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2020年4月 1日 (水)

エイプリル・フール

Aprilfools 4月ばか、April Fool、万愚節。友人たちをかついで興じる日。この習慣の起源については定説はない。16世紀頃からフランスで始まった習慣とされる。フランス語でPoisson d'Avril(4月の魚)といい、この時期よく捕れるサバのことを指している。1564年にシャルル9世がいまの暦であるグレゴリオ暦にかえたが、なかなか浸透しない。そこである貴族が4月1日に公爵の屋敷でパーティーがあるという嘘の招待状を出したのがはじまりといわれている。民衆が王に反発して、4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、バカ騒ぎをするようになったという説もある。だが「4月ばか」の慣習は18世紀初めまではそれほど一般に広まらなかった。イングランドでは、もっとも好まれた遊びは「無駄なお使い」に出すことであり、Aが犠牲者をBのところに使いに出すと、Bはさらに彼をCに送る。こうして犠牲者は、気づくまであちこちにやられるのである。北欧のスウェーデンでもエイプリルフールは盛んである。April skamt  アプリール・ファムト(四月冗談)という。一説によるとエイプリルフールは、キリスト教の死んだ日と関係するといわれる。キリストが死んだ日は春分の日(ニサン)の新月の日から14日たった日といわれる。(4月1日)

2020年2月 8日 (土)

安産祈願と絵馬

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    祈願や報謝のために、社寺に絵馬を奉納する習俗の起源はいつからかはっきりとわからない。絵馬といっても画家の手になる大絵馬から、庶民の切ない個人祈願の小絵馬までさまざまである。最古の絵馬は、古代における神への生馬献上の習俗に発する。1999年に難波宮跡から出土した飛鳥時代のものが7世中頃とみられる。平安時代の今昔物語に「板に書きたる絵馬有り」と見え、その起源は平安時代(12世紀前半)に認められる。だが民間祈願の絵馬奉納が江戸期にどの程度普及していたかは分からない。子供誕生に際し絵馬を奉納する習俗が昭和期戦前に各地に見える。子供の氏子入りの行事と、子供の成長の無事を祈願する目的である。絵柄は武者絵であるが、戦時中は肉弾三勇士のような戦時色の濃いものとなった。戦後は干支が一般的である。近年は、安産祈願した神社に無事に生まれたお礼と挨拶をし、安産祈願のときの絵馬にお礼を書いて、3人の名前を記入して奉納するらしい。参考:奈良県立橿原考古研究所「飛鳥宮と難波宮・大津宮」2014年

「えんぶり」祭りと歴史

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  小正月に行われる豊作祈願の芸能の一つ。予祝の模擬田植えを演じる田遊びがさらに舞踏化したもので、名称は田面をすりならす農具の「えぶり」からきている。古くは「ゑぶりすり」と呼んだ。

   青森県八戸市を中心として岩手県九戸郡から青森県上北部にかけて分布する。現在、八戸市では新羅神社で2月17~20日に行われる。えんぶり組の踊り手(鳥帽子太夫)は3人か5人で農作業や縁起物を描いた鳥帽子をかぶり鳴子板・カンダイ(鍬)・松などを持って舞い、家々をまわる。

    江戸時代の学者・菅江真澄(1754-1829)によると、えんぶりは女性が男性の格好をして踊ったものと記している。明治以降は男性が踊るものと思われてきたが、昭和49年八戸で女性がえんぶりを行い、人々を驚かせたという。

こちらのサイトをご参考に http://www.city.hachinohe.aomori.jp/kanko/festival/enburi/

 

 

2020年2月 3日 (月)

節分の豆撒き、恵方巻

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  浅草寺節分会

 

  本日は節分。夜になって、「鬼は外、福は内」などと唱えながら豆を内外に投げ、鬼を追って戸口をとざす。節分の豆まきの習俗は何時ごろかわからない。陰陽道の影響があり、室町期に中国の風俗を採り入れたものと考えられている。江戸時代に民間に盛行し、社寺でも厄除神事として定着した。現代でも節分の豆撒きの風習は消えたわけではない。ただし入口に「立春大吉」のお札を貼ったりする風習は都会では見られなくなった。節分に恵方巻という巻き寿司・太巻きを食べる習慣は、1989年にあるコンビニ(セブンイレブン?)が売り出したのが全国に広がったという説が有力である。今年の恵方は西南西の方向。(2月3日)

 

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入口に貼られた「立春大吉」のお札(昭和30年頃)

2020年1月21日 (火)

砂の器「亀嵩」

Img_0005 ズーズー弁の分布 東篠操編「日本方言地図」音韻分布図(金田一春彦作図)

 

   むかし民俗学の柳田国男は「かたつむり」(蝸牛)の方言が東北地方の北部と九州でツブリであり、関東や中国でカタツムリ、中部や四国でマイマイ、そして京都を中心とする近畿地方で、デデムシのように分布することを発見し、これによって、かつて蝸牛の方言がナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシのように変化し、それぞれが東西または南北へ放射されたと推定した。柳田の仮説を後の学者は方言周圏論と名づけたが、よくわからないところも多い。語彙には認められるものの、音、アクセントにはあてはまらないとする説もある。

   東北地方の方言の特徴は、「し」と「ず」、「ち」と「つ」、及び「じ」「ず」「ぢ」「づ」の区別をつけないので、「ズーズー弁」と言われることが多い。歴史的経緯から近畿地方の古い語彙は地方に残っていることが多いといわれる。近畿地方から遠く離れているはずの東北地方で古語が残っていることは一般的に知られているが、出雲弁、安来弁、米子弁といわれる雲伯方言にも東方地方の方言との類似性が高いことが国立国語研究所などの調査で明らかになった。これを推理小説の犯人捜査に上手に取り入れたのが、松本清張の「砂の器」である。

東京蒲田操車場で殺人事件が発生した。しかし被害者の身許が不明で捜査は難航する。迷宮入りかと思われた矢先、被害者が殺される直前にある男と会っていたことが判明した。2人の会話のなかで交わされていた「カメダ」という言葉、地名か?人の名か?今西警部ら捜査班は事件解明のために奔走する。そして殺害された被害者の東北弁「カメダ」から、島根県亀嵩(かめだか)を探し出した。当時は仁多町だったが、2005年に奥出雲町に変更している。しかし、この亀嵩という地名は小説、映画などで相当に知られており、奥出雲よりポピュラーな地名ではないだろうか。「この亀嵩の位置は、鳥取県の米子から西の方に向かって宍道という駅がある。そこから支線で木次線というのが、南の中国山脈の方に向かって走っているのだが、亀嵩はその宍道から数えて十番目の駅だった。亀嵩の地形はまさに出雲の奥地である。たった今、国語研究所で見せてもらった資料のズーズー弁の使われている地方のどまん中だった」(「砂の器」)

   町には湯野神社があり、「風土記」に「湯野、小川、源出玉峰西流云々」とあり、亀嵩の旧地名であろう。

 

 

2020年1月19日 (日)

アイヌ人のルーツは縄文人か?

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      悪魔払い(ウニエンテ)の儀式

   自民党の麻生太郎が15日の講演会で、「2000年の長きにわたり、1つの民族、1つの王朝が続いている国は日本しかない」と発言している。翌日すぐに謝罪したものの、むかしから日本が単一民族国家と自慢する政治家はあとを絶たない。アイヌ民族が先住民であることは歴史的に明らかであり、また象徴天皇を一つの王朝と認識することも憲法の精神から不適切な表現である。日本人の形態や遺伝的性質から、アイヌ、本土日本人、琉球の3つの集団に分かれる。本土日本人つまりヤマト民族は渡来系の弥生民族であり、アイヌのルーツは縄文人と考えられる。アイヌ語は、大きくは北海道方言、樺太方言、千島方言とに分かれる。北海道の多くの地名や、トナカイ、ラッコ、オットセイ、シシャモなどの単語など、知らないうちに日本語になったアイヌ語も多い。アイヌ語は文字のない言語で、表記はローマ字やカタカナが使われる。文法面では、否定辞が動詞の前にくる以外は、日本語とほとんど語順が同じで、学びやすい言語の一つである。

 

 アッシ(着物)

 

 イコロ(お金)

 

 イトウ(神にささげる祭具)

 

 イヨマンテ(熊送り)

 

 ウタリ(仲間)

 

 カムイ(神)

 

 カムイワッカー(酒)

 

 キムンカムイ(ヒグマ)

 

 ク(弓)

 

 コタン(村)

 

 チセ(家)

 

 チャランケ(なんくせ)

 

 ヌブリ(山)

 

 ノンノ(花)

 

 ハボ(母)

 

 ピリカ(美しい)

 

 ベツ(川)

 

 ミナ(父)

 

 メノコ(女)

 

 ユーカラ(詩曲)

 

 ワッカー(水)

 

 

2020年1月18日 (土)

厄神詣で

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多井畑厄神(神戸市須磨区)毎年1月18日から1月20日まで行われる厄除け祭には多くの参拝者で賑わう

    男42歳、女33歳の大厄を初め、その他の厄年にあたった人が、厄難をまぬかれるために厄払いをする。厄払いにもいろいろ方法がある。家を出て身につけたものをわざと途中で落とし、顧みず、乞食などに拾わせる。褌を落としてくるふぐりおとし。年の数だけの銭を包む厄払いの包み銭など。厄神参り、厄神詣でと呼ばれるものもある。

   「やあらめでたや、こなたの御寿命申さば、鶴は千年、亀は万年、浦島太郎が八千歳、東方朔が九千歳、三浦の大介百六つ。かかるめでたき折柄に、いかなる悪魔が来るとも、西の海へさらり」などという。

2020年1月 7日 (火)

七草がゆ

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    きょうは七草粥。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、すずな、すずしろ、春の七草を刻んで食べる。万病を除くおまじないであるが、おせち料理で疲れた胃を休める効能もある。泉隆寺(神戸市中央区)は古来から水はけが良く、良質の大根を産出してきたらしい。起源は中国で、毎年1月7日に7種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが平安時代中期頃に日本に伝わり七草がゆが生まれた。醍醐天皇のときにこの地で栽培した若菜(七草のすずしろ=大根)を宮中へ献上したのが由来となって、若菜をそえて、食する習わしが広まった。別名「若菜寺」と呼ばれる泉隆寺では、いまでも七草がゆ法要が行われている。

2020年1月 1日 (水)

年賀状の由来

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 正月の楽しみは年賀状だろう。江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。(1月1日)

2019年12月31日 (火)

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

 

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