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2018年6月 1日 (金)

六月の花嫁

    英語に「ジューン・ブライド June bride」という言葉があり、「六月の花嫁は幸せになる」という格言もある。6月を結婚式の最上とする考え方は、ローマ神話の女性と結婚の守護神であるユノ(JUNO)の祭典が行われる月が結婚月だからと一般には説明される。

    もっともこれには異説もある。昔のヨーロッパ人は戸外でセックスをした。17世紀になるまで、扉で仕切られた私寝室を持たなかった。寒い冬の間は、野外でのセックスはできない。それで、4月になって、春の到来とともに若い男女はアウト・ドア・セックスを楽しみはじめる。だが、すぐには結婚できない。中世にあっては、教区教会に婚約が届け出られ、40日間の公示期間がすぎてからようやく正式の結婚が許可される。その40日のあいだに、どこからも異議が出ないことが条件である。だから、結婚式は、早くても6月になるのである。

2018年5月12日 (土)

てるてる坊主の起源

   「てるてる坊主」を軒先に吊るして晴天を祈る風習はいつ頃から始まったのか。中国では白い首、紅と緑の着物、ほうきを持った掃晴娘(サオチンニャン)というお人形を軒につるしてお天気を祈ったが、これが日本へ伝わる。奈良時代とも平安時代ともいわれるが、文献として明らかになるのは江戸時代中期から。この頃は現在と異なり折り紙のように折って作られるもので、より人間に近い形をしており、その形代を半分に切ったり、逆さに吊るして祈願した。「嬉遊笑覧」(1830年)には、晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すと記している。現在のような、白い紙や布にくるんだ人形になったのは明治になってからのことかもしれない。

2018年4月 1日 (日)

エイプリル・フール

Aprilfools 4月ばか、April Fool、万愚節。友人たちをかついで興じる日。この習慣がなにに由来するかについては定説はない。16世紀頃からフランスで始まった習慣とされる。フランス語でPoisson d'Avril(4月の魚)といい、この時期よく捕れるサバのことを指している。1564年にシャルル9世がいまの暦であるグレゴリオ暦にかえたが、なかなか浸透しない。そこである貴族が4月1日に公爵の屋敷でパーティーがあるという嘘の招待状を出したのがはじまりといわれている。民衆が王に反発して、4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、バカ騒ぎをするようになつたという説もある。だが「4月ばか」の慣習は18世紀初めまではそれほど一般に広まらなかった。イングランドでは、もっとも好まれた遊びは「無駄なお使い」に出すことであり、Aが犠牲者をBのところに使いに出すと、Bはさらに彼をCに送る。こうして犠牲者は、気づくまであちこちにやられるのである。北欧のスウェーデンでもエイプリルフールは盛んである。April skamt  アプリール・ファムト(四月冗談)という。一説によるとエイプリルフールは、キリスト教の死んだ日と関係するといわれる。キリストが死んだ日は春分の日(ニサン)の新月の日から14日たった日といわれる。(4月1日)

2018年3月17日 (土)

「人生七十古来稀なり」 年齢の異称

 政府は成人年齢を20歳から18歳に引き下げることを2022年の施行を目指して検討している。結婚年齢を男女ともに18歳に統一するが、飲酒・喫煙などは20歳未満禁止を維持するらしい。

   三木露風の「赤蜻蛉」の三番目の歌詞。「十五でねえやはよめにいき おさとのたよりもたえはてた」戦前の婚姻適齢は男子17歳、女子15歳だった。だが実際には守られていなかったらしい。大正11年の国勢調査によると、東京市には9歳の男子と7歳の女子が結婚している例がある。これほどでなくても、10歳から15歳までで配偶者のある者は、男44人、女145人もあったという。

    戦後、わが国の民法において男子が18歳以上、女子が16歳以上にさだめられたのは、当時のアメリカの各州の婚姻適齢がこのケースが多かったため倣ったとされている。世界各国の婚姻適齢を調べると、だいたい男女を問わず、未成年者においても配偶者が成年であるという条件で16歳以上で婚姻の可能性を開いている。つまり男女問わず結婚相手が18歳以上なら16歳の婚姻を可としている。16-16はダメだが、18-16なら良いというものである。どうやら女子16歳を婚姻適齢の開始とする国が多いようである。だが、人口問題をかかえる現代中国では男子22歳、女子20歳と婚姻適齢を各国に比べ遅らせている。ただし、古くから中国では女子16歳のことを「破瓜(はか)」といい、詩文などで使われることがあった。「瓜」は二つの「八」字に分けられ、二八の16歳。転じて8の2乗で男子64歳をいうこともある。また女子の処女膜が性交によって破られることを意味する。この意味での使用が多いという。

   年齢には面白い異名がつけられている。今はふつう満年齢で数えるが、この場合はむかしの風習で数え年が用いられる。15歳は「志学」、30歳は「而立」、40歳は「不惑」、50歳を「知命」、60歳は「耳順(じじゅん)」、61歳は「還暦」、66歳は「緑寿(ろくじゅ)」、70歳は「古稀」、77歳は「喜寿」、80歳は「傘寿」、81歳は「半寿(はんじゅ)」「盤寿(ばんじゅ)」、88歳は「米寿」、90歳は「卒寿」、99歳は「白寿」、100歳は「期(き)」または「上寿(じょうじゅ)」紀寿(きじゅ)」という。108歳は「茶寿」、111歳は「皇寿(こうじゅ)」「川寿(せんじゅ)」、119歳は「頑寿(がんじゅ)」。120歳は「昔寿(せきじゅ)」「珍寿(ちんじゅ)」という。これほどの長寿は珍しいということから。大還暦(だいかんれき)還暦が2回迎えられたことから。長寿世界一だった泉重千代さんに向けて作られたという。特に年齢は決まっていないが、「長寿の祝い」として「頌寿(しょうじゅ)」がある。(参考;中野展子「年齢の話題事典」)

2018年3月 3日 (土)

男雛と女雛の並べ方は?

 本日3月3日はひな祭り。気になるのは、最上段に飾る男雛と女雛の位置だ。伝統的な京式ではひな壇に向かって右側が男雛であった。雛人形の男雛、女雛の配座はどちらが上席か意見が分かれる。現在、商品として展示されている雛人形を見ると、向かって左側に男雛が配置されているのが一般的である。

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京阪風古今雛屏風飾り(江戸後期)

    江戸時代までは、男雛は向かって右側であった。これは古来日本では陰陽五行説に由来して、左側(向かって右)を上席とされてきたため、京風の時代雛では男雛が左側(向かって右)となっている。だが明治24年に全国の学校に置かれた御真影では、外国の皇室を見習って天皇は向って左であった。大正から昭和初め頃、三越や高島屋などデパートがこれらにならって男雛と女雛の配座を入れ替えた。東京雛人形卸商組合が、それにならい、またたく間に全国に広がり、今日に至っている。関西では、伝統的に京風を守り、向かって右に男雛を配置することもまだ残っている。では、左右どちらに配置したらよいのか?さぞや悩まれる方も多いのではないだろうか。各家庭の今までのしきたり等で飾っていかれたらよろしいのではないでしょうか

2018年2月26日 (月)

江戸時代に盛んだった庚申請の行事

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  インドの三猿

 「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿といえば、日光東照宮の彫刻を思いうかべる。しかし、三猿をかたどった造形は世界各地に分布している。猿の棲息する東南アジアやインドやアフリカはもとより、猿のいないヨーロッパや朝鮮半島にも、さまざまな三猿像が広まっている。インドが発祥地と考えられるが、宗教というよりも、「見ざる、聞かざる、言わざる」は民間に流布した一種の道徳であり、処世訓である。この考えを猿の姿をとおして表現したのは、もちろん日本語の否定形の「ざる」が動物の「猿」と同音であることによる。しかし、このことは三猿の日本起源を証明するものではない。

    日本における三猿の代表は、日光東照宮にある木彫の三猿である。徳川家康を大権現として祀る霊廟に、三猿が飾られているのは、この場所が厩(うまや)に当たるため、猿が火伏(ひぶ)せの力を持つこととなって、東照宮を火から守っているのである。さらに、天台宗の僧で、東照宮を建立した天海大僧正の主張により、家康の葬儀は山王一実神道によって執り行われた。すなわち天台宗と結びつきの深い、山王の象徴としての神猿に近い役割を、日光の猿が持っているのである。

    もうひとつの起源として庚申信仰をあげることができる。庚申は「かのえさる」とも読み、その連想から江戸時代初期以降、猿が庚申塔に刻まれるようになったらしい。庚申は道教に端を発する民間習俗である。60日毎の庚申の日に、人びとが集まり飲食歓談し徹夜するのは、体内から三尸の虫が抜け出し、天帝に悪事を報告し、寿命を縮めてしまので、それをさせないためである。庚申講を地域社会の寄り合いとして利用していたところもあり、そこでは「見ざる。聞かざる、言わざる」は仲間どうしの掟にもなっていた。

  「論語」のなかには、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」というくだりがある。実際、中国では、母は胎教にあたって「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は傲言を出さず」といましめられている。このように日本の三猿のルーツのひとつは道教にあり、もうひとつには儒教があげられる。しかも、それが日本では天台系の仏教の影響下に定着し、猿にかかわる民間信仰とも結びついていた。

    ところが、今日の世界各地でみられる三猿には宗教的な色彩はうすい。むしろ装飾品や日用小物として使用されるものが圧倒的多数を占めている。しかも、ヨーロッパやアフリカには「見ろ、聞け、言うな」あるいは「見ろ、聞け、言え」という三猿もすくなくない。また、四猿や五猿の組み合わせも存在する。日本の郷土玩具のなかにも、「不為さざる」あるいは「不思わざる」の猿が加わり、四猿や五猿の玩具もみられる。五猿は、猿がゴザル、福がゴザルに通じ、護猿(守りサル)としても験をかついでいる。さらに、「見てみたい、聞いてみたい、言ってみたい」と人間の本音を具象化した逆三猿の玩具まである。ともあれ、三猿の起源はいまだ十分に解明されていない。(参考文献:中牧弘允「世界の三猿」東方出版)

2018年2月 3日 (土)

節分の豆撒き

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  浅草寺節分会

  本日は節分。夜になって、「鬼は外、福は内」などと唱えながら豆を内外に投げ、鬼を追って戸口をとざす。節分の豆まきの習俗は何時ごろかわからない。陰陽道の影響があり、室町期に中国の風俗を採り入れたものと考えられている。江戸時代に民間に盛行し、社寺でも厄除神事として定着した。現代でも節分の豆撒きの風習は消えたわけではない。ただし入口に「立春大吉」のお札を貼ったりする風習は都会では見られなくなった。(2月3日)

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入口に貼られた「立春大吉」のお札(昭和30年頃)

2018年1月18日 (木)

厄神詣で

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多井畑厄神(神戸市須磨区)毎年1月18日から1月20日まで行われる厄除け祭には多くの参拝者で賑わう

    男42歳、女33歳の大厄を初め、その他の厄年にあたった人が、厄難をまぬかれるために厄払いをする。厄払いにもいろいろ方法がある。家を出て身につけたものをわざと途中で落とし、顧みず、乞食などに拾わせる。褌を落としてくるふぐりおとし。年の数だけの銭を包む厄払いの包み銭など。厄神参り、厄神詣でと呼ばれるものもある。

   「やあらめでたや、こなたの御寿命申さば、鶴は千年、亀は万年、浦島太郎が八千歳、東方朔が九千歳、三浦の大介百六つ。かかるめでたき折柄に、いかなる悪魔が来るとも、西の海へさらり」などという。

2018年1月 7日 (日)

七草がゆ

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    きょうは七草粥。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、すずな、すずしろ、春の七草を刻んで食べる。万病を除くおまじないであるが、おせち料理で疲れた胃を休める効能もある。泉隆寺(神戸市中央区)は古来から水はけが良く、良質の大根を産出してきたらしい。醍醐天皇のときにこの地で栽培した若菜(七草のすずしろ=大根)を宮中へ献上したのが由来となって、毎年1月7日に若菜をそえて、食する習わしが始まった。別名「若菜寺」と呼ばれる泉隆寺では、いまでも七草がゆ法要が行われている。

2018年1月 3日 (水)

年賀状の由来

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。

   ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。(1月1日)

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