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2018年5月20日 (日)

古代ローマの凱旋門

  凱旋門とは、軍事的勝利を讃え、その勝利をもたらした将軍や国家元首や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた門である。フランスのナポレオンがパリに作らせたエトワール凱旋門(1836年)が有名であるが、これは古代ローマの風習にならったものである。現存する古代ローマの凱旋門は壊されたりしたため、完全な形で残っているものは少ない。古代ローマ時代の凱旋門で、現存する最古のものは紀元前27年に元老院が初代皇帝アウグストスに贈呈したリミニにあるアウグストスの凱旋門である。ローマ市内に現存する凱旋門としてはティッスの凱旋門がある。紀元71年ティッス率いるローマ軍はエルサレムとその神殿を略奪して火を放つ。71年にティッスはローマに戻り熱狂的な歓迎を受ける。ティッスは79年に皇帝になるが、2年後に急死したため。弟のドミティアヌスが次の皇帝となり、すくさま兄の業績をたたえる凱旋門を建立した。カンピドリオの丘の麓に建つセプティミウス・セヴェルスの凱旋門は203年に建立したものです。凱旋門の中でも最大のものが315年にコンスタンティヌス1世が建設したコンスタンティヌス凱旋門です。

2018年5月12日 (土)

看護の日

Photo_3     本日を「看護の日」とするのは、1820年フローレンス・ナイチンゲールの誕生日に由来する。1853年、トルコとロシアの間にクリミア戦争が始まった。イギリス、フランスらがトルコを支援した。この戦争には19世紀を代表する2人の人物が関わっている。ナイチンゲールとトルストイである。1853年、ナイチンゲールはロンドンのハーレー街の小さな婦人施療院で看護婦として働いていた。これが陸軍大臣シドニー・ハーバートの目にとまった。翌年10月、ナイチンゲールは38人の看護婦とともにクリミアに向かった。同年7月、ロシアの青年将校トルストイは激戦地セバストーポリに従軍している。信仰心の篤い2人が戦場でみた光景が何であっのかそれは知らない。ただ戦争が青年たちの人生観を大きくかえる出来事だったことは間違いない。ナイチンゲールとトルストイは同じ年の1910年に亡くなっている。ナイチンゲールが亡くなるとき、国葬にしてウェストミンスター寺院に葬ることが話されたが、ナイチンゲールは遺書で拒否し、ハンプシャーのイーストウェロウの小さな教会墓地に埋葬された。世間が偉人と認めながら、偉人であることを拒みつつけた2人はよく似ている。(5月12日)

2018年5月11日 (金)

シンガポール

5971233_134151915319  6月12日のトランプ・金正恩の米朝会談の舞台にシンガポールが選ばれた。シンガポールはアジアと欧米諸国との接点である。18世紀末ころ、マレー半島南部を支配するジョホール王国はリアウ王国とパハン王国に分かれていた。イギリスのインド副総督トーマス・スタンフォード・ラッフルズ(1781-1826)はリアウにあったマレー派の王族フサインをジョホール王として即位させた。1819年2月6日、ラッフルズは条約を締結し、シンガポールを買収した。以後イギリスは、この島に関税のかからない、自由貿易港を建設し、東南アジア貿易の拠点として、イギリス東洋進出が始まった。(Thomas Stanford Raffles,Singapore,Johor Riau)

2018年5月 9日 (水)

映画でみる歴史偉人伝

Img_1189021_32131373_0     オリビア・ハッセーの「マザー・テレサ」(2003年)を見る。あのジュリエットの面影はないが、聖女を美化せず真実の姿が感じられる人間ドラマに出来ている。意外な大物スターが歴史上の偉人を演じる例はいくつかみられる。なかには失敗作もあるが、ご愛嬌的な面がある。無声映画のころから、クレオパトラなどの映画(ゼダ・バラ)は見世物的で人気があった。ハリウッドは大物スターもトンデモ映画に出ている。

  ゲーリー・クーパーがマルコ・ポーロ(「マルコ・ポーロの冒険」1938)、ジョン・ウェインがジンギスカン(「征服者」1956)、モンゴメリー・クリフトがフロイト(「フロイド」1962)、ヘンリー・フォンダがリンカーン(「若き日のリンカーン」1939)、マーロン・ブランドがアントニウス(「ジュリアス・シーザー」1953)、リチャード・バートンがアレキサンダー大王(1956)、カーク・ダグラスがゴッホ(「炎の人ゴッホ」1956)、グレゴリー・ペックがダビデ王(「愛欲の十字架」1951)やマッカーサー(1977)、ジェフリー・ハンターがイエス・キリスト(「キング・オブ・キングス」1961)、ロッド・スタイガーがナポレオン(「ワーテルロー」1970)、クリフ・ロバートソンのケネディ(「魚雷艇109」1963)、ジェラール・ドパルデュー(コロンブス、1492」1991)、オマー・シャリフがゲバラ(1969)、イングリッド・バーグマンがジャンヌ・ダルク(「ジャンヌ・ダーク」1948)など。アジアではチョウ・ユンファが孔子、金城武が諸葛孔明、本郷功次郎が釈迦、勝新太郎が秦始皇帝、山本富士子が楊貴妃、田中裕子が西太后(ドラマ)などを演じている。聖徳太子を本木雅弘、空海を北大路欣也、最澄を加藤剛、親鸞を中村錦之助が演じている。NHKドラマで八百屋お七を前田敦子が演じたが、過去、坂東秋子、柳さく子、美空ひばり、中島そのみ、らが演じている。栗塚旭演じる土方歳三が最高のハマリ役である。 片岡千恵蔵は宮本武蔵、大石内蔵助、近藤勇、国定忠治など主要なヒーローを演じてきたが、「日本暗殺秘録」(1969年)の井上日召は異色である。

    成功例をみると、ジェームズ・スチュワートのリンドバーグ(「翼よ!あれが巴里の灯だ1957)、ポール・スコフィールドのトマス・モア(「わが命つきるとも」1966)、グリア・ガースンのキュリー夫人(1943)、グレタ・ガルボのクリスチナ女王(1935)、マドンナのエビータ(1996)、マリオン・コティヤールのエディット・ピアフ(2007)。なぜか女性物が多い。

2018年5月 8日 (火)

ジャンヌ・ダルク祭

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  イザボー・ド・バヴィエール

  1429年5月8日、ジャンヌ・ダルク(1412-1431)はオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を大敗させた。ジャンヌの父はジャック・ダルク、母はイザベル・ロメールといわれる。しかしフランスには「フランスはイザボーによって破滅し、ジャンヌによって救われた」という言葉がある。この意味はジャンヌ・ダルクはフランス王室(シャルル)の血を受け継ぐものであったという伝説にもとづくものである。イザボーとはシャルル5世の王妃イザボー・ド・バヴィエール(1370-1433)のこと。イザボーは夫のシャルル5世が発狂したあと、シャルル5世の弟ルイ・ド・ヴァロア(オルレアン公)と親密な関係となり、生まれた子がジャンヌ・ダルクと一説にいわれている。ところがヴァロワは1407年謀殺されているので、ジャンヌ・ダルクの生年は定説よりも5年もさかのぼることになるので、24歳で処刑されたことになる。もちろん生年とされる1412年説も明確な根拠があるわけではないのだが、これらの伝説が生まれる背景には、聖女の母親がたとえ裏切者、売国奴、淫乱とされるイザボーであっても、オルレアン党を正当な王統とする史観があるからであろうか。ジャンヌの王女伝説を信奉する人々を「バタルディザン」(バタールとは私生児の意)と呼ぶ。

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2018年5月 4日 (金)

名刺のルーツ

Garamontdebernyetpeignotdsc4444    本日は「名刺の日」。May(メイ)と四(し)で「めいし」の語呂合わせ。日本のサラリーマンが必ず持っているもので、欧米ではあまり見られないものに名刺がある。だが世界で最初に名刺が使われたのはヨーロッパで、16世紀のドイツが起源といわれている。当時、人を訪ねていって不在だった場合、自分の名前を書いたカードを残していったのが名刺の始まり。その後18世紀、名刺はヨーロッパ社交界で盛んになる。この頃の名刺は銅版画を入れた美しいものが流行った。

Img_news    官僚制度が古くから発達した中国では名刺の起源は、少なくとも秦の末期に遡ることができる。漢代には「刺」「謁」と言い、謁見を求める者の姓名と身分を札に記して、取り次ぎを要請するのに使われた。三国、唐と「名謁」「名刺」と呼ばれ、宋代以降「名帖」「名紙」「拝帖」などの呼称がある。近年、古い名刺が墓から出土している。1984年に呉の武将、朱然(182-248)の名刺が発見された。「丹陽朱然再拝 問起居 字義封」と墨書してあり、木簡の長さは24.8㎝、幅3.4㎝。(参考:「漢晋時期における名謁・名刺」呂静香、程博麗、東洋文化研究所紀要160、「人間関係のはじまり」貝塚茂樹 1971、5月4日)

2018年5月 1日 (火)

人類進化と文明への歩み

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左から直立猿人、
ネアンデルタール人、クロマニョン人

  遠い昔の話、ケペルがまだ高校生の頃だった。突然、家に訪問された若い女性が「あなたは人類の祖先がサルだと思いますか」と質問された。「ヒトが猿と分かれたのは、およそ700万年前、アフリカであろう。類人猿は少しづつ進化して現代の人類となった」と進化論で答えた。その人はエホバの証人で、人間がサルから進化したことを否定され、人類は神の創造物だという。ケペルもまだ若かったので、かなり向きになって進化論を主張した。それからもエホバの証人とは何年間も対話を続けるが、やはり進化の話しになると対立する。今でも人類化石の発掘報道がある度に新聞の切り抜きを集めたりする。ラミダス猿人(440万年前)、アウストラロ・アファレンシス(320万年前)、ジンジャン・トロプス・ボイセイ猿人、イダルトゥなど次々と発掘が続いた。ところが諸説あるが、トゥーマイ猿人(サヘラントロブス属)のように実はゴリラだったということもある。人類はいつどこで誕生し、どのように世界へ広がったのだろうか。

 世界史という学問は基本的には人類と文明への歩みを「進化」で解き明かしている。人類は約700万年前から600万年前にかけてアフリカで誕生したことは間違いあるまい。現在の段階で最古の人類と認められるのは猿人であり、アウストラロピテクス属の化石人骨は20世紀に入って多数発見されている。1924年、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石を発見した。しかし当時のイギリスの学界は「キースのルビコン」(脳の容積が750cc以上がヒトで、それより以下がサルとする説、Cerebral Rubicon)といわれる学説が支配的でダートが発見した化石は類人猿とみなされた。しかし1950年にアメリカの学界でアウストラロピテクスは猿人として認められ、ダートの名誉は回復している。猿人は原人へと進化し、100万年以上前にアフリカを出て世界各地に広がったが、アジアに渡ったジャワ原人、北京原人やヨーロッパに渡ったネアンデルタール人は、少なくとも3万年前には絶滅したとされる。つまり旧人から新人へと進化した(多地域進化説)のではなく、約20万年前にアフリカで登場した新人(初期ホモ・サピエンス)が約10万年前にアジアにも広がり、それが現代人へとつながったという説(アフリカ単一説)が有力である。ミトコンドリアDNAの研究では、世界中に分布する人間の集団におけるマイクロサテライト(人類の遺伝的差違の大部分を占める遺伝子領域)解析の結果、中東に住む集団と北東シベリアに住むヤクート族の集団の先祖において、ボトルネックが生じた可能性が高いという。つまりわずか4~6万年前に「出アフリカ」を果たした一団が現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)となって世界各地に広がったとされる。これまでに人類はおよそ1000億人が生まれたと推計される。

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  やがてそれぞれの地方の気候や風土に適応してモンゴル(黄色)人種、ネグロ(黒色)人種、コーカサス(白色)人種などの人種にわかれた。(世界史、アーサー・キース)

脳容積の比較
 猿人(490万年前) 435~600cc
  原人(70~40万年前) 800~1300cc
  旧人(15万年前)  1300~1600cc
  新人(数万年前)  平均1600cc

2018年4月16日 (月)

ドーバーの白い崖

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 1909年7月25日、フランスのルイ・ブレリオは飛行機で初のドーバー海峡横断に成功した。当時、航空機によるイギリス入国は想定外のことで、飛行機を「ヨット」で見なして入国手続きを行った。それから僅か3年後、1912年4月16日、ハリエット・クインビー(1875-1912)が女性で初めてドーバー海峡60キロメートルを飛行機で横断した。その前日に起こったタイタニック号の沈没のためにメディアの注目を集めることは殆どなかった。ハリエットは7月に飛行機事故で37歳で亡くなっている。
   むかしアイリーン・ダン主演で「ドーバーの白い崖」という映画があった。戦時下のイギリスのドラマでヴェラ・リンが歌ってヒットした「ザ・ホワイト・クリフズ・オブ・ドーバー」という主題歌もよく知られている。YouTubeでみるとメッサーシュミットの航空ショーの映像がみえる。やはり「ドーバー」は飛行機と結びついて記憶に残っている。(Harriet Quimby,ハリエット・キンビー、4月16日)

2018年4月12日 (木)

インドの時代区分

   インド史を大きく古代、中世、近世にわけるとすると、だいたいインダス文明から5世紀フン族の侵入によりグプタ朝が滅亡するまでが古代である。カナウジの王ハルシャ・ヴァルダーナが606年ヴァルダーナ朝を建てて、647年に王の死とともに崩壊する。ハルシャの死後、デリーには多数の王国が興亡した。この時代をラージプート諸王朝と呼ぶ。10世紀になってアフガニスタンにトルコ系のガズナ朝(962-1186)とイスラム系のゴール朝(1148-1215)が相次いで興った。13世紀になると奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝と5王朝が興り、デリー・スルタン朝と総称される。1526年、バーブルがパンジャブからベンガルの境までのインドを統一してムガール帝国(1526-1859)を創始した。ここから近世が始まる。(参考文献;M・ヘーダエートゥッラ「中世インドの神秘思想 ヒンドゥー・ムスリム交流史」 1967年、大島康正「時代区分の成立根拠」筑摩書房 1949年 ) 

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 ブバネーシュワルのリンガラージャ寺院 11世紀

 

2018年4月10日 (火)

清末民国現代中国の学者たち

  「碩学大儒」という言葉がある。深い学識をもった大学者のことをいうが、清朝末では張之洞(1837-1909)のように政治家=学者という観があった。啓蒙的思想家、革命家、文学者など政治家と学者の境はない。高校世界史にもかなりの人名が採録されているが概略を把握することも難しい。とりあえず年代順に並べる。「碩学王国維」松崎鶴雄「柔父随筆」座右宝刊行会 1943年。

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     郭沫若                   陳寅格

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     顧頡剛                   梁漱冥

黄遵憲(1848-1905)詩人・外交官

陳三立(1852-1937)詩人・画家

厳復(1853-1921)啓蒙思想家

康有為(1858-1927)政治家 「孔子改制考」

陳漢章(1863-1938)

譚嗣同(1865-1898)「仁学」

羅振玉(1866-1940)考証学、金石学、考古学

蔡元培(1868-1940)哲学

章炳麟(1869-1936)音韻学、仏教、史学

梁啓超(1873-1929)学者、政治家

王国維(1877-1927)考証学、金石学

陳独秀(1879-1942)

陳垣(1880-1971)史学

魯迅(1881-1936)文学者

馬衡(1881-1955)甲骨刻辞

呂思勉(1884-1957)史学

李大釗(1889-1927)

胡適(1891-1962)哲学

陳寅恪(1890-1969)史学

郭沫若(1892-1978)史学 「中国古代社会研究」

張資平(1893-1959)小説 「梅嶺之春」

顧頡剛(1893-1981)史学

梁漱冥(1893-1989) 哲学

銭穆(1895-1990)史学 「中国近三百年学術史」

茅盾(1896-1981)小説

田漢(1898-1968)小説 

老舎(1898-1974)小説

翦伯賛(1898-1968)史学 「歴史哲学教程」

范文瀾(1900-1969)史学 「中国通史簡編」

白寿彜(1909-2000)史学 「民族宗教論集」「中国略史」

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