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2022年9月 5日 (月)

アンナ・カレーニナと姦通罪廃止論

    あるときトルストイは新聞の三面記事に目がとまった。それはトルストイの近所に住む知人の妻アンナのことだった。アンナは、夫が女家庭教師と仲くなったことを知り家出をした。「あなたは下手人です。もし人殺しが幸福になれるものなら、あの女と一緒に幸福にお暮らしなさい。もしわたしに会いたいと思ったら、駅のレールの上で、わたしの死体をごらんになれるでしょう」という手紙を残して鉄道自殺をとげた。

    この小さな事件をヒントにして「幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という書き出しではじまる長篇小説「アンナ・カレーニナ」が生まれた。

    トルストイの思想は大正期の知識人に大きな影響を与えた。白樺派などの作家、芸術家だけでなく、弁護士の布施辰治(1880-1953)や法学者の滝川幸辰(1891-1962)たちもトルストイアンであることはよく知られている。滝川は昭和7年「トルストイの復活に現われたる刑罰思想」と題する講演で報復的刑罰より人道的対応が大切だという意見を述べている。滝川は当然「アンナ・カレーニナ」という悲恋小説も読んでいたし、アンナとウロンスキイとの姦通を司法の立場で考えていたであろう。つまり、滝川事件のそもそもの発端は小説「アンナ・カレーニナ」ではないだろうか。そして、もし、あのときトルストイが新聞の三面記事を読まなかったら、滝川事件もなかったかも知れない。

2022年8月13日 (土)

近代社会を作り上げたコーヒーの歴史

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 17世紀のロンドン・コーヒーハウス

  一杯のコーヒーなり紅茶を傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。西洋にコーヒーを紹介したのは1295年マルコ・ポーロといわれている。コーヒーの発祥地はエチオピアのアビシニア高原といわれる。5~9世紀にアラビアにコーヒーが伝わる。少なくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。

   今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。

   日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代でキリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーの味を初めて知った日本人はおそらく幕府のオランダ通詞であろう。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。

 コーヒーが健康に与える影響については科学者たちが何年にもにわたって研究してきた。飲みすぎるとカフェイン依存症につながる一方、毎日適量飲むと心臓病のリスクが下がるという報告もされている。コーヒーの健康効果についてはいまだ謎が多い。DNA遺伝子が関係しており、からだにいい人と悪い人と、人によって違いがあるらしい。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13)

 

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2022年8月 1日 (月)

推敲に推敲を重ねる

   文章の字句をいろいろと練ることを「推敲」という。有名な故事に基づく。唐の詩人、賈島は、科挙の試験を受けに都に行ったとき、ろばに乗って詩を作り、「僧は押す月下の門」という句を思い浮かべた。しかし彼は、「推」の字を改めて「敲(たたく)」としようと思った。どちらにしたらよいか迷って、手を動かして「推す」しぐさと「敲く」しぐさをやってみたが、それでもまだどちらがよいか決まらなかった。思わず夢中になってしまい、都の長官の韓愈の行列に突き当たってしまった。そこで賈島は行列に突き当たってしまった理由をくわしく話した。それを聞いた韓愈が言ったことには「敲の字にしたほうがよいね」と。そして同じ詩人として気の合った2人は、仲良く馬を並べて詩を論じ合いながら行った。この故事の出典は「唐詩紀事」巻40(一説には宋時代の「苕渓漁隠叢話」)「推す」より「敲く」がなぜよいのか。月の下で音が響くから、音響的な広がりに風情が感じられるとしたのであろう。「推敲」は数ある中国故事の中でも最も有名なものの一つである。文章家には推敲はつきものである。とくに有名な作家はバルザック。コーヒーを何杯も飲みながら何度も推敲を重ねた。司馬遼太郎はカラーサインペンで推敲を重ねている。(Balzac)

 

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  バルザックの校正

 

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 司馬遼太郎の原稿

 

 

2022年5月18日 (水)

「あらすじ」文章修行

   小説や映画などのストーリーや概要を手短かな文章にまとめる。私の文章修行である。例えば、ヴィクトル・ユーゴー作「レ・ミゼラブル」 ひと切れのパンを盗んだために19年間も投獄されたジャン・バルジャン。彼の獄中から出所後の波乱に満ちた人生と、いかなる時も人間としての誇りを守り抜く彼の姿を描く。▽「サウンド・オブ・ミュージック」 ナチス・ドイツに併合されたオーストリアを舞台に、トラップ一家の家庭教師を務めることになったマリア。ひと筋縄ではいかぬ7人の子供たちだが、マリアの歌で心が通じ合う。折しもナチスの侵略の時、一家は音楽祭を利用して亡命を図り、エーデルワイスが咲くアルプスの山を越えてスイスへ行くが・・・。▽ 「はなちゃんのみそ汁」ある日突然乳がんの宣告を受けた千恵だが、心優しい恋人・信吾のプロポーズを受けて夫婦になった。抗がん剤治療の最中、妊娠がわかり、リスクを覚悟で無事女の子を出産。だが余命わずかと知った千恵は、娘はなに1人でも生きていけるようにとみそ汁などの料理を伝授する。主題歌は一青窈「満点星」。▽チャールズ・ディケンズ作「クリスマス・キャロル」冷酷な守銭奴スクルージが、クリスマスの前夜、今は亡き友人の幽霊から、自分の過去、現在、未来の幻を示され、翻然として悔悟し、クリスマスに数々の善い行ないをする物語。▽「ローマの休日」公務でローマを尾と訪れていたヨーロッパ某国の王女が、こっそり宮殿を抜け出してローマの街へ。ベンチで寝てしまった王女とアメリカの新聞記者とがお忍び観光を共にする過程で、2人は知らず知らずのうちに恋に落ちていた。だが、所詮は結ばれぬ「つかの間の恋」だった。

 

 

 

 

2022年3月23日 (水)

小説家スタンダール

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   1842年のこの日、スタンダールはパリの街頭で脳出血で倒れ死去した。享年59歳。スタンダールという筆名で知られるアンリ・ベール(1783-1842)は、現在ではもっぱら小説家として有名であるが、小説を書くことが彼の職業であったことはじつは一度もない。軍人、食料品商、参事院書記官、ジャーナリスト、イタリア駐在フランス領事であり、著述はそれと並行しておこなわれた。「紙をインクで汚すこと」が喜びであった59年間の生涯に書き残されたものの量は膨大である。「イタリア絵画史」「ローマ、ナポリ、フィレンツェ」「ナポレオンの生涯」「ラシーヌとシェイクスピア」「ロッシーニの生涯」「アルマンス」「ローマ漫歩」「赤と黒」「アンリ・ブリュラールの生涯」「リュシャン・ルーヴェン」「ナポレオンに関する覚書」「パルムの僧院」「カストロの尼」「ラミエル」。これらの作品はほとんど生前、世間的成功を収めていない。彼は、1880年、1935年の読者に期待すると予言し、その予言は見事に的中した。現在では、バルザックとともに最も大きな影響を近代小説の上におよぼしたフランスの小説家のひとりとされている。(3月23日)

 

 

 

 

2022年2月24日 (木)

「戦争と平和」ナターシャ

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  ロシア軍のウクライナに侵攻した24日、NHKがBSプレミアムでロシアがナポレオンに侵攻された映画「戦争と平和」を放送していた。ネットでは皮肉にもほどがあると話題になっている。原作はもちろんかの文豪トルストイの長編小説だが、小説の題名は最初、「戦争と平和」ではなく、「戦争と世界」あるいは「戦争と民衆」であったという説がある。ミールというロシア語には「平和」と「世界」という意味がある。「戦争と平和」はいわゆる多響的ロマンなので主人公を特定することはできない。イタリア製作「戦争と平和」(2007)全4話も多数の登場人物を描いている。だが作品の中心となっているのは、ロストフ家の令嬢ナターシャである。フランスの女優クレマンス・ポエジーがナターシャを演じているが、あまり美人ではない。ナターシャはもっとも生き生きした魅力的な女優を期待していた。だが全体としてはセットなど豪華でストーリーの展開は早くて面白い。

2022年1月20日 (木)

ティファニーで朝食を

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   1993年のこの日、永遠の妖精オードリー・ヘプバーンが死去した。彼女の代表作は「ティファニーで朝食を」である。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の初版が出たのは1958年の秋だった。それから3年後にオードリー・ヘプバーンで映画化され、主題曲「ムーン・リヴァー」と共に世界的に知られるようになったので小説よりも映画のイメージが強いことは否めない事実である。しかし原作のホリー・ゴライトリーという女性を読者の想像力に委ねるために、最近刊行された村上春樹の新訳では、本のカヴァーには映画のシーンなどを使っていないような配慮もされている。滝口直太郎の訳と一部分を比較してみただけの印象であるが、村上訳はこなれた平易な現代語でより読みやすくなっている感じがする。

   ホリー・ゴライトリーはニューヨークのアパートに、猫だけが同居のひとり暮らしをしている。彼女をとり巻くあまたの男性のうちには、映画人とか百万長者とかブラジルの外交官とかさまざまな人間がいたが、もともと籠の鳥になることを望まない野性の女ホリーは、自分の属する住所も持たず、名刺のアドレスには「旅行中」と印刷してある。時あたかも1940年代の初め、アメリカの社会は「いやな赤」の恐怖におののいている。ダイヤモンドなど大嫌いな彼女だが、ティファニーの宝石店にはよく足をはこぶ。そこのどっしりと落ちついた雰囲気の中に立った彼女は「いやな赤」の恐怖から救われ、いつの日にかはこのような所に住んで、「朝食」を取れるようになれればよいのにと思う。

   同じアパートに無名作家のポールが住んでいて、ホリーに好意を持つようになる。ある日、二人はセントラル・パークで乗馬を楽しんでいるとき、馬があばれ出して五番街にとび出し、やっと警察官にとりおさえてもらう。ところが、ホリーがマリファナを使っていることがばれ、麻薬密輸のギャングとかかわりがあるのではないかということになって大きなスキャンダルになる。これより前、ホリーは毎週木曜日にシング・シング刑務所に収容されていたギャングの幹部を訪問し、週100ドルの報酬をもらっていたことがバレる。このスキャンダルのおかげで、結婚の相手を夢見ていたブラジル外交官ホセに逃げられ、保釈中にもかかわらずブラジルにホセを追いかけて行く。

  映画ではオードリー・ヘプバーンがジョージ・ペパードと結ばれハッピー・エンドとなっているが、原作ではホリーはブラジルに渡り、さらにアフリカまで放浪の旅を続けることになっている。

    小説にはもちろん映画主題歌「ムーン・リヴァー」は登場しないが、ホリーがギターを爪びきながら歌う場面が一箇所ある。その歌詞を紹介する。(滝口直太郎訳)

   眠りたくもなし、

   死にたくもない、

   ただ旅して行きたいだけ、

   大空の牧場通って。

    村上の新訳では「眠りたくもない、死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」とある。(1月20日)

 

 

2021年12月 6日 (月)

登場人物の多い小説

   トルストイの「戦争と平和」は、少ししか登場しない人物まで含めると559人に及ぶ。トルストイはどんな端役も持ち前の描写力で見事に描き分けている。物語の中心であるナターシャ・ロストフ、ピエール・べズーホフ、アンドレイ・ボルコンスキーなど創作であるが、登場人物の大半は実在している。しかし世界一登場人物の多い小説といえば、やはり「三国志演義」である。総計は1192人。こちらもほんどんが実在の人物である。絶世の美女、貂蝉は正史に記録がないので架空の人物といわれている。人名を暗記するには登場順に覚えよう。劉備、張飛、関羽、曹節(十常侍のひとり)、蔡邕、張角、張宝、張梁、盧植、皇甫嵩、朱儁、劉焉、公孫瓚、董卓、何進、李粛、呂布、袁紹、王允などなど。

 

 

2021年10月 7日 (木)

ネクタイだけの訪問

   マーク・トウェインは晩年コネチカット州ハートフォードに住んでいたことがある。ビクトリア朝の豪邸で、ビリヤード台のある書斎がある。夫婦と3人の娘は「人生で最も幸せで最も生産的な歳月を楽しんだ」という。近所には「アンクル・トムの小屋」で有名なストウ夫人が住んでいる。2人が仲が良いとか親交があったとかは知らない。ストウ夫人のほうが二回りも年上である。ある日、マーク・トウェインは初めてストウ夫人の家を訪れた。そして、30分ほど話しこんで家へもどってきた。家について、鏡を見たトウェインは、ネクタイなしで訪問したことに気がついた。

さてしばらくすると、ストウ夫人の家に、トウェインの使いの者がやってきた。その手紙には、こう書いてあった。

「さきほどは、ネクタイをつけないで参上して、失礼しました。いま、使いのものにネクタイを持たせましたから、お部屋においていただき、30分ほどしたら、おかえしください。なにしろ、1本きりしかないネクタイですから…」。

   マーク・トウェインは「トム・ソーヤーの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」「王子とこじき」など数々のおもしろい小説を著したが、作者自身も愉快な人だった。

 

 

2021年8月28日 (土)

湖畔詩人ワーズワース

    ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)はイングランド北西部、湖水地方の自然を詠うことに生涯を捧げ、「湖畔詩人」と呼ばれた。他のロマン派詩人キーツ、バイロン、シェリーとは違い長命であったが、妻メアリーと3人の子、妹との穏やかな暮らしは、むしろ詩人としての感性が、30代の半ば頃には枯渇してしまったように思える。サミュエル・コールリッジ(1772-1834)とともに1798年に出した詩集「リリカル・バラッズ」(「抒情歌謡集」)はイギリスの詩の発展に大きな影響を与えた。

 

       私の心は虹を見るとおどる

 

  私の心は、虹を見るとおどる、

 

  おさないころにそうだった、

 

  おとなになっている、いまもそうだ、

 

  やがて老いても、そのように、

 

  そうでなければ、死んでいたい、

 

  おさな子はおとなの父だ、

 

  それで、私は望ましい、

 

  わたしの日々が、

 

  自然をうたう心で、

 

  一日一日と

 

  むすばれていくように。

 

                     (安藤一郎訳)

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