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2008年5月16日 (金)

美しさはつかのま

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 ティツィアーノ 「聖愛と俗愛」 ボルゲーゼ美術館

    あでやかさは偽りであり。美しさはつかのまである。しかし主を畏れる女は、ほめたたえられる。

                       箴言31-30

   井上ひさしは、ある時、大辞典をひもといて、男についての言い方を調べた。すると、男子、殿方、紳士、旦那、偉丈夫、快男児、猛者、野郎、勇者、烈士、志士、悪夫、健児、益荒男、壮漢など230種あった。ところが、女のほうを調べて卒倒せんばかりに驚いた。なんと700種以上もの言い方があったという。貞女、淑女、聖女、悪女、姐御、色女、淫婦、采女、姥桜、石女、大年増、おぼこ、女盛り、佳人、麗人、看板娘、貴婦人、閨秀、紅一点、小娘、女子、処女、女性、女房、女流、手弱女、童女、刀自、女人、妖婦、令嬢、毒婦、獏連、白鬼、すれっからし、魔性の女、あげまん、さげまん、慰安婦、酌婦、グラマー、ヴァンプ、細君、柳腰、御侠、嫋やか、などなど。彼の結論は、鬼女、美姫、悪女など男の三倍もあるのは、女は男の三倍化けるからだというものであった。つまり聖書の箴言では「女性の見かけの美しさは偽りで、たとえ美しくとも、長続きはしない」と忠告している。誰にそう言っているかというと、女性にも、男性にもである。女性に対しては、「若いときの華やかさはやがてすたれるものであり、また、美しく着飾ったところで、地は変わるものでないからすぐに現れてしまう。それよりも神様を信じ、心を清められた女性になりなさい」と言っているのある。また、男性には、「外見の美しさに心を奪われるのではなく、神様を信じて、心の清められた女性に目を向けなさい、そういう人を探しなさい。そのような女性こそ、永遠にかわらない美しさをもっているのですよ」と教えているのである。

2008年5月13日 (火)

朝鮮族のブランコ乗り

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    大きなブランコ乗りは朝鮮族の伝統的な遊びである。「春香伝」には試験を控えた夢龍が春の野の中でクネ(ブランコ)を漕いでいる一人の美しい女性、春香を見て恋に落ちる場面がある。夢龍ならずとも華やかなチマの裳裾が風にふわりふわりとふくらみひるがえる様子には胸ときめかす風情があろう。朝鮮では、旧暦4月8日から5月5日までの期間、女性が特設の長いブランコを楽しむ風習(クネトゥィギ)がある。大きな木の枝に縄を張り、足板を付けて作る。縄の長さは相当に長い。村の広場などで、どこまで高く漕げるか、女性たちは競技をしていたという。

    日本でもブランコは「由佐波利」(ゆさはり)とか漢語で「鞦韆」とも呼ばれ古くからあった。しかしブランコは子どもが楽しむもので朝鮮のような長いブランコはなかった。語源はポルトガル語であるといわれる。ブランコの起源については明らかでない。

2008年5月11日 (日)

タンクロー飴の謎

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 お母さん、タンクロー飴、買って頂戴!

   阪本牙城(1895-1973)の漫画「タンクタンクロー」は戦前に子供だった方は御存知かと思う。チョンマゲ頭の豪傑でボーリングの球のような胴体をしている。そして胴体の8つの穴の中から大砲、日本刀、ピストルなど何んでも出てくる。プロペラを出して空を飛ぶこともできる。ケペルは実際に漫画本を読んだ記憶はない。昭和9年に雑誌に連載され、単行本になったのは昭和11年である。豪傑物語で悪人を退治するので戦時中も盛んに読まれたと思う。戦後、GHQの指示で発禁になったかどうかは定かではない。ともかく確実に言えることは、戦前に販売されていたタンクロー飴は戦後もかなり経つまでお菓子屋さんで販売されていたことである。ケペルが幼稚園にあがる前、昭和33年頃、駄菓子屋ではなくて、市場のお菓子屋で母に買ってもらっていた。タンクローに因んで黒くて丸い形の飴だった。工場で大量生産されたもので、おそらく全国的に販売されていたであろう。サイトで調べたが、タンクロー飴の存在したことは確認できたが、販売元など実体を明確にするには至らなかった。おそらく漫画キャラクターとしては、のらくろ以上に長い生命力(推定20年間くらい)を持っていた商品であろう。母の日で、ふと幼い頃を思い出したのであろうか。

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   「昭和日本史11」(暁教育図書)を見ていたら、昭和10年代の菓子類に「タンクロー飴」が載っていた。(画像下段左)ケペルが見た戦後の商品とほぼ同様である。販売元は拡大して文字を読もう試みたが汚れで判読できなかった。

2008年5月 4日 (日)

パチンコ物語

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来日のジュリアーノ・ジェンマもパチンコ

   むかし長門勇の「雲をつかむ男」(昭和39年)を見たおぼえがある。終戦直後の名古屋でパチンコで大もうけして、東京や大阪の繁華街にパチンコのチェーン店を経営する男のドラマだった。高度経済成長期には単純なサクセスストーリーが好まれた。ともかくパチンコの発祥地は名古屋というイメージは強かった。

   日本パチンコ史は大正期に舶来からの輸入品から始まる。大正9年に大阪のメーカーOS富貴家が、シカゴから輸入した模型のもの(現在のスマートボールのようなもの)からパチパチというものを考案した。当時は露店でおもに行なわれ、これを金沢の歳田弥一が図案化し、現在のパチンコに近いものにした。「パチンコ」という名称となったのは昭和7年である。昭和10年、1銭パチンコが禁止され、そのため昭和12年に名古屋の藤井文一が鋼球式(現在の11ミリのパチンコ玉)を考案する。景品交換もこのころ普及する。しかし、太平洋戦争になり、名古屋では昭和17年、1台15円の補償金をもらい一斉に閉店したという記録がある。

   戦後の昭和21年3月、名古屋にささやかな庶民のギャンブルが登場した。この当時のものは「小もの」と称されて、3個とか、5個とかの玉しか出ないものであったが、長崎一男が10個、15個の玉を出すようにした。これが「オールもの」であり、これの量産化を進めたのが「パチンコの神様」正村竹一(1906-1975)である。昭和22年名古屋、昭和23年東京とブームが広がり、やがて連発式、電動パチンコが現われた。そしてチューリップなどの「やくもの」の登場、フィーバー、パチスロなどさまざまな改良工夫がなされ今日に至っている。「パチンコは日本の文化」といわれるほどで、海外から来た著名人もパチンコ店をのぞく人は多い。

    大阪府は金属製品工業で全国一の生産額を誇っている。金属製品には多種多様なものがあるが、大東市は「パチンコ玉」の生産で全国一となっている。群馬県桐生市はパチンコ3大メーカーの本社があり、パチンコ関連工業のまちの一つである。

2008年5月 1日 (木)

いなかの四季・夏

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 ならぶ菅笠 涼しいこえで

 歌ひながらに植え行く早苗

 ながい夏の日いつしか暮れて

 植える手先に月かげ動く

 かへる道道あと見かへれば

 葉末葉末に夜つゆが光る

    文部省小学唱歌「いなかの四季」は明治43年、「尋常小学読本唱歌」にある。作詞者の堀沢周安(1869ー1941)は中学校の国語教師だった。「いなかの四季」は一番から四番まであるが、掲載したのは二番の夏の情景を歌ったものである。

   本日は八十八夜。立春から数えて88日めが「八十八夜」。「夏も近づく八十八夜」とはよく言ったもので、全国各地では夏日になっている。

   昔から、暖かくなってきた後で、急に気温が低下して発生する霜のことを「別れ霜」といった。この晩霜は八十八夜以後はあまり起こらないので、「八十八夜の別れ霜」という言葉がある。

2008年4月 8日 (火)

サクラの語源

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         大池の桜と筑波山(茨城県)

    しとしと降る春雨に満開の桜も散ってしまった。でも北国ではこれからが本番を迎える。いつの日か桜前線を追いかけて旅してみたい。

    桜の名所といえば、一目千本とうたわれた吉野山が古来から名高いが、嵐山、御室仁和寺、醍醐寺、石山寺、多武峰など京都に近い古くからの名所は多い。だが日本の桜は北は北海道から南は沖縄にいたるまで、各地にそれぞれの野生種があって春の盛りを告げている。今日の朝日新聞夕刊によれば、桜の名所の人気ランキングが掲載している。

 1.吉野山(奈良)

 2,千鳥ヶ淵(東京)

 3.嵐山(京都)

 4.弘前公園(青森)

 5.造幣局(大阪)

 6.上野恩賜公園(東京)

 7.高遠城址公園(長野)

 8.仁和寺・御室桜(京都)

 9.新宿御苑(東京)

 10.醍醐寺(京都)

   この投票は朝日新聞の会員サービス「アスパラクラブ」の投票なので都市に偏っているが、この他にも地方にもっと桜の名所が数多くあるだろう。

    サクラ自体の語源は、江戸時代から「古事記」の木花之開耶姫の「さくや」の転訛とされてきたが、大槻文彦は、「麗らかに咲く花」から「咲く」「麗らか」、つまり「咲麗」(サクラ)の名になったと「大言海」で説いている。中村浩(1910-1980)は咲くに、接尾語「ら」がついて成立したと見た。接尾語「ら」は、多数の集まりを示す群(むら)の略とする。咲群(さくむら)からサクラになったという説である。

   ちなみに中村浩博士は食品微生物学が専門で、ウンコを研究し、糞尿博士として知られた。クロレラ研究所を設立。著書に「植物名の由来」「園芸植物名の由来」「糞尿博士・世界漫遊記」がある。

2008年1月26日 (土)

暗窖の裡

    夏目漱石の「それから」に「つい、うとうとする間に、すべての外の意識は、まったく暗窖の裡に降下した」とある。「窖」(こう)とは、深いという意味。「裡」(うち)は「裏」の異体字。「暗窖(あんこう)の裡」とは、暗く深い穴の中、深い穴のような暗部、という意味である。

    「暗窖」を買ったばかりの「広辞苑」で探す。出ていない。明治の新聞小説では使われた言葉である。少し教養ある読者であればみんな読めたであろう。だがケペルも「暗窖」を「あんこう」と読めずに「あんこく」と読んでいた。「あんこく」は誤読である。日常生活にはほとんどみかけない熟語だが、漢字検定には出題されるかもしれない。なぜ「広辞苑」に収録されないのは理由は判然としない。ためしに手元にある外の辞書を引いてみた。簡単に見つかった。「国語大辞典」(小学館)に「暗窖(あんこう)暗い穴ぐら」とある。金田一春彦はエライ!。否、載っているのが当たり前であろう。思えば、ケペルが小学生時代に使ったのは、金田一京助の「学習国語辞典」だった。赤い本であった。「百字帳」を書くためボロボロになるまで使った。

   念のためもう一度、「広辞苑」を調べたが無かった。別冊付録の「漢字・難読語一覧」を見たがやはりなかった。大枚7千875円を使ったが、ケペルは「暗窖の裡」に落ちた。新村出は悪くない。ただディアドコイ(後継者)に恵まれなかっただけだ。(ちなみにディアドコイも広辞苑にのっていない。ギリシア語はのせないのだろうか)ケペルの広辞苑神話はガラガラとくずれた。むかし志賀直哉が広辞苑の宣伝文を書いていた。あまり宣伝などしない誠実な人なので効果は絶大だった。志賀は戦前は改造だったが、戦後は岩波書店に乗り換えた。ただそれだけなのだ。三省堂でも小学館でもいい国語辞典を出している。植木等やハナ肇を国語辞典で引けるのはお遊びにはよいが基本語がないのは困る。いかりや長介は収録されていない。これは「シャボン玉ホリデー」で育った世代が編集に携わったためであり、もう数年して「8時だョ!全員集合」で育った世代が編集委員になれば、いかりや長介の広辞苑殿堂入りもあるかもしれない。ほんとうに日本の国語辞典はこれでいいのだろうか。「広辞苑」は固有名詞やカタカナ語を増やしてこれからもますます変な辞典になっていくであろうが、国語辞典としての基本的な部分を検証していくことが必要であろう。

2008年1月25日 (金)

岩波「広辞苑」と三省堂「広辞林」

   何度か迷いながらもやっぱり『広辞苑 第6版』を買ってしまった。ブログを書くのに必要性を感じたからだ。家で早速、「植木等」を引く。やっぱり載っていた。

植木等。歌手・俳優。三重県出身。コミック・バンド「クレージー・キャッツ」で活躍。映画「無責任シリーズ」で主演。

   でもこれだけの記述では何かものたらない。「およびでない、およびでない、こらまた失礼いたしました」ぐらいはほしい。ちなみに、ハナ肇もあった。結構、芸能人も収録している。

    国語辞典と百科事典を兼ね備えた辞書として「広辞苑」の初版がでたのは昭和30年。そして昭和44年に第2版、昭和58年に第3版、平成3年に第4版、平成10年に第5版、平成20年に第6版が刊行された。総収録項目数は新収項目1万語を加えて、約24万語。ライバルの『大辞林』(三省堂)を抜く。

    新収録した主な日本人名は、朝比奈隆、網野善彦、安藤百福、井深大、今村昌平、植木等、小倉遊亀、如月小春、城山三郎、都留重人、中村元、藤村富美男、松田道雄、宮沢喜一、山田風太郎、吉村昭など。外国人はアルマーニ、(ビル)ゲイツ、(アルマティア)セン、ダイアナ、ハルバースタム、プーチン、ブルデュー、リンドグレーン、ローリング・ストーンズなど。人名の場合、日本人は故人が原則、外国人にその原則は適用していない。

    「広辞苑」は旧版の項目を削除しないことを原則としている。「広辞苑」はもともと「辞苑」(博文館、昭和10年)の版権を譲りうけたものであるから、「辞苑」の語釈を引き継いでいる。「広辞苑」は当初「新辞苑」という書名で出る予定だったが、直前に「広辞苑」という書名になった。「広辞林」(三省堂)とあまりに似ているというので三省堂が岩波書店を訴えた。しかし裁判所からは和解が勧告された。事実上、三省堂の敗北だった。

    岩波書店の「広辞苑」の原型である「辞苑」(博文館)には、「広辞林」によく似た記述が多い。たとえば「米なしデー」などという語は「広辞苑」には無いが、「辞苑」には次のようにある。

米食を廃して他の食料を代へ用ひ、米殻の消費節約をする一定の日。

「広辞林」の「米食を廃して他の食料を代へ用ひ、米殻の消費を節約せんとする一定の日」とあるのとほとんど同じ。つまり日本の国語辞典の原型は明治40年に刊行された「辞林」なのである。

2008年1月 1日 (火)

江戸いろはかるた

   「江戸いろは」は「犬も歩けば棒にあたる」で始まり、「上方いろは」は「一寸先は闇」で始まる。江戸いろはが世態風俗から生じた人間の知恵というのに対し、上方いろはは商売繁盛を願いながら、人間世間の嫌な面も入れているのが特徴であろう。作られたのは江戸後期で、何年何月という記録は知らないが、明治、大正となるにつれ、江戸いろはが全国的に知られるようになったものであろう。

い 犬も歩けば棒にあたる

ろ 論より証拠

は 花より団子

に 憎まれ子世にはばかる

ほ 骨折り損のくたびれ儲け

へ 屁をひって尻すぼめ

と 年寄りの冷や水

ち 塵もつもれば山となる

り 律義者の子だくさん

ぬ 盗人の昼寝

る 瑠璃も玻璃も照らせば光る

を 老いては子に従い

わ 割れ鍋にとじ蓋

か かったいの瘡(かさ)うらみ

よ 葭の髄から天井を覗く

た 旅は道づれ世は情け

れ 良薬は口に苦し

そ 惣領の甚六

つ 月夜に釜をぬく

ね 念には念を入れ

な 泣きっ面に蜂

ら 楽あれば苦あり

む 無理が通れば道理ひっこむ

う 嘘からでたまこと

ゐ 芋の煮えたもご存知ない

の 喉もとすぎれば熱さわするる

お 鬼に鉄棒

く 臭いものに蓋

や 安物買いの銭うしない

ま 負けるのは勝

け 芸は身を助ける

ふ 文はやりたし書く手は持たず

こ 子は三界の首枷

え 得手に帆をあげ

て 亭主の好きな赤烏帽子

あ 頭かくして尻かくさず

さ 三べんまわって煙草にしょ

き 聞いて極楽見て地獄

ゆ 油断大敵

め 目の上の瘤

み 身からでた錆

し 知らぬが仏

ゑ 縁は異なもの

ひ 貧乏ひま無し

も 門前の小僧習わぬ経を読む

せ 背に腹はかえられぬ

す 粋は身を食う

京 京の夢大坂の夢

2007年12月18日 (火)

羊頭狗肉

    2007年を表わす漢字1字が、「偽」に決まった。(日本漢字能力検定協会)産地や原材料偽装、賞味期限の改竄など食品偽装の事件が相次いだ世相を反映したものであるが、まことに嘆かわしいことである。

   よく知られた故事成語に「羊頭狗肉」がある。羊の頭を看板に出しながら実際には狗の肉を売ることから、よい品を見せて、悪い品を売る。立派そうに見せかけて卑劣なことをするたとえである。

   この言葉のもとの形は「羊頭を懸げて馬膊を売る」(『晏子春秋』)で、後漢の光武帝の詔書にも「羊頭を懸げて馬膊を売り、盗跖、孔子語を行なう」(『後漢書』光武紀)がみえる。清代の『恒言録』(銭大昕の撰)には「羊頭狗肉」(羊頭を懸げて狗肉を売る)が引用されている。大昔の時代から、人の世の悪行はなくならないものなのであろうか。

2007年12月10日 (月)

「ラーメン」と「支那そば」

ぼくらの少年発明王

いつも明るい えがおの中に

輝くひとみも いきいきと

ゆめはとぶとぶ 宇宙のはてへ

そこから生れる大発明

    子どもの頃みたフジテレビ系の番組「少年発明王」(昭和36年)、上高田少年合唱団が歌う主題歌を聞くと「チキンラーメン」の記憶とダブってくる。おそらく日清食品の提供だったと思う。

  同じ頃、映画館で家族全員でみた石原裕次郎主演の映画「堂堂たる人生」。倒産寸前の玩具会社をアイデアで若いサラリーマン中部周平(石原裕次郎)が救うという物語。風邪で寝込んだ中部の下宿先に同僚OLの石岡いさみ(芦川いづみ)が見舞いに来て、チキンラーメンをつくるシーンが印象的であった。

   つまりケペルの子供時代、インスタントラーメンがようやく家庭に普及した頃で、チキンラーメン一袋35円だった。「少年サンデー」が40円の時代であるから、少し高い値段であろう。「少年サンデー」といえば、あの頃「おばけのQ太郎」に頻繁に登場する眼鏡でパーマをかけた小池さんという人も何故か必ずラーメンを食べていた。

    このように子供にとってラーメンは大人気の食品であったが、明治生まれのオヤジは何故かラーメンといわず「支那そば」といっていた。国鉄のことを大人は「省線」(戦前は鉄道省だった)といったのは素直に理解できたが、ラーメンを「支那そば」と呼ぶことには抵抗感があった。

    そもそも「拉麺(ラーミエン)」とは、中央アジアの麺・ラグマンが語源である。明治33年頃、浅草の来々軒は中国料理だったが、なかでも「支那そば」「南京そば」と言われた中華麺は人気だった。そこに王文彩というロシア革命の亡命料理人が、手延べでさっさと麺をつくり、「ラーメン」と称した。

    だが一説によると、これよりのちの大正10年、北海道大学の前の竹屋食堂で中国風の麺を出した。これをもって日本でのラーメンの発祥とする説もある。

    大正期には、夜鳴きそば、夜鳴きうどんを真似て、チャルメラを鳴らしながら町々を周る屋台が全国で現れるようになった。

     しかしながら、戦前においては、「ラーメン」は店で食べるもので、一般的には「支那そば」「シナソバ」「中華ソバ」という呼び名が普通であった。『日本の味探求事典』(東京堂)によれば、「ラーメンという言葉が初めて使われたのは、昭和25~27年頃である」とある。かなり断定的に年代を決めているのは、おそらくその頃、ラーメン屋が急激に増加したのであろう。「ラーメン」という言葉そのものは、昭和5年の「モダン辞典」に「ラーメン(食)支那そば」と記載されている。

    つまり、昭和25年以降は、「支那そば」と「ラーメン」がおなじように用いられていた。しかし、昭和33年8月、安藤百福が日清食品を設立し、チキンラーメンの名で発売するや、爆発的な売れ行きとなった。これによって「ラーメン」という呼び方が一般的になったということはいうまでもないであろう。

2007年9月 7日 (金)

船名に「丸」が使われるのは何故か?

   船名については船舶法により、「名称を定め」「届出を要する」と定められている。日本郵船株式会社では、船名は次のような基準をもとに決められている。

   欧州航路のコンテナ船は、鎌倉丸、北野丸、鞍馬丸、春日丸のようにKのイニシャルの神社、地名を使用している。またコンテナ船でも、PSW、PNW航路就航船は、箱根丸、氷川丸、白山丸等Hのイニシャルで統一している。油槽船は、時津丸、丹波丸、鳥取丸などTで、重量船は、若菊丸、若竹丸、若戸丸などWで、鉱石船は、大隅丸、音戸丸、遠賀丸などOで統一している。

   戦前の客船の船名は、浅間丸、氷川丸、鎌倉丸など神社名が多く使われ、豪華貨客船新田丸、八幡丸、春日丸の三隻のイニシャルを並べると、NYK(日本郵船株式会社)になるように工夫している。三姉妹船と言われた。

    ところで船の名前に「丸」がつくのはなぜだろうか?「丸」のついた船が確認できるのは12世紀で、一般化したのは14世紀末ごろからである。平安時代の1187年、仁和寺の古文書に「坂東丸」という船名が見えるのが最初である。「丸」の起源については、江戸時代から論争になって、丸太説、問丸説、本丸説、男子名説、日本丸説、白童丸説、麿(まろ)愛称説などあるが、いまだに定説はない。丸太説は昔は丸太をくりぬいて船を造ったから、問丸説は昔、屋号を丸と呼んだため船問屋から転用されたから、本丸説は本丸、ニの丸という城の構造の呼称を船に見立てたから、男子名説は牛若丸(源義経)、多聞丸(楠木正成)、日吉丸(豊臣秀吉)というように男の子が元気であるようにという願いから、日本丸説は豊臣秀吉の造った日本丸、安宅丸から発したという、白童丸説は中国の黄帝時代に白童丸という人が天から降りてきて、造船を教えたことから、麿愛称説はもともと自分のことを麿と言っていたが敬愛の意味で人につけられ、さらに犬や刀など広く愛するものに転用され、やがて麿が丸に転じて船に使用されるようになったという。

   船名「丸」の使用は、江戸時代の慣習に加えて、明治33年に制定された船舶法取扱手続に「船舶ノ名称ニハ成ルベク其ノ末尾ニ丸ノ字ヲ附セシムルベシ」と定められたことにより普及し、現在に至っている。

2007年8月22日 (水)

亡羊の嘆

   むかし、中国に楊子という学者がいた。あるとき、隣家の羊が一匹逃げた。隣人は一家総出で、楊子の家の召使まで借り出して、羊探しに出かけるという騒ぎだった。

   それで、楊子が、「たった一匹の羊を追いかけるのに、なぜそんなに大勢要るのですか」ときいた。

    隣の人は、「逃げた方角には岐路(わかれみち)が多いから」と答えた。やがて、しばらくたつと、羊を探しに行った人たちがクタクタになって帰ってきた。そこで、楊子が「どうしました。羊は見つかりましたか」と聞いた。

   すると、隣の人は「岐路にまた岐路があって、とうとう羊がどこへ行ったかわからなくなったから、あきらめて帰って来た」という。(「列子」説符篇)

    多岐亡羊とは、「逃げた羊を追ううち、道が幾筋にも分かれていて、羊を見失ったというこの故事から、学問の道があまりに多方面に分かれていて真理を得難いことをいう。転じて、方針が多すぎてどれを選んでようか迷うこと」と広辞苑にある。

    「荘子」駢拇篇には次の話がある。男と女のふたりの働き者が、いっしょに羊の番をしていたが、ふたりとも羊を見失ってしまった。主人が怒って下ばたらきの男にたずねてみると、本をかかえて読書していたといい、下ばたらきの女にたずねてみると、双六をして遊んでいたという。ふたりのやっていたことは違っているものの、羊を見失ってしまったことでは同じである。要はほんとうの目標をしっかり把握していないのである。この戒めは学問ばかりではない。人間の生き方についても考えさせられる。ただし、荘子の故事における男女の行動の相違は、儒家の君子と小人との区別に対する批判の意味が含まれているようだ。

2007年8月11日 (土)

いずれ菖蒲か杜若

   鳥羽院の女官に菖蒲前(あやめのまえ)という美人がおり、源頼政(1104-1180)は一目ぼれをする。頼政は菖蒲前に手紙を送るが、返事はなかった。そうこうしているうちに3年がたってしまい、二人の関係が鳥羽院に知られてしまう。

    ある時、頼政が鵺という怪物を退治して手柄をたてた。鳥羽院は頼政を呼びだして、褒美に何がいいかたずねると、菖蒲前を妻にもらいたいという。上皇は本当に菖蒲前が好きか試してみようと考えた。

    宮中の女官の選りすぐりの美女12人に厚化粧をさせて、その中から菖蒲前を選ばせた。もし間違えれば、菖蒲前をえることができず、末代までの笑いものになってしまう。困り果てた頼政はとっさにつぎの歌を詠んだ。

   五月雨に 沢辺の真菰 水こえて

   いづれあやめと 引きぞ煩ふ

   鳥羽院はこれに感心し、菖蒲前を頼政に引き渡した。

 この故事から、「いずれ菖蒲と引きぞ煩ふ」という句が広まり、「いずれ菖蒲か杜若」の語源となったといわれる。

    頼政はその後、以仁王と結んで平家打倒を計画したが、宇治平等院の戦いで敗北し、自害した。享年77歳。菖蒲前は種若丸をつれて、乳母と猪野隼太らに守られて、舟で安芸の国に落ち延びた。菖蒲前伝説など各地に残っている。しかし、源頼政がかなりの高齢だったようなので、若い女官・菖蒲前とのロマンスが本当にあったのだろうか。(「源平盛衰記」)

2007年7月29日 (日)

ウルトラ

   「ウルトラ」とは本来はフランス語の「ultramontane」。つまり「山の向こう」という意味。フランスからみてアルプスの向こう、つまりローマ教皇庁の立場を示す。

   中世以来、教皇と王は司教以下の僧侶の任免権その他をめぐって、たえず争いをつづけたが、その際、ローマ教会至上主義の立場をとるものをこう呼んだ。以来、ウルトラというと、極端なこと、過激なことをさし、「超…」という意味で使われるようになった。

   19世紀、フランスにおいて「ウルトラ・ロイヤリスト」と呼ばれる一派が生じ、「王よりもさらに右」だといわれた。

    日本では、昭和39年の東京オリンピックの体操競技で山下治廣選手が跳馬で最高難度の「きりもみ降り」という難技を考案し、「山下跳び」として「ウルトラC」という語が大流行した。

    昭和41年から始まった円谷プロのウルトラシリーズ第1作「ウルトラQ」、同年第2作「ウルトラマン」、昭和42年の第3作「ウルトラセブン」で「ウルトラ」という言葉は日本語になじみのある外来語となっている。(参考:「故事名言由来ことわざ総解説」自由国民社)

2007年6月27日 (水)

モダンボーイとヨーヨー

   糸巻きの木片の軸の部分を細くしたようなものに糸を巻きつけ、回転を与えて上下に動かす玩具。起源は古代ギリシアに始まり、交易路を通じてアジア、ヨーロッパに広まり、スコットランド、イングランド、インド、エジプトにまで伝わった。フィリピンにおいて、ヨーヨーは現代の形状に近づいた。

   日本では江戸時代に長崎を経てはいっている。てぐるまともいった。昭和8年、洋行帰りの教員がアメリカ土産として持ち帰ったのがモダンボーイのあいだに流行し、銀座のような盛場を歩きながら、これをもてあそぶようなことがみられた。

    小田原近在の農村の家内工業で、一個三銭でおろされ、一日三万個も製造した村もあったという。

2007年4月22日 (日)

無礼講のはじまり

    無礼講とは、貴賎や身分の上下の差別をせず、礼儀を捨てて行なう酒宴のことをいう。この語は古く、「その心をうかがい見むために、無礼講という事を始められける」と「太平記」に書かれている。

   後醍醐天皇(1288-1339)は、無礼講と呼ばれる大宴会を連日開き、宴会にかこつけて日野俊基、日野資基、花山院師賢、四条隆資、武士の土岐頼貞、多治見国長らと語らい、討幕の計画を練った。「献杯のしだい、上下をとわず、男は烏帽子を脱いで、もとどりを放ち、法師は衣を着ずして白衣となり、年十七、八歳ばかりの、みめ形すこぶる美しく、肌のきれいな女たちが二十余人、絹のひとえを素肌につけ、雪白の肌はすけて、さながら蓮華が水中から出てきたよう、遊び、たわむれ、舞い、歌う」という盛大な無礼講であった。この乱痴気さわぎのかげで、幕府を滅ぼす計画で持ちきりだあった。ところが、直前になって土岐頼員(ときよりかず)が寝物語に抱き寄せた愛妻の口から六波羅探題に事情が密告されてしまう。日野俊基、日野資基は捕縛、土岐頼貞、多治見国長は斬罪に処せられる。これを「正中の変」(1324年)という。

2006年12月25日 (月)

理髪店の回転看板の由来

  Q。理髪店の前でぐるぐる回っている赤・白・青のらせん状の看板をなんというか。三択で。

1.有平棒

2.サイン・ポール

3.バーバーズ・ポール

   答えは、なかなかややこしい説明を要する。日本では、明治の初め頃、理髪店を示す目印として「有平棒」(あるへいぼう)が全国に広がった。安土桃山時代にポルトガルから伝来した南蛮菓子の有平糖(ねじれた形で色分けされていた)に似ていたことに由来する。しかしながら、「有平棒」とはさすがにおかしな名称なので、今では「サイン・ポール」というのが一般的ではある。ところが、広告業界で「サイン・ポール」といのは、地上広告塔、つまり立て看板という広範囲な意味である。つまり、サイン板とポールを組み合わせたサイン・スタンドのことをいい、理髪店の看板だけを意味する名称ではない。海外(英語圏)では、バーバーズ・ポールとよんでいる。

   ちなみに、なぜ赤・白・青の色なのか。通説では赤は動脈、白は包帯、青は静脈を表わしているといわれるが歴史的にみると正確ではない。一説によると、中世ヨーロッパ、髪を切る行為は手術などのために毛を剃る行為と一緒で、理髪と外科医とが同一職業だった。瀉血という治療のために静脈の血を抜くこともしていた。瀉血に使用するポールは血で染まるため、めだたぬように赤色に塗られていた。そしてそのポールは包帯を洗って干す棒としても使われていた。そして店先に45度の角度で置かれたことが、外科医の象徴となったことが、サイン・ポールの由来である。やがて理髪店は外科医と分離し、その頃に青が加わったという。赤白青の看板が最初に使われたのは1540年頃、フランスにおいてである。

我が国で今日のようなスタンド型サインポールが登場したのは昭和8年からである。竹鼻商店(現・菊星)は、昭和8年、電動式の「スタンド型サインポール」(40円)を発売した。

2006年7月30日 (日)

百パーセント・ナンセンス

    昭和56年のイモ欽トリオのヒット曲「ハイスクールララバイ」(作詞・松本隆)で「100パーセント片思い ベビーアイラビューソー好き好きベイビー」と歌われる「100パーセント○○」という誇張的表現は、戦後生まれの言葉かと思っていたが、実は戦前の流行語である。

    昭和6年の流行語に「ルンペン」「生命線」「テクシー」「非常線」などがあるが、なかでも「百パーセント」は、当時「百パーセント・モダン」「百パーセント・モガ」「百パーセント・ナンセンス」と広告などによく使われた。大宅壮一は「近代社会色」で「最近の流行語である百パーセントは、すべてが大げさで、刺激的で、ときには毒々しいまでに誇張的だ」と社会批判している。

   では、誇張的表現である「百パーセント○○」の流行語の創案者は誰か。大宅壮一は昭和4年に「百パーセント・モガ」(中央公論8月号)を発表しているが、大宅自らが新語を生み出し、世相を批判しているようだ。そしてその自作自演ショーは戦後の「一億総白痴化」の時にも繰り返されている。

2006年6月19日 (月)

ズルチン

   人工甘味料。無色の結晶または結晶状粉末。戦後の食糧難の時代、栄養もエネルギーも不足し、体は糖分を切実に求めていた。しかし砂糖はなかなか手に入らない。そこで試みられたのが、いわゆる代用砂糖である「ヅルチン(ズルチン)」だった。栄養分は全くなく、甘みだけを感じるというもので、常用すると体に障害を起こすなどの理由から、現在は使用が禁止されている。

2006年6月14日 (水)

つん読

 東大仏文科の辰野隆教授は、晩年、これまでの生涯をかけて収集した自分のすべての蔵書を調べてみて愕然とした。フランスの本を3000冊。しかし、そのうちまちがいなく目を通したのは1000冊。きちんと読んだといえるのは、そのうち半分で500冊。3000冊のうち2000冊は、ページも切っていないのだった。

2006年6月10日 (土)

円タク

 大正13年の春、大阪市内ならばどこまで乗っても、その運賃は1円均一というタクシーが現れた。大正15年の春から東京市内でもおこなわれはじめた。これが「1円タクシー」の始まりであり、だんだんにつまって「円タク」となった。トーキー初期の日活映画「海のない港」の主題歌「破れフォードにボロタイヤ、車あれども宿はなし、わたしや円タク ショツフール」(西条八十作詞)と流行歌も今や懐かし青春の思い出。