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2022年9月13日 (火)

吾猫の墓

 1908年のこの日、夏目漱石が飼っていた「吾輩は猫である」の主人公のモデルとなった猫が死亡した。書斎裏の桜の樹の下に埋めた。漱石は白木の角材に「猫の墓」と書き裏面に一句をしたためた。「此(こ)の下に稲妻起こる宵あらん」

のち親しい人たちに猫の死亡通知を出した。のち妻・鏡子によって、雑司ヶ谷の漱石の墓地に猫の骨は移された。漱石公園(早稲田南町7)にある猫塚は遺族が飼っていた犬・猫・小鳥の供養のために建てたもので、「吾猫」とは関係がない。(9月13日)

 

 

 

 

2022年9月 5日 (月)

太宰治の名言

 昭和時代の作家で今もよく読み継がれているのは太宰治であろう。ホラー漫画の伊藤潤三が「人間失格」を描いたのが太宰の再ブームに影響を与えているかもしれない。日本で人気があるのは文庫本などの売れ行きや読書調査でもはっきりしているが、お隣の韓国でも太宰が人気があるらしい。理由は謎であるが、おそらくコロナ禍で閉塞感を感じる若者たちの共感を呼んでいるといわれている。「人間失格」の結びにはこう書かれている。「いまは自分には幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます」。

だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。(かすかな声)

とにかくね、いきているのだからね、インチキをやっているのに違いないのさ。(斜陽)

よい仕事をしたあとで、一杯のお茶をすする・・・どうにかなる。(晩年)

笑われて、笑われて、つよくなる。(HUMAN LOST)

ダメな男というものは、幸福を受取るに当ってさえ、下手くそを極めるものである。(貧の意地)

何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それは怠惰だ。(みみずく通信)

勉強がわるくないのだ。勉強の自負がわるいのだ。(如是我聞)

富士には月見草がよく似合う。(富嶽百景)

2022年8月27日 (土)

瀬戸内晴美「夏の終り」

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   令和3年11月、瀬戸内寂聴は心不全のため僊化。99歳だった。本名、三谷晴美は大正11年5月15日、徳島市塀裏町字巽浜14に、父三谷豊吉、母コハルの次女として生れる。瀬戸内の姓は、後年養子縁組をしたため。昭和18年、見合い結婚。昭和22年、4歳年下の夫の教え子Oと出奔。昭和26年、妻子ある前衛作家・小田仁二郎(1910-1979)と8年余りの半同棲生活をしたのち、また年下の男子との生活を復活させる。この間の事情を私小説として「夏の終り」を書く。昭和37年「新潮」に発表し、女流文学賞を受賞し、作家的地位を築く。昭和48年に中尊寺で得度し、寂聴となる。今東光は、「頭はどうする?」「剃ります」「下半身はどうする」「断ちます」と二言三言を質問した。その後、昭和61年に円地文子が亡くなると、瀬戸内は「源氏物語」の執筆にとりかかった。

2022年8月11日 (木)

心敬

 1406年紀伊国名草郡田井荘に生まれる。3歳で比叡山に入ったらしい。20歳なか頃から清厳正徹に師事して和歌古典を学んだ。応仁の頃、東国へ下り、1471年頃浄業寺に寓居したといわれる。太田道灌や父・道真の歌会に判者として出席している。幽玄に心をとめようとする、深い境地を得て、宗祇、さらに後世の芭蕉まで影響を与えた。著書に「老いのくりごと」「ささめごと」「心玉集」などがある。「雲はなほさだめある世のしくれかな」

2022年8月 4日 (木)

石川啄木、生活の歌

はたらけど

はたらけど猶わが生活楽にならざり

ぢっと手を見る

 

Blo1   この短歌は明治43年7月26日夜の石川啄木のノートに記されている。初出は8月4日付の東京朝日新聞である。貧しい勤労者の心理、庶民共通の悲哀を表現し、働いても働いても楽にならない現実について深く考えようとしているところに特色があり、21世紀の現在も多くの庶民にとっては痛切な実体感を伴う一首であろう。また手帳の片隅に鉛筆書きで次のような走り書きも見つかっている。

心よきあはれこのつかれ、息をもつかず仕事をしたる後のこのつかれ

 明治42年3月、当時の啄木は東京朝日新聞社に勤務して一応の生活が保証され、その年の6月、やっとのことで函館に残していた家族を呼び寄せ、本郷弓町の喜之床という理髪店の二階ニ間を借りて移り住んだ。彼は生活費を少しでも得ようと、夜の勤までして懸命に働いたが、暮らしは依然として苦しく、貧乏は死ぬまで彼の心をおびやかし続けた。

 

    私は私の全時間をあげて(殆んど)この一家の生活を先づ何より先にモツと安易にするだけの金をとる為に働いてゐます。その為には、社で出す二葉亭全集の校正もやってゐます。田舎の新聞へ下らぬ通信も書きます。それでも私にはまだ不識不知空想にふけるだけの頭にスキがあります。目がさめて一秒の躊躇もなく床を出て、そして枕についてすぐ眠れるまで一瞬の間断なく働くことが出来たらどんなに愉快でせう。そして、さう全身をもつて働いてゐるときに、願くはコロリと死にたい。かう思うのは、兎角自分の弱い心が昔の空想にかくれたくなる其疲労を憎しみ且つ恐れるからです。(大島経男宛書簡)

   啄木の貧乏の原因については、彼が経済観念に弱いところからもきていた。友人に対してたえず金銭上の迷惑をかけていたことはよく知られている。また、少し金が入るとふらふらと女遊びに使ってしまうような弱さもある。またひとつの職場に長続きしないという人間関係のまずさもあった。そうした人生の辛酸をなめ、労苦を経験してきた啄木は上京後、人間的な成長の跡がはっきりその作品に現れてきていることは「時代閉塞の現状」という評論に読み取れる。この評論によって、宿命論に陥ってあがきのとれなくなった自然主義をはっきり否定して、国家、社会に対する関心を深め、社会主義の研究をはじめ、「人民の中へ」を志している。しかし、それを果たす前に啄木はすでに不治の病気にかかっていた。自分だけではなく、母も妻も結核に冒されるという苦境のどん底で若い生命をおわったのである。啄木の貧困の生活の中から生まれた文学は、これからも、いつ、いかなる時代になろうとも多くの人々に親しまれるであろう。(参考:現代文学研究会編 佐々木一夫解説「啄木人生のーと」真昼文庫)

2022年7月27日 (水)

朝顔に釣瓶とられてもらい水

朝顔に釣瓶とられて貰い水

    朝、起きだして井戸端へ行ってみると、朝顔の蔓が井戸の釣瓶に巻きついている。水を汲むために、蔓をちぎってしまう気にもなれず、そのままにして隣家の井戸まで水を汲ませてもらいにいった、というのである。やさしく風雅な思いやりが、きわめてはっきり、万人に分かりやすいように表現されている。通俗的な意味で俳句を代表する作としてよく知られ、英・独・仏語にも翻訳されて海外にまで聞えた句である。この句に含まれている季語は「朝顔」で、季節は「秋」である。釣瓶(つるべ)とは、井戸の水をくみ上げるために縄や竿をつけた桶のことである。宝暦14(1764)年頃、無外庵既白の「千代尼句集」に入っている。

 

里の子の肌まだ白しももの花

 

春になって、村里には美しく桃の花が咲いた。そのあたりに遊んでいる里の子は、まだ日焼けもせず、膚は白いままである。

 

落鮎や日に日に水のおそろしさ

 

秋も深く、上流で産卵を終えた鮎は流れを下ってゆき、その水のようすは、一日一日恐ろしげなものになってゆくような気がする。

 

月の夜や石に出て鳴くきりぎりす

 

皎々たる秋月の下、つめたく光る庭石の上で、きりぎりすが切々とむせぶように鳴いている。人目のおよばぬ物陰でなくかなしい性を持つきりぎりすであるだけに、月の光にさそわれて石に出て鳴く姿はいやさらに哀れである。

 

    加賀千代(かがのちよ、1703-1775)。千代女。加賀国松任の人。表具師福増屋六左衛門の娘として生まれ、幼少から俳諧を好み、17歳のとき各務支考に師事。金沢藩の足軽のもとに嫁し、子供を産んでからまもなく夫に死なれたというが、嫁に行かなかったという説もある。51歳のときに剃髪して尼になり、素園と号したのちは家業を離れて俳諧に専念した。美濃派や伊勢派の地方俳壇と親しかったため、作風は親しみやすいものであった。生前から女流歌人として著名であり、『千代尼句集』『松の声』などの作品がある。安永4年没、年73歳。

   夫との死別後によんだ「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さ哉」が伝わるが、これは千代の生まれる9年前に遊女浮橋がよんだものである。また「蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら」「ほととぎすほととぎすとて明けにけり」「しぶかろかしらねど柿のはつちぎり」などの句も千代の作といわれることがあるが、これらはいずれも伝説的な誤伝によるもので、千代女の作品ではない。

2022年6月21日 (火)

三四郎とストレイシープ

Photo_2    「ストレイシープ(迷える羊)」という言葉は、聖書のマタイによる福音書18章10~14節に由来する。100匹の羊の中の一匹が迷子になり、羊飼いは99匹の羊を残して迷子の羊1匹をさがしに行かないだろうか、というイエスのたとえ話がある。夏目漱石の小説「三四郎」の中にも里見美禰子という女性の謎めいた言葉として印象的に使われている。一般にこの言葉は聖書の中では「罪人」という意味で使われている。漱石「三四郎」においてどのような意味で使ったのか解釈をめぐってはさまざまな意見がある。漱石も読者がいろいろな受け止めができることを意図したものであろう。

    小説の終わりで、美禰子がかすかな声でいう。「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」美禰子はストレイシープが自分のことであり、三四郎を好きであることを告白している。これに対して三四郎は「ただ口の内でストレイシープ、ストレイシープと繰り返した」で小説は終わる。

    ところが英語の聖書には「ストレイシープ」という語は見られない。漱石が英国留学時代に研究したヘンリー・フィールディング(1707-1754)の「トム・ジョーンズ」(1749年)には「ストレイシープ」がでてくる。三四郎の友人の佐々木与次郎が「ダーター・ファブラ」(他人事ではないの意)という言葉をよく意味を知らずに使っている。岩波文庫の注では「デ・デ・ファブラ」はホラチウス「風刺詩」の言葉とあるが、それは初出であって、おそらく漱石はロバート・ブラウニングの詩集「男と女」を読んで「ストレイシープ」「デ・デ・ファブラ」という語から小説のインスピレーションを受けたものであろう。

2022年4月29日 (金)

「昭和の日」と昭和文学史

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    昭和2年7月、芥川龍之介が自殺した。遺書には「将来に対する唯ぼんやりとした不安のため」死ばかりを考え続けていた、としるされていた。芥川の死は、良心的な知識人の苦悩の末の敗北として受け取られ、大きな衝撃を社会に与えた。昭和3年、ナップが結成され、以後3年半にわたってプロレタリア文学運動の中心となる。昭和4年「蟹工船」「太陽のない街」、昭和5年「機械」「聖家族」、昭和6年「つゆのあとき」、昭和8年「若い人」「春琴抄」、昭和10年「蒼氓」「真実一路」、昭和11年「冬の宿」「晩年」、昭和12年「暗夜行路」完結 「旅愁」「雪国」「濹東綺譚」、昭和13年「麦と兵隊」、昭和14年「歌のわかれ」、昭和16年「菜穂子」、昭和18年「細雪」、昭和21年「灰色の月」「死霊」、昭和22年「斜陽」「深夜の酒宴」、昭和23年「俘虜記」、昭和24年「人間失格」「仮面の告白」「足摺岬」「浮雲」、昭和25年「武蔵野夫人」、昭和26年「壁」「広場の孤独」、昭和27年「真空地帯」「二十四の瞳」、昭和28年「火の鳥」、昭和30年「太陽の季節」、昭和31年「金閣寺」「氷壁」、昭和32年「死者の奢り」「女坂」「人間の壁」、昭和33年「飼育」「氾濫」、昭和34年「敦煌」「海辺の光景」、昭和35年「忍ぶ川」、昭和36年「パリ燃ゆ」、昭和37年「砂の女」、昭和38年「砂の上の植物群」、昭和41年「黒い雨」、昭和42年「レイテ戦記」、昭和48年「月山」、昭和50年「火宅の人」、昭和51年「限りなく透明に近いブルー」、昭和52年「エーゲ海に捧ぐ」、昭和53年「風の歌を聴け」、昭和56年「吉里吉里人」、昭和62年「孔子」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年4月16日 (土)

康成忌

Photo_2   1972年のこの日、川端康成(1899-1972)がガス自殺した。川端を偲んでか知らぬが本日NHKでは「雪国」を放送する。ドラマには原作にない部分も深堀りして描いており興味深い。川端川端は「掌の小説」という短編集を若い頃から書いている。全部で122編もあるが、例えば39番目の「一人の幸福」という一編は結びの言葉が有名である。「一生の間で一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ」と書いている。このように健全な精神を持っていたが、晩年の川端はこれらを否定するようになった。ノーベル賞の授賞記念スピーチで「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という道元の歌を引用し、日本人の季節の移り変わりの中に感じる美意識を紹介している。死生観や美意識を小説のテーマに幾度となく取り上げてきた川端であるが、自身の人生の最晩年において、大往生で死すか、文学に殉ずるか、という選択は作家としての一つの決断であろう。川端は、ある出版人に「谷崎や志賀の死は文学者の死ではない」と言ったと伝えられている。数年後、ガス自殺を遂げた日本人初のノーベル文学賞作家の死は社会に大きな衝撃を与えたが、2年前の三島由紀夫(1925-1970)の割腹自殺と同じように日本人固有の死の美学という印象が強い。明治以降の近代文学作家をみても北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、田中英光、原民喜、久坂葉子、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦、鷺沢萌、森村桂と主な作家だけでも十数人が自殺している。海外でみると、ジャック・ロンドン、ヴァージニア・ウルフ、アーネスト・ヘミングウェイなど作家の自殺は意外と少ない。それも死の美学に殉じたという感じはない。日本人の作家とて自殺の理由は病気や経済的理由などそれぞれであろうが、三島由紀夫、川端康成などの自殺の動機は謎が多いが、死の美学に殉じたという表現がよくなされるようである。(4月16日)

2022年3月 4日 (金)

有島武郎の家系

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    有島武郎は、明治11年3月4日、東京の小石川水道町52番地に生まれた。父有島武は当時大蔵省の権少書記官をしていた。武は晩婚で、37歳で、母幸子(ゆきこ)25歳との間に初めてできた長男であったから、ひとしお喜んだ。だが、やがてこの夫婦の間には、武郎を頭に、五男二女が生まれ、七人の子持ちとなる。七人のうち、武郎とともに、次男壬生馬(みぶま、明治15年生まれ)、四男英夫(明治21年生まれ)、の三人までが芸術家となった。壬生馬は小説家で洋画家の有島生馬、英夫は小説家の里見弴である。一家から三人も芸術家を出した父母の血は何かとさぐってみても、満足な答は、なかなかでてこない。むしろ薩摩藩の一支族北郷氏の平佐郷の下級武士で、薩摩藩の陪臣である父や、南部藩の江戸表留守居役を父にもった母に、有島兄弟からみて、逆に芸術家的素質がひそんでいて、たまたま兄弟の出生によって立証されたとみるべきだろう。

   武郎兄弟の両親は、いずれも時代の嵐に貧困と苦渋とをなめて、苦労して育った。父方の祖父は、平佐藩のお家騒動にまきこまれて流罪に処せられていたから、父が貧困から身をおこさねばならなかったことは、たやすく察せられよう。維新後薩長政府といわれる明治政府に仕官して、時流にのって出世街道をたどり、実業界に身を投じ、やがて麹町の下六番町に広大な旗本屋敷をかまえて、成功者となった。早くから洋学を学んだ才覚にもよるのであろうが、また閥族の引きたてによるものであることは否めない。母はまた幼くして祖父を失い、維新の変動に一度は朝敵とされて、苦難を味わい、貧困のうちに、一家の再建をはかる祖母を助けて、苦労をした。やがて母は武と結婚して、初めて安堵の胸をなでおろしたことであろう。両親ともに過去の結婚に二度までも失敗を重ねているのだから、世間的にいって、この結婚によって初めて幸福をつかんだことになる。

 有島武郎は父武についての回想のなかで、次のように述べている。

「私の眼から見ると、父の性格は非常に真正直な、又細心な或る意味の執拗な性格を有つい居た。そして外面的には随分冷淡に見える場合が無いではなかったが、内部には恐ろしい熱情を有つた男であった。此の点は純粋の九州人に独特な所である。一時に或る事に自分の仕事にでも、熱中すると、人と話をしてゐながら相手の言ふ事が聞き取れない程他を顧みないので、狂人のやうな状態に陥つた事は、私の知つて居るだけでも、少なくとも三度あった。」

 

 

 

 

 

 

 

 

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