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2024年6月29日 (土)

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。

2024年5月31日 (金)

バルメン宣言

3273_org   バルメン宣言とは、1934年5月31日、ドイツ福音主義教会がヴッパータールのバルメン(デュッセルドルフの北東)における第1回告白大会で採用した「ドイツ福音主義教会の現状に対する神学的宣言」をいう。カール・バルトが起草者の中心だった。最重要は、自然神学による神認識の可能性を否定して「聖書において証言されているイエス・キリストは、われわれがそれを聞き、生と死とにおいてそれに信頼し、従わなければならない神の唯一のことばである。教会がその宣教の根源として、この神の唯一のことばのほかにこれと並んで、さらにほかの事件や権力、現象や真理をも神の啓示として認めることができるとか、認めなければならないとかいうような誤った教えを、われわれは拒否する」というものである。つまりイエス・キリストのみをこの世の支配者とみなす宣言。(Die Barmer Theologische Erklarung,Karl Barth)

2024年4月19日 (金)

日本で最初の和訳聖書が完成(1880年)

 明治13年(1880年)のこの日、新約聖書の日本語訳全巻が完成した。

   レファレンス協同データーベースの質問「聖書の和訳が日本でできた年を知りたい」とある。大阪府立図書館の回答(キリスト教33)によれば、「明治4年のゴーブル訳「摩太福音書」とある。「摩太福音書」とは「マタイ福音書」のことで、ジョナサン・ゴーブルによる抄訳であるが、明石書店から1989年に復刻版が刊行されている。永田方正(1838-1911)による「西洋教草(おしえぐさ)」は、2年後の明治6年のことで、これも抄訳ではあるが、かなり分量が増えており、こちらのほうを日本最初とする本もある。全訳としては、日本聖書協会が明治12年に「新約聖書」を、明治21年に「旧約聖書」を完成している。明治13年にはネイサン・ブラウンが「志無也久世無志與(しんやくせいしょ)」が日本語としては初めての、新約聖書全巻の翻訳である。ところでジョナサン・ゴーブル(1827-1896)は若い頃、強盗で2年間刑務所で服役。のち海兵隊に入隊し、ペリー艦隊として来日。1859年、宣教師として再来日している。( Jonathan Goble、4月19日 )

 

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2024年3月24日 (日)

イースターが日本人に受け入れられないのは時期がお花見と重なるから?

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2024年2月 4日 (日)

聖書

3z20120815gz0jpg0023910010    聖書はユダヤ教およびキリスト教関連の宗教にはもっとも重要な宗教文書とされる。もっとも旧約聖書と新約聖書の両者を聖書と呼ぶのはキリスト教の立場に基づくものであることは留意すべきである。ユダヤ教にとってはいわゆる新約聖書は経典ではないし、イスラム教にとっては両聖書とクルラアーンとはいずれも経典である。ただしクルアーンが優越すると考えられている。図版はエルビス・プレスリー所蔵の聖書。聖書の内容は、天地創造、アダムとイブの禁断の果実、ノアの方舟、アブラハムと子供たち、天使と格闘してイスラエルの名前を授かったヤコブ、モーゼの出エジプト、王国に繁栄をもたらしたダビデとソロモン、バビロン捕囚、キリストの復活など。このような歴史的な叙述だけでなく、法律、預言、詩、格言、歌、手紙などさまざな文章が集められている。エホバの証人の本によると、「聖書は西暦前1513年に書き始められ、1600年以上かけて、西暦98年に書き終えられた」とある。これは66冊の書からなる聖書の初めの部分、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「ヨブ記「民数記」「申命記」「詩編90編」をモーセが書いたと考えているからである。そうすると、聖書は今から約3500年前に書き始められたことになるが、文字の発達していない時代にこのような複雑な文章を残すことは歴史学的立場から考えるとあり得ない話である。(Bible,Quran)

 

  聖書・キリスト教関係文献目録

摩太福音書 ジョナサン・ゴーブル  1871
西洋教草 永田方正          1873
新約聖書 日本聖書協会       1879
旧約聖書 日本聖書協会       1888
聖書辞典 平文・山本秀煌編纂 基督教書類会社 1892
引照新約全書 大日本聖書館 1894
上川基督教育青年会憲法及細則 上川基督教青年会 1902
約翰傳福音書新約聖書 聖書館 1903
戦争と宗教 デフォリスト述 警醒社書店 1905
聖書物語 通俗文庫 百島冷泉訳 内外出版社 1907
ルナン氏耶蘇会 エルネスト・ルナン 日高有倫堂 1908
旧約聖書出埃及記 米国聖書会社 1911
使徒行伝 新約聖書 米国聖書会社 1915
基督再臨問題講演集 内村鑑三 岩波書店 1918
新約聖書一日一訓 松本苦味編 大日本雄弁会 1918

 

 

 

 

2024年1月 1日 (月)

日本の正月の宗教現象

P_big_21     お正月は神社に初詣客は三が日で1億人を超えるといわれる。最も多かったのは東京の明治神宮の316万、2位が成田山新勝寺の305万、3位が川崎大師平間寺の302万、さらに鎌倉の鶴岡八幡宮、三重の伊勢神宮、京都の平安神宮など、初詣客でにぎわう。(2014年の調べ)、年末には除夜の鐘を聞き、12月にはクリスマス・コンサートを教会で聞く。さらにこれから七福神巡り、十日えびす、お稲荷さん、熊野詣で、西国八十八ヵ所巡礼へと果てしなく続く。この年末年始は「われわれ日本人の宗教観とは何か」をつくづく考えさせられるシーズン。しかし、毎年、答えは容易に見つかりそうもない。

   年末再放送でみた「冬のソナタ」のワン・シーン(第16話「父の影」)。偶然に立ち寄った教会(いまプロポーズの教会・厚岩教会が日本人観光客がロケ地ツァーで人気スポット)で、チュンサン(ぺ・ヨンジュン)はユジン(チェ・ジウ)に永遠の愛を誓う。「僕は一人の女性を愛しています。その人と僕によく似た子どもたちの父親になりたいんです。愛する人と子どものために、僕が闘い、手となり、丈夫な足となりたいんです。愛してます」と神に祈るチュンサン。冬のソナタの名シーンの一つであるが、考えてみると韓国は教会が多い。キリスト教徒はどれくらいいるかと調べてみると、人口の約3割という。日本におけるキリスト教徒は1パーセントに達しないという。日本では江戸幕府がおこなった鎖国政策の時代があり、16世紀の終わりから明治6年までキリスト教は厳しく禁じられた。近代になっても明治政府のキリスト教に対する圧迫は残っていた。しかし、第二次世界大戦が終わったあとは、何らの制約もなくなったはずである。それにもかかわらず、キリスト教徒の数はほとんど増えていない。日本には神道、仏教、あるいは象徴天皇による影響とみる向きもあろうが、なかなか納得しがたい根拠である。日本と韓国は、近世以来、「理」による儒教社会であったという指摘もなされるが、それだけでキリスト教を受容しにくい根拠とはなりにくい。一説では韓国ではシャーマニズムがいまでも盛んでも、祈祷好きの韓国人にはキリスト教は受け入れやすい精神土壌があるといわれている。

   ともかく、日本の仏教や神道という伝統宗教が、キリスト教の普及を阻むほどの強固な宗教であるという説明はなかなかつきにくいものがある。たしかに初詣の参詣者数や賽銭の金額は多いが、はたしてそれが宗教心とか信仰といえるほどのものであろうか。キリスト者のように日常生活すべてにおいて神と共にいる、という信仰心とはほど遠いものがあろう。

   ある韓国の牧師は次のように語っている。「韓国では、キリスト教は西洋の宗教というよりも、日本の植民地に勇敢に抵抗した愛国者の象徴と理解されている面があり、日本では、いつまでも、キリスト教は西洋の宗教という先入観から抜け出せない」という違いを指摘している。磯部忠正は、日本にキリスト教が普及しない理由を、「日本人の深層の宗教意識がキリスト教を受け入れないからだ」(日本人の宗教心)と述べている。阿部利磨は明治政府の政策に起因すると説く。宗教という言葉は明治になってからの新しい言葉。日本人が無宗教と一概に言えないとする。明治政府はキリスト教に対して江戸時代からのキリシタン禁制を継承したかったが、近代国家として「信教の自由」も必要だった。この矛盾した状況の中から、宗教を内と外に分断し、内側だけが宗教と呼ぶようになった。つまり風俗や習慣になった宗教は宗教とは呼べないものという認識が広まった。正月に参詣し、お盆に帰省し、彼岸に墓参するという年中行事を繰り返すだけの自然宗教は宗教とは考えられなくなったので、日本人は帰属する宗教をもたず、無宗教と自称する人が多いと説明している。(参考:深谷潤「無宗教と教育」平安女学院短期大学紀要31  2000年)

 

 

 

 

2023年12月28日 (木)

ローマのカタコンベ

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 キリスト教は東方で確立したが、早い時期にローマに伝えられたのを別にすると、西方世界では3世紀まであまり受け入れられなかった。ローマ皇帝ネロは64年ローマ市の大火の原因がキリスト教徒であるとし確証のないまま多数のキリスト教徒を処刑した。ドミティアヌス帝は、ネロと同じようにキリスト教を迫害し、デキウス帝が250年に勅令を出して、迫害を行った。258年8月6日、ローマ皇帝ウァレリアヌスは第24代ローマ教皇シクストゥス2世がカタコンベで儀式中のところを捕らえて、その場で斬首したと伝えられる。ウァレリアヌスによる迫害のため、ヤヌアリウス、ウィンケンティウス、マグヌス、ステファヌス、ウェリキシムス、アガピトゥスら6人の助祭も共に殉教した。シクストゥス2世の墓は現在もサン・カッリストのカタコンベにある。 カタコンベとは帝政ローマ時代のキリスト教の地下墓所のことで、キリスト教が弾圧されていた時代に、信徒たちが地下に秘密の墓や礼拝所をつくったものである。ギリシア語のカタ・キュンバスに由来し、道路がそこを横断し、あるいは奥に通ずる自然の空洞わ意味したようである。ローマ周辺には大きいものでも40数カ所のカタコンベがあり、総延長はじつに560キロに達し、そのうち古い四つカタコンベ、カリスト、セバスチィアノ、ドミティラ、プリスキュラは、いずれも2~3世紀に由来する。

  サン・カッリストのカタコンベはローマの南のサン・セバスティアーノ門を起点とするアッピア旧街道に沿った場所にある。中に入ると墓所は地下4層からなり、全長10㎞以上の通路は迷路のように延びている。約10万人以上の人が葬られているが、最も注目すべき地下室墓は「教皇の地下室墓」である。3~4世紀、初期のローマ教皇12人の遺体がここに葬られている。最も古いのが第19代教皇ポンティアヌス(在位232-235)。20代アンテルス(235-236)、21代ファビアヌス(236-254)、23代ルキウス(253-254)、24代シクストゥス2世、25代ティオニュシウス(259-268)、26代フェリクス1世(269-274)、27代エウティキアヌス(275-283)、28代カイウス(283-296)、31代エウセビウス(311-314)、32代ミルティアデス(311-314)、そして第37代教皇ダマスス1世(366-384)である。キリスト教徒にとって最も聖なる教皇の墓が存在するこの地下室墓は、1854年デ・ロッシによって発見されたが、長い年月をかけて名前を確認することができたといわれる。(Catacombe di San Calisto,Pontian,SixtusⅡ,De Rossi、世界史)

2023年12月25日 (月)

12月25日はキリストの誕生日ではない

Leasu  イエス・キリストは、紀元前6年ないし紀元前4年ごろベツレヘムで生まれた。クリスマスはイエスの生誕を祝って12月に世界中で盛大で厳かな聖夜のミサが行われるが、12月24日とする古記録や資料はない。そして紀元後30年4月7日(ユダヤ暦のニサン14日、複数説あり)、生地からさほど遠くないエルサレムのゴルゴダの丘で磔刑に処せられた。むかしのユダヤ人の暦では、一日のはじまりは日没、つまり晩からであった。そのためイヴとは前夜ではなく、その言葉の通り、クリスマス当日となっている。しかしベツレヘムの12月といえば、雨の多い寒い季節である。この時期に羊飼いがヒツジの群れと共に一晩中野原で過ごすことはない。イエスは秋の初め頃、おそらく9月に生まれたのであろう。では何故、12月25日を誕生日としたのか。当時ローマ帝国で最も広く信奉されていたのはミトラ教である。そしてミトラ教の最大の祭日が12月25日だったので、クリスマスの制定に影響を与えたと考えられる。4世紀前半、教皇ユリウス1世が「イエスの生誕日は12月25日」と定めた。その後、キリスト教の行事のなかで12月1日から25日までは「待降節」といい、12月25日から1月6日までは「降誕節」という。3月5日から4月20日までが「四旬節」、4月20日から6月9日までが「復活節」である。12月25日のクリスマスは日本でもお馴染みとなったが、「エピファニー」はほとんど知られていない。キリスト生誕のとき東方から来た3人の博士の前に初めてキリストが姿を現したことを記念する日であるクリスマスから12日目の1月6日に行われる。(the Epiphany)

 

 

 

 

2023年12月 7日 (木)

クリスマスツリーの日

Tumblr_mfhf4o9lle1qbn3ato1_500  本日は「クリスマスツリーの日」。明治19年、横浜で外国人船員のために、日本初のクリスマスツリーが飾られたことによる。日本人が初めてクリスマスを祝ったのは、明治7年、米国長老教会の宣教師の指導の下、原胤昭(1853-1942)が東京・築地湊の第一長老教会で催したクリスマス祝会で、戸田忠厚という者が裃をつけ、大小脇差を携えて、大森カツラをかぶったお殿様姿でサンタクロースとして登場した。同年中、この教会で受洗し後牧師となる田村直臣も、この祝会に参加したが、「さんたくろすがとんなものか見たことはなく、クリスマスとどう関係があるかも知らず、ただのその名前が大変奇妙に聞えた」と述懐している。明治31年、進藤信義が日曜学校の子供向け教材として作成した冊子「さんたくろう」(三太九郎)の扉絵は、ロバを従えクリスマスツリーを抱えて、ややドイツ風のサンタクロースであった。(12月7日)

2023年10月 4日 (水)

聖フランチェスコ

Photo サセッタ「恍惚の聖フランチェスコ」 フィレンツェ

  本日は「世界動物の日」。この日はもともとアッシジのフランチェスコの聖名祝日であるため。イタリアのアッシジの裕福な商家に生まれたフランチェスコ(1181-1226)は、やがてキリストに目覚めて、父も家業も捨てて求道生活に入る。その魅力ある人柄は「キリストに最も似た人」と評せられ、カトリック、プロテスタントを通じて最も愛せられた聖人となっている。シエナの画家サセッタ(1392-1450)は1437年から1444年にかけて聖フランチェスコの絵を多数描いている。(10月4日)

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