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2020年7月11日 (土)

水戸黄門の「黄門」とは何か?

   今日は映画やドラマで知られる「水戸黄門」のモデルとなった徳川光圀の誕生日。どうして彼が「水戸黄門」「黄門さま」として庶民に親しまれてたのか知っている?当時は、老中や若年寄などの幕府の官職のほかに、京都の天皇からもらう官職があった。光圀が天皇からもらったのは、中納言という官職で、この別称が「黄門」である。つまり光圀だけでなく歴代の水戸藩主は全員水戸黄門である。広辞苑の説明によれば、「唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう。中納言の唐名。」とある。映画やテレビでは助さん格さんを連れて旅に出たことになっているが、実際には、諸国はおろか、ほとんど旅に出ることはなかった。学問好きの光圀は「大日本史」の編纂事業に専念していた。(7月11日)

 

 

2020年7月10日 (金)

登呂遺跡と板付遺跡

150737582_624_v1352459826   死ぬまでに一度訪れたいところはどこだろうか?ナポリでも吉野ヶ里でも箸墓古墳でもない。それは登呂遺跡だ。戦後の小学生が敗北感で打ちひしがれていたとき勇気を与えてくれたニュースが3つある。「フジヤマのトビウオ」の古橋広之進の水泳での活躍。湯川秀樹の日本人最初のノーベル賞。そして静岡市にある弥生時代後期(1世紀)の村落遺跡、登呂遺跡である。1943年に発見され、戦後1947年の7月10日に本格的な発掘調査が行われた。竪穴式住居、高床式倉庫の遺構が検出された。画像はゆるキャラのトロベー。だが現在では水田跡は板付遺跡(福岡市)や菜畑遺跡(唐津市)のほうが古いとされている。稲作初期の集落は北九州にありそうだ。水田稲作は弥生時代に始まると小学校で教わったが、1978年に板付遺跡の縄文地層から稲作の跡や木製農具、石包丁などが発見され、縄文晩期から水田は始まっていたと考えられるようになっている。その真偽はいまだ論争は続いているが、日本の初期の集落であることに間違いなく、重要な遺跡の1つである。でも今の小学生は可哀そうだ。覚えないといけないことが一つ一つと増えてくるからだ。1980年には、唐津市の菜畑遺跡で板付と同じ年代の水田が見つかり、木製の鍬や鋤が出土した。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は外敵に備えて周囲を囲った環濠集落として重要であろう。そして板付遺跡。縄文時代末期に、大陸から稲作が伝わり、稲などの作物の栽培による安定した定住生活へと変化した。だが弥生時代=水田稲作ではなくなると、縄文時代という日本独自の時代設定も意味があるのだろうか。

 

2020年6月28日 (日)

モリソン号事件

250pxmorrisonship    1837年のこの日、アメリカの商船モリソン号(564トン)は、7人の日本人漂流民を送り届ける目的で日本上陸を試みたが、異国船打払令により、幕府が砲撃したため、やむなく退去した事件である。結局、音吉、岩吉、久吉、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松らは生涯、日本に帰ることはできなかった。(Morrison Incident)6月28日

2020年6月 8日 (月)

奈良公園の鹿

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   奈良公園の鹿はこのところ、おなかの調子がすこぶる快腸のようだ。「黒豆」らも例えられる黑くて丸いふん。近年はその形がゆるかったのだが、また元の「黒豆」に戻ってきた。新型コロナウイルスの影響で観光客が減ったことが原因のようだ。奈良は南都七大寺を中心に発展した町であるが、平重衡の南都焼打ちや、明治維新の廃仏毀釈により、衰退した。やはり観光奈良のシンボルといえば奈良公園の鹿であろう。春日大社の祭神、武甕槌命が鹿島から勧請された際、鹿に乗じられたという故事により、春日大社の神鹿として保護されたばかりでなく春日大社を氏神と仰ぐ藤原氏の貴族たちは、この神鹿に会うことをこの上もない喜びとし、乗物から降りて鹿を拝したという記録も残している。特に江戸時代には犬狩りをしたり、神鹿を害したものは厳罰に処せられた。誤って鹿を殺した三作が石子詰にされたという伝説を残している。初夏のころは、鹿子斑点もあざやかで、鹿がもつとも美しい季節である。10月には鹿の角切りの行事が行なわれるので、観光客にとっては夏が奈良観光の最良のシーズンだといえる。

 

 

2020年6月 5日 (金)

池田屋襲撃事件

    池田屋襲撃は新選組の名を一夜にして轟かせたが、隊士たちのその後の人生にも大きな転機となっている。当夜、近藤勇は隊員を二手に分けて、表出口には谷万太郎、武田観柳斎、浅野藤太郎が、裏口には奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らが固めた。そして店内へ近藤勇が先に立って、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の3人を従えて突入したとするのが通説である。なぜ近藤らわずか4人で20人もの勤王の志士に勝てたのか。それは真剣を使い慣れた近藤らと剣道しか知らない志士との差、それに池田屋は幅6m、奥行き約27m京都特有のうなぎの寝床が近藤らに有利となった。永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、表口には谷三十郎、原田左之助となっている。また池田屋襲撃には谷三兄弟の3男、谷周平が参加したという記録もある。事件当日の奮戦ぶりから、周平は近藤の養子となって、近藤周平と改名する。その後、周平は近藤の信を失なって縁組は解消され、旧姓に復している。原田左之助は十七両の褒賞金を受領している。長州志士を中心とする20名余りのうち7人が討ち死にするも、裏口を固めていた3人が斬られて突破され、多くの志士が脱走した。当夜の新選組の犠牲者は奥沢栄助ひとりとされている。後日、安藤、新田ら死亡した。

    武田観柳斎は長沼流軍学をもって知られ、二十両の褒賞金を受領している。その後、薩摩に通じ、竹田街道の銭取橋で斎藤一に斬殺される。浅野藤太郎も同額の二十両を受領している。浅野はその後、金策が露見して、島原において斬殺されている。藤堂平助は活躍により二十両を受領している。その後、高台寺党に加わり、三条油小路において新選組に斬殺される。沖田総司はよく知られるように池田屋襲撃時、戦闘中に喀血昏倒する。池田屋襲撃の近藤配下の隊士の中で明治まで生存したのは永倉新八ただ一人だった。原田左之助に関しては死亡時期不明。通説では上野戦争で戦死したとされるが、満州で馬賊となったという生存説もある。(6月5日)

 

 

誠忠・児島高徳の墓

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 「児島高徳」 羽石光志画

 1333年のこの日、隠岐から脱出した後醍醐天皇が無事に京都に到着した。その功労の第1人者は児島高徳である。児島高徳(生没年不詳)の実在性には疑問はあるが、備前の人、本姓は三宅、備前守範長の子といわれる。後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、児島高徳は舟坂山や杉坂で救出しようと企てたが果たせず、せめて自分の覚悟なりともお知らせしたいと美作院庄(岡山県津山市)の宿所に潜入して、庭の桜の大木の皮を削って詩句を書きつけた。

天勾践を空しゅうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず。

(天よ、どうか後醍醐天皇をお見捨てなきよう。天皇も范蠡のような忠臣がここにおりますことをお信じ下さい)

   翌朝、警護の武士たちが見つけて騒いでいたが、天皇はその意味がお分かりで、快げにお笑いになったという。

    1333年2月24日、児島高徳は、天皇が隠岐を脱出して船上山で旗を揚げると、一族を率いて馳せ参じ、千草忠顕や新田義貞に属して各地に転戦した。正平7年、兵を集めて入洛を企てたが、失敗した。戦いに敗れて剃髪し、志淳と称したというがその後の消息は分からない。現在、鳥取県米子市の涼善寺(岩倉町99)に児島高徳の小さな墓がある。(6月5日)

 

 

 

 

2020年6月 1日 (月)

武田家の最後

  戦国最強騎馬軍団を率いた甲斐の武田信玄。その強さの秘密は苦悩と愛憎の人生にある。幼いころから父信虎との確執、言うことを聞かない家臣たちの独断、そして度重なる天災。信玄は、計略を用いて信虎を追放して、武田家の当主となる。さらに家臣を育て、治水や金山開発によって、国を豊かにして、天下統一をめざした。1572年、三方ヶ原の戦いで徳川家康をやぶるが、持病が悪化し、京の都にのぼることを夢見ながら、病死した。四男、勝頼が信玄の後継者となる。1575年、長篠の戦いで、織田・徳川連合軍に大敗した。多くの将兵を失った勝頼は、本拠地を躑躅ヶ崎城から、新府城に移した。1582年、信長・家康によって甲斐の天目山に追いつめられると、勝頼はそこで一族たちと自殺した。

 

2020年5月30日 (土)

沖田総司は、本当は美剣士ではなかった

E52e4ae9  慶應4年5月30日夕刻、沖田総司は25歳で没した(享年については24歳説、27歳説など諸説あり)。最近、歴女ブームで有名人のお墓を訪ねて歩く「墓マイラー」が増えて、賑わっている。歴女に人気の新選組一番隊組長、沖田総司の墓は六本木ヒルズの裏手、専称寺(港区元麻布)にある。ふだんは参拝できず、塀の外から眺めて拝むようになった。ただし年に1度だけ総司忌のみお参りできる。小さな墓碑は読めないほど風化が進んで、幼名の「沖田宗次郎」とある。

 沖田総司の性格はひじょうに明るく冗談ばかりいい、子ども達ともよく遊び、亰の町医者の娘との恋仲は、師近藤の意見で別れたと伝えられている。総司はどんな顔をしていたのか?生前の写真は残っていないので誰にもわからない。痩せすぎて目が細く口は大きい。当時の知人は、「ヒラメのような顔」といっている。

 むかし月形龍之介主演の「剣士・沖田総司」(1929年)製作のとき総司の姉みつ(1833-1907)の孫である沖田要(1894年生れ)をモデルに肖像画が作られた。実際の総司に似ているかどうかは定かではないが、よく歴史の本に使われているようだ。

 孤高の美剣士、沖田総司のイメージは映画やドラマで作られたものだが、一般的には島田順司が有名である。若い人にとっては草刈正雄、田原俊彦や藤原竜也かも知れない。最初に沖田総司を主役級のヒーローにしたのは月形龍之介だそうだ。だが映画で最初に沖田を演じたのは、「維新の京洛」(1928年)の寺島貢である。翌年に月形龍之介が、そして阿部九州男が「大殺生」(1930年)で沖田を演じた。

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  月形龍之介

 

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  島田順司

2020年5月29日 (金)

歴史ヒーロー伝「髙杉晋作」

 ♪六十余州を揺り動かして 菊を咲かせる夜明けが近い 望むところだ幕末嵐 剣をつかんで ゆくぞ高杉晋作が♪

 

 子供のころよく聞いた歌で「ゆくぞ高杉晋作が~」のフレーズは印象的だ。YouTubeで三波春夫の歌だと分かった。ドラマは宗方勝巳主演の「高杉晋作」(1963)。

   幕末動乱期、髙杉晋作の行くところ、つねに風雲を呼ぶというありさまだった。上海に行けば、相談もなしに軍艦を買いつけてくる。その始末がつけば、すぐ品川御殿山でイギリス公使館の焼打ちを指導する。かと思うと頭を剃って十年の暇を願い出る。下関で外艦を迎え撃つ命をうけると、町人百姓などの身分をとわない奇兵隊をつくる。しばらく藩主の側にあったかと思うと、もう脱藩している。髙杉晋作のとっておきの逸話を一席。下関攘夷の罪で謹慎中の晋作であったが、急遽、許されて外交交渉の矢面に立たされる羽目になった。敗戦の講和となれば、賠償金を出せ、領土をよこせといわれるにきまっている。そこをどう切り抜けるか、各国公使の前で、晋作は、「魔王のように傲然と構えていた」と、外国側の記録に書かれている。談判がすすみ、賠償金の要求が出されると、これは幕府の責任であるとして相手にせず、彦島を租借させろという問題が出ると、彼は大演説を始め、通訳を困らせた。このとき彼は、日本の歴史を初めから喋って、相手を煙に巻いてしまったのだ。こうして、藩は一文の賠償金も払わず、土地も奪われずに、難局を切り抜けることができたのである。参考:奈良本辰也「高杉晋作」(中公新書)

 

 

2020年5月28日 (木)

在原業平の墓

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    880年のこの日、在原業平の忌日。京都西郊の十輪寺(西京区大原野小塩町)には在原業平の墓と伝えられる宝篋印塔がある。十輪寺は850年に創建され、業平の隠棲地。

 

Heian39   実はもうひとつの業平の墓がある。十輪寺から少し離れたところに3基の五輪塔がある(大原野上羽町)。中央の大きな塔が業平の母・伊都内親王の墓、右側が父・阿保親王の墓、左の小さな五輪塔が業平の墓である。なお阿保親王墓は兵庫県芦屋市にある。(5月28日)

 

 

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