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2019年10月17日 (木)

明暦の大火

  1657年1月18日午後2時ごろ、江戸本郷丸山町(文京区)の本妙寺からでた火は、おりからの西北のカラッ風にあおられて、湯島・神田に広がり、さらに日本橋一帯から八丁堀・霊岸島・鉄砲洲・佃島・隅田川をこえて深川にまで飛び火した。このとき、浅草見附門では伝馬町の囚人が解き放たれたことを知らない番人が、囚人の脱獄と勘違いして門をしめたため、火に追われた人びとが逃げ場を失って焼死したり、見附門を乗り越えたが神田川で溺死したりした。また、江戸防衛の目的から隅田川に千住大橋・両国橋のほかは橋がかけられていなかったことが、多くの犠牲者をだす原因となった。翌19日午前10時ごろ、小石川伝通院表門下の与力屋敷からでた火が、またたくまに燃え広がり、江戸城内濠をこえて北の丸の幕府重臣の屋敷を焼き尽くし、さらに天守閣・本丸・二の丸・三の丸の豪華な大建築もつぎつぎに焼け落ちた。その夕方にも麹町の町屋から火の手があがり、桜田一帯の大名屋敷を焼き尽くした。火は、山王荘から日比谷・芝まで燃え広がった。家康・秀忠・家光の3代50年間で築きあげた江戸城と江戸の町は、わずか2日間の火災で壊滅してしまった。この火災ののち、幕府は再び江戸の本格的な町づくりに取り組み、大名屋敷や神社・寺院の移転、火除地(広小路)の設定、隅田川の架橋など、防災体制の強化につとめた。明暦の大火の死者数は諸説あるが3万から10万と記録されている。

2019年10月13日 (日)

安藤昌益の墓

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   秋田県大館市の南の郊外二井田地区に、曹洞宗温泉寺がある。この寺域に江戸時代中期の医者・思想家安藤昌益(1701-1762)の墓がある。昌益の事績は戦前までほとんどわからなかった。戦後の研究によって生年、没年、出生地、死没地なども特定できるようになった。没年は宝暦12年10月14日である。墓石には「堅勝道因士」「昌安久益信士」と戒名が刻まれている。ところが昭和60年、大館市の安達家から昌益の位牌が発見された。位牌には「帰元賢正道因禅定門」と記されている。おそらくこの戒名は三回忌の法事のとき追授されたものらしい。明和元年10月13日、跡継ぎの安藤孫左衛門は門弟たちと法事を行った。このとき魚料理でお祝いしたことが聖道院の怒りにふれた。昌益に感化された門弟たちは信仰心をもたなくなり、昌益を神として「守農太神」の石碑を各地に建てていた。代官所は、神仏を畏れぬ行為として、石碑を打ち壊し、孫左衛門に「郷(ところ)払い」を命じた。江戸時代、昌益の思想は危険思想だったのだろう。明治の狩野亨吉が昌益の「自然真営道」の稿本を発見するまで忘れられた思想家だった。

2019年10月 8日 (火)

岩倉遣欧使節団の副使、山口尚芳

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   クイズ番組「学力王№1」やくみつるが優勝。漢字、世界の通貨、動植物などの分野が強い。歴史問題で岩倉遣欧使節の5人の名前を問う出題。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文までは分かるが、直立の姿勢で帽子を抱いている人物はだれか?山口尚芳という。

 明治4年10月8日(新暦11月20日)、欧米事情視察のため、特命全権使節岩倉具視ら総勢107名は横浜港を出発した。山口尚芳は、武雄出身の佐賀藩士で、長崎の致遠館で英語を学び、佐賀藩で翻訳兼練兵掛となる。明治元年に明治政府に出仕し、英語力を活かして外国事務局御用掛になり、明治4年から6年まで岩倉使節団で副使として随行した。その後、外交官のほか、元老院議員、会計検査院、貴族院議員等として活躍したが、明治27年、54歳で没した。名の「尚芳」はマスカと読むが、最近では普通にナオヨシと読まれることもある。

   このほか使節団には、中江兆民や長崎藩主・大村純熙、長岡治三郎(長岡半太郎の父)、朝永甚次郎(朝永振一郎の祖父)らも留学参加している。

 

 

2019年10月 7日 (月)

安政の大獄で橋本左ら刑死

  安政5年、6年は維新史でも重要な年だった。安政5年1月、幕府は日米修好通商条約調印の勅許を奏請するが、孝明天皇はそれを拒否した。6月、勅許のないまま、幕府が上記条約を調印したため、天皇は激怒する。このころ橋本左内(1834-1859)は越前藩主松平慶永の側近となり、上洛、一橋慶喜待望説を遊説。しかし、井伊直弼が大老に就任し、慶永が処罰されると左内も、安政6年10月7日、江戸伝馬町獄舎で斬首された。26歳の若さであった。頼三樹三郎、飯泉喜内の2人も刑場の露と消えた。だが井伊直弼も翌年桜田門外の変で暗殺され、安政の大獄を取り仕切った直弼の側近、長野主膳も、2年後、藩内の尊攘派岡本黄石らのクーデターで失脚、斬首された。(10月7日)

2019年8月15日 (木)

終戦記念日

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    本日は74回目の終戦記念日。昭和20年8月15日の朝、陸軍大臣・阿南惟幾は「一死、大罪を謝し奉る」と書き残し割腹自殺を遂げた。阿南は鈴木貫太郎内閣の陸相となり、本土決戦論を主張。ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件つき受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立した。渥美清のドラマ「泣いてたまるか」で「ああ、軍歌」。ある会社員が宴会で上司から軍歌を無理やり歌わせられるが、どうしても軍歌は歌いたくないと拒んで、周囲から冷たくされるという話。昭和37年ごろから数年間、回顧調ブームが起こりさかんに軍歌が歌われた。いまではほとんど軍歌を聴くことはなくなった。

2019年8月14日 (水)

日本のいちばん長い日

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   阿南惟幾            大西瀧治郎               宇垣纏

 

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将(1891-1945)が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。大西は特攻攻撃の発案者の一人だった。

    敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。主な軍人の自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

2019年8月10日 (土)

和同開珎は「かいほう」か「かいちん」か?

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 銭字の配列順が「開元通寶」と異なる

  708年のこの日、和同開珎を鋳造した。皇朝十二銭の第一・和同開珎。政府はこの貨幣を流通させるため711年に蓄銭叙任令(多くの貨幣をたくわえた者に官位をさずける)を発布したが、地方にはあまり広まらなかった。和同開珎は近年、富本銭の発見によって、最古の貨幣ではなくなったが、富本銭の流通範囲は限られていたため、和同開珎の歴史的存在意義は揺らぐことはない。だが長年にわたる論争の決着はいまだ着いていない。江戸末期から明治にかけては、「わどうかいほう」と読んでいたが、近年は「わどうかいちん」が優勢である。元来、唐の開元通寶を模したため、「珎」は「寶」の通字と考えられていた。また「和同」についても、年号の「和銅」の省略説と、中国古典から採った吉祥語とする説があって、年号から採ったとする根拠は低い。たとえば論語の説く「君子は和して同ぜず」に由来するという説もある。奈良朝の貴族が論語を歓迎していたとする。奈良時代の人々は珍の通字「珎」と寶の省文「珎」を、巧みに識別したのでこんな混乱が現在まで起こっているのであろう。近年では「わどうかいちん」説が優勢となっている。(8月10日)

2019年8月 9日 (金)

佐久間艦長の遺書

   福井県若狭町にある佐久間記念交流会館には海軍軍人、佐久間勉大尉の日記や遺品が展示されている。明治43年4月15日、佐久間大尉を艦長とする第6号潜水艇は山口県新湊沖で事故が発生。遭難の翌朝、引き揚げられた第六潜水艇には、乗組の佐久間大尉以下14名全員すでに殉職していた。潜水母艦「豊橋」に安置された艦長のポケットに発見された一冊の手帳には、沈没の原因、処置、その他が細かく記され、これが佐久間艦長の遺書として、後世にまでながく伝えられることとなった。この遺書の全文が、当時の全国の新聞が掲載されたとき、海軍当局は、潜水艇乗組員の士気の喪失を心配したが、反対にかえって若人の士気を鼓舞し、その後、潜水艇勤務を熱望する者が多くなったといわれる。

 

 

 

右と左のはなし

Statue06  西洋諸国では右は善で、左は悪という考え方があった。英語のrightは、右、正しい、まっすぐな、健康な、という意味がある。ニューヨークにはある自由の女神は右手に松明を持っている。インドやインドネシアでは、物を手づかみで食べるが、必ず右手を使い、左手は不浄の手で、排泄の処理に用いる。フランス革命後の議会で、議長席から見て左方の席に急進派がすわり、右方に保守派がすわったことから、急進主義者、のちには社会主義者・共産主義者を左翼と呼び、保守的・国粋的な思想の持ち主を右翼と呼ぶようになった。

   中国では左右の何れを上位とするかは時代によって異なるが、先秦時代は左を尊んだとされ、漢初まで続いた。「左袒」とは加勢すること。「劉氏のためにつくしたいものは左袒(左肩を脱ぐこと)せよ」の故事から生まれた。漢代より後になると、右を尊び左を卑しむ観念が生まれた。漢語「座右」「左遷」はこのころの故事。「旡出其右」(その右に出る者がいない)。六朝になると官職に関しては左を上位とするようになり、唐に入るとより一層広く左が尊ばれた。

    日本でも唐代中国の影響を受けて左を上位とするようになり、左大臣、右大臣の官位が生まれた。お雛様の段飾りに「右近の桜、左近の橘」がある。つまり雛壇に向って右側が桜、左側が橘である。東西南北の方位で言うと、東が桜、西が橘。男雛は橘の側の左に座ることになる。奈良時代後期から平安時代にかけて左大臣は藤原氏が独占したが、醍醐天皇の時代、左大臣藤原時平の讒言によって右大臣の菅原道真が大宰府に左遷されたのは有名な話である。

  また左右は伝統的な決まりごとがつくられた。たとえば配膳作法。左前にご飯を置くのは左側の上位の思想からくるものである。しかしながら通例、左をあまりよくないたとえに使われることが多い。芸者のことを左褄(ひだりづま)といい、花嫁は右褄。飲酒家を左党というのは、大工が左手で鑿を持つことから「鑿手」(のみて)のシャレからきている。会社の経営状態が悪くなることを「左前になる」という。これは死に装束が「左前」であることから、死に体に通じるからである。

 

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(参考:「今さらこんなこと他人には聞けない辞典」 KKベストセラーズ)

2019年7月28日 (日)

千姫の輿入れと巷説坂崎出羽守

   第2代将軍徳川秀忠の長女・千姫は、1603年のこの日、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。千姫の半生は戦国の姫の中でも小説・映画などでトップクラスに多くあるが、史実からほど遠い作品ばかりである。なかでも大阪城落城の件は物語的である。大阪夏の陣で炎につつまれた大阪城からの千姫救出作戦の時、家康は姫を助けた者に妻として与えることを約束した。坂崎出羽守(直盛)は無事に千姫の救出を成し遂げた。しかし千姫は出羽守を嫌って、本多忠刻に嫁ぐことになった。出羽守としては約束を違えられて武士としての面目がたたなかった。 

   元和2年(1616)、本多忠刻と再婚のため江戸から桑名に向かおうとしたさい、出羽守は千姫の輿を奪おうと謀ったが、失敗し自害したという。この逸話は史実と巷説とが混在するが、坂崎出羽守は「愛のために死す」武将とてその名を後世に残すことになった。(7月28日)

 

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