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2019年4月18日 (木)

山本五十六が撃墜されたときの同乗者の名前は?

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    昭和18年4月18日午前6時、山本五十六ら11人が乗った一番機と、宇垣纏ら12人が乗った二番機の一式陸攻がラバウルを発進した。護衛につくのはわずか6機の零式艦上戦闘機だった。一番機には、山本五十六、福崎昇、高田六郎、樋端久利雄、小谷立、大崎明春、田中実、畑信雄、上野光雄、小林春政、山田春雄(全員死亡)。 二番機には、宇垣纏、北村元治、林浩、友野林治、今中薫、室井捨治、藤本文勝、谷本博明、伊藤助一、八記勇、野見山金義、栗山信之が搭乗していた。(宇垣、北村、林は生存)。 護衛機6機は、森崎武、辻野上豊光、杉田庄、日高義巳、岡崎靖二、柳谷謙治。

 

    ブーゲンビル上空でアメリカ軍により撃墜された。(海軍甲事件と呼ぶ) 山本らの戦死は1ヶ月間、極秘にされた。5月21日、大本営発表で公表され、6月5日に国葬が行われた。明治27年から昭和20年までに帝国海軍は24人の連合艦隊司令長官が就任したが、在職中に戦死したのは山本五十六、唯一人である。

 

(参考:蜷川親正「山本五十六検死ノート」 光文社

 

高城肇「六機の護衛戦闘機」 光人社)

 

 

2019年4月16日 (火)

少年よ、大志を抱け

Thumb5    1877年のこの日、札幌農学校のクラーク博士(1826-1877)が帰国の途につく。 開拓使は北海道開拓のための教育機関の設置を図り、アメリカの農務局長H・ケプロンの建言によって明治5年東京芝増上寺内に開拓使仮学校を開き、ついで女学校を設置した。明治8年、これを札幌に移して札幌学校と改称(女学校も移したが、翌年廃止)、さらに規模を拡大して高等農学校とするにあたり、アメリカ駐在の吉田清成公使に委嘱してアメリカのマサチューセッツ農科大学校長クラークを招き、彼は明治9年来日した。ただちにクラークが教頭に就任、校制を編成し、同年8月開校、翌月札幌農学校と改称した。生徒は卒業後5ヵ年間開拓使に奉職する規定とし、学科も広範であった。教師はアメリカ人が多くアメリカ式教育が施された。クラークのキリスト教に基づく人格教育は独特な学風を作り出し、アメリカ式の牧畜経営の理論と実際を教授し、植物採集実験に生徒と行動をともにし、実業教育に成果があった。クラークは、わずか1年たらずの在任期間に、生徒の信頼を集め、多方面にわたって有為な人材を送り出した。佐藤昌介などは直接の、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、佐久間信恭などは間接の弟子である。なお、名言「少年よ、大志を抱け」 Boys,be  ambitious は、クラークがかの島松の駅頭、学生たちに馬上より送った言葉である。クラークは帰国後、大学辞任後鉱山業に関係したが、失敗したという。クラークが日本に残したものの一つに学校運動会がある。ルーツは明治11年5月25日、クラークが提唱した札幌農学校で開催された遊戯会であるといわれている。ちなみに日本最初の運動会は明治7年3月21日、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で運動会「競闘遊技会」が開催された。( keyword;William Smith Clark 、4月16日)

2019年4月 2日 (火)

上野に日本初の近代図書館つくられる(明治事物起源)

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   福沢諭吉が明治2年に著した「西洋事情」の中で、欧米の図書館(ビブリオテーキ)事情を紹介したのが、わが国に図書館を認識せしめた始めとされる。しかし、すでに万延元年遣米使節の一行がニューヨークのアスター図書館を訪ねており、そのときの模様は、副使の村垣淡路守範正および御勘定組頭の森田岡太郎の日記に記されている。

  明治5年、文部省出仕、市川清流は「書籍館(しょじゃくかん)」設置の重要性を上申した。同年4月2日(正確な日付は不詳)、明治政府は接収していた徳川家の紅葉山文庫と昌平黌の文庫を文部省所管の「書籍館」として開設したのが、日本近代図書館の始まりである。しかし、これらの所管官庁や場所は幾たびと変わり、元の湯島にもどり、「東京書籍館」として改称した。しかし西南の役による財政難のため、これらの整備計画は中止され、東京府に移管して、「東京府書籍館」と改められた。明治13年、文部省に返り、「東京図書館」と改めた。これが「図書館」という名称の始まりであるが、当時は「としょかん」と呼ばず、「ずしょかん」と呼んでいた。江戸期の「図書寮」など「図書(ずしょ)」の名残りであろうか。明治5年には京都に「京都集書院」が開設、湯浅次郎が群馬に「便覧社」を創設、渡辺熊次郎が函館に新聞縦覧所を創設するなど各地にさまざまな活動がおきた。明治7年、八戸書籍縦覧所創設。明治9年には大阪、浦和で府県立の書籍館が開設されている。東京図書館はその後、明治18年に上野公園に移転し、「上野図書館」の名で親しまれる。

 

  子ども文庫のはじまりは、明治39年に東京で児童文学者の竹貫佳水(竹貫直人、1875-1922)によって開設された「竹貫少年図書館」である。

 

 

2019年3月29日 (金)

八百屋お七と「丙午」

Edfa5806   本郷駒込にある天台宗円乗寺(文京区白山)に八百屋お七(1668-1683)の墓がある。天和2年(1682)12月の大火で家が焼け、菩提寺の円乗寺に避難したが、そこで小姓の山田左兵衛と恋仲になった。やがて家は再建されて戻ったが左兵衛会いたさに付け火をした。放火の大罪でお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた。ところで、お七の恋人の名は、山田左兵衛(近世江都著聞集)説のほか、生田庄之介(天和笑委集)など諸説ある。だが井原西鶴を参考にした小野川吉三郎の説をとるものが多い。NHKドラマ「あさきゆめみし」では木下順庵から儒学を学ぶ吉三郎という名になっている。お七は「丙午」生まれで、気性が激しく夫の命を縮める、という江戸時代からの迷信があり、明治39年、昭和41年には出生率が激減した。

 

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 八百屋お七の墓

2019年3月15日 (金)

田中姓の偉人(田中勝介、田中平八)

A9cf0dfac6385096bfdc8e7a81155e90   田中姓は日本人に多い名字である(ベスト第4位らしい)。ゆえに著名人も多く、田中河内介、田中久重、田中義一、田中角栄、田中王堂、田中丘隅、田中正造などなど。しかし近世になってから多く文献に見える姓である。江戸時代初期の京都の貿易商人に田中勝介(勝助)がいる。家康の命でメキシコにわたり、通商と鉱山技師の派遣を交渉したが失敗した。太平洋を横断した最初の日本人。

   田中平八(1834-1884)は、天保5年7月11日、信州赤穂(長野県駒ヶ根市)に藤島卯兵衛の第三子として生まれた。生家は資産家であったが、米と綿相場で失敗し、没落。飯田の田中安兵衛の娘・田中はると結婚し、田中姓となる。慶応元年、横浜南仲通三丁目で、糸屋平八商店を開業し、両替商と生糸・茶などの輸出をはじめる。一時藤田小四郎らの筑波山挙兵に参加し、獄に在ったが、再び生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得る。明治の花柳界で遊び上手として、「糸屋の平八」「天下の糸平」の名は知られた。東大卒で美人で有名な高田万由子の祖先は田中平八と高田慎蔵にあたる。高田商会は日清・日露両戦役で武器の貿易で巨利を博した。

 関係文献
日本偉人伝 獲麟野史 弘文館 1897
天下の糸平 放牛舎桃林述 今村次郎記 博文館 1899
天下の糸平 高橋淡水 日東社 1917
運・鈍・根で行く 野沢嘉哉 万里閣 1931 
天下の糸平 糸平の祖先とその子孫 信濃郷土出版社 1967
田中平八の生涯 1985

2019年3月12日 (火)

邪馬台国の位置

Photo_4  「歴史読本」が2015年秋号をもって休刊となった。同誌は年1回ペースで邪馬台国特集を組み、売り上げを伸ばしてきた。読者の最大の関心事は「邪馬台国はどこか」という謎解きであり、学者の数だけ邪馬台国の所在地がある、といわれた。しかし近年は考古発掘調査での争いも奈良県桜井畿内市の纏向遺跡など畿内大和説に有利な状況が生まれ、いわゆる邪馬台国ブームも沈静化した感があり、雑誌の売り上げも停滞するようになったのだろう。邪馬台国の所在地は九州北部説のほか近江、出雲、阿波や、海外説がある。哲学者・木村鷹太郎(1870-1931)が1910年に発表した邪馬台国エジプト説である。木村はギリシャ神話と日本神話の比較から古代の東アジア諸民族は太古に西方から移住したものだという見解を得ていた。この木村の珍説は、2010年、稲羽太郎の著書「卑弥呼とセべクネフェル女王」が刊行され、後継者が現われた。稲羽が卑弥呼と同一人物とみたセべクネフェルはエジプト第12王朝、BC1797年~1795年頃在位の女王である。また加治木義博は卑弥呼はインドから来たと唱えている(「真説日本誕生 黄金の女王・卑弥呼」1992年)。このほか加瀬禎子「邪馬台国はフィリピンだ」(1977年)もある。

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日本画家、安田靫彦の代表作「卑弥呼」が院展に出品されたのが1968年のことでこの時期、邪馬台国ブームは頂点に達していた。(木村「東西両大学及び修史局の考証を駁す 倭女王卑弥呼地理について」読売新聞1910年7月2日付より5回連載)

2019年3月 9日 (土)

日本人の祖先はバイカル湖周辺に住んでいた民族が移動した!?

Img_64816_10401509_0   日本人の幼児には臀部、腰部など皮膚に青色の斑点がみられる。これを蒙古斑と命名したのは、明治お雇い外国人として東京大学に招かれた医学者エルヴィン・フォン・ベルツ(1849-1913)である。蒙古斑は日本人には95%以上の割合で見られるが、中国人(漢民族)、韓国人には少ない。アジアでもタイ人などは「トゥック・ムック」(インクのケツという意)といって蒙古斑がでる子が半数近くいるらしい。ベルツは日本人の形質をみるうち、日本人はいろいろな民族が混血している新人種であると考えた。日本人混血説である。「日本人の体質」(邦訳なし)を著し、①アイヌ型②満洲・朝鮮型③マレー・モンゴル型の3種であるとした。このような日本民族の形成と起原に関しては戦前の皇国史観のなかではタブーであったが、戦後すぐに、江上波夫の騎馬民族説などの新説が現れた。日本人の支配者層をなす天皇家の祖先は、アジア大陸北方の騎馬民族が朝鮮半島に進出し、そこから九州を経て、大和にはいり、日本を統一したというのである。ソ連のピョートル・グズミッチ・コズロフが発見した北蒙古ノイン・ウラから紀元前後の匈奴の王・貴族の古墳が多数発見された。もちろんこの時代の匈奴(丁零、夫餘)はモンゴル人ではない。通常モンゴル人は7世紀からといわれる。ノイン・ウラの民族はアーリア系であると考えられる。だが日本人のルーツといえる文化をもっている。かつて仁徳・応神陵など前方後円墳は日本独自といわれたが、現在では韓国の全羅道地域でも前方後円墳が確認されている。ノイン・ウラからも多数の前方後円墳が発掘されている。近年、宝来聡教授は、Y染色体を研究した結果、約5万年前ころチベットに住んでいた人たちが中国・朝鮮を経由して日本列島にやってきたと説いている。(参考;江上波夫「国家の成立と騎馬民族」季刊東アジアの古代文化6、1975年、梅原末治「北蒙古ノイン・ウラの遺物」) 

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 天皇家の祖先が紀元前後いたと思われる故地

( keyword;Mongolian spot,Erwin von Balz,Noin-Ula,Kozlv )

「王政復古の大号令」は1867年か、1868年か

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   近代日本総合年表

   手元の日本史には次のように記述がある。「江戸幕府が滅んだあと、明治天皇は王政復古の大号令を出して新政府をつくった。翌1868年、明治天皇は五か条の御誓文によって新しい政治の大方針を明らかにした。江戸幕府、一夜むな(1867)しく崩れけり」と暗誦し、1867年が大政奉還、王政復古の大号令、1868年が明治維新と記憶する。ところが岩波書店の「近代日本総合年表」では「1868年1月3日王政復古の大号令」とある。これは本書が太陽暦(西暦)を用いたためである。太陰暦(和暦)では12月9日となり、1867年の出来事になる。ふつうの歴史年表では、その時代に使用されていた暦に従うことが多い。つまり明治5年(1872年)までは和暦を採用する。これまでの慣例から王政復古宣言は1867年で、明治維新は1868年とすることが多いが、世界との出来事を比較することなどを考えると、西暦に統一したほうがよいとする意見もあって、悩ましい問題である。

2019年3月 3日 (日)

井伊大老の死

 万延元年3月3日のその朝、彦根藩邸に、浪士襲撃を密告した手紙が投げ込まれたという。その文面は、水戸脱藩浪士の暗殺計画にふれ、警戒するよう忠告してあった。直弼は、水戸浪士が自分の命を狙っていることは承知していたが、自分の胸にしまったまま家臣にももらさず、登城の駕籠に乗り込んだ。供廻りの人員は規定どおりの数である。徒歩が26人、それに足軽、草履取り、駕籠かき含め、総勢60余名。そのうち最後まで大老の駕籠を護って奮戦したのは8名にすぎない。まったく無傷のものが8名もいて、このものたちは、浪士襲撃と見るや、「一大事でござる」と叫びつつ、藩邸へ駆けつけ注進したのはよいが、どこか隠れたり逃げたりして、事件後、どこからともなくあらわれ、同僚の死体の整理にあたっている。譜代大名のうちでもその威名を天下に知られたほどの彦根35万石の大藩・井伊家自体が、これほどにおとろえていたことをみるべきだろう。

   井伊直弼は駕籠に乗ったまま討たれ、その討たれ方に、銃撃を腰に受けて動けなかったとする説と、死を天命として受け入れたとする説がある。最初に駕籠目がけて斬り込んだのは、稲田重蔵であるが、直弼の首級をあげたのは有村次左衛門といわれている。その間わずか3分ほどの暗殺劇だった。吉村昭の「桜田門ノ変」によると、「有村次左衛門と広岡子之次郎が、濠の方から駕籠に走り寄り、刀を突き入れるのを見た。鉄之介には、駕籠でさえぎられて見えなかったが、有村が扉をひらいたらしく、うずくまって肩をしきりに動かしている。その動きに、やはり駕籠には井伊大老がいて、稲田(重蔵)の体あたりで致命傷を負い、外に出られなかったのだろう、と思った。(中略)有村が再び叫んだ。その顔には泣いているとも笑っているとも判じがたい異様な表情がうかんでいる。刀の先の首を見つめた鉄之介は、遂に井伊大老の首級をあげたのだ、とかすんだ意識の中で自分に言い聞かせた」と関鉄之介の日記をもとに描写している。

  有村、広岡はその後、重傷をうけて自害した。関は文久2年に斬首されている。(3月3日)

2019年2月25日 (月)

菅原道真の怨霊伝説

0902142     菅原道真は901年に大宰府に左遷され、2年後、2月25日、59歳で薨死した。道真の死後、天変地異が多発したことから、無念の死をとげた道真の崇りだと人々が考えた。時平が909年に早世し、923年には醍醐天皇の皇太子が夭折し、930年に醍醐天皇が46歳で崩御した。 事態を重く見た朝廷は、道真の霊を鎮めるため、子孫を京都に呼び戻し、官位を追贈したほか、京都に北野天満宮を創建し、王城鎮護の神として祀るなど、道真への敬意を表わした。この名誉回復の結果、道真一族は、五男淳茂、長男高視の息・文時が文学博士となった。中世となると、菅原氏は紀伝道を家業とし、明治になると子爵を授けられ、一族は繁栄した。配流の地で悲運の死を迎えた道真が、毎日恩賜の御衣を捧持して君恩を忘れなかったという話は、学校教育の場で忠臣の姿として称賛され、広く知られる。

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