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2020年7月13日 (月)

マラー民衆の英雄、あるいは独裁者?

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 J・ボズ「マラー」 カルナヴァレ美術館蔵

    歴史的評価が別かれる人物は数多い。たとえば足利尊氏、徳川慶喜、西郷隆盛などは複雑な行動をするタイプでなかなかわかりずらい。フランス革命の指導者ジャン・ポール・マラーは暗殺されたことで知られるが、悪魔とののしられるか、神のごとき英雄とたたえられるか、両極端で今日でも歴史的評価は定まらない。マラーはもっと評価されてもよい人物ではないだろうか。

    1789年に革命が勃発すると、マラーは政治記者となり、「人民の友」という日刊紙を創刊した。この新聞記事の辛辣な批評(というよりも暴力的な主張をしている)のため、マラーは王党派から常に暗殺の危機を感じ、イギリスへ逃亡することもしばしばだった。ルイ16世一家の国外逃亡失敗ののち、マラーは自分を臨時政府の独裁者に推挙するよう、またルイ16世を処刑するよう民衆に訴えた。国王の処刑後は、ジロンド派と意見を異とするようになって、マラーは1793年、その恐怖政治によって国家反逆罪で訴えられるが、裁判所は彼を「勇敢な人権の擁護者」とたたえて無罪とした。マラーはつねに大衆には人気があった。マラーは財産もすべて他人にやって、自分の人生の先があまり長くないことを予知しているような人物だった。1793年7月13日。マラーはパリのコルドルエール街のアパートに住んでいた。午後7時ごろ、皮膚病を治療するため風呂につかっていた。ジロンド派支持の若い娘シャルロット・コルデーはマラーを人民の敵と思い込み、包丁でマラーを刺殺した。ほぼ即死の状態だった。マラーは殉教者として盛大な葬儀がいとなまれ、シャルロットは断頭台の露と消えた。マラーの手元に残った現金は僅かに25スーだったという(スーは銅貨で25スーは労働者の日当程度か)。マラーは悪逆非道の人物だったのか、民衆の革命児か、実像はどっちなのだろうか。

 

 

2020年7月11日 (土)

竹林の七賢

   魏・呉・蜀のうち北中国を統一したのは魏である。しかし魏の文帝が在位7年で死去したあと、後継の座についた明帝は、晩年、奢侈に溺れ失政が目立つようになった頃から、衰えはじめた。明帝には子供がなく、重臣間の闘争が激化し、249年に司馬氏一族が権力を握った。この時代に老荘思想の無為自然をモットーに、酒や詩を愛した文人たちを竹林の七賢と呼ばれる。阮籍、稽康、山濤、劉怜、阮咸、向秀、王戎の七人をいう。権力者に対する抵抗であった。もっともこの7人が実際にグループを組んで活動したわけではなく、7人を一括りにすることを好む後世の人が作り上げた架空のグループといわれている.アフターコロナの新しい生活様式は特別な思想的なものがあるのではなく、政治的なうさんくさい臭いがする。マスコミに便乗して「新しい生活様式」を連呼する無思想ぶりが哀しい。

 

 

 

2020年7月 9日 (木)

エカテリーナ2世と農奴制

    エカテリーナ2世(在位1762-96)は、元来ドイツ人で1754年にピョートル3世と結婚しギリシア正教に改宗したが、近衛連隊のオルロフ一派とむすびクーデターをおこして、夫を殺害し自ら帝位につく。彼女は、口に「法治国家」と「人道主義」を唱え、啓蒙専制君主と呼ばれるにふさわしいかのようにみえる。だが、彼女の治世に、貴族の特権はますます拡大され、農民たちは貴族の奴隷に等しい地位につきおとされてしまう。フランス革命の影響も加わって、彼女の治世に反動体制はいっそう強化された。

    34年間にわたる治世を通じて、彼女は農奴制の強化につとめ、農奴制貴族国家の最盛期を現出した。「農奴を徒刑にする権利の地主への賦与」(1765)、「農奴が地主を告訴することを禁止」(1767)などの政策を遂行、1767年法典編纂委員会を召集、若干の行政上の改革により絶対王政の強化を行おうとした。農奴への圧迫はブガチョフ指導下の農民戦争(1773-75)を惹起する。対外的にはポーランド分割を行い、露土戦争(1768-74、89-92)でクリミア半島を占有してセバストポール軍港を築き、黒海への出口を開いた。東方では、アラスカ・千島の大部分を占領し、1792年には日本にもラクスマンを派遣して通商を求めた。また、フランス革命の進展と新思想の普及には敵意を示し、ラジシチェフ、ノヴィコフらの進歩主義者を迫害した。

アフリカの歴史

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左から直立猿人、ネアンデルタール人、クロマニョン人。しかし単線的に進化したのではなく、それぞれ複雑に分化、絶滅、置換、進化を繰り返してきた

 新型コロナウイルスの感染がアフリカで爆発的に起こるのではないかと不安視されていたが、若年層人口が多いことから、今のところコロナ感染者は爆発的な増加は認められていない。しかしそれは実態の把握が不十分なせいで、本当は流行が加速しており、地方にも広がっているとみられる。1960年は「アフリカの年」といわれ、多くのアフリカ諸国が独立した。かつてアフリカ大陸のほとんどの国がヨーロッパの植民地であったが、現在はほとんどが独立した。あれから60年。アフリカ大陸には54の独立国があり、国連加盟国のおよそ3分の1を占めている。その歩みは平坦ではなく、地域紛争とクーデターによる政権交代が相次いだ。現在、北アフリカのリビア、西アフリカのマリからナイジェリア北部、中央アフリカ共和国とコンゴ民主共和国東部、そして東アフリカの南スーダンとソマリア南部といった地域では、近年深刻な紛争が続いている。

 古代の歴史をみると最古の人類はアフリカに出現し、進化していった。138億年前、ビッグバンと呼ばれる大爆発によって宇宙が誕生し、この地球が48年前誕生した。生命は進化して、人類は約700万年前から600万年前にかけてアフリカで誕生したことは間違いあるまい。現在の段階で最古の人類と認められるのは猿人であり、アウストラロピテクス属の化石人骨は20世紀に入って多数発見されている。1924年、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石を発見した。しかし当時のイギリスの学界は「キースのルビコン」(脳の容積が750cc以上がヒトで、それより以下がサルとする説、Cerebral Rubicon)といわれる学説が支配的でダートが発見した化石は類人猿とみなされた。しかし1950年にアメリカの学界でアウストラロピテクスは猿人として認められ、ダートの名誉は回復している。猿人は原人へと進化し、100万年以上前にアフリカを出て世界各地に広がったが、アジアに渡ったジャワ原人、北京原人やヨーロッパに渡ったネアンデルタール人は、少なくとも3万年前には絶滅したとされる。つまり旧人から新人へと進化した(多地域進化説)のではなく、約16万年前にアフリカで登場した新人(初期ホモ・サピエンス)が約10万年前にアジアにも広がり、それが現代人へとつながったという説(アフリカ単一説)が有力である。とくに旧人(ネアンデルタール人)と新人の関係はその順ではなく、新人の方が早く登場した。現在では猿人、原人、旧人、新人という化石人類の4分類は、人類学会では用いられなくなっている。ミトコンドリアDNAの研究では、世界中に分布する人間の集団におけるマイクロサテライト(人類の遺伝的差違の大部分を占める遺伝子領域)解析の結果、中東に住む集団と北東シベリアに住むヤクート族の集団の先祖において、ボトルネックが生じた可能性が高いという。つまりわずか4~6万年前に「出アフリカ」を果たした一団が現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)となって世界各地に広がったとされる。これまでに人類はおよそ1000億人が生まれたと推計される。そして高度な文明を築いた人類は74億人を数えるまで増加した。

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  やがてそれぞれの地方の気候や風土に適応してモンゴル(黄色)人種、ネグロ(黒色)人種、コーカサス(白色)人種などの人種にわかれた。(世界史、アーサー・キース)

 

脳容積の比較
 猿人(490万年前) 435~600cc
  原人(70~40万年前) 800~1300cc
  旧人(15万年前)  1300~1600cc
  新人(数万年前)  平均1600cc

 

 

 

 

 

 

2020年7月 8日 (水)

帝政ロシアの南下政策と海峡通航権問題

C01 ダーダネルス海峡の要衝の町チャナッカル

   18世紀後半以降、不凍港を求めて南下政策をとるロシア帝国と、地中海に利害をもつイギリス、フランスなどが対立した。1829年ロシアはアドリアノープル条約によって、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の自由通航権の確保をトルコ側に認めさせた。そして1833年7月8日、ロシアとトルコ間で相互援助条約であるウンキャル・スケレッシ条約を調印した。しかし、この条約の秘密事項に、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡のロシア軍艦の独占通航権があるとして、イギリスが強く反発した。1840年のロンドン会議で両海峡はあらゆる国の軍艦の通航が禁止されていた。つまりウンキャル・スケレッジ条約はわずか数年で反故になった。そしてクリミア戦争はロシアの敗北に終り、パリ条約によって黒海沿岸地域が中立地帯とされて、ロシアはいっさいの軍事施設の撤去をよぎなくされ、一隻の軍艦も黒海に浮かべることができなくなり、南下政策は挫折した。1870年からの普仏戦争でナポレオン3世が失脚すると、ロシアは外交攻勢をかけてパリ条約を改定することに成功し、黒海艦隊を再建した。その後幾度かの変遷を経て、ようやく1923年のローザンヌ会議で両海峡の国際化および非武装化、ならびに、原則としていかなる国の商船、軍艦にも開放されることを内容とする海峡協定が締結されて一応の決着をみ、1936年の海峡制度に関するモントルー条約によって再確認された。

2020年7月 4日 (土)

戦争の世界全史

300px131_bataille_de_malazgirt  現職のアメリカ大統領として初めて、オバマ大統領が広島を訪れた際の17分に及ぶスピーチは人類と戦争の歴史から語られ始められた。「どの大陸でも、あらゆる文明は戦争の歴史に満ちています。穀物の不足や、金への欲望、あるいは国粋主義や宗教的な理由から戦争が起こってきました。帝国は台頭、衰退しました。人々は支配され、解放されました。それぞれの歴史の転換点で罪のないひとが苦しみ、多くが犠牲となりました。広島と長崎で残忍な終わりをみた世界戦争は、裕福で力のある国によって戦われました」今も米イラン間の対立が激化し、戦争の危機が高まっている。数千年以上の太古の昔から今日まで、人類の歴史は戦争の繰り返しの歴史といえる。戦争は何故起こるのか。最近の考古学的知見によると、世界のどこでも旧石器時代の男子の死者のおよそ15%は殺人によって死亡している。これは人類の顕著な特徴であり、食糧や雌をめぐる争いはどの動物にもあるが、このような激しい戦いはみとめられない。人類が道具を使うことにより、武器による先制攻撃が優位となること、確実に勝てるという合理的行動が戦闘をひきおこすのである。こうして戦争はいつの時代も絶えることなく繰り返される。戦争の原因も民族・宗教にイデオロギーが加わって、世界各地でテロが発生した。集団的自衛権を容認する安保法制が成立し、日本も紛争にまきこまれるようになった。2016年7月、ダッカでISに日本人7人が殺害された。

前25世紀、ラガシュの王エアンナトゥムがウンマの軍を破る

前23世紀、古代バビロニア、アッカド王国のサルゴン王は「戦いの王」といわれ、オリエント各地を遠征・征服を繰り返す

前1674年、ヒクソスのエジプト侵入(前1674~前1567)

前1620年、ヒッタイト・フルリ戦争(前1620~前1325)

前1457年、エジプト王国のトトメス3世はメギドの戦でカデシュ王率いるカナン連合軍(カデシュ、メギド、ミタンニ)を破る

前1350年、ヒッタイト王シュピルリウマ1世がミタンニ王トゥシュラクを滅ぼす

前1274年、エジプト王国のラムセス2世はカデシュの戦でヒッタイト王ムワタリに敗れる

前1200年、トロヤ戦争起こる。アカイア人の遠征軍と小アジアのトロイアの戦い

前1070年、殷の紂王は牧野の戦で、周の武王に敗れ、700年に及ぶ殷王朝は滅び、周王朝が成立する

前736年、スパルタがメッセニアを破る(メッセニア戦争)

前632年、晋の文公が城濮の戦で楚の成王を破る

前609年、ユダ王国のヨシヤがメギドの戦でエジプトのネコ2世に敗れる

前605年、ネコ2世はカルケミッシュの戦で新バビロニアのネブカドネザルに敗れる

前591年、プサメティク2世、クシュ王国に侵攻

前575年、晋が鄢陵の戦で楚を破る

前540年、エトルリア・カルタゴ連合軍がサルディニア島のアラリア沖で、ギリシャ軍と海戦し勝利する。

前484年、呉王夫差が艾陵の戦で斉を破る

前490年、ダリウス1世 マラトンの戦でミルティアデス率いるギリシア軍に敗れる

前480年、ギリシアのスパルタ王レオニダスはテルモピュライの戦でペルシア軍を迎え撃ち、その南下を防いたが部隊は全滅する

前480年、ギリシアのテミストクレスはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破り、クセルクセス1世は退却する

前432年~前430年、アテネがポティダイアの戦でコリントスとペロポネソス同盟諸国に勝利した

前406年、アテネがアルギスサイの戦でスパルタに勝利した

前405年、スパルタがアイゴスポタモイの海戦でアテネに勝利した

前404年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終わる

前394年、アテネ人コノン指揮のペルシア軍はクニドスの海戦でスパルタ(ラケダイモーン)を破る

前390年、ローマ軍クイントゥス・スルピキウスが初めてイタリアに侵入したブレンヌス率いるガリア人セノネス族とアッリアの戦で敗れる

前371年、スパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がレウクトラの戦でテーバイを中心とするボィオティア同盟軍に敗れる

前362年、アテネ・スパルタ連合軍がマンティネイアの戦でテーベのエパミノンダスの軍に敗れる

前343年、秦は馬陵の戦で斉の孫臏の策により大敗する。

前338年、ギリシャがカイロネイアの戦でマケドニアのフィリッポス2世の軍に敗れる

前333年、ペルシア軍がイッソスの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前334年、ペルシア軍がグラニコス川の戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前331年、ペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前326年、アレクサンドロス3世はインドのパンジャブ地方まで侵攻したが、ピュダスぺス河畔の戦でパンジャブ地方の領主ポロス王に苦戦し、やむなく東方遠征をやめる。

前305年、シリア王セレウコス1世、マウリア朝チャンドラグプタに敗れる

前260年、秦の昭王が長平の戦で趙を破る

前241年、ローマ軍がアエガテスの海戦でカルタゴを破る

前220年、メディア総督モロンはアポロニアの戦でセレウコス朝のアンティオコス3世に敗れる

前216年、ローマ軍がカンネーの戦でカルタゴのハンニバルに敗れる

前202年、カルタゴのハンニバルがザマの戦でローマのスキピオに敗れる

前202年、項羽、垓下の戦で劉邦に敗れ自殺

前168年、ピュドナの戦い。共和政ローマ軍がマケドニア軍に圧勝し、第三次マケドニア戦争が終結。

前85年、ローマのスッラがオルコメノスの戦でポントス王ミトリダテス6世を破る

前48年 ポンペイウス、ファルサルスの戦でカエサルに敗れる

前46年 タプススの戦い。カエサル軍が元老院派の軍を破る

前45年、ポンペイウス派の残党がムンダの戦でカエサルに敗れる

前42年、カエサルを暗殺したブルトゥス、カッシウスがフィリッピの戦でアントニウス、オクタウィアヌスに敗れる

前31年、アントニウス、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れる

前23年、劉秀、昆陽の戦で王莽を破り、漢室再興を果たす

後9年、ローマ帝国がトイトブルクの戦でゲルマンに大敗する

49年、ベトナムのチュン姉妹は後漢の侵略に抵抗し、処刑される

66年、ユダヤ民族のシモン・バル・ギオラが反乱を起こす。

73年、マサダ砦に籠城したユダヤ人967人が集団自決し、ユダヤ戦争(66-73)が終わる

191年、董卓と袁紹が虎牢関で衝突。董卓の部下呂布が盤下で董卓を殺す。

200年、曹操、官渡の戦で袁紹を破る。

208年、曹操が劉備・孫権連合軍に赤壁の戦でい敗れる。

211年、曹操が渭水の戦で馬超・韓遂らを破る。

215年、曹操が合肥の戦で孫権を破る。

219年、劉備軍の関羽が樊城の戦いで水攻めにされて殺される。

222年、劉備率いる蜀漢軍が夷陵の戦で呉の陸遜軍に敗れる。

234年、蜀諸葛亮が五丈原の戦で魏司馬懿と対戦したが、蜀漢による第五次北伐が失敗する。

260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。

280年、晋軍、呉に侵攻。大勝して呉滅ぶ。石頭城の戦い。

312年、ローマ皇帝正帝マクセンティウスがローマ郊外のミルウィウス橋の戦(サクサ・ルブラの戦)で副帝コンスタンティヌス1世に敗れる

313年、東のローマ皇帝マクシミヌス・ダイアがツィラッルムの戦でリキニウスに敗れる

363年 ローマ皇帝ユリアヌスが、ササン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、城を落せず撤退する

378年、ローマ皇帝ヴァレンスが、ハドリアノポリス(アドリアノーブル)の戦で西ゴート族に敗れ、戦死。

383年、前秦の符堅が淝水の戦で晋の謝石・謝玄に敗れる

451年、フン族の王アッティラがカタラウヌムの戦で西ローマ軍のアエティウスに敗れる

486年、クロヴィス率いるフランク族がソワソンの戦で西ローマを破る

627年、ササン朝ペルシアのコスロー2世はニネヴェの戦でへラクリウス率いる東ローマ軍に敗れる

642年 ヤズデギルド3世 ニハーヴァンド(ネハーヴァンド)の戦でアラブ軍に敗れる

663年、日本軍は白村江の戦で唐軍に敗れ、百済滅ぶ

687年、フランク王国のピピン2世がテルトリーの戦でネウストリアのベルナルらを破る

722年、ペラヨがコバドンガの戦でイスラム軍に勝利する。

732年、サラセン軍、ツール・ポワチエの戦でフランク王国カール・マルテルに敗れる

751年、唐の高仙芝、イスラム軍とタラス河畔に戦う。サラセン軍に捕らわれ、製紙法を伝う

756年、唐の玄宗は潼関の戦で安禄山に敗れる

811年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はブリスカの戦でブルガリア皇帝クルム・ハーンに敗れ、戦死した。

849年、ナポリ・アマルフィ・ガエータなどの艦隊がオスティア沖でイスラム艦隊を破る。

955年、ハンガリーのマジャール軍がレヒフェルトの戦で東フランク王国オットー1世に敗れる

1014年、第1次ブルガリア帝国がキンバロングーの戦(クレイディオン峠の戦)で、東ローマ帝国に敗れる。

1014年、ブライアン・ボル―軍とレンスターのアイルランド人とダブリンのヴァイキングの連合軍が、クロンターフの戦いで、ボル―軍が勝つが戦死する。

1016年、デンマーク王クヌートがアシンドンの戦いでイングランド王エドマンド2世を破る

1057年、スコットランド王マクベスはランファナンの戦でマルカム3世に敗れ死没する

1063年、イタリアの中世都市国家ピサがパレルモ沖の海戦でイスラーム艦隊に大勝する

1066年、イングランド王ハロルド2世がへースティングズの戦でノルマンディー公ウィリアム1世に敗れる

1071年、ロマノス4世ディオゲネス マンジケルトの戦でセルジューク朝に敗れる。

1099年、第1回十字軍のエルサレム攻囲戦が始まる。

1107年、高麗の尹瓘が女真を討ち9城を築くが(尹瓘九城の役)、翌年に撤退する。

1147年、ポルトガル王国アフォンソ1世がリスボンの支配権をめぐってイスラム教徒のムーア人を破る。

1176年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がレニャーノの戦で北イタリア・ロンバルディア同盟軍に敗れる

1187年、ギード・リュジニャン率いるエルサレム王国の十字軍がヒッティーンの戦でアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンに敗れる

1201年、チンギス・カンはコイテンの戦でジャムカを破る

1214年、仏王フィリップ2世が、ブーヴィーヌの戦で神聖ローマ帝国、英国連合軍に勝利する

1219年、モンゴル軍はホラズムに侵攻し、翌年にはサマルカンドを攻略する

1223年、モンゴル軍はカルカ川の会戦でロシア軍を破る

1235年、マリ王国のスンディアタがキリナの戦いでソソ王国のスマンゲルを破る

1241年、シュレージェン公ハインリヒ2世、リーグニッツ(ワールシュタット)の戦でバトゥが率いるモンゴル軍と戦い、大敗し、戦死。

1258年、モンゴル軍のフレグがバグダードの戦いでアッバース朝の首都を包囲する。

1260年、フィレンツェがモンタベルティの戦いでシエーナ軍に敗れる。

1260年、モンゴル軍のフレグはアイン・ジャールートの戦でマムルーク朝のバイバルスに敗れる。

1264年、イングランド王ヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールらが反乱。王党派の勝利に終わった。これを第2次バロン戦争という。

1265年、イーブシャムの戦い。

1266年、ホーエンシュタウフェン家がイタリアのベネヴェントの戦でカペー家と、敗れる。シチリアの支配が終わる

1268~1274年、モンゴル軍は襄樊の戦で南宋を滅ぼす。

1274年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(文永の役)

1278年、モンゴル軍、ポーランド・ドイツ連合軍を破る

1278年、神聖ローマ帝国ルドルフ1世、マルヒフェルデの戦いでボヘミア王オットカルを破る

1279年、モンゴル軍、厓山の戦いで南宋を滅ぼす

1281年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(弘安の役)

1284年、ピサがメロリアの海戦でジェノバに大敗。

1288年、ドカン率いるモンゴル軍は白藤江の戦いで陳国峻率いるベトナム軍に敗れ、モンゴルのベトナム侵攻は失敗におわる。

1291年、イスラエル王国の首都アッコン滅亡する。(十字軍戦争終わる)

1294年、英仏戦争はじまる。

1298年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世はゲルハイムの戦で長子アドルフを殺す。

1301年、オスマン1世がビザンツ帝国軍をコユンヒサルの戦で破る。

1302年、フランス王フィリップ4世はクルトレー(コルトレイク、金拍車)の戦でフランドル市民軍に敗れる

1314年、エドワード2世率いるイングランド軍がバノックバーンの戦でロバート1世のスコットランド軍に敗れる

1337年、英仏の百年戦争がおこる

1346年 フランス王フィリップ6世、クレシーの戦でエドワード3世に敗れる

1356年、フランス王ジャン2世はポアティエの戦でイギリス王エドワード黒太子に敗れる

1363年、明の朱元璋は鄱陽湖の戦で元の陳友諒を破る

1369~70年 エドワード3世、フランス王シャルル5世に敗れて獲得した領土の大部分を失う

1380年、タタール軍はクリコボの戦でモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイに敗れる。

1380年、ジェノバがキオッジャの海戦でヴェネツィアに完敗する。

1382年、百年戦争。ローゼンバーグの戦いでフランス軍がフランドル諸都市を破る。

1385年、ジョアン1世率いるポルトガル軍がアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王ファン1世を破る。

1388年、ハプスブルク家アルブレヒト3世、ネーフェルトの戦いでスイス自由連邦に敗れる

1389年、オスマン帝国のムラト1世がコソボの戦でセルビアを破る

1396年、神聖ローマ皇帝・ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国軍がニコポリスの戦でバヤズィト1世率いるオスマン帝国軍に大敗する

1402年、バヤズィト1世率いるオスマン帝国がアンカラの戦でティムールに敗れる。バヤズィト1世は捕虜になり、翌年自害する

1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルトの戦(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を破る

1415年、フランス軍が百年戦争アジャンクールの戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍に敗れる。

1419年、ボヘミアのフス戦争(~1434)。フス派の勝利。

1429年、ジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍がパテーの戦いでイングランド軍に圧勝。イングランドのジョン・タルボットは敗れて、捕虜となる。百年戦争の仏軍の初めての勝利であった

1444年、オスマン帝国のムラト2世はヴァルナの戦でハンガリー王国を破る。

1450年、百年戦争。イングランド軍はフォルミニーの戦でフランスに大敗し、ノルマンディーから撤退する。

1453年、イングランド軍はカスティヨンの戦でフランスに敗れる

1453年、東ローマ帝国コンスタンティノス11世 メフメト2世のオスマントルコ軍に攻められコンスタンティノープル陥落

1455年、薔薇戦争最初の戦い。ヨーク公リチャードはサマセット公エドムンド率いるランカスター派をセント・オールバーンズの戦で破る。

1460年、薔薇戦争、ウエイクフィールドの戦い。

1461年、薔薇戦争。タウトンの戦い。ヨーク家のエドワード4世がマーガレット王妃らランカスター派を破る。

1466年、ポーランドとプロシア連合の同盟とドイツ騎士団国とのあいだで起きた十三年戦争がプロシアとポーランドの勝利に終わる(~1454年)。

1471年、薔薇戦争・テュークスベリ―の戦い。ランカスター家のエドワード王太子の戦死。

1477年、ブルゴーニュ公シャルル(豪肝公)がナンシーの戦いで戦死

1485年、ヨーク派のリチャード3世はボズワースの戦でランカスター派のヘンリー7世に敗れる

1487年、薔薇戦争の最後の闘いストーク・フィールドの戦いが行われる

1503年、フランスはチョリニョーラの戦、ガレラノの戦でスペインに敗れる

1507年、ポルトガルのインド総督アルブケルケ、ペルシャ湾口の香辛料集散地ホルムズ島を占領した。

1509年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル海軍がディウ沖海戦でイスラム教徒のマムルーク朝、クジャラート・スルタン朝及びカリカットの領主ザモリンの連合海軍を破る

1514年、サファヴィ朝ペルシャ軍イスマーイール1世がチャルディラーンの戦でオスマン帝国セリム1世に敗れる。

1515年、仏王フランソワ1世・ヴェネツィアがスペイン・神聖ローマ・イギリス・ミラノのスイス傭兵軍とマリニャーノ戦いで勝利する。

1519年、スペインのコルテスがタバスコの戦でインディオに勝利し、メキシコを征服した。

1521年、独帝カール5世と仏王フランソワ1世との間にイタリア戦争始まる。

1524年、フランケンハウゼンの戦で農民軍が諸侯軍に敗れて壊滅し、ドイツ農民戦争が終結する

1525年、仏王フランソワ1世、パヴィアの戦でスペインに敗れる。

1526年、インドのロディ朝がパーニーパットの戦でムガール帝国のバーブルに敗れる

1526年、オスマン帝国がモハーチの戦でハンガリー王国を破る

1529年、スイスの宗教戦争、第一次カッペル戦争

1531年、第二次カッペル戦争でチューリヒのカトリック軍が勝利する。

1531年、スコットランド王ジェームズ4世が2万の軍勢を率いて国境を侵攻するが、英国軍にフロッドンの戦で大敗し、ジェームズ4世は戦死する

1531年、チューリヒの宗教改革の指導者ツヴィングリがカベルの戦で戦死

1532年、インカ帝国アタワルパ、カハマルカの戦いでピサロ率いるスペイン軍に敗れる。

1538年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国と対戦するが、連語国側は統制がとれずに敗れる。

1546年、シュマルカルデン戦争がはじまる。

1547年、プロテスタント軍がミュールベルクの戦で神聖ローマ軍に敗れる

1558年、リヴォニア戦争(~1583)。

1562年、ユグノー戦争

1571年、オスマントルコ海軍がレパントの海戦でスペイン、ベネチア、ローマ教皇の連合軍に敗れる

1587年、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊(アルマダ)がプリマス沖、カレー沖の海戦でイギリス艦隊に敗れる

1593年、オスマントルコ帝国ムラート3世の宰相ハサン・パシャは、シサクの戦でクロアチア軍に敗れる

1593年、ハプスブルク家とトルコの十五年戦争(~1606)。

1593年、小早川隆景らが李如松率いる明軍を碧蹄館の戦いで破る

1618年、三十年戦争

1619年、ヌルハチ率いる後金(のちの清)がサルフの戦で明を破る

1620年、白山の戦。

1630年~31年、ルター派の都市マグデブルクが包囲され、破壊・略奪される(三十年戦争)

1631年、神聖ローマ帝国がブライテンフェルトの戦でグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンに敗れる。

1632年、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国がリュッツェンの戦でグスタフ・アドレス2世(スウェーデン)の軍に敗れる。

1632 年、ロシアがスモレンスクの戦でポーランドの軍に敗れる。

1640年、ポルトガルの貴族ブラガンサ公ジョアンらがリスボンのスペイン王宮を襲撃、ポルトガル王政復古戦争が始る。

1641年、清のホンタイジが松山・錦州の戦で明を滅ぼす

1643年、清教徒革命。国王軍がアドウォルトン・ムーアの戦で議会軍に勝利する。

1644年、清教徒革命。チャールズ1世の国王軍がマーストン・ムーアの戦でクロムウェル率いる議会軍に敗れる。

1645年、イギリス、ルーパート王子軍がネーズビーの戦でクロムウェルの議会軍に敗れる。

1648年、ウェストファリア講和条約。三十年戦争終わる。

1653年、ポートランドの海戦(第一次英蘭戦争)~1654年まで

1654年から1667年、ロシア・ポーランド戦争

1659年、ロシア大公アレクセイ3世がコノトプの戦でウクライナ・コサック軍に敗れる。

1670年、ロシアでステンカ・ラージンの農民反乱おこる。(~1671年)

1672年、英仏対オランダの戦争始まる(第三次英蘭戦争)。ソールベイの海戦ではオランダの勝利。

1674年、英蘭戦争、ウェストミンスター条約の締結。イギリスの制海権が確立。北米植民地ニューアムステルダム(ニューヨーク)はイギリスに返還される。

1675年、デンマーク・スウェーデンでスコーネ戦争始まる(~1679年)。

1685年、清の康熙帝はロシアが東方に進出して黒竜江流域にきずいたアルバジン城を奪回した。

1688年、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国領のファルツ公家の継承問題に介入してファルツ戦争(~1697年)が始まる。

1697年、オスマン帝国がゼンタの戦でオーストリア軍に大敗する。

1700年、スウェーデン王カール12世がナルヴァの戦でロシアのピョートル1世に勝利する。

1701年、スペイン継承戦争始まる。1714年まで続く。

1706年、オーストラリア軍がトリノの戦いでフランス軍を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1709年、スウェーデンのカール12世、ポルタヴァの戦でロシアに敗れる。

1710年、スペイン・フランス連合軍がビリャビシオーサの戦でカール大公率いるハプスブルグ家を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1712年、スウェーデンがガーデブッシュの戦でデンマークに敗れる。

1714年、ロシアのピョートル1世がハンゴ沖海戦でスウェーデンを破る。

1721年、スウェーデンとロシア・デンマークを中心に行われた大北方戦争(1700-1721)が終る。ニスタット条約を締結。

1722年から1725年までラル神父戦争。アメリカ東部植民地とインディアンの戦い。セバスチャン・ラルがノリッジウォックの戦いで戦死。

1733年、ポーランド継承戦争始まる。

1740年、オーストラリアのマリア・テレジアが即位し、オーストラリア継承戦争始まる。

1741年、マリア・テレジアがモルヴィッツの戦でフリードリヒ2世のプロシアに敗れる。

1743年、オーストリア継承戦争。英墺連合軍と仏軍がディティンゲンで戦い、英墺連合軍が勝利する。

1745年、フランスがフォントノワの戦で英蘭墺連合軍に勝利する。

1746年、カロデンの戦い。スコットランドで名誉革命反対派・ジャコバイトによる最後の戦い。

1756年、ヨーロッパで七年戦争始まる。

1757年、プロイセンのフリードリヒ2世がロスバッハの戦、ロイテンの戦でオーストリアを破る。

1757年、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラはプラッシーの戦でロバート・クライブ率いるイギリス軍に敗れる。

1759年、プロイセン軍がクネルスドルフの戦でロシア・オーストリア連合軍に敗れる。

1761年、第3次バーニーパッドの戦い、マラーダ連合軍敗北する。

1764年、イギリス東インド会社がインドのブクサールの戦でムガル帝国を破る。

1767年、第1回マイソール戦争(~1769)。マイソール王国がイギリス東インド会社に勝利する。

1768年、露土戦争起こる。

1775年、アメリカ独立戦争始まる。ボストン北西のコンコードで英軍と米植民地兵が武力衝突。アメリカ軍はモントリオールを占領するが、ケベックの戦いに敗れる。

1775年~82年。マラータ同盟がイギリス東インド会社に勝利する。

1776年冬、大陸軍はニュージャージーの戦いでイギリス軍に勝利する。

1777年、英軍バーゴイン将軍がサラトガの戦で米植民地軍に敗れる。

1780年、アメリカ独立戦争・ワックスホーの戦。戦闘に勝利した英軍は、大陸軍が白旗を挙げたのを無視して大陸軍兵113人を虐殺。

1781年、チャールズ・コンーウォリス率いるイギリス軍はヨークタウンの戦でジョージ・ワシントン率いる独立軍に攻囲され敗れる。

1781年、インドのポルト・ノヴァでマイソール王国はイギリス軍に敗れる。(第二次マイソール戦争の1つ)。

1789年、フランス革命起こる。

1790年、第3回マイソール戦争。

1793年、フランス軍はナポレオン率いる革命軍にツーロン要塞の攻撃で敗れる。

1796年、オーストリア軍がカスティリオーネの戦でナポレオン軍に敗れる。

1798年、オスマン帝国がピラミッドの戦でナポレオン軍に敗れる。

1799年、第4回マイソール戦争。

1800年、オーストリア軍がアルプスを越えて侵攻したナポレオン軍にマレンゴの戦で敗れる。

1805年、オーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンに敗れる。

1805年、トラファルガルの海戦でイギリス艦隊がナポレオン率いるフランス・スペイン聨合艦隊に勝利。ネルソン提督は戦死。

1806年、プロシア軍がイエナ・アウエルシュタットの戦でフランス軍に敗れる。

1809年、ナポレオン、ワグラムの戦でオーストリア軍に大勝する。

1810年、セブンオークスの戦い。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1812年、モスクワに遠征したナポレオンがクトゥーゾフ将軍のロシア軍とボロジノの戦で交戦。10万人の犠牲を出したが勝敗は決せず。

1812年、米英戦争はじまる。

1813年、ナポレオン軍がライプチヒの戦でプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れる。

1814年、アメリカ軍はブラーデンスバーグの戦でイギリス軍に敗れ、ワシントンのホワイトハウスなどの建物が焼失した。

1814年、イギリス東インド会社とネパール(ゴルカ朝)とのグルカ戦争が起こり、1816年イギリスの勝利により、スガウリ条約が結ばれる。

1815年、ナポレオンがワーテルローの戦でイギリス・プロシア連合軍に敗れる。

1815年、米英戦争ニューオーリンズの戦でイギリス軍はアンドリュー・ジャクソン率いる5千人の兵に敗れる。

1816年、セブンオークスの戦。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1817年、第3回マラータ戦争。

1819年、シモン・ボリバルの独立革命軍はボヤカの戦(コロンビアのボゴタ近郊)でスペイン軍に勝利する。

1821年、スペイン軍がカラボボの戦でシモン・ボリバル率いる反乱軍に敗れ、ベネズエラの独立が決定した。

1824年、スペイン軍がアヤクーチョの戦でスクレ将軍率いるペルー解放軍に敗れる。

1824年~26年、ビルマ戦争。イギリスがビルマのコンバウン朝に勝利する。

1827年、英仏露3国艦隊がナヴァリノの海戦でトルコ艦隊を破る。

1836年、テキサス軍がサンジャシントの戦いでメキシコ軍を破る。

1839年、バーラクサイ朝アフガニスタン首長国がイギリスを討つ(第1次アフガン戦争(~1842年)

1840年、アヘン戦争(~1842年)

1845年~46年、第一次シク戦争。シク王国とイギリス東インド会社の戦争。イギリスの勝利。

1848年、サルディニア王カルロ・アルベルトがクストッツァー・ノヴァラの戦でオーストリアに敗れる。これにより、イタリアの統一運動は一時中絶した。

1854年、クリミア戦争でロシアのセヴァストーポリ要塞を目指す英仏軍がアルマでロシアと交戦する。

1855年、セヴァストーポリ要塞が英仏軍の攻撃によって陥落する。

1856年、アロー号戦争(~1860年)

1856年、コスタリカ軍が第二次リバスの戦いでニカラグア軍を破る。

1859年、イタリア統一戦争・ソルフェリーノの戦い。アンリ・デュナンが戦場の惨状に衝撃を受け、後の赤十字運動につなげる。

1860年、ガリバルディ率いるイタリア義勇軍はヴォルトルノ河畔の戦でナポリ軍を破り南イタリアを制圧する。

1861年、アメリカの南北戦争、北軍はブル・ランの戦で南軍に敗れる。

1862年、アメリカの南北戦争、セブンパインズの戦。決着つかず。

1862年、アメリカの南北戦争、シャイローの戦。北軍の勝利。

1862年、メキシコがプエフラの戦でフランスに勝利する。(フランス・メキシコ戦争1862-1867)

1863年、南北戦争、ゲッティスバーグの戦で南軍の衰勢が決定した。

1864年、曽国藩が太平天国の乱を鎮圧した。

1866年、イタリア海軍がリッサの海戦でオーストリア海軍に敗れる。

1866年、オーストリア帝国はチェコのケーニヒグーレツの戦(サドワの戦)でプロシアに敗れる。

1868年、アメリカ軍のカスター中佐が率いる第7騎兵隊がシャイアン族インディアンを虐殺する(ウォシタ川の戦)。

1868年、エチオピアのテオドロス2世、マグダラの戦いでイギリス軍に大敗し、自殺する。

1870年、モルトケ率いるドイツ軍がグラヴロットの戦でバーゼル率いるフランス軍を破る

1870年、フランスのナポレオン3世はセダンの戦でプロイセン軍に敗れる。

1873年、アチェ-戦争、オランダがスマトラのアチェー王国征服(1904年)

1876年、アメリカ陸軍とインディアンがモンタナ州のリトルビックホーンで戦い、カスター将軍の本隊が全滅した。

1877年、露土戦争(~1878)

1879年、ズールー戦争おこる。イギリスと南アメリカのズールー王国との間で行われた戦争でアフリカの植民地支配がはじまる。

1880-1881年、イギリスがトランスヴァール共和国に破れる(第一次ボーア戦争)

1885年、清仏戦争でフランスによるベトナムの植民地化が始まる。

1885年、ビルマ王ティーボーは英緬戦争でイギリス軍に敗れ、コウバウン朝は滅亡し、イギリス領インド帝国に併合される。

1894年、日清戦争(~1895年)

1896年、イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦でエチオピアのメネリックに大敗する。

1898年、米西戦争。7月アメリカ軍がキューバのサン・ファン・ヒルの戦いでスペイン軍を撃破する。

1899年、南アフリカ、ボーア戦争(~1902年、イギリスの勝利)。

1904年、日露戦争(~1905年)

1905年、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本の連合艦隊に敗れる。

1911年、イタリア・トルコ戦争。イタリアがオスマントルコ領リビアの領有を図って起こす。イタリア敗北。

1912年、バルカン戦争(~1913年)。

1914年、ロシアがタンネンベルクでドイツに大敗。

1914年、ベルギーを突破し、北仏に進軍したドイツ軍(モルトケ)は、マルヌの戦でフランス軍(ジョッフル)に敗れる。

1914年、ロシア軍がタンネンベルクの戦でドイツ軍に包囲、殲滅される。

1915年、オスマン帝国はガリポリの戦で連合軍に勝利する。

1915年、第一次大戦・イ―ペルの戦い。ドイツ軍がフランス軍に対し、毒ガス攻撃。

1916年、ヴェルダンの戦、フランスは守り切った。

1916年、ソンムの戦。第一次世界大戦における最大の戦争であるが、英仏連合軍とドイツ軍がフランスのソンムで激突したが、両軍目立った戦果をあげることがなかった。

1916年、ユトランド沖海戦。

1916年、アメリカ、パンチョ・ビリャ遠征軍をメキシコに派遣。

1917年、ロシア革命。

1917年、第一次世界大戦におけるカンプレーの戦いで、英軍が世界初となる大規模な戦車の投入を行った。

1920年、ポーランド・ソ連戦争。ポーランドの旧版図回復。

1935年、イタリア、エチオピア侵略。

1936年、スペイン内戦始まる。

1937年、日中戦争始まる。

1939年、満蒙国境線めぐりノモンハン事件。

1940年、ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵入(ベルギーの戦い)。

1940年、フランス軍はダンケルクの戦でドイツに敗れ、降伏する。

1941年、太平洋戦争始まる。

1942年、ドイツの戦車軍団ロンメルは北アフリカのエル・アラメインの戦で英軍モントゴメリーに敗れる。

1942年、ドイツ軍はソ連とのスターリングラードの戦(~1943年)で消耗し、これによってドイツの後退が始まる。

1943年、ドイツ軍はドニエプル川の戦でソ連軍に敗れる。

1943年、ドイツ軍はクルスクの戦でソ連軍に大敗。

1944年、日本はレイテ沖海戦で米軍に大敗し、事実上壊滅。シブヤン海海戦・戦艦武蔵が沈没。

1944年、連合軍、ノルマンディー上陸作戦に成功する。

1945年、独ソ戦最後の戦い、プラハの戦い。

1945年、硫黄島の戦いで、アメリカが硫黄島を完全占領

1946年、フランス・インドシナ戦争(~1954年)

1950年、朝鮮戦争が始まる(~1953年)

1953年、ポークチョップヒルの戦い

1954年、フランスとアルジェリアでアルジェリア戦争始まる(~1962年)。

1954年、ディエンビエンフーのフランス軍拠点が陥落。インドシナから撤退する。同年ジュネーヴ協定結ばれる。

1959年、チベットで反中国暴動。

1963年、インドネシア、マレーシア戦争(~1966年)

1963年、アメリカ軍と南ベトナム軍がアプバクの戦いでベトコンに敗北する。

1967年、ビアフラ戦争(~1970年)。

1967年、第三次中東戦争。

1968年、南ベトナムのケサンでアメリカ軍と北ベトナム軍が戦う。

1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。

1982年、アルゼンチンはフォークランド紛争でイギリスに敗れる。

1988年、ソマリア内戦はじまる(~継続中)。

1991年、第一次湾岸戦争。

1991年、スロヴェニア独立戦争。

1994年、ルワンダで内戦始まる。50万人が殺される。

2001年、アメリカのアフガニスタン侵攻。

2003年、第二次湾岸戦争。

2005年、イラク戦争。ハディサで米軍兵士がイラク市民24人を虐殺(ハディサ事件)。

 

 

2020年6月30日 (火)

名誉革命とジョン・ロック

    イギリスでは、1688年から89年にかけて名誉革命が起こった。1688年のこの日、ジェームズ2世にかわって、時のオランダ総督オラニエ公ウィレムが、公妃メアリー(ジェームズ2世の娘)とともにホイッグとトーリー両党の招請によりイギリスの王位を継承した。ウィレム3世として即位した新王は「人権宣言」を発し、「宗教寛容令」を公布した。1689年、王妃メアリーと同船してイギリスに帰ってきた一人の哲学者があった。ジョン・ロック(1632-1704)である。彼は「名誉革命の哲学者」として知られ、1690年公けにした「政府二論」の目的は「わが国の偉大な再興者である現在ウィリアムの玉座を確立し、王の正統性を人民の同意のうちに基礎づけること」であった。

 

Locke     ロックの最大の業績は、政治理論家として近代市民社会を支える民主主義的原理を追求した。とくに、近代的な「自由」の観念を明らかにしたことである。「社会における人間の自由は、国家における同意によって確立された立法府の権力以外のいかなる権力にも屈せず、この立法府がみずからに託された信託に従って制定する法以外には、いかなる意思の支配も、いかなる法の拘束も受けないということのうちに存する」(「政府二論」第8章政治社会の起源について)のである。ロックの思想は名誉革命の理論づけだけでなく、アメリカ独立宣言にも影響を与えている。(6月30日、the Glorious Revolution)

 

 

 

 

2020年6月28日 (日)

サラエボ事件

P0790  1914年のこの日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナンド夫妻が、バルカン半島のサラエボで一青年ガヴリロ・プリンツィプにピストルで暗殺された。7人の暗殺犯は、かねてから反オーストリア運動を企てていた「黒手組(「黒い手」とも訳す)」ツルナ・ルカの団員であった。反オーストリア運動に憤激していたオーストリアは、セルビア政府に対し、「犯人の裁判にオーストリア判事の参加」を含む最後通牒を1ヶ月の期限付きでつきっけ、セルビアがこの項目をうけいれないため、戦争は勃発した。短期間のうち、世界的規模で戦争が拡大したので「世界大戦」と呼ばれるようになった。ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国側に対し、イギリス・フランス・ロシアの協商側は連合国と称した。

220pxgavrilloprincip_2     世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の7人の暗殺犯はどうなったのか。大公暗殺犯(サラエボ事件)の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(1894-1918)はその後、セルビアの愛国者として賞揚された。プリンツィプは犯行当時、未成年だっため死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。しかし劣悪な刑務所環境のため結核により、1918年4月28日、獄死した。7人の暗殺犯のうち、ヴァソ・チュブリロヴィチはベオグラード大学教授、ユーゴスラビア森林相を勤め、1990年に死去した。最初に手榴弾を投げたネデリュコ・チャブリノヴィチは1916年に獄中で死亡。Gavrilo Princip(6月28日)

 

 

2020年6月27日 (土)

朝鮮戦争

38dosen_s   思い違いで、ずっと勘違いしていることがある。「38度線」は、朝鮮半島の南北の分断を象徴する言葉だが、実際は38度線そのものが国境線ではない。

   1945年、日本の敗戦により朝鮮半島は36年に及ぶ日本の植民地支配から解放された。同年12月、米英ソ3国外相会議は朝鮮半島を向こう5年間信託統治する案を決めたが、東西冷戦の深まるなか、1947年10月、最終的に決裂。翌48年5月には南側地域のみで単独選挙が行われ、同年8月、大韓民国が成立。北側にも、ソ連などに後押しされる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立され、38度線は東西対決の軍事境界線となった。

   東西両陣営の対立を背景に、1950年6月27日に始まった朝鮮戦争はアメリカを主力とする国連軍が韓国側に、中国義勇軍が北朝鮮側に加わり、戦局は一進一退を繰り返した。1951年3月14日には国連軍がソウルを再奪回した。やがて、平和を切望する国際世論が高まり、53年7月27日、休戦協定が板門店(パンムンジョン)で調印された。「板門店」の地名の由来は一人の中国人兵士が食堂に書いた漢字の落書きが発端になったといわれる。協定で画定された休戦ラインは板門店がある38度線を横切り、その西端で38度線の南側へ、東は端で北側にそれぞれくいこむ形となっている。

 

 

 

 

2020年6月22日 (月)

ナポレオンのロシア遠征

300pxbattle_of_borodino

 背広の袖にボタンが付けられることになったのは、英雄のナポレオンが関わっている。ロシア遠征の時、フランス兵たちが寒さのあまり鼻水を袖で拭うの見かねて、外套の袖口にボタンを付けさせてそれを防止したのが始まりといわれている。

    ヨーロッパ統一をめざすナポレオン(1769-1821)は、1812年6月22日、47万の大軍を率いて、コヴノ付近の4つの橋で、ニーメン(ネマン)川を渡り、ロシア領内になだれこんだ。ここに同年12月までの約半年、ロシアにおいて戦争が始まった。ナポレオン軍は9月14日にはモスクワを占領したが、ロシアのクトゥーゾフ(1745-1813)の焦土作戦により兵糧米が不足し、厳寒のなかでの撤退を余儀なくされ、ヴィヤシマ、スモレンスクの戦いは壊滅的な敗北を喫した。6月に47万人の兵士がニーメン川に架かる橋を渡ったが、12月にこの橋を渡った者はわずか5000人だった。ニーメン川はベラルーシに源を発して、リトアニアとロシア連邦カリーニングラード州を流れ、バルト海の一部であるカルシュ海に注いでいる。

 

ナポレオン軍の兵力消耗状況
6月 ニーメン川渡河   47.5万
7月 ヴィテブスク     37.5万
8月 スモレンスク     15.5万
9月 ボロディノ       13万
9.14  モスクワ入城     11万
10.19 モスクワ退却    10万
11.9   ヴィヤシマ      5万
11.9   スモレンスク      3.7万
11.28 ベレジナ       3万
12.10 ニーメン川渡河   0.5万

 

 Napoleon,Kutuzov

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