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2009年12月 9日 (水)

老人だった佐々木小次郎

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  吉川英治の小説「宮本武蔵」での佐々木小次郎の描写は「前髪に紫の紐をかけ、派手やかな小袖へ、緋らしゃの胴羽織を纏っているので、少年として見えるものの、年齢のほどは、少年という称呼には当てはまるかどうか、保証のかぎりではない(中略)まず19か、20歳というところではなかろうかと思われます」とある。以後、多くの映画・ドラマの小次郎像は長身の美少年である。熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では巌流島の決闘時の年齢は18歳であったと記されている。しかしながら小次郎は越前の中条流の富田勢源の門人であったという。勢源は晩年には眼疾で弟の富田景政が家督を相続したが、小次郎は景政と試合をして、見事勝っている。諸国を修行し、燕返しの剣法を案出し、増田長盛によって豊臣秀吉に仕えようとしたが、うまくいかず、結局、豊前小倉の藩主細川忠興に仕えるようになった。つまりこれらの出自から逆算すると、天正時代にはすでに成年になっており、宮本武蔵より30歳ぐらいは年長であると考えられ、江戸時代の絵草子では佐々木小次郎は髭をたくわえた豪傑として描かれている。『二天記』の年齢記述は誤りで、実際には70歳くらいではなかったかといわれている。

2009年12月 8日 (火)

上林暁「歴史の日」

    昭和39年に集英社から「昭和戦争文学全集全15巻別巻1」が刊行された。その第4巻は昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品で知られる作家である。この「歴史の日」でもそのことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

鐘捲自斎と伊藤一刀斎

    鐘捲自斎通家は遠州秋葉に生まれ、越前に住した。自斎は中条流から出て、外他流を開いた達人で、外他通家とも称し、門人には伊藤一刀斎、佐々木小次郎らがいる。一刀斎がまだ10代の頃、弥五郎と称して自斎の下で5年ほど修行をしていたときの話である。

    弥五郎は自斎から学ぶべきことはすべて学びとってしまったので、自斎に向かって、「私はもはや、外他流の妙味を会得したように思いますゆえ、お暇をいただきます」といった。「思い上がりも甚だしい。弱年の身で何をいうか、わしと立ち合ってみよう」と自斎は木刀をとって庭に下りた。自斎は一刀のもとに打ち据え、その慢心をうち砕くいてやろうと思った。ところが逆であった。弥五郎は見事に自斎を打ち込んだ。自斎はうめいた。しかし、どうしても解せなかった。「わしは諸国をめぐって、多くの武芸者と試合をして来たが、いまだに敗れたことはない。しかし今その方と立ち合って、確かに負けた。その方はいつ、この妙技を会得したのか」弥五郎は言った。「人は眠っている時でも足がかゆいのに間違って頭の方をかくことはありません。足がかゆければ足をかき、頭がかゆければ頭をかきます。つまり、人間には機能が働いていて、自ずと防衛するようにできています。その原理を働かそうと考えたのです。」自斎は秘伝をすべて弥五郎に授けた。

   伊藤一刀斎開眼の秘話はまるで星飛雄馬が大リーグボール1号を生んだときに似ている。野球とは関係のない、ボクシングや剣道、射撃を体験し、はては「打たれて結構、もう一歩進んで打ってもらう」という禅寺の和尚の言葉で魔球のヒントをつかんだ。諸芸相通ずるものがあるように思える。

2009年12月 7日 (月)

梅棹忠夫「キバと幸福」

    NHKは、日本海海戦を大勝利にみちびいた知将の秋山真之、その兄の陸軍大将秋山好古、同郷で親友の俳聖正岡子規、三人の生涯を余すところなく描いた司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を放送している。二回目を見終わったところであるが、率直な感想は、明治人の気概や爽快さなど横溢しており、ドラマとしては良質のものである。ただ日露戦争に続く日本の悲惨な歴史を考えると手ばなしで喜ぶこともできない人も多いだろう。ドラマの中でしばしば福沢諭吉の言葉がでてくる。「一身独立して一国独立す」と。ドラマのテーマを一言で言いえている。今日の朝日新聞の夕刊記事で梅棹忠夫さんのことが紹介されていた。梅棹忠夫さんの漢字廃止論は有名だそうだ。また宮沢内閣のとき、アジア太平洋問題に関する首相の諮問委員会が設置された最初のゲストスピーカーが梅棹さんだった。開口一番「日本が大陸アジアと付き合ってろくなことがない、が私の結論です」と言われて、参加者はあっけにとられたそうだ。まるで福沢の脱亜入欧論ではないか。その梅棹さんはこんなことも言っている。「みなさまがたのなかには、明治生まれのかたがかなりたくさんいらっしゃるようにお見うけいたしますので、たいへん失礼な表現になるかとおもいますが、明治をしらない現代人からみれば、明治はやはり、はるかなむかしというほかありません。この一世紀は、日本の国家にとりまして、ひじょうな躍進の時代であり、いわば国家としての急速な成長期でありました。極東の一角のささやかな国家から、たちまちにして世界のいわゆる列強のひとつに仲間いりをするようになったのであります。数次にわたる対外戦争および第二次世界大戦における敗戦というきびしい試練をうけましたけれども、その傷もおおむね回復して、今日においては、国の実力からいいましても、すでに堂々たる大国であり、ふたたび第一級の国にのしあがったのです。もともと日本は、明治の初期には完全な農業国であって、だいたい国民の80%以上が農民でした。それがいまや農業人口は40%をきるところまで縮小しています。日本はそういう国がらにかわってきたのです。農業国から工業国にはっきり転換したのです。そして、それにともなって、国家の、あるいは社会の、いわば生理作用がかわってきたのです。わずか一世紀のあいだに、日本はすっかり体質がかわってしまいました。そういう社会あるいは国家の体質の変化にともないまして、国民の個人生活、あるいは人生についてのかんがえかたというのも、明治のころとくらべまして、もうすっかりべつなものになってしまっていると、わたしはおもうのです。(中略)明治時代のひとの人生の生きかたというものをかんがえてみると、これは理想にむかって驀進した猪突猛進型であったといえましょう。イノシシがキバをむきだして目的にむかって驀進した。そのとき、個人の目的と国家・社会の目的とは一致していたのです。そのものすごいエネルギーによって、かれ自身は立身出世し、同時に近代日本の建設がすすんで、このような繁栄がもたらされたというわけです。しかしながら、その繁栄の結果として、現代ではイノシシのキバは不要になったのです。あるいは、平和な社会生活においては、キバは邪魔でさえある。おしあい、へしあいの高密度社会で、そういうキバをふりまわされては、あぶなくて仕かたがない。他人が迷惑する。そういう時代になってきたのです。そこで、キバはすてるほかない。武装解除です。現代は、イノシシたちの武装解除の時代です。キバをうしなったイノシシとは、なんであるか。それはつまりブタでしょう。現代の日本の青年たちはまさにブタのごとき存在になりつつあるというわけです。(中略)これはどうも日本だけの話ではないのでして、近代国家の生活者一般の未来像なのです。」

 「キバと幸福」1959年11月10日の講演。梅棹忠夫のユニークな文明史観、未来像は注目に値する。1959年というかなり以前の講演であるが、今、「坂の上の雲」を見て、梅棹忠夫の著作に注目している。さらに講演は続く。

「そこでこれからどうなってゆくんだろうかということですが、こういう世俗のきわみのままでどんどんながれていって、われわれの社会はどうなってゆくのか。心の奥そこまで世俗化され、そのあげくのはてに、いったいどういうことになってゆくのかということです。どうもこれはへんないいかたでありますが、わたしは、そのような幸福追求とか生活水準の向上とかの世俗のきわみのはてに、もういっぺんに崇高な、なにか聖なるものがでてくる可能性があるのではないか、とかんがえています。聖なるものというのは、いったいどういうことか。かんたんにいいますと、目的がないということなのです。すくなくとも、実利的目的がない、そういう性質のものです。そのことを一所懸命にやったところで、わが身になんの利益も還元することがない、そういう性質のものです。つまりなにかを獲得するために自分はこうするのだということでなしに、おかえしを期待しない行為、これをわたしはひじょうに神聖なものだとかんがえています。完全な自己放出、あるいは、自分自身をなにかにささげてしまう、そういう生きかたです。さきほどから俗なるものといっているのは、それとはちがうものなのです。こうすればこうなるというような、やりとり関係のなかで人生が組みあげられている。幸福追求というものはやはりそうだとおもうのです。なにか自分が努力することによって、こういうものをかちとることができるのだ、というふうになっている。聖なるものというのはそうではなくて、全然おかえしを期待しないで自分自身をなにかにポッとほうりなげてしまう。こういうのが、聖なるものとよばれるものだとおもいます。そして、人間の聖なる行為というものは、世俗的欲求がいちおう充足されたときにでてくるものではないか、というのがわたしの仮説なのです。(中略)ブタに、もう一どキバがはえてくるかもしれないのです。ブタの再武装です。しかし、このときキバはすでに防御や攻撃に有効な、生物的生存目的をもったキバではありません。あたらしいキバは精神のキバです。人間の問題は、本来人間の精神の問題です。もし個人がキバをもつとすれば、それは精神のキバです。それは、生物的生存目的のためには不必要な武装です。それは、生物的な目的の喪失をこえて、人間精神の聖なる放出のための武装です。世俗の生活がみちたりたとき、精神の神聖な再武装がはじまるというわけです。」

特殊潜航艇の悲劇

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    太平洋戦争開戦から68年。今夜NHKスペシャル「真珠湾の謎、悲劇の特殊潜航艇」を見る。真珠湾攻撃には飛行機による航空攻撃が知られるが特殊潜航艇5隻も加わっていた。戦艦アリゾナ撃沈は飛行機からの攻撃によるものであるが、海軍軍令部の有泉龍之助中佐が特殊潜航艇を軍神として讃え、巡洋艦セントルイス撃沈を戦艦アリゾナ撃沈として誇大に特攻の宣伝に利用していた。

    機密保持のため甲標的と呼ばれていた特殊潜航艇は、全長24m、2人乗り、2本の魚雷を持ち、5隻が出撃した。これまで4隻が発見され、うち1隻は江田島の自衛隊内庭にある。今年、真珠湾内に侵入した横山艇が沖合い6㎞、水深400mの海底で発見された。胴体は無惨にも三つに切断されている。そこに横山正治中尉と上田定二曹は今も海底に眠っている。乗組員10人のうち9人は戦死し、酒巻和男少尉は捕虜となった。

    番組を見て奇妙なことが一点あった。真珠湾攻撃は午前7時55分からであるが、6時37分には駆逐艦ウォードにより特潜1隻が撃沈されている。アメリカ側は既に日本軍の奇襲攻撃を知っていながら、何故戦闘態勢をとらなかったのか謎である。鯨との誤報が多いからという理由は不可解である。だが米司令部はこの件で追求されることはなかった。番組では真珠湾で散った9人は九軍神と讃えられ、太平洋戦争で特別攻撃で4000人の若者が亡くなったという痛ましい事実が報道されている。

2009年12月 6日 (日)

書聖小野道風出生の謎

Img_0017 鳥居清広「小野東風」

   漢字の和様化をなしとげた平安時代の能書家小野道風(894-966)は国民にたいへん親しまれた人物である。それは柳の枝に飛びつこうとして幾たびも跳躍を試みる蛙を見て発奮、精進の結果ついに書道の奥義を極めたという逸話によるものであろう。しかしその生涯には謎が多い。道風は小野妹子の子孫で、小野篁の孫、大宰大弐小野葛絃の子である。その生年は「日本紀略」によって寛平6年に生まれ、康保3年、73歳で没したことは定説になっている。名の「東風」は本来、「みちかぜ」と訓読すべきであるが、「とうふう」と音読しているのは、唐風化の影響である。しかしながら、東風の生まれた寛平6年には菅原道真の建議により、遣唐使の派遣が停止され、東風が生きた時代は国風化が流行したときである。また若いときから書道家として認められたが、生涯官位は低く73歳で没したとき、正四位下内蔵権頭にすぎなかった。小野妹子の末裔にしては不自然であろう。生まれは愛知県の春日井市と伝えられる。小野葛絃(くずお)が任地の時、里人の娘との間に生まれたのが、小野東風だというのである。この説は尾張藩士天野信景による「塩尻」に記述され、それをうけて松平君山が「張州府志」で小野東風生誕地と述べ、以後尾張藩諸学者の通説のようになった。現在、春日井市には「東風記念館」があり、ゆるキャラの「東風くん」まで生まれた。だが、本当に小野東風が春日井市出身であるかは疑わしい。江戸時代、浮世絵などをみても小野東風ブームのようなのがあった。どうやら東風生誕地というのは尾張藩のでっち上げのように思える。没後700年経って、古記録もないのに、ご落胤説を持ち出しても歴史家は信用できない。だが、記念館やらグッズまであるので、まぁ、言ったもん勝ちなんでしょうかね。

2009年12月 3日 (木)

経塚と末法思想

   経塚とは、仏教の経典を自らの手で書き写し、これと地中に埋納して、未来永劫に保有しようという意図で築造された仏教遺跡のことである。その発祥は、中国では早く6世紀のころに経典を地中に埋納した例がある。入唐僧円仁慈覚も中国で仏教の法難のようすをつぶさに見て帰り、比叡山横川に宝塔を建てて法華経を納めたことがある。これらは経塚行為の端緒であると考えられる。経塚は初め貴族や豪族によって築かれたが、遊行僧によって広められ、11世紀から盛行した。とくに11世紀後半から12世紀にかけて、国内で末法思想到来の実感が人々の間に広まるようになると、経塚はその対策の一つとして、隆盛しはじめた。

   経塚遺物に「末法」の語のみえる最古の例は延久3年(1071年)の銘をもつ、鳥取県大時出土の瓦経である。とくに北九州地方を中心に、次第に全国的な広がりをもって隆盛していった背景には末法思想が大いにあずかっているといえる。そしてそこから弥勒の出世を期して経巻を地中に埋納するという目的が生じているのである。

毛越寺

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  毛越寺は中尊寺とともに平泉における奥州藤原氏の仏教文化を伝える名刹である。嘉祥3年(850年)円仁開基の嘉禅寺に始まり、永久5年(1117年)鳥羽天皇の勅願、藤原基衡本願によって再興されたものである。早く嘉禄2年(1226年)に焼け、のちにまた天正元年(1573年)の兵火にあって、原形をまったく失い、今はわずかに庭園と礎石を残しているだけである。大泉池と呼ばれる苑池を中心に旧伽藍の建物跡礎石を随所にとどめている。池は円隆寺と呼ばれた金堂院の全面にあり、池中央の中島を通して南と北に橋が架け渡されて南大門に通じていた。

    毛越寺には平安時代中葉に興った古代の遊宴歌舞である延年の舞が伝承されており、毎年正月20日の夜中に常行堂において行われる。

2009年12月 2日 (水)

信貴山の毘沙門天信仰

    戦国の武将上杉謙信は毘沙門天を信仰し、「毘」の字を旗印として戦った。日本における毘沙門天信仰は、仏教伝来とともにはじまる。聖徳太子は物部氏との抗争で戦勝祈願のため、小さな四天王像を髪の中にいれて戦って勝利したので、摂津の玉造に四天王寺を建立した。毘沙門天は中世においても武神として深く尊崇された。楠木正成の母親は、立派な男の子を得たいと、信貴山の毘沙門天に祈願をかけて、正成を生み、毘沙門天の武勇にあやかるように、正成の幼名を多聞丸と名づけた。信貴山には毘沙門天を祀った高僧命蓮に関する説話が伝えられている。

    信濃国の僧命蓮は、法師となり、奈良の東大寺で受戒をうけたのち、信貴山に登った。山には毘沙門天像を安置した堂があるだけであった。そこで命蓮は12年間、庵室にこもって修業した。そのころ醍醐天皇の病が篤く、僧たちが祈りや修法などいろいろつくしたが、少しも効があらわれない。不思議な霊力のある僧が信貴山にいると聞いた蔵人が命蓮に会い、祈願をお願いした。すると、祈りの効きめによって、帝は快くなられるという奇跡がおきる。そのほうびとして僧都、僧正という高い位を上げよう、また寺には荘などを寄贈しようと告げたが、命蓮はどちらもかえって煩わしさが加わるだけだと、強く辞退した。やがて姉の尼公が命蓮に会いに信貴山へやって来た。尼公は「たい」(袈裟の一種。読経などのときに身につける)を持参して二人は劇的な再会をする。

2009年12月 1日 (火)

恵美押勝と栄山寺八角堂

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    栄山寺(奈良県五条市小島町)は藤原武智麻呂(藤原不比等の子)が養老3年(719年)創建したと伝えられる。本尊は薬師如来で、薬師堂に安置され、天平時代の建築たる単層本かわらぶきの八角堂はその子藤原仲麻呂(恵美押勝)が天平宝宇7~8年頃、亡父母のために造営したものである。小規模な八角円堂で組物も簡素な三斗とし、全体にやや組手で清楚の趣がある。現在の建物は明治に復元されたものである。押勝は孝謙太上天皇の寵臣道鏡を除こうとして764年に反乱をおこしたが、近江で亡ぼされた。

   寺には日本三鐘の一つとして名高い小野道風筆と伝えられる鋳の銘のある銅鐘がある。

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