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2017年12月13日 (水)

赤穂義士銘々伝・赤埴源蔵

   源蔵は普通「赤垣」姓を以て呼ばれているが、記録などによると「赤埴(あかばね)」が正しい。赤埴源蔵重賢(1669-1703)は、信濃国飯田の出身で、祖父は赤埴十右衛門、父は赤埴一閑、母は高野忠左衛門女。源蔵は馬廻役の江戸勤番で、浅野家断絶ののちは、江戸の芝浜松町に浪宅を構えて高畠源五右衛門と称し、吉良邸の動静をさぐることに専念していた。

   「徳利の別れ」という話は後世の創作で実際の源蔵は下戸であったという。親類書によると、源蔵には兄はなく、弟妹があり、妹は阿部対馬守正邦の家臣田村縫右衛門に嫁していた。源蔵は討入りの三日前に妹の嫁ぎ先を訪れたが、あいにく縫右衛門は不在で、妹おさみと舅の與左衛門とに対面した。そのとき、源蔵は今生の別れと美服をまとっていたが、それを知らない硬骨の舅は赤穂旧臣の不甲斐なさを苦々しく意見したという。源蔵には妻子はおらず、享年は35歳。

  河竹黙阿弥(1816-1893)の歌舞伎「赤垣源蔵」(仮名手本硯高島)は、義士銘々伝の一つで、四世市川小団次の当り芸で安政5年(1858年)に初演された。明治期に入っても、「赤垣源蔵・徳利の別れ」は講談で庶民の人気をはくし、昭和の流行歌では上原敏の「徳利の別れ」(野村俊夫詩、阿部武雄曲、昭和13年)、三波春夫「元禄花の兄弟、赤垣源蔵」(北村桃児詩、春川一夫曲)などがある。

           徳利の別れ

  さげた徳利を 撫でながら

  仇を討つ日は 何時のこと

  明日は 明日はで 酔うて寝りゃ

  夢で兄者が また叱る

          *

   元禄花の兄弟 赤垣源蔵

  酒は呑んでも

  呑まれちゃならぬ

  武士の心を忘れるな

  体こわすな源蔵よ

  親の無い身にしみじみと

  叱る兄者が懐かしい

            ▽                 ▽

  迫る討入り

  この喜びを

  せめて兄者によそながら

  告げてやりたや知らせたい

  別れ徳利を手に下げりゃ

  今宵名残の雪が降る

2017年12月 8日 (金)

太平洋戦争開戦記念日

十二月八日よ母が寒がりぬ(榎本好宏)

  昭和16年12月8日。この日から何年経っても、日本人には決して忘れられない日である。この日を境に人々は戦争に巻き込まれ、多くの人々の運命が暗転した。昭和39年に集英社から刊行された「昭和戦争文学全集」の第4巻には昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品「聖ヨハネ病院にて」(1946)などで知られる作家である。この「歴史の日」でも病妻のことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

2017年12月 7日 (木)

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2   明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であった。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

2017年12月 1日 (金)

漱石先生この絵はお嫌いですか

  NHK日曜美術館で紹介されていた日本画家の木島櫻谷。若き日の作品「寒月」を夏目漱石が新聞紙上で酷評している。かなり見当違いな指摘で木島が可哀そうだ。漱石自身も絵画を嗜むものの素人の域をでず上手とはいえない。初期作品「草枕」などにも絵画への傾倒が見えるが、理屈が先行しているようで美術評論には偏向がうかがわれる。結論としては、どんなに博覧強記の学者であり、芸術家であっても必ずしも正しいとはかぎらない。日本古代史最大のミステリー邪馬台国論争においても典型がある。九州出身の松本清張は古代史ミステリーに取り組み邪馬台国の位置を推論している。没年が1992年であり、1989年には吉野ヶ里遺跡の発見があったので、おそらく清張本人は九州説には満足してあの世に旅だったであろう。しかし2009年、奈良の纏向遺跡で大型建物跡が発見され、大量の桃の種が出てきた。桃は古代、魔除けなどに使われ、これが邪馬台国大和説の有力な根拠として説かれることが多い。現在、畿内大和説を唱える学者は90%を超え、安本美典や高島忠平などの九州説や他は全体合わせても数%という状況である。もちろん多数決で決まるわけでもなく、決定的な証拠が見つかったというのではないので邪馬台国問題は未だ未解決である。しかし、偉い作家や学者さんも偏見や偏向で見誤ることがあるというのは事実だ。むしろ人間の知力の限界を知ることが大切であり、権威や偉人というブランドに迷わされないことが求められる。

映画の日

    神戸湊川神社前の高橋鉄砲店の2代目店主の高橋信治、大阪心斎橋の三木福時計店店主の三木福助がリネル商会(神戸居留地14番)を通じてキネトスコープを輸入し、神戸の料亭「宇治川常盤」で明治29年11月17日に上映したのが日本で最初の映画公開である。キネトスコープとはエジソンが発明したもので、レンズをのぞいて箱の中の動画を見る装置。

    一般の人にもキネトスコープを公開しようということで、神戸花隈の有料貸席「神戸倶楽部」が11月25日から12月1日まで興行された。馬車と自転車の競走などの簡単な映像であったが、好評だった。「12月1日は映画の日」というのは、これに因んできりのよい日という理由で昭和31年に制定されたものである。

2017年11月23日 (木)

日本人物伝・ツヌガアラシト

5109f251e335c9866cb7b07f118d34cc     崇神天皇の時代に渡来した意富加羅国(おおからこく)の王子。はじめ穴門(あなと)(長門)にたどり着き、日本海づたいに北陸の角鹿(つぬが)(敦賀)にたどり着いた。都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、アメノヒボコの別名。敦賀駅前に像が建てられている。

2017年11月20日 (月)

日本人物伝「勤皇僧・宇都宮黙霖」

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  宇都宮黙霖

  下田密航を企てて失敗し、萩の野山獄にあった吉田松陰(1830-1859)は、一人の旅の聾僧と文通を始めた。松陰より6歳年上の僧は宇都宮黙霖(1824-1897)といった。黙霖は急進的な尊王や討幕の考えを松陰にぶっつけ、松陰の尊王思想に大きな影響を与えた男である。いやそれ以上に、日本の近代の歴史を切り拓いた陰の立役者かもしれない。松陰はこれまで幕府に対して誤りを諌める考えであったのに対して、黙霖は徹底的に討幕を主張した。ある日、黙霖はほぼ100年前の山県大弐(1725-1767)の著書『柳子新論』(1760刊)を獄中の松陰に贈った。『柳子新論』の内容は幕府否定を論じ、天皇政治に復古すべきだと主張している。いまの幕府政治は、腐敗の極に達しているから、これを打倒するほかはないというのである。この書を読んで松陰の考えはついに討幕論にまで達する。松陰と黙霖との文通は1年余り続いたが、出獄後も、松陰が幽囚の身のため二人が会うことはついになかった。

    宇都宮黙霖は安芸国長浜(現在の呉市)の生まれ。俗名は真名之介。僧名は覚了、黙霖、雪卿と号した。還俗後は、宇都宮雄綱、字を絢夫という。苦労して神道、儒教、仏教を学び、その後、尊王思想を確立する。萩に出かけた際に松陰の獄中記『幽囚録』を読み、感激する。月性の紹介で、野山獄にいた松陰と文通を始めた。安政の大獄で逮捕されたが、僧だったので釈放された。釈放後も長州藩士と行動し、第一次長州征伐の際、再び捕らえられ投獄され、明治2年になって出獄。明治4年勤王の功により士族となり、大阪府貫属(地方官の一つ)となる。のち、湊川神社、石清水八幡宮(男山八幡宮)の神官を歴任、明治10年ごろ隠退し、余生を『大蔵経』の和訳に捧げ、明治30年、74歳で没した。(布目唯信『吉田松陰と月性と黙霖』 興教書院 昭和17年)

2017年11月17日 (金)

「千字文」伝来考

0f3bb3e9cbe9fdfaab7192fd4c9e75f7     わが国の古い伝承で漢籍について述べられているものは「古事記」の応神天皇の条に16年(紀元285年)に百済の国の和邇吉師(王仁)が「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという記述がある。また「日本書紀」の応神紀には、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇太子が王仁について漢文を習ったと記されている。今日これらを史実と考える研究者はあるまい。中国ではまだ「千字文」は成立しておらず、南朝の梁の武帝(464-549)が周興嗣(470-521)につくらせたものである。だが王仁は帰化人として日本に滞在していたと考えられ実在の人物とみなされている。「千字文」を伝えたとするならば6世紀初めの人と考えられる。千字文の一節「散慮逍遥」を書いた木簡が出土している。日本に伝わった「論語」10巻が梁の武帝のとき編纂された「論語義疏」と思われる。つまり王仁は4世紀の人物ではなく6世紀の人と考えられる。王仁に関しては謎に包まれているが、記紀に見える王仁が、朝鮮側の古記録には見えない。「海東繹史」(18世紀末)になって初めて王仁の記述が見える。韓国全羅南道の霊岩に王仁の生誕伝説と遺跡が伝えられる。

千字文十種 全14巻 平凡社 1936-1937
評釈千字文 岩波文庫 山田準・安本健吉註解 岩波書店 1937
千字文詳解 増訂 伏見沖敬 角川書店 1983

2017年11月 2日 (木)

東西交流とガラス

Photo     ガラスの起源はエジプトやメソポタミアの古代文明が最も古いが、中国にも西周時代ものが出土している。表面の釉薬は融けてガラス化しているが、内部の胎は完全にガラス化していない、液玉、ファイアンスfaienceと呼ばれる珠である。春秋時代の珠も出土している(画像)。ファイアンスは不完全なガラスといえる。3世紀の邪馬台国時代、北九州の三雲、井原遺跡からファイアンス珠が1個だけ出土している。井原遺跡は伊都国があった地と考えられる。中国で作られたものであるか、遠く西アジアで作られたものであるのか。東西交流と日本との関係を示す数少ない貴重な文物といえる。

Yjimage08770754   5世紀になると東西交流はシルクロードを通じてさらに盛んになった。先ごろ、奈良県橿原市の新沢千塚古墳群で出土したガラス皿の化学組成が、ローマ帝国領内で見つかったローマ・ガラスとほぼ一致したという。遠方の起源の異なるガラス器が5世紀の日本に伝来を示すもので、幅広い東西交流がおこなわれ、文化の発展も、もたらされた。(世界史)

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2017年10月14日 (土)

諸説あり!佐々木小次郎の実年齢

F8b1ded5   木村拓哉「宮本武蔵」のライバル佐々木小次郎には沢村一樹(46歳)が演じた。美丈夫のイメージがある小次郎が武蔵より年長とは異例のキャストである。吉川英治の小説「宮本武蔵」での佐々木小次郎の描写は「前髪に紫の紐をかけ、派手やかな小袖へ、緋らしゃの胴羽織を纏っているので、少年として見えるものの、年齢のほどは、少年という称呼には当てはまるかどうか、保証のかぎりではない(中略)まず19か、20歳というところではなかろうかと思われます」とある。以後、多くの映画・ドラマの小次郎像は長身の美少年である。熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では巌流島の決闘時の年齢は18歳であったと記されている。しかしながら小次郎は越前の中条流の富田勢源の門人であったという。勢源は晩年には眼疾で弟の富田景政が家督を相続したが、小次郎は景政と試合をして、見事勝っている。諸国を修行し、燕返しの剣法を案出し、増田長盛によって豊臣秀吉に仕えようとしたが、うまくいかず、結局、豊前小倉の藩主細川忠興に仕えるようになった。つまりこれらの出自から逆算すると、天正時代にはすでに成年になっており、宮本武蔵より30歳ぐらいは年長であると考えられ、江戸時代の絵草子では佐々木小次郎は髭をたくわえた豪傑として描かれている。『二天記』の年齢記述は誤りで、実際には70歳くらいではなかったかといわれている。つばめ返しをあみだした場所にも諸説ある。吉川英治は小説で山口県の錦帯橋としているが、『二天記』によると、越前東尋坊の高善寺近くの一乗滝で、つばめ返しをあみだしたとしている。

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