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2026年2月12日 (木)

一冊の本

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 本日は「ダーウィンの日」。1809年2月12日、イングランドのシュロップシャー州シュルーズベリーの裕福な医師の子として生まれた。

    「あなたにとって一番大切な本は何ですか?」このような質問に対して、河上肇(1879-1946)ならマルクスの「資本論」と答え、池田亀鑑(1896-1956)なら「源氏物語」と答え、今西錦司(1902-1992)ならダーウィンの「種の起源」と答え、犬養孝なら「万葉集」と答えるだろう。だが一冊に傾倒して偉業をなしとげた「一冊の人」は、昭和までで、現在は少なくなっている。価値観が多様化しているからだろうか。そのような現代においても聖書だけは例外で、一冊の人は多くいる。「聖書全体は神の霊感を受けたものです」(テモテ第二3-16)宗教に関心があるかないかは別として、聖書はあらゆる書物の中で特別なものである。全体を完全に読み通すことは困難なことかもしれない。もし1日に3章から5章を読んでゆけば、聖書全体を1年で読むことができる。

2026年1月 9日 (金)

内村鑑三不敬事件(1891年)

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   明治23年10月30日に発布された教育勅語について文部省はその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布した。内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校では、明治24 年1月9日にその奉読式を実施した。その際、内村は、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教の信念に従い、軽く会釈する程度の敬意を表することにとどめたが、生徒および教員の一部から、この内村の行為は皇室に対する不敬であるとの非難が発生し、同年1月から、その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種に達したが、そのほとんどは、「不忠の臣」「外教の奴隷不敬漢」というものであった。生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいた。新聞報道などによって「不敬事件」として一挙に社会問題となったが、内村は自分がけっして勅語の趣旨を批判するものではないと弁明し、宗教上の拝礼ではなく社会的な敬礼であればと、たまたま病床にあったために友人の教授木村駿吉に代理敬礼を委嘱した。事件後1ヵ月も経たない同年2月3日病気を理由に同校を依願退職した。全国から激しい非難を浴びた内村は、その後、病床に就く。看病した妻加寿子は、心身の疲れから、急逝した。しかし、この機会にキリスト教の弊害を指摘しようとする国体論者や仏教界の一部などからの画策もあって、帝国大学教授井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」を発表するや、問題は単なる内村の一「不敬行為」への糾弾からキリスト教一般への攻撃へと展開していった。内村は井上に反論する形で「基督教徒の慰め」を出版。内村は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張している。のちに丸山真男は「こういう事件は、直接の被害者はひとりか数人であっても、タブーを社会的に拡大し、無数の人々の思想に目に見えない統制を加えるという点で、大きな意味をもつわけであります」と分析している。(「思想と政治」1957年8月 信濃教育第849号)

 

 

2026年1月 3日 (土)

日本の正月の宗教現象

P_big_21     お正月は神社に初詣客は三が日で1億人を超えるといわれる。最も多かったのは東京の明治神宮の316万、2位が成田山新勝寺の305万、3位が川崎大師平間寺の302万、さらに鎌倉の鶴岡八幡宮、三重の伊勢神宮、京都の平安神宮など、初詣客でにぎわう。(2014年の調べ)、年末には除夜の鐘を聞き、12月にはクリスマス・コンサートを教会で聞く。さらにこれから七福神巡り、十日えびす、お稲荷さん、熊野詣で、西国八十八ヵ所巡礼へと果てしなく続く。この年末年始は「われわれ日本人の宗教観とは何か」をつくづく考えさせられるシーズン。しかし、毎年、答えは容易に見つかりそうもない。

   年末再放送でみた「冬のソナタ」のワン・シーン(第16話「父の影」)。偶然に立ち寄った教会(いまプロポーズの教会・厚岩教会が日本人観光客がロケ地ツァーで人気スポット)で、チュンサン(ぺ・ヨンジュン)はユジン(チェ・ジウ)に永遠の愛を誓う。「僕は一人の女性を愛しています。その人と僕によく似た子どもたちの父親になりたいんです。愛する人と子どものために、僕が闘い、手となり、丈夫な足となりたいんです。愛してます」と神に祈るチュンサン。冬のソナタの名シーンの一つであるが、考えてみると韓国は教会が多い。キリスト教徒はどれくらいいるかと調べてみると、人口の約3割という。日本におけるキリスト教徒は1パーセントに達しないという。日本では江戸幕府がおこなった鎖国政策の時代があり、16世紀の終わりから明治6年までキリスト教は厳しく禁じられた。近代になっても明治政府のキリスト教に対する圧迫は残っていた。しかし、第二次世界大戦が終わったあとは、何らの制約もなくなったはずである。それにもかかわらず、キリスト教徒の数はほとんど増えていない。日本には神道、仏教、あるいは象徴天皇による影響とみる向きもあろうが、なかなか納得しがたい根拠である。日本と韓国は、近世以来、「理」による儒教社会であったという指摘もなされるが、それだけでキリスト教を受容しにくい根拠とはなりにくい。一説では韓国ではシャーマニズムがいまでも盛んでも、祈祷好きの韓国人にはキリスト教は受け入れやすい精神土壌があるといわれている。

   ともかく、日本の仏教や神道という伝統宗教が、キリスト教の普及を阻むほどの強固な宗教であるという説明はなかなかつきにくいものがある。たしかに初詣の参詣者数や賽銭の金額は多いが、はたしてそれが宗教心とか信仰といえるほどのものであろうか。キリスト者のように日常生活すべてにおいて神と共にいる、という信仰心とはほど遠いものがあろう。

   ある韓国の牧師は次のように語っている。「韓国では、キリスト教は西洋の宗教というよりも、日本の植民地に勇敢に抵抗した愛国者の象徴と理解されている面があり、日本では、いつまでも、キリスト教は西洋の宗教という先入観から抜け出せない」という違いを指摘している。磯部忠正は、日本にキリスト教が普及しない理由を、「日本人の深層の宗教意識がキリスト教を受け入れないからだ」(日本人の宗教心)と述べている。阿部利磨は明治政府の政策に起因すると説く。宗教という言葉は明治になってからの新しい言葉。日本人が無宗教と一概に言えないとする。明治政府はキリスト教に対して江戸時代からのキリシタン禁制を継承したかったが、近代国家として「信教の自由」も必要だった。この矛盾した状況の中から、宗教を内と外に分断し、内側だけが宗教と呼ぶようになった。つまり風俗や習慣になった宗教は宗教とは呼べないものという認識が広まった。正月に参詣し、お盆に帰省し、彼岸に墓参するという年中行事を繰り返すだけの自然宗教は宗教とは考えられなくなったので、日本人は帰属する宗教をもたず、無宗教と自称する人が多いと説明している。(参考:深谷潤「無宗教と教育」平安女学院短期大学紀要31  2000年)

 

 

 

 

2025年12月25日 (木)

12月25日はキリストの誕生日ではない

Leasu  イエス・キリストは、紀元前6年ないし紀元前4年ごろベツレヘムで生まれた。クリスマスはイエスの生誕を祝って12月に世界中で盛大で厳かな聖夜のミサが行われるが、12月24日とする古記録や資料はない。そして紀元後30年4月7日(ユダヤ暦のニサン14日、複数説あり)、生地からさほど遠くないエルサレムのゴルゴダの丘で磔刑に処せられた。むかしのユダヤ人の暦では、一日のはじまりは日没、つまり晩からであった。そのためイヴとは前夜ではなく、その言葉の通り、クリスマス当日となっている。しかしベツレヘムの12月といえば、雨の多い寒い季節である。この時期に羊飼いがヒツジの群れと共に一晩中野原で過ごすことはない。イエスは秋の初め頃、おそらく9月に生まれたのであろう。では何故、12月25日を誕生日としたのか。当時ローマ帝国で最も広く信奉されていたのはミトラ教である。そしてミトラ教の最大の祭日が12月25日だったので、クリスマスの制定に影響を与えたと考えられる。4世紀前半、教皇ユリウス1世が「イエスの生誕日は12月25日」と定めた。その後、キリスト教の行事のなかで12月1日から25日までは「待降節」といい、12月25日から1月6日までは「降誕節」という。3月5日から4月20日までが「四旬節」、4月20日から6月9日までが「復活節」である。12月25日のクリスマスは日本でもお馴染みとなったが、「エピファニー」はほとんど知られていない。キリスト生誕のとき東方から来た3人の博士の前に初めてキリストが姿を現したことを記念する日であるクリスマスから12日目の1月6日に行われる。(the Epiphany)

 

 

 

 

2025年12月 6日 (土)

サンタの服が赤いのはコカ・コーラの広告がきっかけ

Photo_4     一般に、イエスは12月25日に生れたとされている。「クリスマス」は「キリストのミサ」、つまりキリスト降誕を祝うミサを意味する。しかし聖書にはイエスの誕生の日付は記されていない。12月25日は、農耕神サトゥルヌスを讃えるサトゥルナリア祭やローマのソルとペルシャのミトラという太陽神の祝祭を合体させたものである。それらの異教の祝祭日を教皇ユリウス1世が西暦350年にキリスト教の誕生日であると宣言したことにはじまる。研究者によると、実際のイエスの誕生日は古代ユダヤ暦のエタニムの月(9~10月)だそうだ。初期キリスト教の伝道者たちはイエスの誕生を祝ったりせず、イエスの死だけを記念して祝った。もちろんサンタクロースの話などはイエスと無関係。小アジア(現在のトルコ)のミラの聖ニコラウス大司教に由来する。聖ニコラウスを意味するオランダ語がなまって「シンテルクラース」から派生した。聖ニコラウスは西暦270年から345年(または352年12月6日)のミュラという地で大主教をつとめた立派なかたで実在した可能性が高い。2017年英国オックスフォード大学で遺骨を年代測定したところねその死亡時期がサンタクロース伝説と一致した。聖ニコラウスの墓とみられるものが2022年にトルコの教会遺蹟で発見されている。

  今日の、赤と白の衣裳に白いあご髭をたくわえた優しそうなおじいさんのサンタは、当時の有名な画家ハッドン・サンドプロムが描いたコカ・コーラの広告(1931年)が世界中に広がって、知られるようになった。クリスマスにプレゼントを贈ったり、ゲームを楽しんだり、パーティで馬鹿騒ぎすることは、古代ローマ人の太陽の誕生を祝うという偽りの宗教に由来する習慣である。教会の指導者たちは、真理を教えることよりも、教会の信者席をいっぱいにすることに熱心になり、コンサートとか行事を催している。クリスマスに愛する異性と夜を過ごすという日本の風潮も嘆かわしいもの。世俗化・商業化されたクリスマスは地域経済の活性化に大きく貢献していると人はいうかもしれない。しかし経済的負担をかけることは神の崇拝とは無縁のことである。最近ではデパートなどショッピング・センター以外にも公共の場でも大きなクリスマス・ツリーをみかける。ツリーを飾る習慣は、ドイツで行われていた樹木信仰を取り入れたもので、19世紀以降に北ヨーロッパや北米に広まった。イエスをたたえるはずの時が、子供をだます時になるのはおかしなことではないだろうか?

 

 

 

 

2025年12月 2日 (火)

靴屋のマルチン

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 毎年、クリスマスが近づく今の季節、どこかの児童劇で公演されている「靴屋のマルチン」はこんなお話です。

  ある町にマルチンという靴屋さんがいました。マルチンは地下室の小さな部屋に住んでいました。その部屋には、小さな窓が一つだけありました。そして、その窓からは道を通る人の足だけが見えるだけでした。トントン、トントン、朝から晩までトントン、トントン。マルチンの靴は一生懸命のいい靴ばかりでした。

 

   けれども、本当はマルチンはとても悲しい気持ちで暮らしていました。マルチンの奥さんも子どもも、ずっと前に死んでしまいました。それで、マルチンは一人ぼっちでした。

 

   ある日、マルチンは夢の中で、イエス様の声を聞きました。「マルチン、あした行くから待っておいで」次の日がきました。ふと窓の外を見ると、雪かきのおじさんが、いました。「年をとって雪かきなんて、疲れることもあるだろう。そうだ、あのおじさんにお茶を差しあげよう」マルチンはおじいさんに声をかけました。「少しあつたまって行きませんか」マルチンはおじさんに熱いお茶を入れてあげました。雪かきのおじさんは、心も身体もあつたまって帰って行きました。マルチンは暗くなってきたので、道具を片付け、棚から聖書を取り出して、きのうの続きを読もうとしました。その時、昼間の雪かきのおじさんが現れ、「マルチン、お前は、私に気付づかなかったのか」と言われました。そして、フッーと消えてしまいました。

 

   マルチンは叫びました。「夢ではなかったのだ。私はイエス様にお会いできた」マルチンの心は、喜びでいっぱいになりました。

2025年6月29日 (日)

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。

2025年4月 5日 (土)

宣教医ベッテルハイム

 弘化3年(1846年)のこの日、イギリス軍艦が琉球に来航した。この船にはハンガリー出身のイギリス宣教医バーナード・ジョン・ベッテルハイム(1811-1870)が乗船していた。彼は那覇の護国寺を拠点に8年間滞在し、キリスト教の伝道に勤めた。(4月5日)

 

 

2025年3月28日 (金)

ノアの箱舟

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  米国ダラスで1000年に一度の大雨で街は洪水となっている。手の施しようがない。「後は野となれ山となれ」これに近い英語表現は、 

我々が死んだ後に大洪水よ起これ 

After us the deluge. 

 

   「delu」とは、大洪水、豪雨の意味。やはりノアの大洪水が基本にあるように思える。ノアはアダムから10代目にあたり、セム、ハム、ヤペテの父。聖書に記されたノアの箱舟伝説は何を意味するのだろうか。伝説ではなく、ニネヴェで発見された粘土版には、大洪水について記された断片が見える。創世記6ー15によると、「長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマ」とある。アンマとは、口語聖書ではキュービット、ほぼ腕の長さで約46cm。(神殿キュービットはさらに一手幅(7.5cm)を加える) つまり箱船の大きさは138×23×15mとなり、長方形だった。この船は3層をなし、なかには個室があり、側面には戸口があり、天窓が開くようになっている。ノアの箱舟を建造している人がいるだろうか。ノアの箱舟が流れついたとされるトルコのアララト山(標高5137m)に1829年フリードリヒ・パルロットはロシア登山隊を率いて初登頂に成功した。この箱舟を探すため1951年と52年にアララト山の調査が行われたが徒労に終わった。

 

 

 

(Noah)

2024年12月25日 (水)

最初の日本語聖書「西洋教草」について

  本日はクリスマス。三角帽をかぶってクラッカーを鳴らして夜遅くまでバカ騒ぎするというのは終戦後の昭和20年代後半からはじまった。お土産にケーキを買ってかえる。はじめはサラリーマンから流行した。1980年代後半のバブル時代、クリスマスは恋人と一緒に過ごすことが若者たちの間に定着してしまった。このとのきクリスマス・イブの日のホテルのスイートは予約満員。ティファニーのハートのネックレスが売れた。いまはクリスマスは家庭サービスの日となっていった、だがクリスマスコンサートを聴いたり、プレゼントをしたりするのが正しいクリスマスの過ごし方なのだろうか。だが民間気象会社ウェザーニューズの調査によると日本人の3人に1人はクリスマスに関心がない、ということがわかった。この人のなかにはクリスマスやサンタクロースがイエスの誕生と無関係であると知っていて、聖書のみを信仰のよりどころとしてる信者も含まれるのだろうか。不思議な日本のクリスマス。それはさておき、日本で聖書が本格的に日本語に訳されたのは明治になってからであるが、いつ頃であろうか。日本聖書協会が設立され「新約聖書」が完成したのは明治12年、「旧約聖書」は明治21年といわれる。しかし永田方正(1838-1911)が明治6年に訳した「西洋教草(おしえぐさ)」は抄訳とはいえ、日本人単独の手になる最初の優れた聖書の翻訳書である。「西洋教草」は教科書たることを目的としていたが、上巻には「箴言」のほとんど全部を収め、中巻には「レビ記」「申命記」「出エジプト記」「民数記」「ローマ人への手紙」「テサロニケ人への第一の手紙」「テサロニケ人への第二の手紙」中からの抄訳と「テモテへの第一二の手紙」のほぼ全部、下巻はイエスの説話を中心に四福音書などからの抄訳である。

    永田方正は天保9年3月1日、伊予国西条藩士の子として生まれ、宇高辰次郎と名づけられた。(注)木下清(1915-1994)の説によれば生年は天保15年(1844年)であるがここではコンサイス日本人名事典に従う。少年のころから英才のほまれ高く、長じて永田吉平の養子となり、永田静之助と称し、昌平坂学問所に学び、主に英書の翻訳業に励み、後に、永田方正(ほうせい)と改名した。明治14年、北海道開拓使となり、アイヌ語の研究に没頭した。アイヌ民族の叙事詩ユーカラの最初の翻訳を「東洋学芸雑誌」に発表していることでも知られている。のち「北海道蝦夷語地名解」の編纂に従事。晩年は、坪井正五郎の紹介により東京高女で国文・和歌を教えた。(参考:今西竜「永田方正君小伝」人類学雑誌27.7 明治44年、門脇清「西洋教草紹介」興文 昭和48年2、3月、木下清「聖書和訳の先覚者 永田方正略伝」史泉48 昭和49年3月)

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