イェイツ 「落葉のうた」
ふたりを愛でけむ
鬱茂たる木の葉の上に
大麦の梱にひそむ
二十日鼠の上だにも
秋更けてけり
ななかまどの葉
頭上に黄ばみ
阿蘭陀苺の濡れそぼつ
葉も黄ばみつる
わが恋のつひの日の
いとせちに迫り来て
いまし 悲しき心ごころも
萎え果てつ
いでや項垂れし
なが額に接脣て
はた泪を泫れ
別れなむ
恋慕のときの逝かぬまに
(日夏耿之助訳)
ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)は、日本で最も愛読された詩人の一人である。彼自身また日本の能や詩歌に興味を抱き、日本人の知人も多い。野口米次郎、伊藤道郎、山宮允、尾島庄太郎等の人々はイェイツとの交流をそれぞれに書いている。その詩、とくに初期の甘美で優雅な抒情詩は、ウィリアム・ブレークの系統を引いた神秘主義の傾向を持っているが、同時に、フランスの象徴派、とくにヴェルレーヌの影響を受けて成立したものである。その場面、詩材の多くは、ケルト民族として特異な文化伝統を持つ彼の故郷アイルランドの民話や伝説に依拠している。
アイルランド、とくにカトリックの多いその南部諸州は、長い間イングランドの支配下にあって、幾度となく、独立運動を起こし、流血の戦があった。イェイツは革命運動には参加しなかったが、芸術の分野において、祖国の精神と伝統を詩や劇の芸術運動の中に盛りあげ、アイルランド文芸復興運動と言われるものの中心人物となった。彼のまわりには、劇作家としてのイザべラ・オーガスタ・グレゴリー(1852-1932)、ジョン・ミリントン・シング(1871-1909)、エドワード・マーティンらがおり、また詩人エー・イーがおり、政治家にもなった学者のダグラス・ハイド等の著名な人物がいた。ダブリンには、その文芸復興運動の劇場としてのアベイ・シアターが設けられた。
イェイツは1865年6月13日、アイルランドのダブリンの南東サンディマウントに生れた。父ジョン・バトラー・イェイツはラファエル前派の肖像画家であった。幼年時代をアイルランド西北部の田舎のスライゴーで過ごした。その土地の風光や民謡、超自然的な伝説は、彼の作品に多彩で複雑な情緒と象徴を与えることになった。15歳の時、ダブリンに戻り公立学校エラスムス・スクールに入り、画家になる目的で美術学校に入った。その当時はスペンサー、ブレーク、シェリー等を愛読した。ロンドンとダブリンにアイルランド文芸協会を設立し、自ら劇「カスリーン伯爵夫人」を書いて上演した。ダブリンのアベイ・シアターが設けられたのは、1903年のことである。1917年、イェイツは、アイルランド独立運動の闘士で女優であったモード・ゴン(1865-1953)にプロポーズをして断わられた後、30歳年下のジョージー・ハイド・リースと結婚している。1923年ノーベル文学賞を受賞。1939年1月28日、南フランスにて心臓麻痺で死去。作品には「アシーンの放浪」「ジョン・シャーマンとドーヤ」「イニスフリーの湖島」「薔薇の巻」「やちまた」「葦間の風」「塔」「クール湖上の白鳥」「ケルトの薄明」等がある。(「世界近代詩十人集」伊藤整編)
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