俳諧師・加舎白雄の1791年(寛政3年)の忌日。上野国館林の禅寺で修行。のち江戸に出て、伊勢派の松露庵烏明、ついで松露庵烏酔の門に入る。伊勢派の卑俗さにあきたらず、北越・畿内・東北を旅して松尾芭蕉への復帰に努めた。天明期の俳諧中興五傑の一人に数えられ弟子も多い。代表句。
ひと恋し 火とほしころを さくらちる
煤ちるや はや如月の 台所
落ち日に あら海青き 寒哉
(9月13日)
著作権の保護期間は死後70年まで。たとえば1955年に死亡した作家の作品は2026年の元旦でパブリック・ドメインになっている。坂口安吾は1955年2月17日に亡くなったので、その作品の多くはインターネットの図書館、青空文庫で閲覧することができる。ただし、未だ膨大な全作品は一挙に無理なようで、現在も作成中のことである。青空文庫は作家名や作品名から検索できるが、全文のキーワードからも検索できる。文学作品に限らず、幅広い作品がラインナップされている。イギリスの化学者フレデリック・アークム(1769-1838)は食品・薬品「混ぜ物処理」を学問的に初めて告発した人物で、彼の主著「食品の混ぜ物処理法および調理の毒物」(1820)が水上茂樹によって翻訳されている。
「コンビニ」と新しい言葉で検索してもヒットしないだろうと思いながら、意外に出てきた。「洋菓子屋やコンビニで手軽に甘いものが入手できる時代に、伝統だけで生き残るのは至難の業である」澤西祐典「くじらようかん」(「すばる」2019年6月号)。鯨羊羹とは蒸した米粉を餡で挟んだ和菓子である。著作権者自らの意思で、青空文庫に収録をOKされる人もいる。
NHK2026年後期の連続テレビ小説「ブラッサム」。宇野千代をモデルにした物語で、主人公葉野珠役は石橋靜河が演じる。宇野千代とはどのような女流作家だったのか。明治30年、山口県玖珂郡横山村(現在の岩国市)に生まれる。舞台は郷里岩国から朝鮮、京都、東京と転変する。宇野千代は処女作「脂粉の顔」が「時事新報」の懸賞に入選してから、70数年にわたり発表した作品は、量的には多くない。長篇というよりは、中篇小説として「色ざんげ」「おはん」などあるほかは、「刺す」「風の音」「幸福」「それは木枯らしか」など短編小説ばかりである。尾崎士郎、東郷青児、北原武夫、梶井基次郎らとの恋愛遍歴や奔放なくらしぶりで女流作家としての話題性が豊富であること、出版社スタイル社の経営、きものデザイナーなど実業家としての社会的活動もあり、宇野千代流の生き方が彼女のファンを魅了しているようである。しかしながら、文学性において寡作といいながら、彼女の作品はいずれも文学上の理想を純一に保っており、通俗小説や中間小説に向かわせないものがある。しかし宇野千代自身はあまり文学に理屈をつけるタイプではないことは、つぎの瀬戸内寂聴との対談にあらわれている。宇野は「瀬戸内さん、あなたは小説家を特別の職業のように思っているらしいけれど、そうではないのですよ。小説家はパン屋や八百屋と同じような、ただの仕事なのよ」といったという。「おはん」「幸福」その他により女流文学者賞を受賞、昭和63年、日本近代文学館主催の「女性作家十三人展」には現役作家として宇野千代、佐多稲子の二人が選ばれている。樋口一葉、与謝野晶子、田村俊子、野上弥生子、岡本かの子、宮本百合子、平林たい子、林芙美子、円地文子、壺井栄、有吉佐和子、宇野千代、佐多稲子の13人である。
旅行は好きかと、聞かれると、私はいつも生返事をする。好きでないこともないが、そう楽しい旅をしたという経験もないからである。テレビの旅番組を見ると楽しそうだが、実際に行くとなると苦労が多いだろう。70を過ぎて身体が十分に動かなくなるとなおさらのことで、空想で旅を夢見るほうがよいだろう。
旅途
旅いづることにより
ひとみあかるくひらかれ
手に青き洋紙は提げられたり
ふるさとにあれど
安きを得ず
ながるるごとく旅に出づ
妻は雪のなかより萌え出で
そのみどりは磨けるごとし
窓よりうれしげにさしのべし
わが魚のごとき手に雪はしたしや
室生犀星「抒情小曲集」小景異情に続く詩である。タイトルの「旅途」は「りょと」と読む。意味は「旅のみち。旅路。旅行」。漢字はもともと中国からの借用したものがほとんどである。「旅行」も「旅途」もむかしは日本でも使っていたが「旅行」のほうが皆使うようになった。英語のJourneyのような感じか。travelやtripなどと区別があるように、中国語にも「旅行」と「旅途」の違いがある。ちなみに中国で「寶可夢旅途」は「ポケット・モンスター」のこと。
漢語というと、すべて中国で工夫されたもので、日本人はそれを借用しているのだと考えがちであるが、日本人が工夫した漢語も、実はなかなか多い。特に明治以降、西欧文化を受け入れるのとあいまって工夫された日本製漢語のなかには、その後中国に輸出されて、今日では中国語として用いられているものも少なくない。
例 文化 文明 政治 社会 法律 文学 電話 集団 共同 哲学 心理 科学 物理 帰納 演繹 図書館 野球 銀行(諸説あり)
このように明治以降、数限りない日本人が、新しい文化にともなう漢語を作ってきた。しかし「旅途」のように中国で使用されている漢語を日本で使おうとこころみた例もあるが、その後日本では定着しなかった場合もあった。
1923年9月1日午前11時58分、東京・横浜を中心としてマグニチュード7.9の大地震がおこった。多くの家屋が倒壊し、ちょうど昼食時に重なり、炊事用の竈から出火して、各地に火災が発生して被害を大きくした。このとき、与謝野晶子は44歳で夫の鉄幹とともに、神田駿河台の文化学院で教鞭をとっており、近くの逓信病院付近に住んでいた。晶子は、こんな短歌を詠んでいる。
もろもろのもの心より搔き消える天変うごくこの時に遭ひ
天地崩(く)ゆ生命を惜む心だに今しばしにて忘れはつべき
また文化学院に預けておいた「新新源氏物語」の原稿も焼失してしまった。
十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰
日本の近代文学史で目立つことの一つは、ヨーロッパに比較して自殺した作家が圧倒的に多いことだ。たとえば北村透谷、藤野古白、川上眉山、有島武郎、芥川龍之介、生田春月、牧野信一、戦後になると太宰治、田中英光、原民喜、加藤道夫、久保栄、川端康成、三島由紀夫など、自殺した作家をただちに思い浮かべることができる。芥川龍之介(1892-1927)は、生前、自殺について「自殺しないものはしないのではない、自殺することのできないのである」(「侏儒の言葉」)と語り、昭和2年7月24日未明、自殺している。夫人の芥川文子(1900-1968)は「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという。妻の文子は龍之介の芸術への真摯な生き方へのよき理解者だったのだ。遺された三人の子供、芥川比呂志(1920-1981)、芥川多加志、芥川也寸志(1925-1989)を抱えての夫人の生活はたいへんだったであろう。文学者の自殺は有島武郎、太宰治、三島由紀夫、川端康成など多様であるが、そこには、孤独な内面と作品の終結宣言が秘められている。
太宰治(1909-1948)は39年の生涯で5回の自殺未遂を繰り返し、昭和23年6月13日に玉川上水で愛人山崎富栄(1917-1948)とともに入水自殺した。そして「生まれてすみません」という太宰の自殺願望は芥川の自殺の影響が大きいことはよく知られている。昭和19年7月に発表した「津軽」には次のようなことが書かれている。
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」
「そうして、苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっているはずだがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障になる。おい、おれは旅に出るよ」
芥川龍之介や太宰治らの作家の自殺願望はいったい何時から始まったのだろう。森鴎外が明治44年に発表した「妄想」という小説の中にはドイツの哲学者マインレンダー(1841-1876)の事が書かれている。
自分はこのまま人生の下り坂を下って行く。そしてその下り果てた所が死だということを知っている。しかしその死はこわくない。人の説に、老年になるにしたがって増長するという「死の恐怖」が、自分にはない。若い時には、この死という目的地に達するまでに、自分の眼前に横たわっている謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じがしだいに痛切でなくなった。しだいに薄らいだ。解けずに横たわっていても謎が見えないのではない。見えている謎を解くべきものだと思わないのでもない。それを解こうとしてあせらなくなったのである。そのころ自分はフィリップ・マインレンダーのことを聞いて、その男の書いた「救済の哲学」を読んでみた。この男はハルトマン(1842-1906)の迷いの三冊を承認している。ところであらゆる錯迷を打ち破っておいて、生を肯定しろというのは無理だと言うのである。これは皆迷いだが、死んだって駄目だから、迷いを追っかけて行けとは言われないはずだと言うのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面をそむける。ついで死の回りに大きい圏を描いて、震慄しながら歩いている。その圏がようやく小さくなって、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げかけて、死と目と目を見合す。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンダーは言っている。そう言っておいて、マインレンダーは三十五歳で自殺したのである。自分には死の恐怖がないと同時にマインレンダーの「死の憧憬」もない。死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く。
マインレンダーとはどのような哲学者なのであろうか。ショーペンハウアー(1788-1860)の厭世哲学(ペシミズム)を信奉し、自殺を賛美して自ら生命を絶ったらしい。日本で早くにショーペンハウアーの名前を知った鴎外が、このマインレンダーを「妄想」でとり上げた。しかし、鴎外は直接にマインレンダーの著書を読んだわけでも、詳しいわけでもないのだが、鴎外の著書に現れたということで、日本ではなんとなく、憂愁の大哲人のような印象をもたれたようである。そのため、芥川龍之介などは、自らの遺書とした「或旧友へ送る手記」の中に、自分の最後の心境を代弁してくれる人としてマインレンダーの名前をあげている。さてご本尊のショーペンハウアーといえば、すぐペシミズムと連想されるが本人の著書には、「ペシミズム」という言葉は一度もないという。自殺願望、厭世主義というレッテルは誤解によるものである。現在の研究によれば、ショーペンハウアーの哲学は、生と世界に対する根本的な懐疑と怖れであると同時に、救済希求の闘いであり、「生の哲学」というべきものであろう。ショーペンハウアーは、1860年9月21日、72歳でフランクフルトでなくなっている。森鴎外のかなり杜撰な西洋哲学の紹介が、日本の文壇の青年作家に誤解を与え、自殺願望を植えつけたという一面もあるのではないだろうか。
参考文献
自殺作家文壇史 植田康夫 北辰堂出版 2008年
1406年紀伊国名草郡田井荘に生まれる。3歳で比叡山に入ったらしい。20歳なか頃から清厳正徹に師事して和歌古典を学んだ。応仁の頃、東国へ下り、1471年頃浄業寺に寓居したといわれる。太田道灌や父・道真の歌会に判者として出席している。幽玄に心をとめようとする、深い境地を得て、宗祇、さらに後世の芭蕉まで影響を与えた。著書に「老いのくりごと」「ささめごと」「心玉集」などがある。室町時代の古典主義文学の大きな成果となった。「雲はなほさだめある世のしくれかな」
紫式部(979?-1016?)と清少納言は同時代の女流文学者だがどちらが年上だろうか。ともに生没年不詳だが、清少納言は康保3年(966年)に生まれ、治安・万寿年間(1021~1027)に没したとあるから、清少納言が先に生まれ長く生きたらしい。
紫式部の生家は、父方は藤原冬嗣の六男良門を遠祖とする名門で、同門の中に文人・歌人が多く出ているし、父為時は詩文において当代一流の名手であり、兄惟規は歌人として知られていた。母方は藤原冬嗣の一男長良を遠祖とする名家で、母は藤原為信のむすめである。
紫式部は生まれつき鋭い頭脳をもち、記憶力に富んでいた。「紫式部日記」によると、幼いころ兄の惟規よりも早く史記を聞きおぼえたので、父の為時は「この子が男であったらなあ」と嘆いたという。式部は天元元年頃に生まれ、長保元年、22歳のとき、48歳くらいであった藤原宣孝と結婚し、翌年一女大弐三位を生んだが、長保3年には夫宣孝と死別した。その後6年間は父の邸で寡婦生活を送っていたが、寛弘4年、式部30歳のとき、藤原道長に見出されて、一条天皇の中宮上東門院彰子に仕えた。式部の没年については諸説があるが、長保5年頃に39歳くらいで没したとするのが通説である。
「源氏物語」の成立事情についても不明な点が多い。夫宣孝に先立たれてから、つれづれの寡居の日々に、自身の内的欲求に駆られて筆を染めたのであろう。「紫式部日記」寛弘5年(1008年)11月1日の記事によれば、道長の土御門邸で敦成親王の誕生50日の祝宴が催された。この折、酒に酔った藤原公任が、「あなかしこ、このわたりにわか紫やさぶらふ」と戯れかかったのを、式部は「源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上は、まいていかでものし給はむ」と聞いていたという。次いで旬日を経た同日記には、内裏還啓を間近に控えた中宮のもとで、頻りに冊子作りの営まれていた模様が見える。従ってこの頃、「源氏物語」の殆ど、或は少なくとも「若紫」を含む第一部は完成し、宮廷人士の間でかなり評判になっていたと見てよかろう。
源氏物語」は世界最古の長篇小説とよく言われるが、千年にわたって詠み継がれてきたこになる。参考書には、岩波書店「日本古典文学大系」の「源氏物語」があり、注釈書には、金子元臣「源氏物語新解」、吉沢義則「対校源氏物語新解」、池田亀鑑「源氏物語新講」、島津久基「源氏物語講和」など。現代語訳では、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、村山リウ、田辺聖子、瀬戸内寂聴など。
芭蕉の門人、各務支考の『葛の松原』によると、貞享3年の晩春のころ深川の芭蕉庵に、芭蕉と其角が対座している折から、蛙の水に落ちる音を聞いて、芭蕉が「蛙飛びこむ水の音」という七五だけを得て、上五文字を案じていると、其角が傍から「山吹や」とつけた。しかし芭蕉はそれをしりぞけて、「古池や」と定めたのであるという。一説では「古池や蛙飛ンだる水の音」おそらくは山吹は実景で、古池のあたりに咲いていたのであろう。それに山吹と蛙は、和歌以来の詩的配合であり、かつまた都会人ではなやかなことの好きな其角の趣味にかなったのであろうが、しかしそれでは印象的な山吹の明るさが一句の中心になって、一通りの写生句になってしまうのである。この句の中心は、音でなければならぬ。静寂の領する芭蕉庵の晩春の昼下り、芭蕉と其角の間にかわされた風雅の私語も、その静寂を乱すにいたらない。折から思いがけず、庭前の古池に飛びこんだ蛙の水音が、芭蕉の心に波紋を描いた。静から動へ、動からふたたびまた静へかえるしばしの乱れが、いよいよ幽玄閑寂への思慕をかき立てるのである。
「古池や」の句の季語は「蛙」。かえるの鳴き声が聞こえるのは梅雨時なので「夏」をイメージするが、旧暦なので春となる。
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