無料ブログはココログ

2019年2月14日 (木)

蛮社の獄

1839年5月14日、蛮社(蛮学社中)の中心人物で三河田原藩家老の渡辺崋山が、江戸北町奉行に召喚された。つづいて、17日には小関三英が逮捕を予期して突如自殺、さらに18日夜には一時身を隠していた高野長英が奉行所に自首する。蛮社の獄の始まりである。

事件は、幕府の役人たちの反目からおこった。1837年のモリソン号事件にさいして危機感をもった水野忠邦は、江戸湾防御のために、代官江川太郎左衛門と目付鳥居耀蔵に江戸湾巡視を命じた。江川は幕府内部でも開明派として知られた蛮社の一員であり、これに対して林大学頭述斎の次男である鳥居は、徹底した蘭学嫌いの保守派であった。鳥居にとって江川と組むことは、憤懣やる方ない人事であった。

この巡視終了後、江川が渡辺崋山の援助を受け、巡視の復命書を書き上げるについても崋山から助言を受けたことを聞きつけた鳥居は、崋山とその同志について調査させた。鳥居はその調査にもとづき江川らを告発する一方で、崋山が無人島渡航計画に関与したこと、大塩平八郎と関係があったことなどを、水野忠邦に訴え出た。

江川を信頼していた忠邦は、この内容を独自に調査させ、多くは事実無根であることが判明した。しかし、自宅から押収された著書「慎機論」が幕府を誹謗するものとして、崋山は故郷田原に蟄居となり、長英も著書「戊戌夢物語」が幕府批判とみなされ、永牢となる。

1841年10月、崋山は自殺する。長英は45年に脱獄逃亡、50年10月には江戸の隠れ家を役人に急襲され自殺する。

2019年2月11日 (月)

神武天皇と金鵄

00a1a532   本日は建国記念の日。戦前派の人には「紀元節」といったほうがわかりやすい。古事記によれば、我国の天地創造の神はイザナギノミコトとイザナミノミコトである。この二柱の神がまず淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡を生み本州を生んだ。そして、太陽神であるアマテラスやスサノオらの三五柱の神々を生んだ。そしてアマテラスの孫のニニギノミコトが天孫降臨する。ニニギとその妻コノハナサクヤの間にホテリノミコト(海幸彦)やホトリノミコト(山幸彦)が生まれ、山幸彦と豊玉姫の孫が神倭伊波礼毘古命つまり神武天皇ということになる。神武天皇は日向の高千穂宮にいたが、東方の大和地方の諸勢力を平定した。最後に苦戦したとき金色の鵄が弓にとまり、その輝きで勝利したという。日本書紀では神武天皇が紀元前660年1月1日(新暦2月11日)に即位したことになっている。明治になって各地でこの日を祭日として式典として開催するようになった。1889年帝国憲法公布を2月11日にしたときから、紀元節奉祝がいちだんと盛大となる。やがて軍国主義の高揚とともに太平洋戦争期、重大な祝祭日となっていた。

2019年1月27日 (日)

実朝暗殺の謎

Photo   源実朝の右大臣拝賀式は承久元年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた。早咲きの梅の花を見て、「出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠んだ。辞世の歌のような悲しいひびきがある。その儀式の夜、日暮れから降りはじめた雪はしんしんと積もった。実朝が雪の石段を下りたところ、頼家の遺児の公暁はイチョウの木の陰から突然おどり出して、将軍実朝を殺し、太刀持ちの源仲章も斬り伏せた。公暁は実朝暗殺のあと、三浦義村を頼ったが、義村に裏切られ、長尾定景に謀殺されてしまった。将軍実朝は30歳に満たない若い命を散らし、公暁も死に、ここに源氏の嫡流は絶えてしまったのである。

   鶴岡八幡宮の石段わきには「公暁の隠れ銀杏」といわれるイチョウの大木がある。高さ約30m、周囲6.8m、樹齢800年以上ともいわれている。ところが2010年3月夜の強風のため、この大木が倒れてしまった。樹齢800年であれば、公暁が隠れたイチョウの木はこれ以前の木かもしれない。それにしても「公暁の隠れ銀杏」の話は江戸時代以降に見られることで、慈円の「愚管抄」などの鎌倉時代の文献には、イチョウのことは一つも書かれていない。このことから史実ではなさそうだ。

    この実朝暗殺が、公暁一人の計画でなかったことはほぼ推察できる。しかし、これが北条義時の陰謀であるのか、あるいは三浦義村が暗殺計画の黒幕であるのか(永井路子の小説『炎環』)、さまざまな憶測は可能であるが、その真相はいまだに歴史上の謎につつまれている。

2019年1月21日 (月)

薩長同盟の締結日について

20070705_286420    江戸幕府に反抗をするため薩摩藩と長州藩との間で結ばれた慶応2年の軍事同盟を「薩長同盟」というが、その日は1月の21日説と22日説とがある。京都二本松の薩摩藩邸で、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁、木戸孝允、坂本龍馬が同席した。龍馬の「坂本龍馬手帳摘要」の22日付には、「木圭(桂)、小(小松)、西(西郷)、三氏と会う」と記載されている。だが龍馬と同行して寺田屋で待機していた三吉慎蔵の日記には「21日、桂小五郎、西郷との談判約決の次第」と記されており、薩長同盟の期日の決定を欠き定説はないが、一般に21日が有力である。(1月21日)

2019年1月20日 (日)

義仲忌

紅梅を近江に見たり義仲忌   森澄雄

    倶利加羅峠の戦いで、木曽義仲が近くの民家から500頭の雄牛を集めさせ、角に松明を結んで火をつけた。狂うようにして暴走した牛の群れが、平家軍の中へ突っ込んでいく。恐怖に度を失った平家は、つぎつぎと深い谷底へと転がり落ちていった。「源平盛衰記」に描かれた義仲の火牛の計は本当だろうか。どうも司馬遷の「史記」田単列伝を引用したらしい。戦国時代の斉の将軍・田単は前279年、火牛の計で燕軍を即墨城外へ撃破した故事が有名である。旭将軍とたたえられた義仲も、わずか二月年たらずで落日の人となる。元暦元年(1184年)正月20日には北陸に敗走中、粟津で義経・範頼の大軍に敗死する。愛人の巴は女武者であったが、「女連れで死ぬのは恥ずかしい」という義仲のことばに、泣きながら、いずこへか去ったと伝えられる。大津の義仲寺には義仲と芭蕉の墓が隣り合わせに建てられている。

2019年1月 5日 (土)

日本の正しい読み方は、「二ホン」か、それとも「ニッポン」か?

  壬申の乱とは大友皇子(天智天皇の子・弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟・天武天皇)との間に行なわれた皇位継承をめぐる争乱。672年、吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、坐して死を待つよりは、東国で兵を集めて近江方と決着をつけようと、妃の讃良皇女(持統)らを伴いあわただしく吉野の宮を出ていった。

   吉野を脱出した大海人皇子は美濃に本拠をおき、大軍を近江・大和にくり入れた。1ヵ月に及ぶ決戦ののち近江朝廷方は敗退し大友皇子は山崎で自害、大海人皇子は飛鳥に帰り浄御原宮に即位し天武天皇となった。673年2月のことである。なお、「天皇」「皇后」号や「日本」という国号も、このころ定められたとする学説が有力になっている。701年に制定された大宝律令によって「日本」が明文化される。東洋史家、愛宕松男は「天皇という一見日本独自の元首号も、じつは唐の第三代皇帝たる高宗の尊称を襲用したものと推定できる」と説いている。

   このころは「日本」と書いて「やまと」とか「ひのもと」と読んでいたが、やがて漢字の知識が広がり、「にほむ」と発音するようになる。江戸時代はハヒフへホをファフィフフェフォと発音し、「ニフォン」はあるが「ニホン」という発音はなかった。「ニホン」「ニッポン」と両方の読み方が定着したが、1934年に文部省国語調査会が国号を「ニッポン」にする案を提出したが、ついに法制化には至らなかった。その後、1970年7月14日には日本の呼称を「ニッポン」に統一することが閣議決定されている。しかし一般に浸透せずに終り、2009年麻生内閣のときは「ニッポンまたはニホンという読み方はいずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」と答弁している。つまり、どちらの読みでもよいとされる。

「ニッポン」とする例
日本橋(大阪)
日本鋼管
日本放送協会
日本銀行
日本共産党
日本教職員組合

「二ホン」とする例
日本海
日本橋(東京)
日本郵船
日本学術会議
日本棋院
日本大学

Nihonu_type1600

大江戸の春

Photo_3

  鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春  (其角)

    江戸では元旦からが春である。春とともに新年を迎えて、江戸では七日までが松の内。この間は家の掃除を行わないが、それは箒で幸福をはき出したりしないため。七日まで手足の爪を切らないのも理由は同じ。

    「一年の計は元旦にあり」というように、元旦は心身ともに改まって屠蘇を飲み、雑煮を食べる。雑煮は元は烹雑(ほうぞう)と呼ばれており、いろいろの物(餅・大根・芋・昆布・いりこ)を煮まぜたから雑煮と呼ぶようになった。室町時代にはすでにあったが、この料理が次第に武家社会において儀礼化していき、やがて一般庶民に普及したものとみられる。一般的に関東では澄まし仕立てで四角い餅を入れ、関西では白味噌仕立てで丸餅が多くみられる。新年の行事としては、元旦の恵方(えほう)参り。初日の出。若水汲み。年賀の回礼。二日は初夢。初商い。三日は芸事初め。「恵方参り」とは、その年に歳徳神(としとくじん)が来る方角が恵方で、その方角にある神社仏閣に元旦未明に参詣する。今の初詣の原型がみられる。松の内に七福神を祀る寺社を順に参詣する。初日の出は江戸の東端、洲崎が有名であった。だが現代の東京と違って高層ビルがなかったので、高輪や芝浦の海辺、須愛宕山や神田明神、湯島天神の高台など江戸の市街からも初日の出がよくみえた。

2018年12月31日 (月)

除日、講起ス

歳暮ニ、菅得庵、林羅山ニ謂ヒテ曰ク、

「余、イマダ通鑑綱目ヲ読マザル。

請フ、先生、明春ヲ以テ、余ノタメニ之ヲ講ゼント」

羅山曰ク、「子ノ心誠ニ之ヲ求メバ、何ゾ来年ヲ待タント」

即チ、除日ニ講起ス。

                       (先哲叢談)

2018年12月30日 (日)

勘太郎を殺した板割浅太郎

016    松竹キネマは新国劇「国定忠治」を題材に初のトーキー映画「浅太郎赤城の唄」を昭和9年に公開するや、映画主題歌である東海林太郎の「赤城の子守唄」が、流行歌の時代の到来を告げる大ヒットとなった。ただし新国劇では忠治の子分は定八や巌鉄だったが、脇役の板割浅太郎が、この映画では主役に昇格している。また、浅太郎に殺されたはずの勘太郎も生きて登場するし、浅太郎が勘太郎を背負って「赤城の子守唄」を歌って聞かせる場面がある。当時の人にとっては、かなり斬新な解釈の映画であり流行歌(作詞は佐藤惣之助という新感覚派の詩人)だったにちがいない。

   そもそも勘太郎の父というのは、博徒で目明しを兼ねた二足のわらじの男で中島勘助といい、浅太郎の叔父にあたる。浅太郎は勘助と内通していたと忠治に疑われ、その証のために勘助と勘太郎親子を斬るはめになる。伊勢崎市には勘助・勘太郎の墓がある。

   講釈師がいたいけな子供が犠牲になった事実をまげて語ったところ、大いに聴衆に受けたことが発端となり、その後「赤城の子守唄」の大ヒットで、浅太郎が勘太郎を背負って赤城山に登ることが定着する。東海林太郎の浅太郎、高峰秀子の勘太郎という芝居まで上演され大評判となった。

   浅太郎はその後、『赤城録』に「浅梟首」とあり、捕らえられて晒し首にされたとなっているが、浅太郎は逃亡の後、仏門に入り二人の菩提を弔いながらその生涯を終えたという説も有力である。神奈川県藤沢市の真徳寺に浅太郎の墓がある(画像)。明治26年12月30日没。享年74歳。(参考:川井正「勘太郎の頭蓋骨」歴史読本昭和59年1月号)

 

2018年12月15日 (土)

蝦夷共和国

72700048

    明治元年12月15日、蝦夷地・箱館五稜郭を本営とする佐幕派の政権が誕生した。一般に蝦夷共和国という。投票によって、総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、陸海裁判官に竹中重固、今井信郎、陸軍奉行並に土方歳三らが選ばれた。蝦夷共和国は明治2年5月18日、箱館戦争終結とともに消滅した。

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2019年2月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28