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2009年12月 6日 (日)

世界十大思想家

   「すべての人はプラトン主義者か、さもなければ、アリストテレス主義者である」ということばがある。プラトンのようにイデアにあこがれる理想主義者か、アリストテレスのような現実を重視する現実主義者か、人はこのいずれかのタイプに属しているという意味であるらしい。プラトンも偉大な哲学者だったけれども、アリストテレスもまたさらに偉大であったといわざるをえない。偉大な哲学者を10人選ぶとすれば誰か?プラトン、アリストテレス、孔子はまず確実としてあと7人。むかし中央公論者社から「世界の名著」というシリーズ物が刊行された。実はケペルはその中の1冊もまともに読んでいない。裏を返せばこれから読める楽しみが残されている。今、どれを読もうかと思案している。孔子、孟子、老子、荘子、ヘロドトス、ツキュディデス、司馬遷、聖書、キケロ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス、アウグスティヌス、マキアヴェリ、エラスムス、トマス・モア、ルター、モンテーニュ、ガリレオ、ホイヘンス、デカルト、ホッブス、パスカル、スピノザ、ライプニッツ、ニュートン、ロック、ヒューム、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー、アダム・スミス、カント、フランクリン、ジェファーソン、ハミルトン、マディソン、トックヴィル、パーク、マルサス、ヘーゲル、コント、スペンサー、ミシュレ、ベンサム、ジョン・スチュワート・ミル、ダーウィン、キルケゴール、ラスキン、モリス、プルードン、バクーニン、クロポトキン、マルクス、エンゲルス、ブルクハルト、ニーチェ、デュルケーム、ジンメル、パース、ジェームズ、デューイ、レーニン、ベルグソン、マイネッケ、ホイジンガ、オルテガ・イ・ガゼー、マンハイム、ケインズ、ホワイトヘッド、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、レヴィ・ストロース、バジョット、ラスキ、マッキーヴァー、トインビー、ハイデッガー、孫文、毛沢東。この中から7人を選ぶのは大変である。ケペルが選ぶとすれば、デカルト、ニュートン、ルソー、カント、ダーウィン、マルクス、ニーチェに孔子、プラトン、アリストテレスを加えた10人であろうか。アメリカの「有名人年鑑ハンドブック」によると、孔子、プラトン、アリストテレス、トマス・アキナス、コペルニクス、フランシス・ベーコン、ニュートン、ヴォルテール、カント、ダーウィンであった。

2009年10月31日 (土)

師プラトンを批判したアリストテレス

    古代ギリシア哲学者プラトン(前427-前347)は至高のイデアは善であるとした。この直観的、主観的な考えに対して、弟子のアリストテレス(前384-前322)はプラトンの哲学をそのまま踏襲したのではない。彼はすべての理論は、立証できる事実の裏付けが必要であり、観察と厳密な論理を哲学の基盤とした。これに対してプラトンはアリストテレスを「書物の人」と言ったり、「クセノクラテス(第3代アカデメイアの学頭)には拍車が必要だが、アリストテレスには手綱が必要である」と言っている。プラトンはアリストテレスの俊敏さは認めるものの生意気な青年にみえたのかもしれない。しかし、アリストテレスはプラトンが死ぬまで20年間、忠実なプラトン学徒として、アカデメイアで活動した。後年、アリストテレスは師プラトンのイデア論に反対して、一元論の立場をとった。世間の人々はアリストテレスの態度を背徳忘恩の徒として非難したが、彼は「真理も友も、共に敬愛すべきであるが、私は友以上に真理を愛す」と言い、終生師プラトンを畏敬し続けた。

2009年10月13日 (火)

「連山易」「帰蔵易」

   「易経」は古代中国の占いの経典であるが、その原型がまとまったのは、西周末期か春秋初期と推定される。殷代には亀甲や獣骨を焼いてそのひび割れを見て亀卜が盛んに行われたが、周代になるとそれと並行して筮竹を数える卜筮が行われはじめ、その結果は、絹布に記録されて大切に朝廷に保管された。こうして集積された筮辞のうちから、適中したものでしかも各卦各爻にふさわしいものが選ばれて編集されたのが、現在の「易経」の原型となったものであろう。

    易には「連山」「帰蔵」「周易」と三易といわれるものがあった。連山易は神農もしくは夏王朝の易、帰蔵易は黄帝もしくは殷の易とされる。「連山」「帰蔵」は既に失伝してしまい現存するのは「周易」のみであり、「連山易」「帰蔵易」は存在しない。

   現存する易でよく知られているのが魏の王弼の「周易」で十三経注疏に収められている。このほか宋の程頤の「易伝」、宋の朱熹の「周易本義」などがある。漢易は多く滅んだが、唐の李鼎祚によって「周集解」にあつめられ、清の恵棟、張恵言らによって復元されている。夏の「連山」、殷の「帰蔵」も清の章宗源が乾隆年間に諸儒の史志にみえているもの、散逸したものを集めて一書をなした。それを道光年間に馬国翰が「玉函山房輯秩書」に収めている。

2009年5月 2日 (土)

未発の気象

   中国の思想の大きな流れは、前漢に国教となった儒教であるが、後漢には訓詁学として盛んとなるが、次第に儒教は魅力を失い、仏教がひろく普及していく。とくに禅宗は、宋代に入って儒教、老荘思想とも結びついていた。南宋の朱子も若い頃は禅へ傾倒していた。進士となった朱子は、24歳のとき延平(福建省南平市)の李侗(1092-1163)の教えを受けた。李侗は、禅理をまくしたてる朱子に向かって「おまえは、宙に浮いた理屈ばかりをいうが、眼前の事実についてはなにもわかっていない。道は玄妙なものではない。ただ日用の間に着実に工夫することによって自然に会得できるのだ」と説く。それには「未発の気象」を養うことだという。「未発の気象」とは『中庸』の「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発してみな節にあたる。これを和という」という言葉に基づくもので、感情の動く以前の、澄みきった、偏りのない心である。この心は「黙座して心を澄ます」ことによって体認される。禅理と共通するものをもちながら、しかも現実への着実な取り組みを説くこの教えは、朱子の学問の方向を決定するようになった。

2009年3月 8日 (日)

デカルトとクリスティナ女王

   ルネ・デカルト(1596-1650)はスウェーデンのクリスティナ女王(1626-1689)の熱心な招聘を受けた。デカルトの親友シャニュ(1601-1662)がストックホルム駐在のフランス大使で女王にデカルトを売り込んだのだ。その19歳の若い女王はデカルトの「愛についての書簡」を読んで感動した。デカルトは寒い国に行くことは気がすすまなかった。しかし強引な女王は軍艦までよこして招聘につとめたのでさすがのデカルトも無碍に断われなくなった。1649年9月オランダを出発し、10月、ストックホルムに着いた。厳冬早朝の講義は、ひ弱で、朝寝の習慣を持っていたデカルトにとって身にこたえるものであった。1650年2月2日、デカルトは病気になった。風邪から肺炎にかかって2月11日早朝、あっけなく54歳の生涯を終えることになる。

2009年2月23日 (月)

温故知新

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    司馬遷は「史記」のなかで孔子が多くの人の知らぬことを明快に説き明かしている逸話を記している。歴史に詳しく、細かな故実を知り、古典の整理をなしとげ、楽器の演奏にも通じていた。孔子はやがて弟子をとって人の師となる。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師為(た)る可(べ)し        (為政篇)

先生が言われた。「古いことを学んで新しいことにも通じている、そうであれば人の師となれるだろう」と。

   今でもよく使われる四字熟語に「温故知新」がある。これは、人を教え導く教師になるためには、昔のことがらをよく研究してそれに精通し、また最新の知見をも得なければならない、というのがその意味である。つまり「温故」のみで、「知新」、新しい知識を持っていないと人の師にはなれない、というのが最近の解釈である。(諏訪原研「四字熟語で読む論語」)

   これまでの多くの解釈では、古典を大切にして、古いものの中から時勢に合うものを汲み取っていくことが「温故知新」の意味とされることが多い。広辞苑にも「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」とある。

   「知新」を「新しい知識」とするか、「時代に合うものを見つける」という意味にとるかでずいぶん違ってくる。たしかに古典に精通した漢文の教師にも、最新のコンピューターや国際情勢の知識が必要であろう。岩波文庫の金谷治の訳にも「古いことに習熟して新しいことにもわきまえれば、教師となれるだろう」とある。

2008年12月15日 (月)

中国の国学ブームに思う

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文化大革命のなか、批林批孔運動の壁新聞を読む市民たち

   孔子、老子の時代から現代まで4千年の歴史をもつ中国には脈々として流れている文化と思想がある。それはイデオロギーを超えた民族の深い英知の表現であり、人類の遺産である。儒教文化を中心とした中国の伝統的学問は、中国はもとより、朝鮮、日本にも古典として深く根付いている。

    だが中国の近代化への動きが始まる時、呉虞(1871-1949)や陳独秀(1880-1942)ら知識人は痛烈に儒教を攻撃した。魯迅(1881-1936)の文学作品にも孔子や儒教への批判が多く見られる。さらに記憶の新しいところでは、1964年から10年間におよぶ中国文化大革命のなかで、批林批孔運動が巻き起こった。しかし、それは長い歴史からいえば、結局は一時期の特殊な現象にすぎなかったと見ることができる。近年、中国では「国学」と呼ばれる古典回帰の現象が起こっている。書店では「論語」「孟子」などの古典思想・文学・史書がよく売れている。テレビ番組でも古典の講座に関心が高いという。国学ブームの背景は、大国化した中国が自国の伝統文化に自信を持ち始めたことの現われであろうと分析している。

   では、中国の古代聖賢の教えの到達点とは何であろうか。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉に言い表されるように、実はこの到達点「大我」に至る道は、凡俗にはかなりハードルが高い。

   孟子がいった。「人間はだれでも魚はおいしい、熊の掌もおいしい。しかし、その魚と熊の掌とを二つ兼ねることはできないとすれば、だれでも魚を捨てて、熊の掌をとるだろう」それと同様に、「生きたいというものも己れの希望であるが、さりとて人の道、人の義を実現したいのも人の欲望である。もしこの二つを兼ねることができないという場合には、生を捨てても義をとるだろう」といっている。その場合、生を捨てて、仁を成し、義を取る「大我」に至ることが中国の伝統的聖賢の教えなのである。

2008年12月 6日 (土)

吉野作造と中沢臨川

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   吉野作造記念館(宮城県古川市)に「サイン入りのうちわ」が所蔵されている。吉野作造(1878-1933)の友人である文芸評論家・中沢臨川(1878-1920)は大正9年8月9日に41才の若さで結核により亡くなったが、吉野ら友人たちが翌年の一周忌に集ってサインしたものである。

   中沢臨川は長野県伊那郡南方村(現・中川村)で生まれ、第二高等学校を経て東京帝国大学工科を卒業した異色の文芸評論家である。中沢と吉野とは大正4年結成された大学普及会という、大学の社会化を目的とする国民教育運動で共に活動した。うちはには、同じく大学普及会で活躍し、戦後初代最高裁判所長官となった三淵忠彦(1880-1950)、中沢の松本中学時代の一級下で詩人の吉江喬松(吉江孤雁1872-1950)、龍土会で交流した田山花袋(1871-1930)、島崎藤村(1872-1943)の名前が見える。中沢は大正期論壇ではトルストイやニーチェの紹介など新理想主義者として活躍し、自然主義文学にも好意的な立場をとった。

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                       中沢臨川

2008年11月29日 (土)

ラ・ロシュフコオ「箴言と考察」

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   フロンドの乱(1648-53)に敗れ、失明に近い痛手を負ったラ・ロッシュフーコー(1613-1680)は、サブレ侯爵夫人のサロンにおいて、ラ・ファイエット夫人との交友の間に、人間に関する厭世的で鋭利な箴言集をつくった。「箴言と考察」(1665-78)である。この本は岩波文庫版でケペルの書棚にもあったが、一度も読んだことがなかった。何故「箴言と考察」を取り出したかというと、文藝春秋11月号の特集に「死ぬまでに絶対読みたい本、読書家52人生涯の一冊」に選ばれているからだ。選者は関西大学教授・竹内洋(たけうちよう)。顔写真があるので思い出した。当時、先生は30歳の若い人だったが、偉い学者になっていたことを知らなかった。専門は社会学で、一般教養の社会学の講義を聞いた覚えがある。実はずっと名前を「たけうちひろし」と誤って覚えていた。なんでも高校時代に先生から「箴言と考察」をいただいたが、読んでみると性悪説、厭世主義に溢れていて、なぜ先生が贈られたのか未だに謎だという話が書かれている。

   「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」、「われわれが美徳と見做すところのものは、しばしば、運命か、さもなければ、われわれ人間の術策がしかるべく切り盛りするさまざまな行為と、さまざまな利害関係との集まりにすぎない。だから、男が勇敢であり、女が貞節であるのは、必ずしも、勇気なり貞節なのがそうするのではない」などは人間観察の鋭さを示すもの。「老いる術を知る人はほとんどいない」、「太陽も死も直視することを得ない」となると、そこにはもう皮肉や警句はなく、ただ人間の限界を見つめる眼があるばかりである。しかも、この一般論の大家は、「個々の人間を知るよりは人間一般を知ることのほうがたやすい」ことをもわきまえていた。

ラ・ロシュフコオ「箴言と考察」

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   フロンドの乱(1648-53)に敗れ、失明に近い痛手を負ったラ・ロッシュフーコー(1613-1680)は、サブレ侯爵夫人のサロンにおいて、ラ・ファイエット夫人との交友の間に、人間に関する厭世的で鋭利な箴言集をつくった。「箴言と考察」(1665-78)である。この本は岩波文庫版でケペルの書棚にもあったが、一度も読んだことがなかった。何故「箴言と考察」を取り出したかというと、文藝春秋11月号の特集に「死ぬまでに絶対読みたい本、読書家52人生涯の一冊」に選ばれているからだ。選者は関西大学教授・竹内洋(たけうちよう)。顔写真があるので思い出した。当時、先生は30歳の若い人だったが、偉い学者になっていたことを知らなかった。専門は社会学で、一般教養の社会学の講義を聞いた覚えがある。実はずっと名前を「たけうちひろし」と誤って覚えていた。なんでも高校時代に先生から「箴言と考察」をいただいたが、読んでみると性悪説、厭世主義に溢れていて、なぜ先生が贈られたのか未だに謎だという話が書かれている。

   「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」、「われわれが美徳と見做すところのものは、しばしば、運命か、さもなければ、われわれ人間の術策がしかるべく切り盛りするさまざまな行為と、さまざまな利害関係との集まりにすぎない。だから、男が勇敢であり、女が貞節であるのは、必ずしも、勇気なり貞節なのがそうするのではない」などは人間観察の鋭さを示すもの。「老いる術を知る人はほとんどいない」、「太陽も死も直視することを得ない」となると、そこにはもう皮肉や警句はなく、ただ人間の限界を見つめる眼があるばかりである。しかも、この一般論の大家は、「個々の人間を知るよりは人間一般を知ることのほうがたやすい」ことをもわきまえていた。