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2009年10月10日 (土)

ワニ・サメ論争

    古事記「因幡の白兎」に登場する「ワニ」を白鳥庫吉は、「あのワニはクロコダイルやアリゲーターのような鰐ではない。あれは鮫だ」と説いた。(「和邇考」)これに対して、ほかの学者からは、ワニが日本に漂着する可能性があり、気候に恵まれて繁殖していた、という。またワニが並んで伏しているというのはワニによくある生態で、鮫にはできない。つまり因幡の白兎に登場するワニはクロコダイルであって鮫や鱶ではない。この説話が南方説話の証拠だという。しかし、南方熊楠は「十二支考」で巳の年で白鳥説を支持している。白鳥の弟子の津田左右吉は海蛇であるという。このワニサメ論争は現在も明らかではない。

2009年8月21日 (金)

青衣の女人

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  鎌倉時代のある時のこと、集慶というお坊さんが東大寺の修二会(三月に行われる厳しい行法)で、過去帳を読み上げていると、青い衣を着けた美しい女の人がすうっと闇の中から現れた。そして、いかにも恨めしそうな細い声で「どうして、私の名前を呼んでくださらないのですか」と言った。女人禁制の場所に、このような女の人が現われるわけがない。集慶は余りのことに幻かと自分の眼を疑った。集慶は咄嗟に低い声で、「青衣の女人」と読み上げた。すると、美しい女人は、いかにも満足したように微笑をうかべて、闇の中へ消えていった。修二会の「東大寺上院修中過去帳」には、この名も分からない「青衣の女人」の名が加えられ今もなお読み継がれているという。

2009年8月17日 (月)

貝の中の美女

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   波に向かって叫んでみても

   もう帰らないあの夏の日

 ある日、若者が浜辺で大きな貝殻を手に入れた。あまりに大きくて珍しいので、家に持って帰って、甕の中にしまって置いた。するとその後は、若者が野良から帰って来るたびに、家の中がちゃんと片づいていて、火がおこって、湯が沸いて、食事の用意ができているのであった。

  「一体どうしたというんだろう。わしの家には、わしの他に誰もいないのに、留守の間に、食事の支度ができているなんて、いかにも合点がゆかぬ。よし、ことの次第を見届けてやろう」

  彼はこう思ったので、ある日いつものように野良に出かけて行くふりをして、そっと引き返した。そして外からひそかに様子をうかがっていると、やがて甕の中から1人の麗しい少女が現れて来た。

  「おやっ、変なところから、少女が現れたな。あの甕の中には、いつぞやの海から拾って来たおおきな貝が入っているだけだと思っていたのに」と、なおも様子を見ていると、少女はかいがいしく煮炊を始めて、やがてすっかり食物を用意してしまった。若者はいきなり家の中に駆け込んで、驚く少女に、「あなたは一体誰です。どうしてわたしの家に来て、食事の世話をしてくれるのです」と尋ねた。

   少女はにこりと笑って、「わたしは天の河の白水素女です。天帝があなたが独身で、貧しくて、そして気立てのよいのを哀れんで、わたしをやってあなたのお世話をおさせになったのです」と答えた。

   若者はこれを聞くと、「それはどうもかたじけないことです。いつまでもわたしの家に留まって下さい」と言った。

   少女は頭をふって、「それは駄目です。わたしはあなたのために好いお嫁さんを捜し出して、それから天の河に還るつもりでしたが、あなたがわたしのことを怪しんで、時ならぬ時に現われていらっしゃったから、わたしはもうこの家に留まることができなくなりました。ここにまだ貯えのお米が残っています。これを置いて行きますから、どうかお使い下さい。決して米には不自由をなさらぬでしょう」と言った。と思うと、風が吹き雨が降り出して、少女の姿が見えなくなった。(「捜神記」)

2009年8月 1日 (土)

ひれふりの嶺

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   佐賀県松浦の地方は、魏志倭人伝にも「末廬」と見えて、はやくから大陸文化と関わりの深いところである。唐津は大陸にわたる要港であった。宣化天皇のむかし(6世紀前半)新羅攻撃に向かう青年・大伴狭手彦が土地の長者の娘である松浦佐用姫と恋をした。しかし、やがて狭手彦は再会を約し、哀惜の情を1枚の鏡に託して航路についた。佐用姫は別れ易く、会うことの難いことを嘆いて、鏡山(唐津市)に登り領巾(ひれ、婦人の肩にかける布)を振って船を招いたので、その山を「ひれふりの嶺」と名づけたという伝説が残されている。さらに後日譚として、佐用姫は船を追い、松浦川を渡り、加部島の丘に果てた。七日七晩泣き続け、ついに石に化したという。

    この松浦佐用姫伝説は、万葉の歌人たちにも数多く詠まれている。

遠つ人松浦佐用比売つま恋ひに  頒巾振りしより負へる山の名 山上憶良(巻5-871)

行く船を帰れとか 頒巾振らしけむ松浦佐用比売 大伴旅人(巻5-874)

行く船を振り留みかね如何ばかり 恋しくありけむ松浦佐用比売 大伴旅人(巻5-875)

2008年8月31日 (日)

醒睡笑にみる赤塚ギャグ

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「醒睡笑」にこんな笑話がある。

    小僧がいた。夜が更けてから長い竿を持って、庭をあちらこちらと振り回っている。坊主がこれを見つけて、「おまえは何をしているのか」と問う。すると小僧は「空の星がほしくて、落とそうとするのだけれど落ちません」と言う。そこで坊主は゛いやどうも愚かなやつだ。そのように考えが足りなくてはうまくいくはずがない。星には庭からでは竿がとどくまい。屋根へ上がれ」と言う。お弟子の小僧はともかくといたしまして、先生の教えはありがたいいいことを教えてくれるものだ。

   これを読むと、つい「これでいいのだ~」と納得する。まさしく「天才バカボン」赤塚不二夫ワールドがそこにある。「醒睡笑」は、元和9年(1623)に成立した。安楽庵策伝という僧が編集した笑話集で、話は42項に分類され、その分類は落語の分類にも適用されている。全8巻で、千余話が収録されている。(参考文献:速水博司「中学国語の基本事項・古典作文編」駿台文庫)

2008年8月 8日 (金)

月夜のうさぎ

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   最近ではあまり使われないが、「烏兎怱々(うとそうそう)」という言葉があるが、「月に兎が住んでいる」という話は中国では随分と古くからある。太陽には三本足の鳥が、月には兎が住むとされ、烏兎(うと)は太陽と月のことで、「烏兎怱々」とは、歳月があわただしく過ぎ去ることをいう。

   古書によれば、張衡の「霊憲」に「月は陰精の宗、積みて獣となり、兎蛤(うさぎとはまぐり)に象る」とある。傳元の「擬天問」に「月中何か有る。白兎薬を搗く」とあり、「古怨歌」に「煢煢たる白兎、東に走り西に顧る」とある。「五経正義」に「月中に兎有り、蟾蜍有るは何ぞ。月の陰なり」とある。蟾蜍はひきがえる。漢代の瓦当の文様に、この二者が同居している図がある。月が不死であるのは、霊徳があると信じ、その月中に兎がいるのも、兎に宜しい所があってのことと思われていたのであろう。「楚辞」天問第1段にも、次のような詩がある。

 夜光何の徳ぞ

 死すれば則ちまた育す

 厥の利維れ何ぞ

 而して顧莵腹に在り

(月には何の徳があるのか。死んではまた生まれる。何の宜い事があって、顧莵(うさぎ)は月の中にいるのだろう。)

今夜の北京オリンピック開会式。月から兎が眺めているだろうか。

2008年7月 6日 (日)

猿のお尻はなぜ赤い

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   むかしもとんとあったげな。カニが浜辺へいって、柿の種を拾うてきました。家へ持って帰って、裏の畑へ植えておきました。カニは毎日水をやって、「早う、はえんとちめるぞ」と言いました。すると柿の木がはえてきました。こんどは、「早う、大きんならんとちめるぞ」と言いました。すると見ているうちに大木となりました。するとこんどは、「早う、ならんとちめるぞ」と言いました。すると実がなりました。そこでカニは、「早う、うれんとちめるぞ」と言いますと、柿の実はよくうれていました。猿は、カニのところに柿の実がなっているのを知りました。そこでカニのところへ来て、「カニよ、カニよ、ちぎってやろか」と言いました。そこでカニは猿にちぎってもらうことにしました。ところが猿はちぎってくれるどころか、木の上へのぼって、かたっぱしから取ってしまいます。そうして青いうれていない実を投げてくれました。カニは腹を立てましたが、どうにもこうにもしようがないので困っていました。猿は持ってきた袋に実をいっぱいとって、まだその上にいくらでもちぎります。そこでカニは木の下から、「猿よ、猿よ、もっと枝のさきに袋をかけよ」と言いました。そうして枝のはしに袋をかけさせてから、カニは、「西の風よ、ぷいと吹け。東の風よ、ぷいと吹け」と言いました。すると東からも西からも風が吹いてきて、枝のさきが折れ、実のはいった袋が落ちてきました。そこでカニはこぼれ出た実をとって自分の穴の中へひきずりこみました。「カニよ、早う出て来い」と言いましたが、カニは穴の中で柿をかじっていました。そこで猿は、「カニよ、出て来んなら、小便をながしこむぞ」と言いましたが、カニは相手にしません。猿はそこで小便を流しこみました。それでもカニは平気でいますから、こんどは、「カニよ、出て来んなら、糞をひりこむぞ」と言いましたが、やっぱり相手にしません。そこで猿はおこって、ばばをひりこもうとしますと、カニがおこって猿のお尻をちめきりました。猿のお尻は、その時から赤くなったと言います。(讃岐・志々島の民話)

2008年5月31日 (土)

釣りと少年

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    胡基明による児童画「小粗心釣魚」である。(1985年6月号『児童画報』に掲載)一般的に現代中国の児童画は、動物たちを擬人化したものが多く、素朴で可愛らしい絵柄のものを具現化しているのが特徴である。そして日本の「赤い鳥」に代表されるような大正期の童心主義的な傾向がみられる。

2007年7月 8日 (日)

姚安

    臨洮の姚安は美男だった。同郷に、緑娥という娘がいた。美しいし、それに賢かったが、相手を選んで、なかなか嫁にゆかない。

「門閥や風采が姚さんのようだったら、あたし結婚するわよ」といつも人にいうのだった。

   姚はそれを聞くと妻をだまして、井戸をのぞかせ、後からつきおとして殺してしまった。そして緑蛾を娶った。

   溺愛したが、緑娥があまりにも美しいので、安はたえず浮気をしているのではないかと疑っていた。女が外出すると後をつけた。女は気持ちを悪くして言った。「あたしがもし逢いびきしていたら、そんなにこせこせしたって、とめられないわ」

    ある日、姚が外から帰ってきて、寝室をみると、貂の帽子をかぶった一人の男がベットの上で寝ていた。姚は怒って刀を取り、力まかせに斬りつけた。そして近づいてよく見ると、女が寒さのため、貂の皮を覆い、昼寝をしていたのだった。姚はひどく驚き悔やんだが、あとのまつりだった。

   あるとき姚が独りで坐っていると、髯のはえた男となれなれしく話している女の姿が見えた。憎くてたまらなかったので、刀をもってそばに行くと、消えてしまった。元の場所に返ってきて坐るとまた見えるのである。姚はひどく怒って、刀を振り回して、あたりを斬りつけた。すると女が姚を見て笑うので、たちどころに首を斬った。やがてまた坐ると、女はもとのところで、もとのように笑っていた。

   夜、灯(あかり)を消すと、言いようのない厭な声がする。毎日そんなで、それはとても耐えられないものだったので、姚は田畑や邸宅を売って引っ越した。まもなく、泥棒に大金を盗まれて、錐の先ほどの土地もない貧乏人になり、くやみ死(じに)をしたそうである。(「聊斎志異」)

2007年7月 1日 (日)

金の卵を産むめんどり

   貪欲は一切を得ようとして一切を失う。このことの証明に、わたしはいま、寓話の言い伝える、日々、金の卵を一つ産むめんどりを持った男のことだけを語りたい。

   彼は、めんどりの腹の中には金塊があるに違いないと思った。そこで腹を裂いてみた。しかし、腹の中には金塊などなかった。こうして、一挙に、最も立派な財産を自ら捨てることになった。

   これは、けちな連中へのよい教え。早く金持ちになろうと、焦るあまりに一夜明ければ乞食となりさがる。近頃、こうした連中のいかに多くいることか。(「ラ・フォンテーヌの寓話」)

2007年6月26日 (火)

老人と三人の若者

   80歳にもなる老人が、果物の木の苗を植えていた。隣の三人の若者が笑っていった。「おじいさん。そんなことをして、なんになるというんです。働き損ということになりはしませんかね。そんな遠い未来のことに心をくばるより、過ぎ去った昔のことなど思いだして、のんびり暮らしたほうが、いいのではありませんか」「そういい切ることができますかね。命というものはほんとうにはかないものです。もちろん、わたしはこの木が実をつけるまで、生きてはいないでしょう。けれども、わたしの孫たちは、この木の葉陰で遊び、この木の実を食べることができるでしょう。仕事をしているという、そのことが喜びなのです」

   老人の言葉は正しかった。若者のひとりは、成功しようと考えてアメリカ行きの船に乗った。しかしその船はあらしにあって沈没し、若者は死んだ。

   二番目の若者は、えらい軍人になろうとして、戦地に行った。そして手柄をあせって、激しい戦いのなかに飛び出して、戦死してしまった。

   三番目の若者は、木を切っていたとき、高い木のてっぺんから足をふみはずし、まっさかさまに落ちて死んでしまった。

   「人の命は、神さまだけにしかわからないものだ」老人は、若者たちのお墓にお参りして、涙を流してつぶやいた。(「ラ・フォンテーヌ寓話集」)

2007年6月20日 (水)

呪いのドレス

    ある若い娘がはじめてのダンス・パーティに着るていくドレスがないので、貸衣裳屋で白いイブニングドレスを借りて出席した。パーティもたけなわのとき、娘は気分が悪くなって、控室のソファーで横になっていた。どこからともなく「わたしのドレスを返して…、ドレスを」という女の声がする。その夜おそく、彼女はほとんど虫の息になっているところを発見された。その後、警察の取調べを受けた貸衣裳屋は、そのドレスを葬儀屋から買ったものであることを白状した。数日前に埋葬されたばかりの娘の着ていたドレスだった。

2007年6月 6日 (水)

緑衣女

   科挙試験のために山寺の一室で勉強している若者がいた。本をひらいて読んでいると、女が窓のそとにいて、「ずいぶんご勉強ですわね」とほめるのだった。若者はびっくりして立ち上がってみると、緑色の着物をきて、長い裙(もすそ)をはいた、目のさめるような美人であった。若者は物の怪だろうと思って、どこに住んでいるかをしつこくきいたら、「私が貴方を取って食うような者ではありませんし、やかましくおたづねにならないでください」と女はいった。

   若者はその女が好きになって、泊まっていくように誘った。薄ものの肌着を脱ぐと、腰が細くて、手のひらで抱けるほどであった。夜が明けようとすると女は帰って行った。それからというもの毎夜訪れて来ない夜はなかった。

   ある晩一緒に酒を酌み交わしながら話すうちに、音楽に詳しいことがわかったので、一曲所望すると、ためらっていたが、聞き取れないくらいの小声で歌いだした。

 こずえの鳥、夜なかに鳴いて

 わたしやだまされて帰って来たよ

 靴のぬれるはいといはせぬが

 別れた貴方が懐かしい

   その声は蜂のように細くてやっと聞きとることができた。歌い終わって「誰かに聞かれたかしら?」といって、外へ出て家のぐるりをよく見廻って、それから部屋に帰って来た。若者はいった。「あなたはどうしてそんなに警戒するのか?」女は笑いながらいった。「胸さわぎがするんです。私はもう生きていられないと思います」

   若者は慰めていった。「胸さわぎがしたり、目がちらちらするのはよくあることだ。何もそうだからといって、いきなりあなたのように考えなくてもいいでしょう」

   女はそれで少し気をよくして、また楽しく語り合った。

   やがて夜が明けたので、着物をきて寝台を下り、戸を開けようとしながら、ぐずぐずして引き返して、いった。

   「どうしたのか知らないけれど、なんだか気が落ちつかないのです。私の姿が見えなくなるまで、見送ってください」といいながら、おびえた足取りで歩いて行った。

    女の姿が見えなくなったので、帰って寝ようとすると、女の救いを求めて叫ぶけたたましい声を聞いた。若者は走って行き、あたりを眺めたが女の姿が見えない。見上げると大きな蜘蛛に捕らえられた蜂が悲しげに鳴いているのだった。

    急いで蜘蛛から引き離し、手のひらにのせて部屋に持ち帰った。身にまつわる糸をとりのけてやったが、それは緑色の蜂で、もう息も絶え絶えであった。

   やがて蜂はよたよた歩きだした。しずかに硯の池に登って行って、その身を墨汁に投げ入れ、そしてまた出てくると、机の上にうつ伏したままで這って歩いた。その墨跡をたどると、「謝」(ありがとう)の一字になっていた。蜂はしきりに二枚の羽をひろげていたが、やがて窓から外へとんでいった。

   このときから緑衣の女は若者の前に二度と姿をみせなかった。(蒲松齢「聊斎志異」)

2007年3月18日 (日)

安倍清明と蘆屋道満

    安倍清明と蘆屋道満が天皇の立会いで内裏の白州で対決することになった。「長持ちの中身を占いで当てよ」という課題であった。中には大柑子(夏みかん)があった。道満は「大柑子が16個あります」と占うと、清明は「鼠が16匹います」と告げた。清明サイドの大臣や公家らは清明が占断を誤ったと思い、長持ちの蓋を開けるのをためらっていた。そこへ自信満々の道満が早く開けるように促した。清明までもがすぐに開けるようにいったので、やむなくそうすると、長持ちの中から鼠が16匹飛び出してきた。清明は道満がずばり占ったので、あえて加持を修して、大柑子を鼠に変えるという術を使ったというわけである。

2007年3月12日 (月)

実説・累(かさね)

   江戸時代には女の子の名前に「かさね」という名が流行ったことが あった。「累(かさね)」というのは、まことに可愛らしく感じられられると言って、数多く名付けられた。だが、明治時代より平成の今日まで、私の知っている限りでは、「かさね」という名の女子を知らない。それは三遊亭円朝の「眞景累ヶ淵」や鶴谷南北の歌舞伎などに「かさね」という名が使われたことによる影響であろう。

   もともと累の話は、江戸時代初期に60年にわたって繰り広げられた、陰惨な出来事である。下総国岡田郡羽生村の百姓、与右衛門とその後妻お杉の間には助(すけ)という男子があった。しかし連れ子であった助は顔が醜かったため、お杉は助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名付ける。累は助に生き写しであり、村人たちの間ではいつしか「累(るい)」という名が「かさね」と呼ばれるようになった。

   やがて、与右衛門もお杉も亡くなり、成人し独り暮らしの「かさね」はある時病気で苦しむ旅人を助けたことから、この男を2代目与右衛門として婿に迎える。しかし与右衛門は容貌の醜い「かさね」を疎ましく思うようになり、「かさね」を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。与右衛門は鬼怒川堤から河中へ「かさね」を突き落として殺してしまう。

   その後、与右衛門は何食わぬ顔で幾人もの後妻を娶ったが尽く死んでしまうという怪現象が続いた。ようやく6人目の妻きよとの間に菊という娘が生まれた。ところが菊が14歳になった時に、「かさね」と助の死霊が菊にとり憑き、菊の口を借りて与右衛門の非道を語りはじめる。この話を知った祐天上人は助、かさねの死霊に戒名を与えて成仏させた。

   「累(かさね)」の話が怪談物として世に広く知られるようになったのは、それから150年も後の鶴谷南北の「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」が上演される文政4年(1821)のことである。

2006年7月17日 (月)

つる女房

   川のほとりに金蔵という若者がいて、山から薪を切ってきては町で売って暮らしていた。ある日、町からの帰り道に山を通ると、子どもたちが鶴の足に縄をかけて遊んでいたので、薪を売った金でその鶴を買いとって逃がしてやった。

    その晩、金がないから葉っぱ汁でも食べて寝ようと思っていると、戸を叩くものがあり、道に迷ったので一晩泊めてくれと言う。それは美しい娘で、金蔵は驚きながらも招きいれた。翌朝、娘は両手をついて、「嫁にしてくれろ」と言うので嫁にすると、「それでは、ひとつ布を織るから、出来上がるまでのぞかないでおくやい。七日めの晩には、きっとお気に入りの布を作ってあげます」と言って部屋に閉じこもって機を織り始めた。

    七日めの晩に嫁は一反の布を金蔵の前に出して、「これを売って、欲しいものを買ってください。この布は五両には売れます」と言うので、金蔵がその布を町へもっていくと、旦那がびっくりして十両で買ってくれて、つぎは十五両で買ってくれると言った。金蔵は帰宅して嫁にむりやり織らせた。嫁は「ほんじゃ、出来上がるまではけっして見ないでおくやい」と言って織り始めた。

    金蔵は、そんなにめずらしい布をなんじょして織るもんだかと思うと、気が気でなくなって、こっそり節穴からのぞいてびっくりした。丸っ裸の鶴が自分の体から一本、また一本、毛を抜いて織っているんだど。「あっ」と声を立ててしまったもんだそうな。その晩おそく機の音が止んで、嫁が布を持って部屋から出てきたとおもったら、金蔵の前にぺたりと座って、「長い間お世話になり申した。じつは先日助けられた鶴で、恩返しに嫁になってきたが、正体を見られては、帰らんなね」というが早いか、鶴の姿になって、月の光の中を飛び立っていった。鶴が二回まわったところが鶴巻田といい、糸をとった川を織機川という。金蔵が出家して寺を建てたのが珍蔵寺で、その寺には鶴の織った曼荼羅が残っているという。(山形県置賜地方)

2006年6月15日 (木)

ほらくらべ(民話)

 むかし、丹波の多紀の郡の人と、摂津の伊丹の人とが、ほらの吹きくらべをしました。まず丹波の人が「丹波にゃ、三嶽山という高い山がある。その山のてっぺんに三本の大竹が生えとるが、冬になって雪がふると、その竹がしわって先っちょが丹後の宮津につかる。春になって雪がとけて、竹が立ったときには、その葉に蛤がぎっしりとついていて、三嶽山のてっぺんに蛤の山ができる」といばりだした。すると伊丹の人は、「伊丹には酒屋がぎょうさんあって、そこには大けな酒樽があって、その酒樽のまわりはどれくらいかというと、三里から四里にもなる」とやり返した。そこで、丹波の人が、「その酒の樽の輪はどうして作る」と問いかけましたら、ぐっとつまって、「そりゃ、丹波の三嶽山の竹で作る」といったので、伊丹の人が負けたそうな。(兵庫県多紀郡)

2006年6月13日 (火)

ハールレムを守った少年

 オランダの古いお話(「銀のスケート」) 

 ある晴れた日の午後、少年は堤防の向こう側の、ハールレムの町はずれに住んでいるおじさんにお菓子を持っていくことになった。おじさんの家で1時間ばかり遊んで、別れをつげて、家路についた。運河のふちを歩いているうち、見れば、秋の長雨で、運河の水が、ひどく増えている。その時、少年は、ちょろちょろ流れる水の音を聞きつけて、はっとした。いったい、どこから聞こえてくるのであろうか。堤防を見上げると、上のほうに小さな穴があいていて、そこからすこしずつ水が流れ出ている。ちょろちょろ水の流れるままにしておけば、この小さな穴が、じきに大きな穴になって、やがて、恐ろしい大洪水になるだろう。とっさのまに、少年は、どうしなければならないかをさとった。少年は、穴にとどくところまで、堤防をよじのぼった。そして夢中で、自分の小さな指をその穴につっこんだ。水は止まった。最初のうちは、まずうまくいった。けれど、そのうち、夜になって、寒さと恐ろしさで震えだした。「だれか来てください」けれど、誰も来なかった。少年は神に助けを祈った。祈りは答えられて、やがて少年の心には、「朝までここを守ろう」という神々しい決意が生まれた。明け方、ある牧師さんが、堤防の上を歩いていた。彼は、何かうめき声が聞こえるように思った。かがんでみると、ずっと下のほうに、ひとりの子供が、苦しみもだえている。「これこれ、何をしてるのだね」と、牧師は叫んだ。「水をとめているんです。」と、けなげな子供は、短く答えた。「みんなに、すぐ来るように言ってください。」そこで、言うまでもなく、村人たちはかけつけてきた。