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2019年1月18日 (金)

厄神詣で

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多井畑厄神(神戸市須磨区)毎年1月18日から1月20日まで行われる厄除け祭には多くの参拝者で賑わう

    男42歳、女33歳の大厄を初め、その他の厄年にあたった人が、厄難をまぬかれるために厄払いをする。厄払いにもいろいろ方法がある。家を出て身につけたものをわざと途中で落とし、顧みず、乞食などに拾わせる。褌を落としてくるふぐりおとし。年の数だけの銭を包む厄払いの包み銭など。厄神参り、厄神詣でと呼ばれるものもある。

   「やあらめでたや、こなたの御寿命申さば、鶴は千年、亀は万年、浦島太郎が八千歳、東方朔が九千歳、三浦の大介百六つ。かかるめでたき折柄に、いかなる悪魔が来るとも、西の海へさらり」などという。

2019年1月 7日 (月)

七草がゆ

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    きょうは七草粥。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、すずな、すずしろ、春の七草を刻んで食べる。万病を除くおまじないであるが、おせち料理で疲れた胃を休める効能もある。泉隆寺(神戸市中央区)は古来から水はけが良く、良質の大根を産出してきたらしい。醍醐天皇のときにこの地で栽培した若菜(七草のすずしろ=大根)を宮中へ献上したのが由来となって、毎年1月7日に若菜をそえて、食する習わしが始まった。別名「若菜寺」と呼ばれる泉隆寺では、いまでも七草がゆ法要が行われている。

2019年1月 1日 (火)

年賀状の由来

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 正月の楽しみは年賀状だろう。だが終活をしていくうちに年賀状を出さなくなった。今年は家内も年賀状を書けずに電話でするすという。

江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。

   ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。(1月1日)

2018年12月31日 (月)

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

大晦日の祖先祭祀の風習について

  ゆく年くる年。新しい年は、平和で明るい社会であることを願いたい。青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

除夜の鐘の由来

大晦日定めなき世の定めかな(西鶴)

ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)

高窓に星吹き寄せぬ除夜の鐘(花野女)

 大晦日を「除日(じょじつ)」ともいう。旧年を除く日ということである。除日の夜が除夜だ。除夜の鐘を108つくのは、中国の仏教儀式で、宋時代から始まったという。ただつけばよいというわけではなく、交互に、強く54点、弱く54点、そして107点までは旧年に、最後の一点を新年につく。

   108の数は、1年12ヵ月と、立春などの24節気、それを三分した72候、の合計だというが、後に108の煩悩を一つずつ消すためといわれるようになった。108の煩悩とは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と六塵(色、声、香、味、触、法)におのおの好、悪、平があるので、計36程の煩悩が生じ、それが過去、現在、未来あるので108となる。

    古くは1日が夜からはじまって朝につづくと考えられていたので、祭は多く前夜から行われた。年越しの祭も前夜からはじまるとし、大晦日の夜を「おおとし」「としのよ」といい、年神(歳神)を迎るために厳重な物忌をし、夜通し起き明かすのが古風な作法であった。今でも除夜の鐘を聞くまで床に入らなかったり、早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいい、また寝るというのを忌んで、「寝る」ことを「稲を積む」という地方もある。また年ごもりといって、この夜は神社に参籠(さんろう)して夜を明かすところがあったが、現代では一般にそれを簡略して夜中に参るか元旦未明に参るようになった。また「歳籠り」といって氏神の社にこもって夜を明かす風習もあり、京都祇園社の「おけら祭」などのように、古い社では除夜に、新しく火を鑽り出し、氏子に配る行事がある。農家などでは、大歳の晩から元旦にかけて、いろりの火を絶やさぬようにするところも多い。この際、火種にする薪を「ようぎほだ」「せちほだ」などと呼び重要視した。そのほかいろりや氏神の境内で大火をたくところもあり、兵庫県では「年越しとんど」といって、古い注連縄などの神飾りの不用なものを焼くところもあった。

2018年12月 6日 (木)

ピースサインの起源

Idiotoccupiedbusy   記念写真の撮影などで子どもや若い女性たちが被写体のとき、いまでもVサインをよくする。もともとは第二次世界大戦中のイギリスのチャーチルが戦争の継続と勝利への強い意志を表現するためにVサインを使用した。つまりVとは「VICTORY(勝利)」の頭文字に由来する。だがVサインはピースサインともいって、子どもたちは「ピース」と言いながら被写体になることが多い。日本では、いつ頃からVサインが流行したのであろうか?。戦時中はVサインなどをすれば、非国民と非難されたであろう。戦後もすぐに流行した記録はない。昭和40年代中頃にはVサインは一般にも知られるようになっている。グループサウンドのミュージシャンたちがVサインをしたであろうし、全共闘の学生たちがピース(平和)の象徴として使用したであろう。もっとも記憶に残るVサインといえばアニメ「巨人の星」の星一徹のVサイン。飛雄馬が甲子園へ旅立つ汽車に向かって、駅のホームから送る一徹のVサインは「百万べんの激励の言葉よりジーンときたぜ!」と飛雄馬は語る。同じころ女子バレーの「サインはV」。スポ根ブームとともにお茶の間からVサインは流行した。一説によると1972年に井上順がカメラのCFでVサインしたことで流行したともいわれている。だがピース・サインは昭和30年代半ば、すでに使用例がいくつか見られる。昭和の映画で宣伝用スチール写真(映画館の前にペタペタ貼っていたモノクロ写真)などをみると、昭和35年の東映映画「億万長者」(小林恒夫監督)で女優の中原ひとみが可愛くピース・サインをしている。これが現在確認できる日本最古のピースサインである。昭和36年頃と思われるが、ステージでザ・ピーナッツがピースサインをしている。 

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2018年11月23日 (金)

てるてる坊主、じつは女性

   軒先に吊るして晴天を祈る「てるてる坊主」の風習はいつ頃から始まったのか。坊主というからには、疑いもなく男性がモデルだと思ってしまうが、由来を調べると、じつは女性である。中国では揚子江に伝わる伝承に、白い首、紅と緑の着物、ほうきを持った掃晴娘(サオチンニャン)というお人形を軒につるしてお天気を祈ったことから始まる。れが日本へ伝わる。奈良時代とも平安時代ともいわれるが、文献として明らかになるのは江戸時代中期から。この頃は現在と異なり折り紙のように折って作られるもので、より人間に近い形をしており、その形代を半分に切ったり、逆さに吊るして祈願した。「嬉遊笑覧」(1830年)には、晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すと記している。現在のような、白い紙や布にくるんだ人形になったのは明治になってからのことかもしれない。

2018年11月16日 (金)

縮み志向の日本人

   李御寧(イ・オリョン)の日本人論の名著「縮み志向の日本人」(1982年、学生社)。著者は、盆栽・俳句・扇子などの伝統文化から、トランジスタなどの近代文化まで、「和魂」が創出したものは、小さいものに美を認め、あらゆるものを「縮める」とこに日本文化の特質がある、と説く。

2018年10月27日 (土)

ハロウィンがやってくる

  仮装やコスプレをして、パーティを開いて楽しむ人たちが増えて近年盛んになってきたけどハロウィンっていったい何?もとはアングロ・サクソン系の祭日。10月31日すなわちキリスト教の万聖節の前日をいう。古くはヨーロッパの原住民ケルト族の収穫感謝の祭日「サウィン祭」で、ケルト暦の大みそかにあたり、ケルト伝説によればこの夜、悪霊たちが迫りくる長い冬を避けて遠くに飛び去り、魔術師たちが戸外を駆け巡って来年の予想を声高に叫び歩いたという。現在でもこれらの習慣が残されており、仮面をかぶって広場で踊り、子供たちがカボチャをくりぬいたランプを提げて行脚を行う。「ジャック・オ・ランタン」という。本来はカブのランタンをともしながら暗い道を歩き続けたというアイルランドの伝説に由来される。

  ハロウィンが日本で知られるようになったのは1970年代になってのこと。でもレイ・ブラッドベリの小説「ハロウィーンがやってきた」(1975年)や映画「キャスパー」(1995年)などハロウィーンを題材とした作品はわずかである。東京ディズニーランドでイベントが催されたり、お菓子メーカーが作られて、次第に日本人にも90年代末頃から浸透してきました。さて、ここでハロウィンに関する三択クイズです。ハロウィンといえばカボチャですが、そのほかにも世界中で食べられるお菓子があります。それは何んでしょうか?

A.クッキー

B.チョコレート

C.ケーキ

 

答え A

Jack O'Lantern

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