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2017年2月24日 (金)

児島高徳

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 「児島高徳」 羽石光志画

    児島高徳(生没年不詳)の実在性には疑問はあるが、備前の人、本姓は三宅、備前守範長の子といわれる。

    後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、児島高徳は舟坂山や杉坂で救出しようと企てたが果たせず、せめて自分の覚悟なりともお知らせしたいと美作院庄(岡山県津山市)の宿所に潜入して、庭の桜の大木の皮を削って詩句を書きつけた。

天勾践を空しゅうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず。

(天よ、どうか後醍醐天皇をお見捨てなきよう。天皇も范蠡のような忠臣がここにおりますことをお信じ下さい)

   翌朝、警護の武士たちが見つけて騒いでいたが、天皇はその意味がお分かりで、快げにお笑いになったという。

    1333年2月24日、児島高徳は、天皇が隠岐を脱出して船上山で旗を揚げると、一族を率いて馳せ参じ、千草忠顕や新田義貞に属して各地に転戦した。正平7年、兵を集めて入洛を企てたが、失敗した。戦いに敗れて剃髪し、志淳と称したというがその後の消息は分からない。

2017年2月21日 (火)

最初の電話帳

Photo_2    1876年グラハム・ベルが電話を発明したわずか2年後の1878年2月21日、アメリカ・コネチカット州ニューへブンで世界初となる電話帳が発行される。

    日本で初めて電話帳が発行されたのは1890年10月のことで、197件の加入者が1枚の紙に印刷された「電話加入者人名録」だった。電話番号1番は東京府庁、2番が逓信省電務局。個人は69名が掲載されており、渋沢栄一、大隈重信、後藤象二郎、岩崎弥太郎、前島密、大倉喜八郎など著名人が登録されていた。(Connecticut,old telephone book)

 

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 日本最初の電話帳「電話加入者人名録」 

 

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 世界最初の電話帳

 

2017年2月 8日 (水)

漱石が見つめた近代

  姜尚中がゆく、漱石が見つめた近代。ハルピン駅構内には今も伊藤博文暗殺事件の現場が残っている。△が安重根が狙撃した場所。□が伊藤博文がいた場所。番組で姜は「この距離は僅か2~3mぐらいでしょうけど、これが歴史を大きく変えて何か日本と韓国との距離を示しているような気がします」と語っている。映像でみると伊藤と安重根との距離は、2~3mではなく、4~5mくらいのようにみえる。近年、伊藤公暗殺の真犯人はロシア特務機関という説も出ている。漱石は小説「門」で次のように書いている。

   「時に伊藤さんも飛んだ事になりましたね」と云い出した。宗助は五六日前、伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入ったが、その語気からいうと、寧ろ落ち付いたものであった。「貴方大変だって云う癖に、些とも大変らしい声じゃなくってよ」と御米が後から冗談半分にわざわざ注意した位である。その後日毎の新聞に、伊藤公の事が五六段ずつ出ない事はないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだか分からない程、暗殺事件に就ては平気に見えた。

2017年2月 7日 (火)

日本民族のルーツはモンゴル!?

Img_64816_10401509_0   日本人の幼児には臀部、腰部など皮膚に青色の斑点がみられる。これを蒙古斑と命名したのは、明治お雇い外国人として東京大学に招かれた医学者エルヴィン・フォン・ベルツ(1849-1913)である。蒙古斑は日本人には95%以上の割合で見られるが、中国人(漢民族)、韓国人には少ない。アジアでもタイ人などは「トゥック・ムック」(インクのケツという意)といって蒙古斑がでる子が半数近くいるらしい。ベルツは日本人の形質をみるうち、日本人はいろいろな民族が混血している新人種であると考えた。日本人混血説である。「日本人の体質」(邦訳なし)を著し、①アイヌ型②満洲・朝鮮型③マレー・モンゴル型の3種であるとした。このような日本民族の形成と起原に関しては戦前の皇国史観のなかではタブーであったが、戦後すぐに、江上波夫の騎馬民族説などの新説が現れた。日本人の支配者層をなす天皇家の祖先は、アジア大陸北方の騎馬民族が朝鮮半島に進出し、そこから九州を経て、大和にはいり、日本を統一したというのである。ソ連のピョートル・グズミッチ・コズロフが発見した北蒙古ノイン・ウラから紀元前後の匈奴の王・貴族の古墳が多数発見された。もちろんこの時代の匈奴(丁零、夫餘)はモンゴル人ではない。通常モンゴル人は7世紀からといわれる。ノイン・ウラの民族はアーリア系であると考えられる。だが日本人のルーツといえる文化をもっている。かつて仁徳・応神陵など前方後円墳は日本独自といわれたが、現在では韓国の全羅道地域でも前方後円墳が確認されている。ノイン・ウラからも多数の前方後円墳が発掘されている。(参考;江上波夫「国家の成立と騎馬民族」季刊東アジアの古代文化6、1975年、梅原末治「北蒙古ノイン・ウラの遺物」) 

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 天皇家の祖先が紀元前後いたと思われる故地

( keyword;Mongolian spot,Erwin von Balz,Noin-Ula,Kozlv )

2017年2月 6日 (月)

佐久間艦長の遺書

   福井県若狭町にある佐久間記念交流会館には海軍軍人、佐久間勉大尉の日記や遺品が展示されている。明治43年4月15日、佐久間大尉を艦長とする第6号潜水艇は山口県新湊沖で事故が発生。遭難の翌朝、引き揚げられた第六潜水艇には、乗組の佐久間大尉以下14名全員すでに殉職していた。潜水母艦「豊橋」に安置された艦長のポケットに発見された一冊の手帳には、沈没の原因、処置、その他が細かく記され、これが佐久間艦長の遺書として、後世にまでながく伝えられることとなった。

2017年2月 4日 (土)

銀箔は貼られてなかった銀閣寺

Photo_4    2月4日は「銀閣寺の日」。だが、これには歴史的に考えると多少問題がある。銀閣寺とは俗称であり、足利義政の死後は、その遺命により禅寺とし、彼の法号に因んで慈照寺と名づけられた。義政生前は「東山殿」と呼ばれ、つまり2日4日は、工事の着工記念日であり、このときはまだ観音殿つまり銀閣は完成していない。応仁の乱の直後の財政難の時代であり、工事はなかなか進まなかったようである。一年有半の歳月を費やして、竣工したのは翌年の文明15年(1483)6月27日である。実際に観音殿(銀閣)が完成するのは、さらに6年後の1489年である。

  造営が竣工した日、義政は長谷御所から浄土寺山荘に移った。「女中連れの賑やかな移転であった。山荘の落成を祝賀して貴戚権門が多数参集した。冠蓋織るが如くであった」と横川景三は書いている。義政の満足想うべきである。しかしまだ住居部分の山荘が落成しただけで、実は全体の構想の二分ばかりにすぎなかった。延徳元年(1489年)に、ようやく観音殿(銀閣)が上棟された。銀閣は2層からなり、第一層心空殿は正面4間・側面約3間で和様書院造風の構造。第ニ層潮音閣は3間四方、禅宗様仏風で、堂中に観音像を安置する。東山殿の建物は10箇所と伝えられる。そのうちでも特に念を入れて造ったのは持仏堂である。仏間には阿弥陀三尊像を安置し、その名を東求堂と名づけた。またこの堂内に小書院の「同仁斎」がある。この部屋は書斎で、書画奇玩を鑑賞するに最適の設備が施された。しかもその大きさは僅かに四畳半敷である。後世この小室を茶室の祖と称する。東求堂に対して「西指庵」があった。ここも義政が造営に力を入れたところである。亀泉集証は文明17年4月9日始めてここに入り、「実に天下の奇観なり」と讃えている。

  また俗に銀閣と称されている観音殿がある。これまで銀箔が貼られていたのではないかという言い伝えもあったが、このほど奈良文化財研究所のエックス線による分析で、銀閣は創建当時から一度も銀箔が施されていなかったことが科学的に証明された。創建時、2階の外壁は漆黒が塗られていた。では、なぜ銀閣寺と呼ばれたのであろうか。ひとつは、北山の金閣寺に対する呼び方として銀閣寺が定着したとする説。二つ目には、池の反射光が漆塗の外壁に映って銀色に輝いて見えたからという説がある。本堂・東求堂の南面に庭園が広がり、庭の主要部には錦鏡池がある。また庭の西北隅、即ち本堂の南面に不思議な砂盛りがある。これを銀沙灘(ぎんさだん)と呼ぶ。とにかく銀閣寺は応仁の乱のため銀箔が貼られることはなかった。

2017年1月28日 (土)

日本人のルーツは北方から、南方からか?

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  3万年前の東アジアは、気候が寒冷化し、年平均気温は今日より7~8度も低かったるそのため海面が下がって日本海が生まれ、そのまわりに陸橋が形成される。この陸橋沿いに大陸から北方系の哺乳動物が南下し、それを追って人びとも南下したようである。気候は1万5千年前から温暖化に向かい、降水量の増加にともなって、ブナやナラ類の落葉広葉樹の森が形成されたという。そして、約1万3千年前、バイカル湖周辺に住んでいた人びとが移動し、一派はサハリンから北海道を南下して本州の日本海側に到着、別の一派は朝鮮半島から幅約7.5キロの陸橋を南下して九州へ入った。彼らの食糧源は、森のナッツ類や山菜、動物やサケ、マスなどの川魚であったろう。
   2010年、沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で2万年前の旧石器時代の人骨が発見されたことは重要である。1万数千年より前の旧石器時代の人骨は10例ほどあるが港川人は約18000年前、 浜北人は14000年前で、今回が最古である。

  地質学でいう第四紀は約1万年前を境に更新世と完新世に分けられる。戦前の考古学界では、更新世には日本列島にはまだ人類は住んでいなかったと考えられていた。ところが昭和24年、群馬県岩宿の関東ローム層の中から打製石器が発見され、それが契機となり、日本にも旧石器文化があると考えられるようになった。考古学の時期区分として、世界的には更新世に属する人類文化を旧石器文化と呼ぶ。ただし、後続する時代については、日本では「新石器時代」ではなく、「縄文時代」「弥生時代」というのが一般である。

  それはさておき、日本人のルーツに関してはまだ解明されない点が多い。日本人を含むモンゴロイドは古モンゴロイドと新モンゴロイドに分けられる。現代日本人には新モンゴロイド的特徴が色濃く認められるが、人類学的見地からは、日本人の基層は南方の古モンゴロイドであったと考えられている。最近のDNAの調査によると、縄文人と東南アジア人とのDNAの塩基配列を比較したところ、両者に共通の起源をもつ可能性が明らかとなった。南西諸島から旧石器時代の人骨が出土することは、考古学上の資料からも、日本人の南方起源が有力となってきたということである。1967年、沖縄県島尻郡志頭村港川の海岸に近い石切り場で人骨が発見された。この人骨は、約1万8000年前から1万7000年前のものと推定される。沖縄県立博物館にある港川人復元像をみると、先ごろ結婚を発表された澤穂希さんによく似ている。澤さんの風貌は旧石器時代の日本人をよく現代に伝えている「なでしこ」そのものである。

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2017年1月27日 (金)

幕末期江戸の変化と新徴組

   嘉永6年6月、ペリーが浦賀に来航、こうして幕末の政争がひきおこされるのである。開国による経済的諸変化により、物価は高騰し、中下層農民や都市下層民に著しい動揺と混乱を与えた。慶応2年5月、米などの安売りを要求して穀屋、酒屋、質屋などの富裕な商人を打ち壊しの動きがあり、市中の混乱は次第に激しくなる。幕府浪的士組の清河八郎の横死後、浪士組は新徴組として再組織された。文久3年4月のことである。屯所は江戸の本所に設置され、高橋泥舟、山岡鉄太郎が幹部であった。元治元年には勤王色を一掃して庄内藩主・酒井忠篤の預かりとなる。幹部は中村又太郎ほか14名。戊辰戦争では新徴隊として各地に転戦するが、明治元年9月下旬、庄内藩の降伏で解散。幕末の女剣士・中澤琴(1839-1927)は兄・中澤良之助とともに上洛し、のち新徴組に加わる。目鼻立ちの整った美人といわれる。

   結成時の隊士。取締・俣野一郎右衛門。幹部は根岸友山、山田官司、徳永大和、武田元記、大館謙三郎、黒田桃珉、常見一郎、斎藤源十郎、青木慎吉、山本仙之助、高橋亘など。隊士は芳賀忠治、森土鉞四郎、村上常右衛門、金子正言、西恭助、宇都宮左衛門、大内志津馬、須永宗司、黒井卓一郎、大村達尾、金子竜之助、藤林鬼一郎、管野正助、林茂助ほか。なお、新徴隊になってからの幹部は中村又四郎、中村錦三郎、白井為右衛門、仁科五郎、渡辺平作、玉城織衛、天野静一郎、稲田隼之助、長屋源平、中沢貞之助、黒井卓一郎、満岡元司、本多源三郎、水野倭一郎、荻野良造、大島学ら。

実朝暗殺の謎

Photo   源実朝の右大臣拝賀式は承久元年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた。早咲きの梅の花を見て、「出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠んだ。辞世の歌のような悲しいひびきがある。その儀式の夜、日暮れから降りはじめた雪はしんしんと積もった。実朝が雪の石段を下りたところ、頼家の遺児の公暁は突イチョウの木の陰から突然おどり出して、将軍実朝を殺し、太刀持ちの源仲章も斬り伏せた。公暁は実朝暗殺のあと、三浦義村を頼ったが、義村に裏切られ、長尾定景に謀殺されてしまった。将軍実朝は30歳に満たない若い命を散らし、公暁も死に、ここに源氏の嫡流は絶えてしまったのである。

   鶴岡八幡宮の石段わきには「公暁の隠れ銀杏」といわれるイチョウの大木がある。高さ約30m、周囲6.8m、樹齢800年以上ともいわれている。ところが2010年3月夜の強風のため、この大木が倒れてしまった。樹齢800年であれば、公暁が隠れたイチョウの木はこれ以前の木かもしれない。それにしても「公暁の隠れ銀杏」の話は江戸時代以降に見られることで、慈円の「愚管抄」などの鎌倉時代の文献には、イチョウのことは一つも書かれていない。このことから史実ではなさそうだ。

    この実朝暗殺が、公暁一人の計画でなかったことはほぼ推察できる。しかし、これが北条義時の陰謀であるのか、あるいは三浦義村が暗殺計画の黒幕であるのか(永井路子の小説『炎環』)、さまざまな憶測は可能であるが、その真相はいまだに歴史上の謎につつまれている。

2017年1月25日 (水)

姫路城と池田輝政

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    元弘3年(1333年)、赤松則村(あかまつのりむら)が一時陣城を置き、正平元年(1346年)、赤松貞範(あかまつさだのり)が城郭を築いた。天正8年(1560年)、羽柴秀吉が修築、中国地方経略の居城として三層の天主を建てた。慶長5年(1600年)、池田輝政が入り、慶長13年頃まで大改築した。その後、豊臣秀頼の未亡人千姫と婚した本多忠刻(ほんだただとき)が父とともに入城、千姫のために西の丸を経営した。以後、親藩、譜代の10万石ないし15万石程度の要人が入り、明治維新に至った。

   城は山陽道に沿い播磨平野の中央にあり、高さ45メートルの丘を中心に渦巻状に2巻き、時計と反対の方向に巻いている縄張になっている丘上に本丸・二の丸・三の丸・西の丸をおいて内曲輪とし、その周囲の平地に中曲輪・外曲輪がある。内曲輪はほぼ円形の平面をなしており、堅固な石垣をめぐらしている。中曲輪はおおむね石垣と水濠、外曲輪は土塁と水濠で囲んでいる。天守は本丸の中央にあり、大天主のほかに三つの小天主を多門で連結した連結式天守閣で、五層六重穴倉一重で白壁総塗籠造(ぬりごめづくり)。初層の東側、二層の南・北側に軒唐破風(のきからはふう)をつけ、その下に出窓風な張出しを設けたこと、四、五層に軒唐破風を設けたことなどが特徴である。櫓は40棟、渡櫓18棟、多門40棟、長局8棟で、櫓の主なものには片仮名の「イロハ」で、門の主なものには平仮名の「いろは」で名付けられていた。内曲輪は大体保存され、中・外曲輪は破壊されて市街になった。

   池田輝政の法要が増位山随願寺で行われる。輝政は慶長18年1月25日、姫路城で急死する。享年50歳。豊臣秀吉の呪いとも噂される。

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