2012年5月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

2012年5月28日 (月)

堀辰雄と眼鏡

Hori1   馬酔木は早春に白い色のつぼ形の花を咲かせる。アセビの咲く頃になると堀辰雄(1904-1953)を思い出す。「浄瑠璃寺の春」という一文に馬酔木が出てくる。高校の国語の教科書に抜粋されていたのを読んだに過ぎないが、万葉集で詠まれた馬酔木の花をみたくて夫婦で旅をするというのが、想像しても絵になる世界であった。それも戦時下である。堀が病弱であることは知っていたが、あらためて年譜で確認すると、やはり悲惨な人生そのものである。関東大震災で母を亡くし、その前後から胸を病んでいたが、戦時中にやはり悪化させ、昭和21年10月から、死ぬ28年までの7年間は病床に伏していた。妻多恵さんも介護が大変だったろう。しかし堀の文学には知性と気品があり、芸術的な人生だったような気がする。彼の作品はいつまでも色あせることがない。5月28日は堀辰雄忌。

   堀辰雄のトレードマークは丸メガネである。戦前、眼鏡の作家が多い。井伏鱒二、中野重治、山本周五郎、伊藤整など。

200pxmasuji_ibuse Ph5_156_nakano_shigeharu
 井伏鱒二            中野重治

1 20003000601m
  山本周五郎            伊藤整

崇徳院御歌

    本日は崇徳天皇の誕生日。NHK大河ドラマ「平清盛」第19回「鳥羽院の遺言」崇徳院は鳥羽天皇の第1皇子となっているが、実は鳥羽天皇の祖父白河院が待賢門院璋子に生ませた不倫の子なのである。白河院の強い意向で、鳥羽天皇は譲位し、崇徳天皇はわずか5歳で皇位につくが、白河院がなくなると、鳥羽院が強い院政を敷き、崇徳天皇は21歳で譲位させられる。不幸な御生涯であったが、和歌に深く心を寄せられ名歌が多い。後白河帝即位の宴に、崇徳院が送られた歌「あさぼらけ 長き夜を越え にほひたて くもゐに見ゆる 敷島の君」句の上の文字をつなげると、「あなにくし」となり、恨みが込められている。この歌はドラマの創作であって、崇徳院の実作ではない。天皇の御歌を捏造するとは少しやり過ぎではなかろうか。崇徳院の御歌は計78首ある。「瀬を早み岩にせがるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」「春くれば雪げの沢に袖ひれて まだうらわかき若菜をぞつむ」「五月雨に花橘のかをる夜は 月すむ秋もさもあらばあれ」「いつしかと荻の葉むけの片よりに そそや秋とぞ風も聞こゆる」

2012年5月27日 (日)

奥の細道・尾花沢

  まゆはきを俤にして紅粉の花

Photo_3
 小野竹橋画

    紅花大尽、鈴木八右衛門(1651-1721)は、清風として俳諧を親しんだ。芭蕉と曽良は旅の途中、尾花沢の清風のもとに10日間も滞在し、句会を開いたり、山寺に遊んだりしている。元禄2年(1689年)旧暦5月27日(現在の7月13日)のことである。

    句の大意。尾花沢の名産である紅の花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃きを想像させるあでやかさを感じる。

   八右衛門には次のような逸話がある。あるとき江戸の商人たちが不買同盟をし、紅花の荷が宙に浮いてしまった。そのとき彼は、それではと品川の浜でその荷を焼いてしまった。(実は紅殻を古綿荷だった)それが知れ渡るとたちまち紅花の値はハネあがり、それをまって本物の紅花を売って大金を手に入れた彼は、かの吉原の大門を閉めきって豪遊した噂は江戸の巷に流れ、みんな紅花商人の気風のよさに舌をまいた。

2012年5月26日 (土)

三ヶ島葭子と左卜全

Mikazima_yoshiko 077hbokuzen_2

    明治19年8月7日、埼玉県入間郡三ヶ島村堀之内(現・所沢市堀之内)に生れる。父・三ヶ島寛太郎は、中氷川神社の出、小学校長。明治41年6月から大正3年3月まで、東京府西多摩郡小宮尋常高等小学校(現・あきる野市立小学校)に在職。この時期、与謝野晶子の門下となり、「女子文壇」「スバル」等の雑誌に多くの短歌・散文を発表した。一時は晶子の後継者と目されたこともあったが、大正5年に発病。原阿佐緒の紹介で島木赤彦の門下となり短歌を発表する。大正10年、親友の原阿佐緒と石原純との恋愛問題に関する論文を、「婦人公論」に掲載したことにより、アララギを破門される。大正15年、古泉千樫の「青垣会」結成に参加したが、昭和2年3月26日、麻布谷町(現・六本木)の自宅で喀血の後、逝去。なお、俳優の左卜全は、葭子の異母兄弟である。

名も知らぬ小鳥きたりて歌ふとき 我もまた見ぬ人の恋しき

寂しさを歌ふ人なくなりし時 ろをまの国は亡びしときく

   左卜全(1894-1971)、本名・三ヶ島一郎は、寛太郎と後妻のぶとの間に生れる。葭子は異母姉。明治42年に上京。さまざまな職業につきながら立教中学に通う。大正3年、帝劇歌劇部3期生の補欠募集で入り、「ブン大将」のコーラス・ボーイで初舞台。昭和になって松旭斎天華一座に入る。その後、軽演劇のムーラン・ルージュで老け役の喜劇俳優として独自の芸風を確立した。埼玉県所沢市の三ヶ島葭子資料室には、卜全資料も平成6年に、夫人・三ヶ島糸(旧姓・中村糸)から市に寄贈され、資料室内に合わせて展示されている。

2012年5月25日 (金)

石川啄木と函館大森浜

Photo_2

  東海の小島の磯の白砂に

  われ泣きぬれて

  蟹とたはむる

 歌集「一握の砂」の巻頭を飾る秀歌で、石川啄木の作品中最も有名なものである。作歌は明治41年6月24日で、翌7月1日発行の「明星」に「石破集」の題下に発表された140首中の一首である。初出歌は「東海の小島の磯の白妙にわれ泣きぬれて蟹と戯る」と一行書きで発表され、明治43年7月の「創作」自選歌号にも再掲されている。「東海の小島」は特定の地名や場所を指すのではないという解釈も可能であるが、この一首を啄木の閲歴、実生活との関連において鑑賞するとき、彼が生涯において親しんだ唯一の海岸である函館大森浜を念頭において歌ったのではないかと考えられる。すでに函館に渡った直後の明治40年5月26日に作った「蟹」と題する詩が「ハコダテの歌」にある。

潮満ちくれば穴に入り、

潮落ちゆけば這ひ出でて、

ひねもす横に歩むなる

東の海の砂浜の

かしこき蟹よ、今此處を、

運命(さだめ)の浪にさらはれて、

心の龕(づし)の燈明(みあかし)の

汝(なれ)が眼よりも小(ささ)やかに

滅(き)えみ明るみすなる子の

行方も知らに、草臥れて、

辿り行くとは、知るや、知らずや。

    歌集「一握の砂」は明治43年12月1日、東雲堂書店から刊行された。四六判290頁、定価60銭であった。「東海の」歌は現在函館市住吉町共同墓地東南の一角、立待崎の眺望のよい断崖の上に建つ啄木一族の墓の碑面に刻まれているが、これは岡田健蔵と宮崎郁雨によって、大正15年8月1日建てられたもので、郁雨がその資金を提供した。岡田健蔵(1881-1944)は市立函館図書館(大正11年創設)の初代館長である。宮崎郁雨は本名宮崎大四郎といい、啄木が函館へ渡ったとき以来、生涯、生活的な援助をした人で、著書に「函館の砂」がある。

2012年5月23日 (水)

阿部みどり女の俳句

Image02    阿部みどり女(1886-1980)。北海道長官・永山武四郎(1837-1904)の娘。札幌市に生まれる。結核で療養中に俳句をはじめ高浜虚子に師事する。昭和53年「月下美人」で蛇笏賞。

重陽の夕焼けに逢ふ幾たりか

六軒の檀家持つ寺柿を干す

山清水落葉の上を流れけり

雑用の中に梅酒を作りけり

北上の空に必死の冬の蝶

大空に一枚白く凍てにけり

春水を押しくぼまして風が吹く

紫苑ゆらす風青空になかりけり

うららかや空より青き流れあり

蕃山へ登る口あり冬の寺

   蕃山は仙台市にある標高356mの1時間くらいで登頂できる山である。阿部は長く仙台で暮らした。女性が詠む俳句を「台所俳句」と名づけたのは虚子だが、虚子は女流俳人を多く育てた。

2012年5月13日 (日)

芭蕉と平泉

Img_2

    12世紀の奥州藤原氏が仏教思想に基づき完成させた東北の政治・行政の拠点であった平泉の世界文化遺産登録が延期される(事実上の落選)というニュースがあった。世界遺産になると観光地として賑やかになり、巨額なマネーが落ち、利益も莫大であろうが、「夏草や兵どもが夢の跡」という芭蕉の句から連想される平泉には、むしろ荒れ果てた廃墟の美がふさわしいように感ずる。

    松尾芭蕉(1644-1694)が憧れの平泉にたどりついたのは元禄2年5月13日(陽暦6月29日)であった。高館に登って一望すると、武士の夢の跡の儚さが感じられる。高館にたてこもった源義経は、応戦むなしく自刃。享年31歳であった。山頂には義経堂が建てられ木像が祀られている。

    高館の丘を下り、中尊寺へと向かうと、金色堂と経堂の二つだけを残して、その他は一面の廃墟であった。さぞかし荒れ果てた景色に芭蕉は涙をおとしたことだろう。明治以後、中尊寺の金色堂が再建された。金色堂内陣には、本尊阿弥陀如来、その前には蓮を持った観音・勢至菩薩、左右に三体ずつ六地蔵が立つ。最前列に持国天と増長天。須弥壇の中央に初代清衡、向かって左に二代基衡、右に三代秀衡の遺骸が納められている。

   五月雨に降り残してや光堂

2012年5月 9日 (水)

泡鳴忌

102636   岩野泡鳴(1873-1920)は他の自然主義の作家たち、たとえば「破戒」(1906)「家」(1910)の島崎藤村、「蒲団」(1907)の田山花袋、「あらくれ」(1915)の徳田秋声などと比較すると、今日その名は忘れさられようとしている気がする。だが彼の日記によれば、大正8年の小説だけの収入は4千5百円余とあり、当時の作家の最高位になるほどの人気であった。なせそれほど人気があったのか?今でこそ自由恋愛の時代だが、明治・大正時代は「自由」「恋愛」という概念すらなかった。結婚相手は親が決めるのが当然という時代に、個人の自由な恋愛をテーマとしたり、女性との肉体関係を赤裸々に告白することが、誠実な作家の態度であると信じていた。岩野泡鳴は決していいかげんな人物ではなく、なにごとにも真剣であり、真実をもとめたために、私生活は物議をかもすことが多かった。

    泡鳴は父直夫が経営していた下宿屋「日の出館」(芝区西久保八幡町)をそのまま妻の竹腰幸に任せて、小説を書いていた。最初の妻の幸は年上の小学校教師で周囲の反対をおして駆け落ちまでして一緒になった二人である。明治42年に「新小説」に「耽溺」を発表し、高い評価をえた。ところがこの頃、突然に樺太へ移住を計画し、事業をするが失敗する。このころのことは「泡鳴五部作」に書かれている。あらすじは、父の死後、下宿屋の当主になった田村義雄が紀州から上京した清水お鳥と知り合い妾に囲う経緯が「発展」「毒薬を飲む女」で、缶詰事業に失敗して北海道に放浪し、帰京するまでが「放浪」「断橋」「憑き物」に描かれている。私生活でも増田しも江(「毒薬を飲む女」のモデル)を芝切通広町に囲っていた。ところが明治42年には、妻と別居し、増田しも江とも別れ、12月には婦人運動家の遠藤清子と同棲する。大正4年には新潮社の筆記者、蒲原英枝と深い仲となり巣鴨町に同棲する。しかし、英枝には前夫がいて、世間から「姦夫姦婦」と非難され、訴訟にまで発展する。身辺に取材した描写は小説の本道と考えていた自然主義の作家ではあるが、岩野泡鳴はもっとも思い切った自己暴露を試みた作家であった。

2012年4月30日 (月)

寺田寅彦と珈琲

120190   寺田寅彦(1878-1935)は幼いころ病弱であったため、医者は牛乳に少量のコーヒーを香り用として混ぜて与えた。そのため、物理学者となり、東大の研究所で働くようになってからも、壁には「好きなもの イチゴ 珈琲 花美人、懐手して宇宙見物」とローマ字で貼っていた。

    寅彦は病気のため1年以上全くコーヒーを口にしなかった。ある秋の日、久しぶりで銀座でコーヒーを一杯味わった。そうしてぶらぶら歩いて日比谷までくるとなんだかそのへんの様子が平時とは違う。すべてのものが美しく明るく愉快なもののように思われ、この世の中全体がすべて祝福と希望に満ち輝いているように思われた、とコーヒーの効用を書いている。そして宗教は官能と理性を麻痺させる点で酒に似ていて、哲学は官能を鋭敏にし洞察力と認識を透明にする点でコーヒーに似ている、とも書いている。(参考:寺田寅彦「コーヒー哲学序説」)

2012年4月24日 (火)

独歩の離婚

Img_0001_2    従軍記「愛弟通信」を国民新聞に連載して好評を得た国木田独歩(1871-1908)は、明治28年6月9日、キリスト教婦人矯風会書記長・佐々城豊寿(1853-1901)の従軍記者招待晩餐会に出席し、そこで長女の佐々城信子(画像)を初めて知った。

   佐々城豊寿は嘉永6年、伊達藩士・漢学者・星雄記の3女として生まれた。幼いころから才気煥発で、のち婦人解放運動の先駆者となる。明治11年に陸軍軍医・伊東本支と知り合い、彼との間にノブをもうけた。この私生児が、のちに独歩に「欺かざるの記」を生み出し、有島武郎に「或る女」のヒロイン早月葉子のイメージとなった、佐々城信子である。

   独歩と信子は愛し合うようになる。しかし、自由恋愛者であるはずの母・豊寿は独歩のことを「どこの馬の骨ともわからぬ男」と蔑視し、結婚に反対する。周囲の反対を押し切り結婚した二人に破局が訪れる。明治29年3月28日、父の病気のために麹町区隼町に同居していた独歩は、矯風会のメンバーである潮田千勢子(1845-1903)宅で豊寿と和解の面会をした。ついに4月24日、独歩と信子は離婚した。この破婚によって豊寿は娘の情操教育を誤ったものと世間から糾弾を受け、雪深い北海道へ隠棲した。

より以前の記事一覧