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2018年7月18日 (水)

史記・司馬遷関係文献目録

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  前漢武帝の治世の元朔3年(前126)、司馬遷20歳のとき、天下漫遊の旅に出た。河南、安徽、江蘇、浙江、江西、湖南、湖北、山東の各省にわたる大旅行で、前後二、三年はついやしたようである。司馬遷は淮陰に立ち寄った。この地は、漢王朝の成立後、劉邦にあっけなく滅ぼされたが、劉邦、項羽の漢楚興亡のただ中にあっては斉王となり、漢室の一敵国となした名将・韓信の故郷である。司馬遷はこの地の父老たちから韓信の人柄を示す故事を聞くことができた。韓信は若い頃、屠殺屋仲間の若者にばかにされて、その股をくぐらされた「韓信の股くぐり」の話は有名であるが、のちに韓信は、その若者を召し出し、「わしの今日があるのはおまえのおかげだ」といって厚く報いたという。司馬遷は、どのように、こうしたエピソードを集めたのであろうか。じつは「史記淮陰候列伝」の論賛に、司馬遷が収集の経緯の一端を語っている。

    わたしが淮陰に行ったとき、淮陰の人々はわたしにこういった。「韓信は平民であったときでも、その気がまえは普通のものとはちがっていました。彼の母が死にましたとき、貧乏で葬式もできなかったのです。ところが、彼は高爽な、ひらけた場所に墓をつくり、将来その周囲に何万軒もの墓守りをおけるようにしたのです。」と。わたしは彼の母の墓を見にいったが、まことにその通りであった。もし韓信が道理を学び、謙虚な態度をとって自分の功績を自慢せず、その才能を鼻にかけなかったならば、漢室に対して、その勲功はかの周公、召公や太公望などにも比せられて、後世ながく国家の元勲として廟に祭られることにもなったろうものを。ところが彼はそうなろうとつとめずに、天下が統合されたあとで、なお反逆をたくらんだ。一族全滅にみまわれたのも当然ではなかろうか。

    ここには司馬遷の韓信の人柄に対する愛情と、それ故にこそあえて加える批判の筆とがよくあらわれている。(参考:大島利一「司馬遷」清水書院)

史記 影印本「二十五史」所収 2冊 台北・芸文印書館
史記考要 柯維騏 明
史記啓弁 詳論註解 堤大介編 松林堂 1879
啓蒙史記列伝 太田秀敬 青梅堂 1881
史記列伝講義 太田才次郎 開新堂 1893
史記国字解 8冊 桂五十郎 早稲田大学出版部 1919~1920
史記読本 田中慶太郎校訂 文求堂 1930
史記会注考証 10冊 瀧川亀太郎 東方文化学院研究所 1932-34
司馬遷の見たる古代支那の人文地理に就いて 藤田元春 地球16-2、3  1931
史記の孔子伝大要 岡崎文夫 史林17-3  1932
司馬遷と班固 岡崎文夫 史林17-3  1932
史記新講 新撰漢文叢書 梁田忠山 三省堂 1933
史記・書・世家 国訳漢文大成・経子史部14  国民文庫刊行会 1935
新撰史記鈔詳解 沢田総清・滝沢良芳編 健文社 1936
史記著作考 支那学翻訳叢書5 シャヴァンヌ著 岩村忍訳 文求堂書店 1939
史記及注釈綜合引得 北平・哈仏燕京学社 1947
史記物語 世界名作全集 増田渉 講談社 1956
史記会注考証校補 全15冊 水沢利忠著 史記会注考証校補刊行会 1955~1960
史記研究資料索引和論文専著提要 楊燕起・兪樟華編 蘭州大学出版社 1989
史記研究的資料和論文索引 中国科学院歴史研究所 科学出版社 1957
史記 上 中国古典文学全集 野口定男、頼惟勤、近藤光男、吉田光邦訳注 平凡社 1958
史記 中・下 中国古典文学全集 野口定男ほか 平凡社 1959
史記故事精選連環画 全4冊 冀汝枢等編絵 二世一世 1990
史記三家注引書索引 段書安 中華書局 1982
史記参考書目 二十五史史記後附録 開明書店 1935
史記書録 賀次君 商務印書館 1958
史記 楚漢篇 中国古典選 田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1958
史記 世界文学大系 小竹文夫・小竹武夫 筑摩書房 1962
史記 中公新書 貝塚茂樹 中央公論社 1963
史記人名索引 呉樹平 中華書局 1982
史記人名索引 鐘華 中華書局 1977
史記 司馬遷の世界 講談社現代新書 加地伸行 講談社 1978
史記新論 白寿彜 北京・新華書店 1981
史記菁華録 楊姚荢田輯 王興康等標点 上海古籍出版社 1988
史記地名考 銭穆 
史記桃源抄の研究 全5巻 亀井孝・水沢利忠 日本学術振興会 1965~1969
史記桃源抄の研究 本文篇3 日本学術振興会 1970
史記・十八史略演習 吹野安編 笠間書院 1970
史記・十八史略新釈 吹野安編 笠間書院 1970
史記百三十篇篇目的研究 劉偉民 香港聯合書院学報第10期 1972
史記・十八史略 明解古典学習シリーズ 三省堂 1973
史記研究之資料与論文索引 王民信編 台湾学海出版会 1976
史記選 項羽本紀 漢文講読課本6 朋友書店 1979
史記世家 上岩波文庫 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳 岩波書店 1980
史記世家 中岩波文庫 岩波書店 1982
史記水滸伝唐代伝奇 朝日文庫 陳舜臣 朝日新聞社 1983
史記選注賄匯評 韓兆琦編注 中州古籍 1990
史記世家 下岩波文庫 岩波書店 1991
史記雕題 上 懐徳堂文庫復刻刊行会監 吉川弘文館 1991
史記探源 二十四史研究資料叢刊 崔適 北京・中華書局 1986
史記点描 人間の生きざまをつづった四十二話 山崎正 公人社 1987
史記・本紀1 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1988
史記・本紀2 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1988
史記・世家上 新釈漢文大系 吉田賢抗  明治書院 1988
「史記」小事典 久米旺生・竹内良雄・丹羽隼兵 徳間書店 1988

「史才と文章上より見たる司馬遷」 日下寛 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の性行と史記の文章」 児島献吉郎 東亜研究2-5  1912
「史記と外交」 武藤長年 東亜研究2-5  1912
「司馬遷年表並に其孝道」 中山久四郎 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の経学」 狩野直喜 哲学研究3-7  1918
「司馬遷の自由放任説」 小島祐馬 政治経済学論叢1-1   1919
「公羊家の観たる史記」 小島祐馬 支那学1-1  1921
「司馬遷の歴史観に就いて」 本田成之 支那学2-8,9  1922
「史記ノ漢高本紀ニ就テ」 稲葉岩吉 東亜経済研究8-2  1924
「司馬遷の生年に関する一新説」 桑原隲蔵 史学研究(東京)1-1  1929
「史記貨殖列伝論稿」 穂積文雄 東亜同文書院論文集 1930
「司馬遷の人文地理学」 藤田元春 立命館大学1-12  1934
「史記と春秋学」 岡崎文夫 文化1-9  1934
司馬遷 東洋思想叢書 武田泰淳 日本評論社 1943
司馬遷 教養文庫 岡崎文夫 弘文堂書店 1947
司馬遷之人格与風格 李長之 上海開明書店 1948
司馬遷 史記の世界 創元文庫 武田泰淳 創元社 1952
司馬遷著作及其研究資料書目 上海市歴史文献図書館 1955
司馬遷 李鎮淮  上海人民出版社 1955
司馬遷年譜 鄭鶴声編 商務印書館 1956
司馬遷 岡崎文夫 弘文堂 1958
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 文芸春秋社 1959
司馬遷 記録者の意義と生涯 小倉芳彦(世界の歴史3) 筑摩書房 1960
司馬遷所見考 金徳建 上海人民出版社 1963
司馬遷 筑摩叢書 バートン・ワトソン著 今鷹真訳 筑摩書房 1965
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 講談社 1965
司馬遷 史記列伝 世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1968
司馬遷 史記の成立 人と歴史シリーズ 大島利一 清水書院 1972
司馬遷 史記の世界 講談社文庫 武田泰淳 講談社 1972
史記3 支配の力学 丸山松幸・和田武司訳 徳間書店 1972
世界をとらえた生涯 司馬遷 市川宏 人物中国志3 1975
司馬遷 中公バックス世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1978
司馬遷 諷刺と称揚の精神 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1980
司馬遷 起死回生を期す 中国の人と思想6 林田慎之助 集英社 1984
司馬遷評伝 肖黎著 吉林文史出版社 1986
司馬遷的創作意識與写作技巧 范文芳 文史哲出版社 1987
司馬遷和史記 劉乃和主編 北京出版社 1987
司馬遷與其史学 周虎林 文史哲出版社 1987
史記世家中 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1988
史記世家下 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1988
司馬遷 徳間文庫 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1988
史記 呉越燃ゆ 久松文雄 講談社 1989

2018年7月16日 (月)

インノケンティウス3世

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2018年7月15日 (日)

三国志及び諸葛孔明関係文献目録

1173299906  「三国志」の物語は中国、台湾、韓国、そして日本でもなじみが深い。芳根京子主演のドラマ「海月姫」に登場する天水館の住人まやや(内田理央)は三国志オタク。三国志にまつわる故事成語はたくさんある。三顧の礼、水魚の交わり、苦肉の策、白眉、脾肉の嘆、老いてますます盛ん、泣いて馬謖を斬る、破竹の勢い、死せる孔明生ける仲達を走らす、臥竜・鳳雛、などはよく知られている。だが「若きは水滸を読まず、老いは三国を読まず」ということわざは中国人ならだれでも知っているが、日本人にはほとんど知られていないだろう。これは、青年期は血の気が激しいから、水滸伝を読んだら、謀反に走り、年輩の者は世渡りの経験に富んでいるから、三国志を読んだら、非常に狡猾で奸智にたけた者になる、という意味だそうだ。しかし、今のアジア各地ではそのようなことを真に受ける者はいない。日本でも小説、劇画、ゲームと何度も三国志ブームが繰り替えされている。映画「レッドクリフ」で新しい三国志ファンが生れた。

明鏡は形を照す所以古事は今を知る所以   曇りのない鏡は形を照らすから姿を見るのによく、歴史上の事実は現在のことを判断するためのよい参考になるということ。

白眼視 司馬政権に批判的だった阮籍は、司馬氏が唱える孝を強調した礼法に反発して、むやみに礼を尊ぶ礼法主義者に会うと白目をむいて素っ気なく応対した。この阮籍の態度から人を冷たい目で見ること、冷淡に扱うことを白眼視するというようになった。

月旦評 許劭は月の初めに自宅に多くの人を集めて人物批評会を開いていた。曹操が許劭に「太平の世なら有能な官僚だが、乱世だったせ姦雄となる」と言われたのは有名な話。後世、人物批評、品定めを月旦評というようになった。

    なお、「三国志」から生まれた故事俚諺としては、この他にも「白波」、「髀肉の嘆」、「鶏肋」、「危急存亡の秋」、「読書百遍義自ら見わる」、「呉下の阿蒙」「士、別れて三日、刮目してあい待す」などがある。

三国志及び諸葛孔明関係文献
支那史研究 諸葛亮伝 市村瓚次郎 春秋社 1939
三国演義 倉石武四郎 光風館 1944
孔明の出盧についての異説 狩野直禎 学芸5-1  1948
諸葛亮 馬植杰 上海人民出版社 1957
三国志演義 上 中国古典文学全集8 立間祥介訳 平凡社 1958
三国志演義 下 中国古典文学全集9 立間祥介訳 平凡社 1959
三国志実録 吉川幸次郎 筑摩書房 1962
諸葛孔明 中国人物叢書 狩野直禎 人物往来社 1966
西晋時代の諸葛孔明観 狩野直禎 東林59-1 1966
三国志 英雄ここにあり 柴田錬三郎 講談社 1968
三国志 村上知行訳 河出書房 1968
三国志 中国古典新書 宮川尚志訳 明徳出版社 1970
三国志の世界 人と歴史シリーズ 狩野直禎 清水書院 1971
三国志 和刻本正史 長沢規矩也解題 古典研究会 1972
三国志ⅠⅡⅢ 今鷹真、小南一郎、井波律子共訳 筑摩書房 1977-1989
諸葛孔明 宮川尚志 桃源社 1978
三国志語彙集 藤井守編 広島大学中国中世大学研究会 1980
乱世の奸雄 別冊コミックトム三国志3 横山光輝 潮出版社 1980
後漢・三国時代 中国の歴史5 陳舜臣 平凡社 1981
三国志の人物学 守屋洋 PHP研究所 1981
三国志の世界(人物中国の歴史6) 駒田信二編 集英社 1981
三国志銘々伝 渡辺精一 光村図書出版 1984
城野宏の戦略三国志  城野宏著 西順一郎編 ソーテック社 1984
三国志・座右の銘 松本一男 三笠書房 1986
三国志曹操伝 中村愿   新人物往来社 1986
諸葛亮治蜀 祖国的四川双書 譚良囀嘨 四川人民出版社 1986
名言で読む三国志 村山孚 新人物往来社  1986
三国志の統率学 松本一男 三笠書房 1986
ザ・三国志 村上知行訳 第三書館 1987
「三国志」史話 林亮 立風書房 1987
三国志世界を行く 雑喉潤 徳間書店 1987
三国志展 図録 中国画報特集号 日本三国志展実行委員会 1987
三国志と人間学 安岡正篤 福村出版 1987
三国志の世界 加地伸行編 新人物往来社 1987
現代に生かす諸葛孔明の知略と戦略 三神良三 大陸書房 1989
乱世の英雄たち 三国志1 竹崎有斐 あかね書房 1989
三国志人物事典 渡辺精一 講談社 1989
三国志 全5巻 羅漢中著 大櫛克之作 素人社 1990
三国志縦横談 丘振声著 村山孚編訳 新人物往来社 1990
諸葛孔明 立間祥介 岩波書店 1990
三国時代の戦乱 狩野直禎 新人物往来社 1991
三国志の英雄たち 別冊歴史読本中国史シリーズ1 新人物往来社 1991
三国志人物絵巻 劉生展・画 殷占堂編 MPC 1991
三国時代の戦乱 狩野直禎 新人物往来社 1991
反三国志 周大荒 講談社 1991
三国志英傑タイムス 歴史おもしろタイムス1 シブサワ・コウ編 光栄 1992
三国志孔明タイムス 歴史おもしろタイムス2 シブサワ・コウ編 光栄 1992
三国志演義 井波律子 岩波書店 1994
三国志新聞 日本文芸社 1996
三国志武将画伝 立間祥介監修 小学館 1996
真三国志1 歴史群像中国戦史シリーズ 学研 1998
大三国志 改訂新版 世界文化社 2005
三国志 カラー版徹底図解 榎本秋 新星出版社 2009

2018年7月14日 (土)

人は右、車は左になった理由

  日本のように交通機関のサービスが行き届いている国は少ないそうです。例えば、タクシーに自動ドアやメーターが完備していることや、親切な鉄道アナウンスなど・・・。NHK「チコちゃんに叱られる!」♯14。どうして日本は左側通行なの?それは「殺し合いになるなら」 車の通行はアメリカは右側通行、イギリスは日本と同じく左側通行と、各国様々です。日本では車は左側通行することが法律で定められたのは1949年に施行された道路交通法によるものですが、車社会以前の明治、江戸時代から左側通行で秩序が保たれていた。武士は刀を左腰に差すため、左側通行だと鞘がぶつからないためという説があります。つまりイギリス、インド、オーストラリア等は日本と同じ「車は左側通行」ですが、日本がイギリスに倣ったわけではない。現在、アメリカ、フランスはじめ世界の多くの国は右側通行の制度を採用しています。19世紀のフランスは馬車の時代であり、四頭立ての馬車の場合、馭者は先頭の二匹の馬のうち左側の馬に乗って制御していた。このため道路の右側を走行する方が馭者にとっては安全だったのだ。英国では馭者は馬上ではなく、中央に位置する馭者台に座って馬車を制御していた。利き腕の右手で右側の馬を制御するのが容易なので、左側通行が主流になった。アメリカが右側通行になったのは、英国と長期に反目していたことによるといわれていますが、他に右腰に拳銃を下げていたため右側通行になつたという説もあります。

2018年7月 2日 (月)

レマゲン鉄橋

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   昔から命懸けで橋を架けた話は沢山ある。しかし橋を落すために命を賭けたとなるとあまり例を聞かない。ボンのやや上流のライン河に架かるレマゲンとエルペルとを結ぶルーデンドルフ鉄道橋で、片や橋を落すために(ドイツ軍)、片や落とさせないために(連合軍)、敵味方が死力を尽くして戦った。1945年3月、第二次世界大戦末期のことである。結局、連合軍が勝利し、橋は爆破されずに残った。レマゲン鉄橋がラインを渡る唯一破壊されずに残っていた橋だった。だが戦いの10日後には橋は崩壊し、現在も再建されずに橋桁だけが残る。

   映画「レマゲン鉄橋」(ジョン・ギラーミン監督)はレマゲン鉄橋をめぐる死闘を描いている。最後の橋レマゲンをめざしてバーンズ少佐(ブラッドフォード・ディルマン)指揮の連合軍はライン左岸に進んだ。その小隊のハートマン中尉(ジョージ・シーガル)、エンジェル軍曹(ベン・ギャザラ)らは橋から爆薬を除去し、橋を突破する作戦を命ぜられる。一方、クルーガー少佐(ロバート・ヴォーン)は橋の爆破を命じる。レマゲンを見下ろす丘で両軍の激しい攻防戦が繰り広げられる。地味なキャスティングではあるが、テーマが明確であり、戦闘シーンの臨場感がある。(Ludendorff Bruecke,Remagen)

2018年6月25日 (月)

自然環境の変化と世界史

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    ギルバート・ホワイト(1720-1793)の「セルボーンの博物誌」は古典的名著である。セルボーンという場所はイギリスのハンプシャー州の寒村。1789年、フランス革命と同じ年に刊行されている。「1783年の夏は、驚くべき異常な夏で、恐ろしい現象があいついで起こった」とある。この恐ろしい現象は実は日本とも深く関係している。浅間山は1783年5月9日から8月5日にかけて活動が活発化し、6月25日には大噴火が起こった。この時の噴煙は成層圏にまで達し、その後数年にわたって、そこに滞留したため、世界的な気候の寒冷化をもたらした。気温の低下は平均で、セ氏1.5度に達したと推定される。浅間山の噴火によって日本では天明の大飢饉が全国に及ぶ。津軽藩では、1783年9月から翌年6月までの餓死者は、男女合計81702人といわれる。菅江真澄は旅日記「楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)」の天明五年八月の項に、草むらに山と積まれた餓死者の白骨を目にし、飢饉の惨状を記録している。浅間山大噴火の影響は海外にも及んだ。噴火の直後から小麦の不作がフランスを襲った。小麦価格の高騰がみられるような社会不安がフランス革命の動因となったと考えられる。気候変動が世界史を動かすことがある。

2018年6月22日 (金)

20世紀とはどんな時代だったのか

 将来の世界がどう推移するか、を予想する前に20世紀がどんな世紀であったかをとらえることが必要である。1999年の末ころ読売新聞社の企画で20世紀がどんな時代だったのかをテーマにして6人の識者が240人の人物を選んだ。「芸術と大衆文化(俵万智選)」「政治(中曽根康弘選)」「人文・社会科学(山内昌之選)」「自然科学(江崎玲於奈選)」「ビジネス(平岩外四選)」「スポーツと英雄(岡野俊一郎選)」。歌人の俵万智が選んだ「芸術と大衆文化」がやや個人的嗜好が強い。というよりも俵万智の選者としての感性がわからない。「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクだが、魯迅やトーマス・マン、サマーセット・モーム、D・H・ロレンス、ジェームズ・ジョイス、ギュンター・グラスら偉大な作家を選外とするのは酷い。ボブ・ディランも20世紀の詩人といえる。クラシック界ではフルトベングラーやカラヤンを選外にしてレナード・バーンスタインを評価したのも何か意図があるのだろうか。文学では寺山修司を入れて、川端康成、永井荷風、芥川龍之介、太宰治を選外としたのは不可解。美術界ではモディリアニ、ユトリロ、藤田嗣治などエコール・ド・パリの画家たちは無視か。バルテュスという巨匠もいる。映画界も選出法はバラツキがある。女優マリリン・モンローを評価しているが、代表作や俳優としての実績としては今一つしっくりこない。映画女優であればグレタ・ガルボかディートリッヒが妥当。舞台を含む演劇俳優であればローレンス・オリヴィエが妥当ではないか。音楽界は分野において主役が生まれる。クラシック音楽ではショスタコーヴィチが選外なのも不可解。オペラ歌手ではルチアーナ・パバロッティ、マリア・カラス、ポピュラー音楽ではフランク・シナトラやジュディー・ガーランド、フレッド・アステアなどの人気のエンターテイナーは外せない。20世紀の音楽はジャズの時代でもあるが、デューク・エリントン、ルイ・アームストロング、チャーリー・パーカーも選びたい。「キング・オブ・ポップス」のマイケル・ジャクソンは20世紀が活躍期だった。建築関係ではフランク・ロイド・ライトが世界的な影響を与え著名である。

そもそも主役という概念があいまいで「20世紀の有名人」とすべきだった。欠点として史観が欧米偏重でロシア・中国に無関心。20世紀でもかなり後半に重点がおかれ、若者目線に終始している。20世紀の特徴として、地球全体の大衆社会化したことがあげられるが、大衆が主役である時代にわずか十数人をあげることは無意味な作である。

俵万智が選んだ「20世紀の主役」40人  
文学関係…カフカ、サンテグジュペリ、タゴール、チェーホフ、マルグリット・グラス、寺山修司、アンネ・フランク、マルセル・プルースト、サミュエル・ベケット、ヘミングウェー、ジャン・コクトー、三島由紀夫、谷崎潤一郎(落選…ジェームズ・ジョイス、トーマス・マン、ロレンス、ソルジェニーツィン、アルベルト・モラヴィア、ガルシア・マルケス、老舎、趙樹理、芥川龍之介、川端康成、太宰治、林芙美子など。エンタテインメント系ではミステリー作家のアガサ・クリスティ)

美術関係・・・アンディ・ウォホール、クリスト、ジャスパー・ジョーンズ、ピカソ、ブランクーシ、ポロック、マティス、ミロ、モンドリアン(落選…ダリ、シャガール、ムンク、ルオー、マリー・ローランサン、モディリアニ、ユトリロ、カンディンスキー、横山大観など)

音楽関係…エリック・サティ、ストラビンスキー、武満徹、レナード・バーンスタイン、エディット・ピアフ、ビートルズ、アンドリュー・ロイド・ウェーバー(落選…フルトヴェングラー、カラヤン、ショスタコーヴィチ、マリア・カラス、パバロッティ、エンリコ・カルーソー、モーリス・シュヴァリエ、シナトラ、エルヴィス、マイケル・ジャクソンなど)

映画関係…エイゼンシュテイン、黒沢明、スピルバーグ、ウォルト・ディズニー、フェリーニ、マリリン・モンロー(ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴエ、ルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリッヒ、ローレンス・オリヴィエ、アルフレッド・ヒッチコック、音楽のニーノ・ロータなど)

その他…ロバート・キャパ、ココ・シャネル、イサム・ノグチ、ル・コルビュジェ(建築関係ではフランク・ロイド・ライト、京劇の梅蘭芳など)

ナポレオンのロシア遠征

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 背広の袖にボタンが付いている。実はナポレオンの考案らしい。ロシア遠征の時、フランス兵たちが寒さのあまり鼻水を袖で拭うの見かねて、外套の袖口にボタンを付けさせてそれを防止したのが始まりといわれている。

    ヨーロッパ統一をめざすナポレオン(1769-1821)は、1812年6月22日、47万の大軍を率いて、コヴノ付近の4つの橋で、ニーメン(ネマン)川を渡り、ロシア領内になだれこんだ。ここに同年12月までの約半年、ロシアにおいて戦争が始まった。ナポレオン軍は9月14日にはモスクワを占領したが、ロシアのクトゥーゾフ(1745-1813)の焦土作戦により兵糧米が不足し、厳寒のなかでの撤退を余儀なくされ、ヴィヤシマ、スモレンスクの戦いは壊滅的な敗北を喫した。6月に47万人の兵士がニーメン川に架かる橋を渡ったが、12月にこの橋を渡った者はわずか5000人だった。ニーメン川はベラルーシに源を発して、リトアニアとロシア連邦カリーニングラード州を流れ、バルト海の一部であるカルシュ海に注いでいる。

ナポレオン軍の兵力消耗状況
6月 ニーメン川渡河   47.5万
7月 ヴィテブスク     37.5万
8月 スモレンスク     15.5万
9月 ボロディノ       13万
9.14  モスクワ入城     11万
10.19 モスクワ退却    10万
11.9   ヴィヤシマ      5万
11.9   スモレンスク      3.7万
11.28 ベレジナ       3万
12.10 ニーメン川渡河   0.5万

 Napoleon,Kutuzov

2018年6月20日 (水)

カタラウヌムの戦い

Battle_of_the_catalaunian_plains
 カタラウヌムの戦い

    パリ東方シャンパーニュ地方のカタラウヌム(またはカンプス・マウリアクス)。ここで451年6月20日、東西の雌雄を決する大戦が行われた。西ローマのアエティウスを総大将とする西ヨーロッパ連合軍とフン族のアッティラ(406?-453)の率いる大軍が激突。凄惨な戦いは一日中続き、ローマ側主力軍の西ゴートのテオドリックが戦死したが、軍配はかろうじて西ヨーロッパ連合軍にあがった。敗れたアッティラは、452年、ヴェネツィアを荒らし、ミラノを占拠する。だがアッティラの陣営に疫病と飢餓が発生する。教皇レオ1世はアッティラと交渉し、フン族は莫大な貢納の約束とひきかえに、イタリアから撤退することになった。(Attila)

2018年6月17日 (日)

世界遺産タージ・マハル

Lrg_10669522  インド北部のアグラにある「世界で最も美しい建築」といわれるタージ・マハルはムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666)が愛妃ムムターズ・マハル(1595-1631)の死を悲しんで建てた廟墓である。建築者ウスタッド・アーマド・ラホーリはインド・イスラーム建築に大きな業績を残した。ムムターズがまだ皇太子だったシャー・ジャハーンと結婚したのは1612年、ムムターズ18歳の時だった。彼女はもちろん初婚だったが、シャー・ジャハーンには2年前に結婚した妃がおり彼女とのあいだに娘が1人いた。美貌の皇妃として知られたムムターズは、夫に深く寵愛され、男子8人、女子6人という子沢山であった。そして20年近く、ムガール朝の大奥で権勢をほしいままにした。1631年6月17日、王がデカン遠征中、36歳で産褥死した。王はその死を悲しみ、彼女の廟の建設を翌年から着工し、21年の歳月をかけて1653年タージ・マハルが完成した。タージ・マハル Taj Mahal とは「マハル妃の王冠」の意味。王妃の墓は、このドームの真下の地下にある。(世界史)

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