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2023年7月15日 (土)

独歩の出生の秘密

Ip120227tan000018000_0000_mobj   国木田独歩は明治4年のこの日、千葉県銚子に生まれた。父専八、母(淡路)まん。幼名は亀吉、明治22年7月、哲夫と改む。明治30年以後は主として独歩を筆名とする。独歩の出生については異説が多い。

    通説によると、独歩の父親は、播州龍野藩の脇坂氏の家臣で国木田専八という人物とされている。専八は、明治4年に函館の五稜郭に立籠った榎本武揚討伐に仕立てた船の乗組員であり、その船が銚子沖で暴風雨にあった。助けられて銚子の吉野屋という旅籠に滞在中、そこで働いていた淡路善太郎の長女まんという女と知り合い、明治4年に独歩を生んだということになっている。

    ところが、まんはこれより先に雅治郎という米穀商と結婚していたが、事情があって別れ(他に死亡説あり)、同旅籠に奉公中であった。しかし一説によると専八とまんが出会った時にはすでに子供を連れていたという。専八が銚子に着いたのは明治4年ではなくて、早くても明治5年以後だろう。旧戸籍では以上の事情を反映して、亀吉が雅治郎の子であり、まんが亀吉を連れて専八に嫁したと記載されている。この戸籍面を信ずる限り、独歩が専八の実子でないとする説が生まれるが、戸籍以外の事実から判断すると、独歩を専八とまんの実子とするのが妥当である。なお出生年月にもいくつか異説がある。当時専八には故郷の竜野霞城町に妻とく、他三男があった。明治7年には、専八は母の死を契機に先妻とくを離別し、まん、亀吉と共に上京している。東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に別に一家を構えた。明治8年8月7日より司法所省に出仕していた専八は、明治9年3月22日、山口県山口裁判所に奉職のため、一家同地に転任。5月31日、専八は妻とくと正式に離婚、倉太郎、弁太郎、のぶとも事実上絶縁した。

   独歩は山口の小学校時代(錦見小学校)時代に出生の秘密を明らかにされて、しばしば、はっきりと「おまえは徹底的に隠し通せ」と言われたという。独歩は自分の出生の秘密を誰にもあかさなかったが、「運命論者」にはそのまま、養父が「出生の秘密を明らかにするな」と云ったことが中心になっている。独歩の全作品を通じて「孤児」を扱ったものが多いが、孤児という言葉自体も多い。また直接孤児を扱っていないにしても、何か孤独な、生れ故郷も肉親もないところからくる人生の哀感が全体にしみついている。それは、たえず自分の出生に思いをこらしていた、孤児の感慨に襲われていた独歩の深層心理と考えると非常にはっきりしてくるのではないだろうか。(7月15日)

円空と芭蕉

Photo     生涯を旅の中に送った漂白の詩人といえば「奥の細道」の俳人・松尾芭蕉(1644-1694)を思いうかべるだろう。だが円空(1632-1695)という謎の僧も苦難の旅を生涯続けながら、10万とも12万ともいわれる多数の仏像を彫り続けた。円空は元禄8年7月15日に関市の弥勒寺で亡くなっているが、芭蕉も前年に世を去っているので、二人が旅の途中に出会っている可能性もある。だが二人の旅は対照的だったともいわれる。自己を追求した芭蕉に対して、円空は他者救済に自らの生涯を捧げた。富士川で芭蕉は捨て子に出会うが、食べ物を与えたものの、「汝の性のつたなきを泣け」と突き放して去っていく。円空は美濃の宿に泊まっていた。宿屋の主人は円空の身なりをみて、寒さしのぎの半纏を贈った。ところが円空は旅の途中で物乞いの女に出会いその半纏をあげただけでなく、持っていた金もすべて与えてしまった、という逸話が残されている。江戸時代初期、みちのくは未開の地という観があるが、円空は芭蕉よりもさらに遠く、北海道に渡り、2年ほど滞在している。芭蕉の旅にくらべ、円空の旅は想像を絶する過酷なものだったであろう。

 

 

2023年7月10日 (月)

井伏鱒二と福山城

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  本日は小説家・井伏鱒二の忌日。本名は満寿二。明治31年2月15日、広島県深安郡加茂村粟根89番邸(現在の福山市加茂町)に生まれた。父は井伏郁太、母は美耶、鱒二はその次男で本名を満寿二という。父郁太は鱒二が5歳のとき亡くなった。その年、祖父の民左衛門に連れられて福山の町を初めて見物に行く。汽車を見て、初めて写真を撮ってもらったのもこのときである。一番印象に残ったのは福山城だった。井伏が見た福山城の天守閣は昭和20年まであったが、戦災にあって焼失した。現在の天守閣は昭和41年に復元されたものである。

    福山城は元和5年、徳川家康の従兄弟、水野勝成が備後東南部に入封して築城した。3年後、城と城下町が完成し、地名を福山と改めた。当時からの建物で現存するのは、伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓である。井伏は祖父から矢尻を買ってもらったことを覚えている。おそらく、井伏の最初の骨董品であったであろう。(7月10日)

 

2023年6月23日 (金)

作家の前歴しらべ

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 「映画ストーリー」編集者時代の向田邦子

 

   ほとんどの作家はさまざまな職歴を経て職業作家として独立している。なかでも新聞社や出版社に勤務していた人は多い。横山秀夫は上毛新聞社、船山馨は北海道新聞、井上靖は毎日新聞社、司馬遼太郎は産経新聞社、そして松本清張は朝日新聞社の広告部だった。そのほか伊藤永之介は新秋田新聞社、北原武夫は都新聞社。古いところでは国木田独歩の国民新聞社。向田邦子は映画雑誌や雄鶏社の編集員。吉行淳之介や椎名誠は雑誌の編集員。教師も多い。石坂洋次郎、中島敦は女子高。海音寺潮五郎は中学教師。宮沢賢治は稗貫農学校。坂口安吾は小学校の代用教員。官公庁関係では芹沢光治良は農商務省、小田嶽夫は外務省、梅崎春生は東京市教育局、野間宏は大阪市役所。阿刀田高は国立国会図書館、中村地平は宮崎県立図書館長、又吉栄喜は図書館司書。医者では森鴎外は軍医、藤枝静男は眼科医、なだいなだ・北杜夫は精神科、伊藤左千夫は牛乳屋。

   会社員では山口瞳・開高開高健が洋酒の寿屋宣伝課。筒井康隆は展示装飾の乃村工芸社。

   変わったところでは、水上勉はお坊さん、吉川英治は横浜ドッグ会社の船具工。江戸川乱歩、出久根達郎は古書店。山本周五郎は質屋の店員。室生犀星は裁判所事務員。井上光晴は炭鉱夫。椎名麟三は車掌。村上春樹はジャズ喫茶店主。ほかにももっと意外な職業の作家がいるだろうが只今調査中。

2023年6月16日 (金)

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  本日、り天宝15年(756年)の楊貴妃の忌日(諸説あり)。享年38歳。楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

Yjimage2ilbljno ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

 

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

 

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

 

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。(6月16日)

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

 

 

2023年6月14日 (水)

川端康成の生い立ち

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 談笑する川端康成(右)と笹川良一(左)

 

    川端康成(1899-1972)は明治32年6月14日に大阪市天満此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)に医師川端栄吉とその妻げんの子として生まれた。康成は長男で、七つ年上の姉芳子がいた。父栄吉は東京の医学校を出て、大阪の学塾漢学の教養を身につけており、漢詩、文人画、文学趣味もあった人で、大阪の此花町で開業していた。胸を痛み、虚弱な人であったらしく、康成が生まれた翌年に死んだ。またその翌年、康成が三歳の時母が死んだ。二人とも結核であった。

   二歳で父を、三歳で母を失った康成は、父母の顔の見覚えがない。孤児としての心情がこの作家の生涯につきまとったのは当然である。母が死んだのちは、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄字東村という原籍のあるところに祖父母と暮らした。祖母かねは康成を寵愛した。しかしこの祖母もまた康成が八歳のとき死んだ。康成は祖父と二人きりの生活に入った。康成は小学生のころには画家になりたい考えもあったが、中学に入って本を乱読するようになってから小説家を志した。このころ、死んだ母の腹ちがいの姉であった伯母が後家になってこの家にしばらく住み、祖父と孫の二人を世話したことがあった。この伯母にはのちに東京で世話になることが多かったが、康成が肉親として最も大事にした人である。

    祖父は盲であった。盲目の祖父とたった一人の孫の男の子という生活は、たいへん淋しいものに思われる。のちに川端康成はみずから、自分は人の顔を見ている習慣があるが、それはこの祖父との生活の中で得た習慣らしい、と書いている。その祖父も、康成が16歳のときに死んだ。この当時の日記が残っていて、それから10年ほどのちに偶然に発見され「十六歳の日記」として発表された。

2023年6月13日 (火)

「浮雲」と屋久島

   林芙美子(1903-1951)の名作「浮雲」は、屋久島の豪雨を有名にしたという。

   「ここは、雨が多いんだそうですね」富岡が一服つけながら、軽い箱火鉢を引き寄せて聞いた。「はァ、一ヶ月、ほとんど雨ですな。屋久島の月のうち、三十五日は雨といふ位でございますからね……」

    この有名な件は「一月(ひとつき)に35日雨が降る屋久島は……」とブログ検索で調べても、現在、屋久島の枕詞のように使われている。しかし林芙美子は「屋久島紀行」を残しているように綿密な現地取材をする作家なので、おそらくこの言葉は現地の人から実際に聞いた言葉であろう。また小説の主人公の終焉の地であるところから、文学ファンにとって、屋久島は暗く悲しいイメージがつきまとった。しかし現在は世界遺産として観光客も多く暗いイメージは微塵もない。身近に屋久島に旅行した人に話を聞いたが、小説「浮雲」のことは全然知らなかった。戦後の話は遠い過去だったのだ。

    終戦直後、幸田ゆき子は恋人の富岡兼吾を追って、仏印ダラットから福井の敦賀へ引き揚げてきた。だが、富岡には妻がいるばかりか、複数の愛人とも情事を重ねている。それでも、富岡と別れられないゆき子は、もう一度やり直そうと二人は旅にでる。ゆき子は屋久島に向かう途中で病気になる。やっとのことで屋久島にたどりつくが身動きできないようになった。ある豪雨の日、勤務中の富岡に急変の知らせが届く。富岡は、明かりを持ってきてゆき子の死に顔を見つめて、すすり泣くばかりだった。

 

                       *

 

   風が出た。ゆき子の枕許のローソクの灯が消えた。富岡は、よろめきながら、新しいローソクに灯を点じ、枕許へ置きに行った。面のように、表情のない死者の顔は、孤独に放り出された顔だったが、見るものが、淋しそうだと思ふだけのものだと、富岡は、ゆき子の額に手をあててみる。だが、すぐ、生き身でない死者の非情さが、富岡の手を払いのけた。富岡は、新しい手拭いも、ガーゼもなかったので、半紙の束を、屋根のように拡げて、ゆき子の顔へ被せた。

 

                       *

 

「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」

2023年5月26日 (金)

石川啄木と函館大森浜

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  東海の小島の磯の白砂に

 

  われ泣きぬれて

 

  蟹とたはむる

 

 歌集「一握の砂」の巻頭を飾る秀歌で、石川啄木の作品中最も有名なものである。作歌は明治41年6月24日で、翌7月1日発行の「明星」に「石破集」の題下に発表された140首中の一首である。初出歌は「東海の小島の磯の白妙にわれ泣きぬれて蟹と戯る」と一行書きで発表され、明治43年7月の「創作」自選歌号にも再掲されている。「東海の小島」は特定の地名や場所を指すのではないという解釈も可能であるが、この一首を啄木の閲歴、実生活との関連において鑑賞するとき、彼が生涯において親しんだ唯一の海岸である函館大森浜を念頭において歌ったのではないかと考えられる。すでに函館に渡った直後の明治40年5月26日に作った「蟹」と題する詩が「ハコダテの歌」にある。

 

潮満ちくれば穴に入り、

 

潮落ちゆけば這ひ出でて、

 

ひねもす横に歩むなる

 

東の海の砂浜の

 

かしこき蟹よ、今此處を、

 

運命(さだめ)の浪にさらはれて、

 

心の龕(づし)の燈明(みあかし)の

 

汝(なれ)が眼よりも小(ささ)やかに

 

滅(き)えみ明るみすなる子の

 

行方も知らに、草臥れて、

 

辿り行くとは、知るや、知らずや。

 

    歌集「一握の砂」は明治43年12月1日、東雲堂書店から刊行された。四六判290頁、定価60銭であった。「東海の」歌は現在函館市住吉町共同墓地東南の一角、立待崎の眺望のよい断崖の上に建つ啄木一族の墓の碑面に刻まれているが、これは岡田健蔵と宮崎郁雨によって、大正15年8月1日建てられたもので、郁雨がその資金を提供した。岡田健蔵(1881-1944)は市立函館図書館(大正11年創設)の初代館長である。宮崎郁雨は本名宮崎大四郎といい、啄木が函館へ渡ったとき以来、生涯、生活的な援助をした人で、著書に「函館の砂」がある。

 

 

 

 

2023年4月23日 (日)

猟奇耽異博物館

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    図書館に勤め初めた頃、書庫出納といって利用者の求めに応じて、書庫から本を取り出す仕事をしていた。古い小説でも度々利用のある本があった。横溝正史の本だ。もちろん角川書店の横溝ブームの前の話である。ぼろぼろになった本だが、マニアがいるので超人気だった。古谷一行の金田一耕助役でドラマ化されたときにはじめて内容を知った。昨夜は、NHKBSプレミアムで吉岡秀隆主演「犬神家の一族 前篇」を見た。大竹しのぶの犬神松子は適役であるが、ヒロインの野々宮珠世は明らかにミスキャスト。原作では頭脳明晰な美女となっており、古川琴音ではチョットねぇ。終戦後まもない頃の話だが、猟奇、耽美の世界に魅かれる。その先駆者は江戸川乱歩だろう。(あるいは大正期の谷崎潤一郎か)乱歩が「新青年」に「二銭銅貨」を発表したのは大正12年4月。以後「D坂の殺人事件」「心理試験」「赤い部屋」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「パノラマ島奇譚」「陰獣」「猟奇の巣」「魔術師」「黄金仮面」「吸血鬼」「盲獣」「白髪鬼」「恐怖王」「妖虫」「人間豹」「暗黒星」などを発表する。雑誌「新青年」には乱歩にほかに、甲賀三郎、谷譲次、渡辺温、夢野久作、横溝正史、妹尾アキ夫、久生十蘭、海野十郎などが健筆を揮い、探偵小説から推理小説、冒険小説、空想科学小説など多様なジャンルの作品が現われた。

2023年4月 9日 (日)

学生作家・大江健三郎、異才登場

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    このブログで「小説家とは何か」というたいへん難しい、しかし興味ある論議がされていますが、大江健三郎という著名な一人の作家に関して考えてみます。画像はおそらく芥川賞を受賞した頃(23歳)の写真です。狭いアパートには机の上には広辞苑とわずかな書籍、簡易なベットがあります。そして痩せて蒼白く神経質そうな貧乏学生の大江がいます。当時、大江が読んでいた本は、パスカルとカミュに熱中し、やがてサルトルに関心を持ちはじめた。安部公房、ノーマン・メイラー、フォークナー、ソール・ベローなどを読む。卒論では「サルトルの小説におけるイメージ」を論じている。これらサルトルの思想が受賞作「死者の奢り」に大きく反映されている。

   日本文学は現在、村上春樹などの作家の作品が海外で翻訳されて書店に並んでいるが、この当時は、日本の作家の小説が海外で紹介されることはほとんどなかった。まもなく川端康成や三島由紀夫が海外で知られるようになるが。だが評論家たちの高い評価をえるのは、戦後作家といわれる大岡昇平、埴谷雄高、野間宏などであり、彼らはそれぞれスタンダール、ドストエフスキイ、サルトルなど海外の作家に大きな影響を受けていた。後輩作家の大江健三郎もサルトル(もしくは実存主義)という世界文学の潮流の中で「存在とは?」というテーマを捉え、自己の文学的出発点としたことが、学生作家として幸運なデビューを飾った一因であろう。昭和30年代ころから、日本の文学も文章の美しさや漢語を駆使した修辞よりも、作家の主体性やイメージ、より深い内面性、現代性が求められるようになったといえる。大江が人生の大きな転機となったのが、1963年(当時28歳)第一子、光くんの誕生であった。翌年、知的障碍者を持つことになった父親の苦悩と葛藤を描いた「個人的な体験」を発表した。絶望から希望を見出すラストに評論家たちから批判はあったが、わが子の命を守り健全に育てていくという決心に感動を与えられた読者も多い。

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