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2021年12月 6日 (月)

登場人物の多い小説

   トルストイの「戦争と平和」は、少ししか登場しない人物まで含めると559人に及ぶ。トルストイはどんな端役も持ち前の描写力で見事に描き分けている。物語の中心であるナターシャ・ロストフ、ピエール・べズーホフ、アンドレイ・ボルコンスキーなど創作であるが、登場人物の大半は実在している。しかし世界一登場人物の多い小説といえば、やはり「三国志演義」である。総計は1192人。こちらもほんどんが実在の人物である。絶世の美女、貂蝉は正史に記録がないので架空の人物といわれている。人名を暗記するには登場順に覚えよう。劉備、張飛、関羽、曹節(十常侍のひとり)、蔡邕、張角、張宝、張梁、盧植、皇甫嵩、朱儁、劉焉、公孫瓚、董卓、何進、李粛、呂布、袁紹、王允などなど。

 

 

2021年10月 7日 (木)

ネクタイだけの訪問

   マーク・トウェインは晩年コネチカット州ハートフォードに住んでいたことがある。ビクトリア朝の豪邸で、ビリヤード台のある書斎がある。夫婦と3人の娘は「人生で最も幸せで最も生産的な歳月を楽しんだ」という。近所には「アンクル・トムの小屋」で有名なストウ夫人が住んでいる。2人が仲が良いとか親交があったとかは知らない。ストウ夫人のほうが二回りも年上である。ある日、マーク・トウェインは初めてストウ夫人の家を訪れた。そして、30分ほど話しこんで家へもどってきた。家について、鏡を見たトウェインは、ネクタイなしで訪問したことに気がついた。

さてしばらくすると、ストウ夫人の家に、トウェインの使いの者がやってきた。その手紙には、こう書いてあった。

「さきほどは、ネクタイをつけないで参上して、失礼しました。いま、使いのものにネクタイを持たせましたから、お部屋においていただき、30分ほどしたら、おかえしください。なにしろ、1本きりしかないネクタイですから…」。

   マーク・トウェインは「トム・ソーヤーの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」「王子とこじき」など数々のおもしろい小説を著したが、作者自身も愉快な人だった。

 

 

2021年8月28日 (土)

湖畔詩人ワーズワース

    ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)はイングランド北西部、湖水地方の自然を詠うことに生涯を捧げ、「湖畔詩人」と呼ばれた。他のロマン派詩人キーツ、バイロン、シェリーとは違い長命であったが、妻メアリーと3人の子、妹との穏やかな暮らしは、むしろ詩人としての感性が、30代の半ば頃には枯渇してしまったように思える。サミュエル・コールリッジ(1772-1834)とともに1798年に出した詩集「リリカル・バラッズ」(「抒情歌謡集」)はイギリスの詩の発展に大きな影響を与えた。

 

       私の心は虹を見るとおどる

 

  私の心は、虹を見るとおどる、

 

  おさないころにそうだった、

 

  おとなになっている、いまもそうだ、

 

  やがて老いても、そのように、

 

  そうでなければ、死んでいたい、

 

  おさな子はおとなの父だ、

 

  それで、私は望ましい、

 

  わたしの日々が、

 

  自然をうたう心で、

 

  一日一日と

 

  むすばれていくように。

 

                     (安藤一郎訳)

2021年5月 5日 (水)

エッフェル塔とモーパッサン

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  1889年5月5日、パリのエッフェル塔が公開された。フランス政府はフランス革命100周年にあたるこの年に開催するパリ万博の目玉にエッフェル塔の建設を決定した。ところが作家、詩人など約50人が、「パリに鉄塔を建てるとはパリの名誉を汚すものだ」と大変な剣幕で連名の陳情書が出された。陳情書には作家のアレクサンドル・デュマ・フィス、ギ・ド・モーパッサン、ジョリス・カルル・ユイスマンス、作曲家のシャルル・グノー、画家のエルネスト・メイソニエ、詩人のフランソワ・コペー、シュリー・プリュードムらが名を連ねていた。とくにモーパッサンのエッフェル塔嫌いは有名で、「工場の煙突のように滑稽でうすっぺらな生まれぞこないの横顔をみせる、巨大で不格好な骸骨」と罵った。1889年3月31日、エッフェル塔は完成した。

   ところが1889年5月6日、エッフェル塔が公開されると大評判となり、とくにレストランは美味しい料理と上等のワインで大賑わいであった。あるとき新聞記者がエッフェル塔に取材に行くと、なんと反対運動をしたモーパッサンがレストランにいた。それを見た記者は「あんなに反対したのに、やっぱり出来てみればあなたもこの塔が気に入ったのですね」と話しかけた。ところが流石はモーパッサン。落ち着きはらって「ここがパリでエッフェル塔が見えない唯一の場所だからね」と平然と答えたという。

 

Maupassant  

 

( keywod;Alexander Gustave Eiffel,Maupasant,Alexandre Dumas,Jons Karl Huismans,Charles Fracois Gounod,Jean Louis Ernest Meissonier,Francois Coppee,Sully Prudhomme )

2021年4月23日 (金)

シェイクスピアは存在しなかった?

Photo   本日は「サン・ジョルディの日」。守護聖人サン・ジョルジュを祭り、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る。スペインでは「本の日」とされる。この日はセルバンテスやシェイクスピアの誕生日でもある。

  ところでイギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの名前を知らない人はほとんどいないだろう。「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」の四大悲劇をはじめ、恋愛悲劇「ロミオとジュリエット」、喜劇「真夏の夜の夢」「ヴェニスの商人」など、生涯に約37編の戯曲と7編の詩を残している。ところが、これだけ有名な作家でありながら、生涯については、わからないことが多い。1564年、ストラットフォード・アポン・エイヴォンの手袋商人の家で生まれた。だが正確なかれの誕生日がわからない。英国の中部、ウォリックシアの都市ストラットフォードの教会にはウィリアム・シェイクスピアが1564年の4月26日に洗礼をうけた記録があるが、生れた日はわからない。公式に4月23日をかれの誕生日と定めているが、当時の風習として子供が生れて2、3日のうちに洗礼をうけさせたことや、たまたま4月23日はかれの命日にあたることや、さらにこの日がイギリスの守護聖者、聖ジョージの祝日にあたることなどから、この日が選ばれたという。そこで現れたのが、「シェイクスピアは不在だった」という説である。つまり、誰か別の高名な作家がシェイクスピアの名前で作品を発表した、というのである。シェイクスピアの正体はベーコンだったという説などが有名だが、その確証はない。さまざまな資料を照らし合わせてみたところ、エリザベス朝時代にシェイクスピアが存在したことは確かだが、その人物が果たして数々の戯曲を書いた本人と同一人物なのかどうか、はっきりと確認できなかった。ジョージ・ギッシングの言葉に「英国に生れたのを喜ぶ多くの理由の中で、まず最初にあげたい一つは、シェイクスピアを母国語で読めるということだ」

 

 

2021年1月20日 (水)

ティファニーで朝食を

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   1993年のこの日、永遠の妖精オードリー・ヘプバーンが死去した。彼女の代表作は「ティファニーで朝食を」である。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の初版が出たのは1958年の秋だった。それから3年後にオードリー・ヘプバーンで映画化され、主題曲「ムーン・リヴァー」と共に世界的に知られるようになったので小説よりも映画のイメージが強いことは否めない事実である。しかし原作のホリー・ゴライトリーという女性を読者の想像力に委ねるために、最近刊行された村上春樹の新訳では、本のカヴァーには映画のシーンなどを使っていないような配慮もされている。滝口直太郎の訳と一部分を比較してみただけの印象であるが、村上訳はこなれた平易な現代語でより読みやすくなっている感じがする。

   ホリー・ゴライトリーはニューヨークのアパートに、猫だけが同居のひとり暮らしをしている。彼女をとり巻くあまたの男性のうちには、映画人とか百万長者とかブラジルの外交官とかさまざまな人間がいたが、もともと籠の鳥になることを望まない野性の女ホリーは、自分の属する住所も持たず、名刺のアドレスには「旅行中」と印刷してある。時あたかも1940年代の初め、アメリカの社会は「いやな赤」の恐怖におののいている。ダイヤモンドなど大嫌いな彼女だが、ティファニーの宝石店にはよく足をはこぶ。そこのどっしりと落ちついた雰囲気の中に立った彼女は「いやな赤」の恐怖から救われ、いつの日にかはこのような所に住んで、「朝食」を取れるようになれればよいのにと思う。

   同じアパートに無名作家のポールが住んでいて、ホリーに好意を持つようになる。ある日、二人はセントラル・パークで乗馬を楽しんでいるとき、馬があばれ出して五番街にとび出し、やっと警察官にとりおさえてもらう。ところが、ホリーがマリファナを使っていることがばれ、麻薬密輸のギャングとかかわりがあるのではないかということになって大きなスキャンダルになる。これより前、ホリーは毎週木曜日にシング・シング刑務所に収容されていたギャングの幹部を訪問し、週100ドルの報酬をもらっていたことがバレる。このスキャンダルのおかげで、結婚の相手を夢見ていたブラジル外交官ホセに逃げられ、保釈中にもかかわらずブラジルにホセを追いかけて行く。

  映画ではオードリー・ヘプバーンがジョージ・ペパードと結ばれハッピー・エンドとなっているが、原作ではホリーはブラジルに渡り、さらにアフリカまで放浪の旅を続けることになっている。

    小説にはもちろん映画主題歌「ムーン・リヴァー」は登場しないが、ホリーがギターを爪びきながら歌う場面が一箇所ある。その歌詞を紹介する。(滝口直太郎訳)

   眠りたくもなし、

   死にたくもない、

   ただ旅して行きたいだけ、

   大空の牧場通って。

    村上の新訳では「眠りたくもない、死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」とある。(1月20日)

 

 

2020年7月22日 (水)

「赤と黒」の題名

Img_0006_2     「赤と黒」(1830年出版)は、スタンダールの故郷グルノーブルに近いある村で実際に起こった犯罪にそのまま題材を得ている。1827年7月22日、アントワーヌ・ベルテという青年は、家庭教師先の夫人や娘を誘惑し、最後にその夫人を狙撃して死刑になった。

    なお、「赤と黒」という風変わりな題名については、出版当時からさまざまな解釈が行なわれ、運命が赤か黒かによって決定されるルーレットに人生をたとえたのだとする説もあるが、ポール・ブールジェのいうように、「赤」は軍服、「黒」は僧衣を象徴し、それらによってナポレオン没落後、武勲による立身の希望を失ったフランスの貧しい青年が、いかにして社会に進出せんとしたか、を示したものと今日では一般的に解釈されているようである。スタンダール自信の残したノートによると「赤」は共和主義者を意味したらしい。後に書いた未完小説「リュシアン・ルーヴェン」(1835年)を「赤と白」と題しようとしたことがあり、そのとき「赤」をもって共和派のリュシアンを、「白」をもって王党派のシャストレ夫人を示すつもりだった。このことからも、赤はジュリアンの共和主義精神を、黒は僧侶階級を示していると見ることが妥当であろう。

2020年6月30日 (火)

「風と共に去りぬ」題名の由来

Kaze9   1926年、マーガレット・ミッチェルは落馬による左足首を捻挫し、関節炎を起こし、回復に手間どったため、5月にアトランタ・ジャーナル社を退社。この頃からむさぼるように読書する。読書の範囲は広く、文学、歴史、医学、考古学、探偵小説等。一日8冊を読み上げるので、夫のジョン・ロバート・マーシュは毎日一抱えの本を持って市立図書館へ往復しなければならなかった。この年、夫のすすめに従い「風と共に去りぬ」を書き始める。執筆の動機は母の話がきっかけだった。少女時代、あまり学問が好きでなかったので、母はある日の午後アトランタの郊外へ彼女を伴い、南北戦争で荒廃したままの土地を見せて歩いた。戦争から多くの歳月が過ぎたそのころでも、この地方の土地や生活には戦禍のあとがまだなまなましく残っていた。母はあちこちの建物を指して、戦争と復興の苦難を乗り越える意力と能力のあった家と、うちつづく困苦を切りぬけるだけの力がなかったために没落していった家とを教えて、彼女の心に、あくまでも生きぬく力を喚起させ、そのためには学業がいかにゆるがせにならぬものかを説いてきかせた。そのときのことはのちのちまでも忘れられなかったという。その人たちの中には成功しようとして戦いぬいた人と、その戦いに雄々しくいどんで敗れた人と、やっと生きのびているだけの人とがあったわけで、これをテーマに小説を書こうと思ったのが、畢生の大作を生む動機となったのである。1933年、前後7年間にわたって断続的に書きつづけた「風と共に去りぬ」はほぼ脱稿した。1935年、マクミラン出版社の副社長ハロルド・S・レイサムは、ミッチェルが大作の草稿を筐底に秘めていることを知り、ぜひそれを見せるようにと懇願した。ミッチェルは気がすすまなかったが、ついに決心して原稿を副社長に見せることにした。マクミラン出版社がこれの刊行を決定したのは同年夏のことである。1936年6月30日、「風と共に去りぬ」はニューヨークのマクミラン出版社から刊行され、一年間で150万部を売りつくした。

   本の題名については、出版社側は「明日がある」(アナザー・デイ)を採用することを内定していたが、彼女はさまざまな題名を提案しつづけた。その一部をあげると、「苦難を荷え」「一里塚」「めえ、めえ、黒羊=無頼の嘆き」「いつかは日が開く」「無情の星」「ラッパの調べは切なし」

    最後の題名は、つぎのような南北戦争時代の戦歌からとったものである。「ラッパの調べは切なし、夜の雲低く垂れ、星が空にきらめくころ。兵士みな地に伏す。疲れしものは眠り、傷つきしものは死に」この題名そのものは、かなり彼女の気に入ったのだが、「ラッパの調べ」が彼女のいわんとするところを切実に物語るものとも思えなかった。しかし、それを契機として、何かほかの詩のなかに引用できる辞句があるのではないかという期待をもつようになり、それとなく気をつけていた。やがて10月の最後の週に、マーガレットは一冊の英詩集を開いて、アーネスト・ダウスンの詩「われはもはやシナラをともに愛せしころのわれにあらず」に、なにげなく目をやった。この題はホレースの頌詩からとったものである。マーガレットは以前からこの詩を愛していた。1900年に肺結核で短い数奇な生涯をとじた審美派の英詩人ダウスンの代表的叙事詩で、当時の若い世代の人々はこの詩の冒頭を読んだだけで、異常な感動にうたれたのであった。「前夜、ああ、昨夜、かの女とわが唇の間に、きみは影を落とした。シナラ!」そして、つぎの反復句がつづく。「われはわれなりに、きみにまことをささげてきた。シナラ!」やがてつぎの二行がマーガレットの目をとらえた。

「われは多くを忘れ去った。シナラよ!すべては風と共に去った。バラは、棘もろともあらあらしく吹き飛ばされた」 I have forgot much,Cynara!gone with the wind

「風と共に去った」 これこそ、まさに彼女が探していた言葉だった。(参考:フィニス・ファー「マーガレット・ミッチェル物語」河出書房)

( Margaret Mitchell,Ernest Dowson、アーネスト・ダウサン )

 

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2020年4月23日 (木)

デ・ラ・メア「窓」

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   白い猿の兄弟ヤンボー(里見京子)、ニンボー(横山道代)、トンボー(黒柳徹子)が親と死に別れて力を合わせながら旅をする「ヤンボーニンボートンボー」というNHKラジオドラマがあった。この話は飯沢匡(1909-1994)が、ウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)の「サル王子の冒険」をヒントにして作ったといわれる。デ・ラ・メアには童謡や子供向けの詩も多いが、その内容には死や人生への深い思索を含んでいる。

    デ・ラ・メアはイギリスのケント州チャールストンで1873年4月23日、ユグノーの子孫として生れた。母は詩人ロバート・ブラウニングの遠縁にあたる。4歳のとき父が亡くなったため、母から聞いたおとぎ話、伝説などによって大きな影響を受けた。ロンドンのセント・ポール校を卒業後、18年間石油会社の会計士をしていたが、1902年にウォルター・ラマルという筆名で詩集「幼時の歌」を出し文名を確立。続いて小説「ヘンリー・ブロックン」を出した。1908年、会社をやめ作家生活に専心するようになり、詩集「耳をすます人ら」(1912)「雑色その他」、小説「小人の思い出」(1921)、童話「三匹の猿王子」(1919)などを発表。「三匹の猿王子」はサム、シンプル、ノッドの三匹の猿が、父の国ティシュナーの谷まで苦難にみちた旅をする話で日本でも飯沢匡「サル王子の冒険」、脇明子「三匹の高貴な猿」など翻訳が出ている。他に「無常その他」「ヴェールその他」「旅人」(1946)「内なる仲間」「翼にのった馬車」(1951)「子どものための物語集」(1949年カーネギー賞)「くじゃくのパイ」(1913)などがある。1956年6月22日、逝去。

 

      窓

 

ブラインドのかげにすわり

 

ぼくは見つめている

 

外を行きかう人びとを

 

通りすぎる人たちを

 

だれひとりとして気づかない

 

じっと見ているぼくの小さな目には 

 

だれにも見えない

 

ぼくの小さな部屋は

 

ブラインド越しの太陽で

 

みんな黄色く見えるこの部屋は

 

だれも知らない

 

ぼくがここにいることさえも

 

だれも気づかない

 

ぼくがいなくなっても

 

        *

 

     かくれんぼ

 

かくれんぼしよう、と風がいう

 

森のこかげで

 

かくれんぼしよう、と月がいう

 

ハシバミの木の実に

 

かくれんぼしよう、と雲がいう

 

星から星へ

 

かくれんぼしよう、と彼がいう

 

港の砂州で

 

かくれんぼしよう、とぼくもいう

 

自分で自分にいってみて

 

目ざめの夢をあとにして

 

眠りの夢にすべりこむ

 

( Walter de la Mare )

 

 

2020年3月23日 (月)

小説家スタンダール

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   1842年のこの日、スタンダールはパリの街頭で脳出血で倒れ死去した。享年59歳。スタンダールという筆名で知られるアンリ・ベール(1783-1842)は、現在ではもっぱら小説家として有名であるが、小説を書くことが彼の職業であったことはじつは一度もない。軍人、食料品商、参事院書記官、ジャーナリスト、イタリア駐在フランス領事であり、著述はそれと並行しておこなわれた。「紙をインクで汚すこと」が喜びであった59年間の生涯に書き残されたものの量は膨大である。「イタリア絵画史」「ローマ、ナポリ、フィレンツェ」「ナポレオンの生涯」「ラシーヌとシェイクスピア」「ロッシーニの生涯」「アルマンス」「ローマ漫歩」「赤と黒」「アンリ・ブリュラールの生涯」「リュシャン・ルーヴェン」「ナポレオンに関する覚書」「パルムの僧院」「カストロの尼」「ラミエル」。これらの作品はほとんど生前、世間的成功を収めていない。彼は、1880年、1935年の読者に期待すると予言し、その予言は見事に的中した。現在では、バルザックとともに最も大きな影響を近代小説の上におよぼしたフランスの小説家のひとりとされている。(3月23日)

 

 

 

 

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