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2020年6月 8日 (月)

アイルランドの修道院

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 リンディスファーン修道院

 アイルランドでは5世紀はじめに聖パトリックによってキリスト教が布教され、修道院を中心として栄えた。その聖所は、たいてい人里離れたところや離島にある。イギリスのアイオナ、リンディスファーンなど何れも離島である。アイルランドでは世俗を離れて隠修者として信仰生活をすることが好まれたのである。

   ブリタニアにおいてキリスト教はすでにローマ時代末期に存在していたが、アングロ・サクソン人の侵入と共に一掃された。432年、ローマ教皇ケレスティヌス1世から布教の命を受けたパトリキウス(387-461)はアイルランドに司教として派遣された。30年間にわたる彼の布教はケルト人のドルイド教の神々を認めながら、除々にキリスト教に吸収していき、やがてキリスト教と土着の宗教との融合に成功した。のちにパトリキウスはアイルランドの守護聖者となり聖パトリックと呼ばれる。アイルランドにおけるカトリックは世俗から離れて修道院を中心とする信仰生活が栄えた。

   アイルランド修道僧コルドバ(521-597)は、563年、アイルランドを離れ、12人の仲間と共にアイオナ島に修道院を創建し、ここを伝道の拠点とした。アイオナは中世ケルト教会では最も格式の高い修道院であった。

   七王国の一つであるノーサンブリア王オズワルドは、635年、アイオナ修道院(へブリディーズ諸島)から司教エイダン(?-651)を招いて、リンディスファーンに修道院を開かせた。現在もリンディスファーンは司教の聖カスバートの名によって広く知られている。これらアイルランドの修道士たちによる布教活動により、キリスト教はスコットランドからイングランド北部にまで伝えられた。

    アイルランドで開花したキリスト教文化は、ローマ帝国の崩壊後も「西方の島」(エリン)で栄え、中世初期、逆に大陸に送り込む役割を演ずることとなった。しかしアイオナ、リンディスファーンのアイリッシュ・キリスト教は、664年のウィットビー宗教会議で復活祭の算定方法をめぐってローマ・キリスト教と衝突した。リンディスファーン司教コルマンは妥協を拒み、この地を去った。指導者を失った修道院は急速に凋落してゆく。司教カスバートは荒廃した修道院を建て直すべく尽力した。彼が687年に亡くなると、その墓所を詣でる人々が後を絶たなかった。そしてリンディスファーン島は聖カスバートの聖なる島として広くその名を知られるようになった。793年ヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃した。

2020年4月18日 (土)

イエスと孔子の死の記念日

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 成均館大学の学生たちによる八佾舞(パリルム)

 

  イエスも孔子も古い人なので命日をはっきりと定めることは困難がともなうようである。没年は西暦でいうとイエスが西暦28年、30年、33年と諸書によって異なる。孔子の没年は周の敬王41年、魯の哀公16年で紀元前479年は確定している。イエスも孔子も命日は定かではないが共に太陽暦でいうと4月になるらしい。イエスが処刑された日をユダヤ人は過ぎ越しの記念式に制定した。ユダヤ暦のニサン14日に行われた。これは太陽暦に換算するとだいたい4月上旬に当る。(今年は4月19日) 孔子の没日は「礼記・檀弓上」に陰暦2月11日(2月18日とする説もある)とあり、4月己丑、4月11日(崔述の考証による)、あるいは4月18日に当る。韓国では孔子の命日に「八佾舞」(パリルム)が5月11日に行われる。

2020年4月13日 (月)

アーミッシュ派

  コロナ感染が世界中に猛威をふるう時代、オリンピックや万国博覧会という巨大なイベント・プロジェクトが旧時代のものであることがわかりはじめてきた。人類が生存するためには近代以前に戻るべきだと。モルモン教が日本でその名を知らしめたのは、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)にモルモン教のパビリオン「モルモン教館」が出展していたことが大きいだろう。ほかのパビリオンは混んでいたので、ゆっくり見れたモルモン教館は、強烈な印象があったという人も多いのではないだろうか。戸別訪問の宣教活動で知られるエホバの証人(ものみの塔)は戦後のように思われるが、実は戦前から「灯台社」として布教活動されている。これらの宗教に比べアーミッシュの歴史そのものは最も古いが、日本ではほとんど知られることなく、アメリカ映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」(1985年)によるところが大きいのではないだろうか。

    アーミッシュ派はプロテスタントのメノー派(メノナイト派、絶対平和主義で知られる一派)に属するスイス人ジャコブ・アマン(1644?-1730?)が、17世紀末に始めた一宗派。初期にはアルザス、スイスに広がったが、現在はアメリカに約4万4000人ほど残るだけである。アメリカへは1727年から50年にかけてドイツ系移民が多数が入植、そこからオハイオ、インディアナ、イリノイ、ネブラスカなどの中西部に移動していった。おもにペンシルベニア州に居住し、移住後も彼らの宗教、言語、風俗、教育を維持し、ペンシルベニア・ダッチという独特の言語を話す。聖書解釈において厳格主義をとるが、有名なのは生活様式で、原則として現代の技術による機器を生活に取り入れることを拒む。電気、電話などは使用しない。自動車は使わず、馬車を使っている。近代的な農業機械は使用しないが、優秀な農業者である。アーミッシュの服装は、男はつばの広い帽子をかぶり、ひげを蓄える、女は黒の靴下、靴をはく。教会のような建物はなく、子供の教育も自分たちで行なう。(参考:「アメリカを知る事典」平凡社)

2020年4月 6日 (月)

大阪万博とモルモン教とゾウ

   日本にモルモン教が広まったのはいつ頃からであろうか?1970年3月14日から開催された日本万国博覧会(EXPO'70)以降とするのが一般的な見方であろう。しかし文献を漁ると、国立国会図書館の所蔵図書には内田融の「モルモン宗」文明堂、明治35年刊行があり、110年以上の歴史がある。モルモン教がアメリカで設立されたのは1830年4月6日のことである。

  鈴木正三は1968年に末日聖徒イエスキリスト教会、日本伝道部の第一顧問となった。折しも日本万国博覧会の会場建設が吹田市の千里丘陵で始まりつつあった。教会はこの万博に出展を決め、モルモン館を建設する。鈴木はその館長に就任し、毎日多くの要人を迎えた。万博開催中のある日、当時の皇太子殿下(今上天皇)がモルモン館を訪ねられた。鈴木が案内する中、皇太子殿下は一つだけ質問をされた。「イエス・キリストとはどなたですか?」鈴木はこう答えたという。「イエス・キリストは神様の独り子で、この世を創造された御方であり、わたしたちはこの地上で生活したことについて、いつかイエス・キリストの前で裁きを受けます。わたしも裁きを受けます」

   万国博覧会の来場者数は、6421万8770人であった。わたしもその中の1人である。

   モルモン教とともに思い出されるのはタイの像の来日である。夏のイベントに出演するためタイからはるばる大阪に20頭ものゾウがやってきた。神戸港から大阪までゾウの行進があり、みんなで見た想い出のある方も多いだろう。滞在中にオスの赤ちゃんが生まれ、「おまつり広場」にちなんで「ひろば」と名づけられた。あの「ひろば」くんはいまどうしているだろうか?関西大学のあるサークルが2年にわたって調査したところ、ゾウは30年ほど前に亡くなっていたことが判明した。

 

 

 

 

2020年4月 5日 (日)

宣教医ベッテルハイム

 1846年のこの日、イギリス軍艦が琉球に来航した。この船にはハンガリー出身のイギリス宣教医バーナード・ジョン・ベッテルハイム(1811-1870)が乗船していた。彼は那覇の護国寺を拠点に8年間滞在し、キリスト教の伝道に勤めた。(4月5日)

 

2020年1月 9日 (木)

内村鑑三不敬事件

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   近代日本思想におけるウッチャン、ナンチャン、そしてマルチャンとは、内村鑑三、南原繁、丸山真男。明治23年10月30日に発布された教育勅語について文部省はその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布した。内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校では、明治24 年1月9日にその奉読式を実施した。その際、内村は、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教の信念に従い、軽く会釈する程度の敬意を表することにとどめたが、生徒および教員の一部から、この内村の行為は皇室に対する不敬であるとの非難が発生し、同年1月から、その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種に達したが、そのほとんどは、「不忠の臣」「外教の奴隷不敬漢」というものであった。生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいた。新聞報道などによって「不敬事件」として一挙に社会問題となったが、内村は自分がけっして勅語の趣旨を批判するものではないと弁明し、宗教上の拝礼ではなく社会的な敬礼であればと、たまたま病床にあったために友人の教授木村駿吉に代理敬礼を委嘱した。事件後1ヵ月も経たない同年2月3日病気を理由に同校を依願退職した。全国から激しい非難を浴びた内村は、その後、病床に就く。看病した妻加寿子は、心身の疲れから、急逝した。

   しかし、この機会にキリスト教の弊害を指摘しようとする国体論者や仏教界の一部などからの画策もあって、帝国大学教授井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」を発表するや、問題は単なる内村の一「不敬行為」への糾弾からキリスト教一般への攻撃へと展開していった。内村は井上に反論する形で「基督教徒の慰め」を出版。内村は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張している。のちに丸山真男は「こういう事件は、直接の被害者はひとりか数人であっても、タブーを社会的に拡大し、無数の人々の思想に目に見えない統制を加えるという点で、大きな意味をもつわけであります」と分析している。(「思想と政治」1957年8月 信濃教育第849号)

 

 

2019年12月25日 (水)

サンタの服が赤いのはコカ・コーラの広告がきっかけ

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2019年6月29日 (土)

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。

2019年4月19日 (金)

日本で最初の和訳聖書はいつか?

 明治13年(1880年)のこの日、新約聖書の日本語訳全巻が完成した。

   レファレンス協同データーベースの質問「聖書の和訳が日本でできた年を知りたい」とある。大阪府立図書館の回答(キリスト教33)によれば、「明治4年のゴーブル訳「摩太福音書」とある。「摩太福音書」とは「マタイ福音書」のことで、ジョナサン・ゴーブルによる抄訳であるが、明石書店から1989年に復刻版が刊行されている。永田方正(1838-1911)による「西洋教草(おしえぐさ)」は、2年後の明治6年のことで、これも抄訳ではあるが、かなり分量が増えており、こちらのほうを日本最初とする本もある。全訳としては、日本聖書協会が明治12年に「新約聖書」を、明治21年に「旧約聖書」を完成している。明治13年にはネイサン・ブラウンが「志無也久世無志與(しんやくせいしょ)」が日本語としては初めての、新約聖書全巻の翻訳である。ところでジョナサン・ゴーブル(1827-1896)は若い頃、強盗で2年間刑務所で服役。のち海兵隊に入隊し、ペリー艦隊として来日。1859年、宣教師として再来日している。( Jonathan Goble、4月19日 )

 

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2019年3月30日 (土)

アダムが食べた禁断の木の実はリンゴではない!?

   旧約聖書の中で、アダムとイヴはこの世に登場した最初の人類として描かれている。エデンの園に暮らしていた2人は、蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べ、それがもとで2人は楽園から追放される。だが、そのもととなった古代ヘブライ語の原文では、単に「果物」と書かれているだけで、リンゴやほかの果物とは特定されていない。しかし一般に禁断の木の実は、リンゴ(青リンゴ)だといわれる。しかしリンゴというのは寒い地方になる果物であり、エデンの園周辺にリンゴの木は存在しなかったとされ、「禁断の果実」はリンゴである可能性は低いと考えられる。それはラテン語の「malus」の意味をとりちがえたものらしい。malus は、形容詞では「邪悪な」を意味するが、名詞になると「リンゴ」の意味になる。禁断の木の実=リンゴ説が一般化するのは、ミルトンの「失楽園」(1667年)からだといわれる。しかし、「聖書」創世記2章17には「善悪の知識の木」とあり、リンゴという記述はない。東欧のスラブ語圏では、禁断の木の実はブドウと考えている。またアダムとイヴがイチジクの葉で体を隠していたことから、イチジクの実に違いないという説もある。ミケランジェロ・ブオナローティのシスティーナ礼拝堂天井画はイチジクが描かれている。このほか、ザクロ、キャロブ、シトロン、ナシ、ダチュラ、トマトなどが禁断の果実という説がある。リンゴが西欧世界で性のメタファー(隠喩)となるのは、ギリシア神話の影響があるからだとする説もある。争いの女神エリスがリンゴを投げ入れ、「最も美しき女性に」と書かれたことから、アフロディテ、ヘラ、アテーナーの3人が争った。その審判をトロイア王のパリスが行った。パリスは、アフロディーテを選び、その結果、世界一美しい女性へレンを得た。これがトロイア戦争の発端となるという「黄金のリンゴ」の伝説は、アダムとイヴの「禁断の果実」とも結びついているというのである。

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