戦艦大和の沈没
現在、呉市海事歴史科学館に展示されている10分の1の戦艦大和の巨大な模型は、連日多くの観光客が押し寄せる人気である。史上最大の46センチ砲を搭載した超弩級戦艦。昭和20年4月7日、日本海軍が誇った巨大戦艦「大和」は沖縄突入ならず海底に消えた。 この「天一号作戦」とは一体何だったのか?昭和20年4月1日、連合国軍が沖縄本島に上陸して来た時、日本海軍の水上艦艇実戦部隊は、開戦以来3年余りの激戦であらかた消耗し、わずかに戦艦大和のほか軽巡矢矧と駆逐艦8隻の第2艦隊があるだけだった。連合艦隊司令長官はこの部隊に対して、航空部隊の特攻攻撃と呼応し海上特攻部隊として8日夜明に沖縄突入作戦を行うよう命令した。
これに従い大和(艦長・有賀幸作)を旗艦とした海上特攻部隊は、6日午後3時20分瀬戸内徳山沖を出撃した。味方航空機の上空援護は期待薄で、沖縄突入成功の可能性は少なかったが、「光輝ある帝国海軍部隊の伝統発揚とその栄光を後世に伝える」ことと、「一億総特攻のさきがけになる」ことの大義のもとに、艦隊の将兵は敢然と死地に赴いたのである。
海上特攻部隊は豊後水道を経て、夜間大隈海峡を通過し、7日午前10時過ぎには九州坊ノ岬西南90浬の地点に到着したが、その行動はすでに敵に探知されており、アメリカ空母機動部隊は攻撃隊の発進作業中だった。
敵の第1波攻撃隊280機が正午過ぎに海上特攻部隊を発見、まず約200機が午前1時まで雷・爆撃を行った。この攻撃で駆逐艦朝霜と浜風が沈没、軽巡矢矧は航行不能となり、大和には爆弾二発と魚雷一本が命中したが、損害は軽微だった。
午後1時18分からは残りの約100機が来襲し、約20分の攻撃により駆逐艦霞が航行不能になり(のち沈没)、大和は魚雷三本命中を受けた。
午後1時30分頃に新手の第2波攻撃隊126機が姿を現し、2時25分頃まで猛攻を加えた。この攻撃で軽巡矢矧が沈没し、駆逐艦磯風は大破(のち沈没)、大和は魚雷六本と爆弾二発が命中した。大和が受けた魚雷10本中9本が左舷に集中したため左へ激しく傾斜し、午後2時35分遂に転覆、爆発を起こして沈没した。北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒の地点に没した。乗員3332人のうち艦隊を指揮していた伊藤整一中将をはじめ3056人が艦と運命を共にした。大和沈没で作戦中止となり、残った駆逐艦・雪風、初霜、冬月、涼月の4隻は佐世保に帰投した。こうして、連合艦隊は事実上、消滅したのである。
鈴木貫太郎は大和の沈没を親任式の後、控室で知らされた。もちろん戦時中、大和の存在は秘匿事項だったので、新聞などで報道されることはなく、国民のほとんどが知らなかった。大和を題材とした吉田満「戦艦大和ノ最期」が刊行されたのは昭和27年のことである。文学作品で早くに大和が出てくるのは、横光利一の短編小説「微笑」が最初であろうか。「レイテ戦は総敗北、海軍の大本山、戦艦大和も撃沈された風説が流れた」とある。この作品は横光の死の翌年、昭和23年に発表された。











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