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2023年4月27日 (木)

忠臣蔵 悲運の若武者、間瀬定八

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 大島本町墓地の間瀬定八の墓

   幕府は赤穂義士たちの切腹後、僧籍にある者と女性を除く15歳以上の男の遺児を遠島処分にした。大石内蔵助の次男吉千代(13歳)以下14人は若年により処分猶予となった。15歳以上の男児、間瀬定八(当時20歳、間瀬久太夫の次男)、吉田伝内、中村忠三郎、川松正右衛門らは伊豆大島に流罪となる。4年後の宝永4年(1707年)、将軍綱吉の死去により、大赦となり、遺児全員が赦免となった。しかしこのとき間瀬定八だけは既に他界していた。これまで正確な命日は不明であったが、近年の調査によれば、宝永2年(1705年)4月27日、伊豆大島で22歳で病死したとのことである。記録によれば定八が流罪中だった元禄16年(1703年)に大地震があった。2005年には伊豆大島で300年遠忌慰霊祭がおこなわれたという。

2023年3月27日 (月)

杉野はいずこ

     吉良の江戸屋敷がある本所松坂町で夜泣き蕎麦屋を引く赤穂の浪人・杉野十平次がいた。かたや横網町で道場を開きながら酒と博打で空しい日々を過ごす浪人・俵星玄蕃がいた。そして2人が出会う。玄蕃はかって酒に酔って赤穂藩の行列に狼藉をはたらいたが、浅野公のはからいで一命を救ってくれた恩義があった。三波春夫が歌う歌謡浪曲「♪姿そば屋にやつしてまでも忍ぶ杉野せつなかろ」もちろん玄蕃と杉野の友情は巷説。赤穂47士の中で何故杉野が選ばれたのか。年齢が28歳というのは芝居として絵になるだろう。吉良屋敷への討ち入りで家の内へ入る者(磯貝、堀部、倉橋、杉野、赤埴、菅谷、大石瀬左衛門、村松、三村)の一人だったこと。それにもっとも大きな理由は杉野十平次の末裔は日露戦争旅順閉塞隊で行動し戦死した杉野孫七兵曹長であること。「杉野はいずこ」明治講談はなやかりし頃、杉野という名前が大衆受けするとよんだのだろうか。余談ながら杉野兵曹長は旅順港で死んだことになっているが、実は生きていたという説が昭和になって流れた。真相は今となってはわからないままである。(3月27日)

 

 

2023年3月14日 (火)

梶川与惣兵衛と加古川本蔵

    たいていの映画・ドラマで浅野長矩が吉良上野介に刃傷に及んだとき、長矩を脇から抱きしめて制した人物は梶川与惣兵衛という名である。梶川は実在の人物で「梶川筆記」で、自分が咄嗟のことで少々あわてすぎたことを後悔している。お墓が天徳院(中野区上高田)にある。松平健の「忠臣蔵」(2004)ではめずらしく加古川本蔵という名で平泉成が演じている。仮名手本忠臣蔵にてでくる加古川本蔵はなかなか重要人物である。本蔵の娘、小波と大石主税とは許婚であった。のちに解消されるが、本蔵は復縁を願っている。悪役と善玉の両面が描かれている。吉良邸の図面を大石に手渡すのも歌舞伎では加古川本蔵である。(3月14日)

 

 

 

2023年2月 4日 (土)

大石忌

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 ゆるゆると湯葉召し上がる大石忌 (如酔)

   1703年のこの日、江戸幕府が赤穂浪士46名に切腹を命じた。泉岳寺にある赤穂浪士46人の墓には戒名が刻まれている。すべての墓には「刀」や「剣」の文字がつけられている。彼らの戒名は泉岳寺の僧侶がつけたと言われるが、「剣」と「刀」の文字は、曹洞宗で、「命を投げ出すほど重要なこと」を意味し、忠義を尽くしたことを表わしている。(2月4日)

 

 

2023年1月 3日 (火)

吉良上野介の首級の行方

去年まで ただの寺なり 泉岳寺
    『武玉川』第十一篇

 

Photo_2    港区高輪にある泉岳寺は1612年、外桜田に創建された。1641年の大火で焼失し、現在地に再建された。泉岳寺の再建の際に尽力した5大名のうちの一つが浅野家という縁から、赤穂義士の墓が泉岳寺境内に建立された。

    元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で刃傷事件をおこした播州赤穂5万石の城主・浅野内匠頭長矩は、即日切腹ののち、この泉岳寺の墓地に葬られた。浅野の眠る泉岳寺の墓前には線香が絶えない。だが、吉良上野介義央(1641-1702)の眠る龍谷山万昌院功運寺の墓には、盆でも命日でも詣でる人は殆どない。だが吉良家の菩提寺華蔵寺(愛知県西尾市)の墓には今なお命日である12月14日には慰霊祭がおこなわれる。

   では何故、吉良上野介の墓が東京・中野区上高田の功運寺にあるのだろうか。元禄15年の師走15日未明、大石内蔵助以下47人の浪士は吉良上野介を討ちとると、その足で8時ごろ泉岳寺にはいる。上野介の首級を旧主の墓前に供えた後、大目付仙石伯耆守邸へ向かうに際して、首の処置一切を泉岳寺の住職洲山長恩和尚に託した。住職は二人の僧に命じ、首を吉良家へ届けた。吉良家は、18歳の当主左兵衛に代わり、家老の左右田と斎藤の二人が受け取った。受け取った首は、牛込の万昌院に葬られた。さらに、万昌院は、明治45年3月から大正3年12月にかけて、現在の地に移転した。そして、大正11年に三田聖坂から同地に移転してきた功運寺と昭和23年に合併し現在の名称となる。これが、中野の龍谷山万昌院功運寺に吉良の墓がある理由である。ところで、吉良邸にもどったときに、蘭学医・栗崎道有(1661-1726)が首と胴体の縫合を行なったという記録も残されている。

  なお吉良上野介が強欲非道の悪人であるというのは「忠臣蔵」など浄瑠璃、歌舞伎、文芸の世界のことであって、知行地の三河国吉良荘では築堤や新田開発などの功績により名君と評価されている。

 

 

2022年12月14日 (水)

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

 

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても日本人は忠臣蔵が大好きである。ところが最近は新作が無くなったのはなぜだろうか?理由は忠臣蔵はオールスター総出演が相場で、ギャラや製作費に膨大なお金がかかり儲からないからであろう。 (12月14日)

 

 

2022年12月12日 (月)

小山田庄左衛門

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   赤穂浅野家が断絶し、47人が忠義の士として称賛を浴びる一方、義盟に加わった同士のなかにも70人の脱盟者がいた。高田郡兵衛、毛利小平太などの脱盟者がよく知られるが、橋本平左衛門も遊女淡路屋お初と大坂で心中した。そして小山田庄左衛門も実在の人物で、不義士としての汚名を残した1人である。

    元禄15年11月5日、大石内蔵助らが江戸入りした時は、庄左衛門も堀部安兵衛らと同居していた。12月3日の最後の深川会議の前、同志片岡源五右衛門から、金子3両と小袖を盗んで逃亡したと伝えられる。81歳になる父の十兵衛は義士に詫びて、自決した。大佛次郎の小説「赤穂浪士」では庄左衛門と穂積惣右衛門の娘の幸との悲恋が描かれている。ドラマ「大忠臣蔵」(1971年)では中山仁が演じている。鳥居利左衛門の娘に惚れられ、大高源五の頼みを叶えるために、利左衛門の娘と添い遂げている。池田一朗の脚色である。

2022年10月24日 (月)

笹売り源五

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   大高源五は風流を解する武士で、俳人としても知られ子葉と号し、宝井其角と交流があった。当時、江戸に四方庵という著名な茶人がいて吉良邸に出入りしていた。源五は町人になりすまして四方庵の門を叩き、内弟子となった。13日、こうして四方庵から上野介の動静をさぐるうちに12月14日吉良邸で茶会の催しがあることをつきとめた。源五はその日の暮れ、両国橋にさしかかったところで偶然に其角と出会った。だが煤払いの笹売りに変装していた源五は其角に気づかれぬようそのまま通り過ぎようとした。しかし其角は「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源五も思わず、「あしたまたるる その宝船」と返歌した。源五からその報告を受けた内蔵助は、討ち入りを14日夜と決めた。

 源五の辞世の句がある。

 

  梅でのむ 茶屋もあるべし死出の山

 

  だがこの名高い逸話も事実ではなく、大高源五と其角とは面識はなかった。為永春水の「伊呂波文士」による虚構あたりが、出典とされる。史実は大高源五は水間沾徳の門弟である。沾徳は其角の没後、享保期の江戸俳壇の中心となった。代表句をあげる。

 

 帯ほどに川も流れて汐干かな

 

汐が遠く引いたので、海へ流れ込んでいる川が゛、干潟の中に細く帯のようにみられるという大意。

 

(参考:祖田浩一「なぞ解き忠臣蔵」)

 

 

2022年3月14日 (月)

刃傷松の廊下

    元禄14年のこの日、赤穂藩主浅野長矩、江戸城中の松の廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶ。江戸幕府『御日記』の元禄14年3月14日の条の大略は次のとおりである。

  御馳走人浅野長矩は差してした小刀を抜いて大廊下において吉良義央を切り付けた。長矩は、遺恨がある、と叫んでいる。御留主居梶川与惣兵衛、長矩を抱留候。長矩は田村右京太夫に御預。その夜、長矩に「時所をわきまえず、ひが挙動せり」として切腹が命ぜられる。義央は罪がないとして、「刀疵を治療せよ」という将軍綱吉の言葉が伝えられた。これまで江戸城内における刃傷事件は数件発生していたが、即日切腹の例はない。午後6時10分頃、幕府の正検使役として庄田安利、多門重共、大久保忠鎮らの立会いのもと、磯田武大夫の介錯で切腹して果てた。享年35。「多門筆記」によれば、長矩は「風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」という辞世を残したとしている。だがこの辞世の後の創作だとする説もある。というのも、切腹の様子を記録した「奥州一関藩主村田家文書」には、辞世を詠んだという記述は見当たらないからである。

 

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耐えて忍んで 耐えかねて

 

闇を引きずる長袴

 

心もつれて よろめいて

 

怨念ここにきわまれり

 

おのれ憎ッくき吉良の少将

 

過日の遺恨 覚えたか

 

抜いて白刃の乱れ舞

 

松の廊下に血のしぶき

 

乱心召さるな 浅野殿

 

取って押さえて 羽交い締め

 

梶川与惣兵衛 大音声

 

殿中でござる 殿中でござる

 

刃傷でござる 刃傷でござる

 

お放しくだされ 梶川殿

 

討ち損じては 武門の恥辱

 

武士の情けじゃ いま一太刀

 

恨み晴らさで おくべきか

 

時は元禄 十四年

 

春は弥生の十四日

 

殿中刃傷 もってのほかと

 

公儀の裁き 即日切腹

 

播州赤穂五万石

 

浅野内匠頭長矩は

 

桜吹雪の舞い散る陰で

 

葉末の露と消えにけり

 

 

 

 

2022年2月 5日 (土)

「人生劇場」と三州横須賀村

Photo_5     尾崎士郎(1898-1964)は、明治31年2月5日、愛知県幡豆郡横須賀町上横須賀(現・西尾市)に、父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。尾崎家は家号を辰巳家と号し、代々綿実買問屋を営んでいたが、かたわら明治半ば迄煙草製造にも手をそめていた。士郎が誕生の頃より、家運は傾いてきたものの、嘉三郎は明治20年より上横須賀郵便局長を兼業、まだまだ地元の名士だった。

    尾崎士郎といえば「人生劇場」である。「都新聞」文芸部長上泉秀信の依頼で同紙に連載した、尾崎士郎の自伝的長編小説「人生劇場」は、「青春篇」(昭和8年)「愛慾篇」(昭和9年)「残侠篇」(昭和11年)「風雲篇」(昭和14年)「遠征篇(後の離愁篇)」(昭和18年)「夢現篇」(昭和22年)「望郷篇」(昭和26年)「蕩子篇」(昭和34年)と戦後に至るまで諸紙誌に書き継がれた。物語は青成瓢吉が三州横須賀村から上京し、早稲田大学に入学。飛車角、吉良常などが絡みながら、人生いかにいきるべきかを求めて彷徨するという青春小説。尾崎家は、大正5年、父嘉三郎死亡した。生前相場に手を出し失敗、郵便局長の職は長兄重郎が継いだ。その長男も大正7年ピストル自殺した。郵便局の公金横領を苦にというのがその表向きの理由であった。ともかく一家は没落した。

   尾崎士郎の出身地である愛知県幡豆町横須賀町というのは、戦後吉良町上横須賀に住居表示が変更されている。「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の所領であった横須賀村である。「人生劇場」の書き出しも次のように書かれている。

                                  *

   三州吉良港。一口にそう言われているが、吉良上野の本拠は三州横須賀村である。後年、伊勢の荒神山で、勇ましい喧嘩があって、それが今は、はなやかな伝説になった。そのときの若い博徒が、此処から一里ほどさきにある吉田港から船をだしたというので、港の方だけが有名になっているが、しかし吉良という地名が現在何処にも残っているわけではない。その、吉良上野の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面。吉良上野が彼の所領においては仁徳の高い政治家であったということの反証にもなるが同時に他の一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。まったく「あいつは吉良だ!」ということになると旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも(忠臣蔵なんて高々芝居じゃねえか)、という気持ちがわいてくる。(うそかほんとかわかるものか、あんなものを一々真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難癖をつけられているうちのおとのさまの方がお気の毒だ)三州横須賀は肩をそびやかしたものである。相手にしないならしなくてもいい。そのかわり日本中の芝居小屋で「忠臣蔵」がどんなに繁盛しようとも、この村だけへは一足だって踏み入れたら承知しねぇぞ!平原の中にぽつねんと一つ、置きわすれられた村である。

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