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2018年12月12日 (水)

河盛好蔵「Bクラスの弁」

  エッセイを書いたり、読んだりすることが好きだ。随筆、短文を書いたり、読んだりすることは、言語感覚を磨いて、表現する能力が向上する。河盛好蔵は随筆の達人である。「Bクラスの弁」という随筆のなかで、河盛好蔵はこう書いている。「自分はBクラスに属する」が、それは「卑下して言っているのでは毛頭ない」。「精神の世界」ではAクラスとBクラスとは「横につながる階級であって、縦につながる階級ではない」。いたずらにAクラスに憧れるのではなく、その二つの階級の位置関係を定め、Aクラスのための地盤を用意し、「常に批評精神を働かせて、より高次なものを生むために、自分がその養いとなる覚悟をもつ」ことこそがBクラスの生き方だという。これは評論家としての河盛氏の自己定義であるが、この見事な覚悟は各分野でもいえるのではないだろうか。たとえば科学における基礎研究、あるいは歴史学における実証的な研究。それらは目立たぬ地道な研究であるが、最先端の研究者にとって有益なデータとなるであろう。願わくばこのブログがBクラスとまではいかないまでも、せめてCクラスに入れてもらい、何んらかのお役に立つといいのだが。(参考:清水徹「昭和文学全集31」)

2018年12月 9日 (日)

漱石忌

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

2018年11月30日 (金)

砧打ち

Photo    むかし着物は洗濯するとこわばるので、木の台に打って柔げた。これを砧打ちという。砧はもともと中国から伝わったもので中国では擣衣といい、古くから詩にうたわれている。「長安一片の月、万戸衣を擣(う)つの声」(李白)とある。ことに朝鮮では夏、洗濯した衣類にのりをつけてつや出しをするのに現在でも行われている。日本では、婦人が砧を打ったもので、秋の夜、その音が遠く近くひびくので、砧の音が夜寒を誘うというものが多い。「砧」は俳句でも秋の季語で、砧の音は淋しさ、哀しさ、貧しさを感じさせる。

 世に住まば聞けと師走の砧哉(西鶴)

 砧打て我にきかせよや坊が妻(芭蕉)

 憂き我に砧うて今は又止みね(蕪村)

 寒雁のほろりとなくや藁砧(原石鼎)

2018年11月28日 (水)

芭蕉忌

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   芭蕉忌。陰暦10月12日(陽暦の11月28日)。桃青忌、時雨忌、翁忌などとも呼ばれ、旧暦の気候にあわせて毎年11月の第2土曜日に法要が営まれる。

 秋深き隣は何をする人ぞ

    元禄7年秋、芭蕉(1644-1694)は各務支考と共に大坂に行く。園女亭で「秋深き」の句を詠む。斯波園女(1664-1726)は伊勢の神官の娘で芭蕉の門弟であった。数日後、下痢をして床につく。11月末、病床に侍していた呑舟を呼び、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    と書き取らせた。11月26日の暮れ方から高熱を発し、11月28日、申の刻(午後4時頃)、大坂南御堂前の旅舎で永眠した。享年51歳。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、翌日、近江膳所の義仲寺に運んだ。埋葬し、門人の焼香者80人、まねかざるに来る会葬者は300人以上いたと伝えられる。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺(大津市馬場)に葬られたのは、義経や義仲のような悲劇的な最期をとげた武人にとりわけ思いを寄せていたからといわれる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句がある。

  芭蕉忌とよばれるのは、江戸中期以降、俳壇で芭蕉復興が叫ばれるようになってから。素丸の句に「はせを忌の古則や茶飯(ちゃめし)茶の羽織」がある。芭蕉の命日には茶飯を食べて、芭蕉が愛した茶色の羽織を着るという習慣があったらしい。溝口素丸は1795年没。芭蕉発句註解の「説双大全」を著した。

2018年11月23日 (金)

一葉忌

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下村為山画「樋口一葉像」

   樋口一葉の1896年の忌日。一葉は明治19年8月20日、遠田澄庵の紹介で中島歌子の萩の舎に入る。上流家庭の子女の集まるこの歌塾にあって下級官吏の娘であった一葉はしばしば肩身の狭い思いを味わったが、早くから歌の才能を示し、姉弟子の三宅花圃とならんで同門の才媛と称された。明治22年7月12日、父の樋口則義は失意のうちに病没した。花圃が「藪の鶯」の発表以後小説家として活躍し始めたのに刺激され、生活の資を得るため小説を書く決意をし、明治24年4月15日、野々宮きく子の紹介で半井桃水を訪ねて、弟子入りした。

    明治25年3月、4月、7月発行された半井桃水主宰の同人雑誌『武蔵野』に、樋口一葉は第一編創刊号に「闇桜」、第二編に「たま襷」、第三編に「五月雨」とたて続けに載せている。ほかに、畑島桃蹊、小田果園、柳塢亭寅彦、三品藺蹊、斉藤緑雨らが寄稿した。「闇桜」は、一葉の小説がはじめて活字になったのものであり、またはじめて「一葉」という筆名を使ったのも、この『武蔵野』が最初である。だが、桃水との噂が萩の舎で問題化した。また桃水の身辺多忙と売れ行きの減退から雑誌は3号で廃刊となり、一葉は思いを残しながら桃水と絶交の形をとる。しかし、一葉の桃水への愛情は終生変わることはなかった。(11月23日)

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2018年11月 9日 (金)

夏目漱石「道草」あらすじ

   洋行帰りの健三は、かつて絶縁したはずの養父・島田から金銭的な援助の申し込みを受ける。実は、健三のもとに同様の相談をしてきたのは島田だけではない。健三の姉や養母、細君の父までもが健三を経済的な拠り所とみなして相談を持ちかけてきた。健三の出世によって、彼らの自分への態度が一変したことに違和感を覚えながらも、健三は昔の彼らと今の彼らの違いを観察することで、幼い頃の記憶を手繰り寄せていく。漱石の唯一自伝的な小説として知られている長編。(伊藤かおり「漱石作品案内」)

2018年11月 8日 (木)

夏目漱石「明暗」あらすじ

 親族の縁故で就職口を得た津田は、結婚後の生計も実家からの仕送りに頼っている。ところがそれを返済するどころか、自分たちの浪費を改めない態度に腹を立てた津田の実父が金銭的援助を止めてしまう。このことが妹のお秀や上司の妻の吉川夫人などの家庭の女たちに津田夫婦への個人的な干渉を許す大義名分となる。親族間が金銭や猜疑心によって支えられている逆接を、時にコミカルに時にシニカルに描いている。未完の長編小説だが、まるで昼ドラを観ているかのように読めてしまう。(伊藤かおり「漱石作品案内」)

2018年11月 2日 (金)

白秋忌「からたちの花」

Img24aa7f18zikczj   からたちも秋はみのるよ

  まろいまろい金のたまだよ

   今日は白秋忌。「からたちの花」の詩が「赤い鳥」に発表されたのは、大正13年。白秋はやがて40歳になろうとする頃だった。

   北原白秋(1885-1942)。本名は隆吉。生地は福岡県山門郡沖靖村。海産物問屋、柳河藩の御用達を勤めた家の生まれ。白秋の小学生のころ、柳川の家の路地に咲くからたちの花をながめながら通学したという。当時、次々と新作童謡を発表していた。その後、白秋は2番目の妻、江口章子と離婚した後、菊子夫人と再婚している。ところが昭和12年、眼疾のため失明する。昭和17年、腎臓病で没した。(11月2日)

2018年10月23日 (火)

俳人高井几董

F0003283_18261842   蕪村の高弟高井几董(1741-1789)は京都の高井几圭の次男として生まれ、中興俳諧の指導的役割を担った。寛政元年、松岡士川の伊丹の別荘で、49歳で急逝した。几董忌は陰暦10月23日、冬(11月)の季語。

  悲しさに魚食ふ秋の夕かな

  舟慕ふ淀野の犬や枯尾花

  馬鹿づらに白き髭見ゆけさの秋

 裏店やたんすの上の雛祭り

 

 紙草紙に鎮おく店や春の風

 

 やはらかに人わけゆくや勝角力

 

 虹の根に雉なく雨の晴れ間かな

 

2018年7月15日 (日)

円空と芭蕉

Photo     生涯を旅の中に送った漂白の詩人といえば「奥の細道」の俳人・松尾芭蕉(1644-1694)を思いうかべるだろう。だが円空(1632-1695)という謎の僧も苦難の旅を生涯続けながら、10万とも12万ともいわれる多数の仏像を彫り続けた。円空は元禄8年7月15日に関市の弥勒寺で亡くなっているが、芭蕉も前年に世を去っているので、二人が旅の途中に出会っている可能性もある。だが二人の旅は対照的だったともいわれる。自己を追求した芭蕉に対して、円空は他者救済に自らの生涯を捧げた。富士川で芭蕉は捨て子に出会うが、食べ物を与えたものの、「汝の性のつたなきを泣け」と突き放して去っていく。円空は美濃の宿に泊まっていた。宿屋の主人は円空の身なりをみて、寒さしのぎの半纏を贈った。ところが円空は旅の途中で物乞いの女に出会いその半纏をあげただけでなく、持っていた金もすべて与えてしまった、という逸話が残されている。江戸時代初期、みちのくは未開の地という観があるが、円空は芭蕉よりもさらに遠く、北海道に渡り、2年ほど滞在している。芭蕉の旅にくらべ、円空の旅は想像を絶する過酷なものだったであろう。

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