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2024年6月16日 (日)

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  本日、り天宝15年(756年)の楊貴妃の忌日(諸説あり)。享年38歳。楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

 ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。(6月16日)

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

 

 

2024年5月27日 (月)

百人一首で藤原姓は何人採られているか?

Photo

 

  本日は「百人一首の日」。文暦2年(1235年)のこの日、藤原定家によって小倉百人一首が完成されたといわれる。小倉百人一首の中で藤原姓はたくさんいるだろう。だが実際に何人か?というとはっきりとした回答をしたものが見当たらない。案外と調べるのが難しい。例えば、従二位家隆は藤原家隆であり、権中納言定家は藤原定家である。このほか藤原氏出身でありながら、別称で呼ばれている場合もあるかもしれない。つまり正確ではないが、一応はっきりとわかるだけで14人もいる。

藤原興風、藤原清輔、藤原実方、藤原敏行、藤原道信、藤原基俊、藤原義孝、藤原実定、藤原俊成、藤原家隆、藤原定家、藤原朝忠、藤原伊尹、藤原道雅。

(5月27日)

芭蕉「閑さや」の句、何ゼミか?

閑さや岩にしみ入る蝉の声

  元禄2年(1689年)、松尾芭蕉は出羽の立石寺を訪れたときの句である。ひっそりとして、閑かな山寺。一山の岩にしみ入るように、蝉の声が澄み透ってきこえる。昭和元年、この蝉の種類をめぐって斎藤茂吉と小宮豊隆が論争している。アブラゼミと主張した斎藤に対して、小宮は威勢のよいアブラゼミよりも、声が細く澄み切っているニイニイゼミの方がふさわしいとした。元禄2年5月27日は太陽暦では7月13日である。この時期、アブラゼミは少なく、ほとんどがニイニイゼミである。結局、茂吉のアブラゼミ説は敗れた。のちに荻原井泉水は「涼しげに鳴くヒグラシではないかと思う」と著書に書いている。芭蕉が聞いた蝉の種類が何であったかは、決定的な証拠はなく、永遠の謎といえるが、この時期と場所から推定すると、ニイニイゼミと考えてほぼ間違いないということである。(5月27日)

 

 

2024年4月17日 (水)

漢字一文字の題名

Kokoro15   作家が小説の題名をつけるとき、どのような思いが込められているのかさまざまであろうが、漢字一文字という場合はことさらに印象が強い感がある。すぐに思いうかぶ作品は、芥川龍之介「鼻」、夏目漱石「門」、森鴎外「雁」の三作品。それから山本有三の「波」「風」、長塚節「土」、島崎藤村「春」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、カフカ「城」。室生犀星「蝶」、志賀直哉「兎」、上林暁「野」、三島由紀夫「剣」、司馬遼太郎太郎「峠」、竹西寛子「蘭」、中上賢次「岬」、富田常雄「面」、藤井重夫「虹」、河野多恵子「蟹」、丹羽文雄「顔」、宮尾登美子「蔵」「櫂」。綱淵謙錠には「斬」など48作が漢字一文字である。夏目漱石の「こころ」は自身が装幀した単行本の箱の背には「心」と漢字一文字である。

  演歌界の御大・北島三郎の唄にも一文字タイトルが多い。「歩」「盃」「誠」「祝」「道」「母」「宴」「橋」「城」「友」「竹」「夢」「命」「川」「空」「柵」「恩」「舵」「山」そして「塒」は「ねぐら」と読む。頑張れサブちゃん。

2024年4月16日 (火)

川端康成の自殺

Photo_2   1972年のこの日、川端康成がガス自殺した。享年72歳。川端は「掌の小説」という短編集を若い頃から書いている。全部で122編もあるが、例えば39番目の「一人の幸福」という一編は結びの言葉が有名である。「一生の間で一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ」と書いている。このように健全な精神を持っていたが、晩年の川端はこれらを否定するようになった。ノーベル賞の授賞記念スピーチで「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という道元の歌を引用し、日本人の季節の移り変わりの中に感じる美意識を紹介している。死生観や美意識を小説のテーマに幾度となく取り上げてきた川端であるが、自身の人生の最晩年において、大往生で死すか、文学に殉ずるか、という選択は作家としての一つの決断であろう。川端は、ある出版人に「谷崎や志賀の死は文学者の死ではない」と言ったと伝えられている。数年後、ガス自殺を遂げた日本人初のノーベル文学賞作家の死は社会に大きな衝撃を与えたが、2年前の三島由紀夫の割腹自殺と同じように日本人固有の死の美学という印象が強い。明治以降の近代文学作家をみても北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、田中英光、原民喜、久坂葉子、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦、鷺沢萌、森村桂と主な作家だけでも十数人が自殺している。海外でみると、ジャック・ロンドン、ヴァージニア・ウルフ、アーネスト・ヘミングウェイなど作家の自殺は意外と少ない。それも死の美学に殉じたという感じはない。日本人の作家とて自殺の理由は病気や経済的理由などそれぞれであろうが、三島由紀夫、川端康成などの自殺の動機は謎が多いが、死の美学に殉じたという表現がよくなされるようである。(4月16日)

2024年3月26日 (火)

犀星忌

   徳田秋聲、泉鏡花と並び、金沢三文豪の一人である室生犀星(1889-1962)、昭和37年の忌日。享年72歳。犀星は、明治22年石川県金沢市に生まれた。明治35年5月、13歳のとき金沢高等小学校3年で中途退学、以後、学歴はない。金沢地方裁判所の給仕をしながら、役所の上司である川越風骨に俳句の指導をうけ、文学書に親しみ始める。15歳のときに、筆名を国分犀東にならい、犀川の西に住むので犀西とし犀星の字をあてる。「みくに新聞」「石川新聞」を退社し、明治43年、赤倉錦風を頼って上京する。貧困と放浪の生活の中で萩原朔太郎、山村暮鳥らと知り合い試作に励む。大正7年、『愛の詩集』『抒情小曲集』を自費出版。作風の特徴は、破格の文語を自由に駆使した抒情詩は強い感動を与え、感情詩派と呼ばれた。「かげろうの日記遺文」昭和33年、「蜜のあはれ」昭和34年、「火の魚」昭和35年、「われはうたへどもやぶれかぶれ」昭和37年。犀星の創作意欲は、晩年に至るまで衰えをみせなかったのはたいしたものだ。

 

  ふるさとは

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

  (『抒情小曲集』)

このほか昭和期には「性に目覚める頃」「幼年時代」「あにいもうと」「杏っ子」「かげろふの日記遺文」などの名作小説を発表、小説家としても認められた。近年、晩年に発表された「蜜のあわれ」が映画化され犀星文学への高い再評価がなされている。犀星自身「私の文章にあるまわりくどいところや、暗い感じのするところや、ねばり気のある、その底の方を掻き分け見ますと、北国の憂鬱な気候がいつの間にか、私の心をそめ、ものを染めるように染め、そして文章にもそれが現れているのであろうと思います」(「文学者と郷土」)と言っている。(3月26日)

 

 

 

 

 

異色作家永山一郎、青春の疾走

   昭和39年3月26日、詩人・作家・小学校教諭の永山一郎(1934-1964)は山形県新庄市でバイク事故で死亡した。享年29歳。冬樹社から「永山一郎全集」がある。短編「皮癬(ダニ)の唄」、詩集「地の中の異国」など。

 

 

2024年2月24日 (土)

直木三十五の速筆

Photo     直木三十五は大正・昭和期に活躍した大衆小説家。代表作は「南国太平記」。没後その功績をたたえ直木賞が制定された。直木賞はエンタメント系の作品に与えられ、近年は、葉室麟(第146回)、辻村深月(第147回)、朝井リョウ(第148)、安部龍太郎(第148回)、桜木紫乃(第149回)、朝井まかて、姫野カオルコ(第150回)、黒川博行(第151回)、西加奈子(第152回)、東山彰良(第153回)、青山文平(第154回)、荻原浩(第155回)、恩田陸(第156回)、佐藤正午(第157回)、門井慶喜(第158回)、島本理生(第159回)、真藤順丈(第160回)、大島真澄(第161回)、川越宗一(第162回)、馳星周(第163回)、西條奈加(第164回)、佐藤究(第165回)、澤田瞳子(第165回)、今村翔吾(第166回)、米澤穂信(第166回)、窪美澄(第167回)、小川哲(第168回)、千早茜(第168回)、垣根涼介(第169回)、永井紗耶子(第169回)、河崎秋子(第170回)、万城目学(第170回)がそれぞれ受賞している。

    現在の作家はパソコンやワープロで原稿を書くだろうが、むかしはペンが一般的な筆記用具であった。もちろん万年筆という高級な筆記用具もあるが、貧乏な文士は「つけペン」が主流である。芥川龍之介の原稿の字の小さいのは知られているが、それよりも久保田万太郎が小さく、直木三十五はさらに細かくで細い字を書く。それに速筆である。普通の人は1日に400字詰原稿用紙10枚程度だが、直木は1日に60枚は書いた。銅色のGペンをペン軸に差し込み200字詰の原稿用紙に書く。その無理がたたって昭和9年2月24日、43歳の若さで死んだ。

2024年2月22日 (木)

おでんの日

 本日は「おでんの日」。波乱万丈、貧乏暇なし、平々凡々と、人にはさまざまな人生があるものの、所詮はみんな同じ一生である。  江戸川柳に、「どぶろくとおでんは夜の共稼ぎ」がある。屋台の寒い冬には屋台のおでんが美味しい。ホトトギスの高浜虚子(1874-1959)には、何故かおでんの句が多い。虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。虚子におでんの句が多いのは、平凡を愛する心が人生観となっているからであろうか。虚子は明治7年2月22日、愛媛県温泉郡町新町で生まれた。

 

  振り向かず返事もせずにおでん食ふ

 

  おでんやを立ち出でしより低唱す

 

  戸の隙におでんの湯気の曲り消え

 

  硝子戸におでんの湯気の消えていく

 

  志 俳諧にあり おでん食ふ

 

  おでんやの娘愚かに美しき

 

 

2024年2月15日 (木)

徒然草の成立年代について

116851493015716555   本日は「徒然草」の作者として知られる兼好法師の正平5年(1350年)の忌日。「徒然草」の成立時期には数多くの説があり定説はない。従来の説として、今川了俊が、壁に張られたり、経文の裏書にあったりしたものを整頓させて出来たものだと伝わったが、いうまでもなく、後世の風流人のさかしらに拠る捏造である。諸説の大きな相違は、わずか数年で一気に書き上げたのか、十数年の歳月を費やしたかの見解のちがいがある。「徒然草」は古くは上下の二篇に分かれていて、兼好が37歳の頃、元応元年(1319年)には上篇の一部(37段まで)は成立していたとみられている。完成したのは、兼好が49歳の頃、元弘元年(1331年)9月20日とみられる。遅くとも後醍醐天皇の建武の新政(1333年)までには「徒然草」は完成していた。(2月15日)

 

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