宣教医ベッテルハイム
弘化3年(1846年)のこの日、イギリス軍艦が琉球に来航した。この船にはハンガリー出身のイギリス宣教医バーナード・ジョン・ベッテルハイム(1811-1870)が乗船していた。彼は那覇の護国寺を拠点に8年間滞在し、キリスト教の伝道に勤めた。(4月5日)
弘化3年(1846年)のこの日、イギリス軍艦が琉球に来航した。この船にはハンガリー出身のイギリス宣教医バーナード・ジョン・ベッテルハイム(1811-1870)が乗船していた。彼は那覇の護国寺を拠点に8年間滞在し、キリスト教の伝道に勤めた。(4月5日)
米国ダラスで1000年に一度の大雨で街は洪水となっている。手の施しようがない。「後は野となれ山となれ」これに近い英語表現は、
我々が死んだ後に大洪水よ起これ
After us the deluge.
「delu」とは、大洪水、豪雨の意味。やはりノアの大洪水が基本にあるように思える。ノアはアダムから10代目にあたり、セム、ハム、ヤペテの父。聖書に記されたノアの箱舟伝説は何を意味するのだろうか。伝説ではなく、ニネヴェで発見された粘土版には、大洪水について記された断片が見える。創世記6ー15によると、「長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマ」とある。アンマとは、口語聖書ではキュービット、ほぼ腕の長さで約46cm。(神殿キュービットはさらに一手幅(7.5cm)を加える) つまり箱船の大きさは138×23×15mとなり、長方形だった。この船は3層をなし、なかには個室があり、側面には戸口があり、天窓が開くようになっている。ノアの箱舟を建造している人がいるだろうか。ノアの箱舟が流れついたとされるトルコのアララト山(標高5137m)に1829年フリードリヒ・パルロットはロシア登山隊を率いて初登頂に成功した。この箱舟を探すため1951年と52年にアララト山の調査が行われたが徒労に終わった。
(Noah)
本日はクリスマス。三角帽をかぶってクラッカーを鳴らして夜遅くまでバカ騒ぎするというのは終戦後の昭和20年代後半からはじまった。お土産にケーキを買ってかえる。はじめはサラリーマンから流行した。1980年代後半のバブル時代、クリスマスは恋人と一緒に過ごすことが若者たちの間に定着してしまった。このとのきクリスマス・イブの日のホテルのスイートは予約満員。ティファニーのハートのネックレスが売れた。いまはクリスマスは家庭サービスの日となっていった、だがクリスマスコンサートを聴いたり、プレゼントをしたりするのが正しいクリスマスの過ごし方なのだろうか。だが民間気象会社ウェザーニューズの調査によると日本人の3人に1人はクリスマスに関心がない、ということがわかった。この人のなかにはクリスマスやサンタクロースがイエスの誕生と無関係であると知っていて、聖書のみを信仰のよりどころとしてる信者も含まれるのだろうか。不思議な日本のクリスマス。それはさておき、日本で聖書が本格的に日本語に訳されたのは明治になってからであるが、いつ頃であろうか。日本聖書協会が設立され「新約聖書」が完成したのは明治12年、「旧約聖書」は明治21年といわれる。しかし永田方正(1838-1911)が明治6年に訳した「西洋教草(おしえぐさ)」は抄訳とはいえ、日本人単独の手になる最初の優れた聖書の翻訳書である。「西洋教草」は教科書たることを目的としていたが、上巻には「箴言」のほとんど全部を収め、中巻には「レビ記」「申命記」「出エジプト記」「民数記」「ローマ人への手紙」「テサロニケ人への第一の手紙」「テサロニケ人への第二の手紙」中からの抄訳と「テモテへの第一二の手紙」のほぼ全部、下巻はイエスの説話を中心に四福音書などからの抄訳である。
永田方正は天保9年3月1日、伊予国西条藩士の子として生まれ、宇高辰次郎と名づけられた。(注)木下清(1915-1994)の説によれば生年は天保15年(1844年)であるがここではコンサイス日本人名事典に従う。少年のころから英才のほまれ高く、長じて永田吉平の養子となり、永田静之助と称し、昌平坂学問所に学び、主に英書の翻訳業に励み、後に、永田方正(ほうせい)と改名した。明治14年、北海道開拓使となり、アイヌ語の研究に没頭した。アイヌ民族の叙事詩ユーカラの最初の翻訳を「東洋学芸雑誌」に発表していることでも知られている。のち「北海道蝦夷語地名解」の編纂に従事。晩年は、坪井正五郎の紹介により東京高女で国文・和歌を教えた。(参考:今西竜「永田方正君小伝」人類学雑誌27.7 明治44年、門脇清「西洋教草紹介」興文 昭和48年2、3月、木下清「聖書和訳の先覚者 永田方正略伝」史泉48 昭和49年3月)
師走に入ると街中にクリスマス・イルミネーションが点灯され、クリスマス気分を盛り上げてくれる。クリスマスという、現在の日本にとっても馴染みのある習慣は、老いも若きも何となくうきうきする季節だろう。家のリースやツリー、クリスマス・ケーキ、そしてプレゼント。「我が持てる包の中もクリスマス」(山内山彦)だが欧米のクリスマスはキリストの生誕を祝い家族が集まって過ごすものだが、日本では宗教観はなく、恋人と過ごすものというイメージが定着している。この違いはなぜ生まれたのだろうか?
クリスマスの歴史は長く複雑な意味をもつ。キリスト教とのつながりや、キリスト教以前の、ずっと古代に遡る、ヨーロッパ・地中海に面している諸文化の世界観や信仰の形態の影響が認められる。したがって、今日の世俗化されたサンタクロースの意味を理解するためには、キリスト教またはキリスト教以前の様々な信仰の形態の理解が前提になってくる。とくにサンタクロースは死者の象徴であると、レヴィ・ストロースが主張している。古代からのヨーロッパの民間信仰では、我々一般人にあの世から豊穣をもたらすのは、国家に認定された公式の神々ではなく、むしろ地域の小さな神々であった。これらは、多くの場合、先祖に限りなく近い性質をもっていた。現在、クリスマスが主に家族中心の祝いになっているのも、古代からのこの伝統的思想を継承しているからだと思われる。サンタクロースの根底には、冬に関する古代からのシンボリズムが認められる。キリスト教がこの複雑なシンボリズムを横領し、それをキリストの降誕と習合させた。
このようなキリストの生誕を祝うクリスマスの風習や行事が世界中に広まったのは19世紀に入ってからのこと。とくに今日のようにみんなでお祝いするのは一冊の本がきっかけとなっている。英国の文豪チャールズ・ディケンズが1843年に書いた「クリスマス。キャロル」である。内容は守銭奴スクルージがクリスマス・イヴに超常的な体験をして改心というスートリー。ちなみにアンデルセンの「マッチ売りの少女」はその5年後の1848年のことである。クリスマスが本格的に日本に入ってきたのは、明治時代以降のことである。キリスト教の信者がそれほど多くないため、文化的な形だけが定着した。ここに日本のクリスマスの特徴がある。戦後、クリスマスは徐々の家族のイベントになっていまーきます。その後、女性の社会進出が進むとね1980年代には「恋人と過ごす日」というイメージが強くなります。1988年のJR東海のクリスマス・エクスプレスのCMは遠距離恋愛のカップルが新幹線でクリスマスに再会を果たすストーリーを描いたものだ。このCMが(歌・山下達郎)が放映されると、日本において恋人同士でクリスマスを過ごすという新たな文化が生まれるなど社会現象となった。そして「クリスマス・イブは一番大切な人のそばにいたい」というメッセージが拡散されていった。同様のイメージはバブル期のトレンディ・ドラマなどで定着されます。いわば日本のクリスマス=聖夜のイメージは電通がしかけたものであるといえる。(参考:ファビオ・ランべッリ「サンタクロースの文化史のための覚え書き」比較文化論叢 札幌大学文化学院紀要19、2007年)
本日は「クリスマスツリーの日」。明治19年、横浜で外国人船員のために、日本初のクリスマスツリーが飾られたことによる。日本人が初めてクリスマスを祝ったのは、明治7年、米国長老教会の宣教師の指導の下、原胤昭(1853-1942)が東京・築地湊の第一長老教会で催したクリスマス祝会で、戸田忠厚という者が裃をつけ、大小脇差を携えて、大森カツラをかぶったお殿様姿でサンタクロースとして登場した。同年中、この教会で受洗し後牧師となる田村直臣も、この祝会に参加したが、「さんたくろすがとんなものか見たことはなく、クリスマスとどう関係があるかも知らず、ただのその名前が大変奇妙に聞えた」と述懐している。明治31年、進藤信義が日曜学校の子供向け教材として作成した冊子「さんたくろう」(三太九郎)の扉絵は、ロバを従えクリスマスツリーを抱えて、ややドイツ風のサンタクロースであった。(12月7日)
一般に、イエスは12月25日に生れたとされている。「クリスマス」は「キリストのミサ」、つまりキリスト降誕を祝うミサを意味する。しかし聖書にはイエスの誕生の日付は記されていない。12月25日は、農耕神サトゥルヌスを讃えるサトゥルナリア祭やローマのソルとペルシャのミトラという太陽神の祝祭を合体させたものである。それらの異教の祝祭日を教皇ユリウス1世が西暦350年にキリスト教の誕生日であると宣言したことにはじまる。研究者によると、実際のイエスの誕生日は古代ユダヤ暦のエタニムの月(9~10月)だそうだ。初期キリスト教の伝道者たちはイエスの誕生を祝ったりせず、イエスの死だけを記念して祝った。もちろんサンタクロースの話などはイエスと無関係。小アジア(現在のトルコ)のミラの聖ニコラウス大司教に由来する。聖ニコラウスを意味するオランダ語がなまって「シンテルクラース」から派生した。聖ニコラウスは西暦270年から345年(または352年12月6日)のミュラという地で大主教をつとめた立派なかたで実在した可能性が高い。2017年英国オックスフォード大学で遺骨を年代測定したところねその死亡時期がサンタクロース伝説と一致した。聖ニコラウスの墓とみられるものが2022年にトルコの教会遺蹟で発見されている。
今日の、赤と白の衣裳に白いあご髭をたくわえた優しそうなおじいさんのサンタは、当時の有名な画家ハッドン・サンドプロムが描いたコカ・コーラの広告(1931年)が世界中に広がって、知られるようになった。クリスマスにプレゼントを贈ったり、ゲームを楽しんだり、パーティで馬鹿騒ぎすることは、古代ローマ人の太陽の誕生を祝うという偽りの宗教に由来する習慣である。教会の指導者たちは、真理を教えることよりも、教会の信者席をいっぱいにすることに熱心になり、コンサートとか行事を催している。クリスマスに愛する異性と夜を過ごすという日本の風潮も嘆かわしいもの。世俗化・商業化されたクリスマスは地域経済の活性化に大きく貢献していると人はいうかもしれない。しかし経済的負担をかけることは神の崇拝とは無縁のことである。最近ではデパートなどショッピング・センター以外にも公共の場でも大きなクリスマス・ツリーをみかける。ツリーを飾る習慣は、ドイツで行われていた樹木信仰を取り入れたもので、19世紀以降に北ヨーロッパや北米に広まった。イエスをたたえるはずの時が、子供をだます時になるのはおかしなことではないだろうか?
1世紀ごろ、ローマ帝国は、国家の神々の尊崇を人民の義務とはしたが、諸宗教に寛容なことが統治の良策であると考え、国家宗教を外形的に認めるならば、これとならんで他宗教を崇拝することは妨げなかった。キリスト教は、その特異な性格のため異教徒の民衆のあいだで早くから憎悪されていたが、はじめユダヤ教の一派と認められていたから、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウスなどの皇帝たちはおおむね寛容に取り扱っていた。国家による迫害はきわめてまれで、64年のネロの迫害も、ローマ市の大火災の責任を民衆に憎悪されているキリスト教徒に転嫁しようという特殊事情にもとづくものであり、迫害の範囲もローマ市に限られていた。エルサレム陥落後、キリスト教とユダヤ教の対立、キリスト教の独立の存在が明らかとなり、つづいて皇帝崇拝が強化されていく時代にキリスト教徒が皇帝崇拝を拒絶するにおよんで、ドミティアヌス、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスなどの治下に、やや大規模な迫害がおこなわれた。しかしこれらも全帝国にわたるものではなく、また継続的なものでもなかった。迫害されたキリスト教徒は、地下に深く迷路のように掘られたカタコンベなどに逃れて信仰を続けた。キリスト教への信仰に目覚めた少女バルバラが処刑された。303年、伝統的なローマの神々への信仰を重んじ、皇帝崇拝を強制したディオクレティアヌス帝が大迫害を行ったが、ますます増える信者の勢いに、迫害より懐柔と、313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令によってキリスト教を公認。たちまち教会組織が整えられ、聖職者の身分が生れた。(catacombe、12月4日)
三国干渉以来、日露関係は悪化し、世論には「臥薪嘗胆」を合言葉に、日露開戦のムードがあった。明治35年1月、日英同盟の締結により、官民の間に対露強硬策が叫ばれるようになった。東京帝国大学教授の戸水寛人、小野塚喜平次ら7人の博士らは明治36年1月に日露開戦の意見書を桂内閣に提出している。
世論のこの動きに対して内村鑑三は開戦反対を唱えた。「万朝報」6月30日付で内村は、
「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を永久に殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やうはずはない」
と論じている。「万朝報」は明治25年、黒岩涙香によって創刊された日刊新聞で、発刊当時はあまり品のよくない暴露記事を主とした俗受けする記事が多かった。発行部数を伸ばそうと考えた黒岩は一流の人材を編集陣に招いて質の向上を図ろうとした。招聘された文筆家の中には幸徳秋水、堺枯川(堺利彦)、河上清らがいた。内村鑑三は札幌時代から親しかった黒岩四方之進(よものしん)の弟が黒岩涙香であることから、明治30年1月に英文欄主筆として迎えられた。明治31年5月23日には、新雑誌を創刊するため万朝報社を一旦退社するが、再び明治33年10月には再入社する。「万朝報」は明治30年代には東京でトップの発行部数を記録している。
内村の堅い信念の非戦論に対して、黒岩は開戦論の立場をとったため、明治36年10月9日退社する。内村は「日露開戦に同意することを以て日本国の滅亡に同意することと確信」する旨を宣言した。
キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。
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