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2009年6月16日 (火)

青春の哀しみ(啄木歌集 三首)

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  己が名をほのかに呼びて
  涙せし
  十四の春にかへる術なし

  教室の窓より遁げて
  ただ一人
  かの城址に寝に行きしかな

  潮かをる北の浜辺の
  砂山のかの浜薔薇よ
  今年も咲けるや

   かつて桑原武夫が「日本民族の青春」という一文を書いている。「石川啄木をもちえたことは古今を通じて日本文学の大きな誇りである。鴎外、漱石、藤村等の偉大な存在にもかかわらず、もし一人の啄木がなかったならば、明治文学いな日本近代文学には深く欠けるところのものがあったであろう。青春。日本民族は、古来つねにおおわれていたその美しい青春を、この天才のうちに一挙に開花せしめたといえる。」(啄木全集広告文)

2009年6月15日 (月)

俳人の偽装死

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 野に死なば 野を見て思へ 草の花

 娑婆にひとり 淋しさ思へ 置き火鉢

    蕉門十哲の一人、各務支考(1665-1731)は死んだふりをして、生前葬をしたことで知られる。「オレが死んだら世間の奴らは、オレのことを何というか、知りたいものだ」と妙な気を起こし、宝永8年(1711)死んだと偽って、弟子たちの名で追善句集まで出させ、その後は弟子の名に仮託して論敵をやっつけなお十数年も生きのびたという。死んだふりをすることを「佯死(ようし)」というが、今では偽装死というほうが一般的にわかりやすいだろう。

2009年5月26日 (火)

『大菩薩峠』お浜のモデルは謎の女教師

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「お銀どの」
「はい」
「あの、ここは何村というのであったかな」
「ここは東山梨の八幡村」
「東山梨の八幡村」
「八幡村の大字は江曽原と申すところでございます」
「八幡村の江曽原!」

   人間のもつ業を流転輪廻のなかに描いた中里介山(1885-1944)畢生の大河小説『大菩薩峠』(第6巻慢心和尚の巻)に「八幡村江曽原」という山梨の地名がてでくる。

    中里介山、本名中里弥之助は東京西多摩郡の羽村で生れた。学歴は小学校だけだが、独学で小学校教員となった。15歳の弥之助に大きな影響を与えたと思われる謎の女性がいる。久保川喜世子といい、弥之助と同じ小学校の教員をしていた当時24、25歳の美しい女教師である。髪が黒く、クリスチャンであった。弥之助は彼女と青年クラブの討論会で知り合い、二人はすぐに共鳴しあった。意気投合した二人は羽村に教会を作ろうということになった。坂本という旧家の一室を借りて教会とし、東京から次々と牧師を呼んだ。小学校では弥之助を非難して、「身、教職にあるものが、婦人と同席して、へんな歌をうたう」と騒いだが、弥之助は頑として、きかなかった。教会は西川光次郎のような社会主義者までも講演に呼んだ。このためか弥之助は郡視学ににらまれて、羽村から多摩川の対岸の五日市小学校に転勤させられたが、彼は一日だけで辞職してしまった。ほとんど時を同じくして、久保川喜世子も職を辞して山梨のある医者のもとへ嫁にいってしまう。弥之助はこの久保川喜世子に失恋したのだろうか。介山の実弟中里幸作の談によれば、彼がはるばる大菩薩峠を越えて彼女の実家八幡村江曽原まで追っかけて一泊したことがあったという。小説『大菩薩峠』に登場する宇津木文之丞の妻お浜の出身地も江曽原である。おそらくお浜のモデルは久保川喜世子であろう。これまで『大菩薩峠』は大逆事件の2年後、大正元年に起稿され、翌年に「都新聞」に連載されたことでもわかるように、鬱屈した心情を仮託した思想小説といわれるが、介山自身の苦い失恋体験も投影されているようである。

2009年5月21日 (木)

貧乏の歌

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  吾れ遂に
  飢ゑて死ぬとも今の世に
  反逆の子となりて倒れむ
                                   渡辺順三

    渡辺順三(1894-1972)は明治27年、富山県生まれ。13歳で父に死別し、14歳の夏、母とともに上京し、家具屋の徒弟となる。少年順三は歌を作り、読書をする。そして啄木の歌を知り、哀果の歌を知り、漸次社会主義思想を自らのものとする。

「大正12年の春、私は小僧時代から働いていた家具屋を出た。そしてその時の退職手当を資本にして池袋で小さな印刷屋を開業した。ところが間もなく9月1日の大震災にあい、これからの数年間が貧乏と病気の連続で、文学どころではなかった」と『自選歌集』の「あとがき」で語る。昭和3年、新興歌人連盟、プロレタリア歌人同盟などに加わり、プロレタリア短歌運動の中心的存在となった。戦後は「新日本歌人協会」を主宰して活躍する。

2009年5月17日 (日)

草城と草田男

Hi02 日野草城

  おおむねホトトギス俳人は、蕉風推讃者であり、俳句史の研究、とくに芭蕉を神聖化しているのが通常である。古句を鑑賞するのは良いが、自然と新路を開く点において弱い。いわゆる花鳥諷詠にとじこもることになる。このような中からも昭和初期のモダニズムの風潮に乗じて、ホトトギスでも若手の日野草城(1901-1956)が新精神と自由主義を標榜して、新興俳句運動をおこした。だが無季俳句や連作俳句のため草城は昭和7年には「ホトトギス」同人の除名処分をうける。
  昭和9年、日野草城は「俳句研究第2号」に「ミヤコホテル」10作を発表した。

  けふよりの妻と来て泊つる宵の春

  夜半の春なほ処女なる妻と居りぬ

  枕辺の春の灯は妻が消しぬ

  をみなとはかかるものかも春の闇

  薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ

  妻の額に春の曙はやかりき

  麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく

  湯あがりの素顔したしく春の昼

  永き日や相触れし手はふれしまま

  失ひしものを憶へり花曇

   室生犀星は「俳句は老人の文学ではない」として草城を激賞したが、久保田万太郎は「流行小唄程度の感傷」と評した。また守旧派の中村草田男(1901-1983)は「ミヤコホテルとは、厚顔無恥なしかも片々として憫笑にも価しない代物に過ぎない。何と言う救うべからざるシャボン玉のような、はかなくもあわれなおっちょこちょいの姿であろう」と草城を激しく非難している。中野重治も「いい加減な男が、女を浅くたのしんで見ている様子が感ぜられて愉快ではない」と断じている。
    結局、草田男らの徹底した批判の中で、草城の風俗小説風の連作俳句はやがて消えていく。草城は一時俳句を中断し、戦後は闘病生活で54歳という若さで亡くなる。一方の草田男もやがてホトトギスを離れていく。草田男は「私は所謂昨日の伝統に眠れる者でもなければ、所謂今日の新興に乱れる者でもない」といい、新鮮な象徴的観点から、観念や思想を詠う現代俳句への道を開く。

2009年5月14日 (木)

石川啄木の大衆性

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  船に酔ひてやさしくなれる
  いもうとの眼見ゆ
  津軽の海を思へば

   石川啄木(1886-1913)が妻子を盛岡に、老母を渋民に残し、妹の光子と津軽海峡を越えたのは、明治40年5月4日であった。その時の心境を啄木は日記に記している。

「夜九時半頃青森に着き、ただちに陸奥丸に乗り込みぬ。夜は深く、青森市の電燈のみ眠た気に花めきて、海黒し」

    新しい運命を切り開くべく、北海道・函館の地を踏んだのは、翌日の5月5日であった。

    啄木の歌の特徴を挙げるとすれば、先ず第一にその庶民性、大衆性であろう。歌はいずれも平明であり、その点が広く大衆性を受け入れられ、日本近代文学史上、最も有名な国民詩人といわれるゆえんであろう。

  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたわむる

    啄木は北海道に渡って函館、札幌、小樽、釧路と漂白生活を送ったが、明治41年の春、上京して小説家を志すが、その小説が売れないために悩み多い日々を送っていた。啄木「東海の歌」は『一握の砂』巻頭の歌で、啄木の作品中最も有名なものである。

  頬につたふ
  なみだにごわず
  一握の砂を示しし人を忘れず

        *

  砂山の砂に腹這ひ
  初恋の
  いたみを遠くおもひ出づる日

        *

  いたく錆びしピストル出でぬ
  砂山の
  砂を指もて堀りてありしに

   こうして啄木の歌を並べて見ると、津軽海峡、函館、小樽、釧路など流行歌の舞台となる所が多い。石原裕次郎の「錆びたナイフ」(萩原四郎・作詞)がある。

  砂山の砂を 指で掘ってたら
  まっかに錆びた
  ジャックナイフが出て来たよ
  どこのどいつが 埋めたか
  胸にじんとくる 小島の秋だ

   この歌謡曲を聞く一般大衆の胸中に漂白の悲しみが沸き起こるのは、たぶん啄木の愛唱歌を想起するからではないだろうか。

2009年5月11日 (月)

高見順「故旧忘れ得べき」

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    高見順(1907-1965)は明治40年2月、福井県坂井郡三国町平木に生れた。後の枢密顧問官にまでなった阪本釤之助(1857-1936)が福井県知事として赴任していたとき、美人として評判の高間古代との間に高見順、本名高間芳雄が生れたのである。「私は歓迎されない者として生れた」といって高見順は出生について生涯苦しんでいた。

「今ひとたびの」「わが胸の底のここには」「この神のへど」「都に夜のある如く」「乾燥地帯」「インテリゲンチア」「甘い土」、高見順の人と作品(山本健吉)
「現代日本文学19 高見順集」筑摩書房

2009年5月10日 (日)

田宮虎彦「足摺岬」

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    田宮虎彦(1911-1988)は、明治44年、東京医科大学付属病院で出生。船員であった父の転勤のため、姫路・神戸・高知間で移転を繰り返しながら少年時代を過ごす。庶民的ヒューマニズム・正義感と清らかな詩情の漂う作風の私小説で才能を示した。

「物語の中」「末期の水」「菊の寿命」「悲運の城」「大盗余聞」「忠義物語」「ある女の生涯」「異端の子」「朝鮮ダリヤ」「幼女の声」「梅花抄」「土佐日記」「江上の一族」「三界」「異母兄弟」「S町の歴史とその住民たち」「琵琶湖疎水」「比叡おろし」「富士」「菊坂」「かるたの記憶」「父という観念」「暗い坂」「現身後生」「童話」「母の死」「銀心中」「ぎんの一生」「黄山瀬」「愛情について」、田宮虎彦論(渋川驍)

「現代日本文学22 田宮虎彦集」筑摩書房

2009年5月 9日 (土)

開高健と大江健三郎

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 筑摩書房「現代日本文学34」
開高健集「パニック」「巨人と玩具」「裸の王様」「二重壁」「なまけもの」「一日の終りに」「流亡記」「見た」「岸辺の祭り」「告白的文学論」
大江健三郎集「奇妙な仕事」「他人の足」「死者の奢り」「飼育」「人間の羊」「芽むしり仔撃ち」「不意の唖」「戦いの今日」「後退青年研究所」「下降生活者」 大江健三郎論(渡辺広士)

   むかしの文学全集は開高健と大江健三郎はいつもセットになっていた。2人は、ほぼ同じ時期に文壇にデビューした。開高健は昭和5年、大阪の下町に生まれ、昭和32年に「パニック」(「新日本文学」8月)でデビュー。大江健三郎は昭和10年、愛媛の農村で生れ、昭和32年に「東京大学新聞」五月祭賞受賞作として「奇妙な仕事」を発表し、選者であった荒正人や平野謙らの注目を呼んだ。
   ちなみに2人の芥川賞受賞は、開高が昭和32年下半期に「裸の王様」で、大江が昭和33年上半期に「飼育」で受賞している。

2009年5月 6日 (水)

瀬戸内晴美「あふれるもの」

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埴谷雄高「虚空」
安部公房「時の崖」
中村真一郎「恋の重荷」
藤枝静男「欣求浄土」
森茉莉「気違いマリア」
小沼丹「汽船」
小島信夫「返照」
井上光晴「眼の皮膚」
三浦朱門「セミラミスの園」
近藤啓太郎「赤いパンツ」
曽野綾子「海の御墓」
石原慎太郎「完全な遊戯」
城山三郎「メイド・イン・ジャパン」
有吉佐和子「海鳴り」
開高健「パニック」
深澤七郎「南京小僧」
北杜夫「霊媒のいる町」
小川國夫「枯木」
なだ・いなだ「帽子を」
倉橋由美子「パルタイ」
星新一「ボッコちゃん」
瀬戸内晴美「あふれるもの」
水上勉「蜘蛛飼い」
河野多恵子「幼児狩り」
三浦哲郎「初夜」
山口瞳「昭和の日本人」
池田得太郎「家畜小屋」
山川方夫「最初の秋」
永山一郎「皮癬蛼の唄」

「日本文学全集66、現代名作集4」(筑摩書房、1970年)収録作品の一覧である。
永山一郎(1934-1964)という作家は知らなかった。略歴を記す。昭和9年8月11日、山形県最上郡金山町に生れる。金山中学、新庄高を経て、昭和30年、山形大学教育学部卒業。金山町金山小学校勤務。31年、詩集『地の中の異国』を刊行。32年、飽海郡八幡町青沢小学校に転任。33年、庄内児童文化研究会に参加。35年、「夢の男」を「教師の文芸」に発表。金山町明安小学校に転任。36年、最上郡戸沢村古口小学校に転任。37年、「配達人№7に関する日記」を「教師の文芸」に、「雨期の唄」(「皮癬蛼の唄」の第一稿)を「文芸広場」に発表。39年3月26日、新庄市福田の側溝にモーターバイクのまま転落、死亡。

23人の現代作家たち

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   ブックオフで「日本文学全集65、現代名作集3」(筑摩書房、1970年)購入。知らない作家も多数収録されている。選りすぐりの23の短編小説が105円とは安い。

稲垣足穂「黄漠奇聞」
深田久弥「あすなろう」
坪田譲治「お化けの世界」
伊藤永之介「鶯」
中村地平「南方郵信」
北原武夫「雨」
石坂洋次郎「やなぎ座」
田村泰次郎「肉体の悪魔」
原民喜「夏の花」
芹澤光治良「死者との対話」
田中英光「野狐」
十和田操「戸の前で」
神西清「少年」
小山清「落穂拾い」
川崎長太郎「鳳仙花」
石上玄一郎「黄金分割」
由起しげ子「女中ッ子」
松本清張「石の骨」
山本周五郎「その木戸を通って」
藤原審爾「賭金」
丸岡明「薔薇いろの霧」
木山捷平「山陰」
結城信一「湖畔」

  宝塚・逆瀬川駅下車・「女性の書斎・ひとり好き」

2009年4月 1日 (水)

開高健と立原正秋

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   「まったりとした味わい」などという「まったり」は今日よく使用される言葉である。意味を広辞苑第4版(1991年)で引くが見当たらない。不思議に思いながら第6版(2008年)で引くと次のような説明がある。「①味わいがまろやかでこくのあるさま。②人間が落ちついているさま。転じて、ゆっくりとくつろいでいるさま。」

   「まったり」という言葉はこの20年間で日本語として定着してきた新語なのだ。美食家の開高健(1930-1989)が①の意味で最初に使ったといわれる。味覚の表現が②の意味にまで広がったのは「おじゃる丸」の影響が大きいのだろうか?

    開高健は大阪市天王寺区の生まれだが、父の開高義高は福井県坂井市丸岡町の出身。美食家の健が最も好んだ食材は越前ガニだ。昭和52年2月、同じ鎌倉に住み食通で知られる作家・立原正秋(1926-1980)と2人で蟹を食べに行っている。立原は「まことに美味だった。まず足のつけ根の肉を食べ、つぎは甲羅のなかの味噌をほめ、それからそこに熱燗の酒をそそぎ、これまた微妙な味にしたつづみを打ち、最後に足の肉を賞味したのである。私達はただひたすらに食べた。まるで女の躯を愛撫している感じだった」(「夢幻のなか」)と書いている。

2009年3月20日 (金)

荷風の放蕩三箇条

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   永井荷風(1879-1959)といえば若い女性たちに囲まれた写真が印象的だ。売春婦イデス、清純なロザリン、吉野こう、藤枝静枝、芸者八重次など女性関係は多彩である。だがそんな遊び人の荷風も女性に騙された経験がある。

    荷風が関根歌に逢ったのは、昭和2年のこと。荷風48歳、歌21歳。歌は麹町の鈴竜と名乗り芸者をしていた。荷風は千円で彼女を身請けする。歌に店を持たせてから3年後に突然、歌が病気になった。中州病院に2ヶ月入院。医師の診断は「将来、発狂することになるだろう」と。回復する見込みなしと考えた荷風は歌と別れる。「お歌との関係今夕にてひとまず一段落を告ぐ、悲しいかな」と日記に書いている。しかし、荷風は歌にだまされていたようだ。歌は若い男と一緒に酒ををのんでいたことを隠すため、精神病のふりをして医師をだましたのである。

   僕は若い時から一種の潔癖があって、人の前では酔払わないこと。処女を犯さないこと。素人の女に関係しないこと。此の三箇条を規則にしている

   騙されたとわかっても、さすがに荷風は通の遊び人である。へべれけ大臣の記者会見や不倫発覚の芸能人など、昨今の日本人醜態ぶりを見ると、荷風の放蕩人生から学ぶことは多い。

2009年2月28日 (土)

漱石の初恋の女性・日根野れん

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   夏目漱石(1867-1916)が子規に送った手紙(明治24年7月18日付)の中に書かれた「井上眼科医院で見かけた可愛い女の子」とは日根野れん(1866-1908)のことだといわれている。(石川悌二説)

   幼少期、養父・塩原昌之助に引き取られた漱石(7歳)は日根野かつとその連れ子れん(連、8歳)と同じ家に住み、一緒に小学校に通った。明治18年か19年ころ、れんは陸軍軍人・平岡周造(1860-1909)と結婚。夫の任地にしたがって東京を離れていたが、再びれんが東京に戻ったときに偶然に駿河台の井上眼科医院で漱石と再会したらしい。夏目鏡子「漱石の思い出」にも「漱石はトラホームをやんでいて、毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたそうです。すると始終そこで落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面の美しい女、そういうふうの女が好きだとはいつも口癖に申しておりました」とある。漱石の小説の中では「文鳥」(明治41年)にも美しい幼なじみの女・日根野れんを想像するに充分な作品がある。れんは明治41年6月2日に41歳で亡くなっている。

2009年2月22日 (日)

まぼろしの「坊っちゃん」

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  昭和42年12月7日から翌年の1月25日まで放送されたテレビドラマ「さくらんぼ」というのがあった。星由里子がテレビに初主演するというので毎回楽しみで見ていた。源氏鶏太の小説「緑に匂う花」が原作で日活映画では吉永小百合主演で「若い東京の屋根の下」という題になっている。お話しは適齢期を迎えたBG桑野蕗子(星由里子)の家庭に大学生の三上良平が下宿する。二人はお互いに好意を感じながらも会うといつも意地を張って、二人の仲はなかなか進展しない。いわゆるツンデレである。この三上という青年を演じるのが山口崇という新人だった。それまで見たこともないようなタイプの颯爽とした好青年である。それから数年またたくまにお茶の間の人気者となった。そのころ刊行された学研の「現代日本の文学」に山口は短文を投稿している。

  やってみたい「坊っちゃん」の役。新劇俳優山口崇。初めて「坊ちゃん」を読んだのは、中学一年ころだと思います。坊っちゃんのあの正義感に満ちた一徹な性格は、いまだに忘れることができない。機会があれば、ぜひ一度、舞台か映画で、坊っちゃんの役をやってみたいのが、ぼくの夢です。

   残念ながら、ケペルは山口崇の「坊っちゃん」を見た事が無い。もしかしたら舞台であるかもしれないが知らない。これまで池部良、南原伸二、坂本九、中村雅俊、本木雅弘、郷ひろみ、などが演じているそうだが適役だったとは思えない。漱石の映画化はヒットしないというが、山口崇の「坊っちゃん」は昭和43年頃実現していれば、面白かっただろうにと惜しまれる。

   ところで夏目漱石はなぜ明治28年4月、地方の中学へ転任を希望したのか謎とされている。これまで①高等師範でのトラブル②健康に対する被害妄想、ノイローゼなどの病気③経済的理由④失恋説、などあるが、確証はなかった。何か特別の理由があって東京を脱出したかったことだけは明らかであろう。今回、河内一郎の近著「漱石のマドンナ」によるとかなり豊富な資料にもとづき明確に失恋説を採用している。漱石が愛した女性は大塚楠緒子(1875-1910)である。小屋保治(188868-1931)との三角関係であったが、明治28年3月16日、保治と楠緒子は結婚している。漱石も披露宴に出席している。そして4月7日、愛媛に向けて新橋停車場を出発している。漱石自身は「自分は何もかも捨てる気で松山に行った」と弟子に語ったことがあるが、この間の状況を見る限り、失恋説は一番近いように思われる。漱石が大塚楠緒子への恋心を小屋保治に訴えた手紙が多数存在していたそうだが、小屋は関東大震災の直後に全て焼却したという。(磯部尺山子「漱石さんの手紙」渋柿486号、昭和29年10月1日)

  現在、確実な証拠は残っていない。

2009年1月24日 (土)

亀井勝一郎とゲーテ

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   「大和古寺風物誌」で知られる亀井勝一郎(1907-1966)は山形高等学校時代に第二外国語でドイツ語を学んだ。亀井の処女作とでもいうべき「人間教育」(野田書店)は一種のゲーテ論であると本人自ら語っている。昭和12年にはじめて大和の古寺を訪れたのもゲーテの「イタリア紀行」の影響によるものである。ゲーテのイタリア紀行やローマ哀歌にみちびかれて、亀井は日本のローマともいうべき大和を発見したのであろう。亀井は戦中、戦後、日本人の精神史研究に向かった。「古代知識階級の形成」「王朝の求道と色好み」「中世の生死と宗教観」「室町芸術と民衆の心」全8冊の予定であったが、4冊まで終ったところで、59歳でガンで斃れたために結局中絶の形となった。

2008年12月23日 (火)

ツンデレのルーツは石坂文学である

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    むかし家族団らんで見たテレビ番組は、それぞれの人たちの思い出がいっぱい詰まっているようです。このブログでは懐かしいデレビ番組、それもかなり個人的な思いいれのある番組をとりあげるのですが、何人かの方からも共感のお便りをいただき、うれしく思っています。いま多チャンネルの時代で、懐かしい番組に偶然に出会うことがあります。先日、松原智恵子主演の「雨の中に消えて」を放送していました。共演に広瀬みさが出ていて懐かしかったです。

    ところで、舟木一夫が歌う「あいつと私」の主題歌の歌いだしはこんなんでしたっけ。

  愛していると いったら負けで

 愛してないと いったら嘘で

 どうにもならずに

 蹴とばす 小石

 昭和40年代、松原智恵子は、日活のスターでありながら、日本テレビの一時間ドラマに出演し常に高視聴率をマークしていた。体が細くて瞳がきれいで男子はみんな憧れで見ていた。毎日ファンレターが山のように自宅に届けられ、風呂の焚き付けに使っていたとの伝説がある。「山のかなたに」「雨の中に消えて」「あいつと私」「ある日私は」「若い川の流れ」「颱風とざくろ」など。個人的には「ある日私は」が好きだ。これらの多くは石坂洋次郎の原作であり、すでに映画化されたものである。したがって、子どもながらにも、ある程度ストリーを知っているか、あるいは、凡そストーリーが予測できるものが多い。特徴を一言でいうと今でいう「ツンデレ」である。つまりヒロインはツンツンと澄ました態度をとり、主人公の男性とよくケンカをするうちに愛が芽生えるというパターンである。最近の韓国ドラマ、ソン・ヘギョとピの「フルハウス」などもケンカしながらも一つ屋根の下に住み契約結婚するというコメディだが、ピのツンデレぶりがたまらない魅力である。これら今やロマンチック・コメディーの王道ともいえる「ツンデレ」の生みの親は、石坂洋次郎(1900-1986)である。そして映画史上最高のツンデレ女優は、芦川いずみであろう。インテリ女性役がよく似合い、石原裕次郎といつも高尚な議論を交わす芦川いづみがたまらなくステキだった。

昭和30年代の松本清張の文学的位置

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       松本清張と司馬遼太郎 昭和47年5月

    昭和33年、松本清張(1909-1992)の「点と線」「眼の壁」などが空前のベストセラーとなったとき、売れる作品に対して純文学と大衆文学との中間に位置する「中間小説」という言葉が流行した。これに反発して清張は「文学には純文学と通俗文学の二つしかない」と言ったという。当時、文芸評論家の間ではまだ純文学だけが文学であり、大衆小説は評価の対象とはなっていなかった。ただ伊藤整は「プロレタリア文学が昭和初年以来企てて果さなかった資本主義社会の暗黒の描出に成功した」と松本文学を高く評価した。しかし、その伊藤整が編集委員を務める中央公論社創業80周年記念出版「日本の文学」が中央公論社から昭和39年2月5日、第1回配本されたが、全80巻の中に松本清張の名前は無かった。松本清張は処女短編「西郷札」を書いたのが41歳で遅い作家デビューだが、太宰治と同じ年で明治42年(1909)の生まれだ。大岡昇平(1909-1988)、長谷川四郎(1909-1987)、椎名麟三(1911-1973)、田村泰次郎(1911-1983)、武田泰淳(1912-1976)、田中英光(1913-1949)、杉浦明平(1913-2001)、木下順二(1914-2006)、深沢七郎(1914-1987)、梅崎春生(1915-1965)、野間宏(1915-1991)、小島信夫(1915-2006)、中村真一郎(1918-1997)、福永武彦(1918-1979)、安岡章太郎(1920生まれ)、遠藤周作(1923-1996)、吉行淳之介(1924-1994)、曽野綾子(1931生まれ)、阿川弘之(1920生まれ)、庄野潤三(1921生まれ)、井上光晴(1926-1992)、三島由紀夫(1925-1970)、北杜夫(1927生まれ)、なだいなだ(1929生まれ)、有吉佐和子(1931-1984)、石原慎太郎(1932生まれ)、開高健(1930-1989)、倉橋由美子(1935-2005)、大江健三郎(1935生まれ)、など全集には現代作家が多数収録されていた。つまり「日本の文学」に収録された最年少作家は大江健三郎と倉橋由美子だった。

   編集委員の顔ぶれを見ると、谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、ドナルド・キーンとなっている。谷崎・川端らはいずれも高齢で実際にどの程度選考にかかわったのか疑問である。伊藤は60歳代だったが病弱で昭和44年に亡くなっている。どうやら人選は若い三島とドナルド・キーンらが中心であったようにみえる。編集部では、人気作家の松本清張に一巻を与えたかったらしいが、一説によると、三島由紀夫が松本清張の作品を入れることに強く反対したとある。(橋本治『三島由紀夫とはなにものだったのか』)。そして、この文学全集に入れてもらえなかった清張は、自分の文学が評価されなかったことに怒り、三島や中央公論社に対して長く恨みを抱いたという。だがこの「日本の文学」は、吉川英治、海音寺潮五郎、川口松太郎、江戸川乱歩、吉屋信子などの大衆作家は収録されていないのであるから、松本清張のような推理小説、歴史小説、ノンフィクションなど多様なジャンルの作家を入れるかどうかは論議のあったことは想像に難くない。昭和30年代の文学的状況として、三島由紀夫が松本清張を個人的に嫌ったという俗説よりも、松本清張を含めないほうが編集上の整合性からみて正統であったように思える。むしろ「死霊」の埴谷雄高(1909-1997)が無いのが不思議である。瀬戸内晴美(寂聴)は前年「夏の終り」で作家の地位を確立したと通常言われるが、文壇では未だ評価定まらずだったのだろうか。

2008年12月21日 (日)

室生犀星と金沢

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両岸に造り酒屋が多かった犀川は今も蒼き水をたたえて流れる

    故郷金沢は室生犀星(1889-1962)にとって、出生と生い立ちと学校と職場と失恋の屈辱を思い起こさせ、魂を傷つけずにおかない、というべき土地でもあった。そして犀星は小説において地の文はもちろんのこと、会話にも金沢弁を使ったことがない。また金沢の具体的な地名や建物の名をあげて描くことも比較的少ない。

    しかしそれにもかかわらず犀星の文学というと先ず金沢を思い浮かべる人は多い。つまり犀星がいかに金沢を嫌ったにせよ、内心では自家中毒を起こすほど故郷金沢を意識し、心から愛しかつ憎んだのである。

   「北陸道の曲りくねった小さい都会金沢も、西北の郊野をうしろにした、ひょろ長い町裏に、足軽小畠弥左衛門の屋敷があった。家禄二百石の足軽組頭は畠に果樹を植え、野菜を作ってやっとその日を暮らしていた」

    これは小説「杏っ子」の冒頭に近い部分の描写である。犀星、室生照道は明治22年8月1日、石川県金沢市裏千日町の旧金沢藩士小畠家に生れたが、母ハルがその家の女中であったために生後間もなく赤井ハツという女性にもらわれた。この人が雨宝院の住職室生真乗の内妻であったために13歳の時、その室生家の養子となった。

    のちに犀星は養母から「女中の子」としてさげすまれ、「出生の秘密」をのろわずにはいられなかったが、逆にこのことが、犀星を文学の道へ走らす一つの要因になったのである。

2008年12月15日 (月)

近世俳句・冬の名句

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   江戸時代の遊女や李朝時代の妓生(キーセン)など性売買に携わっていた女性たちは、賤民として、はかない人生を送った。現在放送中のファン・ジニ(黄真伊)は歴史にその名を残されてた極めて稀なケースだろう。小林一茶の句には遊女にもやさしい同情が感じられる。

  鳩部屋の夕日しづけし年の暮

                            其角

   年もおし詰まってなにかと慌しい世間とは無関係に、鳩部屋には冬の淡い夕日がさし、鳩がこもった声で静かに鳴いている。その鳴き声を聞いていると、私もいつしかなごみしずまるのである。

  霜がれや鍋のすみかく小傾城

                            一茶

   賑わっていた宿場も、冬には客足がぱったりとだえている。若い遊女が、家の裏手を流れている小川で、なりふりもかまわずに鍋墨をかいている。寒風にさらされながら水仕事をする遊女に身の哀れさを感じることよ。

2008年11月29日 (土)

枕草子・冬はつとめて

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冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし、昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし。

(口訳)冬は早朝があわれふかい。雪の降っているときの面白さはいうまでもない。霜などがたいへん白く、またそうでなくても、非常に寒い朝、火などをいそいでおこして、炭火を持ってゆくなど、冬の情感にぴったりである。もっとも、昼になって、寒さがやわらいでくると、火鉢の火も白く、灰がちになっている、などというのは、つまらないけど。

    「枕草子」という名称が今日もっとも流布しているが、そのはじめは、はっきりした題名がなかった。中古文学の権威である田中重太郎(1917-1987)などはその著書のほとんどは「枕草子」ではなくて「枕冊子」と題している。

枕草子参考文献:北村季吟「枕草子春曙抄」、武藤元信「枕草子通釈」「清少納言枕草子別記」、金子元臣「枕草子評釈」、関根正直「枕草子集註」、小西甚一「通訳枕草子新釈」、井上慎二「清少納言伝記攷」(畝傍書房)「枕草子」(研究社)、池田亀鑑「枕草子に関する論考」(目黒書店)、田中重太郎「清少納言枕冊子の研究」(1947)、「新講枕冊子」(むさし書房)、「校本枕冊子」(古典文庫)、「枕冊子本文の研究」(初音書房)、「枕草子評解」、「清少納言枕冊子研究」(笠間書院)、「枕冊子全注釈」全5巻(角川書店)、「校注枕冊子」(笠間書院)、伴久美「枕草子要解」。

2008年11月24日 (月)

土田耕平「大寒小寒」

   「おおさむ こさむ 山から こぞうが とんでくる…」冬のさむい晩、三郎はおばあさんとこたつにあたっていた。大寒小寒の歌は、こんなさむい晩に、おばあさんが口くせのようにうたう歌だ。

   「おばあさん。こぞうが、なぜ山からとんでくるの?」と三郎がきくと、おばあさんは、「山は、さむうなっても、こたつもなければお家もない。それでとんでくるのだろうよ」という。また三郎が「こぞうって、お寺のこぞうかい?」「山のこぞうは、木のまたから生れたから、ひとりぼっちだよ」「おばあさんもないの?」「ああ、ないよ」「それで、着物は着ているかい?」「おおかた、木の葉の着物だろうよ」

   三郎には、頭を青くそりこくった赤はだしの山こぞうが、目に見えるように思われた。おおきくなって、三郎は東京で暮らすようになったが、毎年冬になると、大寒小寒の歌を思いだし、おばあさんを思いだすのであった。

2008年11月23日 (日)

古本屋の娘

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    小説家の小山清(1911-1965)は、昭和33年に失語症に陥り、その上、妻の自殺などがあって、昭和40年に53歳で亡くなるという不遇な作家人生であったが、ケペルはその作品の純粋さにとても魅かれるところがある。彼の代表作「落穂拾い」(昭和27年)に登場する古本屋の娘がとても清純である。

                      *

    僕は最近ひとりの少女と知り合いになった。彼女は駅の近くで「緑陰書房」という古本屋を経営している。僕は彼女の店の顧客である。主として均一本の。僕はいまの人が忘れて顧みないような本をくりかえし読むのが好きだ。僕はときどき彼女の店に均一本を漁りに行くようになり、そのうち彼女と話を交わすようになった。彼女の気質が素直でこだわらないので、僕としてもめずらしく悪びれずに話すことが出来るのだ。そしてそれが僕には自分でもうれしい。大袈裟に云えば、僕は彼女の眼差しのうちに未知の自分を確認するような気さえしている。こうして僕に思いがけなく新しい交友の領域がひらけた。彼女はみずから択んでこの商売を始めたという。「よくひとりで始める気になったね」と僕が云ったら、彼女はべつに意気込んだ様子も見せず、「わたしはわがままだからお勤めには向かないわ」と云った。

 寡作の小山だが女性の古書店主を扱った作品は多く、どうやらモデルが実在していたそうだ。最近の青木正美さんの調査研究によれば、その女性古書店主の名前は「西川清子」というらしい。

2008年11月13日 (木)

啄木と橘智恵子

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弥生小学校の女教師たち(右から2人目が橘智恵子)

    明治40年6月11日、石川啄木(1886-1912)は、友人吉野白村の世話で、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。月給12円。彼が21歳のときである。弥生小学校で同じく代用教員をしていた橘智恵子(1889-1922)を知る。啄木は智恵子を「まっすぐに立てる鹿ノ子百合」と表現し、智恵子に魅かれていた。智恵子の実家は札幌郊外にあり、林檎園を営んでいた。明治43年5月、智恵子は北海道岩見沢の牧場主北村謹(きん)と結婚する。啄木は上京するが、貧困生活の中、体調を崩し、それを風の便りに聞いた智恵子は当時高価であったバターを送った。

 石狩の空知郡の

 牧場のお嫁さんより送り来し

 バタかな。

    智恵子は、北村に嫁いで12年後の大正11年11月1日に6人目の子供を出産した後、産褥熱のため33歳で亡くなった。

智恵子さん!なんといい名前だろう!あのしとやかな、そして軽やかな、如何にも若い女らしい歩きぶり!さわやかな声!二人の話をしたのは、たった二度だ。一度は大竹校長のうちで、予が解職願をもって行った時。一度は谷地頭のあのエビ色の窓のある部屋で、そうだ、予が「あこがれ」を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。ああ!別れてからもう二十ヶ月になる!(日記より)

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2008年11月 9日 (日)

中野重治と吉田松陰

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   福井県坂井郡高椋村一本田の出身である中野重治(1902-1979)は、大正13年、東京帝国大学文学部ドイツ文学科に入学する。以来、東京での生活が続いた。39歳の中野は世田谷の豪徳寺の近くに住んでいたが、幼い娘を連れて松陰神社をしばしば訪れて礼拝している。「卯女手をうって礼拝す。吉田寅次郎の墓を拝み感動す。ぼた餅をつくる。午後ぼた餅のお客。また一同にて松陰神社に行く。ぼた餅うまし」と「敗戦前日記」の昭和16年9月23日に記している。プロレタリア文学運動の代表的理論家として知られる中野重治と幕末の勤皇志士・吉田松陰との関係を不思議に思うかもしれない。「日本は侵略国家か」という議論において、近代日本のアジア進出の思想的淵源を吉田松陰に求めることは無理なことではない。だが、吉田松陰を尊敬する人はいても、悪しざまに言う人はいない。至誠をもって一生を貫き通した人生に感銘をおぼえるのである。つまり中野重治はレーニンやトロッキーを革命家として尊敬するように、吉田松陰を時代を変革する志ある人として尊敬していたのではないか。戦後教育を受けた者は、左翼か右翼か、自民党か共産党かでラベリングする見かたをして、自己に利益のある立場で発言するようであるが、松陰のような純粋な行動力や志は、やがて高杉晋作をはじめとする塾生に引き継がれていき、戦前までは左右関係なく若者へ受け継がれていたのである。もしも松陰が今の時代にいたならば、きっと「恥を知れ」と政治家たちにいうであろう。

2008年10月17日 (金)

人は死んでゆく

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「宇宙の中の一つの点」(草野天平)

 人は死んでゆく

 また生れ

 また働いて

 死んでゆく

 やがて自分も死ぬだろう

 何も悲しむことはない

 力むこともない

 ただ此処に

 ぽつんとゐればいいのだ

 草野天平(1910-1952)は五人兄弟で、兄に草野民平(1899-1916)、草野心平(1903-1988)がいる。天平は、書店店員、映画館レコード係、焼鳥屋手伝い、雑誌編集者、喫茶店「羅甸区」経営などの職業を転々としたが、30歳を過ぎて詩作を始めた。詩集「ひとつの道」を出して42歳で結核で死んだ。凡てのものに片寄らず、ただ真っ直ぐに立つ、正しい芸術を目指した求道的詩人と言ってよい。

       「 秋 」

 そうか

 これが秋なのか

 だれもいない寺の庭に

 銀杏(いちょう)の葉は散っている

2008年10月 8日 (水)

松本清張の座右の書

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        木村 毅

    松本清張(1909-1992)は「葉脈探求の人」(『グルノーブルの吹奏』昭和33年)というエッセイの中で、昭和2、3年ころ(清張18歳ころ)に木村毅の『小説研究16講』を買い、深い感銘を受けたと述べている。軍隊に行った時も、家庭に保管するようにいい残し、復員して作家になり、さらに死に至るまで、手垢にまみれた同書を書架の片隅にずっと座右の書として置いていた。

    木村毅(1894-1979)は岡山県勝田郡勝間田村(現勝央町)に生れる。隆文館、春秋社の編集者をしながら評論、翻訳、実録、伝記ほか多数の著書を残した人である。松本清張の創作の原点は木村毅の『小説研究16講』にあったことは明らかである。日本の伝統的な私小説を拒否し、隠された真実を追究するノンフィクションへの関心は後年に「社会派推理小説」というジャンルへとなって結実した。

2008年9月23日 (火)

秋の涙

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  招かれて

  師は立ち給ふ

  お話を聴く

  影と影とは

  啜りなく

  日本アルプスすべりたる

  光の海に師の影ゆらぎて

  たそがれの心にしみる

  秋の涙…

  (三石勝五郎『散華楽』より「秋の涙」)

    三石勝五郎(1888-1976)は長野県青沼村に生まれ、大正2年、早稲田大学英文学科を卒業。京都の一燈園で托鉢修行のあと、放浪する。詩にある師というのは、一燈園主の西田天香のことである。

    三石の人となりを知る有名なエピソードがある。早稲田大学を主席で卒業し、答辞の中で、「どんなに勉強した人でも、カラスのカアカアと鳴く、声の意味は分からない」と述べ、当時の早稲田生の度肝を抜いた逸話が残されている。著書に「散華楽」(大正12年)、「火山灰」(大正13年)、「佐久の歌」(昭和17年)

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    三石勝五郎

2008年9月16日 (火)

椰子の実

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   島崎藤村(1872-1943)は明治30年、処女詩集「若菜集」を出版。孤独な青春の愛と苦悩とに身を揺られながら、自我に目ざめた清新純一な魂を、鮮烈な情感でうたいあげ、日本近代詩の栄光の扉をひらく。以後明治34年までに「一葉舟」「夏草」「落梅集」の三詩集を出版し、新詩人の第一位を占めた。

    椰子の実

 名も知らぬ遠き島より

 流れ寄る椰子の実一つ

 故郷の岸を離れて

 汝はそも波に幾月

これは、詩集「落梅集」に収録された藤村の有名な「椰子の実」の一節である。海辺に流れ寄った南の海から来た椰子の実に寄せて、人生流離の思いを歌った詩、あるいは愛唱歌として広く知られている。もともと、この詩は柳田國男(1875-1969)が学生時代に、渥美半島の伊良湖岬に旅した時の体験がもとになってできたものだといわれている。柳田が伊良湖に滞在したのは、明治31年の夏、東京帝国大学の一年生の時だった。帰京して友人の藤村に椰子の実の話をした。そしたら「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」といった。そしたら数年後に藤村の「椰子の実」として世間に広まったのである。

2008年7月18日 (金)

瀬戸内晴美「夏の終り」

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   瀬戸内晴美は大正11年5月15日、徳島市塀裏町字巽浜14に、父三谷豊吉、母コハルの次女として生れる。昭和18年、見合い結婚。昭和22年、4歳年下の夫の教え子Oと出奔。昭和26年、妻子ある前衛作家・小田仁二郎(1910-1979)と8年余りの半同棲生活をしたのち、また年下の男子との生活を復活させる。この間の事情を私小説として「夏の終り」を書く。昭和37年「新潮」に発表し、作家的地位を築く。昭和48年に中尊寺で得度し、寂聴となる。今東光は、「頭はどうする?」「剃ります」「下半身はどうする」「断ちます」と二言三言を質問した。その後、昭和61年に円地文子が亡くなると、瀬戸内は「源氏物語」の執筆にとりかかった。

学生作家・大江健三郎、異才登場

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    このブログで「小説家とは何か」というたいへん難しい、しかし興味ある論議がされていますが、大江健三郎という著名な一人の作家に関して考えてみます。画像はおそらく芥川賞を受賞した頃(23歳)の写真です。狭いアパートには机とわずかな書籍、簡易なベットがあります。そして痩せて蒼白く神経質そうな貧乏学生の大江がいます。当時、大江が読んでいた本は、パスカルとカミュに熱中し、やがてサルトルに関心を持ちはじめた。安部公房、ノーマン・メイラー、フォークナー、ソール・ベローなどを読む。卒論では「サルトルの小説におけるイメージ」を論じている。これらサルトルの思想が受賞作「死者の奢り」に大きく反映されている。

   日本文学は現在、村上春樹などの作家の作品が海外で翻訳されて書店に並んでいるが、この当時は、日本の作家の小説が海外で紹介されることはほとんどなかった。まもなく川端康成や三島由紀夫が海外で知られるようになるが。だが評論家たちの高い評価をえるのは、戦後作家といわれる大岡昇平、埴谷雄高、野間宏などであり、彼らはそれぞれスタンダール、ドストエフスキイ、サルトルなど海外の作家に大きな影響を受けていた。後輩作家の大江健三郎もサルトル(もしくは実存主義)という世界文学の潮流の中で「存在とは?」というテーマを捉え、自己の文学的出発点としたことが、学生作家として幸運なデビューを飾った一因であろう。昭和30年代ころから、日本の文学も文章の美しさや漢語を駆使した修辞よりも、作家の主体性やイメージ、より深い内面性、現代性が求められるようになったといえる。

2008年7月14日 (月)

「古文の読解」小西甚一

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    小西甚一先生(1915-2007)が先年お亡くなりなったというニュースを聞いた。先生とお呼びしたが、ケペルは直接の生徒ではなく、ラジオ講座や受験用参考書を通してお世話になったにすぎない。小西先生のユーモアたっぷりのわかりよい文章は受験生に人気があった。画像のように表紙に大きく先生の写真を掲載していることもからその人気のほどが知れるであろう。大正4年、三重県宇治山田市船江町に生れる。父の小西甚吉は伊勢水産株式会社の人で、のち専務取締役になるほどの人物。石炭商としても成功したらしい。宇治山田の市会議員、商工会議所議員。宇治山田市の立志伝中の一人。長男である甚一は秀才の誉れ高く、昭和15年東京文理科大国文科を卒業後も研究を続け、若くして「文鏡秘府論考」で学士院賞を受賞する。昭和32年から33年、スタンフォード大学に客員教授として招かれた。晩年も「日本文藝史」を完成させ、まことに立派な学者人生であった。ともかく小西甚一先生のおかげで無味簡素な国文学が少しは興味がもてるようになった。古文に親しむようになるのは高校時代よりも、むしろ50歳を過ぎてからもう一度読み直すのがよいように思う。

2008年7月 6日 (日)

三島由紀夫夫人

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    「自転車」   杉山寧  セゾン現代美術館蔵

   日本画家・杉山寧(1909-1993)は昭和26年に代表作となったギリシア神話に題材をえた「エウロペ」を発表した。その翌年、秋の日展に発表した作品がこの「自転車」(昭和27年)である。明快な色面構成のモダンな日本画である。ところでこのモデルの少女はだれであろうか。集英社の「現代日本の美術8杉山寧」の作品解説にもその事はふれられていない。おそらく長女の瑤子であろう。当時15歳。6年後には、三島由紀夫と見合い結婚して、平岡瑤子(1937-1995)となる。昭和45年の三島の割腹自殺の後の彼女の人生はさぞや波瀾にとんだものであったろう。瑤子は三島の名誉を守るため気丈に闘ったといえる。杉山寧のこの絵からはなかなか想像できないが、無垢の少女の姿がとても美しい。

2008年6月29日 (日)

牡丹と柿

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      古希を迎えた武者小路実篤(大竹新助撮影)

  牡丹花を見て柿は驚いた。「なんて立派な花だろう。こんな大きな花の実はどんなに立派な実だろう。西瓜の何倍もあるにちがいない。そして食べるときはどんなにうまい実だろう」

    柿は、花の実のためにあることを信じ切っていたので、牡丹の花も実のためにあると思い込んでいたのだ。そう信じて、牡丹にどんな実がなるか、毎日たのしみに待っていた。ところが牡丹の花が散ったあと、青い唐辛子の小さいのが、三つ四つかたまって逆立ちしているような実に見すぼらしい実切りならないので、柿は驚く以上、可笑しくなって笑った。

  「牡丹と言う奴はなんと言う馬鹿なのだろう。あんな大げさな花を咲かせながら、あんなケチな実きり結べないのだ。余程虚栄心に富んだ馬鹿にちがいない」

    ところが牡丹の方は、柿の実を見てすっかり感心して、実に美しい立派な実だと思った。牡丹は実は花のためにあるものと信じて疑はなかったので、こんな実がつくれる柿は、さぞ立派な花を咲かせるだろう。今まで気づかなかったのは、よほど自分が間抜けだったにちがない。今度は是非注意して見てやろう。そう思って柿の花の咲くのを、今か今かと待っていた。ところがいよいよ柿の花か咲く時が来た。牡丹はだまされたような気がしてがっかりして、「これでも花か、これでは気がつかないほうが、あたりまいだ。あんな実を結びながら、こんなケチな花切り咲かすことが出来ないとは、柿さんも存外働きがないね」

   わきにいた松は、二人の評を聞いて言った。

「花は実のためでもあり、実は花のためでもある。それは本当だ。だが花は花のためにも存在し、実は実のためにも存在する。それも本当だ。牡丹さんは花が美しいからそれで威張ればいい、柿さんは実が美しいからそれを自慢にすればいい。私は花も実も駄目だから、せめて身体を大きくして、何かのお役に立ちたいと思っているのだよ」

   柿も牡丹も「さう言うものかね」と思った。

    武者小路実篤著 「牡丹と柿」(一部分)(初出 「心」昭和27年4月号)

2008年6月16日 (月)

歌人・原阿佐緒と原保美

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   (左から)原保美、阿佐緒、しげ、千秋

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       映画「恋愛特急」原保美、津島恵子

    原保美(1915-1997)は帝国高等学院中退後声楽を学び、創作座から松竹大船に入社。昭和14年「感激の頃」に出演し、昭和25年以降フリーに。「ひめゆりの塔」「雲ながるる果てに」「太陽のない街」など独立プロの作品も多い。またNHK「事件記者」の東京日報の長谷部記者(通称・ベーやん)でお茶の間でも人気者だった。母は物理学者の石原純との恋愛事件で知られた原阿佐緒(1888-1969)である。二人の恋愛が事件として知られるようになったのは大正10年7月である。妻子ある謹厳実直な世界的学者が、やはり妻子ある美貌の女流歌人によってその地位を失った。翌年、千葉県保田に二人の居を構えたが、石原が首吊り自殺未遂などを起こし、破局し、昭和3年、原は宮城県宮床に戻った。

2008年6月12日 (木)

織田作之助の臨終にいた女

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    端役の女優であった輪島昭子(芸名、築地燦子)は、井上演劇道場の「わが町」の中で四人姉妹の末妹の役をもらった。この上演の稽古を立ち会うために上京した織田作之助(1913-1947)と初めて出会ったのは、昭和18年のことだった。そのころ織田には宮田一枝という愛妻がいた。その一枝は昭和19年の夏に肺がんのため亡くなった。やがて昭子と織田は意気投合し同棲関係となる。織田の旅先の東京での臨終にいたのも昭子ただ一人だった。林芙美子が何かと昭子の世話をみてくれた。昭子は織田の弟子である石浜恒夫(1923-2004)と結婚し、一児の母となるが、のち離婚。輪島昭子のその後の消息は何も知らない。

    ちなみに石浜恒夫は東洋史学者・石浜純太郎(1888-1968)の長男である。

「或る女」の埋葬許可証

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   有島武郎の小説「或る女」の女主人公・早月葉子のモデルといわれる佐々城信子(1878-1949)は、昭和8年、55歳のときに、栃木県真岡にやって来た。信子の妹よしゑが、真岡で木綿問屋を営んでいた岡部完介に嫁いできたのが縁らしい。信子は武井勘三郎との間の子である瑠璃子を連れて2人で生活していた。現在、岡部記念館金鈴荘(栃木県真岡市荒町2162)の1階奥に住まいしていた。岡部農場で苺作りをしていたという。戦後、岡部家が没落すると、2人は金鈴荘を追い出された。夫の武井勘三郎はすでにこの世の人ではなかった。信子はクリスチャンとして聖書を手から離さず、清く簡素な生活を送っていた。町役場の厚い帳簿には、死体埋火葬許可証の写しが綴じられていた。

本籍 東京都中央区室町1丁目5-6

住所 栃木県芳賀郡真岡町大字荒町2162番地

生年月日 明治11年7月30日

死因 老衰症53日、肝臓炎15日

死亡場所 前記住所に同じ

埋火葬場所 町立火葬場

信子の子である瑠璃子はその後どうなったのか知らない。一説によれば、女優の星由里子と瑠璃子とは従姉妹であるともいわれるが、真偽はわからない。

2008年6月 1日 (日)

月が笑うぞ三四郎

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             加山雄三と倉丘伸太郎

   近代柔道の確立に命を懸けた姿三四郎の生き様を豪快に描いた富田常雄(1904-1967)の大衆小説『姿三四郎』はこれまで何度も映画、ドラマになっている。藤田進、倉丘伸太郎、加山雄三、竹脇無我、三浦友和など好青年俳優が演じているが、姿三四郎のモデルはどのような人物であろうか。富田常雄の父、富田常次郎(1865-1937)は柔道家であり、同僚である西郷四郎(1869-1922)が小説のモデルという。西郷は新潟県出身で、小躯ながら敏捷な技術で柔術各流派の強豪を破って講道館の名声を高めた。その特技は「山嵐」といわれる。明治35年、鈴木天眼(1867-1926)と共に長崎で「東洋日之出新聞」を創刊、ジャーナリストとなった。東洋日之出新聞は日露戦争後のポーツマス条約に反対するという大手新聞の状況の中でも、日本とロシアの国力の違いを冷静に判断し、条約支持という社説を貫いた勇気ある新聞であった。西郷は長崎では、柔道、水泳、弓道などの振興にも努めたが、晩年は尾道で病没した。死後、大光寺(長崎市鍛冶町5-74)に墓所がおかれた。

2008年5月11日 (日)

風俗小説論

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   横山めぐみ主演のテレビドラマで菊池寛(1888-1942)の原作「真珠夫人」がちょっとしたブームになったということが数年前にあった。原作は半世紀以上も前のもので、大正期の上流社会や富豪階級の家庭を背景に、第一次世界大戦後の市民社会の状況や風俗、流行を盛り込み、その中にヒロインの瑠璃子の激しい生き方を描いたものである。大正デモクラシーの時代思潮がうかがえるが、このような大時代の風俗小説が現代に何故か受けてヒットした。菊池寛はこの「真珠夫人」の成功により「貞操問答」「有優華」など多数の風俗小説を残している。小島政二郎(1894-1994)も戦前から戦後にかけて「人妻椿」などの多くの通俗小説で長い執筆活動であった。舟橋聖一(1904-1976)も戦後は「雪夫人絵図」などの愛欲小説で人気作家となった。丹羽文雄(1904-2005)はマダム物と呼ばれる風俗小説がある。そして丹羽は評論家・中村光夫と「風俗小説論争」を展開した。風俗小説と通俗小説、あるいは中間小説と区別はあいまいであるが、戦後における石坂洋次郎、梶山季之、源氏鶏太、井上靖、渡辺淳一などの圧倒的成功例の証明によって、中間小説は新聞や雑誌などのメディアの花形のジャンルとして隆盛しているといえる。

志賀直哉の松江時代

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 志賀直哉(1883-1971)は大正3年6月、31歳のとき松江に3ヵ月ほど住んだことがある。最初は末次本町の赤木館に泊まり、宍道湖畔東茶屋と仮寓した後、内中原67番地に移った。

ひと夏、山陰松江に暮らしたことがある。町はずれの濠に臨んだささやかな家で、独り住まいには申し分はなかった。庭から石段ですぐ濠になっている。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く、真菰が生え、寂びたぐあい、濠と言うより古い池の趣があった。鳰鳥が始終、真菰の間を啼きながら往き来した。(「濠端の住まい」)

 志賀の松江に滞在した目的は、夏目漱石の後を受けて朝日新聞の連載小説を書くことであった。

夏目さんはその年、春頃から「心」という小説を朝日新聞に出していた。私のものはそれが終わったところで直ぐ連載されるはずで、私は松江に行ってそれを書いていた。(「続創作余談」)

   志賀の松江での暮らしはできるだけ簡素な暮らしをするということであった。以前に尾道で独り住まいをしたときは、初めて自家を離れた寂しさから、なるべく居心地よく暮らすために、日常道具を十二分に調えたが、今度はできるだけ簡素にと心がけた。だが、小説は思うように進まず、夏には伯耆大山に登り、9月には京都南禅寺に移っている。ところで、尾道から大山、京都はみんな「暗夜行路」の主要な舞台であり、このころの志賀直哉がつまり時任謙作であることは明らかであろう。そして松江時代に体験したことが作品完成への重要な礎石となったことも事実である。「人と人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。虫と鳥と魚と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮らしだった」(「濠端の住まい」)とのちになって、松江時代が意義あるものであることを記している。

青い山脈

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                    東宝「青い山脈」(昭和24年)

  戦後間もない年の6月のある日、東北の山村にある海光女学校で、若い英語教師島崎雪子は、5年生の寺沢新子から、一通のラブレターを見せられた。雪子は校医の沼田に相談する。彼は雪子を怒らせ平手打ちされてしまう。雪子がニセ手紙を書いた生徒の松山浅子を厳しく責めたことから、問題は一層大きくなり学校で父兄理事会を開くことになる。その上、浅子の父親が田舎政治家で、学校の理事長をしている井口甚蔵という市会議員と兄弟分ということで、雪子の立場はますます苦しくなった。沼田の中学の後輩金谷六助は、偶然新子と親しくなっていたが、二人が苦境に立っていることを知って沼田に応援をたのむ。沼田は一計を案じ、六助の友人富永安吉や芸者梅太郎の協力を得て、理事会の席で井口や体操教師の田中をやりこめて雪子を救う。やがて松山浅子も新子と和解した。台風一過、村にも学校にも和やかな空気が訪れて、寺沢新子と金谷六助は少し大人になり、沼田医師と島崎雪子は結婚の約束をする。

   「青い山脈」は昭和22年6月8日から10月4日まで朝日新聞連載小説として発表された。今井正監督で「青い山脈」「続・青い山脈」(原節子、池辺良、伊豆肇、木暮実千代、龍崎一郎、若山セツ子、杉葉子)、西河克己監督で吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹で再映画化されている。石坂洋次郎(1900-1986)は教師生活の体験を生かした青春小説を数多く残した。石坂は純文学、ことに自らがかつて親しく接した葛西善蔵の私小説のあり方に決別し、より広い一般の読者を目指した小説を手がけることになる。「青い山脈」には、自意識の文学から中間小説へという変化を見て取ることができる。

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             日活「青い山脈」(昭和38年)

2008年5月10日 (土)

文学全集の黄金時代

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    広告には当時の人気女優が使われた

    写真モデルはキーハンターの大川栄子

   1960年代、河出書房、講談社、集英社、筑摩書房、新潮社などの大手出版社は競って「日本文学全集」「世界文学全集」を続々と刊行していた。いまブックオフで105円でこれら全集の端本が買える。ケペルはついつい買ってしまう。これらの本には権威ある学者の解説がついているので、作品が多少とも自己の所蔵と重複してもそれなれに利用価値があると思うからである。また全集にどういう作家が採録されたかを調べるのも意外と面白い。石原慎太郎は大概収録されているが、松本清張は収録されないことが多い。とくに有名な事件は中央公論社「日本の文学」松本清張事件である。はじめ中央公論社はうち1巻を松本清張集にしたいと考えていた。ところが編集委員の三島由紀夫は「清張を入れるなら委員を降りる」といって頑強に反対した。こうして文学全集の中から清張は除外された。清張はこのことを後年まで恨んでいたという。作家にとっては文学全集に入ることはとても栄誉なことなのであろう。

2008年5月 4日 (日)

三島由紀夫のカニ嫌い

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   折り目正しく、生真面目で、約束の時間を守り、ユーモアがあって、目立ちたがりやの努力家。三島由紀夫(1925-1970)の人となりについては、三島と身近に接した人たちの回想が数多く残されている。多い三島のエピソードの中でもよく知られているのが、「カニ嫌い」であろう。「倅にとってカニは不倶戴天の敵であり」、「カニを見ると、たちまち真青になってブルブル震えて逃げ出すという、実に念の入ったもの」(『倅・三島由紀夫』平岡梓)であった。しかし殻から取り出して身だけになると平気で食べたという。

   ある時、料亭の出た膳にカニが載っていると黙って手をふって下げさせた。その時、「蟹という字も嫌いだ」と真剣にいったのを武田泰淳が聞いている。そこから一歩進めて武田は、三島の日本刀好みも「蟹の爪、蟹の手足、蟹のハサミ、その動かし方、歩き方に対する嫌悪の念を克服する過程の、一つのあらわれだったかも知れない」(「三島由紀夫氏の死ののちに」)とまで推論している。

2008年5月 1日 (木)

千年の恋・源氏物語

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        紫式部画像  土佐光起筆

    今年は紫式部(979?-1016?)が「源氏物語」を執筆してからちょうど一千年の節目にあたるとされ、各地で「源氏物語」ゆかりのイベントが催されている。

    紫式部の生家は、父方は藤原冬嗣の六男良門を遠祖とする名門で、同門の中に文人・歌人が多く出ているし、父為時は詩文において当代一流の名手であり、兄惟規は歌人として知られていた。母方は藤原冬嗣の一男長良を遠祖とする名家で、母は藤原為信のむすめである。

    紫式部は生まれつき鋭い頭脳をもち、記憶力に富んでいた。「紫式部日記」によると、幼いころ兄の惟規よりも早く史記を聞きおぼえたので、父の為時は「この子が男であったらなあ」と嘆いたという。式部は天元元年頃に生まれ、長保元年、22歳のとき、48歳くらいであった藤原宣孝と結婚し、翌年一女大弐三位を生んだが、長保3年には夫宣孝と死別した。その後6年間は父の邸で寡婦生活を送っていたが、寛弘4年、式部30歳のとき、藤原道長に見出されて、一条天皇の中宮上東門院彰子に仕えた。式部の没年については諸説があるが、長保5年頃に39歳くらいで没したとするのが通説である。

   「源氏物語」の成立事情についても不明な点が多い。夫宣孝に先立たれてから、つれづれの寡居の日々に、自身の内的欲求に駆られて筆を染めたのであろう。「紫式部日記」寛弘5年(1008年)11月1日の記事によれば、道長の土御門邸で敦成親王の誕生50日の祝宴が催された。この折、酒に酔った藤原公任が、「あなかしこ、このわたりにわか紫やさぶらふ」と戯れかかったのを、式部は「源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上は、まいていかでものし給はむ」と聞いていたという。次いで旬日を経た同日記には、内裏還啓を間近に控えた中宮のもとで、頻りに冊子作りの営まれていた模様が見える。従ってこの頃、「源氏物語」の殆ど、或は少なくとも「若紫」を含む第一部は完成し、宮廷人士の間でかなり評判になっていたと見てよかろう。

    源氏物語」は世界最古の長篇小説とよく言われるが、千年にわたって詠み継がれてきたこになる。参考書には、岩波書店「日本古典文学大系」の「源氏物語」があり、注釈書には、金子元臣「源氏物語新解」、吉沢義則「対校源氏物語新解」、池田亀鑑「源氏物語新講」、島津久基「源氏物語講和」など。現代語訳では、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、村山リウ、田辺聖子、瀬戸内寂聴など。

雑誌『武蔵野』と樋口一葉

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         下村為山画「樋口一葉像」

   明治19年8月20日、樋口一葉(1872-1896)は遠田澄庵の紹介で中島歌子の萩の舎に入る。上流家庭の子女の集まるこの歌塾にあって下級官吏の娘であった一葉はしばしば肩身の狭い思いを味わったが、早くから歌の才能を示し、姉弟子の三宅花圃とならんで同門の才媛と称された。明治22年7月12日、父の樋口則義は失意のうちに病没した。花圃が「藪の鶯」の発表以後小説家として活躍し始めたのに刺激され、生活の資を得るため小説を書く決意をし、明治24年4月15日、野々宮きく子の紹介で半井桃水を訪ねて、弟子入りした。

    明治25年3月、4月、7月発行された半井桃水主宰の同人雑誌『武蔵野』に、樋口一葉は第一編創刊号に「闇桜」、第二編に「たま襷」、第三編に「五月雨」とたて続けに載せている。ほかに、畑島桃蹊、小田果園、柳塢亭寅彦、三品藺蹊、斉藤緑雨らが寄稿した。「闇桜」は、一葉の小説がはじめて活字になったのものであり、またはじめて「一葉」という筆名を使ったのも、この『武蔵野』が最初である。だが、桃水との噂が萩の舎で問題化した。また桃水の身辺多忙と売れ行きの減退から雑誌は3号で廃刊となり、一葉は思いを残しながら桃水と絶交の形をとる。しかし、一葉の桃水への愛情は終生変わることはなかった。

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2008年4月26日 (土)

夏目漱石「こころ」

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日活映画「こころ」(昭和30年)森雅之・新珠三千代

  私は暑中休暇に鎌倉へ行って、そこの海岸で先生を知った。はじめ白い皮膚の西洋人といっしょだった先生を、私は好奇心で見守っていた。幾日か海でいっしょに泳ぐうちに、先生と懇意になることができた。東京へ帰ってから先生の宅を訪ねた。奥さんから、先生が雑司ヶ谷の墓地へ行っていると教えられ、私も墓地へ行った。先生は毎月その日に友人の墓参をする習慣だったのだ。それから、私はしばしば先生の宅へ行くようになった。はたで見ているかぎり、先生と奥さんは仲のいい夫婦であった。二人で音楽会や芝居に行き、ときには箱根や日光へ1週間ぐらいの旅行をする。私は二人の結婚の奥に、はなやかなロマンスの存在さえ仮定していた。しかし先生は、恋は「罪悪だから気をつけないといけない」と言った。私がその意味を問い返すと、先生は「雑司ヶ谷の友人の墓地へ私がなぜ毎月参るのか知っていますか」と逆に質問してきて私を混乱させた。それ以上の説明を先生から聞くことはできなかった。先生が珍しく会合に出かけた夜、私は頼まれて奥さんと留守番をした。奥さんは、先生がだんだん人の顔を見るのも嫌いになり、会にもめったに出ないと嘆いた。奥さんの解釈では、世間を嫌い人間を嫌う先生は、その人間の一人として奥さんをも嫌っている、という。それでいて奥さんは、先生が奥さんと離れれば不幸になるだけだ、ということをはっきり理解していた。

    私の父が病気になった。東京を離れて、しばらく国へ帰った。病気が小康を得たので、私はまた学校へもどり、卒業論文にとりかかった。そのころ先生は、私に家の財産をはっきりしておくほうがよい、と言った。親戚や兄弟がいくらよい人間でも「いざという間際に、急に悪人に変はるんだから恐ろしいのです」、先生の口調は苦々しげであった。大学を卒業して私は国に帰った。父の病状はあまり変わっていなかった。父は赤飯を炊いて、卒業披露の客を呼ぶと言った。私は仰々しいのが嫌いだったが、学問をさせると人間が理屈っぽくなるという父の一言で、反対するのをやめた。その言葉のなかに、父の私に対する一切の不平があるように思えたから。しかし、招待の日が来ないうちに明治天皇の御病気が報じられた。披露は自然と沙汰止みになった。

   そのころ、父と母とが私の仕事に大きな期待をもっていることがわかった。母は、私の尊敬している先生がいずれは仕事の口を捜してくれるものと決めこんでいた。それでもどうにか私が東京へ出て仕事が見つかるまで、学資を送ることを約束してくれた。しかし、私が上京する間際に、父は風呂場で倒れた。九州の兄を呼び返した。妹の夫も駆けつけてきた。新聞は乃木大将の死を報じた。先生から会いたいという電報がきたが、私は父の病気が急変したので上京できない由を知らせた。父の病気はさらに進んだ。「乃木大将に済まない、私もすぐ御後から」とうわごとを言うようになった。そんなとき、小包のように分厚い封書が届いた。それは先生の遺書だった。「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此の世には居ないでせう」という一節が目にしみた。私は母や兄にも断らず、停車場へ急ぎ、東京行きの汽車に飛び乗った。ごうごう鳴る三等列車のなかで、私は先生の遺書を取り出して、はじめから終わりまで目を通した。「上・先生と私」「中・両親と私」と書き継がれた「こころ」は、ここで最後の章である「下・先生と遺書」に移る。私がそれまで見てきた先生なる一人の思想家のいわば精神の生い立ちが、その遺書によって解明されるのだが、そこには人間の性格に根強くはびこるエゴイズムを追求し、やがて晩年に「則天去私」の境地にたどりつく漱石の、創作活動の全契機が示されている。先生はその財産を叔父に奪われた。信頼していた叔父が、父の遺産を手にするや善人から悪人に一変した。先生はその衝撃で人間への信頼を失うが、自分だけはそんな人間ではないと信じていた。ところがその自分も、自分を信頼しきっていた友人Kを裏切ることによって、いまの奥さんと結婚することに成功した。Kは自殺をとげた。その結果からいえば、叔父がやったことよりも自分のやったことのほうがひどい。先生は、他人を呪い嫌った自分自身を同様に呪い嫌った。それはまた償いきれない罪の自覚でもあった。その苦しみに悩みぬいたあげく、乃木大将の殉死に触発されて、先生は自殺を決行する。それはまた、天皇に始まって天皇に終わった明治の精神の最も強い影響を受けた先生にとって、一つの殉死でもあった。そして「こころ」で自我否定の道を切り開いた漱石は、のちに「道草」において、自己の我を捨てさり、「則天去私」の新しい境地へ踏み入ることになったのである。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社)

泉鏡花「婦系図」

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   泉鏡花(1873-1939)は明治23年作家を志して上京。翌年尾崎紅葉の門下に入ることを許され玄関番として同家に寄宿。いくつかの作品を発表したが不評で自信を失い、帰郷したり自殺をはかったこともある。明治40年の「婦系図」は新派悲劇の代表作として広く愛された。画像は大映「婦系図」(昭和37年)の市川雷蔵・万里昌代の主税・お蔦の湯島天神の場面だが、「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ、…私にゃ死ねと云って下さい…」という有名なセリフは本来小説にはなかった。これは明治41年の新富座で上演したとき柳川春葉と喜多村緑郎が付け加えたもの。鏡花はそれを気に入って、大正3年、舞台のために「湯島の境内」を書き下ろし、これが湯島天神の場面として広まったものである。

            *

   柳橋の芸者お蔦と恋仲になった早瀬主税は、恩師・酒井俊蔵に隠れて世帯を持つが、これが知れて怒った酒井は二人を別れさせる。早瀬は郷里静岡に帰り、お蔦は八丁堀に身を寄せ髪結いになるが胸をわずらって床につく。元軍医監・河野英臣は息子英吉の嫁に酒井の娘妙子を得ようと策動し、早瀬の妨害にあたったことから彼の身元を調査する。一方、お蔦の病は重く、駆けつけた酒井に手をとられながら、死んでいく。河野家の仕打ちに憤慨していた早瀬はお蔦の死を聞くや、河野の前に己の前身が巾着切りであったことを明かし、河野家の不倫を暴いてお蔦の黒髪を抱きながら毒をあおる。

「青春の門」と早稲田大学

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    誰もが一度は通り過ぎる、しかし唯一度しか通ることの許されぬ青春の門。五木寛之といえば「青年は荒野をめざす」「さらばモスクワ愚連隊」「風に吹かれて」「蒼ざめた馬を見よ」などあるがやはり大河小説「青春の門」が代表作であろう。そして尾崎士郎の「人生劇場」青成瓢吉とともに、伊吹信介は早稲田の学生であり、五木寛之と早稲田大学という印象も強い。近年は宗教や哲学的な著作が多く、平成16年には「仏教伝道文化賞」を受賞している。最近ある本で、五木寛之と石原慎太郎はともに昭和7年9月30日の生まれだと知る。同世代で対照的な二人の作家への興味はつきない。

    五木寛之は生後まもなく朝鮮に渡り終戦を迎え、混乱の中、母を失い、数々の困難を経て、昭和22年に日本に帰国する。この苛酷な体験が、作風に大きな影響をあたえているのであろう。ただ多くの作家は自伝的な作品を残すが、五木にはあまりに苛酷なものであるためか少年期の自伝的なものはないという。昭和27年に早稲田大学露文科に入学したものの、授業料が払えず、心ならずも早稲田大学を去る。このとき五木は大学の事務から、抹籍願を書いて渡した。五木は、作家になってからもずっと、「早稲田大学抹籍」だと言い続け、書いてきたが、まわりが勝手に「中退」と解釈していた。ところがあるバーティーで、一人の銀髪の品のいい紳士に会う。その人は早稲田大学の総長だった。「校友会に入ってほしい」と言われ、「いや、私は授業料を滞納して早稲田は抹籍になっていますから、入る資格なんかないんです」と説明すると、「今ならお払いいただけるでしょうか」と言う。すぐに、大学の事務局から請求書が来た。その日に払い込んだら、「今日からあなたは正式に中退です」と連絡があった。それ以後は、「早大中退」と書けるようになったという。

                   *

    伊吹信介は、筑豊の炭鉱夫伊吹重蔵の息子として生まれた。信介は義母のタエに育てられるが、彼はタエを母としてだけではなく女として愛した。父は、坑道に生き埋めになった坑夫を救うために死んだ。終戦は、信介が国民学校4年の時だった。母と子は重蔵の遺言で、飯塚のやくざ塙竜五郎の世話になることになった。が、まもなくタエは病死してしまう。早稲田大学に合格した信介は、幼なじみの牧織江や竜五郎をあとに、上京していく。大学に入った信介は、演劇青年の緒方の下宿にころがり込み、娼婦のカオルと知り合ったりする。信介は授業にはほとんど出ず、アルバイトや売血、ボクシング等をして暮らしていた。人生の目的を探すために大学を入った信介は、緒方の演劇活動に参加し、北海道に渡る。だが、働きながら芝居をつくるという緒方の意図は、結局失敗してしまう。信介は札幌でしばらく織江と同棲していたが、もう一度大学に戻ることを決心する。織江は歌手としてスカウトされ、信介から離れて行く。上京した信介は政治運動に参加するが、ここでひどい挫折感を味わい捨てばちな気分に陥っていく。織江は老作詞家宇崎秋星と知り合い、レコード歌手としてのチャンスをつかんだ。一方、自堕落な生活を送っていた信介は、竜五郎が大けがをしたことを知り九州に帰る。しかし竜五郎は、けががもとで死んでしまう。再び東京に来た信介は、ふとしたことから実業家林三郎と知り合い、彼の書生となり新しい出発を決意する。林家に来て2年半が過ぎた。信介は、林三郎から将来を嘱望されていた。そんな折、思うようにヒット曲の出ない織江が、最後のチャンスに賭けるため、信介にマネージャーになってくれないかと申し出てきた。いろい迷った末、信介は織江に協力することにする。北海道で知り合ったアナキスト丸谷玉吉が、東京山谷で車にひかれて死んだ。信介は北海道江差に行き、納骨する。信介は、立原襟子を知り好きになるが、函館でレポ船団に戦いを挑んでいる元新聞記者の西沢洋平と再会し、ひょんなことからハバロスクへ旅立つ。ハバロスクに着いた信介と西沢らは、シベリア独立計画にからみ収容所に送られそうになったが、西沢の友人、伊庭敬介に助けられた。信介は西沢らと別れ、パスポートもないまま、恋人アニョータとともに、ポーランドに向け旅に出ようとする。

2008年4月14日 (月)

忘れがたき人人

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  葡萄色(えびいろ)の

  古き手帳にのこりたる

  かの会合(あいびき)の時と処かな

          *

  かの声を最一度聴かば

  すっきりと

  胸や霽(は)れんと今朝も思える

          *

  君に似し姿を街に見る時の

  こころ躍りを

  あわれと思え

          *

  時として

  君を思えば

  安かりし心にわかに騒ぐかなしさ

          *

  わかれ来て年を重ねて

  年ごとに恋しくなれる

  君にしあるかな

          *

  さりげなく言いし言葉は

  さりげなく君も聴きつらん

  それだけのこと

          *

  かの時に言いそびれたる

  大切の言葉は今も

  胸にのこれど

               (石川啄木「一握の砂」)

手套を脱ぐ時

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 こころよく

 春のねむりをむさぼれる

 目にやわらかき庭の草かな

          *

  あたらしき木のかおりなど

  ただよえる

  新開町の春の静けさ

          *

 ゆえもなく海が見たくて

 海に来ぬ

 こころ傷みてたえがたき日に

      ( 「一握の砂」  石川啄木)

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2008年4月13日 (日)

望郷の月、阿倍仲麻呂

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    養老元年、阿倍仲麻呂(698-770)は遣唐使多治比県守の船で、吉備真備らとともに入唐した。ときに16歳であった。当時、唐は玄宗皇帝の代で開元の治がおこなわれ隆盛をきわめていた。彼は唐にとどまり中国名を朝(晁)衡と名乗って玄宗に仕えた。盛唐の詩人・李白や王維らとも交遊した。唐朝に仕える生活は、憧れの先進国で重んぜられるという、めったなことでは日本人が味わえなかった経験を彼に与える快い歳月であったことであろう。しかし齢50歳を越えた仲麻呂は懐郷の念おさえがたく、帰朝することになった。天平勝宝5年、遣唐使藤原清河らとともに鑑真に会い来日を促し、自らも帰国しようとしたが、海上で暴風雨にあい、船はちりぢりに流され遭難する。仲麻呂らの遭難を受けた李白は悲しんで「晁卿の行を哭す」という七言絶句を作った。

 日本ノ晁卿帝都ヲ辞ス

 片帆百里蓬壷ヲ繞ル

 明月帰ラズ碧海ニ沈ミ

 白雲秋色蒼梧ニ満ツ

    阿倍仲麻呂の船は安南に漂着した。再び清河らと唐に戻る。仲麻呂は帰国を断念して、鎮南都護安南節度使(正三品)にすすみ潞州大都督をおくられ、宝亀元年、唐土で没した。年70歳。

 天の原ふりさけ見れば春日なる

      三笠の山にいでし月かも

(通釈)大空をはるかにふり仰いで見ると、月が美しく出ている。ああ、あの月は春日の三笠山に出た、あの月なのだなあ。

2008年4月11日 (金)

漱石と阿蘇登山

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    夏目漱石(1867-1916)が松山中学を辞任して、第五高等学校に月給100円で熊本に赴任したのは明治29年4月のことであった。はじめ菅虎雄の家(熊本市薬園町62番地)に同居。やがて明治29年5月4日、熊本市通町103番地、現在の下通町、光琳寺に一戸を構えた。ここで6月、中根鏡子(1877-1963)と結婚式をあげた。9月20日、熊本市合羽町237番地(現・坪井町)に移転。家賃13円の広い家だった。明治30年9月10日、熊本県飽託郡大江村401番地(現・新屋敷)に移転。明治31年3月、井川淵町8番地に移転。明治31年7月、熊本市坪井町78番地に移転。明治33年3月末、熊本市北千反畑78番地に移転。そして明治33年5月12日に英語研究のため、イギリス留学を命ぜられ、熊本を去る。4年3ヵ月の熊本滞在中に6回も引越ししている。またこのころ30歳から34歳の漱石は身心壮健で、小天温泉、山鹿温泉、久留米、耶馬溪、内牧温泉(阿蘇)など旅行をよくしている。まだ交通の整備されていない時代であろうから、かなりの健脚であったと思われる。ちなみに漱石は身長158,8cm、体重53.3㎏(明治23年の測定)で当時としては平均よりやや良好な体格であった。

    明治32年9月には、山川信次郎と共に、阿蘇中岳へ行く。最初の日、戸下温泉を経て、内牧温泉養神亭(現・山王閣)に泊まり、阿蘇神社に詣で、現在の仙酔峡道路で高岳まで登ったと思われる。この旅行が「二百十日」の素材となっている。

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明治30年頃の阿蘇中岳への登山道はこのように整備されていなかったであろう

2008年4月10日 (木)

「もののあはれ」と山桜

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    JR青梅線の鳩ノ巣駅から川沿いの渓谷を散策する。花と葉が同時に開く山桜の花が美しい。山桜の美しさを感ずる心を、国学者・本居宣長(1730-1801)は次のように詠っている。

  敷島の大和心を人問はば

                     朝日に匂ふ山桜花

  めづらしき高麗もろこしの花よりも

                     あかね色香は桜なりけり

   宣長はこれを「もののあはれ」として、感ずべきことに心を動かすこと、つまり儒教や仏教道徳に捉われずに、美しい花を見たら美しいと感ずる心が大切だと説いている。

    評論家・小林秀雄も桜に魅せられた日本人の一人である。

「さくらさくら 弥生の空は 見わたすかぎり 霞か雲か 匂ひぞ出づる いざや いざや 見に行かん」といふ誰でも知っている子供の習ふ琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開の桜を見ていた。そよとの風もない、めづらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、この歌かず思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があるまいという気持ちがした。(小林秀雄「さくら」)

熱海と「細雪」

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  熱海在住時代の谷崎潤一郎。右は高峰秀子

    谷崎潤一郎(1886-1965)は79年間の生涯で何度住居を変えたのだろうか。おそらく40回を超えるだろうが、ホテル、別荘、マンションの仮住居も数えるともっと多い。とくに大正12年に箱根で関東大震災にあって以降、京都上京区等持院へ、続いて要法寺へ、そして兵庫県西宮市苦楽園に転居すると昭和18年11月まで阪神間を転々としている。有名な「細雪」は神戸市東灘区住吉東町の倚松庵で書かれたといわれる。関西ブルジョア家庭が描かれているので、神戸で執筆した印象が強いが、実際にその多くを執筆したのは熱海である。昭和17年ころから、谷崎は「細雪」を執筆のために熱海の地を選んだ。昭和17年4月には熱海の西山598番地に別荘を購入している。そして当時の居住地であった神戸が空襲にあう危険がてでてきたので、昭和19年4月に熱海に疎開している。戦後、谷崎は京都の南禅寺と左京区下鴨泉町に転居したが、京都の冬の底冷えの寒さに耐えられず、昭和25年2月、再び熱海に転居し、雪後庵と名づけた。昭和39年には臨終の地となる神奈川県湯河原町吉浜字蓬ヶ平に「湘碧山房」に新築移転している。

    このような引越し魔であるが、その根底には谷崎一流の美意識があるように思える。「細雪」の執筆にはあえて関西をさけて熱海を選び、「新訳源氏物語」のためには京都を選んでいる。作品を書く上げるためには、積極的に環境を変える必要があったのであろう。

2008年3月29日 (土)

上流階級夫人でプロレタリア女流作家

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   明治44年、若杉鳥子(1892-1937)は、板倉勝忠(1887-1973)と結婚した。夫は備中高梁城の城主・板倉勝静(1823-1889)の孫にあたるという(板倉勝弼の五男)。つまりプロレタリア女流作家・若杉鳥子は子爵令弟夫人といわれる上流階級の夫人であった。だが鳥子自身の生い立ちが芸者置屋に里子にだされるという境遇であったためか、プロレタリア女流作家としての道を歩んだ。そして夫は早稲田大学卒の新聞記者、外交官という社会的地位のある人物。また義弟には登山家として知られた板倉勝宣(1897-1929)がいた。昭和8年、鳥子は小林多喜二の母・セキへの義捐金を集める活動をするが、それが治安維持法違反にあたるとして、検挙・投獄されるという苦い経験をもつ。平林たい子は「若杉さんは、プロレタリア文学と、外交官で華族出の夫をもった家庭とのあいだでのギャップに苦しんでいた」と語っている。画像は晩年の若杉鳥子であるが、美貌の上流夫人であり女流作家としての雰囲気がよく表れた写真であろう。(引用文献:奈良達雄『若杉鳥子その人と作品』東銀座出版社)

2008年3月25日 (火)

長塚節の純愛

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   長塚節(1872-1915)は夏目漱石の推薦で東京朝日新聞に「土」(明治43年6月13日から11月17日掲載)を執筆中のある日、遠縁にあたる詩人の横瀬夜雨(1875-1934)宅を訪ねた。そこで夜雨から一人の女弟子の写真を見せられた。若杉鳥子(1892-1937)という女性で、庶子のため生後間もなく里子にだされ芸者の修業をさせられていたが、強い向学心と文学の才能があり、16歳の時、家出、上京したという素性を聞く。節はその楚々たる容姿に魅了され写真を貸してもうら。明治43年6月、夜雨から鳥子の写真を返すように督促された節は写真の代わりに、「擬古二種」を夜雨あてに送る。

まくらがの古河の桃の樹ふふめるを

  いまだ見ねどもわれ恋にけり

          *

紅の下照り匂ふももの樹の

  立ちたる姿おもかげに見ゆ

 ほどなくして、鳥子が夜雨宅にくることを知らされる。夜雨は二人を引き合わせることにしたが、ちょうどその時、節が痔を病んで、とうとう実現しなかった。鳥子は翌年9月、英文学者の板倉勝忠(1887-1973)と結婚する。

   節は終生独身で、結核のため大正4年、40歳に満たずに早世している。鳥子も昭和12年病のため44歳で亡くなった。

   鳥子は節が亡くなるや、挽歌7首を夜雨のもとに送り届けた。

大利根の川千載を流るとも

  故郷悲し君あらなくに

          *

筑波野に君います日は一握の

  土くれさへも光出しを

          *

君しあれば筑紫野に師の痛めるを

  たのみ来てにし逆さ事はも

   「逆さ事」とは病で外出もままならない夜雨の世話を本来は世話を受けた私がすべきなのに、節にそれを頼むように結婚してしまった。それを「逆さ事」と、すまない気持ちを表わしているのであろうか。若杉鳥子の文学者としての才能だけではなく、人柄のよさがこの歌でうかがい知ることができる。

2008年3月24日 (月)

石川啄木・我を愛する歌

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大海にむかひて一人

七八日

泣きなむとすと家を出でにき

          *

砂山の裾によこたはる流木に

あたり見まわし

物言ひてみる

          *

大といふ字を百あまり

砂に書き

死ぬことをやめて帰り来れり

          *

ふと深き怖れを覚え

ぢっとして

やがて静かに臍をまさぐる

          *

何となく汽車に乗りたく思ひしのみ

汽車を下りしに

ゆくところなし

          *

何がなしに

さびしくなれば出てあるく男となりて

三月にもなれり

          *

かなしきは

飽くなき利己の一念を

持てあましたる男にありけり

2008年3月16日 (日)

有島武郎の文学的評価

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  有島武郎(1878-1923)は明治36年、森本厚吉とともに渡米、歴史や経済学を学ぶ。このころから信仰に動揺をきたし、ホイットマン、トルストイなどを耽読、また社会主義の影響を受けた。明治43年、「白樺」に参加し、大正5年、父や妻(神尾安子)の死などが転機になって作家としての本格的な活動が始まることになる。有島の「或る女」は近代リアリズム文学の代表作といえる。朝日新聞の「たいせつな本」で加賀乙彦が次のように書いている。(2008年3月16日付)

日本の近代文学のなかで傑出した作品をひとつあげよと言われたら、私はためらいなく『或る女』をあげる。この作品を何度も読み、読むたびに新しい発見をして教えられる、長い間にそういう経験をしてきたからだ。

   半世紀は世代が違うすぐれた現代作家からかくまで尊敬される有島武郎とは実にすばらしい作家であったことがわかるであろう。だが有島の晩年はロシア革命や社会運動の高まりに、親譲りの財産に依食する罪悪感に苦しむこととなり、人妻の波多野秋子との心中事件が、彼の文学的評価に何らかの影響があるものであろうか。同時代の吉野作造はいう。「彼の死には僕は徹頭徹尾服さない。すこぶる遺憾なことと彼のためにも惜しむ。彼に於て貴むべきは彼の死にあらずして彼の真と誠とで一貫した四十六年の生涯である。彼は死に失敗したが生に成功した人だと言っていい。生に成功したが故に、世人は誤って彼の死にもまた貴い何物かがあるらしく迷う。それだけ彼の生涯は立派なものであった」(「文化生活」大正12年9月号)

    有島武郎「或る女」の文学性を加賀乙彦は次のように分析している。

歴史的出来事と小説の時間とが密な関係を持つ手法を、有島武郎は、トルストイとフローベールから学んだと思われる。彼は欧米の近代文学の熱心な読者であった。日本の近代の長編小説には物語を情緒で流していくたぐいのものが多い。なるほど面白い話だとは思うものの、登場人物の性格が初めから一本調子で、その精神の深みに分け入るだけの作家の努力が希薄である。ところが『或る女』には、作品の構成によって主人公の内面の闇をつぎつぎに描き出していく複雑な手法が取り入れられている。

    この加賀の短文を読んでみても、有島武郎『或る女』がそれまでの日本の小説には無かった主人公の近代性とか内面の性格描写に優れている点を特筆している。『或る女』の成立には、世界最高の文学と言われるトルストイの『アンナ・カレーニナ』やフローベールの『ボヴァリー夫人』の影響があることは明らかである。フローベールが『ボヴァリー夫人』を書くための膨大なメモが発見されたという記事を読んだことがあるが、有島も『或る女』を書くために緻密な準備をしていたようである。

私は有島武郎の小説作法から、ずいぶんいろいろと教えられてきた。彼が『或る女』に到達するまでの、創作日記を研究し、試作品としての『或る女のグリンプス』と完成作とをくらべてみて、小説とはこれだけの用意と思索とをもってすべきだと思った。

  加賀の一文を読んで、今日でも有島武郎の作品の価値は不朽のものであることがわかるが、大正時代に吉野作造が言った「生に成功した人」という評も当っているように思える。

2008年3月 2日 (日)

有島武郎「ドモ又の死」

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   有島武郎(1878-1923)が個人雑誌「泉」に戯曲「ドモ又の死」を発表したのは大正11年10月のことである。それから翌年6月に美人記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中自殺したのは、わずか8ヵ月後のことであった。当時の有島の心境を知るてがかりとしては、この作品のほか、戯曲「断橋」、小説「酒狂」「或る旋療患者」「骨」「親子」などがある。

「ドモ又の死」あらすじ

    「ドモ又」とあだ名された戸部、花田、沢本、瀬古、青島という五人の青年画家が、ともにモデルのとも子に好意をもち、芸術家信念に燃え3日間も飢えとたたかって制作に精進している。遺作展を開いて、悪ブローカー九頭竜、えせ美術愛好家堂脇左門から金をまきあげようという計画がたてられる。そのためにはひとりを天才として死んだことにし、とも子と結婚して天才の弟として再生することにしなければならない。とも子に意中の人を選ばした結果は、意外にもドモリで、ししっ鼻で、顔にでこぼこのあるドモ又だった。一同これを了承、九頭竜らを迎える準備をする。

花田さん、あなたは才覚があって画がお上手だから、いまに立派な画の会を作って、その会長さんにでもおなりになるわ。お嫁にしてもらいたいって、学問のできる美しい方が掃いて捨てるほど集まってきてよきっと。沢本さんは男らしい、正直な生蕃さんね。あなたとはずいぶん口喧嘩をしましたが、奥さんができたらずいぶん可愛がるでしょうね。そうしてお子さんもたくさんできるわ。そうして物干竿におしめが賑やかに並びますわ。青島さんは花田さんといっしょに会をやって、きっと偉くなるわ。いまに皆んながあなたの画を認めて大騒ぎする時が来てよ。そうして堂脇さんとやらが、美しいお嬢さんを貰ってくださいって、先方から頭を下げてくるかもしれないわ。けれどもあんまり浮気をしちゃいけなくってよ。瀬古さん…あなた、若様ね。きさくで親切で、顔つきだって一番上品で綺麗だし、お友だちにはうってつけな方ね。でもあなた、きっと日本なんかいやだって外国にでも行っちまうんでしょう。お大事にお暮らなさい。戸部さんは吃りで、癇癪持ちで、気むずかしやね。いつまでたってもあなたの画は売れさうもないことね。けれどもあなたは強がりなくせに変に淋しい方ね…。悪口になったら、許してちょうだい。でも私は心から皆さんにお礼しますわ。私みたいながらがらした物のわからない人間を、皆さんで可愛がってくださったんですもの。お金にはちっともならなかったけれども、私、どこに行くよりも、ここに来るのが一番嬉しかったの。ともどもに苦労しながら、めいめいが一番偉いつもりで、仲よく勉強しているのを見ていると、何んだか知らないが、私時々涙がこぼれっちまいましたわ。…でも私、自分の旦那さんを決めなければならないんだわ。いやになるねえ。私がいい人を選んでも、どうか怒らないでちょうだいよ。私、これでも身のほどをわきまえて選ぶつもりですから…。戸部さん、私あなたのお内儀さんになります。怒らないでちょうだいよ。私あなたのことを思うと、変に悲しくなって、泣いちまうんですもの…。

国木田独歩の離婚

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       佐々城豊寿

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         佐々城信子

    従軍記「愛弟通信」を国民新聞に連載して好評を得た国木田独歩(1871-1908)は、明治28年6月9日、キリスト教婦人矯風会書記長・佐々城豊寿(1853-1901)の従軍記者招待晩餐会に出席し、そこで長女の佐々城信子を初めて知った。

   佐々城豊寿は嘉永6年、伊達藩士・漢学者・星雄記の3女として生まれた。幼いころから才気煥発で、のち婦人解放運動の先駆者となる。明治11年に陸軍軍医・伊東本支と知り合い、彼との間にノブをもうけた。この私生児が、のちに独歩に「欺かざるの記」を生み出し、有島武郎に「或る女」のヒロイン早月葉子のイメージとなった、佐々城信子である。

   独歩と信子は愛し合うようになる。しかし、自由恋愛者であるはずの母・豊寿は独歩のことを「どこの馬の骨ともわからぬ男」と蔑視し、結婚に反対する。周囲の反対を押し切り結婚した二人に破局が訪れる。明治29年3月28日、父の病気のために麹町区隼町に同居していた独歩は、矯風会のメンバーである潮田千勢子(1845-1903)宅で豊寿と和解の面会をした。ついに4月24日、独歩と信子は離婚した。この破婚によって豊寿は娘の情操教育を誤ったものと世間から糾弾を受け、雪深い北海道へ隠棲した。

2008年2月23日 (土)

三島の太宰批判

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   太宰治の「斜陽」に有名な場面がある。お母さまが白い萩の花のしげみの中から顔を出して、娘のかず子に「お母さまが、何をなさっているか、あててごらん」と聞く。そして、「おしっこよ」と一言いう。「ちっともしゃがんでないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった」

    この「斜陽」に対して、三島由紀夫は「太宰治氏のこと」(「三島由紀夫全集30」)で次のように批判している。

作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいひといひ、生活習慣といひ、私の見聞してゐた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などといふ。「お母さまのお食事のいただき方」などといふ。これは当然、「お母さまの食事の召上がり方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さへつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、「かず子や、お母さまがいま何をなさってゐるか、あててごらん」などといふ。それがしかも、庭で立小便をしてゐるのである!」

    三島が指摘するように貴族的な立ち居振る舞いや言葉遣いの難点が小説には認められるものの、「斜陽」で太宰が紡ぎだした言葉は全体として成功しているように思える。太宰嫌いの三島はあまり仔細に検討していないようだ。太宰作品をもっと深く丹念に検討する価値がありそうだ。

ここでは、ちょっと気のきいた一文だけをあげるにとどめる。

三十。女には、二十九までは乙女の匂いが残っている。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。

2008年2月18日 (月)

太宰治と高峰秀子

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    左より高峰秀子、山根寿子、太宰治

   高峰秀子の自叙伝「わたしの渡世日記」は、単なる一女優の回想録という以上に貴重な昭和史の記録でもある。例えば、昭和22年夏の太宰治との出会いの記述である。

新橋駅に現れた太宰治のスタイルはヒドかった。既にイッパイ入っているらしく、両手がブランブランと前後左右にゆれている。ダブダブのカーキ色の半袖シャツによれよれのズボン、素足にちびた下駄ばき。広い額にバサリと髪が垂れさがり、へこんだ胸、細っこい手足、ヌウと鼻ののびた顔には彼特有のニヤニヤとしたテレ笑いが浮んでいる…。作家の容姿に、これといった定義があるわけではないけれど、とにかく、当代随一の人気作家太宰治先生は、ドブから這いあがった野良犬の如く貧弱だった。鎌倉の料亭に到着したのは午後の4時ころだったろうか、まだ日暮れ前であった。床の間を背にアグラをかいた太宰治はやっとリラックスしたらしく、青柳信雄とプロデューサー補佐を相手に、「ガバッ、ガバッ」といった調子で呑みはじめた。席上、紅一点の私など問題にもしてくれない。そのくせ私が下を向いて箸を取ったりすると、チロリとこっちをうかがったりしているのがこっけいだった。

    昭和23年6月19日、山崎富栄と玉川上水に入水。「朝日新聞連載小説「グットバイ」は13回分までだったため、後半のストーリーを脚本家の小国英雄に委ね、映画「グットバイ」は6月28日の封切りに間に合った。

    しかし、太宰と高峰は昭和22年が初対面ではない。昭和19年7月11日、東宝東京撮影所で会っている。高峰は太宰の愛読者だった。それは自叙伝にも「私もまた、走れメロス、トカトントン、親友交歓などを、ほとんど暗記するほどに熱読していた一人であった」と書いている。この日、高峰は太宰のサインをもらっている。太宰の「佳日」は青柳信雄によって「四つの結婚」として映画化された。脚本は八木隆一郎、如月敏だが、太宰もそれに少し加わっている。

   つまり太宰作品の映画化は東宝の山下良三を中心に昭和19年から進められていたが、二作とも高峰秀子が出演しているというのも何かの奇縁であろう。好奇心旺盛な売れっ子女優が苦悩する大作家を「ドブから這いあがった野良犬」「こっけい」と観察しているのも面白い。

2008年2月 8日 (金)

白いパラソル

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  そのころの太宰治は自殺未遂、薬物中毒、最初の妻・小山初代との離別とどん底の状態だった。

    昭和13年7月、井伏鱒二を通じて石原美知子との縁談が持ち込まれる。そのころ書かれた「満願」(雑誌「文筆」掲載)という小品には、健康的で明るい太宰の別の一面がよく出ている。

    伊豆の三島でひと夏を過ごす、太宰らしき小説家は、西郷隆盛のように大きくふとった町医者と親しくなる。毎日、散歩の途中に医者の家へ立ち寄るようになって、小説家は薬をとりに来る若い女に気がつく。

簡単服に下駄をはき、清潔な感じのひとで、よくお医者と診察室で笑い合っていて、ときたまお医者が、玄関までそのひとを見送り、「奥様、もうすこしのご抱ですよ」と大声で叱咤することがある。お医者の奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。

   つまり、病気の治療中のため性交渉が医者から固く禁じられていたのである。

八月のおわり、私は美しいものを見た。朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでいると、私の傍に横坐りに坐っていた奥さんが、「ああ、うれしそうね」と小声でそっと囁いた。ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。「けさ、おゆるしが出たのよ」奥さんは、また、囁く。

    この作品は回想になっているが、4年前というから、太宰が静岡県三島の坂部武郎方に居候として2ヵ月滞在していたころの話である。坂部は金木の番頭・北芳四郎の妻の実家であった。太宰はその頃の話を楽しそうに古谷綱武に語っている。「眠れないと真夜中に、下におりていってまず酒をひといきでのんだという話をしていたように思うのだが、酒屋ででもあったのであろうか」と古谷は書いているが、本当に坂部は酒屋を経営していた。酒豪の太宰にとっては天国だっただろう。(参考:古谷綱武「私の名作鑑賞「満願」、現代文学大系54、月報20 筑摩書房)

2008年2月 3日 (日)

飯田蛇笏と門人たち

   飯田蛇笏(1885-1962)はホトトギスを代表する俳人で、甲斐の自然と生活をとらえた端厳荘重な作風で知られる。明治18年4月26日、山梨県東八代郡境川村に生まれる。本名は飯田武治(いいだたけじ)。飯田家は旧幕時代苗字帯刀を許された大地主であった。早稲田大学時代、高浜虚子の「俳諧散心」に参加し、本格的に俳句への道を歩み始める。明治42年、一切学術を捨て、所蔵の書籍全部を売り払い、家郷に帰り、田園生活に入る。以後、生涯を山梨で過ごし、山国の自然や生活を舞台に、風土に生きる心を詠い続けた。大正初年代、俳誌「キララ」の主選者に迎えられ、その後、主宰となって、誌名を「雲母」と改めた。昭和初年には、「山廬集」をはじめとする句集、随筆集、評論集を刊行。戦中、戦後にかけて、両親をはじめ、三人の子供の死に遭遇、句境は、次第に深まり、戦後も秀作の数々を詠み続けた。生前、一基たりとも句碑の建立を許さなかったが、没後建てられた唯一の句碑がある。

  芋の露 連山影を 正しうす

   秋のすがすがしい朝、戸外に出てみると、芋畑の芋の葉にはびっしょりと露が降りていて、大粒の露の玉が朝日に白くきらめいている。畑のはるか前方には、周囲をとりまくようにして、南アルプスの山脈が、澄み渡った秋空に高くそびえ、姿を正すかのようにくっきりと連なっている。蛇笏30歳の時の俳句。平面的なホトトギス俳句とは異なり、内に張る気迫をもって、自然にきびしく向きあう姿勢から生まれた、静かだが、寸分のゆるみもない、力が満ちた作である。

くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり

刈るほどに やまかぜのたつ 晩稲(おくて)かな

雪晴れて わが冬帽の 蒼さかな

山国の 虚空日わたる 冬至かな

をりとりて はらりとおもき すすきかな

雪山を はひまはりゐる こだまかな

山の童の 木莵(くず)とらへたる 鬨あげぬ

地靄して こずゑにとほく 春鶫(はるつぐみ)

    温情あふれる人柄により蛇笏には門人も多かった。西島麦南(1895-1981)、松村蒼石(1887-1982)、中川宋淵(1907-1984)、佐々木有風(1907-1959)、柴田白葉女(1906-1984)、高橋淡路女(1890-1955)などすでに故人となられた。柴田白葉女は昭和59年、NHKの取材を装った刑務所から出所した男に椅子で撲殺された。犯人は服役中に読んだ俳句雑誌で犯行を思いついたという。恐ろしい話である。

芥川龍之介の自殺の意味するもの

    大正12年6月9日、有島武郎(1878-1923)は有夫の美人記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中した。有島は前年に北海道の450町歩の土地と小作人に解放し、さらに遺産も親族に分けなかった。熱心なクリスチャンであった有島が信仰も棄て、社会主義者たちと交流していたことを考えると、単なる情死ではなく、社会問題やなんらかの時代状況が反映していたと思われる。

   有島の死から4年後、昭和2年7月24日、芥川龍之介が服毒自殺した。遺書には、自殺の動機として「将来に対するぼんやりとした不安」をあげていた。大正末期から昭和初期の知識人の不安とは何であったのだろうか。芥川も自殺する3ヵ月前と2ヵ月前、帝国ホテルで平松麻素子と心中未遂を2度している。昭和23年6月13日、太宰治は玉川上水で山崎富栄と心中しているが、これ以後60年経過したが、著名な作家の男女の心中・情死の例はない。有島、芥川、太宰の自殺はもちろん個人的なもので原因は異なり、ひとまとめに論ずることはできないだろうが、社会に与えた影響の点でみると芥川の自殺が最も衝撃的な事件であろう。それは芥川死後80年以上経過しているが、このブログでかなり以前に書いた記事に寄せられるコメントからも関心の高さがうかがえる。芥川の「ぼんやりと不安」が何んだったのか、芥川の自殺原因に関する憶測はおびただしい数にのぼるであろう。以下、そのおもな説をまとめてあげる。

①精神状態・健康起因説。生来、虚弱体質で、神経衰弱、偏頭痛、胃腸病、うつ病などで苦しむ②不眠症説。睡眠薬の常用③ドッペルゲンガー説(自分の姿を自分で目にする幻覚現象)④義兄の鉄道自殺による心労説⑤有夫の女性との不倫⑥創作のいきづまり説⑦文学状況説。プロレタリア文学の台頭など⑧マインレンダーなど厭世主義の影響⑨気象状況説。例年にない酷暑が精神に影響を与えた⑩大正から昭和という時代の変化を鋭敏に予感した。

    最後の⑩については、「歴史のあと知恵」のような気もするが、当時の文壇状況を新進作家の片岡鉄平(1903-1944)はのちに次のように書いている。

人道主義的な、素朴な苦悶はあったんだ。たとえば貧乏人と金持とがいるということの矛盾、それをあの頃「不断の歯痛」という言葉で表現している。不断の歯痛の如く、また靴底に入った小砂利の如く、矛盾を感じながら、しかもマルクシズムに行かないゆえんを詭弁をもって主張したのがあの頃の僕さ

    人道主義者の有島武郎や鋭い感覚で時代を受けとめた芥川龍之介にとって、大正から昭和への変動は、片岡の「不断の歯痛」をはるかに超える激痛であったに違いない。宮本顕治は「我々はいかなる時代も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない」と「敗北の文学」で書いている。時代の殉教者であった芥川の死は今日でも青年や知識人たちに人生の苦悶を問いかけているのである。

2008年1月30日 (水)

広辞苑の人名採録基準

    このブログ記事では多数の人名が登場する。人名事典に採録されている著名人もあれば、歴史的記録に記述はあるものの事典に採録されることがまずない無名の人を取り上げることもある。三省堂の「コンサイス日本人名事典」は収録数は約14.000でかなり記事を書くときに重宝している。「広辞苑」第6版の人名の収録数はいくらであるか不明であるが、少なくともコンサイスの10分の1はあるのではないだろうか。コンサイスに比べかなり広辞苑に収録されることは狭き門となるわけだが、いかなる基準があるのか定かではない。凡例の編集方針にただ「わが国の人名は物故者に限った」とあるのみである。とりあえずどの程度までの人名が採録されているのか、近代日本の文学者で調査してみた。手はじめに文学としたのは、この分野は比較的収録されやすいと考えたからである。

    高校国語程度ということを標準に、「国語便覧」(数研出版)、「新総合図説国語」(東京書籍)、学燈社の「現代詩」「現代俳句」「現代短歌」で収録している人名を参考に調査する。

   「広辞苑」に採録されない文学者

富安風生(1885-1979) 俳人

原石鼎(1886-1951) 俳人

福士幸次郎(1889-1946) 詩人

杉田久女(1890-1946) 俳人

白鳥省吾(1890-1973) 詩人

富田砕花(1890-1984) 詩人、歌人

平戸廉吉(1893-1922) 詩人

百田宗治(1893-1955) 詩人

阿波野青畝(1899-1992) 俳人

橋本多佳子(1899-1963) 俳人

秋元不死男(1901-1977) 俳人

高木彬光(1920-1995) 小説家

山川方夫(1930-1965) 小説家

阿部昭(1934-1989) 小説家

      *    *    *    *    *

落選した人たちの傾向を分析する。

①白鳥省吾、富田砕花、百田宗治など民衆詩派は全滅。つまり地方で活動しても、岩波は中央文壇で活躍しないと認められないのだろうか。

②山川方夫も阿部昭も評価は高い。山川は「クリスマスの贈物」で直木賞候補、「愛のごとく」で芥川賞候補、阿部は芥川賞候補に6回のぼっている。つまり芥川賞を受賞しないと認められないのだろうか。

③松本清張、横溝正史と収録されているので、高木彬光は期待したが落選だった。やはり推理小説作家にとって岩波書店は狭き門なのだろうか。

④富安風生、原石鼎の落選の理由も謎である。「広辞苑」はホトトギス系が嫌いなのだろうか。富安は94歳まで長命で著書も多数あり、古きになじまず、新しきに走らず、伝統をふまえて清新を求める「中道俳句」なのだが。

2008年1月28日 (月)

青鞜五人の女たちのその後

    明治44年、婦人文芸誌「青鞜」が刊行された。このとき発起人の五人の女性が、平塚らいてう(1886-1971)、保持研子(1885-1947)、中野初子(1886-1983)、木内錠子(1887-1919)、物量和子(1888-1979)である。平塚、保持、中野、木内の4人は日本女子大学校国文科の同級生。姉の物集芳子(お茶の水女学校)は結婚のためぬけて、代わって妹の和子(跡見高等女学校)が参加した。

    木内錠子はフランス語を学び、大正6年、文部省の検定試験に合格し、劇作家を志したが、大正8年9月11日、33歳の若さで病没。

    保持研子は明治生命の小野東と結婚、昭和22年5月23日、63歳で死没。

     平塚らいてうは戦後、平和憲法擁護を訴え、世界平和と原水爆禁止の運動をする。昭和45年にはベトナム反戦運動を展開。昭和46年5月24日、東京代々木病院で死去。

     物集和子は藤岡一枝の筆名で「おきみ」などの小説を発表。昭和54年7月27日、特別養護老人ホームさつき荘で90歳で死没。

    中野初子は遠藤亀之助と結婚。俳人となる。昭和58年11月18日、97歳で死没。

2008年1月26日 (土)

みだれ髪

    与謝野寛(鉄幹、1873-1935)と鳳しょう(晶子、1878-1942)がはじめて会ったのは、大阪北浜の平井旅館、明治33年8月4日のことであった。晶子は鉄幹をひと目みたとき、好きだ、と思った。鉄幹28歳、晶子23歳。そのとき鉄幹には林滝野という内縁の妻がおり、一児・萃(あつむ)をもうけていた。また山川登美子(1879-1909)とも恋愛関係にあった。そんな中で山川登美子は山川駐七郎と結婚し、滝野は実家の山口へ帰り鉄幹と離別した。やがて晶子は鉄幹と結婚。与謝野晶子の誕生である。明治34年8月、歌集「みだれ髪」を刊行するや、その浪漫的な歌風によって一世を風靡し、与謝野晶子はたちまち歌壇にゆるぎない地位を築くものとなった。「みだれ髪」は明治33年より刊行時までの「明星」掲載歌を中心に399首を収録。「臙脂紫」「蓮の花船」「白百合」「はたち妻」「舞姫」「春思」の6章よりなる。

夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ

髪五尺ときはなたば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き

三浦の殿様・勘解由小路資承

    武者小路実篤は10歳の明治29年夏、三浦半島金田に住む母の弟・勘解由小路資承(かでのこうじすけこと、1860-1925)のもとに初めて一家で行った。叔父はセメント事業に失敗して、ここ金田湾に面した丘の上に家を建てて半農半漁の暮らしを送っていた。叔父の家には膨大な洋書があった。そして農民や漁師たちと親しくつきあい、「三浦の殿様」と呼ばれていた変わり者であった。

    実篤はそれから毎年夏は叔父のもとに避暑にいった。この叔父は、実篤の一生で最も強く影響を与えた人物である。資承はそのころロシア貴族出身の作家トルストイを愛読していた。自らの生活もその影響によるものであろう。明治36年、18歳の実篤は叔父から聖書やトルストイをすすめられて読む。最初に読んだのが、加藤直士訳「我が宗教」「我が懺悔」であった。明治37年、ドイツのレクラム文庫で「ルチェルン」を読み、それからはレクラムにあるトルストイの独訳はほとんど読んだ。実篤はますますトルストイに傾倒した。

   この叔父については大正14年6月に死去したことや、貴族院議員であったことぐらいで詳しい事績は分からない。ただ資承の長女・康子(さだこ)は大正3年1月に志賀直哉と結婚している。康子は直哉よりも6歳年下で鳥毛立女屏風の美人に似た小柄な美人であると「暗夜行路」の中で表現されている。

    いずれにしても、三浦半島金田で実篤が体験した畑仕事は、のちのトルストイズムにもとづく「新しき村」(大正7年)の建設につながっていることは間違いない。

2008年1月21日 (月)

源宗于朝臣

  山里は冬ぞさびしさまさりける 

  人目も草もかれぬと思へば

[通釈]山里では、都とはちがって、冬はいちだんと寂しさがまさって感じられることである。観るものもないので、訪ねる人の姿も少なくなり、目をなぐさめた草も枯れてしまうと思うので。

    源宗于(みなもとのむねゆき、生年未詳-939)は光孝天皇の皇子是忠親王の子。右京太夫正四位下、兵部大輔となり、天慶2年没。和歌にすぐれ、寛平御時后宮歌合の作者であり、三十六歌仙の一人で古今・後撰を始め勅撰集には多くの作がある。「大和物語」には、監命婦・南院の君達と歌をよみあい、官位の進まないのを嘆いた歌などが見える。

   この歌の「人目」がかれるとはあたりに人の姿を見かけなくなったという本来の意味だけでなく、待ち人もまた来ない、と解釈すれば、どこか艶なる余情もあるということになる。

2008年1月17日 (木)

小野小町「花の色」

    古今集巻2の春下(113)に「題知らず 小野小町」とある歌。「小町集」にも「花をながめて」として入っている。

花のいろはうつりにけりないたづらに 

我身よにふるながめせしまに

[現代語訳]美しい桜の色は、すっかりあせ衰えてしまったなあ。降り続く春の長雨をぼんやりながめながら、恋の悩みなどの物思いをしていた間に。

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この歌は単に花のことを歌ったと見る説と、「花の色」を「容色」とする説と二説ある。古来多くの説が言っているのは「思う男のことにかかわって、物思いをして、空しく世を過ごすうちに、私の容色も衰えてしまったことだ」の意があるとしている。松田成穂は古今集春歌下には、うつろう花、散る花を15首まとめて撰入していることから、単に花のことを歌ったのだとしている。(「花の色は試論」金城学院大学論集31)小野小町は美人であったが、晩年はおちぶれて諸国を流浪したという伝説のため、この歌から容色の衰えを歌ったとする解釈が定着していったのであろう。

2008年1月14日 (月)

ストレイシープと三四郎

    「ストレイシープ(迷える羊)」という言葉は、聖書に由来し、漱石の小説「三四郎」でも里見美禰子という女性の謎めいた言葉として印象的に使われている。一般にこの言葉は聖書の中では「罪人」という意味で使われている。漱石「三四郎」においてどのような意味で使ったのか解釈をめぐってはさまざまな意見がある。漱石も読者がいろいろな受け止めができることを意図したものであろう。

    小説の終わりで、美禰子がかすかな声でいう。「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」美禰子はストレイシープが自分のことであり、三四郎を好きであることを告白している。これに対して三四郎は「ただ口の内でストレイシープ、ストレイシープと繰り返した」で小説は終わる。

    ところが英語の聖書には「ストレイシープ」という語は見られない。漱石が英国留学時代に研究したヘンリー・フィールディング(1707-1754)の「トム・ジョーンズ」(1749年)には「ストレイシープ」がでてくる。三四郎の友人の佐々木与次郎が「ダーター・ファブラ」(他人事ではないの意)という言葉をよく意味を知らずに使っている。岩波文庫の注では「デ・デ・ファブラ」はホラチウス「風刺詩」の言葉とあるが、それは初出であって、おそらく漱石はロバート・ブラウニングの詩集「男と女」を読んで「ストレイシープ」「デ・デ・ファブラ」という語から小説のインスピレーションを受けたものであろう。

2008年1月10日 (木)

竹山道雄「ビルマの竪琴」

    ビルマ(ミャンマー軍事政権)といえば、竹山道雄(1903-1984)の「ビルマの竪琴」という児童文学を思い出す人が少なくないだろう。この名作は二度の映画化などで今日でも若い人が御覧になっているようだが、かなり批判的な内容が目につく。加害者責任を直視していない、戦争を感傷的にとらえ、軍国主義への反省はするが、侵略や戦争犯罪のことは忘れて、日本人の死者への鎮魂だけにとどまっている、つまり反戦文学としてなまぬるいという批判である。また昔に梅棹忠夫が指摘したことで有名であるが、要約すれば「ビルマでは長年修業を積んで僧になるので、水島上等兵は簡単に坊さんにはなれない、また戒律は厳しく歌舞音曲にたずさわることはできない、竪琴はもちろん歌うことはしない。ビルマは経済的には遅れているが、文化的には高度な文明国である。」はたしてこれらの今日的批判は正当なものであろうか。

    物語の設定上には相当の無理があるものの、文学としてみると、ケペルはやはり竹山道雄「ビルマの竪琴」は不朽の名作であると考えている。(市川崑の映画については未見なのでここでは触れない)

   竹山道雄の「ビルマの竪琴ができるまで」によると、昭和21年に雑誌「赤とんぼ」の編集長・藤田圭雄に、何か児童向きの読物を書いて欲しいと頼まれた。藤田も竹山とは同じドイツ文学出身である。

    竹山は次のような空想が頭に浮んだ。

「モデルはないけれども、示唆になった話はありました。一人の若い音楽の先生がいて、その人が率いていた隊では、隊員が心服して、弾がとんでくる中で行進するときには、兵たちが弾のとんでくる側に立って歩いて、隊長の身をかばった。いくら叱ってもやめなかった。そして、その隊が帰ってきたときには、みな元気がよかったので、出迎えた人たちが、君たちは何を食べていたのだ、とたずねた。鎌倉の女学校で音楽会があったときに、その先生がピアノのわきに座って、譜をめくる役をしていました。「あれが、その隊長さん」とおしえられて、私はひそかにふかい敬意を表しました。

    これがビルマの竪琴の原型モチーフであるという。作品とはかなり異なるであろう。一説には、戦死した教え子の中村徳郎をモデルにしたとも伝えられる。

    竹山は最初、舞台を中国の奥地にするつもりであった。ここで日本兵が合唱をしていると、敵兵もつられて合唱をはじめ、ついに戦いはなくなった、という筋を考えた。ところが、日本人と中国人とでは共通の歌がない。日本でもよく知られ外国人も知っている歌といえば、「庭の千草」や「埴生の宿」や「蛍の光」などである。そうすると相手はイギリス兵。場所はビルマのほかにはない。だが、竹山はビルマに一度も行ったこともない。昭和21年当時、満足なビルマの資料などほとんどなかっただろう。空想によるファンタジーという部分が多い。戦争をテーマにした作品だけにノンフィションと思われる人も多いだろうが、ドイツ文学者の竹山「ビルマの竪琴」はファンタジー童話なのである。そして国境を越えた人類愛を歌った作品として稀有な成功をおさめている。最近、映画「ビルマの竪琴」をミャンマーの人が観てどう思うか(2時間以上の作品をわずか25分にカットして調査している)ということから原作の竹山「ビルマの竪琴」にまで批判が発展するのを知り奇異に感ずる。戦後すぐに書かれた作品には、まだ戦争が実体験として読者も観客もあったので、この原作も日活映画「ビルマの竪琴」も広く日本人の心の中に共感をもって迎えられたと思う。また竹山道雄の評論家としてのその後の政治的思想や活動は詳しく知らないが、この作品そのものは独立性をもっており、その価値は少しも損なわれていないと思う。

2008年1月 5日 (土)

四S時代と四T時代

   水原秋桜子(1892-1981)と山口青邨(1892-1988)は年も同じで、共に東大卒で東大俳句会に参加している。昭和初期には、水原秋桜子、山口誓子(1901-1994)、高野素十(1893-1976)、阿波野青畝1899-1992 )、4人の頭文字をとってホトトギス四S時代を現出した。(命名者は山口青邨)やがて「ホトトギス」があまりにも瑣末な写生に傾いてゆくことに反発した秋桜子は、「馬酔木」10月号に「自然の真と文芸上の真」を発表して「ホトトギス」から離脱・独立し、昭和9年俳誌「馬酔木」を主宰者となった。同人には石田波郷(1913-1969)、加藤楸邨(1905-1993)、山口誓子なども加わり、やがてホトトギスと対立する勢力となった。

    昭和中期を代表する女流歌人4人、橋本多佳子(1899-1963)、中村汀女(1900-1988)、星野立子(1903ー1984)、三橋鷹女(1899-1972)の頭文字をとって四T時代といった。(命名者は山本健吉)

世界一面白い小説、吉川英治「三国志」

Img_0003     ケペルが中学生の頃、講談社から吉川英治全集の第1回配本「三国志」の広告を新聞で見た。ペン画の精緻なイラスト付きで(生籟範義か?)次の宣伝文がある。「英雄・豪傑がくりひろげる世界一面白い小説。中国の大地を駆けめぐる軍馬の轟きが…数千の英雄たちの勇姿が…豪快なスケールで展開する一大ロマン!吉川「三国志」は、この二千年前の壮大な歴史に、現代の息吹をあたえました。しかも、数々のエピソードは、あなたの人生に大きな夢を育ててくれます。」(毎日新聞昭和41年8月12日)当時、中学生だった私は是非読みたいと思った。だが記念特価590円という高額でとても手が出ない。幸いにも兄がすぐに購入してきた。函入り、カラー挿絵ありの豪華な本であった。吉川英治(1892-1962)は昭和37年に亡くなったので、この全集はほぼすべての作品を収録した本格的な全集であった。

    広告には当時ラジオ「話の泉」やテレビ「私の秘密」で知られた渡辺紳一郎(1900-1978)が人物解説している。

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劉備 漢の景帝の子孫であるが、おちぶれてクツ屋をしていた。だが、穏やかで、徳望のある人物であったため、暴れん坊の関羽・張飛に慕われ、桃園で義兄弟の杯を交して、民衆を苦しめ国家を乱した黄巾賊を一掃する。後に軍師・孔明のスカウトに成功して蜀の帝位につく。

孔明 学者だけに、関羽・張飛ほどの面白味はない。劉備の参謀総長。戦略にたけていた。豊臣秀吉の竹中半兵衛のような人物だった。また、楠木正成は日本の孔明といわれていた。劉備が死ぬ時、息子がバカだったら帝の位について欲しい…とまでに尊敬されていた。

関羽 中国の理想的な軍人と崇拝され、今も、関羽の廟が至る所にある。重さ50㎏の大青龍刀を振り回す劉備の第一の幕僚。中々の美男子で、胸まで垂れた関羽ヒゲは有名。加藤清正のヒゲは、その和製である。

張飛 関羽にひきかえ、色黒く、ブ男。だが2メートルを越す長身の上に、力があり、常に前線部隊長となって活躍する。張飛ここにあり!と叫べば、百万の敵もふるえあがったという。豪傑のわりには、いささかオッチョコチョイであり、時には失敗もするが、これがまた民衆の人気を呼ぶゆえんである。

曹操 悪玉の見本みたいに言われているが、中々の大物。占師に「平時の能臣、乱世の奸物」の相があると言われてもかえって喜んだほどのスケールの大きな人物。現代の社会、現代の世界にも通用する。戦いに惨敗しても、朗々と詩を口ずさんだりしている。

孫権 青いヒトミ。大きな口、紫のヒゲのエキゾチックな好男子。曹操の対抗馬で、剛毅な一面を持っていた。わずか19歳で呉王となり、水軍数百万を指揮した。

    三国志演義は、其れ以前我が国では、湖南文山や「通俗二十一史」(早稲田大学出版部)で知られていたものの、若い世代にとってはかなり難解であったが、吉川三国志は読みやすく、戦後の三国志ブームの出発点となったといえる。横山光輝もだいたいは吉川三国志を原作として漫画化している。

2008年1月 3日 (木)

「にごりえ」お力

    樋口一葉が下谷区龍泉寺町から、本郷区丸山福山町へ引っ越してきたのは、明治27年5月1日のことであった。この界隈は新開地で、それにつきものの銘酒屋が立ち並んでいる。

   「おい木村さん信さん寄ってお出でよ、お寄りといったら寄ってもいいではないか。また素通りで二葉屋へ行く気だろう」という、客ひきの場面からはじまる一葉の名作「にごりえ」は、ここ丸山福山町を舞台として書かれ、明治28年9月「文芸倶楽部」に発表された。新開地の「菊の井」一番の売れっ子・お力。銘酒屋というのは名ばかりで、実は売春窟である。お力には、結城朝之助というお金持ちで男前の客ができた。仲間うちでは、ゆくすえは二人で所帯をもつのではと噂もあった。しかし、お力にはそれ以前に蒲団屋の源七という男がいた。お力に入れ込んだことで、没落し、いまでは妻のお初と太吉郎の三人が貧乏長屋で苦しい生活をおくっている。源七はいまでもお力への未練を断ち切れないでいた。ある日、お初は源七と諍いになり、子どもを連れて家を出た。源七は包丁をもってお力を追い回し、神社のそばで、無理心中をする。

    西洋には「ファム・ファタール」という言葉が19世紀末からあり、男を破滅にする魔性の女のことをいう。映画・小説などでは主に男性の側からみている作品が多い。「にごりえ」は同じ19世紀末ではあるが、女性の側からみた、人生の悲哀と貧しさが描かれている。日本でも獏連、毒婦、白鬼などと昔から魔性の女をさす言葉は多いが、ヒロインのお力はどれにも当てはまらない哀れな女である。

2008年1月 1日 (火)

おもしろペンネーム

   明治の文士などで本名のままという人はめったにない。最もユニークなのが二葉亭四迷。本名・長谷川辰之助は子供のころから本の虫だったため、父親から「お前のようなやつはクタバッテシメエ」とよく怒鳴られたので、それをもじって「フタバテイ・シメイ」としたのは傑作ペンネーム大賞ものであろう。

   そこで新春クイズ。次の本名の文士・作家は誰か?

①福田定一

②松下幸徳

③厚川昌男

④平井太郎

⑤田中富雄

⑥平山藤五

⑦岩瀬伝蔵

⑧杉森信盛

⑨野尻清彦

⑩植村宗一

          *

答え

①司馬遼太郎、②佐賀潜、③泡坂妻夫、④江戸川乱歩、⑤源氏鶏太、⑥井原西鶴、⑦山東京伝、⑧近松門左衛門、⑨大佛次郎、⑩直木三十五

2007年12月29日 (土)

樋口一葉の縁談相手の謎

    樋口一葉(1872-1896)は明治5年5月2日(旧暦3月25日)、東京府第二区一小区内幸町一丁目一番屋敷、東京府構内長屋の官舎で生れた。戸籍はなつ、本名・樋口夏子といった。父は樋口為之助は天保5年生まれで、南町奉行同心であったが、維新後は東京府庁に勤めていた。明治になって名前を樋口則義と改めた。明治9年12月に東京府を退職した。明治14年3月、則義は警視庁警視属になった。

    明治19年頃、15歳の夏子に縁談話があった。相手は名主をつとめる夏目家の長男・大助(1856-1887)である。夏目小兵衛直克(1817-1897)は警視庁につとめ、樋口則義の上司でもあった。つまり夏目漱石の兄・大助の嫁に樋口一葉をどうかという、縁談があったのは事実であろう。しかし、翌年、大助は他界し、破談となった。一説によると、夏目漱石(1867-1916)と樋口一葉との間に縁談があったのではないか、という新説もあるが、証拠や資料はない。同年、則義は警視庁を退職している。

    明治22年には樋口則義の事業が失敗し破産しているので、縁談はすすまなかったであろう。3月、死期が迫った則義は、一葉の将来を心配して、渋谷三郎に婚約をたのんでいた。しかし、7月に則義が死去し、樋口家が破産したことを知ると、渋谷は婚約を一方的に破棄した。同年、夏目金之助は英文学を志し、漱石の号を初めて用いた。翌年、樋口なつも小説家になることを決意し、一葉の号を用いた。

2007年12月27日 (木)

美しい庵主さん

    有吉佐和子(1931-1984)には、「紀ノ川」「香華」「助左衛門四代記」「華岡清洲の妻」のような年代記もの、人権問題を扱った「非色」、老人問題を扱った「恍惚の人」、公害問題を扱った「複合汚染」など、歴史物から社会派まで、幅広いストーリー性に富む作品が多い。小説のほかにも演劇やテレビドラマの脚本にも手がけたことからもわかるように、読者の興味や関心をひく、時代にあったテーマを見つける天才であった。また「恍惚の人」「複合汚染」が流行語になったように、小説のタイトルのつけかたの上手な作家であったといえる。これは有吉が若い頃から、古典芸能に関心を持ち、演劇評論家を志していたことと関連する。彼女の作品のほとんどがドラマ、映画化されていることがそれを証明している。

    昭和31年「地唄」が芥川賞候補にもあげられたが、受賞を逸した。翌年、NHK大阪のドラマの脚本「石の庭」で第12回芸術祭奨励賞を受けた。その年、まだアクション路線の確立していない日活は26歳の新進女流作家の小説「美っつい庵主さん」を映画化した。「美しい庵主さん」(西河克巳監督)は、ある尼寺に東京から女子大生(浅丘ルリコ)がボーイフレンド昭夫(小林旭)を連れてやって来た。尼僧たちは若い男性の来訪に驚く。昭夫も美しい尼僧(芦川いづみ)に一目ぼれする。たわいもない話だが、映画も文学もみんな若くてういういしい時代であった。

2007年12月25日 (火)

細見綾子の俳句

    通勤帰りに大掃除をしている事業所を見かけた。今年も残すところあと6日だ。忘年会や年賀状印刷も終わってほっと一息したところ、ふと、この句がうかぶ。

  年の瀬のうららかなればなにもせず

    細見綾子(1907-1997)。本名・沢木綾子。明治40年3月31日、兵庫県氷上郡芦田村(現・丹波市青垣町)に、父・細見喜市、母・とり、の長女として生れた。昭和4年に肋膜炎の闘病生活で、佐治町の医師・田村菁斎の勧めで俳句をはじめた。繊細典雅な作風で、日常生活で見たもの感じたものを率直によんだ句が多い。句集「桃は八重」「技芸天」「曼陀羅」等がある。

  鶏頭を三尺離れもの思ふ

  菜の花がしあはせそうに黄色して

  ふだん着でふだんの心桃の花

  チューリップ喜びだけをもってゐる

  来てみればほほけちらして猫柳

  そら豆はまことに青き味したり

2007年12月23日 (日)

横光利一の日本回帰

   今日の朝日新聞の投稿に「伊賀の霧ほど美しいものはあまりなかった」という横光利一の絶筆「洋燈(ランプ)」の一節が紹介されていた。(伊賀市の高校生・松本咲希さん)。横光の故郷が伊賀であることに興味をおぼえた。

    横光利一(1898-1947)は明治31年3月17日、福島県会津郡東山温泉で、父・横光稲次郎、母・こぎく(小菊)の長男として生まれた。父は通称、利顕(としあき)と訓(よ)んだので、横光利一も「としかず」が正しい。

   しかし、横光の出身地は一般に宇佐市といわれる。父の出身地が大分県宇佐郡長峰村である。宇佐市では「横光利一俳句大会」がおこなわれている。父が土木工事の請負業者だった関係で住地を転々とした。利一が6歳のときに、伊賀の柘植に移住したのだ。

  横光の母の生家は松尾氏。三重県伊賀国東柘植の野村で、川ひとつへだてたところが松尾芭蕉が生まれた灰野である。横光利一が芭蕉の末裔という説もあったが、現在では否定されているそうだ。昭和11年の渡欧の際には高浜虚子(1874-1959)の船中句会に参加している。

   昭和5年に発表した「機械」は独白的な心理描写を中心とするものだが、谷崎潤一郎の「卍」の影響がみられるという。昭和初年、文壇を代表する作家は谷崎潤一郎と横光利一だったが、当時の日本文学の中心問題は、プルーストやジェームズ・ジョイスやラディゲなどの新しい文学をどのように取り入れるかということであった。

    横光は昭和11年2月から8月までヨーロッパ旅行を経験し、西欧文化に対して日本の美的倫理を再認識し、昭和12年4月から8月まで「旅愁」を発表した。

2007年12月19日 (水)

秋元不死男

   秋元不死男(1901-1976)。昭和の俳人。擬声語、擬態語を用いた俳句が有名である。

  鳥わたるこきこきこきと罐切れば

  ライターの火がポポポポと滝涸るる

  へろへろとワンタンすするクリスマス

  こここここ羽抜鳥二羽こここここ

 「こきこきこき」というおどけたさびしい音に、渡り鳥の羽ばたきまで聞えてくる。「ポポポポ」はライターの火の燃える音。「へろへろ」はワンタンの感触であるとともに、すする音。

   息子は「シャボン玉ホリデー」のディレクターの秋元近史。親子の共通点はあるのだろうか。番組から生まれたギャグ「ガチョン」「びろーん」「ムヒョーツ」「ハラホロヒレ~」などの奇妙な擬声語・擬態語のルーツは、実は秋元近史の父・秋元不死男のオノマトペ俳句にあるような気がする。

2007年12月16日 (日)

漱石文学と味の素

    夏目漱石(1867-1916)は、明治33年9月8日、横浜を出航、途中パリで万国博を見学して、10月28日ロンドンに到着した。ここで約2年4ヵ月を英語研究のため過ごした。文部省留学費が年1800円にとどまっていたことから、ケンブリッジなどの英国の大学生活が自己の目的にかなわないと知って、大学の講義を聞くことを断念した。ロンドンで、ウィリアム・ジェイムズ・グレイグの個人教授を1年あまりうけながら、下宿を5度変えて、学生街から西南の場末の新開地にうつり、衣食をきりつめて、高価な書籍の買入に留学費の大部分を傾けた。この間、美濃部達吉、長尾半平、大幸勇吉、土井晩翠らと多少の交渉をもったほかは、社交をさけ、下宿籠城主義をとり、古今の英文学書の耽読に過ごしたといってよい。ただひとつ、ドイツ・ライプツィッヒから帰途たちよった池田菊苗(1864-1936)との3ヵ月たらずの交友が、漱石に重大な影響を与えた。漱石は次のように書いている。

   「倫敦で池田君に逢ったのに、自分には大変な利益であった。御陰で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりとした研究をやろうと思い始めた」

    化学者・池田との交友により、科学的研究方法による「文学論」の執筆を思い立った。明治34年5月5日から8月30日までのロンドンでの二人の交流が漱石文学と味の素を生んだともいえるのではないだろうか。(参考:瀬沼茂樹『夏目漱石』東京大学出版会 昭和37年3月)

漱石の母・高橋千枝

    夏目漱石は母・夏目千枝(1826-1881)の思い出を『硝子戸の中』で次のように書いている。

   私の知っている母は、常に大きな眼鏡を掛けて裁縫をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、球の大きさが直径2寸以上もあったように思われる。母はそれを掛けたまま、すこし顎を襟元へ引き付けながら、私を凝と見る事が屡あったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、何時でも母の背景になっていた一間の襖を想い出す。古びた張交の中に、生死事大常迅速云々と書いた石摺なども鮮やかに眼に浮んでくる。

   夏になると母は始終紺無地の絽の帷子を着て、幅の狭い黒繻子の帯を締めていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、何時でもこの真夏の服装で頭の中に現れるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。

   漱石の実母・ちゑ。四ッ谷大番町(現・新宿区大京町)の福田庄兵衛(質商鍵屋)の三女(鶴、久、ちゑ、三人の娘がいた)。ちゑは長らく大名(明石または久松)の奥女中をつとめたが、下谷の質屋に嫁したが、不縁となり、長姉鶴の婿、芝金杉1丁目の高橋長左衛門(炭問屋)の養女として安政元年(1854年)に夏目小兵衛直克の後妻に来た。直克の先妻は、千駄谷の名主斉藤勘四郎の娘で嘉永6年(1853年)に死んで、あとに佐和、房の二女を残した。

    慶応3年2月9日(旧暦1月5日)、千枝(ちゑ)は、四男一女のあとに金之助を産む。乳が出ないためもあって、生後すぐに四ッ谷の古道具屋(一説によれば源兵衛村の八百屋)に里子に出すが、すぐに連れ戻された。しかし明治元年11月、塩原昌之助(29歳)の養子となり、内藤新宿北町にあった同家へ引き取られた。養母は、やす(29歳)。明治9年、養父母の離縁で、金之助は塩原家在籍のまま実家に帰る。

    明治12年3月、金之助は東京府第一中学校正則科第七級乙に入学する。(校長・村上珍休)明治14年1月21日、千枝の死にあって、金之助は大助の官舎に行っており、死に目に逢っていない。中学校では勉強をおろそかにして、退学した金之助であるが、母の死後、三島中洲の二松学舎に転じて漢学を学び、文学に関心を持つようになる。

2007年12月15日 (土)

志賀直哉「青年よ、大志を抱け」

   青年時代に志賀直哉は内村鑑三から大きな影響を受けた文学者の一人である。明治10年、札幌農学校の初代教頭だったクラーク博士が北海道を去る時に残した言葉「青年よ、大志を抱け」は、すぐに弟子たちに広まったわけではなく、かなりの歳月を経て知られるようになったといわれている。しかしながら明治16年生まれの志賀にとっては、内村などを通じて青年時代から親しんだ言葉であろう。「志賀直哉全集第9巻」には「卒業する諸君へ」という短文が収録されている。昭和27年の『中学国語3年(下)』(学校図書)に書き下ろされたものである。

   人間の一生は一日々々の積み重なったものであるから、日々をたいせつに暮らすのもいいことではあるが、そう考えて、毎日をあまり緊張しすぎると、一生は長いから疲れてしまう。ゆったりした気持で、なるべく視野を広く、考え方にも柔軟性を失わぬようにすることが肝要だ。しかし、一生が一日々々の積み重なったものであることも事実だから、ときに、それを思うことも無意味ではない。

   札幌の北海道大学の校庭にクラークという明治初年に日本にきて、当時の若い人々にいい影響を与えた人の胸像があるが、その台石に、「ボーイズビーアンビシャス」ということばが彫ってある。「ビーアンビシャス」を「野心的であれ」と訳すと、いろいろ危険な結果が考えられてよくないが、「大志をいだけ」と訳せば、いいことばで、青年にはこの気持はぜひなくてはならぬものとわたしは考える。

   自分が一生をささげて悔ゆることのない仕事を選ぶことがたいせつだ。急ぐ必要はない。よく見きわめて、それと決めたら、今度は迷わず、その道に精進すべきだ。人間は一つ事を倦まず続けていけば、いつかは必ずある地点に達することができるものだ。

   天分ということも多少はあるだろう。しかし、わたくとはそれよりも、よりよき仕事をしようという不断の意志をもつことが、もっとたいせつなことだと思っている。天分ある人というのは、むしろその意志をもち続けることのできる人といってもいいかもしれぬ。そういう意味では天分というものは、だれでももとうと思えばもてるものなのだともいえるわけである。

    志賀直哉に限らず、「青年よ、大志を抱け」という名言に、後に続く言葉を考えた人がいる。例えば、次のような稲富栄次郎の訳文がある。

「青年よ、大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることをなしとげるために大志をもて。」

    朝日新聞「天声人語」(昭和39年3月16日)にも次のような一文がある。

「少年よ、大志を抱け。しかし金を求める大志であってはならない。利己心を求める大志であってはならない。名声という、つかの間のものを求める大志であってはならない。人間としてあるべきすべてのものを求める大志を抱きたまえ。」

2007年12月11日 (火)

大空の英雄・バロン滋野

    第一次世界大戦における撃墜王といえばドイツのマンフレート・フォン・リヒトホーフェン(1892-1918)である。彼は愛機フォッカーDr.1を赤く塗っていたからもわかるように自信家であったが、その騎士道的プライドの高さから「レッド・バロン(赤い男爵)」と呼ばれていた。

    複葉機による航空戦の華やかりし時代に、日本人として第一次世界大戦に勇戦した男爵「バロン滋野」がいた。本名は滋野清武(1882-1924)。フランスの飛行学校で飛行術を学び、大正元年に徳川好敏に次いで日本人で2番目に、万国飛行免状(アエロ・クラブ)を取得した。その年8月、明治天皇の病状が悪化したため、愛機「和香鳥号」(若くして亡くなった妻・清岡和香子に因む)と共に帰国。大正2年には実演飛行を何度か行い大いに注目を集め、同年4月20日、日本で45分間の飛行中に高度300mの記録を樹立した。大正3年4月、航空機材買付けのためにフランスへ戻るが、第一次世界大戦が勃発。そこで彼はフランス陸軍に志願し連合軍の一員として活躍、レジオン・ドヌール勲章、クロワ・ビーゲール勲章を受ける。やがて美しい未亡人ジャーヌに出会い、大正6年に結婚。大正9年に帰国するが、大正13年には43歳の若さで亡くなっている。

   ところで学習院初等科時代、滋野は、志賀直哉、有島壬生馬、松方義輔から集団暴行をうけたことがある。志賀の「人を殴った話」によると、「Sの父は日清戦争の時の陸軍中将で、男爵になった人だが、もう亡くなっていて、Sが男爵をついでいた。陰性なたちで、皆が運動場で騒でいるような場合にも、仲間と小使部屋で、密かに煙草を喫っているというような子供だった。痩せて、ヒョロヒョロと高く、無表情の青白い顔には何か傲慢な感じがあった」とある。東京直下地震があった明治27年の話で、12歳の事件である。「Sを殴って、しばらく経った或日、放課後、私は四谷見附に近い門から出るつもりで屋根だけで側面のない廊下を来ると、不意にクラクラと何か一寸分らないショックを頭に感じた。背後から石をぶつけられたのだ。Sが逃げて行く。私は本の包みを其所へほり出して、直ぐ追いかけた。(略)私は学生の椅子に乗り、Sの頭を両腕でぐいと力一ぱいに抱きしめた。急にSは声を挙げて泣き出した。(略)Sは私に復讐をしたつもりだったが、直ぐ又、その仕返しをしたわけである。(略)Sは欧州の第一次大戦当時フランスにいて、飛行将校として戦争に参加し、勲章などを貰い、フランス人の細君を連れ、飛行機を持って、日本に帰って来た。帰ってから何か飛行機関係の仕事をしていたように思ふ。婦人雑誌に混血の赤児を中に細君と写した写真が出ていた事がある。そして間もなくSは胸の病気で亡くなった。今頃になって、如何にも孤独だったSに対し、気の毒な気もするのだが、然し、兎に角、妙に人に好かれぬ男だった」と結んでいる。快と不快、好悪の感情が激しい志賀直哉の一面を知るエピソードである。

2007年12月 8日 (土)

志賀直哉の批評家無用論

    志賀直哉(1883-1971)は昭和12年、54歳の時に長篇小説『暗夜行路』の後篇を発表し、完成させた。これまでに、「網走まで」(明治43年)「和解」「城ノ崎にて」(大正6年)「小僧の神様」(大正9年)などの多くの短編小説を書いて、当時の文学青年から崇拝され「小説の神様」と擬せられていたことは周知のとおりである。

    三島由紀夫の言葉を借りれば「日本における批評の文章を樹立した」人といわれる小林秀雄(1902-1983)は、志賀直哉に対する熱烈な讃辞であふれている。

    これに対して、私小説批判で知られる中村光夫(1911-1988)は、昭和29年、『志賀直哉論』(文芸春秋新社)において志賀直哉を徹底的に否定する内容の本を出版している。「作者自身の精神の状況が何か燃えきった灰のやうな印象を与える」とか「重要な仕事はほとんど30代に終わってしまい、ことに昭和4年以後は、作家としての活動はまったく休止状態」であるとか、さらには「もっと根本の小説を書く態度の上での、或る固定化」「精神の発育停止」とまで言い切っている。

    戦後の志賀直哉の作品には「淋しき生涯」「灰色の月」「蝕まれた友情」「白い線」「盲亀浮木」などで今日では、それほど読まれないものが多いのも事実である。太宰治が「老大家」と評し、中村光夫が「精神の発育停止」と言った批判は果たして正当性があるのであろうか。

    これに対して志賀自身は「白い線」で次のように言っている。

「批評家や出版屋に喜ばれるのは大概、若い頃に書いたもので、自分ではもう興味を失いつつあるようなものが多い。年寄って、自分でも幾らか潤いが出てきたように思うもの、即ち坂本(繁二郎)君のいう裏が多少書けて来たと思うようなものは却って私が作家として枯渇してしまったように云われ、それが定評になって、みんな平気で、そんな事を書いている。私はさういう連中にはさういう事が分からないのだと思う。そして、常に云っているように批評家というものは、友達である何人かを例外として除けば、全く無用の長物だと考えるのである。そういう批評家は作家の作品に寄生して生きている。それ故、作家が作家が批評家を無用の長物だと云ったからとて、その連中の方から作家を無用の長物とは云えない気の毒な存在なのだ。作家が他人の作品を批評する場合、何をいっても、云っただけの事は自身の作品で責任を負はねばならぬが、批評家は自身小説を書かず、その責任をとる事がない。批評家はそういう自分の立場を大変都合のいい事と考えて、勝手な事をいっているが、実はこの事がむしろ致命的な事だというこ事を知らないのだ。」

   「白い線」は昭和31年3月1日発行の『世界』第123号に発表されたものである。おそらく中村光夫の『志賀直哉論』に対しての反論として読み取ることができる。

2007年11月14日 (水)

特攻隊長の恋

    島尾敏雄(1917-1986)は、大正6年4月18日、横浜市戸部町3丁目81で生まれる。父・島尾四郎、母・島尾トシ。昭和19年10月、海軍第18震洋隊(特攻隊)183名の指揮官として、奄美諸島加計呂麻島呑之浦に駐屯する。島尾はノロの家系の娘・ミホと恋に落ちる。昭和20年8月13日に発動命令が下されたが、そのままの状態で終戦を迎える。9月、特攻兵だけ佐世保で解員、神戸の父のもとへ帰る。妹・原美江が満州奉天で死亡。昭和21年、ミホと神戸で結婚。昭和22年、富士正晴編集「VIKING」の同人となり、「単独旅行者」、翌年「夢の中での日常」(「総合文化」)などによって戦後派作家として文壇に登場する。昭和35年7月に発表した「死の棘」(「群像」)で芸術選奨を受賞。「死の棘」は、トシオ、ミホという実名に近い主人公であるため実話のように捉えられがちだが、後年、妻の島尾ミホ(1919-2007)が「死の棘を含めてほとんどの作品を私が清書した」と語ったように、作品はあくまで虚構であろう。長男の島尾伸三(写真家)、長女・島尾マヤ(1950-2002)、孫は漫画家・しまおまほ。

2007年11月10日 (土)

ハーンと横浜

    明治23年4月4日、ラフカディオ・ハーンは朝の6時に横浜港に着いた。それからすぐ人力車を雇って1日中、横浜の街を走る。一つ覚えの日本語「テラエユケ」を連発してお寺めぐりをする。ハーンが参詣した寺社はどこか、実はあまりわからないらしい。成田山不動尊、浅間社、厳島神社、本牧神社、白滝不動、青木明神、豊顕寺、慶運寺などが考えられる。何番目かに訪れた寺で、英語の堪能な青年・真鍋晃に出会う。その後、真鍋はハーンの通訳をしながら仏教文化の解説や民話・伝説の紹介をするなど有能な助手だった。昭和59年にNHKで放送された「日本の面影」では、ハーンをジョージ・チャキリス、真鍋晃を三ッ木清隆が演じていた。しかし真鍋晃という人物については、ほとんど詳しいことはわからない。その年の8月下旬にハーンは中学校英語教師の職を得て島根県松江に赴く。

2007年10月27日 (土)

日米開戦とジーン・アーサー

    昭和15年8月、東京の8人の若き小説家たちが「青年芸術派」を結成した。野口冨士男、井上立士、牧屋善三、南川潤、十返肇、田宮虎彦、青山光二、船山馨である。青年芸術派が昭和文学史に残した足跡は小さなものであるかも知れないが、時局の国策文学的雰囲気に抵抗しようとしていたことがうかがわれる。まさに日米開戦の直前のことである。野口冨士男(1911-1993)が毎日新聞に寄せたエッセイにその当時の思い出を書いていたことを記憶する。

    昭和16年の晩秋、野口冨士男は映画「スミス都へ行く」を見に行った。すでに政府は前年にアメリカ映画の輸入禁止を発表していた。もうこれでアメリカ映画は観れなくなる。野口は、最後の思い出にジーン・アーサー(1908-1991)を一目みておきたかった。当時、ジーン・アーサーは巨匠フランク・キャプラー監督作品「オペラハット」「我が家の楽園」に主演し、まさにアメリカを象徴するトップ女優だった。この「スミス都へ行く」を見てまもなく、12月8日、太平洋戦争が起こった。

2007年10月26日 (金)

夢去りぬ

   小熊秀雄(1901-1940)は、昭和15年11月20日、東京の豊島区千早町のアパートの一室で39歳の若さで死んだ。「泥酔歌」という詩はおそらく死ぬ前年ごろに作られたものであろうか。

暗い隅から

レコードが歌ひだした

不安なキシリ声から始まった

哀愁たっぷりのジャズだ

女に歌の題をたずねると

「夢去りぬ」といふ、

俺はそれを聞くと

酔ひが静かに醒めてきた

ほんとうだ 夢は去ったのだ、

とつぜん俺は機嫌がよくなった。

よろよろと扉をひらいて戸外にでた、

古ぼけた痲痺を追っている

多数の人々の姿を

俺はぼんやりと瞳孔の中に映しだした

夢去りぬ、俺は蚊の鳴くやうな

小さな声で人々にむかって呟やいた

   小熊が聞いたレコード「夢去りぬ」とは、どんな曲であろうか。「夢去りぬ」は昭和14年に発売されたときは、「Love‘s Gone」という題で、ラベルにもハッター作曲、ヴィック・マックスウェル楽団演奏と刷られていた、と資料にある。当時ジャズ音楽は敵性音楽とみなされ、服部良一(1907-1993)が盟邦ドイツのタンゴと偽装して出したレコードだった。戦後の昭和23年に霧島昇が日本語歌詞のレコードを出した。

   ところが、当時を知る老人(高柳重信)の思い出を語るブログ記事では、確かに日本語歌詞で題も英語ではなく、日本語の「夢去りぬ」であったといっている。これを老人の記憶違いと記事者(須永朝彦)は書いているが、この小熊秀雄の「泥酔歌」を読むかぎり、「夢去りぬ」は「レコードが歌ひだした」とあることから、歌詞があったようで、女(カフェーの女給)が咄嗟に英語の題を訳して「夢去りぬ」といったとは考えにくく、おそらくレコードのレーベルに日本語で「夢去りぬ」と書かれていたのであろう。つまり「夢去りぬ」は二種のレコードが昭和14年に存在していたのである。

   抵抗の詩をうたいつづけた詩人・小熊秀雄と音楽家・服部良一という二人のモダニスト・芸術家が日中戦時下、お互い名前も知らぬまま間接的に遭遇していたのである。「夢いまだ さめやらぬ 春のひと夜 君呼びて ほほえめば 血汐おどる ああ 若き日の夢 今君にぞ通う この青春のゆめ さめて散る花びら」

2007年10月20日 (土)

デスペレートな女流作家

    平林たい子(1905-1972)。明治38年10月3日、長野県諏訪郡中洲村福島(現・諏訪市)で生まれる。祖父・平林増右衛門は製糸業を営む自由党員であったが、事業に失敗。父・平林三郎は弟・督男とともに朝鮮に行き、母・勝美が農業のかたわら日用雑貨をひらいた。大正11年、諏訪高等女学校を卒業後、上京し、東京中央電報局の交換手監督見習になるが勤務中に堺利彦に通話して解雇。ドイツ書籍店の店員になり山本虎三と出会う。高津正道の売文社に出入りし、アナーキストグループに接近する。大正13年1月、山本と大連に渡る。大正13年10月、単身帰国。田河水泡(1899-1989)、岡田龍夫(1904-没年不詳)と同棲。大正14年、飯田徳太郎と同棲。昭和2年1月、山田清三郎の媒酌により小堀甚ニ(1901-1959)と結婚。昭和2年5月、「喪章を売る」(のち「嘲る」と改題)が大阪朝日新聞懸賞に入選。昭和2年9月「施療室にて」を「文芸戦線」に発表し、プロレタリア作家としての地位を確立した。代表作に「殴る」「こういう女」「盲中国兵」「鬼子母神」「私は生きる」「人生実験」「人の命」「秘密」「地底の歌」「一人行く」「耕地」「春のめざめ」「栄誉夫人」「桃色の娘」「愛情旅行」「女二人」「うつむく女」「妻は歌う」「愛あらば」「砂漠の花」等ある。

2007年10月18日 (木)

織田作之助とライスカレー

    織田作之助(1913-1947)は三高(京都大学)在学中に酒場ハイデルベルクの女給・宮田一枝と駆け落ちする。一枝との同棲体験から名作「夫婦善哉」が誕生する。小説にも登場する自由軒の名物カレーとはどのようなものであろうか。

    作之助はカレーを食べながら執筆するので、その際に皿を見なくて口にカレーを運べるようにライスとルーをあらかじめかき混ぜて出すように頼んでいた。自由軒の名物カレーとは、白飯にカレールーを混ぜ込み、真ん中を窪ませて生卵をひとつおとしこんだものである。当時25銭。小説「夫婦善哉」には「自由軒のラ、ラ、ライスカレーは御飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とある。

    今年は織田作之助没後60年になる。小説「秋深き」「競馬」をもとにした映画「秋深き」(池田敏春監督)の撮影も快調に進んでいるそうだ。佐藤江梨子の宮田一枝を早く見たい。

2007年10月17日 (水)

美食家ではない実篤

    9月12日午後2時、安倍晋三首相の突然の辞任のニュースが流れた。医師の説明によれば「食欲不振などの症状があり、全身的に非常に衰弱している」という。安倍から交替した福田康夫はステーキを食する健啖家で大のワイン党という。どうやら最近は美食家、健啖家がもてはやされるらしい。テレビではギャル曽根が大食い番組で人気者になり、陶芸家の北大路魯山人(1883-1959)が美食家として注目されている(漫画「美味しんぼ」に登場する海原雄山が魯山人のモデルらしい)。いまテレビ・雑誌では著名人が美食を競っている。「作家の食卓」(平凡社)では、立原正秋、石川淳、永井荷風、壇一雄、色川武夫、内田百閒、谷崎潤一郎、吉田健一、池波正太郎、開高健などの美食が紹介されている。

   ところが、作家すべて美食家かというと、そうでもないらしい。嵐山光三郎によれば、武者小路実篤(1885-1976)は味音痴だそうだ。家族が、これならと思う美味しいものをすすめると、「くえる」というのがほめ言葉だった。食通の梅原龍三郎に中華料理をごちそうになり、味はどうだったか訊かれたとき、実篤は「やわらかかった」と言ったという。独特の画風で知られる実篤の野菜の絵も、生命力はあるが、そこに食欲はなく、ひたすら観察があるだけである。嵐山は「それは実篤が公家の出で、はかない味を好んだためだという」そして「明治の公家の食卓はつつましいものであった」という。そういえば実篤の小説には食べ物の描写はほとんどないと記憶する。楽天的で無頓着なところが実篤の魅力なのかも知れない。(参考:嵐山光三郎「文人暴食」)

長谷健と九州文学

    「今日は何の日」を調べると、芥川賞作家の長谷健の誕生日である。長谷は、明治37年、福岡県山門郡東宮永村下宮永北路(現・柳川市)で生まれる。筆名の由来は、長谷川如是閑(1875-1969)とも「長谷の大仏さん」ともいわれる。学生時代に肋膜を患い、健康を願って「長谷健」としたという。東京の小学校の先生(堤正俊といっていた)が芥川賞を受賞したのは昭和14年のことである。戦後、長谷は火野葦平の「鈍魚庵」に同居していた。同じ福岡出身の火野も「糞尿譚」(第6回芥川賞)で受賞している。

   芥川賞受賞者を府県別でみると、第1回から第134回平成17年下期まで139名のうち、東京は27名、大阪府14名、福岡県は11名である。福岡、長崎出身者の作家は多い。九州文学といえる土壌があるようだ。歴代の受賞者は鶴田知也(1902-1988)「コシャマイン記」、火野葦平(1907-1960)「糞尿譚」、中山義秀(1900-1969)「厚物咲」、長谷健(1904-1957)「あさくさの子供」、松本清張(1909-1992)「或る小倉日記伝」、岡松和夫(1931生)「志賀島」、森禮子(1928生)「モッキングバードのいる町」、村田喜代子(1945生)「鍋の中」、藤原智美(1955生)「運転士」、藤野千枝(1962生)「夏の約束」、大道珠貴(1966生)「しょっぱいドライブ」

   ところで長谷健の作品には、同じ柳川出身の北原白秋(1885-1942)を題材にした「からたちの花」(昭和30年)がある。昭和32年、白秋三部作の終章「帰去来」執筆半ばに交通事故で急逝した。

   長谷は昭和4年に上京して、小砂丘忠義の「綴方生活」の同人として活躍した。白秋の抒情性、童心性を中心とした「児童自由詩」に対して、生活綴方運動では現実生活に根ざして、その生活感動を端的に表現した「生活詩」を重要視していったので、白秋と同郷である長谷健の立場は微妙であり、複雑であったであろう。芥川賞受賞後の戦時中も「九州文学」の同人であった長谷は、戦前と戦後とを繋ぐ九州文学の重要な位置をしめている。

2007年10月16日 (火)

寺田寅彦と珈琲

   寺田寅彦(1878-1935)は幼いころ病弱であったため、医者は牛乳に少量のコーヒーを香り用として混ぜて与えた。そのため、物理学者となり、東大の研究所で働くようになってからも、壁には「好きなもの イチゴ 珈琲 花美人、懐手して宇宙見物」とローマ字で貼っていた。

    寅彦は病気のため1年以上全くコーヒーを口にしなかった。ある秋の日、久しぶりで銀座でコーヒーを一杯味わった。そうしてぶらぶら歩いて日比谷までくるとなんだかそのへんの様子が平時とは違う。すべてのものが美しく明るく愉快なもののように思われ、この世の中全体がすべて祝福と希望に満ち輝いているように思われた、とコーヒーの効用を書いている。そして宗教は官能と理性を麻痺させる点で酒に似ていて、哲学は官能を鋭敏にし洞察力と認識を透明にする点でコーヒーに似ている、とも書いている。(参考:寺田寅彦「コーヒー哲学序説」)

2007年10月15日 (月)

おでんと虚子

    高浜虚子(1874-1959)。本名・池内清。明治7年2月22日、松山市長町新丁に父・池内四郎政忠、母・柳の四男として生まれる。明治15年、祖母の家系を継ぎ、高浜姓となる。明治24年、正岡子規に出会う。明治30年6月、高田屋の娘、大畠いとと結婚。明治31年10月、俳句雑誌「ホトトギス」の主宰者となる。

    虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。

  振り向かず 返事もせずに おでん食ふ

  おでんやを 立ち出でしより 低唱す

  戸の隙(すき)に おでんの湯気の曲り  消え

  硝子戸に おでんの湯気の 消えていく

  志 俳諧にあり  おでん食ふ

  おでんやの 娘愚かに 美しき

など、おでんの句がある。

2007年10月13日 (土)

長谷健と平林たい子

    「あさくさの子供」(第9回芥川賞)などの名作で知られた長谷健(1904-1957)は、本名・藤田正俊(旧姓堤)、福岡県柳川市に生まれ、福岡師範卒。昭和4年に上京し、小砂丘忠義の「綴方生活」の編集同人をしていた。毎月「綴方インターヴュー」という連載で有名作家に会って文章作法などを聞く。昭和10年6月号は平林たい子(1905-1972)である。

  「綴方について何か話していただきたいんですが」と言いながら「綴方生活」を一冊差出すと、「それは大変おやすい御用で、また一面むづかしい問題ですわね」さらさら言ってのけてからさて「文章は、見た通り感じた通りそりままを書くというのが骨子ではありますがね。ただその通りに書いただけでは、写真になってしまいますね。作文は、文学は、写真ではないんです。見た通り感じた通りといっても或部分は事実以上に誇張されたり、時には省略されたりして非常に複雑になるものです。従って感じた要点や、主張したい点は、特に綿密的確に表現するしいくらありのままでもそれが自分の主張と反対の場合は省略してしまうんですね。しかしまた見た事感じた事を、もっともっとよく云い表わすためには、時に、それと反対のものを強く現す場合もあります」「逆効果をねらうといふところですか」「まあ、いってみればさうですね」滔々と喋りつづけるところ、ますます九州なる肥った私の姉とそっくりである。いきおいどうも姐御といった風な親しみがわいてくる。

   長谷健は平林たい子よりもわずか一歳年下であるが、流行作家とまだ無名の文章修業中の「はせけん」では、文士としての格が違うのだろう。恐る恐る女史の話を聞いていたようだ。夫の小堀甚ニ(1901-1959)の咳払いが襖越しに聞えた。長居は病人の神経を刺激するとばかり、用件をすますとさっさと退却した。

2007年10月 5日 (金)

一茶集・秋の句

 露の世は 露の世ながら さりながら

  文化13年4月に生まれた長男千太郎が翌年5月に亡くなった。去年文政元年5月に生まれた長女さとが今年文政2年6月21日、亡くなった。この世がはかないものであることはよく承知しているのだが、それにしてもあきらめきれないものである、との意。

 秋の雨 小さき角力 通りけり

   いまの平成の世も大相撲では序ノ口力士に対する親方・兄弟子の暴行が問題になっている。180年前、一茶にはすでに弱いものに対するやさしいまなざしがあった。しょぼしょぼと降る秋の雨は、なかなかに侘び侘しいものである。その侘しい秋の雨降るとある村を、褌かつぎらしい小柄な角力取りが、一行に遅れたのであろう、ただ一人冷飯草履でぴしゃぴしゃとはねを上げながら、うすら寒そうにして通って行く。なんとわびしく、哀れな姿であろう、との意。

  秋風に 歩いて逃る 蛍かな

   秋風の吹くま昼。おとろえかけた蛍が草の葉の上をはっている。何かに追われて逃げているようだ、との意。

  名月を 取ってくれろと なく子哉

  秋風に むしりたがりし 赤い花

  おさな子や ひとり飯くふ 秋の暮

  古郷の 留守居も一人 月見哉

  麦秋や 子を負ひながら いはし売

  仰のけに 落ちて鳴けり 秋の蝉

  なきながら 蟲の流れる 浮木かな

  又人に かけ抜かれけり 秋の暮

  一人と 帳面につく 夜寒かな

ひなぶり俳諧師・小林一茶

   文化・文政(1804-1829)の江戸俳諧は、「通」を基調とする都会的で洒落た雰囲気が漂っていた。井上士朗(1742-1812)、鈴木道彦(1757-1819)、建部巣兆(1761-1814)、夏目成美(1749-1816)、岩間乙二(1753-1823)らがいた。一茶の師にあたる夏目成美も、平穏かつ都会的な表現を旨としていた。

   一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)、信濃国上水内郡柏原の貧農の長男として生まれた。本名は弥太郎。父・弥五兵衛、母・くに。3歳の時、母を失い、8歳の時、父がはつと再婚する。継母とは馴染めず、15歳の時に江戸へ奉公に出る。25歳の時、葛飾派の二六庵小林竹阿(生年不詳ー1790)に師事して俳諧を学ぶ。葛飾派とは山口素堂(「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で知られる)をその祖とする。当時の江戸俳諧の主流であった洒落風に対して、田舎臭く詠むのが特徴であった。気取らず、大衆的で、日常的な題材をとりあげ俗語も使う。一茶も自らを「夷(ひなぶり)俳諧」と言っている。

   俳人一茶は竹阿の跡を辿って西国行脚のち江戸暮らしを10年したが、「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」の一句を残して、帰郷する。信濃で、52歳の一茶は28歳の若妻きくを迎えた。三男一女をもうけたが、不幸にして次々に夭死した。10年連れ添った妻にも先立たれた。そのうえ宿場の火災で類焼し、残った土蔵で65歳の生涯を閉じた。

    一茶といえば、「我と来て 遊べや 親のない雀」が知られている。母親のないおれは、遊び友達もなくて淋しい。親のない雀よ、お前も淋しいだろう。こっちへ来ておれと一緒に遊ばないか、の意。この句は6歳の年の作とする六歳説や八歳説があるが、いずれも怪しい。やはり「おらが春」(文政2年)の57歳に頃に、幼児の頃を思って作ったのであろう。一茶は3歳の時に継母を迎えている。

   句文集「おらが春」には、娘さとのことが出ている。「去年の夏、竹を植える日のころ(つらい節の多い)このつらい世に生まれた娘に「さと」と名付けた。今年、誕生日を祝うころから、ちょうちちょうち、あわわ、あたまてんてん、かぶりかぶり振りながら、同じ子供が風車というものを持っているのを、しきりにほしがってきげんが悪くて泣くので、すぐに与えたのを、そのままむしゃむしゃしやぶって捨て、ほんの少しばかりの風車に執着する気持ちもなく、すぐにまたほかの物に心が移って、そのあたりにある茶わんをうちこわして、今度は障子の薄い紙をめりめりむしるので「よくやった、よくやった」とほめると、きゃらきゃらと笑って、やたらにひどくむしり散らす。心の中に一つのちりもなく、名月のように明るく輝いて澄んで見えるので、無邪気な俳優を見るように、かえって心のしわを伸ばしたはればれした気持ちになった」とある。しかし、長女さとは間もなく痘瘡で死んだ。一茶の悲しみはいかばかりであっただろうか。

2007年9月25日 (火)

富田木歩と新井声風

   富田木歩(とみたもっぽ、1898-1923)。大正の俳人。本名、富田一(はじめ)。明治30年4月14日、東京本所区向島小梅町に生まれる。両親は鰻の蒲焼「大和田」を経営していた。しかし洪水の被害にあい、貧してから姉妹たちは遊郭に身を落とす。木歩は2歳のとき、病により、歩行不能となり、小学校教育も受けられなかった。文字は「いろはかるた」「軍人めんこ」や雑誌のルビで覚えた。やがて足萎えのまま、友禅型紙切りの奉公に出る。そんな日々のなか土手米造を知る。土手は20歳で「波王」の俳号で「小梅吟社」を結成し、木歩は「吟波」と号する。ホトトギスの原石鼎に師事し、「ホトトギス」初学欄に句を投じ、大正5年、臼田亜浪に師事。ここで木歩は同じ年の新井声風(1897-1972)を知り、二人は生涯の友となる。声風の父は浅草で映画館を経営しており、そのころ慶応大学に通っていた。大正10年に声風が「石楠」を去るや木歩もこれに従い、その後は「曲水」に作品を発表した。その間、妹と弟は結核で亡くなり、木歩も大正7年ころから客血するようになり、病臥の身となった。大正8年12月、向島玉の井に移る。大正10年夏、貸本屋「平和堂」を開業する。遊郭に売られた姉の旦那から出してもらった金で開業したらしい。店のお客も玉の井の遊女がお得意であった。

   大正12年9月1日、関東大震災。木歩は近所の人々に助け出されて、辛くも牛の御前近くの堤の上に避難した。当時凸版印刷会社に勤めていた新井声風は、漸くの思いでそこに駆けつけ、木歩を帯で背負い、浅草公園の姉の家に送るべく吾妻橋さして急いだ。しかし枕橋はすでに燃え落ちていた。火の手は三方にまわっていた。目前の隅田川は津波で水かさが増し、急流が渦を巻いている。逃げ場を失った二人は今生の別れを告げ、火をふくむ熱風の中で涙の最後の握手をした。声風が水火のなか隅田川を泳ぎきり、竹屋の渡し近くに辿りついたのはそれから4時間後のことであった。木歩は焼死した。わずか26歳の生涯であった。

  現在、富田木歩終焉の地である枕橋近くに句碑がある。(平成元年3月建立)

  かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花

  震災後、自分だけが助かった声風は慙愧の念に苛まれる。そのため句作をやめ、ひたすら木歩の句を広めることに精魂を傾ける。

「木歩文集」新井声風編、素人社書屋、昭和9年

「定本木歩句集」新井声風編、交蘭社、昭和13年

「富田木歩全集」新井声風編、世界文庫、昭和39年

 木歩の俳号は、彼が歩きたいの一念で自分で作った木の足に依る。現在、富田木歩は歩行不能、肺結核、貧困の三重苦に耐えて句作に励み、「俳壇の啄木」といわれている。

 わが肩に蜘蛛の糸張る秋の暮

 稲架かげに唖ん坊と二人遊びけり

 面影の囚われ人に似て寒し

 遠火事に物売通る静かかな

奉公に出し妹を思ふ

  妹とゐぬ淋しさ羽子を飾りけり

(参考:大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」)

2007年9月24日 (月)

二等兵物語と詩人・梁取三義

   「二等兵物語」というと伴淳三郎、花菱アチャコの軍隊喜劇映画を思い出すかもしれない。原作は梁取三義(やなとりみつよし、1912-1993)の長篇小説である。彩光社から昭和28年に第1巻「五里霧中の巻」が発売され、以降、「練兵休の巻」「南方要員の巻」「東京空襲の巻」「決戦体制の巻」、そして第6巻の「敗色歴然の巻」で第一期が完結したのは昭和30年であった。主人公の古山源吉二等兵は、東北出身であった俳優・伴淳三郎の当り役となる。梁取三義は本名・梁取光義。明治45年6月25日、南会津郡只見町に生まれた。戦前は歌謡曲の詩をつくっていたようで、小説の中にもずいぶんと詩がでてくる。若山牧水、石川啄木を愛した詩人であった。長篇小説「二等兵物語」の最後にある理想郷をうたった「詩に託す心」を紹介する。

 蒼い空の下

 質素な家

 四面の果樹園には

 紅白とりどりの花がひらき

 小鳥の声は終日のどかに聞える

 池には朝から鯉がたはむれ

 軒端には蜜蜂が群れて飛び交ふ

 妻も子供達も

 みんな微笑む

 そこには

 神の恵みの稲が実り

 大根が育つ

 私の生きる望み

 理想と現実を結ぶ

 たった一つの鍵

 そこでは

 争闘も無価値

 虚偽も不必要

 真理を求め

 美を讃え

 子供達と共に

 歌を唄って鍬をふるふ

 桃の花は紅く

 梨の花は白い

 実りを夢見る花々の上を

 蜜蜂の群れ飛ぶ羽音

 ここでは

 太陽の光りが

 健康と愛情を

 何のさまたげもなく育ててくれる

 蒼い空のもと

 質素な家

 そこで私達は

 花々と語る魔術を会得しよう 

2007年9月23日 (日)

寺田寅彦と煙草

   ケペルはタバコは吸わないが「しんせい」という名前を聞くと懐かしさがこみ上げてくる。親父が愛煙家で「しんせい」を一日に何箱も吸っていたからだ。ハイライトなどのフィルター付タバコが普及しても、頑固に吸い続けていた。昭和24年の戦後の発売で「新生」というネーミングも戦後の世相を現していることをはじめて知った。ゴールデンバットもしんせいもいまも発売されているそうだ。バットは明治39年の発売なので、発売されているなかでは最も古いタバコである。そもそもタバコ専売は、日露戦争の巨額な戦費を捻出するため、政府は煙草に目をつけ、明治37年、煙草専売法を公布し、7月に敷島、大和、朝日、スター、チェリーを発売した。官制煙草が出る以前は岩谷松平の天狗煙草や村井吉兵衛(1864-1926)のサンライズなどが人気だった。寺田寅彦の「喫煙四十年」(昭和9年)にはずいぶんと古い話がでてくる。

  巻き煙草を吸いだしたのはやはり中学時代のずっと後のほうであったらしい。宅には東京平河町の土田という家で製した紙巻きがいつもたくさんに仕入れてあった。平河町は自分の生まれた町だからそれが記憶に残っているのである。ピンヘッドとかサンライズとか、その後にはまたサンライトというような香料入りの両切り紙巻きが流行しだして今のバットやチェリーの先駆者となった。そのうちのどれだったか東京の名妓の写真が一枚ずつ紙箱に入れてあって、ぽん太とかおつまとかいう名前が田舎の中学生の間にも広く宣伝された。煙草の味もやはり甘ったるい、しっこい、安香水のような香のするものであったような気がする。

   ぽん太は新橋玉の家かかえの名妓。鹿島清兵衛に落籍され貞淑をもって有名。おつまも「洗い髪のおつま」というわれた名妓である。

    ところで、科学者、随筆家として知られる寺田寅彦は、喫煙と健康についてどのように考えていたのだろうか。寺田寅彦も愛煙家として知られたが、健康には恵まれなかった。「喫煙四十年」に次のような一文がある。

   先年胃をわずらった時に医者から煙草をやめてほうがいいと言われた。「煙草も吸わないで生きていたってつまらないからよさない」と言ったら、「乱暴なことを言う男だ」と言って笑われた。もしあの時に煙草をやめていたら胃のほうはたしかによくなったかもしれないが、そのかわりにとうに死んでしまったかもしれないという気がする。なぜだか理由はわからないがただそんな気がするのである。

   なかなかお医者さんの言うことを聞かない困った寺田先生である。そこで日本一の名医といわれる日野原重明先生にご登場いただこう。

   私は「生涯を通じて健康に」と強調しておりますが、人生の幸福は「健やかさ」をおいてほかに何もないと思うのです。心と体の健康ですね。両者は非常に関係が深いのです。体が病めば心が縮むというわけです。ですから、生涯を通して私たちが健やかさを保つにはいつもよい環境や条件を自分で考え、つくろうというわけです。健やかな心や体の目標は、私たちが社会や人のために何ができるか、ということを考えてまで生きるということです。その場合私たちは、やはり生きる価値観を考える。そしてまた、意義深く生きるためにはどうしても健康が必要ですね。ところがたばこというのは、自分の健康と周囲の人の健康を破戒してしまうのですから大きな問題なのです。(「生涯を通じて健康に」タバコは吸わない、頑固に禁煙)

啄木と小奴

   石川啄木(1886-1912)との出会いは、やはり中学校の教科書であろう。教科書には「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」「燈影(ほかげ)なき室に我あり父と母壁のなかより杖つきて出づ」などが載っていて、啄木を親孝行の見本のようのように思っていたら、芸者遊びや女性関係がだらしないことを知ってがっかりしたというブログ記事を読んだ。ケペルとしては教科書的イメージの啄木よりも、苦難の実生活のなかから生まれた「心のさけび」のような歌を好んでいる。そこで釧路時代に馴染んだ芸者の小奴を歌ったものを探してみた。

小奴といひし女の

やはらかき

耳朶なども忘れがたかり

              *

よりそひて

深夜の雪の中に立つ

女の右手のあたたかさかな

               *

きしきしと寒さに踏めば板軋む

かへりの廊下の

不意のくちづけ

               *

死にたくはないかと言へば

これ見よと

咽喉の痍を見せし女かな

       *

いかにせしと言へば

あわじろき酔ひざめの

面に強ひて笑みをつくりき

                 *

かなしきは

かの白玉のごとくなる腕に残せし

キスの痕かな

                *

酔ひてわがうつむく時も

水ほしと眼ひらく時も

呼びし名なりけり

    小奴。明治23年10月15日、函館に生まれた。父は渡辺庄六。母はより。9歳のとき母方の叔父坪松太郎の養女となり、十勝の大津で成長したが、高等小学校のとき養父に死別したので、その後母の知人である函館屋という帯広の小料理屋にあずけられ、ここで芸事を覚えた。数年後、彼女は釧路市内の本行寺という寺の前に一軒の家を借り、軍鶏寅という料亭の専属の芸者となって、小奴と名乗っていた。明治41年、釧路新聞社に赴任した石川啄木と知り合ったのは、啄木23歳、小奴17歳のころである。

   小奴は明治41年11月、逸見豊之輔と結婚して長女貞子をもうけたが、大正11年に離婚。娘を連れて実母の再婚先である釧路の旅館近江屋に帰り、近江じん、と名乗って旅館の経営に当たったが、昭和29年の暮れ廃業して、静かな余生を送ったという。昭和10年ごろ、林芙美子が旅館の角大を訪れ、次のような印象を書いている。

   啄木の唄った女のひとは昔小奴と云ったが、いまは近江じんと云って、角大という宿屋を営なんでいた。新しくて大きい旅館で、旧市街と新市街の間のようなところにあった。おじんさんは四十五歳だったといっていた。小奴と云う女のひとを現在眼の前にすると、啄木もそんなに老けてはいない年頃だったと思ふ。生きていたら、たしか五十歳位ででもあったろう。誰でもひととほりは聞くであろう啄木との情話よりも、啄木が優しい人であったと云ふ何でもない挿話を、私は大事にきいた。(林芙美子「摩周湖紀行」昭和10年)

2007年9月21日 (金)

塔下苑の女たち

    明治23年11月、浅草に赤煉瓦づくりの凌雲閣(通称を浅草十二階という)が建てられた。浅草六区には見世物小屋が立ち並び、吹き矢店、人形芝居、女軽業師、ジオラマ、花屋敷といった遊び場があった。大正から昭和初期にかけて川端康成(1899-1972)、川口松太郎(1899-1985)、永井荷風(1879-1959)、谷崎潤一郎(1886-1965)、今東光(1898-1977)、江戸川乱歩(1894-1965)、室生犀星(1889-1962)ら浅草界隈を愛した文士たちは多い。石川啄木(1886-1912)も浅草の魅力にひかれたその一人だった。

  浅草の凌雲閣にかけのぼり

     息がきれにし 飛び下りかねき

    啄木は凌雲閣の北側に広がる私娼窟を「塔下苑」と名付けて好んだ。明治41年、釧路を去り函館、東京と単身で戻る。本郷菊坂町82番地赤心館に泊まる。8月21日には次のように綴られている。

夜、金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君嘗て凌雲閣に登り、閣下の伏魔殿の在る所を知りしを以てなり。凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり。此処に住むものは皆女なり。若き女なり。家々御神燈を掲げ、行人を見て、頬に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至っては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、「チョイト」「様子の好い方」「チョイト、チョイト、学生さん」「寄ってらっしゃいな」塔下苑と名づく。蓋しくは、これ地上の仙境なり

   マサは貧乏な年増女のように肌が荒れた18歳の娼婦。ハナは17歳、釧路の芸妓の小奴に似ていた。ハナと過ごした夜はうっとりとしていい気持ちになる。しかしこれらの遊興費は北海道にいる妻子に送るため会社から前借までした大切な金だ。啄木はダメンズ亭主だった。

   啄木が塔下苑とよんだ浅草千束(ちつか)町は、もともと人家の疎らな土地だったが、吉原へ抜ける近道として、明治30年代半ばから40年代にかけて繁栄し、吉原遊郭に匹敵するほどの賑わいであった。

2007年9月19日 (水)

寺田寅彦とバイオリン

   寺田寅彦(1878-1936)は第五高在学中の明治30年に阪井夏子(15歳)と結婚している。しかし当時の熊本はバンカラの気風であったので、新妻を熊本へ呼び寄せることはできず、高知と熊本と別れて暮らすことになる。明治32年9月、寅彦は東京帝国大学物理学科に入学し、夏子と所帯をもつことができた。ところが夏子は明治35年、20歳で亡くなる。明治38年には浜口寛子と再婚するが、やはり結婚生活10年余りで妻に先立たれている。

   寅彦は結婚生活には余り恵まれていたとはいえないが、先生にはたいへんめぐまれていたようだ。第五高時代に、夏目漱石に英語、田丸卓郎(1872-1922)に数学と物理学を学んだ。わずか6歳年上の田丸卓郎からは初めてバイオリンをみせてもらった。寅彦は多趣味で、俳句は漱石から手ほどきをうけ、尺八をはじめ、西洋音楽にも興味をしめした。大正11年から弘田龍太郎(1892-1952)からバイオリンを本格的に習いだした。長男の東一は次のように回想している。

   「上達の度合いはどうかというと、年をとってから始めたのにしては割合に上手になったのでははないかと思う。とにかくクロイツェル・ソナタでも何とか弾けるようになったのである。後年は藤岡由夫先生のチェロ、坪井忠二先生のビアノ、父のバイオリンで、トリオを試みたようであるが、はじめのうちは、ごくやさしいトリオの譜、主としてシューマンやメンデルスゾーンの小曲を編曲したものを仕入れてきて、子供たちと合奏して楽しんだ」とある。

   寅彦はバイオリンのほかにピアノ、チェロ、オルガン、ホルン、アコーディオンなど弾いたという。

2007年9月16日 (日)

漱石の義侠心

   明治29年4月13日、夏目金之助(漱石)は菅虎雄の斡旋で第五高等学校講師に着任した。校長は中川元、教頭は桜井房記、佐久間信恭、篠本二郎、杉山岩三郎、賀来能次郎、山川信次郎、内田周平、菅虎雄、羽生慶三郎、田丸卓郎、近重眞澄、中川久和、武藤虎太、長谷川貞一郎、中沼清蔵、大浦肇、黒本植、加藤晴比古、南部常次郎、黒木千尋などがいた。

    漱石は着任して間もなく竜南会の端艇部長になった。当時、端艇部には吉田久太郎という腕力自慢の猛者がいた。久太郎は明治7年2月、福岡県筑前国宗像郡赤間に生まれる。端艇部を牛耳っていた久太郎が一つの事件を引起した。

    その頃、日清戦争で分捕りたる大型のボート二艇を記念として海軍省から五高へ下げ渡されることになった。この二艇の船を引取るために、竜南会より佐世保に派遣して、久太郎が宰領として回航した。往路は無事であったが、帰路にこの記念船の修理のため某所に滞在中、徒然に乗じて一同盛んに飲食をなし、正当の支払の他に、百円たらず使い込んでしまった。弁済の道もなく、教師一同に救ってほしいという願いであった。吉田久太郎は日頃から職員間に人望ないため誰もとりあわない。そこで、赴任早々であるうえに、薄給であった漱石が、寝耳に水の事件であるにもかかわらず、全額を償い同時に部長を辞してしまった。漱石の責任感、義侠心、金銭に対する淡白な心情などが現れたる逸話であろう。

小天温泉と夏目漱石

   旧制第五高等学校の英語教師であった夏目漱石は、山川信次郎とともに明治30年12月27、28日頃から翌年の正月にかけて、熊本から金峰山を越えて有明海沿いの小天温泉までの小旅行をしている。郷士である前田案山子(1828-1938)による道楽半分の温泉宿(前田家別邸)に泊まった。小説「草枕」で小天温泉は「那古井の宿」、前田家は「志保田家」となっている。

    前田案山子は本名を覚之助といって、文政11年4月、小天八久保に前田金吾の三男として生まれた。細川藩の槍指南を勤めていた武芸の達人だったが、維新後、農民とともに歩む決意で「案山子(かがし)」と改名した。第1回衆議院議員として自由民権運動に奔走した。「草枕」の「志保田の髯の隠居」のモデルである。

    那古井の「那美さん」のモデルは、前田案山子の二女の前田卓(つな、1868-1938)である。卓の最初の結婚は明治20年10月に土地の豪農の息子である植田耕太郎と結婚するが翌年には離婚している。漱石が行ったときは年は31歳だった。漱石は才気煥発の卓に興味を感じたのだろう。小天温泉での旅行中の色々な出来事は、ほとんどすべて、さまざまに変容して「草枕」に採用されている。

    前田卓は、父の影響から自由に思想を語り、上京してからは中国革命を支える妹の槌(つち)・宮崎滔天夫妻を助けて活躍し、中国人留学生から慕われていた。明治37年に歩兵中佐・加藤錬太郎と二度目の再婚をするが、翌年に離婚している。昭和13年、71歳で亡くなっている。

伊香保温泉と夏目漱石

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        漱石が熱愛した女性・大塚楠緒子

  青年時代の夏目漱石(1867-1916)は、夏休み中の旅行を通年の行事としていたようである。例えば、明治20年には中村是公らと富士登山。明治22年は兄の和三郎、直矩と興津に行く。8月、学友と房総。明治23年は箱根。明治24年は中村是公(1867-1927)、山川信次郎と富士登山。明治25年は正岡子規と京都から堺。漱石の青春の旅であった。

   ところが、明治26年の夏は帝大の寄宿舎に籠もって過ごし、旅行ができなかった。明治27年の夏は青年時代の最後旅をしようという決意があった。まず早々の7月25日、伊香保温泉に向かう。伊香保行きは通説では結核の療養のためということだが、漱石が群馬を選んだ理由は他にあった。友人の小屋保治(1868-1931)が群馬県前橋にいるからだ。

   漱石は伊香保で有名な木暮武太夫旅館に泊まろうとしたが、満員で泊まれなかった。何という旅館に滞在したかは不明。ここで、前橋に帰省中の小屋保治と会う。二人が何を話したかは後で説明する。伊香保に何日いたかもわからない。8月には、そこから松島に向かっている。(一説によると、松島の近くの菖蒲田に滞在し、勉強したともいわれる) その後、湘南へ海水浴に行く。9月初めまでは寄宿舎にいたが、そこを出て菅虎雄(1864-1943)の家に厄介になる。その頃、極度の人間嫌いになったらしく(おそらく失恋のせいだろう)、12月末から翌年1月へかけて10日間、鎌倉円覚寺搭頭帰源院に入り、釈宗演のもとに参禅し、宗活を知った。明治28年3月上旬、友人の小屋保治と大塚楠緒子の披露宴(星岡茶寮)に漱石は直矩の袴を借りて出席している。そして、4月には、松山へ嘱託講師として赴任する。楠緒子への失恋が漱石を松山に流浪させたのではないだろうか。明治28年12月末に中根鏡子と見合いし、翌年6月に結婚している。

   ところで、大塚楠緒子(1875-1910)という女性は漱石の恋人といわれている。楠緒子は明治8年、控訴院長・大塚正男の長女として生まれた。東京女子師範付属女学院(お茶の水女子大学の前身)を首席で卒業した。父正男は帝国大学の寄宿舎舎監の清水彦五郎に頼んで、娘にふさわしい婿養子を相談していた。そして紹介されたのが、夏目金之助と小屋保治であった。楠緒子が好意を抱いたのは夏目の方だった。しかし、当時の社会では結婚は家が決めるものであり、個人の意思は尊重されなかった。おそらく伊香保温泉で二人が相談したことは、楠緒子のことだったであろう。

   小屋保治は、婿養子となり、大塚保治として、明治29年から約4年間、ヨーロッパに留学する。帰国後、東大教授となり、最初の美学講座を担当。漱石の「吾が輩は猫である」では水島寒月のモデルとなっている。楠緒子は才色兼備の夫人として知られたが、明治43年、流感に肋膜炎を併発して、35歳の若さで亡くなっている。漱石の次のような俳句がある。

   有る程の 菊抛げ入れよ 棺の中

 

2007年9月15日 (土)

赤シャツと野だいこ

   「あいさつをしたうちに教頭のなにがしというのがいた。これは文学士だそうだ。文学士といえば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のようなやさしい声を出す人だった。もっと驚いたのはこの暑いのにフランネルのシャツを着ている。いくらか薄い地には相違なくっても暑いにはきまっている。文学士だけにご苦労千万な服装をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人をばかにしている。あとから聞いたらこの男は年がら年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があったものだ」

   勧善懲悪小説 「坊っちゃん」に登場する教頭赤シャツは、昭和に至っても学園ドラマでは校長を追放する悪玉として欠かせない存在だ。「青春とはなんだ」の山茶花究、「これが青春だ」の藤木悠、星十郎、「進め青春」の平田昭彦、そして極めつけは「飛び出せ青春」「われら青春」の穂積隆信、柳生博のコンビであろう。

    このような悪玉教頭のモデルとされた横地石太郎先生には誠にお気の毒としかいいようがない。横地先生は金沢藩士出身で、東京帝大理科を卒業後、明治28年頃は松山中学の教頭であった。明治32年にはしし座流星群を観測、明治33年には周桑郡吉岡村の古墳の発掘調査をしている。明治40年には山口高等商業学校の校長をつとめた。赤シャツは「人類学雑誌」にも論文を多数寄稿する考古学者だった。ところで、赤シャツのモデルは近藤英雄「坊ちゃん秘話」(昭和60年)によれば、西川忠太郎、沢幸次郎、中村宗太郎、横地石太郎など複数の人物が当てられた。通説では赤シャツ=西川忠太郎であったが、近年に「赤シャツと考古学」展(愛媛県立歴史文化博物館)が開催されて以来、今日では赤シャツ=横地石太郎に比定されているようである。

   「野だいこ」とは「野太鼓」「野幇間」と書く。たいこもちをする男という意味であろう。モデルは高瀬半哉画伯。「昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、だいぶご精励で。とのべつに弁じたのはあいきょうのあるお爺さんだ。画学の教師は全く芸人風だ。ぺらぺらした透綾の羽織を着て、扇子をばちつかせて、お国はどちらでげす、え?東京?そりゃうれしい、お仲間ができて…私もこれで江戸っ子ですと言った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生まれたくないもんだと心中に考えた。」高瀬半哉先生も松山中学から東予分校に転任した名物教師だった。

2007年9月14日 (金)

妻がいた「坊っちゃん」のモデル

   「親譲りのむてっぽうで子供の時から損ばかりしている」で始まる夏目漱石の小説「坊っちゃん」は永遠の青春小説の白眉といえる。旗本の裔に生まれたが既に両親はなく、その遺産で物理学校を卒業した。幼時より清(きよ)という下女に可愛がられて育った。短気ではあるが正義心の強い江戸っ子である。清に涙ながらに見送られて生まれてはじめて箱根を越えて松山へと出立した。この「坊っちゃん」のモデルは弘中又一(1873-1938)という先生だという。

    弘中又一は山口県都濃郡湯野村第287番地で、父・弘中伊亮、母・タメの長男として生まれる。明治28年5月27日、愛媛県尋常中学校へ単身赴任。。漱石は同年4月1日、転任したので二人はほぼ同じ頃中学校に在職していた。又一は、明治26年に戸澤タカと結婚し、長男・進も誕生していた。明治29年4月1日、愛媛県尋常中学校東予分校(のちの西条中学)に転任、在職8ヵ月で明治28年11月に退職している。その後、徳島第二分校(のちの富岡中学)を経て埼玉県の熊谷中学に転じ、退職後も熊谷に住んだ。昭和7年3月31日、同志社中学を退職。昭和13年8月6日永眠。松山ではシッポクうどん四杯を平らげ数え歌にうたわれた。

  一つとや ひとつ弘中シッポックさん

  二つとや ふたつふくれたブタの腹

  三つとや みっつみにくい太田さん

  四つとや よっつ横地のゴートさん

  五つとや いつつ色男中村さん

  六つとや むっつ無理いう伊藤さん

  七つとや ななつ夏目の鬼瓦

  八つとや やっつやかしの本吾さん

  九つとや ここのつこっとり一寸坊

  十つとや じゅうでとりこむ寒川さん

   数学の弘中又一(坊っちゃん)、英語の西川忠太郎、漢学の太田厚、教頭の横地石太郎(赤シャツ)、歴史の中村宗太郎(鈴ちゃん)、体操の伊藤朔太郎、英語の夏目金之助、植物の安芸本吾、物理の中堀貞五郎、会計係の寒川朝陽。このほか数学の渡辺正和(山嵐)、校長の住田昇(校長の狸)、高瀬半哉(野だいこ)、梅木忠朴(うらなり)など明治28年の松山中学の教員たちが100年後の平成の世にも、「坊っちゃん」という小説によって、永遠の生命が与えられている。(参考:宮崎俊彦「坊っちゃんは独身ではなかった」文芸春秋)

愚陀仏庵と漱石の友人たち

   明治28年4月9日、愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語教師として夏目金之助は松山に赴任した。まず三番町の城戸屋旅館にて旅装をといたが、のち城山の麓の下宿愛松亭に落ち着いた。しかし、同年6月下旬頃、中堀貞五郎(正岡子規の妹律と結婚)の世話で、同市二番町八番戸の上野義方の離れ二階建てに転居した。二階が六畳と三畳、階下が六畳と四畳半で、窓から松山城の天守閣を近くに見る。漱石は子規の影響で愚陀または愚陀仏と号し、居宅を愚陀仏庵と名付けた。子規とは8月下旬から10月19日に上京するまで愚陀仏庵に同居した。漱石は毎晩のように子規につられて句作をするようになり、俳句結社「松風会」に参加し、柳原極堂、近藤我観らと知り合う。

    子規が去ったあと孤独になった漱石は、冬にかけて勉強に励む。午前二時まで勉強していた。松山中学を辞し、熊本五高へ転任となる明治29年4月11日頃まで、漱石は愚陀仏庵に居住していた。漱石の松山時代に子規が紹介した松山一のインテリ村上霽月(1869-1946)と出会う。霽月は明治2年生まれで漱石、子規より二歳下だった。明治29年3月1日には漱石は虚子とともに今出にある霽月の家を訪ねている。漱石が松山を去る4月某日、霽月邸を再び訪ねたがあいにく霽月は不在だった。

    逢はで去る 花に涙を 濺(そそげ)かし

                                              愚陀仏

2007年9月13日 (木)

武者小路実篤の初恋

   二月のある晩のことだった。自分は兄と同じ室で机に向かって学校の本を読んでいた。九時ごろだった。不意に半鐘がなった。「火事だ」と兄とふたりで顔を見合わせて耳をすませているとスリ鐘だった。「火事は近い」「見にゆきましょう」ふたりは立って格子戸を開けて出た。そこにはお貞さんとお静さんが立っていて火事を見ていた。火の子が南のほうに盛んに見えた。「見にゆこう」と兄は自分に言って、「見にゆきませんか」とふたりに言った。

   お静さんもお貞さんも「ゆきましょう」と言った。自分はよろこんだ。そうして四人で火事を見に行った。自分は火事を見るよりもお貞さんのわきにいるのがうれしかった。自分たちは焼けている家の見える、ある軒の下に立って火事を見ていた。人々は走せちがった。火消しは興奮と権威を感じて働いていた。自分たちのいる前を長いポンプの管が走っていて、そのすきまから水がもれていた。

   自分たちは興奮しながらそれを見ていた。お貞さんやお静さんをふり向いて見る人もあった。自分は地上でいちばん美しい女といっしょにいることを自覚して誇りを感じた。火事はまもなく下火になった。兄が「帰ろうか」と言うので、もっといたかったけれども帰ることにした。半町ばかり来たところで自分はひとりの走けてゆく男に足をふまれた。「あ痛っ!」と言っているうちにその男は走けて行った。そうして自分の足の指からは血が流れていた。

    お静さんはそれを見つけた。お貞さんも「痛かなくって」と言った。お静さんは自分の半けちを出してそれを手早くさいた。そうして自分の傷した足の指を包帯しようとした。自分は「お貞さんがお静さんのようにしてくれたら」と思いながらお静さんにすまして包帯してもらっていた。兄は先にひとりで帰った。兄のひとりで帰る姿を見て、自分は自分の身にひきくらべてさびしいだろうと思って同情した。自分は包帯してもらってからそう痛くはなかったのだが、そこから自家までの往来が人通りのまるでない、暗い往来だったので、足をひきずりながらお静さんとお貞さんの肩に手をかけて歩いて帰った。自分は自分の負傷したことを幸福に思った。(武者小路実篤「初恋」)

                      *  *  *  *

   「初恋」は大正3年2月、29歳の作品。「初恋」のお貞、「お目出たき人」の月子、「ある日の夢」のたか子、とは志茂テイ(貞)である。明治33年4月、実篤15歳、テイ12歳。実篤は学習院中等科4年で、テイは下田歌子が創設した実践女学校に通っていた。明治36年、テイが学業をおえて帰郷するとともに、実篤の初恋も終わった。「初恋」という作品は、もちろん創作ではあるが、実篤15歳から18歳までの回想が素直に綴られている。学習院時代、不得意な学科は作文、体操、唱歌、そして図画だった。高等科になっても勉強はしなかった。明治39年7月いよいよ、実篤も学習院高等科を卒業することとなった。学習院高等科の卒業式は、成績の低い順から並んで式場に入っていく。実篤は最低から三番目の成績。だが、その先頭を歩くべき人が欠席してしまった。それがわかると次の二番目の友人は先頭は厭だといって、抜け出しそうになったので、実篤はいそいで引き止めた。やはり実篤も先頭はさけたかったのだ。それで先を行く友人を励まして、元気良く歩いたという。

   お貞さんに失恋したころから、実篤は聖書とトルストイを読み出した。一生の人生観が形づくられた頃である。

2007年8月30日 (木)

病床で傑作をものにした作家

   「出家とその弟子」や「愛と認識との出発」などで知られる倉田百三は闘病生活が長かった作家である。そのため「病床で傑作をものにした作家」というレッテルを貼られることがある。これに対して倉田百三の妹である作家・倉田艶子(1896-?)は「出家とその弟子は兄の文筆生活中の一番健康な時に書かれたものだ」と反論している。(「出家とその弟子」ができるまで)

   「病床で傑作をものにした作家」というレッテル誕生の発端は、どうやら倉田の晩年に交友があった文芸評論家・亀井勝一郎にありそうだ。「倉田氏の生涯をみてふしぎに思うことは、病気のとき傑作をかき、健康なとき駄作をかいたことである。「出家とその弟子」の読者は、ここにみなぎる逞しい意力と情熱に驚くであろう」とある。(新潮文庫解説)

   大正5年6月、姉の政子が重態であるとの知らせに、百三、艶子は帰省した。7月15日には政子死去する。倉田百三の年譜などでよく「出家とその弟子」は帰省先で脱稿したことになっているが、艶子の記憶によると帰省先で書かれたものではないという。百三が発病するのは翌年の大正6年になってからのことで、「出家とその弟子」は大正5年の健康時に書かれたものであるという。百三の帰郷と発病とが前後して名作誕生となっているが、事実は艶子の証言どおりであろう。

   倉田百三(1891-1943)。明治23年2月23日、広島県比婆郡庄原町字庄原(現・庄原市)において、倉田吾作の長男として生まれる。一高時代、西田幾多郎に傾倒する。また宗教家・西田天香(1872-1968)の修養団体・一燈園に入る。「出家とその弟子」の親鸞は西田天香がモデルといわれる。

2007年8月23日 (木)

熊本時代の夏目漱石

    夏目漱石(1867-1916)とラフカディオ・ハーン(1850-1904)という明治を代表する二人の文化人の奇妙なすれちがいはよく知られている。

    ハーン(小泉八雲)が松江から第五高等学校(現熊本大学)の英語教師として転任してきたのは明治24年11月19日のこと。3年後の明治27年10月、熊本を去り、神戸へ移る。漱石が松山から熊本五高に赴任したのは明治29年4月のことである。この熊本時代、漱石は貴族院書記官長・中根重一(?-1906)の娘・中根鏡子(1877-1963)と見合い結婚している。漱石29歳、鏡子19歳。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」といっている。おそらく漱石は文学の方面で一流の学者となり、大きな仕事を一つ完成して、その余力をもって、人生論的な、あるいは社会時評的な文章を自由に、発表してゆきたいと思っていたのであろう。まだ作家生活に関心をもっていなかったようだ。

   熊本五高における漱石の教授法は、なるべく早く多くの英書を読めるようにすることにあったようである。生徒から「先生もう少し詳しく解釈して下さい」といわれると、漱石は、「お前たちがそんな風だから、いつまでも、上達しないんだ。もう、中学生じゃないぞ」と怒鳴りつけて、相変わらずきびきびした授業ぶりを続けていた。熊本五高時代、漱石の教えを受けた者には、寺田寅彦(1878-1935)、白仁三郎(のちの能楽評論家・坂元雪鳥、1879-1938)などがいて、俳句の指導も受けている。英語研究のため、現職のままで二年間のイギリス留学をしている。(明治33年9月から明治36年1月まで)

2007年7月23日 (月)

芥川龍之介没後80年

   明日は河童忌。昭和2年7月24日、芥川龍之介(1892-1927)は田端の自宅で服毒自殺した。35歳だった。神経と身体の衰弱に苦しむ芥川をともに過ごした妻・芥川文(あくたがわふみ、1900-1968)は、「お父さん、よかったですね」と彼にささやいたという。

   芥川文。塚本文が初めて芥川龍之介を見たのは、文が7歳、龍之介が15歳のとき。明治40年の頃である。文の父は海軍少佐・塚本善五郎といい、飛騨高山の士族で、秋山真之とは海軍兵学校では同期でライバルであった。日露戦争では装甲巡洋艦「日進」の艦長であったが、艦橋付近に被弾し戦死した。文は母の実家山本家に住むこととなった。母の末弟の山本喜誉司(1892-1963)は芥川龍之介と東京府立第三中学校の同級生。(のち三菱商事につとめブラジルコーヒーの栽培や日系ブラジル移民の会長となる)

    芥川は山本家にしばしば出入りし、幼い文を知ることとなる。ちょうど青山女学院の吉田弥生との結婚を諦めたころであった。大正4年ごろ、芥川は美しく成長している文への恋情を感じる。親友の山本にも心のうちを告げる。そして新思潮に掲載した「鼻」が漱石の激賞を得、期待の新人作家として、文壇の注目を浴びていた。

    大正5年、芥川は文にラブレターを送る。「貰ひたい理由は、たつた一つあるきりです。さうしてその理由は僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です」「繰り返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです」愛を告白したこの年、大正5年12月、文と婚約した。当時、文は16歳で、跡見女子学園に在学中だった。そして2年後、二人は結婚した。

   二人の間には、芥川比呂志(1920-1981)、芥川多加志(1922-1945)、芥川也寸志(1925-1989)が生まれた。龍之介は子煩悩だった。二男の多加志は昭和20年4月12日、戦死した。芥川文は、父の戦死、夫の多彩な女性関係(野々口豊子、秀しげ子、森幸枝、平松麻素子、片山広子)、夫の病気と自殺、子の戦死など苦労の連続であった。龍之介が死んだとき、文はまだ27歳だった。芥川龍之介没後80年というのは、わずか10年あまりの龍之介との家庭生活の想い出を心の支えとして、健気に生きた女性の人生の軌跡でもある。文は、68歳で心臓病で亡くなった。

石坂洋次郎と葛西善蔵

    石坂洋次郎(1900-1986)は、明治33年1月25日、青森県弘前市田代町に父・石坂忠次郎、母・トメの二男として生まれた。慶応義塾大学に入学した大正10年、同郷の横浜聖書学院の学生・今井うら子(17歳)と結婚する。大学卒業後の大正12年、弘前出身の作家・葛西善蔵(1887-1928)を鎌倉に訪ね、以後昭和3年7月、葛西の死まで子弟関係は続いた。葛西はいわゆる破滅型の小説家で、社会人としても欠落した部分があった。後年、石坂は「津軽には、ただ小説を書くというだけのために、妻子を飢えさせ、親類や友人に迷惑をかけて恬として平気でいるという風がある」といっている。それは葛西善蔵や太宰治などをさしているのだろうか。

    ともかく、若い石坂は葛西を芸術の殉教者として尊敬していた。鎌倉の建長寺のある別院に葛西を初めて訪ねたときのことである。善蔵はかなり酒気を帯びていた。機嫌が悪く、禅問答めいた調子でしばらく形をなさない話をしたあげく、突然彼は「石坂君、ぼくに君のキンタマを見せ給え!」と言い出した。どぎもをぬかれた私は「見せられません!」と強く反撥した。すると善蔵は眉をいっそう大げさにしかめて、「君、人にキンタマもみせられないで、作家になれると思っているのかね」ときめつけた上、煙草盆にペッと唾を吐いた。

    もうひとつ事件がある。大正15年のことである。葛西は新米教師石坂を頼って弘前の旅館に滞在した。当然のことのように宿泊費、酒代のツケを石坂に回した。女学校に玄人女が乗り込んできたことで、大騒ぎとなり、石坂は秋田の横手高等女学校へ転勤となった。

   このように困った師匠ではあるが、石坂に小説家というものを身をもって教えてくれたもの事実である。石坂は昭和12年の「若い人」で作家的地位を確立したとされる。37歳であった。若くして結婚したため、経済的な苦労もあったであろう。妻の石坂うら子と作家・山田清三郎(1896-1987)との不倫関係に悩んだのもこのころであった。その苦悩を赤裸々に「麦死なず」で作品としている。一般に石坂文学の特徴は明朗文学、青春文学と思われがちであるが、「若い人」のヒロイン・江波恵子が私生児であることが重要な要素となっているように、葛西流の私小説から出発しており、どの作品の主人公にも出生の暗い影が底流にあり、そこから鮮烈に生きることに多くの若い読者の共感を得たのであろう。

2007年7月22日 (日)

暗い便所でひろ子はしゃがみ腰で泣いた

   佐多稲子(1904-1998)。本名・佐田イネ。筆名は田島いね子、窪川稲子。戦後、窪川と離婚し、佐多稲子となる。

   佐多稲子は田島正文(17歳)を父に、高柳ユキ(14歳)を母にして長崎市八百屋町で田中梅太郎方で生まれた。若い未婚の両親であるため、戸籍上は伯父・田中梅太郎の長女として届けられている。叔父の佐田秀美は当時、早稲田大学の学生で、島村抱月の芸術座にも関係し、小説、戯曲、劇評などを書いていた文学青年で稲子に影響を与えている。(佐田秀美は大正5年死去)しかし、小学校1年のとき、母ユキが肺結核で死んだことから、稲子の少女時代の苦労が始まる。大正4年、父は三菱造船所を退社し、一家をあげて上京する。しかし無計画な上京のために生活は貧窮をきわめた。このため稲子は小学校を5年でやめ、和泉橋のキャラメル工場に幼年の包装工として勤めた。これ以後、浅草六区のシナそば屋、上野池之端の料亭清凌亭の小間使い、座敷女中、日本橋丸善書店の女店員となる。大正13年、丸善の上役から縁談を紹介され、資産家の息子で慶応大学の学生だった小堀槐三と結婚、大正14年には長女葉子が生まれるが、離婚。昭和元年、本郷のカフェー紅緑に女給として勤める。そこで同人雑誌「驢馬」のメンバー、中野重治(1902-1979)、窪川鶴次郎(1903-1974)、堀辰雄、宮木喜久雄、西沢隆二らを知る。そして窪川鶴次郎と再婚。昭和3年、短編「キャラメル工場から」を「プロレタリア芸術」に発表し、プロレタリア女流作家として知られるようになった。ここには小学校を卒業しないうちから生計を助けるため女工になった苦しい体験が素直に表現されている。

ある日郷里の学校の先生から手紙が来た。「誰かから何とか学費を出してもらうよう工面して」とそんなことが書いてあった。(中略)それを破いて読みかけたが、それを掴んだままで便所にはいった。彼女はそれを読み返した。暗くてはっきり読めなかった。暗い便所の中で用もたさず、しゃがみ腰になって彼女は泣いた。

   稲子の夫であった窪川鶴次郎と中野重治とは金沢の旧制第四高等学校時代からの文学仲間である。カフェの女給であった稲子を妻としたのは、窪川のほうであるが、稲子は中野重治を生涯師として仰ぎ、中野重治、原泉(1905-1989)夫妻との親交は長く続いた。

2007年7月20日 (金)

半井桃水と三人の女

成瀬もと子

    半井桃水(1860-1926)は、万延元年、対馬藩医半井湛四郎、藤の長男として対馬厳原町中村に生まれた。本名は洌(きよし)、別号は菊阿弥。11歳で上京し、共立学舎に学び、のち大阪魁新聞に入社。魁新聞が廃刊になると、父のいる釜山へ渡った。明治15年、釜山滞在中に京城事変が起こり、友人の推挙で釜山特派員として動乱を詳細に報道した。その手腕をかわれて明治22年、東京朝日新聞社に入社。釜山で成瀬もと子と結婚するが、1年後にもと子は病死する。

樋口夏子

   東京に戻った桃水は、新聞小説を次々と発表し人気がでる。明治24年のある日、野々宮菊子に連れられた樋口奈津という若くて美しい女性が桃水を訪ねてきた。萩の舎で歌の才能を認められた女だが、小説の修行を希望している。その1年後、桃水の主宰する雑誌「武蔵野」に樋口一葉という筆名で処女作「闇桜」を掲載した。しかし一葉は萩の舎で桃水との関係が噂になったことを気にして、師弟関係を絶つこととなった。

大浦若枝

    桃水は、もと子の死後も長く独身生活であったが、明治40年の「天狗廻状」が人気がでた頃、49歳で大浦若枝(大浦わか)と結婚した。朝日新聞には大正8年まで勤めて小説を執筆。晩年は長唄の作詞作曲で活躍した。大正15年、執筆中に脳溢血で急逝。享年67歳。作品には「亜聾子」「くされ縁」「海王丸」「業平丸」「胡砂吹く風」「天狗廻状」「伏見義民伝」「姿見ず橋」「大石蔵之助」。

    半井桃水は樋口一葉の日記にしばしば登場し、一葉によってその名が歴史に残ったといえる。一般には一葉の恋の相手として知られるが、桃水からみると一葉が二人の伴侶をしのぐほど大きな存在であったとは考えにくい。

2007年7月14日 (土)

薄田泣菫「白羊宮」

               ひとづま

あえかなる笑や、濃青の天つそら、

君が眼ざしの日のぬるみ

寂しき胸の末枯野につと明らめば、

ありし世の日ぞ散りしきし落葉樹は

また若やぎの新青葉枝に芽ぐみて、

歓喜の、はた悲愁のかげひなた、

戯るる木間のした路に、美し涙の

雨滴り、けはひ静かにしたたりつ、

蹠やはき「妖惑」の風おとなへば、

ここかしこ、「追懐」の花淡じろく、

ほのめきゆらぎ、「囁き」の色は唐棣に、

「接吻」のうまし香は霧の如、

くゆり靡きて、夢幻の春あたたかに、

酔ごこち、あくがれまどふ束の間を、

あなうら悲し、優まみの日ざしは頓に、

日曇り、「現し心」の風あれて、

花はしをれぬ、蘗えし青葉は落ちぬ、

立枯の木しげき路よありし世の

事榮の日は、はららかにそそ走りゆき、

鷺脚の「嘆き」ぞひとり青びれし

溜息低にまよふのみ。夢なりけらし、

ああ人妻、

實にあえかなる優目見のもの果なさは、

日直りの和ざむと見れば、やがてまた、

掻きくらしゆく冬の日の空合なりき。

    薄田泣菫(1877-1945)。薄田隼人正の弟の子孫といわれ、父・薄田篤太郎は俳諧を好んで湖月清風と号していた。その叔母は天誅組の藤本鉄石について南画を学ぶ。

    泣菫、本名は薄田淳介。明治10年、岡山県浅口郡連島村に生まれた。岡山中学での成績は優秀だったが、中学2年のとき教師と対立して退学し、京都に出て同志社の予備校に通う。しかしこれも面白くないといって退学し、それ以後は図書館に通って独学を続けた。明治32年、第一詩集「暮笛集」刊行。明治33年10月、大阪で金尾文淵堂の文芸誌「ふた葉」改題「小天地」を編集、「明星」の客員ともなる。明治39年5月、「白羊宮」刊行。以後、「落葉」「泣菫小品」などの文集や短編小説を書く。大正元年からは毎日新聞社に入社し、学芸部長として活躍。同紙上に書いた「茶話」が好評で以後随筆家として活躍を続けた。昭和20年10月9日、岡山県井原町で、尿毒症で死去。享年69歳。

  「白宮羊」が世に出たとき、「明星」はその年第7号の巻首37ページをさいて与謝野鉄幹、馬場孤蝶、茅野蕭々らは合評を試みている。評者たちがとりわけ問題としたのが、泣菫の古語、廃語使用である。鉄幹は「上田敏の海潮音に比すれば幾倍か難解である」と評した。後年、国文学者の折口信夫は「泣菫さんに驚くことは、私のような古文体の研究を専門とする者にすら、生命の感じられない死語の摂取せられていることである。泣菫の語彙を批評した鉄幹は鄭重な言い廻しではあるが、極めて皮肉な語気をもって噂した。たとえば青水無月という語は、われわれには辞書にすら見出すことは出来ないが、薄田氏だから拠り所があるに違いない。美しい言葉だという風に。当時の詩人・文人の間に行なわれた勉強の一つで、辞書を読み、その美しい語を覚える、そういう行き方の、泣菫さんにあり過ぎることを風刺したものである」(「詩語としての日本語」)と書いている。

2007年6月30日 (土)

津島佑子と太田治子

   太宰治(1909-1948)には4人の子供がいる。石原美知子(1912-1997)との間に長女園子、長男正樹、次女里子。太田静子との間に生まれたのが、太田治子である。

    津島園子は早稲田大学卒業後、津島雄二(衆院議員)と結婚し、渡米。津島正樹(1944-1959)は病死。津島里子は作家・津島佑子。昭和22年3月30日生まれ。白百合女子大学文学部英文学科在学中から小説を発表。宮崎あおい主演のNHK連続テレビ小説「純情きらり」は「火の山 山猿記」を原作からドラマ化している。

   太宰と「斜陽」のモデルとされる太田静子との間に生まれた女児が作家の太田治子で、昭和22年11月12日の生まれ。高校2年の時に書いた「十七歳のノート」が注目され、吉永小百合主演で「斜陽のおもかげ」(昭和42年)として映画化されている。明治学院大学英文学科を卒業後、OL生活を経て、作家となる。代表作は「心映えの記」(昭和60年)。太宰治(津島修治)から一字「治」をとって「治子」に思い入れがあるのか、戸籍名そのままで作家デビューしている。

    それにしても、津島佑子、太田治子と二人の女流作家を娘にもつ太宰治の文学的家系もめずらしいことである。子供が父親の思い出を随筆として書くことは数多くあるが、本格小説の女流作家として成長したことは異例であろう。

2007年6月28日 (木)

「羅生門」出版記念会

    大正6年5月、芥川龍之介(1892-1927)は北原白秋の弟鉄雄の経営する阿蘭陀書房から第一創作集「羅生門」を刊行した。自装で、題字と扉の文字は、一高時代の恩師・菅虎雄が書いている。6月27日夜、佐藤春夫、江口渙、久米正雄、松岡譲の4人が発起人となり、日本橋のレストラン鴻の巣で「羅生門」出版記念会が催された。出席者は、佐藤春夫、谷崎潤一郎、日夏耿之介、赤木桁平、豊島与志雄、有島生馬、滝田樗陰、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、菊池寛、和辻哲郎、鈴木三重吉、小宮豊隆、後藤末雄、加能作次郎、江口渙らであった。江口は、のちに「若いジェネレーションの文壇への出発の新しい宣言というようなものがつよく流れていた」と書きとめている。出席者の顔ぶれをみると同人雑誌第4次「新思潮」と同人雑誌「星座」と漱石門下生と白樺派である。卓上にどっさりと盛られてあったスイートピーや薔薇を前にして、白麻の夏服を着こんだ26歳の芥川は、鴻の巣主人の持ち出した画帖に、「本是山中人」と六朝まがいで揮毫した。佐藤春夫は「自分はとても希望のない自分の文学的生活を考えながら、颯爽として席の中心にいる芥川を幸福だと思った」と述懐している。

   志賀直哉(1883-1971)は、なぜかこの出版記念会に出席していない。大正6年の志賀は3年間の沈黙を破って再び創作活動をしているころだった。5月に「城の崎にて」を発表している。出版記念会の主賓の芥川龍之介のひそかなライバルは志賀直哉だったと思う。その後も、才気あふれる芥川は、志賀が大の苦手で、どうにもかなわないという気がするようになった。志賀が一作発表するごとに、「ああ俺はかなわない」と頭をかかえるようになった。志賀のほうは、そういうことにまったく鈍感で、むろん芥川のほうがはるかに才能があると思っていた。神経質な芥川は自殺し、鈍感な志賀は大成した。

2007年6月27日 (水)

痔と「彼岸過迄」

    明治44年12月15日の夏目漱石の日記。

今日から小説を書こうと思ってまだ書かず。他から見れば怠けるなり。終日何もせざればなり。自分から云へば何もする事が出来ぬ位小説の趣向其他が気にかかる也。

    以上で明治44年の日記は終わっている。おそらくそこまで書いたところで、小説の書き出しの文句が浮かんだから、そのまま小説の方へかかったのだと思う。そのころ漱石は、神田の佐藤病院に通って痔の治療をしていた。

   漱石は「この病気はいつなおるでしょうか」と医師に聞いた。すると佐藤医師は「サア、彼岸過迄かかりましょう」と返事した。漱石は早速それを小説の題にいただいてしまった。

   明治45年1月2日から東京、大阪、両朝日新聞に「彼岸過迄」の掲載が始まった。元日には「彼岸過迄に就いて」を載せる。小説は表題の彼岸過迄より少し後の4月29日まで続いた。

2007年6月25日 (月)

長塚節、愛と死を見つめて

    明治44年の春、33歳の長塚節(1879-1915)は黒田照子と神田の料亭でお見合いをした。黒田家からは照子の兄と本人が臨席、長塚家では本人と母たかが臨席した。その頃母は在京して病気療養中だが、愛息の見合いということで無理を押して出たらしい。照子は一目節を見るなり頗る乗り気だったようだが、見合い後照子の兄・黒田昌恵は医師という職業柄節の様子を冷静に観察していたらしく、「何うもあの咳は只物ではない、結核の疑があるから此姻談はお断りすべきだ」と言っている。

    一方の節であるが井上子爵の令嬢との縁談が不調に終わったあとで、彼の心中には令嬢への未練があったようだ。節は婚約の同意を渋っていた。節の弟の長塚順次郎は黒田昌恵と中学、一高時代と共に野球部に在って刎頚の仲だったので、なんとか二人をとりもとうとする。ようやく明治44年の秋には婚約が成立した。ところがその直後の11月、根岸養生院で節は喉頭結核と診断される。そのため節分は婚約を破棄する。しかし、照子は既に節を夫たるべき人と決めていたので、11月24日、病院を訪れている。この日節は生憎外出していて会えなかった。しかし、彼女の盲目的な挙措にいたく感激、初めて彼女の本能を知るのである。相手が不運に陥るやとかくしり込みして離反し去るのが世の常である。しかるに彼女は敢えて苦難を共にしようとするのである。節はほとほとその行為に心服、迷うことなく自らも進んで彼女に立ち向かうことになるのであるが、結局は悲恋に終わる。

   二人に4年の歳月が流れた。長塚節は大正3年3月14日、神田錦町2丁目の橋田病院に入院する。それから50日ほど経った5月3日のことである。黒田てる子が訪れた。見合以来実に4年ぶりの再会である。その後、晩年の節から次の名歌がうまれた。

垂乳根の母が釣りたる青蚊帳を

すがしといねつ たるみたれども

    「病室の一室にこもりける程は心に悩むことおほくいできてまなこの窪むばかりなればいまは只よそに紛らさむことを求むる外にせん術もなく、5月30日といふ雨いたく降りてわびしかりけれどもおして帰郷す」という詞書がある。黒田照子の純愛に悩んだ節は、ついに決意して、ふるさとの母のもとへ帰ったのである。折りしももう蚊帳を吊る季節である。母は久しぶりに帰って来た節のためにみずから青蚊帳を吊ってくれたのである。老いかがまった母のすることで蚊帳はたるんでいる。しかしたとえたるんではいても、慈愛の深いなつかしい母のこころづくしを思えば、気にもならない。むしろすがすがしい思いがする。母のふところに抱かれたような心安さにその蚊帳の仲に身を横たえたという心情をのべたものである。

  大正3年6月、福岡の九州帝大病院に三度赴いた長塚節は、大正4年2月8日、37歳の若さで遂に没した。法名秀岳義文居士。その墓は「土」をはじめ、多くの歌にもうたわれた鬼怒川のほとりにある。

    節の死の知らせにショックをうけた黒田照子は、その後幾つかの縁談が持ち込まれたというが、一切耳をかそうとしなかった。だが、年を経るとともに傷心も薄らいだのであろう。大正10年に文学士石田貞一郎に嫁し、一男一女を挙げている。昭和37年7月24日、72歳で他界した。

2007年6月23日 (土)

偏奇館炎上

   永井荷風、本名・永井壮吉は、明治36年から41年にかけての米仏滞在経験後「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表し、つねに洋服を着用したハイカラ趣味、モダンな個人主義者としてのイメージがある。しかしながら家庭環境は漢詩文化あるいは儒教の伝統に属していたことも注目すべきである。

   父は永井久一郎、母は恒子。久一郎は明治4年にアメリカに留学しその後明治政府に仕えていた。帝国図書館の前身である書籍館に勤めていたこともある。鷲津恒子は漢学者鷲津宣光の次女。荷風は「十九の秋」で次のような回想を記している。

子供の時分、わたしは父の書斎や客間の床の間に、何如璋、葉松石、王漆園などいふ清朝人の書幅の懸けられてあつたことを記憶している。父は唐宋の詩文を好み、早くから支那人と文墨の交を訂めて居られたのである。

   つまり荷風は新旧の文化に浸る良家の出であった。中国の伝統文化はもとより、江戸趣味、ゾラ、モーパッサンなどのフランス文学に早くから親しんだ。

   斉藤ヨネ、内田八重(1880-1966)との短い結婚生活のあと、独身となった荷風は、大正9年には麻布区市兵衛町1丁目6番地の百坪の木造洋館「偏奇館」に移転した。偏奇館とはペンキ塗りの洋館だったことをもじってわたむれにつけたという。しかし、その偏奇館も昭和20年3月9日の東京大空襲で全焼。蔵書すべてを失った。「人生の至楽は読書に在り」という荷風にとって67歳にしてはじめてなめたものであったであろう。

2007年6月19日 (火)

安部公房とエスペラント語

   宮沢賢治のイーハトーブが岩手のエスペラント語風の読み方であることはよく知られている。また長谷川テル(1912-1947)は昭和7年にエスペラントを習ったことから検挙され、中国で緑川英子という名前で対日放送に従事するが、Ⅴenda Majo(緑の五月)はエスペラント語に由来している。

    ところで安部公房(1924-1993)はエスペラントと関わりがあったのだろうか。かつて三島由紀夫(1925-1970)が安部公房と対談したとき共通語で話しているのに、外国人と話しているみたいだ、という感想をもらしたという。同世代の現代文学の旗手にかくもへただりがあるのはなぜか不思議であった。安部公房の両親にその謎を解く鍵をさがしてみる。

   安部の父である安部浅吉は北海道上川郡東鷹栖村の出身で祖父母は石狩川の開拓民だった。そのフロンティア精神の影響からか、浅吉は医学を志し、満州国の奉天にある満州医科大学に勤めた。長男の公房(きみふさ)が生まれた大正13年は、浅吉は東京の医大に留学し研究中であった。母の安部よりみはプロレタリア文学を研究していたという。大正14年に家族3人は満州奉天市にもどり、医院を開業する。安部浅吉は医業のかたわら「奉天エスペラント会」の中心人物として尊敬されていた。そのころ満州では五族協和のスローガンのもと公用語としてのエスペラント語を採用するということが検討されていたのであろう。安部公房は上京して成城高校、東大と進むが、敗戦が近くなるという噂を耳にすると、危険をおかして両親にあいに渡満する。昭和20年、開業医をしている浅吉を手伝っていたが、浅吉は発疹チフスに感染して死亡した。安部浅吉の詳しい経歴は知らないが、「労働科学」という雑誌に「満州に於ける青少年集団栄養に関する調査」(昭和17年)がある。おそらく安部公房は開拓地の医療に取り組む父を尊敬していたであろう。安部公房本人はエスペラントには親しまなかったが、父の国際性と母の文学性を享受したことは想像するに難くない。

2007年6月18日 (月)

小林多喜二の結婚

   小林多喜二の女性関係といえば、小樽時代の田口タキが知られているが、東京でのわずか2年間の地下活動を支えた伊藤ふじ子についてはわからないことが多い。しかし、二人は実際に結婚し、昭和7年夏には母親を郷里から呼び寄せてしばらくいっしょに暮らしていたらしい。

   小林多喜二は高等学校時代から志賀直哉を尊敬していた。死ぬ2年ほど前に、志賀を奈良に訪ねたことがある。志賀は将棋か麻雀でもしよう、と言うと、小林はやれないと答えるので、ふたりはちょうど桜の咲いているあやめが池の遊園地へ子どもづれで散歩にいった。そのとき、小林はみちみち拷問の話をしたという。それまでも二人に文通はあったが、小林が志賀に会ったのはその一度だけだった。それが昭和7年の4月のことである。帰京後、小林は宮本顕治らと地下活動にうつり、文化・文学運動の再建に献身する。そのころ、伊藤ふじ子と結婚し、麻布東町(:現・南麻布1丁目)に住む。ふじ子は、銀座の文戦劇場の女優として何度か舞台に立っていたらしく、左翼運動に関心もあり、多喜二の地下活動を支えていた。伊藤ふじ子は銀座の図案社に勤め、刺繍の勉強をしていたが、10月に勤め先で検挙され、多喜二は隠れ家を飛び出して二人は二度と会うことは無かった。昭和8年1月10日、ふじ子は逮捕されたが、2週間で釈放された。ふじ子は会社を解雇されたが、解雇手当を人づてに多喜二に送り届けた。小林多喜二は昭和8年2月20日、正午すぎ築地警察特高課員により逮捕され、同署で警視庁特高中川、山口、須田の拷問により午後7時45分死亡。多喜二のお通夜、伊藤ふじ子は遺体にとりつき、顔を両手ではさんで泣きながら多喜二に接吻したという。伊藤ふじ子は、その後、森熊猛という政治漫画家と結婚。森熊ふじ子という名で生涯を終えている。

2007年6月17日 (日)

文士賭博事件

   一冊一円の文学全集、つまり円本ブームのおかげで人気文士たちは高額の収入を得るようになった。そんなとき世間を騒がせたのが文士賭博事件であった。

    昭和8年11月17日、有閑マダムと不良ダンス教師の摘発に当たっていた警視庁は、検挙された田村、小島の自供から著名文士が常習的に賭博を行なっている事実をつきとめた。里見弴夫妻、久米正雄夫妻、小島政二郎の愛人・美川きよ(のちに鳥海青児の妻となる)などを召喚した。さらに川口松太郎も自宅から拘引留置され、ダンスホールにからむエロ行状と賭博の犯罪の実態があきらかとなった。菊池寛が警視庁に出頭し、身柄引受の一札を入、事なきを得た。

2007年6月16日 (土)

三島由紀夫と高橋和巳

   昭和45年11月に三島由紀夫、昭和46年5月に高橋和巳が相次いで逝った。高橋和巳(1931-1971)は第一次戦後派作家、とくに埴谷雄高の影響を受け、60年代、政治と思想に苦悩する若者たちに支持された作家である。昭和45年には、小田実、開高健、柴田翔、真継伸彦とともに同人誌「人間として」を発刊した。自衛隊市ヶ谷駐屯地にのりこみナショナリズム革命への決起をうながしたが果たさず、割腹自殺をした三島と、学生運動を真摯にうけとめ、自己否定の知的営為と行動を実践して心身ともに疲労した高橋とは対極に見えながらも、両氏の作品には明らかに戦後文学の屈折と苦悩がうかがわれる。高橋和巳の「散華」(「文芸」昭和38年8月号)には、元特攻隊員で電力会社の社員である大家次郎が、鳴門海峡にある孤島の買収のために、その孤島に隠遁している中津清人という老人に会う。中津は次のようにいう。

  わたしは軍人ではなかった。そして、その後、国家の禄を食んでもいない。わたしは、思想家としての自分を罰し、思想家として死んだ。みずから自分を殺さずとも、もちろん、わたしはいつかは病み、いつかは老いさらばえ、いつかは死にはてるであろう。死の瞬間に、だれかが自分を見とってくれる者があればよいと思うかもしれぬ。炭鉱夫の皮膚にこびりつく黒い垢のように、世間的思弁の残滓がわたしらもこびりついて、わたしを苦しめるかもしれぬ。しかし、わたしの苦痛は他者の同情によって癒えはしない。それがどんな苦痛であろうと、わたしの苦痛であるかぎり、わたしはそれを大事にするだろう。快楽も苦痛も、わたしは人に売りわたしたくはない。そして髪の毛一本なりとも、国家のためにも、階級のためにも使いたくはないのだ。わたしは、国家を、世界を、民族を、聚落を、人類を拒絶する。

   高橋和巳は、昭和6年8月31日、大阪市浪速区貝殻町3丁目13番地に父・高橋秋光、母・高橋慶子の次男として生まれる。世代的にいうならば、大正14年生まれの三島由紀夫よりも、昭和7年生まれの石原慎太郎、小田実に近いといえる。昭和46年、39歳の若さで病死。

   なお、「散華」は、生田直親脚色、大山勝美演出でテレビドラマ化されている。岡田英次、加藤嘉、阪口美奈子の出演(昭和38年7月10日)。

アプレゲールと国家主義

    戦後、アプレ・ゲールという言葉が流行した。広辞苑によると「第一次大戦後、フランスを中心として興った文学上・芸術上の新しい傾向。日本では第二次大戦後、新しい文学を創造しようとした若い著作家の一部をいう。転じて、第二次大戦後の放恣で退廃的な傾向にもいう」とある。

    戦後、真善美社という小さな出版社があり、戦後文学のいくつかの注目すべき作品を出版している。例えば、埴谷雄高の「死霊」(昭和23年10月)や安部公房の「終りし道の標べに」(昭和23年10月)などである。真善美社の社長は中野達彦という人である。父は中野正剛(1886-1943)、母は三宅多美子で三宅雪嶺(1860-1945)、三宅花圃(1868-1943)である。つまり中野達彦は明治の代表的なナショナリズムの評論家を義父にもち、大正・昭和の政治家を父として、国家主義的な環境のもとで育った。ところが、戦争末期の昭和18年、中野正剛は東条倒閣運動の首謀者として検挙され、割腹自殺する。祖父の三宅雪嶺も昭和20年11月26日、中野達彦の自宅で85歳で没する。中野達彦は戦後、出版社をつくるが、その名称は祖父の三宅雪嶺の代表作「真善美日本人」に因んで「真善美社」とつけられた。ところが出版される内容は三宅雪嶺や中野正剛の思想とは大きくことなるものだったようだ。たとえば、埴谷雄高の思想遍歴をたどるとスティルネルふうなアナーキズムからマルクス主義、共産党、転向と変遷するものの国家主義的なものとは無縁といえる。

   安部公房は昭和22年、戦争中の体験を踏まえて書いた「粘土塀」と題した処女長篇を成城高校時代のドイツ語担当教員・阿部六郎に読んでもらた。阿部は、この作品を埴谷に送り、「粘土塀」の内の「第一のノート」が昭和23年10月に「個性」に掲載された。昭和23年10月に「終りし道の標べに」が真善美社のアプレゲール新人創作選9の一冊として出版されるにあたり、「第二のノート」以下の部分も書き加えられて出版された。埴谷や安部の難解な作品論は別として、ともかく哲学的であり戦争が作品に影響していることは間違いないであろう。ちなみに野間宏、梅崎春生、椎名麟三、中村真一郎を第一次アプレゲール作家とされたことがある。真善美社の「アプレゲール叢書」と名づけたのは中村真一郎だといわれている。

   真善美社の中野達彦の詳しい生涯は知らないが、国家主義とアプレというまさしく戦後の混乱期を体現したような人物であろう。

2007年6月13日 (水)

北村透谷と石坂美那子

   北村透谷(1884-1894)は、明治元年12月29日、没落した小田原士族・北村快蔵の長男として、小田原唐人町に生まれる。最初、政治に志し、民権運動に情熱を燃やしたが、大阪事件に参加しなかったことで挫折を経験する。明治20年7月ころ、三多摩民権青年の指導者の石坂昌孝の長女石坂美那子(1865-1942)と知り合う。石坂は許婚者平野友輔を捨てて、明治21年11月3日、透谷と数寄屋橋教会で結婚する。透谷はその翌年長詩「楚囚之詩」を発表。次いで明治24年劇詩「蓬莱曲」を書き詩人としての新しい出発を始めた。明治25年正式に結婚届を出し、北村美那子となる。だが、精神の自由と民衆の解放を求める透谷の戦いは困難を極め、明治27年、ついに自宅の庭で縊死を遂げた。時に、満27歳4ヵ月余。

 夫透谷に先立たれた美那子は、明治32年6月、長女英子を義父に預け単身渡米する。苦労しつつインディアナ州のユニオン・クリスティアン・カレッジに学び、のちオハイオ州立ファンアンス・カレッジに入学。明治39年6月卒業。明治40年1月帰国。義母と娘を向かえて東京牛込宮比町に住む。以後、豊島師範学校、品川高等女学校で約6年間英語教師をつとめる。昭和3年1月から透谷の詩の英訳をはじめる。昭和17年、76歳で死没。

  透谷の親友で、美那子の実弟であった石坂公歴(いしざかまさつぐ、186-1944)は、大阪事件で父昌孝が逮捕されるや、アメリカに亡命して「新日本」や「革命」などという新聞を発行し、抵抗をつづける。のち西部の開拓者、アメリカ、カナダ、アラスカを転々と放浪して、昭和19年、日本人強制収容所で波乱の生涯を終えた。

2007年6月 4日 (月)

夏目漱石の死

   夏目漱石(1867-1916)は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の五度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)

   漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

   帝大長与又郎博士の解剖によれば、漱石の脳の重さは1620グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く天才的頭脳の型であったと報告された。

2007年6月 3日 (日)

斎藤茂吉の死

   斎藤茂吉(1882-1953)は昭和20年2月、故郷の山形県南村山郡堀田村金瓶(現・上山市)に赴き、弟高橋四郎兵衛と疎開の打合わせをした。4月11日、単身にて上山町山城屋に疎開し、14日より郷里金瓶の斎藤十右衛門方に落着いた。昭和21年1月30日、金瓶を去って大石田町に移る。3月13日、肋膜炎に罹り、5月上旬まで臥床療養。

   北杜夫は「死」(岩波書店「世界」昭和39年4月)という作品でつぎのように書いている。

   戦後、父は疎開先の大石田で肋膜炎を患った。それから急速に肉体的に衰えた。昭和24年頃から歩行がかなり不自由になった。軽い左半身の麻痺も起こした。更に26年の2月、はじめて心臓の発作がやってきた。27年の4月にも、つづけて二度大きな発作があった。呼吸が切迫し、口唇、手足にもチアノーゼが現れたそうである。だが父は生きのびた。そのような肉体の衰えは、年齢からいっても既往症からいっても必然的なものであったかも知れない。だが、それに伴って精神の衰退がやってきた。もっと端的にいえば、父は頭脳をやられたのである。おそらくは脳動脈の硬化からくる老年性痴呆への進行が徐々に訪れてきていた。それは治療法とてない老年の残酷な生理の現れであった。

   昭和28年2月25日午前11時20分、新宿区大京町の自宅で心臓病のために没した。享年満70歳であった。遺体は28日、幡ヶ谷火葬場で火葬され、遺骨は2個の骨壷に分骨された。告別式は3月2日午後1時、築地本願寺で行なわれた。葬儀参列者220名、一般会葬者645名、遺骨は青山墓地と山形県の金瓶の宝泉寺に納められた。戒名、赤光院仁誉遊阿暁寂清居士。

吉川英治の父母兄弟妹

   吉川英治は小学校を中退し、横浜関内住吉町の川村印刻店へ丁稚小僧、少年活版工、税務監督局の給仕、海軍御用商の店員、土建場の日雇、横浜ドックの船具工などを転々としている。これらは父の吉川直広の事業の失敗が原因となっている。

   吉川直広は旧小田原藩下士の吉川銀兵衛の子として生まれた。明治になって県庁書記、酒税官などを勤め、後、牧畜経営を志すも失敗、当時、根岸競馬場付近で近所の子弟を対象に、寺子屋風の家塾を開いていた。明治29年頃、高瀬理三郎に見出され、横浜桟橋合資会社を設立し、家運は隆盛に向かうかにみえた。しかし直広は高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると、文書偽造、背任横領などの罪にとわれて根岸監獄に収容された。

   母のいくは、直広と明治22年6月結婚した。実家の山上家は、佐倉の堀田藩の上士の出であり、本家は馬廻り、勘定頭、勝手役兼破損奉行などを歴任した由緒ある家柄だったといわれる。母方の祖父は誠心流槍術の遣い手として知られ、明治になってからは戸長や町長をつとめた土地の有力者だった。いくは佐倉の女学校を卒業したのち、姉の嫁いでいた斎藤恒太郎(攻玉社の語学教師)の関係で芝新銭座の近藤真琴の家に家事見習いに行き、開明的な気風のなかで過ごした。吉川英治には、異母兄弟の綾部政広、二女きの、三女かゑ、三男素男、四女はま、五女ちよ、四男晋がある。また、他に乳児で死亡したくに、きく、すえの三女があった。

    明治42年、千葉県の田舎町に奉公に出された四女のはま死亡。(7歳)大正7年、父直広(58歳)、大正10年、母いく(54歳)をそれぞれ窮乏生活の中で亡くくしている。

吉川英治と川柳

   吉川英治(1892-1962)は、明治25年8月11日、神奈川県久良岐郡中村根岸(現・横浜市中区山元町)に生まれる。父、吉川直広、母、いくの次男。本名は英次(ひでつぐ)。

    吉川英治は大正元年、雉子郎の号で「講談倶楽部」に川柳俳句を投稿、たびたび入選掲載され、つぎのような句が残っている。

 水欄に眉涼しけれ初袷

 杜若(かきつばた)傘紺青に夕明り

 お勝手で女子大学が敗をとり

 姿見の前に一人でいい気なり

   その彼が川柳人として立つことができたのは、井上剣花坊(1870-1934)のおかげであろう。井上は阪井久良岐とともに新川柳を提唱し、「川柳」を創刊して川柳の近代化につとめていた。大正元年のころ「大正川柳」を創刊していたが、井上は若い吉川の才能を見抜き、ある日突然、英治の家を訪ねた。話あううちにすっかり意気投合し、まもなく井上のすすめで柳樽寺川柳会に加わった。このグループは剣花坊を中心として、各地に支部をもち、機関誌「大正川柳」を発行していた。英治は大正3年1月、「文芸の三越」(日本橋ビル落成記念に三越呉服店が、小説、短歌、川柳等を募集して出版した本)に川柳一等当選する。

 駿河町地を掘り空へ伸してゆき

    このころ井上らとの親交深まり「大正川柳」の同人となり、発展期の「大正川柳」をささえた。当時の東京の川柳壇はほとんど柳樽寺系のグループによってしめられていた。英治の所属したさくらぎ会は、下谷、浅草方面に住む同人によって組織され、仲間には正木十千棒、鈴木すず六、村田鯛坊、花又花酔、浜田如洗、佐瀬剣珍坊などがいた。その頃の句作にはつぎのようなものがある。

 柳原涙の痕や酒のしみ

 出納の余白に「折にふれて」詠み

 我に鳴らす此の子の吹くよ木の葉笛

 巡繰りの塔婆で寺の風呂が沸き

    彼は川柳をとおして江戸の庶民文芸の気風にふれた。東京の下町にはまだ昔ながらの江戸の面影が残っており、そういったこともおおいに吉川文学の糧となっている。英治は大正5年、隅田川に関する古川柳を研究して「古川柳隅田川考」を「大正川柳73号」に発表している。またこの時期、遊び好きな川柳仲間にさそわれて茶屋酒の味をおぼえ、女遊びも体験し、そこで最初の妻となった赤沢やすともめぐりあっている。

2007年6月 2日 (土)

明治初期の漢文漢語の流行

   漢文とか漢学というと、古臭くて得たいの知れない代物と思われそうだ。しかし最近、自分より少し年下の行政経営の人と館長の三人で出張の帰り一献酌み交わしたときに、ジャズや芸術論の話が出た後に「あなたは何をしているのか」と聞かれたので「東洋史だ。最近は漢学に興味がある」と正直に言ったら「漢学は奥が深い」と言ってくれた。その一言がとてもうれしかった。

   漢学や儒教は古臭くて、近代日本の発展を阻害した元凶のように考えている人が多数いるが、本来、文化性・合理性を持った学問である。また明治以後の日本の近代化に果たした役割も大きい。朱子学、古学、陽明学などの三学は多少の差はあっても、本質的には思弁的な学問であり、主要なテーマは理と気であり、心であり、性である。つまり幕末明治の漢学者たちは、洋学の受容に先立って、理詰めの判断による事象の理解ができていた。従って彼らにとって洋学も決して異質の学問ではなかった。彼らは漢籍の読書過程で、すでに洋学理解に必要な判断力を備えていたのである。

    明治維新と言えば「文明開化」が同義語のように思われ、漢学は一斉に退潮したと考えられがちであるが、実際は明治初年には「漢語の流行」という現象が起こっている。当時流行した漢語で「勉強」「規制」「注意」「関係」「管轄」「区別」「周旋」など今日もなお日常語として残っているものも少なくない。

    牧野謙次郎は次のように解説している。

明治初年にはなお旧幕の鴻儒が生存し、漢語漢文の流行があった。例えば、当時の言葉、髪床は理髪店と改められ、風呂に入ることは入湯と称せられ、不都合をした時は、失敬と謝るようになった。この漢語の流行を来たした原因は何であったかというに、幕末維新の際、国事に奔走した全国諸藩の人々は、互いに交通し会合する必要があった。しかし各国にはそれぞれ方言があって、今日の如く標準語が普及していても、しかも仙台の人と鹿児島の人とが国の訛りで話せば話が通じないであろうが、当時はなおさらのこと、話す言葉が理解できず、非常に会話の障害となった。そこで漢語ならば話に問題がなかろうという所から、漢語がこれらの社会に流行するに至ったのである。そして維新後には、これらの人々が多く要路に立ったため、ついに漢語が上流社会の言葉となったのである。(「日本漢文学史」昭和13年)

2007年6月 1日 (金)

お染久松、浄瑠璃と歌舞伎

    鏑木清方(1878-1972)の日本画「野崎村」(大正2年作)は「近代日本画家が描いた歴史とロマンの女性美展」(朝日新聞社、1989)の図録表紙に使われている。お染の顔の表情、しぐさもが自然で近代美人画の特徴を代表する作品であろう。

    近松半二の浄瑠璃「新版歌祭文」(安永9年)では久松は武士の倅で油屋に奉公してお染と契り、お染は五つ月の身重となるが、山家屋へ嫁入りの日が迫り、お染の母はこれを苦慮している。久松の父が久松に意見し、種々奔走するが、結局久松は蔵の中、お染は蔵の外で自害する。鏑木の絵では「あんまり逢いたさ、なつかしさ、勿たいないことながら観音さまにかこつけに、逢いに北やら南やら、知らぬ在所を厭ひもせず」と語る野崎まいりの帰りのお染の姿を描く。

    4世鶴屋南北(1755-1829)の「お染久松色読販」(1813)では筋は大きく異なりラストはハッピーエンドである。千葉の家臣石津久之進はお家の重宝吉光の刀を盗まれた落度で切腹、その子久松は乳母の倅の百姓久作に弟として引取られ、刀の詮議のため、質屋をしている瓦町の油屋に丁稚奉公し、油屋の娘お染と深い仲になる。刀の盗み人鈴木弥忠太は遊里の女お糸に入揚げ、もと若党であった鬼門の喜兵衛をして刀と折紙とを油屋に質入れさせるが、その金は喜兵衛に着服されてしまう。番頭善六は、お糸に惚れている油屋の息子多三郎をそそのかして折紙を持出させ、多三郎を追出し、お染と夫婦になって油屋の身代を継ごうとするが、そのたくらみを丁稚久太郎に知られたので金を与えて久太郎を逐電させ、折紙を久作の嫁菜の苞に隠す。それが原因の誤解から、久作は油屋下男九介に殴られ、油屋の縁者松本佐四郎の仲裁で膏薬代と質流れの袷を貰う。この話を聞いた喜兵衛とお六の夫婦は、その袷と行倒れの死骸を種に油屋をゆすることを思いつく。喜兵衛とお六は油屋に死骸を持込み、弟が油屋の者に殺されたと言って金をゆするが、そこへ死んだはずの久作が現われた上に、お染の許婚山家屋清兵衛のはからいで死人が蘇生するので、ゆすりそこなって帰る。死人は河豚に当たった久太郎であった。その夜喜兵衛は油屋の蔵から吉光の刀を盗み出すが、久松はこれを殺して刀を取返し、家出したお染の跡を追う。隅田堤で久松はお染に追付き、折紙も手に入ってめでたく幕となる。(参考:「日本古典文学大系54 歌舞伎脚本集下」岩波書店)

2007年5月22日 (火)

「六甲おろし」と佐藤惣之助

六甲颪に 颯爽と

蒼天翔ける 日輪の

青春の覇気 美わしく

輝く我が名ぞ 阪神タイガース

オウ オウ オウオウ 阪神タイガース 

フレ フレフレフレ

   この「阪神タイガースの歌」、通称「六甲颪」は、もともと昭和11年「大阪タイガースの歌」(作詞・佐藤惣之助、作曲・古関裕而)として作られた曲である。

   佐藤惣之助(1890-1942)は、明治23年12月3日、父・佐藤慶次郎、母うめの二男として、神奈川県川崎市砂子1-26、旧宿場で生まれた。小学校を卒業すると、商店に奉公に出る間、佐藤紅緑に師事して俳句、小説を学んだのち、18歳頃より詩作を始める。千家元麿、福士幸次郎らとつぎつぎと同人雑誌を出し、室生犀星を知るに及んで、詩壇的地位が築かれた。大正5年の処女詩集「正義の兜」では民衆派詩人として出立するが、大正10年の詩集「深紅の人」以後、詩風は一変し、明るい都会的、感覚的なものになる。昭和になるとコロムビアの専属作詞家として今日よく知られる歌謡曲を多数残している。「赤城の子守唄」「湖畔の宿」「男の純情」「青い背広で」「人生の並木路」「人生劇場」「上海だより」「愛の小窓」「いろは仁義」「新妻鏡」。昭和17年5月15日、53歳で早逝した。

山の淋しい湖に

ひとり来たのも悲しい心

胸のいたみにたえかねて

昨日の夢と 焚きすてる

古い手紙のうすけむり

    昭和15年、高峰三枝子が歌い大ヒットした「湖畔の宿」。このモデルとなった湖とは群馬県の榛名湖だそうだ。佐藤惣之助は釣りが好きで、先妻を亡くしたあと一緒になった萩原朔太郎の妹、愛子の実家が前橋だったのでよく榛名湖に遊びに行っていた。佐藤が常宿の「湖畔亭」の仲居に宛てた手紙が発見され、「湖畔の宿」の舞台が明らかになったという。

2007年5月21日 (月)

お染久松の恋物語の真相

    宝永7年(1710年)に大坂板屋橋にあった油問屋で、娘のお染と手代の久松が心中した事件を題材に書かれたのが近松門左衛門の「女殺油地獄」。これに触発され、野崎を舞台に、同じお染久松の悲恋を描いた近松半二の「新版歌祭文」(1780年初演)が大当たりとなった。浄瑠璃、古典落語、流行歌などで今日にいたるまで良く知られる。とくに東海林太郎が歌った「野崎小唄」(作詞・今中楓渓、作曲・大村能章)は往時の野崎参りの風情が蘇る。

 野崎まいりは屋形船でまいろ

 お染久松せつない恋に

 のこる紅梅久作屋敷

 今もふらすか春の雨

   作詞の今中楓渓は枚方市大字楠葉の人。明治16年生まれで、「あかね」「白月」「青潮」などの歌集をだし、戦時中は国民歌謡や軍歌をつくり、また付近の校歌をたくさん作詞している。

   野崎参りは元禄時代より伝わり、正しくは無縁経法要といい、人が生きていく上で、知らず知らずにお世話になった有縁、無縁のすべてのものに感謝のお経をささげる行事。毎年5月1日から10日まで。福聚山慈眼寺(大阪府大東市)には野崎観音があり、慈眼寺から少し離れたところに久作屋敷があった。「浪華人物志」によると、久松は年が13歳、野崎村の者、大坂東堀油屋某に子守として雇われていたが、不注意からおそめという2歳の幼女を川に溺れさせてしまったので、久松は自責の念に堪えず、宝永7年9月27日、主家の土蔵の中で自殺したという。

2007年5月20日 (日)

国木田治子

    国木田哲夫(1871-1908)は、佐々城信子(1878-1949)との恋愛と結婚、離婚によって詩人・独歩が生まれたといえなくもないほど大失恋で知られている明治の文豪である。だが後妻の榎本治(1879-1962)が女流小説家であったことは今日ほとんど忘れさられているようだ。

    東京三鷹駅北口には独歩の代表的な詩の一編ともいえる「山林に自由存す」の碑がある。(昭和26年3月建立)武者小路実篤の書で刻まれ、独歩の子息で彫刻家の佐土哲二によるレリーフがはめ込まれている。

山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

嗚呼山林に自由存す

いかなればわれ山林をみすてし

あくがれて虚栄の途にのぼりしより

十年の月日塵のうちに過ぎぬ

ふりさけ見れば自由の里は

すでに雲山千里の外にある心地す

眥を決して天外を望めば

をちかたの高峰の雲の朝日影

嗚呼山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

なつかしきわが故郷は何処ぞや

彼処にわれは山林の児なりき

顧みれば千里江山

自由の郷は雲底に没せんとす

   明治27年、徳富蘇峰の勧誘に応じ、民友社に入る。明治28年8月16日から「国民新聞」にはじめて「独歩吟」と題する新体詩を発表する。同年、佐々城信子と結婚するが、翌年離婚。明治30年4月、宮崎湖処子編集し、松岡国男、田山花袋、太田玉茗、嵯峨の山人、湖処子らの合著『抒情詩』の刊行に国木田哲夫はこれまで新聞雑誌に発表した詩をまとめて「独歩吟」と題した。4月21日、田山花袋と共に日光照尊院に赴き、6月21日まで滞在。日光から帰京し、麹町一番町に住む。ここで隣家の榎本治子と知り合う。

    榎本治子は、明治12年8月7日、東京市神田区末広町に生まれた。父は榎本正忠といい旧幕臣で画家であった。士官学校助教授として図画を教えていた。母は米、治子はその長女である。榎本正忠と榎本武揚の関係についてはよく分からないが姻戚かもしれない。そうすると独歩の父である国木田専八(明治37年1月19日、病没)は播州赤穂藩の脇坂藩の家臣で榎本武揚討伐のために脇坂藩が仕立てた船の乗組員だったことが知られているが、不思議な因縁といわなければならない。

   榎本治子、9歳の時、麹町一番町に転居。明治31年独歩と治子結婚。同年、長女貞子が生まれる。当時「源おぢ」を始めとして短編、詩篇を発表していたが文名揚がらず、翌33年には定職たる報知新聞記者もやめ、生活は窮迫し、一時民声新聞に入社したがこれも半歳にしてつぶれ、独歩は治子と貞子を榎本家へ預け、神田駿河台の西園寺公望邸に寄寓した。治子が文筆に親しみ出したのは明治36年頃からで婦人雑誌などに発表した。「愁ひ」(明治39年)「破産」(明治41年)「小夜千鳥」(大正3年)「モデル」。独歩が明治41年死後、長女貞子、長男虎男、二女みどりをかかえて生計は苦しく、三越の食堂部に勤務しながら、女流作家、青鞜の同人として知られるようになった。晩年は、文壇から遠ざかり、昭和37年12月22日、二女柴田みどりの家で83歳の生涯を閉じた。

2007年5月12日 (土)

「明治詩文」の漢詩人たち

    明治8年、9年頃から漢詩文を主とする雑誌がにわかに起こってきた。

「新文詩」8年7月創刊 森春涛主宰

「東洋新報」9年7月 岡本監輔主宰

「明治詩文」9年12月 佐田白茅主宰

「花月新誌」10年1月 成島柳北主宰

「古今詩文詳解」13年12月 吉田次郎

   この中でもっとも勢力があり名高かったのは「明治詩文」と「古今詩文詳解」であった。

   漢学が衰退して洋学を盛んに謳歌した時代に、こうした雑誌が創刊されたことは奇異に感じられるが、これは一つは洋学の興隆、西洋文化の心酔に対する反感から生まれたところであろう。

   「明治詩文」は久留米の佐田白茅によって編集されたが、佐田は若い頃、真木和泉に従って勤王論を唱えた。維新の後外務方面の官吏となったが、西郷隆盛、江藤新平、副島種臣らと征韓論を主張して、破れ職を辞した。人物は、磊落で才を愛した。重野成斎、川田甕江の両大家と交わりをよくしたため、この雑誌には重野・川田をはじめ、当時日本国中の名家、あるいは高官の作品が録載されたので、権威のある雑誌となった。その主な人々をあげると、島津久光、山内豊信、木戸松菊、鍋島閑叟、伊藤春畝、勝海舟、副島蒼海、亀谷省軒、加藤桜老、岡鹿門、小野湖山、阪谷朗蘆、川田甕江、青山鉄槍、秋月韋軒、安井息軒、村上佛山、岡松甕谷、重野成斎、南摩羽峰、藤澤南岳、三島中洲、藤野海南、大沼枕山、中村敬宇、今藤悔堂、小永井小舟、島田篁、広瀬林外、鷲津毅堂、鱸松塘、松岡毅軒、芳野金陵、村山拙軒、小山春山、依田百川、木原老谷、青山佩弦斎、江馬天江、神山鳳陽、頼支峰、菊池三渓、林鶴梁、田口江村、大槻磐渓、林鶯渓、小林卓斎、浅田栗園、土井聱牙、西薇山、片山沖堂、蒲生褧亭、小牧櫻泉、吉嗣拜山、山本迂斎、谷口藍田、隄静斎、岡本韋庵、石川鴻斎、矢土錦山、土屋鳳洲、高橋白山、日下勺水、草場船山、森槐南、末松青萍。

2007年5月 7日 (月)

宮崎三昧と宮崎一雨

    宮崎三昧(1859-1919、みやざきさんまい)は、安政6年8月1日、江戸下谷御徒町の儒者の家に生まれた。本名、宮崎璋蔵(みやざきしょうぞう)、別号は三昧道人。漢学を芳野金陵の塾に修め、茗渓学校を経て東京師範学校を卒業した。しばらく教鞭をとった後、明治13年「東京日日新聞」に入社。明治35年まで新聞各紙の文芸欄の執筆や、歴史小説家として名を知られる。代表作「塙団右衛門」(明治26年、春陽堂)は明治小説中の秀作である。明治30年代、冨山房の「袖珍名著文庫」に携わり「春花五大力」「狂歌萬載集才蔵集」「仮名手本忠臣蔵」「日本新永代蔵」「松浦佐用姫石魂禄」「落語選」「太平記忠臣講釈」などを校訂している。明治39年に腸チフスがもとで、両足が不自由となった三昧は、次第に文壇から遠ざかり、大正になって「賞奇楼叢書」で古典の翻刻に尽力した。大正4年刊行された井原西鶴「椀久一世の物語」は唯一の伝本が関東大震災で焼失したため、貴重な文献となっている。大正8年3月22日、腎臓病で死去。享年61歳。

    大正期の少年小説界において活躍した宮崎一雨(みやざきいちう)は、明治19年(あるいは明治22年)7月6日、東京府日暮里村に宮崎三昧の一人息子として生まれる。本名は宮崎侃。東京外国語学校韓語学科卒業後、「東京日日新聞」「中央新聞」「飛行少年」の記者となる。「古今名詩通俗史談」(大正元年)「英雄の快挙」(大正2年)「熱血団」(大正5年)「絶壁魔城」(大正6年)「怪力義人」(大正7年)「興国か亡国か」(大正13年)「空中征服」(大正14年)「世界征服」(大正14年)「日米未来戦」など冒険小説が多い。一時代を画くした人気作家である。ちなみに「熱血小説」という名称は一雨の命名であると言われている。消息不明により没年はわからない。

2007年5月 6日 (日)

伊勢物語、東下り

   「伊勢物語」のなかでも、「東下り」の段はもっとも知られている。二条の后がまだ東宮妃になる以前、在原業平はこの人の許にひそかに通っていた。東宮に差し出すつもりでいた兄弟たちが女を盗み出すがすぐに奪い返され、ついに都に居たたまれなくなって京を捨ててはるばる東に下り、さらに奥州の方までさまよい歩く。

   東下りの段には、有名な歌がある。一つは三河国八橋で詠んだ歌。

   から衣 きつつなれにしつましあれば

             はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

(唐衣は着ているとなれる。私にはそのなれ親しんできた愛しい妻が京にいるので、はるばるやってきた旅をしみじみ物悲しく思うのだよ)

   この歌が「かきつばた」の五文字を詠みこんだ「折句」の歌。

   二つ目は隅田川のほとりで詠んだ歌。

     名にしおば いざ言問はむ みやこどり

         わが思ふ人は ありやなしやと

(「みやこ」という名を持っているなら、みやこ鳥よ、さあおまえにたずねよう。私の愛する人はすこやかに暮らしているかどうかと)

   現在「言問橋」の地名を残す。台東区花川戸と墨田区向島の間で「水戸街道」(言問通り)が隅田川を渡る「言問橋」である。

竹柏園歌人、竹屋雅子

     声あげてなくよりも げに悲しきは

               涙かくして  笑ふなりけり

    今日、竹屋雅子(1866-1917)といっても、誰一人として知る人もないであろうが、明治30年前後には、佐佐木弘綱門下に、その人ありと知られた才媛であった。因みに、明治29年4月京都岸本亀次郎発行の「大日本歌人見立鑑」によれば、税所敦子、鶴久子、中島歌子、下田歌子、松廼門三艸子を上位におき、次位に水原未瑳子、小池道子、竹屋雅子の名が見える。

    慶応2年(1866年)5月13日、伊勢亀山に生まれる。家は浄土真宗の寺院で、父は渥美契縁(あつみかいえん、1841-1906)、母は幸子(さちこ)の長女。閑雅(みやび)と名づけられた。筆名雅子、万さ子。渥美契縁は東本願寺火災後の再建に功があり、東本願寺の今日の基を築いたといわれる傑僧で、多く京都に住み、晩年は石川県小松の本覚寺の住職となった。雅子の幼時は京都で過ごしたので、雅子の歌には京都近辺の歌枕をよみこんだものが多い。妹二人弟一人の三人の弟妹があったが、妹の一人は夭折し、一人は、後に東本願寺事務総長・阿部恵水に嫁して、名を亮子(さやこ)といった。弟の渥美契芳(あつみかいほう)は長じて、本覚寺の住職をついだ。

   明治14年、16歳の渥美雅子は女紅場(京都府立第一高女)を卒業し、学習院女子部(華族女学校の前身)に入学。和歌及び古典を竹柏園・佐佐木弘綱に学ぶ。明治19年、子爵竹屋光昭の嗣子、竹屋光富(たけやみつたか)に嫁し、五人の子女を得ている。夫は世間知らずの若様で、人にだまされて手を出した事業に連座して、刑事問題にふれる事件が起こり、嗣子を廃された。税所敦子、小池道子、大塚楠緒子などと交友し、竹柏園の機関誌「心の花」にも関係していた。明治36年頃、光富と離婚し、塩谷吟策(しおのやぎんさく)と再婚した。吟策は、森有礼と共に、明治義会中学校の創始者であった。大正6年11月21日、現在の千代田区富士見町(法政大学の敷地内)において胃癌で死去。享年52歳。

2007年4月28日 (土)

幸田露伴とその家族

    幸田露伴(1867-1947)は、慶応3年、江戸下谷三枚橋横町俗称新屋敷に幸田成延、猷(ゆう)の第四子として生まれる。名は成行(しげゆき)、通称鉄四郎。幸田成延は幕臣の奥お坊主衆今西家の出で、家付き娘である猷のところに入籍したのだが、ふたりとも詩歌管弦に明るく、学問にも造詣が深かった。両親の影響で幸田家男五人女二人の兄弟、このうち、三男は幼い頃に亡くなり、五男修造も東京音楽校在学中に夭折しているが、ほかは皆、英才ぞろいであった。

   長男の幸田成常は実業家、二男の郡司成忠は千島探検家、四男の幸田成行(しげゆき)は小説家、五男の幸田成友(こうだしげとも、1873-1954)は歴史家、長女の幸田延(ピアニスト、1870-1946)、二女の幸田幸(こうだこう、ヴァイオリニスト、1878-1963)は結婚して安藤幸。また幸田露伴の娘の幸田文(1904-1990)、孫は青木玉(作家)、ひ孫は青木奈緒(作家)である。

   幸田露伴は電気技師として北海道余市に赴任後、文学を志して帰京。尾崎紅葉と並び称されたが、その深い教養はいつどのように修得したのであろうか。府立中学、東京英語学校は中退している。父の幸田成延は明治になって一時大蔵省に勤務したといわれるが、明治20年ごろには神田末広町に「愛々堂(あいあいどう)」という紙屋を開いた。この屋号はキリスト教に凝ったためという。(成延は明治17年に下谷教会牧師・植村正久から受洗したことで、幸田家は露伴を除いて全員が受洗している)しかし事業は成功せず、家族は貧困状態にあった。少年時代の幸田露伴が最も熱心に通ったのは、そのころできた図書館であろう。明治5年8月に文部省の書籍館(湯島聖堂)として開館した、わが国唯一の国立図書館は、明治8年4月に東京書籍館と改称し、5月に開館した。明治13年7月1日より、東京図書館と改称し、7月8日より閲覧を開始している。このとき露伴14歳で東京中学を退学し、湯島の東京図書館に通い独学で勉強していたことが知られている。図書館では夜間開館と無料であった。明治17年8月に図書館は上野に移転し有料となる。19歳の露伴は明治18年には北海道余市に赴任することになる。つまり露伴の東京図書館利用は14歳から18歳までの湯島聖堂での東京図書館時代である。享年81歳。

    高木卓(1907-1974、小説家、東京大学卒業。ドイツ文学者)は、昭和15年に、歴史小説「歌と門の盾」で芥川賞に決定したが辞退している。芥川賞の長い歴史の中でも受賞辞退はめずらしい。実は高木卓は幸田露伴の甥にあたる。高木の本名は安藤熙(あんどうひろし)といい、二女の幸田幸子の子である。高木の幼い記憶と母の話では、露伴の父母の仲はよくなかったらしい。五男の幸田成友が書いた「幸田家は微禄ではあるが、瓦解前は世禄を食み、門構の屋敷に住していた」とあるが、まるで幸田家は武士の家柄のように見えるが「お坊主衆」であったが、幸田の兄弟は士族を誇る傾向があったといっている。母の猷のきびしい躾がすぐれた兄弟を育てたことは間違いなく、賢母の典型ではあるが、婿の成延にはやりきれない妻だったともある。そして成延と猷の別居は明治34年より前に始まったことは確実であり、夫婦としては不幸だったという意外な真実を語っている。(参考:高木卓「露伴の父母」現代文学大系3,筑摩書房)

    郡司成忠(ぐんじしげただ)は、海軍大尉を経て報效義会を結成、千島開拓に尽力したことで知られる。有志を募って千島列島の最北端にある占守島に上陸した。その一部を占領して、領有宣言をしたが、ロシアの捕虜となった。明治36年、郡司大尉の消息不明の知らせで、露伴は心配のあまり執筆に手がつけられず、読売新聞の連載小説「天うつ浪」を中断したほどである。なお甥の高木卓は「郡司成忠大尉」(昭和20年)を書いている。

    幸田成常(こうだしげつね)は、相模紡績会社社長となる。

    幸田成友は明治6年、神田末広町に生まれ、帝国大学史学科を卒業。慶応義塾大学、東京商科大学に奉職、同教授を歴任し、日本経済史、文化交渉史、日本キリスト教史、書誌学など内外の広汎な資料収集を行なった。成友は学生時代、寄宿舎で夏目漱石と同室だったという。昭和3年より約2年間のオランダ留学で精力的に収集した洋書には、キリシタン版に先立つ1590年、マカオで印刷されたサンデ「日本少年使節記」(:現天理図書館蔵)をはじめ、クラッセ「日本基督教史」、ツンベルグ「旅行記」などの多くの洋書貴重書をもたらしている。享年81歳。

   幸田延(こうだのぶ)は音楽取調所に学び、ピアニストとして名を馳せた。安藤幸(あんどうこう)は東京音楽学校卒業後、ヴァイオリニストとして活躍した。ともども「上野の西太后」とよばれた。ベートーベンの交響曲第九番は東京音楽学校での初演は大正13年11月29日のことであったが、安藤幸が早く弾きだし演奏はガタガタだったと作家の埴谷雄高は証言している。

   これら幸田家兄弟姉妹は皆それぞれに優秀であったが、やはり幸田家の誇りとするは、次兄の郡司成忠の千島拓殖への偉業であろう。これについては別項で述べる。

2007年4月20日 (金)

水虫に悩んだ?、英雄ナポレオン

    「肖像画のナポレオンが胸に手を入れているのは、実は水虫(体部白癬)のため」というのは笑話であるが、新感覚派の小説家・横光利一(1898-1947)に「ナポレオンと田虫」という作品がある。

    1809年、ナポレオンは、世継ぎをえるためと、政略のためジョゼフィーヌ(1763-1814)と離別し、翌年、ハプスブルク家のマリールイーズ(1791-1847)と結婚した。ナポレオンはこの腹にできた醜い田虫のことを美しい新妻に知られたくなかった。にもかかわらず、ある暑い晩に、いつもの田虫のかゆさが絶頂に達した時に起こる発作が起きたことから、それを知られてしまった。そこでナポレオンはその名誉回復のため、1812年夏、無謀なロシア遠征を企てた。容易に征服し得ない田虫に対する怒りにかきたてられていたナポレオンの征服意欲が、皇女への見栄や恥とからんで、筋ちがいの、しかも強引すぎた征服的行動となった。ナポレオンほどの英雄でも、腹の上にはびこる田虫を征服しきれず、かえってこれにあやつられてしまったみじめな傀儡に過ぎないというのが、小説のテーマであった。(大正15年1月「文芸時代」に発表した「ナポレオンと田虫」)

2007年4月17日 (火)

横瀬夜雨と閨秀文学

   近代詩は、島崎藤村によって感傷と主情とを以てはじめられ、与謝野鉄幹に於いて艶麗に、土井晩翠によって雄壮に、そして薄田泣菫には主知的な古典詩風となり、伊良子清白には端正な高踏詩風を産み、河井酔名はおだやかに、横瀬夜雨は野趣のある詩風を建立し、以て現実的ロマンチズムの流れをなした。

   横瀬夜雨(1875-1934)は、明治11年1月1日、茨城県真壁郡横根村(現・下妻市)に生まれる。3歳の時、佝僂病に冒され、歩行の自由を奪われて生涯をこの病に悩まされる。「文庫」に作品を発表し、詩人としての評価を得る。河井酔茗が主筆をしていた「女子文壇」を手伝い、作品を発表するかたわら、詩や日記文の選者も担当、多くの文学少女との恋の懊悩を繰り返しながら、女性思慕を底流に独自の詩、短歌を発表した。生田花世(西崎花世 1888-1970)、水野仙子(服部てい子 1888-1919)、今井邦子(山田邦枝子 1890-1948)、菊池柳子(1892-1922)、若杉鳥子(板倉とり 1892-1937)たちである。

    西崎花世は筆名を長曽我部菊子といい、徳島県上板野村の出身で、「女子文壇」の投稿を続け、詩を夜雨に、文を酔茗に学んだ。のち青鞜の同人となり、詩人の生田春月と結婚する。

    水野仙子は福島県出身で、雑誌「文章世界」に投稿する。上京し、田山花袋に師事し、自然主義の女流作家として知られたが肺患で早逝した。

    今井邦子は徳島県出身。アララギ派の閨秀歌人として知られた。

    菊池柳子は京都下京の寺の生まれで、3歳まで白河大原女の家に里子に出される。「女子文壇」「ハガキ文学」などに盛んに投稿。夜雨に憧れ、毎月のように手紙を書き、やがて夜雨と暮らすが、18歳のとき親の奨めで陸軍少尉と結婚する。

    若杉鳥子は生後まもなく、茨城県古河町の芸者置屋の養女となるが、12歳のころから「女子文壇」「文章世界」などに投稿を始め、夜雨に師事するようになる。16歳の時上京。小間使いなどの自活の道を探り、女子文壇の投稿仲間の水野仙子、生田花世、今井邦子らと交友を結ぶ。のち「烈日」で認められ、女性プロレタリア作家の草分けとなった。若杉鳥子と横瀬夜雨は終生変わらぬ師弟関係で結ばれた。44歳で早逝。

    投稿雑誌「女子文壇」「文章世界」は、明治末期の地方で暮らす貧しい少女たちにとって、都会への扉であり、閨秀文学とは夢を実現できる少女たちの立身出世の道だった。少女たちは夜雨のもとに集まり、同棲へと進むが、どれもすぐに破局する。大正6年、最後に出会った小森多喜(1898-没年不詳)と結婚し、生涯をともに過ごした。横瀬多喜は明治31年、茨城県那珂郡山方村に生まれた。3女を生む。それまでの閨秀詩人と比べると、多喜だけが一切の打算のない愛だったようにみえる。

2007年4月16日 (月)

江口章子と北原白秋

    江口章子(1888-1946)は歌人であり、北原白秋の二番目の妻として知られている。明治21年、大分県西国東郡香々地町(当時は岬村といったが現在は豊後高田市香々地)で江口家の三女として生まれた。江口家は大阪通いの鉄の貨物船まで持った米屋と酒造業だった。章子は弁護士の安藤茂九郎と結婚し、福岡県柳川町へ移ったが、夫の放蕩に嫌気がさして離婚。大正4年、青鞜社に入り、生田花世の夫・生田春月の紹介で北原白秋(1885-1942)に出会う。

   北原白秋はその頃「邪宗門」「思ひ出」で詩人として輝かしい地位を占めていた。ところが明治45年に隣家の人妻・松下俊子(福島俊子)と恋に落ち、その夫の新聞カメラマン・松下長平から姦通罪で告訴され、拘置される事件が起きた。白秋は福島俊子と後に結婚するが、二人の仲は長く続かなかった。

    江口章子は白秋の離婚を待って、大正5年から同棲しはじめ、大正7年に入籍した。章子と白秋の結婚生活は僅か5年に満たないものだが、何度も転居を繰り返しながら、白秋の文学活動は充実した時期であった。とくに大正7年に鈴木三重吉が児童文芸誌「赤い鳥」を創刊するが、白秋は童謡において新境地を開くが、妻の江口章子の影響が大きいといわれている。

    大正5年5月、二人の最初の新居は、千葉県東葛飾郡真間の亀井院の庫裏であった。7月には隣の南葛飾郡小岩村三谷(現・江戸川区)に移り、ここで1年2ヵ月を暮らす。ここを「紫煙草舎」と呼んだ。大正7年、小田原十字お花畑に転居。秋には小田原天神山の浄土宗伝肇寺に寄寓。大正8年夏には、伝肇寺の東側に「木兎(みみずく)の家」と方丈風の書斎を建てる。大正9年、木兎の家の隣接地に赤瓦の三階建洋館の建築を巡って二人にいさかいが起こり、離婚する。

    白秋との離婚後の章子の人生はじつに波瀾に富んだものであった。章子は大正11年8月、京都府下綾部の郡是製糸に入社する。もともと青鞜社にいたこともあり、京都の水谷長三郎(1897-1960)、山本宣治(1889-1929)ら社会運動家とも関係し、女工解放を叫んで、すぐに郡是を退社している。昭和になると江口章子は歌人・詩人として少しは世間に知られるようになり、「女人山居」(昭和3年)、「追分の心」(昭和9年)などを刊行している。ところが昭和6年に、京都帝大病院精神科に入院。1ヵ月後で退院するものの、その後、病気で苦しむ。昭和21年10月29日、死去。59歳。

武者小路実篤「友情」の成立背景

    武者小路実篤(1885-1975)の中篇小説「友情」は、現在でも最もよく読まれている氏の代表作であるが、あまりにやさしいので物足らないと言う人がいる。しかし亀井勝一郎によると「決してやさしくはないのだ。実に多様な糸がはりめぐらされ、きめのこまかい神経のよくゆきとどいた作品であることがわかる。そして相当にしつこい。しかも全体として清楚で明るい。これが武者小路氏の独自の風格である。作柄は大きい。」と新潮文庫の解説(昭和22年)に書かれている。また宇野浩二が「本当の言文一致を見せてくれたのは武者小路実篤だ」と評しているように、80年以上前の作品でありながら、ほとんど現代文として読みやすい。また「友情」や「愛と死」がいつまでも新鮮で古さを感じさせないのは、青春の恋愛であることが大きな理由であろうが、三角関係、海外留学、難病という韓国ドラマ顔負けの設定と都会的モダニズムが見られることである。「新しき村」という原始回帰にかかわらず作品は都会的であるのは、本質的に実篤という人は農村に向かず、都会人、貴族的趣味の人なのであろう。

   「友情」は大正8年10月16日より12月10日まで48回にわたり「大阪毎日新聞」に連載したものである。実篤は、前年の大正7年宮崎県児湯郡木城町石河内に「新しき村」を創設した。妻の武者小路房子(1892-1990)とともに日向新しき村に入村している。大阪毎日新聞は新しき村の精神を紹介していたので、実篤は苦手な新聞連載小説を引き受けたのであろうか。動機して考えられることとしては、尊敬する夏目漱石が新聞連載小説を執筆したことや、「それから」の影響があったのかも知れない。つまり実篤は日向の寒村で執筆し、大阪堂島の毎日新聞社へ郵送したのであろう。ところが、この大正7、8年から昭和の初期にかけての実篤の私生活は平穏なものではなかった。「友情」という作品そのものは、実篤の青年期から壮年期へ入る頃の、最も溌剌とした、力のあふれた時代の作品で、実篤の青春が一つの結晶をみたのであるが、大正10年頃に入村した飯河安子と恋愛関係となり、子どもまででき大正12年、結婚する。大正13年に実篤は村を去り、武者小路房子は村にそのまま残り、昭和7年、杉山正雄と正式に結婚し、生涯新しき村で暮らす。一方、実篤は東京で文筆活動に専念し、新子、妙子、辰子と三人の子供にもめぐまれたが、大阪毎日新聞の女性記者の真杉静江(1901-1955)との愛人関係も生まれる。「友情」の作品に見られる健全な理想主義と私生活での不貞と愛人問題の両面を抱えていた。しかしながら実篤の人生は有島武郎のように悲劇性はなく、あくまで向日性、楽天的であった。昭和期になって「トルストイ」「二宮尊徳」「井原西鶴」「楠木正成」と伝記を執筆する。昭和14年「愛と死」を「日本評論」に発表する。

    「愛と死」のヒロイン夏子は逆立ちの得意なお嬢さんである。夏子の素直さ、快活さ、聡明さ、かわいさ、明るさ、すべて「友情」のヒロイン仲田杉子とによく似ている。杉子は16歳の女学生。鎌倉の別荘で大宮が杉子とピンポンをして、杉子を滅多打ちに負かす場面が印象的である。杉子の手紙に大正期の女権拡張者、平塚らいてう、伊藤野枝らを意識した新しき女性の思想に対抗する「男は仕事、女は産むこと」という考えを提示している。またタイトルの「友情」であるが、実篤は「主人公は恋である。しかし恋と云ふ言葉を使いたくないのとこの小説の色彩は友情によって染められているので友情とした」と書いている。メインテーマはもちろん恋である。実篤の「友情」という小説には「友情」という言葉はででこないが「恋」という言葉が何十回となくでてくる。とくに有名なセリフは次のものであろう。

ともかく恋は馬鹿にしないがいい。人間に恋と云ふ精神のものが与えられている以上、それを馬鹿にする権利は我々にない

この大宮の言葉は、のちに大宮と杉子との関係を暗示する伏線にもなるわけだが、実篤の数年後の私生活をも暗示しているようである。

2007年4月15日 (日)

佐藤春夫と六人の女性

    佐藤春夫(1892-1964)は酒を飲まなかったようだが、女性遍歴に関しては華やかな話題が豊富である。「わが恋愛生活を問われて」(大正15年10月)の中に「僕の霊の上に影を宿している女は五人ある」と言っている。その五人が誰なのか、明言はしていないが、おそらく彼の作品に現われたる女性であろう。

    「海辺の恋」「少年の日」の女性は、和歌山県立新宮中学校の先輩の妹である大前俊子である。おとぎ話のような「ありやなしやとただほのか」なはかなくも可憐な恋であった。

    二番目の恋は、21歳の時。相手は青鞜社の同人である尾竹紅吉の妹・尾竹ふくみ。この女性については小説「観潮楼附近」にくわしく出ているが、「僕は足かけ三年思っていて、その人と口をきいたことは十ぺんとはない。(略)この人は、私に、常に人生になければならない憧れの要素を私の心のなかへ沁み込むませて消えていった、ちょうど暮春の夕ぐれのように美しく」とのべている。プラトニックラブで、このとき春夫は不眠症になった。

    三番目の恋人は芸術座の女優であった川路歌子(本名は遠藤幸子、当時18歳)。彼女とは大正3年に本郷区追分町9番地に新居をかまえた。

    四番目は女優の米谷香代子(まいやかよこ)。大正6年から大正9年まで同棲した。

    五番目は小田中タミ。大正13年に結婚し、昭和5年に離婚している。

   六番目は谷崎潤一郎の前夫人の石川千代。大正10年8月の所謂「小田原事件」を経過して、昭和5年8月、千代と結婚。佐藤春夫は大恋愛の末に苦労して手に入れた結婚であったため、千代夫人には生涯頭があがらず、尻に敷かればなしだったそうである。大正10年11月、「人間」に発表した「秋刀魚の歌」は千代に寄せる心情を歌っている。

2007年4月12日 (木)

真杉静江

    真杉静江(1901-1955)は美貌の女流作家。福井県丹羽郡殿下村に生まれる。3歳で台湾に渡り、神官の娘として少女時代を父のいる台湾で過ごした。台中高等女学校を中退、看護婦をした。親の意向で17歳で結婚したが出奔、大阪で文学修行のかたわら大阪毎日新聞学芸部記者をしていた。大正末期、奈良に転居してきた武者小路実篤(1885-1976)とは昭和2年に知り合い庇護をうけた。そのころ実篤は竹尾房子と別れ、妊娠した飯河安子と結婚していた。昭和2年、東京へ移った静江と実篤の関係は昭和7年頃まで続いたが、彼女の言葉をかりれば「夕方になれば、白い蚊帳の中へ自分を残して、妻子の待つ家へ戻っていく男」だった。実篤と別れた静江は、昭和8年創刊の同人雑誌「桜」に参加、若い小説家中村地平(1908-1963)と同棲する。のち中村は宮崎へ帰り、戦後、宮崎県立図書館長(在職1947-1957)として活躍する。昭和17年、中山義秀(1900-1969)と結婚したが、昭和22年に離婚した。戦後は鏡書房を設立したり、昭和24年日本ペンクラブ有志と広島、長崎を視察、被爆少女に手術をうけさせるために尽くして社会的名士になったが、創作活動から遠ざかり不遇のうちに肺がんで没した。真杉静江の人生は、いろいろな男性遍歴で華やかであるが、女流作家としては優れた作品を残せなかった。しかし彼女と関係をもった男たちは皆それぞれに成功している。最初の創作集「小魚の心」(昭和2年)に収められた「松山氏の下駄」は武者小路実篤がモデルで佳作である。

2007年4月 5日 (木)

琴はしずかに・八木登美子

    八木重吉(1898-1927)は明治31年2月9日、東京府南多摩郡堺村のかなり富裕な農家、八木籐三郎、八木つたの次男として生まれた。向学心のある重吉は鎌倉師範に進み、次いで東京高等師範(現在の東京教育大学)に進んだ。内村鑑三の著作に感化されてキリスト教に入信したのは、大正8、9年ごろである。卒業して兵庫県御影師範の英語教員となり、大正14年3月、千葉県東葛飾中学校に転任した。翌年3月に結核を発病し、昭和2年10月に転地先の神奈川県茅ヶ崎で没した。享年29歳。生前に刊行された詩集は「秋の瞳」(大正14年)のただ1冊だけである。第2詩集「貧しき信徒」は没後4ヵ月目の昭和3年2月に刊行されている。

        素朴な琴

 この明るさのなかへ

 ひとつの素朴な琴をおけば

 秋の美しさに耐えかね

 琴はしずかに鳴りだすだろう

        「貧しき信徒」(昭和3年)所収

 八木重吉は大正11年7月、東京高等師範の学生時代に家庭教師として教えた17歳の女学生の島田とみ子(1905-1999)と結婚し、桃子と陽ニをもうけた。残されたとみ子夫人はミシンの内職、デパートの店員等をしながら二人の子供を育てたが、昭和12年に桃子(15歳)、昭和15年に陽ニ(16歳)の2人の子供が相次いで失うという不幸があった。4年間、茅ヶ崎の南湖院で働くうちに、昭和19年の末、歌人の吉野秀雄(1902-1967)の家に住み込みの手伝いとして働くようになった。とみ子が肌身放さず持ち歩いていたのは、八木の書いていた詩のノートであった。

 ある日、とみ子が一所懸命たらいの中の洗濯物をごしごしやっている姿をみた吉野は、その姿を見て急に好きになりプロポーズした。昭和21年10月、二人は再婚した。吉野秀雄には4人の子供がいた。子供たちはすぐに新しい母になつき、暗く悲しい家庭に明るい光が射した。吉野秀雄に次の歌がある。

重吉の妻なりし今の我が妻よ

ためらわず彼の墓に手を置け

2007年4月 4日 (水)

「暗夜行路」成立の経過

    志賀直哉の「暗夜行路」の原形は、夏目漱石の「心」にあとを受けて朝日新聞に連載されるはずであった。「心」は大正3年4月から8月まで続いた。漱石は「武者小路君を通して御依頼した事につき後承諾のよしを御洩し被下まして有難存じます」と述べている。これは「心」につぐ、朝日新聞の連載小説のことである。それが「暗夜