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2023年2月 9日 (木)

紀文度胸千両の蜜柑船

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   江戸の年中行事に鞴(ふいご)まつりというものがあり、11月8日未明、市中の子どもたちが、鍛冶、鋳冶、石工などの吹革(ふいご)を取り扱う家の前に集まって騒ぐと、主人が二階から数百数千の蜜柑を投げ、子どもたちが争ってこれを奪いとる風習があった。このため11月初めには蜜柑の価格が暴騰したらしい。蜜柑を積んだ便船が紀州と江戸の間をしきりに往復した。ところがこの時期にはちょうど寒風が吹きすさび、海上が大荒れに荒れる。名にし負う熊野灘、75里の遠州灘を無事に乗り切ることは容易ではない。

    たまたま、この前後、暴風雨が吹きまくって、さすがの海の荒くれ男たちも出帆を躊躇している時、紀伊国屋文左衛門(1669-1734)は決死の覚悟で船を出したのだ。長唄の「紀文大尽」によると、正保元年の霜月のことだそうで、蜜柑8万5千籠を船に積んで、乗組員は白装束に縄だすき、みずから幽霊丸と名のり、遠州灘を乗り切った。ふいご祭りに間に合ったため、危険を冒した甲斐あって5万両という巨利を一時に博したという。この文左衛門の行動はまったく度胸の一語につきる。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀伊国蜜柑船」と俗謡に唄われた。

    ただし、紀文度胸千両の蜜柑船の話は、現在のところそれを裏づける確たる資料はほとんどない。文左衛門は元禄11年2月9日に上野寛永寺根本中堂の造営に際し、その用材の調達を一手に請負い巨利を得たというのが史実に伝わるところである。

2023年2月 4日 (土)

暁に祈る事件

 第二次世界大戦後、ソ連軍によるシベリア収容所において、日本人捕虜の間で起きたリンチ事件。リンチの指示を行った池田重善(収容所内では吉村久佳の変名を名乗っていた)は1958年に有罪判決を受けたが、本人は冤罪であると主張した。この事件は1949年3月に朝日新聞がスクープとして掲載したことがきっかけで知られるようになったが、犠牲者数は報道より少なく、せいぜい数十名と思われる。「暁に祈る」とは、ノルマを果たせなかったものを絶食のうえ、極寒の戸外に裸で立たせた刑罰をそのように呼んだらしい。

 

邪馬台国論争 

    どんなに錯綜した問題でも50年、60年と論争していればほぼ一定の見解にまとまるようであるが、100年経ってもまだ解決しない問題がある。日本史最大の謎「邪馬台国はどこにあるか」という問題は古くたどれば江戸時代から議論はあったようだが、戦前の歴史の授業でふれることなどはなく、ほとんどの教師たちも戦後になって、勉強しだしたものである。ことの起こりは明治43年、東京帝国大学教授の白鳥庫吉が「倭女王卑弥呼考」を著し、時を同じくして京大の内藤湖南が「卑弥呼考」で畿内説を唱えたことにある。後に東大派が九州説を、京大派が畿内説を唱えて、いわゆる邪馬台国論争に発展した。畿内説には京大系、九州説には東大系の学者が多いとされたが、のちに異端者が続出し、一言でいえない状況となる。戦後、東京大学の井上光貞は「シンポジウム邪馬台国」を開催し、九州説の論陣を張った。井上はこの邪馬台国が東遷して4世に大和に天皇家の祖先となったとした。これに対して、京都大学派の小林行雄らは三角縁神獣鏡が畿内に多く出土することを根拠として畿内大和説を主張した。その後、古田武彦、安本美典、森浩一らが活発な出版活動によって邪馬台国ブームを生み出し、九州説を主張し、畿内説を批判していく。畿内説は上田正昭、山尾幸久ら学者が実証的な論拠を固めつつあった。21世紀に入り、箸墓の設営年代が半世紀さかのほるようになって、倭国の大乱を邪馬台国の女王・卑弥呼の擁立で解消させたということが明らかになると、天皇家の祖先との系譜も説明しやすくなり、箸墓の主である根拠に近づいてきた。さらに多くの考古学的解明により、より一層、邪馬台国の実像が見えてき出した。女王卑弥呼の邪馬台国は纏向遺跡にあったとする説が有力になってきた。「親魏倭王」の金印が見つかれば論争に決着がつくのだが。

2023年2月 1日 (水)

大名の存在

   大名という題目でブログ記事を書くに当たって、さて何を主眼とするべきであろうか。NHKの大河ドラマは大概一個人のリーダーにスポットを当てて通史的に描かれるが、生涯のなかで家臣団や側近の武将たちが主役を守るというのも見所のひとつである。「太閤記」「源義経」「国盗り物語」「草燃える」「徳川家康」「独眼竜政宗」「武田信玄」「秀吉」「葵 徳川三代」「利家とまつ」「鎌倉殿の13人」そして今年の「どうする家康」。ヒット作はいつも忠実な家臣団がいる群像劇であり、脇役と思われる人物にも注目が集まる。大名といっても、日本史には鎌倉、守護大名、戦国大名、近世大名などとよばれるものがあるが、そのうち江戸時代、徳川幕府は全国に200以上の大名を支配下においた。北の松前藩から南の薩摩藩まで、その数はおおむね200半ばから後半であった。明治を迎えたときは約270の藩が存在していた。その大名たちの石高の大きさは、100万石以上のものから1万石程度のものまでさまざまだったが、その中で、一番大きな石高をもっていた大名は?文久3年の調査によると、一番大きなのは120万石の加賀前田家、次は72万8000石の薩摩島津家、62万仙台伊達家、61万9500石の尾張徳川家、55万5000石紀伊徳川家の順である。

2023年1月27日 (金)

源実朝暗殺される

Photo 鶴岡八幡宮で盛大に源実朝の右大臣拝賀式が承久元年(1219年)1月27日に行われた。早咲きの梅の花を見て、「出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠んだ。辞世の歌のような悲しいひびきがある。その儀式の夜、日暮れから降りはじめた雪はしんしんと積もった。実朝が雪の石段を下りたところ、頼家の遺児の公暁はイチョウの木の陰から突然おどり出して、将軍実朝を殺し、太刀持ちの源仲章も斬り伏せた。公暁は実朝暗殺のあと、三浦義村を頼ったが、義村に裏切られ、長尾定景に謀殺されてしまった。将軍実朝は30歳に満たない若い命を散らし、公暁も死に、ここに源氏の嫡流が断絶してしまった。

   鶴岡八幡宮の石段わきには「公暁の隠れ銀杏」といわれるイチョウの大木があった。高さ約30m、周囲6.8m、樹齢800年以上ともいわれている。ところが2010年3月夜の強風のため、この大木が倒れてしまった。樹齢800年であれば、公暁が隠れたイチョウの木はこれ以前の木かもしれない。それにしても「公暁の隠れ銀杏」の話は江戸時代以降に見られることで、慈円の「愚管抄」などの鎌倉時代の文献には、イチョウのことは一つも書かれていない。このことから史実ではなさそうだ。現在、倒伏した大銀杏の樹幹が鎌倉文華館カフェに置かれている。この実朝暗殺が、公暁一人の計画でなかったことはほぼ推察できる。しかし、これが北条義時の陰謀であるのか、あるいは三浦義村が暗殺計画の黒幕であるのか(永井路子の小説『炎環』)、さまざまな憶測は可能であるが、その真相はいまだに歴史上の謎につつまれている。

2023年1月20日 (金)

義仲忌

紅梅を近江に見たり義仲忌   森澄雄

 

    倶利加羅峠の戦いで、木曽義仲が近くの民家から500頭の雄牛を集めさせ、角に松明を結んで火をつけた。狂うようにして暴走した牛の群れが、平家軍の中へ突っ込んでいく。恐怖に度を失った平家は、つぎつぎと深い谷底へと転がり落ちていった。「源平盛衰記」に描かれた義仲の火牛の計は本当だろうか。どうも司馬遷の「史記」田単列伝を引用したらしい。戦国時代の斉の将軍・田単は前279年、火牛の計で燕軍を即墨城外へ撃破した故事が有名である。旭将軍とたたえられた義仲も、わずか二月年たらずで落日の人となる。元暦元年(1184年)正月20日には北陸に敗走中、粟津原で義経・範頼の大軍に敗死する。愛人の巴は女武者であったが、「女連れで死ぬのは恥ずかしい」という義仲のことばに、泣きながら、いずこへか去ったと伝えられる。大津の義仲寺には義仲と芭蕉の墓が隣り合わせに建てられている。(1月20日)

 

 

2023年1月18日 (水)

最上義光没す(1614年)

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  1614年のこの日、最上義光(1546-1614)が没す。69歳。義光は天正の初め、父義守のあとを継いで最上氏の当主となって、慶長19年、69歳で没するまで、上杉景勝・伊達政宗らと戦い、出羽国山形の城主として名を轟かせた戦国武将である。とくに慶長5年の関ヶ原の合戦では、東軍の徳川方に属して米沢の直江兼続と長谷堂城で交戦する。西軍に属した出羽横手城主小野寺義道が庄内に迫ったため南北より挟まれるが、伊達勢の来援もあって辛うじて両者を撃退。戦後、その功により庄内などを加増され、出羽山形藩57万石の初代藩主となった。平成元年、山形市に最上義光歴史館が開館した。「もがみよしあき」と読む。

    ところで大河ドラマ「天地人」は直江兼続に妻夫木聡、上杉景勝に北村一輝、上杉謙信に阿部寛、お船に常盤貴子、初音に長澤まさみ、などがキャスティングされた。しかし、最上義光はいったい誰だろうか?1987年の「独眼竜政宗」では、最上義光は原田芳雄が熱演したが、悪役としてのイメージが残った。史実とも大きくことなるだけに、今回の「天地人」の最上義光を注目していたが、結局義光は登場しなかったらしい。和歌森太郎の「日本武将100選」(昭和45年刊、秋田書店)にも72番目に最上義光が取り上げられている。直江兼続は選外であった。最上義光は英雄である。(1月18日)

2023年1月17日 (火)

三木合戦

   1580年のこの日、羽柴秀吉に包囲された三木城が陥落し、城主別所長治が自刃する。2年前から、秀吉の包囲作戦に耐えてきた。摂津では有岡城の荒木村重は、反織田の動きを示したため、長期戦となった。昨秋、秀吉は城から500~600mのところに高さ約3mの築地をつくり、「三木の干殺し(みきのひごろし)」といわれる兵糧攻めを開始した。その間、秀吉の部将黒田官兵衛が説得に向かったが、村重に捕らえられ有岡城に幽閉された。1578年3月29日から1580年1月17日までを三木合戦という。

 

2023年1月15日 (日)

登誉上人と祖洞和尚

 「どうする家康」第2話「兎と狼」。永禄3年(家康19歳)。織田軍に包囲され、絶対絶命の松平元康。だが、なぜか信長は兵を引く。元康は故郷の三河へと進む。岡崎城には今川の残兵がいたため、元康は自害しようとするが、大樹寺の住職、登誉上人に止められる。彼が説く「厭離穢土欣求浄土」は生涯を通じての家康の精神的な支えとなり、徳川家の馬印になる。このほか、寺僧の一人、祖洞了伝は怪力の持ち主で、総門のかんぬきで、敵を退却せしめた挿話が有名だが、ドラマでは取り上げられなかった。

 

2023年1月13日 (金)

源頼朝没す

  1199年のこの日、源頼朝死去す。享年51歳。前年12月27日の相模川橋供養の際に落馬したのが原因といわれている。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」主役・北条義時は小栗旬、頼朝は大泉洋が演じて好評だった。これまで大河ドラマでは過去6人が頼朝を演じている。「源義経」(1966年)は芥川也寸志、「新平家物語」(1972年)は高橋幸治、「草燃える」(1979年)は石坂浩二、「炎立つ」(1993年)は長塚京三、「義経」(2005年)は中井貴一、「平清盛」(2012年)は岡田将生がそれぞれ演じた。頼朝の容貌は「顔大ニシテ、たけ低く、容貌花美ニシテ、景体優美也」(源平盛衰記)とみえる。大河では痩身タイプが多い。現代の日本社会でも、武士の評価は高く、政治家や企業経営者のなかには、前近代の武将に、その模範を見出す人が多く、お手本となる人物である。しかしながら政略家で、また容赦なく弟の義経を殺そうとしたりして、狡猾・陰険なイメージがあるため、いまイチ人気は高くない。大泉頼朝はとぼけていてつかみどころがないが、結構適役だった。(1月13日)

 

 

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