無料ブログはココログ

2023年7月 9日 (日)

孔子と喜怒哀楽

Tky43
 孔子像(湯島聖堂)

 

  元禄3年のこの日、5代将軍徳川綱吉によって湯島聖堂が建てられた。喜怒哀楽は人間の本来誰しもが持っている感情である。ただ、これに振り回されると、道義を見失うことがある。孔子も本当は激しく感情的な人であったかもしれない。弟子の顔回が死んだとき、「ああ、天はわれをほろぼした」と嘆き悲しんだ。喜怒哀楽に関しては『中庸』にふれている。「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。発して皆な節に中る、之を和と謂う。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す」とある。考えや行動などが1つの立場に偏らず中正であり、過不足なくさりとて単純に中間をとればよいというのではなく、極端にならないことがよい。(黄紹祖「孔子之喜怒哀楽」 1987年)7月9日

2023年4月27日 (木)

哲学の日

  本日は「哲学の日」。紀元前399年のこの日、ギリシアの哲学者・ソクラテスは、死刑宣告を受けて、「悪法もまた法なり」と言って、自ら毒杯を飲んで亡くなったとされる。だがソクラテスの有名な言葉「悪法もまた法なり」の出典は、いくらさがしてもない。弟子のプラトンが書き残したという事実もない。この言葉は本当にソクラテスの言葉なのであろうか。プラトン(前427-前347)がソクラテス(前470頃-前399)に出会ったのは、ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」によればプラトン20歳、ソクラテス56歳、前407年と推定している。一説によると、プラトンの兄のアディマントスかグラウコンがソクラテスと親しかったからといわれる。ともかく、プラトンは以後8年間ソクラテスの弟子となる。その後ソクラテスは前399年、死刑となるが、その時、プラトンは28歳だった。ソクラテスの死は、プラトンにとって哲学の原点となった。

    ソクラテスの死後、プラトンは他の人々とともに、メガラのエウクレイデスのところに一時身を寄せたほか、キュレネやエジプトに旅をしたと伝えられている。この頃、亡きソクラテスを主人公とする対話篇を書きはじめた。「政治家が哲学するか、哲学者が政治をするようにならないかぎり、人類は不幸から救われないであろう」(『国家』)というプラトンの政治哲学が生まれた。

   ソクラテスが投獄されたとき、毒逃亡の機会があったにもかかわらず、国法に従って毒杯をあおいで死んだ、という話が日本では明治以来伝わるが、実はこれは作りはなしである。ソクラテス自身の著作はなく、弟子の伝聞にもない。英語でそれらしき部分には、「obey and do not do otherwise」つまり「自分の哲学に殉じて死を選ぼう」という意味。悪法でも刑に服する、の意味とは正反対。むしろ「法だからといって従う義務はない。自分自身の信念にのみ従う」ということである。明治の法曹はソクラテスの故事を遵法精神として鼓吹した。まことに国家にとって都合のよい名言である。(4月27日)

 

 

2023年4月22日 (土)

カント、カントで半年暮らす

Img_0005

   ドイツの哲学者イマヌエル・カントの1724年の誕生日。ある大学の教授が、ドイツ哲学を専攻する学生が、ここ数年いなくなった、と嘆いていた。哲学科や史学科には学生が集らないという。大学にきちんと文学部があって哲学科や史学科があるところも少なくなっているらしい。その教授の話によれば、「今どきの流行は国際・情報・環境などで、こういったキーワードで看板を付け替えないと予算が回ってこないという事情がある。民俗学はほとんど消滅しており、史学科も東洋史、西洋史という区分けでの研究が難しくなっている。見栄えのよいラベルと評価受けの良い外向けのメニューは並べ立てられているが、内容は反比例して空疎になっている」とのことである。最近の大学は産業界との連携で、人文社会系より自然科学系、基礎研究より応用・実用研究、教養的教育よりは実習的研究、に片寄る傾向がある。そのほうが公的資金を得られやすいからである。高等教育機関が国家戦略の手先と成り下がった。ヘーゲルの言葉には「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という有名な句があるが、理性的であるためには、まず学問の場の自由な精神文化を回復することが必要であろう。18、19世紀の西洋近代がこれまで築いてきた伝統的な学問を学習、研究する今日的な意義は少しも失われていない。(4月22日)

2022年12月 2日 (金)

人はなぜ歳を取ると10年、1年が早く感じるのか?

220pxpaul_janet   人が感じる月日の流れや過去を振り返ったときの時の流れの早さに対応する感覚は若い頃は遅く、年をとるにつれて短く早く感じるようになる。このように年齢によって時間の感覚が異なる現象は「ジャネーの法則」といわれ、フランスの哲学者ポール・ジャネー(1823-1899)が提唱した。

   年齢を重ねるごとに時間の流れが速く感じるようになる原因のひとつが、様々な経験の蓄積であるといわれている。まだ経験が少ない子供の頃は、日々新しい情報や刺激が入ってくるため、脳の使用頻度が高く、いわば毎日の実感が濃い状態になる。その分、時間の流れもゆっくりに感じる。それが、年齢を重ねると、そうした情報や刺激が脳に蓄積され、新しい情報に出会う機会が減少してくる。既に知っている情報を開き、すでに経験した事を行い、同じような毎日を繰り返していると、毎日の実感が薄い状態になり、振り返るとあっという間に過ぎ去ったような感覚になるわけである。「チコちゃんに叱られる」ではトキメキ(心の動き、好奇心)が少なくなるからで、だいたい19歳を境に大人になって、時間が早く過ぎると感じるようになると説明している。(Paul Janet)

2022年10月15日 (土)

「論語=精神修養」を否定する説

    野村克也が日中友好の架け橋として孔子と論語の精神普及に寄与したとして「2010孔子文化賞」を受賞した。ほかに渡邊美樹、酒井雄哉、北尾吉孝も受賞している。論語と経済界は相性がよい。渋沢栄一の「論語と算盤」もある。もともと論語は孔子が士大夫階級である士に講義したもので、治める者の修養であって、一般の民衆向けの内容ではない。論語は孔子の著作ではなく、弟子たちがまとめた言行録、そしてその成立は孔子の死後かなり経たものであろう。しかし、中国にかぎらず、朝鮮、台湾、日本といずれも論語と孔子の人気は根強い。東アジアでは論語の説く道徳は規範であり、正義とされている。四書五経の中でも最も読まれる書物である。

 私たちは肉体だけで存在しているのではない。だが肉体には限界があります。年をとれば機能も衰え、弱ります。リハビリや鍛錬して一時的に活発にしても、時が来れば朽ち果てます。しかし、精神は修養を積むことによって、年齢に関係なく、長い年月あいだ人間として立派にいきていくことが出来ます。つまり精神修養=論語として、長い年月、漢字文明圏では論語が尊重されてきました。

    あるブログを見ると或る小説家のかたで、論語を全否定している事例があれば教えてほしいとある。寄せられたコメントには、魯迅があげられていたが、ほかには見あたらなかった。実は私の貧しい書棚に「論語と孔子の思想」(岩波書店)がある。津田左右吉という有名な学者が書かれたもので、購入してから37年以上が経過するが難しいので通読していない。知らない人が一見すると、この本は、論語はすばらしい、と書いてあるものだと思うだろう。実はその反対である。津田は孔子のことを「学問的精神が欠けている」(429頁)、「礼は役にたたない」(395頁)、「(孔子の正確な記録は残っていないので)孔子のことは何もわからない」(294頁)とある。つまり実証主義的な史料批判に立つ津田左右吉は、孔子の思想は後世(漢代)のもので本当のことはわからない。そのようなわからないものを大事そうに持ち上げることは、うさんくい者が政治的に利用するだけだからよくない、といいたいのだと推測している。津田は偉い学者で、戦前に日本人によって唱えられた東洋文化、東洋精神もインチキであることを実証的に論証している。インド、中国、日本をアジアとか東洋とかいうが、一つになったことはない、「アジアはひとつではない」というのが津田の研究の成果である。もちろん当時の蓑田胸喜などのアジア主義者に反感を買い、辛い目にあった。それでも戦後も思想は一貫している。漢字をなるだけつかわず、自分の名前も「つだそうきち」と表記することが多い。「古事記及び日本書紀の研究」で神武以来の天皇の存在を否定したが、天皇は尊敬していた。学者の鑑のような人であるが、論語も否定し、唐詩も感心せず、「文学に現われたる我が国民思想の研究」という大著があるが、記紀の国民文学の価値を「余り高くない」と書かれている。つまり津田は懐疑論で多くの古典は後代の創作を含むのであまり信奉することの危険を説いている。もちろん実証過程が専門的なので、一般向きではないし、津田の学問的態度がすべて正しいとはいわない。しかし「孔子平和賞」や「孔子文化賞」などが次々生まれると、津田のいうことは正解だったと感じる。

 

 

 

 

2022年10月 2日 (日)

死に至る病

    セーレン・オービエ・キルケゴール(1813年5月5日生。1855年11月11日没)は父ミカエル・ペーダーゼン・キルケゴールと母アンネ・セーレンスダッター・ルンとの間の7番目の末子としてコペンハーゲンに生まれた。父は実業家であったが、宗教的苦悩を内に秘めた人であり、キルケゴールは、この父の影響を受けて憂愁な性格と罪の意識が強かった。「私は生まれたときから老人であった」と自らの幼児期を追想している。

    キルケゴールは、コペンハーゲン大学を出て、ベルリン大学に学ぶ。生涯定職につかず、父の遺産によって生活し、著作生活を送った。

    1849年、アンティ・クリマックスという偽名を用い、「死に至る病」を著わす。第一編「死に至る病とは絶望である」第二編「絶望は罪である」。キルケゴールは、現代人は深刻な精神の病気にとりつかれていると洞察する。「絶望するものは、絶望して自己自身であろうと欲する。しかし、もし彼が絶望して自己自身であろうと欲するのなら、彼は自己自身から抜け出すことを欲していないのではないか。たしかに、一見そう思われる。しかし、もっとよく見てみると、結局この矛盾は同じものであることがわかるのである。絶望者は絶望してあろうと欲する自己は、彼がそれである自己ではない。すなわち、彼は彼の自己を、それを措定した力から引き離そうと欲しているものである。しかしそれは、どれほど絶望したところで、彼にはできないことである。絶望がどれほど全力をつくしても、あの力のほうが強いのであって、彼がそれであろうと欲しない自己であるように、彼に強いるのである。しかし、それにもかかわらず、彼はあくまでも自己自身から、彼がそれである自己から、脱け出して、彼が見つけ出した自己であろうとする。彼の欲するような自己であるということは、それがたとえ別の意味では同じように絶望していることであろうとも、彼の最大の喜びであろう」

    1837年、キルケゴールは、24歳のときレギーネ・オルセンという少女に出会い、3年後に婚約した。しかし、翌年8月、彼はこの婚約を理由も告げず一方的に破棄した。これは彼の生涯を決定した最大の出来事であった。他人の運命を支配することになる結婚へのおそれからである。5年後レギーネは他の人と結婚したが、キルケゴールは終生レギーネを愛し、独身で過ごした。レギーネは夫と西印度諸島へ赴任する直前、彼に通りすがりに会釈した。キルケゴールは話しもせずに行き過ぎてしまった。これが2人の最後の別れだった。彼はその年の10月2日、街路上で昏倒し、11月11日、42歳の若さで死亡した。

2022年8月15日 (月)

ニコライ・グルントヴィ

  ニコライ・フレデリック・セヴェリン・グルントヴィ(1783-1872)はデンマークの牧師・教育家。グルントヴィはフォルケホイスコーレ(国民高等学校)の創始者として有名である。彼は既成の学校が無意味な暗記、試験、理念のない実学教育、立身出世をめざす競争を施しているとして、それらを「死の学校」と呼んだ。また彼は「教育(教え導く)」という言葉を嫌い、教育とは本来「生の自覚」を促すものだと考えたのである。そのような教育を行うためにもフォルケホイスクーレの創設を提唱した。そして試験も資格も問わず、学びたい者が自由に学ぶことが可能であるフォルケホイスコーレは、当時の農民解放運動に支援されて、デンマーク中に広がっていったのである。のまた彼の教育思想はデンマークのみならず諸外国にも大きな影響を与えた。内村鑑三は「デンマルク国の話」において彼の思想を述べている。またデンマークが小国でありながら、国家再建のため酪農国家の建設を企てたことなど、敗戦国の日本に大きな影響を与えた。

 

2021年6月 4日 (金)

哲学者タレスと七賢人

Greuter

 

    古代ギリシアのイオニア学派の自然哲学者タレス(前640頃~前546)は「万物の始原(アルケー)とは何か」ということを日夜考えあぐねていた。タレスは、空をふり仰いで、星をいっしょうけんめいに見ていたために、足もとの泉に気がつかず、落ちてしまった。それを見ていたトラキア生まれの女奴隷に、「ご主人さまは空のことにはたいへんご熱心ですが、鼻先や足もとのことには、ぜんぜんお気づきになりませんね」と笑われた。ところが、さすがにタレス先生、「万物の始原は水なり」と悟ったという。

   タレス、プリネリエのビアス、ミュティレネのビッタコス、アテネのソロンの4人は必ずギリシアの七賢人に入るが、他の3人の名は伝えによって異なる。スパルタのキロン、リンドスのフレオブロス、ケナイのミュソン、コリントスのぺリアンドロス、ディオゲネス・ラエルティオスの名が挙げられている。

2021年1月10日 (日)

明治文学史

102785 Main_200
       高山樗牛                   姉崎正治

 

    高山樗牛(1871-1902)の誕生日。樗牛は、はじめは井上哲次郎らと盛んに日本主義を唱えてキリスト教、仏教を攻撃した。だが明治34年頃からニーチェの哲学思想を讃美し、「美的生活を論ず」などの評論を発表、これをめぐって坪内逍遥、島村抱月らと論争を展開した。明治35年12月24日、危篤状態に陥ったとき、叔父に「自分は人生の光をみつけたが、これを世に伝えることは嘲風に頼みたい」と言い残した。32歳だった。遺言のなかの嘲風とは、友人で宗教学者の姉崎嘲風(姉崎正治)のことである。ともに「帝国文学」の発刊に携わり、宗教的色彩の強い文芸評論で知られた人物である。高山樗牛と姉崎嘲風との友情は厚く、二人の往復書簡は当代の青年層に大きな影響を与えた。明治の頃のニーチェの研究はまだ原典にもとづかない西洋流の解釈をそのまま紹介しただけのものだった。明治44年に生田長江によって初めて「ツァラツストラ」が刊行された。生田は初め夏目漱石に翻訳の助言を求めた。しかし漱石は断った。なぜ漱石は生田を嫌ったのか。それは底の浅い学問で有名になった樗牛を生田が崇拝したからだといわれている。大正期になると本格的なニーチェ研究がおこり、和辻哲郎や阿部次郎のようなすぐれた研究が盛んになる。(1月10日)

2020年10月 8日 (木)

金持ちと貧乏人

  本日はドイツの医学者エルンスト・クレッチマーの誕生日。彼は1888年ヴェステンロートで生まれた。中学の保健体育で習う体格性格論で知られる。体格と気質の関係をやせ型・肥満型・闘士型の三類型で説明する。1921年の著書「体型と性格」のなかで提唱した。有名芸能人で例えれば、やせ型・高橋一生は知的でクール、もの静かで控えめなタイプ。肥満型・小林亜星は躁鬱気質で怒りっぽい。闘士型(筋骨型)は高倉健や阿部寛などは筋肉質で粘着気質といい、礼儀正しく、義理がたいタイプ。だが実際のところこの区分は大雑把で必ずしもすべて当てはまるものではない。

    作家のフィッツジェラルドは「特定の個人を書こうと思って書き出すと、いつの間にか、一つのタイプの人間を創造しているのに気づくものだが、あるタイプの人間を書こうと思って書き始めると、いつの間にかそこに生み出されているものは、全く何一つ無きに等しいことに気がつく。これはつまり、われわれ人間というものが妙な動物で、一皮むいたその下には、顔つきや話しぶりとはおよそ違った、人には知られたくない、自分でもそれとは気づかぬ一風変わったところを隠し持った存在だからだ。自分で自分のことを、「普通の正直な開けっ放しの人間」だと称する人もいるけれども、そういう人にぶつかると、私は、これは何かひとと変わったところ、おそらくは悪く変わったところがあって、そいつを隠すことにしているんだな、善良で正直で開けっ放しの人間だと自分から言明するのは、その秘匿行為をそういう形で自分に言いきかせていることにほかならないのだ、と、そう思う。タイプなどというものはないのだ。複数は存在しないのである。」(「金持ちの青年」)

  つまりフィッツジェラルドの言うように、性格のタイプなどというのはないと思う。十人十色である。あえて、人を二つに分けるとすれば、お金持ちか貧乏人、そのどちらかである。市役所から消費増税で住民税非課税世帯に商品券の引換券が送られてきた。並んで商品券を購入する。(10月8日)

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2023年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30