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2022年1月18日 (火)

厄神詣で

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多井畑厄神(神戸市須磨区)毎年1月18日から1月20日まで行われる厄除け祭には多くの参拝者で賑わうが今年はコロナの影響で少ない

    男42歳、女33歳の大厄を初め、その他の厄年にあたった人が、厄難をまぬかれるために厄払いをする。厄払いにもいろいろ方法がある。家を出て身につけたものをわざと途中で落とし、顧みず、乞食などに拾わせる。褌を落としてくるふぐりおとし。年の数だけの銭を包む厄払いの包み銭など。厄神参り、厄神詣でと呼ばれるものもある。

   「やあらめでたや、こなたの御寿命申さば、鶴は千年、亀は万年、浦島太郎が八千歳、東方朔が九千歳、三浦の大介百六つ。かかるめでたき折柄に、いかなる悪魔が来るとも、西の海へさらり」などという。

2022年1月 7日 (金)

七草がゆ

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    きょうは七草粥。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、すずな、すずしろ、春の七草を刻んで食べる。万病を除くおまじないであるが、おせち料理で疲れた胃を休める効能もある。泉隆寺(神戸市中央区)は古来から水はけが良く、良質の大根を産出してきたらしい。起源は中国で、毎年1月7日に7種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが平安時代中期頃に日本に伝わり七草がゆが生まれた。醍醐天皇のときにこの地で栽培した若菜(七草のすずしろ=大根)を宮中へ献上したのが由来となって、若菜をそえて、食する習わしが広まった。別名「若菜寺」と呼ばれる泉隆寺では、いまでも七草がゆ法要が行われている。

2022年1月 1日 (土)

おせち料理の由来について

新しき年の始の初春の今日降る雪のいや頻(し)け寿詞(よごと)

 

   大伴家持

 

Photo_2  元日の朝、正月のお祝い膳にかかせないのが「おせち料理」である。「おせち」とは御節供(おせちく)のつまったもので、昔は五節供の節目に用いられる料理のことをいったが、次第に正月の料理だけをいうようになった。正月の祭事の食物に里いものような穀類を特別重要視する習慣は縄文時代からの穀類起源神話からもうかがえる。インドネシアの神話に、ハイヌウェレという少女の死体から芋などの作物が生まれ、人びとの主食となったという神話がある。ドイツの学者アドルフ・イエンゼン(1899-1965)はこれを「ハイヌウェレ型神話」と呼び世界に同類の神話が存在するとした。日本の記紀にみられるオオゲツヒメも縄文時代の中期に南方から渡来した可能性が高いと学者は説く。おせち料理は年神様にお供えして、家族の繁栄や、多産、豊年、長寿、家内安全のなどを願う、縁起物の家庭料理である。

 

   「数の子」は、にしんの卵だが、「二親・にしん」から、たくさんの子がうまれてめでたいと、子孫繁栄の縁起をかついでいる。古くからおせちに使われる。

 

 「田作り」は、ごまめともいい、かたくちいわしのの幼魚を炒って飴煮したもの。昔たんぼの肥料に使ったところ、たいへん米がとれたため、豊年万作を祝う農民が正月に田作りを食べるようになった。

 

   「黒豆」は、一年中の邪気を払い無病息災を願って屠蘇で祝うが、そのときに用いられる祝い肴のひとつ。黒豆(くろまめ)・まめ(丈夫)に暮らせるようにという縁起に因んだもの。 

 

 「昆布巻き」は、昆布と「よろコブ」をかけて幸福を願う。

 

 「海老」は長いひげをはやし、腰が曲がるまで長生きすることを願って使われる。

 

 「鯛」は、鯛と「めでタイ」をかけて幸福を願う。

 

 「くわい」は芽が出る事から「出世しますように」という縁起物です。

 

 「れんこん」は沢山の穴が開いていることから「先が見える・先の見通しが良い」とされる縁起物です。

 

 「たたきごぼう」は根がしっかり根付くことから「家の土台がしっかりするように」とされる縁起物です。

 

 「棒だら」は鱈腹(たらふく)食べられるという意味で腹=福から来ています。

 

 「栗きんとん」金団と書き、その色から黄金・財産に見たてた豊かな1年を願う料理です。

 

   「屠蘇」とは魏の名医華佗の処方という、年始に飲む薬・屠蘇散に由来する。屠蘇散を入れて、酒・みりんに浸して飲む。一年の邪気を払い、齢を延ばすという。平安時代から行われている。(1月1日)

 

参考:『江馬務著作集5』 中央公論社 P191~196

 

 

2021年12月31日 (金)

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

 

大晦日の祖先祭祀の風習について

 大晦日から元日にかけて、日本海側中心に強風や厳しい寒さとなる。新しい年は、平和で明るい社会であることを願いたい。青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

2021年12月11日 (土)

年賀状の由来

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 そろそろ年賀状の準備をする頃となった。やはり正月の楽しみは年賀状だろう。江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。昭和12年には現在のように12月15日から25日までの間に投函する、元日に届く年賀郵便の特別扱いが開始された。ちなみにお年玉付き年賀状は昭和25年に始まり、京都の林正治(1909-1990)のアイデアである。近年はメールやSNSの普及で、2003年が44億枚をピークで、そこから減少傾向となり、2021年はついに20億枚を下回っている。

2021年12月 6日 (月)

「なまはげ」祭りと歴史

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   秋田県男鹿半島の村々では「なまはげ」という奇習が古くから伝わる。かつては陰暦1月15日の行事だったが、戦時中に一時中止され、現在は大晦日または新暦1月15日に行われるようになった。

   この日は、恐ろしい鬼の面をかぶり、ケラ蓑、わらぐつ、腰みのをつけ、大きな木製の刃物を持ち、箱の中に小さな物を入れてからから鳴らして、二三人一組となった若者が、「ウォーウォー」と奇声をあげながら「くなもみコ剥げたかよ」「包丁コとげたかよ」「小豆コ煮えたか煮えたかよ」などと唱えながら家々を訪れ、「泣ぐ子はいねが」と小児を戒筋し、神棚に礼拝し、祝言をのべる。それを正装した主人が酒肴や餅などで迎える。鬼は酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家へ行く。仕事もせずに、火にあたってばかりいる怠け者には、ナモミ(火斑)がつくといわれ、これを引きはぐ「ナモミハギ」が「なまはげ」に転化したものといわれる。そのほか、「生身剥」の転化説もある。

   以上が「なまはげ」の語源であるが、習俗の由来については諸説あり、①漢の武帝が五匹の鬼をしたがえて男鹿に上陸し、年中鬼を酷使したので、その報酬として、正月15日、一日だけ村里に出て、自分のほしいものを勝手に探し求めてよいとの許しを与えたという説、②天狗伝説などにも見られる異邦人説、③男鹿の真山本山で修業する修験者がモデルになっているという説、④蓑笠をつけ、顔をかくして旅をするものを存在したことは「日本書紀」の神武紀のシイネツヒコとオトウカシの伝承とする説、などがある。

 ナマハゲの同様の習俗はナゴミタクリ、ナモミハギ,ヒガタタクリ、シカタハギ、スネカ、アマミハギ、オドシなどの名でよばれ、東北に広く、また北陸地方へかけて分布している。九州では「かせどり」という。(12月31日)

2021年10月31日 (日)

ハロウィン

  仮装やコスプレをして、パーティを開いて楽しむハロウィンだが、今年も新型コロナウイルス感染拡大防止のため、自粛ムードになりそうだ。そもそもハロウィンっていったい何なのか?もとはアングロ・サクソン系の祭日。10月31日すなわちキリスト教の万聖節の前日をいう。古くはヨーロッパの原住民ケルト族の収穫感謝の祭日「サウィン祭」で、ケルト暦の大みそかにあたり、ケルト伝説によればこの夜、悪霊たちが迫りくる長い冬を避けて遠くに飛び去り、魔術師たちが戸外を駆け巡って来年の予想を声高に叫び歩いたという。現在でもこれらの習慣が残されており、仮面をかぶって広場で踊り、子供たちがカボチャをくりぬいたランプを提げて行脚を行う。「ジャック・オ・ランタン」という。本来はカブのランタンをともしながら暗い道を歩き続けたというアイルランドの伝説に由来される。

  ハロウィンが日本で知られるようになったのは1970年代になってのこと。でもレイ・ブラッドベリの小説「ハロウィーンがやってきた」(1975年)や映画「キャスパー」(1995年)などハロウィーンを題材とした作品はわずかである。東京ディズニーランドでイベントが催されたり、お菓子メーカーが作られて、次第に日本人にも90年代末頃から浸透してきました。さて、ここでハロウィンに関する三択クイズです。ハロウィンといえばカボチャですが、そのほかにも世界中で食べられるお菓子があります。それは何んでしょうか?

A.クッキー

B.チョコレート

C.ケーキ

  ↓
  ↓
  ↓

答え A

 

 

 

 

 

 

2021年4月 1日 (木)

エイプリル・フール

Aprilfools 4月ばか、April Fool、万愚節。友人たちをかついで興じる日。この習慣の起源については定説はない。16世紀頃からフランスで始まった習慣とされる。フランス語でPoisson d'Avril(4月の魚)といい、この時期よく捕れるサバのことを指している。1564年にシャルル9世がいまの暦であるグレゴリオ暦にかえたが、なかなか浸透しない。そこである貴族が4月1日に公爵の屋敷でパーティーがあるという嘘の招待状を出したのがはじまりといわれている。民衆が王に反発して、4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、バカ騒ぎをするようになったという説もある。だが「4月ばか」の慣習は18世紀初めまではそれほど一般に広まらなかった。イングランドでは、もっとも好まれた遊びは「無駄なお使い」に出すことであり、Aが犠牲者をBのところに使いに出すと、Bはさらに彼をCに送る。こうして犠牲者は、気づくまであちこちにやられるのである。北欧のスウェーデンでもエイプリルフールは盛んである。April skamt  アプリール・ファムト(四月冗談)という。一説によるとエイプリルフールは、キリストの死んだ日と関係するといわれる。キリストが死んだ日は春分の日(ニサン)の新月の日から14日たった日といわれる。(4月1日)

2021年3月 3日 (水)

男雛と女雛の並べ方は?

 本日3月3日はひな祭り。気になるのは、最上段に飾る男雛と女雛の位置だ。伝統的な京式ではひな壇に向かって右側が男雛であった。雛人形の男雛、女雛の配座はどちらが上席か意見が分かれる。現在、商品として展示されている雛人形を見ると、向かって左側に男雛が配置されているのが一般的である。

 

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京阪風古今雛屏風飾り(江戸後期)

 

    江戸時代までは、男雛は向かって右側であった。これは古来日本では陰陽五行説に由来して、左側(向かって右)を上席とされてきたため、京風の時代雛では男雛が左側(向かって右)となっている。だが明治24年に全国の学校に置かれた御真影では、外国の皇室を見習って天皇は向って左であった。大正から昭和初め頃、三越や高島屋などデパートがこれらにならって男雛と女雛の配座を入れ替えた。東京雛人形卸商組合が、それにならい、またたく間に全国に広がり、今日に至っている。関西では、伝統的に京風を守り、向かって右に男雛を配置することもまだ残っている。では、左右どちらに配置したらよいのか?さぞや悩まれる方も多いのではないだろうか。各家庭の今までのしきたり等で飾っていかれたらよろしいのではないでしょうか

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