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2017年4月26日 (水)

郵便料金の値上げ

   はがき料金が6月から62円になる。1883年からハガキ料金のうつり変わりを調べると、明治・大正期の一銭五厘、戦後の5円などが懐かしい。

明治16年  1銭
明治32年  1銭5厘
昭和12年  2銭
昭和20年  5銭
昭和21年  15銭
昭和22年  50銭
昭和23年  2円
昭和26年  5円
昭和41年  7円
昭和47年  10円
昭和51年  20円
昭和62年    40円
平成3年   41円
平成7年   50円
平成26年  52円
平成29年  62円

2017年4月18日 (火)

山本五十六が撃墜されたときの同乗者の名前は?

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    昭和18年4月18日午前6時、山本五十六ら11人が乗った一番機と、宇垣纏ら12人が乗った二番機の一式陸攻がラバウルを発進した。護衛につくのはわずか6機の零式艦上戦闘機だった。一番機には、山本五十六、福崎昇、高田六郎、樋端久利雄、小谷立、大崎明春、田中実、畑信雄、上野光雄、小林春政、山田春雄(全員死亡)。 二番機には、宇垣纏、北村元治、林浩、友野林治、今中薫、室井捨治、藤本文勝、谷本博明、伊藤助一、八記勇、野見山金義、栗山信之が搭乗していた。(宇垣、北村、林は生存)。 護衛機6機は、森崎武、辻野上豊光、杉田庄、日高義巳、岡崎靖二、柳谷謙治。

    ブーゲンビル上空でアメリカ軍により撃墜された。(海軍甲事件と呼ぶ) 山本らの戦死は1ヶ月間、極秘にされた。5月21日、大本営発表で公表され、6月5日に国葬が行われた。明治27年から昭和20年までに帝国海軍は24人の連合艦隊司令長官が就任したが、在職中に戦死したのは山本五十六、唯一人である。

(参考:蜷川親正「山本五十六検死ノート」 光文社

高城肇「六機の護衛戦闘機」 光人社)

2017年4月16日 (日)

少年よ、大志を抱け

Thumb5    1877年のこの日、札幌農学校のクラーク博士(1826-1877)が帰国の途につく。 開拓使は北海道開拓のための教育機関の設置を図り、アメリカの農務局長H・ケプロンの建言によって明治5年東京芝増上寺内に開拓使仮学校を開き、ついで女学校を設置した。明治8年、これを札幌に移して札幌学校と改称(女学校も移したが、翌年廃止)、さらに規模を拡大して高等農学校とするにあたり、アメリカ駐在の吉田清成公使に委嘱してアメリカのマサチューセッツ農科大学校長クラークを招き、彼は明治9年来日した。ただちにクラークが教頭に就任、校制を編成し、同年8月開校、翌月札幌農学校と改称した。生徒は卒業後5ヵ年間開拓使に奉職する規定とし、学科も広範であった。教師はアメリカ人が多くアメリカ式教育が施された。クラークのキリスト教に基づく人格教育は独特な学風を作り出し、アメリカ式の牧畜経営の理論と実際を教授し、植物採集実験に生徒と行動をともにし、実業教育に成果があった。クラークは、わずか1年たらずの在任期間に、生徒の信頼を集め、多方面にわたって有為な人材を送り出した。佐藤昌介などは直接の、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、佐久間信恭などは間接の弟子である。なお、名言「少年よ、大志を抱け」 Boys,be  ambitious は、クラークがかの島松の駅頭、学生たちに馬上より送った言葉である。クラークは帰国後、大学辞任後鉱山業に関係したが、失敗したという。クラークが日本に残したものの一つに学校運動会がある。ルーツは明治11年5月25日、クラークが提唱した札幌農学校で開催された遊戯会であるといわれている。ちなみに日本最初の運動会は明治7年3月21日、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で運動会「競闘遊技会」が開催された。( keyword;William Smith Clark 、4月16日)

2017年4月15日 (土)

諸説あり、巌流島の決闘

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 江戸時代の絵では武蔵のほうが若く描かれている

   宮本武蔵が佐々木小次郎と長門の船島で試合した巌流島の決闘は時代劇などで広く知られている。だが手元の日本史年表などで調べると、巌流島の決闘は載っていないことが多い。(「日本史年表・地図」(吉川弘文館)「コンサイス世界年表」(三省堂) ) 信頼できる史料が乏しいことによるものである。決闘の期日も慶長17年説、慶長19年説など諸説ある。「二天記」には「慶長十七年四月」と記されているので、1612年4月13日とするのが一般的である。巌流を俗に佐々木小次郎と当てているが、これも後年の芝居で名づけられたもので根拠はない。中条流富田勢源の弟子であったことから武蔵よりだいぶんと高齢であったと考えられる。このほかに、武蔵は決闘の時間に遅れていない説、小次郎の長い刀より長い刀説、弟子が倒した説、などなど諸説紛々たり。そもそも決闘が実際に行われていたかどうかすら疑わしい。漁業権をめぐる漁師たちの争いが武蔵・小次郎の決闘となったのではないかと専門家は語る。とかく伝説というものは、年代を経るにしたがって変貌していく。宮本武蔵は「五輪書」に人生に六十余度の勝負をして一度も負けなかったと記しているが、相手の中で大家といわれるものは吉岡一門だけで剣聖どころか田舎剣客にすぎない。講談や小説で武蔵はいちばんの剣豪にまつりあげられたといえる。

   このほか武蔵の伝記で関ヶ原合戦に初陣として参戦し負け組と伝わるが、福田正秀は武蔵西軍説を否定。東軍黒田如水軍に父無二と共に「九州の関ヶ原」豊後合戦に出陣したことを論証している。

2017年4月 3日 (月)

龍馬、得意のポーズの謎

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   坂本龍馬の写真はふところ手をしている。ある説では、高杉晋作からもらったピストルをもっているとか、万国公法をもっているとか、寺田屋での怪我を隠しているとか、諸説ある。だが本当はナポレオンの真似をして英雄気取りのポーズかもしれない。ある日、外国人からナポレオンの話を聞かされ、たいそう感心してその右手をチョッキを入れている肖像画をヒントにカッコをつけたのだろうか。ところでご本家のナポレオンの手の中は英雄のみぞ知るが、実は迷信深かったので常にお守りを身に着けていたのではないかと言われている。オデムと呼ばれる赤いルビーの宝石で八角形をしておりインタリオ(印章)だった。

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2017年3月 8日 (水)

相撲の起源は?

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  「日本書紀」によると、垂仁天皇の御世、当麻蹴速と野見宿禰が角力をとり、宿禰が勝ち、大和国当麻の地を与えられた。また「播磨風土記」には、相撲の始祖とされる野見宿禰は播磨国の立野で没した、とある。墓を立てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「たつの」の地名の由来である。たつの市には墳墓伝説が残り、後世になって野見宿禰神社が建てられた。

    ところで相撲という格闘競技は日本だけではなく、世界中にさまざまな呼び名で行われている。中国ではシュアイジャオ(角力)、朝鮮シルムSireum、モンゴルのブフBoku、インドのクシュティKushti、イランのコシュティKoshti、トルコのヤールギュレシYagli gures、スイスのシュビンゲン、ロシアのサンボSomboなど。第12王朝(BC1950年頃)の古代エジプトの壁画には相撲のような格闘技が描かれている。日本の相撲の起源は、古代中国、秦漢時代の角抵(かくてい)あるらしい。

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また紀元前4世紀から3世紀にかけての中国内モンゴル自治区オルドス地方出土の「革帯鉸具・相撲をとる騎士」(大英博物館所蔵)には相撲をとる風俗主題の意匠がみえる。

2017年3月 3日 (金)

井伊大老の死

 万延元年3月3日のその朝、彦根藩邸に、浪士襲撃を密告した手紙が投げ込まれたという。その文面は、水戸脱藩浪士の暗殺計画にふれ、警戒するよう忠告してあった。直弼は、水戸浪士が自分の命を狙うーっていることは承知していたが、自分の胸にしまったまま家臣にももらさず、登城の駕籠に乗り込んだ。供廻りの人員は規定どおりの数である。徒歩が26人、それに足軽、草履取り、駕籠かき含め、総勢60余名。そのうち最後まで大老の駕籠を護って奮戦したのは8名にすぎない。まったく無傷のものが8名もいて、このものたちは、浪士襲撃と見るや、「一大事でござる」と叫びつつ、藩邸へ駆けつけ注進したのはよいが、どこか隠れたり逃げたりして、事件後、どこからともなくあらわれ、同僚の死体の整理にあたっている。譜代大名のうちでもその威名を天下に知られたほどの彦根35万石の大藩・井伊家自体が、これほどにおとろえていたことをみるべきだろう。

   井伊直弼は駕籠に乗ったまま討たれ、その討たれ方に、銃撃を腰に受けて動けなかったとする説と、死を天命として受け入れたとする説がある。最初に駕籠目がけて斬り込んだのは、稲田重蔵であるが、直弼の首級をあげたのは有村次左衛門といわれている。その間わずか3分ほどの暗殺劇だった。吉村昭の「桜田門ノ変」によると、「有村次左衛門と広岡子之次郎が、濠の方から駕籠に走り寄り、刀を突き入れるのを見た。鉄之介には、駕籠でさえぎられて見えなかったが、有村が扉をひらいたらしく、うずくまって肩をしきりに動かしている。その動きに、やはり駕籠には井伊大老がいて、稲田(重蔵)の体あたりで致命傷を負い、外に出られなかったのだろう、と思った。(中略)有村が再び叫んだ。その顔には泣いているとも笑っているとも判じがたい異様な表情がうかんでいる。刀の先の首を見つめた鉄之介は、遂に井伊大老の首級をあげたのだ、とかすんだ意識の中で自分に言い聞かせた」と関鉄之介の日記をもとに描写している。

  有村、広岡はその後、重傷をうけて自害した。関は文久2年に斬首されている。(3月3日)

2017年2月24日 (金)

児島高徳

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 「児島高徳」 羽石光志画

    児島高徳(生没年不詳)の実在性には疑問はあるが、備前の人、本姓は三宅、備前守範長の子といわれる。

    後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、児島高徳は舟坂山や杉坂で救出しようと企てたが果たせず、せめて自分の覚悟なりともお知らせしたいと美作院庄(岡山県津山市)の宿所に潜入して、庭の桜の大木の皮を削って詩句を書きつけた。

天勾践を空しゅうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず。

(天よ、どうか後醍醐天皇をお見捨てなきよう。天皇も范蠡のような忠臣がここにおりますことをお信じ下さい)

   翌朝、警護の武士たちが見つけて騒いでいたが、天皇はその意味がお分かりで、快げにお笑いになったという。

    1333年2月24日、児島高徳は、天皇が隠岐を脱出して船上山で旗を揚げると、一族を率いて馳せ参じ、千草忠顕や新田義貞に属して各地に転戦した。正平7年、兵を集めて入洛を企てたが、失敗した。戦いに敗れて剃髪し、志淳と称したというがその後の消息は分からない。

2017年2月21日 (火)

最初の電話帳

Photo_2    1876年グラハム・ベルが電話を発明したわずか2年後の1878年2月21日、アメリカ・コネチカット州ニューへブンで世界初となる電話帳が発行される。

    日本で初めて電話帳が発行されたのは1890年10月のことで、197件の加入者が1枚の紙に印刷された「電話加入者人名録」だった。電話番号1番は東京府庁、2番が逓信省電務局。個人は69名が掲載されており、渋沢栄一、大隈重信、後藤象二郎、岩崎弥太郎、前島密、大倉喜八郎など著名人が登録されていた。(Connecticut,old telephone book)

 

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 日本最初の電話帳「電話加入者人名録」 

 

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 世界最初の電話帳

 

2017年2月 8日 (水)

漱石が見つめた近代

  姜尚中がゆく、漱石が見つめた近代。ハルピン駅構内には今も伊藤博文暗殺事件の現場が残っている。△が安重根が狙撃した場所。□が伊藤博文がいた場所。番組で姜は「この距離は僅か2~3mぐらいでしょうけど、これが歴史を大きく変えて何か日本と韓国との距離を示しているような気がします」と語っている。映像でみると伊藤と安重根との距離は、2~3mではなく、4~5mくらいのようにみえる。近年、伊藤公暗殺の真犯人はロシア特務機関という説も出ている。漱石は小説「門」で次のように書いている。

   「時に伊藤さんも飛んだ事になりましたね」と云い出した。宗助は五六日前、伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入ったが、その語気からいうと、寧ろ落ち付いたものであった。「貴方大変だって云う癖に、些とも大変らしい声じゃなくってよ」と御米が後から冗談半分にわざわざ注意した位である。その後日毎の新聞に、伊藤公の事が五六段ずつ出ない事はないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだか分からない程、暗殺事件に就ては平気に見えた。

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