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2024年10月16日 (水)

道長「この世をば」の和歌について

この世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば

    藤原道長は、娘・彰子を一条天皇の后妃としたが、なかなか子供が生まれない。兄・道隆の娘・定子には既に皇子が生まれているので、やきもきしていたであろう。道長は皇子誕生を吉野の金峯山にまで行って祈願する。金峯山の効験があったのか、ようやく皇子が誕生する。入内して7年目のことである。出産に際しては、今度は安産を願って、加持祈祷などを常軌を逸するほどにののしり騒ぐのである。その験厚く、無事に皇子が誕生するや、道長は、皇子の敦成(あつひら)親王、後の後一条天皇を我がものにして喜ぶ。長和5年、敦成は8歳で天皇に即位し、道長は摂政となり、権勢を振った。四人の娘を入代させ、皇室の外戚として政権を独占した。翌17年長男頼通に摂政を譲り、自分は太政大臣となりその後も勢力をふるった。道長、頼通父子は、後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇の摂政・関白として約50年間栄華を極め、摂関政治の全盛期を現出した。

「この世をば」の歌は、寛仁2年(1018年)10月16日、四女の威子が後一条天皇の女御から皇后に昇進したのを喜んで、道長自身が即興的に詠んだといわれる。「御堂関白日記」には見えず、道長に批判的だった小野宮右大臣藤原実資の日記「小右記」に記されているため、世に知られることとなった。

 

 

2024年10月13日 (日)

安藤昌益の墓

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   秋田県大館市の南の郊外二井田地区に、曹洞宗温泉寺がある。この寺域に江戸時代中期の医者・思想家安藤昌益(1701-1762)の墓がある。昌益の事績は戦前までほとんどわからなかった。戦後の研究によって生年、没年、出生地、死没地なども特定できるようになった。没年は宝暦12年10月14日である。墓石には「堅勝道因士」「昌安久益信士」と戒名が刻まれている。ところが昭和60年、大館市の安達家から昌益の位牌が発見された。位牌には「帰元賢正道因禅定門」と記されている。おそらくこの戒名は三回忌の法事のとき追授されたものらしい。明和元年10月13日、跡継ぎの安藤孫左衛門は門弟たちと法事を行った。このとき魚料理でお祝いしたことが聖道院の怒りにふれた。昌益に感化された門弟たちは信仰心をもたなくなり、昌益を神として「守農太神」の石碑を各地に建てていた。代官所は、神仏を畏れぬ行為として、石碑を打ち壊し、孫左衛門に「郷(ところ)払い」を命じた。江戸時代、昌益の思想は危険思想だったのだろう。明治の狩野亨吉が昌益の「自然真営道」の稿本を発見するまで忘れられた思想家だった。

2024年10月10日 (木)

松永弾正、自害する(1577年)

   松永久秀(1510-1577)はもともと山城国西岡付近の商人だったという説もあるが、その氏素性は明らかでない。久秀が織田信長に仕えていたときの話である。徳川家康が信長に謁見した際、その席に一人の老人がいた。家康がその老人に、すこぶる慇懃に挨拶すると、信長がこう言ったという。

「この男は松永弾正という者で、そんなに丁重に挨拶する相手ではない。もともと小身であったのを、三好長慶に取り立てられたのに、主家に叛いたような、心のゆるせない男である。だいたいこの男は他人のまねのできないことを三つやってのけた。一つは主家の三好氏を倒したこと、二つは将軍足利義輝を殺したこと、三つは奈良の大仏を焼き払ったことである」

   この信長の紹介を聞いて、さすがの久秀も赤面して、頭から烟を立てるた。天正5年の信長の石山本願寺攻めのとき、謀反した理由の一つは、この信長の侮蔑の言にあったという。信貴山城にこもった久秀は、織田信忠軍に攻められ、城に火をかけて自害した。この日、10月10日は、10年前、久秀が東大寺大仏殿を焼き払ったその同日、同時刻だったため、人々は春日明神の祟りだと噂しあった。(参考文献:「備前老人物語」)

2024年10月 7日 (月)

安政の大獄(1859年)

  安政5年、6年は幕末維新史上、重要な年だった。安政5年1月、幕府は日米修好通商条約調印の勅許を奏請するが、孝明天皇はそれを拒否した。6月、勅許のないまま、幕府が上記条約を調印したため、天皇は激怒する。このころ橋本左内(1834-1859)は越前藩主松平慶永の側近となり、上洛、一橋慶喜待望説を遊説。しかし、井伊直弼が大老に就任し、慶永が処罰されると左内も、安政6年10月7日、江戸伝馬町獄舎で斬首された。26歳の若さであった。頼三樹三郎、飯泉喜内の2人も刑場の露と消えた。だが井伊直弼も翌年桜田門外の変で暗殺され、安政の大獄を取り仕切った直弼の側近、長野主膳も、2年後、藩内の尊攘派岡本黄石らのクーデターで失脚、斬首された。(10月7日)

2024年10月 1日 (火)

日本人のルーツはどこにある?

  大相撲中継を見ていると、「モンゴル人」とか「日本人」という言葉が何度も何度も出てくる。「日本人」という概念が人種なのか民族なのか、国籍なのかとても曖昧である。そもそも人類学などの学問上に「日本人」という人種は存在しない。モンゴロイドに含まれるのかはっきりしない。人種は体格や体質的な特徴、民族は文化的・社会的特徴からみた人類の区分であるが、厳密な意味で科学的には「人種」は存在しない、という意見すらある。

  日本人の先祖はいつ、どこからやってきたか、についての定説はない。大きく3つのルートが考えられる。①サハリン経由で北海道に渡来したとする説。②球が冷えはじめたためシベリアのヒトがアジアを南下。その一部は朝鮮半島を経由し、およそ紀元前3万年頃に日本列島に渡来したとする説。③2万年前、東南アジアに残ったヒトの一部が南西諸島を経由して日本列島に渡来したとする説。化石人骨からは③の南方起源説が有力である。1970年に沖縄県具志頭村で1万8000年前の人骨が発見された。詳しい特徴がわかるのはこの港川人だけである。断片的ながら2011年には沖縄・石垣島の白保竿根田(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から2万4000年前の人骨が発見された。南方起源説だとすると、日本人の祖先は舟に乗ってやってきたことになる。④アメリカ・アリゾナ大学のマイケル・ハマー助教授と総合研究大学院大学の宝来聡教授によると、約5万年前にチベット周辺の中央アジアに住んでいた民族が、中国や朝鮮半島を通って日本列島にやってきたとする説。

   近年ネイチャー紙に発表された説に拠ると、日本語や韓国語はトランスユーラシア語族が起源で、約9000年前に中国東北地方の西遼河流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったといわれる。

 

2024年9月25日 (水)

慈円忌

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   鎌倉初期の天台宗の僧。歌人、史論家でもあった。彼の著書「愚管抄」は貴重な歴史書。慈円と源頼朝とは親交が深く、2人は和歌の贈答をさかんにしている。建久3年、頼朝が征夷大将軍になった年に、慈円は天台座主に就任している。建久6年、頼朝上洛し、慈円と意気投合した。だが正治元年正月、頼朝の突然の死は、親幕派の九条家一門にとっては痛手だった。兄の九条兼実は失脚し、慈円もすべての職位を辞す。しかし後に天台座主に戻る。嘉禄元年、近江国東坂本の小嶋房で入滅、71歳であった。(9月25日)

2024年9月18日 (水)

キリスト教禁止と鎖国

Img_890339_14167499_0  日本は徳川幕府の鎖国によって、300年の太平を保つことができたが、反面、世界の文明の進歩から取り残された。寛永18年(1641年)5月17日、江戸幕府は平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させた。これで鎖国体制の完成をみた。

   江戸幕府は海外との貿易を統制し、日本船の渡航を禁止した。とくにオランダ人以外の西洋人が日本にくることを禁じ、オランダ人を長崎の出島に住まわせて、かつてに貿易することを禁じた。スペイン、ポルトガル、イギリスとの交渉は絶たれた。これは新教国オランダが日本との貿易を独占するため、旧教国の植民地主義を、国土侵略の実例であると宣伝したことが、幕府の外交政策、禁教令に反映していると説かれる。しかし16世紀のおける世界史状況を考えると、すでにスペイン、ポルトガルは衰退期に入っているのに反し、イギリス・オランダはその植民地を奪取しつつあって、むしろ新教国の植民地政策のほうが、はるかに恐るべき存在であった。以上の理由から、幕府関係者がオランダが新教国であるから安心であるとしたのではあるまい。島原の乱後ポルトガル船の来航を禁止し、それを一般国民に納得させるため、禁教問題が利用された。すなわちポルトガル・スペイン両国は、国土侵略を企図し、キリスト教はそれを主導する邪宗教であるから、これらの国とはいっさい交渉を絶つべきであるとし、以後江戸時代を通じて、キリスト教を極端に危険視した。オランダ・イギリスには当初、平戸・長崎の2港に限って貿易が許可されていたが、イギリスは日本向けの中国商品を入手する市場をもたなかったので、ついに赤字経営がかさなり、元和9年(1623年)に平戸商館を閉鎖した。オランダはこのころ台湾に基地を設置することに成功し、ここで中国とともに、江戸時代を通じてわが国と交渉を続けた。朝鮮とは慶長17年(1607年)以後、宗氏の対馬を介して貿易が行われた。慶長12年から12回にわたり朝鮮通信使が来日した。江戸時代は鎖国といわれるが、通商交易に関して言えば、長崎をはじめ、薩摩、対馬、松前の4ヵ所を拠点に貿易が行われていた。すなわち鎖国によって日本が海外との接触を全く絶つということはなかった。鎖国の得失については、日本が海外との情報的交流を失うことによって、ヨーロッパの技術や工業の発展から立ち遅れたという失点と、むしろ鎖国のために、国内の産業や独自の文化の発展をみたという利点などが指摘されるが、その全体の歴史的評価については、いまだ一定した所説がない。(5月17日)

1587年 豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出す

1600  オランダ船リーフデ号、豊後に漂着

1604  糸割符制度を創設

1609 平戸に商館が置かれ、オランダ人に通商許可

1612 キリスト教の禁教令を出す(1873年まで続く)

1613 イギリス人に通商許可

1616 明以外の外国船の来航地を長崎・平戸に限定

1623 イギリス、平戸の商館を閉鎖

1624 スペインの来航を禁止

1628 浜田弥兵衛、オランダ人マイツを台湾に捕縛、平戸に拘禁す

1633 奉書船以外の海外渡航を禁止

1635 第3次鎖国令。海外渡航の全面禁止、在外邦人の帰国禁止。入港は唐船も長崎に限る

1636 第4次鎖国令。出島を築きポルトガル人を置く

1637 島原の乱

1639 ポルトガル人を追放

1641 オランダ人を出島に移す(鎖国の完成)

1857 イギリス人の長崎上陸を許す

 

 

 

 

芹沢鴨 暗殺される(1863年)

   新選組局長・芹沢鴨が斬られたのは、文久3年9月18日の夜のことである。島原の角屋で宴会がもたれた後、したたかに酔った芹沢は壬生へもどり、大酔し、お梅を抱いているところを、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・原田左之助ら5名に襲撃された。芹沢は脇差を抜いてわたりあったという説もあるが、実際には泥酔して前後不覚に寝込んでいたところを、蒲団ごしに刀を突き刺されたというのが真相らしい。翌日、近藤は守護職邸に、局長芹沢は急病による頓死ということで届け出ている。暗殺日については墓碑に基づいて18日が通説となっていたが、近年は16日説が有力となっている。とは言え、まだ確たる史料はなく不明である。 

 

 

 

2024年9月16日 (月)

敬老の日と悲田院

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 左は山背大兄皇子、右は殖栗王

 

  本日は敬老の日。2003年から9月の第3月曜日になったが、それまでは9月15日であった。兵庫県多可郡野間谷村(現・八千代町)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始まりである。俗説としては、聖徳太子が不幸な老人や病人を救うために、悲田院を建てた日とされている。悲田院は敬田院、施薬院、療病院とともに四箇院と称して大坂の四天王寺にあったとされるが確証はない。聖徳太子の悲田院の概要は不明なので、中国の悲田坊の制度を調べる。隋・唐の寺院にも設けられたという記録は、唐会要巻49「病坊」などに記されている。唐令には高齢または身体障害者で養い手のない人、貧乏で暮らせない人を地方団体(郷里)が安価に当たるべきことを規定している。悲田坊(悲田養病坊ともいう)は、開元5年(717年)の宋璟らの上奏文によれば、孤老窮人の保護に当たる収養施設で、長安をはじめ各地におかれ、悲田養病使が各施設に派遣されていた。国は僧侶のなかから悲田養病使を任命しただけで、実権は僧侶の手にあった。仏教寺院は六朝以来、社会事業に力をそそいでいるから、唐代において悲田坊が設けられたのは当然のことである。慈善事業とはいえ、その経費を寄付に仰いだので、寺としてはかえって黒字にある傾向があったという。悲田坊をやればもうかるので発展したともいわれている。

 現在、日本の最高齢者は、芦屋市在住の糸岡富子さん。明治41年生まれで116歳。日本人の10人に1人が80歳以上である。

2024年9月14日 (土)

春日局没す(1643年)

   寛永20年のこの日、春日局は死去した。享年64歳。東映「女帝春日局」(1990)十朱幸代主演。おふく(後の春日局)は稲葉正成の妻でありながら、好色家の家康の子を身ごもり、わが子を秀次の嫡子とし、乳母として江戸城に出仕し、最高権力の地位に登りつめる。それにしても逆賊・明智光秀の重臣の娘を乳母に選んだのか疑問が残る。小説家の八切止夫が「家光の生母は春日局」と唱えたのは分からぬでもない。

  BS歴史館「大奥」(2012年2月放送)では、徳川秀忠や母のお江は、病弱で吃音であった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国松(忠長)を寵愛していたとされ、そののちに起因する竹千代派と国松派との3代将軍の座を巡る争いとして発展。春日局が家康へ直訴したため、竹千代派の勝利で終わる。この通説に対して、番組(小和田哲男ら)では、家康の「訓戒状」があり、長子相続が決められており、お江とお福のバトルの逸話には否定的な見解を示す。番組の最後に、京都岡崎にある金戒光明寺の崇源院の墓を紹介。造ったのは春日局。側には春日局と忠長の供養塔がある。(9月14日)   

 

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 崇源院の墓(金戒光明寺)

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