大阪府箕面市萱野に「忠臣蔵」で有名な萱野三平(1675-1702)の墓がある。萱野氏は芝村(箕面市)に領地をもつ豪族であった。三平は父重利の主人大島伊勢守義全の推挙を受けて播州赤穂に仕えた。刃傷事件直後、馬廻役の三平は早水藤左衛門とともに赤穂の大石に第一報を注進している。江戸から赤穂までは155里、すなわち620キロ。旅人なら17日、飛脚で8日かかるところをわずか4日半で走破している。
長矩刃傷事件後、三平は郷里の芝村へ戻ったが、父から大島家へ仕官を勧められる。大島家は吉良家とのゆかりの深い家柄である。旧主への忠義と父への孝行との板ばさみに悩み、28歳の若さで切腹した。萱野三平の話は、高田郡兵衛と常に比較される。高田郡兵衛が後々まで非難されるが、三平は義に生きたとして、「48番目の義士」といわれる。この話は後年脚色されて、「仮名手本忠臣蔵」では早野勘平とされ、お軽と駆け落ちをして、自害して果てる悲劇となっている。
芝高輪の泉岳寺にも萱野三平の供養塔があるといわれている。大高源五の傍らにある「刃道喜剣信士」と刻まれた供養塔はこれまで村上剣喜のものといわれていたが、最近では萱野三平のものと考えられている。三平は涓泉の号をもつ俳人で『蟾蜍賦』があり、大高源五の傍に葬られたのかもしれない。
長らく浅野内匠頭長矩は「忠臣蔵」など芝居のイメージで領民に慕われた名君と思われていた。しかし近年の研究によれば、領民たちは重税をかけられ、年貢も厳しく取り立てられたため、長矩の切腹を聞いた領民は赤飯を炊いて喜んだという。儒学者の室鳩巣は「長矩は人と為り強硬(武骨者の注あり)屈下せず」と頭を下げることを好まない性格であったとしている。「諌懲後正」(1701年頃)によると「長矩は文道を好まず、武道を好む。生まれつき気が小さく、律儀である。しかも淳直な性格で非義はしない。ただ、家士や民間を憐れむというわけではない。国家の政道は厳しいだけで、仁愛の気味がない。贅沢はしないが、民からむさぼっている」とある。元禄の紳士録ともいえる「土芥寇讎記」(1690頃)によると「長矩は智があって利発である。しかし、女色を好むため、いい女を献上する家臣だけが出世する。長矩は、昼夜、閨房にあって女と戯れ、政治のほうは家老に任せている」とある。
幕府は義士たちの切腹後、僧籍にある者と女性を除く15歳以上の男の遺児を遠島処分にした。大石内蔵助の次男吉千代(13歳)以下14人は若年により処分猶予となった。15歳以上の男児、間瀬定八(当時20歳)、吉田伝内、中村忠三郎、川松正右衛門らは伊豆大島に流罪となる。4年後の1707年、将軍綱吉の死去により、大赦となり、遺児全員が赦免となった。しかしこのとき間瀬定八だけは既に他界していた。これまで正確な命日は不明であったが、近年の調査によれば、宝永2年、1705年4月27日、大島で22歳で病死したとのことである。記録によれば定八が流罪中だった元禄16年(1703年)に大地震があった。2005年には伊豆大島で300年遠忌慰霊祭がおこなわれたという。
元禄14年の3月14日午前9時半ごろ。
江戸城の松之廊下で勅使供応役の播磨国赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が儀式典礼の指導役である高家筆頭の吉良上野介義央に刃傷に及んだ。
唯一の目撃者である梶川与惣兵衛頼照の「梶川氏筆記」によれば、梶川と上野介が松之廊下の角住付近で立ち話をしたあと、上野介が去ろうとする背後から内匠頭が突然大きな声をあげて斬りつけた。
「この間の遺恨、おぼえたか」
内匠頭の小刀が上野介の大紋(式服)の背を切り裂き、驚いて振り向く上野介の額に二の太刀が振りおろされ、烏帽子の金具にあたる響きがして、血潮が流れ散った。おびえた上野介は、ぐったりとし、その場に倒れ込んだ。梶川は内匠頭を羽交い絞めにしてとめた。
多門伝八郎重共、近藤平八郎の取り調べに対し、内匠頭は「かねて遺恨があったので斬った」と陳述、上野介のほうは「恨みを抱かれるおぼえがない。内匠頭殿は乱心されたのであろう」と申し立てた。幕閣では、将軍のいる殿中での刃傷は大罪であるが、よく取り調べてから処分したいとした。
しかし、激怒した将軍徳川綱吉は、内匠頭に即日切腹を命じ、上野介には神妙な態度であったとして、お構いなしとした。綱吉は勅使・院使を迎えての大切な式日に刃傷事件を起こした内匠頭を不敬罪としたのである。
当時、喧嘩両成敗という幕法の建前から、理非にかかわりなく双方の当時者が処罰の対象になるのが慣例であった。それなのに、将軍の裁きということで一方的に内匠頭だけが処断されたのである。ここに復讐への一つの伏線が生まれてくる。この処罰は、そのころの武士の正義の感情からは許すことのできないものであった。
網打ち駕籠に乗せられて陸奥国一関領主の田村右京大夫建顕邸に入った内匠頭は、家来への連絡も許されないまま、庭前で切腹させられた。このことも赤穂義士たちの憤激を招く要因となった。内匠頭は従五位下の官位を持った大名である。座敷での切腹が当然であり、庭前での切腹は非礼違法にわたり、武士への大きな恥辱であった。
風さそう花よりもなほ我はまた
春の名残をいかにとやせん
多門伝八郎覚書による内匠頭の辞世の歌。哀切な辞世を残して35歳の生涯を閉じた。
片岡源五衛門は、最後にひと目、主君に拝領したいと願い出た。検使・多門伝八郎のはからいで、切腹の座にのぞむ内匠頭が書院を通るさい、はるか庭先から、拝領することができた。双方、無言のまま、視線をかわしたが、まことに断腸の思いであった。やがて、遺骸をうけとって泉岳寺へ葬った。このとき、田村家から渡された遺言状を読んだ。内匠頭の口上を覚書として書き留めたもので、「刃傷事件の原因を知らせておくべきだった。定めし不審に思うであろうが…」といった内容で、宛名は源五右衛門と磯貝十郎左衛門になっていた。その場で、片岡源五衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門の4人は髻を切り、墓前に供えた。幕命によって江戸藩邸を引き渡すと、片岡、磯貝、田中の3人は、赤穂へ戻る。赤穂義挙の序曲が始まった。
いま放送中の「赤穂浪士」(大佛次郎原作、1979年)では、山村聡が千坂兵部に扮し、重厚な演技をみせている。義士討ち入りのとき、実父吉良義央を助けるために出兵しようとする上杉綱憲を押しとどめる。だが実際には刃傷事件のとき(1701年)には千坂はすでに死んでいた。(元禄13年、1700年没) 千坂兵部の名前は大佛次郎の筆によって有名になったのだろう。最近の忠臣蔵では色部又四郎に代わっている。ところが本当に上杉綱憲を押しとどめた人物は、稲葉丹後守正通とも、畠山義寧(1664-1746)とも言われている。
ああ、また「忠臣蔵」か、という気分ながら、やっぱり最後まで見てしまう。新春ワイド時代劇「忠臣蔵~その義その愛」は内野聖陽が演じる堀部安兵衛とその妻ほり(常盤貴子)が主人公。堀部ほり(1675-1720)は討入り後、45歳で熊本で亡くなっている。木村拓哉の「忠臣蔵」(2001)では妻の深津絵里と離婚したことになっているが、今回は夫婦仲は良かったが、常盤貴子が明るすぎるのが不自然な感じだった。上杉家用人で吉良方についた親友吉川山右衛門(村田雄浩)との対決がドラマのメインか。吉川は清水一学の代わり。色部又四郎も千坂兵部の代わり。千坂はこのとき既に病死しているので、近年は色部となることが多い。最後の脱盟者毛利小平太の没年が不明なので、ドラマでは討入り直前に死ぬ場合と、生きのびて所帯を持って泉岳寺に墓参する場合がある。伊埼充則毛利小平太は墓参だった。全体に恋の絵図面取り、赤垣源蔵の徳利の別れや大石の東下りなどの人気の挿話を入れないのは、巷説を排し史実に近いシナリオといえる。とくに討入りで山鹿流陣太鼓はなかったのには驚いた。史実でも太鼓は打ち鳴らされなかったとされる。堀部安兵衛の人物像も巷談の「呑んべい安兵衛」とは異なり、史実に近いものとなっている。実際の安兵衛は酒を飲まなかったといわれるし、慎重で手堅い性格で能書家だったという。「武庸筆記」を書いて細井広沢に預けたことがドラマで紹介されているのも面白い。このように史実に近い忠臣蔵は評価できるものの、二刀流清水一学や俵星玄蕃が登場しないと物足らなさを感じてしまう。
勝田新左衛門は大竹重兵衛の娘を妻に迎えていたが、凶変後妻を実家に預け、自分は八百屋に身をやつして吉良の様子をさぐっていた。そんなある日のこと、雪の両国橋で、ばったりと舅の大竹重兵衛にでくわした。「暫く姿を見せぬと思ったら、なんじゃそのざまは。御主君の仇討をせぬばかりか、町人になりさがるとはあきれ果てた奴。貴様のような奴に、嫁はやれぬ。離縁致すからさよう心得ろ!」と罵倒した。新左衛門は咽喉まで出かかった言葉を、歯を喰いしばって我慢し、ついに仇討ちの盟約を漏らさなかった。やがて赤穂浪士の討入りがあり、その噂が広まると、大竹重兵衛は義士の中に新左衛門がいたことを知って感激したという。
寺坂吉右衛門信行は、軽輩ながら特に認められて義盟に加えられた。47士のうち足軽は信行ひとりである。芝高輪の泉岳寺には義士と称する墓は48基ある。はじめは46基だったが、慶応4年に寺坂信行の供養墓が建てられ、明治4年に萱野三平の供養墓が建てられ、48基になった。なぜ赤穂四十七士というのだろうか。そもそも忠臣蔵は47でなければならなかった。仮名手本忠臣蔵は「いろは四十七文字」に47人の義士がなぞらえているからである。そこで古来から義士が46人か、47人かで意見が分かれる。とくに寺坂信行が泉岳寺へ引き揚げる途中、姿を消したことをめぐって諸説紛々たるものがある。要約すると、信行は吉良邸に討ち入らず門前から逃亡したという説と、本懐達成の後、報告をさせるために逃亡者に仕立てたという密使説とに分かれる。むかし神戸大学の八木哲治教授が古文書を仔細にあたり、赤穂義士46人説をとなえたところ、郷土史家や市民から感情的な反論がでたことがある。信行を赤穂義士に入れるか外すは、現在でも一般の関心が高い問題であった。歌舞伎の忠臣蔵が47人が絶対数であることは寺坂にとって有利である。最近の忠臣蔵ドラマでは寺坂が討ち入りに加わり、刀を取って奮戦しているものもある。だが脚色された話ではなく、歴史の真実が知りたい人も多いだろう。寺坂の墓は高輪泉岳寺とは別に本当の墓が麻布の曹渓寺にある。伊藤十郎太夫に仕えたのち、旗本山内主膳に仕え、83歳で他界した。墓の隣には、妻せんの墓があることがその後の穏やかな人生を物語っている。寺坂の死は赤穂義士たちの切腹から46年後のことであった。
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