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2017年2月23日 (木)

キーツとファニー・ブローン

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  コンドッティ通りからスペイン広場はローマの中心地にあり、映画「ローマの休日」で広く世界に知られる観光地となった。イギリスの抒情詩人ジョン・キーツ(1795-1821)はこのスペイン広場近くの家で1821年2月23日に25歳の生涯を閉じた。現在はキーツ・シェリー記念館となって、キーツの髪の毛やシェリーの骨壷があるという。そういえば映画の中でアン王女(オードリー・ヘプバーン)がうわ言で詩の一節を言うのだが、新聞記者ジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)と作者がキーツかシェリーかで言い争うシーンがあ.る。「アスレーザはアクロセラニアンの山の雪のしとねから身を起こし」この詩の作者はジョーが言うとおりシェリーだそうだ。そして、映画「ローマの休日」の二人か結ばれなかったように、キーツとファニーの恋も実らなかった。

   キーツは、ロンドンのムア・ゲイト(モーゲート)85番の貸馬屋の長男として生れた。1814年からロンドンの医学校でまなび、その後、医者をこころざして、免許をとったが、開業せず、詩人になろうと決意した。1818年夏にキーツはハムステッド・ウェントワース・プレースの下宿の近くに住んでいた美しい少女ファニー・ブローンを見初め恋におちる。キーツ22歳、ブローン18歳。しかしキーツは結核を発病した。医者の勧めもあり、ファニーとの結婚を諦め、ハムステッドの下宿を大きな未練を残しながら去り、ローマを療養の地とした。しかし友人ジョーゼフ・セーバンの看病も空しく、かの地で亡くなった。

   ファニーに寄せるうた

          1 

自然という医師よ。わたしの魂から血を抜いておくれ。ああ、わたしの心から詩を取り出し安らかにしておくれ。息づまるほど切ない詩情をわたしのこの満ち溢れる胸から退いてゆくまで、おまえの祭壇にわたしを投げ出しておくれ。主題。主題。大いなる自然よ。主題をおくれ。わたしに夢を見させておくれ。わたしはここに来ておまえがそこに立っているのがわかる。冷たい冬の空のしたに私を連れ出さないでおくれ。

          2

ああ、愛する女よ。わたしの怖れと希望と悦びと息切れのするような耐え難さをすべて宿すひとよ。思えば今夜のあなたの美しさはまるで楽しい微笑を浮かべていることでしょう。うっとりと、胸のいたくなるような、奴隷的な目なざしで、あまい驚きに我を忘れて、見つめれば見つめるほど素晴らしく明るい微笑を浮かべて。

          3

どん欲な目つきで、いま、わたしの目のごちそうを食い荒らすのは誰か。わたしの銀いろの月をいま曇らせるほどしつこく見つめているのは誰か。ああ、せめてその手だけは汚さないでおくれ。どうかどうかその恋の焔を燃やしておくれ。けれどどうかおまえの心のながれを私からそんなに早くそらさないでおくれ。ああ、わたしのために哀れと思ってあなたの高鳴る胸の動悸をとっておいておくれ。

          4

そいつをとっておいておくれ。愛する女よ。わたしのためにたとい音楽がみだらな思いを暖かい空気に混ぜるようとも。踊りの危険な誘惑の環のなかを飛びまわる時にも、あたかも四月の日のように。微笑み冷静でたのしくあっておくれ、美しくしかもつつましい百合の花であっておくれ。そうすればきっと暖かな六月がわたしにもやって来るだろう。

          5

まあ、それは嘘よと、あなたは言うだろう。ファニーよ。あなたの柔らな子を心臓の高鳴る真白い胸において、告白しなさい。なんでもないことだけど。女は海に浮ぶ軽い羽根のように風にゆられ波にゆられて、ふらふらしてはいけないでしょうかと。牧場からとんでくるたんぽぽの頭のように気まぐれに飛んだりしては。

          6

私にもそれはわかる。でもそれは失望です。ファニーよ、わたしのようにあなたを愛しているものにとっては、わたしの心はどこへでもあなたを求めて飛びまわり、あなたが外にぶらりと出かけるとわたしの心はわびしくて落ちつかない。愛。愛だけが厳しい、多くの苦痛をもっている。だから恋しいひとよ、どうか、苦しい嫉妬から私を自由にしておくれ。

          7

ああ、もしあなたが哀れな色褪せた短かい一時間の誇りよりわたしの押さえた魂をほめてくれたら、誰にもわたしの恋の神聖な座を汚させはしない。また荒々しい手で秘跡のパンを裂かせることも許さない。誰にもまたその新しく芽を出したばかりの花に触れさせない。もし触れたら恋人よその失われた休息のうえに、わたしの目を閉じさせておくれ。(出口泰生訳)

2017年2月19日 (日)

アンドレ・ジード忌

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    私は書棚から一冊の本を抜き出して、それを読んだ。そしてその場所に納めた。私はその本を読んだことさえ忘れていた。しかしそれを読んだ後の私は、もはやそれを読む以前の私ではなかった。(アンドレ・ジード)

 

  *  *  *  *  *  *  

 

   アンドレ・ジード(1869-1951)は早くからマラルメ、ヴァレリーと知り合い、象徴派風の作品を書くが、すぐに脱し、生命の歓喜、自由を追求した多くの小説を発表、簡潔明快な文章は美的完成度が高い。1951年2月19日、ジッド死去。

2017年2月 3日 (金)

忘れられた人気作家ウォルター・エドモンズ

Walterd_edmonds175pixels     ウォルター・D・エドモンズ(1903-1998)は20世紀のアメリカの小説家。もっぱらニューヨークの歴史を題材にした作品が多い。上部ニューヨーク州モーホーク渓谷の水上生活を描いた「ローム・ホール」(1920)「大きな納屋」(1930)「エリー湖」(1933)等の作品で知られる。ヘンリー・フォンダ主演で「運河のそよ風」(1935)や「モホークの太鼓」(1936)など映画化された。Walter Dumaux Edmonds

2017年1月30日 (月)

デュマ・フィスとマリー・デュプレシス

La_dame_aux_camlias_daprs_charles_c     「わたしがはじめて彼女を見かけたのは、一年前、プールスの広場のシュッスという店の入口でした。無蓋の四輪馬車がその店先にとまると、中から白い衣裳をつけた女がおりてきた。わたしは彼女が店に入った瞬間から、出てくるまで、そこに釘づけにされてしまった。彼女はすそ飾りのついたモスリンの衣裳をまとい、すみずみに金糸の刺繍と絹の花飾りをつけたインド織りの四角なショールを肩にかけ、イタリア製の麦わら帽子をかぶり、当時はやりはじめていた太い金鎖の腕輪をはめていました。彼女はふたたび馬車に乗って行ってしまった。彼女の名前はマルグリット・ゴーチェ。」

    デュマ・フィス(1824-1895)の有名な小説「椿姫」のマルグリット・ゴーチェには実在のモデルがあった。いつも胸に椿の花を飾っていたマリー・デュプレシス(1824-1847)、本名アルフォンシーヌ・プレシスである。サン・ジェルマン・ド・クレルフィユで錫かけ屋の娘として生まれた。父からの虐待を逃れて母とパリに来る。だが母も8歳の時に亡くなり、親戚に預けられる。12歳のころからパリの街を徘徊し男を知る。洗濯屋や帽子屋で働いたが、やがて彼女は高級娼婦となった。1846年、エドワード・ベルゴー伯爵と結婚するが、彼女は重い病にかかり、1847年2月3日、わずか23歳という若さで早逝する。遺言は「夜明ける頃に埋葬してほしい。それもどこか人知れぬ遠い場所に大げさな騒ぎなしに埋葬してほしい」だった。

  当時の批評家ジュール・ジャナンの言葉によれば、彼女は娼婦ながらもあたかも貴婦人のような人品をそなえていたという。青年デュマ・フィスのロマンチックな情熱と正義感が、この女性を椿姫という永遠の美しい女性像に創りあげたのであろう。デュマ・フィスとプレシスの墓はパリのモンマルトル墓地にあり、今でも訪ねる人はたえない。

2017年1月28日 (土)

スメルジャコフの瞑想

Meditator001   本日はロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの忌日。「カラマーゾフの兄弟」(1879)は神の実在に関する宗教論が絡む長くて難解な小説ではあるが、父親殺しというミステリー要素が含まれるので最近多くの読者がいるという。私の所蔵している版は1953年の米川正夫の訳である。先日、ロシア映画を見たので、ようやく概要がつかめた。ネタばれありの人物紹介にはズバリと書いている。「スメルジャコフ。フョードルが乞食女に生ませた私生児。癲癇病者。カラマーゾフ家の料理番をつとめていたが、私生児の境涯をうらみ、実父を殺して金をうばい、巧みにおのれの犯罪をドミートリイに転嫁する。下劣な奸智にたけた悪魔的人物」とある。この解説が当を得ているのか分からないがスメルジャコフの犯行の動機には謎が多いように思える。イワンから教えられた哲学思想に惑わされたとする説、癲癇説、ドミートリイへの妬み、奇妙な強迫観念など。ドストエフスキーはイワン・クラムスコイの絵画「瞑想する人」(1876)を観賞しスメルジャコフに重ねあわせて、「スメルジャコフもこうした瞑想者の一人であって、やはり同じように自分でも何のためともしらずに、こうした印象を貪るように積み重ねていたに相違ない」と記している。(第3篇第6スメルジャコフ)(Dostoevskii,Ivan Kramskoy,Smerdyakov,Karamazov)1月28日

2017年1月20日 (金)

ティファニーで朝食を

2013_0507photo1    1993年のこの日、永遠の妖精オードリー・ヘプバーンが死去した。ヘプバーンの代表作は「ティファニーで朝食を」である。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の初版が出たのは1958年の秋だった。それから3年後にオードリー・ヘプバーンで映画化され、主題曲「ムーン・リヴァー」と共に世界的に知られるようになったので小説よりも映画のイメージが強いことは否めない事実である。しかし原作のホリー・ゴライトリーという女性を読者の想像力に委ねるために、最近刊行された村上春樹の新訳では、本のカヴァーには映画のシーンなどを使っていないような配慮もされている。滝口直太郎の訳と一部分を比較してみただけの印象であるが、村上訳はこなれた平易な現代語でより読みやすくなっている感じがする。

   ホリー・ゴライトリーはニューヨークのアパートに、猫だけが同居のひとり暮らしをしている。彼女をとり巻くあまたの男性のうちには、映画人とか百万長者とかブラジルの外交官とかさまざまな人間がいたが、もともと籠の鳥になることを望まない野性の女ホリーは、自分の属する住所も持たず、名刺のアドレスには「旅行中」と印刷してある。時あたかも1940年代の初め、アメリカの社会は「いやな赤」の恐怖におののいている。ダイヤモンドなど大嫌いな彼女だが、ティファニーの宝石店にはよく足をはこぶ。そこのどっしりと落ちついた雰囲気の中に立った彼女は「いやな赤」の恐怖から救われ、いつの日にかはこのような所に住んで、「朝食」を取れるようになれればよいのにと思う。

   同じアパートに無名作家のポールが住んでいて、ホリーに好意を持つようになる。ある日、二人はセントラル・パークで乗馬を楽しんでいるとき、馬があばれ出して五番街にとび出し、やっと警察官にとりおさえてもらう。ところが、ホリーがマリファナを使っていることがばれ、麻薬密輸のギャングとかかわりがあるのではないかということになって大きなスキャンダルになる。これより前、ホリーは毎週木曜日にシング・シング刑務所に収容されていたギャングの幹部を訪問し、週100ドルの報酬をもらっていたことがバレる。このスキャンダルのおかげで、結婚の相手を夢見ていたブラジル外交官ホセに逃げられ、保釈中にもかかわらずブラジルにホセを追いかけて行く。

  映画ではオードリー・ヘプバーンがジョージ・ペパードと結ばれハッピー・エンドとなっているが、原作ではホリーはブラジルに渡り、さらにアフリカまで放浪の旅を続けることになっている。

    小説にはもちろん映画主題歌「ムーン・リヴァー」は登場しないが、ホリーがギターを爪びきながら歌う場面が一箇所ある。その歌詞を紹介する。(滝口直太郎訳)

   眠りたくもなし、

   死にたくもない、

   ただ旅して行きたいだけ、

   大空の牧場通って。

    村上の新訳では「眠りたくもない、死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」とある。(1月20日)

2017年1月18日 (水)

コーヒーの語源

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 17世紀のロンドン・コーヒーハウス

    一杯のコーヒーなり紅茶を傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。西洋へコーヒーを紹介したのは1295年マルコ・ポーロといわれている。コーヒーの発祥地はエチオピアのアビシニア高原といわれる。5~9世紀にアラビアにコーヒーが伝わる。少なくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。

   今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。

   日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代でキリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13)

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2016年10月30日 (日)

君よ知るや南の国

   「君よ知るや南の国、樹々は実り花は咲ける」という堀内啓三(1897-1983)による名訳で知られる「ミニヨンの歌」は、もともとゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」(1791-1796)の中の詩である。「ミニヨンの歌」は4編あるが、よく知られるのはヴィルへルムへの密かな恋心を抱くサーカス一座の少女ミニヨンが、故郷イタリアへの想いをうたう歌で、フランス人のアンブロワーズ・トーマの歌劇「ミニヨン」の中のアリアである。歌曲「ミニヨンの歌」はこれまで90曲ほどの作品が残されている。おもな作曲家としては、ライヒヤルト(1752-1814)、ツェルター(1758-1832)、ベートーベン(1770-1827)、シューベルト(1797-1828)、メンデルスゾーン(1805-1847)、シューマン(1810-1856)、リスト(1811-1886)、グノー(1818-1893)、ルービンシュタイン(1829-1894)、チャイコフスキー(1840-1893)、デュバルク(1848-1933)、ヴォルフ(1860-1903)などがいる。

  またゲーテの詩「ミニヨンの歌」の邦訳も森鴎外はじめ数多く残されている。

君知るや南の国

レモンの木は花咲き くらき林の中に

こがね色したる柑子は枝もたわわに実り

青き晴れたる空より しづやかに風吹き

ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く

雲にそびえて立てる国や 彼方へ

君とともに ゆかまし

            (森鴎外の訳)

              *

君や知る、レモン花咲く国

暗き葉かげに黄金(こがね)のオレンジの輝き

なごやかなる風、青空より吹き

テンニン花は静かに、月桂樹は高くそびゆ

君や知る、かしこ。

かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わがいとしき人よ。

君や知る、かの家。柱ならびに屋根高く、

広間は輝き、居間はほの明かるく、

大理石像はわが面を見つむ、

かなしき子よ、いかなるつらきことのあるや、と。

君や知る、かしこ。

  かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わが頼りの君よ。

君や知る、かの山と雲のかけ橋を。

ラバは霧の中に道を求め、

洞穴に住むや古籠の群。

岩は崩れ、滝水に洗わる。

君や知る、かしこ。

  かなたへ!かなたへ

わが道は行く。あはれ、父上よ、共に行かまし!

               (高橋健二の訳)

                       *

君よ知るや南の国

レモンの花咲き オレンジのみのる国

空は青く 風はさわやか

桂(かつら)はそびえ ミルテかおる

君よ知るや かの国

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

君よ知るや 南の国

そこにある わがすみか

広間あかるく 花の香みちる

「おまえは しあわせ?」

やさしく といかける ふるい胸像

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

       (三木澄子の訳)

           *

       ミニヨン

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

すべての喜びから

ひとり離れて、かなたの

大空を私は眺める。

ああ、私を愛し、知っているひとは、

遠い所にいる。

目はくらみ

私の心は燃える。

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

2016年10月20日 (木)

ヴェルレーヌとランボー

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秋の日の ヴィオロンのためいきの

身にしみて ひたぶるに うら悲し。

鐘のおとに 胸ふたぎ色かへて 涙ぐむ

過ぎし日の おもひでや。

げにわれは うらぶれて ここかしこ 

さだめなく とび散らふ 落葉かな。

    ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)は、フランスのメッツに生まれ、パリ市役所の下級吏員となり、早くも22歳にして「サテュルニャン詩集」(1866年)、25歳にして「艶なるうたげ」(1869年)、「よき歌」(1870年)を出し、逸楽的な夢想と憂愁とを、自由・大胆なリズムのある形式に託して、音楽的に暗示するという、その独自の詩風を示した。しかしやがて飲酒の習慣に陥る。1871年秋、美少年アルチュール・ランボー(1854-1891)を知るや、奇怪な情熱にとらわれて、妻マチルド・モーテ・ド・フルールビルを棄ててランボーとイギリスに出奔。1873年7月、ついにブリュッセルの街上で、ランボーを拳銃で撃ち、2年間、モンスの刑務所に捕われた。妻との離婚確定の知らせに深刻な打撃を受け、悔い改めてカトリック教に帰依し、獄中で、宗教詩の傑作「叡智」(1880年)を書いた。1875年出獄後は中学校教師をして生活の建て直しに努めたが、また、1885年には、ヴゥジー刑務所に、1ヵ月間投獄されたり、その一生は放蕩と、飲酒の悪癖と、神秘主義との間を絶えず行ったり来たりしていた。1896年1月8日、肉親友人もいないウジェニー・クランツの部屋で、一人淋しく死んだ。

   本日10月20日は象徴派の詩人アルチュール・ランボーの誕生日。ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)。シャルルビルに生まれる。早くから異常な知的能力を発揮し、8歳で文章の天分を示した。ランボーが残した著作は少なく、散文詩集「地獄の季節」(1873年)「イリュミナシオン」(1874年)がある。以後は文学と別れて、ヨーロッパを放浪したり、エジプトでコーヒー商をやったり、エチオピアで探検家兼武器売込人になったり、多彩な人生を送った。(参考:大塚幸男「写真・フランス文学史」)

Verlaine Rimbaud
    ヴェルレーヌ               ランボー

2016年10月14日 (金)

学生街の喫茶店

Ent1610130017p1   ノーベル文学賞にボブ・ディラン!このニュースが昨夜流れると、ハルキストたちの落胆の声が広がった。村上春樹、今年もノーベル賞を逃す。英語にすると、

Haruki Murakami of Japan missed out on the Nobel Prize for literrature.

ことしの感慨は何か独特なものがただよう。ボブ・ディランといえばベトナム戦争時の反戦フォークで歌手のイメージがある。作詞というジャンルも文学といえるのか?反体制の象徴だった人物が体制側について権威ある賞をもらう姿はあまりカッコよくない。結局、やれノーベル賞だ、金メダルだ、と大さわぎする大衆もばかげている。現在のところディランが受賞するのか、辞退するのか、はっきりしない。

 

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