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2019年8月15日 (木)

終戦記念日

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    本日は74回目の終戦記念日。昭和20年8月15日の朝、陸軍大臣・阿南惟幾は「一死、大罪を謝し奉る」と書き残し割腹自殺を遂げた。阿南は鈴木貫太郎内閣の陸相となり、本土決戦論を主張。ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件つき受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立した。渥美清のドラマ「泣いてたまるか」で「ああ、軍歌」。ある会社員が宴会で上司から軍歌を無理やり歌わせられるが、どうしても軍歌は歌いたくないと拒んで、周囲から冷たくされるという話。昭和37年ごろから数年間、回顧調ブームが起こりさかんに軍歌が歌われた。いまではほとんど軍歌を聴くことはなくなった。

2019年8月14日 (水)

日本のいちばん長い日

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   阿南惟幾            大西瀧治郎               宇垣纏

 

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将(1891-1945)が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。大西は特攻攻撃の発案者の一人だった。

    敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。主な軍人の自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

2019年8月10日 (土)

和同開珎は「かいほう」か「かいちん」か?

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 銭字の配列順が「開元通寶」と異なる

  708年のこの日、和同開珎を鋳造した。皇朝十二銭の第一・和同開珎。政府はこの貨幣を流通させるため711年に蓄銭叙任令(多くの貨幣をたくわえた者に官位をさずける)を発布したが、地方にはあまり広まらなかった。和同開珎は近年、富本銭の発見によって、最古の貨幣ではなくなったが、富本銭の流通範囲は限られていたため、和同開珎の歴史的存在意義は揺らぐことはない。だが長年にわたる論争の決着はいまだ着いていない。江戸末期から明治にかけては、「わどうかいほう」と読んでいたが、近年は「わどうかいちん」が優勢である。元来、唐の開元通寶を模したため、「珎」は「寶」の通字と考えられていた。また「和同」についても、年号の「和銅」の省略説と、中国古典から採った吉祥語とする説があって、年号から採ったとする根拠は低い。たとえば論語の説く「君子は和して同ぜず」に由来するという説もある。奈良朝の貴族が論語を歓迎していたとする。奈良時代の人々は珍の通字「珎」と寶の省文「珎」を、巧みに識別したのでこんな混乱が現在まで起こっているのであろう。近年では「わどうかいちん」説が優勢となっている。(8月10日)

2019年8月 9日 (金)

佐久間艦長の遺書

   福井県若狭町にある佐久間記念交流会館には海軍軍人、佐久間勉大尉の日記や遺品が展示されている。明治43年4月15日、佐久間大尉を艦長とする第6号潜水艇は山口県新湊沖で事故が発生。遭難の翌朝、引き揚げられた第六潜水艇には、乗組の佐久間大尉以下14名全員すでに殉職していた。潜水母艦「豊橋」に安置された艦長のポケットに発見された一冊の手帳には、沈没の原因、処置、その他が細かく記され、これが佐久間艦長の遺書として、後世にまでながく伝えられることとなった。この遺書の全文が、当時の全国の新聞が掲載されたとき、海軍当局は、潜水艇乗組員の士気の喪失を心配したが、反対にかえって若人の士気を鼓舞し、その後、潜水艇勤務を熱望する者が多くなったといわれる。

 

 

 

右と左のはなし

Statue06  西洋諸国では右は善で、左は悪という考え方があった。英語のrightは、右、正しい、まっすぐな、健康な、という意味がある。ニューヨークにはある自由の女神は右手に松明を持っている。インドやインドネシアでは、物を手づかみで食べるが、必ず右手を使い、左手は不浄の手で、排泄の処理に用いる。フランス革命後の議会で、議長席から見て左方の席に急進派がすわり、右方に保守派がすわったことから、急進主義者、のちには社会主義者・共産主義者を左翼と呼び、保守的・国粋的な思想の持ち主を右翼と呼ぶようになった。

   中国では左右の何れを上位とするかは時代によって異なるが、先秦時代は左を尊んだとされ、漢初まで続いた。「左袒」とは加勢すること。「劉氏のためにつくしたいものは左袒(左肩を脱ぐこと)せよ」の故事から生まれた。漢代より後になると、右を尊び左を卑しむ観念が生まれた。漢語「座右」「左遷」はこのころの故事。「旡出其右」(その右に出る者がいない)。六朝になると官職に関しては左を上位とするようになり、唐に入るとより一層広く左が尊ばれた。

    日本でも唐代中国の影響を受けて左を上位とするようになり、左大臣、右大臣の官位が生まれた。お雛様の段飾りに「右近の桜、左近の橘」がある。つまり雛壇に向って右側が桜、左側が橘である。東西南北の方位で言うと、東が桜、西が橘。男雛は橘の側の左に座ることになる。奈良時代後期から平安時代にかけて左大臣は藤原氏が独占したが、醍醐天皇の時代、左大臣藤原時平の讒言によって右大臣の菅原道真が大宰府に左遷されたのは有名な話である。

  また左右は伝統的な決まりごとがつくられた。たとえば配膳作法。左前にご飯を置くのは左側の上位の思想からくるものである。しかしながら通例、左をあまりよくないたとえに使われることが多い。芸者のことを左褄(ひだりづま)といい、花嫁は右褄。飲酒家を左党というのは、大工が左手で鑿を持つことから「鑿手」(のみて)のシャレからきている。会社の経営状態が悪くなることを「左前になる」という。これは死に装束が「左前」であることから、死に体に通じるからである。

 

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(参考:「今さらこんなこと他人には聞けない辞典」 KKベストセラーズ)

2019年7月28日 (日)

千姫の輿入れと巷説坂崎出羽守

   第2代将軍徳川秀忠の長女・千姫は、1603年のこの日、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。千姫の半生は戦国の姫の中でも小説・映画などでトップクラスに多くあるが、史実からほど遠い作品ばかりである。なかでも大阪城落城の件は物語的である。大阪夏の陣で炎につつまれた大阪城からの千姫救出作戦の時、家康は姫を助けた者に妻として与えることを約束した。坂崎出羽守(直盛)は無事に千姫の救出を成し遂げた。しかし千姫は出羽守を嫌って、本多忠刻に嫁ぐことになった。出羽守としては約束を違えられて武士としての面目がたたなかった。 

   元和2年(1616)、本多忠刻と再婚のため江戸から桑名に向かおうとしたさい、出羽守は千姫の輿を奪おうと謀ったが、失敗し自害したという。この逸話は史実と巷説とが混在するが、坂崎出羽守は「愛のために死す」武将とてその名を後世に残すことになった。(7月28日)

 

2019年7月12日 (金)

鎌倉幕府の成立

500_10881307   治承4年(1180)、源頼政は、後白河法皇の皇子以仁王の令旨を奉じて挙兵したが、宇治で敗死した。しかし、以仁王の名で発せられた平氏討伐の令旨は、諸国の源氏が挙兵するきっかけとなり、以後10年間、全国的な内乱となった。これまで源平の合戦となど言われてきたが、実はそれだけにとどまらない。源氏の中でも頼朝と義仲、義経のように、互いに対立した。このように対立関係も多様なので、最近では1180年から1189年の頼朝による奥州平定までの戦いを「治承・寿永の内乱」と呼ぶようになっている。

   では本格的な武家政権である鎌倉幕府の成立はいつであろうか。古くから建久3年(1192)7月12日、頼朝が征夷大将軍に任命されたときする説があり、近年、「山槐記」に頼朝の征夷大将軍任官の記述も発見された。これは幕府という語の意味に着目したものであるが、現在では1192年説をとなえる学者は少ない。軍事政権としての幕府が成立した過程が問題となり、さまざまな説がみられる。

   そのなかでも、文治元年(1185)11月、守護・地頭の任命権を獲得したときを幕府の成立とみる学者は多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配権を強調してみるならば、寿永2年(1183年)10月宣旨を重視する学者もいる。これはこれは頼朝が、北条時政を上洛させて、義経の追捕をせまり、それを口実として、諸国に惣追捕使(のちの守護)・地頭(国地頭)を任命する権利と一反あたり5升の兵糧米を徴収する権利などを獲得した時期である。このように鎌倉幕府創設年代は諸説あり、「鎌倉幕府1192年成立」として覚えるのではなく、「1185年は守護・地頭設置」といように、具体的史実を中心に年代をまとめておく。歴史は単なる暗記物ではなく、歴史的事実のうえに立って構成していくものである。

 

 

2019年7月11日 (木)

仁徳陵の被葬者は仁徳天皇じゃないの!?

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 仁徳陵出土の埴輪女子頭部 宮内庁所蔵

 大阪府堺市にある仁徳天皇陵が世界遺産に登録された。日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵だが正式には堺市、羽曳野市、藤井寺市の三市にまたがる44基の古墳で「百舌鳥・古市古墳群」と呼ばれる。百舌烏の地には仁徳、反正、履中の3天皇陵が存在する。これまで仁徳陵から出土した宮内庁が保管している埴輪などを検討すると履中陵より新しい可能性がでてきた。つまり考古学的な調査からいうと、履中陵→仁徳陵→反正陵の順で築造されたことになる。真実を明らかにするためには、古墳を調査すればよいのだが、宮内庁は認めていない。仁徳天皇陵から明治年間に出土した人物形埴輪の頭部は、島田髷に似た髪型をしているが、これらは5世紀後半に当る埴輪編年Ⅳ期の特徴を備えている。仁徳陵は5世紀中頃と思われ、履中陵と同時期とする説もある。現在、教科書などでは仁徳天皇陵という呼び名はせずに、大仙陵古墳としている。

水戸黄門の「黄門」とは何か?

   今日は映画やドラマで知られる「水戸黄門」のモデルとなった徳川光圀の誕生日。どうして彼が「水戸黄門」「黄門さま」として庶民に親しまれてたのか知っている?当時は、老中や若年寄などの幕府の官職のほかに、京都の天皇からもらう官職があった。光圀が天皇からもらったのは、中納言という官職で、この別称が「黄門」である。つまり光圀だけでなく歴代の水戸藩主は全員水戸黄門である。広辞苑の説明によれば、「唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう。中納言の唐名。」とある。映画やテレビでは助さん格さんを連れて旅に出たことになっているが、実際には、諸国はおろか、ほとんど旅に出ることはなかった。学問好きの光圀は「大日本史」の編纂事業に専念していた。(7月11日)

 

 

2019年7月10日 (水)

登呂遺跡と板付遺跡

150737582_624_v1352459826   死ぬまでに一度訪れたいところはどこだろうか?ナポリでも吉野ヶ里でも箸墓古墳でもない。それは登呂遺跡だ。戦後の小学生が敗北感で打ちひしがれていたとき勇気を与えてくれたニュースが3つある。「フジヤマのトビウオ」の古橋広之進の水泳での活躍。湯川秀樹の日本人最初のノーベル賞。そして静岡市にある弥生時代後期(1世紀)の村落遺跡、登呂遺跡である。1943年に発見され、戦後1947年の7月10日に本格的な発掘調査が行われた。竪穴式住居、高床式倉庫の遺構が検出された。画像はゆるキャラのトロベー。だが現在では水田跡は板付遺跡(福岡市)や菜畑遺跡(唐津市)のほうが古いとされている。稲作初期の集落は北九州にありそうだ。水田稲作は弥生時代に始まると小学校で教わったが、1978年に板付遺跡の縄文地層から稲作の跡や木製農具、石包丁などが発見され、縄文晩期から水田は始まっていたと考えられるようになっている。その真偽はいまだ論争は続いているが、日本の初期の集落であることに間違いなく、重要な遺跡の1つである。でも今の小学生は可哀そうだ。覚えないといけないことが一つ一つと増えてくるからだ。1980年には、唐津市の菜畑遺跡で板付と同じ年代の水田が見つかり、木製の鍬や鋤が出土した。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は外敵に備えて周囲を囲った環濠集落として重要であろう。そして板付遺跡。縄文時代末期に、大陸から稲作が伝わり、稲などの作物の栽培による安定した定住生活へと変化したとちゃんと理解しているのだろうか。

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