2008年7月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

2008年6月28日 (土)

煙草とナイチンゲール

Photo_2

   「今日も元気だ、たばこがうまい!」昭和32年の日本専売公社の「いこい」の宣伝ポスターだが、不精ヒゲのおじさんのさわやかな表情がとてもよい。だが時勢、時節は変わった。

    たばこは、喫煙者本人のみならず、喫煙母体の胎児や、喫煙者の近い人たちの健康をも脅かすものとして、嫌煙運動、禁煙運動が普及してきた。男性喫煙率が4割を切るようになった。20代男性だとさらに低い率だろう。以前このブログでも嫌煙論者の中田喜直(作曲家)のことを記事にしたことがある。しかし、紙巻タバコの歴史はたかだか150年ほどであるが、葉巻の歴史は古代マヤ文明にまでさかのぼるといわれる。有名な哲学者・政治学者ホッブス(1588-1679)は「世のなかで、たばこほど、衛生上からだにいいものはない」と言っていた。そしてホッブスは91歳で天寿をまっとうし、自説をみずから証明した。最近では養老猛司が「たばこの害は根拠なし」「禁煙運動家はたばこを取り締まる権力欲に中毒している」(「文藝春秋2007年10月号)と山崎正和との対談で語り、物議を醸した。たばこのリラックス効果を認める人は昔から大勢いる。たとえば「クリミアの天使」といわれたイギリスの看護婦フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)である。ナイチンゲールが従軍看護婦としてクリミア戦争の野戦病院で従事していたときの話。当時の野戦病院は設備も悪く衛生状態も悪く、どんなに献身的に看護しても、負傷した兵士たちの苦しみを医薬品だけでやわらげることはむづかしかった。ところがある日、一人の兵士がたばこを取り寄せて一服し、その煙が辺りにたちこめると、とたんに病院内に平穏な静けさがただよった。その光景を目にしたナイチンゲールは、感動で目に涙を浮べた。そしてナイチンゲールはたばこが傷ついた兵士たちに安らぎを与える効果があることを実感したのだった。

大久保利通の業績は?

Img

                維新当時の大久保利通

   NHK大河ドラマ「篤姫」が面白い。もちろん主演の宮崎あおいの魅力によるところが大であるが、ケペルは大久保利通の不遇な青春時代に興味を持って観ている。先週放送分の大久保正助(原田泰造)が母フク(真野響子)に「鬼になります」といった場面がよかった。

   ところで本日の朝日新聞朝刊の小学生は「幕末から明治の政治家は苦手」という一面の記事を興味深く読む。国立教育政策研究所の調査によると、小学校6年生では卑弥呼、ザビエル、ペリーの業績の正解率は9割以上なのに、「新政府の中心になった」大久保利通、木戸孝允、「国会開設にそなえ政党をつくった」大隈重信の正解率はいずれも30パーセント以下である。とくに大久保利通は42人中の最下位の23.5パーセントであった。小学生に複雑な幕末維新の歴史を理解させることは難しいであろう。おそらく小学校では人名を覚えさせるくらいで、中学、高校と学習していくにつれて、なんとなくイメージがつかめてきて、大人になってはじめて大久保利通が第一級の政治家であったことを知るのである。(たぶん司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んで)

   幕末の大久保利通のハイライトは、幕府側による大政奉還を無にしようと王政復古を宣言し、鳥羽伏見の戦いによる武力倒幕路線を貫徹したことにある。識見、勇気、手腕、すべての点で大久保は新政府の最高のリーダーであった。明治という日本の国家のかたちをつくった最重要政治家である。しかしながら、戊辰戦争という内戦で尊い多数の人命が失われたわけであり、それを小学生に説明しようとすると(戦争はしてはいけないことというベースがあると)、武力倒幕のリーダ大久保利通「鬼になります」といった言葉(もちろんドラマの中のセリフだが)を小学生に理解してもらうことは、ハードルが高すぎる。まあ、ケペルは小学校の教師ではないので悩むことはないか。つまり①卑弥呼、②ザビエル、③ペリーでも仕方ないかと思っている。ところでマッカサーがなぜないんだろう。小学校の歴史は不思議だ。

2008年6月23日 (月)

平安時代のメタボリック・シンドローム

Img_0001

   今年から健康診断でウエスト回りが測定されるようになった。男性の場合85cm以上、女性の場合90cm以上、加えて高脂血糖、高血圧、糖尿病の3つに診断基準が設けられ、それらの項目の内2つ以上該当するとメタボリック・シンドロームと診断される。メタボに診断されると、生活習慣秒を改善する指導が行なわれ、食事療法や運動療法がなされる。しかし肥満改善は平安時代にもあった。宇治拾遺物語に次のような話が残っている。

   今はもう昔の話、三条中納言なる人がいた。三条大臣の六男にあたり、学問は出来るし、唐の事も、こちらの事も、何でも知っているか、と思えば、気立てもよく、肝っ玉は太いし、押しの強いところもあり、笙の笛を見事に吹き、背は高く、ただ、まことによく太った人ではあった。太りに太った挙句、どうにも苦しくてたまらぬ程に肥えてしまったものだから、医者の重秀を呼び、「こう無茶苦茶に太ってしまったけれど、いったいどうすれば良いんだ。立ったり、坐ったりするのにも、身が重くて、たいへんな苦労だ」重秀は、「冬は湯漬け、夏は水漬けにして、御飯を食べてごらんなさい」と、栄養指導をした。三条中納言は、処方通りに、食事をしたのだが、変わりなく肥え太ったままなので、また重秀を呼び、「言われる通りにしてみたけれど、何の効果もない。ここで、その水飯を、食べて見せようか」と言って、家来を呼ぶと、侍一人来た。「いつものように、水飯を作って、持って来い」と命じ、しばらくすると、一対の食卓はこばれ、見ると、食卓の一方には、食事の用意整っていて、中納言の前に置かれた。

   食卓には、まず箸の台だけが置いてあり、食器類が捧げ持って来られ、給仕役がそれを台に置いた。見たところ、食器には、白い干瓜(ほしうり)、3寸くらいに切ったもの10切ほど、酢鮎の大ぶりで幅のあるものを、尾と頭、押し重ねるようにして、30尾ほど、それぞれ盛りつけてあった。大きな金椀も添えられ、以上のものを全部を、食卓に並べたところで、もう一人の侍、大きい銀製の提(ひさげ)に、これまた銀の匙を立てて、重そうに持って来た。中納言、金椀を差し出すと、家来、匙で御飯をすくい、高く盛りあげ、そこに水をほんの少し注ぐ、と、中納言、食卓引きよせ、金椀をとったのだけれど、大きな金椀と思えたのに、かくも太った中納言が持つと、そう不釣合いにも見えなかったのだ。千瓜を、3つに食い切って、56切れ、次に鮎を、2つにん食い切って、56尾ほど、いともあっさり食べてしまうと、今度は、水飯の金椀をとり、二度ほど箸でかき回したかと思っていると、もう御飯は、すっかりなくなってしまい、すぐ、「もう一杯」と、金椀を差し出した。これを二度三度繰り返すと、提も空になってしまい、そうすると、また代りを持って来るものだから、重秀。この有様を見るにつけ、「いくら水飯を主にして食べると言ったところで、この調子では、とうてい肥満の直るはずもない」と、逃げ帰ってしまった。その後、中納言、まるで相撲取りのように、ますます肥え太ってしまったのだそうだ。

2008年6月20日 (金)

江戸のシンデレラ

Img_0001

   桂昌院 長谷寺蔵

   お福(1579-1643)は将軍秀忠の長子竹千代(後の家光)の乳母となった。お福は御台所・お江与の死後、大奥を統率し権力者となり、春日局の名を賜った。しかし春日局を悩ましたのは、家光が女嫌い、もっぱら美しい小姓(美少年)たちを近づけて、しきりに寵愛することであった。あるとき、浅草観音に参詣した春日局は、道すがら、一人の美少女に目をとめた。これがお楽(1621-1652)である。神田鎌倉河岸で古着商をやっていたお蘭は名をお楽と改め、家光の侍女となった。寛永18年に長男竹千代(家綱)を生んだ。春日局が病に伏せったのち大奥の頂点に立ったが、病弱で将軍の御前にでることも稀だったため、後に大奥の実権はお玉(1627-1708、後の桂昌院)に移る。お玉は八百屋の娘であったが、家光の寵愛を受け四男徳松(綱吉)を生んだ。成長して館林藩士となった綱吉が将軍位を継いだ。「氏なくして玉の輿にのる」という言葉はお玉のためにあったようなもので、江戸時代のシンデレラといわれる。お玉は生来無智な女性であった。くわえて大層迷信深かった。綱吉の悪法「生類憐みの令」も、もとはといえば、桂昌院の迷信から出たものである。

2008年6月19日 (木)

稀代の遊女・吉野太夫

Img

   吉野太夫 伊東深水 1966 山種美術館蔵

   吉野太夫(1606-1643)、名は徳子、西国の藩士・松田武右衛門の娘。零落した両親の死によって、7歳のとき京都の廓に入り、はじめ浮船と名乗った。のちに吉野太夫となり、才色兼備の最もすぐれた遊女となった。京の町家として巨富をなした灰屋紹益に身請けされるが、紹益はそのため父紹由に勘当され、二人は貧しい侘住まいを余儀なくされる。ある日のこと、その侘住まいとも知らず雨宿りした紹由は、この家の妻女の人品に一驚。のちに、これが吉野太夫だと知って、息子の勘当を解き、嫁として正式に認められた。寛永20年8月25日、吉野は38歳で病没する。紹益は悲嘆のあまり、

 都をば花なき里になしにけり

    吉野は死出の山にうつして

と詠んだ。

2008年6月18日 (水)

千利休の娘

Img_0001

    千利休画像 表千家蔵

   天正17年2月のこと。豊臣秀吉が京都の東山に鷹狩に出かけ、黒谷のあたりを通りかかると、花見の帰途らしく、30余りの年ごろの女房が、乗り物を供のものに持たせ、幼子を三人と男女のもの10人ばかりを連れて歩いて来るのに出会った。秀吉はその女房の美しさに心をうたれて、「何者の妻女であるか」といって、供の家来に尋ねさせると、「千利休の娘で、万代屋の後家である」と言上した。秀吉は彼女のもとに使者をつかわし、「聚楽第へ奉公に出頭せよ」と命じた。しかし、「幼少の子どもがたくさんいるので、ご容赦くだされたい」と、辞退してきた。そこで秀吉は、京都奉行の前田玄以を、かの女房の父、利休のもとにつかわし、娘を奉公を出すように命じた。すると利休は、「わが娘をご奉公に出したのでは、利休めは何事も娘のおかげでしあわせがよいのだと、人びとに評判される。そんなことでは、これまでの佳名も水泡に帰する」と、覚悟を決め、秀吉の申し出をきっぱりと拒絶した。それでも、秀吉は三度まで執拗に娘を所望してきた。しかし、利休がついに承諾しないので、秀吉は、利休のことを深く憎んだ。が、このようなことで利休を罰したのでは、人のうわさもどうかと、秀吉も考慮し、さすがに思いとどまっていた。しかし秀吉は、もしも利休に何か過ちがあったならば、それを好機に誅伐しようと、心中に考えていた。だから、大徳寺山門の金毛閣に利休が雪見している姿の木像を安置したことを知ると、さっそく、そのことを罰状として、利休を処罰した、というのである。

   千利休には、千紹二の妻、石橋良叱の妻、万代屋宗安の妻、三人の娘がいた。この秀吉と利休の娘の事件は、次女であるとも、末女であるともいわれ、はっきりしない。海音寺潮五郎の「天正女合戦」や今東光「お吟さま」では、利休の娘は「お吟」となっている。

2008年6月14日 (土)

吉良上野介の首級の行方

Img_0001

吉良上野介義央木像 華蔵寺蔵(愛知県・吉良町)

  「去年まではただの寺なり泉岳寺」

    元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で刃傷事件をおこした播州赤穂5万石の城主・浅野内匠頭長矩は、即日切腹ののち、この泉岳寺の墓地に葬られた。浅野の眠る泉岳寺の墓前には線香が絶えない。だが、吉良上野介義央(1641-1702)の眠る龍谷山万昌院功運寺の墓には、盆でも命日でも詣でる人は殆どない。

   では何故、吉良上野介の墓が東京・中野区上高田の功運寺にあるのだろうか。元禄15年の師走15日未明、大石内蔵助以下47人の浪士は吉良上野介を討ちとると、その足で8時ごろ泉岳寺にはいる。上野介の首級を旧主の墓前に供えた後、大目付仙石伯耆守邸へ向かうに際して、首の処置一切を泉岳寺の住職洲山長恩和尚に託した。住職は二人の僧に命じ、首を吉良家へ届けた。吉良家は、18歳の当主左兵衛に代わり、家老の左右田と斎藤の二人が受け取った。受け取った首は、牛込の万昌院に葬られた。さらに、万昌院は、明治45年3月から大正3年12月にかけて、現在の地に移転した。そして、大正11年に三田聖坂から同地に移転してきた功運寺と昭和23年に合併し現在の名称となる。これが、中野の龍谷山万昌院功運寺に吉良の墓がある理由である。ところで、吉良邸にもどったときに、蘭学医・栗崎道有(1661-1726)が首と胴体の縫合を行なったという記録も残されている。

東條英機と大東亜戦争

Img

   東條英機(1884-1948)は明治17年7月30日、陸軍中将・東條英教(1855-1913)の三男として東京で生まれた。兄二人が早死にしているので、事実上は長男に等しい。城北中学(現・戸山高校)から幼年学校・士官学校・陸軍大学校を出た。幼少のころは腕白で勉強もろくにしなかったが、幼年学校あたりから勉強を始め、士官学校は優等、そうして陸軍大学校は首席で卒業した。東條の有能ぶりが認められたのは陸軍省副官となったときで、陸軍の六法全書ともいうべき『成規類聚』をすべて読破し、マスターしたからという。

   昭和16年10月18日、首相に就任し、陸相と内相を兼ね、対米英開戦の最高責任者となった。昭和18年9月8日、イタリアの降伏とともに太平洋の南方前線を放棄し、敗色は濃厚となっていた。昭和19年6月、マリアナ沖海戦で海軍が壊滅的打撃を受けると、制海・制空権をまったく失い、昭和19年7月、「絶対確保線」の一角とされたサイパンがアメリカ軍に占領された。同年7月18日、東條内閣は総辞職した。

   巷間によくいわれる戦争の敗因としては、第一は飛行機の「質」において日本は遅れをとってしまった。開戦当時米英をひきはなしていたわが零戦は新しく出現したグラマンF6F(ヘルキャット)に対抗できなかった。「一機でも多く」ということが叫ばれたが、ほんとうは量より質で負けてしまっていた。第二には電探の出現で、日本海軍極意の戦法である奇襲や夜戦ができなくなってしまった。ひいては艦隊の輪型陣を帳ることもできなくなっていた。燃料も乏しくなっていた。戦争の勝敗はすでに明白であった。

   けれど東條はあくまで戦争を強行しつづけた。東條は首相、陸相、軍需相のほか、さらに参謀総長まで兼任してその独裁を強化しようとした。「飛行機がなくて海軍は戦争が出来ない」というのが海軍の悲痛な叫びであったが、資材の分け前はいぜんとして陸海軍均等の線がやぶれなかった。また兵員も、徴兵権を陸軍がもっていたために、甲種合格者は全部陸軍がとったりし、それがため海軍の予科練入隊者の三分の一は搭乗員として使いものにはならなかったりした。陸海軍の血で血を洗う抗争はその極に達していた。戦争がここまできてから、海軍はようやく海軍の空軍化の必要に気がついたのである。その空軍の指導権を海軍に取られまいとして陸軍は対抗したのである。アメリカはハワイ・マレーの戦いの体験から、航空母艦を主力艦とする「機動艦隊」の編成の切り替えに成功していた。もうまにあわなかった。はじめから無謀な戦争ではあったが、和平工作(終戦)が遅れたことが多くの犠牲者をさらに増やした。軍人・軍属の死亡・行方不明約186万人、一般国民の死亡・行方不明約66万人といわれる。(服部卓四郎『大東亜戦争全史』)

2008年5月31日 (土)

尾張名古屋は城でもつ

Img_3 

   名古屋城は江戸幕府御三家筆頭、尾張徳川家17代の居城で、金鯱城、金城、蓬左城の別名がある。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と俗謡にも歌われるように、名古屋は城とともに誕生した都市であり、江戸城(東京)、大坂城(大阪)と並らべ称せられる。ふつう日本三大名城という場合は、普請(築城術)の観点から江戸城を別格扱いとし、代わりに熊本城を入れる場合もあるが、いずれにしても名古屋城は日本を代表する名城であろう。

   名古屋城の生い立ちは、戦国時代に今川氏親(1473-1526)が、尾張国愛知郡那古野に築城したのがはじまりである。その後、勝幡城主・織田信秀(1508-1551)の奇計によって奪取された。その年は、享禄5年(1532年)とも天文7年(1538年)ともいわれる。織田信長はここで成長している。関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、慶長14年、「名古屋に城を築かば日本半国の勢を以て責めるとも落ちべからず」と旧城跡を拡大しての築城を命じる。牧助右衛門が検地縄張りにあたり、翌年、加藤清正、福島正則、池田輝政等をはじめとする西国、北国の諸大名20家が到着して築城にかかわった。

   元和元年、徳川義直が本丸に入り、翌年に二の丸御殿の完成をみた。以来250年間、徳川御三家の一つ尾張公の居城として伝領されてきたが明治の世になって陸軍省鎮台がおかれ、さらに本丸が離宮(宮内省)となった。

尾張徳川家藩主17代

初代・徳川義直(1600-1650)

2代・徳川光友(1625-1700)

3代・徳川綱誠(1652-1699)

4代・徳川吉通(1689-1713)

5代・徳川五郎太(1711-1713)

6代・徳川継友(1692-1730)

7代・徳川宗春(1696-1764)

8代・徳川宗勝(1705-1761)

9代・徳川宗睦(1739-1799)

10代・徳川斉朝(1793-1850)

11代・徳川斉温(1819-1839)

12代・徳川斉荘(1810-1845)

13代・徳川慶臧(1836-1849)

14代・徳川慶勝(1824-1883)

15代・徳川茂徳(1831-1884)

16代・徳川義宜(1858-1875)

17代・徳川慶勝(14代の再勤)

2008年5月22日 (木)

美女丸と幸寿丸

Img_4

     満仲の太刀を経典で受け止める美女丸

    源満仲(912-997)は、わが子の美女丸を僧侶にしようと中山寺へ修行に出した。しかし、美女丸は武芸のまねごとばかりして、遊んでいた。美女丸が15歳になったある日のこと、満仲が美女丸を呼び寄せて修行の成果をただしたところ、和歌や管弦はもとより、経文も読むことがでないことを知った。満仲は怒って重臣の中務仲光に「美女丸を斬れ」と命じた。しかし、仲光は主君の子の命を奪うことができず、困り果てた仲光の様子を見かねた仲光の子である幸寿丸は、自分の首をうつように願い出た。仲光は流れる涙をこらえながら、わが子を斬り、満仲に差し出して、美女丸はひそかに比叡山の源信僧都のもとに送り出した。

    のちにこれを聞いた美女丸は、修行に励み源賢僧都となり、自分の身代わりに命を絶った幸寿丸のために小童寺(川西市西畦野)を建立した。

2008年5月 3日 (土)

沢田美喜とパール・バック

Img_2

パールバックと沢田美喜(昭和35年5月)

    岩崎久弥の長女であり、岩崎弥太郎の孫である沢田美喜(1901-1980)は、敗戦後、日本の混血児のために孤児院(神奈川県中郡大磯町)を開設した。最初に寄付をしてくれた英国人女性の名前に因んでエリザベス・サンダース・ホームとした。ホームには延べ2000人以上の孤児が育っていった。沢田の社会事業に協力的な女流作家がいた。「大地」で知られるパール・バック(1892-1973)である。バックは旺盛な創作活動の傍ら、社会事業・平和活動を続けたが、自分の子が精薄児であることからホームの事業に深い理解を示した。アメリカでの資金集めになみなみならない協力を惜しまず、さらに2度もホームに来園している。

2008年4月29日 (火)

逢坂関(おうさかのせき)

   逢坂関は相坂関、合坂関とも書く。山城・近江国境の峠道。かつては畿内の北限とされ、関が設けられた。ここを越えれば東国であった。古歌にもさかんに歌枕として詠まれた。百人一首第10番の蝉丸の歌が有名である。

これやこの 行くも帰るも 別れては

 知るも知らぬも 逢坂の関(「後撰集」)

(通釈)これがまあ、あの都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。

   孝徳天皇の大化2年(646年)、鈴鹿関(三重県関町)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県敦賀市)の三関が設置され、国家の守りに備えたが、やがて愛発関に代わって、この近江の逢坂関(滋賀県大津市大谷町)が王城鎮護の関となった。逢坂関の設置年は明らかではないが、延暦年間に三関は一旦廃止されたが、「文徳天皇の天安元年(857年)に初めて逢坂関を建つ」(「文徳実録」)とみえることから、再び設置されたようである。清少納言(966?-1025?)の「枕草子」にも「関はあふさかのせき」と記しているし、百人一首にも「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(「後拾遺集」)などと詠まれている。

Ousaka

現在大津市大谷町の逢坂山検問所前に関址碑が建つ

2008年4月28日 (月)

ブラジル移民100年

Photo

   アリアンサ移住記念館

   北原地価造の住居跡(昭和4年頃)

   明治41年4月28日、水野龍を団長とする第1回ブラジル移民団、170家族、792人は「笠戸丸」で神戸港を出港、6月18日、サントス港に到着した。明治43年には第2回移民団が旅順丸に乗って247家族、909人がブラジルに渡った。日本人のブラジル移民は今日でちょうど100年を迎える。いまやブラジル日系社会は150万人を超え、成長著しいブラジル社会の支えとなっている。

   第1回芥川賞受賞作品の石川達三「蒼氓」が発表されたのは昭和10年のことだった。

   神戸三宮の「国立海外移民収容所」。ブラジル移民として全国各地から集まってきた家族たちの、昭和5年3月8日から15日までを描く。移民団を構成するのは、落葉のように掻き集められてきたものばかりである。気後れしながら移民収容所の受付をくぐる。待合室にあてがわれた倉庫には、秋田から来た貧農出の姉弟佐藤夏と孫市がいる。夏は、堀川との恋愛をあきらめ、門馬勝治を形式上の婿にして、孫市のためにブラジル行を決意した。孫市は、兵役をまぬがれるために移民の群れに投じたのか、「俺は忠義でねって言われるくれえだら、ブラジルさ行かねつもりだ!」とつっぱねる。貧しい日本での生活に追われてのものなのである。再渡航の堀内は本当のブラジルを知っている。ところが移民たちは、トラホーム、栄養不良など、体格検査で不合格になり、乗船許可のおりなくなることを気にかけている。話にきいたブラジルのいいところだけを空想しているにすぎないのだ。ロンドン軍縮会議、現職文部大臣の連座した疑獄事件にいたるまでにも、東京市会議員疑獄、私鉄疑獄、合同毛織事件、樺太山材事件とうちつづいている。こんなうそむさい日本のことは、もう知らないのに限るというのが堀内だった。最後の日の8日目、15日に900余名の移民集団の乗船した、ら・ぷらた丸は神戸港を出航した。(引用文献:今村忠純「日本名作事典」平凡社)

2008年4月27日 (日)

明六社と森有礼

Photo

 明六社は、明治6年7年にアメリカから帰国した森有礼(1847-1889)が、西洋文明諸国にあるような啓蒙活動の団体(学会)の設立を西村茂樹にはかり、ついで西周、福沢諭吉、加藤弘之、津田真道、神田孝平、中村正直、箕作秋坪、箕作麟祥、杉亨二らの賛同を得て発足した。初代社長は森有礼で、会員は30名、社員は主として開成所出身の洋学者であった。翌年3月から機関誌『明六雑誌』を発行し、また毎月講演会を開き「一日も早く日本国民を文明開化の門に入らしめん」とし、西洋の事情を明らかにし、新旧思想の混乱に指針を与えた。だが、明六社の創設者の一人である森有礼は、明治22年、憲法発布の日、刺客・西野文太郎(1865-1889)に暗殺された。

   その後、明六社は明六会(1875-1879)となり、東京学士会院(1879-1906)、帝国学士院(1906-1947)を経て、日本学士院(台東区上野公園7-32)へと至る流れの先駆をなした。日本学士院・現在の院長は、久保正彰である。

2008年4月14日 (月)

矢作橋

Img_0001_3

   日吉丸は尾張から三河へ行く途中、木綿布子をぬう大針を安く買いこみ、これを行くさきざきで売り、飯代や草鞋銭にあてた。夜は、こもをかぶって矢作橋の下で寝ていた。そして武将となった自分の夢を見ていたが、夜なか、数頭の馬蹄の音に目をさます。野武士めいた身ごしらえの男たちが、日吉丸の頭のそばを馬で通り過ぎていく。寝ていた日吉丸は、野盗のかしら蜂須賀小六に蹴とばされた。怒った日吉丸は、小六の槍をつかんで、「無礼者!」と怒鳴った。

   大きな声に驚いた小六は、「こんなところに、山猿がおる」と笑った。「おもしろそうなやつ。だが、猿め、三日のうちにわしの刀を盗むことができたら、使うてやろう」という。日吉丸は、三日めの雨の夜、軒先にかさを立てかけておき、いかにもしのび寄ってたたずんでいるかのようにみせて相手をゆだんさせ、そのすきをねらって刀を盗んだ。小六はその才知に舌を巻いた。

   その小六が、のちには羽柴秀吉(日吉丸)の部下になるのだから、人の運命というのはまったくわからない。

2008年4月10日 (木)

満州事変、二・二六事件のころの東北農村の実態

Img_0001

     奥山儀八郎の版画による「凶作地を救へ」

      のポスター  昭和9年

 昭和2年の金融恐慌、4年の世界恐慌の中で、日本の脆弱な資本主義は根底から揺るぎだし、昭和5年の大豊作による米価の大暴落、生糸の暴落によって、農村恐慌が起こった。翌6年に東北・北海道を襲った冷害、昭和8年の三陸地震、昭和9年の大凶作に見舞われ、東北農村は飢餓地獄と化した。そして、この不況と凶作のなかで東北農村では、娘の身売りが多発した。昭和9年11月、山形県の保安課がまとめた娘の身売りの実態調査によると、県内娘の身売りの数は3,298人、内訳は芸妓249人、娼婦1,420人、酌婦1,629人と発表している。当時の東京の娼妓7,540人のうち1,149人(約7分の1)までを山形出身者で占めている。秋田県では県内娘の身売り件数が1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍も増加した。娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がないかぎり、娘の身売りの根絶は困難であった。

2008年4月 6日 (日)

春爛漫の熊本城

Img_0001

    加藤清正(1562-1611)が慶長6年(1601年)から7年の歳月を費やして築城した熊本城(別名、銀杏城)は、日本三名城のひとつで、いま「熊本城築城400年祭」エピローグを迎えている。600本の満開の桜が天守を彩り、武者返しと呼ばれる反り返った石垣に生える桜の美しさも見事である。

    文明年間(1469-1487)菊池氏の一族・出田秀信(?-1485)が、北東隅の小丘に千葉城を構え、大永・享禄年間(1521-1532)鹿子木親員(寂心)(?-1549)が南隅に隈本城(古城)を築城。天正15年、豊臣秀吉が九州統一後、佐々成政が肥後一国に封ぜられて入城したが、翌年改易され、そのあとへ加藤清正と小西行長(1555-1600)とが半国ずつに封ぜられ、清正は隈本城に、行長は宇土城にはいった。慶長5年、関ヶ原の戦いで清正は東軍に、行長は西軍に属し、戦後清正は小西領跡を与えられ、肥後52万石の領主になった。慶長6年、千葉城跡と隈本城との中間にある茶臼山に本丸を置き、両城の範囲を取り囲んで、一大城郭とした。石垣の高く急で丈夫なことは無類といわれる。普請奉行は飯田覚兵衛、森本儀太夫で、後年名古屋城、江戸城などの工事に手腕を発揮した石垣造りの名人であった。慶長12年完成し、本丸には7層7階の天守を建て、隈本を熊本と改めた。

    加藤清正の子、加藤忠広(1601-1652)は寛永9年改易され、そのあとに細川忠利(1586-1641)が小倉から国替えで入城した。細川家は、忠利のあと細川光尚、細川綱利、細川宣紀、細川宗孝、細川重賢、細川治年、細川斉茲、細川斉樹、細川斉護、細川韶邦と11代、240年間、維新まで続いた。

2008年3月31日 (月)

イサベラ・バードの日本人通訳

0003_r

                   伊藤鶴吉

    イギリス人女性のイサベラ・バード(1831-1904)が日本に来たのは、明治11年のことであった。イサベラは横浜で伊藤という青年を通訳兼案内人として雇い、東京を起点に日光から新潟、山形、秋田、青森を経て、北海道まで北日本を旅行している。イサベラは著書『日本奥地紀行』で伊藤という青年を、狡猾な面もあるが、通訳としては優れていることを記している。たとえば「彼は普通の英語とは違って立派な英語を話したがっており、新語をおぼえようとしているが、正しい発音と綴りも身につけることを切望している。毎日、彼は私が用いるが彼には良く分からない単語を全部ノートに書き付けて、晩になると私のところへもってきてその意味と綴りを習い、日本語の訳をつける」とある。この伊藤という青年は、最近の調査で、伊藤鶴吉(1857-1913)であることが判明している。イサベラ47歳、伊藤鶴吉20歳の日本での旅行であった。だが伊藤の晩年について、詳しいことはなにも知らない。

2008年3月30日 (日)

秋田立志会会長・柴田浅五郎

Img_0001

「図説秋田県の歴史」収録の柴田浅五郎の顔写真

   明治13年、板垣退助、河野広中らの民権運動に応じて8月10日に秋田立志会が結成された。立志会の生みの親の柴田浅五郎とはどのような人物だったのだろうか。わずかに残る不鮮明な写真からは理想に燃えた青年のようにみえる。秋田事件(平均事件、おならし事件ともいわれる)という金品目的の強盗犯の親玉にはとても見えない。この写真はおそらく当時の新聞に掲載されたものを何度も複製したものと思われるが、通常、写真を丸型にするときは善人、四角の写真は罪人、とするという慣例がある。(もちろん絶対ではないが)と、するとこの写真の初出は秋田事件の報道の写真ではなくて、立志会の機関誌であろうか。

   柴田浅五郎は平鹿郡吉田村の中農の生まれで、政治的関心が強く行動的な青年であった。明治9年ごろから上京し、民権思想にふれ、明治12年には土佐に遊学してさらに理解を深め、明治13年に秋田に帰って立志会を設立した。明治13年11月、国会期成同盟第2回大会が東京で開かれたとき、柴田は腹心の内桶圭三郎(士族・教員)とともに「秋田立志会2645名総代」として出席、大会後も急進グループに交じって国会開設請願活動をつづけた。請願はもとより藩閥政府の容れるところとならなかった。こうした活動のなかで柴田はしだいに政府転覆の考えをもつようになり、帰県後は村々を回って民権運動のきびしい情勢を説明し、そのうち実力で政府を変えるときがくることを密かに語った。立志会の急激な発展に不安をいだき、民権運動弾圧の機会を狙っていた官憲は、スパイを放ってこれを挑発した。インフレのなかで生活に苦しんでいた一部の立志会員がその挑発にのり、明治14年6月8日、平鹿郡阿気付村藤巻部落(現・大雄村)の豪農・須藤六郎右衛門宅を襲撃、さらに付近の豪農を襲撃しようとした。翌9日、立志会の幹部は内乱陰謀の廉で逮捕・投獄された。これが秋田事件で呼ばれるものである。

   農民的基盤にたっていた秋田立志会は、秋田事件で大きな打撃をうけたが、翌15年、全国的に政党結成の気運が高まるやふたたび結集の動きがあり、同年半ばころには秋田自由党を組織し、板垣退助らの自由党と連携をとっている。党員の組織は15年末から翌17年5月には412人にも達し、全国自由党員数の18.5%を占めるにいたっている。このことは、柴田浅五郎らの秋田立志会の運動が激しい弾圧のなかでも県南農民のあいだに深く根を張っていたことを表わしている。柴田浅五郎は、明治17年3月、懲役10年の判決を言い渡され、投獄されたが、明治22年、明治憲法発布の日に大赦を受けて帰宅した。やがて不遇のうちに、明治26年亡くなったという。(引用文献:「図説秋田県の歴史」河出書房新社)

2008年3月29日 (土)

日本海軍の人事弊害

Img_0001_3

     海軍の昇進は兵学校の卒業年次と成績順位が基準となっている。平時は年功序列でもよいかもしれないが、戦時は序列無視の適材適所の人事が絶対に必要であろう。だが、長い人事の伝統は戦争という非常事態でも直せなかった。

     「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の空母4隻を一瞬にミッドウェー海戦で失った南雲忠一機動部隊司令長官(海兵36期)は、帰途、連合艦隊旗艦「大和」に移り、山本五十六長官に敗戦を報告した。南雲長官以下、幕僚全員の自決が先任参謀から提案されたが、参謀長の草鹿龍之介少将(海兵41期)が押しとどめた。草鹿は山本に「仇をとらせてください」と涙を流しつつ哀訴した。じっと聞いていた山本は、最後に一言「わかった」と応えたという。結局、山本長官の温情主義が大きな過ちを生み、日本の運命を決めることになる。もともと南雲中将は水雷戦隊の指揮が専門で、航空専門ではなかった。山本長官も南雲は適材適所ではないと感じていたが、南雲中将に機動部隊を託したのは、兵学校の卒業年次にとらわれたからだったといわれている。海軍は上級者ほど信賞必罰の気風に欠けていたのだ。(引用文献:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)

マレーの虎・山下奉文

Img_2

    山下奉文(1885-1946)中将に「マレーの虎」という異名がついたのは、シンガポール攻略の後である。イギリスの東洋における最大の根拠地を短時間で占領したのは、突如としてジャングルから姿をみせた虎としか形容のしようがなかったからであろう。ぎょろりとした眼、日焼けしたたくましい顔、堂々とした体躯、大音声で指揮をとる猛将にふさわしい異名であろう。

    山下奉文司令官とパーシバル総司令官との降伏会見は昭和17年2月25日午後7時、ブキテマ高地のフォード自動車工場で行われた。パーシバルは停戦を申し込み、シンガポールの治安を任せてほしいと主張したのに対し、山下は条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、と迫った。日本軍は降伏の意思表示がないかぎり夜襲を決行するつもりだった。いらだった山下は「条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、イエスかノーか聞いてくれ」と通訳に命じた。パーシバルはやむなく「イエス」と無条件降伏を受諾した。午後7時50分だった。マレー・シンガポール作戦における日本軍の戦死者は約3500名、連合軍の捕虜は7万とも10万ともいわれる。

    しかし「マレーの虎」と称された山下奉文は東条英機に嫌われその後は満州に左遷された。フィリピン防衛戦で呼び戻され総指揮官となったが、すでに勝機はなく、あまつさえ情報無視のレイテ決戦を上級司令部から強いられた。そのため肝心のルソン島決戦ではほとんど満足な兵力がなく、完敗。敗戦後、マニラの戦犯裁判で、「パターン死の行進」捕虜への残虐行為の責任を問われ、絞首刑になった。(引用文献:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)

2008年3月28日 (金)

秋田事件と自由民権運動

Img

    秋田といえば、しょっつる、ジュンサイ、ナメコ、ハタハタとならんで「きりたんぽ」が思い浮かぶであろう。郷土の偉人では、国学者・平田篤胤(1776-1843)が幕末思想界に大きな影響を与えた人物として重要。秋田藩はその篤胤の系譜をひく勤皇派が藩政を握ったため官軍にくみし、奥羽諸藩の幕軍と戦った。明治維新後、出羽国は羽前と羽後に分かれ、明治4年廃藩置県により秋田、岩崎、本荘、亀田、矢島、酒田の各県が誕生、同年、これらの県に南部領の鹿角郡を編入して今日の秋田藩の基礎が確立した。しかしながら、新政府は秋田藩を東北諸藩と同じように厄介者として扱い、決して優遇的な対応はしなかった。そうした中でも、近代化を望む声は生まれてきた。明治10年1月の新聞の投書には芸妓や娼妓が苦境からの解放を訴え、参政権や男女同権の思想の芽生えをうかがうことができる。明治14年6月には、藩閥政府に反抗し、横手周辺で豪農襲撃事件(秋田事件)が発生したが、秋田立志会の主唱者・柴田浅五郎らが逮捕され、立志会はまもなく消滅した。

    画像は秋田の郷土料理きりたんぽ。「たんぽ」は形がたんぽ槍に似ているところからという。炊きたての飯を擂鉢に入れて餅のようにつぶし、杉串に円筒形にぬりつけて焼きあげたもの。きりたんぼ鍋が生まれたのは、秋田で自由民権運動が起こった明治10年代だといわれている。

2008年3月26日 (水)

中山太一と双美人

Img_0002

           化粧品のパッケージ・デザイン

    戦前、街を歩けば「仁丹」か「クラブ」か、と言われるほど、特に関西では「クラブ化粧品」の街頭広告が目についた。クラブ化粧品は中山太一(1881-1956)が明治36年に神戸花隈で化粧雑貨業「中山太陽堂」を開店したのがはじまりである。商品としては「クラブ洗粉」を発売し、双美人のシンボルマーク(原案は画家の中島春郊)が広く知られるようになった。明治期、白粉の「御園」、歯磨の「ライオン」、化粧水の「レート」、洗粉の「クラブ」といわれた。中山太陽堂の商品には、洗粉、歯磨、白粉、粉白粉、水白粉、ポマード、化粧水、クリーム、乳液化粧水、美身ゼリー、眉墨、チック、歯磨チューブ、歯ブラシ、石鹸などがあった。プラトン社をつくり雑誌「女性」(大正11年)「苦楽」(大正13年)「婦人文化」(大正15年)を発行した。美容だけにとどまらず、中山文化研究所を設立して女性を全面的にサポートするための総合サロンを開設している。

2008年3月23日 (日)

東亜百年戦争論

Img_0001_4

        豊島沖海戦  栗島忠二画

  林房雄(1903-1975)は、自分が生きてきた時代の実感を次のように語っている。「私は日露戦争の直前に生まれた。生まれてこのかた、戦争の連続であったことは、五味川純平氏の四十年も私の六十年も全く同じである。だれが平和を知っているであろうか。だれも知らない。私たちが体験として知っているのは戦争だけだ」として、「私は大東亜戦争は百年戦争の終局であった」と結論づけている。つまり林の東亜百年戦争論の開始は、明治維新よりさかのぼり、ペリーの黒船渡来よりも前になる。外国艦船の出没が激しくなり、日本は、西洋列強との事実上の戦争状態に入る頃を起点とするようである。林房雄は専門の歴史家ではないのでその実証はおそらく粗雑なものであろうが、直観としてはなかなかすぐれた面がある。

近代日本の戦争は大きく分けて7つあるといわれる。1番目は維新戦争(幕末から明治維新)、2番目は日清戦争、3番目は日露戦争、4番目は第一次世界大戦期の戦争、5番目は満州事変、6番目は日中戦争、7番目が太平洋戦争である。

    とりあえず、第1番目の維新戦争の内訳だけを列挙してみよう。維新戦争は外国との戦争と内戦とがあるが、文久3年8月薩摩藩がイギリスと戦う薩英戦争、元治元年9月萩藩が英・米・仏・蘭4国連合艦隊と下関海峡で交戦、明治元年1月から明治2年6月は戊辰戦争、明治7年5月台湾出兵(牡丹社事件、征台の役とも呼ばれる)、明治7年2月佐賀の乱、明治8年9月江華島事件、明治9年10月神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして明治10年1月から9月までの西南戦争である。

   近代日本の根本にあるものは、結局西洋との対決、もう少し弱めて言えば対峙であった。「東亜百年戦争」が西洋列強との対決であるとする史観は、小説という形式で司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも一部にはみられるようになる。一部というのは、司馬は明治維新は偉大だが、昭和の戦争は愚劣であったという区別をしている点が林とは異なるのである。

    大佛次郎は、「天皇の世紀」の中で、G・B・サンソムが、吉田松陰の偉大さが分からないといっていることを引いた上で、「サンソムが、なぜ松陰が同時代人の心に強い影響を及ぼしたのか外国の研究者にはほとんど理解しにくいといったのは当然なのである。日本人ならばこれが解るとも最早言えないのである」と書いている。(引用:新保祐司「大東亜戦争とは日本思想にとって何だったのか」『日本思想史ハンドブック』)、

生麦事件と薩英戦争

Img_0002_2

  生麦村の古写真(横浜開港資料館蔵)

Img

大久保一蔵(写真は明治期のもの)

    NHK大河ドラマ「篤姫」をより楽しむために幕末史をちょぼちょぼ予習している。今回は生麦事件。勅使の大原重徳を警護して薩摩藩兵とともに東海道を下った島津久光は、文久2年6月7日に江戸高輪の下屋敷に入った。江戸での大原は将軍徳川家茂に朝廷からの沙汰書を渡すとともに朝廷の意向を伝えた。薩摩側の強い働きかけもあって、幕府は将軍後見職に一橋慶喜、大老に松平慶永の就任を認めた。目的を果たした久光は8月21日、高輪の下屋敷を出発し京へ向かった。品川宿で休息をとり、川崎宿で昼食を兼ねた休息をした一行は、鶴見村の辺りで馬に乗って遠出したいたアメリカ領事館の書記官ヴァン・リードと遭遇した。3年前に日本に上陸していたリードは日本の習慣にも通じており、馬を下りて脱帽の上膝をついて頭を下げた姿で行列が過ぎるのを待ったため、何事もなく久光一行も通り過ぎた。だが行列は武州生麦村に通りかかつたところで、馬に乗ったイギリス人の男女4人に行き会った。下馬せず行列を横切ろうとしたので、先頭の藩士が抜刀し、商人チャールズ・L・リチャードソンを殺害、他の2人に負傷させた。加害者は同藩士奈良原喜左衛門であった。イギリス公使ニールは、幕府に対し強硬に抗議するとともに、賠償金を要求、別に薩摩藩に対しては犯人引渡しと賠償金を幕府を通じて要求した。文久3年5月9日老中格の小笠原長行は、独断で賠償金をイギリスに支払った。しかし薩摩藩は幕府の説得を拒否したため、イギリスは薩摩藩と交渉、決裂に及んで薩英戦争が開かれた。藩内は、早期講和を主張する国元藩士と、江戸屋敷にいる攘夷による強硬の反対派とに二分していた。この収拾のため大久保一蔵(大久保利通)は、江戸屋敷の反対派に対して、「慰謝料は遺族扶助料の名目として要求どおり7万両を払うが、その金は幕府から借用する」という案を示し、反対派をとりまとめた。文久3年9月28日、横浜で薩英双方の和議は成立した。

2008年3月22日 (土)

西郷隆盛の写真断ち

Img_0005

    子どもの頃、夏になるといつも「南洲香」という蚊取り線香を我が家では使用していた。その絵柄には西郷隆盛が描かれてあった。でっぷりとした体格で太い眉とギョロリとした目といった印象がある。だが、西郷は明治天皇が写真を所望しても、その生涯に一度も写真を撮らなかったといわれているため、真実の姿は謎のままである。今日伝わる西郷の真影と称する偽物は明治6年ころから、他人の写真が大量に出回り、西南戦争のころには、兵士や民衆がその写真を西郷としてイメージしていたが、そのような西郷像は今日も国民に定着していると思える。

   だが明治31年に上野公園に西郷隆盛の銅像が建立され、除幕式に呼ばれた、西郷隆盛の未亡人の西郷糸は、「うちの人は、こげな人じゃなかった」と口走ったという。なぜ、西郷は写真を撮らなかったのか。真偽は別として、西郷隆盛が写真の撮影を拒否した理由は、坂本竜馬の妻お龍と、写真を終生撮らないと共に誓ったためといわれる。西郷は坂本の死を悼み、その気持ちを終生忘れないため、一種の物断ちをしたとも考えられる。物断ちとは、願掛けなどのために、塩や嗜好品などを口にしないことであるが、西郷は竜馬のために「写真断ち」をしたというのである。つまり現在、西郷隆盛の本物の写真は1枚も存在していないし、今後も発見される可能性はないであろう。国立国会図書館のホームページなどで西郷隆盛のリアルな写真画像を見ることができるが、これらはイタリア人画家キョッソーネが描いた絵をもとに作成したものであろう。

篤姫とペリー提督

Img_0006

Img_0001

   NHK大河ドラマ「篤姫」が面白い。第12回「さらば薩摩」では篤姫(宮崎あおい)がいよいよ江戸へと旅立つ。つまり嘉永6年(1853)8月21日。この前月、7月8日、アメリカの海軍提督マシュー・カルブレース・ペリー(1794-1858)は4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れた。篤姫が2ヵ月の旅を終え、江戸の薩摩藩邸に入ったのは10月のことである。国情はペリー来航で騒然としていた。「泰平のねむりをさます正喜撰、たった四はいで夜もねられず」という狂歌が流行った。徳川家定(堺雅人)と篤姫の縁組みの話は遅々として進まなかった。安政2年10月には安政大地震があり、縁談はさらに遅れた。こうして婚姻が正式に決まったのは安政3年(1856)のことであった。篤姫の入輿は一橋派の慶喜擁立のための工作であったが、わずか2年で家定が病没したため、南紀派の推す慶福(松田翔太)が第14代将軍となった。未亡人となった篤姫は天璋院と称し、大政奉還から江戸城開城へと至る歴史の転変の中、徳川家存続のため、可能なかぎりの働きをした。

福沢諭吉と上野戦争

Img_0002

 福沢先生ウェーランド講術の図 安田靫彦

 慶応義塾福沢センター蔵

   年が明けて慶応4年(1868)になるとそうそうに、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の端緒が開かれ、官軍による慶喜追討令が出て、徳川慶喜は大坂を逃れて江戸に帰った。江戸市中では官軍が攻めて来て戦になるのは間違いないと江戸庶民は戦々恐々となり、逃げ出す者たちで街中は大騒ぎだった。

   その年の4月、福沢諭吉(1835-1901)は築地鉄砲洲中津藩中屋敷にあった洋学塾を芝新銭座(現・港区浜松町1丁目)へ移し、年号をとって「慶應義塾」と命名した。慶応4年5月15日、福沢諭吉はいつものように塾の教場に立ち、講義していた。突然、はるか北の方角から、江戸中に響き渡る砲声がとどろいた。諭吉はのんびりした調子で「とうとう、戦争が始まったか…」と呟いた。爆音をとどろかせているのは、上野の山であった。将軍慶喜を守るために結成された彰義隊に、官軍が戦闘をしかけたのである。塾生たちは、ざわついた。塾生たちの中には、若い血を燃えたぎらす者たちもすくなからずいて、落ち着きなく講義になかなか身がはいらない様子であった。諭吉は言った。「どうした、大砲の弾も鉄砲の弾も、ここまでは飛んでこないぞ!。上野の山までは、二里も離れているぞ」諭吉の声で、塾生たちも話に集中しだした。

「いいか、みんな、われわれがこうしていま、戦争のなかにもかかわらず学問をしているのは、日本の将来のためなんだぞ。いま、たしかに日本は変わろうとしている。しかし、これまでのような狭いものにとらわれた者たち同士の戦争では、なんにも変わらないんだ。これからの時代を切りひらいていくのは、力でも、鉄砲でもない。それは、学問だ。学問こそが、われわれを導く希望の光なんだ。さあ、大砲の音など、気にするな、講義を続けるぞ!」

   そして諭吉はいつもと変わらず土曜日の日課のフランシス・ウェーランド(1796-1865)の「経済学」の講義を続けた。

   画像「福沢先生ウェーランド講術の図」の中央の人物が福沢諭吉、そして手前の人物は高弟の小幡篤次郎(1842-1905)であろうか。

2008年3月20日 (木)

田原坂の激戦

Img_0001_3

      西郷隆盛肖像画

    田原坂(熊本県鹿本郡植木町豊岡)は緩やかな二の坂、三の坂からなる地形であるが、西方は天然の要塞であった。田原坂は3月4日から20日まで、実に17日間にも及ぶ最大の激戦地となった。

    乃木稀典少佐率いる政府軍は植木、木葉で敗退した。4日から政府軍の本格的な攻撃が開始され、田原坂、二俣台地両方向から進軍する。7日には二俣台で攻防戦が繰り広げられ、政府軍は二俣台を確保する。その際、薩軍の一番隊長篠原国幹が戦死している。それ以降も、政府軍と薩摩軍との間で、壮絶な戦いが繰り広げられた。一日の弾丸使用量は32万発といわれ、弾丸と弾丸が空中でぶつかりあった(空中かちあい弾)。「雨は降る降る、人馬は濡れる」と歌われるように、田原坂の戦いでは雨の日が多く、弾薬に乏しい薩軍にとって災いとなった。

   政府軍が膠着状態の戦況を打破しようとしたのは横平山の占領であり、9日から続いた戦闘の結果、15日には占拠している。その際、政府軍の抜刀隊の50名が乗り込み、作戦に成功している。この抜刀隊は13日の時点で、山県参軍直々に、警視隊300名のうちから100名を選抜している。彼らは二俣台地で薩兵と互角に渡り合い、横平山を奪う主力となった。そして明治10年3月20日、政府軍は総攻撃を掛け、最後まで田原坂周辺を死守していた薩軍を追い落とした。政府軍は累々たる屍の山を築きながらも、田原坂をついに越したのである。この戦いにおける両軍の死傷者は政府軍が約5700人、薩軍が約2500人である。

2008年3月19日 (水)

御宿の海女に美人が多い理由

Img

   御宿町は千葉県の南東、房総半島の東に位置する人口約8,200人の小さな町。ここには、今でも100人ほどの海女が海に潜りアワビ、サザエ、テングサ、ワカメなどを採集している。御宿岩和田の海女はむかしから大柄で美人が多いといわれる。その理由にはこんな歴史がある。

   1609年9月28日、メキシコへ向かう途中のスペインのドン・ロドリゴ(1564-1636)船長の「サン・フランシスコ号」が台風に遭い、上総国岩和田村(現・御宿)田尻の浜に漂着した。地元の御宿の海女が彼らを救助した。ロドリゴらは、駿府城で徳川家康とも会見し、1610年10月にスペインに帰国した。つまり、海女と船員との間に子どもが生まれ、海女になったというのである。ほんとうに事実かどうかはわからないが、遠い異国の船員たちにとっても、海女の操業する姿はなんとも艶かしく人魚姫のように見えたことだろう。なにせ大正時代までは、海女は上半身は裸で、腰には白木綿の磯ナカネ(腰巻)を巻いていた。海女の健康的な美しさは異人の旅情の思い出であったことは間違いない。

   今日、海女といえば観光海女しか見ることができないが、三重県志摩の鳥羽真珠島、福井県東尋坊、千葉県御宿、石川県輪島舳倉島(へぐらじま)などがよく知られている。

2008年3月17日 (月)

ブラジャーの歴史

Img_0003_2

 「主婦の友」昭和4年7月号の乳バンドの広告

Img_0002_2

(左上)1920年代のスリップ(右上)1920年代のブラジャー(右中)1920年代のパンティ。下の2点は1920年代のコルセット

   大正時代に洋装は男性と子供に次第に広がり、洋装下着もそれに伴って着られるようになっていった。女性で洋装をするものは多くはなかったが、そのころの女性雑誌には、洋装やその下着の記事や広告が掲載されるようになる。

     ブラジャーは1889年にフランスのエルミニー・カドルが発明し、1913年、アメリカのメアリー・フェルプス・ジェイコブによって発明、特許をとったとされる。日本には大正末期に登場し、大正15年に「乳房バンド」の広告が掲載された。昭和4年には「乳房バンド」のほかに「乳バンド」「乳房ホールダー」「胸美帯」「乳おさえ」などの名で広告や通信販売欄に掲載されているから、日本でも製造が始まったと見られる。このほか、松岡錠一もこのころブラジャーを生産した(「日本洋装下着の歴史」)。これらは薬局、小間物店、デパートで売られていた。日本でブラジャーという用語が登場するのは1930年代である。(横田尚美「1920年代の日本女性洋装下着」『ドレスタディ』vol33)

戦艦長門

Img_0001_2

Img_2

    戦艦長門は日本海軍念願の「八八艦隊」計画案によって着工された第1号艦で、主砲に41センチ砲を搭載した世界最初の戦艦として知られる。

    戦艦長門は太平洋戦争開戦時、連合艦隊旗艦を務めた。昭和16年12月2日午後5時30分。「ニイタカヤマノボレ1208」 瀬戸内海柱島停泊していた戦艦長門(矢野英雄艦長)から打電された暗号電文は、依佐美送信所(愛知県刈谷市高須町)を中継して全艦隊に伝達され、日米開戦となった。

   その後、旗艦を大和に譲ったが、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参加し、爆撃により数度被害を受けたが終戦まで生きのびた。ちなみに長門は終戦時帝国海軍において自力航行可能だった唯一の戦艦である。戦後、米軍の原爆実験に供される。

    太平洋戦争時の長門歴代艦長は以下のとおり7名。矢野英雄(1894-1944)、久宗米次郎、早川幹夫(1894-1944)、只部勇次、渋谷清見、大塚幹、杉野修一。

    余談ではあるが、戦艦長門の最後の艦長・杉野修一は杉野孫七(1867-1904)の長男である。杉野孫七は日露戦争旅順閉塞作戦において広瀬武夫艦長の「福井丸」での「杉野はいずこ」のエピソードで「杉野兵曹長」としてその名が全国に知られている。

2008年3月16日 (日)

教育博物館と手島精一

Tejima3

Img_3

    教育博物館は、明治10年1月に創設され、同年8月から一般に公開された。教育博物館とはその名が示すとおり、いわゆる自然史資料を収める博物館ではなく、教育に関する資料を収集展示する博物館として構想され、通常の陳列展示主体の博物館活動にととまらず、当時としては斬新な講演会、講習会の開催、さらに館内に製作工場を設けて教材用の理化学器機や博物標本を製作し学校へ払い下げ、明治10年代の学校教育ならびに社会教育に貢献してゆくのである。教育博物館は後に東京教育博物館と改称、東京図書館との合併を初めとして、幾多の組織改変を経、現在の国立科学博物館へと至る。

   現在、国立国会図書館所蔵本に蔵書印「教育博物館印」のある2万点近い技術関係並びに教育関連の和書・洋書は、工業教育の父と讃えられる同館長・手島精一(1849-1918)の蒐集によるところが大きい。手島精一は嘉永2年、沼津藩主水野忠寛の江戸藩士田辺四友の二男として生まれた。明治4年、岩倉具視大使の米欧巡視に従う。明治11年、パリ万国博に参加。「今回の博覧会にあらわれたヨーロッパの工業力の発達ぶりは素晴らしいです。将来の日本を富強にするには、どうしても工業力の培養に意を用いるべきです。何よりも産業の振興です。この実際知識を授ける工業学校を設置することです」と語る。

   社会教育の充実を願う手島と学校教育重視の森有礼との厳しい対立があったが、明治22年に手島は教育博物館館長を辞し、東京工業学校(現・東京工業大学)の校長に就き、大正5年まで断続的に校長の地位にあり、教育と産業とを結ぶ実業教育・社会教育の振興に終始努力した。

パリ会議と明石元二郎

Img

    日露戦争の勝因の一つとして、陸軍の行ったすぐれた諜報・謀略活動があった。それが明石元二郎大佐が担ったヨーロッパにおける後方撹乱工作(明石工作という)である。明治35年夏、陸軍総帥の山県有朋はロシア革命援助工作として明石に100万円(:現在の100億円)もの大金を渡して、対露謀略工作を開始させた。

    明石はロシアのアキレス腱は民族問題であると見抜いていた。明治37年10月1日、パリである秘密会議が開かれた。出席したのは、自由党、革命党、フィンランド憲法党、ポーランド国民党、ポーランド社会党、アルメニア革命連合、グルジア革命的社会主義連邦派党の各党主や代表メンバーであった。会議の議長を務めたのは、フィンランド憲法党の党主コンリー・シリヤクスであった。会議の目的は、ロシア皇帝とその政府をいかに転覆させるかであった。その結果、各党の利害関係はさておき、帝政ロシア打倒という一点で各党が協力し、反ロシア行動を推進することが決まった。この会議を裏から画策したのが、他ならぬ明石大佐である。

    明石元二郎(1864-1919)は、万治元年に福岡藩士明石助九郎の二男として生まれた。父親は二千石以上の上士だったが、若くして自殺している。明治9年、上京し、安井息軒の門に入り、漢学を修め、明治20年に陸大を卒業。陸士卒業時の成績はフランス語がトップ、製図と絵画に優れていたが、運動神経は著しく劣っていた。熱中すると周囲に目が入らなくなる性格であるために、協調性という点でも評価は低かった。明石の異常なまでの集中力を示す逸話がある。

    ある時、明石元二郎は構想を述べるため山県有朋を訪ねた。語るにしたがい、明石は夢中になり小便を漏らした。尿意を感じたが、面倒だと思ったのか、そのまま話を続けたので、小便は床を伝わって山県の足元を濡らした。それでも語ることを止めない明石の熱心さにほだされて、山県も黙って終わりまで話を聞いていたという。

鳥取藩と漂着朝鮮人

Img_0005

        漂着朝鮮人之図 鳥取県立図書館蔵

    文政2年(1819)1月12日、朝鮮国江原道平海から出国した商船(船長・安義基)が嵐に巻き込まれ、鳥取藩の八橋郡八橋(東伯郡湯梨浜町)に漂着。鳥取藩の役人が発見し、安義基(アン・ウィギ)ら12人を救助し、22日、駕籠にのせて鳥取に送った。行列をみる人たちは道筋にあふれ「見る人皆眼を驚せり。異客等是を見て賞する毎に、ちょうたと云ふ」(「化政厳秘録」)と記している。「ちょうた」とは「いいなあ。いい眺めだなあ」という意味。鳥取藩の岡近右衛門らは漂着朝鮮人を厚くもてなし漂着民の生活は快適であったが、4月に鳥取大火に遭い旅館を焼け出された。4月8日、鳥取を出発し、鳥取から境村までは陸路で、境村からは蜘勇丸と幸要丸で長崎に送りとどけられた。5月23日、長崎に到着するが、船での長旅のため3人が病気となった。その後、対馬を経由して、9月に朝鮮国釜山港へと帰還させた。

   画像「漂着朝鮮人の図」は、安義基が鳥取藩の岡近右衛門に送った感謝状。ただし安義基は干鰯の商人であるのに、この図では両斑の姿で描かれている。(引用文献:「鳥取県の歴史」山川出版社)

2008年3月15日 (土)

栃木県庁

Img_0003

       栃木県庁之図 高橋由一 1884

  明治4年の廃藩置県により下野では宇都宮県、黒羽県、日光県など11県が成立したが、11月の整理統合で、栃木県と宇都宮県の二県となった。栃木県は足利、梁田、寒川、安蘇、都賀郡など下野の南部一帯と上野国の館林県を管轄下におき、宇都宮県は東北部から中央に位置する那須、塩谷、芳賀、河内の4郡からなった。県庁はそれぞれ栃木宿と宇都宮町におかれ、初代栃木県令には鍋島貞幹が任命され、宇都宮県には県令をおかず大参事が代行した。明治6年6月15日、宇都宮県を廃し栃木県の管轄に組み入れた。本庁は栃木町に、宇都宮、大田原、足利には支庁がおかれた。新生栃木県の誕生である。栃木県庁は下都賀郡薗部村にあったが、明治17年に河内郡塙田村二里山へ移転した。突貫工事により、和洋折衷、白色のモダンな新庁舎が竣工した。しかし、明治21年1月の火災で焼失した。画像は、明治を代表する洋画家・高橋由一(1828-1894)が描いた石版画である。(引用文献:「栃木県の歴史」山川出版社)

2008年3月13日 (木)

七卿落ちと専崎弥五平

Img

     鐡屋弥五郎 (専崎弥五平)

   文久3年8月18日、松平容保、稲葉正邦、近衛忠熙、二条斉敬、徳大寺公純、近衛忠房が参内。あわせて、薩摩・会津・淀などの諸藩兵が御所の九門を固めた。開かれた朝議では、行幸の延期、尊攘派公家の参内禁止、国事参政・国事寄人の停廃止、長州藩の堺町御門警護解除、毛利慶親父子の入京・長州藩士の九門出入り禁止などを決定し、公武合体派が朝廷の主導権を握った。そのため、三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆調、錦小路頼徳、沢宣嘉の七卿は東山の妙法院に逃れて善後策を練り、翌朝に寺を発ち、蓑笠、草で編んだ草履ばきの農民姿に身をやつし、長州藩兵らおよそ2300人に守られて一路、西国街道を西へ西へと長州藩を目指して都落ちした。七卿らは摂津国八部郡の二ツ茶屋村の「鐡屋(鉄屋)」の弥五平の屋敷で旅装を整え、楠木正成の墓に詣でた後、弁天浜(現在の神戸ハーバーランド)と兵庫の湊から小船に乗り込んで鞆浦(広島県福山市)に立ち寄り、長州藩の塩田地の三田尻へ落ち延びていった。

   七卿たちに船を提供した二ツ茶屋村の「鐡屋」弥五郎は、幕末長州藩が摂海防備に当った時の御用達商人で、元治元年の長州藩兵上洛の際、自宅を宿舎に提供し、負傷者の看護に当ったため、兵庫の大坂町奉行兵庫勤番所の幕吏の追及を受け、投獄された。維新後、神戸で旅館、廻漕業を営み、陸海軍の用達を勤めた。明治には、専崎弥五平(1831-1901)と名のり、晩年は明治天皇御用邸番であった。

2008年3月12日 (水)

フランシスコ・ザビエルの布教

Img_0002

聖フランシスコ・ザビエル画像(神戸市立博物館蔵)

    天文18年(1549)7月22日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が6人の弟子(パウロ・ヤジロウ、ベルナルド、ロレンソ、マテオ、コスメ・デ・トルレス、フェルナンデス・ジョアン)と共に鹿児島に上陸した。ザビエルを同地に案内したのは弟子の一人アンジロー(安次郎。弥次郎とも)だった。薩摩出身のアンジローは殺人を犯してマラッカに亡命していたところを、ザビエルと知り合った。アンジローはザビエルに従い、ゴアに赴き、ラテン語やキリスト教の教義を熱心に学んだ。鹿児島では当初、島津貴久の保護を受けて菩提寺福昌寺境内などで布教活動を許され、アンジローの知人や親類をはじめ、150人が洗礼を受けた。後には仏教徒からの妨害と、貿易に伴なう利益に期待した貴久の落胆から、キリスト教への改宗は禁止されるに至った。

    10か月の鹿児島滞在後、ポルトガル船の平戸入港に伴ない、同地に赴き、さらに山口、泉州堺を経て京都に入ったが、状況はザビエルの布教活動を拒否するものだった。以後、山口の大内氏や豊後の大友義鎮(宗麟)に庇護を求めて、布教活動を行なった。天文20年11月20日にザビエルの乗ったポルトガル船は沖の浜からゴアに向けて出帆した。ザビエルの日本滞在はわずか2年3か月だったが、布教活動が我が国のその後に与えた影響は決して少なくない。