2008年7月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

2008年6月29日 (日)

牡丹と柿

Img_0001

      古希を迎えた武者小路実篤(大竹新助撮影)

  牡丹花を見て柿は驚いた。「なんて立派な花だろう。こんな大きな花の実はどんなに立派な実だろう。西瓜の何倍もあるにちがいない。そして食べるときはどんなにうまい実だろう」

    柿は、花の実のためにあることを信じ切っていたので、牡丹の花も実のためにあると思い込んでいたのだ。そう信じて、牡丹にどんな実がなるか、毎日たのしみに待っていた。ところが牡丹の花が散ったあと、青い唐辛子の小さいのが、三つ四つかたまって逆立ちしているような実に見すぼらしい実切りならないので、柿は驚く以上、可笑しくなって笑った。

  「牡丹と言う奴はなんと言う馬鹿なのだろう。あんな大げさな花を咲かせながら、あんなケチな実きり結べないのだ。余程虚栄心に富んだ馬鹿にちがいない」

    ところが牡丹の方は、柿の実を見てすっかり感心して、実に美しい立派な実だと思った。牡丹は実は花のためにあるものと信じて疑はなかったので、こんな実がつくれる柿は、さぞ立派な花を咲かせるだろう。今まで気づかなかったのは、よほど自分が間抜けだったにちがない。今度は是非注意して見てやろう。そう思って柿の花の咲くのを、今か今かと待っていた。ところがいよいよ柿の花か咲く時が来た。牡丹はだまされたような気がしてがっかりして、「これでも花か、これでは気がつかないほうが、あたりまいだ。あんな実を結びながら、こんなケチな花切り咲かすことが出来ないとは、柿さんも存外働きがないね」

   わきにいた松は、二人の評を聞いて言った。

「花は実のためでもあり、実は花のためでもある。それは本当だ。だが花は花のためにも存在し、実は実のためにも存在する。それも本当だ。牡丹さんは花が美しいからそれで威張ればいい、柿さんは実が美しいからそれを自慢にすればいい。私は花も実も駄目だから、せめて身体を大きくして、何かのお役に立ちたいと思っているのだよ」

   柿も牡丹も「さう言うものかね」と思った。

    武者小路実篤著 「牡丹と柿」(一部分)(初出 「心」昭和27年4月号)

2008年6月16日 (月)

歌人・原阿佐緒と原保美

Img

   (左から)原保美、阿佐緒、しげ、千秋

Img_0002

       映画「恋愛特急」原保美、津島恵子

    原保美(1915-1997)は帝国高等学院中退後声楽を学び、創作座から松竹大船に入社。昭和14年「感激の頃」に出演し、昭和25年以降フリーに。「ひめゆりの塔」「雲ながるる果てに」「太陽のない街」など独立プロの作品も多い。またNHK「事件記者」の東京日報の長谷部記者(通称・ベーやん)でお茶の間でも人気者だった。母は物理学者の石原純との恋愛事件で知られた原阿佐緒(1888-1969)である。二人の恋愛が事件として知られるようになったのは大正10年7月である。妻子ある謹厳実直な世界的学者が、やはり妻子ある美貌の女流歌人によってその地位を失った。翌年、千葉県保田に二人の居を構えたが、石原が首吊り自殺未遂などを起こし、破局し、昭和3年、原は宮城県宮床に戻った。

2008年6月12日 (木)

織田作之助の臨終にいた女

Img_2

    端役の女優であった輪島昭子(芸名、築地燦子)は、井上演劇道場の「わが町」の中で四人姉妹の末妹の役をもらった。この上演の稽古を立ち会うために上京した織田作之助(1913-1947)と初めて出会ったのは、昭和18年のことだった。そのころ織田には宮田一枝という愛妻がいた。その一枝は昭和19年の夏に肺がんのため亡くなった。やがて昭子と織田は意気投合し同棲関係となる。織田の旅先の東京での臨終にいたのも昭子ただ一人だった。林芙美子が何かと昭子の世話をみてくれた。昭子は織田の弟子である石浜恒夫(1923-2004)と結婚し、一児の母となるが、のち離婚。輪島昭子のその後の消息は何も知らない。

    ちなみに石浜恒夫は東洋史学者・石浜純太郎(1888-1968)の長男である。

「或る女」の埋葬許可証

Photo

   有島武郎の小説「或る女」の女主人公・早月葉子のモデルといわれる佐々城信子(1878-1949)は、昭和8年、55歳のときに、栃木県真岡にやって来た。信子の妹よしゑが、真岡で木綿問屋を営んでいた岡部完介に嫁いできたのが縁らしい。信子は武井勘三郎との間の子である瑠璃子を連れて2人で生活していた。現在、岡部記念館金鈴荘(栃木県真岡市荒町2162)の1階奥に住まいしていた。岡部農場で苺作りをしていたという。戦後、岡部家が没落すると、2人は金鈴荘を追い出された。夫の武井勘三郎はすでにこの世の人ではなかった。信子はクリスチャンとして聖書を手から離さず、清く簡素な生活を送っていた。町役場の厚い帳簿には、死体埋火葬許可証の写しが綴じられていた。

本籍 東京都中央区室町1丁目5-6

住所 栃木県芳賀郡真岡町大字荒町2162番地

生年月日 明治11年7月30日

死因 老衰症53日、肝臓炎15日

死亡場所 前記住所に同じ

埋火葬場所 町立火葬場

信子の子である瑠璃子はその後どうなったのか知らない。一説によれば、女優の星由里子と瑠璃子とは従姉妹であるともいわれるが、真偽はわからない。

2008年6月 1日 (日)

月が笑うぞ三四郎

Img_0001_3

             加山雄三と倉丘伸太郎

   近代柔道の確立に命を懸けた姿三四郎の生き様を豪快に描いた富田常雄(1904-1967)の大衆小説『姿三四郎』はこれまで何度も映画、ドラマになっている。藤田進、倉丘伸太郎、加山雄三、竹脇無我、三浦友和など好青年俳優が演じているが、姿三四郎のモデルはどのような人物であろうか。富田常雄の父、富田常次郎(1865-1937)は柔道家であり、同僚である西郷四郎(1869-1922)が小説のモデルという。西郷は新潟県出身で、小躯ながら敏捷な技術で柔術各流派の強豪を破って講道館の名声を高めた。その特技は「山嵐」といわれる。明治35年、鈴木天眼(1867-1926)と共に長崎で「東洋日之出新聞」を創刊、ジャーナリストとなった。東洋日之出新聞は日露戦争後のポーツマス条約に反対するという大手新聞の状況の中でも、日本とロシアの国力の違いを冷静に判断し、条約支持という社説を貫いた勇気ある新聞であった。西郷は長崎では、柔道、水泳、弓道などの振興にも努めたが、晩年は尾道で病没した。死後、大光寺(長崎市鍛冶町5-74)に墓所がおかれた。

2008年5月11日 (日)

風俗小説論

Img_3 

   横山めぐみ主演のテレビドラマで菊池寛(1888-1942)の原作「真珠夫人」がちょっとしたブームになったということが数年前にあった。原作は半世紀以上も前のもので、大正期の上流社会や富豪階級の家庭を背景に、第一次世界大戦後の市民社会の状況や風俗、流行を盛り込み、その中にヒロインの瑠璃子の激しい生き方を描いたものである。大正デモクラシーの時代思潮がうかがえるが、このような大時代の風俗小説が現代に何故か受けてヒットした。菊池寛はこの「真珠夫人」の成功により「貞操問答」「有優華」など多数の風俗小説を残している。小島政二郎(1894-1994)も戦前から戦後にかけて「人妻椿」などの多くの通俗小説で長い執筆活動であった。舟橋聖一(1904-1976)も戦後は「雪夫人絵図」などの愛欲小説で人気作家となった。丹羽文雄(1904-2005)はマダム物と呼ばれる風俗小説がある。そして丹羽は評論家・中村光夫と「風俗小説論争」を展開した。風俗小説と通俗小説、あるいは中間小説と区別はあいまいであるが、戦後における石坂洋次郎、梶山季之、源氏鶏太、井上靖、渡辺淳一などの圧倒的成功例の証明によって、中間小説は新聞や雑誌などのメディアの花形のジャンルとして隆盛しているといえる。

志賀直哉の松江時代

Img_2

 志賀直哉(1883-1971)は大正3年6月、31歳のとき松江に3ヵ月ほど住んだことがある。最初は末次本町の赤木館に泊まり、宍道湖畔東茶屋と仮寓した後、内中原67番地に移った。

ひと夏、山陰松江に暮らしたことがある。町はずれの濠に臨んだささやかな家で、独り住まいには申し分はなかった。庭から石段ですぐ濠になっている。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く、真菰が生え、寂びたぐあい、濠と言うより古い池の趣があった。鳰鳥が始終、真菰の間を啼きながら往き来した。(「濠端の住まい」)

 志賀の松江に滞在した目的は、夏目漱石の後を受けて朝日新聞の連載小説を書くことであった。

夏目さんはその年、春頃から「心」という小説を朝日新聞に出していた。私のものはそれが終わったところで直ぐ連載されるはずで、私は松江に行ってそれを書いていた。(「続創作余談」)

   志賀の松江での暮らしはできるだけ簡素な暮らしをするということであった。以前に尾道で独り住まいをしたときは、初めて自家を離れた寂しさから、なるべく居心地よく暮らすために、日常道具を十二分に調えたが、今度はできるだけ簡素にと心がけた。だが、小説は思うように進まず、夏には伯耆大山に登り、9月には京都南禅寺に移っている。ところで、尾道から大山、京都はみんな「暗夜行路」の主要な舞台であり、このころの志賀直哉がつまり時任謙作であることは明らかであろう。そして松江時代に体験したことが作品完成への重要な礎石となったことも事実である。「人と人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。虫と鳥と魚と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮らしだった」(「濠端の住まい」)とのちになって、松江時代が意義あるものであることを記している。

青い山脈

Img_0001

                    東宝「青い山脈」(昭和24年)

  戦後間もない年の6月のある日、東北の山村にある海光女学校で、若い英語教師島崎雪子は、5年生の寺沢新子から、一通のラブレターを見せられた。雪子は校医の沼田に相談する。彼は雪子を怒らせ平手打ちされてしまう。雪子がニセ手紙を書いた生徒の松山浅子を厳しく責めたことから、問題は一層大きくなり学校で父兄理事会を開くことになる。その上、浅子の父親が田舎政治家で、学校の理事長をしている井口甚蔵という市会議員と兄弟分ということで、雪子の立場はますます苦しくなった。沼田の中学の後輩金谷六助は、偶然新子と親しくなっていたが、二人が苦境に立っていることを知って沼田に応援をたのむ。沼田は一計を案じ、六助の友人富永安吉や芸者梅太郎の協力を得て、理事会の席で井口や体操教師の田中をやりこめて雪子を救う。やがて松山浅子も新子と和解した。台風一過、村にも学校にも和やかな空気が訪れて、寺沢新子と金谷六助は少し大人になり、沼田医師と島崎雪子は結婚の約束をする。

   「青い山脈」は昭和22年6月8日から10月4日まで朝日新聞連載小説として発表された。今井正監督で「青い山脈」「続・青い山脈」(原節子、池辺良、伊豆肇、木暮実千代、龍崎一郎、若山セツ子、杉葉子)、西河克己監督で吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹で再映画化されている。石坂洋次郎(1900-1986)は教師生活の体験を生かした青春小説を数多く残した。石坂は純文学、ことに自らがかつて親しく接した葛西善蔵の私小説のあり方に決別し、より広い一般の読者を目指した小説を手がけることになる。「青い山脈」には、自意識の文学から中間小説へという変化を見て取ることができる。

Img

             日活「青い山脈」(昭和38年)

2008年5月10日 (土)

文学全集の黄金時代

Img

    広告には当時の人気女優が使われた

    写真モデルはキーハンターの大川栄子

   1960年代、河出書房、講談社、集英社、筑摩書房、新潮社などの大手出版社は競って「日本文学全集」「世界文学全集」を続々と刊行していた。いまブックオフで105円でこれら全集の端本が買える。ケペルはついつい買ってしまう。これらの本には権威ある学者の解説がついているので、作品が多少とも自己の所蔵と重複してもそれなれに利用価値があると思うからである。また全集にどういう作家が採録されたかを調べるのも意外と面白い。石原慎太郎は大概収録されているが、松本清張は収録されないことが多い。とくに有名な事件は中央公論社「日本の文学」松本清張事件である。はじめ中央公論社はうち1巻を松本清張集にしたいと考えていた。ところが編集委員の三島由紀夫は「清張を入れるなら委員を降りる」といって頑強に反対した。こうして文学全集の中から清張は除外された。清張はこのことを後年まで恨んでいたという。作家にとっては文学全集に入ることはとても栄誉なことなのであろう。

2008年5月 4日 (日)

三島由紀夫のカニ嫌い

Img_0001_3

   折り目正しく、生真面目で、約束の時間を守り、ユーモアがあって、目立ちたがりやの努力家。三島由紀夫(1925-1970)の人となりについては、三島と身近に接した人たちの回想が数多く残されている。多い三島のエピソードの中でもよく知られているのが、「カニ嫌い」であろう。「倅にとってカニは不倶戴天の敵であり」、「カニを見ると、たちまち真青になってブルブル震えて逃げ出すという、実に念の入ったもの」(『倅・三島由紀夫』平岡梓)であった。しかし殻から取り出して身だけになると平気で食べたという。

   ある時、料亭の出た膳にカニが載っていると黙って手をふって下げさせた。その時、「蟹という字も嫌いだ」と真剣にいったのを武田泰淳が聞いている。そこから一歩進めて武田は、三島の日本刀好みも「蟹の爪、蟹の手足、蟹のハサミ、その動かし方、歩き方に対する嫌悪の念を克服する過程の、一つのあらわれだったかも知れない」(「三島由紀夫氏の死ののちに」)とまで推論している。

2008年5月 1日 (木)

千年の恋・源氏物語

Img_3

        紫式部画像  土佐光起筆

    今年は紫式部(979?-1016?)が「源氏物語」を執筆してからちょうど一千年の節目にあたるとされ、各地で「源氏物語」ゆかりのイベントが催されている。

    紫式部の生家は、父方は藤原冬嗣の六男良門を遠祖とする名門で、同門の中に文人・歌人が多く出ているし、父為時は詩文において当代一流の名手であり、兄惟規は歌人として知られていた。母方は藤原冬嗣の一男長良を遠祖とする名家で、母は藤原為信のむすめである。

    紫式部は生まれつき鋭い頭脳をもち、記憶力に富んでいた。「紫式部日記」によると、幼いころ兄の惟規よりも早く史記を聞きおぼえたので、父の為時は「この子が男であったらなあ」と嘆いたという。式部は天元元年頃に生まれ、長保元年、22歳のとき、48歳くらいであった藤原宣孝と結婚し、翌年一女大弐三位を生んだが、長保3年には夫宣孝と死別した。その後6年間は父の邸で寡婦生活を送っていたが、寛弘4年、式部30歳のとき、藤原道長に見出されて、一条天皇の中宮上東門院彰子に仕えた。式部の没年については諸説があるが、長保5年頃に39歳くらいで没したとするのが通説である。

   「源氏物語」の成立事情についても不明な点が多い。夫宣孝に先立たれてから、つれづれの寡居の日々に、自身の内的欲求に駆られて筆を染めたのであろう。「紫式部日記」寛弘5年(1008年)11月1日の記事によれば、道長の土御門邸で敦成親王の誕生50日の祝宴が催された。この折、酒に酔った藤原公任が、「あなかしこ、このわたりにわか紫やさぶらふ」と戯れかかったのを、式部は「源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上は、まいていかでものし給はむ」と聞いていたという。次いで旬日を経た同日記には、内裏還啓を間近に控えた中宮のもとで、頻りに冊子作りの営まれていた模様が見える。従ってこの頃、「源氏物語」の殆ど、或は少なくとも「若紫」を含む第一部は完成し、宮廷人士の間でかなり評判になっていたと見てよかろう。

    源氏物語」は世界最古の長篇小説とよく言われるが、千年にわたって詠み継がれてきたこになる。参考書には、岩波書店「日本古典文学大系」の「源氏物語」があり、注釈書には、金子元臣「源氏物語新解」、吉沢義則「対校源氏物語新解」、池田亀鑑「源氏物語新講」、島津久基「源氏物語講和」など。現代語訳では、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、村山リウ、田辺聖子、瀬戸内寂聴など。

雑誌『武蔵野』と樋口一葉

Img_0001

         下村為山画「樋口一葉像」

   明治19年8月20日、樋口一葉(1872-1896)は遠田澄庵の紹介で中島歌子の萩の舎に入る。上流家庭の子女の集まるこの歌塾にあって下級官吏の娘であった一葉はしばしば肩身の狭い思いを味わったが、早くから歌の才能を示し、姉弟子の三宅花圃とならんで同門の才媛と称された。明治22年7月12日、父の樋口則義は失意のうちに病没した。花圃が「藪の鶯」の発表以後小説家として活躍し始めたのに刺激され、生活の資を得るため小説を書く決意をし、明治24年4月15日、野々宮きく子の紹介で半井桃水を訪ねて、弟子入りした。

    明治25年3月、4月、7月発行された半井桃水主宰の同人雑誌『武蔵野』に、樋口一葉は第一編創刊号に「闇桜」、第二編に「たま襷」、第三編に「五月雨」とたて続けに載せている。ほかに、畑島桃蹊、小田果園、柳塢亭寅彦、三品藺蹊、斉藤緑雨らが寄稿した。「闇桜」は、一葉の小説がはじめて活字になったのものであり、またはじめて「一葉」という筆名を使ったのも、この『武蔵野』が最初である。だが、桃水との噂が萩の舎で問題化した。また桃水の身辺多忙と売れ行きの減退から雑誌は3号で廃刊となり、一葉は思いを残しながら桃水と絶交の形をとる。しかし、一葉の桃水への愛情は終生変わることはなかった。

Img

2008年4月26日 (土)

夏目漱石「こころ」

Img_2

日活映画「こころ」(昭和30年)森雅之・新珠三千代

  私は暑中休暇に鎌倉へ行って、そこの海岸で先生を知った。はじめ白い皮膚の西洋人といっしょだった先生を、私は好奇心で見守っていた。幾日か海でいっしょに泳ぐうちに、先生と懇意になることができた。東京へ帰ってから先生の宅を訪ねた。奥さんから、先生が雑司ヶ谷の墓地へ行っていると教えられ、私も墓地へ行った。先生は毎月その日に友人の墓参をする習慣だったのだ。それから、私はしばしば先生の宅へ行くようになった。はたで見ているかぎり、先生と奥さんは仲のいい夫婦であった。二人で音楽会や芝居に行き、ときには箱根や日光へ1週間ぐらいの旅行をする。私は二人の結婚の奥に、はなやかなロマンスの存在さえ仮定していた。しかし先生は、恋は「罪悪だから気をつけないといけない」と言った。私がその意味を問い返すと、先生は「雑司ヶ谷の友人の墓地へ私がなぜ毎月参るのか知っていますか」と逆に質問してきて私を混乱させた。それ以上の説明を先生から聞くことはできなかった。先生が珍しく会合に出かけた夜、私は頼まれて奥さんと留守番をした。奥さんは、先生がだんだん人の顔を見るのも嫌いになり、会にもめったに出ないと嘆いた。奥さんの解釈では、世間を嫌い人間を嫌う先生は、その人間の一人として奥さんをも嫌っている、という。それでいて奥さんは、先生が奥さんと離れれば不幸になるだけだ、ということをはっきり理解していた。

    私の父が病気になった。東京を離れて、しばらく国へ帰った。病気が小康を得たので、私はまた学校へもどり、卒業論文にとりかかった。そのころ先生は、私に家の財産をはっきりしておくほうがよい、と言った。親戚や兄弟がいくらよい人間でも「いざという間際に、急に悪人に変はるんだから恐ろしいのです」、先生の口調は苦々しげであった。大学を卒業して私は国に帰った。父の病状はあまり変わっていなかった。父は赤飯を炊いて、卒業披露の客を呼ぶと言った。私は仰々しいのが嫌いだったが、学問をさせると人間が理屈っぽくなるという父の一言で、反対するのをやめた。その言葉のなかに、父の私に対する一切の不平があるように思えたから。しかし、招待の日が来ないうちに明治天皇の御病気が報じられた。披露は自然と沙汰止みになった。

   そのころ、父と母とが私の仕事に大きな期待をもっていることがわかった。母は、私の尊敬している先生がいずれは仕事の口を捜してくれるものと決めこんでいた。それでもどうにか私が東京へ出て仕事が見つかるまで、学資を送ることを約束してくれた。しかし、私が上京する間際に、父は風呂場で倒れた。九州の兄を呼び返した。妹の夫も駆けつけてきた。新聞は乃木大将の死を報じた。先生から会いたいという電報がきたが、私は父の病気が急変したので上京できない由を知らせた。父の病気はさらに進んだ。「乃木大将に済まない、私もすぐ御後から」とうわごとを言うようになった。そんなとき、小包のように分厚い封書が届いた。それは先生の遺書だった。「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此の世には居ないでせう」という一節が目にしみた。私は母や兄にも断らず、停車場へ急ぎ、東京行きの汽車に飛び乗った。ごうごう鳴る三等列車のなかで、私は先生の遺書を取り出して、はじめから終わりまで目を通した。「上・先生と私」「中・両親と私」と書き継がれた「こころ」は、ここで最後の章である「下・先生と遺書」に移る。私がそれまで見てきた先生なる一人の思想家のいわば精神の生い立ちが、その遺書によって解明されるのだが、そこには人間の性格に根強くはびこるエゴイズムを追求し、やがて晩年に「則天去私」の境地にたどりつく漱石の、創作活動の全契機が示されている。先生はその財産を叔父に奪われた。信頼していた叔父が、父の遺産を手にするや善人から悪人に一変した。先生はその衝撃で人間への信頼を失うが、自分だけはそんな人間ではないと信じていた。ところがその自分も、自分を信頼しきっていた友人Kを裏切ることによって、いまの奥さんと結婚することに成功した。Kは自殺をとげた。その結果からいえば、叔父がやったことよりも自分のやったことのほうがひどい。先生は、他人を呪い嫌った自分自身を同様に呪い嫌った。それはまた償いきれない罪の自覚でもあった。その苦しみに悩みぬいたあげく、乃木大将の殉死に触発されて、先生は自殺を決行する。それはまた、天皇に始まって天皇に終わった明治の精神の最も強い影響を受けた先生にとって、一つの殉死でもあった。そして「こころ」で自我否定の道を切り開いた漱石は、のちに「道草」において、自己の我を捨てさり、「則天去私」の新しい境地へ踏み入ることになったのである。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社)

泉鏡花「婦系図」

Img_0001

   泉鏡花(1873-1939)は明治23年作家を志して上京。翌年尾崎紅葉の門下に入ることを許され玄関番として同家に寄宿。いくつかの作品を発表したが不評で自信を失い、帰郷したり自殺をはかったこともある。明治40年の「婦系図」は新派悲劇の代表作として広く愛された。画像は大映「婦系図」(昭和37年)の市川雷蔵・万里昌代の主税・お蔦の湯島天神の場面だが、「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ、…私にゃ死ねと云って下さい…」という有名なセリフは本来小説にはなかった。これは明治41年の新富座で上演したとき柳川春葉と喜多村緑郎が付け加えたもの。鏡花はそれを気に入って、大正3年、舞台のために「湯島の境内」を書き下ろし、これが湯島天神の場面として広まったものである。

            *

   柳橋の芸者お蔦と恋仲になった早瀬主税は、恩師・酒井俊蔵に隠れて世帯を持つが、これが知れて怒った酒井は二人を別れさせる。早瀬は郷里静岡に帰り、お蔦は八丁堀に身を寄せ髪結いになるが胸をわずらって床につく。元軍医監・河野英臣は息子英吉の嫁に酒井の娘妙子を得ようと策動し、早瀬の妨害にあたったことから彼の身元を調査する。一方、お蔦の病は重く、駆けつけた酒井に手をとられながら、死んでいく。河野家の仕打ちに憤慨していた早瀬はお蔦の死を聞くや、河野の前に己の前身が巾着切りであったことを明かし、河野家の不倫を暴いてお蔦の黒髪を抱きながら毒をあおる。

「青春の門」と早稲田大学

Img

    誰もが一度は通り過ぎる、しかし唯一度しか通ることの許されぬ青春の門。五木寛之といえば「青年は荒野をめざす」「さらばモスクワ愚連隊」「風に吹かれて」「蒼ざめた馬を見よ」などあるがやはり大河小説「青春の門」が代表作であろう。そして尾崎士郎の「人生劇場」青成瓢吉とともに、伊吹信介は早稲田の学生であり、五木寛之と早稲田大学という印象も強い。近年は宗教や哲学的な著作が多く、平成16年には「仏教伝道文化賞」を受賞している。最近ある本で、五木寛之と石原慎太郎はともに昭和7年9月30日の生まれだと知る。同世代で対照的な二人の作家への興味はつきない。

    五木寛之は生後まもなく朝鮮に渡り終戦を迎え、混乱の中、母を失い、数々の困難を経て、昭和22年に日本に帰国する。この苛酷な体験が、作風に大きな影響をあたえているのであろう。ただ多くの作家は自伝的な作品を残すが、五木にはあまりに苛酷なものであるためか少年期の自伝的なものはないという。昭和27年に早稲田大学露文科に入学したものの、授業料が払えず、心ならずも早稲田大学を去る。このとき五木は大学の事務から、抹籍願を書いて渡した。五木は、作家になってからもずっと、「早稲田大学抹籍」だと言い続け、書いてきたが、まわりが勝手に「中退」と解釈していた。ところがあるバーティーで、一人の銀髪の品のいい紳士に会う。その人は早稲田大学の総長だった。「校友会に入ってほしい」と言われ、「いや、私は授業料を滞納して早稲田は抹籍になっていますから、入る資格なんかないんです」と説明すると、「今ならお払いいただけるでしょうか」と言う。すぐに、大学の事務局から請求書が来た。その日に払い込んだら、「今日からあなたは正式に中退です」と連絡があった。それ以後は、「早大中退」と書けるようになったという。

                   *

    伊吹信介は、筑豊の炭鉱夫伊吹重蔵の息子として生まれた。信介は義母のタエに育てられるが、彼はタエを母としてだけではなく女として愛した。父は、坑道に生き埋めになった坑夫を救うために死んだ。終戦は、信介が国民学校4年の時だった。母と子は重蔵の遺言で、飯塚のやくざ塙竜五郎の世話になることになった。が、まもなくタエは病死してしまう。早稲田大学に合格した信介は、幼なじみの牧織江や竜五郎をあとに、上京していく。大学に入った信介は、演劇青年の緒方の下宿にころがり込み、娼婦のカオルと知り合ったりする。信介は授業にはほとんど出ず、アルバイトや売血、ボクシング等をして暮らしていた。人生の目的を探すために大学を入った信介は、緒方の演劇活動に参加し、北海道に渡る。だが、働きながら芝居をつくるという緒方の意図は、結局失敗してしまう。信介は札幌でしばらく織江と同棲していたが、もう一度大学に戻ることを決心する。織江は歌手としてスカウトされ、信介から離れて行く。上京した信介は政治運動に参加するが、ここでひどい挫折感を味わい捨てばちな気分に陥っていく。織江は老作詞家宇崎秋星と知り合い、レコード歌手としてのチャンスをつかんだ。一方、自堕落な生活を送っていた信介は、竜五郎が大けがをしたことを知り九州に帰る。しかし竜五郎は、けががもとで死んでしまう。再び東京に来た信介は、ふとしたことから実業家林三郎と知り合い、彼の書生となり新しい出発を決意する。林家に来て2年半が過ぎた。信介は、林三郎から将来を嘱望されていた。そんな折、思うようにヒット曲の出ない織江が、最後のチャンスに賭けるため、信介にマネージャーになってくれないかと申し出てきた。いろい迷った末、信介は織江に協力することにする。北海道で知り合ったアナキスト丸谷玉吉が、東京山谷で車にひかれて死んだ。信介は北海道江差に行き、納骨する。信介は、立原襟子を知り好きになるが、函館でレポ船団に戦いを挑んでいる元新聞記者の西沢洋平と再会し、ひょんなことからハバロスクへ旅立つ。ハバロスクに着いた信介と西沢らは、シベリア独立計画にからみ収容所に送られそうになったが、西沢の友人、伊庭敬介に助けられた。信介は西沢らと別れ、パスポートもないまま、恋人アニョータとともに、ポーランドに向け旅に出ようとする。

2008年4月14日 (月)

忘れがたき人人

Img_3

  葡萄色(えびいろ)の

  古き手帳にのこりたる

  かの会合(あいびき)の時と処かな

          *

  かの声を最一度聴かば

  すっきりと

  胸や霽(は)れんと今朝も思える

          *

  君に似し姿を街に見る時の

  こころ躍りを

  あわれと思え

          *

  時として

  君を思えば

  安かりし心にわかに騒ぐかなしさ

          *

  わかれ来て年を重ねて

  年ごとに恋しくなれる

  君にしあるかな

          *

  さりげなく言いし言葉は

  さりげなく君も聴きつらん

  それだけのこと

          *

  かの時に言いそびれたる

  大切の言葉は今も

  胸にのこれど

               (石川啄木「一握の砂」)

手套を脱ぐ時

Img_0001

 こころよく

 春のねむりをむさぼれる

 目にやわらかき庭の草かな

          *

  あたらしき木のかおりなど

  ただよえる

  新開町の春の静けさ

          *

 ゆえもなく海が見たくて

 海に来ぬ

 こころ傷みてたえがたき日に

      ( 「一握の砂」  石川啄木)

Img_2

2008年4月13日 (日)

望郷の月、阿倍仲麻呂

Img_3

    養老元年、阿倍仲麻呂(698-770)は遣唐使多治比県守の船で、吉備真備らとともに入唐した。ときに16歳であった。当時、唐は玄宗皇帝の代で開元の治がおこなわれ隆盛をきわめていた。彼は唐にとどまり中国名を朝(晁)衡と名乗って玄宗に仕えた。盛唐の詩人・李白や王維らとも交遊した。唐朝に仕える生活は、憧れの先進国で重んぜられるという、めったなことでは日本人が味わえなかった経験を彼に与える快い歳月であったことであろう。しかし齢50歳を越えた仲麻呂は懐郷の念おさえがたく、帰朝することになった。天平勝宝5年、遣唐使藤原清河らとともに鑑真に会い来日を促し、自らも帰国しようとしたが、海上で暴風雨にあい、船はちりぢりに流され遭難する。仲麻呂らの遭難を受けた李白は悲しんで「晁卿の行を哭す」という七言絶句を作った。

 日本ノ晁卿帝都ヲ辞ス

 片帆百里蓬壷ヲ繞ル

 明月帰ラズ碧海ニ沈ミ

 白雲秋色蒼梧ニ満ツ

    阿倍仲麻呂の船は安南に漂着した。再び清河らと唐に戻る。仲麻呂は帰国を断念して、鎮南都護安南節度使(正三品)にすすみ潞州大都督をおくられ、宝亀元年、唐土で没した。年70歳。

 天の原ふりさけ見れば春日なる

      三笠の山にいでし月かも

(通釈)大空をはるかにふり仰いで見ると、月が美しく出ている。ああ、あの月は春日の三笠山に出た、あの月なのだなあ。

2008年4月11日 (金)

漱石と阿蘇登山

Img_0001

    夏目漱石(1867-1916)が松山中学を辞任して、第五高等学校に月給100円で熊本に赴任したのは明治29年4月のことであった。はじめ菅虎雄の家(熊本市薬園町62番地)に同居。やがて明治29年5月4日、熊本市通町103番地、現在の下通町、光琳寺に一戸を構えた。ここで6月、中根鏡子(1877-1963)と結婚式をあげた。9月20日、熊本市合羽町237番地(現・坪井町)に移転。家賃13円の広い家だった。明治30年9月10日、熊本県飽託郡大江村401番地(現・新屋敷)に移転。明治31年3月、井川淵町8番地に移転。明治31年7月、熊本市坪井町78番地に移転。明治33年3月末、熊本市北千反畑78番地に移転。そして明治33年5月12日に英語研究のため、イギリス留学を命ぜられ、熊本を去る。4年3ヵ月の熊本滞在中に6回も引越ししている。またこのころ30歳から34歳の漱石は身心壮健で、小天温泉、山鹿温泉、久留米、耶馬溪、内牧温泉(阿蘇)など旅行をよくしている。まだ交通の整備されていない時代であろうから、かなりの健脚であったと思われる。ちなみに漱石は身長158,8cm、体重53.3㎏(明治23年の測定)で当時としては平均よりやや良好な体格であった。

    明治32年9月には、山川信次郎と共に、阿蘇中岳へ行く。最初の日、戸下温泉を経て、内牧温泉養神亭(現・山王閣)に泊まり、阿蘇神社に詣で、現在の仙酔峡道路で高岳まで登ったと思われる。この旅行が「二百十日」の素材となっている。

Img

明治30年頃の阿蘇中岳への登山道はこのように整備されていなかったであろう

2008年4月10日 (木)

「もののあはれ」と山桜

Img_0003

    JR青梅線の鳩ノ巣駅から川沿いの渓谷を散策する。花と葉が同時に開く山桜の花が美しい。山桜の美しさを感ずる心を、国学者・本居宣長(1730-1801)は次のように詠っている。

  敷島の大和心を人問はば

                     朝日に匂ふ山桜花

  めづらしき高麗もろこしの花よりも

                     あかね色香は桜なりけり

   宣長はこれを「もののあはれ」として、感ずべきことに心を動かすこと、つまり儒教や仏教道徳に捉われずに、美しい花を見たら美しいと感ずる心が大切だと説いている。

    評論家・小林秀雄も桜に魅せられた日本人の一人である。

「さくらさくら 弥生の空は 見わたすかぎり 霞か雲か 匂ひぞ出づる いざや いざや 見に行かん」といふ誰でも知っている子供の習ふ琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開の桜を見ていた。そよとの風もない、めづらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、この歌かず思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があるまいという気持ちがした。(小林秀雄「さくら」)

熱海と「細雪」

Img

  熱海在住時代の谷崎潤一郎。右は高峰秀子

    谷崎潤一郎(1886-1965)は79年間の生涯で何度住居を変えたのだろうか。おそらく40回を超えるだろうが、ホテル、別荘、マンションの仮住居も数えるともっと多い。とくに大正12年に箱根で関東大震災にあって以降、京都上京区等持院へ、続いて要法寺へ、そして兵庫県西宮市苦楽園に転居すると昭和18年11月まで阪神間を転々としている。有名な「細雪」は神戸市東灘区住吉東町の倚松庵で書かれたといわれる。関西ブルジョア家庭が描かれているので、神戸で執筆した印象が強いが、実際にその多くを執筆したのは熱海である。昭和17年ころから、谷崎は「細雪」を執筆のために熱海の地を選んだ。昭和17年4月には熱海の西山598番地に別荘を購入している。そして当時の居住地であった神戸が空襲にあう危険がてでてきたので、昭和19年4月に熱海に疎開している。戦後、谷崎は京都の南禅寺と左京区下鴨泉町に転居したが、京都の冬の底冷えの寒さに耐えられず、昭和25年2月、再び熱海に転居し、雪後庵と名づけた。昭和39年には臨終の地となる神奈川県湯河原町吉浜字蓬ヶ平に「湘碧山房」に新築移転している。

    このような引越し魔であるが、その根底には谷崎一流の美意識があるように思える。「細雪」の執筆にはあえて関西をさけて熱海を選び、「新訳源氏物語」のためには京都を選んでいる。作品を書く上げるためには、積極的に環境を変える必要があったのであろう。

2008年3月29日 (土)

上流階級夫人でプロレタリア女流作家

Img_0001

   明治44年、若杉鳥子(1892-1937)は、板倉勝忠(1887-1973)と結婚した。夫は備中高梁城の城主・板倉勝静(1823-1889)の孫にあたるという(板倉勝弼の五男)。つまりプロレタリア女流作家・若杉鳥子は子爵令弟夫人といわれる上流階級の夫人であった。だが鳥子自身の生い立ちが芸者置屋に里子にだされるという境遇であったためか、プロレタリア女流作家としての道を歩んだ。そして夫は早稲田大学卒の新聞記者、外交官という社会的地位のある人物。また義弟には登山家として知られた板倉勝宣(1897-1929)がいた。昭和8年、鳥子は小林多喜二の母・セキへの義捐金を集める活動をするが、それが治安維持法違反にあたるとして、検挙・投獄されるという苦い経験をもつ。平林たい子は「若杉さんは、プロレタリア文学と、外交官で華族出の夫をもった家庭とのあいだでのギャップに苦しんでいた」と語っている。画像は晩年の若杉鳥子であるが、美貌の上流夫人であり女流作家としての雰囲気がよく表れた写真であろう。(引用文献:奈良達雄『若杉鳥子その人と作品』東銀座出版社)

2008年3月25日 (火)

長塚節の純愛

Photo

   長塚節(1872-1915)は夏目漱石の推薦で東京朝日新聞に「土」(明治43年6月13日から11月17日掲載)を執筆中のある日、遠縁にあたる詩人の横瀬夜雨(1875-1934)宅を訪ねた。そこで夜雨から一人の女弟子の写真を見せられた。若杉鳥子(1892-1937)という女性で、庶子のため生後間もなく里子にだされ芸者の修業をさせられていたが、強い向学心と文学の才能があり、16歳の時、家出、上京したという素性を聞く。節はその楚々たる容姿に魅了され写真を貸してもうら。明治43年6月、夜雨から鳥子の写真を返すように督促された節は写真の代わりに、「擬古二種」を夜雨あてに送る。

まくらがの古河の桃の樹ふふめるを

  いまだ見ねどもわれ恋にけり

          *

紅の下照り匂ふももの樹の

  立ちたる姿おもかげに見ゆ

 ほどなくして、鳥子が夜雨宅にくることを知らされる。夜雨は二人を引き合わせることにしたが、ちょうどその時、節が痔を病んで、とうとう実現しなかった。鳥子は翌年9月、英文学者の板倉勝忠(1887-1973)と結婚する。

   節は終生独身で、結核のため大正4年、40歳に満たずに早世している。鳥子も昭和12年病のため44歳で亡くなった。

   鳥子は節が亡くなるや、挽歌7首を夜雨のもとに送り届けた。

大利根の川千載を流るとも

  故郷悲し君あらなくに

          *

筑波野に君います日は一握の

  土くれさへも光出しを

          *

君しあれば筑紫野に師の痛めるを

  たのみ来てにし逆さ事はも

   「逆さ事」とは病で外出もままならない夜雨の世話を本来は世話を受けた私がすべきなのに、節にそれを頼むように結婚してしまった。それを「逆さ事」と、すまない気持ちを表わしているのであろうか。若杉鳥子の文学者としての才能だけではなく、人柄のよさがこの歌でうかがい知ることができる。

2008年3月24日 (月)

石川啄木・我を愛する歌

Img

大海にむかひて一人

七八日

泣きなむとすと家を出でにき

          *

砂山の裾によこたはる流木に

あたり見まわし

物言ひてみる

          *

大といふ字を百あまり

砂に書き

死ぬことをやめて帰り来れり

          *

ふと深き怖れを覚え

ぢっとして

やがて静かに臍をまさぐる

          *

何となく汽車に乗りたく思ひしのみ

汽車を下りしに

ゆくところなし

          *

何がなしに

さびしくなれば出てあるく男となりて

三月にもなれり

          *

かなしきは

飽くなき利己の一念を

持てあましたる男にありけり

2008年3月16日 (日)

有島武郎の文学的評価

Img_0002

  有島武郎(1878-1923)は明治36年、森本厚吉とともに渡米、歴史や経済学を学ぶ。このころから信仰に動揺をきたし、ホイットマン、トルストイなどを耽読、また社会主義の影響を受けた。明治43年、「白樺」に参加し、大正5年、父や妻(神尾安子)の死などが転機になって作家としての本格的な活動が始まることになる。有島の「或る女」は近代リアリズム文学の代表作といえる。朝日新聞の「たいせつな本」で加賀乙彦が次のように書いている。(2008年3月16日付)

日本の近代文学のなかで傑出した作品をひとつあげよと言われたら、私はためらいなく『或る女』をあげる。この作品を何度も読み、読むたびに新しい発見をして教えられる、長い間にそういう経験をしてきたからだ。

   半世紀は世代が違うすぐれた現代作家からかくまで尊敬される有島武郎とは実にすばらしい作家であったことがわかるであろう。だが有島の晩年はロシア革命や社会運動の高まりに、親譲りの財産に依食する罪悪感に苦しむこととなり、人妻の波多野秋子との心中事件が、彼の文学的評価に何らかの影響があるものであろうか。同時代の吉野作造はいう。「彼の死には僕は徹頭徹尾服さない。すこぶる遺憾なことと彼のためにも惜しむ。彼に於て貴むべきは彼の死にあらずして彼の真と誠とで一貫した四十六年の生涯である。彼は死に失敗したが生に成功した人だと言っていい。生に成功したが故に、世人は誤って彼の死にもまた貴い何物かがあるらしく迷う。それだけ彼の生涯は立派なものであった」(「文化生活」大正12年9月号)

    有島武郎「或る女」の文学性を加賀乙彦は次のように分析している。

歴史的出来事と小説の時間とが密な関係を持つ手法を、有島武郎は、トルストイとフローベールから学んだと思われる。彼は欧米の近代文学の熱心な読者であった。日本の近代の長編小説には物語を情緒で流していくたぐいのものが多い。なるほど面白い話だとは思うものの、登場人物の性格が初めから一本調子で、その精神の深みに分け入るだけの作家の努力が希薄である。ところが『或る女』には、作品の構成によって主人公の内面の闇をつぎつぎに描き出していく複雑な手法が取り入れられている。

    この加賀の短文を読んでみても、有島武郎『或る女』がそれまでの日本の小説には無かった主人公の近代性とか内面の性格描写に優れている点を特筆している。『或る女』の成立には、世界最高の文学と言われるトルストイの『アンナ・カレーニナ』やフローベールの『ボヴァリー夫人』の影響があることは明らかである。フローベールが『ボヴァリー夫人』を書くための膨大なメモが発見されたという記事を読んだことがあるが、有島も『或る女』を書くために緻密な準備をしていたようである。

私は有島武郎の小説作法から、ずいぶんいろいろと教えられてきた。彼が『或る女』に到達するまでの、創作日記を研究し、試作品としての『或る女のグリンプス』と完成作とをくらべてみて、小説とはこれだけの用意と思索とをもってすべきだと思った。

  加賀の一文を読んで、今日でも有島武郎の作品の価値は不朽のものであることがわかるが、大正時代に吉野作造が言った「生に成功した人」という評も当っているように思える。

2008年3月 2日 (日)

有島武郎「ドモ又の死」

Img_0002

   有島武郎(1878-1923)が個人雑誌「泉」に戯曲「ドモ又の死」を発表したのは大正11年10月のことである。それから翌年6月に美人記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中自殺したのは、わずか8ヵ月後のことであった。当時の有島の心境を知るてがかりとしては、この作品のほか、戯曲「断橋」、小説「酒狂」「或る旋療患者」「骨」「親子」などがある。

「ドモ又の死」あらすじ

    「ドモ又」とあだ名された戸部、花田、沢本、瀬古、青島という五人の青年画家が、ともにモデルのとも子に好意をもち、芸術家信念に燃え3日間も飢えとたたかって制作に精進している。遺作展を開いて、悪ブローカー九頭竜、えせ美術愛好家堂脇左門から金をまきあげようという計画がたてられる。そのためにはひとりを天才として死んだことにし、とも子と結婚して天才の弟として再生することにしなければならない。とも子に意中の人を選ばした結果は、意外にもドモリで、ししっ鼻で、顔にでこぼこのあるドモ又だった。一同これを了承、九頭竜らを迎える準備をする。

花田さん、あなたは才覚があって画がお上手だから、いまに立派な画の会を作って、その会長さんにでもおなりになるわ。お嫁にしてもらいたいって、学問のできる美しい方が掃いて捨てるほど集まってきてよきっと。沢本さんは男らしい、正直な生蕃さんね。あなたとはずいぶん口喧嘩をしましたが、奥さんができたらずいぶん可愛がるでしょうね。そうしてお子さんもたくさんできるわ。そうして物干竿におしめが賑やかに並びますわ。青島さんは花田さんといっしょに会をやって、きっと偉くなるわ。いまに皆んながあなたの画を認めて大騒ぎする時が来てよ。そうして堂脇さんとやらが、美しいお嬢さんを貰ってくださいって、先方から頭を下げてくるかもしれないわ。けれどもあんまり浮気をしちゃいけなくってよ。瀬古さん…あなた、若様ね。きさくで親切で、顔つきだって一番上品で綺麗だし、お友だちにはうってつけな方ね。でもあなた、きっと日本なんかいやだって外国にでも行っちまうんでしょう。お大事にお暮らなさい。戸部さんは吃りで、癇癪持ちで、気むずかしやね。いつまでたってもあなたの画は売れさうもないことね。けれどもあなたは強がりなくせに変に淋しい方ね…。悪口になったら、許してちょうだい。でも私は心から皆さんにお礼しますわ。私みたいながらがらした物のわからない人間を、皆さんで可愛がってくださったんですもの。お金にはちっともならなかったけれども、私、どこに行くよりも、ここに来るのが一番嬉しかったの。ともどもに苦労しながら、めいめいが一番偉いつもりで、仲よく勉強しているのを見ていると、何んだか知らないが、私時々涙がこぼれっちまいましたわ。…でも私、自分の旦那さんを決めなければならないんだわ。いやになるねえ。私がいい人を選んでも、どうか怒らないでちょうだいよ。私、これでも身のほどをわきまえて選ぶつもりですから…。戸部さん、私あなたのお内儀さんになります。怒らないでちょうだいよ。私あなたのことを思うと、変に悲しくなって、泣いちまうんですもの…。

国木田独歩の離婚

Img_2

       佐々城豊寿

Img_0001_2

         佐々城信子

    従軍記「愛弟通信」を国民新聞に連載して好評を得た国木田独歩(1871-1908)は、明治28年6月9日、キリスト教婦人矯風会書記長・佐々城豊寿(1853-1901)の従軍記者招待晩餐会に出席し、そこで長女の佐々城信子を初めて知った。

   佐々城豊寿は嘉永6年、伊達藩士・漢学者・星雄記の3女として生まれた。幼いころから才気煥発で、のち婦人解放運動の先駆者となる。明治11年に陸軍軍医・伊東本支と知り合い、彼との間にノブをもうけた。この私生児が、のちに独歩に「欺かざるの記」を生み出し、有島武郎に「或る女」のヒロイン早月葉子のイメージとなった、佐々城信子である。

   独歩と信子は愛し合うようになる。しかし、自由恋愛者であるはずの母・豊寿は独歩のことを「どこの馬の骨ともわからぬ男」と蔑視し、結婚に反対する。周囲の反対を押し切り結婚した二人に破局が訪れる。明治29年3月28日、父の病気のために麹町区隼町に同居していた独歩は、矯風会のメンバーである潮田千勢子(1845-1903)宅で豊寿と和解の面会をした。ついに4月24日、独歩と信子は離婚した。この破婚によって豊寿は娘の情操教育を誤ったものと世間から糾弾を受け、雪深い北海道へ隠棲した。

2008年2月23日 (土)

三島の太宰批判

Img_0001

   太宰治の「斜陽」に有名な場面がある。お母さまが白い萩の花のしげみの中から顔を出して、娘のかず子に「お母さまが、何をなさっているか、あててごらん」と聞く。そして、「おしっこよ」と一言いう。「ちっともしゃがんでないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった」

    この「斜陽」に対して、三島由紀夫は「太宰治氏のこと」(「三島由紀夫全集30」)で次のように批判している。

作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいひといひ、生活習慣といひ、私の見聞してゐた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などといふ。「お母さまのお食事のいただき方」などといふ。これは当然、「お母さまの食事の召上がり方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さへつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、「かず子や、お母さまがいま何をなさってゐるか、あててごらん」などといふ。それがしかも、庭で立小便をしてゐるのである!」

    三島が指摘するように貴族的な立ち居振る舞いや言葉遣いの難点が小説には認められるものの、「斜陽」で太宰が紡ぎだした言葉は全体として成功しているように思える。太宰嫌いの三島はあまり仔細に検討していないようだ。太宰作品をもっと深く丹念に検討する価値がありそうだ。

ここでは、ちょっと気のきいた一文だけをあげるにとどめる。

三十。女には、二十九までは乙女の匂いが残っている。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。

2008年2月18日 (月)

太宰治と高峰秀子

Img_0001

    左より高峰秀子、山根寿子、太宰治

   高峰秀子の自叙伝「わたしの渡世日記」は、単なる一女優の回想録という以上に貴重な昭和史の記録でもある。例えば、昭和22年夏の太宰治との出会いの記述である。

新橋駅に現れた太宰治のスタイルはヒドかった。既にイッパイ入っているらしく、両手がブランブランと前後左右にゆれている。ダブダブのカーキ色の半袖シャツによれよれのズボン、素足にちびた下駄ばき。広い額にバサリと髪が垂れさがり、へこんだ胸、細っこい手足、ヌウと鼻ののびた顔には彼特有のニヤニヤとしたテレ笑いが浮んでいる…。作家の容姿に、これといった定義があるわけではないけれど、とにかく、当代随一の人気作家太宰治先生は、ドブから這いあがった野良犬の如く貧弱だった。鎌倉の料亭に到着したのは午後の4時ころだったろうか、まだ日暮れ前であった。床の間を背にアグラをかいた太宰治はやっとリラックスしたらしく、青柳信雄とプロデューサー補佐を相手に、「ガバッ、ガバッ」といった調子で呑みはじめた。席上、紅一点の私など問題にもしてくれない。そのくせ私が下を向いて箸を取ったりすると、チロリとこっちをうかがったりしているのがこっけいだった。

    昭和23年6月19日、山崎富栄と玉川上水に入水。「朝日新聞連載小説「グットバイ」は13回分までだったため、後半のストーリーを脚本家の小国英雄に委ね、映画「グットバイ」は6月28日の封切りに間に合った。

    しかし、太宰と高峰は昭和22年が初対面ではない。昭和19年7月11日、東宝東京撮影所で会っている。高峰は太宰の愛読者だった。それは自叙伝にも「私もまた、走れメロス、トカトントン、親友交歓などを、ほとんど暗記するほどに熱読していた一人であった」と書いている。この日、高峰は太宰のサインをもらっている。太宰の「佳日」は青柳信雄によって「四つの結婚」として映画化された。脚本は八木隆一郎、如月敏だが、太宰もそれに少し加わっている。

   つまり太宰作品の映画化は東宝の山下良三を中心に昭和19年から進められていたが、二作とも高峰秀子が出演しているというのも何かの奇縁であろう。好奇心旺盛な売れっ子女優が苦悩する大作家を「ドブから這いあがった野良犬」「こっけい」と観察しているのも面白い。

2008年2月 8日 (金)

白いパラソル

Img_0008

  そのころの太宰治は自殺未遂、薬物中毒、最初の妻・小山初代との離別とどん底の状態だった。

    昭和13年7月、井伏鱒二を通じて石原美知子との縁談が持ち込まれる。そのころ書かれた「満願」(雑誌「文筆」掲載)という小品には、健康的で明るい太宰の別の一面がよく出ている。

    伊豆の三島でひと夏を過ごす、太宰らしき小説家は、西郷隆盛のように大きくふとった町医者と親しくなる。毎日、散歩の途中に医者の家へ立ち寄るようになって、小説家は薬をとりに来る若い女に気がつく。

簡単服に下駄をはき、清潔な感じのひとで、よくお医者と診察室で笑い合っていて、ときたまお医者が、玄関までそのひとを見送り、「奥様、もうすこしのご抱ですよ」と大声で叱咤することがある。お医者の奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。

   つまり、病気の治療中のため性交渉が医者から固く禁じられていたのである。

八月のおわり、私は美しいものを見た。朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでいると、私の傍に横坐りに坐っていた奥さんが、「ああ、うれしそうね」と小声でそっと囁いた。ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。「けさ、おゆるしが出たのよ」奥さんは、また、囁く。

    この作品は回想になっているが、4年前というから、太宰が静岡県三島の坂部武郎方に居候として2ヵ月滞在していたころの話である。坂部は金木の番頭・北芳四郎の妻の実家であった。太宰はその頃の話を楽しそうに古谷綱武に語っている。「眠れないと真夜中に、下におりていってまず酒をひといきでのんだという話をしていたように思うのだが、酒屋ででもあったのであろうか」と古谷は書いているが、本当に坂部は酒屋を経営していた。酒豪の太宰にとっては天国だっただろう。(参考:古谷綱武「私の名作鑑賞「満願」、現代文学大系54、月報20 筑摩書房)

2008年2月 3日 (日)

飯田蛇笏と門人たち

   飯田蛇笏(1885-1962)はホトトギスを代表する俳人で、甲斐の自然と生活をとらえた端厳荘重な作風で知られる。明治18年4月26日、山梨県東八代郡境川村に生まれる。本名は飯田武治(いいだたけじ)。飯田家は旧幕時代苗字帯刀を許された大地主であった。早稲田大学時代、高浜虚子の「俳諧散心」に参加し、本格的に俳句への道を歩み始める。明治42年、一切学術を捨て、所蔵の書籍全部を売り払い、家郷に帰り、田園生活に入る。以後、生涯を山梨で過ごし、山国の自然や生活を舞台に、風土に生きる心を詠い続けた。大正初年代、俳誌「キララ」の主選者に迎えられ、その後、主宰となって、誌名を「雲母」と改めた。昭和初年には、「山廬集」をはじめとする句集、随筆集、評論集を刊行。戦中、戦後にかけて、両親をはじめ、三人の子供の死に遭遇、句境は、次第に深まり、戦後も秀作の数々を詠み続けた。生前、一基たりとも句碑の建立を許さなかったが、没後建てられた唯一の句碑がある。

  芋の露 連山影を 正しうす

   秋のすがすがしい朝、戸外に出てみると、芋畑の芋の葉にはびっしょりと露が降りていて、大粒の露の玉が朝日に白くきらめいている。畑のはるか前方には、周囲をとりまくようにして、南アルプスの山脈が、澄み渡った秋空に高くそびえ、姿を正すかのようにくっきりと連なっている。蛇笏30歳の時の俳句。平面的なホトトギス俳句とは異なり、内に張る気迫をもって、自然にきびしく向きあう姿勢から生まれた、静かだが、寸分のゆるみもない、力が満ちた作である。

くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり

刈るほどに やまかぜのたつ 晩稲(おくて)かな

雪晴れて わが冬帽の 蒼さかな

山国の 虚空日わたる 冬至かな

をりとりて はらりとおもき すすきかな

雪山を はひまはりゐる こだまかな

山の童の 木莵(くず)とらへたる 鬨あげぬ

地靄して こずゑにとほく 春鶫(はるつぐみ)

    温情あふれる人柄により蛇笏には門人も多かった。西島麦南(1895-1981)、松村蒼石(1887-1982)、中川宋淵(1907-1984)、佐々木有風(1907-1959)、柴田白葉女(1906-1984)、高橋淡路女(1890-1955)などすでに故人となられた。柴田白葉女は昭和59年、NHKの取材を装った刑務所から出所した男に椅子で撲殺された。犯人は服役中に読んだ俳句雑誌で犯行を思いついたという。恐ろしい話である。

芥川龍之介の自殺の意味するもの

    大正12年6月9日、有島武郎(1878-1923)は有夫の美人記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中した。有島は前年に北海道の450町歩の土地と小作人に解放し、さらに遺産も親族に分けなかった。熱心なクリスチャンであった有島が信仰も棄て、社会主義者たちと交流していたことを考えると、単なる情死ではなく、社会問題やなんらかの時代状況が反映していたと思われる。

   有島の死から4年後、昭和2年7月24日、芥川龍之介が服毒自殺した。遺書には、自殺の動機として「将来に対するぼんやりとした不安」をあげていた。大正末期から昭和初期の知識人の不安とは何であったのだろうか。芥川も自殺する3ヵ月前と2ヵ月前、帝国ホテルで平松麻素子と心中未遂を2度している。昭和23年6月13日、太宰治は玉川上水で山崎富栄と心中しているが、これ以後60年経過したが、著名な作家の男女の心中・情死の例はない。有島、芥川、太宰の自殺はもちろん個人的なもので原因は異なり、ひとまとめに論ずることはできないだろうが、社会に与えた影響の点でみると芥川の自殺が最も衝撃的な事件であろう。それは芥川死後80年以上経過しているが、このブログでかなり以前に書いた記事に寄せられるコメントからも関心の高さがうかがえる。芥川の「ぼんやりと不安」が何んだったのか、芥川の自殺原因に関する憶測はおびただしい数にのぼるであろう。以下、そのおもな説をまとめてあげる。

①精神状態・健康起因説。生来、虚弱体質で、神経衰弱、偏頭痛、胃腸病、うつ病などで苦しむ②不眠症説。睡眠薬の常用③ドッペルゲンガー説(自分の姿を自分で目にする幻覚現象)④義兄の鉄道自殺による心労説⑤有夫の女性との不倫⑥創作のいきづまり説⑦文学状況説。プロレタリア文学の台頭など⑧マインレンダーなど厭世主義の影響⑨気象状況説。例年にない酷暑が精神に影響を与えた⑩大正から昭和という時代の変化を鋭敏に予感した。

    最後の⑩については、「歴史のあと知恵」のような気もするが、当時の文壇状況を新進作家の片岡鉄平(1903-1944)はのちに次のように書いている。

人道主義的な、素朴な苦悶はあったんだ。たとえば貧乏人と金持とがいるということの矛盾、それをあの頃「不断の歯痛」という言葉で表現している。不断の歯痛の如く、また靴底に入った小砂利の如く、矛盾を感じながら、しかもマルクシズムに行かないゆえんを詭弁をもって主張したのがあの頃の僕さ

    人道主義者の有島武郎や鋭い感覚で時代を受けとめた芥川龍之介にとって、大正から昭和への変動は、片岡の「不断の歯痛」をはるかに超える激痛であったに違いない。宮本顕治は「我々はいかなる時代も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない」と「敗北の文学」で書いている。時代の殉教者であった芥川の死は今日でも青年や知識人たちに人生の苦悶を問いかけているのである。

2008年1月30日 (水)

広辞苑の人名採録基準

    このブログ記事では多数の人名が登場する。人名事典に採録されている著名人もあれば、歴史的記録に記述はあるものの事典に採録されることがまずない無名の人を取り上げることもある。三省堂の「コンサイス日本人名事典」は収録数は約14.000でかなり記事を書くときに重宝している。「広辞苑」第6版の人名の収録数はいくらであるか不明であるが、少なくともコンサイスの10分の1はあるのではないだろうか。コンサイスに比べかなり広辞苑に収録されることは狭き門となるわけだが、いかなる基準があるのか定かではない。凡例の編集方針にただ「わが国の人名は物故者に限った」とあるのみである。とりあえずどの程度までの人名が採録されているのか、近代日本の文学者で調査してみた。手はじめに文学としたのは、この分野は比較的収録されやすいと考えたからである。

    高校国語程度ということを標準に、「国語便覧」(数研出版)、「新総合図説国語」(東京書籍)、学燈社の「現代詩」「現代俳句」「現代短歌」で収録している人名を参考に調査する。

   「広辞苑」に採録されない文学者

富安風生(1885-1979) 俳人

原石鼎(1886-1951) 俳人

福士幸次郎(1889-1946) 詩人

杉田久女(1890-1946) 俳人

白鳥省吾(1890-1973) 詩人

富田砕花(1890-1984) 詩人、歌人

平戸廉吉(1893-1922) 詩人

百田宗治(1893-1955) 詩人

阿波野青畝(1899-1992) 俳人

橋本多佳子(1899-1963) 俳人

秋元不死男(1901-1977) 俳人

高木彬光(1920-1995) 小説家

山川方夫(1930-1965) 小説家

阿部昭(1934-1989) 小説家

      *    *    *    *    *

落選した人たちの傾向を分析する。

①白鳥省吾、富田砕花、百田宗治など民衆詩派は全滅。つまり地方で活動しても、岩波は中央文壇で活躍しないと認められないのだろうか。

②山川方夫も阿部昭も評価は高い。山川は「クリスマスの贈物」で直木賞候補、「愛のごとく」で芥川賞候補、阿部は芥川賞候補に6回のぼっている。つまり芥川賞を受賞しないと認められないのだろうか。

③松本清張、横溝正史と収録されているので、高木彬光は期待したが落選だった。やはり推理小説作家にとって岩波書店は狭き門なのだろうか。

④富安風生、原石鼎の落選の理由も謎である。「広辞苑」はホトトギス系が嫌いなのだろうか。富安は94歳まで長命で著書も多数あり、古きになじまず、新しきに走らず、伝統をふまえて清新を求める「中道俳句」なのだが。

2008年1月28日 (月)

青鞜五人の女たちのその後

    明治44年、婦人文芸誌「青鞜」が刊行された。このとき発起人の五人の女性が、平塚らいてう(1886-1971)、保持研子(1885-1947)、中野初子(1886-1983)、木内錠子(1887-1919)、物量和子(1888-1979)である。平塚、保持、中野、木内の4人は日本女子大学校国文科の同級生。姉の物集芳子(お茶の水女学校)は結婚のためぬけて、代わって妹の和子(跡見高等女学校)が参加した。

    木内錠子はフランス語を学び、大正6年、文部省の検定試験に合格し、劇作家を志したが、大正8年9月11日、33歳の若さで病没。

    保持研子は明治生命の小野東と結婚、昭和22年5月23日、63歳で死没。

     平塚らいてうは戦後、平和憲法擁護を訴え、世界平和と原水爆禁止の運動をする。昭和45年にはベトナム反戦運動を展開。昭和46年5月24日、東京代々木病院で死去。

     物集和子は藤岡一枝の筆名で「おきみ」などの小説を発表。昭和54年7月27日、特別養護老人ホームさつき荘で90歳で死没。

    中野初子は遠藤亀之助と結婚。俳人となる。昭和58年11月18日、97歳で死没。

2008年1月26日 (土)

みだれ髪

    与謝野寛(鉄幹、1873-1935)と鳳しょう(晶子、1878-1942)がはじめて会ったのは、大阪北浜の平井旅館、明治33年8月4日のことであった。晶子は鉄幹をひと目みたとき、好きだ、と思った。鉄幹28歳、晶子23歳。そのとき鉄幹には林滝野という内縁の妻がおり、一児・萃(あつむ)をもうけていた。また山川登美子(1879-1909)とも恋愛関係にあった。そんな中で山川登美子は山川駐七郎と結婚し、滝野は実家の山口へ帰り鉄幹と離別した。やがて晶子は鉄幹と結婚。与謝野晶子の誕生である。明治34年8月、歌集「みだれ髪」を刊行するや、その浪漫的な歌風によって一世を風靡し、与謝野晶子はたちまち歌壇にゆるぎない地位を築くものとなった。「みだれ髪」は明治33年より刊行時までの「明星」掲載歌を中心に399首を収録。「臙脂紫」「蓮