無料ブログはココログ

2025年4月 5日 (土)

教養人の文学史

  明治の初めから現代まで、およそ150年間の日本の文学史は、ひとことでいえば、日本文化が世界に目覚め世界に向かって、ひらかれていく過程であった。明治維新によって江戸幕府が崩壊し、代わって天皇親政の新政府が生まれ、日本は新しい国家を築いていく。しかし、明治維新による政治上・社会上の変革が、ただちに近代文学創出の道をひらいたわけではない。明治にはいって、教育が普及して文盲が少なくなり、また出版業が発達して新聞・雑誌・書籍の刊行がさかんとなり、文学が広く国民の間に読まれる素地ができたといえる。明治初年は江戸文学の系統をひいた仮名垣魯文の「安愚楽鍋」などのいわゆる戯作文学が盛んであった。明治13年前後から、自由民権運動の発展につれ、その思想を宣伝し国民に啓発するための政治小説が盛んになった。矢野竜渓の「経国美談」などがその代表である。文明開化は西洋事情の紹介を目的とする翻訳物が盛んとなったが、明治20年前後になると欧化政策に対する批判、反動としての国粋主義が台頭し、雑誌の創刊が相次ぐなど、さまざまな混沌と萌芽をはらむ思想の新しい動きが見えてきた。坪内逍遥の「小説神髄」や二葉亭四迷の「浮雲」は近代小説の出発を告げる文学史の上の記念碑的作品となったが、まだ当時の読者に十分には受け入れられるものではなかった。明治30年代の文壇の主流を占めたのは、「多情多恨」「金色夜叉」などを書いた尾崎紅葉を中心とする硯友社のグループであった。広津柳浪・泉鏡花らがこの一派から出ている。紅葉に対して、明治文壇の双璧と目されたのは幸田露伴である。人間の自由な感情を重視するロマン主義も、北村透谷・島崎藤村らによって大きな文学運動となった。日露戦争前後になると、フランスやロシアの文芸思潮の影響のもとに自然主義の文学が興隆し、写実主義の文学理念が新しい形で復活した。こうした文壇の流れにあって独自の存在を示していたのは森鷗外と夏目漱石である。鷗外ははじめ「舞姫」などのロマン主義的な作品を発表したが、のちにはしだいに歴史小説に傾いた。また漱石は「吾輩は猫である」で作家生活に入り、西欧の近代的個人主義を踏まえて社会の俗悪さに鋭い批判の目を向けたが、「心」「道草」「明暗」などの晩年の作品では醜い人間のエゴイズムとの対決から、いわゆる則天去私という東洋的な悟りの倫理が追求されている。鷗外も漱石も大正・昭和の文学に大きな影響を及ぼした。明治末から大正期にかけては、西洋の思想や文化を積極的に取り入れようとする傾向がみられた。いわゆる大正デモクラシーや昭和モダニズムの流行である。これらは日本帝国主義、軍国主義の台頭によって消失するが、第二次世界大戦後のアメリカを中心とする西洋合理主義によって日本の文学も新機軸を見出す。三島由紀夫、安部公房、石原慎太郎、開高健、大江健三郎などが戦後文学をけん引した。とくに大江健三郎は昭和32年文壇に登場して以来およそ60年間、文学から政治まで、現実社会のさまざまなジャンルに発言し、大きな影響力をもった。令和5年3月3日、大江健三郎が没したことをメルクマールとして捉え近代日本文学の終焉とみることができよう。村上春樹と大江との文学上の接点がみつからない。参考:中村光夫「明治文学史」 筑摩書房 1963

 

 

 

 

2025年3月 5日 (水)

迷える羊

Photo_2    「ストレイシープ(迷える羊)」という言葉は、聖書のマタイによる福音書18章10~14節に由来する。100匹の羊の中の一匹が迷子になり、羊飼いは99匹の羊を残して迷子の羊1匹をさがしに行かないだろうか、というイエスのたとえ話がある。一般に、神の慈悲を教えるものと捉えられる。夏目漱石の小説「三四郎」の中にも里見美禰子という女性の謎めいた言葉として印象的に使われている。一般にこの言葉は聖書の中では「罪人」という意味で使われている。漱石「三四郎」においてどのような意味で使ったのか解釈をめぐってはさまざまな意見がある。漱石も読者がいろいろな受け止めができることを意図したものであろう。

    小説の終わりで、美禰子がかすかな声でいう。「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」美禰子はストレイシープが自分のことであり、三四郎を好きであることを告白している。これに対して三四郎は「ただ口の内でストレイシープ、ストレイシープと繰り返した」で小説は終わる。

    ところが英語の聖書には「ストレイシープ」という語は見られない。漱石が英国留学時代に研究したヘンリー・フィールディング(1707-1754)の「トム・ジョーンズ」(1749年)には「ストレイシープ」がでてくる。三四郎の友人の佐々木与次郎が「ダーター・ファブラ」(他人事ではないの意)という言葉をよく意味を知らずに使っている。岩波文庫の注では「デ・デ・ファブラ」はホラチウス「風刺詩」の言葉とあるが、それは初出であって、おそらく漱石はロバート・ブラウニングの詩集「男と女」を読んで「ストレイシープ」「デ・デ・ファブラ」という語から小説のインスピレーションを受けたものであろう。

2025年2月25日 (火)

斎藤茂吉没す(1953年)

   斎藤茂吉(1882-1953)は昭和20年2月、故郷の山形県南村山郡堀田村金瓶(現・上山市)に赴き、弟高橋四郎兵衛と疎開の打合わせをした。4月11日、単身にて上山町山城屋に疎開し、14日より郷里金瓶の斎藤十右衛門方に落着いた。昭和21年1月30日、金瓶を去って大石田町に移る。3月13日、肋膜炎に罹り、5月上旬まで臥床療養。

   北杜夫は「死」(岩波書店「世界」昭和39年4月)という作品でつぎのように書いている。

   戦後、父は疎開先の大石田で肋膜炎を患った。それから急速に肉体的に衰えた。昭和24年頃から歩行がかなり不自由になった。軽い左半身の麻痺も起こした。更に26年の2月、はじめて心臓の発作がやってきた。27年の4月にも、つづけて二度大きな発作があった。呼吸が切迫し、口唇、手足にもチアノーゼが現れたそうである。だが父は生きのびた。そのような肉体の衰えは、年齢からいっても既往症からいっても必然的なものであったかも知れない。だが、それに伴って精神の衰退がやってきた。もっと端的にいえば、父は頭脳をやられたのである。おそらくは脳動脈の硬化からくる老年性痴呆への進行が徐々に訪れてきていた。それは治療法とてない老年の残酷な生理の現れであった。

   昭和28年2月25日午前11時20分、新宿区大京町の自宅で心臓病のために没した。享年満70歳であった。遺体は28日、幡ヶ谷火葬場で火葬され、遺骨は2個の骨壷に分骨された。告別式は3月2日午後1時、築地本願寺で行なわれた。葬儀参列者220名、一般会葬者645名、遺骨は青山墓地と山形県の金瓶の宝泉寺に納められた。戒名、赤光院仁誉遊阿暁寂清居士

2025年2月24日 (月)

直木三十五の速筆

Photo     直木三十五は大正・昭和期に活躍した大衆小説家。代表作は「南国太平記」。没後その功績をたたえ直木賞が制定された。直木賞はエンタメント系の作品に与えられ、近年は、葉室麟(第146回)、辻村深月(第147回)、朝井リョウ(第148)、安部龍太郎(第148回)、桜木紫乃(第149回)、朝井まかて、姫野カオルコ(第150回)、黒川博行(第151回)、西加奈子(第152回)、東山彰良(第153回)、青山文平(第154回)、荻原浩(第155回)、恩田陸(第156回)、佐藤正午(第157回)、門井慶喜(第158回)、島本理生(第159回)、真藤順丈(第160回)、大島真澄(第161回)、川越宗一(第162回)、馳星周(第163回)、西條奈加(第164回)、佐藤究(第165回)、澤田瞳子(第165回)、今村翔吾(第166回)、米澤穂信(第166回)、窪美澄(第167回)、小川哲(第168回)、千早茜(第168回)、垣根涼介(第169回)、永井紗耶子(第169回)、河崎秋子(第170回)、万城目学(第170回)、一穂ミチ(第171回)、伊与原新(第172回)がそれぞれ受賞している。

    現在の作家はパソコンやワープロで原稿を書くだろうが、むかしはペンが一般的な筆記用具であった。もちろん万年筆という高級な筆記用具もあるが、貧乏な文士は「つけペン」が主流である。芥川龍之介の原稿の字の小さいのは知られているが、それよりも久保田万太郎が小さく、直木三十五はさらに細かくで細い字を書く。それに速筆である。普通の人は1日に400字詰原稿用紙10枚程度だが、直木は1日に60枚は書いた。銅色のGペンをペン軸に差し込み200字詰の原稿用紙に書く。その無理がたたって昭和9年2月24日、43歳の若さで死んだ。

2025年2月22日 (土)

おでんの日

 本日は「おでんの日」。波乱万丈、貧乏暇なし、平々凡々と、人にはさまざまな人生があるものの、所詮はみんな同じ一生である。  江戸川柳に、「どぶろくとおでんは夜の共稼ぎ」がある。屋台の寒い冬には屋台のおでんが美味しい。ホトトギスの高浜虚子(1874-1959)には、何故かおでんの句が多い。虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。虚子におでんの句が多いのは、平凡を愛する心が人生観となっているからであろうか。虚子は明治7年2月22日、愛媛県温泉郡町新町で生まれた。

 

  振り向かず返事もせずにおでん食ふ

 

  おでんやを立ち出でしより低唱す

 

  戸の隙におでんの湯気の曲り消え

 

  硝子戸におでんの湯気の消えていく

 

  志 俳諧にあり おでん食ふ

 

  おでんやの娘愚かに美しき

 

 

2025年2月 7日 (金)

靉靆(あいたい)という漢語を読めますか?明治初期の漢文漢語の流行

   漢文とか漢学というと、古臭くて得たいの知れない代物と思われそうだ。しかし最近、自分より少し年下の行政経営の方と一献酌み交わしたときに、ジャズや芸術論の話が出た後に「あなたは何をしているのか」と聞かれたので「東洋史です。最近は漢学に興味がある」と正直に言ったら「漢学は奥が深い」と言ってくれた。その一言がとてもうれしかった。

   漢学や儒教は古臭くて、近代日本の発展を阻害した元凶のように考えている人が多数いるが、本来、文化性・合理性を持った学問である。また明治以後の日本の近代化に果たした役割も大きい。朱子学、古学、陽明学などの三学は多少の差はあっても、本質的には思弁的な学問であり、主要なテーマは理と気であり、心であり、性である。つまり幕末明治の漢学者たちは、洋学の受容に先立って、理詰めの判断による事象の理解ができていた。従って彼らにとって洋学も決して異質の学問ではなかった。彼らは漢籍の読書過程で、すでに洋学理解に必要な判断力を備えていたのである。

    明治維新と言えば「文明開化」が同義語のように思われ、漢学は一斉に退潮したと考えられがちであるが、実際は明治初年には「漢語の流行」という現象が起こっている。当時流行した漢語で「勉強」「規制」「注意」「関係」「管轄」「区別」「周旋」など今日もなお日常語として残っているものも少なくない。

    牧野謙次郎は次のように解説している。

明治初年にはなお旧幕の鴻儒が生存し、漢語漢文の流行があった。例えば、当時の言葉、髪床は理髪店と改められ、風呂に入ることは入湯と称せられ、不都合をした時は、失敬と謝るようになった。この漢語の流行を来たした原因は何であったかというに、幕末維新の際、国事に奔走した全国諸藩の人々は、互いに交通し会合する必要があった。しかし各国にはそれぞれ方言があって、今日の如く標準語が普及していても、しかも仙台の人と鹿児島の人とが国の訛りで話せば話が通じないであろうが、当時はなおさらのこと、話す言葉が理解できず、非常に会話の障害となった。そこで漢語ならば話に問題がなかろうという所から、漢語がこれらの社会に流行するに至ったのである。そして維新後には、これらの人々が多く要路に立ったため、ついに漢語が上流社会の言葉となったのである。(「日本漢文学史」昭和13年)

 明治の小説家たちの文章で注意すべきことは、現代ではほとんど使われない自然にかかわる描写・形容などの類の漢語が多い事である。例えば「靉靆(あいたい)」という漢語がある。「雲のたなびくさま。また、雲の厚いさま」を表現しているが、「紫の雲 靉靆と棚引き」(坪内逍遥「細君」)のように使われる。

「蕭条(しょうじょう)」ひっそりとしてもの悲しいさま。「十一月の近づいたことを思わせるやうな蕭条とした日で」(島崎藤村「破戒」)

 

2025年1月23日 (木)

八甲田山雪中行軍遭難事件

Img545c77e8n1gh4c

   日本陸軍は対ロシア戦に備えて、雪中行軍の訓練を計画した。開戦した場合、津軽海峡と陸奥湾を封鎖されると、青森・弘前、青森・八戸間の交通は八甲田山系を縦断する道路を利用せざるを得なくなるが、雪深い冬期の交通が可能か否か、未だ確認されていなかった。そのため陸軍の実験行軍を決定、青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第31連隊に八甲田山の縦走を命じた。明治35年1月23日6時、青森歩兵第五連隊215人(神成文吉、山口鋠)は出発する。だが途中、吹雪のため進退を決するべく作戦会議が開かれた。悪天候を見れば退却は明らかであったが、大隊長の決断で前進が決まった。こうして猛吹雪で道を迷って彷徨、25日には199人が凍死した。この大惨事は準備不足と天候の急変が原因であるが、加えて指揮官の無謀な判断が多大な犠牲を強いる結果となった。同じ時期、反対側の三本木から青森へ進んだ弘前歩兵第31連隊(福島泰蔵)は11日間にわたる全行程を踏破し、無事に青森に帰還している。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は二隊を対比し、自然との闘いを迫真の筆致で描いている。ちなみに福島泰蔵は3年後、日露戦争黒満台会戦において戦死している。享年38歳。

 

 

2025年1月17日 (金)

今月今夜の月の日

Image414

 

   本日は尾崎紅葉の小説「金色夜叉」のなかで、貫一お宮が熱海の海岸で別れた日である。この日の夜が曇り空になることを「貫一曇」と言う。

    尾崎紅葉(1867-1903)、慶応4年(明治元年)1月10日(旧暦では慶応3年12月16日)、江戸芝中門前町に生まれる。本名は徳太郎。父は尾崎惣蔵、通称を武田谷斎(こくさい)という象牙彫りの名人。母は漢方医荒木舜庵の娘庸(よう)である。谷斎は屋号を芝伊勢屋という商家の出であったが、一面に赤羽織の谷斎と呼ばれる、奇行に富む幇間でもあって、紅葉はこの実父のことは生涯秘密で通した。明治28年、山田美妙らと硯友社を結成。「二人比丘尼色懺悔」「伽羅枕」「三人妻」「金色夜叉」など主要作品のほとんどを読売新聞に発表している。出世作で好評を得た雅俗折衷の文体は苦心して創造したものであったが、明治24年の「二人女房」後半から言文一致を試み、である調を用いた。表現の技巧に苦心することを文学の第一義と考え、優れた文章を書く努力を生涯続けた。

   三島由紀夫は昭和43年に中央公論社から刊行された「日本の文学」編集委員でもあったが、シリーズ中の「尾崎紅葉・泉鏡花」の解説を書いている。三島の文学観がうかがえて面白い。依田百川(学海)の尾崎紅葉評を引用しているので紹介する。「当時の紅葉の小説は、一方では満天下の婦女子の紅涙もしぼったけれども、一方では、文章の巧妙練達と、また、その奇思湧くが如く、警語頗る多し!によって敬愛されていたのである。はじめは人も異としたであろうが、奇思や警句を喜ぶ態度は、その文章を味わう態度と共に、文学鑑賞の知的態度と云わねばならない。明治文学からこのような知的な読者のたのしみ方を除外すると、その魅力の大半が理解されなくなる惧れをなしとしない。鴎外にしても漱石にしてもそうである。小説中の客観描写の洗練と、日本的なリゴリズムを伴った人事物象風景それ自体の実在感や正確度を要求する態度は、自然主義や白樺派以後に固定した態度であり、このような鑑賞方法がその後の近代文学をがんじがらめにしたことは周知のとおりである。従って紅葉を読むときは、まず、一種観念的なたのしみ方から入ってゆくことが必要である。洒落や地口も、警句の頻出も、はなはだアレゴリカルな筋立ても、そういうたのしみ方なら許容されるばかりか、明治文学の持っているむしろ健康な観念的性格に素直に触れることができるのである。」と読者入門のガイダンスとしては親切丁寧な一文であろう。三島の勉強家で誠実な人柄があらわれている。

    最後に尾崎紅葉の文体を鑑賞するために、有名なる「間貫一、お宮の熱海の海岸の別れの場面」の一部を紹介する。

   打ち霞みたる空ながら、月の色の匂いこぼるるようにして、微白き海は縹渺として限りを知らず、たとえば無邪気な夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹き来る風は人を酔わしめんとす。打ち連れてこの浜辺を逍遥せるは貫一と宮となりけり。

「僕はただ胸が一杯で、何も言うことが出来ない」

Photo_2   五歩六歩行きし後、宮はようよう言い出でつ。

「堪忍して下さい」

「何もいまさら謝ることはないよ。一体今度のことはおじさんおばさんの意から出たのか、またお前さんも得心であるのか、それを聞けばいいのだから」

「…………」

「こッちへ来るまでは、僕は十分信じておった、お前さんに限ってそんな了簡のあるべきはずはないと。実は信じるも信じないもありはしない、夫婦の間で、知れきった話だ。昨夜おじさんからくわしく話しがあって、その上に頼むというおことばだ」

   差しぐむ涙に彼の声は顫いぬ。

(中略)

「ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言うのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、よく覚えておおき。来年の今月今夜は、貫一はどこかでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるからね、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」

(中略)

「ああ、私はどうしたらよかろう!もし私があッちへ嫁ったら、貫一さんはどうするの、それを聞かせ下さいな」

   木を裂くごとく貫一は宮を突き放して、

「それじゃいよいよお前は嫁ぐ気だね!これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちぇえ、腸の腐った女!姦婦!!」

   その声とともに貫一は脚をあげて宮の弱腰をはたとけたり。地響きして横さまにまろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣き伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるように、彼の身動きも得せず弱々とたおれたるを、なお憎さげに見やりつつ、

「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心変りをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みのために貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖ってやる覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目にはかからんから、その顔をあげて、真人間でいる内の貫一の面をよく見ておかないかい。長々のご恩に預ったおじさんおばさんには一目会ってだんだんのお礼を申し上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あって貫一はこのまま長のお暇を致しますから、随分お達者でご機嫌よろしゅう……宮さん、お前からよくそう言っておくれ、よ、もし貫一はどうしたとお訊ねなすったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまった……」

   宮はやにわに蹶ね起きて、立たんすれば脚の痛みに脆くも倒れて効なきを、ようやく這い寄りて貫一の脚に縋り付き、声と涙とを争いて、

「貫一さん、ま……ま……待って下さい。あなたはこれからど……どこへ行くのよ」

   貫一さすがに驚けり、宮の衣のはだけて雪羞ずかしくあらわせる膝頭は、おびただしく血に染みて顫うなりき。

(中略)

   ついに倒れし宮は再び起つべき力も失せて、ただ声を頼みに彼の名を呼ぶのみ。ようやく朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶えしてなお呼び続けつ。やがてその黒き影の岡の頂に立てるは、こなたをまもれるならんと、宮は声の限りに呼べば、男の声もはるかに来たりぬ。

「宮さん!」

「あ、あ、あ、貫一さん!」

   首を延べてみまわせども、目をみはりて眺むれども、声せし後は黒き影の沸き消すごとく失せて、それかと思いし木立の寂しげに動かず、波は悲しき音を寄せて、一月十七日の月は白く愁いぬ。宮は再び恋しい貫一の名を呼びたりき。(1月17日)

 

 

 

 

2025年1月15日 (水)

芥川賞と直木賞

Md20090409625617_web

 1935年8月10日、芥川賞と直木賞が発表された。第1回の芥川賞は石川達三「蒼氓」、直木賞は川口松太郎「鶴八鶴次郎・風流深川唄・その他」受賞した。そもそも芥川賞と直木賞とは何か。文壇が個々の作品を2種に分類し、純文学と大衆文学、第一文芸と第二文芸、あるいは雅なるものと俗なるもの、このように判定する方式は、多くの国にみられる現象だそうだ。北杜夫や遠藤周作はユーモア小説と純文学とを書き分けた作家だった。芥川賞、直木賞、どちらを受賞したのか。北杜夫は1960年に「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞している。では次の作家は芥川賞か直木賞のいずれを受賞したのであろうか。

松本清張、宇野鴻一郎、梅崎春生、井伏鱒二、高橋三千綱、西村賢太。

    答えは、松本・宇野・高橋・西村は芥川賞で、梅崎、井伏は直木賞。日本の芥川賞、直木賞の選考基準はわからないところがある。中国の書物の題名に「中国俗文学史」というのがある。そのものズバリと明確に表現するのが中国で、日本は万事、あいまいにぼかすことを好むようである。評論家の巽孝之は「仮に今日、芥川本人が復活したとしても、芥川賞をとれないだろう」とマジメに論じている(「芥川龍之介は何故、芥川賞をとれないか」別冊新評1976年夏季号)もちろん芥川賞や直木賞を受賞しなかった人で優れた作品を残した作家も多い。小松左京、星新一、筒井康隆、小林信彦、椎名誠、田宮虎彦、阿部昭、黒井千次、後藤明生、太宰治、三島由紀夫、村上春樹など。

   今年で172回を数える。芥川賞は安堂ホセ「DTOPIA(デートピア)」と鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」、直木賞は伊与原新「藍を継ぐ海」が選ばれた。(8月10日)

 

 

2024年12月30日 (月)

横光利一忌

Img_65263_117621_2

 

   本日は小説家、横光利一の1947年の忌日。急性腹膜炎で49歳の若さで逝去した。作家に関わる作品や遺品、あるいは写真で紹介しようとする試みは近年さかんで、全国各地に文学館・記念館は数百あるといわれる。だが不幸にも戦前期、昭和文学の主導者であった横光利一文学記念館はない。単独館がないという意味で、展示室の類は数箇所ある。妻の横光千代の書簡が価格12000円で市場で販売されているが、記念館がないと散逸してしまう恐れがあるだろう。横光の父が測量技師で、幼い頃、各地を転々としたことも関係するであろう。生れは福島県北会津郡の東山温泉の旅館「新瀧」だった。千葉県佐倉へ移り、明治37年に母の故郷三重県阿山郡東柘植村で落ち着いた。横光利一の故郷は三重県柘植であろう。ここには柘植歴史民俗資料館や三重県立上野高校明治校舎「横光利一史料展示室」がある。妻千代の故郷山形県鶴岡市の大宝館にも展示室がある。(12月30日)

0309t02_s
三重県立上野高校明治校舎には中学時代の日記など所蔵し、最も充実したコレクションである

 

Img_0016
  将棋をさす、川端康成と横光利一 昭和12年

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30