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2020年11月24日 (火)

台湾ゴールドラッシュ

   中国では古く台湾を琉求とよび、明代以降は小琉球と呼んだ。また別称としては神仙思想にもとづく蓬莱島という呼称もある。日本では高砂、高山国とよび、ヨーロッパではポルトガル航海者が美麗島 Ilha formosa(イラ・フィルモサ)と称したのが、フィルモサの起源となり、清以後は台湾と公称されるようになった。台湾は日清戦争後、台湾総督府が置かれ、明治28年から昭和20年まで半世紀以上にわたる日本の統治下時代に、鉄道の開通、基隆港の整備、台湾銀行の設立など資本主義経済の準備はほぼ整った。しかし日本の台湾経営は島民から農地・山林を奪い、低賃金で労働者を雇って多くの収益をあげてきたため、多くの民衆は貧困で生活水準は低かった。

   昭和14年11月24日、台湾総督府(第18代総督・長谷川清)の総務長官が来日の際に船中で次のような談話をした。「台湾中部のタッキリ渓上流で小笠原技師が10月末に純度92%の砂金を見つけた。台湾には大砂金源があるのではないだろうか。」この小笠原談話によって、不安で暗い社会ムードにときならぬ黄金騒動が起こった。

    12月19日には、東京帝国大学教授で工学博士・鉱山学の権威である佐野秀之助(さのひでのすけ)を団長とする砂金調査団がタッキリ上流のタビト蕃界を調査することとなった。石崎技師や高砂族人夫150人などが入山試掘した。12月20日、ドヨン、タウサイ、シリチヤの岩丘を調査したが、結果は採掘は採算にあわない僅かの砂金であり、調査団は12月24日に下山した。

   しかしそのころ日本国内では、仙台と札幌の鉱山監督局に3万件を超える試掘届が殺到するという大騒ぎになっていた。やがて台湾砂金騒動は儚い夢となって消えていった。

  近年、米カリフォルニア州コロマでは金価格高騰で砂金採取がブームになっている。夢よ、ふたたび。

2020年11月15日 (日)

龍馬の暗殺者

    慶応3年11月15日、龍馬は京都近江屋で中岡慎太郎と共に何者かに暗殺された。暗殺グループは京都見廻組という説が有力である。見廻組は佐々木只三郎(1833-1868)を与頭とし、渡辺吉太郎、高橋安三郎、桂早之助、土肥仲茂、桜井大三郎、今井信郎らが暗殺に関与していたとされる。近年、龍馬を斬ったとされる小太刀が発見された。刀の持ち主は見廻組の一人である桂早之助である。つまり佐々木只三郎の指揮のもと桂早之助が龍馬を斬ったのだ。だが佐々木も桂も翌年の鳥羽伏見の戦であっけなく戦死したので、事件の詮議はされなかった。新史料の小太刀の鑑定については未だ謎が残る。只三郎は明治20年まで生きていたという異説もある(「会津剣道誌」1967年)。ネット上では佐々木只三郎の晩年の写真を見ることができる。

 

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   だが龍馬の暗殺犯を当時海援隊は紀州藩の三浦休太郎と見ていた。海援隊士は三浦の常宿・天満屋を襲撃している。新選組が三浦を護衛したので逃げのびた。やはり龍馬暗殺に新選組が関与していたという説も捨てきれない。新選組の前野五郎(1845-1892)は三浦休太郎と親しく、天満屋事件のときも同席している。前野には実に不審な行動が多い。佐幕と尊皇を渡り歩いている。鳥羽伏見の戦で敗走した前野は甲州勝沼に参戦。その後、永倉新八をたよって靖兵隊へ入隊し東北各地を転戦した。のち薩摩に従軍の加納道之助に投降、ここで薩摩軍に加えられたという。加納は新選組から離脱し高台寺党を結成し、のち薩摩軍に加わった。おそらく前野とは新選組時代からの仲間だったであろう。前野が龍馬暗殺犯だったと知った薩摩の桐野らは近江屋事件を不問にしたと考えられる。明治になって前野は札幌の薄野で妓楼を経営して財産を築いた。その私財を投じて、岡本監輔の千島開発に出資し、自ら択捉島へ渡った。明治25年4月19日、沙那郡磯谷山中に狩猟中、磯谷川に架かる丸太橋から転落、渓流に押し流されるうちに、猟銃が暴発、弾丸が喉から頭を貫いて即死した。そして近江屋事件は迷宮入りとなった。

2020年11月10日 (火)

麒麟がくる

   これまで足利幕府最後の将軍、義昭のことは多少知っていたが、第13代将軍、足利義輝のことはほとんど知らなかった。大河ドラマ「麒麟がくる」は向井理が演ずる義輝が詳細に描かれているので、人物像が少しわかった。本日放送「将軍の器」では義輝の最期が描かれる。永禄8年、松永久通、三好義雄、三好三人衆らは一万の軍勢を率い二条御所に侵入し、義輝を殺す。義輝の最期については、討ち死説とか自害説などさまざまな説がある。光秀とことあるごとに対立する政所執事、摂津晴門。ゲーム「信長の野望」にも登場したことがないので、彼の知名度は低い。今回片岡鶴太郎の怪演でその知名度は高まった。

 

 

2020年11月 4日 (水)

平民宰相原敬暗殺さる

    大正10年11月4日、午後7時20分、総理大臣原敬(1856-1921)が、東京駅改札口付近で中岡艮一(1903年生まれ。当時19歳)に短刀で胸を刺された。すぐに駅長室に運び込まれたが、傷は右肺部から心臓に達し、数分後に絶命した。享年65歳だった。

    原敬は、京都で開かれる政友会支部大会に出席するため、東京駅に来ていたが、見送りの中橋徳五郎文相(1861-1934)と談笑していたとき、凶行にあった。暗殺犯の中岡は、国鉄大塚駅運轍手で、9月28日の安田善次郎(1838-1921)を殺害した国粋主義者・朝日平吾(1890-1921)に感激し、犯行を決意したといわれる。

    この暗殺事件で原内閣は翌日総辞職し、高橋是清(1854-1936)が政友会総裁を継ぎ、新内閣を組織した。

    敬には実子がなく、兄の二男の原貢(1902-1983)を明治44年に養子にしていた。原貢は大正10年、慶応予科を中退して、大正10年11月に英国に留学に向かう途中で養父の死を知る。11月5日夜、マラッカ海峡を航行中の船上で電報を受け取った。帰国せずにそのまま留学せよ、という命令により翌年まで英国に滞在。昭和15年から昭和21年まで同盟通信社に勤務する。戦後は原奎一郎という筆名で小説家となる。代表的なものは「原敬日記」の編集、「ふだん着の原敬」「原敬をめぐる人びと」など。ほかに「恋愛実技」「恋愛成功法」(昭和34年)という著書もある。

   ところで暗殺犯の中岡艮一への判決は無期懲役であったが、数度の恩赦により、昭和9年に出獄している。戦後の消息については不明である。

2020年10月26日 (月)

伊藤博文暗殺

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  川上俊彦(としつね)        安重根

 

    明治42年10月26日、伊藤博文がハルビン駅で朝鮮の抗日運動家・安重根に暗殺された。このとき、伊藤博文の随行員の5人も被弾した。明治・大正の外交官、川上俊彦(1861-1935)もその場に居合わせて被弾した一人である。ここでは彼と関わりのあった3人の男とその死について述べる。1人目は伊藤博文(1841-1909)明治42年10月26日、暗殺される。2人目は乃木希典(1849-1912)大正元年9月13日、自殺。3人目はアドリフ・ヨッフェ(1883-1927)昭和2年11月16日、自殺。

    明治42年10月26日午前9時、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。列車を降りて各国外交団の前を進もうとした時、安重根(1848-1915)の拳銃から発射した6発のうち3発は伊藤に命中し、随行の川上、森、田中、室田、中村らも流れ弾があたった。伊藤博文は午前10時に絶命し、川上俊彦は重傷であった。森槐南はその傷がもとで数ヶ月のち死亡した。

    大正元年9月13日、乃木希典は明治天皇が没すると、妻静子とともに殉死した。川上俊彦は日露戦争の旅順陥落で乃木とステッセルとの水師営での会見のとき、ロシア語通訳をしていた。

    第一次大戦後のシベリア出兵でソ連との基本条約締結に向けた予備交渉を川上は後藤新平から命ぜられた。大正12年2月1日、ソ連のヨッフェが来日した。6月29日から始まった予備交渉はなかなか進まなかった。夏になり、ヨッフェの病状が思わしくなく8月10日に彼は帰国した。川上とヨッフェはその後、二度と会うことはなかった。ヨッフェはその後スターリンの大粛清によって追い込まれて、1927年11月16日、自殺した。

    川上俊彦は水師営の会見、伊藤博文暗殺、ヨッフェ会談など重要事件に遭遇している外交官である。(参考文献:西原民平編「川上俊彦君を憶ふ」昭和11年)

2020年10月18日 (日)

沖田総司の妻

Photo     沖田総司(1842-1868)といえば今では知らぬ人はないほど歴史上の有名人物であるが、むかしは新選組といえば近藤勇くらいで、あとの隊士はほとんど無名であった。中里介山の「大菩薩峠」に沖田総司が登場するのが初めであろうか。昭和37年に発表された司馬遼太郎の短編集「新選組血風録」と東映が昭和40年にドラマ化したため一躍、土方歳三(栗塚旭)、沖田総司(島田順司)、斎藤一(左右田一平)の名はお茶の間に知られるようになった。とくに若くして結核で死ぬ沖田総司は青年剣士のイメージで熱狂的な女性ファンをつくった。鶴田浩二版「新選組」では有川博が演じた。BSプレミアム「新選組血風録」では、辻本祐樹が半井お悠(寺島咲)との淡い恋を描いている。だが史実はどうなのだろうか。幕末維新史家の川西正隆によれば、池田屋の変の戦闘で負傷した総司は壬生村の医療所、浜崎新三郎・トク夫妻宅で手当てを受けた。総司はこの時、トクの助手をしていた石井秩という女と知り合う。彼女は山城乙訓郡西本生邑・百姓石井忠左衛門の娘で天保15年(1844)10月18日の生まれであった。秩はユキという女子の連れ子をして、浜崎家へ来ていた。総司はユキを連れて壬生寺へ遊びに出かけたという。総司と秩は恋仲になり、秩は慶応2年11月5日にキョウという総司の子供を産む。しかし秩は翌3年4月26日に死没した。京都・光緑寺の墓地の「沖田氏縁者」と刻まれた墓碑は秩のものだという。娘ユキとキョウはその後どうなったのか。誰かに育てられたらしいが、明治の世、新選組隊士の娘は、はばかられる時代なので、いかなる人生をすごしたかは誰もわからない。沖田総司の子孫は現在もいるかもしれない。(川西正隆「沖田総司の恋人の謎」歴史と旅 昭和55年11月号) 画像は沖田総司の妻、秩の墓(京都市四条大宮町37番地)

2020年10月13日 (火)

安藤昌益の墓

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   秋田県大館市の南の郊外二井田地区に、曹洞宗温泉寺がある。この寺域に江戸時代中期の医者・思想家安藤昌益(1701-1762)の墓がある。昌益の事績は戦前までほとんどわからなかった。戦後の研究によって生年、没年、出生地、死没地なども特定できるようになった。没年は宝暦12年10月14日である。墓石には「堅勝道因士」「昌安久益信士」と戒名が刻まれている。ところが昭和60年、大館市の安達家から昌益の位牌が発見された。位牌には「帰元賢正道因禅定門」と記されている。おそらくこの戒名は三回忌の法事のとき追授されたものらしい。明和元年10月13日、跡継ぎの安藤孫左衛門は門弟たちと法事を行った。このとき魚料理でお祝いしたことが聖道院の怒りにふれた。昌益に感化された門弟たちは信仰心をもたなくなり、昌益を神として「守農太神」の石碑を各地に建てていた。代官所は、神仏を畏れぬ行為として、石碑を打ち壊し、孫左衛門に「郷(ところ)払い」を命じた。江戸時代、昌益の思想は危険思想だったのだろう。明治の狩野亨吉が昌益の「自然真営道」の稿本を発見するまで忘れられた思想家だった。

2020年10月 7日 (水)

安政の大獄で橋本左内ら刑死

  安政5年、6年は維新史でも重要な年だった。安政5年1月、幕府は日米修好通商条約調印の勅許を奏請するが、孝明天皇はそれを拒否した。6月、勅許のないまま、幕府が上記条約を調印したため、天皇は激怒する。このころ橋本左内(1834-1859)は越前藩主松平慶永の側近となり、上洛、一橋慶喜待望説を遊説。しかし、井伊直弼が大老に就任し、慶永が処罰されると左内も、安政6年10月7日、江戸伝馬町獄舎で斬首された。26歳の若さであった。頼三樹三郎、飯泉喜内の2人も刑場の露と消えた。だが井伊直弼も翌年桜田門外の変で暗殺され、安政の大獄を取り仕切った直弼の側近、長野主膳も、2年後、藩内の尊攘派岡本黄石らのクーデターで失脚、斬首された。(10月7日)

2020年9月21日 (月)

敬老の日と悲田院

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 左は山背大兄皇子、右は殖栗王

 

  本日は敬老の日。2003年から9月の第3月曜日になったが、それまでは9月15日であった。兵庫県多可郡野間谷村(現・八千代町)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始まりである。俗説としては、聖徳太子が不幸な老人や病人を救うために、悲田院を建てた日とされている。悲田院は敬田院、施薬院、療病院とともに四箇院と称して大坂の四天王寺にあったとされるが確証はない。聖徳太子の悲田院の概要は不明なので、中国の悲田坊の制度を調べる。隋・唐の寺院にも設けられたという記録は、唐会要巻49「病坊」などに記されている。唐令には高齢または身体障害者で養い手のない人、貧乏で暮らせない人を地方団体(郷里)が安価に当たるべきことを規定している。悲田坊(悲田養病坊ともいう)は、開元5年(717年)の宋璟らの上奏文によれば、孤老窮人の保護に当たる収養施設で、長安をはじめ各地におかれ、悲田養病使が各施設に派遣されていた。国は僧侶のなかから悲田養病使を任命しただけで、実権は僧侶の手にあった。仏教寺院は六朝以来、社会事業に力をそそいでいるから、唐代において悲田坊が設けられたのは当然のことである。慈善事業とはいえ、その経費を寄付に仰いだので、寺としてはかえって黒字にある傾向があったという。悲田坊をやればもうかるので発展したともいわれている。

人は何歳まで生きられるのか?福岡の田中カ子さんが、117歳で世界最高齢。「おいしいものを食べ、計算などの勉強をすることが長寿の秘訣」という。

2020年9月18日 (金)

芹沢鴨暗殺

   芹沢鴨が斬られたのは、文久3年9月18日の夜のことである。島原の角屋で宴会がもたれた後、したたかに酔った芹沢は壬生へもどり、大酔し、お梅を抱いているところを、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・原田左之助ら5名に襲撃された。芹沢は脇差を抜いてわたりあったという説もあるが、実際には泥酔して前後不覚に寝込んでいたところを、蒲団ごしに刀を突き刺されたというのが真相らしい。翌日、近藤は守護職邸に、局長芹沢は急病による頓死ということで届け出ている。 

 

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 芹沢が最後の宴会をした角屋「松の間」

 

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 芹沢鴨暗殺の間となった八木家の一室

 

 

 

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