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2025年2月 2日 (日)

節分と恵方巻き

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  浅草寺節分会

 救急車 節分の日も 走りけり (厄介)

 節分。夜になって、「鬼は外、福は内」などと唱えながら豆を内外に投げ、鬼を追って戸口をとざす。節分の豆まきの習俗は何時ごろかわからない。鬼払いの風習は、中国の風習を由来とする平安時代の追儺、鬼遣と呼ばれた宮中行事を元としているとされる。陰陽道の影響があり、室町期に中国の風俗を採り入れたものと考えられている。江戸時代に民間に盛行し、社寺でも厄除神事として定着した。現代でも節分の豆撒きの風習は消えたわけではない。ただし入口に「立春大吉」のお札を貼ったりする風習は都会では見られなくなった。節分に恵方巻という巻き寿司・太巻きを食べる習慣は、いつ頃から広まったのだろうか。一説によると1989年にある広島のコンビニ(セブンイレブン?)が売り出したのが全国に広がったという説が有力である。今年は、西南西を向いて丸かじるするのがよい。

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入口に貼られた「立春大吉」のお札(昭和30年頃)

2025年1月 7日 (火)

七草がゆ

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    本日は七草粥の日。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、すずな、すずしろ、春の七草を刻んで食べる。万病を除くおまじないであるが、おせち料理で疲れた胃を休める効能もある。泉隆寺(神戸市中央区)は古来から水はけが良く、良質の大根を産出してきたらしい。起源は中国で、毎年1月7日に7種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが平安時代中期頃に日本に伝わり七草がゆが生まれた。醍醐天皇のときにこの地で栽培した若菜(七草のすずしろ=大根)を宮中へ献上したのが由来となって、若菜をそえて、食する習わしが広まった。別名「若菜寺」と呼ばれる泉隆寺では、いまでも七草がゆ法要が行われている。

2024年12月31日 (火)

大晦日の祖先祭祀の風習について

 大晦日から元日にかけて、発達した低気圧の影響で、北から東日本を中心に雪や雨、風が強く、荒れた天気となる見込み。新しい年は、平和で明るい社会であることを願いたい。青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

2024年12月27日 (金)

おせち料理の由来について

新しき年の始の初春の今日降る雪のいや頻(し)け寿詞(よごと)

   大伴家持

  年の瀬、迎春をひかえて買い物で忙しい。元日の朝、正月のお祝い膳にかかせないのが「おせち料理」である。「おせち」とは御節供(おせちく)のつまったもので、昔は五節供の節目に用いられる料理のことをいったが、次第に正月の料理だけをいうようになった。正月の祭事の食物に里いものような穀類を特別重要視する習慣は縄文時代からの穀類起源神話からもうかがえる。インドネシアの神話に、ハイヌウェレという少女の死体から芋などの作物が生まれ、人びとの主食となったという神話がある。ドイツの学者アドルフ・イエンゼン(1899-1965)はこれを「ハイヌウェレ型神話」と呼び世界に同類の神話が存在するとした。日本の記紀にみられるオオゲツヒメも縄文時代の中期に南方から渡来した可能性が高いと学者は説く。おせち料理は年神様にお供えして、家族の繁栄や、多産、豊年、長寿、家内安全のなどを願う、縁起物の家庭料理である。

   「数の子」は、にしんの卵だが、「二親・にしん」から、たくさんの子がうまれてめでたいと、子孫繁栄の縁起をかついでいる。古くからおせちに使われる。

 「田作り」は、ごまめともいい、かたくちいわしのの幼魚を炒って飴煮したもの。昔たんぼの肥料に使ったところ、たいへん米がとれたため、豊年万作を祝う農民が正月に田作りを食べるようになった。

   「黒豆」は、一年中の邪気を払い無病息災を願って屠蘇で祝うが、そのときに用いられる祝い肴のひとつ。黒豆(くろまめ)・まめ(丈夫)に暮らせるようにという縁起に因んだもの。 

 「昆布巻き」は、昆布と「よろコブ」をかけて幸福を願う。

 「海老」は長いひげをはやし、腰が曲がるまで長生きすることを願って使われる。

 「鯛」は、鯛と「めでタイ」をかけて幸福を願う。

 「くわい」は芽が出る事から「出世しますように」という縁起物です。

 「れんこん」は沢山の穴が開いていることから「先が見える・先の見通しが良い」とされる縁起物です。

 「たたきごぼう」は根がしっかり根付くことから「家の土台がしっかりするように」とされる縁起物です。

 「棒だら」は鱈腹(たらふく)食べられるという意味で腹=福から来ています。

 「栗きんとん」金団と書き、その色から黄金・財産に見たてた豊かな1年を願う料理です。

   「屠蘇」とは魏の名医華佗の処方という、年始に飲む薬・屠蘇散に由来する。屠蘇散を入れて、酒・みりんに浸して飲む。一年の邪気を払い、齢を延ばすという。平安時代から行われている。(1月1日)  参考:『江馬務著作集5』 中央公論社 P191~196

 

 

2024年12月15日 (日)

年賀状じまい

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 そろそろ年賀状の準備をする頃となった。やはり正月の楽しみは年賀状だろう。江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。昭和12年には現在のように12月15日から25日までの間に投函する、元日に届く年賀郵便の特別扱いが開始された。ちなみにお年玉付き年賀状は昭和25年に始まり、京都の林正治(1909-1990)のアイデアである。近年は高齢化やメール、SNSの普及で、2003年が44億枚をピークで、そこから減少傾向となり、2021年はついに20億枚を下回っている。わが家でも郵便料金も値上がりしたし、私も体調が悪いので「年賀状じまい」にしている。

2024年12月 1日 (日)

師走の語源

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 きょうから12月、「師走(しわす)」とは、読んで字の如く、「師(僧侶)が忙しく走り回る月」のことだから、というのは俗説で、12月を「しはす」というのは万葉時代からのことばである。

しはすには 沫雪(あわゆき)降ると 知らぬかも 梅の花咲く 含(ふふ)めらずして

 「万葉集」にこの一首だけ「しはす」がでてくる。

    江戸時代の学者、新井白石は万葉時代に「極」の字を読んで「ハツ」というので、俗に「極月」の字を用いて「しはす」と読んだと説いている。

    では「しはす」をなぜ「師走」と書くようになったのか、諸説があってはっきりしない。平安時代の仁明天皇の承和5年12月から仏名会という行事が行われるようになって、法師がお経を読むため、師匠も趨走するので、「師趨(しすう)」という。「師馳月(しはせづき)」であるともいい、それが略されたものだという。広辞苑を引くと「師走比丘尼」(しわすびくに)という語がある。「おちぶれて姿のみすぼらしい比丘尼」という意味。「師走坊主」「師走浪人」という語もある。江戸時代には師走は「人が極限状態にまでおちぶれやつれること」の形容でもあった。師走とは本来、極限という意味があって、1年の終りと言う意味で「師走」という漢字が充てられたのだろうか。「大言海」では「歳極」(としはす)の略転、あるいは「万事、為果(しは)つ月」の意からきたのではないかとしている。

     12月の別称は他にも多数ある。春待月、親子月、極月、梅初月、年よ積月、暮古月、三冬月、厳月、臘月、弟月、除月、蜡月(せきつき)、窮月、小歳、暮節、暮歳、嘉平、清祀、凋年、未垂、窮年、四極、三余、大呂、残冬、黄冬、晩冬などがある。(12月1日)

なんとなく しはすの空に なりにけり あはれかさなる 年の数かな

 

 

2024年11月15日 (金)

七五三

7m2   毎年11月15日に、3歳・7歳の女児と5歳の男児を、お宮詣りに連れていく慣習を七五三という。天和元年(1681年)11月15日に徳川綱吉が長男徳松(1679-1683)の健康を祈って始まったとされる。しかし徳松は3年後、5歳で夭折した。やがて武家社会の習俗として広まり、5歳の男児の祝いを「袴着」、7歳の女児の祝いを「帯解き」といっていたものが、明治以後一般化した。しかし、子供の成長段階のある時期に厄払いする習慣はかなり古くからあり、地方によっては男女3歳のときに「髪置きの祝い」と称して、身分を問わず頂髪を置く習慣があり、7歳の女児は「おびとき」「おびむすび」の祝いといい、部落の祭礼の日を選んでお宮詣りする風習もあったという。いずれにせよ、子供の死亡率の高かった昔は、3、4歳のころはじめて人別帳や氏子帳に登録をしたり、7歳前の子供の死亡は本葬を行わないという習わしもあったほどであるから、子供が3・5・7歳という幼児期の節目を無事に通過して成長したことを感謝し、将来の健康を祈ったということはうなずけることである。なお11月15日は霜月祭(氏神祭)に当たる。

 

 

2024年10月 1日 (火)

コーヒーの日

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 17世紀のロンドン・コーヒーハウス

  きょうは「コーヒーの日」。一杯のコーヒーを傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。では世界で一番最初にコーヒーを飲んだのは誰なのだうか?

 コーヒーの発祥地はエチオピアでコーヒーの液汁を飲んだのが始まりですが、実を煎じて飲むことを考えついたのは、5~9世紀のアラビア人だといいます。すくなくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。

   今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。イギリスのコーヒーハウスは男性しか入れなかった。やがて女性たちは紅茶を飲むようになり、19世紀中頃からアフタヌーンティーの習慣へと発展する。

   日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代でキリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーの味を初めて知った日本人はおそらく幕府のオランダ通詞であろう。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。

 コーヒーが健康に与える影響については科学者たちが何年にもにわたって研究してきた。飲みすぎるとカフェイン依存症につながる一方、毎日適量飲むと心臓病のリスクが下がるという報告もされている。コーヒーの健康効果についてはいまだ謎が多い。DNA遺伝子が関係しており、からだにいい人と悪い人と、人によって違いがあるらしい。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13) 10月1日

 

 

2024年8月10日 (土)

お盆の由来は「倒懸(さかさづり)」から?

 なぜ日本は年中行事が多いのだろうか。とくに8月の暑いさかりは全国各地で夏祭りや花火大会があり賑やかである。

 坊さんがバイクで走るお盆かな 

  お盆は日本の年中行事のなかでも正月とならんで大事な生活習慣。「精霊(死者の霊魂)」を迎えるものです。NHKチコちゃんに叱られる拡大スペシャル。毎年、お盆になると家族で墓参りに行くが、なぜ行くのか。そもそもお盆の「ボン」とは何なのか。チコちゃんだけが知っている。お盆の意味は「逆さづり」。

 お盆は「盂蘭盆」を略したもの。盂蘭盆経、お釈迦様の教えを説いたお経のことで「仏訳盂蘭盆経」に書かれた物語。盂蘭盆とはインドサンスクリット語の「Ullambana (ウランバナ)」に漢字を当てはめたもの。UI(逆さ) lambana(吊るされる)=逆さづり。

 釈迦の弟子、目蓮は地獄のような場所で逆さづりにされている母を助けるため、沢山の食べ物をお供えして、お経を読んで供養したところ、逆さづりにされていた木蓮の母の足から、紐が外れた。その後、木蓮の母はあの世で菩薩となり、幸せに暮らした。これがお盆の始まりである盂蘭盆会の行事である。インドから中国を経て、日本に取り入れられた。日本で最初に盂蘭盆会が営まれたのは、606年、推古天皇の時代で、「日本書紀」にその記録が残っている。日本の伝統行事「お盆」は目連救母説話をモチーフとして、日本古来の霊魂観と先祖崇拝の宗教的習俗が混在して形成されていったものと考えらる。(参考文献;「盂蘭盆」考 赤松孝幸 高松大学紀要33号 2000年)

 

2024年7月24日 (水)

土用の丑の日

土用うし 夫婦二人で鰻一尾

   今日は「土用の丑の日」。全国的にウナギを食べる日とされているけど、なぜこの日に鰻を食べるのか、その由来を調べることは雑学研究の定番ともといえる事柄である。 そもそも天然ものの鰻は初冬が旬である。そして土用といえば、夏のことと思われがちだが、実は年に4回ある。もともとは古代中国の五行説からきたもので、宇宙は木火土金水の五元素から成ると考えられていた。そして、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の18日もしくは19日間を土用といった。つまり季節の変わり目で、土の働きが旺盛になる期間と考えたのであろう。しかし、今日では俳句の季語でも夏であるように、土用といえば夏の土用を指すのが一般的である。今年の土用の丑の日は7月24日に当たる。

    ところで、土用にウナギを食べる習慣は、奈良時代からある。『万葉集』の中で大伴家持が吉田石麿という老人がいくら飯を食べてもやせているのを見て、夏やせにウナギがいいよ、とからかっている歌がある。

石麻呂に吾れもの申す。夏痩せによしといふものぞ むなぎとり召せ   (いつも痩せている石麻呂君よ、夏痩せに良いという鰻でも食べたらどうかね)

   だが江戸時代、夏場に鰻が売れずに困っていた。ある鰻屋が蘭学者の平賀源内に相談し、源内は、さきの大伴家持の歌を思い出し、土用の丑の日にウナギを食えば夏痩せを防ぐことができるという意味から「今日は丑の日」という看板を書いて与えたところ、たちまち広く言い伝えられウナギ屋は大繁昌した。そこで、江戸中のウナギ屋も「今日は丑の日」の看板を掲げたという。こうして「土用の丑の日には鰻」という風習が定着していったといわれる。 地方によっては、丑の日にちなんで、ウのつく食物をとると暑気にあてられないといい、うどん、うり、牛肉などを食べるところもある。

 

 

 

 

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