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2026年5月24日 (日)

銭湯の歴史

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    江戸では入浴といえば、湯屋(銭湯)に行くことに決まっていた。町人が風呂を持つことはなく、江戸一番の呉服商越後屋でさえ風呂はない。幕末に600余軒というから、人口の割には数が少なく、どこの町の湯屋も混んでいた。誰でも毎日入浴し、料金は銭6文。男女老若とも同じ浴槽に入る。寛政(1789-1804)ころから男女別々となったと書物には記されるが、確かなことはわからない。寺院などの社会事業としての共同浴場は平安時代にもあったが、営業浴場の始まりは鎌倉時代の頃といわれている。個人営業としては天正19年(1591年)頃に伊勢与市なる人物が江戸日本橋に開業したのが始まりと記録に残る。1791年には江戸市中の銭湯での男女混浴を禁止する法令が出されたが、混浴の風習はその後も続いた。

   幕末のハリスやヒュースケンには、下田の湯屋で14歳くらいの女の子が平気で、若い男が入っている浴槽に、全裸で入浴する光景を目にして驚いている。考古学者シュリーマンは世界一周の旅の途中、日本に立ち寄っている。江戸の男女混浴を「旅行記」(1865年)に次のように記している。「浴場の前を通ったらアダムとイブそのままに、丸裸の男女がそれぞれ出てきて、外国人の私を見物した。羞恥心も無ければ風紀の乱れる様子もなく、なんという聖なる単純さであろうか」と。混浴が風紀上問題となったのは西洋人の指摘で改善したものであろう。1869年2月19日、東京府が男女混浴を禁止した。1900年5月24日、12歳以上の男女混浴を禁止する内務省令公布される。

2026年5月22日 (金)

雨に濡れた東京タワー

  2012年のこの日、東京の新ランドマークとして東京スカイツリーが開業した。地上634mは世界一の高さである。タワーの足元には東京ソラマチという300を越える商業施設がある。「スカイツリーは雲の上」(さくらまや)、「夜空のスカイツリー」(西郷輝彦)、「東京スカイツリーの歌」(みどりこ)、「東京スカイツリー音頭」(相原ひろ子)と、スカイツリーを題材にした歌謡曲もあるが、あまり耳にしたことはない。韓国人歌手チェウニは東京をテーマとした曲をこれまで歌ってきた。「ガラスの東京タワー」。でもなぜか東京タワーを歌った曲はヒットしないというジンクスがある。通天閣なら村田英雄「王将」という大ヒット曲がある。なぎら健壱「東京タワー」、角松敏生「Tokyo Tower」、松任谷由実「手のひらの東京」、CHAGE 「トウキョータワー」、美空ひばり「東京タワー」、池田聡「東京タワーを消せるなら」、アグネス・チャン「東京タワーを鉛筆にして」など多数あるが歌うことすらできない。あまりに有名な観光スポットであるため、ベタになり映画、小説、流行歌になりにくいのだろうか。でも最近は江國香織の小説でちょっと事情が変わってきたようだ。「世の中でいちばんかなしい景色は雨に濡れた東京タワーだ」という書き出しで物語ははじまる。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でも東京タワーは重要な役割を果たしていた。完成から半世紀を経て歴史的建造物となって風格がでてきたのだろうか。高さ333m。内藤・日建設計。内藤多仲(1886-1970)の設計による。(5月22日)

 

 

2026年5月14日 (木)

黒田清隆、妻殺しの真実

   五代友厚は、大久保遭難の直後に松方巌に次のような手紙を送っている。

 

   「内閣の光景は暗夜に火を失するに似たり、いずれも首を傾け、慨歎の他これなく、深く御推計下さるべく候。実は迂生も午前に駆けつけ、夕刻暇を以て大隈方へ廻り、尚向来の目的を論じ、且嘆息致しおり候処、黒田にも来会、共々慨歎を増す。然るに黒田は、頃日妻君暴殺せし云々の事を頻りに新聞上に触れられ云々の事情も之あり候より、辞表を提出したる事も之あり候えども、もはや一歩も跡に引かず、大隈にも一層に勉励を頼むという趣意にして大隈に迫り、もとより大隈にも共に斃る迄は尽すべしとの事にして、堅く明誓を為すに至る」(大久保利通文書)。

 黒田清隆は鹿児島に生まれ、明治元年には鳥羽伏見戦に参加、つづく奥羽征討には清水谷公考中将の参謀として各地を転戦、箱館戦争でも大いに活躍し、凱旋した。明治新政府では北海道開拓の任にあたった。

   黒田清隆は明治11年3月のある日、泥酔して帰宅し、妻の出迎えが遅いとかなんとかいう、つまらないことから逆上し、病みがちの妻せいを斬り殺したのだと巷間に広められてしまった。この事件は「団々珍聞」4月13日号に痛烈な1ページ大の風刺画を掲げスッパぬかれた。警視庁はすぐ処罰したが、口から口へとひろがる世論にはふたはできない。ついに黒田は辞表を出して家にひきこもった。伊藤博文と大隈重信は黒田の処罰を迫ったが、大久保は黒田を弁護して「黒田は断じてさようなことをする無慈悲な人間ではない。拙者がそれを保証するから、しばらく拙者にまかされたい」といいきって、腹心の川路利良に検視を命じた。川路は夫人の墓を掘り起こして、医師は病死と診断した。こうして、黒田は大久保に説得されて、辞表を撤回した。五代の手紙にもあったように、紀尾井坂の兇変はそれから数日後の5月14日に起こったのである。黒田のスキャンダルが罪に問われなかったことも、ひとつの引き金となって、大久保利通が島田一良に斬殺されたのだともいわれている。しかしこのころの時勢は西南の役の直後の不穏な時代、大久保、黒田に対する風あたりも強く、黒田の妻殺しは陰謀説とも考えられる。黒田は直情径行、酒乱の癖があるという事、小樽沖で軍艦から高嶋村に発砲し娘を一人死なせた事、黒田みずから辞職すると言った事、川路大警視は薩摩出身で黒田、大久保とグルである事、などの理由から、いまでも黒田清隆の妻殺しを事実としている人もいる。(夏堀正元「明治の北海道」岩波書店)。とくに色川大吉の影響が大きいのだろう(「日本の歴史21」中央公論社)。もっとも本書の付録の石川達三との対談で「いまでも白黒はわからないのじゃないですか。もちろん妻を斬っただろうとは思いますけども、確実な証拠というものはないわけですね」と色川は語っている。(昭和41年9月10日)黒田の妻殺しの真実は、どうやら歴史家よりも小説家のほうが興味がそそられる話のようだ。

2026年5月12日 (火)

信長人気の理由は?

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  織田信長は天文3年のこの日、織田信秀と土田御前の間に嫡男として誕生した。戦国武将なかでも徳川家康や豊臣秀吉のように偉業を成し遂げた人物は、他にもいるが、なぜ信長だけがこれほど現代でも人気を集めているのだろうか。2024年1月6日、岐阜で行われた「ぎふ信長まつり」で、木村拓哉が扮する馬上の信長をひと目見ようと、なんと約46万人もの人々が来場した。キムタク人気もあるだろうが、やはり日本人の信長人気は衰えを知らない。

    信長人気が高まったのは、実はそれほど昔からではない。戦前、日本人の好きな歴史上人物といえば、楠木正成、国定忠治、清水次郎長、西郷隆盛、乃木希典がランキング上位であった。戦後、価値観が変わり、人気ランキングは大きく変化した。浪曲や講談は亡くなり、メディアはドラマ・映画・ゲーム・漫画になると、信長は「戦国最強のボス」として取り扱われ方が大きくなった。ドラマ・映画でとくにエポックとなる作品があるわけでない。光栄のゲームソフト「信長の野望」シリーズの第1作が1983年3月に発売されたので、その頃から若者たちの間で信長人気が定着しだしたと考えている。

戦後の人気ランキングは、これまで何度も調査しても織田信長と坂本龍馬の首位を争っている。なぜ2人は魅力があるのだろうか。信長などは非情で残忍な人物という一面も知られているが、それでも現代人は信長を愛している。信長の魅力は、決断力に富んでいる、私欲がない、能力主義である、不言実行のタイプである、当世風にいえば、カッコいい優れた経営者であり、リーダー・シップがあるというのが評価されるのだろう。宣教師ルイス・フロイスは「信長はすぐれた理解力と明晰な判断力をもっており、神仏やその他の偶像も軽視し、およそ宗教的なことは一切信じていない。したがって宇宙に造物主のあることも、霊魂が不滅であることも信じていないし、人は死んだら無に帰するのだと考えている」と記している。

  坂本龍馬は最近の政治家が維新八策とか称して、龍馬のイメージを肖ろうとするように、既成の観念にとらわれず、自由に、創造的に考え、行動することに共感を覚えるのであろう。つまり織田信長と坂本龍馬とは共通点が多い。新時代への扉を開くという点であろう。2人はちょうど300年を隔てているが、信長より400年むかしは平清盛が生きた時代である。つまり貴族の時代から武士の時代への扉を開いた清盛、武士の時代を生きた信長、明治という時代の魁となった龍馬。これの結果によると、日本人が期待するような英雄が登場するのは300年周期なので、あと100年ほど英雄が現れるのを辛抱しなければならないことになる。(5月12日)

 

 

 

2026年5月11日 (月)

徳川慶喜と大政奉還

Yosinobu  慶応2年1月21日武力討幕を目的とする薩長同盟が成立する。慶応3年10月12日、徳川慶喜は二条城に閣老以下を集め、大政奉還の件を諮問したが、反対者が多かった。翌日再び在京諸藩の重臣を集めて所260余年にわたって政権を維持してきた徳川幕府が倒れて明治政府にとってかわる過程の中での、第一歩を踏み出した出来事であった。大政奉還は西南雄藩の武力倒幕運動を先手を打ってその口実を奪うためのものであった。慶喜は、幕府勢力を温存させる方向で、当面政局を打開と収拾をはかったのである。

  慶喜を「ヨシノブ」と読むことは小学生でも知っている。だが手元の漢和辞典で「慶」を調べても「ケイ」「キョウ」とはあるが、「ヨシ」とは出ていない。人の名前に使われる特別な読み方を、「名乗り(なのり)」という。頼朝、正成、家光の朝(トモ)、成(シゲ)、光(ミツ)も特別な読み方である。「お言葉ですが…」で知られる高島俊男もなぜ「朝(とも)」と読むのか分からないと書いている。つまり名乗りは長い間の慣用的な読み方でいまでは理由を説明することは学者でも困難な場合が多い。現行法では人名に使用する漢字は制限されるているが、読み方は戸籍に記載されないから、自由に読んでよいとされている。徳川慶喜は現行の法体系以前の人物だから、関係ないのだが、仮に、現在でも「慶喜」と書いて「ヨシノブ」と読ませることに、何ら支障はない。ただし、読みは自由といっても、100人のうち99人までが読めない命名は避けたほうがいい。人名読み方の基本や名乗り事典にある範囲内にとどめるべきだろう。ちなみに徳川慶喜自身は「けいき様」と呼ばれることを好んだといわれる。「ヨシノブ→世忍ぶ」という音韻連鎖を嫌ったのだろうか。 

 

2026年5月10日 (日)

三国干渉問題

    最初の本格的な対外戦争である日清戦争に勝利し、下関講和条約調印した日本であったが、明治28年4月23日、露・独・仏が遼東半島の清への返還の勧告、いわゆる三国干渉が起こり、同年5月10日、日本は遼東半島を清に還付、同年11月8日に調印し、世論は沸騰した。このときの国民協会の『報告』で、党派の異同をこえて挙国一致し、「勤倹以テ薪ニ臥シ胆ヲ嘗メ大ニ国力ヲ養成シ盛ニ軍備ヲ拡張シ以テ速ニ其準備ヲ整ヘザル可カラズ」と、当時さかんにとなえられた「臥薪嘗胆」の必要を説き、国力の充実と軍備拡張という、国民協会ほんらいのスローガンを高唱している。

    こうして国民各層のなかに遼東還附への無念の思いは、西洋列強の力のまえに屈服させられた屈辱感となり、それは政府や新聞・雑誌がとなえる「臥薪嘗胆」の合言葉のなかに容易にみちびかれ、日清戦争後にはじまる膨大な軍備拡張を中心とする、いわゆる戦後経営を受容する素地をつくらせたのである。(4月23日)

 

 

 

2026年5月 9日 (土)

参勤交代と大名行列

   徳川家康は関ヶ原の役ののち、外様大名の江戸参勤や妻子の江戸居住を奨励した。慶長7年に前田利長が母の芳春院をたずねて江戸に参勤したのが、その最も早い例といわれる。翌年、家康が征夷大将軍に就任すると西国大名の江戸参勤が急にふえ、幕府も諸大名に江戸に邸宅を与え、刀剣・書画・鷹・馬などを参勤のときにおくり、大大名に対しては鷹狩に託して秀忠が東海道は高輪御殿、中山道は白山御殿、奥州街道は小菅御殿など迎えて優遇し慶長の末年には参勤が一般の風となった。はじめ幕府は参勤の供連れの人数を規定しただけで、参勤を命令することはなかったが、寛永11年8月4日、譜代大名の妻子の江戸居住を命じ、翌寛永12年6月21日の武家諸法度で毎年4月の外様大名の参勤交代が義務化することとなり、参勤交代は法制として確立した。通則は隔年交代、関東の大名は半年交代、対馬の宗氏は3年1度の参勤、水戸家や役付大名は定府(じょうふ)であった。当初は外様大名にのみ適用されたものであったが、寛永19年5月9日には譜代大名へも拡充されて、参勤交代は確立した。

  大名行列は本来、軍事に備える移動形態であったが、太平が続くと大名の権威と格式を誇示するための華美なものに変容した。参勤の道中には武具一式、衣服、雨具、非常食糧、漬物、湯道具、娯楽道具、休憩用具(幕・床几など)、ろうそくなどに至るまで持って歩く。他家の行列とすれちがう場合には、道中では格式にかかわらず、乗り物のとびらあるいは窓をあけ、行列は止まらない。長途の旅行で病気におちいり、一命を失うという場合も少なくなかった。加賀藩では最盛期には4000人の従者がいたといわれる。行列の際、先払いが「下に下に」と触れ声をかけ、庶民は土下座して道を譲る。ただし沿道の人を土下座させることができたのは親藩だけで、譜代と外様は「片よけ片よれ」と命令して通行した。

参勤交代は、大名の財政に大きな負担となり、軍事力が低下し、謀反を起こさせないとする結果となったが、反面、都市や交通が発展する一因となった。(参考文献;平山敏治郎「参勤交代する旗本」 人文研究大阪市立大学大学院文学研究科紀要7-8,1956)

 

 

 

 

 

 

 

 

邪馬台国ブームは過ぎても

Photo_4  「歴史読本」が2015年秋号をもって休刊となった。同誌は年1回ペースで邪馬台国特集を組み、売り上げを伸ばしてきた。読者の最大の関心事は「邪馬台国はどこか」という謎解きであり、学者の数だけ邪馬台国の所在地がある、といわれた。しかし近年は邪馬台国ブームも沈静化した感があり、雑誌の売り上げも停滞するようになったのだろう。邪馬台国の所在地は九州北部説のほか近江、出雲、阿波や、海外説がある。哲学者・木村鷹太郎(1870-1931)が1910年に発表した邪馬台国エジプト説である。木村はギリシャ神話と日本神話の比較から古代の東アジア諸民族は太古に西方から移住したものだという見解を得ていた。この木村の珍説は、2010年、稲羽太郎の著書「卑弥呼とセべクネフェル女王」が刊行され、後継者が現われた。稲羽が卑弥呼と同一人物とみたセべクネフェルはエジプト第12王朝、BC1797年~1795年頃在位の女王である。また加治木義博は卑弥呼はインドから来たと唱えている(「真説日本誕生 黄金の女王・卑弥呼」1992年)。このほか加瀬禎子「邪馬台国はフィリピンだ」(1977年)もある。しかし2009年に纏向遺跡から大宮殿が発見され、畿内説が優位に傾きつつあった。だが再び九州説も巻き返しつつある。それは纏向遺跡は中央政府だが、邪馬台国は地方政権の一つで九州北部にあったという考え方である。魏の使者は畿内までは行かず、九州の様子をみて倭人伝を書いたとする。日本画家、安田靫彦の代表作「卑弥呼」が院展に出品されたのが1968年のことでこの時期、邪馬台国ブームは頂点に達していた。邪馬台国ブームは過ぎたが、小学生が歴史に関心を持つには最適のテーマだと思う。(木村「東西両大学及び修史局の考証を駁す 倭女王卑弥呼地理について」読売新聞1910年7月2日付より5回連載)

 

 

 

 

箱館戊辰戦争と土方歳三

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 明治元年5月、江戸上野戦争は幕府軍の敗北で終わった。旧幕府軍の海軍副総裁の榎本武揚は、艦船8艘を率いて江戸を脱出、仙台・石巻へと移動する。宮古湾で補給の後、蝦夷へ向かう。明治元年10月には箱館北の鷲ノ木に上陸、新政府軍を撃破し、10月26日、五稜郭を占領する。11月には蝦夷地を平定する。12月15日、蝦夷地・箱館五稜郭を本営とする佐幕派の政権が誕生した。一般に蝦夷共和国という。投票によって、総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、陸海裁判官に竹中重固、今井信郎、陸軍奉行並に土方歳三らが選ばれた。土方は箱館五稜郭で抗戦中、一本木関門付近で流弾に当たって戦死した。蝦夷共和国は明治2年5月18日、箱館戦争終結とともに消滅した。

2026年5月 1日 (金)

郵便(明治事物起源)

    近代日本の郵便制度は前島密により明治4年3月1日に始まった。創業時の郵便ポストは「書状集箱(しょじょうあつめばこ)」という。肘付き台に四角い箱をのせた木製ポストで、「上り方」「下り方」の二つの箱があり、上の掲示板に取集時刻や料金が書かれた。東京、京都、大阪、そして東海道の宿場62ヵ所に設置された。明治5年になると、黒いペンキを塗った「黒塗柱箱」(黒ポスト)が現れる。そして明治34年に鉄製の赤色丸型ポスト(中村幸治考案)ができる。
   近代郵便制度は、イギリスのローランド・ヒルが1837年にペニー郵便制を創案したことに始まる。それとともに登場したのが、四種の切符手形、いわゆる「切手」である。意匠に竜をあしらったことから、総じて「竜文切手」と呼ばれている。松田禄山の玄々堂が手作業で切手を製作していた。(これを手彫切手という)この日扱った郵便の数は、東京・大阪間でわずか308通しかなかった。やがて明治9年から明治政府に雇われたキヨソーネが印刷技術による切手を製作する。これより以前の明治3年、イギリスの貿易会社が発行した外国人向けのサザーランド切手というのが15枚ほど確認されている。東京築地ホテル館と横浜アフターハウスホテル間を馬車で手紙を運んだ。翌年には郵便制度が始まったので短期間で中止されている。世界初は1840年5月1日、イギリス郵政省が「ペニー・ブラック」を発行した。

 

 

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