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2019年6月12日 (水)

まぼろしの邪馬台国

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 崇神天皇の大叔母で卑弥呼に擬される倭迹々日百襲姫命を葬った箸墓古墳(奈良県桜井市)

 

   むかし森繁久弥が盲目の作家・宮崎康平(1917-1980)を舞台で演じていたのをテレビで見た記憶がある。大映テレビ制作のドラマ「少女が大人になる時」(1984年)で法学部学生の清二(金田賢一)は「実は歴史が好きで、邪馬台国は九州にあったと思う」というシーンがある。近年も竹中直人・吉永小百合で映画化されている。ところで火野葦平(1907-1960)の短編小説「島原半島」(昭和28年4月別冊文芸春秋32号)を読んでいると、島原半島を愛した盲目の詩人・鳥井浩一は宮崎康平をモデルにしているように思える。二人は「九州文学」を通じて知り合いになった。「まぼろしの邪馬台国」はベストセラーとなった。1989年2月22日に吉野ヶ里遺跡が発掘され、佐原真(奈良国立文化財研究所)は物見やぐらが魏志倭人伝の楼観をうかがわせると書いた。朝日新聞は「吉野ヶ里の楼観に立てば邪馬台国が見える」と報道した。100万人の見物客で吉野ヶ里ブームが起こり、一時期、九州邪馬台国説が優勢であるかに思えた。しかし、近年の考古学的調査により、奈良県の箸墓古墳が卑弥呼の墓であることがきわめて有力となり、大和説を唱える学者が主流を占めている。2014年、国立歴史民俗博物館では放射性炭素による年代測定法に独自のデータによって補正を加えた結果、箸墓古墳が築造されたのは、西暦240~260年頃とする結果を発表した。これは247年に死亡したと推定される卑弥呼の死亡時期と合致する。春城秀爾は、卑弥呼は生前に築造を始め、死亡時に大部分は完成していたと推測している。2010年には纏向遺跡で卑弥呼の宮殿跡とみられる建物跡や大量のモモの種が発見された。「魏志倭人伝」では卑弥呼が倭国を鬼道で支配したとあり、祭祀の痕跡とみられる。道教の神仙思想ではモモは不老不死や魔除けの呪力があるとさる。2003年には唐古・鍵遺跡(奈良・田原本町)から、大規模な集落跡が発見され、幾重にも「環濠」が巡ったとみられる。今回の発見でさらに纏向地域を中心とする地域が邪馬台国と関連する説が有力となった。「魏志倭人伝」で倭国のクニがみな九州にあり水行十日・陸行一月で近畿の大和に話が飛ぶのは、いかにも不自然なので、最近では「魏志倭人伝」の記述は北九州に限定的に言及したものと捉えるのが自然とみられる。つまり卑弥呼の邪馬台国は九州にあった倭国の連合政権で、北九州の地方政権と近畿の大和に存在した中央政府と二大勢力が対立していた構図も唱えられている。(参考:水野正好・白石太一郎・西川寿勝「邪馬台国」)

 

 

 

 

2019年6月 5日 (水)

池田屋襲撃事件

    池田屋襲撃は新選組の名を一夜にして轟かせたが、隊士たちのその後の人生にも大きな転機となっている。当夜、近藤勇は隊員を二手に分けて、表出口には谷万太郎、武田観柳斎、浅野藤太郎が、裏口には奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らが固めた。そして店内へ近藤勇が先に立って、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の3人を従えて突入したとするのが通説である。なぜ近藤らわずか4人で20人もの勤王の志士に勝てたのか。それは真剣を使い慣れた近藤らと剣道しか知らない志士との差、それに池田屋は幅6m、奥行き約27m京都特有のうなぎの寝床が近藤らに有利となった。永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、表口には谷三十郎、原田左之助となっている。また池田屋襲撃には谷三兄弟の3男、谷周平が参加したという記録もある。事件当日の奮戦ぶりから、周平は近藤の養子となって、近藤周平と改名する。その後、周平は近藤の信を失なって縁組は解消され、旧姓に復している。原田左之助は十七両の褒賞金を受領している。長州志士を中心とする20名余りのうち7人が討ち死にするも、裏口を固めていた3人が斬られて突破され、多くの志士が脱走した。当夜の新選組の犠牲者は奥沢栄助ひとりとされている。後日、安藤、新田ら死亡した。

    武田観柳斎は長沼流軍学をもって知られ、二十両の褒賞金を受領している。その後、薩摩に通じ、竹田街道の銭取橋で斎藤一に斬殺される。浅野藤太郎も同額の二十両を受領している。浅野はその後、金策が露見して、島原において斬殺されている。藤堂平助は活躍により二十両を受領している。その後、高台寺党に加わり、三条油小路において新選組に斬殺される。沖田総司はよく知られるように池田屋襲撃時、戦闘中に喀血昏倒する。池田屋襲撃の近藤配下の隊士の中で明治まで生存したのは永倉新八ただ一人だった。原田左之助に関しては死亡時期不明。通説では上野戦争で戦死したとされるが、満州で馬賊となったという生存説もある。(6月5日)

 

 

2019年6月 1日 (土)

日本の通貨

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   1955年のこの日、現行の1円硬貨が発行された。日本初のアルミニウム硬貨。

   通貨の種類は、銀行券が千円紙幣、二千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣。政府鋳貨が1円、5円、10円、50円、100円、500円、記念貨幣。板垣退助の百円紙幣など戦後発行の札はいまでも使える現行紙幣。日本の通貨を「円」と定めた人は?明治2年3月4日に、大隈重信が中心となり幣制改革が行われ、造幣局が設立され、通貨単位が両から円に改められた。(6月1日)

 

 

 

2019年5月30日 (木)

沖田総司は、本当は美剣士ではなかった

E52e4ae9  慶應4年5月30日夕刻、沖田総司は25歳で没した(享年については24歳説、27歳説など諸説あり)。最近、歴女ブームで有名人のお墓を訪ねて歩く「墓マイラー」が増えて、賑わっている。歴女に人気の新選組一番隊組長、沖田総司の墓は六本木ヒルズの裏手、専称寺(港区元麻布)にある。ふだんは参拝できず、塀の外から眺めて拝むようになった。ただし年に1度だけ総司忌のみお参りできる。小さな墓碑は読めないほど風化が進んで、幼名の「沖田宗次郎」とある。

 沖田総司の性格はひじょうに明るく冗談ばかりいい、子ども達ともよく遊び、亰の町医者の娘との恋仲は、師近藤の意見で別れたと伝えられている。総司はどんな顔をしていたのか?生前の写真は残っていないので誰にもわからない。痩せすぎて目が細く口は大きい。当時の知人は、「ヒラメのような顔」といっている。

 むかし月形龍之介主演の「剣士・沖田総司」(1929年)製作のとき総司の姉みつ(1833-1907)の孫である沖田要(1894年生れ)をモデルに肖像画が作られた。実際の総司に似ているかどうかは定かではないが、よく歴史の本に使われているようだ。

 孤高の美剣士、沖田総司のイメージは映画やドラマで作られたものだが、一般的には島田順司が有名である。若い人にとっては草刈正雄、田原俊彦や藤原竜也かも知れない。最初に沖田総司を主役級のヒーローにしたのは月形龍之介だそうだ。だが映画で最初に沖田を演じたのは、「維新の京洛」(1928年)の寺島貢である。翌年に月形龍之介が、そして阿部九州男が「大殺生」(1930年)で沖田を演じた。

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  月形龍之介

 

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  島田順司

2019年5月22日 (水)

五月病と藤村操の自殺

   「五月病」という言葉がある。日本では会社や学校など4月にスタートするが、新生活になじめず一月が過ぎたころにストレスがたまり、ひどい場合には自殺する若者が多いという。明治36年5月22日、一高生徒の藤村操が日光・華厳の滝に投身自殺した。投身に先立ち、かたわらの大樹をけずり、巌頭之感を書き残した。

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからんとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソレチーを価するものぞ、萬有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし、始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。

   ここで引き合いに出されているホレーショというのは、シェークスピアの「ハムレット」の登場人物のことである。「なあ、ホレイショ―よ、天と地の間には君の哲学などでは夢にも思い描けぬことがあるのだよ」という有名な台詞がある。それはともかく、当時夏目漱石は第一高等学校で英語を教えており、藤村は教え子であった。野上豊一郎は漱石との関係を次のように語っている。

   先生は何しろ生徒が下読みをして来ないのを嫌われたが、藤村は自殺する頃二度ほど怠けた。最初の日先生から訳読を当てられたら、昂然として「やって来ていません」と答えた。先生は怒て「此次やって来い」と云って其日は済んだが、其次の時間に又彼は下読みをして来なかった。すると先生は「勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくともよい」と大変に叱られた。するとその二三日後に藤村の投身のことが新聞に出た。その朝、第一時間目が先生であったが、先生は教壇へ上るなり前列にゐた学生の心算では、あの時手ひどく怒った故彼が自殺をしたのじゃないかと、ふと思ったのだったさうだ。3年後、漱石は小説「草枕」の中で藤村の死に対する思いを次のように書いている。

昔巌頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍に赴いた青年がある。余の観るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものはまことに壮烈である。ただその死を促すの動機にいたっては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体しえざるものが、いかにして藤村子の所作をわらい得べき。彼らは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味わいえざるがゆえに、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格としては劣等であるから、わらう権利がないものと余は主張する。

漱石は藤村操の自殺を擁護し、一定の理解を示したのだが、藤村との関係についてはそんな挿話があったのである。

  藤村操の投身自殺は同世代の青年に大きなショックを与えた。5年間で180人以上が後追い自殺したといわれる。

 

 

2019年5月20日 (月)

7世紀唐王朝・高句麗と日本

   天皇という号がいつ成立したか定説はないが、近年の木簡の出土から天武天皇の時代とする説が有力である。ただし「日本書紀」に推古朝16年(608)に小野妹子を大使として持たせた国書には「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」とある。この国書の「天皇」の文字が天皇そのものをさすのか、文飾であるのかわからない。ともかく7世紀前半から後半にかけての東アジア世界は激動の時代であった。

    618年5月20日、李淵が隋の恭帝から禅譲を受けて唐朝の初代皇帝に即位し、やがて貞観の治とよばれる最盛期を迎え、周辺諸国を圧迫した。半島では、百済、新羅、高句麗が対立していた。百済では、641年、義慈王がクーデタによって権力を掌握し、642年以降、新羅に侵攻した。高句麗では642年、残忍暴虐な泉蓋蘇文が栄留王や貴族を惨殺し、百済と結んで新羅を攻撃した。新羅は唐に救援を求め、唐の太宗は644年から5回にわたって大軍を率いて高句麗を攻めたが、泉蓋蘇文は唐軍を退けた。しかし彼の死後、国内の権力闘争で分裂し、668年、高句麗は唐に亡ぼされた。倭国皇極天皇期の政変(中大兄皇子、中臣鎌足らによる蘇我氏滅亡、乙巳の変)もこのような東アジア情勢の変化と関連して考えることができる。

2019年5月17日 (金)

鎖国の歴史

Img_890339_14167499_0    1641年のこの日、江戸幕府は平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させた。これで鎖国体制の完成をみた。

   江戸幕府は海外との貿易を統制し、日本船の渡航を禁止した。とくにオランダ人以外の西洋人が日本にくることを禁じ、オランダ人を長崎の出島に住まわせて、かつてに貿易することを禁じた。スペイン、ポルトガル、イギリスとの交渉は絶たれた。これは新教国オランダが日本との貿易を独占するため、旧教国の植民地主義を、国土侵略の実例であると宣伝したことが、幕府の外交政策、禁教令に反映していると説かれる。しかし16世紀のおける世界史状況を考えると、すでにスペイン、ポルトガルは衰退期に入っているのに反し、イギリス・オランダはその植民地を奪取しつつあって、むしろ新教国の植民地政策のほうが、はるかに恐るべき存在であった。以上の理由から、幕府関係者がオランダが新教国であるから安心であるとしたのではあるまい。島原の乱後ポルトガル船の来航を禁止し、それを一般国民に納得させるため、禁教問題が利用された。すなわちポルトガル・スペイン両国は、国土侵略を企図し、キリスト教はそれを主導する邪宗教であるから、これらの国とはいっさい交渉を絶つべきであるとし、以後江戸時代を通じて、キリスト教を極端に危険視した。オランダ・イギリスには当初、平戸・長崎の2港に限って貿易が許可されていたが、イギリスは日本向けの中国商品を入手する市場をもたなかったので、ついに赤字経営がかさなり、1623年に平戸商館を閉鎖した。オランダはこのころ台湾に基地を設置することに成功し、ここで中国とともに、江戸時代を通じてわが国と交渉を続けた。朝鮮とは1607年以後、宗氏の対馬を介して貿易が行われた。江戸時代は鎖国といわれるが、通商交易に関して言えば、長崎をはじめ、薩摩、対馬、松前の4ヵ所を拠点に貿易が行われていた。(5月17日)

 

1600  オランダ船リーフデ号、豊後に漂着

1604  糸割符制度を創設

1609  オランダ人に通商許可

1612 キリスト教の禁教令を出す

1613 イギリス人に通商許可

1616 貿易港を長崎・平戸に制限

1623 イギリス、平戸の商館を閉鎖

1624 スペインの来航を禁止

1628 浜田弥兵衛、オランダ人マイツを台湾に捕縛、平戸に拘禁す

1633 奉書船以外の海外渡航を禁止

1635 すべての日本船の渡航を禁じ、帰国者は死刑、唐船も長崎に限る

1636 出島を築きポルトガル人を置く

1637 島原の乱

1639 ポルトガル人を追放

1641 オランダ人を出島に移す(鎖国の完成)

 

 

 

 

2019年5月16日 (木)

膳所藩将軍暗殺事件の謎

Sc15137a川瀬太宰宅跡碑

   膳所藩は近江国大津周辺に位置した6万石を領する譜代藩であった。禁裏御所方火消しを任務とすることから、朝廷を守護する意識が強く、藩内には川瀬太宰(1819-1868)を中心とする尊攘派の勢力が強かった。慶応元年5月、第14代将軍徳川家茂が上洛することになった。老中水野忠精から、将軍の膳所泊城が藩主本多康穣に言い渡された。5月16日、予定どおり江戸を進発した家茂は、東海道を西行し、近江愛知川宿に到着したが、そのとき突然、以後の将軍の宿泊予定が変更され、膳所泊城の中止、大津宿への宿泊が発表された。ちなみにこの日程変更の5日前、膳所藩では尊攘派の一斉検挙が行われており、それらが重なって、将軍暗殺の噂が流布していた。このとき検挙された尊攘派は数十名にのぼったが、当時の記録は少なく真相はいまもって不明である。逮捕より5ヵ月後の慶応元年10月、逮捕者の内11名が死罪に処せられた。首謀者とみられる川瀬太宰(膳所藩家老戸田資能の子)は雲母越えで捕らわれ、慶応2年6月、京都六角獄舎において斬首された。妻の幸は、大津の尾花川の居宅で新撰組に襲われ、匕首で喉を刺して自害を図った。一命はとりとめたが、後に自ら食を断ち、夫の跡を追った。膳所藩の将軍暗殺計画は家老たち藩内保守派たちによる捏造事件であるのか真相は闇のままである。

 

 

2019年5月15日 (水)

沖縄本土復帰47年

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    沖縄本土復帰から47年が経つ。重い基地負担問題やさまざまな課題が残る。大江健三郎の著書「沖縄ノート」に、あるアメリカ政府高官に日本地図を書かせたら、四国や九州や北海道、そして本州よりも大きく沖縄を描いた、というエピソードがある。米軍基地はいまだ圧倒的な存在感でそこにある。そして多くの矛盾を抱える沖縄。琉球新報・沖縄タイムス、琉球銀行・沖縄銀行、そして琉球大学・沖縄大学。

    琉球・沖縄に関係する文献を一瞥すると、書名に「沖縄」とある場合と、「琉球」とある場合がみられる。

 

アサヒ写真ブック『琉球その後』 1955

沖縄の歴史研究会編『沖縄の歴史』 1984

高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』 1993

新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史』 1994

中山盛茂編『琉球史事典』 1969

    このように名称一つ比べても沖縄問題は歴史的、文化的に複雑である。沖縄には沖縄の顔と琉球の顔があるといわれる。沖縄の文献上の初見は、8世紀に書かれた鑑真の伝記『唐大和上東征伝』である。ここでは「阿児奈波島」と書かれている。753年11月21日に沖縄に上陸している。そして12月20日、薩摩坊津(南さつま市)に到着した。「平家物語」(長門本)には「おきなは」という呼称が初めて見える。ただし、古代の東アジア世界では、一般的に用いられた名称は「琉球」であった。隋の煬帝が607年に朱寛を琉求に遠征させたとある。(「隋書東夷伝」)『隋書』の「琉求」の所在については、新井白石が琉求=沖縄説を唱え、フランスの学者が琉求=台湾説を唱えて、明治30年代から昭和30年代にかけて国際的な論争となったが、有力な学説はでなかった。明末のマテオ・リッチの「坤與万国全図」(1584年)には、大琉球と小琉球が描かれ、大が沖縄、小が台湾をさす。明代を通じて、「琉球」の呼称は東アジアに定着し、江戸幕府も琉球と呼んでいた。ところが明治日本は1872年、琉球王国を廃して琉球藩を設置し、国王尚泰を藩主とした、さらに、1879年に琉球処分により沖縄県とした。つまり琉球と呼ぶと古代からの独自の文化概念をも包括することとなるが、沖縄とすれば明治以降の日本の一つの県としての色彩が鮮明に出てくるのである。

 

 

 

 

2019年5月14日 (火)

仁徳陵の被葬者は仁徳天皇じゃないの!?

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 仁徳陵出土の埴輪女子頭部 宮内庁所蔵

 大阪府堺市にある仁徳天皇陵が世界遺産に登録される。日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵だが正式には百舌鳥・古市古墳群。百舌烏の地には仁徳、反正、履中の3天皇陵が存在する。これまで仁徳陵から出土した宮内庁が保管している埴輪などを検討すると履中陵より新しい可能性がでてきた。つまり考古学的な調査からいうと、履中陵→仁徳陵→反正陵の順で築造されたことになる。真実を明らかにするためには、古墳を調査すればよいのだが、宮内庁は認めていない。仁徳天皇陵から明治年間に出土した人物形埴輪の頭部は、島田髷に似た髪型をしているが、これらは5世紀後半に当る埴輪編年Ⅳ期の特徴を備えている。仁徳陵は5世紀中頃と思われ、履中陵と同時期とする説もある。現在、教科書などでは仁徳天皇陵という呼び名はせずに、大仙陵古墳としている。

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