麻雀の好きな友人がある時、「日本ではふつう東西南北というのに、中国ではどうして東南西北(ドンナンシーペイ)というのか」と聞く。考えてみれば、東西南北は東西と南北という対立概念を組み合わせた表現である。それに対して、東→南→西→北と時計の針の回転と同じ順序に従った並べ方である。日本ではかなり古くから東西南北という言い方をして来たらしい。菅原道真の漢詩「舟行五事」の起句に見える。中国でも、東西南北という言い方は、「春秋左氏伝」(襄公29年の条)に見える。古くから東西南北という語は存在していたものの、中国で一般的に東南西北という言い方に変わったのは、五行説が民間に定着したことと関連するらしい。
人の生活の基本として、1年は春夏秋冬の四季に分けられる。五行説によると、この世界の森羅万象すべての事象は、木火土金水の五元素の輪廻・作用が循環して生ずると説明づけられる。つまり、五元素を方角に配置すると、東に木、南に火、中央に土、西に金、北に水を当てる。さらにこれを1年の季節に当てはめるると、東は春、南は夏、西は秋、北は冬となる。
かくて四季の循環が東南西北の順序と合致する。木火土金水は宇宙間の万象を象徴するものであるので、下の「五行配当表」を参照されたい。
(引用文献:一海知義「東西南北と東南西北」図書、第655号、吉野裕子「五行循環」「陰陽五行と日本の民俗」)
三木清(1895-1945)は、龍野市揖西町小神の裕福な農家に生まれた。龍野中学時代は反抗と懐疑に駆り立てられていた。多趣味で何にでも首を突っ込み、友達にもめぐまれた。この頃、必要もないのに月に1回は徹夜して読書することに決めていたという。軍人と商人以外のあらゆる種類の人間になることを空想し、中でも文学では頽廃主義や自然主義の流行に追随し、戯曲、小説、短歌、批評などすべての文学のジャンルに手を染めていった。けれども、国語教師の寺田喜治郎は三木に徳富蘆花の『自然と人生』を副読本として与えた。寺田はこの本の字句の解釈などはしないで繰り返し読むように命じ、蘆花のもっていたヒューマニズムが、知らず識らずの間に三木の内面で育っていった。
三木清は京都帝国大学2年を終えた夏、知的生活の目覚めから22歳までの精神の遍歴を「語れざる哲学」として綴った。
私が知恵によって目覚まされてから後いくばくもなく私の懐疑が始まった。私の意識された知的生活の殆ど最初の日から、私は学校や教師をあまり信用しなかったし、またそれから教えられる道徳に大した権威をおくこともできなかった。私は悪戯好きで反抗的な子供であった。教室ではわき見をしたり、隣の生徒に相手になったり、落書きばかりしていた。けれども成績の良い子供であるという教師たちの評判が私を妙に臆病にさせた。中学時代になってからは権威に対する懐疑と反抗と自己の力を示したいという虚栄心とから私は体操の教師と衝突し、文芸部の主任に反対し、校長に対してまで反抗した。その頃私は弁論の練習をしながら大政治家になろうという空漠な野心に燃えていたのだった。伝統や証権に対する懐疑が悪いことであるとは私は決して信じない。懐疑が悪いこととして否定されなければならない場合はいつでも、第一にその懐疑が徹底していないとき、第二にその懐疑の動機が正しくないときである。懐疑主義者と自称する世の多くの人々と同様に、私も徹頭徹尾懐疑的でなかった。学校や教師を信じなかった私は書物や雑誌を信じた。そして書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽くて書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として謗られる恐れがあったので、私は主として虚栄心のためあるいはパンのために書かれた一夜仕込の断片的な思想を受け容れた。なんでも新しいものは真理であると考えられるような時代が私にもあった。私はいわば犬の智恵をもって人間の智恵を疑ったのである。私は少しでも異なったことをいう人の名をなるべく多く記憶したり、ちょっとでも新しいことを書いた書物の題をなるべくたくさんに暗記したり、ただそれだけでいわゆる旧思想が完全に破壊され得ると考えていたらしい。(引用文献:三木清「語られざる哲学」講談社学術文庫)
プラトン
プラトン(前427-前347)がソクラテス(前470頃-前399)に出会ったのは、ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」によればプラトン20歳、ソクラテス56歳、前407年と推定している。一説によると、プラトンの兄のアディマントスかグラウコンがソクラテスと親しかったからといわれる。ともかく、プラトンは以後8年間ソクラテスの弟子となる。その後ソクラテスは前399年、死刑となるが、その時、プラトンは28歳だった。ソクラテスの死は、プラトンにとって哲学の原点となった。
ソクラテスの死後、プラトンは他の人々とともに、メガラのエウクレイデスのところに一時身を寄せたほか、キュレネやエジプトに旅をしたと伝えられている。この頃、亡きソクラテスを主人公とする対話篇を書きはじめた。「政治家が哲学するか、哲学者が政治をするようにならないかぎり、人類は不幸から救われないであろう」(『国家』)というプラトンの政治哲学が生まれた。
セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813年5月5日生。1855年11月11日没)は父ミカエル・ペーダーゼン・キルケゴールと母アンネ・セーレンスダッター・ルンとの間の7番目の末子としてコペンハーゲンに生まれた。父は実業家であったが、宗教的苦悩を内に秘めた人であり、キルケゴールは、この父の影響を受けて憂愁な性格と罪の意識が強かった。「私は生まれたときから老人であった」と自らの幼児期を追想している。
キルケゴールは、コペンハーゲン大学を出て、ベルリン大学に学ぶ。生涯定職につかず、父の遺産によって生活し、著作生活を送った。
1849年、アンティ・クリマックスという偽名を用い、「死に至る病」を著わす。第一編「死に至る病とは絶望である」第二編「絶望は罪である」。キルケゴールは、現代人は深刻な精神の病気にとりつかれていると洞察する。「絶望するものは、絶望して自己自身であろうと欲する。しかし、もし彼が絶望して自己自身であろうと欲するのなら、彼は自己自身から抜け出すことを欲していないのではないか。たしかに、一見そう思われる。しかし、もっとよく見てみると、結局この矛盾は同じものであることがわかるのである。絶望者は絶望してあろうと欲する自己は、彼がそれである自己ではない。すなわち、彼は彼の自己を、それを措定した力から引き離そうと欲しているものである。しかしそれは、どれほど絶望したところで、彼にはできないことである。絶望がどれほど全力をつくしても、あの力のほうが強いのであって、彼がそれであろうと欲しない自己であるように、彼に強いるのである。しかし、それにもかかわらず、彼はあくまでも自己自身から、彼がそれである自己から、脱け出して、彼が見つけ出した自己であろうとする。彼の欲するような自己であるということは、それがたとえ別の意味では同じように絶望していることであろうとも、彼の最大の喜びであろう」
1837年、キルケゴールは、24歳のときレギーネ・オルセンという少女に出会い、3年後に婚約した。しかし、翌年8月、彼はこの婚約を理由も告げず一方的に破棄した。これは彼の生涯を決定した最大の出来事であった。他人の運命を支配することになる結婚へのおそれからである。5年後レギーネは他の人と結婚したが、キルケゴールは終生レギーネを愛し、独身で過ごした。レギーネは夫と西印度諸島へ赴任する直前、彼に通りすがりに会釈した。キルケゴールは話しもせずに行き過ぎてしまった。これが2人の最後の別れだった。彼はその年の10月2日、街路上で昏倒し、11月11日、42歳の若さで死亡した。
フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェ(1844-1900)。彼は代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」でキリスト教を激しく攻撃し、超人と永劫回帰の思想を中心に独自の形而上学を樹立した。
1881年、37歳のニーチェは7月からスイスのシルス・マリアの別荘で過ごしていた。8月のある日、シルヴァプラナ湖畔の森の中を散歩中に、山道のそばの巨大な尖った三角岩のほとりで、永劫回帰の思想が突然かれに来襲するという体験をした。
1882年4月、ニーチェは、友人の哲学者パウル・レー(1849-1901)の招きでローマへ行った。サンピエトロ寺院の側廊でニーチェは、21歳のロシア人女性ルー・サロメ(1861-1937)と出会う。若くて知的で旧弊な道徳に囚われない自由な精神のサロメにニーチェは心を奪われる。ニーチェとレーとサロメの3人は、イタリア北部で楽しいひと夏を過ごす。2人の男性はサロメに求婚するが、すげなく断わられる。失恋をしたニーチェは、1883年2月、ラバロにおいて、10日間で「ツァラトゥストラはかく語りき」の第一部を書き上げた。ニーチェはもう二度と恋をすることはなかった。
フリードリッヒ・ヘーゲル(1770-1831)。カントにはじまり、フィヒテ、シェリングにうけつがれたドイツ観念論哲学はヘーゲルによって完成されたといわれる。近代的精神の総決算をした人であり、ギリシア的理性(ヘレニズム)とキリスト教の精神(ヘブライズム)とを融合・統一したといわれている。またヘーゲルは、弁証法という論理を確立した人としても有名である。しかし一口にいってヘーゲルの哲学や著書はまことに難解である。ここではヘーゲル第一歩、ヘーゲルの第一著書の「精神現象学」を公刊したときのエピソードを紹介する。
ヘーゲルが大学卒業後、7年間の家庭教師時代を経てシェリング(1775-1854)の世話でようやくイエナ大学に就職できたのは31歳の時であった。1801年1月、当時のドイツ哲学の中心地であるイエナにフランクフルトから移り住んだ。この地では、年下のシェリングが、無神論論争らよって大学を去ったフィヒテの後任として、すでに教授の地位についていた。そのころ、イエナには、シラー、シュレーゲル兄弟がおり、哲学者シェリングをも含めて、それぞれ活躍していた。ヘーゲルは7月に「フィヒテとシェリングの哲学体系の相違」を公にして、シェリングと同一の立場(汎神論的傾向)からフィヒテを批判した。しかし1807年4月に刊行した最初の主著「精神現象学」によって2人の決別は明らかとなった。この書の中で、ヘーゲルは、スピノザ、カント、フィヒテ、シェリングの哲学を痛烈に批判して自己自身の立場を宣言するのである。シェリングの絶対者についての考え方をそのなかにおいては、牛が黒くなる闇夜のごときものであるといって皮肉ったのはよく知られている。シェリングのもとにもこの本が送られてきたが、シェリングは序論しか読まなかったと伝えられる。
清水幾太郎(1907-88)は、60年安保闘争の指導者として活躍し、その後、防衛力の増強を主張するなど思想的立場を急速に転換した戦後知識人しとて知られる。評論家の大宅壮一が「平和論の神様」と評した人物が、後年「天皇論」で天皇を擁護し、「戦後の教育について」で教育勅語を再評価し、「わが人生の断片」では基地反対運動や安保闘争の内幕を語り、果ては「戦後を疑う」で治安維持法を弁護し、ついに「核の選択 日本よ国家たれ」(諸君 昭和55年7月号)で核武装の可能性を含む軍事力増強論を唱えるに至っている。もちろんケペルは肯定しているわけでも、支持しているわけでもないのだが、今日ですらタブーとされる問題を、昭和55年に論じていることにただ驚くばかりだ。清水の先見性は安保後の昭和40年代にすでに見えていた。まだ国内ではマルクス主義が知識人の間で有効性をたもっていた時代に「現代思想」(昭和41年)で19世紀思想の崩壊を予想しており、続く「倫理学ノート」(昭和47年)において「人間の幸福」という問題が科学の外部に排除されていることを指摘している。格差社会やニートという言葉はなかったが、これらの社会問題はすべて今日的な最も重要課題であろう。ただ清水の思想の急転回には、ケペルなどの凡人にはとてもついていけないところがあり、清水を転向者として軽蔑していた時期がある。しかし、死後20年近くたってくると、その膨大な著作である「清水幾太郎全集」全19巻を少しは読んでみようという気になりだした昨今である。清水の長所はすぐれた社会学者であり、ジャーナリストであるというこの二面性を備えた稀なライターだということである。昭和24年9月4日号の「週刊朝日」の「顔」というコラムで清水を次のように紹介している。
清水幾太郎は批評のうまい人で、どんな問題についても人とはちょっと変わった角度から光線をあてて照らしてみせる。(中略)アイデアがいいと言ってもよいし、思いつきが器用だといってもよい。思想的にはプラグマティズム。学識もあるし、視野も広いし、才人でもあり才筆家でもある。専攻は社会学だが、哲学もわかる。物の見方にソツがなく、広く高く物を見る人なので、ジャーナリズムが放っておくわけがない。ジャーナリズムにはもってこいの便利な社会評論家である。高級総合雑誌の巻頭論文などにはウツテツケの筆者である。
誰がこの記事を書いたかわからないが、すでにこの時から清水の本質を見抜いているように思える。
知性の研究は楽しく有益
およそ人間を人間以外の感覚できる存在者の上に置いて、あらゆる点ですぐれさせ、支配させるものは知性であるから、知性はまさにその貴さから言って絶対確実に、研究の労に値する主題である。この知性は目に似て、私たちに他のあらゆる物ごとを見させ、知覚させながら、自分自身にはいっこうに注意しない。そこで、知性をある距離に置いて、知性自身の対象とするには技術と努力がいる。
とはいえ、この研究途上に横たわる困難がなんであれ、私たちを自分自身にこれほどひどくわからなくさせておくものがなんであれ、確かに、私たちが自分自身の心を照らしだせる灯火はすべて、自分自身の知性について識ることのできるものはすべて、非常に楽しいだけでなく、他のものごとの探求に当たって私たちの思惟を導くうえに大きな利益をもたらすだろう。(「世界の名著 27 ロック ヒューム」大槻春彦訳)
中江兆民(1847-1901)は、「東洋のルソー」と呼ばれたように、ルソーの紹介者として知られている。億兆の民の意味で、庶民を表わす兆民を号につかった。土佐で漢学、長崎・江戸でフランス語を学び、明治4年から7年までフランスに留学した。パリ・コミューン直後のパリで政治学者アコラス(1820-91)に学ぶ。中江は18世紀の啓蒙思想家に目をむけ、とくにルソーにつよい関心をもった。彼は、ルソーと同じく、長いあいだ封建的隷属に馴れて、人権の観念など夢想だにしなかった民衆の目をひらくことに努力した。彼の奇言奇行は多く、封建的偏見に対する風刺であり、反抗であった。明治15年、ルソーの「社会契約論」の漢訳・解説した「民約訳解」を著わし、大成功を収めた。民権運動時代の政治青年、たとえば植木枝盛、大井憲太郎たちのバイブルとなった。
彼の「民約訳解」は原著の半分にも満たなかったが、当時の日本の状況からみて、必要にして十分な箇所、すなわち人民主権、直接民主政の理論の部分であった。門人には幸徳秋水、酒井雄三郎ら、日本の初期社会主義者が出ている。
和辻哲郎(1889-1960)は、大正・昭和戦前期・戦後期と日本を代表する倫理学者である。ところが彼の代表作『風土(人間的考察)』はいまだ名著の誉れ高いが、学術書としてはかなり怪しげなシロモノである。勝ち組の知識人が辿った軌跡をみると、国策に便乗した学者の悲喜劇がみえてくる。
ニーチェの研究と漱石の門下生ということで売り出した和辻は、日本回帰を図り、大正8年『古寺巡礼』、大正9年『日本古代文化』と相次いで著作を出し、学界に注目された。そして昭和元年『日本精神史研究』、昭和2年『原始仏教の実践哲学』などユニークな文化史的著作を次々刊行した。のちドイツへ留学、帰国後の昭和10年『風土』を著した。和辻は人間の歴史的・風土的特殊構造をモンスーン、砂漠、牧場と三つの類型に区分している。第一のモンスーンは日本であり、第二の砂漠はアラビア・アフリカ・蒙古であり、第三はヨーロッパである。これらの発想は、和辻がヨーロッパへ旅行したときの船旅の寄港地の印象と、ヨーロッパ内の旅行の印象をもとにしてできあがったものである。中尾佐助は「もしかれが華北の黄土地帯の果てしない小麦畑を旅行し、またシベリアの森林の中を何ヶ月も馬車で旅行していたら全く違ったものになっただろう」(「分類の論理」)と指摘している。当時、東大教授であった和辻は、有名なケッペンの気候区分も人文地理学も何も知らずに、彼の狭いヨーロッパ紀行漫録ともいうべき世界風土論や日本人論をでっちあげている。この面白い珍妙な体系には実は戦後の後日譚がある。というのは和辻の戦後の代表作である『倫理学』の戦後巻には、前記の三区分にプラスして「アメリカ的風土」と「ロシア的風土」がつけ加えられているからである。戦時中のかれの歴史観には、戦後世界の覇権者が米・ソである、という予感すらもない。こうして「君子は豹変する」の喩えどおり、日本の代表的知識人たちは変節して勝ち組になったのである。
和辻哲郎(1889-1960)は、大正2年、最初の著書『ニーチェ研究』を刊行、その直前に夏目漱石に手紙を書き送ったが、その夜偶然に帝国劇場で漱石にあう。漱石よりあたたかい返事をもらい、漱石山房を訪れる。
その後、和辻は、古代日本に「ディオニュソス的なもの」を見いだして美的な日本回帰を遂げ、『古寺巡礼』(大正8年)によって古代ブームを巻き起こした。大正14年には京都帝国大学に就職し、昭和2年にはヨーロッパに留学して、その際の船旅の途上における直感的な観察は、その後『風土』(昭和10年)として結実した。また、近代ヨーロッパの自己完結的な倫理学を構想して、『人間の学としての倫理学』(昭和9年)以降の著作で展開したが、それは彼が嫌がっていた「国民道徳」や京都学派の「世界史的立場」ないしは「近代の超克」の論理にも通ずる滅私奉公的倫理観も準備するものであった。
和辻は昭和9年に東京帝国大学倫理学科教授となり、『倫理学』(昭和12年-24年)では、ヘーゲルの体系を模索した構成の中で「自我」の滅却による和の倫理を家族国家観と接合させた。ここでも『ニーチェ研究』における意識的な「自我」の克服による宇宙的な「自己」への解脱という図式は見事に一貫している。戦後、『倫理学』を改訂して国家を超える国際法の次元を取り入れることで国家主義を是正する方途を探り、『鎖国』(昭和25年)で近世の日本の閉鎖性を批判した。
ニーチェの最も親しい友人の一人であったエルヴィーン・ローデ(Erwin Rohde 1845-98)は、後にイェーナ大学、ハイデルベルク大学などの教授を歴任したギリシア宗教史の研究家である。
ニーチェの処女作『悲劇の誕生』は、1872年1月に刊行されたが、その評判は悪かった。ニーチェの師でさえ、日記に「ニーチェの本、悲劇の誕生(才気走った酔っ払い)」と記したほどで、学界からしばらくは完全な黙殺状態が続いた。
1872年6月、ヴィーラモーヴィッツ・メレンドルフは、ニーチェの卒業した高等学校プフォルタ学園の後輩で、「ニーチェ殿、貴君は母校プフォルタに何という恥をかかせたのだ」という『悲劇の誕生』に対する攻撃文で始まる「未来の文献学」というパンフレットを書いて、ニーチェの誤謬を詳しく論駁した。
1872年10月、このメレンドルフの攻撃に対して、『似非文献学』というパンフレットで擁護のための論陣を張ったのが友人のローデである。次の一文が、ニーチェおよびローデのギリシア観の核心が何処にあったかをよく物語っている。
「しかしもし美に耳を傾ける者すべてによって感じ取られた神話的悲劇のディオニュソス的真実を言葉、すなわち概念によって示唆することさえも困難であり、究明することなど不可能だとすれば、その理由は、ここで世界の最も深い秘密があらゆる理性やその表現であるふつうの言語よりはるかに高次な言語によって語られているからである。」
ともかくニーチェは処女作の不評によって、スイスのバーゼル大学の冬学期には文献学専攻学生の聴講皆無となった。しかしこうした『悲劇の誕生』の悲劇的反響にもかかわらず、現在『悲劇の誕生』はニーチェの代表作の一つといわれている。ギリシア文献学とワーグナー芸術とショーペンハウアー哲学が基本的要素であるが、ニーチェの個性的思想と文明批評があり、一種の「魔女の飲み物」といわれるような刺激的な書物である。後世の芸術家に与えた影響は大きく、たとえば朝日新聞社の「一冊の本」に、画家の岡本太郎や音楽評論家の吉田秀和などは、ともに『悲劇の誕生』を推していることはなど興味深いものがある。
イデア(idea) 元来は見えているもの、姿、形の意。プラトンにおいては、理想のみによって把握される事物の本質、価値あるものごとの理想的な形を意味する。感覚でとらえられる個物は完全でないし変化を免れ得ない。これに対し、イデアは非物質的で永遠不変な真実の実在と考えられる。たとえば現実のうつろいゆく美しいものに対して、美のイデアとはそれを美たらしめている美そのもののことである。また現象界の個物はイデアの模像であり、イデアを分有すると説かれる。
プラトンは真の実在を感性でとらえ、現実の世界の個物には求めず、理性でのみとらえられる普遍的な本質、すなわちイデア論を展開した。このように現実の世界よりもイデアの世界を重視するプラトンの理想主義的な傾向はプラトン主義とも呼ばれて、後世に大きな影響を与えた。
カール・マルクス(1818~1883)。これはマルクスの娘が出した問いに答えたものである。
あなたのすきな徳行は 質朴
あなたのすきな男性の徳行は 強さ
あなたのすきな女性の徳行は 弱さ
あなたの主要性質 ひたむき
あなたの幸福観 たたかうこと
あなたの不幸観 屈従
あなたがいちばんきらう悪徳 卑屈
すきな仕事 本食い虫になること
すきな格言 非人間的なものは私の関知しないところである
すきな標語 すべてをうたがえ
ある人が学者のタレスの貧乏なことをあざけって、学問などは人生に無用だと言った。するとタレスは天文の知識により、冬の間にその年の秋にオリーブは豊作だと予見し、余り金をはたいてミレトス一帯のオリーブ搾り器を安い値で全部借りてしまった。秋が来て、搾油器がなくてうろたえた人たちにかれは高い値でまた貸ししてたちまち財産をつくった。
この話を伝えたアリストテレスはこうつけ加えている。「学者は、なろうと思えば金持ちになれる。しかし学者の目的は別にあることをタレスは世間に教えたのである」と記している。(参考:村川堅太郎『世界の歴史2』)
哲学者カントは、その一生のほとんどをケーニヒスベルクという町で暮らし、毎日規則正しい日常生活を送っていた。彼の起床は5時、就寝は10時と定まっていた。下男のランベは5時15分前に、ベッドのそぱへ行ってカントを起す。前日どんなに夜ふかしをした朝でも、彼はこの声で飛び起きた。
「ランベよ、お前と30年も暮らしてきたが、1日でも、2度も3度も私を起こさねばならなかったことはあるまい」と自慢していた。
詩人ハイネの話によれば、カントはいつも午後に散歩をしたが、その時刻は1分とちがわなかった。それで町の人々は、時々とまったりする大通りの時計を当てにできず、彼の通る姿を見て、めいめいの時計を合わせた。(参考:西元篤『逸話365日』創元社 1958)
アレクサンダー大王がギリシアを征服してコリントにやって来た。大勢の有力者たちがごきげんをうかがいにやって来たが、有名な哲学者のデイオゲネスはやって来なかった。そこで大王はみずから会いに行った。ディオゲネスは横になって日向ぼっこをしていた。大王は哲学者のそばにあゆみ寄って名のった。「余は大王アレクサンダーであるぞ」すると哲学者も名のった。「余はディオゲネスであるぞ」大王はあきれてきいた。「私を恐れないのか」「善いお人か」「そうだ」「善い人を恐れる必要はない」大王はかさねて言った。「私に何かしてもらいたいことはないか」「そこをどいて下さい。日向ぼっこの影になる」
大王は何ものにも恐れない哲学者に、すっかり感心して、「私はもしアレクサンダーでなかったら、ディオゲネスになりたい」と言ったという。
ソクラテスの妻クサンチッペは、悪妻として知られている。ある青年に結婚について聞かれたソクラテスは、
「そりゃあ、したほうがいいね。うまくいきゃ幸せになるし、失敗すれば、私のように哲学者になれる」と答えたという。
古代ギリシアのイオニア学派の自然哲学者タレスには次のような逸話がある。
タレスは、空をふり仰いで、星をいっしょうけんめいに見ていたために、足もとの泉に気がつかず、落ちてしまった。それを見ていたトラキア生まれの女奴隷に、「ご主人さまは空のことにはたいへんご熱心ですが、鼻先や足もとのことには、ぜんぜんお気づきになりませんね」と笑われたという。
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