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2019年2月11日 (月)

小督と想夫恋

   平家物語に登場する女性の中で最高の美女は誰か。すぐに思うのは待賢門院璋子、常盤御前や静御前かもしれないが、高校古典にでてくる小督が印象的だ。桜町中納言成範(信西の子)の娘小督は、その美貌と琴の名手として知られ、中宮(建礼門院)に仕えていた。そのころ少将であった冷泉隆房が彼女を見初め、熱心に歌や手紙を送る。はじめは消極的であった彼女もついに隆房の求愛を受け入れる。ところが、そのころ傷心の高倉天皇を慰めようと中宮が彼女を天皇のもとへつかわし、小督は天皇の寵愛を受けるようになり、隆房との関係は引き裂かれることになる。清盛がこのことを聞き、2人の娘の婿を小督に奪われたと激怒し、その怒りを恐れた小督は、密に内裏を出て姿を隠した。

   小督を失った天皇は深く嘆き、かつて小督の琴の相手の笛をつとめた源仲国にある夜その探索を依頼する。仲国はかすかな噂をたよりに嵯峨野を訪ね歩くがなかなか見つけることができない。

   「亀山のあたり近く、松がひとむら立っているところから、かすかに琴の音が聞こえてくる。峰吹く風か、松風の声か、それとも尋ねる人の琴の音か、半信半疑であったけれども駒を進めて近づいていくと、片折戸の家の中から、冴えた琴の音が聞こえてくる。駒をとめて聞くと、まさしくそれは小督の爪音だった。曲は何かと聞きますと、夫を想って恋うるという想夫恋(そうぶれん)の曲であった。やはりそうか。帝を恋い慕われて、琴の曲も多い中からわざわざこの曲を選んで弾いていらっしゃるお心のやさしさよと、仲国は感動し、腰から横笛をぬきとり、ひと吹鳴らしてから、門の扉をほとほとと叩くと、たちまち琴の音がやんだ」

   そして仲国は尻込みをする小督をなかば強引に内裏に連れ戻した。夜を徹して待っていた天皇は喜び、小督を密にかくまい夜ごとに愛したところ、姫宮(範子内親王)が誕生した。激怒した清盛は、小督を捕らえ尼にしたうえで内裏を追放した。彼女は嵯峨野あたりに庵をかまえて生涯を終えたという。こうした悲しみが積もって高倉院(1161-1181)も病にかかり死去した。

    小督(生年1157年)は佳人薄命という印象があるが享年を調べたが不明だった。1205年に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明である。50歳近くは生きたらしい。TBSの「平清盛」には小督(中野みゆき)が登場するが、NHK大河ドラマ「平清盛」には小督の話はなかった。平家物語の挿話は史実ではないとみられているのであろう。

2019年2月 7日 (木)

敦盛は生きていた?

Atsumori   1184年のこの日、一ノ谷の合戦があった。源義経率いる部隊は、鵯越をこえて、背後からの奇襲で平氏軍を破った。この戦いでは多くの平氏の公達が死亡した。薩摩守忠度、平通盛らは戦死した。もっとも有名な話は敦盛の最期であろう。

  平敦盛は「平家物語」では一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実との一騎打ちの末に討たれたことになっている。だが歌舞伎「一谷嫩軍記」では敦盛は実は後白河法皇のご落胤で、義経の命をうけて熊谷直実が救出するというストーリーである。一見、荒唐無稽な話のようだが、広島県の永江の里(庄原地方)には古くから「敦盛さん」という民謡が伝わり、それによると敦盛は討ち取られたのではなく、庄原に逃れて生涯を終えたという。熊谷次郎の一子の小次郎が身代わりとなって、許婚の玉織姫と共に逃れたという話も絶対に有り得ないとまでいえない。敦盛の「青葉の笛」も正式には「小枝」(さえだ)といい、鳥羽院から祖父忠盛が賜ったものであった。熊谷次郎が我が子を失ってまでも守らなければならなかった高貴な人というのは天皇家の血をひいているからであろうか。のちに熊谷直実は出家して法然の弟子となって蓮生坊と名のったという。(2月7日)

 

2019年1月23日 (水)

青森歩兵第五連隊八甲田遭難始末記

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    日本陸軍は対ロシア戦に備えて、雪中行軍の訓練を計画した。開戦した場合、津軽海峡と陸奥湾を封鎖されると、青森・弘前、青森・八戸間の交通は八甲田山系を縦断する道路を利用せざるを得なくなるが、雪深い冬期の交通が可能か否か、未だ確認されていなかった。そのため陸軍の実験行軍を決定、青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第31連隊に八甲田山の縦走を命じた。明治35年1月23日6時、青森歩兵第五連隊215人(神成文吉、山口鋠)は出発する。だが途中、吹雪のため進退を決するべく作戦会議が開かれた。悪天候を見れば退却は明らかであったが、大隊長の決断で前進が決まった。こうして猛吹雪で道を迷って彷徨、25日には199人が凍死した。この大惨事は準備不足と天候の急変が原因であるが、加えて指揮官の無謀な判断が多大な犠牲を強いる結果となった。同じ時期、反対側の三本木から青森へ進んだ弘前歩兵第31連隊(福島泰蔵)は11日間にわたる全行程を踏破し、無事に青森に帰還している。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は二隊を対比し、自然との闘いを迫真の筆致で描いている。

2019年1月13日 (日)

乳母車

   深夜、屋敷町の塀に沿って続く一本道を歩いていた。すると、自分の先方にギイギイという乳母車を押す音がする。追いついて見ると、うら若い女である。私は思い切って話しかけた。「お坊ちゃんですか…お嬢さんですか」「女でございます」そう答えた声は闇に沁み通るようであった。私の不躾な突然の質問に対してまるで当然のように落ち着いて言うのである。「おいくつですか」「三つでございます」「大変でございますね」私は何ということもなしに曖昧なことを言った。それに対して女は「はあ」と軽く言ったきりであとは黙っていた。私もそれで接ぎ穂がなくなり、ただ女と歩調を合わせて歩いて行った。車はひっきりなしにギイギイと厭な音を立てている。突然、今まで厚い雲の中に隠れていた月が雲の切れ間から現れたのである。私はそっと乳母車の中を覗き込んだ。明るい月の光に隅々まで照らし出された乳母車の中には意外にも子供の姿は見えなかった。ただ一つ美しい京人形が青白い月光を浴びて輝いていた。私は眼を上げて女の顔に視線を移した。女は乳母車を止めてじっと月を仰いでいた。女の顔は月の光に銀のように冴えて白かった。(氷川瓏、宝石1946年5月号掲載)

2018年12月24日 (月)

漱石、冬の句

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   「漱石をして小説家たらしめるに至った原動力は子規であった」と小宮豊隆は言っている。夏目漱石は、生涯2431句もの俳句を詠んだ「俳人漱石」でもあるが、写生を唱えた子規が、漱石の口語体小説の完成に大きな影響をもたらしたことはいまさら言うまでもあるまい。ここでは冬の句を並べてみる。

武蔵野を横に降るなり冬の雨

黙然と火鉢の灰をならしけり

埋火や南京茶碗塩煎餅

病あり二日を籠る置炬燵

水仙の花鼻かぜの枕元

くさめして風引きつらん網代守

口切にこはけしからぬ放屁哉

雪の日や火燵をすべる土佐日記

凩や海に夕日を吹き落とす

漸くに又起きあがる吹雪かな

汽車を逐て煙這行枯野哉

わが影の吹かれて長き枯野かな

愚陀仏は主人の名なり冬籠

淋しいな妻ありてこそ冬籠

うき除夜に壁に向へば影法師

2018年12月12日 (水)

河盛好蔵「Bクラスの弁」

  エッセイを書いたり、読んだりすることが好きだ。随筆、短文を書いたり、読んだりすることは、言語感覚を磨いて、表現する能力が向上する。河盛好蔵は随筆の達人である。「Bクラスの弁」という随筆のなかで、河盛好蔵はこう書いている。「自分はBクラスに属する」が、それは「卑下して言っているのでは毛頭ない」。「精神の世界」ではAクラスとBクラスとは「横につながる階級であって、縦につながる階級ではない」。いたずらにAクラスに憧れるのではなく、その二つの階級の位置関係を定め、Aクラスのための地盤を用意し、「常に批評精神を働かせて、より高次なものを生むために、自分がその養いとなる覚悟をもつ」ことこそがBクラスの生き方だという。これは評論家としての河盛氏の自己定義であるが、この見事な覚悟は各分野でもいえるのではないだろうか。たとえば科学における基礎研究、あるいは歴史学における実証的な研究。それらは目立たぬ地道な研究であるが、最先端の研究者にとって有益なデータとなるであろう。願わくばこのブログがBクラスとまではいかないまでも、せめてCクラスに入れてもらい、何んらかのお役に立つといいのだが。(参考:清水徹「昭和文学全集31」)

2018年12月 9日 (日)

漱石忌

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

2018年11月30日 (金)

砧打ち

Photo    むかし着物は洗濯するとこわばるので、木の台に打って柔げた。これを砧打ちという。砧はもともと中国から伝わったもので中国では擣衣といい、古くから詩にうたわれている。「長安一片の月、万戸衣を擣(う)つの声」(李白)とある。ことに朝鮮では夏、洗濯した衣類にのりをつけてつや出しをするのに現在でも行われている。日本では、婦人が砧を打ったもので、秋の夜、その音が遠く近くひびくので、砧の音が夜寒を誘うというものが多い。「砧」は俳句でも秋の季語で、砧の音は淋しさ、哀しさ、貧しさを感じさせる。

 世に住まば聞けと師走の砧哉(西鶴)

 砧打て我にきかせよや坊が妻(芭蕉)

 憂き我に砧うて今は又止みね(蕪村)

 寒雁のほろりとなくや藁砧(原石鼎)

2018年11月28日 (水)

芭蕉忌

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   芭蕉忌。陰暦10月12日(陽暦の11月28日)。桃青忌、時雨忌、翁忌などとも呼ばれ、旧暦の気候にあわせて毎年11月の第2土曜日に法要が営まれる。

 秋深き隣は何をする人ぞ

    元禄7年秋、芭蕉(1644-1694)は各務支考と共に大坂に行く。園女亭で「秋深き」の句を詠む。斯波園女(1664-1726)は伊勢の神官の娘で芭蕉の門弟であった。数日後、下痢をして床につく。11月末、病床に侍していた呑舟を呼び、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    と書き取らせた。11月26日の暮れ方から高熱を発し、11月28日、申の刻(午後4時頃)、大坂南御堂前の旅舎で永眠した。享年51歳。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、翌日、近江膳所の義仲寺に運んだ。埋葬し、門人の焼香者80人、まねかざるに来る会葬者は300人以上いたと伝えられる。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺(大津市馬場)に葬られたのは、義経や義仲のような悲劇的な最期をとげた武人にとりわけ思いを寄せていたからといわれる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句がある。

  芭蕉忌とよばれるのは、江戸中期以降、俳壇で芭蕉復興が叫ばれるようになってから。素丸の句に「はせを忌の古則や茶飯(ちゃめし)茶の羽織」がある。芭蕉の命日には茶飯を食べて、芭蕉が愛した茶色の羽織を着るという習慣があったらしい。溝口素丸は1795年没。芭蕉発句註解の「説双大全」を著した。

2018年11月23日 (金)

一葉忌

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下村為山画「樋口一葉像」

   樋口一葉の1896年の忌日。一葉は明治19年8月20日、遠田澄庵の紹介で中島歌子の萩の舎に入る。上流家庭の子女の集まるこの歌塾にあって下級官吏の娘であった一葉はしばしば肩身の狭い思いを味わったが、早くから歌の才能を示し、姉弟子の三宅花圃とならんで同門の才媛と称された。明治22年7月12日、父の樋口則義は失意のうちに病没した。花圃が「藪の鶯」の発表以後小説家として活躍し始めたのに刺激され、生活の資を得るため小説を書く決意をし、明治24年4月15日、野々宮きく子の紹介で半井桃水を訪ねて、弟子入りした。

    明治25年3月、4月、7月発行された半井桃水主宰の同人雑誌『武蔵野』に、樋口一葉は第一編創刊号に「闇桜」、第二編に「たま襷」、第三編に「五月雨」とたて続けに載せている。ほかに、畑島桃蹊、小田果園、柳塢亭寅彦、三品藺蹊、斉藤緑雨らが寄稿した。「闇桜」は、一葉の小説がはじめて活字になったのものであり、またはじめて「一葉」という筆名を使ったのも、この『武蔵野』が最初である。だが、桃水との噂が萩の舎で問題化した。また桃水の身辺多忙と売れ行きの減退から雑誌は3号で廃刊となり、一葉は思いを残しながら桃水と絶交の形をとる。しかし、一葉の桃水への愛情は終生変わることはなかった。(11月23日)

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