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2017年10月14日 (土)

諸説あり!佐々木小次郎の実年齢

F8b1ded5   木村拓哉「宮本武蔵」のライバル佐々木小次郎には沢村一樹(46歳)が演じた。美丈夫のイメージがある小次郎が武蔵より年長とは異例のキャストである。吉川英治の小説「宮本武蔵」での佐々木小次郎の描写は「前髪に紫の紐をかけ、派手やかな小袖へ、緋らしゃの胴羽織を纏っているので、少年として見えるものの、年齢のほどは、少年という称呼には当てはまるかどうか、保証のかぎりではない(中略)まず19か、20歳というところではなかろうかと思われます」とある。以後、多くの映画・ドラマの小次郎像は長身の美少年である。熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では巌流島の決闘時の年齢は18歳であったと記されている。しかしながら小次郎は越前の中条流の富田勢源の門人であったという。勢源は晩年には眼疾で弟の富田景政が家督を相続したが、小次郎は景政と試合をして、見事勝っている。諸国を修行し、燕返しの剣法を案出し、増田長盛によって豊臣秀吉に仕えようとしたが、うまくいかず、結局、豊前小倉の藩主細川忠興に仕えるようになった。つまりこれらの出自から逆算すると、天正時代にはすでに成年になっており、宮本武蔵より30歳ぐらいは年長であると考えられ、江戸時代の絵草子では佐々木小次郎は髭をたくわえた豪傑として描かれている。『二天記』の年齢記述は誤りで、実際には70歳くらいではなかったかといわれている。つばめ返しをあみだした場所にも諸説ある。吉川英治は小説で山口県の錦帯橋としているが、『二天記』によると、越前東尋坊の高善寺近くの一乗滝で、つばめ返しをあみだしたとしている。

2017年10月13日 (金)

安藤昌益の墓

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   秋田県大館市の南の郊外二井田地区に、曹洞宗温泉寺がある。この寺域に江戸時代中期の医者・思想家安藤昌益(1701-1762)の墓がある。昌益の事績は戦前までほとんどわからなかった。戦後の研究によって生年、没年、出生地、死没地なども特定できるようになった。没年は宝暦12年10月14日である。墓石には「堅勝道因士」「昌安久益信士」と戒名が刻まれている。ところが昭和60年、大館市の安達家から昌益の位牌が発見された。位牌には「帰元賢正道因禅定門」と記されている。おそらくこの戒名は三回忌の法事のとき追授されたものらしい。明和元年10月13日、跡継ぎの安藤孫左衛門は門弟たちと法事を行った。このとき魚料理でお祝いしたことが聖道院の怒りにふれた。昌益に感化された門弟たちは信仰心をもたなくなり、昌益を神として「守農太神」の石碑を各地に建てていた。代官所は、神仏を畏れぬ行為として、石碑を打ち壊し、孫左衛門に「郷(ところ)払い」を命じた。江戸時代、昌益の思想は危険思想だったのだろう。明治の狩野亨吉が昌益の「自然真営道」の稿本を発見するまで忘れられた思想家だった。

2017年10月 8日 (日)

接吻の起源と歴史

 世界中の雑学研究者たちの間でもっとも興味がそそられることの一つか接吻の起源であろう。いまも世界各国でおびただしい男女のカップルが顔と顔をくっつけ、唇を吸い合っている。このありふれた愛情表現について、いつ頃から、どういう風にはじまったか、詳しい研究をした人は少ない。有名な本としては20世紀はじめにフランスで出版された『世界の接吻アンソロジー』(1911年)で、アジア・欧州・フランス・アフリカ・アメリカなど五大州の接吻と歴史が詳しく書かれている。接吻のはじまりは顔と顔をくっつけることで、未開民族のういたでは今日でもこの風習がのこっている。ヘロドトスの「歴史」では、ペルシア人は同じ身分の者同士は挨拶の言葉を交さず、お互いに口に接吻すると書いている。「聖書」ではユダがキリストに近づき接吻しようとしたときの「裏切りの接吻」が有名である。接吻をいいあらわす語がヨーロッパ諸国で日常的な言葉になった年代は比較的あたらしい。アイルランドとウェールズでは、ポッグまたはホッグといっていたが、これはラテン語のPax(平和)のなまりだった。英語のKissはゴーへ語のkustus(味わう)が語源だとされる。イギリスでは16世紀までコッス(coss)といっていた。フランス語のベーゼ(baiser)はラテン語のbasiareのなまりで、12世紀頃から現れているが、この語を使うのは、人前では抱擁といわねばならない。近代日本人はいつキスを知ったのであろうか。それは明治になって欧米を視察したときであろう。「特命全権大使米欧回覧実記」の編著者、久米邦武(1839-1931)は謹厳痩躯で、仲間から「久米の仙人」といわれるほどの堅物であった。漢学の素養が深く、名君といわれた鍋島直正の近習として仕えていたこともあり、その推輓で、この使節団の一員に加わった。使節一行にとって旅は珍しいものの連続であったが、とりわけ男女の風俗には目を見張るものがあった。会食の後は必ずといっていいほどダンスが行われた。独身女性や人妻が他人の男と抱きあい、手を握りあって踊る姿はどうみても異様であり合点がいきかねた。また一行はボストンの港で異常な光景を目の当たりにして唖然としている。というのは同乗して英国に渡っていく男たちが、それを見送りにきた婦人としっかり抱き合って接吻し、離れない情景を見かねたからである。久米は目の置き所に困って思わずぐちる。「公衆の面前であまりに厚かましいではないか」すると西洋通の仲間がそれを受けて、「いやいやさようなものではない。彼らは公衆の中、とくに日本大使の眼前なので念入りに小笠原流の接吻をしているのだから、敬意を表して見てやるのが礼儀である」と茶化している。

  聖書の翻訳でも初期は「吻接」であったがものが1888年の和訳では「接吻」に改まっている。20世紀になると外国の映画による影響も大きい。1896年のアメリカ映画「The Iwin‐Rice Kiss」ジョーンズ未亡人が接吻するという舞台の一場面が当時大きな話題を呼んだ。キスや猥褻シーンは当局の手によって何度もカットされ受難の歴史を歩む。映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストでのキス集は検閲によってカットされたシーンが甦ったことで人生の歓喜を表現している。

2017年10月 3日 (火)

登山の起源

 きょうは登山の日。「10(と)3(ざん)」の語呂合わせから、日本アルパインガイド協会が1991年に定め、日本記念日協会が1995年に定めた。昨今は空前の登山ブームである。しかし山に登るということは先史時代から行われていたようであるが、何世紀ものあいだ、山は神と人間とが出会う神聖な場所だと思われていた。モーセはシナイ山で十戒を授かっている。ハンニバルは前218 年、6万人の兵と37頭の象とともにピレネーやアルプスの山脈を越えたとされる。125年にローマ帝国のハドリアヌス帝は朝日を見るためにエトナ火山に登った。1336年4月26日にイタリアの詩人、ペトラルカは弟ジェラルドを連れてフランスのヴァントゥ山の頂に登った。このことからペトラルカは「登山の父」と呼ばれている。我が国で最初に富士登山に成功した人物は聖徳太子という俗説がある。ある日、聖徳太子は黒駒に乗ってフワフワと空中に浮き、そのまま富士山をめぐりあるいて二日で帰ってきた。太子信仰の隆盛にともない生まれた伝説の一つで、本当に登山をしたという確証はない。太子は達磨に会ったという逸話もある。達磨の方が太子よりも一世代も前の人だが、太子の前世が中国・天台宗の高僧・南嶽慧思であるという。この慧思が達磨の教えを受けて、日本に転生して仏教を広めにきたという。時代は北魏末の仏教文化が衰退するので、東伝の布教するためであった。

2017年9月18日 (月)

芹沢鴨暗殺

   芹沢鴨が斬られたのは、文久3年9月18日の夜のことである。島原の角屋で宴会がもたれた後、したたかに酔った芹沢は壬生へもどり、大酔し、お梅を抱いているところを、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・原田左之助ら5名に襲撃された。芹沢は脇差を抜いてわたりあったという説もあるが、実際には泥酔して前後不覚に寝込んでいたところを、蒲団ごしに刀を突き刺されたというのが真相らしい。翌日、近藤は守護職邸に、局長芹沢は急病による頓死ということで届け出ている。 

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 芹沢が最後の宴会をした角屋「松の間」

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 芹沢鴨暗殺の間となった八木家の一室

 

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2017年9月16日 (土)

裏切り道薫

    荒木村重は織田信長の信任を受け、摂津一国という大領を任せられながら、突如信長を裏切り、滅ぼされたことで知られる武将。荒木家は、藤原秀郷の流れを汲む、丹波国多紀郡の波多野氏の一族。波多野義定8代の後裔氏義(うじよし)が丹後国天田郡荒木邑に住して荒木氏を称す。村重の父義村(一説に信重)に至って摂津国池田に移り、「池田の六人衆」と称せられた。

   荒木村重は、初め池田勝正に属し、1551年、伊丹兵庫頭の先手を討ち取る功によって父から家督を譲られた。主家池田家が内紛によって衰える中、摂津三人守護の一人和田惟政を討ち取るなど力を蓄えていった。

    1573年3月、反信長の立場を鮮明にして足利義昭を掣肘するため信長は上洛の途についたが、村重は細川藤孝とともに信長を逢坂まで出迎えた。村重の忠節に対し、信長は「御機嫌申すばかりな」いほど上機嫌となり、「郷義弘」の刀を下賜した。

    その後、「摂津守護」に任じられた村重は、主に本願寺攻めを担当していたが、毛利氏と結んだ波多野氏、別所氏らが本願寺に呼応して敵対するに及び、信長に叛旗を翻した。有岡城(伊丹城)に籠城したが、のち家族や家臣を見捨てて密に脱出して尼崎城に移った。ひとり生きのびた村重は入道して道薫(どうくん)といい、茶人として秀吉に仕えたが、最後は自殺したとも伝わる。

    天正7年の有岡城の陥落は悲惨だった。10カ月余の籠城ののち、落城すると、残された女・子どもたち一族は京都六条河原で惨殺され、有力家臣の女房・娘らは七ツ松で磔の刑に処せられ、その他の女・子ども・若党ら500人余りは4軒の家においこまれて、家もろとも焼かれた。

   荒木村重に関しては、有岡城落城の悲劇性、村重の逆心、茶人としての堺での晩年など謎の多い武将である。利休七哲の1人に数えられることもある。近年、伊丹に荒木村重研究会が発足し研究が興る。

 参考文献

荒木村重史料 八木哲次 伊丹市 1978

謎の武将 荒木村重と伊丹城 香村菊雄 神戸新聞出版センター 1983

荒木村重 惜命記 黒部享 講談社 1988

村重 第1号~第5号 荒木村重研究会会報 2001~2005

2017年9月11日 (月)

明智光秀が謀反を起こした本当の動機は?

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錦絵「本能寺焼討之図」延一画 東京都立中央図書館蔵

 「敵は本能寺にあり」

  この有名な言葉を明智光秀(1526-1582)は本当は言っていない。頼山陽「日本外史」(1827)に初めて見えるもので、光秀生誕から300年後の創作。信長が寝所に入ってしばらくすると、外が騒がしくなった。「これは謀反ではないか。いったい誰が?」森蘭丸が答えた。「明智の勢かと思われます」「光秀なら是非もなし」(信長公記)

    光秀ならば完璧の布陣で攻めて来たであろう。もはや助かる道はあるまい。そう思った信長は殿中深く入って、自ら切腹して果てた。

   本能寺の変は、戦国時代最大のミステリーといっていいかもしれない。「老人雑話」のなかに、「明智日向守が云ふ。仏のうそを方便と云ひ、武士のうそを武略と云ふ、百姓はかはゆきことなりと、名言也」という一節がある。光秀は、仏教におけるうそが方便として認められるならば、武士のうそも武略として是認されるものだという考えを持っていたようだ。なぜ光秀が信長を襲ったのか?その動機は江戸時代初期より、光秀が怨恨を晴らすためであった、というのが一般であった。とくに信長が家康を饗応した時の献立が豪華すぎると、光秀を叱責したことにあるといわれる。

    高柳光壽は人物叢書「明智光秀」(1958)で野望説を唱えた。これに対して、一番ポピュラーなのが怨恨説。近年も桑田忠親がルイス・フロイスの資料を根拠に怨恨説を支持している。最近では黒幕・関与説が主流である。立花京子は、勧修寺晴豊の日記の断片である「天正十年夏記(日々記)」により朝廷が変に関与していたとする。いわゆる三職推任問題である。朝廷が信長に関白、太政大臣、征夷大将軍の何れに就任してもらおうと工作したが、信長はそれを断ったことが背景にあるというのである。つまり天皇の権威を見限って、信長が日本の王になろうとしたので、光秀がそれを阻止しようとしたとする。

   最近、光秀の書状の原本が見つかったことで四国説が浮上している。光秀が土橋重治に宛てた書状で、将軍義昭入洛の際に協力することを伝えた内容である。本能寺の変の動機は長宗我部元親の窮地を救ったために起こしたとして、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力とともに幕府を再興させる構想があったらしい。だが本能寺の変後、光秀は細川忠興、筒井順慶らを誘い天下人たることを策したが成功せず、中国から兵を返した秀吉と山崎に戦うも、兵力差から総崩れとなり敗北。光秀は勝竜寺城へ逃れ、その夜密かに坂本へ脱出を図り秀吉軍の包囲を突破するものの、その途次醍醐もしくは山科のあたりで、雑兵・中村長兵衛により殺害される(「兼見卿記」)。享年55歳。

参考文献
高柳光寿「明智光秀」 吉川弘文館 1958
立花京子「本能寺の変と朝廷 「天正十年夏記」の再検討に関して」古文書研究39  1994年
谷口克広「検証本能寺の変」 吉川弘文館 2007

2017年8月17日 (木)

源頼朝七騎落

Photo1342_2     伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、1180年(治承4年)のこの日、石橋山で平家方の大庭景親と合戦した。三百余騎の頼朝軍に対して、むかう大庭軍、三千余騎が立ちふさいでいた。24日、無勢の頼朝軍はたちまちに敗走し、平氏軍はこれを追撃した。しかし、ついに頼朝を捕えることができず、その行方を見失ってしまった。この時、大庭景親の軍勢に属していた梶原景時が、頼朝の在りかを知りながらこれを逃したという話の真偽は疑わしいものの、当時、平氏の陣中にあって頼朝に心を寄せていたのは、景時だけではなかった。飯田家義という相模国の武士も、景親の軍中にありながら頼朝を慕い、山中の隠れ家までやってきてぜひ供に加えてくれ、願ったという。

    こうして虎口を逃れた頼朝は、この付近の豪族・土肥実平に導かれて真鶴岬から小舟に乗り、海路を房総半島の南端安房国へと逃れ、次第に勢力を拡大する。ついには平家を討ち滅ぼし、武家を中心とする新しい政治体制を確立したのである。

    頼朝挙兵の頃の関東の豪族をながめておこう。挙兵時より頼朝に味方した豪族としては、北条時政、天野遠景、三浦義明、三浦義澄、和田義盛、宇佐美助茂、土肥実平、加々美長清、安田義定、武田信義、下河辺行平。

    挙兵直後頼朝に味方した豪族としては、豊島清光、葛西清重、千葉介常胤、上総介広常、小山朝光、安西景盛。

    挙兵時頼朝に敵対しのち従った豪族としては、梶原景時、江戸重長、河村義秀、渋谷重国、河越重頼、熊谷直実、畠山重忠、新田義重、足利俊綱。

    頼朝に敵対し討たれた豪族は、大庭景親、波多野義常、山本兼隆、伊東祐親、志田義広、萩野俊重、佐竹秀義らがいる。(8月17日)

2017年8月15日 (火)

終戦記念日

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    本日は72回目の終戦記念日。昭和20年8月15日の朝、陸軍大臣・阿南惟幾は「一死、大罪を謝し奉る」と書き残し割腹自殺を遂げた。阿南は鈴木貫太郎内閣の陸相となり、本土決戦論を主張。ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件つき受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立した。渥美清のドラマ「泣いてたまるか」で「ああ、軍歌」。ある会社員が宴会で上司から軍歌を無理やり歌わせられるが、どうしても軍歌は歌いたくないと拒んで、周囲から冷たくされるという話。昭和37年ごろから数年間、回顧調ブームが起こりさかんに軍歌が歌われた。いまではほとんど軍歌を聴くことはなくなった。

2017年8月14日 (月)

日本のいちばん長い日

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   阿南惟幾            大西瀧治郎               宇垣纏

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将(1891-1945)が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。大西は特攻攻撃の発案者の一人だった。

    敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。主な軍人の自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

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