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2023年10月 3日 (火)

食生活の東西差

  関東人は「肉まん」、関西人は「豚まん」。一般に関東では濃い味が、関西ではうすい味が好まれるっていわれる。たとえば関東は濃口醤油が、関西は薄口醤油が使われる。なぜ関東は味付けが濃いのか?答えは、それは徳川家康のせいだから~NHKチコちゃんは知っている。醤油の歴史は京都や大阪が古い。天正5年(1577年)に龍野で薄口醤油つくられた。これが、京都で発達した精進料理を自然な色に見せる、薄味の調理として完成された。江戸時代になると、徳川家康が未開拓の江戸の街を早く整備するため、全国から労働者を多く集めた。玄米と塩分補充と労働力アップのため味の濃いおかずを用いた。それから、江戸では新鮮な魚を食べる際に、「つけ醤油」として醤油を用いていたことから、濃口の醤油が生まれた。以来、万能の調味料である醤油は、日本の食を支えた。

  このように日本人の食生活や住まいのようすは東と西では違いがあった。だが、今や、新幹線に乗ればわずか2時間半で移動できる狭い日本なので、大きな違いはみられなくなった。もちの形は、富山から見えを境して東は四角い餅、西は丸い餅ときれいに分かれる。理由は日本列島を東西に分断する大地層帯・糸魚川静岡構造線と地質学的に説く人もいるが、本当のことはよくわからない。(参考:「知ってビックリ!関東と関西こんなに違う事典」PHP文庫)

2023年10月 1日 (日)

近代社会を作り上げたコーヒーの歴史

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 17世紀のロンドン・コーヒーハウス

  本日は「コーヒーの日」。一杯のコーヒーを傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。では世界で一番最初にコーヒーを飲んだのは誰なのだうか?

 コーヒーの発祥地はエチオピアでコーヒーの液汁を飲んだのが始まりですが、実を煎じて飲むことを考えついたのは、5~9世紀のアラビア人だといいます。すくなくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。

   今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。イギリスのコーヒーハウスは男性しか入れなかった。やがて女性たちは紅茶を飲むようになり、19世紀中頃からアフタヌーンティーの習慣へと発展する。

   日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代でキリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーの味を初めて知った日本人はおそらく幕府のオランダ通詞であろう。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。

 コーヒーが健康に与える影響については科学者たちが何年にもにわたって研究してきた。飲みすぎるとカフェイン依存症につながる一方、毎日適量飲むと心臓病のリスクが下がるという報告もされている。コーヒーの健康効果についてはいまだ謎が多い。DNA遺伝子が関係しており、からだにいい人と悪い人と、人によって違いがあるらしい。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13) 10月1日

 

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2023年8月 9日 (水)

お盆の由来は「倒懸(さかさづり)」から?

 なぜ日本は年中行事が多いのだろうか。とくに8月の暑いさかりは全国各地で夏祭りや花火大会があり賑やかである。

 坊さんがバイクで走るお盆かな 

  お盆は日本の年中行事のなかでも正月とならんで大事な生活習慣。「精霊(死者の霊魂)」を迎えるものです。NHKチコちゃんに叱られる拡大スペシャル。毎年、お盆になると家族で墓参りに行くが、なぜ行くのか。そもそもお盆の「ボン」とは何なのか。チコちゃんだけが知っている。お盆の意味は「逆さづり」。

 お盆は「盂蘭盆」を略したもの。盂蘭盆経、お釈迦様の教えを説いたお経のことで「仏訳盂蘭盆経」に書かれた物語。盂蘭盆とはインドサンスクリット語の「Ullambana (ウランバナ)」に漢字を当てはめたもの。UI(逆さ) lambana(吊るされる)=逆さづり。

 釈迦の弟子、目蓮は地獄のような場所で逆さづりにされている母を助けるため、沢山の食べ物をお供えして、お経を読んで供養したところ、逆さづりにされていた木蓮の母の足から、紐が外れた。その後、木蓮の母はあの世で菩薩となり、幸せに暮らした。これがお盆の始まりである盂蘭盆会の行事である。インドから中国を経て、日本に取り入れられた。日本で最初に盂蘭盆会が営まれたのは、606年、推古天皇の時代で、「日本書紀」にその記録が残っている。日本の伝統行事「お盆」は目連救母説話をモチーフとして、日本古来の霊魂観と先祖崇拝の宗教的習俗が混在して形成されていったものと考えらる。(参考文献;「盂蘭盆」考 赤松孝幸 高松大学紀要33号 2000年)

 

2023年7月30日 (日)

土用の丑の日

土用うし 夫婦二人で鰻一尾

   今日は「土用の丑の日」。全国的にウナギを食べる日とされているけど、なぜこの日に鰻を食べるのか、その由来を調べることは雑学研究の定番ともといえる事柄である。 そもそも天然ものの鰻は初冬が旬である。そして土用といえば、夏のことと思われがちだが、実は年に4回ある。もともとは古代中国の五行説からきたもので、宇宙は木火土金水の五元素から成ると考えられていた。そして、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の18日もしくは19日間を土用といった。つまり季節の変わり目で、土の働きが旺盛になる期間と考えたのであろう。しかし、今日では俳句の季語でも夏であるように、土用といえば夏の土用を指すのが一般的である。今年の土用の丑の日は7月30日に当たる。

    ところで、土用にウナギを食べる習慣は、奈良時代からある。『万葉集』の中で大伴家持が吉田石麿という老人がいくら飯を食べてもやせているのを見て、夏やせにウナギがいいよ、とからかっている歌がある。

石麻呂に吾れもの申す。夏痩せによしといふものぞ むなぎとり召せ   (いつも痩せている石麻呂君よ、夏痩せに良いという鰻でも食べたらどうかね)

   だが江戸時代、夏場に鰻が売れずに困っていた。ある鰻屋が蘭学者の平賀源内に相談し、源内は、さきの大伴家持の歌を思い出し、土用の丑の日にウナギを食えば夏痩せを防ぐことができるという意味から「今日は丑の日」という看板を書いて与えたところ、たちまち広く言い伝えられウナギ屋は大繁昌した。そこで、江戸中のウナギ屋も「今日は丑の日」の看板を掲げたという。こうして「土用の丑の日には鰻」という風習が定着していったといわれる。   地方によっては、丑の日にちなんで、ウのつく食物をとると暑気にあてられないといい、うどん、うり、牛肉などを食べるところもある。

 

 

 

 

2023年7月12日 (水)

フォークの歯はなぜ4本なのか

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 16世紀イタリアの初期のフォーク

 

 本日は「洋食器の日」。七(な)一(い)二(ふ)で「ナイフ」の語呂合わせ。中世の人びとはナイフで肉を切り、手づかみで食事をしていた。ナイフが食卓で使われたのは、15世紀以後のことである。ルイ15世紀は先端恐怖症で、ナイフの携帯を禁ずる法令をつくった。貴族社会の人びとがフォークを使いはじめたのは16世紀ころからのことである。ルネサンスのはなやかな舞台となったイタリアでは銀、白鑞(びゃくろう)ときには黄金などの貴金属に華美な彫刻をほどこしたフォークを専門の職人につくらせ、その豪華さと料理の豊かさを自慢しあっていた。4本歯のフォークが登場するのは18世紀のイタリアである。ナポリ国王フェルディナンド4世はスパゲッティが大好物であった。そこで何とか上品に食べられる方法はないかと技術者のチェーザレ・スパダッチーニが4本歯を考案したといわれている。スプーンは16世紀に入ってからだといわれている。(7月12日)

 

 

2023年7月10日 (月)

東北六魂祭

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 鉄道やバスの交通機関が発達しているとはいえ、東北の自然は大きく、しかも中央に南北に長くのびた奥羽山脈が連なっいるため青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島と各県それぞれの歴史と文化が大きく異なる。奥羽山脈を境にして、太平洋側の気候と日本海側の気候に分けられる。太平洋側は、初夏から夏にかけてやませが吹くと気温が下がり、冷害がおこることがある。一方、日本海側は春や夏にフェーン現象がおこり、高温になることがあるが、冬は北西の季節風の影響で雪が多く降る。東北の早期復興を願って開かれる東北六魂祭。六魂祭とは、青森ねぶた祭、秋田竿灯まつり、盛岡さんさ踊り、山形花笠まつり、仙台七夕まつり、福島わらじまつり。各地の伝統行事についてくわしくみていこう。

2月 横手かまくら

4月 天童・人間将棋

4月 弘前桜まつり

6月 盛岡・ちゃぐちゃぐ馬こ

7月 出羽三山花まつり

7月 恐山大祭

8月 青森・ねぷた祭

8月 秋田・竿灯

8月 花笠祭

8月 仙台・七夕

8月 松島・燈籠流し

9月 花巻祭

9月 会津白虎祭

10月 二本松提灯祭

12月 羽黒山松例祭

 

 

2023年6月14日 (水)

たばこのはじまり

 世界で一番最初にたばこを吸ったのは誰なのだろうか?たばこを手にしながら、誰しも一度は考えたことがあるのではないだろうか。その答えを探るには、どうやら古代マヤ文明の時代にまでさかのほる必要があるようだ。メキシコにあったマヤ文明の都市遺跡パレンケのエル・フマドールの壁面には「たばこを吸う神」(十字架の神殿)にという、なんとタバコを吸う神の姿が描かている。これが人類とたばこのつながりを示す最古の資料だといわれる。少なくとも7世紀末ごろ(692年)と考えられる。古代マヤの人々は、神へ願いごとをしたり神のお告げを聞いたりする祭祀や儀式に、たばこの葉をいぶした。たばこの葉から立ちのぼる「けむり」と「香り」を天上の神へささげていたのだ。当然、神がお喜びになるという考えから、そうしたのであろう。神と人との交信の道具としてパイプや葉巻などが作られた。

2023年5月 7日 (日)

古代の枕

Photo_2   日本人はいつ頃から枕なしでは眠られぬようになったのだろうか。縄文人や弥生人が枕で寝ていたという話はあまり聞いたことがない。万葉人は枕して寝ていたことは確実である。「麻久良」(まくら)という語が万葉集に見える。それより以前の古墳時代にも石製の枕が出土(実際に使用したものでない)しているから、おそらく卑弥呼は枕をして眠っていたかもしれない。枕をして寝る風習も中国から伝えられたものであろう。「木枕」(こまくら)とか「草枕」(くさまくら)などが用いられた。木枕には黄楊(つげ)、朴(ほお)、杉(すぎ)、桑(くわ)などが使われ、草枕には菅(すげ)、茅(かや)、菰(こも)、藁(わら)、篠(しの)などが用いられた。江戸時代から用いられる木枕は「垜(あずら)まくら」とも言われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年5月 5日 (金)

「鯉のぼり」の風習

0000231_2  甍の波と 雲の波

 重なる波の 中空を

 橘かをる 朝風に

 高く泳ぐや 鯉のぼり

     *

 開ける広き その口に

 舟をも呑まん さま見えて

 ゆたかに振るふ 尾鰭には

 物に動ぜぬ 姿あり

     *

 百瀬の瀧を 登りなば

 忽ち龍に なりぬべき

 わが身に似るや 男子(をのこご)と

 空に踊るや 鯉のぼり

 

 男の子のいる家では、5月5日に「鯉のぼり」をあげたりするが、近年少子化のせいか、都会ではあまりみられなくなったような気がする。この風習が生まれたのは江戸時代といわれている。当初は、武士の家で、戦国時代より陣地の目印として立てられた「吹き流し」や、旗指物などとして使われた「のぼり」を飾るしきたりがあった。しかし、これらを飾ることは武家にしか許されていなかった。そこで、江戸の庶民たちはこれに対抗し、鯉の形をした吹き流しを空に泳がせて節句を祝うようになったのだ。鯉は古代中国の「登竜門伝説」に因むとされ、男の子の立春出世を願う気持ちが込められている。

 

 

2023年4月 5日 (水)

世界の墓

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 アーリントン国立墓地(米国ワシントン)

 

    国の数だけの風俗・習慣がある。とくに多種多様なのはお墓である。イスラム教はお墓がないといわれる。英語で言う墓地 graveyardは、たいていは教会の中庭に設けられている。おそよ17世紀頃からヨーロッパでは、教会の統制の下に、行なわれるようになってきた。通常、キリスト教国は土葬で、腐ると掘り起こして納骨堂に納められた。しかし、ペストやコレラなど伝染病の蔓延につながり公衆衛生上の問題から、お墓が都市から離れた場所に作られるようになった。19世紀のイギリスでは多くの共同墓地セメタリーcemeteryが建設され、共同墓地は先行した教会墓地と対照的な点が多い。米国ワシントンDCの国立アーリントン墓地で最も有名なのは、第35代大統領ジョン・F・ケネディのお墓である。 

 

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