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2008年6月29日 (日)

イエスの容姿

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   新約聖書は洗礼者ヨハネについて人物描写をしているが、イエスについてはしていない。そのことから結論してよいのは、イエスは、外面的にはその時代の他のパレスチナのユダヤ人と本質的に異なるところはなかったということである。こういう結論は、ユダヤの反対者たちが黙認していることで確証される。ラビたちは、正しいユダヤ人、特に教師の外貌に対しては非常にはっきりした基準をもっており、この基準にそぐわないものを侮蔑し冷酷に批評した。イエスの姿や衣服については、古代ユダヤ人の攻撃は、少しも非難に価するものを見いださなかった。ということは、もしイエスの外貌について知ろうとするなら、当時のパレスチナのユダヤ人の像を素描しなければならない、そして、ばらばらの間接的な福音書の証拠から得られるわずかな個性的特徴を加えればよいということを意味している。

   ラビたちの信念によれば、神の臨在の反映は、ただ背の高い強健な人間にだけありえた。イエスは明らかにこういう身体的資格をもっていたはずである。でなければ、反対者がイエスの外見に対して、攻撃をしないということはなかったはずである。幼いイエスの満足な成長に関するルカの記録と、しばしば大急ぎで祭りの旅をしたイエスに関するヨハネの証言とは、このことで一致する。要するにイエスは、少なくともユダヤ人の標準的な大きさであった。

    古代パレスチナのユダヤ人の皮膚は明褐色で、目はたいがい褐色であった。しかし青い目の人もいないわけではなかった。イエスの目の色について福音書からは何も知りえない。しかし、われわれが聞いているのは、人々がイエスを見て40歳と解したということである。そのことから、イエスはあまり若くは見えず、当時おそらくすでにじゅうぶん働き切って、憂いをふくんだ顔をしていたと結論すべきだろうか。とすれば、たとえばレムブラントの何百グルテンかのキリストか、あるいはルーヴルにあるエマオ途上のキリストのように、イエスを考えることが許されるだろうか。(引用文献:シュタウファー著「イエス その人と歴史」日本基督教団出版部)

2008年6月15日 (日)

人間とは何か

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札幌五輪で転倒しても笑みを絶やさなかった

   人間とは何か。いきなりそう問われても、思わず戸惑いを感じるだろう。そのように、人間は人間でありながら、人間をよく知らないのである。知らない、というより、まだ本気になって考えことがない、という人のほうが多いかもしれない。はたして、そのままでいいのだろうか。

   砂の上に家を建てた人の話を聞いたことがあるだろう。立派な家を建てたつもりでいたのに、風が吹き、大雨が降ると、倒れてしまった。しかし、岩の上に建てた家は決して倒れなかった。

   人生には二つの生き方がある。第一は、自分という小さくて不確かな存在の上に家を建てる生き方。第二は、揺ぎなく変わることのない土台の上に家を建てる生き方。自分が生まれてきた意味を確認し、目的を持って歩む人生である。

   ケペルはクリスチャンではないが、たまには近くの教会へ行く。いわば他流試合の道場破りの武芸者の気分で。岩間洋牧師の話は、「ローマの信徒への手紙 第5章」だった。

このように、わたしたちは信仰によって義とさせられるのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりではなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたりですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのははなむけです。それだけではなく、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

   聖書の正しい解説はケペルにはできない。ただ「人間とは何か」「幸福とは何か」「希望とは何か」を考えていので、牧師から有益な示唆を与えていただいた。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という聖句である。つまり、苦難を感じるのは人間の心の中であり、希望を感じるのも人間の心の中である。苦難、希望、喜び、すべては、己自身の心中、つまり今生きている人間、自分が存在するゆえである。冒頭の「砂上の楼閣」の話で、神への信仰を基盤とする建物であれば、幸せな人生を送る力となる、という教えであろう。宮本武蔵のように「我、神仏を信ぜず」といった(ドラマの中でのセリフだが)のような生き方も雄雄しいものであるが、やはり滅びの道に歩むものである。

2008年6月 7日 (土)

ダビデの悔い改め

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  神よ、わたしを憐れんでください

  御慈しみをもって。

  深い御憐れみをもって

  背きの罪をぬぐってください。

  わたしの咎をことごとく洗い

  罪から清めてください。

                (詩篇51)

    ダビデは前王サウルがその罪のゆえに王座から退けられた結果、王座に着した人です。しかし彼もサウルに劣らない大罪を犯した王だった。ダビデは自分の家の屋上から忠義な部下ウリヤの美しい人妻バテ・シバが身を洗っている姿を眺めた。その後、ウリヤが戦いに出ているすきに、王はその女を宮殿に連れて来させて、姦淫を犯した。さらにウリヤを最前線に送り、戦死させる。バテ・シバはダビデの子を妊娠し、人々に気づかれないうちに結婚する。旧約では姦淫に対する罰則は死である。それにもかかわらず、ダビデの罪を神は見逃された。それはダビデに真の悔い改めがあったからである。しかし神の怒りで、バテ・シバの宿した子は死に、ダビデの子であるアムノン、アブサロムと次々に死んだ。ダビデは妻バテ・シバを慰め、男の子を産んだ。その子はソロモンと名づけられた。

預言者ヨナのしるし

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   ユダヤ人たちの一族が、イエスに、「あなたがメシアであるという証拠を見せてください」と言った。しかし、イエスは「そんなことはヨナ書を読めばわかる」と答えた。しかしそれでは納得できないユダヤ人たちに、イエスはさらに、こういう風に言われた。「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」(「マタイによる福音書」12.40-42)

    ヨナとは紀元前8世紀の預言者である。ヨナはゼブルンの部族に属したとき、ガラリヤのガト・ヘフェルの預言者アミタイの子だった。ヨナという名には「はと」という意味がある。ヨナは、神から、「大いなる都市ニネベに行き、彼らの悪がわたしの前に達したことをふれ告げよ」と命令される。しかし、ヨナは敵国アッシリアに行くのが嫌で、反対の方向へ逃れて行き、タルシシュ、つまり今日のスペインへ行く船に乗る。このため、神は船を嵐に遭遇させた。船員たちは、ヨナが神の怒りにふれたのだと考え、ヨナを海に投げ込んだ。ヨナはシェオルという大きな魚に呑み込まれ3日3晩魚の腹の中にいたが海岸に吐き出された。しかたなく、ヨナはニネベに行って神の裁きを告げると、意外なことに人々はすぐに悔い改めた。神は憐れみによってその都市の滅びを免れさせた。だがヨナの心には、ニネベの人々に対する同情心はみじんもなかった。ヨナはこのことに我慢できず、その市の東側に宿営を張り、何が起こるかを見ようとする。神は1本のひょうたんに任じて、この不機嫌な預言者ヨナのための日よけとして生えさせる。だが、翌日、一匹の虫のため植物はしおれ始め、やがて枯れて、その日よけはなくなってしまう。ヨナは焼けつくような太陽に照らされる。ヨナは、「わたしは生きているより、死んでしまったほうがましだ」と繰り返す。神は「あなたがひょうたんのことで怒りに燃えたのは正しいことか」とヨナに尋ねた。ヨナは、「わたしが怒りに燃えて死ぬほどになったのは正しいことです」と答えた。それで神はこの預言者に言われた。「あなたはひょうたんを惜しんだが、それはあなたが労したのでも大きくしたのでもない。それは一夜のうちに育て、一夜のうちに枯れうせた」

   神は、ヨナが1本のひょうたんを惜しんでいる一方で、神が今、大いなる都ニネベを惜しまれたことについて怒りを抱いたことの矛盾を悟らせたのだ。そしてヨナは神の憐れみの偉大さを学んだ。

2008年5月22日 (木)

パウロの勇気

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   パウロ(紀元前2年~紀元後67年)は、小アジアのキリキア州タルソスで、ユダヤ人の子として生まれた。ユダヤ名をサウロといい、ベニヤミン族に属するユダヤ人であるとともに、生得のローマ市民権を持っていた。ペテロがイエスの直弟子であるが、パウロは、直弟子でないのみならず、イエスを迫害したパリサイ派の知識人であった。34年、シリアのダマスカス近郊で回心し、イエスをキリストと告白するに至った。その後、異邦人の使徒という自覚に至って、小アジア、マケドニア、ギリシアと48年から3回の伝道旅行をし、各地に教会を建てた。56年、エルサレムに行ったときユダヤ人と衝突し、暴行を加えられた。パウロは勇気を持って次のように述べた。「わたしは、縛られることばかりか、主イエスの名のためにエルサレムで死ぬ覚悟さえできているのです」。パウロがエルサレムの神殿を訪れやいなや、ユダヤ人たちが、暴徒をあおってパウロを殺そうとする。ローマ兵はパウロをエルサレム神殿の北西部の角にあるアントニオの塔と呼ばれた要塞の階段上方の安全な所に引きずるように連行された。両手は2本の鎖で縛られていた。ヘロデ・アグリッパ2世はパウロの弁明を聞いて、「あなたは、わたしを説得してクリスチャンにならせようとしている」と述べたが、ローマ市民であるため、パウロを殺さずに、カエサリアの牢に入れた。2年間の監禁生活の後、西暦58年頃、パウロはローマへ護送される。途中で難破したりしたが、61年頃、ローマに着いた。やがて皇帝ネロによって迫害され、67年、捕らえられ斬首された。

ペテロとネロ

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ローマで最も有名な眺望。サン・タンジェロ(聖天使城)、聖天使橋、そして奥に聖ペテロ寺院のドーム

   西暦64年、ローマ皇帝ネロ(37-68)の治世に大事件が起こった。この年の7月、ローマ市は下町から出た怪火によって数日間燃えつづけ、市街の大半が焼失した。ネロはこのとき海岸都市アンティウムの離宮にいたが、すぐ帰還して消火と罹災者救護、さらに市街の復興に努力した。しかし彼の平素の行ないが悪いためか、かれが市街の燃えるさまをバルコニーから眺めトロヤ滅亡の詩を口ずさんだとか、また新市街建設で名をあげるため旧市街に放火して焼きはらわせたとかいう忌まわしい噂がたち、民衆が暴動を起こしそうになった。ネロはこの噂を消すために側近の進言によって放火をキリスト信者のせいにし、かれらを十字架につけたり、火あぶりにしたり、獣の皮をかぶせて猛犬にかみ殺させたりした。捕縛を逃れたペテロ(生年不詳~64年頃)も、ついに激しい迫害に耐え切れず、ローマを去る決心をした。ペテロは夜中にローマを発って、明け方のアピアン街道をたどっていた。おりしも朝日が昇り、その黄金の光芒の中にペテロは、キリストの姿をみた。ペテロは思わず膝まづいていった。

    「クオ・ヴァディス・ドミネ(主よ、どこへ行かれるのですか)」とたずねると、「あなたが私たちの羊たちを見すてるのなら、私はローマへ行き、もういちど十字架にかかろう」と答えた。

   しばらくうちたおれていたペテロは、やがて立ち上がってくびすを返した。そしてふたたび信徒迫害のローマにもどり逆さ吊りの十字架にかかって殉教する。

   その4年後、暴君ネロは、嵐のように、火事のように、戦いのように、疫病のように死んだ。しかし、ペテロの礼拝堂は、今もなおヴァチカンの頂から、ローマおよび全世界を支配している。

2008年5月10日 (土)

一粒の麦

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         ゴッホ 「麦畑とアルルの眺め」 1886年6月

 ひとつぶの麦 

 地に落ち 死なずば

 いかでか多くの 実りをえんや

 みたまに たよりて

 祈りをはげみ

 十字架負いつつ 君に従わん

 祭司長はイエスの逮捕令を出していた。イエスは、殺される日が近いことを感じていた。彼は、警戒してユダヤ人の中に入るのを避けていた。しかし、過越の祭の6日前になると、ベタニヤへ行った。

 そこには、イエスが、死から甦らせたラザロが住んでいた。イエスが来ると、饗宴が設けられ、ラザロは姉妹のマルタ、マリヤとともに席につらなった。その時マリヤは高価な、純粋のナルド香油を一斤持って来て、それをイエスの足に塗って、その足を自分の髪でぬぐった。すると、いい香りが家じゅうに広がった。それを見たユダが、「もつたいないことをするものだ。それを売って得た金を貸して人に施したらいいのに」というと、イエスは、「この女のなすにまかせよ、わが葬りの日のために、これを貯えたるなり。貧しきものは常になんじらとともにおかれども、われは常におらぬなり」とたしなめた。

 ユダヤ人たちは、イエスがここにいることを知って、押しかけて来た。しかし、それは、イエスを見るためではではなく、死からよみがえったラザロを見るためではなく、死からよみがえったラザロを見るためであった。そこで、祭司長らはラザロをも殺そうと相談した。ラザロがよみがえったので、イエスの信者が激増したからである。

 饗宴の翌日になると多くの人びとがシュロを手にしてイエスの宿へ来て、「主の御名によって来たれる者、イスラエル王、万歳」と叫んだ。そのころ、イエスは小驢馬を手に入れて乗っていたが、これは、「なんじの王はロバの子に乗りて来たもう」という予言を成就するものであった。弟子たちは、その当時は、そのことに、気がつかなかったが、のちに、ああ、そうだったのか、と思い当る時が来た。

 イエスを礼拝しようとして集まった者の中には、ギリシア人も数人したが、彼らは、ガリラヤのピリポのところへ行って、イエスに会わせてほしいと頼み込んだ。ピリポはそのことをイエスの弟子のアンデレに伝え、アンデレと一緒にイエスのところへ行って、報告した。すると、イエスは、次のように答えた。「人の子の栄光を受くべき時は来れり。一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてありなん。もし死なば、果を結ぶべし。おのが生命を愛する者は、これを失い、この世にて、その生命を憎むものは、これを保ちて、とこしえの生命に至るべし。ひと、もしわれに事えんとせば、われに従え、わがおる処にわれに事うる者もまたおるべし。人もしわれに事うることをせば、わが父これを貴びたまわん。いまわが心騒ぐ、われ何を言うべきか。父よ、この時より、父よ。御名の栄光をあらわしたまえ」

 その時天に声あり、「われすでに栄光をあらわしたり」それを聞くと、人びとは、「雷霆鳴れり」といった。

   「一粒の麦」の比喩は、死は虚無に帰するのではなく、多くの実を結ぶこと、つまり永遠のいのちに入ることを示唆したものである。

(参考文献:「西洋故事物語」河出書房)

2008年1月14日 (月)

ぶどう酒の革袋

    イエスの譬えを正しく理解し、使用することは、日本人にはとくに注意すべきことのように思える。たとえば「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」という聖句であるが、これを選挙で勝利した新しい首長が旧派のボスをすべて左遷、降格するという、いわゆる報復人事に使うことがしばしばある。もちろんイエスがそのような意味で使ったのではないだろうが、日本では「勝てば官軍、負ければ賊軍」とあまり変わらない常套句として使われているような気がしていると思うのは私だけだろうか。

    だれでも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てるたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコによる福音書2.21)

    イエスが「つぎ」と「ぶどう酒の革袋」の一対の譬えによって言おうとしたことは、神の国の到来である。新しい時代には、未知の未来をおそれて、新しいものを古いものに順応させようと願う人々が、つねに現れる。こういった人々に対して与えられた譬えであったに違いない。

2008年1月 5日 (土)

真理の友教会集団自決事件

    昭和61年11月1日の早朝、和歌山市毛見の浜の宮海岸を散歩中の老人が黒い煙が出ているのを発見した。傍らに寄ってみると、異臭をあげて黒焦げになっている人間の遺体だった。

    遺体は7人で、すべて女性である。各自遺書がしたためられており、真理の友教会の信者による集団自決であった。事件の前日、教祖である宮本清治(享年62歳)が肝硬変のため死亡したため、女性信者7人が海岸で灯油をかぶって後追い自殺を図ったものと思われる。

    教祖の宮本清治は元国鉄職員で、昭和51年頃に紀三井寺の観音像の前で座禅して悟りをひらき「真理(みち)の友教会」を創設したという。しかしその教義はキリスト教に近く、宗教法人登録の申請には、主神をエホバとしている。宮本宅では「神の花嫁」と呼ばれる女性信者たちと8人による集団生活を営んでいた。新興宗教にありがちな付近住民とのトラブルもなく、教団はいたって平穏であった。事件後、教祖を失った真理の友教会は自然消滅した。

2008年1月 2日 (水)

日本人の宗教観

    お正月は神社に初詣、年末には除夜の鐘を聞き、12月にはクリスマス・コンサートを教会で聞く。さらにこれから七福神巡り、十日えびす、お稲荷さん、熊野詣で、西国八十八ヵ所巡礼へと果てしなく続く。この年末年始は「われわれ日本人の宗教観とは何か」をつくづく考えさせられるシーズン。しかし、毎年、答えは容易に見つかりそうもない。

   数年前にブームとなった「冬のソナタ」のワン・シーン(第16話「父の影」)。偶然に立ち寄った教会(いまプロポーズの教会・厚岩教会が日本人観光客がロケ地ツァーで人気スポット)で、チュンサン(ぺ・ヨンジュン)はユジン(チェ・ジウ)に永遠の愛を誓う。「僕は一人の女性を愛しています。その人と僕によく似た子どもたちの父親になりたいんです。愛する人と子どものために、僕が闘い、手となり、丈夫な足となりたいんです。愛してます」と神に祈るチュンサン。冬のソナタの名シーンの一つであるが、考えてみると韓国は教会が多い。キリスト教徒はどれくらいいるかと調べてみると、人口の約3割という。日本におけるキリスト教徒は1パーセントに達しないという。日本では江戸幕府がおこなった鎖国政策の時代があり、16世紀の終わりから明治6年までキリスト教は厳しく禁じられた。近代になっても明治政府のキリスト教に対する圧迫は残っていた。しかし、第二次世界大戦が終わったあとは、何らの制約もなくなったはずである。それにもかかわらず、キリスト教徒の数はほとんど増えていない。日本には神道、仏教、あるいは象徴天皇による影響とみる向きもあろうが、なかなか納得しがたい根拠である。日本と韓国は、近世以来、「理」による儒教社会であったという指摘もなされるが、それだけでキリスト教を受容しにくい根拠とはなりにくい。一説では韓国ではシャーマニズムがいまでも盛んでも、祈祷好きの韓国人にはキリスト教は受け入れやすい精神土壌があるといわれている。

   ともかく、日本の仏教や神道という伝統宗教が、キリスト教の普及を阻むほどの強固な宗教であるという説明はなかなかつきにくいものがある。たしかに初詣の参詣者数や賽銭の金額は多いが、はたしてそれが宗教心とか信仰といえるほどのものであろうか。キリスト者のように日常生活すべてにおいて神と共にいる、という信仰心とはほど遠いものがあろう。

   ある韓国の牧師は次のように語っている。「韓国では、キリスト教は西洋の宗教というよりも、日本の植民地に勇敢に抵抗した愛国者の象徴と理解されている面があり、日本では、いつまでも、キリスト教は西洋の宗教という先入観から抜け出せない」という違いを指摘している。

2007年12月30日 (日)

聖フランチェスコ

   フランチェスコ修道会の創設者、アッシジのフランチェスコ(1181-1226)は、本名をジョヴァンニ・ベルナルドーネという。父ピエトロはアッシジの裕福な織物商人で、旅をしながら少しばかりのフランス語を習いおぼえていた。息子のほうは人前でひけらかすほどにフランス語を学び「フランチェスコ」(フランス人)と渾名された。

   若いころのフランチェスコは素直で如才なく、のちに修道院の年代記作者が好んで語ったような自堕落さはおそらくなかったものの、快楽を愛したようである。近くのペルージアがアッシジを攻撃したとき、フランチェスコは志願して市民軍に加わり、つづく戦争に従軍した。彼は捕らえられて、しばらくペルージアの捕虜として暮らした。1204年に重い病気にかかり、しだいに宗教を真剣に考えるようになった。スポレトで幻視を得て帰郷し、世俗的財と家族の絆を捨て清貧の生活に入った。サン・ダミアノ聖堂を再建し、キリストの言葉を聞いて説教を開始した。弟子が集まると単純な生活戒律を作り、1209年、教皇インノケンティウス3世(1160-1216)から認可を得た。1212年、アッシジのクララを中心とする女弟子を定住させて戒律を与え、クララ会を創始、1221年フランシスコ会第三会を始めた。1224年、アラベルナ山において聖痕を受け、盲いて生涯を終えた。

   聖フランチェスコの生涯は「ブラザー・サン・シスター・ムーン」(1972年)フランコ・ゼフィレッリ監督で映画化された。フランチェスコにはグレアム・フォークナー、クララにジュディ・バウカーという新人が選ばれた。当時16歳のジュディ・バウカーの清らかな美しさが印象に残る。NHKテレビ「黒馬物語」(1974)、「タイタンの戦い」(1981)以後の活躍はあまり知らない。尼僧の美しさでは、イングリッド・バーグマン「聖メリーの鐘」(1945)、デボラ・カー「黒水仙」(1946)、オードリー・ヘプバーン「尼僧物語」(1959)に匹敵する清らかな聖女であった。

   タイトルの「ブラザー・サン、シスター・ムーン」はフランチェスコの言葉からきている。

  慰められるよりも、慰めることを

  理解されるよりも、理解することを

  愛されるよりも、愛することを

  太陽を兄と慕い、月を姉と慈しむ

  それ以外は何も持たない

   主題歌は現代の吟遊詩人といわれたイギリスのドノヴァンが歌っていた。日本語訳詩で桑原一郎の「ブラザー・サン シスター・ムーン」も発売された。桑原は兵庫県西宮市出身のフォーク歌手。バーモント州フォーク・フェスティバルで「明日に架ける橋」を歌い金賞受賞。

  ブラザー・サン シスター・ムーン

  かぎりない愛の力

  ひそかに受けとめたい

  けがれた世の中には

  はてしなく悩むけれど

  夜明けはたずねてくる

  愛されるより愛したい

  空を飛ぶ鳥のように

  ブラザー・サン シスター・ムーン

  かえらぬ今日の日を

  確かに生きていたい

  愛されるより愛したい

  空を飛ぶ鳥のように

  ブラザー・サン シスター・ムーン

  かえらない今日の日を

  確かに生きていたい

2007年11月19日 (月)

矢内原忠雄とキリスト教の出会い

   島地雷夢(1879-1914)は、西本願寺の執行をつとめた島地黙雷(1838-1911)の長男である。仏教界の大立者の子息がキリスト教に入信したという話は当時かなりの話題となった。その島地雷夢は神戸で中学校の倫理の教師をすることになった。

    神戸尋常中学校(のち神戸一中と改称)の初代校長の鶴崎久米一は内村鑑三、新渡戸稲造と同級で札幌農学校出身である。おそらく鶴崎が島地を神戸へ呼んだのであろう。

    鶴崎校長、島地教諭の時代に、若き日の矢内原忠雄(1893-1961)は神戸一中で学ぶ生徒であった。矢内原は一高時代に内村鑑三・新渡戸稲造に私淑し、信仰上・思想上大きな影響を受けたことはよく知られているが、一中時代の明治41年ころ、すでに島地からキリスト教の信仰に関する何らかの影響を受けていたと推測する。だが、島地は5年後の大正3年に、神戸の御影の寄宿先で36歳の若さで早世する。

2007年11月17日 (土)

地の塩

  勇気こそ 地の塩なれや 梅真白

   中村草田男(1901-1983)のこの有名な句は、昭和19年の学徒出陣の教え子への餞に作られたという。「地の塩」とはマタイの福音書にある山上の垂訓に見られる言葉。イエスが群衆に向かって、人間のあるべき姿を説いた教えの一つである。

あなたがたは、地の塩です。もし、塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょうか。もう、何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

    冬の寒さを耐えて早春に梅が花開くように、真の勇気とは、自ら死を望むようなことをせずに、生きて帰ってくることを願う気持ちが込められている。句集「来し方行方」(昭和22年)に収められているこの句を読むと、この頃からすでにキリスト教への関心はかなり深かったように見受けられる。草田男は昭和58年8月に亡くなる前日、洗礼を受けてクリスチャンになった。

大正デモクラシーとキリスト教

    宮城県における大正デモクラシーの三羽烏といえば、吉野作造(1878-1933)、内ヶ崎作之助(1877-1947)、小山東助(1879-1919)である。三人は同じ仙台第二高等学校の卒業である。明治20年に第二高等学校が創設されたが、明治中期ころ、仙台では英語の学習のためキリスト教も学生たちの間で関心が高かった。

    明治30年、栗原基(1876-1967)は尚絅女学校の校長をしていたアンネ・サイレーナ・ブゼル(1866-1936)が土曜日の夜間に開いていた聖書研究会に同級の内ヶ崎を誘った。その後、吉野作造、小山東助、島地雷夢(1879-1914)、小西重直(1875-1948)、深田康算(1878-1928)、斉藤信策らもこれに参加した。鳥地は明治31年6月25日、広瀬川で徹夜の祈りを捧げ、神の御手に触れた体験を与えられた。翌日曜日、吉野、内ヶ崎らと共に特別祈祷会を持ち受洗を誓い、7月3日に中島力三郎から浸礼を領した。

    アンネ・S・ブゼルはアメリカのネブラスカ州ジュニアタに生まれ、父も熱心な開拓伝道牧師だった。少女時代から日本への伝道の志をもっていたという。明治25年11月25日、26歳で宣教師として来日、仙台に赴任した。キリスト教の伝道と女子教育に生涯をかけた。大正4年、校長を辞してからも盛岡、八戸、遠野、塩釜、利府および登米などに宣教し、教会・幼稚園などを設立した。

   後年、栗原基は「ブゼル先生伝」を著わしている。(昭和15年)参考までに栗原基の他の訳書も記しておく。「バーバンクと植物品種の創造」(昭和17年)、「近代基督教思想史」マッギファート著(昭和5年)、「イエスの人格」フォスヂック著(昭和28年)、「ナザレ人イエス」H.E.フォスヂック著(昭和29年)、「宝瓶宮福音書」リバイ・ドーリング著(昭和45年)「信仰の意義」などキリスト教関係が多い。しかしながら栗原基の専門は英語学である。とくに明治43年の「英語発達史」(博文館)は英語史のまとまったものとして日本では最初のものであろう。明治40年に藤沢周次と共編で「英国文学史」を出版している。92歳の生涯をかけて栗原基はブゼル女史から学んだ信仰と英語を日本に伝えたのである。

その名はヨハネ

   ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの祭司組の者でザカリアという名の祭司がいた。彼にはアロンの娘であるエリザベツという妻がいた。ふたりは老年に達していたが子がなかった。

    ある日、ザカリアが祭司の務を行いエルサレム神殿で香を焚いていると、天使ガブリエルが来て、ヨハネの誕生と将来を予言した。しかしザカリアはこれを信じなかったため、口がきけなくなった。

   やがて不妊だったエリザベツに男の子が生まれた。いまだ口のきけないザカリアは、子の名と聞かれ「その名はヨハネ」と書いた。するとザカリアはたちまち口がきけるようになった。

   祭司ザカリアとエリザベツは年老いて授かったヨハネを可愛がり育てた。ヨハネは成長し、駱駝の毛皮をまとい皮の帯をしめ、人々に「悔い改めよ、神の国が近い」とヨルダン川付近において伝道を行うようになった。ある日、イエスは「わたしにバプテスマを施してもらいたい」とヨハネに言った。ヨハネはすぐにイエスを制し、「私こそあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに、あなたが私のもとにおいでになるのですか」と言って、謙遜な態度を示したが、イエスはヨハネから洗礼を受けた。(紀元28年)

   その後、ヨハネはヘロデ王家の不倫を批判したために捕らえられ処刑された。洗礼者ヨハネはイエスを「世の罪を除く神の小羊」として人々に紹介した「イエスの証人」であった。なお、ルカによるとヨハネの母エリザベツとイエスの母マリアとは親戚で、マリアはエリザベツのところに3ヵ月滞在したという間柄であった。

この方はナザレ人と呼ばれる

    現在のナザレの町がイエスの時代のナザレと同じ場所であるのかは定かではないが、イエスが育ったナザレの村はガリラヤ湖の西岸にある首都ティべリアからかなり離れた一寒村であった。また現在のナザレは都市となり多くのアラブ人(67%がイスラム教徒、33%がキリスト教徒)が住んでいるが、紀元前後の古代ナザレの村はユダヤ人のみが住んでいた。

   新約聖書では、キリストを「ナザレ人(びと)イエス」と呼んでいる。(マタイ2:23)福音書の記事によると、「この方はナザレ人と呼ばれるであろう」という預言の成就とされている。当時マタイが牧会していたと思われるシリア地域では、キリスト者が「ナザレ人」と呼ばれており、そう呼ばれることは、ユダヤにおいては蔑みの響きがあった。おそらく、ナザレのような地方の一寒村から、救い主が出るものであろうか、という気持ちも含まれていたかも知れない。しかし、「ナザレ」という発音は、「枝」(イザヤ11:1)がへブル語で「ネシェル」と発音されることから、古くから次のような聖句を引用して解釈されることがある。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若芽が出て実を結ぶ」つまり、ダビデの父エッサイの名で呼ばれる根株から新芽が生え、そこから若芽が出て実を結ぶ。イスラエルはその若芽をメシヤと理解し、その到来を待望していた。若芽であるイエスが美しい自然のあるナザレ村で育ったことはイザヤの預言に合致するのである。

2007年11月16日 (金)

イエス・キリストの生い立ち

    「イエス」とは、ヨシュアというへブル語名のギリシヤ語の形で、「主は救い」を意味している。これは、マリヤから生まれてくる男の子の名を「イエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ)という主の使いによって与えられた解釈と合致している。

    「キリスト」とは、へブル語の「メシヤ」のギリシヤ語訳で、「油注がれた者」という意味である。旧約時代においては、神は人を特定の聖職に召された時、その任務を遂行するために必要な御霊と力を授けられたことの象徴として、油を注いで任職した。一方、イスラエルの民は、その歴史を通じて王、祭司、預言者の職を一身に兼ね備えた救い主を待望してきた。こうしたことを背景にして、「メシヤ」は神によって立てられた救い主に対する術語として用いられるようになった。復活後の使徒教会において、メシヤのギリシヤ語訳である「キリスト」はイエスに対する呼び名として広く用いられるようになった。

    イエスの生い立ちについて、特にマタイとルカの福音書が伝えている。マタイはどちらかというとヨセフの立場から描いており、ルカはマリアの立場から描いている。しかし、二つの福音書の記述には一致点も多く見られる。イエスがベツレヘムで生まれたこと、ヨセフの許婚者であったマリアより生まれたこと、ダビデの家系であること。そして特に注目すべきことは、マリアがまだ処女であった時に、イエスは聖霊によって宿り、神の御子として生まれたという事実を一致して伝えていることである。

2007年11月15日 (木)

ベツレヘムの星

    イエス・キリスト生誕の地はエルサレムの南方約8キロにあるベツレヘムとされている。一般にイエスの生年はヘロデ大王(在位前67年ー前4年)の死んだ紀元前4年の少し前とされる。誕生から間もなく(1月6日「主御公現の祝日」)救世主の誕生を祝う星が東方からやって来た3人の博士(マギ)たちを導いて、幼児イエスのいるベツレヘムまでゆき、その上でとどまった。ベツレヘムの星である。まさしくイエスはメシア・キリストという証明なのだ。東方三博士の名はガスパール、バルタザール、メルチョールの三人。ガスパールは金髪で白人の若い博士。イエスに乳香を贈った。バルタザールはひげの褐色の肌の壮年博士。イエスに没薬という高価な薬を贈った。メルチョールは白いひげの白人の老博士。イエスに黄金を贈った。黄金はイエスの生まれながらにもつ王権をあらわす。

    イエスが誕生したことを知ったヘロデはベツレヘムの2歳以下の男子を皆殺しにしようとした。ヨセフ、マリア、イエスたちは、危うくエジプトへ逃れた。

2007年8月 6日 (月)

ダビデとバテシバ

   ある日の夕暮れ、ダビデ王は午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。王は屋上から、一人の女が水を浴びているのを見た。女はたいそう美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバ(バテシバ)で、ヘト人ウリヤの妻だった。

   ダビデはヨアブに命じて、ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却させた。計略どおり、ウリヤは戦死し、バテシバはダビデの妻となった。

   しかし神の怒りにふれたダビデは、バテシバに宿した子が死に、ダビデの子であるアムノン、アブサロムと次々に死んだ。

   ダビデは妻バテシバを慰め、彼女のところに行って床を共にした。バテシバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名づけた。主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名づけた。(サムエル記・下11)

2007年7月29日 (日)

ダビデ王とバルジライ

   イスラエルの王ダビデにはアブサロムという美しい王子がいた。アブサロムは密かに兵を集めて反乱を起こした。不意をつかれたダビデ王はヨルダン川の向こう岸にあるマハナイムへと逃れた。

   ダビデ王の苦難の時、王にいろいろと世話をしたのがバルジライという80歳の老人であった。バルジライは非常に富んでいたので、マハナイムにいる王を養い、兵隊たちの食糧もすべて用意した。やがでダビデ王は反撃にでて、アブサロムをエフライムの森の戦いで破る。王は「アブサロムを殺さないように」と命じたが、樫の木に吊り下げられたアブサロムは兵士たちによって串刺しにされ殺された。ダビデはこのことを知らされ身を震わせて泣いた。「アブサロムよ、わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ」

   やがでダビデ王はエルサレムへ帰還することになった。王はバルジライに言った。「わたしと共に都に来てくれないか」バルジライは王に答えた。「わたしはもう八十歳になります。善悪の区別も知りません。この僕は何を食べ何を飲んでも味がなく、男女の歌い手の声も聞えないのです。どうしてこのうえ主君の重荷になれましょう」と丁重に断わった。そして「むしろ自分の息子キムハムがついて王のお役に立ちましょう」と言った。王はそれを受け入れキムハムをつれて都へもどった。(サムエル記)

   高齢化時代といえども、老齢ゆえの限界はある。「いつかは来たる老いの道」たとえば、日常的な例で言うと、いつ自転車や自動車を運転することをやめるか。三遊亭円楽師匠が自ら引退を決意されたことも見事な決断であった。人間である以上、必ず個々の判断が迫られる時が来る。バルジライは「自分の限界を知っていた人」といわれる。高齢化時代、老齢ゆえの限界はある。地位や名声のみを重視して、自分の能力の限界を見誤ることのないよう自分に戒めよう。旧約聖書に記されたバルジライの話によって、現実的な見方と慎み深い態度は神への関心事を最優先させるという立派な模範となるであろう。(参考:ものみの塔2007.7.15)

2007年6月 7日 (木)

復讐するは我にあり

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「復讐はわたしのすること、わたしが報復すると主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙12.19-21)

2007年6月 3日 (日)

内村鑑三の弟子たち

   明治42年10月ごろ、第一高等学校新渡戸稲造を敬慕する一高・東大の学生卒業生24、25人が一団となって内村鑑三の門をたたき種々の人が談論風発するという柏会が始まった。主なメンバーは黒崎幸吉、塚本虎二、高木八尺、藤井武、三谷隆正、前田多門など。このなかから数多くのすぐれた無教会の指導者が輩出した。大正5年10月に柏会は解散したが、藤井武、黒崎幸吉、塚本虎二、江原万理、金沢常雄、矢内原忠雄、三谷隆正、三谷隆信、前田多門などが、エマオ会を作った。明治44年には白雨会が作られた。学生を中心とする主なメンバーは、坂田祐、南原繁、星野鉄男、鈴木錠之助、石田三治、松本実三、高谷道男、植木良佐、増地庸治郎など。

   大正7年には東京教友会、エマオ会、白雨会が合併して柏木兄弟団が結成される。内村をはじめ82人の者が署名した。内村の晩年柏木における日曜ごとの集会は、内村は講壇に立ったが、かれを助けるために、畔上賢造と塚本虎二(1885-1973)が前座をつとめた。塚本虎二は大正12年から内村鑑三の弟子として内村の集会と「聖書之研究」の編集に全面的に協力していた。しかし、両者の「信仰と無教会問題の理解の相違」から、塚本は昭和5年1月以降内村から独立し、自分の集会をもち、「聖書知識」を創刊した。「聖書知識」は聖書の研究と無教会主義の伝道を目的にした月刊誌(太平洋戦争末期は隔月発行のこともあった)で、昭和38年6月(通巻397号)まで発行された。鰭崎潤は昭和10年、義弟の小館善四郎に伴われて太宰治と交友を結んだ。太宰は内村や塚本に関する話に関心を示したといわれる。太宰は「聖書知識」と塚本虎二(二人は面会することはなかった)から学んで、キリスト教をテーマとした小説を創作している。内村の7人の弟子といえば、畔上賢造、藤井武、三谷隆正、金沢常雄、矢内原忠雄、塚本虎二、黒崎幸吉である。因みにNHKアナウンサーの黒崎めぐみは黒崎幸吉の孫娘。このほか内村の孫弟子として豊田栄(医学博士)、伊東彊自(仙台気象台長)、松島省三(農学者)など。今年4月24日には藤林益三(最高裁判所長官)が100歳で死去している。

2007年5月 3日 (木)

アイルランドの修道院

    アイルランドでは5世紀はじめに聖パトリックによってキリスト教が布教され、修道院を中心として栄えた。その聖所は、たいてい人里離れたところや離島にある。イギリスのアイオナ、リンディスファーンなど何れも離島である。アイルランドでは世俗を離れて隠修者として信仰生活をすることが好まれたのである。

   ブリタニアにおいてキリスト教はすでにローマ時代末期に存在していたが、アングロ・サクソン人の侵入と共に一掃された。432年、ローマ教皇ケレスティヌス1世から布教の命を受けたパトリキウス(387-461)はアイルランドに司教として派遣された。30年間にわたる彼の布教はケルト人のドルイド教の神々を認めながら、除々にキリスト教に吸収していき、やがてキリスト教と土着の宗教との融合に成功した。のちにパトリキウスはアイルランドの守護聖者となり聖パトリックと呼ばれる。アイルランドにおけるカトリックは世俗から離れて修道院を中心とする信仰生活が栄えた。

   アイルランド修道僧コルドバ(521-597)は、563年、アイルランドを離れ、12人の仲間と共にアイオナ島に修道院を創建し、ここを伝道の拠点とした。アイオナは中世ケルト教会では最も格式の高い修道院であった。

   七王国の一つであるノーサンブリア王オズワルドは、635年、アイオナ修道院(へブリディーズ諸島)から司教エイダン(?-651)を招いて、リンディスファーンに修道院を開かせた。現在もリンディスファーンは司教の聖カスバートの名によって広く知られている。これらアイルランドの修道士たちによる布教活動により、キリスト教はスコットランドからイングランド北部にまで伝えられた。

    アイルランドで開花したキリスト教文化は、ローマ帝国の崩壊後も「西方の島」(エリン)で栄え、中世初期、逆に大陸に送り込む役割を演ずることとなった。しかしアイオナ、リンディスファーンのアイリッシュ・キリスト教は、664年のウィットビー宗教会議で復活祭の算定方法をめぐってローマ・キリスト教と衝突した。リンディスファーン司教コルマンは妥協を拒み、この地を去った。指導者を失った修道院は急速に凋落してゆく。司教カスバートは荒廃した修道院を建て直すべく尽力した。彼が687年に亡くなると、その墓所を詣でる人々が後を絶たなかった。そしてリンディスファーン島は聖カスバートの聖なる島として広くその名を知られるようになった。

2007年4月27日 (金)

札幌バンドの末裔たち

    クラーク博士が帰国する前に「イエスを信ずる者の契約」をつくり、決心者に署名を求めた。大島正健(1859-1938)、伊藤一隆(1859-1929)、佐藤昌介(1856-1939)ら一期生全員がこれに応じた。大島、伊藤らは二期生の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らに猛烈な伝道攻撃をかけ、入信に導く。彼らは「札幌バンド」と呼ばれ、北海道開拓のみならず、その後の日本の発展に大きな影響を与えた。

   とくに大島正健と伊藤一隆の友情は深い。因みに伊藤をジョンK、大島をミッショナリーモンク(耶蘇坊主)、内村をヨナタンと呼ぶ仲である。大島の夫人は伊藤の妹、千代である。また大島正健の次女の麗子は天文研究家の野尻抱影(1885-1977)の妻である。野尻抱影の弟は「鞍馬天狗」の作者である大佛次郎(1897-1973)。

    伊藤一隆の次女、伊藤恵子は大正5年青山女学院英文専門科を卒業後、英国へ留学。同地で松本泰と結婚。帰国後、大正10年に東京の東中野に文化住宅を10軒以上建てたが、松本恵子が大佛次郎の縁戚であることもあり、文士が集まるサロンのようになった。住人に長谷川海太郎(牧逸馬、谷譲次、林不忘)や小林秀雄、田河水泡らがいる。そこは、「谷戸の文化村」と呼ばれた。

   また松本泰は大正12年に奎運社を興し、「秘密探偵雑誌」を創刊、つづいて「探偵文芸」を発行した。松本恵子の父、伊藤一隆も長篇の翻訳で参加し、資金的援助もしている。

   小林秀雄は昭和3年、中原中也の恋人の長谷川泰子との同棲生活が行き詰まり、家を出奔して、奈良の志賀直哉に会いにいった。昭和4年、奈良から帰ると、東京にいる妹の小林富士子のところに住み込む。ここで「改造」の懸賞論文に「様々なる意匠」を応募し、宮本顕治の「敗北の文学」と争い、二席になる。妹の小林富士子(1904-2004)は、松本泰・恵子の媒酌により、田河水泡(1899-1989)夫人となる。小林富士子は筆名を高見沢潤子として作家となる。

   また、大島正健の山梨県立甲府中学校長在職時代に、石橋湛山(1884-1973)が入学している。石橋は後年大島の著書「クラーク先生とその弟子たち」という本の序に「個人主義の精髄 クラーク先生と大島正健先生」を寄稿している。

2007年4月25日 (水)

クラーク精神の実践者、黒岩四方之進

   札幌農学校一期生、黒岩四方之進(くろいわよものしん)は高知県安芸市出身。黒岩涙香の兄。

    明治10年1月30日、クラーク博士と生徒、総勢14人は、雪の手稲山登山をした。目的は地衣類の珍種の採集と身体鍛錬であった。珍種の地衣を見つけたが、手の届かぬところにあった。そこでクラーク博士は級中で一番背の高い黒岩四方之進をさし、自ら雪の上に四つんばいになって背の上に乗ってあの地衣を取れと命ぜられた。「三尺去って師の影を踏まず」と教えられていた黒岩は困り果てたが、先生は早く乗れとせき立てる。余儀なく彼は土足のまま先生の背の上に上がり、地衣を手に入れた。この珍種は和名で「クラークごけ」と名づけられた。

  土足で恩師の背に乗った黒岩四方之進は、クラーク先生の寛容な心に胸打たれ、「イエスを信ずる者の誓約」には一番に進み出て署名したといわれている。札幌農学校卒業後、新冠御料牧場長として畜産界に貢献したが、退官後は日高国直別に一大農場を経営して村人から直別の聖人とあがめられた。クラークの弟子からは高位高官になる者も多いが、黒岩四方之進のような生き方こそクラーク精神の真の実践者であろう。

   また彼の逸話の一つに、内村鑑三が「万朝報」に入社したのは黒岩四方之進の懇願によるものといわれている。

2007年4月24日 (火)

水産界の先駆者、伊藤一隆と内村鑑三

    ウィリアム・スミス・クラーク(1826-1886)は、明治9年8月札幌農学校初代教頭として赴任した。博士は、教育方針をアメリカのマサチューセッツ農科大学を規範とし、学問はもちろんキリスト教を基礎とする人格教育に重きをおいた。しかし、クラーク博士は8ヵ月あまりの滞在で、明治10年4月、札幌郡寒村島松で馬上一鞭あてて学生一同に向かって「ボーイズ・ビー・アムビシアス」(少年よ、大志を抱け)という有名な言葉を残して帰国した。

   クラーク博士から直接教えを受けた1期生には伊藤一隆(いとうかずたか、1859-1929、水産学)、佐藤昌介(さとうしょうすけ、1856-1939、農政、北大初代学長)、荒川重秀(あらかわしげひで、社会学、演劇家)、大島正健(おおしままさたけ、1859-1937、英文学、音韻学、農学校教師)、渡瀬寅次郎(わたせとらじろう、1859-1916、実業家)、黒岩四方之進(くろいわよものしん、黒岩涙香の兄)、2期生には内村鑑三(1861-1930)、新渡戸稲造(1862-1933)、宮部金吾(1860-1951)、広井勇(ひろいいさむ、1862-1928)、町村金弥(まちむらきんや、1859-1944、畜産家)などがいる。その後も高岡熊雄(たかおかくまお、1871-1961、農学)、松村松年(まつむらしょうねん、1872-1960、昆虫学)、有島武郎(1878-1923)、森本厚吉(もりもとこうきち、1877-1950、評論家)、半澤洵(はんざわじゅん、1879-1972、農学)など近代日本を代表する思想家、研究者、技術者、教育者を輩出させた。

   とくに内村鑑三は明治・大正・昭和の日本に大きな足跡を印し、消すことのできない影響を与えた。内村は群馬県高崎の出身で、少年時代より魚に興味を持ち、最初の職業も水産を調査報告することであった。論文「北海道鱈漁業の実況」「石狩川鮭魚減少の原因」や北海道祝津村の鮑の繁殖に関する調査を実施氏して「鮑魚蕃殖取調復命書」や「日本産魚類目録」などを残している。

   内村鑑三の先輩である伊藤一隆(いとうかずたか)も水産界で大きな功績を残した人物である。伊藤は旧姓を平野徳松といい、明治5年開拓使仮学校に入学した。明治13年札幌農学校の第1期生となり、卒業後は開拓使物産局に勤務する。以来ほぼ一貫して水産行政に携わる。魚の缶詰を作る技術指導のために来日したU.S.トリートから「鮭は人工孵化が可能で、アメリカでは実用化された技術だ」と教えられた。そして明治19年渡米し、メイン州バックスボードの孵化場で人工孵化技術を実地に学習した。そして明治21年、千歳川上流の烏柵舞(うさくまい)に日本最初の鮭鱒の人工孵化場「千歳鮭鱒孵化場」を設置した。インディアンが魚を捕獲する水車からヒントをえてインディアン水車と呼ばれている。

    伊藤一隆は、キリスト者としても明治15年に無教会主義の札幌独立教会を設立し、明治20年からは全国初の禁酒運動を指導して北海道禁酒会会長を務め、さらにイギリス宣教師バチェラーとともにアイヌ人保護にも尽力、明治27年の退官後は帝国水産会社や北大協会初代会頭としての活躍のなか新潟での石油開発も行なっている。また娘の松本恵子(1891-1976)はアガサ・クリスティーなどの推理小説や「あしながおじさん」「若草物語」などの翻訳家としてよく知られている。(参考:「20世紀日本人名事典」日外アソシエーツ)

2007年2月26日 (月)

ルツの落穂拾い

   士師の時代、ベツレヘムで飢饉があり、イスラエルのなかでも有力な部族の一つだったエフライム人のエリメレクは、妻ナオミ、そしてマフロンとキルヨンという二人の息子を連れてモアブの地に引っ越してきた。息子がモアブの女を嫁にした。兄の妻はオルバ、弟の妻はルツといった。ところが、過労がたたってエリメレクは死に、さらに二人の息子たちも死んだ。姑のナオミは嫁たちに故郷の家に帰り、新しい人生を歩むようにすすめるが、ルツのナオミと共に生きてゆくという気持ちは変わらなかった。結局二人はナオミの故郷ベツレヘムに帰るが、そこにナオミの亡き夫の親類で大地主のボアズがいた。

  ルツとナオミがベツレヘムへ帰ったのは大麦の刈り入れの時期であった。ルツはボアズの畑へ行き、落穂を拾わせてもらい姑ナオミの面倒を見た。畑主のボアズは、ルツのそうした姿を見て心を打たれ、ルツと結婚した。

   ルツとボアズの子がオベドといい、その子がエッサイで、エッサイの子がダビデである。

   イスラエルの律法には「落穂は貧しい人のために残しておき、畑主が拾い集めてはいけない」とあった。農民画家ミレーの名画「落穂拾い」の主題も旧約聖書の「ルツの落穂拾い」に題材を得ており、土地をもたない最下層の農民が豊かな農民の情にすがってその土地に入れてもらい、わずかな落ち穂を拾うことを意味している。ルツとボアズはダビデの直系の先祖であり、キリストの遠祖である。

2007年2月21日 (水)

ヤコブの夢

    ヤコブは同族の娘をめとるため、母の実家に向かって旅立つ。その途上、行き暮れて道ばたの石を枕として野宿したが、その時夢に見たのが天国に達する階段であった。夢の中で彼は天使のかたわらに立つ神に祝福され、目覚めてから「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と実感する。

   ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をぺテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。

   ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」(創世記28章10~.20)

2007年1月31日 (水)

アーミッシュ派

    モルモン教が日本でその名を知らしめたのは、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)にモルモン教のパビリオン「モルモン教館」が出展していたことが大きいだろう。ほかのパビリオンは混んでいたので、ゆっくり見れたモルモン教館は、強烈な印象があったという人も多いのではないだろうか。戸別訪問の宣教活動で知られるエホバの証人(ものみの塔)は戦後のように思われるが、実は戦前から「灯台社」として布教活動されている。これらの宗教に比べアーミッシュの歴史そのものは最も古いが、日本ではほとんど知られることなく、アメリカ映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」(1985年)によるところが大きいのではないだろうか。

    アーミッシュ派はプロテスタントのメノー派(メノナイト派、絶対平和主義で知られる一派)に属するスイス人ジャコブ・アマン(1644?-1730?)が、17世紀末に始めた一宗派。初期にはアルザス、スイスに広がったが、現在はアメリカに約4万4000人ほど残るだけである。アメリカへは1727年から50年にかけてドイツ系移民が多数が入植、そこからオハイオ、インディアナ、イリノイ、ネブラスカなどの中西部に移動していった。おもにペンシルベニア州に居住し、移住後も彼らの宗教、言語、風俗、教育を維持し、ペンシルベニア・ダッチという独特の言語を話す。聖書解釈において厳格主義をとるが、有名なのは生活様式で、原則として現代の技術による機器を生活に取り入れることを拒む。電気、電話などは使用しない。自動車は使わず、馬車を使っている。近代的な農業機械は使用しないが、優秀な農業者である。アーミッシュの服装は、男はつばの広い帽子をかぶり、ひげを蓄える、女は黒の靴下、靴をはく。教会のような建物はなく、子供の教育も自分たちで行なう。(参考:「アメリカを知る事典」平凡社)

2007年1月20日 (土)

J.F.ラザフォードと「ものみの塔」

   ジョセフ・フランクリン・ラザフォード(1869-1942)は、1869年11月8日、米国ミズーリ州モーガン郡のある農家で生まれた。1892年、ミズーリ州で法律事務に携わるための免許を得る。ラザフォードは学生時代、学費の足しにするため、百科事典の戸別セールスをしていた。それはやさしい仕事ではない。断わられることも多かった。農場を訪問し、氷の張った小川に落ちて死にそうになったこともある。彼は、弁護士になった時、だれかが事務所に本を売りに来たら絶対に買ってあげよう心に誓った。その誓いとおりに、ラザフォードは、1894年の初めに事務所にやって来た二人の聖書文書頒布者(コルポーター)から、「千年期黎明」を3巻受け取った。数週間後、本を読んだラザフォードはすぐに、ものみの塔協会に手紙を書き、その中でこう述べた。「愛する妻と私は非常な興味を抱いてそれらの本を読みました。そして、私たちがこれらの本に接する機会を得たことは神から授けられた大きな祝福であると考えております。」

  1906年、ラザフォードはバプテスマを受け、1年後にはものみの塔協会の法律顧問となった。

2006年12月30日 (土)

明治初期のキリスト教宣教

   幕末に最初のプロテスタント宣教師が横浜に来日したのは、安政6年(1859年)である。ヘボン、バラ、ブラウンらの感化を受けて、洗礼を受けた人々を横浜バンドという。(バンドとは「同志的結合」の意)まだ禁制下で横浜バンドと呼ばれる同志11名は福音主義に立ち、明治5年、日本基督公会を設立した。ブラウンの影響で植村正久(1858-1925)、井深梶之助(1854-1940)、押川方義(1849-1928)らによって日本基督教団が形成された。

   横浜のほかにも各地でバンドが形成された。熊本バンドは熊本洋学校のアメリカ陸軍士官であったL・ジェーンズの感化を受けた青年たちが明治9年1月「奉教趣意書」に署名した。札幌バンドは、札幌農学校で農学者W・S・クラークの感化を受け、明治10年3月「イエスを信じる者の契約」に署名した人々のことをいう。横浜と熊本・札幌の違いは、熊本・札幌は「お雇い外国人」と呼ばれる教師・技師が来日し、たまたまその人がキリスト者であり、その感化によってキリスト教を信じるグループができた。これに対して、横浜バンドはブラウン、バラは正規の神学教育を受けた聖職者であり、教派の組織的な活動の一つであったことであろう。

    ところで特に注目すべきことは、初期キリスト者には、旧幕府の出身が多い点である。植村は旗本植村祷十郎の長男、井深は会津藩井深宅右衛門の長男、押川は松山藩橋本昌之の三男、山路愛山も旧幕臣である。相馬黒光も仙台藩儒者の孫娘である。江戸、会津、松山、仙台と地域にかかわらず旧幕軍の子弟は、新時代に陽の目をみることがなく、キリスト教に救いをもとめる者がいたのであろうか。あるいは、明治政府に対する反骨精神が宗教に傾斜したのであろうか。現在、日本のキリスト伝道が行き詰っている原因の解明は初期指導者たちの出自と関係がないだろうか。

2006年12月18日 (月)

内村鑑三の非戦論

   三国干渉以来、日露関係は悪化し、世論には「臥薪嘗胆」を合言葉に、日露開戦のムードがあった。明治35年1月、日英同盟の締結により、官民の間に対露強硬策が叫ばれるようになった。東京帝国大学教授の戸水寛人、小野塚喜平次ら7人の博士らは明治36年1月に日露開戦の意見書を桂内閣に提出している。

   世論のこの動きに対して内村鑑三は開戦反対を唱えた。「万朝報」6月30日付で内村は、

「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を永久に殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やうはずはない」

と論じている。「万朝報」は明治25年、黒岩涙香によって創刊された日刊新聞で、発刊当時はあまり品のよくない暴露記事を主とした俗受けする記事が多かった。発行部数を伸ばそうと考えた黒岩は一流の人材を編集陣に招いて質の向上を図ろうとした。招聘された文筆家の中には幸徳秋水、堺枯川(堺利彦)、河上清らがいた。内村鑑三は札幌時代から親しかった黒岩四方之進(よものしん)の弟が黒岩涙香であることから、明治30年1月に英文欄主筆として迎えられた。明治31年5月23日には、新雑誌を創刊するため万朝報社を一旦退社するが、再び明治33年10月には再入社する。「万朝報」は明治30年代には東京でトップの発行部数を記録している。

 内村の堅い信念の非戦論に対して、黒岩は開戦論の立場をとったため、明治36年10月9日退社する。内村は「日露開戦に同意することを以て日本国の滅亡に同意することと確信」する旨を宣言した。

2006年11月25日 (土)

サムソンとデリラ

   イスラエルが40年にわたってぺリシテ人に苦しめられていた時、ダン族のマノアにサムソンが生まれた。マノアの妻は不妊の女で、子を産んだことがなかったが、サムソンの誕生は「不思議」という名の神の使いによって約束されたものであった。ただし生まれてくる子供は、生まれながらの木から産するもの、酒、汚れた食物を口にすることを禁じられ、頭にかみそりを当てることも禁じられていた。この種の人をナジル人と言った。

    サムソンは神に守られ成長し、神の霊がしばしば彼に臨む時、彼は子やぎを裂くように素手で獅子を引き裂き、ぺリシテ人の町アシケロンで30人を殺し、彼を縛った二本の綱は火に焼けた亜麻のようになって落ち、手にしたろばの骸骨一つ一千人を打ち殺した。また、その他にも彼の超人、怪力ぶりはぺリシテ人への復讐にきつね三百匹捕え尾と尾を結んでその間に松明を結びつけ、松明に火をつけてぺリシテ人の畑に放してこれを焼き、或いは閉じ込められたガザの町の城門の門柱と扉を貫の木もろとも引き抜き、肩にかついでへブロンの向かいの山頂に運び上げたことも示されている。

    サムソンは神意を受けてぺリシテ人の女セマダルと結婚し、婚礼の宴に集ったぺリシテ人30人に「食べる者から食べ物が出た。強い者から甘い物が出た」との謎を解くことを求めた。彼が殺した獅子の肉に蜂が群なし、蜜がたまっていたことを意味し、この謎解きに晴着と亜麻の服各30着を賭けた。謎を解くことのできなかった30人はサムソンの妻を脅迫し、7日目にこの妻を通して答を引き出すことに成功した。「蜂蜜より甘いものは何か。獅子より強いものは何か」するとサムソンは言った。「わたしの雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかっただろうに」

   そのとき主の霊が激しく彼に降り、サムソンはアシケロンの町でぺリシテ人30人を殺害し、はぎ取った晴着を、謎を解いた者に与えた。秘密をもらした妻をその父は花婿付添人であった男に妻として与え、これを怒ったサムソンは狐を使ってぺリシテ人の畑を焼いたのである。ぺリシテ人はユダの人々を脅迫し、サムソンの引き渡しを要求した。この時サムソンを縛った綱は火に焼けた亜麻のように解け、サムソンはろばの顎骨で一千のぺリシテ人を撃ち倒したのである。

   ガザの城門を引き抜いた後、サムソンはソレクの谷に住むデリラという女を愛した。ぺリシテ人はサムソンの怪力の秘密を聞き出そうとデリラを買収した。サムソンはデリラに偽の情報を与えて三度彼女の願いをかわしたが、ついにデリラの哀願にまけ、その秘密を漏らした。かみそりを当てたことのない頭髪が力の源泉であった。デリラはひざの上でサムソンを眠らせ、人を呼んで彼の髪をそり落させ、ぺリシテ人に引き渡した。サムソンは両眼をえぐられガザに引かれ、獄で青銅の足枷を繋がれて臼を曳かされる身となった。

    ぺリシテ人の君侯たちが集まって、彼らの神ダゴンに犠牲を献じる日に、サムソンは群集の前に引き出された。男女が集い、屋上には三千の見物人がいた。サムソンは二柱の支柱の間に身を寄せ、身を屈めて柱を圧した。家は崩れ、そこに居た者たちは皆圧し潰された。サムソンの頭髪は再び伸びていたのである。サムソンも死んだが、この時殺した者の数は彼が生前殺したものより多かった。やがて彼の亡骸は親族に引き取られ、故郷の父マノアの墓に葬られた。彼の活躍したのは20年間であった。

    士師記の英雄たちの行動は、多くのクリスチャンを当惑させる。このような人々の信仰をどうして推奨することなどできるだろうか。どのようにして神はこれらの人々を用いることができたのであろうか。このような問いに対しては、完全に満足のいく答えをだすことはできない。神は、その生活が非難の余地なしとはとてもいえないような人々や、全く間違った動機から行動している人々をさえお用いになったのであり、現在も用いておられるということである。聖書の中で、彼らの不道徳は大目に見られてもいないし、もっともらしいこじつけの解釈もされていない。ただ彼らの信仰と勇気だけが推奨されているのである。神は、一見、希望のない、堕落した時代においても、ご自身の究極の目的が妨げられるのをお許しにはならないのである。

   セシル・B・デミル監督の映画「サムソンとデリラ」(1949年)は迫力の演出と絢爛豪華なセットで聖書世界の映像化に成功した。豪勇サムソンにはビクター・マチュア、デリラにはへディ・ラマール、セマダルにはアンジェラ・ランズベリーが熱演した。なおセマダルの名前は手元にある聖書には見当たらず、映画で使用された名前である(参考:「士師記」、「聖書の世界」自由国民社)

2006年11月17日 (金)

大阪時代の内村鑑三

   内村鑑三の大阪在住時代は明治25年9月から明治26年4月までの僅か半年余りの期間である。内村32、33歳のこの時期は、あの不敬事件の直後であり、二番目の妻の横浜加寿子の死、そして自身にも肺炎と腸チフス、不眠症が続いていた。札幌、越後と転地療養したが、失職のため経済状況が切迫していた。彼には年老いた両親とまだ若い弟二人、妹一人の世話をする責任があった。

   内村鑑三の生涯にわたる旺盛な執筆活動は、このような経済的な事情が背景にあるように思われる。かれは東京市内の教会の英語バイブルクラスを担当し、「六合雑誌」に投稿したりしていた。明治25年9月、大阪市梅田の泰西学館という中学校に定職を見つけた。家族を東京に残して内村は単身この学校の教員として翌年の4月まで大阪で暮らすこととなる。この大阪時代に多数の論文を執筆しているが「文学博士井上哲次郎君に呈する公開状」もその一つである。著作物では彼の代表作のひとつ『基督信徒の慰め』も大阪時代のものである。「愛するものの失せし時」「国人に捨てられし時」「基督教会に捨てられし時」「事業に失敗せし時」「貧に迫りし時」「不治の病に罹りし時」と六つの章は、まさに彼が現実の試練を経験する中で霊のなぐさめを説明したものである。そして教会から追い出され「余は無教会となりたい」と書いている。後年の無教会主義者内村鑑三はこの大阪時代に初めて「無教会」という言葉を使ったのである。

   もうひとつ内村の大阪時代に大きな出来事がある。明治25年12月25日に岡田シズと結婚している。シズ夫人は当時18歳、以後内村の生涯の終わりまで苦楽をともにすることになる。夫人の父岡田透は、当時京都市の判事であり、弓術の大家でもあった。この夫人の協力を得て、内村は明治26年1月初旬から日曜学校を始める。来会者は20名くらいだった。4月には蔵原惟郭の招きで熊本英学校に転任する。だがこの学校もまた一学期いただけで退職する。教育者としての内村は、北越学館、一高、泰西学館、熊本英学校と短期間に転任したが、教育界に失望したようである。日本の学校教育は人物養成を目的と称しているが、実は役人または職人養成のためのものでしかない。永遠にわたる真理をきわめんと欲するのが学生の願いでもなければ、またこれを彼らに吹き込んで彼らを「真個のゼントルメン」に作り上げようとするのが教師の目的でもない。それゆえ既成の学校で自分が働くのは無益である。「口を噤まれし余にとりては今は筆をとるよりほかに生存の途がなくなった」と後年その当時を回想して内村は述べている。教育界を去るべく決心したかれに残された職業は、筆一本で生きる評論家としての仕事以外になかった。(参考:関根正雄「内村鑑三」清水書院)

2006年10月 3日 (火)

明石順三と灯台社

    明石順三(1889-1965)は、明治22年7月、滋賀県坂田郡息長村字岩脇の、代々彦根藩の藩医をつとめた外科医の家に生まれた。明治40年、上京して島貫兵太夫が主宰する力行会に入る。明治41年2月、18歳の明石は渡米、労働しながら苦学する。「羅府新聞」「日米新聞」などの記者となったが、キリスト教にひかれる。大正13年、ロスアンゼルスの新聞社を辞し、ワッチタワーの講演伝道師となり、アメリカ各地を旅行して在米邦人の間にその信仰を普及することにつとめた。大正14年10月、明石が日本語訳した「神の立琴」がワッチタワー総本部から出版された。

   ワッチタワーの教義が目指したのは、聖書の真理に対する直接的な信仰であった。そして、きわめて忠実な聖書の読解にもとづいて、創造主エホバを唯一の神とみなし、その子であるキリストが来るべき最後の審判のときに再臨して、サタンの支配する悪の組織制度に属するこの世、圧制や戦争・貧困、疾病などに悩むこの世を滅ぼし、地上に「神の国」を建設するであろうことを説いたもので、再臨の思想を信仰の中心においていた。ワッチタワーでは牧師はつくらず、そこで洗礼を受けたものは聖書に示されたエホバの目的を証しする人間という意味で、エホバの証人と呼ばれる。こうしてエホバの証人の一人となった明石順三は、大正15年9月、ワッチタワー総本部の正式派遣として、日本に支部をつくるために単身帰国することになった。

    須磨浦聖書講堂によった明石は、物見櫓の意味をもつワッチタワーという協会名を、この世において灯台のごとく光を放つ仕事をなすという見地から灯台社と名づけることにした。昭和8年、灯台社は弾圧を受け、全国一斉に伝道者が検挙されたが、明石は満州に伝道中で難をまぬがれた。その後、灯台社から村本一生、明石真人などの軍隊内兵役拒否者をだしたことで、戦時下抵抗として知られている。昭和14年の第二次検挙で一家をはじめ、本部員・伝道者が一斉検挙され、昭和18年明石は反戦・国体変革・不敬罪によって懲役10年の判決を受け、宮城刑務所で服役した。非転向を貫いた明石は、戦後昭和20年10月政治犯の一斉釈放とともに釈放されたが、国家権力に対しては妥協的になっていたワッチタワー総本部を文書で批判し、以後伝道の実践からはなれ、執筆生活を送った。(参考:稲垣真美「兵役を拒否した日本人」)

2006年9月30日 (土)

正宗白鳥、内村鑑三を語る

    正宗白鳥(1879-1962)は、明治41年の「何処へ」などで自然主義作家として認められたが、昭和期になると評論が活動の中心となる。人生に対しても文学に対しても批判的、懐疑的な傾向が強く、「永遠の懐疑者・傍観者」といわれる。戦後にも小説や回想的評論が多く、生命の長い文学者である。

    正宗白鳥、本名は正宗忠夫は、明治12年、岡山県和気郡穂浪で生まれた。13歳のとき、民友社の「国民の友」を愛読し、はじめてキリスト教の存在を知る。15歳のとき、香登村のキリスト教講習所に通う。ついで岡山市に寄宿、病院に通うかたわらに、米人宣教師の経営する薇陽学院(米国より帰国した安部磯雄が主座教論)で英語を学ぶ。同時に、孤児院の院長の石井十次より聖書の講義を聞いた。明治29年、17歳のとき、東京専門学校英語専修科に入学。毎日曜、市ヶ谷のキリスト教講習所で植村正久の説教を聞く。夏、帰省の途中、興津で開かれたキリスト教夏期学校に出席、内村鑑三の風貌にはじめて接し、その連続講演「カーライル」を聞く。明治30年、受洗。明治31年、神田の基督教青年会館で、鑑三のカーライル、ダンテ、ゲーテ、ホイットマンなどに関する文学講和を聞き、深い感銘を受ける。7月には東京専門学校英語科卒業。ついで新設の