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2012年5月13日 (日)

ローマ教皇を狙撃したテロリストは今どうしている・・・

    1981年5月13日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はバチカンのサン・ピエトロ広場で白いパパ・モビル(専用のオープンカー)に乗っているところを銃撃された。弾丸は教皇の腹部と右肘、左手に命中した。車はその場からすぐに病院に直行した。大手術の結果、腹部から弾丸を摘出し、一命をとりとめた。犯人は、イスラム教過激派のアルメニア系トルコ人、メフメト・アリー・アジャで、1年前から教皇暗殺を計画していた。教皇は、手術4日後には、犯人を許す旨のコメントを発表している。5月23日、ローマの重要裁判所は犯人のアジャに対し、終身刑を言い渡している。2000年には教皇の恩赦によりイタリアを出所、イスタンブールに移る。2010年に出所している。

2012年5月 7日 (月)

日本で最初の和訳聖書はいつか?

   レファレンス協同データーベースの質問「聖書の和訳が日本でできた年を知りたい」とある。大阪府立図書館の回答(キリスト教33)によれば、「明治4年のゴーブル訳「摩太福音書」とある。

   「摩太福音書」とは「マタイ福音書」のことで、ジョナサン・ゴーブルによる抄訳であるが、明石書店から1989年に復刻版が刊行されている。永田方正(1838-1911)による「西洋教草(おしえぐさ)」は、2年後の明治6年のことで、これも抄訳ではあるが、かなり分量が増えており、こちらのほうを日本最初とする本もある。全訳としては、日本聖書協会が明治12年に「新約聖書」を、明治21年に「旧約聖書」を完成している。

    ところでジョナサン・ゴーブル(1827-1896)は若い頃、強盗で2年間刑務所で服役。のち海兵隊に入隊し、ペリー艦隊として来日。1859年、宣教師として再来日している。( Jonathan Goble )

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2012年4月27日 (金)

イースターとウサギ

Catholichistoryoftheeasterbunnyi3   キリストは、13日の金曜日に、磔の刑に処せられたが、その後、日曜日に生き返ったとされる。その「キリストの復活」を祝う祭りがイースターである。イースターはクリスマスのように日取りが一定していない。つまり3月21日以後の第1の満月の次の日曜日とされる。Easterという語は、Eostreと呼ばれるチュートン民族の暁の女神(ローマ神話のアウロラ)のために春分の日に行なわれた祭eastreからきている。キリスト教がゲルマン民族に伝わると、布教の便宜上、異教の春分の祭と融合して現在の復活祭が成立した。春のお祭りの豊穣のシンボルである鶏卵を、多産のシンボルであったウサギが隠すという伝承(イースター・エッグ)から、ゆで卵を庭や室内のあちこちに隠して子供たちに探させる遊びなどさまざまな習俗が各地で見られる。

( Keyword;crucifixion,resurrection,movable feast,Aurora, Easter egg )

2012年4月18日 (水)

イエスと孔子の死の記念日

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 成均館大学の学生たちによる八佾舞(パリルム)

  イエスも孔子も古い人なので命日をはっきりと定めることは困難がともなうようである。没年は西暦でいうとイエスが西暦28年、30年、33年と諸書によって異なる。孔子の没年は周の敬王41年、魯の哀公16年で紀元前479年は確定している。イエスも孔子も命日は定かではないが共に太陽暦でいうと4月になるらしい。イエスが処刑された日をユダヤ人は過ぎ越しの記念式に制定した。ユダヤ暦のニサン14日に行われた。これは太陽暦に換算すると4月上旬に当る。孔子の没日は「礼記・檀弓上」に陰暦2月11日とあり、4月己丑、4月11日(崔述の考証による)に当る。韓国では孔子の命日に「八佾舞」(パリルム)が5月11日に行われる。

2012年4月11日 (水)

ヴァチカンとコンスタンティヌス帝

101citta_del_vaticano_2   ヴァチカンという地名は、ヴァティカヌスの丘に由来する。2千年前のこの地区がどんなふうだったかを考えるのには、空想が入り込むかも知れない。テヴェレ川右岸はマラリアの危険性のあるところで人の住める所ではなかったが、次第に豪壮なヴィッラ(別荘)がいくつか建てられていった。ヴァチカヌスの丘とジャニコロの2つの丘にはさまれた平地に、ネロ帝の競技場が造られ、その中央に、カリグラ帝がエジプトのアレクサンドリアから運ばれたオベリスクを建てさせた。64年から67年にかけての迫害で、ペテロは多くの信者たちとともにこの競技場で殉教した。そして、すぐ近くの小さな墓地に埋葬された。326年にコンスタンティヌス帝によってペテロの墓所となる聖なる地に最初の教会堂が建てられた。やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として強い影響力を及ぼすようになると、ヴァチカンはカトリック教会の本拠地として発展するようになった。ユリウス2世からパウルス5世まで18人の教皇のもとで大聖堂が建設された。

( keyword;Vaticano,Mons Vaticanus,Petros,ConstantinusⅠ,Nero,JuliusⅡ )

2012年4月 4日 (水)

主の晩餐

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   過ぎ越しは年に一度、ユダヤ暦のニサンの月の14日に行われた祝いです。その日を算定するのは、毎年、春分にいちばん近い新月の日から14日後の日没後に「主の晩餐」と呼ばれるキリストの死の記念式が行われます。今年は4月5日、木曜日にあたります。ユダヤ暦と太陽暦とは下図のように異なります。

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ユダヤ暦

ニサン、イヤール、シバン、タムーズ、アブ、エルール、ティシェリー、マルへシュドン、キスレーヴ、テベット、シュバット、アダル、アダル・シェーニ(閏月)

( keyword;Passover Nissan14,Lord's Evening Meal,Nissan,Iyar,Sivan,Tammuz,Av,Elul,Tishri,Hashvan,Kislev,Tevet,Shevat,Adar,AdarⅡ )

2012年3月 9日 (金)

アイルランドの修道院

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 リンディスファーン修道院

    アイルランドでは5世紀はじめに聖パトリックによってキリスト教が布教され、修道院を中心として栄えた。その聖所は、たいてい人里離れたところや離島にある。イギリスのアイオナ、リンディスファーンなど何れも離島である。アイルランドでは世俗を離れて隠修者として信仰生活をすることが好まれたのである。

   ブリタニアにおいてキリスト教はすでにローマ時代末期に存在していたが、アングロ・サクソン人の侵入と共に一掃された。432年、ローマ教皇ケレスティヌス1世から布教の命を受けたパトリキウス(387-461)はアイルランドに司教として派遣された。30年間にわたる彼の布教はケルト人のドルイド教の神々を認めながら、除々にキリスト教に吸収していき、やがてキリスト教と土着の宗教との融合に成功した。のちにパトリキウスはアイルランドの守護聖者となり聖パトリックと呼ばれる。アイルランドにおけるカトリックは世俗から離れて修道院を中心とする信仰生活が栄えた。

   アイルランド修道僧コルドバ(521-597)は、563年、アイルランドを離れ、12人の仲間と共にアイオナ島に修道院を創建し、ここを伝道の拠点とした。アイオナは中世ケルト教会では最も格式の高い修道院であった。

   七王国の一つであるノーサンブリア王オズワルドは、635年、アイオナ修道院(へブリディーズ諸島)から司教エイダン(?-651)を招いて、リンディスファーンに修道院を開かせた。現在もリンディスファーンは司教の聖カスバートの名によって広く知られている。これらアイルランドの修道士たちによる布教活動により、キリスト教はスコットランドからイングランド北部にまで伝えられた。

    アイルランドで開花したキリスト教文化は、ローマ帝国の崩壊後も「西方の島」(エリン)で栄え、中世初期、逆に大陸に送り込む役割を演ずることとなった。しかしアイオナ、リンディスファーンのアイリッシュ・キリスト教は、664年のウィットビー宗教会議で復活祭の算定方法をめぐってローマ・キリスト教と衝突した。リンディスファーン司教コルマンは妥協を拒み、この地を去った。指導者を失った修道院は急速に凋落してゆく。司教カスバートは荒廃した修道院を建て直すべく尽力した。彼が687年に亡くなると、その墓所を詣でる人々が後を絶たなかった。そしてリンディスファーン島は聖カスバートの聖なる島として広くその名を知られるようになった。

2012年2月21日 (火)

ほんとうに偉い人は誰れ?

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  この世には、国民栄誉賞、文化勲章、ノーベル賞など多数の賞という名のつくものが存在し、その偉大な功績に対して栄誉を与えている。あるいは、織田信長、アレキサンダー大王、ジュリアス・シーザー、シャルルマーニュ大帝、ジンギスカン、ナポレオンなど強力な支配者も現われ、歴史上の偉人を英雄と呼ぶかもしれない。ほんとうに偉い人は誰か?歴史家のH・G・ウェルズによると、人の偉大さは、「どんな発展性のあるものをあとに残すかによって、また他の人々が、その人の死後も新しい線に沿って絶えず精力的に思考するようになるかどうか」によって計られる。ウェルズの基準に従えば、イチローが今後、何本ヒットを打とうと、森光子が何回「放浪記」を上演しようが、「ご苦労さん」といえばいいことで、偉大さとは無関係なものであることになる。思い浮かぶ人がひとりいる。その人は、辺鄙な村で田舎の女性の子供として生まれた。育ったのは別の村で、30歳になるまでその村で指物師として働いた。その後、3年間は各地を巡って伝道をおこなった。本を書いたこともなく、公職に就いたこともない。家族をもうけたことも、家を持ったこともない。大学に通ったこともないし、大都市に行ったこともない。生れた場所から320キロ以上離れたところに旅行したこともない。世論の動きがその人に敵対するようになったとき、わずか33歳だった。友人たちは逃げ去った。その人は敵に引き渡された。形だけの裁判を受けた。そして、2人の強盗の間に立てられた杭に釘付けされた。死にかけていたとき、死刑執行人たちは、その人が地上で持っていた唯一の財産だった衣服のくじ引きをした。死んだときには、ある友人の哀れみにより、借りた墓の中に横たえられた。その人は今日人々が思うような偉いことは何一つ行っていないと言っていい。地位も財産も権力もない。しかし、その人は約2000年経ったいまも、その人の教えと、教えに調和した生き方によって、世界中の人々の生活に影響を与えてこられたのである。

2012年2月11日 (土)

最後の晩餐

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 最後の晩餐 ギルランダイオ 1480年

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 最後の晩餐 ヤコボ・バッサーノ 1542年

    伝承によれば、最後の晩餐は町の南西部にある友人の家でなされたという。食事は多分過越のごちそうであったろう。紀元29年に、もし過越の祭りが金曜日の夜にはじまったとすれば、ガリラヤの巡礼者たちは旅行の禁じられている安息日の前に帰らなければならなかった。それで、ごちそうを一日早く祝うことが許されていたのである。

   とにかくイエスはこの食事に特別な意味を与えた。パンをさき、ぶどう酒を与えて、彼は彼の来たるべき死を新しい約束、すなわち預言者エレミアによってバビロン捕囚の際に告知された「契約」に結びつけた。

    讃美を歌った後、イエスと弟子たちは、ケデロンの谷を横切ってオリーブ山に来た。山の斜面にゲッセマネと呼ばれる小さな園があった。ゲッセマネから、イエスは数分間で山の頂にいたり、ユダヤの荒野の深い峡谷を抜けて東にでも南にでも逃げることができた。逃げれば追跡者は彼を見つけ出すことはほとんど不可能であった。

   しかし、彼は逃げる道を選ぼうとはせず、ペテロとヤコブとヨハネとが深い眠りにおちいる間も、祈りつづけたのであった。

   ゲッセマネにおいて、イエスは自分で予期していたとおり逮捕された。弟子のひとりであるイスカリオテのユダが、祭司たちと組んでイエスを裏切った。ユダは宮の警備兵の小さな分遣隊を連れてやってきた。多分その中には幾人かのローマ兵士たちもいたであろう。

   弟子たちは目をさまして、逃げ去った。そして警備兵は抵抗しないイエスを捕えて、大祭司カヤバの邸宅へ連れていった。そこにはユダヤ人の議会、サンへドリンの議員たちが集まっていた。サンヘドリンは死刑を命じる権限をもたなかったので、議員たちはただ、イエスの罪が死刑に値すると述べただけであった。そして彼らはイエスをローマの総督ポンテオ・ピラトのところへ送った。

2012年2月 8日 (水)

アリの町の神父ゼノ

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    ポーランド出身の聖職者ゼノ・ゼブロフスキー(1891-1982)は長崎で被爆した。戦後、東京浅草のバタヤ街など全国各地で「アリの町」支援活動を始める。1982年2月来日したローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、ゼノ修道士の入院先を訪問した。ゼノに影響を受けた女性で、貧者への献身的な活動に身を投じて若くして散った「アリの街のマリア」こと北原玲子がいる。

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