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2015年7月 7日 (火)

ヒスイの里と相馬御風

R160   ふるさと切手。1995年に発行された新潟県「ヒスイの里と相馬御風」古代、古志(越、こし)の国(現在の新潟県糸魚川市)、奴奈川姫という女王がヒスイの勾玉を身につけ霊力を発揮して統治していた。この姫は賢く美しかったので、遠く出雲の国まで聞こえていた。大国主命は、この姫を嫁にするべくはるばる越の国までやってきて、妻問いの後結婚をして一子をもうけた。この子が御柱の奇祭で有名な諏訪大社の祭神「建御名方命(たけみなかたのみこと)」である。新潟県がヒスイの産地であることは長い間、忘れ去られたが歌人の相馬御風はこの伝説を信じて、人を使わしてヒスイを探したところ、1938年、糸魚川市の小滝川からヒスイの原石が発見された。参考:河野義禮「本邦に於ける翡翠の新産出及び其化学性質」岩石鉱物鉱床学会誌 1939年

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  奴奈川姫と建御名方命

 

2013年7月26日 (金)

装身具の歴史

Img     装身具の歴史はひじょうに古く、旧石器時代後期にすでにみられる。古代オリエントでは、シュメールの都市ウルの遺跡から見つかっている。ウルの人々は金属加工や宝石細工が上手だった。古代エジプトではバダリ期(前5500~前4000年)にはすでに、石に釉薬をかけ、つや出しを緑色のビーズで、幅広いベルトあるいは「飾り帯」が作られており、後の先王朝時代(前5500~前3100年)になると、貝がらや象牙で作ったブレスレットや護符だけでなく、ファイアンスのビーズで作ったネックレスも身につけられるようになっていた。しかし、これらはたんに装身具としての飾りつけだけでなく、特殊な地位や身分を示すために身につけられることもあった。

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 ウルで発見されたルリと紅玉髄の首輪

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 第21王朝ビネジェム1世の胸飾り 金・ラピズラズリ

2010年6月20日 (日)

日本語になった英単語

   森一郎の「試験にでる英単語」の中の一節「これだけは実行すべし」がある。最小の時間で最大の効果を生む秘訣として、日本語になった耳慣れた英単語を確実に知っておくこと。つまり、oil   melody  tent   test など、すぐに、見当がつくだろう。だが idol  tough   revive  heel などのように、英語のつづりを一見しただけでは、頭の中で、日本語と結びつきにくいものがある。

   「idol」は「なまけもの」?そうじゃない。それは「idle」。「桜田淳子は我らのアイドル」という時のアイドルで、「偶像」の意味だ。「tough」は「タフガイ石原裕次郎」という時の「タフ」で、「がん丈な、手ごわい」の意だ。「revive」は「リバイバル」で、「復活する、生き返る」の意だ。「heel」は「ハイ・ヒール」で、「かかと」の意味。

2009年12月25日 (金)

韓国伝統の装身具

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  韓国女性を飾ってきた装身具は、簡素に見えて流れるような美しさを持つ韓服と同様、自然な美しさをたたえている。ノリゲはチマ・チョゴリの腰部に垂らして付ける装身具。儀式や慶事がある時につけていたが、簡素なものは普段にもつけていた。邪気を追いはらう護符としての役割をもつ。形態は、貴金属や宝石の飾りのある上部と、華やかな3色糸を束ねた下の房の部分からできている。

Cnabi ノリゲ

    ピニョは束ねた髪にさす簪。李朝時代、既婚女性は後ろで髪を束ねてたチョクチンモリ(まとめ髪)という髪形をしていた。この髪形に、ピニョを挿すして髪を飾っていた。ピニョという簪以外にも重ねて色々なな髪飾りがある。それらを総称してティコジと呼ぶ。ティコジには宝石や七宝などで飾った装飾性の強いものと、キュイゲティコジ(耳かきティコジ)やビッチケティコジ(毛筋棒ティコジ)などのように実用性を兼ねたものがある。頭につける髪飾りをテンギという。妃たちの身分を示す髪飾りにチョプチがある。

Thikoji ピニョ

    このほかキゴリという耳飾り(ピアス)がある。珊瑚、琥珀、翡翠などがあしらわれ朝鮮時代からあった。儒教の影響で耳に穴を空けることが禁止され、耳にかけるタイプが使われた。

2006年9月 3日 (日)

古代中国の玉

   玉は古代より中国人が最も珍重した素材でその神秘な色合いと滑らかな肌合い、そして年を経ても不変不滅のまま存在することが、中国人に永遠不滅の神聖感を与えることになったのであろう。玉には生命の不滅を与える霊力が宿ると考えられて、死者への葬送品や、貴人が身につけたり居室に吊り下げて飾る玉環、玉璧、玉魚などのほかに玉の印璽、刀剣装具が作られた。後世になると、玉製品は装飾品や花器、器物など多種多様なものが作られるようになるが、漢・三国時代には、まだ上に記したような、いわば象徴的な装身具が主体であった。

   玉は「崑崙の玉、禹氏の珠」という対句によって中国では知られるように、崑崙山中ないしは、その麓野を流れるユルン・カシュ川に産出した。そのほか陝西省藍田県にも美玉を産したことが『前漢書』の地理誌に現れている。もちろん、その他の地方からもいろいろな玉が産出した。当時、「隋侯の珠、和氏の璧」と呼ばれた和氏の楚国は、今日の湖南地方で、これもまた名玉とされ、対句にまでなって珍重された一例である。玉には硬軟2種があり、崑崙(干闐)の玉は軟玉、和氏の玉は硬玉であったといわれる。この時代には、軟玉のほうがより重用されていた。

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