無料ブログはココログ

2021年8月10日 (火)

文学忌

   「好色一代男」などの浮世草紙で知られる井原西鶴の命日8月10日(1693年)にちなんだ「西鶴忌」。芭蕉忌は10月12日、近松忌は11月22日。文学忌は、故人をしのばせる季節の風物誌などにちなんで名付けることがある。政治家には忌日をしのぶ風習はあまりない。例えば、正岡子規の「糸瓜忌」、梶井基次郎の「檸檬忌」、芥川龍之介の「河童忌」、太宰治の「桜桃忌」、司馬遼太郎の「菜の花忌」、渡辺淳一の「ひとひら忌」、井上ひさしの「吉里吉里忌」などが有名である。だが、12月9日の夏目漱石の命日は「漱石忌」というだけで、別名はない。漱石ご本人が「文学忌なんていらない」といったかどうかは知らない。そういえば立派な文学記念館もない。数年前に新宿区早稲田にこじんまりとした「漱石山房記念館」が開館した。

 

 

2021年6月21日 (月)

谷崎文学における女性像

Img_0029  谷崎潤一郎は創作中の女性像の造形に際して、実在の女性が大きく影響を及ぼすタイプの作家であるらしく、これまでも作品のモデルに関する論稿には枚挙に遑ない。大正6年に母セキが死去し「母を恋する記」を発表している。谷崎にとって「母恋い」は永遠のテーマである。代表作「細雪」は阪神間に居住した時代の作品で、松子とその妹たちや娘との出来事を題材に、随所に当時の耽美な世界が垣間見える。

 

Img_0008_2    谷崎が好むタイプとしておよそ3つのタイプがある。第1は「ナオミ」(痴人の愛)に代表される奔放な小悪魔タイプ。当時の谷崎の妻であった千代の妹、小林せい子(1902-1996)、女優・葉山三千代(本名・和嶋せい)は手足のスラリとした、西洋風の顔立ちの美人であった。「颯子」(瘋癲老人日記)のモデル、渡辺千萬子などもこのタイプに該当する。

 

  第2に「お遊さん」(蘆刈)のような日本的で古風な女性タイプ。根津松子やその妹・重子がこれにあたる。

 

 

 

Photo Img_0016
  古川丁未子       渡辺千萬子

 

   第3に、愛の対象にはならないが、交際相手として好まれる「井谷」(細雪)のような女である。歯に衣を着せず、思っていることをずけずけ言うが、大変面倒見がいい。古川丁未子との離婚問題に奔走した妹尾君子がこのタイプである。

 

Img_0033
    左から恵美子、松子、重子、信子

2021年6月16日 (水)

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  本日は756年の楊貴妃の忌日(諸説あり)。享年38歳。楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

Yjimage2ilbljno ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

 

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

 

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

 

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。(6月16日)

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

 

 

2021年5月27日 (木)

芭蕉「閑さや」の句、何ゼミか?

閑さや岩にしみ入る蝉の声

  1689年、松尾芭蕉は出羽の立石寺を訪れたときの句である。ひっそりとして、閑かな山寺。一山の岩にしみ入るように、蝉の声が澄み透ってきこえる。1926年、この蝉の種類をめぐって斎藤茂吉と小宮豊隆が論争している。アブラゼミと主張した斎藤に対して、小宮は威勢のよいアブラゼミよりも、声が細く澄み切っているニイニイゼミの方がふさわしいとした。元禄2年5月末は太陽暦では7月13日である。この時期、アブラゼミは少なく、ほとんどがニイニイゼミである。結局、茂吉のアブラゼミ説は敗れた。のちに荻原井泉水は「涼しげに鳴くヒグラシではないかと思う」と著書に書いている。芭蕉が聞いた蝉の種類が何であったかは、決定的な証拠はなく、永遠の謎といえるが、この時期と場所から推定すると、ニイニイゼミと考えてほぼ間違いないということである。(5月27日)

 

 

2021年5月26日 (水)

石川啄木と函館大森浜

Photo_2

 

  東海の小島の磯の白砂に

 

  われ泣きぬれて

 

  蟹とたはむる

 

 歌集「一握の砂」の巻頭を飾る秀歌で、石川啄木の作品中最も有名なものである。作歌は明治41年6月24日で、翌7月1日発行の「明星」に「石破集」の題下に発表された140首中の一首である。初出歌は「東海の小島の磯の白妙にわれ泣きぬれて蟹と戯る」と一行書きで発表され、明治43年7月の「創作」自選歌号にも再掲されている。「東海の小島」は特定の地名や場所を指すのではないという解釈も可能であるが、この一首を啄木の閲歴、実生活との関連において鑑賞するとき、彼が生涯において親しんだ唯一の海岸である函館大森浜を念頭において歌ったのではないかと考えられる。すでに函館に渡った直後の明治40年5月26日に作った「蟹」と題する詩が「ハコダテの歌」にある。

 

潮満ちくれば穴に入り、

 

潮落ちゆけば這ひ出でて、

 

ひねもす横に歩むなる

 

東の海の砂浜の

 

かしこき蟹よ、今此處を、

 

運命(さだめ)の浪にさらはれて、

 

心の龕(づし)の燈明(みあかし)の

 

汝(なれ)が眼よりも小(ささ)やかに

 

滅(き)えみ明るみすなる子の

 

行方も知らに、草臥れて、

 

辿り行くとは、知るや、知らずや。

 

    歌集「一握の砂」は明治43年12月1日、東雲堂書店から刊行された。四六判290頁、定価60銭であった。「東海の」歌は現在函館市住吉町共同墓地東南の一角、立待崎の眺望のよい断崖の上に建つ啄木一族の墓の碑面に刻まれているが、これは岡田健蔵と宮崎郁雨によって、大正15年8月1日建てられたもので、郁雨がその資金を提供した。岡田健蔵(1881-1944)は市立函館図書館(大正11年創設)の初代館長である。宮崎郁雨は本名宮崎大四郎といい、啄木が函館へ渡ったとき以来、生涯、生活的な援助をした人で、著書に「函館の砂」がある。

 

 

 

 

2021年5月 9日 (日)

渡辺水巴と渡辺省亭

   渡辺水巴(わたなべすいは、1882-1946)。本名は渡辺義。明治15年6月16日、東京浅草小鳥町に生まれる。父は日本画家の渡辺省亭(わたなべせいてい、1851-1918)、母きく。水巴の江戸趣味、気質、性行はこの父に負うところが大きい。明治32年、日本中学校3年修業後退学、翌33年初春、19歳にて俳句に志し、翌34年初夏、内藤鳴雪に入門、のち高浜虚子にも選評を受け、終生職を持たなかった。明治39年5月、「俳諧草紙」創刊主宰、明治42年1月同誌廃刊、12月内外出版協会発行「文庫」に合流、明治43年8月「文庫」廃刊後は「智仁勇」俳壇を担当した。大正2年10月、情調本位の俳句を標榜して曲水吟社を設立。大正5年10月、曲水吟社より「曲水」を創刊、以後没するまで主宰した。この間、水巴編「鳴雪句集」を俳書堂より刊行(明治42年1月)、曲水文庫第1編「水巴句集」(大正4年2月)水巴編「虚子句集」が植竹書院より刊行され、また雑詠復活後のホトトギスにおいても活躍、蛇笏、鬼城、石鼎、普羅などとともに大正前期の同誌のにない手となった。大正7年4月、父省亭死去、経済的に父の庇護を受け、またみずから父を敬愛するところ深かったので、その死は大きな転機となり、従来の江戸趣味的な唯美調に人間的重みを加えている。大正11年1月、片桐花子と結婚したが、これは失敗で、昭和2年8月離婚。昭和4年、長谷川きく子(長谷川桂子)と結婚。昭和20年4月、強制疎開のため藤沢市鵠沼7327へ仮寓、翌21年8月1日夜、発病臥床、13日朝没した。病名腸閉塞症。法名夏岳院正心義道居士。享年65歳。浅草今戸潮江院に埋葬。

ほんの少し家賃下がりぬ蜆汁

    「水巴句集」所収。「蜆」(春)の句。下町情緒纏綿たる句である。庶民感情のさながらに伝わる。ほんの少しばかりでも家賃のさがったことは食膳の語らいにやすらぎを与える。蜆は安価であるし、味噌汁にして美味。一般の食膳を賑わし、親しまれている。

 

    渡辺省亭(1851-1918)は嘉永4年、江戸神田佐久間町に生まれる。本名は吉川義復。父吉川長兵衛は蔵前の札差で、歌人でもある。22歳で父の歌友渡辺光枝の養嗣子となる。酒井抱一、柴田是真に傾倒し、菊池容斎(1787-1878)の門下となる。起立工商会社で図案を描いていたが、明治10年第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受ける。翌11年、パリ万国博覧会を機に日本画家として初めてヨーロッパに遊学する。印象派が旗上げされつつある西欧の近代絵画の息吹きに触れて帰国し、明治時代の挿絵界の興隆期に活躍した。山田美妙の小説「蝴蝶」(明治22年)では主人公の女性が裸体で武者と対面する場面を描いた挿絵が当時話題となり、明治22年11月、内務省は裸体画取締令を出した。省亭はパリ留学経験から裸体画を試みたらしいが、明治期の黒田清輝の「朝妝事件」(明治28)よりも6年も前の裸体画論争であった。明治20年代中葉から「美術世界」の主筆として健筆をふるうが、晩年は画壇に属さず、悠々自適の生活を送り、いつしか忘れ去られた。67歳で没す。

    渡辺水巴が大正5年に創刊した俳誌「曲水」は没後も、主宰は妻の渡辺桂子、次女の渡辺恭子(昭和8年生)へと受け継がれている。

2021年2月17日 (水)

安吾忌

11391   坂口安吾は1955年2月17日、高知に「安吾新日本風土記」の取材に行った直後に自宅の桐生市において脳出血でこの世を去っている。まだ48歳だった。安吾には珍事件がたくさんあるが、静岡県伊東に競輪場ができると安吾は夢中になった。あるとき1着、2着が写真判定となった。だが発表された着順に不服の安吾は判定写真のすり替えによる不正を沼津地裁に訴えたが、結局、判定は覆らなかった。無頼派でも太宰治は今でもよく読まれるが、安吾は忘れされてしまった。だが最近NHKで「明治開化安吾捕物帖」がドラマ化された。結城新十郎という日本版シャーロックホームズといったところ。ドラマのエンドロールで写される小林清親の浮世絵が美しい。とくに「大川岸一之橋遠景」の人力車の風景がお気に入りである。

2021年2月 7日 (日)

敦盛は生きていた?

Atsumori   1184年のこの日、一ノ谷の合戦があった。源義経率いる部隊は、鵯越をこえて、背後からの奇襲で平氏軍を破った。この戦いでは多くの平氏の公達が死亡した。薩摩守忠度、平通盛らは戦死した。もっとも有名な話は敦盛の最期であろう。

  平敦盛は「平家物語」では一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実との一騎打ちの末に討たれたことになっている。だが歌舞伎「一谷嫩軍記」では敦盛は実は後白河法皇のご落胤で、義経の命をうけて熊谷直実が救出するというストーリーである。一見、荒唐無稽な話のようだが、広島県の永江の里(庄原地方)には古くから「敦盛さん」という民謡が伝わり、それによると敦盛は討ち取られたのではなく、庄原に逃れて生涯を終えたという。熊谷次郎の一子の小次郎が身代わりとなって、許婚の玉織姫と共に逃れたという話も絶対に有り得ないとまでいえない。敦盛の「青葉の笛」も正式には「小枝」(さえだ)といい、鳥羽院から祖父忠盛が賜ったものであった。熊谷次郎が我が子を失ってまでも守らなければならなかった高貴な人というのは天皇家の血をひいているからであろうか。のちに熊谷直実は出家して法然の弟子となって蓮生坊と名のったという。(2月7日)

 

 

 

 

明智光秀は生きていた?

Photo_2
 豊臣秀吉が本陣を置いた宝積寺

   天正10年6月1日、深夜、明智光秀は1万3000の軍を率いて亀山城を出陣、山陰道を東進し、途中丹波と山城の境の老ノ坂を越え、沓掛を経て京に入る。2日未明、本能寺を奇襲し、織田信長を討つ。本能寺は当時、四条西洞院にあり、寺域は東西約140m、南北約270m。寺ではあるが、四方に塀をめぐらした小城郭といった観があった。豊臣秀吉に本能寺の変報が舞い込んだのは3日の晩のことであった。そして7日には居城の姫路城に入った。9日、大軍勢を率いて東上し、11日には尼崎に到着。12日、秀吉軍は摂津富田に進出、池田恒興らが参軍。13日、秀吉は神戸信孝と丹羽長秀両将が参軍するや、正午ごろ、山崎に着陣して天王山中腹の宝積寺に本営を置いた。明智軍1万6000対秀吉軍3万6000。激闘すること2時間余。明智光秀は豊臣秀吉に撃破された。大河ドラマ「麒麟がくる」最終回を観る。通説では明智光秀は小栗栖で農民に刺殺されたとされるが、本作ラストでは、光秀が生存していたと思わせるようなシーンで終わっている。

2021年1月29日 (金)

草城忌

仰向けの口中に屠蘇たらさるる

   病で正月も入院しているのだろうか。御節料理はないが、せめて屠蘇だけはと妻が用意してくれた。仰臥のまま草城の口へたらたらと屠蘇が流される。何とも空しい感慨が身にせまる。日野草城は明治34年、東京市下谷区山下町に生れる。戦前、新興俳句運動の中心として活躍するが、自由主義・モダニストぶりが災いし、ホトトギスを除籍される。戦災に遭い、また病に伏した。この句を詠んだ昭和31年1月29日、大阪府池田市で心臓衰弱で没した。享年54歳。戒名「克修院法誉草城居士」

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2021年9月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30