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2008年6月 7日 (土)

アリベデルチ・ローマ

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    もう20年も昔の話であるが、ローマ旅行の想い出といえば猫である。ローマにはなぜかノラ猫が多い。フォロ・ロマーノ、コロッセオ、マルチェルス劇場をはじめとする古代遺跡には、古代ローマ以来のノラ猫の領土である。すでに紀元前5世紀の著述家がノラ猫の繁栄ぶりを記している。猫を崇拝するエジプトからローマにもたらされたこれらローマの猫たちは、彼らの町を共有する人間たちとのさまざまな出来事といささかのかかわりあいをもつこともなく、時代をこえて生きのびてきた。

  アリベデルチ・ローマ…

  good bye…au revir

  陽の光 海に照り 水色の空のもと

  愛のうたを歌う 泉よ

  アリベデルチ・ローマ…

  good bye…au revir

  この胸の 奥深く 思い出をいだきしめ

  悲しくも 別れる さだめよ

  人気歌手で俳優のレナート・ラシェルが1954年に作曲したカンツォーネ「アリベデルチ・ローマ」(ローマよさようなら)はカール・シグマンが英語詞をつけてディーン・マーティンで世界的にヒットした。「アリベデルチ」とは「また逢いましょう」という意味。

2008年6月 1日 (日)

パリの歴史とシテ島

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   パリの歴史は、現在ノートルダム寺院のあるセーヌ川の中州「シテ島」に始まる。パリの名も、このシテ島に紀元前1世紀ごろ住みついていたケルト人の一部族パリシー人に由来する。パリ市の紋章には波に浮ぶ帆船と「揺るるも沈まず」の銘が記されているが、シテ島は古く紀元前のガリア時代から、東西に流れるセーヌと南北にのびる陸路の交わる交通の要衝であった。ガリアがローマの支配下におかれると、パリはローマ都市として発展するが、現在のフランスに相当する国の首都としてパリが出現するのは、フランク族のメロビング王朝時代である。カペー王朝の時代には、はじめてセーヌ両岸にまたがる城壁が築かれ、パリは要塞都市となった。カペー歴代の王の中で、パリの歴史上忘れられないのはフィリップ2世である。王は道路の舗装、上下水道の工事、教会、修道院の建設に力をいれ、パリの最も美しいゴシック建築であるノートルダム寺院も、大部分はその治世に完成を見た。

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2008年5月31日 (土)

パリの自由の女神

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  セーヌ川に架けられたグルネル橋の中央にニューヨークの象徴といわれる自由の女神そっくりの像が立っている。といっても不思議はない。もともと自由の女神はフランス国民がアメリカの独立を祝って1886年に贈ったものだからだ。その3年後の1889年、フランス革命100周年を記念してパリ在住のアメリカ人が寄贈したのがこのパリの自由の女神である。現在では東京お台場、淡路島、大阪アメリカ村など国内各地でも大小さまざまな自由の女神があるそうだが、由緒正しいのは、やはりニューヨークとパリのグルネル橋の自由の女神であろう。

    1789年のフランス革命当時のパリの人口は、約60万人といわれるが、19世紀にはいると工業の発達にともない、1826年75万人、1848年95万人と、人口は膨張を続けた。ナポレオン3世のころ、当時のパリ知事オスマンが大規模な都市計画を実施し、エトワール広場、シャンゼリゼ大通りなどを作った。その後、第3共和制以来、パリは絶え間なく発達を続け、1900年には地下鉄も開通した。

2008年5月16日 (金)

史上最大のバーゲン

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マンハッタンの中央に位置するセントラルパーク

   ニューヨークはアメリカの商業・金融・文化の中心であるばかりでなく、世界最大の国際貿易都市。そんなニューヨークのハドソン河口にある細長い島がマンハッタン。もとは樹木に覆われ、アメリカ・インディアンのアルゴンキン族の居住地だった。ところが、そんなマンハッタン島に大変化がうまれた。

    1626年、オランダの植民地指揮官であったピーター・ミニュイット(1589-1638)は不動産投資を目的としてインディアンよりマンハッタン島とステタン島を買い取った。ガラスのビーズと島とを交換したが、現在の値段にすると、なんと24ドル相当という。のちにこの取り引きは「史上最大のバーゲン」と呼ばれるようになった。

2008年5月14日 (水)

移動する琵琶湖

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奥比叡ドライブウェイ展望台から高島の岬を眺める

   琵琶湖は約400万年前、現在の三重県上野盆地に琵琶湖の起源となる大山田湖が誕生した。そして古琵琶湖と呼ばれる湖は次第に北上し、現在の甲賀地方に広がった。約200万年前ごろ、近江盆地へ移動し、約150万年前には古い湖は消滅し、礫で埋まった。そして約40万年前、今の位置まで移動して新しい湖を形成した。それが現在の琵琶湖である。さらに琵琶湖は今なお移動を続けており、将来は日本海に達することも考えられている。

2008年5月11日 (日)

妖精たちが住む国ノルウェー

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   ノルウェーはスカンディナヴィア半島の北西半を占め、その面積は32.4万平方キロで日本よりわずかに広い。沿岸部は深く陸地に入り込んだフィヨルドによって複雑な海岸線をかたちづくっている。総人口はわずかに約470万人にしか過ぎず、人口密度はアイスランドについでヨーロッパ2番目に低い。農業は不振であるが、国土の24%を森林が占めており、その森林資源を利用した林業と製紙業が盛んである。また北海での漁業、海運業などが盛んであるが、北海油田が開発されて以来、原油、天然ガスが輸出の中心を占めるようになった。

   ノルウェーの自然は神秘的なまでに美しく、しかも冷厳な様相を呈している。北欧の詩人や哲学者の作品のもつ神秘的な雰囲気も、この特有な自然環境の中にこそ生まれ育ったものだと思われる。画家のムンク、彫刻家グスタフ・ヴィーゲラン、音楽家グリーグ、劇作家イブセンなどがいる。

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   ノルウェー第2の都市ベルゲンから北のトロンへイムへ、またベルゲンから南のスタバンゲルへと向かうフィヨルド見物の遊覧船は外国からの観光客を集めている。観光客相手の土産物にはトロールといわれる人形が売られている。トロールとはノルウェーの森に住む妖精である。日常生活でふっと物が無くなった際には、「トロールのいたずら」と言われている。ノルウェーの森は妖精たちがひっそりと静かに息づいている秘密の楽園のような場所だ。

2008年5月 5日 (月)

メルカトル図法

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    メルカトルの世界地図(1569年)

   地理的発見時代の到来により、地図の出版活動も盛んとなった。十字軍遠征がいくどとなく行なわれた中世の後半は地中海を中心とする時代であり、したがって地図製作もベネチア、ジェノバなどのイタリア諸都市が中心であった。しかし、新大陸が発見されると、新たに北海を介して大西洋に臨む北西ヨーロッパの都市が元気づいてきた。とくにその中心的位置を占めるネーデルランドは活気にあふれ、アムステルダムはやがてヨーロッパ第一の商業・貿易都市になった。ゲラルドゥス・メルカトル(1512-1594)はこの時代の代表的な地図学者・地図製作者である。当時の旅行者や商人の旅行記や見聞録などから広く資料を集めて、「ヨーロッパ地図」「南北アメリカ地図」「世界地図」などを作成した。

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    今日の地理学においてメルカトルの考案した地図は円筒図法のひとつでその正角性から正角円筒図法ともいう。経線からの角度が正しい等角図法であるため、海図・航海用地図としてよく用いられてきた。ただし正角図法の原理はメルカトルの独創ではなく、ドイツのエッラープが1511年に作成した地図にすでに使用されている。

   メルカトル図法は経線からの角度は正しく現されるが面積関係が正しく得られない欠点がある。赤道付近の形は正確に近いが、高緯度地域に向かうにしたがい、距離・面積の歪みが大きくなる。また正角の地図であるからといって、土地の輪郭が実際の形と相似に描かれるわけではない。緯度的ひろがりの大きい土地ほど、その輪郭は歪んでいる。またメルカトル図法では東京・ニューヨークを結ぶ直線は、東京・ニューヨーク間の最短通路ではない。

   以上は高校地理の基本的事項であるが、最近あるテレビの教養番組で、解説者がメルカトル図法の地図を用いて、世界の方位、方角を論じていた。もちろん正距方位図法の地図を使用すべきだった。視聴者からのクレームがあったが、現代において地図の知識は重要であろう。

大町桂月と下北半島

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                仏ヶ浦の奇勝

  本州最北端、下北半島には薬研温泉、下風呂温泉、湯野川温泉など温泉地もあり、尻屋崎(東通村)、大間崎(大間町)、イタコで有名な霊場恐山(むつ市)など景勝地も多い。とくに半島西岸の鯛島から弁天島に仏ヶ浦を含めた約15㎞の海岸線は本州さいはての秘境として人気の観光スポットとなっている。

  明治41年8月下旬、三戸郡五戸町出身の鳥谷部春汀から「故郷に十和田湖という景色のよいところがある」と教えられ、初めて十和田湖を見た大町桂月(1869-1925)は、湖の雄大さや、自然の美しさに感動させられた。そして大正11年、桂月は地元の太田吉司、小笠原円吉に案内されて、初秋の下北半島を14日かけて一周旅行している。奇岩怪石の荒涼とした風景を見た桂月は次のように詠んだ。

 神のわざ鬼の手づくり仏宇陀 

       人の世ならぬ処なりけり

 恐山心と見ゆる湖を

       かこめる峰も蓮花なりけり

 大町桂月は当時まだ世に知られていなかった十和田や下北半島の景勝を紹介した旅行家だった。

2008年5月 1日 (木)

北欧のベニス・ストックホルム

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   スウェーデンの首都・ストックホルムは、「水上にただよう都」とか「北欧のベニス」とかいわれているが、なるほど湖と運河にうかんだ町である。町全体が固い岩盤の上にのっかっているため、近代的な高層建築が人目をひく。その地名の由来は、ストック(「入江」「湾」「杭」)とホルム(「島」)、つまり「丸太の島」とでもいう意味であろうか。

   町は1250年にスターデン島にまず建設され、いまもガムラスタン(旧市街)と呼ばれ、中世風で不規則な道路を残している。すでに1255年頃にはハンザ同盟に属する港市として栄えたが、当時はドイツ系の市民の勢力が強かった。1520年にはデンマーク王クリスチャン2世(1481-1559)が、スウェーデン系貴族の弾圧をしたため、グスタフ1世(1495-1560)のもとに結集した勢力はハンザ同盟の支配から脱した。スウェーデンは三十年戦争中にグスタフ・アドルフ(1594-1632)の軍事活動や重商主義政策により大国となった。娘のクリスチナ女王(1626-89)の時にストックホルムの整備が進み、在来のウプサラにかわって首都となり、北欧の中心地として発展していった。1718年から1771年まで、新憲法にもとづき、「ハット党」と「キャップ党」からなる2大政党制による民主的な政治が展開され、「自由の時代」と呼ばれている。

2008年4月23日 (水)

礼文島、北のお花畑

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            地蔵岩を望む(礼文町)

  日本最北端の有人島、礼文島。面積81.33k㎡。人口3856人。島名はアイヌ語の「レブンシリ」(沖の島)に由来するという。5月下旬から8月頃、見事な高山植物や花畑を見ることができる。レブンウスユキソウ、レブンアツモリソウなど貴重な固有種も多い。澄海岬(スカイ岬)から見る海はエメラルドブルーで、沖縄に匹敵する蒼さである。地蔵岩、元地海岸などの景色も美しい。礼文島から利尻島の利尻山が良く見える。

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2008年4月18日 (金)

ヒッピーが住みついた火山島

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              現在も活動を続ける御岳

   火山国日本に火山は多いが、常に活動している活火山は少ない。鹿児島県南部、トカラ列島の中部にあるスワノセ島(諏訪之瀬島)は現在も最も活発な活火山である。文化10年(1813年)に大噴火を起こし、その後70年間、無人島となった。明治16年頃、藤井富伝が入植をはじめ、人が住むようになった。ほとんどの住民が奄美大島などからの移住者だった。島の周囲は海食崖に囲まれ、十数個からなる小集落が南部の台地にあり、自給的な畑作と牛肉飼育をおこなっている。戦後になって、人口の減少が著しく、とくに若年層の流出が続いた。ところが昭和42年に都会からヒッピーといわれる若者がやってきた。島民たちとさまざまなトラブルを起こしながらも、若者は島の生活において重要な働き手となっていった。そしていつしか島にあたらしい文化を根付かせている。「バンヤン・アシュラム」というスワノセ・コミューン(共同体)で、漁師をしながら詩作を続けるナーガ(長沢哲夫)もその一人である。

2008年4月10日 (木)

長崎は今日も雨だった

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   長崎という町は旅人の心を酔わせる不思議な魔力がある。踏む足に柔らかな石畳の面に唐寺の甍に、そして古びた西洋館の蘇鉄をふるわす海風に沃しい異国の香りが漂う。そんなエキゾチックな魅力がある長崎は、戦前から流行歌の格好の歌所となった。由利あけみ「長崎物語」(昭和14年)、樋口静雄「長崎シャンソン」(昭和21年)、小畑実「長崎のザボン売り」(昭和23年)、藤山一郎「長崎の鐘」(昭和24年)と長崎物は必ずヒットするといわれた。昭和40年代に入り、魅惑のムード歌謡の時代もご当地ソングのナンバー・ワンは長崎だった。高橋勝とコロラティーノ「思案橋ブルース」(昭和43年)、青江三奈「長崎ブルース」(昭和43年)、そして内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」(昭和44年)の大ヒットへと続く。「長崎は今日も雨だった」も「思案橋ブルース」のヒットがなければ、世に知られることは無かったかもしれない。ところで思案橋とは歌のせいで、長崎の橋だけと思われがちであるが、もともと江戸が元祖で元吉原の遊郭と堺町の芝居小屋が近くにあり、「行こうか戻ろうか」と思案したので思案橋という名がついたといわれている。

 ないているような 長崎の街

 雨に打たれて ながれた

 ふたつの心は かえらない

 かえらない 無情の雨よ

 ああ 長崎 思案橋ブルース

    ところで長崎で一番有名な橋は、やはり眼鏡橋だろう。石造2連アーチ橋と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見えるところから、この名がついたのだろう。寛永11年に興福寺の住職・黙子如定禅師(1597-1657)が造ったものである。昭和57年7月の長崎大水害では崩壊したが、復旧された。画像は昭和40年代前半のもので、周辺マンションなどが建設される以前の眼鏡橋の景観がうかがえる。

2008年4月 9日 (水)

北海道に残るアイヌ語の地名

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   二風谷アイヌ資料館の復元伝承家屋アイヌチセ

   アイヌとは「人」の意で、なまって「アイノ」ともいわれてた。近世まで、北海道を中心にして千島列島、樺太南部および東北地方に居住していた。最盛期には、さらに本州中部、アムール川流域やカムチャツカ半島南部等にもその勢力が及んだと思われる。18世紀初めの人口は約28,000人と推定されている。小民族ではあるが、他民族に支配されたことがなく、体質や言語が周囲の諸民族と著しく異なっていたため、学界の注目をひき、その研究がなされたが、いまだ定説をみていない。

   北海道には、アイヌ語の地名に漢字を宛てたとされる地名が数多く残されている。

サッポロペッ(かわいた大きな川)  札幌

ヤムワッカナイ(冷たい水)  稚内

モベツ(静かな川)  紋別

シリエトク(大地の果て)  知床

シベツ(親である川=本流)  標津

クッチャル(湖が川になって流れ出すところ)  屈斜路湖

テシカカ(岩の岸の上)  弟子屈

レブンシリ(沖のほうの島)   礼文島

リシリ(高い島)   利尻島

サク・コタン(夏の村)  積丹半島

モルラン(小さな下り坂)   室蘭

シコツ(大きなくぼみ)   支笏湖

サル(アシ原)    沙流川

ビラウツル(崖と崖のあいだ)  平取

シラウオイ(アブの多いところ)  白老

2008年4月 7日 (月)

「熱海ブルース」と「熱海の夜」

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   坪内逍遥(1859-1935)は熱海をこよなく愛し、熱海の地で没した。「わが国の避寒の最優勝地である上に、頗る有効な温泉があり、加ふるに、海と山と田園との三風致を兼ね備えへ、おまけに都会的設備と田舎の趣味を両立せしめているといふ点にある」と熱海の魅力を語っている。(「熱海に関する追憶」)逍遥は大正9年5月に、熱海水口村に別荘を落成し、双柿舎と命名した。ここで昭和10年に没するまで、シェイクスピアの全訳を成し遂げ、「役の行者」「名残りの星月夜」の戯曲を書いた。

 「東の熱海、伊東、西の別府」といわれるほど日本有数の温泉街へと成長した熱海には、古屋旅館、小林屋旅館、相模屋、鱗屋旅館、露木旅館など温泉街としての風格があった。そのため熱海を訪れる著名人も多く、三浦観樹(陸軍軍人)、雨宮敬次郎(実業家)、長與専斎(医政家)、曾我祐準(陸軍中将)、茂木惣兵衛(実業家)、成島柳北(随筆家)、伊藤博文(政治家)、尾崎紅葉(小説家)、尾崎行雄(政治家)、徳富蘇峰(評論家)、横山大観(画家)、佐佐木信綱(歌人)、谷崎潤一郎(小説家)、広津和郎(小説家)、志賀直哉(小説家)など熱海ゆかりの文人墨客は多い。

   また昭和初期、熱海温泉組合は熱海の宣伝のため流行歌を有名作詞家、作曲家につくらせた。

熱海小唄 藤本二三吉、四家文子 昭和5年

熱海節 四家文子、藤本二三吉 昭和5年

熱海ジャズ 渡辺光子 昭和9年

熱海音頭 歌手不詳 昭和9年

熱海ぶし(西条八十作詞、中山晋平作曲)四家文子

熱海ブルース(佐伯孝夫作詞、塙六郎作曲)由利あけみ 昭和14年

 戦時中、空襲だけは免れることができたが、歓楽街としての熱海は昔日の面影はなくなった。そして昭和24年8月31日のキティー台風、昭和25年4月13日の熱海大火と、たび重なる災難が熱海を襲った。熱海国際観光温泉文化都市建設法を制定し、戦後の復興に努めていった。

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熱海の夕波(佐伯孝夫作詞、倉若晴生作曲)ディック・ミネ、菊池章子昭和23年

熱海シャンソン 青木はるみ 昭和34年

三平の熱海の海岸 林家三平 昭和37年

熱海の雨 春日八郎 昭和41年

熱海渚通り 松山恵子 昭和41年

熱海の夜 箱崎晋一郎 昭和44年

熱海妻 笹みどり 昭和46年

熱海音頭 三波春夫 昭和48年

熱海で逢ってね 五月みどり 昭和49年

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    昭和40年代以降の熱海は、都市化のため昔日の温泉街としての情緒が薄れていった。そしてバブル崩壊により、かつて年間530万人を数えた宿泊客は最近では290万人と減少している。お宮の松で有名な海岸通りに建つ大型観光ホテルの多くが倒産し、それらの中には何年も放置されているのもあるという。かつての男性客・団体客を中心とした日本一の歓楽街も大きく変化することを余儀なくされている。

      熱海ブルース

 きのうきた町 きのうきた町

 今日また暮れて

 つきぬ思いの 湯けむりよ

 雨のにおいも やさしくあまく

 きみは湯あがり 春の顔

  *  *  *  *  *  *  *

      熱海の夜

 たった一度の しあわせが

 はかなく消えた ネオン街(まち)

 忘れられない 面影を

 月にうつした 湯の宿よ

 熱海の夜

「金色夜叉」と丹名トンネル

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 熱海の海岸。明治の頃は砂浜で遠浅だった

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 「金色夜叉」執筆の頃の尾崎紅葉(32歳)

   熱海市は、静岡県の最東部、伊豆半島の東岸基部に位置しており、南西北の三方に箱根山系の山をめぐらし、東方は相模灘に面している。明治以降、熱海は「東洋のリヴィエラ」と呼ばれるほどに観光地、保養地として開発されたが、熱海をこれほどまでに全国的に有名にしたのは「金色夜叉」と丹名トンネルであろう。明治初期は富士山のすそのを迂回する御殿場線であったが、明治22年の丹名トンネルの開通により、東海道本線が熱海を通過するようになった。「金色夜叉」は尾崎紅葉(1868-1903)が明治30年から6年間に「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載した小説である。高等中学生の間貫一が、許婚の鴫沢宮を資産家の富山唯継に奪われ、高利貸となって復讐する愛憎劇。とくに追いかけて許しを乞うお宮を貫一が下駄で蹴り飛ばす熱海の海岸の場面が有名となった。

  熱海の海岸散歩する

  貫一お宮の二人連れ

  共に歩むも今日限り

  共に語るも今日限り

     (「新金色夜叉」作詞作曲・宮島郁芳)

   「金色夜叉」は無声映画の時代からテレビの時代になっても、何度もスターによって演じられた。これまで宮を演じた俳優は、映画では衣笠貞之助、中山歌子、三浦清、川田芳子、栗島すみ子、田中嘉子、浦辺粂子、歌川八重子、久野あかね、田中絹代、佐久間妙子、山田五十鈴、西条麗子、川崎弘子、轟夕起子、山本富士子、テレビでは水谷八重子、朝丘雪路、冨士真奈美、高須賀夫至子、佐久間良子、横山めぐみ。

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    栗島すみ子、岩田祐吉(大正11年)

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  浦辺粂子、鈴木伝明(大正13年)

ブリュッセルの夜

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グラン・ブラスを前に、そびえるブリュッセル市庁舎の夜景

   ベルギーの首都ブリュッセルは、EUの本部やNATO北大西洋条約機構本部(ヤープ・デ・ホープ・スヘッフェル事務総長)が置かれているため、ヨーロッパの政治の中心地になっている。ブリュッセルの語源は、ブラマン語のブリュック(沼地)とサリ(建物)である。7世紀、この地はブリュックセラ(沼地の家)と呼ばれた。12世紀には都市を囲む城郭が築かれるまでになり、商工業の町として栄えた。ユネスコ世界遺産に登録されている旧市街地にある大広場グラン・ブラスは、17世紀頃の建築物に囲まれ、ユーゴーは「世界一美しい広場」と称賛している。

    フランドル地方は中世、毛織物工業を背景にブリュージュなどが商業の中心地として繁栄した。15世紀、ブルゴーニュ公国に編入、さらにハプスブルク家の支配下に置かれた。1815年のウィーン会議で、フランスの再拡張を抑える緩衝地帯としてオランダに併合された。1830年10月4日、独立革命によりオランダから独立を宣言。翌1831年、レオポルド1世が国王に即位、立憲君主国となった。中立政策をとったが、2度の世界大戦でドイツの侵略を受けた。2008年3月28日、キリスト教民主フラームス党のイヴ・ルテルムが首相に就任した。

文化財の宝庫・小浜

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     十一面観音立像 10世紀

     小浜市 羽賀寺蔵 重要文化財

   北陸福井県南西部に位置する人口3.2万人の漁港の町・小浜市。NHK連続小説「ちりとてちん」の舞台となった。ヒロイン和田喜代美(貫地谷しほり)の父・正典(松重豊)は若狭塗箸の職人。塗箸は全国の9割の生産量を誇る伝統産業。ちなみに「お箸の日」は「ハ・シ」の語呂合わせで8月4日と定められている。「おばま」つながりで話題となっているバラック・オバマ上院議員も8月4日が誕生日であるという偶然が面白い。

   「和名抄」に遠敷郡(おにゅうぐん)遠敷郷とある小浜市は歴史のある町で、かつては大陸文化の玄関口として栄え、「海のある奈良」といわれるほど文化財を所有する古刹が多い。羽賀寺、神宮寺、若狭国分寺、明通寺、万徳寺、妙楽寺、多田寺、空印寺など。

   羽賀寺の本尊・十一面観音立像は顔面から全身にわたってよく残されている彩色がひときわ美しい。やや黄みがかった肉色に花文様や裳のところどころのはなやかな緑と朱の色調は、時代を経て落ち着いた深みのある味わいをみせている。背面内刳りの一木彫で、全体の姿はやはり扁平で硬直したきらいはあるが、翻波式の彫技と着彩との調和を知るうえに好個の作例である。頭部の冠台は幅が広く大仰であり、頭上の化仏の配列や水瓶を持った左腕から、まっすぐに長く伸ばした右腕の手首にかかる天衣の扱い方などにも地方作として個性的な表現が著しい。(引用文献:千沢楨治「世界美術全集4」角川書店)

2008年3月31日 (月)

テンプレートを変更しました

  桜も咲いて、明日から4月がスタートします。そして今日、3月31日はその準備をするため忙しい一日です。当ブログでも装い新たにテンプレートを変更しました。

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   イメージは「4月のパリ」。「大切なのは普通の語で平凡なことを言うことである」(ショウペンハウエル)という名言があります。例えば、「富士山」「桜」「バラ」をテーマにして記事を書くとすれば、案外と難しいのです。反対に「寺田望南」とか「伊藤鶴吉」だと情報量が少ないので短時間で記述できます。「平凡」「月並み」「大衆性」「世俗的」というのは、意外と奥深いものなのかも知れません。ちなみに平凡社という名称の出版社が学術的に優れた本や百科事典を刊行していることを考えると、「平凡」ということは、とても大切なことなのだとつくづく思います。

2008年3月29日 (土)

本日はマリモ記念日

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   長かった北国の冬も4月になると、春と夏が競り合って一度にやって来るような気がする。阿寒湖に春を告げる風物詩は、遊覧船の運航再開に向け、氷をばりばりと割りながら氷砕船が航路をつくる作業が4月上旬ころから行われる。そして湖畔には太陽の光を浴びて小さな緑の芽がいきづきはじめ、水芭蕉が白い花を咲かせる。森の小鳥たちも待ちかねたように賑やかにコーラスをうたいはじめる。やがて5月も中頃になると湖岸のえぞむらさきつつじが一斉に咲き乱れ阿寒観光の序曲となる。

    阿寒湖といえばマリモが有名である。明治30年、札幌農学校の川上瀧弥農学博士(植物学)が採集し、翌年に学会に発表し、和名を「マリモ」と命名した。大正10年、天然記念物に指定、さにら昭和27年3月29日、特別天然記念物に指定されている。この日に因んで「マリモの日」が制定された。この濃緑の球は大きいものになると直径30センチに達するものもあり、現在、阿寒湖北部のチュウルイ島とキネタンペの二ヶ所にしか生息していない。昭和36年にチュウルイ島にマリモ展示観察センターを造り、遊覧船が寄航し容易にマリモの生態を観察することができる。

          毬藻の歌

 水面をわたる 風さみし

 阿寒の山の湖に

 浮ぶ毬藻よ なに思う

 毬藻よ 毬藻 緑の毬藻

(作詞・いわせひろし、作曲・八州秀章)

春の訪れを待つ富士山

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 頭を雲の上に出し

 四方の山を見下ろして

 雷さまを下に聞く

 富士は日本一の山

  富士山はいつ、どこから眺めても美しい。そして四季の移ろいの中で、さまざまな顔をもつ。ある時は白い雪をいただき、ある時は裾野を緑にそめ、また夕映えに黒いシルエットを残す。

   毎年4月、5月になると、富士山7合目の北西斜面、標高2600メートルから2700メートルにかけて山肌の残雪が鳥のような姿にみえることがある。地元の人々は昔からこの形が現れるのを合図に田植えに入ったことから「農鳥」(のうどり)と呼んでいる。画像は山麓の忍野村から仰いだ詩情豊かな早春の富士である。

2008年3月25日 (火)

ロンドンとテムズ川

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テムズ川とタワー・ブリッジに夕陽が照りつけている

    人口742万人の大都市ロンドン(2005年現在)。ニューヨーク、東京、上海などとともに世界最大の都市の一つをなしている。街の中央にテムズ川(全長336キロ)が流れ、タワー・ブリッジ、ロンドン塔、ビックベン、英国会議事堂、イングランド銀行、ギルドホールが並び政治経済の中心地として重要な位置を占める。だがテムズ川周辺地区は、地盤は比較的軟弱で、海抜ゼロメートル地域が続く。近年の地球温暖化による水位の上昇は、テムズ川氾濫の危険性を増大している。ロンドンは世界でも最も洪水に強い都市と言われてきた。1953年には高潮により大きな被害を受けたロンドンであるが、1980年代にはテムズ・バリア(堰)と呼ばれる潮汐を調整するための巨大な施設を建設した。しかし水位の上昇はさらに当初の想定を超えるようになった。ニューオーリンズでも起こったことはロンドンでも起こるかもしれない。いま万全な洪水対策が問題となっている。

2008年3月24日 (月)

愛媛県佐田岬

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    愛媛県に日本一狭長な佐田岬半島の西端に幅1キロ、長さ40キロにわたって突出した佐田岬がある。波が荒く昔から御鼻といって航行上恐れられた。室戸岬や足摺岬のように人に知られないのは「陸の孤島」とまでいわれる交通の不便さからであろうか。ここでは黒牛の放牧がひとつの風物詩である。そのようなさいはての印象が強い南国伊予に一度だけ旅したことがある。30年以上も前のことである。大学の卒業ゼミで仲間数人(男3人、女2人)の旅。ちょうど山本コウタローとウィークエンド「岬めぐり」が流行っていた。

    松山道後温泉に1泊して、宇和島で闘牛や宇和島城を見て、八幡浜からバスで佐田岬の先端へ行った。長い長い一本道のメロディ・ライン(当時にそう呼んだのかは不明)は単調である。風の強い佐田岬の灯台まで歩く。夜は付近にある民宿。夕食には近所の子供達が一緒に歌をうたい遊んだ。観光地ではないが、そんなのどかで楽しい旅はもう二度と経験することはないだろう。いま思えばあれが青春の旅だったのだ。

2008年3月23日 (日)

プラハの春の訪れ

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 ヨーロッパ最古といわれるカレル橋(プラハ)

  チェコ共和国の首都プラハは、中部ヨーロッパの中心地であり、西欧と東欧との交易ルートとして重要な位置を占めている。5~6世紀より、この地に定住したスラブ人を統治し、外敵に対抗するため、9世紀末にスラブ人によるプラハ城が築かれた。この城下町として、プラハ市街が発達したのは10世紀で、12世紀には、中部ヨーロッパ最大の都市として知られていた。

    プラハという地名は、言い伝えによると、「境、境界」を意味する地名であった。チェコ語のプラジティ(森の焼けた所)が語源であろうとする説。もう一つの説は、スラブ語のプラツ(働く)を語源とする。プラツはスラブ人が川に仕掛けをして漁をする場所を指し、チェコ、スロバキア、ハンガリーに多い地名である。

   1948年6月、チェコスロバキア人民共和国を樹立し、1960年7月公布の新憲法で国名を社会主義共和国に変更した。1968年、ドプチェク第1書記による「プラハの春」と呼ばれる改革運動が起こるが、ソ連はワルシャワ条約機構軍を動員して軍事介入し、プラハなどを占領し、民主化運動は弾圧された。しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロバキアが分離。チェコではクラウス首相が急進的経済改革を推進。1998年にはミロシュ・ゼマン、2002年にはヴラディミール・シュピトラ、2004年にはスタニスラフ・グロス、2005年にはイジー・パロウベク、2006年にはミレク・トポラーネクが首相に就任している。2002年にはヴァルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)が氾濫し、大きな被害を受けたが、プラハにもようやく春が訪れようとしている。

新潟の春の訪れ

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       加治川の桜

    雪が溶けると北国には急速に春が訪れてくる。シベリアの季節風がもたらす豪雪の底で暗い冬に押しつぶされされそうになっていた人びとは、長い冬ごもりから解放されて頭上に広がる青い空を見つける。新発田市の北方に位置する加治川の桜は、そうした新潟の春のプロローグである。加治川の桜が咲き、越後平野のチューリップが花開いて春はいよいよたけなわになっていく。

   新潟は明治以降の本格的な河川の治水工事により、農業は米どころの越後平野を中心として飛躍的に発展してきた。耕地の大部分は水田耕作で、県民経済の稲作への依存度が高い。畑作では、新津、白根、五泉のチューリップ栽培が有名である。

ケンタッキー州

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      ケンタッキー州の州会議事堂

   ケンタッキー州はアメリカ合衆国中部南東寄りに位置する。アパラチア山地の西では最も早く開け、1748年にトーマス・ウォーカーが開拓を行い、続いてダニエル・ブーンがケンタッキー川に沿ったブーンズボロを建設した。もちろんその前に、インディアンがたくさん住んでいた。ケンタッキーという地名は、インディアン語のケンタケ(牧草地、平原)が語源。1776年ヴァージニア州の1郡となり、1792年に州となった。南北戦争では北部のリンカーン、南部のデーヴィス両大統領がケンタッキーの出身で、州は中立を守り、州民は両軍に分かれて参戦した。

   ケンタッキー州の別名、ブールグラスとは学名ナガハグサというヨーロッパ原産の牧草のことである。この牧草は、レキシントンを中心にこの州でよく育ち、馬や牛がとくに好む。このためケンタッキー州は馬の飼育地として有名である。毎年、ルイビルで行われるケンタッキー・ダービーは、1875年から開催されている。このほかケンタッキー・バーボンとして有名な、バーボン・ウィスキーの材料となるトウモロコシも産出される。リンカーン大統領の父親がケンタッキー州からインディアナ州へ移るとき、彼は20樽のバーボンウィスキーと現金20ドルをもって行った、といわれる。

    しかし今日ケンタッキーといえば、カーネル・サンダースのケンタッキー・フライドチキンが最も有名であろう。ハーランド・デーヴィッド・サンダース(1890-1980)は、1930年9月、ケンタッキー州のコービンで、ガソリンスタンドの一角を借りて客席わずか6つの小さな食堂を始めた。「もし美味しくなかったらお代はいりません」という自信と、お客一人ひとりと会話を交わすもとなしから食堂は繁盛する。だが高速道路の開通で客が激減、そこでフランドチキンをワゴン車で巡回販売した。これがケンタッキー・フライドチキンの始まりである。日本進出は万博年の昭和45年、名古屋でオープン。店頭に置かれたカーネル・サンダース像は典型的な「南部の紳士」を象徴する白いスーツを着用している。

2008年3月22日 (土)

ユタ州とモルモン教

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      モニュメント・バレー

    アメリカ合衆国西部にあるユタ州の州都ソルト・レーク・シティは砂漠にある都市で、東にはワサッチ(ウォサッチ)山脈の美しい峰が聳え、市の中央をジョーダン川が流れている。ユタは、この地方に住んでいたインディアンの部族名。この部族はユタとかユテ族とよばれていた。発見者フレモントは、この族名をさらに、現在のジョーダン(ヨルダン)川の名にも転用した。1847年この地方は、ブリガム・ヤング(1801-1877)に率いられた147名のモルモン教徒が開拓に従事し、白人人口が増加した。1850年、合衆国へ編入が決まり、モルモン教徒は、デザレットという州名を希望したが、承認されなかった。議会は、当時広く知られていたフレモント報告書より、ユタ州の地名を選び、州名とした。開拓当初モルモン教徒は、彼ら独自の平和郷の設立を目指したが、教義に示す一夫多妻制に対しては、連邦政府の圧迫が強く、1890年に正式に廃止された。しかし教徒は収入の10%を教会に献金する義務を有し、教会は膨大な富をもっている。そして、ホテル、新聞社を経営し、製糖会社、銀行、生命保険などの事業を行い、州内を横断するユニオン・パシフィック鉄道の大株主でもある。

2008年3月20日 (木)

アイ・ラヴ・パリ

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  私はパリが好き

  ええ、私はお前が好き

  あの青春の日のなつかしいパリ

  私はパリの場末が

  そしてセーヌが好き

  毎日愛し合う人達の腕に

  ぶらついているのね。

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私は、きれいなアーケードが好き

それにベルシーの舗石道も好きなの

そこでは、皆大空の下をぶらついている。

恋をしている時

この地球の反対側に居たって

ただ目を閉じさえすればいい

私の夢はするとあっと云う間に踊り出す。

私を呼ぶグルネルのささやかな舞踏会で

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  私はパリが好き

  ええ、私はお前が好きなの

  あの青春の日のなつかしい友達

  あなたの傍に

  私の恋人がずっと暮らしている

  だからあたしはお前だけを愛する

「アイ・ラヴ・パリ」は1953年に初演されたアメリカのミュージカル「カン・カン」よりのナンバーです。作詞・作曲はコール・ポーター(1892-1964)。シャンソン歌手リュシェンヌ・ドリール(1917-1962)も歌っています。

バカリャウ(干しタラ)

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    アベイロ港のタラのかんそう

   ポルトガルの乾物屋の軒先には大きな灰色の物体がぶら下がっているのをみかける。それはポルトガルの国民食といわれるバカリャウ(干し鱈)である。大西洋で獲れた大きなタラを開いて干したり塩漬けにする。特製の野菜スープを加えて煮込むか、塩ゆでにし、オリーブ油と酢で食べる。ポテト・サラダやクロケッテ(コロッケ)にも使う。そのほか調理法はいろいろあるようで、「家庭の数だけバカリャウ料理がある」といわれる。ともかくポルトガル人はムニェール(舌平目)、グリル(太刀魚)など魚料理を好むが、なかでもバカリャオ(鱈)はよく食べる。

  アベイロは「ポルトガルのベニス」といわれるほど風光明媚な運河の町である。むかしから良港として栄えたが一時水路が砂で塞がれたため寂れたが、19世紀に大暴風雨に襲われて、再び水路が開かれ、町は奇跡的に復興したという。

2007年9月 4日 (火)

「大坂」と「大阪」

   大坂の坂は「土に反る」で、不吉な文字として江戸時代のころから「大阪」とも書くようになっていた。坂が阪になったのは、明治元年5月に城代廃止後、大坂裁判所を置き、大阪府が設置されてからである。しかしなお公文書でも「大阪」「大坂」が混用されていた。明治元年1月23日の大久保利通の「大坂遷都建言書」はそれ以前のものであるが、明治5年設置の「大坂鎮台」なども「大坂」が用いられていた。「大阪」と統一されるようになったのは明治10年前後のことである。昭和になってからの刊行物を見ると、古川重春の「錦城復興記」(昭和6年刊)は、江戸時代の事績はすべて坂を用い、明治以降の事項にはすべて阪を使っている。

2007年5月27日 (日)

灯台の島、男木島

   男木島(おぎじま)は香川県中央部、高松市に属する瀬戸内海に浮かぶ小さな島。夫婦島をなす女木島(めぎじま)の北に位置し、高松市から海上8キロ。南北に長い卵型で、周囲8キロ、面積1.28平方キロ。花崗岩からなり、最高点はコミ山の213m。かつては山頂近くまで階段耕作が続き、サツマイモ、タバコ、野菜、麦の栽培やウシの飼育がおこなわれたほか、サワラ・タイの沿岸漁業や出稼ぎで生計を立てている人が多かった。集落は男木港を囲み西側に階段状に集まる。コミ山の山頂付近には柱状節理のタンク岩、桃太郎伝説で鬼が逃げ込んだというジイの穴がある。

   灯台を守る夫婦(佐田啓二、高峰秀子)を描いた松竹大船映画「喜びも悲しみも幾年月」(監督・木下恵介)のロケ地となり、明治時代に建てられた男木島灯台は御影石造りの様式で知られている。昭和62年、灯台は無人化された。映画公開当時(昭和32年)、男木島には約1千人が住んでいたが、若者が去り現在220人。医師は常駐しておらず、高松から週4日、診察に来る。平成17年に通所介護施設「湯遊の館」が開所した。

2007年2月16日 (金)

大船山とミヤマキリシマ

    大船山(だいせんざん)山頂の南斜面は、初夏のころ紅紫色に咲く花 ミヤマキリシマで埋め尽くされる。大船山は九重連山の一つで、久住山、稲星山、星生山、天狗ヶ城、中岳、三俣山、白口岳、平治岳などが聳える。九重連山の真ん中にある窪地が「坊がつる」である。「坊がつる」とは、かつてこの地は天台宗の霊場として栄え、「坊」(本坊弘蔵坊)のある「つる」(平坦地、湿原)という意味。

    昭和53年、芹洋子によって「坊がつる讃歌」が全国に広められたが、原曲は昭和15年に作られた広島高等師範学校山岳部部歌。

1 人みな花に 酔うときも

  残雪恋し 山に入り

  涙を流す 山男

  雪解の水に 春を知る

2 みやまきりしま 咲き誇り

  山紅に 大船の

  峰を仰ぎて 山男

  花の情けを 知る者ぞ

2006年8月29日 (火)

ケッペンの気候区分

   ドイツの気候学・気象学者W・ケッペン(1846-1940)の祖父はロシアの宮中付医師で、父は経済学者、歴史学者。青年時代クリミアで過ごし、のちぺテルブルグ、ハイデルベルク、ライプチヒ大学で学び、「気温と植物の成長」という卒業論文を提出。卒業後、ペテルブルグの観測所でおもに天気図作成の仕事をした。1873年第1回国際気象会議に出席、国際気象機関の設立と、平均値を出すための観測法、観測時の統一とを提案した。その会で知ったノイマイヤー(1826-1909)によってドイツの海洋気象台に勤めた(1875-1918)。初め4年は種々の気象業務にたずさわったが、のち自由な地位で研究に専念した。1918年には植物や森林の分布に基礎をおいて考案した「ケッペンの気候区分」を発表した。

    ケッペンは月平均気温と降水量とによって次のような気候型に分けた。記号を組み合わせることによって、種々の細かい気候を区分したが、ここでは省略する。

  A 熱帯気候

  B 乾燥気候

  C 温帯気候

  D 冷帯気候

  E 寒帯気候

2006年8月 8日 (火)

三島由紀夫「潮騒」と神島

   鳥羽港から定期船に乗ると、遠くに美しい三角形の島が見える。ここが神島(かみじま)だ。標高171メートルの灯明山を中心に島全体が山地で一見険しそうだが、島内各所の遺跡から奈良・平安時代の唐鏡や和鏡が出土し、島は伊勢神宮(神の里)を守る島だったといわれる。三島由紀夫『潮騒』の舞台として知られ(小説では歌島となっている)、神島灯台、監的哨跡、八代神社など訪れる人も多い。映画「潮騒」では、船揚場前は島の若者新次が初江を見初めた場所。八代神社も248段の階段を新次が登っていくシーンなど重要な場面で使われている。10月にはサシバ(鷹)とアサキマダラ(蝶)の渡りが見られ、毎年この時期には「観察会ネイチャーランド神島」も開催される。

2006年8月 2日 (水)

中世の面影の濃い町ヴェローナ

    アドリア海に臨むヴェネツィアから内陸を西へ行くとシェークスピアの『ロミオとジュリエット』で名高いヴェローナがある。古代ローマ帝国時代にあっては北への軍事上の前哨地として重要な役割を果たし、その名残を今なお町中に数多く残る闘技場や劇場をはじめとする古代の遺跡にとどめている。

   中世においてもロンバルディアとフランスを、あるいはボローニャとアルプス以北の諸都市とを結ぶ交通上の接点として、ヨーロッパ各地のさまざまな文化を享受できる恵まれた地理的位置にあった。

    こうした条件のもとに、13世紀末から14世紀末までの約1世紀の間ヴェローナを支配したスカラ家は、ローマ時代からの町の領域を広げ、14世紀に入ってからは町全体を塔、邸館、城館などで飾り、ダンテやジョットを招いて洗練された宮廷文化を培い、中世からルネサンスへ向かうヴェローナ美術の発展のための土壌を用意したのである。

    ジョットの革新的な芸術はパドヴァとはわずかな距離しか隔たっていないヴェローナにも及んだ。ヴェローナ絵画の創始者とされるのはアルティキエーロである。1400年前後から半ばにかけてヴェローナで活躍した画家はステーファノ・ダ・ヴェローナである。アントニオ・ピサーノ(1395~1450ころ)は傑作「聖エウスタキウスの幻想」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)「聖ゲオルギウス伝」(サンタナスターシア聖堂)がある。

2006年7月31日 (月)

バルセロナ

   バルセロナはマドリッドにつぐスペイン第二の都市です。最初にバルセロナを築いたのは前6世紀ごろのギリシア系フォセオ人とされ、のちにカルタゴ、ローマの植民地時代を経て、地中海貿易の拠点として大いに発展しました。

   今日ではスペイン一の商工業地帯の中心です。そして、忘れてならないのが、カタルーニャの中心でもあるということです。スペインには地方単位の自治政府が17あります。その中の1つ、カタルーニャ自治政府の所在地はバルセロナです。地方の確立がめざましいのは、それぞれ独自の歴史、文化、習慣、言語の裏づけがあるからです。カタルーニャの場合、「スペイン人である前にカタルーニャ人である」とさえいわれています。

    スペインの町の特徴の1つは旧市街の保存の良さにあるといえます。そこでは、一瞬、時が止まってどこか別世界へ迷いこんだのではないかと錯覚を起こすくらいです。バルセロナでは「ゴシック地区」がそれにあたり、この中を歩いていると、ほのかに中世の足音が聞こえてくるようです。

   一方、バルセロナの新市街は土地の人たちに「レシャンプレ」と呼び親しまれているところです。都市計画にもとずいて線引きされたまっすぐな道路、公園の数々(シウダデラ公園・グエル公園・モンジュイック)、ファッショナブルなグラシア通り、天才建築家アントニ・ガウディ(1852~1926)の作品(聖家族教会・ミラ邸・バトロ邸など)。ゴシックや古都のイメージとはまったく違う、こちらもやはりバルセロナの顔です。

    美術館・博物館の数はざっと70を越える(カタルーニャ美術館・ミロ美術館)。音楽を愛し、お祭りといえば民族舞踏サルダーナに興じる人たち。学術研究に熱心な年。国際会議の街。

2006年7月28日 (金)

牧畜と家畜

    牧畜とは群れをつくる有蹄類の飼養をさすと言われる。そこで対象となる家畜について述べる。

    牧畜の対象になる有蹄類家畜は、動物学的にはそのヒヅメの数から奇蹄目と偶蹄目の二つにわかれている。奇蹄目のウマ科に属す家畜として、ウマとロバがある。この両者はたいへんちかく、交配によってラバが生産されていることはよく知られている。やや特殊になるが、古代メソポタミアで戦車をひいていたという、ロバ・ウマ両方に似たオナーゲルもこれらにくわえられるだろう。

    偶蹄目のウシ科には、ウシ、スイギュウ、ヤクがある。ヤクはヒマラヤからチベット、さらにモンゴルにかけてみられ、ウシにくらべるとかなり毛が長い家畜である。これらには、ウシと同じ種に属するが形態のかなりちがうインドウシ(コヴウシ)や、ウシとの関係がなおはっきりしない、アッサムから東南アジアに分布するガヤル(ミタン)とバンテンもふくまれることになる。ガヤルもバンテンもウシにちかいことだけははっきりしており、いずれもウシと交配可能である。この点ではヤクの場合もおなじで、ウシとのあいだにできる雑種のメスには繁殖力がある。ウシ科のなかで小型のものとして、ヒツジ、ヤギがある。

    ラクダ科にうつると、まず旧大陸には二種類のラクダがいる。ヒトコブラクダは乾燥と暑さに強く、良好な遊牧地であれば何週間も水なしですごせるほどで、西南アジアと北アフリカに分布する。もう一方のフタコブラクダは冷涼な気候に適し、おもに中央アジアに分布している。両者をみくらべると、毛の長さや体形はかなりちがうが、やはりおたがいにたいへんちかい関係にあり、交配によって雑種をつくることができる。他方新大陸(アンデス)のラクダ科に属す家畜として、リャーマ、アルパカがいる。これらも外見はかなりちがうが、同じ種と考えられる。

    シカ科のトナカイは別の意味で私たちになじみが深く、忘れることのできない家畜である。トナカイは寒冷なツンドラや森林に適しており、ラクダのように他の家畜では利用できない環境を利用することを可能にしている。

    有蹄類家畜としてはほかにイノシシ科のブタがいるが、これは群れ生活をせずにふつうは牧畜の対象とは考えられていない。それでもヨーロッパの村落ではブタの群れが放牧され、他の家畜と似たあつかいをうけることがあり、場合によってはこれまであげたものと同列に考えることができるように思われる。

2006年7月18日 (火)

弘前の歴史

   弘前は、かつて鷹ヶ岡(高岡)とよばれていた所で、津軽藩によって城を中心に町づくりがおこなわれた。津軽藩祖大浦為信は津軽の統一とともに、それまでの堀越城が要害に欠けるところから、慶長8年(1603)、鷹ヶ岡に町割りや、新城の築城を計画した。しかし完成前に死去し、二代藩主大浦信牧(おおうらのぶひろ)が推進し、慶長16年(1611)城築は完成した。以来明治2年まで、津軽藩10万石の中心として発展した。明治4年7月、廃藩置県によって、「弘前県」となったが、9月に「青森県」となって青森市が県庁所在地となり急速に衰微した。明治27年には弘前・青森間に鉄道が開通し、明治31年に第八師団司令部が設置され、軍都として発展する。さらに、大正10年に、官立弘前高等学校(現在の国立弘前大学)が開校し、学園都市としての性格を持つ。太宰治は昭和2年から昭和5年まで弘前高等学校に在籍し、「弘前新聞」や同人誌で作品を発表している。

2006年7月14日 (金)

ユーラシア

   地理的知識の拡大で、ヨーロッパとアジアを合わせた呼称である「ユーラシア」という用語が使用されたのはおそらく19世紀になってからであろう。一説によると、ドイツの地理学者ロイヒがその著書『地理学手引』(1858年)の中で用いたのが最初とされている。

   日本でユーラシアという用語が使用されるようになったのは1940年代頃である。最初は誰であるか明らかではないが、江上波夫が1948年『ユウラシア古代文化』(全国書房)、1951年に『ユウラシア北方文化の研究』(山川出版社)などで書名に用いたことから一般的に広まったと考えられる。

    しかしその地理的範囲はロシアのウラル山脈より東のシベリアを中心とし、今日いわれるヨーロッパとアジアをまたがる大陸を意味していなかった。初期のユーラシアの地理的範囲はいわゆるユーラシアンと呼ばれる民族が住む地域に限られていたと考えられる。