無料ブログはココログ

2022年6月22日 (水)

鳴門のうず潮で始まった昭和時代

Photo

 

   政府は今年の男女共同参画白書で、「もはや昭和ではない」として結婚や家族の在り方が多様化している現状を述べている。メディアの報道でいう「昭和」とはほとんど戦後期の昭和のことで、なにか違和感がある。言うまでもなく、昭和時代は1926年12月25日から1989年1月7日までである。 昭和という時代は「鳴門秘帖」で始まった。吉川英治の新聞小説の映画化は日活、マキノ御室、東亜等持院と三社が競作した。主人公の法月弦之丞には谷崎十郎、市川右太衛門、光岡竜三郎らが虚無僧の姿となって銀幕に登場した。阿波・蜂須賀の十代藩主蜂須賀重喜が倒幕思想家であったかどうかは知らない。吉川英治が「鳴門秘帖」執筆となった切っ掛けは二説ある。①川柳仲間であった伊上凡骨が阿波の出身で、蜂須賀公の話を聞いた②幕末の洋画家・司馬江漢の「春波楼筆記」に記されたわずか120字に満たない文章からヒントを得た。②説は、司馬江漢みずからが危険思想の持ち主として偽死の引札を配布するほどだったが、俗説の蜂須賀小六・野武士の頭というイメージから、その後裔の徳島藩が不穏の兆しありとして隠密が潜入するという設定は、なんとなく首肯できるような気がする。時代は鳴門の渦のように複雑怪奇な激動の昭和が始まろうとしていた。

2022年6月21日 (火)

参勤交代と大名行列

P_0039
歌麿「駿河路の大名行列」


   徳川家康は関ヶ原の役ののち、外様大名の江戸参勤や妻子の江戸居住を奨励した。1602年に前田利長が母の芳春院をたずねて江戸に参勤したのが、その最も早い例といわれる。家康が征夷大将軍に就任(1603)すると西国大名の江戸参勤が急にふえ、幕府も諸大名に江戸に邸宅を与え、刀剣・書画・鷹・馬などを参勤のときにおくり、大大名に対しては鷹狩に託して秀忠が東海道は高輪御殿、中山道は白山御殿、奥州街道は小菅御殿など迎えて優遇し慶長の末年には参勤が一般の風となった。はじめ幕府は参勤の供連れの人数を規定しただけで、参勤を命令することはなかったが、1634年8月4日、譜代大名の妻子の江戸居住を命じ、翌年6月21日の武家諸法度で毎年4月の外様大名の参勤交代が義務化することとなり、参勤交代は法制として確立した。通則は隔年交代、関東の大名は半年交代、対馬の宗氏は3年1度の参勤、水戸家や役付大名は定府(じょうふ)であった。当初は外様大名にのみ適用されたものであったが、7年後の1642年5月9日には譜代大名へも拡充されて、参勤交代は確立した。

  大名行列は本来、軍事に備える移動形態であったが、太平が続くと大名の権威と格式を誇示するための華美なものに変容した。参勤の道中には武具一式、衣服、雨具、非常食糧、漬物、湯道具、娯楽道具、休憩用具(幕・床几など)、ろうそくなどに至るまで持って歩く。他家の行列とすれちがう場合には、道中では格式にかかわらず、乗り物のとびらあるいは窓をあけ、行列は止まらない。長途の旅行で病気におちいり、一命を失うという場合も少なくなかった。加賀藩では最盛期には4000人の従者がいたといわれる。行列の際、先払いが「下に下に」と触れ声をかけ、庶民は土下座して道を譲る。ただし沿道の人を土下座させることができたのは親藩だけで、譜代と外様は「片よけ片よれ」と命令して通行した。

参勤交代は、大名の財政に大きな負担となり、軍事力が低下し、謀反を起こさせないとする結果となったが、反面、都市や交通が発展する一因となった。(参考文献;平山敏治郎「参勤交代する旗本」 人文研究大阪市立大学大学院文学研究科紀要7-8,1956)

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年6月10日 (金)

日清戦争と日本資本主義の発展

    日本海軍の聯合艦隊が編成されたのは、日清戦争(明治27年7月~明治28年2月)のときのことである。それ以前、海戦遂行を主目的とする「常備艦隊」は、明治22年7月始めて編成された。西日本警備を目的とする「西海艦隊」を併せて、司令長官伊藤祐亨海軍中将指揮下の「聯合艦隊」が組織されたのは、明治27年7月19日である。編成わずか6日後の7月25日、巡洋艦「吉野」(河原要一艦長)・「浪速」(東郷平八郎艦長)・「秋津州」(上村彦之丞艦長心得)は、豊島沖で「済遠」「広乙」を砲撃し、勝利する。9月の黄海海戦では「松島」「厳島」「橋立」の三景艦が参戦する。

   このような海軍の軍備拡張のため、明治26年2月26日、製艦費という税金が議会を可決している。つまり官吏は毎月の給料の十分の一を製艦費として天引きされるようになった。

    明治29年の熊本時代の漱石の収入は月給100円で、その中から製艦費10円、父へ10円、姉へ3円、毎月送金し、奨学金返済が7円50銭、書籍代が約20円、のこりの50円が家計として生活費に充てられる。誠に聯合艦隊を維持していくことは高くついたものだ。しかし、この戦争が軍需工業や重工業において生産の規模を拡大し、わが国、資本主義経済の発展に刺激を与えたことは否定できない。明治34年、日清戦争の賠償金などをもとに官営八幡製鉄所が建設された。

2022年6月 9日 (木)

戦後日本の経済発展

E1fff2178e2e011d6279b1fa37e5b01b

Img_0018fa678

   日本の国内生産(GDP)は、米国、中国に次ぐ世界第3位である。戦争によって廃墟と化した日本は「戦後76年」の間に、2度も五輪開催国となって平和主義を希求する世界有数の先進国となった。だが現在の繁栄は廃墟と壕舎の窮乏生活の戦後から始まる。戦争のもたらす恐るべき破壊と損耗について改めて知っておく必要がある。戦争でこうむった国民の被害は、310万人をのぼる多数の戦死傷病者を出したことにある。また空襲によって住居や職場を失い、家族が路頭に迷ったこともある。また戦後の食糧不足から栄養不良となり、餓死したものも多数いたであろう。こうした国民生活の窮乏はなかなか数値に表しにくいものである。岩波講座日本歴史 現代4には「戦時戦後の国富統計」が掲載されている(45頁、島恭彦「戦争と国家独占資本主義」)。これをみても1945年の国富総額は1935年の基準から著しく低下している。

 

Pk2014121502100221_size01935年 76,309

1945年 53,958

   (単位,百万円)

 戦後、昭和24年までは経済混乱によりインフレが進行していた。自動車産業はドッジラインによる不況もあっで低迷が続いていた。しかし、朝鮮戦争の勃発でアメリカから大量の自動車の注文がおこり、日本経済の復興のきざしがみえた。つまり戦後日本の経済成長の過程には3つのターニング・ポイントがある。1つ目は昭和25年の朝鮮戦争勃発による特需景気。2つ目は「もはや戦後ではない」と言い切った昭和31年の経済白書。3つ目は高度成長のひとつのシンボルとなっている国民所得倍増計画がスタートした昭和37年である。池田勇人は安保闘争で左右の対立を緩和させた。日本はGNP大国に上昇し、伝統的な貧困から脱出した。しかし、物価、環境などの面で新しい難問も発生した。昭和39年のオリンピック東京大会、昭和45年の大阪での日本万国博覧会は、世界に開かれた平和な経済国家としてよみがえつた戦後日本を象徴するイベントとなった。

  なぜ日本が世界有数の経済大国にまで発展できたのだろう。戦後の日本経済の発展の原因をめぐっては今日、さまざまな角度からの研究が行われている。たとえば、戦後欧米から積極的に新技術を導入し、それを体現化した民間設備投資が精力的に展開されたこと、さらに欧米経済の長期的繁栄に支えられて輸出が世界貿易の増加テンポをはるかに上回つて伸び続けたこと、などが発展の原動力になったとする説明などはその代表的な例である。また、戦後の西ドイツが住宅重視の経済復興に力を入れたのに対し、日本は民間設備投資主導型の高度成長を可能にした、という研究がある。このほか、「日本株式会社」といった表現にみられるように、政治と民間との協力がうまくいったことを強調する説、さらに経営学的アプローチとして、労使協調路線による「日本的経済」に発展の原因を求めようとする分析も盛んである。最近では日本人の勤勉精神にスポットライトを当てて、日本経済発展の原因を探ろうとする試みも始まっている。このように、戦後の経済発展の原因をめぐっては、経済学的アプローチだけではなく、日本人の精神風土の分析など経済学以外の学問分野からの研究も盛んになっている。

 

 

 

 

 

 

 

日露戦争後における影響について

Seiji11_detail_ph01

 

  小村寿太郎(1855-1911)は安政2年、日向国飫肥藩の下級武士・小村寛平、梅子の長男として生まれる。文久元年、安井息軒が教える藩校振徳堂に入学。大学南校に入学し、明治8年にはハーバード大学に留学。帰国後、美人のマチと結婚する。しかし新妻は裁縫、料理など家事は一切しない女性だった。近くに実家があり、その仕送りで女中を雇い、すべて家事をやらせる。浪費家であり、趣味は芝居見物だった。子供ができても妻の生活態度は変わらなかった。小村の家庭は高官にもかかわらず、貧窮にあえいでいた。高級官僚にしてなお貧乏暮らしを余儀なくされたのは、妻の浪費癖のほかに、父から受け継いだ莫大な借金が原因ともいわれる。ともかく、小村は家庭的には恵まれなかったようだ。

   しかし小村は多くの先輩たちに見出されて、明治顕官への道を順調に歩んだ。小倉処平(1846-1877)、陸奥宗光(1844-1897)、桂太郎(1847-1913)たちである。桂内閣のとき、外務大臣を二度務めている。今日の霞ヶ関外交の基礎をつくったのは小村寿太郎といわれている。

  セオドア・ルーズベルト大統領の斡旋を得て、明治38年8月9日、ポーツマスの海軍工廠において非公式に講和談判予備会議が開かれた。(第1回本会議は翌10日から開かれた)

   会議の列席者は日本側が、小村寿太郎(1855-1911)、高平小五郎(1854-1926)両全権と佐藤、安達、落合の三書記官。ロシア側はセルゲイ・ウイッテ(1849-1915)、ローゼン両全権とブランソン、コロストヴェツ、ナボコフの三書記官であった。

    9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)の調印によって、ロシアは樺太全島及び遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。9月5日には「屈辱的講和反対、戦争継続」を叫ぶ群衆が、政府高官邸、交番、国民新聞社などを襲撃したり、放火したりした。いわゆる日比谷焼打ち事件である。桂太郎内閣は戒厳令を発し、新聞を発禁処分にすることで辛うじて事態を収拾した。

   とくに全権委員の小村寿太郎に対しては国民の非難が集中し、「露探」(ロシアのスパイ)と罵られ、小村邸の窓ガラスが割られ、雨戸がたたかれる日々が続いた。小村寿太郎の妻・小村マチ(小村町子)は、精神的に打ちのめされ、ノイローゼ寸前に追い込まれた。帰国した小村はホテル住まいで家族との別居を余儀なくされた。

   小村寿太郎は明治44年8月25日、桂内閣が総辞職にともない政治を引退した。小村は葉山の粗末な貸家に住んだが、わずか3月後には病に倒れた。皇太子(大正天皇)も慰問にこられたという。侯爵を授けられ57歳で没した。しかし臨終の場に小村マチの姿はなかったという。日露戦争によって日本は樺太南半分の割譲、朝鮮を支配、「満州に滲出してアメリカと対立し、ロシアは進路をバルカンに転じてドイツとの対立も激化するに至った。日露戦争の結果として、日本の国際信用は大いに高まり、その後に外貨は滔々として流入し、日本資本主義の急激な発展の要因となっている。(Portsmouth)

2022年6月 6日 (月)

宿敵

  五島慶太(1882-1952)。東急財閥を築いた電鉄王。多くの私鉄を合併・系列化し、東條内閣では運輸通信大臣にも就任した。戦後の昭和28・29年当時、五島傘下の小田急電鉄は、新宿を起点に箱根湯本まで特別車を乗り入れ、さらに小田原ー湯本ー小涌谷ー強羅を走る箱根登山鉄道を子会社として、一応、東京ー強羅間を支配下に収めた。しかも、強羅から早雲山の間にケーブルカーも開設した。ところが、そこから前面に広がる箱根観光の中心で、箱根火山の火口原湖である芦ノ湖は、宿敵・堤康次郎(1889-1964)傘下の駿豆鉄道の手中になり、その結果、五島勢の西進政策は行き詰っていた。これに対して、堤勢は、熱海を起点に五島勢が喉から手が出るほど欲しい芦ノ湖には、元箱根ー箱根町ー湖尻間に遊覧船を浮かべていた。しかし、東進政策をとる堤勢にとっても、箱根登山鉄道は大きな魅力であると同時に、越えがたい障害であった。そこで、堤康次郎は箱根権現に「我が社が占有する箱根の道路を、東急の五島慶太、小田急の安藤楢六という札付きの大悪党が、自分の会社のバスを乗り入れて勝手気儘に振る舞っている。神様、どうかあなた様のお力で、このような悪党が一刻も早く処罰されますように、伊豆箱根鉄道の従業員1167名ともども、精神をこめ、涙をもって祈願し奉ります」と願をかけた。

    とにかく、天下の難所箱根をめぐって、「ピストルの堤」と「強盗慶太」の宿敵の競争は執拗で、五島慶太は昭和34年に満77歳で生涯を閉じたが、そのとき、堤は、五島の葬儀の日にもかかわらず取材にきた新聞、雑誌記者を前に、「五島が死んで世の中が急に明るくなった。あんな悪党の葬儀なんか行くものか」と、盛大な祝杯を挙げた。一方、病魔に襲われた五島は、常に、枕元に、箱根一帯の地図を置き、深夜、眼をさますと明かりをつけて「堤奴に箱根山をとられてはだめだ」と、地図を食い入るように見つめていた。しかし、病状が悪化したとき、病院の窓からスズメの飛ぶのを指し、「俺も鳥になって箱根山にも飛んで行きたい。」と漏らしていた。

2022年6月 1日 (水)

日本名言集

1 天皇、すでに吾を死ぬとや思はすらむ(古事記)

 

  「日本武尊の研究」池田米寿 住吉書院 昭和12年

 

2 下泣きに我が泣く妻を今夜こそは安く肌触れ(古事記)

 

  「軽太子の悲恋物語考」竹野長次 学術研究 昭和31年

 

3 世間虚仮、唯仏是真(天寿国繍帳)

 

  「聖徳太子」 薗田宗恵 仏教学会 明治28年

 

4 あに天孫をもって鞍作に代へむや(日本書紀)

 

  「天智天皇」 中村直勝 近江神宮奉賛会 昭和13年

 

5 天と赤兄と知らむ。吾、もはら知らず(日本書紀)

 

  「有馬皇子を偲ぶ」 三宅瑞晃編 南部町教育委員会 昭和34年

 

6 この盟のごとくにあらずば、身命亡び子孫絶えむ(日本書紀)

 

  「天武天皇」 川崎庸之 岩波書店 昭和27年

 

7 罪なくしてとらはる。これ決定して死ぬるならむ(日本霊異記)

 

  「長屋王の願経に就いて」 川瀬一馬 奈良叢記 駸々堂 昭和17年

 

8 天下の富を持つ者は朕なり(続日本紀)

 

  「聖武天皇御伝」 東大寺編刊 昭和31年

 

9 我もし亡ぜんときは、願わくは坐して死なん

 

  「鑑真」 安藤更生 美術出版社 昭和33年

 

10  心形久しく労して一生ここに窮まれり(遺誡)

 

  「伝教大師伝」 山方石之助 壬子出版社 大正2年 

 

11 家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり(南方録)

 

  「千利休」 芳賀幸四郎 吉川弘文館 昭和38年

 

201112022154476a4

 

家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である

 

番外

政治家とは歴史という名の法廷で、裁かれる被告 (中曽根康弘)

 

 

2022年5月23日 (月)

キスの日

 本日は「キスの日」。世界中の雑学研究者たちの間でもっとも興味がそそられることの一つが接吻の起源であろう。コロナが大流行しようがいまも世界各国でおびただしい男女のカップルが顔と顔をくっつけ、唇を吸い合っている。このありふれた愛情表現について、いつ頃から、どういう風にはじまったか、詳しい研究をした人は少ない。はじめて人らしい心を持ったといわれるネアンデルタール人がキスをしたのか誰にもわからない。有名な本としては20世紀はじめにフランスで出版された『世界の接吻アンソロジー』(1911年)で、アジア・欧州・フランス・アフリカ・アメリカなど五大州の接吻と歴史が詳しく書かれている。接吻のはじまりは顔と顔をくっつけることで、未開民族のあいだでは今日でもこの風習がのこっている。ヘロドトスの「歴史」では、ペルシア人は同じ身分の者同士は挨拶の言葉を交さず、お互いに口に接吻すると書いている。「聖書」ではユダがキリストに近づき接吻しようとしたときの「裏切りの接吻」が有名である。接吻をいいあらわす語がヨーロッパ諸国で日常的な言葉になった年代は比較的あたらしい。アイルランドとウェールズでは、ポッグまたはホッグといっていたが、これはラテン語のPax(平和)のなまりだった。英語のKissはゴーへ語のkustus(味わう)が語源だとされる。イギリスでは16世紀までコッス(coss)といっていた。フランス語のベーゼ(baiser)はラテン語のbasiareのなまりで、12世紀頃から現れているが、この語を使うのは、人前では抱擁といわねばならない。近代日本人はいつキスを知ったのであろうか。それは明治になって欧米を視察したときであろう。「特命全権大使米欧回覧実記」の編著者、久米邦武(1839-1931)は謹厳痩躯で、仲間から「久米の仙人」といわれるほどの堅物であった。漢学の素養が深く、名君といわれた鍋島直正の近習として仕えていたこともあり、その推輓で、この使節団の一員に加わった。使節一行にとって旅は珍しいものの連続であったが、とりわけ男女の風俗には目を見張るものがあった。会食の後は必ずといっていいほどダンスが行われた。独身女性や人妻が他人の男と抱きあい、手を握りあって踊る姿はどうみても異様であり合点がいきかねた。また一行はボストンの港で異常な光景を目の当たりにして唖然としている。というのは同乗して英国に渡っていく男たちが、それを見送りにきた婦人としっかり抱き合って接吻し、離れない情景を見かねたからである。久米は目の置き所に困って思わずぐちる。「公衆の面前であまりに厚かましいではないか」すると西洋通の仲間がそれを受けて、「いやいやさようなものではない。彼らは公衆の中、とくに日本大使の眼前なので念入りに小笠原流の接吻をしているのだから、敬意を表して見てやるのが礼儀である」と茶化している。

 江戸時代、キスをすることは「口吸い」であるが、オランダ人のヘンドリック・ドゥーフは1815年に完成した蘭日辞典「ハルマ和解」で「KUS」の訳語として「接吻」という言葉を最初に考案した。しかし「接吻」という語は明治になるまであまり広まらなかった。聖書の翻訳でも初期は「吻接」であったがものが1888年の和訳では「接吻」に改まっている。20世紀になると外国の映画による影響も大きい。1896年のアメリカ映画「The Iwin‐Rice Kiss」ジョーンズ未亡人が接吻するという舞台の一場面が当時大きな話題を呼んだ。キスや猥褻シーンは当局の手によって何度もカットされ受難の歴史を歩む。映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストでのキス集は検閲によってカットされたシーンが甦ったことで人生の歓喜を表現している。

 

 

2022年5月22日 (日)

東京スカイツリーと浅草十二階

03_asakusa_park_ikehan Main_ryounkaku_04_l_2 Ryoun6明治のランドマーク・タワー 凌雲閣

 

  2012年のこの日、東京スカイツリーがあいにくの雨模様のなか開業した。今日一日で展望台に8000人以上の人が上った。かつて東京浅草に赤レンガづくりの凌雲閣(通称、浅草十二階)が建てられていた。(明治23年11月完成) 新潟県長岡の生糸貿易商、福原庄七という人物がエッフェル塔を真似て作ったといわれる。田山花袋は屋上にのぼりて「日本にもたんとない眺望の一つ」と絶賛している。だが明治40年になるころには人気もなくなり、塔裏手の千束町には800軒の私娼窟が形成された。関東大震災では8階から上層を跡形なく失い、陸軍赤羽工兵隊の手で爆破された。(5月22日)

 

05903 06713 Ka_074

2022年5月17日 (火)

明治政府の北海道開拓

    明治政府は五稜郭の戦がおわってまもなく、ロシアの南下にそなえて北海道(および樺太)開拓のことを決し、北海道開拓使を設置し、明治2年8月蝦夷島を北海道と改称した。北海道開拓使となった黒田清隆はみずからアメリカに渡ってケプロンらを顧問として招き、そのほか70人をこえる外国人を雇った。そしてその計画・指導のもとに、開拓計画を進めた。札幌農学校では開拓指導者が養成され、また官営工場を設けて販売の困難な農作物を購入し、加工品の製造を試みた。石炭の採掘を志し、札幌への輸送をも考慮して、明治15年、小樽ー札幌間の鉄道を敷設した。しかし、これらの努力にもかかわらず、内地からの移民は期待したほど多くはなく、開拓とくに農業開拓は遅々として進まなかった。明治7年10月に設けられた屯田兵制度は、このような事態のなかで開拓の進展をはかり、また当時失職した士族の救済を兼ね、あわせて北門防備の任務を果たそうという一石三鳥をねらったものであった。屯田兵は治安維持にもあたり、その労働によって開かれた道路・土地は少なくない。(参考:『世界大百科事典23』平凡社、5月17日)

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2022年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31