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2020年1月27日 (月)

実朝暗殺の謎

Photo   源実朝の右大臣拝賀式は承久元年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた。早咲きの梅の花を見て、「出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠んだ。辞世の歌のような悲しいひびきがある。その儀式の夜、日暮れから降りはじめた雪はしんしんと積もった。実朝が雪の石段を下りたところ、頼家の遺児の公暁はイチョウの木の陰から突然おどり出して、将軍実朝を殺し、太刀持ちの源仲章も斬り伏せた。公暁は実朝暗殺のあと、三浦義村を頼ったが、義村に裏切られ、長尾定景に謀殺されてしまった。将軍実朝は30歳に満たない若い命を散らし、公暁も死に、ここに源氏の嫡流は絶えてしまったのである。

   鶴岡八幡宮の石段わきには「公暁の隠れ銀杏」といわれるイチョウの大木がある。高さ約30m、周囲6.8m、樹齢800年以上ともいわれている。ところが2010年3月夜の強風のため、この大木が倒れてしまった。樹齢800年であれば、公暁が隠れたイチョウの木はこれ以前の木かもしれない。それにしても「公暁の隠れ銀杏」の話は江戸時代以降に見られることで、慈円の「愚管抄」などの鎌倉時代の文献には、イチョウのことは一つも書かれていない。このことから史実ではなさそうだ。

    この実朝暗殺が、公暁一人の計画でなかったことはほぼ推察できる。しかし、これが北条義時の陰謀であるのか、あるいは三浦義村が暗殺計画の黒幕であるのか(永井路子の小説『炎環』)、さまざまな憶測は可能であるが、その真相はいまだに歴史上の謎につつまれている。

2020年1月21日 (火)

蒲生氏郷

蒲生氏郷。父は蒲生賢秀、母は後藤但馬守の女。弘治2年、近江国蒲生郡日野城に生まれる。はじめ賦秀、のちに氏郷と改名、大坂で洗礼を受けレオンと称した。主家の六角氏が内紛により力を弱めた永禄11年、父賢秀は、織田信長と結ぶため、氏郷を人質として岐阜に差し出した。そこで元服し賦秀と名乗り、信長の近習となった。翌12年、伊勢出陣に従い武功をあげ、信長の女冬姫を室とし、以後、父賢秀とともに、織田軍の中核として各地を転戦した。天正10年の本能寺の変では、安土城を退去した信長の家族を日野城に迎え、明智光秀の襲来に備えた。同11年に羽柴秀吉と結び、秀吉と敵対する滝川一益の亀山城などを攻め、その功ににより亀山城を与えられた。翌12年には伊勢12万石を与えられ、松ヶ島城主、同16年、正四位下近衛少将となり、新たに松坂城を築きこれに移った。天正18年、小田原攻め後には陸奥・越後を治める会津に移封され42万石に、翌年、九戸の乱鎮定の功で、さらに18万5000石を加増された。実高は92万石の大大名であった。文禄元年、朝鮮出兵のため肥前国名護屋城に赴くが、下血するなど体調がすぐれず、翌2年には帰国、3年に上洛するが、翌年、病状が悪化し伏見の自邸で没した。秀吉が、氏郷の力を恐れ毒殺したという説があるが、俗説である。

 

薩長同盟

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  江戸幕府に反抗をするため薩摩藩と長州藩との間で結ばれた慶応2年の軍事同盟を「薩長同盟」というが、その日は1月の21日説と22日説とがある。京都二本松の薩摩藩邸で、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁、木戸孝允、坂本龍馬が同席した。龍馬の「坂本龍馬手帳摘要」の22日付には、「木圭(桂)、小(小松)、西(西郷)、三氏と会う」と記載されている。だが龍馬と同行して寺田屋で待機していた三吉慎蔵の日記には「21日、桂小五郎、西郷との談判約決の次第」と記されており、薩長同盟の期日の決定を欠き定説はないが、一般に21日が有力である。(1月21日)

 

 

2020年1月20日 (月)

日本人はどこから来たか?

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  3万年前の東アジアは、気候が寒冷化し、年平均気温は今日より7~8度も低かった。そのため海面が下がって日本海が生まれ、そのまわりに陸橋が形成される。この陸橋沿いに大陸から北方系の哺乳動物が南下し、それを追って人びとも南下したようである。気候は1万5千年前から温暖化に向かい、降水量の増加にともなって、ブナやナラ類の落葉広葉樹の森が形成されたという。そして、約1万3千年前、バイカル湖周辺に住んでいた人びとが移動し、一派はサハリンから北海道を南下して本州の日本海側に到着、別の一派は朝鮮半島から幅約7.5キロの陸橋を南下して九州へ入った。彼らの食糧源は、森のナッツ類や山菜、動物やサケ、マスなどの川魚であったろう。
   2010年、沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で2万年前の旧石器時代の人骨が発見されたことは重要である。1万数千年より前の旧石器時代の人骨は10例ほどあるが港川人は約18000年前、 浜北人は14000年前で、今回が最古である。

  地質学でいう第四紀は約1万年前を境に更新世と完新世に分けられる。戦前の考古学界では、更新世には日本列島にはまだ人類は住んでいなかったと考えられていた。ところが昭和24年、群馬県岩宿の関東ローム層の中から打製石器が発見され、それが契機となり、日本にも旧石器文化があると考えられるようになった。考古学の時期区分として、世界的には更新世に属する人類文化を旧石器文化と呼ぶ。ただし、後続する時代については、日本では「新石器時代」ではなく、「縄文時代」「弥生時代」というのが一般である。

  それはさておき、日本人のルーツに関してはまだ解明されない点が多い。日本人を含むモンゴロイドは古モンゴロイドと新モンゴロイドに分けられる。現代日本人には新モンゴロイド的特徴が色濃く認められるが、人類学的見地からは、日本人の基層は南方の古モンゴロイドであったと考えられている。最近のDNAの調査によると、縄文人と東南アジア人とのDNAの塩基配列を比較したところ、両者に共通の起源をもつ可能性が明らかとなった。南西諸島から旧石器時代の人骨が出土することは、考古学上の資料からも、日本人の南方起源が有力となってきたということである。1967年、沖縄県島尻郡志頭村港川の海岸に近い石切り場で人骨が発見された。この人骨は、約1万8000年前から1万7000年前のものと推定される。

 

 

2020年1月19日 (日)

孝明天皇、急死の謎

  幕末激動期のなか孝明天皇は1861年1月30日急死した。36歳。これをめぐって、痘瘡病気説と毒殺説が生まれたが、真相はいまだに不明である。  幕末維新史を専門とする国立大学系の学者の方には、孝明天皇毒殺説はとるにたらぬ俗説であるとされる人が多い。佐々木克は「岩倉具視」(吉川弘文館)において、「古くからの俗説に、孝明天皇の死因は毒殺で、それを計画したのが岩倉だという説がある。岩倉犯人説は、岩倉が王政復古を構想し、その実現のためには幕府との協力体制を維持しようとする孝明天皇が邪魔であったからという、あまりにも単純・短絡的な考えに基づいた理由付けによるものである。岩倉にとって孝明天皇は欠くことのできない存在であったことは、いま述べた通りである。そして死因が悪性の天然痘であったことは、病理学的に検討した結果明白になった。毒殺説は岩倉の構想を深く検討しない上に、当時の朝廷内外の政治状況を正確に把握しないでなされた、まったくの妄説である。」(本書99頁)

    そして、佐々木克は原口清の文献をあげている。「孝明天皇は毒殺されたのか」(日本近代史の虚像と実像1巻 大月書店 1990年、「孝明天皇と岩倉具視」(名城商学39巻別冊、名城大学商学会、1990年)

   佐々木克は、大久保利謙の弟子にあたる学者で、岩倉関係の史料を全て渉猟したうえでの見解であり、傾聴すべきであろう。ただ、岩倉が天皇毒殺という謀事を日記や書簡に得意げに書き残すことはしないであろう。孝明天皇の死を知った岩倉は、翌日の坂本静衛に宛てた手紙で「仰天恐愕…千世万代の遺憾」と嘆いていた。これほどまで落胆したのは、この手紙で「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」として、岩倉を弁護しているが、犯人と思われないように知人に証拠として残る手紙を書くという工作は誰しもやるこではないだろうか。

   孝明天皇毒殺説は、俗説として一笑に付す事柄ではなく、かなり真面目な日本史通史にも必ず記述されている歴史的事件である。昭和40年代からのシリーズ物「日本の歴史」において孝明天皇の急死をどのように記述しているか列挙する。

中央公論社「日本の歴史、第19巻、開国と攘夷」(昭和41年)小西四郎(東京大学教授)著

    こうして見ると、毒殺説はどうも風説にすぎないように思われる。東京大学史料編纂所の吉田常吉氏は、この問題について論じている中で、「天皇も疱瘡にかかられる可能性がある」との見解を示し、「当時天皇の御周囲で、疱瘡をわずらっていた者が全然なかったとはいいきれない」と、例えば天皇の側近に奉仕した公卿の子女で疱瘡にかかった者があるとか、あるいは同じころ関白二条斉敬の二人の男の子が痘瘡で死亡したことなどをあげている。さらに孝明天皇毒殺事件については、それが「白か、黒か、読者諸君に正面きって切り込まれると、筆者は困る。推論に推論を重ねたうえでの筆者の論旨なのだから、そこは諸君の良識にまつ以外にない。ただ筆者の見解を述べるならば、毒殺事件そのものは、確乎たる史料がない限り、従来の定説を覆すわけにまいらぬ。云々」と。わたしもこれと同意見である。

文英堂「国民の歴史、第18巻、開国」(昭和45年)高橋磌一著

  慶応2年12月25日に、孝明天皇が36歳で急死したのも、謀略のにおいがする。痘瘡わわずらっていたとはいえ、だいぶ容態もよくなっていたのが急変し、「御九穴から御出血」という異常な死を迎えたのである。徹底した攘夷論者ではあったが、幕府打倒などは毛頭考えていなかった天皇は、討幕派にはやっかいな存在となっていたことはじゅうぶん考えられるのである。

「日本の歴史23 開国」芝原拓自(名古屋市立大学)昭和50年

    天皇のこのふしぎな死が、毒殺説を流布させる一根拠ともなった。その風評や憶測はたちまちひろがり、犯人をさしむけたのは岩倉具視だとさえ、まことしやかにささやかれた。その噂は、死去から一週間後には、長州の一豪商の日記にさえ登場し、通訳官サトウの記録のなからもでてくる。しかし、王政復古から戦前をつうじて不敬の毒殺説はタブーとなり、宮内庁編「孝明天皇紀」などは、もちろん病死として史料を配列している。けれども、かんじんの24日夜のことについては、なぜか典医たちの医学的な記録はなく、真相はいまだに不明である。戦後になってねづまさし(禰津正志)氏などは、この病状急変と死のようすこそ、古くから中国や日本でみられた砒素による毒死に特有であることなどを根拠にして、毒殺説にかたむいている。他方、吉田常吉氏などは毒殺説に確証なしとし、病死であったろうと推定している。ところが、昭和50年4月4日付の「サンケイ新聞」の記事によれば、近江八幡市の開業医伊良子光孝氏宅の蔵から孝明天皇の典医をつとめていた同氏祖先光順の日記形式のカルテ「拝診日記」が発見され、そのカルテの天皇死去当日の描写は暗に薬物中毒症状をにおわせるものである、と紹介されている。

    奈良本辰也(立命館大学教授)著「明治天皇即位の舞台裏、孝明天皇崩御と討幕工作」(歴史読本、昭和52年12月)

   日本医学史学会の佐伯理一郎氏などは、これらの日記を検討した結果、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして天皇に一服盛らせたのである」(日本医事新報)と大胆な断定を下している。

                 * * * * *

 奈良本辰也が引用した京都の佐伯理一郎医学博士の説とは、昭和15年7月に日本医史学学会関西支部大会で発表したものである。当時の侍医の織部正伊良子光順の病床日記を資料とし、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官にでている姪をして天皇に一服毒を盛らしめたものである」としている。

    新人物往来社など一般歴史雑誌の読物などは孝明天皇毒殺説を支持する記事が多い。国立系の学者は、とるにたらぬ俗説として斥けるであろう。しかし孝明天皇毒殺説をとると、聡明な明治天皇は毒殺犯をさがして必ずや復讐すると考えられるので、鹿島昇の明治天皇すりかえ説がセットになって浮上する。ただし、大室近祐の証言、あるいは存在そのものが実在性があるのか一読する限りでは確証できない。いまだ孝明天皇急死には事件性が認められ、幕末・明治の宮中には謎が多い。

水師営の会見

   1905年1月5日、午前11時40分から旅順の水師営で第3軍司令官乃木希典とロシア軍の司令官ステッセルとの会談が行われた。5日前の1月1日、旅順の要塞が陥落し、3日には旅順の開城規約が本調印された。日本軍はこの戦闘に155日間を費やし、死傷者5万9000人という犠牲をはらっていた。両将軍はたがいの健闘をたたえ、乃木は、天皇からステッセルに武士としての面目と名誉を全うするようにとのことばがあったことを伝えた。ステッセルは、乃木の2人の子息が戦死したことに哀悼の意を表し、乃木は武士の家に生まれた者としてよい死に場所をえたと答え、たがいに胸襟を開いて語り合った。またステッセルから乃木将軍にピアノが贈られた。現在、金沢学院大学に「ステッセルのピアノ」として所蔵・保管されている。

明智光秀が謀反を起こした本当の動機は?

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錦絵「本能寺焼討之図」延一画 東京都立中央図書館蔵

NHK大河「麒麟がくる」いよいよ本日スタートする。

 「敵は本能寺にあり」

  この有名な言葉を明智光秀(1526-1582)は本当は言っていない。頼山陽「日本外史」(1827)に初めて見えるもので、光秀生誕から300年後の創作。信長が寝所に入ってしばらくすると、外が騒がしくなった。「これは謀反ではないか。いったい誰が?」森蘭丸が答えた。「明智の勢かと思われます」「光秀なら是非もなし」(信長公記)

    光秀ならば完璧の布陣で攻めて来たであろう。もはや助かる道はあるまい。そう思った信長は殿中深く入って、自ら切腹して果てた。

   本能寺の変は、戦国時代最大のミステリーといっていいかもしれない。「老人雑話」のなかに、「明智日向守が云ふ。仏のうそを方便と云ひ、武士のうそを武略と云ふ、百姓はかはゆきことなりと、名言也」という一節がある。光秀は、仏教におけるうそが方便として認められるならば、武士のうそも武略として是認されるものだという考えを持っていたようだ。なぜ光秀が信長を襲ったのか?その動機は江戸時代初期より、光秀が怨恨を晴らすためであった、というのが一般であった。とくに信長が家康を饗応した時の献立が豪華すぎると、光秀を叱責したことにあるといわれる。

    高柳光壽は人物叢書「明智光秀」(1958)で野望説を唱えた。これに対して、一番ポピュラーなのが怨恨説。近年も桑田忠親がルイス・フロイスの資料を根拠に怨恨説を支持している。最近では黒幕・関与説が主流である。立花京子は、勧修寺晴豊の日記の断片である「天正十年夏記(日々記)」により朝廷が変に関与していたとする。いわゆる三職推任問題である。朝廷が信長に関白、太政大臣、征夷大将軍の何れに就任してもらおうと工作したが、信長はそれを断ったことが背景にあるというのである。つまり天皇の権威を見限って、信長が日本の王になろうとしたので、光秀がそれを阻止しようとしたとする。

   最近、光秀の書状の原本が見つかったことで四国説が浮上している。光秀が土橋重治に宛てた書状で、将軍義昭入洛の際に協力することを伝えた内容である。本能寺の変の動機は長宗我部元親の窮地を救ったために起こしたとして、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力とともに幕府を再興させる構想があったらしい。だが本能寺の変後、光秀は細川忠興、筒井順慶らを誘い天下人たることを策したが成功せず、中国から兵を返した秀吉と山崎に戦うも、兵力差から総崩れとなり敗北。光秀は勝竜寺城へ逃れ、その夜密かに坂本へ脱出を図り秀吉軍の包囲を突破するものの、その途次醍醐もしくは山科のあたりで、雑兵・中村長兵衛により殺害される(「兼見卿記」)。享年55歳。

参考文献
高柳光寿「明智光秀」 吉川弘文館 1958
立花京子「本能寺の変と朝廷 「天正十年夏記」の再検討に関して」古文書研究39  1994年
谷口克広「検証本能寺の変」 吉川弘文館 2007

 

 

 

 

2020年1月18日 (土)

日本人の祖先はバイカル湖周辺に住んでいた民族が移動した!?

Img_64816_10401509_0 全世界の人類72億人に、厳密にいって純粋種というものがないように、日本人もまた、混血によって成った雑種である。ただ、その雑種性が、日本列島で混血して成ったものか、どこからか来たものなのか、さまざまな説がある。日本人の幼児には臀部、腰部など皮膚に青色の斑点がみられる。これを蒙古斑と命名したのは、明治お雇い外国人として東京大学に招かれた医学者エルヴィン・フォン・ベルツ(1849-1913)である。蒙古斑は日本人には95%以上の割合で見られるが、中国人(漢民族)、韓国人には少ない。アジアでもタイ人などは「トゥック・ムック」(インクのケツという意)といって蒙古斑がでる子が半数近くいるらしい。ベルツは日本人の形質をみるうち、日本人はいろいろな民族が混血している新人種であると考えた。日本人混血説である。「日本人の体質」(邦訳なし)を著し、①アイヌ型②満洲・朝鮮型③マレー・モンゴル型の3種であるとした。このような日本民族の形成と起原に関しては戦前の皇国史観のなかではタブーであったが、戦後すぐに、江上波夫の騎馬民族説などの新説が現れた。日本人の支配者層をなす天皇家の祖先は、アジア大陸北方の騎馬民族が朝鮮半島に進出し、そこから九州を経て、大和にはいり、日本を統一したというのである。ソ連のピョートル・グズミッチ・コズロフが発見した北蒙古ノイン・ウラから紀元前後の匈奴の王・貴族の古墳が多数発見された。もちろんこの時代の匈奴(丁零、夫餘)はモンゴル人ではない。通常モンゴル人は7世紀からといわれる。ノイン・ウラの民族はアーリア系であると考えられる。だが日本人のルーツといえる文化をもっている。かつて仁徳・応神陵など前方後円墳は日本独自といわれたが、現在では韓国の全羅道地域でも前方後円墳が確認されている。ノイン・ウラからも多数の前方後円墳が発掘されている。近年、宝来聡教授は、Y染色体を研究した結果、約5万年前ころチベットに住んでいた人たちが中国・朝鮮を経由して日本列島にやってきたと説いている。(参考;江上波夫「国家の成立と騎馬民族」季刊東アジアの古代文化6、1975年、梅原末治「北蒙古ノイン・ウラの遺物」) 

 

Xiongnu
 天皇家の祖先が紀元前後いたと思われる故地

 

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応仁の乱 その概要

 1467年から1477年の11年間にわたり、関東以東および南九州を除く諸国の大小名が、細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)とに分かれ、京都を主戦場として戦った大乱。原因は室町将軍義政は奢侈を好み、政治は夫人の日野富子やその閥族、政所執事の伊勢貞親や禅僧李瓊真蘂らの寵権臣のなすがままに動かされていた。義政は管領の斯波、畠山両氏や大名家の家督相続争いの裁許にも厳正を欠き、ために領国内両分の武力抗争にまで発展していった。政治紊乱に乗じて土一揆が類発し、おりから連年の旱水害で続出した難民が京都に流入するなど、社会不安も増大して京畿は戦雲におおわれた。始まりは、1467年1月畠山義就が上御霊社の畠山正長を襲い、応仁の乱がおこる。その後、将軍家に継嗣問題がおこり、細川、山名をそれぞれ盟主とする両党が形成されて中央決戦となった。勝元は宗全追討を将軍義政に強請し、1468年6月8日に足利義視を総大将とする追討軍を編成したが、山名方も畠山義就軍が到来し、8月には長門の大内政広の大軍が入京したので勢いづいた。ここで勝元は後土御門天皇、後花岡上皇を迎えたが、義政が伊勢貞親を召したのに動揺した義視が出奔してしまった。かくて9月から山名方の将軍家奪還の戦いとな、10月に相国寺の激戦がおこった。これが互角に終わり、応仁の乱は長期戦化する。1473年、持豊、勝元が相次いで死去するに及んで京都の戦火は下火となり、斯波義廉がまず領国に帰ったのをきっかけとして、諸守護大名は単独にに講和して帰国するものも現れた。1477年11月、大内政弘が義政に懐柔されて右京太夫に任ぜられ所領を安堵されて帰国するにおよんで中央の戦争は終幕を告げた。この乱の結果、室町幕府は完全に無力を暴露し、もはや全国的政権の実を失うことになる。また多くの守護大名たちも戦国の争乱の中で滅んでいった。

 

 

 

 

 

2020年1月17日 (金)

千利休死因の諸説

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   千利休画像 表千家蔵

  千利休が豊臣秀吉によって処罰され、切腹を命ぜられた原因については、古来からさまざまな異説が唱えられている。ながでも有名なのが、利休の娘が秀吉から側室に所望されたが、これを拒絶したために、秀吉の怒りに触れたとする説である。天正17年2月のこと。豊臣秀吉が京都の東山に鷹狩に出かけ、黒谷のあたりを通りかかると、花見の帰途らしく、30余りの年ごろの女房が、乗り物を供のものに持たせ、幼子を三人と男女のもの10人ばかりを連れて歩いて来るのに出会った。秀吉はその女房の美しさに心をうたれて、「何者の妻女であるか」といって、供の家来に尋ねさせると、「千利休の娘で、万代屋の後家である」と言上した。秀吉は彼女のもとに使者をつかわし、「聚楽第へ奉公に出頭せよ」と命じた。しかし、「幼少の子どもがたくさんいるので、ご容赦くだされたい」と、辞退してきた。そこで秀吉は、京都奉行の前田玄以を、かの女房の父、利休のもとにつかわし、娘を奉公を出すように命じた。すると利休は、「わが娘をご奉公に出したのでは、利休めは何事も娘のおかげでしあわせがよいのだと、人びとに評判される。そんなことでは、これまでの佳名も水泡に帰する」と、覚悟を決め、秀吉の申し出をきっぱりと拒絶した。それでも、秀吉は三度まで執拗に娘を所望してきた。しかし、利休がついに承諾しないので、秀吉は、利休のことを深く憎んだ。が、このようなことで利休を罰したのでは、人のうわさもどうかと、秀吉も考慮し、さすがに思いとどまっていた。しかし秀吉は、もしも利休に何か過ちがあったならば、それを好機に誅伐しようと、心中に考えていた。だから、大徳寺山門の金毛閣に利休が雪見している姿の木像を安置したことを知ると、さっそく、そのことを罰状として、利休を処罰した、というのである。   千利休には、千紹二の妻、石橋良叱の妻、万代屋宗安の妻、三人の娘がいた。この秀吉と利休の娘の事件は、次女であるとも、末女であるともいわれ、はっきりしない。海音寺潮五郎の「天正女合戦」や今東光「お吟さま」では、利休の娘は「お吟」となっている。つぎに、利休がキリシタンであり、改宗しなかったため、秀吉に処罰されたという説がある。また、利休が秀吉の朝鮮出兵に反対したためとする説もある。

 

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