無料ブログはココログ

2017年2月 5日 (日)

「人生劇場」と三州横須賀村

Photo_5     尾崎士郎(1898-1964)は、明治31年2月5日、愛知県幡豆郡横須賀町上横須賀(現・西尾市)に、父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。尾崎家は家号を辰巳家と号し、代々綿実買問屋を営んでいたが、かたわら明治半ば迄煙草製造にも手をそめていた。士郎が誕生の頃より、家運は傾いてきたものの、嘉三郎は明治20年より上横須賀郵便局長を兼業、まだまだ地元の名士だった。

    尾崎士郎といえば「人生劇場」である。「都新聞」文芸部長上泉秀信の依頼で同紙に連載した、尾崎士郎の自伝的長編小説「人生劇場」は、「青春篇」(昭和8年)「愛慾篇」(昭和9年)「残侠篇」(昭和11年)「風雲篇」(昭和14年)「遠征篇(後の離愁篇)」(昭和18年)「夢現篇」(昭和22年)「望郷篇」(昭和26年)「蕩子篇」(昭和34年)と戦後に至るまで諸紙誌に書き継がれた。物語は青成瓢吉が三州横須賀村から上京し、早稲田大学に入学。飛車角、吉良常などが絡みながら、人生いかにいきるべきかを求めて彷徨するという青春小説。尾崎家は、大正5年、父嘉三郎死亡した。生前相場に手を出し失敗、郵便局長の職は長兄重郎が継いだ。その長男も大正7年ピストル自殺した。郵便局の公金横領を苦にというのがその表向きの理由であった。ともかく一家は没落した。

   尾崎士郎の出身地である愛知県幡豆町横須賀町というのは、戦後吉良町上横須賀に住居表示が変更されている。「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の所領であった横須賀村である。「人生劇場」の書き出しも次のように書かれている。

                                  *

   三州吉良港。一口にそう言われているが、吉良上野の本拠は三州横須賀村である。後年、伊勢の荒神山で、勇ましい喧嘩があって、それが今は、はなやかな伝説になった。そのときの若い博徒が、此処から一里ほどさきにある吉田港から船をだしたというので、港の方だけが有名になっているが、しかし吉良という地名が現在何処にも残っているわけではない。その、吉良上野の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面。吉良上野が彼の所領においては仁徳の高い政治家であったということの反証にもなるが同時に他の一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。まったく「あいつは吉良だ!」ということになると旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも(忠臣蔵なんて高々芝居じゃねえか)、という気持ちがわいてくる。(うそかほんとかわかるものか、あんなものを一々真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難癖をつけられているうちのおとのさまの方がお気の毒だ)三州横須賀は肩をそびやかしたものである。相手にしないならしなくてもいい。そのかわり日本中の芝居小屋で「忠臣蔵」がどんなに繁盛しようとも、この村だけへは一足だって踏み入れたら承知しねぇぞ!平原の中にぽつねんと一つ、置きわすれられた村である。

2017年1月14日 (土)

萱野三平の自決

Img_0915_2s

    大阪府箕面市萱野に「忠臣蔵」で有名な萱野三平(1675-1702)の墓がある。萱野氏は芝村(箕面市)に領地をもつ豪族であった。三平は父重利の主人大島伊勢守義全の推挙を受けて播州赤穂に仕えた。刃傷事件直後、馬廻役の三平は早水藤左衛門とともに赤穂の大石に第一報を注進している。江戸から赤穂までは155里、すなわち620キロ。旅人なら17日、飛脚で8日かかるところをわずか4日半で走破している。

   長矩刃傷事件後、三平は郷里の芝村へ戻ったが、父から大島家へ仕官を勧められる。大島家は吉良家とのゆかりの深い家柄である。旧主への忠義と父への孝行との板ばさみに悩み、1702年1月14日、28歳の若さで切腹した。萱野三平の話は、高田郡兵衛と常に比較される。高田郡兵衛が後々まで非難されるが、三平は義に生きたとして、「48番目の義士」といわれる。この話は後年脚色されて、「仮名手本忠臣蔵」では早野勘平とされ、お軽と駆け落ちをして、自害して果てる悲劇となっている。

   芝高輪の泉岳寺にも萱野三平の供養塔があるといわれている。大高源五の傍らにある「刃道喜剣信士」と刻まれた供養塔はこれまで村上剣喜のものといわれていたが、最近では萱野三平のものと考えられている。三平は涓泉の号をもつ俳人で『蟾蜍賦』があり、大高源五の傍に葬られたのかもしれない。

2017年1月 8日 (日)

月光院

   月光院(1685-1752)は、徳川家宣の側室で、7代将軍家継の生母。側室としての名は喜世(きよ)が知られる。NHK土曜ドラマ「忠臣蔵の恋」で武井咲がヒロインきよを演じている。この忠臣蔵、吉良邸討ち入り→切腹で話は終わらない。赤穂義士の一人、磯貝十郎左衛門と契を交わしたきよが討ち入り後、大奥に出仕し、側室となり、やがてのちの将軍を産む。だが、「忠臣蔵の恋」のように、きよと磯貝とが恋仲であったかどうかはっきりとした歴史資料は見当たらない。ドラマの原作者、諸田玲子は「四十八人目の忠臣を書くにあたって主人公を磯貝十郎左衛門にした理由について「消去法によって四十七士を絞った結果」と講演で述べている。やはり、きよと赤穂浪士の関係は小説やドラマの中の話と考えるべきである。

2016年12月14日 (水)

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても何故日本人は復讐劇の忠臣蔵が好きなのだろうか? (12月14日)

2016年12月10日 (土)

忠臣蔵映画

   年末恒例といえばベートーベンの「第九交響曲」と「忠臣蔵」。明治以来、忠臣蔵を題材とした映画(義士銘々伝を含む)は映画・ドラマ合わせると100本は超えるであろう。最初は明治41年(1908)の「忠臣蔵」片岡仁左衛門一座。歌舞伎劇活動写真とあるだけで内容その他不明。戦後は大映の長谷川一夫「忠臣蔵」(1958)、東映の片岡千恵蔵「忠臣蔵」(1959)、東宝の松本幸四郎「忠臣蔵」(1961)の3本が代表作。大映作品、渡辺邦男監督の「忠臣蔵」を観る。長谷川一夫、市川雷蔵、鶴田浩二、勝新太郎など男優陣はほとんどが故人となった。存命は大高源吾の品川隆二(83歳)、矢頭右衛門七の梅若正二(80歳)くらいか。

2016年12月 4日 (日)

最後の脱盟者・毛利小平太に萌え

 只今、放送中の「忠臣蔵の恋」。なぜか脱盟者で知られる毛利小平太の扱いが大きいような気がする。注目の若手俳優、泉澤祐希が演じている。来年の朝ドラ「ひよっこ」でさらにブレイクの予感がする。

   毛利小平太は二十石三人扶持の微禄だが、吉良邸探索には最も活躍し、大きな功があった。だが、兄のもとに暇乞いに行った際、うっかり大事をもらしてしまった。この兄は内匠頭の従弟にあたる三河国畑村の領主の戸田弾正氏成の家臣であったから、主家に迷惑の及ぶのを恐れ、お公儀に訴え出ると脅迫した。進退きわまった小平太は、討入りの数日前に、一書を残して姿を消した。同志たちは彼の脱落を、殊に惜しんだそうだ。(参考:一条明「脱盟の浪士」『仇討ちと騒動』所収)

2016年12月 3日 (土)

小山田庄左衛門

Sashie2

   赤穂浅野家が断絶し、47人が忠義の士として称賛を浴びる一方、義盟に加わった同士のなかにも70人の脱盟者がいた。高田郡兵衛、毛利小平太などの脱盟者がよく知られるが、橋本平左衛門も遊女淡路屋お初と大坂で心中した。そして小山田庄左衛門も実在の人物で、不義士としての汚名を残した1人である。

    元禄15年11月5日、大石内蔵助らが江戸入りした時は、庄左衛門も堀部安兵衛らと同居していた。12月3日の最後の深川会議の前、同志片岡源五右衛門から、金子3両と小袖を盗んで逃亡したと伝えられる。81歳になる父の十兵衛は義士に詫びて、自決した。大佛次郎の小説「赤穂浪士」では庄左衛門と穂積惣右衛門の娘の幸との悲恋が描かれている。

2016年9月26日 (月)

礒谷十郎左衛門

   NHK土曜時代劇「忠臣蔵の恋」。武井咲が扮するきよが思いを寄せる四十七士のひとり礒谷十郎左衛門とは。彼は非常な美男だったので、しばしば忠臣蔵では色恋話で脚色される。よく知られるのは、吉良邸の女中に近づき、広大な屋敷の絵図面を探った話である。また歌舞音曲を愛した。死後、遺品の中から、紫縮緬の袋に入った琴の爪が出てきた。

2016年4月23日 (土)

長命だった脱盟者・奥野将監

374b0c11e5fffb584596e021637277ed   刃傷事件が起こってから討ち入りまでの1年9カ月の間、さまざまな理由で義士になれなかった者たちがいる。家老の大野九郎兵衛は「逐電家老」と罵られ、岡林直之は「一家の恥」と責め立てられ、切腹に追い込まれた。小山源五右衛門、進藤源四郎、小山田庄左衛門、高田軍兵衛、毛利小平太、萱野三平、瀬尾左坐衛門なども討ち入りには参加できなかった。

   赤穂浪士の1人、奥野将監定良(1647-1727)が隠れ住んだという屋敷跡が兵庫県加西市下道山にある。加西市の一部は赤穂藩の飛び地の領地だったらしい。将監は、赤穂藩で大石良雄に次ぐ重臣で、江戸城刃傷事件の後、大野九郎兵衛に代り、大石と明け渡しに努力し、最初の義盟にも加わった。しかし元禄15年7月、浅野家再興が不可能になると、8月、奥野弥五郎と共に脱盟した。その後、将監の娘が磯崎神社の神宮寺に嫁いでいるのを頼り、ここにしばらく居を構えた。奥の墓石は将監の娘の子の墓と伝えられる。将監はその後、現在の中町の延明寺に移り住んだ。享年は82歳といわれ、長命だった。

2016年4月10日 (日)

土屋逵直(つちやみちなお)

   元禄15年、赤穂浪士が討ち入った本所松阪町にある吉良邸の北側に隣接していたのは、東側が福井藩本多家江戸屋敷で、西側が旗本の土屋主税邸である。土屋主税は正しくは、土屋逵直という名で、高提灯を掲げた人物として講談や映画の忠臣蔵で有名になっている。土屋逵直は吉良家に加勢せず、逆に塀に沿って灯りを掲げ、その下には射手を待たせ、塀を越えてくる者があれば誰であろうと射て落ちとせと命じたとある。

Photo

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28