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2022年9月23日 (金)

カノッサ事件

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    1077年「カノッサの屈辱」とは法王グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世が僧職任命権をめぐって争い、1077年破門された皇帝は法王の居城するカノッサの城門の前で1月25日から3昼夜立ちつくして、ようやく許しを得たといわれる事件。カノッサはイタリア北部レッジョの南西にある小村。破門を許されたハインリヒは、帰国後、市民や農民の助力で反対派の諸侯を抑えることになった。教皇は再び国王を破門にし、シュヴァーベン公ルドルフをドイツ国王とした。ハインリヒは大軍をひき連れて、北イタリアを制圧してローマを攻め、グレゴリウスを追放した。1084年、ラヴェンナのギルベルトを対立法王クレメンス3世(在位1080-1100)として擁立し、ハインリヒは皇帝冠を受けた。グレゴリウスは、両シチリア王によってサレルノに救出され、1085年、「正義を愛し、不正を憎んだがゆえに、配流に死す」との言葉を残して、その地で死んだ。さらに1103年には「神の平和」運動の理念をうけついだはじめての帝国平和令を公布した。ハインリヒとグレゴリウスの闘争は、ハインリヒが勝利をおさめたのである。その後も教皇と皇帝・国王の対立は続いた。ハインリヒの息子ハインリヒ5世が1122年9月23日に法王をヴォルムス協約が結ばれ叙任権は教会にあると確認されたが、皇帝のドイツ教会に対する実質的影響力は失わなかった。カノッサの屈辱はドイツ語で「Gang nach Canossa」ガング・ナーハ・カノッサ。つまり「カノッサに向かって歩く」という意味で、「屈辱」という表現は明治の日本の学者が分かりやすく意訳したもの。

 

 

 

 

2022年9月14日 (水)

ナポレオンのロシア遠征

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 背広の袖にボタンが付けられることになったのは、英雄のナポレオンが関わっている。ロシア遠征の時、フランス兵たちが寒さのあまり鼻水を袖で拭うの見かねて、外套の袖口にボタンを付けさせてそれを防止したのが始まりといわれている。

    ヨーロッパ統一をめざすナポレオン(1769-1821)は、1812年6月22日、47万の大軍を率いて、コヴノ付近の4つの橋で、ニーメン(ネマン)川を渡り、ロシア領内に侵攻した。ここに同年12月までの約半年、ロシアにおいて戦争が始まった。ナポレオン軍は9月14日にはモスクワを占領したが、ロシアのクトゥーゾフ(1745-1813)の焦土作戦により兵糧米が不足し、厳寒のなかでの撤退を余儀なくされ、ヴィヤシマ、スモレンスクの戦いは壊滅的な敗北を喫した。6月に47万人の兵士がニーメン川に架かる橋を渡ったが、12月にこの橋を渡った者はわずか5000人だった。ニーメン川はベラルーシに源を発して、リトアニアとロシア連邦カリーニングラード州を流れ、バルト海の一部であるカルシュ海に注いでいる。

ナポレオン軍の兵力消耗状況
6月 ニーメン川渡河   47.5万
7月 ヴィテブスク     37.5万
8月 スモレンスク     15.5万
9月 ボロディノ       13万
9.14  モスクワ入城     11万
10.19 モスクワ退却    10万
11.9   ヴィヤシマ      5万
11.9   スモレンスク      3.7万
11.28 ベレジナ       3万
12.10 ニーメン川渡河   0.5万

 

 Napoleon,Kutuzov

2022年9月12日 (月)

マラソンの日

   前490年、第2回ペルシア戦争の際、上陸するペルシア帝国の軍をアテネの名将ミルティアデスはマラトンの戦いで撃退した。9月12日、このときアテネの伝令フェイディピデス(Pheidippides)がアテネまで走り「喜びあれ(カイレイン)我が軍勝てり」(khairete,nikomen)と戦勝を告げて、絶命した。この伝説がマラソン競技の起源であることは通俗的によく知られている。詩人シモニデスがつくった伝えられている詩はつぎのように歌っている。

 ヘレネスの前衛として
 アテネ人はマラトンで
 黄金を帯びたメディア人の
 力を打倒した

しかしこのマラソン伝説は、ほんとうに歴史的事実であろうか。

Phidippides    まずマラソンの戦いの伝令は誰であろうか?長距離伝令のフェイディピデスの名は発音表記により、フィリッピデス(Philippides)、フェイディッピデス、ピリッピデスなど諸書により多少の違いはあるものの帝政ローマ時代の作家ルキアノス(120-180)に書かれている。そしてルキアノスはプルタルコス(50-120)の「プルターク英雄伝」をもとにしている。その中にはつぎのようにある。

 

ポントスのヘラクレイデスが物語るところによると、マラトンの戦いの知らせをもたらしたのは、エロイアダイ区のテルシッポスだという。しかし他方、大多数の人々が述べるところによれば、エウクレス(Eukles)という者が、完全武装のまま、身体を火照らせ戦場から急いで走って来て、国家の指導者たちの(建物の)玄関先に倒れ込み、「喜んで下さい。我が軍が勝ちました」とだけ言って、ただちに息が絶えたという。

 

    ルキアノスの話は、このプルタルコスが引用する話をもとにして、伝令の名前だけがすり変わって成立したようである。もっとも古い歴史書であるヘロドトスの「歴史」には次のようにある。

 

アテナイの将軍たちはまだ市内にいる間に、まずアテナイ人のピリッピデスなる者を伝令としてスパルタへ送った。なおこの男は飛脚を業とする健脚家であった。(松平千秋訳、中央公論「世界の名著5」6-105)

 

その注釈によれば

 

写本の伝承は「ピリッピディス」と「ペイディッピデス」の二つに分かれている。後者は「馬を節約する者、馬蹄いらず」と解せられるところから、健脚の者の名として恰好だというのでいつの間にか本来のピリッピデスにとってかわったのであろうとする説がある。

 

    ヘロドトスによれば、ペルシア軍が攻めてくることを知らせる伝令はピリッピデスであるが、アテネに戦勝をもたらした伝令は誰だったのか、全くふれられていない。マラソン伝説はルキアノスやプルタルコスなどのローマの文筆家による物語であり、戦勝の伝令者の名前を歴史的資料からは、現段階で確定することは、できないのである。

    今日、フェイディッピデスの名が世界中に広まったのは、1920年代に子ども向けに書かれたヴァン・ローン著「人間の歴史の物語」(1921年)のためである。(参考: 橋場弦「マラソン伝説の起源とアテネ民主政」 歴史と地理444号  1992.8) marathon,Pheidippides

2022年8月29日 (月)

七年戦争

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   1756年のこの日、プロイセンのフリードリヒ大王がザクセンに侵攻した。1763年まで続く七年戦争の始まりである。プロイセン王国とオーストラリアなどの間でフベルトゥスブルク条約が締結された。歴史学習には記憶すべき重要年代がある。遠藤正典によれば日本史では100以上の重要年代があるという。歴史は暗記というが無理矢理に記憶しても無意味であろう。むかしから「いい国つくろう鎌倉幕府」とか口調よく暗記できる記憶法がある。「日本史重要年代記憶法550」ではなんと550もの実例が紹介されている。わたしは年代は記憶しない主義で暗記しているのはほんとうに少しだけである。645年、710年、1192年、1600年、1868年、1945年。世界史では1914年(あるいは1756年、1763年)が重要年である。シレジア領有の七年戦争の講和条約(フベルトゥスブルク条約)と英仏間の植民地戦争のパリ条約締結の年であり、英のインド・米大陸における優位を約束するものであった。現代の英米の優位する時代の出発点としてのメルクマールになる。そのころ日本は10代将軍家治の頃で完全な鎖国状態にあった(1639-1854)。世界史は18・19・20世紀の300年間が重要である。(8月29日)

2022年8月25日 (木)

始皇帝「万里の長城」とその築造

   月世界へ旅した宇宙飛行士が、地球上に見える唯一の建造物として、躊躇なく万里の長城を挙げている。中国の北部、ほぼ北緯40度線に沿って、東端の遼寧省(丹東)から西端の甘粛省(嘉峪関)まで、延々6529.6㎞、総延長は東西8851.8㎞を持つ。全長は秦漢時代のものを含めると2万1196.18㎞の長さに及ぶ。北京の北西にある八達嶺付近は代表的な堅固な場所であって、城壁の高さ8.5m、厚さは底部で6,5m、上部で5.7m、さらにその上には長さ1.7mの凸字形の女牆を築き銃眼があけてある。約120mおきに2階建ての望楼が立ち、沿線には10㎞平均に狼煙台が並んでいる。ただし現在残る長城は明代のときに修築されたものである。長城を最初に建設したのは紀元前5世紀、春秋時代の斉または楚とされ、やがてその長城建造は他国にも波及し、紀元前3世紀秦の始皇帝がそれぞれを連結させた。秦漢時代を経て、14世紀の明代に至るまで、長い歳月をかけて建造されたものであるが、秦の始皇帝の暴政の典型としてイメージ化されて語られことが多い。それは始皇帝の万里の長城の工事にからむ悲劇的なヒロインの孟姜女伝説によってもうかがうことができる。

   秦の始皇帝の長城建設に徴発された范杞梁のもとへ妻の孟姜女がはるばる冬衣を届けにくる。聞くと杞梁はもう死んだという。彼女がそのまま城のそばに泣きくずれると、見るまに城壁がくずれて杞梁の骸骨が現われたと言う。この伝説は春秋左氏伝の「杞梁が斉侯の莒国征伐に随行戦死した」という記事と、列女伝の「杞梁の妻は夫の死後よるべなく、夫の死体をまくらにして城下に号泣すること10日、城壁がこれがためにくずれた」という伝説に結びつき、秦代に発生した服役者の死が、数千年にわたる築城工事の典型的な話として伝えられた。現在知られるような孟姜女の伝説は唐代になってからであろう。(『琱玉集』にひく「同賢記」)始皇帝の暴君としてのイメージは漢代からあるものの、始皇帝の暴政と万里の長城が結びついて、初唐から盛唐にかけて浸透し、中唐以後は完全に定着したと思われる。

   いまBSプレミアムで放送している「中国王朝英雄たちの伝説」が中国史の勉強に役立つ。案内役は戸田恵梨香。この番組によると、秦の始皇帝が築いた万里の長城は匈奴の侵入を防ぐためというよりも、国境線の主張という意味合いが強い。築城工法は版築という土を固めただけの粗末なもので高さは2メートルほどである。外敵防御という目的はほとんど達成されていなかった。近年、秦漢時代の万里の長城の調査を行ったところ、秦の始皇帝が建設したと伝えられる万里の長城は、ほとんどなく、大半が漢の武帝時代にようやく東西につながる万里の長城の防御システムが確立したと判明した。(世界史)

 

 

2022年8月23日 (火)

中国文明史 2

Unit2.旧石器時代

 広大なアジアの東方を流れる黄河や長江などの大河流域に芽生えた中国文明は5000年の歴史遺産がある。

北京原人 スウェーデンの地質学者ヨハン・ギュンナー・アンダーソン(1874-1960)は1921年ごろから中国古生代の地層に着目し、オットー・ツダンスキーは周口店で北京原人の歯を発見した。その後、1923年、裴文中により周口店猿人洞で完全な頭蓋骨を発見。1929年には完全な頭蓋骨が発見された(オリジナルな頭骨は1941年紛失により現存せず)調査の結果、約60年前の直立人であることがわかり、原人に属するホモ・エレクトス・ペキネンシス(旧学名シナントロプス・ペキネンシス)と命名された。北京原人は更新世のころ狩猟生活をしながら洞窟で暮らし、道具や火を使っていたと考えられる。洪積世中期には絶滅したと考えられ、中国民族の直接の祖先ではないが、モンゴロイドと共通する特徴がみられ、アジア人の祖先であると考えられる。打製石器。狩猟・採集。火の使用を確認。言語の発達。食人の風習。洞穴生活。その後、北京原人よりも古いとみられる元謀原人(約170万年前)、藍田原人(約70万年前)など化石人類が確認されている。

山頂洞人 およそ10万年前、後期旧石器のホモ・サピエンス。埋葬の習慣。その後、現在の中国人と関係の深い原中国人と呼ぶべき人類が現われ、その子孫たちがやがて河南・山西・陝西の黄土地帯で村落生活を営むようになり中国民族を形成していく。

 

option 北京原人はおよそ何年くらい前に中国に生息していたのか?

    これまでの研究によると、第四紀洪積世前期、約50万年から60万年前とされているが、近年の研究によればこれより20万年以上前である可能性があると考えられ、およそ78万年前という説もある。ちなみに元謀原人は170年前、藍田原人は70万年前くらいと推定されている。これら原人はいずれも現生人類の祖先ではなく、絶滅したらしい。

 

 

 

 

諸葛孔明と司馬懿

Photo_4   長き夜や孔明死する三国志

 正岡子規明治29年の句。秋の夜長は、読書の夜でもある。「三国志」は中国の後漢末期から三国時代にかけての群雄割拠していた時代の興亡史である。ことに諸葛孔明は人気がある。子規は誰の三国志を読んでいたのか。まだ幸田露伴、久保天随の本は出版されていない。博文館の帝国文庫であろうか。諸葛亮(181-234)。字は孔明。琅邪郡陽都県の人。前漢の司隷校尉の家系。幼くして父の諸葛珪が死んだため、叔父の諸葛玄に養われた。叔父の死後、南陽の隆中にうつり、徐庶らと交わり、臥龍と称された。徐庶の推挙により劉備に知られ、三顧の礼をもって迎えられたが、このとき天下三分の計を開陳し、以来、劉備と水魚の交わりを結ぶことになった。まもなく、荊州の劉琮が曹操に降伏し、そのため劉備は夏口に逃れた。そこで諸葛亮は使者として呉の孫権のもとにおもむき、連合して曹操にあたるよう説得、これが功を奏して208年11月、赤壁で曹操の軍を大破した。

    214年、劉備の蜀入りにさいしては、張飛、趙雲らとともに増援部隊を率いて成都に攻めのぼった。221年、劉備が蜀で漢帝を称すると諸葛亮も丞相となった。223年、劉備の病没にさいしては、国の将来と嗣子・劉禅の行く末をかれの手に託され、以後、蜀の経営に専心した。

    225年、みずから南方の鎮定にむかい、後顧の憂いを断ったうえで、227年、魏討伐にむかった。このとき、後主劉禅にたてまつった出師の表は、古来、これを読んで涙を流さぬものは人にあらず、といわれるほどの名文である。

    以来、五度にわたる魏討伐戦は、一時は魏の二郡を奪うという戦果をあげたが、最後の二度にわたる戦いは、魏の司馬懿(仲達)の持久戦に苦しめられ、234年8月23日、ついに五丈原で陣没した。53歳であった。

 孔明の死後の通史の記述は一般に簡潔なのものである。たとえば高校世界史定番の参考書「詳説世界史研究」では、「魏の帝室は曹丕ののち、一族の間での争いからしだいに力を失い、かわって勢力を蓄えたのは司馬氏であった。蜀を滅ぼして2年後、司馬炎は皇帝の位について晋を建国した」とある。要するに司馬懿の名前は記載されていない。我が国では伝統的に、諸葛孔明の尽忠報国の精神を尊び、司馬懿を王室簒奪の不忠者、裏切者とする史観がある。とくに幕末の吉田松陰が司馬懿を激しく非難している。この伝統的な評価は明治・大正の世も受け継がれて、歴史教科書には司馬懿抹殺ということが続いている。一方、本場中国では最近、司馬懿の評価は高い。ドラマ「三国志」(2010)では第4部から出場するがほぼ主役級の扱い。容貌魁偉な倪大紅(ニー・ダーホン)の名演技が光る。(参考:丹羽隼兵・竹内良雄「三国志人物事典」別冊歴史読本中国史シリーズ 1)

 

 

2022年8月14日 (日)

メソポタミア文明の歴史的変遷

Sumerian  世界最古の農耕遺蹟はどこか?1948年、50-51年にアメリカの考古学者ロバート・J・ブレイドウッドらが北イラク、キルクークの東、ザグロス山脈の山麓地帯にあるジャルモ遺跡を発掘した。紀元前7000年頃から紀元前4950年に存在した遺跡で、レバントのイェリコやアナトリアのチャタル・ヒュコク遺蹟とほぼ同時期に存在していた。ジャルモ遺蹟は定住的な村落がはじまったと考えられる。牛・羊が飼育され、穀物が栽培されていた。もっとも、はじめのころの農法は、もっぱら天水にたより肥料もほどこさないものだった。近年はシリアのテル・アブ・フレイア遺蹟から旧石器時代の集落が発見され、ライムギの栽培が確認され、人類最古の農耕の開始とされている。紀元前6000年期前半には、ティグリス川中流域におけるサマラ文化の下で灌漑農耕が始まった。イラク北部のハラフ期(前5000年ころ)に、はじめて灌漑をおこない、沼沢地を農地に変えて、バビロニア南部を開拓したのは、エリドゥ人である。この地方は、新石器時代末までは、定住は全くおこなわれなかった。次のウバイド期(前4000年ころ)になるとシュメール人が南メソポタミア地方のアル・ウバイド、ウル、ウルク、ラガシュ、ウカイルなどにウバイド文化を形成する。シュメール人の原住地は不明で、メソポタミア周辺のセム族の言語でもなく、中央アジアを原住地とするアーリア民族の言語でもないところから、インド原住民との関係があるのではないかといわれている。ともかくシュメール人は前4000年ごろに移住定着し、沼地を干拓し、原始農耕を営んでエリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家を建設し、楔形文字と青銅器農具の使用を発明して、古代オリエント文化の基礎を築いた。とくにラガシュは、紀元前2500年頃から紀元前2000年頃まで、時にはメソポタミアの中心都市として、時には他の帝国の属国として、変遷を遂げながらも存続した。紀元前21世紀の半ばにはラガシュが世界で一番人口の多い都市であった。メソポタミアからパレスチナにおける農耕文明の発生地域を「肥沃な三日月地帯」と言う。アメリカの学者ジェームズ・ヘンリー・ブレステッドがその著書「エジプトの古代記録」で初めて使われた。メソポタミアとはギリシア語で、メソは「間」、ポタモスは「川」のことで、「川と川の間の地」という意味である。

  ウルク期になると、人間の集住のあり方でも、村落をこえて都市というべきものが生まれ、かつての小さな祭祀場も、神殿というべきものに発達していった。そして都市神を奉ずる諸都市では、王権が生まれ、シュメール人の諸王朝が成立した。考古学編年としては、ウバイド期、ウルク期、ジュムデト・ナスル期、初期王朝時代へと続く。(Shumer,Sumerians) 世界史

 

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楽しい人名研究

 いろいろな生き物のなかで人間だけが、自覚的に生きていることのあかしのもつものとして歴史をもっている。そのような歴史を生きた、あるいは作り上げたのは一人ひとりの人間であり、識別するために人名がそれぞれに与えられている。たとえば東京五輪。オリンピック競技には世界から205の国・地域が参加し、全種目339、およそ11000以上選手が集まる。世界各国のさまざまな選手が連日ニュースに取り上げられ、メダルを獲得すれば一夜明けると著名人になれる。男子陸上100mのラモントマルチェル・ヤコブス、競泳男子100m自由形ケーレブ・ドレッセル、トライアスロン男子金メダル、クリスティアン・プルメンフェルト、柔道大野の対戦相手、ジョージアのラシャ・シャフダトゥアシビリ。すべて名前を暗記することは困難であるが、世界中の多くの人の記憶に残る名前であるは間違いない。

 誰でも知っている有名人。誰も知らない無名の人々。人名はこのネット時代、もっとも重要なキーワードである。ロバート・ホワイトヘッドを知っているか?魚雷を発明した科学者である。アメリカ人のレイ・チャップマンを知っているか?インデアンスの遊撃手、1920年頭部に死球を受け死亡した。MLB唯一の死亡事故である。アレキサンダ―・セルカークを知っているか?スコットランドの水夫で大西洋の孤島で4年余り遭難生活した。のち小説「ロビンソン・クルーソー」のモデルとなる。ジム・フィックスを知っているか?ジョギングの創始者だが、ジョギング中に心臓発作で死亡した。

 岸田文雄新首相が2021年10月4日に誕生した。岸田は初代伊藤博文から数えてちょうど第100代目の総理大臣だからキリが良くて覚えやすい。(代数は複数回なので実際は64人目)

 尾崎宗吉(1915-1945)という作曲家。若くして太平洋戦争に応召して戦死したので音楽界で活躍を果たせなかった。戦地に赴く前に「夜の歌」(チェロとピアノ)の小曲を遺したが、今は密かなブームである。

   山川出版社の「世界史のための人名事典」は便利なのでよく利用している。収録項目数は1914人である。しかしとても歴史的に重要な人物が漏れていることがある。三国時代の「司馬懿」である。179年ー251年。後漢王朝に仕えていた司馬防の子。幼時から英才の誉れが高く、のちに曹操に仕え、諸葛孔明のライバルとなる。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事が有名で、仲達は孔明が生きていると思い退却したことになっている。この逸話は五丈原の農民たちのフィクションで、仲達はそれほど臆病ではない。なにも深追いする必要はなかったのであろう。なぜ司馬懿は歴史事典には収録されないのか不思議である。孫の司馬炎(武帝)は、266年に晋を建国し占田法・課田法を制定したので重要とされ、収録されている。中国ドラマ「三国志 Three Kingdoms」(2010)後半の第四部はほとんど司馬懿が主役格である。倪大紅が演じているが老獪でとてもよい。わざと病気のふりをして曹丕・曹爽をだます。愛妾の李依暁もとても美しい女優さん。司馬懿を恐れる曹丕がスパイとして送り込まれた。やがて司馬懿の子を宿すが、司馬懿の手によって殺害される。オリジナル・ストーリーだろうが面白い。

 

2022年8月13日 (土)

サラリーマンの語源は塩

Salario   塩は英語でsaltというが、その語源はラテン語のサールからきている。サールは、海水とか塩水といった意味です。古代ローマでは兵士らに希少価値の高い塩を給料として支払っていました。給料が塩(サール)だったので、月給のことをサラリーといい、月給取り、サラリーマンという和製英語も生まれる。塩は「白い黄金」と呼ばれ、非常時には塩が支給される場合もあったが、通常はもちろん金貨や銀貨などの貨幣で支払われていた。ローマ庶民の平均年収はだいたい500~1000デナリウス(1デナリウスは1万円くらい)。税金は属州税(十分の一税、つまり収入の10%。ただし軍役につけば免除される。

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