無料ブログはココログ

2022年1月18日 (火)

リチャード3世の遺骨発見

    英レスター大学の考古学チームは、レスター市の中心部にある駐車場からリチャード3世(1452-1485)の遺骨を発見したと発表した。リチャード3世は薔薇戦争のボズワースの戦いで敗死し、馬に乗せられレスターで曝されたとされる。極悪非道で知られ、兄エドワード4世と幼な子エドワード5世をロンドン塔に幽閉した。リチャード3世死後3年後、ランカスター家のイングランド王ヘンリー7世がヨーク家のエリザベスと結婚し、薔薇戦争は終結した。(RichardⅢ,Bosworth) 1月18日

2022年1月17日 (月)

アヴィニョン捕囚

   ローマ教皇は約70年以上にわたりアヴィニョンに幽閉されていたが、1377年のこの日、教皇はローマ帰った。フランスでは、カペー朝(987-1328)において典型的な封建社会が成立した。ルイ9世(在位1180-1223)は、法による平和を基調とした安定した政治により、パリが中世末期の中心的地位を占めるようになった。ローマはアナーニ事件、アヴィニョン遷座でその中心的地位が低下していく。

   フランスの王権をさらに強めたのが、フィリップ4世(在位1285-1314)である。彼は相次ぐ戦争による莫大な出資に対処するため、テンプル騎士団を解散させ、所領・財産を没収した。また、聖職者への課税を強行したことから、教皇ボニファティウス8世(在位1294-1303)との衝突が生じた。1302年、彼はパリに聖職者・貴族・市民の代表からなる全国三部会を創設して教皇に対抗した。そして1303年9月7日、国王のレジスト、ギヨーム・ド・ノガレ(1260-1313)はイタリアに赴き、教皇反対派のシアラ・コロンナと相呼応して、教皇をローマ郊外のアナーニに襲って捕えた。教皇はその後まもなく釈放されローマに帰還したが、まもなく憤死した。(アナーニ事件) ノガレはコロンナの行動が過激であったため民衆の反感を買い失敗、フランスに帰国。その後、教皇クレメンス5世(在位1305-1314)は政情不安なローマを嫌い、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに遷居した。以後グレゴリウス11世まで7代約70年間にわたり、教皇はフランス王の監視下におかれる状態であった。これを「教皇のアヴィニョン捕囚」(1309-1377)という。グレゴリウス11世は1377年1月17日にローマに帰ったが、その翌年同教皇が死んでからローマとアヴィニョンに2人の教皇が分立しシスマ(教会大分裂、1378-1417)が起こり、教皇の権威は失墜した。

 

 

2022年1月10日 (月)

賽は投げられた

Caesarcrossesrubicon   古代ローマの武将・政治家ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前49年1月10日、手兵を率いて、ルビコン川のほとりに着いた。この小川はカエサルが軍事指揮権を持つガリア・キサルピナとポンペイウスの支配下のイタリア本国との境界になっており、軍隊を率いてこの川を越えると、国法にそむくことになる。カエサルはしばらく向こう岸をにらんでためらっていたが、ついに決心して進軍ラッパを吹かせた。

   「賽は投げられたり」とギリシアの喜劇作家メナンドロスのせりふをさけびながらカエサルがルビコンの流れに馬をのり入れると、全軍も彼に従って、ポンペイウスを討とうと一斉に川を渡った。

   ところでアドリア海に注ぐ世界史で最も有名なルビコン川が現在、どの川であるのか、実のところあまりはっきりしない。たくさんの川の中から、どうやらウソ川がそれだというが、嘘のようなホントの話である。(Caesar,Rubicon) 

2022年1月 4日 (火)

チンボラソ山

Img_0010

 

  高さだけが山の魅力の尺度ではない。南米エクアドルにチンボラソ山(標高6267m)がある。もちろん世界最高峰はエベレスト(標高8848m)だが、18世紀まではチンボラソが世界一高い山と考えられていた。アレキサンダ・フォン・フンボルト(1769-1859)とエメ・ボンプラン(1773-1858)の2人は1799年から1804年にかけて南米へ学術探検をおこなった。オリノコ川の探検を終えて、チンボラソを登った。2人は頂上から450mのところまでは行ったが、割れ目があって渡れず、そこから引きかえした。しかし、5875m地点まで登ったというのは、当時の最高記録だった。その後も長い間、登山家たちを寄せつけなかった。初登頂は1880年1月4日、スイス・アルプスのマッターホルンの初登頂者として有名なイギリスの登山家エドワード・ウィンパー(1840-1911)である。(Chimborazo,Ecuador)

2021年12月28日 (火)

ウェストミンスター大聖堂

Photo_2
身廊の高さが34mもあり、イギリス国内の聖堂では最も高い

 

  ウェストミンスター・アベィは、アベィ(Abbey)とあるように本来、7世紀にさかのぼる古い教会のあとに建てたベネディクト会の修道院で1065年12月28日竣工した。現在の姿の基礎をおいたのは、ヘンリー3世(1207-1272)の時代で、1245年にゴシック様式の聖堂として改築させた。ヘンリー8世(1491-1547)の宗教改革の際に、イングランド中の修道院が廃止され、この修道院は大聖堂となった。ゆえに現在の正式の名称はアベィではなくて、「ウェストミンスターの聖ペテロ教会」という。中世紀以後歴代の国王や皇后はここに葬られ、征服王ウィリアム以来戴冠式もここで行われるしきたりとなった。代表的なイギリス人もここに葬られることを名誉としてきたが、とくに南の翼廊は「詩人の隅」と呼ばれて文学者の記念にあてられている。次の人たちが葬られている。

 

ジェフリー・チョーサー(1340年ごろ~1400年)中世イギリス最大の詩人で、近代英詩の創始者。

 

エドマンド・スペンサー(1552-1599)イギリス・ルネサンスを代表する偉大な詩人。代表作は「妖精の女王」(1609)

 

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)エリザベス朝のみならず、イギリスを代表する最大の劇作家であることは周知の通りである。彼はまた十四行詩の詩人としてもすぐれ、「ソネット集」(1609)は作者の深い人間理解を示す傑作である。

 

ベン・ジョンソン(1572-1637)シェイクスピアと並ぶエリザベス朝演劇を代表する劇作家であり、とくに喜劇において独自の境地を開く。彼の抒情詩はとくに古典的な典雅さにみちている。

 

ジョン・ミルトン(1608-1674)若い頃から宗教詩人として大成を志したが、清教徒革命に際してはクロムウェルの共和政府の秘書官となり、過労のため失明した。

 

エイブラハム・カウリー(1618-1667)詩人。牧歌劇「恋のなぞ」「保護者」内乱のためケンブリッジを追われ、一時パリへ亡命する。

 

ジョン・ドライデン(1631-1700)詩人。ケンブリッジ大学で学び、最初は清教徒の立場から詩作。その後、王党派に転じ、1668年、桂冠詩人となる。代表作「アブサロムとアキトフェル」

 

サミュエル・ジョンソン(1709-1784)一般にドクター・ジョンソン(ジョンソン博士)と呼ばれる。英語における最初の学問的辞書といわれる英語辞典(A Dictionary  of the English Language 1755年)を刊行した。

 

アルフレッド・テニソン(1809-1892)ヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、その繊細で美しい抒情性は特筆に値する。

 

チャールズ・ダーウィン(1809-1882)科学者で、進化論を確立した。代表作は「種の起源」(1859)

 

ロバート・ブラウニング(1812-1889)テニソンとともにヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、劇的独白(dramatic monologue)というテクニクを駆使して人間の魂の微妙な動きを描いた。

 

チャールズ・ディケンズ(1812-1870)サッカレーとともにヴィクトリア朝を代表する作家である。正規な学校教育は受けていない。ある新聞の通信記者となったたことが切っ掛けとなり、独自の才筆が生まれた。

 

トマス・ハーディ(1840-1928)若い頃建築家を志したが、のち詩や小説の創作に専心した。「ダーバヴィル家のテス」等の傑作によって小説家という名声を博したが、むしろ彼の抒情詩のほうに、彼の人間性そのもの、また人生観が鮮明に示されている。

 

ラドヤード・キップリング(1865-1936)兵士や水夫の生活を歌ったキップリングの詩作は、当時きわめて人気があり、「兵営の歌」はバイロンをしのぐといわれた。ノーベル賞受賞。代表作「ジャングル・ブック」

 

ジョン・メイスフィールド(1878-1967)海洋にあこがれ船員となって、アメリカに渡って放浪したのち詩作を始め、「海水のバラード」Salt-Water Balladsなどすぐれた詩を書き桂冠詩人となった。

 

ウェストミンスター宮殿はヘンリ8世がロンドン市内のホワイトホールに王宮を移すまでの国王の主な住居で、1547年の寄進礼拝堂解散法により、国会議事堂として使用されるようになった。1834年の大火で大部分が焼失してしまったものの、1860年にゴシック・リバイバル様式で再建された。宮殿の北側にはロンドンのシンボルともいえる96mの時計台、愛称「ビッグ・ベン」がそびえている。

 

(Westminster Abbey,Big Ben)

呉越同舟、臥薪嘗胆

Goujian33518  「呉越同舟」仲の悪い者どうしが同じ場所に居合わせること。また、敵味方が共通の困難や利害に対して協力すること。呉と越とはともに中国春秋時代の国名。春秋時代の末期、呉と越の両国が仇敵視しあい、長年にわたり戦いを繰り返した。

   伍子胥は楚の人で、父の伍奢は楚の平王の太子の守り役をしていた。平王は費無忌を秦へつかわして太子のために妃を迎えさせたところが、秦の女性がたいそう美しかったので、費無忌は王にすすめて王の夫人にしてしまい、はては太子を追い出し、伍奢と伍子胥の兄の伍尚を殺した。伍子胥は太子とともに宋に出奔した。宋へ行く道で伍子胥は親友の申包胥と出会った。伍子胥は「父母の讐はともに天を戴かず、地を履まず、兄弟の讐はともに域を同じくせず、壌を接せずという。自分はきっと楚に報復してやる」と誓った。申包胥は「君のためをはかれば国のためにならず、国のためにすれば親友を捨てねばならぬ。よかろう、君は楚を滅ぼすのに努力しろ、自分は楚を安泰にすることに努力するから」と答えた。その後、彼は各地を渡り歩き、ついに呉王闔廬に仕えた。呉王は、伍子胥・孫武らを率いてしばしば楚に侵攻し、9年が過ぎた。その間、楚では平王が死に、平王の子の昭王が即位した。やがて呉が強大となり、楚を攻めて大いにこれを破り、楚の都郢(えい)に侵入した。伍子胥は積年の大怨を晴らすべく昭王を捕らえようとしたが、すでに逃げ出しており捕らえることができなかった。そこで平王の墓を暴き、平王の屍を引き出して、300回鞭で打ちつけて仇を報いた。

   それから4年後、呉王闔廬は、越王句践と戦って破れ、そのときうけた傷が悪化して死去。その子の夫差が後を継ぐ。伍子胥はひきつづき夫差に仕えて越の動きに備えた。そして2年後、越を撃ち破って句践を降伏せしめた。このとき伍子胥は「句践を殺して禍根を絶て」と進言するが、夫差は耳をかさずに講和する。

    調子に乗った夫差は、しきりに北方の斉・魯に軍を進めて勢力の拡大をはかる。そのたびに伍子胥は、警戒すべきは越王句践の動向であることを力説し、北方への遠征を見合わせるよう進言するが、夫差はいっこうに聞き入れない。こうして、戦略方針のくいちがいをめぐって、夫差と伍子胥の仲は急速に悪化していく。そこへもってきて「伍子胥が二心を抱いている」と、伯嚭が夫差に吹き込んむ。それを真に受けた夫差は、伍子胥に属鏤の剣を与えた。これで死ね、という意味である。伍子胥は天を仰いで嘆息し、「わしの目玉をえぐり出して城門にかけておけ。この目玉で呉の滅びるのを見てやる。そしてわしの墓には檟の木を植えよ。その木が生長して棺材になるころには呉は滅びて暗君夫差の棺になるであろう」と言い残して、みずから首をはねて命を絶った。十数年ののち、夫差は越王句践に敗れて自殺した。句践はさらに軍を北に進めて、斉・晋の諸侯と徐州に会し、呉に代わって天下の覇者となった。「臥薪嘗胆」というのは、この呉王夫差と越王句践との復讐戦にもとづいた故事である。(参考:大庭脩「臥薪嘗胆」世界歴史シリーズ3 世界文化社)

2021年12月26日 (日)

トルコ

   米マイクロソフトによると、中国・北朝鮮・イラン・トルコが国家の支援を受けたハッカー集団がJavaのLog4jの脆弱性を狙って悪用を図っていると警告している。三国はわかるとしてもトルコが入っていることに注目したい。トルコは歴史的に微妙な立ち位置にいる。トルコ民族は6世紀中頃、アルタイ山脈を本拠とする突厥という遊牧民族であった。その後、発展し西方に移動し、小アジアでオスマン朝をおこした。やがて1453年にコンスタンティノープルを陥落させ、オスマン帝国が20世紀初頭まで存続した。第一次世界大戦では同盟国側に属して敗戦国となった。1923年、トルコ共和国の成立が宣言され、ケマル・パシャが大統領となる。1941年、ドイツとの間に友好条約が締結される。第二次世界大戦に際しては、最初は中立政策を採用する。大戦の末期に対日・独宣戦を行う。トルコは大戦中、主戦場となることなく、空爆など大きな被害を回避できた国である。ドイツとロシアとに挟まれた地理的位置であることを考えると、イスメト・イノニュの政治的判断が正しかったといえる。

2021年12月25日 (土)

シャルルマーニュ(カール大帝)

Charlemagneliege1

  カール大帝は西暦800年12月25日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でローマ皇帝とし教皇レオ3世から戴冠した。カール大帝の逸話を集める。ピピンの子。フランク王(768~814)・西ローマ帝国皇帝(800~814)。仏名はシャルルマーニュ、英名はチャールズ、独名はカール、西名はカルロス。 

    シャルルマーニュは西ヨーロッパの大部分をひとまとめにして、かつての西ローマ帝国が復活したかのような大帝国・フランク王国をつくりあげたので、彼の偉大さはヨーロッパ人の心の中に、いつまでも残った。そして彼の死後、詩人たちは『シャルルマーニュの歌物語』を書いた。その中でも、大帝の第1回スペイン遠征の際に戦士した勇士ローランを歌った「ローランの歌」はとくに有名だ。歌物語では、シャルルマーニュが200歳を超え、髪もひげも雪のように真っ白な姿で登場し、キリスト教徒を守るためにサラセン人と雄々しく戦っている。もちろん、現実のシャルルマーニュは、そんな高齢まで生きたわけではなく、72歳で死んでいる。しかし中世の君主としては、彼はかなり長生きだった。このように長寿を保つために、彼は独特の健康法を実践していたという。そのひとつがスポーツで、乗馬と狩猟も好きだったが、とくに水泳が大好きで、彼のアーヒェンの宮廷には大温泉プールがつくられていた。彼は宮廷の人びとを引き連れて水泳を楽しみ、ときには100人もの人がプールを埋めたと伝えられる。 

    彼は酔っぱらいが嫌いなので大酒はしなかったが、大食いで、「断食は体をこわす」といって、好物の焼肉をむやみに食べた。医者が慎むようにいうと、ひどく立腹した。5回結婚し、そのほかに第2夫人が4人いた。そのため20人ほども子どもがあった。彼は遠征にも旅行にもこの大家族全員を引き連れていた。息子たちは早死にする者が多く、彼の死後まで生き残ったのは、たったひとりだった。娘たちは、たいてい無事に育ったが、彼は娘の結婚をなかなか許さなかった。婿が強大になることを恐れたのである。そこで彼女たちは、親の許しを得ずに勝手に結婚したりして、宮廷のスキャンダルになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年12月18日 (土)

戦争の世界全史

300px131_bataille_de_malazgirt  現職のアメリカ大統領として初めて、オバマ大統領が広島を訪れた際の17分に及ぶスピーチは人類と戦争の歴史から語られ始められた。「どの大陸でも、あらゆる文明は戦争の歴史に満ちています。穀物の不足や、金への欲望、あるいは国粋主義や宗教的な理由から戦争が起こってきました。帝国は台頭、衰退しました。人々は支配され、解放されました。それぞれの歴史の転換点で罪のないひとが苦しみ、多くが犠牲となりました。広島と長崎で残忍な終わりをみた世界戦争は、裕福で力のある国によって戦われました」今も米イラン間の対立が激化し、戦争の危機が高まっている。数千年以上の太古の昔から今日まで、人類の歴史は戦争の繰り返しの歴史といえる。戦争は何故起こるのか。最近の考古学的知見によると、世界のどこでも旧石器時代の男子の死者のおよそ15%は殺人によって死亡している。これは人類の顕著な特徴であり、食糧や雌をめぐる争いはどの動物にもあるが、このような激しい戦いはみとめられない。人類が道具を使うことにより、武器による先制攻撃が優位となること、確実に勝てるという合理的行動が戦闘をひきおこすのである。こうして戦争はいつの時代も絶えることなく繰り返される。ヒストリーチャンネル「MANKIND人間史」によると有史以来人類は1万4500回もの戦争を繰り返してきたとある。戦争の原因も民族・宗教にイデオロギーが加わって、世界各地でテロが発生した。集団的自衛権を容認する安保法制が成立し、日本も紛争にまきこまれるようになった。2016年7月、ダッカでISに日本人7人が殺害された。

前25世紀、ラガシュの王エアンナトゥムがウンマの軍を破る

前23世紀、古代バビロニア、アッカド王国のサルゴン王は「戦いの王」といわれ、オリエント各地を遠征・征服を繰り返す

前1674年、ヒクソスのエジプト侵入(前1674~前1567)

前1620年、ヒッタイト・フルリ戦争(前1620~前1325)

前1457年、エジプト王国のトトメス3世はメギドの戦でカデシュ王率いるカナン連合軍(カデシュ、メギド、ミタンニ)を破る

前1350年、ヒッタイト王シュピルリウマ1世がミタンニ王トゥシュラクを滅ぼす

前1274年、エジプト王国のラムセス2世はカデシュの戦でヒッタイト王ムワタリに敗れる

前1200年、トロヤ戦争起こる。アカイア人の遠征軍と小アジアのトロイアの戦い

前1070年、殷の紂王は牧野の戦で、周の武王に敗れ、700年に及ぶ殷王朝は滅び、周王朝が成立する

前736年、スパルタがメッセニアを破る(メッセニア戦争)

前632年、晋の文公が城濮の戦で楚の成王を破る

前609年、ユダ王国のヨシヤがメギドの戦でエジプトのネコ2世に敗れる

前605年、ネコ2世はカルケミッシュの戦で新バビロニアのネブカドネザルに敗れる

前591年、プサメティク2世、クシュ王国に侵攻

前580年、スキタイ遊牧民マッサゲタイのトミュリス女王がペルシアのキュロス大王を破る

前575年、晋が鄢陵の戦で楚を破る

前540年、エトルリア・カルタゴ連合軍がサルディニア島のアラリア沖で、ギリシャ軍と海戦し勝利する。

前484年、呉王夫差が艾陵の戦で斉を破る

前490年、ダリウス1世 マラトンの戦でミルティアデス率いるギリシア軍に敗れる

前480年、ギリシアのスパルタ王レオニダスはテルモピュライの戦でペルシア軍を迎え撃ち、その南下を防いたが部隊は全滅する

前480年、ギリシアのテミストクレスはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破り、クセルクセス1世は退却する

前479年、ギリシアがプラタイアの戦いでペルシアに大勝する

前432年~前430年、アテネがポティダイアの戦でコリントスとペロポネソス同盟諸国に勝利した

前406年、アテネがアルギスサイの戦でスパルタに勝利した

前405年、スパルタがアイゴスポタモイの海戦でアテネに勝利した

前404年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終わる

前394年、アテネ人コノン指揮のペルシア軍はクニドスの海戦でスパルタ(ラケダイモーン)を破る

前390年、ローマ軍クイントゥス・スルピキウスが初めてイタリアに侵入したブレンヌス率いるガリア人セノネス族とアッリアの戦で敗れる

前371年、スパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がレウクトラの戦でテーバイを中心とするボィオティア同盟軍に敗れる

前362年、アテネ・スパルタ連合軍がマンティネイアの戦でテーベのエパミノンダスの軍に敗れる

前343年、秦は馬陵の戦で斉の孫臏の策により大敗する。

前338年、ギリシャがカイロネイアの戦でマケドニアのフィリッポス2世の軍に敗れる

前333年、ペルシア軍がイッソスの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前334年、ペルシア軍がグラニコス川の戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前331年、ペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前326年、アレクサンドロス3世はインドのパンジャブ地方まで侵攻したが、ピュダスぺス河畔の戦でパンジャブ地方の領主ポロス王に苦戦し、やむなく東方遠征をやめる。

前305年、シリア王セレウコス1世、マウリア朝チャンドラグプタに敗れる

前260年、秦の昭王が長平の戦で趙を破る

前241年、ローマ軍がアエガテスの海戦でカルタゴを破る

前220年、メディア総督モロンはアポロニアの戦でセレウコス朝のアンティオコス3世に敗れる

前216年、ローマ軍がカンネーの戦でカルタゴのハンニバルに敗れる

前202年、カルタゴのハンニバルがザマの戦でローマのスキピオに敗れる

前202年、項羽、垓下の戦で劉邦に敗れ自殺

前168年、ピュドナの戦い。共和政ローマ軍アエミリウスがマケドニア軍ペルセウスに大勝し、マケドニア王国滅ぶ(第三次マケドニア戦争が終結)。

前111年、ローマの保護領ヌミディアの王位をめぐりユグルタとローマ軍が争う。前105年にマリウスが勝利する。

前101年、ローマ軍がキンプリ・テウトニ族を破る。

前95年、同盟市戦争。

前85年、ローマのスッラがオルコメノスの戦でポントス王ミトリダテス6世を破る

前52年、アレシアの戦いが終結し、ガリアがローマ帝国の版図に組み込まれる。

前48年 ポンペイウス、テッサリア平原のファルサルスの戦でカエサルに敗れる

前46年 タプススの戦い。カエサル軍が元老院派の軍を破る

前45年、カエサル、ムンダの戦でポンペイウス派の残党を破る。

前44年、カエサル暗殺される。

前42年、カエサルを暗殺したブルトゥス、カッシウスがフィリッピの戦でアントニウス、オクタウィアヌスに敗れる

前31年、アントニウス、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れる

前23年、劉秀、昆陽の戦で王莽を破り、漢室再興を果たす

後9年、ローマ帝国がトイトブルクの戦でゲルマンに大敗する

49年、ベトナムのチュン姉妹は後漢の侵略に抵抗し、処刑される

66年、ユダヤ民族のシモン・バル・ギオラが反乱を起こす。

70年、エルサレム攻囲戦で、ローマ軍がエルサレムの第2神殿を破壊する。

73年、マサダ砦に籠城したユダヤ人967人が集団自決し、ユダヤ戦争(66-73)が終わる

191年、董卓と袁紹が虎牢関で衝突。董卓の部下呂布が盤下で董卓を殺す。

200年、曹操、官渡の戦で袁紹を破る。

208年、曹操が劉備・孫権連合軍に赤壁の戦でい敗れる。

211年、曹操が渭水の戦で馬超・韓遂らを破る。

215年、陽平関の戦い。曹操、関中の張魯を下す。

215年、曹操が合肥の戦で孫権を破る。

219年、定軍山の戦い。曹操、劉備軍に敗れ、関中を放棄。

219年、劉備軍の関羽が樊城の戦いで水攻めにされて殺される。

222年、劉備率いる蜀漢軍が夷陵の戦で呉の陸遜軍に敗れる。

228年、蜀漢軍の馬謖が街亭の戦で魏軍に敗れる。

228年、蜀漢軍が陳倉を攻略、第二次北伐が失敗する。

228年、呉の孫権が石亭の戦で魏の曹休を破る。

234年、蜀諸葛亮が五丈原の戦で魏司馬懿と対戦したが、蜀漢による第五次北伐が失敗する。

238年、遼東平定戦。司馬懿、公孫淵を討つ。

244年、魏の曹爽は興勢の役で蜀軍に敗北し撤退した。

260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。

280年、石頭城の戦い。晋軍、呉に侵攻。大勝して呉滅び、中国を統一。

312年、ローマ皇帝正帝マクセンティウスがローマ郊外のミルウィウス橋の戦(サクサ・ルブラの戦)で副帝コンスタンティヌス1世に敗れる

313年、東のローマ皇帝マクシミヌス・ダイアがツィラッルムの戦でローマ皇帝リキニウスに敗れる

351年、ローマ皇帝コンスタンス1世がムルサの戦でコンスタンティウス2世に敗れる

363年 ローマ皇帝ユリアヌスが、ササン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、城を落せず撤退する

378年、ローマ帝国軍、ハドリアノポリス(アドリアノーブル)の戦で西ゴート族に敗れ、皇帝ヴァレンスが戦死。

383年、前秦の符堅が淝水の戦で晋の謝石・謝玄に敗れる

402年、スティリコがボレンツァの戦でアラリックの西ゴート軍を破る

451年、フン族の王アッティラがカタラウヌムの戦で西ローマ軍のアエティウスに敗れる

454年、フン族がネグオ川の戦で東ローマ帝国に敗れる

486年、クロヴィス率いるフランク族がソワソンの戦でシアグリウス率いる西ローマ軍を破る

523年、六鎮の乱。

624年、マホメットがバドルの戦いでメッカ軍を破る

625年、ウフドの戦い

627年、ハンダクの戦いでメッカ軍を破る

627年、ササン朝ペルシアのコスロー2世はニネヴェの戦でへラクリウス率いる東ローマ軍に敗れる

642年 ヤズデギルド3世 ニハーヴァンド(ネハーヴァンド)の戦でアラブ軍に敗れる

663年、日本軍は白村江の戦で唐軍に敗れ、百済滅ぶ

687年、フランク王国のピピン2世がテルトリーの戦でネウストリアのベルナルらを破る

722年、ペラヨがコバドンガの戦でイスラム軍に勝利する。

732年、サラセン軍、ツール・ポワチエの戦でフランク王国カール・マルテルに敗れる

751年、唐の高仙芝、イスラム軍とタラス河畔に戦う。サラセン軍に捕らわれ、製紙法を伝う

756年、唐の玄宗は潼関の戦で安禄山に敗れる

804年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はクラソスの戦でアッバース朝に大敗する。

811年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はプリスカの戦でブルガリア皇帝クルム・ハーンに敗れ、戦死した。

849年、ナポリ・アマルフィ・ガエータなどの艦隊がオスティア沖でイスラム艦隊を破る。

955年、ハンガリーのマジャール軍がレヒフェルトの戦で東フランク王国のオットー1世に敗れる

1014年、第1次ブルガリア帝国がキンバロングーの戦(クレイディオン峠の戦)で、東ローマ帝国に敗れる。

1014年、ブライアン・ボル―軍とレンスターのアイルランド人とダブリンのヴァイキングの連合軍が、クロンターフの戦いで、ボル―軍が勝つが戦死する。

1016年、デンマーク王クヌートがアシンドンの戦いでイングランド王エドマンド2世を破る

1057年、スコットランド王マクベスはランファナンの戦でマルカム3世に敗れ死没する

1063年、イタリアの中世都市国家ピサがパレルモ沖の海戦でイスラーム艦隊に大勝する

1066年、イングランド王ハロルド2世がへースティングズの戦でノルマンディー公ウィリアム1世に敗れる

1071年、ビザンツ王ロマノス4世ディオゲネス マンジケルトの戦でセルジューク朝に敗れる。

1096年、第1回十字軍のエルサレム攻囲戦が始まる。(~1099年)

1107年、高麗の尹瓘が女真を討ち9城を築くが(尹瓘九城の役)、翌年に撤退する。

1147年、レコンキスタで、ポルトガル王国アフォンソ1世がイスラムの勢力下からリスボンを奪回。

1148年、第2回十字軍、ダマスカス攻撃。もつとも成果の少ない十字軍だった。(~1149年)

1176年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がレニャーノの戦で北イタリア・ロンバルディア同盟軍に敗れる

1187年、ギード・リュジニャン率いるエルサレム王国の十字軍がヒッティーンの戦でアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンに敗れる

1189年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス墺フィリップ2世、イギリス王リチャード1世らが第3回十字軍に参戦(~1192年)

1201年、チンギス・カンはコイテンの戦でジャムカを破る

1202年、第4回十字軍。ヴェネツィア商人に利用され、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領(~1204年)

1214年、仏王フィリップ2世が、ブーヴィーヌの戦で神聖ローマ帝国、英国連合軍に勝利する

1219年、モンゴル軍はホラズムに侵攻し、翌年にはサマルカンドを攻略する

1223年、モンゴル軍はカルカ川の会戦でロシア軍を破る

1226年、ホーエンシュタウフェン家とカペー家のシャルル・ダンジューが南イタリアのベネヴェントの戦う。カペー家の勝利。

1228年、第5回十字軍。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が交渉によって平和裏に聖地を回復するが、長くは続かず(~1229年)

1235年、マリ王国のスンディアタがキリナの戦いでソソ王国のスマンゲルを破る

1241年、シュレージェン公ハインリヒ2世、リーグニッツ(ワールシュタット)の戦でバトゥが率いるモンゴル軍と戦い、大敗し、戦死。

1245年、ハールィチ・ヴォルイーニ大公国がヤロスラヴの戦いでポーランド・ハンガリーと戦う。

1248年、第6回十字軍。教皇の信任厚いフランス王ルイ9世がエジプトに侵攻するも失敗(~1254年)

1250年、フランス王ルイ9世率いる十字軍がマンスーラの戦でエジプトのアイユーブ朝に敗れる。

1258年、モンゴル軍のフレグがバグダードの戦でバグダードを占領し、アッバース朝滅ぶ。

1260年、フィレンツェがモンタベルティの戦いでシエーナ軍に敗れる。

1260年、モンゴル軍のフレグはアイン・ジャールートの戦でマムルーク朝のバイバルスに敗れる。

1264年、イングランド王ヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールらが反乱。王党派の勝利に終わった。これを第2次バロン戦争という。

1265年、イーブシャムの戦い。

1266年、ホーエンシュタウフェン家がイタリアのベネヴェントの戦でカペー家と、敗れる。シチリアの支配が終わる

1270年、第7回十字軍。チュニスに侵攻したが、フランス王ルイ9世が病没したため中止。

1268~1274年、モンゴル軍は襄樊の戦で南宋を滅ぼす。

1272年、最後の十字軍(第9回十字軍)終わる。

1274年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(文永の役)

1278年、モンゴル軍、ポーランド・ドイツ連合軍を破る

1278年、神聖ローマ帝国ルドルフ1世、マルヒフェルデの戦いでボヘミア王オットカルを破る

1279年、モンゴル軍、厓山の戦いで南宋を滅ぼす

1281年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(弘安の役)

1284年、ピサがメロリアの海戦でジェノバに大敗。

1288年、ドカン率いるモンゴル軍は白藤江の戦いで陳国峻率いるベトナム軍に敗れ、モンゴルのベトナム侵攻は失敗におわる。

1291年、第9回十字軍。イスラエル王国の首都アッコン滅亡する。(十字軍戦争終わる)

1294年、英仏戦争はじまる。

1298年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世はゲルハイムの戦で長子アドルフを殺す。

1301年、オスマン1世がビザンツ帝国軍をコユンヒサルの戦で破る。

1302年、フランス王フィリップ4世はクルトレー(コルトレイク、金拍車)の戦でフランドル市民軍に敗れる

1311年、アテネ公国ゴーティエ5世がアルミュロスの戦いで東ローマ軍に敗れる

1314年、エドワード2世率いるイングランド軍がバノックバーンの戦でロバート1世のスコットランド軍に敗れる

1315年、スイスがモルガルテンの戦でオーストリア軍を破り、現在に至る永久盟約を得る

1337年、英仏の百年戦争がおこる

1346年 フランス王フィリップ6世、クレシーの戦でエドワード3世に敗れる

1356年、フランス王ジャン2世はポアティエの戦でイギリス王エドワード黒太子に敗れる

1363年、明の朱元璋は鄱陽湖の戦で元の陳友諒を破る

1369~70年 エドワード3世、フランス王シャルル5世に敗れて獲得した領土の大部分を失う

1378年、イタリアのフィレンツェで労働者の反乱おこる。

1378年、モスクワ大公国がヴォジャ河畔の戦いでモンゴルを破る。

1380年、モスクワ大公国ドミトリー・ドンスコイがクリコボの戦いでモンゴルを破る。

1380年、ジェノバがキオッジャの海戦でヴェネツィアに完敗する。

1382年、百年戦争。ローゼンバーグの戦いでフランス軍がフランドル諸都市を破る。

1385年、ジョアン1世率いるポルトガル軍がアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王ファン1世を破る。

1388年、ハプスブルク家アルブレヒト3世、ネーフェルトの戦いでスイス自由連邦に敗れる

1389年、オスマン帝国のムラト1世がコソボの戦でセルビアを破る

1391年、ティムールはコンドゥルチャ川の戦いでトクタミシュを破る

1396年、神聖ローマ皇帝・ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国軍がニコポリスの戦でバヤズィト1世率いるオスマン帝国軍に大敗する

1402年、バヤズィト1世率いるオスマン帝国がアンカラの戦でティムールに敗れる。バヤズィト1世は捕虜になり、翌年自害する

1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルトの戦(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を破る

1415年、フランス軍が百年戦争アジャンクールの戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍に敗れる。

1419年、ボヘミアのフス戦争(~1434)。フス派の勝利。

1429年、ジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍がパテーの戦いでイングランド軍に圧勝。イングランドのジョン・タルボットは敗れて、捕虜となる。百年戦争の仏軍の初めての勝利であった

1444年、オスマン帝国のムラト2世はヴァルナの戦でハンガリー・ポーランド連合軍を破る。

1450年、百年戦争。イングランド軍はフォルミニーの戦でフランスに大敗し、ノルマンディーから撤退する。

1453年、イングランド軍はカスティヨンの戦でフランスに敗れる。百年戦争最後の戦い。

1453年、東ローマ帝国コンスタンティノス11世 メフメト2世のオスマントルコ軍に攻められコンスタンティノープル陥落

1454年、十三年戦争が始まる。

1455年、薔薇戦争最初の戦い。ヨーク公リチャードはサマセット公エドムンド率いるランカスター派をセント・オールバーンズの戦で破る。

1456年、ワラキア公国のフニャディ・ヤーノシュがベオグラード包囲戦でオスマン帝国に勝利する。

1460年、薔薇戦争、ウエイクフィールドの戦い。

1460年、薔薇戦争、ノーサンプトンの戦いでヨーク派がランカスター派を破る。

1461年、薔薇戦争・タウトンの戦い。ヨーク家のエドワード4世がマーガレット王妃らランカスター派を破る。

1466年、ポーランドとプロシア連合の同盟とドイツ騎士団国とのあいだで起きた十三年戦争がプロシアとポーランドの勝利に終わる(~1454年)。

1471年、薔薇戦争・テュークスベリ―の戦い。ランカスター家のエドワード王太子が戦死。

1477年、ブルゴーニュ公シャルル(豪肝公)がナンシーの戦い(ブルゴーニュ戦争)でロレーヌ公ルネ2世に敗れ戦死。

1485年、ヨーク派のリチャード3世はボズワースの戦でランカスター派のヘンリー7世に敗れる

1487年、薔薇戦争の最後の闘いストーク・フィールドの戦いが行われる

1503年、フランスはチョリニョーラの戦、ガレラノの戦でスペインに敗れる

1507年、ポルトガルのインド総督アルブケルケ、ペルシャ湾口の香辛料集散地ホルムズ島を占領した。

1509年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル海軍がディウ沖海戦でイスラム教徒のマムルーク朝、クジャラート・スルタン朝及びカリカットの領主ザモリンの連合海軍を破る

1513年、スコットランドがフロドゥンの戦でイングランドに大敗し、国王ジェームズ4世が戦死。

1514年、サファヴィ朝ペルシャ軍イスマーイール1世がチャルディラーンの戦でオスマン帝国セリム1世に敗れる。以後両国の戦いは124年間続く。

1515年、仏王フランソワ1世・ヴェネツィアがスペイン・神聖ローマ・イギリス・ミラノのスイス傭兵軍とマリニャーノ戦いで勝利する。

1516年、オスマン帝国がマルジュ・ダービクの戦でマムルーク朝を破り、シリアを支配する。

1519年、スペインのコルテスがタバスコの戦でインディオに勝利し、メキシコを征服した。

1521年、独帝カール5世と仏王フランソワ1世との間にイタリア戦争始まる。

1524年、ドイツ農民戦争。フランケンハウゼンの戦で農民軍が諸侯軍に敗れて終結する(~1525年)

1525年、仏王フランソワ1世、パヴィアの戦でスペインに敗れる。

1526年、インドのロディ朝がパーニーパットの戦でムガール帝国のバーブルに敗れる

1526年、オスマン帝国がモハーチの戦でハンガリー王国を破る

1529年、オスマン帝国の第一次ウィーン包囲。

1529年、スイスの宗教戦争、第一次カッペル戦争

1531年、第二次カッペル戦争でチューリヒのカトリック軍が勝利する。

1531年、スコットランド王ジェームズ4世が2万の軍勢を率いて国境を侵攻するが、英国軍にフロッドンの戦で大敗し、ジェームズ4世は戦死する

1531年、チューリヒの宗教改革の指導者ツヴィングリがカベルの戦で戦死

1532年、インカ帝国アタワルパ、カハマルカの戦いでピサロ率いるスペイン軍に敗れる。

1538年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国と対戦するが、連語国側は統制がとれずに敗れる。

1546年、シュマルカルデン戦争がはじまる。

1547年、プロテスタント軍がミュールベルクの戦で神聖ローマ軍に敗れる

1558年、リヴォニア戦争(~1583)。

1562年、ユグノー戦争

1568年、オランダ独立戦争おこる。

1571年、オスマントルコ海軍がレパントの海戦でスペイン、ベネチア、ローマ教皇の連合軍に敗れる

1587年、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊(アルマダ)がプリマス沖、カレー沖の海戦でイギリス艦隊に敗れる

1593年、オスマントルコ帝国ムラート3世の宰相ハサン・パシャは、シサクの戦でクロアチア軍に敗れる

1593年、ハプスブルク家とトルコの十五年戦争(~1606)。

1593年、小早川隆景らが李如松率いる明軍を碧蹄館の戦いで破る

1618年、三十年戦争

1619年、ヌルハチ率いる後金(のちの清)がサルフの戦で明を破る

1620年、白山の戦。

1630年~31年、ルター派の都市マグデブルクが包囲され、破壊・略奪される(三十年戦争)

1630年、フランスがヴェイッラーネの戦でスペインを破る。

1631年、神聖ローマ帝国がブライテンフェルトの戦でグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンに敗れる。

1632年、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国がリュッツェンの戦でグスタフ・アドレス2世(スウェーデン)の軍に敗れる。

1632 年、ロシアがスモレンスクの戦でポーランドの軍に敗れる。

1640年、ポルトガルの貴族ブラガンサ公ジョアンらがリスボンのスペイン王宮を襲撃、ポルトガル王政復古戦争が始る。

1641年、清のホンタイジが松山・錦州の戦で明を滅ぼす

1643年、清教徒革命。国王軍がアドウォルトン・ムーアの戦で議会軍に勝利する。

1644年、清教徒革命。チャールズ1世の国王軍がマーストン・ムーアの戦でクロムウェル率いる議会軍に敗れる。

1645年、イギリス、ルーパート王子軍がネーズビーの戦でクロムウェルの議会軍に敗れる。

1648年、ウェストファリア講和条約。三十年戦争終わる。

1652年、第一次英蘭戦争。イギリスの勝利。

1653年、ポートランドの海戦(第一次英蘭戦争)~1654年まで

1654年から1667年、ロシア・ポーランド戦争

1659年、ロシア大公アレクセイ3世がコノトプの戦でウクライナ・コサック軍に敗れる。

1666年、ダンケルク沖の海戦でオランダがイギリスを破る。

1667年、第二次英蘭戦争終わる。

1670年、ロシアでステンカ・ラージンの農民反乱おこる。(~1671年)

1672年、英仏対オランダの戦争始まる(第三次英蘭戦争)。ソールベイの海戦ではオランダの勝利。

1674年、英蘭戦争終わる、ウェストミンスター条約の締結。イギリスの制海権が確立。北米植民地ニューアムステルダム(ニューヨーク)はイギリスに返還される。

1675年、デンマーク・スウェーデンでスコーネ戦争始まる(~1679年)。

1685年、清の康熙帝はロシアが東方に進出して黒竜江流域にきずいたアルバジン城を奪回した。

1687年、清ジュンガル戦争起こる。康熙帝、乾隆帝と三次にわたるが、清に対して反乱を起こしたアムルサナーは1759年敗れる。

1688年、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国領のファルツ公家の継承問題に介入してファルツ戦争(~1697年)が始まる。

1690年、イングランド軍がボイン川の戦いでアイルランド軍に勝利する。

1697年、オスマン帝国がゼンタの戦でオーストリア軍に大敗する。

1700年、スウェーデン王カール12世がナルヴァの戦でロシアのピョートル1世に勝利する。

1701年、スペイン継承戦争始まる。1714年まで続く。

1706年、オーストラリア軍がトリノの戦いでフランス軍を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1709年、スウェーデンのカール12世、ボルタヴァの戦でロシアに敗れる。

1710年、スペイン・フランス連合軍がビリャビシオーサの戦でカール大公率いるハプスブルグ家を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1712年、スウェーデンがガーデブッシュの戦でデンマークに敗れる。

1714年、ロシアのピョートル1世がハンゴ沖海戦でスウェーデンを破る。

1721年、スウェーデンとロシア・デンマークを中心に行われた大北方戦争(1700-1721)が終る。ニスタット条約を締結。

1722年から1725年までラル神父戦争。アメリカ東部植民地とインディアンの戦い。セバスチャン・ラルがノリッジウォックの戦いで戦死。

1733年、ポーランド継承戦争始まる。

1734年、ロシア軍がフランス、スウェーデンと戦い、ダンツィヒを攻囲する。

1739年、アフガニスタンのホータキー朝がカンダハール包囲戦でペルシアのアフシャール朝に敗北し滅亡する。

1740年、オーストラリアのマリア・テレジアが即位し、オーストラリア継承戦争始まる。

1741年、マリア・テレジアがモルヴィッツの戦でフリードリヒ2世のプロシアに敗れる。

1743年、オーストリア継承戦争。英墺連合軍と仏軍がディティンゲンで戦い、英墺連合軍が勝利する。

1745年、フランスがフォントノワの戦で英蘭墺連合軍に勝利する。

1746年、カロデンの戦い。スコットランドで名誉革命反対派・ジャコバイトによる最後の戦い。

1756年、ヨーロッパで七年戦争始まる。

1757年、プロイセンのフリードリヒ2世がロスバッハの戦、ロイテンの戦でオーストリアを破る。

1757年、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラはプラッシーの戦でロバート・クライブ率いるイギリス軍に敗れる。

1759年、プロイセン軍がクネルスドルフの戦でロシア・オーストリア連合軍に敗れる。

1761年、第3次バーニーパッドの戦い、マラーダ連合軍敗北する。

1764年、イギリス東インド会社がインドのブクサールの戦でムガル帝国を破る。

1767年、第1回マイソール戦争(~1769)。マイソール王国がイギリス東インド会社に勝利する。

1768年、露土戦争起こる。

1775年、アメリカ独立戦争始まる。ボストン北西のコンコードで英軍と米植民地兵が武力衝突。アメリカ軍はモントリオールを占領するが、ケベックの戦いに敗れる。

1775年~82年。マラータ同盟がイギリス東インド会社に勝利する。

1776年冬、大陸軍はニュージャージーの戦いでイギリス軍に勝利する。

1777年、英軍バーゴイン将軍がサラトガの戦で米植民地軍に敗れる。

1780年、アメリカ独立戦争・ワックスホーの戦。戦闘に勝利した英軍は、大陸軍が白旗を挙げたのを無視して大陸軍兵113人を虐殺。

1781年、アメリカ独立戦争・ヘンリー岬の海戦・チェサピーク湾の海戦。イギリス軍の敗北。

1781年、チャールズ・コンーウォリス率いるイギリス軍はヨークタウンの戦でジョージ・ワシントン率いる独立軍に攻囲され敗れる。

1781年、インドのポルト・ノヴァでマイソール王国はイギリス軍に敗れる。(第二次マイソール戦争の1つ)。

1789年、フランス革命起こる。

1790年、第3回マイソール戦争。

1792年、フランス革命を巡ってフランスとヨーロッパ諸国との間で戦争がおこる(~1799)

1793年、フランス軍はナポレオン率いる革命軍にツーロン要塞の攻撃で敗れる。

1796年、オーストリア軍がカスティリオーネの戦でナポレオン軍に敗れる。

1798年、オスマン帝国がピラミッドの戦でナポレオン軍に敗れる。

1799年、第4回マイソール戦争。

1800年、オーストリア軍がアルプスを越えて侵攻したナポレオン軍にマレンゴの戦で敗れる。

1805年、オーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンに敗れる。

1805年、トラファルガルの海戦でイギリス艦隊がナポレオン率いるフランス・スペイン聨合艦隊に勝利。ネルソン提督は戦死。

1806年、プロシア軍がイエナ・アウエルシュタットの戦でフランス軍に敗れる。

1809年、ナポレオン、ワグラムの戦でオーストリア軍に大勝する。

1810年、セブンオークスの戦い。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1812年、モスクワに遠征したナポレオンがクトゥーゾフ将軍のロシア軍とボロジノの戦で交戦。10万人の犠牲を出したが勝敗は決せず。

1812年、米英戦争はじまる。

1813年、ナポレオン軍がライプチヒの戦でプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れる。

1814年、アメリカ軍はブラーデンスバーグの戦でイギリス軍に敗れ、ワシントンのホワイトハウスなどの建物が焼失した。

1814年、イギリス東インド会社とネパール(ゴルカ朝)とのグルカ戦争が起こり、1816年イギリスの勝利により、スガウリ条約が結ばれる。

1815年、ナポレオンがワーテルローの戦でイギリス・プロシア連合軍に敗れる。

1815年、米英戦争ニューオーリンズの戦でイギリス軍はアンドリュー・ジャクソン率いる5千人の米兵に敗れる。

1816年、セブンオークスの戦。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1817年、第3回マラータ戦争。

1819年、シモン・ボリバルの独立革命軍はボヤカの戦(コロンビアのボゴタ近郊)でスペイン軍に勝利する。

1821年、スペイン軍がカラボボの戦でシモン・ボリバル率いる反乱軍に敗れ、ベネズエラの独立が決定した。

1824年、スペイン軍がアヤクーチョの戦でスクレ将軍率いるペルー解放軍に敗れる。

1824年~26年、ビルマ戦争。イギリスがビルマのコンバウン朝に勝利する。

1827年、英仏露3国艦隊がナヴァリノの海戦でトルコ艦隊を破る。

1836年、テキサス軍がサンジャシントの戦いでメキシコ軍を破る。

1838年、ズールー族がブラッド・リバーの戦いでボーア人に敗れる。

1839年、バーラクサイ朝アフガニスタン首長国がイギリスを討つ(第1次アフガン戦争(~1842年)

1840年、アヘン戦争(~1842年)

1845年~46年、第一次シク戦争。シク王国とイギリス東インド会社の戦争。イギリスの勝利。

1848年、サルディニア王カルロ・アルベルトがクストッツァー・ノヴァラの戦でオーストリアに敗れる。これにより、イタリアの統一運動は一時中絶した。

1854年、クリミア戦争でロシアのセヴァストーポリ要塞を目指す英仏軍がアルマでロシアと交戦する。

1855年、セヴァストーポリ要塞が英仏軍の攻撃によって陥落する。

1856年、アロー号戦争(~1860年)

1856年、コスタリカ軍が第二次リバスの戦いでニカラグア軍を破る。

1859年、イタリア統一戦争・ソルフェリーノの戦い。アンリ・デュナンが戦場の惨状に衝撃を受け、後の赤十字運動につなげる。

1860年、ガリバルディ率いるイタリア義勇軍はヴォルトルノ河畔の戦でナポリ軍を破り南イタリアを制圧する。

1861年、アメリカの南北戦争、北軍はブル・ランの戦で南軍に敗れる。

1862年、アメリカの南北戦争、セブンパインズの戦。決着つかず。

1862年、アメリカの南北戦争、ヘンリー砦の戦で北軍の初勝利。

1862年、アメリカの南北戦争、シャイローの戦。北軍の勝利。

1862年、フランスのナポレオン3世がメキシコ出兵、プエフラの戦でフランスに勝利する。(フランス・メキシコ戦争1862-1867)

1863年、カメロンの戦でメキシコが勝利するも、フランスの傀儡政権であるメキシコ帝国が建国。

1863年、南北戦争、ゲッティスバーグの戦で南軍の衰勢が決定した。

1864年、曽国藩が太平天国の乱を鎮圧した。

1866年、イタリア海軍がリッサの海戦でオーストリア海軍に敗れる。

1866年、オーストリア帝国はチェコのケーニヒグーレツの戦(サドワの戦)でプロシアに敗れる。

1868年、アメリカ軍のカスター中佐が率いる第7騎兵隊がシャイアン族インディアンを虐殺する(ウォシタ川の戦)。

1868年、エチオピアのテオドロス2世、マグダラの戦いでイギリス軍に大敗し、自殺する。

1870年、モルトケ率いるドイツ軍がグラヴロットの戦でバーゼル率いるフランス軍を破る

1870年、フランスのナポレオン3世はセダンの戦でプロイセン軍に敗れる。

1873年、アチェ-戦争、オランダがスマトラのアチェー王国征服(1904年)

1876年、アメリカ陸軍とインディアンがモンタナ州のリトルビックホーンで戦い、カスター将軍率いる第7騎兵隊ら本隊が全滅した。

1877年、露土戦争(~1878)

1879年、ズールー戦争おこる。イギリスと南アメリカのズールー王国との間で行われた戦争でアフリカの植民地支配がはじまる。

1880-1881年、イギリスがトランスヴァール共和国に破れる(第一次ボーア戦争)

1885年、清仏戦争でフランスによるベトナムの植民地化が始まる。

1885年、ビルマ王ティーボーは英緬戦争でイギリス軍に敗れ、コウバウン朝は滅亡し、イギリス領インド帝国に併合される。

1894年、日清戦争(~1895年)

1896年、イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦でエチオピアのメネリク2世に大敗する。

1898年、米西戦争。7月アメリカ軍がキューバのサン・ファン・ヒルの戦いでスペイン軍を撃破する。

1899年、南アフリカのルイス・ボータ将軍がコレンソの戦いでイギリスを破る。

1899年、米比戦争始まる(~1902年)

1902年、南アフリカのボーア戦争、イギリスの勝利に終わる。

1904年、日露戦争(~1905年)

1905年、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本の連合艦隊に敗れる。

1911年、イタリア・トルコ戦争。イタリアがオスマントルコ領リビアの領有を図って起こす。イタリア敗北。

1912年、バルカン戦争(~1913年)。

1914年、ベルギーを突破し、北仏に進軍したドイツ軍(モルトケ)は、マルヌの戦でフランス軍(ジョッフル)に敗れる。

1914年、ロシア軍がタンネンベルクの戦でドイツ軍(ヒンデンブルク)に包囲、殲滅される。

1915年、オスマン帝国はダーダネルス海峡のガリポリの戦で英仏連合軍に勝利する。

1915年、第一次大戦・イ―ペルの戦い。ドイツ軍がフランス軍に対し、毒ガス攻撃。

1916年、ヴェルダンの戦、フランスは守り切った。

1916年、ソンムの戦。第一次世界大戦における最大の戦争であるが、英仏連合軍とドイツ軍がフランスのソンムで激突したが、両軍目立った戦果をあげることがなかった。

1916年、ユトランド沖海戦。

1916年、アメリカ、パンチョ・ビリャ遠征軍をメキシコに派遣。

1917年、ロシア革命。

1917年、第一次世界大戦におけるカンプレーの戦いで、英軍が世界初となる大規模な戦車の投入を行った。

1920年、ポーランド・ソ連戦争。ポーランドの旧版図回復。

1922年、トルコ軍がドゥムルプナルの戦でギリシャ軍に勝利する。

1935年、イタリア、エチオピア侵略。

1936年、スペイン内戦始まる。

1937年、日中戦争始まる。

1939年、関東軍とソ連が満蒙国境線めぐりノモンハン事件おこる。

1939年、ソ連がフィンランドに侵攻し冬戦争がおこる。(~1940年)

1940年、ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵入(ベルギーの戦い)。

1940年、フランス軍はダンケルクの戦でドイツに敗れ、降伏する。

1941年、ドイツ軍がロシアに侵攻する(~1945年)。

1941年、太平洋戦争始まる。

1942年、ドイツの戦車軍団ロンメルは北アフリカのエル・アラメインの戦で英軍モントゴメリーに敗れる。

1942年、ドイツ軍はソ連とのスターリングラードの戦(~1943年)で消耗し、これによってドイツの後退が始まる。

1942年、太平洋戦争最大の激戦、ガダルカナル島の戦いで日本軍が全滅。

1943年、ドイツ軍はドニエプル川の戦でソ連軍に敗れる。

1943年、ドイツ軍はクルスクの戦でソ連軍に大敗。

1943年、スターリングラードの戦でドイツ軍のパウルス司令官と幕僚がソ連に降伏する。

1943年、アッツ島の戦い。

1944年、ドイツ軍はナルヴァの戦でソ連軍の進撃を阻止する。

1944年、日本はレイテ沖海戦で米軍に大敗し、事実上壊滅。シブヤン海海戦・戦艦武蔵が沈没。

1944年、連合軍、ノルマンディー上陸作戦に成功する。

1944年、フィンランドとドイツ連合軍はタリ・イハンタラの戦いでソ連軍の侵攻を阻止する。

1945年、独ソ戦最後の戦い、プラハの戦い。

1945年、硫黄島の戦いで、アメリカが硫黄島を完全占領

1946年、フランス・インドシナ戦争(~1954年)

1947年、第一次印パ戦争(~1949年)

1950年、朝鮮戦争が始まる(~1953年)

1950年、マッカーサーの国連軍が長津湖の戦いで毛沢東率いる中国軍と戦う。

1953年、ポークチョップヒルの戦い

1954年、アルジェリアとフランスとでアルジェリア戦争始まる(~1962年)。

1954年、ディエンビエンフーのフランス軍拠点が陥落。インドシナから撤退する。同年ジュネーヴ協定結ばれる。

1959年、チベットで反中国暴動。

1959年、中印戦争(~1962年)

1963年、インドネシア、マレーシア戦争(~1966年)

1963年、ギニアビサウ独立戦争(~1974年)

1963年、アメリカ軍と南ベトナム軍がアプバクの戦いでベトコンに敗北する。

1965年、第二次印パ戦争(1966年)

1967年、ビアフラ戦争(~1970年)。

1967年、第三次中東戦争。

1968年、南ベトナムのケサンでアメリカ軍と北ベトナム軍が戦う。

1969年、北アイルランド紛争(~98年)

1971年、第3次印パ戦争

1973年、第四次中東戦争。

1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。

1979年、アフガニスタン内戦

1982年、アルゼンチンはフォークランド紛争でイギリスに敗れる。

1991年、第一次湾岸戦争。

1991年、スロヴェニア独立戦争。

1991年、ソマリア内戦(~継続中)

1994年、ルワンダで内戦始まる。50万人が殺される。

1998年、コソボ紛争起こる。コソボは2008年にセルビアから独立。

2001年、アメリカのアフガニスタン侵攻。

2003年、第二次湾岸戦争。

2005年、イラク戦争。ハディサで米軍兵士がイラク市民24人を虐殺(ハディサ事件)。

2006年、カンダハルの戦い。米軍対タリバン。

2006年、ヒズボラ戦争。イスラエル対レバノン。

2008年、イスラエル軍がパレスチナのガザに侵攻。ハマースとの間にガザ紛争おこる(~2009年)

2011年、シリア内戦(継続中)。アサド政府軍(シーア派)と反政府軍(スンニ派)との間で内戦おこる。

 

 

 

2021年12月13日 (月)

串刺し公ヴラド・ツェベシュ

 吸血鬼ドラキュラのモデルは、15世紀後半のワラキュラ公国(現ルーマニア南部)の君主ヴラド・ツェべシュ・ドゥラクルとされる。 ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュ(1387頃-1456)は、オスマントルコの大軍をベオグラードの戦い(1456)で破り、侵入を阻止したが、疫病で死亡した。そのころワラキアの君主になったヴラド・ツェぺシュは、首都に貴族たちを招集して、自分の父親と兄の暗殺に加担した貴族たちを串刺しの刑に処した。そして、杭に刺されて悶絶する貴族たちの姿を眺めながら祝宴を開いたという。処刑して血を好んだことから、東欧の吸血鬼伝説と結びつけられて、ドラキュラ伝説が生まれた。本当はオスマントルコの侵略からルーマニアを守り、独立のために戦った英雄だった。

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2022年1月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31