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2021年2月28日 (日)

千利休死因の諸説

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   千利休画像 表千家蔵

 茶人・千利休の1591年の忌日。利休が豊臣秀吉によって処罰され、切腹を命ぜられた原因については、古来からさまざまな異説が唱えられている。ながでも有名なのが、利休の娘が秀吉から側室に所望されたが、これを拒絶したために、秀吉の怒りに触れたとする説である。天正17年2月のこと。豊臣秀吉が京都の東山に鷹狩に出かけ、黒谷のあたりを通りかかると、花見の帰途らしく、30余りの年ごろの女房が、乗り物を供のものに持たせ、幼子を三人と男女のもの10人ばかりを連れて歩いて来るのに出会った。秀吉はその女房の美しさに心をうたれて、「何者の妻女であるか」といって、供の家来に尋ねさせると、「千利休の娘で、万代屋の後家である」と言上した。秀吉は彼女のもとに使者をつかわし、「聚楽第へ奉公に出頭せよ」と命じた。しかし、「幼少の子どもがたくさんいるので、ご容赦くだされたい」と、辞退してきた。そこで秀吉は、京都奉行の前田玄以を、かの女房の父、利休のもとにつかわし、娘を奉公を出すように命じた。すると利休は、「わが娘をご奉公に出したのでは、利休めは何事も娘のおかげでしあわせがよいのだと、人びとに評判される。そんなことでは、これまでの佳名も水泡に帰する」と、覚悟を決め、秀吉の申し出をきっぱりと拒絶した。それでも、秀吉は三度まで執拗に娘を所望してきた。しかし、利休がついに承諾しないので、秀吉は、利休のことを深く憎んだ。が、このようなことで利休を罰したのでは、人のうわさもどうかと、秀吉も考慮し、さすがに思いとどまっていた。しかし秀吉は、もしも利休に何か過ちがあったならば、それを好機に誅伐しようと、心中に考えていた。だから、大徳寺山門の金毛閣に利休が雪見している姿の木像を安置したことを知ると、さっそく、そのことを罰状として、利休を処罰した、というのである。   千利休には、千紹二の妻、石橋良叱の妻、万代屋宗安の妻、三人の娘がいた。この秀吉と利休の娘の事件は、次女であるとも、末女であるともいわれ、はっきりしない。海音寺潮五郎の「天正女合戦」や今東光「お吟さま」では、利休の娘は「お吟」となっている。つぎに、利休がキリシタンであり、改宗しなかったため、秀吉に処罰されたという説がある。また、利休が秀吉の朝鮮出兵に反対したためとする説もある。(2月28日)

 

 

2021年2月19日 (金)

銭湯の歴史

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    江戸では入浴といえば、湯屋(銭湯)に行くことに決まっていた。町人が風呂を持つことはなく、江戸一番の呉服商越後屋でさえ風呂はない。幕末に600余軒というから、人口の割には数が少なく、どこの町の湯屋も混んでいた。誰でも毎日入浴し、料金は銭6文。男女老若とも同じ浴槽に入る。寛政(1789-1804)ころから男女別々となったと書物には記されるが、確かなことはわからない。寺院などの社会事業としての共同浴場は平安時代にもあったが、営業浴場の始まりは鎌倉時代の頃といわれている。個人営業としては天正19年(1591年)頃に伊勢与市なる人物が江戸日本橋に開業したのが始まりと記録に残る。

 

Illust_public_bath   幕末のハリスやヒュースケンには、下田の湯屋で14歳くらいの女の子が平気で、若い男が入っている浴槽に、全裸で入浴する光景を目にして驚いている。考古学者シュリーマンは世界一周の旅の途中、日本に立ち寄っている。江戸の男女混浴を「旅行記」(1865年)に次のように記している。「浴場の前を通ったらアダムとイブそのままに、丸裸の男女がそれぞれ出てきて、外国人の私を見物した。羞恥心も無ければ風紀の乱れる様子もなく、なんという聖なる単純さであろうか」と。混浴が風紀上問題となったのは西洋人の指摘で改善したものであろう。1869年2月19日、東京府が男女混浴を禁止した。1900年5月24日、12歳以上の男女混浴を禁止する内務省令公布される。

2021年2月12日 (金)

大江戸繁盛記

Ginza090721_image301    江戸は、12世紀に江戸重継が居館を定め、1457年に太田道灌が城郭を築いた。本格的に築城されたのは1603年2月12日、征夷大将軍に就任した徳川家康によって江戸幕府が開かれてからで、以来、江戸は目覚ましい発展を遂げ、18世紀初頭には人口百万を超す大都市になった。当時、ロンドンの人口は約55万、パリも50万人程度で、江戸はまさに、世界一の巨大都市であった。大江戸八百八町というが、はたして実際はどれくらいの町数があったのか。寛文2年(1662年)が674町、正徳3年(1713年)が933町、延享年間(1744-1747)が1678町となる。実に、八百八町の倍以上である。

    江戸には、将軍と幕臣団(旗本・御家人)だけでなく、参勤交代制により、二百数十藩の江戸詰めの大名家臣団が、大勢各藩邸で生活していた。その上に、これら武家たちの膨大な需要を支える商人・職人らが、多数、集住していた。

    天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし、その旧領関八州を徳川家康(1542-1616)に与えると、家康は江戸城を本拠と定める。慶長8年8月1日、家康は江戸城に入る。江戸城は将軍の居城、また中央政庁としての偉容と規模を整えていく。天下普請として諸大名に工事を分担させ、神田山の切り崩し、海岸の埋め立て、掘割の開削により城下の整備が行われ、三代将軍家光の頃までに、江戸の都市づくりの基礎はほぼ完成した。

2021年2月 8日 (月)

日露戦争と号外

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   2月8日、旅順港のロシア艦隊を日本軍が攻撃した。10日に日本がロシアに対して宣戦布告し、日露戦争は開戦した。国木田独歩の小説「号外」のなかで読者は「何度読んでも涙がこぼれる」と言っている。新聞は今とは違って美文調である。鈴を鳴らして「号外、号外」と大声で叫んで配っていた。赤刷りだった。明治37年3月27日の第2回旅順閉塞作戦は次のような感じである。

    「戦死者中福井丸の広瀬中佐および杉野兵曹長の最後はすこぶる壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬を点火するため船艙におりし時、敵の魚形水雷命中したるをもって、ついに戦死せるもののごとく、広瀬中佐は乗員をボートに乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため自ら三たび船内を捜索したるも、船体漸次に沈没、海水甲板に達するをもって、やむを得ず、ボートにおり、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部をうち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり」

    明治38年5月27日早朝の日本海海戦は次のとおり。「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす、本日天侯晴朗なれども波高し」旅順の陸戦の模様については、「死屍は累々として相重なり、肉片は地上に飛散し、鮮血は淋漓として萌え出る若草を染む」とある。

2021年1月27日 (水)

実朝暗殺の謎

Photo   源実朝の右大臣拝賀式は承久元年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた。早咲きの梅の花を見て、「出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠んだ。辞世の歌のような悲しいひびきがある。その儀式の夜、日暮れから降りはじめた雪はしんしんと積もった。実朝が雪の石段を下りたところ、頼家の遺児の公暁はイチョウの木の陰から突然おどり出して、将軍実朝を殺し、太刀持ちの源仲章も斬り伏せた。公暁は実朝暗殺のあと、三浦義村を頼ったが、義村に裏切られ、長尾定景に謀殺されてしまった。将軍実朝は30歳に満たない若い命を散らし、公暁も死に、ここに源氏の嫡流は絶えてしまったのである。

   鶴岡八幡宮の石段わきには「公暁の隠れ銀杏」といわれるイチョウの大木がある。高さ約30m、周囲6.8m、樹齢800年以上ともいわれている。ところが2010年3月夜の強風のため、この大木が倒れてしまった。樹齢800年であれば、公暁が隠れたイチョウの木はこれ以前の木かもしれない。それにしても「公暁の隠れ銀杏」の話は江戸時代以降に見られることで、慈円の「愚管抄」などの鎌倉時代の文献には、イチョウのことは一つも書かれていない。このことから史実ではなさそうだ。

    この実朝暗殺が、公暁一人の計画でなかったことはほぼ推察できる。しかし、これが北条義時の陰謀であるのか、あるいは三浦義村が暗殺計画の黒幕であるのか(永井路子の小説『炎環』)、さまざまな憶測は可能であるが、その真相はいまだに歴史上の謎につつまれている。

2021年1月18日 (月)

応仁の乱 その概要

 1467年から1477年の11年間にわたり、関東以東および南九州を除く諸国の大小名が、細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)とに分かれ、京都を主戦場として戦った大乱。原因は室町将軍義政は奢侈を好み、政治は夫人の日野富子やその閥族、政所執事の伊勢貞親や禅僧李瓊真蘂らの寵権臣のなすがままに動かされていた。義政は管領の斯波、畠山両氏や大名家の家督相続争いの裁許にも厳正を欠き、ために領国内両分の武力抗争にまで発展していった。政治紊乱に乗じて土一揆が類発し、おりから連年の旱水害で続出した難民が京都に流入するなど、社会不安も増大して京畿は戦雲におおわれた。始まりは、1467年1月18日、畠山義就が京都・上御霊社の畠山政長を襲い、応仁の乱が始まった。その後、将軍家に継嗣問題がおこり、細川、山名をそれぞれ盟主とする両党が形成されて中央決戦となった。勝元は宗全追討を将軍義政に強請し、1468年6月8日に足利義視を総大将とする追討軍を編成したが、山名方も畠山義就軍が到来し、8月には長門の大内政広の大軍が入京したので勢いづいた。ここで勝元は後土御門天皇、後花岡上皇を迎えたが、義政が伊勢貞親を召したのに動揺した義視が出奔してしまった。かくて9月から山名方の将軍家奪還の戦いとな、10月に相国寺の激戦がおこった。これが互角に終わり、応仁の乱は長期戦化する。1473年、持豊、勝元が相次いで死去するに及んで京都の戦火は下火となり、斯波義廉がまず領国に帰ったのをきっかけとして、諸守護大名は単独にに講和して帰国するものも現れた。1477年11月、大内政弘が義政に懐柔されて右京太夫に任ぜられ所領を安堵されて帰国するにおよんで中央の戦争は終幕を告げた。この乱の結果、室町幕府は完全に無力を暴露し、もはや全国的政権の実を失うことになる。また多くの守護大名たちも戦国の争乱の中で滅んでいった。

 

 

 

 

 

ヒョウタンはどこから来たか

Photo   果実の中身を取り去って、その外皮を乾燥して容器にしたもの。日本にも古くから伝来し、「ひさご」と呼ばれて水や酒を入れたり、飾りひもをつけて愛玩用に加工された。朝鮮では「バカチ」と呼び、同様の用途に使われ、日常生活の重要な用具である。ヒョウタンはアジアだけでなく、ヨーロッパでも紀元前から栽培され、容器として利用されていた。ではヒョウタンはどのようなルートで日本に伝来したのだろうか。

   日本の国土は、四面海で囲まれているから、どこからでも外来文化が入ってくる。北方ルート、朝鮮半島経由の大陸ルート、江南ルート、南海ルートなど。ヒョウタンは西アフリカのニジェール地方が原産の植物で、エジプトからインドを経て、約6000年前には東南アジアの地まで、古代人によって栽培されていた。日本にも南海ルートで縄文時代早期中葉には、伝播していたと考えられる。考古学の発掘でヒョウタンの種が見つかっている。

 

 

2021年1月 5日 (火)

水師営の会見

   1905年1月5日、午前11時40分から旅順の水師営で第3軍司令官乃木希典とロシア軍の司令官ステッセルとの会談が行われた。5日前の1月1日、旅順の要塞が陥落し、3日には旅順の開城規約が本調印された。日本軍はこの戦闘に155日間を費やし、死傷者5万9000人という犠牲をはらっていた。両将軍はたがいの健闘をたたえ、乃木は、天皇からステッセルに武士としての面目と名誉を全うするようにとのことばがあったことを伝えた。ステッセルは、乃木の2人の子息が戦死したことに哀悼の意を表し、乃木は武士の家に生まれた者としてよい死に場所をえたと答え、たがいに胸襟を開いて語り合った。またステッセルから乃木将軍にピアノが贈られた。現在、金沢学院大学に「ステッセルのピアノ」として所蔵・保管されている。

2021年1月 3日 (日)

鳥羽・伏見の戦い

 1868年1月3日。午後4時ごろ、幕府軍の別働隊は鴨川を渡り入京しようとした。薩摩軍は渡河を認めず、ここに鳥羽の戦いが始まった。鳥羽から5㎞東の伏見でも、朝からにらみ合いが続いていた。こうして鳥羽・伏見で全面的な戦いが勃発した。薩摩・長州軍は支援の安芸藩・土佐藩をふくめ約5000人ほどの兵力で幕府軍にくらべ3分の人の兵力にすぎなかったが、大砲・小銃の装備にすぐれており、幕府軍が用いたゲーベル銃に対し、薩摩軍が用いたのはアメリカ製スペンサー元込銃などの新式銃であった。翌4日には薩摩・長州軍の優勢がはっきりする。こうして始まった戊辰戦争は、これから1年半に及ぶことになる。

 

 

2021年1月 1日 (金)

大江戸の春

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  鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春  (其角)

 

    江戸では元旦からが春である。春とともに新年を迎えて、江戸では七日までが松の内。この間は家の掃除を行わないが、それは箒で幸福をはき出したりしないため。七日まで手足の爪を切らないのも理由は同じ。

 

    「一年の計は元旦にあり」というように、元旦は心身ともに改まって屠蘇を飲み、雑煮を食べる。雑煮は元は烹雑(ほうぞう)と呼ばれており、いろいろの物(餅・大根・芋・昆布・いりこ)を煮まぜたから雑煮と呼ぶようになった。室町時代にはすでにあったが、この料理が次第に武家社会において儀礼化していき、やがて一般庶民に普及したものとみられる。一般的に関東では澄まし仕立てで四角い餅を入れ、関西では白味噌仕立てで丸餅が多くみられる。新年の行事としては、元旦の恵方(えほう)参り。初日の出。若水汲み。年賀の回礼。二日は初夢。初商い。三日は芸事初め。「恵方参り」とは、その年に歳徳神(としとくじん)が来る方角が恵方で、その方角にある神社仏閣に元旦未明に参詣する。今の初詣の原型がみられる。松の内に七福神を祀る寺社を順に参詣する。初日の出は江戸の東端、洲崎が有名であった。だが現代の東京と違って高層ビルがなかったので、高輪や芝浦の海辺、須愛宕山や神田明神、湯島天神の高台など江戸の市街からも初日の出がよくみえた。

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