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2021年2月17日 (水)

安吾忌

11391   坂口安吾は1955年2月17日、高知に「安吾新日本風土記」の取材に行った直後に自宅の桐生市において脳出血でこの世を去っている。まだ48歳だった。安吾には珍事件がたくさんあるが、静岡県伊東に競輪場ができると安吾は夢中になった。あるとき1着、2着が写真判定となった。だが発表された着順に不服の安吾は判定写真のすり替えによる不正を沼津地裁に訴えたが、結局、判定は覆らなかった。無頼派でも太宰治は今でもよく読まれるが、安吾は忘れされてしまった。だが最近NHKで「明治開化安吾捕物帖」がドラマ化された。結城新十郎という日本版シャーロックホームズといったところ。ドラマのエンドロールで写される小林清親の浮世絵が美しい。とくに「大川岸一之橋遠景」の人力車の風景がお気に入りである。

2021年2月 7日 (日)

敦盛は生きていた?

Atsumori   1184年のこの日、一ノ谷の合戦があった。源義経率いる部隊は、鵯越をこえて、背後からの奇襲で平氏軍を破った。この戦いでは多くの平氏の公達が死亡した。薩摩守忠度、平通盛らは戦死した。もっとも有名な話は敦盛の最期であろう。

  平敦盛は「平家物語」では一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実との一騎打ちの末に討たれたことになっている。だが歌舞伎「一谷嫩軍記」では敦盛は実は後白河法皇のご落胤で、義経の命をうけて熊谷直実が救出するというストーリーである。一見、荒唐無稽な話のようだが、広島県の永江の里(庄原地方)には古くから「敦盛さん」という民謡が伝わり、それによると敦盛は討ち取られたのではなく、庄原に逃れて生涯を終えたという。熊谷次郎の一子の小次郎が身代わりとなって、許婚の玉織姫と共に逃れたという話も絶対に有り得ないとまでいえない。敦盛の「青葉の笛」も正式には「小枝」(さえだ)といい、鳥羽院から祖父忠盛が賜ったものであった。熊谷次郎が我が子を失ってまでも守らなければならなかった高貴な人というのは天皇家の血をひいているからであろうか。のちに熊谷直実は出家して法然の弟子となって蓮生坊と名のったという。(2月7日)

 

 

 

 

明智光秀は生きていた?

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 豊臣秀吉が本陣を置いた宝積寺

   天正10年6月1日、深夜、明智光秀は1万3000の軍を率いて亀山城を出陣、山陰道を東進し、途中丹波と山城の境の老ノ坂を越え、沓掛を経て京に入る。2日未明、本能寺を奇襲し、織田信長を討つ。本能寺は当時、四条西洞院にあり、寺域は東西約140m、南北約270m。寺ではあるが、四方に塀をめぐらした小城郭といった観があった。豊臣秀吉に本能寺の変報が舞い込んだのは3日の晩のことであった。そして7日には居城の姫路城に入った。9日、大軍勢を率いて東上し、11日には尼崎に到着。12日、秀吉軍は摂津富田に進出、池田恒興らが参軍。13日、秀吉は神戸信孝と丹羽長秀両将が参軍するや、正午ごろ、山崎に着陣して天王山中腹の宝積寺に本営を置いた。明智軍1万6000対秀吉軍3万6000。激闘すること2時間余。明智光秀は豊臣秀吉に撃破された。大河ドラマ「麒麟がくる」最終回を観る。通説では明智光秀は小栗栖で農民に刺殺されたとされるが、本作ラストでは、光秀が生存していたと思わせるようなシーンで終わっている。

2021年1月29日 (金)

草城忌

仰向けの口中に屠蘇たらさるる

   病で正月も入院しているのだろうか。御節料理はないが、せめて屠蘇だけはと妻が用意してくれた。仰臥のまま草城の口へたらたらと屠蘇が流される。何とも空しい感慨が身にせまる。日野草城は明治34年、東京市下谷区山下町に生れる。戦前、新興俳句運動の中心として活躍するが、自由主義・モダニストぶりが災いし、ホトトギスを除籍される。戦災に遭い、また病に伏した。この句を詠んだ昭和31年1月29日、大阪府池田市で心臓衰弱で没した。享年54歳。戒名「克修院法誉草城居士」

 

 

2021年1月23日 (土)

青森歩兵第五連隊 八甲田山雪中行軍遭難事件

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   日本陸軍は対ロシア戦に備えて、雪中行軍の訓練を計画した。開戦した場合、津軽海峡と陸奥湾を封鎖されると、青森・弘前、青森・八戸間の交通は八甲田山系を縦断する道路を利用せざるを得なくなるが、雪深い冬期の交通が可能か否か、未だ確認されていなかった。そのため陸軍の実験行軍を決定、青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第31連隊に八甲田山の縦走を命じた。明治35年1月23日6時、青森歩兵第五連隊215人(神成文吉、山口鋠)は出発する。だが途中、吹雪のため進退を決するべく作戦会議が開かれた。悪天候を見れば退却は明らかであったが、大隊長の決断で前進が決まった。こうして猛吹雪で道を迷って彷徨、25日には199人が凍死した。この大惨事は準備不足と天候の急変が原因であるが、加えて指揮官の無謀な判断が多大な犠牲を強いる結果となった。同じ時期、反対側の三本木から青森へ進んだ弘前歩兵第31連隊(福島泰蔵)は11日間にわたる全行程を踏破し、無事に青森に帰還している。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は二隊を対比し、自然との闘いを迫真の筆致で描いている。

2021年1月21日 (木)

日本文学史・杉田久女

本日は近代俳句における最初期の女性俳人・杉田久女の1946年の忌日。享年56歳。代表句「足袋つぐやノラとならず教師妻」「谺して山ほととぎすほしいまま」(1月21日)

 

2021年1月20日 (水)

日本文学史・岩野泡鳴

102636   岩野泡鳴(1873-1920)は1873年のこの日、現・兵庫県洲本市で生まれた。泡鳴は他の自然主義の作家たち、たとえば「破戒」(1906)「家」(1910)の島崎藤村、「蒲団」(1907)の田山花袋、「あらくれ」(1915)の徳田秋声などと比較すると、今日その名は忘れさられようとしている気がする。だが彼の日記によれば、大正8年の小説だけの収入は4千5百円余とあり、当時の作家の最高位になるほどの人気であった。なせそれほど人気があったのか?今でこそ自由恋愛の時代だが、明治・大正時代は「自由」「恋愛」という概念すらなかった。結婚相手は親が決めるのが当然という時代に、個人の自由な恋愛をテーマとしたり、女性との肉体関係を赤裸々に告白することが、誠実な作家の態度であると信じていた。岩野泡鳴は決していいかげんな人物ではなく、なにごとにも真剣であり、真実をもとめたために、私生活は物議をかもすことが多かった。

    泡鳴は父直夫が経営していた下宿屋「日の出館」(芝区西久保八幡町)をそのまま妻の竹腰幸に任せて、小説を書いていた。最初の妻の幸は年上の小学校教師で周囲の反対をおして駆け落ちまでして一緒になった二人である。明治42年に「新小説」に「耽溺」を発表し、高い評価をえた。ところがこの頃、突然に樺太へ移住を計画し、事業をするが失敗する。このころのことは「泡鳴五部作」に書かれている。あらすじは、父の死後、下宿屋の当主になった田村義雄が紀州から上京した清水お鳥と知り合い妾に囲う経緯が「発展」「毒薬を飲む女」で、缶詰事業に失敗して北海道に放浪し、帰京するまでが「放浪」「断橋」「憑き物」に描かれている。私生活でも増田しも江(「毒薬を飲む女」のモデル)を芝切通広町に囲っていた。ところが明治42年には、妻と別居し、増田しも江とも別れ、12月には婦人運動家の遠藤清子と同棲する。大正4年には新潮社の筆記者、蒲原英枝と深い仲となり巣鴨町に同棲する。しかし、英枝には前夫がいて、世間から「姦夫姦婦」と非難され、訴訟にまで発展する。身辺に取材した描写は小説の本道と考えていた自然主義の作家ではあるが、岩野泡鳴はもっとも思い切った自己暴露を試みた作家であった。(1月20日)

 

 

 

2021年1月19日 (火)

森鴎外の雅号

  森鴎外は1862年のこの日、現在の島根県津和野で生まれた。森鴎外の鴎外、鴎外漁史は雅号であり、本名は森林太郎である。諱(いみな)は高湛(たかやす)といい、姓は源である。雅号はこの他にも紺珠居士、観潮楼主人その他いろいろと使っているが全部でいくつあるか調べてみたい。ところで、雅号を持つということは中国、韓国、日本の古い文人墨客の伝統であって、この伝統が廃れたのは大正末期ころだといわれている。

    森鴎外の雅号は、学生時代には参木舎、五木生、索舟居士、転丸堂主人など。花園町・太田原在住のころは顕微斎主人、侗然居士、忍岡樵客、緑外樵夫、湖上逸民、台麓学人、小林紺珠、鐘礼舎、浮漚子、須菩提、艮崖など、団子坂移住後は観潮楼主人、千朶山房主人、隠流(小倉左遷時代)、妄人、芙蓉、ゆめみるひと、腰弁当、帰休庵、挟書生などを号した。

    鷗外には5歳下の弟がいる。森篤次郎(1862-1908)で別名、三木竹二という。歌舞伎の劇評家として知られ、40歳で亡くなっている。(1月19日)

 

           

 

 

2021年1月14日 (木)

額田大王

  万葉集初期の女流歌人。鏡王の娘で、はじめ大海人皇子の愛を受けて十市皇女を産んだが、のちに天智天皇に愛されて近江大津宮に仕えた。壬申の乱後は、大和遷都に伴って大和に帰り住んだらしい。有名な歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」は661年1月14日の作。大意は「伊予の熟田津で、舟遊びをしよう、と月の出を待っているうちに、月も昇り、潮もいい加減になってきた。さあもう漕いで出ようよ。」

 

2021年1月10日 (日)

明治文学365日

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   本日は尾崎紅葉の誕生日、そして1月17日は「金色夜叉」貫一お宮が熱海の海岸で別れた日である。

    尾崎紅葉(1867-1903)、慶応4年(明治元年)1月10日(旧暦では慶応3年12月16日)、江戸芝中門前町に生まれる。本名は徳太郎。父は尾崎惣蔵、通称を武田谷斎(こくさい)という象牙彫りの名人。母は漢方医荒木舜庵の娘庸(よう)である。谷斎は屋号を芝伊勢屋という商家の出であったが、一面に赤羽織の谷斎と呼ばれる、奇行に富む幇間でもあって、紅葉はこの実父のことは生涯秘密で通した。明治28年、山田美妙らと硯友社を結成。「二人比丘尼色懺悔」「伽羅枕」「三人妻」「金色夜叉」など主要作品のほとんどを読売新聞に発表している。出世作で好評を得た雅俗折衷の文体は苦心して創造したものであったが、明治24年の「二人女房」後半から言文一致を試み、である調を用いた。表現の技巧に苦心することを文学の第一義と考え、優れた文章を書く努力を生涯続けた。

   三島由紀夫は昭和43年に中央公論社から刊行された「日本の文学」編集委員でもあったが、シリーズ中の「尾崎紅葉・泉鏡花」の解説を書いている。三島の文学観がうかがえて面白い。依田百川(学海)の尾崎紅葉評を引用しているので紹介する。「当時の紅葉の小説は、一方では満天下の婦女子の紅涙もしぼったけれども、一方では、文章の巧妙練達と、また、その奇思湧くが如く、警語頗る多し!によって敬愛されていたのである。はじめは人も異としたであろうが、奇思や警句を喜ぶ態度は、その文章を味わう態度と共に、文学鑑賞の知的態度と云わねばならない。明治文学からこのような知的な読者のたのしみ方を除外すると、その魅力の大半が理解されなくなる惧れをなしとしない。鴎外にしても漱石にしてもそうである。小説中の客観描写の洗練と、日本的なリゴリズムを伴った人事物象風景それ自体の実在感や正確度を要求する態度は、自然主義や白樺派以後に固定した態度であり、このような鑑賞方法がその後の近代文学をがんじがらめにしたことは周知のとおりである。従って紅葉を読むときは、まず、一種観念的なたのしみ方から入ってゆくことが必要である。洒落や地口も、警句の頻出も、はなはだアレゴリカルな筋立ても、そういうたのしみ方なら許容されるばかりか、明治文学の持っているむしろ健康な観念的性格に素直に触れることができるのである。」と読者入門のガイダンスとしては親切丁寧な一文であろう。三島の勉強家で誠実な人柄があらわれている。

    最後に尾崎紅葉の文体を鑑賞するために、有名なる「間貫一、お宮の熱海の海岸の別れの場面」の一部を紹介する。

   打ち霞みたる空ながら、月の色の匂いこぼるるようにして、微白き海は縹渺として限りを知らず、たとえば無邪気な夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹き来る風は人を酔わしめんとす。打ち連れてこの浜辺を逍遥せるは貫一と宮となりけり。

「僕はただ胸が一杯で、何も言うことが出来ない」

Photo_2   五歩六歩行きし後、宮はようよう言い出でつ。

「堪忍して下さい」

「何もいまさら謝ることはないよ。一体今度のことはおじさんおばさんの意から出たのか、またお前さんも得心であるのか、それを聞けばいいのだから」

「…………」

「こッちへ来るまでは、僕は十分信じておった、お前さんに限ってそんな了簡のあるべきはずはないと。実は信じるも信じないもありはしない、夫婦の間で、知れきった話だ。昨夜おじさんからくわしく話しがあって、その上に頼むというおことばだ」

   差しぐむ涙に彼の声は顫いぬ。

(中略)

「ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言うのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、よく覚えておおき。来年の今月今夜は、貫一はどこかでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるからね、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」

(中略)

「ああ、私はどうしたらよかろう!もし私があッちへ嫁ったら、貫一さんはどうするの、それを聞かせ下さいな」

   木を裂くごとく貫一は宮を突き放して、

「それじゃいよいよお前は嫁ぐ気だね!これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちぇえ、腸の腐った女!姦婦!!」

   その声とともに貫一は脚をあげて宮の弱腰をはたとけたり。地響きして横さまにまろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣き伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるように、彼の身動きも得せず弱々とたおれたるを、なお憎さげに見やりつつ、

「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心変りをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みのために貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖ってやる覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目にはかからんから、その顔をあげて、真人間でいる内の貫一の面をよく見ておかないかい。長々のご恩に預ったおじさんおばさんには一目会ってだんだんのお礼を申し上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あって貫一はこのまま長のお暇を致しますから、随分お達者でご機嫌よろしゅう……宮さん、お前からよくそう言っておくれ、よ、もし貫一はどうしたとお訊ねなすったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまった……」

   宮はやにわに蹶ね起きて、立たんすれば脚の痛みに脆くも倒れて効なきを、ようやく這い寄りて貫一の脚に縋り付き、声と涙とを争いて、

「貫一さん、ま……ま……待って下さい。あなたはこれからど……どこへ行くのよ」

   貫一さすがに驚けり、宮の衣のはだけて雪羞ずかしくあらわせる膝頭は、おびただしく血に染みて顫うなりき。

(中略)

   ついに倒れし宮は再び起つべき力も失せて、ただ声を頼みに彼の名を呼ぶのみ。ようやく朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶えしてなお呼び続けつ。やがてその黒き影の岡の頂に立てるは、こなたをまもれるならんと、宮は声の限りに呼べば、男の声もはるかに来たりぬ。

「宮さん!」

「あ、あ、あ、貫一さん!」

   首を延べてみまわせども、目をみはりて眺むれども、声せし後は黒き影の沸き消すごとく失せて、それかと思いし木立の寂しげに動かず、波は悲しき音を寄せて、一月十七日の月は白く愁いぬ。宮は再び恋しい貫一の名を呼びたりき。

 

 

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