1926年、マーガレット・ミッチェルは落馬による左足首を捻挫し、関節炎を起こし、回復に手間どったため、5月にアトランタ・ジャーナル社を退社。この頃からむさぼるように読書する。読書の範囲は広く、文学、歴史、医学、考古学、探偵小説等。一日8冊を読み上げるので、夫のジョン・ロバート・マーシュは毎日一抱えの本を持って市立図書館へ往復しなければならなかった。この年、夫のすすめに従い「風と共に去りぬ」を書き始める。執筆の動機は母の話がきっかけだった。少女時代、あまり学問が好きでなかったので、母はある日の午後アトランタの郊外へ彼女を伴い、南北戦争で荒廃したままの土地を見せて歩いた。戦争から多くの歳月が過ぎたそのころでも、この地方の土地や生活には戦禍のあとがまだなまなましく残っていた。母はあちこちの建物を指して、戦争と復興の苦難を乗り越える意力と能力のあった家と、うちつづく困苦を切りぬけるだけの力がなかったために没落していった家とを教えて、彼女の心に、あくまでも生きぬく力を喚起させ、そのためには学業がいかにゆるがせにならぬものかを説いてきかせた。そのときのことはのちのちまでも忘れられなかったという。その人たちの中には成功しようとして戦いぬいた人と、その戦いに雄々しくいどんで敗れた人と、やっと生きのびているだけの人とがあったわけで、これをテーマに小説を書こうと思ったのが、畢生の大作を生む動機となったのである。1933年、前後7年間にわたって断続的に書きつづけた「風と共に去りぬ」はほぼ脱稿した。1935年、マクミラン出版社の副社長ハロルド・S・レイサムは、ミッチェルが大作の草稿を筐底に秘めていることを知り、ぜひそれを見せるようにと懇願した。ミッチェルは気がすすまなかったが、ついに決心して原稿を副社長に見せることにした。マクミラン出版社がこれの刊行を決定したのは同年夏のことである。1936年6月30日、「風と共に去りぬ」はニューヨークのマクミラン出版社から刊行され、一年間で150万部を売りつくした。
本の題名については、出版社側は「明日がある」(アナザー・デイ)を採用することを内定していたが、彼女はさまざまな題名を提案しつづけた。その一部をあげると、「苦難を荷え」「一里塚」「めえ、めえ、黒羊=無頼の嘆き」「いつかは日が開く」「無情の星」「ラッパの調べは切なし」
最後の題名は、つぎのような南北戦争時代の戦歌からとったものである。「ラッパの調べは切なし、夜の雲低く垂れ、星が空にきらめくころ。兵士みな地に伏す。疲れしものは眠り、傷つきしものは死に」この題名そのものは、かなり彼女の気に入ったのだが、「ラッパの調べ」が彼女のいわんとするところを切実に物語るものとも思えなかった。しかし、それを契機として、何かほかの詩のなかに引用できる辞句があるのではないかという期待をもつようになり、それとなく気をつけていた。やがて10月の最後の週に、マーガレットは一冊の英詩集を開いて、アーネスト・ダウスンの詩「われはもはやシナラをともに愛せしころのわれにあらず」に、なにげなく目をやった。この題はホレースの頌詩からとったものである。マーガレットは以前からこの詩を愛していた。1900年に肺結核で短い数奇な生涯をとじた審美派の英詩人ダウスンの代表的叙事詩で、当時の若い世代の人々はこの詩の冒頭を読んだだけで、異常な感動にうたれたのであった。「前夜、ああ、昨夜、かの女とわが唇の間に、きみは影を落とした。シナラ!」そして、つぎの反復句がつづく。「われはわれなりに、きみにまことをささげてきた。シナラ!」やがてつぎの二行がマーガレットの目をとらえた。
「われは多くを忘れ去った。シナラよ!すべては風と共に去った。バラは、棘もろともあらあらしく吹き飛ばされた」 I have forgot much,Cynara!gone with the wind
「風と共に去った」 これこそ、まさに彼女が探していた言葉だった。(参考:フィニス・ファー「マーガレット・ミッチェル物語」河出書房)
( Margaret Mitchell,Ernest Dowson、アーネスト・ダウサン )
1644年、イギリスの市民革命のさなかに、革命派に属していた詩人ミルトンが、議会による出版物閲覧の強化に反対して非合法出版したパンフレット。近代的な言論・出版の自由を主張した名著で「言論の自由」と訳されている。 Areopagitica
白い猿の兄弟ヤンボー(里見京子)、ニンボー(横山道代)、トンボー(黒柳徹子)が親と死に別れて力を合わせながら旅をする「ヤンボーニンボートンボー」というNHKラジオドラマがあった。この話は飯沢匡(1909-1994)が、ウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)の「サル王子の冒険」をヒントにして作ったといわれる。デ・ラ・メアには童謡や子供向けの詩も多いが、その内容には死や人生への深い思索を含んでいる。
デ・ラ・メアはイギリスのケント州チャールストンで1873年4月23日、ユグノーの子孫として生れた。母は詩人ロバート・ブラウニングの遠縁にあたる。4歳のとき父が亡くなったため、母から聞いたおとぎ話、伝説などによって大きな影響を受けた。ロンドンのセント・ポール校を卒業後、18年間石油会社の会計士をしていたが、1902年にウォルター・ラマルという筆名で詩集「幼時の歌」を出し文名を確立。続いて小説「ヘンリー・ブロックン」を出した。1908年、会社をやめ作家生活に専心するようになり、詩集「耳をすます人ら」(1912)「雑色その他」、小説「小人の思い出」(1921)、童話「三匹の猿王子」(1919)などを発表。「三匹の猿王子」はサム、シンプル、ノッドの三匹の猿が、父の国ティシュナーの谷まで苦難にみちた旅をする話で日本でも飯沢匡「サル王子の冒険」、脇明子「三匹の高貴な猿」など翻訳が出ている。他に「無常その他」「ヴェールその他」「旅人」(1946)「内なる仲間」「翼にのった馬車」(1951)「子どものための物語集」(1949年カーネギー賞)「くじゃくのパイ」(1913)などがある。1956年6月22日、逝去。
窓
ブラインドのかげにすわり
ぼくは見つめている
外を行きかう人びとを
通りすぎる人たちを
だれひとりとして気づかない
じっと見ているぼくの小さな目には
だれにも見えない
ぼくの小さな部屋は
ブラインド越しの太陽で
みんな黄色く見えるこの部屋は
だれも知らない
ぼくがここにいることさえも
だれも気づかない
ぼくがいなくなっても
*
かくれんぼ
かくれんぼしよう、と風がいう
森のこかげで
かくれんぼしよう、と月がいう
ハシバミの木の実に
かくれんぼしよう、と雲がいう
星から星へ
かくれんぼしよう、と彼がいう
港の砂州で
かくれんぼしよう、とぼくもいう
自分で自分にいってみて
目ざめの夢をあとにして
眠りの夢にすべりこむ
( Walter de la Mare )
シェイクスピア(1564-1616)の時代の芝居の女役は、まだ声変わりしていない少年が演じていた。従って女性の登場人物の台詞はどれもあまり長くない。女優のオフィーリアが見れるようになるのは1660年から後のことである。
ところで戯曲「ハムレット」の出版は1603年であるが、上演初演は1600年から1601年にかけての頃であろう。「ハムレット」に似たストーリーの劇は1598年頃からなんらかの形で行なわれていたらしく、それは通常「原ハムレット」と呼ばれていて、1594年に上演されたという記録が残っている。シェイクスピアがそれをもとにして「ハムレット」を書いたことはまちがいない。おそらく1600年のことであろう。そうすると、日本で言えば慶長5年(1600年)、あの関ヶ原の戦の年である。
シェイクスピアと徳川家康(1542-1616)とは同時代人だ。シェイクスピアは1616年4月23日、52歳で世を去っている。家康は元和2年4月17日(太陽暦5月22日)、73歳で亡くなっている。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。
大江健三郎の「個人的な体験」を読んでいると、「おれの息子は戦場で負傷したアポリネールのように頭に繃帯をまいていると鳥(バード)は考えた。おれの見知らぬ暗くて孤独な戦場でおれの息子は頭に負傷したのだ。そしてアポリネールのように繃帯をまいて声のない叫び声をあげている・・・唐突に鳥は涙を流しはじめた。アポリネールのように頭に繃帯をまいて、というイメージが鳥の感情を一挙に単純化し方向づけていた。鳥はセンチメンタルでぐにゃぐにゃの自分が許容されて正当化されるのを感じ、自分の涙に甘い味すら見出した。おれの息子はアポリネールのように頭に繃帯をまいてやってきた。おれの見知らぬ暗くて孤独な戦場で負傷して、おれの息子を戦死者のように理解してやらねばならない。鳥は涙を流しつづけた。」
アポリネールとはフランスの詩人である。わずか数行の文章に4回もアポリネールの名前がでてくる。1916年に第一次世界大戦に兵役志願したアポリネールは最前線で流れ弾を受け、負傷して東部を繃帯に巻いた写真がよくみることがある。フランス文学専攻の大江にとってはかなり印象的な写真なのであろうか。
スタンダール(1783-1842)。本名アンリ・ベール。1842年3月23日、パリの街頭で倒れ、死去した。享年59歳。父シェリュバンは、高等法院の弁護士で市助役もつとめた。7歳のとき、最愛の母アンリエットを失った。彼からみて父は凡庸な法曹界の成功者で、分別臭い常識人にすぎなかった。彼は亡き母を恋した分だけ、父を憎悪した。
16歳のとき、スタンダールは理工科学校受験のため、死ぬほど嫌いな故郷を離れ、パリに上京する。しかし、受験を放棄して、親類のダリュの世話で、ナポレオン軍の少尉に任官し、1800年にサン・ベルナール峠を越え、イタリアに遠征する。そしてミラノで竜騎兵少尉に任官した。イタリアとの接触は大きな感動を与え、チマローザの音楽やイタリア絵画、この国の人間のはつらつとした生き方、美しい女性を知り、詩と光への扉をひらいた。
スタンダールは軍隊から身を引き、パリに帰って、勉強に専念する。野心は「モリエールに匹敵する当代第一の戯曲作家になること」。フランスの古典文学だけでなく、好きなシェークスピアを研究し、戯曲の試作をすること。変わっているのは、戯曲作家を志すこの文学青年が、コンディヤック、エルベシウス、トラシー、ド・ビランなど、イデオロッグ哲学者の著作をむさぼり読んだことである。こうして、戯曲創作のための人間研究をしつつ、こういう思想家たちの明晰な推論法を学んで、独特の人間学の基礎づくりをしたことである。
1830年11月、「赤と黒」が出版された。スタンダールはナポレオン失脚後の反動的な王政復古のフランス社会を背景として、近代人的な精神を身につけた一青年人物が生きぬこうとする精力的な姿を描いた。フランスにおける最初の本格小説の誕生ともいえよう。
スタンダールという人物については、アランが名評論「スタンダール」の冒頭で「不信の人、何事も信じないが、信じるときは全的に信じる。稀有の性格」と言っているのが的確である。スタンダールの作品の若い主人公にこの作者の性格は投影され、彼らはよく疑い、よく判断するとともに、極度に感じやすく、全存在をもって感じ、生きる近代人の性格を実に鮮明に示している。墓碑銘には「生きた、書いた、愛した」とある。だがモンマルトルにある墓には配字の関係なのか、イタリア語で、「アリゴ・ベイレ、ミラノ人、書いた、恋した、生きた」(Arrigo,Beyle,Milanese visse,scrisse,amo)と刻まれている。グルノーブルで生れたスタンダールがなぜミラノ人なのか不思議であるが、イタリアへの強い憧れがあるのだろう。生前は正統な評価を得ることはなかったが、バルザックだけは激賞した。スタンダールの評価が高まるのは、19世紀も末のことである。(Stendhal)
ワシリ―・パーヴロヴィチ・アクショーノフ。1932ー2009。スターリン批判以後の新しい世代の中心的な作家といわれた。1980年にフランスへ亡命し、翌年アメリカへと移住した。「同期生」「星の切符」「月への道なかば」「モロッコの蜜柑」など。
フランスの作家シャルル・ペローの「おとぎ話集」(1697)出てくる殺人鬼の話。6人の妻を殺し、7人目の妻にその罪を発見される。ブルターニュの伝説では、15世紀の軍人ジル・ド・レーがそのモデルといわれる。転じて「青ひげ」は、保険金などを目当てに妻を殺す男をさす。オッフェンバッハのオペラにもなっている。
愛
一時間 待つことは長い
もし 愛がすぐ向こうにあるならば
永遠に 待つことは短い
もし 愛が終りにあるならば
ディキンソン 安藤一郎訳
エミリー・ディキンソン(1830-1886)はアメリカの女流詩人。厳格な清教徒の家に生まれ、1847年マウント・ホリヨーク女子学院に入学したが1年で中退、詩作を始めた。1855年妻子あるワーズワース牧師を知って以来、その詩的才能は堰を切ったようにあふれ出た。1755篇にのぼる作品はあまりに斬新な詩風のため生前は認められなかったが、死後次々に詩集が出版された。エミリーは生涯、家のなかにひきこもり勝ちに、きわめて孤独な日々をおくったといわれる。
セアラ・ティーズデール(1884-1933)は、韓国ドラマ「冬のソナタ」でその詩が引用されてからすっかり日本でも知られるようになった。ヒルダ・ドゥーリトル(1886-1961)は筆名H.D.で知られる。エドナ・セント・ヴィンセント・ミレイ(1892-1950)とガートルード・スタイン(1892-1946)はアメリカ生れの詩人・著作家であるがヨーロッパで活動し、パリのサロンで芸術家たちと交流した。
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