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2022年8月23日 (火)

ノアの洪水

Noahsark

 

  米国ダラスで1000年に一度の大雨で街は洪水となっている。手の施しようがない。「後は野となれ山となれ」これに近い英語表現は、 

我々が死んだ後に大洪水よ起これ 

After us the deluge. 

 

   「delu」とは、大洪水、豪雨の意味。やはりノアの大洪水が基本にあるように思える。聖書に記されたノアの箱舟伝説は何を意味するのだろうか。伝説ではなく、ニネヴェで発見された粘土版には、大洪水について記された断片が見える。創世記6ー15によると、「長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマ」とある。アンマとは、口語聖書ではキュービット、ほぼ腕の長さで約46cm。(神殿キュービットはさらに一手幅(7.5cm)を加える) つまり箱船の大きさは138×23×15mとなり、長方形だった。この船は3層をなし、なかには個室があり、側面には戸口があり、天窓が開くようになっている。ノアの箱舟を建造している人がいるだろうか。ノアの箱舟が流れついたとされるトルコのアララト山(標高5137m)に1829年フリードリヒ・パルロットはロシア登山隊を率いて初登頂に成功した。この箱舟を探すため1951年と52年にアララト山の調査が行われたが徒労に終わった。

 

 

 

(Noah)

2022年7月11日 (月)

一粒の麦

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 ゴ
ッホ 「麦畑とアルルの眺め」 1886年6月

 

 ひとつぶの麦  

 地に落ち 死なずば 

 いかでか多くの 実りをえんや 

 みたまに たよりて 

 祈りをはげみ 

 十字架負いつつ 君に従わん 

 

 祭司長はイエスの逮捕令を出していた。イエスは、殺される日が近いことを感じていた。彼は、警戒してユダヤ人の中に入るのを避けていた。しかし、過越の祭の6日前になると、ベタニヤへ行った。 

 そこには、イエスが、死から甦らせたラザロが住んでいた。イエスが来ると、饗宴が設けられ、ラザロは姉妹のマルタ、マリヤとともに席につらなった。その時マリヤは高価な、純粋のナルド香油を一斤持って来て、それをイエスの足に塗って、その足を自分の髪でぬぐった。すると、いい香りが家じゅうに広がった。それを見たユダが、「もつたいないことをするものだ。それを売って得た金を貸して人に施したらいいのに」というと、イエスは、「この女のなすにまかせよ、わが葬りの日のために、これを貯えたるなり。貧しきものは常になんじらとともにおかれども、われは常におらぬなり」とたしなめた。 

 ユダヤ人たちは、イエスがここにいることを知って、押しかけて来た。しかし、それは、イエスを見るためではではなく、死からよみがえったラザロを見るためではなく、死からよみがえったラザロを見るためであった。そこで、祭司長らはラザロをも殺そうと相談した。ラザロがよみがえったので、イエスの信者が激増したからである。

 饗宴の翌日になると多くの人びとがシュロを手にしてイエスの宿へ来て、「主の御名によって来たれる者、イスラエル王、万歳」と叫んだ。そのころ、イエスは小驢馬を手に入れて乗っていたが、これは、「なんじの王はロバの子に乗りて来たもう」という予言を成就するものであった。弟子たちは、その当時は、そのことに、気がつかなかったが、のちに、ああ、そうだったのか、と思い当る時が来た。 

 イエスを礼拝しようとして集まった者の中には、ギリシア人も数人したが、彼らは、ガリラヤのピリポのところへ行って、イエスに会わせてほしいと頼み込んだ。ピリポはそのことをイエスの弟子のアンデレに伝え、アンデレと一緒にイエスのところへ行って、報告した。すると、イエスは、次のように答えた。「人の子の栄光を受くべき時は来れり。一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてありなん。もし死なば、果を結ぶべし。おのが生命を愛する者は、これを失い、この世にて、その生命を憎むものは、これを保ちて、とこしえの生命に至るべし。ひと、もしわれに事えんとせば、われに従え、わがおる処にわれに事うる者もまたおるべし。人もしわれに事うることをせば、わが父これを貴びたまわん。いまわが心騒ぐ、われ何を言うべきか。父よ、この時より、父よ。御名の栄光をあらわしたまえ」

 その時天に声あり、「われすでに栄光をあらわしたり」それを聞くと、人びとは、「雷霆鳴れり」といった。 

   「一粒の麦」の比喩は、死は虚無に帰するのではなく、多くの実を結ぶこと、つまり一粒の麦が死ぬことによって、もたらされる実りを示唆したものである。(参考文献:ヨハネの福音書12章24節、「西洋故事物語」河出書房)

2022年6月29日 (水)

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。

2022年6月10日 (金)

なぜ日本ではクリスマス・イブは恋人と過ごすものというイメージが根強いのか

Sc02   師走に入ると街中にクリスマス・イルミネーションが点灯され、クリスマス気分を盛り上げてくれる。クリスマスという、現在の日本にとっても馴染みのある習慣は、老いも若きも何となくうきうきする季節だろう。家のリースやツリー、クリスマス・ケーキ、そしてプレゼント。「我が持てる包の中もクリスマス」(山内山彦)だが欧米のクリスマスは家族が集まって過ごすものだが、日本では「クリスマスは恋人と過ごすもの」というイメージが根強い。このの違いはなぜ生まれたのだろうか?

  クリスマスの歴史は長く複雑な意味をもつ。キリスト教とのつながりや、キリスト教以前の、ずっと古代に遡る、ヨーロッパ・地中海に面している諸文化の世界観や信仰の形態の影響が認められる。したがって、今日の世俗化されたサンタクロースの意味を理解するためには、キリスト教またはキリスト教以前の様々な信仰の形態の理解が前提になってくる。とくにサンタクロースは死者の象徴であると、レヴィ・ストロースが主張している。古代からのヨーロッパの民間信仰では、我々一般人にあの世から豊穣をもたらすのは、国家に認定された公式の神々ではなく、むしろ地域の小さな神々であった。これらは、多くの場合、先祖に限りなく近い性質をもっていた。現在、クリスマスが主に家族中心の祝いになっているのも、古代からのこの伝統的思想を継承しているからだと思われる。サンタクロースの根底には、冬に関する古代からのシンボリズムが認められる。キリスト教がこの複雑なシンボリズムを横領し、それをキリストの降誕と習合させた。

   このようなキリストの生誕を祝うクリスマスの風習や行事が世界中に広まったのは19世紀に入ってからのこと。とくに今日のようにみんなでお祝いするのは一冊の本がきっかけとなっている。英国の文豪チャールズ・ディケンズが1843年に書いた「クリスマス。キャロル」である。内容は守銭奴スクルージがクリスマス・イヴに超常的な体験をして改心というスートリー。ちなみにアンデルセンの「マッチ売りの少女」はその5年後の1848年のことである。クリスマスが本格的に日本に入ってきたのは、明治時代以降のことである。キリスト教の信者がそれほど多くないため、文化的な形だけが定着した。ここに日本のクリスマスの特徴がある。戦後、クリスマスは徐々の家族のイベントになっていまーきます。その後、女性の社会進出が進むとね1980年代には「恋人と過ごす日」というイメージが強くなります。1988年のJR東海のクリスマス・エクスプレスのCMが放映(歌・山下達郎)されると「クリスマス・イブは一番大切な人のそばにいたい」というメッセージが拡散されます。同様のイメージはバブル期のトレンディ・ドラマなどで定着されます。

 

(参考:ファビオ・ランべッリ「サンタクロースの文化史のための覚え書き」比較文化論叢 札幌大学文化学院紀要19、2007年)

2022年4月17日 (日)

イースターはなぜ日本人に受け入れられないのか?

Photo_2     「代助は面白そうに、二三日前自分の観に行った、ニコライの復活祭の話をした」(「それから」)と夏目漱石は書いている。明治42年の小説で、当時の日本人のなかでどれほどの人が「復活祭」を知るっていたであろうか。それから100年以上が経過したが、日本人に「今年の復活祭はいつか?」と尋ねても知らない人が多い。クリスマスやバレンタインデー、ハローウィンなどと比べても、日本人に認知度が低く、デパートやマスコミでもイースターを周知することはしない。ところがこのイースターはクリスマスと同じくらい、あるいはその以上に重要な典礼である。イースターは「復活祭」とも言い、主イエス・キリストの復活を祝う祭りである。単なる生誕よりも、1回人類の罪を背負って亡くなった後、復活されたことにこそ、キリストの生きた意味があると信じられているからである。イースターの日は、クリスマスと違い移動する祭日(movable feast)である。毎年春分の日の後の最初の満月の後の日曜日と決まっていて、本年は4月17日である。この時期が日本社会の会計年度の切り替わりに当たることや、進学・就職・人事異動など変わり目、そしてお花見シーズンであるのが理由なのか。そして「キリストの復活」というコンセプトそのものが、一般の日本人にとって理解できないのであろうか。

2022年2月 4日 (金)

Buck to 1970

 1970年は春に「よど号ハイジャック」夏に「ぷりんす丸シージャック」、秋に「三島由紀夫の割腹自殺」おさわがせな年でした。

   日本にモルモン教が広まったのはいつ頃からであろうか?1970年3月14日から開催された日本万国博覧会(EXPO'70)以降とするのが一般的な見方であろう。しかし文献を漁ると、国立国会図書館の所蔵図書には内田融の「モルモン宗」文明堂、明治35年刊行があり、110年以上の歴史がある。モルモン教がアメリカで設立されたのは1830年4月6日のことである。

  鈴木正三は1968年に末日聖徒イエスキリスト教会、日本伝道部の第一顧問となった。折しも日本万国博覧会の会場建設が吹田市の千里丘陵で始まりつつあった。教会はこの万博に出展を決め、モルモン館を建設する。鈴木はその館長に就任し、毎日多くの要人を迎えた。万博開催中のある日、当時の皇太子殿下(今上天皇)がモルモン館を訪ねられた。鈴木が案内する中、皇太子殿下は一つだけ質問をされた。「イエス・キリストとはどなたですか?」鈴木はこう答えたという。「イエス・キリストは神様の独り子で、この世を創造された御方であり、わたしたちはこの地上で生活したことについて、いつかイエス・キリストの前で裁きを受けます。わたしも裁きを受けます」

   万国博覧会の来場者数は、6421万8770人であった。わたしもその中の1人である。

   モルモン教とともに思い出されるのはタイの像の来日である。夏のイベントに出演するためタイからはるばる大阪に20頭ものゾウがやってきた。神戸港から大阪までゾウの行進があり、みんなで見た想い出のある方も多いだろう。滞在中にオスの赤ちゃんが生まれ、「おまつり広場」にちなんで「ひろば」と名づけられた。あの「ひろば」くんはいまどうしているだろうか?関西大学のあるサークルが2年にわたって調査したところ、ゾウは30年ほど前に亡くなっていたことが判明した。

 

 

 

 

2022年1月 9日 (日)

内村鑑三不敬事件

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   明治23年10月30日に発布された教育勅語について文部省はその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布した。内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校では、明治24 年1月9日にその奉読式を実施した。その際、内村は、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教の信念に従い、軽く会釈する程度の敬意を表することにとどめたが、生徒および教員の一部から、この内村の行為は皇室に対する不敬であるとの非難が発生し、同年1月から、その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種に達したが、そのほとんどは、「不忠の臣」「外教の奴隷不敬漢」というものであった。生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいた。新聞報道などによって「不敬事件」として一挙に社会問題となったが、内村は自分がけっして勅語の趣旨を批判するものではないと弁明し、宗教上の拝礼ではなく社会的な敬礼であればと、たまたま病床にあったために友人の教授木村駿吉に代理敬礼を委嘱した。事件後1ヵ月も経たない同年2月3日病気を理由に同校を依願退職した。全国から激しい非難を浴びた内村は、その後、病床に就く。看病した妻加寿子は、心身の疲れから、急逝した。しかし、この機会にキリスト教の弊害を指摘しようとする国体論者や仏教界の一部などからの画策もあって、帝国大学教授井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」を発表するや、問題は単なる内村の一「不敬行為」への糾弾からキリスト教一般への攻撃へと展開していった。内村は井上に反論する形で「基督教徒の慰め」を出版。内村は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張している。のちに丸山真男は「こういう事件は、直接の被害者はひとりか数人であっても、タブーを社会的に拡大し、無数の人々の思想に目に見えない統制を加えるという点で、大きな意味をもつわけであります」と分析している。(「思想と政治」1957年8月 信濃教育第849号)

 

 

2021年12月24日 (金)

12月25日はキリストの誕生日ではない

Leasu  イエス・キリストは、紀元前6年ないし紀元前4年ごろベツレヘムで生まれた。クリスマスはイエスの生誕を祝って12月に世界中で盛大で厳かな聖夜のミサが行われるが、12月24日とする古記録や資料はない。そして紀元後30年4月7日(ユダヤ暦のニサン14日、複数説あり)、生地からさほど遠くないエルサレムのゴルゴダの丘で磔刑に処せられた。むかしのユダヤ人の暦では、一日のはじまりは日没、つまり晩からであった。そのためイヴとは前夜ではなく、その言葉の通り、クリスマス当日となっている。しかしベツレヘムの12月といえば、雨の多い寒い季節である。この時期に羊飼いがヒツジの群れと共に一晩中野原で過ごすことはない。イエスは秋の初め頃、おそらく9月に生まれたのであろう。では何故、12月25日を誕生日としたのか。当時ローマ帝国で最も広く信奉されていたのはミトラ教である。そしてミトラ教の最大の祭日が12月25日だったので、クリスマスの制定に影響を与えたと考えられる。4世紀前半、教皇ユリウス1世が「イエスの生誕日は12月25日」と定めた。その後、キリスト教の行事のなかで12月1日から25日までは「待降節」といい、12月25日から1月6日までは「降誕節」という。3月5日から4月20日までが「四旬節」、4月20日から6月9日までが「復活節」である。12月25日のクリスマスは日本でもお馴染みとなったが、「エピファニー」はほとんど知られていない。キリスト生誕のとき東方から来た3人の博士の前に初めてキリストが姿を現したことを記念する日であるクリスマスから12日目の1月6日に行われる。(the Epiphany)

 

 

 

 

2021年12月 4日 (土)

聖バルバラの日

 

 

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 1世紀ごろ、ローマ帝国は、国家の神々の尊崇を人民の義務とはしたが、諸宗教に寛容なことが統治の良策であると考え、国家宗教を外形的に認めるならば、これとならんで他宗教を崇拝することは妨げなかった。キリスト教は、その特異な性格のため異教徒の民衆のあいだで早くから憎悪されていたが、はじめユダヤ教の一派と認められていたから、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウスなどの皇帝たちはおおむね寛容に取り扱っていた。国家による迫害はきわめてまれで、64年のネロの迫害も、ローマ市の大火災の責任を民衆に憎悪されているキリスト教徒に転嫁しようという特殊事情にもとづくものであり、迫害の範囲もローマ市に限られていた。エルサレム陥落後、キリスト教とユダヤ教の対立、キリスト教の独立の存在が明らかとなり、つづいて皇帝崇拝が強化されていく時代にキリスト教徒が皇帝崇拝を拒絶するにおよんで、ドミティアヌス、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスなどの治下に、やや大規模な迫害がおこなわれた。しかしこれらも全帝国にわたるものではなく、また継続的なものでもなかった。迫害されたキリスト教徒は、地下に深く迷路のように掘られたカタコンベなどに逃れて信仰を続けた。キリスト教への信仰に目覚めた少女バルバラが処刑された。303年、伝統的なローマの神々への信仰を重んじ、皇帝崇拝を強制したディオクレティアヌス帝が大迫害を行ったが、ますます増える信者の勢いに、迫害より懐柔と、313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令によってキリスト教を公認。たちまち教会組織が整えられ、聖職者の身分が生れた。(catacombe、12月4日)

2021年11月29日 (月)

明日のことは思いわずらうな

679px1_2   イエスは、思いわずらっている人々にこう言った。「何を食べようか。何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。蒔くことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる。あなたがたは、彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、誰が、思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことでわずらうのか。野の花がどうして育っているのか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。・・・だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である」あなたも神様に知られているのであるから、明日の思いわずらいは神様にお任せして、今日は今日の事だけで力いっぱい生きることである。

 

So do not worry about tomorrow,it will have enough worries of its own.There is no need to add to the troubles each day brings.

 

明日のことは思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 

    「太平洋沖、M8級余震が近く起きる」「大地震、首都圏に4年以内に70%以上」「2060年に日本の総人口8674万人。年金財源は?」「地球温暖化で日本は沈没する」という情報が毎日のように流れる。消費増税法案可決。4年先、50年先(私はこの世のものではないが…)を思いわずらうよりも、ソマリアの干ばつで苦しんでいる人々のことを考えるべきだろう。昭和48年のオイルショックのとき、国内の消費者は品不足を心配してトイレット・ペーパーが無くなるのではないかと買いだめに狂奔した。発端は、大阪のスーパーが販売促進のため「紙がなくなる」という1枚の張り紙だった。東日本の震災直後、やはり東京で買いだめが起きた。消費増税リークも政界と産業界が結託した販売促進も、大地震発生も、変異株オミクロンも惑わされてはいけない。

 イエスの教え「明日のことは思いわずらうな」。キリスト教国のアメリカでも買いだめは起きたことがポスターからもうかがえる。

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