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2022年1月18日 (火)

応仁の乱 その概要

 1467年から1477年の11年間にわたり、関東以東および南九州を除く諸国の大小名が、細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)とに分かれ、京都を主戦場として戦った大乱。原因は室町将軍義政は奢侈を好み、政治は夫人の日野富子やその閥族、政所執事の伊勢貞親や禅僧李瓊真蘂らの寵権臣のなすがままに動かされていた。義政は管領の斯波、畠山両氏や大名家の家督相続争いの裁許にも厳正を欠き、ために領国内両分の武力抗争にまで発展していった。政治紊乱に乗じて土一揆が類発し、おりから連年の旱水害で続出した難民が京都に流入するなど、社会不安も増大して京畿は戦雲におおわれた。始まりは、1467年1月18日、畠山義就が京都・上御霊社の畠山政長を襲い、応仁の乱が始まった。その後、将軍家に継嗣問題がおこり、細川、山名をそれぞれ盟主とする両党が形成されて中央決戦となった。勝元は宗全追討を将軍義政に強請し、1468年6月8日に足利義視を総大将とする追討軍を編成したが、山名方も畠山義就軍が到来し、8月には長門の大内政広の大軍が入京したので勢いづいた。ここで勝元は後土御門天皇、後花岡上皇を迎えたが、義政が伊勢貞親を召したのに動揺した義視が出奔してしまった。かくて9月から山名方の将軍家奪還の戦いとな、10月に相国寺の激戦がおこった。これが互角に終わり、応仁の乱は長期戦化する。1473年、持豊、勝元が相次いで死去するに及んで京都の戦火は下火となり、斯波義廉がまず領国に帰ったのをきっかけとして、諸守護大名は単独にに講和して帰国するものも現れた。1477年11月、大内政弘が義政に懐柔されて右京太夫に任ぜられ所領を安堵されて帰国するにおよんで中央の戦争は終幕を告げた。この乱の結果、室町幕府は完全に無力を暴露し、もはや全国的政権の実を失うことになる。また多くの守護大名たちも戦国の争乱の中で滅んでいった。

 

 

 

 

 

2022年1月13日 (木)

源頼朝没す

  1199年のこの日、源頼朝死去す。享年51歳。前年12月27日の相模川橋供養の際に落馬したのが原因といわれている。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」主役・北条義時は小栗旬が演じ、頼朝は大泉洋。これまで大河ドラマでは過去6人が頼朝を演じている。「源義経」(1966年)は芥川也寸志、「新平家物語」(1972年)は高橋幸治、「草燃える」(1979年)は石坂浩二、「炎立つ」(1993年)は長塚京三、「義経」(2005年)は中井貴一、「平清盛」(2012年)は岡田将生がそれぞれ演じた。頼朝の容貌は「顔大ニシテ、たけ低く、容貌花美ニシテ、景体優美也」(源平盛衰記)とみえる。大河では痩身タイプが多い。現代の日本社会でも、武士の評価は高く、政治家や企業経営者のなかには、前近代の武将に、その模範を見出す人が多く、お手本となる人物である。しかしながら政略家で、また容赦なく弟の義経を殺そうとしたりして、狡猾・陰険なイメージがあるため、いまイチ人気は高くない。大泉頼朝はとぼけていてつかみどころがない。(1月13日)

 

 

2022年1月 3日 (月)

鳥羽・伏見の戦い

 1868年1月3日。午後4時ごろ、幕府軍の別働隊は鴨川を渡り入京しようとした。薩摩軍は渡河を認めず、ここに鳥羽の戦いが始まった。鳥羽から5㎞東の伏見でも、朝からにらみ合いが続いていた。こうして鳥羽・伏見で全面的な戦いが勃発した。薩摩・長州軍は支援の安芸藩・土佐藩をふくめ約5000人ほどの兵力で幕府軍にくらべ3分の人の兵力にすぎなかったが、大砲・小銃の装備にすぐれており、幕府軍が用いたゲーベル銃に対し、薩摩軍が用いたのはアメリカ製スペンサー元込銃などの新式銃であった。翌4日には薩摩・長州軍の優勢がはっきりする。こうして始まった戊辰戦争は、これから1年半に及ぶことになる。

 

 

2021年12月30日 (木)

勘太郎を殺した板割浅太郎

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   松竹キネマは新国劇「国定忠治」を題材に初のトーキー映画「浅太郎赤城の唄」を昭和9年に公開するや、映画主題歌である東海林太郎の「赤城の子守唄」が、流行歌の時代の到来を告げる大ヒットとなった。ただし新国劇では忠治の子分は定八や巌鉄だったが、脇役の板割浅太郎が、この映画では主役に昇格している。また、浅太郎に殺されたはずの勘太郎も生きて登場するし、浅太郎が勘太郎を背負って「赤城の子守唄」を歌って聞かせる場面がある。当時の人にとっては、かなり斬新な解釈の映画であり流行歌(作詞は佐藤惣之助という新感覚派の詩人)だったにちがいない。

   そもそも勘太郎の父というのは、博徒で目明しを兼ねた二足のわらじの男で中島勘助といい、浅太郎の叔父にあたる。浅太郎は勘助と内通していたと忠治に疑われ、その証のために勘助と勘太郎親子を斬るはめになる。伊勢崎市には勘助・勘太郎の墓がある。

   講釈師がいたいけな子供が犠牲になった事実をまげて語ったところ、大いに聴衆に受けたことが発端となり、その後「赤城の子守唄」の大ヒットで、浅太郎が勘太郎を背負って赤城山に登ることが定着する。東海林太郎の浅太郎、高峰秀子の勘太郎という芝居まで上演され大評判となった。

   浅太郎はその後、『赤城録』に「浅梟首」とあり、捕らえられて晒し首にされたとなっているが、浅太郎は逃亡の後、仏門に入り二人の菩提を弔いながらその生涯を終えたという説も有力である。神奈川県藤沢市の真徳寺に浅太郎の墓がある(画像)。明治26年12月30日没。享年74歳。(参考:川井正「勘太郎の頭蓋骨」歴史読本昭和59年1月号)

 

 

 

 

2021年12月18日 (土)

西郷隆盛像

   東京上野公園に建っている西郷隆盛の銅像は、高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)。鋳造は岡崎雪聲。1898年12月18日に除幕式が行われた。公開の際に招かれた西郷糸子は「うちの主人はこんなお人じゃなかった」ともらしたといわれる。糸子の発言については、銅像の顔が本人に似ていないと解釈するのが一般的であるが、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく、普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないという意味だったとする解釈もある。ウサギ狩りに行く様子を描いたとされている。西南戦争で朝敵となった西郷を明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったとする考えがある。NHK大河ドラマ「西郷どん」でもこの除幕式のシーンが冒頭にあった。軍楽隊の曲目はヘンデルの「見よ、勇者は帰る」。甲子園での高校野球でお馴染みの曲だが、イギリス人が明治初期から日本に伝え、明治陸海軍ではさかんに演奏されていた。

 

 

2021年12月 7日 (火)

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2   明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であった。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

 

 

2021年12月 5日 (日)

陳和卿

 鎌倉時代の日本で活躍した中国・南宋の工人。1180年の東大寺焼失後、重源に従い、焼損した大仏と大仏殿の再興に尽力した。のちに重源と不和となり、1216年鎌倉に下る。実朝に、将軍は育王山長老の生まれかわりであると説いて渡宋をすすめ、大船を建造したが進水できず失敗した。陳和卿のその後の消息は不明である。大河ドラマ「草燃える」では草薙幸二郎が演じた。2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でもおそらくこの話はとりあげられるだろうが、演ずる俳優は誰だろう。参考文献:陳和卿の事績 大森金五郎 国学院雑誌7ー1ー2 明治34年

2021年12月 1日 (水)

歴史とはなにか

    「キリスト教は排他的であるが、仏教はそうではない」とか「天皇家は韓国から来た」とか政治家の発言が話題となっている。ことばの一部分だけを取り出してとやかくいうことはつつしまなければならない。ただ言えるのは、その人の考えというものは、突きつめて行くと、歴史観なのである。イギリスの歴史家E.H.カーは、「歴史とは過去と現在の対話である」といったが、歴史を学ぶということ、歴史的にものごとを考えるということは、過去を現在との関わりにおいて考えることであり、未来を現在の反省の上にたって考えようとすることである。

     このブログはいちおう歴史系ブログである。世間からみると、過ぎ去った古いことを書いて何の役に立つのかと笑うであろう。でも無限の歴史事実を整理して、世間に提供するには、それなりに専門の勉強が必要なわけで、それが歴史学である。ただ、歴史の発展は現代人が期待するように簡単明瞭に進んでいない。紆余曲折のほうが多い。それを一言ですまそうとすると、歴史の歪曲ということになりかねない。歴史は単純明解ではなく複雑怪奇なのだ。さまざまな模索を試みてみる。来年度から高校の科目で日本史Bと世界史Bが統合されて「歴史総合」という新しい科目になる。期待してみたい。

2021年11月29日 (月)

戦後日本の経済発展

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   日本の国内生産(GDP)は、米国、中国に次ぐ世界第3位である。戦争によって廃墟と化した日本は「戦後76年」の間に、2度も五輪開催国となって平和主義を希求する世界有数の先進国となった。だが現在の繁栄は廃墟と壕舎の窮乏生活の戦後から始まる。戦争のもたらす恐るべき破壊と損耗について改めて知っておく必要がある。戦争でこうむった国民の被害は、310万人をのぼる多数の戦死傷病者を出したことにある。また空襲によって住居や職場を失い、家族が路頭に迷ったこともある。また戦後の食糧不足から栄養不良となり、餓死したものも多数いたであろう。こうした国民生活の窮乏はなかなか数値に表しにくいものである。岩波講座日本歴史 現代4には「戦時戦後の国富統計」が掲載されている(45頁、島恭彦「戦争と国家独占資本主義」)。これをみても1945年の国富総額は1935年の基準から著しく低下している。

 

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1945年 53,958

 

   (単位,百万円)

 

 戦後日本の経済成長の過程には3つのターニング・ポイントがある。1つ目は昭和25年の朝鮮戦争勃発による特需景気。2つ目は「もはや戦後ではない」と言い切った昭和31年の経済白書。3つ目は高度成長のひとつのシンボルとなっている国民所得倍増計画がスタートした昭和37年である。昭和39年のオリンピック東京大会、昭和45年の大阪での日本万国博覧会は、世界に開かれた平和な経済国家としてよみがえつた戦後日本を象徴するイベントとなった。

  なぜ日本が世界有数の経済大国にまで発展できたのだろう。戦後の日本経済の発展の原因をめぐっては今日、さまざまな角度からの研究が行われている。たとえば、戦後欧米から積極的に新技術を導入し、それを体現化した民間設備投資が精力的に展開されたこと、さらに欧米経済の長期的繁栄に支えられて輸出が世界貿易の増加テンポをはるかに上回つて伸び続けたこと、などが発展の原動力になったとする説明などはその代表的な例である。また、戦後の西ドイツが住宅重視の経済復興に力を入れたのに対し、日本は民間設備投資主導型の高度成長を可能にした、という研究がある。このほか、「日本株式会社」といった表現にみられるように、政治と民間との協力がうまくいったことを強調する説、さらに経営学的アプローチとして、労使協調路線による「日本的経済」に発展の原因を求めようとする分析も盛んである。最近では日本人の勤勉精神にスポットライトを当てて、日本経済発展の原因を探ろうとする試みも始まっている。このように、戦後の経済発展の原因をめぐっては、経済学的アプローチだけではなく、日本人の精神風土の分析など経済学以外の学問分野からの研究も盛んになっている。

 

 

 

 

 

 

 

2021年11月28日 (日)

鹿鳴館の淑女たち

Photo_2  外務卿井上馨は不平等条約改正交渉のため、日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。明治16年7月、イギリス人ジョサイア・コンドルの設計により、東京千代田区内幸町(麹町・旧薩摩藩装束屋敷跡)に鹿鳴館が完成した。総工費18万円の巨額と3年の歳月をかけて、大倉組(大倉喜八郎)の手になる煉瓦造2階建ての欧風建物。明治16年11月28日に開館。この日は井上馨の誕生日でもあった。「鹿鳴館」という名称は万葉集巻9の雄略天皇の歌に「夕されば小椋の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも」に由来する。詩経小雅の「鹿鳴」、つまり、高貴なる客をもてなす宴会という意味からとったという。

    舞踏会の主役である日本夫人たちも外国人の饗応に最初はとまどったことであろうが、夫人・令嬢は従順にふるまった。中心となった井上武子(1850-1920、井上馨夫人)、伊藤梅子(1848-1923、伊藤博文夫人)、大山捨松(画像1860-1919、大山巌夫人)、森阿常(1855-1900、森有礼夫人)らは積極的に舞踏会、仮装会、慈善バザーなどを主催した。また美貌で知られた陸奥亮子,戸田極子らは鹿鳴館の華といわれた。

   しかし、民間からは「鹿鳴館夜会の燭光は天に沖するも重税の為めに餓鬼道に陥りたる蒼生を照す能はず」と非難の声があがった。おりしも、場所は鹿鳴館ではなく、首相官邸であったが、明治20年の伊藤博文首相主催の仮装舞踏会(ファンシー・ボール)で伊藤が戸田極子に醜怪な事件を起こしたとして、スキャンダルとなった。明治22年には森有礼が刺客西野文太郎に暗殺された。民論は欧化主義への反対となって沸騰した。華美を誇った鹿鳴館も明治23年には華族会館となり、さらに保険会社のものとなり、昭和15年には国辱的建物として取り壊された。

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