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2017年9月28日 (木)

文豪の処女作

Photo   「処女作にはその作家のすべてが表れる」。この言葉は誰が最初に言ったのか正確なことは分からない。おそらく海外の文芸評論家ではないか。亀井勝一郎は倉田百三著「出家とその弟子」(新潮文庫)の解説で、「作家は処女作に向かって成熟する」といった。文豪谷崎潤一郎の処女作は戯曲「誕生」であるが、実際には「誕生」よりも「刺青」の方が先に書いたと谷崎自身が述べている。井伏鱒二の代表作「山椒魚」は最初に発表した作品であるとともに、生涯にわたり改筆が続けられた作品である。「山椒魚」が最初に着手されたのは1919年、井伏が21歳の時で級友の青木雨八に「幽閉」ほか数編を送った。「幽閉」は1923年同人雑誌「世紀」に発表され。それから6年後の1929年、すでに新進作家として活動していた井伏は「幽閉」を全面改稿し、同人雑誌「文芸都市」に「山椒魚」として発表している。

1906年 有島武郎「かんかん虫」

1908年 武者小路実篤「彼」「二月」「聖なる恋」「隣室の話」「不幸な恋」(「荒野」所収)

1909年 谷崎潤一郎「誕生」

1910年 志賀直哉「網走まで」

1914年 川端康成「十六歳の日記」

1914年 芥川龍之介「老年」

1917年 横光利一「神馬」

1923年 井伏鱒二「幽閉」

1927年 堀辰雄「ルウベンスの偽画」

1927年 石坂洋次郎「海を見に行く」

1933年 太宰治「列車」

1934年 獅子文六「金色青春譜」

1941年 三島由紀夫「花ざかりの森」

1946年 安倍公房「天使」(未発表)

1947年 椎名麟三「深夜の酒宴」

1948年 源氏鶏太「女炎なすべし」

1954年 遠藤周作「アデンまで」

1957年 大江健三郎「奇妙な仕事」

2017年8月25日 (金)

室生犀星と金沢

   徳田秋聲、泉鏡花と並び、金沢三文豪の一人である室生犀星(1889-1962)は、明治22年石川県金沢市に生まれた。明治35年5月、13歳のとき金沢高等小学校3年で中途退学、以後、学歴はない。金沢地方裁判所の給仕をしながら、役所の上司である川越風骨に俳句の指導をうけ、文学書に親しみ始める。15歳のときに、筆名を国分犀東にならい、犀川の西に住むので犀西とし犀星の字をあてる。「みくに新聞」「石川新聞」を退社し、明治43年、赤倉錦風を頼って上京する。貧困と放浪の生活の中で萩原朔太郎、山村暮鳥らと知り合い試作に励む。大正7年、『愛の詩集』『抒情小曲集』を自費出版。破格の文語を自由に駆使した抒情詩は強い感動を与え、才能にめぐまれた詩人として知られるに至る。

  ふるさとは

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

  (『抒情小曲集』)

このほか昭和期には「幼年時代」「あにいもうと」「杏っ子」などの名作小説を発表、小説家としても認められた。近年、晩年に発表された「蜜のあわれ」が映画化され犀星文学への高い再評価がなされている。

2017年6月23日 (金)

独歩忌

Kunikida   国木田独歩は、明治34年、近代画報社に入り編集の仕事に携わったことから、明治39年8月24日、東京芝区桜田本郷町17番地に独歩社を起こし、「近事画報」「新古文林」「婦人画報」その他を同社からひきついで出版した。数冊の単行本、十種類余りの雑誌を刊行したが、「婦人画報」を除いて売れ行きはおもわしくなかった。独歩社の経営はうまくいかず、その後、経営は破綻し、後半生の生活は経済的にはめぐまれなかった。明治41年2月、肺を患って入院、療養の甲斐なく、6月23日、36歳で他界した。

   しかし、独歩と同じ早稲田出身の鷹見久太郎(思水、1875-1945)、窪田空穂(1877-1967)らは独歩社の若手社員として編集出版の仕事を学んだ。のちに鷹見は東京社を創設し、「婦人画報」「少女画報」「コドモノクニ」などの出版で成功をおさめた。独歩が創刊した婦人総合雑誌が100周年を越えている。最初の妻である佐々城信子との離婚で女性に苦労した観のある独歩であるが、有名な婦人雑誌の生みの親であるというのも人生の妙味であろう。

2017年5月15日 (月)

六甲おろし

 阪神タイガースが好調である。その応援に欠かせないのが「六甲おしろ」

六甲颪に 颯爽と

蒼天翔ける 日輪の

青春の覇気 美わしく

輝く我が名ぞ 阪神タイガース

オウ オウ オウオウ 阪神タイガース 

フレ フレフレフレ

   この「阪神タイガースの歌」、通称「六甲颪」は、もともと昭和11年「大阪タイガースの歌」(作詞・佐藤惣之助、作曲・古関裕而)として作られた曲である。

   佐藤惣之助(1890-1942)は、明治23年12月3日、父・佐藤慶次郎、母うめの二男として、神奈川県川崎市砂子1-26、旧宿場で生まれた。小学校を卒業すると、商店に奉公に出る間、佐藤紅緑に師事して俳句、小説を学んだのち、18歳頃より詩作を始める。千家元麿、福士幸次郎らとつぎつぎと同人雑誌を出し、室生犀星を知るに及んで、詩壇的地位が築かれた。大正5年の処女詩集「正義の兜」では民衆派詩人として出立するが、大正10年の詩集「深紅の人」以後、詩風は一変し、明るい都会的、感覚的なものになる。昭和になるとコロムビアの専属作詞家として今日よく知られる歌謡曲を多数残している。「赤城の子守唄」「湖畔の宿」「男の純情」「青い背広で」「人生の並木路」「人生劇場」「上海だより」「愛の小窓」「いろは仁義」「新妻鏡」。昭和17年5月15日、53歳で早逝した。

山の淋しい湖に

ひとり来たのも悲しい心

胸のいたみにたえかねて

昨日の夢と 焚きすてる

古い手紙のうすけむり

    昭和15年、高峰三枝子が歌い大ヒットした「湖畔の宿」。このモデルとなった湖とは群馬県の榛名湖だそうだ。佐藤惣之助は釣りが好きで、先妻を亡くしたあと一緒になった萩原朔太郎の妹、愛子の実家が前橋だったのでよく榛名湖に遊びに行っていた。佐藤が常宿の「湖畔亭」の仲居に宛てた手紙が発見され、「湖畔の宿」の舞台が明らかになったという。

2017年3月26日 (日)

異色作家永山一郎、青春の疾走

   昭和39年3月26日、詩人・作家・小学校教諭の永山一郎(1934-1964)は山形県新庄市でバイク事故で死亡した。冬樹社から「永山一郎全集」がある。短編「皮癬(ダニ)の唄」、詩集「地の中の異国」など。

2017年3月 8日 (水)

啄木と不来方城

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   3月19日から選抜高校野球が始まる。入場行進曲が人気、知名度ともに最高潮の星野源の「恋」が吹奏楽となって流れ、21世紀枠部員10人の岩手、不来方(こずかた)高校が初出場と話題性がとても高い。石川啄木は小説「葬列」に「市の中央に巍然として立つ不来方城に登つて瞰下せば(中略)屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、實に誰が見ても美しい日本の都会の一つには洩れぬ」と書いている。

   不来方城は、盛岡藩の南部氏居城で、同家27代の藩主南部利直(としなお)が慶長3年に着工、およそ10数年の歳月をかけて築城したものである。

   「不来方」の名はむかし清原武則の甥、不来方貞頼がこの地に城を設けたと伝えられるので、そう名づけられたものであろうが、もともとの地名の由来は、この地を荒らした鬼が取り押さえられ、もう来ないと約束したという伝説に因むとされる。その他にも、徒渉地点の「越し川」、小さい丘の「小塚田」、冠の頂の形「巾子(こじ)形」、アイヌ語のコチ・カタ(川の跡や河畔)、など諸説もある。

   南部氏が現青森県三戸から「不来方」へ移って築城したのは16世紀末で、地名を「森岡」に、さらに「盛岡」へと改名した。石川啄木が在学していた盛岡中学は、城址から約300mの近さにあり、啄木はしばしば学校を抜け出し城址で時を過ごした。

「不来方」の古名は石川啄木の「一握の砂」の次の短歌で広く全国に知られるようになった。

 不来方のお城の草に寝ころびて

 空に吸われし

 十五の心

   初出は「スバル」明治43年11月号。「秋のなかばに歌へる」の題下に発表された百十首中の一首。初出歌は「不来方のお城のあとの草に寝て空に吸われし十五の心」となっている。草茂る荒城で、広々とした大空に託す少年の日の夢と、青空に浮かぶ白雲を眺めながら何時しか無心になりゆく少年の日の記憶が巧みに表現されている。「一握の砂」には、ほかに不来方城を詠う次の二首がある。

 教室の窓より遁げて

 ただ一人

 かの城址に寝に行きしかな

          *

 城址の

 石に腰掛け

 禁制の木の実をひとり味ひしこと

2017年2月20日 (月)

小林多喜二をめぐる女性

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   田口タキ               森熊猛と伊藤ふじ子

  多喜二忌。小林多喜二をめぐる女性といえば、小樽時代の田口タキ(1907-2009)が知られているが、東京でのわずか2年間の地下活動を支えた伊藤ふじ子についてはわからないことが多い。しかし、二人は実際に結婚し、昭和7年夏には母親を郷里から呼び寄せてしばらくいっしょに暮らしていたらしい。

   小林多喜二は高等学校時代から志賀直哉を尊敬していた。死ぬ2年ほど前に、志賀を奈良に訪ねたことがある。志賀は将棋か麻雀でもしよう、と言うと、小林はやれないと答えるので、ふたりはちょうど桜の咲いているあやめが池の遊園地へ子どもづれで散歩にいった。そのとき、小林はみちみち拷問の話をしたという。それまでも二人に文通はあったが、小林が志賀に会ったのはその一度だけだった。それが昭和7年の4月のことである。帰京後、小林は宮本顕治らと地下活動にうつり、文化・文学運動の再建に献身する。そのころ、伊藤ふじ子と結婚し、麻布東町(:現・南麻布1丁目)に住む。ふじ子は、銀座の文戦劇場の女優として何度か舞台に立っていたらしく、左翼運動に関心もあり、多喜二の地下活動を支えていた。伊藤ふじ子は銀座の図案社に勤め、刺繍の勉強をしていたが、10月に勤め先で検挙され、多喜二は隠れ家を飛び出して二人は二度と会うことは無かった。昭和8年1月10日、ふじ子は逮捕されたが、2週間で釈放された。ふじ子は会社を解雇されたが、解雇手当を人づてに多喜二に送り届けた。小林多喜二は昭和8年2月20日、正午すぎ築地警察特高課員により逮捕され、同署で警視庁特高中川、山口、須田の拷問により午後7時45分死亡。多喜二のお通夜、伊藤ふじ子は遺体にとりつき、顔を両手ではさんで泣きながら多喜二に接吻したという。伊藤ふじ子は、その後、森熊猛という政治漫画家と結婚。森熊ふじ子という名で生涯を終えている。

2017年2月17日 (金)

安吾と競輪

11391   坂口安吾は1955年2月17日、高知に「安吾新日本風土記」の取材に行った直後に脳出血でこの世を去っている。まだ48歳だった。静岡県伊東に競輪場ができると安吾は夢中になった。あるとき1着、2着が写真判定となった。だが発表された着順に不服の安吾は判定写真のすり替えによる不正を沼津地裁に訴えたが、結局、判定は覆らなかった。

2017年2月 7日 (火)

敦盛は生きていた?

Atsumori   1184年のこの日、一ノ谷の合戦があった。源義経率いる部隊は、鵯越をこえて、背後からの奇襲で平氏軍を破った。この戦いでは多くの平氏の公達が死亡した。薩摩守忠度、平通盛らは戦死した。もっとも有名な話は敦盛の最期であろう。

  平敦盛は「平家物語」では一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実との一騎打ちの末に討たれたことになっている。だが歌舞伎「一谷嫩軍記」では敦盛は実は後白河法皇のご落胤で、義経の命をうけて熊谷直実が救出するというストーリーである。一見、荒唐無稽な話のようだが、広島県の永江の里(庄原地方)には古くから「敦盛さん」という民謡が伝わり、それによると敦盛は討ち取られたのではなく、庄原に逃れて生涯を終えたという。熊谷次郎の一子の小次郎が身代わりとなって、許婚の玉織姫と共に逃れたという話も絶対に有り得ないとまでいえない。敦盛の「青葉の笛」も正式には「小枝」(さえだ)といい、鳥羽院から祖父忠盛が賜ったものであった。熊谷次郎が我が子を失ってまでも守らなければならなかった高貴な人というのは天皇家の血をひいているからであろうか。のちに熊谷直実は出家して法然の弟子となって蓮生坊と名のったという。(2月7日)

 

2017年1月29日 (日)

井上靖の臨終の言葉

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愛用の万年筆「モンブラン・マイスターシュテュック146」(神奈川近代文学館所蔵)

    井上靖は平成3年1月29日、83歳で亡くなった。家族の見守るなか、最後の言葉を残している。「臨終とはこういうことだ。しっかりと見ておきなさい」と。

  明治40年5月6日、北海道石狩国上川郡旭川町(現・旭川市)で生れた。生後、約1年で父の郷里である静岡県伊豆湯ヶ島に移り住む。従って文学記念館は、昭和48年には静岡県沼津に「井上靖文学館」、平成5年に北海道旭川に「井上靖記念館」が開館している。このほか鳥取県に「アジア博物館・井上靖記念館」(米子市大篠津町)が平成5年に開設している。井上靖と鳥取との関わりは、妻ふみと子供たちを日南町に疎開させたからである。井上は歴史小説、現代小説、美術評論など多彩であるが、晩年はシルクロードに関する著作が多く、アジア博物館はその特色を活かしている。

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