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2020年11月28日 (土)

芭蕉忌

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   芭蕉忌。陰暦10月12日(陽暦の11月28日)。桃青忌、時雨忌、翁忌などとも呼ばれ、旧暦の気候にあわせて毎年11月の第2土曜日に法要が営まれる。

 秋深き隣は何をする人ぞ

    元禄7年秋、芭蕉(1644-1694)は各務支考と共に大坂に行く。園女亭で「秋深き」の句を詠む。斯波園女(1664-1726)は伊勢の神官の娘で芭蕉の門弟であった。数日後、下痢をして床につく。11月末、病床に侍していた呑舟を呼び、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    と書き取らせた。11月26日の暮れ方から高熱を発し、11月28日、申の刻(午後4時頃)、大坂南御堂前の旅舎で永眠した。享年51歳。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、翌日、近江膳所の義仲寺に運んだ。埋葬し、門人の焼香者80人、まねかざるに来る会葬者は300人以上いたと伝えられる。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺(大津市馬場)に葬られたのは、義経や義仲のような悲劇的な最期をとげた武人にとりわけ思いを寄せていたからといわれる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句がある。

  芭蕉忌とよばれるのは、江戸中期以降、俳壇で芭蕉復興が叫ばれるようになってから。素丸の句に「はせを忌の古則や茶飯(ちゃめし)茶の羽織」がある。芭蕉の命日には茶飯を食べて、芭蕉が愛した茶色の羽織を着るという習慣があったらしい。溝口素丸は1795年没。芭蕉発句註解の「説双大全」を著した。

 

 

2020年11月23日 (月)

一葉忌

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下村為山画「樋口一葉像」

   樋口一葉の1896年の忌日。一葉は明治19年8月20日、遠田澄庵の紹介で中島歌子の萩の舎に入る。上流家庭の子女の集まるこの歌塾にあって下級官吏の娘であった一葉はしばしば肩身の狭い思いを味わったが、早くから歌の才能を示し、姉弟子の三宅花圃とならんで同門の才媛と称された。明治22年7月12日、父の樋口則義は失意のうちに病没した。花圃が「藪の鶯」の発表以後小説家として活躍し始めたのに刺激され、生活の資を得るため小説を書く決意をし、明治24年4月15日、野々宮きく子の紹介で半井桃水を訪ねて、弟子入りした。

    明治25年3月、4月、7月発行された半井桃水主宰の同人雑誌『武蔵野』に、樋口一葉は第一編創刊号に「闇桜」、第二編に「たま襷」、第三編に「五月雨」とたて続けに載せている。ほかに、畑島桃蹊、小田果園、柳塢亭寅彦、三品藺蹊、斉藤緑雨らが寄稿した。「闇桜」は、一葉の小説がはじめて活字になったのものであり、またはじめて「一葉」という筆名を使ったのも、この『武蔵野』が最初である。だが、桃水との噂が萩の舎で問題化した。また桃水の身辺多忙と売れ行きの減退から雑誌は3号で廃刊となり、一葉は思いを残しながら桃水と絶交の形をとる。しかし、一葉の桃水への愛情は終生変わることはなかった。(11月23日)

 

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2020年10月23日 (金)

几董忌

F0003283_18261842   蕪村の高弟高井几董(1741-1789)は京都の高井几圭の次男として生まれ、中興俳諧の指導的役割を担った。寛政元年、松岡士川の伊丹の別荘で、49歳で急逝した。几董忌は陰暦10月23日、冬(11月)の季語。

 

  悲しさに魚食ふ秋の夕かな

 

  舟慕ふ淀野の犬や枯尾花

 

  馬鹿づらに白き髭見ゆけさの秋

 

 裏店やたんすの上の雛祭り

 

 

 

 紙草紙に鎮おく店や春の風

 

 

 

 やはらかに人わけゆくや勝角力

 

 

 

 虹の根に雉なく雨の晴れ間かな

 

 

 

 

2020年10月21日 (水)

江戸川乱歩「心理試験」

    最初から犯人がわかっている倒叙ミステリーは、「刑事コロンボ」でお馴染みだが、大正14年にすでに江戸川乱歩が「心理試験」という傑作の短編を書いている。蕗屋清一郎は、金目当てに、友人の斎藤勇の下宿する家の老婆を殺害する。老婆が植木鉢の底に隠しておいた金を半分だけ奪い、あとは残しておいた。その金を拾ったことにして警察に届けて、一年後にもらう計画であった。ところが、斎藤が老婆の死体を発見し、植木鉢の金をネコババした。斎藤は老婆の殺人犯として挙げられた。蕗屋と斎藤は警察の心理テストにかけられる。蕗屋は十分に準備して完璧に疑いをかわしたかに見えた。だが明智小五郎は老婆の家にあった屏風の傷に目をつけ、蕗屋に罠をしかける。問題は蕗屋は事件のその日、老婆の家にいたことを証明すればよいのである。屏風の傷はもともとない。犯行の際に生じたものである。蕗屋は傷のことを知っているはずだ。帰り際に、明智は蕗屋になにげなく屏風の傷のことを聞く。蕗屋は「その屏風なら覚えてますよ。僕の見た時には確かに傷なんかありませんでした」明智はとぼけた顔をして、判事に「ところで、あの屏風は、いつあの老婆の家に持ち込まれたのですか」「犯罪事件の前日ですよ。つまり先月の4日です」事件の二日前から、老婆の家へ行ったことのないという蕗屋が、嘘が露見した。

2020年10月11日 (日)

山頭火忌

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何の草ともなしに咲いているふるさと

 

やつぱり一人がよろしい雑草

 

   本日は自由律俳句の代表的俳人種田山頭火の忌日。昭和15年10月11日、愛媛県松山で死去。享年58歳。本名・種田正一。生家は山口県西佐波令村(現・防府市)にあるが、種田家の先祖は土佐国山内家に仕えた郷士だったといわれる。居住地は土佐国香美郡。大正15年には雲水となって西日本を中心に旅し句作を行う。四国遍路の旅は2度している。1回目は昭和3年で、土佐路の札所24番から39番までを回っている。2回目は昭和14年で、徳島を立ち、高知から愛媛松山に入る約20日間の旅だった。太平洋の海を見て、「われいまここに海の青さのかぎりなし」にどのような思いがたくされていたのだろうか。この四国遍路の1年後に没している。

 

Photo_6 四国遍路日記

2020年10月 8日 (木)

ハルキストという不思議な存在

Img_0049   ハルキスト 葡萄酒(ワイン)片手に「来年ね!」

 8日夜、東京荻窪のブックカフェ「6次元」に集まったハルキストたちはさすがに落胆の色は隠せなかった。いつごろからか村上春樹のファンをハルキストと呼ぶ。村上の小説やエッセイから伺える趣味や生活スタイルに影響を受けることが多い。映画・文学・音楽・料理・マラソン・水泳・猫など都会的で冷めた感じの若者をイメージさせる。とくに団塊の世代以降に多く、戦前・戦中派は村上文学などはほとんど読まない。かつて村上といえば村上元三だった。このようなハルキストの存在を村上自身がどのように感じているかは分からない。代表的ハルキストとして内田樹がいる。彼は「村上春樹は世界的に人気があるから偉い。だから普遍的で、とうぜんノーベル賞に値する」とつねづね語っている。世界中でたくさん本が売れるということと、文学としての価値があり、永遠性があるかという問題がイコールとして捉えられるかは疑問である。本がよく読まれる、売れる、商業的な成功が全てという考えにはむしろ反対する人も多いのではないだろうか。ある意味で内田のような単純な文学観を語る人は幸せなのだろう。司馬遼太郎が時代物の大衆作家から国民的文豪といわれるようになったころ、関西大学の谷沢永一がやたらと司馬をほめあげて、解説本をたくさん出すようになった。芸術家一般に売れずに必死に書いているときはいいものが生まれるが、地位と名声、お金がたまって大家になると保守的になってつまらなくなる。ハルキストや谷沢のような存在は迷惑だが、村上にとってノーベル賞をもらわないことのほうが作家として幸運だと思いたい。海外で多和田葉子や小川洋子のように評価されている女性作家もいる。

2020年10月 1日 (木)

田山花袋「踏査」

 街道がある。共処に日が照る。人が通って居る。向うには山の翠が見える。それは年々歳々同じである。秋が来れば稲が熟って、里川に澄んだ水に雑魚の泳ぐのが鮮かに見える。稲を満載した車がガラガラと音を立てて通っていく。私は共処に一「田舎教師」の歩いて行く姿を明らかに見得た。

 踏査―私はこの踏査といふことを地理学から学んだ。日記よりも手紙、手紙よりも踏査の肝要なのを私は感じた。歴史地理といふ学問は面白い学問である。私は小説地理といふことを「田舎教師」に由って考へた。私が小説製作上実在を尊ぶのは、決して消極的ではない、積極的である。史家が古城址をさぐり、地理学者が山岳踏査するのと同じ位に思っている。(明治42年11月)

2020年9月13日 (日)

吾猫の墓

 1908年のこの日、夏目漱石が飼っていた「吾輩は猫である」の主人公のモデルとなった猫が死亡した。書斎裏の桜の樹の下に埋めた。漱石は白木の角材に「猫の墓」と書き裏面に一句をしたためた。「此(こ)の下に稲妻起こる宵あらん」

のち親しい人たちに猫の死亡通知を出した。のち妻・鏡子によって、雑司ヶ谷の漱石の墓地に猫の骨は移された。漱石公園(早稲田南町7)にある猫塚は遺族が飼っていた犬・猫・小鳥の供養のために建てたもので、「吾猫」とは関係がない。(9月13日)

 

 

 

 

2020年9月 1日 (火)

与謝野晶子と関東大震災

   1923年9月1日午前11時58分、東京・横浜を中心としてマグニチュード7.9の大地震がおこった。多くの家屋が倒壊し、ちょうど昼食時に重なり、炊事用の竈から出火して、各地に火災が発生して被害を大きくした。このとき、与謝野晶子は44歳で夫の鉄幹とともに、神田駿河台の文化学院で教鞭をとっており、近くの逓信病院付近に住んでいた。晶子は、こんな短歌を詠んでいる。

 

もろもろのもの心より搔き消える天変うごくこの時に遭ひ

 

天地崩(く)ゆ生命を惜む心だに今しばしにて忘れはつべき

 

 また文化学院に預けておいた「新新源氏物語」の原稿も焼失してしまった。

 

十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰

 

 

2020年8月10日 (月)

文学忌

   「好色一代男」などの浮世草紙で知られる井原西鶴の命日8月10日(1693年)にちなんだ「西鶴忌」。芭蕉忌は10月12日、近松忌は11月22日。文学忌は、故人をしのばせる季節の風物誌などにちなんで名付けることがある。政治家には忌日をしのぶ風習はあまりない。例えば、正岡子規の「糸瓜忌」、梶井基次郎の「檸檬忌」、芥川龍之介の「河童忌」、太宰治の「桜桃忌」、司馬遼太郎の「菜の花忌」、渡辺淳一の「ひとひら忌」、井上ひさしの「吉里吉里忌」などが有名である。だが、12月9日の夏目漱石の命日は「漱石忌」というだけで、別名はない。漱石ご本人が「文学忌なんていらない」といったかどうかは知らない。そういえば立派な文学記念館もない。数年前に新宿区早稲田にこじんまりとした「漱石山房記念館」が開館した。

 

 

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