無料ブログはココログ

2017年12月13日 (水)

赤穂義士銘々伝・吉良邸絵図面取り

    赤穂討ち入り前、吉良屋敷の現況を探るため、浪士たちのさまざまな行動がフィクションで語られている。たとえば神埼与五郎は火事が発生したとき屋根に上り、吉良屋敷を上から偵察したとか、前原伊助が米屋になって邸内を探ったという逸話が伝わる。もっともよく知られる話は、岡野金右衛門が大工の棟梁、平兵衛の娘お艶といい仲になり、とうとう絵図面を借り出すことに成功するというドラマのワン・シーンである。このほか、非常に美男だった磯貝十郎左衛門が吉良邸の女中に近づき、上野介の居間がどこにあるか探ろうとしたという巷説もある。「寺坂信行筆記」や「波賀清太夫覚書」などによると、吉良邸の絵図面は2つのルートから新旧2枚を手に入れたと考えられる。一つは吉良邸の隣の旗本・本多孫太郎家来の忠見氏。忠見氏は堀部弥兵衛の生家である。今一つは吉良邸の前主の旗本・松平登之助家来、太田加兵衛。加兵衛は大石瀬左衛門の伯父である。この新古2枚の絵図面の入手はさほど困難ではなかったようである。したがって、岡野金右衛門の恋の絵図面取りはなかったであろう。

赤穂義士銘々伝・神崎与五郎、堪忍の詫証文

Img_0006

   神崎与五郎則休(1666-1703)。代々、美作津山森家に仕えた武士の家に生まれ、その少年時代を津山の城下町で過ごした。森家改易の後、赤穂浅野家に召し抱えられ、五両三人扶持と役料五石が与えられた。

    元禄15年3月、神崎与五郎は、大石内蔵助の内命を帯びて、京から江戸へ向かった。内匠頭に仕えてわずか5年、五両三人扶持の微禄ながら誠実の士であり、お家断絶ののちも内蔵助の任あつく、このたびも、その機敏、堅実、忍耐と三拍子そろった人柄を見こまれての出府であった。与五郎は道中を急ぎに急ぎ、やがてさしかかったのが箱根の山であった。とある茶屋でしばしの憩いをとっていた。そこへ馬方がひとりはいってきた。街道一の暴れ者として人々に嫌われている丑五郎というならず者である。「お侍さん、馬はどうだね」呼びかけられた与五郎は、何気なく「わしは馬は嫌いだ」と答えた。「なに!侍のくせに馬が嫌えだと、ふざけるねえ、ただの雲助とはわけが違うぜ!」罵ったかと思うと、いきなり与五郎の胸をどんと突いた。与五郎も思わず無礼者め!と刀の柄に手をかけたが、いや待て、たとえ雲助ひとりでも刀にかければ何かと取調べがあり、江戸入りが遅くなると思いなおし、「いや、わしが悪かった、許せ」と涙をのんで大地に両手を突き、丑五郎のいうままに詫証文を書いて与えた。この話は最近の忠臣蔵ドラマなどでは、詫証文を書くだけでは物足りないと感じたのか、与五郎が馬方の股をくぐるシーンが見られる。詫証文にしろ股くぐりにしろ、真偽のほどは明らかではなく、韓信の股くぐりの故事から講釈師が採った逸話のようであるが、これが大人気となった。

07bh

2017年12月12日 (火)

忠臣蔵脱盟者たちの知られざるその後

374b0c11e5fffb584596e021637277ed   刃傷事件が起こってから討ち入りまでの1年9カ月の間、さまざまな理由で義士になれなかった者たちがいる。家老の大野九郎兵衛は「逐電家老」と罵られ、岡林直之は「一家の恥」と責め立てられ、切腹に追い込まれた。小山源五右衛門、進藤源四郎、小山田庄左衛門、高田軍兵衛、毛利小平太、萱野三平、瀬尾左坐衛門なども討ち入りには参加できなかった。瀬尾は池宮彰一郎の小説「四十七人の浪士」では大石の命でお軽とその子の面倒を頼まれて脱盟したことになっている。

   赤穂浪士の1人、奥野将監定良(1647-1727)が隠れ住んだという屋敷跡が兵庫県加西市下道山にある。加西市の一部は赤穂藩の飛び地の領地だったらしい。将監は、赤穂藩で大石良雄に次ぐ重臣で、江戸城刃傷事件の後、大野九郎兵衛に代り、大石と明け渡しに努力し、最初の義盟にも加わった。しかし元禄15年7月、浅野家再興が不可能になると、8月、奥野弥五郎と共に脱盟した。その後、将監の娘が磯崎神社の神宮寺に嫁いでいるのを頼り、ここにしばらく居を構えた。奥の墓石は将監の娘の子の墓と伝えられる。将監はその後、現在の中町の延明寺に移り住んだ。享年は82歳といわれ、長命だった。

2017年12月10日 (日)

義挙成功の影の功労者、寺坂吉右衛門の墓

C0133509_19572196
  曹渓寺 寺坂吉右衛門夫妻の墓

    1747年、寺坂吉右衛門信行は、83歳で死去した。寺坂は軽輩ながら特に認められて義盟に加えられた。47士のうち足軽は信行ひとりである。芝高輪の泉岳寺には義士と称する墓は48基ある。はじめは46基だったが、慶応4年に寺坂信行の供養墓が建てられ、明治4年に萱野三平の供養墓が建てられ、48基になった。なぜ赤穂四十七士というのだろうか。そもそも忠臣蔵は47でなければならなかった。仮名手本忠臣蔵は「いろは四十七文字」に47人の義士がなぞらえているからである。そこで古来から義士が46人か、47人かで意見が分かれる。とくに寺坂信行が泉岳寺へ引き揚げる途中、姿を消したことをめぐって諸説紛々たるものがある。要約すると、信行は吉良邸に討ち入らず門前から逃亡したという説と、本懐達成の後、報告をさせるために逃亡者に仕立てたという密使説とに分かれる。むかし神戸大学の八木哲治教授が古文書を仔細にあたり、赤穂義士46人説をとなえたところ、郷土史家や市民から感情的な反論がでたことがある。信行を赤穂義士に入れるか外すは、現在でも一般の関心が高い問題であった。歌舞伎の忠臣蔵が47人が絶対数であることは寺坂にとって有利である。最近の忠臣蔵ドラマでは寺坂が討ち入りに加わり、刀を取って奮戦しているものもある。だが脚色された話ではなく、歴史の真実が知りたい人も多いだろう。寺坂の墓は高輪泉岳寺とは別に本当の墓が麻布の曹渓寺にある。伊藤十郎太夫に仕えたのち、旗本山内主膳に仕え、83歳で他界した。墓の隣には、妻せんの墓があることがその後の穏やかな人生を物語っている。寺坂の死は赤穂義士たちの切腹から46年後のことであった。寺坂の墓は全国各地に7か所もある。長崎の久賀島にはこのような逸話が伝わる。寺坂が討ち入り前に、長崎五島の久賀島に行き深堀騒動で流刑の身の志波原羽右衛門を訪ね、これを大石内蔵助に報告し、内蔵助は吉良邸討ち入りの手本としたとされる。また2度目はそのお礼と報告のために久賀島を訪ねるが、志波原はその前年に遠島を許され、深堀に戻っていた。しかし、寺坂は、久賀島の福見の里の恵剣寺に住みつき、83年の生涯を終えており、寺には墓もある。(10月6日)

2017年12月 3日 (日)

小山田庄左衛門

Sashie2

   赤穂浅野家が断絶し、47人が忠義の士として称賛を浴びる一方、義盟に加わった同士のなかにも70人の脱盟者がいた。高田郡兵衛、毛利小平太などの脱盟者がよく知られるが、橋本平左衛門も遊女淡路屋お初と大坂で心中した。そして小山田庄左衛門も実在の人物で、不義士としての汚名を残した1人である。

    元禄15年11月5日、大石内蔵助らが江戸入りした時は、庄左衛門も堀部安兵衛らと同居していた。12月3日の最後の深川会議の前、同志片岡源五右衛門から、金子3両と小袖を盗んで逃亡したと伝えられる。81歳になる父の十兵衛は義士に詫びて、自決した。大佛次郎の小説「赤穂浪士」では庄左衛門と穂積惣右衛門の娘の幸との悲恋が描かれている。

2017年11月27日 (月)

忠臣蔵の虚と実

   ああ、また「忠臣蔵」か、という気分ながら、やっぱり最後まで見てしまう。新春ワイド時代劇「忠臣蔵~その義その愛」は内野聖陽が演じる堀部安兵衛とその妻ほり(常盤貴子)が主人公。堀部ほり(1675-1720)は討入り後、45歳で熊本で亡くなっている。木村拓哉の「忠臣蔵」(2001)では妻の深津絵里と離婚したことになっているが、今回は夫婦仲は良かったが、常盤貴子が明るすぎるのが不自然な感じだった。上杉家用人で吉良方についた親友吉川山右衛門(村田雄浩)との対決がドラマのメインか。吉川は清水一学の代わり。色部又四郎も千坂兵部の代わり。千坂はこのとき既に病死しているので、近年は色部となることが多い。最後の脱盟者毛利小平太の没年が不明なので、ドラマでは討入り直前に死ぬ場合と、生きのびて所帯を持って泉岳寺に墓参する場合がある。伊埼充則毛利小平太は墓参だった。全体に恋の絵図面取り、赤垣源蔵の徳利の別れや大石の東下りなどの人気の挿話を入れないのは、巷説を排し史実に近いシナリオといえる。とくに討入りで山鹿流陣太鼓はなかったのには驚いた。史実でも太鼓は打ち鳴らされなかったとされる。堀部安兵衛の人物像も巷談の「呑んべい安兵衛」とは異なり、史実に近いものとなっている。実際の安兵衛は酒を飲まなかったといわれるし、慎重で手堅い性格で能書家だったという。「武庸筆記」を書いて細井広沢に預けたことがドラマで紹介されているのも面白い。このように史実に近い忠臣蔵は評価できるものの、二刀流清水一学や和久半太夫、俵星玄蕃が登場しないと物足らなさを感じてしまう。元禄十五年十二月十四日の深夜は「仮名手本忠臣蔵」以来、雪の夜となっているが、堀部安兵衛の従妹、佐藤條右衛門が記した古文書によれば、討ち入りの日は月の夜だったとある。(浅野内匠頭殿御家士敵一件佐藤條右衛門一敞覚書)。義士の衣装も火事装束に統一されたものではなく、任意のものだったらしい。

2017年7月 7日 (金)

夏の忠臣蔵

   年末恒例といえばベートーベンの「第九交響曲」と「忠臣蔵」。だが、七夕の昼にBSプレミアムで「赤穂浪士」(1961年)をやっているが、つい最後まで見てしまう。明治以来、忠臣蔵を題材とした映画(義士銘々伝を含む)は映画・ドラマ合わせると100本は超えるであろう。最初は明治41年(1908)の「忠臣蔵」片岡仁左衛門一座。歌舞伎劇活動写真とあるだけで内容その他不明。戦後は大映の長谷川一夫「忠臣蔵」(1958)、東映の片岡千恵蔵「忠臣蔵」(1959)、東宝の松本幸四郎「忠臣蔵」(1962)、大映の渡辺邦男監督の「忠臣蔵」(1958)をなどが代表作。

2017年3月14日 (火)

刃傷松の廊下

    江戸幕府『御日記』の元禄14年3月14日の条の大略は次のとおりである。

  御馳走人浅野長矩は差してした小刀を抜いて大廊下において吉良義央を切り付けた。長矩は、遺恨がある、と叫んでいる。御留主居梶川与惣兵衛、長矩を抱留候。長矩は田村右京太夫に御預。その夜、長矩に「時所をわきまえず、ひが挙動せり」として切腹が命ぜられる。義央は罪がないとして、「刀疵を治療せよ」という将軍綱吉の言葉が伝えられた。これまで江戸城内における刃傷事件は数件発生していたが、即日切腹の例はない。午後6時10分頃、幕府の正検使役として庄田安利、多門重共、大久保忠鎮らの立会いのもと、磯田武大夫の介錯で切腹して果てた。享年35。「多門筆記」によれば、長矩は「風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」という辞世を残したとしている。だがこの辞世の後の創作だとする説もある。というのも、切腹の様子を記録した「奥州一関藩主村田家文書」には、辞世を詠んだという記述は見当たらないからである。

A0277742_20215062

耐えて忍んで 耐えかねて

闇を引きずる長袴

心もつれて よろめいて

怨念ここにきわまれり

おのれ憎ッくき吉良の少将

過日の遺恨 覚えたか

抜いて白刃の乱れ舞

松の廊下に血のしぶき

乱心召さるな 浅野殿

取って押さえて 羽交い締め

梶川与惣兵衛 大音声

殿中でござる 殿中でござる

刃傷でござる 刃傷でござる

お放しくだされ 梶川殿

討ち損じては 武門の恥辱

武士の情けじゃ いま一太刀

恨み晴らさで おくべきか

時は元禄 十四年

春は弥生の十四日

殿中刃傷 もってのほかと

公儀の裁き 即日切腹

播州赤穂五万石

浅野内匠頭長矩は

桜吹雪の舞い散る陰で

葉末の露と消えにけり

2017年2月 5日 (日)

「人生劇場」と三州横須賀村

Photo_5     尾崎士郎(1898-1964)は、明治31年2月5日、愛知県幡豆郡横須賀町上横須賀(現・西尾市)に、父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。尾崎家は家号を辰巳家と号し、代々綿実買問屋を営んでいたが、かたわら明治半ば迄煙草製造にも手をそめていた。士郎が誕生の頃より、家運は傾いてきたものの、嘉三郎は明治20年より上横須賀郵便局長を兼業、まだまだ地元の名士だった。

    尾崎士郎といえば「人生劇場」である。「都新聞」文芸部長上泉秀信の依頼で同紙に連載した、尾崎士郎の自伝的長編小説「人生劇場」は、「青春篇」(昭和8年)「愛慾篇」(昭和9年)「残侠篇」(昭和11年)「風雲篇」(昭和14年)「遠征篇(後の離愁篇)」(昭和18年)「夢現篇」(昭和22年)「望郷篇」(昭和26年)「蕩子篇」(昭和34年)と戦後に至るまで諸紙誌に書き継がれた。物語は青成瓢吉が三州横須賀村から上京し、早稲田大学に入学。飛車角、吉良常などが絡みながら、人生いかにいきるべきかを求めて彷徨するという青春小説。尾崎家は、大正5年、父嘉三郎死亡した。生前相場に手を出し失敗、郵便局長の職は長兄重郎が継いだ。その長男も大正7年ピストル自殺した。郵便局の公金横領を苦にというのがその表向きの理由であった。ともかく一家は没落した。

   尾崎士郎の出身地である愛知県幡豆町横須賀町というのは、戦後吉良町上横須賀に住居表示が変更されている。「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の所領であった横須賀村である。「人生劇場」の書き出しも次のように書かれている。

                                  *

   三州吉良港。一口にそう言われているが、吉良上野の本拠は三州横須賀村である。後年、伊勢の荒神山で、勇ましい喧嘩があって、それが今は、はなやかな伝説になった。そのときの若い博徒が、此処から一里ほどさきにある吉田港から船をだしたというので、港の方だけが有名になっているが、しかし吉良という地名が現在何処にも残っているわけではない。その、吉良上野の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面。吉良上野が彼の所領においては仁徳の高い政治家であったということの反証にもなるが同時に他の一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。まったく「あいつは吉良だ!」ということになると旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも(忠臣蔵なんて高々芝居じゃねえか)、という気持ちがわいてくる。(うそかほんとかわかるものか、あんなものを一々真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難癖をつけられているうちのおとのさまの方がお気の毒だ)三州横須賀は肩をそびやかしたものである。相手にしないならしなくてもいい。そのかわり日本中の芝居小屋で「忠臣蔵」がどんなに繁盛しようとも、この村だけへは一足だって踏み入れたら承知しねぇぞ!平原の中にぽつねんと一つ、置きわすれられた村である。

2017年1月14日 (土)

萱野三平の自決

Img_0915_2s

    大阪府箕面市萱野に「忠臣蔵」で有名な萱野三平(1675-1702)の墓がある。萱野氏は芝村(箕面市)に領地をもつ豪族であった。三平は父重利の主人大島伊勢守義全の推挙を受けて播州赤穂に仕えた。刃傷事件直後、馬廻役の三平は早水藤左衛門とともに赤穂の大石に第一報を注進している。江戸から赤穂までは155里、すなわち620キロ。旅人なら17日、飛脚で8日かかるところをわずか4日半で走破している。

   長矩刃傷事件後、三平は郷里の芝村へ戻ったが、父から大島家へ仕官を勧められる。大島家は吉良家とのゆかりの深い家柄である。旧主への忠義と父への孝行との板ばさみに悩み、1702年1月14日、28歳の若さで切腹した。萱野三平の話は、高田郡兵衛と常に比較される。高田郡兵衛が後々まで非難されるが、三平は義に生きたとして、「48番目の義士」といわれる。この話は後年脚色されて、「仮名手本忠臣蔵」では早野勘平とされ、お軽と駆け落ちをして、自害して果てる悲劇となっている。

   芝高輪の泉岳寺にも萱野三平の供養塔があるといわれている。大高源五の傍らにある「刃道喜剣信士」と刻まれた供養塔はこれまで村上剣喜のものといわれていたが、最近では萱野三平のものと考えられている。三平は涓泉の号をもつ俳人で『蟾蜍賦』があり、大高源五の傍に葬られたのかもしれない。

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31