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2026年6月20日 (土)

古池や蛙飛びこむ水の音

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山吹や蛙飛びこむ水の音

 

    芭蕉の門人、各務支考の『葛の松原』によると、貞享3年の晩春のころ深川の芭蕉庵に、芭蕉と其角が対座している折から、蛙の水に落ちる音を聞いて、芭蕉が「蛙飛びこむ水の音」という七五だけを得て、上五文字を案じていると、其角が傍から「山吹や」とつけた。しかし芭蕉はそれをしりぞけて、「古池や」と定めたのであるという。一説では「古池や蛙飛ンだる水の音」おそらくは山吹は実景で、古池のあたりに咲いていたのであろう。それに山吹と蛙は、和歌以来の詩的配合であり、かつまた都会人ではなやかなことの好きな其角の趣味にかなったのであろうが、しかしそれでは印象的な山吹の明るさが一句の中心になって、一通りの写生句になってしまうのである。この句の中心は、音でなければならぬ。静寂の領する芭蕉庵の晩春の昼下り、芭蕉と其角の間にかわされた風雅の私語も、その静寂を乱すにいたらない。折から思いがけず、庭前の古池に飛びこんだ蛙の水音が、芭蕉の心に波紋を描いた。静から動へ、動からふたたびまた静へかえるしばしの乱れが、いよいよ幽玄閑寂への思慕をかき立てるのである。

 

    「古池や」の句の季語は「蛙」。かえるの鳴き声が聞こえるのは梅雨時なので「夏」をイメージするが、旧暦なので春となる。

 

 

2026年6月19日 (金)

森鴎外と高木兼寛の脚気論争

102666   森鴎外(1862-1922)が東京大学医学部を卒業し、陸軍省の軍医となったことはよく知られている。ドイツ留学では衛生学を専攻し、日露戦争には軍医部長として従軍した。医学でも研究目標の一つは脚気だった。当時、日本人は白米をはじめ、低たんぱく・低脂肪食をとる者が多く、脚気による死亡率が高かった。政府・陸海軍当局は脚気の原因・療法の調査をすすめていた。英国留学していた海軍軍医総監の高木兼寛(1849-1920)は海軍の遠洋航海訓練中の食事改善で脚気の予防に栄養が摂りやすいカレーライス(海軍カレー)を出したところ、脚気の発生率は急激に減少した。しかし高木は脚気予防を医学的には説明できなかった。陸軍でも森鴎外らが研究調査し、ドイツ医学により細菌が原因であるとし、高木を批判した。この脚気論争は陸海軍の主張が対立したが、後年ビタミンが発見され、脚気がビタミン1の欠乏による疾患であることが判明し、高木の疫学的研究の正しさが証明された。

2026年6月18日 (木)

目に青葉山ほととぎす初鰹

 横溝正史の「獄門島」に「ホトトギスが夏の季語は常識」と磯川警部が言う件がある。五月ごろ、南方から渡ってきて日本に夏を告げる鳥である。「麦秋」は夏の季語である。季語とは、季節を表すためによみこむ言葉である。例えば、雪は冬、月は秋、鶯は春、ホトトギスや金魚は夏をあらわす。俳句は17音という短い詩形のため、季節感を説明する語句を用いる余裕がない。そこで、短い言葉で季節感をよみこむ方法として季語の約束ができた。このような事情から季語は俳句の鑑賞には四季を決定する重要な問題である。服部嵐雪の有名な句、「ふとん着て寝たる姿や東山」季語は「ふとん」、冬の句である。

  では季題とは何か。季題も季語も同義として使われることが多い。もともと季語という言葉を使い始めたのは大須賀乙字(1881-1920)で、乙字は季語と季題の語義を区別して使用したが、今はその説はおこなわれず、季題は古くからいいならわしてきた語、季語は新しい使い方という風に了解されている。いまのホトトギスの歳時記では「季題」を使用している。

    俳句には季語のないものや一句に季語を二つ以上用いた季重ねの句もある。日野草城(1901-1956)は昭和10年に無季俳句を提唱したため、ホトトギス同人を除名された。

2026年5月27日 (水)

芭蕉「閑さや」の句、何ゼミか?

閑さや岩にしみ入る蝉の声

  元禄2年(1689年)、松尾芭蕉は出羽の立石寺を訪れたときの句である。ひっそりとして、閑かな山寺。一山の岩にしみ入るように、蝉の声が澄み透ってきこえる。昭和元年、この蝉の種類をめぐって斎藤茂吉と小宮豊隆が論争している。アブラゼミと主張した斎藤に対して、小宮は威勢のよいアブラゼミよりも、声が細く澄み切っているニイニイゼミの方がふさわしいとした。元禄2年5月27日は太陽暦では7月13日である。この時期、アブラゼミは少なく、ほとんどがニイニイゼミである。結局、茂吉のアブラゼミ説は敗れた。のちに荻原井泉水は「涼しげに鳴くヒグラシではないかと思う」と著書に書いている。芭蕉が聞いた蝉の種類が何であったかは、決定的な証拠はなく、永遠の謎といえるが、この時期と場所から推定すると、ニイニイゼミと考えてほぼ間違いないということである。(5月27日)

 

 

2026年5月26日 (火)

泉鏡花「婦系図」

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   泉鏡花(1873-1939)は明治6年11月4日、石川県金沢市下新町で生れた。明治23年作家を志して上京。翌年尾崎紅葉の門下に入ることを許され玄関番として同家に寄宿。いくつかの作品を発表したが不評で自信を失い、帰郷したり自殺をはかったこともある。明治40年の「婦系図」は新派悲劇の代表作として広く愛された。画像は大映「婦系図」(昭和37年)の市川雷蔵・万里昌代の主税・お蔦の湯島天神の場面だが、「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ、…私にゃ死ねと云って下さい…」という有名なセリフは本来小説にはなかった。これは明治41年の新富座で上演したとき柳川春葉と喜多村緑郎が付け加えたもの。鏡花はそれを気に入って、大正3年、舞台のために「湯島の境内」を書き下ろし、これが湯島天神の場面として広まったものである。

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   柳橋の芸者お蔦と恋仲になった早瀬主税は、恩師・酒井俊蔵に隠れて世帯を持つが、これが知れて怒った酒井は二人を別れさせる。早瀬は郷里静岡に帰り、お蔦は八丁堀に身を寄せ髪結いになるが胸をわずらって床につく。元軍医監・河野英臣は息子英吉の嫁に酒井の娘妙子を得ようと策動し、早瀬の妨害にあたったことから彼の身元を調査する。一方、お蔦の病は重く、駆けつけた酒井に手をとられながら、死んでいく。河野家の仕打ちに憤慨していた早瀬はお蔦の死を聞くや、河野の前に己の前身が巾着切りであったことを明かし、河野家の不倫を暴いてお蔦の黒髪を抱きながら毒をあおる。市川雷蔵版「婦系図」は後半の主税の復讐も省略せずに描いている。また題名の「婦系図」の意味合いがこの映画をみればわかる。妙子の女学校の国文の授業で系図が黒板に描かれる。実は妙子は柳橋の芸者置屋の女将・小芳(木暮美千代)の娘。河野の娘道子(藤原礼子)も夫人(水戸光子)が馬丁と不倫して生まれた子である。原作「婦系図」は新派のお涙頂戴ものではなく、複雑なテーマを含んだ近代小説だった。

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  「婦系図」といえば、新派の舞台では「湯島の境内の別れ」が名場面である。ところで早瀬の専攻していた学問とは何か。私は長らく湯島から昌平黌を連想し、孔子とか儒学だと思っていた。最近、映画を見直すと、早瀬はドイツ文学を学び、ドイツ語辞典の編纂をしているということだった。

 

 

 

 

2026年5月14日 (木)

加賀の千代女

朝顔に釣瓶とられて貰い水

    朝、起きだして井戸端へ行ってみると、朝顔の蔓が井戸の釣瓶に巻きついている。水を汲むために、蔓をちぎってしまう気にもなれず、そのままにして隣家の井戸まで水を汲ませてもらいにいった、というのである。やさしく風雅な思いやりが、きわめてはっきり、万人に分かりやすいように表現されている。通俗的な意味で俳句を代表する作としてよく知られ、英・独・仏語にも翻訳されて海外にまで聞えた句である。この句に含まれている季語は「朝顔」で、季節は「秋」である。釣瓶(つるべ)とは、井戸の水をくみ上げるために縄や竿をつけた桶のことである。宝暦14(1764)年頃、無外庵既白の「千代尼句集」に入っている。「朝顔や」と書かれている掛け軸も残っている。

 

里の子の肌まだ白しももの花

 

春になって、村里には美しく桃の花が咲いた。そのあたりに遊んでいる里の子は、まだ日焼けもせず、膚は白いままである。

 

落鮎や日に日に水のおそろしさ

 

秋も深く、上流で産卵を終えた鮎は流れを下ってゆき、その水のようすは、一日一日恐ろしげなものになってゆくような気がする。

 

月の夜や石に出て鳴くきりぎりす

 

皎々たる秋月の下、つめたく光る庭石の上で、きりぎりすが切々とむせぶように鳴いている。人目のおよばぬ物陰でなくかなしい性を持つきりぎりすであるだけに、月の光にさそわれて石に出て鳴く姿はいやさらに哀れである。

 

    加賀千代(かがのちよ、1703-1775)。千代女。加賀国松任の人。表具師福増屋六左衛門の娘として生まれ、幼少から俳諧を好み、17歳のとき各務支考に師事。金沢藩の足軽のもとに嫁し、子供を産んでからまもなく夫に死なれたというが、嫁に行かなかったという説もある。51歳のときに剃髪して尼になり、素園と号したのちは家業を離れて俳諧に専念した。美濃派や伊勢派の地方俳壇と親しかったため、作風は親しみやすいものであった。生前から女流歌人として著名であり、『千代尼句集』『松の声』などの作品がある。安永4年没、年73歳。

   夫との死別後によんだ「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さ哉」が伝わるが、これは千代の生まれる9年前に遊女浮橋がよんだものである。また「蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら」「ほととぎすほととぎすとて明けにけり」「しぶかろかしらねど柿のはつちぎり」などの句も千代の作といわれることがあるが、これらはいずれも伝説的な誤伝によるもので、千代女の作品ではない。

2026年5月12日 (火)

「明治詩文」の漢詩人たち

    明治8年、9年頃から漢詩文を主とする雑誌がにわかに起こってきた。

「新文詩」8年7月創刊 森春涛主宰

「東洋新報」9年7月 岡本監輔主宰

「明治詩文」9年12月 佐田白茅主宰

「花月新誌」10年1月 成島柳北主宰

「古今詩文詳解」13年12月 吉田次郎

   この中でもっとも勢力があり名高かったのは「明治詩文」と「古今詩文詳解」であった。

   漢学が衰退して洋学を盛んに謳歌した時代に、こうした雑誌が創刊されたことは奇異に感じられるが、これは一つは洋学の興隆、西洋文化の心酔に対する反感から生まれたところであろう。

   「明治詩文」は久留米の佐田白茅によって編集されたが、佐田は若い頃、真木和泉に従って勤王論を唱えた。維新の後外務方面の官吏となったが、西郷隆盛、江藤新平、副島種臣らと征韓論を主張して、破れ職を辞した。人物は、磊落で才を愛した。重野成斎、川田甕江の両大家と交わりをよくしたため、この雑誌には重野・川田をはじめ、当時日本国中の名家、あるいは高官の作品が録載されたので、権威のある雑誌となった。その主な人々をあげると、島津久光、山内豊信、木戸松菊、鍋島閑叟、伊藤春畝、勝海舟、副島蒼海、亀谷省軒、加藤桜老、岡鹿門、小野湖山、阪谷朗蘆、川田甕江、青山鉄槍、秋月韋軒、安井息軒、村上佛山、岡松甕谷、重野成斎、南摩羽峰、藤澤南岳、三島中洲、藤野海南、大沼枕山、中村敬宇、今藤悔堂、小永井小舟、島田篁、広瀬林外、鷲津毅堂、鱸松塘、松岡毅軒、芳野金陵、村山拙軒、小山春山、依田百川、木原老谷、青山佩弦斎、江馬天江、神山鳳陽、頼支峰、菊池三渓、林鶴梁、田口江村、大槻磐渓、林鶯渓、小林卓斎、浅田栗園、土井聱牙、西薇山、片山沖堂、蒲生褧亭、小牧櫻泉、吉嗣拜山、山本迂斎、谷口藍田、隄静斎、岡本韋庵、石川鴻斎、矢土錦山、土屋鳳洲、高橋白山、日下勺水、草場船山、森槐南、末松青萍。

2026年4月18日 (土)

芭蕉のガールフレンド

 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」

  芭蕉の生涯は旅によってその人間を完成し、脱俗的俳諧に身をささげたといわれている。このような俳諧隠者としての名声は貞享元年から2年にかけて「野ざらし紀行」の頃には出来上がっていたと考えられる。つまり反俗的な文学が世間で受け入れられたというのは、世俗秩序の愚かさや、ずるさや、ごまかしや、わずらわしさに、世間の人々が何ほどか気づいたということである。フランスの文芸批評家ティボーデの「真の小説は小説に対して発する否(ノン)に始まる」という有名な言葉があるが、芭蕉の風狂文学こそ真の芸術であった。だが芭蕉自身は後世の門人たちが創り上げた隠者ではなく、若い頃は女好きで遊女や女中と遊んでいたらしい。芭蕉は生涯家庭を持ったことがなく、当然に妻もいなかったが、すくなくとも3、4人の親しい女性の名前が残されている。寛文2年から6年まで、藤堂新七郎家で料理人として勤めていたが、そこで「おとせ」という女中と恋仲になった。また近江には河合智月という女流俳人がいた。一番有名なのは「寿貞」という女であろう。一緒に江戸に出て同棲していた。芭蕉の弟子の野坡によると、「寿貞は翁の若き時の妾にて、とく尼になりしなり」とある。芭蕉が彼女を愛していたことは「松村猪兵衛宛真蹟書簡」から読み取ることができる。のち寿貞は門弟と駆け落ちしたため、芭蕉は隠者、脱俗的な境地になっていった。晩年には大坂で「園女(そのめ)」という美人で教養の高い人妻と親しくなっている。元禄7年芭蕉が没したのは園女邸である。園女は宝井其角を頼って上京し、俳諧師になっている。

 

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深川雄松院の園女墓。「度会氏園女之墓」とあるのは、伊勢度会郡の出身であるためか

 

 

円空と芭蕉

Photo     生涯を旅の中に送った漂白の詩人といえば「奥の細道」の俳人・松尾芭蕉(1644-1694)を思いうかべるだろう。だが円空(1632-1695)という謎の僧も苦難の旅を生涯続けながら、10万とも12万ともいわれる多数の仏像を彫り続けた。円空は元禄8年7月15日に関市の弥勒寺で亡くなっているが、芭蕉も前年に世を去っているので、二人が旅の途中に出会っている可能性もある。だが二人の旅は対照的だったともいわれる。自己を追求した芭蕉に対して、円空は他者救済に自らの生涯を捧げた。富士川で芭蕉は捨て子に出会うが、食べ物を与えたものの、「汝の性のつたなきを泣け」と突き放して去っていく。円空は美濃の宿に泊まっていた。宿屋の主人は円空の身なりをみて、寒さしのぎの半纏を贈った。ところが円空は旅の途中で物乞いの女に出会いその半纏をあげただけでなく、持っていた金もすべて与えてしまった、という逸話が残されている。江戸時代初期、みちのくは未開の地という観があるが、円空は芭蕉よりもさらに遠く、北海道に渡り、2年ほど滞在している。芭蕉の旅にくらべ、円空の旅は想像を絶する過酷なものだったであろう。円空の願いは、多数の人々の救いを祈ることであったのだろうか。

 

 

 

2026年4月 6日 (月)

黒瀬久賀という女性

   谷崎潤一郎の研究家たつみ都志が谷崎・吉井勇書簡を調査したところ、黒瀬久賀という女性名がしばしば散見する。第7代神戸市長、黒瀬弘志夫人である。昭和17年頃、黒瀬夫妻は谷崎が住む反高林の家から北側、「1軒おいて隣」に引っ越してきた。久賀夫人は明治28年生まれで、当時47歳くらい。大きな屋敷に住み、社交的な華やかな美人であっという。谷崎は黒瀬夫人に関心を引き、松子を通して交際が戦後まで続いた。吉井勇宛て書簡には「今度拙宅付近在住の夫人令嬢たち寄り集まり、大体一週間一度くらい貴公の御来駕を仰ぎて和歌の御教授にあづかり度とのことにて(中略)人数は十人内外前神戸市長黒瀬氏の夫人令嬢など(中略)愚妻もその中に加えて頂度と申居候場所は黒瀬邸(拙宅の一軒おいて隣)を選ぶ事と相成べく小生も時々御目に懸かれて楽しみに御座候」とある。ただ残念なことに、黒瀬久賀が谷崎の『細雪』の中でどのような形で投影されたのかは未だ定かではない。(参考;たつみ都志「第3の女人像 黒瀬久賀の存在」谷崎潤一郎記念館ニュース25  1998.6)

 

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左から黒瀬雅子、黒瀬弘志、黒瀬久賀(昭和11年7月8日)

 

 

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