壱岐は古くから日本と朝鮮との交通の要路に当たり、重視された。集落の特色は、畑作を主とする「在」と呼ばれる散村集落と、海浜の「浦」と呼ばれる漁村集落とにはっきり分かれていたことである。在は「触」と呼ばれる小字に統合され耕作を主としたが、浦は壱岐八浦とよばれる漁村で、いまは港町として発達している。勝本港では特産のイカ干し風景で知られる。韓国ドラマ「冬のソナタ」でも終盤にチュンサンとユジンが最後の旅を湫岩海岸の民宿で過ごす。そしてユジンが寝ている内にチュンサンは去ってゆく。民宿の軒に干していたイカが印象的であった。湫岩海岸は東海にある。つまり日本海。壱岐と韓国とは風俗・習慣が近いことがドラマから知ることができる。
二人は似ている、似ていない?
(左から)寺内正毅、ビリケン
とんがり頭で眉が釣り上がった裸体の人形、ビリケン。ミズーリ州カンザスの若い女性芸術家フローレンス・フリッツが1908年、シカゴのデザインコンテストで優勝した作品。特許登録をしたところ、ビリケンカンパニーという会社が商標ライセンスを買い取り、福の神としてビリケンの貯金箱を売出し大ヒット商品となった。神様に年齢があるとすれば、ビリケンは今年でちょうど100歳を迎えることとなる。
「ビリケン」という奇妙な名前は当時、アメリカで知られた政治家ウイリアム・ハワード・タフト(1857-1930)の愛称「ビリー」にあやかり、「ビリケン」と命名したと伝えられる。タフトは「桂・タフト協定」(1905)で日本でも知られる。(アメリカは韓国における日本の支配権を、日本はフィリピンにおけるアメリカの支配権をお互いに確認した協定)タフトは1909年に第27代アメリカ大統領となる。日本では寺内正毅(1852-1919)が1916年、内閣総理大臣となった。寺内はシベリア出兵を強行し、軍備拡張、大衆課税の増徴、言論弾圧を行い、その超然主義的態度は軍閥政治、非立憲内閣と世論の批判を受ける。寺内の禿げ頭がビリケンにそっくりだったことから、非立憲(ひりっけん)をひっかけて「ビリケン内閣」と呼んだ。1918年、米騒動によって内閣は崩壊した。
ヘンリー・ジェイムズ(1843-191)は、午後のお茶のひとときを次のように書いている。
その時の事情にもよるが、午後のお茶と呼ばれている儀式に捧げられたひとときほど気持ちのよいときは、この世にはめったにないものである。お茶を飲もうが飲むまいが、もちろんけっして飲まない人もいるのだが、お茶どきの雰囲気がそれだけ楽しいといった場合があるのだ。(「ある婦人の肖像」)
イギリス式の紅茶、あるいはハーブ・ティーを、自宅の庭などの自然の中で楽しんでいる様子がうかがえる。そして、お茶の香りに加えて、美しい花の香りも楽しめたら最高に気持ち良いことだろう。
ところで、お茶に、何か別のものを加えて飲む楽しみ方は、世界各地にあるようだ。中国の花茶は、花だけに湯を注ぐ方法のほか、烏龍茶や緑茶などと花をブレンドする方法もみられる。有名な花茶といえばジャスミン茶だが、元の時代にはハス、ラン、バラなどの花が好まれた。またインドや中近東では紅茶にしょうが、シナモン、クローブ、カルダモンなどのスパイスを加える習慣がある。モロッコでは、厚手のコップに新鮮なミントの葉をたっぷり入れて熱い紅茶を注ぎ、砂糖を多めに入れて飲むスタイルが知られている。
ここで紹介する韓国の花茶は「目と香りと味で楽しむ」朝鮮時代の貴族たちが嗜んだ風流を楽しむものであった。貴族たちは移り行く季節の折々、花茶を嗜み、詩を詠み、彼らだけの世界に耽ったものだった。花茶の製造法については、18世紀の生活百科「閨閣叢書」に梅茶のことが載っている。ホ・ジュン(1546-1615)が書いた医学書「東医宝鑑」にも「むくげの花を茶にして飲めば風邪に良い」とあり、花茶が薬として紹介されている。19世紀には花を使った料理が多様になり、「是議全書」には、バラやツツジの花菜や、蜂蜜水に松の花粉を入れた松花蜜水などが載っている。花は春、夏、秋、冬、季節の野の花を使う。かすかな色と小さな花びら。一般的なものは、菊茶、蘭茶、蓮茶、芍薬茶などである。生きた花びらでお茶を淹れる方が見た目には美しいが、味が良いのはやはり花びらを乾燥させて淹れたお茶である。
菊茶の作り方
1.菊は茎を捨て、花だけ摘み取り流水で洗う
2.湯気の立つ蒸し器に菊を入れて蒸す
3.ザルに取り、互いがくっつかないように並べ、日陰に干す
4.茶器に干した菊を10輪ほど入れ、お湯を注ぐ
悪魔払い(ウニエンテ)の儀式
アイヌ語は、大きくは北海道方言、樺太方言、千島方言とに分かれる。北海道の多くの地名や、トナカイ、ラッコ、オットセイ、シシャモなどの単語など、知らないうちに日本語になったアイヌ語も多い。アイヌ語は文字のない言語で、表記はローマ字やカタカナが使われる。文法面では、否定辞が動詞の前にくる以外は、日本語とほとんど語順が同じで、学びやすい言語の一つである。
アッシ(着物)
イコロ(お金)
イトウ(神にささげる祭具)
イヨマンテ(熊送り)
ウタリ(仲間)
カムイ(神)
カムイワッカー(酒)
キムンカムイ(ヒグマ)
ク(弓)
コタン(村)
チセ(家)
チャランケ(なんくせ)
ヌブリ(山)
ノンノ(花)
ハボ(母)
ピリカ(美しい)
ベツ(川)
ミナ(父)
メノコ(女)
ユーカラ(詩曲)
ワッカー(水)
マサイ族の少女たち
マサイ族の住居
マサイ族はケニア南部からタンザニア北部にかけて住む民族。パラ・ナイル系のマー語に属するマサイ語を話す。牛の牧畜を主な生業とする。宗教はキリマンジャロに座するエン・カイという神を信奉する一神教。マサイ族の男は「草原の勇敢なる戦士」と呼ばれているが、今日では部族間の争いもなく、戦闘はもっぱら猛獣相手に行われる。
住居は牛糞と泥をこねて作る。この小屋をサークル状に配置し、外側を木の柵で囲いボマという村をつくって、猛獣から身を守る。マサイ族の伝統的な色は赤であり、衣服や化粧にはほとんど赤を使う。巨大な耳輪、派手な化粧をしていることもある。頭髪は牛の油でかためる。身体的特徴は、背が非常に高く、脚も長い。皮膚は黒褐色。マラソンなどの長距離走に優れており、名ランナーが多数でている。また驚異的な視力を持つこともよく知られている。
吉林省東南部に位置する延辺朝鮮族自治州に居住する朝鮮族は郷土の息吹に満ち溢れた民族で、衣・食・住・移動にも独特の風格がある。家屋は木造の枠の上に稲藁を葺いて造る。上着に襟とボタンがなく、長い布帯で結うことは衣服の特徴である。すもう、板飛び、ぶらんこなどは人気のある大衆スポーツである。とくに朝鮮族特有の砧打ち、あやまき(砧で布を打つとき、その布を巻きつける棒)を使っての洗濯は有名である。
朝鮮族の女性は大部分、洗濯を川べりに行ってする。延辺にはいたるところ多くの小川が流れていて、川べりの石は天然の洗濯台となっている。女性は春から秋までテヤ(大きく平らな鉢)に洗濯物を入れて頭にのせ、手に洗濯棒を持ち、川べりに出むいて洗濯をする。
朝鮮族は毎年、仲秋前後に、女性たちがふとん皮や着物を洗ってノリをつけ乾したのちに、それを長方形になるように何度もたたんで砧石の上において砧で打つ風習がある。砧石は長さ50センチ、幅22センチ、厚さ17センチくらいの堅い木または石で作るのだが、表面をなめらかにし、重さを減らすため、下に広い溝を横に掘る。砧棒は洗濯棒と似ているが、固い木でつるつるに作る。
「砧」は多く夜にやる。女性たちが昼には服やふとんをほぐして洗い乾かしたりするのに忙しく、夜はひまな時間があるからである。砧を打つには夜がいちばんよいチャンスである。砧は生地にしわがなくなり、つやがでるまで打つ。砧を打つとき、二人がむかいあって交互に打つこともあり、一人が片手あるいは両手で打ったりする。若い女や少女が向かいあって、坐り打つときは、打つ技をたいへん重視する。強くまた弱く、早くまたゆっくりと打つのは、あたかも太鼓を打つかのようにリズミカルである。秋の夜、朝鮮族が住む村にはいると、リズムにのって打つ砧の音を聞くことができる。
朝鮮族は「あやまき」で砧を打つ。生地を洗って晒したのちに打つのである。つまり麻や絹を灰に浸して煮て洗い、それを晒して白くしたのちに、のりをし砧を打つのである。昔は石けんのように垢をとるものがなかったので、生地を洗って晒すときに木炭の水を多く使った。その方法は次のようである。カマドを用意し、底に稲わらやアシで編んだ敷物を敷く。その上に灰を入れ、まんべんなく水を注ぐ。すると濃い褐色の灰汁がカメの底から出て、下に置いた素焼きのたらい状の器にたまる。その灰汁を釜に入れ洗濯物を入れてひとしきり煮てから川べりに行ってすすぎ、日に晒してからのりをつける。その次にあやまきをする段取りになる。あやまきをする生地がまだ乾いていないので、直接長方形に折りたたんで砧石の上に置いて打つのでなく、生地を広げて、あやまきにしっかりと巻きつけてから、それを砧石の上に置き、二人の女性が向かいあってそれぞれ片手であやまきの端を握って次々と転がしながら、もう一方の手に棒を手にして交互にたたく。(参考:「中国の朝鮮族」むくげの会)
元日の朝、正月のお祝い膳にかかせないのが「おせち料理」である。「おせち」とは御節供(おせちく)のつまったもので、昔は五節供の節目に用いられる料理のことをいったが、次第に正月の料理だけをいうようになった。節料理の「数の子」「田作り」「黒豆」などには、多産、豊年、長寿、家内安全の祈願が込められている。
「数の子」は、にしんの卵だが、「二親・にしん」から、たくさんの子がうまれてめでたいと、子孫繁栄の縁起をかついでいる。
「田作り」とは、ごまめともいい、かたくちいわしのの幼魚を炒って飴煮したもの。昔たんぼの肥料に使ったところ、たいへん米がとれたため、豊年万作を祝う農民が正月に田作りを食べるようになった。
「黒豆」は、一年中の邪気を払い無病息災を願って屠蘇で祝うが、そのときに用いられる祝い肴のひとつ。黒豆(くろまめ)・まめ(丈夫)に暮らせるようにという縁起に因んだもの。
「屠蘇」とは魏の名医華佗の処方という、年始に飲む薬・屠蘇散に由来する。屠蘇散を入れて、酒・みりんに浸して飲む。一年の邪気を払い、齢を延ばすという。平安時代から行われている。
新年、明けましておめでとうございます。2008年が、皆様にとって実り多い年になりますように。
江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。
明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。
ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。
正月に玄関に松の葉を飾ったり、門松をたて祝うのは何故か?
現代でも多くの家庭が飾る門松は、「正月に吉方から来臨して年中の安全と豊年とを約束する神」、穀霊でもあり祖霊でもある年神が降りてくる依代(よりしろ)として本来は立てられたものである。榊、竹、杉、楢などいろいろな樹木が用いられたが、次第に松に統一された。門松は平安時代から正月の民家に飾られるようになっている。歌道家六条家の始祖、藤原顕季(ふじわらのあきすえ)の「門松を営み立つるその程に春明がたに夜や成ぬらん」(「堀河院百首」)や藤原信実(ふじわらののぶざね)の「今朝はみなしづが門松たてなべていはふことぐさいやめづらなる」(「新撰六帖」)という歌にも見える。『年中行事絵巻』にも家の入口に、門松の立った光景が描かれている。
しかし門松の風習が全国的に広まったのは近代になってからである。文部省唱歌に「松竹立てて門ごとに祝う今日こそ楽しけれ」と全国の児童に歌わせたからであろう。家の入口に松を立てる、それも左右そろえて二本立てるというのは、大昔からの風習ではない。宮中には今でも門松はないし、富山や大阪でも立てない。家風として自分のところは立てない、という家もある。
(参考:「本郷№5」19996.1、吉川弘文館)
秋田県男鹿半島の村々では「なまはげ」という奇習が古くから伝わる。かつては陰暦1月15日の行事だったが、戦時中に一時中止され、現在は大晦日または新暦1月15日に行われるようになった。
この日は、恐ろしい鬼の面をかぶり、ケラ蓑、わらぐつ、腰みのをつけ、大きな木製の刃物を持ち、箱の中に小さな物を入れてからから鳴らして、二三人一組となった若者が、「ウォーウォー」と奇声をあげながら「くなもみコ剥げたかよ」「包丁コとげたかよ」「小豆コ煮えたか煮えたかよ」などと唱えながら家々を訪れ、「泣く子はいねが」と小児を戒筋し、神棚に礼拝し、祝言をのべる。それを正装した主人が酒肴や餅などで迎える。鬼は酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家へ行く。仕事もせずに、火にあたってばかりいる怠け者には、ナモミ(火斑)がつくといわれ、これを引きはぐ「ナモミハギ」が「なまはげ」に転化したものといわれる。そのほか、「生身剥」の転化説もある。
以上が「なまはげ」の語源であるが、習俗の由来については諸説あり、①漢の武帝が五匹の鬼をしたがえて男鹿に上陸し、年中鬼を酷使したので、その報酬として、正月15日、一日だけ村里に出て、自分のほしいものを勝手に探し求めてよいとの許しを与えたという説、②天狗伝説などにも見られる異邦人説、③男鹿の真山本山で修業する修験者がモデルになっているという説、④蓑笠をつけ、顔をかくして旅をするものを存在したことは「日本書紀」の神武紀のシイネツヒコとオトウカシの伝承とする説、などがある。
ナマハゲの同様の類型はナゴミタクリ、ナモミハギ,ヒガタタクリ、シカタハギ、スネカ、アマミハギ、オドシなどの名でよばれ、東北に広く、また北陸地方へかけて分布している。九州では「かせどり」という。
大晦日定めなき世の定めかな(西鶴)
ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)
高窓に星吹き寄せぬ除夜の鐘(花野女)
大晦日を「除日(じょじつ)」ともいう。旧年を除く日ということである。除日の夜が除夜だ。除夜の鐘を108つくのは、中国の仏教儀式で、宋時代から始まったという。ただつけばよいというわけではなく、交互に、強く54点、弱く54点、そして107点までは旧年に、最後の一点を新年につく。
108の数は、1年12ヵ月と、立春などの24節気、それを三分した72候、の合計だというが、後に108の煩悩を一つずつ消すためといわれるようになった。108の煩悩とは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と六塵(色、声、香、味、触、法)におのおの好、悪、平があるので、計36程の煩悩が生じ、それが過去、現在、未来あるので108となる。
古くは1日が夜からはじまって朝につづくと考えられていたので、祭は多く前夜から行われた。年越しの祭も前夜からはじまるとし、大晦日の夜を「おおとし」「としのよ」といい、年神(歳神)を迎るために厳重な物忌をし、夜通し起き明かすのが古風な作法であった。今でも除夜の鐘を聞くまで床に入らなかったり、早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいい、また寝るというのを忌んで、「寝る」ことを「稲を積む」という地方もある。また年ごもりといって、この夜は神社に参籠(さんろう)して夜を明かすところがあったが、現代では一般にそれを簡略して夜中に参るか元旦未明に参るようになった。また「歳籠り」といって氏神の社にこもって夜を明かす風習もあり、京都祇園社の「おけら祭」などのように、古い社では除夜に、新しく火を鑽り出し、氏子に配る行事がある。農家などでは、大歳の晩から元旦にかけて、いろりの火を絶やさぬようにするところも多い。この際、火種にする薪を「ようぎほだ」「せちほだ」などと呼び重要視した。そのほかいろりや氏神の境内で大火をたくところもあり、兵庫県では「年越しとんど」といって、古い注連縄などの神飾りの不用なものを焼くところもあった。
大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。
年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。
年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。
仏舞(ほとけのまい)の正確な由来は不詳であるが、奈良時代に唐から伝えられた宮廷舞楽が各地に伝播したものといわれる。現在全国各地に数箇所残されている。
「松尾の仏舞」京都府舞鶴市松尾、松尾寺(まつのおでら)、毎年5月8日)、
「糸崎の仏舞」福井県福井市糸崎、糸崎寺、隔年4月18日
「小國の仏舞」静岡県岡智郡森町一宮、小國神社の十二段舞楽、4月18日に近い日曜
「花園の仏舞」和歌山県伊都郡かつらぎ町
「隠岐国分寺の仏舞」
「松尾寺の仏舞」は江戸時代から伝わる民俗芸能で、大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三像の面をつけた優雅な舞が奉納される。「糸崎の仏舞」は、鷹巣海岸にある真言宗智山派・育王山龍華院糸崎寺の糸崎観音堂の正面に設けられた石組の舞台で披露される。金色の菩薩面に黒染めの法衣をまとい、鐘や太鼓にあわせて幻想的な舞を奉納する。舞手は糸崎に住みここで産湯を浸かった長男に限られる。唐の高僧禅海が糸崎寺を訪れたとき、その景観が明州育王山に酷似していることに喜び、菩薩や天女が喜びの舞を踊ったことが仏舞の由来とされる。全国に仏舞は伝わるが、昔ながらの舞を伝承しているところは少なく、重要無形民俗文化財に指定された。大陸から渡来した奈良時代の舞楽を今に伝える伝統芸能である。
村尾行一著「柳田國男と牧口常三郎」を読む。柳田國男(1875-1969)と牧口常三郎(1871-1944)は、明治42年5月2日、英文学者の馬場孤蝶の紹介で知り合う。その後新渡戸稲造主催の郷土会で二人の交流が始まる。牧口と柳田は農村調査のため明治44年5月12日から15日にかけて旅行をしている。のち柳田は、創価教育学説支援会の発起人の一人にもなっている。しかしそのような二人もやがて疎遠になる。柳田は仏教きらいであるらしく、牧口の温厚な人柄に好意を抱くものの宗教に対する根本的な考え方の相違が理由の一つに考えられる。とくに昭和になると、牧口が戦争反対や平和論を唱えることに柳田は否定的であり、「反抗が最も悲しむべき不幸を伴なうたのも、むしろ結果であった」と冷たく書いている。本書によれば二人は喧嘩別れをしたとある。昭和26年、柳田は文化勲章を受章し、「後狩詞記」「石神問答」「遠野物語」「山島民譚集」などの著書でその栄誉はゆるぎないものではあるが、一方の牧口常三郎の遺志は戸田城聖、池田大作と受け継がれ現在の精華を思うと、二人の偉人の遭遇と阻隔には、大きく考えさせられる問題がある。
長嶋茂雄は現役の頃、霊柩車を見るとその日は調子が良くてヒットがでたという話をよく聞いたことがある。「霊柩車に会ったら親指を隠せ」という迷信は、ケペルはあまり聞いたことがないがネットで調べるとかなりポピュラーな迷信の一つであるらしい。とても奥深い内容があるようにも思える。もともとは「道で葬式に会ったら、親指を隠せ」だった。なぜ、親指を隠すのか?死んだばかりの人間の魂は、まだ成仏できないまま、さまよっているため、この恐怖の誘いを断わるため親指を隠すポーズをとることがいいらしい。「夜、山道を歩くとき、親指を隠してないとキツネにだまされる」というのも、類似の迷信である。
地蔵は、数多くの仏菩薩の中でも、もっとも日本人に身近な存在である。地蔵信仰は中国において発展したのち、日本に伝来した。その後、平安末期から鎌倉期にかけて、当時の末法思想とも関連して、日本人の信仰生活に浸透していった。
日本における地蔵信仰の特徴の一つは、子供との結びつきである。地蔵は、現世と来世の境界にある賽の河原で、地獄の鬼から子供を守るとされる。このイメージは、地蔵和讃の流布を通じて、近世以降の民衆に強くアピールしてきた。子育地蔵などは全国に数多くみられる。不運な死を遂げた子供の供養のためには地蔵像が建立されることが多いのも、その一例である。また地蔵の石像に赤いよだれかけが掛けられるのも、地蔵と子供の一体観から出ている。また、現世と来世との境の仏としての地蔵は、村の辻固めの神である道祖神(サエノ神)と習合した。今でも村境に地蔵の像が多いのは、そのためである。
また地蔵は人間側の希求に巧みに応ずるという形式でもって、時代ごとに民衆ときわめて密接な関係をもってきた。延命地蔵なども近世以降、民衆の人気を得た一例である。また昨今大いに隆盛をみている水子地蔵もまたその一例である。供養の対象が水子という子供の霊であることと同時に、世間的には公表しにくい対象への供養という場面で、他の仏菩薩ではなく地蔵が人々の関心をよぶ点は興味深い。いずれにせよ、地蔵は世の動きに敏感な仏である。これは一つには、地蔵に関する経典が多く中国における偽経とされているなどの点から、教義的にみて地蔵はけっして中核的な仏菩薩としての位置を与えられてこなかったという事実によるのかもしれない。
土用といえば、夏のことと思われがちだが、実は年に4回ある。もともとは古代中国の五行説からきたもので、宇宙は木火土金水の五元素から成ると考えられていた。そして、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の18日もしくは19日間を土用といった。つまり季節の変わり目で、土の働きが旺盛になる期間と考えたのであろう。しかし、今日では俳句の季語でも夏であるように、土用といえば夏の土用を指すのが一般的である。
ところで、土用にウナギを食べる習慣は、奈良時代からある。『万葉集』の中で大伴家持が吉田石麿という老人がいくら飯を食べてもやせているのを見て、夏やせにウナギがいいよ、とからかっている歌がある。
石麻呂に吾れもの申す。夏痩せによしといふものぞ むなぎとり召せ (いつも痩せている石麻呂君よ、夏痩せに良いという鰻でも食べたらどうかね)
これが丑の日に限定されていわれるようになったいきさつについては、平賀源内の話が有名である。
江戸時代の蘭学者・平賀源内は、あるウナギ屋から看板を依頼されたとき、大伴家持の歌を思い出し、土用の丑の日にウナギを食えば夏痩せを防ぐことができるという意味から「今日は丑の日」という看板を書いて与えたところ、たちまち広く言い伝えられウナギ屋は大繁昌した。そこで、江戸中のウナギ屋も「今日は丑の日」の看板を掲げたという。
地方によっては、丑の日にちなんで、ウのつく食物をとると暑気にあてられないといい、うどん、うり、牛肉などを食べるところもある。
小正月に行われる豊作祈願の芸能の一つ。予祝の模擬田植えを演じる田遊びがさらに舞踏化したもので、名称は田面をすりならす農具の「えぶり」からきている。古くは「ゑぶりすり」と呼んだ。
青森県八戸市を中心として岩手県九戸郡から青森県上北部にかけて分布する。現在、八戸市では2月17~20日に行われる。えんぶり組の踊り手(鳥帽子太夫)は3人か5人で農作業や縁起物を描いた鳥帽子をかぶり鳴子板・カンダイ(鍬)・松などを持って舞い、家々をまわる。
アイヌがこどもを背負うときに使う編み紐、バッカイは子をおぶう、タラは編み紐を意味している。紐の両端に近いところに、短い木の棒をわたしてしばったもの。背負う者が着ている着物の中でこどもを背負い、着物の外側からバッカイタラの木の棒に、こどもの尻をのせる。紐の中央部分を背負う者の額にかけて、紐の両端は前にまわしてしばる。イェォマブという地方もある。(参考:萱野茂『アイヌの民具』1978)
農作物の鳥獣害を避ける手段は、およそ3種に分類できる。
1.農神や田の神を迎えて豊穣を祈るとともに、害を避けようとする方法で、神の依代の人形や神札を田畑に立てたり、注連を張り廻す。これを中部東海地方ではソメといい、静岡地方では山人(やまびと)、北陸近畿以西では脅(おどし)といっている。
2.悪臭のする物を畦畔に置いて、鳥獣を畏怖または嫌悪させる方法で、襤褸(ぼろ)・毛髪・魚の頭・獣肉などを焼いて串に挟んだり注連に下げたりする。これを一般に嗅(かが)しという。
3.物音を立てたり、鳥獣の死屍を吊し下げて畏怖させる方法で、人が大声で追うたり、水車・板木・空缶・空砲を利用したり、死屍を吊るしたり、その方法は近年の発案が極めて多く変化に富んでいる。山の添水(そうず)・ボットリというのは、水力による搗杵の音の利用名であり、夜追・猪追・鳥脅そのほか新案の名称も多い。現在ではこれらのものを総称して案山子(かがし)という。 (参考:『民俗学辞典』東京堂 1951年)
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