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2022年6月21日 (火)

三四郎とストレイシープ

Photo_2    「ストレイシープ(迷える羊)」という言葉は、聖書のマタイによる福音書18章10~14節に由来する。100匹の羊の中の一匹が迷子になり、羊飼いは99匹の羊を残して迷子の羊1匹をさがしに行かないだろうか、というイエスのたとえ話がある。夏目漱石の小説「三四郎」の中にも里見美禰子という女性の謎めいた言葉として印象的に使われている。一般にこの言葉は聖書の中では「罪人」という意味で使われている。漱石「三四郎」においてどのような意味で使ったのか解釈をめぐってはさまざまな意見がある。漱石も読者がいろいろな受け止めができることを意図したものであろう。

    小説の終わりで、美禰子がかすかな声でいう。「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」美禰子はストレイシープが自分のことであり、三四郎を好きであることを告白している。これに対して三四郎は「ただ口の内でストレイシープ、ストレイシープと繰り返した」で小説は終わる。

    ところが英語の聖書には「ストレイシープ」という語は見られない。漱石が英国留学時代に研究したヘンリー・フィールディング(1707-1754)の「トム・ジョーンズ」(1749年)には「ストレイシープ」がでてくる。三四郎の友人の佐々木与次郎が「ダーター・ファブラ」(他人事ではないの意)という言葉をよく意味を知らずに使っている。岩波文庫の注では「デ・デ・ファブラ」はホラチウス「風刺詩」の言葉とあるが、それは初出であって、おそらく漱石はロバート・ブラウニングの詩集「男と女」を読んで「ストレイシープ」「デ・デ・ファブラ」という語から小説のインスピレーションを受けたものであろう。

2022年4月29日 (金)

「昭和の日」と昭和文学史

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    昭和2年7月、芥川龍之介が自殺した。遺書には「将来に対する唯ぼんやりとした不安のため」死ばかりを考え続けていた、としるされていた。芥川の死は、良心的な知識人の苦悩の末の敗北として受け取られ、大きな衝撃を社会に与えた。昭和3年、ナップが結成され、以後3年半にわたってプロレタリア文学運動の中心となる。昭和4年「蟹工船」「太陽のない街」、昭和5年「機械」「聖家族」、昭和6年「つゆのあとき」、昭和8年「若い人」「春琴抄」、昭和10年「蒼氓」「真実一路」、昭和11年「冬の宿」「晩年」、昭和12年「暗夜行路」完結 「旅愁」「雪国」「濹東綺譚」、昭和13年「麦と兵隊」、昭和14年「歌のわかれ」、昭和16年「菜穂子」、昭和18年「細雪」、昭和21年「灰色の月」「死霊」、昭和22年「斜陽」「深夜の酒宴」、昭和23年「俘虜記」、昭和24年「人間失格」「仮面の告白」「足摺岬」「浮雲」、昭和25年「武蔵野夫人」、昭和26年「壁」「広場の孤独」、昭和27年「真空地帯」「二十四の瞳」、昭和28年「火の鳥」、昭和30年「太陽の季節」、昭和31年「金閣寺」「氷壁」、昭和32年「死者の奢り」「女坂」「人間の壁」、昭和33年「飼育」「氾濫」、昭和34年「敦煌」「海辺の光景」、昭和35年「忍ぶ川」、昭和36年「パリ燃ゆ」、昭和37年「砂の女」、昭和38年「砂の上の植物群」、昭和41年「黒い雨」、昭和42年「レイテ戦記」、昭和48年「月山」、昭和50年「火宅の人」、昭和51年「限りなく透明に近いブルー」、昭和52年「エーゲ海に捧ぐ」、昭和53年「風の歌を聴け」、昭和56年「吉里吉里人」、昭和62年「孔子」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年4月16日 (土)

康成忌

Photo_2   1972年のこの日、川端康成(1899-1972)がガス自殺した。川端を偲んでか知らぬが本日NHKでは「雪国」を放送する。ドラマには原作にない部分も深堀りして描いており興味深い。川端川端は「掌の小説」という短編集を若い頃から書いている。全部で122編もあるが、例えば39番目の「一人の幸福」という一編は結びの言葉が有名である。「一生の間で一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ」と書いている。このように健全な精神を持っていたが、晩年の川端はこれらを否定するようになった。ノーベル賞の授賞記念スピーチで「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という道元の歌を引用し、日本人の季節の移り変わりの中に感じる美意識を紹介している。死生観や美意識を小説のテーマに幾度となく取り上げてきた川端であるが、自身の人生の最晩年において、大往生で死すか、文学に殉ずるか、という選択は作家としての一つの決断であろう。川端は、ある出版人に「谷崎や志賀の死は文学者の死ではない」と言ったと伝えられている。数年後、ガス自殺を遂げた日本人初のノーベル文学賞作家の死は社会に大きな衝撃を与えたが、2年前の三島由紀夫(1925-1970)の割腹自殺と同じように日本人固有の死の美学という印象が強い。明治以降の近代文学作家をみても北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、田中英光、原民喜、久坂葉子、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦、鷺沢萌、森村桂と主な作家だけでも十数人が自殺している。海外でみると、ジャック・ロンドン、ヴァージニア・ウルフ、アーネスト・ヘミングウェイなど作家の自殺は意外と少ない。それも死の美学に殉じたという感じはない。日本人の作家とて自殺の理由は病気や経済的理由などそれぞれであろうが、三島由紀夫、川端康成などの自殺の動機は謎が多いが、死の美学に殉じたという表現がよくなされるようである。(4月16日)

2022年3月 4日 (金)

有島武郎の家系

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    有島武郎は、明治11年3月4日、東京の小石川水道町52番地に生まれた。父有島武は当時大蔵省の権少書記官をしていた。武は晩婚で、37歳で、母幸子(ゆきこ)25歳との間に初めてできた長男であったから、ひとしお喜んだ。だが、やがてこの夫婦の間には、武郎を頭に、五男二女が生まれ、七人の子持ちとなる。七人のうち、武郎とともに、次男壬生馬(みぶま、明治15年生まれ)、四男英夫(明治21年生まれ)、の三人までが芸術家となった。壬生馬は小説家で洋画家の有島生馬、英夫は小説家の里見弴である。一家から三人も芸術家を出した父母の血は何かとさぐってみても、満足な答は、なかなかでてこない。むしろ薩摩藩の一支族北郷氏の平佐郷の下級武士で、薩摩藩の陪臣である父や、南部藩の江戸表留守居役を父にもった母に、有島兄弟からみて、逆に芸術家的素質がひそんでいて、たまたま兄弟の出生によって立証されたとみるべきだろう。

   武郎兄弟の両親は、いずれも時代の嵐に貧困と苦渋とをなめて、苦労して育った。父方の祖父は、平佐藩のお家騒動にまきこまれて流罪に処せられていたから、父が貧困から身をおこさねばならなかったことは、たやすく察せられよう。維新後薩長政府といわれる明治政府に仕官して、時流にのって出世街道をたどり、実業界に身を投じ、やがて麹町の下六番町に広大な旗本屋敷をかまえて、成功者となった。早くから洋学を学んだ才覚にもよるのであろうが、また閥族の引きたてによるものであることは否めない。母はまた幼くして祖父を失い、維新の変動に一度は朝敵とされて、苦難を味わい、貧困のうちに、一家の再建をはかる祖母を助けて、苦労をした。やがて母は武と結婚して、初めて安堵の胸をなでおろしたことであろう。両親ともに過去の結婚に二度までも失敗を重ねているのだから、世間的にいって、この結婚によって初めて幸福をつかんだことになる。

 有島武郎は父武についての回想のなかで、次のように述べている。

「私の眼から見ると、父の性格は非常に真正直な、又細心な或る意味の執拗な性格を有つい居た。そして外面的には随分冷淡に見える場合が無いではなかったが、内部には恐ろしい熱情を有つた男であった。此の点は純粋の九州人に独特な所である。一時に或る事に自分の仕事にでも、熱中すると、人と話をしてゐながら相手の言ふ事が聞き取れない程他を顧みないので、狂人のやうな状態に陥つた事は、私の知つて居るだけでも、少なくとも三度あった。」

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年2月24日 (木)

直木三十五の速筆

Photo     直木賞は近年、葉室麟(第146回)、辻村深月(第147回)、朝井リョウ(第148)、安部龍太郎(第148回)、桜木紫乃(第149回)、朝井まかて、姫野カオルコ(第150回)、黒川博行(第151回)、西加奈子(第152回)、東山彰良(第153回)、青山文平(第154回)、荻原浩(第155回)、恩田陸(第156回)、佐藤正午(第157回)、門井慶喜(第158回)、島本理生(第159回)、真藤順丈(第160回)、大島真澄(第161回)、川越宗一(第162回)、馳星周(第163回)、西條奈加(第164回)、佐藤究(第165回)、澤田瞳子(第165回)、今村翔吾(第166回)、米澤穂信(第166回)がそれぞれ受賞している。

    現在の作家はパソコンやワープロで原稿を書くだろうが、むかしはペンが一般的な筆記用具であった。もちろん万年筆という高級な筆記用具もあるが、貧乏な文士は「つけペン」が主流である。芥川龍之介の原稿の字の小さいのは知られているが、それよりも久保田万太郎が小さく、直木三十五はさらに細かくで細い字を書く。それに速筆である。普通の人は1日に400字詰原稿用紙10枚程度だが、直木は1日に60枚は書いた。銅色のGペンをペン軸に差し込み200字詰の原稿用紙に書く。その無理がたたって昭和9年2月24日、43歳の若さで死んだ。

2022年2月22日 (火)

おでんの日

 本日は「おでんの日」。波乱万丈、貧乏暇なし、平々凡々と、人にはさまざまな人生があるものの、所詮はみんな同じ一生である。  江戸川柳に、「どぶろくとおでんは夜の共稼ぎ」がある。屋台の寒い冬には屋台のおでんが美味しい。ホトトギスの高浜虚子(1874-1959)には、何故かおでんの句が多い。虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。虚子におでんの句が多いのは、平凡を愛する心が人生観となっているからであろうか。虚子は明治7年2月22日、愛媛県温泉郡町新町で生まれた。

 

  振り向かず返事もせずにおでん食ふ

 

  おでんやを立ち出でしより低唱す

 

  戸の隙におでんの湯気の曲り消え

 

  硝子戸におでんの湯気の消えていく

 

  志 俳諧にあり おでん食ふ

 

  おでんやの娘愚かに美しき

 

 

2022年2月 7日 (月)

鎌倉殿の13人、北条宗時の最期

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 大河ドラマ、昨夜の放送は「兄との約束」源頼朝が伊豆で挙兵。石橋山の戦いで大庭景親らの軍勢に敗れる。まだ1180年の話である。

   1184年のこの日、一ノ谷の合戦があった。源義経率いる部隊は、鵯越をこえて、背後からの奇襲で平氏軍を破った。この戦いでは多くの平氏の公達が死亡した。薩摩守忠度、平通盛らは戦死した。もっとも有名な話は敦盛の最期であろう。

  平敦盛は「平家物語」では一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実との一騎打ちの末に討たれたことになっている。だが歌舞伎「一谷嫩軍記」では敦盛は実は後白河法皇のご落胤で、義経の命をうけて熊谷直実が救出するというストーリーである。一見、荒唐無稽な話のようだが、広島県の永江の里(庄原地方)には古くから「敦盛さん」という民謡が伝わり、それによると敦盛は討ち取られたのではなく、庄原に逃れて生涯を終えたという。熊谷次郎の一子の小次郎が身代わりとなって、許婚の玉織姫と共に逃れたという話も絶対に有り得ないとまでいえない。敦盛の「青葉の笛」も正式には「小枝」(さえだ)といい、鳥羽院から祖父忠盛が賜ったものであった。熊谷次郎が我が子を失ってまでも守らなければならなかった高貴な人というのは天皇家の血をひいているからであろうか。のちに熊谷直実は出家して法然の弟子となって蓮生坊と名のったという。(2月7日)

 

 

 

 

 

2022年1月23日 (日)

八甲田山雪中行軍遭難事件

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   日本陸軍は対ロシア戦に備えて、雪中行軍の訓練を計画した。開戦した場合、津軽海峡と陸奥湾を封鎖されると、青森・弘前、青森・八戸間の交通は八甲田山系を縦断する道路を利用せざるを得なくなるが、雪深い冬期の交通が可能か否か、未だ確認されていなかった。そのため陸軍の実験行軍を決定、青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第31連隊に八甲田山の縦走を命じた。明治35年1月23日6時、青森歩兵第五連隊215人(神成文吉、山口鋠)は出発する。だが途中、吹雪のため進退を決するべく作戦会議が開かれた。悪天候を見れば退却は明らかであったが、大隊長の決断で前進が決まった。こうして猛吹雪で道を迷って彷徨、25日には199人が凍死した。この大惨事は準備不足と天候の急変が原因であるが、加えて指揮官の無謀な判断が多大な犠牲を強いる結果となった。同じ時期、反対側の三本木から青森へ進んだ弘前歩兵第31連隊(福島泰蔵)は11日間にわたる全行程を踏破し、無事に青森に帰還している。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は二隊を対比し、自然との闘いを迫真の筆致で描いている。ちなみに福島泰蔵は3年後、日露戦争黒満台会戦において戦死している。享年38歳。

 

 

2022年1月21日 (金)

久女忌

 本日は近代俳句における最初期の女性俳人・杉田久女(1890-1946)の忌日。享年56歳。代表句「足袋つぐやノラとならず教師妻」「谺して山ほととぎすほしいまま」(1月21日)

 

2022年1月19日 (水)

森鴎外の雅号

  森鴎外は1862年のこの日、現在の島根県津和野で生まれた。森鴎外の鴎外、鴎外漁史は雅号であり、本名は森林太郎である。諱(いみな)は高湛(たかやす)といい、姓は源である。雅号はこの他にも紺珠居士、観潮楼主人その他いろいろと使っているが全部でいくつあるか調べてみたい。ところで、雅号を持つということは中国、韓国、日本の古い文人墨客の伝統であって、この伝統が廃れたのは大正末期ころだといわれている。

    森鴎外の雅号は、学生時代には参木舎、五木生、索舟居士、転丸堂主人など。花園町・太田原在住のころは顕微斎主人、侗然居士、忍岡樵客、緑外樵夫、湖上逸民、台麓学人、小林紺珠、鐘礼舎、浮漚子、須菩提、艮崖など、団子坂移住後は観潮楼主人、千朶山房主人、隠流(小倉左遷時代)、妄人、芙蓉、ゆめみるひと、腰弁当、帰休庵、挟書生などを号した。

    鷗外には5歳下の弟がいる。森篤次郎(1862-1908)で別名、三木竹二という。歌舞伎の劇評家として知られ、40歳で亡くなっている。(1月19日)

 

           

 

 

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