無料ブログはココログ

2017年4月23日 (日)

シェイクスピアは存在しなかった?

Photo   本日は「サン・ジョルディの日」。守護聖人サン・ジョルジュを祭り、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る。スペインでは「本の日」とされる。この日はセルバンテスやシェイクスピアの誕生日でもある。

  ところでイギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの名前を知らない人はほとんどいないだろう。「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」の四大悲劇をはじめ、恋愛悲劇「ロミオとジュリエット」、喜劇「真夏の夜の夢」「ヴェニスの商人」など、生涯に約37編の戯曲を残している。ところが、これだけ有名な作家でありながら、生涯については、わからないことが多い。まず正確なかれの誕生日がわからない。英国の中部、ウォリックシアの都市ストラットフォードの教会にはウィリアム・シェイクスピアが1564年の4月26日に洗礼をうけた記録があるが、生れた日はわからない。公式に4月23日をかれの誕生日と定めているが、当時の風習として子供が生れて2、3日のうちに洗礼をうけさせたことや、たまたま4月23日はかれの命日にあたることや、さらにこの日がイギリスの守護聖者、聖ジョージの祝日にあたることなどから、この日が選ばれたという。そこで現れたのが、「シェイクスピアは不在だった」という説である。つまり、誰か別の高名な作家がシェイクスピアの名前で作品を発表した、というのである。シェイクスピアの正体はベーコンだったという説などが有名だが、その確証はない。さまざまな資料を照らし合わせてみたところ、シェイクスピアが存在したことは確かだが、その人物が果たして数々の戯曲を書いた本人と同一人物なのかどうか、はっきりと確認できなかった。

2017年4月17日 (月)

シェイクスピアと徳川家康

Photo_6   シェイクスピア(1564-1616)の時代の芝居の女役は、まだ声変わりしていない少年が演じていた。従って女性の登場人物の台詞はどれもあまり長くない。女優のオフィーリアが見れるようになるのは1660年から後のことである。

   ところで戯曲「ハムレット」の出版は1603年であるが、上演初演は1600年から1601年にかけての頃であろう。「ハムレット」に似たストーリーの劇は1598年頃からなんらかの形で行なわれていたらしく、それは通常「原ハムレット」と呼ばれていて、1594年に上演されたという記録が残っている。シェイクスピアがそれをもとにして「ハムレット」を書いたことはまちがいない。おそらく1600年のことであろう。そうすると、日本で言えば慶長5年(1600年)、あの関ヶ原の戦の年である。
   シェイクスピアと徳川家康(1542-1616)とは他にも共通点がある。卒年が同じだ。シェイクスピアは1616年4月23日、52歳で世を去っている。家康は元和2年4月17日(太陽暦5月22日)、73歳で亡くなっている。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。

2017年4月10日 (月)

コーヒーの語源

Img_0013
 17世紀のロンドン・コーヒーハウス

    一杯のコーヒーなり紅茶を傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。西洋にコーヒーを紹介したのは1295年マルコ・ポーロといわれている。コーヒーの発祥地はエチオピアのアビシニア高原といわれる。5~9世紀にアラビアにコーヒーが伝わる。少なくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。

   今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。

   日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代でキリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13)

0018_004

2017年3月23日 (木)

小説家スタンダール

Img_0006    1842年のこの日、スタンダールは59歳で死去した。スタンダールという筆名で知られるアンリ・ベール(1783-1842)は、現在ではもっぱら小説家として有名であるが、小説を書くことが彼の職業であったことはじつは一度もない。軍人、食料品商、参事院書記官、ジャーナリスト、イタリア駐在フランス領事であり、著述はそれと並行しておこなわれた。「紙をインクで汚すこと」が喜びであった59年間の生涯に書き残されたものの量は膨大である。「イタリア絵画史」「ローマ、ナポリ、フィレンツェ」「ナポレオンの生涯」「ラシーヌとシェイクスピア」「ロッシーニの生涯」「アルマンス」「ローマ漫歩」「赤と黒」「アンリ・ブリュラールの生涯」「リュシャン・ルーヴェン」「ナポレオンに関する覚書」「パルムの僧院」「カストロの尼」「ラミエル」。これらの作品はほとんど生前、世間的成功を収めていない。彼は、1880年、1935年の読者に期待すると予言し、その予言は見事に的中した。現在では、バルザックとともに最も大きな影響を近代小説の上におよぼしたフランスの小説家のひとりとされている。(3月23日)

2017年2月23日 (木)

キーツとファニー・ブローン

300pxjohn_keats_by_william_hilton Fanny

  コンドッティ通りからスペイン広場はローマの中心地にあり、映画「ローマの休日」で広く世界に知られる観光地となった。イギリスの抒情詩人ジョン・キーツ(1795-1821)はこのスペイン広場近くの家で1821年2月23日に25歳の生涯を閉じた。現在はキーツ・シェリー記念館となって、キーツの髪の毛やシェリーの骨壷があるという。そういえば映画の中でアン王女(オードリー・ヘプバーン)がうわ言で詩の一節を言うのだが、新聞記者ジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)と作者がキーツかシェリーかで言い争うシーンがあ.る。「アスレーザはアクロセラニアンの山の雪のしとねから身を起こし」この詩の作者はジョーが言うとおりシェリーだそうだ。そして、映画「ローマの休日」の二人か結ばれなかったように、キーツとファニーの恋も実らなかった。

   キーツは、ロンドンのムア・ゲイト(モーゲート)85番の貸馬屋の長男として生れた。1814年からロンドンの医学校でまなび、その後、医者をこころざして、免許をとったが、開業せず、詩人になろうと決意した。1818年夏にキーツはハムステッド・ウェントワース・プレースの下宿の近くに住んでいた美しい少女ファニー・ブローンを見初め恋におちる。キーツ22歳、ブローン18歳。しかしキーツは結核を発病した。医者の勧めもあり、ファニーとの結婚を諦め、ハムステッドの下宿を大きな未練を残しながら去り、ローマを療養の地とした。しかし友人ジョーゼフ・セーバンの看病も空しく、かの地で亡くなった。

   ファニーに寄せるうた

          1 

自然という医師よ。わたしの魂から血を抜いておくれ。ああ、わたしの心から詩を取り出し安らかにしておくれ。息づまるほど切ない詩情をわたしのこの満ち溢れる胸から退いてゆくまで、おまえの祭壇にわたしを投げ出しておくれ。主題。主題。大いなる自然よ。主題をおくれ。わたしに夢を見させておくれ。わたしはここに来ておまえがそこに立っているのがわかる。冷たい冬の空のしたに私を連れ出さないでおくれ。

          2

ああ、愛する女よ。わたしの怖れと希望と悦びと息切れのするような耐え難さをすべて宿すひとよ。思えば今夜のあなたの美しさはまるで楽しい微笑を浮かべていることでしょう。うっとりと、胸のいたくなるような、奴隷的な目なざしで、あまい驚きに我を忘れて、見つめれば見つめるほど素晴らしく明るい微笑を浮かべて。

          3

どん欲な目つきで、いま、わたしの目のごちそうを食い荒らすのは誰か。わたしの銀いろの月をいま曇らせるほどしつこく見つめているのは誰か。ああ、せめてその手だけは汚さないでおくれ。どうかどうかその恋の焔を燃やしておくれ。けれどどうかおまえの心のながれを私からそんなに早くそらさないでおくれ。ああ、わたしのために哀れと思ってあなたの高鳴る胸の動悸をとっておいておくれ。

          4

そいつをとっておいておくれ。愛する女よ。わたしのためにたとい音楽がみだらな思いを暖かい空気に混ぜるようとも。踊りの危険な誘惑の環のなかを飛びまわる時にも、あたかも四月の日のように。微笑み冷静でたのしくあっておくれ、美しくしかもつつましい百合の花であっておくれ。そうすればきっと暖かな六月がわたしにもやって来るだろう。

          5

まあ、それは嘘よと、あなたは言うだろう。ファニーよ。あなたの柔らな子を心臓の高鳴る真白い胸において、告白しなさい。なんでもないことだけど。女は海に浮ぶ軽い羽根のように風にゆられ波にゆられて、ふらふらしてはいけないでしょうかと。牧場からとんでくるたんぽぽの頭のように気まぐれに飛んだりしては。

          6

私にもそれはわかる。でもそれは失望です。ファニーよ、わたしのようにあなたを愛しているものにとっては、わたしの心はどこへでもあなたを求めて飛びまわり、あなたが外にぶらりと出かけるとわたしの心はわびしくて落ちつかない。愛。愛だけが厳しい、多くの苦痛をもっている。だから恋しいひとよ、どうか、苦しい嫉妬から私を自由にしておくれ。

          7

ああ、もしあなたが哀れな色褪せた短かい一時間の誇りよりわたしの押さえた魂をほめてくれたら、誰にもわたしの恋の神聖な座を汚させはしない。また荒々しい手で秘跡のパンを裂かせることも許さない。誰にもまたその新しく芽を出したばかりの花に触れさせない。もし触れたら恋人よその失われた休息のうえに、わたしの目を閉じさせておくれ。(出口泰生訳)

2017年2月19日 (日)

アンドレ・ジード忌

433pxgide_1893

    私は書棚から一冊の本を抜き出して、それを読んだ。そしてその場所に納めた。私はその本を読んだことさえ忘れていた。しかしそれを読んだ後の私は、もはやそれを読む以前の私ではなかった。(アンドレ・ジード)

 

  *  *  *  *  *  *  

 

   アンドレ・ジード(1869-1951)は早くからマラルメ、ヴァレリーと知り合い、象徴派風の作品を書くが、すぐに脱し、生命の歓喜、自由を追求した多くの小説を発表、簡潔明快な文章は美的完成度が高い。1951年2月19日、ジッド死去。

2017年2月 3日 (金)

忘れられた人気作家ウォルター・エドモンズ

Walterd_edmonds175pixels     ウォルター・D・エドモンズ(1903-1998)は20世紀のアメリカの小説家。もっぱらニューヨークの歴史を題材にした作品が多い。上部ニューヨーク州モーホーク渓谷の水上生活を描いた「ローム・ホール」(1920)「大きな納屋」(1930)「エリー湖」(1933)等の作品で知られる。ヘンリー・フォンダ主演で「運河のそよ風」(1935)や「モホークの太鼓」(1936)など映画化された。Walter Dumaux Edmonds

2017年1月30日 (月)

デュマ・フィスとマリー・デュプレシス

La_dame_aux_camlias_daprs_charles_c     「わたしがはじめて彼女を見かけたのは、一年前、プールスの広場のシュッスという店の入口でした。無蓋の四輪馬車がその店先にとまると、中から白い衣裳をつけた女がおりてきた。わたしは彼女が店に入った瞬間から、出てくるまで、そこに釘づけにされてしまった。彼女はすそ飾りのついたモスリンの衣裳をまとい、すみずみに金糸の刺繍と絹の花飾りをつけたインド織りの四角なショールを肩にかけ、イタリア製の麦わら帽子をかぶり、当時はやりはじめていた太い金鎖の腕輪をはめていました。彼女はふたたび馬車に乗って行ってしまった。彼女の名前はマルグリット・ゴーチェ。」

    デュマ・フィス(1824-1895)の有名な小説「椿姫」のマルグリット・ゴーチェには実在のモデルがあった。いつも胸に椿の花を飾っていたマリー・デュプレシス(1824-1847)、本名アルフォンシーヌ・プレシスである。サン・ジェルマン・ド・クレルフィユで錫かけ屋の娘として生まれた。父からの虐待を逃れて母とパリに来る。だが母も8歳の時に亡くなり、親戚に預けられる。12歳のころからパリの街を徘徊し男を知る。洗濯屋や帽子屋で働いたが、やがて彼女は高級娼婦となった。1846年、エドワード・ベルゴー伯爵と結婚するが、彼女は重い病にかかり、1847年2月3日、わずか23歳という若さで早逝する。遺言は「夜明ける頃に埋葬してほしい。それもどこか人知れぬ遠い場所に大げさな騒ぎなしに埋葬してほしい」だった。

  当時の批評家ジュール・ジャナンの言葉によれば、彼女は娼婦ながらもあたかも貴婦人のような人品をそなえていたという。青年デュマ・フィスのロマンチックな情熱と正義感が、この女性を椿姫という永遠の美しい女性像に創りあげたのであろう。デュマ・フィスとプレシスの墓はパリのモンマルトル墓地にあり、今でも訪ねる人はたえない。

2017年1月28日 (土)

スメルジャコフの瞑想

Meditator001   本日はロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの忌日。「カラマーゾフの兄弟」(1879)は神の実在に関する宗教論が絡む長くて難解な小説ではあるが、父親殺しというミステリー要素が含まれるので最近多くの読者がいるという。私の所蔵している版は1953年の米川正夫の訳である。先日、ロシア映画を見たので、ようやく概要がつかめた。ネタばれありの人物紹介にはズバリと書いている。「スメルジャコフ。フョードルが乞食女に生ませた私生児。癲癇病者。カラマーゾフ家の料理番をつとめていたが、私生児の境涯をうらみ、実父を殺して金をうばい、巧みにおのれの犯罪をドミートリイに転嫁する。下劣な奸智にたけた悪魔的人物」とある。この解説が当を得ているのか分からないがスメルジャコフの犯行の動機には謎が多いように思える。イワンから教えられた哲学思想に惑わされたとする説、癲癇説、ドミートリイへの妬み、奇妙な強迫観念など。ドストエフスキーはイワン・クラムスコイの絵画「瞑想する人」(1876)を観賞しスメルジャコフに重ねあわせて、「スメルジャコフもこうした瞑想者の一人であって、やはり同じように自分でも何のためともしらずに、こうした印象を貪るように積み重ねていたに相違ない」と記している。(第3篇第6スメルジャコフ)(Dostoevskii,Ivan Kramskoy,Smerdyakov,Karamazov)1月28日

2017年1月20日 (金)

ティファニーで朝食を

2013_0507photo1    1993年のこの日、永遠の妖精オードリー・ヘプバーンが死去した。ヘプバーンの代表作は「ティファニーで朝食を」である。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の初版が出たのは1958年の秋だった。それから3年後にオードリー・ヘプバーンで映画化され、主題曲「ムーン・リヴァー」と共に世界的に知られるようになったので小説よりも映画のイメージが強いことは否めない事実である。しかし原作のホリー・ゴライトリーという女性を読者の想像力に委ねるために、最近刊行された村上春樹の新訳では、本のカヴァーには映画のシーンなどを使っていないような配慮もされている。滝口直太郎の訳と一部分を比較してみただけの印象であるが、村上訳はこなれた平易な現代語でより読みやすくなっている感じがする。

   ホリー・ゴライトリーはニューヨークのアパートに、猫だけが同居のひとり暮らしをしている。彼女をとり巻くあまたの男性のうちには、映画人とか百万長者とかブラジルの外交官とかさまざまな人間がいたが、もともと籠の鳥になることを望まない野性の女ホリーは、自分の属する住所も持たず、名刺のアドレスには「旅行中」と印刷してある。時あたかも1940年代の初め、アメリカの社会は「いやな赤」の恐怖におののいている。ダイヤモンドなど大嫌いな彼女だが、ティファニーの宝石店にはよく足をはこぶ。そこのどっしりと落ちついた雰囲気の中に立った彼女は「いやな赤」の恐怖から救われ、いつの日にかはこのような所に住んで、「朝食」を取れるようになれればよいのにと思う。

   同じアパートに無名作家のポールが住んでいて、ホリーに好意を持つようになる。ある日、二人はセントラル・パークで乗馬を楽しんでいるとき、馬があばれ出して五番街にとび出し、やっと警察官にとりおさえてもらう。ところが、ホリーがマリファナを使っていることがばれ、麻薬密輸のギャングとかかわりがあるのではないかということになって大きなスキャンダルになる。これより前、ホリーは毎週木曜日にシング・シング刑務所に収容されていたギャングの幹部を訪問し、週100ドルの報酬をもらっていたことがバレる。このスキャンダルのおかげで、結婚の相手を夢見ていたブラジル外交官ホセに逃げられ、保釈中にもかかわらずブラジルにホセを追いかけて行く。

  映画ではオードリー・ヘプバーンがジョージ・ペパードと結ばれハッピー・エンドとなっているが、原作ではホリーはブラジルに渡り、さらにアフリカまで放浪の旅を続けることになっている。

    小説にはもちろん映画主題歌「ムーン・リヴァー」は登場しないが、ホリーがギターを爪びきながら歌う場面が一箇所ある。その歌詞を紹介する。(滝口直太郎訳)

   眠りたくもなし、

   死にたくもない、

   ただ旅して行きたいだけ、

   大空の牧場通って。

    村上の新訳では「眠りたくもない、死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」とある。(1月20日)

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30