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2021年9月18日 (土)

芹沢鴨暗殺

   芹沢鴨が斬られたのは、文久3年9月18日の夜のことである。島原の角屋で宴会がもたれた後、したたかに酔った芹沢は壬生へもどり、大酔し、お梅を抱いているところを、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・原田左之助ら5名に襲撃された。芹沢は脇差を抜いてわたりあったという説もあるが、実際には泥酔して前後不覚に寝込んでいたところを、蒲団ごしに刀を突き刺されたというのが真相らしい。翌日、近藤は守護職邸に、局長芹沢は急病による頓死ということで届け出ている。 

 

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 芹沢が最後の宴会をした角屋「松の間」

 

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 芹沢鴨暗殺の間となった八木家の一室

 

 

 

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2021年8月26日 (木)

崇徳院の怨霊

D774ce39e703726da347ll     保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐松山に配流された。のち雲井御所で約3年間過ごし、鼓が岡の木丸御所(坂出市)で6年間苦難の日々を過ごした。院は指の先から血をしたたらせながら五部の大乗蔵を写経した。その経文を都のどこかに奉納したいと願ったが、信西のために送り返された。院はこの恨みをはらすため自分の血で願文を書き、魔道に生きようとした。1164年この地で崩御された。46歳であった。歌人の西行はかねてから院の知遇を得ていたが、その没後4年たって讃岐へ渡り、白峯(香川県坂出市青海町)の崇徳上皇の御陵を訪れている。そこで西行は真心をつくして院に諌めの言葉をかけるが、上皇の怒りを抑えることはでなかった。この話は上田秋成の『雨月物語』「白峯」にも伝えられている。平清盛の次男基盛の溺死、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀など変事が起こり、上皇の御霊を鎮めるため白峰寺に頓証寺殿(画像)が建てられた。後世になっても、天変地異があればよく崇徳上皇の崇りとされた。崇徳上皇は歴代天皇の中で、最も恐れるべき霊とされたのである。(8月26日)

 

 

2021年8月18日 (水)

徳川家治は名君だった!?

240pxtokugawa_ieharu     徳川15人代の中で第10代将軍徳川家治(1735-1786)は将軍在職26年という長期にわたる割に何故かその人物像は知られていない。家斉50年、吉宗30年、家綱29年、綱吉29年、家光28年と第6位である。

    その性質は温和であり、文武両道を嗜み、壮時は快活であり、力持ちでことに記憶がよかった。射礼を復興し、ことさらに絵を描き、書画の鑑定にまさったと伝えられる。将棋も好んだ。しかし、旧慣を重んじ異風・珍味・華美は嫌いであり、妓女などが舞曲を奏するというので山王祭も見物せず、筝三絃も好まなかった。とても時間厳守で几帳面であった。また、知識欲も旺盛で、海外の情勢に留意し、物価の高低も知り、流行病や大名旗本の病気の有無をも尋ねた。ところで、病には下々をおもい、特に関心をもった。それらのために医書の出版も心がけたのである。蘭学を奨励し、解体新書が出版されたのも家治の時代である。

 1769年8月18日、家治は側用人・田沼意次を老中格に抜擢した。これまで家治は田沼意次人に重用したため、暗愚と見なされていたが、田沼の評価が上がった今、家治の再評価もすべきか。問屋・株仲間制度の強化など商業資本との結びつきを企図するなど開明的な政策がとられた。ともかく泰平の将軍としては名君といえるだろう。

2021年8月17日 (火)

歴史資料と憲政資料室

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  戦後の社会的混乱の中で、貴重な文書類が散逸の危機にあったが、1947年、国立国会図書館内に憲政資料室が開設された。幕末期から現在にいたるまでの政治家、軍人、官僚などが所蔵していた文書類を中心とする。開設にあたっては大久保利通の孫である歴史家・大久保利謙(1900-1995)の尽力があったことも特筆される。

    どのような資料が所蔵されているかは国立国会図書館のホームページでわかる。「高木惣吉関係文書」によると昭和19年8月末、海軍少将・高木惣吉(1893-1979)は井上成美海軍次官より終戦工作の密命を受け、重臣・軍人・皇族等の間を往復しながら奔走した。日記には昭和20年5月5日から8月17日までの行動が記されている。

(参考:「高木惣吉 日記と情報」伊藤隆編 みすず書房 2000年7月)

 

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    大久保利武         大久保利謙

 

 

2021年8月15日 (日)

終戦記念日

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    本日は76回目の終戦記念日。昭和20年8月15日の朝、陸軍大臣・阿南惟幾は「一死、大罪を謝し奉る」と書き残し割腹自殺を遂げた。阿南は鈴木貫太郎内閣の陸相となり、本土決戦論を主張。ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件つき受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立した。渥美清の連続ドラマ「泣いてたまるか」に「ああ、軍歌」という一編がある。ある会社員が宴会で上司から軍歌を無理やり歌わせられるが、どうしても軍歌は歌いたくないと拒んで、周囲から冷たくされるという話。昭和37年ごろから数年間、回顧調ブームが起こりさかんに軍歌が歌われた。いまではテレビなどでほとんど軍歌を聴くことはなくなった。

2021年8月14日 (土)

日本のいちばん長い日

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   阿南惟幾            大西瀧治郎               宇垣纏

 

 玉音放送が流れた昭和20年8月15日正午に至る一昼夜に繰り広げられた歴史ドラマは数本ある。中でも半藤一利のノンフィクションを原作とした岡本喜八監督の東宝オールスター大作はヒットした。しかし、天皇の詔勅を録音したレコード盤の争奪だけの絞った作品であれば、東宝の5年前、1962年に東映が鶴田浩二主演で「八月十五日の動乱」を作っている。ただし、これには実名は出されず、フィクションとして描いている。14日から18日までに自決した軍人は次のとおりである。

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将(1891-1945)が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。大西は特攻攻撃の発案者の一人だった。

    敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。主な軍人の自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

2021年8月 2日 (月)

目安箱

   徳川吉宗の享保の改革のとき、一般庶民の幕政についての意見をもとめるために評定所前に設置された投書箱。1721年8月2日から、和田倉御門近くの評定所前に毎月2日、11日、21日の月3回目安箱を設置した。設置の目的は幕政改革にあたり広く政策上の有益な意見を求めることにあったが、内容の大半は役人の不正を訴えるものが多かった。採用された例としては、享保6年12月に、漢方医の小川笙船が、貧困な病人を救うための施薬院の設置を嘆願する投書を行った。吉宗はこれを採用し、小石川療養所を設けた。

 

2021年7月12日 (月)

鎌倉幕府成立

500_10881307   治承4年(1180)、源頼政は、後白河法皇の皇子以仁王の令旨を奉じて挙兵したが、宇治で敗死した。しかし、以仁王の名で発せられた平氏討伐の令旨は、諸国の源氏が挙兵するきっかけとなり、以後10年間、全国的な内乱となった。これまで源平の合戦となど言われてきたが、実はそれだけにとどまらない。源氏の中でも頼朝と義仲、義経のように、互いに対立した。このように対立関係も多様なので、最近では1180年から1189年の頼朝による奥州平定までの戦いを「治承・寿永の内乱」と呼ぶようになっている。

   では本格的な武家政権である鎌倉幕府の成立はいつであろうか。古くから建久3年(1192)7月12日、頼朝が征夷大将軍に任命されたときする説があり、近年、「山槐記」に頼朝の征夷大将軍任官の記述も発見された。これは幕府という語の意味に着目したものであるが、現在では1192年説をとなえる学者は少ない。軍事政権としての幕府が成立した過程が問題となり、さまざまな説がみられる。

   そのなかでも、文治元年(1185)11月、守護・地頭の任命権を獲得したときを幕府の成立とみる学者は多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配権を強調してみるならば、寿永2年(1183年)10月宣旨を重視する学者もいる。これはこれは頼朝が、北条時政を上洛させて、義経の追捕をせまり、それを口実として、諸国に惣追捕使(のちの守護)・地頭(国地頭)を任命する権利と一反あたり5升の兵糧米を徴収する権利などを獲得した時期である。このように鎌倉幕府創設年代は諸説あり、「鎌倉幕府1192年成立」として覚えるのではなく、「1185年は守護・地頭設置」といように、具体的史実を中心に年代をまとめておく。歴史は単なる暗記物ではなく、歴史的事実のうえに立って構成していくものである。

 

 

2021年7月11日 (日)

水戸黄門の「黄門」とは何か?

   今日は映画やドラマで知られる「水戸黄門」のモデルとなった徳川光圀の誕生日。どうして彼が「水戸黄門」「黄門さま」として庶民に親しまれてたのか知っている?当時は、老中や若年寄などの幕府の官職のほかに、京都の天皇からもらう官職があった。光圀が天皇からもらったのは、中納言という官職で、この別称が「黄門」である。つまり光圀だけでなく歴代の水戸藩主は全員水戸黄門である。広辞苑の説明によれば、「唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう。中納言の唐名。」とある。映画やテレビでは助さん格さんを連れて旅に出たことになっているが、実際には、諸国はおろか、ほとんど旅に出ることはなかった。学問好きの光圀は「大日本史」の編纂事業に専念していた。(7月11日)

 

 

2021年7月10日 (土)

登呂遺跡と板付遺跡

150737582_624_v1352459826   死ぬまでに一度訪れたいところはどこだろうか?ナポリでも吉野ヶ里でも箸墓古墳でもない。それは登呂遺跡だ。戦後の小学生が敗北感で打ちひしがれていたとき勇気を与えてくれたニュースが3つある。「フジヤマのトビウオ」の古橋広之進の水泳での活躍。湯川秀樹の日本人最初のノーベル賞。そして静岡市にある弥生時代後期(1世紀)の村落遺跡、登呂遺跡である。1943年に発見され、戦後1947年の7月10日に本格的な発掘調査が行われた。竪穴式住居、高床式倉庫の遺構が検出された。画像はゆるキャラのトロベー。だが現在では水田跡は板付遺跡(福岡市)や菜畑遺跡(唐津市)のほうが古いとされている。稲作初期の集落は北九州にありそうだ。水田稲作は弥生時代に始まると小学校で教わったが、1978年に板付遺跡の縄文地層から稲作の跡や木製農具、石包丁などが発見され、縄文晩期から水田は始まっていたと考えられるようになっている。その真偽はいまだ論争は続いているが、日本の初期の集落であることに間違いなく、重要な遺跡の1つである。でも今の小学生は可哀そうだ。覚えないといけないことが一つ一つと増えてくるからだ。1980年には、唐津市の菜畑遺跡で板付と同じ年代の水田が見つかり、木製の鍬や鋤が出土した。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は外敵に備えて周囲を囲った環濠集落として重要であろう。そして板付遺跡。縄文時代末期に、大陸から稲作が伝わり、稲などの作物の栽培による安定した定住生活へと変化した。だが弥生時代=水田稲作ではなくなると、縄文時代という日本独自の時代設定も意味があるのだろうか。

 

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