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2017年5月16日 (火)

ローマの美術館

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  ローマのドリア・パンフィリ邸

  永遠の都ローマには、世界に誇る貴重な芸術・遺跡があふれています。そして長い歴史ゆえに、多くの美術館や博物館がある。ローマ国立博物館、国立近代美術館、カピトリーニ美術館、ローマ文明博物館、ボルゲーゼ美術館、バチカン博物館、ドーリア・パンフィーリ美術館、コロナ宮、ローマ現代アート美術館。

 ドリア・パンフィーリ美術館はローマのヴェネツィア広場寄りのコルソ通りにある。この絵のようにローマの松は下の部分がごっそりと刈り込まれていて上のほうがブロッコリーのような形に葉が整えられている。

2017年5月11日 (木)

ダリの窓

Img_0013 窓辺の人物 1925年

   本日はサルバドール・ダリ、1904年の誕生日。この絵はダリがマドリードの美術学校を退学処分された青年時代の作品。キリコのような不可解で不安をかきたてるような雰囲気。少女がうしろ向きで外の景色をながめているが、何を思っているのだろう。モデルはおそらく妹のアナ・マリアであろう。動物的本能で窓辺よりも女性のお尻に目がいってしまう。(5月11日)

2016年10月26日 (水)

OK牧場の決闘

Okcorral1957    アリゾナ州トゥームストンの町はずれにあるOK牧場。1881年のこの日、末弟ジムを闇討ちにされたワイアット・アープとその弟バージルは、肺病に冒された賭博師ドク・ホリデイの助っ人を得て、クラントン一味と対決した。撃ち合いとなり、クラントン一味5名中3名が射殺される。決闘後、裁判にかれられたがアープらは無罪となった。(10月26日)ganfight at the O.K.Corral,Tombstone

2016年10月18日 (火)

逆さまの絵

Yoshihara    具体美術協会の吉原治良(1905-1972)の作品に、禅画の円相図を思わせるようなただ円を描いただけの単純な絵がある。美術館で逆さまに飾っても誰もおかしいと気がつかないかもしれない。実際にアメリカの美術館でマチスの絵が逆さまに飾られたことがあった。1961年10月18日からニューヨーク近代美術館でマチス展が開催された。12月3日の夕方、美術館を訪れたある人が、カタログの絵と展示された「舟」を見比べて、ある間違いに気づいた。ヨットが水面に映されている単純な絵だが、何と、逆さまに展示されていた。それまで11万6000人の来客があったのに、誰一人として気づかなかった。結局、絵が正しく展示されたのは最終日の1日だけであった。

 

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  アンリ・マチス「舟」

2016年9月 7日 (水)

カミーユ・ピサロ

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 ピサロ
 「朝のコーヒーを入れる農家の娘」1881年
 シカゴ・アート・インスティテュート蔵

    ピサロは、この作品と「棒切れを持って坐る農家の娘」を一時最高の出来栄えの作品と言っている。息子に宛てた手紙には次のようにある。「お前は、私がもし再び出品するなら最高の作品をロンドンに送るべきだという。…しかし最高作が何かと自問するとき、誰でも大いに困るのだということはお前にもわかるだろう。「朝のコーヒーも入れる農家の娘」と「棒切れを持って坐る農家の娘」をロンドンに送っているのかというが、もちろんこれ以上完成された会心の作品を私には送れない。けれどもこれらはロンドンでは無器用とみなされた。…私が、田舎者の気質をもち、陰気な人間で、絵が荒削りの野性味をもっていることを思い出してくれ…」

    カミーユ・ピサロ(1830-1903)は西インド諸島のセント・トーマス島に生まれた。1855年、画家を志してパリに出て、アカデミー・シュイスに学ぶ。万国博覧会の美術展でコローの作品に感激してから、風景画一筋の制作を始め、サロンに出品するがいずれも落選。1863年の落選画展にはじめて並んだ。1870年の普仏戦争の時はロンドンに難を逃がれ、そこでモネとともにターナーらのイギリスの風景画を研究。戦後パリ北西郊外のポントアーズに居を構えて、ふたたび質朴な田園風景を連作。モネらと印象派グループ展に参加し、以後同派の最年長者としてただ一人毎回これに出品しつつげた。その作風は、印象派独特の技法を用いながら地味な堅実さを示し、モネやシスレーよりいっそう構成的な点に特色がある。

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   「川のほとり」

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 「公園」

2016年8月29日 (月)

今日の名画

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ピサロ 「ルーアンの波止場」 1883年

   1883年9月から11月の間にルーアンで制作され、眺めは、ラクロワ島からセーヌ沿いに東側を見ている。そして河の彼方には、ケイ・ド・パリの工場群が見え、その背後の丘の上には、ノートル・ダム・ド・ボンスクール大聖堂のシルエットが現われている。カミーユ・ピサロ(1830-1903)は、1883年秋、ユージェーヌ・ミュレルの経営するホテルに3ヶ月間逗留した。ミュレルの本職はパン造りで、画家のアルマン・ギヨーマンの幼な友だちであったために、ギヨーマンを通じて他の印象派の画家たちとも知り合った。数年前、株式仲買人としての経歴を捨てて絵画に専念しようとしたゴーギャンも、1883年11月にルーアンにやってきてピサロと合流している。

2016年6月 1日 (水)

日本にある印象派シスレーの絵画

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「サン・マメス6月の朝」
1884年 ブリジストン美術館蔵 

    印象派の巨匠シスレーの「サン・マメス六月の朝」は東京・ブリヂストン美術館の至宝である。6月の朝の光のさわやかさを、遠近法のうちに、鮮やかな光と影の入念な描き分けによって惜しみなく表現している。樹葉のひろがりに点綴された色斑の筆触も制御されたものであり、色彩も豊潤である。サン・マメスはパリ近郊の田舎町で何度も描いているが、シスレーは一度も住んだことはなかった。

   「彼はすぐれた空の画家であり、エーテルの奥行きを表現し、この広がりの中に雲の群れを浮ばせることを知っていた。彼は、晴れやかな自然への愛をもって、ある一日の風景の魅力や穏やかさを彼なりに表現した」(ギュスターヴ・ジェフロワ)

東京のブリジストン美術館にはほかに2枚のシスレーの作品がある。

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 「シュレーヌのセーヌ河」1879年

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 「森へ行く女たち」 1866年

2016年3月11日 (金)

この名画はジャンヌ・ダルクではない

Marianne20de20delacroix  ドラマ「学校のカイダン」第7話。謎の男、雫井彗を演ずる神木隆之介がドラクロワの絵を指して「ジャンヌ・ダルクも下からのし上がってきた」と説く。このドラマには仏百年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクの名前がしばしば引き合いに出される。しかし教科書にも載っているこの有名な絵画「民衆を導く自由の女神」はジャンヌ・ダルクではない。1830年の七月革命に想を得た作品であり、ジャンヌ・ダルクにしては乳房が豊満すぎるし、百年戦争当時はまだフランス国旗や銃はなかった。ルーヴル美術館にあるこの絵画を観て、なぜかジャンヌ・ダルクだと勘違いしている日本人観光客は多いという。三色旗を持っている女神は、戦闘で弟を失い、仇を討とうと奮戦したアンヌ・シャルロットという洗濯女の伝説をモデルにしているという説がある。

2016年2月21日 (日)

セーヌ河のイエナ橋

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 ゴーギャン セーヌ河のイエナ橋 1875年

   色彩も線もまだゴーギャンの特徴はみられない。広大な展望と緻密な描写による静寂な雰囲気がある。イエナ橋はパリのシンボル、エッフェル塔の下に架かる橋であるが、エッフェル塔が1889年に建設されたのでもちろん描かれていない。

2015年12月 2日 (水)

前田利長とサル

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  来年の干支は申(さる)。この水墨画は長谷川等伯による重要文化財「枯木猿猴図」。枯れ木にぶら下がり、枝から枝へとわたろうとする、小猿の姿がいきいきと描かれている。このモデルのサルは、ある晩、絵の前で寝ていた前田利長(1562-1614)の髪をつまんだ。利長は、怒って即座に短刀でサルの腕を切り落とした、という伝説が残っている。「枯木猿猴図」は、もとは加賀の小松城に伝わる屏風であったが、現在は京都の龍泉庵にある。

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