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2020年3月29日 (日)

八百屋お七と「丙午」

Edfa5806   本郷駒込にある天台宗円乗寺(文京区白山)に八百屋お七(1668-1683)の墓がある。天和2年(1682)12月の大火で家が焼け、菩提寺の円乗寺に避難したが、そこで小姓の山田左兵衛と恋仲になった。やがて家は再建されて戻ったが左兵衛会いたさに付け火をした。放火の大罪でお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた。ところで、お七の恋人の名は、山田左兵衛(近世江都著聞集)説のほか、生田庄之介(天和笑委集)など諸説ある。だが井原西鶴を参考にした小野川吉三郎の説をとるものが多い。NHKドラマ「あさきゆめみし」では木下順庵から儒学を学ぶ吉三郎という名になっている。お七は「丙午」生まれで、気性が激しく夫の命を縮める、という江戸時代からの迷信があり、明治39年、昭和41年には出生率が激減した。次回の丙午の年は2026年、令和8年である。

 

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 八百屋お七の墓

2020年3月27日 (金)

唐人お吉とハリス

Harris_townsend   ペリーは、日本の鎖国を開国へ導いたことで知らない人はいないほど有名であるが、1854年の日米和親条約は鎖国をとく条約として小学校で習うが、実は通商のことが決められていないので、まだ開国していないとする学者も多い。本当の開国は4年後の1858年6月ハリス(画像)の日米修好通商条約の締結によってである。主な内容は、①神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市②自由貿易許可③別冊貿易章程による関税納付(関税自主権欠如)④領事裁判権の許容⑤居留米人の遊歩区域設定(開港場の10里四方)、という条項を含む不平等条約であった。

   幕末で初代駐日総領事タウンゼント・ハリス(1804-1862)は唐人お吉との悲話で知られるが、それは50歳代以降のことであり、アメリカでは教育委員として活躍した人であることは日本でほとんど知られていない。ハリスはニューヨークのサンデーヒルの貧しい家に生まれたが、公共図書館を利用して独学で語学を習得し、その苦学時代の経験を通じて、教育行政に関心をもった。1846年にニューヨーク市の教育局長となり、授業料の無料化や貧困家庭の子供たちの向上に尽力した。現在もニューヨーク市立大学シティカレッジ図書館には、ハリスが日本駐在時に作らせた星条旗や書簡が保存されている。幕府が夜伽女性として派遣した斎藤きち(1841-1890)はハリスはわずか3日で解雇しており、唐人お吉の物語は作り話である。

   お吉はかつての恋人又五郎(鶴松)と同棲。冷たい世間の噂のため酒と博打におぼれ、それが原因で離婚し、又五郎は急死。お吉は1872年から下田で小料理屋を開いたが酒癖が昂じて失敗し破産する。1890年3月27日、稲生沢川(静岡県下田)に転落して水死した。(Townsend Harris   )

2020年3月22日 (日)

日本の正しい読み方は、「二ホン」か、それとも「ニッポン」か?

  壬申の乱とは大友皇子(天智天皇の子・弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟・天武天皇)との間に行なわれた皇位継承をめぐる争乱。672年、吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、坐して死を待つよりは、東国で兵を集めて近江方と決着をつけようと、妃の讃良皇女(持統)らを伴いあわただしく吉野の宮を出ていった。

   吉野を脱出した大海人皇子は美濃に本拠をおき、大軍を近江・大和にくり入れた。1ヵ月に及ぶ決戦ののち近江朝廷方は敗退し大友皇子は山崎で自害、大海人皇子は飛鳥に帰り浄御原宮に即位し天武天皇となった。673年2月のことである。なお、「天皇」「皇后」号や「日本」という国号も、このころ定められたとする学説が有力になっている。701年に制定された大宝律令によって「日本」が明文化される。東洋史家、愛宕松男は「天皇という一見日本独自の元首号も、じつは唐の第三代皇帝たる高宗の尊称を襲用したものと推定できる」と説いている。

   このころは「日本」と書いて「やまと」とか「ひのもと」と読んでいたが、やがて漢字の知識が広がり、「にほむ」と発音するようになる。江戸時代はハヒフへホをファフィフフェフォと発音し、「ニフォン」はあるが「ニホン」という発音はなかった。「ニホン」「ニッポン」と両方の読み方が定着したが、1934年3月22日に文部省国語調査会が国号の読みを「ニッポン」にする案を政府に提出したが、ついに法制化には至らなかった。その後、1970年7月14日には日本の呼称を「ニッポン」に統一することが閣議決定されている。しかし一般に浸透せずに終り、2009年麻生内閣のときは「ニッポンまたはニホンという読み方はいずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」と答弁している。つまり、どちらの読みでもよいとされる。

 

「ニッポン」とする例
日本橋(大阪)
日本鋼管
日本放送協会
日本銀行
日本共産党
日本教職員組合

 

「二ホン」とする例
日本海
日本橋(東京)
日本郵船
日本学術会議
日本棋院
日本大学

 

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2020年3月10日 (火)

奈良時代の都と地方

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 小野市「広渡廃寺跡復元伽藍模型」

 710年のこの日、元明天皇が藤原京から平城京に都を移す。仏教によって国家の安定をはかる鎮護国家思想は奈良時代の特徴である。

仏教の広がり

    聖武天皇(701-756)は天平13年には国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けることにした。大仏造立などの大事業も、その仏教信仰に基づいたものである。造立時の大仏は表面が黄金で覆われていた。昭和48年から50年にかけて兵庫県小野市で記録にない古い廃寺跡が発見された。7世紀後半頃に建立された古代寺院跡で現在の地名から広渡廃寺跡」(こうどはいじあと)と呼ばれている。(小野市広渡町304-1)東西両塔、金堂、講堂などが確認され、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であったことが明らかとなっている。

平城京と貴族の生活

    平城京が唐の長安や北魏洛陽城を模倣したものであることは、むかしから言われてきたが、近年の研究によれば、藤原京の発展したもので、直接長安を模したものではないとする考えもある。しかし続日本紀に、「帝王が都を作って壮麗でなければ万国の使者をいかんせん」とあることから、中国を意識していたことは明らかである。ただし、異民族の侵入を防ぐのが第1の目的であった中国の都城に対して、日本の都は軍事的色彩の濃いものではなく、きわめて政治的な都市であった。

地方と人々の生活

   全国の国々は畿内(大和・河内・和泉・山城・摂津の五畿内)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に分けられた。諸国はさらに国・郡・里(郷)の地方行政組織に編成されていた。中央と地方を結ぶ交通制度としては、都を中心に畿内から七道の諸国に向かう官道が整備され、約16㎞ごとに駅家を設ける駅制度がしかれ、役人が公用に利用した。各地で一定の規格の道幅(6-12m)をもって直線的に伸びる古代の官道遺跡が発掘調査により発見されている。(3月10日)

2020年3月 3日 (火)

井伊大老の死

 万延元年3月3日のその朝、彦根藩邸に、浪士襲撃を密告した手紙が投げ込まれたという。その文面は、水戸脱藩浪士の暗殺計画にふれ、警戒するよう忠告してあった。直弼は、水戸浪士が自分の命を狙っていることは承知していたが、自分の胸にしまったまま家臣にももらさず、登城の駕籠に乗り込んだ。供廻りの人員は規定どおりの数である。徒歩が26人、それに足軽、草履取り、駕籠かき含め、総勢60余名。そのうち最後まで大老の駕籠を護って奮戦したのは8名にすぎない。まったく無傷のものが8名もいて、このものたちは、浪士襲撃と見るや、「一大事でござる」と叫びつつ、藩邸へ駆けつけ注進したのはよいが、どこか隠れたり逃げたりして、事件後、どこからともなくあらわれ、同僚の死体の整理にあたっている。譜代大名のうちでもその威名を天下に知られたほどの彦根35万石の大藩・井伊家自体が、これほどにおとろえていたことをみるべきだろう。

   井伊直弼は駕籠に乗ったまま討たれ、その討たれ方に、銃撃を腰に受けて動けなかったとする説と、死を天命として受け入れたとする説がある。最初に駕籠目がけて斬り込んだのは、稲田重蔵であるが、直弼の首級をあげたのは有村次左衛門といわれている。その間わずか3分ほどの暗殺劇だった。吉村昭の「桜田門ノ変」によると、「有村次左衛門と広岡子之次郎が、濠の方から駕籠に走り寄り、刀を突き入れるのを見た。鉄之介には、駕籠でさえぎられて見えなかったが、有村が扉をひらいたらしく、うずくまって肩をしきりに動かしている。その動きに、やはり駕籠には井伊大老がいて、稲田(重蔵)の体あたりで致命傷を負い、外に出られなかったのだろう、と思った。(中略)有村が再び叫んだ。その顔には泣いているとも笑っているとも判じがたい異様な表情がうかんでいる。刀の先の首を見つめた鉄之介は、遂に井伊大老の首級をあげたのだ、とかすんだ意識の中で自分に言い聞かせた」と関鉄之介の日記をもとに描写している。

  有村、広岡はその後、重傷をうけて自害した。関は文久2年に斬首されている。(3月3日)

2020年2月28日 (金)

千利休死因の諸説

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   千利休画像 表千家蔵

 茶人・千利休の1591年の忌日。利休が豊臣秀吉によって処罰され、切腹を命ぜられた原因については、古来からさまざまな異説が唱えられている。ながでも有名なのが、利休の娘が秀吉から側室に所望されたが、これを拒絶したために、秀吉の怒りに触れたとする説である。天正17年2月のこと。豊臣秀吉が京都の東山に鷹狩に出かけ、黒谷のあたりを通りかかると、花見の帰途らしく、30余りの年ごろの女房が、乗り物を供のものに持たせ、幼子を三人と男女のもの10人ばかりを連れて歩いて来るのに出会った。秀吉はその女房の美しさに心をうたれて、「何者の妻女であるか」といって、供の家来に尋ねさせると、「千利休の娘で、万代屋の後家である」と言上した。秀吉は彼女のもとに使者をつかわし、「聚楽第へ奉公に出頭せよ」と命じた。しかし、「幼少の子どもがたくさんいるので、ご容赦くだされたい」と、辞退してきた。そこで秀吉は、京都奉行の前田玄以を、かの女房の父、利休のもとにつかわし、娘を奉公を出すように命じた。すると利休は、「わが娘をご奉公に出したのでは、利休めは何事も娘のおかげでしあわせがよいのだと、人びとに評判される。そんなことでは、これまでの佳名も水泡に帰する」と、覚悟を決め、秀吉の申し出をきっぱりと拒絶した。それでも、秀吉は三度まで執拗に娘を所望してきた。しかし、利休がついに承諾しないので、秀吉は、利休のことを深く憎んだ。が、このようなことで利休を罰したのでは、人のうわさもどうかと、秀吉も考慮し、さすがに思いとどまっていた。しかし秀吉は、もしも利休に何か過ちがあったならば、それを好機に誅伐しようと、心中に考えていた。だから、大徳寺山門の金毛閣に利休が雪見している姿の木像を安置したことを知ると、さっそく、そのことを罰状として、利休を処罰した、というのである。   千利休には、千紹二の妻、石橋良叱の妻、万代屋宗安の妻、三人の娘がいた。この秀吉と利休の娘の事件は、次女であるとも、末女であるともいわれ、はっきりしない。海音寺潮五郎の「天正女合戦」や今東光「お吟さま」では、利休の娘は「お吟」となっている。つぎに、利休がキリシタンであり、改宗しなかったため、秀吉に処罰されたという説がある。また、利休が秀吉の朝鮮出兵に反対したためとする説もある。(2月28日)

 

 

2020年2月25日 (火)

菅原道真の怨霊伝説

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   菅原道真は901年太宰府に左遷され、2年後、2月25日、59歳で薨死した。道真の死後、天変地異が多発したことから、無念の死をとげた道真の崇りだと人々が考えた。時平が909年に早世し、923年には醍醐天皇の皇太子が夭折し、930年に醍醐天皇が46歳で崩御した。 事態を重く見た朝廷は、道真の霊を鎮めるため、子孫を京都に呼び戻し、官位を追贈したほか、京都に北野天満宮を創建し、王城鎮護の神として祀るなど、道真への敬意を表わした。この名誉回復の結果、道真一族は、五男淳茂、長男高視の息・文時が文学博士となった。中世となると、菅原氏は紀伝道を家業とし、明治になると子爵を授けられ、一族は繁栄した。配流の地で悲運の死を迎えた道真が、毎日恩賜の御衣を捧持して君恩を忘れなかったという話は、学校教育の場で忠臣の姿として称賛され、広く知られる。

 

 

 

 

2020年2月24日 (月)

誠忠・児島高徳の墓

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 「児島高徳」 羽石光志画

 

    児島高徳(生没年不詳)の実在性には疑問はあるが、備前の人、本姓は三宅、備前守範長の子といわれる。

    後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、児島高徳は舟坂山や杉坂で救出しようと企てたが果たせず、せめて自分の覚悟なりともお知らせしたいと美作院庄(岡山県津山市)の宿所に潜入して、庭の桜の大木の皮を削って詩句を書きつけた。

 

天勾践を空しゅうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず。

(天よ、どうか後醍醐天皇をお見捨てなきよう。天皇も范蠡のような忠臣がここにおりますことをお信じ下さい)

   翌朝、警護の武士たちが見つけて騒いでいたが、天皇はその意味がお分かりで、快げにお笑いになったという。

    1333年2月24日、児島高徳は、天皇が隠岐を脱出して船上山で旗を揚げると、一族を率いて馳せ参じ、千草忠顕や新田義貞に属して各地に転戦した。正平7年、兵を集めて入洛を企てたが、失敗した。戦いに敗れて剃髪し、志淳と称したというがその後の消息は分からない。現在、鳥取県米子市の涼善寺(岩倉町99)に児島高徳の小さな墓がある。

 

 

 

 

2020年2月23日 (日)

金印が志賀島で発見される

   1784年のこの日、福岡県の志賀島で農民甚兵衛が、福岡藩の郡役所に田から掘り出したという金印を持参、口上書とともに提出した。金印は後漢初期の一寸にあたる約2.3㎝四方、重さ109g、少量の銅を含む21金で、「漢委奴国王」の5文字が刻まれている。これは、西暦57年に「倭奴国」が後漢に朝貢し、皇帝である光武帝から「印綬」を賜わったという後漢書東夷伝の記事と照応する。2月23日

2020年2月16日 (日)

女性天皇

日本は過去、歴代126人天皇の中で、8人10代の女性天皇が在位した。推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳、明正、後桜町天皇である。ただし斉明天皇は皇極天皇の、称徳天皇は孝謙天皇の重祚。つまり同一人物である。

 

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