無料ブログはココログ

2025年5月12日 (月)

看護の日

Photo_3     本日を「看護の日」とするのは、1820年フローレンス・ナイチンゲールの誕生日に由来します。ナイチンゲールは、世界の偉人に必ず入るほどの人物ですが、彼女が残した信仰の姿についてはあまり知られていません。ナイチンゲールは、敬虔なクリスチャンだったイギリス人の両親のもとに生まれました。17歳のある日、彼女は不思議な体験をします。その時ことがこう書き残されています。「1837年2月7日、神は私にみ言葉をかけられ、われに仕えよと、語られた」。これが彼女の原体験となりました。やがて彼女は、医療奉仕に当たる病院で働き始めました。1853年、トルコとロシアの間にクリミア戦争が始まりました。イギリス、フランスらがトルコを支援しました。この戦争には19世紀を代表する2人の人物が関わっている。ナイチンゲールとトルストイです。1853年、ナイチンゲールはロンドンのハーレー街の小さな婦人施療院で看護婦として働いていました。これが陸軍大臣シドニー・ハーバートの目にとまりました。翌年10月、ナイチンゲールは38人の看護婦とともにクリミアに向かいました。同年7月、ロシアの青年将校トルストイは激戦地セバストーポリに従軍しています。信仰心の篤い2人が戦場でみた光景が何であっのかそれは知りません。ただ戦争が青年たちの人生観を大きくかえる出来事だったことは間違いありません。ナイチンゲールとトルストイは同じ年の1910年に亡くなっています。ナイチンゲールが亡くなるとき、国葬にしてウェストミンスター寺院に葬ることが話されましたが、ナイチンゲールは遺書で拒否し、ハンプシャーのイーストウェロウの小さな教会墓地に埋葬されました。世間が偉人と認めながら、偉人であることを拒みつつけた2人はよく似ています。(5月12日)

 

 

 

 

2025年5月 9日 (金)

ローマ法王か、ローマ教皇か?

  4月21日午前7時35分、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇がバチカンで死去した。フランシスコ教皇はアルゼンチンのホルへ・ベルゴリオ枢機卿がで2013年に教皇に選出され、フランシスコ1世と名乗り、全世界12億人のカトリック信者のトップに就いた。正確にはフランシスコ2世が登場するまでは、1世という序数をつけずに「ローマ法王フランシスコ」と呼ばれる。ペテロから数えて266代である。ところで新聞報道では「法王」という用語が使用されるが、高校世界史では「教皇」が一般的である。日本政府では外交で「ローマ法王庁」と登録してあるため「法王」としているが、日本のカトリック教会では「法王」ではなく「教皇」への記載をすすめているとのことである。パパ(papa)という原語(英語ではポープpope)は、子どもが父親を呼ぶときの言葉で、もとは聖職者一般に対する敬称であったが、しだいにローマ司教にかぎりこの敬称が用いられるようになり、グレゴリウス7世は1073年の教会会議で、他の司教がこの敬称を用いることを禁じた。教皇は現在では世界のカトリック教会の頂点に立ち、ペテロの後継者として尊敬を集めている。

 ところで高校世界史で知られるローマ教皇は、異教徒の侵攻を阻止したレオ1世、ゲルマン人への布教をしたグレゴリウス1世、聖像禁止令のレオ3世、オットー1世に加冠したヨハネス12世、カノッサの屈辱のグレゴリウス7世、十字軍を提唱したウルバヌス2世、教皇権の絶頂期インノケンティウス3世(「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉で知られる)、アナー二事件のボニファチウス8世、教皇境界線を設定したアレクサンデル6世、聖ピエトロ寺院の再建を始めたユリウス2世、ルターの宗教改革のレオ10世などである。そして第二次世界大戦期の教皇としてラテラノ条約を締結し、ムッソリーニ政権を承認したピウス11世、ナチス政権下のドイツのユダヤ人迫害を容認したピウス12世などがいる。

 そして5月8日、バチカンのシスティーナ礼拝堂に白い煙が上がった。教皇選挙コンクラーベで、米国出身のロバート・フランシス・プレポスト枢機卿が第267代教皇に選出された。新教皇はレオ14世を名乗る。

2025年5月 6日 (火)

モーセは実在の人物か?

Mose   モーセと聞くと、どんなことを思い起こしますか?イスラエル人の大群衆を率いてエジプトから脱出した、神に用いられて紅海の水を左右に分けた、シナイ山で神と言葉を交わした、イスラエル人に神からの十戒を授けた、このようなことでしようか。そして古代ヘブライの伝説的預言者モーセは「旧約聖書」のうちの、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の「モーセ五書」(トーラー)の著者とされています。そして120歳で死去しています。

   モーセは大いに畏敬すべき事柄を示した預言者ではあるが、信じ難い出来事であり、モーセが歴史的に実在したと考えるか、伝説上の人物でその実在を疑うのか、昔から意見がわかれます。高校世界史の教科書では紀元前13世紀ごろに活躍した人と記述されることが一般的である。ドイツの神学者ユリウス・ヴェルハウゼン(1844-1918)はトーラーの記述にはより後世であるはずの事実が記載されているので、モーセが書いたとする説を否定している。モーセに関しては聖書以外の記録や考古学的遺物はなく、エジプト側の記録もない。ただ紀元前13世紀頃に、ヘブライ人の一部族がエジプトからカナーンの地へ移動したということは史実と考えられている。出エジプトの年代も不確定である。年代には大きくわけて後期説と早期説の2つがある。後期説は「出エジプト記1-11」に出る「彼らはファラオのために、貯蔵所となる都市、すなわちピトムとラアムセスを建てていった」とあることから、ファラオをラムセス2世(前1314-前1224;異説あり)とする説がある。(次代の王メルエンプタハとする説もある)。吉川弘文館の「世界史年表・地図」では「前1230年 モーゼ、エジプトを脱出」とある。

   早期説とは、キュロス王がバビロニアを倒した年、前539年を起点として算定し、ソロモン王の統治から逆算して480年前を出エジプトとする説である。「イスラエルの子らがエジプトの地を出てから480年目」(列王記第一、6-1)とあることから、1034年に479年を足すと出エジプトは紀元前1513年となる。(480年目というのは序数なので、満479年を表わす)しかし聖書の出来事を絶対日付で算出する方法が正確とする確証はない。早期説では前16世紀のエジプトはヒクソス人の支配した時代であり、世界史との整合性がなく、聖書記述とも矛盾する。エジプト人にとっては異民族の支配という屈辱的な体験であるので記録もほとんどない。ユダヤの史家ヨセフスは、ヒクソスをイスラエルとみており、そのなかから一指導者が現れて、エジプトからカナーンへ移住したということも考えられる。(Mose)

 

 

2025年5月 4日 (日)

西漢南越王博物館

 広州市は2800余年の長い歴史がある。西漢南越王博物館は広州市にある博物館。1983年、南越国の2代目の君主であった文王趙昧(BC175-BC124)の墓が出土した。南越国は西漢初期の地方割拠政権であり、都は番寓居禺にあった。1000点を超える副葬品が出土したが、そのうち「文帝行璽」金印は、国内で初めて出土した漢代金印である。1988年に博物館の建設が始まり、1999年には完成、開館した。

 

2025年4月20日 (日)

郵政記念日

Img_575413_53912056_0
 楽浪出土の封泥

 

    4月20日は「郵政記念日」。昭和9年、逓信省によって「逓信記念日」と制定されたことに因む。手紙を運ぶ近代郵便制度は1635年にイギリスででき、ローランド・ヒルが1837年にペニー郵便制を提案したが、通信の歴史は人間の歴史とともにある。最も古い記録では前1500年頃、古代エジプト第12王朝時代にすでに手紙を運ぶ飛脚を職業とする者がいた。しかし郵便が一定の組織をもち定期的な通信を行うように制度化されたのは、古代アケメネス朝ペルシアの駅制である。この駅制はアンガライオンと呼ばれた。前500年代にキュロス王が創設し、ダレイオス王が完成したこの駅制は広大な版図内に首府を中心として一定の距離に宿泊所を設けて、馬と馬丁を置き、騎馬による継走によって手紙を運ぶという通信機関であった。ペルシアに劣らず古い郵便制度をもっているのが中国である。周代の頃からあると推察されるが、漢の時代に整備された。のちに封泥が発見された。信書としてしたためた木簡に発送するとき封緘をした。それは木簡を縄で縛り、そのうえに泥を押しつけ、泥のうえに印を押捺する。封緘に用いられた泥だから封泥とよばれた。従って封泥のウラ側には縄のあとがくぼんで見られる。郵便物は郵亭をリレー式に運ばれた。angaraion

2025年4月17日 (木)

東西冷戦の変化とウクライナ侵攻

Jfk_14
米ソ首脳のウィーン会談(1961年6月)

 

220pxbernard_baruch_cph_3b33468    第二次世界大戦後のアメリカとソ連との対立は、殺戮を伴う直接手段にはいたらなかったが、国際緊張が続く状態であったため、この情勢を「冷たい戦争」と表現した。「冷戦」(Cold War)という語は、バーナード・バルーク(画像、1870-1965)が1947年4月16日に初めて使い、ウォルター・リップマン(1889-1974)がこの年に出版した著書のタイトルに使い、1948年10月24日、バルークが上院で「冷戦」という言葉を使った事から、ジャーナリズムに定着した。だが、この冷たい戦争も長くは続かなかった。両陣営は平和のうちに共存することができる、という声が高くなり、ここに「雪どけ」が始まった。「雪どけ」は、ロシアの作家イリヤ・エレンブルグの小説(1955年)の題名である。

    東西の対立が続くなか米ソは核開発競走ほ行い、ベルリンの壁が築かれた。1962年キューバ危機では、核戦争寸前にまで米ソ間の緊張は高まった。ドイツ、ベトナム、朝鮮半島が二分された。そして朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争など米ソの代理戦争が起こり、巨額の軍事費は、米ソ両国の経済にとって大きな負担となった。アジアでは、インド・パキスタン・中国が国境紛争などをきっかけに核兵器を開発した。中東ではイスラエルが核兵器を所有していると言われている。そして日本は西側諸国の一員として冷戦体制に組み込まれ、ベトナム戦争では米軍の出撃基地となった。今なお米軍基地がおかれるなど、沖縄は米軍のアジアでの前線基地となっている。ソビエト連邦はアメリカと肩を並べるほどの大国となったが、経済政策の失敗などから、1989年11月ベルリンの壁崩壊からおよそ2年後、ソ漣は解体し、1991年冷戦は終結した。冷戦後は国を越えた世界の一体化(グローバル化)が進展したが、地球規模での環境問題や格差問題などの課題が浮き彫りになった。2001年9月、ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされた2機の飛行機が突入して多数の死傷者がでた。アメリカはアルカーイダの犯行と断定し、潜伏先のアフガニスタンへの攻撃を行った。またロシアのプーチン大統領は冷戦後東へ拡大するNATOに徐々に不満を強め、2022年3月ついにロシアはウクライナに侵攻し、戦争はいまも継続している。2022年の段階で世界には、12720の核弾頭があると推定されている。( Barnard Baruch,Walter Lippmann,Ilya Ehrenburg、世界史 )

2025年4月14日 (月)

リンカーン「死の枕」

Photo_2

 

  1865年のこの日、第16代大統領エイブラハム・リンカーンはフォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースに暗殺された。直後、通りの向かいのピーターセンハウスに運ばれ手当てをうけたが、しばらく昏睡の後、翌日、午前7時21分に亡くなった。そのときリンカーンが使用した枕が展示されている。(Abraham Lincoln,Petersen House,pillow、4月14日)

2025年4月10日 (木)

ルイ3世(西フランク王)

  879年のこの日、ルイ3世は父王ルイ2世の崩御をうけ、弟カルロマン2世とともに西フランク国の王位に就く。フランク王国はカール大帝の死後、3分割されたが、西フランク王国(のちのフランス王国)は、シャルル2世、ルイ2世と継いだ。ルイ3世は882年、狩猟中に事故で崩御。カルロマン2世も2年後に事故死する。(4月10日)

 

2025年4月 9日 (水)

奴隷解放宣言(1862年)

    1861年4月、南部軍のサムター要塞に対する攻撃をもって南北戦争の火ぶたが切られた。経済力の点では北部は圧倒的に優勢だったが、南部にはリーのような有能な将軍がいて、戦争の前半は南部に有利に展開した。しかし戦局が北軍の優勢に転じ始めるのは、1862年9月のアンティタムの戦いころからである。1863年7月1~3日ゲティスバーク会戦で北軍は勝利した。そのころすでにミシシッピー川は全域にわたって北軍に制圧され、シャーマン将軍はアトランタからジョージア州の海岸部に向かって徹底的な破壊作戦を行ない、さらにカロライナへ北上した。一方、引き続く激戦の背後では、南北ともに慎重な外交戦略を展開していた。南部連合にとってはヨーロッパ、とくにイギリスに南部独立を承認させることに、連邦にとってはそれを阻止することが、外交の優先課題だった。1862年9月、イギリスが南部承認の気配をみせると、9月22日、リンカーンは軍総司令部の権限で1863年1月1日を期し占領地域の奴隷を解放する「奴隷解放予備宣言」を発した。リンカーンのこの卓越した政治行動によって、イギリスその他のヨーロッパ諸国の南部承認は中止となった。1865年4月9日、グラント将軍に追われたリー将軍とその軍隊は、バージニア州アポマトックスで降伏、南北戦争はここに事実上終了した。リンカーンがフォード劇場で暗殺者ジョン・ウィルクス・ブースに撃たれたのは4月14日である。リンカーンの死は殉教としてとらえられ、「キリストは人間を尊いものとするために死に、リンカーンは人間を自由にするために死んだ」、あるいは「イエス・キリストは世界のために死に、エイブラハム・リンカーンはかれの国のために死んだ」という言葉が語られ、リンカーンはアメリカ最高の偉人として伝説化されていった。(9月22日)

2025年4月 8日 (火)

春秋の五覇

五覇 周初1000余国あったと伝えられた諸国も春秋初めは140余国となり、魯、衛、晋、鄭、曹、蔡、燕、斉、宋、陳、楚、秦の12国と周と呉をくわえた14国が「史記」十二諸侯年表には記されている。その他に杞憂(キ)、薜(セツ)、虢(カク)、刑(ケイ)、邾(シュ)などがあった。この中から「春秋の五覇」といわれる覇者が出現した。5という数は後世五行思想に基づくもので実数ではない。斉桓公、晋文公、楚荘王、呉闔閭、越勾践(荀子の王覇篇の説)や斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王(西漢の趙岐の孟子の注の説)がある。五覇のなかでも呉越の争いは有名である。呉王闔閭は、越王勾践に撃破され、その折の矢傷がもとで死ぬ。臨終に際し息子の夫差に、「必ず越に復讐して余の無念を晴らせ」と遺命した。父の後を継いで呉王となった夫差は、夜ごと薪の上に臥して、復讐の心を研ぎすました。こうして会稽山の戦いに越を破った。敗れた勾践は、常にかたわらに肝をおき、飲食にこれを嘗め、その苦い味をかみしめては、復讐の念をつのらせた。数年後、勾践は呉を攻めて夫差ほ破った。勾践は、准河を渡り、斉・晋の諸侯と徐州に会し、呉に代わって天下の覇者となつた。

晋の滅亡 晋では晋侯の実権が衰え、実力者であった知伯が趙を攻め、晋陽の戦いがおこった(前455)。3年続いた戦いにより、知伯は敗れ、晋の領土は趙、韓、魏によって三分された。(前453)

   それから50年ほどしての前403年に周王朝から趙・韓・魏が正式に諸侯としての称号を賜ったので、一般にはこの年をもって戦国時代の始まりとする。

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2025年5月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31