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2012年3月22日 (木)

ゲーテ「野の小バラ」

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    ゲーテは死に際に「もっと光を」(Meht Licht)と言った。1832年3月22日、83歳で没した。

わらべは見つけた 小バラの咲くのを

野に咲く小バラ

若く目ざめる美しさ

近く見ようとかけよって

心うれしくながめたり

小バラよ、小バラ、あかい小バラよ

野に咲く小バラ

          *

わらべは言った「お前を折るよ

野に咲く小バラ!」

小バラは言った「私は刺します

いつも私を忘れぬように

めったに折られぬ私です」

小バラよ、小バラ、あかい小バラよ

野に咲く小バラ

          *

けれども手折った手荒いわらべ

野に咲く小バラ

泣き声、ため息、かいもなく

折られてしまった 是非もなく

小バラよ、小バラよ、あかい小バラよ

野に咲く小バラよ

                    高橋健二訳

  この詩は一説によれば、少年の性のめざめと官能の喜び、そのあとにつづく魂の傷あとのうずきをうたっているという。英語にも「Gather roses while you may.」「Gather roses」(バラをつみとる)とは人生の快楽を求める意。

2011年12月13日 (火)

愛を語るハイネのような

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 ばら ゆり はと 太陽

 むかしはそれらにうっとりした

 だがもういまは おまえだけ

 ちいさな かわいい きよらかな

 愛のいずみよ ああ おまえこそ

 ばら ゆり はと 太陽

    ハインリヒ・ハイネは1797年12月13日、デュッセルドルフにユダヤ人であったザームゾン・ハイネとベティ・フォン・ゲルデルンの子として生れた。ハイネは「歌の本」(1827年)などの叙情性と、その高い音楽性によってブラームス、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンなど多くの作曲家に曲想を与え、一般に愛の詩人として知られている。だが社会主義にめざめたハイネはパリに亡命し、社会風刺に富む革命詩や、国境を越えた民衆の相互理解を求める多くの詩論を執筆し、ロマン主義をこえたものであった。ドイツには各地の多くの通りに、彼の名がつけられ、またデッセルドルフ大学はハイネの名にちなんで、ハインリヒ・ハイネ大学と命名されている。

2011年7月27日 (水)

寂寥感を感じるとき

   冠二郎の「旅の終わりに」は大正10年の「流浪の唄」とよく似ている。「流れ流れて さすらう旅は きょうは函館 あしたは釧路」。「流浪の唄」は「流れ流れて落ち行く先は 北はシベリア 南はジャワよ」。「旅の終わりに」の作詞は立原岬。実は五木寛之の変名である。このような「さすらい」とか「寂寥感」、旅の孤独をうたう歌は数多くある。だがシベリアもジャワも文明化して、いまではあまり寂寥感を感じない。どこなら寂しさを感じられるだろうか。

A001420絶海の孤島で一人残されたときC0025741_1974565東京が砂漠になったとき
Chikyu0083
宇宙に一人さまようとき
Pyle 地球上で最期の人類になったとき

2011年6月13日 (月)

落葉のうた

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   イェイツ  「落葉のうた」

 ふたりを愛でけむ

 鬱茂たる木の葉の上に

 大麦の梱にひそむ

 二十日鼠の上だにも

 秋更けてけり

 ななかまどの葉

 頭上に黄ばみ

 阿蘭陀苺の濡れそぼつ

 葉も黄ばみつる

 わが恋のつひの日の

 いとせちに迫り来て

 いまし 悲しき心ごころも

 萎え果てつ

 いでや項垂れし

 なが額に接脣て

 はた泪を泫れ

 別れなむ

 恋慕のときの逝かぬまに

        (日夏耿之助訳)

    ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)は、日本で最も愛読された詩人の一人である。彼自身また日本の能や詩歌に興味を抱き、日本人の知人も多い。野口米次郎、伊藤道郎、山宮允、尾島庄太郎等の人々はイェイツとの交流をそれぞれに書いている。その詩、とくに初期の甘美で優雅な抒情詩は、ウィリアム・ブレークの系統を引いた神秘主義の傾向を持っているが、同時に、フランスの象徴派、とくにヴェルレーヌの影響を受けて成立したものである。その場面、詩材の多くは、ケルト民族として特異な文化伝統を持つ彼の故郷アイルランドの民話や伝説に依拠している。

    アイルランド、とくにカトリックの多いその南部諸州は、長い間イングランドの支配下にあって、幾度となく、独立運動を起こし、流血の戦があった。イェイツは革命運動には参加しなかったが、芸術の分野において、祖国の精神と伝統を詩や劇の芸術運動の中に盛りあげ、アイルランド文芸復興運動と言われるものの中心人物となった。彼のまわりには、劇作家としてのイザべラ・オーガスタ・グレゴリー(1852-1932)、ジョン・ミリントン・シング(1871-1909)、エドワード・マーティンらがおり、また詩人エー・イーがおり、政治家にもなった学者のダグラス・ハイド等の著名な人物がいた。ダブリンには、その文芸復興運動の劇場としてのアベイ・シアターが設けられた。

    イェイツは1865年6月13日、アイルランドのダブリンの南東サンディマウントに生れた。父ジョン・バトラー・イェイツはラファエル前派の肖像画家であった。幼年時代をアイルランド西北部の田舎のスライゴーで過ごした。その土地の風光や民謡、超自然的な伝説は、彼の作品に多彩で複雑な情緒と象徴を与えることになった。15歳の時、ダブリンに戻り公立学校エラスムス・スクールに入り、画家になる目的で美術学校に入った。その当時はスペンサー、ブレーク、シェリー等を愛読した。ロンドンとダブリンにアイルランド文芸協会を設立し、自ら劇「カスリーン伯爵夫人」を書いて上演した。ダブリンのアベイ・シアターが設けられたのは、1903年のことである。1917年、イェイツは、アイルランド独立運動の闘士で女優であったモード・ゴン(1865-1953)にプロポーズをして断わられた後、30歳年下のジョージー・ハイド・リースと結婚している。1923年ノーベル文学賞を受賞。1939年1月28日、南フランスにて心臓麻痺で死去。作品には「アシーンの放浪」「ジョン・シャーマンとドーヤ」「イニスフリーの湖島」「薔薇の巻」「やちまた」「葦間の風」「塔」「クール湖上の白鳥」「ケルトの薄明」等がある。(「世界近代詩十人集」伊藤整編)

2011年3月31日 (木)

若き日の夢

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  歌をまくらに 空を仰ぎて

  声高らかに 君とうたいし

  今はただひとりして

  さすらい歩めば

  若き日の夢

2010年5月 9日 (日)

母の日

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  あお葉わか葉に 風かおりて

  せせらぎに聞く 奇しき調べ

  木かげに立てば とわのみ母

  みもとに行き 我ら憩わん

                                  聖母月(カトリック聖歌)

2010年2月16日 (火)

アイルランド叙情詩 一編

ただ一輪、花開いた

夏の名残りのバラよ

美しい仲間たちはすでにみな

色あせ消え去った

その恥じろう頬の赤らみに応え

嘆きの吐息を分かつ

身寄りの花もなく

バラの蕾一つとしていまはない

     (トマス・モア「夏の名残りのバラ」)

    トマス・モア(1779-1852)はアイルランドのダブリンに生まれる。この詩は、わが国ではバラが白菊に置き換えられているが「庭の千草」として歌われている。

2009年11月22日 (日)

山霧

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   早朝、近くの山に登る。山道は険しい。枝枝を踏みしだいて回りこんで一歩一歩進む。晩秋ながら全身から汗が流れでる。あたり一面は霧が山を包んでいる。その時、白い雨粒が真珠を撒いたように、ぱらぱらと降ってきた。しばらくすると、こんどは大地をまきあげるように、風が飛来して、たちまち雲や雨を吹き払い、木と木、枝と枝の間から新しい光がまばゆくきらめいていた。

2009年8月17日 (月)

だれもしらない

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  だれもしらない遠くの国で
  ひとりで海をながめて泣いた
  海は青くてふくらんでいた
  ハンカチみたいな波だけ白い

  せつないことをいうのはよそう
  哀しいことも今はわすれた
  海をみながらリンゴをかじり
  ひとりでぼんやり海をみていた

  だれもしらない遠くの海に
  私ひとりの涙がおちて
 海にこぼれた私の涙

 だれにもみえずにきえてしまった

              やなせたかし

2009年8月10日 (月)

風のある街

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 風がわたしを呼んでいる

  風があなたに歌っている

 生きるよろこびを

  たのしみを

 風のある街を

  元気に生きよう

 しあわせな心を

  だきしめながら

 風がみんなを呼んでいる

  風はいつでも歌っている

 愛のしあわせに

  おもいでに

 風のある街を

  元気に生きよう

 しあわせのまつげを

  またたきながら

              やなせたかし

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