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2009年7月 6日 (月)

戦後異色人物伝

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   いまNHK「プロジェクトX」のような戦後の日本を復興させるために、使命感に燃えて奔走した男たちのドラマが人気を呼んでいる。昨夜から始まった新番組「官僚たちの夏」もその一つだ。主役の風越伸吾(佐藤浩市)は佐橋滋(1913-1993)という異色官僚がモデルだそうだ。劇中の「あけぼの自動車」のモデルが鈴木自動車工業(スズライトSL型)か富士重工(スバル360)か三菱自動車(三菱500)か諸説あるが、結局フィクションで自動車は架空である。戦後社会を発展させた原動力を人物の情熱に力点を手法は、つくり話としては面白いが、日本を世界有数の工業国に仕上げたのは、あくまで個人の力というよりも、組織の力であろう。
    評論家の扇谷正造が「戦後異色人物」という短文で、政治家、財界人、産業人を省いて、12人の異色人物をあげている。三島由紀夫、勅使河原宏、羽仁説子、植木等、小沢征爾、黒沢明、坂西志保、神吉晴夫、勅使河原蒼風、三船敏郎、池田大作、船橋聖一である。(「日本歴史シリーズ22現代」世界文化社)昭和43年のものであるが、今から見てもよく選んでいるとその慧眼に感心する。

俵万智と金賢姫

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「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

    22年前の昭和62年は俵万智の歌集「サラダ記念日」が280万部の大ベストセラーとなった年である。他に、村上春樹「ノルウェイの森」、安部譲二「塀の中の懲りない面々」などがある。映画では、伊丹十三(1997年没、享年64歳)監督の「マルサの女」、リヴァー・フェニックス(1993年没、享年23歳)主演の「スタンド・バイ・ミー」などが話題を呼んだ。芸能界ではマイケル・ジャクソン(2009年没、享年50歳)、マドンナの来日公演、郷ひろみ・ニ谷友里恵の結婚、そして戦後最大のスター・石原裕次郎が7月17日亡くなった(享年52歳)。昨日、東京の国立競技場で23回忌の法要が行われ、全国各地から11万人を超えるファンが集い、その根強い人気を証明した。そして昭和62年の最大の事件は金賢姫と大韓航空機爆破事件であろう。偶然にも俵万智と金賢姫は同年で当時24歳。現在46歳になる。金賢姫は今年の3月、田口八重子の長男、飯塚耕一郎と面会し、公の場に姿を見せた。美貌の工作員も結婚、出産と22年の女の人生を歩まれたが、その変わらぬ美しさとは別に拉致問題は依然として進展していない。こうして22年の歳月を振り返ると、人の世の無常と哀れさを知る。

2009年6月25日 (木)

ユスト高山右近

Photo マニラにある高山右近の銅像

    戦国時代のキリシタン大名で知られる高山右近(1552-1615)。1564年、日本人修道士ペレイラから洗礼を受け、ユスト(ジュスト)と命名される。このとき右近は13歳だった。右近は山崎の合戦の前に豊臣秀吉につき光秀と戦った。1585年、秀吉から播磨国明石6万石を与えられた。だが、1587年6月、秀吉のキリシタン禁令により明石城を没収される。のち加賀前田家で、軍奉行をまかされ、自費で教会を建立した。だが、1613年には徳川家康が禁教令を発布し、ついに国外追放を命じられた。右近ら148名のキリスト教徒はマニラ・マカオに追放された。悪天候のため1ヵ月以上の長い船旅の疲れから、1615年2月4日夜半、マニラのイントラムルスで客死した。享年64歳。現在、マニラ近郊のパコ駅前の公園ディラオに銅像が1978年に建てられている。デラオはスペイン語で「黄色い日本人」という意味で、昔は日本人町があったところだ。

2009年6月24日 (水)

天下無双の槍の名人、俵星玄蕃

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    吉良家にほど近い本所横網町に宝蔵院流の槍を取っては天下無双といわれた俵星玄蕃が住んでいた。玄蕃はたびたび屋台の夜なきそばを食いにいく。そば屋の当たり屋十助という男、どうやら武士のようだ。あるとき、玄蕃が吉良の付人として仕官を勧められる。だが赤穂の浪人たちに深く同情を寄せていた玄蕃はこの申し出を断わる。さて討入り当夜、義を重んじる玄蕃は赤穂浪士を助けようと槍を持って吉良邸へ行くと、夜なきそば屋の十助がいたので驚き、いままでの非礼を詫び吉良邸の外を警戒して本懐達成に協力したといわれる。十助は杉野十平次次房といい、享年28歳であった。俵星玄蕃は講談や浪曲でお馴染みではあるが、もちろん架空の人物。映画では、大正3年「俵星玄蕃」では尾上松之助、大正9年「俵星玄蕃」嵐璃徳、昭和2年「俵星玄蕃」尾上紋十郎、昭和3年「俵星玄蕃」(日活)尾上多見太郎が演じている。戦後では昭和34年の「血槍無双」(東映)では片岡千恵蔵、昭和37年「忠臣蔵」(東宝)では三船敏郎が演じている。
    俵星玄蕃のモデルとして考えられる人物として、大石無人(1627-1712)がいる。大石内蔵助の遠縁にあたり、赤穂浅野采女正長重に仕えたが浪人し、寛文6年(1666年)から江戸に住んだ。堀部弥兵衛と親しく、義挙参加を申し出たが、主家を退去したのは昔のこと、今は子にかかっている身分、と忠告されて思いとどまっている。長男郷右衛門良麿、次男三平と共に義を好み、討入りの時は三平と吉良邸の外で警戒にあたった。この故事から、明治期の講釈師が俵星玄蕃を創作したと考えられる。

2009年6月22日 (月)

若き日の真田幸村

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    戦国の世にあって真田氏の周りには織田、徳川、北条と強敵揃いで、真田昌幸(1545-1609)はその間隙をぬって生きねばならなかった。昌幸は北条氏直に好誼を通じ、その一方で織田信長に名馬を贈ったりして臣従を誓った。信長が本能寺にて自害すると、昌幸は北条氏に従属する態度を鮮明にした。ところが9月になると昌幸はその北条氏を見限り、徳川家康につくのである。しかし家康は真田氏が支配している沼田城を、北条氏に引き渡すように命じた。昌幸は家康のこの命令をはねつけ、越後の上杉景勝に和を乞い、二男の幸村(1569-1615)を人質に差し出すことにした。
    天正13年閏8月、真田幸村は上杉領の海津城へと赴いた。天正14年、昌幸は景勝の上洛の留守中に、幸村を越後の春日山城から呼び戻すと、豊臣秀吉の許へ人質として送った。これを知った景勝は怒った。さっそく秀吉に幸村を返してくれるように願ったが、秀吉は聞き入れなかった。その後秀吉は、北条氏を亡ぼす小田原征伐で、豊臣勢として参陣してきた昌幸・信之父兄の許へ、幸村に部下までつけて返してやるのだ。幸村が専属の部下を持って合戦にのぞんだ最初であった。幸村もすでに24歳になっていた。真田家存亡を賭して人質となった若き日の幸村の姿であった。

十七条憲法の謎

Img_0001 江戸時代の幽竹法眼が描く「聖徳太子・ニ王子像」1763年

    日本の古代史上に輝かしい足跡を残した聖徳太子(574-622)は、日本人にとって最もなじみの深い人物で、広く崇敬を集める偉人である。だが「日本書紀」に現れる厩戸皇子は謎の人物である。たとえば、生れてすぐ口がきけたとか、十人の訴えを一度に聞いた、とか。ここでは、伝説には眼をつぶって彼の歴史上の業績をみてみよう。崇峻天皇が殺されて、聖徳太子の叔母推古天皇が即位するが、太子はその摂政となり、603年12月、冠位十二階を制定し、翌年4月には十七条の憲法をつくったと「日本書紀」には記されている。当時の飛鳥王朝は蘇我馬子(?-626)が実力者であり、大家(おおとじ)・推古と叔父馬子の共同統治であった。若干20歳の厩戸が政治に関与できるところはきわめてすくなかったのではないだろうか。有名な十七条憲法も外部に発表されてものであるのか明らかではない。またその用語の研究から、太子の作ではなく、太子信仰が昂まった時点の僧侶の偽作とする説もある。太子の宮殿斑鳩宮は643年、蘇我入鹿の襲撃によって焼き払らわれ、一族子弟は全滅したので、十七条憲法の記録だけが残って「日本書紀」に転載されたのはいかにも不自然である。十七条憲法は後世の偽作とみるのが自然であろう。

2009年6月 6日 (土)

稲田騒動と「北の零年」

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  明治5年の5月13日(1870年6月11日)、蜂須賀家臣の過激派が、洲本の家老稲田邦稙(いなだくにたね、1855-1931)屋敷や益習館(稲田家の学問所)や稲田家臣の屋敷を襲撃し、無抵抗の者を殺戮・放火した事件が起きた。自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人の被害者がでた。これを稲田騒動(庚午事変)という。

    事件のおこりは藩祖蜂須賀小六正勝(1526-1586)と稲田貞祐は義兄弟の間柄といわれ、蜂須賀氏が阿波・淡路の領主となると稲田氏は1万4500石という大名なみの知行をもらい、さらに幕府の指導もあって淡路城代に任ぜられた。いらい稲田氏は淡路米や阿波の藍を大坂に出荷して経済力をたくわえるとともに、公卿とも縁組みして地位の向上をはかった。しかし、身分は家老で、その家臣は陪臣として蜂須賀家臣団からつねに軽視されていた。幕末をむかえて公武合体派の蜂須賀氏、尊王攘夷派の稲田氏とが対立するようになると家臣団の対立も表面化する。維新後稲田家臣を士族の下の卒族に入れようとする蜂須賀側、士族編入の嘆願から新藩独立運動へとすすむ稲田側、これにたいする蜂須賀側のいかりが稲田騒動となって爆発した。稲田氏の菩提所・江国寺には、この事件でちった稲田関係者の招魂碑がある。また尊抄寺には、事件の首謀者として切腹を命ぜられた新居与一郎、小倉富三郎、平瀬伊右衛門、大村純安、多田禎吾、南竪夫、小川錦司、三木寿三郎、藤岡次郎太夫、滝直太郎ら10人の供養碑「庚午志士之碑」がたっている。稲田家旧家臣に対しては、士族となることを認めたかわりに蝦夷地開拓を命じた。稲田家の北海道静内町への移住開拓という苛酷な運命は近年、映画「北の零年」でよく知られるようになった。(参考:「兵庫県の歴史散歩」)

2009年6月 4日 (木)

キャサリンからダイアナまで

Photo キティ台風(昭和24年)平井駅に押し寄せる住民

    戦後の一時期、キャサリン台風、キティ台風など台風の呼び名には女性名が付けられていた。昭和28年の6月4日から気象庁がその年の発生順に台風に番号をつけるようになったそうだ。福田恒存の「キティ颱風」という戯曲があるが、なぜかその時代背景と結びついて記憶に残りやすいものである。昭和22年のキャサリン、昭和23年のアイオン、昭和24年のデラ、ジュディス、キティ、昭和25年のジェーン、昭和26年のルース、昭和27年のダイアナ台風等が来襲した。

2009年6月 3日 (水)

柴田天馬「聊斎志異」と新撰組

    結城廉造は大正8年頃、満州旅行中に病気にかかり、奉天の満鉄病院に入院した。退屈なので院内にあった「読書会雑誌」を読んだ。その中に清代の怪異小説「聊斎志異」の一編の翻訳が収録されている。廉造はその浪漫性の美しい文章の虜となった。帰国して兄の結城禮一郎(1878-1939)にその話をすると、兄が主宰する玄文社から出版することになった。これが名訳で名高い柴田天馬訳の「和訳聊斎志異」の誕生である。

    結城禮一郎、廉造の父は元新撰組、甲陽鎮撫隊で活躍した結城無二三(1845-1912)である。玄文社本は好評であったが部分訳なので、昭和8年に第一書房から全訳の第一巻を刊行した。ところがこれが発禁本となり、全訳の刊行は戦後をまたなければならなかった。蒲松齢の「聊斎志異」は天下の奇書であるが、その翻訳を読めるのは一読書子が病気をした結果であり、坂本龍馬暗殺事件に係わる新撰組隊士の子息というのも面白い。

2009年6月 2日 (火)

まぼろしの邪馬台国

Acd0808271107006p2 崇神天皇の大叔母で卑弥呼に擬される倭迹々日百襲姫命を葬った箸墓古墳(奈良県桜井市)

   むかし森繁久弥が盲目の作家・宮崎康平(1917-1980)を舞台で演じていたのをテレビで見た記憶がある。最近も竹中直人・吉永小百合で映画化されているらしい。ところで火野葦平(1907-1960)の短編小説「島原半島」(昭和28年4月別冊文芸春秋32号)を読んでいると、島原半島を愛した盲目の詩人・鳥井浩一は宮崎康平をモデルにしているように思える。二人は「九州文学」を通じて知り合いになった。「まぼろしの邪馬台国」はベストセラーとなり一時期、九州邪馬台国説が優勢であるかに思えたが、近年の考古学的調査により、奈良県の箸墓古墳が卑弥呼の墓であることがきわめて有力となりつつある。先日、国立歴史民俗博物館では放射性炭素による年代測定法に独自のデータによって補正を加えた結果、箸墓古墳が築造されたのは、西暦240~260年頃とする結果を発表した。これは247年に死亡したと推定される卑弥呼の死亡時期と合致する。春城秀爾は、卑弥呼は生前に築造を始め、死亡時に大部分は完成していたと推測している。

2009年5月25日 (月)

隠れたる勤皇僧・宇都宮黙霖

Img_0001 宇都宮黙霖

   下田密航を企てて失敗し、萩の野山獄にあった吉田松陰(1830-1859)は、一人の旅の聾僧と文通を始めた。松陰より6歳年上の僧は宇都宮黙霖(1824-1897)といった。黙霖は急進的な尊王や討幕の考えを松陰にぶっつけ、松陰の尊王思想に大きな影響を与えた男である。いやそれ以上に、日本の近代の歴史を切り拓いた陰の立役者かもしれない。松陰はこれまで幕府に対して誤りを諌める考えであったのに対して、黙霖は徹底的に討幕を主張した。ある日、黙霖はほぼ100年前の山県大弐(1725-1767)の著書『柳子新論』(1760刊)を獄中の松陰に贈った。『柳子新論』の内容は幕府否定を論じ、天皇政治に復古すべきだと主張している。いまの幕府政治は、腐敗の極に達しているから、これを打倒するほかはないというのである。この書を読んで松陰の考えはついに討幕論にまで達する。松陰と黙霖との文通は1年余り続いたが、出獄後も、松陰が幽囚の身のため二人が会うことはついになかった。

    宇都宮黙霖は安芸国長浜(現在の呉市)の生まれ。俗名は真名之介。僧名は覚了、黙霖、雪卿と号した。還俗後は、宇都宮雄綱、字を絢夫という。苦労して神道、儒教、仏教を学び、その後、尊王思想を確立する。萩に出かけた際に松陰の獄中記『幽囚録』を読み、感激する。月性の紹介で、野山獄にいた松陰と文通を始めた。安政の大獄で逮捕されたが、僧だったので釈放された。釈放後も長州藩士と行動し、第一次長州征伐の際、再び捕らえられ投獄され、明治2年になって出獄。明治4年勤王の功により士族となり、大阪府貫属(地方官の一つ)となる。のち、湊川神社、石清水八幡宮(男山八幡宮)の神官を歴任、明治10年ごろ隠退し、余生を『大蔵経』の和訳に捧げ、明治30年、74歳で没した。(布目唯信『吉田松陰と月性と黙霖』 興教書院 昭和17年)

2009年5月20日 (水)

マスク・パニック

   新型インフルエンザが20日現在で国内の感染者は兵庫・大阪・滋賀3府県で237人である。神戸に住む会社員の女性が大阪へ向かう通勤電車で自分だけがマスクをしていないことに気づき「非常識と思われているようでつらい。でも、品切れで手に入らない」と悩んでいる。関西ではまるで石油ショックでトイレット・ペーパーが無くなったときのような騒ぎだ。朝日新聞夕刊の山田明教授(臨床ウィルス学)によると「マスクは感染者がせきをしてウイルスを周囲にまき散らすのを防ぐのに一定の効果がある。外からの感染を防げるかどうかは意見がわかれる」と専門家が言う。とはいってもJR大阪駅ではおよそ8割の人はマスクを着用しているそうだ。まさか8割の人が感染者ではあるまい、きっとその人たちは自己防衛のためマスクを着用しているのだろう。ほとんどの人はマスクが疫防に効果があると信じているのだろう。だがマスクを手に入れることができない人は、マスク姿の集団を見れば、自分は感染して死ぬのではないかと恐怖心に襲われるかもしれない。まさに「マスク・パニック」である。群衆心理とは社会に様々な影響を及ぼす。マスクでこの程度だがワクチンが無いとなるとどうなるのか。医療の貧しい国ではワクチンが買えないで死んでいく子供達もいるのに、大国日本は金で買い占めて備蓄するのだろうか。現代は生きることがあさましくみえてくる。新型インフルエンザには冷静な対応が必要である。

 大正7年のスペイン風邪が流行したときの短歌を紹介する。

寝(い)ねがえしこの寝台にいくたりが死にけるやなど思ふ秋の夜
                                     西川百子

    西川百子は大阪毎日新聞社京都支局の記者、歌人として当時は有名だった。本名は西川正治郎といい男性である。明治21年生まれ。『無産者』の「病床語」の中の一首。「大正7年10月流行感冒を病みて京都府立病院に入る」と詞書されている。歌集『無産者』(弘文堂書房、大正8年)、『刀葉林地獄』(大正11年)、『婦女身』(昭和3年)。山本宣治とも交友があったが、昭和になり転向。生活派につながる歌人の一人であるが、歌壇に属してないためか忘れさられた歌人である。

2009年5月18日 (月)

鳩山一族は学者肌!?

Img 鳩山秀夫

    5月16日、鳩山由紀夫は民主党の新代表に選ばれた。政権交代をかけた総選挙にもしも勝利すれば次の首相となる可能性が極めて高い。鳩山由紀夫が政界入りを果たしたのは昭和61年7月、39歳のときである。それまでの彼は、東京工業大学助手を経て専修大学助教授という地位にあった。
   鳩山家は、言わずと知れた政界屈指の名門である。曽祖父の鳩山和夫(1856-1911)は衆議院議長、祖父の鳩山一郎(1883-1959)が首相、父の鳩山威一郎(1918-1993)が外相と直系で4代にわたる世襲議員である。鳩山一族の顔触れを見ると、政治家ファミリーとは別の、もうひとつの一面がある。学者一族という顔である。鳩山和夫は東京法律学校の学長も務めた法学博士、妻の薫は共立女子大学の創設者にあたる。和夫の次男で、一郎の弟、鳩山秀夫(1884-1946)は東大教授で、『日本債権法総論』は名著といわれる。秀夫の義父である菊池大麓(1855-1917)は、東大総長で、数学教育の振興に大きな足跡を残している。秀夫の妻千代子は大麓の次女だが、長女の多美は美濃部達吉(1873-1948)に嫁ぎ、三女の冬子は末弘巌太郎(1888-1951)の妻となっている。

Img_0001 秀雄とあるのは秀夫の誤り

2009年5月17日 (日)

ゆきて還らず、人間魚雷回天の出撃

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Img_0006 仁科関夫中尉

  レーダーの発達は、日本潜水艦にとって不利な状況となっていった。昭和18年秋ごろ、黒木博司大尉(1921-1944)と仁科関夫中尉(1923-1944)は、戦勢を挽回するため潜水艦、とくに特殊潜航艇は必死必中の特攻あるべしとし、93式魚雷を人間が操縦する回天を考案した。すぐに採用にはならなかったが、昭和19年6月のマリアナ沖海戦、続くマリアナ失陥と、戦局が重大な転機に立ち、海軍首脳部は回天の使用を決定した。
    最初の回天攻撃は、昭和19年11月20日ウルシーに対して行われた攻撃である。伊号第47潜水艦(折田善次艦長)から4基(仁科関夫中尉、福田斉中尉、佐藤章少尉、渡辺幸三少尉)、伊号第36潜水艦(寺本巌艦長)から1基が発信して、油槽船ミシシネワ1隻を撃沈。ミシシネワは23000トンの大型タンカーで約70名の戦死者がでた。日本の新兵器に震撼した米海軍は被害の公表を隠蔽したが、未発表戦果があるらしい。伊号47の艦長であった折田善次元少佐は「米空母を撃沈した」と証言している。回天による攻撃は終戦まで続いた。有形の戦果はさほど多くなかったかも知れない。しかし戦の中に散っていった89名とも80名とも言われる若き回天搭乗員のことを忘れない。回天の考案者の黒木博司大尉は昭和19年9月6日、徳山湾にて訓練中殉職した。仁科関夫中尉は黒木大尉の遺骨を胸にウルシーに突撃自爆した。

2009年5月15日 (金)

戦艦陸奥生存者たちの悲惨な運命

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   昭和18年6月8日、午後12時10分過ぎ、広島港内の柱島泊地で、戦艦陸奥の第3砲塔付爆薬庫が突然原因不明の爆発を起こした。その日は雨で、乗員のほとんどは艦内にいた。急速な沈没のため逃げ遅れ、乗員1474名のうち救助されたのはわずか353名だった。

   そして生存者353名には悲惨な運命が待っていた。家族との面会も許されず、そのまま最前線へと送られていったのだ。事故で戦艦陸奥が大爆発したという一大不祥事を、隠蔽するためだった。海軍の徹底した情報隠しは功を奏した。国民は陸奥爆沈のことを戦後まで知らなかったし、アメリカにも事実は漏れなかった。終戦後、日本に進駐した米軍は、海軍関係者に「陸奥はどこだ?」としつこく尋ねたという。

   当時、陸奥と扶桑は柱島沖に並んで停泊していた。扶桑の艦長であった鶴岡信道(1894-1984)の証言がある。

「あのとき陸奥では、乗員の中でひんぴんと窃盗事件があって、特務少佐がその日、ちょうど呉の軍法会議に、処置を相談に行ってるんですよね。彼(陸奥艦長・三好輝彦)はそれで助かったんですね。そこで嫌疑をうけたものが弾庫で自決するため自爆したのではないか、という説が出てくるわけですが、これも死んだので、永久に真相はナゾのまになっているわけですな」と語る。

    陸奥の沈没は極秘とされ、秘密裏に原因調査が進められ三式弾の自爆、乗員による爆破、スパイの陰謀など種々の説が浮かんだが、ついに「戦艦陸奥、謎の爆沈」として今日にいたっている。
昭和35年の新東宝映画「太平洋戦争、謎の戦艦陸奥」は天知茂と女間諜・小畑絹子の恋物語も絡んでいたが、陸奥爆沈の直接的原因はアメリカ工作員の時限爆弾によるものであった。時刻は12時ちょうどとなっていた。歴史的証言から、12時をだいぶん過ぎた時間なので時限爆弾説は信憑性を欠くものといえるだろう。

2009年5月12日 (火)

織田信長の上洛(永禄11年)

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  永禄10年、織田信長(1534-1582)は美濃の斎藤龍興(1548-1573)の本拠井ノ口城を陥れた。信長はここを岐阜と改めるとともに、僧沢彦に撰ばせた「天下布武」の印をつくって、武力統一に対する抱負を示した。翌年9月7日、美濃・尾張を平定した信長は、大軍を率いて岐阜城を出発した。そうして、その途中、六角義賢の支城箕作、その他の城々を一蹴し、義賢の居城観音寺山を陥れた。9月28日、信長は足利義昭(1537-1597)を擁して京都に入った。上洛を遂げた信長は東寺に陣し、義昭は清水寺に入った。信長が入京するというので、一時京都市中はパニック状態となったが、入京した信長は、細川藤孝に御所の警備を命ずる一方、軍勢を厳格な軍規統制のもとにおき、市中の動揺もまもなく鎮静した。京都周辺では、三好長逸、三好政康、岩成友通の三好三人衆や篠原長房らに擁立された足利義栄が摂津富田城(高槻市)に、三好三人衆がそれぞれ山城勝竜城(長岡京市)、摂津芥川城(高槻市)、越水城(西宮市)に拠って信長に抵抗していたが、勝竜寺城は29日に、他の諸城も数日のうちに攻略され、三好党は阿波へ敗走した。10月18日、足利義昭は室町幕府15代将軍に就任した。

2009年5月11日 (月)

陶器コレクター久志卓真

   戦前戦後、陶器コレクター、研究家として知られた久志卓真。その著書は十数冊に及ぶ。戦時中にもかかわらず高価な美術書を次々と出版している。いまでも古書の世界で高価で流通している。ケペルは久志の「支那上代史」を所蔵しているが、この本は漢代までの概説書であるが、専門の東洋史家と遜色ない学識であることがわかる。久志はもともと新進のバイオリニストで作曲家であった。音楽、歴史、美術と多彩な才能を持った資産家らしいが、詳しいことはわからない。以下、その著書を記す。

「現代音楽論」(新鋭哲学叢書18) 高陽書院 昭和12年
「図説朝鮮美術史」 文明商店 昭和16年
「朝鮮名陶図鑑」 文明商店 昭和16年
「支那の陶器」 宝雲舎 昭和17年
「支那上代史」 宝雲舎 昭和18年
「朝鮮の陶器」 昭和19年
「仏教美術の鑑賞」 太和堂 昭和22年
「工芸の古典と新精神」 宝雲舎 昭和22年
「中国陶磁1」 元々社 昭和29年
「世界陶磁全集10」 河出書房 昭和30年
「骨董遍歴」 昭森社 昭和38年
「明初陶磁図鑑」 雄山閣 昭和43年
「乾山」 雄山閣 昭和47年
「朝鮮の陶磁」 雄山閣 昭和49年

女たちの本能寺の変

    NHK大河ドラマ「天地人」では今回「本能寺の変」であった。織田信長(吉川晃司)は天下を目前にしながら、明智光秀(鶴見辰吾)の謀反にあい本能寺にて自害する。
    本能寺の変のドラマでいつも気になるのが信長の正室の濃姫と光秀の正室の凞子の存在である。とくに濃姫の没年は不詳であるが、一説には本能寺の変で信長とともに死んだといもいわれている。数年前の大河ドラマ「功名が辻」では、明智光秀(坂東三津五郎)と濃姫(和久井映見)とのラブロマンスが全面的に描かれており興味深かった。今回の「天地人」では信長の女忍者(愛人?)として初音(長澤まさみ)が登場するが、イマイチ不自然な気がする。次回の大河ドラマでは濃姫と凞子との女のバトルを見たいと思うのはケペルだけだろうか。

2009年5月10日 (日)

中山義秀

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    中山義秀(1900-1969)は明治33年、福島県岩瀬郡大屋村字下小屋に生れる。人間の孤独の寂寞の底をくぐり、人生の悲苦に立ちむかう姿を描いて絶妙である。戦後は戦国武将や戦国史記に筆を致し、数多く発表した。

「テニヤンの末日」「魔谷」「少年死刑囚」「散りゆく花の末に」「古老譚」「闇に浮く睡蓮」「霧にゆらぐ藤浪」「寂光の人」「高野詣」「月魄」「原田甲斐」「寿永の春」「春雨秋雨」「天保の妖怪」「相学奇談」「平手造酒」「根岸菟角」「北条早雲」「松永弾正」「物ぐるい」「戦国史記」、中山義秀(河上徹太郎)「現代日本文学5 中山義秀集」筑摩書房。

2009年5月 9日 (土)

二重スパイ・ライテクの正体

Photo シンガポールの夜景

  今は昔、浪路はるかなる南洋の地に、確実に存在した日本軍政による昭南特別市。昭和16年12月から始まった日本軍のマレー侵攻という状況下、マラヤ共産党の書記長として最高指導者であり、また日本とイギリスの二重スパイでもあったライテクという謎の人物がいたことは以前にもこのブログに書いた。彼の出身、素性、そして死まで謎である。事典やウィキペディアにも項目がない。
   中島みち「若きコミュニスト・ライテクの正体」によれば、その風貌は色白で、やさしげで、なよなよした感じの若い男だったとある。およそ権謀術数に長けたゲリラの指導者というイメージではない。
    出身は、当時フランス領であったベトナムの生まれで(安南人、安南生まれの華僑など諸説あり)、そもそもフランス当局からコミンテルンに送りこまれたスパイではないかという説もある。
    名前は、普通ライテク(Lai Tek)と呼ばれる。かつてのマラヤ共産党書記長(1939年から1947年まで)は、Wright(ライト)とも書かれる。黄紹東、黄金玉、黄金泉、亜烈など別名を使う。ベトナム人の間では、黄阿岳の名で知られる。日本軍はライテクを萊特、萊徳などと書いた。
    ともかくライテクはシンガポール・マニラ全域のコミュニストを指導する最高幹部でありながら、昭和17年4月頃には、英軍が敗北するや、日本軍から巨額の金をもらい仲間の情報を漏らした。そして日本が敗色濃厚になるや再び英軍に情報を売った。戦後は英軍の協力者として遇されたが、国民や党幹部を裏切ったことが知れると、査問委員会の前に、党の金を持ち逃げして、海外逃亡を図る。バンコクでマラヤ共産党キラー団によって殺されたという。
    (参考:中島みち「日中戦争いまだ終らず」文芸春秋)

2009年5月 8日 (金)

毛利元就「三本の矢」のルーツは?

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  農夫の子どもたちが、おたがいにけんかばかりしていました。農夫はいろいろいって聞かせても、子どもたちの心もちを変えさせることができなかったので、実際のもので教えなければためだと考え、子どもたちに棒のたばをもってこさせました。子どもたちが持ってきますと、農夫はまず、棒をいっしょにしばって、それを折れといいました。いっしょうけんめいやっても、折ることができなかったので、つぎにそのたばをほどいて、子どもたちに1本ずつ渡しました。子どもたちは、それはらくに折りましたので、農夫は、「いいかね、おまえたちも心をあわせていれば、悪いやつのおもうようにはされないが、たがいにけんかしていると、すぐにひどいめにあわされる」と、いいました。仲よくしていれば、強くなりますが、けんかをしていると、ひどいめにあわされるものです。

   これは「イソップのお話」(河野与一編訳)に出てくる「棒のおしえ」である。戦国時代の武将・毛利元就(1497-1571)の「三本の矢の教え」の逸話の原型とみられる。実際に元就が嫡男の当主隆元、次男吉川元春、3男小早川隆景に、毛利家発展のために力をあわせるように述べた「三子への教訓状」が現存している。このような話がもとになり、「前橋旧蔵聞書」に「三矢の教え」の故事が生れた。イソップの話がどのようにして毛利元就の逸話となったか経緯については明らかではないが、「イソップ」が『伊曽保物語』として文禄2年(1593年)には和訳され刊行されているので、江戸時代初期の人が毛利元就の故事として創作したことは充分に考えられることである。

2009年5月 2日 (土)

織田秀信

   織田秀信(1580-1605)は信長の孫、信忠の長男として生れた。彼が3歳のとき、天正10年、本能寺の変がおこり、信長、信忠を明智光秀に殺された。その後、急をかけつけた秀吉に清洲会議で織田家の後継にまつり上げられたが、元服しても岐阜の十三万石余りしかもらえなかった。やがて秀吉が死に、徳川家康と石田三成の対立が表面化し、三成は西国大名と結んで豊臣秀頼をもりたてた。この時、秀信は西軍石田方につき、東軍の先鋒の福島治則らと戦い、敗れて降伏した。秀信は命を助けられて、剃髪して高野山に入り、そこで慶長10年、26歳の若さで生涯を終えた。妻子はいない。今日、フィギアスケートで有名な織田信成は信長の七男信高の子孫にあたる。

2009年4月28日 (火)

片岡源五右衛門高房

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   片岡源五右衛門は尾張藩士熊井重次郎の子で、叔父の赤穂藩士片岡六左衛門の養子となり、片岡姓を名乗って浅野家に仕えた。元禄13年、主君浅野内匠頭に従って江戸に下向、翌年の殿中刃傷のときは江戸城大手下馬先で供待ちしていた。網打ち駕籠に乗せられて田村右京大夫邸(港区新橋3-3)に入った内匠頭は酒や煙草などの好みの物も与えられず、家来への連絡も許されないまま、庭前で切腹させられた。ただ検使・多門伝八郎のはからいで、切腹の庭にのぞむ内匠頭が書院を通るさい、はるか庭先から、片岡源五右衛門のみが拝領することができた。互いに無言のまま今生の別れをかわしたが、源五右衛門も断腸の思いで主君の最後を見送ったのである。

  風さそふ花よりもなほ我はまた

         春の名残をいかにとかせん

   内匠頭は哀切な辞世を残して三十五年の生涯を閉じた。

2009年4月27日 (月)

中江藤樹の嫁選び

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  中江藤樹(1608-1648)は少年の頃から学問に心惹かれるようになった。そのころの学問というと、朱子学が主流であり、あえてそれに異を唱えるものはなかった。たが藤樹は37歳のとき王陽明の学問を知った。静かに瞑想して知る知ではなく、行動することによって知る知なのである。こうして彼は、陽明学に辿りつき、陽明学者として、わが国における最初の祖述者となった。

   あるとき、藤樹は帰宅途中、数人の盗賊にとりかこまれた。彼らは「身ぐるみぬいでおいていけ」と藤樹にせまった。藤樹は少しもあわてず、しばらく考えていたが、ややあってから、「着物はわたすことができん。ここでわしが着物を渡してやると、おまえさんたちは、ますます図にのって悪事をかさねるにちがいない。よって、このわしが成敗してくれる」というやいなや、持っていた刀の柄に手をかけ、あわや抜かんというすがたをみたが、盗賊たちは、その人がかねてから人々に慕われている藤樹先生と知り、無礼をわびただけではなく、これを機縁に門人になったという。

   また藤樹は結婚も30歳のときであるから、当時としてはずいぶんと晩婚だった。律義にも「三十にして室(妻)有り」という礼記にならったものであろう。しかも、この妻にした女性は高橋某の娘だが、これがもう二目とは見られぬほどのひどい醜女だった。母親のほうでも「おまえ、弟子の出入りも多いことだし、なにも好き好んで、あのようなひどい面相の女をそばに置くこともないではないか。いまからでも遅くはない。離縁しなさい」と申し出たほどだったが、日ごろ母親のいうことはなんでも聞く親孝行息子の藤樹であるが、このときばかりは頑として母親の言を容れなかった。「あんな醜女のどこがいいんだ」母親があきれるように言うと、「女は顔ではありませぬ」藤樹はきっぱりと答えた。「たしかに、あの女は見てくれは悪い。しかし、性格がとてもいいんです。非常に利口で、気くばりもきき、考え方にまちがいがありません」息子にこういわれては、それ以上母親も口出しはできない。ついに、嫁を追い出すことをあきらめた。この藤樹と13歳年下の妻は、はじめの4年間に3人の子を生んだ。いずれも育たず、5年目に産んだ男の子がようやく無事に成長した。これが嗣子の直伯。ついで9年目に次男の仲樹を産んだが、産後の肥立ちが悪かったのだろう、26歳の若さで他界した。藤樹もそれから2年後の慶安元年8月に死んでいる。享年41歳だった。(参考:歴史読本29-1、負目聖人「近江聖人のブス・ワイフ)

2009年4月26日 (日)

戦国の梟雄、松永久秀

   松永久秀(1510-1577)はもともと山城国西岡付近の商人だったという説もあるが、その氏素性は明らかでない。久秀が織田信長に仕えていたときの話である。徳川家康が信長に謁見した際、その席に一人の老人がいた。家康がその老人に、すこぶる慇懃に挨拶すると、信長がこう言ったという。

「この男は松永弾正という者で、そんなに丁重に挨拶する相手ではない。もともと小身であったのを、三好長慶に取り立てられたのに、主家に叛いたような、心のゆるせない男である。だいたいこの男は他人のまねのできないことを三つやってのけた。一つは主家の三好氏を倒したこと、二つは将軍足利義輝を殺したこと、三つは奈良の大仏を焼き払ったことである」

   この信長の紹介を聞いて、さすがの久秀も赤面して、頭から烟を立てるた。天正5年の信長の石山本願寺攻めのとき、謀反した理由の一つは、この信長の侮蔑の言にあったという。信貴山城にこもった久秀は、織田信忠軍に攻められ、城に火をかけて自害した。この日、10月10日は、10年前、久秀が東大寺大仏殿を焼き払ったその同日、同時刻だったため、人々は春日明神の祟りだと噂しあった。(参考文献:「備前老人物語」)

2009年4月24日 (金)

野口英世

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  志を得ざれば再び此地を踏まず

   これは、明治29年、野口英世(1876-1928)が大志を抱いて単身上京する折、家の床柱にナイフで刻みつけた19歳の時の言葉である。猪苗代湖畔にある茅葺の粗末な生家には、今でもそのまま残されている。

   野口英世は明治33年に渡米し、明治44年に梅毒の病原体であるスピロへータを発見し、大正2年に麻痺性痴呆と脊髄癆の患者からトレポネーマを発見し、世界第一級の業績を上げた。大正4年9月から11月まで日本に帰省し、故郷で大歓迎を受けた。19歳の時、柱に刻んだ志を果たしたのである。

2009年4月23日 (木)

桓武朝の光と影

Img_0009 青色は天智系、赤色は天武系。なお紫色は、天智に生れるが、天武系の意識をもって行動した天皇をさす。

    第50代・桓武天皇(737-806)は歴代天皇125人の中でも稀にみる英傑であった。遷都を敢行したのは、仏教勢力を統制するため、大寺院の勢力が強い平城京を離れたといわれているが、そのほかにも理由があったであろう。それは天智系である桓武にとって天武系の皇族子孫とそれを支持する貴族たちの多い平城京を去ることであった。桓武は学問もすぐれていたらしく、政務も自ら行っていた、遊猟とくに勇壮な鷹狩を好み、しばしば郊外に馬を馳せ、晩年まで止めなかった。また、英雄色を好む、の喩えどおり、寵愛する女性も多く、子女が35人いたという。後宮は奢侈をきわめ財政難に苦しんだ。政府は財政難を補うために、人民に課税を重くとりたてた。皇位をめぐる権力闘争は桓武の即位のはじめからみられ、みずから進んで臣籍に下ったりするものも少なくなく、その多くは源氏の姓を賜い、なかには平氏その他の姓を賜ったものもいた。

2009年4月13日 (月)

加藤清正の虎退治の謎

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   講談、武者絵、錦絵などで日本人にはお馴染みの加藤清正(1562-1611)の虎退治の逸話であるが、信憑性のある史実かどうかは知らない。朝鮮侵攻の当時、朝鮮半島にはアムール虎(満州虎)、シベリア虎が相当多く生息していた。江戸中期の湯浅常山の『常山紀談』に虎退治の記述がある。小姓の上月左膳が虎に殺されたため、怒った清正が片鎌槍で撃退したという。吉田輝元なども虎の皮10枚を豊臣秀吉に献上している。だが加藤清正がどれくらい虎を殺したか記録にはない。そもそも日本の武将が何故朝鮮まで行って虎狩りをする必要性があるのだろうか。後藤又兵衛は虎と格闘して、のちに叱責されている。敵を前にして、大切な命を、猛獣のために危険にさらすとは、なにごとかというわけである。虎刈りの理由として挙げられる説として、①武芸の訓練のため②領地の安全確保のため③豊臣秀吉の命令、の3点である。①の説は後藤又兵衛の叱責事件のように、ありえない話であろう。②の説は男色の加藤清正が愛人の小姓が殺されたために復讐鬼となって虎を殺したという話であるが、にかわに信じ難いであろう。片鎌槍で殺したことになっているが、実際は鉄砲だったという説もある。③の説は、老いた秀吉が回春のため、虎の肉を必要としていた。虎の肉を食うと、精力がつくらしい。だが当時の輸送で食用肉を朝鮮から大坂まで安全管理で運搬できたのであろうか。虎の利用としてはせいぜい虎の皮で敷物に使うくらいしか用途はないのではないか。加藤清正虎退治の伝説は、岩見重太郎の狒狒退治と並んで江戸期に民間に流布した豪傑譚の一つであろう。

2009年4月12日 (日)

薩摩に亡命した豊臣国松?!

   「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命したとある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ、「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓」だろうということである。秀頼・幸村生存説は怪しげな話であるが、秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この豊臣国松にも生存説がある。

    大坂落城の際、国松は真田大助らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。(参考:白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285)

2009年4月 6日 (月)

「清き白河」「濁れる田沼」どっちがいい?

    デレビの時代劇でお馴染み、「越後屋、お前も悪よのお~」と悪代官が御用商人と結託して小判(賄賂)をとるというシーンがある。政治家というのは、今も昔もそれほど変わらないようだ。田沼意次が下屋敷の池を見ながら「この池に魚を入れたら面白かろうな」とつぶやいて登城すると、その日の夕刻には多くの鯉や鮒が池の中で踊っていたという。何やら西松建設の献金事件のようである。田沼はかつては日本3大悪人の一人に数えられた。戦前の論壇では徳富蘇峰や辻善之助らの道義的に断罪する風潮が主流であった。ところが近年、大石慎三郎の実証的研究により田沼の積極的な経済政策や文化政策が評価されるようになった。(大石慎三郎『田沼意次の時代』1991)だが江戸時代にすでに「白河の清き流れに水絶えて、昔の田沼今は恋しき」という戯れ歌が残るように政治家の優劣を論評することは難しい。田沼意次か松平定信か、太郎か一郎か。どちらを選ぶか、それが問題だ。

2009年4月 1日 (水)

昭和くさい顔って、どんな顔?

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    選抜高校野球大会に出場の利府高校(宮城)の選手が、自身の携帯サイト上のブログに対戦相手校について「変な顔のやつばかり。(笑)昭和くさい」と書き込んでいたことが問題となっている。ことの是非はさておき、平成生まれの若者たちが「昭和くさい」という言葉を侮蔑するために使用していることにショックを受けた大人たちは多いだろう。「昭和くさい」という若者言葉を調べていくうちに、次のような意味もあることを知った。「いわゆるチャラチャラしていない。まじめ、硬派、地に足が付いている、素朴な感じ」というニュアンスが含まれているらしい。今日、利府は、皮肉にも「昭和くさい」花巻東(岩手)に敗れた。明日の決勝は清峰と花巻東の対決となる。「昭和くさい」ほうが勝つような気がする。

   ところで朝日新聞社では「昭和といえば思い浮かぶ人物は?」という世論調査を行った。(2009.3.30紙上発表)コテコテの「昭和くさい顔」がズラリと並んでいる。

  第1位はもちろん昭和天皇。続いて田中角栄、美空ひばり、吉田茂、東条英機、佐藤栄作、長嶋茂雄、松下幸之助、中曽根康弘、ダグラス・マッカーサー、石原裕次郎、山本五十六、池田勇人、美智子皇后、竹下登、小泉純一郎、湯川秀樹、王貞治、千代の富士、山口百恵、三島由紀夫、手塚治虫の順であった。

   平成生まれの若者たちはこれら著名人の顔写真を見ても何をした人かわからないかもしれない。自分自身との関わりも感じないだろう。本当は歴史の渦のなかで深い関わりがあるのはもちろんである。著名人でなくとも、若者の両親あるいは祖父母は昭和を生きた人であろう。「先人を尊敬せよ」と言わぬまでも、自分のアイデンティティを確立するためには昭和という時代と対峙していかなければならないのだ。このままでは、おそらく平成生れの若者たちは「偉大な昭和」という時代と自身との関係を見出せないまま、人生を生きていくことになるのだろう。「昭和くさい」という言葉は使い方によって両義性のある言葉だが、単に侮蔑として使うならばそれは自分自身の存在をも否定することになることに気づかせるべきである。

2009年3月28日 (土)

美智子さまと三島由紀夫のお見合いは本当にあったのか

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   軽井沢のテニストーナメントで皇太子明仁親王が日清製粉社長令嬢・正田美智子(昭和9年生まれ)を見初めたテニスコートの恋から半世紀。昭和34年4月10日のご成婚から50年ということで今週号の雑誌各誌は美智子さまの記事が豊富である。なかでも週刊新潮4月2日号の記事「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」は本当だろうか。

 毎日新聞の元記者・徳岡孝夫が三島由紀夫(1925-1970)から「僕は美智子さんとお見合いしたことがあるんですよ」と聞いたことがネタになっている。銀座の小料理屋「井上」の2階で2人は見合いした(井上つる江・談)とある。時期は不明だが、おそらく昭和30年か31年ころであろう。三島は昭和33年に日本画家杉山寧の長女瑤子と結婚しているし、同年11月27日、美智子と皇太子との婚約発表があった。昭和30年といえば、美智子は聖心女子大学の2回生で、三島由紀夫は前年に刊行した『潮騒』がベストセラーとなり人気作家としての地位は確固たるものがあった。お見合いという正式なものなのかは怪しいが、おそらく両家の家族一緒に歌舞伎見物をしたあと食事をしたのであろう。その時の思い出をあとで三島は徳岡に面白おかしく話したのではないだろうか。

2009年3月24日 (火)

驕れる平家、久しからず

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    屋島から逃れ下関の彦島に布陣した平氏であったが、1185年3月24日、壇ノ浦でついに滅亡した。

    これにさきだち源義経(1159-1189)は伊予の河野水軍を主力として壇ノ浦に迫り、決戦の意を固めた平氏は源氏と30余町(約3㎞)の距離に船陣をかまえていた。この日早朝、東に源氏の白旗、西に平氏の赤旗が翻った。初め潮流は源氏の側へ向けて流れ、午後になると逆に流れた。潮の流れを知らせたのはいるかの群れであった。

    「いるかが源氏側に泳いで行けば平家が勝つのだが・・・」との平氏側の願いはかなえられず、迫る源氏の矢に平氏の水夫はつぎつぎと倒れた。

    平知盛は安徳天皇の船に飛び乗り、見苦しいものを捨て始めた。女房たちにも不安が広がった。清盛の妻二位尼平時子は、8歳の安徳天皇を抱いて船端から海中に身を投じた。このとき、三種の神器の一つである、宝剣が海中に没している。後を迫った天皇の母后建礼門院は、源氏方の熊手に髪をかけられ、引き上げられた。

    能登守平教経は、これを最期と義経を追いつめるが、義経は、天狗に習ったという身軽さ、八艘飛びでかわしたという。教経が源氏の武士2人と組み合い、海中に没したあと、一門ことごとく滅ぶのを見た知盛は、「いまや見るべきものは見届けた」と、入水した。

    午後5時ころ、戦いは終わり、ここに平氏は滅び去った。

2009年3月22日 (日)

斎藤道三と岐阜城

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    斎藤道三(1494-1556)の出自に関しては、正確なことはわかっていない。父松浪基宗は「北面の武士」だったといわれ、のちに山城国乙訓郡に帰農したとされる。道三は11歳のときに日蓮宗の京都・妙覚寺に預けられた。その後、還俗して松浪庄九郎を名乗り武芸に励むが、突如、商家に婿入りして山崎屋庄九郎と改名し、油屋を開業。京都とその周辺で行商し、たちまち財をなした。やがて美濃にも販路をのばすようになると、稲葉山城主長井長弘の目に留まり、長井家に仕えるようになる。その縁をたどって守護・土岐盛頼の弟頼芸のもとに士官し、深く信頼されるようになった。1527年、頼芸をたきつけて盛頼を追放させ、頼芸を守護に据える。また、かつて恩を受けた長井長弘を殺害して長井家を強奪し、長井規秀と名乗った。その後、病死した守護代斎藤利良の跡を継いで斎藤道三と称し、権勢を振るう。1542年、突如兵を挙げと、主君頼芸を改めて国外に追放し、ついに美濃国主の地位についたのである。1548年、道三は家督を長男義龍に譲り、隠居する。しかし、のちに義龍と不和になり、義龍に攻められて捕らえられ、殺された。

   濃尾平野の北端に屹立する金華山上に築かれた岐阜城は古くは井ノ口城、稲葉山城とよばれた。1201年、二階堂行政がここにはじめて城を築き、室町時代には美濃の守護土岐氏の守護代斎藤利永が修築して居城としたとされるが、この城が名城とされるのは斎藤道三によってである。ところが道三は義龍に討たれ、義龍の子の龍興が城主になったとき、尾張の織田信長によって落城。信長は、山上・山麓に本格的な城を築き、あらたに岐阜と命名した。信長が安土に移ったあと、岐阜城主は織田信忠・信孝、池田元助・輝政、羽柴秀勝、織田秀信とめまぐるしく変わったが、秀吉の没後、西軍に味方した秀信は東軍に惨敗し、翌年、廃城となった。

2009年3月16日 (月)

第10代将軍徳川家治

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    徳川幕府の将軍15人の中で徳川家治(1735-1786)は将軍在職26年という長期にわたる割に何故かその人物像は知られていない。家斉50年、吉宗30年、家綱29年、綱吉29年、家光28年と第6位である。

    その性質は温和であり、文武両道を嗜み、壮時は快活であり、力持ちでことに記憶がよかった。射礼を復興し、ことさらに絵を描き、書画の鑑定にまさったと伝えられる。将棋も好んだ。しかし、旧慣を重んじ異風・珍味・華美は嫌いであり、妓女などが舞曲を奏するというので山王祭も見物せず、筝三絃も好まなかった。どうも時間厳守など几帳面であった。また、知識欲も旺盛で、海外の情勢に留意し、物価の高低も知り、流行病や大名旗本の病気の有無をも尋ねた。ところで、病には下々をおもい、特に関心をもった。それらのために医書の出版も心がけたのである。蘭学を奨励し、解体新書が出版されたのも家治の時代である。

   家治は田沼意次を側用人に重用したため、かつては暗愚と見なされていたが、田沼の評価が上がった今、家治の再評価もすべきか。ともかく泰平の将軍としては明君といえるだろう。

2009年3月11日 (水)

江戸幕府の農民統制

   江戸時代、幕府や藩は、農民が負担する年貢や労役を経済的基盤としていたので、村や農民にはさまざまな統制を加えた。寛永20年(1643年)には、前年の飢饉で土地を手放すものが多く、幕府はこれを防ぐために、田畑永代売買禁止令をだした。延宝元年(1673年)には分地制限令をだして、農民経営の細分化と、本百姓の没落を防ごうとした。そのほか、年貢米の確保と農民が貨幣経済にまきこれないようにするため、本田畑にたばこや木綿などの商品作物を栽培することを禁じた(田畑勝手作りの禁)、また慶安2年(1648年)に幕府がだした慶安の御触書では、領主は農民の没落や逃散を防ぐために、倹約や労働を督励し、農民の日常生活にまで細かい規制を加えた。(参考:「高等学校日本史B」第一学習社、平成14年版)

2009年3月 3日 (火)

桜田門外の変

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   彦根藩主井伊直弼(1815-1860)は安政5年4月大老に就任するや、修好条約調印を勅許を得ずに強行し、南紀派が推す徳川慶福を将軍継嗣に決定した。さらに徳川斉昭や松平慶永、山内豊信らを隠居・謹慎とし、一橋派の活動家や攘夷志士の橋本左内・頼三樹三郎そして吉田松陰らを逮捕・処刑した。世に言う「安政の大獄」である。この弾圧に激昂した水戸浪士たち(一人は薩摩脱藩士)18人は、安政7年3月3日、季節外れの雪の降りしきる桜田門外で登城中の井伊直弼を襲撃、その首を刎ねた。

    ここに桜田十八士を記す。関鉄之介、岡部三十郎、稲田重蔵、山口辰之介、鯉淵要人、広岡子之次郎、黒沢忠三郎、斎藤監物、佐野竹之助、大関和七郎、森五六郎、蓮田市五郎、森山繁之介、海後磋磯之介、杉山弥一郎、広木松之介、増子金八、有村次左衛門。

2009年2月16日 (月)

宮本武蔵の生誕地の謎

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    宮本武蔵(1584-1645)の生誕地をめぐっては古来から播州説と作州説なとがあり、はっきりしない。吉川英治の「宮本武蔵」では、武蔵の生誕地を作州の宮本村、現在の岡山県英田郡大原町とした。そのため作州が武蔵の故郷と思っている人も多い。なぜ、故郷が二説になってしまったのだろうか。

    生誕地が明確でない一番の原因は、武蔵自身が自分の来歴を詳しく残していないことにある。もちろん武蔵は、著書「五輪書」の中ではっきりと「生国播磨」と記している。しかし、これは播磨の何処なのかまでは明記していないのである。播磨と一口にいっても、現在の兵庫県の約三分の一以上を占めようかというぐらい広範囲を指す。これでは、記しているようでしていないのも変わらない。その本人が「生国播磨」と記したのに対し、長い間一般的に武蔵の生家とされている新免家は、まぎれもなく作州に住んだ一族なのである。

   小倉の手向山に武蔵の死後、養子の宮本伊織が設けた碑文には「播州英産赤松之末葉新免之後裔武蔵玄信」「父号新免無ニ」とある。文章は生前の武蔵を知る春山和尚の作によるとされている。この播州がどこに掛かるのかで意味が大きく違ってくる。播州の英産なのは、赤松なのか、武蔵自身なのかである。作州説に立つ人は赤松氏が播州出身であることをいっているのであって、武蔵が播州出身であるとはいっていないと解釈する。そして播州説に立つ人は、武蔵を播州英産としているのだとしている。碑を建てたのは伊織自身であるから、碑文を春山和尚に依頼したとして、草稿のできた時点でおそらく文面を伊織は見ているはずである。もし文面に誤りあれば、特に出自にかかわることについては正したことだろう。解釈の仕方でどちらともとれる文章にしてしまったのが今となっては残念としかいいようがない。

2009年2月 5日 (木)

写楽は誰だ?

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    江戸時代、庶民の生活を題材に、風俗、役者、美人、そして名所・風景などさまざまなテーマで描かれた浮世絵。そして代表的な絵師、東洲斎写楽、喜多川歌麿(1753-1806)、葛飾北斎(1760-1849)、歌川広重(1797-1858)の四人を四大浮世絵師というらしい。このなかで写楽だけ生没年がわからない。現在残されている写楽の作品は寛政6年5月から寛政7年2月まで10か月間に集中的に発表されたもので、その後の消息が一切不明。つまり突然現われて、忽然として姿を消した。そのため写楽を謎の絵師といい、別人に比定する説は枚挙にいとまない。主なものだけをあげる。

①斎藤十郎兵衛(斎藤月岑説)、②円山応挙(田口柳三郎説)、③谷文晁(池上浩山人説)、④葛飾北斎(由良哲次説)、⑤阿波藩蒔絵師飯塚桃葉社中(中村正義説)、⑥鳥居清政(君川也寸志説)、⑦歌川豊国(石沢英太郎、梅原猛説)、⑧酒井抱一(向井信夫説)、⑨谷素外(酒井藤吉説)、⑩山東京伝(谷峰蔵説)、⑪中村此蔵(池田満寿夫説)、⑫篠田近治(渡辺保説)、⑬喜多川歌麿(石ノ森章太郎説)、⑭蔦屋重三郎(横山隆一、榎本雄斉説)、⑮秋田蘭画派(高橋克彦説)といろいろあるが、いまのところ推理小説の世界でどの説もイマイチ確証に欠ける。

    そこで登場した新説は平賀源内。いま週刊新潮に連載の島田荘司の「写楽閉じた国の力」では、主人公の佐藤貞三は写楽=平賀源内説を思いつく。源内は自宅で二人の男を殺したため、安永8年(1779)獄死したことになっている。つまり写楽の活動した寛政6年にはこの世にはいない。ところが非業の死を遂げた源内の葬儀は遺体もなく、墓もないため、後世、逃げ延びて生き続けたという俗説もあるため、写楽と同一人物とする小説のプロットもアリであろうか。

2009年1月28日 (水)

平手造酒のモデルは剣ではなく筆の達人

   「もとをただせば侍育ち 腕は自慢の千葉仕込み」と流行歌「大利根月夜」(藤田まさと作詞)で歌われた平手造酒は大酒飲みで肺結核を患う孤高の剣士というイメージがある。講談だけでなく、映画や歌謡曲でしばしば登場した人物なので、彼を実在した人物と思っている人も多いことだろうが、架空の人物である。ただしモデルはいた。関東一の大親分といわれた笹川繁蔵の客分となった手習いの師匠の平田深喜(1809-1844)だ。だが手習いの師匠では面白くも何ともないので、講釈師が平手造酒という人物を想像でつくり上げ、神田お玉が池の北辰一刀流千葉道場の高弟だったが、酒好きがわざわいして破門され、ヤクザの用心棒となった剣客としてしまったらしい。本物は剣ではなく筆の達人だったわけである。(参考文献:「雑学面白ことば」三省堂)

2009年1月18日 (日)

向坂逸郎と三池闘争

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   いまソニー、トヨタ、いすず、キャノン、パイオニア、東芝と大手企業のリストラ、解雇の嵐が吹き荒れている。思い出すのは戦後労働運動の分水嶺といわれ、昭和35年1月から10月にかけて三井三池炭鉱で闘われた大量解雇反対闘争、いわゆる三池争議である。1278人の指命解雇に反対する三池労働者は、武装警官隊、右翼暴力団、反動的裁判、中央労働委員会のごまかしの斡旋など、独占資本と自民党政府の一体となった攻撃にたちむかい、闘った。

  がんばろう 突き上げる空に

  くろがねの男の こぶしがある

  もえあがる女の こぶしがある

  闘いはここから 闘いは今から

「がんばろう」という労働歌は、三池闘争の中から生れた。三池労組は九州大学教授・向坂逸郎(1897-1985)の指導を得て組合学習活動が盛んだった。合理化を阻止できなかったとはいえ、この闘争は戦後史の一つの頂点であった。

2009年1月 8日 (木)

鳥羽城主・九鬼嘉隆

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  答志島には九鬼嘉隆の首塚と胴塚がある

    九鬼嘉隆(1542-1600)は、織田信長の伊勢攻略に降伏し、信長の水軍の将として活躍した。天正6年、木津川口において毛利水軍の糧船600艘を大砲を積んだ戦艦6艘で追いはらった。豊臣秀吉にも仕え、四国征討、九州征討、朝鮮の役に参陣した。しかし関ヶ原の合戦では西軍につき敗れて、鳥羽湾に浮かぶ答志島で自刃した。

2009年1月 4日 (日)

長尾よねの写真

   ブログ記事「児島喜久雄と長尾よね」に寄せられたYousukeさんの情報から、今日、本屋で「週刊新潮1月1・8日新年特大号」を買いました。びっくり仰天、スゴイ写真ですね。近衛文麿の孫娘・山本斐子の隣にいるのが長尾よね(1890-1967)だとすると、昭和18年当時52歳。女傑というイメージがあったが、小柄で若くて美人ですね。なぜ長尾よねが近衛家に出入りするようになったのは謎です。長尾よねは私生児ですが、元宮内省大臣・田中光顕(1843-1939)の養女になっています。田中は明治天皇の信頼が厚く11年間も宮中で絶大な勢力をもっていた。ところが明治42年1月、65歳の田中と19歳の町娘との縁談が話題となったが、娘が仲介者・金杉英五郎の情婦だったことから「宮内相の醜聞」と新聞に書き立てられ、周囲からの反対もあって破談となり、宮内大臣も辞任した。以後も田中は97歳まで長生きするが、美人の長尾よねと何時、どのようにして知り合いになったかは不明である。なお破談となった娘の名前は小林孝子という。昭和5年に山西健吉著「小林孝子懺悔秘話」(資文堂書店)という本まで出版されている。ともかく長尾よねは田中光顕の後ろ盾があって、宮中の要人と関係を結んでいったことだけは間違いない。

   それにしてもこの写真、どういう人の集りなのかわからないが、不気味な感じがする。昭和18年といえば、そろそろ戦局悪化の情勢、こころなしか皆の表情も暗いように思える。

2008年12月28日 (日)

天璋院篤姫フィナーレ

    NHK大河ドラマ「篤姫総集編」3夜連続見る。主演の宮崎あおいは大河史上最年少ながら、12歳から49歳までを見事に演じきった。朝日新聞のある欄には、このドラマ「篤姫」を日本版「風と共に去りぬ」と、まで高い評価をしている。

    ところでナレーションでもあった篤姫の享年49歳とは陰暦で数えた場合であり、今日の満でいうと47歳9ヵ月である。そしてドラマにはなかったが、篤姫が亡くなる数ヵ月前に岩倉具視(片岡鶴太郎)が57歳で亡くなっている。病死であれ、天寿であれ、このドラマの登場人物は皆短命である。徳川家定34歳、徳川家茂20歳、坂本龍馬31歳、和宮32歳、小松帯刀36歳、木戸孝允44歳、西郷隆盛49歳、大久保利通47歳。幕末維新の動乱にそれぞれの役割を果たして夭折したのであろう。

    維新後、徳川家達の教育に専念した天璋院は、ひとつの時代の終わりを告げるかのように、明治16年11月12日、千駄ヶ谷の徳川宗家の邸宅で静かに死去した。自宅の風呂場で倒れたそうで、死因は脳卒中だった。墓所は上野寛永寺。夫・家定の墓の隣に眠る。

2008年12月20日 (土)

女給哀史

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    明治44年3月、洋画家の松山省三(1884-1970)と平岡権八郎(1883-1943)は、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」を開業した。新聞の三行広告で、女性を募集する時に、当時は「女ボーイ」と呼ばれていたが、字あまりになるというので、女の給仕という意味で「女給」という言葉が生れた。プランタンに次いで、パウリスタ、ライオン、ブラジルなどが京橋を中心として開店した。女給の衣裳は、着物の上から胸当て付ききで、丈の長い白いエプロンを付けるという、和洋折衷的なスタイルだった。

 大正期は若い芸術家たちのサロンだったカフェーも、昭和になると時代の流れの中で、「女給」を売りにした風俗営業となっていった。カフェーの女給は、大阪と東京ではかなり違いがあり、大阪のカフェーの特色は客のそばに寄り添ってサービスするエロ路線だった。昭和5年頃、女給全盛時代となるが、女給崩れの中からは、街頭で身を売る「ストリート・ガール」、タクシーの助手席から男を誘う「円タク・ガール」、消毒ガーゼを使って接吻する「キッス・ガール」(1回50銭)という新手の風俗業も登場した。

 わたしゃ夜さく 酒場の花よ

 赤い口紅 錦紗のたもと

 ネオン・ライトで 浮かれておどり

 さめて さみしい 涙花

   「女給の唄」(西條八十作詞、昭和6年)

2008年12月16日 (火)

熊本城天守閣炎上の謎

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               熊本城激戦図錦絵(部分)

    天下の三名城の一つにうたわれた熊本城は加藤清正の築城、慶長12年(1607年)以来270年、戦場となることは一度もなかった。ところが日本最後の内戦である西南戦争において、熊本鎮台が薩摩軍の精鋭を迎え撃つ壮絶な攻防戦が明治10年2月22日から繰り広げられた。

   薩摩軍四番大隊長・桐野利秋(1838-1877)は手にした杖のかわりの竹をひと振りし、「熊本城は、これをひと振りすれば一気にも陥ちもす」と豪語した。桐野利秋、池上四郎らは正面軍を指揮して攻撃したが、熊本城の守りは固かった。熊本鎮台司令長官・谷干城(1837-1911)は樺山資紀を参謀として鎮台をよくまとめ、薩軍と交戦し、籠城すること50余日が過ぎても陥落することはなかった。

   この西南戦争熊本城攻防戦での最大の謎は天守閣の炎上であろう。話はさかのぼるが、いよいよ薩摩軍総攻撃の3日前、すなわち明治10年2月19日、午前11時40分、本丸二の天守付近から原因不明の出火により天守閣と本丸御殿一帯は全焼した。出火原因としては①台所からの失火説、②薩軍の放火説、③鎮台自ら火をつけたとする自焼説、がある。食糧として蓄えられていた米1251表が焼け跡から出てこなかったことなどから、③の自焼説が有力である。つまり、熊本鎮台司令長官・谷干城が児玉源太郎(1852-1906)に命じて放火させたともいわれている。天守閣が復元されたのは昭和35年のことであった。

2008年12月11日 (木)

古畑鑑定と科学捜査の信頼性

    化学や血液鑑定などの科学的な方法で犯罪捜査をすることを科学捜査という。我が国では東京大学教授の古畑種基(1891-1975)が法医学の草分けとして知られ、かって「古畑鑑定」には絶対的な信頼性が存在した。しかし古畑の死後、弘前事件、免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件などについて、古畑鑑定はことごとく間違っていたことが明らかとなった。東大の権威と科学的という信頼性に基づく鑑定であったが、今日では専門家から多数の疑義が上がり、一部には捏造も指摘されているという。

    帝銀事件について化学屋さんから興味ある新刊書のご紹介のコメントをいただいたが、残念ながら未読で申し訳なく思っている。ただし、戦後の一時期、警察の捜査は犯人をでっち上げるためには証拠の捏造などは平気でやったことは事実であろう。そして帝銀事件にも関与している古畑鑑定というのは、つねに警察よりのものであったことは言うまでもない。文化勲章を受章した東大名誉教授であるが、無実の冤罪者の苦しみを知らずに死んだエリートの人生もまた悲しいものを感じる。

石原莞爾とライカ

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   「カメラには二種類ある。すなわちライカとライカ以外のカメラだ」

   ライカは1913年にドイツのエルンスト・ライツ社の映画撮影機の設計技師オスカー・バルナック(1879-1936)が制作した映画撮影時の露出を決める試し撮り用カメラ「ウイル・ライカ」を原型とする小型カメラ。1925年4月、35ミリのフィルムを使用する小型カメラ「ライカⅠ(A)型」が発売されたが、ドイツでもまだ誰も見向きもしないカメラだった。

   ナポレオン1世とフリードリッヒ大王の研究のためドイツに留学していた陸軍軍人・石原莞爾(1889-1949)は、帰国間近になったこの年の8月、行きつけの写真店フォト・ザクセンに立ち寄った。そこでライカを見つけた。石原は、一目でこの新型カメラが気に入った。だが店員は「お求めになるのは見合わせた方がいいですよ。このカメラは距離計を売るために作られたもので、大したものではありません」という。それでも石原は購入した。帰国して石原が持ち込んだカメラが日本でのライカ第1号だった。

2008年11月25日 (火)

紫雲丸の悲劇と報道写真論争

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                         紫雲丸

  昭和30年5月11日、修学旅行の児童生徒375人を含む乗客781人を乗せて高松を出航した国鉄宇高連絡船紫雲丸(中村正雄船長)は、第三宇高丸(三宅実船長)と衝突した。紫雲丸は衝突5、6分後の午前7時ごろ沈没、中村船長ら乗員2人と乗客166人が死亡した。

    紫雲丸事故は、もうひとつの大きな論争を起こす問題を提起した。報道カメラマンが助けを求める乗客を撮影した写真が新聞に掲載されたことに対して、シャッターを切る時間があったのなら、なぜ一人でも救おうとしないのか、という批判の声が上がったのである。この論争はその後も大きな事件や事故のたびに繰り返されている。今年、秋葉原で起きた通り魔事件では、被害者を携帯電話、デジタルカメラで撮影する野次馬のモラルが問題となった。ライブドアでは、世論調査サイトで、事件現場の撮影がモラルに反すると思うかどうかのアンケートをした。その結果、「思う」が66.89%で、「思わない」が33.1%だった。

   紫雲丸事故の論議で評論家の大宅壮一は、専門家とアマチュアとの差があることを論じ報道の使命を主張した。しかし、秋葉原通り魔事件のように専門家でない単なる野次馬の撮影にそれほど社会的意義があるのかは疑問である。被害にあって苦しんでいる犠牲者の傍らで、多数のアマチュア・カメラマンが面白半分に撮影している光景には明らかに非人間的な行為として異様に感じられた。そして、そのような行為をしても恥かしいと思わない日本人のモラルの低下を物語る事件でもあった気がする。

大原孫三郎と社会事業

   大原孫三郎(1880-1943)は、父・大原孝四郎が創立した倉敷紡績を継ぎ、これを倉敷レイヨンに発展させたが、かたわら社会事業に熱心であった。18歳のとき二宮尊徳の「報徳記」をくり返し読み、事業の利益の何割かは社会へ還元すべきであって、私腹をこやしてはならない、という訓えに心をうたれた。そして20歳のときキリスト教の熱心な感化を受けた。孫三郎は、まず彼にキリスト教を教えた石井十次の経営する岡山孤児院を援助した。この他郷里の倉敷市に、病院・美術館・民芸館・考古館・天文台・農業研究所などをつくって一般に開放した。なかでも、大正8年に設立された大原社会問題研究所は、大正・昭和初期の社会科学のメッカであった。所長の高野岩三郎の下に、櫛田民蔵、久留間鮫造、森戸辰男、大内兵衛、細川嘉六、笠信太郎などの学者が、ここから輩出した。この研究所がわが国の社会科学や労働運動に投げかけた影響は測り知れないものがある。大阪市天王寺区伶人町にあった大原社会問題研究所は昭和24年に財政難のため廃館となったが、現在は法政大学大原社会問題研究所として継承されている。

   大原美術館は昭和5年に、その前年に死去した画家の児島虎次郎(1881-1929)を記念するために大原孫三郎が倉敷市に建設したものである。エル・グレコの「受胎告知」や印象派の名作を蒐集したもので、今日では日本に存在することが奇蹟としか思えないほど素晴らしい、日本を代表する美術館へと発展している。

2008年11月22日 (土)

男は度胸

   江戸の年中行事に鞴(ふいご)まつりというものがあり、11月8日未明、市中の子どもたちが、鍛冶、鋳冶、石工などの吹革(ふいご)を取り扱う家の前に集まって騒ぐと、主人が二階から数百数千の蜜柑を投げ、子どもたちが争ってこれを奪いとる風習があった。このため11月初めには蜜柑の価格が暴騰したらしい。蜜柑を積んだ便船が紀州と江戸の間をしきりに往復した。ところがこの時期にはちょうど寒風が吹きすさび、海上が大荒れに荒れる。名にし負う熊野灘、75里の遠州灘を無事に乗り切ることは容易ではない。

    たまたま、この前後、暴風雨が吹きまくって、さすがの海の荒くれ男たちも出帆を躊躇している時、紀伊国屋文左衛門(1669-1734)は決死の覚悟で船を出したのだ。長唄の「紀文大尽」によると、正保元年の霜月のことだそうで、蜜柑8万5千籠を船に積んで、乗組員は白装束に縄だすき、みずから幽霊丸と名のり、遠州灘を乗り切った。ふいご祭りに間に合ったため、危険を冒した甲斐あって5万両という巨利を一時に博したという。この文左衛門の行動はまったく度胸の一語につきる。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀伊国蜜柑船」と俗謡に唄われた。

    ただし、紀文度胸千両の蜜柑船の話は、現在のところそれを裏づける確たる資料はほとんどない。文左衛門は元禄11年に上野寛永寺根本中堂の造営に際し、その用材の調達を一手に請負い巨利を得たというのが史実に伝わるところである。

2008年11月17日 (月)

ああ、拝啓カアチャン俺は行く

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                  大東亜の共栄双六

    ある新聞に若い女性教師の投書が載った。新しく赴任した小学校のそばに自衛隊の演習場があった。戦車が走り、迷彩服の隊員が見え隠れする。教育の場にはふさわしくないと感じた彼女は「子どもに戦車なんて見せたくない」と率直な感想を書いて話題となった。だが戦後60年が経過すると、実際には国民の多くは自衛隊容認派が増えてきているという。海外派遣や人道支援、阪神大震災をはじめ災害のたびに派遣される自衛隊の活躍も影響しているかもしれない。

  今回の田母神俊雄の論文「日本は侵略国家であったのか」が政府の見解(村山談話)と異なる内容であることで大きな問題となったが、国民に自衛隊そのものの印象がどのように変わったのかという正確な調査やデータはまだ知らない。だがブログなどを読むと田母神の堂々とした発言態度から、すべての国民は日本のことを真剣に考えていかねばならないと感じた人が大勢いるということだけは明らかである。

    「正しい歴史認識を持とう」という論議であるが、歴史学者と一般庶民とでは歴史認識には違いがあるのを感じる。マスコミもミスリードしているように見える。戦後から10年、20年経過したころは、まだ軍隊経験者が多かったので、生々しい記録や問題意識のあるものが多く生れた。野間宏「真空地帯」や大岡昇平「俘虜記」「レイテ戦記」、テレビドラマ「私は貝になりたい」など多数の作品があろう。だがこのような文芸作品よりも、一般大衆はもっと軍隊コメデイを娯楽として楽しんでいた観がある。梁取三義の「二等兵物語」や棟田博「拝啓、天皇陛下様」「拝啓カアチャン様」、前谷惟光「ロボット三等兵」など挙げてみても、映画、テレビ、漫画などの世界では軍隊生活を揶揄した喜劇調のものが多い。つまり被害者意識はあっても、アジア諸国への加害者意識は希薄なところがあった。家永教科書裁判(1965-1997)あたりから、日本の戦争責任が自省されるようになってきたといえる。

   子どもたちの学習で平和教育というのがある。残虐な場面を見せ、多くの人々が戦争で死んだことを教え、戦前の日本は悪いことをしたという気持ちを持たせるだけで終ることがおおい。こういった教育で育った戦争を知らない世代は、田母神論文問題の報道記事を読めば「許せない」の大合唱をする。このような表面だけしかみない平和主義者たちが確実に増えてきたが、彼らは自分たちの偏狭な正義感に満足しているだけではないだろうか。もっと戦前社会を理解させる教育が必要である。

   ようやくPDFで田母神論文を読んだが、読後感は爽快であった。「国益を損なう」とか「日本がおかれている国際的政治的状況を考えろ」とか識者の批判はあるだろうが、ケペルとしてはそこまで考慮できる立場の人間ではないので、むしろ自衛隊のトップとしては当然の意見のように感じる。冒頭でアメリカ軍の駐留のこともふれており、短い文章の中に必要なことが要領よく盛り込まれている。愛国者ならではの憂国の至誠が自然に感ぜられる。いかにも軍人らしい文章もみられるが、それが即クーデーターに直結するようには感じられない。誇りある日本人として言うべきことを堂々と書いたまでであろう。

2008年11月16日 (日)

最澄と山林修行

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          比叡山延暦寺根本中堂の内庭

    伝教大師最澄(767-822)は、近江国滋賀郡古市郷の人。俗姓を三津首広野(みつのおびとひろの)という。12歳で出家し、14歳で得度して最澄と号した。19歳で東大寺の戒壇で具足戒をうけた。しかし、彼が奈良において眼のあたりに見たものは、内容の伴わない外形の盛儀と、寺院僧侶の腐敗堕落ぶりとであった。延暦4年、叡山に入り、草庵を結んで教学の研究に没頭し、発菩提心の願文をしたためた。延暦13年に鎮護国家の道場として根本中堂(一乗止観院)を建てた。

    平安時代の仏教の主流は、比叡山延暦寺や空海の高野山金剛峰寺を中心に展開された。人里は離れた山林は、その静寂さのなかで僧尼が神経を集中させ、時には苛酷な自然条件を絶え忍んで苦行を行なう修行の場として最適の条件を備えており、また中央権勢に接近して名利を得んとすることを拒むという利点があった。だが最澄を山林に導いたものは、奈良時代以来の山林修行の伝統であったと考えられる。たとえば天平6年、唐から来朝した道璿(どうせん、699-757)は、鑑真に先立って戒律を伝えた三論宗の高僧だが、天平勝宝3年、朝廷の優遇を嫌って吉野の比叡山に隠居し、持戒修禅につとめたという。最澄の師主、行表(722-797)は、この道璿の弟子であった。

2008年11月15日 (土)

平泉澄「少年日本史」

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   海軍少尉  黒木博司

   ケペルは少年時代、歴史物語が好きで中村孝也(1885-1970)の本を愛読していた。友人にはだいぶん非難されたが、ケペルはいまも好きで大切に所蔵している。しかし平泉澄(1895-1984)の「少年日本史」(時事通信社)は少し難解だったので読むことができなかった。大人になった今でも読むには骨が折れる。しかし南北朝の時代など流石に詳しくて参考になるところが多い。つまり、中村孝也や平泉澄は戦後も子供向けの歴史書を執筆し、かなりの影響力を与えていたのである。

    ただ残念ながらケペルの読書力では「少年日本史」を読破できなかったので、最終章「大東亜戦争」を読まずに終った。いま拾い読みして驚いた。なんと特攻の兵器である人間魚雷回天の話で締めくくっている。黒木博司(1921-1944)は回天の創案者だが、平泉澄の教え子だという。やはり皇国史観の歴史家にとって、憂国の至誠の教え子の死が強烈なものであったのだろう。もちろん後の世代の者たちが、偏狭な国家主義、危険思想、軍国主義者、クーデターが起こる、などといくらでも批判することはたやすいことである。だがその時代を生きた個人の真摯な声に耳を傾けることも必要だ。何故かウィキペディアの黒木博司の項目は詳細である。伝記も多数出版されている。黒木が指を切って血書した幕末の志士・佐久良東雄(1811-1860)の歌が「少年日本史」の末尾に掲載されている。

   皇(きみ)の為 命死すべき 武夫(もののふ)と なりてぞ生きる 験(しるし)ありける

   佐久良東雄は、桜田門外の変で大老井伊直弼を襲撃した水戸浪士をかくまったとして囚われ、「徳川の粟を食わず」と獄中で絶食死した志士・歌人で戦時中は広く知られていた。

2008年11月14日 (金)

戦後育ちの歴史認識

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    最近「KY」は「空気よめない」の意味ではなくて、「漢字読めない」の略語だという。これは麻生太郎が漢字を読み間違える例が相次いでいるからだ。「未曾有」を「みぞうゆう」、「頻繁」を「はんざつ」と誤読した。最もひどいのは「村山談話を踏襲します」を「ふしゅう」と読んだことである。空幕長論文問題で政府の姿勢が問われる重要問題だけに、この件では支援していた流石の朝日新聞もズツコケたであろう。政治家の歴史認識がどの程度のものであるか疑わしいが、すくなくとも日本語の基礎である漢字くらいは勉強してほしいものである。

    先日、「ごろ寝の人」さんからうれしいコメントをいただいた。やはり同世代の人とはどこかで共感できるものがあるのだろう。少年誌が空前の戦記ブーム、プラモデルも全盛だった。九里一平「大空の誓い」、小沢さとる「サブマリン707」、ちばてつや「紫電改のタカ」、吉田達夫「少年忍者部隊月光」、辻なおき「〇戦はやと」、園田光慶「あかつき戦闘隊」など。さらに詳しく知りたくなって「丸」を読んだりしていた。また小学館の「ホーイズライフ」は子供心にもカッコイイ雑誌だった。ところで、麻生太郎(昭和15年生)や鳩山由紀夫(昭和22年生)はどうやら良家育ちで漫画好きというが、昭和30年代の戦記ブームで育ったようには思われない。唐沢の論文に「田母神のどこが悪いんだ」というブログが多いことを指摘していたが、いま50代に「侵略戦争ではなかった」という考えを持つ人が多い背景には、おそらく昭和37年から40年までの少年誌の戦記ブームやアニメ「決断」で育った影響力が強いためだと考えている。村山談話の踏襲がたとえ政府の基本方針だとしても、子供のころに読んだ少年誌の影響のほうがはるかに大きいのだ。だが政治家一家で育った御曹司たちはそのような単純なものではなく、一般国民とはかけ離れた感覚の持ち主であるので、彼らの歴史認識はとても理解できかねる。

空幕長論文問題とトンデモ本

    朝日新聞2008.11.13付「私の視点」で空幕長論文問題で三人の識者、北岡伸一、唐沢俊一、志方俊之の論説が掲載されている。なかでも唐沢俊一の「陰謀論にはまる危うさ」が図書館員としては気にかかる。肩書きによれば唐沢は「と学会」会員であるという。「世の中には荒唐無稽な主張を展開するトンデモ本があれている。私は、トンデモ本を研究すると学会会員として、数多くのトンデモ本を読んできたが、田母神論文にはトンデモ陰謀論の典型的なパターンが表れているように感じる」と書き出しの8行を引用すれば、論文の趣旨はだいたいおわかりいただけると思う。このブログでも「孝明天皇は毒殺だった」「明治天皇は替え玉だ」「広開土王は仁徳天皇だ」などドンデモ論を過去記事にしている。歴史の世界でいえば、江上波夫の騎馬民族征服説は学校の授業ではトンデモ論として扱われてきたが、ケペルはかなり信憑性の高い学説だといまでも考えている。結論的にいえば、唐沢俊一の意見には全く反対である。「トンデモ本」の定義自体あいまいであるが、擬似科学だけでなく、最近では皇国史観の本やそれなりにマジメに書かれた本などもさすようである。だが「トンデモ本」というふざけたネーミングで、ラベリングすること自体問題であり、言論の自由を損なうものである。図書館の世界ではよく知られ事件であるが、船橋市立西図書館で女性司書が個人の判断で特定の図書107冊を廃棄して問題となった。特定の図書とは西部邁の本が36冊、渡部昇一の本が22冊である。いわゆる扶桑社の新しい歴史教科書をつくる会とか自由主義史観研究会、藤岡信勝、産経新聞社、日本文芸社、ワック、二見書房など一般によく流通している近現代史の歴史読物の類である。自分の家の蔵書の中からこれらの本を何十冊さがすことも容易である。ブックオフ100円で売られているからだろう。藤岡信勝「教科書が教えない歴史」、「渡部昇一の昭和史」など中味は田母神論文と共通している。ところで船橋の女性司書が何故これらの特定の本を除籍したのか、詳しい動機はわからないが、おそらく唐沢のいう「トンデモ本」であるという認識があったのだと考える。図書館の世界では「図書館の自由宣言」というのがあって、読者の自由を保証するという社会的使命が最も重要だとされている。したがって、「トンデモ本」となどいうラベリングで廃棄することこそ、とんでもないことである。また朝日新聞が言論の自由を否定するかのような論説を連日掲載していることも社会的に害悪を与えている。第ニ、第三の船橋の司書が出現しないともかぎらない。ケペルは一応は大学の史学科卒業で実証主義的な論文を書くことを教えられた。だが、その高名な実証主義的な教授が海外留学をした経験では「緻密な資料の考証の上にたって歴史研究をされ人もいるだろうが、ライターといって軽い読物をリライトして読みやすい歴史を書くこともあっていい」と教えてくれた。ブログはまさにその世界である。大雑把なようにみえても短文が案外と真をついていることのほうが多いのが歴史叙述である。

2008年11月10日 (月)

むすめ踏切番・井上くら

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    かつて国鉄には女性の踏切番が全国に大勢いたらしい。いま「踏切番」という用語は放送禁止で「踏切警手」「踏切保安係」と言い換えられる。したがって松山恵子の歌謡曲「むすめ踏切番」(昭和33年)もラジオで聞くことができない。昭和16年10月14日の朝日新聞に兵庫県飾磨市細江の井上くら(55歳)が35年間も踏切番を続け、無事故であることから大臣から表彰されたという記事がある。なんと明治44年の20歳の頃から昭和16年に至るまで、女ながら地道に精進したことが軍国美談として新聞記事にも大きな扱いとなっている。大正時代には、流行歌のように全国に「むすめ踏切番」がいたのだろうか。飾磨(しかま)市とは聞きなれないかも知れないが、姫路市南部の地区で、昭和15年から21年まで市であった。井上くらは飾磨港線天神踏切の警手だった。

2008年11月 8日 (土)

零戦のエンジン

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    戦争漫画といえば貝塚ひろし「ゼロ戦レッド」を思いうかべる。調べるとなんと昭和36年から41年まで6年間にわたって「冒険王」に連載されていた。もちろん購入するお金はなく、森市場のエスペローという新刊書店で、新刊雑誌を一夜貸し10円で読んでいた。だがほとんど零戦の詳細な知識はもたなかった。大人になって出張で群馬県太田市の「中島記念図書館」にいくことがあった。そこで中島飛行機の創立者である中島知久平(1884-1949)のことを初めて知った。零戦の設計・制作は三菱重工で堀越二郎技師であるが、飛行機の心臓と言われるエンジンは中島飛行機製作の「栄」である。陸軍の主力戦闘機「隼」のエンジンも製作している。

    ゼロ戦の正式名称は「零式艦上戦闘機」。零戦は戦時中10,430機生産されたが、これは日本一の生産数で、隼の2倍近い数字であった。9501-Pエンジン1基、最大時速533.4㎞。零戦は操縦性に優れ、日中戦争から太平洋戦争初期にかけて、向かうところ敵なしの活躍をした。

    中島は、明治17年1月1日、群馬県新田郡尾島村に生まれた。明治33年、上京し、明治36年10月、海軍機関学校に入学した。日露戦争後、海軍内で幅をきかせる砲術科に対し、機関科出身の中島は「戦艦よりも圧倒的に安くできる飛行機を大量に作って、戦艦を攻撃・撃沈すること」を力説した。そして大正6年末には、わが国最初の民間飛行機製作所(中島飛行機の前身)を創設した。中島飛行機はその後戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、戦時中は関連機会工業を傘下に収める一大コンツェルンを形成、飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長して敗戦直前には一時国営に転換された。

2008年11月 1日 (土)

松島松太郎と「天皇プラカード事件」

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    昭和天皇(1901-1989)の巡幸 昭和21年

   松島松太郎(1915-2001)は、大正4年、東京芝高輪で唐木細工職人の父・末吉、母・いねの次男として生れた。昭和5年、高等小学校を卒業して日本銀行に給仕として就職し、同時に大倉商業学校の定時制に入学した。在学中に、のちの理論社などの出版業を営む小宮山量平と左翼グループを結成した。昭和16年、東京三田の田中精機株式会社に総務課長扱いで就職した。敗戦をへて、昭和20年11月初旬、日本共産党に入党し、同時に田中精機に労働組合を結成して委員長に就任した。翌21年1月、春日正一(1907-1995)らと連絡をとりながら、日本共産党の組織づくりを指導した。昭和21年5月19日、皇居前広場で開かれた食糧メーデーにおける「天皇プラカード事件」で検挙される。

    この年は都市には失業者があふれ、物価は高騰し、食糧は不足していた。食糧メーデーで松島はプラカードの表に「詔書 国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」、裏に「働いても働いても、何故私たちは飢えているのか、天皇ヒロヒトよ答えよ」と書いた。

   事件は社会的波紋を呼び、裁判所では弁護側が「不敬罪の存続は天皇制批判の自由を圧迫するものだ。天皇を国民的象徴とする改正憲法は不敬罪を以て国民に天皇を尊敬せしむるという根拠をさえ失っている」と反論するなど、そのゆくえが注目された。結局、昭和21年11月2日、「ポツダム宣言を受諾し降伏文書に調印した後においては、従来の天皇の特殊的地位は完全に変革し、その時以後これまで法的に認め難かったところの天皇の個人性を認めるに至った結果、かかる天皇の一身に対する誹謗、侮蔑などにわたる行為については不敬罪をもって問擬すべき限りでなく、名誉に対する罪条をもってのぞむを相当とする」として名誉毀損による懲役8ヵ月の有罪判決が言い渡される。一審有罪の後、弁護側は「親告罪である名誉毀損が、天皇の告訴なしになぜ成立するのか」という理由で控訴したが、二審(昭和22年6月28日判決)では「不敬罪だが大赦で免訴」となり、三審(昭和23年5月26日大法廷判決)では「大赦で審議できず」となった。

    松島松太郎は、のち党活動指導部の全国オルグを務め、昭和25年以降は神奈川県川崎に転居し、日本共産党の専従として活動した。昭和35年の安保闘争では神奈川県民会議の代表幹事として運動を指導した。昭和48年11月中央委員に就任。のち中央党学校(静岡県伊豆)の主事を務めた。平成13年8月9日、胃がんにより死去。享年85歳。

2008年10月19日 (日)

楠木正儀と佐々木道誉

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         賀名生の「皇居」

  室町幕府の政争に敗れて失脚し南朝に降った細川清氏が「今こそ京を攻める好機ですよ」と公卿たちに触れ回った。このとき南朝の後村上天皇は賀名生の行宮でのわび住まいである。天皇はすぐに楠木正儀に相談した。正儀は、「今は父正成の時代とことなり、兵力もなく、どうして幕府方に勝てよう。これまでも都を攻めたことがあるが、いずれも攻め落としたのは数日だけではないか」と冷静に状況を判断していた。だが天皇の討幕の決心をくつがえすことはできず、1361年12月8日、正儀は南朝の大将として都を攻めた。

    都に入ると将軍の館、有力大名の屋敷など次々に火を放って回った。正儀が向かったのは風流人で知られた佐々木道誉(1296-1373)の豪勢な屋敷だった。火を放とうと邸内に入ると、客殿には真新しい畳、美しい花が生けてあり、香炉から香ばしい香りが漂っており、宴の支度がしてあった。正儀は道誉の振舞いに感激し、都落ちする日までこの屋敷で過ごした。しかも吉野に逃げのびる時には、屋敷を掃き清め、感謝のしるしにと家宝の鎧と太刀を置いて去った。風流には風流をもって応えたのである。

2008年10月17日 (金)

五と六の数字に運命を支配された山本五十六

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    連合艦隊司令長官・山本五十六(1884-1943)は新潟県長岡市、旧越後長岡藩士・高野貞吉、ミネの六男として生れた。父親が五十六歳のときだったので「五十六」と名づけられた。数字を名前にもつこの軍人は、五と六の数字の因縁にとりつかれていた。

    太平洋戦争で日本海軍の敗北が決定的となったミッドウェー海戦は昭和17年6月5日、その翌年に山本五十六はラバウルで戦死し、日比谷公園で国葬にふされたのが6月5日だったのである。

2008年10月 9日 (木)

北丹後大地震と北村兼子

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        22歳ころの北村兼子

    昭和2年3月7日午後6時27分、京都府北部の北丹後地方にM7.3の大地震が発生した。地震発生時刻が夕食時と重なり、台所や風呂などの薪が燃えていたため、倒壊家屋から火災が発生した。丹後縮緬の産地で知られる峰山町(現京丹後市)では家屋の97%が焼失、人口に対する死亡率は22%と最大の被災地となった。

   このとき新聞社やマスコミは被災者救援のキャンペーンを行なった。朝日新聞社は藤木九三を班長として、救護班を組織し、8日午前、被災地に急行した。この中に入社3年目の婦人記者・北村兼子(1903-1931)もいた。北村はこのときの様子を「婦人4月号」に次のように記している。

    峰山へ来て峰山の印象を残しているものは浴場と裁判所に近き或一軒が奇跡的に残っているばかり、家は必ず倒れている、倒れたら必ず焼けている、焼けたあとには必ず死体がある。風は吹くごとに必ず雨か雪をもつて来る、雪のつもった中を倒れた家の屋根を攀じ電線を手繰りながら、下りたら後から「北村さんがやった!」と叫ぶ看護婦がある。何をやったかと足許を見たらまア!、私の靴は半身焼け残った死体の腹部を踏んだのであった。赤ら顔で面相はそのまま残っているが、胴体は焼けて軽石のように穴だらけ。それとも知らないで私は、とんだことをしてしまった。済まない!しゃがんで合掌した。覚えていたお経の断片を唱えてまた進んで行く。

2008年10月 6日 (月)

幕末動乱期の阪神間の存在

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   NHK大河ドラマ「篤姫」を見ていると、薩摩、長州、京都、江戸などは幕末動乱期の主要舞台となっている。ドラマ後半の戊辰戦争になれば、さらに会津、東北、函館と広がってくるであろう。ところが大坂や阪神間はあまり幕末のドラマでは影が薄い存在である。せいぜい御用商人が武器を調達する話で登場する程度であろう。実際には大坂城は幕府方の大本営として重要な所であり、阪神間も京へ至る西国街道沿いの芦屋、西宮、尼崎は重要拠点であった。

   西宮の香枦園の浜は昭和37年頃までは海水浴場で賑わっていたが、東端に西宮砲台という不思議な建造物があったのを子ども心に記憶している。(今もあるだろうが最近は見ていない)。幕末の動乱期、国防のため勝海舟の建策で建造されたもので、阪神間には和田岬、湊川、今津とこの西宮に砲台が配備されたという。

    尼崎には残念さんの墓がある。元治元年7月の禁門の変で京都から脱走してきた長州藩の山本文之助が尼崎北の口門で逮捕され、尼崎藩の取調べ中に残念残念といって自殺した。その後、墓ができたが、多くの参詣人があった。民衆の「長州びいき」をみることができる。

   芦屋には阿保親王塚がある。長州藩毛利家は阿保親王の末裔であり、参勤交代の途上は必ず詣でたという。幕末の動乱期、長州藩がいち早く京都に勢力を伸ばし、朝廷と結びつくことが出来のも、打出陣屋などを拠点としたことと、無関係ではない。

    明治になってからも、阪神間と長州藩との関係は続いた。西宮教育界の中心人物であった山下厳麗は長州藩奇兵隊の出身である。明治13年に設立した武庫中学校の初代校長に就任している。同校の教師には、高橋正熙(修身)、豊田政苗(漢文)、野口英之進(英語)、樋口高光(歴史)、三宅貞治(地理)らがいた。なかでも「養精修道」の豊田政苗は、旧尼崎藩士出身で維新後尼崎藩の権大参事を勤めた儒学者である。これらの出自から推測しても「養精修道」は儒教の精神にもとづくものと思われる。

2008年9月30日 (火)

特攻の母・鳥濱トメ

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    鳥濱トメ(1902-1992)は知覧町(現南九州市)で富屋食堂を営み、多くの特攻隊員の面倒をみて、隊員から「お母さん」と慕われた。9月20日にフジテレビで放送された「なでしこ隊、秘密基地・知覧、少女だけが見た特攻」で薬師丸ひろ子が演じた。トメは「明日には命を捧げていく方からはお金はいただけない」という気持ちからほとんどお金をとることがなかった。そのため自分の持っていた家財道具を売り払って特攻隊員を世話していた。戦後、トメは一人で飛行場の片隅に小さな棒切れを立て、墓参りを続けていた。やがて遺族や関係者を動かし、昭和30年9月には自身の尽力で「特攻平和観音堂」を建立。昭和60年には「知覧特攻平和会館」が建設された。トメは、平成4年、89歳で亡くなった。

2008年9月27日 (土)

小野宮惟喬親王と木地師

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    文徳天皇の第1皇子の惟喬親王(844-892)は、藤原良房を外祖父とする惟仁親王(清和天皇)との政争に敗れて、病を得て出家し、近江国の小野に隠棲した。この隠棲地が山間であったためもあって、後世、惟喬親王は木地師の師として仰がれた。木地師とは、山の木を伐採し、轆轤を使って椀や盆、こけしなどをつくる人々で、東近江市(旧・永源寺町)の蛭谷・君ヶ畑が発祥の地とされている。大皇器地祖神社の右隣に、「日本国中木地屋氏神惟喬法親王御廟所」の石碑が立つ。石段をのぼると惟喬親王墓と伝える宝篋印塔がある。その右隣に金龍寺が建つ。

2008年9月22日 (月)

南部坂雪の別れ

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   夫の浅野内匠頭の凶報に接したとき、阿久里は何よりも先に内匠頭の弟の浅野大学長広に吉良上野介の生死を確かめたが、答えを得ることができなかったので、「兄の刃傷を聞きながら、相手の生死のほども確かめず、まことに惜しいことです」と、あわてる大学をたしなめるほどの気丈な女性であった。その夜、阿久里は鉄砲洲の江戸の上屋敷で髪をおろし、寿昌院と号して殉じたが、のちに将軍綱吉の生母の桂昌院の「昌」の文字をはばかって、瑤泉院と改めた。夫の内匠頭が切腹したとき、阿久里は28歳であったが、浪士の遺児たちの行末を案じ、何くれと蔭の力になっていたが、正徳4年(1714年)6月3日、41歳のはかない生涯を終えた。

    瑤泉院の俗説では「雪の南部坂」が巷間よく知られる。討入りを翌日に控えた13日の夜、大石内蔵助は瑤泉院に永のお別れの挨拶をしたいと考え、麻布南部坂の、浅野家下屋敷を訪れた。ここもまた吉良方の密偵が奥女中となって潜入しているものを感じた内蔵助は、座が定まるのも待ちきれず瑤泉院は仇討ちはいつ、とつめよるのだったが、心中にこみあげるものをぐっとこらえ、「法事が終りしだい、山科に立ち帰り、かの地に永住の所存でございます。今生のお別れに、御霊牌の前に御焼香をお許し下さいますよう」と申し出たが、瑤泉院は「折角ながら、その儀はなりませぬ」と、屹ッとして言うと、静かに仏間の方へ去った。内蔵助は、じっと差しうつむいたまま、ついに一言の弁明もせず、座を蹴って去った瑤泉院のうしろ姿に平伏するのみであった。これが有名な南部坂雪の別れの泣かせどころであるが、この話も講釈師の作り事で、実際は討入りより1年前の元禄14年11月、事件後はじめて内蔵助は夫人に会い、城明け渡しのこと、藩士らの立退きの模様、その後の消息などを報告したという。

春藹と秋水

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      幸徳秋水と管野スガ

  幸徳秋水(1871-1911)。本名を伝次郎といい、高知県幡多郡中村町に生れる。父・幸徳篤明は早く亡くなり、母・多治は女手ひとつで4人の子を育てた。伝次郎は明治20年に林有造(1842-1921)を頼って上京し、同年末、保安条例発布により東京から追放される。翌年、同郷の中江兆民の学僕として住み込み、その思想・人格に感化される。中江家は貧乏で、いつも豆腐と葉っ葉だった。「自由新聞」に入るとき、兆民が言った。「処世の秘訣はもうろうとすることだ。号はぼんやりと春藹(しゅんあい)としたらどうだろう」「ぼんやりはきらいです」「そんなら、反対に秋水はどうだ。とぎすました鋭利な刀を秋水という。明治44年には大逆罪(天皇暗殺を企てたとする罪)のかどで絞首刑となるが、名刀でなく春がすみだったら、彼の人生も変わっていたかもしれない。

2008年9月21日 (日)

神崎与五郎、堪忍の詫証文

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    元禄15年3月、神崎与五郎は、大石内蔵助の内命を帯びて、京から江戸へ向かった。内匠頭に仕えてわずか5年、五両三人扶持の微禄ながら誠実の士であり、お家断絶ののちも内蔵助の任あつく、このたびも、その機敏、堅実、忍耐と三拍子そろった人柄を見こまれての出府であった。与五郎は道中を急ぎに急ぎ、やがてさしかかったのが箱根の山であった。とある茶屋でしばしの憩いをとっていた。そこへ馬方がひとりはいってきた。街道一の暴れ者として人々に嫌われている丑五郎というならず者である。「お侍さん、馬はどうだね」呼びかけられた与五郎は、何気なく「わしは馬は嫌いだ」と答えた。「なに!侍のくせに馬が嫌えだと、ふざけるねえ、ただの雲助とはわけが違うぜ!」罵ったかと思うと、いきなり与五郎の胸をどんと突いた。与五郎も思わず無礼者め!と刀の柄に手をかけたが、いや待て、たとえ雲助ひとりでも刀にかければ何かと取調べがあり、江戸入りが遅くなると思いなおし、「いや、わしが悪かった、許せ」と涙をのんで大地に両手を突き、丑五郎のいうままに詫証文を書いて与えた。この話は最近の忠臣蔵ドラマなどでは、詫証文を書くだけでは物足りないと感じたのか、与五郎が馬方の股をくぐるシーンが見られる。詫証文にしろ股くぐりにしろ、真偽のほどは明らかではなく、やはり講釈師の張り扇から叩き出されたものであろう。

2008年9月17日 (水)

清水一学と小林平八郎

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 清水一学(月形龍之介)と赤垣源蔵(大友柳太郎)

    元禄15年12月14日、赤穂浪士47人は、表門と裏門の二手にわかれて本所吉良邸に討ち入った。不意をつかれた吉良側ではあるが、「堀内伝右衛門覚書」には上野介の前に立ちふさがった二人はことのほかよく働いた、とあるがこの奮戦した二人が誰であるかはっきりしない。巷説では付人の清水一学と小林平八郎らが奮戦したことになっており、小林平八郎は、女の着物をひっ被って庭を走り抜け、浪士と斬り結んだという。また清水一学は二刀流でよく奮戦したことになっているが実際は明らかではない。記録によれば、他に大須賀治郎右衛門、左右田源八郎、小堀源次郎、榊原平右衛門、鳥井利右衛門、須藤与一右衛門などの名前が残っている。

    清水一学(1678-1703)は吉良上野介の所領三州吉良宮迫村に生まれ、15歳のときから義央に勤仕するようになった。吉良邸討入りのときは25歳であったが、生来無口で篤行の青年であった。この夜も、浪士乱入と同時に上野介の身辺を護り、主君の身をひそませたあとは、浪士たちをそこへ近寄せまいとして、かなり撹乱妨害をやったらしい。その間、完全に四五人の戦力を引きつけられっぱなしにされてしまったといい、後日、浪士たちはその働きぶりを口々に褒め称えている。しかし、上杉家資料の大河内文書では、一学は少しだけ戦って台所で討ち取られ、大した活躍はなかったとしている。真偽のほどは謎であるが、一学が二刀流の剣豪であったというイメージは活動写真の影響で大きくなったと思われる。とくに月形龍之介は「忠魂義烈・実録忠臣蔵」(マキノ省三監督、昭和3年)と「「残月一騎討ち」(松田定次監督、昭和29年)の二度、清水一学を演じている。吉良邸での赤垣源蔵(大友柳太郎)との死闘は迫力のあるものであった。

2008年9月15日 (月)

敬老の日と悲田院

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  左は山背大兄皇子、右は殖栗王

   本日は敬老の日。2003年から9月の第3月曜日になったが、それまでは9月15日であった。兵庫県多可郡野間谷村(現・八千代町)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始まりである。俗説としては、聖徳太子が不幸な老人や病人を救うために、悲田院を建てた日とされている。悲田院は敬田院、施薬院、療病院とともに四箇院と称して大坂の四天王寺にあったとされるが確証はない。聖徳太子の悲田院の概要は不明なので、中国の悲田坊の制度を調べる。隋・唐の寺院にも設けられたという記録は、唐会要巻49「病坊」などに記されている。唐令には高齢または身体障害者で養い手のない人、貧乏で暮らせない人を地方団体(郷里)が安価に当たるべきことを規定している。悲田坊(悲田養病坊ともいう)は、開元5年(717年)の宋璟らの上奏文によれば、孤老窮人の保護に当たる収養施設で、長安をはじめ各地におかれ、悲田養病使が各施設に派遣されていた。国は僧侶のなかから悲田養病使を任命しただけで、実権は僧侶の手にあった。仏教寺院は六朝以来、社会事業に力をそそいでいるから、唐代において悲田坊が設けられたのは当然のことである。慈善事業とはいえ、その経費を寄付に仰いだので、寺としてはかえって黒字にある傾向があったという。悲田坊をやればもうかるので発展したともいわれている。

2008年9月13日 (土)

天野屋利兵衛は実在したか

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    「忠臣蔵」に登場する天野屋利兵衛は商人ながら義に厚く、赤穂義士討入りの際、武器や武具の調達をして、義士を陰で支援したことで芝居や映画などでよく知られた人物である。仮名手本忠臣蔵10段「天河屋」では天河屋義兵衛として登場するが、大坂の商人・天野屋利兵衛がモデルであろう。ただし天野屋利兵衛(1661-1733)は実在したが、赤穂事件とは関係がないというのが定説である。

    ただしネットなどで調べると、さまざまな巷説があって面白い。第1は、5代目天野屋利兵衛は経営に失敗したが、赤穂塩で豊かな浅野藩が「赤穂塩」の販売を天野屋に取り扱わせるようにして援助した。それで経営再建した天野屋は、商売繁盛して、浅野家に恩義を感じていたという説。第2は、岡山県英田郡西粟倉村は天野屋利兵衛潜居の地といわれる。西粟倉村は古くから砂鉄の産地で、備前長船の刀鍛冶勝治はこの地で刀剣を鍛えた。天野屋は良質の鉄の産地で鉄を調達し、三木の刀鍛冶で鍛えて、義挙に必要な武器を揃えたという説である。西粟倉村の話は昔は観光パンフレットなどにも紹介されたこともあるが、昨今、寺田屋にもみられるように、史実と虚像の論議も厳しく、この伝説も抹殺されるかもしれない。天野屋と赤穂塩を関連させた説も歴史のあと知恵のようで、史料や文書があるわけでない。「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフや神崎与五郎の馬喰丑五郎堪忍袋(韓信の股くぐりのパクリ)など「忠臣蔵」にはそういった類の俗説も多いが、巷説として温存してもいいのではないだろうか。

2008年9月 7日 (日)

尾張徳川家の菩提寺・建中寺

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   建中寺三門  名古屋市指定文化財

    尾張徳川家の菩提寺で知られる建中寺(浄土宗)は名古屋市東区にあり、筒井町周辺は門前町として早くから発展し、大正4年に市電が名古屋駅から平田町まで延びると、周辺に商店街が立ち並び繁昌していた。

    建中寺は慶安4年(1651)に第2代尾張藩主徳川光友(1625-1700)が父である第1代藩主徳川義直(1601-1650)の菩提を弔うために建立し、江戸時代を通じて歴代尾張藩主の廟が置かれた。画像の建中寺三門は創建当時の建築物で、名古屋市指定文化財になっている。三門とは、空門、無相門、無願門の三解脱門の意味を持つ。仏教の覚りの境地を表すものである。

真説賤ヶ岳七本槍

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    寛永2年に小瀬甫庵が著わした「太閤記」では、加藤虎之助(清正)、加藤孫六(嘉明)、福島市松(正則)、脇坂甚内(安治)、糟屋助右衛門尉(武則)、平野権平(長奉)、片桐助作(且元)の7人を「賤ヶ岳七本槍」としている。ところが、史実は、上の7人に加えて、石河兵助(一光)と桜井佐吉(家一)という2人の武士も、同じ6月5日付で秀吉から感状を受けていた。しかもこの9人は、いずれも「一番槍」と称されており、当時はいわゆる「七本槍」という言い方はなかったのである。同等の働きぶりを示したが、9人の中で石河兵助と桜井佐吉の2人は、秀吉の直臣馬廻り衆ではない。子飼いの重臣の必要性を痛感していた秀吉は、合戦後、直臣7人の功績を大いに宣伝した。そのため、いつしか彼らのみを指して「七本槍」ともてはやされるようになったと思われる。

2008年9月 5日 (金)

昭和の巌窟王吉田石松

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    吉田石松(1879-1963)は大正2年8月、名古屋市郊外で起きた繭商強盗殺人事件の主犯とされて死刑判決を受け、仮釈放までの22年間を獄中で過ごしたが、終始、無実を訴え続けた。昭和37年10月30日、5度目の再審請求が認められて、翌年2月28日、名古屋高等裁判所(小林登一裁判官)で無罪判決が下された。事件当時34歳だった吉田はその時、83歳になっていた。判決から9ヵ月後、吉田は老衰のため永眠した。

2008年9月 2日 (火)

近代社会事業の父・石井十次

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    明治20年4月、石井十次(1865-1914)は医学研修のため岡山県邑久郡阿知村(現岡山市上阿知)の太田診療所で医師の代診をしていた。ある日、夫が亡くなり生活に困っていた旅の母親に同情して、その男児を引き取った。これがきっかけとなり、他の生活困窮者の子供も預かり、三友寺に孤児教育会(岡山孤児院と改名)を開いた。石井は自分の医学書に石油を注いで焼き捨て、「人は2人の主に兼事ふること能はず」(マタイ伝6・24)との聖書の教えに従って、孤児救済事業に専念することにした。明治39年には孤児は1200人にも達するようになった。

2008年9月 1日 (月)

桶狭間の戦い

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   永禄3年(1560)5月、天下に野望を抱く今川義元は、斉藤道三亡きあと衰えた美濃を踏み破り、諸城を落として一気に上洛せんものと25000の大軍を率いて西上の途にのぼった。5月18日、織田領の丸根・鷲津両城にも今川の脅威が迫ったとの報に接した信長は清洲城で軍議を開いた。織田の兵力はわずか3000にすぎず、籠城説が大勢を占めた。しかしその夜信長はにわかに出陣を触れ、真っ先に馬を駆けさせた。信長のあとを追ってきた兵は熱田神宮まできたとき1000人となり、善照寺についたときは3000人にふえていた。今川の25000人に比すれば問題にならない劣勢である。しかし危機に立たされた信長としては、死中に活を求めるしかなかった。

   今川義元はこのとき、桶狭間の北、田楽狭間に駐屯して、勝ち戦の祝杯をあげていた。兵士にも酒を配り、警備は全くおろそかにしていた。折から空には黒雲がたれこめ、豪雨がふり注ぎ、あたりは全く見通しがきかなくなった。その機をのがさず信長は横合いから義元の旗本めがけて襲いかかった。義元の軍はたちまち混乱し、軍を立て直す暇もなく、ついに義元が毛利新助によって討ち取られたのである。大将を討たれた今川軍はたちまち敗走した。この時徳川家康は義元軍に従軍していたが、この合戦ののち自立し、信長に属している。

   この戦いには迅速果断な信長の面目がよくあらわれている。信長の武名は一躍とどろき、今川義元に代わって上洛を志すに至った。

2008年8月26日 (火)

古事記と大須観音

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   現存する古事記の諸伝本のうち最古のものは、応安4年から5年(1371~1372)に僧・賢瑜によって書写された真福本古事記三帖である。古事記道果本・道祥本・春瑜本などの諸本は、この真福寺本の系統をひく写本であるといわれている。

  今日の真福寺は岐阜県羽鳥市にあるが、徳川家康の時代に真福寺の一院である宝生院が名古屋城下に移転した際、古事記をはじめとする古典籍の殆どが、大須に移転した。現在、大須観音は正式には北野山真福寺宝生院と称し、真福寺文庫に古事記三帖(国宝)があるが、実際には名古屋市博物館に受託資料として保存されている。

2008年8月20日 (水)

西表島の採炭事業

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    石垣島の西方約15キロに位置する西表島は、周囲約75キロで、沖縄本島についで大きい島である。東洋のガラパゴスといわれるように、20世紀最大の発見と騒がれ、国の特別天然記念物に指定されているイリオモテヤマネコやカンムリワシ、陸生のカメであるセマルハコガメなどの世界的にも珍しい貴重な動物たちが生息している。西表島には良質の石炭を産し、明治18年には林太助が炭脈を調査し、三井物産会社と西表島の元成屋などで試掘が行なわれた。明治中期から戦前期まで採掘がさかんに行なわれた。はじめは囚人が労働者としてあてられたが、やがては広く全国から募集した。暖かくて暮らしやすい南の島へという誘いの言葉に乗ってやってきた人々を待っていたのは、タコ部屋労働であった。地獄さながらの強制労働のほか、焦熱のマラリアの発生などで、採炭事業は困難を極めた。島には今でも炭鉱の跡(丸三炭鉱宇多良鉱業所)が残っており、宇多良川に沿って、大量の石炭が積み出されていった。採炭事業は太平洋戦争末期まで続けられたが、積み出す船がなくなったため採掘は中止された。

2008年8月15日 (金)

東京駅

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   6年の歳月をかけて東京駅は、大正3年3月19日、完成した。設計は辰野金吾(1854-1919)。鉄骨レンガ、石材造りの3階建て。ルネサンス調建造物として近代西洋建築の頂点を示している。

    90年以上の歴史ある東京駅だが、最大の事件といえば、大正10年に起きた原首相の暗殺事件であろう。原敬(1856-1921)は11月4日、中岡艮一により刺殺された。66歳。背後関係はいまだ不明である。

2008年8月11日 (月)

室町幕府と足利尊氏

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                    足利尊氏の墓

   暦応元年(1338年)8月11日、足利尊氏(1305-1358)は征夷大将軍となった。尊氏の生涯は波瀾の連続であった。楠木正行の亡きあとは、足利の天下であったが、直義とは不和の末にこれを毒殺し、わが子直冬にも叛かれるという不幸な晩年を過ごした。その尊氏も、病には勝てず、正平13年(延文3年)4月30日、54歳の幕を閉じた。室町幕府の基礎が確立するには3代義満を待たなければならなかった。足利尊氏の墓は京都・等持院(京都市北区等持院北町63)にある。

2008年8月10日 (日)

「天地人」の最上義光に注目

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   最上義光(1546-1614)は天正の初め、父義守のあとを継いで最上氏の当主となって、慶長19年、69歳で没するまで、上杉景勝・伊達政宗らと戦い、出羽国山形の城主として名を轟かせた戦国武将である。とくに慶長5年の関ヶ原の合戦では、東軍の徳川方に属して米沢の直江兼続と長谷堂城で交戦する。西軍に属した出羽横手城主小野寺義道が庄内に迫ったため南北より挟まれるが、伊達勢の来援もあって辛うじて両者を撃退。戦後、その功により庄内などを加増され、57万石の大大名となった。

    ところで来年のNHK大河ドラマ「天地人」の主要配役が発表されている。主役の直江兼続に妻夫木聡、上杉景勝に北村一輝、上杉謙信に阿部寛、お船に常盤貴子、初音に長澤まさみ、などが決定しているが、最上義光はいったい誰だろうか?1987年の「独眼竜政宗」では、最上義光は原田芳雄が熱演したが、悪役としてのイメージが残った。史実とも大きくことなるだけに、今回の「天地人」の最上義光を注目している。和歌森太郎の「日本武将100選」(昭和45年刊、秋田書店)にも72番目に最上義光が取り上げられている。直江兼続は選外であった。最上義光は英雄である。

2008年8月 3日 (日)

村山たか女と金福寺

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    金福寺庭園(京都市左京区一乗寺)

    NHK大河ドラマ「篤姫」の時局は、いま安政の大獄あたりまできていて井伊直弼(1815-1860)が活躍中である。桜田門外の変ももうすぐだろうが、あの村山たか女(1809-1876)は登場するのだろうか。昭和38年のNHK大河ドラマ「花の生涯」では淡島千景が演じた。以後、村山たか女は美女と相場が決まっており、舞台でも岡田茉莉子、水谷良重、佐久間良子が演じている。だが、実際の村山たか女は、井伊直弼より6歳年上であり、己巳の文化6年のうまれであるから桜田門の時は、すでに50歳を超えた御婆さんであった。舟橋聖一の「花の生涯」による影響が大であるが、たか女は元は京都の芸妓であったが、井伊大老の開国政策を助けるため、隠密となり、京都における攘夷論者たちの情報を大老に通じ、安政の大獄に一役買った。しかし弾圧政策は水戸浪士の直接行動を誘発し、万延元年大老は江戸桜田門外で暗殺された。その後、たか女は、壬生に潜伏中の浪士に襲われ、三条河原で三日三晩も晒し者にされたが、後助けられ、文久2年に尼僧となって金福寺に入り、名を妙寿とあらため、明治9年まで14年間過ごし、当寺で生涯を終わった。

    仏日山金福寺(こんぷくじ)は貞観6年(864)、安恵僧都が慈覚大師の遺志により創建され、大師自作の聖観音像を本尊とした天台宗の寺院であった。その後、一時荒廃していたが、元禄の頃、鉄舟宗珠和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺となった。その頃、鉄舟は松尾芭蕉と親交があったことから芭蕉がよく金福寺に訪れていた。その後、和尚は芭蕉が使っていた庵を「芭蕉庵」と名付けたといわれる。

2008年7月28日 (月)

幕末の紀州藩「大勢三転考」

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           徳川家茂画像(徳川恒孝氏蔵)

    昨日放送されたNHK大河ドラマ「篤姫 第30話・将軍の母」では紀州藩出身の徳川慶福(1846-1866)がよく出てくるようになり、幕末の紀州藩について考えてみたくなった。安政期、第13代将軍家定の継嗣問題をめぐっては、水戸家出身の一橋家当主徳川慶喜(平岳太)を推す勢力があったが、時の大老井伊直弼はそれを押さえて徳川家茂(松田翔太)を14代将軍とした。紀州藩は慶応2年、第二次長州戦争のときは、最後の藩主茂承(もちつぐ)は先鋒総督となり、家茂も自ら出陣している。翌年、家茂は21歳の若さで大坂城で死去する。家茂を演ずる松田翔太は松田優作・熊谷美由紀の次男であり、慶喜を演ずる平岳太は平幹二朗・佐久間良子の長男というのも面白い。

    ところで幕末紀州藩には大番頭格として、藩財政に関与していた伊達千広(1802-1877)という人物がいた。陸奥宗光の実父である。伊達千広の書いた史書に「大勢三転考」(1848年)というユニークな本がある。徳川幕府が成立するまでの日本史を「骨の代」「職の代」「名の代」の三時代に区分した通史である。つまり日本の制度は時の勢によって、二度の大変化を遂げたことを説いている。これまでの歴史観では、時勢を推移するものは神・仏・天などに捉われていたが、伊達千広の史観には、人間自身の手によって歴史がつくられるものであるという現実的合理的な観念をみることができる。本書は千広が藩内の政争で失脚して長く幽閉状態におかれていたため、明治6年になって上梓されたという。本書は「日本の思想6 歴史思想集」(筑摩書房)に収録されている。

2008年7月20日 (日)

悲劇の龍田丸、最期の航海

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                   海の女王・龍田丸

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  司厨長・板倉作次郎による料理は評判だった

   日米開戦が噂される中、昭和16年12月2日、日本郵船の豪華客船龍田丸(16955トン)が静かに横浜港を出航した。行く先はロサンゼルス経由バルボア(パナマ)である。大本営は龍田丸の出航停止を検討していた。しかし、それでは日米開戦を知らせることになってしまう。そこで当初11月20日であった出航日を、12月2日に変更させることにした。11月20日の場合、ロス着12月3日、バルボア着17日、18日ごろになる。真珠湾攻撃日が決定されている以上、バルボアでは確実にアメリカ軍に拿捕されることが明らかである。そこで、日程をずらした。12月2日に出航した龍田丸は、12月8日は、まだ180度あたり(日付変更線)なので、敵に拿捕されないギリギリの地域でUターンし、全速力で横浜に向かい、12月14日横浜に寄港した。この計画を知っていたのは、乗船した海軍軍務局の市川少佐と本村船長だけだった。

    龍田丸は航海運航終了後は海軍に徴用された。昭和18年2月8日、風速20mの暴風雨の中、トラック島に向けて横浜港を出航した龍田丸は、米潜水艦ターホンの雷撃を受け、御蔵島近海で沈没した。乗組員198名、乗船員1283名、全員死亡、生存者は一人もいないという悲劇的な最期を遂げた。太平洋横断を100回以上を超えた龍田丸Ⅰ世(1930-1943)は今も東京湾から南西約200㎞の御蔵島沖に静かに眠っている。

何でも見てやろう

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   堀江謙一(当時23歳)は昭和37年5月12日夜、全長6メートルのヨット・マーメイド号で西宮を出発、日本人で初めて単身小型ヨットによる太平洋横断に成功した。その頃、若者たちの間で読まれた本が小田実(1932-2007)の『何でも見てやろう』だった。昭和36年2月に出版されたこの本は発売後10ヵ月で20万部を超えるベストセラーとなった。小田はフルブライト留学生として昭和33年の夏からハーバード大学に1年間留学し、そのあとアメリカ、ヨーロッパ、アラブ、アジアの諸国22ヵ国を一日一ドルで放浪、昭和35年4月に帰国した。『何でも見てやろう』は、その放浪の旅の体験をまとめたものである。「この本で、いちばん書きたかったことは?」という記者の質問に対して、「日本のインテリが持っている、西洋に対するへんてこな劣等感と、アジア・アラブに対するへんてこなあこがれを、ふっとばしたかった」と答えている。冒険家の堀江謙一、指揮者の小沢征爾、平和運動家の小田実など戦後の新しい青年たちが出現した時代であった。

2008年7月18日 (金)

奈良の鹿

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    2010年は「平城遷都1300年記念事業」がある。マスコットキャラクターで「せんとくん」が可愛くないと批判がでて、「まんとくん」が登場したりしているが、あまり愉快な話ではない。「ゆるキャラ」というものもあまり好きではない。京都の祇園祭、大阪の天神祭、に比べ奈良には決定力が不足している。奈良は南都七大寺を中心に発展した町であるが、平重衡の南都焼打ちや、明治維新の廃仏毀釈により、衰退した。やはり観光奈良のシンボルといえば奈良公園の鹿であろう。春日大社の祭神、武甕槌命が鹿島から勧請された際、鹿に乗じられたという故事により、春日大社の神鹿として保護されたばかりでなく春日大社を氏神と仰ぐ藤原氏の貴族たちは、この神鹿に会うことをこの上もない喜びとし、乗物から降りて鹿を拝したという記録も残している。特に江戸時代には犬狩りをしたり、神鹿を害したものは厳罰に処せられた。誤って鹿を殺した三作が石子詰にされたという伝説を残している。初夏のころは、鹿子斑点もあざやかで、鹿がもつとも美しい季節である。10月には鹿の角切りの行事が行なわれるので、観光客にとっては夏が奈良観光の最良のシーズンだといえる。

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  がんばれ、せんとくん

2008年7月17日 (木)

好太王は仁徳天皇か?

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                空から見た仁徳天皇陵

    「徒然草」52段「仁和寺にある法師」には、石清水八幡宮に参ったお坊さんが、山のふもとの寺社だけ見て、これが石清水八幡宮だと思い込み、山上にある肝心の八幡宮を拝まずに帰った話がある。ところで平安時代から鎌倉時代にかけては八幡信仰が盛んだったようだ。八幡神とは応神天皇のことである。応神天皇はあの三韓征伐説話で知られる神功皇后の皇子。好太王碑にみえる帯方郡に出兵して死んだ。八幡宮はそのために創建されたもので、弓を祭るともいう。(八幡太郎・源義家が弓の名人で、以来、八幡神は源氏の守護神となった)

    先週、NHKで放送されているペ・ヨンジュン主演の韓国ドラマ「太王四神記」を見ていると、高句麗が百済へ出兵している。この頃、倭も出兵しているらしいが、詳しいことは謎である。岡山大学の小林恵子の説によると、応神天皇の子である仁徳天皇は実は好太王であったという。(「広開土王と倭の五王」文藝春秋)つまりタムドク(ペ・ヨンジュン)は日本に降臨して天皇になったというのだ。6月、ヨン様は大阪に来日したとき、仁徳天皇陵をご覧になったのだろうか。

2008年7月14日 (月)

列車食堂・みかど食堂と後藤鉄二郎

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   日本初の列車食堂を経営したのは、神戸駅構内に誕生したミカドホテルの経営者・後藤勝造である。後藤新平が逓信大臣をしていた関係で、新平と親しかった回漕業者の勝造は主として鉄道方面の事業としてホテル経営を明治30年にはじめ、丸マ通運、やがて列車食堂の「みかど食堂」を経営する。二代目の後藤鉄二郎(1868-1940)はさらに事業を拡張し、日本一の列車食堂となった。三代目は後藤泰助。現在の日本食堂、日本レストランエンタプライズの源流となる。

2008年7月13日 (日)

和辻陸二とカフェー「心ブラ」

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                          昭和4年の心斎橋筋

    昭和初期、大阪心斎橋筋2丁目にカフェー「心ブラ」が出現した。「心ブラ」は「銀ブラ」をもじった言葉で、「心」は心斎橋、「ブラ」はぶらつくこと。「心ブラ」という言葉は今や死語に近いが、昭和初期には十合(そごう)や大丸の百貨店が営業を始めると心斎橋はなかなかの賑わいをみせ流行語となった。和辻陸二(兵庫県出身。明治41年生)は初め南区周防町にカフェーを営業するとき、「銀ブラ」に対抗して「心ブラ」と命名したことがルーツかもしれない。お店は大人気となったが、道路拡張に従って、立ち退きを余儀なくされ、新店が心斎橋筋二丁目に進出し、文字通り「心ブラ」の中心地となった。アール・デコの建築も豪華で、業界第一のカフェーとして知られた。

2008年7月12日 (土)

煙管を折るの記

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    吉田松陰自賛肖像 松陰神社蔵

    松下村塾の最も早い入門者の一人として増野徳民(1841-1877)がいる。安政3年11月25日には、増野に連れられて吉田稔麿((1841-1864)が入塾する。続いて近所の魚屋り息子松浦松洞(1837-1862)が入り、塾らしくなってきた。吉田松陰(1830-1859)は徳民に「無咎」(むきゅう)、松洞に「無窮」(むきゅう)、稔麿に「無逸」(むいつ)と名づけ、三人を「三無生」と親愛の情を込めて呼んだ。松陰が野山獄に入れられた時、三無生は釈放の活動をした。

   当時のエピソードに、「煙管を折るの記」(安政4年9月)が知られている。ある日、タバコを吸っている塾生の話になると、松陰は嫌な顔をした。それに気づいた稔麿は、その気まずさから煙管を折り、禁煙を宣言する。すると全員がそれに従った。その場にいなかった高杉晋作も翌日、話を聞き、禁煙の難しさを自分の経験で諭し、励ました。塾生たちと松陰との師弟関係が伝わってくる話である。松浦松洞が描いた松陰肖像画にも師への敬愛がうかがわれる。

2008年6月28日 (土)

煙草とナイチンゲール

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   「今日も元気だ、たばこがうまい!」昭和32年の日本専売公社の「いこい」の宣伝ポスターだが、不精ヒゲのおじさんのさわやかな表情がとてもよい。だが時勢、時節は変わった。

    たばこは、喫煙者本人のみならず、喫煙母体の胎児や、喫煙者の近い人たちの健康をも脅かすものとして、嫌煙運動、禁煙運動が普及してきた。男性喫煙率が4割を切るようになった。20代男性だとさらに低い率だろう。以前このブログでも嫌煙論者の中田喜直(作曲家)のことを記事にしたことがある。しかし、紙巻タバコの歴史はたかだか150年ほどであるが、葉巻の歴史は古代マヤ文明にまでさかのぼるといわれる。有名な哲学者・政治学者ホッブス(1588-1679)は「世のなかで、たばこほど、衛生上からだにいいものはない」と言っていた。そしてホッブスは91歳で天寿をまっとうし、自説をみずから証明した。最近では養老猛司が「たばこの害は根拠なし」「禁煙運動家はたばこを取り締まる権力欲に中毒している」(「文藝春秋2007年10月号)と山崎正和との対談で語り、物議を醸した。たばこのリラックス効果を認める人は昔から大勢いる。たとえば「クリミアの天使」といわれたイギリスの看護婦フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)である。ナイチンゲールが従軍看護婦としてクリミア戦争の野戦病院で従事していたときの話。当時の野戦病院は設備も悪く衛生状態も悪く、どんなに献身的に看護しても、負傷した兵士たちの苦しみを医薬品だけでやわらげることはむづかしかった。ところがある日、一人の兵士がたばこを取り寄せて一服し、その煙が辺りにたちこめると、とたんに病院内に平穏な静けさがただよった。その光景を目にしたナイチンゲールは、感動で目に涙を浮べた。そしてナイチンゲールはたばこが傷ついた兵士たちに安らぎを与える効果があることを実感したのだった。

大久保利通の業績は?

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                維新当時の大久保利通

   NHK大河ドラマ「篤姫」が面白い。もちろん主演の宮崎あおいの魅力によるところが大であるが、ケペルは大久保利通の不遇な青春時代に興味を持って観ている。先週放送分の大久保正助(原田泰造)が母フク(真野響子)に「鬼になります」といった場面がよかった。

   ところで本日の朝日新聞朝刊の小学生は「幕末から明治の政治家は苦手」という一面の記事を興味深く読む。国立教育政策研究所の調査によると、小学校6年生では卑弥呼、ザビエル、ペリーの業績の正解率は9割以上なのに、「新政府の中心になった」大久保利通、木戸孝允、「国会開設にそなえ政党をつくった」大隈重信の正解率はいずれも30パーセント以下である。とくに大久保利通は42人中の最下位の23.5パーセントであった。小学生に複雑な幕末維新の歴史を理解させることは難しいであろう。おそらく小学校では人名を覚えさせるくらいで、中学、高校と学習していくにつれて、なんとなくイメージがつかめてきて、大人になってはじめて大久保利通が第一級の政治家であったことを知るのである。(たぶん司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んで)

   幕末の大久保利通のハイライトは、幕府側による大政奉還を無にしようと王政復古を宣言し、鳥羽伏見の戦いによる武力倒幕路線を貫徹したことにある。識見、勇気、手腕、すべての点で大久保は新政府の最高のリーダーであった。明治という日本の国家のかたちをつくった最重要政治家である。しかしながら、戊辰戦争という内戦で尊い多数の人命が失われたわけであり、それを小学生に説明しようとすると(戦争はしてはいけないことというベースがあると)、武力倒幕のリーダ大久保利通「鬼になります」といった言葉(もちろんドラマの中のセリフだが)を小学生に理解してもらうことは、ハードルが高すぎる。まあ、ケペルは小学校の教師ではないので悩むことはないか。つまり①卑弥呼、②ザビエル、③ペリーでも仕方ないかと思っている。ところでマッカサーがなぜないんだろう。小学校の歴史は不思議だ。

2008年6月23日 (月)

平安時代のメタボリック・シンドローム

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   今年から健康診断でウエスト回りが測定されるようになった。男性の場合85cm以上、女性の場合90cm以上、加えて高脂血糖、高血圧、糖尿病の3つに診断基準が設けられ、それらの項目の内2つ以上該当するとメタボリック・シンドロームと診断される。メタボに診断されると、生活習慣秒を改善する指導が行なわれ、食事療法や運動療法がなされる。しかし肥満改善は平安時代にもあった。宇治拾遺物語に次のような話が残っている。

   今はもう昔の話、三条中納言なる人がいた。三条大臣の六男にあたり、学問は出来るし、唐の事も、こちらの事も、何でも知っているか、と思えば、気立てもよく、肝っ玉は太いし、押しの強いところもあり、笙の笛を見事に吹き、背は高く、ただ、まことによく太った人ではあった。太りに太った挙句、どうにも苦しくてたまらぬ程に肥えてしまったものだから、医者の重秀を呼び、「こう無茶苦茶に太ってしまったけれど、いったいどうすれば良いんだ。立ったり、坐ったりするのにも、身が重くて、たいへんな苦労だ」重秀は、「冬は湯漬け、夏は水漬けにして、御飯を食べてごらんなさい」と、栄養指導をした。三条中納言は、処方通りに、食事をしたのだが、変わりなく肥え太ったままなので、また重秀を呼び、「言われる通りにしてみたけれど、何の効果もない。ここで、その水飯を、食べて見せようか」と言って、家来を呼ぶと、侍一人来た。「いつものように、水飯を作って、持って来い」と命じ、しばらくすると、一対の食卓はこばれ、見ると、食卓の一方には、食事の用意整っていて、中納言の前に置かれた。

   食卓には、まず箸の台だけが置いてあり、食器類が捧げ持って来られ、給仕役がそれを台に置いた。見たところ、食器には、白い干瓜(ほしうり)、3寸くらいに切ったもの10切ほど、酢鮎の大ぶりで幅のあるものを、尾と頭、押し重ねるようにして、30尾ほど、それぞれ盛りつけてあった。大きな金椀も添えられ、以上のものを全部を、食卓に並べたところで、もう一人の侍、大きい銀製の提(ひさげ)に、これまた銀の匙を立てて、重そうに持って来た。中納言、金椀を差し出すと、家来、匙で御飯をすくい、高く盛りあげ、そこに水をほんの少し注ぐ、と、中納言、食卓引きよせ、金椀をとったのだけれど、大きな金椀と思えたのに、かくも太った中納言が持つと、そう不釣合いにも見えなかったのだ。千瓜を、3つに食い切って、56切れ、次に鮎を、2つにん食い切って、56尾ほど、いともあっさり食べてしまうと、今度は、水飯の金椀をとり、二度ほど箸でかき回したかと思っていると、もう御飯は、すっかりなくなってしまい、すぐ、「もう一杯」と、金椀を差し出した。これを二度三度繰り返すと、提も空になってしまい、そうすると、また代りを持って来るものだから、重秀。この有様を見るにつけ、「いくら水飯を主にして食べると言ったところで、この調子では、とうてい肥満の直るはずもない」と、逃げ帰ってしまった。その後、中納言、まるで相撲取りのように、ますます肥え太ってしまったのだそうだ。

2008年6月20日 (金)

江戸のシンデレラ

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   桂昌院 長谷寺蔵

   お福(1579-1643)は将軍秀忠の長子竹千代(後の家光)の乳母となった。お福は御台所・お江与の死後、大奥を統率し権力者となり、春日局の名を賜った。しかし春日局を悩ましたのは、家光が女嫌い、もっぱら美しい小姓(美少年)たちを近づけて、しきりに寵愛することであった。あるとき、浅草観音に参詣した春日局は、道すがら、一人の美少女に目をとめた。これがお楽(1621-1652)である。神田鎌倉河岸で古着商をやっていたお蘭は名をお楽と改め、家光の侍女となった。寛永18年に長男竹千代(家綱)を生んだ。春日局が病に伏せったのち大奥の頂点に立ったが、病弱で将軍の御前にでることも稀だったため、後に大奥の実権はお玉(1627-1708、後の桂昌院)に移る。お玉は八百屋の娘であったが、家光の寵愛を受け四男徳松(綱吉)を生んだ。成長して館林藩士となった綱吉が将軍位を継いだ。「氏なくして玉の輿にのる」という言葉はお玉のためにあったようなもので、江戸時代のシンデレラといわれる。お玉は生来無智な女性であった。くわえて大層迷信深かった。綱吉の悪法「生類憐みの令」も、もとはといえば、桂昌院の迷信から出たものである。

2008年6月19日 (木)

稀代の遊女・吉野太夫

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   吉野太夫 伊東深水 1966 山種美術館蔵

   吉野太夫(1606-1643)、名は徳子、西国の藩士・松田武右衛門の娘。零落した両親の死によって、7歳のとき京都の廓に入り、はじめ浮船と名乗った。のちに吉野太夫となり、才色兼備の最もすぐれた遊女となった。京の町家として巨富をなした灰屋紹益に身請けされるが、紹益はそのため父紹由に勘当され、二人は貧しい侘住まいを余儀なくされる。ある日のこと、その侘住まいとも知らず雨宿りした紹由は、この家の妻女の人品に一驚。のちに、これが吉野太夫だと知って、息子の勘当を解き、嫁として正式に認められた。寛永20年8月25日、吉野は38歳で病没する。紹益は悲嘆のあまり、

 都をば花なき里になしにけり

    吉野は死出の山にうつして

と詠んだ。

2008年6月18日 (水)

千利休の娘

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    千利休画像 表千家蔵

   天正17年2月のこと。豊臣秀吉が京都の東山に鷹狩に出かけ、黒谷のあたりを通りかかると、花見の帰途らしく、30余りの年ごろの女房が、乗り物を供のものに持たせ、幼子を三人と男女のもの10人ばかりを連れて歩いて来るのに出会った。秀吉はその女房の美しさに心をうたれて、「何者の妻女であるか」といって、供の家来に尋ねさせると、「千利休の娘で、万代屋の後家である」と言上した。秀吉は彼女のもとに使者をつかわし、「聚楽第へ奉公に出頭せよ」と命じた。しかし、「幼少の子どもがたくさんいるので、ご容赦くだされたい」と、辞退してきた。そこで秀吉は、京都奉行の前田玄以を、かの女房の父、利休のもとにつかわし、娘を奉公を出すように命じた。すると利休は、「わが娘をご奉公に出したのでは、利休めは何事も娘のおかげでしあわせがよいのだと、人びとに評判される。そんなことでは、これまでの佳名も水泡に帰する」と、覚悟を決め、秀吉の申し出をきっぱりと拒絶した。それでも、秀吉は三度まで執拗に娘を所望してきた。しかし、利休がついに承諾しないので、秀吉は、利休のことを深く憎んだ。が、このようなことで利休を罰したのでは、人のうわさもどうかと、秀吉も考慮し、さすがに思いとどまっていた。しかし秀吉は、もしも利休に何か過ちがあったならば、それを好機に誅伐しようと、心中に考えていた。だから、大徳寺山門の金毛閣に利休が雪見している姿の木像を安置したことを知ると、さっそく、そのことを罰状として、利休を処罰した、というのである。

   千利休には、千紹二の妻、石橋良叱の妻、万代屋宗安の妻、三人の娘がいた。この秀吉と利休の娘の事件は、次女であるとも、末女であるともいわれ、はっきりしない。海音寺潮五郎の「天正女合戦」や今東光「お吟さま」では、利休の娘は「お吟」となっている。

2008年6月14日 (土)

吉良上野介の首級の行方

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吉良上野介義央木像 華蔵寺蔵(愛知県・吉良町)

  「去年まではただの寺なり泉岳寺」

    元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で刃傷事件をおこした播州赤穂5万石の城主・浅野内匠頭長矩は、即日切腹ののち、この泉岳寺の墓地に葬られた。浅野の眠る泉岳寺の墓前には線香が絶えない。だが、吉良上野介義央(1641-1702)の眠る龍谷山万昌院功運寺の墓には、盆でも命日でも詣でる人は殆どない。

   では何故、吉良上野介の墓が東京・中野区上高田の功運寺にあるのだろうか。元禄15年の師走15日未明、大石内蔵助以下47人の浪士は吉良上野介を討ちとると、その足で8時ごろ泉岳寺にはいる。上野介の首級を旧主の墓前に供えた後、大目付仙石伯耆守邸へ向かうに際して、首の処置一切を泉岳寺の住職洲山長恩和尚に託した。住職は二人の僧に命じ、首を吉良家へ届けた。吉良家は、18歳の当主左兵衛に代わり、家老の左右田と斎藤の二人が受け取った。受け取った首は、牛込の万昌院に葬られた。さらに、万昌院は、明治45年3月から大正3年12月にかけて、現在の地に移転した。そして、大正11年に三田聖坂から同地に移転してきた功運寺と昭和23年に合併し現在の名称となる。これが、中野の龍谷山万昌院功運寺に吉良の墓がある理由である。ところで、吉良邸にもどったときに、蘭学医・栗崎道有(1661-1726)が首と胴体の縫合を行なったという記録も残されている。

東條英機と大東亜戦争

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   東條英機(1884-1948)は明治17年7月30日、陸軍中将・東條英教(1855-1913)の三男として東京で生まれた。兄二人が早死にしているので、事実上は長男に等しい。城北中学(現・戸山高校)から幼年学校・士官学校・陸軍大学校を出た。幼少のころは腕白で勉強もろくにしなかったが、幼年学校あたりから勉強を始め、士官学校は優等、そうして陸軍大学校は首席で卒業した。東條の有能ぶりが認められたのは陸軍省副官となったときで、陸軍の六法全書ともいうべき『成規類聚』をすべて読破し、マスターしたからという。

   昭和16年10月18日、首相に就任し、陸相と内相を兼ね、対米英開戦の最高責任者となった。昭和18年9月8日、イタリアの降伏とともに太平洋の南方前線を放棄し、敗色は濃厚となっていた。昭和19年6月、マリアナ沖海戦で海軍が壊滅的打撃を受けると、制海・制空権をまったく失い、昭和19年7月、「絶対確保線」の一角とされたサイパンがアメリカ軍に占領された。同年7月18日、東條内閣は総辞職した。

   巷間によくいわれる戦争の敗因としては、第一は飛行機の「質」において日本は遅れをとってしまった。開戦当時米英をひきはなしていたわが零戦は新しく出現したグラマンF6F(ヘルキャット)に対抗できなかった。「一機でも多く」ということが叫ばれたが、ほんとうは量より質で負けてしまっていた。第二には電探の出現で、日本海軍極意の戦法である奇襲や夜戦ができなくなってしまった。ひいては艦隊の輪型陣を帳ることもできなくなっていた。燃料も乏しくなっていた。戦争の勝敗はすでに明白であった。

   けれど東條はあくまで戦争を強行しつづけた。東條は首相、陸相、軍需相のほか、さらに参謀総長まで兼任してその独裁を強化しようとした。「飛行機がなくて海軍は戦争が出来ない」というのが海軍の悲痛な叫びであったが、資材の分け前はいぜんとして陸海軍均等の線がやぶれなかった。また兵員も、徴兵権を陸軍がもっていたために、甲種合格者は全部陸軍がとったりし、それがため海軍の予科練入隊者の三分の一は搭乗員として使いものにはならなかったりした。陸海軍の血で血を洗う抗争はその極に達していた。戦争がここまできてから、海軍はようやく海軍の空軍化の必要に気がついたのである。その空軍の指導権を海軍に取られまいとして陸軍は対抗したのである。アメリカはハワイ・マレーの戦いの体験から、航空母艦を主力艦とする「機動艦隊」の編成の切り替えに成功していた。もうまにあわなかった。はじめから無謀な戦争ではあったが、和平工作(終戦)が遅れたことが多くの犠牲者をさらに増やした。軍人・軍属の死亡・行方不明約186万人、一般国民の死亡・行方不明約66万人といわれる。(服部卓四郎『大東亜戦争全史』)

2008年5月31日 (土)

尾張名古屋は城でもつ

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   名古屋城は江戸幕府御三家筆頭、尾張徳川家17代の居城で、金鯱城、金城、蓬左城の別名がある。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と俗謡にも歌われるように、名古屋は城とともに誕生した都市であり、江戸城(東京)、大坂城(大阪)と並らべ称せられる。ふつう日本三大名城という場合は、普請(築城術)の観点から江戸城を別格扱いとし、代わりに熊本城を入れる場合もあるが、いずれにしても名古屋城は日本を代表する名城であろう。

   名古屋城の生い立ちは、戦国時代に今川氏親(1473-1526)が、尾張国愛知郡那古野に築城したのがはじまりである。その後、勝幡城主・織田信秀(1508-1551)の奇計によって奪取された。その年は、享禄5年(1532年)とも天文7年(1538年)ともいわれる。織田信長はここで成長している。関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、慶長14年、「名古屋に城を築かば日本半国の勢を以て責めるとも落ちべからず」と旧城跡を拡大しての築城を命じる。牧助右衛門が検地縄張りにあたり、翌年、加藤清正、福島正則、池田輝政等をはじめとする西国、北国の諸大名20家が到着して築城にかかわった。

   元和元年、徳川義直が本丸に入り、翌年に二の丸御殿の完成をみた。以来250年間、徳川御三家の一つ尾張公の居城として伝領されてきたが明治の世になって陸軍省鎮台がおかれ、さらに本丸が離宮(宮内省)となった。

尾張徳川家藩主17代

初代・徳川義直(1600-1650)

2代・徳川光友(1625-1700)

3代・徳川綱誠(1652-1699)

4代・徳川吉通(1689-1713)

5代・徳川五郎太(1711-1713)

6代・徳川継友(1692-1730)

7代・徳川宗春(1696-1764)

8代・徳川宗勝(1705-1761)

9代・徳川宗睦(1739-1799)

10代・徳川斉朝(1793-1850)

11代・徳川斉温(1819-1839)

12代・徳川斉荘(1810-1845)

13代・徳川慶臧(1836-1849)

14代・徳川慶勝(1824-1883)

15代・徳川茂徳(1831-1884)

16代・徳川義宜(1858-1875)

17代・徳川慶勝(14代の再勤)

2008年5月22日 (木)

美女丸と幸寿丸

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     満仲の太刀を経典で受け止める美女丸

    源満仲(912-997)は、わが子の美女丸を僧侶にしようと中山寺へ修行に出した。しかし、美女丸は武芸のまねごとばかりして、遊んでいた。美女丸が15歳になったある日のこと、満仲が美女丸を呼び寄せて修行の成果をただしたところ、和歌や管弦はもとより、経文も読むことがでないことを知った。満仲は怒って重臣の中務仲光に「美女丸を斬れ」と命じた。しかし、仲光は主君の子の命を奪うことができず、困り果てた仲光の様子を見かねた仲光の子である幸寿丸は、自分の首をうつように願い出た。仲光は流れる涙をこらえながら、わが子を斬り、満仲に差し出して、美女丸はひそかに比叡山の源信僧都のもとに送り出した。

    のちにこれを聞いた美女丸は、修行に励み源賢僧都となり、自分の身代わりに命を絶った幸寿丸のために小童寺(川西市西畦野)を建立した。

2008年5月 3日 (土)

沢田美喜とパール・バック

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パールバックと沢田美喜(昭和35年5月)

    岩崎久弥の長女であり、岩崎弥太郎の孫である沢田美喜(1901-1980)は、敗戦後、日本の混血児のために孤児院(神奈川県中郡大磯町)を開設した。最初に寄付をしてくれた英国人女性の名前に因んでエリザベス・サンダース・ホームとした。ホームには延べ2000人以上の孤児が育っていった。沢田の社会事業に協力的な女流作家がいた。「大地」で知られるパール・バック(1892-1973)である。バックは旺盛な創作活動の傍ら、社会事業・平和活動を続けたが、自分の子が精薄児であることからホームの事業に深い理解を示した。アメリカでの資金集めになみなみならない協力を惜しまず、さらに2度もホームに来園している。

2008年4月29日 (火)

逢坂関(おうさかのせき)

   逢坂関は相坂関、合坂関とも書く。山城・近江国境の峠道。かつては畿内の北限とされ、関が設けられた。ここを越えれば東国であった。古歌にもさかんに歌枕として詠まれた。百人一首第10番の蝉丸の歌が有名である。

これやこの 行くも帰るも 別れては

 知るも知らぬも 逢坂の関(「後撰集」)

(通釈)これがまあ、あの都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。

   孝徳天皇の大化2年(646年)、鈴鹿関(三重県関町)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県敦賀市)の三関が設置され、国家の守りに備えたが、やがて愛発関に代わって、この近江の逢坂関(滋賀県大津市大谷町)が王城鎮護の関となった。逢坂関の設置年は明らかではないが、延暦年間に三関は一旦廃止されたが、「文徳天皇の天安元年(857年)に初めて逢坂関を建つ」(「文徳実録」)とみえることから、再び設置されたようである。清少納言(966?-1025?)の「枕草子」にも「関はあふさかのせき」と記しているし、百人一首にも「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(「後拾遺集」)などと詠まれている。

Ousaka

現在大津市大谷町の逢坂山検問所前に関址碑が建つ

2008年4月28日 (月)

ブラジル移民100年

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   アリアンサ移住記念館

   北原地価造の住居跡(昭和4年頃)

   明治41年4月28日、水野龍を団長とする第1回ブラジル移民団、170家族、792人は「笠戸丸」で神戸港を出港、6月18日、サントス港に到着した。明治43年には第2回移民団が旅順丸に乗って247家族、909人がブラジルに渡った。日本人のブラジル移民は今日でちょうど100年を迎える。いまやブラジル日系社会は150万人を超え、成長著しいブラジル社会の支えとなっている。

   第1回芥川賞受賞作品の石川達三「蒼氓」が発表されたのは昭和10年のことだった。

   神戸三宮の「国立海外移民収容所」。ブラジル移民として全国各地から集まってきた家族たちの、昭和5年3月8日から15日までを描く。移民団を構成するのは、落葉のように掻き集められてきたものばかりである。気後れしながら移民収容所の受付をくぐる。待合室にあてがわれた倉庫には、秋田から来た貧農出の姉弟佐藤夏と孫市がいる。夏は、堀川との恋愛をあきらめ、門馬勝治を形式上の婿にして、孫市のためにブラジル行を決意した。孫市は、兵役をまぬがれるために移民の群れに投じたのか、「俺は忠義でねって言われるくれえだら、ブラジルさ行かねつもりだ!」とつっぱねる。貧しい日本での生活に追われてのものなのである。再渡航の堀内は本当のブラジルを知っている。ところが移民たちは、トラホーム、栄養不良など、体格検査で不合格になり、乗船許可のおりなくなることを気にかけている。話にきいたブラジルのいいところだけを空想しているにすぎないのだ。ロンドン軍縮会議、現職文部大臣の連座した疑獄事件にいたるまでにも、東京市会議員疑獄、私鉄疑獄、合同毛織事件、樺太山材事件とうちつづいている。こんなうそむさい日本のことは、もう知らないのに限るというのが堀内だった。最後の日の8日目、15日に900余名の移民集団の乗船した、ら・ぷらた丸は神戸港を出航した。(引用文献:今村忠純「日本名作事典」平凡社)

2008年4月27日 (日)

明六社と森有礼

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 明六社は、明治6年7年にアメリカから帰国した森有礼(1847-1889)が、西洋文明諸国にあるような啓蒙活動の団体(学会)の設立を西村茂樹にはかり、ついで西周、福沢諭吉、加藤弘之、津田真道、神田孝平、中村正直、箕作秋坪、箕作麟祥、杉亨二らの賛同を得て発足した。初代社長は森有礼で、会員は30名、社員は主として開成所出身の洋学者であった。翌年3月から機関誌『明六雑誌』を発行し、また毎月講演会を開き「一日も早く日本国民を文明開化の門に入らしめん」とし、西洋の事情を明らかにし、新旧思想の混乱に指針を与えた。だが、明六社の創設者の一人である森有礼は、明治22年、憲法発布の日、刺客・西野文太郎(1865-1889)に暗殺された。

   その後、明六社は明六会(1875-1879)となり、東京学士会院(1879-1906)、帝国学士院(1906-1947)を経て、日本学士院(台東区上野公園7-32)へと至る流れの先駆をなした。日本学士院・現在の院長は、久保正彰である。

2008年4月14日 (月)

矢作橋

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   日吉丸は尾張から三河へ行く途中、木綿布子をぬう大針を安く買いこみ、これを行くさきざきで売り、飯代や草鞋銭にあてた。夜は、こもをかぶって矢作橋の下で寝ていた。そして武将となった自分の夢を見ていたが、夜なか、数頭の馬蹄の音に目をさます。野武士めいた身ごしらえの男たちが、日吉丸の頭のそばを馬で通り過ぎていく。寝ていた日吉丸は、野盗のかしら蜂須賀小六に蹴とばされた。怒った日吉丸は、小六の槍をつかんで、「無礼者!」と怒鳴った。

   大きな声に驚いた小六は、「こんなところに、山猿がおる」と笑った。「おもしろそうなやつ。だが、猿め、三日のうちにわしの刀を盗むことができたら、使うてやろう」という。日吉丸は、三日めの雨の夜、軒先にかさを立てかけておき、いかにもしのび寄ってたたずんでいるかのようにみせて相手をゆだんさせ、そのすきをねらって刀を盗んだ。小六はその才知に舌を巻いた。

   その小六が、のちには羽柴秀吉(日吉丸)の部下になるのだから、人の運命というのはまったくわからない。

2008年4月10日 (木)

満州事変、二・二六事件のころの東北農村の実態

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     奥山儀八郎の版画による「凶作地を救へ」

      のポスター  昭和9年

 昭和2年の金融恐慌、4年の世界恐慌の中で、日本の脆弱な資本主義は根底から揺るぎだし、昭和5年の大豊作による米価の大暴落、生糸の暴落によって、農村恐慌が起こった。翌6年に東北・北海道を襲った冷害、昭和8年の三陸地震、昭和9年の大凶作に見舞われ、東北農村は飢餓地獄と化した。そして、この不況と凶作のなかで東北農村では、娘の身売りが多発した。昭和9年11月、山形県の保安課がまとめた娘の身売りの実態調査によると、県内娘の身売りの数は3,298人、内訳は芸妓249人、娼婦1,420人、酌婦1,629人と発表している。当時の東京の娼妓7,540人のうち1,149人(約7分の1)までを山形出身者で占めている。秋田県では県内娘の身売り件数が1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍も増加した。娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がないかぎり、娘の身売りの根絶は困難であった。

2008年4月 6日 (日)

春爛漫の熊本城

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    加藤清正(1562-1611)が慶長6年(1601年)から7年の歳月を費やして築城した熊本城(別名、銀杏城)は、日本三名城のひとつで、いま「熊本城築城400年祭」エピローグを迎えている。600本の満開の桜が天守を彩り、武者返しと呼ばれる反り返った石垣に生える桜の美しさも見事である。

    文明年間(1469-1487)菊池氏の一族・出田秀信(?-1485)が、北東隅の小丘に千葉城を構え、大永・享禄年間(1521-1532)鹿子木親員(寂心)(?-1549)が南隅に隈本城(古城)を築城。天正15年、豊臣秀吉が九州統一後、佐々成政が肥後一国に封ぜられて入城したが、翌年改易され、そのあとへ加藤清正と小西行長(1555-1600)とが半国ずつに封ぜられ、清正は隈本城に、行長は宇土城にはいった。慶長5年、関ヶ原の戦いで清正は東軍に、行長は西軍に属し、戦後清正は小西領跡を与えられ、肥後52万石の領主になった。慶長6年、千葉城跡と隈本城との中間にある茶臼山に本丸を置き、両城の範囲を取り囲んで、一大城郭とした。石垣の高く急で丈夫なことは無類といわれる。普請奉行は飯田覚兵衛、森本儀太夫で、後年名古屋城、江戸城などの工事に手腕を発揮した石垣造りの名人であった。慶長12年完成し、本丸には7層7階の天守を建て、隈本を熊本と改めた。

    加藤清正の子、加藤忠広(1601-1652)は寛永9年改易され、そのあとに細川忠利(1586-1641)が小倉から国替えで入城した。細川家は、忠利のあと細川光尚、細川綱利、細川宣紀、細川宗孝、細川重賢、細川治年、細川斉茲、細川斉樹、細川斉護、細川韶邦と11代、240年間、維新まで続いた。

2008年3月31日 (月)

イサベラ・バードの日本人通訳

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                   伊藤鶴吉

    イギリス人女性のイサベラ・バード(1831-1904)が日本に来たのは、明治11年のことであった。イサベラは横浜で伊藤という青年を通訳兼案内人として雇い、東京を起点に日光から新潟、山形、秋田、青森を経て、北海道まで北日本を旅行している。イサベラは著書『日本奥地紀行』で伊藤という青年を、狡猾な面もあるが、通訳としては優れていることを記している。たとえば「彼は普通の英語とは違って立派な英語を話したがっており、新語をおぼえようとしているが、正しい発音と綴りも身につけることを切望している。毎日、彼は私が用いるが彼には良く分からない単語を全部ノートに書き付けて、晩になると私のところへもってきてその意味と綴りを習い、日本語の訳をつける」とある。この伊藤という青年は、最近の調査で、伊藤鶴吉(1857-1913)であることが判明している。イサベラ47歳、伊藤鶴吉20歳の日本での旅行であった。だが伊藤の晩年について、詳しいことはなにも知らない。

2008年3月30日 (日)

秋田立志会会長・柴田浅五郎

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「図説秋田県の歴史」収録の柴田浅五郎の顔写真

   明治13年、板垣退助、河野広中らの民権運動に応じて8月10日に秋田立志会が結成された。立志会の生みの親の柴田浅五郎とはどのような人物だったのだろうか。わずかに残る不鮮明な写真からは理想に燃えた青年のようにみえる。秋田事件(平均事件、おならし事件ともいわれる)という金品目的の強盗犯の親玉にはとても見えない。この写真はおそらく当時の新聞に掲載されたものを何度も複製したものと思われるが、通常、写真を丸型にするときは善人、四角の写真は罪人、とするという慣例がある。(もちろん絶対ではないが)と、するとこの写真の初出は秋田事件の報道の写真ではなくて、立志会の機関誌であろうか。

   柴田浅五郎は平鹿郡吉田村の中農の生まれで、政治的関心が強く行動的な青年であった。明治9年ごろから上京し、民権思想にふれ、明治12年には土佐に遊学してさらに理解を深め、明治13年に秋田に帰って立志会を設立した。明治13年11月、国会期成同盟第2回大会が東京で開かれたとき、柴田は腹心の内桶圭三郎(士族・教員)とともに「秋田立志会2645名総代」として出席、大会後も急進グループに交じって国会開設請願活動をつづけた。請願はもとより藩閥政府の容れるところとならなかった。こうした活動のなかで柴田はしだいに政府転覆の考えをもつようになり、帰県後は村々を回って民権運動のきびしい情勢を説明し、そのうち実力で政府を変えるときがくることを密かに語った。立志会の急激な発展に不安をいだき、民権運動弾圧の機会を狙っていた官憲は、スパイを放ってこれを挑発した。インフレのなかで生活に苦しんでいた一部の立志会員がその挑発にのり、明治14年6月8日、平鹿郡阿気付村藤巻部落(現・大雄村)の豪農・須藤六郎右衛門宅を襲撃、さらに付近の豪農を襲撃しようとした。翌9日、立志会の幹部は内乱陰謀の廉で逮捕・投獄された。これが秋田事件で呼ばれるものである。

   農民的基盤にたっていた秋田立志会は、秋田事件で大きな打撃をうけたが、翌15年、全国的に政党結成の気運が高まるやふたたび結集の動きがあり、同年半ばころには秋田自由党を組織し、板垣退助らの自由党と連携をとっている。党員の組織は15年末から翌17年5月には412人にも達し、全国自由党員数の18.5%を占めるにいたっている。このことは、柴田浅五郎らの秋田立志会の運動が激しい弾圧のなかでも県南農民のあいだに深く根を張っていたことを表わしている。柴田浅五郎は、明治17年3月、懲役10年の判決を言い渡され、投獄されたが、明治22年、明治憲法発布の日に大赦を受けて帰宅した。やがて不遇のうちに、明治26年亡くなったという。(引用文献:「図説秋田県の歴史」河出書房新社)

2008年3月29日 (土)

日本海軍の人事弊害

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     海軍の昇進は兵学校の卒業年次と成績順位が基準となっている。平時は年功序列でもよいかもしれないが、戦時は序列無視の適材適所の人事が絶対に必要であろう。だが、長い人事の伝統は戦争という非常事態でも直せなかった。

     「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の空母4隻を一瞬にミッドウェー海戦で失った南雲忠一機動部隊司令長官(海兵36期)は、帰途、連合艦隊旗艦「大和」に移り、山本五十六長官に敗戦を報告した。南雲長官以下、幕僚全員の自決が先任参謀から提案されたが、参謀長の草鹿龍之介少将(海兵41期)が押しとどめた。草鹿は山本に「仇をとらせてください」と涙を流しつつ哀訴した。じっと聞いていた山本は、最後に一言「わかった」と応えたという。結局、山本長官の温情主義が大きな過ちを生み、日本の運命を決めることになる。もともと南雲中将は水雷戦隊の指揮が専門で、航空専門ではなかった。山本長官も南雲は適材適所ではないと感じていたが、南雲中将に機動部隊を託したのは、兵学校の卒業年次にとらわれたからだったといわれている。海軍は上級者ほど信賞必罰の気風に欠けていたのだ。(引用文献:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)

マレーの虎・山下奉文

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    山下奉文(1885-1946)中将に「マレーの虎」という異名がついたのは、シンガポール攻略の後である。イギリスの東洋における最大の根拠地を短時間で占領したのは、突如としてジャングルから姿をみせた虎としか形容のしようがなかったからであろう。ぎょろりとした眼、日焼けしたたくましい顔、堂々とした体躯、大音声で指揮をとる猛将にふさわしい異名であろう。

    山下奉文司令官とパーシバル総司令官との降伏会見は昭和17年2月25日午後7時、ブキテマ高地のフォード自動車工場で行われた。パーシバルは停戦を申し込み、シンガポールの治安を任せてほしいと主張したのに対し、山下は条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、と迫った。日本軍は降伏の意思表示がないかぎり夜襲を決行するつもりだった。いらだった山下は「条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、イエスかノーか聞いてくれ」と通訳に命じた。パーシバルはやむなく「イエス」と無条件降伏を受諾した。午後7時50分だった。マレー・シンガポール作戦における日本軍の戦死者は約3500名、連合軍の捕虜は7万とも10万ともいわれる。

    しかし「マレーの虎」と称された山下奉文は東条英機に嫌われその後は満州に左遷された。フィリピン防衛戦で呼び戻され総指揮官となったが、すでに勝機はなく、あまつさえ情報無視のレイテ決戦を上級司令部から強いられた。そのため肝心のルソン島決戦ではほとんど満足な兵力がなく、完敗。敗戦後、マニラの戦犯裁判で、「パターン死の行進」捕虜への残虐行為の責任を問われ、絞首刑になった。(引用文献:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)

2008年3月28日 (金)

秋田事件と自由民権運動

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    秋田といえば、しょっつる、ジュンサイ、ナメコ、ハタハタとならんで「きりたんぽ」が思い浮かぶであろう。郷土の偉人では、国学者・平田篤胤(1776-1843)が幕末思想界に大きな影響を与えた人物として重要。秋田藩はその篤胤の系譜をひく勤皇派が藩政を握ったため官軍にくみし、奥羽諸藩の幕軍と戦った。明治維新後、出羽国は羽前と羽後に分かれ、明治4年廃藩置県により秋田、岩崎、本荘、亀田、矢島、酒田の各県が誕生、同年、これらの県に南部領の鹿角郡を編入して今日の秋田藩の基礎が確立した。しかしながら、新政府は秋田藩を東北諸藩と同じように厄介者として扱い、決して優遇的な対応はしなかった。そうした中でも、近代化を望む声は生まれてきた。明治10年1月の新聞の投書には芸妓や娼妓が苦境からの解放を訴え、参政権や男女同権の思想の芽生えをうかがうことができる。明治14年6月には、藩閥政府に反抗し、横手周辺で豪農襲撃事件(秋田事件)が発生したが、秋田立志会の主唱者・柴田浅五郎らが逮捕され、立志会はまもなく消滅した。

    画像は秋田の郷土料理きりたんぽ。「たんぽ」は形がたんぽ槍に似ているところからという。炊きたての飯を擂鉢に入れて餅のようにつぶし、杉串に円筒形にぬりつけて焼きあげたもの。きりたんぼ鍋が生まれたのは、秋田で自由民権運動が起こった明治10年代だといわれている。

2008年3月26日 (水)

中山太一と双美人

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           化粧品のパッケージ・デザイン

    戦前、街を歩けば「仁丹」か「クラブ」か、と言われるほど、特に関西では「クラブ化粧品」の街頭広告が目についた。クラブ化粧品は中山太一(1881-1956)が明治36年に神戸花隈で化粧雑貨業「中山太陽堂」を開店したのがはじまりである。商品としては「クラブ洗粉」を発売し、双美人のシンボルマーク(原案は画家の中島春郊)が広く知られるようになった。明治期、白粉の「御園」、歯磨の「ライオン」、化粧水の「レート」、洗粉の「クラブ」といわれた。中山太陽堂の商品には、洗粉、歯磨、白粉、粉白粉、水白粉、ポマード、化粧水、クリーム、乳液化粧水、美身ゼリー、眉墨、チック、歯磨チューブ、歯ブラシ、石鹸などがあった。プラトン社をつくり雑誌「女性」(大正11年)「苦楽」(大正13年)「婦人文化」(大正15年)を発行した。美容だけにとどまらず、中山文化研究所を設立して女性を全面的にサポートするための総合サロンを開設している。

2008年3月23日 (日)

東亜百年戦争論

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        豊島沖海戦  栗島忠二画

  林房雄(1903-1975)は、自分が生きてきた時代の実感を次のように語っている。「私は日露戦争の直前に生まれた。生まれてこのかた、戦争の連続であったことは、五味川純平氏の四十年も私の六十年も全く同じである。だれが平和を知っているであろうか。だれも知らない。私たちが体験として知っているのは戦争だけだ」として、「私は大東亜戦争は百年戦争の終局であった」と結論づけている。つまり林の東亜百年戦争論の開始は、明治維新よりさかのぼり、ペリーの黒船渡来よりも前になる。外国艦船の出没が激しくなり、日本は、西洋列強との事実上の戦争状態に入る頃を起点とするようである。林房雄は専門の歴史家ではないのでその実証はおそらく粗雑なものであろうが、直観としてはなかなかすぐれた面がある。

近代日本の戦争は大きく分けて7つあるといわれる。1番目は維新戦争(幕末から明治維新)、2番目は日清戦争、3番目は日露戦争、4番目は第一次世界大戦期の戦争、5番目は満州事変、6番目は日中戦争、7番目が太平洋戦争である。

    とりあえず、第1番目の維新戦争の内訳だけを列挙してみよう。維新戦争は外国との戦争と内戦とがあるが、文久3年8月薩摩藩がイギリスと戦う薩英戦争、元治元年9月萩藩が英・米・仏・蘭4国連合艦隊と下関海峡で交戦、明治元年1月から明治2年6月は戊辰戦争、明治7年5月台湾出兵(牡丹社事件、征台の役とも呼ばれる)、明治7年2月佐賀の乱、明治8年9月江華島事件、明治9年10月神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして明治10年1月から9月までの西南戦争である。

   近代日本の根本にあるものは、結局西洋との対決、もう少し弱めて言えば対峙であった。「東亜百年戦争」が西洋列強との対決であるとする史観は、小説という形式で司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも一部にはみられるようになる。一部というのは、司馬は明治維新は偉大だが、昭和の戦争は愚劣であったという区別をしている点が林とは異なるのである。

    大佛次郎は、「天皇の世紀」の中で、G・B・サンソムが、吉田松陰の偉大さが分からないといっていることを引いた上で、「サンソムが、なぜ松陰が同時代人の心に強い影響を及ぼしたのか外国の研究者にはほとんど理解しにくいといったのは当然なのである。日本人ならばこれが解るとも最早言えないのである」と書いている。(引用:新保祐司「大東亜戦争とは日本思想にとって何だったのか」『日本思想史ハンドブック』)、

生麦事件と薩英戦争

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  生麦村の古写真(横浜開港資料館蔵)

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大久保一蔵(写真は明治期のもの)

    NHK大河ドラマ「篤姫」をより楽しむために幕末史をちょぼちょぼ予習している。今回は生麦事件。勅使の大原重徳を警護して薩摩藩兵とともに東海道を下った島津久光は、文久2年6月7日に江戸高輪の下屋敷に入った。江戸での大原は将軍徳川家茂に朝廷からの沙汰書を渡すとともに朝廷の意向を伝えた。薩摩側の強い働きかけもあって、幕府は将軍後見職に一橋慶喜、大老に松平慶永の就任を認めた。目的を果たした久光は8月21日、高輪の下屋敷を出発し京へ向かった。品川宿で休息をとり、川崎宿で昼食を兼ねた休息をした一行は、鶴見村の辺りで馬に乗って遠出したいたアメリカ領事館の書記官ヴァン・リードと遭遇した。3年前に日本に上陸していたリードは日本の習慣にも通じており、馬を下りて脱帽の上膝をついて頭を下げた姿で行列が過ぎるのを待ったため、何事もなく久光一行も通り過ぎた。だが行列は武州生麦村に通りかかつたところで、馬に乗ったイギリス人の男女4人に行き会った。下馬せず行列を横切ろうとしたので、先頭の藩士が抜刀し、商人チャールズ・L・リチャードソンを殺害、他の2人に負傷させた。加害者は同藩士奈良原喜左衛門であった。イギリス公使ニールは、幕府に対し強硬に抗議するとともに、賠償金を要求、別に薩摩藩に対しては犯人引渡しと賠償金を幕府を通じて要求した。文久3年5月9日老中格の小笠原長行は、独断で賠償金をイギリスに支払った。しかし薩摩藩は幕府の説得を拒否したため、イギリスは薩摩藩と交渉、決裂に及んで薩英戦争が開かれた。藩内は、早期講和を主張する国元藩士と、江戸屋敷にいる攘夷による強硬の反対派とに二分していた。この収拾のため大久保一蔵(大久保利通)は、江戸屋敷の反対派に対して、「慰謝料は遺族扶助料の名目として要求どおり7万両を払うが、その金は幕府から借用する」という案を示し、反対派をとりまとめた。文久3年9月28日、横浜で薩英双方の和議は成立した。

2008年3月22日 (土)

西郷隆盛の写真断ち

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    子どもの頃、夏になるといつも「南洲香」という蚊取り線香を我が家では使用していた。その絵柄には西郷隆盛が描かれてあった。でっぷりとした体格で太い眉とギョロリとした目といった印象がある。だが、西郷は明治天皇が写真を所望しても、その生涯に一度も写真を撮らなかったといわれているため、真実の姿は謎のままである。今日伝わる西郷の真影と称する偽物は明治6年ころから、他人の写真が大量に出回り、西南戦争のころには、兵士や民衆がその写真を西郷としてイメージしていたが、そのような西郷像は今日も国民に定着していると思える。

   だが明治31年に上野公園に西郷隆盛の銅像が建立され、除幕式に呼ばれた、西郷隆盛の未亡人の西郷糸は、「うちの人は、こげな人じゃなかった」と口走ったという。なぜ、西郷は写真を撮らなかったのか。真偽は別として、西郷隆盛が写真の撮影を拒否した理由は、坂本竜馬の妻お龍と、写真を終生撮らないと共に誓ったためといわれる。西郷は坂本の死を悼み、その気持ちを終生忘れないため、一種の物断ちをしたとも考えられる。物断ちとは、願掛けなどのために、塩や嗜好品などを口にしないことであるが、西郷は竜馬のために「写真断ち」をしたというのである。つまり現在、西郷隆盛の本物の写真は1枚も存在していないし、今後も発見される可能性はないであろう。国立国会図書館のホームページなどで西郷隆盛のリアルな写真画像を見ることができるが、これらはイタリア人画家キョッソーネが描いた絵をもとに作成したものであろう。

篤姫とペリー提督

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   NHK大河ドラマ「篤姫」が面白い。第12回「さらば薩摩」では篤姫(宮崎あおい)がいよいよ江戸へと旅立つ。つまり嘉永6年(1853)8月21日。この前月、7月8日、アメリカの海軍提督マシュー・カルブレース・ペリー(1794-1858)は4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れた。篤姫が2ヵ月の旅を終え、江戸の薩摩藩邸に入ったのは10月のことである。国情はペリー来航で騒然としていた。「泰平のねむりをさます正喜撰、たった四はいで夜もねられず」という狂歌が流行った。徳川家定(堺雅人)と篤姫の縁組みの話は遅々として進まなかった。安政2年10月には安政大地震があり、縁談はさらに遅れた。こうして婚姻が正式に決まったのは安政3年(1856)のことであった。篤姫の入輿は一橋派の慶喜擁立のための工作であったが、わずか2年で家定が病没したため、南紀派の推す慶福(松田翔太)が第14代将軍となった。未亡人となった篤姫は天璋院と称し、大政奉還から江戸城開城へと至る歴史の転変の中、徳川家存続のため、可能なかぎりの働きをした。

福沢諭吉と上野戦争

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 福沢先生ウェーランド講術の図 安田靫彦

 慶応義塾福沢センター蔵

   年が明けて慶応4年(1868)になるとそうそうに、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の端緒が開かれ、官軍による慶喜追討令が出て、徳川慶喜は大坂を逃れて江戸に帰った。江戸市中では官軍が攻めて来て戦になるのは間違いないと江戸庶民は戦々恐々となり、逃げ出す者たちで街中は大騒ぎだった。

   その年の4月、福沢諭吉(1835-1901)は築地鉄砲洲中津藩中屋敷にあった洋学塾を芝新銭座(現・港区浜松町1丁目)へ移し、年号をとって「慶應義塾」と命名した。慶応4年5月15日、福沢諭吉はいつものように塾の教場に立ち、講義していた。突然、はるか北の方角から、江戸中に響き渡る砲声がとどろいた。諭吉はのんびりした調子で「とうとう、戦争が始まったか…」と呟いた。爆音をとどろかせているのは、上野の山であった。将軍慶喜を守るために結成された彰義隊に、官軍が戦闘をしかけたのである。塾生たちは、ざわついた。塾生たちの中には、若い血を燃えたぎらす者たちもすくなからずいて、落ち着きなく講義になかなか身がはいらない様子であった。諭吉は言った。「どうした、大砲の弾も鉄砲の弾も、ここまでは飛んでこないぞ!。上野の山までは、二里も離れているぞ」諭吉の声で、塾生たちも話に集中しだした。

「いいか、みんな、われわれがこうしていま、戦争のなかにもかかわらず学問をしているのは、日本の将来のためなんだぞ。いま、たしかに日本は変わろうとしている。しかし、これまでのような狭いものにとらわれた者たち同士の戦争では、なんにも変わらないんだ。これからの時代を切りひらいていくのは、力でも、鉄砲でもない。それは、学問だ。学問こそが、われわれを導く希望の光なんだ。さあ、大砲の音など、気にするな、講義を続けるぞ!」

   そして諭吉はいつもと変わらず土曜日の日課のフランシス・ウェーランド(1796-1865)の「経済学」の講義を続けた。

   画像「福沢先生ウェーランド講術の図」の中央の人物が福沢諭吉、そして手前の人物は高弟の小幡篤次郎(1842-1905)であろうか。

2008年3月20日 (木)

田原坂の激戦

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      西郷隆盛肖像画

    田原坂(熊本県鹿本郡植木町豊岡)は緩やかな二の坂、三の坂からなる地形であるが、西方は天然の要塞であった。田原坂は3月4日から20日まで、実に17日間にも及ぶ最大の激戦地となった。

    乃木稀典少佐率いる政府軍は植木、木葉で敗退した。4日から政府軍の本格的な攻撃が開始され、田原坂、二俣台地両方向から進軍する。7日には二俣台で攻防戦が繰り広げられ、政府軍は二俣台を確保する。その際、薩軍の一番隊長篠原国幹が戦死している。それ以降も、政府軍と薩摩軍との間で、壮絶な戦いが繰り広げられた。一日の弾丸使用量は32万発といわれ、弾丸と弾丸が空中でぶつかりあった(空中かちあい弾)。「雨は降る降る、人馬は濡れる」と歌われるように、田原坂の戦いでは雨の日が多く、弾薬に乏しい薩軍にとって災いとなった。

   政府軍が膠着状態の戦況を打破しようとしたのは横平山の占領であり、9日から続いた戦闘の結果、15日には占拠している。その際、政府軍の抜刀隊の50名が乗り込み、作戦に成功している。この抜刀隊は13日の時点で、山県参軍直々に、警視隊300名のうちから100名を選抜している。彼らは二俣台地で薩兵と互角に渡り合い、横平山を奪う主力となった。そして明治10年3月20日、政府軍は総攻撃を掛け、最後まで田原坂周辺を死守していた薩軍を追い落とした。政府軍は累々たる屍の山を築きながらも、田原坂をついに越したのである。この戦いにおける両軍の死傷者は政府軍が約5700人、薩軍が約2500人である。

2008年3月19日 (水)

御宿の海女に美人が多い理由

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   御宿町は千葉県の南東、房総半島の東に位置する人口約8,200人の小さな町。ここには、今でも100人ほどの海女が海に潜りアワビ、サザエ、テングサ、ワカメなどを採集している。御宿岩和田の海女はむかしから大柄で美人が多いといわれる。その理由にはこんな歴史がある。

   1609年9月28日、メキシコへ向かう途中のスペインのドン・ロドリゴ(1564-1636)船長の「サン・フランシスコ号」が台風に遭い、上総国岩和田村(現・御宿)田尻の浜に漂着した。地元の御宿の海女が彼らを救助した。ロドリゴらは、駿府城で徳川家康とも会見し、1610年10月にスペインに帰国した。つまり、海女と船員との間に子どもが生まれ、海女になったというのである。ほんとうに事実かどうかはわからないが、遠い異国の船員たちにとっても、海女の操業する姿はなんとも艶かしく人魚姫のように見えたことだろう。なにせ大正時代までは、海女は上半身は裸で、腰には白木綿の磯ナカネ(腰巻)を巻いていた。海女の健康的な美しさは異人の旅情の思い出であったことは間違いない。

   今日、海女といえば観光海女しか見ることができないが、三重県志摩の鳥羽真珠島、福井県東尋坊、千葉県御宿、石川県輪島舳倉島(へぐらじま)などがよく知られている。

2008年3月17日 (月)

ブラジャーの歴史

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 「主婦の友」昭和4年7月号の乳バンドの広告

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(左上)1920年代のスリップ(右上)1920年代のブラジャー(右中)1920年代のパンティ。下の2点は1920年代のコルセット

   大正時代に洋装は男性と子供に次第に広がり、洋装下着もそれに伴って着られるようになっていった。女性で洋装をするものは多くはなかったが、そのころの女性雑誌には、洋装やその下着の記事や広告が掲載されるようになる。

     ブラジャーは1889年にフランスのエルミニー・カドルが発明し、1913年、アメリカのメアリー・フェルプス・ジェイコブによって発明、特許をとったとされる。日本には大正末期に登場し、大正15年に「乳房バンド」の広告が掲載された。昭和4年には「乳房バンド」のほかに「乳バンド」「乳房ホールダー」「胸美帯」「乳おさえ」などの名で広告や通信販売欄に掲載されているから、日本でも製造が始まったと見られる。このほか、松岡錠一もこのころブラジャーを生産した(「日本洋装下着の歴史」)。これらは薬局、小間物店、デパートで売られていた。日本でブラジャーという用語が登場するのは1930年代である。(横田尚美「1920年代の日本女性洋装下着」『ドレスタディ』vol33)

戦艦長門

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    戦艦長門は日本海軍念願の「八八艦隊」計画案によって着工された第1号艦で、主砲に41センチ砲を搭載した世界最初の戦艦として知られる。

    戦艦長門は太平洋戦争開戦時、連合艦隊旗艦を務めた。昭和16年12月2日午後5時30分。「ニイタカヤマノボレ1208」 瀬戸内海柱島停泊していた戦艦長門(矢野英雄艦長)から打電された暗号電文は、依佐美送信所(愛知県刈谷市高須町)を中継して全艦隊に伝達され、日米開戦となった。

   その後、旗艦を大和に譲ったが、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参加し、爆撃により数度被害を受けたが終戦まで生きのびた。ちなみに長門は終戦時帝国海軍において自力航行可能だった唯一の戦艦である。戦後、米軍の原爆実験に供される。

    太平洋戦争時の長門歴代艦長は以下のとおり7名。矢野英雄(1894-1944)、久宗米次郎、早川幹夫(1894-1944)、只部勇次、渋谷清見、大塚幹、杉野修一。

    余談ではあるが、戦艦長門の最後の艦長・杉野修一は杉野孫七(1867-1904)の長男である。杉野孫七は日露戦争旅順閉塞作戦において広瀬武夫艦長の「福井丸」での「杉野はいずこ」のエピソードで「杉野兵曹長」としてその名が全国に知られている。

2008年3月16日 (日)

教育博物館と手島精一

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    教育博物館は、明治10年1月に創設され、同年8月から一般に公開された。教育博物館とはその名が示すとおり、いわゆる自然史資料を収める博物館ではなく、教育に関する資料を収集展示する博物館として構想され、通常の陳列展示主体の博物館活動にととまらず、当時としては斬新な講演会、講習会の開催、さらに館内に製作工場を設けて教材用の理化学器機や博物標本を製作し学校へ払い下げ、明治10年代の学校教育ならびに社会教育に貢献してゆくのである。教育博物館は後に東京教育博物館と改称、東京図書館との合併を初めとして、幾多の組織改変を経、現在の国立科学博物館へと至る。

   現在、国立国会図書館所蔵本に蔵書印「教育博物館印」のある2万点近い技術関係並びに教育関連の和書・洋書は、工業教育の父と讃えられる同館長・手島精一(1849-1918)の蒐集によるところが大きい。手島精一は嘉永2年、沼津藩主水野忠寛の江戸藩士田辺四友の二男として生まれた。明治4年、岩倉具視大使の米欧巡視に従う。明治11年、パリ万国博に参加。「今回の博覧会にあらわれたヨーロッパの工業力の発達ぶりは素晴らしいです。将来の日本を富強にするには、どうしても工業力の培養に意を用いるべきです。何よりも産業の振興です。この実際知識を授ける工業学校を設置することです」と語る。

   社会教育の充実を願う手島と学校教育重視の森有礼との厳しい対立があったが、明治22年に手島は教育博物館館長を辞し、東京工業学校(現・東京工業大学)の校長に就き、大正5年まで断続的に校長の地位にあり、教育と産業とを結ぶ実業教育・社会教育の振興に終始努力した。

パリ会議と明石元二郎

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    日露戦争の勝因の一つとして、陸軍の行ったすぐれた諜報・謀略活動があった。それが明石元二郎大佐が担ったヨーロッパにおける後方撹乱工作(明石工作という)である。明治35年夏、陸軍総帥の山県有朋はロシア革命援助工作として明石に100万円(:現在の100億円)もの大金を渡して、対露謀略工作を開始させた。

    明石はロシアのアキレス腱は民族問題であると見抜いていた。明治37年10月1日、パリである秘密会議が開かれた。出席したのは、自由党、革命党、フィンランド憲法党、ポーランド国民党、ポーランド社会党、アルメニア革命連合、グルジア革命的社会主義連邦派党の各党主や代表メンバーであった。会議の議長を務めたのは、フィンランド憲法党の党主コンリー・シリヤクスであった。会議の目的は、ロシア皇帝とその政府をいかに転覆させるかであった。その結果、各党の利害関係はさておき、帝政ロシア打倒という一点で各党が協力し、反ロシア行動を推進することが決まった。この会議を裏から画策したのが、他ならぬ明石大佐である。

    明石元二郎(1864-1919)は、万治元年に福岡藩士明石助九郎の二男として生まれた。父親は二千石以上の上士だったが、若くして自殺している。明治9年、上京し、安井息軒の門に入り、漢学を修め、明治20年に陸大を卒業。陸士卒業時の成績はフランス語がトップ、製図と絵画に優れていたが、運動神経は著しく劣っていた。熱中すると周囲に目が入らなくなる性格であるために、協調性という点でも評価は低かった。明石の異常なまでの集中力を示す逸話がある。

    ある時、明石元二郎は構想を述べるため山県有朋を訪ねた。語るにしたがい、明石は夢中になり小便を漏らした。尿意を感じたが、面倒だと思ったのか、そのまま話を続けたので、小便は床を伝わって山県の足元を濡らした。それでも語ることを止めない明石の熱心さにほだされて、山県も黙って終わりまで話を聞いていたという。

鳥取藩と漂着朝鮮人

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        漂着朝鮮人之図 鳥取県立図書館蔵

    文政2年(1819)1月12日、朝鮮国江原道平海から出国した商船(船長・安義基)が嵐に巻き込まれ、鳥取藩の八橋郡八橋(東伯郡湯梨浜町)に漂着。鳥取藩の役人が発見し、安義基(アン・ウィギ)ら12人を救助し、22日、駕籠にのせて鳥取に送った。行列をみる人たちは道筋にあふれ「見る人皆眼を驚せり。異客等是を見て賞する毎に、ちょうたと云ふ」(「化政厳秘録」)と記している。「ちょうた」とは「いいなあ。いい眺めだなあ」という意味。鳥取藩の岡近右衛門らは漂着朝鮮人を厚くもてなし漂着民の生活は快適であったが、4月に鳥取大火に遭い旅館を焼け出された。4月8日、鳥取を出発し、鳥取から境村までは陸路で、境村からは蜘勇丸と幸要丸で長崎に送りとどけられた。5月23日、長崎に到着するが、船での長旅のため3人が病気となった。その後、対馬を経由して、9月に朝鮮国釜山港へと帰還させた。

   画像「漂着朝鮮人の図」は、安義基が鳥取藩の岡近右衛門に送った感謝状。ただし安義基は干鰯の商人であるのに、この図では両斑の姿で描かれている。(引用文献:「鳥取県の歴史」山川出版社)

2008年3月15日 (土)

栃木県庁

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       栃木県庁之図 高橋由一 1884

  明治4年の廃藩置県により下野では宇都宮県、黒羽県、日光県など11県が成立したが、11月の整理統合で、栃木県と宇都宮県の二県となった。栃木県は足利、梁田、寒川、安蘇、都賀郡など下野の南部一帯と上野国の館林県を管轄下におき、宇都宮県は東北部から中央に位置する那須、塩谷、芳賀、河内の4郡からなった。県庁はそれぞれ栃木宿と宇都宮町におかれ、初代栃木県令には鍋島貞幹が任命され、宇都宮県には県令をおかず大参事が代行した。明治6年6月15日、宇都宮県を廃し栃木県の管轄に組み入れた。本庁は栃木町に、宇都宮、大田原、足利には支庁がおかれた。新生栃木県の誕生である。栃木県庁は下都賀郡薗部村にあったが、明治17年に河内郡塙田村二里山へ移転した。突貫工事により、和洋折衷、白色のモダンな新庁舎が竣工した。しかし、明治21年1月の火災で焼失した。画像は、明治を代表する洋画家・高橋由一(1828-1894)が描いた石版画である。(引用文献:「栃木県の歴史」山川出版社)

2008年3月13日 (木)

七卿落ちと専崎弥五平

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     鐡屋弥五郎 (専崎弥五平)

   文久3年8月18日、松平容保、稲葉正邦、近衛忠熙、二条斉敬、徳大寺公純、近衛忠房が参内。あわせて、薩摩・会津・淀などの諸藩兵が御所の九門を固めた。開かれた朝議では、行幸の延期、尊攘派公家の参内禁止、国事参政・国事寄人の停廃止、長州藩の堺町御門警護解除、毛利慶親父子の入京・長州藩士の九門出入り禁止などを決定し、公武合体派が朝廷の主導権を握った。そのため、三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆調、錦小路頼徳、沢宣嘉の七卿は東山の妙法院に逃れて善後策を練り、翌朝に寺を発ち、蓑笠、草で編んだ草履ばきの農民姿に身をやつし、長州藩兵らおよそ2300人に守られて一路、西国街道を西へ西へと長州藩を目指して都落ちした。七卿らは摂津国八部郡の二ツ茶屋村の「鐡屋(鉄屋)」の弥五平の屋敷で旅装を整え、楠木正成の墓に詣でた後、弁天浜(現在の神戸ハーバーランド)と兵庫の湊から小船に乗り込んで鞆浦(広島県福山市)に立ち寄り、長州藩の塩田地の三田尻へ落ち延びていった。

   七卿たちに船を提供した二ツ茶屋村の「鐡屋」弥五郎は、幕末長州藩が摂海防備に当った時の御用達商人で、元治元年の長州藩兵上洛の際、自宅を宿舎に提供し、負傷者の看護に当ったため、兵庫の大坂町奉行兵庫勤番所の幕吏の追及を受け、投獄された。維新後、神戸で旅館、廻漕業を営み、陸海軍の用達を勤めた。明治には、専崎弥五平(1831-1901)と名のり、晩年は明治天皇御用邸番であった。

2008年3月12日 (水)

フランシスコ・ザビエルの布教

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聖フランシスコ・ザビエル画像(神戸市立博物館蔵)

    天文18年(1549)7月22日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が6人の弟子(パウロ・ヤジロウ、ベルナルド、ロレンソ、マテオ、コスメ・デ・トルレス、フェルナンデス・ジョアン)と共に鹿児島に上陸した。ザビエルを同地に案内したのは弟子の一人アンジロー(安次郎。弥次郎とも)だった。薩摩出身のアンジローは殺人を犯してマラッカに亡命していたところを、ザビエルと知り合った。アンジローはザビエルに従い、ゴアに赴き、ラテン語やキリスト教の教義を熱心に学んだ。鹿児島では当初、島津貴久の保護を受けて菩提寺福昌寺境内などで布教活動を許され、アンジローの知人や親類をはじめ、150人が洗礼を受けた。後には仏教徒からの妨害と、貿易に伴なう利益に期待した貴久の落胆から、キリスト教への改宗は禁止されるに至った。

    10か月の鹿児島滞在後、ポルトガル船の平戸入港に伴ない、同地に赴き、さらに山口、泉州堺を経て京都に入ったが、状況はザビエルの布教活動を拒否するものだった。以後、山口の大内氏や豊後の大友義鎮(宗麟)に庇護を求めて、布教活動を行なった。天文20年11月20日にザビエルの乗ったポルトガル船は沖の浜からゴアに向けて出帆した。ザビエルの日本滞在はわずか2年3か月だったが、布教活動が我が国のその後に与えた影響は決して少なくない。

2008年3月10日 (月)

江戸時代の書肆

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      耕書堂の店先(画本東都遊)

    江戸時代の書肆の隆盛ぶりは、朝鮮半島から来日した朝鮮通信使の記録にも見られる。享保4年(1719年)、第9次朝鮮通信使の製述官(書記官)として来日した申維翰( シン・イハン)は、その日記「海游録」で大坂の賑わいを次のように記している。

書林や書屋があり、看板をかかげて、曰く柳枝軒、玉樹堂などなど。古今百家の文籍を貯え、またそれを復刻して販売し、貨に転じてこれを蓄える。中国の書、我が朝の諸賢の撰集も、あらざるはない

   日本における万般の書の流通と書肆が書物によって利潤を得ていることに驚いたのである。朝鮮、中国ではまだ出版文化は形成していなかったが、江戸時代の出版文化の隆盛は世界的にもめずらしいものであろう。

   さて、申維翰が触れた「柳枝軒」は、京都六角通御幸町西入の書肆、茨城屋小川多左衛門の軒号。この店は初代が経書や禅宗関係書の廉価販売で成功を収め、二代の時には貝原益軒の教訓書や実用書、紀行などを販売した。「玉樹堂」は、京都西堀川通仏光寺下ル町の唐本屋吉左衛門で、「唐詩鼓吹」や「明詩大観」などの漢詩関連書や伊藤仁斎・息子の東涯の詩文集や「中庸発揮」「孟子古義」といった経書注釈書などを出版した書肆である。

   挿図は、江戸の蔦屋重三郎(1750-1797)の書肆「耕書堂」である。出版と販売の両方を行なっていたが、黄表紙・洒落本・狂歌集から浮世絵も扱って歌麿や写楽らを世に出した。

2008年3月 9日 (日)

日光東照宮

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  空から見た東照宮(本社・陽明門・鐘楼・三神庫)

    元和2年4月17日、駿府城において75歳の天寿をまっとうした徳川家康の遺骸は、久能山の仮殿に移された。生前病状の悪化を自覚した家康は、4月2日に本多正純、金地院崇伝、南光坊天海を召して、遺体は駿河の久能山に、葬礼は江戸の増上寺で、位牌は三河の大樹寺に立つるべきことを命じたのち、1周忌後に、下野の日光山に小堂を建てるて御霊を勧請し、関八州の鎮守とすべきことを遺言した。これを受けて、同年10月には幕府より日光山に東照宮の社地が選定され、11月17日には造営に着手し、1周忌にあたる4月17日には、主要な社殿が完成した。

   この元和の造営を指揮した奉行は、本多上野介正純で、藤堂和泉守高虎が補佐し、建築の計画にあたったのは、幕府の大工頭中井大和守正清(1565-1619)であった。正清は奈良・法隆寺大工の中村家の出身で、家康の生前、格別の愛顧を受け、久能山の仮殿も建てた。

    この元和創建の東照宮は、寛永の造替ですっかり破却されてしまい、伝わらないが、大河直躬、内藤昌両博士の研究によると、本社はやはり権現造で、その周囲を玉垣がかこみ、正面には唐門を開いていた。またその外周に回廊と楼門があり、ほかに本地堂、仮殿、御供所、水盤、厩、神庫、輪蔵、奥社拝殿、奥社宝塔が存在していたことがわかる。元和3年4月の遷宮後も、境内整備の工事は進められ、元和4年には現存する石の大鳥居を黒田長政が、石の水盤を鍋島勝茂が献納しており、また中神庫は元和5年に建てられている。造替に際して、本地堂、奥社拝殿、奥社宝塔は、群馬県の世良田の長楽寺に移されたと伝えられていたが、近年、長楽寺の東照宮拝殿が、社伝のごとく、神柩を安置していた奥社の拝殿を移築したものであることが明らかとなった。これによると、元和創建の東照宮は、現在の寛永造替のものほど装飾が派手ではなかったと推察される。

    家康薨去後、ちょうど20年をめざして、寛永11年11月に開始された造替は、秋元但馬守泰朝を造営奉行とし、建築の総指揮をとったのは幕府作事方の大棟梁、甲良豊後守宗広であった。甲良氏は近江の出身で、建仁寺流を名のり、平内氏とならんで、江戸時代を通じて幕府作事方大棟梁の地位にあった。なお、一族の古い作品として、近江の油日神社楼門が現存している。寛永造替の東照宮では、それまでの和様と違い、禅宗様を基調として統一をはかり、これまでの大社や古社の本殿ではみられぬ様式で、このような発想自体、当時としては異例のものであったとみられる。それが大きな抵抗もなく受け入れられたのは、日光が関東有数の山岳信仰の霊場、すなわち神仏混交の地であったからであろう。

   東照宮の構成は、その基本的な社殿の形式を、すでに平安末期に成立した北野神社に負っており、その全体構成は、豊臣秀吉をまつる豊国廟を強く意識して成立したものとみられる。

    東照宮の鎮座する恒例山は、円錐形の神奈備山で、本社の位置には、かつて二荒山神社(現在、東照宮の地主神)がまつられ、三神庫付近には常行堂や法華寺などが存在した。寛永造替の附属社殿の数は、創建時のものより圧倒的に多くなっているが、種類においてはほぼ同じで、神與舎が新しくあらわれるのみである。

    表参道の大鳥居をすぎ、表門をくぐると、東照宮の空間が巧みに展開する。東照宮の中核は、本社と奥社であるが、本社にいたる空間の構成は、石垣でかこまれた表門前の広場(千人枡形)、それより斜路をもって水盤舎にいたる空間、銅鳥居より陽明門にかけて、階段によって高まりをみせながら展開する対照的な空間、陽明門をくぐり、唐門・透塀など本社の正面を広くみせた前庭、そして透塀でかこまれる奥の本社の一郭があり、深い緑にしげる杉木立を背景に鎮座する。

   このように、建物の種類や空間構成をみると、寛永造替の東照宮は、それまでの霊廟の附属社殿を、大規模な計画によって再構成し、またその配置方法に巧みな創意と工夫をこらしたものとみることができる。その後の全国の神社や寺院に与えた影響には、いろいろな意味でいちじるしいものがあった。

    徳川家康の家臣・松平正綱(1576-1648)は慶安元年(1648)、20年をかけて日光東照宮への参道に杉を植林した。日光街道の日光から今市間の8.5キロ、御成街道の今市から大沢間の10.7キロ、会津街道の今市から大桑間の3.9キロ、例幣使街道の今市から小倉間の13.9キロ、計37キロにわたり、約13,700本の日光杉並木が現存している。

(引用文献:「名宝日本の美術31」小学館)

江戸城無血開城の端緒を開いた男

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    山岡鉄舟肖像

   山岡鉄太郎(1836-1888)は、慶応4年3月5日、徳川慶喜より恭順の意をあらわした征夷大総督府大参謀西郷隆盛に宛てた勝海舟の手紙を持参し、薩人益満休之助とともに駿府へ急行、西郷と会見する。

   朝敵となった徳川慶喜はすでに江戸城を出て上野寛永寺に移り、ひたすら恭順謝罪の姿勢をとっていた。陸軍総裁の勝海舟は、江戸決戦を唱えていきりたつ徳川の家臣をなだめつつ、官軍との連絡がつかずに苦慮していた。ここに飛び出していったのが鉄舟である。彼は、慶喜の恭順が本心から出ているものかどうか、疑っていたらしい。そこで単身、上野に慶喜を訪ね、恭順が本心であって他意はないという言質を取ったのだ。その足で海舟に会い、自分一人でも駿府に乗り込むつもりだが、何かいい策でも、と聞いてみたのだ。

   二人は初対面である。鉄舟は、尊王攘夷を唱えて暴れまわっていたころの自分の噂が海舟に知られていてはまずいと、内心では怖れていた。相手にしてくれなかったらどうするか。それも仕方なし、と思っていただろう。半分は死ぬ気ではじめたことだ。

    だが、海舟はすっかりうちとけ、鉄舟の決心を信用して、江戸攻撃は理において許されないと主張する手紙を預けたのだ。鉄舟は大任を果たした。官軍の見張っている六郷川の関所では、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へ通る!」と宣言して突破した。薩摩人の益満がいっしょだったのも何かと都合がよかった。これは海舟の配慮である。もっとも、これですべてが解決して江戸無血開城になったわけではない。鉄舟が用意した交渉の舞台にのぼるのは西郷と海舟の、主役二人である。(引用文献:「明治維新百人」別冊太陽、平凡社、1973)

2008年3月 7日 (金)

田村仁左衛門吉茂と「農業自得」

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     田村仁左衛門吉茂像

    河内郡下蒲生村(栃木県上三川町)の名主・田村仁左衛門吉茂(1790-1877)、父吉昌は、親子2代にわたって農業技術の改良につとめ、近代の科学的な農業技術改良の先駆ともいえる着実な成果をあげた。

   当時世間一般で行なわれていた苗代への播種量や田植え時に用いる一株の苗数の常識に疑問をもち、真に適正な播種量をさぐりあてるための親子2代をかけて継続的な栽培実験を重ねた。その結果、この地方で植え田一反当りの播種量7、8升とされていた常識は誤りであり、実はたいへんな厚蒔・厚植えを行っていたことを発見した。仁左衛門が実証したところでは、もっとも収量のあがる苗数や株数から厳密に逆算すれば、適正な播種量はおよそ反当り2、3升であるとしている。仁左衛門はこうした実験観察のため、数年分の作付け状況を一目で同時に比較対照できる農事帳形式を工夫案出していた。仁左衛門の技術改良は畑作にもおよび、各種の畑作物間の輪作体系を工夫し、収量を増し、病虫害を引きおこさない作付き方法の発見につとめていた。これらの技術改良によって天保年間の凶作時にも被害を最小限にくいとめる成果をあげることができたという。田村仁左衛門はこの成果を、独自の技術体系として確立することにつとめ、隠居後執筆に取りかかり、天保12年に草稿を書きあげた。たまたま天保改革期にあたり江戸を追放されて秋田へ帰郷する途中の国学者平田篤胤がこの書を目にとめて、みずから「農業自得」と命名し、出版をすすめたことから農書として世にでることになった。田村仁左衛門の農業技術の改良と普及の努力はその後も継続し、「農業根元記」「農業自得付録」「農家肝用記」などの著書がつぎつぎとだされた。(参考文献:阿部昭「近世村落の構造と農家経営」文献出版 1988)

2008年3月 2日 (日)

徳川家康と駿府城

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      徳川家康公の像

      静岡市駿府城本丸跡

   駿府城は駿河守護職今川範政(1364-1433)が応永11年(1404年)、この地に館を構えたのが始まりとされる。その後、今川氏の本拠として繁栄し、駿府は「東の京都」と称された。今川義元敗死により、当主氏真は駿府を捨て掛川城に逃亡する。天正10年に武田勢を追放した徳川家康(1542-1616)は、同13年夏、家臣の松平家忠に命じ駿府城の大改築を命じる。その後、家康の関東入府により中村氏・内藤氏が城主となるが、慶長12年(1607年)7月、家康は秀忠に将軍職を譲り、駿府に移る。元和2年4月17日、家康は駿府城で病没。

   駿府城は輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の天守を配置している。寛永12年(1635年)の火災により天守等ほとんどの建物が焼失し、櫓、門等の建物は再建されたが、天守は再建されなかった。明治時代によると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、三ノ丸は官庁や学校の公共用地となる。戦後、本丸、ニノ丸部分は駿府公園として整備され、巽櫓、東御門の復元もされ一般に公開されている。

2008年2月16日 (土)

浅野長矩刃傷松の廊下

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   浅野内匠頭長矩画像 岩屋寺蔵(京都・山科)

    元禄14年の3月14日午前9時半ごろ。

    江戸城の松之廊下で勅使供応役の播磨国赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が儀式典礼の指導役である高家筆頭の吉良上野介義央に刃傷に及んだ。

    唯一の目撃者である梶川与惣兵衛頼照の「梶川氏筆記」によれば、梶川と上野介が松之廊下の角住付近で立ち話をしたあと、上野介が去ろうとする背後から内匠頭が突然大きな声をあげて斬りつけた。

   「この間の遺恨、おぼえたか」

    内匠頭の小刀が上野介の大紋(式服)の背を切り裂き、驚いて振り向く上野介の額に二の太刀が振りおろされ、烏帽子の金具にあたる響きがして、血潮が流れ散った。おびえた上野介は、ぐったりとし、その場に倒れ込んだ。梶川は内匠頭を羽交い絞めにしてとめた。

    多門伝八郎重共、近藤平八郎の取り調べに対し、内匠頭は「かねて遺恨があったので斬った」と陳述、上野介のほうは「恨みを抱かれるおぼえがない。内匠頭殿は乱心されたのであろう」と申し立てた。幕閣では、将軍のいる殿中での刃傷は大罪であるが、よく取り調べてから処分したいとした。

    しかし、激怒した将軍徳川綱吉は、内匠頭に即日切腹を命じ、上野介には神妙な態度であったとして、お構いなしとした。綱吉は勅使・院使を迎えての大切な式日に刃傷事件を起こした内匠頭を不敬罪としたのである。

    当時、喧嘩両成敗という幕法の建前から、理非にかかわりなく双方の当時者が処罰の対象になるのが慣例であった。それなのに、将軍の裁きということで一方的に内匠頭だけが処断されたのである。ここに復讐への一つの伏線が生まれてくる。この処罰は、そのころの武士の正義の感情からは許すことのできないものであった。

    網打ち駕籠に乗せられて陸奥国一関領主の田村右京大夫建顕邸に入った内匠頭は、家来への連絡も許されないまま、庭前で切腹させられた。このことも赤穂義士たちの憤激を招く要因となった。内匠頭は従五位下の官位を持った大名である。座敷での切腹が当然であり、庭前での切腹は非礼違法にわたり、武士への大きな恥辱であった。

風さそう花よりもなほ我はまた

春の名残をいかにとやせん

   内匠頭は哀切な辞世を残して35歳の生涯を閉じた。

    片岡源五衛門は、最後にひと目、主君に拝領したいと願い出た。検使・多門伝八郎のはからいで、切腹の座にのぞむ内匠頭が書院を通るさい、はるか庭先から、拝領することができた。双方、無言のまま、視線をかわしたが、まことに断腸の思いであった。やがて、遺骸をうけとって泉岳寺へ葬った。このとき、田村家から渡された遺言状を読んだ。内匠頭の口上を覚書として書き留めたもので、「刃傷事件の原因を知らせておくべきだった。定めし不審に思うであろうが…」といった内容で、宛名は源五右衛門と磯貝十郎左衛門になっていた。その場で、片岡源五衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門の4人は髻を切り、墓前に供えた。幕命によって江戸藩邸を引き渡すと、片岡、磯貝、田中の3人は、赤穂へ戻る。赤穂義挙の序曲が始まった。

福島正則と広島城

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   中国の太守毛利輝元(1553-1625)は、天正17年から慶長4年まで10年をかけて、太田川を自然の外堀に仕立てた広島城を築城した。

   輝元は慶長5年、関ヶ原の戦いには西軍の総大将として、豊臣秀頼を擁して大坂城に入る。だが関ヶ原の敗北で、毛利氏は周防・長門へ減封され、代わって、石田三成と犬猿の仲だった福島正則(1561-1624)が安芸・備後49万8000余石を与えられ、翌年海路より広島城に入城した。

   正則は桶屋の倅として生まれたとも伝えられる。いわば卑賤の出である。幼年のころから豊臣秀吉に仕え、市松とよばれて秀吉に愛され育った。そして22歳の若さで、近江賤ヶ岳合戦のさい、いわゆる賤ヶ岳七本槍のひとりとして、しかもその勇猛さにおいて筆頭に数えられるほどの武勲をたてて5000石の恩賞をうけるのである。以来、秀吉のあるところつねに正則の勇姿があるといわれるほど秀吉の信頼をうけ、かずかずの武功をたてて、秀吉が死ぬときには、尾張清洲24万石を領有する大名であったのだ。加藤清正と並んで福島正則こそ、秀吉子飼いの豊臣家恩顧大名の第一人者であった。その彼らが、天下の行方を決する関ヶ原の戦いで、大坂方を見捨てて徳川についたのである。しかもこの戦いでも猛将の名に恥じない抜群のはたらきをみせた。戦後、徳川家康が福島正則に与えた25万石余の破格の恩賞は、その戦功に対してでもあるが、いまひとつ正則が率先して徳川方についたことを政治的に高く評価したためでもある。

   慶長6年、広島城城主となった福島正則は、城を改修、太田川などに堤を築き、ここに櫓を配置した。城下も武家屋敷を縮小して町家を拡大した。街道整備、太田川とその分流、運河にも架橋して町並みを整えたが、それが幕府の警戒を生む。

    元和3年の大洪水のさい、損壊した石垣・櫓などの城郭普請を幕府に無断で行なったことに対して、「公儀を窺はずして広島の城新に石壁を築き、城池を掘り、其の城郭内を繕ふ事、大神君の御遺法に背く、其の罪遁れ難し、早く二州を捧げ城を渡すべし」(東武実録)という幕命を、正則は元和5年6月9日、江戸の藩邸で受け取っている。かくて正則はその後に続く幕府の外様大名改易策の、最初の犠牲者となったのである。正則は信濃高井郡高井野に蟄居を命じられた。寛永元年7月13日、病没した。享年64歳。

2008年2月10日 (日)

安土城の石垣と穴太衆

    戦国時代の石垣は野面積み(のずらづみ)によって積まれていたが、ただ山城における防御の中心はあくまでも土塁であって、石垣が使われたことは少なかった。城の塁壁に石垣が多用されるようになるのは織田信長が築いた安土城のころからである。この安土城の石垣を積んだのがいわゆる穴太衆(あのうしゅう)で、もともとは近江国滋賀郡坂本村穴太において石材業に従事していた石工であった。穴太衆はこののち、諸国の大名に請われて築城に従事したため、その技術が全国に広がったとされる。

楠公父子、桜井駅の別れ

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       楠公訣別之図  松岡映丘筆

   足利尊氏の賊軍が九州から再び京都に攻め上って来るとの知らせが朝廷にあった。楠木正成は宮居の松にしばし名残を惜しみ、これが最期の戦と決して、兵庫へ向かった。途中、青葉繁れる桜井の駅で、嫡子の楠木正行を河内から呼び寄せ、諄々として向後を諭して言った。

    「この度の合戦は天下安危の分かれ目なれば、汝の顔を見るも今日が限りと思う。我れ討死せば世は必ず足利のものとなろう。されど我が楠木一族郎党一人でも生きてあらん限りは、生きかわり死にかわりて七たび生まれても朝敵を攻め滅ぼせ。(七生報国)事成らざれば潔く身命を大君に捧げ参らせよ。命を惜しんで忠義の心を失うべからず。これが父の志にて、汝はこれを継ぐことこそ第一の孝行なるぞ。父がいま申すこと返す返すも忘るるな」と心をこめて諭して、遺品に菊水の銘打ったる短刀を渡した。しかし正行はあくまで父の軍に従いたいと願った。すると正成は「汝もすでに十一。父の志がわからぬか。今死んでは父の志を継ぐ者は誰ぞ」と叱ったので、正行も泣く泣く故郷に帰った。

    正成はそれから兵庫に行って遂に討死した。

  *  *  *  *  *  *  *  *

    松岡映丘(1881-1938)は兵庫県福崎町に生まれた。実兄に国文学者の井上通泰や民俗学者の柳田国男がいる。上京して、橋本雅邦に狩野派を、山名貫義に大和絵を学んだ。さらに東京美術学校へ入り小堀鞆音の指導を得た。

2008年2月 6日 (水)

近代日本の西洋文化摂取の姿勢

    明治初期は、欧米列強の脅威に囲まれながら、近代的統一国家建設のため、旧来の陋習を破り、西洋の近代文化を摂取することが緊急かつ至上の課題であった。そのため日本の知識人の間に、日本の歴史や伝統的な文化を軽視する傾向が広まった。

    明治9年、お雇い外国人として来日し、東京医学校(東京大学医学部の前身)で医学・生理学を講じ、後に「近代日本医学の父」と称せられたドイツ人E・ベルツ(1849-1927)は、そうした日本の現状を観察して、自国の固有の歴史や文化を軽視するようなことでは、かえって外国人たちの信頼を得られないだろうと日本人の西洋文化摂取の姿勢を批判している。

ところがなんと不思議なことには、現代の日本人は、自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころが、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱり「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、わたしが本心から興味をもっていることはわかりますが、しかし、日々の交際でひどく人の気持を不快にする現象です。それに、その国土の人たちが固有の文化をかように軽視すれば、かえって外人のあいだで信望を博することにもなりません。これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです」(「ベルツの日記」明治9年10月25日)

2008年2月 4日 (月)

あめゆきさんの歌・山田わか

    婦人問題評論家・朝日新聞女性相談欄の担当などで知られた山田わか(1879-1957)は、明治12年12月1日、神奈川県三浦郡久里浜村の貧農、浅葉弥平治とミヱの三男五女の8人兄弟の4番目・三女として生まれた。明治23年久里浜尋常小学校を卒業し、17歳の時、同郡横須賀町小川の荒木七治良と結婚するが離婚。生家の苦境を支える兄を助けようと上京するが、途中、横浜で女衒に騙されてアメリカ、シアトルに売り飛ばされる。アラビアお八重の名で明治38年、26歳まで「あめゆきさん」となっていた。

    しかし、「新世界新聞」の記者であった立井信三郎に助けられて娼館を脱出し、サンフランシスコの手芸教室に逃げる。この手芸教室は性の奴隷から救出された日本人女性の自立のために坂部多三郎が開いていたところだった。坂部はキリスト教徒長老派教会娼婦救済施設キャメロンハウスに浅葉わかを匿った。坂部は、わかを追いかけてきたが、立井は引き渡さなかった。わかの裏切りを知った立井は坂部の目の前で服毒自殺をする。

   傷心のわかはキリスト教に入信する。山田英学塾に入り、塾長で社会学者の山田嘉吉に出会う。やがて二人は結婚し、サンフランシスコで永住しようと誓う。ところがサンフランシスコ大地震が1905年4月18日、二人を襲った。家と蔵書をすべて失った二人は、帰国を決意する。山田嘉吉41歳、わか27歳であった。

   帰国後、嘉吉は東京四谷に外国語を教える私塾を開く。社会主義者や婦人運動家が集まった。わかはエレン・ケイ(1849-1926)の母性尊重主義を紹介し、大正期の婦人解放思想に大きな影響を与えた。大正8年「女、人、母」(森江書店)、大正9年「恋愛の社会的意義」(東洋出版社)「愛と生活と」(三徳社)「社会に額づく女」(耕文社)、大正11年「家庭の社会的意義」、昭和3年「現代婦人の思想とその生活」(文教書院)、昭和7年「新輯女性読本」(文録社)と精力的に刊行した。こうした努力が結実して、昭和12年には母子保護法が成立した。

    小学校しか出ていない娼婦が、帰国後、婦人解放運動や社会事業家になるという驚くべき人生であるが、もちろん夫の山田嘉吉の影響が大きいであろう。山田嘉吉(1865-1934)は、明治18年に渡米。皿洗い、農夫、土工、船員、コックなどしながら、勉学に励んだ。わかは嘉吉と結婚したとき「3000冊以上の洋書があった」と回想している。四谷の自宅の地下書庫は書物であふれ、いつも丸善への書籍代の支払いに追われた。山田は語学の天才でほとんどの外国語に通じ、哲学、医学、社会事業にも造詣が深く、すべて書物のみの独学であったらしい。大杉栄も塾生としてフランス語を山田から学んだといわれる。

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明治期牛疫流行と蠣崎予防液

    牛疫とはウィルスによって起こる牛の伝染病で、世界的に牛に最大の損害を与える病気である。これにかかると牛は発熱はもちろん下痢が強く、下痢便にぬかを混入したような消化器粘膜の死滅片が排出され、口粘膜にも牛疫爛斑と称する欠損部ができ、牛の唇の裏側に乳嘴突起が脱落する。

    日本では江戸時代から牛疫の流行に悩まされたが、明治になって安価な朝鮮牛を輸入するようになり、再び牛疫が流行して大害を受けた。明治24年と明治25年に大流行し、朝鮮牛の輸入を禁止した。明治27年、大阪で牛疫が再発し、これより以降、港湾検疫が始まるようになった。明治29年には獣疫予防法が発布された。これを防ぐため、日本で考案されたのが蠣崎予防液である。蠣崎千晴は明治3年5月13日、仙台に生まれ、東京大学農科大学医学部を卒業して農商務省などを勤務し、大正7年から朝鮮総督府獣疫血清製造所の所長として活躍し、朝鮮における家畜の病気の撲滅に貢献した。蠣崎予防液は驚くべき効果を示し、昭和5年第1回十大発明家の一人として選ばれた。このように日本および朝鮮の牧畜を救った偉人であるが、何故か晩年について詳しいことがわからない。広辞苑やコンサイス人名辞典にもその名は収録されていない。ちなみに昭和5年の政府から表彰を贈られた他の9人の発明家は次の人たち。みな著名人として今日でも知られているのに蠣崎千晴について評価されていないのは謎である。

   本多光太郎(1870-1954)KS鋼・新KS鋼、鈴木梅太郎(1874-1943)ビタミンB1・ビタミンA、御木本幸吉(858-1954)養殖真珠、杉本京太(1882-1972)邦文タイプライター、山本忠興(1881-1951)テレビジョン、密田良太郎(水銀避雷器)、島津源蔵(1869-1951)蓄電池、田熊常吉(1872-1953)ボイラー、丹羽保次郎(1893-1975)NE式写真電送機。

岩の坂もらい子殺し事件

   東京のはずれともいえる板橋の岩の坂は、江戸時代には中仙道の宿場町として栄えていた。ところが明治になって鉄道が敷かれるようになり、急速に宿場町は廃れて、街はスラム化していった。関東大震災以後、岩の坂は東京最大のスラム街といわれるようになった。昭和初期、長屋が20棟、木賃宿が10数件あり、約70世帯2000人が住んでいた。

    昭和恐慌は大量の失業者を生み出し、都市に流入した細民(下層の民、貧民)は最底辺の生活を余儀なくされた。昭和5年4月、こうした世相を反映する陰惨な事件が発覚した。「岩の坂もらい子殺し事件」である。ここでは多くの事情があって育てることのできない子をもらい子として養育料と引きかえにもらい受け、うまく成長すれば4,5歳になるともらい乞食や遊芸乞食に、14、15歳になると女は娼妓、男は炭鉱の雑役夫に売り飛ばしたという。ひどいときは事故死にみせかけて殺害した。死んだ子どもは年間で30人はあったという。(参考:「大量失業時代と病める都市」昭和2万日の全記録、講談社)

2008年2月 3日 (日)

泰明小学校の卒業生たち

    銀座の街中、銀座5丁目にある中央区立泰明小学校。創立は明治11年6月。同校の入口には「島崎藤村、北村透谷、幼き日ここに学ぶ」という記念碑がある。関東大震災で焼失後、昭和4年6月、耐震耐火の鉄筋コンクリートで再建された。(施行・銭高組)最新設備の特別室や屋上運動場、電気スチームなどを備えていた。アーチ型の窓など趣のある昭和モダンは、東京の建築遺産に選ばれている。北村透谷、島崎藤村の他にも、近衛文麿、稲山嘉寛、信欣三、池田弥三郎、殿山泰司、矢代静一、加藤武、朝丘雪路、中山千夏、「二人の銀座」の和泉雅子などの著名人が卒業している。

2008年2月 1日 (金)

実在した福の神・仙台四郎

     仙台には、現世の御利益をもたらす「仙台四郎」という変わった神様がいる。坊主頭ででっぷりと太っていて、どてらに縞の半天姿で、両手を組んで座っている。その顔はニコリと笑っている。

    彼の名は、通称「櫓下四郎(やぐらのしたしろう)」と言う。四郎は江戸末期から明治35年頃まで実在した人物で、生家は仙台市一番丁の鉄砲職人の子であった。生来の白痴であったが、四郎が立ち寄る店は必ず繁昌するといわれ花柳界では大もてだった。反対にいくら手まねで呼んでも見向きもしない店は遠からず倒産したり左前になった。こうして四郎は商売繁盛、家内安全、学業成就、無病息災の開運招福の神となった。

    生前一枚だけ撮った写真を明治の終わりか大正の初め頃に、地元の写真館が「福の神」として販売した。そのとき四郎は、土地の名を冠し、「仙台四郎」と命名された。

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2008年1月31日 (木)

姦通罪是非論

    戦前の刑法第183条には「姦通罪」があり、その第1項に「有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ処ス其相姦シタル者亦同シ」と定めている。つまり姦通罪というのは、おもに夫のある女性に適用されるもので、男性が姦通罪の適用を受けるのは北原白秋の桐の花事件のように、相手が夫のある女性の場合だけに限られていた。

    ところが、昭和2年5月17日、大審院長・横田秀雄(1862-1938)は、夫は妻に対して貞操義務を負う、として妻に対して慰謝料・損害賠償を請求する権利を持てるという画期的な判決を下した。

    この裁判が戦われた大正末期から昭和初期にかけて、司法の場だけでなく国民の間でも、女性のみに科する姦通罪の是非を問う議論が盛んになっていた。

    昭和2年7月20日、全関西婦人連合会では、京都帝国大学法学部の滝川幸辰(1891-1962)教授を講師に招聘し、「男女貞操に関する刑法改正法案」講演会を開催した。主催者であった婦人団体は、夫の姦通をも罰することになれば性道徳が向上するという理由から、男女両罰を唱えたが、滝川教授は、現行の刑法は女性に対して著しく不利であるとしながら、罰をもって個人の自由を規制することに異議を唱え、男女ともに姦通罪を廃止すべきだと主張した。滝川はその後「刑法読本」の刊行によって文部大臣の鳩山一郎(1883-1959)の攻撃を受け、「赤化教授」として京大を追われたのは昭和8年のことである。

2008年1月27日 (日)

新しい女・尾竹紅吉

     尾竹紅吉(おたけこうきち、1893-1966)。本来はべによしと読む。本名は尾竹一枝。女流画家。婦人運動家。明治26年、富山市越前町で生まれる。日本画家・尾竹越堂(1868-1931)の長女。本郷菊坂の女子美術学校中退。明治45年1月、青鞜社に入社。「五色の酒事件」「吉原登楼事件」などの騒動を引き起すも、平塚らいてうの寵愛を受け、「青鞜」の表紙を担当する。やがて、平塚に奥村博史という恋人ができると、尾竹と平塚の仲は破綻する。失意の中、青鞜社を退社し、大正3年3月、神近市子、小林哥津らと雑誌「番紅花」(さふらん)を発行する。その雑誌の装丁を富本憲吉(1886-1963)に依頼するうちに、ふたりは恋仲となり、大正3年10月、結婚する。昭和2年、奈良から千歳村(現・世田谷区上祖師谷)に移り、新居と窯を築く。富本一枝という筆名で「解放」「婦人公論」「婦人文芸」「女人芸術」などに評論、随筆を発表。戦後、一枝は憲吉と別れ、大谷藤子の協力で山の木書房を創立し、壺井栄の「柿の木のある家」などを出版する。由起しげ子の執筆を後押しするなど多彩な活動をみせた。のち「暮らしの手帖」に童話を連載した。

2008年1月26日 (土)

帝銀事件と平沢貞通

    昭和23年の今日、1月26日、帝国銀行椎名町支店に午後3時過ぎ、東京都防疫消毒班の腕章をつけた色白いやせ型の初老の男が現れた。男は進駐軍の命令で赤痢の予防薬を飲んでもらうことになったという。まず自分で飲んでみせたあと、行員全員に飲ませた。まもなく、12人が死亡、4人が重体となり、現金16万円と小切手が奪われた。毒物は青酸化合物と判明した。

    当初、警察は毒物の専門知識を持つ者の犯行として、犯人像を旧関東軍の細菌兵器研究部隊(731部隊)関係者に絞り込んでいた。ところが、事件から7ヵ月後、突如捜査方針が転換した。8月22日、テンペラ画家平沢貞通が逮捕された。一旦は犯行を自白したが、公判では否認。物的証拠がなく、毒物の入手経路も判明しないまま、昭和30年に平沢の死刑が確定した。しかし、死刑は執行されず、平沢貞通は昭和62年に95歳で獄死した。遺体は東京大学に献体として運ばれ、脳は薬品処理され、保存された。その後、池田研二(元・東京都精神医学総合研究所精神疾患研究系長)が脳を解析した結果、狂犬病ワクチンによる脳脊髄炎の後遺症と推定される病変を発見した。病変の状態から、認知症にはいたらなかったが、虚言など性格変化を起こすという。

    帝銀事件の死刑囚・平沢貞通の無実はもはや確実なことであるが、事件の真相は依然として謎のままである。占領下の昭和24年、下山事件、三鷹事件、松川事件と三大謀略事件が立て続けに発生している。平沢貞通の冤罪事件もこれらと関連づけて考えることができる。当初、警察は731部隊の犯行と見ていた。もし石井部隊の研究員が逮捕されると、731石井部隊の研究データをアメリカに提供していることや、細菌研究の全容が明るみにでるため、隠蔽工作の指示がGHQから出されたとケペルは推理する。石井部隊の細菌研究者たちが医学界の中心的存在として君臨し、その後、石井部隊出身者が薬害問題をひきおこしていく。帝銀事件の真相の究明は松本清張のミステリー小説からやがて、歴史学の研究対象としても重要になっていく。「戦後はまだ終わっていない」のだ。

2008年1月24日 (木)

青い目の人形

    今から80年ほど前に、日本とアメリカの友好親善のために人形を贈ろうと考えた一人のアメリカ人がいた。その人の名前は、シドニー・L・ギューリック(1860-1945)。

    シドニーは1860年4月10日、父ルーサーが宣教師として働いていたマーシャル諸島のエイボン島で生まれた。1887年9月、シドニーはキャラ・メイ・フィッシャーと結婚。アメリカの伝道組織・アメリカンボードに東洋で働くことを希望し、受け入れられ、結婚式の翌日から世界一周して、明治21年1月1日初来日した。熊本でシドニーはキリスト教の伝道と英語を教えた。大阪、松山、京都などでキリスト教を教えて大正2年帰国した。シドニーが帰国したころのアメリカでは排日の動きが強くなってきた。シドニーはウイルソン大統領に会見して日米の友好に努めるように説いた。大正12年に世界の平和を作っていくためには、子どものころより国際親善の心を育てなくてはいけないと痛感し、世界児童親善会を設立した。アメリカ各地に人形委員会を設置し協力を呼びかけた。各地から贈られた人形は12,739体と言われ、出発のパーティーのあと箱に入れられ、ニューヨークとサンフランシスコに集められて日本に出発した。これらの人形はよく「青い目の人形」といわれる。野口雨情作詞の童謡「♪青い目をしたお人形はアメリカ生れのセルロイド」がすでによく知られていたからであろう。けれども全部が青い目でもなかったし、金髪でもなく、中には男の子の人形もあった。着せられた服も赤十字の看護婦、ガールスカウトの制服、キャンプ・ファイヤー・ガールズの制服、クェーカー教徒の制服とさまざまだった。そして、その返礼として、渋沢栄一を中心に「大和日出子」という答礼人形58体が日本からアメリカへ贈られた。

    しかし昭和16年からの太平洋戦争によって、あれほど歓迎された人形たちも「敵国のスパイ」「仮面の親善使」などと言われて、壊されたり、焼かれた。もし、隠していることが見つかると「アメリカのスパイ」だとか、「非国民」と言われた。シドニーは昭和20年、アイダホ州ボイシーで生涯を終えた。遺骨はボイシーと父の眠るマサチューセッツ州スプリング・フィールド、それから神戸に、3つに分けられて埋葬されている。

2008年1月21日 (月)

嵩山房

    書籍商の小林新兵衛が、荻生徂徠にたのんで言うことには、「わたしどもの店には屋号がございません。どうか先生に私の店に名をつけていただきたく存じます」と。すると、徂徠は笑いながら言った。「本屋でわたしのところに出入りするものは五人いる。そして、おまえの売る書物が値段は一番高い。たとえていえば、あたかも嵩山が五岳の中に最高の山としてあるのにそっくりだ。それで嵩山房と名づけるのがちょうどよい」と言った。(先哲叢談)

2008年1月20日 (日)

国際スターになる!?忠犬ハチ公

    東京帝国大学教授・上野英三郎81872-1925)が念願の秋田犬を手に入れたのは大正13年のことであった。農業土木が専門の上野は関東大震災の復興事業で忙しい日々が続いた。ハチ公と一緒にいる時がやすらぎの時であった。だが過労がたたったのか、上野は大正14年5月、大学の講演中に脳溢血で急逝した。ハチ公は帰らぬ主人を渋谷駅で待ち続けた。この話が朝日新聞に記事として掲載され、「忠犬ハチ公」として全国にその名を知られるようになった。昭和9年4月21日には渋谷駅前に忠犬ハチ公の銅像が完成し、ハチ公本人も参加して盛大な除幕式が挙行された。日本ではあまりにも有名な話であるが、戦後になって映画化はなかった。その理由はおそらく爆弾三勇士と同様に、忠君愛国の思想普及に利用されたからだろう。しかしハチ公の話そのものは事実であるし、国境を越えて感動する美しい話であろう。昭和62年、仲代達矢主演で「ハチ公物語」が漸く映画化され、大ヒットとなった。やはりハチ公のストーリーはいつの時代でも感動することが証明された、と思っていたら、なんとハリウッドがリメイク映画をつくるというニュースを知り、ビックリ仰天。あの「八月の狂詩曲」のリチャード・ギアが犬の主人らしい。タイトルもそのまま「ハチコー・ドッグズ・ストーリー」。映画が世界中で公開されヒツトすれば、あの忠犬ハチ公は国際スターとなり、渋谷駅前の銅像は観光スポットとして外人観光客で賑わうかも。リチャード・ギアさん、頑張ってください、応援しています!監督は「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「サウダー・ハウス・ルール」のラーセ・ハルストレムなので結構、期待がもてる作品だろう。

2008年1月19日 (土)

ナヒモフ号の金塊を探せ

    昭和8年、「対馬沖に沈むロシア軍艦ナヒモフ号の金塊を引き揚げる」と称して投資を勧誘する会社が乱立、新聞広告が載せられ大きな話題となった。だが「一口5円10円の投資が千円の配当に」という甘言にだまされた被害者も続出した。

    アドミラル・ナヒモフ号はバルチック艦隊の装甲巡洋艦で、大量の金塊を積んだまま明治38年5月28日の日本海海戦で沈没し、現在も対馬沖琴崎沖南南東9.6キロのところに沈んでいるという話であった。この引き上げ作業には片岡弓八があたるとあって信用もあり、興味をよんだ。片岡は潜水器を改良して大正13年に海底に沈んでいた八坂丸の時価数十億円の金塊の引き揚げに成功した実績があった。ナヒモフ号金塊引揚げ話はもちろん本気で当てにした者は少なく騒動だけに終わった。ところが、昭和55年9月、日本船舶振興会の笹川良一会長は資金提供を申し出た。日本海洋開発は対馬沖水深93メートルの回収作業を行った。ジノビエフ駐日ソ連大使は外務省にナヒモフ号はソ連の所有であると申し入れをしたが、笹川会長は北方領土と引き換えならナヒモフ号の財宝をソ連に渡してもいいと声明をだした。10月20日、外務省はソ連の所有権を認めないと通知。しかし、ナヒモフ号からはプラチナのインゴッド(長さ29cm、幅8cm、高さ4cm、重さ10キロ)しか発見できなかった。

川上俊彦と三人の男の死

    川上俊彦(1861-1935)は明治・大正期の外交官であるが、その名を知らない方も多いのではないだろうか。ここでは彼と関わりのあった三人の男とその死について述べる。一人目は伊藤博文(1841-1909)明治42年10月26日、暗殺される。二人目は乃木希典(1849-1912)大正元年9月13日、自殺。三人目はアドリフ・ヨッフェ(1883-1927)昭和2年11月16日、自殺。

    明治42年10月26日午前9時、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。列車を降りて各国外交団の前を進もうとした時、安重根(1848-1915)の拳銃から発射した6発のうち3発は伊藤に命中し、随行の川上、森、田中、室田、中村らも流れ弾があたった。伊藤博文は午前10時に絶命し、川上俊彦は重傷であった。

    大正元年9月13日、乃木希典は明治天皇が没すると、妻静子とともに殉死した。川上俊彦は日露戦争の旅順陥落で乃木とステッセルとの水師営での会見のとき、ロシア語通訳をしていた。

    第一次大戦後のシベリア出兵でソ連との基本条約締結に向けた予備交渉を川上は後藤新平から命ぜられた。大正12年2月1日、ソ連のヨッフェが来日した。6月29日から始まった予備交渉はなかなか進まなかった。夏になり、ヨッフェの病状が思わしくなく8月10日に彼は帰国した。川上とヨッフェはその後、二度と会うことはなかった。ヨッフェはその後スターリンの大粛清によって追い込まれて、1927年11月16日、自殺した。

    川上俊彦は水師営の会見、伊藤博文暗殺、ヨッフェ会談など重要事件に遭遇している外交官である。

2008年1月16日 (水)

こんな女に誰がした

    終戦後、上野を「ノガミ」、池袋を「ブクロ」、有楽町を「ラクチョウ」といった。とくに有楽町のガード下は闇の女たち、いわゆるパンパンと呼ばれる売春婦がいた。昭和22年4月、NHKラジオアナウンサーの藤倉修一(当時33歳、1914-2008)は小型マイクをコートの内側にしのばせて、潜入取材をしている。

女の子①「たばこもってない?」

藤倉 「こんなのでいいかな?よっぱらってるね」

女の子①「カストリ(粕取り焼酎)だよ。ピーナッツおごってよ」

藤倉 「はい10円」

女の子②「おじさん、いい男だね。あたしたちと親類だよ。有楽町で顔あわせればみんな親類」

女の子③「おじさん新聞社だろ。おれたち新聞社きらいなんだ。おとしまえとっちゃうぞ」

おねえさん(あねご) 「あたしは戦災でやかれて両親も兄弟もないけど中流以上の子が多いわよ」

    NHK街頭録音「青少年の不良化をどう防ぐか、カード下の娘たち」は、全国に大反響を巻き起こした。手紙やカンパがNHKに寄せられた。しかし「ラクチョウのお時」は放送の翌日姿を消した。

  戦後、戦争未亡人は187万人。中には生活に困り、街頭に立つ道を選んだ戦争未亡人もいた。闇の女は男子大量戦死の結果、将来に希望を見出すことが出来ない社会への無言の抗議でもあった。菊地章子が歌う「星の流れに」の「荒む心でいるのじゃないが、なけて涙も涸れ果てた、こんな女に誰がした」に切実さがよく表現されている。

  パンパンのスタイルはアメリカ軍から放出された布地によるタイトスカートをはき、ネッカチーフを身につけ、オキシフルで髪を茶色に染め、爪を赤く塗り、「ラッキーストライク」「キャラメル」を吸う。「パンパン」の語源については定説はない。現代用語の基礎知識の創刊号(昭和23年版)に次のようにある。

「終戦後の流行語だが、海軍復員者はみんな戦争中から使っていた。

語源1.軍港に碇泊し上陸許可が出て早速慰安街に駆けつけるが、もうあたりは寝しずまっている。こら起きろ、と表戸をパンパンと叩いて女を起こした。その戸を叩く音から出たという。

語源2.仏印のある街で、食料不足から物乞いが氾濫していた。上陸した日本兵を見ると、若い女たちが手をさしのべて「パン、パン」と哀願した。パンは彼女等にとっては麺麭であった。ちょうど終戦後の日本娘も、パンのためにこれと全く同じような哀願を米兵に示したのと同様である。転じて米人や中国人にゴマをすってボロ儲けする男をパンパンボーイなどという」

   いずれにしても、戦争中からの軍隊用語で海軍の兵隊が使っていた卑語らしい。マレー沖海戦で撃沈したイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズには40mm8連装のポムポム砲を搭載していた。このポムポム砲はピストン運動をすることから、ポムポムが売春婦を意味する卑語となり、パンパンに転化したという新説もある。

   「広辞苑 第3版」では「(原語不詳)第二次大戦後の日本で、街娼・売春婦のことを指した」とあるが、新しくでた第6版では「第二次大戦後の日本で、主に進駐軍を相手とした街娼・売春婦のことを指した」と修正している。(修正はすでに第4版か第5版でなされたのかもしれない)

   「第二次大戦後」とあるが、実際は戦時中から軍人が使用していた言葉であることは当時の人の証言から明らかである。また、米軍あるいは進駐軍を相手に特定した言葉ではなく、日本軍人がアジアの女性に対しての呼称であるので、広辞苑の修正は改悪といわざるを得ない。パンパンという言葉は日帝アジア侵略の加害者であった証拠であり、それを被害者としての面のみを強調することは、辞書の編集者としての見識が問われることになるであろう。

2008年1月15日 (火)

戦場は星空の彼方に

    相馬翠(1911-2003)は医学校を卒業し、将来は女医をめざしていた。昭和9年、泉正雄と結婚し、神奈川県二宮町に住んだ。昭和19年に夫は出征し、その後、シベリアで抑留生活を送る。昭和22年1月4日、樺太からの引揚者1013人を乗せた間宮丸が函館港に入港。ソ連からも2500余人が舞鶴に入港するという知らせがあった。

      昭和22年1月5日

「第ニ船が明後7日に入港する」と、今ラジオが言いました。これに乗っていて下さいますように、そしたら半ばごろには帰宅できますものね。ナホトカに残っていたら大変だと心配する。零下60度とか。ペチカが焚けないとか聞いたが、生きていられなくなりはしないかと限りなく心配になる。どうかお元気であって下さい。妻子母が待っていますよ。(相馬翠著「戦場は星空の彼方に」毎日新聞社)

   泉正雄はこの年の5月に無事に帰国し、のち知足寺の住職となる。神奈川県二宮の浄土宗知足寺は、正式名・塩海山花月院知足寺といい、曽我兄弟の墓で知られる(ただし曽我兄弟の墓の所在地は全国に14ヵ所あるという)。この墓は当時の浩宮殿下も参詣したこともある。

2008年1月14日 (月)

有馬新七と寺田屋事件

    NHK大河ドラマ「篤姫」第2回「桜島の誓い」で薩摩を舞台とした主要な人物がほぼ登場した。薩摩の若い下級藩士たち、西郷吉之助(小澤征悦)、大久保正助(原田泰造)、有馬新七(的場浩司)。幕末における討幕運動で薩摩藩の彼らが今後どのような活躍をしていくのか注目していきたい。だが、薩摩が挙藩一致して討幕に向かうのは慶応2年正月の薩長盟約成ってのことで、それまでの薩摩は島津久光(山口祐一郎)が介在していため、有馬のような急進の尊王攘夷派は行動を制約されて苦労した。有馬新七(1825-1862)は、このような藩内事情の最大の犠牲者であった。

    文久2年4月23日、有馬は真木保臣、田中河内介ら藩内急進派を率いて京都所司代の襲撃を策して京都伏見の寺田屋に集結したが、久光派遣の鎮撫使奈良原喜八郎と衝突して乱戦。新七は討手の道島五郎兵衛と戦ううち刀折れ、素手で道島を壁に押さえつけ「オイこど刺せ」と絶叫、同志橋口吉之丞の突き刺す太刀で新七、道島ともにクシ刺しとなる。他に同志8人闘死または後日自害。享年37歳。

不正牛乳事件

    子どもの頃、隣が牛乳屋だった。ガチャガチャガチャ、牛乳びんがぶっかる音で目がさめた。昭和30年代までは映画「ダニー・ケイの牛乳屋」「牛乳屋フランキー」のように、町の牛乳屋さんは人気者だった。

    日本で牛鍋や牛乳の飲食をする習慣は明治の文明開化によってであることは、知られている。それまで牛乳の飲食の習慣がなかったのは、仏教の教えに起因するものであろう。そして牛乳屋は文明開化の新商売となり、禄を失った士族の転換事業となった。前田留吉は明治3年に東京で牧場を開設して牛乳の販売を開始した。(吉幾三の歌「おらぁ東京でベコ飼うだ♪」は本当の話だった)前田留吉以外に、この時期、中川嘉兵衛(1817-1897)、下岡蓮杖(1823-1914)なども牛乳製造を試みている。

    明治初期の牛乳は殺菌をしていないので衛生状態は悪い。森鴎外は「東京市中ニ販売セル牛乳中ノ牛糞ニ就イテ」という論文を明治25年に発表している。牛乳から牛糞の大腸菌が検出されたのだ。明治33年には愛光舎(角倉賀造)がアメリカで殺菌法を学び牛乳の蒸留殺菌を行い「減菌牛乳」を販売した。このころはあたたかいままの生乳で配達していた。大正の終わりから、低温殺菌が導入された。昭和2年5月、東京で腐敗した牛乳販売事件が起こり、社会問題となった。炭疽病にかかった牛からの乳が原因であった。この騒動で東京の牛乳の消費量は半分に減り、3分の1の業者が転廃業した。不正牛乳事件は、公衆衛生関係者の汚職にまで発展して、乳牛界は大資本への統合を促すことになった。

   昭和2年10月「牛乳業取締規則施行細則」(翌年施行)により牛乳の殺菌処理が法律で義務づけられ、牛乳は冷やして配達されるようになった。

戦争の後始末

    昭和41年11月の9日と14日、相次いで旧海軍軍人(元・連合艦隊司令長官)が亡くなっている。14日は第20代連合艦隊司令長官・吉田善吾(1885-1966)、9日は第24代・小沢治三郎(1886-1966)である。それぞれの在任期間、吉田は日独伊三国同盟問題、小沢はポツダム宣言受諾という重大な政局に連合艦隊司令長官を任せられたのである。

    吉田善吾が就任した昭和12年12月、当時52歳という異例の若さでの抜擢であった。その後、昭和14年8月に海軍大臣に就任する。吉田の方針は、日独伊三国同盟に反対、対米戦争反対という前任の米内光政と同じであった。だが、吉田は海相として一人で仕事を背負い込み、病に倒れた。後任の海軍大臣・及川古志郎(1883-1958)は同盟に同意し、日本は戦争への一歩を踏み出すことになる。

    昭和20年8月、ポツダム宣言受諾が問題になっていたころ、大西瀧治郎は小沢に面会し、徹底抗戦を主張したが、小沢は「いまさら抗戦を説いて何になる」と言った。その1週間後、大西は割腹自決した。寺岡謹平中将は小沢を訪ねて、「君、死んじゃいけないよ。昨日宇垣纏は沖縄に飛び込だ、大西は腹を切った。みんな死んでいく。これでは誰が戦争の後始末をするんだ」と言った。

    吉田善吾も小沢治三郎も戦後かなり長く生きた。自決しなかった二人の長官は自らの責任を強く感じながら、生きて責任をとったのだ。吉田善吾、享年81歳。小沢治三郎、享年80歳。

2008年1月13日 (日)

軽巡洋艦「神通」艦長・水城圭次

    水城圭次(みずしろけいじ、1883-1927)は、長野県出身、海軍大佐。軽巡洋艦「神通」の艦長。   

    大正10年のワシントン条約により、日本の海軍軍艦保有量が米・英の五に対して三に抑えられた。このハンディを猛訓練で補おうと、台風が近づく中、夜間演習を行っていた。昭和2年8月24日、島根県美保関沖で軽巡洋艦「神通」(水城圭次艦長)と駆逐艦「蕨」(五十嵐恵艦長)と衝突、「蕨」は火災をおこして船体が二つに折れ沈没、「神通」も艦首を大破した。駆逐艦「葦」も巡洋艦「那珂」と衝突し、両艦とも大破した。この海難事故(美保関事件)で「蕨」が92名、「葦」が27名の死者が出た。「蕨」の艦長は死亡したため、事故後の査問に対して、「神通」艦長・水城が、119名の犠牲者を出した事故の責任すべてを一身に背負うことになった。軍法会議の判決の出る前日、12月26日、水城は自宅で自決した。過重な訓練を課した連合艦隊司令長官・加藤寛治(1870-1939)や参謀への責任を問うことはなかった。その後「神通」は船首をクリッパー型に代えて、太平洋戦争中で活躍したことがせめてもの救いであった。

2008年1月11日 (金)

大西瀧治郎と城英一郎

  大西瀧治郎(1891-1945)は海軍の航空力強化の推進力として活躍した海軍軍人。源田実らと協力して真珠湾攻撃計画を作成したことでも知られる。またコンサイス日本人名事典にも「レイテ海戦にさいし、特別攻撃を発案、指揮した」と明記され、「特攻の生みの親」「特攻の父」としても知られている。しかし近年の情報によると、大西は「搭乗員が100%死亡する攻撃方法は未だ採用する時期ではない」としりぞけたとも言われ、積極的な推進者であったかどうか疑問がもたれている。大西イコール「特攻の父」というイメージはどうしてできあがったのか、あるいはフィクションの映画による影響が多少はあるのかも知れない。

   東宝や東映ではオールスターキャストで戦争映画が多数作られている。実録物で実名の軍人が多数登場する。映画は未見であるが2本の映画は、大西瀧治郎の描き方が対照的だそうだ。東宝の「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督)と東映の「ああ決戦航空隊」(山下耕作監督)である。原作はそれぞれ大宅壮一と草柳大蔵。「日本のいちばん長い日」は8月15日を前後を克明に描いた名作として知られるが、大西瀧治郎(ニ本柳寛)、小園安名(田崎潤)ら悪役俳優を起用している。他方の「ああ決戦航空隊」は、大西瀧治郎(鶴田浩二)、小園安名(菅原文太)という大スターを当てているので、その人物の描きかたは東宝作品とは大きく異なる。近年、実質的、特攻の立案者として城英一郎(1899-1944)の名前が挙げられている。城は航空母艦千代田の艦長として、昭和19年10月にレイテ沖海戦で戦死している。東映の「ああ決戦航空隊」では城英一郎は松方弘樹が演じている。どのような描き方なのか未見なのでなんともいえないが、その他のキャスティングをみるだけで驚かされる。児玉誉士夫(小林旭)、関行男(北大路欣也)、玉井浅一(梅宮辰夫)などなど。ロッキード事件発覚は昭和51年なのでこの映画が公開された2年後であった。とにかく、児玉機関と大西瀧治郎の関係も当然のこと描いてあるわけでとても気になる映画である。「日本のいちばん長い日」が歴史の真実に近くて、「ああ決戦航空隊」が戦争を美化している、という通り型どおりの見方では歴史的事実を見誤ることになりかねない。

米穀通帳と戦中戦後の配給事情

    昭和12年に始まった日中戦争の長期化は、生活必需物資の不足と物価の高騰をもたらした。政府は国家総動員法に基づく経済統制に踏み切り、昭和14年には、9・18停止令により、国内のすべての価格が昭和14年9月18日の水準に抑えられた。しかし、価格と消費を一方的に抑えたため闇取引が横行し、闇物価も高騰した。そこで、すでに綿糸配給統制で実施した切符制を昭和15年6月に砂糖とマッチをはじめとして、昭和16年4月には米穀、小麦粉、昭和17年には味噌、醤油など生活必需物資に次々と適用した。

   米の配給には家庭用米穀通帳を年1回発行し、これより各家庭の割当て量は、大人1人1日当り2合3勺(330グラム)とされた。これは通常の大人の消費量を約2割も下回っていた。国民は指定された日時に自治会や隣組の配給所に取りに行く。配給といっても、お金を払って行列買いするのである。しかし、昭和18年以降は、配給量自体が不足しはじめ、国民は闇物資をもとめて買い出しにいかざるをえなかった。主食の米の配給量は、昭和20年5月までは1人1日2合5勺は一応不変であったそうだが、戦後は2合1勺となり、欠配が何日も続いた。東京地裁の判事・山口良忠が配給食糧のみで生活していたため、栄養失調で死んだのは昭和22年10月11日のことである。その後、2合5勺の配給基準は昭和24年まで続いた。食糧管理法は戦後も長らく存続し、米穀通帳がないとお米が買えない時代は続いた。お米は布の袋と米穀通帳を持って米屋で印鑑をもらって量り売りで買うというのが普通である。次第に食生活の変化の影響で米が余るようになり、食糧管理法が改正され、米穀通帳が廃止されたのは昭和57年のことである。

2008年1月10日 (木)

司馬遼太郎の俯瞰的歴史観察

    司馬遼太郎の幕末を取り扱った小説をざっと数えてみたら14タイトルある。(洩れがあるだろうが…)「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「新選組血風録」「「世に棲む日日」「翔ぶが如く」「幕末」「人斬り以蔵」「「アームストロング砲」「俄・浪華遊侠伝」「大坂侍」「慶長長崎事件」「王城の護衛者」「最後の将軍」「十一番目の志士」。

   この中で「幕末」は、有村治左衛門(「桜田門外の変」)、清河八郎(「奇妙なり八郎」)、陸奥陽之介(「花屋町の襲撃」)、大庭恭平(「猿ヶ辻の血闘」)、間崎馬之助(「冷泉斬り」)、浦啓輔(「祇園囃子」)、吉田東洋((「土佐の夜雨」)、桂小五郎(「逃げの小五郎」)、伊藤俊輔(「死んでも死ぬな」、寺沢新太郎(「顕義隊胸算用」)、田中顕助(「浪華城焼打」)、市川精一郎(「最後の攘夷志士」)12の暗殺事件を背景にした暗殺者の列伝である。

   この暗殺者の中に我が国の初代内閣総理大臣・伊藤博文(1841-1909)がいることに注目したい。伊藤博文は維新前を俊輔といい、桂小五郎に従って尊王攘夷運動に挺身し、文久2年には、高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多らと品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加した。文久3年1月13日、高槻藩士・宇野東桜を高杉晋作、伊藤俊輔、井上聞多、白井小助らが暗殺したとされる。同年、伊藤は山尾庸三とともに国学者・塙次郎、加藤甲次郎も暗殺している。

   「幕末」で司馬良太郎は次のように書いている。「暗殺という政治行為は、史上前進的な結果を生んだことは絶無といっていいが、桜田門外の変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。」「書き終わって、暗殺者という者が歴史に寄与したかどうかを考えてみた。ない。ただ、桜田門外の変だけは、歴史を躍進させた、という点で例外である。これは世界史的にみてもめずらしい例外である。その後、幕末に盛行した佐幕人、開国主義者に対する暗殺は、すべてこれに影響された亜流である。暗殺者の質も低下した。桜田門外の暗殺者群には、昂揚した詩精神があったが、亜流が亜流をかさねてゆくにしたがい、一種職業化し、功名心の対象になった」とある。司馬遼太郎は有村治左衛門の暗殺行為は「歴史を躍進させた」と評価し、伊藤博文の暗殺事件は功名心としてことになる。伊藤博文や井上馨などは小説に度々登場するが遺族には誠に気の毒なほどの記述であろう。これはあくまで小説である。しかしながら「幕末」は同時代を扱った「新選組血風録」のように架空人物も登場しないし、ほとんど歴史記述のスタイルをとっている。本来なら歴史読物とするところをなせ「小説風に」書いたのか、司馬は次のように述べている。「幕末の暗殺は、政治現象である。政治情勢から出てきている。主人公はあくまで政治思想であって、歴史を書くばあいならばその政治情勢と思想に紙数を9割ついやさねばならぬであろう。が、それは、歴史に興味のない読者にとっては、月遅れの新聞の政治面を読むよりも無味乾燥である。なるべくそれを端折り、人間と事件にはなしの中心をおろした。歴史書ではないから、数説ある事情は、筆者がねこのほうがより真実で語りやすいと思う説をとりねそれによって書いた。だから、小説である。」

    司馬遼太郎には「これは余談だが」とことわって、本筋とは離れた話柄を裁ち入れることがある。司馬ファンにはこれがたまらない魅力の一つであろう。人気のある歴史の高校教師は雑談やエピソードをたくみに取り入れる。それでいて受験に必要な事項は漏らさない、というのと似ている。司馬には、過去の人物と出来事、歴史の動くありさまを俯瞰的に観察しながら、生き生きと描きだす文才のあった作家だった。

2008年1月 6日 (日)

軍人の自決

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。

    8月15日の敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。軍人の主な自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

2008年1月 4日 (金)

連合艦隊旗艦「三笠」

   戦艦「三笠」は、日清戦争後、ロシアに対抗するために日本が軍拡をすすめる明治32年1月24日、イギリスのヴィッカーズ社バロー・イン・ファーネス造船所で起工し、明治33年11月8日、進水。明治36年3月1日、竣工、5月18日、横須賀に到着した。三笠は連合艦隊旗艦となり、明治37年2月からの日露戦争に加わり、8月黄海海戦に参加する。12月、呉に入港して修理の後、明治38年2月14日呉を出港、江田島・佐世保経由で21日朝鮮半島の鎮海湾に進出した。以後同地を拠点に対馬海峡で訓練を行い、5月27日・28日には日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦、勝利を収め、世界にその名を轟かせるとともに、日本にとって日露戦争の勝利の象徴的存在になった。

   だが三笠は日本海海戦ですべての運を使い果たしてしまったようであった。海戦から僅か4ヵ月後の9月11日深夜、佐世保港に碇泊中だった三笠は謎の爆沈を遂げた。死者と行方不明339名、重軽傷者200余名を出した。東郷平八郎は、前日の昼に上京の途についていたため無事であった。海軍省は9月15日に、三笠変災査問委員会を組織して、爆沈事故への詳細調査を行ったが、原因は謎のままに終わった。

    明治39年8月、三笠は浮揚され、1年8ヵ月にわたる修理の末に復旧したが、その後も、一等海防鑑に転籍直後の大正10年9月16日、ウラジオストック近くのアスコルド海峡で座礁するなどの災厄に見舞われている。

   この年、ワシントンで開かれた海軍軍縮会議で三笠は廃艦になることが決まったが、朝野をあげての要望によって記念鑑として保存されることになり、現在も横須賀市の三笠公園に往時の姿をとどめている。

2008年1月 2日 (水)

ドンケツ指揮官・木村昌福

   木村昌福(1891-1960)は大正2年12月、海軍兵学校を卒業。成績順位は118人中第107番という下位成績である。身長は180センチもあり、髯をはやし、柔道で鍛えた猛者であった。

    昭和18年にビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後は第一水雷戦隊司令官に着任した。昭和18年5月12日、アメリカ軍は大挙してアリューシャン列島のアッツ島に上陸し、山崎保代大佐以下2500名の同島守備隊は奮闘むなしく玉砕した。これにより、キスカ島にいる守備隊5200名は完全に孤立してしまった。幌筵に停泊する重巡「那智」の司令長官・河瀬四郎中将はキスカ撤退作戦を「ドンケツ」の木村昌福少将にその任務を与えた。

    霧発生の予報を得た旗艦「阿武隈」、「木曾」、「多摩」は、7月7日、幌筵を出港した。しかし、10日になると霧が消えてしまった。14日になっても霧が出ない。阿武隈に後続していた木曾や駆逐艦は、霧がなにくてもキスカに突入すべきだと訴えてきた。阿武隈艦橋では参謀たちが、木村司令官に突入を進言した。木村は決断した。引き返すのだ。「帰れば、また来ることができる」一水隊は幌筵に帰還した。司令部や大本営では、この決断に「木村は臆病者だ」と非難が集中した。しかし、幌筵に戻った木村は、霧が出るのを待つ、といって碁を打ったり、釣りをしたりの毎日だ。しかし22日、霧発生の気象予報が届いた。その日の夜、一水隊は出港した。そして7月29日、農霧につつまれたキスカ島に艦隊が入港した。5200名の将兵は、わずか1時間足らずで全員艦隊に収容された。彼らは万感の想いでキスカ島に別れを告げ、7月31日から8月1日にかけて無事に幌筵に帰投した。「キスカの奇跡」といわれる撤収作戦が成功した要因には連合艦隊司令部からの催促や非難にも動ぜず、平然とした態度で好機を待つという「ドンケツ」の指揮官・木村昌福の冷静な判断によるところが大きい。彼はこの作戦の成功により、昭和天皇に拝謁する栄誉を受けた。

2007年12月31日 (月)

大江戸の春

鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春  (其角)

    江戸では元旦からが春である。春とともに新年を迎えて、江戸では七日までが松の内。この間は家の掃除を行わないが、それは箒で幸福をはき出したりしないため。七日まで手足の爪を切らないのも理由は同じ。

    「一年の計は元旦にあり」というように、元旦は心身ともに改まって屠蘇を飲み、雑煮を食べる。新年の行事としては、元旦の恵方(えほう)参り。初日の出。若水汲み。年賀の回礼。二日は初夢。初商い。三日は芸事初め。

    「恵方参り」とは、その年に歳徳神(としとくじん)が来る方角が恵方で、その方角にある神社仏閣に元旦未明に参詣する。今の初詣の原型がみられる。初日の出は江戸の東端、洲崎が有名であった。

2007年12月28日 (金)

徳川家の正室

    来年のNHK大河ドラマ「篤姫」がいよいよ始まる。ところで徳川十五代将軍の正室の名前をすべていえる人は相当な歴史マニアだろう。ケペルは、まず徳川家康の正室でつまずく。築山殿(1542?-1570)と朝日姫(1543-1590)である。秀忠は崇源院お江与(1573-1626)、家光は本理院鷹司孝子(1602-1674)、家綱は高厳院浅宮顕子(1651-1676)、綱吉は浄光院鷹司信子(1651-1709)、家宣は天英院近衛熙子(1660-1741)、家継は7歳で夭折、吉宗は寛徳院真宮理子(1891-1710)、家重は証明院比宮増子(1771-1733)、家治は心観音院五十宮倫子(1738-1771)、家斎は広大院近衛寔子(1773-1844)、家慶は楽宮喬子(1795-1840)、家定は天親院鷹司任子(1823-1843)、澄心院一条秀子、天璋院篤姫(1836-1883)、家茂は静寛院和宮(1846-1877)、慶喜は貞粛院一条美賀子(1835-1894)である。

    今回の宮崎あおい演じる「篤姫」は、NHK大河ドラマ史上、徳川家将軍の正室を主人公にするのは初めてということになる。民放では佐久間良子が「天璋院篤姫」(ANB、1985)を演じている。大河では、過去に富司純子(「翔ぶが如く」90)、深津絵里(「徳川慶喜」98)が篤姫を演じている。堀北真希が演じる「和宮」は大河ドラマでは、小橋めぐみ(「徳川慶喜」98)に次いで二度目となる。ちなみに徳川慶喜の正室・美賀は石田ひかり(「徳川慶喜」98)が演じた。「篤姫」で誰が演じるかは不明。

2007年12月27日 (木)

海軍兵学校

    海軍兵学校は、明治から太平洋戦争終戦まで存続した海軍将校の養成を目的とした教育機関である。海軍は、本質的に、技術の上に成立している集団であり、軍艦の行動、大砲の発射、どれを取っても技術無くしては無し得ない。ここが最後は白兵突撃のある陸軍との本質的な違いである。このために海軍は士官ばかりでなく、水兵にも高度の教育を要求し、その教育には大きく力を入れた。

    経済学者の小泉信三(1888-1966)は、海軍主計中尉として築地の海軍経理学校に入った息子の信吉と雑談をした。制服の海軍士官は、雨の日でも傘をさすことを許されていない。信三は「もし外出中に俄雨にあったらどうするのか」と訊ねた。信吉中尉が海軍で教えられたのは、「ゆっくり濡れて来い」。信三も「うんそうか。そいつはいい」と感心した。海軍は英国流のダンディズムの作法がなかなかいきとどいていて立派だった。海軍で出世するには、成績優秀で海軍兵学校を卒業しなければならなかった。戦前、成績優秀な若者の憧れが海軍であり、その中の少数のエリートが指揮官となった。ではその優秀な日本海軍がなぜ負けたのか。

   一般にはよく日本海軍は最善を尽くして戦ったが、大規模な工業力に基づくアメリカの物量作戦の前に敗れた、といわれている。しかし、敗因は工業力だけでなく、作戦にも大きな欠陥があった。とくに日露戦争における日本海海戦の完勝が、敵味方の艦隊同士が砲火を交え勝敗を決定するという艦隊決戦思想に固執しすぎた。明治末期に秋山真之が作った「海軍要務令」が太平洋戦争中まで幹部将校のバイブルであった。戦艦中心の大艦巨砲主義は一貫して変わらなかった。

    飛行機技術者がこんなことを言っている。「翼がもがれた零戦に、エンジンのこわれた零戦の翼をつぎ足して補修しようとしたら、ボルトの穴が合わない。結局、二機とも壊れたままほったらかしていた。ところが、墜落したB29の翼で実験すると、別々の飛行機の部品が、寸分の狂いもなく合った」ボルト・ナットの精密度は機械製作組立ての基本である。その種の総合した技術力の日米間での差は歴然としていたのである。(参考:阿川弘之「海軍こぼれ話」)

2007年12月23日 (日)

土佐宿毛人脈

    吉田茂の実父・竹内綱(1841-1922)は、天保10年、土佐国宿毛に生まれる。竹内家は土佐藩主山内家に仕える伊賀家の家臣であった。大江卓の父・斎原弘も伊賀家の家臣であった。大江卓(1847-1921)は幼名を斎原治一郎といい、弘化4年、柏島で生まれたが、嘉永6年、父が宿毛に帰るに従い、宿毛で成人している。つまり竹内綱と大江卓とは自由民権の人脈でつながっている。明治の自由民権思想家・中江兆民(1847-1901)の娘・千美は竹内綱三男・虎治の妻である。

    高知県宿毛市は人口3万人ほどの小都市であるが、なぜか明治以来多数の逸材がでている。政治家でいえば、総理大臣と5人大臣がいる。吉田茂(1878-1967)は戦後外相を経て、吉田内閣を5度組織し、日本の復興に大きな役割を果たした。岩村通俊(農商務大臣、1840-1915)、林有造(通信大臣・農商大臣、1842-1921)、岩村通世(司法大臣、1883-1965)、林譲治(厚生大臣、1889-1960)である。

    このほか、岩村三兄弟の一人、岩村高俊(1845-1906)などの政治家、小野梓(1852-1886)などの法学者、竹内明太郎(1860-1928)などの実業家など多くの人物がでている。

2007年12月17日 (月)

坂下門外の変と大橋訥庵

   2008年の大河ドラマ「篤姫」。宮崎あおい演ずる篤姫(1835-1883)は、第13代将軍家定(堺雅人)に嫁したが、家定は病弱のため約1年半後に亡くなる。篤姫はわずか23歳で落飾して「天璋院」と称した。ドラマの前半の山場はやはり孝明天皇の妹・和宮(堀北真希)の降嫁問題が中心となるだろう。和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約が成立していたが、井伊直弼により関東降嫁が計画され、桜田門外の変でしばらく中断ののち、公武合体政策の犠牲となって江戸へ下向。文久2年2月、第14代将軍徳川家茂(松田翔太)と婚儀の式をあげた。老中安藤信正(1819-1871)は尊攘派に非難され、江戸城坂下門外で水戸藩を脱藩した浪士らに襲われ傷つき、同年4月老中を辞した。

    この坂下門外の変の首謀者として知られる攘夷派の儒学者が大橋訥庵(1816-1862)である。安藤を襲撃した者の懐には、次のような内容の斬奸状が入っていた。「安藤信正は、和宮を人質とし、通商条約の勅許を獲得しようとするだけにとどまらず、孝明天皇を退位に追い込もうと策謀を巡らしている」この斬奸状を起草したのが大橋朴庵である。だが、大橋自身は、事件の黒幕として吟味を受けたが、証拠不十分により釈放され、身柄を宇都宮藩に移されたのち、幽閉中に病没した。享年46歳。

    ちなみに大河ドラマの和宮は、「翔ぶが如く」(平成2年)では鈴木京香、「徳川慶喜」(平成10年)では小橋めぐみが演じている。つまり「篤姫」(平成20年)の堀北真希は第三の和宮となる。

2007年12月16日 (日)

白木屋ズロース伝説

    今日は何の日。75年前の昭和7年12月16日、新装なったばかりの東京・日本橋のデパート白木屋(現・東急百貨店)の4階玩具売り場のクリスマス・ツリーの電飾から出火した火災は、死者14人、重軽傷者百数十人を出す大惨事となった。わが国初の高層ビル火災(当時、白木屋は8階建て)であった。

    「当時の女性はズロースをはいていなかったため、裾の乱れを気にして犠牲者を増やした」という噂が巷間まことしやかに伝えられ、日本女性がズロースをはくようになったのは、この火事の教訓から始まったとする「白木屋ズロース伝説」が生まれた。

    この説に対して、高倉テル(1891-1986)は『女はなぜズロースをはくか』という本を書いて反論した。高倉は、大正中期から職場に進出した女性たちが、手縫いのパンツをはきはじめたことをあげ、ズロースは銀座から普及したものではなく、工場や女性の職場から生まれたと主張している。

   当時の新聞には「外出にはズロースを」という女性のズロース着用を促す論調の記事が見られるものの、白木屋火災の後に目だってズロースを着用する女性が増えたという事実は見られない。一般に日本女性がパンツをはくようになったのは、戦後からといわれている。

2007年12月13日 (木)

南朝の忠臣・児島高徳

    児島高徳(生没年不詳)の実在性には疑問はあるが、備前の人、本姓は三宅、備前守範長の子といわれる。

    後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、児島高徳は舟坂山や杉坂で救出しようと企てたが果たせず、せめて自分の覚悟なりともお知らせしたいと美作院庄の宿所に潜入して、庭の桜の大木の皮を削って詩句を書きつけた。

天勾践を空しゅうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず。

(天よ、どうか後醍醐天皇をお見捨てなきよう。天皇も范蠡のような忠臣がここにおりますことをお信じ下さい)

   翌朝、警護の武士たちが見つけて騒いでいたが、天皇はその意味がお分かりで、快げにお笑いになったという。

    児島高徳は、天皇が隠岐を脱出して船上山で旗を揚げると、一族を率いて馳せ参じ、千草忠顕や新田義貞に属して各地に転戦した。正平7年、兵を集めて入洛を企てたが、失敗した。戦いに敗れて剃髪し、志淳と称したというがその後の消息は分からない。

2007年12月12日 (水)

大江卓の政府転覆計画

    大江卓(1847-1921)は、慶応3年末、土佐藩の陸援隊に加盟し、高野山挙兵に参加する。維新後は、明治政府に出仕し、神奈川県令在任中に、中国人を奴隷として売買していたペルー国汽船マリア・ルーズ号が横浜に寄港したおり、その不法を摘発し、その名を高めた。明治7年大蔵省に出仕したが、翌年退官したのち、西南戦争に際し反政府蜂起を図った。

    明治10年3月24日、大阪で土佐派の会合が行われた席上、林有造らは、兵器を購入したうえで決起すべきだと主張した。だが、大江卓は「のんべんだらりと鉄砲がそろうのを待っているべきではない」と反論する。そして、「まずは兵器は揃う。そのうえで決起して大阪城を奪い取るべきだ。現在、数百名の兵士が大阪城を警備しているだけにすぎず、攻略することは簡単なこと」と、早期決起を訴えた。「いよいよの場合、我が敵は本能寺に在り、敵は備中にあり、汝よく之に備えよの秘略を学んで、一挙して大阪城を奪はなければならぬ」(「大江天也伝」)

   だが、大江による早期決起の主張は通らず、兵器の手配が遅れ、しかも土佐派の重鎮である板垣退助や後藤象二郎らが決起をためらっているうちに、西郷隆盛の敗色が濃厚となりつつあった。そのため、大江卓の政府転覆計画は未遂に終わった。大江は禁固10年の刑に処せられた。出獄後は、衆議院議員として活躍するとともに、実業家としても成功した。

2007年12月 8日 (土)

津田三蔵、西南戦争のトラウマ

    明治24年5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ロマノフ(1868-1918)が滋賀県大津市で警備の巡査・津田三蔵(1854-1891)に襲撃され負傷した。いわゆる大津事件(湖南事件ともいう)である。どうしてこのような大事件が発生したのか、津田の動機が実際のところあまりわからなかった。ところが、近年、津田三蔵の自筆書簡53通が三重県上野市の個人宅から発見された。

    津田三蔵は安政元年12月29日、上野の津藩士の子として生れた。西南戦争に従軍し負傷したが、少なからぬ功績があったようで勲七等を授与されている。当時22歳の青年だった津田にとって西南戦争の記憶は1