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2024年2月24日 (土)

直木三十五の速筆

Photo     直木三十五は大正・昭和期に活躍した大衆小説家。代表作は「南国太平記」。没後その功績をたたえ直木賞が制定された。直木賞はエンタメント系の作品に与えられ、近年は、葉室麟(第146回)、辻村深月(第147回)、朝井リョウ(第148)、安部龍太郎(第148回)、桜木紫乃(第149回)、朝井まかて、姫野カオルコ(第150回)、黒川博行(第151回)、西加奈子(第152回)、東山彰良(第153回)、青山文平(第154回)、荻原浩(第155回)、恩田陸(第156回)、佐藤正午(第157回)、門井慶喜(第158回)、島本理生(第159回)、真藤順丈(第160回)、大島真澄(第161回)、川越宗一(第162回)、馳星周(第163回)、西條奈加(第164回)、佐藤究(第165回)、澤田瞳子(第165回)、今村翔吾(第166回)、米澤穂信(第166回)、窪美澄(第167回)、小川哲(第168回)、千早茜(第168回)、垣根涼介(第169回)、永井紗耶子(第169回)、河崎秋子(第170回)、万城目学(第170回)がそれぞれ受賞している。

    現在の作家はパソコンやワープロで原稿を書くだろうが、むかしはペンが一般的な筆記用具であった。もちろん万年筆という高級な筆記用具もあるが、貧乏な文士は「つけペン」が主流である。芥川龍之介の原稿の字の小さいのは知られているが、それよりも久保田万太郎が小さく、直木三十五はさらに細かくで細い字を書く。それに速筆である。普通の人は1日に400字詰原稿用紙10枚程度だが、直木は1日に60枚は書いた。銅色のGペンをペン軸に差し込み200字詰の原稿用紙に書く。その無理がたたって昭和9年2月24日、43歳の若さで死んだ。

2024年2月22日 (木)

おでんの日

 本日は「おでんの日」。波乱万丈、貧乏暇なし、平々凡々と、人にはさまざまな人生があるものの、所詮はみんな同じ一生である。  江戸川柳に、「どぶろくとおでんは夜の共稼ぎ」がある。屋台の寒い冬には屋台のおでんが美味しい。ホトトギスの高浜虚子(1874-1959)には、何故かおでんの句が多い。虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。虚子におでんの句が多いのは、平凡を愛する心が人生観となっているからであろうか。虚子は明治7年2月22日、愛媛県温泉郡町新町で生まれた。

 

  振り向かず返事もせずにおでん食ふ

 

  おでんやを立ち出でしより低唱す

 

  戸の隙におでんの湯気の曲り消え

 

  硝子戸におでんの湯気の消えていく

 

  志 俳諧にあり おでん食ふ

 

  おでんやの娘愚かに美しき

 

 

2024年2月15日 (木)

徒然草の成立年代について

116851493015716555   本日は「徒然草」の作者として知られる兼好法師の正平5年(1350年)の忌日。「徒然草」の成立時期には数多くの説があり定説はない。従来の説として、今川了俊が、壁に張られたり、経文の裏書にあったりしたものを整頓させて出来たものだと伝わったが、いうまでもなく、後世の風流人のさかしらに拠る捏造である。諸説の大きな相違は、わずか数年で一気に書き上げたのか、十数年の歳月を費やしたかの見解のちがいがある。「徒然草」は古くは上下の二篇に分かれていて、兼好が37歳の頃、元応元年(1319年)には上篇の一部(37段まで)は成立していたとみられている。完成したのは、兼好が49歳の頃、元弘元年(1331年)9月20日とみられる。遅くとも後醍醐天皇の建武の新政(1333年)までには「徒然草」は完成していた。(2月15日)

 

2024年2月11日 (日)

紫式部と清少納言

Photo     紫式部(979?-1016?)と清少納言は同時代の女流文学者だがどちらが年上だろうか。ともに生没年不詳だが、清少納言は966年に生まれ、治安・万寿年間(1021~1027)に没したとあるから、清少納言が先に生まれ長く生きたらしい。

    紫式部の生家は、父方は藤原冬嗣の六男良門を遠祖とする名門で、同門の中に文人・歌人が多く出ているし、父為時は詩文において当代一流の名手であり、兄惟規は歌人として知られていた。母方は藤原冬嗣の一男長良を遠祖とする名家で、母は藤原為信のむすめである。

    紫式部は生まれつき鋭い頭脳をもち、記憶力に富んでいた。「紫式部日記」によると、幼いころ兄の惟規よりも早く史記を聞きおぼえたので、父の為時は「この子が男であったらなあ」と嘆いたという。式部は天元元年頃に生まれ、長保元年、22歳のとき、48歳くらいであった藤原宣孝と結婚し、翌年一女大弐三位を生んだが、長保3年には夫宣孝と死別した。その後6年間は父の邸で寡婦生活を送っていたが、寛弘4年、式部30歳のとき、藤原道長に見出されて、一条天皇の中宮上東門院彰子に仕えた。式部の没年については諸説があるが、長保5年頃に39歳くらいで没したとするのが通説である。

   「源氏物語」の成立事情についても不明な点が多い。夫宣孝に先立たれてから、つれづれの寡居の日々に、自身の内的欲求に駆られて筆を染めたのであろう。「紫式部日記」寛弘5年(1008年)11月1日の記事によれば、道長の土御門邸で敦成親王の誕生50日の祝宴が催された。この折、酒に酔った藤原公任が、「あなかしこ、このわたりにわか紫やさぶらふ」と戯れかかったのを、式部は「源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上は、まいていかでものし給はむ」と聞いていたという。次いで旬日を経た同日記には、内裏還啓を間近に控えた中宮のもとで、頻りに冊子作りの営まれていた模様が見える。従ってこの頃、「源氏物語」の殆ど、或は少なくとも「若紫」を含む第一部は完成し、宮廷人士の間でかなり評判になっていたと見てよかろう。

    源氏物語」は世界最古の長篇小説とよく言われるが、千年にわたって詠み継がれてきたこになる。参考書には、岩波書店「日本古典文学大系」の「源氏物語」があり、注釈書には、金子元臣「源氏物語新解」、吉沢義則「対校源氏物語新解」、池田亀鑑「源氏物語新講」、島津久基「源氏物語講和」など。現代語訳では、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、村山リウ、田辺聖子、瀬戸内寂聴など。

2024年2月 7日 (水)

青葉の笛

Y_aobanohue    元暦元年のこの日、一ノ谷の合戦で平家敗れる。須磨・一ノ谷の合戦で平家が負けたので、源氏方の熊谷次郎直実は、海へ逃げていく平敦盛を呼びとめ、組み伏せて首をとろうとした。ところが少年であったので、たすけようとしたがそれもならず、泣く泣く首を斬った。首を包もうとして、鎧直垂を解いてみると、錦の袋に入れた笛が腰にさしてあった。

   直実は「さては、この夜明けに、城の中で管弦の音が聞こえていたのはこの人たちであったのか。東国勢何万騎のうち、軍陣に笛を持ってきている風雅者はよもやあるまい。さすが平家の公達は風流なものだ」と思い、義経に笛を見せたところ、涙をしぼらぬものはなかった。直実は人生の無常を悟って出家したという。

  ところで『平家物語』では、敦盛の笛を「青葉の笛」とはとくに記していない。だが現在、神戸市の須磨寺の寺宝に、青葉と称する笛がある。寺伝によれば16世紀初めごろから敦盛の笛として世間の注目をあつめていたという。敦盛秘蔵の笛を青葉とする伝説は江戸期に定着したものかと考えられる。なお唱歌「青葉の笛」は、1番は平敦盛のことを歌い、2番は薩摩守忠度のことを歌っている。(参考:『日本の伝奇伝説大事典』の項目「青葉の笛」大津雄一執筆)2月7日

 

 

 

 

2024年1月23日 (火)

八甲田山雪中行軍遭難事件

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   日本陸軍は対ロシア戦に備えて、雪中行軍の訓練を計画した。開戦した場合、津軽海峡と陸奥湾を封鎖されると、青森・弘前、青森・八戸間の交通は八甲田山系を縦断する道路を利用せざるを得なくなるが、雪深い冬期の交通が可能か否か、未だ確認されていなかった。そのため陸軍の実験行軍を決定、青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第31連隊に八甲田山の縦走を命じた。明治35年1月23日6時、青森歩兵第五連隊215人(神成文吉、山口鋠)は出発する。だが途中、吹雪のため進退を決するべく作戦会議が開かれた。悪天候を見れば退却は明らかであったが、大隊長の決断で前進が決まった。こうして猛吹雪で道を迷って彷徨、25日には199人が凍死した。この大惨事は準備不足と天候の急変が原因であるが、加えて指揮官の無謀な判断が多大な犠牲を強いる結果となった。同じ時期、反対側の三本木から青森へ進んだ弘前歩兵第31連隊(福島泰蔵)は11日間にわたる全行程を踏破し、無事に青森に帰還している。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は二隊を対比し、自然との闘いを迫真の筆致で描いている。ちなみに福島泰蔵は3年後、日露戦争黒満台会戦において戦死している。享年38歳。

 

 

2024年1月18日 (木)

芥川賞と直木賞

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 第170回の芥川賞と直木賞が決定した。九段理江「東京都同情塔が芥川賞、万城目学「八月の御所グラウンド」、河崎秋子「ともぐい」が直木賞。そもそも芥川賞と直木賞とは何か。文壇が個々の作品を2種に分類し、純文学と大衆文学、第一文芸と第二文芸、あるいは雅なるものと俗なるもの、このように判定する方式は、多くの国にみられる現象だそうだ。北杜夫や遠藤周作はユーモア小説と純文学とを書き分けた作家だった。芥川賞、直木賞、どちらを受賞したのか。北杜夫は1960年に「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞している。では次の作家は芥川賞か直木賞のいずれを受賞したのであろうか。

松本清張、宇野鴻一郎、梅崎春生、井伏鱒二、高橋三千綱、西村賢太。

    答えは、松本・宇野・高橋・西村は芥川賞で、梅崎、井伏は直木賞。日本の芥川賞、直木賞の選考基準はわからないところがある。中国の書物の題名に「中国俗文学史」というのがある。そのものズバリと明確に表現するのが中国で、日本は万事、あいまいにぼかすことを好むようである。評論家の巽孝之は「仮に今日、芥川本人が復活したとしても、芥川賞をとれないだろう」とマジメに論じている(「芥川龍之介は何故、芥川賞をとれないか」別冊新評1976年夏季号)もちろん芥川賞、直木賞を受賞しなかった人で優れた作品を残した作家も多い。小松左京、広瀬正、星新一、筒井康隆、小林信彦、椎名誠、田宮虎彦、阿部昭、黒井千次、後藤明生、太宰治、三島由紀夫、村上春樹など。

 

  最近ますます純文学と大衆文学の境目がなくなってきている。吉田修一は、「パレード」で山本周五郎賞を受賞し、「パーク・ライフ」で芥川賞を受賞している。

2024年1月 9日 (火)

青々忌

 ホトトギス派の俳人・松瀬青々(1869-1937)の1937年の忌日。大阪の人。1899年上京し、正岡子規に師事。ホトトギス編集に従事したが、翌年帰郷する。大阪朝日新聞社に入社。「朝日俳壇」を晩年まで担当した。句集「妻木」「鳥の巣」「松笛」(1月9日)

年玉やかちかち山の本一つ

風呂吹にとろりと味噌の流れけり

日盛りに蝶のふれ合う音すなり

天地の間にかろし蝉の殻

鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな

人間の行く末おもふ年の暮

 

 

 

2023年12月30日 (土)

横光利一忌

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   本日は小説家、横光利一の1947年の忌日。急性腹膜炎で49歳の若さで逝去した。作家に関わる作品や遺品、あるいは写真で紹介しようとする試みは近年さかんで、全国各地に文学館・記念館は数百あるといわれる。だが不幸にも戦前期、昭和文学の主導者であった横光利一文学記念館はない。単独館がないという意味で、展示室の類は数箇所ある。妻の横光千代の書簡が価格12000円で市場で販売されているが、記念館がないと散逸してしまう恐れがあるだろう。横光の父が測量技師で、幼い頃、各地を転々としたことも関係するであろう。生れは福島県北会津郡の東山温泉の旅館「新瀧」だった。千葉県佐倉へ移り、明治37年に母の故郷三重県阿山郡東柘植村で落ち着いた。横光利一の故郷は三重県柘植であろう。ここには柘植歴史民俗資料館や三重県立上野高校明治校舎「横光利一史料展示室」がある。妻千代の故郷山形県鶴岡市の大宝館にも展示室がある。(12月30日)

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三重県立上野高校明治校舎には中学時代の日記など所蔵し、最も充実したコレクションである

 

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  将棋をさす、川端康成と横光利一 昭和12年

2023年12月 9日 (土)

漱石忌

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名は「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

 

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

 

 

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