昭和2年、村岡花子(1893-1968)は母校東洋英和女学校の先輩であり、佐佐木信綱門下の先輩でもある片山広子(1878-1957)から贈られたマーク・トウェインの「王子と乞食」の原書をひもとき初めての翻訳出版をした。以後、E・ポーターやパール・バックなどの作品を訳出する。村岡花子が運命の本に出会ったのは昭和14年のことである。教文館で、共に雑誌の編集をしていたミス・ショーが、国際情勢悪化のため帰国する際、別れ際に「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」をくれた。村岡花子はこの希望に溢れた少女の物語を、戦争中に翻訳した。戦後、日本の出版界は、戦前にあったものの復刻に追われていたが、ようやく「赤毛のアン」を出版にまでこぎつけた。問題となったのはタイトルだった。原題の直訳「緑の切妻屋根のアン」では長すぎる。編集者から「赤毛のアン」というのも候補にあがったが、花子は気にいらなかった。「直接的でデリカシーに欠く、ロマンティックなアンなら絶対に嫌がる」と、思った。そしてさんざん話し合った結果「窓辺に倚る少女」に決定した。しかし、家族のお茶の間会議で、大学生だった娘みどりの猛反対に遭い「断然赤毛のアンよ!」という意見で最終的に村岡花子「赤毛のアン」が誕生した。昭和27年5月10日、アンは日本の読者の前に初めて登場した。
近藤勇&土方歳三、夏目漱石&正岡子規、マルクス&エンゲルス、ピーター・カッシング&クリストファー・リー、星野仙一&田淵幸一、草薙剛&香取慎吾、澤穂希&宮間あや。古今東西を問わず、世の中には、不思議とウマの合うコンビがいる。ゲーテとシラーもなぜか相性がよかった。
友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする(シラー)
ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・フォン・シラー(1759-1805)は、1759年11月10日、シュヴァーベン地方のネッカール河の小さな町マールバッハに生まれた。1787年7月21日、シラーはワイマールに着いた。ゲーテ(1749-1832)はイタリア旅行中であったが、ウィーラント、ヘルダーなどと会った。9月7日、ゲーテと初めて会う。1788年12月15日、シラーはゲーテの推薦によってイェーナ大学の歴史の員外教授に就任した。その後、二人の間で手紙のやりとりが交わされたものの、1794年7月20日頃、イェーナの自然科学の学会の帰途ゲーテとはじめて胸襟をひらいて語り合うことができた。これが機縁となって二人は急速に親密な友情で結ばれる。
シラーと付き合いはじめてゲーテの文筆活動は急速に活発になっていった。「ヴィルヘルム・マイステルの修業時代」が完成を見る(1796年)。シラーと共同で文芸批評的な短詩「クセーニエン」(1796年初めより)を書き続ける。1797年3月には「へルマンとドロテーア」ができる。そして「ファウスト」が書き継がれていった。
1805年5月9日、46歳でシラーが没すると、ゲーテは数日間泣き続けた。親友の音楽家ツェルターにあててこう書いている。「私は自分が死ぬかと思ったが、その代わりに一人の友を失った。そしてこの友のうちに私の存在の半分を失った」。
本日は「サン・ジョルディの日」。スペインでは「本の日」とされる。この日はセルバンテスやシェイクスピアの誕生日でもある。ところでウィリアム・シェイクスピアについては、わからないことが多い。その伝記についても、またその作品についても、確かなことは余りわからない。まず正確なかれの誕生日がわからない。英国の中部、ウォリックシアの都市ストラットフォードの教会にはウィリアム・シェイクスピアが今から444年前の1564年の4月26日に洗礼をうけた記録があるが、生れた日はわからない。公式に4月23日をかれの誕生日と定めているが、当時の風習として子供が生れて2、3日のうちに洗礼をうけさせたことや、たまたま4月23日はかれの命日にあたることや、さらにこの日がイギリスの守護聖者、聖ジョージの祝日にあたることなどから、この日が選ばれたという。
「カナダの有名な作家は?」とたずねると、10人中みんなが、「赤毛のアンの作家」と答える。ルーシー・モード・モンゴメリ(1874-1942)の作品は村岡花子、中村佐喜子、岸田衿子、猪熊葉子、松本侑子、掛川恭子などの翻訳で日本では今も広く読まれている。ウィキペディアの「カナダ」の項目では、他にマーガレット・アトウッド(1939年生まれ)という女流詩人も記載されていた。しかし、カナダの作家はこれだけなのだろうか。日本でのカナダの文化や歴史の情報があまりに少ないのに驚く。
調べてみると、スティーブン・バトラー・リーコック(1869-1944)という作家がいる。生まれはイギリスのワイト島で、8歳の時にカナダに移住している。 つまりイギリス系のカナダのユーモア小説家。モントリオールのマギル大学の政経学部の教授を勤めながら、ユーモアと風刺あるエッセイ風の作品やミステリーを多数残している。マーク・トウェイン以来の最も人気のあるユーモア作家である。
リーコックの代表作に「町のひなた点猫」(「小さな町の陽気なスケッチ」)(1912)をはじめとして、「ナンセンス小説集」(1911)、「わがイギリス発見」(1923)がある。文芸批評家として健筆をふるい「マーク・トウェーン」(1932)、「チャールズ・ディケンズ」(1933)などの評伝がある。ほかに自伝「あとに残した少年」(1946)がある。他に「ミステリ狂、或いは迷探偵」「二百歳まで生きる法」「億万長者になる法」「善行魔」「逆行魔」「騎士道残酷物語」「Qある怪奇心霊実話」「名探偵危機一髪」「スパイ戦線異常あり」「バッガム屋敷の怪」「架空会見記」「ゴルフ虎の巻」「奇術師の復讐」「手相をみせて」「衣服病理学」「ABC物語」「欠陥探偵」「人生成功の秘訣」「専門化が進めば」「わが財政的履歴」「ミステリこの優雅な娯楽」等多数あるが現在入手は困難。
リーコックの人生訓は広く知られている。
幸運とは、自ら動かない限りは、決して訪れないものだ
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人生の進み具合というのは、なんと奇妙なものだろう。小さな子供は「もっと大きくなったら」と口にする。だが、どうしたことだ。大きくなったら子供は「大人になったら」と言うではないか。そしておとなになったら、「結婚したら」と言う。けれども、結婚したらいったいどうなるのか、考えがコロリと変わって、「退職したら」と来る。やがて、退職が現実のものとなると、自分の過ぎし日の光景を思い浮かべる。そこには木枯らしが吹きすさんでいるようだ。どういうわけか、すべてを取り逃がしてしまった。もはや過ぎ去ってしまったのだ。そして、遅ればせながらわれわれは学んぶ。人生とは、生きることの中、つまり毎日毎時間の連続の中にあるのだということを
( keyword;Stephen Butler Leacock,I'm a great believer in luck,and I find the harder I work,the more I have of it.)
スタンダール(1783-1842)。本名アンリ・ベール。1842年3月23日、パリの街頭で倒れ、死去した。享年59歳。父シェリュバンは、高等法院の弁護士で市助役もつとめた。7歳のとき、最愛の母アンリエットを失った。彼からみて父は凡庸な法曹界の成功者で、分別臭い常識人にすぎなかった。彼は亡き母を恋した分だけ、父を憎悪した。
16歳のとき、スタンダールは理工科学校受験のため、死ぬほど嫌いな故郷を離れ、パリに上京する。しかし、受験を放棄して、親類のダリュの世話で、ナポレオン軍の少尉に任官し、1800年にサン・ベルナール峠を越え、イタリアに遠征する。そしてミラノで竜騎兵少尉に任官した。イタリアとの接触は大きな感動を与え、チマローザの音楽やイタリア絵画、この国の人間のはつらつとした生き方、美しい女性を知り、詩と光への扉をひらいた。
スタンダールは軍隊から身を引き、パリに帰って、勉強に専念する。野心は「モリエールに匹敵する当代第一の戯曲作家になること」。フランスの古典文学だけでなく、好きなシェークスピアを研究し、戯曲の試作をすること。変わっているのは、戯曲作家を志すこの文学青年が、コンディヤック、エルベシウス、トラシー、ド・ビランなど、イデオロッグ哲学者の著作をむさぼり読んだことである。こうして、戯曲創作のための人間研究をしつつ、こういう思想家たちの明晰な推論法を学んで、独特の人間学の基礎づくりをしたことである。
1830年11月、「赤と黒」が出版された。スタンダールはナポレオン失脚後の反動的な王政復古のフランス社会を背景として、近代人的な精神を身につけた一青年人物が生きぬこうとする精力的な姿を描いた。フランスにおける最初の本格小説の誕生ともいえよう。
スタンダールという人物については、アランが名評論「スタンダール」の冒頭で「不信の人、何事も信じないが、信じるときは全的に信じる。稀有の性格」と言っているのが的確である。スタンダールの作品の若い主人公にこの作者の性格は投影され、彼らはよく疑い、よく判断するとともに、極度に感じやすく、全存在をもって感じ、生きる近代人の性格を実に鮮明に示している。墓碑銘には「生きた、書いた、愛した」とある。だがモンマルトルにある墓には配字の関係なのか、イタリア語で、「アンリ・ベール、ミラノ人、書いた、恋した、生きた」(Arrigo,Beyle,Milanese visse,scrisse,amo)と刻まれている。グルノーブルで生れたスタンダールがなぜミラノ人なのか不思議であるが、イタリアへの強い憧れがあるのだろう。生前は正統な評価を得ることはなかったが、バルザックだけは激賞した。スタンダールの評価が高まるのは、19世紀も末のことである。
マッシモ・ポンテンペルリ(1878-1960)は現代イタリア作家の中で最も評価することの難しい作家といわれている。表記はポンテンペリ、ポンテムベァリなど各種ある。我が国でもすでに戦前から「我が夢の女」など翻訳されているが少ない。1926年「ノヴェチェント」を発刊し、同人としてジェームズ・ジョイス、ゲオルク・カイザー、エミリオ・チェッキなどを迎えた。この一派は20世紀派と呼ばれ、彼らは未来派の人たちと同じく、一種気どったスノビズムをもっていたが、文学の新味があった。ポンテンペルリはこのような流派の中心的存在として、最大の想像力を発揮し、新しい神話と人間外部の神話的世界の発見につとめた。「2人の母の子」「スカルラッティ父子」「太陽の中の女」など。
何を書こうかと考えるために座るのではなく、貴方が考えたことを書くために座りなさい(ウィリアム・コベット)
ウィリアム・コベット(1763年3月9日生。1835年6月8日没)はイギリスの急進的政治家・文筆家・編集者。イギリス南東部サリー州の貧しい農家に生まれた。軍隊に入り、除隊後フランス、アメリカに渡り、帰国後急進的ジャーナリストに転向。農民、労働者の懐旧的感情に訴え、産業主義社会を批判した。議会改革を通じて社会改革を考え、議会議事録の発行を創始した。1823年議員に当選したが、政治的には成功しなかった。彼の文章は明快であり、農業問題についてはすぐれた識見を述べている。農村疲弊の実状見聞録「農村紀行」(1830年)は名著として高く評価されている。コベットの本はすべてよく売れたが、特にプロテスタント史に関する本は、世界中で聖書に次いでよく売れたと言われる。
コベットは驚くほどの多作家で、そのいくつかをあげる。「アメリカ生活一年の記録」「英文典」「小住宅の経済」「アメリカの園芸」「イギリスの園芸」「コベット講演集」「移民ガイド」「スコットランドの旅」「アンドリュー・ジャクソンの生涯」「仏文典」「イギリスおよびウェールズの地理辞典」「プロテスタント改革史」「イギリス議会史」「議会討議録」「ビッグOとグローリー卿」「余剰人口」「若き人々への提言」(庄司淺水訳)。
ロンドンでは1803年に週刊新聞「ポリティカル・レジスター」を発行し、書店を経営した。記者や編集者などを、10人以上雇い、週刊誌はじめ書籍の出版を続けた。コベットは西洋印刷史の発展にも寄与した人物である。
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