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2021年2月27日 (土)

世界の古代文明

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 かつての歴史授業では必ず四大文明が説明された(田中文治「中学歴史の精解と資料」1977年)

 

  エジプト・メソポタミア・中国・インドのような大河流域の灌漑農耕国家を世界四大文明と呼んでいる。その嚆矢は梁啓超の詩(「二十世紀太平洋歌」1900年)に見えるが、四大文明史観はトインビーなどにより世界の歴史学会では完全に否定されており、中国・韓国・日本のみで学校の歴史用語で教えられ、欧米諸国には存在しない。古代文明は4つに限定されたものではなく、前3千年紀の後半には、すでに南米アンデス地帯の一部に、オリエントの影響をうけない、しかし本質的にはあまり差異のない原始農耕文化がおこっており、神殿をもつ集落の遺跡、カラル遺蹟が発見されている。

   西アジア「肥沃な三日月地帯」からは前9000年ころのムギ・マメの化石が大量に出土している。中国においては華北(黄河流域)のアワ・キビと華中(長江の中・下流域)のイネが生態系の違いを反映しているが、イネの長江文明などの農耕の始まりが多くの遺跡によって明らかになりつつある。1996年には成都黄河文明よりも古い前5000年の都市国家(竜馬宝墩古遺跡)が発見されている。世界の主要な穀物はムギとイネとトウモロコシである。前7000年ころウィスコンシン氷期がはじまり、古代アジア人はベーリング海峡をわたってアメリカに進出し、南下した古インデォはメキシコやペルーに定住し、前2000年から前1500年ころトウモロコシをはじめジャガイモ、サツマイモ、トマトなどの農耕文明を成立させた。とくにオルメカ人は前1200年ころ、南米に石像をはじめ神殿などの初期国家を形成していった。アメリカの文化人類学者エルマン・サーヴィス(1915-1996)の初期国家の定義によれば、「人口規模が2万人以上であること」とある。マイケル・コーは調査の結果、サン・ロレンソの遺跡を25000人規模の都市と推定している。とくに中国の黄河文明に関しては、一つに括ることを誤りとしなければならない。長江下流域の河姆渡文化や良渚文化など、黄河流域だけに限らない。近年、杉龍崗遺蹟(湖南省常徳市)から9000年前の米粒が発見された。(世界史)

2021年2月25日 (木)

ネロは暴君ではなかった(異説世界史)

Nero_mus_munchen    ネロ・クラウディウス・カエサル(37-68、在位54-68)。アヘノバルブス家の出身で、本名ルキウス・ドミチウス・アヘノバルブス。彼の父グナイウス・ドミチウス・アヘノバルブスは40歳ぐらいで死去し、彼の母で、アウグスツスの曾孫の小アグリッピナは、49年に彼女のおじにあたる皇帝クラウディウス1世の皇妃となった。クラウディウスと彼の前妃メッサリアの子ブリタニクスは、ネロよりも三歳しか年少ではなかったが、アグリッピナはクラウディウスを説得して50年2月25日、ネロを養子にさせた。その後、ネロとブリタニクスの姉オクタウィアを結婚させ、さらにまたさまざまな栄誉を与えて、ネロをクラウディウスの後継者に仕立てた。54年クラウディウス1世は急死したが、アグリッピナによって毒殺されたものらしい。アグリッピナはただちに近衛軍の支持を取付けて、ネロをローマ皇帝と宣言させた。ここに初めて、帝権がまだ17歳に満たない一少年に付与されることになったのである。

   ネロは、ストア派哲学者セネカを家庭教師としてギリシア的教養を身につけたローマ人であり、ギリシア旅行をしたり、詩を作ったり、演劇に興じたり、竪琴をひいて音楽に興じることを好んだ。ネロは後世に脚色されて暴君の典型とされるが、実際は賢明で寛大な政治を行なった。後年に、政治に口を挟もうとする母親のアグリッピナを暗殺して以後、現実社会を嫌悪するようになった。64年になると、ネロは過密となったローマに放火させ、焦土と化したローマを理想的な都市として再生しようとした。火事は蜜集したローマの半分を焼き尽くし、ネロは莫大な費用を費やしてローマを再建した。しかし、のちに放火の事実がばれそうになると、ネロの側近はキリスト教徒に放火の罪を押し付け、多くの信者をとらえられて公開火刑に処した。これが、ローマ帝国における最初のキリスト教徒迫害事件である。孤立したネロは、翌年政府転覆事件を口実に師のセネカにも自殺を強要し、強権政治を強めた。しかし、横暴な支配のためにネロは、元老院、近衛兵からも見放され、68年6月9日、ローマから脱出して自殺した。ここに暴君ネロの支配は終わり、ユリウス・クラウディウス朝は断絶した。(参考:宮崎正勝「世界史の海へ」小学館) Nero,Augustus

2021年2月22日 (月)

ステュワート朝

  1371年のこの日、ロバート2世がスコットランドの王位に就く。1714年まで続いたスコットランド起源のステュワート王朝の始まり。即位時すでに54歳であったロバートは健康状態が悪く、盲目であった。老齢のロバートは74歳で歿したが何も業績を残せず、その息子たちが実権を握った。(2月22日)

2021年2月21日 (日)

楚漢抗争と漢王朝の成立

鴻門の会 前206年12月、項羽は咸陽に入城したが、既に劉邦が陥れていた。劉邦は項羽100万の大軍に恐れて鴻門に入り謝罪する。項羽の謀将范増はこの機に劉邦を殺そうと図ったが、部下の張良と樊噲によって劉邦は危うく逃れることができた。

十八王の分封 項羽は西楚覇王、劉邦は漢王となる。

垓下の戦いと漢の成立  漢の臣下韓信は、斉の都の臨菑を陥落させた。斉王韓信、漢王劉邦は項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に包囲する。前202年2月21日、劉邦は項羽を敗死せしめて中国を統一し、諸侯は漢王を挙げて皇帝とした。これがすなわち漢の高祖であり、ここに漢王朝が誕生する。

2021年2月20日 (土)

ニミッツ提督

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   チェスター・ニミッツ少年はテキサス州フレデリックスバーグのホテルで働いていたとき、若い軍人が宿泊したことがきっかけとなって陸軍士官学校に入学を希望した。しかし必要な議員の推薦がえられず、アナポリスの海軍兵学校に入学した。 

   真珠湾奇襲攻撃の責任を問われて米太平洋艦隊司令長官になったニミッツは、可能な限り日本人の身になって物事を考えるよう心がけ、日本海軍の作戦に熟知し、ついにミッドウェー作戦に成功をおさめた。郷里にある「アドミラル・ニミッツ・センター」には東郷元帥を尊敬して日本庭園もある。(ポッター「提督ニミッツ」)

 

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2021年2月15日 (月)

食中毒で死んだお釈迦さま

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  イエス・キリストは十字架磔刑の壮絶な死であったが、釈迦はどのようにして亡くなったのだろうか。前483年(前383年説もある)、80歳の老齢となって首都ラージャグリハを出て、自分の生まれ故郷のほうに向かって最後の旅に出た。途中、鍛治工チュンダの供養したキノコの料理を食べて激しい下痢をおこした。まもなく、クシーナガラ(現ビハール州カシア)の沙羅双樹の下で安らかに没したといわれる。涅槃絵は3月15日に行われる。(2月15日)

2021年2月14日 (日)

青天を衝け

 近代日本経済の父、実業家・渋沢栄一の波乱の生涯を描く大河ドラマ「青天を衝け」がスタートした。日本史教科書には、「明治5年、栄一らが中心となって国立銀行条例が制定され、これにもとづいて第一国立銀行など4行が創立された」とある。でも実業家の人生などあまり知らないので新鮮かもしれない。とくに私生活はなぞが多い。最初の妻千代をコレラで亡くし、2番目の妻が伊藤兼子。これ以外にも妾の大内くに、田中久尾、鈴木カメなど多数いて妻妾同居の生活だった。偉大な人物だがこれまで子供向きの伝記が少なかったのは女性関係のためだろうか。栄一には男女20人の子がいるが、一説には庶子を含めると50人はいたといわれる。スーパー!ドラマチャンネルで放送している「1ザ・グーレート」ではロシアの女帝エカチェリーナ2世を可愛いエル・ファニングが演じている。コメディ風で性描写も多いが、暗愚な夫のピョートル3世を暗殺するシーン(?)が注目される。エカチェリーナの2世の時代にロシアはヨーロッパの強国となった。

2021年2月 6日 (土)

インドネシア独立戦争の英雄ングラライ

Ngurahrai   世界貿易機関(WTO)の事務局長にナイジェリアのンコジ・オコンジョイウエアラ元財務相が選出された。「ン」で始まる人名は珍しい。山川出版社の「世界史人名辞典」には1914名の人物が採録されているが、「ン」から始まる人名は1人もいない。ガーナの初代大統領クワメ・エンクルマ(1909-1972)は、Nkrumahでカタカナで表記すると「ンクルマ」としたほうが現地発音に近い。ガーナの首都アクラも英語ではAccraだが、実は「ンクラ」に近い。赤道ギニアの初代大統領フランシスコ・マシアス・ンゲマ(1924-1979)。テオドロ・オビアン・ンゲマ。インドネシアの独立戦争の英雄イ・グスティ・ングラ・ライ(1917-1946)が未採録なのは惜しい。インドネシアのバリ島には「ングラ・ライ空港」がある。

   インドネシアは1942年以降日本軍政がおこなわれていたが、陸軍のジャワ、マライ・スマトラ、海軍の東インドネシアの三地区分断政策がとられた。民族の一体化を希求するインドネシア民族運動家は、日本の欺瞞に不満でぁったが、日本の敗戦後、ただちにインドネシア共和国の独立を宣言し、日本軍から武器を奪って国家体制を整えた。連合軍はイギリス軍をスマトラ北部から上陸させたが、10月末スラバヤに上陸したオランダ軍は各地に蘭印民政部を組織して再植民地化を企図した。インドネシア側は強力な武力闘争を展開し、1946年11月のリンガジャチ協定、1948年1月のレンヴィル協定を経て国連の介入によるハーグ円卓協定となり、主権移譲に関する取り決めがなされ、西イリアン問題を将来の解決に残して、1949年12月、オランダと対等の連合のもとらインドネシア連邦共和国の成立となった。しかし共和国を連邦共和国内の一員とするかぎりにおいては、いぜんかつてのオランダ時代の間接統治形態を踏襲するに過ぎない。共和国側は各構成自治国を共和国側に復帰させる工作をおこない、ついに1950年8月15日、単一のインドネシア共和国の成立に成功した。

 

 

シンガポール

5971233_134151915319  シンガポールはアジアと欧米諸国との接点である。18世紀末ころ、マレー半島南部を支配するジョホール王国はリアウ王国とパハン王国に分かれていた。イギリスのインド副総督トーマス・スタンフォード・ラッフルズ(1781-1826)はリアウにあったマレー派の王族フサインをジョホール王として即位させた。1819年2月6日、ラッフルズは条約を締結し、シンガポールを買収した。以後イギリスは、この島に関税のかからない、自由貿易港を建設し、東南アジア貿易の拠点として、イギリス東洋進出が始まった。(Thomas Stanford Raffles,Singapore,Johor Riau)

2021年2月 1日 (月)

7世紀から17世紀までの世界史

   中世から近世にかけての世界史を大きく概観する。

 

Mapnew3  7世紀から12世紀までの西アジア・中東の展開が注目される。ムハマンドは610年にヒラー山の洞窟にこもって瞑想した。そしてアッラーフから啓示を受ける。死後、その教えはコーランとしてまとめられ、イスラーム教という新しい宗教が生まれた。8世紀に成立したアッバース朝カリフ政権がバグタードに都をおいて繁栄し、北アフリカから中央アジアまでを支配する。9世紀末以降は衰退するが、11世紀前半になるとイスラム化したトルコ人がセルジューク朝を建てて、シリアに進出した。これが十字軍がおこるきっかけとなり、セルジュク朝は12世紀半ばに滅亡する。一方、ヨーロッパ世界は200年におよぶ十字軍遠征で、教会勢力は衰微し、中央集権国家が成立する。そして14世紀に大きな変化が起きたと考える。ルネサンスがイタリアではじまり、西欧に広がった。15世紀末から大航海時代を迎え、ヴァスコダ・ガマがムスリム人の水先案内によってカリカットに到達した。アジアでは1368年に太祖洪武帝(朱元璋)がモンゴル人の元朝を倒し、明を建国した。漢民族の明は、新たな冊封体制の確立に努め、永楽帝による鄭和の南海遠征は、東南アジア・南インドからペルシア湾、東アフリカに及んだ。一方。イスラム世界ではトルコ系民族が主役の地位に復活し、中央アジアに起こったティムール帝国は、東西トルキスタンを制圧し、アンカラの戦いでオスマン帝国を破りマムルーク朝とイスラム世界の覇権を争った。

 

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オスマン帝国は15世紀になってメフメト1世のときに発展し、1453年メフメト2世はコンスタンチノープを陥れ、東ローマ帝国を滅ぼした。これ以後、コンスタンチノープルは国都として大いに繁栄した。領土は小アジアを統一し、クリミア汗国を属国化してしだいに拡大した。スレイマン1世の時代はオスマン帝国の全盛期であった。強大だったオスマン帝国はどうして衰退してしまつたのか。17世紀後半を転機に次第にに衰え、1683年の第一次ウィーン包囲の失敗、そしてロシアのアゾフ海占領、これを受けて1699年カルロヴィッツ条約が結ばれたことから、オスマン帝国は衰退していく。衰退の原因は、官僚や軍隊の腐敗や肥大化といった帝国内部の問題だったが、新大陸や東アジアとの交易によって経済的に潤ったヨーロッパが、軍事面でも力をつけてきたことも大きく影響した。長らくイスラム優位だったヨーロッパとの力関係が、ついに逆転した。

 

 

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