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2017年4月 3日 (月)

アダムが食べた木の実はリンゴではない!?

   聖書の中で、アダムとイブはこの世に登場した最初の人類として描かれている。エデンの園に暮らしていた2人は、蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べ、それがもとで2人は楽園から追放される。だが、そのもととなった古代ヘブライ語の原文では、単に「果物」と書かれているだけで、リンゴやほかの果物とは特定されていない。しかし一般に禁断の木の実は、リンゴ(青リンゴ)だといわれる。しかしリンゴというのは寒い地方になる果物であり、エデンの園周辺にリンゴの木は存在しなかったとされ、「禁断の果実」はリンゴである可能性は低いと考えられる。それはラテン語の「malus」の意味をとりちがえたものらしい。malus は、形容詞では「邪悪な」を意味するが、名詞になると「リンゴ」の意味になる。禁断の木の実=リンゴ説が一般化するのは、ミルトンの「失楽園」(1667年)からだといわれる。しかし、「聖書」創世記2章17には「善悪の知識の木」とあり、リンゴという記述はない。東欧のスラブ語圏では、禁断の木の実はブドウと考えている。またアダムとイブがイチジクの葉で体を隠していたことから、イチジクの実に違いないという説もある。ミケランジェロ・ブオナローティのシスティーナ礼拝堂天井画はイチジクが描かれている。このほか、ザクロ、キャロブ、シトロン、ナシ、ダチュラ、トマトなどが禁断の果実という説がある。リンゴが西欧世界で性のメタファー(隠喩)となるのは、ギリシア神話の影響があるからだとする説もある。争いの女神エリスがリンゴを投げ入れ、「最も美しき女性に」と書かれたことから、アフロディテ、ヘラ、アテーナーの3人が争った。その審判をトロイア王のパリスが行った。パリスは、アフロディーテを選び、その結果、世界一美しい女性へレンを得た。これがトロイア戦争の発端となるという「黄金のリンゴ」の伝説は、アダムとイブの「禁断の果実」とも結びついているというのである。

2017年3月20日 (月)

イサクの犠牲

10006200824 カラヴァッジョ「イサクの犠牲」 1603

  アブラハムはメソポタミア南部の大都市ウルで生まれたが、父に連れられて北方のハランに移住し、75歳のときそこからまた、神の命令に従い、パレスチナに移った。アブラハムにはサラという妻がありましたが、2人は長い間、子どもに恵まれなかった。ところがアブラハムが99歳になったとき、神が彼にのぞんでいわれた。「彼女によってあなたに1人の男の子を授けよう」アブラハムは、自分が100歳近く、サラは90歳にもなってどうして子が生れようか、心のなかで笑いました。けれども、実際に男の子が生れて、イサクと名づけました。イサクとは「笑い」という意味である。

 あるとき「あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」という驚くべき命令を神から与えられたが、黙ってこれに従い、息子を連れて3日間旅をして指定された場所に着いた。そして連れてきたふたりの従者は、乗ってきたロバとともに麓に残し、イサクに薪を背負わせ、彼自身は火と刃物を手に持ちふたりだけで、のちにエルサレムの神殿が築かれることになる山を登り、そこに祭壇を設け、イサクをしばり、薪の上に載せると、刃物を振って殺そうとした。しかしその瞬間に、天使が声をかけて彼をとめ、アブラハムが目をあげて見ると、背後のやぶに1頭の雄羊がいたので、彼はこれを捕らえ、イサクの代わりに生贄として神に供えて、それを生贄とした。イサクが結婚する年齢になった時、アブラハムは彼のために妻を見つけさせた。これがリベカである。イサクとその家族はカナンとネゲブとの間を往来した。イサクの羊飼いが、ある井戸のことで争いを起こしたので、「7つの井戸」と呼ばれるベエル・シバに移った。イサクが死んだ時、彼もまたマクペラの洞穴のなかのアブラハムのそばに葬むられた。

2017年1月 9日 (月)

内村鑑三不敬事件

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    明治23年10月30日に発布された教育勅語について文部省はその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布した。内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校では、明治24 年1月9日にその奉読式を実施した。その際、内村は、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教の信念に従い、軽く会釈する程度の敬意を表することにとどめたが、生徒および教員の一部から、この内村の行為は皇室に対する不敬であるとの非難が発生し、同年1月から、その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種に達したが、そのほとんどは、「不忠の臣」「外教の奴隷不敬漢」というものであった。生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいた。新聞報道などによって「不敬事件」として一挙に社会問題となったが、内村は自分がけっして勅語の趣旨を批判するものではないと弁明し、宗教上の拝礼ではなく社会的な敬礼であればと、たまたま病床にあったために友人の教授木村駿吉に代理敬礼を委嘱した。事件後1ヵ月も経たない同年2月3日病気を理由に同校を依願退職した。全国から激しい非難を浴びた内村は、その後、病床に就く。看病した妻加寿子は、心身の疲れから、急逝した。

   しかし、この機会にキリスト教の弊害を指摘しようとする国体論者や仏教界の一部などからの画策もあって、帝国大学教授井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」を発表するや、問題は単なる内村の一「不敬行為」への糾弾からキリスト教一般への攻撃へと展開していった。内村は井上に反論する形で「基督教徒の慰め」を出版。内村は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張している。のちに丸山真男は「こういう事件は、直接の被害者はひとりか数人であっても、タブーを社会的に拡大し、無数の人々の思想に目に見えない統制を加えるという点で、大きな意味をもつわけであります」と分析している。(「思想と政治」1957年8月 信濃教育第849号)

2016年12月25日 (日)

サンタの服が赤いのは!? 

Photo_4     一般に、イエスは12月25日に生れたとされている。「クリスマス」は「キリストのミサ」、つまりキリスト降誕を祝うミサを意味する。しかし聖書にはイエスの誕生の日付は記されていない。12月25日は、農耕神サトゥルヌスを讃えるサトゥルナリア祭やローマのソルとペルシャのミトラという太陽神の祝祭を合体させたものである。それらの異教の祝祭日を教皇ユリウス1世が西暦350年にキリスト教の誕生日であると宣言したことにはじまる。研究者によると、実際のイエスの誕生日は古代ユダヤ暦のエタニムの月(9~10月)だそうだ。初期キリスト教の伝道者たちはイエスの誕生を祝ったりせず、イエスの死だけを記念して祝った。もちろんサンタクロースの話などはイエスと無関係。小アジア(現在のトルコ)のミラの聖ニコラウス大司教に由来する。聖ニコラウスを意味するオランダ語がなまって「シンテルクラース」から派生した。今日の、赤と白の衣裳に白いあご髭をたくわえた優しそうなおじいさんのサンタは、当時の有名な画家サンドプロムが描いたコカ・コーラの広告(1931年)が世界中に広がって、知られるようになった。クリスマスにプレゼントを贈ったり、ゲームを楽しんだり、パーティで馬鹿騒ぎすることは、古代ローマ人の太陽の誕生を祝うという偽りの宗教に由来する習慣である。教会の指導者たちは、真理を教えることよりも、教会の信者席をいっぱいにすることに熱心になり、コンサートとか行事を催している。クリスマスに愛する異性と夜を過ごすという日本の風潮も嘆かわしいもの。世俗化・商業化されたクリスマスは地域経済の活性化に大きく貢献していると人はいうかもしれない。しかし経済的負担をかけることは神の崇拝とは無縁のことである。最近ではデパートなどショッピング・センター以外にも公共の場でも大きなクリスマス・ツリーをみかける。ツリーを飾る習慣は、ドイツで行われていた樹木信仰を取り入れたもので、19世紀以降に北ヨーロッパや北米に広まった。イエスをたたえるはずの時が、子供をだます時になるのはおかしなことではないだろうか?

2016年12月24日 (土)

ベツレヘムの星

    イエス・キリスト生誕の地はエルサレムの南方約8キロにあるベツレヘムとされている。一般にイエスの生年はヘロデ大王(在位前67年ー前4年)の死んだ紀元前4年の少し前とされる。誕生から間もなく救世主の誕生を祝う星が東方からやって来た3人の博士(マギ)たちを導いて、幼児イエスのいるベツレヘムまでゆき、その上でとどまった。ベツレヘムの星である。まさしくイエスはメシア・キリストという証明なのだ。東方三博士の名はガスパール、バルタザール、メルチョールの三人。ガスパールは金髪で白人の若い博士。イエスに乳香を贈った。バルタザールはひげの褐色の肌の壮年博士。イエスに没薬という高価な薬を贈った。メルチョールは白いひげの白人の老博士。イエスに黄金を贈った。黄金はイエスの生まれながらにもつ王権をあらわす。

    イエスが誕生したことを知ったヘロデはベツレヘムの2歳以下の男子を皆殺しにしようとした。ヨセフ、マリア、イエスたちは、危うくエジプトへ逃れた。

2016年12月15日 (木)

明治のクリスマス

Tumblr_mfhf4o9lle1qbn3ato1_500   日本人が初めてクリスマスを祝ったのは、1874年、米国長老教会の宣教師の指導の下、原胤昭(1853-1942)が東京・築地湊の第一長老教会で催したクリスマス祝会で、戸田忠厚という者が裃をつけ、大小脇差を携えて、大森カツラをかぶったお殿様姿でサンタクロースとして登場した。同年中、この教会で受洗し後牧師となる田村直臣も、この祝会に参加したが、「さんたくろすがとんなものか見たことはなく、クリスマスとどう関係があるかも知らず、ただのその名前が大変奇妙に聞えた」と述懐している。1898年、進藤信義が日曜学校の子供向け教材として作成した冊子「さんたくろう」(三太九郎)の扉絵は、ロバを従えクリスマスツリーを抱えて、ややドイツ風のサンタクロースであった。

2016年11月 8日 (火)

J.F.ラザフォードと「ものみの塔」

Jfrutherford1911   ジョセフ・フランクリン・ラザフォード(1869-1942)は、1869年11月8日、米国ミズーリ州モーガン郡のある農家で生まれた。1892年、ミズーリ州で法律事務に携わるための免許を得る。ラザフォードは学生時代、学費の足しにするため、百科事典の戸別セールスをしていた。それはやさしい仕事ではない。断わられることも多かった。農場を訪問し、氷の張った小川に落ちて死にそうになったこともある。彼は、弁護士になった時、だれかが事務所に本を売りに来たら絶対に買ってあげよう心に誓った。その誓いとおりに、ラザフォードは、1894年の初めに事務所にやって来た二人の聖書文書頒布者(コルポーター)から、「千年期黎明」を3巻受け取った。数週間後、本を読んだラザフォードはすぐに、ものみの塔協会に手紙を書き、その中でこう述べた。「愛する妻と私は非常な興味を抱いてそれらの本を読みました。そして、私たちがこれらの本に接する機会を得たことは神から授けられた大きな祝福であると考えております。」

  1906年、ラザフォードはバプテスマを受け、1年後にはものみの塔協会の法律顧問となった。 Joseph Franklin Rutherford

2016年5月18日 (水)

聖書

3z20120815gz0jpg0023910010    聖書はユダヤ教およびキリスト教関連の宗教にはもっとも重要な宗教文書とされる。もっとも旧約聖書と新約聖書の両者を聖書と呼ぶのはキリスト教の立場に基づくものであることは留意すべきである。ユダヤ教にとってはいわゆる新約聖書は経典ではないし、イスラム教にとっては両聖書とクルラアーンとはいずれも経典である。ただしクルアーンが優越すると考えられている。図版はエルビス・プレスリー所蔵の聖書。聖書の内容は、天地創造、アダムとイブの禁断の果実、ノアの方舟、アブラハムと子供たち、天使と格闘してイスラエルの名前を授かったヤコブ、モーゼの出エジプト、王国に繁栄をもたらしたダビデとソロモン、バビロン捕囚、キリストの復活など。このような歴史的な叙述だけでなく、法律、預言、詩、格言、歌、手紙などさまざな文章が集められている。エホバの証人の本によると、「聖書は西暦前1513年に書き始められ、1600年以上かけて、西暦98年に書き終えられた」とある。これは66冊の書からなる聖書の初めの部分、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「ヨブ記「民数記」「申命記」「詩編90編」をモーセが書いたと考えているからである。そうすると、聖書は今から約3500年前に書き始められたことになるが、文字の発達していない時代にこのような複雑な文章を残すことは歴史学的立場から考えるとあり得ない話である。(Bible,Quran)

  聖書・キリスト教関係文献目録

摩太福音書 ジョナサン・ゴーブル  1871
西洋教草 永田方正          1873
新約聖書 日本聖書協会       1879
旧約聖書 日本聖書協会       1888
聖書辞典 平文・山本秀煌編纂 基督教書類会社 1892
引照新約全書 大日本聖書館 1894
上川基督教育青年会憲法及細則 上川基督教青年会 1902
約翰傳福音書新約聖書 聖書館 1903
戦争と宗教 デフォリスト述 警醒社書店 1905
聖書物語 通俗文庫 百島冷泉訳 内外出版社 1907
ルナン氏耶蘇会 エルネスト・ルナン 日高有倫堂 1908
旧約聖書出埃及記 米国聖書会社 1911
使徒行伝 新約聖書 米国聖書会社 1915
基督再臨問題講演集 内村鑑三 岩波書店 1918
新約聖書一日一訓 松本苦味編 大日本雄弁会 1918

2016年5月13日 (金)

ローマ教皇を狙撃したテロリストは今どうしている・・・

Photo_verybig_112043     1981年5月13日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はバチカンのサン・ピエトロ広場で白いパパ・モビル(専用のオープンカー)に乗っているところを銃撃された。弾丸は教皇の腹部と右肘、左手に命中した。車はその場からすぐに病院に直行した。大手術の結果、腹部から弾丸を摘出し、一命をとりとめた。犯人は、イスラム教過激派のアルメニア系トルコ人、メフメト・アリー・アジャで、1年前から教皇暗殺を計画していた。教皇は、手術4日後には、犯人を許す旨のコメントを発表している。5月23日、ローマの重要裁判所は犯人のアジャに対し、終身刑を言い渡している。2000年には教皇の恩赦によりイタリアを出所、イスタンブールに移る。2010年に出所している。

2016年4月29日 (金)

ロダン「考える人」は何を考えているのか?

Photo_9    ロダンの「考える人」は何を考えているのだろうか?この作品を見て、私は、人がどのような感想をもつだろうかということについてことに関心がある。ある人は、芸術的な美的感覚で鑑賞し、またある人は、深刻に考えている哲学者だと思うかもしれない。だがこの有名な彫刻は単独の作品ではなく、ロダンが未完成であったダンテの神曲に着想を得た地獄門の群像の中の1つであった。地獄の門は死後の世界への門なので、おそらく人間の業とか死の問題と関わりがあるのではないだろうか。「考える人」は発表された当時は「詩人」というタイトルだった。詩人ダンテから命名されたのであろう。しかし沈思のポーズに注目され、ブロンズ像を鋳造したレディエによって「考える人」と呼ばれるようになった。これは宗教上で言えば西欧では「キエティスム」(Quietisme)といわれている。静寂主義と訳される。休息、休養を意味するラテン語のクィエスquiesからきた言葉で、カルヴィン派の人々がルター派の信仰態度を軽蔑してこう呼んだのが始まりとされる。広義には、自己の意思や行為を否定して、神の意志とか運命のうちに自己をゆだね、そこにやすらおうとする受動的な精神の態度を意味する。17世紀にフランス、イタリア、スペインで広まったキリスト教哲学だが、純粋な信仰態度はのちの敬虔主義に影響を及ぼし、20世紀のロダンの信仰にも少なからず影響を与えたものと考える。(penseur)

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