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2020年9月21日 (月)

敬老の日と悲田院

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 左は山背大兄皇子、右は殖栗王

 

  本日は敬老の日。2003年から9月の第3月曜日になったが、それまでは9月15日であった。兵庫県多可郡野間谷村(現・八千代町)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始まりである。俗説としては、聖徳太子が不幸な老人や病人を救うために、悲田院を建てた日とされている。悲田院は敬田院、施薬院、療病院とともに四箇院と称して大坂の四天王寺にあったとされるが確証はない。聖徳太子の悲田院の概要は不明なので、中国の悲田坊の制度を調べる。隋・唐の寺院にも設けられたという記録は、唐会要巻49「病坊」などに記されている。唐令には高齢または身体障害者で養い手のない人、貧乏で暮らせない人を地方団体(郷里)が安価に当たるべきことを規定している。悲田坊(悲田養病坊ともいう)は、開元5年(717年)の宋璟らの上奏文によれば、孤老窮人の保護に当たる収養施設で、長安をはじめ各地におかれ、悲田養病使が各施設に派遣されていた。国は僧侶のなかから悲田養病使を任命しただけで、実権は僧侶の手にあった。仏教寺院は六朝以来、社会事業に力をそそいでいるから、唐代において悲田坊が設けられたのは当然のことである。慈善事業とはいえ、その経費を寄付に仰いだので、寺としてはかえって黒字にある傾向があったという。悲田坊をやればもうかるので発展したともいわれている。

人は何歳まで生きられるのか?福岡の田中カ子さんが、117歳で世界最高齢。「おいしいものを食べ、計算などの勉強をすることが長寿の秘訣」という。

2020年9月20日 (日)

足利義輝

これまで足利幕府最後の将軍、義昭のことは多少知っていたが、第13代将軍、足利義輝のことはほとんど知らなかった。大河ドラマ「麒麟がくる」は向井理が演ずる義輝が詳細に描かれているので、人物像が少しわかった。本日放送「将軍の器」では義輝の最期が描かれる。永禄8年、松永久通、三好義雄、三好三人衆らは一万の軍勢を率い二条御所に侵入し、義輝を殺す。義輝の最期については、討ち死説とか自害説などさまざまな説がある。

 

 

2020年9月18日 (金)

芹沢鴨暗殺

   芹沢鴨が斬られたのは、文久3年9月18日の夜のことである。島原の角屋で宴会がもたれた後、したたかに酔った芹沢は壬生へもどり、大酔し、お梅を抱いているところを、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・原田左之助ら5名に襲撃された。芹沢は脇差を抜いてわたりあったという説もあるが、実際には泥酔して前後不覚に寝込んでいたところを、蒲団ごしに刀を突き刺されたというのが真相らしい。翌日、近藤は守護職邸に、局長芹沢は急病による頓死ということで届け出ている。 

 

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 芹沢が最後の宴会をした角屋「松の間」

 

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 芹沢鴨暗殺の間となった八木家の一室

 

 

 

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2020年8月29日 (土)

シドッチ神父舶載の宗教画

Carlo_dolci_mater_dolorosa  東京国立博物館所蔵の名画に「悲しみの聖母」(親指の聖母)がある。カルロ・ドルチの1655年の作品。この絵画を所持していたのはイタリアの神父ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ(1668-1714)である。シドッチは1708年、屋久島に上陸し捕らえられ、江戸で幽閉生活の後、6年後、衰弱死した。将軍の命令を受けた新井白石は小石川のキリシタン屋敷でシドッチとの対話をもとにして「西洋紀聞」「采覧異言」を著わしている。白石は天文地理に関しては学ぶところ多いが、キリスト教は全面否定している。(Giovanni Sidotti,Carlo Dolci)

2020年8月26日 (水)

崇徳院の怨霊

D774ce39e703726da347ll     保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐松山に配流された。のち雲井御所で約3年間過ごし、鼓が岡の木丸御所(坂出市)で6年間苦難の日々を過ごした。院は指の先から血をしたたらせながら五部の大乗蔵を写経した。その経文を都のどこかに奉納したいと願ったが、信西のために送り返された。院はこの恨みをはらすため自分の血で願文を書き、魔道に生きようとした。1164年この地で崩御された。46歳であった。歌人の西行はかねてから院の知遇を得ていたが、その没後4年たって讃岐へ渡り、白峯(香川県坂出市青海町)の崇徳上皇の御陵を訪れている。そこで西行は真心をつくして院に諌めの言葉をかけるが、上皇の怒りを抑えることはでなかった。この話は上田秋成の『雨月物語』「白峯」にも伝えられている。平清盛の次男基盛の溺死、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀など変事が起こり、上皇の御霊を鎮めるため白峰寺に頓証寺殿(画像)が建てられた。後世になっても、天変地異があればよく崇徳上皇の崇りとされた。崇徳上皇は歴代天皇の中で、最も恐れるべき霊とされたのである。(8月26日)

 

 

2020年8月15日 (土)

終戦記念日

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    本日は75回目の終戦記念日。昭和20年8月15日の朝、陸軍大臣・阿南惟幾は「一死、大罪を謝し奉る」と書き残し割腹自殺を遂げた。阿南は鈴木貫太郎内閣の陸相となり、本土決戦論を主張。ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件つき受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立した。渥美清のドラマ「泣いてたまるか」で「ああ、軍歌」。ある会社員が宴会で上司から軍歌を無理やり歌わせられるが、どうしても軍歌は歌いたくないと拒んで、周囲から冷たくされるという話。昭和37年ごろから数年間、回顧調ブームが起こりさかんに軍歌が歌われた。いまではほとんど軍歌を聴くことはなくなった。

2020年8月 7日 (金)

遷宮上人清順

 伊勢神宮の式年遷宮は、二十年という定まった年ごとに行われる神宮のみやうつしの事であるが、室町中期より途絶えていた。臨済宗の尼僧、慶光院清順は、慶光院一世守悦以来の願望であった伊勢神宮の復興に尽力し、1549年宇治大橋の架橋を行なった。次いで室町中期戦国大名間を奔走し、その援助によって1563年9月130年ぶりに外宮の正遷宮をなしとげた。

2020年8月 2日 (日)

目安箱

   徳川吉宗の享保の改革のとき、一般庶民の幕政についての意見をもとめるために評定所前に設置された投書箱。1721年8月2日から、和田倉御門近くの評定所前に毎月2日、11日、21日の月3回目安箱を設置した。設置の目的は幕政改革にあたり広く政策上の有益な意見を求めることにあったが、内容の大半は役人の不正を訴えるものが多かった。

2020年7月28日 (火)

千姫の輿入れと巷説坂崎出羽守

   第2代将軍徳川秀忠の長女・千姫は、1603年のこの日、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。千姫の半生は戦国の姫の中でも小説・映画などでトップクラスに多くあるが、史実からほど遠い作品ばかりである。なかでも大阪城落城の件は物語的である。大阪夏の陣で炎につつまれた大阪城からの千姫救出作戦の時、家康は姫を助けた者に妻として与えることを約束した。坂崎出羽守(直盛)は無事に千姫の救出を成し遂げた。しかし千姫は出羽守を嫌って、本多忠刻に嫁ぐことになった。出羽守としては約束を違えられて武士としての面目がたたなかった。 

   元和2年(1616)、本多忠刻と再婚のため江戸から桑名に向かおうとしたさい、出羽守は千姫の輿を奪おうと謀ったが、失敗し自害したという。この逸話は史実と巷説とが混在するが、坂崎出羽守は「愛のために死す」武将とてその名を後世に残すことになった。(7月28日)

 

2020年7月11日 (土)

水戸黄門の「黄門」とは何か?

   今日は映画やドラマで知られる「水戸黄門」のモデルとなった徳川光圀の誕生日。どうして彼が「水戸黄門」「黄門さま」として庶民に親しまれてたのか知っている?当時は、老中や若年寄などの幕府の官職のほかに、京都の天皇からもらう官職があった。光圀が天皇からもらったのは、中納言という官職で、この別称が「黄門」である。つまり光圀だけでなく歴代の水戸藩主は全員水戸黄門である。広辞苑の説明によれば、「唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう。中納言の唐名。」とある。映画やテレビでは助さん格さんを連れて旅に出たことになっているが、実際には、諸国はおろか、ほとんど旅に出ることはなかった。学問好きの光圀は「大日本史」の編纂事業に専念していた。(7月11日)

 

 

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