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2018年2月17日 (土)

西郷とジョン万次郎

   大河ドラマ「西郷どん」第6回「謎の漂流者」西郷が藩主島津斉彬を相撲で投げ飛ばしたため牢屋に入れられる。獄中で謎の男に出会う。土佐の漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎である。鎖国していた日本、一時期薩摩で取り調べを受けた。嘉永4年(1851年)のことである。本当に西郷隆盛と中浜万次郎とは出会っているのだろうか。いろいろと資料をみたが、二人の直接的な接点は見当たらず、面会した記録はない。作り話か。島津斉彬には海外新知識を伝えたらしい。

2018年2月11日 (日)

神武天皇と金鵄

00a1a532   本日は建国記念の日。古事記によれば、我国の天地創造の神はイザナギノミコトとイザナミノミコトである。この二柱の神がまず淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡を生み本州を生んだ。そして、太陽神であるアマテラスやスサノオらの三五柱の神々を生んだ。そしてアマテラスの孫のニニギノミコトが天孫降臨する。ニニギとその妻コノハナサクヤの間にホテリノミコト(海幸彦)やホトリノミコト(山幸彦)が生まれ、山幸彦と豊玉姫の孫が神倭伊波礼毘古命つまり神武天皇ということになる。神武天皇は日向の高千穂宮にいたが、東方の大和地方の諸勢力を平定した。最後に苦戦したとき金色の鵄が弓にとまり、その輝きで勝利したという。日本書紀では神武天皇が紀元前660年1月1日(新暦2月11日)に即位したことになっている。明治になって各地でこの日を祭日として式典として開催するようになった。

2018年2月 5日 (月)

荒尾高校暴動事件

   熊本県立荒尾高校は1948年に創立した。1956年9月23日の運動会の終了後、男女の生徒たちがファイヤーストーム(無礼講)をはじめた。教師がやめさせるようとすると怒り生徒200人は校舎のガラスを割り投石しピケを張り大暴れした。25日、校長は生徒たちに反省を促したが、あくまで教師の非を唱えて暴動騒ぎが再発した。校長は警察に通報して午後11時前にようやく鎮静した。11月5日学校側は全校生徒870人のうち退学者4人を含む437人の処分を発表した。納得いかない生徒は集結し、またもや3日間の臨時休校になった。この荒尾高校の暴動事件は戦後教育史にも年表などに記されるものであるか、その事件の背景や暴動の目的・理由などの真相がいまひとつ判明しない。新聞などの世論は学校に非難が集中し、処分の軽減と校長の退職、全教師への行政処分で収拾された。現在、荒尾高校という名前の学校は存在しない。2017年3月1日閉校し、新しく県立岱志(たいし)高校として2015年より開校されている。

2018年1月27日 (土)

実朝暗殺の謎

Photo   源実朝の右大臣拝賀式は承久元年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた。早咲きの梅の花を見て、「出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠んだ。辞世の歌のような悲しいひびきがある。その儀式の夜、日暮れから降りはじめた雪はしんしんと積もった。実朝が雪の石段を下りたところ、頼家の遺児の公暁は突イチョウの木の陰から突然おどり出して、将軍実朝を殺し、太刀持ちの源仲章も斬り伏せた。公暁は実朝暗殺のあと、三浦義村を頼ったが、義村に裏切られ、長尾定景に謀殺されてしまった。将軍実朝は30歳に満たない若い命を散らし、公暁も死に、ここに源氏の嫡流は絶えてしまったのである。

   鶴岡八幡宮の石段わきには「公暁の隠れ銀杏」といわれるイチョウの大木がある。高さ約30m、周囲6.8m、樹齢800年以上ともいわれている。ところが2010年3月夜の強風のため、この大木が倒れてしまった。樹齢800年であれば、公暁が隠れたイチョウの木はこれ以前の木かもしれない。それにしても「公暁の隠れ銀杏」の話は江戸時代以降に見られることで、慈円の「愚管抄」などの鎌倉時代の文献には、イチョウのことは一つも書かれていない。このことから史実ではなさそうだ。

    この実朝暗殺が、公暁一人の計画でなかったことはほぼ推察できる。しかし、これが北条義時の陰謀であるのか、あるいは三浦義村が暗殺計画の黒幕であるのか(永井路子の小説『炎環』)、さまざまな憶測は可能であるが、その真相はいまだに歴史上の謎につつまれている。

2018年1月22日 (月)

赤船(あかぶね)

   江戸後期、蝦夷における幕府直営の貿易船。船体が赤く塗られていたのでこの称がある。蝦夷貿易の官営は1799年から1821年の間行なわれ、はじめは45隻の赤船があったが、その末期には難破・漂流などのため残ったものはわずかで、1813年民間に払い下げられた。

2018年1月21日 (日)

薩長同盟の締結日について

20070705_286420    今年の大河ドラマは「西郷どん」。江戸幕府に反抗をするため薩摩藩と長州藩との間で結ばれた慶応2年の軍事同盟を「薩長同盟」というが、その日は1月の21日説と22日説とがある。京都二本松の薩摩藩邸で、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁、木戸孝允、坂本龍馬が同席した。龍馬の「坂本龍馬手帳摘要」の22日付には、「木圭(桂)、小(小松)、西(西郷)、三氏と会う」と記載されている。だが龍馬と同行して寺田屋で待機していた三吉慎蔵の日記には「21日、桂小五郎、西郷との談判約決の次第」と記されており、薩長同盟の期日の決定を欠き定説はないが、一般に21日が有力である。(1月21日)

2018年1月13日 (土)

西郷隆盛像

   東京上野公園に建っている西郷隆盛の銅像は、高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)。鋳造は岡崎雪聲。1898年12月18日に除幕式が行われた。公開の際に招かれた西郷糸子は「うちの主人はこんなお人じゃなかった」ともらした。糸子の発言については、銅像の顔が本人に似ていないと解釈するのが一般的であるが、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく、普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないという意味だったとする解釈もある。西南戦争で朝敵となった西郷を明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったとする考えがある。ところで大河ドラマ「西郷どん」でもこの除幕式のシーンが冒頭にあった。軍楽隊の曲目はヘンデルの「見よ、勇者は帰る」。甲子園での高校野球でお馴染みの曲だが、イギリス人が明治初期から日本に伝え、明治陸海軍ではさかんに演奏されていた。

2018年1月10日 (水)

東京150年

 最近、「明治」と冠のついた特集や記事、幕末の志士の伝記・ドラマの予告が目に付く。とくに大河ドラマは西郷隆盛が主役だ。ちょうど今から50年前、1968年も明治100年で記念式典や出版事業が盛んだった。当時は高度成長期で、なぜ日本が戦後うまく行ったか自信にあふれていた時代だった。今年の150年の記念事業があのときほど盛大に盛り上がりるかはわからない。明治150年とは東京150年ということでもある。日本の首都はどこかと問うと、ほとんどの人は東京と答える。実は明治維新から主要な官庁が東京に集中したので、いつのまにか首都機能を持つ都市となったというだけで、「東京が首都である」と規定した法令は作られたことはなかった。古来、日本では天皇の御在所が都であるという認識があるので、東京が首都ということになっているだけである。江戸城が明治新政府に接収され、江戸を首都とする意見が出されたとき、公家や京都市民の間から、反対の声が沸き起こった。9月になってようやく天皇は京都を出発し、10月に江戸城に入り、これを東京城と改めた。このとき東京市民一同へ酒を賜わるとの御沙汰があり、市民はこれを天盃頂戴といって、時ならぬお祭りさわぎを演じた。天皇は12月、いつたん京都にもどって立后の儀をあげ、翌明治2年3月、京都市民の反対を無視して、東京再幸を強行した。同時に、太政官を東幸中は東京に移す旨を布告し、やがて中央行政機関がしだいに東京に移されていった。東幸といい再幸といい、政府はついに遷都を発表しないまま東京を新しい首都とした。

2018年1月 5日 (金)

鳥羽・伏見の戦い

 1868年1月3日。鳥羽・伏見で薩摩・長州藩兵と幕府軍が戦う。薩摩・長州軍は支援の安芸藩・土佐藩をふくめ約5000人ほどの兵力で幕府軍にくらべ3分の人の兵力にすぎなかったが、大砲・小銃の装備にすぐれており、幕府軍が用いたゲーベル銃に対し、薩摩軍が用いたのはアメリカ製スペンサー元込銃などの新式銃であった。翌4日には薩摩・長州軍の優勢がはっきりする。

2018年1月 3日 (水)

龍馬ブームをつくった男

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   坂本龍馬の名を知らしめたのは、明治16年、坂崎紫瀾(1853-1913)が高知の「土陽新聞」に「汗血千里駒」を連載したことによる。しかし龍馬ブームといえるのは日露戦争ころのことであろう。

   香川敬三(1839-1915)は岩倉具視のもとで倒幕の密議に参加。流山で甲陽鎮撫隊陣屋を襲って近藤勇の捕縛に功があった。明治になり、宮内少輔などを歴任。日露戦争の際、昭憲皇后の夢に坂本龍馬が現れたという宣伝を行ったのも香川である。幕末維新をデッサンした人物といえる。明治の顕官でありながら写真があまりない。彼は明治天皇擁立の謎を握っているのかもしれない。この逸話についてNHK「美子伝説」では、田中光顕が創作したこととなっている。

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