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2026年6月14日 (日)

三位一体を信じなければクリスチャンとは言えませんか?

  「三位一体」という用語は高校世界史の教科書にも使用されているが、なかなか理解するに難解な語であろう。「カトリック入門」(中央出版社)によると、「①父と子と聖霊はそれぞれ別なかたでありながら唯一の神であられ、救いはその共同のみわざである。②父と子と聖霊は内的に互いに愛し合う限りない知恵と愛のいのちであり、その交わりは人知をはるかに越えた神秘である。③父と子と聖霊の愛の交わりが人々の心をひとつに結び、つねにより深く愛し合うように促し、助け、導いていく」とある。欧米キリスト教世界では、これまでクリスチャンであるかどうかは「三位一体の神秘」を信じるか否かだといわれてきた。

    ところがこのような説に対して、最近、デンマークの宗教社会学者のアニーカ・フフィタマルは、人々に自分がクリスチャンだと思う理由を尋ねたが、三位一体の神を信じているからだと応えた人はほとんどいなかった。三位一体の教理はキリスト教神学における難解な問題の一つである。三位一体の教理がわからずとも、イエスが命じた事柄を守り行なおうと努力している人は、確かにクリスチャンであると言えるのか、あるいは、三位一体を信じなければクリスチャンとは言えないのか、日本人にとっては理解しにくい問題だ。

2026年6月 1日 (月)

フランスはカトリックの国

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    アンドレ・ジイドの「一粒の麦もし死なずば」の一節に次のような話がある。

 

僕の級も学校も二つの党派に分かれていた。カトリック派とプロテスタント派だ。アルザス学校へ入学して初めて、僕は自分がプロテスタントだと知った「貴様はカトリックか?それとも新教か?」これ等の奇異な言葉を生まれて初めて耳にしたので、完全にあっけにとられて、僕はそれが何のことか解らないと答えた。中に1人、親切な生徒がいて僕のために説明の労を取り、「聖母マリアを信じるのがカトリックだよ」と教えてくれた。それをきくと僕は叫んで云った。自分はプロテスタントに相違ないと。小さな痩っぽちの、今まで黙っていたのが、急に叫んで云った。「僕の父は無神論者だよ」偉そうな調子で言われると、皆が当惑してしまった。

 

    16世紀後半、カトリック教徒とユグノーと呼ばれたプロテスタントとの間で激しい戦争が行われた。有名な「サン・バルテルミの虐殺」という大量虐殺が行われたのもこの頃である。アンリ4世がナントの勅令を発して戦いはようやく終結したが、17世紀を通じてプロテスタントに対する圧迫はやまず、その結果、フランスではプロテスタントは減少した。現在、フランスではカトリック教徒は約80%以上であり、プロテスタントはわずか数パーセントにとどまり、ほかに若干のユダヤ教徒、イスラーム教徒がいる。さきごろフランス上院では、ブルカ禁止法が欧州で初めて成立した。

 ちなみにアメリカ合衆国はプロテスタント42%、カトリック21%といわれる。

2026年5月 8日 (金)

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。彼はユダヤ人以外の者、つまり異邦人に福音を伝えることを、使命と理解し、ローマ帝国の東半で活発な伝道活動を展開した。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。参考;「使徒パウロ 伝道にかけた生涯」佐竹明著 日本放送出版協会 1981年

2026年2月12日 (木)

一冊の本

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 本日は「ダーウィンの日」。1809年2月12日、イングランドのシュロップシャー州シュルーズベリーの裕福な医師の子として生まれた。

    「あなたにとって一番大切な本は何ですか?」このような質問に対して、河上肇(1879-1946)ならマルクスの「資本論」と答え、池田亀鑑(1896-1956)なら「源氏物語」と答え、今西錦司(1902-1992)ならダーウィンの「種の起源」と答え、犬養孝なら「万葉集」と答えるだろう。だが一冊に傾倒して偉業をなしとげた「一冊の人」は、昭和までで、現在は少なくなっている。価値観が多様化しているからだろうか。そのような現代においても聖書だけは例外で、一冊の人は多くいる。「聖書全体は神の霊感を受けたものです」(テモテ第二3-16)宗教に関心があるかないかは別として、聖書はあらゆる書物の中で特別なものである。全体を完全に読み通すことは困難なことかもしれない。もし1日に3章から5章を読んでゆけば、聖書全体を1年で読むことができる。

2026年1月 9日 (金)

内村鑑三不敬事件(1891年)

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   明治23年10月30日に発布された教育勅語について文部省はその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布した。内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校では、明治24 年1月9日にその奉読式を実施した。その際、内村は、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教の信念に従い、軽く会釈する程度の敬意を表することにとどめたが、生徒および教員の一部から、この内村の行為は皇室に対する不敬であるとの非難が発生し、同年1月から、その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種に達したが、そのほとんどは、「不忠の臣」「外教の奴隷不敬漢」というものであった。生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいた。新聞報道などによって「不敬事件」として一挙に社会問題となったが、内村は自分がけっして勅語の趣旨を批判するものではないと弁明し、宗教上の拝礼ではなく社会的な敬礼であればと、たまたま病床にあったために友人の教授木村駿吉に代理敬礼を委嘱した。事件後1ヵ月も経たない同年2月3日病気を理由に同校を依願退職した。全国から激しい非難を浴びた内村は、その後、病床に就く。看病した妻加寿子は、心身の疲れから、急逝した。しかし、この機会にキリスト教の弊害を指摘しようとする国体論者や仏教界の一部などからの画策もあって、帝国大学教授井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」を発表するや、問題は単なる内村の一「不敬行為」への糾弾からキリスト教一般への攻撃へと展開していった。内村は井上に反論する形で「基督教徒の慰め」を出版。内村は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張している。のちに丸山真男は「こういう事件は、直接の被害者はひとりか数人であっても、タブーを社会的に拡大し、無数の人々の思想に目に見えない統制を加えるという点で、大きな意味をもつわけであります」と分析している。(「思想と政治」1957年8月 信濃教育第849号)

 

 

2026年1月 3日 (土)

日本の正月の宗教現象

P_big_21     お正月は神社に初詣客は三が日で1億人を超えるといわれる。最も多かったのは東京の明治神宮の316万、2位が成田山新勝寺の305万、3位が川崎大師平間寺の302万、さらに鎌倉の鶴岡八幡宮、三重の伊勢神宮、京都の平安神宮など、初詣客でにぎわう。(2014年の調べ)、年末には除夜の鐘を聞き、12月にはクリスマス・コンサートを教会で聞く。さらにこれから七福神巡り、十日えびす、お稲荷さん、熊野詣で、西国八十八ヵ所巡礼へと果てしなく続く。この年末年始は「われわれ日本人の宗教観とは何か」をつくづく考えさせられるシーズン。しかし、毎年、答えは容易に見つかりそうもない。

   年末再放送でみた「冬のソナタ」のワン・シーン(第16話「父の影」)。偶然に立ち寄った教会(いまプロポーズの教会・厚岩教会が日本人観光客がロケ地ツァーで人気スポット)で、チュンサン(ぺ・ヨンジュン)はユジン(チェ・ジウ)に永遠の愛を誓う。「僕は一人の女性を愛しています。その人と僕によく似た子どもたちの父親になりたいんです。愛する人と子どものために、僕が闘い、手となり、丈夫な足となりたいんです。愛してます」と神に祈るチュンサン。冬のソナタの名シーンの一つであるが、考えてみると韓国は教会が多い。キリスト教徒はどれくらいいるかと調べてみると、人口の約3割という。日本におけるキリスト教徒は1パーセントに達しないという。日本では江戸幕府がおこなった鎖国政策の時代があり、16世紀の終わりから明治6年までキリスト教は厳しく禁じられた。近代になっても明治政府のキリスト教に対する圧迫は残っていた。しかし、第二次世界大戦が終わったあとは、何らの制約もなくなったはずである。それにもかかわらず、キリスト教徒の数はほとんど増えていない。日本には神道、仏教、あるいは象徴天皇による影響とみる向きもあろうが、なかなか納得しがたい根拠である。日本と韓国は、近世以来、「理」による儒教社会であったという指摘もなされるが、それだけでキリスト教を受容しにくい根拠とはなりにくい。一説では韓国ではシャーマニズムがいまでも盛んでも、祈祷好きの韓国人にはキリスト教は受け入れやすい精神土壌があるといわれている。

   ともかく、日本の仏教や神道という伝統宗教が、キリスト教の普及を阻むほどの強固な宗教であるという説明はなかなかつきにくいものがある。たしかに初詣の参詣者数や賽銭の金額は多いが、はたしてそれが宗教心とか信仰といえるほどのものであろうか。キリスト者のように日常生活すべてにおいて神と共にいる、という信仰心とはほど遠いものがあろう。

   ある韓国の牧師は次のように語っている。「韓国では、キリスト教は西洋の宗教というよりも、日本の植民地に勇敢に抵抗した愛国者の象徴と理解されている面があり、日本では、いつまでも、キリスト教は西洋の宗教という先入観から抜け出せない」という違いを指摘している。磯部忠正は、日本にキリスト教が普及しない理由を、「日本人の深層の宗教意識がキリスト教を受け入れないからだ」(日本人の宗教心)と述べている。阿部利磨は明治政府の政策に起因すると説く。宗教という言葉は明治になってからの新しい言葉。日本人が無宗教と一概に言えないとする。明治政府はキリスト教に対して江戸時代からのキリシタン禁制を継承したかったが、近代国家として「信教の自由」も必要だった。この矛盾した状況の中から、宗教を内と外に分断し、内側だけが宗教と呼ぶようになった。つまり風俗や習慣になった宗教は宗教とは呼べないものという認識が広まった。正月に参詣し、お盆に帰省し、彼岸に墓参するという年中行事を繰り返すだけの自然宗教は宗教とは考えられなくなったので、日本人は帰属する宗教をもたず、無宗教と自称する人が多いと説明している。(参考:深谷潤「無宗教と教育」平安女学院短期大学紀要31  2000年)

 

 

 

 

2025年12月25日 (木)

12月25日はキリストの誕生日ではない

Leasu  イエス・キリストは、紀元前6年ないし紀元前4年ごろベツレヘムで生まれた。クリスマスはイエスの生誕を祝って12月に世界中で盛大で厳かな聖夜のミサが行われるが、12月24日とする古記録や資料はない。そして紀元後30年4月7日(ユダヤ暦のニサン14日、複数説あり)、生地からさほど遠くないエルサレムのゴルゴダの丘で磔刑に処せられた。むかしのユダヤ人の暦では、一日のはじまりは日没、つまり晩からであった。そのためイヴとは前夜ではなく、その言葉の通り、クリスマス当日となっている。しかしベツレヘムの12月といえば、雨の多い寒い季節である。この時期に羊飼いがヒツジの群れと共に一晩中野原で過ごすことはない。イエスは秋の初め頃、おそらく9月に生まれたのであろう。では何故、12月25日を誕生日としたのか。当時ローマ帝国で最も広く信奉されていたのはミトラ教である。そしてミトラ教の最大の祭日が12月25日だったので、クリスマスの制定に影響を与えたと考えられる。4世紀前半、教皇ユリウス1世が「イエスの生誕日は12月25日」と定めた。その後、キリスト教の行事のなかで12月1日から25日までは「待降節」といい、12月25日から1月6日までは「降誕節」という。3月5日から4月20日までが「四旬節」、4月20日から6月9日までが「復活節」である。12月25日のクリスマスは日本でもお馴染みとなったが、「エピファニー」はほとんど知られていない。キリスト生誕のとき東方から来た3人の博士の前に初めてキリストが姿を現したことを記念する日であるクリスマスから12日目の1月6日に行われる。(the Epiphany)

 

 

 

 

2025年12月 6日 (土)

サンタの服が赤いのはコカ・コーラの広告がきっかけ

Photo_4     一般に、イエスは12月25日に生れたとされている。「クリスマス」は「キリストのミサ」、つまりキリスト降誕を祝うミサを意味する。しかし聖書にはイエスの誕生の日付は記されていない。12月25日は、農耕神サトゥルヌスを讃えるサトゥルナリア祭やローマのソルとペルシャのミトラという太陽神の祝祭を合体させたものである。それらの異教の祝祭日を教皇ユリウス1世が西暦350年にキリスト教の誕生日であると宣言したことにはじまる。研究者によると、実際のイエスの誕生日は古代ユダヤ暦のエタニムの月(9~10月)だそうだ。初期キリスト教の伝道者たちはイエスの誕生を祝ったりせず、イエスの死だけを記念して祝った。もちろんサンタクロースの話などはイエスと無関係。小アジア(現在のトルコ)のミラの聖ニコラウス大司教に由来する。聖ニコラウスを意味するオランダ語がなまって「シンテルクラース」から派生した。聖ニコラウスは西暦270年から345年(または352年12月6日)のミュラという地で大主教をつとめた立派なかたで実在した可能性が高い。2017年英国オックスフォード大学で遺骨を年代測定したところねその死亡時期がサンタクロース伝説と一致した。聖ニコラウスの墓とみられるものが2022年にトルコの教会遺蹟で発見されている。

  今日の、赤と白の衣裳に白いあご髭をたくわえた優しそうなおじいさんのサンタは、当時の有名な画家ハッドン・サンドプロムが描いたコカ・コーラの広告(1931年)が世界中に広がって、知られるようになった。クリスマスにプレゼントを贈ったり、ゲームを楽しんだり、パーティで馬鹿騒ぎすることは、古代ローマ人の太陽の誕生を祝うという偽りの宗教に由来する習慣である。教会の指導者たちは、真理を教えることよりも、教会の信者席をいっぱいにすることに熱心になり、コンサートとか行事を催している。クリスマスに愛する異性と夜を過ごすという日本の風潮も嘆かわしいもの。世俗化・商業化されたクリスマスは地域経済の活性化に大きく貢献していると人はいうかもしれない。しかし経済的負担をかけることは神の崇拝とは無縁のことである。最近ではデパートなどショッピング・センター以外にも公共の場でも大きなクリスマス・ツリーをみかける。ツリーを飾る習慣は、ドイツで行われていた樹木信仰を取り入れたもので、19世紀以降に北ヨーロッパや北米に広まった。イエスをたたえるはずの時が、子供をだます時になるのはおかしなことではないだろうか?

 

 

 

 

2025年12月 2日 (火)

靴屋のマルチン

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 毎年、クリスマスが近づく今の季節、どこかの児童劇で公演されている「靴屋のマルチン」はこんなお話です。

  ある町にマルチンという靴屋さんがいました。マルチンは地下室の小さな部屋に住んでいました。その部屋には、小さな窓が一つだけありました。そして、その窓からは道を通る人の足だけが見えるだけでした。トントン、トントン、朝から晩までトントン、トントン。マルチンの靴は一生懸命のいい靴ばかりでした。

 

   けれども、本当はマルチンはとても悲しい気持ちで暮らしていました。マルチンの奥さんも子どもも、ずっと前に死んでしまいました。それで、マルチンは一人ぼっちでした。

 

   ある日、マルチンは夢の中で、イエス様の声を聞きました。「マルチン、あした行くから待っておいで」次の日がきました。ふと窓の外を見ると、雪かきのおじさんが、いました。「年をとって雪かきなんて、疲れることもあるだろう。そうだ、あのおじさんにお茶を差しあげよう」マルチンはおじいさんに声をかけました。「少しあつたまって行きませんか」マルチンはおじさんに熱いお茶を入れてあげました。雪かきのおじさんは、心も身体もあつたまって帰って行きました。マルチンは暗くなってきたので、道具を片付け、棚から聖書を取り出して、きのうの続きを読もうとしました。その時、昼間の雪かきのおじさんが現れ、「マルチン、お前は、私に気付づかなかったのか」と言われました。そして、フッーと消えてしまいました。

 

   マルチンは叫びました。「夢ではなかったのだ。私はイエス様にお会いできた」マルチンの心は、喜びでいっぱいになりました。

2025年4月 5日 (土)

宣教医ベッテルハイム

 弘化3年(1846年)のこの日、イギリス軍艦が琉球に来航した。この船にはハンガリー出身のイギリス宣教医バーナード・ジョン・ベッテルハイム(1811-1870)が乗船していた。彼は那覇の護国寺を拠点に8年間滞在し、キリスト教の伝道に勤めた。(4月5日)

 

 

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