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2017年8月17日 (木)

源頼朝七騎落

Photo1342_2     伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、1180年(治承4年)のこの日、石橋山で平家方の大庭景親と合戦した。三百余騎の頼朝軍に対して、むかう大庭軍、三千余騎が立ちふさいでいた。24日、無勢の頼朝軍はたちまちに敗走し、平氏軍はこれを追撃した。しかし、ついに頼朝を捕えることができず、その行方を見失ってしまった。この時、大庭景親の軍勢に属していた梶原景時が、頼朝の在りかを知りながらこれを逃したという話の真偽は疑わしいものの、当時、平氏の陣中にあって頼朝に心を寄せていたのは、景時だけではなかった。飯田家義という相模国の武士も、景親の軍中にありながら頼朝を慕い、山中の隠れ家までやってきてぜひ供に加えてくれ、願ったという。

    こうして虎口を逃れた頼朝は、この付近の豪族・土肥実平に導かれて真鶴岬から小舟に乗り、海路を房総半島の南端安房国へと逃れ、次第に勢力を拡大する。ついには平家を討ち滅ぼし、武家を中心とする新しい政治体制を確立したのである。

    頼朝挙兵の頃の関東の豪族をながめておこう。挙兵時より頼朝に味方した豪族としては、北条時政、天野遠景、三浦義明、三浦義澄、和田義盛、宇佐美助茂、土肥実平、加々美長清、安田義定、武田信義、下河辺行平。

    挙兵直後頼朝に味方した豪族としては、豊島清光、葛西清重、千葉介常胤、上総介広常、小山朝光、安西景盛。

    挙兵時頼朝に敵対しのち従った豪族としては、梶原景時、江戸重長、河村義秀、渋谷重国、河越重頼、熊谷直実、畠山重忠、新田義重、足利俊綱。

    頼朝に敵対し討たれた豪族は、大庭景親、波多野義常、山本兼隆、伊東祐親、志田義広、萩野俊重、佐竹秀義らがいる。(8月17日)

2017年8月15日 (火)

終戦記念日

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    本日は72回目の終戦記念日。昭和20年8月15日の朝、陸軍大臣・阿南惟幾は「一死、大罪を謝し奉る」と書き残し割腹自殺を遂げた。阿南は鈴木貫太郎内閣の陸相となり、本土決戦論を主張。ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件つき受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立した。渥美清のドラマ「泣いてたまるか」で「ああ、軍歌」。ある会社員が宴会で上司から軍歌を無理やり歌わせられるが、どうしても軍歌は歌いたくないと拒んで、周囲から冷たくされるという話。昭和37年ごろから数年間、回顧調ブームが起こりさかんに軍歌が歌われた。いまではほとんど軍歌を聴くことはなくなった。

2017年8月14日 (月)

日本のいちばん長い日

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   阿南惟幾            大西瀧治郎               宇垣纏

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将(1891-1945)が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。大西は特攻攻撃の発案者の一人だった。

    敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。主な軍人の自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

2017年8月 9日 (水)

フゴッペ洞窟

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    フゴッペ洞窟(北海道余市郡余市町)は積丹半島東側入口部に位置し、日本最大級の岩面刻画が描かれている国指定の史跡である。昭和25年8月、当時、中学生だった大塚誠之助たちが発見し、その情報を受けた兄の大塚以和雄が調査したことがきっかけとなり、翌年から本格的な発掘調査が実施された。洞窟の奥行きは約5mあり、壁面に200以上の刻画がある。刻まれたものには、角や翼を持った人、仮装して踊る人など呪術的要素が強く、アムール文化との関連性がいわれている。その他、土器や石器、骨角器など、その数は千数百点に及び、約1700年前の続縄文時代の資料で、北海道開拓記念館(札幌市厚別区)に収蔵されている。フゴッペとはアイヌ語で「フムコイベ(浪声高き所)」が語源ではないかといわれる。

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ナガサキ消えた「原爆ドーム」

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   田中キヲ(1915-2006)は昭和20年8月9日、長崎の爆心地から2キロほど離れた水田で被爆した。翌日、長崎市内の臨時救護所で、放心した表情で生後4か月の次男に授乳しながら、治療の順番を待っている姿が撮影された。写真は旧日本陸軍の報道部員、山端康介が8月10日、長崎市で撮影し、「苦痛にたえながら治療の順番を待つ母子」として長崎原爆資料館に展示されている。

18145530614358495900    8月は戦争や平和について考える機会が多くある。私は戦後生まれで、戦争体験はないが、日本がアジア諸国に対しての軍事行動や、また唯一の原爆の被爆国であることを、世代の違いに関わらず、記憶していかなけれならないと考える。8月はドキュメンタリーも数多く放送される。「我が闘争」(1960年スウェーデン)は第一次世界大戦の混乱からナチスの台頭、ナチスの政権奪取から敗戦、ヒトラーの死までを、描いている。「夜と霧」(1955年)はアウシュビッツの大量虐殺の悲劇をミシェル・ブーケの静かな語り口の中で映像化している。NHKドキュメンタリー「幻の原爆ドームナガサキ戦後13年目の選択」12日放送。かつて長崎にも原爆ドームがあった。爆心地近くにあった教会・浦上天主堂だ。戦後、原爆の悲惨さを語る遺構として、保存する方針だったが、突如、田川務長崎市長と教会のトップが取り壊しを主張、市民の反対運動もむなしく、姿を消すことになった。決断の背景としては、米国側から教会再建の資金援助の条件として教会遺構の撤去が求められたからといわれる。

2017年8月 8日 (火)

大岡越前、天一坊事件

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  享保14年(1729年)4月21日、将軍吉宗の落胤を名乗る天一坊改行(1699-1729)が品川で死罪の上、獄門となった。天一坊のもとに集まっていた常楽院(赤川大膳)や山内伊賀亮など浪人たちも遠島や江戸払いとなる。

    天一坊の正体は紀州田辺の生まれで、幼名は半之助というが真偽は定かではない。「大岡政談」では宝沢(ほうたく)という感応院というお寺の小坊主となっている。享保日録等の史料に見え、天一坊は実在の人物と思われるが、将軍家を揺るがすような大事件ではなかった。また大岡忠相の名裁きの一つとされるが、実際には大岡忠相はこの事件には全く関係していない。

2017年8月 7日 (月)

まぼろしの邪馬台国

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 崇神天皇の大叔母で卑弥呼に擬される倭迹々日百襲姫命を葬った箸墓古墳(奈良県桜井市)

   むかし森繁久弥が盲目の作家・宮崎康平(1917-1980)を舞台で演じていたのをテレビで見た記憶がある。近年も竹中直人・吉永小百合で映画化されている。ところで火野葦平(1907-1960)の短編小説「島原半島」(昭和28年4月別冊文芸春秋32号)を読んでいると、島原半島を愛した盲目の詩人・鳥井浩一は宮崎康平をモデルにしているように思える。二人は「九州文学」を通じて知り合いになった。「まぼろしの邪馬台国」はベストセラーとなった。1989年2月22日に吉野ヶ里遺跡が発掘され、佐原真(奈良国立文化財研究所)は物見やぐらが魏志倭人伝の楼観をうかがわせると書いた。朝日新聞は「吉野ヶ里の楼観に立てば邪馬台国が見える」と報道した。100万人の見物客で吉野ヶ里ブームが起こり、一時期、九州邪馬台国説が優勢であるかに思えた。しかし、近年の考古学的調査により、奈良県の箸墓古墳が卑弥呼の墓であることがきわめて有力となりつつある。2014年、国立歴史民俗博物館では放射性炭素による年代測定法に独自のデータによって補正を加えた結果、箸墓古墳が築造されたのは、西暦240~260年頃とする結果を発表した。これは247年に死亡したと推定される卑弥呼の死亡時期と合致する。春城秀爾は、卑弥呼は生前に築造を始め、死亡時に大部分は完成していたと推測している。2010年には纏向遺跡で卑弥呼の宮殿跡とみられる建物跡や大量のモモの種が発見された。「魏志倭人伝」では卑弥呼が倭国を鬼道で支配したとあり、祭祀の痕跡とみられる。道教の神仙思想ではモモは不老不死や魔除けの呪力があるとさる。2003年には唐古・鍵遺跡(奈良・田原本町)から、大規模な集落跡が発見され、幾重にも「環濠」が巡ったとみられる。今回の発見でさらに纏向地域を中心とする地域が邪馬台国と関連する説が有力となった。参考:水野正好・白石太一郎・西川寿勝「邪馬台国」

陝川原爆資料館

  広島原爆で被爆したのは日本人だけでなく、捕虜になっていた米兵12人、徴用などで来ていた朝鮮半島出身者も多く含まれていた。広島原爆投下では、数万人の朝鮮半島の人々が犠牲になつたとの見方があるほか、韓国に帰国した被爆者の数は、1万人以上いると見られている。韓国慶尚南道の北部にある小さな町、ハプチョン(陝川)いつからか「韓国のヒロシマ」と呼ばれている。日本の植民地支配で困窮して仕事を求めたり、軍需工場に動員されたりしてて広島に来て、多くの人が1945年8月6日、原爆の犠牲になった。2017年8月6日、韓国初の原爆資料館がオープンして被爆者の遺留品や証言録、写真などが展示されている。

2017年7月23日 (日)

伊藤東涯「制度通」

    江戸期の儒学者伊藤仁斎の息子の伊藤東涯(1670-1736)が、中国歴代の諸制度の沿革を概述した『制度通 1』(全2巻)が平凡社の東洋文庫から刊行された。これまで日本では、飯田伝一校訂『制度通 附釈親考』(金港堂書籍、1912年)、滝本誠一編『制度通』(「日本経済大辞典」第10巻、史誌出版社、1928年)、吉川幸次郎校訂『制度通』上下(岩波文庫、1944年・1948年)が刊行されているが、1991年に復刊されたものの現在入手が困難であった。東アジア制度史研究の基本図書がようやく刊行されたことは、誠に喜ばしいかぎりである。

   伊藤東涯の学域は極めて広範で、仁斎の経学を初めとして字義訓詁、制度典章、史伝文章に堪能であった。特に、制度に関する史的研究『制度通』は、儒者への批判も加えて、卓越した史眼を示している。東涯の門人には奥田士享、篠崎東海、青木昆陽、綾部絅斎らがいる。

2017年7月18日 (火)

諸説あり、邪馬台国説?

Photo_2   邪馬台国がどこにあったのか?これまで九州説、畿内説はじめ数多くの説が登場したが、「歴史秘話ヒストリア」(2014年6月4日放送)の「女王・卑弥呼はどこから来た?」で大胆な仮説を紹介している。1965年発掘の福岡県の平原遺跡は、直径46.5㎝の大鏡5面と40面の鏡をもつ弥生王墓として、邪馬台国問題にかかわる考古学的資料である。番組ではこの国宝「内行花紋鏡」(画像)と太陽信仰とを結び付け、卑弥呼は伊都国で生まれ、その後大和に東遷したと考える。平原1号墓の被葬状況から、被葬者・女王Xは卑弥呼の母、もしくは姉とする。鏡は呪術の霊能力を受け継ぐ秘儀に使われたものと推理している。寺澤薫、橋本輝彦、高島忠平など出演。ところがEテレ「知恵泉」(2017年7月3日放送)では赤塚次郎(愛知埋蔵文化財センター)の説を紹介。邪馬台国と敵対した狗奴国は東海地域にあったと考える。「狗奴国は邪馬台国の東にある」とすることから、その西側の近畿と考えるの自然である。

 

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