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2009年11月 4日 (水)

美しい初恋の思い出がする韓国の島々

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   高校時代、授業の合間に帝国書院の地図帳をながめて、いつか愛する人ができたら二人で世界中の島々を旅してみたい、と思っていた。残念ながらそれは夢で終りそうだが、最近は映画・ドラマの舞台が美しい海がみえる小島がよくでてくるのでチョット気になる。とくに韓国は朝鮮半島の周囲に無数の小島があるのでよく登場する。「オール・イン」や「宮廷女官チャグムの誓い」の舞台である済州島はあまりにも開発が進みリゾート化されているので興味がない。映画「僕の、世界の中心は、君だ」で主なロケ地となった巨済島は慶商南道にある韓国で2番目に大きい島。釜山から近い。対馬にも近い位置にある。「冬のソナタ」で「不可能な家」が実在する外島(ウェド)も近くにある。ハンリョ国立海上公園内に位置している個人所有の島。「春のワルツ」の舞台となった青山島(チョンサンド)は全羅南道莞島(ワンド)郡青山面にある14個の島の中で、一番大きい島。お花畑のあるきれいな島だ。お金もないし、体力もない。映像や写真をみながら地理の勉強をしよう。韓国の地理は知らないので、韓国ドラマと地図帳で勉強する。

2009年11月 3日 (火)

屋代島はどこにあるか?

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    瀬戸内海にはおよそ600ほどの島々がある。淡路島、小豆島、豊島、直島、本島、広島、北上島、真鍋島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島、大崎上島、大崎下島、上蒲刈島、下蒲刈島、江田島、能美島、倉橋島、柱島、屋代島、平郡島、長島、祝島など。屋代島(面積128.3平方キロ)は、山口県の南東端、柳井市の南2キロの位置にあり、昭和51年に「大島大橋」が架設された。瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい島である。

    漁業と農業を営み、山口ミカンの産地として知られるが、ほかにみるべき産業がないため出稼ぎ、ハワイ移民も多かった。島にはハワイ移民資料館がある。「忘れられた日本人」の著作で知られる民俗学者の宮本常一(1907-1981)はこの島の出身。久賀歴史民俗資料館、橘民俗資料館、農村交流伝承館・文化財収蔵庫、周防大島交流文化センターなど文化施設も多数ある。

スロベニアはどこにあるか?

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    パウロ・コエーリョの世界的ベストセラー「ベロニカは死ぬことにした」の冒頭部分。ある日、ベロニカはなにげなく手にしたフランスの雑誌で「スロベニアはどこにあるか」という記事を目にする。ベロニカはスロベニア生まれだ。スロベニアはヨーロッパの中央部に位置し、歴史もある。だが読者の大半は首都リュブリャーナどころか、スロベニアさえどこにあるか知らないと思った。彼女は雑誌社に手紙を書く…。それはコンピュータ・ゲームの紹介記事でフランスの製品、スロベニアの工場でつくられている。もちろん安い労働力だから。

    スロベニアは西にイタリア、南と東にクロアチア、北東にハンガリー、北にオーストリアと接している。隣国クロアチアは古代ローマ共和制時代、ダルマチアという属州であったが、スロベニアの地も歴史的には古代ギリシア、マケドニア、ローマ帝国の支配下にあった。スロベニア人(スロベニア語を使用する民族)は6世紀ごろユーゴスラビアの北西部の山岳地帯に定住し、スロベニア語は7世紀から9世紀のあいだに隣接のセルボ・クロアト語から方言的に分化した。双数の保存などスラブ語の古形の状態を保存している。最古の文献は10世紀末にさかのぼる。バルカンの人びとは長い間オスマン・トルコ帝国の支配で苦しんだ。「バルカン」とはトルコ語で「山脈」という意味である。スロベニアの地はトルコ(イスラム圏)の支配をのがれて、ヨーロッパ圏(ローマ・カトリック圏)に属していた。19世紀になってロシアがトルコ勢力をしりぞけてから民族国家の形成がされていく。第二次大戦はイタリア・ドイツの支配下にあったが、戦後はユーゴスラビア連邦を構成する共和国となった。1990年春、自由選挙を実施して民主化政権を樹立し、1991年6月25日、連邦から独立を宣言した。1992年5月、国際連合に加盟。

    国土の大半はアルプスに連なる山岳地帯で森林が全面積の45%を占める。早くから西欧圏に属し、経済は安定し、工業発展が著しい。面積は2万平方キロで、総人口は約203万人。住民はスロベニア人が89%、クロアチア人が10%、その他1%。主要都市は首都リュブリャナ(人口26万人)、マリボル(人口11万人)。

2009年10月10日 (土)

戦前における都市地理学の成果

    わが国で現代都市の研究が始まったのは、第一次大戦後の人口の都市集中、関東大震災後の復興などの社会変動が都市問題への関心をよび、東京市政調査会が大正14年に設立され、『都市問題』が創刊された頃からであろう。実証的調査に基づく学問的研究は、奥井復太郎(1897-1965)の『現代大都市論』(昭和15年)に結晶した。また小川琢治『人文地理学研究』(昭和3年)、小田内通敏『田舎と都会』(昭和9年)、国松久弥『経済地理学概説』(昭和10年)、西田與四郎『地文地理概説』(大正9年)などにもいくつかの新しい成果が示されている。

2009年9月26日 (土)

9月26日

Photo_2 木田金次郎 「晩秋」 1924年

    「今日は何の日カレンダー」を見ると、9月26日は昭和34年、伊勢湾台風があった。昭和29年には青函連絡船洞爺丸沈没の事件があった。あれから55年が経った。同日に北海道ではもう一つ大きな災害があった。岩内町大火だ。台風15号のため避難した民家から出火し、約3500戸が焼失し、被災者は1万7500人という大火だった。死亡者35人、行方不明者45人。洞爺丸事故の陰にかくれたため、災害援助対策が軌道に乗らず、悲惨な状況だった。岩内で有名なことはもう一つある。木田金次郎美術館というのが平成6年に開館している。有島武郎の小説「生まれ出ずる悩み」(大正7年)のモデルが木田金次郎(1893-1962)である。有島は大正12年に軽井沢で波多野秋子と心中するので、木田金次郎の後半生を知らずに死んだことになる。木田は逆境にも負けることなく、自らの天分を生かして画業に務めた。これを有島武郎が知ればどんなに喜んだだろう。「生まれ出ずる悩み」も感動的だが、木田金次郎の人生そのものはもっと感動的である。木田は昭和29年の岩内大火で多くの作品を焼失したが、その後も精力的な創作を続けた。木田と有島との結びつきに猛烈な感動を覚える。

2009年9月 6日 (日)

去り行く夏

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  夏がくれば 思い出す

  はるかな尾瀬 遠い空

  霧のなかに うかびくる

  やさしい影 野の小径

  水芭蕉の花が咲いている

  夢見て咲いている 水のほとり

  石楠花色に たそがれる

  はるかな尾瀬 遠い空

         「夏の思い出」 江間章子作詞

   尾瀬は水芭蕉の群生で知られる日本最大の高層湿原地帯で、日光国立公園北西部の景勝地。東西6㎞、南北2㎞内外の地域全体が、特別天然記念物に指定されている。燧ヶ岳、景鶴山、至仏山などの山々に四方を囲まれた盆地状の一帯は、めずらしい植物や昆虫が多く、渓流魚の天国となっている。燧ヶ岳の南の尾瀬沼には、福島県側から簡単に入ることができ、湿原や池塘の美景を楽しめる。

Photo_3 ニッコウキスゲ

2009年8月25日 (火)

五能線の旅

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   水森かおりの歌でも知られるようになった五能線は能代(秋田県)から鯵ヶ沢(青森県)までは日本海沿いの荒々しい海岸がよく見える。岩館、深浦、広戸あたりが海岸の景色の見所で、特に沈む夕日が素晴らしい。五所川原付近では青森名物の林檎畑の中を走るが、岩木山が長く裾野を引いて聳えている。原始のままのブナ林で知られる白神山地へ分け入るための、唯一の鉄道線路で、あきた白神駅は白神山地への登山口の一つである。

2009年8月13日 (木)

松島湾に浮かぶ宝島伝説の島

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    松島湾の外縁を限る形で浦戸諸島がある。桂島(かつらじま)、野々島(ののしま)、寒風沢島(さぶさわじま)、漆島(うるしじま)、大森島(おおもりじま)、鷺島(さぎしま)、朴島(ほおじま)、馬放島(まはなしじま)などからなる。朴島は浦戸諸島のなかでも小さい島であるが、春には島全体に一面の菜の花が咲き誇る美しい島である。名前の由来は、①伝説の鳥「鳳凰」が住んでいた②ノロシの「烽火」があったから③仙台藩の軍用金や貴重な宝物が隠されていたため宝島(ほおじま)と呼ばれた、と諸説ある。

2009年5月 4日 (月)

セントラルパークの四季

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   マンハッタン島のほぼ中央に位置するセントラルパークはニューヨーカーにとつて大切な憩いの場所。最初の渡り鳥が羽ばたく春から、冬の雪がふたたび訪れるまで四季折々の表情が美しい。

   アメリカには19世紀半ばころまでは、どんな都市に行ってもまともな公園はなかった。1840年代にイギリスからピクチャレスクの建築と庭園が導入され、アンドルー・ジャクソン・ダウニング(1815-1852)が現われてアメリカ独自の木造住宅様式および自然と人工の融合というラウドン流の造園を提唱し、また各都市に公園が必要なことを説いた。これに刺激されて1851年にニューヨークにセントラルパークを建設する企画が立てられ、委員会はフレデリック・ロー・オルムステッド(1822-1903)の設計案(1858年)を採用し、1862年に一応の完成をみた。オルムステッドは340ヘクタールの長方形の敷地を二つに分け、自然の地形を生かし、変化の多い南側の地形に多くのレクリェーション施設を設け、東西に走る4つの横断路は園内の遊歩路と立体交差させるという独創性を示した。セントラルパークの成功によってアメリカ各地に公園が盛んに新設されるようになり、19世紀末にはほとんどすべての都市が公園をもつようになった。

2009年3月 2日 (月)

リヴィングストンのアフリカ探検

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   リヴィングストン(1813-1873)は宣教師及び医師として最初中国に向うつもりであったが、1840年ロンドン伝道教会からアフリカ・ベチュアナランドにおもむくよう命ぜられた。さらに1849年この地を発した彼は北へカラハリ砂漠を縦断ヌガミ湖に達し、また1852年にはザンベジ川を中流からさかのぼりカタンガにおいてコンゴ川の支流カサイ川に達し大西洋岸に出た。さらに彼は同じ道を経てザンベジ上流におもむきヴィクトリア瀑布発見の後1856年5月インド洋岸に達し、史上最初のアフリカ大陸横断を達成した。1866年彼はニヤザ、タンガニーカを経て遂にコンゴ川上流のルアラバ川を発見しているが、これをナイル川の上流と見なしている。(のちスタンレーによってヴィクトリア湖がナイルの源流であるとほぼ確定された。その後の調査によると、ルヴィロンザ川やカゲラ川などが源流といわれる。)以後一時彼の消息は不明となるがその探索のため、1871年ニューヨーク・ヘラルド社からスタンレー(1841-1904)が派遣された。彼はタンガニーカ湖畔のウジジで病めるひとりの白人の衰えた姿をみとめた。「リヴィングストン先生ではありませんか」スタンレーの感動にふるえる一声に、老人はうなずき、しっかりとスタンレーの手をにぎった。若きスタンレーとアフリカに一生をささげた老雄の劇的な出会いの一瞬であった。しかしその2年後の1873年5月、リヴィングストンは60年の波瀾の生涯をおえた。

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