無料ブログはココログ

2022年9月13日 (火)

西郷隆盛像

 森喜朗氏の銅像計画が進んでいる。だが東京五輪のスポンサー選定で、金銭の授受が明るみになって、銅像計画に非難の声も出ているという。日本全国各地にある銅像の中でもとりわけ有名なのが、東京上野公園に建っている西郷隆盛の銅像。この銅像は、高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)。鋳造は岡崎雪聲。1898年12月18日に除幕式が行われた。公開の際に招かれた西郷糸子は「うちの主人はこんなお人じゃなかった」ともらしたといわれる。糸子の発言については、銅像の顔が本人に似ていないと解釈するのが一般的であるが、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく、普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないという意味だったとする解釈もある。ウサギ狩りに行く様子を描いたとされている。西南戦争で朝敵となった西郷を明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったとする考えがある。NHK大河ドラマ「西郷どん」でもこの除幕式のシーンが冒頭にあった。軍楽隊の曲目はヘンデルの「見よ、勇者は帰る」。甲子園での高校野球でお馴染みの曲だが、イギリス人が明治初期から日本に伝え、明治陸海軍ではさかんに演奏されていた。

 

 

2022年8月26日 (金)

崇徳院の怨霊

D774ce39e703726da347ll     保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐松山に配流された。のち雲井御所で約3年間過ごし、鼓が岡の木丸御所(坂出市)で6年間苦難の日々を過ごした。院は指の先から血をしたたらせながら五部の大乗蔵を写経した。その経文を都のどこかに奉納したいと願ったが、信西のために送り返された。院はこの恨みをはらすため自分の血で願文を書き、魔道に生きようとした。1164年8月この地で崩御された。46歳であった。歌人の西行はかねてから院の知遇を得ていたが、その没後4年たって讃岐へ渡り、白峯(香川県坂出市青海町)の崇徳上皇の御陵を訪れている。そこで西行は真心をつくして院に諌めの言葉をかけるが、上皇の怒りを抑えることはでなかった。この話は上田秋成の『雨月物語』「白峯」にも伝えられている。平清盛の次男基盛の溺死、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀など変事が起こり、上皇の御霊を鎮めるため白峰寺に頓証寺殿(画像)が建てられた。後世になっても、天変地異があればよく崇徳上皇の崇りとされた。崇徳上皇は歴代天皇の中で、最も恐れるべき霊とされたのである。(8月26日)

 

 

2022年8月18日 (木)

徳川家治は名君だった!?

240pxtokugawa_ieharu     徳川15人代の中で第10代将軍徳川家治(1735-1786)は将軍在職26年という長期にわたる割に何故かその人物像は知られていない。家斉50年、吉宗30年、家綱29年、綱吉29年、家光28年と第6位である。

    その性質は温和であり、文武両道を嗜み、壮時は快活であり、力持ちでことに記憶がよかった。射礼を復興し、ことさらに絵を描き、書画の鑑定にまさったと伝えられる。将棋も好んだ。しかし、旧慣を重んじ異風・珍味・華美は嫌いであり、妓女などが舞曲を奏するというので山王祭も見物せず、筝三絃も好まなかった。とても時間厳守で几帳面であった。また、知識欲も旺盛で、海外の情勢に留意し、物価の高低も知り、流行病や大名旗本の病気の有無をも尋ねた。ところで、病には下々をおもい、特に関心をもった。それらのために医書の出版も心がけたのである。蘭学を奨励し、解体新書が出版されたのも家治の時代である。

 1769年8月18日、家治は側用人・田沼意次を老中格に抜擢した。これまで家治は田沼意次人に重用したため、暗愚と見なされていたが、田沼の評価が上がった今、家治の再評価もすべきか。問屋・株仲間制度の強化など商業資本との結びつきを企図するなど開明的な政策がとられた。ともかく泰平の将軍としては名君といえるだろう。

2022年8月17日 (水)

歴史資料と憲政資料室

089001l高木惣吉の日記

 

  戦後の社会的混乱の中で、貴重な文書類が散逸の危機にあったが、1947年、国立国会図書館内に憲政資料室が開設された。幕末期から現在にいたるまでの政治家、軍人、官僚などが所蔵していた文書類を中心とする。開設にあたっては大久保利通の孫である歴史家・大久保利謙(1900-1995)の尽力があったことも特筆される。

    どのような資料が所蔵されているかは国立国会図書館のホームページでわかる。「高木惣吉関係文書」によると昭和19年8月末、海軍少将・高木惣吉(1893-1979)は井上成美海軍次官より終戦工作の密命を受け、重臣・軍人・皇族等の間を往復しながら奔走した。日記には昭和20年5月5日から8月17日までの行動が記されている。また鹿児島県人吉市の桃李温泉には高木惣吉記念館がある。(参考:「高木惣吉 日記と情報」伊藤隆編 みすず書房 2000年7月)

 

Okubotoshitake_2 Kenseihistory1
    大久保利武         大久保利謙

 

 

2022年8月15日 (月)

終戦記念日

Image004

    77回目の終戦記念日。昭和20年8月15日の朝、陸軍大臣・阿南惟幾は「一死、大罪を謝し奉る」と書き残し割腹自殺を遂げた。阿南は鈴木貫太郎内閣の陸相となり、本土決戦論を主張。ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件つき受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立した。渥美清の連続ドラマ「泣いてたまるか」に「ああ、軍歌」という一編がある。ある会社員が宴会で上司から軍歌を無理やり歌わせられるが、どうしても軍歌は歌いたくないと拒んで、周囲から冷たくされるという話。昭和37年ごろから数年間、回顧調ブームが起こりさかんに軍歌が歌われた。いまではテレビなどでほとんど軍歌を聴くことはなくなった。

 本日の全国戦没者追悼式で岸田首相は「歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くす」と述べ、天皇陛下も「深い反省」のお言葉で、平和を願う気持ちを示された。戦争を始めるのが人間ならば、その戦争を未然にくいとめられるのも人間で、8月15日の反省と教訓は、今日を生きる私たちに、重大な責任を負わしめたといえよう。

2022年8月14日 (日)

日本のいちばん長い日

Anamikorechika Oonishi Ugaki3
   阿南惟幾            大西瀧治郎               宇垣纏

 

 玉音放送が流れた昭和20年8月15日正午に至る一昼夜に繰り広げられた歴史ドラマは数本ある。中でも半藤一利のノンフィクションを原作とした岡本喜八監督の東宝オールスター大作はヒットした。しかし、天皇の詔勅を録音したレコード盤の争奪だけの絞った作品であれば、東宝の5年前、1962年に東映が鶴田浩二主演で「八月十五日の動乱」を作っている。ただし、これには実名は出されず、フィクションとして描いている。14日から18日までに自決した軍人は次のとおりである。

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将(1891-1945)が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。大西は特攻攻撃の発案者の一人だった。

    敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。主な軍人の自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

2022年8月 8日 (月)

陰りがみえた小京都ブーム

Photo_2 一乗谷朝倉氏居城跡

 

  戦国大名が抱く京都文化への憧憬から、領国支配の拠点である城下町を京都に似せて造られた地方都市が出現する。西の京都といわれた大内氏の周防山口、越南の都といわれた朝倉氏の越前一乗谷、さらに公家ではあるが一条教房が応仁の乱を避けて下った土佐中村などがある。1970年代には「アンノン族」と称する若い女性たちが全国の「小京都」を求めて観光客で賑わった。金沢、高山、津和野など全盛期には「小京都」と称する市町は63にも上った。ところが2000年代以降、若者の趣味も多様化して「小京都」ブームにも陰りが見えている。現在はピーク時の3割減が「小京都」と称して集客につとめている。

2022年7月25日 (月)

稲作はどこから来たのか?

Photo

  今の「日本のお米」であるジャポニカ米の栽培は、中国大陸の長江の中・下流域で始まったとされている。稲作が日本へ伝来したのは、かつて中学校の歴史教科書で弥生時代の初め頃と教わった。しかし近年、菜畑遺跡、板付遺跡、砂沢遺跡などの発掘調査から稲作は、紀元前4世紀、縄文時代末期から始まっていたと考えられるようになっている。日本に稲作が伝来したルートは主に4つある。長江流域から黄河を越えて、朝鮮半島経由で北九州へ到達したという北方ルート説(A)。長江中・下流域から東シナ海を越えて北九州に伝わったとする東シナ海ルート説(B)。東南アジア、中国雲南から経由する南方ルート説(C)。台湾を経由し島伝いにきたとする説(D)

長江流域の良渚遺跡より直接日本に伝わったとする説も有力であるが、稲のDNA分析の結果からはAルートの伝来が有力と考えられている。Cルートはタイのバン・チアン遺跡が注目されるが、現段階では推測の域を出ず、今後の研究を待たねばならない。1つではなく複数のルートで伝来したのかもしれない。(( keyword;Ban Chieng )

2022年7月21日 (木)

歴史の偶然と必然

 ジャーナリストの田原総一朗さんがある映画の公開イベントに登壇し、安倍元首相の銃撃事件にふれて熱弁している。田原さんは意外と保守的(右派的)な人で安倍という政治家を高く評価している。「最大の原因は警察がてぬるかった」と話しているが、自民党と宗教の問題には踏み込んでいない。もうご高齢なので多くの期待はできない。最近、わたしは銃撃事件があってからメディアの報道に関心をもつことが多い。ここでは歴史の偶然と必然を考えてみたい。もし背後に警護員が一人でも二人でもいたらどうなっていたか。もし応援の日程の急な変更が無かったら。もし自民党のHPに日程をのせていなかったら。もし札幌地裁のヤジ判決が違った内容だったら。もし演説台あと10㎝高かったら腹部あたりに命中し、一命はとりとめていたかも。もし自転車や台車の通行人がいなかったら、状況は変わっていたかもしれない。もし拳銃の火薬の量が間違えていたら。もし山上容疑者に恋人がいて「無敵の人」でなかったらどうなっていただろう。ほんのわずかの幾つもの事象が偶然に重なって出会うことのない二人がわずか7メートルにまで接近した。だが事件はすべて偶然がもたらした要因だけだろうか。むしろ事件には必然性があるように思える。モリカケサクラ数々の問題に司法も国民も甘かった。もし安倍元首相が真実を語って、周囲も忖度が無かった局面は変わっていただろう。歴史の必然性として、独裁者の最期とは哀れではかないものであり、生は偶然であるが、死は必然である。

2022年7月18日 (月)

総理の悲劇

Img    7月8日、安倍元首相が一青年に「grudge(恨み)」で銃撃されて死亡するといった前代未聞の事件が発生した。その後、容疑者の手紙が公表され、事件の背景も次第に明らかになりつつあるが、日本の総理はつくづく悲劇的だと思うこの頃である。選挙に圧勝した岸田内閣の支持率は52%と上昇中である。 日本の総理は就任直後は期待感で支持率は上がるが、漸次に低下し、辞める時には最悪最低となる。その典型が東條英機だろう。戦後、わが子に「英機」という名を命名した例をわたしは知らない。昭和16年、東條英機(1884-1948)は第40代内閣総理大臣に就任し、東條内閣が発足した。明治17年7月30日、陸軍中将・東條英教(1855-1913)の三男として東京で生まれた。兄二人が早死にしているので、事実上は長男に等しい。城北中学(現・戸山高校)から幼年学校・士官学校・陸軍大学校を出た。幼少のころは腕白で勉強もろくにしなかったが、幼年学校あたりから勉強を始め、士官学校は優等、そうして陸軍大学校は首席で卒業した。東條の有能ぶりが認められたのは陸軍省副官となったときで、陸軍の六法全書ともいうべき『成規類聚』をすべて読破し、マスターしたからという。

   昭和16年10月18日、首相に就任し、陸相と内相を兼ね、対米英開戦の最高責任者となった。昭和18年9月8日、イタリアの降伏とともに太平洋の南方前線を放棄し、敗色は濃厚となっていた。昭和19年6月、マリアナ沖海戦で海軍が壊滅的打撃を受けると、制海・制空権をまったく失い、昭和19年7月、「絶対確保線」の一角とされたサイパンがアメリカ軍に占領された。同年7月18日、東條内閣は総辞職した。

   巷間によくいわれる戦争の敗因としては、第一は飛行機の「質」において日本は遅れをとってしまった。開戦当時米英をひきはなしていたわが零戦は新しく出現したグラマンF6F(ヘルキャット)に対抗できなかった。「一機でも多く」ということが叫ばれたが、ほんとうは量より質で負けてしまっていた。第二には電探の出現で、日本海軍極意の戦法である奇襲や夜戦ができなくなってしまった。ひいては艦隊の輪型陣を帳ることもできなくなっていた。燃料も乏しくなっていた。戦争の勝敗はすでに明白であった。

   けれど東條はあくまで戦争を強行しつづけた。東條は首相、陸相、軍需相のほか、さらに参謀総長まで兼任してその独裁を強化しようとした。「飛行機がなくて海軍は戦争が出来ない」というのが海軍の悲痛な叫びであったが、資材の分け前はいぜんとして陸海軍均等の線がやぶれなかった。また兵員も、徴兵権を陸軍がもっていたために、甲種合格者は全部陸軍がとったりし、それがため海軍の予科練入隊者の三分の一は搭乗員として使いものにはならなかったりした。陸海軍の血で血を洗う抗争はその極に達していた。戦争がここまできてから、海軍はようやく海軍の空軍化の必要に気がついたのである。その空軍の指導権を海軍に取られまいとして陸軍は対抗したのである。アメリカはハワイ・マレーの戦いの体験から、航空母艦を主力艦とする「機動艦隊」の編成の切り替えに成功していた。もうまにあわなかった。はじめから無謀な戦争ではあったが、和平工作(終戦)が遅れたことが多くの犠牲者をさらに増やした。軍人・軍属の死亡・行方不明約186万人、一般国民の死亡・行方不明約66万人といわれる。(服部卓四郎『大東亜戦争全史』)

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2022年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30