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2009年11月 1日 (日)

ポトラッチの儀式

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   北太平洋沿岸に住むアメリカインディアンの諸族、チムシアン族、トリンギット族、ハイダ族、ベラ・クラーク族、南北クワキウトル族、沿岸サリシュ族、チヌーク族等にみられる習慣で、公的な地位を誇示するために自分の富を放棄する一種の財産分与制度。ポトラッチとはチヌーク語で「浪費する」という意味。

    種族によりそれぞれに特徴があるが、一般に主催者の地位により大小さまざまの祝宴が開かれ、近隣の人々を招き、その階級に応じて贈物をする。このとき主催者とその親族は気前のよさを最大限に発揮してその地位を誇る。後継者の披露、子女の誕生、成女式、婚礼、葬礼、新屋の棟上式などから、赤ん坊の発毛といった些細な理由でも行われる。ときには不名誉な行為の挽回のために行われることもある。招待されたものは、なんらかの機会により盛大な祝宴を開いて答礼する。特に南クワキウトル族のポトラッチは1840年から1925年にかけて最も盛大に行なわれ、何日も続く祝宴の間に何千枚もの毛布や仮面、カヌーなどに加えて、ヨーロッパから輸入したモーター・ボートやミシン、ほうろう引き器、衣類、小麦、砂糖などが配られた。しかし1960年代以降は経済的理由によりほとんど行なわれなくなった。ポトラッチは贈答するだけでなく、貴重な財物とされるカヌーや、彼に属しているトーテム像を刻んだ銅版を来客の面前で故意に破壊したり、所有する奴隷を殺したりして、その気前のよさを誇らせることもある。

    最近では「ポトラッチ・パーティー」といって、「皆で持ち寄りで気軽に行うパーティー」という意味で使われることもある。

2009年9月23日 (水)

恐怖の口裂け女

    新型インフルの流行でマスクをする人を見かけるようになった。マスク姿には恐怖をおぼえる。昭和53年12月ごろのことだ。岐阜でこんな噂が起こった。夕暮れになると、白いマスクをした若い女性が街頭に現われ、通りすがりの人に、「私、きれい?」と話しかけ、突然マスクを取ると、その口は大きく耳ので裂けている。通行人は驚いて逃げると、赤いマントから鎌を出して追いかけてくる。必死に走るが追いつかれると、噛みつかれて、低い声で笑い出して、その場を走り去っていくというのだ。金品が奪われるケースもある。この話はたちまち全国に広がり、テレビのワイドショーにも取り上げられた。女はサングラスをかけているが、外すと大きな眼の美人だ。爪はマニュキアがしている。いつとはなく、口裂け女の噂はデマであることが判明し、誰も信ずる人はいなくなった。

2009年9月12日 (土)

どっこい屋

   ケペルの子ども時代、神戸市東灘区にあった森市場での昭和30年代頃のお話。ある駄菓子屋では手でまわす簡単なルーレットがあり、上部にビー玉を落して、くるくる回りながら下に転がり、落ちた場所の景品がもらえるという仕組みのお店さんがあった。ルーレットをまわしながら、おじさんが「どっこい、どっこい、どっこい…」という奇妙なかけ声をかけるので、子どもたちはその店のことを「どっこい屋」と呼んでいた。いまではそんな店はまず見ることはできないが、ある日、テレビで大川橋蔵の「銭形平次」を見ていると、それと同じような商売をしている人が登場しているではないか。おそらく「どっこい」は江戸時代からあり、お寺や神社の祭日、縁日などに、境内で開かれていた、ある種の賭博の一種がそのルーツかも知れない。

2009年9月 8日 (火)

つぶし島田

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    東海道の島田宿からつぎの金谷宿まではわずか一里であるが、途中に難所の大井川がある。
    「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
    江戸時代、島田宿は川越宿場として栄えた。さぞや遊女屋もあったろう。江戸時代に流行った「島田まげ」は、この島田女郎衆の結っていたのが全国に広まったといわれる。万治年間ごろから根の低い「つぶし島田」が流行した。「島田まげ」は主として未婚の女性が結った。とくに婚礼の髪型として知られる「文金高島田」は根を高くしたものである。

2009年8月29日 (土)

容儀帯佩

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   容儀帯佩(ようぎたいはい)とは、礼儀にかなった容姿と身のこなしをいう。ケペルはいままで学校の授業で正式な礼法の教育を受けた覚えがない。あったのかもしれないが記憶にない。そのようなテキストも知らない。だから「礼法」小川淑子著、柴田書店、昭和31年、72ページ、という本を見たときは興味をおぼえた。国立国会図書館で検索するが、所蔵していない。不思議である。戦後の刊行物であるから納本制度によって所蔵しているはずである。国立国会図書館の収集は万全ではないということなのであろうか?この本は高等学校の礼儀作法の学習用としてつくられたもので、主に私学の女子高などの授業には使用していたものであろうか。以下、初めの部分だけを紹介する。

礼法の要旨

民主主義に基づく健全な社会や家庭をきずくために、いま日本の民族は非常な努力をつづけている。古い習慣と新しい思想との間に起こる摩擦に戸まどいしたり行きすぎたりしている事実は日常生活の面にも少なからず見受けられる。そこで新しい道義の上に立って古い制度でも善きはとり入れて新旧の調和をもとめ社会生活や家庭生活が出来るよう努めなければならない。そしてこの役割を果たすものこそ礼儀作法である。即ち礼儀作法は社会の秩序を正し、人々相互の融和をはかり、もって人間生活の幸福を得ようとするものである。

礼法の基本・容儀

毎朝丁寧に洗顔・うがいをし、手足も清潔にする。髪もよく手入れをし男子はひげをそる。衣服は正しく着用し、またボタンやスナップは必ずかけ、バンドの下らないようにする。帽子は正しくかぶる。男子は室内では脱ぐものであるが、かぶる時も脱ぐ時も室の入口でする。帽子を手に持つ時は内側が人の目に触れないようにする。はき物は正しくはく。靴のひもはきちんと結ぶ。脱ぐ時はよく揃えておく。化粧はあまり目立つようにしないのがよく、また人の前で化粧直しをするものではない。

   著者の小川淑子については、「東京女高師卒。東京女高師の礼法教授担当・弘道会礼法研究調査会委員。現在は桜蔭学園において中・高校生の礼法教授に当っている」とある。現在でも桜蔭中学校・高等学校(文京区本郷)は小笠原流礼法を授業で教えている。猪口邦子や菊川玲が卒業している進学校である。

2009年8月14日 (金)

サインはV

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   記念写真の撮影などで子どもや若い女性たちが被写体のとき、いまでもVサインをよくするであろう。もともとは第二次世界大戦中のイギリスのチャーチルが戦争の継続と勝利への強い意志を表現するためにVサインを使用した。つまりVとは「VICTORY(勝利)」の頭文字に由来する。だがVサインはピースサインともいって、子どもたちは「ピース」と言いながら被写体になることが多い。日本では、いつ頃からVサインが流行したのであろうか?。戦時中はVサインなどをすれば、非国民と非難されたであろう。戦後もすぐに流行した記録はない。昭和40年代中頃にはVサインは一般にも知られるようになっている。グループサウンドのミュージシャンたちがVサインをしたであろうし、全共闘の学生たちがピース(平和)の象徴として使用したであろう。もっとも記憶に残るVサインといえば「巨人の星」の星一徹のVサイン。飛雄馬が甲子園へ旅立つ汽車に向かって、駅のホームから送る一徹のVサインは「百万べんの激励の言葉よりジーンときたぜ!」と飛雄馬は語る。同じころ女子バレーの「サインはV」。スポ根ブームとともにお茶の間からVサインは流行した。一説によると井上順がカメラのCFでVサインしたことで流行したともいわれている。(昭和47年)だがVサインそのものは昭和30年代半ばには使用例はいくつか見られるようである。昭和の映画で宣伝用スチール写真(映画館の前にペタペタ貼っていたモノクロ写真)などをみると、昭和35年の東映映画「億万長者」(小林恒夫監督)で女優の中原ひとみが可愛くVサインをしている。これが現在確認できる日本最古のVサインである。

2009年8月12日 (水)

昼寝と健康

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   夏のこの時期、暑い日中、すこしの時間、午睡をする。これは子どものときからの習慣だったが、長い勤め人生活で昼寝ができなかった。気ままな自営業となって、ようやく昼寝タイムが復活できるようになった。昼食後に昼寝をする習慣がある人間は地球上でみると約50%だそうだ。シエスタの習慣があるスペインやイタリア、あるいは地中海諸国や中南米の人々は、毎日昼寝をしていないアメリカや日本人と比較すると、のんびりしていてストレスが少なく健康的な生活をしているように思える。アフリカやアジアの一部など熱帯・亜熱帯で生活をする人々にとっては昼寝は当たり前の習慣である。これは一日のうちで一番暑い時間帯は、体力を消耗するのでおとなしく寝ていたほうがよいという祖先からの知恵によるものである。

2009年7月19日 (日)

青空のように

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   いよいよ夏休み。真夏の青空を望んだが、あいにくと梅雨前線が日本海から南下し、西日本は夕方から雨となった。夜はNHKBSハイビジョンで「マイケル・ジャクソン・デビュー30周年コンサート」(2001年、ニューヨーク)を見る。エリザベス・テーラー、ライザ・ミネリ、ホイットニー・ヒューストンなども出演。マイケルはまさに「キング・オブ・ポップス」だ。

    今日は土用の丑の日。むかし平賀源内が、あるウナギ屋から看板を依頼されたとき。大伴家持の歌を思い出し、土用の丑の日にウナギを食えば夏やせを防ぐことができるという意味から「今日は丑の日」という看板を書いたところ、たちまち広く言い伝えられウナギ屋は大繁昌した。そこで、江戸中のウナギ屋も、「今日は丑の日」の看板を掲げるようになったという。

2009年7月 5日 (日)

ビキニスタイルのお嬢さん

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   今日は「ビキニスタイルの日」。昭和21年、フランスのルイ・レアードが、世界で最も小さい水着として、ビキニスタイルの水着を発表した。発表の4日前にアメリカが原爆実験を行ったビキニ環礁から、「衝撃的な」「驚くほどの」という意味でその名前がとられた。だが当時はまだまだ着用する人はいなかった。1950年代のハリウッド女優たちの水着姿をみてもビキニはあまりない。アメリカでは1960年代まで一般のビーチでの着用は禁止されていた。日本でもビキニは1950年代に紹介されたが、ほとんど普及しなかった。1960年に田代みどりのカヴァー曲「ビキニスタイルのお嬢さん」がヒットすると、ビキニへの感心が高まった。1970年代になるとビキニが世界的に流行となるが、日本ではハワイからアグネス・ラムが来日し、グラビア界に登場するや爆発的な人気となった。当時アグネス・チャンも同じ渡辺プロダクションに所属していたが、ファースト・ネームが偶然にも同名のためライバル関係にあったが、アグネス・チャンはやや人気が低迷しており、水着写真を拒否していたことと、アグネス・ラムへの嫉妬とがない交ぜとなり、後年の活動、児童ポルノ追放に影響を及ぼすこととなる。それはさておき、先の国会審議などでも、宮沢りえ「サンタフェ」などにみられような芸術的な写真集でも被写体の撮影当時の年齢によっては所持禁止の対象となることが話題となった。モデルの生年月日と撮影日時を把握する必要があり、18歳以下か18歳以上か微妙なケースが多い。また全裸、半裸、ビキニ、スクール水着など露出度の問題。(たとえば戦前の原節子16歳デビュー当時の水着写真などはほとんど通常の衣服とかわらない水着だ。)この問題は女性だけでなく男性の裸像も同等に扱われるらしい。国会ではジャニーズ・ジュニアなどにみられるショーでの半裸も問題になっている。書籍でいうと、医学書や子供向けの保健体育の図鑑の写真には児童の半裸の写真はよく掲載されている。通常の感覚では児童ポルノとは思えないものであるが、改めて調べると、児童の裸の写真は一般書にも多く収録されており、単純所持に該当するのだろうか。国会審議では、提案の範囲が今ひとつあいまいな気がした。

2009年6月 6日 (土)

今日は不吉な日?

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    我が国ではこの日は昔から踊りや邦楽などの芸事は6歳の6月6日から始めると上達するといわれた吉日だった。ところが映画「オーメン」以降、悪魔の子ダミアンが6月6日の6時に誕生し、頭に666の文字が隠されていて、666は獣の数字としてキリスト教では嫌われていることが知られるようになった。一般的に言っても、1、3、5などの奇数は吉数で、2、4、6などの偶数は不吉な数というのは、だいたいどの民族でも共通しているらしい。とくに6という数字はキリスト教以外にも、仏教において、「六(ろく)」は「殺人」「殺傷」、「六字(ろくじ)」は「死ぬこと」を意味する。これは南無阿弥陀仏が6文字であるためである。また三途の川の渡し賃が六文銭というのも死と係わりがあるためであろう。では不吉なこととは何か。新型インフル第二派の襲来なのか、北朝鮮の新たなる動きなのか?巨人戦に2-3と惜敗した日本ハムのダルビッシュにとっては悪魔の6回だった。6という数字は見えないところに隠れて存在するかもしれない。

2009年4月26日 (日)

貝の日本文化史

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    彼岸から4、5月にかけては、潮干狩の季節である。日本列島は世界でも有数の貝産国であり、貝は昔から食生活の中心であった。貝塚は縄文人が貝をとり、食べて捨てた場所であり、その膨大な量から重要な食料であったことがわかる。「古事記」には蚶貝姫(きさがいひめ)と蛤貝姫(うむがいひめ)との介抱で、大国主命を大やけどから救った話があり、「日本書紀」には景行天皇の東国巡幸のとき、白蛤のなますを献じたなどの記事がある。平安時代には、貝を集めて美を競い、歌や絵として楽しみ、貝覆いで遊び、あるいは恋忘れ貝として憂さを貝に託したり、棘だらけのホネガイは悪魔よけにするなど、心理的な面でのかかわりも多くなった。中世、山岳仏教では修験道の山伏がほら貝を吹き鳴らし、悪魔退散諸善神を呼ぶ。そのほか貝から真珠や紫の染料を得るなど、貝は日本人の暮らしの中でなくてはならないものと言える。

2009年4月 9日 (木)

女郎仏は上臈、あるいは遊女?

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    鋳物工業の町として知られる埼玉県川口市から日光街道を岩槻方面に向かい、鳩ヶ谷を過ぎてしばらく行くと「石神」というところがある。通称新町といって、赤山城関東郡代伊奈半右衛門の城下町であった。ここの妙法寺という寺に女郎仏(じょろうぼとけ)という流行仏がある。

    寛政2年3月1日、暴風雨があり、役人が見廻りをしていたところ、若くて美しい女のすすり泣く声が聞える。病重く、所持品もなく、どこの誰れともわからぬまま、5日後に亡くなった。この女性を葬ったのが女郎仏である。

    地元の観光課のパンフレットなどでは、川越あたりの上臈(じょうろう、身分や地位の高い女性)ということであるが(川越市は朝の連続テレビ小説「つばさ」の舞台。川越藩の城下町・宿場町)、おおかた川越宿の遊女ではなかろうか。梅毒に感染して重態となり、無惨にも捨てられてしまった。その女が、この村にたどり着いたとき、村人が哀れんで看護したが、とうとう死んでしまった。末期にあたって「自分は梅毒のために苦しんで死ぬようになったが、もし、わたしを祀って祈るならば、必ず梅毒をなおしてやろう」といい残して亡くなった。

   こうしたいわれから「女郎仏」という流行仏に祈願をこめれば腰から下の病に効果があるというので、大正期には祈願者が多く、「塔婆と額を納める者その数、数千あり、額は重ねて山なし、木の塔婆は垣として数千間、幾重にもさしてあり」と『新篇鳩ヶ谷の歴史』に記されている。ところが「女郎仏」は今では、梅毒治療ではなくて、安産祈願になっている。(参考:渋井三郎「女郎仏」歴史研究306)

2009年3月 8日 (日)

数字がもたらす偶然の一致

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 7月4日といえばアメリカ独立記念日。この祝祭日に2代大統領ジョン・アダムス、3代大統領トマス・ジェファーソン、5代大統領ジェームズ・モンローはいずれも同日の7月4日亡くなっている。

   誕生日と死亡日が一致することはある。よく知られる人物では坂本龍馬(1835-1867)だ。旧暦天保6年11月15日に生まれ慶応3年11月15日に亡くなっている。これを「生没同日」というそうだ。映画監督の小津安二郎(1903-1963)12月12日、イングリッド・バーグマン(1915-1982)8月29日で生没同日である。

   人の運命も時として数字と深くかかわることがある。長嶋茂雄と背番号3は縁起のいい数字の代表例であろう。逆に獣の数字といわれる666は不吉な数字として嫌われている。ヨハネの黙示録に記述される数字666はローマ皇帝ネロとも関係するといわれる(ネロのギリシア語表記をヘブライ語に置き換え、これを数値化すると合計が666になる)が、一般にも適用されることがある。阪神大震災は1月17日だったが、1+17=18は獣の数字(6+6+6=18)と一致する。キリスト教では6と666は不吉に数であるが、他の民族でもだいたい悪い意味をもつ。マヤ族においても、6日目は雨と嵐の神々に属する不吉な数である。仏教においても「六(ろく)」は「殺人」「殺傷」、「六字(ろくじ)」は「死ぬこと」を意味する。これは「南無阿弥陀仏」が6文字であるためらしい。

   おおむね奇数は縁起の良い数字、偶数は不吉な数字という考え方が古代からどの国や民族にもあるようだ。男は奇数、女は偶数という考えも一般的である。女性は子どもを生むため、2でわれる偶数という考え方があるためという。

   3と7の奇数信仰は顕著にみられる。「三度目の正直」「三度目は定の目」「三度目はみんなうまく行く」(イギリスの諺)など数字にまつわることわざは多数伝えられている。アジア文化圏では古代中国の五行思想(木・火・土・金・水)に由来するものも多い。「七・五・三」「三三九度の盃」「七福神」「七色の虹」「ラッキーセブン」など3・5・7など奇数は縁起がよいものとしている。

    昨日、注目のWBCで侍ジャパンが韓国に大勝した。そしてイチローの活躍。イチローの本名は鈴木一朗でもちろん「1」の数字と深くかかわる運勢がある。そして3月7日。つまり「1,3,7」と奇数が並んだ日本が勝利したのは単なる偶然の一致だろうか。

   ちなみに太平洋戦争開戦日、昭和16年12日8日、山本五十六。つまり16、12、8、56と偶数並びで日本建国以来の大敗北。やはり数字には科学では説明できない魔力のようなものが潜んでいるのではないだろう。

2008年12月22日 (月)

人類最初の叡智「ふんどし」

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    人類誕生のとき全裸であったが、アダムとイブの時代に、木の葉で陰部を隠すようになり、さらに文明が進むにつれて衣類で覆うようになった。すなわち人類最初の叡智が「ふんどし」である。人類学の坪井正五郎(1863-1913)によると、ふんどしの起源は先史時代にさかのぼると考えられるが、中国・朝鮮系統の袴状の蔽腰服物と、南方系統の帯状のものとに分類され、日本では奈良・平安時代、上流男子は袴状の蔽腰服物を、下流男子は帯状のものを着用していたとある。女子は「腰巻き」が一般的であった。江戸期、男子の「六尺ふんどし」「越中ふんどし」に代表される細長い帯状の布を股間に通し、腰に巻きつけるスタイルは、東南アジアやオセアニアに多く見られる。古代ギリシアでは「キトン」と呼んで、長方形の布を折って体に巻きつけることを基本としていた。したがって、下着もヨーロッパから中国にかけては「腰巻き」、あるいは「さるまた式」が主流で、「ふんどし」は西欧では野蛮な奇習とみられる風潮にあったが、日本では江戸から明治にかけて、男子の「ふんどし」スタイルが主流であった時代が長く続いた。昭和になって、洋装化により、「さるまた式」のパンツとなり、日常におけるふんどし類の着用はほとんど見られなくなった。女子の「腰巻き」も昭和戦前期まで続いたが、戦後「パンティ」「ショーツ」となった。ところが近年、ふんどしは通気性が良いこと、締めつけ感がないことなどから、女優の益戸育江さんのように愛用する女性も増えてきた。「パンドールショーツ」「ななふん」など女性専用ふんどしがいま注目されている。

2008年12月20日 (土)

厄年、厄払い

   厄年は、その年齢になると厄難に遭うおそれが多いとされることから、身を慎む風習です。地方によって違いがみられますが、一般的に厄年にあたる年齢は下記のとおりです。

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   なかでも、男性の42歳は「死に」に、女性の33歳は「さんざん」につながる大厄といわれています。大厄は前厄、本厄、後厄と3年間続くとされ、その厄難を避けるため厄除け祈願を行う風習があります。たとえば、神社に参拝したときに、普段使用しているくしやタオルをわざと落として厄と一緒に捨てる、という風習も地方によってあります。節分に厄年の人が豆をまくのも厄払いのひとつです。また厄払いの風習に、本厄の正月に親戚を招いて行う、厄落としの宴というものがあります。厄年は平安時代の貴族にも強く意識されたようで、『拾芥抄』によれば、13、25、37、49、61、85、99歳となっています。男女の厄年については、古来いろいろあり、確定的なものではない。『水鏡』序には、33、73歳も厄年としています。『源氏物語』「薄雲」巻で藤壺が37の厄年で崩ぜられ、「若菜」下巻では、「ことしは、三十七にぞなり給ふ。…さるべき御祈りなど常よりもとりわきて、今年は、つつしみ給へ」と紫上の三十七歳の厄年に対する源氏の心遣いがみえています。厄年の一年は身を慎むと同時に、祓や祈祷によって、災厄をまぬがれようとしました。

2008年11月23日 (日)

石の民間信仰

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                   滝尾神社の子種石

    石に神霊がこもるという信仰は、日本では古来から顕著なものである。現在でも民間信仰で石を依代としている神々が多い。出産の時の産神、塞の神、エビス神など多数あり、氏神の中にも石を神体とするものがある。大きな神社の中には御神体は石であると伝えられてきたものがある。石は単に神の依代として神聖視されるばかりでなく、石そのものも霊異あるものと信ぜられ、小さな石が急に大きくなったり、子生石といって石がわれて子石を生み出す伝説が語られている。

   日光ニ荒山神社の別院で女峯山の女神である田心姫命(たごりひめのみこと)を祀る滝尾神社の奥の境内には、「子種石」と名付けられた大きな岩がある。子宝安産の石として知られ、無数の小石が積まれている。

    巨石への信仰は古代からイギリス、フランスはじめ、インド、中国、朝鮮にも巨石記念物として多数見られる。とくに朝鮮では支石墓をコインドルと呼ばれ、その数は最も多い。

    巨石への信仰とは別に小石を積み重ねる積石、小石を並べる置石の習俗も世界各地でみられる。神社の鳥居の上ある小石など日本では一般的である。また山頂とか登山道の傍らなどに小石が積み上げられていることがある。もともとはアイルランド語でケルン(cairn)といい、本来は「石に築いた塚」という意味であったが、近代の登山の普及によって山頂標識、登頂記念、あるいは登降路を示すためにつくられる積み石をさすようになった。映画「シンドラーのリスト」では、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが彼の墓前に小さな石を積み上げていた場面がある。ユダヤ人にとっても石は不変不滅の象徴で石を積むという行為は、信仰や希望と深く結びついている。

2008年10月 9日 (木)

「あんみつ」と橋本夢道

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    「あんみつ」とは餡蜜豆の略語で、要するに蜜豆に餡をのせたもの。最近では、白玉やクリーム、パイナップル、イチゴ、ミカンなどいろいろな種類もあるようだが、「あんみつ」に餡は絶対に欠かせない。蜜豆は一年中食するものであるが、夏の風物詩の一つとして俳句では夏の季語となっている。

みつ豆や笑い盛りの娘等ばかり

                   堤 すみ女

蜜豆をたべるでもなくよく話す

                   高浜虚子

    「あんみつ」の歴史は意外と浅いようだ。昭和の初期にはまだ一般的なものではなく、東京でしか食べられないものだったらしい。昭和12年創業の銀座「月ヶ瀬」(:現在のコックドール)が翌年ころから「あんみつ」を売り出したところ人気メニューとなって広く普及していった。当時月ヶ瀬に自由律俳句で知られた橋本夢道(1903-1974)が勤務していた。そのポスターに「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」というコピーを書いている。俳句にあんみつ、蜜豆はよく似合う。

2008年9月13日 (土)

おしんの子守唄

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    昭和58年度に1年間にわたって放送されたNHK連続テレビ小説「おしん」は最高視聴率62.9%という最大のヒット作となった。いわゆる「おしん」ブームは「おしんドローム」「大根めし」「おしん横綱」などの流行語を生み出し、この人気は世界にまで広がった。

   「おしん」ヒツトの最大の原因は、なんといっても、おしんの少女時代であろう。NHKには連日100件以上もの反響が寄せられた。「7人兄弟の長女として生れた私は、口減らしのために奉公に出された」「冬の冷たい川でおしめ洗いをしたのを思い出した」など、全国の主として農村出身の女性たちの追憶と共感の涙をさそったのである。

   おしんのような子守とは切り離せないのが「ねんねん半纏」である。ねんねこ半纏は木綿布や木綿綿が出回るようになった江戸時代後期になって登場した。はじめはもっぱら江戸で用いられた。ねんねことは赤ん坊のことである。7、8歳の少女が、一日中赤ん坊を背中にくくりつけられながら、そのうえ掃除、水汲み、風呂焚き、少し大きくなれば、洗濯から炊事と、こき使われたのである。まだ身体が出来ていない少女にとっては、重かった。子守奉公者の数は、農民層の階級分化が激化する明治以降、とりわけ多くなった。地租改正によって、農地の私有権が法認され、金納地租になったことが、農村を一気に弱肉強食の貨幣経済の波に巻き込んだのである。換金作物に乏しく、度々の凶作に見舞われる東北地方や山陰地方では、農村の疲弊がひどく、女の子も7、8歳になれば女中や子守に出されたのはいうまでもなく、酌婦や芸妓に売られる例も多かった。かくして、多くのおしんが、ねんねこ半纏で赤子を負い、泣きながら子守唄を歌うことになったのである。(参考文献:小泉和子「道具が語る生活史」「週刊朝日百科81」)

2008年8月25日 (月)

夏の夕立

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         北海道 富良野のジャガイモ畑

    「春小雨、夏夕立に、秋旱(ひでり)」というように、春は小雨程度に軽く雨が降り、夏は夕立があり、秋は晴天が続く。近頃、天候不順の日が続くが、夏はもろもろの農作物が肥大する時期で、太陽のエネルギーを一杯に受けて養分を実に貯えて成長しているのである。実りの秋も近い。

2008年8月24日 (日)

嵯峨野・化野念仏寺

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   京都嵯峨野の特徴は、細くつづく小道と、それを囲む竹薮である。ここはまた数多くの哀話を伝える物語の里であり、ひっそりとした小道は、このあたりに隠れ住んだ人たちの薄幸の人生を象徴しているかのようでもある。滝口入道と横笛の悲恋を秘める滝口寺、高倉帝と小督の局の哀話を残す小督塚、なかでも平清盛の寵を失った侍女の祇王が、母や妹の祇女とともに余生を送ったと伝えられる祇王寺は、その閑寂なたたずまいの中に、いいようもない哀愁を漂わせている。

    しかし人の世の無常を感じさせるものとしては、化野念仏寺の右に出るものはない。化野とは小倉山東麓一帯の地名で、遺体を風葬にするため捨てた場所という。境内にある累々たる石塔の群れは、いかにも寂しく、いかにも悲しい。そのいずれもが、すべて無縁仏であり、いつの世にかここに捨てられた人々の悲しい墓石である。昨日と今夜、化野念仏寺では千灯供養が営まれる。

2008年8月23日 (土)

おほほ祭

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                       熱田神宮

  5月4日、夜7時。熱田神宮の神殿の前に16人の白装束の神官が並ぶ。境内の社に入り、携えてきた箱の中から面を出す。袖の中に隠し持って、袖の上から軽く叩く。その時、小さく「おっほ」と笑う。笛が短くピロリと鳴ると、全員が大声で「わっはっはっは」と笑う。これが三度繰り返される。一つの社が終ると、また次の社へ、それが終るとまた次の社へ。4つか5つの社で同じことを繰り返し、神殿に戻って終了する。これが「酔笑人(えようど)神事」、一名「おほほ祭」と呼ばれる祭で、神官たちが笑い合う神事から、そのような名がついたらしい。

    熱田神宮は三種の神器の一つ草薙剣を祀ることで知られる。スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治したときその体内から出てきた剣で、日本武尊が伊勢神宮にもうで、斎宮であった叔母の倭姫命から天叢雲剣を授けられた。日本武尊は、東征の途中、神宮に参拝してこの宝剣をさずかり、駿河国で野火攻めにあったとき、この剣で草をなぎ払って以来草薙剣と呼ばれるようになった。その妃の宮簣媛命(ミヤズヒメノミコト)が草薙剣を社を建てて草薙剣をまつったのが熱田神宮の起源といわれる。

    天智天皇7年(668)、新羅の僧道行は草薙剣を盗んで、新羅に渡ろうとしたが暴風雨にあって果たせず、その後宮中に保管され、天武天皇朱鳥元年(686)、天皇の病が草薙剣のたたりだというので即刻熱田の社に送り返された。熱田神宮では神剣の帰還を喜び酔って笑って歩きまわる姿そのものが祀りになった酔笑人(えようど)神事、「おほほ祭」として毎年5月4日の夜に行なわれている。そのほか熱田神宮では踏歌(とうか)、歩射(ぶしゃ)などの神事がおこなわれている。古代以来尾張国造の尾張氏が代々宮司として奉仕したが、後世はその子孫筋にあたる大宮司藤原季範の子孫がこの職を世襲して明治維新にいたった。

2008年8月19日 (火)

亀嵩と方言周圏論

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 ズーズー弁の分布 東篠操編「日本方言地図」音韻分布図(金田一春彦作図)

   むかし民俗学の柳田国男は「かたつむり」(蝸牛)の方言が東北地方の北部と九州でツブリであり、関東や中国でカタツムリ、中部や四国でマイマイ、そして京都を中心とする近畿地方で、デデムシのように分布することを発見し、これによって、かつて蝸牛の方言がナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシのように変化し、それぞれが東西または南北へ放射されたと推定した。柳田の仮説を後の学者は方言周圏論と名づけたが、よくわからないところも多い。語彙には認められるものの、音、アクセントにはあてはまらないとする説もある。

   東北地方の方言の特徴は、「し」と「ず」、「ち」と「つ」、及び「じ」「ず」「ぢ」「づ」の区別をつけないので、「ズーズー弁」と言われることが多い。歴史的経緯から近畿地方の古い語彙は地方に残っていることが多いといわれる。近畿地方から遠く離れているはずの東北地方で古語が残っていることは一般的に知られているが、出雲弁、安来弁、米子弁といわれる雲伯方言にも東方地方の方言との類似性が高いことが国立国語研究所などの調査で明らかになった。これを推理小説の犯人捜査に上手に取り入れたのが、松本清張の「砂の器」である。東京蒲田操車場で殺害された被害者の東北弁「カメダ」から、島根県亀嵩(かめだか)を探し出した。当時は仁多町だったが、2005年に奥出雲町に変更している。しかし、この亀嵩という地名は小説、映画などで相当に知られており、奥出雲よりポピュラーな地名ではないだろうか。「この亀嵩の位置は、鳥取県の米子から西の方に向かって宍道という駅がある。そこから支線で木次線というのが、南の中国山脈の方に向かって走っているのだが、亀嵩はその宍道から数えて十番目の駅だった。亀嵩の地形はまさに出雲の奥地である。たった今、国語研究所で見せてもらった資料のズーズー弁の使われている地方のどまん中だった」(「砂の器」)

   町には湯野神社があり、「風土記」に「湯野、小川、源出玉峰西流云々」とあり、亀嵩の旧地名であろう。

2008年8月 3日 (日)

山梨の郷土料理・ほうとう

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   甲州名物「ほうとう」とは、小麦粉で練った平打ちの麺を野菜と共に味噌仕立ての汁で煮込んだもの。武田信玄の陣中食と言われる。「うまいもんだよ、カボチャのほうとう」といい野趣あふれた滋養たっぷりな郷土料理として好んで食べられる。

2008年7月27日 (日)

知恵ある蜘蛛は神の使い

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    蜘蛛は人間のごく身近にいる虫であるが、普通あまり人間に好まれていない。しかし蜘蛛は自分の力で精巧な糸を織ることができるので、昔から世界の各地で賢い象徴として神の使いと考えられることが多い。宋の黄庭堅(1045-1105)の詩に次のように謳われている。

  南窓に書を読む声吾伊

  北窓月を見、竹枝を歌う

  我が家の白髪、烏鵲を問い

  他家の紅粧を占なわん

   (南の窓では孫博士が書を読み、北の窓では私が月を見ながら竹枝を歌う。故郷では我が家の白髪の母が、かささぎが鳴くのを聞けば息子が帰ってくるだろうと思い、孫家では、紅のよそおいをこらした奥さんが、蜘蛛が巣を作るのを見れば、夫が帰ってくるものと思っていよう)

   古来、中国では、蜘蛛が巣を作ると、喜びごとがあるという言い伝えがあったという。唐の「西京雑記」には「蜘蛛集而百事喜」(くもあつまりて、ひゃくじよろこばし)とあるように、蜘蛛の行動を見て前兆と考えたらしい。

2008年7月10日 (木)

見ざる、聞かざる、言わざる

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            郷土玩具 小幡人形 滋賀県五個荘

  「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿といえば、日光東照宮の彫刻を思いうかべる。しかし、三猿をかたどった造形は世界各地に分布している。猿の棲息するインドやアフリカはもとより、猿のいないヨーロッパや朝鮮半島にも、さまざまな三猿像が広まっている。「見ざる、聞かざる、言わざる」は民間に流布した一種の道徳であり、処世訓である。この考えを猿の姿をとおして表現したのは、もちろん日本語の否定形の「ざる」が動物の「猿」と同音であることによる。しかし、このことは三猿の日本起源を証明するものではない。

    日本における三猿の代表は、日光東照宮にある木彫の三猿である。徳川家康を大権現として祀る霊廟に、三猿が飾られているのは、この場所が厩(うまや)に当たるため、猿が火伏(ひぶ)せの力を持つこととなって、東照宮を火から守っているのである。さらに、天台宗の僧で、東照宮を建立した天海大僧正の主張により、家康の葬儀は山王一実神道によって執り行われた。すなわち天台宗と結びつきの深い、山王の象徴としての神猿に近い役割を、日光の猿が持っているのである。

    もうひとつの起源として庚申信仰をあげることができる。庚申は「かのえさる」とも読み、その連想から江戸時代初期以降、猿が庚申塔に刻まれるようになったらしい。庚申は道教に端を発する民間習俗である。六十日毎の庚申の日に徹夜するのは、体内から三尸の虫が抜け出し、天帝に悪事を告げさせないためである。庚申講を地域社会の寄り合いとして利用していたところもあり、そこでは「見ざる。聞かざる、言わざる」は仲間どうしの掟にもなっていた。

  「論語」のなかには、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」というくだりがある。実際、中国では、母は胎教にあたって「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は傲言を出さず」といましめられている。このように日本の三猿のルーツのひとつは道教にあり、もうひとつには儒教があげられる。しかも、それが日本では天台系の仏教の影響下に定着し、猿にかかわる民間信仰とも結びついていた。

    ところが、今日の世界各地でみられる三猿には宗教的な色彩はうすい。むしろ装飾品や日用小物として使用されるものが圧倒的多数を占めている。しかも、ヨーロッパやアフリカには「見ろ、聞け、言うな」あるいは「見ろ、聞け、言え」という三猿もすくなくない。また、四猿や五猿の組み合わせも存在する。日本の郷土玩具のなかにも、「不為さざる」あるいは「不思わざる」の猿が加わり、四猿や五猿の玩具もみられる。五猿は、猿がゴザル、福がゴザルに通じ、護猿(守りサル)としても験をかついでいる。さらに、「見てみたい、聞いてみたい、言ってみたい」と人間の本音を具象化した逆三猿の玩具まである。(参考文献:中牧弘允「世界の三猿」東方出版)

2008年6月21日 (土)

桐原の藁駒

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       わら馬    長野県桐原

   長野県桐原は郷土玩具「わら馬」で知られている。「わら馬」は古く「わら駒」といわれ、「龍馬」を形どったもので「神駒」ともよばれている。生産と繁栄を祈願し、毎年3月8日に長野市郊外の桐原牧神社の春祭りにわら駒を奉納する。藁で作った郷土玩具が伝統民芸品として、駅売店で販売されている。

壱岐のイカ干し

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   壱岐は古くから日本と朝鮮との交通の要路に当たり、重視された。集落の特色は、畑作を主とする「在」と呼ばれる散村集落と、海浜の「浦」と呼ばれる漁村集落とにはっきり分かれていたことである。在は「触」と呼ばれる小字に統合され耕作を主としたが、浦は壱岐八浦とよばれる漁村で、いまは港町として発達している。勝本港では特産のイカ干し風景で知られる。韓国ドラマ「冬のソナタ」でも終盤にチュンサンとユジンが最後の旅を湫岩海岸の民宿で過ごす。そしてユジンが寝ている内にチュンサンは去ってゆく。民宿の軒に干していたイカが印象的であった。湫岩海岸は東海にある。つまり日本海。壱岐と韓国とは風俗・習慣が近いことがドラマから知ることができる。

2008年5月 7日 (水)

元祖ゆるキャラ「ビリケン」生誕100年

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  二人は似ている、似ていない?

  (左から)寺内正毅、ビリケン

   とんがり頭で眉が釣り上がった裸体の人形、ビリケン。ミズーリ州カンザスの若い女性芸術家フローレンス・フリッツが1908年、シカゴのデザインコンテストで優勝した作品。特許登録をしたところ、ビリケンカンパニーという会社が商標ライセンスを買い取り、福の神としてビリケンの貯金箱を売出し大ヒット商品となった。神様に年齢があるとすれば、ビリケンは今年でちょうど100歳を迎えることとなる。

   「ビリケン」という奇妙な名前は当時、アメリカで知られた政治家ウイリアム・ハワード・タフト(1857-1930)の愛称「ビリー」にあやかり、「ビリケン」と命名したと伝えられる。タフトは「桂・タフト協定」(1905)で日本でも知られる。(アメリカは韓国における日本の支配権を、日本はフィリピンにおけるアメリカの支配権をお互いに確認した協定)タフトは1909年に第27代アメリカ大統領となる。日本では寺内正毅(1852-1919)が1916年、内閣総理大臣となった。寺内はシベリア出兵を強行し、軍備拡張、大衆課税の増徴、言論弾圧を行い、その超然主義的態度は軍閥政治、非立憲内閣と世論の批判を受ける。寺内の禿げ頭がビリケンにそっくりだったことから、非立憲(ひりっけん)をひっかけて「ビリケン内閣」と呼んだ。1918年、米騒動によって内閣は崩壊した。

2008年4月19日 (土)

宇治は茶どころ縁どころ

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あれに見えるは茶摘みじゃないか 茜襷に菅の笠

萌えるお茶の芽もえたつたすき 唄に明けゆく宇治の里

宇治は茶どころ茶は縁どころ 娘やりたや婿ほしや

今年やこれきりまた来る春は 八十八夜のお茶に逢う

主は焙炉でこがれていよと わたしや茶園でうわの空

神に一心お茶にはニしん かけてみやんせキッと利く

ことしお茶にはあかねのたすき 今度五月にや黒だすき

宇治の里から貰うた嫁は 茶つみ上手で唄上手

人の手前で薄茶じやけれど 主の濃茶で目をさます

こよい庚申濃茶をのんで 話明かそか主さんと

ぬるいお茶でもお前の手から ついで貰えばあつくなる

朝の茶の湯に茶柱立って 運の開きか花が咲く

2008年4月13日 (日)

韓国花茶物語

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 ヘンリー・ジェイムズ(1843-191)は、午後のお茶のひとときを次のように書いている。

 その時の事情にもよるが、午後のお茶と呼ばれている儀式に捧げられたひとときほど気持ちのよいときは、この世にはめったにないものである。お茶を飲もうが飲むまいが、もちろんけっして飲まない人もいるのだが、お茶どきの雰囲気がそれだけ楽しいといった場合があるのだ。(「ある婦人の肖像」)

 イギリス式の紅茶、あるいはハーブ・ティーを、自宅の庭などの自然の中で楽しんでいる様子がうかがえる。そして、お茶の香りに加えて、美しい花の香りも楽しめたら最高に気持ち良いことだろう。

    ところで、お茶に、何か別のものを加えて飲む楽しみ方は、世界各地にあるようだ。中国の花茶は、花だけに湯を注ぐ方法のほか、烏龍茶や緑茶などと花をブレンドする方法もみられる。有名な花茶といえばジャスミン茶だが、元の時代にはハス、ラン、バラなどの花が好まれた。またインドや中近東では紅茶にしょうが、シナモン、クローブ、カルダモンなどのスパイスを加える習慣がある。モロッコでは、厚手のコップに新鮮なミントの葉をたっぷり入れて熱い紅茶を注ぎ、砂糖を多めに入れて飲むスタイルが知られている。

  ここで紹介する韓国の花茶は「目と香りと味で楽しむ」朝鮮時代の貴族たちが嗜んだ風流を楽しむものであった。貴族たちは移り行く季節の折々、花茶を嗜み、詩を詠み、彼らだけの世界に耽ったものだった。花茶の製造法については、18世紀の生活百科「閨閣叢書」に梅茶のことが載っている。ホ・ジュン(1546-1615)が書いた医学書「東医宝鑑」にも「むくげの花を茶にして飲めば風邪に良い」とあり、花茶が薬として紹介されている。19世紀には花を使った料理が多様になり、「是議全書」には、バラやツツジの花菜や、蜂蜜水に松の花粉を入れた松花蜜水などが載っている。花は春、夏、秋、冬、季節の野の花を使う。かすかな色と小さな花びら。一般的なものは、菊茶、蘭茶、蓮茶、芍薬茶などである。生きた花びらでお茶を淹れる方が見た目には美しいが、味が良いのはやはり花びらを乾燥させて淹れたお茶である。

   菊茶の作り方

1.菊は茎を捨て、花だけ摘み取り流水で洗う

2.湯気の立つ蒸し器に菊を入れて蒸す

3.ザルに取り、互いがくっつかないように並べ、日陰に干す

4.茶器に干した菊を10輪ほど入れ、お湯を注ぐ

2008年4月10日 (木)

アイヌ語小事典

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              悪魔払い(ウニエンテ)の儀式

   アイヌ語は、大きくは北海道方言、樺太方言、千島方言とに分かれる。北海道の多くの地名や、トナカイ、ラッコ、オットセイ、シシャモなどの単語など、知らないうちに日本語になったアイヌ語も多い。アイヌ語は文字のない言語で、表記はローマ字やカタカナが使われる。文法面では、否定辞が動詞の前にくる以外は、日本語とほとんど語順が同じで、学びやすい言語の一つである。

 アッシ(着物)

 イコロ(お金)

 イトウ(神にささげる祭具)

 イヨマンテ(熊送り)

 ウタリ(仲間)

 カムイ(神)

 カムイワッカー(酒)

 キムンカムイ(ヒグマ)

 ク(弓)

 コタン(村)

 チセ(家)

 チャランケ(なんくせ)

 ヌブリ(山)

 ノンノ(花)

 ハボ(母)

 ピリカ(美しい)

 ベツ(川)

 ミナ(父)

 メノコ(女)

 ユーカラ(詩曲)

 ワッカー(水)

2008年3月20日 (木)

マサイ族の風俗習慣

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    マサイ族の少女たち

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    マサイ族の住居

    マサイ族はケニア南部からタンザニア北部にかけて住む民族。パラ・ナイル系のマー語に属するマサイ語を話す。牛の牧畜を主な生業とする。宗教はキリマンジャロに座するエン・カイという神を信奉する一神教。マサイ族の男は「草原の勇敢なる戦士」と呼ばれているが、今日では部族間の争いもなく、戦闘はもっぱら猛獣相手に行われる。

   住居は牛糞と泥をこねて作る。この小屋をサークル状に配置し、外側を木の柵で囲いボマという村をつくって、猛獣から身を守る。マサイ族の伝統的な色は赤であり、衣服や化粧にはほとんど赤を使う。巨大な耳輪、派手な化粧をしていることもある。頭髪は牛の油でかためる。身体的特徴は、背が非常に高く、脚も長い。皮膚は黒褐色。マラソンなどの長距離走に優れており、名ランナーが多数でている。また驚異的な視力を持つこともよく知られている。

2008年2月27日 (水)

かんこ踊り(三重県伝統行事)

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   かんこ踊りは、伊勢市とその周辺部に残る伝統行事。お盆に先祖の供養に行なわれる。「かんこ」はカッコウオドリの訛とも、古代中国の羯(けつ)より伝来した雅楽の打楽器「羯鼓」(かっこ)に由来するとも考えられる。

    腹部にシメ太鼓(羯鼓、かっこ)をぶらさげ、腰蓑をはき、シャグマという白い馬毛を頭部にかぶり、両手の撥で打ち鳴らしながら音頭に合わせて10人から15人が輪になって焚き火の周りを歌い踊る。

2008年2月 9日 (土)

延辺の朝鮮族

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   吉林省東南部に位置する延辺朝鮮族自治州に居住する朝鮮族は郷土の息吹に満ち溢れた民族で、衣・食・住・移動にも独特の風格がある。家屋は木造の枠の上に稲藁を葺いて造る。上着に襟とボタンがなく、長い布帯で結うことは衣服の特徴である。すもう、板飛び、ぶらんこなどは人気のある大衆スポーツである。とくに朝鮮族特有の砧打ち、あやまき(砧で布を打つとき、その布を巻きつける棒)を使っての洗濯は有名である。

   朝鮮族の女性は大部分、洗濯を川べりに行ってする。延辺にはいたるところ多くの小川が流れていて、川べりの石は天然の洗濯台となっている。女性は春から秋までテヤ(大きく平らな鉢)に洗濯物を入れて頭にのせ、手に洗濯棒を持ち、川べりに出むいて洗濯をする。

   朝鮮族は毎年、仲秋前後に、女性たちがふとん皮や着物を洗ってノリをつけ乾したのちに、それを長方形になるように何度もたたんで砧石の上において砧で打つ風習がある。砧石は長さ50センチ、幅22センチ、厚さ17センチくらいの堅い木または石で作るのだが、表面をなめらかにし、重さを減らすため、下に広い溝を横に掘る。砧棒は洗濯棒と似ているが、固い木でつるつるに作る。

   「砧」は多く夜にやる。女性たちが昼には服やふとんをほぐして洗い乾かしたりするのに忙しく、夜はひまな時間があるからである。砧を打つには夜がいちばんよいチャンスである。砧は生地にしわがなくなり、つやがでるまで打つ。砧を打つとき、二人がむかいあって交互に打つこともあり、一人が片手あるいは両手で打ったりする。若い女や少女が向かいあって、坐り打つときは、打つ技をたいへん重視する。強くまた弱く、早くまたゆっくりと打つのは、あたかも太鼓を打つかのようにリズミカルである。秋の夜、朝鮮族が住む村にはいると、リズムにのって打つ砧の音を聞くことができる。

    朝鮮族は「あやまき」で砧を打つ。生地を洗って晒したのちに打つのである。つまり麻や絹を灰に浸して煮て洗い、それを晒して白くしたのちに、のりをし砧を打つのである。昔は石けんのように垢をとるものがなかったので、生地を洗って晒すときに木炭の水を多く使った。その方法は次のようである。カマドを用意し、底に稲わらやアシで編んだ敷物を敷く。その上に灰を入れ、まんべんなく水を注ぐ。すると濃い褐色の灰汁がカメの底から出て、下に置いた素焼きのたらい状の器にたまる。その灰汁を釜に入れ洗濯物を入れてひとしきり煮てから川べりに行ってすすぎ、日に晒してからのりをつける。その次にあやまきをする段取りになる。あやまきをする生地がまだ乾いていないので、直接長方形に折りたたんで砧石の上に置いて打つのでなく、生地を広げて、あやまきにしっかりと巻きつけてから、それを砧石の上に置き、二人の女性が向かいあってそれぞれ片手であやまきの端を握って次々と転がしながら、もう一方の手に棒を手にして交互にたたく。(参考:「中国の朝鮮族」むくげの会)

2008年1月 1日 (火)

おせち料理の由来

   元日の朝、正月のお祝い膳にかかせないのが「おせち料理」である。「おせち」とは御節供(おせちく)のつまったもので、昔は五節供の節目に用いられる料理のことをいったが、次第に正月の料理だけをいうようになった。節料理の「数の子」「田作り」「黒豆」などには、多産、豊年、長寿、家内安全の祈願が込められている。

   「数の子」は、にしんの卵だが、「二親・にしん」から、たくさんの子がうまれてめでたいと、子孫繁栄の縁起をかついでいる。

 「田作り」とは、ごまめともいい、かたくちいわしのの幼魚を炒って飴煮したもの。昔たんぼの肥料に使ったところ、たいへん米がとれたため、豊年万作を祝う農民が正月に田作りを食べるようになった。

   「黒豆」は、一年中の邪気を払い無病息災を願って屠蘇で祝うが、そのときに用いられる祝い肴のひとつ。黒豆(くろまめ)・まめ(丈夫)に暮らせるようにという縁起に因んだもの。

   「屠蘇」とは魏の名医華佗の処方という、年始に飲む薬・屠蘇散に由来する。屠蘇散を入れて、酒・みりんに浸して飲む。一年の邪気を払い、齢を延ばすという。平安時代から行われている。

年賀状の由来

   新年、明けましておめでとうございます。2008年が、皆様にとって実り多い年になりますように。

   江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。

   ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。

2007年12月31日 (月)

門松の由来

   正月に玄関に松の葉を飾ったり、門松をたて祝うのは何故か?

   現代でも多くの家庭が飾る門松は、「正月に吉方から来臨して年中の安全と豊年とを約束する神」、穀霊でもあり祖霊でもある年神が降りてくる依代(よりしろ)として本来は立てられたものである。榊、竹、杉、楢などいろいろな樹木が用いられたが、次第に松に統一された。門松は平安時代から正月の民家に飾られるようになっている。歌道家六条家の始祖、藤原顕季(ふじわらのあきすえ)の「門松を営み立つるその程に春明がたに夜や成ぬらん」(「堀河院百首」)や藤原信実(ふじわらののぶざね)の「今朝はみなしづが門松たてなべていはふことぐさいやめづらなる」(「新撰六帖」)という歌にも見える。『年中行事絵巻』にも家の入口に、門松の立った光景が描かれている。

    しかし門松の風習が全国的に広まったのは近代になってからである。文部省唱歌に「松竹立てて門ごとに祝う今日こそ楽しけれ」と全国の児童に歌わせたからであろう。家の入口に松を立てる、それも左右そろえて二本立てるというのは、大昔からの風習ではない。宮中には今でも門松はないし、富山や大阪でも立てない。家風として自分のところは立てない、という家もある。

(参考:「本郷№5」19996.1、吉川弘文館)

「なまはげ」の由来

   秋田県男鹿半島の村々では「なまはげ」という奇習が古くから伝わる。かつては陰暦1月15日の行事だったが、戦時中に一時中止され、現在は大晦日または新暦1月15日に行われるようになった。

   この日は、恐ろしい鬼の面をかぶり、ケラ蓑、わらぐつ、腰みのをつけ、大きな木製の刃物を持ち、箱の中に小さな物を入れてからから鳴らして、二三人一組となった若者が、「ウォーウォー」と奇声をあげながら「くなもみコ剥げたかよ」「包丁コとげたかよ」「小豆コ煮えたか煮えたかよ」などと唱えながら家々を訪れ、「泣く子はいねが」と小児を戒筋し、神棚に礼拝し、祝言をのべる。それを正装した主人が酒肴や餅などで迎える。鬼は酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家へ行く。仕事もせずに、火にあたってばかりいる怠け者には、ナモミ(火斑)がつくといわれ、これを引きはぐ「ナモミハギ」が「なまはげ」に転化したものといわれる。そのほか、「生身剥」の転化説もある。

   以上が「なまはげ」の語源であるが、習俗の由来については諸説あり、①漢の武帝が五匹の鬼をしたがえて男鹿に上陸し、年中鬼を酷使したので、その報酬として、正月15日、一日だけ村里に出て、自分のほしいものを勝手に探し求めてよいとの許しを与えたという説、②天狗伝説などにも見られる異邦人説、③男鹿の真山本山で修業する修験者がモデルになっているという説、④蓑笠をつけ、顔をかくして旅をするものを存在したことは「日本書紀」の神武紀のシイネツヒコとオトウカシの伝承とする説、などがある。

 ナマハゲの同様の類型はナゴミタクリ、ナモミハギ,ヒガタタクリ、シカタハギ、スネカ、アマミハギ、オドシなどの名でよばれ、東北に広く、また北陸地方へかけて分布している。九州では「かせどり」という。

除夜の鐘の由来

大晦日定めなき世の定めかな(西鶴)

ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)

高窓に星吹き寄せぬ除夜の鐘(花野女)

 大晦日を「除日(じょじつ)」ともいう。旧年を除く日ということである。除日の夜が除夜だ。除夜の鐘を108つくのは、中国の仏教儀式で、宋時代から始まったという。ただつけばよいというわけではなく、交互に、強く54点、弱く54点、そして107点までは旧年に、最後の一点を新年につく。

   108の数は、1年12ヵ月と、立春などの24節気、それを三分した72候、の合計だというが、後に108の煩悩を一つずつ消すためといわれるようになった。108の煩悩とは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と六塵(色、声、香、味、触、法)におのおの好、悪、平があるので、計36程の煩悩が生じ、それが過去、現在、未来あるので108となる。

    古くは1日が夜からはじまって朝につづくと考えられていたので、祭は多く前夜から行われた。年越しの祭も前夜からはじまるとし、大晦日の夜を「おおとし」「としのよ」といい、年神(歳神)を迎るために厳重な物忌をし、夜通し起き明かすのが古風な作法であった。今でも除夜の鐘を聞くまで床に入らなかったり、早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいい、また寝るというのを忌んで、「寝る」ことを「稲を積む」という地方もある。また年ごもりといって、この夜は神社に参籠(さんろう)して夜を明かすところがあったが、現代では一般にそれを簡略して夜中に参るか元旦未明に参るようになった。また「歳籠り」といって氏神の社にこもって夜を明かす風習もあり、京都祇園社の「おけら祭」などのように、古い社では除夜に、新しく火を鑽り出し、氏子に配る行事がある。農家などでは、大歳の晩から元旦にかけて、いろりの火を絶やさぬようにするところも多い。この際、火種にする薪を「ようぎほだ」「せちほだ」などと呼び重要視した。そのほかいろりや氏神の境内で大火をたくところもあり、兵庫県では「年越しとんど」といって、古い注連縄などの神飾りの不用なものを焼くところもあった。

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

2007年3月21日 (水)

仏教伝承芸能「仏舞」

   仏舞(ほとけのまい)の正確な由来は不詳であるが、奈良時代に唐から伝えられた宮廷舞楽が各地に伝播したものといわれる。現在全国各地に数箇所残されている。

「松尾の仏舞」京都府舞鶴市松尾、松尾寺(まつのおでら)、毎年5月8日)、

「糸崎の仏舞」福井県福井市糸崎、糸崎寺、隔年4月18日

「小國の仏舞」静岡県岡智郡森町一宮、小國神社の十二段舞楽、4月18日に近い日曜

「花園の仏舞」和歌山県伊都郡かつらぎ町

「隠岐国分寺の仏舞」

    「松尾寺の仏舞」は江戸時代から伝わる民俗芸能で、大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三像の面をつけた優雅な舞が奉納される。「糸崎の仏舞」は、鷹巣海岸にある真言宗智山派・育王山龍華院糸崎寺の糸崎観音堂の正面に設けられた石組の舞台で披露される。金色の菩薩面に黒染めの法衣をまとい、鐘や太鼓にあわせて幻想的な舞を奉納する。舞手は糸崎に住みここで産湯を浸かった長男に限られる。唐の高僧禅海が糸崎寺を訪れたとき、その景観が明州育王山に酷似していることに喜び、菩薩や天女が喜びの舞を踊ったことが仏舞の由来とされる。全国に仏舞は伝わるが、昔ながらの舞を伝承しているところは少なく、重要無形民俗文化財に指定された。大陸から渡来した奈良時代の舞楽を今に伝える伝統芸能である。

2007年3月 3日 (土)

柳田國男と牧口常三郎

    村尾行一著「柳田國男と牧口常三郎」を読む。柳田國男(1875-1969)と牧口常三郎(1871-1944)は、明治42年5月2日、英文学者の馬場孤蝶の紹介で知り合う。その後新渡戸稲造主催の郷土会で二人の交流が始まる。牧口と柳田は農村調査のため明治44年5月12日から15日にかけて旅行をしている。のち柳田は、創価教育学説支援会の発起人の一人にもなっている。しかしそのような二人もやがて疎遠になる。柳田は仏教きらいであるらしく、牧口の温厚な人柄に好意を抱くものの宗教に対する根本的な考え方の相違が理由の一つに考えられる。とくに昭和になると、牧口が戦争反対や平和論を唱えることに柳田は否定的であり、「反抗が最も悲しむべき不幸を伴なうたのも、むしろ結果であった」と冷たく書いている。本書によれば二人は喧嘩別れをしたとある。昭和26年、柳田は文化勲章を受章し、「後狩詞記」「石神問答」「遠野物語」「山島民譚集」などの著書でその栄誉はゆるぎないものではあるが、一方の牧口常三郎の遺志は戸田城聖、池田大作と受け継がれ現在の精華を思うと、二人の偉人の遭遇と阻隔には、大きく考えさせられる問題がある。

2006年11月18日 (土)

霊柩車に会ったら親指を隠せ

   長嶋茂雄は現役の頃、霊柩車を見るとその日は調子が良くてヒットがでたという話をよく聞いたことがある。「霊柩車に会ったら親指を隠せ」という迷信は、ケペルはあまり聞いたことがないがネットで調べるとかなりポピュラーな迷信の一つであるらしい。とても奥深い内容があるようにも思える。もともとは「道で葬式に会ったら、親指を隠せ」だった。なぜ、親指を隠すのか?死んだばかりの人間の魂は、まだ成仏できないまま、さまよっているため、この恐怖の誘いを断わるため親指を隠すポーズをとることがいいらしい。「夜、山道を歩くとき、親指を隠してないとキツネにだまされる」というのも、類似の迷信である。

2006年7月31日 (月)

地蔵信仰

   地蔵は、数多くの仏菩薩の中でも、もっとも日本人に身近な存在である。地蔵信仰は中国において発展したのち、日本に伝来した。その後、平安末期から鎌倉期にかけて、当時の末法思想とも関連して、日本人の信仰生活に浸透していった。

    日本における地蔵信仰の特徴の一つは、子供との結びつきである。地蔵は、現世と来世の境界にある賽の河原で、地獄の鬼から子供を守るとされる。このイメージは、地蔵和讃の流布を通じて、近世以降の民衆に強くアピールしてきた。子育地蔵などは全国に数多くみられる。不運な死を遂げた子供の供養のためには地蔵像が建立されることが多いのも、その一例である。また地蔵の石像に赤いよだれかけが掛けられるのも、地蔵と子供の一体観から出ている。また、現世と来世との境の仏としての地蔵は、村の辻固めの神である道祖神(サエノ神)と習合した。今でも村境に地蔵の像が多いのは、そのためである。

   また地蔵は人間側の希求に巧みに応ずるという形式でもって、時代ごとに民衆ときわめて密接な関係をもってきた。延命地蔵なども近世以降、民衆の人気を得た一例である。また昨今大いに隆盛をみている水子地蔵もまたその一例である。供養の対象が水子という子供の霊であることと同時に、世間的には公表しにくい対象への供養という場面で、他の仏菩薩ではなく地蔵が人々の関心をよぶ点は興味深い。いずれにせよ、地蔵は世の動きに敏感な仏である。これは一つには、地蔵に関する経典が多く中国における偽経とされているなどの点から、教義的にみて地蔵はけっして中核的な仏菩薩としての位置を与えられてこなかったという事実によるのかもしれない。

2006年7月22日 (土)

土用の丑の日と鰻

   土用といえば、夏のことと思われがちだが、実は年に4回ある。もともとは古代中国の五行説からきたもので、宇宙は木火土金水の五元素から成ると考えられていた。そして、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の18日もしくは19日間を土用といった。つまり季節の変わり目で、土の働きが旺盛になる期間と考えたのであろう。しかし、今日では俳句の季語でも夏であるように、土用といえば夏の土用を指すのが一般的である。

    ところで、土用にウナギを食べる習慣は、奈良時代からある。『万葉集』の中で大伴家持が吉田石麿という老人がいくら飯を食べてもやせているのを見て、夏やせにウナギがいいよ、とからかっている歌がある。

石麻呂に吾れもの申す。夏痩せによしといふものぞ むなぎとり召せ   (いつも痩せている石麻呂君よ、夏痩せに良いという鰻でも食べたらどうかね)

    これが丑の日に限定されていわれるようになったいきさつについては、平賀源内の話が有名である。

    江戸時代の蘭学者・平賀源内は、あるウナギ屋から看板を依頼されたとき、大伴家持の歌を思い出し、土用の丑の日にウナギを食えば夏痩せを防ぐことができるという意味から「今日は丑の日」という看板を書いて与えたところ、たちまち広く言い伝えられウナギ屋は大繁昌した。そこで、江戸中のウナギ屋も「今日は丑の日」の看板を掲げたという。

    地方によっては、丑の日にちなんで、ウのつく食物をとると暑気にあてられないといい、うどん、うり、牛肉などを食べるところもある。

2006年6月30日 (金)

えんぶり

   小正月に行われる豊作祈願の芸能の一つ。予祝の模擬田植えを演じる田遊びがさらに舞踏化したもので、名称は田面をすりならす農具の「えぶり」からきている。古くは「ゑぶりすり」と呼んだ。

   青森県八戸市を中心として岩手県九戸郡から青森県上北部にかけて分布する。現在、八戸市では2月17~20日に行われる。えんぶり組の踊り手(鳥帽子太夫)は3人か5人で農作業や縁起物を描いた鳥帽子をかぶり鳴子板・カンダイ(鍬)・松などを持って舞い、家々をまわる。

2006年6月29日 (木)

バッカイタラ

   アイヌがこどもを背負うときに使う編み紐、バッカイは子をおぶう、タラは編み紐を意味している。紐の両端に近いところに、短い木の棒をわたしてしばったもの。背負う者が着ている着物の中でこどもを背負い、着物の外側からバッカイタラの木の棒に、こどもの尻をのせる。紐の中央部分を背負う者の額にかけて、紐の両端は前にまわしてしばる。イェォマブという地方もある。(参考:萱野茂『アイヌの民具』1978)

2006年6月26日 (月)

案山子(かがし)の由来

    農作物の鳥獣害を避ける手段は、およそ3種に分類できる。

1.農神や田の神を迎えて豊穣を祈るとともに、害を避けようとする方法で、神の依代の人形や神札を田畑に立てたり、注連を張り廻す。これを中部東海地方ではソメといい、静岡地方では山人(やまびと)、北陸近畿以西では脅(おどし)といっている。

2.悪臭のする物を畦畔に置いて、鳥獣を畏怖または嫌悪させる方法で、襤褸(ぼろ)・毛髪・魚の頭・獣肉などを焼いて串に挟んだり注連に下げたりする。これを一般に嗅(かが)しという。

3.物音を立てたり、鳥獣の死屍を吊し下げて畏怖させる方法で、人が大声で追うたり、水車・板木・空缶・空砲を利用したり、死屍を吊るしたり、その方法は近年の発案が極めて多く変化に富んでいる。山の添水(そうず)・ボットリというのは、水力による搗杵の音の利用名であり、夜追・猪追・鳥脅そのほか新案の名称も多い。現在ではこれらのものを総称して案山子(かがし)という。   (参考:『民俗学辞典』東京堂 1951年)