浅野内匠頭長矩画像 岩屋寺蔵(京都・山科)
元禄14年の3月14日午前9時半ごろ。
江戸城の松之廊下で勅使供応役の播磨国赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が儀式典礼の指導役である高家筆頭の吉良上野介義央に刃傷に及んだ。
唯一の目撃者である梶川与惣兵衛頼照の「梶川氏筆記」によれば、梶川と上野介が松之廊下の角住付近で立ち話をしたあと、上野介が去ろうとする背後から内匠頭が突然大きな声をあげて斬りつけた。
「この間の遺恨、おぼえたか」
内匠頭の小刀が上野介の大紋(式服)の背を切り裂き、驚いて振り向く上野介の額に二の太刀が振りおろされ、烏帽子の金具にあたる響きがして、血潮が流れ散った。おびえた上野介は、ぐったりとし、その場に倒れ込んだ。梶川は内匠頭を羽交い絞めにしてとめた。
多門伝八郎重共、近藤平八郎の取り調べに対し、内匠頭は「かねて遺恨があったので斬った」と陳述、上野介のほうは「恨みを抱かれるおぼえがない。内匠頭殿は乱心されたのであろう」と申し立てた。幕閣では、将軍のいる殿中での刃傷は大罪であるが、よく取り調べてから処分したいとした。
しかし、激怒した将軍徳川綱吉は、内匠頭に即日切腹を命じ、上野介には神妙な態度であったとして、お構いなしとした。綱吉は勅使・院使を迎えての大切な式日に刃傷事件を起こした内匠頭を不敬罪としたのである。
当時、喧嘩両成敗という幕法の建前から、理非にかかわりなく双方の当時者が処罰の対象になるのが慣例であった。それなのに、将軍の裁きということで一方的に内匠頭だけが処断されたのである。ここに復讐への一つの伏線が生まれてくる。この処罰は、そのころの武士の正義の感情からは許すことのできないものであった。
網打ち駕籠に乗せられて陸奥国一関領主の田村右京大夫建顕邸に入った内匠頭は、家来への連絡も許されないまま、庭前で切腹させられた。このことも赤穂義士たちの憤激を招く要因となった。内匠頭は従五位下の官位を持った大名である。座敷での切腹が当然であり、庭前での切腹は非礼違法にわたり、武士への大きな恥辱であった。
風さそう花よりもなほ我はまた
春の名残をいかにとやせん
多門伝八郎覚書による内匠頭の辞世の歌。哀切な辞世を残して35歳の生涯を閉じた。
片岡源五衛門は、最後にひと目、主君に拝領したいと願い出た。検使・多門伝八郎のはからいで、切腹の座にのぞむ内匠頭が書院を通るさい、はるか庭先から、拝領することができた。双方、無言のまま、視線をかわしたが、まことに断腸の思いであった。やがて、遺骸をうけとって泉岳寺へ葬った。このとき、田村家から渡された遺言状を読んだ。内匠頭の口上を覚書として書き留めたもので、「刃傷事件の原因を知らせておくべきだった。定めし不審に思うであろうが…」といった内容で、宛名は源五右衛門と磯貝十郎左衛門になっていた。その場で、片岡源五衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門の4人は髻を切り、墓前に供えた。幕命によって江戸藩邸を引き渡すと、片岡、磯貝、田中の3人は、赤穂へ戻る。赤穂義挙の序曲が始まった。
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