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2009年12月 4日 (金)

鶏口牛后

    就活戦線は厳しい。一流企業、大企業をめざすのは人の常だろう。そんなとき、「むしろ鶏口となるとも、牛後となるなかれ」(戦国策)という言葉は、よく引き合いにだされる故事成語であろう。「大きいものの後についていくより、小さいものでもその頭になれ」と一般に理解されている。だが中国語では「牛后」であり、「牛後」(牛のうしろ)ではない。牛のお尻でもない。「后」の漢字本来の字形は人が両足を開いた股の下に、「口(あな)」をそえた字である。つまり「牛后」とは「牛のお尻の穴」である。いくら牛がでかいとはいえ、牛の肛門に甘んじているバカはない、という意味だ。

   人生を長く歩んで、道半ばで振り返るとき、この言葉はシニアに大きな意味をもつ。多くの庶民は牛後でいいから長年耐え忍んだ生活をし、安定性の代償として独立心、自立心は無くなっている。だが見識や経験は誰にも負けない。もう一度、青年のときの気概を取り戻し、人生に再チャレンジしよう。

2009年11月30日 (月)

荘子と骸骨

   あるとき荘子は、楚の国へ行く道すがら、路傍に野ざらしのうつろな髑髏を見た。手にした鞭でそれを叩きながら、荘子はおもむろに語りかけた。「御身は生をむさぼり、私欲にくらんでかく成りはてのか。はたまた亡国の禍い、処刑の咎に遭ってかく成りはてたのか」言い終わった荘子は髑髏を枕にうち臥した。その夜半、髑髏が夢に現われて語るには、「御身の言のなめらかなるは、世の常の弁者とさえも似たることながら、御身の数えあげた事は、いずれも生身の人の世の累にて、死者の世界にはほとんど縁のないことじゃ。さても死者の世界というものは、上に君なく下に臣なく、また四時の別すらもない。この楽しみにくらべれば、人の世の南面の王者の楽しみとて、とんとおよばぬことであろうわい」
生は喜ぶに足らず、死は悲しむに足らず、否むしろ死には生にまつわる苦しみがなく、生にまさる喜びがある。

2009年8月11日 (火)

ソロンと王様

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    ギリシアの七賢人の1人ソロンが、クロイスという裕福な王様に会った。クロイスは自分の持っている宝をソロンに見せたあとでいった。「世界でいちばん幸福な人は誰だと思う」王はソロンが自分をいちばん幸福な人だといってくれると思っていた。ところがソロンは、若くして美しく死んだ人の名前ばかりをあげて王様の名前はついにあげなかった。王様はとうとう黙っていられないので、その理由を聞いた。ソロンは、「神は幸せ者に嫉妬するということを王様はご存知か。浮き沈みは世の習い。幸福がいつまでも続くとは限りません。人間は死ぬまで、その人の幸福はわからないものです。死んで始めてその人が幸福だったかどうかわかります」王様はこの答えの意味が理解できなかったが、ソロンのいうことに反対できないので、内心不服だが黙っていた。

   その後この王様は、隣国の王様と戦争し負けて、いよいよ殺されることになった。その時、王様はソロンのことを思い出して、「ソロン、ソロン」とつい口に出して言ってしまった。それを聞いた敵の王様は、「なぜ、ソロン、ソロンというのか」と訊ねた。王様はそこで、かつてソロンにいわれたことを話した。その結果、王様は殺されずにすむことになった。

大地よ、鎮まれ。

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   今朝、強い揺れで目覚める。震源地は伊豆・東海地方。震度6弱。東京は震度4。やはりこの国は地震と台風の国。いつ何が起こるかわからない。国内のマツリゴトで覇権抗争に明け暮れているので、ついにウブスナガミ(産土神)が怒りが爆発した。はやく鎮まって欲しい。

2009年6月18日 (木)

人生の坂道

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 道は登り坂でしょうか、どこまでも。
 そうです、最後の最後まで。
 旅はまるまる一日かかるのでしょうか。
 そうです、明け方から夜中までも、友よ。

   どんなひとの人生も坂道をのぼるようなものだろう。男も、女も、金持ちも貧乏人も、資本家も労働者も。現代社会は物質にめぐまれ、とりあえず餓死する人は我が国では稀である。(もちろんさまざまな事情で餓死する人もいる)だがすべての人が幸せかというとそうでもない。かなりストレスが多い社会だ。孤独に悩んでいる人も多い。崩壊する家庭もある。勤め先の企業で問題をかかえている人もいる。ごく一部まれに人々がうらやむような出世をした女性もいる。キャリアで官庁のトップになって、夫と子供とも幸せな家庭にめぐまれ、人からは「働く女性の希望の星」と憧れられる。そんな人にもある日突然、公文書偽造で逮捕されるという事態が突然に襲ってくる。本人は否認しているので何も明らかではないが、事件の背景に大物国会議員が係わっている。公務員であれば議員案件に便宜を図れば、そのみかえりに昇進が約束される。まさか20億という巨額の郵便不正事件という重大な犯罪の原因をつくったと想定できただろうか。彼女は政権交代という政治家の仁義なき抗争に巻き込まれただけの小物の一人にすぎない。陰で巨悪が安穏な暮らしをしている。この事件は松本清張の社会派推理小説の格好の題材になるような話だ。ノンキャリアの係長やキャリアの局長、ドロドロした人間の欲がうずまく、魔物の棲む中央官庁。そして悪徳政治家。まさに現代日本の官僚社会の縮図を物語る。官庁だけでなく、企業や巨大メディア、病院、大学でも何か歯車がくるっているとしか思えない事件が頻発している。

    古来から「すまじきものは宮仕え」といい、早めに辞表を出して隠棲するのが賢明な生き方だろう。中国では地方に住んで書画骨董と自然を愛して晴耕雨読の晩年をすごすのが理想とされている。田舎で清貧に甘んじるか、都で栄耀栄華を夢みるか、選択は本人次第だろう。だがすべての人が辿る道は坂道だ。

2009年5月15日 (金)

人生とはペルシア絨毯の絵模様のようなものだ

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    サマーセット・モーム(1874-1965)の代表作である『人間の絆』に、「人生とはペルシア絨毯の絵模様のようなもので、何の意味もないものだ」という名文句がある。主人公フィリップは無数の無意味な人生体験から、できるだけ美しい意匠を織りなそうと努力するが、だが、考えてみると、世にも単純な絵模様、つまり人が生まれ、働き、結婚し、子どもを持ち、そして死んでいく、というこも完璧な意匠であることに気がつく。幸福に身を委ねることはある意味で敗北の承認かもしれない。だがそれこそは多くの勝利よりもはるかに立派な敗北だったのだ。これがフィリップの結論であった。

   ところで「人間の絆」の中に「人間というものは愛が得られないためよりも、金が得られないために自殺することが多い」ともある。どうやら統計的にみても事実だ。警察庁の発表によると、2008年中の自殺者は32,249人だが、自殺の理由は健康問題が最も多く、経済・生活問題、家庭問題、勤務問題の順だという。それにして毎年3万人以上の人が自殺しているとは驚きである。実は変死はこの中に含まれていない。変死など原因不明を入れた実質的年間自殺者は10万人を超えるという推測がなされている。

   時代的にみると、明治末期の10年間は、自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)は16から19で20を超えたことはなかったが、大正時代では17から20とやや増加した。昭和初期の10年間はさらに増加して20から22となった。戦後は逐年増加の傾向を示し、昭和33年から35年には20から25と記録的上昇を示した。その後は減少傾向を示し、昭和42から43年には13と低下した。その後は漸増傾向にあったが、昭和49年末のインフレ不況のなかで自殺率が急増した。平成18年の自殺率は23.7である。平成10年から11年連続で自殺者が3万人を超えるという深刻な状況が続いている。諸外国と比較しても日本は自殺率が高い国である。自殺の原因は複雑であり、一概には言えないが、神経衰弱、生活苦、将来不安、事業の失敗、家庭不和、厭世、失恋、病苦などいろいろある。複雑な条件がからみあっているだけに、真相を解明することは難しい。とくに平成10年以降の自殺者の増加には社会的経済的な要因が影響していることは明らかであり、格差社会という競争原理社会の一面がうきぼりにされている。

2009年5月 5日 (火)

ジョン・レイ

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 学ぶに老いすぎていることはない。

          ジョン・レイ(イギリスの博物学者)

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   ジョン・レイ(1627-1705)は植物および動物分類学の基礎をなした最初の人といわれる。「学ぶに老いすぎることはない」この生涯学習時代にふさわしい言葉は、ジョン・レイの創見ではなく、イギリスのことわざだそうだ。

2009年4月 8日 (水)

立身出世主義

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           村上華岳(昭和9年頃)

    小学生の頃、兄貴からこんな話を聞いたことがある。兄に言うには「今日、音楽の時間に仰げば尊し、という歌を習った。二番の歌詞に、身をたて名をあげやよはげめよ、というのがででくる。しかし音楽の先生は「名をあげなくていい」とおっしゃった」といたく感動して話す。ケペルもまだ幼いながらも、名利を求めない生き方も素晴らしい、と感心した。神戸市立本山第三小学校での思い出だが、子どもながらも先生の真意を汲み取ることはできるものである。

    だが、最近は社会的には拝金主義が横行し、やたら賞やら地位や名誉、名声を賞賛する風潮がある。韓国映画「八月のクリスマス」や黒沢明の「生きる」などを見るといろいろと人生について感じさせられる。ノーベル賞や国民栄誉賞などといってもこの世だけのものであろう。大金を貯めたところで、死後遺族たちの骨肉の争いの種となるだけである。財産、社会的地位、名声、権勢などがなんになろう。このことは誰しもわかっていながら、いつのまにやら人生の目的が蓄財となってしまうのは何故だろう。宗教なき悲しさでろう。村上華岳(1888-1939)に「名声について」という素晴らしい一編がある。

  予に名声といふものは一つもいらない。名声といふものをむしろ唾棄する。むしろそれは我々の勉強の上に精進の上に害のある事が多くなる。時間がなくなる。ものが欲しくなる。勉強にとって、無駄なエネルギーを消磨する。名声を駆逐しようと思へば思ふ程、煩悩の深きを知る。一日として安静の心持はないのだ。故に予は名声といふものに、絶えざる注意をする。自分が虚名を求むるのではないか。人を頼んでをるのではないか。何かうまいことを、世にしようとするのではないかを、自己の心中の内に探索し警戒するのだ。(大正13年)(『画論』所収)

2009年3月 3日 (火)

風樹の嘆

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    孔子が天下を周遊していたとき、道端で声を上げて泣いている皐魚という人物にであった。泣いているわけを訊ねると、自分が親元を離れて遊学している間に、親が死に、孝養を尽くせなくなったことを悲しんでいるのだと答え、次のような詩句を口ずさんだ。

 樹、静かならんと欲すれども、風止まず

 子、養わんと欲すれども、親待たず

樹木が静かにしていようと思っても、風が吹き止まない。子どもが親に孝養を尽くそうと思っても、親はいつまでも待ってはくれない。(だから、親が存命なうちに、せいぜい親孝行しなさい、という意味である。)(「韓詩外伝」9)

風樹とは風に吹かれて揺れる木のことであるが、転じて死んだ親を思うことを意味する。

2009年1月 4日 (日)

ティッシュ・ペーパーは貰う

    街角で配っているポケット・ティッシュ。意外ともらわない人が多い。恥ずかしいから、邪魔になるから、理由は人それぞれにあるだろうが、ティッシュは日常役立つものなので、ケペルはもらうことにしている。先日、通勤途中で急に便意をもよおし、駅のトイレに入ったとき、貰ったティッシュがたいへんに役立った。やすし・きよしの漫才ネタ「汝、神(紙)にみはなされたら、我が手で運(ウンコ)を掴め」という古いギャグを思い出し苦笑した。

    坂東眞理子「女性の品格」は数年前、ベストセラーとなり、いわば現代版「女大学」のような女性の修身書である。初めにお断りしておくが、とてもイイことが書いてある本である。女性の品格と限定しているが、基本的には男女共通することは多い。ただ本書の一項に「無料のものはもらわない」とあるのが気になる。

「駅や盛り場を歩くと、消費者金融やデートクラブのテッシュペーパーがいくつも手渡されます。シャンプーや化粧品のサンプルをもらうときもあります。配っている人はアルバイトで早く配らなければならないから、もらってあげたほうがよい、会社もそのために配っているのだから、せっせともらいましょうという考え方はあります。でもこうした無料のポケットテッシュをたくさんためているのはあまりかっこうよくありませんし、特にテレフォンクラブや消費者金融のようなスポンサーのモノは、できるだけもらわないように気をつける、本当に自分で使おうと思わないメーカーのシャンプーや化粧品、食べてみようと思わない食品の試供品には手を出さないようにしましょう。何でももらえるものはもらっておこうというのはちょっと卑しく、品格をなくします。自分の基準で取捨選択し選ぶと身の回りもすっきりします。(中略)なんでももらうのではなく、ノーと言う勇気をもちましょう。

  「女性の品格」というタイトルながら、「はじめに」で断わっているように男女を問わず品格は共通する。つまり「なんでも貰わない」「断わる勇気を持つ」ということは、男女共通する品格ある行動である、と坂東はいう。街頭での政治的なビラ、チラシや署名活動などには触れていないが、おそらく貰わない、断わるであろう。この本から多くの点は示唆に富むことも多いし、自分の行動規範としている事柄が網羅的に書かれているのだが、ティッシュやビラは貰わない、という点には異論がある。おそらく坂東眞理子はキャリア官僚なので街頭でビラ配りをした経験はないのだろう。ティッシュやビラを断わる行動で、「勇気をもちましょう」ともちだすのは、「勇気」の語の使い方が間違っている。若い女性がティッシュを配っていて、「ありがとう」と一言といって受けとるほうがカッコイイと思う。

   家電の広告で先着何名様に、茶碗や皿を無料で進呈とあれば、早朝から大勢の人が並ぶ。坂東はそれらの人を「品格のない人」と見下げてみるのであろうが、ケペルは庶民のバイタリティとみたい。品格をことさら強調することが、ケペルの肌にあわないのだろう。品には上品と下品がある。上品は貴族的であり、下品は庶民的である。「無料のものなら何でも貰う」という行動は下品かもしれない。でも貧乏人にはティッシュ一つでも生活費の節約になるはずだ。下品でもいい。所詮、庶民は庶民、貴族のマネをしても無理だろう。タダなら貰え。品格なんて糞食らえ!

    むかし家庭で聖書研究をしていて、あるクリスチャンに街頭でのティッシュを貰うかどうか、だずねたとき、「貰います。生活で役立つから」という明快に答えをもらった。つまり「タダのものを貰うのは卑しい」とは人倫の道ではなくで、貴族階級的なモラルのような気がする。倫理、道徳の徳目で品格を強調することは適当ではない。江戸の豪商・河村瑞賢は、精霊流しで捨ててあったナス・キュウリを拾って漬物屋で成功したのが第一歩だった。現代であれば食品衛生上問題があるのでこの逸話は子ども向けではないが、戦前の修身の教科書に載っていたと思う。多くの日本人がこの行為をお手本とし、河村瑞賢を品格のない人とは誰も思わなかっただろう。