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2008年6月20日 (金)

少年とオオカミ

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  村の近くで、ひとりの子どもがひつじの番をしていた。そのうち、退屈になったので、「オオカミが来た。だれか来てください」と、大声で叫んでみた。すると、村の人びとが、「それはたいへんだ。」「ひつじを食われては困るぞ。」「それ、みんなでいって、オオカミをやっつけてやれ。」と、棒や鉄砲を持って駆けつけてきた。「オオカミはどこにいる?」集まってきた村人たちは、口ぐちに聞きました。「みなさんの話し声や足音を聞いて、オオカミは逃げていった。」

    ヒツジ番をしていた子どもは、こういってごまかした。「そうか、それはよかった。」たくさん集まった村人たちは、ほっと安心してみんな帰っていった。村の人たちがあわててとんで来るのが、子どもにとっては面白くてたまりません。退屈になると、オオカミが来たと叫んで、村人たちが騒ぐのを見て喜んだ。

   こんなことを三回ばかりやったあとのことだった。ほんとうにオオカミが4、5匹もやってきた。ヒツジの番をしていた子どもはびっくりして、「オオカミが来た。だれか来てください。」と、大声で叫んだ。

   ところが、村人たちは、「きっと、またうそだろうよ。」「いってやらなくてもいいよ。」「オオカミはすぐ逃げていくさ。」と、いい合って、だれも来てはくれない。

    ついに、オオカミはヒツジを一匹残らず食べてしまった。

2008年6月15日 (日)

不遇の作家人生

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   イギリス国民が世界で最もすぐれた作家を生み出した大きな理由の一つは、イギリスの社会が生前に作家を虐待し、死後に作家を育成したからです。(キーツ書簡集)

   ジョン・キーツ(1795-1821)は、シェリー、バイロンと並ぶ後期ロマン派の詩人である。代表作「エンディミオン」に対する酷評に大きく傷つけられた。ローマで不遇のうちに25年の生涯を閉じた。キーツの評価は、19世紀を通じて徐々に高まっていった。

2008年6月14日 (土)

ゲーテ「愛の書」

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書物の中の最も驚くべき本は

愛の書。

注意ぶかく読むと

喜びのページはまれで

全編みな悩み。

一章は別れが占め、

再会は、短い章で、

断片。悲しみの巻は

説明でひきのばされ、

はてなく、節度もない。

おお、ニザミよ。だが、しまいに、

おん身は正しい道を見つけた。

解き難いものを解くのはだれか。

再び相会う愛するふたり。

           *

まこと、わたしを見たのは、

わたしにキスしたのは、

あの目、あの口であった。

腰は狭く、胴はまるかった。

天国の快楽を受け入れるためのように。

あの人はあそこにいたのか。

どこに行ったのか。

まこと、あの人であった。あの人がそれを与えた。

逃げながら身を与え、

わたしの命をすっかり捕えた。

               高橋健二訳

2008年4月28日 (月)

ジョイス・キルマー「樹」

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       樹

  思うに、樹のように美しい詩を

  見ることはついになかろう。

  甘い乳の流れる大地の胸に、

  飢えたるその口に押しあてる樹、

  日もすがら神を見上げて

  葉の多い腕をさしあげ祈る樹、

  夏にはその髪にこまどりの

  巣をかけることもある樹、

  その胸に雪がよこたわり、

  雨となかよく暮らす樹、

  詩は私のような馬鹿が作るが、

  神さまのみが樹をつくり給う。

    ジョイス・キルマー(1886-1918)は、ニュージャージー州で生まれ、将来を嘱望されながら、第一次大戦で戦死したアメリカの詩人。詩集に「愛の夏」(1911)、「樹木」(1914)など、評論集に「サーカス」(1916)などがある。

2008年3月25日 (火)

ヘッセとドストエフスキー

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    ドストエフスキー(1821-1881)

   ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の1919年の一文に「カラマーゾフの兄弟またはヨーロッパの没落」(高橋健二訳『若き人々へ』人文書院)があるが、ここではその一節を紹介する。

    ドストエフスキーの諸作の中では、特に『カラマーゾフの兄弟』において私がひそかに「ヨーロッパの没落」と呼ぶものが、最も強くもりあがり、異常な明らかさで、表現され、予言されているように思われる。ヨーロッパの青年、特にドイツの青年が、ゲーテでなく、またニーチェでもなく、ドストエフスキーを、彼らの偉大な作家と感じていることは、われわれの運命にとって決定的であると、私には思われる。そう思って、最近の文学をながめると、いたるところに、ドストエフスキーへの近似が見出される。もっとも、それが単に模倣であり、子どもらしい印象を与えるに過ぎないことも、しばしばなのだが。カラマーゾフの理想が、非常に古いアジア的神秘的理想が、ヨーロッパ的となり始め、ヨーロッパの精神を食いつくし始めている。それが、私がヨーロッパの没落と呼ぶところのものだ。この没落は、母へ帰ることを意味する。それはアジアへ、源泉へ、ファウストの母たちへ帰ることであり、もちろん地上のすべての死がそうであるように、新しい誕生に通じるであろう。この過程を、「没落」と感じるのは、われわれだけである。われわれと同じ年輩のものだけである。古いいとしい故郷を去る時、悲しみと取り返しようもない喪失の感を抱くのは、老人だけであって、これに反し、若いものは、新しいものを、未来を見るだけである。ちょうどそれと同じようなものである。

   だが、私がドストエフスキーに見出す「アジア的」理想とは、ヨーロッパを征服しようとしていると私の思う「アジア的」理想とは、どんなものか。

    それは簡単に言えば、一切を承認するために、また長老ゾシマが予告し、アリョーシャが実践し、ドミトーリが、そしてずっとそれ以上にイワン・カラマーゾフが極度に明らかな自覚に達するまでに表白している、一つの新しい危険な恐ろしい神聖さのために、あらゆる固定した倫理と道徳から離反することである。長老ゾシマの場合はまだ、正義の理想が支配している。彼にとっては、ともかく善と悪とが存在している。ただ彼は彼の愛を、ほかならぬ悪人に特に好んで注ぐのである。

    アリョーシャの場合はもう、新しい神聖さの方式が、ずっと自由に生き生きとして来ており、彼はもうほとんど、無道徳的な自在さで、身辺のあらゆる汚れと泥の中をとおりぬけている。しばしば彼は私に、「あらゆる不快感を脱却することを、自分はかって誓った」というツァラツストラのあの最も高貴な誓約を想起させる。しかし、見よ、アリョーシャの兄たちは、この思想をもっともっと押し進め、もっと思い切ってこの道を進んで行く」そして、しばしば、外観はどうあろうと、カラマーゾフ兄弟の関係は、厚い三巻の本の進行の間に、徐々にまったく向きを変え、確固として存在している一切のものが次第に再び疑わしくなり、聖なるアリョーシャが次第に世俗的に、世俗的な兄たちが次第に神聖になり、最も犯罪人的な無頼なドミートリが、新しい神聖さ、新しい道徳、新しい人道の、最も神聖な、敏感な、切実な予感者となるかのように、思われる。それははなはだ奇妙である。いよいよカラマーゾフ的で、背徳的で、飲んだくれで、無頼で、粗暴になればなるほど、この粗暴な現象や人間や行為の肉体を通して、新しい理想がいよいよ近く光を発し、それは内面的にはいよいよ精神化され、神聖になる。飲んだくれで殺害者で暴行者であるドミートリと、犬儒学者的な知識人イワンとを並べると、検事やその他の市民階級の他の代表者たちの、律義な、きわめて儀礼的なタイプは、外面的に勝ち誇れば誇るほど、いよいよみすぼらしい、うつろな、価値のないものとなる。

   このような、ヨーロッパ的精神の根をおびやかす「新しい理想むはまったく無道徳的な考え方であり、感じ方であるかのように見える。それは精神的なもの、必然的なもの、運命的なもの、極悪なものの中にも、極度に醜いものの中にも感知し、そういうものに対しても、いや、まさにそういうものに対してこそ、尊敬と礼拝とをささげる能力であるように思われる。検事は大弁舌を振るって、このカラマーゾフ的背徳を皮肉に誇張して表現し市民たちの嘲笑にゆだねようとするが、その試みは、実際になるどころか、かえってきわめて穏やかなものにとどまっている。

   この演説の中で、保守的市民的な立場から、それ以来通りことばとなった「ロシア的人間」が描写されている。危険で、いじらしくて、無責任で、しかも良心的に敏感で、気が弱く、夢想的で、残忍で、しんから子どもらしい「ロシア的」人間である。今日でも人は好んでそう呼んでいる。もっとも私の信じるところでは、そのロシア的人間は、ずっと前からヨーロッパ的人間になりかけている。それこそまさに「ヨーロッパの没落」である。

   このヘッセの一文は第一次世界大戦直後の不安に時期に書かれたものであり、当時の精神状況を知るうえで今日でも意義ある文献と考える。文章を理解しやすくするため、「カラマーゾフの兄弟」の登場人物を紹介しておこう。

フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ カラマーゾフ家の家長。地主階級とは名ばかりの、ほとんど裸同然の身から出発し、居酒屋の経営や金貸しなどのあくどい稼業で身代を築き上げた成り上がり者で、抑制のきかぬ激しい情熱をもつ物欲と淫蕩の権化、自分も堕落し、まわりにも堕落をまきちらすシニカルな毒舌家で、「ロシアは豚小屋だ。ロシアの百姓は叩きのめす必要がある」などとうそぶく。彼はグルーシェンカに淫蕩の血を狂わせ、血道を上げている。最後に非業の死をとげる。

アデライーダ・イワーノヴナ その妻。富貴な家庭に生まれながら、フョードルを買いかぶって結婚し、一児をもうけたが、のちに愛想をつかして、他の男とかけおちする。

ソフィヤ・イワーノヴナ その後妻。二人の息子を生んで死ぬ。

ドミートリ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ(愛称ミーチャ) 長男。父からカラマーゾフ的な抑制のきかぬ情熱を譲りうけたが、同時にロシア人的純粋さを持つ男である。酒色に溺れ、底抜けのばかさわぎをやらかすが、心の底には高潔なものへの憧れが生きている。広いロシア的性格への憧れが生きている。彼はグルーシェンカの肉体の美しさに夢中になると、許婚を放り出してしまい、父親を敵視し、殺してやりたいと悩む。27歳。

イワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ 次男。大学出の秀才。父の人間蔑視が異なった形で彼に投影している。彼は神を否定し、「神の創ったこの世界を認めぬ以上、人間にはすべてが許される」という独自の理論を打ちたてる。無神論者であり、虚無主義者である。彼にもやはりカラマーゾフの血が流れている。それは兄ドミートリの許婚カテリーナに対する狂おしい思慕に現れる。ドミートリが肉体的になら、イワンは理論的に、父を憎悪していることは同じである。

アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ(愛称アリョーシャ) 三男。僧院で愛の教えを説くゾシマ長老に傾倒する純真無垢な青年。彼は誰からも、父からも愛され、天使と呼ばれている。しかし、彼の内部にもカラマーゾフの血が流れていることは、だれよりも彼自信が知っている。20歳。

スメルジャコフ  フョードルが乞食女に生ませた私生児。てんかんの病をもつ。下男としてうわべは実直に働いているが、浅薄で、奸智にたける。差別あつかいされているだけに、父フョードルを憎む気持ちは誰よりも強く、フョードルを殺して金を奪い、犯罪をドミートリに転嫁する。

2008年3月21日 (金)

ティファニーで朝食を

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    トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の初版が出たのは1958年の秋だった。それから3年後にオードリー・ヘプバーンで映画化され、主題曲「ムーン・リヴァー」と共に世界的に知られるようになったので小説よりも映画のイメージが強いことは否めない事実である。しかし原作のホリー・ゴライトリーという女性を読者の想像力に委ねるために、最近刊行された村上春樹の新訳では、本のカヴァーには映画のシーンなどを使っていないような配慮もされている。滝口直太郎の訳と一部分を比較してみただけの印象であるが、村上訳はこなれた平易な現代語でより読みやすくなっている感じがする。

   ホリー・ゴライトリーはニューヨークのアパートに、猫だけが同居のひとり暮らしをしている。彼女をとり巻くあまたの男性のうちには、映画人とか百万長者とかブラジルの外交官とかさまざまな人間がいたが、もともと籠の鳥になることを望まない野性の女ホリーは、自分の属する住所も持たず、名刺のアドレスには「旅行中」と印刷してある。時あたかも1940年代の初め、アメリカの社会は「いやな赤」の恐怖におののいている。ダイヤモンドなど大嫌いな彼女だが、ティファニーの宝石店にはよく足をはこぶ。そこのどっしりと落ちついた雰囲気の中に立った彼女は「いやな赤」の恐怖から救われ、いつの日にかはこのような所に住んで、「朝食」を取れるようになれればよいのにと思う。

   同じアパートに無名作家のポールが住んでいて、ホリーに好意を持つようになる。ある日、二人はセントラル・パークで乗馬を楽しんでいるとき、馬があばれ出して五番街にとび出し、やっと警察官にとりおさえてもらう。ところが、ホリーがマリファナを使っていることがばれ、麻薬密輸のギャングとかかわりがあるのではないかということになって大きなスキャンダルになる。これより前、ホリーは毎週木曜日にシング・シング刑務所に収容されていたギャングの幹部を訪問し、週100ドルの報酬をもらっていたことがバレる。このスキャンダルのおかげで、結婚の相手を夢見ていたブラジル外交官ホセに逃げられ、保釈中にもかかわらずブラジルにホセを追いかけて行く。

  映画ではオードリー・ヘプバーンがジョージ・ペパードと結ばれハッピー・エンドとなっているが、原作ではホリーはブラジルに渡り、さらにアフリカまで放浪の旅を続けることになっている。

    小説にはもちろん映画主題歌「ムーン・リヴァー」は登場しないが、ホリーがギターを爪びきながら歌う場面が一箇所ある。その歌詞を紹介する。(滝口直太郎訳)

   眠りたくもなし、

   死にたくもない、

   ただ旅して行きたいだけ、

   大空の牧場通って。

    村上春樹の新訳では「眠りたくもない、死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」とある。

2008年3月 8日 (土)

ホーンブック

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    少女が手に持っているのは、お正月に羽根突き遊びをするための羽子板ではありません。ホーンブックという幼児用の本です。イギリスでは17世紀から18世紀にかけて、慈善学校、日曜学校などの民衆学校が設立され、子どもに字を覚えさせるために、アルファベット、数字、主の祈りなどを書いた紙を透明な角質(horn)の薄片で覆い、それを柄付きの枠におさめたホーンブックが使われていました。ホーンブックの起源は1442年頃にさかのぼるともいわれています。

2008年2月25日 (月)

スティーヴン・リーコック

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   「カナダの有名な作家は?」とたずねると、10人中みんなが、「赤毛のアンの作家」と答えるだろう。ルーシー・モード・モンゴメリ(1874-1942)の作品は村岡花子、中村佐喜子、岸田衿子、猪熊葉子、松本侑子、掛川恭子などの翻訳で日本では今も広く読まれている。ウィキペディアの「カナダ」の項目では、他にマーガレット・アトウッド(1939年生まれ)という女流詩人も記載されていた。しかし、カナダの作家はこれだけなのだろうか。日本でのカナダの文化や歴史の情報があまりに少ないのに驚く。

   調べてみると、スティーブン・バトラー・リーコック(1869-1944)という作家がいる。生まれはイギリスのワイト島で、8歳の時にカナダに移住している。 つまりイギリス系のカナダのユーモア小説家。モントリオールのマギル大学の政経学部の教授を勤めながら、ユーモアと風刺あるエッセイ風の作品やミステリーを多数残している。マーク・トウェイン以来の最も人気のあるユーモア作家である。

   スティーヴン・リーコックの代表作に「町のひなた点猫」(「小さな町の陽気なスケッチ」)(1912)をはじめとして、「ナンセンス小説集」(1911)、「わがイギリス発見」(1923)がある。文芸批評家として健筆をふるい「マーク・トウェーン」(1932)、「チャールズ・ディケンズ」(1933)などの評伝がある。ほかに自伝「あとに残した少年」(1946)がある。他に「ミステリ狂、或いは迷探偵」「二百歳まで生きる法」「億万長者になる法」「善行魔」「逆行魔」「騎士道残酷物語」「Qある怪奇心霊実話」「名探偵危機一髪」「スパイ戦線異常あり」「バッガム屋敷の怪」「架空会見記」「ゴルフ虎の巻」「奇術師の復讐」「手相をみせて」「衣服病理学」「ABC物語」「欠陥探偵」「人生成功の秘訣」「専門化が進めば」「わが財政的履歴」「ミステリこの優雅な娯楽」等多数あるが現在入手は困難。

    スティーヴン・リーコックの人生訓がよく知られている。

幸運とは、自ら動かない限りは、決して訪れないものだ

     *   *   *   *   *   *   *   *

人生の進み具合というのは、なんと奇妙なものだろう。小さな子供は「もっと大きくなったら」と口にする。だが、どうしたことだ。大きくなったら子供は「大人になったら」と言うではないか。そしておとなになったら、「結婚したら」と言う。けれども、結婚したらいったいどうなるのか、考えがコロリと変わって、「退職したら」と来る。やがて、退職が現実のものとなると、自分の過ぎし日の光景を思い浮かべる。そこには木枯らしが吹きすさんでいるようだ。どういうわけか、すべてを取り逃がしてしまった。もはや過ぎ去ってしまったのだ。そして、遅ればせながらわれわれは学んぶ。人生とは、生きることの中、つまり毎日毎時間の連続の中にあるのだということを

2008年2月 2日 (土)

アンナ・カレーニナと姦通罪廃止論

    あるときトルストイは新聞の三面記事に目がとまった。それはトルストイの近所に住む知人の妻アンナのことだった。アンナは、夫が女家庭教師と仲くなったことを知り家出をした。「あなたは下手人です。もし人殺しが幸福になれるものなら、あの女と一緒に幸福にお暮らしなさい。もしわたしに会いたいと思ったら、駅のレールの上で、わたしの死体をごらんになれるでしょう」という手紙を残して鉄道自殺をとげた。

    この小さな事件をヒントにして「幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という書き出しではじまる長篇小説「アンナ・カレーニナ」が生まれた。

    トルストイの思想は大正期の知識人に大きな影響を与えた。白樺派などの作家、芸術家だけでなく、弁護士の布施辰治(1880-1953)や法学者の滝川幸辰(1891-1962)たちもトルストイアンであることはよく知られている。滝川は昭和7年「トルストイの復活に現われたる刑罰思想」と題する講演で報復的刑罰より人道的対応が大切だという意見を述べている。滝川は当然「アンナ・カレーニナ」という悲恋小説も読んでいたし、アンナとウロンスキイとの姦通を司法の立場で考えていたであろう。つまり、滝川事件のそもそもの発端は小説「アンナ・カレーニナ」ではないだろうか。そして、もし、あのときトルストイが新聞の三面記事を読まなかったら、滝川事件もなかったかも知れない。

2008年1月26日 (土)

カフカの恋人

    フランツ・カフカは生涯一度も結婚しなかった。しかし何人かの恋人がいたことはよく知られている。2度婚約し2度とも解消したフェリーツェ・バウアー、人妻のミレナ・イェセンスカ・ポラク、ユーリエ・ヴォフリゼク、ドーラ・デューマントなどである。とりわけミレナに送られた膨大な手紙は20世紀最高の書簡文学ともいわれている。1920年にカフカの作品をチェコ訳したミレナは、感受性の鋭い、知性的な女性であった。ミレナとカフカの関係は、ほとんど手紙の上の恋愛だったが、ミレナは神経症で悩むカフカを励ましつづけながら、文学の良き理解者でもあり恋人でもあった。しかしミレナは結婚にふみきれなかった。禁欲的なカフカにたいし、自分はあまりに大地に根ざしていたとミレナは告白している。ミレナはのちナチスの強制収容所で死んだ。

2008年1月18日 (金)

ブレイク「赤ちゃんの喜び」

    赤ちゃんの喜び 

        ウィリアム・ブレイク

  生まれてから 二日目

  まだ 名のない赤ちゃん

  それでは なんと呼びましょうか

  あたしの名前は「よろこび」よ、

  と言っているみたいに、

  いつもにこにこ笑っている赤ちゃん

  「よろこび」さん、いつまでも

  あかちゃんを お守りください

  けだかい よろこび

  生まれて二日目の かわいい喜び

  けだかい喜びと 呼びましょうね。

  赤ちゃんは笑い、

  わたしは歌う。

  かわいい「よろこび」さん!

  赤ちゃんを お守りください

                        蔵原伸二郎訳

         *    *   *   *   *   *   *

   ウィリアム・ブレーク(1757-1827)は、1757年11月28日、靴下商ジェームズ・ブレークとその妻キャサリンの6人兄弟の第3子として、ロンドンのソーホー地区のゴールデン・スクエア・ブロード・ストリート(現ブロード・ウィック・ストリート)28番地で生まれた。正規の教育は受けず、母から読み書きを教わり、14歳のとき彫刻師ジェームズ・バザイアの弟子となり、7年後には銅版画家として独立し、本や雑誌の挿絵を彫板して生計を立てた。1782年には植木屋の娘キャサリン・バウチャーと結婚する。1780年代には、進歩的な文学サークルや政治団体の間を転々としたのち、ブレークはトマス・ペイン、メアリー・ウルストンクラフト、ジョサイア・ウェッジウッドらのグループの一員となった。父の影響もあり、神秘思想家スウェーデンボルグの影響を大きく受けた。1783年には最初の詩集「W・Bによる小品詩集」を印刷したが出版には至らなかった。次作「無垢の歌」(1789)になるとロマン主義の夜明けをしめす新鮮な抒情と純粋な情熱を得意の版画を挿絵にして歌いあげている。散文集「天国と地獄の結婚」(1790-1793)に至って、社会批判の精神を強く表現し、やがてこの傾向は「予言書」と総称される神秘性をもった作品群にまで高まっていく。晩年はダンテの「神曲」の挿絵を描いた。貧窮のうちに1827年8月12日、ファウンテン・コートで69歳で亡くなったが、彼の詩と絵画とが合体された総合芸術は、後世に大きな影響を与えた。

2008年1月15日 (火)

グリルパルツァー

    ジョン・アーヴィングの自伝的小説「ガープの世界」(1978)で主人公ガープはウィーンのハプスブルガー通りの古本屋で劇詩人フランツ・グリルパルツァー(1791-1872)の著作を見つける。ガープの処女作のタイトルは「ペンション・グリルパルツァー」という。

   今日1月15日は、オーストリアで最も有名な劇作家グリルパルツァー(グリルパルツェルと表記されることもある)の誕生日。かつては、その誕生日は国民の祝祭日となっていた。でもその名前は日本ではほとんど知られていないだろう。ブリタニカ国際大百科事典には詳細な記述があるので、やはり世界的な作家であることは間違いない。翻訳大国日本でも見落とした作家がたくさんいるようだ。

    いま彼の名前が日本で知られるのは次の一編の詩によるところが大きい。

             接吻

手の上なら尊敬のキッス

ひたいの上なら友情のキッス

頬の上なら好意のキッス

くちびるならば愛情のキッス

閉じた瞼は憧れのキッス

手のひらならばお願いのキッス

腕首ならば欲望のキッス

さて、そのほかは、みんな狂気の沙汰である。

   弁護士の子としてウィーンに生まれ.る。生涯独身でウィーンで過ごした。大学在学中に父を亡くし、家計を支えるため官庁に勤め、1856年に65歳で退職するまで役人のかたわら宮廷劇場の座付作家をしていた。主な作品「祖先の女」(1817)「サッフォー」(1818)「接吻」(1819)「金羊皮」(1822)「オトカル王の幸福と最後」(1823)「主人の忠実な従者」(1828)「海の波、恋の波」(1831)「黒海の悲歌」(1835)「夢が人生」(1834)「偽る者に災いあれ」(1838)「哀れな音楽師」(1848)「ゼンドミール僧院」(1828)。

    晩年になってからグリルパルツァーの作品は認められ、次々と名誉を与えられたが、それはあまりにも遅すぎた。1872年1月21日ウィーンで死んだときは広く哀悼された。遺稿から「トレードのユダヤ女」「ハプスブルク家の兄弟の争い」「リブッサ」が発見された。

2008年1月13日 (日)

デュマ・フィスとマリー・デュプレシス

    「わたしがはじめて彼女を見かけたのは、一年前、プールスの広場のシュッスという店の入口でした。無蓋の四輪馬車がその店先にとまると、中から白い衣裳をつけた女がおりてきた。わたしは彼女が店に入った瞬間から、出てくるまで、そこに釘づけにされてしまった。彼女はすそ飾りのついたモスリンの衣裳をまとい、すみずみに金糸の刺繍と絹の花飾りをつけたインド織りの四角なショールを肩にかけ、イタリア製の麦わら帽子をかぶり、当時はやりはじめていた太い金鎖の腕輪をはめていました。彼女はふたたび馬車に乗って行ってしまった。彼女の名前はマルグリット・ゴーチェ。」

    デュマ・フィス(1824-1895)の有名な小説「椿姫」のマルグリット・ゴーチェには実在のモデルがあった。いつも胸に椿の花を飾っていたマリー・デュプレシス(1824-1847)、本名アルフォンシーヌ・プレシスである。サン・ジェルマン・ド・クレルフィユで錫かけ屋の娘として生まれた。父からの虐待を逃れて母とパリに来る。だが母も8歳の時に亡くなり、親戚に預けられる。12歳のころからパリの街を徘徊し男を知る。洗濯屋や帽子屋で働いたが、やがて彼女は高級娼婦となった。1846年、エドワード・ベルゴー伯爵と結婚するが、彼女は重い病にかかり、1847年2月3日、わずか23歳という若さで早逝する。遺言は「夜明ける頃に埋葬してほしい。それもどこか人知れぬ遠い場所に大げさな騒ぎなしに埋葬してほしい」だった。

  当時の批評家ジュール・ジャナンの言葉によれば、彼女は娼婦ながらもあたかも貴婦人のような人品をそなえていたという。青年デュマ・フィスのロマンチックな情熱と正義感が、この女性を椿姫という永遠の美しい女性像に創りあげたのであろう。デュマ・フィスとプレシスの墓はパリのモンマルトル墓地にあり、今でも訪ねる人はたえない。

2007年12月29日 (土)

賢者の贈り物

    クリスマス・イブの夜。貧しい若夫婦のジムとデラはプレゼントを交換する。ジムは金時計を売って櫛を買う。デラは髪を切って夫の金時計につける鎖を買う。お互いに贈り物は無駄になったが、お互いの深い愛情をたしかめあうという、心温まるストーリー。オー・ヘンリーの小説「賢者の贈り物」(1905年)のデラは妻のアソル・エステス(1868-1897)がモデルという。ヘンリーは実際に見聞したことを題材にして小説にするタイプだ。若い頃、二人があるセレモニーに参加し、アソルが記念に自分で髪を切って入れるのを、ヘンリーが見てこころひかれた。デラが自分の髪を切り、プレゼントをするという話は、若くして亡くなった愛妻アソルへの想い出が込められていたのだった。

2007年12月27日 (木)

モーパッサンと印象派

    ギ・ド・モーパッサン(1850-1893)は1850年8月5日、ノルマンディのディエップに近いミロメニルに生れた。幼少時代から断崖で有名なエトルタに滞在し、後年にギェット館という別荘を建てた。印象派の画家クロード・モネ(1840-1926)は、秋になって静かになった避暑地のエトルタで風景画を描いていたが、「エトルタは猫一匹いない。ただし、モーパッサンを除いては。昨日彼を見かけた」と手紙に書いている。後期印象派画家ゴッホ(1853-1890)もモーパッサンを愛読していたらしいが、モーパッサン文学と印象派との間には、何かしらの共通するところがあるのかもしれない。

    モーパッサンはフローベルの教えをうけた明晰な文体と客観描写によって近代短編小説を完成させたといわれている。彼のいわゆる客観小説論とは「作家たる者は人物や事件をわれわれの眼前に彷彿たらしめることと、人物の心理状態を一つの行動ないし身ぶりによって啓示することとに止まるべきだ」(『ピエールとジャン』の序)ということにある。モーパッサンはこの理論をみごとに実践して、日常生活における悲劇的なものに対するそのセンスによって、人間生活のささやかな真実を力強く描き出した。彼の小説はあくまで客観的でありながらも、いうにいわれぬ哀感を読者の心に残すものがある。彼の代表作の一つに『女の一生』(ユンヌ・ヴィー)で、妻としての愛にも、母たる愛にもことごとく欺かれたジャンヌが「人生というものは、世間の人たちが想っているほど良いものでも、悪いものでもありませんね」という述懐は、モーパッサンの孤独感、悲観主義という特色がよく現れている。

2007年12月19日 (水)

私の心は虹を見るとおどる

    ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)はイギリスが生んだ偉大な自然詩人である。他のロマン派詩人キーツ、バイロン、シェリーとは違い長命であったが、詩人としての感性は、30代の半ば頃には枯渇してしまったようだ。サミュエル・コールリッジ(1772-1834)とともに1798年に出した詩集「リリカル・バラッズ」(「抒情歌謡集」)はイギリスの詩の発展に大きな影響を与えた。

       私の心は虹を見るとおどる

  私の心は、虹を見るとおどる、

  おさないころにそうだった、

  おとなになっている、いまもそうだ、

  やがて老いても、そのように、

  そうでなければ、死んでいたい、

  おさな子はおとなの父だ、

  それで、私は望ましい、

  わたしの日々が、

  自然をうたう心で、

  一日一日と

  むすばれていくように。

                     (安藤一郎訳)

2007年12月17日 (月)

今さら口にするまでもないあの頃

    ジョージ・ゴードン・ノエル・バイロン(1788-1824)は奇行の多い没落貴族に生まれ、父ジョン・バイロン大尉が1891年に死んだあと、6代目バイロン卿となった。美貌だが生来跛という肉体的欠陥を負っていたためか、バイロンの誇りと感受性は傷つきやすく、女性遍歴と放蕩にその充足を求めることになる。キャロライン夫人、オックスフォード夫人とのロマンス、異母姉オーガスタとの不倫の恋。ロンドン社交界での数々の艶聞のため、1816年4月25日、祖国イギリスを去り、再び戻ることはなかった。スイス、ヴェネツィアと転々とした。1823年、ギリシアの独立運動に参加して、ミソロンギに上陸し、そこでマラリアに感染し、1824年4月19日、その波瀾にみちた生涯を閉じた。

   今さら口にするまでもないあの頃

        1

決して忘れはててしまえるものではないゆえに、今さら口にするまでもないあの頃は、あなたも私も、思いはすべて一つだったが、ああ、わが心ばかりが、今日までも渝(かわ)らぬ。

        2

あの時、はじめてあなたの唇が、私に劣らぬ愛を囁いてからは、あなたの露知らず、まして思いも見ぬ、かずかずの悩みが私の胸を噛む。

        3

何にもまして胸深く食い入ったこの嘆き、なべて誠なき接吻のように果敢なく、あの恋はすべて過ぎた、という思い、それもただあなたの胸に消えただけ。

        4

しかも、私の心がおぼえたある慰めは、いつかあなたが口にするのをきいた時だった。むかしは真実ともおもへた口ぶりで、あの過ぎた日の憶ひ出をささやくのを。

        5

慕わしくも、また限りなく惰(つれ)ないひとよ。ふたたび、あなたが愛してくれることはないであろうが、あの恋の思ひ出は生きていると、知るにつけて、私はこよなく愉しいのだ。

        6

ああ、私にとっては何とかがやかしい想ひだろう。この心はもはや悔むこともない。あなたがどんな人であろうと、どんなになってしまはうと。ああ、かっていとしくも私ひとりのものだったのだ。あなたは。

               (阿部知二訳)

2007年12月 4日 (火)

モーパッサンと未知との遭遇

   モーパッサン(1850-1893)は「脂肪の塊」「女の一生」「ベラミ」「ピエールとジャン」などの成功によって、金銭的にも恵まれ、社交界にも好んで出入りするようになった。しかし梅毒による進行麻痺で精神に異常をきたすようになった。1891年から発狂の兆候が見られ、1892年1月2日、ニースで自殺を図り、精神病院に入院する。翌年の7月6日、パリの病院で死亡。享年43歳。

   モーパッサンは日本でも一番よく読まれている作家の一人であるが、その作品群は35歳頃に書いた「ベラミ」までで、それ以後に書かれた「モントリオル」「ムッシュ・バラン」「ル・オルラ」「死の如く強し」「左手」「あだ花」「男ごころ」「異郷の塊」(未完)「鐘」「ペール・ミロン」「行商人」など読まれることはあまりない。それは晩年に社交界での体験をもとにした上流階級を描いた作品が多く、彼の本領が発揮できなかったからであろう。

    晩年のモーパッサンに関する奇妙な話がある。(「モーパッサンと空飛ぶ円盤」『西洋歴史奇譚』所収)モーパッサンがエトルタの自宅で仕事をしていた時のことである。召使いが書斎に入ってきて、来客があるという。男は痩せて眼鏡をかけていた。「すいません、先生、ご迷惑は重々承知しておりますが、先生以外に聞いていただける方はないと思って決心した次第です」「いや、お話を聞いてみなければわかりませんな」「先生は、地球以外の星にも生物が棲んでいるとお考えですか」モーパッサンは躊躇なく答えた。「もちろんですとも、棲んでいると思いますよ」「ああ、よかった。先生、ほっとしました。あれは流星ではありません。すきとおった光る球体で、まわりに蒸気のようなものが渦巻いていました。この眼ではっきり見たのです。あれは宇宙船にまちがいありません」男は興奮して、椅子から立ち上がった。「では、失礼します。先生、どうして黙っていらっしゃるのですか。いつかお気が向いたら、ぜひこの話をお書きになってください」と言って、男は帰っていった。

    だがモーパッサンの著述のなかで、宇宙人や宇宙船、空飛ぶ円盤(正式には未確認飛行物体 UFO)に関する記事は発見されていない。モーパッサンはジュール・ヴェルヌ(1828-1905)より22歳も若く、同時代のフランスの作家である。彼の得意とするものは、貧しい小市民の生活を描くことにあり、SFには興味がなかったのであろうか。

2007年12月 2日 (日)

フランコ将軍とヘミングウェイ

   スペインは「ゲリラ」の本場という印象がある。それはアーネスト・ヘミングウェー(1899-1961)の長篇小説「誰がために鐘は鳴る」(1940)が広く読まれているからかも知れない。もともとゲリラとはナポレオンのスペイン征服当時、スペイン軍のしばしば用いた戦法で、「小さな戦争」を意味していた。その後、「ゲリラ」とは、遊撃戦を行う小部隊、不正規遊撃隊、あるいは人民戦線、パルチザンなどとほぼ同じ意味に用いられている。

   スペイン内乱(1936-1936)は、マヌエル・アサーニャ(1880-1940)が率いる人民戦線内閣に対して、フランシスコ・フランコ(1892-1975)が大地主・教会・軍隊を背景に起こした内乱である。結果は1939年3月、マドリードが陥落し、フランコ独裁政権樹立を招いた。フランコはヒトラー、ムッソリーニなどのファシズム政権が崩壊した後も実に30年間にわたり、その独裁体制を維持し続けた。ファシズムと民主主義の戦いで、ファシズムが勝利した理由は、人民政府のバラバラな組織と武器の不足、イギリス・フランスの不干渉政策が考えられる。

   ヘミングウェーとフランスの作家アンドレ・マルローはマドリードで会い、お互いにスペイン内戦を題材とした小説を書こうと約束した。マルローは1937年7月に「希望」を発表する。ヘミングウェイは、ようやく2年後の1939年3月に書きはじめ、18ヵ月かかって「誰がために鐘は鳴る」を完成させた。

   義勇兵として政府軍に参加したアメリカ青年ロバート・ジョーダンは、軍部上層部のゴルツから友軍の全面攻撃開始と同時に鉄橋を爆破するという任務をうける。セゴビア郊外の町ラ・グランハ近くのグァダラーマ山中の洞窟を根城にするゲリラ部隊に合流する。リーダーのパブロは橋の爆破に反対する。しかし妻のピラールが橋の爆破に賛同してくれた。ロバートは、そのピラールを手伝う目がさめるほど美しい鳶色の肌をしたマリアという娘に出会う。「キスすると鼻がぶつかりはしないかしら」そんな他愛ないことを言うマリアをロバートは愛した。ロバートは計画どおりに鉄橋爆破を敢行する。ゲリラ隊は間道ぞいに逃走するが、敵の集中砲火は激しい。傍らに寄ってきたマリアの手を握って「俺にかまわず行け!」と叫ぶ。泣いて去るマリア。ロバートは、ただ一人、機関銃を握りしめ、来襲する敵兵を待ち受けながら落命する。

2007年11月29日 (木)

ドミニク・サンダと仁科亜季子

    1970年代に青春を過ごした男子にとって、スイス西独映画「初恋」(1970年)のドミニク・サンダの高貴でミステリアスな美貌は永遠に忘れられない。ところでイワン・セルゲエヴィッチ・ツルゲーネフ原作の「はつ恋」は翻案物として仁科明子主演で昭和50年に東宝で映画化されている。ドミニク・サンダの近況は知らないが、仁科は平成10年12月に松方弘樹との離婚後、仁科亜季子と改名し、ドラマや映画「精霊流し」「いつか読書する日」など芸能活動を再開している。先日もテレビ「いつみても波瀾万丈」を見た。職場の同世代の女性たちの仁科の評判はよろしく、駆け落ち結婚、子育て、難病、離婚、再起など彼女の生き様に現代女性にとって多くの共感するものがあるという。つまり仁科亜季子のファン層は昭和47年から昭和53年までの清純派女優時代「お嫁にしたい女優№1」の男性中心から、2000年代中年女性に移行したように見える。しかし、やはり彼女の支持層の基幹は男性だと確信している。その人気の謎を解くカギはやはり「はつ恋」にある。

   ドミニク・サンダの「初恋」は名優マクシミリアン・シェルの監督デビュー作で、少年のジョン・モルダー・ブラウンも一時人気があった。なんといってもスヴェン・ニクヴィストの映像が美しい。おそらくこの映画に刺激されたと思われるが、小谷承靖監督の「はつ恋」仁科明子も魅力的でスイグル・シンガーズの音楽も新鮮だった。

   1833年、ヴラジミールはモスクワの両親のもとに住んで大学の入試勉強をしていた。父はまだ若く美男子で、母は父よりも10歳も年上だった。その年の夏、一家は避暑地の別荘を借りた。三週間たったある日、隣に没落貴族の夫人とその娘ジナイーダが引っ越してきた。夕方、ヴラジミールは垣根越しに隣をのぞいた。すらりと背の高い少女が、4人の青年たちのおでこを花束で叩いているのだ。その身ぶりには、なんともいえず魅惑的な、高飛車な、愛撫するような、あざ笑うような、しかもかわいらしい様子であった。翌日、あの娘が現れた。「いいこと?あなたは16だそうですけれど、私は21なんですもの。私のほうが年上でしょ。だから、あなたは私の言うことをきかなくてはね」

    ある日彼女は「あなた、私がとても好き?」と聞いた。「いっそ世界の果てへ行ってしまいたい」と弄んでいた。またある日、ジナイーダは「私のこと、悪く思わないでね」と言った。「いいえ、ぼくを信じてください。あなたがたとえどんなことをなさろうとも、僕は一生涯あなたを愛します、崇拝します」

   やがて4年が過ぎた。ヴラジミールは今ではドーリスカ夫人となったジナイーダを訪ねた。彼女は4日前に亡くなっていた。お産のための、ほとんどあっというまもない死に方だったという。

    ドミニク・サンダや仁科亜季子のファンの男性も多いだろうが、原作どおり、彼女たちの行き方にどんなに振り回されようと、結論はやはり「あなたがたとえ、どんなことをなさろうと、僕は一生涯あなたを愛します、崇拝します」ということであろうか。

2007年11月28日 (水)

詩人シェリーとフランケンシュタイン

   パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)は1702年8月4日、サセックスのホーシャム近郊フィールド・プレース邸に、富裕な地主の長男として生れた。名門イートン校からオックスフォード大学ユニヴァーシティ・カレッジに入学。1811年春、友人トマス・ジェファーソン・ホッグと共に、「無神論の必要性」と題するパンフレットを配布したため、大学から追放される。

  父ティモシーから勘当されたシェリーはロンドンに出て、妹の学友のハリエット・ウェストブルックと駆け落ちし、1811年8月に結婚した。しかし1814年、メアリー・ゴドウィン(1797-1851)を知り、シェリーは新たな理想像をそこに見出した。そして同年7月28日、彼女とその義妹クレア・クレアモントを連れて、ヨーロッパ旅行をする。1816年5月、シェリー、メアリー、バイロン、ジョン・ポリドリらは、スイスのジュネーブ近郊のレマン湖畔のディオダティ荘に滞在していた。天候不順で長く降り続く雨のため屋内にとじ込められいた際、それぞれが作品を仕上げた。シェリーの「モン・ブラン」「理想美の顔」、バイロンの「チャイルド・ハロルドの巡礼」第3幕などの作品は、そうした日々と情景から出来たが、皮肉にもアマチュア作家であるメアリー・シェリーが書いた小説「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」が今日でも最も読まれているであろう。生命の創造の夢にとり憑かれた科学者フランケンシュタインがつくりあげたモンスター(人造人間)が、20世紀にはボリス・カーロフが演じる面長で無表情なフランケンシュタインとして知られるようになる。

   シェリーは1822年7月8日、小さなヨット「ドン・ジュアン号」に乗ってトスカナ沖で嵐にあい溺死した。

2007年11月25日 (日)

アイルランド文学

    「庭の千草も虫の音も 枯れて淋しくなりにけり。ああ白菊、ああ白菊 ひとりおくれて咲きにけり」日本人にはおなじみの小学校唱歌「庭の千草」。この美しいアイルランド民謡の原詩は、トマス・ムーア(1779-1852)の「夏の名残りのバラ」である。日本では「白菊」だが元歌は「バラの花」なのだ。トマス・ムーアは「アイルランド歌謡」(1808-1834)において、アイルランドの情緒に合った英詩を作ろうと試みた。これがイギリスで歌われるようになり、究極的にアイルランド文芸復興を促進することとなった。

    アイルランド人の祖先、古代ケルト人は文字を持たない民族だった。そのかわり、英雄伝や部族の系譜などを口承によって子々孫々へと伝えてきた。これらのことから、アイルランド人はかえって言葉に魂をこめ、より豊かな表現力を身につけたのではないだろうか。

   「ガリヴァー旅行記」で知られるジョナサン・スウィフト(1667-1745)はアイルランドに生れ、この国の司祭であった。アイルランドがイギリスの文学に最も貢献したのは18世紀の喜劇においてであろう。

    アイルランド出身の文学者を18世紀からざっとその名をあげてみても、ジョージ・ファーカー(1678-1707)、ウィリアム・コングリーブ(1670-1729)、トマス・バーネル(1679-1718)、ローレン・スターン(1713-1768)、オリヴァー・ゴールドスミス(1728-1774)、リチャード・ブリンズリー・シュリダン(1751-1816)、シェリダン・レ・ファニュ(1814-1873)、ブラム・ストーカー(1847-1912)、オスカー・ワイルド(1854-1900)、ジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)、サー・コナン・ドイル(1859-1930)、ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)、ジョン・ミリントン・シング(1871-1909)、ダンセイ卿(1878-1957)、ショーン・オケーシ(1880-1964)、ジェームズ・ジョイス(1882-1941)、ショーン・オフェイロン(1900-1991)、サミュエル・ベケット(1906-1989)、フラン・オブライエン(1911-1966)、アイリス・マードック(1919-1999)、ブレンダン・ビーアン(1923-1964)、ウィリアム・トレヴァー(1928-   )、エドナ・オブライエン(1932-  )、ジョン・マクガハン(1934-2006)、トマス・マーフィ(1935-  )、シェイマス・ヒーニー(1939-  )、ロディ・ドイル(1958-  )など多数いる。

「ダブリン市民」を書いたジェイムズ・ジョイスは故郷ダブリンを捨て、国外を放浪しつづけて一生を終えたが、その作品はアイルランド人、ダブリン市民を対象にしたものが多かった。

落葉のうた

   イェイツ  「落葉のうた」

 ふたりを愛でけむ

 鬱茂たる木の葉の上に

 大麦の梱にひそむ

 二十日鼠の上だにも

 秋更けてけり

 ななかまどの葉

 頭上に黄ばみ

 阿蘭陀苺の濡れそぼつ

 葉も黄ばみつる

 わが恋のつひの日の

 いとせちに迫り来て

 いまし 悲しき心ごころも

 萎え果てつ

 いでや項垂れし

 なが額に接脣て

 はた泪を泫れ

 別れなむ

 恋慕のときの逝かぬまに

        (日夏耿之助訳)

    ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)は、日本で最も愛読された詩人の一人である。彼自身また日本の能や詩歌に興味を抱き、日本人の知人も多い。野口米次郎、伊藤道郎、山宮允、尾島庄太郎等の人々はイェイツとの交流をそれぞれに書いている。その詩、とくに初期の甘美で優雅な抒情詩は、ウィリアム・ブレークの系統を引いた神秘主義の傾向を持っているが、同時に、フランスの象徴派、とくにヴェルレーヌの影響を受けて成立したものである。その場面、詩材の多くは、ケルト民族として特異な文化伝統を持つ彼の故郷アイルランドの民話や伝説に依拠している。

    アイルランド、とくにカトリックの多いその南部諸州は、長い間イングランドの支配下にあって、幾度となく、独立運動を起こし、流血の戦があった。イェイツは革命運動には参加しなかったが、芸術の分野において、祖国の精神と伝統を詩や劇の芸術運動の中に盛りあげ、アイルランド文芸復興運動と言われるものの中心人物となった。彼のまわりには、劇作家としてのイザべラ・オーガスタ・グレゴリー(1852-1932)、ジョン・ミリントン・シング(1871-1909)、エドワード・マーティンらがおり、また詩人エー・イーがおり、政治家にもなった学者のダグラス・ハイド等の著名な人物がいた。ダブリンには、その文芸復興運動の劇場としてのアベイ・シアターが設けられた。

    イェイツは1865年6月13日、アイルランドのダブリンの南東サンディマウントに生れた。父ジョン・バトラー・イェイツはラファエル前派の肖像画家であった。幼年時代をアイルランド西北部の田舎のスライゴーで過ごした。その土地の風光や民謡、超自然的な伝説は、彼の作品に多彩で複雑な情緒と象徴を与えることになった。15歳の時、ダブリンに戻り公立学校エラスムス・スクールに入り、画家になる目的で美術学校に入った。その当時はスペンサー、ブレーク、シェリー等を愛読した。ロンドンとダブリンにアイルランド文芸協会を設立し、自ら劇「カスリーン伯爵夫人」を書いて上演した。ダブリンのアベイ・シアターが設けられたのは、1903年のことである。1917年、イェイツは、アイルランド独立運動の闘士で女優であったモード・ゴン(1865-1953)にプロポーズをして断わられた後、30歳年下のジョージー・ハイド・リースと結婚している。1923年ノーベル文学賞を受賞。1939年1月28日、南フランスにて心臓麻痺で死去。作品には「アシーンの放浪」「ジョン・シャーマンとドーヤ」「イニスフリーの湖島」「薔薇の巻」「やちまた」「葦間の風」「塔」「クール湖上の白鳥」「ケルトの薄明」等がある。(「世界近代詩十人集」伊藤整編)

2007年11月24日 (土)

「窓」デ・ラ・メアの詩

   白い猿の兄弟ヤンボー(里見京子)、ニンボー(横山道代)、トンボー(黒柳徹子)が親と死に別れて力を合わせながら旅をする「ヤンボーニンボートンボー」というNHKラジオドラマがあった。この話は飯沢匡(1909-1994)が、ウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)の「サル王子の冒険」をヒントにして作ったといわれる。デ・ラ・メアには童謡や子供向けの詩も多いが、その内容には死や人生への深い思索を含んでいる。

    デ・ラ・メアはイギリスのケント州チャールストンで1873年4月23日、ユグノーの子孫として生れた。母は詩人ロバート・ブラウニングの遠縁にあたる。4歳のとき父が亡くなったため、母から聞いたおとぎ話、伝説などによって大きな影響を受けた。ロンドンのセント・ポール校を卒業後、18年間石油会社の会計士をしていたが、1902年にウォルター・ラマルという筆名で詩集「幼時の歌」を出し文名を確立。続いて小説「ヘンリー・ブロックン」を出した。1908年、会社をやめ作家生活に専心するようになり、詩集「耳をすます人ら」(1912)「雑色その他」、小説「小人の思い出」(1921)、童話「三匹の猿王子」(1919)などを発表。「三匹の猿王子」はサム、シンプル、ノッドの三匹の猿が、父の国ティシュナーの谷まで苦難にみちた旅をする話で日本でも飯沢匡「サル王子の冒険」、脇明子「三匹の高貴な猿」など翻訳が出ている。他に「無常その他」「ヴェールその他」「旅人」(1946)「内なる仲間」「翼にのった馬車」(1951)「子どものための物語集」(1949年カーネギー賞)「くじゃくのパイ」(1913)などがある。1956年6月22日、逝去。

      窓

ブラインドのかげにすわり

ぼくは見つめている

外を行きかう人びとを

通りすぎる人たちを

だれひとりとして気づかない

じっと見ているぼくの小さな目には

だれにも見えない

ぼくの小さな部屋は

ブラインド越しの太陽で

みんな黄色く見えるこの部屋は

だれも知らない

ぼくがここにいることさえも

だれも気づかない

ぼくがいなくなっても

        *

     かくれんぼ

かくれんぼしよう、と風がいう

森のこかげで

かくれんぼしよう、と月がいう

ハシバミの木の実に

かくれんぼしよう、と雲がいう

星から星へ

かくれんぼしよう、と彼がいう

港の砂州で

かくれんぼしよう、とぼくもいう

自分で自分にいってみて

目ざめの夢をあとにして

眠りの夢にすべりこむ

2007年11月22日 (木)

キーツとファニー・ブローン

   映画「ローマの休日」の舞台で知られるローマのスペイン広場。イギリスの抒情詩人ジョン・キーツ(1795-1821)はこのスペイン広場近くの家で1821年2月23日に25歳の生涯を閉じた。現在はキーツ・シェリー記念館となって、キーツの髪の毛やシェリーの骨壷があるという。そういえば映画の中でアン王女(オードリー・ヘプバーン)がうわ言で詩の一節を言うのだが、新聞記者ジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)と作者がキーツかシェリーかで言い争うシーンがあ.る。「アスレーザはアクロセラニアンの山の雪のしとねから身を起こし」この詩の作者はジョーが言うとおりシェリーだそうだ。そして、映画「ローマの休日」の二人か結ばれなかったように、キーツとファニーの恋も実らなかった。

   キーツは、ロンドンのムア・ゲイト(モーゲート)85番の貸馬屋の長男として生れた。1814年からロンドンの医学校でまなび、その後、医者をこころざして、免許をとったが、開業せず、詩人になろうと決意した。1818年夏にキーツはハムステッド・ウェントワース・プレースの下宿の近くに住んでいた美しい少女ファニー・ブローンを見初め恋におちる。キーツ22歳、ブローン18歳。しかしキーツは結核を発病した。医者の勧めもあり、ファニーとの結婚を諦め、ハムステッドの下宿を大きな未練を残しながら去り、ローマを療養の地とした。しかし友人ジョーゼフ・セーバンの看病も空しく、かの地で亡くなった。

   ファニーに寄せるうた

          1  

自然という医師よ。わたしの魂から血を抜いておくれ。ああ、わたしの心から詩を取り出し安らかにしておくれ。息づまるほど切ない詩情をわたしのこの満ち溢れる胸から退いてゆくまで、おまえの祭壇にわたしを投げ出しておくれ。主題。主題。大いなる自然よ。主題をおくれ。わたしに夢を見させておくれ。わたしはここに来ておまえがそこに立っているのがわかる。冷たい冬の空のしたに私を連れ出さないでおくれ。

          2

ああ、愛する女よ。わたしの怖れと希望と悦びと息切れのするような耐え難さをすべて宿すひとよ。思えば今夜のあなたの美しさはまるで楽しい微笑を浮かべていることでしょう。うっとりと、胸のいたくなるような、奴隷的な目なざしで、あまい驚きに我を忘れて、見つめれば見つめるほど素晴らしく明るい微笑を浮かべて。

          3

どん欲な目つきで、いま、わたしの目のごちそうを食い荒らすのは誰か。わたしの銀いろの月をいま曇らせるほどしつこく見つめているのは誰か。ああ、せめてその手だけは汚さないでおくれ。どうかどうかその恋の焔を燃やしておくれ。けれどどうかおまえの心のながれを私からそんなに早くそらさないでおくれ。ああ、わたしのために哀れと思ってあなたの高鳴る胸の動悸をとっておいておくれ。

          4

そいつをとっておいておくれ。愛する女よ。わたしのためにたとい音楽がみだらな思いを暖かい空気に混ぜるようとも。踊りの危険な誘惑の環のなかを飛びまわる時にも、あたかも四月の日のように。微笑み冷静でたのしくあっておくれ、美しくしかもつつましい百合の花であっておくれ。そうすればきっと暖かな六月がわたしにもやって来るだろう。

          5

まあ、それは嘘よと、あなたは言うだろう。ファニーよ。あなたの柔らな子を心臓の高鳴る真白い胸において、告白しなさい。なんでもないことだけど。女は海に浮ぶ軽い羽根のように風にゆられ波にゆられて、ふらふらしてはいけないでしょうかと。牧場からとんでくるたんぽぽの頭のように気まぐれに飛んだりしては。

          6

私にもそれはわかる。でもそれは失望です。ファニーよ、わたしのようにあなたを愛しているものにとっては、わたしの心はどこへでもあなたを求めて飛びまわり、あなたが外にぶらりと出かけるとわたしの心はわびしくて落ちつかない。愛。愛だけが厳しい、多くの苦痛をもっている。だから恋しいひとよ、どうか、苦しい嫉妬から私を自由にしておくれ。

          7

ああ、もしあなたが哀れな色褪せた短かい一時間の誇りよりわたしの押さえた魂をほめてくれたら、誰にもわたしの恋の神聖な座を汚させはしない。また荒々しい手で秘跡のパンを裂かせることも許さない。誰にもまたその新しく芽を出したばかりの花に触れさせない。もし触れたら恋人よその失われた休息のうえに、わたしの目を閉じさせておくれ。(出口泰生訳)

2007年11月13日 (火)

田園詩人ジョン・クレア

    イングリッシュ・ローズの中でも多産なバラで人気の「ジョンクレア」は、ある詩人に因んで命名された。しかし今日、華やかなバラの名として知られる「ノーサンプトンシャーの貧農詩人」ジョン・クレアのことは日本ではほとんど知られていないだろう。

    ジョン・クレア(1793-1864)はイギリス・ノーサンプトンシャーの貧しい家庭の生まれで、正式の教育をほとんど受けなかったが、幼少の頃から旺盛な読書欲を示した。1808年、ジェイムズ・トムソンの「四季」を読んで詩を志した。1820年最初の詩集を出版。貧困のため憂鬱病に患かり、1837年に精神病院に入ってその悲しき人生を終えた。初恋の人メアリー・ジョイスへの恋歌など生涯に数冊の詩集を出したが、全然売れなかった。「田園生活の描写」(1820)「村の吟遊詩人」(1821)「牧人の暦」(1827)「田舎の詩神」(1835)など。その詩はワーズワース風で、イギリスの四季の田舎風景を歌い、独自の叙情性がある。

      初恋

あの時まで あれほど急に

甘い恋に おちいったことはなかった

彼女の顔は甘い花のように輝き

僕の心はすっかり奪われた

僕の顔は死人のように青ざめ

立ちすくんでしまって歩けない

彼女が僕を見たなら

どれほど悩んだだろう

僕のいのちすべてが

泥に変わってしまったようだ

2007年11月11日 (日)

ウィリアム・コベット

何を書こうかと考えるために座るのではなく、貴方が考えたことを書くために座りなさい(ウィリアム・コベット)

   ウィリアム・コベット(1763年3月9日生。1835年6月8日没)はイギリスの急進的政治家・文筆家・編集者。イギリス南東部サリー州の貧しい農家に生まれた。軍隊に入り、除隊後フランス、アメリカに渡り、帰国後急進的ジャーナリストに転向。農民、労働者の懐旧的感情に訴え、産業主義社会を批判した。議会改革を通じて社会改革を考え、議会議事録の発行を創始した。1823年議員に当選したが、政治的には成功しなかった。彼の文章は明快であり、農業問題についてはすぐれた識見を述べている。農村疲弊の実状見聞録「農村騎行」(1830年)は名著として高く評価されている。コベットの本はすべてよく売れたが、特にプロテスタント史に関する本は、世界中で聖書に次いでよく売れたと言われる。

  コベットは驚くほどの多作家で、そのいくつかをあげる。「アメリカ生活一年の記録」「英文典」「小住宅の経済」「アメリカの園芸」「イギリスの園芸」「コベット講演集」「移民ガイド」「スコットランドの旅」「アンドリュー・ジャクソンの生涯」「仏文典」「イギリスおよびウェールズの地理辞典」「プロテスタント改革史」「イギリス議会史」「議会討議録」「ビッグOとグローリー卿」「余剰人口」「若き人々への提言」(庄司淺水訳)。

    ロンドンでは1803年に週刊新聞「ポリティカル・レジスター」を発行し、書店を経営した。記者や編集者などを、10人以上雇い、週刊誌はじめ書籍の出版を続けた。コベットは西洋印刷史の発展にも寄与した人物である。

2007年10月20日 (土)

クリスティーナ・ロセッティ

         風

 誰が風を見たでしょう?

 ぼくもあなたも見やしない、

 けれど木の葉をふるわせて

 風はとおりぬけてゆく。

 誰が風を見たでしょう?

 あなたもぼくも見やしない、

 けれど樹立(こだち)が頭をさげて

 風は通りすぎてゆく。

        *

     希望と喜び

 希望が茂みに咲くならば

 木に喜びが咲くならば

 どんなに素敵な花束が

 摘んで編まれることでしょう

 けれども風が吹く秋に

 かよわい花が凋むとき

 褪せ行く希望と喜びを

 ああ どうしたらいいでしょう

   クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)はロンドンに生まれる。ビクトリア朝の女流詩人。画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹。「風」は西条八十が訳し、大正10年に草川信が曲をつけ童謡「風」ができた。いまでも「風をみたひと」という題で合唱曲として歌われている。「希望と喜び」は羽矢謙一訳。

ヴェルレーヌとランボー

    ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)は、フランスのメッツに生まれ、パリ市役所の下級吏員となり、早くも22歳にして「サテュルニャン詩集」(1866年)、25歳にして「艶なるうたげ」(1869年)、「よき歌」(1870年)を出し、逸楽的な夢想と憂愁とを、自由・大胆なリズムのある形式に託して、音楽的に暗示するという、その独自の詩風を示した。しかしやがて飲酒の習慣に陥る。1871年秋、美少年アルチュール・ランボー(1854-1891)を知るや、奇怪な情熱にとらわれて、妻マチルド・モーテ・ド・フルールビルを棄ててランボーとイギリスに出奔。1873年7月、ついにブリュッセルの街上で、ランボーを拳銃で撃ち、2年間、モンスの刑務所に捕われた。妻との離婚確定の知らせに深刻な打撃を受け、悔い改めてカトリック教に帰依し、獄中で、宗教詩の傑作「叡智」(1880年)を書いた。1875年出獄後は中学校教師をして生活の建て直しに努めたが、また、1885年には、ヴゥジー刑務所に、1ヵ月間投獄されたり、その一生は放蕩と、飲酒の悪癖と、神秘主義との間を絶えず行ったり来たりしていた。1896年1月8日、肉親友人もいないウジェニー・クランツの部屋で、一人淋しく死んだ。

   今日10月20日は象徴派の詩人アルチュール・ランボーの誕生日。ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)。シャルルビルに生まれる。早くから異常な知的能力を発揮し、8歳で文章の天分を示した。ランボーが残した著作は少なく、散文詩集「地獄の季節」(1873年)「イリュミナシオン」(1874年)がある。以後は文学と別れて、ヨーロッパを放浪したり、エジプトでコーヒー商をやったり、エチオピアで探検家兼武器売込人になったり、多彩な人生を送った。(参考:大塚幸男「写真・フランス文学史」)

秋の詩、三編

   秋の日

       ライナー・マリーア・リルケ詩

       藤原定訳

主よ、すでに秋です

夏はじつに偉大でした

日時計の上に

あなたのかげをおいてください

そして野に 風を放ってください

果樹にのこっている木の実が

よくみのるよう命じてください

その木の実らになお

あたたかい南風の二日を

おあたえください

その木の実らが十分に熟して

あまやかさがやがて

よいぶどう酒に醸されますよう

秋です。

いま家なき者はもはや

家を建てることができません

いま孤独なひとは

ずっと孤独のままで

夜もねむらず

本を読み

長い手紙を書き

並木道を 心おちつかず

あちこちとさまようでしょう

木の葉ちるなかで

                 *

     枯葉

        ジャック・プレヴェール作詞

        ジョセフ・コスマ作曲

        岩谷時子訳詩

あれは遠い思い出

やがて消えるほかげも

窓辺あかく輝き

光みちたあの頃

時はさりて静かに

降りつむ落ち葉よ

夢に夢をかさねて

ひとり生きる悲しさ

こがらし吹きすさび

時はかえらず

心に唄うは

ああシャンソン 恋の歌

暮れゆく秋の日よ

銀色の枯れ葉散る

つかのま燃えたつ

恋に似た落ち葉よ

いつの日か抱かれて

誓いし言葉よ

はかなくただ散りゆく

色あせし落ち葉

          *

  落葉(らくよう)

       ヴェルレーヌ詩

       上田敏訳

秋の日の

ビオロンの

ためいきの

身にしみて

ひたぶるに

うら悲し。

鐘のおとに

胸ふたぎ

色かえて

涙ぐむ

過ぎし日の

おもいでや。

げにわれは

うらぶれて

ここかしこ

さだめなく

とび散ろう

落葉かな。

2007年10月19日 (金)

セラ・ティズデール詩集

       私の初恋

どうかいとしいその目でふりかえって

ここにいる私を見つけてください

あなたの愛で私をふるい立たせてください

つばめを運ぶ そよ風のように

太陽のように 嵐のように

私たちをどうか遠くへ運んでください

それでも私の初恋がまた私を呼んだら

どうすればいい

          *

      眠っている時だけ

ただ眠っている時だけ

私にはあの人たちの顔が見える

私が子供の時に

いっしょに遊んでいた

あの人たちの顔が

ルイズはあんだ鳶色の髪をして

私のところへ戻ってくる

アニイはやわらかい乱れた

おさげでやってきた

ただ 夢の中だけ

歳月は忘れられる

あれから

あの人たちがどう変ったか

だれが知ろう

けれど 昨夜

私たちは遠い昔のように

いっしょに遊んだ

そして人形の家は幼い日のように

はしご段のはしに立っていた

歳月はあの人たちのまるい顔を

とげとげしくは変えていなかった

あの人たちの瞳は 昔どおり

おだやかで優しかった

私は思う

あの人たちもまた

私の夢を見るであろうか

そして あの人たちにとっても

私は永久に子供なのだろうか

        (みついふたばこ訳)

   セーラ・ティズデール(1884-1933)は20世紀初頭のアメリカの女流詩人。「冬のソナタ」のモチーフである詩「私の初恋」で日本でも知られるようになった。

2007年10月 9日 (火)

黄水仙に献げる詩

     ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)はよく自然詩人と言われる。そして、それに誤りはないが、しかし単なる自然讃美の詩人とするならば大きな誤解となろう。自然の深奥に秘められた共感の歓喜を謳いあげているのである。

    1770年4月7日、イギリス北西部カンバーランドのコカマスに生まれた。弁護士であった父・ジョン・ワーズワースの二男。五人兄弟で長男リチャードは法律家、長女ドロシー(1771-1855)、三男ジョンは船長となったが1805年難船で死亡、四男クリストファーはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの学寮長となった。母はウィリアムが8歳のときに、父は13歳のときに死亡し、遺児は二人の叔父のもとで離ればなれに養育された。

    ケンブリッジ大学に学んでいた1790年、フランス旅行中に革命を実際に見聞し、共和主義に共鳴した。大学卒業後、渡仏しブロワの外科医の娘アネット・バロン(1766-1841)と恋仲になる。娘キャロラインが生まれる。ところが革命が恐怖政治となり、アネット母子とも生き別れとなる。この恋愛事件や革命の流血化などに彼は絶望と激しい幻滅を覚えるに至った。かれを慰めたのは妹ドロシーと友人コールリッジだった。二人の親交はやがて「抒情詩集」(1798)の出版となり、イギリスロマン主義の一時期を画すに至った。

    ワーズワースの礼賛する自然とは、人間の全存在と固く結ばれることによって想像力の源となる自然である。

     雲のように孤独に

ぼくはさすらっていた、山や谷を見おろしながら。高空をただよいゆく雲のように孤独に、と、いきなりぼくの目にとびこんできたのは、群れをなし金色に咲きほこる黄水仙たち。湖のほとり、樹々の下、そよ風にはためき、踊り狂うその姿だった。天の河にきらめく星屑のように、切れめなく、目路のかぎり、入江にそって咲きつらなる花たち、一べつ、万をこえるその群れが、頭をふりつつ踊る、晴れやかな舞踊。波もまたかたわらで踊っていた、が、花たちは、きららかな波よりも、もっと陽気だった。こんな愉しい仲間に出会っては詩人も心浮かれずにはいられない。ぼくは見つめた。なおも見つめた。が、この眺めがどんな富をぼくにもたらしたか思いもよらなかった。というのは、うつろな物思いのうちにひとり横たわっているときなど、孤独の幸いである、あの内なる眼に花たちの姿がいくたびも閃くのだ、と、たちまちぼくの心は歓びにあふれてきて、踊りだすのだ。黄水仙といっしょに。

               高橋康也訳

    草原の輝き

草原の輝き 花の栄光

再びそれは還らずとも

なげくなかれ

その奥に秘めたる力を見い出すべし

               高瀬鎮夫訳

2007年9月 7日 (金)

ゲーテの抒情詩

    薬師丸ひろ子のヒット曲「天の星、地の花」にある「天に星、地には花、君に愛を」という歌詞の元ネタは、武者小路実篤ではなく、ゲーテである、というコメントをいただきました。ブログで検索すると「天には星がなければならない。そして大地には花がなければならない、人間には愛がなければならない」という詩が見つかりました。ゲー