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2009年10月31日 (土)

師プラトンを批判したアリストテレス

    古代ギリシア哲学者プラトン(前427-前347)は至高のイデアは善であるとした。この直観的、主観的な考えに対して、弟子のアリストテレス(前384-前322)はプラトンの哲学をそのまま踏襲したのではない。彼はすべての理論は、立証できる事実の裏付けが必要であり、観察と厳密な論理を哲学の基盤とした。これに対してプラトンはアリストテレスを「書物の人」と言ったり、「クセノクラテス(第3代アカデメイアの学頭)には拍車が必要だが、アリストテレスには手綱が必要である」と言っている。プラトンはアリストテレスの俊敏さは認めるものの生意気な青年にみえたのかもしれない。しかし、アリストテレスはプラトンが死ぬまで20年間、忠実なプラトン学徒として、アカデメイアで活動した。後年、アリストテレスは師プラトンのイデア論に反対して、一元論の立場をとった。世間の人々はアリストテレスの態度を背徳忘恩の徒として非難したが、彼は「真理も友も、共に敬愛すべきであるが、私は友以上に真理を愛す」と言い、終生師プラトンを畏敬し続けた。

2009年10月13日 (火)

「連山易」「帰蔵易」

   「易経」は古代中国の占いの経典であるが、その原型がまとまったのは、西周末期か春秋初期と推定される。殷代には亀甲や獣骨を焼いてそのひび割れを見て亀卜が盛んに行われたが、周代になるとそれと並行して筮竹を数える卜筮が行われはじめ、その結果は、絹布に記録されて大切に朝廷に保管された。こうして集積された筮辞のうちから、適中したものでしかも各卦各爻にふさわしいものが選ばれて編集されたのが、現在の「易経」の原型となったものであろう。

    易には「連山」「帰蔵」「周易」と三易といわれるものがあった。連山易は神農もしくは夏王朝の易、帰蔵易は黄帝もしくは殷の易とされる。「連山」「帰蔵」は既に失伝してしまい現存するのは「周易」のみであり、「連山易」「帰蔵易」は存在しない。

   現存する易でよく知られているのが魏の王弼の「周易」で十三経注疏に収められている。このほか宋の程頤の「易伝」、宋の朱熹の「周易本義」などがある。漢易は多く滅んだが、唐の李鼎祚によって「周集解」にあつめられ、清の恵棟、張恵言らによって復元されている。夏の「連山」、殷の「帰蔵」も清の章宗源が乾隆年間に諸儒の史志にみえているもの、散逸したものを集めて一書をなした。それを道光年間に馬国翰が「玉函山房輯秩書」に収めている。

2009年5月 2日 (土)

未発の気象

   中国の思想の大きな流れは、前漢に国教となった儒教であるが、後漢には訓詁学として盛んとなるが、次第に儒教は魅力を失い、仏教がひろく普及していく。とくに禅宗は、宋代に入って儒教、老荘思想とも結びついていた。南宋の朱子も若い頃は禅へ傾倒していた。進士となった朱子は、24歳のとき延平(福建省南平市)の李侗(1092-1163)の教えを受けた。李侗は、禅理をまくしたてる朱子に向かって「おまえは、宙に浮いた理屈ばかりをいうが、眼前の事実についてはなにもわかっていない。道は玄妙なものではない。ただ日用の間に着実に工夫することによって自然に会得できるのだ」と説く。それには「未発の気象」を養うことだという。「未発の気象」とは『中庸』の「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発してみな節にあたる。これを和という」という言葉に基づくもので、感情の動く以前の、澄みきった、偏りのない心である。この心は「黙座して心を澄ます」ことによって体認される。禅理と共通するものをもちながら、しかも現実への着実な取り組みを説くこの教えは、朱子の学問の方向を決定するようになった。

2009年3月 8日 (日)

デカルトとクリスティナ女王

   ルネ・デカルト(1596-1650)はスウェーデンのクリスティナ女王(1626-1689)の熱心な招聘を受けた。デカルトの親友シャニュ(1601-1662)がストックホルム駐在のフランス大使で女王にデカルトを売り込んだのだ。その19歳の若い女王はデカルトの「愛についての書簡」を読んで感動した。デカルトは寒い国に行くことは気がすすまなかった。しかし強引な女王は軍艦までよこして招聘につとめたのでさすがのデカルトも無碍に断われなくなった。1649年9月オランダを出発し、10月、ストックホルムに着いた。厳冬早朝の講義は、ひ弱で、朝寝の習慣を持っていたデカルトにとって身にこたえるものであった。1650年2月2日、デカルトは病気になった。風邪から肺炎にかかって2月11日早朝、あっけなく54歳の生涯を終えることになる。

2009年2月23日 (月)

温故知新

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    司馬遷は「史記」のなかで孔子が多くの人の知らぬことを明快に説き明かしている逸話を記している。歴史に詳しく、細かな故実を知り、古典の整理をなしとげ、楽器の演奏にも通じていた。孔子はやがて弟子をとって人の師となる。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師為(た)る可(べ)し        (為政篇)

先生が言われた。「古いことを学んで新しいことにも通じている、そうであれば人の師となれるだろう」と。

   今でもよく使われる四字熟語に「温故知新」がある。これは、人を教え導く教師になるためには、昔のことがらをよく研究してそれに精通し、また最新の知見をも得なければならない、というのがその意味である。つまり「温故」のみで、「知新」、新しい知識を持っていないと人の師にはなれない、というのが最近の解釈である。(諏訪原研「四字熟語で読む論語」)

   これまでの多くの解釈では、古典を大切にして、古いものの中から時勢に合うものを汲み取っていくことが「温故知新」の意味とされることが多い。広辞苑にも「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」とある。

   「知新」を「新しい知識」とするか、「時代に合うものを見つける」という意味にとるかでずいぶん違ってくる。たしかに古典に精通した漢文の教師にも、最新のコンピューターや国際情勢の知識が必要であろう。岩波文庫の金谷治の訳にも「古いことに習熟して新しいことにもわきまえれば、教師となれるだろう」とある。

2008年12月15日 (月)

中国の国学ブームに思う

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文化大革命のなか、批林批孔運動の壁新聞を読む市民たち

   孔子、老子の時代から現代まで4千年の歴史をもつ中国には脈々として流れている文化と思想がある。それはイデオロギーを超えた民族の深い英知の表現であり、人類の遺産である。儒教文化を中心とした中国の伝統的学問は、中国はもとより、朝鮮、日本にも古典として深く根付いている。

    だが中国の近代化への動きが始まる時、呉虞(1871-1949)や陳独秀(1880-1942)ら知識人は痛烈に儒教を攻撃した。魯迅(1881-1936)の文学作品にも孔子や儒教への批判が多く見られる。さらに記憶の新しいところでは、1964年から10年間におよぶ中国文化大革命のなかで、批林批孔運動が巻き起こった。しかし、それは長い歴史からいえば、結局は一時期の特殊な現象にすぎなかったと見ることができる。近年、中国では「国学」と呼ばれる古典回帰の現象が起こっている。書店では「論語」「孟子」などの古典思想・文学・史書がよく売れている。テレビ番組でも古典の講座に関心が高いという。国学ブームの背景は、大国化した中国が自国の伝統文化に自信を持ち始めたことの現われであろうと分析している。

   では、中国の古代聖賢の教えの到達点とは何であろうか。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉に言い表されるように、実はこの到達点「大我」に至る道は、凡俗にはかなりハードルが高い。

   孟子がいった。「人間はだれでも魚はおいしい、熊の掌もおいしい。しかし、その魚と熊の掌とを二つ兼ねることはできないとすれば、だれでも魚を捨てて、熊の掌をとるだろう」それと同様に、「生きたいというものも己れの希望であるが、さりとて人の道、人の義を実現したいのも人の欲望である。もしこの二つを兼ねることができないという場合には、生を捨てても義をとるだろう」といっている。その場合、生を捨てて、仁を成し、義を取る「大我」に至ることが中国の伝統的聖賢の教えなのである。

2008年12月 6日 (土)

吉野作造と中沢臨川

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   吉野作造記念館(宮城県古川市)に「サイン入りのうちわ」が所蔵されている。吉野作造(1878-1933)の友人である文芸評論家・中沢臨川(1878-1920)は大正9年8月9日に41才の若さで結核により亡くなったが、吉野ら友人たちが翌年の一周忌に集ってサインしたものである。

   中沢臨川は長野県伊那郡南方村(現・中川村)で生まれ、第二高等学校を経て東京帝国大学工科を卒業した異色の文芸評論家である。中沢と吉野とは大正4年結成された大学普及会という、大学の社会化を目的とする国民教育運動で共に活動した。うちはには、同じく大学普及会で活躍し、戦後初代最高裁判所長官となった三淵忠彦(1880-1950)、中沢の松本中学時代の一級下で詩人の吉江喬松(吉江孤雁1872-1950)、龍土会で交流した田山花袋(1871-1930)、島崎藤村(1872-1943)の名前が見える。中沢は大正期論壇ではトルストイやニーチェの紹介など新理想主義者として活躍し、自然主義文学にも好意的な立場をとった。

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                       中沢臨川

2008年11月29日 (土)

ラ・ロシュフコオ「箴言と考察」

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   フロンドの乱(1648-53)に敗れ、失明に近い痛手を負ったラ・ロッシュフーコー(1613-1680)は、サブレ侯爵夫人のサロンにおいて、ラ・ファイエット夫人との交友の間に、人間に関する厭世的で鋭利な箴言集をつくった。「箴言と考察」(1665-78)である。この本は岩波文庫版でケペルの書棚にもあったが、一度も読んだことがなかった。何故「箴言と考察」を取り出したかというと、文藝春秋11月号の特集に「死ぬまでに絶対読みたい本、読書家52人生涯の一冊」に選ばれているからだ。選者は関西大学教授・竹内洋(たけうちよう)。顔写真があるので思い出した。当時、先生は30歳の若い人だったが、偉い学者になっていたことを知らなかった。専門は社会学で、一般教養の社会学の講義を聞いた覚えがある。実はずっと名前を「たけうちひろし」と誤って覚えていた。なんでも高校時代に先生から「箴言と考察」をいただいたが、読んでみると性悪説、厭世主義に溢れていて、なぜ先生が贈られたのか未だに謎だという話が書かれている。

   「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」、「われわれが美徳と見做すところのものは、しばしば、運命か、さもなければ、われわれ人間の術策がしかるべく切り盛りするさまざまな行為と、さまざまな利害関係との集まりにすぎない。だから、男が勇敢であり、女が貞節であるのは、必ずしも、勇気なり貞節なのがそうするのではない」などは人間観察の鋭さを示すもの。「老いる術を知る人はほとんどいない」、「太陽も死も直視することを得ない」となると、そこにはもう皮肉や警句はなく、ただ人間の限界を見つめる眼があるばかりである。しかも、この一般論の大家は、「個々の人間を知るよりは人間一般を知ることのほうがたやすい」ことをもわきまえていた。

ラ・ロシュフコオ「箴言と考察」

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   フロンドの乱(1648-53)に敗れ、失明に近い痛手を負ったラ・ロッシュフーコー(1613-1680)は、サブレ侯爵夫人のサロンにおいて、ラ・ファイエット夫人との交友の間に、人間に関する厭世的で鋭利な箴言集をつくった。「箴言と考察」(1665-78)である。この本は岩波文庫版でケペルの書棚にもあったが、一度も読んだことがなかった。何故「箴言と考察」を取り出したかというと、文藝春秋11月号の特集に「死ぬまでに絶対読みたい本、読書家52人生涯の一冊」に選ばれているからだ。選者は関西大学教授・竹内洋(たけうちよう)。顔写真があるので思い出した。当時、先生は30歳の若い人だったが、偉い学者になっていたことを知らなかった。専門は社会学で、一般教養の社会学の講義を聞いた覚えがある。実はずっと名前を「たけうちひろし」と誤って覚えていた。なんでも高校時代に先生から「箴言と考察」をいただいたが、読んでみると性悪説、厭世主義に溢れていて、なぜ先生が贈られたのか未だに謎だという話が書かれている。

   「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」、「われわれが美徳と見做すところのものは、しばしば、運命か、さもなければ、われわれ人間の術策がしかるべく切り盛りするさまざまな行為と、さまざまな利害関係との集まりにすぎない。だから、男が勇敢であり、女が貞節であるのは、必ずしも、勇気なり貞節なのがそうするのではない」などは人間観察の鋭さを示すもの。「老いる術を知る人はほとんどいない」、「太陽も死も直視することを得ない」となると、そこにはもう皮肉や警句はなく、ただ人間の限界を見つめる眼があるばかりである。しかも、この一般論の大家は、「個々の人間を知るよりは人間一般を知ることのほうがたやすい」ことをもわきまえていた。

ラ・ロシュフコオ「箴言と考察」

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   フロンドの乱(1648-53)に敗れ、失明に近い痛手を負ったラ・ロッシュフーコー(1613-1680)は、サブレ侯爵夫人のサロンにおいて、ラ・ファイエット夫人との交友の間に、人間に関する厭世的で鋭利な箴言集をつくった。「箴言と考察」(1665-78)である。この本は岩波文庫版でケペルの書棚にもあったが、一度も読んだことがなかった。何故「箴言と考察」を取り出したかというと、文藝春秋11月号の特集に「死ぬまでに絶対読みたい本、読書家52人生涯の一冊」に選ばれているからだ。選者は関西大学教授・竹内洋(たけうちよう)。顔写真があるので思い出した。当時、先生は30歳の若い人だったが、偉い学者になっていたことを知らなかった。専門は社会学で、一般教養の社会学の講義を聞いた覚えがある。実はずっと名前を「たけうちひろし」と誤って覚えていた。なんでも高校時代に先生から「箴言と考察」をいただいたが、読んでみると性悪説、厭世主義に溢れていて、なぜ先生が贈られたのか未だに謎だという話が書かれている。

   「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」、「われわれが美徳と見做すところのものは、しばしば、運命か、さもなければ、われわれ人間の術策がしかるべく切り盛りするさまざまな行為と、さまざまな利害関係との集まりにすぎない。だから、男が勇敢であり、女が貞節であるのは、必ずしも、勇気なり貞節なのがそうするのではない」などは人間観察の鋭さを示すもの。「老いる術を知る人はほとんどいない」、「太陽も死も直視することを得ない」となると、そこにはもう皮肉や警句はなく、ただ人間の限界を見つめる眼があるばかりである。しかも、この一般論の大家は、「個々の人間を知るよりは人間一般を知ることのほうがたやすい」ことをもわきまえていた。

2008年11月17日 (月)

スカーレット・オハラの対象喪失

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    喉の渇きが水によって満たされるように、愛情は愛する者の存在によって満たされる。対象喪失とは、欲求を満たす対象が突然目の前から消えてしまうことによって起こるストレスである。家族の死や離散は最も強いストレスをもたらす対象喪失であるが、そのほかにも、資産の喪失や定年退職などによる職場の喪失などもストレスをもたらす。1969年、イギリスのパークスが、54歳以上で配偶者を失った夫または妻が、配偶者の死去から6ヵ月以内に死亡する死亡率は、同じ年代の対照群の人びとに比べて40%も高い、その原因を調べたところ、原因の4分の3は心臓病、とくに心筋梗塞であった。

   愛する人を失い、悲嘆のうちに病いの床について死んでゆく。このことは古くから周知の事実ではあったが、医学的認識が実証されたのは、1970年代になってからである。ストレスとなる出来事は、別表のように、配偶者の死、離婚、配偶者との別れ、拘禁、家族の死、怪我や病気、結婚、退職、昇進、引退、失恋、進学、転校など多数の環境の変化が人に精神的ストレスをもたらす。

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    ここでは「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの例で考えてみる。スカーレットは、恋人アシュレーが、メラニーと結婚してしまうことで、外的対象喪失をおこす。そしてこの悲しみに打ち勝つためにスカーレットは、軽率な結婚を繰り返すが、アシュレーへの思慕の情はつのるばかりである。やがてアシュレーの妻メラニーの死によって、アシュレーを自分のものにできる期待に一瞬胸をおどらすが、亡き妻を慕って悲しむアシュレーを見て、スカーレットは心から絶望する。つまりスカーレットの心に内的な対象喪失(ある種の幻滅感)がおこったのである。(参考:小此木啓吾「対象喪失」)

2008年9月 9日 (火)

カント、カントで半年暮らす

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    ある大学の教授が、ドイツ哲学を専攻する学生が、ここ数年いなくなった、と嘆いていた。哲学科や史学科には学生が集らないという。大学にきちんと文学部があって哲学科や史学科があるところも少なくなっているらしい。ある教授の話によれば、「今どきの流行は国際・情報・環境などで、こういったキーワードで看板を付け替えないと予算が回ってこないという事情がある。民俗学はほとんど消滅しており、史学科も東洋史、西洋史という区分けでの研究が難しくなっている。見栄えのよいラベルと評価受けの良い外向けのメニューは並べ立てられているが、内容は反比例して空疎になっている」とのことである。最近の大学は産業界との連携で、人文社会系より自然科学系、基礎研究より応用・実用研究、教養的教育よりは実習的研究、に片寄る傾向がある。そのほうが公的資金を得られやすいからである。高等教育機関が国家戦略の手先と成り下がった。ヘーゲルの言葉には「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という有名な句があるが、理性的であるためには、まず学問の場の自由な精神文化を回復することが必要であろう。18、19世紀の西洋近代がこれまで築いてきた伝統的な学問を学習、研究する今日的な意義は少しも失われていない。

2008年6月13日 (金)

黒板を背にして

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  「自分の生涯はその前半は、黒板を前にして座した。その後半は、黒板を後にして立った。けっきょく、黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記はつきるのだ」

   満60歳になって、京都大学退職のおり西田幾多郎(1870-1945)はこう語った。西田幾多郎は、明治3年4月19日、石川県河北郡宇ノ気村字森に生まれた。石川県専門学校で、数学の北条時敬(1858-1929)という先生と出会う。北条から数学者になるように勧められるが、哲学を志した。

 一事を考へ終らざれば他事に移らず。

 一書を読了せざれば他書をとらず。

   西田青年の学問への強い決意が、日記に記されている。

2008年5月19日 (月)

東西南北と東南西北

   麻雀の好きな友人がある時、「日本ではふつう東西南北というのに、中国ではどうして東南西北(ドンナンシーペイ)というのか」と聞く。考えてみれば、東西南北は東西と南北という対立概念を組み合わせた表現である。それに対して、東→南→西→北と時計の針の回転と同じ順序に従った並べ方である。日本ではかなり古くから東西南北という言い方をして来たらしい。菅原道真の漢詩「舟行五事」の起句に見える。中国でも、東西南北という言い方は、「春秋左氏伝」(襄公29年の条)に見える。古くから東西南北という語は存在していたものの、中国で一般的に東南西北という言い方に変わったのは、五行説が民間に定着したことと関連するらしい。

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   人の生活の基本として、1年は春夏秋冬の四季に分けられる。五行説によると、この世界の森羅万象すべての事象は、木火土金水の五元素の輪廻・作用が循環して生ずると説明づけられる。つまり、五元素を方角に配置すると、東に木、南に火、中央に土、西に金、北に水を当てる。さらにこれを1年の季節に当てはめるると、東は春、南は夏、西は秋、北は冬となる。

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    かくて四季の循環が東南西北の順序と合致する。木火土金水は宇宙間の万象を象徴するものであるので、下の「五行配当表」を参照されたい。

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(引用文献:一海知義「東西南北と東南西北」図書、第655号、吉野裕子「五行循環」「陰陽五行と日本の民俗」)

2008年4月12日 (土)

三木清の龍野中学時代

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    三木清(1895-1945)は、龍野市揖西町小神の裕福な農家に生まれた。龍野中学時代は反抗と懐疑に駆り立てられていた。多趣味で何にでも首を突っ込み、友達にもめぐまれた。この頃、必要もないのに月に1回は徹夜して読書することに決めていたという。軍人と商人以外のあらゆる種類の人間になることを空想し、中でも文学では頽廃主義や自然主義の流行に追随し、戯曲、小説、短歌、批評などすべての文学のジャンルに手を染めていった。けれども、国語教師の寺田喜治郎は三木に徳富蘆花の『自然と人生』を副読本として与えた。寺田はこの本の字句の解釈などはしないで繰り返し読むように命じ、蘆花のもっていたヒューマニズムが、知らず識らずの間に三木の内面で育っていった。

    三木清は京都帝国大学2年を終えた夏、知的生活の目覚めから22歳までの精神の遍歴を「語れざる哲学」として綴った。

私が知恵によって目覚まされてから後いくばくもなく私の懐疑が始まった。私の意識された知的生活の殆ど最初の日から、私は学校や教師をあまり信用しなかったし、またそれから教えられる道徳に大した権威をおくこともできなかった。私は悪戯好きで反抗的な子供であった。教室ではわき見をしたり、隣の生徒に相手になったり、落書きばかりしていた。けれども成績の良い子供であるという教師たちの評判が私を妙に臆病にさせた。中学時代になってからは権威に対する懐疑と反抗と自己の力を示したいという虚栄心とから私は体操の教師と衝突し、文芸部の主任に反対し、校長に対してまで反抗した。その頃私は弁論の練習をしながら大政治家になろうという空漠な野心に燃えていたのだった。伝統や証権に対する懐疑が悪いことであるとは私は決して信じない。懐疑が悪いこととして否定されなければならない場合はいつでも、第一にその懐疑が徹底していないとき、第二にその懐疑の動機が正しくないときである。懐疑主義者と自称する世の多くの人々と同様に、私も徹頭徹尾懐疑的でなかった。学校や教師を信じなかった私は書物や雑誌を信じた。そして書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽くて書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として謗られる恐れがあったので、私は主として虚栄心のためあるいはパンのために書かれた一夜仕込の断片的な思想を受け容れた。なんでも新しいものは真理であると考えられるような時代が私にもあった私はいわば犬の智恵をもって人間の智恵を疑ったのである。私は少しでも異なったことをいう人の名をなるべく多く記憶したり、ちょっとでも新しいことを書いた書物の題をなるべくたくさんに暗記したり、ただそれだけでいわゆる旧思想が完全に破壊され得ると考えていたらしい。(引用文献:三木清「語られざる哲学」講談社学術文庫)

2008年3月27日 (木)

ソクラテスの死

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                  プラトン

    プラトン(前427-前347)がソクラテス(前470頃-前399)に出会ったのは、ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」によればプラトン20歳、ソクラテス56歳、前407年と推定している。一説によると、プラトンの兄のアディマントスかグラウコンがソクラテスと親しかったからといわれる。ともかく、プラトンは以後8年間ソクラテスの弟子となる。その後ソクラテスは前399年、死刑となるが、その時、プラトンは28歳だった。ソクラテスの死は、プラトンにとって哲学の原点となった。

    ソクラテスの死後、プラトンは他の人々とともに、メガラのエウクレイデスのところに一時身を寄せたほか、キュレネやエジプトに旅をしたと伝えられている。この頃、亡きソクラテスを主人公とする対話篇を書きはじめた。「政治家が哲学するか、哲学者が政治をするようにならないかぎり、人類は不幸から救われないであろう」(『国家』)というプラトンの政治哲学が生まれた。

2007年11月11日 (日)

死に至る病

    セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813年5月5日生。1855年11月11日没)は父ミカエル・ペーダーゼン・キルケゴールと母アンネ・セーレンスダッター・ルンとの間の7番目の末子としてコペンハーゲンに生まれた。父は実業家であったが、宗教的苦悩を内に秘めた人であり、キルケゴールは、この父の影響を受けて憂愁な性格と罪の意識が強かった。「私は生まれたときから老人であった」と自らの幼児期を追想している。

    キルケゴールは、コペンハーゲン大学を出て、ベルリン大学に学ぶ。生涯定職につかず、父の遺産によって生活し、著作生活を送った。

    1849年、アンティ・クリマックスという偽名を用い、「死に至る病」を著わす。第一編「死に至る病とは絶望である」第二編「絶望は罪である」。キルケゴールは、現代人は深刻な精神の病気にとりつかれていると洞察する。「絶望するものは、絶望して自己自身であろうと欲する。しかし、もし彼が絶望して自己自身であろうと欲するのなら、彼は自己自身から抜け出すことを欲していないのではないか。たしかに、一見そう思われる。しかし、もっとよく見てみると、結局この矛盾は同じものであることがわかるのである。絶望者は絶望してあろうと欲する自己は、彼がそれである自己ではない。すなわち、彼は彼の自己を、それを措定した力から引き離そうと欲しているものである。しかしそれは、どれほど絶望したところで、彼にはできないことである。絶望がどれほど全力をつくしても、あの力のほうが強いのであって、彼がそれであろうと欲しない自己であるように、彼に強いるのである。しかし、それにもかかわらず、彼はあくまでも自己自身から、彼がそれである自己から、脱け出して、彼が見つけ出した自己であろうとする。彼の欲するような自己であるということは、それがたとえ別の意味では同じように絶望していることであろうとも、彼の最大の喜びであろう」

    1837年、キルケゴールは、24歳のときレギーネ・オルセンという少女に出会い、3年後に婚約した。しかし、翌年8月、彼はこの婚約を理由も告げず一方的に破棄した。これは彼の生涯を決定した最大の出来事であった。他人の運命を支配することになる結婚へのおそれからである。5年後レギーネは他の人と結婚したが、キルケゴールは終生レギーネを愛し、独身で過ごした。レギーネは夫と西印度諸島へ赴任する直前、彼に通りすがりに会釈した。キルケゴールは話しもせずに行き過ぎてしまった。これが2人の最後の別れだった。彼はその年の10月2日、街路上で昏倒し、11月11日、42歳の若さで死亡した。

2007年7月24日 (火)

ニーチェの失恋

   フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェ(1844-1900)。彼は代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」でキリスト教を激しく攻撃し、超人と永劫回帰の思想を中心に独自の形而上学を樹立した。

   1881年、37歳のニーチェは7月からスイスのシルス・マリアの別荘で過ごしていた。8月のある日、シルヴァプラナ湖畔の森の中を散歩中に、山道のそばの巨大な尖った三角岩のほとりで、永劫回帰の思想が突然かれに来襲するという体験をした。

   1882年4月、ニーチェは、友人の哲学者パウル・レー(1849-1901)の招きでローマへ行った。サンピエトロ寺院の側廊でニーチェは、21歳のロシア人女性ルー・サロメ(1861-1937)と出会う。若くて知的で旧弊な道徳に囚われない自由な精神のサロメにニーチェは心を奪われる。ニーチェとレーとサロメの3人は、イタリア北部で楽しいひと夏を過ごす。2人の男性はサロメに求婚するが、すげなく断わられる。失恋をしたニーチェは、1883年2月、ラバロにおいて、10日間で「ツァラトゥストラはかく語りき」の第一部を書き上げた。ニーチェはもう二度と恋をすることはなかった。

2007年2月10日 (土)

ヘーゲルとシェリング

    フリードリッヒ・ヘーゲル(1770-1831)。カントにはじまり、フィヒテ、シェリングにうけつがれたドイツ観念論哲学はヘーゲルによって完成されたといわれる。近代的精神の総決算をした人であり、ギリシア的理性(ヘレニズム)とキリスト教の精神(ヘブライズム)とを融合・統一したといわれている。またヘーゲルは、弁証法という論理を確立した人としても有名である。しかし一口にいってヘーゲルの哲学や著書はまことに難解である。ここではヘーゲル第一歩、ヘーゲルの第一著書の「精神現象学」を公刊したときのエピソードを紹介する。

   ヘーゲルが大学卒業後、7年間の家庭教師時代を経てシェリング(1775-1854)の世話でようやくイエナ大学に就職できたのは31歳の時であった。1801年1月、当時のドイツ哲学の中心地であるイエナにフランクフルトから移り住んだ。この地では、年下のシェリングが、無神論論争らよって大学を去ったフィヒテの後任として、すでに教授の地位についていた。そのころ、イエナには、シラー、シュレーゲル兄弟がおり、哲学者シェリングをも含めて、それぞれ活躍していた。ヘーゲルは7月に「フィヒテとシェリングの哲学体系の相違」を公にして、シェリングと同一の立場(汎神論的傾向)からフィヒテを批判した。しかし1807年4月に刊行した最初の主著「精神現象学」によって2人の決別は明らかとなった。この書の中で、ヘーゲルは、スピノザ、カント、フィヒテ、シェリングの哲学を痛烈に批判して自己自身の立場を宣言するのである。シェリングの絶対者についての考え方をそのなかにおいては、牛が黒くなる闇夜のごときものであるといって皮肉ったのはよく知られている。シェリングのもとにもこの本が送られてきたが、シェリングは序論しか読まなかったと伝えられる。

2006年10月21日 (土)

清水幾太郎について

   清水幾太郎(1907-88)は、60年安保闘争の指導者として活躍し、その後、防衛力の増強を主張するなど思想的立場を急速に転換した戦後知識人しとて知られる。評論家の大宅壮一が「平和論の神様」と評した人物が、後年「天皇論」で天皇を擁護し、「戦後の教育について」で教育勅語を再評価し、「わが人生の断片」では基地反対運動や安保闘争の内幕を語り、果ては「戦後を疑う」で治安維持法を弁護し、ついに「核の選択 日本よ国家たれ」(諸君 昭和55年7月号)で核武装の可能性を含む軍事力増強論を唱えるに至っている。もちろんケペルは肯定しているわけでも、支持しているわけでもないのだが、今日ですらタブーとされる問題を、昭和55年に論じていることにただ驚くばかりだ。清水の先見性は安保後の昭和40年代にすでに見えていた。まだ国内ではマルクス主義が知識人の間で有効性をたもっていた時代に「現代思想」(昭和41年)で19世紀思想の崩壊を予想しており、続く「倫理学ノート」(昭和47年)において「人間の幸福」という問題が科学の外部に排除されていることを指摘している。格差社会やニートという言葉はなかったが、これらの社会問題はすべて今日的な最も重要課題であろう。ただ清水の思想の急転回には、ケペルなどの凡人にはとてもついていけないところがあり、清水を転向者として軽蔑していた時期がある。しかし、死後20年近くたってくると、その膨大な著作である「清水幾太郎全集」全19巻を少しは読んでみようという気になりだした昨今である。清水の長所はすぐれた社会学者であり、ジャーナリストであるというこの二面性を備えた稀なライターだということである。昭和24年9月4日号の「週刊朝日」の「顔」というコラムで清水を次のように紹介している。

   清水幾太郎は批評のうまい人で、どんな問題についても人とはちょっと変わった角度から光線をあてて照らしてみせる。(中略)アイデアがいいと言ってもよいし、思いつきが器用だといってもよい。思想的にはプラグマティズム。学識もあるし、視野も広いし、才人でもあり才筆家でもある。専攻は社会学だが、哲学もわかる。物の見方にソツがなく、広く高く物を見る人なので、ジャーナリズムが放っておくわけがない。ジャーナリズムにはもってこいの便利な社会評論家である。高級総合雑誌の巻頭論文などにはウツテツケの筆者である。

    誰がこの記事を書いたかわからないが、すでにこの時から清水の本質を見抜いているように思える。

2006年10月 9日 (月)

ジョン・ロックの「人間知性論」

知性の研究は楽しく有益

    およそ人間を人間以外の感覚できる存在者の上に置いて、あらゆる点ですぐれさせ、支配させるものは知性であるから、知性はまさにその貴さから言って絶対確実に、研究の労に値する主題である。この知性は目に似て、私たちに他のあらゆる物ごとを見させ、知覚させながら、自分自身にはいっこうに注意しない。そこで、知性をある距離に置いて、知性自身の対象とするには技術と努力がいる。

    とはいえ、この研究途上に横たわる困難がなんであれ、私たちを自分自身にこれほどひどくわからなくさせておくものがなんであれ、確かに、私たちが自分自身の心を照らしだせる灯火はすべて、自分自身の知性について識ることのできるものはすべて、非常に楽しいだけでなく、他のものごとの探求に当たって私たちの思惟を導くうえに大きな利益をもたらすだろう。(「世界の名著 27 ロック ヒューム」大槻春彦訳)

2006年10月 3日 (火)

.ルソーと中江兆民

   中江兆民(1847-1901)は、「東洋のルソー」と呼ばれたように、ルソーの紹介者として知られている。億兆の民の意味で、庶民を表わす兆民を号につかった。土佐で漢学、長崎・江戸でフランス語を学び、明治4年から7年までフランスに留学した。パリ・コミューン直後のパリで政治学者アコラス(1820-91)に学ぶ。中江は18世紀の啓蒙思想家に目をむけ、とくにルソーにつよい関心をもった。彼は、ルソーと同じく、長いあいだ封建的隷属に馴れて、人権の観念など夢想だにしなかった民衆の目をひらくことに努力した。彼の奇言奇行は多く、封建的偏見に対する風刺であり、反抗であった。明治15年、ルソーの「社会契約論」の漢訳・解説した「民約訳解」を著わし、大成功を収めた。民権運動時代の政治青年、たとえば植木枝盛、大井憲太郎たちのバイブルとなった。

    彼の「民約訳解」は原著の半分にも満たなかったが、当時の日本の状況からみて、必要にして十分な箇所、すなわち人民主権、直接民主政の理論の部分であった。門人には幸徳秋水、酒井雄三郎ら、日本の初期社会主義者が出ている。

2006年8月29日 (火)

日本的風土と和辻哲郎

   和辻哲郎(1889-1960)は、大正・昭和戦前期・戦後期と日本を代表する倫理学者である。ところが彼の代表作『風土(人間的考察)』はいまだ名著の誉れ高いが、学術書としてはかなり怪しげなシロモノである。勝ち組の知識人が辿った軌跡をみると、国策に便乗した学者の悲喜劇がみえてくる。

   ニーチェの研究と漱石の門下生ということで売り出した和辻は、日本回帰を図り、大正8年『古寺巡礼』、大正9年『日本古代文化』と相次いで著作を出し、学界に注目された。そして昭和元年『日本精神史研究』、昭和2年『原始仏教の実践哲学』などユニークな文化史的著作を次々刊行した。のちドイツへ留学、帰国後の昭和10年『風土』を著した。和辻は人間の歴史的・風土的特殊構造をモンスーン、砂漠、牧場と三つの類型に区分している。第一のモンスーンは日本であり、第二の砂漠はアラビア・アフリカ・蒙古であり、第三はヨーロッパである。これらの発想は、和辻がヨーロッパへ旅行したときの船旅の寄港地の印象と、ヨーロッパ内の旅行の印象をもとにしてできあがったものである。中尾佐助は「もしかれが華北の黄土地帯の果てしない小麦畑を旅行し、またシベリアの森林の中を何ヶ月も馬車で旅行していたら全く違ったものになっただろう」(「分類の論理」)と指摘している。当時、東大教授であった和辻は、有名なケッペンの気候区分も人文地理学も何も知らずに、彼の狭いヨーロッパ紀行漫録ともいうべき世界風土論や日本人論をでっちあげている。この面白い珍妙な体系には実は戦後の後日譚がある。というのは和辻の戦後の代表作である『倫理学』の戦後巻には、前記の三区分にプラスして「アメリカ的風土」と「ロシア的風土」がつけ加えられているからである。戦時中のかれの歴史観には、戦後世界の覇権者が米・ソである、という予感すらもない。こうして「君子は豹変する」の喩えどおり、日本の代表的知識人たちは変節して勝ち組になったのである。

2006年8月19日 (土)

和辻哲郎と夏目漱石とニーチェ

   和辻哲郎(1889-1960)は、大正2年、最初の著書『ニーチェ研究』を刊行、その直前に夏目漱石に手紙を書き送ったが、その夜偶然に帝国劇場で漱石にあう。漱石よりあたたかい返事をもらい、漱石山房を訪れる。

   その後、和辻は、古代日本に「ディオニュソス的なもの」を見いだして美的な日本回帰を遂げ、『古寺巡礼』(大正8年)によって古代ブームを巻き起こした。大正14年には京都帝国大学に就職し、昭和2年にはヨーロッパに留学して、その際の船旅の途上における直感的な観察は、その後『風土』(昭和10年)として結実した。また、近代ヨーロッパの自己完結的な倫理学を構想して、『人間の学としての倫理学』(昭和9年)以降の著作で展開したが、それは彼が嫌がっていた「国民道徳」や京都学派の「世界史的立場」ないしは「近代の超克」の論理にも通ずる滅私奉公的倫理観も準備するものであった。

   和辻は昭和9年に東京帝国大学倫理学科教授となり、『倫理学』(昭和12年-24年)では、ヘーゲルの体系を模索した構成の中で「自我」の滅却による和の倫理を家族国家観と接合させた。ここでも『ニーチェ研究』における意識的な「自我」の克服による宇宙的な「自己」への解脱という図式は見事に一貫している。戦後、『倫理学』を改訂して国家を超える国際法の次元を取り入れることで国家主義を是正する方途を探り、『鎖国』(昭和25年)で近世の日本の閉鎖性を批判した。

2006年8月 5日 (土)

ニーチェとローデと『悲劇の誕生』

    ニーチェの最も親しい友人の一人であったエルヴィーン・ローデ(Erwin Rohde 1845-98)は、後にイェーナ大学、ハイデルベルク大学などの教授を歴任したギリシア宗教史の研究家である。

    ニーチェの処女作『悲劇の誕生』は、1872年1月に刊行されたが、その評判は悪かった。ニーチェの師でさえ、日記に「ニーチェの本、悲劇の誕生(才気走った酔っ払い)」と記したほどで、学界からしばらくは完全な黙殺状態が続いた。

    1872年6月、ヴィーラモーヴィッツ・メレンドルフは、ニーチェの卒業した高等学校プフォルタ学園の後輩で、「ニーチェ殿、貴君は母校プフォルタに何という恥をかかせたのだ」という『悲劇の誕生』に対する攻撃文で始まる「未来の文献学」というパンフレットを書いて、ニーチェの誤謬を詳しく論駁した。

    1872年10月、このメレンドルフの攻撃に対して、『似非文献学』というパンフレットで擁護のための論陣を張ったのが友人のローデである。次の一文が、ニーチェおよびローデのギリシア観の核心が何処にあったかをよく物語っている。

    「しかしもし美に耳を傾ける者すべてによって感じ取られた神話的悲劇のディオニュソス的真実を言葉、すなわち概念によって示唆することさえも困難であり、究明することなど不可能だとすれば、その理由は、ここで世界の最も深い秘密があらゆる理性やその表現であるふつうの言語よりはるかに高次な言語によって語られているからである。」

    ともかくニーチェは処女作の不評によって、スイスのバーゼル大学の冬学期には文献学専攻学生の聴講皆無となった。しかしこうした『悲劇の誕生』の悲劇的反響にもかかわらず、現在『悲劇の誕生』はニーチェの代表作の一つといわれている。ギリシア文献学とワーグナー芸術とショーペンハウアー哲学が基本的要素であるが、ニーチェの個性的思想と文明批評があり、一種の「魔女の飲み物」といわれるような刺激的な書物である。後世の芸術家に与えた影響は大きく、たとえば朝日新聞社の「一冊の本」に、画家の岡本太郎や音楽評論家の吉田秀和などは、ともに『悲劇の誕生』を推していることはなど興味深いものがある。

2006年7月17日 (月)

プラトンのイデア論

   イデア(idea) 元来は見えているもの、姿、形の意。プラトンにおいては、理想のみによって把握される事物の本質、価値あるものごとの理想的な形を意味する。感覚でとらえられる個物は完全でないし変化を免れ得ない。これに対し、イデアは非物質的で永遠不変な真実の実在と考えられる。たとえば現実のうつろいゆく美しいものに対して、美のイデアとはそれを美たらしめている美そのもののことである。また現象界の個物はイデアの模像であり、イデアを分有すると説かれる。

    プラトンは真の実在を感性でとらえ、現実の世界の個物には求めず、理性でのみとらえられる普遍的な本質、すなわちイデア論を展開した。このように現実の世界よりもイデアの世界を重視するプラトンの理想主義的な傾向はプラトン主義とも呼ばれて、後世に大きな影響を与えた。

2006年7月 6日 (木)

マルクス『告白』より

カール・マルクス(1818~1883)。これはマルクスの娘が出した問いに答えたものである。

あなたのすきな徳行は             質朴

あなたのすきな男性の徳行は         強さ

あなたのすきな女性の徳行は         弱さ

あなたの主要性質                 ひたむき

あなたの幸福観              たたかうこと

あなたの不幸観                        屈従

あなたがいちばんきらう悪徳         卑屈

すきな仕事             本食い虫になること

すきな格言 非人間的なものは私の関知しないところである

すきな標語                 すべてをうたがえ

2006年6月25日 (日)

タレスの金儲け

   ある人が学者のタレスの貧乏なことをあざけって、学問などは人生に無用だと言った。するとタレスは天文の知識により、冬の間にその年の秋にオリーブは豊作だと予見し、余り金をはたいてミレトス一帯のオリーブ搾り器を安い値で全部借りてしまった。秋が来て、搾油器がなくてうろたえた人たちにかれは高い値でまた貸ししてたちまち財産をつくった。

   この話を伝えたアリストテレスはこうつけ加えている。「学者は、なろうと思えば金持ちになれる。しかし学者の目的は別にあることをタレスは世間に教えたのである」と記している。(参考:村川堅太郎『世界の歴史2』)

2006年6月23日 (金)

カント 時計よりも正確

   哲学者カントは、その一生のほとんどをケーニヒスベルクという町で暮らし、毎日規則正しい日常生活を送っていた。彼の起床は5時、就寝は10時と定まっていた。下男のランベは5時15分前に、ベッドのそぱへ行ってカントを起す。前日どんなに夜ふかしをした朝でも、彼はこの声で飛び起きた。

   「ランベよ、お前と30年も暮らしてきたが、1日でも、2度も3度も私を起こさねばならなかったことはあるまい」と自慢していた。

    詩人ハイネの話によれば、カントはいつも午後に散歩をしたが、その時刻は1分とちがわなかった。それで町の人々は、時々とまったりする大通りの時計を当てにできず、彼の通る姿を見て、めいめいの時計を合わせた。(参考:西元篤『逸話365日』創元社 1958)

2006年6月19日 (月)

樽の中の哲学者

   アレクサンダー大王がギリシアを征服してコリントにやって来た。大勢の有力者たちがごきげんをうかがいにやって来たが、有名な哲学者のデイオゲネスはやって来なかった。そこで大王はみずから会いに行った。ディオゲネスは横になって日向ぼっこをしていた。大王は哲学者のそばにあゆみ寄って名のった。「余は大王アレクサンダーであるぞ」すると哲学者も名のった。「余はディオゲネスであるぞ」大王はあきれてきいた。「私を恐れないのか」「善いお人か」「そうだ」「善い人を恐れる必要はない」大王はかさねて言った。「私に何かしてもらいたいことはないか」「そこをどいて下さい。日向ぼっこの影になる」

   大王は何ものにも恐れない哲学者に、すっかり感心して、「私はもしアレクサンダーでなかったら、ディオゲネスになりたい」と言ったという。

ソクラテスの妻クサンチッペ

   ソクラテスの妻クサンチッペは、悪妻として知られている。ある青年に結婚について聞かれたソクラテスは、

「そりゃあ、したほうがいいね。うまくいきゃ幸せになるし、失敗すれば、私のように哲学者になれる」と答えたという。

泉に落ちた哲学者

   古代ギリシアのイオニア学派の自然哲学者タレスには次のような逸話がある。

   タレスは、空をふり仰いで、星をいっしょうけんめいに見ていたために、足もとの泉に気がつかず、落ちてしまった。それを見ていたトラキア生まれの女奴隷に、「ご主人さまは空のことにはたいへんご熱心ですが、鼻先や足もとのことには、ぜんぜんお気づきになりませんね」と笑われたという。