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2019年10月10日 (木)

素逝忌

  古書漁りして昏れにけり素逝の忌 (松崎豊)

 10月10日はホトトギスの歌人長谷川素逝(1907-1946)の忌日。素逝は日華事変に召集され、戦場の体験を句集「砲車」で詠み、世間に知られた俳人。

2019年10月 5日 (土)

読んでからみるか見てから読むか

Gtbr0744  若い女性銀行員が「最近、人間失格を読みました。少し難しかったです」と話す。どうも映画をみて原作を読む気になったらしい。今さら太宰治の文学談義も気恥ずかしい気がするが、なぜか話が盛り上がった。私は志賀直哉との軋轢を話したら、彼女は「その話は映画にもありましたよ」という。蜷川実花監督の太宰治「人間失格」が公開中である。太宰治の小説を原作としてものではなく、太宰と3人の女性との愛憎を基にしたフィクションである。女性客を狙った映画だが、ネット上でも評価をみるかぎり低い。太宰作品の映画化は過去数本あるが、いずれも成功したとは言い難い。根岸吉太郎監督「ヴィヨンの妻」を期待せずに見たが、太宰作品のエッセンス(ヴィヨンの妻をベースに、思い出、桜桃、姥捨、灯篭、きりぎりす、二十世紀旗手など)をうまく取り込んだ脚本で良かった。根岸は80年代に頭角を現した「ジャパニーズ・ニューウエイブ」の1人。「遠雷」「キャバレー日記」「探偵物語」など話題作が続いたが、90年代に入り寡作でどうなったかと思ったが本作で名監督であることが実証された。NMB48の歌に「太宰治を読んだか?」がある。青年が生きる意味を小説から探すという内容の歌である。太宰を他の人に置き換えてもしっくりこない。「君はカントを読んだか?」「カフカを読んだか?」「村上春樹を読んだか?」やっぱり太宰治しかない。太宰が世を去って70年以上経つにもかかわらず、太宰の作品群は現代の若者層に人気がある。中高生の読書感想文に「人間失格」が圧倒的に多い。文庫本で130頁足らずで小説入門者に読みやすさもある。本書は昭和初期に青春を過ごした人物の回想記である。もちろん虚構も交えているがほぼ太宰の半生と重なる。東北の名家に生れ、都会での放蕩生活、心中事件など生々しい。過去の太宰映画としては、「四つの結婚」(「佳日」1944)、「看護婦の日記」(「パンドラの匣」1947)、「グッドバイ」(1949)、「真白き富士の嶺」(「葉桜と魔笛」1963)、「奇巌城の冒険」(「走れメロス」1966)、「パンドラの匣」、「人間失格」、「斜陽」、「ヴィヨンの妻」。

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年9月16日 (月)

おでんと凡人

 波乱万丈、貧乏暇なし、平々凡々と、人にはさまざまな人生があるものの、所詮はみんな同じ一生である。  江戸川柳に、「どぶろくとおでんは夜の共稼ぎ」がある。屋台の寒い冬には屋台のおでんが美味しい。ホトトギスの高浜虚子(1874-1959)には、何故かおでんの句が多い。虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。虚子におでんの句が多いのは、平凡を愛する心が人生観となっているからであろうか。

 

  振り向かず返事もせずにおでん食ふ

 

  おでんやを立ち出でしより低唱す

 

  戸の隙におでんの湯気の曲り消え

 

  硝子戸におでんの湯気の消えていく

 

  志 俳諧にあり おでん食ふ

 

  おでんやの娘愚かに美しき

 

 

2019年9月 1日 (日)

与謝野晶子と関東大震災

   1923年9月1日午前11時58分、東京・横浜を中心としてマグニチュード7.9の大地震がおこった。多くの家屋が倒壊し、ちょうど昼食時に重なり、炊事用の竈から出火して、各地に火災が発生して被害を大きくした。このとき、与謝野晶子は44歳で夫の鉄幹とともに、神田駿河台の文化学院で教鞭をとっており、近くの逓信病院付近に住んでいた。晶子は、こんな短歌を詠んでいる。

 

もろもろのもの心より搔き消える天変うごくこの時に遭ひ

 

天地崩(く)ゆ生命を惜む心だに今しばしにて忘れはつべき

 

 また文化学院に預けておいた「新新源氏物語」の原稿も焼失してしまった。

 

十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰

 

 

2019年8月10日 (土)

文学忌

   「好色一代男」などの浮世草紙で知られる井原西鶴の命日8月10日(1693年)にちなんだ「西鶴忌」。芭蕉忌は10月12日、近松忌は11月22日。文学忌は、故人をしのばせる季節の風物誌などにちなんで名付けることがある。政治家には忌日をしのぶ風習はあまりない。例えば、正岡子規の「糸瓜忌」、梶井基次郎の「檸檬忌」、芥川龍之介の「河童忌」、太宰治の「桜桃忌」、司馬遼太郎の「菜の花忌」、渡辺淳一の「ひとひら忌」、井上ひさしの「吉里吉里忌」などが有名である。だが、12月9日の夏目漱石の命日は「漱石忌」というだけで、別名はない。漱石ご本人が「文学忌なんていらない」といったかどうかは知らない。そういえば立派な文学記念館もない。数年前に新宿区早稲田にこじんまりとした「漱石山房記念館」が開館した。

 

 

2019年8月 7日 (水)

最近あまり読まれなくなった昭和の作家たち

Hirabayata   なにか面白い読み物はないか。毎日そんなことばかり呟く。図書館から借りて来た大庭登の「昭和の作家たち 誰も書かなかった37人の素顔」 簡潔に作家の評伝が書かれていて読書案内によい。企業誌「大塚薬報」に昭和56年から59年に連載されたものである。みな有名な作家ばかりだが、横光利一、川端康成や太宰治、織田作之助、火野葦平、吉川英治、川口松太郎、井上靖、石坂洋次郎といった人気作家がのっていない。むしろ最近あまり読まれなくなった作家をあえて選んでいるような気がする。その昭和期よく読まれて、最近ほとんど読まれなくなった作家といえば、源氏鶏太や獅子文六、平林たい子らが代表格であろう。とくに平林は、かつて林芙美子、宮本百合子らと並んで長らく、女流作家の第一人者だった。最近、平林たい子の作品が話題になることはほとんどない。林芙美子「放浪記」、宮本百合子「伸子」と代表作があるが、平林の代表作はなにか。戦前の平林には長篇の作品はない。最初の長篇「地底の歌」(昭和23年)、自伝的な作品の「砂漠の花」(昭和30年)あたりか。平林は戦後転向して「地底の歌」のようなヤクザものを書く続けた。プロレタリアから右翼へと大きく変遷している女流作家を理解するにはあまりに時が流れたようである。ところが「地底の歌」読み始めるとなかなか面白そうである。「平林たい子文学賞」というのがあるから名前はその高名はいまも健在である。谷崎潤一郎「痴人の愛」や太宰治「人間失格」はいま読んでも新しい。没後35年になる有𠮷佐和子も「恍惚の人」「複合汚染」など多数のベストセラーをもつが、あまり読み継がれていく作家とは思えない。

 

 

 

 

 

 

2019年7月15日 (月)

国木田独歩の出生の秘密

Ip120227tan000018000_0000_mobj   国木田独歩は1871年の7月15日(新暦8月30日)、千葉県銚子の母の生家で生れた。父専八、母(淡路)まん。幼名は亀吉、明治22年7月、哲夫と改む。明治30年以後は主として独歩を筆名とする。独歩の出生については異説が多い。

    通説によると、独歩の父親は、播州龍野藩の脇坂氏の家臣で国木田専八という人物とされている。専八は、明治4年に函館の五稜郭に立籠った榎本武揚討伐に仕立てた船の乗組員であり、その船が銚子沖で暴風雨にあった。助けられて銚子の吉野屋という宿屋に滞在中、そこで働いていた淡路善太郎の長女まんという女と知り合い、明治4年に独歩を生んだということになっている。

    ところが、まんはこれより先に雅治郎という米穀商と結婚していたが、事情があって別れ(他に死亡説あり)、同旅館に奉公中であった。しかし一説によると専八とまんが出会った時にはすでに子供を連れていたという。専八が銚子に着いたのは明治4年ではなくて、早くても明治5年以後だろう。旧戸籍では以上の事情を反映して、亀吉が雅治郎の子であり、まんが亀吉を連れて専八に嫁したと記載されている。この戸籍面を信ずる限り、独歩が専八の実子でないとする説が生まれるが、戸籍以外の事実から判断すると、独歩を専八とまんの実子とするのが妥当である。なお出生年月にもいくつか異説がある。当時専八には故郷の竜野霞城町に妻とく、他三男があった。明治7年には、専八は母の死を契機に先妻とくを離別し、まん、亀吉と共に上京している。東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に別に一家を構えた。明治8年8月7日より司法所省に出仕していた専八は、明治9年3月22日、山口県山口裁判所に奉職のため、一家同地に転任。5月31日、専八は妻とくと正式に離婚、倉太郎、弁太郎、のぶとも事実上絶縁した。

   独歩は山口の小学校時代(錦見小学校)時代に出生の秘密を明らかにされて、しばしば、はっきりと「おまえは徹底的に隠し通せ」と言われたという。独歩は自分の出生の秘密を誰にもあかさなかったが、「運命論者」にはそのまま、養父が「出生の秘密を明らかにするな」と云ったことが中心になっている。独歩の全作品を通じて「孤児」を扱ったものが多いが、孤児という言葉自体も多い。また直接孤児を扱っていないにしても、何か孤独な、生れ故郷も肉親もないところからくる人生の哀感が全体にしみついている。それは、たえず自分の出生に思いをこらしていた、孤児の感慨に襲われていた独歩の深層心理と考えると非常にはっきりしてくるのではないだろうか。

2019年6月 2日 (日)

丹波路・本能寺・山崎

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 豊臣秀吉が本陣を置いた宝積寺

   天正10年6月1日、深夜、明智光秀は1万3000の軍を率いて亀山城を出陣、山陰道を東進し、途中丹波と山城の境の老ノ坂を越え、沓掛を経て京に入る。2日未明、本能寺を奇襲し、織田信長を討つ。本能寺は当時、四条西洞院にあり、寺域は東西約140m、南北約270m。寺ではあるが、四方に塀をめぐらした小城郭といった観があった。豊臣秀吉に本能寺の変報が舞い込んだのは3日の晩のことであった。そして7日には居城の姫路城に入った。9日、大軍勢を率いて東上し、11日には尼崎に到着。12日、秀吉軍は摂津富田に進出、池田恒興らが参軍。13日、秀吉は神戸信孝と丹羽長秀両将が参軍するや、正午ごろ、山崎に着陣して天王山中腹の宝積寺に本営を置いた。明智軍1万6000対秀吉軍3万6000。激闘すること2時間余。明智光秀は豊臣秀吉に撃破された。丹波路と山崎は明智光秀にとって野望の道である。それゆえ、丹波路にはいまでも何となく歴史の香が漂っている。(6月2日)

 

 

2019年5月27日 (月)

百人一首で藤原姓は何人採られているか?

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  本日は「百人一首の日」。1235年のこの日、藤原定家によって小倉百人一首が完成されたといわれる。小倉百人一首の中で藤原姓はたくさんいるだろう。だが実際に何人か?というとはっきりとした回答をしたものが見当たらない。案外と調べるのが難しい。例えば、従二位家隆は藤原家隆であり、権中納言定家は藤原定家である。このほか藤原氏出身でありながら、別称で呼ばれている場合もあるかもしれない。つまり正確ではないが、一応はっきりとわかるだけでも14人いる。

藤原興風、藤原清輔、藤原実方、藤原敏行、藤原道信、藤原基俊、藤原義孝、藤原実定、藤原俊成、藤原家隆、藤原定家、藤原朝忠、藤原伊尹、藤原道雅。

2019年5月15日 (水)

六甲おろし

 阪神タイガースが好調である。その応援に欠かせないのが「六甲おしろ」

六甲颪に 颯爽と

蒼天翔ける 日輪の

青春の覇気 美わしく

輝く我が名ぞ 阪神タイガース

オウ オウ オウオウ 阪神タイガース 

フレ フレフレフレ

   この「阪神タイガースの歌」、通称「六甲颪」は、もともと昭和11年「大阪タイガースの歌」(作詞・佐藤惣之助、作曲・古関裕而)として作られた曲である。

   佐藤惣之助(1890-1942)は、明治23年12月3日、父・佐藤慶次郎、母うめの二男として、神奈川県川崎市砂子1-26、旧宿場で生まれた。小学校を卒業すると、商店に奉公に出る間、佐藤紅緑に師事して俳句、小説を学んだのち、18歳頃より詩作を始める。千家元麿、福士幸次郎らとつぎつぎと同人雑誌を出し、室生犀星を知るに及んで、詩壇的地位が築かれた。大正5年の処女詩集「正義の兜」では民衆派詩人として出立するが、大正10年の詩集「深紅の人」以後、詩風は一変し、明るい都会的、感覚的なものになる。昭和になるとコロムビアの専属作詞家として今日よく知られる歌謡曲を多数残している。「赤城の子守唄」「湖畔の宿」「男の純情」「青い背広で」「人生の並木路」「人生劇場」「上海だより」「愛の小窓」「いろは仁義」「新妻鏡」。昭和17年5月15日、53歳で早逝した。

山の淋しい湖に

ひとり来たのも悲しい心

胸のいたみにたえかねて

昨日の夢と 焚きすてる

古い手紙のうすけむり

    昭和15年、高峰三枝子が歌い大ヒットした「湖畔の宿」。このモデルとなった湖とは群馬県の榛名湖だそうだ。佐藤惣之助は釣りが好きで、先妻を亡くしたあと一緒になった萩原朔太郎の妹、愛子の実家が前橋だったのでよく榛名湖に遊びに行っていた。佐藤が常宿の「湖畔亭」の仲居に宛てた手紙が発見され、「湖畔の宿」の舞台が明らかになったという。

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