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2021年4月 1日 (木)

エイプリル・フール

Aprilfools 4月ばか、April Fool、万愚節。友人たちをかついで興じる日。この習慣の起源については定説はない。16世紀頃からフランスで始まった習慣とされる。フランス語でPoisson d'Avril(4月の魚)といい、この時期よく捕れるサバのことを指している。1564年にシャルル9世がいまの暦であるグレゴリオ暦にかえたが、なかなか浸透しない。そこである貴族が4月1日に公爵の屋敷でパーティーがあるという嘘の招待状を出したのがはじまりといわれている。民衆が王に反発して、4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、バカ騒ぎをするようになったという説もある。だが「4月ばか」の慣習は18世紀初めまではそれほど一般に広まらなかった。イングランドでは、もっとも好まれた遊びは「無駄なお使い」に出すことであり、Aが犠牲者をBのところに使いに出すと、Bはさらに彼をCに送る。こうして犠牲者は、気づくまであちこちにやられるのである。北欧のスウェーデンでもエイプリルフールは盛んである。April skamt  アプリール・ファムト(四月冗談)という。一説によるとエイプリルフールは、キリストの死んだ日と関係するといわれる。キリストが死んだ日は春分の日(ニサン)の新月の日から14日たった日といわれる。(4月1日)

2021年3月 3日 (水)

男雛と女雛の並べ方は?

 本日3月3日はひな祭り。気になるのは、最上段に飾る男雛と女雛の位置だ。伝統的な京式ではひな壇に向かって右側が男雛であった。雛人形の男雛、女雛の配座はどちらが上席か意見が分かれる。現在、商品として展示されている雛人形を見ると、向かって左側に男雛が配置されているのが一般的である。

 

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京阪風古今雛屏風飾り(江戸後期)

 

    江戸時代までは、男雛は向かって右側であった。これは古来日本では陰陽五行説に由来して、左側(向かって右)を上席とされてきたため、京風の時代雛では男雛が左側(向かって右)となっている。だが明治24年に全国の学校に置かれた御真影では、外国の皇室を見習って天皇は向って左であった。大正から昭和初め頃、三越や高島屋などデパートがこれらにならって男雛と女雛の配座を入れ替えた。東京雛人形卸商組合が、それにならい、またたく間に全国に広がり、今日に至っている。関西では、伝統的に京風を守り、向かって右に男雛を配置することもまだ残っている。では、左右どちらに配置したらよいのか?さぞや悩まれる方も多いのではないだろうか。各家庭の今までのしきたり等で飾っていかれたらよろしいのではないでしょうか

2021年2月12日 (金)

もうすぐバレンタインデー

Photo   バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は日本だけとよくいわれる。広辞苑にはバレンタインデーにチョコレートを贈ることは「1958年頃より流布」したとある。しかしバレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は日本特有のものではなく、1868年イギリスのチョコレート会社キャドバリー社がギフト用チョコレートボックスを製造し世界に広まったらしい。日本では神戸モロゾフ社が英字新聞「ザ・ジャパン・アドバタイザー」(1936年2月12日)の広告を出した。1958年2月には新宿の伊勢丹でメリーチョコレートが日本で初めてのバレンタインデーのチョコレートを販売した。

Bill3  1960年からは森永製菓がバレンタインデーの宣伝を大々的にするようになり、1970年代には女性が男性に愛情の告白としてチョコレートを贈ることが浸透した。だがギフト商品はチョコレートだけにこだわらず、ハンカチ・ネクタイなどの小物、ウィスキー・シャンパンなどお酒、香水などギフトとして喜ばれる。(St.Valentine's day,chocolate)

 

 

2021年2月 2日 (火)

節分の豆撒き、恵方巻の謎

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  浅草寺節分会

 

 節分の日は普段であれば2月3日ですが、今年の節分は1日早い2月2日である。ちなみにこれは124年ぶりという。夜になって、「鬼は外、福は内」などと唱えながら豆を内外に投げ、鬼を追って戸口をとざす。節分の豆まきの習俗は何時ごろかわからない。鬼払いの風習は、中国の風習を由来とする平安時代の追儺、鬼遣と呼ばれた宮中行事を元としているとされる。陰陽道の影響があり、室町期に中国の風俗を採り入れたものと考えられている。江戸時代に民間に盛行し、社寺でも厄除神事として定着した。現代でも節分の豆撒きの風習は消えたわけではない。ただし入口に「立春大吉」のお札を貼ったりする風習は都会では見られなくなった。節分に恵方巻という巻き寿司・太巻きを食べる習慣は、1989年にあるコンビニ(セブンイレブン?)が売り出したのが全国に広がったという説が有力である。今年の恵方は南南東の方向。(2月3日)

 

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入口に貼られた「立春大吉」のお札(昭和30年頃)

2021年1月18日 (月)

厄神詣で

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多井畑厄神(神戸市須磨区)毎年1月18日から1月20日まで行われる厄除け祭には多くの参拝者で賑わうが今年はコロナの影響で少ない

    男42歳、女33歳の大厄を初め、その他の厄年にあたった人が、厄難をまぬかれるために厄払いをする。厄払いにもいろいろ方法がある。家を出て身につけたものをわざと途中で落とし、顧みず、乞食などに拾わせる。褌を落としてくるふぐりおとし。年の数だけの銭を包む厄払いの包み銭など。厄神参り、厄神詣でと呼ばれるものもある。

   「やあらめでたや、こなたの御寿命申さば、鶴は千年、亀は万年、浦島太郎が八千歳、東方朔が九千歳、三浦の大介百六つ。かかるめでたき折柄に、いかなる悪魔が来るとも、西の海へさらり」などという。

2021年1月 9日 (土)

門松の由来

Imageca8xiro2    正月に玄関に松の葉を飾ったり、門松をたて祝うのは何故か?現代でも多くの家庭が飾る門松は、「正月に吉方から来臨して年中の安全と豊年とを約束する神」、穀霊でもあり祖霊でもある年神が降りてくる依代(よりしろ)として本来は立てられたものである。榊、竹、杉、楢などいろいろな樹木が用いられたが、次第に松に統一された。門松は平安時代から正月の民家に飾られるようになっている。歌道家六条家の始祖、藤原顕季(ふじわらのあきすえ)の「門松を営み立つるその程に春明がたに夜や成ぬらん」(「堀河院百首」)や藤原信実(ふじわらののぶざね)の「今朝はみなしづが門松たてなべていはふことぐさいやめづらなる」(「新撰六帖」)という歌にも見える。『年中行事絵巻』にも家の入口に、門松の立った光景が描かれている。

 門松の竹が斜め切にそぎおとされているのはなぜか?門松の竹はもともとは寸胴型であったが、三方ヶ原の戦いに敗れた徳川家康が、次は斬るぞという念を込めて「そぎ」(斜め切り)が始まった。この風習が江戸期に民衆にも広まった。

    しかし門松の風習が全国的に広まったのは近代になってからである。文部省唱歌に「松竹立てて門ごとに祝う今日こそ楽しけれ」と全国の児童に歌わせたからであろう。家の入口に松を立てる、それも左右そろえて二本立てるというのは、大昔からの風習ではない。宮中には今でも門松はないし、富山や大阪でも立てない。家風として自分のところは立てない、という家もある。(参考:「本郷№5」1996.1、吉川弘文館) 1月1日

2021年1月 7日 (木)

七草がゆ

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    きょうは七草粥。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、すずな、すずしろ、春の七草を刻んで食べる。万病を除くおまじないであるが、おせち料理で疲れた胃を休める効能もある。泉隆寺(神戸市中央区)は古来から水はけが良く、良質の大根を産出してきたらしい。起源は中国で、毎年1月7日に7種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが平安時代中期頃に日本に伝わり七草がゆが生まれた。醍醐天皇のときにこの地で栽培した若菜(七草のすずしろ=大根)を宮中へ献上したのが由来となって、若菜をそえて、食する習わしが広まった。別名「若菜寺」と呼ばれる泉隆寺では、いまでも七草がゆ法要が行われている。

2020年12月31日 (木)

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

 

大晦日の祖先祭祀の風習について

  ゆく年くる年。新しい年は、平和で明るい社会であることを願いたい。青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

除夜の鐘

大晦日定めなき世の定めかな(西鶴)

 

ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)

 

高窓に星吹き寄せぬ除夜の鐘(花野女)

 

 大晦日を「除日(じょじつ)」ともいう。旧年を除く日ということである。除日の夜が除夜だ。除夜の鐘を108つくのは、中国の仏教儀式で、宋時代から始まったという。ただつけばよいというわけではなく、交互に、強く54点、弱く54点、そして107点までは旧年に、最後の一点を新年につく。

   108の数は、1年12ヵ月と、立春などの24節気、それを三分した72候、の合計だというが、後に108の煩悩を一つずつ消すためといわれるようになった。108の煩悩とは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と六塵(色、声、香、味、触、法)におのおの好、悪、平があるので、計36程の煩悩が生じ、それが過去、現在、未来あるので108となる。

    古くは1日が夜からはじまって朝につづくと考えられていたので、祭は多く前夜から行われた。年越しの祭も前夜からはじまるとし、大晦日の夜を「おおとし」「としのよ」といい、年神(歳神)を迎るために厳重な物忌をし、夜通し起き明かすのが古風な作法であった。今でも除夜の鐘を聞くまで床に入らなかったり、早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいい、また寝るというのを忌んで、「寝る」ことを「稲を積む」という地方もある。また年ごもりといって、この夜は神社に参籠(さんろう)して夜を明かすところがあったが、現代では一般にそれを簡略して夜中に参るか元旦未明に参るようになった。また「歳籠り」といって氏神の社にこもって夜を明かす風習もあり、京都祇園社の「おけら祭」などのように、古い社では除夜に、新しく火を鑽り出し、氏子に配る行事がある。農家などでは、大歳の晩から元旦にかけて、いろりの火を絶やさぬようにするところも多い。この際、火種にする薪を「ようぎほだ」「せちほだ」などと呼び重要視した。そのほかいろりや氏神の境内で大火をたくところもあり、兵庫県では「年越しとんど」といって、古い注連縄などの神飾りの不用なものを焼くところもあった。

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