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2018年2月13日 (火)

中国地理学と文献書目

Chaina

地理的概観(UNIT1)

中国の位置 アジアの東部、太平洋の西岸に位置する。中国には「北に行くほどトランクが軽くなり、南に行くほどトランクが重くなる」という言葉がある。これは旅行者が北に行くにつれて、トランクから1枚ずつ着るものを取り出して重ね着して行くこと、反対に南に行くにつれて、1枚ずつトランクにしまいこんで行かねばならないことをいったものだ。南北は、緯度およそ北緯4度から54度、東西は経度およそ東経78度から東経135度のあいだにある。

中国の境域 陸上では北朝鮮、ベトナム、ラオス、ミャンマ、インド、ブータン、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、ロシア、モンゴル人民共和国と国境を接している。海上では日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアおよびブルネイと相対している。

面積と人口 中国は面積959万7000k㎡、人口13億8271万人(台湾、香港、マカオを除く)。2016年末の統計。面積はアジア大陸の25%をしめ、ロシア、カナダについで世界第3位。人口は世界第1位である。

民族 漢人が91.5%で、少数民族が、蒙古・回・チベット・ウイグル・ミャオ・イ・チワン・プイ・朝鮮・満・高山族など55の民族がある。そのうち、北方の森林で狩猟をいとなむツングース系諸民族、ステップで遊牧をいとなむモンゴル系諸民族、オアシス世界に生きるテュルク系諸民族、高原で牧畜・農耕をいとなむチベット諸民族、南西山地で農耕をいとなむミャオ・ヤオ系およびモン・クメール系諸民族、南部で水稲耕作をいとなむタイ系諸民族のグループにわかれる。

行政区 全国には、合わせて23の省、5つの自治区(広西チワン族・内モンゴル・新疆ウィグル・寧夏回族・西蔵)、3つの直轄市(中央政府の直轄する市、北京・上海・天津市)があり、首都は北京。

自然環境 中国の地形は西に高く、東に低いが、複雑であり、気候風土も変化に富んでいる。国土総面積に占める各種地形の比率は、山地が約33%、高原が約26%、盆地が約19%、平原が約12%、丘陵が約10%となっている。慣習的に山区といわれるものには山地、丘陵、そして比較的起伏のある高原が含まれ、それらが全国土の3分の2を占めている。

中国の地域区分

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   広大な中国の地域を、地形・気候その他の自然的条件により、また人文地理的要素を考えて、華北・華中・華南の3地域に区分することができる。華北と華中の境界は、淮河と秦嶺を結ぶ線にある。華北が黄土地帯を中心とする乾燥農耕地帯であるのに対して、華中は水田耕作に適している。「南船北馬」という言葉は、華北では馬が主要な交通機関であったのに対して、江南では交通や灌漑のための水路が縦横に発達していたことを語っている。

option  中国文明は世界最古の文明であるとともに、独自の文化を今日まで持続したという点では世界でも類例がない。このことを地理的観点から考えてみよう。

   アジア大陸の東端に位置している中国は、エジプト、メソポタミアなどの古代文明諸国からもっとも遠くはなれたところで文明を形成した。地理的位置に起因する文化的孤立性は中国の民族文化の形成に深い影響をあたえずにおかなかった。中国をふくめた四つの古代文明は、いわゆるアフロ・ユーラジアン複合体をつくっているが、世界の屋根である高峻なヒマラヤ山脈とタクラマカン砂漠などの天然の障壁とにさえぎられた遠東の中国は、他の三文明からもっともかけはなれた存在であって、相互の交渉はわずかに駱駝の背にのって砂漠をわたる隊商によってもたらされた。西アジアやヨーロッパの政治的支配が中国の領土や勢力圏に直接及んできたことは、17世紀にいたるまではなかった。したがって、中国は巨大な領域をしめながら、地理的にも、政治的にも、孤立した地域を形成し、そのなかで独自の文化を発展させてきたのである。すなわち、古い文化を発生させたエジプトのナイル川やチグリス・ユーフラテス河流域、あるいはギリシアやインダスにおいて、その文化が停滞し、衰亡したのに比べ、中国はむしろその孤立性を生かし、インドや西方の文化的な刺激を生かして、独特の文化を形成したのである。(参考:貝塚茂樹「中国の歴史」岩波新書)

中国地理関係文献

清国地理小誌 高田義甫著 島林専二郎刊行 1880
清国道中里程図誌 川端恒太郎 京都・杉本甚助 1885 地図
禹域通纂 楢原陳政 大蔵省 1888
清国本部與地図  中田貞矩編 中村芳松(大阪) 1894
中国彊域沿革図 附説略 重野安易繹 河田黒合 冨山房 1896
朝鮮支那地名辞彙 根来可敏編纂 共同出版社 1910
支那省別全誌 全18巻 東亜同文会 1917-1920
中国地名大辞典 劉鈞仁著 国立北平研究院 1930
中国古今地名大辞典 商務印書館 1931
満州地名辞典 岡野一朗 日本外事教会 1933
満州地名索引 加藤新吉 満州鉄道総局 1936
現勢上海・南京詳図 六芸社 1937
最新支那及極東地図 アトラス社編 アトラス社 1937
最新支那大地図 大林堂 1937
満州国地名大辞典 山崎惣与 満州国地名大辞典刊行会 1937
古地理学 陳兼善 長沙商務印書館 1940
支那地名辞典 星斌夫著 富山房 1941
中国地方誌連合目録 1964 東洋学文献センター連絡協議会編 東洋文庫 1965
中国総覧 中国総覧編集委員会編 アジア調査会(霞山会) 1971-1986
中国大陸省別地図 越村衛一・矢野光二編 外交時報社 1971
中国地図帳 平凡社編 平凡社 1973
中国地名大辞典 旧・国立北平研究所版 東京美術 1974
中国の地理 浅川謙次監修 人民中国編集部編 築地書館 1975
中国地理の散歩 阿部治平 日中出版 1979
現代中国地理 その自然と人間 黄就順著 山下龍三訳 帝国書院 1981
中国大陸五万分の一地図集成 8冊 総合索引 科学書院 1986-2002
中国大陸二万五千分の一地図集成 4冊 索引図 科学書院 1989-1993

2018年2月 1日 (木)

琉球・台湾関係文献目録

Yoichi   「琉球」と聞けば、多くの人は首里城守礼門の沖縄を思い浮かべる。ところが、「琉球は台湾だった」といえば話がややこしくなる。日本の九州から南、台湾島に至る間につらなる列島を、北から正確にいえるだろうか。

  種子島、屋久島、トカラ列島、奄美大島、徳之島、沖之良部島、与論島、沖縄島、久米島、宮古島、石垣島、西表島、与那国島、台湾島である。

  台湾には先住民はいたが、清朝支配下となるまで、対外的な統一名は無かった。したがって、中国の古文献によって古代の地名を比定することになる。まず「漢書」地理志に次のように記されている。

「会稽の海外に東鯤人あり、分かれて二十余国となす。歳時をもって献見す」

    この「東鯤」(とうこん)が台湾であると唱えたのは日本の東洋史家・市村讃次郎であるが、確証は未だない。

   7世紀はじめ、「隋書」煬帝紀に

「流求国は海島の中に居り、建安郡の東、水行五日にして至る」

  この「流求」は、現在の台湾であることは間違いない。大業3年(603年)、煬帝は朱寛、何蛮らに台湾遠征を命じた。

  以後、「流鬼」(新唐書)、「琉求」(宋史)、「瑠求」(元史)のなどの地名が見える。

  つまり、古代において中国では、台湾のことを「琉球」とよんでいたたのであるが、現在の沖縄についても区別することなく、全体を「琉球」と称していたとおもわれる。そのため戦前の学界では、混乱が生じ、琉球沖縄説と琉球台湾説に分かれた。今日では、西洋の地図なども検討し、隋、唐、宋、元代に見える「琉球」の地名は台湾を指していると見るのが定説である。

    では、なぜ沖縄を指して「琉球」と称するようになったのか。それは、、明の洪武年間(1368-1398)、沖縄の中山王が明の冊封を受けたため、朝貢国である沖縄を「大琉球」とし、一方朝貢していない台湾を野蛮な島として「小琉球」と区別するようになったためである。もともと「大琉球」「小琉球」の区別は16世紀のヨーロッパ人によるものが最初であるらしい。オリテリオスの「太平洋図」(1589年)において沖縄と台湾を「Lequuuei grande」「Lequeio pequenno 」と区別している。「pequeno」とはポルトガル語で「小さい」の意である。レケオ・ペケニョらの地図でも台湾が「小琉球」と呼ばれていたことがわかる。日本では台湾をもともと「たかさご」と呼んでいた。豊臣秀吉の国書には「高山国」(1593年)とある。のちに「たかさくん国」などの表記が見られるが、17世紀初めの船乗りたちは台湾のことを「たかさご」と呼んでいた。 しかし、中国では沖縄が「琉球」と定まったのに対して、台湾の呼称は「東蕃」「北港」「雞籠」「台員」「大冤」などの名があてられたが、いずれも台湾全体をさした呼称ではなかった。鄭氏が清国に屈服し、台湾が清国領となって以後、「台湾」の名で呼ばれるようになった。近年、台湾人というアイデンティティが形成されつつあり、「自分たちは中国人ではなく台湾人」天然独と呼ばれる若者が急増している。国際社会では独立国と認めていない台湾の、これからを見守りたい。

  台湾関係文献
台湾諸島誌 小川琢治 1896
台湾と南方支那 田中善立 新修養社 1913
台湾殖民発達史 佐藤四郎 台北晃文館 1916
台湾の風景 田村剛 雄山閣 1929
台湾の1年 川村竹治 時事研究会 1930
台湾の蕃族 藤崎済之助 国史刊行会 1931
台湾農業年報 昭和6年  台湾総督府殖産局 1932
台湾農業年報 昭和7年 台湾総督府殖産局 1933
南進台湾史攷 井出季和太 誠美書閣 1943
台湾人四百年史 史明 音羽書房 1962
琉球史料双書 伊波普献等編 井上書房 1962
台湾 苦悶するその歴史 王育徳 光文堂 1964
台湾の現実と日中関係 台湾ナショナリズムの動向を中心に 現代アジア社会思想研究会 同研究会 1965
台湾の経済と金融 アジア諸国経済・金融シリーズ1 久保田太郎 国際図書 1967
台湾資料 秘書類纂18 明治百年史叢書 伊藤博文編 原書房 1970
台湾の経済成長 その数量経済的研究 篠原三代平、石川滋共編 アジア経済研究所 1972
台湾の農業 斎藤一夫編 アジア経済研究所 1972
台湾処分と日本人 林景明 旺史社 1973
台湾年鑑 1973年版 台湾問題研究所編 PNS通信社 1973
台湾の光と影 維新叢書4 影山正治 大東塾出版部 1973
台湾年鑑 1975年版 PNS通信社編 新国民出版社 1975
台湾の霧社事件 真相と背景 森田俊介 伸共社 1976
台湾年鑑 1977年版 台湾研究所編 台湾研究所 1977
台湾の蕃族研究 霧社事件 南方資料叢書1 鈴木作太郎 青史社 1977
中国と琉球 野口鉄郎 開明書院 1977
壺を祀る村 台湾民俗誌 国分直一 法政大学出版局 1981
台湾語大辞典 2冊 台湾総督府編 国書刊行会 1983
台湾風俗誌(復刻) 片岡厳 青史社 1983
海峡 台湾政治への視座 研文選書 若林正丈 研文出版 1985 
台湾人士鑑 昭和9・12・18年版 復刻 興南新聞社編 湘南堂書店 1986
台湾民主国の研究(重版) 黄昭堂 東京大学出版会 1983
台湾アミ族の社会組織と変化 末成道男 東京大学出版会 1984
台湾の旅 エリアガイド66 小林克己 昭文堂 1984
琉球・清国交易史(二集『歴代宝案』の研究) 宮田俊彦 第一書房 1984
台湾の原住民族 宮本延人 六興出版 1985
台湾の旅 ワールド・トラベル・ブック6 ワールドフォトプレス 1986
高砂族調査書 台湾総督府警務局理藩課 湘南堂書店 1986
朝鮮・琉球航海記 1816年アマースト使節団とともに ホール著 春名徹訳 岩波書店 1986
台湾難友に祈る 鐘謙順、黄昭堂編訳 日中出版 1987
台湾の民族と文化 宮本延人、瀬川孝吉、馬渕東一 六興出版 1987
台湾・爆発力の秘密 ノン・ブック 黄昭堂 祥伝社 1988
台湾の改革派 戸張東夫 亜紀書房 1989
台湾の本 旅のガイドムック 近畿日本ツーリスト 1989
台湾の前途 中国統一か、独立か 小林進編著 サイマル出版会 1989
台湾ニューシネマの旗手候孝賢(ホー・シャオシェン) 田村志津枝 岩波書店 1990
台湾の危機と転機 張俊宏著 吉田勝次・李家騰訳 社会評論社 1990
台湾百科 若林正丈編著 大修館書店 1990
台湾に革命が起こる日 鈴木明 リクルート出版 1990
台湾を愛した日本人 土木技師・八田與一の生涯 古川勝三 創風社 2009
世界史のなかの東アジア 台湾・朝鮮・日本 汪暉著 丸川哲史編訳 青土社 2015

2018年1月15日 (月)

アイスランドとグリーンランド

Azores    現在、地球上には約70億人以上の人びとが村落や都市に居住しているが、その居住は陸地のすべてではない。人間が常に居住し、生活している地域をエクメーネ、無居住地域をアネクメーネとよび、エクメーネは全陸地の88%を占めている。人類は先史時代から、しだいに、その居住地域を拡大していき、歴史時代に入るころには、すでに現在の居住域にほぼ住み着いていたと考えられる。太平洋上のアイスランドは8世紀に、アゾレス諸島、マデイラ諸島、ベルデ岬は15世紀に、バミューダ諸島は17世紀にエクメーネとなった。氷で覆われたグリーンランド。この名前の由来はアイスランドを命名したエイリーク・ソルヴァルズソンが、入植者を募集したがちっとも集まらなかったため、人を集めやすくするため「緑の島」とした。

むかし佐世保は「させほ」だった!?

Trd_127  長崎県佐世保は戦前は「させほ」と「させぼ」の両方が使われていた。古代・中世の平仮名には、濁点を打たないのが通例であり、むかしの人がどちらを発音していたかは分からない。1911年10月に制定された佐世保市の徽章には、「サセホ」の文字を図案化したもので「ホ」の字が中央にみえる。

Yjimagee5cwaw9n  では現在の「サセボ」になったのはなぜか。戦後アメリカ占領軍が佐世保に駐留して「SASEBO」の表記が使われるようになったことが考えられる。

難民問題を考える

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    世界中には戦争、難民、被ばく、飢餓など、地球上で絶えず悲劇が繰り返されている。いまソマリアの人口の半分に当たる370万人が危機的な状態にある。内戦などの政情混乱もあって、これまで1991年以来、飢饉が絶えなかった地域だが、過去60年で最悪の干ばつに見舞われた。ソマリア国内の避難民は146万人、約74万人は近隣諸国へ避難したが、難民のなかには流入の末に餓死するという報道も伝えられている。キッズ外務省ホームページによる「難民の出身の多い国」ランキング。

1位 シリア               487万
2位 アフガニスタン      266万
3位 ソマリア        112万
4位 南スーダン        77万
5位 スーダン         62万
6位 コンゴ民主共和国 54万
7位 ミャンマー      45万
8位 エリトリア       41万
9位 コロンビア      34万
10位 ウクライナ      32万 

2017年11月28日 (火)

首都の話

Nijyubashi  日本の首都はどこか?ほとんどの人は東京と答えるが、実は明治維新から主要な機関が東京に集中したので、いつのまにか首都機能を持つ都市となったというだけで、「東京が首都である」と規定した法令はない。唯一、昭和31年に制定された「首都圏整備法」がそれらしきものである。古来、日本では天皇がおられるところが都となっている。昭和天皇までは京都で即位したが、平成になって天皇は東京で即位されたので、天皇の御座所が東京なので、都は東京ということになっている。

 世界一長い首都の名前はタイのバンコクで正式名称は全部で130文字にもなる。「クルンテープ・プラマハーナコン・アモーンラッタナコーシン・・・・・」とずっと続く。あまりに長いのでタイ人は、初めの部分「クルンテープ」と呼んでいる。イスラエルの首都はエルサレムか、テルアビブか?イスラエルの国民はエルサレムと考えているが、国際的(国連など)にはテルアビブを首都と考えている。日本大使館もテルアビブにある。

   世界の首都をみると、アメリカのようにワシントンが政治、ニューヨークが経済の中心というように機能分担がなされている国がある。ワシントンは1790年7月16日、180平方キロのこの地をDistrit of Columbia(略してD.C.)と言って、どの州にも属さず、合衆国政府直轄の地となった。1960年4月21日にはブラジルの首都がリオデジャネイロからブラジリアに移転した。トルコの首都はイスタンブール(人口1137万人)ではなく、アンカラ(人口372万人)。モロッコの首都はカサブランカ(人口367万人)ではなく、ラバト(人口120万人)。カナダの首都はモントリオールではなく、オタワ。政治都市・経済都市を分けておけば、災害などが発生しても、政治・経済が一緒に壊滅するという、リスクが低くなる。イスラエルの首都はテルアビブかエルサレムか、悩ましい問題である。

Photo_5   最近では、2006年ミャンマーの首都がヤンゴンからネピドーに移転している。オーストラリアの首都キャンベラはシドニーとメルボルンの中間にあるため1908年に首都に選ばれた。インドの首都はニューデリーと学校で覚えたが、最近はデリーになっている。これは首都が移転したのではなく、ニューデリーはデリー市内にある首都機能を集めた地区で単独の都市と認めなくなったためである。パキスタンは独立当初カラチであったが防衛上の観点から北部のイスラマバードに1960年代に首都施設を建設し、移転した。当時、小学生だった私はラワルピンジーと暗記していたのは、1960年から1966年にかけて、仮の首都が置かれていたからである。(Washington D.C.,Brasilia,Canberra,Naypyidaw)

2017年10月18日 (水)

日本の人口

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 今日は「統計の日」。全国各地で統計に関する様々な行事が開催されているが、やはり統計といえば人口。人口4人に1人が65歳以上という超高齢化社会の日本。大正9年10月1日、第1回の国勢調査が実施された。その時の人口5596万3053人だった。  わが国の人口は単調に増加し続けたのではなく、増加と停滞、あるいは減少を何度か繰返しながら、発展してきた。人口増加は、弥生時代から10世紀にかけてみられる稲作農耕とその普及による人口増加と、19世紀から現代にいたる工業化に支えられた人口増加という2つの大きな流れがある。「少子化」が社会用語として使用されだしたのは、1989年に合計特殊出産率が1.57を記録し、「1.57ショック」という言葉で社会問題化された。

    縄文時代には約10万~約26万人であり、弥生時代には約60万人であった。奈良時代には約450万人、平安時代には約550万人となり、室町から戦国時代にかけて人口は1000万人を超えるようになった。慶長時代は約1220万人といわれている。江戸時代には17世紀に人口が増加し、2000万人を超え、18世紀には停滞して、おおむね3100万人から3300万人で推移した。明治になって4000万人を超えて、大正9年には5596万人、昭和15年には7193万人、昭和35年には9342万人、昭和41年3月31日、日本の総人口は1億人を突破した(法務省住民登録集計による)    昭和55年には1億1706万人、平成12年には1億2638万人となった。総務省統計局発表によると、平成29年9月1日現在(概算値)の日本の総人口は、1億2667万人で、2010年から9年連続で減少している。(10月18日)

2017年9月28日 (木)

匝瑳、宍粟、珠洲、新城

Photo_7   千葉県匝瑳市と兵庫県宍粟市は読み方が難しい市名の東西の横綱といわれている。匝瑳(そうさ)の「匝」という漢字はふだん見慣れないが、「匝線」(渦巻き状の曲線)という熟語もある。宍粟(しそう)は「あなぐり」とか「ししぐり」とか読まれることが多い。両市では近年、さまざまな交流を通して市のPRを始めている。宍粟市には千種高原へ向かう「おごしき山」と「空山」の山頂に「平成之大馬鹿門」(彫刻家・空充秋)があることで知られる。

   能登半島の最北端にある石川県珠洲市は「すず」と読む。愛知県新城市は「しんしろ」と読む。地名としては珍しい重箱読み。「しんじょう」と誤読されることが多い。

だれでも読みやすい「いすみ」「あわら」「うるま」「うきは」「かほく」などひらがなの市名も29市あるが、イメージがつかみにくく位置がわからない。

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2017年9月17日 (日)

ローマ観光トップ10

 永遠の都ローマ。世界遺産ローマ歴史地区イタリア・バチカンには、フォロ・ロマーノ、円形闘技場、コロッセオ、神殿パンテオン、コンスタンティヌスの凱旋門などローマ帝国の栄華を伝える貴重な遺跡群が遺されている。そのため観光スポットは無数にある。第10位ナヴォーナ広場。9位サンタンジェロ城。8位ヴァチカン博物館。7位パンテオン。6位フォロロマーノ。5位真実の口(ボッカ・デッラ・ヴェリタ)。4位サンピエトロ寺院。3位スペイン広場。2位トレヴィの泉。そして1位はローマの象徴といえるコロッセオである。正式名はフラウィウスの円形競技場といい、フラウィウス朝の皇帝ウェスパシアヌスと彼の息子ティトスとドミティアヌスが完成した。おそらく1231年の大地震のときに、南西部の外郭全体が崩落し、形をとどめない岩の塊になってしまった。長らく廃墟の時代が続いたが、ナポレオンのローマ占領によって整備がなされ、19世紀から20世紀初めにかけて修復工事が行われた。

2017年8月22日 (火)

ビッグベンの時計が止まる

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  ウェストミンスター寺院の北東に建つ国会議事堂の大時計。愛称のビッグベンとは、工事責任者のベンジャミン・ホール(1802-1867)の名にちなんで命名された。1859年に建てられたが、時計塔は老朽化し、傾きが大きくなってきたことから、来年から8月21日から大規模な改修工事が行われる。時計も4年間は止められることになる。

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