日本は徳川幕府の鎖国によって、300年の太平を保つことができたが、反面、世界の文明の進歩から取り残された。寛永18年(1641年)5月17日、江戸幕府は平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させた。これで鎖国体制の完成をみた。
江戸幕府は海外との貿易を統制し、日本船の渡航を禁止した。とくにオランダ人以外の西洋人が日本にくることを禁じ、オランダ人を長崎の出島に住まわせて、かつてに貿易することを禁じた。スペイン、ポルトガル、イギリスとの交渉は絶たれた。これは新教国オランダが日本との貿易を独占するため、旧教国の植民地主義を、国土侵略の実例であると宣伝したことが、幕府の外交政策、禁教令に反映していると説かれる。しかし16世紀のおける世界史状況を考えると、すでにスペイン、ポルトガルは衰退期に入っているのに反し、イギリス・オランダはその植民地を奪取しつつあって、むしろ新教国の植民地政策のほうが、はるかに恐るべき存在であった。以上の理由から、幕府関係者がオランダが新教国であるから安心であるとしたのではあるまい。島原の乱後ポルトガル船の来航を禁止し、それを一般国民に納得させるため、禁教問題が利用された。すなわちポルトガル・スペイン両国は、国土侵略を企図し、キリスト教はそれを主導する邪宗教であるから、これらの国とはいっさい交渉を絶つべきであるとし、以後江戸時代を通じて、キリスト教を極端に危険視した。オランダ・イギリスには当初、平戸・長崎の2港に限って貿易が許可されていたが、イギリスは日本向けの中国商品を入手する市場をもたなかったので、ついに赤字経営がかさなり、元和9年(1623年)に平戸商館を閉鎖した。オランダはこのころ台湾に基地を設置することに成功し、ここで中国とともに、江戸時代を通じてわが国と交渉を続けた。朝鮮とは慶長17年(1607年)以後、宗氏の対馬を介して貿易が行われた。慶長12年から12回にわたり朝鮮通信使が来日した。江戸時代は鎖国といわれるが、通商交易に関して言えば、長崎をはじめ、薩摩、対馬、松前の4ヵ所を拠点に貿易が行われていた。すなわち鎖国によって日本が海外との接触を全く絶つということはなかった。鎖国の得失については、日本が海外との情報的交流を失うことによって、ヨーロッパの技術や工業の発展から立ち遅れたという失点と、むしろ鎖国のために、国内の産業や独自の文化の発展をみたという利点などが指摘されるが、その全体の歴史的評価については、いまだ一定した所説がない。(5月17日)
1587年 豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出す
1600 オランダ船リーフデ号、豊後に漂着
1604 糸割符制度を創設
1609 平戸に商館が置かれ、オランダ人に通商許可
1612 キリスト教の禁教令を出す(1873年まで続く)
1613 イギリス人に通商許可
1616 明以外の外国船の来航地を長崎・平戸に限定
1623 イギリス、平戸の商館を閉鎖
1624 スペインの来航を禁止
1628 浜田弥兵衛、オランダ人マイツを台湾に捕縛、平戸に拘禁す
1633 奉書船以外の海外渡航を禁止
1635 第3次鎖国令。海外渡航の全面禁止、在外邦人の帰国禁止。入港は唐船も長崎に限る
1636 第4次鎖国令。出島を築きポルトガル人を置く
1637 島原の乱
1639 ポルトガル人を追放
1641 オランダ人を出島に移す(鎖国の完成)
1857 イギリス人の長崎上陸を許す
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