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2026年2月13日 (金)

渋沢栄一の恩人

  本日は「資本主義の父」渋沢栄一、1840年の誕生日。 ドラマ「天皇の世紀」第7話「黒い風」では若き日の渋沢栄一(栄一郎)が登場する。栄一は尊王攘夷論に共鳴して志士と交わり、高崎城攻撃、横浜居留地の焼き討ちを企てた。その計画を断念するよう栄一を説得したのは尾高長七郎(1838-1868)だった。尾高は、栄一とは年齢も近く竹馬の友として特に親交を重ね、互いに文武を研鑽した仲であったが、尾高はテロリストの限界を感じていた。渋沢はこのときのことを日記に「今から見ると、そのとき長七郎の意見が適当であって、自分などの決心は頗る無謀であった。実に長七郎が自分等大勢の命を救って呉れたといってもよい」(渋沢栄一伝記資料第1巻)と語っている。(2月13日)

 

2026年2月11日 (水)

神武天皇と金鵄

  本日は建国記念の日。戦前派の人には「紀元節」といったほうがわかりやすい。古事記によれば、我国の天地創造の神はイザナギノミコトとイザナミノミコトである。この二柱の神がまず淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡を生み本州を生んだ。そして、太陽神であるアマテラスやスサノオらの三五柱の神々を生んだ。そしてアマテラスの孫のニニギノミコトが天孫降臨する。ニニギとその妻コノハナサクヤの間にホテリノミコト(海幸彦)やホトリノミコト(山幸彦)が生まれ、山幸彦と豊玉姫の孫が神倭伊波礼毘古命つまり神武天皇ということになる。神武天皇は日向の高千穂宮にいたが、東方の大和地方の諸勢力を平定した。最後に苦戦したとき金色の鵄が弓にとまり、その輝きで勝利したという。日本書紀では辛酉年春正月庚申(紀元前660年2月11日)に即位したことになっている。明治になって各地でこの日を祭日として式典として開催するようになった。1889年帝国憲法公布を2月11日にしたときから、紀元節奉祝がいちだんと盛大となる。やがて軍国主義の高揚とともに太平洋戦争期、重大な祝祭日となっていた。

 

 

 

 

2026年2月 4日 (水)

継体王朝の謎

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    継体天皇陵とされる今城塚古墳の出土品模型などを展示した「今城塚古代歴史館」(高槻市)がオープンした。第26代の継体天皇(在位507-531)は、悪逆無道といわれた武烈天皇のあと王位をついだ天皇で何かと古代史では論争される天皇である。日本は中国のように不徳のものあらば新しい王朝を開くという易姓革命思想がなく、天皇家の万世一系を建前としている。しかし実際には何度が王朝は断絶しているが、その1つが継体簒奪説である。継体は応神5世の孫ということであるが、その間の具体的な系図は史書に明らかにしていない。現在、継体と応神系王朝とは断絶朝とみる学者は多い。また継体の出自と勢力基盤にも不明な部分が多い。①畿外北方説(近江または越前)直木孝次郎②越説(または越前)林屋辰三郎③近江説・山尾幸久④摂津三島野説・原島礼二。継体天皇の陵墓と確実視されたのは1997年から10年間にわたる調査結果の成果であろう。527年、筑紫を本拠むとする筑紫君磐井がヤマト王権に反旗を翻し、翌年、ヤマト王権から派遣された大将軍、大連の物部麁鹿火率いる軍隊と激しい戦闘を繰り広げた。磐井の乱の後、ヤマト王権は古代律令国家の形成に向かう。(参考:原島礼二「倭の五王とその前後」1970年)、「新・古代史」NHK出版新書 2025年)

 

 

明治初期の藩閥政府の一傾向

  廃藩置県によって成立した太政官制にもとづく中央集権的な国家の主要ポストは、少数の公家を除いて、すべて薩長土肥4藩出身の実力者によってしめられた。以下に示すのは明治8月10日現在。この傾向は内閣制度の成立後も続き、やがて藩閥政府とよばれて批判される。

薩摩 西郷隆盛(参議)、寺島宗則(外務省)、大久保利通(大蔵省)、黒田清輝(開拓使)

長州 木戸孝允(参議)、井上馨(大蔵省)、伊藤博文(工部省)

土佐 板垣退助(参議)、後藤象二郎(工部省)、佐々木高行(司法省)

肥前 大隈重信(参議)、大木喬任(文部省)

津和野 福羽美静(神祇省)

公卿 三条実美、岩倉具視、徳大寺実則、万里小路博房、東久世通禧

 歴史教科書では、明治新政府は「薩長政治」という言葉があるように、薩摩藩と長州藩の出身者が中心となって運営されていたと学ぶ。しかし、一時期、大隈重信や江藤新平のような実務能力を持った人材が新政府の主導権を握った。そのため次々と優秀な官僚が佐賀県から輩出している。

参考:渡辺京二「私の幕末維新史」

 

日本国家の起源

    「日本の国家の起源は何処にあるのでしょうか?」と真顔で尋ねられて、「かくかくしかじか」と答えられる人はいないのではないだろうか。一応「邪馬台国」が日本史に現れる国らしきものであろうが、それとても国家として体裁が整えられているものであるかは明らかではない。戦後の一時期、日本を代表するような学者、東京大学の井上光貞が九州説を、京都大学の上田正昭が畿内説を唱えた。当然、子分のような学者がその師匠の説に補強をして、いわゆる邪馬台国論争なるものは現在にまで至っている。この邪馬台国の位置問題は神武東征をどうみるか、つまり天皇の起源とも関連する。記紀で皇室の先祖が高天原から日向の国に下ってそこで数代を経て神武天皇の時に大和へ遷ったとする伝承は史実としてみるには怪しげなものである。和辻哲郎が嚆矢であろうか。「日本古代文化」(1920)において邪馬台国東遷説をとなえた。続いて栗山周一が「少年国史以前のお話」(1932)と「日本欠史時代の研究」(1933)で邪馬台国東遷説をのべている。高橋健自のように「考古学から観た邪馬台国」(1922)で畿内説も神武東征にふれている。そもそも「天皇」号の現れたのは、7世紀頃と思われるが、天皇号が突如として出現したものではなく、必ずや、これに代わる前段階の称号があったであろう。しかしそれを「大王」という称号とするのは早計であろう。宮崎市定は「天王」号だと推論している。(宮崎市定「天皇なる称号の由来について」古代大和朝廷)また津田左右吉は、天皇の由来について次のように考えた。天皇の号は、占星術的思想においては、本来、天帝のことで、宗教的意義のものであり神であったが、のちに北極星の名となった。他方、神仙説においては、太古の帝王とされた空想的人物の名であったが、転じて神仙となって、宗教的信仰の対象となり、やはり天帝の観念に結びついている。つまり神仙説や道教に関する思想が天皇の起源と考えられる。(山尾幸久「古代天皇制の成立」天皇制と民衆)神仙思想の徐福東渡の伝説(縄文文化を伝えたとされる?)も単なるつくり話として一笑に伏すことはできないだろう。(参考文献:「新・日本史」NHK取材班 NHK新書 2025年)

2026年1月21日 (水)

薩長同盟

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  江戸幕府に反抗をするため薩摩藩と長州藩との間で結ばれた慶応2年の軍事同盟を「薩長同盟」というが、その日は1月の21日説と22日説とがある。京都二本松の薩摩藩邸で、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁、木戸孝允、坂本龍馬が同席した。龍馬の「坂本龍馬手帳摘要」の22日付には、「木圭(桂)、小(小松)、西(西郷)、三氏と会う」と記載されている。だが龍馬と同行して寺田屋で待機していた三吉慎蔵の日記には「21日、桂小五郎、西郷との談判約決の次第」と記されており、薩長同盟の期日の決定を欠き定説はないが、一般に21日が有力である。(1月21日)

 

 

2026年1月16日 (金)

民の竈はにぎはひにけり

 399年のこの日、仁徳天皇が崩御した。名は大鷦鷯天皇(おおさざきてんのう)。4世紀末から5世紀前半に実在した可能性があるといわれる。「民の竈」の逸話で知られる。

高き屋に登りて見れば煙立つ

   民の竈(かまど)はにぎはひにけり

        (「新古今和歌集」仁徳天皇御歌)

   仁と徳との儒教の教えを身につけた仁徳天皇は、宮殿から難波の町を眺め、民の竈に煙がたたず、民貧しと仰せられて、租税を免じた。3年後ふたたび高殿に上って民の賑わいを喜んだ、という伝承を詠んだ後世の歌である。もともとの歌は延喜6年(906)の藤原時平の「高どのに登りて見れば天の下  四方(よも)に煙て今ぞ富みぬる」で、これが平安時代末期には改作されて仁徳天皇の御歌として伝えられたらしい。(1月16日)

 

2026年1月13日 (火)

ゴーストップ事件

 1933年6月17日、大阪市北区の天神橋筋6丁目の交差点で、陸軍第4師団の中村政一一等兵が、赤信号を無視して交差点を横断した。交通整理中であった大阪府警の戸田忠夫巡査は中村を注意し、天六派出所まで連行した。中村は抗弁し抵抗したため、殴り合いの喧嘩となり二人は怪我をした。6月22日、陸軍は「この事件は、皇軍の威信にかかわる問題である」と声明し、警察に謝罪を要求した。この事件は、当時大阪市民を沸かせ、事情が分かるにつれて軍の横暴を非難する声が多くなった。最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により、白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出した。天皇が心配していることを知った陸軍は恐懼し、事件発生から5か月にして和解が成立した。軍部の影響力が強まっている当時の日本の社会情勢を象徴する事件である。

 

源頼朝没す

  建久10年のこの日、源頼朝死去す。享年51歳。前年12月27日の相模川橋供養の際に落馬したのが原因といわれているが定かではない(猪隈関白記)。「吾妻鑑」には「及還路、有御落馬、不経幾程薨給畢」とある。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」主役・北条義時は小栗旬、頼朝は大泉洋が演じて好評だった。これまで大河ドラマでは過去6人が頼朝を演じている。「源義経」(1966年)は芥川也寸志、「新平家物語」(1972年)は高橋幸治、「草燃える」(1979年)は石坂浩二、「炎立つ」(1993年)は長塚京三、「義経」(2005年)は中井貴一、「平清盛」(2012年)は岡田将生がそれぞれ演じた。頼朝の容貌は「顔大ニシテ、たけ低く、容貌花美ニシテ、景体優美也」(源平盛衰記)とみえる。大河では痩身タイプが多い。現代の日本社会でも、武士の評価は高く、政治家や企業経営者のなかには、前近代の武将に、その模範を見出す人が多く、お手本となる人物である。しかしながら政略家で、また容赦なく弟の義経を殺そうとしたりして、狡猾・陰険なイメージがあるため、いまイチ人気は高くない。大泉頼朝はとぼけていてつかみどころがないが、結構適役だった。(1月13日)

 

 

2026年1月 5日 (月)

水師営の会見(1905年)

   明治38年1月5日、午前11時40分から旅順の水師営で第3軍司令官乃木希典とロシア軍の司令官ステッセルとの会談が行われた。5日前の1月1日、旅順の要塞が陥落し、3日には旅順の開城規約が本調印された。日本軍はこの戦闘に155日間を費やし、死傷者5万9000人という犠牲をはらっていた。両将軍はたがいの健闘をたたえ、乃木は、天皇からステッセルに武士としての面目と名誉を全うするようにとのことばがあったことを伝えた。ステッセルは、乃木の2人の子息が戦死したことに哀悼の意を表し、乃木は武士の家に生まれた者としてよい死に場所をえたと答え、たがいに胸襟を開いて語り合った。またステッセルから乃木将軍にピアノが贈られた。現在、金沢学院大学に「ステッセルのピアノ」として所蔵・保管されている。

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