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2017年1月 1日 (日)

正月に髑髏を持って「御用心」

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   一休和尚は正月早々、竹棒の先にされこうべをさすと、洛中へと歩き出した。町中に入ると、家々の門の口にこの髑髏を差し出して、「御用心、御用心」といいながら、歩きまわる。正月気分で祝っているところへ、髑髏であるからたまったものではない。どの家も門を閉ざしてしまった。

   一休いわく「この髑髏よりめでたいものはない。目が出て、穴ばかりが残ったのを目出たしという。人間、死んでこの髑髏にならねば、めでたいことはひとつもない」一休、歌っていわく。

 門松は 冥途の旅の 一里塚

    めでたくもあり めでたくもなし

 (参考:『禅門逸話選』 禅文化研究所)

2014年4月10日 (木)

禅海 耶馬溪の隧道を掘る

   1763年のこの日、耶馬溪の「青の洞門」が禅海(1687-1774)により開通した。禅海は越後国高田藩士の子で俗名を福原市九郎という。市九郎は若い時から放蕩無頼であったが、豊後国由布山興禅院の霊照という和尚の下で髪を下ろし、禅海という名をもらい仏門に入った。 

   その後、諸国行脚の途中、豊前の耶馬溪で、とある桟道にあった。そこは昔から「親知らず」と呼ばれ、しばしば旅人が死傷するほどの険悪な道であった。それを知った禅海は、死傷した旅人を哀れみ、岩石をつらぬいて隧道を開こうと誓願を立てた。享保19年、禅海49歳の時である。 

    禅海は、近くの安楽院という寺の弟子となって、毎日近村を托鉢して生活をささえながら、毎日ひとりで一挺ののみをもって巨岩大石をうがち始めた。 

   それからというものは、一日とて休むことなくのみをふるい、ついに308間、高さ2丈、幅3丈、馬が2頭ならんで通れ、明り取りに20、30間ごとに窓があいた隧道を完成させたのである。この時、禅海は64歳、竣工より実に20余年の星霜を経ていた。

2014年1月28日 (火)

高橋新吉 ダダと禅

E0186332_2010521_2    高橋新吉(1901-1987)は、明治34年1月28日、教師・高橋春次郎、マサの二男として、愛媛県西宇和郡伊方村小中浦(現・伊方町)に生まれる。新吉6歳のとき、父が鉱山会社に勤務し、八幡浜へ移転する。新吉11歳のとき、母マサが亡くなる。新吉13歳のとき、八幡浜商業学校(現・八幡浜高等学校)に入学する。その後、父が後妻を迎えたため、新吉は卒業間際の大正7年2月、無断で上京するが、数ヵ月後郷里に帰る。その年の春、二度目の上京のときは、チフスにかかり行路病者として養育院に収容され、2ヵ月後に帰郷。大正9年、「万朝報」の懸賞短編小説に「焔をかかぐ」が入選した。そして8月15日、同紙掲載のダダイズムの紹介記事を読み、強い衝撃をうけた。ルーマニアの詩人トリスタン・ツァラの「ダダ第一宣言」である。翌大正10年2月、郷里の真言宗出石寺に入り、8ヵ月の修業の後三度目の上京をする。大正10年12月ガリ版で「まくはうり詩集」を60部作って、知人に配った。それを持って辻潤を訪ねた。そして大正12年には「ダダイスト新吉の詩」が刊行され、その強烈な破壊的精神で注目されるようになった。しかしこの詩集は辻潤が新吉に無断で出版したものであった。そのとき八幡浜の警察の留置所にいた新吉は、この詩集を受け取って破り捨てたという。書名も辻が勝手に決め、杜撰な編集でノートの書きさしや未定稿の詩が混じっていて誤植が多かった。このように高橋新吉は、ダダイスト詩人として紹介されるが、その後の彼はダダとは訣別し、心の病を禅修業により克服し、悟りを得た。「私はダダは初歩的な禅の亜流に過ぎないと思っている」(日本のダダ)と言っている。昭和62年6月5日、高橋新吉は86歳で亡くなったが、詩集のほかに小説集、仏典研究、美術評論集も多い。

2012年11月 3日 (土)

心のありか

   馬祖が弟子の百丈と歩いていると野原から野鴨の一群が飛び立って去っていった。それを見た馬祖が、百丈に尋ねた。「あれは何だ」「野鴨です」「どこへ飛んでいったのか」「わかりません。ただ飛んでいったみたいです」答えを聞いた馬祖は、いきなり百丈の鼻を強くつまみあげた。思わず、百丈は叫んだ。「痛いっ!」すると、馬祖はいった。「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」百丈は、我に返り、大いに悟った。

    さて、俗人の身としては、百丈がなぜ鼻をつままれたのか知りたいであろう。馬祖は、飛び去った鴨を漫然として見てしまっている百丈に「お前の心はどこにあるのか」と厳しく指摘したかったのだ。事象を眺めるとき、それを自分自身の心がどう捉え、どうかかわっているのか、自らの心のありかと、究明と飛躍を求めたのである。

    百丈(正しくは「はじょう」と読む)は、江西省の百丈山に住した中唐の大智覚照懐海禅師(749-814)である。百丈懐海はそれまで各寺院において、それぞれ習慣法的に行なわれてきた規則を、普遍的な一般規則として統合して成文化した。これを「古清規」(のち散逸し、序文しか現存せず)という。その後これは時と所に応じて適宜に取捨し改変しながら用い、中国と日本の禅宗寺院ではほぼこの「百丈清規」にのっとって各種の規則と儀式を運用する。日本では室町時代にこれを覆刻した五山版が出版された。大正大蔵経48巻に収められているのもこれである。

2011年11月21日 (月)

女陰禮讃

    一休はある日、木曽川のほとりを歩いていると、若い娘たちが一糸も纏わぬ姿で水浴びをしている。一休は、しばし足をとめて若い娘たちの鮎のようなピチピチとした裸身をしげしげと眺めていたが、何を思ったのか、娘の陰部に向かって三度礼拝すると、スタコラと立ち去った。その振る舞いをいぶかった村人が一休を追いかけ、「なぜあんなところを拝みなさった」とたずねた。その問いには答えず、一休は一首詠んで村人に与えた。

「女をば 法のみ蔵というぞ実(げ)に

   釈迦も達磨もひょいひょいと生む」

2010年12月21日 (火)

円覚寺帰源院と漱石

    夏目漱石(1867-1916)は神経衰弱の病状が著しかったので、親友・菅寅雄に相談して、明治27年12月22日あるいは23日に鎌倉円覚寺に参禅している。搭頭、帰源院に釈宗活をたづね、その手引きで管長の釈宗演(1959-1919)のもとで座禅をした。翌年の1月8日には帰京しているので、わずか半月の修業だった。しかしこの体験は小説『門』などいつくかの作品に出てくる。『門』の一窓庵は帰源院のことで、老師は釈宗演、宣道は釈宗活がモデルであろう。後年、漱石は「私は円覚寺で座禅をしたように言うが、私には何も出来ていません。全くの唯の凡夫です」と語った。

    ところで、釈宗演老師は明治26年9月にシカゴで開かれた世界宗教会議で「仏教の要旨並びに因果法」と題する講演をした。禅が世界の「ZEN」となる海外普及の端緒を開いた人物である。

2007年2月17日 (土)

良寛と茶席

   ある日、良寛は茶席の行儀に退屈して鼻クソを丸めていたが、そのやり場がないまま右側におこうとした。ところが右側の客はこれを知って袖をいそいでたぐり寄せてしまった。そこで左におこうとすると、左側の客も、そうはさせじと袖を引いた。良寛はしかたなく、丸めたものを鼻に戻したという。

    またあるとき、良寛は濃茶であるのに飲みほしてしまった。ところがつぎの客があるのでやむなく口の中の茶を椀に吐き出して渡した。その人は念仏を唱えながら飲んだという。

2006年7月 9日 (日)

清らかな歌人僧 大愚良寛

   大愚良寛(1758~1831)。曹洞宗。良寛の父は山本泰雄という。越後出雲崎の豪族であったが、晩年に剃髪して以南と号した。時代の流れとはいえ、皇室の権勢が衰微していくのを憂い、公憤の念やまず入水自殺した。

   良寛はその四男一女の長子として生まれ、幼名を栄蔵といったが、生来の自由人であった。世俗の縁にしばられることを望まず、家督を弟に譲って、18歳の時、曹洞宗尼瀬光照寺の玄乗破了和尚について出家得度した。22歳で遊行し、備中玉島円通寺の大忍国仙和尚に侍し、宗旨をきわめ、法を嗣いだ。やがて師の国仙が亡くなると円通寺をあとにし、中国、九州、四国などを修行のために行脚して帰郷した。その後住所を何ヶ所か転々とし、やがて国上山西坂の五合庵におちつき、ついで国上山麓の乙子神社境内の草庵に移った。

    良寛はさびしがりやで、人間が好きだった。とくに子どもが好きで、よく里の子どもたちとまりつきや、たこあげをして遊んだという清らかな逸話が多く残されている。また良寛は漢詩、和歌、書道にもすぐれている。とくに和歌は、素直で、真情にあふれたもので、その人柄がよく表れている。

2006年7月 3日 (月)

「し」の字

    三条の成田屋は日ごろ良寛と親しかった。ある時、成田屋が、生涯の宝となるようなものを書いてほしいと依頼した。すると、良寛は全紙に「し」の字を書いた。成田屋がけげんな顔をして、

「これはどういう意味ですか」

とたずねると、和尚いわく、

「゛し" は死ぬことじゃ。人は死ぬことさえ忘れねば大した過もなかろう」

(『禅門逸話選』禅文化研究所)

2006年6月29日 (木)

竹の子に床板をはずす

    良寛は竹が好きだった。ある年のこと、庵の床下の地面に一本の竹の子が芽を出し、すくすくと育って床板に届くようになった。それを見つけた良寛は、すぐに床板を外して、成長していく竹の子を楽しんで見守っていた。やがてそれが天井を突くまでに伸びると、今度は天井板を破り、屋根まで壊して竹の成長を妨げないようにしてやった。雨が漏っても平気なものである。雪が吹き込む季節を迎えても、それを風流と受けとめて、庵に坐しながら、「大きくなった、大きくなった」と竹を愛で、夜には星をあおいで暮らしたという。

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