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2021年3月14日 (日)

刃傷松の廊下

    元禄14年のこの日、赤穂藩主浅野長矩、江戸城中の松の廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶ。江戸幕府『御日記』の元禄14年3月14日の条の大略は次のとおりである。

  御馳走人浅野長矩は差してした小刀を抜いて大廊下において吉良義央を切り付けた。長矩は、遺恨がある、と叫んでいる。御留主居梶川与惣兵衛、長矩を抱留候。長矩は田村右京太夫に御預。その夜、長矩に「時所をわきまえず、ひが挙動せり」として切腹が命ぜられる。義央は罪がないとして、「刀疵を治療せよ」という将軍綱吉の言葉が伝えられた。これまで江戸城内における刃傷事件は数件発生していたが、即日切腹の例はない。午後6時10分頃、幕府の正検使役として庄田安利、多門重共、大久保忠鎮らの立会いのもと、磯田武大夫の介錯で切腹して果てた。享年35。「多門筆記」によれば、長矩は「風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」という辞世を残したとしている。だがこの辞世の後の創作だとする説もある。というのも、切腹の様子を記録した「奥州一関藩主村田家文書」には、辞世を詠んだという記述は見当たらないからである。

 

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耐えて忍んで 耐えかねて

 

闇を引きずる長袴

 

心もつれて よろめいて

 

怨念ここにきわまれり

 

おのれ憎ッくき吉良の少将

 

過日の遺恨 覚えたか

 

抜いて白刃の乱れ舞

 

松の廊下に血のしぶき

 

乱心召さるな 浅野殿

 

取って押さえて 羽交い締め

 

梶川与惣兵衛 大音声

 

殿中でござる 殿中でござる

 

刃傷でござる 刃傷でござる

 

お放しくだされ 梶川殿

 

討ち損じては 武門の恥辱

 

武士の情けじゃ いま一太刀

 

恨み晴らさで おくべきか

 

時は元禄 十四年

 

春は弥生の十四日

 

殿中刃傷 もってのほかと

 

公儀の裁き 即日切腹

 

播州赤穂五万石

 

浅野内匠頭長矩は

 

桜吹雪の舞い散る陰で

 

葉末の露と消えにけり

 

 

 

 

2021年2月11日 (木)

堀部安兵衛の妻

    高田の馬場16人斬りで有名な赤穂義士の妻と称する尼僧がいるという。赤穂義挙から70年以上も経た安永の頃の話である。ところは高輪泉岳寺の境内の清浄庵にいつのまにか住みついている。その名を妙海尼という。噂を聞いて、多くの者達が寺へやってくる。その一人に丹波国篠山藩士の佐治数馬為綱があった。彼は尼僧の話を丹念に聞き1冊の書物にした。これが『妙海尼話』(安永3年刊)である。 堀部安兵衛の父は越後国新発田の溝口信濃守の馬廻役。二百石の中山弥次右衛門といった。江戸に出た安兵衛は赤穂藩士の江戸留守居役の堀部弥兵衛に見込まれ、娘の「ほり」(お幸とも)の婿になったといわれる。妙海尼は赤穂義士たちの世評の高まりに合わせて、安兵衛の妻を偽称したのであろう。妙海尼は安永7年に93歳で亡くなった。(2月11月)

 

 

2021年2月 5日 (金)

「人生劇場」と三州横須賀村

Photo_5     尾崎士郎(1898-1964)は、明治31年2月5日、愛知県幡豆郡横須賀町上横須賀(現・西尾市)に、父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。尾崎家は家号を辰巳家と号し、代々綿実買問屋を営んでいたが、かたわら明治半ば迄煙草製造にも手をそめていた。士郎が誕生の頃より、家運は傾いてきたものの、嘉三郎は明治20年より上横須賀郵便局長を兼業、まだまだ地元の名士だった。

    尾崎士郎といえば「人生劇場」である。「都新聞」文芸部長上泉秀信の依頼で同紙に連載した、尾崎士郎の自伝的長編小説「人生劇場」は、「青春篇」(昭和8年)「愛慾篇」(昭和9年)「残侠篇」(昭和11年)「風雲篇」(昭和14年)「遠征篇(後の離愁篇)」(昭和18年)「夢現篇」(昭和22年)「望郷篇」(昭和26年)「蕩子篇」(昭和34年)と戦後に至るまで諸紙誌に書き継がれた。物語は青成瓢吉が三州横須賀村から上京し、早稲田大学に入学。飛車角、吉良常などが絡みながら、人生いかにいきるべきかを求めて彷徨するという青春小説。尾崎家は、大正5年、父嘉三郎死亡した。生前相場に手を出し失敗、郵便局長の職は長兄重郎が継いだ。その長男も大正7年ピストル自殺した。郵便局の公金横領を苦にというのがその表向きの理由であった。ともかく一家は没落した。

   尾崎士郎の出身地である愛知県幡豆町横須賀町というのは、戦後吉良町上横須賀に住居表示が変更されている。「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の所領であった横須賀村である。「人生劇場」の書き出しも次のように書かれている。

                                  *

   三州吉良港。一口にそう言われているが、吉良上野の本拠は三州横須賀村である。後年、伊勢の荒神山で、勇ましい喧嘩があって、それが今は、はなやかな伝説になった。そのときの若い博徒が、此処から一里ほどさきにある吉田港から船をだしたというので、港の方だけが有名になっているが、しかし吉良という地名が現在何処にも残っているわけではない。その、吉良上野の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面。吉良上野が彼の所領においては仁徳の高い政治家であったということの反証にもなるが同時に他の一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。まったく「あいつは吉良だ!」ということになると旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも(忠臣蔵なんて高々芝居じゃねえか)、という気持ちがわいてくる。(うそかほんとかわかるものか、あんなものを一々真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難癖をつけられているうちのおとのさまの方がお気の毒だ)三州横須賀は肩をそびやかしたものである。相手にしないならしなくてもいい。そのかわり日本中の芝居小屋で「忠臣蔵」がどんなに繁盛しようとも、この村だけへは一足だって踏み入れたら承知しねぇぞ!平原の中にぽつねんと一つ、置きわすれられた村である。

2021年2月 4日 (木)

大石忌

Photo_3   1703年のこの日、江戸幕府が赤穂浪士46名に切腹を命じた。泉岳寺にある赤穂浪士46人の墓には戒名が刻まれている。すべての墓には「刀」や「剣」の文字がつけられている。彼らの戒名は泉岳寺の僧侶がつけたと言われるが、「剣」と「刀」の文字は、曹洞宗で、「命を投げ出すほど重要なこと」を意味し、忠義を尽くしたことを表わしている。(2月4日)

 

 

2020年12月26日 (土)

笹売り源五

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   大高源五は風流を解する武士で、俳人としても知られ子葉と号し、宝井其角と交流があった。当時、江戸に四方庵という著名な茶人がいて吉良邸に出入りしていた。源五は町人になりすまして四方庵の門を叩き、内弟子となった。13日、こうして四方庵から上野介の動静をさぐるうちに12月14日吉良邸で茶会の催しがあることをつきとめた。源五はその日の暮れ、両国橋にさしかかったところで偶然に其角と出会った。だが煤払いの笹売りに変装していた源五は其角に気づかれぬようそのまま通り過ぎようとした。しかし其角は「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源五も思わず、「あしたまたるる その宝船」と返歌した。源五からその報告を受けた内蔵助は、討ち入りを14日夜と決めた。

 

 源五の辞世の句がある。

 

  梅でのむ 茶屋もあるべし死出の山

 

  だがこの名高い逸話も事実ではなく、大高源五と其角とは面識はなかった。為永春水の「伊呂波文士」による虚構あたりが、出典とされる。(参考:祖田浩一「なぞ解き忠臣蔵」)

 

 

2020年12月24日 (木)

梶川与惣兵衛、伊達宗春のその後

   毎年この時季になると全国12000人の梶川さんは憂うつになるという。テレビできまって忠臣蔵が放送される。「武士の情けをご存じあれ。その手をはなし今一太刀討たせて下され。梶川どの・・・」梶川与惣兵衛とは浅野匠頭を背後から抱きかかえて止めた人物。そのため吉良の傷は浅手で済んだ。

   元禄14年3月14日午前10時頃、江戸城中で公式の儀式が行なわれる白書院近くの松の廊下で刃傷事件が起こった。勅使接待役である播州赤穂5万3千石の領主浅野内匠頭長矩が差していた小刀を抜いて、梶川頼照と立ち話をしていた高家吉良上野介義央に切りかかった。長矩は、遺恨がある、と叫んでいる。頼照が抱き留める。急を知った高家衆が駆けつけ、両者を引き離し、監察の任にある大目付・目付に連絡をした。まず、城中の自分の控室にいた義央が事の次第を聞かれた。そしてその言い分が聞き入れられ、帰宅を許される。大目付の部屋で監察されていた長矩は、田村右京大夫建顕に当分の間預けるということで、その屋敷に移されたが、午後6時過ぎには建顕邸で切腹の申し渡しを受けた。この時、吉良義央は62歳、浅野長矩は37歳であった。以上が赤穂浪士討入り事件の発端となった「刃傷松の廊下」の概略である。

   松の廊下の主役となった三人、浅野長矩、吉良義央、梶川頼照。この中で梶川のその後はあまり知られていない。大奥留守居番、梶川与惣兵衛頼照は、突然目の前で起こった刃傷に動転し、浅野長矩を組み止めた咄嗟の行為に世間から強い非難の声が上がり、心ならずも彼の人生を、悔恨と自責の一生に終わらせる結果となった。事件より五日経って、刃傷を制した功績によって梶川に五百万加増の沙汰があり、千二百石に取立てられた。本来ならば家門の名誉と喜ぶべきところ、この事件に関する限り世間の目は冷たく、浅野が家名を捨て、死を賭しての刃傷になぜ討たせてやらなかったのか、武士の情けも弁えぬ武骨者よと、厳しい非難の声のみが彼に集中したのであった。晩年の梶川は、享保4年、御鎗奉行の任を辞し、同8年8月8日、77歳で亡くなっている。墓は天徳院(中野区上高田)にある。武士の墓らしく立派な墓塔であるにもかかわらず、無縁墓地の中に置かれ、殆ど訪れる人も無いという。彼もまた、刃傷の犠牲者の一人であった。ちなみに浅野内匠頭といっしょに勅使供応役を努めた伊達左京亮宗春も凶事の現場に居合わせ、浅野の取り押さえに加わっている。3年後に伊予吉田藩主に出世している。(参考:林亮勝「元禄事件 その虚と実」、窪田孟「刃傷の犠牲者 梶川与惣兵衛」『忠臣蔵のすべて』新人物往来社収録)

 

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 梶川与惣兵衛の墓(天徳院)

2020年12月14日 (月)

元禄名槍伝・俵星玄蕃

   戦後はGHQ命令で、復讐をテーマとするものは一切認められず、なかでも「忠臣蔵」は最も禁じられた題材だった。しかし、みすみす作れば儲かる「忠臣蔵」をほっておく手はないと、東映が昭和27年、おっかなびっくり「忠臣蔵」のタイトルをさけて「赤穂城」を作った。昭和30年になれば、そろそろ忠臣蔵映画も宜しかろうに、松竹映画「元禄名槍伝 豪快一代男」(芦原正監督)は忠臣蔵外伝・俵星玄蕃の登場である。近衛十四郎の玄蕃に、諸角啓二郎の杉野十平次。戦前の映画には、俵星玄蕃が主演のものもあるが、この映画のように尾張家の家来の時代から浪人となり、江戸で町道場を開き、酒と博打に暮れるという、玄蕃オンリーの映画は珍しい。そば屋の杉野の出番も少ない。のちの東映「血槍無双」も同様の筋立てながら、杉野十平次(大川橋蔵)が主役となっている。「血槍無双」(昭和34)の片岡千恵蔵、「忠臣蔵」(昭和37)の三船敏郎が演じているが、近衛・俵星には及ばない。

   ところで俵星玄蕃はもちろん架空の人物で、講談や浪曲でお馴染みであるが、すでに江戸の寛文6年の歌舞伎にその名がでてくる。つまり大星由良助の「星」と「俵」を放る妙技から2つをくっつけて「俵星」というネーミングを考案したのであろう。映画「豪快一代男」でも悪党の渡辺篤を俵で懲らしめるシーンがある。それにしても中台登「忠臣蔵映画一覧」にも漏れた作品であるが、今回初めて見たが近衛十四郎の豪快さが俵星玄蕃とマッチして、痛快娯楽作品に仕上がっている。草間百合子、由美あづさ等共演し華をそえている。

吉良上野介の首級の行方

去年まで ただの寺なり 泉岳寺
    『武玉川』第十一篇

 

Photo_2    港区高輪にある泉岳寺は1612年、外桜田に創建された。1641年の大火で焼失し、現在地に再建された。泉岳寺の再建の際に尽力した5大名のうちの一つが浅野家という縁から、赤穂義士の墓が泉岳寺境内に建立された。

    元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で刃傷事件をおこした播州赤穂5万石の城主・浅野内匠頭長矩は、即日切腹ののち、この泉岳寺の墓地に葬られた。浅野の眠る泉岳寺の墓前には線香が絶えない。だが、吉良上野介義央(1641-1702)の眠る龍谷山万昌院功運寺の墓には、盆でも命日でも詣でる人は殆どない。だが吉良家の菩提寺華蔵寺(愛知県西尾市)の墓には今なお命日である12月14日には慰霊祭がおこなわれる。

   では何故、吉良上野介の墓が東京・中野区上高田の功運寺にあるのだろうか。元禄15年の師走15日未明、大石内蔵助以下47人の浪士は吉良上野介を討ちとると、その足で8時ごろ泉岳寺にはいる。上野介の首級を旧主の墓前に供えた後、大目付仙石伯耆守邸へ向かうに際して、首の処置一切を泉岳寺の住職洲山長恩和尚に託した。住職は二人の僧に命じ、首を吉良家へ届けた。吉良家は、18歳の当主左兵衛に代わり、家老の左右田と斎藤の二人が受け取った。受け取った首は、牛込の万昌院に葬られた。さらに、万昌院は、明治45年3月から大正3年12月にかけて、現在の地に移転した。そして、大正11年に三田聖坂から同地に移転してきた功運寺と昭和23年に合併し現在の名称となる。これが、中野の龍谷山万昌院功運寺に吉良の墓がある理由である。ところで、吉良邸にもどったときに、蘭学医・栗崎道有(1661-1726)が首と胴体の縫合を行なったという記録も残されている。

   吉良上野介が強欲非道の悪人であるというのは「忠臣蔵」など文芸の世界のことであって、知行地の三河国吉良荘では築堤や新田開発などを行った名君とうたわれ、文雅の士であったと伝えられる。

 

 

2019年12月15日 (日)

吉良邸討ち入りにかかる費用は?

 映画「決算!忠臣蔵」が公開中。原作は山本博文の「忠臣蔵の決算書」(新潮選書)討ち入りには莫大なお金がかかる。江戸と上方を往復する交通費、浪士たちの江戸での生活費、武器購入などの軍事費、浅野内匠頭の墓を建てる、などなどの仏事にも多大な費用がいる。内蔵助の敵をあざむくための祇園での放蕩は史実であろうか。さまざまな謎がわいてくる。神奈川県の箱根神社には「預金候金銀受払帳」の原本が所蔵されている。同社は仇討の元祖として有名な曽我兄弟と深い関わりを持ち、江戸時代には既に「仇討の神様」として広く知られていたのである。この史料によると討ち入りにかかった総額は約969両(現在の金額で約8200万円)と計上されている。最後に討ち入りのために江戸に下る旅費は、1人一律3両が渡されたとある。

 

2019年12月12日 (木)

浅野長矩辞世の歌は後世の偽作

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    浅野長矩の辞世の歌として知られる「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん」は、忠臣蔵映画には欠くことができないものである。これは、刃傷松の廊下の当日、御目付部屋に詰めていた目付、多門伝八郎が記した「多門伝八郎筆記」にみえる。しかし、宝永2年7月(1705年8月)以降に都乃錦という浮世作家(本名、宍戸円喜)の著作「播磨椙原」にある「風さそふ花よりも亦われは猶春の名残をいかにとかせむ」と酷似している。長矩の辞世は本人の作ではなく、円喜の創作とみるのが自然であろう。

  多門伝八郎重共(1658-1723)。1701年赤穂事件において浅野長政の取調べと切腹副検死役をつとめた。「多門筆記」は赤穂側に肩入れした記述が多く見られ、多門の著作ではなく、後世に別人が書いたとする説が有力である。刃傷事件後、1703年10月から多門は防火の仕事に従事し、1704年6月にはその功績で黄金三枚を賜わった。ところが8月2日になってその務めが良くなかったとされて小普請入りにされ、1705年には埼玉郡の所領も多摩郡に移された。1723年6月22日に死去、享年65歳。硬骨漢は出世コースをはずされ、不遇のうちに一生を過ごしたらしい。

 

 

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