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2026年1月22日 (木)

北海道と漱石

 夏目漱石は生粋の江戸っ子で、その本籍地は東京(江戸牛込馬場下横町)だと思っている方が多いだろう。しかし実は22年間も本籍が北海道にあったのです。本籍は「後志国岩内郡吹上町17番地浅岡仁三郎方」ちなみに浅岡仁三郎とは三井物産硫黄山の御用商人であり、夏目家とは直接知り合いというわけではなかった。東京から後志国岩内へ転籍したのは1892年(明治25年)4月5日。1897年(明治30年)1月22日に岩内郡鷹台町54番地に移転した後、1914年(大正3年)6月2日に東京に籍を戻している。なぜ漱石は北海道に籍を移したのであろうか。当時、国内では徴兵制が敷かれていた。漱石は25歳の学生なので徴兵猶予がありましたが、卒業後徴兵される可能性がありました。そこで当時免除地域あった北海道に籍を移転して徴兵逃れという方策をとったものと考えられる。漱石は一度も岩内を訪れたことや北海道の地へ旅行したことも一度もなかった。1969年には、漱石の本籍があった場所に「文豪夏目漱石立籍地」と書かれた記念碑が建立された。岩内町の郷土館には夏目漱石の本物の戸籍謄本が展示されている。

 

 

2026年1月17日 (土)

漱石の母・高橋千枝

    夏目漱石は母・夏目千枝(1826-1881)の思い出を『硝子戸の中』で次のように書いている。

   私の知っている母は、常に大きな眼鏡を掛けて裁縫をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、球の大きさが直径2寸以上もあったように思われる。母はそれを掛けたまま、すこし顎を襟元へ引き付けながら、私を凝と見る事が屡あったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、何時でも母の背景になっていた一間の襖を想い出す。古びた張交の中に、生死事大常迅速云々と書いた石摺なども鮮やかに眼に浮んでくる。

   夏になると母は始終紺無地の絽の帷子を着て、幅の狭い黒繻子の帯を締めていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、何時でもこの真夏の服装で頭の中に現れるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。

   漱石の実母・ちゑ。四ッ谷大番町(現・新宿区大京町)の福田庄兵衛(質商鍵屋)の三女(鶴、久、ちゑ、三人の娘がいた)。ちゑは長らく大名(明石または久松)の奥女中をつとめたが、下谷の質屋に嫁したが、不縁となり、長姉鶴の婿、芝金杉1丁目の高橋長左衛門(炭問屋)の養女として安政元年(1854年)に夏目小兵衛直克の後妻に来た。直克の先妻は、千駄谷の名主斉藤勘四郎の娘で嘉永6年(1853年)に死んで、あとに佐和、房の二女を残した。

    慶応3年2月9日(旧暦1月5日)、千枝(ちゑ)は、四男一女のあとに金之助を産む。乳が出ないためもあって、生後すぐに四ッ谷の古道具屋(一説によれば源兵衛村の八百屋)に里子に出すが、すぐに連れ戻された。しかし明治元年11月、塩原昌之助(29歳)の養子となり、内藤新宿北町にあった同家へ引き取られた。養母は、やす(29歳)。明治9年、養父母の離縁で、金之助は塩原家在籍のまま実家に帰る。

    明治12年3月、金之助は東京府第一中学校正則科第七級乙に入学する。(校長・村上珍休)明治14年1月21日、千枝の死にあって、金之助は大助の官舎に行っており、死に目に逢っていない。中学校では勉強をおろそかにして、退学した金之助であるが、母の死後、三島中洲の二松学舎に転じて漢学を学び、文学に関心を持つようになる。

2026年1月 9日 (金)

文豪の書斎と机

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 司馬遼太郎記念館

 明治の文豪、森鴎外と夏目漱石とが、時をしばらくずらしながらも共に書斎として使った家が、明治村に展示されている。もともとは、明治20年頃、医学博士中島巽吉が自分の新居として現在の東京都文京区千駄木に建ててたあった住宅だったそうです。新築後入居することなく空き家だったところを、鴎外が明治23年に借り、1年半ばかりを過ごしたのち、今度は明治36年から39年にかけて漱石が住み、どちらも同じ部屋(8畳間)を書斎として使っていたということです。鴎外の「舞姫」や漱石の「吾輩は猫である」はこの家で執筆していたそうです。

   関西には川端康成(茨木市)をはじめ与謝野晶子(堺市)、佐藤春夫(新宮市)、志賀直哉(奈良市高畑)、谷崎潤一郎(芦屋市)、司馬遼太郎(東大阪市)など日本を代表する作家の文学記念館や旧居がある。書斎を再現しているところもあり、生前のままに日用品が置いている。文豪にとって机は切っても切れない相棒である。宇野千代は森本毅郎とのインタビューで「小説は誰でも書ける。毎日机の前に坐ることである。毎日坐らないと書けませんよ。書くことよりも大事なのは机の前に座ること」と語っている。

 

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 志賀直哉が使用していた机

 

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谷崎潤一郎が使用していた根来塗の机(倚松庵)

 

  これら文豪は関西以外にも各地に展示室が散在している。

 

 

 

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三国路与謝野晶子紀行文学館「椿山房」(群馬県利根郡みなかみ町) 与謝野晶子愛用の黒檀の机

青々忌

 ホトトギス派の俳人・松瀬青々(1869-1937)の1937年の忌日。大阪の人。1899年上京し、正岡子規に師事。ホトトギス編集に従事したが、翌年帰郷する。大阪朝日新聞社に入社。「朝日俳壇」を晩年まで担当した。句集「妻木」「鳥の巣」「松笛」(1月9日)

年玉やかちかち山の本一つ

風呂吹にとろりと味噌の流れけり

日盛りに蝶のふれ合う音すなり

天地の間にかろし蝉の殻

鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな

人間の行く末おもふ年の暮

 参考文献:「松瀬青々全句集」邑書林 2006年

 

 

2025年12月30日 (火)

横光利一忌

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   本日は小説家、横光利一の1947年の忌日。急性腹膜炎で49歳の若さで逝去した。最初の長編「上海」では新感覚派的手法による野心的実験を試みた。次いで「機械」「寝園」「紋章」では自意識過剰に悩む知識人を心理主義的手法や、四人称の設定によって追及。この論の実践として「家族会議」を書いた。大作「旅愁」を書き始めたが、未完のまま没した。

   作家に関わる作品や遺品、あるいは写真で紹介しようとする試みは近年さかんで、全国各地に文学館・記念館は数百あるといわれる。だが不幸にも戦前期、昭和文学の主導者であった横光利一文学記念館はない。単独館がないという意味で、展示室の類は数箇所ある。妻の横光千代の書簡が価格12000円で市場で販売されているが、記念館がないと散逸してしまう恐れがあるだろう。横光の父が測量技師で、幼い頃、各地を転々としたことも関係するであろう。生れは福島県北会津郡の東山温泉の旅館「新瀧」だった。千葉県佐倉へ移り、明治37年に母の故郷三重県阿山郡東柘植村で落ち着いた。横光利一の故郷は三重県柘植であろう。ここには柘植歴史民俗資料館や三重県立上野高校明治校舎「横光利一史料展示室」がある。妻千代の故郷山形県鶴岡市の大宝館にも展示室がある。(12月30日)

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三重県立上野高校明治校舎には中学時代の日記など所蔵し、最も充実したコレクションである

 

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  将棋をさす、川端康成と横光利一 昭和12年

2025年12月15日 (月)

痔と「彼岸過迄」

    明治44年12月15日の夏目漱石の日記。

今日から小説を書こうと思ってまだ書かず。他から見れば怠けるなり。終日何もせざればなり。自分から云へば何もする事が出来ぬ位小説の趣向其他が気にかかる也。

    以上で明治44年の日記は終わっている。おそらくそこまで書いたところで、小説の書き出しの文句が浮かんだから、そのまま小説の方へかかったのだと思う。そのころ漱石は、神田の佐藤病院に通って痔の治療をしていた。

   漱石は「この病気はいつなおるでしょうか」と医師に聞いた。すると佐藤医師は「サア、彼岸過迄かかりましょう」と返事した。漱石は早速それを小説の題にいただいてしまった。

   明治45年1月2日から東京、大阪、両朝日新聞に「彼岸過迄」の掲載が始まった。元日には「彼岸過迄に就いて」を載せる。小説は表題の彼岸過迄より少し後の4月29日まで続いた。

 

 

2025年12月 9日 (火)

漱石忌

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名は「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

 

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 晩年の漱石が到達した境地として、則天去私が広く知られている。意味は「自然の摂理に従い、私的な感情や都合を捨てる」ということ。「こころ」や「明暗」の中には、この則天去私の思想が色濃く反映されている。則天去私は漱石の造語で、一般には禅の教えと深く通じる部分があるが、最近の学者の研究によればむしろベルクソンなどの西洋哲学の影響が大きいとされている。

  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。

(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978年3月

渡辺清「明治人の哲学的信仰としての「則天去私」問題 夏目漱石の哲学的主張をめぐる考察」上智大学哲学科紀要29  2003年3月)

 

 

 

2025年12月 1日 (月)

林芙美子「花の命は短くて」の全文

   林芙美子の「花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき」は、「浮雲」や「放浪記」の中の一節のように思われがちだが、実はどの作品にも出でこない。生前に芙美子が直筆でしたためた色紙が残るだけであった。しかし2009年、村岡花子の遺品の中に、原稿用紙に書かれた芙美子の短詩が発見された。

 

風も吹くなり

 

雲も光るなり

 

生きてゐる幸福は

 

波間の鴎のごとく

 

漂い

 

生きてゐる幸福は

 

あなたも知ってゐる

 

私もよく知っている

 

花の命はみじかくて

 

苦しきことのみ多かれど

 

風も吹くなり

 

雲も光るなり

 

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 五ノ坂の旧邸         新宿中井の旧居

2025年11月28日 (金)

芭蕉忌

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   芭蕉忌。陰暦10月12日(陽暦の11月28日)。桃青忌、時雨忌、翁忌などとも呼ばれ、旧暦の気候にあわせて毎年11月の第2土曜日に法要が営まれる。

 秋深き隣は何をする人ぞ

    元禄7年秋、芭蕉(1644-1694)は各務支考と共に大坂に行く。園女亭で「秋深き」の句を詠む。斯波園女(1664-1726)は伊勢の神官の娘で芭蕉の門弟であった。数日後、下痢をして床につく。11月末、病床に侍していた呑舟を呼び、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    と書き取らせた。11月26日の暮れ方から高熱を発し、11月28日、申の刻(午後4時頃)、大坂南御堂前の旅舎で永眠した。享年51歳。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、翌日、近江膳所の義仲寺に運んだ。埋葬し、門人の焼香者80人、まねかざるに来る会葬者は300人以上いたと伝えられる。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺(大津市馬場)に葬られたのは、義経や義仲のような悲劇的な最期をとげた武人にとりわけ思いを寄せていたからといわれる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句がある。

  芭蕉忌とよばれるのは、江戸中期以降、俳壇で芭蕉復興が叫ばれるようになってから。素丸の句に「はせを忌の古則や茶飯(ちゃめし)茶の羽織」がある。芭蕉の命日には茶飯を食べて、芭蕉が愛した茶色の羽織を着るという習慣があったらしい。溝口素丸は1795年没。芭蕉発句註解の「説双大全」を著した。

 

 

2025年11月 6日 (木)

馬琴忌

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 鏑木清方「曲亭馬琴」 明治40年

  嘉永元年、1848年のこの日、滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」の作者・滝沢馬琴は82年の生涯を閉じた。墓は文京区小日向の深光寺にある。

滝沢馬琴は、明和4年(1767年)、父・滝沢興義、母・吉尾門左衛門の娘お門の五男として、江戸深川に生まれた。安永5年から天明7年の間、はじめ松平、次に戸田、水谷、小笠原、有馬の各家に仕えたが持前の傲慢な性格と不遜な野望が禍をして、いずれも短期で仕を辞している。寛政元年頃、亀田鵬斎に入門、石川五老から狂歌を学ぶ。翌年山東京伝を訪ねて知遇を得、京伝から貰った大栄山人の号で「用尽二分狂言」を刊行したのが戯作生活のはじめで、旺盛な創作活動が開始された。

  「南総里見八犬伝」(1814-1842)の第1輯が刊行されたのは、馬琴が48歳の時で、最後の第9輯帙下の下編の刊行を見たときは、馬琴は78歳に達していた。つまり八犬伝は28年という長年月を費やされて完成されたものであった。

   天保4年の秋のある朝のことである。67歳の馬琴は右目が見えなくなっていることに気づいた。長年の執筆の疲労が表れたのである。それでも左目がみえるので、苦にすることもなく書き続けていると、天保9年からは左目もかすみだし、11年の夏になるとまったく朦朧たる状態になり、原稿も手探りで書くようになった。八犬伝の完成のため、息子の宗伯(天保6年死亡)の嫁お路(みち)に口述筆記させることで完成しようとした。ところが、お路は無筆に近く、まず字の書きようから教えねばならない。八犬伝は、普通の読本以上に難字僻句が多用されているから、これを教わるお路の苦労は並大抵のものではない。ついには辛さのあまり泣き出すほどである。その内にはお路も仕事になれて、八犬伝の名前くらいは空で書けるようになり、進度もはかどるようになった。そして天保13年(1842年)8月20日、「南総里見八犬伝」が完成した。日本で最も長い小説、いな、世界でも有数の長編小説である。八犬伝の完成のうらには、一人の寡婦の血のにじむような苦闘があったのである。(参考:「南総里見八犬伝」日本の古典16、世界文化社)11月6日

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