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2019年3月21日 (木)

アブデュルアジズ

オスマントルコ第32代皇帝。1861年西洋諸国を歴訪し、帰国後海軍整備に力を注ぐ。1876年クーデターにより廃位され病死する。

2019年3月17日 (日)

ケンブリッジ大学図書館

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   ケンブリッジ大学は、言わずと知れた中世以来の古い歴史をもった大学である。ニュートンが力学を、ダーウィンが進化論を、マックスウェルが電磁気学を、ラザフォードが原子物理学を、創始したのはこの地である。科学研究ばかりではない。詩人のミルトン、バイロン、テニソン、ワーズワース、作家ではサッカレー、フォースター、歴史学のマコーレー、哲学ではフランシスコ・ベーコン、バートランド・ラッセル、経済学のケインズなどがいる。

   ケンブリッジ大学の名門カレッジの一つ、セントジョーズ。その広大な敷地に流れるケム川に架かるバロック様式の橋レン・ブリッジ。校内にあるセントジョーンズ・カレッジの古い図書室が一般公開されている。木彫りで装飾された本棚には古い本がたくさん並んでいる。近づいて見ると、それらの本には年号が刻まれている。「1569年」さすが440年以上も経った本を手にして開くことは禁じられていた。寺院図書館の建築様式を取り入れたこの図書館は、その後の大学図書館にとって先駆的な存在となった。綜合図書館のほうは、学内のペーター・ハウスで運営を開始し、1593年から翌年にかけての改革によって、図書を鎖でつなぐことをやめた。17世紀から18世紀にのはじめにかけてのケンブリッジ大学図書館の発展はめざましく、イギリス屈指の図書館として、自他ともに認めるところとなった。

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 ケンブリッジ・セントジョーンズ・カレッジの図書室


 1934年にロックフェラー財団に頼るかたちから、現在の総合図書館ができた。この図書館は法定納本制度適用の図書館として、イングランドの出版社がすべての印刷物を送る義務があり、現在500万冊を超える蔵書がある。大学全体は本館、薬学図書館、数理科学研究所のベティ&ゴードン・ムーア図書館、中央科学図書館、スクワイア法学図書館の5つの独立した図書館で構成されており、すべてをあわせると700万冊以上になる。

米英優位思想と日本人

    英語が広く世界中で使われている言語であることは誰しも認めるところである。英語を第一言語(母語)として使う人がおよそ3億7500万人、第二言語(共通語)として使う人がおよそ3億7500万人。さらに、英語を外国語として学びかつ使っている人が7億5000万人で、これらを合わせると世界の英語人口は15億人を超えるであろう。インターネットの普及はさらに英語情報の普及を拡大している。だが英語を本当に「グローバル言語」として無抵抗に認めていいのだろうか?

    わが国では、明治以来、「英語信仰」「英語中心主義」があった。文明開化は国是であり、進んだ欧米の文化を移入し、近代化することは必須であった。明治5年、岩倉使節は米国の次に訪れた英国の先進性に大きな衝撃を受け、近代日本のお手本はイギリスになった。この傾向は戦後は米国に代わったが、英語熱は日本人にさらに加速されていく。トニー谷のような気障な英語をペラペラ話すタレントが人気者となる。親たちは競って子供を幼児期から英会話教室に通わせた。最近、ある企業は英語を社内公用語とすると宣言した。またある総理は所信演説で意味不明のカタカナ英語を羅列した。次の総理は漢字を変な読み方をして知性を疑われた。次の総理は宇宙語といわれたが、結局、人の心をうごかすことはできなかった。コミュニケーションは大事だ。しかし、今もとめられている能力は外国語を話すよりも、日本語を正しく話し、伝える当たり前の能力であろう。

    世界史的な流れで考えてみよう。英語が世界の中で優位になったのは、この2世紀のことである。ビジネスの世界では産業革命により、「世界の工場」といわれたことが大きい。フランスのナポレオンがイギリス経済に打撃を与えるために大陸封鎖令を布いたことが、かえって大陸諸国の反抗を招いて、滅亡を早めた。つまりもしもナポレオンがトラファルガーでイギリスを破っていたら、フランス語がグローバル言語になっていたかもしれない。いまでもフランス人の大方は英語が嫌いだという。フランスでは自国語を守るために、1994年にフランス語使用法(トゥーボン法)を制定している。公文書や国際会議でフランス語の使用を義務づけ、テレビやラジオでの外国語の濫用を防ぐための法律である。また世界史的に、生きながらえた民族は漢民族、朝鮮族、日本民族である。たとえばピラミッドを築いた古代エジプト民族や旧約聖書のユダヤ民族が現在のイスラエル人のご先祖とは思えない。なぜ漢民族らは激動の歴史の中で生きながらえたのか。民族としてのアイデンティティーを維持できたのは、異民族の侵入にあっても、儒教、仏教、道教、民間信仰、などはもちろん、詩文、絵画、書などを重んじる文化的伝統性を継承したからであろう。自国の言語を捨てた民族は滅ぶことを歴史が証明している。

ウィンドボナ(白い岩)

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    ヨーロッパの古都ウィーンという地名は、心を明るくする響きをもつ。なごやかな気持ちになり、何となくはしゃぎたくなるのだ。モーツアルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウスなどの音楽家が活躍した音楽の都だからだろうか。あるいは多くの人々の想念のなかにある御伽の国を思い浮かべるだろうか。

    紀元前4世紀頃、ケルト人たちによってドナウ川上流右岸に集落がつくられ、前50年にローマ軍はここに侵入し、前15年から14年にティベリウスとドルススが征服し、レディア・ノリクム・バンノニアの3州がつくられた。バンノニアの中心地はケルト語をそのまま引き継いで、ウィンドボナ(白い岩)またはウィンドミナ(白い河)と呼ばれ、ローマ帝国の北辺を守る要衝の一つとして軍隊が駐屯する要塞都市となった。「ボナ」は「集落・町」、「ウィンド」は「白い」という意味。別の説ではウィンドの語源はケルト語のベズニア(木、森)の意味とある。この付近が「ウィーンの森」といわれるように、アルプス山系の森林地帯であったからである。いずれが正しいか明らかではない。

   177年ドナウ戦争のために出征していたローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)は180年3月17日、この地で陣没したといわれる。民族移動の口火をきったフン族はアッチラに率いられて5世紀ころには一時このあたりにとどまり、またイタリアにはいる前の東ゴートもここに国をつくった時代がある。城砦と町は5世紀の民族移動による混乱で消滅したが、その構造が一部残って中世都市の基礎となり、それが今日でも市の中心部の地取りを決めている。

    古名ウィンドボナは、881年にはヴェニア(Wenia)と記録され、これが転化してウィーンとなった。1156年にはバーベンベルク家の下で首都となり、急速に重要性を増した。都市キビタスとしての特許状は1137年にすでに与えられていたが、1221年には商業独占権が認められて商業の中心地となり、その関係で十字軍の聖地への発進地にもなれば、ドイツ騎士団の後援者にもなった。

2019年3月16日 (土)

戦争の世界全史

300px131_bataille_de_malazgirt  現職のアメリカ大統領として初めて、オバマ大統領が広島を訪れた。17分に及ぶスピーチは人類と戦争の歴史から語られ始められた。「どの大陸でも、あらゆる文明は戦争の歴史に満ちています。穀物の不足や、金への欲望、あるいは国粋主義や宗教的な理由から戦争が起こってきました。帝国は台頭、衰退しました。人々は支配され、解放されました。それぞれの歴史の転換点で罪のないひとが苦しみ、多くが犠牲となりました。広島と長崎で残忍な終わりをみた世界戦争は、裕福で力のある国によって戦われました」

   そして今も世界と日本が、激しく変革している。数千年以上の太古の昔から今日まで、人類の歴史は戦争の繰り返しの歴史といえる。戦争は何故起こるのか。最近の考古学的知見によると、世界のどこでも旧石器時代の男子の死者のおよそ15%は殺人によって死亡している。これは人類の顕著な特徴であり、食糧や雌をめぐる争いはどの動物にもあるが、このような激しい戦いはみとめられない。人類が道具を使うことにより、武器による先制攻撃が優位となること、確実に勝てるという合理的行動が戦闘をひきおこすのである。こうして戦争はいつの時代も絶えることなく繰り返される。戦争の原因も民族・宗教にイデオロギーが加わって、世界各地でテロが発生した。集団的自衛権を容認する安保法制が成立し、日本も紛争にまきこまれるようになった。2016年7月、ダッカでISに日本人7人が殺害された。

前25世紀、ラガシュの王エアンナトゥムがウンマの軍を破る

前23世紀、古代バビロニア、アッカド王国のサルゴン王は「戦いの王」といわれ、オリエント各地を遠征・征服を繰り返す

前1674年、ヒクソスのエジプト侵入(前1674~前1567)

前1620年、ヒッタイト・フルリ戦争(前1620~前1325)

前1457年、エジプト王国のトトメス3世はメギドの戦でカデシュ王率いるカナン連合軍(カデシュ、メギド、ミタンニ)を破る

前1350年、ヒッタイト王シュピルリウマ1世がミタンニ王トゥシュラクを滅ぼす

前1274年、エジプト王国のラムセス2世はカデシュの戦でヒッタイト王ムワタリに敗れる

前1200年、トロヤ戦争起こる。アカイア人の遠征軍と小アジアのトロイアの戦い

前1070年、殷の紂王は牧野の戦で、周の武王に敗れ、700年に及ぶ殷王朝は滅び、周王朝が成立する

前736年、スパルタがメッセニアを破る(メッセニア戦争)

前632年、晋の文公が城濮の戦で楚の成王を破る

前609年、ユダ王国のヨシヤがメギドの戦でエジプトのネコ2世に敗れる

前605年、ネコ2世はカルケミッシュの戦で新バビロニアのネブカドネザルに敗れる

前575年、晋が鄢陵の戦で楚を破る

前540年、エトルリア・カルタゴ連合軍がサルディニア島のアラリア沖で、ギリシャ軍と海戦し勝利する。

前484年、呉王夫差が艾陵の戦で斉を破る

前490年、ダリウス1世 マラトンの戦でミルティアデス率いるギリシア軍に敗れる

前480年、ギリシアのスパルタ王レオニダスはテルモピュライの戦でペルシア軍を迎え撃ち、その南下を防いたが部隊は全滅する

前480年、ギリシアのテミストクレスはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破り、クセルクセス1世は退却する

前432年~前430年、アテネがポティダイアの戦でコリントスとペロポネソス同盟諸国に勝利した

前406年、アテネがアルギスサイの戦でスパルタに勝利した

前405年、スパルタがアイゴスポタモイの海戦でアテネに勝利した

前404年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終わる

前394年、アテネ人コノン指揮のペルシア軍はクニドスの海戦でスパルタ(ラケダイモーン)を破る

前390年、ローマ軍クイントゥス・スルピキウスがイタリアに侵入したブレンヌス率いるガリア人セノネス族とアッリアの戦で敗れる

前371年、スパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がレウクトラの戦でテーバイを中心とするボィオティア同盟軍に敗れる

前362年、アテネ・スパルタ連合軍がマンティネイアの戦でテーベのエパミノンダスの軍に敗れる

前343年、秦は馬陵の戦で斉の孫臏の策により大敗する。

前338年、ギリシャがカイロネイアの戦でマケドニアのフィリッポス2世の軍に敗れる

前333年、ペルシア軍がイッソスの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前334年、ペルシア軍がグラニコス川の戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前331年、ペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前326年、アレクサンドロス3世はインドのパンジャブ地方まで侵攻したが、ヒュダスぺス河畔の戦で苦戦し、やむなく東方遠征をやめる。

前305年、シリア王セレウコス1世、マウリア朝チャンドラグプタに敗れる

前260年、秦の昭王が長平の戦で趙を破る

前241年、ローマ軍がアエガテスの海戦でカルタゴを破る

前220年、メディア総督モロンはアポロニアの戦でセレウコス朝のアンティオコス3世に敗れる

前216年、ローマ軍がカンネーの戦でカルタゴのハンニバルに敗れる

前202年、カルタゴのハンニバルがザマの戦でローマのスキピオに敗れる

前202年、項羽、垓下の戦で劉邦に敗れ自殺

前85年、ローマのスッラがオルコメノスの戦でポントス王ミトリダテス6世を破る

前48年 ポンペイウス、ファルサルスの戦でカエサルに敗れる

前45年、ポンペイウス派の残党がムンダの戦でカエサルに敗れる

前42年、カエサルを暗殺したブルトゥス、カッシウスがフィリッピの戦でアントニウス、オクタウィアヌスに敗れる

前31年、アントニウス、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れる

前23年、劉秀、昆陽の戦で王莽を破り、漢室再興を果たす

後9年、ローマ帝国がトイトブルクの戦でゲルマンに大敗する

49年、ベトナムのチュン姉妹は後漢の侵略に抵抗し、処刑される

66年、ユダヤ民族のシモン・バル・ギオラが反乱を起こす。

74年、ユダヤ民族の最後の拠点マサダがローマ軍により陥落し、ユダヤ戦争が終わる

191年、董卓と袁紹が虎牢関で衝突。董卓の部下呂布が盤下で董卓を殺す。

200年、曹操、官渡の戦で袁紹を破る。

208年、曹操が劉備・孫権連合軍に赤壁の戦でい敗れる。

211年、曹操が渭水の戦で馬超・韓遂らを破る。

215年、曹操が合肥の戦で孫権を破る。

219年、劉備軍の関羽が樊城の戦いで水攻めにされて殺される。

222年、劉備率いる蜀漢軍が夷陵の戦で呉の陸遜軍に敗れる。

234年、蜀諸葛亮が五丈原の戦で魏司馬懿と対戦したが、蜀漢による第五次北伐が失敗する。

260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。

280年、晋軍、呉に侵攻。大勝して呉滅ぶ。石頭城の戦い。

312年、ローマ皇帝正帝マクセンティウスがローマ郊外のミルウィウス橋の戦(サクサ・ルブラの戦)で副帝コンスタンティヌス1世に敗れる

313年、東のローマ皇帝マクシミヌス・ダイアがツィラッルムの戦でリキニウスに敗れる

363年 ローマ皇帝ユリアヌスが、ササン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、城を落せず撤退する

376年、ローマ皇帝ヴァレンスが、アドリアノーブルの戦で西ゴートに敗れ、戦死。

383年、前秦の符堅が淝水の戦で晋の謝石・謝玄に敗れる

451年、フン族の王アッティラ、カタラウヌムの戦で西ローマ軍のアエティウスに敗れる

486年、クロヴィス率いるフランク族がソワソンの戦で西ローマを破る

627年、ササン朝ペルシアのコスロー2世はニネヴェの戦でへラクリウス率いる東ローマ軍に敗れる

642年 ヤズデギルド3世 ニハーヴァンド(ネハーヴァンド)の戦でアラブ軍に敗れる

663年、日本軍は白村江の戦で唐軍に敗れ、百済滅ぶ

687年、フランク王国のピピン2世がテルトリーの戦でネウストリアのベルナルらを破る

722年、ペラヨがコバドンガの戦でイスラム軍に勝利する。

732年、サラセン軍、ツール・ポワチエの戦でフランク王国カール・マルテルに敗れる

751年、唐の高仙芝、イスラム軍とタラス河畔に戦う。サラセン軍に捕らわれ、製紙法を伝う

756年、唐の玄宗は潼関の戦で安禄山に敗れる

811年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はブリスカの戦でブルガリアに敗れ、戦死した。

849年、ナポリ・アマルフィ・ガエータなどの艦隊がオスティア沖でイスラム艦隊を破る。

955年、ハンガリーのマジャール軍がレヒフェルトの戦で東フランク王国オットー1世に敗れる

1014年、第1次ブルガリア帝国がキンバロングーの戦(クレイディオン峠の戦)で、東ローマ帝国に敗れる。

1016年、デンマーク王クヌートがアシンドンの戦いでイングランド王エドマンド2世を破る

1057年、スコットランド王マクベスはランファナンの戦でマルカム3世に敗れ死没する

1063年、イタリアの中世都市国家ピサがパレルモ沖の海戦でイスラーム艦隊に大勝する

1066年、イングランド王ハロルド2世がへースティングズの戦でノルマンディー公ウィリアム1世に敗れる

1071年、ロマノス4世ディオゲネス マンジケルトの戦でセルジューク朝に敗れる

1107年、高麗の尹瓘が女真を討ち9城を築くが(尹瓘九城の役)、翌年に撤退する。

1176年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がレニャーノの戦で北イタリア・ロンバルディア同盟軍に敗れる

1187年、ギード・リュジニャン率いるエルサレム王国の十字軍がヒッティーンの戦でサラーフ・アッディーンに敗れる

1201年、チンギス・カンはコイテンの戦でジャムカを破る

1214年、仏王フィリップ2世が、ブーヴィーヌの戦で神聖ローマ帝国、英国連合軍に勝利する

1219年、モンゴル軍はホラズムに侵攻し、翌年にはサマルカンドを攻略する

1223年、モンゴル軍はカルカ川の会戦でロシア軍を破る

1235年、マリ王国のスンディアタがキリナの戦いでソソ王国のスマンゲルを破る

1241年、シュレージェン公ハインリヒ2世はリーグニッツ(ワールシュタット)の戦でバトゥが率いるモンゴル軍と戦い、大敗し、戦死した。

1260年、フィレンツェがモンタベルティの戦いでシエーナ軍に敗れる。

1260年、モンゴル軍のフレグはアイン・ジャールートの戦でマムルーク朝のバイバルスに敗れる。

1265年、イーブシャムの戦い。

1268~1274年、モンゴル軍は襄樊の戦で南宋を滅ぼす。

1274年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(文永の役)

1278年、モンゴル軍、ポーランド・ドイツ連合軍を破る

1278年、神聖ローマ帝国ルドルフ1世、マルヒフェルデの戦いでボヘミア王オットカルを破る

1279年、厓山の戦い、南宋が滅ぶ

1281年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(弘安の役)

1284年、ピサがメロリアの海戦でジェノバに大敗。

1288年、ドカン率いるモンゴル軍は白藤江の戦いで陳国峻率いるベトナム軍に敗れ、モンゴルのベトナム侵攻は失敗におわる。

1291年、イスラエル王国の首都アッコン滅亡する。(十字軍戦争終わる)

1294年、英仏戦争はじまる。

1298年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世はゲルハイムの戦で長子アドルフを殺す。

1301年、オスマン1世がビザンツ帝国軍をコユンヒサルの戦で破る。

1302年、フランス王フィリップ4世はクルトレー(コルトレイク、金拍車)の戦でフランドル市民軍に敗れる

1314年、エドワード2世率いるイングランド軍がバノックバーンの戦でロバート1世のスコットランド軍に敗れる

1337年、英仏の百年戦争がおこる

1346年 フランス王フィリップ6世、クレシーの戦でエドワード3世に敗れる

1356年、フランス王ジャン2世はポアティエの戦でイギリス王エドワード黒太子に敗れる

1363年、明の朱元璋は鄱陽湖の戦で元の陳友諒を破る

1369~70年 エドワード3世、フランス王シャルル5世に敗れて獲得した領土の大部分を失う

1380年、タタール軍はクリコヴォの戦でモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイに敗れる。

1380年、ジェノバがキオッジャの海戦でヴェネツィアに完敗する。

1388年、ハプスブルク家アルブレヒト3世、ネーフェルトの戦いでスイス自由連邦に敗れる

1389年、オスマン帝国のムラト1世がコソボの戦でセルビアを破る

1396年、ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国軍がニコポリスの戦でバヤズィト1世率いるオスマン帝国軍に大敗する

1402年、バヤズィト1世率いるオスマン帝国がアンカラの戦でティムールに敗れる。バヤズィト1世は捕虜になり、翌年自害する

1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルトの戦(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を破る

1415年、フランス軍がアジャンクールの戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍に敗れる。

1419年、ボヘミアのフス戦争(~1434)。フス派の勝利。

1429年、イングランドのジョン・タルボットはパテーの戦でジャンヌとリッシュモン元帥の軍に敗れ、捕虜となる。百年戦争の仏軍の初めての勝利であった

1444年、オスマン帝国のムラト2世はヴァルナの戦でハンガリー王国を破る

1450年、イングランド軍はフェルミニーの戦でフランスに大敗する。

1453年、イングランド軍はカスティヨンの戦でフランスに敗れる

1453年、東ローマ帝国コンスタンティノス11世 メフメト2世のオスマントルコ軍に攻められコンスタンティノープル陥落

1455年、ヨーク公リチャードはサマセット公エドムンド率いるランカスター派をセント・オールバーンズの戦で破る。30年にもわたるバラ戦争(~1485年)の最初の戦い。

1460年、バラ戦争、ウエイクフィールドの戦い。

1477年、ブルゴーニュ公シャルル(豪肝公)がナンシーの戦いで戦死

1485年、ヨーク派のリチャード3世はボズワースの戦でランカスター派のヘンリー7世に敗れる

1503年、フランスはチョリニョーラの戦、ガレラノの戦でスペインに敗れる

1507年、ポルトガルのインド総督アルブケルケ、ペルシャ湾口の香辛料集散地ホルムズ島を占領した。

1509年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル海軍がディウ沖海戦でイスラム教徒のマムルーク朝、クジャラート・スルタン朝及びカリカットの領主ザモリンの連合海軍を破る

1514年、サファヴィ朝ペルシャ軍イスマーイール1世がチャルディラーンの戦でオスマン帝国セリム1世に敗れる。

1515年、仏王フランソワ1世・ヴェネツィアがスペイン・神聖ローマ・イギリス・ミラノのスイス傭兵軍とマリニャーノ戦いで勝利する。

1519年、スペインのコルテスがタバスコの戦でインディオに勝利し、メキシコを征服した。

1521年、独帝カール5世と仏王フランソワ1世との間にイタリア戦争始まる。

1524年、フランケンハウゼンの戦で農民軍が諸侯軍に敗れて壊滅し、ドイツ農民戦争が終結する

1526年、インドのロディ朝がパーニーパットの戦でムガール帝国のバーブルに敗れる

1526年、オスマン帝国がモハーチの戦でハンガリー王国を破る

1529年、スイスの宗教戦争、第一次カッペル戦争

1531年、第二次カッペル戦争でチューリヒのカトリック軍が勝利する。

1531年、スコットランド王ジェームズ4世が2万の軍勢を率いて国境を侵攻するが、英国軍にフロッドンの戦で大敗し、ジェームズ4世は戦死する

1531年、チューリヒの宗教改革の指導者ツヴィングリがカベルの戦で戦死

1532年、インカ帝国アタワルパ、カハマルカの戦いでピサロ率いるスペイン軍に敗れる。

1538年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国と対戦するが、連語国側は統制がとれずに敗れる。

1546年、シュマルカルデン戦争がはじまる。

1547年、プロテスタント軍がミュールベルクの戦で神聖ローマ軍に敗れる

1558年、リヴォニア戦争(~1583)。

1562年、ユグノー戦争

1571年、オスマントルコ海軍がレパントの海戦でスペイン国王フェリペ2世に敗れる

1587年、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊(アルマダ)がプリマス沖、カレー沖の海戦でイギリス艦隊に敗れる

1593年、オスマントルコ帝国ムラート3世の宰相ハサン・パシャは、シサクの戦でクロアチア軍に敗れる

1593年、ハプスブルク家とトルコの十五年戦争(~1606)。

1593年、小早川隆景らが李如松率いる明軍を碧蹄館の戦いで破る

1618年、三十年戦争

1619年、ヌルハチ率いる後金(のちの清)がサルフの戦で明を破る

1620年、白山の戦。

1631年、神聖ローマ帝国がブライテンフェルトの戦でグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンに敗れる。

1632年、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国がリュッツェンの戦でグスタフ・アドレス2世(スウェーデン)の軍に敗れる。

1632 年、ロシアがスモレンスクの戦でポーランドの軍に敗れる。

1640年、ポルトガルの貴族ブラガンサ公ジョアンらがリスボンのスペイン王宮を襲撃、ポルトガル王政復古戦争が始る。

1641年、清のホンタイジが松山・錦州の戦で明を滅ぼす

1644年、チャールズ1世がマーストンムーアの戦でクロムウェル率いる議会軍に敗れる。

1645年、イギリス、ルーパート王子軍がネーズビーの戦でクロムウェルの議会軍に敗れる。

1653年、ポートランドの海戦(第一次英蘭戦争)

1654年から1667年、ロシア・ポーランド戦争

1659年、ロシア大公アレクセイ3世がコノトプの戦でウクライナ・コサック軍に敗れる。

1672年、英仏対オランダの戦争始まる(第三次英蘭戦争)。ソールベイの海戦ではオランダの勝利。

1674年、英蘭戦争、ウェストミンスター条約の締結。イギリスの制海権が確立。北米植民地ニューアムステルダム(ニューヨーク)はイギリスに返還される。

1675年、デンマーク・スウェーデンでスコーネ戦争始まる(~1679年)。

1685年、清の康熙帝はロシアが東方に進出して黒竜江流域にきずいたアルバジン城を奪回した。

1688年、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国領のファルツ公家の継承問題に介入してファルツ戦争(~1697年)が始まる。

1697年、オスマン帝国がゼンタの戦でオーストリア軍に大敗する。

1700年、スウェーデンがナルヴァの戦でロシアに勝利する。

1701年、スペイン継承戦争始まる。

1709年、スウェーデンのカール12世、ポルタヴァの戦でロシアに敗れる。

1712年、スウェーデンがガーデブッシュの戦でデンマークに敗れる。

1714年、ロシアのピョートル1世がハンゴ沖海戦でスウェーデンを破る。

1721年、スウェーデンとロシア・デンマークを中心に行われた大北方戦争(1700-1721)が終る。ニスタット条約を締結。

1722年から1725年までラル神父戦争。アメリカ東部植民地とインディアンの戦い。セバスチャン・ラルがノリッジウォックの戦いで戦死。

1733年、ポーランド継承戦争始まる。

1740年、オーストラリアのマリア・テレジアが即位し、オーストラリア継承戦争始まる。

1741年、マリア・テレジアがモルヴィッツの戦でフリードリヒ2世のプロシアに敗れる。

1745年、フランスがフォントノワの戦で英蘭墺連合軍に勝利する

1756年、ヨーロッパで七年戦争始まる。

1757年、プロイセンのフリードリヒ2世がロスバッハの戦、ロイテンの戦でオーストリアを破る。

1757年、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラはプラッシーの戦でロバート・クライブ率いるイギリス軍に敗れる。

1759年、プロイセン軍がクネルスドルフの戦でロシア・オーストリア連合軍に敗れる。

1761年、第3次バーニーパッドの戦い、マラーダ連合軍敗北する。

1764年、イギリス東インド会社がインドのブクサールの戦でムガル帝国を破る。

1767年、第1回マイソール戦争(~1769)。マイソール王国がイギリス東インド会社に勝利する。

1768年、露土戦争起こる。

1775年、アメリカ独立戦争始まる。

1775年~82年。マラータ同盟がイギリス東インド会社に勝利する。

1776年冬、大陸軍はニュージャージーの戦いでイギリス軍に勝利する。

1777年、英軍バーゴイン将軍がサラトガの戦で米植民地軍に敗れる。

1781年、チャールズ・コンーウォリス率いるイギリス軍はヨークタウンの戦でジョージ・ワシントン率いる独立軍に攻囲され敗れる。

1781年、インドのポルト・ノヴァでマイソール王国はイギリス軍に敗れる。(第二次マイソール戦争の1つ)。

1789年、フランス革命起こる。

1790年、第3回マイソール戦争。

1793年、フランス軍はナポレオン率いる革命軍にツーロン要塞の攻撃で敗れる。

1796年、オーストリア軍がカスティリオーネの戦でナポレオン軍に敗れる。

1798年、オスマン帝国がピラミッドの戦でナポレオン軍に敗れる。

1799年、第4回マイソール戦争。

1800年、オーストリア軍がアルプスを越えて侵攻したナポレオン軍にマレンゴの戦で敗れる。

1805年、オーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンに敗れる。

1805年、ナポレオン、トラファルガルの海戦でイギリスのネルソンに敗れる。

1806年、プロシア軍がイエナ・アウエルシュタットの戦でフランス軍に敗れる。

1809年、ナポレオン、ワグラムの戦でオーストリア軍に大勝する。

1812年、モスクワに遠征したナポレオンがクトゥーゾフ将軍のロシア軍とボロジノの戦で交戦。10万人の犠牲を出したが勝敗は決せず。

1813年、ナポレオン軍がライプチヒの戦でプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れる。

1814年、アメリカ軍はブラーデンスバーグの戦でイギリス軍に敗れ、ワシントンのホワイトハウスなどの建物が焼失した。

1814年、イギリス東インド会社とネパール(ゴルカ朝)とのグルカ戦争が起こり、1816年イギリスの勝利により、スガウリ条約が結ばれる。

1815年、ナポレオン、ワーテルローの戦でイギリス・プロシア連合軍に敗れる。

1815年、米英戦争ニューオーリンズの戦でイギリス軍はアンドリュー・ジャクソン率いる5千人の兵に敗れる。

1817年、第3回マラータ戦争。

1819年、シモン・ボリバルの独立革命軍はボヤカの戦(コロンビアのボゴタ近郊)でスペイン軍に勝利する。

1821年、スペイン軍がカラボボの戦でシモン・ボリバル率いる反乱軍に敗れ、ベネズエラの独立が決定した。

1824年、スペイン軍がアヤクーチョの戦でスクレ将軍率いるペルー解放軍に敗れる。

1824年~26年、ビルマ戦争。イギリスがビルマのコンバウン朝に勝利する。

1827年、英仏露3国艦隊がナヴァリノの海戦でトルコ艦隊を破る。

1839年、バーラクサイ朝アフガニスタン首長国がイギリスを討つ(第1次アフガン戦争(~1842年)

1840年、アヘン戦争(~1842年)

1845年~46年、第一次シク戦争。シク王国とイギリス東インド会社の戦争。イギリスの勝利。

1848年、サルディニア王カルロ・アルベルトがクストッツァー・ノヴァラの戦でオーストリアに敗れる。これにより、イタリアの統一運動は一時中絶した。

1854年、クリミア戦争でロシアのセヴァストーポリ要塞を目指す英仏軍がアルマでロシアと交戦する。

1855年、セヴァストーポリ要塞が英仏軍の攻撃によって陥落する。

1856年、アロー号戦争(~1860年)

1860年、ガリバルディ率いるイタリア義勇軍はヴォルトルノ河畔の戦でナポリ軍を破り南イタリアを制圧する。

1861年、アメリカの南北戦争、北軍はブル・ランの戦で南軍に敗れる。

1862年、メキシコがプエフラの戦でフランスに勝利する。(フランス・メキシコ戦争1862-1867)

1863年、南北戦争、ゲッティスバーグの戦で南軍の衰勢が決定した。

1866年、イタリア海軍がリッサの海戦でオーストリア海軍に敗れる。

1866年、オーストリア帝国はチェコのケーニヒグーレツの戦(サドワの戦)でプロシアに敗れる。

1868年、アメリカ軍のカスター中佐が率いる第7騎兵隊がシャイアン族インディアンを虐殺する(ウォシタ川の戦)。

1868年、エチオピアのテオドロス2世、マグダラの戦いでイギリス軍に大敗し、自殺する。

1870年、モルトケ率いるドイツ軍がグラヴロットの戦でバーゼル率いるフランス軍を破る

1870年、フランスのナポレオン3世はセダンの戦でプロイセン軍に敗れる。

1873年、アチェ-戦争、オランダがスマトラのアチェー王国征服(1904年)

1876年、アメリカ陸軍とインディアンがモンタナ州のリトルビックホーンで戦い、カスター将軍の本隊が全滅した。

1877年、露土戦争(~1878)

1879年、ズールー戦争おこる。イギリスと南アメリカのズールー王国との間で行われた戦争でアフリカの植民地支配がはじまる。

1880-1881年、イギリスがトランスヴァール共和国に破れる(第一次ボーア戦争)

1885年、ビルマ王ティーボーは英緬戦争でイギリス軍に敗れ、コウバウン朝は滅亡し、イギリス領インド帝国に併合される。

1894年、日清戦争(~1895年)

1896年、イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦でエチオピアのメネリックに大敗する。

1898年、米西戦争。7月アメリカ軍がキューバのサン・ファン・ヒルの戦いでスペイン軍を撃破する。

1899年、南ア、ボーア戦争(~1902年)。

1904年、日露戦争(~1905年)

1905年、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本の連合艦隊に敗れる。

1911年、イタリア・トルコ戦争。イタリアがオスマントルコ領リビアの領有を図って起こす。イタリア敗北。

1912年、バルカン戦争(~1913年)。

1914年、ロシアがタンネンベルクでドイツに大敗。

1914年、ベルギーを突破し、北仏に進軍したドイツ軍(モルトケ)は、マルヌの戦でフランス軍(ジョッフル)に敗れる。

1914年、ロシア軍がタンネンベルクの戦でドイツ軍に包囲、殲滅される。

1915年、オスマン帝国はガリポリの戦で連合軍に勝利する。

1916年、ヴェルダンの戦、フランスは守り切った。

1916年、ソンムの戦。第一次世界大戦における最大の戦争であるが、英仏連合軍とドイツ軍がフランスのソンムで激突したが、両軍目立った戦果をあげることがなかった。

1917年、ロシア革命。

1917年、第一次世界大戦におけるカンプレーの戦いで、英軍が世界初となる大規模な戦車の投入を行った。

1920年、ポーランド・ソ連戦争。ポーランドの旧版図回復。

1935年、イタリア、エチオピア侵略。

1936年、スペイン内戦始まる。

1937年、日中戦争始まる。

1939年、満蒙国境線めぐりノモンハン事件。

1940年、フランス軍はダンケルクの戦でドイツに敗れ、降伏する。

1941年、太平洋戦争始まる。

1942年、ドイツの戦車軍団ロンメルは北アフリカのエル・アラメインの戦で英軍モントゴメリーに敗れる。

1942年、ドイツ軍はソ連とのスターリングラードの戦で消耗し、これによってドイツの後退が始まる。

1943年、ドイツ軍はドニエプル川の戦でソ連軍に敗れる。

1943年、ドイツ軍はクルスクの戦でソ連軍に大敗。

1944年、日本はレイテ沖海戦で米軍に大敗し、事実上壊滅。

1944年、連合軍、ノルマンディー上陸作戦に成功する。

1946年、フランス・インドシナ戦争(~1954年)

1950年、朝鮮戦争が始まる(~1953年)

1953年、ポークチョップヒルの戦い

1954年、フランスとアルジェリアでアルジェリア戦争始まる(~1962年)。

1954年、フランスはディエンビエンフーの戦でベトナム軍に敗れ撤退する。

1959年、チベットで反中国暴動。

1963年、インドネシア、マレーシア戦争(~1966年)

1963年、アメリカ軍と南ベトナム軍がアプバクの戦いでベトコンに敗北する。

1967年、ビアフラ戦争(~1970年)。

1968年、南ベトナムのケサンでアメリカ軍と北ベトナム軍が戦う。

1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。

1982年、アルゼンチンはフォークランド紛争でイギリスに敗れる。

1988年、ソマリア内戦はじまる(~継続中)。

1991年、第一次湾岸戦争。

1991年、スロヴェニア独立戦争。

1994年、ルワンダで内戦始まる。50万人が殺される。

2001年、アメリカのアフガニスタン侵攻。

2003年、第二次湾岸戦争。

2005年、イラク戦争。ハディサで米軍兵士がイラク市民24人を虐殺(ハディサ事件)。

 

 

2019年3月14日 (木)

始皇帝「万里の長城」とその築造

   月世界へ旅した宇宙飛行士が、地球上に見える建造物として、躊躇なく万里の長城を挙げている。中国の北部、ほぼ北緯40度線に沿って、東端の遼寧省(丹東)から西端の甘粛省(嘉峪関)まで、東西8851.8キロの総延長を持つ。全長は秦漢時代のものを含めると2万1196.18㎞の長さに及ぶ。北京の北西にある八達嶺付近は代表的な堅固な場所であって、城壁の高さ8.5m、厚さは底部で6,5m、上部で5.7m、さらにその上には長さ1.7mの凸字形の女牆を築き銃眼があけてある。約120mおきに2階建ての望楼が立ち、沿線には10㎞平均に狼煙台が並んでいる。長城は2500年も以前の春秋戦国時代から、つい500年前の明代に至るまで、長い歳月をかけて建造されたものであるが、秦の始皇帝の暴政の典型としてイメージ化されて語られことが多い。それは始皇帝の万里の長城の工事にからむ悲劇的なヒロインの孟姜女伝説によってもうかがうことができる。

   秦の始皇帝の長城建設に徴発された范杞梁のもとへ妻の孟姜女がはるばる冬衣を届けにくる。聞くと杞梁はもう死んだという。彼女がそのまま城のそばに泣きくずれると、見るまに城壁がくずれて杞梁の骸骨が現われたと言う。この伝説は春秋左氏伝の「杞梁が斉侯の莒国征伐に随行戦死した」という記事と、列女伝の「杞梁の妻は夫の死後よるべなく、夫の死体をまくらにして城下に号泣すること10日、城壁がこれがためにくずれた」という伝説に結びつき、秦代に発生した服役者の死が、数千年にわたる築城工事の典型的な話として伝えられた。現在知られるような孟姜女の伝説は唐代になってからであろう。(『琱玉集』にひく「同賢記」)始皇帝の暴君としてのイメージは漢代からあるものの、始皇帝の暴政と万里の長城が結びついて、初唐から盛唐にかけて浸透し、中唐以後は完全に定着したと思われる。

   いまBSプレミアムで放送している「中国王朝英雄たちの伝説」が中国史の勉強に役立つ。案内役が戸田恵梨香というのも豪華だ。この番組によると、秦の始皇帝が築いた万里の長城は匈奴の侵入を防ぐためといよりも、国境線の主張という意味合いが強い。築城工法は版築という土を固めただけの粗末なもので高さは2メートルほどである。外敵防御という目的はほとんど達成されていなかった。近年、秦漢時代の万里の長城の調査を行ったところ、秦の始皇帝が建設したと伝えられる万里の長城は、ほとんどなく、大半が漢の武帝時代にようやく東西につながる万里の長城の防御システムが確立したと判明した。(世界史)

両大戦の人的被害状況

2008041617521693     第一次世界大戦の正確な死亡者数は特定できないが、約900万人の死者と約2000万人の負傷者、と推定されている。第二次世界大戦では、全世界で約6000万人の犠牲者を出したと推定されている。その人的被害で最も大きいのは独ソ戦である。フランス、イギリスがすでに戦いに敗れたと確信したヒトラーは対ソ電撃作戦バルバロッサ計画により、1941年6月22日突如、ソ連邦に侵入した。ヒトラーはレニングラードを「地上から抹殺してしまえ」と命じていた。10月のはじめに、ヒトラーは「東部の敵軍は叩きのめした。2度と立ち上がるこことはあるまい」と宣言した。しかしヒトラーの楽観的な予測は、早計だった。ロシア軍は後退こそしたものの、その力は全ったく損なわれてはおらず、ドイツ軍はロシアの内陸部におびきよせられていった。ナポレオン配下の兵士たちと同様に、ドイツ兵たちも、ロシアの冬将軍に苦しめられ、冬季に入って戦線は膠着した。1942年春以後の攻撃は南ロシアに限定された。ドイツ軍スターリングラード攻撃に主力を集中したが、ソ連軍も抵抗し、激戦が続いた。11月19日、ソ連軍の新部隊がドイツ軍を逆に包囲し、補給を断たれたドイツ軍は1943年1月31日、司令官パウルスは降伏した。1944年6月には、連合軍はノルマンディーに上陸して、ドイツ軍から首都のパリを奪回した。1945年4月に、ソ連がドイツの首都ベルリンに突入したことで、ヒットラー総統は4月30日に自殺し、翌5月には、連合軍が総攻撃してドイツは降伏した。こうして、6年間にわたるヨーロッパでの戦争は終結した。

第一次、第二次大戦の人的損害は次のとおりである。(数値は軍人と一般人を含む)

第一次世界大戦

ドイツ   177万4000人

ロシア  170万人

フランス 135万8000人

オーストリア・ハンガリー 120万人

イギリス  90万8000人

イタリア  65万人

第二次世界大戦

ロシア      1800万人

ドイツ     1050万人

中国      2100万人以上

ポーランド 580万人

ユダヤ人  600万人

日本    310万人(厚生省援護局)

イタリア   43万人

朝鮮     35万人

台湾      3万人

東南アジアの国々 1965年前後

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 ASEAN各国首脳の記念写真。紅一点はタイのインラック首相

  東南アジアのほとんどの国は、かつて欧米諸国の植民地であった。しかし、第二次世界大戦後に独立し、ベトナム、タイ、ミャンマー、カンボジア、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、ラオス、ブルネイの10ヵ国が1967年に東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成した。東南アジア諸国はいまだ貧しく多くの問題を抱えている。戦後、植民地の歴史から解放されて、新興独立国家への道を歩む過渡期における1965年前後を概観する。

ベトナム共和国(サイゴン) 1963年11月2日、クーデターが発生し、ゴ・ディン・ジエム大統領殺害される。同月ケネディ大統領も暗殺される。1964年1月、グエン・カーンが南ベトナム大統領に就任。しかし内政は混乱しベトナム解放民族戦線の勢力を伸張させる。

ベトナム民主共和国(ハノイ) 1964年8月、トンキン湾事件が発生し、これをきっかけにアメリカは本格的に南ベトナムを支援する。1965年2月に北爆を開始、3月にはダナンに上陸、長期にわたる戦争に突入する。ホー・チ・ミン大統領。1975年に北ベトナムが勝利し、南北ベトナムが統一された。

タイ(バンコク)1963年12月、タノム・キッティカチョンが首相に就任、軍事独裁体制が1973年まで続く。

ビルマ(ラングーン) 1962年、ネ・ヴィンがクーデターで政権を奪取。1981年11月まで続く。

カンボジア(プノンペン) ノロドム・シアヌークは社会主義体制に移行し、ベトナム戦争で解放戦線側を支援しアメリカに敵対政策をとった。1970年にロン・ノルらのクーデターで元首を解任される。

インドネシア(ジャカルタ) スカルノは1963年終身大統領になると、しだいに社会主義に傾斜し、国際連合を脱退、対米批判を強める。1965年9月30日インドネシア・クーデター以降、スカルノ体制は崩壊にむかう。1964年の東京オリンピックも参加することなく帰国を余儀なくされた。

マレーシア(クアラルンプール) 1963年シンガポール、英植民地のサラワク、サベを合わせ連邦国家マレーシアとして独立。トゥンク・アブドゥル・ラーマン首相はタイ・フィリピン・インドネシア・シンガポール・マレーシアの5国によるASEAN結成を実現した。

シンガポール 1965年8月9日、マレーシアから独立。リー・クアンユー首相。

ラオス(ビエンチャン) 1953年に独立するが1960年頃からパテート・ラーオ軍(共産主義勢力)とボウミ・ノサヴァン率いるスバーヌウォン王国軍と中立派の3派による内戦が続く。1974年ラオス人民共和国が成立。

フィリピン(ケソンシティ) ディオスダド・マカパガル大統領から、1965年1月、フェルディナンド・マルコスが大統領に就任。

ブルネイ・ダルサラーム国(バンダルスリブガワン) 1962年アザハリの反乱があり、1984年1月イギリスから完全独立。

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 左からナセル、スカルノ、ネルー(1960年)

朝鮮戦争

38dosen_s   思い違いで、ずっと勘違いしていることがある。「38度線」は、朝鮮半島の南北の分断を象徴する言葉だが、実際は38度線そのものが国境線ではない。

   1945年、日本の敗戦により朝鮮半島は36年に及ぶ日本の植民地支配から解放された。同年12月、米英ソ3国外相会議は朝鮮半島を向こう5年間信託統治する案を決めたが、東西冷戦の深まるなか、1947年10月、最終的に決裂。翌48年5月には南側地域のみで単独選挙が行われ、同年8月、大韓民国が成立。北側にも、ソ連などに後押しされる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立され、38度線は東西対決の軍事境界線となった。

   東西両陣営の対立を背景に、1950年6月に始まった朝鮮戦争はアメリカを主力とする国連軍が韓国側に、中国義勇軍が北朝鮮側に加わり、戦局は一進一退を繰り返した。やがて、平和を切望する国際世論が高まり、53年7月27日、休戦協定が板門店(パンムンジョン)で調印された。「板門店」の地名の由来は一人の中国人兵士が食堂に書いた漢字の落書きが発端になったといわれる。協定で画定された休戦ラインは板門店がある38度線を横切り、その西端で38度線の南側へ、東は端で北側にそれぞれくいこむ形となっている。

2019年3月 9日 (土)

ユーラシアの民族と言語

   世界にある大陸のなかで、ユーラシア大陸が最も大きい。2番目に大きなアフリカ大陸の2倍近くある。モンゴルやカザフスタン、アフガニスタンなどのように、海にまったく面しておらず、ほかの国と陸続きになっている国が多いことも特徴のひとつである。またユーラシアに住む民族分布は複雑である。民族の分類は、体質的特徴によってなされる人種分類とは別に、文化を基準にするもので、そのなかでももっとも変化しにくい言語を基準とすることが一般的方法になっている。そのさい、語族というのがもっとも大きな分類である。

   世界の言語は7000以上あるとされるが、すべてを系統立てて分類することは不可能だが、そのなかで、いくつかの言語の間に文法構造の類似、音韻上の対応、基礎的語彙の一致などから、共通の祖語がありそれが分化したと考えられるものがあれば、それらは同一語族に属するとするわけけである。そのさい、それらの言語を使用する民族の間には文化史的に何らかの関係があると、当然考えられる。このような語族であることが十分予想されても、まだ証明されつくしていないばあい、ある系の諸語として考えることがあり、さらに、どうしても系統関係が不明で、どの語族にも属さないとみなされるものがあれば、それらはいちおう地域的な語群として分類されている。

    現在、語族と確認されているものに、インド・ヨーロッパ語族とセム語族とがあり、ウラル語族も確実視されているが、このウラル語族とあわせ、かつてウラル・アルタイ語族を形成すると考えられたのがアルタイもしくはアルタイ語族である。ただしまだ証明しきれていないし、否定論者もあって、正しくはアルタイ諸語とよばれる。西からテュルク、モンゴル、トゥングースの3系統がふくまれる。テュルクは現在アジア全体に広くひろがり、西端小アジアでトルコ共和国を形成するものであるが、この民族は、かつてモンゴリアの住民として東アジア史上にも活躍したし、現在、新疆ウイグル自治区の中心民族である。トゥングース系は、現在イェニセイ川以東のシベリアに分布しているけれど、歴史上では女真族や清朝を立てた満州人もこの系統に属し、トゥングース・マンチュとよばれることが多い。なお朝鮮語、さらに日本語についても、これらアルタイ系にふくまれるかどうかはなお今後の研究課題である。

Eurasia

NW(北ヨーロッパ)ウラル語族(フィンランド人)インド・アーリア語族(ノルウェー、デンマーク、スウェーデン)バルト・スラヴ語派(リトアニア、ラトヴィア)

MW(西ヨーロッパ)インド・アーリア語族(ロマンス語派、ケルト語派、ゲルマン語派、トハラ語、アナトリア語派、ギリシア語派)

SW(西アジア)アフロ・アジア語族(セム語族)アラブ人

NC(北アジア)ウラル語族

MC(中央アジア)アルタイ諸語(チュルク語派、モンゴル語派、マンシュウ・ツングース語派)

SC(南アジア)インド・ヨーロッパ語族(インド・イラン語派)、ドラヴィダ語族(タミル語・テルグ語)

NE(東北アジア)アルタイ語族

ME(東アジア)シナ・チベット語族(中国語、カム・タイ語族、チベット・ビルマ語族)、朝鮮語(系統不明、孤立言語)、日本語

SE(東南アジア)オーストロネシア語族(インドネシア、フィリピン、マレーシア人、台湾人)、オーストロアジア語族(モン・クメール語族)クメール人、ヴェトナム人、モン族

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