆布、たらこ、おかか、と続く。一般的に高菜は人気がないが、新垣結衣、ガッキーの好物は意外にも高菜ということである。(6月18日)

 

 

 

 

 

 

2023年6月 1日 (木)

チューインガムの日

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 ジョン・カーティス

 

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ウィリアム・リグレー・ジュニア

2023年5月20日 (土)

お子様ランチの謎

 ハンバーグやスパゲッティ、コロッケなど、子どもに人気なメニューが1枚の皿に載った「お子様ランチ」。NHK番組「チコちゃんに叱られる」では「なんでお子様ランチには旗が立っているのか?」という疑問。梅花女子大学で日本の食文化に詳しい東四栁祥子教授によると、お子様ランチが誕生したのは昭和になってからだという。昭和5年12月1日、東京日本橋にある三越デパートの食堂部主任だった安藤太郎(当時23歳)が数種類の人気メニューを揃えた子供用定食を考案し販売したのが始まりという。値段は30銭。世界恐慌の暗い時代でもあり、子供には楽しい気持ちになってもらおうと開発したという。ではなぜケチャップライスのてっぺんに爪楊枝と紙でつくられた小さな旗(日章旗など)が立てられたのか。番組では安藤太郎さんが登山が好きで富士山をイメージし、ごはんを山に見立てて旗を立てたと考えている。安藤さんは、その後どのように人生を歩んだのか、戦地へ行ったのか、戦後も生き抜いたのか、当時の記録や写真が一切残っておらず(おそらく空襲で焼失したのであろう)、一言でいえば「誰にもわからない」という事なのです。(参考文献:「文化教養講座 日本はじめて物語デパート事始め・大食堂とお子様ランチの始まり」渡邊洋一 歴史研究60-5、2018年5月)

 

2023年5月10日 (水)

羊羹の歴史

Mizuyookan   羊羹はもともと中国のもので羊肝と書き、羊の肉を使った羹(あつもの)だった。それが羊の肝の色をした赤小豆と白砂糖でつくった蒸し餅のようなものに変わる。鎌倉・室町時代に、留学した禅僧により禅宗文化が渡来し、この羊肝餅が中国から日本に入った。獣肉食を喜ばない日本では、羊の肝ではいけない。そこで中国語句にある「羊羹」という料理名を用いて、点心の1つとしてつくられたのが羊羹である。肝(カン)に近いオンである羹(キョウ)またはカウだが、カウがカンと音転する。

 

  羊羹は初め蒸し羊羹であった。赤小豆の粉、砂糖、葛の粉にもち米の粉を練り合わせて、木枠に入れて蒸したものである。京都で煉羊羹ができたのは天正17年(1589年)で伏見の駿河屋の岡本善右衛門が小豆と寒天と砂糖を原料に、練り羊羹をつくったといわれている。つづいて、寛永3年に金沢で遠州流茶人金物下屋忠左衛門が初めて練羊羹をつくった。

2023年4月28日 (金)

粽(ちまき)と柏餅

Img_997653_34974248_2     なぜ「こどもの日」(端午の節句)に粽や柏餅を食べるのか。むかし関西では粽、関東では柏餅を食べるという傾向があった。

    粽や柏餅は葉っぱに意味があります。そもそも柏餅のような葉っぱに包んだ食べ物は、弥生時代や古墳時代にかけて、田植えをする女性たちが外で働きながら食べる携帯食として葉っぱで包んだものが始まりです。

次にこどもの日ですが、さの由来は平安時代に中国から端午の節句が伝来したとき粽が伝えられた。粽は中国の戦国時代の詩人、屈原の霊を慰めたのが由来とされる。汨羅(べきら)という河に身を投げた屈原が、魚に食べられないように、楚の人々が小船の上から供物を投げ入れて弔ったのがはじまり。ある日、屈原があらわれて「米を龍にとられてしまうから、今後は楝樹(れんじゅ)の葉でもち米を包んで、色糸で結んでいただきたい。この2つは龍が嫌うものだから」といった。これが粽のはじまりだといわれる。(「続斉諧記」)

端午の節句の厄除け行事が、日本では菖蒲の葉を軒先に飾ったりして邪気を払った。これが戦国時代になると菖蒲が「尚武」または「勝負」の響きに似ていることから男子の出生や成長を祝う行事に変化した。となると健康な男子を生むためにはお母さんが健康であることが、まず第一になってくるので、田植えの季節に古くから食べられてきた柏の葉で巻かれたお餅を食べられるようになった。柏餅の柏は昔から神聖な木とされていたことや、子孫繁栄に結びつけ、縁起のいい食べ物となったということである。

2023年4月12日 (水)

パンの歴史

Img_0735_3  「パンさえあれば、たいていの悲しみには堪えられる」セルバンテス

  ロシアとウクライナは小麦の主産地であるが、ウクライナ侵攻で世界の小麦供給に悪影響を及ぼしている。本日は「パンの日」。 日本語パン pan は、ポルトガル語 pao から来ている。1600年ごろ、長崎に来たポルトガル人が、その製法を教えたのである。ところが、日本は米、大麦、アワ、ヒエなどを、粒のままで煮て食べる粒食民族だったため、小麦粉で作るパンは、あまり口にあわなかったとみえ、それほど普及しなかった。1842年4月12日、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを作った。これが日本で初めて焼かれたパンと言われている。明治になっても、どちらかというと菓子パンとして発達したのがパンの歴史である。アンパンを発明したり、ジャムパンやクリームパンなどがさかんに作られ、おやつがわりとして食べられていた。

 

Img_3939    日本の家庭でパンを食べるようになったのは、1900年以降で、文化人が好んで洋食として取り入れたからである。志賀直哉は大正時代末期からすでにパン、バター、牛乳という朝食スタイルだった。一般大衆がパン食になるのは、学校給食が普及した戦後からである。今では、あんパン、ジャムパンといった菓子パンからホットドック、クロワッサンやマカロンといったスイーツの種類も豊富になった。最近は炭火であぶったチョリソーを、半分に切ったフランスパンにソーセージをはさんだアルゼンチンのチョリパンが日本でも食べられる。

 

1egyptbreadmakinggranger     世界でパンを初めて食べだしたのは古代エジプト人である。6000年前ナイル流域に定着しだしたころから、ひたすらパンを主食にしてきた。パンつくりは女の仕事で、そのころ「パンをふくらます技術」は秘中の秘としてエジプト人の間に守られていたが、イオニアを経てギリシアへ、さらにローマへ伝わった。ローマ時代にはパン屋やパンの工場もできていたことが、ポンペイの遺跡発掘で、わかっている。その後、ルネサンスの勃興とともにその技術は向上し各国に広まったが、フランスにおいて特に著しい発達を遂げた。一方、イギリスには古代ローマから伝えられたものが山高の独自の形態を生み出し、現在のアメリカのパンの元祖となり、中央アジアに始まるライ麦パンはロシア・ドイツなどで発展した。(choripan)

2023年3月 5日 (日)

江戸時代、日本人は白菜を知らなかった!?

  たっぷりの白菜と厚揚げ。淡泊で特有の甘みのある白菜料理はとても簡単で美味しい。白菜の鍋ものは日本の家庭料理の定番だろう。ところがこの白菜の日本進出は意外に新しい。実は、最初に種が持ち込まれたのは、はるか昔。しかし、このときは、アブラナ科のほかの野菜、大根や小松菜などと交雑しやすいため栽培がうまくいかず、定着しなかった。そのご、日清・日露戦争に従軍した兵士が種を持ち帰り、中国から種を輸入しながら日本に根づいていったという説が優勢である。中国語の「パイツァイ(白菜)」をそのまま日本読みにしたのがハクサイである。

 日露戦争が始まったのが明治37年なので、江戸時代や明治初期には日本で白菜は食べられていなかっのである。当然、江戸時代の鍋料理には白菜は入っていない。もちろん江戸時代の白菜漬けもありえない。一般的に食べられていたわけではないが、洋野菜とされているキャベツでさえ、江戸時代に日本で栽培されていたという。それに比べると、白菜は意外に新参者の野菜だったのである。

 

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