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2009年12月 7日 (月)

破瓜(はか)は16歳

    三木露風の「赤蜻蛉」の三番目の歌詞。「十五でねえやはよめにいき おさとのたよりもたえはてた」戦前の婚姻適齢は男子17歳、女子15歳だった。だが実際には守られていなかったらしい。大正11年の国勢調査によると、東京市には9歳の男子と7歳の女子が結婚している例がある。これほどでなくても、10歳から15歳までで配偶者のある者は、男44人、女145人もあったという。

    戦後、わが国の民法において男子が18歳以上、女子が16歳以上にさだめられたのは、当時のアメリカの各州の婚姻適齢がこのケースが多かったため倣ったとされている。世界各国の婚姻適齢を調べると、だいたい男女を問わず、未成年者においても配偶者が成年であるという条件で16歳以上で婚姻の可能性を開いている。つまり男女問わず結婚相手が18歳以上なら16歳の婚姻を可としている。16-16はダメだが、18-16なら良いというものである。どうやら女子16歳を婚姻適齢の開始とする国が多いようである。だが、人口問題をかかえる現代中国では男子22歳、女子20歳と婚姻適齢を各国に比べ遅らせている。ただし、古くから中国では女子16歳のことを「破瓜」といい、詩文などで使われることがあった。「瓜」は二つの「八」字に分けられ、二八の16歳。転じて8の2乗で男子64歳をいうこともある。また女子の処女膜が性交によって破られることを意味する。この意味での使用が多いという。

2009年12月 5日 (土)

春待月

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  12月を「しはす」というのは万葉時代からである。

しはすには 沫雪(あわゆき)降ると 知らぬかも 梅の花咲く 含(ふふ)めらずして

「万葉集」にこの一首だけ「しはす」がでてくる。

    江戸時代の学者、新井白石は万葉時代に「極」の字を読んで「ハツ」というので、俗に「極月」の字を用いて「しはす」と読んだと説いている。

    では「しはす」をなぜ「師走」と書くようになったのか、諸説があってはっきりしない。平安時代の仁明天皇の承和5年12月から仏名会という行事が行われるようになって、法師がお経を読むため、師匠も趨走するので、「師趨(しすう)」という。「師馳月(しはせづき)」であるともいい、それが略されたものだという。広辞苑を引くと「師走比丘尼」(しわすびくに)という語がある。「おちぶれて姿のみすぼらしい比丘尼」という意味。「師走坊主」「師走浪人」という語もある。江戸時代には師走は「人が極限状態にまでおちぶれやつれること」の形容でもあった。師走とは本来、極限という意味があって、1年の終りと言う意味で「師走」という漢字が充てられたのだろうか。「大言海」では「歳極」(としはす)の略転、あるいは「万事、為果(しは)つ月」の意からきたのではないかとしている。

     12月の別称は他にも多数ある。春待月、親子月、極月、梅初月、年よ積月、暮古月、三冬月、厳月、臘月、弟月、除月、蜡月(せきつき)、窮月、小歳、暮節、暮歳、嘉平、清祀、凋年、未垂、窮年、四極、三余、大呂、残冬、黄冬、晩冬などがある。

なんとなく しはすの空に なりにけり あはれかさなる 年の数かな

2009年11月21日 (土)

地獄の釜の蓋もあく

Soteiou 冥府十王の七番目の裁判官「太山王坐像」

    仏教では世に十界あり。はじめの六界、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上を「六道」という。それは迷い世界であり、あとの四界、声聞、緑覚、菩薩、仏は悟りの世界である。

さて、地獄というのは、地獄絵や地獄変で見るように、生前に犯した罪過によって呵責されるところで「呵責の牢獄」といわれる。人間は死後、冥府(地獄の役所)におもむいて閻魔ら10人の裁判官から裁きを受ける。閻魔の両隣に魔神がおり、どんな些細なことでも生前の行ないを漏らすことなく記録している。閻魔はこの記録が書かれた帳簿(俗にエンマ帳という)を細かく点検し、死者の善徳と悪徳とを判別する。また浄玻璃鏡を持っていて、死者が生まれたときから死ぬときまでをビデオのように映し出す。そのため、いかなることも隠しだてできないといわれている。

2009年11月19日 (木)

いろいろなお茶

Photo_3   カワラケツメイの花

   日本には製法の違いによって、玉露、抹茶、煎茶、番茶、ほうじ茶、粉茶、茎茶、玄米茶などいろいな種類のお茶がある。地方にも独自のお茶がある。冨山のバタバタ茶、出雲(島根県)のボテボテ茶、愛媛のボテ茶、沖縄のブクブク茶。このほかにも、いわゆるお茶ではないが、茶の代用として波布茶、クニ茶、マテ茶、甘茶、麦茶などがある。カワラケツメイ(河原決明、エビスグサの類)を原料として、茎葉を干してきざんで、合歓茶、豆茶、浜茶、弘法茶などのお茶があり、利尿剤としても用いられている。このほかアマチャヅル茶、カリン茶、ビワ茶、柿の葉茶など特種なお茶もある。

2009年11月 1日 (日)

ポトラッチの儀式

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   北太平洋沿岸に住むアメリカインディアンの諸族、チムシアン族、トリンギット族、ハイダ族、ベラ・クラーク族、南北クワキウトル族、沿岸サリシュ族、チヌーク族等にみられる習慣で、公的な地位を誇示するために自分の富を放棄する一種の財産分与制度。ポトラッチとはチヌーク語で「浪費する」という意味。

    種族によりそれぞれに特徴があるが、一般に主催者の地位により大小さまざまの祝宴が開かれ、近隣の人々を招き、その階級に応じて贈物をする。このとき主催者とその親族は気前のよさを最大限に発揮してその地位を誇る。後継者の披露、子女の誕生、成女式、婚礼、葬礼、新屋の棟上式などから、赤ん坊の発毛といった些細な理由でも行われる。ときには不名誉な行為の挽回のために行われることもある。招待されたものは、なんらかの機会により盛大な祝宴を開いて答礼する。特に南クワキウトル族のポトラッチは1840年から1925年にかけて最も盛大に行なわれ、何日も続く祝宴の間に何千枚もの毛布や仮面、カヌーなどに加えて、ヨーロッパから輸入したモーター・ボートやミシン、ほうろう引き器、衣類、小麦、砂糖などが配られた。しかし1960年代以降は経済的理由によりほとんど行なわれなくなった。ポトラッチは贈答するだけでなく、貴重な財物とされるカヌーや、彼に属しているトーテム像を刻んだ銅版を来客の面前で故意に破壊したり、所有する奴隷を殺したりして、その気前のよさを誇らせることもある。

    最近では「ポトラッチ・パーティー」といって、「皆で持ち寄りで気軽に行うパーティー」という意味で使われることもある。

2009年9月23日 (水)

恐怖の口裂け女

    新型インフルの流行でマスクをする人を見かけるようになった。マスク姿には恐怖をおぼえる。昭和53年12月ごろのことだ。岐阜でこんな噂が起こった。夕暮れになると、白いマスクをした若い女性が街頭に現われ、通りすがりの人に、「私、きれい?」と話しかけ、突然マスクを取ると、その口は大きく耳ので裂けている。通行人は驚いて逃げると、赤いマントから鎌を出して追いかけてくる。必死に走るが追いつかれると、噛みつかれて、低い声で笑い出して、その場を走り去っていくというのだ。金品が奪われるケースもある。この話はたちまち全国に広がり、テレビのワイドショーにも取り上げられた。女はサングラスをかけているが、外すと大きな眼の美人だ。爪はマニュキアがしている。いつとはなく、口裂け女の噂はデマであることが判明し、誰も信ずる人はいなくなった。

2009年9月12日 (土)

どっこい屋

   ケペルの子ども時代、神戸市東灘区にあった森市場での昭和30年代頃のお話。ある駄菓子屋では手でまわす簡単なルーレットがあり、上部にビー玉を落して、くるくる回りながら下に転がり、落ちた場所の景品がもらえるという仕組みのお店さんがあった。ルーレットをまわしながら、おじさんが「どっこい、どっこい、どっこい…」という奇妙なかけ声をかけるので、子どもたちはその店のことを「どっこい屋」と呼んでいた。いまではそんな店はまず見ることはできないが、ある日、テレビで大川橋蔵の「銭形平次」を見ていると、それと同じような商売をしている人が登場しているではないか。おそらく「どっこい」は江戸時代からあり、お寺や神社の祭日、縁日などに、境内で開かれていた、ある種の賭博の一種がそのルーツかも知れない。

2009年9月 8日 (火)

つぶし島田

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    東海道の島田宿からつぎの金谷宿まではわずか一里であるが、途中に難所の大井川がある。
    「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
    江戸時代、島田宿は川越宿場として栄えた。さぞや遊女屋もあったろう。江戸時代に流行った「島田まげ」は、この島田女郎衆の結っていたのが全国に広まったといわれる。万治年間ごろから根の低い「つぶし島田」が流行した。「島田まげ」は主として未婚の女性が結った。とくに婚礼の髪型として知られる「文金高島田」は根を高くしたものである。

2009年8月29日 (土)

容儀帯佩

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   容儀帯佩(ようぎたいはい)とは、礼儀にかなった容姿と身のこなしをいう。ケペルはいままで学校の授業で正式な礼法の教育を受けた覚えがない。あったのかもしれないが記憶にない。そのようなテキストも知らない。だから「礼法」小川淑子著、柴田書店、昭和31年、72ページ、という本を見たときは興味をおぼえた。国立国会図書館で検索するが、所蔵していない。不思議である。戦後の刊行物であるから納本制度によって所蔵しているはずである。国立国会図書館の収集は万全ではないということなのであろうか?この本は高等学校の礼儀作法の学習用としてつくられたもので、主に私学の女子高などの授業には使用していたものであろうか。以下、初めの部分だけを紹介する。

礼法の要旨

民主主義に基づく健全な社会や家庭をきずくために、いま日本の民族は非常な努力をつづけている。古い習慣と新しい思想との間に起こる摩擦に戸まどいしたり行きすぎたりしている事実は日常生活の面にも少なからず見受けられる。そこで新しい道義の上に立って古い制度でも善きはとり入れて新旧の調和をもとめ社会生活や家庭生活が出来るよう努めなければならない。そしてこの役割を果たすものこそ礼儀作法である。即ち礼儀作法は社会の秩序を正し、人々相互の融和をはかり、もって人間生活の幸福を得ようとするものである。

礼法の基本・容儀

毎朝丁寧に洗顔・うがいをし、手足も清潔にする。髪もよく手入れをし男子はひげをそる。衣服は正しく着用し、またボタンやスナップは必ずかけ、バンドの下らないようにする。帽子は正しくかぶる。男子は室内では脱ぐものであるが、かぶる時も脱ぐ時も室の入口でする。帽子を手に持つ時は内側が人の目に触れないようにする。はき物は正しくはく。靴のひもはきちんと結ぶ。脱ぐ時はよく揃えておく。化粧はあまり目立つようにしないのがよく、また人の前で化粧直しをするものではない。

   著者の小川淑子については、「東京女高師卒。東京女高師の礼法教授担当・弘道会礼法研究調査会委員。現在は桜蔭学園において中・高校生の礼法教授に当っている」とある。現在でも桜蔭中学校・高等学校(文京区本郷)は小笠原流礼法を授業で教えている。猪口邦子や菊川玲が卒業している進学校である。

2009年8月14日 (金)

サインはV

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   記念写真の撮影などで子どもや若い女性たちが被写体のとき、いまでもVサインをよくするであろう。もともとは第二次世界大戦中のイギリスのチャーチルが戦争の継続と勝利への強い意志を表現するためにVサインを使用した。つまりVとは「VICTORY(勝利)」の頭文字に由来する。だがVサインはピースサインともいって、子どもたちは「ピース」と言いながら被写体になることが多い。日本では、いつ頃からVサインが流行したのであろうか?。戦時中はVサインなどをすれば、非国民と非難されたであろう。戦後もすぐに流行した記録はない。昭和40年代中頃にはVサインは一般にも知られるようになっている。グループサウンドのミュージシャンたちがVサインをしたであろうし、全共闘の学生たちがピース(平和)の象徴として使用したであろう。もっとも記憶に残るVサインといえば「巨人の星」の星一徹のVサイン。飛雄馬が甲子園へ旅立つ汽車に向かって、駅のホームから送る一徹のVサインは「百万べんの激励の言葉よりジーンときたぜ!」と飛雄馬は語る。同じころ女子バレーの「サインはV」。スポ根ブームとともにお茶の間からVサインは流行した。一説によると井上順がカメラのCFでVサインしたことで流行したともいわれている。(昭和47年)だがVサインそのものは昭和30年代半ばには使用例はいくつか見られるようである。昭和の映画で宣伝用スチール写真(映画館の前にペタペタ貼っていたモノクロ写真)などをみると、昭和35年の東映映画「億万長者」(小林恒夫監督)で女優の中原ひとみが可愛くVサインをしている。これが現在確認できる日本最古のVサインである。

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