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2025年10月 7日 (火)

ミステリ―記念日

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1849年のこの日、ミステリ―小説の先駆者、エドガー・アラン・ポーが死去した。1845年に発表された「モルグ街の殺人」が世界初の推理小説と言われている。エドガー・アラン・ポー(1809-49)は、幼くして孤児となり、リッチモンド市の商人ジョン・アランに引き取られ、イギリスで初等教育を受けたのち、1826年バージニア大学に入学するが、1年たらずで退学。1833年「瓶の中から出た手記」が懸賞に当選し、作家としての、また雑誌記者としての道が開けた。その後のポーはリッチモンド、ニューヨーク、フィラデルフィアの各地で雑誌の編集にたずさわり、数多くの評論や書評を書くかたわら、数多くの小説を発表した。1849年10月7日、40歳で亡くなった。

    ポーは人間の心にひそむ内的恐怖や無意識にみごとな形態を与えた怪奇小説や幻想小説の書き手、明敏でときには辛辣な批評家、それに今日隆盛をきわめる推理小説(「モルグ街の殺人」)やSF小説の元祖であった。しかしポーの文学は、その生存中はかれの実力にふさわしい理解と賞賛とを受けなかった。それと同じように、人間としてのポーについても、これを伝える人々のことばに大きなへだたりを残したまま今日にいたっている。ボーの誹謗者たちはかれを神経病的な酔っ払いの麻薬常用者と考え、感情生活のいつも不安定な、道徳的誠実さの欠除している男とみなした。他方、かれを弁護する人々は、かれのすべての困難を、かれを嫌悪した人々の悪意、時代がかれに加えた苛烈な仕打ち、あるいはまた、かれをなやましたさまざまな肉体的、精神的病気のためであるといっている。かれについての真実がそのどちら側にあるかは、今でさえなお不明である。ポーがアルコールや阿片に過度なまでにふけったということがあまりにも伝説的になっているが、かれの場合には、他の多くのロマン派詩人のように、多分にかれ自身の偽悪的な面がはたらき、実際のかれ自身よりも自分をそのような姿に見せようとすることばや暗示があったであろうことを考えておく必要がある。(参考:「玉川百科大辞典16 西洋文芸」) 

2025年8月17日 (日)

犬をつれた奥さん

 夏ドラマ「愛の、がっこう」。美人教師とホストの禁断の恋。年の差はあるが、不倫じゃないし、障害は乗り越えられると思う。「初恋DOGS」三角関係だが、犬が取り持ってくれた恋なのでハッピーエンドになりそうな予感がする。犬が登場する話と言えば、ロシア文学チェーホフの「犬をつれた奥さん」。銀行員のグーロフは妻と二人の子がいる。アンナという若い小柄な婦人は、いつもスピッツを連れて散歩している。避暑地の恋が燃え上がる。美しい不倫小説の決定版である。グーロフとアンナの愛の結末は「もうちょっと努力すれば、解決の道が見つかる」らしい。結末ははっきりと書かれていないが、読者が自由に想像できるのがよい。

 

2025年8月12日 (火)

教養小説論

Thomasmannum1939     1955年のこの日、トーマス・マンは80歳で没した。マンはゲーテ、ショーペンハウエル、ニーチェ、ワーグナーの影響を受けた現代の叙事詩人ともいうべき作家で、人生と芸術に関する多くの問題を呈示した。代表作に「ヴェニスに死す」「ブッテンブローク家の人々」「ヨーゼフとその兄弟たち」などがある。世界文学では、ドイツ語で「ビルドゥングス・ロマンス Bildungsroman」というジャンルがある。日本語では適当な訳語がないため、一般には「教養小説」「人間形成小説」という語が使用されている。

    若い主人公が自己をとりまく外的世界と戦ったり、その影響をうけたりしながら、固有の人格を完成し、一定の生活理念を形成していく過程を描いていく。ゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」、ケラーの「緑のハインリッヒ」、ヘッセの「ペーター・カーメンツィント」、トーマス・マンの「魔の山」、モームの「人間の絆」などが典型的な作品である。新しくは、社会の底辺に差別されて生きることを宿命として受け入れていた無教養な黒人女性が目覚め、成長していく姿を描いた「唇のふるえ」(A・ウォーカー)も、やや通俗的ではあるがこのジャンルに入れることができるであろう。

    日本では、志賀直哉「暗夜行路」、島崎藤村「夜明け前」、下村湖人「次郎物語」、宮本百合子「伸子」、芹澤光治良「人間の運命」などがあげられる。(8月12日)

2025年5月26日 (月)

ウィリアム・フォークナーと映画

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    ウィリアム・フォークナーの小説「サンクチュアリ」が再映画化されるという。フォークナー作品の映画化はヘミングウェーのように成功例があまりない。「サンクチュアリ」も1961年にリー・レミック、イヴ・モンタン主演で製作されているが日本未公開である。小説「Pylon」がダグラス・サーク監督で「空に賭ける命」(1957)として日本公開されたくらいだろうか。だがフォークナーは新聞記者から映画脚本家に転身して、1930年代にはハリウッドで多数の脚本を書いている。ハワード・ホークスとは親友で「三つ数えろ」「脱出」の脚本を担当した。結局、ハリウッドの体質があわず、ミシシッピ川に引きこもり、作家業に専念して、ノーベル賞作家となった。

2025年5月24日 (土)

アンナ・カレーニナと姦通罪廃止論

 最近、日本でも姦通罪がよく話題になる。もちろん今の日本には法律上存在しない姦通罪だが、不倫は社会的に罪という観念が強く浸透している。有名人が愛人と密会している写真を盗撮して、週刊誌が大きく取り上げて、社会的地位を失うということがしばしばある。だが姦通罪の廃止という意見は大正時代からあったようである。あるときトルストイは新聞の三面記事に目がとまった。それはトルストイの近所に住む知人の妻アンナのことだった。アンナは、夫が女家庭教師と仲くなったことを知り家出をした。「あなたは下手人です。もし人殺しが幸福になれるものなら、あの女と一緒に幸福にお暮らしなさい。もしわたしに会いたいと思ったら、駅のレールの上で、わたしの死体をごらんになれるでしょう」という手紙を残して鉄道自殺をとげた。

    この小さな事件をヒントにして「幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という書き出しではじまる長篇小説「アンナ・カレーニナ」が生まれた。

    トルストイの思想は大正期の知識人に大きな影響を与えた。白樺派などの作家、芸術家だけでなく、弁護士の布施辰治(1880-1953)や法学者の滝川幸辰(1891-1962)たちもトルストイアンであることはよく知られている。滝川は昭和7年「トルストイの復活に現われたる刑罰思想」と題する講演で報復的刑罰より人道的対応が大切だという意見を述べている。滝川は当然「アンナ・カレーニナ」という悲恋小説も読んでいたし、アンナとウロンスキイとの姦通を司法の立場で考えていたであろう。つまり、滝川事件のそもそもの発端は小説「アンナ・カレーニナ」ではないだろうか。そして、もし、あのときトルストイが新聞の三面記事を読まなかったら、滝川事件もなかったかも知れない。

2025年3月16日 (日)

ジョイス・キルマー「樹」

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       樹

 

  思うに、樹のように美しい詩を

 

  見ることはついになかろう。

 

  甘い乳の流れる大地の胸に、

 

  飢えたるその口に押しあてる樹、

 

  日もすがら神を見上げて

 

  葉の多い腕をさしあげ祈る樹、

 

  夏にはその髪にこまどりの

 

  巣をかけることもある樹、

 

  その胸に雪がよこたわり、

 

  雨となかよく暮らす樹、

 

  詩は私のような馬鹿が作るが、

 

  神さまのみが樹をつくり給う。

 

    ジョイス・キルマー(1886-1918)は、ニュージャージー州で生まれ、将来を嘱望されながら、第一次大戦で戦死したアメリカの詩人。詩集に「愛の夏」(1911)、「樹木」(1914)など、評論集に「サーカス」(1916)などがある。

2024年11月 7日 (木)

ゲーテ「愛の書」

  愛の書

 

書物の中の最も驚くべき本は

 

愛の書。

 

注意ぶかく読むと

 

喜びのページはまれで

 

全編みな悩み。

 

一章は別れが占め、

 

再会は、短い章で、

 

断片。悲しみの巻は

 

説明でひきのばされ、

 

はてなく、節度もない。

 

おお、ニザミよ。だが、しまいに、

 

おん身は正しい道を見つけた。

 

解き難いものを解くのはだれか。

 

再び相会う愛するふたり。

 

           *

 

まこと、わたしを見たのは、

 

わたしにキスしたのは、

 

あの目、あの口であった。

 

腰は狭く、胴はまるかった。

 

天国の快楽を受け入れるためのように。

 

あの人はあそこにいたのか。

 

どこに行ったのか。

 

まこと、あの人であった。あの人がそれを与えた。

 

逃げながら身を与え、

 

わたしの命をすっかり捕えた。

 

               高橋健二訳

 

 

 

 

 

すばらしい人生を送りたいと思ったら、

 

過ぎ去ったことは気にせず、

 

腹もたてないよう努め

 

いつも現在をたのしみ、

 

とりわけ誰も憎まず、

 

先のことは神様にまかせること

 

           木原武一訳

 

 

 ドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、1749年8月28日にドイツのフランクフルトで生まれた。






 

 

 

 

2024年7月21日 (日)

ヘミングウェイ生家

 

   アメリカ・イリノイ州オークパーク。シカゴから西へ約16㎞に位置するこの町は、1800年代後半に開発されたニュータウンである。レイ・クロック(マクドナルド創業者)、バローズ(類人猿ターザンの作者)、フランク・ロイド・ライト(帝国ホテルの設計者)などこの町ゆかりの有名人は多いが、なかでもアーネスト・ヘミングウェイの生家があることで知られる。へミングウェイは1899年7月21日、姉マーセリンに次いで2番目の子としてここで生まれた。最近この生家が52万5000ドルで売りに出されているらしい。(Ernest Hemingway,Oak Park)

2024年7月14日 (日)

ハーマン・メルヴィル「白鯨」

    1814年、北米捕鯨業の中心マサチューセッツ州ニュー・ベドフォード。海にあこがれを求めてやってきた、風来坊のイシュメールは「捕鯨館ピーター・コフィーン」に宿を求め、同室の銛打ちクィークェグと無二の親友になる。クィークェグは全身刺青だらけの蛮人だが案外の善人である。翌日イシュメールは、教会で昔は銛師だったマップル神父の説教を聴いた後、奇妙な男エリジャーの警告にも屈せず、老朽捕鯨船ピークォド号の乗組員に雇われる。船長の名はエイハブ。鯨骨の義足を不気味に響かせ、顔面に深い傷痕を持つ彼の姿には、威厳と共に何かしら陰惨な、物に憑かれたような感じがあった。彼は以前、モビィ・ディックと呼ぶ白鯨に片足をもぎ取られて以来、復讐の一念に凝り固まっていた。

   今度の航海も目的は同じ。何も知らずに乗り組んだ荒くれ船員たちは、一日、彼の白鯨追跡宣言に驚いたが船長の狂熱ぶりに感染、賞金のスペイン金貨を得んものと夢中になる。唯一人理性を失わぬ一等運転士スターバックは、神を恐れぬこの行為に反対したが一蹴された。鯨群を追うピークォド号は、途中、ロンドンに船籍を持つサミュエル・エンダビイ号に出会う。船長のブーマーが白鯨を捕り逃したというと、エイハブは怒って彼を自分の船に追い帰す。やがて同じ捕鯨仲間のレイチェル号にもめくりあう。ガーデナー船長は、12歳になる息子を先日、海で見失い、血眼になって探し回っている。だが彼の協力の懇請も、エイハブには時間の浪費としか思えない。

    数刻後、嵐が船を襲う。だが強風にもエイハブは帆を下ろせと命じない。怒ったスターバックとエイハブは豪雨の中に対立。だがエイハブの形相と白鯨への執念に、スターバックもたじろぐも、嵐は去る。

    遂に宿敵のモビイ・ディックを発見し、4隻のボートが下ろされ、巨鯨との戦闘が開始される。しかしモビィ・ディックの背中へよじ上がり憎悪の銛をぶちこむ。エイハブは銛鋼の巻込まれ、怒り立った鯨もろとも、海中に姿を没する。ボートは白鯨の巨大な尾で砕け散り、スターバックが指揮するピークォド号も沈没。ただ一人生き残ったイシュメールは、クィークェグが船大工に作らせてあった棺桶の背で一昼夜を漂流した後、レイチェル号に救い上げられた。

                            *

   あらすじを紹介すると、単なる海洋冒険小説のようだが、原作のすごさは、詳細な記述、作者の知識の豊富さに感心させられる。「白鯨」を皮肉って「鯨学講義」とか「捕鯨ハンドブック」と名づけてもよさそうな、詳細なものです。そして、鯨とは何かをめぐってありとあらゆる知識と思想をてんこもりにして、結局「わからん」というのだから始末が悪い。自分にはすべてがわかると信、科学で武装した唯我主義者エイハブの破滅に作家メルヴィルのいわゆる不可知論が反映されている。メルヴィルはカント以下のドイツ・ロマン派哲学の影響下に思いっきり、知と不可知をめぐる大哲学小説を書いた。文学には楽しませる面のほかに、「教える」という知的な面があって、その両面が面白い具合に絡まりあった時、長い年月や国境を越えて読み継がれる名作がうまれるのである。

 

 

2024年6月30日 (日)

「風と共に去りぬ」題名の由来

   1926年、マーガレット・ミッチェルは落馬による左足首を捻挫し、関節炎を起こし、回復に手間どったため、5月にアトランタ・ジャーナル社を退社。この頃からむさぼるように読書する。読書の範囲は広く、文学、歴史、医学、考古学、探偵小説等。一日8冊を読み上げるので、夫のジョン・ロバート・マーシュは毎日一抱えの本を持って市立図書館へ往復しなければならなかった。この年、夫のすすめに従い「風と共に去りぬ」を書き始める。執筆の動機は母の話がきっかけだった。少女時代、あまり学問が好きでなかったので、母はある日の午後アトランタの郊外へ彼女を伴い、南北戦争で荒廃したままの土地を見せて歩いた。戦争から多くの歳月が過ぎたそのころでも、この地方の土地や生活には戦禍のあとがまだなまなましく残っていた。母はあちこちの建物を指して、戦争と復興の苦難を乗り越える意力と能力のあった家と、うちつづく困苦を切りぬけるだけの力がなかったために没落していった家とを教えて、彼女の心に、あくまでも生きぬく力を喚起させ、そのためには学業がいかにゆるがせにならぬものかを説いてきかせた。そのときのことはのちのちまでも忘れられなかったという。その人たちの中には成功しようとして戦いぬいた人と、その戦いに雄々しくいどんで敗れた人と、やっと生きのびているだけの人とがあったわけで、これをテーマに小説を書こうと思ったのが、畢生の大作を生む動機となったのである。1933年、前後7年間にわたって断続的に書きつづけた「風と共に去りぬ」はほぼ脱稿した。1935年、マクミラン出版社の副社長ハロルド・S・レイサムは、ミッチェルが大作の草稿を筐底に秘めていることを知り、ぜひそれを見せるようにと懇願した。ミッチェルは気がすすまなかったが、ついに決心して原稿を副社長に見せることにした。マクミラン出版社がこれの刊行を決定したのは同年夏のことである。1936年6月30日、「風と共に去りぬ」はニューヨークのマクミラン出版社から刊行され、一年間で150万部を売りつくした。

   本の題名については、出版社側は「明日がある」(アナザー・デイ)を採用することを内定していたが、彼女はさまざまな題名を提案しつづけた。その一部をあげると、「苦難を荷え」「一里塚」「めえ、めえ、黒羊=無頼の嘆き」「いつかは日が開く」「無情の星」「ラッパの調べは切なし」

    最後の題名は、つぎのような南北戦争時代の戦歌からとったものである。「ラッパの調べは切なし、夜の雲低く垂れ、星が空にきらめくころ。兵士みな地に伏す。疲れしものは眠り、傷つきしものは死に」この題名そのものは、かなり彼女の気に入ったのだが、「ラッパの調べ」が彼女のいわんとするところを切実に物語るものとも思えなかった。しかし、それを契機として、何かほかの詩のなかに引用できる辞句があるのではないかという期待をもつようになり、それとなく気をつけていた。やがて10月の最後の週に、マーガレットは一冊の英詩集を開いて、アーネスト・ダウスンの詩「われはもはやシナラをともに愛せしころのわれにあらず」に、なにげなく目をやった。この題はホレースの頌詩からとったものである。マーガレットは以前からこの詩を愛していた。1900年に肺結核で短い数奇な生涯をとじた審美派の英詩人ダウスンの代表的叙事詩で、当時の若い世代の人々はこの詩の冒頭を読んだだけで、異常な感動にうたれたのであった。「前夜、ああ、昨夜、かの女とわが唇の間に、きみは影を落とした。シナラ!」そして、つぎの反復句がつづく。「われはわれなりに、きみにまことをささげてきた。シナラ!」やがてつぎの二行がマーガレットの目をとらえた。

「われは多くを忘れ去った。シナラよ!すべては風と共に去った。バラは、棘もろともあらあらしく吹き飛ばされた」 I have forgot much,Cynara!gone with the wind

「風と共に去った」 これこそ、まさに彼女が探していた言葉だった。(参考:フィニス・ファー「マーガレット・ミッチェル物語」河出書房)

( Margaret Mitchell,Ernest Dowson、アーネスト・ダウサン )

 

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