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2017年3月17日 (金)

ウィンドボナ(白い岩)

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    ヨーロッパの古都ウィーンという言葉は、心を明るくする響きをもつ。なごやかな気持ちになり、何となくはしゃぎたくなるのだ。モーツアルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウスなどの音楽家が活躍した音楽の都だからだろうか。あるいは多くの人々の想念のなかにある御伽の国を思い浮かべるだろうか。

    紀元前4世紀頃、ケルト人たちによってドナウ川上流右岸に集落がつくられ、前50年にローマ軍はここに侵入し、前15年から14年にティベリウスとドルススが征服し、レディア・ノリクム・バンノニアの3州がつくられた。バンノニアの中心地はケルト語をそのまま引き継いで、ウィンドボナ(白い岩)またはウィンドミナ(白い河)と呼ばれ、ローマ帝国の北辺を守る要衝の一つとして軍隊が駐屯する要塞都市となった。「ボナ」は「集落・町」、「ウィンド」は「白い」という意味。別の説ではウィンドの語源はケルト語のベズニア(木、森)の意味とある。この付近が「ウィーンの森」といわれるように、アルプス山系の森林地帯であったからである。いずれが正しいか明らかではない。

   177年ドナウ戦争のために出征していたローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)は180年3月17日、この地で陣没したといわれる。民族移動の口火をきったフン族はアッチラに率いられて5世紀ころには一時このあたりにとどまり、またイタリアにはいる前の東ゴートもここに国をつくった時代がある。城砦と町は5世紀の民族移動による混乱で消滅したが、その構造が一部残って中世都市の基礎となり、それが今日でも市の中心部の地取りを決めている。

    古名ウィンドボナは、881年にはヴェニア(Wenia)と記録され、これが転化してウィーンとなった。1156年にはバーベンベルク家の下で首都となり、急速に重要性を増した。都市キビタスとしての特許状は1137年にすでに与えられていたが、1221年には商業独占権が認められて商業の中心地となり、その関係で十字軍の聖地への発進地にもなれば、ドイツ騎士団の後援者にもなった。

2017年3月15日 (水)

履物の歴史

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 プスセンネス1世の黄金のサンダル

7986631691_8d8beb59e1_z   本日は「靴の記念日」。1870年のこの日、西村勝三(1837-1907)が東京・築地入船町に日本初の西洋靴の工場を開設した。では人類でもっとも古い履物は? 北部アメリカの先住民はシカなどの動物の生皮で足を包み紐で結んだモカシンという靴が履物の原型と考えられている。古いものでおよそ前3500年頃の履物が出土している(画像)。古代エジプトでは前3100年頃のナルメル王の化粧板には従者が王のサンダルを捧げもつ絵がみえる。ツタンカーメン王(前1333-前1323)やプスセンネス1世(前1047-1001)のサンダルが墓から出土している。プスセンネス王の黄金のサンダルは葬祭用と思われる。

   前2000年ころにはパピルスで編んだ履物が作られ、このサンダルは他地域にも波及し、ギリシア・ローマ時代にもサンダルが出土している。靴底には鋲のある丈夫なつくりになっている。中国・韓国・日本など稲作地帯では藁でつくった「わらじ」が一般的な履物である。 (3月15日)

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     古代ローマ時代               韓国(1500年頃)

2017年3月13日 (月)

ネアンデルタール人は本当に花を愛したのか!?(異説世界史)

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    ネアンデルタール人は55万年から69万年前にホモ・サピエンスの祖先から分岐した別種で、絶滅したので現生人類との系統的なつながりは無いと考えられている。アフリカで進化を遂げた新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の一派が、約4万年前にアフリカからヨーロッパに渡った。彼らをクロマニョン人という。ネアンデルタール人はクロマニョン人によって滅ぼされたという説が有力である。しかし2011年、遺伝子研究の結果、私たちのDNAにネアンデルタール人の痕跡が確認され、ネアンデルタール人とクロマニョン人が通婚し、やがてその形質的特長を失っていったということも考えられるようになっている。ただしネアンデルタール人が現生人類と異なる系統にあるということは動かし難い事実である。アメリカの考古学者ラルフ・S・ソレッキが「ネアンデルタールは死者に花を手向けた」というシャニダール洞窟での報告が有名である。我が国の書物やネットでも園芸家、華道家、葬儀屋までもネアンデルタール人の生死観について語っている。ネアンデルタール人は、自分の夫・妻、子ども、両親などが死んだりすると、愛情の対象を失った悲しみから花を捧げる習慣が生まれたというのである。ほんとうに現代医学や心理学でいうところの「対象喪失」がネアンデルタール人にあったのだろうか。ネアンデルタール人の前頭葉は現生人類の70%しかない。創意工夫の能力に欠け、死者に花を手向けるということに対して、近年の研究では疑問視されている。花粉が風に乗ってきたのかもしれないし、花の好きな女性で生前自分で花を飾っていたのかもしれない。「ネアンデルタール人は死者を悼む心があり、優しい心情をもつた人類」「宗教心のめばえ」とする説はいささか勇み足だったようである。洞窟の壁画を描いたり、オオカミを飼い馴らしたり、さまざまな石器を作ったりするのはクロマニョン人である。「ネアンデルタール人と花」は既成事実として定着してしまった。ラルフ・S・ソレッキという学者は著名なのであろうか。英語版ウィキペディアでも記述は少ない。1917年生まれで存命していることになっている。「ネアンデルタールの謎」ではなくて「ソレッキの謎」である。そしてソレッキの説が発表されて以降、旧石器人が花を愛したという報告はほとんどない。花が壁画に現れるのは、文明が誕生したエジプトの新王国が最初である。( keyword;neanderthalensis,Cro-Magnon,Ralph Stefan  Solecki ,Shanidar )

2017年3月10日 (金)

水で水を洗う

  清朝の乾隆帝は、水にやかましかった。自分が巡行するときは行く先々の水を調査させることが習わしだった。それは銀瓶と精密な計器をもっていって水の重さをはかり、軽いものを上としたのである。その結果北京西郊の玉泉の井水を天下第一泉として、巡行のときはこの水をもって旅行した。しかし車や舟に揺られ日が経つにしたがい水質は落ち、係の役人は行った先の水でこの玉泉の水を洗うことにしていた。それは大きな甕に玉泉の水を移しその分量をはかっておき、その土地の水を加えてよくかきまわして静かにしておく。そのうちに重い水は下によどみ、上面は軽い水だけになり、これをもとの分量だけ汲み出す。まさに「水で水を洗う」というやり方で、今日からみれば滑稽な水質検査であろう。(清朝野史大観)

2017年2月27日 (月)

エルバ島からの脱出

Elba   1814年3月31日、パリは陥落した。ナポレオンはフランス皇帝からの退位宣言に署名させられて、エルバ島の小領主として追放される。エルバ島はイタリア半島中西部に位置する面積224k㎡の小島。ナポレオンがエルバ島についたのは4月の半ば。「すみれの花咲くころにはパリに戻ってくる」と言い残していた。戦後処理会議としてウィーンで国際会議が開かれた。会議にはヨーロッパ中の2帝国・90王国・53公国から代表が集まった。接待役オーストリアのリーニュ将軍の「会議は踊る、されど進まず」の言葉どうりに紛糾が続いた。1815年2月27日、ナポレオンは100人の兵士とともにエルバ島を脱出した。3月1日、カンヌ付近に上陸したのち、敵との遭遇を避けるため、険しいアルプスを越えてパリまで進軍した。3月になるころには、ウィーン会議は決裂寸前の状態まできていた。そして3月7日、ナポレオンがエルバ島を脱出したという情報が届いた。列国は数週間のうちに和解を進め、力を合わせてナポレオンと戦うことを約束した。一方、ナポレオン軍は、ナポレオンを攻撃するために差し向けられた兵隊たちも加わって、しだいに膨らんでいった。そして3月20日、ナポレオンはパリに到着し、熱狂的な歓迎を受けた。 ナポレオンの「百日天下」が始まる。

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冒険家セオドア・ルーズヴェルト

Photo_3   南米ブラジル高地を流れるアマゾン川。大森林地帯マット・グロッソの西の端にアマゾン川最大の支流マディラ川のまだ奥には1914年まで、地図にもない謎の川、ドゥヴィード川があることが知られていた。ドゥヴィード川は1909年ある探検家によって発見されたのだが、どちらの方角へ流れてゆくのか、どこで終わるのか、誰にもわからなかった。それで、「謎(ドゥヴィード)の川」という名前がつけられたものだった。

    1914年2月27日、第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルト(1858-1919)は大統領の任期を終えると、ブラジルに行き、謎の川の探検を行なうことにした。この時、54歳である。これまでもルーズヴェルトはアフリカで狩猟もすれば、ノース・ダコタでつらいカウボーイ生活もした。パナマ運河沿いを歩いたこともある。この探検には、息子のカーミット、生物学者ジョージ・K・チェリー、ブラジルのインディオ局長カンディード・ロンドン大佐が同行した。一行は3月10日までに、カヌーでわずか100キロを進んだ。まがりくねった急流。食料不足。川に棲むピラニア。また川の水面がとつぜん落ち込む大滝がある。4月15日には、一行の半数が病気で動けなくなった。だが数日後、やっとのことで探検隊はアマゾンの町マナウスに到着した。ルーズヴェルトは次のように記している。

    「われわれは、地図のうえに、ひとつの川を書きいれた。長さ1000キロのこの川の存在は、もし模範的な地図が正しければ、未知だけでなく、不可能でさえあったろう」ルーズヴェルトは熱病から全快できなかった。ハイキング、水泳、乗馬を続けていたが、ドゥヴィード川の探検は、かれの最後の大冒険であった。帰国して5年後、1919年1月6日、亡くなった。

    今日では、このドゥヴィード川はアリプアニャ川の西にある支流として地図に出ている。その名前は変わった。地元ではテオドロ川として、そのほかの世界では、ルーズヴェルト川として知られている。(参考文献:「図説探検の世界史 7 南米の謎をさぐる」集英社)Theodre Roosevelt

2017年2月26日 (日)

ナトゥフィアン文化

   日本でもゴードン・チャイルド(1892-1952)の名前は「文明の起源」(岩波新書)などでよく知られている。ところがチャイルドのオアシス起源説は今では否定されているらしい。農耕・牧畜の起源は平野部よりもイラクの高地で起こった。獲得経済から生産経済への移行の問題であるが、人類自らの手で栽培するというより、イラク北部の高地では野生のムギ類がよく育った。現在ではナトゥフィアン文化(前10500年~前8500年)と呼ばれている。ナトゥーフ期を命名したのが前回記した女性考古学者ドロシー・ガロッド(1892-1968)である。奇しくもチャイルドと同年である。ジャルモ(前7800年ころ)からは150人ほどの初期集落趾とエンマー小麦・豆類、ヤギ・犬・豚の家畜化がなされていた。ヨルダン川西岸のイェリコ(前7600年ころ)からは2000人の大集落趾と高さ9mの塔が発見された。農耕・牧畜は高地から始まったのである。

始皇帝の母、趙姫

20070918143200_4315_   NHKBSプレミアム「中国王朝よみがえる伝説 悪女たちの真実」もいよいよ第三集。3月29日放送の趙姫。戦国の末、趙の都邯鄲に商用に出かけた韓の陽翟の豪商呂不韋は、偶然、秦の太子安国君の庶子の子楚が人質としてこの都に住んでいることを知った。その時、この商人は「この奇貨居くべし」(これはすばらしい掘り出し物だ。買っておこう)と口走った。すぐさま子楚に秦の太子になれる希望を抱かせ、ついで、その財力によって、ついにほんとうにこの一介の庶子を太子とすることに成功した。そして彼は、自分の子のみごもっていた朱姫を子楚にとつがせた。その生まれた子が後の始皇帝(前260-前210)である。かくして呂不韋の野望はみごとに達成された。

   始皇帝の母の実名は「史記」に記されていないが、後の小説類では趙姫、あるいは朱氏となっている。駒田信二は「朱姫」と呼んでいる。朱姫は歌と舞にかけては邯鄲の妓女たちの中でその右に出る者はないといわれている美女であった。しかし、後世の小説家たちは彼女を淫婦と呼んでいる。

   前249年、子楚は荘襄王となる。前247年、荘襄王死す。政(のちの始皇帝)秦王に即位する。まだ13歳だった。前238年、朱太后の乱行が暴露され、嫪毒の一族は皆殺しとなる。朱太后は萯陽宮(ぶようきゅう)という小さな離宮に移した。翌年、呂不韋は罷免され、2年後自殺する。朱太后はそれから7年後、前228年、50歳で死ぬ。萯陽宮に移されてから死ぬまでの10年間、かわるがわる男を引き入れて倦むことを知らなかったという。秦王政、のちの始皇帝は、父なる王は実の父ならず、実の父は死に追いやった。その母は淫乱に明けくれ、その同母の弟たちは殺さねばならなかった。秦王政は、孤独な生い立ちであった。(参考:駒田信二「世界の悪女たち」)

2017年2月25日 (土)

マーピラの反乱

Ali_musliyar    吉川弘文館の「世界史年表」などには何故かでていないが、インド独立史において重要な事件である。1921年8月20日から1922年2月25日までに南インド各地に起きた反帝国主義、反地主闘争。マラバル地方の最貧困層が中心となったのでマラバルの反乱ともいわれる。キラーファット運動指導者Ali Muslyar (画像、1864-1922)は警察に追われるが逃れて潜伏し、長期化したため多数のマーピラが虐殺された。(モーピラーの反乱)

2017年2月24日 (金)

蝦球物語

   長編三部作。第一部、母子二人ぐらしの貧しい少年蝦球(シアチウ)は家出して浮浪児となり、香港波止場で問屋や密輸団に使われ警察につかまる。のち浮浪収容所に入ったが逃げ出し、スリ仲間にはいって、サンフランシスコ帰りの老人から大金をすりボスにわけまえをもらう。家に立ちよると、その老人が病に倒れている。それこそ、彼が幼いとき出稼ぎにいっていた父親なのであった。第二部、第三部では、ふたたび家をとび出した彼はボスの手下となり、海南島へ船で荷を運ぶ途中でてんぷくし、大陸の岸におよぎつく。ボスは手下をみごろしにし自分だけボートで逃れたが、彼が大陸であった六路軍は立派であった。彼は浮浪仲間とともに八路軍の遊撃隊に投じ、大軍に包囲されたり、苦戦をつづけるうち、戦闘の中でしだいに成長をとげてゆくという物語。黄谷柳(1908-1971)は中国現代作家。南方日報の記者となり、広東、香港に取材する作品をもって戦後文壇に登場、「少年少女」「生命の幼笛」等があり、「蝦球伝」(1948)はその代表作。

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