無料ブログはココログ

2023年2月 5日 (日)

ワシリ―・アクショーノフ

 ワシリ―・パーヴロヴィチ・アクショーノフ。1932ー2009。スターリン批判以後の新しい世代の中心的な作家といわれた。1980年にフランスへ亡命し、翌年アメリカへと移住した。「同期生」「星の切符」「月への道なかば」「モロッコの蜜柑」など。

2023年2月 4日 (土)

青ひげ物語

 フランスの作家シャルル・ペローの「おとぎ話集」(1697)出てくる殺人鬼の話。6人の妻を殺し、7人目の妻にその罪を発見される。ブルターニュの伝説では、15世紀の軍人ジル・ド・レーがそのモデルといわれる。転じて「青ひげ」は、保険金などを目当てに妻を殺す男をさす。オッフェンバッハのオペラにもなっている。

2023年2月 3日 (金)

アメリカ女性詩人の肖像

Emilydickinsonca1850 

 

              愛

 

  一時間 待つことは長い

 

  もし 愛がすぐ向こうにあるならば

 

  永遠に 待つことは短い

 

  もし 愛が終りにあるならば

 

          ディキンソン  安藤一郎訳

 

    エミリー・ディキンソン(1830-1886)はアメリカの女流詩人。厳格な清教徒の家に生まれ、1847年マウント・ホリヨーク女子学院に入学したが1年で中退、詩作を始めた。1855年妻子あるワーズワース牧師を知って以来、その詩的才能は堰を切ったようにあふれ出た。1755篇にのぼる作品はあまりに斬新な詩風のため生前は認められなかったが、死後次々に詩集が出版された。エミリーは生涯、家のなかにひきこもり勝ちに、きわめて孤独な日々をおくったといわれる。

 

   セアラ・ティーズデール(1884-1933)は、韓国ドラマ「冬のソナタ」でその詩が引用されてからすっかり日本でも知られるようになった。ヒルダ・ドゥーリトル(1886-1961)は筆名H.D.で知られる。エドナ・セント・ヴィンセント・ミレイ(1892-1950)とガートルード・スタイン(1892-1946)はアメリカ生れの詩人・著作家であるがヨーロッパで活動し、パリのサロンで芸術家たちと交流した。

 

Teasdale
 セアラ・ティーズデール

 

Hdpoet
 H.D.

 

Tumblr_ljnc0huy7z1qckdz8
 エドナ・セント・ウィンセント・ミレイ

 

3334091978_f6d83689f4
 ガートルード・スタイン

2023年1月24日 (火)

なぜモームはノーベル文学賞を受賞できなかったのか?

1589790723_02_lzzzzzzz    サマセット・モームの代表作といえば「人間の絆」(1915)である。最初「灰より生まれでし美」と名づけたが、他人が使っていたので「人間の絆」と改めた。最初は不評で本が読まれだしたのは「月と六ペンス」が出版された後の1919年以降である。以後、モームの「雨」や 「剃刀の刃」は映画化され大衆作家として認められ1930年代から1940年代にかけて最も世界でポピュラーな作家であった。91歳という長寿で長い文学活動をしながら何故かノーベル賞には無縁だった。この理由をある人に尋ねたら、「いわばモームは直木賞なんだよね」という。ノーベル賞の文学作品ばかりを集めた文学全集がむかし出版されたがほとんど誰にも読まれなかった。ノーベル賞受賞作品を並べても世界文学史にはならない。ゾラ、イプセンやトルストイ、チェーホフといったロシアの両文豪がいない。「トム・ソーヤの冒険」「ハックルベリー・フィン」のマーク・トゥエーン、「失われた時を求めて」のマルセル・プルースト、「チャタレイ夫人の恋人」のハーバート・ローレンス、「ユリシーズ」のジェームス・ジョイス、「凱旋門」のレマルク、詩集「ブエノスアイレスの熱狂」のボルヘスなどノーベル賞を受賞しなかった世界的文学者は数多くいる。

 

 

2023年1月20日 (金)

ティファニーで朝食を

2013_0507photo1

   1993年のこの日、永遠の妖精オードリー・ヘプバーンが死去した。彼女の代表作は「ティファニーで朝食を」である。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の初版が出たのは1958年の秋だった。それから3年後にオードリー・ヘプバーンで映画化され、主題曲「ムーン・リヴァー」と共に世界的に知られるようになったので小説よりも映画のイメージが強いことは否めない事実である。しかし原作のホリー・ゴライトリーという女性を読者の想像力に委ねるために、最近刊行された村上春樹の新訳では、本のカヴァーには映画のシーンなどを使っていないような配慮もされている。滝口直太郎の訳と一部分を比較してみただけの印象であるが、村上訳はこなれた平易な現代語でより読みやすくなっている感じがする。

   ホリー・ゴライトリーはニューヨークのアパートに、猫だけが同居のひとり暮らしをしている。彼女をとり巻くあまたの男性のうちには、映画人とか百万長者とかブラジルの外交官とかさまざまな人間がいたが、もともと籠の鳥になることを望まない野性の女ホリーは、自分の属する住所も持たず、名刺のアドレスには「旅行中」と印刷してある。時あたかも1940年代の初め、アメリカの社会は「いやな赤」の恐怖におののいている。ダイヤモンドなど大嫌いな彼女だが、ティファニーの宝石店にはよく足をはこぶ。そこのどっしりと落ちついた雰囲気の中に立った彼女は「いやな赤」の恐怖から救われ、いつの日にかはこのような所に住んで、「朝食」を取れるようになれればよいのにと思う。

   同じアパートに無名作家のポールが住んでいて、ホリーに好意を持つようになる。ある日、二人はセントラル・パークで乗馬を楽しんでいるとき、馬があばれ出して五番街にとび出し、やっと警察官にとりおさえてもらう。ところが、ホリーがマリファナを使っていることがばれ、麻薬密輸のギャングとかかわりがあるのではないかということになって大きなスキャンダルになる。これより前、ホリーは毎週木曜日にシング・シング刑務所に収容されていたギャングの幹部を訪問し、週100ドルの報酬をもらっていたことがバレる。このスキャンダルのおかげで、結婚の相手を夢見ていたブラジル外交官ホセに逃げられ、保釈中にもかかわらずブラジルにホセを追いかけて行く。

  映画ではオードリー・ヘプバーンがジョージ・ペパードと結ばれハッピー・エンドとなっているが、原作ではホリーはブラジルに渡り、さらにアフリカまで放浪の旅を続けることになっている。

    小説にはもちろん映画主題歌「ムーン・リヴァー」は登場しないが、ホリーがギターを爪びきながら歌う場面が一箇所ある。その歌詞を紹介する。(滝口直太郎訳)

   眠りたくもなし、

   死にたくもない、

   ただ旅して行きたいだけ、

   大空の牧場通って。

    村上の新訳では「眠りたくもない、死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」とある。(1月20日)

 

 

2022年11月10日 (木)

友情は悲しみを半分にする

Img_889500_16648953_0 Img_889500_24007460_0

 

Christopherandpeter

 

    近藤勇&土方歳三、夏目漱石&正岡子規、マルクス&エンゲルス、ピーター・カッシング&クリストファー・リー、星野仙一&田淵幸一、草薙剛&香取慎吾、美川憲一&コロッケ。古今東西を問わず、世の中には、不思議とウマの合う「相棒」がいる。ゲーテとシラーもなぜか相性がよかった。

 

友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする(シラー)

 

    ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・フォン・シラー(1759-1805)は、1759年11月10日、シュヴァーベン地方のネッカール河の小さな町マールバッハに生まれた。1787年7月21日、シラーはワイマールに着いた。ゲーテ(1749-1832)はイタリア旅行中であったが、ウィーラント、ヘルダーなどと会った。9月7日、ゲーテと初めて会う。1788年12月15日、シラーはゲーテの推薦によってイェーナ大学の歴史の員外教授に就任した。その後、二人の間で手紙のやりとりが交わされたものの、1794年7月20日頃、イェーナの自然科学の学会の帰途ゲーテとはじめて胸襟をひらいて語り合うことができた。これが機縁となって二人は急速に親密な友情で結ばれる。

 

   シラーと付き合いはじめてゲーテの文筆活動は急速に活発になっていった。「ヴィルヘルム・マイステルの修業時代」が完成を見る(1796年)。シラーと共同で文芸批評的な短詩「クセーニエン」(1796年初めより)を書き続ける。1797年3月には「へルマンとドロテーア」ができる。そして「ファウスト」が書き継がれていった。

 

   1805年5月9日、46歳でシラーが没すると、ゲーテは数日間泣き続けた。親友の音楽家ツェルターにあててこう書いている。「私は自分が死ぬかと思ったが、その代わりに一人の友を失った。そしてこの友のうちに私の存在の半分を失った」。

2022年11月 2日 (水)

嘆きの天使

Img_0005_2

  中年の男が美女とめぐりあって、欲望に身を任せて逢瀬を重ね、人生初めて真の愛の喜びを知る。だがそれは身の破滅への道だった。古来から、映画やドラマなどで使い古された古典的なパターンだが、現代社会でも情事の様子を週刊誌の写真にとられて社会的な地位を失うという話しはよく見るし、耳に聞く。トーキー初期の名作映画「嘆きの天使」は生真面目な男が女によって破滅するという代表的な作品であろう。

    ドイツの作家ルイス・ハインリヒ・マン(1871-1950)は、日本ではその作品によってよりはトーマス・マンの兄として知られているであろう。しかし、彼の長篇小説「ウンラート教授、暴君の末路」(1905)はジョーゼフ・フォン・スタンバーグ監督によって「嘆きの天使」(1930)として映画化され、日本人にとってもお馴染みの話である。翻訳も和田顕太郎により「嘆きの天使」(世界文学全集第2期第19、新潮社、昭和7年)が刊行されている。ところが翻訳はかなり省略した形のものであり、映画と原作とはかなり異なる部分も見受けられる。近年、今井敦訳によって「ウンラート教授」(松籟社)の完訳が刊行されているが、ハインリヒマンはもっと高く評価されてもよい作家であろう。

2022年9月 5日 (月)

アンナ・カレーニナと姦通罪廃止論

    あるときトルストイは新聞の三面記事に目がとまった。それはトルストイの近所に住む知人の妻アンナのことだった。アンナは、夫が女家庭教師と仲くなったことを知り家出をした。「あなたは下手人です。もし人殺しが幸福になれるものなら、あの女と一緒に幸福にお暮らしなさい。もしわたしに会いたいと思ったら、駅のレールの上で、わたしの死体をごらんになれるでしょう」という手紙を残して鉄道自殺をとげた。

    この小さな事件をヒントにして「幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という書き出しではじまる長篇小説「アンナ・カレーニナ」が生まれた。

    トルストイの思想は大正期の知識人に大きな影響を与えた。白樺派などの作家、芸術家だけでなく、弁護士の布施辰治(1880-1953)や法学者の滝川幸辰(1891-1962)たちもトルストイアンであることはよく知られている。滝川は昭和7年「トルストイの復活に現われたる刑罰思想」と題する講演で報復的刑罰より人道的対応が大切だという意見を述べている。滝川は当然「アンナ・カレーニナ」という悲恋小説も読んでいたし、アンナとウロンスキイとの姦通を司法の立場で考えていたであろう。つまり、滝川事件のそもそもの発端は小説「アンナ・カレーニナ」ではないだろうか。そして、もし、あのときトルストイが新聞の三面記事を読まなかったら、滝川事件もなかったかも知れない。

2022年8月13日 (土)

近代社会を作り上げたコーヒーの歴史

Img_0013
 17世紀のロンドン・コーヒーハウス

  一杯のコーヒーなり紅茶を傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。西洋にコーヒーを紹介したのは1295年マルコ・ポーロといわれている。コーヒーの発祥地はエチオピアのアビシニア高原といわれる。5~9世紀にアラビアにコーヒーが伝わる。少なくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。

   今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。

   日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代でキリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーの味を初めて知った日本人はおそらく幕府のオランダ通詞であろう。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。

 コーヒーが健康に与える影響については科学者たちが何年にもにわたって研究してきた。飲みすぎるとカフェイン依存症につながる一方、毎日適量飲むと心臓病のリスクが下がるという報告もされている。コーヒーの健康効果についてはいまだ謎が多い。DNA遺伝子が関係しており、からだにいい人と悪い人と、人によって違いがあるらしい。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13)

 

0018_004

2022年8月 1日 (月)

推敲に推敲を重ねる

   文章の字句をいろいろと練ることを「推敲」という。有名な故事に基づく。唐の詩人、賈島は、科挙の試験を受けに都に行ったとき、ろばに乗って詩を作り、「僧は押す月下の門」という句を思い浮かべた。しかし彼は、「推」の字を改めて「敲(たたく)」としようと思った。どちらにしたらよいか迷って、手を動かして「推す」しぐさと「敲く」しぐさをやってみたが、それでもまだどちらがよいか決まらなかった。思わず夢中になってしまい、都の長官の韓愈の行列に突き当たってしまった。そこで賈島は行列に突き当たってしまった理由をくわしく話した。それを聞いた韓愈が言ったことには「敲の字にしたほうがよいね」と。そして同じ詩人として気の合った2人は、仲良く馬を並べて詩を論じ合いながら行った。この故事の出典は「唐詩紀事」巻40(一説には宋時代の「苕渓漁隠叢話」)「推す」より「敲く」がなぜよいのか。月の下で音が響くから、音響的な広がりに風情が感じられるとしたのであろう。「推敲」は数ある中国故事の中でも最も有名なものの一つである。文章家には推敲はつきものである。とくに有名な作家はバルザック。コーヒーを何杯も飲みながら何度も推敲を重ねた。司馬遼太郎はカラーサインペンで推敲を重ねている。(Balzac)

 

Lrg_20052163_2
  バルザックの校正

 

Img414
 司馬遼太郎の原稿

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28