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2017年12月 9日 (土)

漱石忌と則天去私

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

2017年12月 6日 (水)

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

Yjimage2ilbljno ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

2017年12月 2日 (土)

日野草城

仰向けの口中に屠蘇たらさるる

   病で正月も入院しているのだろうか。御節料理はないが、せめて屠蘇だけはと妻が用意してくれた。仰臥のまま草城の口へたらたらと屠蘇が流される。何とも空しい感慨が身にせまる。

日野草城は明治34年、東京市下谷区山下町に生れる。戦前、新興俳句運動の中心として活躍するが、自由主義・モダニストぶりが災いし、ホトトギスを除籍される。戦災に遭い、また病に伏した。この句を詠んだ昭和31年1月29日心臓衰弱で没した。享年54歳。戒名「克修院法誉草城居士」

2017年11月28日 (火)

芭蕉忌

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   芭蕉忌。陰暦10月12日(陽暦の11月28日)。桃青忌、時雨忌、翁忌などとも呼ばれ、旧暦の気候にあわせて毎年11月の第2土曜日に法要が営まれる。

 秋深き隣は何をする人ぞ

    元禄7年秋、芭蕉(1644-1694)は各務支考と共に大坂に行く。園女亭で「秋深き」の句を詠む。斯波園女(1664-1726)は伊勢の神官の娘で芭蕉の門弟であった。数日後、下痢をして床につく。11月末、病床に侍していた呑舟を呼び、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    と書き取らせた。11月26日の暮れ方から高熱を発し、11月28日、申の刻(午後4時頃)、大坂南御堂前の旅舎で永眠した。享年51歳。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、翌日、近江膳所の義仲寺に運んだ。埋葬し、門人の焼香者80人、まねかざるに来る会葬者は300人以上いたと伝えられる。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺(大津市馬場)に葬られたのは、義経や義仲のような悲劇的な最期をとげた武人にとりわけ思いを寄せていたからといわれる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句がある。

2017年11月26日 (日)

おでんと高浜虚子の凡人主義

  江戸川柳に、「どぶろくとおでんは夜の共稼ぎ」とある。屋台の寒い冬には屋台のおでんが美味しい。ホトトギスの高浜虚子(1874-1959)には、何故かおでんの句が多い。虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。虚子におでんの句が多いのは、平凡を愛する心が人生観となっているからであろうか。

  振り向かず返事もせずにおでん食ふ

  おでんやを立ち出でしより低唱す

  戸の隙におでんの湯気の曲り消え

  硝子戸におでんの湯気の消えていく

  志 俳諧にあり おでん食ふ

  おでんやの娘愚かに美しき

2017年11月23日 (木)

一葉忌

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下村為山画「樋口一葉像」

   樋口一葉の1896年の忌日。一葉は明治19年8月20日、遠田澄庵の紹介で中島歌子の萩の舎に入る。上流家庭の子女の集まるこの歌塾にあって下級官吏の娘であった一葉はしばしば肩身の狭い思いを味わったが、早くから歌の才能を示し、姉弟子の三宅花圃とならんで同門の才媛と称された。明治22年7月12日、父の樋口則義は失意のうちに病没した。花圃が「藪の鶯」の発表以後小説家として活躍し始めたのに刺激され、生活の資を得るため小説を書く決意をし、明治24年4月15日、野々宮きく子の紹介で半井桃水を訪ねて、弟子入りした。

    明治25年3月、4月、7月発行された半井桃水主宰の同人雑誌『武蔵野』に、樋口一葉は第一編創刊号に「闇桜」、第二編に「たま襷」、第三編に「五月雨」とたて続けに載せている。ほかに、畑島桃蹊、小田果園、柳塢亭寅彦、三品藺蹊、斉藤緑雨らが寄稿した。「闇桜」は、一葉の小説がはじめて活字になったのものであり、またはじめて「一葉」という筆名を使ったのも、この『武蔵野』が最初である。だが、桃水との噂が萩の舎で問題化した。また桃水の身辺多忙と売れ行きの減退から雑誌は3号で廃刊となり、一葉は思いを残しながら桃水と絶交の形をとる。しかし、一葉の桃水への愛情は終生変わることはなかった。(11月23日)

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2017年11月21日 (火)

波郷忌

 綿虫やそこは屍の出でゆく門

   昭和24年、石田波郷の句。冬の日のどんよりとした風のないしずかな日など、1つ2つ3つと、いやときにはもっと数多く、白い何か灰のように浮かびとんでいるものを見かける。「屍の出でゆく門」とは病院の裏手の人目につかぬところにあり、棺桶に納められた遺体が葬儀屋によって運ばれていく出口のことであろう。波郷は大正2年愛媛県で生まれて応召後、発病し妻と病院を転々としながら焦土諷詠に徹した。病中作が多く、いっぱんに人間探究派とよばれる。1969年のこの日、石田波郷は56歳で世を去った。

 六月の女すわれる荒筵

2017年11月15日 (水)

山本文緒の小説「プラナリア」

   プラナリアは扁形動物門ウズムシ綱ウズムシ目ウズムシ亜目に属する動物の総称。体長20から25ミリメートルくらいで、日本中の渓流に生息する。神秘的なまでの再生能力があり、再生の実験によく使われる。小説の主人公春香は25歳で乳がんの手術以来、退職して現在無職。何もかも面倒くさくて、不眠症で、社会復帰ができない。「次に生まれてくるときはプラナリアにしてください」と星に願っている。こんな春香に突破口はあるのか。直木賞作家山本文緒の代表作。以前「パイナップルの彼方へ」は円形脱毛症や過呼吸症候群になったOLの恋愛青春記だったが、山本の作風は現代女性特有のストレスや心の病を題材にした作品が多い。

2017年11月 2日 (木)

白秋忌「からたちの花」

Img24aa7f18zikczj   からたちも秋はみのるよ

  まろいまろい金のたまだよ

   今日は白秋忌。「からたちの花」の詩が「赤い鳥」に発表されたのは、大正13年。白秋はやがて40歳になろうとする頃だった。

   北原白秋(1885-1942)。本名は隆吉。生地は福岡県山門郡沖靖村。海産物問屋、柳河藩の御用達を勤めた家の生まれ。白秋の小学生のころ、柳川の家の路地に咲くからたちの花をながめながら通学したという。当時、次々と新作童謡を発表していた。その後、白秋は2番目の妻、江口章子と離婚した後、菊子夫人と再婚している。ところが昭和12年、眼疾のため失明する。昭和17年、腎臓病で没した。(11月2日)

2017年10月30日 (月)

木枯らしの果てはありけり海の音

A7c8b601520278b22793a85fb775b5ab   東京で木枯らし1号が吹いたというニュース。昨年より10日早い。「木枯らしの果てはありけり海の音」(池水言水) きびしい冬の到来を告げる木枯らしの行く果てに、遠い海鳴りの音を聴き取った。野山を吹き、甍を吹き、木々の葉を落としながら吹きすさんだ木枯らしは、何も吹くもののない海上に出て、海の音と化したというのだ。池西言水(1650-1722)は芭蕉とも交友のあった人で、この句は評判を取って「木枯らしの言水」といわれた。京都の繁華街、新京極通の六角寄りの東側に和泉式部の供養塔で知られる誠心院がある。言水の句碑もひっそりと建っている。山口誓子に「海に出て木枯帰るところなし」という句があり、言水の句を本歌取りにしたそうである。

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