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2018年6月 5日 (火)

池田屋襲撃事件

    池田屋襲撃は新選組の名を一夜にして轟かせたが、隊士たちのその後の人生にも大きな転機となっている。当夜、近藤勇は隊員を二手に分けて、表出口には谷万太郎、武田観柳斎、浅野藤太郎が、裏口には奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らが固めた。そして店内へ近藤勇が先に立って、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の3人を従えて突入したとするのが通説である。なぜ近藤らわずか4人で20人もの勤王の志士に勝てたのか。それは真剣を使い慣れた近藤らと剣道しか知らない志士との差、それに池田屋は幅6m、奥行き約27m京都特有のうなぎの寝床が近藤らに有利となった。永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、表口には谷三十郎、原田左之助となっている。また池田屋襲撃には谷三兄弟の3男、谷周平が参加したという記録もある。事件当日の奮戦ぶりから、周平は近藤の養子となって、近藤周平と改名する。その後、周平は近藤の信を失なって縁組は解消され、旧姓に復している。原田左之助は十七両の褒賞金を受領している。長州志士を中心とする20名余りのうち7人が討ち死にするも、裏口を固めていた3人が斬られて突破され、多くの志士が脱走した。当夜の新選組の犠牲者は奥沢栄助ひとりとされている。後日、安藤、新田ら死亡した。

    武田観柳斎は長沼流軍学をもって知られ、二十両の褒賞金を受領している。その後、薩摩に通じ、竹田街道の銭取橋で斎藤一に斬殺される。浅野藤太郎も同額の二十両を受領している。浅野はその後、金策が露見して、島原において斬殺されている。藤堂平助は活躍により二十両を受領している。その後、高台寺党に加わり、三条油小路において新選組に斬殺される。沖田総司はよく知られるように池田屋襲撃時、戦闘中に喀血昏倒する。池田屋襲撃の近藤配下の隊士の中で明治まで生存したのは永倉新八ただ一人だった。原田左之助に関しては死亡時期不明。通説では上野戦争で戦死したとされるが、満州で馬賊となったという生存説もある。(6月5日)

2018年6月 2日 (土)

明智光秀が謀反を起こした本当の動機は?

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錦絵「本能寺焼討之図」延一画 東京都立中央図書館蔵

 「敵は本能寺にあり」

  この有名な言葉を明智光秀(1526-1582)は本当は言っていない。頼山陽「日本外史」(1827)に初めて見えるもので、光秀生誕から300年後の創作。信長が寝所に入ってしばらくすると、外が騒がしくなった。「これは謀反ではないか。いったい誰が?」森蘭丸が答えた。「明智の勢かと思われます」「光秀なら是非もなし」(信長公記)

    光秀ならば完璧の布陣で攻めて来たであろう。もはや助かる道はあるまい。そう思った信長は殿中深く入って、自ら切腹して果てた。

   本能寺の変は、戦国時代最大のミステリーといっていいかもしれない。「老人雑話」のなかに、「明智日向守が云ふ。仏のうそを方便と云ひ、武士のうそを武略と云ふ、百姓はかはゆきことなりと、名言也」という一節がある。光秀は、仏教におけるうそが方便として認められるならば、武士のうそも武略として是認されるものだという考えを持っていたようだ。なぜ光秀が信長を襲ったのか?その動機は江戸時代初期より、光秀が怨恨を晴らすためであった、というのが一般であった。とくに信長が家康を饗応した時の献立が豪華すぎると、光秀を叱責したことにあるといわれる。

    高柳光壽は人物叢書「明智光秀」(1958)で野望説を唱えた。これに対して、一番ポピュラーなのが怨恨説。近年も桑田忠親がルイス・フロイスの資料を根拠に怨恨説を支持している。最近では黒幕・関与説が主流である。立花京子は、勧修寺晴豊の日記の断片である「天正十年夏記(日々記)」により朝廷が変に関与していたとする。いわゆる三職推任問題である。朝廷が信長に関白、太政大臣、征夷大将軍の何れに就任してもらおうと工作したが、信長はそれを断ったことが背景にあるというのである。つまり天皇の権威を見限って、信長が日本の王になろうとしたので、光秀がそれを阻止しようとしたとする。

   最近、光秀の書状の原本が見つかったことで四国説が浮上している。光秀が土橋重治に宛てた書状で、将軍義昭入洛の際に協力することを伝えた内容である。本能寺の変の動機は長宗我部元親の窮地を救ったために起こしたとして、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力とともに幕府を再興させる構想があったらしい。だが本能寺の変後、光秀は細川忠興、筒井順慶らを誘い天下人たることを策したが成功せず、中国から兵を返した秀吉と山崎に戦うも、兵力差から総崩れとなり敗北。光秀は勝竜寺城へ逃れ、その夜密かに坂本へ脱出を図り秀吉軍の包囲を突破するものの、その途次醍醐もしくは山科のあたりで、雑兵・中村長兵衛により殺害される(「兼見卿記」)。享年55歳。

参考文献
高柳光寿「明智光秀」 吉川弘文館 1958
立花京子「本能寺の変と朝廷 「天正十年夏記」の再検討に関して」古文書研究39  1994年
谷口克広「検証本能寺の変」 吉川弘文館 2007

2018年5月30日 (水)

沖田総司はどんな顔?

E52e4ae9  慶應4年5月30日夕刻、沖田総司は25歳で没した(享年については24歳説、27歳説など諸説あり)。最近、歴女ブームで有名人のお墓を訪ねて歩く「墓マイラー」が増えて、賑わっている。歴女に人気の新選組一番隊組長、沖田総司の墓は六本木ヒルズの裏手、専称寺(港区元麻布)にある。ふだんは参拝できず、塀の外から眺めて拝むようになった。ただし年に1度だけ総司忌のみお参りできる。小さな墓碑は読めないほど風化が進んで、幼名の「沖田宗次郎」とある。

  沖田総司の性格はひじょうに明るく冗談ばかりいい、子ども達ともよく遊び、亰の町医者の娘との恋仲は、師近藤の意見で別れたと伝えられている。総司はどんな顔をしていたのか?生前の写真は残っていないので誰にもわからない。むかし月形龍之介主演の「剣士・沖田総司」(1929年)製作のとき総司の姉みつ(1833-1907)の孫である沖田要(1894年生れ)をモデルに肖像画が作られた。実際の総司に似ているかどうかは定かではないが、よく歴史の本に使われているようだ。

 孤高の美剣士、沖田総司のイメージは映画やドラマで作られたものだが、一般的には島田順司が有名である。若い人にとっては草刈正雄、田原俊彦や藤原竜也かも知れない。最初に沖田総司を主役級のヒーローにしたのは月形龍之介だそうだ。だが映画で最初に沖田を演じたのは、「維新の京洛」(1928年)の寺島貢である。翌年に月形龍之介が、そして阿部九州男が「大殺生」(1930年)で沖田を演じた。

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  月形龍之介

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  島田順司

2018年5月29日 (火)

新選組谷三十郎、謎の頓死

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  谷三十郎のことは、司馬遼太郎の小説の中では宝蔵院流の槍の達人と書かれている。(「槍は宝蔵院」)史実は弟の谷万太郎が種田流の槍術の遣い手で、兄の三十郎は神明流剣術の達人であった。谷三十郎の末弟昌武は近藤勇の養子となり、その縁故から隊内では三十郎は相当幅をきかせ、傍弱無人の振舞いが多かった。そのため新選組の中であまりよく言われていなかったようだ。多くの小説や映画では、ほとんど悪役として扱われている。ドラマ「新選組血風録」では土方歳三、沖田総司、斎藤一の3人によって殺害される。本当の史実は、三十郎が慶応2年4月1日、祇園階段下で突然頓死を遂げた。斎藤一の手にかかって斬殺されたという説、酒席での喧嘩説、永倉新八によれば病死という説、ともかく死因はよくわからない。三十郎の遺骸は、光縁寺に土葬された。現在、本伝寺(大阪市北区兎我野町)に墓がある。フジテレビ「新選組、士道に背きまじきこと」を見ると、戸浦六宏演じる谷三十郎は士道不覚悟として近藤勇(鶴田浩二)に斬られていた。

2018年5月24日 (木)

蝉丸と逢坂関

   本日は蝉丸忌。逢坂関は相坂関、合坂関とも書く。山城・近江国境の峠道。かつては畿内の北限とされ、関が設けられた。ここを越えれば東国であった。古歌にもさかんに歌枕として詠まれた。百人一首第10番の蝉丸の歌が有名である。

これやこの 行くも帰るも 別れては

 知るも知らぬも 逢坂の関(「後撰集」)

(通釈)これがまあ、あの都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。

   孝徳天皇の大化2年(646年)、鈴鹿関(三重県関町)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県敦賀市)の三関が設置され、国家の守りに備えたが、やがて愛発関に代わって、この近江の逢坂関(滋賀県大津市大谷町)が王城鎮護の関となった。逢坂関の設置年は明らかではないが、延暦年間に三関は一旦廃止されたが、「文徳天皇の天安元年(857年)に初めて逢坂関を建つ」(「文徳実録」)とみえることから、再び設置されたようである。清少納言(966?-1025?)の「枕草子」にも「関はあふさかのせき」と記しているし、百人一首にも「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(「後拾遺集」)などと詠まれている。(5月24日)

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 現在大津市大谷町の逢坂山検問所前に関址碑が建つ

2018年5月23日 (水)

沖田総司と菊一文字

   時代劇チャンネル「新選組血風録」第7話。沖田総司(島田順司)は懇意の刀屋播磨屋道伯から名刀の菊一文字を借りた。鎌倉期の古刀の代表的なもので、最も有名なのは、足利家重大の宝刀といわれた「二つ銘則宗」が京都の愛宕神社所蔵のもので国宝である。則宗は備前福岡の刀工で、いわゆる福岡一文字派に属し、後鳥羽上皇の後番鍛冶に列し菊花紋章を彫ることをゆるされたため、俗に菊一文字といわれる。

    司馬遼太郎の原作では、近藤勇の虎徹と土方歳三の和泉守兼定、それに菊一文字則宗を横に置きならべてみる描写がある。「虎徹は厚重ねで反りは浅く、姿には、この道でいう怒味と武骨味をもち、いかにも人切り包丁といった凄みがある。むろん、虎徹にもそれなりに品位はある。だが、しかし鎌倉の古刀である菊一文字には遠くおよばない。要するに、神韻縹渺としたところが、兼定にも虎徹にもないのである」「細身は当節はやらない。重さで切れるようなものが、幕末の流行であった」とある。

   ドラマでは、三人の差料を比べるシーンはない。土方は沖田に「俺の刀を貸そう」というと、沖田は笑って「土方さんのは重いから結構です」という台詞がある。

   ドラマ「菊一文字」は沖田総司が医師半井玄節(原健策)に診察してもらったところ、「安静が必要であり、このままだとあと5年しか生きられない」といわれる。天真爛漫な性格と労咳という沖田総司の明と暗のイメージがお茶の間に浸透したと思われる重要な回である。「刀の命は七百年、おれの命は二十五年か」若くしてこの世を去った沖田の命と古刀との対比も鮮やかである。結束信二の脚本も原作の持ち味を十分に出している。何よりも月代の似合う島田順司は沖田総司の役のために生まれたといってもいいほど似合っている。沖田を慕う医師の娘お悠に当時、「忍びの者」で人気があった清純派の鈴村由美がでている。ドラマでは菊十文字を大切にするあまり、陸援隊の戸沢鷲郎を沖田が殺さなかったために同僚の日野助次郎が死んだ。土方が「刀は飾り物ではない。あの時、戸沢を斬っておれば、日野は死なずに済んだ」と沖田に言う。沖田は菊一文字で戸沢を殺し日野の復讐を果たす。しかし、沖田が菊一文字を使ったのは、このときだけだったという。刃こぼれ一つしなかった。

Kiku    しかし、実際に沖田が菊一文字を所持していたという可能性はほとんどない。当時、大名すら入手は難しく、実践では不向きな刀。これは下母澤寛の著作に「沖田の刀は菊一文字細身のつくり」とされたことが広まったものという。現在も菊一文字という屋号の刃物屋が京都にある。包丁、鋏などを販売している。「桐箱入り鶴亀卸し金セット」など贈答品に人気がある。価格5775円。だいこん卸しに使うには畏れおおい気がする。

2018年5月22日 (火)

「人生不可解」 藤村操、華厳の滝で投身自殺

Photo_6     明治36年5月22日、一高生徒の藤村操が日光・華厳の滝に投身自殺した。投身に先立ち、かたわらの大樹をけずり、巌頭之感を書き残した。

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからんとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソレチーを価するものぞ、萬有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし、始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。

   ここで引き合いに出されているホレーショというのは、シェークスピアの「ハムレット」の登場人物のことである。「なあ、ホレイショ―よ、天と地の間には君の哲学などでは夢にも思い描けぬことがあるのだよ」という有名な台詞がある。それはともかく、当時夏目漱石は第一高等学校で英語を教えており、藤村は教え子であった。野上豊一郎は漱石との関係を次のように語っている。

   先生は何しろ生徒が下読みをして来ないのを嫌われたが、藤村は自殺する頃二度ほど怠けた。最初の日先生から訳読を当てられたら、昂然として「やって来ていません」と答えた。先生は怒て「此次やって来い」と云って其日は済んだが、其次の時間に又彼は下読みをして来なかった。すると先生は「勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくともよい」と大変に叱られた。するとその二三日後に藤村の投身のことが新聞に出た。その朝、第一時間目が先生であったが、先生は教壇へ上るなり前列にゐた学生の心算では、あの時手ひどく怒った故彼が自殺をしたのじゃないかと、ふと思ったのだったさうだ。3年後、漱石は小説「草枕」の中で藤村の死に対する思いを次のように書いている。

昔巌頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍に赴いた青年がある。余の観るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものはまことに壮烈である。ただその死を促すの動機にいたっては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体しえざるものが、いかにして藤村子の所作をわらい得べき。彼らは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味わいえざるがゆえに、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格としては劣等であるから、わらう権利がないものと余は主張する。

漱石は藤村操の自殺を擁護し、一定の理解を示したのだが、藤村との関係についてはそんな挿話があったのである。

  藤村操の投身自殺は同世代の青年に大きなショックを与えた。5年間で180人以上が後追い自殺したといわれる。

2018年5月20日 (日)

観応の擾乱

  観応の擾乱は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた将軍足利尊氏と弟直義両派の分裂によって引き起こされた全国的争乱。高師直・師泰の死、直義の毒殺によって収まった。

   室町幕府初期の政治体制は足利尊氏と弟直義による二頭政治で、尊氏は守護職の任命権や恩賞の授与、没収権をもち、直義は民事裁判権や所領を保証する権限をもっていた。尊氏は人間的に柔軟でよく衆を統御した。その権限を実際に執行し尊氏がもっとも信頼したのは執事の高師直である。師直は既成の権威や秩序を否定し実力主義で動乱の世を生きていく型の人物であった。尊氏、師直は荘園領主の権益をおかして自己の勢力を伸張しようとする武士たちの要望をくみあげ、荘園領主に対して急進的、否定的な政策を強行した。これにくらべ、直義は謹直で秩序を重んじ、政治理念としては鎌倉時代の執権政治を範とし、政策としては温和な漸進主義をとった。このような尊氏、師直と直義の権限、政策、性格などの相違はおのずからそれぞれの党派を形成し抗争することとなった。尊氏、師直の方には戦功、実力によって重用された武将が集まり、また足利一門のなかでも、家格の低い者や、足利氏譜代の家来も師直の方に属した。直義の方には、旧鎌倉幕府官僚系の吏僚的武士や足利一門のなかでも家格の高い有力者が集まった。族的関係からいえば、一族の庶子が尊氏方に属し、惣領が直義方に属した。地域的には畿内周辺の反荘園的な新興武士層が師直を支持し、関東、奥羽、九州など同族的結合の強い地域の武士たちは直義に属する者が比較的に多かった。もちろんこれらも原則的な区別で、武士たちの両陣営に対する離合はかなり頻繁で、流動性があった。

  師直は、1348年楠木正行を四条畷に破ってから、にわかに声望を高め、幕府部内で勢力を拡充していた直義と抗争を激化していった。翌年、直義は尊氏に迫って師直の執事をやめさせ、続いて師直は逆に直義を討とうとして、尊氏がようやく和解させた。直義は外様として養子直冬を中国に派遣していたが、直冬は九州に入って一時威を振った。尊氏は直冬討伐のため出陣し備前まで軍を進めたが、直義方の挙兵が各地に相次いだので1351年正月、急ぎ帰京した。直義方の部将が相次いで入京し、山名時氏らは直義方についた。二月、尊氏は直義に和を請い、師泰、師直兄弟は出家、助命させることで和義が成立したが、師直兄弟は上杉能憲に殺された。入京した直義は前からすすめていた吉野との和平交渉を続けたが不成立に終り、直義の立場は苦しくなり、幕府の再分裂がおこった。七月、直義は政務を辞し、尊氏、義詮父子は出陣して直義挟撃の態勢を示した。八月、直義は斯波高経らを率いて北国に向けて出立した。尊氏は南朝と和平交渉をし、直義追討の綸旨を得て東下し、相模で直義を降した。2月26日、直義は突如死去した。毒殺されたという。観応の擾乱は幕府の二頭政治の矛盾から生じたが、尊氏、直義の南朝に対する便宜主義的な態度とも相まって南朝の命運を長びかせ、南北朝の動乱を半世紀以上も続かせる主な原因ともなった。

2018年5月16日 (水)

膳所藩将軍暗殺事件の謎

Sc15137a川瀬太宰宅跡碑

   膳所藩は近江国大津周辺に位置した6万石を領する譜代藩であった。禁裏御所方火消しを任務とすることから、朝廷を守護する意識が強く、藩内には川瀬太宰(1819-1868)を中心とする尊攘派の勢力が強かった。

   慶応元年5月、第14代将軍徳川家茂が上洛することになった。老中水野忠精から、将軍の膳所泊城が藩主本多康穣に言い渡された。5月16日、予定どおり江戸を進発した家茂は、東海道を西行し、近江愛知川宿に到着したが、そのとき突然、以後の将軍の宿泊予定が変更され、膳所泊城の中止、大津宿への宿泊が発表された。ちなみにこの日程変更の5日前、膳所藩では尊攘派の一斉検挙が行われており、それらが重なって、将軍暗殺の噂が流布していた。このとき検挙された尊攘派は数十名にのぼったが、当時の記録は少なく真相はいまもって不明である。逮捕より5ヵ月後の慶応元年10月、逮捕者の内11名が死罪に処せられた。首謀者とみられる川瀬太宰(膳所藩家老戸田資能の子)は雲母越えで捕らわれ、慶応2年6月、京都六角獄舎において斬首された。妻の幸は、大津の尾花川の居宅で新撰組に襲われ、匕首で喉を刺して自害を図った。一命はとりとめたが、後に自ら食を断ち、夫の跡を追った。膳所藩の将軍暗殺計画は家老たち藩内保守派たちによる捏造事件であるのか真相は闇のままである。

2018年5月 5日 (土)

元弘の乱起こる

   元弘元年(1331)5月5日、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に洩れ、日野俊基や僧文観・円観らが捕らえられる。密告者は吉田定房(1274-1338)といわれる。定房は計画を中止するように度々諫奏したが聞き入れられなくて、そのために密告した、というものだった。そして笠置山で旗揚げした倒幕勢力は鎮圧され、後醍醐天皇は隠岐に流される。持明院統の光厳天皇が即位し、元弘の乱は一応終息したかにみえた。しかし、翌年には楠木正成が再度挙兵し、元弘3年には後醍醐も島を脱した。5月8日、新田義貞が鎌倉に攻め入って、鎌倉幕府は滅亡する。

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