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2022年3月14日 (月)

刃傷松の廊下

    元禄14年のこの日、赤穂藩主浅野長矩、江戸城中の松の廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶ。江戸幕府『御日記』の元禄14年3月14日の条の大略は次のとおりである。

  御馳走人浅野長矩は差してした小刀を抜いて大廊下において吉良義央を切り付けた。長矩は、遺恨がある、と叫んでいる。御留主居梶川与惣兵衛、長矩を抱留候。長矩は田村右京太夫に御預。その夜、長矩に「時所をわきまえず、ひが挙動せり」として切腹が命ぜられる。義央は罪がないとして、「刀疵を治療せよ」という将軍綱吉の言葉が伝えられた。これまで江戸城内における刃傷事件は数件発生していたが、即日切腹の例はない。午後6時10分頃、幕府の正検使役として庄田安利、多門重共、大久保忠鎮らの立会いのもと、磯田武大夫の介錯で切腹して果てた。享年35。「多門筆記」によれば、長矩は「風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」という辞世を残したとしている。だがこの辞世の後の創作だとする説もある。というのも、切腹の様子を記録した「奥州一関藩主村田家文書」には、辞世を詠んだという記述は見当たらないからである。

 

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耐えて忍んで 耐えかねて

 

闇を引きずる長袴

 

心もつれて よろめいて

 

怨念ここにきわまれり

 

おのれ憎ッくき吉良の少将

 

過日の遺恨 覚えたか

 

抜いて白刃の乱れ舞

 

松の廊下に血のしぶき

 

乱心召さるな 浅野殿

 

取って押さえて 羽交い締め

 

梶川与惣兵衛 大音声

 

殿中でござる 殿中でござる

 

刃傷でござる 刃傷でござる

 

お放しくだされ 梶川殿

 

討ち損じては 武門の恥辱

 

武士の情けじゃ いま一太刀

 

恨み晴らさで おくべきか

 

時は元禄 十四年

 

春は弥生の十四日

 

殿中刃傷 もってのほかと

 

公儀の裁き 即日切腹

 

播州赤穂五万石

 

浅野内匠頭長矩は

 

桜吹雪の舞い散る陰で

 

葉末の露と消えにけり

 

 

 

 

2022年2月 5日 (土)

「人生劇場」と三州横須賀村

Photo_5     尾崎士郎(1898-1964)は、明治31年2月5日、愛知県幡豆郡横須賀町上横須賀(現・西尾市)に、父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。尾崎家は家号を辰巳家と号し、代々綿実買問屋を営んでいたが、かたわら明治半ば迄煙草製造にも手をそめていた。士郎が誕生の頃より、家運は傾いてきたものの、嘉三郎は明治20年より上横須賀郵便局長を兼業、まだまだ地元の名士だった。

    尾崎士郎といえば「人生劇場」である。「都新聞」文芸部長上泉秀信の依頼で同紙に連載した、尾崎士郎の自伝的長編小説「人生劇場」は、「青春篇」(昭和8年)「愛慾篇」(昭和9年)「残侠篇」(昭和11年)「風雲篇」(昭和14年)「遠征篇(後の離愁篇)」(昭和18年)「夢現篇」(昭和22年)「望郷篇」(昭和26年)「蕩子篇」(昭和34年)と戦後に至るまで諸紙誌に書き継がれた。物語は青成瓢吉が三州横須賀村から上京し、早稲田大学に入学。飛車角、吉良常などが絡みながら、人生いかにいきるべきかを求めて彷徨するという青春小説。尾崎家は、大正5年、父嘉三郎死亡した。生前相場に手を出し失敗、郵便局長の職は長兄重郎が継いだ。その長男も大正7年ピストル自殺した。郵便局の公金横領を苦にというのがその表向きの理由であった。ともかく一家は没落した。

   尾崎士郎の出身地である愛知県幡豆町横須賀町というのは、戦後吉良町上横須賀に住居表示が変更されている。「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の所領であった横須賀村である。「人生劇場」の書き出しも次のように書かれている。

                                  *

   三州吉良港。一口にそう言われているが、吉良上野の本拠は三州横須賀村である。後年、伊勢の荒神山で、勇ましい喧嘩があって、それが今は、はなやかな伝説になった。そのときの若い博徒が、此処から一里ほどさきにある吉田港から船をだしたというので、港の方だけが有名になっているが、しかし吉良という地名が現在何処にも残っているわけではない。その、吉良上野の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面。吉良上野が彼の所領においては仁徳の高い政治家であったということの反証にもなるが同時に他の一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。まったく「あいつは吉良だ!」ということになると旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも(忠臣蔵なんて高々芝居じゃねえか)、という気持ちがわいてくる。(うそかほんとかわかるものか、あんなものを一々真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難癖をつけられているうちのおとのさまの方がお気の毒だ)三州横須賀は肩をそびやかしたものである。相手にしないならしなくてもいい。そのかわり日本中の芝居小屋で「忠臣蔵」がどんなに繁盛しようとも、この村だけへは一足だって踏み入れたら承知しねぇぞ!平原の中にぽつねんと一つ、置きわすれられた村である。

2022年2月 4日 (金)

大石忌

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ゆるゆると湯葉召し上がる大石忌 (如酔)
   1703年のこの日、江戸幕府が赤穂浪士46名に切腹を命じた。泉岳寺にある赤穂浪士46人の墓には戒名が刻まれている。すべての墓には「刀」や「剣」の文字がつけられている。彼らの戒名は泉岳寺の僧侶がつけたと言われるが、「剣」と「刀」の文字は、曹洞宗で、「命を投げ出すほど重要なこと」を意味し、忠義を尽くしたことを表わしている。(2月4日)

 

 

2021年12月14日 (火)

奥田孫太夫重盛

    俳句の冬の季語に「義士会」というのがある。12月14日、赤穂浪士義挙追慕の催しが行われる。「広辞苑」には義士の名前が数人は載っているものの全員ではない。赤垣源蔵、寺坂吉右衛門はあるが、不破数右衛門、奥田孫太夫の名はない。なんとなく不公平な気がしている。

    奥田孫太夫ほど不運な人はない。もともと鳥羽3万石内藤忠勝の家臣であった。ところが延宝8年6月将軍家綱の法事が芝増上寺で行われたとき、内藤忠勝は、丹後宮津藩主永井尚長に斬り殺された。いわゆる増上寺刃傷事件である。孫太夫は忠勝の姉が浅野長友(浅野長矩の父)に嫁したとき、その付人となったので、改易後も、そのまま浅野家の家臣になったのである。主家断絶に2度遭ったとは、奥田孫太夫はよくよく不運である。また寺坂吉右衛門のように歌舞伎や映画に取り扱われることもなく、死後も広辞苑にその名が記されず、世にその名が知られないのも不運である。

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

 

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても日本人は忠臣蔵が大好きである。ところが最近は新作が無くなったのはなぜだろうか?理由は忠臣蔵はオールスター総出演が相場で、ギャラや製作費に膨大なお金がかかり儲からないからであろう。 (12月14日)

 

 

2021年12月 9日 (木)

元禄名槍伝・俵星玄蕃

   戦後はGHQ命令で、復讐をテーマとするものは一切認められず、なかでも「忠臣蔵」は最も禁じられた題材だった。しかし、みすみす作れば儲かる「忠臣蔵」をほっておく手はないと、東映が昭和27年、おっかなびっくり「忠臣蔵」のタイトルをさけて「赤穂城」を作った。昭和30年になれば、そろそろ忠臣蔵映画も宜しかろうに、松竹映画「元禄名槍伝 豪快一代男」(芦原正監督)は忠臣蔵外伝・俵星玄蕃の登場である。近衛十四郎の玄蕃に、諸角啓二郎の杉野十平次。戦前の映画には、俵星玄蕃が主演のものもあるが、この映画のように尾張家の家来の時代から浪人となり、江戸で町道場を開き、酒と博打に暮れるという、玄蕃オンリーの映画は珍しい。そば屋の杉野の出番も少ない。のちの東映「血槍無双」も同様の筋立てながら、杉野十平次(大川橋蔵)が主役となっている。「血槍無双」(昭和34)の片岡千恵蔵、「忠臣蔵」(昭和37)の三船敏郎が演じているが、近衛・俵星には及ばない。

   ところで赤穂義士の討ち入りに協力したといわれる槍の名人、俵星玄蕃は実在の人物か?もちろん架空の人物で、講談や浪曲でお馴染みであるが、文化年間(1804から1817)のころに講釈師の大玄斎番格が創作したとされます。(高札めぐり両国歴史散歩」墨田区観光協会 2009年) すでに江戸の寛文6年の歌舞伎にその名がでてくる。つまり大星由良助の「星」と「俵」を放る妙技から2つをくっつけて「俵星」というネーミングを考案したのであろう。映画「豪快一代男」でも悪党の渡辺篤を俵で懲らしめるシーンがある。それにしても中台登「忠臣蔵映画一覧」にも漏れた作品であるが、今回初めて見たが近衛十四郎の豪快さが俵星玄蕃とマッチして、痛快娯楽作品に仕上がっている。草間百合子、由美あづさ等共演し華をそえている。

2021年12月 4日 (土)

定九郎

 BSプレミアムで今夜放送される「忠臣蔵狂詩曲№5」。実話をベースにした話で中村勘九郎が初世中村仲蔵を演じる。斧定九郎とは、  (歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」五段目に登場する人物で、斧九郎兵衛(大野九郎兵衛の捩り)から勘当されて、百姓与市兵衛を殺して金をうばう、放蕩無頼の武士や、泥棒、追いはぎのこと。初世中村仲蔵(1736-1790)が五段目の定九郎に新演出を試み、大入りを呼ぶ人気狂言の一つになった。もともと定九郎の出番は殺人をしたあと、勘平にイノシシと間違われて鉄砲に撃たれて死ぬだけの役であったが、古典落語「斧定九郎」では、つまらない山賊の役をあてがわれた仲蔵が、癪にさわり一念発起、現代のような定九郎像をこしらえる逸話をモチーフとしている。定九郎については、有名な話が残されている。ある日にわか雨に会った仲蔵は本所南割下水のそば屋で雨宿りをしていると、浪人が駆け込んできた。破れた蛇の目をさし、黒羽二重の引解の単物を着て朱鞘の大小という態、五分月代にふくんだ雨をわが手でしぼる様子を見て、これを定九郎の扮装にとりいれた。初演以来の山岡頭巾に夜具縞の広袖という山賊さながらの姿を、浪人風に変えて大成功をおさめたのである。もちろんあくまで話で、この演出の工夫は仲蔵が師と仰いだ四代目団十郎が毎月開いていた修行講の所で示唆されたというのが真相のようだ。

2021年2月11日 (木)

堀部安兵衛の妻

    高田の馬場16人斬りで有名な赤穂義士の妻と称する尼僧がいるという。赤穂義挙から70年以上も経た安永の頃の話である。ところは高輪泉岳寺の境内の清浄庵にいつのまにか住みついている。その名を妙海尼という。噂を聞いて、多くの者達が寺へやってくる。その一人に丹波国篠山藩士の佐治数馬為綱があった。彼は尼僧の話を丹念に聞き1冊の書物にした。これが『妙海尼話』(安永3年刊)である。 堀部安兵衛の父は越後国新発田の溝口信濃守の馬廻役。二百石の中山弥次右衛門といった。江戸に出た安兵衛は赤穂藩士の江戸留守居役の堀部弥兵衛に見込まれ、娘の「ほり」(お幸とも)の婿になったといわれる。妙海尼は赤穂義士たちの世評の高まりに合わせて、安兵衛の妻を偽称したのであろう。妙海尼は安永7年に93歳で亡くなった。(2月11月)

 

 

2020年12月26日 (土)

笹売り源五

Photo

 

   大高源五は風流を解する武士で、俳人としても知られ子葉と号し、宝井其角と交流があった。当時、江戸に四方庵という著名な茶人がいて吉良邸に出入りしていた。源五は町人になりすまして四方庵の門を叩き、内弟子となった。13日、こうして四方庵から上野介の動静をさぐるうちに12月14日吉良邸で茶会の催しがあることをつきとめた。源五はその日の暮れ、両国橋にさしかかったところで偶然に其角と出会った。だが煤払いの笹売りに変装していた源五は其角に気づかれぬようそのまま通り過ぎようとした。しかし其角は「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源五も思わず、「あしたまたるる その宝船」と返歌した。源五からその報告を受けた内蔵助は、討ち入りを14日夜と決めた。

 

 源五の辞世の句がある。

 

  梅でのむ 茶屋もあるべし死出の山

 

  だがこの名高い逸話も事実ではなく、大高源五と其角とは面識はなかった。為永春水の「伊呂波文士」による虚構あたりが、出典とされる。(参考:祖田浩一「なぞ解き忠臣蔵」)

 

 

2020年12月24日 (木)

梶川与惣兵衛、伊達宗春のその後

   毎年この時季になると全国12000人の梶川さんは憂うつになるという。テレビできまって忠臣蔵が放送される。「武士の情けをご存じあれ。その手をはなし今一太刀討たせて下され。梶川どの・・・」梶川与惣兵衛とは浅野匠頭を背後から抱きかかえて止めた人物。そのため吉良の傷は浅手で済んだ。

   元禄14年3月14日午前10時頃、江戸城中で公式の儀式が行なわれる白書院近くの松の廊下で刃傷事件が起こった。勅使接待役である播州赤穂5万3千石の領主浅野内匠頭長矩が差していた小刀を抜いて、梶川頼照と立ち話をしていた高家吉良上野介義央に切りかかった。長矩は、遺恨がある、と叫んでいる。頼照が抱き留める。急を知った高家衆が駆けつけ、両者を引き離し、監察の任にある大目付・目付に連絡をした。まず、城中の自分の控室にいた義央が事の次第を聞かれた。そしてその言い分が聞き入れられ、帰宅を許される。大目付の部屋で監察されていた長矩は、田村右京大夫建顕に当分の間預けるということで、その屋敷に移されたが、午後6時過ぎには建顕邸で切腹の申し渡しを受けた。この時、吉良義央は62歳、浅野長矩は37歳であった。以上が赤穂浪士討入り事件の発端となった「刃傷松の廊下」の概略である。

   松の廊下の主役となった三人、浅野長矩、吉良義央、梶川頼照。この中で梶川のその後はあまり知られていない。大奥留守居番、梶川与惣兵衛頼照は、突然目の前で起こった刃傷に動転し、浅野長矩を組み止めた咄嗟の行為に世間から強い非難の声が上がり、心ならずも彼の人生を、悔恨と自責の一生に終わらせる結果となった。事件より五日経って、刃傷を制した功績によって梶川に五百万加増の沙汰があり、千二百石に取立てられた。本来ならば家門の名誉と喜ぶべきところ、この事件に関する限り世間の目は冷たく、浅野が家名を捨て、死を賭しての刃傷になぜ討たせてやらなかったのか、武士の情けも弁えぬ武骨者よと、厳しい非難の声のみが彼に集中したのであった。晩年の梶川は、享保4年、御鎗奉行の任を辞し、同8年8月8日、77歳で亡くなっている。墓は天徳院(中野区上高田)にある。武士の墓らしく立派な墓塔であるにもかかわらず、無縁墓地の中に置かれ、殆ど訪れる人も無いという。彼もまた、刃傷の犠牲者の一人であった。ちなみに浅野内匠頭といっしょに勅使供応役を努めた伊達左京亮宗春も凶事の現場に居合わせ、浅野の取り押さえに加わっている。3年後に伊予吉田藩主に出世している。(参考:林亮勝「元禄事件 その虚と実」、窪田孟「刃傷の犠牲者 梶川与惣兵衛」『忠臣蔵のすべて』新人物往来社収録)

 

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 梶川与惣兵衛の墓(天徳院)

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