無料ブログはココログ

2018年4月18日 (水)

山本五十六が撃墜されたときの同乗者の名前は?

Photo_2

    昭和18年4月18日午前6時、山本五十六ら11人が乗った一番機と、宇垣纏ら12人が乗った二番機の一式陸攻がラバウルを発進した。護衛につくのはわずか6機の零式艦上戦闘機だった。一番機には、山本五十六、福崎昇、高田六郎、樋端久利雄、小谷立、大崎明春、田中実、畑信雄、上野光雄、小林春政、山田春雄(全員死亡)。 二番機には、宇垣纏、北村元治、林浩、友野林治、今中薫、室井捨治、藤本文勝、谷本博明、伊藤助一、八記勇、野見山金義、栗山信之が搭乗していた。(宇垣、北村、林は生存)。 護衛機6機は、森崎武、辻野上豊光、杉田庄、日高義巳、岡崎靖二、柳谷謙治。

    ブーゲンビル上空でアメリカ軍により撃墜された。(海軍甲事件と呼ぶ) 山本らの戦死は1ヶ月間、極秘にされた。5月21日、大本営発表で公表され、6月5日に国葬が行われた。明治27年から昭和20年までに帝国海軍は24人の連合艦隊司令長官が就任したが、在職中に戦死したのは山本五十六、唯一人である。

(参考:蜷川親正「山本五十六検死ノート」 光文社

高城肇「六機の護衛戦闘機」 光人社)

2018年4月 2日 (月)

上野に初の図書館つくられる(明治事物起源)

Syouheizaka

   福沢諭吉が明治2年に著した「西洋事情」の中で、欧米の図書館(ビブリオテーキ)事情を紹介したのが、わが国に図書館を認識せしめた始めとされる。しかし、すでに万延元年遣米使節の一行がニューヨークのアスター図書館を訪ねており、そのときの模様は、副使の村垣淡路守範正および御勘定組頭の森田岡太郎の日記に記されている。

  明治5年、文部省出仕、市川清流は「書籍館(しょじゃくかん)」設置の重要性を上申した。同年4月2日(正確な日付は不詳)、明治政府は接収していた徳川家の紅葉山文庫と昌平黌の文庫を文部省所管の「書籍館」として開設したのが、日本近代図書館の始まりである。しかし、これらの所管官庁や場所は幾たびと変わり、元の湯島にもどり、「東京書籍館」として改称した。しかし西南の役による財政難のため、これらの整備計画は中止され、東京府に移管して、「東京府書籍館」と改められた。明治13年、文部省に返り、「東京図書館」と改めた。これが「図書館」という名称の始まりであるが、当時は「としょかん」と呼ばず、「ずしょかん」と呼んでいた。江戸期の「図書寮」など「図書(ずしょ)」の名残りであろうか。明治5年には京都に「京都集書院」が開設、湯浅次郎が群馬に「便覧社」を創設、渡辺熊次郎が函館に新聞縦覧所を創設するなど各地にさまざまな活動がおきた。明治7年、八戸書籍縦覧所創設。明治9年には大阪、浦和で府県立の書籍館が開設されている。東京図書館はその後、明治18年に上野公園に移転し、「上野図書館」の名で親しまれる。

  子ども文庫のはじまりは、明治39年に東京で児童文学者の竹貫佳水(竹貫直人、1875-1922)によって開設された「竹貫少年図書館」である。

2018年3月30日 (金)

鴨長明「方丈記」

    「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし」 1212年のこの日、鴨長明(1155?-1216)が「方丈記」を完成。彼は生涯にわたり五つの大きな災厄を経験した。すなわち、安永の大火(火災)、治承の旋風(風災)、福原遷都、養和の飢饉(水災)、元暦の大地震(地災)である。鴨長明が生きた中世初期は激動の時代で、世間の中にあって心身が片時も休まることがなかった。60歳を数え、すっかり零落した長明が、余生の安心のために導き出した結論は、閑居した上での、天台宗・浄土教の教えに基づいた宗教生活であった。河合神社の禰宜職に就く念願がかなわなかったのがその原因ともいわれるが、京都郊外の日野山の奥に方丈の庵を建て、隠者として一人暮らしの道を選んだ。朝には「法華経」を読誦して罪障を懺悔し、夕には阿弥陀仏の名号を唱え、極楽往生を願ったのである。宗教生活といっても、実に気楽なものであった。「方丈記」によると、もし念仏を唱えるのが面倒で、読経するのにも身がはいらない時は、思うままに休み、怠けるのである。誰もいない一人住まいなので、咎める人もいない。また、仏道修行の一つである無言の行をしなくても、一人で暮らしているのだから、言葉による罪を犯さなくてすむわけである。仏教徒として戒律を守る努力をしなくても、戒律を破る環境ではないので、閑居は好都合であった。(参考:「名言で読む日本史人物伝」学習研究社、3月30日)

2018年3月29日 (木)

八百屋お七異聞

Edfa5806   本郷駒込にある天台宗円乗寺(文京区白山)に八百屋お七(1668-1683)の墓がある。天和2年(1682)12月の大火で家が焼け、菩提寺の円乗寺に避難したが、そこで小姓の山田左兵衛と恋仲になった。やがて家は再建されて戻ったが左兵衛会いたさに付け火をした。放火の大罪でお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた。ところで、お七の恋人の名は、山田左兵衛(近世江都著聞集)説のほか、生田庄之介(天和笑委集)など諸説ある。だが井原西鶴を参考にした小野川吉三郎の説をとるものが多い。NHKドラマ「あさきゆめみし」では木下順庵から儒学を学ぶ吉三郎という名になっている。

00034083
 八百屋お七の墓

2018年3月28日 (水)

東京遷都150年

 最近、「明治」と冠のついた特集や記事、幕末の志士の伝記・ドラマの予告が目に付く。とくに大河ドラマは西郷隆盛が主役だ。ちょうど今から50年前、1968年も明治100年で記念式典や出版事業が盛んだった。当時は高度成長期で、戦後復興がうまく行ったことで自信にあふれていた時代だった。今年の150年の記念事業があのときほどの盛り上がりはない。明治150年とは東京150年ということでもある。日本の首都はどこかと問うと、ほとんどの人は東京と答える。実は明治維新から主要な官庁が東京に集中したので、いつのまにか首都機能を持つ都市となったというだけで、「東京が首都である」と規定した法令は作られたことはなかった。古来、日本では天皇の御在所が都であるという認識があるので、東京が首都ということになっているだけである。江戸城が明治新政府に接収され、江戸を首都とする意見が出されたとき、公家や京都市民の間から、反対の声が沸き起こった。9月になってようやく天皇は京都を出発し、10月に江戸城に入り、これを東京城と改めた。このとき東京市民一同へ酒を賜わるとの御沙汰があり、市民はこれを天盃頂戴といって、時ならぬお祭りさわぎを演じた。天皇は12月、いつたん京都にもどって立后の儀をあげ、翌明治2年3月28日、京都市民の反対を無視して、天皇は江戸城に入城した。以後、東京は名実ともに日本の首都となった。同時に、太政官を東幸中は東京に移す旨を布告し、やがて中央行政機関がしだいに東京に移されていった。東幸といい再幸といい、政府はついに遷都を発表しないまま東京を新しい首都とした。

2018年3月20日 (火)

花営三代記

    室町幕府の日記である。「武家日記」あるいは「室町記」ともいう。一巻。著者はわからないが、おそらく室町幕府の右筆であろうと思われる。題名の、「花営」は三代将軍足利義満の室町の「花の御所」からきており、将軍義満・義持・義量の三代の記事を収めているので、「三代記」と称する。ただし、現在伝えられているのは、貞治三年(1381)から康暦三年(1381)までの15年間と、応永28年(1421)から応永32年(1425)までの5年間の記事のみである。全体として記事は簡単だが、幕府に関する記事はおおむね正確で、とくに貞治~康暦の時期においては、将軍をはじめ幕府重臣の動静、幕府の法令、評定始・内談始・弓場始などの幕府諸行事はもちろん、応安元年6月の有名な半済令や、応安4年11月の諸国段銭、応安5年7月の日吉社神輿造替要脚段銭などの施行については、拠らざるをえない重要な記事を収めている。本書は「群書類従」雑部に収められている。

2018年3月19日 (月)

陸奥話記の作者

   11世紀中ごろ、安倍頼時は、陸奥国の豪族で、城砦を築き、半独立的な勢力を形成していた。1051年から62年の12年にわたる前九年の役を記した軍記物語が「陸奥話記」である。1057年、頼時は討たれたが、子の貞任、宗任らが抵抗。1062年清原武則の援を得て源頼義はようやく貞任を討ち、宗任を捕らえて乱を平定した。「陸奥話記」の作者は未詳であるが、藤原明衡とする説が有力である。

2018年3月18日 (日)

吉野作造、没す

Photo_10    1933年のこの日、吉野作造は55歳で死去した。1916年、東大教授の吉野は「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(中央公論1月号)を発表した。これによってデモクラシー理論を発展させた民本主義が生まれ、論文は大きな反響をよんだ。(3月18日)

2018年3月17日 (土)

近藤重蔵、蝦夷地を探検

蝦夷地御用掛、近藤重蔵は寛政11年(1799)3月17日、蝦夷地を探検した。重蔵に課せられた任務はクナシリとエトロフの間の水路を開拓することだった。この2つの島の間には濃霧がたちこめ、潮流の速い国後水道がある。このあたりの海になれている蝦夷人も恐れて近寄らない難所だった。この水路開拓を重蔵は、高田屋嘉兵衛の協力を得て、みごとになしとげたのであった。蝦夷地に渡ること4度、その間、択捉島でロシア側が建てた標柱にかえて大日本恵土呂府の標柱を建てた。「辺要分界図考」はその見聞と内外の文献を取り入れて詳述した重蔵の代表的な著作である。

2018年3月16日 (金)

扶桑略記の編者について

  扶桑略記は日本最初の編年体史書で、神武天皇から堀河天皇の寛治8年(1094年)に至る間が記され、仏教関係の記事に重点が置かれている。もと30巻であったが、現存のものは残闕本で、16巻と抄本のみである。「六国史」以下の古史・僧伝・寺社の縁起・氏族志などを参照引用して、各条にその出典を明記している。これらの引用書には現在散逸したものもあって、貴重な史料となっている。編者は延暦寺の学僧皇円(1074年~1169年)といわれている。しかし編者が皇円であるということは「本朝書籍目録」によるが、別の著者とする説も平田俊春、堀越光信、田中徳定らによって最近は出されている。皇円編者を否定する理由は、「扶桑略記」が皇円が20歳そこそこの時の撰述となり、あれだけ多くの資料を渉猟して編むことが可能であったのか、また扶桑略記の根本史料となっている「外記日記」全巻の入手が困難であったこと、などを皇円説否定の根拠としている。堀越は、扶桑略記は藤原師通が主宰者となり、大江匡房を監修者として、惟宗孝言等数名の選者によって編纂されたものであろうと推測している。

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2018年4月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30