芭蕉と門人たち
元禄7年10月12日、申の刻(午後4時ころ)、松尾芭蕉はしずかに永眠した。遺骸は翌13日に膳所の義仲寺に運ばれ、14日に埋葬された。芭蕉の戒名をネットで調べたら「風羅芭蕉老人」とある。戒名らしくないのでデタラメなものであろう。芭蕉の父の法名は「松自浄恵信士」とあるが、芭蕉本人のものはわからない。「大江戸文人戒名考」(上村英)という本もあるが未調査。戒名とはなくてはならないものであるが、なくてもさほど困らないものでもある。なぜ芭蕉の戒名が伝わらなかったのか、もともとなかったのか、謎である。
芭蕉死後も、蕉風は新興の町人層に支えられて、その全盛時代を迎えた。宝井其角の弟子は2000余人というのは、江戸を中心とする蕉門の展開を物語るものであり、やがて、それは地方の都市や農村に普及した。後世に、いわゆる「蕉門十哲」といわれるが、芭蕉には優れた門人が多く、10人の名前は諸説ある。向井去来、森川許六、服部嵐雪、宝井其角、各務支考、内藤丈草の6人は確定しているが、あとは多少入り変わりがある。立花北枝、杉山杉風、志太野坡、越智越人、服部土芳、天野桃隣、河合曾良、広瀬惟然。ほかに山口素堂、八十村路通(忌部路通)、野沢凡兆、三上千那、江左尚白、池西言水、小川破笠、山本荷兮(かけい)。路通は蕉門の奇人。放浪行脚の乞食僧侶。近江の濱田酒堂。紅一点は女流俳人の河合智月。なかでも坪井杜国は、芭蕉が特に目をかけた門人の一人。名古屋の米問屋の主人であったが、空米売買のため御領分追放に遭い、伊良湖崎に隠棲し、元禄3年まだ30代で没した。
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