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2020年6月30日 (火)

「風と共に去りぬ」題名の由来

Kaze9   1926年、マーガレット・ミッチェルは落馬による左足首を捻挫し、関節炎を起こし、回復に手間どったため、5月にアトランタ・ジャーナル社を退社。この頃からむさぼるように読書する。読書の範囲は広く、文学、歴史、医学、考古学、探偵小説等。一日8冊を読み上げるので、夫のジョン・ロバート・マーシュは毎日一抱えの本を持って市立図書館へ往復しなければならなかった。この年、夫のすすめに従い「風と共に去りぬ」を書き始める。執筆の動機は母の話がきっかけだった。少女時代、あまり学問が好きでなかったので、母はある日の午後アトランタの郊外へ彼女を伴い、南北戦争で荒廃したままの土地を見せて歩いた。戦争から多くの歳月が過ぎたそのころでも、この地方の土地や生活には戦禍のあとがまだなまなましく残っていた。母はあちこちの建物を指して、戦争と復興の苦難を乗り越える意力と能力のあった家と、うちつづく困苦を切りぬけるだけの力がなかったために没落していった家とを教えて、彼女の心に、あくまでも生きぬく力を喚起させ、そのためには学業がいかにゆるがせにならぬものかを説いてきかせた。そのときのことはのちのちまでも忘れられなかったという。その人たちの中には成功しようとして戦いぬいた人と、その戦いに雄々しくいどんで敗れた人と、やっと生きのびているだけの人とがあったわけで、これをテーマに小説を書こうと思ったのが、畢生の大作を生む動機となったのである。1933年、前後7年間にわたって断続的に書きつづけた「風と共に去りぬ」はほぼ脱稿した。1935年、マクミラン出版社の副社長ハロルド・S・レイサムは、ミッチェルが大作の草稿を筐底に秘めていることを知り、ぜひそれを見せるようにと懇願した。ミッチェルは気がすすまなかったが、ついに決心して原稿を副社長に見せることにした。マクミラン出版社がこれの刊行を決定したのは同年夏のことである。1936年6月30日、「風と共に去りぬ」はニューヨークのマクミラン出版社から刊行され、一年間で150万部を売りつくした。

   本の題名については、出版社側は「明日がある」(アナザー・デイ)を採用することを内定していたが、彼女はさまざまな題名を提案しつづけた。その一部をあげると、「苦難を荷え」「一里塚」「めえ、めえ、黒羊=無頼の嘆き」「いつかは日が開く」「無情の星」「ラッパの調べは切なし」

    最後の題名は、つぎのような南北戦争時代の戦歌からとったものである。「ラッパの調べは切なし、夜の雲低く垂れ、星が空にきらめくころ。兵士みな地に伏す。疲れしものは眠り、傷つきしものは死に」この題名そのものは、かなり彼女の気に入ったのだが、「ラッパの調べ」が彼女のいわんとするところを切実に物語るものとも思えなかった。しかし、それを契機として、何かほかの詩のなかに引用できる辞句があるのではないかという期待をもつようになり、それとなく気をつけていた。やがて10月の最後の週に、マーガレットは一冊の英詩集を開いて、アーネスト・ダウスンの詩「われはもはやシナラをともに愛せしころのわれにあらず」に、なにげなく目をやった。この題はホレースの頌詩からとったものである。マーガレットは以前からこの詩を愛していた。1900年に肺結核で短い数奇な生涯をとじた審美派の英詩人ダウスンの代表的叙事詩で、当時の若い世代の人々はこの詩の冒頭を読んだだけで、異常な感動にうたれたのであった。「前夜、ああ、昨夜、かの女とわが唇の間に、きみは影を落とした。シナラ!」そして、つぎの反復句がつづく。「われはわれなりに、きみにまことをささげてきた。シナラ!」やがてつぎの二行がマーガレットの目をとらえた。

「われは多くを忘れ去った。シナラよ!すべては風と共に去った。バラは、棘もろともあらあらしく吹き飛ばされた」 I have forgot much,Cynara!gone with the wind

「風と共に去った」 これこそ、まさに彼女が探していた言葉だった。(参考:フィニス・ファー「マーガレット・ミッチェル物語」河出書房)

( Margaret Mitchell,Ernest Dowson、アーネスト・ダウサン )

 

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2020年4月23日 (木)

シェイクスピアは存在しなかった?

Photo   本日は「サン・ジョルディの日」。守護聖人サン・ジョルジュを祭り、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る。スペインでは「本の日」とされる。この日はセルバンテスやシェイクスピアの誕生日でもある。

  ところでイギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの名前を知らない人はほとんどいないだろう。「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」の四大悲劇をはじめ、恋愛悲劇「ロミオとジュリエット」、喜劇「真夏の夜の夢」「ヴェニスの商人」など、生涯に約37編の戯曲と7編の詩を残している。ところが、これだけ有名な作家でありながら、生涯については、わからないことが多い。1564年、ストラットフォード・アポン・エイヴォンの手袋商人の家で生まれた。だが正確なかれの誕生日がわからない。英国の中部、ウォリックシアの都市ストラットフォードの教会にはウィリアム・シェイクスピアが1564年の4月26日に洗礼をうけた記録があるが、生れた日はわからない。公式に4月23日をかれの誕生日と定めているが、当時の風習として子供が生れて2、3日のうちに洗礼をうけさせたことや、たまたま4月23日はかれの命日にあたることや、さらにこの日がイギリスの守護聖者、聖ジョージの祝日にあたることなどから、この日が選ばれたという。そこで現れたのが、「シェイクスピアは不在だった」という説である。つまり、誰か別の高名な作家がシェイクスピアの名前で作品を発表した、というのである。シェイクスピアの正体はベーコンだったという説などが有名だが、その確証はない。さまざまな資料を照らし合わせてみたところ、エリザベス朝時代にシェイクスピアが存在したことは確かだが、その人物が果たして数々の戯曲を書いた本人と同一人物なのかどうか、はっきりと確認できなかった。ジョージ・ギッシングの言葉に「英国に生れたのを喜ぶ多くの理由の中で、まず最初にあげたい一つは、シェイクスピアを母国語で読めるということだ」

 

 

デ・ラ・メア「窓」

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   白い猿の兄弟ヤンボー(里見京子)、ニンボー(横山道代)、トンボー(黒柳徹子)が親と死に別れて力を合わせながら旅をする「ヤンボーニンボートンボー」というNHKラジオドラマがあった。この話は飯沢匡(1909-1994)が、ウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)の「サル王子の冒険」をヒントにして作ったといわれる。デ・ラ・メアには童謡や子供向けの詩も多いが、その内容には死や人生への深い思索を含んでいる。

    デ・ラ・メアはイギリスのケント州チャールストンで1873年4月23日、ユグノーの子孫として生れた。母は詩人ロバート・ブラウニングの遠縁にあたる。4歳のとき父が亡くなったため、母から聞いたおとぎ話、伝説などによって大きな影響を受けた。ロンドンのセント・ポール校を卒業後、18年間石油会社の会計士をしていたが、1902年にウォルター・ラマルという筆名で詩集「幼時の歌」を出し文名を確立。続いて小説「ヘンリー・ブロックン」を出した。1908年、会社をやめ作家生活に専心するようになり、詩集「耳をすます人ら」(1912)「雑色その他」、小説「小人の思い出」(1921)、童話「三匹の猿王子」(1919)などを発表。「三匹の猿王子」はサム、シンプル、ノッドの三匹の猿が、父の国ティシュナーの谷まで苦難にみちた旅をする話で日本でも飯沢匡「サル王子の冒険」、脇明子「三匹の高貴な猿」など翻訳が出ている。他に「無常その他」「ヴェールその他」「旅人」(1946)「内なる仲間」「翼にのった馬車」(1951)「子どものための物語集」(1949年カーネギー賞)「くじゃくのパイ」(1913)などがある。1956年6月22日、逝去。

 

      窓

 

ブラインドのかげにすわり

 

ぼくは見つめている

 

外を行きかう人びとを

 

通りすぎる人たちを

 

だれひとりとして気づかない

 

じっと見ているぼくの小さな目には 

 

だれにも見えない

 

ぼくの小さな部屋は

 

ブラインド越しの太陽で

 

みんな黄色く見えるこの部屋は

 

だれも知らない

 

ぼくがここにいることさえも

 

だれも気づかない

 

ぼくがいなくなっても

 

        *

 

     かくれんぼ

 

かくれんぼしよう、と風がいう

 

森のこかげで

 

かくれんぼしよう、と月がいう

 

ハシバミの木の実に

 

かくれんぼしよう、と雲がいう

 

星から星へ

 

かくれんぼしよう、と彼がいう

 

港の砂州で

 

かくれんぼしよう、とぼくもいう

 

自分で自分にいってみて

 

目ざめの夢をあとにして

 

眠りの夢にすべりこむ

 

( Walter de la Mare )

 

 

2020年3月23日 (月)

小説家スタンダール

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   1842年のこの日、スタンダールはパリの街頭で脳出血で倒れ死去した。享年59歳。スタンダールという筆名で知られるアンリ・ベール(1783-1842)は、現在ではもっぱら小説家として有名であるが、小説を書くことが彼の職業であったことはじつは一度もない。軍人、食料品商、参事院書記官、ジャーナリスト、イタリア駐在フランス領事であり、著述はそれと並行しておこなわれた。「紙をインクで汚すこと」が喜びであった59年間の生涯に書き残されたものの量は膨大である。「イタリア絵画史」「ローマ、ナポリ、フィレンツェ」「ナポレオンの生涯」「ラシーヌとシェイクスピア」「ロッシーニの生涯」「アルマンス」「ローマ漫歩」「赤と黒」「アンリ・ブリュラールの生涯」「リュシャン・ルーヴェン」「ナポレオンに関する覚書」「パルムの僧院」「カストロの尼」「ラミエル」。これらの作品はほとんど生前、世間的成功を収めていない。彼は、1880年、1935年の読者に期待すると予言し、その予言は見事に的中した。現在では、バルザックとともに最も大きな影響を近代小説の上におよぼしたフランスの小説家のひとりとされている。(3月23日)

 

 

 

 

2020年1月20日 (月)

ティファニーで朝食を

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   1993年のこの日、永遠の妖精オードリー・ヘプバーンが死去した。ヘプバーンの代表作は「ティファニーで朝食を」である。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の初版が出たのは1958年の秋だった。それから3年後にオードリー・ヘプバーンで映画化され、主題曲「ムーン・リヴァー」と共に世界的に知られるようになったので小説よりも映画のイメージが強いことは否めない事実である。しかし原作のホリー・ゴライトリーという女性を読者の想像力に委ねるために、最近刊行された村上春樹の新訳では、本のカヴァーには映画のシーンなどを使っていないような配慮もされている。滝口直太郎の訳と一部分を比較してみただけの印象であるが、村上訳はこなれた平易な現代語でより読みやすくなっている感じがする。

   ホリー・ゴライトリーはニューヨークのアパートに、猫だけが同居のひとり暮らしをしている。彼女をとり巻くあまたの男性のうちには、映画人とか百万長者とかブラジルの外交官とかさまざまな人間がいたが、もともと籠の鳥になることを望まない野性の女ホリーは、自分の属する住所も持たず、名刺のアドレスには「旅行中」と印刷してある。時あたかも1940年代の初め、アメリカの社会は「いやな赤」の恐怖におののいている。ダイヤモンドなど大嫌いな彼女だが、ティファニーの宝石店にはよく足をはこぶ。そこのどっしりと落ちついた雰囲気の中に立った彼女は「いやな赤」の恐怖から救われ、いつの日にかはこのような所に住んで、「朝食」を取れるようになれればよいのにと思う。

   同じアパートに無名作家のポールが住んでいて、ホリーに好意を持つようになる。ある日、二人はセントラル・パークで乗馬を楽しんでいるとき、馬があばれ出して五番街にとび出し、やっと警察官にとりおさえてもらう。ところが、ホリーがマリファナを使っていることがばれ、麻薬密輸のギャングとかかわりがあるのではないかということになって大きなスキャンダルになる。これより前、ホリーは毎週木曜日にシング・シング刑務所に収容されていたギャングの幹部を訪問し、週100ドルの報酬をもらっていたことがバレる。このスキャンダルのおかげで、結婚の相手を夢見ていたブラジル外交官ホセに逃げられ、保釈中にもかかわらずブラジルにホセを追いかけて行く。

  映画ではオードリー・ヘプバーンがジョージ・ペパードと結ばれハッピー・エンドとなっているが、原作ではホリーはブラジルに渡り、さらにアフリカまで放浪の旅を続けることになっている。

    小説にはもちろん映画主題歌「ムーン・リヴァー」は登場しないが、ホリーがギターを爪びきながら歌う場面が一箇所ある。その歌詞を紹介する。(滝口直太郎訳)

   眠りたくもなし、

   死にたくもない、

   ただ旅して行きたいだけ、

   大空の牧場通って。

    村上の新訳では「眠りたくもない、死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」とある。(1月20日)

 

 

2019年12月15日 (日)

霧のロンドン、花のパリ

   イギリスの天気は変わりやすい。ロンドン紳士といえば山高帽と細巻きの黒い傘というイメージがあるが、毎日のように小雨が降っているか、さもなくば曇り模様の天候だ。地図の上で、日本よりはるかに高い緯度に位置している。樺太とほぼ同じくらいと考えてよい。高緯度地域にはほぼ一年中居座る大規模なアイスランド低気圧から発生する移動性低気圧が国内の天気をめまぐるしく変化させるからだ。

   「ロンドンに飽きた人は、人生に倦きたのさ」といったのはサミュエル・ジョンソン博士だ。ロンドンの街はどんなに歩いても飽きない。ロンドンの経済の中心はテムズ川左岸、ロンドン橋の北方を占めるシティである。金融の中心地ロンバート街やジャーナリズムの中心地フリート街がある。またギルド・ホール、ロンドン塔、セント・ポール寺院もシティにある。シティの西はウェスト・エンド、北東にはイースト・エンドがひろがる。ウェスト・エンドは古書の街チャリング・クロス街、リージェント街、ピカデリー街など繁華街がある。イースト・エンドはかつては貧民街だったが、第二次世界大戦のさいの爆撃により焼失を機会に、新しい住宅地へと変貌した。

   だが、ロンドンに生まれ育った生粋のロンドンっ子が詩人とか作家になるというのはあまり聞かない。たとえば明治東京の夏目漱石やボードレールのパリというように、深い因縁はないような気がする。ウィリアム・シェークスピアは地方出身(ストラトフォード オン エーボン生まれ)だし、あれほどロンドンをわが町のように描いたデイケンズもポーツマスの生まれである。推理作家コナン・ドイル(エジンバラ生まれ)も、流行作家サマーセット・モーム(パリ生まれ)もロンドン人ではない。しかし、ロンドンにゆかりのないイギリス文学者をあげることは難しい。ここでロンドンゆかりの文学者を思いつくままにあげてみよう。ジェフリー・チョーサー、エドマンド・スペンサー、ジョン・ダン、ベン・ジョンソン、アイザック・ウォルトン、ジョン・ミルトン、ジョン・バニアン、ジョナサン・スウィフト、ダニエル・デフォー、アレグザンダー・ポウプ、トマス・グレイ、リチャード・シェリダン、ウィリアム・ブレイク、チャールズ・ラム、コウルリッジ、リイ・ハント、バイロン卿、パーシー・ビシー・シェリー、ジョン・キーツ、ウィリアム・エインズワース、アルフレッド・テニソン、ロバート・ブラウニング、ウィリアム・サッカレー、マシュー・アーノルド、トマス・ハーディ、バーナード・ショウ、H.G.ウェルズ、トマス・スターンズ・エリオット、ジェームズ・バリー、ウィリアム・イェーツ、ベアトリックス・ポター、ジョン・ゴールズワージー、チェスタートン、ヴァージニア・ウルフ、ディヴィド・ハーバート・ロレンス、アーサー・ウェリー、イーヴリン・ウォーなど。

2019年7月25日 (木)

私の心は虹を見るとおどる

    ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)はイギリスが生んだ偉大な自然詩人である。他のロマン派詩人キーツ、バイロン、シェリーとは違い長命であったが、詩人としての感性は、30代の半ば頃には枯渇してしまったようだ。サミュエル・コールリッジ(1772-1834)とともに1798年に出した詩集「リリカル・バラッズ」(「抒情歌謡集」)はイギリスの詩の発展に大きな影響を与えた。

 

       私の心は虹を見るとおどる

 

  私の心は、虹を見るとおどる、

 

  おさないころにそうだった、

 

  おとなになっている、いまもそうだ、

 

  やがて老いても、そのように、

 

  そうでなければ、死んでいたい、

 

  おさな子はおとなの父だ、

 

  それで、私は望ましい、

 

  わたしの日々が、

 

  自然をうたう心で、

 

  一日一日と

 

  むすばれていくように。

 

                     (安藤一郎訳)

2019年5月 4日 (土)

コーヒーの語源

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 17世紀のロンドン・コーヒーハウス

  一杯のコーヒーなり紅茶を傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。西洋にコーヒーを紹介したのは1295年マルコ・ポーロといわれている。コーヒーの発祥地はエチオピアのアビシニア高原といわれる。5~9世紀にアラビアにコーヒーが伝わる。少なくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。

   今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。

   日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代でキリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。

 コーヒーが健康に与える影響については科学者たちが何年にもにわたって研究してきた。飲みすぎるとカフェイン依存症につながる一方、毎日適量飲むと心臓病のリスクが下がるという報告もされている。コーヒーの健康効果についてはいまだ謎が多い。DNA遺伝子が関係しており、からだにいい人と悪い人と、人によって違いがあるらしい。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13)

 

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2018年11月21日 (水)

アイルランド文学

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  「庭の千草も虫の音も 枯れて淋しくなりにけり。ああ白菊、ああ白菊 ひとりおくれて咲きにけり」日本人にはおなじみの小学校唱歌「庭の千草」。この美しいアイルランド民謡の原詩は、トマス・ムーア(1779-1852)の「夏の名残りのバラ」である。日本では「白菊」だが元歌は「バラの花」なのだ。トマス・ムーアは「アイルランド歌謡」(1808-1834)において、アイルランドの情緒に合った英詩を作ろうと試みた。これがイギリスで歌われるようになり、究極的にアイルランド文芸復興を促進することとなった。

    アイルランド人の祖先、古代ケルト人は文字を持たない民族だった。そのかわり、英雄伝や部族の系譜などを口承によって子々孫々へと伝えてきた。これらのことから、アイルランド人はかえって言葉に魂をこめ、より豊かな表現力を身につけたのではないだろうか。

   「ガリヴァー旅行記」で知られるジョナサン・スウィフト(1667-1745)はアイルランドに生れ、この国の司祭であった。アイルランドがイギリスの文学に最も貢献したのは18世紀の喜劇においてであろう。

    アイルランド出身の文学者を18世紀からざっとその名をあげてみる。
ジョージ・ファーカー(1678-1707)
ウィリアム・コングリーブ(1670-1729
トマス・バーネル(1679-1718)
ローレン・スターン(1713-1768)
オリヴァー・ゴールドスミス(1728-1774)
リチャード・ブリンズリー・シュリダン(1751-1816)
シェリダン・レ・ファニュ(1814-1873)
ブラム・ストーカー(1847-1912)
オスカー・ワイルド(1854-1900)
ジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)
ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)
ジョン・ミリントン・シング(1871-1909)
ダンセイ卿(1878-1957)
ショーン・オケーシ(1880-1964)
ジェームズ・ジョイス(1882-1941)
ショーン・オフェイロン(1900-1991)
ハルドル・ラックスネス(1902-1998)
サミュエル・ベケット(1906-1989)
フラン・オブライエン(1911-1966)
アイリス・マードック(1919-1999)
ブレンダン・ビーアン(1923-1964)
ウィリアム・トレヴァー(1928-   )
エドナ・オブライエン(1932-  )
ジョン・マクガハン(1934-2006)
トマス・マーフィ(1935-  )
シェイマス・ヒーニー(1939-  )
ロディ・ドイル(1958-  )

「ダブリン市民」を書いたジェイムズ・ジョイス(画像)は故郷ダブリンを捨て、国外を放浪しつづけて一生を終えたが、その作品はアイルランド人、ダブリン市民を対象にしたものが多かった。

2018年11月12日 (月)

イギリス文学16世紀

   18世紀ダニエル・デフォー(「ロビンソン・クルーソー」の作者)以後、ヨーロッパでいち早く近代のリアリズム小説を確立したといわれるイギリス文学だが、その萌芽はすでに16世紀からみられる。

    「航海と発見、音楽と戯曲と詩歌、調和と創造の時代」エリザベス女王のイギリスはまさに黄金時代であった。

    ルネサンスの精神をトマス・モアによって導入されたイギリスは、今や文学の開花を待つばかりであった。ジョン・リリーのエッセイふうの恋愛物語『ユーフュイーズ』は、イギリス最初の小説といわれ、派手で気どった文体ゆえに、ユーフュイズムという語を生みだした。フィリップ・シドニーも『アーケイディア』という恋愛小説を書いたが、彼の詩の擁護論は後の世代にまで影響を与えている。楽しませると同時にためになるという説は、英文学の伝統として長く残るものである。詩形としては無韻詩が生まれて、シェークスピアによって完成される。

   エドマンド・スペンサーの『神仙女王』はエリザベス女王の弥栄をことほぐものであった。スペンサーの重要性は、彼がアングロ・サクソン的人生のための芸術と、フランス的芸術のための芸術というイギリス文学の二大潮流の合流点に立っているということである。ベーコンは散文で当時の思考を代表し、そしてシェークスピアがその不朽の喜劇・悲劇・史劇をもって演劇を代表する。『ロミオとジュリエット』『夏の夜の夢』『ベニスの商人』『ハムレット』『マクベス』・・・・彼は巧みな筋の運びと、ヒューマーにあふれた性格描写と、美しい詩の世界をもって、エリザベス朝の花と咲いた。(参考:『大英帝国の世界』<世界の旅10> 櫻庭信之、『イギリス文学史概説』三ッ星堅三)

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