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2024年9月18日 (水)

「浮雲」と屋久島

   成瀬己喜男監督の「浮雲」が19日にBSプレミアムシネマで放送される。原作は林芙美子が昭和24年に発表した小説である。小説の最後の舞台となる屋久島はことに「屋久島の豪雨」を有名にしたという。

   「ここは、雨が多いんだそうですね」富岡が一服つけながら、軽い箱火鉢を引き寄せて聞いた。「はァ、一ヶ月、ほとんど雨ですな。屋久島の月のうち、三十五日は雨といふ位でございますからね……」

    この有名な件は「一月(ひとつき)に35日雨が降る屋久島は……」とブログ検索で調べても、現在、屋久島の枕詞のように使われている。しかし林芙美子は「屋久島紀行」を残しているように綿密な現地取材をする作家なので、おそらくこの言葉は現地の人から実際に聞いた言葉であろう。また小説の主人公の終焉の地であるところから、文学ファンにとって、屋久島は暗く悲しいイメージがつきまとった。しかし現在は世界遺産として観光客も多く暗いイメージは微塵もない。身近に屋久島に旅行した人に話を聞いたが、小説「浮雲」のことは全然知らなかった。戦後の話は遠い過去だったのだ。

    終戦直後、幸田ゆき子は恋人の富岡兼吾を追って、仏印ダラットから福井の敦賀へ引き揚げてきた。だが、富岡には妻がいるばかりか、複数の愛人とも情事を重ねている。それでも、富岡と別れられないゆき子は、もう一度やり直そうと二人は旅にでる。ゆき子は屋久島に向かう途中で病気になる。やっとのことで屋久島にたどりつくが身動きできないようになった。ある豪雨の日、勤務中の富岡に急変の知らせが届く。富岡は、明かりを持ってきてゆき子の死に顔を見つめて、すすり泣くばかりだった。

 

                       *

 

   風が出た。ゆき子の枕許のローソクの灯が消えた。富岡は、よろめきながら、新しいローソクに灯を点じ、枕許へ置きに行った。面のように、表情のない死者の顔は、孤独に放り出された顔だったが、見るものが、淋しそうだと思ふだけのものだと、富岡は、ゆき子の額に手をあててみる。だが、すぐ、生き身でない死者の非情さが、富岡の手を払いのけた。富岡は、新しい手拭いも、ガーゼもなかったので、半紙の束を、屋根のように拡げて、ゆき子の顔へ被せた。

 

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「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」

2024年8月18日 (日)

細君譲渡事件(昭和5年)

   2010年8月23日夜、東京新宿駅で酔客がぶつかり転落して死亡された男性が、「田園の憂鬱」などの作品でしられた佐藤春夫の長男・方哉さんだったことは哀しいニュースだった。

    佐藤方哉さんは昨年7月、自宅にあった夏目漱石の手紙を「佐藤春夫記念館」(新宮市新宮1番地、熊野速玉大社境内)に寄託されたばかりだった。佐藤春夫の父・豊太郎(1862-1942)は和歌山県新宮市で医院を開業していたが、かたわら鏡水、梟睡、梟叟と号し、子規に私淑していた俳人でもあった。手紙には「東牟婁郡志速玉神社小史並びに熊野牛王拾葉いづれも到着、有難頂戴致候」などと感謝が述べられている。方哉さんは、佐藤春夫が前谷崎潤一郎夫人・小林千代との間の子で(いわゆる小田原事件)、昭和7年、春夫40歳のとき生まれた。佐藤家親子三代は、江戸から平成まで148年に及ぶ。(8月18日)

 

豊太郎 文久2年~昭和17年

 

春夫 明治25年~昭和39年

 

方哉 昭和7年~平成22年

2024年8月10日 (土)

文学忌

   「好色一代男」などの浮世草紙で知られる井原西鶴の命日8月10日(1693年)にちなんだ「西鶴忌」。芭蕉忌は10月12日、近松忌は11月22日。文学忌は、故人をしのばせる季節の風物誌などにちなんで名付けることがある。政治家には忌日をしのぶ風習はあまりない。例えば、正岡子規の「糸瓜忌」、梶井基次郎の「檸檬忌」、芥川龍之介の「河童忌」、太宰治の「桜桃忌」、司馬遼太郎の「菜の花忌」、渡辺淳一の「ひとひら忌」、井上ひさしの「吉里吉里忌」などが有名である。だが、12月9日の夏目漱石の命日は「漱石忌」というだけで、別名はない。漱石ご本人が「文学忌なんていらない」といったかどうかは知らない。そういえば立派な文学記念館もない。数年前に新宿区早稲田にこじんまりとした「漱石山房記念館」が開館した。

 

 

芥川賞と直木賞

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 1935年のこの日、芥川賞と直木賞が発表された。第1回の芥川賞は石川達三「蒼氓」、直木賞は川口松太郎「鶴八鶴次郎・風流深川唄・その他」受賞した。そもそも芥川賞と直木賞とは何か。文壇が個々の作品を2種に分類し、純文学と大衆文学、第一文芸と第二文芸、あるいは雅なるものと俗なるもの、このように判定する方式は、多くの国にみられる現象だそうだ。北杜夫や遠藤周作はユーモア小説と純文学とを書き分けた作家だった。芥川賞、直木賞、どちらを受賞したのか。北杜夫は1960年に「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞している。では次の作家は芥川賞か直木賞のいずれを受賞したのであろうか。

松本清張、宇野鴻一郎、梅崎春生、井伏鱒二、高橋三千綱、西村賢太。

    答えは、松本・宇野・高橋・西村は芥川賞で、梅崎、井伏は直木賞。日本の芥川賞、直木賞の選考基準はわからないところがある。中国の書物の題名に「中国俗文学史」というのがある。そのものズバリと明確に表現するのが中国で、日本は万事、あいまいにぼかすことを好むようである。評論家の巽孝之は「仮に今日、芥川本人が復活したとしても、芥川賞をとれないだろう」とマジメに論じている(「芥川龍之介は何故、芥川賞をとれないか」別冊新評1976年夏季号)もちろん芥川賞、直木賞を受賞しなかった人で優れた作品を残した作家も多い。小松左京、広瀬正、星新一、筒井康隆、小林信彦、椎名誠、田宮虎彦、阿部昭、黒井千次、後藤明生、太宰治、三島由紀夫、村上春樹など。

   今年で171回を数える。芥川賞は朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」、松永K三蔵「バリ山行」、直木賞は一穂ミチ「ツミデミック」。(8月10日)

 

 

2024年7月21日 (日)

吉川英治と「宮本武蔵」

 作家吉川英治は、病父に代わって、母を助け、弟妹の為にも一家の稼ぎ手7となっ小学校卒業を目前に奉公に出た。独学で作家となった彼は、読者にどんな境遇に立たされても夢と希望を持つことを説き続けた。彼は、「ぼくの書いたもので、のちのちまでも残るであろうものがあるとすれば、それは「宮本武蔵」と「神州天馬侠」だろう」と人に語った。吉川英治が宮本武蔵を描く以前の武蔵のイメージは武芸の達人ではあっても、必ずしも深い人格の持ち主として扱われていたわけではない。あるとき、直木三十五は武蔵がそれほど強くなかったと断じ、吉川と論争になった。「僕は作家だから小説で書く」として、やがてそれが朝日新聞に連載されることになった(昭和10年8月から昭和14年7月)。新聞社も宮本武蔵という講談向けの素材に難色を示し、吉川をあきらめさせようとしたが、吉川の熱意に負けて当初200回の予定で連載が開始された。

どうなるものか、この天地の大きな動きが。もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。武蔵(たけぞう)は、そう思った。

   このような書き出しで始まる小説だが、当初、武蔵(たけぞう)から武蔵(むさし)にならないので、編集部では「武蔵はまだか」と問題となった。やがて読者たちの間で次回を読むのが楽しみと評判となり、新聞小説がこれぼと広範な読者を獲得したのは空前の出来事で、全部で1000回を超えることとなった。吉川「宮本武蔵」で繰り返し描かれているのは、武蔵の精神的な成長過程である。手のつけられない乱暴者であった武蔵は、沢庵によって千年杉に括りつけられ、人間の勇気を説かれる。それがきっかけとなり、「今から生まれ直したい。人間と生まれたのは大きな使命を持って出て来たのだということがわかった」と、人間としての自己に目覚める。そして、武蔵は、剣の道によって、「どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう」と決心を固め、修行の旅に出かける。槍で名高い奈良の宝蔵院での闘いや、洛北蓮台寺での吉岡清十郎との戦いなどを経て、佐々木小次郎との巌流島の決闘。武蔵が小次郎に勝利したのは、力や天佑以上のものであった。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。

2024年7月15日 (月)

円空と芭蕉

Photo     生涯を旅の中に送った漂白の詩人といえば「奥の細道」の俳人・松尾芭蕉(1644-1694)を思いうかべるだろう。だが円空(1632-1695)という謎の僧も苦難の旅を生涯続けながら、10万とも12万ともいわれる多数の仏像を彫り続けた。円空は元禄8年7月15日に関市の弥勒寺で亡くなっているが、芭蕉も前年に世を去っているので、二人が旅の途中に出会っている可能性もある。だが二人の旅は対照的だったともいわれる。自己を追求した芭蕉に対して、円空は他者救済に自らの生涯を捧げた。富士川で芭蕉は捨て子に出会うが、食べ物を与えたものの、「汝の性のつたなきを泣け」と突き放して去っていく。円空は美濃の宿に泊まっていた。宿屋の主人は円空の身なりをみて、寒さしのぎの半纏を贈った。ところが円空は旅の途中で物乞いの女に出会いその半纏をあげただけでなく、持っていた金もすべて与えてしまった、という逸話が残されている。江戸時代初期、みちのくは未開の地という観があるが、円空は芭蕉よりもさらに遠く、北海道に渡り、2年ほど滞在している。芭蕉の旅にくらべ、円空の旅は想像を絶する過酷なものだったであろう。

 

 

2024年6月16日 (日)

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  本日、り天宝15年(756年)の楊貴妃の忌日(諸説あり)。享年38歳。楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

 ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。(6月16日)

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

 

 

2024年5月27日 (月)

百人一首で藤原姓は何人採られているか?

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  本日は「百人一首の日」。文暦2年(1235年)のこの日、藤原定家によって小倉百人一首が完成されたといわれる。小倉百人一首の中で藤原姓はたくさんいるだろう。だが実際に何人か?というとはっきりとした回答をしたものが見当たらない。案外と調べるのが難しい。例えば、従二位家隆は藤原家隆であり、権中納言定家は藤原定家である。このほか藤原氏出身でありながら、別称で呼ばれている場合もあるかもしれない。つまり正確ではないが、一応はっきりとわかるだけで14人もいる。

藤原興風、藤原清輔、藤原実方、藤原敏行、藤原道信、藤原基俊、藤原義孝、藤原実定、藤原俊成、藤原家隆、藤原定家、藤原朝忠、藤原伊尹、藤原道雅。

(5月27日)

芭蕉「閑さや」の句、何ゼミか?

閑さや岩にしみ入る蝉の声

  元禄2年(1689年)、松尾芭蕉は出羽の立石寺を訪れたときの句である。ひっそりとして、閑かな山寺。一山の岩にしみ入るように、蝉の声が澄み透ってきこえる。昭和元年、この蝉の種類をめぐって斎藤茂吉と小宮豊隆が論争している。アブラゼミと主張した斎藤に対して、小宮は威勢のよいアブラゼミよりも、声が細く澄み切っているニイニイゼミの方がふさわしいとした。元禄2年5月27日は太陽暦では7月13日である。この時期、アブラゼミは少なく、ほとんどがニイニイゼミである。結局、茂吉のアブラゼミ説は敗れた。のちに荻原井泉水は「涼しげに鳴くヒグラシではないかと思う」と著書に書いている。芭蕉が聞いた蝉の種類が何であったかは、決定的な証拠はなく、永遠の謎といえるが、この時期と場所から推定すると、ニイニイゼミと考えてほぼ間違いないということである。(5月27日)

 

 

2024年4月17日 (水)

漢字一文字の題名

Kokoro15   作家が小説の題名をつけるとき、どのような思いが込められているのかさまざまであろうが、漢字一文字という場合はことさらに印象が強い感がある。すぐに思いうかぶ作品は、芥川龍之介「鼻」、夏目漱石「門」、森鴎外「雁」の三作品。それから山本有三の「波」「風」、長塚節「土」、島崎藤村「春」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、カフカ「城」。室生犀星「蝶」、志賀直哉「兎」、上林暁「野」、三島由紀夫「剣」、司馬遼太郎太郎「峠」、竹西寛子「蘭」、中上賢次「岬」、富田常雄「面」、藤井重夫「虹」、河野多恵子「蟹」、丹羽文雄「顔」、宮尾登美子「蔵」「櫂」。綱淵謙錠には「斬」など48作が漢字一文字である。夏目漱石の「こころ」は自身が装幀した単行本の箱の背には「心」と漢字一文字である。

  演歌界の御大・北島三郎の唄にも一文字タイトルが多い。「歩」「盃」「誠」「祝」「道」「母」「宴」「橋」「城」「友」「竹」「夢」「命」「川」「空」「柵」「恩」「舵」「山」そして「塒」は「ねぐら」と読む。頑張れサブちゃん。

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