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2020年2月22日 (土)

おでんの日

 本日は「おでんの日」。波乱万丈、貧乏暇なし、平々凡々と、人にはさまざまな人生があるものの、所詮はみんな同じ一生である。  江戸川柳に、「どぶろくとおでんは夜の共稼ぎ」がある。屋台の寒い冬には屋台のおでんが美味しい。ホトトギスの高浜虚子(1874-1959)には、何故かおでんの句が多い。虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。虚子におでんの句が多いのは、平凡を愛する心が人生観となっているからであろうか。虚子は明治7年2月22日、愛媛県温泉郡町新町で生まれた。

 

  振り向かず返事もせずにおでん食ふ

 

  おでんやを立ち出でしより低唱す

 

  戸の隙におでんの湯気の曲り消え

 

  硝子戸におでんの湯気の消えていく

 

  志 俳諧にあり おでん食ふ

 

  おでんやの娘愚かに美しき

 

 

2020年2月20日 (木)

志賀直哉生誕地 石巻

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 幼稚園ころの志賀直哉

 

   羽黒山北麓と、蛇行して南流する北上川とに囲まれた平野に立地する石巻村住吉町(現・石巻市)で、明治16年2月20日、志賀直哉(1883-1971)は生まれた。兄の直行は、前年、満2年8ヶ月で早世。父直温は第一銀行石巻支店員としてこの地に在勤中で31歳、母銀は元勢州亀山藩の家臣佐本源吾の4女で21歳であった。2年後には一家は東京麹町内幸町へ移転しているので、幼い志賀直哉には石巻の記憶はないが、志賀は生涯に3度も石巻を訪れている。

    明治政府は石巻と小倉を日本の2大要衝視し、明治4年4月に東山道鎮台本営を設置したが、同年11月仙台に移された。昭和10年代には鰹の水揚げ全国一になっている。平成23年、東日本大震災での石巻の被害は甚大で、死亡者数3014人、行方不明者2770人、避難者数7632人。(平成23年5月20日)。

2020年2月12日 (水)

「司馬遼太郎」筆名余話

Shibaryotaro  本日は菜の花忌。小説家・司馬遼太郎の1996年の忌日。筆名の由来は、「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)から来ている」とある。この説明は事実であるものの、寺内大吉の証言(上田正昭との対談)によれば、司馬(当時は福田定一)は深い意味で考えてつけたのではなく、「ペンネームはとっさにつけたらしいです」と語っている。「講談倶楽部」という雑誌の懸賞応募作品「ペルシャの幻術師」で初めて、司馬遼太郎のペンネームを使ったが、寺内の記憶によれば、司馬は自分がどんなペンネームを使ったかまるっきり覚えていなかったという。懸賞に応募する時にたまたまつけたので、「さあ、なんて名前だったかな」と言っていた。それを聞いた上田は「いや~僕はもっと深い意味があるのかなと思っていましたが」と答えた。寺内は「深い意味でつけたやつはダメなんですよ。気軽につけたやつが案外良いのです。変に姓名学みたいに凝った奴がダメなんでね」と語った。出典は、「姫路文学館紀要9」2003年3月所収の「青春の司馬遼太郎」より。

2020年2月 7日 (金)

敦盛は生きていた?

Atsumori   1184年のこの日、一ノ谷の合戦があった。源義経率いる部隊は、鵯越をこえて、背後からの奇襲で平氏軍を破った。この戦いでは多くの平氏の公達が死亡した。薩摩守忠度、平通盛らは戦死した。もっとも有名な話は敦盛の最期であろう。

  平敦盛は「平家物語」では一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実との一騎打ちの末に討たれたことになっている。だが歌舞伎「一谷嫩軍記」では敦盛は実は後白河法皇のご落胤で、義経の命をうけて熊谷直実が救出するというストーリーである。一見、荒唐無稽な話のようだが、広島県の永江の里(庄原地方)には古くから「敦盛さん」という民謡が伝わり、それによると敦盛は討ち取られたのではなく、庄原に逃れて生涯を終えたという。熊谷次郎の一子の小次郎が身代わりとなって、許婚の玉織姫と共に逃れたという話も絶対に有り得ないとまでいえない。敦盛の「青葉の笛」も正式には「小枝」(さえだ)といい、鳥羽院から祖父忠盛が賜ったものであった。熊谷次郎が我が子を失ってまでも守らなければならなかった高貴な人というのは天皇家の血をひいているからであろうか。のちに熊谷直実は出家して法然の弟子となって蓮生坊と名のったという。(2月7日)

 

 

 

 

2020年1月29日 (水)

草城忌

仰向けの口中に屠蘇たらさるる

 

   病で正月も入院しているのだろうか。御節料理はないが、せめて屠蘇だけはと妻が用意してくれた。仰臥のまま草城の口へたらたらと屠蘇が流される。何とも空しい感慨が身にせまる。日野草城は明治34年、東京市下谷区山下町に生れる。戦前、新興俳句運動の中心として活躍するが、自由主義・モダニストぶりが災いし、ホトトギスを除籍される。戦災に遭い、また病に伏した。この句を詠んだ昭和31年1月29日心臓衰弱で没した。享年54歳。戒名「克修院法誉草城居士」

 

 

2020年1月23日 (木)

青森歩兵第五連隊 八甲田山雪中行軍遭難事件

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   日本陸軍は対ロシア戦に備えて、雪中行軍の訓練を計画した。開戦した場合、津軽海峡と陸奥湾を封鎖されると、青森・弘前、青森・八戸間の交通は八甲田山系を縦断する道路を利用せざるを得なくなるが、雪深い冬期の交通が可能か否か、未だ確認されていなかった。そのため陸軍の実験行軍を決定、青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第31連隊に八甲田山の縦走を命じた。明治35年1月23日6時、青森歩兵第五連隊215人(神成文吉、山口鋠)は出発する。だが途中、吹雪のため進退を決するべく作戦会議が開かれた。悪天候を見れば退却は明らかであったが、大隊長の決断で前進が決まった。こうして猛吹雪で道を迷って彷徨、25日には199人が凍死した。この大惨事は準備不足と天候の急変が原因であるが、加えて指揮官の無謀な判断が多大な犠牲を強いる結果となった。同じ時期、反対側の三本木から青森へ進んだ弘前歩兵第31連隊(福島泰蔵)は11日間にわたる全行程を踏破し、無事に青森に帰還している。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は二隊を対比し、自然との闘いを迫真の筆致で描いている。

2020年1月20日 (月)

土田耕平「大寒小寒」

   「おおさむ こさむ 山から こぞうが とんでくる…」冬のさむい晩、三郎はおばあさんとこたつにあたっていた。大寒小寒の歌は、こんなさむい晩に、おばあさんが口くせのようにうたう歌だ。   「おばあさん。こぞうが、なぜ山からとんでくるの?」と三郎がきくと、おばあさんは、「山は、さむうなっても、こたつもなければお家もない。それでとんでくるのだろうよ」という。また三郎が「こぞうって、お寺のこぞうかい?」「山のこぞうは、木のまたから生れたから、ひとりぼっちだよ」「おばあさんもないの?」「ああ、ないよ」「それで、着物は着ているかい?」「おおかた、木の葉の着物だろうよ」   三郎には、頭を青くそりこくった赤はだしの山こぞうが、目に見えるように思われた。おおきくなって、三郎は東京で暮らすようになったが、毎年冬になると、大寒小寒の歌を思いだし、おばあさんを思いだすのであった。(土田耕平「大寒小寒」)。

本日は一年中で、最も寒い日と言われる「大寒」。大寒の句でよく知られるのは、「大寒の埃の如く死ぬる」(高浜虚子)、「大寒や転びて諸手つく悲しさ」(西東三鬼)あたりだろうか。

2020年1月17日 (金)

尾崎紅葉「金色夜叉」

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    かつて1月17日は「金色夜叉」熱海の海岸だった。やがてその日は山口百恵の誕生日に代わり、平成7年以降からは阪神大震災の日になった。「明治は遠くなりにけり」である。

    尾崎紅葉(1867-1903)、慶応4年(明治元年)1月10日(旧暦では慶応3年12月16日)、江戸芝中門前町に生まれる。本名は徳太郎。父は尾崎惣蔵、通称を武田谷斎(こくさい)という象牙彫りの名人。母は漢方医荒木舜庵の娘庸(よう)である。谷斎は屋号を芝伊勢屋という商家の出であったが、一面に赤羽織の谷斎と呼ばれる、奇行に富む幇間でもあって、紅葉はこの実父のことは生涯秘密で通した。明治28年、山田美妙らと硯友社を結成。「二人比丘尼色懺悔」「伽羅枕」「三人妻」「金色夜叉」など主要作品のほとんどを読売新聞に発表している。出世作で好評を得た雅俗折衷の文体は苦心して創造したものであったが、明治24年の「二人女房」後半から言文一致を試み、である調を用いた。表現の技巧に苦心することを文学の第一義と考え、優れた文章を書く努力を生涯続けた。

   三島由紀夫は昭和43年に中央公論社から刊行された「日本の文学」編集委員でもあったが、シリーズ中の「尾崎紅葉・泉鏡花」の解説を書いている。三島の文学観がうかがえて面白い。依田百川(学海)の尾崎紅葉評を引用しているので紹介する。「当時の紅葉の小説は、一方では満天下の婦女子の紅涙もしぼったけれども、一方では、文章の巧妙練達と、また、その奇思湧くが如く、警語頗る多し!によって敬愛されていたのである。はじめは人も異としたであろうが、奇思や警句を喜ぶ態度は、その文章を味わう態度と共に、文学鑑賞の知的態度と云わねばならない。明治文学からこのような知的な読者のたのしみ方を除外すると、その魅力の大半が理解されなくなる惧れをなしとしない。鴎外にしても漱石にしてもそうである。小説中の客観描写の洗練と、日本的なリゴリズムを伴った人事物象風景それ自体の実在感や正確度を要求する態度は、自然主義や白樺派以後に固定した態度であり、このような鑑賞方法がその後の近代文学をがんじがらめにしたことは周知のとおりである。従って紅葉を読むときは、まず、一種観念的なたのしみ方から入ってゆくことが必要である。洒落や地口も、警句の頻出も、はなはだアレゴリカルな筋立ても、そういうたのしみ方なら許容されるばかりか、明治文学の持っているむしろ健康な観念的性格に素直に触れることができるのである。」と読者入門のガイダンスとしては親切丁寧な一文であろう。三島の勉強家で誠実な人柄があらわれている。

    最後に尾崎紅葉の文体を鑑賞するために、有名なる「間貫一、お宮の熱海の海岸の別れの場面」の一部を紹介する。

   打ち霞みたる空ながら、月の色の匂いこぼるるようにして、微白き海は縹渺として限りを知らず、たとえば無邪気な夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹き来る風は人を酔わしめんとす。打ち連れてこの浜辺を逍遥せるは貫一と宮となりけり。

「僕はただ胸が一杯で、何も言うことが出来ない」

Photo_2   五歩六歩行きし後、宮はようよう言い出でつ。

「堪忍して下さい」

「何もいまさら謝ることはないよ。一体今度のことはおじさんおばさんの意から出たのか、またお前さんも得心であるのか、それを聞けばいいのだから」

「…………」

「こッちへ来るまでは、僕は十分信じておった、お前さんに限ってそんな了簡のあるべきはずはないと。実は信じるも信じないもありはしない、夫婦の間で、知れきった話だ。昨夜おじさんからくわしく話しがあって、その上に頼むというおことばだ」

   差しぐむ涙に彼の声は顫いぬ。

(中略)

「ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言うのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、よく覚えておおき。来年の今月今夜は、貫一はどこかでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるからね、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」

(中略)

「ああ、私はどうしたらよかろう!もし私があッちへ嫁ったら、貫一さんはどうするの、それを聞かせ下さいな」

   木を裂くごとく貫一は宮を突き放して、

「それじゃいよいよお前は嫁ぐ気だね!これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちぇえ、腸の腐った女!姦婦!!」

   その声とともに貫一は脚をあげて宮の弱腰をはたとけたり。地響きして横さまにまろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣き伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるように、彼の身動きも得せず弱々とたおれたるを、なお憎さげに見やりつつ、

「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心変りをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みのために貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖ってやる覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目にはかからんから、その顔をあげて、真人間でいる内の貫一の面をよく見ておかないかい。長々のご恩に預ったおじさんおばさんには一目会ってだんだんのお礼を申し上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あって貫一はこのまま長のお暇を致しますから、随分お達者でご機嫌よろしゅう……宮さん、お前からよくそう言っておくれ、よ、もし貫一はどうしたとお訊ねなすったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまった……」

   宮はやにわに蹶ね起きて、立たんすれば脚の痛みに脆くも倒れて効なきを、ようやく這い寄りて貫一の脚に縋り付き、声と涙とを争いて、

「貫一さん、ま……ま……待って下さい。あなたはこれからど……どこへ行くのよ」

   貫一さすがに驚けり、宮の衣のはだけて雪羞ずかしくあらわせる膝頭は、おびただしく血に染みて顫うなりき。

(中略)

   ついに倒れし宮は再び起つべき力も失せて、ただ声を頼みに彼の名を呼ぶのみ。ようやく朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶えしてなお呼び続けつ。やがてその黒き影の岡の頂に立てるは、こなたをまもれるならんと、宮は声の限りに呼べば、男の声もはるかに来たりぬ。

「宮さん!」

「あ、あ、あ、貫一さん!」

   首を延べてみまわせども、目をみはりて眺むれども、声せし後は黒き影の沸き消すごとく失せて、それかと思いし木立の寂しげに動かず、波は悲しき音を寄せて、一月十七日の月は白く愁いぬ。宮は再び恋しい貫一の名を呼びたりき。

 

 

2020年1月14日 (火)

額田大王

万葉集初期の女流歌人。鏡王の娘で、はじめ大海人皇子の愛を受けて十市皇女を産んだが、のちに天智天皇に愛されて近江大津宮に仕えた。壬申の乱後は、大和遷都に伴って大和に帰り住んだらしい。有名な歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」は661年1月14日の作。大意は「伊予の熟田津で、舟遊びをしよう、と月の出を待っているうちに、月も昇り、潮もいい加減になってきた。さあもう漕いで出ようよ。」

 

2019年12月30日 (月)

横光利一忌

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   本日は小説家、横光利一の1947年の忌日。急性腹膜炎で49歳の若さで逝去した。作家に関わる作品や遺品、あるいは写真で紹介しようとする試みは近年さかんで、全国各地に文学館・記念館は数え方にもよるが数百あるといわれる。だが不幸にも戦前期、昭和文学の主導者であった横光利一文学記念館はない。単独館がないという意味で、展示室の類は数箇所ある。妻の横光千代の書簡が価格12000円で市場で販売されているが、記念館がないと散逸してしまう恐れがあるだろう。横光の父が測量技師で、幼い頃、各地を転々としたことも関係するであろう。生れは福島県北会津郡の東山温泉の旅館「新瀧」だった。千葉県佐倉へ移り、明治37年に母の故郷三重県阿山郡東柘植村で落ち着いた。横光利一の故郷は三重県柘植であろう。ここには柘植歴史民俗資料館や三重県立上野高校明治校舎「横光利一史料展示室」がある。妻千代の故郷山形県鶴岡市の大宝館にも展示室がある。(12月30日)

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三重県立上野高校明治校舎には中学時代の日記など所蔵し、最も充実したコレクションである

 

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  将棋をさす、川端康成と横光利一 昭和12年

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