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2019年12月15日 (日)

蝦夷共和国

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    明治元年12月15日、蝦夷地・箱館五稜郭を本営とする佐幕派の政権が誕生した。一般に蝦夷共和国という。投票によって、総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、陸海裁判官に竹中重固、今井信郎、陸軍奉行並に土方歳三らが選ばれた。蝦夷共和国は明治2年5月18日、箱館戦争終結とともに消滅した。

2019年12月14日 (土)

1日3食なのはなぜ?

 日本人の誰もが朝昼晩と一日に三回食事をする。古代、貴族は朝夕の二回の食事が普通で、その他は簡単な間食をするくらいであった。しかし、農民や職人などの労働階級の人々は、必要に応じて一日に三回も四回も食事をしていた。三度の食事の習慣が一般化して、昼食の存在がはっきりとするのは江戸時代になってからのことである。江戸時代中期に、庶民の間にも菜種油で明かりで暮らすようになり、その影響で、夜も活動できるようになった。つまり照明のおかけで活動時間が伸びた結果、2食では足りなくなり、朝と夕の間に昼食を挟むことが一般化したという。(NHKチコちゃんに叱られる!拠り)

2019年12月 8日 (日)

太平洋戦争開戦記念日

十二月八日よ母が寒がりぬ(榎本好宏)

  昭和16年12月8日。この日から何年経っても、日本人には決して忘れられない日である。この日を境に人々は戦争に巻き込まれ、多くの人々の運命が暗転した。昭和39年に集英社から刊行された「昭和戦争文学全集」の第4巻には昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品「聖ヨハネ病院にて」(1946)などで知られる作家である。この「歴史の日」でも病妻のことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

2019年12月 7日 (土)

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2   明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であった。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

 

 

2019年12月 1日 (日)

映画の日

    神戸湊川神社前の高橋鉄砲店の2代目店主の高橋信治、大阪心斎橋の三木福時計店店主の三木福助がリネル商会(神戸居留地14番)を通じてキネトスコープを輸入し、神戸の料亭「宇治川常盤」で明治29年11月17日に上映したのが日本で最初の映画公開である。キネトスコープとはエジソンが発明したもので、レンズをのぞいて箱の中の動画を見る装置。

    一般の人にもキネトスコープを公開しようということで、神戸花隈の有料貸席「神戸倶楽部」が11月25日から12月1日まで興行された。馬車と自転車の競走などの簡単な映像であったが、好評だった。「12月1日は映画の日」というのは、これに因んできりのよい日という理由で昭和31年に制定されたものである。▽「ターミネーター」シリーズ最新作「ターミネーター・ニューフェイト」が公開中だが、興行的に世界中でコケたらしい。▽最新の恋愛映画は「ラスト・クリスマス」エミリア・クラークとヘンリー・ゴールディング。でもエミリアは33歳で大人女子。相手役のヘンリー・ゴールディングはマレーシアのイケメン俳優。▽ムービー・プラス「スパイダーマン」日本語吹き替え版が四本立て。

 

2019年11月21日 (木)

濃姫の最期

   来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で沢尻エリカの代役が川口春奈と発表される。「天地人」では織田信長(吉川晃司)は天下を目前にしながら、明智光秀(鶴見辰吾)の謀反にあい本能寺にて自害する。本能寺の変のドラマでいつも気になるのが信長の正室の濃姫(帰蝶)と光秀の正室の凞子の存在である。とくに濃姫の没年は不詳であるが、一説には1556年に22歳で病死した、1582年の本能寺の変で信長とともに死んだ、1612年に78歳で逝去した、と諸説ありその死は謎に包まれている。濃姫の墓所、墓石すら特定されていない。数年前の大河ドラマ「功名が辻」では、明智光秀(坂東三津五郎)と濃姫(和久井映見)とのラブロマンスが全面的に描かれており興味深かった。今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の春風亭小朝と内田有紀とのロマンスはもちろん無かった。本能寺の変で勇敢に戦い、その生涯を閉じるのだろうか。

    観月ありさ「濃姫Ⅱ」では濃姫と光秀が幼馴染みという設定であった。光秀の父(光綱)と濃姫の母(小見の方、斎藤道三の妻)は共に光継の子。つまり2人は従兄妹の関係。出生年は、濃姫が1535年、光秀が1528年で7歳上。男女の親密な関係があったのだろうか。

 

 

2019年11月18日 (月)

お蔭参り

沿道の人びとの好意のおかげによって旅行したことからいう。江戸時代、主人の父兄に話さず、費用も持たず、伊勢神宮に参詣すること。江戸期、伊勢まいりは全時代を通じて流行したが、寛永15年(1638年)の記録がもっとも古い。慶安の「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたという。後期には、1830年、1855年4、1867年、お蔭参りが流行した。

 

 

 

2019年11月15日 (金)

歴史のヒーロー龍馬の暗殺者

    慶応3年11月15日、龍馬は京都近江屋で中岡慎太郎と共に何者かに暗殺された。暗殺グループは京都見廻組という説が有力である。見廻組は佐々木只三郎(1833-1868)を与頭とし、渡辺吉太郎、高橋安三郎、桂早之助、土肥仲茂、桜井大三郎、今井信郎らが暗殺に関与していたとされる。近年、龍馬を斬ったとされる小太刀が発見された。刀の持ち主は見廻組の一人である桂早之助である。つまり佐々木只三郎の指揮のもと桂早之助が龍馬を斬ったのだ。だが佐々木も桂も翌年の鳥羽伏見の戦であっけなく戦死したので、事件の詮議はされなかった。新史料の小太刀の鑑定については未だ謎が残る。只三郎は明治20年まで生きていたという異説もある(「会津剣道誌」1967年)。ネット上では佐々木只三郎の晩年の写真を見ることができる。

 

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   だが龍馬の暗殺犯を当時海援隊は紀州藩の三浦休太郎と見ていた。海援隊士は三浦の常宿・天満屋を襲撃している。新選組が三浦を護衛したので逃げのびた。やはり龍馬暗殺に新選組が関与していたという説も捨てきれない。新選組の前野五郎(1845-1892)は三浦休太郎と親しく、天満屋事件のときも同席している。前野には実に不審な行動が多い。佐幕と尊皇を渡り歩いている。鳥羽伏見の戦で敗走した前野は甲州勝沼に参戦。その後、永倉新八をたよって靖兵隊へ入隊し東北各地を転戦した。のち薩摩に従軍の加納道之助に投降、ここで薩摩軍に加えられたという。加納は新選組から離脱し高台寺党を結成し、のち薩摩軍に加わった。おそらく前野とは新選組時代からの仲間だったであろう。前野が龍馬暗殺犯だったと知った薩摩の桐野らは近江屋事件を不問にしたと考えられる。明治になって前野は札幌の薄野で妓楼を経営して財産を築いた。その私財を投じて、岡本監輔の千島開発に出資し、自ら択捉島へ渡った。明治25年4月19日、沙那郡磯谷山中に狩猟中、磯谷川に架かる丸太橋から転落、渓流に押し流されるうちに、猟銃が暴発、弾丸が喉から頭を貫いて即死した。そして近江屋事件は迷宮入りとなった。

2019年11月 8日 (金)

三国干渉

    最初の本格的な対外戦争である日清戦争に勝利し、下関講和条約調印した日本であったが、1895年11月8日、独仏露公使の遼東半島の清国への返還の勧告、いわゆる三国干渉に調印し、世論は沸騰した。このときの国民協会の『報告』で、党派の異同をこえて挙国一致し、「勤倹以テ薪ニ臥シ胆ヲ嘗メ大ニ国力ヲ養成シ盛ニ軍備ヲ拡張シ以テ速ニ其準備ヲ整ヘザル可カラズ」と、当時さかんにとなえられた「臥薪嘗胆」の必要を説き、国力の充実と軍備拡張という、国民協会ほんらいのスローガンを高唱している。

    こうして国民各層のなかに遼東還附への無念の思いは、西洋列強の力のまえに屈服させられた屈辱感となり、それは政府や新聞・雑誌がとなえる「臥薪嘗胆」の合言葉のなかに容易にみちびかれ、日清戦争後にはじまる膨大な軍備拡張を中心とする、いわゆる戦後経営を受容する素地をつくらせたのである。

紀文度胸千両の蜜柑船

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   江戸の年中行事に鞴(ふいご)まつりというものがあり、11月8日未明、市中の子どもたちが、鍛冶、鋳冶、石工などの吹革(ふいご)を取り扱う家の前に集まって騒ぐと、主人が二階から数百数千の蜜柑を投げ、子どもたちが争ってこれを奪いとる風習があった。このため11月初めには蜜柑の価格が暴騰したらしい。蜜柑を積んだ便船が紀州と江戸の間をしきりに往復した。ところがこの時期にはちょうど寒風が吹きすさび、海上が大荒れに荒れる。名にし負う熊野灘、75里の遠州灘を無事に乗り切ることは容易ではない。

    たまたま、この前後、暴風雨が吹きまくって、さすがの海の荒くれ男たちも出帆を躊躇している時、紀伊国屋文左衛門(1669-1734)は決死の覚悟で船を出したのだ。長唄の「紀文大尽」によると、正保元年の霜月のことだそうで、蜜柑8万5千籠を船に積んで、乗組員は白装束に縄だすき、みずから幽霊丸と名のり、遠州灘を乗り切った。ふいご祭りに間に合ったため、危険を冒した甲斐あって5万両という巨利を一時に博したという。この文左衛門の行動はまったく度胸の一語につきる。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀伊国蜜柑船」と俗謡に唄われた。

    ただし、紀文度胸千両の蜜柑船の話は、現在のところそれを裏づける確たる資料はほとんどない。文左衛門は元禄11年に上野寛永寺根本中堂の造営に際し、その用材の調達を一手に請負い巨利を得たというのが史実に伝わるところである。

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