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2017年5月27日 (土)

日本の位置と領域

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Photo_5  わが国はユーラシア大陸の東側に位置する弧状に連なる島国で、4つの大きな島と小さな島々から成り立っている。その島の数は、昭和62年、海上保安庁が「海上保安の現況」において、北海道・本州・四国・九州を含めて日本の構成島6852島と発表している。領域の長さは、オホーツク海を臨む最北端・択捉島カムイワッカ岬から最南端の太平洋を隔てて米領北マリアナ諸島と隣り合っている沖ノ鳥島まで南北約2800kmある。排他的経済水域を接していない最東端・南鳥島(マーカス島)から、東シナ海を挟んで中国大陸および台湾島と隣り合っている最西端・与那国島西崎まで東西約2500kmある。日本の地形の特色は、ユーラシアプレート、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プートの4枚のプレートが出会う場所にあることである。そして国土のおよそ7割が山地である。

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  与那国島西崎(いりざき)

 

2017年5月20日 (土)

アジア人文地理

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    宇宙からアジアを見ると、東京やソウルが夜景のため輝くばかりの光を放っている。世界最古の文明の発祥地であるアジアは、世界最大の人口をもちながら、日本をのぞく多くの国々は、19世紀と20世紀半ばまで西欧の支配を受けていた。第二次世界大戦後に、これらの国々はつぎつぎに独立し、新しいアジアに生まれかわった。アジアは広大な地域であるから、地形はきわめて複雑で、地域によりちがいが大きい。アジアには、北部に居住する北方系と南部に住む南方系とに分かれ、前者にはフィン族やマジャール族のほか、トルコ人・モンゴル人・ツングース人・朝鮮人および日本人などがあり、後者には中国人(漢族)・チベット人・アンナン人・タイ人・ビルマ人などがある。世界人口74億のうちアジアは42億人といわれる。アジア民族の活動舞台となる地形は、「世界の屋根」といわれるパミール高原(タジキスタン共和国の東部ゴルノ・バダフシャン自治州に属し、一部は中国、アフガニスタンにはいる)から放射状にのびる山系によって分けられている。すなわち北西にはアルタイ山脈、北東には天山山脈が走り、アルタイ山脈はさらにサヤン山脈と合し、バイカル湖から北東にはヤブロノイ山脈があって、これはさらにオホーツク海北岸に聳えるスタノヴォイ山脈にとつづいている。さらにパミール高原から東に向かっては、カラコルム、ヒマラヤ、アルチンターク、崑崙などの大山脈が延び、崑崙はさらに秦嶺となって中国につづき、華北と華南の境界を形成する。ヒマラヤの東の延長は数条のインドシナ山脈となり、その一つは南嶺として華南とインドシナ半島とを境している。日本と隣接する朝鮮、中国、台湾、ロシアなどはこれまで複雑な歴史を有している。

    現在アジアの国は全部で39ヵ国。約4400万k㎡で地球全面積の32%を占めている。面積の大きい国を10位まであげると、中国・インド・サウジアラビア・インドネシア・イラン・モンゴル・パキスタン・トルコ・ミャンマー・アフガニスタン。

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  アジア関係文献一覧

世界都路1 亜細亜洲 仮名垣魯文 1872
改正萬国地誌略図一覧1 亜細亜・亜非利加之部 伊東正貫編 京都・笹田辰之助 1877
亜細亜言語集 上 支那官話 広部精編輯 青山堂書房 1880
中亜細亜紀事 西徳二郎 陸軍文庫 1886
総訳亜細亜言語集 支那官話部 全4巻 広部精訳 青山清吉 1892
亜細亜大陸旅行日誌並清韓露三国評論 原田藤一郎 1894
亜細亜之存亡 岡本監輔編 哲学書院 1900
亜細亜ニ於ける露西亜 落合昌太郎合著 嵩山房 1903
亜細亜歴史地図 石沢発身編輯 弘文館 1903
古代埃及及西南亜細亜史 高桑駒吉 早稲田大学出版部 1903
亜細亜東部ノ覇権 戸水寛人 1904
亜細亜之将来 タウンセンド 金港堂書籍 1905
高等地理 巻之3 亜細亜洲 矢津昌永 丸善 1906
五大洲探検記1 亜細亜大陸横行 中村直吉 博文館 1908
小学地理教材2 亜細亜洲大洋洲 北垣恭次郎 宝文館 1909
大亜細亜主義論 小寺謙吉 東京寶文館 1916
亜細亜大観 黒竜会出版部 1918
回教民族の活動と亜細亜の将来 渡辺巳之次郎 大阪毎日新聞社 1923
白禍に悩む支那 亜細亜聯盟へ 長野朗 燕塵社 1924
アジアを跨ぐ 副島次郎 大阪毎日新聞社 1927
アジアの二大運動 回教徒とユダヤ人 山岡光太郎 渡辺事務所 1928
亜細亜の生きるの途 蜷川新 日本書院出版部 1929
黎明大亜細亜 満洲建国を顧みてこの大躍進を語る 満洲国通信 1938
亜細亜史概説 中世篇(歴史学叢書) 守屋美都雄編 蛍雪書院 1940
アジア人名辞典 アジア問題講座12 尾崎秀実ほか 創元社 1940
アジア周辺民族史 竹尾弌著 今日の問題社 1943
アジア研究1 アジア経済学会編 如水書房 1954
アジア 付オセアニア 社会科地理文庫 多田文男・小堀巌 三省堂 1955
アジア史 文庫クセジュ ルネ・グルッセ 前嶋信次訳 白水社 1955
アジア史概説 松田壽男 河出書房 1956
アジア 世界地理シリーズ ぺりかん写真文庫 平凡社 1957
アジア 歴史と私 島田正郎 啓文社 1962
アジア史小論 石橋秀雄 山本書店 1962
アジア高原の旅 アーノルド・トインビー 黒沢英二訳 毎日新聞社 1962
アジア古代史概説 光島督 成文堂 1965
アジア現代史 衛藤瀋吉編 毎日新聞社 1969
アジア史概説 宮崎市定 学生社 1973
アジア学の展開のために 創樹選書 竹内好編 創樹社 1975
アジア現代史 全4巻 別巻 歴史学研究会 青木書店 1979-1985
ヨーロッパとアジア 大東名著撰2 榎一雄 大東出版会 1983
アジア稲作文化への旅 NHKブックス 渡辺忠世 日本放送出版協会 1987
アジア・女・民衆 松井やより 草風館 1988

2017年5月13日 (土)

オーストラリアとオーストリア、なぜ似ているのか?

   1787年5月13日、イギリスの初代植民地総督アーサー・フィリップが流刑囚780人、海兵隊などからなる約1200人の艦船11隻を率いてオーストラリアに向けてポーツマス港を出航した。

   Australia と Austria、どうして似ているのか?

  オーストラリア(Australia)は、2世紀の地理学者プトレマイオスが、インド洋の南の果てに大陸があると想像し、「テラ・オーストラリウス」と称していたのに由来する。

   現在のオーストラリアを最初に発見したのは、スペイン人のトーレスであったが、彼の名前がオーストラリアとニューギニア島の間のトーレス海峡に残されているように、1606年、トーレスは大陸の東岸地方を発見した。1642年にオランダ人タスマンは、この大陸の西海岸を探検しつつ南下、タスマニア島に達し、この大陸西岸地方をニュー・ホラントと命名した。1770年になって、イギリス人クックは、東岸地方を新サウス・ウェールズと命名した。1801年、イギリス人フリンダーズは、この大陸を船で一周、「ニュー・ホラント」と「新サウス・ウェールズ」は同一の大陸であることを確認、この大陸を古くからの呼称によりテラ・アウストラリウスと呼ぶことを提案、オランダとイギリスはこれに同意した。1828年、イギリスの支配下に入り、英語化されて「オーストラリア」(南方の国)と称するようになった。

   一方のオーストリアは、8世紀にフランク王国のカール大帝がオーストマルク(東部辺境区)を設置したのに由来する。ラテン語表記「マルキア・アウストリアカ」の「アウストリアカ」がヨーロッパ諸国で広く用いられた。英語読みになったのが「オーストリア」である。現在の正式国名は「オステルライヒ」(Osterreich)「東の国」の意である。(5月13日)

2017年5月 1日 (月)

お風呂誕生のルーツは?

Roman_baths_bath 「世界ルーツ探検隊」初回のテーマはお風呂。ポンペイ遺跡の風呂跡を紹介して、ローマ時代のお風呂の起源を探る。お風呂の起源は歴史の闇の中に没しているが、自然に湧出する源泉を利用して傷病を癒すことは洋の東西を問わず、また人間と動物の区別なく行われてきた。温泉は紀元前3000年ないし4000年紀にはエジプトで利用されてきた。番組では紀元前400 年ころコス島のアスクレピオン遺跡(病院跡)からはヒポクラテスがお湯を使って体を温め血行をよくし、ある病気を治すために温泉治療を考案し世界最初のお風呂と結論づけている。余談ながら英語で風呂(Bath)はイギリス南西部の町バースに由来する。紀元前1世紀にローマ人によって建てられたローマン・バスは、アルプス以北で最も保存状態のよいローマ遺跡といわれている。18世紀にはバースは上流階級がリゾート地として発展した。女流作家ジェーン・オースティンもこの町に5年間滞在している。(The Roman Baths)

謎のナゾーニ

Nasone   ヨーロッパの都市はだいたい水に恵まれたところは少ない。 ローマの街角にはナゾーニと呼ばれる変なものがたくさんある。とくに暑いことで知られるローマにはトレヴィの泉やナヴォナ広場など大きな噴水があるが、近代的な都市水道が整備されたころから、1874年からナゾーニと呼ばれた小さな水飲み場が数多く設置された。ナーゾ(naso)はイタリア語で鼻。それが大きいものを表わすoneがさらに複数形になってナゾーニ(nasoni)。独特な飲み方があり、指先で水を跳ね上げるようにして飲んでいる。

 パリでは1867年の万国博覧会以後、鋳鉄製の公共給水泉が広場の一角に多数設置された。これらヴァラス給水泉という。イギリス人の金融家リチャード・ウォーレスが1872年に寄贈したことにちなむ。(fontaines Wallace)

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  パリのヴァラス給水泉

2017年4月26日 (水)

日本難読地名あれこれ

Img_1464510_58854395_0  かつて沖縄北方担当相の島尻安伊子が、北方領土の1つである「歯舞」の漢字を読めなかった。「はぼまい」はそれほど難読地名ではないとおもうのだが・・・。中学校の社会科の教科書にも出ている。義務教育レベルの話か。日本には難読地名は多い。古代、中世の地名が現在も苗字、町名などに残ってる場合がある。畔蒜(千葉県袖ヶ浦市)、枳原(宮城県高千穂) 訓覔(広島県高田郡高宮町) 不入斗(神奈川県横須賀市、千葉県富津市) 挙母(愛知県豊田市) 寒河江(山形県)。「あびる」「げずはら」「くるめき」「いりやまず」「ころも」「さかえ」。千葉県匝瑳市(そうさし)、鹿児島県姶良市(あいらし)、埼玉県加須市(かぞし)、山口県下松市(くだまつし)などもなかなか読めない地名である。

 長野県と群馬県の県境に跨る山、四阿山。標高2354mで日本百名山の一つ。「あずまさん」と読む。大分県高島にある海獺碆灯台。「あしかばえ」と読む。千葉県船橋市鈴身町に「行行林」という地名(字名)がある。その読み方はたいへん難しい。「おどろばやし」と読む。淡路島にある弥生時代の遺跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」。遺跡名は字(あざ)を使用することがあるので難読名がある。

2017年4月 3日 (月)

世界の公園

   この現代社会において、人は自然とふれあう機会を失いつつある。そこで様々な植物や自然にふれあう機会と場を増やすため都市公園の整備をすすめている。世界でいちばん古い公園は1746年開園のコペンハーゲンにあるバッケン遊園地といわれる。1872年には北米でイエローストーン国立公園がつくられ、オーストリアのウィーンにあるプラーター公園は1893年に開園している。しかし世界で公園の概念を定着させた国はイギリスであろう。市民社会が成立すると同時に、良好な環境を享受することが市民としての権利として位置づれて公園が整備されていった歴史的過程がある。ここで世界の巨大な都市型公園をあげてみる。

ハイドパーク、ケンジントン公園 ロンドン

セントラルパーク ニューヨーク

ボルゲーゼ公園 ローマ

リュクサンブール公園、チュイルリー公園、シャン・ド・マルス公園 パリ

テイーアガルテン公園 ベルリン

シウタデリヤ公園、グエル公園 バルセロナ

レティロ公園 マドリード

ヴィーゲラン彫刻公園 オスロ

シベリウス公園 ヘルシンキ

ゴーリキ公園、ソコルニキ公園 モスクワ

チボリ公園 コペンハーゲン

ザビオン公園 アテネ

チャプルテベック公園 メキシコシティー

アラメダ公園 メキシコシティー

ジュリオ・フルタド公園 リオデジャネイロ

ブキティマ自然保護区 シンガポール

北海公園 北京

タプコル公園 ソウル

ボンダイビーチ シドニー

ノーサリアイランド公園 シカゴ

ピルダムス公園 スウェーデンのマルメ

2017年3月31日 (金)

エッフェル塔

Photo_7    1889年のこの日、エッフェル塔が完成し落成式が行われた。塔は、その少し前に発明されたベッセマー鋼を使用し、造形美とともにその優秀性を誇示する意味もあって建造されたものである。今ではパリのシンボルであり最大の観光名所、世界中から年間600万人の観光客が訪れる。ところがパリではこのところ大気汚染が深刻化してエッフェル塔が霞んでみえるという。またテロリストをよそおった爆破予告のイタズラが多発しているのも頭痛の種。2013年には爆破を予告する電話があり、観光客ら1500人が一斉避難する騒動があった。警察は塔の周辺を封鎖して捜索したが異常はなく、約3時間後に封鎖は解除された。(3月31日)

2017年3月30日 (木)

琉球・台湾関係文献目録

Yoichi   「琉球」と聞けば、多くの人は首里城守礼門の沖縄を思い浮かべる。ところが、「琉球は台湾だった」といえば話がややこしくなる。日本の九州から南、台湾島に至る間につらなる列島を、北から正確にいえるだろうか。

  種子島、屋久島、トカラ列島、奄美大島、徳之島、沖之良部島、与論島、沖縄島、久米島、宮古島、石垣島、西表島、与那国島、台湾島である。

  台湾には先住民はいたが、清朝支配下となるまで、対外的な統一名は無かった。したがって、中国の古文献によって古代の地名を比定することになる。まず「漢書」地理志に次のように記されている。

「会稽の海外に東鯤人あり、分かれて二十余国となす。歳時をもって献見す」

    この「東鯤」(とうこん)が台湾であると唱えたのは日本の東洋史家・市村讃次郎であるが、確証は未だない。

   7世紀はじめ、「隋書」煬帝紀に

「流求国は海島の中に居り、建安郡の東、水行五日にして至る」

  この「流求」は、現在の台湾であることは間違いない。大業3年(603年)、煬帝は朱寛、何蛮らに台湾遠征を命じた。

  以後、「流鬼」(新唐書)、「琉求」(宋史)、「瑠求」(元史)のなどの地名が見える。

  つまり、古代において中国では、台湾のことを「琉球」とよんでいたたのであるが、現在の沖縄についても区別することなく、全体を「琉球」と称していたとおもわれる。そのため戦前の学界では、混乱が生じ、琉球沖縄説と琉球台湾説に分かれた。今日では、西洋の地図なども検討し、隋、唐、宋、元代に見える「琉球」の地名は台湾を指していると見るのが定説である。

    では、なぜ沖縄を指して「琉球」と称するようになったのか。それは、、明の洪武年間(1368-1398)、沖縄の中山王が明の冊封を受けたため、朝貢国である沖縄を「大琉球」とし、一方朝貢していない台湾を野蛮な島として「小琉球」と区別するようになったためである。もともと「大琉球」「小琉球」の区別は16世紀のヨーロッパ人によるものが最初であるらしい。オリテリオスの「太平洋図」(1589年)において沖縄と台湾を「Lequuuei grande」「Lequeio pequenno 」と区別している。「pequeno」とはポルトガル語で「小さい」の意である。レケオ・ペケニョらの地図でも台湾が「小琉球」と呼ばれていたことがわかる。日本では台湾をもともと「たかさご」と呼んでいた。豊臣秀吉の国書には「高山国」(1593年)とある。のちに「たかさくん国」などの表記が見られるが、17世紀初めの船乗りたちは台湾のことを「たかさご」と呼んでいた。 しかし、中国では沖縄が「琉球」と定まったのに対して、台湾の呼称は「東蕃」「北港」「雞籠」「台員」「大冤」などの名があてられたが、いずれも台湾全体をさした呼称ではなかった。鄭氏が清国に屈服し、台湾が清国領となって以後、「台湾」の名で呼ばれるようになった。

  台湾関係文献
台湾諸島誌 小川琢治 1896
台湾と南方支那 田中善立 新修養社 1913
台湾殖民発達史 佐藤四郎 台北晃文館 1916
台湾の風景 田村剛 雄山閣 1929
台湾の1年 川村竹治 時事研究会 1930
台湾農業年報 昭和6年  台湾総督府殖産局 1932
台湾農業年報 昭和7年 台湾総督府殖産局 1933
台湾人四百年史 史明 音羽書房 1962
琉球史料双書 伊波普献等編 井上書房 1962
台湾の現実と日中関係 台湾ナショナリズムの動向を中心に 現代アジア社会思想研究会 同研究会 1965
台湾の経済と金融 アジア諸国経済・金融シリーズ1 久保田太郎 国際図書 1967
台湾資料 秘書類纂18 明治百年史叢書 伊藤博文編 原書房 1970
台湾の経済成長 その数量経済的研究 篠原三代平、石川滋共編 アジア経済研究所 1972
台湾の農業 斎藤一夫編 アジア経済研究所 1972
台湾処分と日本人 林景明 旺史社 1973
台湾年鑑 1973年版 台湾問題研究所編 PNS通信社 1973
台湾年鑑 1975年版 PNS通信社編 新国民出版社 1975
台湾年鑑 1977年版 台湾研究所編 台湾研究所 1977
中国と琉球 野口鉄郎 開明書院 1977
壺を祀る村 台湾民俗誌 国分直一 法政大学出版局 1981
台湾風俗誌(復刻) 片岡厳 青史社 1983
海峡 台湾政治への視座 研文選書 若林正丈 研文出版 1985 
台湾人士鑑 昭和9・12・18年版 復刻 興南新聞社編 湘南堂書店 1986
台湾民主国の研究(重版) 黄昭堂 東京大学出版会 1983
台湾の旅 エリアガイド66 小林克己 昭文堂 1984
琉球・清国交易史(二集『歴代宝案』の研究) 宮田俊彦 第一書房 1984
台湾の原住民族 宮本延人 六興出版 1985
台湾の旅 ワールド・トラベル・ブック6 ワールドフォトプレス 1986
高砂族調査書 台湾総督府警務局理藩課 湘南堂書店 1986
台湾難友に祈る 鐘謙順、黄昭堂編訳 日中出版 1987
台湾の民族と文化 宮本延人、瀬川孝吉、馬渕東一 六興出版 1987
台湾・爆発力の秘密 ノン・ブック 黄昭堂 祥伝社 1988
台湾の改革派 戸張東夫 亜紀書房 1989
台湾の本 旅のガイドムック 近畿日本ツーリスト 1989
台湾の前途 中国統一か、独立か 小林進編著 サイマル出版会 1989
台湾ニューシネマの旗手候孝賢(ホー・シャオシェン) 田村志津枝 岩波書店 1990
台湾の危機と転機 張俊宏著 吉田勝次・李家騰訳 社会評論社 1990
台湾百科 若林正丈編著 大修館書店 1990
台湾に革命が起こる日 鈴木明 リクルート出版 1990
台湾を愛した日本人 土木技師・八田與一の生涯 古川勝三 創風社 2009

2017年3月29日 (水)

マリモ記念日

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   長かった北国の冬も4月になると、春と夏が競り合って一度にやって来るような気がする。阿寒湖に春を告げる風物詩は、遊覧船の運航再開に向け、氷をばりばりと割りながら氷砕船が航路をつくる作業が4月上旬ころから行われる。そして湖畔には太陽の光を浴びて小さな緑の芽がいきづきはじめ、水芭蕉が白い花を咲かせる。森の小鳥たちも待ちかねたように賑やかにコーラスをうたいはじめる。やがて5月も中頃になると湖岸のえぞむらさきつつじが一斉に咲き乱れ阿寒観光の序曲となる。

    阿寒湖といえばマリモが有名である。明治30年、札幌農学校の川上瀧弥(1871-1915、農学博士・植物学)が採集し、翌年に学会に発表し、和名を「マリモ」と命名した。大正10年、天然記念物に指定、さにら昭和27年3月29日、特別天然記念物に指定されている。この日に因んで「マリモの日」が制定された。

北海道帝国大学教授・西村真琴(俳優西村晃の父)は絶滅に瀕していたマリモの保護を提唱した。この濃緑の球は大きいものになると直径30センチに達するものもあり、現在、阿寒湖北部のチュウルイ島とキネタンペの二ヶ所にしか生息していない。昭和36年にチュウルイ島にマリモ展示観察センターを造り、遊覧船が寄航し容易にマリモの生態を観察することができる。

          毬藻の歌

 水面をわたる 風さみし

 阿寒の山の湖に

 浮ぶ毬藻よ なに思う

 毬藻よ 毬藻 緑の毬藻

(作詞・いわせひろし、作曲・八州秀章)

    「毬藻の唄」といえば安藤まり子。83歳になる現在もNHKの歌番組に出場し元気なところをみせている。ほかに美人歌手の九条万理子も「マリモの唄」をレコード化している。「まり子」「万理子」と毬藻つながりでか。異色では吉永小百合が昭和42年に「わたしは毬藻」をリリース。セリフもある。

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