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2020年10月22日 (木)

ハロウィンがやってくる

  仮装やコスプレをして、パーティを開いて楽しむハロウィンが近年盛んになってきたけど、今年は新型コロナの影響で自粛ムードになりそうだ。そもそもハロウィンっていったい何なの?もとはアングロ・サクソン系の祭日。10月31日すなわちキリスト教の万聖節の前日をいう。古くはヨーロッパの原住民ケルト族の収穫感謝の祭日「サウィン祭」で、ケルト暦の大みそかにあたり、ケルト伝説によればこの夜、悪霊たちが迫りくる長い冬を避けて遠くに飛び去り、魔術師たちが戸外を駆け巡って来年の予想を声高に叫び歩いたという。現在でもこれらの習慣が残されており、仮面をかぶって広場で踊り、子供たちがカボチャをくりぬいたランプを提げて行脚を行う。「ジャック・オ・ランタン」という。本来はカブのランタンをともしながら暗い道を歩き続けたというアイルランドの伝説に由来される。

  ハロウィンが日本で知られるようになったのは1970年代になってのこと。でもレイ・ブラッドベリの小説「ハロウィーンがやってきた」(1975年)や映画「キャスパー」(1995年)などハロウィーンを題材とした作品はわずかである。東京ディズニーランドでイベントが催されたり、お菓子メーカーが作られて、次第に日本人にも90年代末頃から浸透してきました。さて、ここでハロウィンに関する三択クイズです。ハロウィンといえばカボチャですが、そのほかにも世界中で食べられるお菓子があります。それは何んでしょうか?

A.クッキー

B.チョコレート

C.ケーキ

  ↓
  ↓
  ↓

答え A

 

 

 

 

 

 

2020年8月 8日 (土)

油すまし

   大映の怪獣映画「妖怪大戦争」(1968年)は見どころ満載の作品である。古代バビロニアの神ダイモンが江戸に出現して、神田隆に憑依する。日本古来のあらゆる神を退治するが、これを百鬼夜行の土俗の妖怪たちが撃退する。河童、雲外鏡、ろくろ首、のっぺらぼうなどいるが、リーダー格の「油すまし」に注目したい。油を盗んだ人間の霊が化けたもの。すました顔をしているのでこう呼ばれる。浜本隆一の「天草島民族誌」(1932年刊)に、近くの草積峠である時老婆が孫を連れて歩いていた折に「ここでは昔、油瓶を下げたものが出てきた」と言うと「今でも出るぞ」と言ってきたという伝承を採録している。この話が後に柳田國男の「妖怪談義」(1956年刊)に紹介された。映画「妖怪大戦争」では水木しげるの作画が基になっている。顔の造型については文楽の「蟹首」という人形を参考にしている。また知的で落ち着き払った性格で関西弁であることから、当時テレビの人気番組だった「てなもんや三度笠」の珍念をモチーフにしていると考えられる。

2020年7月21日 (火)

土用の丑の日

土用うし 夫婦二人で鰻一尾

   今日は「土用の丑の日」。全国的にウナギを食べる日とされているけど、なぜこの日に鰻を食べるのか、その由来を調べることは雑学研究の定番ともといえる事柄である。 そもそも天然ものの鰻は初冬が旬である。そして土用といえば、夏のことと思われがちだが、実は年に4回ある。もともとは古代中国の五行説からきたもので、宇宙は木火土金水の五元素から成ると考えられていた。そして、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の18日もしくは19日間を土用といった。つまり季節の変わり目で、土の働きが旺盛になる期間と考えたのであろう。しかし、今日では俳句の季語でも夏であるように、土用といえば夏の土用を指すのが一般的である。今年の土用の丑の日は7月27日に当たる。

    ところで、土用にウナギを食べる習慣は、奈良時代からある。『万葉集』の中で大伴家持が吉田石麿という老人がいくら飯を食べてもやせているのを見て、夏やせにウナギがいいよ、とからかっている歌がある。

石麻呂に吾れもの申す。夏痩せによしといふものぞ むなぎとり召せ   (いつも痩せている石麻呂君よ、夏痩せに良いという鰻でも食べたらどうかね)

   だが江戸時代、夏場に鰻が売れずに困っていた。ある鰻屋が蘭学者の平賀源内に相談し、源内は、さきの大伴家持の歌を思い出し、土用の丑の日にウナギを食えば夏痩せを防ぐことができるという意味から「今日は丑の日」という看板を書いて与えたところ、たちまち広く言い伝えられウナギ屋は大繁昌した。そこで、江戸中のウナギ屋も「今日は丑の日」の看板を掲げたという。こうして「土用の丑の日には鰻」という風習が定着していったといわれる。   地方によっては、丑の日にちなんで、ウのつく食物をとると暑気にあてられないといい、うどん、うり、牛肉などを食べるところもある。

 

 

 

 

2020年7月15日 (水)

てるてる坊主、じつは女性

 晴れ祈願のお地蔵さんとして知られる奈良県五條市の生蓮寺はコロナ退散を願う「てるてる坊主」を募集したところ、全国から1000体以上が贈られた。なかには疫病退治に利く妖怪アマビエのてるてる坊主もある。ところで軒先に吊るして晴天を祈る「てるてる坊主」の風習はいつ頃から始まったのか。坊主というからには、疑いもなく男性がモデルだと思ってしまうが、由来を調べると、じつは女性である。中国では揚子江に伝わる伝承に、白い首、紅と緑の着物、ほうきを持った掃晴娘(サオチンニャン)というお人形を軒につるしてお天気を祈ったことから始まる。それが日本へ伝わる。奈良時代とも平安時代ともいわれるが、文献として明らかになるのは江戸時代中期から。この頃は現在と異なり折り紙のように折って作られるもので、より人間に近い形をしており、その形代を半分に切ったり、逆さに吊るして祈願した。「嬉遊笑覧」(1830年)には、晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すと記している。現在のような、白い紙や布にくるんだ人形になったのは明治になってからのことかもしれない。

2020年4月 3日 (金)

沖縄シーサーの起源

Okinawa0013  本日は「シーサーの日」。シーサーの発祥地である那覇市壺屋で2002年より実施。四(しー)三(さー)で「シーサー」の語呂合わせ。沖縄の民家といえば、石垣に囲まれた厚い赤かわらと白い漆喰の屋根が目に浮かぶ。雪害のない沖縄の民家の屋根のスロープは緩やかで、しかも低い。軒の高さは、ほぼ石垣の高さに近い。このような形態は台風の被害を防ぐためにできたもので、沖縄の民家の独特な風情を醸しだしている。青い空に赤かわらとそれを固定する漆喰の白さは鮮やかに映える。さらに、この風情を強調するものに屋根の上に置かれたシーサーと呼ばれる小さな獅子の像がある。往来から玄関の辺りに置かれたシーサーは、魔除けのためにつくられたものである。シーサーにはさまざまな形があるが、2体が対になっているのが基本である。

   シーサーの起源を求めると、中国伝統の魔除けの神獣「白澤(はくたく)」がそのルーツかもしれない。インドのライオンが中国に伝わって「白澤」となり、唐代以降時代を超えてアジア全域に広がった。日本「シシ(獅子・狛犬・唐獅子)」、朝鮮「サジャ」、沖縄「シーサー」。シンガーポールのシンガ(Sinhaシンハは獅子)。マーライオンもその影響。

   沖縄での始まりは1689年のこと。当時、富盛村(八重瀬町東風平)はたびだび火災で悩まされていた。村民が、風水師に占ってもらった結果、八重瀬岳が原因だという。その対処として山に向かって獅子を建てると良いとの助言を受けて設置したところ火事は発生しなくなった(「球陽」)。それ以来、シーサーは火災や邪気を防ぐ魔よけとして沖縄に広まっていったという。現在も富盛に石彫大獅子が残っている。

 

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2020年4月 1日 (水)

エイプリル・フール

Aprilfools 4月ばか、April Fool、万愚節。友人たちをかついで興じる日。この習慣の起源については定説はない。16世紀頃からフランスで始まった習慣とされる。フランス語でPoisson d'Avril(4月の魚)といい、この時期よく捕れるサバのことを指している。1564年にシャルル9世がいまの暦であるグレゴリオ暦にかえたが、なかなか浸透しない。そこである貴族が4月1日に公爵の屋敷でパーティーがあるという嘘の招待状を出したのがはじまりといわれている。民衆が王に反発して、4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、バカ騒ぎをするようになったという説もある。だが「4月ばか」の慣習は18世紀初めまではそれほど一般に広まらなかった。イングランドでは、もっとも好まれた遊びは「無駄なお使い」に出すことであり、Aが犠牲者をBのところに使いに出すと、Bはさらに彼をCに送る。こうして犠牲者は、気づくまであちこちにやられるのである。北欧のスウェーデンでもエイプリルフールは盛んである。April skamt  アプリール・ファムト(四月冗談)という。一説によるとエイプリルフールは、キリスト教の死んだ日と関係するといわれる。キリストが死んだ日は春分の日(ニサン)の新月の日から14日たった日といわれる。(4月1日)

2020年2月 8日 (土)

安産祈願と絵馬

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    祈願や報謝のために、社寺に絵馬を奉納する習俗の起源はいつからかはっきりとわからない。絵馬といっても画家の手になる大絵馬から、庶民の切ない個人祈願の小絵馬までさまざまである。最古の絵馬は、古代における神への生馬献上の習俗に発する。1999年に難波宮跡から出土した飛鳥時代のものが7世中頃とみられる。平安時代の今昔物語に「板に書きたる絵馬有り」と見え、その起源は平安時代(12世紀前半)に認められる。だが民間祈願の絵馬奉納が江戸期にどの程度普及していたかは分からない。子供誕生に際し絵馬を奉納する習俗が昭和期戦前に各地に見える。子供の氏子入りの行事と、子供の成長の無事を祈願する目的である。絵柄は武者絵であるが、戦時中は肉弾三勇士のような戦時色の濃いものとなった。戦後は干支が一般的である。近年は、安産祈願した神社に無事に生まれたお礼と挨拶をし、安産祈願のときの絵馬にお礼を書いて、3人の名前を記入して奉納するらしい。参考:奈良県立橿原考古研究所「飛鳥宮と難波宮・大津宮」2014年

「えんぶり」祭りと歴史

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  小正月に行われる豊作祈願の芸能の一つ。予祝の模擬田植えを演じる田遊びがさらに舞踏化したもので、名称は田面をすりならす農具の「えぶり」からきている。古くは「ゑぶりすり」と呼んだ。

   青森県八戸市を中心として岩手県九戸郡から青森県上北部にかけて分布する。現在、八戸市では新羅神社で2月17~20日に行われる。えんぶり組の踊り手(鳥帽子太夫)は3人か5人で農作業や縁起物を描いた鳥帽子をかぶり鳴子板・カンダイ(鍬)・松などを持って舞い、家々をまわる。

    江戸時代の学者・菅江真澄(1754-1829)によると、えんぶりは女性が男性の格好をして踊ったものと記している。明治以降は男性が踊るものと思われてきたが、昭和49年八戸で女性がえんぶりを行い、人々を驚かせたという。

こちらのサイトをご参考に http://www.city.hachinohe.aomori.jp/kanko/festival/enburi/

 

 

2020年2月 3日 (月)

節分の豆撒き、恵方巻

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  浅草寺節分会

 

  本日は節分。夜になって、「鬼は外、福は内」などと唱えながら豆を内外に投げ、鬼を追って戸口をとざす。節分の豆まきの習俗は何時ごろかわからない。陰陽道の影響があり、室町期に中国の風俗を採り入れたものと考えられている。江戸時代に民間に盛行し、社寺でも厄除神事として定着した。現代でも節分の豆撒きの風習は消えたわけではない。ただし入口に「立春大吉」のお札を貼ったりする風習は都会では見られなくなった。節分に恵方巻という巻き寿司・太巻きを食べる習慣は、1989年にあるコンビニ(セブンイレブン?)が売り出したのが全国に広がったという説が有力である。今年の恵方は西南西の方向。(2月3日)

 

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入口に貼られた「立春大吉」のお札(昭和30年頃)

2020年1月21日 (火)

砂の器「亀嵩」

Img_0005 ズーズー弁の分布 東篠操編「日本方言地図」音韻分布図(金田一春彦作図)

 

   むかし民俗学の柳田国男は「かたつむり」(蝸牛)の方言が東北地方の北部と九州でツブリであり、関東や中国でカタツムリ、中部や四国でマイマイ、そして京都を中心とする近畿地方で、デデムシのように分布することを発見し、これによって、かつて蝸牛の方言がナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシのように変化し、それぞれが東西または南北へ放射されたと推定した。柳田の仮説を後の学者は方言周圏論と名づけたが、よくわからないところも多い。語彙には認められるものの、音、アクセントにはあてはまらないとする説もある。

   東北地方の方言の特徴は、「し」と「ず」、「ち」と「つ」、及び「じ」「ず」「ぢ」「づ」の区別をつけないので、「ズーズー弁」と言われることが多い。歴史的経緯から近畿地方の古い語彙は地方に残っていることが多いといわれる。近畿地方から遠く離れているはずの東北地方で古語が残っていることは一般的に知られているが、出雲弁、安来弁、米子弁といわれる雲伯方言にも東方地方の方言との類似性が高いことが国立国語研究所などの調査で明らかになった。これを推理小説の犯人捜査に上手に取り入れたのが、松本清張の「砂の器」である。

東京蒲田操車場で殺人事件が発生した。しかし被害者の身許が不明で捜査は難航する。迷宮入りかと思われた矢先、被害者が殺される直前にある男と会っていたことが判明した。2人の会話のなかで交わされていた「カメダ」という言葉、地名か?人の名か?今西警部ら捜査班は事件解明のために奔走する。そして殺害された被害者の東北弁「カメダ」から、島根県亀嵩(かめだか)を探し出した。当時は仁多町だったが、2005年に奥出雲町に変更している。しかし、この亀嵩という地名は小説、映画などで相当に知られており、奥出雲よりポピュラーな地名ではないだろうか。「この亀嵩の位置は、鳥取県の米子から西の方に向かって宍道という駅がある。そこから支線で木次線というのが、南の中国山脈の方に向かって走っているのだが、亀嵩はその宍道から数えて十番目の駅だった。亀嵩の地形はまさに出雲の奥地である。たった今、国語研究所で見せてもらった資料のズーズー弁の使われている地方のどまん中だった」(「砂の器」)

   町には湯野神社があり、「風土記」に「湯野、小川、源出玉峰西流云々」とあり、亀嵩の旧地名であろう。

 

 

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