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2009年10月 3日 (土)

里の秋

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   秋も日ごとに深まり、この頃になると幼い日のことがなぜか思い出されます。田舎で赤とんぼの大群を追いかけてみた夕焼けの空、稲刈り後の田んぼのにおい、叱られて泣いて歩いた田舎の道、なつかしさがこみあげてきます。そんなとき道草に咲いていた野の花を見る。聖書に「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾ってはいなかった」とあります。

   ふと忘れかけていた聖句が甦ってきた。途絶えていた祈りを再び捧げる。今一度花を見る。花は肩をすくめ、無邪気に笑っている。見上げた空は青く、大きく、高かった。

2009年9月13日 (日)

洞窟で見つけた光

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   ダグラス・バチュラーの父は航空機産業の仕事で成功を収め、母はエルビス・プレスリーの歌を作るなど、芸能界では押しも押されもしない地位を築いていた。母との関係で、バチュラーは、スターたちにチヤホヤされて育った。芸能界の華やかな人たちの中には同性愛者がいたり、麻薬やアルコールにはまっている人たちが多かった。バチュラーは経済的には恵まれていたが、愛情には飢えていた。学校では大喧嘩したり、何度か自殺を試み、ついには家出をする。やがてヒッピー仲間と食べ物を求めてゴミ箱をあさる生活を始めるが、南カリフォルニアのパームスプリングスの大峡谷に辿りつく。奥深くの洞窟に住み着きはじめた。中に入ってみると、そこは居心地のよい場所だった。すすで真っ黒になった天井は、以前、誰かが住んでいたことを物語っていた。壁から突き出している岩棚の上には、ほこりをかぶった一冊の黒い本があった。ほこりを払うと、「聖書」と書いてあった。やがて、洞窟生活にも慣れ、大自然の懐の中で暮らすうちに、バチュラーの心は徐々に、どうすれば得られるのかわからない心の平安を追い求めていた。ある日、岩棚からあの聖書を再び取り出してほこりを払った。聖書を開くと、内側の扉に手書きのメッセージを見つけた。「1972年7月12日、生まれ変わる。この聖書を見つけた人がこれを読んで、私と同じ平安と喜びを見いだすように祈る」とあって、その人の署名がしてあった。

2009年7月28日 (火)

イエスは十字架刑か、杭刑か

800pxandrea_mantegna_029 磔刑図 アンドレア・マンテーニャ 1457-60年 

Img_0011 2人の盗賊の中に磔けられるキリスト アントネロ・ダ・メッシーナ 1475年

   イエスが処刑されたのは一般的には十字架であったと信じられている。しかし横木を用いた十字形ではなく、スタウロスという「杭」で処刑されたという学説もかなり古くから存在する。つまりイエスは両手を頭上に伸ばした形で杭に手と足に太い釘が打ち込まれた。釘の刺さった箇所が体の重みで裂けるため、痛みは耐え難いものである。当時のユダヤはローマ支配下にあってローマ時代の一般的な方法は十字架刑ではなく杭殺刑であったというのがその根拠である。中世の絵画では、マンテーニア(1431-1506)の作品にみられるような十字架刑がほとんどである。ところがメッシーナの作品のように左右の罪人を杭刑で、イエスを十字架刑に区別しているものもある。しかし、杭と十字架を並べることはいかにも不自然である。十字架磔刑説はキリスト教がヨーロッパに普及して成立したものであろう。

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2009年6月20日 (土)

へセッド、神との契約の愛

汝わが面の前に我の外何物をも神とすべからず

Img 金の子牛の礼拝に示されるエジプトの多神教は、広い影響力を持っていた

   モーセはシナイ山の頂にひとりでよじのぼり、雷鳴や稲妻の中で神と出会い、十誡を受け取った。だが神との厳粛な契約してからも、イスラエルの民は早くも金の子牛を造って拝んで騒いでいた。多神教のエジプトの神々の風習である。十誡は、あらゆる時代のあらゆる人に適用し得る基本的な道徳上の軌範を定めたものである。最初の4つの戒めは神に対する人間の関係に関するものであり、残りの6つの戒めは人間同士の関係に関するものである。とくに十誡の第一は最高原理の提唱であり、最も重要なものである。「おまえたちは私のほかに何ものをも神としてはならない。おまえは、自分のために偶像、あるいは上の天にあるもの、下の地にあるもの、地の下の水にあるものにかたどったどのようなものをも造ってはならない。おまえらはそれらを拝んではならない。またそれらに仕えてはならない。おまえの神エホバである私はねたみの神であり、私を憎む父の悪を子に報い、3代、4代にまで及ぼし、私を愛し、私の命令を守る者には、千代に代わらぬ愛を示す」とある。ねたみの神であるエホバは外の神を崇拝することを絶対に許さない。エホバ神の独一性の主張である。従って、多神教と宗教的二元論を完全に排除することは明らかである。キリスト教のなかには世俗と宥和するため、新約のみを聖書とし、旧約は歴史的文献とみなすものもあるが、聖書は旧約・新約あわせた一環した神の言葉であり、そのなかでも十誡、とくに第一の誡は最高原理を示すものである。多神教との宥和、偶像の信仰は厳しく禁じられている。

    神との契約の愛とは、へブル語でいうヘセッド(chesed)である。英訳聖書ではわずかな例外を除いて、loveing-kindness(あわれみ、いつくしみ)と訳される。契約を結んだ神とイスラエルの民とは、相手に対して誠実に契約を守ることを自分の生命にかけて誓うもので、その契約順守において示す「誠実さ」をヘセッド(へセド)という。しかし、イスラエルの民はわずか6週間後には金の子牛を崇拝し、神を裏切った。契約を破る者に対する罰は死である。しかし、モーセのとりなしの結果、イスラエルの民はかろうじて絶滅を免れた。

2009年6月14日 (日)

ほんとうに偉い人は誰れ?

   この世には、国民栄誉賞、文化勲章、ノーベル賞など多数の賞という名のつくものが存在し、その偉大な功績に対して栄誉を与えている。あるいは、織田信長、アレキサンダー大王、ジュリアス・シーザー、シャルルマーニュ大帝、ジンギスカン、ナポレオンなど強力な支配者も現われ、歴史上の偉人を英雄と呼ぶかもしれない。ほんとうに偉い人は誰か?歴史家のH・G・ウェルズによると、人の偉大さは、「どんな発展性のあるものをあとに残すかによって、また他の人々が、その人の死後も新しい線に沿って絶えず精力的に思考するようになるかどうか」によって計られる。ウェルズの基準に従えば、イチローが今後、何本ヒットを打とうと、森光子が何回「放浪記」を上演しようが、「ご苦労さん」といえばいいことで、偉大さとは無関係なものであることになる。思い浮かぶ人がひとりいる。その人は、辺鄙な村で田舎の女性の子供として生まれた。育ったのは別の村で、30歳になるまでその村で指物師として働いた。その後、3年間は各地を巡って伝道をおこなった。本を書いたこともなく、公職に就いたこともない。家族をもうけたことも、家を持ったこともない。大学に通ったこともないし、大都市に行ったこともない。生れた場所から320キロ以上離れたところに旅行したこともない。世論の動きがその人に敵対するようになったとき、わずか33歳だった。友人たちは逃げ去った。その人は敵に引き渡された。形だけの裁判を受けた。そして、2人の強盗の間に立てられた杭に釘付けされた。死にかけていたとき、死刑執行人たちは、その人が地上で持っていた唯一の財産だった衣服のくじ引きをした。死んだときには、ある友人の哀れみにより、借りた墓の中に横たえられた。その人は今日人々が思うような偉いことは何一つ行っていないと言っていい。地位も財産も権力もない。しかし、その人は約2000年経ったいまも、その人の教えと、教えに調和した生き方によって、世界中の人々の生活に影響を与えてこられたのである。

2009年6月11日 (木)

神に対して富む

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  「美しさはうつろい、美しさは過ぎ去る」と、詩人ウォルター・デラメアは言っています。4月1日、お別れにいただいた胡蝶蘭の花も散ってしまいました。うせゆくのは花の美しさだけではありません。会社、組織も100年たてばほとんど滅びます。国家の体制も200年、300年続くことは歴史的にみても稀なことです。国家や王朝、この世の体制や事物はやがて滅び、新しい民族、新しい体制に生まれかわります。ましてや一個人の財産などむなしいものです。
    ヤコブは「(富んだ人は)草木の花のように過ぎていくからです。太陽が焼けつくような暑さを伴って昇り、草木を枯らすと、その花は落ち、その外観の美しさはうせるのです。富んだ人もそれと同じように、生涯の途上で消えてゆきます」と書いています。
   イエスはある男の人のたとえ話をされました。その人はくつろいだ、楽な生活ができるように一生懸命富を蓄えました。しかし、安楽な生活を楽しむのに必要なものがすべてそろったと思った時に死んでしまいました。それでイエスは次のように警告されました。「自分のために宝をためても、神に対して富んでいない者はこうなるのです」
   「神に対して富む」 イエスはここで何を言おうとしておられるのでしょうか。この世で富んでいる人は「天に宝」を、つまり神のみ前に良い名を得ているのです。この宝は失われることはありません。

2009年6月10日 (水)

ダビデの鍵

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   イエスは「ダビデの鍵」を持っています。この「ダビデの鍵」とは何か?
   神は永遠の王国のための契約をイスラエルの王ダビデと結んだ。ダビデ王家は西暦前1070年から前607年まで繁栄を続けたが、その王国が悪に傾いたため、神の裁きが執行された。神は、「わたしはエルサレムを破滅、破滅、破滅とする。これについてもまた、それ(ダビデの家系に属する王権の笏)は法的権利を持つ者が来るまで、決してだれのものにもならない。わたしはその者にこれを必ず与える」というエゼキエルの預言を成就し始められた。それから約600年後のこと、ダビデの子孫であるユダヤ人の乙女マリアが聖霊によって妊娠した。神はみ使いガブリエルを遣わして、マリアに一人の男の子が授けられるので、その子をイエスと名づけるよう彼女に知らせた。ガブリエルはこういった。「これは偉大な者なり。至高者の子と呼ばれるでしょう。神はその父ダビデの座を彼に与え、彼は主としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして、彼の王国に終りはありません」
   イエスは西暦29年にヨルダン川でバプテスマを受け、聖霊で油そそがれた時、ダビデの家系の指名された王となられた。そしてイエスは苦しみの杭の上で死を遂げるに至るまでご自分を低くし、こうしてダビデの王権を受け継ぐ十分の資格があることを証明された。神はイエスを不滅の霊者として復活させ、天のご自分の右に高められた。イエスはそこでダビデの王国の権利をすべて受け継がれた。そしてイエスはダビデの鍵を使って、神の王国に関連した機会や特権にあずかる道を開くことになった。(参考:「啓示の書」12章自分が持っているものをしっかり守りつづけなさい)

テトスのクレタ島への伝道の旅

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  パウロの良き伝道の協力者として知られるテトスのことについては、ギリシア人であることのほか何もわからない。ただエーゲ海の南部に浮かぶクレタ島に伝道したことは聖書「テトスへの手紙」(パウロ)によって明らかである。それによれば、クレタの人々は生まれつき好戦的、論争的な人々で、わがままで、権威に反抗的で、酒が何よりも好きだったので、テトスも伝道に苦労したようだ。しかしテトスは妥協しない。キリスト者の生活は、家庭でも、教会でも、権威に対しても、規律、従順、尊厳を求める。キリスト者として、権威を持って、キリスト者の基準をあくまで主張して伝道にあたった。「テトスへの手紙」(テトス1-15)に次のようにある。「清い人には、すべて清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です」神に対する信仰を弱めさせる説を提唱する者はこの21世紀も多くいる。初期の伝道者は決して妥協しなかったという事実をもっと考慮すべきことである。

2009年6月 4日 (木)

ルカとテオピロ

   東京都中央区にある聖路加国際病院は明治35年に設立され、日野原重明医師がいることで知られ、日本で最も有名な病院の一つだろう。ところで病院名の由来となったルカについてはその人物像はあまり知られていないように思う。ルカ福音書と使徒行伝の著者ということ以外には医者であったということだけである。(コロサイ4・14)

    ルカはシリアのアンティオキアで生れた。いつ、どこでキリスト教に入信したのかは明らかでない。ルカによる福音書が書かれたのは、紀元75年ごろであろう。ルカはテオピロに宛てて福音書と使徒行伝を書いた。テオピロについてもローマ人であること以外に何も分からない。ウィリアム・バークレー(1907-1978)によると次の三点を推測している。
1.テオピロは本名ではない。当時、キリスト者になることは、危険であった。テオピロは二つのギリシャ語から成っている。「神」を意味するセオスと、「愛すること」を意味するフィレインとである。
2.ティオピロはローマ政府の高官であった。ルカはテオピロに、キリスト者は善良で立派な人々であることを教えたかったのであろう。
3.医者であるルカはテオピロのお抱え医者だった。テオピロが病気で死にかけたとき、ルカは医術でテオピロの命を救った。当時の医者は奴隷であったが、テオピロはそのお礼にルカを自由にしてやった。ルカは、自分がこの恩恵をどれほど感謝しているかを何かであらわしたいと思った。ルカが持っているもので一番高価なものは、イエスの物語であった。ルカはそれを書き送った。ルカが受け取った自由への返礼として、テオピロに捧げるにふさわしい、一番大切なものだったからである。(参考:バークレー「使徒行伝」ヨルダン社、1968)

2009年3月15日 (日)

ローマ帝国とキリスト教公認

    ローマ帝国は、国家の神々の尊崇を人民の義務とはしたが、諸宗教に寛容なことが統治の良策であると考え、国家宗教を外形的に認めるならば、これとならんで他宗教を崇拝することは妨げなかった。キリスト教は、その特異な性格のため異教徒の民衆のあいだで早くから憎悪されていたが、はじめユダヤ教の一派と認められていたから、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウスなどの皇帝たちはおおむね寛容に取り扱っていた。国家による迫害はきわめてまれで、64年のネロの迫害も、ローマ市の大火災の責任を民衆に憎悪されているキリスト教徒に転嫁しようという特殊事情にもとづくものであり、迫害の範囲もローマ市に限られていた。エルサレム陥落後、キリスト教とユダヤ教の対立、キリスト教の独立の存在が明らかとなり、つづいて皇帝崇拝が強化されていく時代にキリスト教徒が皇帝崇拝を拒絶するにおよんで、ドミティアヌス、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスなどの治下に、やや大規模な迫害がおこなわれた。しかしこれらも全帝国にわたるものではなく、また継続的なものでもなかった。迫害されたキリスト教徒は、地下に深く迷路のように掘られたカタコンベなどに逃れて信仰を続けた。303年、伝統的なローマの神々への信仰を重んじ、皇帝崇拝を強制したディオクレティアヌス帝が大迫害を行ったが、ますます増える信者の勢いに、迫害より懐柔と、313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令によってキリスト教を公認。たちまち教会組織が整えられ、聖職者の身分が生れた。

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