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2011年12月27日 (火)

1683年、芭蕉庵焼失

    「枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮」

    延宝8年、深川に移る。これが芭蕉庵の始まりである。天和2年3月、「武蔵曲」においてはじめて芭蕉の号を用いた。この年12月28日、駒込の大円寺を火元とする大火があって、芭蕉庵も類焼した。芭蕉は辛うじて難を免れ、門人高山麋榯に招かれて甲斐国谷村の高山邸に身をよせ、ここに半年あまり寓居した。翌年5月江戸に帰ったが、其角によれば、この災難によって芭蕉は「猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発」したという。6月には郷里の実母の死去の悲報に接し、冬には素堂ら友人門弟の勧進によって新庵が落成し、ここに落着いた。このころから芭蕉の人生観、俳諧観が大きく変わったものと考えられる。

31  朝顔は 酒盛知らぬ盛りかな

32  蕣は 下手のかくさへ哀なり

33 朝茶のむ 僧静なり菊の花

34 朝露に汚れて涼し瓜の泥

35 朝な朝な 手習すすむきりぎりす

36 あさむつや 月見の旅の明けばなれ

37 あさよさを 誰まつ島ぞ片心

38 紫陽花や 帷子時の薄浅黄

39 明日は粽 難波の枯葉夢なれや

40 遊び来ぬ 鱁釣りかねて七里迄

2010年3月 8日 (月)

芭蕉発句集 あり~いく

Photo_3     落柿舎

61  有明も みそかに近し餅の音

62  ありがたき 姿拝まん杜若

63  ありがたや 雪をかをらす南谷

64  栗稗に まづしくもなし草の庵

65  家は皆 杖に白髪の墓参り

66  烏賊売の 声まぎらはし杜宇(ほととぎす)

67  いかめしき 音や霰の檜木笠

68  生きながら 一つに氷る海鼠かな

69  幾穐の せまりて芥子に隠れけり

70  幾霜に 心ばせをの松かざり

2010年2月22日 (月)

芭蕉発句集 あや~あら

    芭蕉は、自らの俳諧を「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」(柴門ノ辞)で記している。だが心のうちでは十七文字に人生の深淵をのぞくという自負があったであろう。生活が芸術と一体であることが蕉風の真骨頂である。

51  あやめおひけり 軒の鰯のされかうべ

52  あやめ草 足に結ばん草鞋の緒

53  鮎の子の 白魚送る別れかな

54  荒海や 佐渡によこたふ天の川

55  嵐山 藪の茂りや風の筋

56  あらたふと 青葉若葉の日の光

57  あら何ともなや きのふは過ぎて河豚汁(ふぐとじる)

58  霰きくや この身はもとの古柏

59  霰せば 網代の氷魚(ひを)を煮て出さん

60  霰まじる 帷子雪はこもんかな

2010年2月 4日 (木)

芭蕉発句集 あち~あめ

    漂白の詩人といわれる芭蕉の旅の生活がはじまるのは貞享元年、41歳のときである。秋8月なかばに江戸を出、まず伊勢神宮に詣でたあと伊賀に帰郷し、そこから大和の当麻寺、吉野山を経て9月末に美濃大垣の季吟同門谷木因を訪ね、さらに10~12月の足かけ3ヵ月を名古屋ですごし、歳末ふたたび伊賀に帰って新年を迎え、その後、奈良、京都、大津、名古屋と辿って4月の末に江戸にもどっている。その帰庵後に書いた紀行文が「野ざらし紀行」である。

41 あち東風や 面々さばき柳髪

42 暑き日を 海に入れたり最上川

43 あつみ山や 吹浦かけて夕すずみ 

44 あの雲は 稲妻を待つたたよりかな

45 あの中に 蒔絵かきたし宿の月

46 油こほり ともし火細き寝覚かな

47 海士の顔 まづ見らるるや芥子の花

48 海士の屋は 小海老にまじるいとどかな

49 雨折々 思ふことなき早苗かな

50 雨の日や 世間の秋を堺町

2010年2月 2日 (火)

芭蕉発句集 あき~あさ

21  秋深き 隣は何をする人ぞ

22  秋もはや ばらつく雨に月の形

23  曙や 白魚白きこと一寸

24 曙は まだむらさきにほととぎす

25 明けゆくや 二十七夜も三日の月

26 阿古久曾の 心は知らず梅の花

27 あさがほに 我は食くふをとこかな

28 朝顔の 花に鳴きゆく蚊の弱り

29 朝顔や これもまた我が友ならず

30 朝顔や 昼は錠おろす門の垣

    芭蕉は正保元年、伊賀上野赤坂町で生まれた。父、松尾与左衛門は伊賀国柘植郷の出身であるが、城下町上野に移住したため、芭蕉自身は、生涯、伊賀上野を旧里と呼んでおり、柘植を訪れたり、それに言及した証跡はまったくなかった。芭蕉の兄弟姉妹は二男四女。兄半左衛門命清は、父の死後家督を継ぎ、芭蕉に遅れて元禄14年3月に没した。芭蕉は次男で、幼名金作、長じて忠右衛門、甚七郎などと称した。藤堂良忠の近習となり、その感化で俳諧を学ぶ。良忠の病没後、京都で北村季吟に師事。寛文12年、江戸へ下る。延宝6年には、宗匠として名乗をあげた。延宝8年、門下20人の作品集「桃青門弟独吟二十歌仙」を出版。芭蕉は江戸俳壇屈指の俳諧宗匠として注目されるようになった。

芭蕉発句集 あき

11 秋風や藪も畠も不破の関

12  秋来にけり耳をたづねて枕の風

13  秋きぬと妻恋ふ星や鹿の革

14 秋涼し手毎にむけや瓜茄子

15 秋近き心の寄るや四畳半

16 秋十年 却つて江戸を指す故郷

17 秋に添うて行かばや末は小松川

18 秋の色 糠味噌壺もなかりけり

19 秋の風 伊勢の墓原なほ凄し

20 秋の夜を うち崩したる咄かな

   芭蕉の頃の発句というのは、だいたい今日の俳句にあたる。原則として17音で、5・7・5のリズムを基調とし、季題をふくむなど、今日のいわゆる伝統俳句と似たところが多い。ただし相違点もある。まず発句は、名のごとく最初の句であって、連句の運びのはじまる第一の句である。もっとも芭蕉の発句の全部が連句を伴うものではなく、当時も発句だけを単独につくることもあったわけである。が、芭蕉の頃は連句がさかんに行われていたわけであるから、単独につくられた場合でも、今日のように連句がほとんど行われなくなった時代の連句を全く予想しない俳句とは質的に違うのである。

芭蕉発句集 ああ~あき

1 於春々大ル哉春と云々

2 青くてもあるべきものを唐辛子

3 青ざしや草餅の穂に出でつらん

4 青柳の泥にしだるる潮干かな

5 あかあかと日はつれなくも秋の風

6 秋をへて蝶もなめるや菊の露

7 秋風に折れて悲しき桑の杖

8 秋風の吹けども青し栗のいが

9 秋風の鑓戸の口やとがりこゑ

10 秋風や桐に動いて蔦の霜

    昭和30年代までの図書館の学会研究発表の題目をながめると、現代の図書館情報学の学問領域では到底含まれないものが多い。明治・大正期は書誌学、校勘学、目録学という分野が主流であり、それが活動論、経営管理、奉仕論などが中心となる。近頃のように情報管理が図書館学の中に欠かせないものとなっている。一昨年の図書館全国大会でコンピュータ屋さんが事例発表者となっていたのには時代を感じさせられた。司書が広い資料研究が必要であることはいうまでもない。ところが今の司書は勉強が足りないように感じられた。若い頃、近隣のベテラン司書の該博な知識に驚かさせられた。それも昭和40年代までのことであろう。それはともかく、昭和38年の日本図書館学会の研究大会のレジュメをみると、目形照の「ウイリアム・ブレイクの神曲挿絵考」、高橋重臣の「書物における美術的要素」などなんでも有りの感がする。とくに佐藤貢の「芭蕉の俳句索引」に興味がある。芭蕉の俳句に関するレファレンスは多い。司書として索引の必要が生ずるであろうが、本によって芭蕉の収録句数にバラツキがあることを知るだろう。司書としては、なるだけ収録数の多い本が有り難い。佐藤は手づくりの芭蕉索引を作った。なんと1680句。ふつう芭蕉の発句は1000前後といわれる。なぜこんなに多いのか。芭蕉は一句を大切に思うため、推敲に推敲をかさねる。したがって推敲過程において異形句が発生する。その場合、どれが決定句で、どれが前後の句なのか、見極めることは困難な場合が多い。また所載俳書の杜撰による誤りもある。芭蕉研究家は確実に芭蕉の発句として認められるものを収録する。例えば岩波書店の大谷篤蔵の「芭蕉句集」(日本古典文学大系)では842句、朝日新聞社の頴原退蔵の「芭蕉句集」(日本古典全書)では1005句、三省堂の「定本芭蕉大成」では993句、存疑のもの4993句、誤伝の句205句。三重大学の佐藤貢の1680句の中は不明であるが、おそらく存疑のもの、誤伝のものが含まれているのであろう。1000句前後の発句を集めるには、句の製作年次順、季題別に配列する方法が普通であろう。そして巻末に五十音の索引をつける。ここでは、五十音順に拾い出して、1000句を超えるのか、下回るのか調査したい。一日10句拾い集めて100日かかる。半年先には一応完成することになる。