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2026年9月 6日 (日)

戦艦大和の沈没

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 現在、呉市海事歴史科学館に展示されている10分の1の戦艦大和の巨大な模型は、連日多くの観光客が押し寄せる人気である。史上最大の46センチ砲を搭載した超弩級戦艦。昭和20年4月7日、日本海軍が誇った巨大戦艦「大和」は沖縄突入ならず海底に消えた。 この「天一号作戦」とは一体何だったのか?昭和20年4月1日、連合国軍が沖縄本島に上陸して来た時、日本海軍の水上艦艇実戦部隊は、開戦以来3年余りの激戦であらかた消耗し、わずかに戦艦大和のほか軽巡矢矧と駆逐艦8隻の第2艦隊があるだけだった。連合艦隊司令長官はこの部隊に対して、航空部隊の特攻攻撃と呼応し海上特攻部隊として8日夜明に沖縄突入作戦を行うよう命令した。

    これに従い大和(艦長・有賀幸作)を旗艦とした海上特攻部隊は、6日午後3時20分瀬戸内徳山沖を出撃した。味方航空機の上空援護は期待薄で、沖縄突入成功の可能性は少なかったが、「光輝ある帝国海軍部隊の伝統発揚とその栄光を後世に伝える」ことと、「一億総特攻のさきがけになる」ことの大義のもとに、艦隊の将兵は敢然と死地に赴いたのである。

   海上特攻部隊は豊後水道を経て、夜間大隈海峡を通過し、7日午前10時過ぎには九州坊ノ岬西南90浬の地点に到着したが、その行動はすでに敵に探知されており、アメリカ空母機動部隊は攻撃隊の発進作業中だった。

    敵の第1波攻撃隊280機が正午過ぎに海上特攻部隊を発見、まず約200機が午前1時まで雷・爆撃を行った。この攻撃で駆逐艦朝霜と浜風が沈没、軽巡矢矧は航行不能となり、大和には爆弾二発と魚雷一本が命中したが、損害は軽微だった。

    午後1時18分からは残りの約100機が来襲し、約20分の攻撃により駆逐艦霞が航行不能になり(のち沈没)、大和は魚雷三本命中を受けた。

    午後1時30分頃に新手の第2波攻撃隊126機が姿を現し、2時25分頃まで猛攻を加えた。この攻撃で軽巡矢矧が沈没し、駆逐艦磯風は大破(のち沈没)、大和は魚雷六本と爆弾二発が命中した。大和が受けた魚雷10本中9本が左舷に集中したため左へ激しく傾斜し、午後2時35分遂に転覆、爆発を起こして沈没した。北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒の地点に没した。乗員3332人のうち艦隊を指揮していた伊藤整一中将をはじめ3056人が艦と運命を共にした。大和沈没で作戦中止となり、残った駆逐艦・雪風、初霜、冬月、涼月の4隻は佐世保に帰投した。こうして、連合艦隊は事実上、消滅したのである。

  鈴木貫太郎は大和の沈没を親任式の後、控室で知らされた。もちろん戦時中、大和の存在は秘匿事項だったので、新聞などで報道されることはなく、国民のほとんどが知らなかった。大和を題材とした吉田満「戦艦大和ノ最期」が刊行されたのは昭和27年のことである。文学作品で早くに大和が出てくるのは、横光利一の短編小説「微笑」が最初であろうか。「レイテ戦は総敗北、海軍の大本山、戦艦大和も撃沈された風説が流れた」とある。この作品は横光の死の翌年、昭和23年に発表された。

 

 

 

 

 

 

 

2026年8月27日 (木)

入り鉄砲に出女

   戦国末期から近世にかけては、諸国の大名たちは、商工業の自由な発展を図るために、中世以来の関所を撤廃している。豊臣秀吉は天正10年の10月、関所を撤廃した。徳川幕府の時代になると、寛永2年(1625年)8月27日、諸国の主要な関所が定められた。江戸時代の全国の関所の数は一定しないが、元和2(1616)年に関所に条目が発布され、32カ所くらいは存在した。幕末の頃には46もあった。「入鉄砲に出女」とは、江戸に定住すべき大名の妻子が国もとに帰る(出女)と、逆に鉄砲が江戸に搬入される(入鉄砲)を厳禁したことを指すことばだが、とくに出女を厳重に取り調べた。場所によっては江戸に向かう女性も厳しく取り締まられた。武家の女だけではなく、一般女性まで「女改め」というしきたりがあり、「人見女」または「検見の婆」とよばれる役柄が設けられた。箱根の関所は、小田原藩士の妻女たちが「検見の婆」の役をつとめていたが、時代とともに、領内の百姓女房があたるようになり、彼女らは、職権をカサに、眼にあまる人泣かせをやったという。しぜん、それを切り抜けるには賄賂が必要であり、賄賂の額しだいでかなりの手心を加えたようである。関所には無気味な武器・捕獲道具が揃えてあり、女改めでは髪の毛まで解きほぐしたという。赤穂浪士の一人、矢頭右衛門七が母親をともなって江戸に向ったが、新居の関で母の手形がないのに気付き、あらためて大坂まで母を預けに引き返したという挿話は、関所のきびしさを物語っている。(8月27日)

 

 

2026年8月26日 (水)

崇徳院の怨霊

D774ce39e703726da347ll     保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐松山に配流された。のち雲井御所で約3年間過ごし、鼓が岡の木丸御所(坂出市)で6年間苦難の日々を過ごした。院は指の先から血をしたたらせながら五部の大乗蔵を写経した。その経文を都のどこかに奉納したいと願ったが、信西のために送り返された。院はこの恨みをはらすため自分の血で願文を書き、魔道に生きようとした。長寛2年8月この地で崩御された。46歳であった。歌人の西行はかねてから院の知遇を得ていたが、その没後4年たって讃岐へ渡り、白峯(香川県坂出市青海町)の崇徳上皇の御陵を訪れている。そこで西行は真心をつくして院に諌めの言葉をかけるが、上皇の怒りを抑えることはでなかった。この話は上田秋成の『雨月物語』「白峯」にも伝えられている。平清盛の次男基盛の溺死、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀など変事が起こり、上皇の御霊を鎮めるため白峰寺に頓証寺殿(画像)が建てられた。後世になっても、天変地異があればよく崇徳上皇の崇りとされた。崇徳上皇は歴代天皇の中で、最も恐れるべき霊とされたのである。(8月26日)

 瀬をはやみ 岩にせかるる 瀧川の

  われても末に 逢はむとぞ思ふ

 

 

2026年8月15日 (土)

日本のいちばん長い日

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   阿南惟幾            大西瀧治郎               宇垣纏

 

 玉音放送が流れた昭和20年8月15日正午に至る一昼夜に繰り広げられた歴史ドラマは数本ある。中でも半藤一利のノンフィクションを原作とした岡本喜八監督の東宝オールスター大作はヒットした。しかし、天皇の詔勅を録音したレコード盤の争奪だけの絞った作品であれば、東宝作品に先立つこと5年前の1962年に東映が鶴田浩二主演で「八月十五日の動乱」を作っている。ただし、これには実名は出されず、フィクションとして描がれている。14日から18日までに自決した主な軍人は次のとおりである。

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将(1891-1945)が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。大西は特攻攻撃の発案者の一人だった。

    敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。主な軍人の自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

終戦記念日

    81回目の終戦記念日。昭和20年8月15日の正午、昭和天皇はラジオで無条件降伏を国民に伝えた。ポツダム宣言受諾は国体の護持に懸念があるとして、近衛師団長斬殺、宮城占拠などの決起が相次いだが、陸軍大臣・阿南惟幾は「一死、大罪を謝し奉る」と書き残し割腹自殺を遂げ、将校たちも承詔必謹に傾いた。東京・千代田区の日本武道館では、戦争で亡くなったおよそ310万人の方々の御霊を慰めるため「全国戦没者追悼式」が行われる。戦争を始めるのが人間ならば、その戦争を未然にくいとめられるのも人間で、8月15日の体験は、今日を生きる私たちに、平和への願いを教訓として教えている。

2026年8月13日 (木)

鎖国の窓・長崎

Img_890339_14167499_0  日本は徳川幕府の鎖国によって、300年の太平を保つことができたが、反面、世界の文明の進歩から取り残された。島原の乱の後、ポルトガルの船の入港を禁止し、寛永18年(1641年)5月17日、江戸幕府は平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させた。安政2年まで足掛け215年間オランダ商館はこの出島にあった。オランダ人の住居は階上2室・階下2室都合4室が普通であった。ここへの出入りは非常にきびしく、特定の人物および丸山町の遊女以外は出入り出来なかった。これで鎖国体制の完成をみた。なぜ出島は扇の形をしているのか。これには諸説あるが、家光が自分の扇を取り出して「これを見本としなさい」といったという説がまことしやかに知られている。

   江戸幕府は海外との貿易を統制し、日本船の渡航を禁止した。とくにオランダ人以外の西洋人が日本にくることを禁じ、オランダ人を長崎の出島に住まわせて、かつてに貿易することを禁じた。スペイン、ポルトガル、イギリスとの交渉は絶たれた。これは新教国オランダが日本との貿易を独占するため、旧教国の植民地主義を、国土侵略の実例であると宣伝したことが、幕府の外交政策、禁教令に反映していると説かれる。しかし16世紀のおける世界史状況を考えると、すでにスペイン、ポルトガルは衰退期に入っているのに反し、イギリス・オランダはその植民地を奪取しつつあって、むしろ新教国の植民地政策のほうが、はるかに恐るべき存在であった。以上の理由から、幕府関係者がオランダが新教国であるから安心であるとしたのではあるまい。島原の乱後ポルトガル船の来航を禁止し、それを一般国民に納得させるため、禁教問題が利用された。すなわちポルトガル・スペイン両国は、国土侵略を企図し、キリスト教はそれを主導する邪宗教であるから、これらの国とはいっさい交渉を絶つべきであるとし、以後江戸時代を通じて、キリスト教を極端に危険視した。オランダ・イギリスには当初、平戸・長崎の2港に限って貿易が許可されていたが、イギリスは日本向けの中国商品を入手する市場をもたなかったので、ついに赤字経営がかさなり、元和9年(1623年)に平戸商館を閉鎖した。オランダはこのころ台湾に基地を設置することに成功し、ここで中国とともに、江戸時代を通じてわが国と交渉を続けた。朝鮮とは慶長17年(1607年)以後、宗氏の対馬を介して貿易が行われた。慶長12年から12回にわたり朝鮮通信使が来日した。江戸時代は鎖国といわれるが、通商交易に関して言えば、長崎をはじめ、薩摩、対馬、松前の4ヵ所を拠点に貿易が行われていた。すなわち鎖国によって日本が海外との接触を全く絶つということはなかった。鎖国の得失については、日本が海外との情報的交流を失うことによって、ヨーロッパの技術や工業の発展から立ち遅れたという失点と、むしろ鎖国のために、国内の産業や独自の文化の発展をみたという利点などが指摘されるが、その全体の歴史的評価については、いまだ一定した所説がない。(5月17日)

1587年 豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出す

1600  オランダ船リーフデ号、豊後に漂着

1604  糸割符制度を創設

1609 平戸に商館が置かれ、オランダ人に通商許可

1612  岡本大八事件

1613 キリシタン禁令(1873年まで続く)

1613 イギリス人に通商許可

1616 明以外の外国船の来航地を長崎・平戸に限定

1623 イギリス、平戸の商館を閉鎖

1624 スペインの来航を禁止

1628 浜田弥兵衛、オランダ人マイツを台湾に捕縛、平戸に拘禁す

1633 奉書船以外の海外渡航を禁止

1635 第3次鎖国令。海外渡航の全面禁止、在外邦人の帰国禁止。入港は唐船も長崎に限る

1636 第4次鎖国令。出島を築きポルトガル人を置く

1637 島原の乱

1639 ポルトガル人を追放

1640  ポルトガル使節のバチェコ、貿易再開を求めるが、幕府は拒絶し、斬首される

1641 オランダ商館を出島に移す(鎖国の完成)

1857 イギリス人の長崎上陸を許す

 

 

 

 

2026年8月 9日 (日)

天保水滸伝

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延命寺にある勢力富五郎、笹川繁蔵、平手造酒の碑

 天保の頃、関東の博徒といえば、上州には大前田英五郎・三木文蔵・高瀬仙右衛門などの有力な貸元がおり、下総には笹川繁蔵・飯岡助五郎、武州には小金井小次郎などがいた。

    飯岡助五郎(1792-1859)は、寛政4年、相模国三浦郡田戸村の出身。若い頃に下総国飯岡(千葉県海上郡飯岡町)に流れて働いているうちに、雇われ先の網元の半兵衛に見込まれて、娘のすえと一緒になって所帯を張り、網元兼博徒、関東取締出役の道案内人を勤めた。

    笹川繁蔵(1819-1844)は、下総国羽計村の旧家、岩瀬七左衛門の三男として生まれ、力士崩れの博徒として、隣村の須賀山村笹川で一家を張り、助五郎の息子の堺屋の与助の嫁を世話したほど、双方親しい間柄であった。繁蔵の子分の筆頭に万歳村勢力富五郎という、力士崩れがいたが、富五郎の口書によると、集団で恐喝、婦女暴行その他の悪事の数々を重ねて、繁蔵と共に手配になった。これで裏づけられるように、笹川一家は香取・海上の両郡の村々を暴れ回ったもので、たまりかねた35ヶ村の惣代が集まって相談の上、繁蔵・富五郎の一件を関東取締出役桑山圭助に訴え出ると共に、逮捕を助五郎に依頼した。

    天保15年8月3日、逮捕状が助五郎のもとに届いたのを知った繁蔵は、倅の嫁まで取り持ってやった仲なのに、とんでもねえ了見違いだと、富五郎らと飯岡に先制攻撃をしかけたのが、4日の真夜中であった。逮捕の際、抵抗した助五郎は、両手の指に軽傷を負い、裏山に逃げ出して助かったが、夜明けを待ち、総勢22人で繁蔵らのあとを追い、翌未明、船で利根川をさかのぼって笹川を襲った。ところが猛反撃を受けて、飯岡方は死傷者9人を出し、勝負は笹川の圧勝だった。笹川の死者は1人で、それが平手造酒(1809?-1844)という用心棒だった。平手は千葉周作の高弟だったが、酒好きがわざわいして破門され、笹川繁蔵の客人となり、桜井寺に住んでいた。労咳のため、大利根河原の決闘で全身に傷を負って死ぬ。笹川一家は逃げ散り、繁蔵が笹川に舞い戻ったのは弘化4年、その年の7月、飯岡一家の闇討ちに遭い、どんだら橋で殺害された。繁蔵38歳の若さだった。残った勢力富五郎ら子分たちは、2年後、繁蔵の恨みを晴らすといって飯岡に殴り込みをかけたりするが、嘉永2年3月に追いつめられて金毘羅山で自決した。(参考:今川徳三「幕末遊侠伝」『日本の歴史12』)

2026年8月 3日 (月)

建礼門院徳子と寂光院

Img_0782 寂光院本堂

   「平家物語」の最終章「大原御幸」は、壇ノ浦の合戦から1年ほどたって、大原の寂光院で平家一族の菩提を弔う建礼門院徳子(1155-1213)を後白河法皇が訪れるという話で始まる。だが、建礼門院のやつれはてた姿に法皇は思わず涙を流した。さらに、建礼門院はこう語る。「わたしは生きながら六道を見てしまいました」と。地獄も極楽浄土もすべて体験したという意味であろうか。

 平清盛には9人の娘がいたことになつているが、建礼門院徳子は園中でも出世頭である。だが平家の栄養栄華も治承5年清盛の突然の死によって滅亡の急斜面を転がり落ちていく。徳子26歳のときである。建礼門院、つまり中宮徳子は、平清盛の娘で6歳のときに高倉天皇の後宮に入内。承安2年に高倉天皇の中宮となり、治承2年皇子(のちの安徳天皇)を産む。治承4年、皇子が3歳で即位して安徳天皇となり、徳子は国母として、建礼門院と称した。治承4年、木曽義仲の入京によって、平家一族は西海に落ちていく。文治元年、壇ノ浦で平氏一族も滅亡し、建礼門院も入水したが、助けられ帰京。やがて落飾して、大原寂光院に住む。没年は健保3年とも諸説あり、平家物語は36歳で、源平盛衰記では68歳となっている。寂光院で死んだとも、法性寺の辺りに住んでいたともいわれる。

   ともかく寂光院は建礼門院の閑居の寺として知られるようになったが、もともとは聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために創建したと伝えられている。建礼門院死後、退廃したが、慶長年間には淀君が再興した。平成12年に放火により本堂は全焼したが、平成17年に再建された。

    建礼門院は源平の合戦での悲劇のヒロインとして知られるが、寂光院での静かで淋しい生活こそ、本人にとっては心安らぐ人間らしい暮らしというものであったかも知れない。

2026年8月 1日 (土)

待賢門院たまこと美福門院なりこ

    大河ドラマ「平清盛」。目下、朝廷での主役は鳥羽上皇の皇后・中宮、璋子と得子。藤原璋子は藤原公実の娘で崇徳、後白河天皇の母で院政を混乱させた美女であった。院号は待賢門院。得子は藤原長実の娘で1139年に皇子躰仁(なりひと)を生む。近衛天皇である。だが1155年に近衛天皇が若くして没したとき、得子(後のの美福門院)はこれを崇徳上皇と藤原頼長の呪詛として、上皇の皇子重仁親王を退けて、後白河天皇を即位させた。これが崇徳天皇と後白河天皇の争いとなり、崇徳が破れて遠流される、保元の乱の遠因は権力者白河法皇に鍾愛された待賢門院原因となる。

    ところでドラマでは璋子を「たまこ」、得子を「なりこ」と呼んでいる。竹内理三の「武士の登場」(中公・日本の歴史6)では「しょうし」「とくし」とルビがある。最近の研究成果なのだろうか?。

平清盛は白河法皇のご落胤だったのか?

  「尊卑分脈」の平氏系図には、平清盛が忠盛の嫡男となっているが、母についての記載がないということは長い間の日本史の謎の一つであった。清盛が元永元年に生まれたことは確かであり、忠盛には数人の妻がいた。それは「尊卑分脈」の系図に明らかであるが、少なくとも4人が確認されるし、その他にもまだいたと思われる。さて、「平家物語」には清盛の母はどのように伝えられているか。「平家物語」には種々の異本があり、大きく分類すると、①白河天皇の寵姫の祇園女御とするもの②祇園女御に仕えた中﨟女房③祇園女御と関係のない兵衛佐局の三つとなる。また「源平盛衰記」には、清盛の父は忠盛ではなく、白河法皇が祇園女御との間に儲けたという説を記している。ところが「コンサイス日本人名辞典」では、母は祇園女御の妹とある。祇園女御とは、白河天皇の後宮にあった女性だが、姓氏は明らかでない。その祇園女御が、帝の胤を宿したまま、平忠盛のもとへ嫁ぎ、清盛が生まれた、と「今鏡」には説かれている。一般には明治時代まで清盛皇胤説が信じられていた。明治26年、星野恒は胡宮神社の古文書の中に、「仏舎利相承系図」を発見し、清盛の母は祇園女御の妹であることを説いた。この説が学界でも、ほとんど定説化し、清盛落胤説を裏付ける資料となっている。大河ドラマの清盛皇胤説は十分に根拠あることである。しかし五味文彦は白河上皇の落胤説を否定し、忠盛が祇園女御に仕えるなかで、その妹との間に清盛を儲けたとしている。

    「平家物語」の冒頭の語り出し、「おごれるもの久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」は平家滅亡と秦帝国崩壊が重なり合うところがうかがえる。「史記」の記述には始皇帝が呂不韋の子であったとあるが、近代の学者、馬非百や郭沫若などはこの記述は虚構であると指摘している。清盛皇胤説にも信憑性が少ない。(人物叢書「平清盛」)

 

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