大石忌
ゆるゆると湯葉召し上がる大石忌 (如酔)
元禄16年(1703年)のこの日、江戸幕府が赤穂浪士46名に切腹を命じた。泉岳寺にある赤穂浪士46人の墓には戒名が刻まれている。すべての墓には「刀」や「剣」の文字がつけられている。彼らの戒名は泉岳寺の僧侶がつけたと言われるが、「剣」と「刀」の文字は、曹洞宗で、「命を投げ出すほど重要なこと」を意味し、忠義を尽くしたことを表わしている。
昨日、時代劇専門チャンネルで「元禄太平記」を見る。原作は南条範夫の小説。(2月4日)
ゆるゆると湯葉召し上がる大石忌 (如酔)
元禄16年(1703年)のこの日、江戸幕府が赤穂浪士46名に切腹を命じた。泉岳寺にある赤穂浪士46人の墓には戒名が刻まれている。すべての墓には「刀」や「剣」の文字がつけられている。彼らの戒名は泉岳寺の僧侶がつけたと言われるが、「剣」と「刀」の文字は、曹洞宗で、「命を投げ出すほど重要なこと」を意味し、忠義を尽くしたことを表わしている。
昨日、時代劇専門チャンネルで「元禄太平記」を見る。原作は南条範夫の小説。(2月4日)
元禄14年に起きた赤穂事件は世間の浅野家家臣への同情論があり、浪士らをどのように処分すべきかは、幕府にとって厄介な問題であった。幕府内にも様々な意見があり、また世間の目もあった。こうした状況で、大石らをいかに処すべきか、学者の意見は二つに分かれた。林鳳岡・室鳩巣・三宅観蘭らは擁護論であり、大衆や多くの有識者はその仇討ちを義挙として礼賛している。しかし、荻生徂徠・佐藤直方らは反対の立場をとり処罰論であった。赤穂事件と関わりが深い儒者といえば、すぐに新井白石の名前があげられよう。白石は、上総久留里の土屋家に仕官していたことがあるので、土屋の一族とは交渉があった。赤穂の浪人たちが本所二ッ目の吉良屋敷に討ち入った翌日に、白石は、吉良屋敷の北隣であった土屋主税の屋敷を訪問している。白石の残している日記では、ただ訪問したことだけが書いているが、どういう目的で、なんのために行ったのか、よくわからないが、白石は土屋主税に会って前夜の模様を聴いている。白石の所説は、赤穂の浪士たちに同情的であること、少なくとも批判的であったり、冷厳であったりしていないと推測される。また白石の親しい後輩の室鳩巣は、「赤穂義人録」を著して、討ち入りを義とみなし、是認論の立場をとった。他方、否認論の立場をとったのは荻生徂徠である。徂徠の献言は「徂徠擬律書」に伝えられている。徂徠は「法」の立場から見れば、大石らの義挙は、私の論と言わざるをえない。故に許すことはできない。四十六士に罪ありとして、侍の礼をもって切腹を進言している。柳沢吉保の「柳沢秘記」に伝えるところらよると、幕議において夜盗同然の振る舞いという理由から打首に処するとの決定がなされたことを嘆いた柳沢吉保が、忠孝を顕彰する点から切腹とすべきであるという徂徠の意見によって、討議を変えさせたという話が伝えられている。いずれにせよ、幕府の裁定は吉良邸に討ち入った義士たちの行為が仇討ちとはならず、徒党禁止に違反したということにより、裁定は徂徠の意見をもって下された。(参考;尾藤正英「荻生徂徠」日本名著16 1969年)
忠臣蔵を題材にした映画・ドラマは少なくみても100本以上はあると思う。今年も「仮名手本忠臣蔵」(1962年)大曾根辰保監督 初代市川猿翁。「身代わり忠臣蔵」(2024年)ムロツヨシ、永山瑛大、川口春奈。吉良上野介は替え玉だった?「義士始末記」島田正吾、岡田茉莉子、岩下志麻。
2010年放送のABCドラマ「忠臣蔵 その男、大石内蔵助」140分で松の廊下から討ち入りまでを、よく知られた挿話を多数入れて構成したもので、「あらすじ忠臣蔵」という感じだった。スポンサー(ビール、メナード)の要請かも知れぬが主演の高齢化がいささか気になる。とくに田村正和(67歳)、妻りく岩下志麻(69歳)は、実年齢を20年はオーバーする。逆に大石主税は余りに幼く討ち入りは無理に見える。とくに田村は高齢のためか病気のせいか、声がでておらず、聞き取りにくい。ミスキャストが多かった。老齢すぎる山本学の堀部弥兵衛、弱そうな義士たち・尾美としのり、勝村政信など。清純すぎる傾城・石田ゆり子。やはり赤穂義挙をドラマチックにするためには事件の背景をもう少し掘り下げる必要がある。たとえば千坂兵部を登場させて、上杉綱憲(吉良上野介の子)の援護できない事情を描く。松の廊下で脇坂淡路守を登場させて「オノレ、不浄の血で汚すとは何事か」と吉良の額の傷にさらに扇子で殴打する場面、畳替えの畳職人の江戸っ子の心意気などないのは淋しい。こうなると一年かけた大河ドラマでも総花的、ジェットコースター的になってしまう。そこで義士銘々伝というふうに毎回47人の1人づつにスポットをあてたシリーズ物が見たい。
12月になると、ああ、また「忠臣蔵」か、という気分ながら、やっぱり最後まで見てしまう。新春ワイド時代劇「忠臣蔵~その義その愛」は内野聖陽が演じる堀部安兵衛とその妻ほり(常盤貴子)が主人公。堀部ほり(1675-1720)は討入り後、45歳で熊本で亡くなっている。木村拓哉の「忠臣蔵」(2001)では妻の深津絵里と離婚したことになっているが、今回は夫婦仲は良かったが、常盤貴子が明るすぎるのが不自然な感じだった。上杉家用人で吉良方についた親友吉川山右衛門(村田雄浩)との対決がドラマのメインか。吉川は清水一学の代わり。色部又四郎も千坂兵部の代わり。千坂はこのとき既に病死しているので、近年は色部となることが多い。最後の脱盟者毛利小平太の没年が不明なので、ドラマでは討入り直前に死ぬ場合と、生きのびて所帯を持って泉岳寺に墓参する場合がある。伊埼充則毛利小平太は墓参だった。全体に恋の絵図面取り、赤垣源蔵の徳利の別れや大石の東下りなどの人気の挿話を入れないのは、巷説を排し史実に近いシナリオといえる。とくに討入りで山鹿流陣太鼓はなかったのには驚いた。史実でも太鼓は打ち鳴らされなかったとされる。堀部安兵衛の人物像も巷談の「呑んべい安兵衛」とは異なり、史実に近いものとなっている。実際の安兵衛は酒を飲まなかったといわれるし、慎重で手堅い性格で能書家だったという。「武庸筆記」を書いて細井広沢に預けたことがドラマで紹介されているのも面白い。このように史実に近い忠臣蔵は評価できるものの、二刀流清水一学や和久半太夫、俵星玄蕃が登場しないと物足らなさを感じてしまう。元禄十五年十二月十四日の深夜は「仮名手本忠臣蔵」以来、雪の夜となっているが、堀部安兵衛の従妹、佐藤條右衛門が記した古文書によれば、討ち入りの日は月の夜だったとある。(浅野内匠頭殿御家士敵一件佐藤條右衛門一敞覚書)。義士の衣装も火事装束に統一されたものではなく、任意のものだったらしい。
大高源五は風流を解する武士で、俳人としても知られ子葉と号し、宝井其角と交流があった。当時、江戸に四方庵という著名な茶人がいて吉良邸に出入りしていた。源五は町人になりすまして四方庵の門を叩き、内弟子となった。13日、こうして四方庵から上野介の動静をさぐるうちに12月14日吉良邸で茶会の催しがあることをつきとめた。源五はその日の暮れ、両国橋にさしかかったところで偶然に其角と出会った。だが煤払いの笹売りに変装していた源五は其角に気づかれぬようそのまま通り過ぎようとした。しかし其角は「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源五も思わず、「あしたまたるる その宝船」と返歌した。源五からその報告を受けた内蔵助は、討ち入りを14日夜と決めた。
源五の辞世の句がある。
梅でのむ 茶屋もあるべし死出の山
だがこの名高い逸話も事実ではなく、大高源五と其角とは面識はなかった。為永春水の「伊呂波文士」による虚構あたりが、出典とされる。史実は大高源五は水間沾徳の門弟である。沾徳は其角の没後、享保期の江戸俳壇の中心となった。代表句をあげる。
帯ほどに川も流れて汐干かな
汐が遠く引いたので、海へ流れ込んでいる川が゛、干潟の中に細く帯のようにみられるという大意。
(参考:祖田浩一「なぞ解き忠臣蔵」)
赤垣源蔵は大の酒好き。脇坂淡路守に仕える塩山伊左衛門という兄がいた。ある雪の夜、源蔵は貧乏徳利と土産の品をさげて、芝新銭座にある兄の家をひょっこり訪ねた。折悪しく兄は留守で、嫂は癪で臥せていた。いつもは着たきり雀の源蔵は、今日に限って珍しく小袖を着ていたが、下女のおすぎに暫く待たせてもらうと断わって、横になってひと眠りした。目が覚めたが兄はまだ帰らない。すると源蔵は、兄の羽織を出させ、衣紋かけに通して柱にかけ、湯呑みに冷や酒を注いでその前におくと、居ずまいを正して両手をつき、「兄上、今日はお暇乞いに参りましたが御不在、源蔵、力なく戻ります」といって、ホロリとひとしずく、おすぎに遠方へ行くといって、帰っていった。
その夜、兄は若党をつれて帰ってきたが、明くれば元禄15年12月15日、雪の朝の日本晴れ。大勢の者が、「仇討ちの引きあげだ」と叫びながら駆けて行く。よく聞くと、赤穂の浪人が吉良上野介の屋敷へ討ち入り、引きあげる途中だという。伊左衛門は驚いて、すぐ若党を走らせた。若党は返り血を浴びた源蔵に会い、槍につけた短冊や笛、癪の薬、小判などを貰って帰ってきた。伊左衛門は源蔵が残したた貧乏徳利とそれらの品物を床の間におき、その前に両手をついて、「源蔵、昨日は残念であった」と語りかけた。
これをみたおすぎはたまげて、「昨日は源蔵さまが着物に口をきいていらっしゃいましたが、今日は、旦那さまが徳利に口をきいていらっしゃいます」
さて、このことが脇坂淡路守のお耳に入り、伊左衛門は五十石の加増、貧乏徳利は脇坂家の家宝になり、徳利の入った箱には、「忠義赤垣の徳利」と墨くろぐろと書かれたという。
この有名な「赤垣源蔵徳利の別れ」はつくり話であろう。赤垣には兄はおらず、弟と妹がいるだけである。(参考:「決定版忠臣蔵のすべて」人物往来社)
元禄14年の3月14日午前9時半ごろ。
江戸城の松之廊下で勅使供応役の播磨国赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が儀式典礼の指導役である高家筆頭の吉良上野介義央に刃傷に及んだ。
唯一の目撃者である梶川与惣兵衛頼照の「梶川氏筆記」によれば、梶川と上野介が松之廊下の角住付近で立ち話をしたあと、上野介が去ろうとする背後から内匠頭が突然大きな声をあげて斬りつけた。
「この間の遺恨、おぼえたか」
内匠頭の小刀が上野介の大紋(式服)の背を切り裂き、驚いて振り向く上野介の額に二の太刀が振りおろされ、烏帽子の金具にあたる響きがして、血潮が流れ散った。おびえた上野介は、ぐったりとし、その場に倒れ込んだ。梶川は内匠頭を羽交い絞めにしてとめた。
多門伝八郎重共、近藤平八郎の取り調べに対し、内匠頭は「かねて遺恨があったので斬った」と陳述、上野介のほうは「恨みを抱かれるおぼえがない。内匠頭殿は乱心されたのであろう」と申し立てた。幕閣では、将軍のいる殿中での刃傷は大罪であるが、よく取り調べてから処分したいとした。
しかし、激怒した将軍徳川綱吉は、内匠頭に即日切腹を命じ、上野介には神妙な態度であったとして、お構いなしとした。綱吉は勅使・院使を迎えての大切な式日に刃傷事件を起こした内匠頭を不敬罪としたのである。
当時、喧嘩両成敗という幕法の建前から、理非にかかわりなく双方の当時者が処罰の対象になるのが慣例であった。それなのに、将軍の裁きということで一方的に内匠頭だけが処断されたのである。ここに復讐への一つの伏線が生まれてくる。この処罰は、そのころの武士の正義の感情からは許すことのできないものであった。
網打ち駕籠に乗せられて陸奥国一関領主の田村右京大夫建顕邸に入った内匠頭は、家来への連絡も許されないまま、庭前で切腹させられた。このことも赤穂義士たちの憤激を招く要因となった。内匠頭は従五位下の官位を持った大名である。座敷での切腹が当然であり、庭前での切腹は非礼違法にわたり、武士への大きな恥辱であった。
風さそう花よりもなほ我はまた
春の名残をいかにとやせん
多門伝八郎覚書による内匠頭の辞世の歌。哀切な辞世を残して35歳の生涯を閉じた。
片岡源五衛門は、最後にひと目、主君に拝領したいと願い出た。検使・多門伝八郎のはからいで、切腹の座にのぞむ内匠頭が書院を通るさい、はるか庭先から、拝領することができた。双方、無言のまま、視線をかわしたが、まことに断腸の思いであった。やがて、遺骸をうけとって泉岳寺へ葬った。このとき、田村家から渡された遺言状を読んだ。内匠頭の口上を覚書として書き留めたもので、「刃傷事件の原因を知らせておくべきだった。定めし不審に思うであろうが…」といった内容で、宛名は源五右衛門と磯貝十郎左衛門になっていた。その場で、片岡源五衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門の4人は髻を切り、墓前に供えた。幕命によって江戸藩邸を引き渡すと、片岡、磯貝、田中の3人は、赤穂へ戻る。赤穂義挙の序曲が始まった。
本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、加古川本蔵、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても日本人は忠臣蔵が大好きである。ところが最近は新作が無くなったのはなぜだろうか?理由は忠臣蔵はオールスター総出演が相場で、ギャラや製作費に膨大なお金がかかり儲からないからであろう。 (12月14日)
映画「決算!忠臣蔵」。原作は山本博文の「忠臣蔵の決算書」(新潮選書)討ち入りには莫大なお金がかかる。江戸と上方を往復する交通費、浪士たちの江戸での生活費、武器購入などの軍事費、浅野内匠頭の墓を建てる、などなどの仏事にも多大な費用がいる。内蔵助の敵をあざむくための祇園での放蕩は史実であろうか。さまざまな謎がわいてくる。神奈川県の箱根神社には「預金候金銀受払帳」の原本が所蔵されている。同社は仇討の元祖として有名な曽我兄弟と深い関わりを持ち、江戸時代には既に「仇討の神様」として広く知られていたのである。この史料によると討ち入りにかかった総額は約969両(現在の金額で約8200万円)と計上されている。最後に討ち入りのために江戸に下る旅費は、1人一律3両が渡されたとある。
吉良の江戸屋敷がある本所松坂町で夜泣き蕎麦屋を引く赤穂の浪人・杉野十平次がいた。かたや横網町で道場を開きながら酒と博打で空しい日々を過ごす浪人・俵星玄蕃がいた。そして2人が出会う。玄蕃はかって酒に酔って赤穂藩の行列に狼藉をはたらいたが、浅野公のはからいで一命を救ってくれた恩義があった。三波春夫が歌う歌謡浪曲「♪姿そば屋にやつしてまでも忍ぶ杉野よせつなかろ」もちろん玄蕃と杉野の友情は巷説である。赤穂47士の中で何故杉野が選ばれたのか。年齢が28歳というのは芝居として絵になるだろう。吉良屋敷への討ち入りで家の内へ入る者(磯貝、堀部、倉橋、杉野、赤埴、菅谷、大石瀬左衛門、村松、三村)の一人だったこと。それにもっとも大きな理由は杉野十平次の末裔は日露戦争旅順閉塞隊で行動し戦死した杉野孫七兵曹長であること。「杉野はいずこ」明治講談はなやかりし頃、杉野という名前が大衆受けするとよんだのだろうか。余談ながら杉野兵曹長は旅順港で死んだことになっているが、実は生きていたという説が昭和になって流れた。真相は今となってはわからないままである。(3月27日)
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