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2020年9月13日 (日)

吾猫の墓

 1908年のこの日、夏目漱石が飼っていた「吾輩は猫である」の主人公のモデルとなった猫が死亡した。書斎裏の桜の樹の下に埋めた。漱石は白木の角材に「猫の墓」と書き裏面に一句をしたためた。「此(こ)の下に稲妻起こる宵あらん」

のち親しい人たちに猫の死亡通知を出した。のち妻・鏡子によって、雑司ヶ谷の漱石の墓地に猫の骨は移された。漱石公園(早稲田南町7)にある猫塚は遺族が飼っていた犬・猫・小鳥の供養のために建てたもので、「吾猫」とは関係がない。(9月13日)

 

 

 

 

2020年9月 1日 (火)

与謝野晶子と関東大震災

   1923年9月1日午前11時58分、東京・横浜を中心としてマグニチュード7.9の大地震がおこった。多くの家屋が倒壊し、ちょうど昼食時に重なり、炊事用の竈から出火して、各地に火災が発生して被害を大きくした。このとき、与謝野晶子は44歳で夫の鉄幹とともに、神田駿河台の文化学院で教鞭をとっており、近くの逓信病院付近に住んでいた。晶子は、こんな短歌を詠んでいる。

 

もろもろのもの心より搔き消える天変うごくこの時に遭ひ

 

天地崩(く)ゆ生命を惜む心だに今しばしにて忘れはつべき

 

 また文化学院に預けておいた「新新源氏物語」の原稿も焼失してしまった。

 

十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰

 

 

2020年8月10日 (月)

文学忌

   「好色一代男」などの浮世草紙で知られる井原西鶴の命日8月10日(1693年)にちなんだ「西鶴忌」。芭蕉忌は10月12日、近松忌は11月22日。文学忌は、故人をしのばせる季節の風物誌などにちなんで名付けることがある。政治家には忌日をしのぶ風習はあまりない。例えば、正岡子規の「糸瓜忌」、梶井基次郎の「檸檬忌」、芥川龍之介の「河童忌」、太宰治の「桜桃忌」、司馬遼太郎の「菜の花忌」、渡辺淳一の「ひとひら忌」、井上ひさしの「吉里吉里忌」などが有名である。だが、12月9日の夏目漱石の命日は「漱石忌」というだけで、別名はない。漱石ご本人が「文学忌なんていらない」といったかどうかは知らない。そういえば立派な文学記念館もない。数年前に新宿区早稲田にこじんまりとした「漱石山房記念館」が開館した。

 

 

2020年6月23日 (火)

独歩忌

Kunikida   本日は明治の文豪、国木田独歩の命日。国木田独歩は、明治34年、近代画報社に入り編集の仕事に携わったことから、明治39年8月24日、東京芝区桜田本郷町17番地に独歩社を起こし、「近事画報」「新古文林」「婦人画報」その他を同社からひきついで出版した。数冊の単行本、十種類余りの雑誌を刊行したが、「婦人画報」を除いて売れ行きはおもわしくなかった。独歩社の経営はうまくいかず、その後、経営は破綻し、後半生の生活は経済的にはめぐまれなかった。明治41年2月、肺を患って入院、療養の甲斐なく、6月23日、36歳で他界した。

   しかし、独歩と同じ早稲田出身の鷹見久太郎(思水、1875-1945)、窪田空穂(1877-1967)らは独歩社の若手社員として編集出版の仕事を学んだ。のちに鷹見は東京社を創設し、「婦人画報」「少女画報」「コドモノクニ」などの出版で成功をおさめた。独歩が創刊した婦人総合雑誌が100周年を越えている。最初の妻である佐々城信子との離婚で女性に苦労した観のある独歩であるが、有名な婦人雑誌の生みの親であるというのも人生の妙味であろう。

 

 

2020年6月16日 (火)

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  本日は756年の楊貴妃の忌日(諸説あり)。享年38歳。楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

Yjimage2ilbljno ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

 

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

 

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

 

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。(6月16日)

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

 

 

2020年6月 2日 (火)

丹波路・本能寺・山崎

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 豊臣秀吉が本陣を置いた宝積寺

   天正10年6月1日、深夜、明智光秀は1万3000の軍を率いて亀山城を出陣、山陰道を東進し、途中丹波と山城の境の老ノ坂を越え、沓掛を経て京に入る。2日未明、本能寺を奇襲し、織田信長を討つ。本能寺は当時、四条西洞院にあり、寺域は東西約140m、南北約270m。寺ではあるが、四方に塀をめぐらした小城郭といった観があった。豊臣秀吉に本能寺の変報が舞い込んだのは3日の晩のことであった。そして7日には居城の姫路城に入った。9日、大軍勢を率いて東上し、11日には尼崎に到着。12日、秀吉軍は摂津富田に進出、池田恒興らが参軍。13日、秀吉は神戸信孝と丹羽長秀両将が参軍するや、正午ごろ、山崎に着陣して天王山中腹の宝積寺に本営を置いた。明智軍1万6000対秀吉軍3万6000。激闘すること2時間余。明智光秀は豊臣秀吉に撃破された。丹波路と山崎は明智光秀にとって野望の道である。それゆえ、丹波路にはいまでも何となく歴史の香が漂っている。(6月2日)

 

 

2020年5月29日 (金)

白桜忌

201404070005_001_m   1942年のこの日、女流歌人・与謝野晶子は家族や弟子らにみとられ、東京荻窪の自宅で没した。享年65歳だった。晶子の法名は「白桜院鳳翔耀大師」。同年9月に歌集が刊行され、法名にちなんで「白桜集」と名付けられた。晶子の忌日も「白桜忌」とも呼ばれる。

   与謝野晶子と言えば日露戦争に出征した弟を思い、「君死にたまふこと勿れ」という反戦詩を書いたことで知られているが、実は時代の変化と共に天皇崇拝に傾倒し、戦争賛美を詠むようになっていく。

 水軍の大尉となりて我が四郎 み軍にゆく猛く戦へ

「白桜集」に載せられた歌を詠んだ頃には、息子に「戦地へ行け」と詠って送り出す母になっている。(5月29日)

 

 

 

 

 

 

2020年5月27日 (水)

百人一首で藤原姓は何人採られているか?

Photo

 

  本日は「百人一首の日」。1235年のこの日、藤原定家によって小倉百人一首が完成されたといわれる。小倉百人一首の中で藤原姓はたくさんいるだろう。だが実際に何人か?というとはっきりとした回答をしたものが見当たらない。案外と調べるのが難しい。例えば、従二位家隆は藤原家隆であり、権中納言定家は藤原定家である。このほか藤原氏出身でありながら、別称で呼ばれている場合もあるかもしれない。つまり正確ではないが、一応はっきりとわかるだけで14人もいる。

藤原興風、藤原清輔、藤原実方、藤原敏行、藤原道信、藤原基俊、藤原義孝、藤原実定、藤原俊成、藤原家隆、藤原定家、藤原朝忠、藤原伊尹、藤原道雅。

芭蕉「閑さや」の句、何ゼミか?

閑さや岩にしみ入る蝉の声

  1689年、松尾芭蕉は出羽の立石寺を訪れたときの句である。ひっそりとして、閑かな山寺。一山の岩にしみ入るように、蝉の声が澄み透ってきこえる。1926年、この蝉の種類をめぐって斎藤茂吉と小宮豊隆が論争している。アブラゼミと主張した斎藤に対して、小宮は威勢のよいアブラゼミよりも、声が細く澄み切っているニイニイゼミの方がふさわしいとした。元禄2年5月末は太陽暦では7月13日である。この時期、アブラゼミは少なく、ほとんどがニイニイゼミである。結局、茂吉のアブラゼミ説は敗れた。のちに荻原井泉水は「涼しげに鳴くヒグラシではないかと思う」と著書に書いている。芭蕉が聞いた蝉の種類が何であったかは、決定的な証拠はなく、永遠の謎といえるが、この時期と場所から推定すると、ニイニイゼミと考えてほぼ間違いないということである。(5月27日)

 

 

2020年4月26日 (日)

飯田蛇笏と門人たち

Photo_4 柴田白葉女が蛇笏に宛てた葉書

 

  飯田蛇笏(1885-1962)はホトトギスを代表する俳人で、甲斐の自然と生活をとらえた端厳荘重な作風で知られる。明治18年4月26日、山梨県東八代郡境川村に生まれる。本名は飯田武治(いいだたけじ)。飯田家は旧幕時代苗字帯刀を許された大地主であった。早稲田大学時代、高浜虚子の「俳諧散心」に参加し、本格的に俳句への道を歩み始める。明治42年、一切学術を捨て、所蔵の書籍全部を売り払い、家郷に帰り、田園生活に入る。以後、生涯を山梨で過ごし、山国の自然や生活を舞台に、風土に生きる心を詠い続けた。大正初年代、俳誌「キララ」の主選者に迎えられ、その後、主宰となって、誌名を「雲母」と改めた。昭和初年には、「山廬集」をはじめとする句集、随筆集、評論集を刊行。戦中、戦後にかけて、両親をはじめ、三人の子供の死に遭遇、句境は、次第に深まり、戦後も秀作の数々を詠み続けた。生前、一基たりとも句碑の建立を許さなかったが、没後建てられた唯一の句碑がある。

 

  芋の露 連山影を 正しうす

 

   秋のすがすがしい朝、戸外に出てみると、芋畑の芋の葉にはびっしょりと露が降りていて、大粒の露の玉が朝日に白くきらめいている。畑のはるか前方には、周囲をとりまくようにして、南アルプスの山脈が、澄み渡った秋空に高くそびえ、姿を正すかのようにくっきりと連なっている。蛇笏30歳の時の俳句。平面的なホトトギス俳句とは異なり、内に張る気迫をもって、自然にきびしく向きあう姿勢から生まれた、静かだが、寸分のゆるみもない、力が満ちた作である。

 

くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり

 

刈るほどに やまかぜのたつ 晩稲(おくて)かな

 

雪晴れて わが冬帽の 蒼さかな

 

山国の 虚空日わたる 冬至かな

 

をりとりて はらりとおもき すすきかな

 

雪山を はひまはりゐる こだまかな

 

山の童の 木莵(くず)とらへたる 鬨あげぬ

 

地靄して こずゑにとほく 春鶫(はるつぐみ)

 

    温情あふれる人柄により蛇笏には門人も多かった。西島麦南(1895-1981)、松村蒼石(1887-1982)、中川宋淵(1907-1984)、佐々木有風(1907-1959)、柴田白葉女(1906-1984)、高橋淡路女(1890-1955)などすでに故人となられた。柴田白葉女は昭和59年、NHKの取材を装った刑務所から出所した男・安田則夫に椅子で撲殺され2000万円の株券を盗まれた。犯人は服役中に読んだ俳句雑誌で犯行を思いついたという。恐ろしい話である。

 

 

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