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2025年5月 9日 (金)

参勤交代と大名行列

   徳川家康は関ヶ原の役ののち、外様大名の江戸参勤や妻子の江戸居住を奨励した。慶長7年に前田利長が母の芳春院をたずねて江戸に参勤したのが、その最も早い例といわれる。翌年、家康が征夷大将軍に就任すると西国大名の江戸参勤が急にふえ、幕府も諸大名に江戸に邸宅を与え、刀剣・書画・鷹・馬などを参勤のときにおくり、大大名に対しては鷹狩に託して秀忠が東海道は高輪御殿、中山道は白山御殿、奥州街道は小菅御殿など迎えて優遇し慶長の末年には参勤が一般の風となった。はじめ幕府は参勤の供連れの人数を規定しただけで、参勤を命令することはなかったが、寛永11年8月4日、譜代大名の妻子の江戸居住を命じ、翌寛永12年6月21日の武家諸法度で毎年4月の外様大名の参勤交代が義務化することとなり、参勤交代は法制として確立した。通則は隔年交代、関東の大名は半年交代、対馬の宗氏は3年1度の参勤、水戸家や役付大名は定府(じょうふ)であった。当初は外様大名にのみ適用されたものであったが、寛永19年5月9日には譜代大名へも拡充されて、参勤交代は確立した。

  大名行列は本来、軍事に備える移動形態であったが、太平が続くと大名の権威と格式を誇示するための華美なものに変容した。参勤の道中には武具一式、衣服、雨具、非常食糧、漬物、湯道具、娯楽道具、休憩用具(幕・床几など)、ろうそくなどに至るまで持って歩く。他家の行列とすれちがう場合には、道中では格式にかかわらず、乗り物のとびらあるいは窓をあけ、行列は止まらない。長途の旅行で病気におちいり、一命を失うという場合も少なくなかった。加賀藩では最盛期には4000人の従者がいたといわれる。行列の際、先払いが「下に下に」と触れ声をかけ、庶民は土下座して道を譲る。ただし沿道の人を土下座させることができたのは親藩だけで、譜代と外様は「片よけ片よれ」と命令して通行した。

参勤交代は、大名の財政に大きな負担となり、軍事力が低下し、謀反を起こさせないとする結果となったが、反面、都市や交通が発展する一因となった。(参考文献;平山敏治郎「参勤交代する旗本」 人文研究大阪市立大学大学院文学研究科紀要7-8,1956)

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年5月 8日 (木)

備中高松城水攻め

  豊臣秀吉。天文5年、幼名日吉丸は、織田信秀の足軽木下弥右衛門の長男として生まれた。弥右衛門は戦傷で働けなくなり、彼が8歳のときに死んだ。あちこちに奉公したが、すぐ暇を出され、針売りなどして諸国を放浪。はじめ、今川義元の臣、松下嘉兵衛に仕え、ついで織田信長に仕える。時に日吉、18歳。木下藤吉郎と称す。御小人組を振り出しに、炭薪奉行、厩方知行三十貫、侍小路に屋敷を拝領と短時日のうちに出世してゆく。或る雪の降る日、信長が現れる。さっと草履を揃える秀吉。「草履がぬるい。尻に敷いたか」と信長に蹴りつけられた秀吉が答える。「抱いておりました」誰もが知るエピソードだが、江戸中期以降の絵本太閤記が初出で、この逸話の信憑性は極めて低い。26歳の時、弓之衆、浅野又衛門の娘、寧々と結婚する。その初仕事が洲股築城だった。蜂須賀小六の手勢二千を使って築城に成功。浅井・朝倉攻めで大功をたて、遂に小谷城の主となった。翌年、小谷攻略の手がらを買われ、一躍、長浜の城主に。姓も木下藤吉郎から羽柴筑前守秀吉に。やがて信長の中国攻略が本格化し、秀吉は5年10月、中国征討の総大将として播磨に出陣した。中国は毛利の強力な地盤であったから敵の抵抗も猛烈で、三木城を落とすにも3年がかりの攻防をくりかえした。ようやく5年目の天正10年5月8日、備中高松城を水攻めにして対毛利戦の決着をつけんとしていた。堤防のは12日間で完成、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって高松城は孤島と化してしまった。この攻防戦の最中に、織田信長が明智光秀に討たれた。感傷にふける秀吉の耳元で黒田官兵衛「おめでとうございます。これで御運が開けましょう」と耳元で囁いた。天正10年6月、逆臣明智光秀を山崎の合戦に破り、秀吉は一躍、天下人候補の最右翼となった。信長の継承者を決める清洲会議でも、居並ぶ諸侯を圧して主導権を手中に治めた。必然、重臣の筆頭、柴田勝家と反目せざるをえなかった。もともと、秀吉は、勝家とは反りが合わなかった。賤ヶ岳の戦で勝家を破り、ついで信孝を滅ぼし北陸を平定し、従四位下参議となる。尾張国小牧・長久手に織田信雄・徳川家康と戦ったが、のち和睦する。天正13年、紀伊の根来・雑賀衆を討ち、また四国の長宗我部元親を屈服させる。同年内大臣、ついで藤原姓を称し従一位関白となる。同年大坂城が完成。同年豊臣姓勅許。天正14年、太政大臣。天正18年、北条氏直を滅ぼし、奥州を平定して全国を統一する。

 

 

2025年5月 7日 (水)

波豆八幡神社と多田源氏

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    摂津は多田源氏の発祥の地である。宝塚市千刈貯水池の北岸にある波豆(はず)八幡神社の祭神は誉田別尊(応神天皇)。天延元年、源満仲の弟、源満政の創建と伝えられる。源満仲は安和2年に起こった安和の乱で実力をみせ、清和源氏の名を高めた。摂津国多田荘を領地としたため、多田満仲とも呼ばれた。満仲の子、頼光、頼親、頼信も異色の武勇人として台頭し、それぞれ摂津源氏、大和源氏、河内源氏の流祖となった。頼義、義家父子が前九年、後三年の役への出兵で東国にその名を馳せることで、源氏の東国での人気が高まった。だが義家の子、義親が九州にて反乱を起こして、為義の時代には衰退していく。現在の波豆八幡神社の本殿は室町時代に再建されたもので、重要文化財に指定されている。

六瀬頼連軍忠状

 尼崎市が保管する南北朝時代の古文書。六瀬頼連軍忠状、「ろくせよりつらぐんちゅうじょう」と読む。軍忠状とは中世の武士が自身の戦功を上申した文書で、所属する軍団の統率者に提出される。北朝方の六瀬頼連は正平17年8月に参陣し、神崎橋の西詰で南朝勢と戦った。この合戦は神崎合戦と呼ばれ、戦闘の経過などがわかる稀少な史料であることから、令和7年に、尼崎市指定文化財に指定された。

 

一休生母の墓

 テレビアニメ「一休さん」でお馴染みの室町時代の臨済宗の高僧、一休宗純の生母の墓が大阪府門真市の下三ツ島公園内にある。「橘姓楠家倉氏系図」によると、南北朝で南朝方であった楠木正澄は三ツ島に隠れ住み、その三女が後小松天皇の官女となり、一休を産んだとされる。母の名は「伊予局」という、一休を産んだのち早世したとされている。

 

佐々木小次郎の実年齢の謎

F8b1ded5 福岡県出身の「演歌界の貴公子」山内惠介も今年デビュー25周年になる。まだあまり売れていないころ、「つばめ返し」という曲で羽織・袴という佐々木小次郎の出で立ちで歌っていたことを思い出した。一般に佐々木小次郎といえば、長身で美青年のイメージがある。吉川英治の小説「宮本武蔵」では佐々木小次郎のことを次のように描写している。前髪に紫の紐をかけ、派手やかな小袖へ、緋らしゃの胴羽織を纏っているので、少年として見えるものの、年齢のほどは、少年という称呼には当てはまるかどうか、保証のかぎりではない(中略)まず19か、20歳というところではなかろうかと思われます」とある。以後、多くの映画・ドラマの小次郎像は長身の美少年である。熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では巌流島の決闘時の年齢は18歳であったと記されている。しかしながら小次郎は越前の中条流の富田勢源の門人であったという。勢源は晩年には眼疾で弟の富田景政が家督を相続したが、小次郎は景政と試合をして、見事勝っている。諸国を修行し、燕返しの剣法を案出し、増田長盛によって豊臣秀吉に仕えようとしたが、うまくいかず、結局、豊前小倉の藩主細川忠興に仕えるようになった。つまりこれらの出自から逆算すると、天正時代にはすでに成年になっており、宮本武蔵より30歳ぐらいは年長であると考えられ、江戸時代の絵草子では佐々木小次郎は髭をたくわえた豪傑として描かれている。『二天記』の年齢記述は誤りで、実際には70歳くらいではなかったかといわれている。つばめ返しをあみだした場所にも諸説ある。吉川英治は小説で山口県の錦帯橋としているが、『二天記』によると、越前東尋坊の高善寺近くの一乗滝で、つばめ返しをあみだしたとしている。

 

 

 

 

縄文海進と貝塚

Photo_2 水子貝塚公園

 最後の氷期が終わって海面が上昇すると、関東平野では今より2~3m高くて、縄文人は台地上に住んでいた。関東地方では、海に面していない栃木県や群馬県、埼玉県などでも貝塚が発見される。縄文海進によって、内陸部ーにまで東京湾が広がっていた。埼玉県には水子貝塚、真福寺貝塚、黒浜貝塚、神明貝塚など数カ所の大きな貝塚が発見されている。例えば、埼玉県富士見市にある水子貝塚は今からおよそ5500年から6000年前の縄文時代前期の遺跡で、竪穴住居100軒、貝塚60ヵ所が出土している。縄文海進によって当時は付近が海浜であったことがわかる。また壮年期女性で屈葬された人骨も発見されている。

 

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2025年5月 3日 (土)

鯖街道

 海のある若狭小浜から京都へ、ひと塩した鯖を運んだのが若狭街道、別名「鯖街道」である。京へのルートはいくつかあるが、代表的なのは小浜から熊川、滋賀県朽木、そして花折峠を越えて、京都府大原から出町柳に入る約80kmの若狭街道。広義では現在の嶺南から京都を結ぶ街道すべてを鯖街道とよぶ。運んだものは、最も割合が高かったのが鯖であるが、甘鯛・小鯛・鰈・イカなどが運ばれ、帰路は京都の織物などを求め往復商売をした。13世紀の初期、若狭街道ができたが、戦国時代をへて、近世初頭、小浜藩主京極高次によって小浜市場が整備され、流通の代拠点が築かれた。

 

 

2025年4月30日 (水)

火の用心

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    火災はいつ発生するかわからない。出火の原因は煙草などの不始末、漏電、飛び火、放火、落雷などの理由が考えられる。過去の有名な火事の原因を調べてもさまざまである。天智9年(670年)のこの日、法隆寺が落雷により全焼している。昭和25年11月18日、国鉄京都駅全焼。原因は駅構内の配電室から出火。昭和24年1月26日午前7時20分、法隆寺金堂の壁画が焼失した。電気座布団のスイッチの切り忘れが原因だった。2ヵ月前には石川県立図書館が類焼している。昭和23年11月15日午後11時50分に発生している。同年2月26日には強風によって東京永田町が火の海となる。新築したばかりの総理庁庁舎に延焼し多くの重要書類が失われた。昭和25年7月2日には金閣寺が炎上した。若い僧侶の動機には不明な部分もある。金閣寺に対するねたみ、とか、英雄死をとげるつもりが死にきれなかったとか謎である。この事件をすばやく三島由紀夫は小説「金閣寺」として発表し、「炎上」と題して映画化している。映画の中では、住職が戒律を犯して女色におぼれることを知り、堕落を意識するようになり、金閣寺に放火したことになっている。(4月30日) 参考:「京都の歴史10」京都市史編さん所

 

 

 

 

2025年4月26日 (土)

戦後日本の経済発展

 

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   日本の国内生産(GDP)は、米国、中国に次ぐ世界第3位である。戦争によって廃墟と化した日本は「戦後80年」の間に、2度も五輪開催国となって平和主義を希求する世界有数の先進国となった。だが現在の繁栄は廃墟と壕舎の窮乏生活の戦後から始まる。戦争のもたらす恐るべき破壊と損耗について改めて知っておく必要がある。戦争でこうむった国民の被害は、310万人をのぼる多数の戦死傷病者を出したことにある。また空襲によって住居や職場を失い、家族が路頭に迷ったこともある。また戦後の食糧不足から栄養不良となり、餓死したものも多数いたであろう。こうした国民生活の窮乏はなかなか数値に表しにくいものである。岩波講座日本歴史 現代4には「戦時戦後の国富統計」が掲載されている(45頁、島恭彦「戦争と国家独占資本主義」)。これをみても1945年の国富総額は1935年の基準から著しく低下している。

 

1935年 76,309

1945年 53,958

   (単位,百万円)

 戦後、昭和24年までは経済混乱によりインフレが進行していた。自動車産業はドッジラインによる不況もあっで低迷が続いていた。しかし、朝鮮戦争の勃発でアメリカから大量の自動車の注文がおこり、日本経済の復興のきざしがみえた。つまり戦後日本の経済成長の過程には3つのターニング・ポイントがある。1つ目は昭和25年に勃発した朝鮮戦争である。この戦争の兵站基地となった日本では、起死回生の特需ブームに湧いた。2つ目は「もはや戦後ではない」と言い切った昭和31年の経済白書。この言葉通りにゆとりある大衆社会状況が生まれた。3つ目は高度成長のひとつのシンボルとなっている国民所得倍増計画がスタートした昭和37年である。池田勇人は安保闘争による左右の対立を緩和させた。日本はGNP大国に上昇し、伝統的な貧困から脱出した。しかし、物価、環境などの面で新しい難問も発生した。昭和39年のオリンピック東京大会、昭和45年の大阪での日本万国博覧会は、世界に開かれた平和な経済国家としてよみがえつた戦後日本を象徴するイベントとなった。豊かさの象徴と呼ばれていたのが、次々と登場する新しい家庭電化製品である。「三種の神器」といわれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫に始まり、昭和35年ごろには、カラーテレビ、クーラー、ステレオが登場。さらに、ラジオにはFMが加わり、洗濯機は脱水装置付き、冷蔵庫は冷凍庫付きと、新たな技術開発が日進月歩で進んだ。家庭製品を一つ買いそろえるごとに生活レベルが一ランク上がると誰もが信じ、事実、新製品は爆発的に売れた。なぜ日本が世界有数の経済大国にまで発展できたのだろう。戦後の経済成長は予想をはるかに超えたものであった。戦後の日本経済の発展の原因をめぐっては今日、さまざまな角度からの研究が行われている。たとえば、戦後欧米から積極的に新技術を導入し、それを体現化した民間設備投資が精力的に展開されたこと、さらに欧米経済の長期的繁栄に支えられて輸出が世界貿易の増加テンポをはるかに上回つて伸び続けたこと、などが発展の原動力になったとする説明などはその代表的な例である。また、戦後の西ドイツが住宅重視の経済復興に力を入れたのに対し、日本は民間設備投資主導型の高度成長を可能にした、という研究がある。このほか、「日本株式会社」といった表現にみられるように、政治と民間との協力がうまくいったことを強調する説、さらに経営学的アプローチとして、労使協調路線による「日本的経済」に発展の原因を求めようとする分析も盛んである。最近では日本人の勤勉精神にスポットライトを当てて、日本経済発展の原因を探ろうとする試みも始まっている。このように、戦後の経済発展の原因をめぐっては、経済学的アプローチだけではなく、日本人の精神風土の分析など経済学以外の学問分野からの研究も盛んになっている。

 最新の統計によると、2021年の日本の実質GDP実額は536.8兆円で。内閣府による成長率は前年より2.5%増になる見通しである。しかし国交省のよる統計不正が明らかとなり、その影響はどのくらいなのか「現時点では不明」としている。

 しかし、戦後経済成長の負の面も注目する必要がある。工業化により多くの労働者が大都市圏に移動し、都市化が進んだが、地方都市では過疎化が進展し、地域格差が問題となった。また、急激な経済成長は深刻な公害や環境破壊をもたらし、日本でも四大公害訴訟が大きな問題となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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