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2026年6月22日 (月)

浅野長矩辞世の歌は後世の偽作

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 家康の江戸開府からほぼ100年、五代将軍綱吉の時代、幕府の体制もようやく固まり、力による武の政治から文治政治へと時代は変わってきたのである。そして、ときは元禄、貨幣経済の発達とともに武士に代わって商人が力を持ち始め、その経済に支えられて町人文化が花開くときであった。賄賂は、習慣として定着していた。江戸城松の廊下で、播州赤穂城主・浅野内匠頭が高家筆頭・吉良上野介義央に腰の刀を抜いて斬りつけるという事件が起こった。即日のうちに、「浅野内匠頭は場所柄も弁えず、吉良上野介に刃傷に及びし段は不届きにつき、切腹を申しつける。上野介は、手向かいもせず神妙だっためお構いなし」という判決が下された。

    浅野長矩の辞世の歌として知られる「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん」は、忠臣蔵映画には欠くことができないものである。これは、刃傷松の廊下の当日、御目付部屋に詰めていた目付、多門伝八郎が記した「多門伝八郎筆記」にみえる。しかし、宝永2年7月(陽暦1705年8月)以降に都乃錦という浮世作家(本名、宍戸円喜)の著作「播磨椙原」にある「風さそふ花よりも亦われは猶春の名残をいかにとかせむ」と酷似している。長矩の辞世は本人の作ではなく、円喜の創作とみるのが自然であろう。

  多門伝八郎重共は元禄14年の赤穂事件において浅野長政の取調べと切腹副検死役をつとめた。「多門筆記」は赤穂側に肩入れした記述が多く見られ、多門の著作ではなく、後世に別人が書いたとする説が有力である。刃傷事件後、元禄16年10月から多門は防火の仕事に従事し、宝永元年6月にはその功績で黄金三枚を賜わった。ところが8月2日になってその務めが良くなかったとされて小普請入りにされ、宝永2年には埼玉郡の所領も多摩郡に移された。享保8年6月22日に死去、享年65歳。硬骨漢は出世コースをはずされ、干されて不遇のうちに一生を過ごしたらしい。

 

 

2026年6月20日 (土)

儒者たちの赤穂事件

 元禄14年に起きた赤穂事件は世間の浅野家家臣への同情論があり、浪士らをどのように処分すべきかは、幕府にとって厄介な問題であった。幕府内にも様々な意見があり、また世間の目もあった。こうした状況で、大石らをいかに処すべきか、儒学者の意見は賛否両論の二つに分かれた。輪王寺宮をはじめ林鳳岡・室鳩巣・三宅観蘭らは擁護論であり、大衆や多くの有識者はその仇討ちを義挙として礼賛している。しかし、荻生徂徠・佐藤直方らは反対の立場をとり処罰論であった。赤穂事件と関わりが深い儒者といえば、すぐに新井白石の名前があげられよう。白石は、上総久留里の土屋家に仕官していたことがあるので、土屋の一族とは交渉があった。赤穂の浪人たちが本所二ッ目の吉良屋敷に討ち入った翌日に、白石は、吉良屋敷の北隣であった土屋主税の屋敷を訪問している。白石の残している日記では、ただ訪問したことだけが書いているが、どういう目的で、なんのために行ったのか、よくわからないが、白石は土屋主税に会って前夜の模様を聴いている。白石の所説は、赤穂の浪士たちに同情的であること、少なくとも批判的であったり、冷厳であったりしていないと推測される。また白石の親しい後輩の室鳩巣は、「赤穂義人録」を著して、討ち入りを義とみなし、是認論の立場をとった。他方、否認論の立場をとったのは荻生徂徠である。徂徠の献言は「徂徠擬律書」に伝えられている。徂徠は「法」の立場から見れば、大石らの義挙は、私の論と言わざるをえない。故に許すことはできない。四十六士に罪ありとして、侍の礼をもって切腹を進言している。柳沢吉保の「柳沢秘記」に伝えるところらよると、幕議において夜盗同然の振る舞いという理由から打首に処するとの決定がなされたことを嘆いた柳沢吉保が、忠孝を顕彰する点から切腹とすべきであるという徂徠の意見によって、討議を変えさせたという話が伝えられている。いずれにせよ、幕府の裁定は吉良邸に討ち入った義士たちの行為が仇討ちとはならず、徒党禁止に違反したということにより、裁定は徂徠の意見をもって下された。

参考文献
室鳩巣「赤穂義人録」原本・侯爵前田家蔵写本
尾藤正英「荻生徂徠」日本名著16 1969年

 

2026年6月 6日 (土)

天野屋利兵衛は実在したか

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    「忠臣蔵」に登場する天野屋利兵衛は商人ながら義に厚く、赤穂義士討入りの際、武器や武具の調達をして、義士を陰で支援したことで芝居や映画などでよく知られた人物である。仮名手本忠臣蔵10段「天河屋」では天河屋義兵衛として登場するが、大坂の商人・天野屋利兵衛がモデルであろう。ただし天野屋利兵衛(1661-1733)は実在したが、赤穂事件と関係したかは不明である。

    ただしネットなどで調べると、さまざまな巷説があって面白い。第1は、5代目天野屋利兵衛は経営に失敗したが、赤穂塩で豊かな浅野藩が「赤穂塩」の販売を天野屋に取り扱わせるようにして援助した。それで経営再建した天野屋は、商売繁盛して、浅野家に恩義を感じていたという説。第2は、岡山県英田郡西粟倉村は天野屋利兵衛潜居の地といわれる。西粟倉村は古くから砂鉄の産地で、備前長船の刀鍛冶勝治はこの地で刀剣を鍛えた。天野屋は良質の鉄の産地で鉄を調達し、三木の刀鍛冶で鍛えて、義挙に必要な武器を揃えたという説である。西粟倉村の話は昔は観光パンフレットなどにも紹介されたこともあるが、昨今、寺田屋にもみられるように、史実と虚像の論議も厳しく、この伝説も抹殺されるかもしれない。天野屋と赤穂塩を関連させた説も歴史のあと知恵のようで、史料や文書があるわけでない。「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフや神崎与五郎の馬喰丑五郎堪忍袋(韓信の股くぐりのパクリ)など「忠臣蔵」にはそういった類の俗説も多いが、巷説として温存してもいいのではないだろうか。

 実在の天野屋利兵衛は赤穂藩や浪士と関係のない人物であったが、そのモデルとなつた人物がいる。京都の呉服商、綿屋善右衛門である。実際に赤穂浪士を支援し、自宅に貝賀弥左衛門を住まわせているほか、大高忠雄に資金を貸した記録がある。

 

 

 

2026年5月13日 (水)

忠臣蔵おかるの墓

Photo_8    仮名手本忠臣蔵で早野勘平の妻で、祇園で遊女となったお軽。たまたま大石内蔵助が密書を読んでいるのを手鏡にうつして盗み読みし、大事を悟られたと知った大石が女を身請けするというくだりは、仮名手本忠臣蔵七段目の筋書きで創作だが、おかるという女は実在していた。

 実在のモデルとなった「おかる(本名おかじ)の墓」が京都市の上善寺(上京区千本今出川)にある。二文字屋という版木屋の二文字屋次郎左衛門の娘で大石内蔵助の妾であった。美人だったらしいが、詳しいことはわからない。元禄15年、内蔵助が江戸に下った後、お軽は出産している。男の子で、町医者の寺井玄渓の手によって里子に出され、幼名を石之助、長じて大石良知と名乗るが、九州平戸へ向かう途中、佐賀の伊万里で病死した。伊万里に墓碑がある。お軽は29歳の若さで世を去り、実家に近い上善寺に葬られた。墓石には「清誉貞林法尼」と刻まれている。

2026年3月14日 (土)

梶川与惣兵衛と加古川本蔵

    たいていの映画・ドラマで浅野長矩が吉良上野介に刃傷に及んだとき、長矩を脇から抱きしめて制した人物は梶川与惣兵衛という名である。梶川は実在の人物で「梶川筆記」で、自分が咄嗟のことで少々あわてすぎたことを後悔している。お墓が天徳院(中野区上高田)にある。松平健の「忠臣蔵」(2004)ではめずらしく加古川本蔵という名で平泉成が演じている。仮名手本忠臣蔵にてでくる加古川本蔵はなかなか重要人物である。本蔵の娘、小波と大石主税とは許婚であった。のちに解消されるが、本蔵は復縁を願っている。悪役と善玉の両面が描かれている。吉良邸の図面を大石に手渡すのも歌舞伎では加古川本蔵である。(3月14日)

 

 

 

2026年2月 4日 (水)

大石忌

 

 ゆるゆると湯葉召し上がる大石忌 (如酔)

   元禄16年(1703年)のこの日、江戸幕府が赤穂浪士46名に切腹を命じた。泉岳寺にある赤穂浪士46人の墓には戒名が刻まれている。すべての墓には「刀」や「剣」の文字がつけられている。彼らの戒名は泉岳寺の僧侶がつけたと言われるが、「剣」と「刀」の文字は、曹洞宗で、「命を投げ出すほど重要なこと」を意味し、忠義を尽くしたことを表わしている。

昨日、時代劇専門チャンネルで「元禄太平記」を見る。原作は南条範夫の小説。(2月4日)

 

 

2025年12月13日 (土)

南部坂雪の別れ

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    浅野長矩の正室阿久里は浅野氏一族の備後三次藩初代藩主・浅野長治の次女であるから、長矩とは遠縁ということになる。夫の浅野長矩の凶報に接したとき、阿久里は何よりも先に内匠頭の弟の浅野大学長広に吉良上野介の生死を確かめたが、答えを得ることができなかったので、「兄の刃傷を聞きながら、相手の生死のほども確かめず、まことに惜しいことです」と、あわてる大学をたしなめるほどの気丈な女性であった。その夜、阿久里は鉄砲洲の江戸の上屋敷で髪をおろし、寿昌院と号して殉じたが、のちに将軍綱吉の生母の桂昌院の「昌」の文字をはばかって、瑤泉院と改めた。夫の内匠頭が切腹したとき、阿久里は28歳であったが、浪士の遺児たちの赦免に尽力をつくすなどした。瑤泉院の俗説では「南部坂雪の別れ」が巷間よく知られる。討入りを翌日に控えた13日の夜、内蔵助は瑤泉院に永のお別れの挨拶をしたいと考え、南部坂(港区)にある浅野家下屋敷を訪れた。ところが吉良方の密偵が奥女中となって潜入に気づいた内蔵助は、座が定まるのも待ちきれず瑤泉院は仇討ちはいつ、とつめよるのだったが、心中にこみあげるものをぐっとこらえ、「法事が終りしだい、山科に立ち帰り、かの地に永住の所存でございます。今生のお別れに、御霊牌の前に御焼香をお許し下さいますよう」と申し出たが、瑤泉院は「折角ながら、その儀はなりませぬ」と、屹ッとして言うと、静かに仏間の方へ去った。内蔵助は、じっと差しうつむいたまま、ついに一言の弁明もせず、座を蹴って去った瑤泉院のうしろ姿に平伏するのみであった。これが有名な南部坂雪の別れの泣かせどころであるが、この話も講釈師(桃中軒雲右衛門といわれる)の作り事で、実際は討入りより1年前の元禄14年11月、事件後はじめて内蔵助は瑤泉院のご機嫌伺いに行っている。瑤泉院、それも瑤泉院付きの士・落合与左衛門宛に書状を認め、自身は赴かず、「預置候金銀請払帳」を添えて近松勘六の家来・甚三郎に三次藩邸へ届けさせたと言われる。その後、瑶泉院は静かに暮らし、赤穂義士が討ち入って11年後(正徳4年)41歳で生涯を終えた。

2025年12月 1日 (月)

ジェットコースター忠臣蔵

    忠臣蔵を題材にした映画・ドラマは少なくみても100本以上はあると思う。今年も「仮名手本忠臣蔵」(1962年)大曾根辰保監督 初代市川猿翁。「身代わり忠臣蔵」(2024年)ムロツヨシ、永山瑛大、川口春奈。吉良上野介は替え玉だった?「義士始末記」島田正吾、岡田茉莉子、岩下志麻。

    2010年放送のABCドラマ「忠臣蔵 その男、大石内蔵助」140分で松の廊下から討ち入りまでを、よく知られた挿話を多数入れて構成したもので、「あらすじ忠臣蔵」という感じだった。スポンサー(ビール、メナード)の要請かも知れぬが主演の高齢化がいささか気になる。とくに田村正和(67歳)、妻りく岩下志麻(69歳)は、実年齢を20年はオーバーする。逆に大石主税は余りに幼く討ち入りは無理に見える。とくに田村は高齢のためか病気のせいか、声がでておらず、聞き取りにくい。ミスキャストが多かった。老齢すぎる山本学の堀部弥兵衛、弱そうな義士たち・尾美としのり、勝村政信など。清純すぎる傾城・石田ゆり子。やはり赤穂義挙をドラマチックにするためには事件の背景をもう少し掘り下げる必要がある。たとえば千坂兵部を登場させて、上杉綱憲(吉良上野介の子)の援護できない事情を描く。松の廊下で脇坂淡路守を登場させて「オノレ、不浄の血で汚すとは何事か」と吉良の額の傷にさらに扇子で殴打する場面、畳替えの畳職人の江戸っ子の心意気などないのは淋しい。こうなると一年かけた大河ドラマでも総花的、ジェットコースター的になってしまう。そこで義士銘々伝というふうに毎回47人の1人づつにスポットをあてたシリーズ物が見たい。

忠臣蔵の虚と実

   12月になると、ああ、また「忠臣蔵」か、という気分ながら、やっぱり最後まで見てしまう。新春ワイド時代劇「忠臣蔵~その義その愛」は内野聖陽が演じる堀部安兵衛とその妻ほり(常盤貴子)が主人公。堀部ほり(1675-1720)は討入り後、45歳で熊本で亡くなっている。木村拓哉の「忠臣蔵」(2001)では妻の深津絵里と離婚したことになっているが、今回は夫婦仲は良かったが、常盤貴子が明るすぎるのが不自然な感じだった。上杉家用人で吉良方についた親友吉川山右衛門(村田雄浩)との対決がドラマのメインか。吉川は清水一学の代わり。色部又四郎も千坂兵部の代わり。千坂はこのとき既に病死しているので、近年は色部となることが多い。最後の脱盟者毛利小平太の没年が不明なので、ドラマでは討入り直前に死ぬ場合と、生きのびて所帯を持って泉岳寺に墓参する場合がある。伊埼充則毛利小平太は墓参だった。全体に恋の絵図面取り、赤垣源蔵の徳利の別れや大石の東下りなどの人気の挿話を入れないのは、巷説を排し史実に近いシナリオといえる。とくに討入りで山鹿流陣太鼓はなかったのには驚いた。史実でも太鼓は打ち鳴らされなかったとされる。堀部安兵衛の人物像も巷談の「呑んべい安兵衛」とは異なり、史実に近いものとなっている。実際の安兵衛は酒を飲まなかったといわれるし、慎重で手堅い性格で能書家だったという。「武庸筆記」を書いて細井広沢に預けたことがドラマで紹介されているのも面白い。このように史実に近い忠臣蔵は評価できるものの、二刀流清水一学や和久半太夫、俵星玄蕃が登場しないと物足らなさを感じてしまう。元禄十五年十二月十四日の深夜は「仮名手本忠臣蔵」以来、雪の夜となっているが、堀部安兵衛の従妹、佐藤條右衛門が記した古文書によれば、討ち入りの日は月の夜だったとある。(浅野内匠頭殿御家士敵一件佐藤條右衛門一敞覚書)。義士の衣装も火事装束に統一されたものではなく、任意のものだったらしい。

2025年11月26日 (水)

笹売り源五

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   大高源五は風流を解する武士で、俳人としても知られ子葉と号し、宝井其角と交流があった。当時、江戸に四方庵という著名な茶人がいて吉良邸に出入りしていた。源五は町人になりすまして四方庵の門を叩き、内弟子となった。13日、こうして四方庵から上野介の動静をさぐるうちに12月14日吉良邸で茶会の催しがあることをつきとめた。源五はその日の暮れ、両国橋にさしかかったところで偶然に其角と出会った。だが煤払いの笹売りに変装していた源五は其角に気づかれぬようそのまま通り過ぎようとした。しかし其角は「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源五も思わず、「あしたまたるる その宝船」と返歌した。源五からその報告を受けた内蔵助は、討ち入りを14日夜と決めた。

 源五の辞世の句がある。

 

  梅でのむ 茶屋もあるべし死出の山

 

  だがこの名高い逸話も事実ではなく、大高源五と其角とは面識はなかった。為永春水の「伊呂波文士」による虚構あたりが、出典とされる。史実は大高源五は水間沾徳の門弟である。沾徳は其角の没後、享保期の江戸俳壇の中心となった。代表句をあげる。

 

 帯ほどに川も流れて汐干かな

 

汐が遠く引いたので、海へ流れ込んでいる川が゛、干潟の中に細く帯のようにみられるという大意。

 

(参考:祖田浩一「なぞ解き忠臣蔵」)

 

 

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