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2018年10月13日 (土)

安藤昌益の墓

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   秋田県大館市の南の郊外二井田地区に、曹洞宗温泉寺がある。この寺域に江戸時代中期の医者・思想家安藤昌益(1701-1762)の墓がある。昌益の事績は戦前までほとんどわからなかった。戦後の研究によって生年、没年、出生地、死没地なども特定できるようになった。没年は宝暦12年10月14日である。墓石には「堅勝道因士」「昌安久益信士」と戒名が刻まれている。ところが昭和60年、大館市の安達家から昌益の位牌が発見された。位牌には「帰元賢正道因禅定門」と記されている。おそらくこの戒名は三回忌の法事のとき追授されたものらしい。明和元年10月13日、跡継ぎの安藤孫左衛門は門弟たちと法事を行った。このとき魚料理でお祝いしたことが聖道院の怒りにふれた。昌益に感化された門弟たちは信仰心をもたなくなり、昌益を神として「守農太神」の石碑を各地に建てていた。代官所は、神仏を畏れぬ行為として、石碑を打ち壊し、孫左衛門に「郷(ところ)払い」を命じた。江戸時代、昌益の思想は危険思想だったのだろう。明治の狩野亨吉が昌益の「自然真営道」の稿本を発見するまで忘れられた思想家だった。

2018年9月22日 (土)

右と左のはなし

Statue06    西洋諸国では右は善で、左は悪という考え方があった。英語のrightは、右、正しい、まっすぐな、健康な、という意味がある。ニューヨークにはある自由の女神は右手に松明を持っている。インドやインドネシアでは、物を手づかみで食べるが、必ず右手を使い、左手は不浄の手で、排泄の処理に用いる。フランス革命後の議会で、議長席から見て左方の席に急進派がすわり、右方に保守派がすわったことから、急進主義者、のちには社会主義者・共産主義者を左翼と呼び、保守的・国粋的な思想の持ち主を右翼と呼ぶようになった。

    中国では左右の何れを上位とするかは時代によって異なるが、先秦時代は左を尊んだとされ、漢初まで続いた。「左袒」とは加勢すること。「劉氏のためにつくしたいものは左袒(左肩を脱ぐこと)せよ」の故事から生まれた。漢代より後になると、右を尊び左を卑しむ観念が生まれた。漢語「座右」「左遷」はこのころの故事。「旡出其右」(その右に出る者がいない)。六朝になると官職に関しては左を上位とするようになり、唐に入るとより一層広く左が尊ばれた。

    日本でも中国の影響を受けて左を上位とするようになり、左大臣、右大臣の官位が生まれた。お雛様の段飾りに「右近の桜、左近の橘」がある。つまり雛壇に向って右側が桜、左側が橘である。東西南北の方位で言うと、東が桜、西が橘。男雛は橘の側の左に座ることになる。奈良時代後期から平安時代にかけて左大臣は藤原氏が独占したが、醍醐天皇の時代、左大臣藤原時平の讒言によって右大臣の菅原道真が大宰府に左遷されたのは有名な話である。

Haiti   また左右は伝統的な決まりごとがつくられた。たとえば配膳作法。左前にご飯を置くのは左側の上位の思想からくるものである。しかしながら通例、左をあまりよくないたとえに使われることが多い。芸者のことを左褄(ひだりづま)といい、花嫁は右褄。飲酒家を左党というのは、大工が左手で鑿を持つことから「鑿手」(のみて)のシャレからきている。会社の経営状態が悪くなることを「左前になる」という。これは死に装束が「左前」であることから、死に体に通じるからである。

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(参考:「今さらこんなこと他人には聞けない辞典」 KKベストセラーズ)

2018年9月21日 (金)

「千字文」伝来と王仁の謎

0f3bb3e9cbe9fdfaab7192fd4c9e75f7     わが国の古い伝承で漢籍について述べられているものは「古事記」の応神天皇の条に16年(紀元285年)に百済の国の和邇吉師(王仁)が「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという記述がある。また「日本書紀」の応神紀には、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇太子が王仁について漢文を習ったと記されている。今日これらを史実と考える研究者はあるまい。中国ではまだ「千字文」は成立しておらず、南朝の梁の武帝(464-549)が周興嗣(470-521)につくらせたものである。だが王仁はその後も帰化人として日本に滞在し、渡来系氏族「西文氏(かわちのふみ)」の祖と伝えられる実在の人物と考えられている。「千字文」を伝えたとするならば6世紀初めの人と考えられる。千字文の一節「散慮逍遥」を書いた木簡が出土している。日本に伝わった「論語」10巻が梁の武帝のとき編纂された「論語義疏」と思われる。つまり王仁は4世紀の人物ではなく6世紀の人と考えられる。王仁に関しては謎に包まれているが、記紀に見える王仁が、朝鮮側の古記録には見えない。「海東繹史」(18世紀末)になって初めて王仁の記述が見える。韓国全羅南道の霊岩に王仁の生誕伝説と遺跡が伝えられる。

千字文十種 全14巻 平凡社 1936-1937
評釈千字文 岩波文庫 山田準・安本健吉註解 岩波書店 1937
千字文詳解 増訂 伏見沖敬 角川書店 1983
注解千字文 小川環樹 岩波書店 1984

2018年9月18日 (火)

芹沢鴨暗殺

   芹沢鴨が斬られたのは、文久3年9月18日の夜のことである。島原の角屋で宴会がもたれた後、したたかに酔った芹沢は壬生へもどり、大酔し、お梅を抱いているところを、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・原田左之助ら5名に襲撃された。芹沢は脇差を抜いてわたりあったという説もあるが、実際には泥酔して前後不覚に寝込んでいたところを、蒲団ごしに刀を突き刺されたというのが真相らしい。翌日、近藤は守護職邸に、局長芹沢は急病による頓死ということで届け出ている。 

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 芹沢が最後の宴会をした角屋「松の間」

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 芹沢鴨暗殺の間となった八木家の一室

 

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2018年8月17日 (金)

源頼朝七騎落

Photo1342_2     伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、1180年(治承4年)のこの日、石橋山で平家方の大庭景親と合戦した。三百余騎の頼朝軍に対して、むかう大庭軍、三千余騎が立ちふさいでいた。24日、無勢の頼朝軍はたちまちに敗走し、平氏軍はこれを追撃した。しかし、ついに頼朝を捕えることができず、その行方を見失ってしまった。この時、大庭景親の軍勢に属していた梶原景時が、頼朝の在りかを知りながらこれを逃したという話の真偽は疑わしいものの、当時、平氏の陣中にあって頼朝に心を寄せていたのは、景時だけではなかった。飯田家義という相模国の武士も、景親の軍中にありながら頼朝を慕い、山中の隠れ家までやってきてぜひ供に加えてくれ、願ったという。

    こうして虎口を逃れた頼朝は、この付近の豪族・土肥実平に導かれて真鶴岬から小舟に乗り、海路を房総半島の南端安房国へと逃れ、次第に勢力を拡大する。ついには平家を討ち滅ぼし、武家を中心とする新しい政治体制を確立したのである。

    頼朝挙兵の頃の関東の豪族をながめておこう。挙兵時より頼朝に味方した豪族としては、北条時政、天野遠景、三浦義明、三浦義澄、和田義盛、宇佐美助茂、土肥実平、加々美長清、安田義定、武田信義、下河辺行平。

    挙兵直後頼朝に味方した豪族としては、豊島清光、葛西清重、千葉介常胤、上総介広常、小山朝光、安西景盛。

    挙兵時頼朝に敵対しのち従った豪族としては、梶原景時、江戸重長、河村義秀、渋谷重国、河越重頼、熊谷直実、畠山重忠、新田義重、足利俊綱。

    頼朝に敵対し討たれた豪族は、大庭景親、波多野義常、山本兼隆、伊東祐親、志田義広、萩野俊重、佐竹秀義らがいる。(8月17日)

2018年8月14日 (火)

日本のいちばん長い日

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   阿南惟幾            大西瀧治郎               宇垣纏

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将(1891-1945)が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。大西は特攻攻撃の発案者の一人だった。

    敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。主な軍人の自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

2018年7月12日 (木)

鎌倉幕府の成立

500_10881307   治承4年(1180)、源頼政は、後白河法皇の皇子以仁王の令旨を奉じて挙兵したが、宇治で敗死した。しかし、以仁王の名で発せられた平氏討伐の令旨は、諸国の源氏が挙兵するきっかけとなり、以後10年間、全国的な内乱となった。これまで源平の合戦となど言われてきたが、実はそれだけにとどまらない。源氏の中でも頼朝と義仲、義経のように、互いに対立した。このように対立関係も多様なので、最近では1180年から1189年の頼朝による奥州平定までの戦いを「治承・寿永の内乱」と呼ぶようになっている。

   では本格的な武家政権である鎌倉幕府の成立はいつであろうか。古くから建久3年(1192)7月12日、頼朝が征夷大将軍に任命されたときする説があり、近年、「山槐記」に頼朝の征夷大将軍任官の記述も発見された。これは幕府という語の意味に着目したものであるが、現在では1192年説をとなえる学者は少ない。軍事政権としての幕府が成立した過程が問題となり、さまざまな説がみられる。

   そのなかでも、文治元年(1185)11月、守護・地頭の任命権を獲得したときを幕府の成立とみる学者は多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配権を強調してみるならば、寿永2年(1183年)10月宣旨を重視する学者もいる。これはこれは頼朝が、北条時政を上洛させて、義経の追捕をせまり、それを口実として、諸国に惣追捕使(のちの守護)・地頭(国地頭)を任命する権利と一反あたり5升の兵糧米を徴収する権利などを獲得した時期である。このように鎌倉幕府創設年代は諸説あり、「鎌倉幕府1192年成立」として覚えるのではなく、「1185年は守護・地頭設置」といように、具体的史実を中心に年代をまとめておく。歴史は単なる暗記物ではなく、歴史的事実のうえに立って構成していくものである。

2018年7月 8日 (日)

池田屋の入江惣兵衛はどうなったのか?

  元治元年6月5日(新暦7月8日)、三条小橋にある池田屋で新選組が宮部鼎蔵ら志士7人を殺害、23人を捕らえた事件は、幕末暗殺史の中でもひときわ凄惨をきわめる。だがドラマなどで池田屋の主人、入江惣兵衛(1823-1864)がその後どうなったのか描かれることはほとんどない。惣兵衛は事件後、家族を連れて親戚宅へ逃れ、自分も隠れたが翌6日捕らえられ、7日入獄。7月13日に獄死している。42歳の若さだった。墓は浄円寺(京都市上京区下立売通七本松西北角)にある。墓は入江姓になっている。京都霊山護国神社にある墓は池田屋惣兵衛と記されている。

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 池田屋の内部

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 京都霊山護国神社の墓

2018年6月 5日 (火)

池田屋襲撃事件

    池田屋襲撃は新選組の名を一夜にして轟かせたが、隊士たちのその後の人生にも大きな転機となっている。当夜、近藤勇は隊員を二手に分けて、表出口には谷万太郎、武田観柳斎、浅野藤太郎が、裏口には奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らが固めた。そして店内へ近藤勇が先に立って、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の3人を従えて突入したとするのが通説である。なぜ近藤らわずか4人で20人もの勤王の志士に勝てたのか。それは真剣を使い慣れた近藤らと剣道しか知らない志士との差、それに池田屋は幅6m、奥行き約27m京都特有のうなぎの寝床が近藤らに有利となった。永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、表口には谷三十郎、原田左之助となっている。また池田屋襲撃には谷三兄弟の3男、谷周平が参加したという記録もある。事件当日の奮戦ぶりから、周平は近藤の養子となって、近藤周平と改名する。その後、周平は近藤の信を失なって縁組は解消され、旧姓に復している。原田左之助は十七両の褒賞金を受領している。長州志士を中心とする20名余りのうち7人が討ち死にするも、裏口を固めていた3人が斬られて突破され、多くの志士が脱走した。当夜の新選組の犠牲者は奥沢栄助ひとりとされている。後日、安藤、新田ら死亡した。

    武田観柳斎は長沼流軍学をもって知られ、二十両の褒賞金を受領している。その後、薩摩に通じ、竹田街道の銭取橋で斎藤一に斬殺される。浅野藤太郎も同額の二十両を受領している。浅野はその後、金策が露見して、島原において斬殺されている。藤堂平助は活躍により二十両を受領している。その後、高台寺党に加わり、三条油小路において新選組に斬殺される。沖田総司はよく知られるように池田屋襲撃時、戦闘中に喀血昏倒する。池田屋襲撃の近藤配下の隊士の中で明治まで生存したのは永倉新八ただ一人だった。原田左之助に関しては死亡時期不明。通説では上野戦争で戦死したとされるが、満州で馬賊となったという生存説もある。(6月5日)

2018年6月 2日 (土)

明智光秀が謀反を起こした本当の動機は?

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錦絵「本能寺焼討之図」延一画 東京都立中央図書館蔵

 「敵は本能寺にあり」

  この有名な言葉を明智光秀(1526-1582)は本当は言っていない。頼山陽「日本外史」(1827)に初めて見えるもので、光秀生誕から300年後の創作。信長が寝所に入ってしばらくすると、外が騒がしくなった。「これは謀反ではないか。いったい誰が?」森蘭丸が答えた。「明智の勢かと思われます」「光秀なら是非もなし」(信長公記)

    光秀ならば完璧の布陣で攻めて来たであろう。もはや助かる道はあるまい。そう思った信長は殿中深く入って、自ら切腹して果てた。

   本能寺の変は、戦国時代最大のミステリーといっていいかもしれない。「老人雑話」のなかに、「明智日向守が云ふ。仏のうそを方便と云ひ、武士のうそを武略と云ふ、百姓はかはゆきことなりと、名言也」という一節がある。光秀は、仏教におけるうそが方便として認められるならば、武士のうそも武略として是認されるものだという考えを持っていたようだ。なぜ光秀が信長を襲ったのか?その動機は江戸時代初期より、光秀が怨恨を晴らすためであった、というのが一般であった。とくに信長が家康を饗応した時の献立が豪華すぎると、光秀を叱責したことにあるといわれる。

    高柳光壽は人物叢書「明智光秀」(1958)で野望説を唱えた。これに対して、一番ポピュラーなのが怨恨説。近年も桑田忠親がルイス・フロイスの資料を根拠に怨恨説を支持している。最近では黒幕・関与説が主流である。立花京子は、勧修寺晴豊の日記の断片である「天正十年夏記(日々記)」により朝廷が変に関与していたとする。いわゆる三職推任問題である。朝廷が信長に関白、太政大臣、征夷大将軍の何れに就任してもらおうと工作したが、信長はそれを断ったことが背景にあるというのである。つまり天皇の権威を見限って、信長が日本の王になろうとしたので、光秀がそれを阻止しようとしたとする。

   最近、光秀の書状の原本が見つかったことで四国説が浮上している。光秀が土橋重治に宛てた書状で、将軍義昭入洛の際に協力することを伝えた内容である。本能寺の変の動機は長宗我部元親の窮地を救ったために起こしたとして、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力とともに幕府を再興させる構想があったらしい。だが本能寺の変後、光秀は細川忠興、筒井順慶らを誘い天下人たることを策したが成功せず、中国から兵を返した秀吉と山崎に戦うも、兵力差から総崩れとなり敗北。光秀は勝竜寺城へ逃れ、その夜密かに坂本へ脱出を図り秀吉軍の包囲を突破するものの、その途次醍醐もしくは山科のあたりで、雑兵・中村長兵衛により殺害される(「兼見卿記」)。享年55歳。

参考文献
高柳光寿「明智光秀」 吉川弘文館 1958
立花京子「本能寺の変と朝廷 「天正十年夏記」の再検討に関して」古文書研究39  1994年
谷口克広「検証本能寺の変」 吉川弘文館 2007

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