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2018年1月19日 (金)

やかんの湯気

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    蒸気機関を改良した技術者ジェームズ・ワットは1736年のこの日、スコットランドの大工の子として生まれる。1763年グラスゴーでのこと。家族そろってのティータイム。ワット家では、食卓のヤカンが沸騰している。息子がヤカンの口をふさぐと、沸騰した蒸気の力で蓋がカタカタと音をたててもちあがった。それをみんなが楽しそうに眺めていた。だがワットはふと「蒸気の力」に気づいた。その日からワットはニューコメン機関の改良に関心を抱くようになり、新しい蒸気機関を発明したという。このワットの有名な逸話は実は、作り話である。17世紀のウスター卿が炉の上の鉄瓶の蓋が湯気で持ち上がるのをみて、蒸気ポンプを作ったという逸話をワットにすりかえたものらしい。

   スコットランド南西部のグラスゴーは産業都市。「国富論」を著わした経済学者アダム・スミス(カコーディー出身)はグラスゴー大学で学び、ジェームズ・ワット(グリーノック出身)はグラスゴー大学で機械工作の仕事に従事していた。

(James Watt,Adam Smith,Glasgow,Greenock,Kirkcaldy,1月19日)

2018年1月15日 (月)

ブラック・ダリア殺人切断事件

C54e9a92c3d68f785bcee2d660aaa030     戦争中の殺人事件の増加や、簡単に人を殺す風潮は、多くの人間が戦地で死んでいく状況で生命の価値が軽視されていたことと強く結びついている。戦争によって人間性を踏みにじられた軍人たちが、どのような精神状況で終戦直後を生き抜いたか知ることはなかなかできない。世界的にみても終戦直後の数年は犯罪は、暴力犯罪は55%、性犯罪はほぼ40%も増加した。1947年1月15日、ロサンゼルスで起きたエリザベス・ショート(1924-1947)という若い女性の迷宮入りとなった悲惨な殺人事件がよく知られている。女優志望の被害者エリザベスは売春婦・ウェイトレスなどをして稼いでいたが、いつも黒い下着を身につけていたことから、ブラック・ダリアと呼ばれている。女性の死体はウエストの下で2つに切断されていた。片方の大腿には「BV」の文字が刃物で刻まれており、一方の乳房は半ば切り取られ、口の両端は頬まで深く切り裂かれていた。そして死体からは、明らかに血液が抜かれていた。このアメリカ犯罪史上、最も有名な猟奇殺人では40人あまりの嘘の自白があった。この事件では、男性だけではなく女性からも自首してきて、虚偽の自白をした。彼女たちの告白には、べスが自分の男を盗んだので殺したというものが多かったが、自分を捨ててほかの女のもとに走ったので殺したと言った女性もいた。結局、事件から70年近くが経つが真犯人は判らず、迷宮入りとなってしまった(Black Dahlia,Elizabeth Short)

2018年1月13日 (土)

トルコ革命とパレスティナ分割

   第一次世界大戦後、敗戦国トルコと連合国との間にセーブル条約が結ばれた。その結果、トルコは領土の4分の1を失って小アジアの小国に転落した。これに対して、進歩派の国民党は条約に反対してケマル・パシャを中心に革新的民族運動を展開した。そこでトルコの復活を恐れたギリシアは、イギリスの支持のもとにトルコ・ギリシア戦争をおこしたが、トルコはフランスとソ連の支持を得て勝利をおさめ、1923年にローザンヌ条約を成立させた。その結果、トルコは治外法権の撤廃と関税自主権を列国に承認させ、セーブル条約の一部改訂に成功した。また1936年には列国との間にモントリオール条約を結んで、ダーダネルス海峡の主権を回復した。ケマルは同時に国内の改革にもあたった。1922年スルタン制の廃止、政教分離を実行し、翌1923年には共和制を樹立してケマルが初代大統領となる。太陽暦・メートル法・アルファベットの採用、男性のトルコ帽フェスや女性の顔を覆うベールの禁止など、西洋化政策を進めた。中東のユダヤ人は、19世紀以来パレスティナに民族国家を建設しようとシオニズム運動を展開していた。これに対して、イギリスの外相バルフォアはユダヤ人の資金を得るため、大戦の建国を約束するバルフォア宣言を発した。このため、ユダヤ人のパレスティナ移住がさかんとなった。しかし、イギリスは一方でパレスティナのアラビア人にも独立を与える約束(マクマオン宣言)をしていたので、戦後ユダヤ民族とイスラエルのアラブ民族はこの地で激しい反目をつづけることとなった。第二次世界大戦後、国連の仲介によって1948年ようやくイスラエル共和国が建国され、ユダヤ人の多年の宿願は達成された。これに反発したエジプトなどアラブ諸国との間にパレスティナ戦争がおこり、その紛争は現在も続いている。

2018年1月11日 (木)

女性参政権

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 ケイト・シェパード

   1918年1月11日、イギリスで30歳以上の女性に参政権を実現させた日である。ただし年間5ポンド以上の家賃を支払っている世帯主、あるいはその妻、など条件つきのものであった。イギリスで普通参政権が実施されたのは1928年のこと。世界初の女性参政権は、イギリスではなく、リチャード・セドン首相在任時のニュージーランドである。現在ニュージーランドの10ドル紙幣の肖像に使われているケイト・シェパード(1848-1934)は1893年に世界初の女性参政権実現に活躍したリーダーである。だが、日本ではそれより以前に高知県上町の女性、楠瀬喜多(1836-1928)が「戸主として納税しているのに女性だからといって選挙権がないというのはおかしい」と明治11年に県令に訴えている。明治13年、県令もその抗議に折れて、日本で初めて女性参政権を認める法令が成立している。ところが、明治政府は4年後に区町村会法を改訂して、女性を選挙から排除した法律をつくった。

   世界の主要国が女性参政権が成立した年は、1893年ニュージーランド、1908年オーストラリア、1906年フィンランド、1915年デンマーク・アイスランド、1917年ソ連、1918年カナダ・ドイツ、1919年オーストリア・オランダ・ポーランド・スウェーデン、1920年アメリカ、1928年イギリス、1945年に日本である。

    なお現在、国立国会図書館・図書課別室にはイギリスの婦人参政権運動家へレン・ブラックバーン(1842-1903)の「ヘレン・ブラックバーン・パンフレット・コレクション」のマイクロフイルムが所蔵されている。この資料の中には、選挙権実現の前年の動向を伝えるシェパードからブラックバーンに宛てた手紙もあり、女性参政権の世界的広がりを示す貴重な資料であろう。このほかアメリカのシカゴで初めてセツルメントを建設した社会事業家ジェイン・アダムス(1860-1935)、産児制限運動の指導者マーガレット・サンガー(1842-1903)関連の資料も含まれているという。

2018年1月10日 (水)

賽は投げられた

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  西洋歴史にまつわる格言や名文句の類が歌謡曲の歌詞で引用されることはほとんどない。阿久悠の作詞「ジョニィへの伝言」二番目の歌詞で「サイは投げられた」と使われている。紀元前49年1月10日、カエサルはローマの属州ガリア・チザルピナと都ローマの境のルビコン川まで来た。ここで軍を率いて川を渡ると必ず市民戦争になる。だがカエサルは目的達成を前にひるむような男ではない。プルタルコスによると、カエサルはギリシャの詩人メナンドロスの言葉を引用した。Anerriphtho kybos (賽は高く投げられた) これをラテン語に翻訳して、アーレア・ヤクタ・エスト Alea iacta est.とプルタルコスは書いている。「賽は投げられた」という言葉はどんな結果になるかわからないが冒険に目をつぶって飛び込むようなときに、よく使われることわざとなった。(Caesar,Rubicon) 世界史こぼれ話

2018年1月 6日 (土)

日本とイタリア

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 フランチェスコ・クリスピ

   今年は明治維新150年。維新はフランス革命のようなものではなく、むしろ歴史の進展からみると、日本とイタリアとはよく似ているといわれる。少子化の原因が貧しさにあることも共通している。両国の近代史が共通している。たとえばヴィットリオ・エマヌエレ2世を明治天皇、マッツィーニを吉田松陰、カブールを大久保利通、ガリバルディを西郷隆盛に当てられる。大きく違うところは第二次世界大戦でイタリアは王制は廃止されたが、日本の天皇制は残ったところである。大河ドラマ「平清盛」で「王家」という言葉に非難があったという。NHKとしては近年研究された歴史用語「王家」を使用したが、国家主義的傾向が強くなった日本では天皇家を王家と呼ぶことにアレルギー反応があったようだ。イタリアと日本がなぜダメなのか、原因を検証することはなかなか難しい。小さな多くの歴史事実を小石のように積み重ねていくしかない。フランチェスコ・クリスピ(1819-1901)という政治家がいる。日本の高校世界史ではその名前が出てこないが、実は重要人物である。その長い政治家としての生涯は我が国に匹敵する人物が見当たらない。一応、ガリバルディを補佐した人物とみなされているが、西郷は西南戦争で死なずに勝利して、桐野利秋が首相になったものである。イタリアのリソルジメントと日本の明治維新が違うのは、西南戦争を分岐点とするのであろう。両国とも帝国主義国家をめざずが、持たざる国として国民の犠牲のうえに国家が成立しているところは共通している。貧しく災害の多い国であるがゆえに民族紐帯の結束を強固とし、国民の犠牲のうえにたえず国家主義的傾向を強めようとする性格が濃い。

2018年1月 4日 (木)

チンボラソ山

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  高さだけが山の魅力の尺度ではない。南米エクアドルにチンボラソ山(標高6267m)がある。もちろん世界最高峰はエベレスト(標高8848m)だが、18世紀まではチンボラソが世界一高い山と考えられていた。アレキサンダ・フォン・フンボルト(1769-1859)とエメ・ボンプラン(1773-1858)の2人は1799年から1804年にかけて南米へ学術探検をおこなった。オリノコ川の探検を終えて、チンボラソを登った。2人は頂上から450mのところまでは行ったが、割れ目があって渡れず、そこから引きかえした。しかし、5875m地点まで登ったというのは、当時の最高記録だった。その後も長い間、登山家たちを寄せつけなかった。初登頂は1880年1月4日、スイス・アルプスのマッターホルンの初登頂者として有名なイギリスの登山家エドワード・ウィンパー(1840-1911)である。(Chimborazo,Ecuador)

2018年1月 2日 (火)

ルシタニア号沈没、隠された真実

  1915年5月7日、午後3時10分、ドイツのUボートは、第一次大戦の最中、南部アイルランド沖を航行中の英豪華客船ルシタニア号に魚雷を発射した。一発の魚雷は命中し、2度の大爆発を起こして、客船は10分たらずで沈没した。この混乱の中、米国人128人を含む1198人の命が失われた。ところがルシタニア号の積み荷には、173トンの弾薬があり、当時の国際法に照らし合わせると、ルシタニア号は攻撃を受けても仕方がなかった。最近おこなわれた海底調査で、沈没したルシタニア号の船内には違法な武器と火薬が積載されていたことが判明された。ドイツの野蛮な攻撃に対してアメリカの世論は沸騰、これによってそれまで中立であった米国議会でも反ドイツの雰囲気が強まり、アメリカも参戦することとなった。ルシタニア号沈没からおよそ2年後の1917年4月6日、ウィルソン大統領はドイツに宣戦布告した。

2017年12月28日 (木)

古代世界のゾウ使い

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   古代戦争などでは、巨像の部隊がその巨体とスピードで敵を押し倒し、踏み潰す破壊力を持つ強力な戦車のような兵器として用いられたことはアレクサンドロス大王がインド遠征したときの話でもよく知られている。前326年ヒュダスぺス河畔の戦いで、パンジャブ王国のボロスは、200頭の戦象で応戦し、大王の侵入を防いだとされる。また第二次ポエニ戦争では、前218年カルタゴの将軍ハンニバルは、約6万の兵と37頭の象を率いて雪のアルプスを越え、イタリア半島に侵入を試みたが、象の殆どはアルプスを越える時点で失われ、到達できたのは3頭に過ぎなかった。その後ザマの戦い(前202年)で、80頭の戦象でローマを攻撃した。ローマのスキピオは隊列を広く取り、象の突進をやり過ごすという戦術をとり、戦象はその隙間を通り過きてしまい、方向転換のために停止したところを殺されてしまった。象には敵味方の区別がつかないということや、火を怖がるなどの多くの弱点があった。ゾウの扱いは難しいと思うが、すぐれた調教師がいたのだろう。ゾウの活躍は17世紀インドのムガール帝国まで続いた。ムガール朝の軍隊は歩兵隊、騎兵隊、砲兵隊、ゾウ軍、水軍と5つ部隊に区別されていた。

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「アルプス山脈を越えるハンニバル」 ヤコポ・リパンダ 1505年~1513年頃

2017年12月24日 (日)

インドの宗教

 インドの人口は2011年の国勢調査によるとおよそ12億人。人種的にも民族的にもきわめて複雑な構成を示している。先住民であるべトイン型やニグロイド型の人種のうえに、西北方から侵入したアーリア人によって代表されるコーカソイド型の人種の波がかぶさり、また東北部には、のちに北方から押し出されてきたモンゴロイド型の特色をもつ人種も存在している。このようにインドには、大別して4つの人種型がみられるが、それらが長い歴史の過程で相互に混血し合い、今日の複雑に人種的特色が形成された。2011年の国勢調査によると、全人口の79.8%がヒンズー教にあたる。きわめて複雑な民族構成をもつこの国の文化に一つの統一性を与えているのが、このヒンズー教の信仰とそれを中心に形成された独特の文化であるということがいえる。1961年と2011年との宗教別比較すると、ヒンズー教は83.5%から79.8%に減少している。かわってイスラム教が10.7%から14.2%と大きく増えている。このほかシク教徒1.8%から1.7%、ジャイナ教が0.5%から0.4%、仏教が0.7%、キリスト教が2.4%から2.3%と横ばいである。インドのイスラム化はつねに紛争の歴史といえる。インドを支配したイスラム教の国家は歴史的に概観すれば、10世紀中ごろのガズニ朝に始まり、奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグラク朝、サイード朝、ロディー朝、スール朝、ムガール帝国と19世紀まで続き、インドの中世はイスラム支配であった。ラージプートは8世紀以来、北インド各地に小王国を形成し、イスラムに抵抗を続けた。

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