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2018年12月12日 (水)

クリスマスの風習とサンタクロース

Sc02   この時期になると街中にクリスマス・イルミネーションが点灯される。クリスマスという、現在の日本にとっても馴染みのある習慣は、老いも若きも何となくうきうきする季節だろう。家のリースやツリー、クリスマス・ケーキ、そしてプレゼント。「我が持てる包の中もクリスマス」(山内山彦)

  クリスマスの歴史は長く複雑な意味をもつ。キリスト教とのつながりや、キリスト教以前の、ずっと古代に遡る、ヨーロッパ・地中海に面している諸文化の世界観や信仰の形態の影響が認められる。したがって、今日の世俗化されたサンタクロースの意味を理解するためには、キリスト教またはキリスト教以前の様々な信仰の形態の理解が前提になってくる。とくにサンタクロースは死者の象徴であると、レヴィ・ストロースが主張している。古代からのヨーロッパの民間信仰では、我々一般人にあの世から豊穣をもたらすのは、国家に認定された公式の神々ではなく、むしろ地域の小さな神々であった。これらは、多くの場合、先祖に限りなく近い性質をもっていた。現在、クリスマスが主に家族中心の祝いになっているのも、古代からのこの伝統的思想を継承しているからだと思われる。サンタクロースの根底には、冬に関する古代からのシンボリズムが認められる。キリスト教がこの複雑なシンボリズムを横領し、それをキリストの降誕と習合させた。

   このようなキリストの生誕を祝うクリスマスの風習や行事が世界中に広まったのは19世紀に入ってからのこと。とくに今日のようにみんなでお祝いするのは一冊の本がきっかけとなっている。英国の文豪チャールズ・ディケンズが1843年に書いた「クリスマス。キャロル」である。内容は守銭奴スクルージがクリスマス・イヴに超常的な体験をして改心というスートリー。ちなみにアンデルセンの「マッチ売りの少女」はその5年後の1848年のことである。(参考:ファビオ・ランべッリ「サンタクロースの文化史のための覚え書き」比較文化論叢 札幌大学文化学院紀要19、2007年)

2018年12月 5日 (水)

三位一体を信じなければクリスチャンとは言えませんか?

  「三位一体」という用語は高校世界史の教科書にも使用されているが、なかなか理解するに難解な語であろう。「カトリック入門」(中央出版社)によると、「①父と子と聖霊はそれぞれ別なかたでありながら唯一の神であられ、救いはその共同のみわざである。②父と子と聖霊は内的に互いに愛し合う限りない知恵と愛のいのちであり、その交わりは人知をはるかに越えた神秘である。③父と子と聖霊の愛の交わりが人々の心をひとつに結び、つねにより深く愛し合うように促し、助け、導いていく」とある。欧米キリスト教世界では、これまでクリスチャンであるかどうかは「三位一体の神秘」を信じるか否かだといわれてきた。

    ところがこのような説に対して、最近、デンマークの宗教社会学者のアニーカ・フフィタマルは、人々に自分がクリスチャンだと思う理由を尋ねたが、三位一体の神を信じているからだと応えた人はほとんどいなかった。三位一体の教理はキリスト教神学における難解な問題の一つである。三位一体の教理がわからずとも、イエスが命じた事柄を守り行なおうと努力している人は、確かにクリスチャンであると言えるのか、あるいは、三位一体を信じなければクリスチャンとは言えないのか、日本人にとっては理解しにくい問題だ。

2018年12月 3日 (月)

大阪万博とモルモン教とゾウ

   日本にモルモン教が広まったのはいつ頃からであろうか?1970年の日本万国博覧会(EXPO'70)以降とするのが一般的な見方であろう。しかし文献を漁ると、国立国会図書館の所蔵図書には内田融の「モルモン宗」文明堂、明治35年刊行があり、110年以上の歴史がある。

  鈴木正三は1968年に末日聖徒イエスキリスト教会、日本伝道部の第一顧問となった。折しも日本万国博覧会の会場建設が吹田市の千里丘陵で始まりつつあった。教会はこの万博に出展を決め、モルモン館を建設する。鈴木はその館長に就任し、毎日多くの要人を迎えた。万博開催中のある日、当時の皇太子殿下(今上天皇)がモルモン館を訪ねられた。鈴木が案内する中、皇太子殿下は一つだけ質問をされた。「イエス・キリストとはどなたですか?」鈴木はこう答えたという。「イエス・キリストは神様の独り子で、この世を創造された御方であり、わたしたちはこの地上で生活したことについて、いつかイエス・キリストの前で裁きを受けます。わたしも裁きを受けます」

   万国博覧会の来場者数は、6421万8770人であった。わたしもその中の1人である。

   モルモン教とともに思い出されるのはタイの像の来日である。夏のイベントに出演するためタイからはるばる大阪に20頭ものゾウがやってきた。神戸港から大阪までゾウの行進があり、みんなで見た想い出のある方も多いだろう。滞在中にオスの赤ちゃんが生まれ、「おまつり広場」にちなんで「ひろば」と名づけられた。あの「ひろば」くんはいまどうしているだろうか?関西大学のあるサークルが2年にわたって調査したところ、ゾウは30年ほど前に亡くなっていたことが判明した。

2018年11月18日 (日)

サンタの服が赤いのはコカ・コーラの広告がきっかけ

Photo_4     一般に、イエスは12月25日に生れたとされている。「クリスマス」は「キリストのミサ」、つまりキリスト降誕を祝うミサを意味する。しかし聖書にはイエスの誕生の日付は記されていない。12月25日は、農耕神サトゥルヌスを讃えるサトゥルナリア祭やローマのソルとペルシャのミトラという太陽神の祝祭を合体させたものである。それらの異教の祝祭日を教皇ユリウス1世が西暦350年にキリスト教の誕生日であると宣言したことにはじまる。研究者によると、実際のイエスの誕生日は古代ユダヤ暦のエタニムの月(9~10月)だそうだ。初期キリスト教の伝道者たちはイエスの誕生を祝ったりせず、イエスの死だけを記念して祝った。もちろんサンタクロースの話などはイエスと無関係。小アジア(現在のトルコ)のミラの聖ニコラウス大司教に由来する。聖ニコラウスを意味するオランダ語がなまって「シンテルクラース」から派生した。今日の、赤と白の衣裳に白いあご髭をたくわえた優しそうなおじいさんのサンタは、当時の有名な画家ハッドン・サンドプロムが描いたコカ・コーラの広告(1931年)が世界中に広がって、知られるようになった。クリスマスにプレゼントを贈ったり、ゲームを楽しんだり、パーティで馬鹿騒ぎすることは、古代ローマ人の太陽の誕生を祝うという偽りの宗教に由来する習慣である。教会の指導者たちは、真理を教えることよりも、教会の信者席をいっぱいにすることに熱心になり、コンサートとか行事を催している。クリスマスに愛する異性と夜を過ごすという日本の風潮も嘆かわしいもの。世俗化・商業化されたクリスマスは地域経済の活性化に大きく貢献していると人はいうかもしれない。しかし経済的負担をかけることは神の崇拝とは無縁のことである。最近ではデパートなどショッピング・センター以外にも公共の場でも大きなクリスマス・ツリーをみかける。ツリーを飾る習慣は、ドイツで行われていた樹木信仰を取り入れたもので、19世紀以降に北ヨーロッパや北米に広まった。イエスをたたえるはずの時が、子供をだます時になるのはおかしなことではないだろうか?

2018年11月 1日 (木)

クオ・ヴァディス

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サン・タンジェロ(聖天使城)、聖天使橋、そして奥に聖ペテロ寺院のドーム

   西暦64年、ローマ皇帝ネロ(37-68)の治世に大事件が起こった。この年の7月、ローマ市は下町から出た怪火によって数日間燃えつづけ、市街の大半が焼失した。ネロはこのとき海岸都市アンティウムの離宮にいたが、すぐ帰還して消火と罹災者救護、さらに市街の復興に努力した。しかし彼の平素の行ないが悪いためか、かれが市街の燃えるさまをバルコニーから眺めトロヤ滅亡の詩を口ずさんだとか、また新市街建設で名をあげるため旧市街に放火して焼きはらわせたとかいう忌まわしい噂がたち、民衆が暴動を起こしそうになった。ネロはこの噂を消すために側近の進言によって放火をキリスト信者のせいにし、かれらを十字架につけたり、火あぶりにしたり、獣の皮をかぶせて猛犬にかみ殺させたりした。捕縛を逃れたペテロ(生年不詳~64年頃)は、ついに激しい迫害に耐え切れず、ローマを去る決心をした。ペテロは夜中にローマを発って、少年のザカリウスと共に明け方のアッピア街道をたどっていた。その途中で朝日が昇り、その黄金の光芒の中にペテロは、復活したキリストの姿をみた。ペテロは思わず膝まづいて祈った。

    「クオ・ヴァディス・ドミネ(主よ、どこへ行かれるのですか)」とたずねると、「あなたが私たちの羊たちを見すてるのなら、私はローマへ行き、もういちど十字架にかかろう」と答えた。

   しばらくうちたおれていたペテロは、やがて立ち上がってくびすを返した。そしてふたたび信徒迫害のローマにもどり逆さ吊りの十字架にかかって殉教する。

   その4年後、暴君ネロは、嵐のように、火事のように、戦いのように、疫病のように死んだ。しかし、ペテロの礼拝堂は、今もなおヴァチカンの頂から、ローマおよび全世界を支配している。

2018年6月29日 (金)

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。

2018年3月29日 (木)

キリスト死の記念式

Sanprashid195x300   西暦33年、イエスはゴルゴダの丘で処刑された。ユダヤ暦のニサン14日にあたる。ニサン14日を太陽暦になおすと今年は3月31日になる。一般にイエスの墓があるのはエルサレムの「聖墳墓教会」あるいは「園の墓」とされるが、なんとイエスは日本で死んで、その墓もあるとする珍説がある。1935年に鳥谷幡山が青森県戸来(へらい)村(現在・三戸郡新郷村大字戸来)で十莱塚を発見した。竹内文書には、イエスはゴルゴダで処刑されず、その弟イスキリを身代りにして日本に渡来して死に、その墓が「十莱塚」であるとする。戸来村の村名は、ヘブライに由来する。あなた信じますか?

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 青森県戸来にあるキリストの墓

2018年1月21日 (日)

フランスはカトリックの国

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    アンドレ・ジイドの「一粒の麦もし死なずば」の一節に次のような話がある。

僕の級も学校も二つの党派に分かれていた。カトリック派とプロテスタント派だ。アルザス学校へ入学して初めて、僕は自分がプロテスタントだと知った「貴様はカトリックか?それとも新教か?」これ等の奇異な言葉を生まれて初めて耳にしたので、完全にあっけにとられて、僕はそれが何のことか解らないと答えた。中に1人、親切な生徒がいて僕のために説明の労を取り、「聖母マリアを信じるのがカトリックだよ」と教えてくれた。それをきくと僕は叫んで云った。自分はプロテスタントに相違ないと。小さな痩っぽちの、今まで黙っていたのが、急に叫んで云った。「僕の父は無神論者だよ」偉そうな調子で言われると、皆が当惑してしまった。

    16世紀後半、カトリック教徒とユグノーと呼ばれたプロテスタントとの間で激しい戦争が行われた。有名な「サン・バルテルミの虐殺」という大量虐殺が行われたのもこの頃である。アンリ4世がナントの勅令を発して戦いはようやく終結したが、17世紀を通じてプロテスタントに対する圧迫はやまず、その結果、フランスではプロテスタントは減少した。現在、フランスではカトリック教徒は約80%以上であり、プロテスタントはわずか数パーセントにとどまり、ほかに若干のユダヤ教徒、イスラーム教徒がいる。さきごろフランス上院では、ブルカ禁止法が欧州で初めて成立した。

2018年1月 9日 (火)

内村鑑三不敬事件

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    明治23年10月30日に発布された教育勅語について文部省はその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布した。内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校では、明治24 年1月9日にその奉読式を実施した。その際、内村は、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教の信念に従い、軽く会釈する程度の敬意を表することにとどめたが、生徒および教員の一部から、この内村の行為は皇室に対する不敬であるとの非難が発生し、同年1月から、その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種に達したが、そのほとんどは、「不忠の臣」「外教の奴隷不敬漢」というものであった。生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいた。新聞報道などによって「不敬事件」として一挙に社会問題となったが、内村は自分がけっして勅語の趣旨を批判するものではないと弁明し、宗教上の拝礼ではなく社会的な敬礼であればと、たまたま病床にあったために友人の教授木村駿吉に代理敬礼を委嘱した。事件後1ヵ月も経たない同年2月3日病気を理由に同校を依願退職した。全国から激しい非難を浴びた内村は、その後、病床に就く。看病した妻加寿子は、心身の疲れから、急逝した。

   しかし、この機会にキリスト教の弊害を指摘しようとする国体論者や仏教界の一部などからの画策もあって、帝国大学教授井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」を発表するや、問題は単なる内村の一「不敬行為」への糾弾からキリスト教一般への攻撃へと展開していった。内村は井上に反論する形で「基督教徒の慰め」を出版。内村は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張している。のちに丸山真男は「こういう事件は、直接の被害者はひとりか数人であっても、タブーを社会的に拡大し、無数の人々の思想に目に見えない統制を加えるという点で、大きな意味をもつわけであります」と分析している。(「思想と政治」1957年8月 信濃教育第849号)

2017年8月 8日 (火)

日本で最初の和訳聖書はいつか?

   レファレンス協同データーベースの質問「聖書の和訳が日本でできた年を知りたい」とある。大阪府立図書館の回答(キリスト教33)によれば、「明治4年のゴーブル訳「摩太福音書」とある。

   「摩太福音書」とは「マタイ福音書」のことで、ジョナサン・ゴーブルによる抄訳であるが、明石書店から1989年に復刻版が刊行されている。永田方正(1838-1911)による「西洋教草(おしえぐさ)」は、2年後の明治6年のことで、これも抄訳ではあるが、かなり分量が増えており、こちらのほうを日本最初とする本もある。全訳としては、日本聖書協会が明治12年に「新約聖書」を、明治21年に「旧約聖書」を完成している。明治13年にはネイサン・ブラウンが「志無也久世無志與(しんやくせいしょ)」が日本語としては初めての、新約聖書全巻の翻訳である。

    ところでジョナサン・ゴーブル(1827-1896)は若い頃、強盗で2年間刑務所で服役。のち海兵隊に入隊し、ペリー艦隊として来日。1859年、宣教師として再来日している。( Jonathan Goble )

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