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2023年10月 3日 (火)

古代の朝鮮半島 (古朝鮮・高句麗・三国時代)

 本日は韓国では「開天節(ケチョンジョル)」が祝われ、会社や学校はお休みです。高麗時代に編まれた「三国遺事」によると、帝釈桓因の子、桓雄と熊女との間に生まれた檀君王倹が紀元前2333年のこの日に平壌城を首都とする国を建てて国号を朝鮮としたのが国家の始まりと言われている。1993年、北朝鮮は檀君陵を発掘したと発表しているが、その信憑性はなく、考古学的知見によれば、京畿道漣川郡全谷里遺蹟から、30~40万年前の前期旧石器遺跡が発見されている。紀元前3000年ごろから櫛目文土器が多数発見されている。前1500年ごろ、青銅器文化の時代に入っていた。日本では縄文文化であった時代の前10世紀以降の遺跡から炭化米が出土することから、朝鮮半島では本格的に農業生産をするようになり、紀元前8~前7世紀ころ水稲栽培が始まり農耕社会へ転換していったと考えられる。古代国家の成立は、紀元前7世紀頃の箕氏朝鮮からはじまる。箕氏は紀元前4世紀には燕と互いに争うほどに成長したが、紀元前2世紀はじめに衛満に滅ぼされる。衛氏は80余年にわたって繁栄したが、紀元前108年に漢の武帝の侵入を受けて滅亡した。通常、箕氏朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝を合わせて古朝鮮と呼ぶ。その後、古朝鮮の遺民は各地で小国を興し、紀元前紀57年には辰韓の6つの小国の一つ、新羅が誕生した。紀元前37年には鴨緑江の中流地方で力をつけた朱蒙が高句麗の指導権を握って国家体制を再整備し、王となった。紀元前8年には温祚が百済を建国した。高句麗・新羅・百済の三国が競い合っていた313年から676年にかけてを三国時代と呼ぶ。2世紀末、朝鮮半島中南部では馬韓・辰韓・弁韓と総称される部族国家が併立し、北鮮地方には高句麗が興って南下の勢いを示した。ところが、3世紀前半、魏が朝鮮に勢力を伸ばすにおよんで漢時代の楽浪・帯方の2郡を手にいれ、南鮮地方を支配下におさめた。4世紀半ばにいたって百済・新羅が興ると、高句麗を含めた三国の勢力が拮抗する。朝鮮はその後の日本の文化に大きな影響を与えた。邪馬台国はこの魏の後援のもとに南鮮を圧迫し、弁韓地方にはかなり倭人が進出するようになった。(10月3日)

2023年10月 1日 (日)

ウィーン会議(1814年)

20110915_1996284  1812年6月フランスのナポレオンは約60万という大軍を率いてロシア遠征を行った。モスクワを占領したが、ロシアは講和に応じずロシア遠征は長引くことになり、10月フランス軍は撤退し、ロシア遠征は失敗に終わった。 ナポレオンの侵略戦争はヨーロッパの絶対主義諸国の支配機構を弱体化させ、それらの国々の反封建的勢力を助長することになった。しかしこのこと自体が、多かれ少なかれ近代市民的な発展の方向を内包させた民族的自覚を諸国民のなかに発展させることになり、ナポレオンの支配に対する解放戦争を促進させることになった。たとえばプロイセンの1807年よりのシュタイン・ハルデンベルグの改革、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」が民族的自覚をうったえたことなどは、このことを示すものである。しかしこうした解放戦争の底辺にあらわれた民族的な動きは、そのままそのまま解放戦争の成果を自己の手におさめるまでにはいたらなかった。結局、事態を主導したのは絶対主義支配を再建しようとする反動であり、正統復古主義である。1814年10月1日からオーストリアのウィーン・シェーンブルーン宮殿で「ウィーン会議」が開かれた。そうそうたる顔ぶれの列国君主や外交使節がナポレオン戦争後の欧州の領土の再分配を決めるための話し合いに集まった。主宰者メッテルニヒは独・仏・英・露・伊など90の王国、53の公国の代表約10万人をウィーンに迎えた。だが各国参加者たちの利害関係が複雑で激しく対立し、締結に至るまでに9カ月もかかった。長くかかった理由は利害対立だけではない。各国の王侯貴族がウィーンに長期滞在したため、欧州の高級娼婦たちも都に殺到し、貴族・高官たちの夜遊びの相手をし、都はバブルのような状況であった。舞踏会や宴会がくりかえされるばかりで、議事はすこしも進まな。。画像はミラノ・リソルジメント博物館が所蔵する有名な絵画である。さて、有名なこの会議の模様は「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られたが、この言葉は次の誰の言葉か?

 

1 メッテルニヒ

2 ド・リーニュ公シャルル・ジョセフ

3 タレーラン

4    カースルレー

  正解は2番のオーストリアの将軍、シャルル・ジョゼフ・ド・リーニュ公(1735-1814)である。だが大辞泉には「フランスの代表タレーランが皮肉を込めて言った」とある。シャルル・ジョセフは数カ月後の12月13日に死んでいる。実際、誰が言った言葉なのか決定的な証拠は乏しいようだが、ウィーン会議をつねにリードしたのはターレランであった。「ヨーロッパを1792年より以前の状態に戻す」とする正統主義が採用され、フランスはなんとか領土を守ったのである。(参考文献:「会議は踊る 帝都ウィーン物語 紅の騎士ド・リーニュ候、帝都をわかす」 幅健志 三省堂)

 

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 シャルル・ジョセフ

 

 

 

 

戦争の世界全史

300px131_bataille_de_malazgirt  ウクライナ侵攻のロシア軍は、北部で集合住宅など空爆、南東部でマリウポリなど主要都市を制圧。ロシアはウクライナ南部のダムを攻撃し、多くの住宅が浸水している。今後、ウクライナの反転攻勢が強まるとみられる。「人類の歴史から戦争をなくさなければならない」(ゼレンスキー大統領の広島サミットでの演説)

 数千年以上の太古の昔から今日まで、人類は文明の発生とともにいつも戦争を繰り返してきた。戦争は何故起こるのか。最近の考古学的知見によると、世界のどこでも旧石器時代の男子の死者のおよそ15%は殺人によって死亡している。これは人類の顕著な特徴であり、食糧や雌をめぐる争いはどの動物にもあるが、このような激しい戦いはみとめられない。人類が道具を使うことにより、武器による先制攻撃が優位となること、確実に勝てるという合理的行動が戦闘をひきおこすのである。こうして戦争はいつの時代も絶えることなく繰り返される。ヒストリーチャンネル「MANKIND人間史」によると有史以来人類は1万4500回もの戦争を繰り返してきたとある。戦争の原因も民族・宗教にイデオロギーが加わって、世界各地でテロが発生した。集団的自衛権を容認する安保法制が成立し、日本も紛争にまきこまれるようになった。2016年7月、ダッカでISに日本人7人が殺害された。

前25世紀、ラガシュの王エアンナトゥムがウンマの軍を破る

前23世紀、古代バビロニア、アッカド王国のサルゴン王は「戦いの王」といわれ、オリエント各地を遠征・征服を繰り返す

前1674年、ヒクソスのエジプト侵入(前1674~前1567)

前1620年、ヒッタイト・フルリ戦争(前1620~前1325)

前1457年、エジプト王国のトトメス3世はメギドの戦でカデシュ王率いるカナン連合軍(カデシュ、メギド、ミタンニ)を破る

前1350年、ヒッタイト王シュピルリウマ1世がミタンニ王トゥシュラクを滅ぼす

前1274年、エジプト王国のラムセス2世はカデシュの戦でヒッタイト王ムワタリに敗れる

前1200年、トロヤ戦争起こる。アカイア人の遠征軍と小アジアのトロイアの戦い

前1070年、殷の紂王は牧野の戦で、周の武王に敗れ、700年に及ぶ殷王朝は滅び、周王朝が成立する

前736年、スパルタがメッセニアを破る(メッセニア戦争)

前638年、楚の成王が泓水の戦で宋の襄公を破る

前632年、晋の文公が城濮の戦で楚の成王を破る

前609年、ユダ王国のヨシヤがメギドの戦でエジプトのネコ2世に敗れる

前605年、ネコ2世はカルケミッシュの戦で新バビロニアのネブカドネザルに敗れる

前591年、プサメティク2世、クシュ王国に侵攻

前580年、スキタイ遊牧民マッサゲタイのトミュリス女王がペルシアのキュロス大王を破る

前575年、晋が鄢陵の戦で楚を破る

前540年、エトルリア・カルタゴ連合軍がサルディニア島のアラリア沖で、ギリシャ軍と海戦し勝利する。

前484年、呉王夫差が艾陵の戦で斉を破る

前490年、ダリウス1世 マラトンの戦でミルティアデス率いるギリシア軍に敗れる

前480年、ギリシアのスパルタ王レオニダスはテルモピュライの戦でペルシア軍を迎え撃ち、その南下を防いたが部隊は全滅する

前480年、ギリシアのテミストクレスはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破り、クセルクセス1世は退却する

前479年、ギリシアがプラタイアの戦いでペルシアに大勝する

前432年~前430年、アテネがポティダイアの戦でコリントスとペロポネソス同盟諸国に勝利した

前406年、アテネがアルギスサイの戦でスパルタに勝利した

前405年、スパルタはペルシアの資金により海軍を設け、アイゴスポタモイの海戦でアテネに勝利した

前404年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終わる

前396年、ローマ軍、エトルリア人の首都ウェイイを征服

前394年、アテネ人コノン指揮のペルシア軍はクニドスの海戦でスパルタ(ラケダイモーン)を破る

前390年、ローマ軍クイントゥス・スルピキウスが初めてイタリアに侵入したブレンヌス率いるガリア人セノネス族とアッリアの戦で敗れる

前371年、スパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がレウクトラの戦でテーバイを中心とするボィオティア同盟軍に敗れる

前362年、アテネ・スパルタ連合軍がマンティネイアの戦でテーベのエパミノンダスの軍に敗れる

前343年、秦は馬陵の戦で斉の孫臏の策により大敗する。

前343年、第一次サムニテス戦争(~前301年)

前338年、ギリシャがカイロネイアの戦でマケドニアのフィリッポス2世の軍に敗れる

前333年、ペルシア軍がイッソスの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前334年、ペルシア軍がグラニコス川の戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前331年、ペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前326年、アレクサンドロス3世はインドのパンジャブ地方まで侵攻したが、ピュダスぺス河畔の戦でパンジャブ地方の領主ポロス王に苦戦し、やむなく東方遠征をやめる。

前305年、シリア王セレウコス1世、マウリア朝チャンドラグプタに敗れる

前260年、秦の昭王が長平の戦で趙を破る

前241年、ローマ軍がアエガテスの海戦でカルタゴを破る

前220年、メディア総督モロンはアポロニアの戦でセレウコス朝のアンティオコス3世に敗れる

前216年、ローマ軍がカンネーの戦でカルタゴのハンニバルに敗れる

前202年、カルタゴのハンニバルがザマの戦でローマのスキピオに敗れる

前202年、項羽、垓下の戦で劉邦に敗れ自殺

前168年、ピュドナの戦い。共和政ローマ軍アエミリウスがマケドニア軍ペルセウスに大勝し、マケドニア王国滅ぶ(第三次マケドニア戦争が終結)。

前111年、ローマの保護領ヌミディアの王位をめぐりユグルタとローマ軍が争う。前105年にマリウスが勝利する。

前101年、ローマ軍がキンプリ・テウトニ族を破る。

前95年、同盟市戦争。

前85年、ローマのスッラがオルコメノスの戦でポントス王ミトリダテス6世を破る

前52年、アレシアの戦いが終結し、ガリアがローマの属州となる。

前48年 ポンペイウス、テッサリア平原のファルサルスの戦でカエサルに敗れる

前46年 タプススの戦い。カエサル軍が元老院派の軍を破る

前45年、カエサル、ムンダの戦でポンペイウス派の残党を破る。

前44年、カエサル暗殺される。

前42年、カエサルを暗殺したブルトゥス、カッシウスがフィリッピの戦でアントニウス、オクタウィアヌスに敗れる

前31年、アントニウス、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れる

前23年、劉秀、昆陽の戦で王莽を破り、漢室再興を果たす

後9年、ローマ帝国がトイトブルクの戦でゲルマンに大敗する

49年、ベトナムのチュン姉妹は後漢の侵略に抵抗し、処刑される

66年、ユダヤ民族のシモン・バル・ギオラが反乱を起こす。

70年、エルサレム攻囲戦で、ローマ軍がエルサレムの第2神殿を破壊する。

73年、マサダ砦に籠城したユダヤ人967人が集団自決し、ユダヤ戦争(66-73)が終わる

191年、董卓と袁紹が虎牢関で衝突。董卓の部下呂布が盤下で董卓を殺す。

200年、曹操、官渡の戦で袁紹を破る。

208年、曹操が劉備・孫権連合軍に赤壁の戦でい敗れる。

211年、曹操が渭水の戦で馬超・韓遂らを破る。

215年、陽平関の戦い。曹操、関中の張魯を下す。

215年、曹操が合肥の戦で孫権を呉の孫権を破る。

219年、定軍山の戦い。曹操、劉備軍に敗れ、関中を放棄。

219年、劉備軍の関羽が樊城の戦いで水攻めにされて殺される。

222年、劉備率いる蜀漢軍が夷陵の戦で呉の陸遜軍に敗れる。

224年、曹丕が呉を攻めるも長江で大敗する。

228年、蜀漢軍の馬謖が街亭の戦で魏軍に敗れる。

228年、蜀漢軍が陳倉を攻略、第二次北伐が失敗する。

228年、呉の孫権が石亭の戦で魏の曹休を破る。

234年、蜀諸葛亮が五丈原の戦で魏司馬懿と対戦したが、蜀漢による第五次北伐が失敗する。

238年、遼東平定戦。司馬懿、公孫淵を討つ。

244年、魏の曹爽は興勢の役で蜀軍に敗北し撤退した。

260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。

280年、石頭城の戦い。晋軍、呉に侵攻。大勝して呉滅び、中国を統一。

312年、ローマ皇帝正帝マクセンティウスがローマ郊外のミルウィウス橋の戦(サクサ・ルブラの戦)で副帝コンスタンティヌス1世に敗れる

313年、東のローマ皇帝マクシミヌス・ダイアがツィラッルムの戦でローマ皇帝リキニウスに敗れる

351年、ローマ皇帝コンスタンス1世がムルサの戦でコンスタンティウス2世に敗れる

363年 ローマ皇帝ユリアヌスが、ササン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、城を落せず撤退する

378年、ローマ帝国軍、ハドリアノポリス(アドリアノーブル)の戦で西ゴート族に敗れ、皇帝ヴァレンスが戦死。トラキア地方がゴート族に占領される。

383年、前秦の符堅が淝水の戦で晋の謝石・謝玄に敗れる

402年、スティリコがボレンツァの戦でアラリックの西ゴート軍を破る

451年、フン族の王アッティラがカタラウヌムの戦で西ローマ軍のアエティウスに敗れる

454年、フン族がネグオ川の戦で東ローマ帝国に敗れる

486年、クロヴィス率いるフランク族がソワソンの戦でシアグリウス率いる西ローマ軍を破る

489年、ゲルマンのオドアケルがイゾンツォの戦でテオドリックに敗れる。

523年、六鎮の乱。

624年、マホメットがバドルの戦いでメッカ軍を破る

625年、ウフドの戦い

627年、ハンダクの戦いでメッカ軍を破る

627年、ササン朝ペルシアのコスロー2世はニネヴェの戦でへラクリウス率いる東ローマ軍に敗れる

642年 ヤズデギルド3世 ニハーヴァンド(ネハーヴァンド)の戦でアラブ軍に敗れる

645年、唐の長孫無忌が朝鮮を侵攻したが、高句麗は安市城の戦で唐を撃退した

663年、日本軍は白村江の戦で唐軍に敗れ、百済滅ぶ

687年、フランク王国のピピン2世がテルトリーの戦でネウストリアのベルナルらを破る

715年、コンピエーニュの戦(フランク王国の内戦)

718年、西ゴート王国がグアタレーテの戦でイスラームに敗れて滅亡した

722年、ペラヨがコバドンガの戦でイスラム軍に勝利する。

732年、サラセン軍、ツール・ポワチエの戦でフランク王国カール・マルテルに敗れる

751年、唐の高仙芝、イスラム軍とタラス河畔に戦う。サラセン軍に捕らわれ、製紙法を伝う

756年、唐の玄宗は潼関の戦で安禄山に敗れる

804年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はクラソスの戦でアッバース朝に大敗する

811年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はプリスカの戦でブルガリア皇帝クルム・ハーンに敗れ、戦死した

841年、フランク王ロタール1世、フォントノワの戦でシャルルとルートヴィヒに敗れる

849年、ナポリ・アマルフィ・ガエータなどの艦隊がオスティア沖でイスラム艦隊を破る。

939年、神聖ローマ皇帝オットー1世はアンダーナッハの戦でフランケン公エバーハルトの反乱を鎮圧

955年、ハンガリーのマジャール軍がレヒフェルトの戦で東フランク王国のオットー1世トーマスにに敗れる

1014年、第1次ブルガリア帝国がキンバロングーの戦(クレイディオン峠の戦)で、東ローマ帝国に敗れる。

 

1014年、ブライアン・ボル―軍とレンスターのアイルランド人とダブリンのヴァイキングの連合軍が、クロンターフの戦いで、ボル―軍が勝つが戦死する。

1016年、デンマーク王クヌートがアシンドンの戦いでイングランド王エドマンド2世を破る

1057年、スコットランド王マクベスはランファナンの戦でマルカム3世に敗れ死没する

1063年、イタリアの中世都市国家ピサがパレルモ沖の海戦でイスラーム艦隊に大勝する

1066年、イングランド王ハロルド2世がへースティングズの戦でノルマンディー公ウィリアム1世に敗れる

1071年、ビザンツ王ロマノス4世ディオゲネス マンジケルトの戦でセルジューク朝に敗れる。

1096年、第1回十字軍のエルサレム攻囲戦が始まる。(~1099年)

1106年、イングランド王ヘンリー1世がタンシュブレーの戦でロベール短袴公を破る

1107年、高麗の尹瓘が女真を討ち9城を築くが(尹瓘九城の役)、翌年に撤退する。

1147年、レコンキスタで、ポルトガル王国アフォンソ1世がイスラムの勢力下からリスボンを奪回。

1148年、第2回十字軍、ダマスカス攻撃。もつとも成果の少ない十字軍だった。(~1149年)

1176年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がレニャーノの戦で北イタリア・ロンバルディア同盟軍に敗れる

1187年、ギード・リュジニャン率いるエルサレム王国の十字軍がヒッティーンの戦でアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンに敗れる

1189年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス墺フィリップ2世、イギリス王リチャード1世らが第3回十字軍に参戦(~1192年)

1201年、チンギス・カンはコイテンの戦でジャムカを破る

1202年、第4回十字軍。ヴェネツィア商人に利用され、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領(~1204年)

1214年、仏王フィリップ2世が、ブーヴィーヌの戦で神聖ローマ帝国、英国連合軍に勝利する

1219年、モンゴル軍はホラズムに侵攻し、翌年にはサマルカンドを攻略する

1223年、モンゴル軍はカルカ河畔の戦でキエフ大公国を破る

1226年、ホーエンシュタウフェン家とカペー家のシャルル・ダンジューが南イタリアのベネヴェントの戦う。カペー家の勝利。

1228年、第5回十字軍。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が交渉によって平和裏に聖地を回復するが、長くは続かず(~1229年)

1235年、マリ王国のスンディアタがキリナの戦いでソソ王国のスマンゲルを破る

1236年、リトアニアがザウレの戦いでリヴォニア帯剣騎士団を破る

1241年、シュレージェン公ハインリヒ2世、リーグニッツ(ワールシュタット)の戦でバトゥが率いるモンゴル軍と戦い、大敗し、戦死。

1245年、ハールィチ・ヴォルイーニ大公国がヤロスラヴの戦いでポーランド・ハンガリーと戦う。

1248年、第6回十字軍。教皇の信任厚いフランス王ルイ9世がエジプトに侵攻するも失敗(~1254年)

1250年、フランス王ルイ9世率いる十字軍がマンスーラの戦でエジプトのアイユーブ朝に敗れる。

1258年、モンゴル軍のフラグがバグダードの戦でバグダードを占領し、アッバース朝滅ぶ。

1260年、フィレンツェがモンタベルティの戦いでシエーナ軍に敗れる。

1260年、モンゴル軍のフラグはアイン・ジャールートの戦でマムルーク朝のバイバルスに敗れる。

1264年、イングランド王ヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールらが反乱。王党派の勝利に終わった。これを第2次バロン戦争という。

1265年、イーブシャムの戦い。

1266年、ホーエンシュタウフェン家がイタリアのベネヴェントの戦でカペー家と、敗れる。シチリアの支配が終わる

1270年、第7回十字軍。チュニスに侵攻したが、フランス王ルイ9世が病没したため中止。

1268~1274年、モンゴル軍は襄樊の戦で南宋を滅ぼす。

1272年、最後の十字軍(第9回十字軍)終わる。

1274年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(文永の役)

1278年、モンゴル軍、ポーランド・ドイツ連合軍を破る

1278年、神聖ローマ帝国ルドルフ1世、マルヒフェルデの戦いでボヘミア王オットカルを破る

1279年、モンゴル軍、厓山の戦いで南宋を滅ぼす

1281年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(弘安の役)

1284年、ピサがメロリアの海戦でジェノバに大敗する。

1288年、ドカン率いるモンゴル軍は白藤江の戦いで陳国峻率いるベトナム軍に敗れ、モンゴルのベトナム侵攻は失敗におわる。

1291年、第9回十字軍。イスラエル王国の首都アッコン滅亡する。(十字軍戦争終わる)

1294年、英仏戦争はじまる。

1298年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世はゲルハイムの戦で長子アドルフを殺す。

1301年、オスマン1世がビザンツ帝国軍をコユンヒサルの戦で破る。

1302年、フランス王フィリップ4世はクルトレー(コルトレイク、金拍車)の戦でフランドル市民軍に敗れる

1311年、アテネ公国ゴーティエ5世がアルミュロスの戦いで東ローマ軍に敗れる

1314年、エドワード2世率いるイングランド軍がバノックバーンの戦でロバート1世のスコットランド軍に敗れる

1315年、スイスがモルガルテンの戦でオーストリア軍を破り、現在に至る永久盟約を得る

1322年、神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世がミュールドルフの戦でオーストリア大公フリードリヒ1世を破る

1331年、ヴワディスワフ1世率いるポーランド王国がブウォフツェの戦でドイツ騎士団に勝利する

1337年、英仏の百年戦争がおこる

1338年、アルネマイネンの海戦でフランスが勝利する

1345年、北フランスの貴族ギヨーム2世はワルスの戦でフリース人に敗れ戦死した

1346年 フランス王フィリップ6世、クレシーの戦でエドワード3世に敗れる

1356年、フランス王ジャン2世はポアティエの戦でイギリス王エドワード黒太子に敗れる

1363年、明の朱元璋は鄱陽湖の戦で元の陳友諒を破る

1369~70年 エドワード3世、フランス王シャルル5世に敗れて獲得した領土の大部分を失う

1371年、セルビア帝国はマリツァリの戦でオスマン軍に敗れ、ウロシュ5世はまもなく死亡。

1378年、イタリアのフィレンツェで労働者の反乱おこる。

1378年、モスクワ大公国がヴォジャ河畔の戦いでモンゴルを破る。

1380年、モスクワ大公国ドミトリー・ドンスコイがクリコボの戦いでモンゴルを破る。

1380年、ジェノバがキオッジャの海戦でヴェネツィアに完敗する。

1382年、百年戦争。ローゼンバーグの戦いでフランス軍がフランドル諸都市を破る。

1385年、ジョアン1世率いるポルトガル軍がアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王ファン1世を破る。

1388年、ハプスブルク家アルブレヒト3世、ネーフェルトの戦いでスイス自由連邦に敗れる

1389年、オスマン帝国のムラト1世がコソボの戦でセルビアを破る

1391年、ティムールはコンドゥルチャ川の戦いでトクタミシュを破る

1396年、神聖ローマ皇帝・ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国軍がニコポリスの戦でバヤズィト1世率いるオスマン帝国軍に大敗する

1402年、バヤズィト1世率いるオスマン帝国がアンカラの戦でティムールに敗れる。バヤズィト1世は捕虜になり、翌年自害する

1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルトの戦(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を破る

1415年、フランス軍が百年戦争アジャンクールの戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍に敗れる。

1419年、ボヘミアのフス戦争(~1434)。フス派の勝利。

1429年、ジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍がパテーの戦いでイングランド軍に圧勝。イングランドのジョン・タルボットは敗れて、捕虜となる。百年戦争の仏軍の初めての勝利であった

1444年、オスマン帝国のムラト2世はヴァルナの戦でハンガリー・ポーランド連合軍を破る。

1450年、百年戦争。イングランド軍はフォルミニーの戦でフランスに大敗し、ノルマンディーから撤退する。

1453年、イングランド軍はカスティヨンの戦でフランスに敗れる。百年戦争最後の戦い。

1453年、東ローマ帝国コンスタンティノス11世 メフメト2世のオスマントルコ軍に攻められコンスタンティノープル陥落

1454年、十三年戦争が始まる。

1455年、薔薇戦争最初の戦い。ヨーク公リチャードはサマセット公エドムンド率いるランカスター派をセント・オールバーンズの戦で破る。

1456年、ワラキア公国のフニャディ・ヤーノシュがベオグラード包囲戦でオスマン帝国に勝利する。

1460年、薔薇戦争、ウエイクフィールドの戦い。

1460年、薔薇戦争、ノーサンプトンの戦いでヨーク派がランカスター派を破る。

1461年、薔薇戦争・タウトンの戦い。ヨーク家のエドワード4世がマーガレット王妃らランカスター派を破る。

1466年、ポーランドとプロシア連合の同盟とドイツ騎士団国とのあいだで起きた十三年戦争がプロシアとポーランドの勝利に終わる(~1454年)。

1471年、薔薇戦争・テュークスベリ―の戦い。ランカスター家のエドワード王太子が戦死。

1477年、ブルゴーニュ公シャルル(豪肝公)がナンシーの戦い(ブルゴーニュ戦争)でロレーヌ公ルネ2世に敗れ戦死。

1485年、ヨーク派のリチャード3世はボズワースの戦でランカスター派のヘンリー7世に敗れる

1487年、薔薇戦争の最後の闘いストーク・フィールドの戦いが行われる

1503年、フランスはチョリニョーラの戦、ガレラノの戦でスペインに敗れる

1507年、ポルトガルのインド総督アルブケルケ、ペルシャ湾口の香辛料集散地ホルムズ島を占領した。

1509年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル海軍がディウ沖海戦でイスラム教徒のマムルーク朝、クジャラート・スルタン朝及びカリカットの領主ザモリンの連合海軍を破る

1513年、スコットランドがフロドゥンの戦でイングランドに大敗し、国王ジェームズ4世が戦死。

1514年、サファヴィ朝ペルシャ軍イスマーイール1世がチャルディラーンの戦でオスマン帝国セリム1世に敗れる。以後両国の戦いは124年間続く。

1515年、仏王フランソワ1世・ヴェネツィアがスペイン・神聖ローマ・イギリス・ミラノのスイス傭兵軍とマリニャーノ戦いで勝利する。

1516年、オスマン帝国がマルジュ・ダービクの戦でマムルーク朝を破り、シリアを支配する。

1519年、スペインのコルテスがタバスコの戦でインディオに勝利し、メキシコを征服した。

1521年、独帝カール5世と仏王フランソワ1世との間にイタリア戦争始まる。

1524年、ドイツ農民戦争。フランケンハウゼンの戦で農民軍が諸侯軍に敗れて終結する(~1525年)

1525年、仏王フランソワ1世、パヴィアの戦でスペインに敗れる。

1526年、インドのロディ朝がパーニーパットの戦でムガール帝国のバーブルに敗れる

1526年、オスマン帝国がモハーチの戦でハンガリー王国を破る

1529年、オスマン帝国の第一次ウィーン包囲。

1529年、スイスの宗教戦争、第一次カッペル戦争

1531年、第二次カッペル戦争でチューリヒのカトリック軍が勝利する。

1531年、スコットランド王ジェームズ4世が2万の軍勢を率いて国境を侵攻するが、英国軍にフロッドンの戦で大敗し、ジェームズ4世は戦死する

1531年、チューリヒの宗教改革の指導者ツヴィングリがカベルの戦で戦死

1532年、スペインのピサロがカハマルカの戦いでインカ帝国アタワルパを捕らえた。何千もの市民や軍人を殺戮した。

1538年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国と対戦するが、連語国側は統制がとれずに敗れる。

1546年、シュマルカルデン戦争がはじまる。

1547年、プロテスタント軍がミュールベルクの戦で神聖ローマ軍に敗れる

1558年、リヴォニア戦争(~1583)。

1562年、ユグノー戦争。フランスのヴァシーでプロテスタントが大量に殺される。

1568年、オランダ独立戦争おこる。

1570年、スペインのレガスピがフィリピン・マニラの戦で勝利し、翌年には城郭都市イントラムロスを建設。

1571年、オスマントルコ海軍がレパントの海戦でスペイン、ベネチア、ローマ教皇の連合軍に敗れる

1588年、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊(アルマダ)がプリマス沖、カレー沖、グラヴリーヌ沖の海戦でイギリス艦隊に敗れる

1593年、オスマントルコ帝国ムラート3世の宰相ハサン・パシャは、シサクの戦でクロアチア軍に敗れる

1593年、ハプスブルク家とトルコの十五年戦争(~1606)。

1593年、小早川隆景らが李如松率いる明軍を碧蹄館の戦いで破る

1618年、三十年戦争

1619年、ヌルハチ率いる後金(のちの清)がサルフの戦で明を破る

1620年、白山の戦。

1630年~31年、ルター派の都市マグデブルクが包囲され、破壊・略奪される(三十年戦争)

1630年、フランスがヴェイッラーネの戦でスペインを破る。

1631年、神聖ローマ帝国がブライテンフェルトの戦でグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンに敗れる。

1632年、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国がリュッツェンの戦でグスタフ・アドレス2世(スウェーデン)の軍に敗れる。

1632 年、ロシアがスモレンスクの戦でポーランドの軍に敗れる。

1640年、ポルトガルの貴族ブラガンサ公ジョアンらがリスボンのスペイン王宮を襲撃、ポルトガル王政復古戦争が始る。

1641年、清のホンタイジが松山・錦州の戦で明を滅ぼす

1643年、清教徒革命。国王軍がアドウォルトン・ムーアの戦で議会軍に勝利する。

1644年、清教徒革命。チャールズ1世の国王軍がマーストン・ムーアの戦でクロムウェル率いる議会軍に敗れる。

1645年、イギリス、ルーパート王子軍がネーズビーの戦でクロムウェルの議会軍に敗れる。ロートン・ヒースの戦い。

1648年、ウェストファリア講和条約。三十年戦争終わる。

1652年、第一次英蘭戦争。イギリスの勝利。

1653年、ポートランドの海戦(第一次英蘭戦争)~1654年まで

1654年から1667年、ロシア・ポーランド戦争

1659年、ロシア大公アレクセイ3世がコノトプの戦でウクライナ・コサック軍に敗れる。

1666年、ダンケルク沖の海戦でオランダがイギリスを破る。

1667年、第二次英蘭戦争終わる。

1670年、ロシアでステンカ・ラージンの農民反乱おこる。(~1671年)

1672年、英仏対オランダの戦争始まる(第三次英蘭戦争)。ソールベイの海戦でオランダの勝利。

1674年、英蘭戦争終わる、ウェストミンスター条約の締結。イギリスの制海権が確立。北米植民地ニューアムステルダム(ニューヨーク)はイギリスに返還される。

1675年、デンマーク・スウェーデンでスコーネ戦争始まる(~1679年)。

1685年、清の康熙帝はロシアが東方に進出して黒竜江流域にきずいたアルバジン城を奪回した。

1687年、清ジュンガル戦争起こる。康熙帝、乾隆帝と三次にわたるが、清に対して反乱を起こしたアムルサナーは1759年敗れる。

1688年、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国領のファルツ公家の継承問題に介入してファルツ戦争(~1697年)が始まる。

1690年、イングランド軍がボイン川の戦いでアイルランド軍に勝利する。

1697年、オスマン帝国がゼンタの戦でオーストリア軍に大敗する。

1700年、スウェーデン王カール12世がナルヴァの戦でロシアのピョートル1世に勝利する。1721年まで続く北方戦争はロシア側が勝利し、バルト海の覇権はロシアに移る。

1701年、スペイン継承戦争始まる。1714年まで続く。

1702年、アン女王戦争。

1706年、オーストラリア軍がトリノの戦いでフランス軍を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1709年、スウェーデンのカール12世、ボルタヴァの戦でロシアに敗れる。

1710年、スペイン・フランス連合軍がビリャビシオーサの戦でカール大公率いるハプスブルグ家を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1712年、スウェーデンがガーデブッシュの戦でデンマークに敗れる。

1714年、ロシアのピョートル1世がハンゴ沖海戦でスウェーデンを破る。

1721年、スウェーデンとロシア・デンマークを中心に行われた大北方戦争(1700-1721)が終る。ニスタット条約を締結。

1722年から1725年までラル神父戦争。アメリカ東部植民地とインディアンの戦い。セバスチャン・ラルがノリッジウォックの戦いで戦死。

1733年、ポーランド継承戦争始まる(~1735)。

1734年、ロシア軍がフランス、スウェーデンと戦い、ダンツィヒを攻囲する。

1739年、アフガニスタンのホータキー朝がカンダハール包囲戦でペルシアのアフシャール朝に敗北し滅亡する。

1740年、オーストラリアのマリア・テレジアが即位し、オーストラリア継承戦争始まる。

1741年、マリア・テレジアがモルヴィッツの戦でフリードリヒ2世のプロシアに敗れる。

1743年、オーストリア継承戦争。英墺連合軍と仏軍がディティンゲンで戦い、英墺連合軍が勝利する。

1744年、オーストリア継承戦争。スペイン・フランス連合軍がクーネオの戦でサルディニーア王国に勝利した。

1745年、フランスがフォントノワの戦で英蘭墺連合軍に勝利する。

1746年、カロデンの戦い。スコットランドで名誉革命反対派・ジャコバイトによる最後の戦い。

1756年、プロイセンとオーストリアで七年戦争始まる。

1757年、プロイセンのフリードリヒ2世がロスバッハの戦、ロイテンの戦でオーストリアを破る。

1757年、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラはプラッシーの戦でロバート・クライブ率いるイギリス軍に敗れる。

1758年、プロイセン軍がツォルンドルフの戦でロシア軍に勝利する。

1759年、プロイセン軍がクネルスドルフの戦でロシア・オーストリア連合軍に敗れる。

1761年、第3次バーニーパッドの戦い、マラーダ連合軍敗北する。

1763年、フベルトゥスブルク条約、七年戦争おわる。

1764年、イギリス東インド会社がインドのブクサールの戦でムガル帝国を破る。

1764年、アメリカ大陸軍がカナダ侵攻。ロングポイントの戦でイギリス軍が勝利する。

1767年、第1回マイソール戦争(~1769)。マイソール王国がイギリス東インド会社に勝利する。

1768年、露土戦争起こる。

1775年、アメリカ独立戦争始まる(~1783)。レキシントン・コンコードの戦で英軍と米植民地兵が武力衝突。アメリカ軍はモントリオールを占領するが、ケベックの戦いに敗れる。

1775年~82年。マラータ同盟がイギリス東インド会社に勝利する。

1776年冬、大陸軍はニュージャージーの戦いでイギリス軍に勝利する。

1777年、英軍バーゴイン将軍がサラトガの戦で米植民地軍に敗れる。

1778年、アメリカ独立戦争・ジョージア植民市サバンナの戦い。イギリス軍の勝利。

1780年、アメリカ独立戦争・ワックスホーの戦。戦闘に勝利した英軍は、大陸軍が白旗を挙げたのを無視して大陸軍兵113人を虐殺。

1781年、アメリカ独立戦争・ヘンリー岬の海戦・チェサピーク湾の海戦。イギリス軍の敗北。

1781年、チャールズ・コンーウォリス率いるイギリス軍はヨークタウンの戦でジョージ・ワシントン率いる独立軍に攻囲され敗れる。

1781年、インドのポルト・ノヴァでマイソール王国はイギリス軍に敗れる。(第二次マイソール戦争の1つ)。

1783年、パリ条約(アメリカの独立を承認)

1789年、フランス革命起こる。

1790年、第3回マイソール戦争。

1792年、フランス革命を巡ってフランスとヨーロッパ諸国との間で戦争がおこる(フランス革命戦争、~1799)

1793年、フランス軍はナポレオン率いる革命軍にツーロン要塞の攻撃で敗れる。

1796年、オーストリア軍がカスティリオーネの戦でナポレオン軍に敗れる。

1798年、オスマン帝国がピラミッドの戦でナポレオン軍に敗れる。

1799年、第4回マイソール戦争。

1800年、オーストリア軍がアルプスを越えて侵攻したナポレオン軍にマレンゴの戦で敗れる。

1805年、オーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンに敗れる。

1805年、トラファルガルの海戦でイギリス艦隊がナポレオン率いるフランス・スペイン聨合艦隊に勝利。ネルソン提督は戦死。

1806年、プロシア軍がイエナ・アウエルシュタットの戦でフランス軍に敗れる。

1809年、ナポレオン、ワグラムの戦でオーストリア軍に大勝する。

1810年、セブンオークスの戦い。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1812年、モスクワに遠征したナポレオンがクトゥーゾフ将軍のロシア軍とボロジノの戦で交戦。10万人の犠牲を出したが勝敗は決せず。

1812年、米英戦争はじまる。

1813年、ナポレオン軍がライプチヒの戦でプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れる。

1814年、アメリカ軍はブラーデンスバーグの戦でイギリス軍に敗れ、ワシントンのホワイトハウスなどの建物が焼失した。

1814年、イギリス東インド会社とネパール(ゴルカ朝)とのグルカ戦争が起こり、1816年イギリスの勝利により、スガウリ条約が結ばれる。

1815年、ナポレオンがワーテルローの戦でイギリス・プロシア連合軍に敗れる。

1815年、米英戦争ニューオーリンズの戦でイギリス軍はアンドリュー・ジャクソン率いる5千人の米兵に敗れる。

1816年、セブンオークスの戦。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1817年、第3回マラータ戦争。

1819年、シモン・ボリバルの独立革命軍はボヤカの戦(コロンビアのボゴタ近郊)でスペイン軍に勝利する。

1821年、スペイン軍がカラボボの戦でシモン・ボリバル率いる反乱軍に敗れ、ベネズエラの独立が決定した。

1821年、ギリシャ独立戦争。

1824年、スペイン軍がアヤクーチョの戦でスクレ将軍率いるペルー解放軍に敗れる。

1824年~26年、ビルマ戦争。イギリスがビルマのコンバウン朝に勝利する。

1827年、英仏露3国艦隊がナヴァリノの海戦でトルコ艦隊を破る。

1836年、テキサス軍がサンジャシントの戦いでメキシコ軍を破る。

1836年、テキサス軍がアラモ砦でメキシコ軍と戦い全滅する。

1838年、ズールー族がブラッド・リバーの戦いでボーア人に敗れる。

1839年、バーラクサイ朝アフガニスタン首長国がイギリスを討つ(第1次アフガン戦争(~1842年)

1840年、アヘン戦争(~1842年)

1845年~46年、第一次シク戦争。シク王国とイギリス東インド会社の戦争。イギリスの勝利。

1848年、サルディニア王カルロ・アルベルトがクストッツァー・ノヴァラの戦でオーストリアに敗れる。これにより、イタリアの統一運動は一時中絶した。

1849年、ガリバルディがローマ大学の戦いでフランス軍を破る。

1852年、第二次ビルマ戦争。

1854年、クリミア戦争でロシアのセヴァストーポリ要塞を目指す英仏軍がアルマでロシアと交戦する。

1855年、セヴァストーポリ要塞が英仏軍の攻撃によって陥落する。

1856年、アロー号戦争(~1860年)

1856年、コスタリカ軍が第二次リバスの戦いでニカラグア軍を破る。

1859年、イタリア統一戦争・ソルフェリーノの戦い。アンリ・デュナンが戦場の惨状に衝撃を受け、後の赤十字運動につなげる。

1860年、ガリバルディ率いるイタリア義勇軍はヴォルトルノ河畔の戦でナポリ軍を破り南イタリアを制圧する。

1861年、アメリカの南北戦争、北軍はブル・ランの戦で南軍に敗れる。

1862年、アメリカの南北戦争、セブンパインズの戦。決着つかず。

1862年、アメリカの南北戦争、ヘンリー砦の戦で北軍の初勝利。

1862年、アメリカの南北戦争、シャイローの戦。北軍の勝利。

1862年、フランスのナポレオン3世がメキシコ出兵、プエフラの戦でフランスに勝利する。(フランス・メキシコ戦争1862-1867)

1863年、カメロンの戦でメキシコが勝利するも、フランスの傀儡政権であるメキシコ帝国が建国。

1863年、南北戦争、ゲッティスバーグの戦で南軍の衰勢が決定した。

1864年、曽国藩が太平天国の乱を鎮圧した。

1866年、イタリア海軍がリッサの海戦でオーストリア海軍に敗れる。

1866年、オーストリア帝国はチェコのケーニヒグーレツの戦(サドワの戦)でプロシアに敗れる。

1868年、アメリカ軍のカスター中佐が率いる第7騎兵隊がシャイアン族インディアンを虐殺する(ウォシタ川の戦)。

1868年、エチオピアのテオドロス2世、マグダラの戦いでイギリス軍に大敗し、自殺する。

1870年、モルトケ率いるドイツ軍がグラヴロットの戦でバーゼル率いるフランス軍を破る

1870年、フランスのナポレオン3世はセダンの戦でプロイセン軍に敗れる。

1873年、アチェ-戦争、オランダがスマトラのアチェー王国征服(1904年)

1876年、アメリカ陸軍とインディアンがモンタナ州のリトルビックホーンで戦い、カスター将軍率いる第7騎兵隊ら本隊が全滅した。

1877年、露土戦争(~1878)

1879年、ズールー戦争おこる。イギリスと南アメリカのズールー王国との間で行われた戦争でアフリカの植民地支配がはじまる。

1880-1881年、イギリスがトランスヴァール共和国に破れる(第一次ボーア戦争)

1885年、清仏戦争でフランスによるベトナムの植民地化が始まる。

1885年、ビルマ王ティーボーは英緬戦争でイギリス軍に敗れ、コウバウン朝は滅亡し、イギリス領インド帝国に併合される。

1894年、日清戦争(~1895年)

1896年、イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦でエチオピアのメネリク2世に大敗する。

1898年、米西戦争。7月アメリカ軍がキューバのサン・ファン・ヒルの戦いでスペイン軍を撃破する。

1899年、南アフリカのルイス・ボータ将軍がコレンソの戦いでイギリスを破る。

1899年、米比戦争始まる(~1902年)アメリカの植民地支配が始まる。

1902年、南アフリカのボーア戦争、イギリスの勝利に終わる。

1904年、日露戦争(~1905年)

1905年、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本の連合艦隊に敗れる。

1911年、イタリア・トルコ戦争。イタリアがオスマントルコ領リビアの領有を図って起こす。イタリア敗北。

1912年、バルカン戦争(~1913年)。

1914年、ベルギーを突破し、北仏に進軍したドイツ軍(モルトケ)は、マルヌの戦でフランス軍(ジョッフル)に敗れる。

1914年、ロシア軍がタンネンベルクの戦でドイツ軍(ヒンデンブルク)に包囲、殲滅される。

1915年、オスマン帝国はダーダネルス海峡のガリポリの戦で英仏連合軍に勝利する。

1915年、第一次大戦・イ―ペルの戦い。ドイツ軍がフランス軍に対し、毒ガス攻撃。

1916年、ヴェルダンの戦、フランスは守り切った。

1916年、ソンムの戦。第一次世界大戦における最大の戦争であるが、英仏連合軍とドイツ軍がフランスのソンムで激突したが、両軍目立った戦果をあげることがなかった。

1916年、ユトランド沖海戦。

1916年、アメリカ、パンチョ・ビリャ遠征軍をメキシコに派遣。

1917年、ロシア革命。

1917年、第一次世界大戦におけるカンプレーの戦いで、英軍が世界初となる大規模な戦車の投入を行った。

1918年、イ―ペルの戦でドイツ軍か毒ガスを使用。

1918年、フィンランド内戦がおこる。タンペレの戦いで白軍が赤軍に勝利し、共和国となる。

1920年、ポーランド・ソ連戦争。ポーランドの旧版図回復。

1922年、トルコ軍がドゥムルプナルの戦でギリシャ軍に勝利する。

1935年、イタリア、エチオピア侵略。

1936年、スペイン内戦始まる。

1937年、日中戦争始まる。

1939年、関東軍とソ連が満蒙国境線めぐりノモンハン事件おこる。

1939年、ソ連がフィンランドに侵攻し冬戦争がおこる。(~1940年)

1940年、ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵入(ベルギーの戦い)。

1940年、フランス軍はダンケルクの戦でドイツに敗れ、降伏する。

1941年、ドイツ軍がロシアに侵攻する(~1945年)。

1941年、太平洋戦争始まる。

1942年、ドイツの戦車軍団ロンメルは北アフリカのエル・アラメインの戦で英軍モントゴメリーに敗れる。

1942年、ドイツ軍はソ連とのスターリングラードの戦(~1943年)で消耗し、これによってドイツの後退が始まる。

1942年、太平洋戦争最大の激戦、ガダルカナル島の戦いで日本軍が全滅。

1943年、ドイツ軍はドニエプル川の戦でソ連軍に敗れる。

1943年、ドイツ軍はクルスクの戦でソ連軍に大敗。

1943年、スターリングラードの戦でドイツ軍のパウルス司令官と幕僚がソ連に降伏する。

1943年、アッツ島の戦い。

1944年、ドイツ軍はナルヴァの戦でソ連軍の進撃を阻止する。

1944年、日本はレイテ沖海戦で米軍に大敗し、事実上壊滅。シブヤン海海戦・戦艦武蔵が沈没。

1944年、連合軍、ノルマンディー上陸作戦に成功する。

1944年、フィンランドとドイツ連合軍はタリ・イハンタラの戦いでソ連軍の侵攻を阻止する。

1945年、独ソ戦最後の戦い、プラハの戦い。

1945年、硫黄島の戦いで、アメリカが硫黄島を完全占領

1946年、フランス・インドシナ戦争(~1954年)

1947年、第一次印パ戦争(~1949年)

1950年、朝鮮戦争が始まる(~1953年)

1950年、マッカーサーの国連軍が長津湖の戦いで毛沢東率いる中国軍と戦う。

1953年、ポークチョップヒルの戦い

1954年、アルジェリアとフランスとでアルジェリア戦争始まる(~1962年)。

1954年、ディエンビエンフーのフランス軍拠点が陥落。インドシナから撤退する。同年ジュネーヴ協定結ばれる。

1959年、チベットで反中国暴動。

1959年、中印戦争(~1962年)

1963年、インドネシア、マレーシア戦争(~1966年)

1963年、ギニアビサウ独立戦争(~1974年)

1963年、アメリカ軍と南ベトナム軍がアプバクの戦いでベトコンに敗北する。

1965年、第二次印パ戦争(1966年)

1967年、ビアフラ戦争(~1970年)。

1967年、第三次中東戦争。

1968年、南ベトナムのケサンでアメリカ軍と北ベトナム軍が戦う。

1969年、北アイルランド紛争(~98年)

1971年、第3次印パ戦争

1973年、第四次中東戦争。

1974年、カンボジアのロン・ノルがカンポットの戦でボル・ポトに敗れる。

1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。

1979年、ソ連のアフガニスタンへの侵攻

1982年、アルゼンチンはフォークランド紛争でイギリスに敗れる。

1991年、第一次湾岸戦争。

1991年、スロヴェニア独立戦争。

1991年、ソマリア内戦(~継続中)

1994年、ルワンダで内戦始まる。50万人が殺される。

1994年、第一次チェチェン紛争(~1996年)

1998年、コソボ紛争起こる。コソボは2008年にセルビアから独立。

1999年、第二次チェチェン紛争(~2000年)

2001年、アメリカのアフガニスタン侵攻。

2003年、第二次湾岸戦争。

2005年、イラク戦争。ハディサで米軍兵士がイラク市民24人を虐殺(ハディサ事件)。

2006年、カンダハルの戦い。米軍対タリバン。

2006年、ヒズボラ戦争。イスラエル対レバノン。

2008年、イスラエル軍がパレスチナのガザに侵攻。ハマースとの間にガザ紛争おこる(~2009年)

2011年、シリア内戦(継続中)。アサド政府軍(シーア派)と反政府軍(スンニ派)との間で内戦おこる。

2014年、ロシアがウクライナのクリミヤ半島を一方的に併合。

2022年、ロシアのウクライナへの侵攻。

 

 

 

 

私は勝利を盗まない

34855932     紀元前331年10月1日、ガウガメラの戦いでの話。マケドニアのアレクサンダー大王がペルシア帝国と戦っていた。前方の平原がペルシア軍のかがり火で埋めつくされているのを見て、幕僚の一人パルメニオンが大王に進言した。「大王、夜襲をしかけてはいかがでしょうか」すると大王は答えた。「私は勝利を盗まない」と言った(夜襲などの小手先技で勝とうとはせず、正々堂々と戦う、の意)。実はこのときペルシア軍は罠を張ってマケドニア軍の夜襲を待ち伏せしていたのだ。大王は、翌日の会戦にあたって、ペルシア軍の左翼と中央の間に少し隙間ができたことを見てとると、「突っ込め!」とばかり、騎兵親衛隊の先頭に立って、ダリウス3世めがけて進軍した。大王の中央突破作戦は見事成功し、大勝利だった。(AlexandrosⅢ,Gaugamela)

2023年9月27日 (水)

征服王ウィリアム1世のノルマン・コンクエスト

Conquest1   ノルマンディー公のロベール2世は「悪魔公」の渾名を持つ。そのいわれは謎であるが、ある日のこと、彼は狩りの帰りに、小川で洗濯をしていた娘ヘルレブを見初め、彼女を城へ連れ込んだ。そしてその結果にできた子がギヨーム2世(1028-1087)、のちのウィリアム1世である。ギヨームは庶子であった。しかし悪魔公がエルサレムへ巡礼に出かけ、その帰路にトルコで客死してしまったので、家督は幼いギヨームに譲られることになった。わずか7歳でノルマンディー公を相続したギヨーム2世は人から侮られないよう、武芸に励んだ。1066年9月27日、エドワード懺悔王が死に、義弟ハロルドが即位すると、ギヨームはノルマンディー、フランドル、ブルターニュ各地より集めた約6000の騎士を率いてイングランド南部のヘイスティングスに侵入した。ノルマンの征服(ノルマン・コンクエスト)の始まりである。

 

The Normans conquered England in 1066.

 

ノルマン人は1066年にイングランドを征服した。

  日本でも「入れろ無理矢理(むりやり)へイスティングズ」(1066年)と暗記させられる年号だ。

    騎馬攻撃を中心とするノルマンディー公と歩兵密集陣形を得意とするイングランド王ハロルド2世とのあいだに1066年10月14日戦闘が開始された。午後4時頃、ハロルドの目に矢が命中し、ハウスカールの必死の抵抗も甲斐なくハロルドは斬り殺され、イングランドの敗北が決まる。貴族や騎士達が着ていた高価な鎖帷子はことごとく剥ぎ取られ、へイスティングズの戦場には裸の死体が累々と残された。ギヨームはその年のクリスマスにロンドンのウェストミンスター寺院で戴冠し、それよりウィリアム1世として王位に即いた。だから彼の渾名は「征服王」である。1087年、落馬事故で没した。

2023年9月23日 (土)

カノッサ事件

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 カトリック教会の頂点に立つ教皇はイエスの弟子から連綿と続く。中世のヨーロッパに君臨し、ときには皇帝をもしのぐ権力をもった。「カノッサの屈辱」とは法王グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世が僧職任命権をめぐって争い、1077年破門された皇帝は法王の居城するカノッサの城門の前で1月25日から3昼夜立ちつくして、ようやく許しを得たといわれる事件。カノッサはイタリア北部レッジョの南西にある小村。破門を許されたハインリヒは、帰国後、市民や農民の助力で反対派の諸侯を抑えることになった。教皇は再び国王を破門にし、シュヴァーベン公ルドルフをドイツ国王とした。ハインリヒは大軍をひき連れて、北イタリアを制圧してローマを攻め、グレゴリウスを追放した。1084年、ラヴェンナのギルベルトを対立法王クレメンス3世(在位1080-1100)として擁立し、ハインリヒは皇帝冠を受けた。グレゴリウスは、両シチリア王によってサレルノに救出され、1085年、「正義を愛し、不正を憎んだがゆえに、配流に死す」との言葉を残して、その地で死んだ。さらに1103年には「神の平和」運動の理念をうけついだはじめての帝国平和令を公布した。ハインリヒとグレゴリウスの闘争は、ハインリヒが勝利をおさめたのである。その後も教皇と皇帝・国王の対立は続いた。ハインリヒの息子ハインリヒ5世が1122年9月23日に法王をヴォルムス協約が結ばれ叙任権は教会にあると確認されたが、皇帝のドイツ教会に対する実質的影響力は失わなかった。カノッサの屈辱はドイツ語で「Gang nach Canossa」ガング・ナーハ・カノッサ。つまり「カノッサに向かって歩く」という意味で、「屈辱」という表現は明治の日本の学者が分かりやすく意訳したもの。

 

 

 

 

2023年9月12日 (火)

マラソンの日

 紀元前6世紀後半、徐々に小アジア沿岸のギリシア都市を併呑していったペルシア帝国の支配に対してイオニア人のポリスは紀元前499年に叛乱を起こし、ギリシア本土のポリスに援護を求めた。   前490年、第2回ペルシア戦争の際、上陸するペルシア帝国の軍をアテネの名将ミルティアデスはマラトンの戦いで撃退した。9月12日、このときアテネの伝令フェイディピデス(Pheidippides)がアテネまで走り「喜びあれ(カイレイン)我が軍勝てり」(khairete,nikomen)と戦勝を告げて、絶命した。この伝説がマラソン競技の起源であることは通俗的によく知られている。詩人シモニデスがつくった伝えられている詩はつぎのように歌っている。

 ヘレネスの前衛として
 アテネ人はマラトンで
 黄金を帯びたメディア人の
 力を打倒した

しかしこのマラソン伝説は、ほんとうに歴史的事実であろうか。

Phidippides    まずマラソンの戦いの伝令は誰であろうか?長距離伝令のフェイディピデスの名は発音表記により、フィリッピデス(Philippides)、フェイディッピデス、ピリッピデスなど諸書により多少の違いはあるものの帝政ローマ時代の作家ルキアノス(120-180)に書かれている。そしてルキアノスはプルタルコス(50-120)の「プルターク英雄伝」をもとにしている。その中にはつぎのようにある。

 

ポントスのヘラクレイデスが物語るところによると、マラトンの戦いの知らせをもたらしたのは、エロイアダイ区のテルシッポスだという。しかし他方、大多数の人々が述べるところによれば、エウクレス(Eukles)という者が、完全武装のまま、身体を火照らせ戦場から急いで走って来て、国家の指導者たちの(建物の)玄関先に倒れ込み、「喜んで下さい。我が軍が勝ちました」とだけ言って、ただちに息が絶えたという。

 

    ルキアノスの話は、このプルタルコスが引用する話をもとにして、伝令の名前だけがすり変わって成立したようである。もっとも古い歴史書であるヘロドトスの「歴史」には次のようにある。

 

アテナイの将軍たちはまだ市内にいる間に、まずアテナイ人のピリッピデスなる者を伝令としてスパルタへ送った。なおこの男は飛脚を業とする健脚家であった。(松平千秋訳、中央公論「世界の名著5」6-105)

 

その注釈によれば

 

写本の伝承は「ピリッピディス」と「ペイディッピデス」の二つに分かれている。後者は「馬を節約する者、馬蹄いらず」と解せられるところから、健脚の者の名として恰好だというのでいつの間にか本来のピリッピデスにとってかわったのであろうとする説がある。

 

    ヘロドトスによれば、ペルシア軍が攻めてくることを知らせる伝令はピリッピデスであるが、アテネに戦勝をもたらした伝令は誰だったのか、全くふれられていない。マラソン伝説はルキアノスやプルタルコスなどのローマの文筆家による物語であり、戦勝の伝令者の名前を歴史的資料からは、現段階で確定することは、できないのである。

    今日、フェイディッピデスの名が世界中に広まったのは、1920年代に子ども向けに書かれたヴァン・ローン著「人間の歴史の物語」(1921年)のためである。また現在のような40キロマラソンの起源はIOCのミッシェル・ブレアルが1896年にマラソンレースの国際大会を提唱したことが始まりとなっている。

 近年は、マラソンブームといわれる。しかし先日、盛岡市で開かれた市民マラソン大会で参加者の60代男性が心肺停止で死亡した。まだ暑いさなかでもあり、くれぐれも健康診断を受けて体調管理を万全にしてマラソンにチャレンジしよう!

(参考: 橋場弦「マラソン伝説の起源とアテネ民主政」 歴史と地理444号  1992.8) marathon,Pheidippides

2023年9月 9日 (土)

地球の誕生と人類の出現

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1974年エチオピアで発見されたアファール猿人の「ルーシー」の模型(愛知万博)

 宇宙の誕生は137億年前のことであり、太陽系に浮かぶ惑星、地球。その誕生は46億年前のことで、地球誕生から現在までを1年とすると、ここに生命がめばえるのは11月のことで、人類が出現するのは12月31日のことである。人類が最初に出現したのはアフリカで、霊長類の仲間である人類は、およそ3000万年から2000万年前に他の霊長類から分かれ、次第に人類の形ができたと考えられる。第三紀にプロコンスルというヒトとサルとの共通の祖先がいたと考えられる。では人類の出現はいつ頃なのだろうか?半世紀前の世界史概説書では人類の出現は約100年前とされていたが、それが200万年前となり、現在の新しい教科書ではそれよりはるかに古くおよそ700万年前といわれている。人類の祖先はすでに2本の足で体をささえ、直立して歩行し、森の近くに住んで、草や果実や小動物を食べていたことである。このひ弱そうな動物は、直立歩行のほかに、他の動物には見られない、もう一つの特徴を持っていた。肉を切るのに、先のとがった石を使ったことである。火を使うようになったことも、非常に重要である。肉を焼いて食べたり、暖をとるようになり、寒い場所でも住めるようになった。

   最古の人類と認められるのは猿人であり、アウストラロピテクス属の化石人骨が20世紀に入って、アフリカ各地で多数発見されている。1925年にレイモンド・ダートがアウストラロピテクス・アフリカヌスを発見、1959年にはルイス・リーキーがタンザニアのオルドバイ峡谷で頭骨を発見、ジンジャントロプス・ボイセイと命名した。アウストラロピテクスの一属とされ、160万年以上前のものと推定される。現在の名称はパラントロプス・ボイセイと呼ぶ。だが現在の研究では、ヒトの直接の祖先ではないと結論づけられている。さらに1974年にはドナルド・ジョハンソンらがエチオピアのアファールでアウストラロピテクス・アファレンシス(ルーシーという愛称で呼ばれる)を発見した。1992年には約440万年前に生息したと考えられるラミダス猿人を発掘した。最新の研究によれば、2001年にアフリカ大陸北中部(チャド共和国)のジュラブ砂漠で発見されたサへラントロブス・チャデンシス(約700万~600万年前、愛称はトゥーマイ)が報告されている。だが従来の猿人との関係は諸説あって不明である。人類化石が多数出土されている東アフリカの大地溝帯からかなり離れたサハラ砂漠南部のチャドで最古の人類が生息していたという事実にはいまだ謎が多く含まれている。2番目に古い人類化石としては、オロリン・ツゲネンシスが発見され、600万年前とされる。

    猿人は原人へと進化し、100万年以上前にアフリカを出て世界各地に広がった。アジアに渡ったジャワ原人、北京原人やヨーロッパに渡ったネアンデルタール人が知られている。だがこれらの原人が現代の人類へと直接的に繋がっている確証はなく、絶滅したと考えられる。近年の研究によると、スバンテ・ペーボ博士は2010年にゲノム解析からネアンデルタール人と現生人類との間で交雑があったとしている。(この説に異論反論がある)。そして絶滅の危機を乗り越えてホモ・サピエンスが約20万年前にアフリカに残った。近年のミトコンドリアDNAの研究では、わずか10数年前に「出アフリカを果たした一団が現生人類(ホモ・サピエンス)となって世界各地に広がったとされる。太古から現在にまで、およそ1000億人の人類が生まれては死んでいったと考えられている。

Mas091002     約440年前のラミダス Ramidus 猿人はアウストラロピテクスよりもさらに古い。ラミダス猿人は本当にヒトであろうか。1995年に歯と側頭部、後頭部、上肢の化石がエチオピアのアラミスで発見されたが、ヒトと類人猿の中間的な特徴をもっていることがわかった。その後の研究で二足歩行をし、木登りをしていたことが明らかとなった。硬いものや草原性の植物はほとんど食べないものの、森の中の果実や葉、昆虫などを食べる雑食性であることなど生活の様子もわかってきた。ラミダス猿人は直立二足歩行などヒト的な特徴を拡大しながら、アファール猿人へと繋がっていく途中の「ヒト」、ミッシング・リンクなのかもしれない。

 

 

2023年8月23日 (水)

諸葛孔明と司馬懿

Photo_4   長き夜や孔明死する三国志

 正岡子規明治29年の句。秋の夜長は、読書の夜でもある。「三国志」は中国の後漢末期から三国時代にかけての群雄割拠していた時代の興亡史である。ことに諸葛孔明は人気がある。子規は誰の三国志を読んでいたのか。まだ幸田露伴、久保天随の本は出版されていない。博文館の帝国文庫であろうか。諸葛亮(181-234)。字は孔明。琅邪郡陽都県の人。前漢の司隷校尉の家系。幼くして父の諸葛珪が死んだため、叔父の諸葛玄に養われた。叔父の死後、南陽の隆中にうつり、徐庶らと交わり、臥龍と称された。徐庶の推挙により劉備に知られ、三顧の礼をもって迎えられたが、このとき天下三分の計を開陳し、以来、劉備と水魚の交わりを結ぶことになった。まもなく、荊州の劉琮が曹操に降伏し、そのため劉備は夏口に逃れた。そこで諸葛亮は使者として呉の孫権のもとにおもむき、連合して曹操にあたるよう説得、これが功を奏して208年11月、赤壁で曹操の軍を大破した。

    214年、劉備の蜀入りにさいしては、張飛、趙雲らとともに増援部隊を率いて成都に攻めのぼった。221年、劉備が蜀で漢帝を称すると諸葛亮も丞相となった。223年、劉備の病没にさいしては、国の将来と嗣子・劉禅の行く末をかれの手に託され、以後、蜀の経営に専心した。

    225年、みずから南方の鎮定にむかい、後顧の憂いを断ったうえで、227年、魏討伐にむかった。このとき、後主劉禅にたてまつった出師の表は、古来、これを読んで涙を流さぬものは人にあらず、といわれるほどの名文である。

    以来、五度にわたる魏討伐戦は、一時は魏の二郡を奪うという戦果をあげたが、最後の二度にわたる戦いは、魏の司馬懿(仲達)の持久戦に苦しめられ、234年、ついに五丈原で陣没した。53歳であった。

 孔明の死後の通史の記述は一般に簡潔なのものである。たとえば高校世界史定番の参考書「詳説世界史研究」では、「魏の帝室は曹丕ののち、一族の間での争いからしだいに力を失い、かわって勢力を蓄えたのは司馬氏であった。蜀を滅ぼして2年後、司馬炎は皇帝の位について晋を建国した」とある。要するに司馬懿の名前は記載されていない。我が国では伝統的に、諸葛孔明の尽忠報国の精神を尊び、司馬懿を王室簒奪の不忠者、裏切者とする史観がある。とくに幕末の吉田松陰が司馬懿を激しく非難している。この伝統的な評価は明治・大正の世も受け継がれて、歴史教科書には司馬懿抹殺ということが続いている。一方、本場中国では最近、司馬懿の評価は高い。ドラマ「三国志」(2010)では第4部から出場するがほぼ主役級の扱い。容貌魁偉な倪大紅(ニー・ダーホン)の名演技が光る。(参考:丹羽隼兵・竹内良雄「三国志人物事典」別冊歴史読本中国史シリーズ 1)

 

 

2023年8月16日 (水)

レオ・フランク事件

Photo_2  「大草原の小さな家」の「アイザックじいさん」。ユダヤ人の木工職人が登場し、ユダヤ人差別の話。新教徒が多いアメリカにはユダヤ人差別があった。もっとも有名なのが1913年に起こった「レオ・フランク事件」。 

アメリカ南部ジョージア州で、貧しい白人の少女メアリー・フェイガン(当時13歳)が惨殺される事件が起きた。北部出身の白人の工場長レオ・フランクに容疑がかけられた。北部への憎しみから生じた異様な興奮が渦巻く中、拘置中のフランクは市民によって拉致され、リンチの犠牲となった。新聞はリンチを称賛し、関与した者は1人も断罪されなかった。フランクの無実が明らかにされたのは、それから70年もの歳月がたってからのことである。

   1913年4月26日土曜日、メアリー・フェイガンは白いレースで縁取られたワンピースと花飾りのついた帽子で精いっぱいのお洒落をして、アトランタで行なわれる南軍戦没者追悼のパレードを見るために、期待に胸を弾ませながら家を出た。もうすぐ14歳というメアリーは、だれもが振り返るような魅力的な少女で、えくぼができるような笑顔に、とび色の長い髪がよく似合った。パレードを見に行く前に、メアリーは、勤め先のナショナル・ペンシル工場に立ち寄った。同僚の少女たちは、前日の金曜日に給料を支給されていたが、その日休みをとっていたメアリーは、まだ給料を受け取っていなかったのだ。正午過ぎに工場に着き、人けのない構内を歩いて2階の事務所に行くと、工場長のレオ・フランクがいた。メアリーは1週間分の賃金1ドル20セントの入った茶色の封筒を受け取った。その夜、メアリーがいつまでたっても帰宅しないので、家族は警察に届け出た。翌日の午前3時ころ、夜警がメアリーの死体を発見した。鉛筆の箱を縛るのに使うひもで首を絞められていた。工場長レオ・フランクは、生前のメアリーを最後に目撃した人物だっため、最重要容疑者となった。しかしフランクの供述に嘘はなかったし、裏づける証拠はなかった。

    レオ・フランクは1884年、テキサス州ダラス近郊のパリスという町で生まれた。18歳でコーネル大学に進学し、機械工学を専攻した。1907年に裕福な叔父のモウゼス・フランクからアトランタで始めた鉛筆工場の工場長のポストを提供された。1910年、名門ユダヤ人一族のルシール・シーリグと結婚し、働き者の工場長として知られていた。運命の日となった南軍戦没者追悼の日は、フランクは義兄に野球見物に誘われたが、断わり、いつものように出社して工場の事務所で帳簿をチェックしていた。

    1913年8月26日、レオ・フランクは死刑判決をうけたが、1914年の暮れになって、ジム・コンリーの弁護人がメアリーを殺したのは自分の依頼人、つまりジム・コンリーだったという爆弾発言がなされた。そのように異論の多い中、レオ・フランクへの刑には執行猶予命令が下された。1915年8月16日、総勢25人のリンチ・グループがミレッジビル刑務所に押し入り、フランクを拉致した。フランクを乗せたリンチ・グループの車は、メアリーが子どものころ遊んだフレイの森に向かった。8月17日午前7時ころ、リーダーがフランクに告げた。「ミスター、フランク、我々はこれから法の命ずるところに従うつもりだ。つまり、あなたを絞首刑にする。死ぬ前に何か言いたいことがあるか?」フランクは、刑務所に保管されている結婚指輪を妻に届けてほしいと頼んだ。「私は自分の命より妻と母のことの方が心配だ」フランクは勇気をもって冷静に死に臨んだ。彼の最後の言葉には、妻と母親を気づかう心情が表れていた。マリエッタの新聞は、フランクに対するリンチを「法を守る市民の行動」と称賛し、アトランタ市長は「言語道断の犯罪に対する正当な罰」と述べた。マリエッタではリンチ執行人たちの正体を知らぬ者はなかったが、結局だれひとり名前を明かされず、告発されることもなかった。大きな衝撃を受けたアトランタのユダヤ人社会も、フランク未亡人と同様、そっとしておいてもらうことを求めた。しかし、レオ・フランク事件の調査は細々と続いた。当時14歳で事務所の給仕をしていたロニー・マンは、犯行を目撃していたが、1980年代になるまで、1人で良心の呵責にさいなまれながら暮らしていた。1983年3月4日、マンは宣誓の上、「事件直後、自分は鉛筆工場の階段のそばに立っていて、ジム・コンリーがメアリーのぐったりした体を地下に通じる1階のはね上げ戸のそばに運んでいるのを目撃した」と語った。だが、彼はコンリーに見つかり、しゃべったら殺すと脅かされた。レオ・フランクは嘘の積み重ねによって有罪判決を受けた。マンは事件から、70年後、ようやく遅すぎた証言を行なった。1986年3月11日、レオ・フランクはジョージア州によってついに正式に特赦が認められた。有罪判決からすでに73年が経過していた。

    後日譚としては、ナショナル・ペンシル工場は、この事件で評判を落として廃業に追い込まれたが、工場や設備は新しい経営者に買収され、現在もスクリプトの社名で好業績を上げている。レオ・フランク事件を題材にした本や小説、映画が現在に至るまで続いている。最近では「メアリー・フェイガンのバラード」という映画で、ジャック・レモンがジョージア州知事ジョン・マーシャル・スレイトンを演じている。スレイトンは検察側の論拠の誤りや矛盾のすべてを詳細に箇条書きにした意見書をつけて、死刑執行猶予を認めるために勇敢に行動した州知事である。(参考:「マーダー・ケースブック56、暴走する狂気リンチ殺人の真実」1996)

 

 

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