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2024年2月26日 (月)

脱出の日

Elba  ナポレオンがエルバ島を脱出し、パリに向かった日。これに因んで、嫌な事、辛い事などから脱出を目指して頑張る日。1814年3月31日、フランスはライプツィヒの戦いに敗れてパリが陥落した。ナポレオンはフランス皇帝からの退位宣言に署名させられて、5月3日エルバ島の小領主として追放される。エルバ島はイタリア半島中西部に位置する面積224k㎡の小島。「すみれの花咲くころにはパリに戻ってくる」と言い残していた。戦後処理会議としてウィーンで国際会議が開かれた。会議にはヨーロッパ中の2帝国・90王国・53公国から代表が集まった。接待役オーストリアのリーニュ将軍の「会議は踊る、されど進まず」の言葉どうりに紛糾が続いた。1815年2月26日、ナポレオンは100人の兵士とともにエルバ島を脱出した。3月1日、カンヌ付近に上陸したのち、敵との遭遇を避けるため、険しいアルプスを越えてパリまで進軍した。3月になるころには、ウィーン会議は決裂寸前の状態まできていた。そして3月7日、ナポレオンがエルバ島を脱出したという情報が届いた。列国は数週間のうちに和解を進め、力を合わせてナポレオンと戦うことを約束した。一方、ナポレオン軍は、ナポレオンを攻撃するために差し向けられた兵隊たちも加わって、しだいに膨らんでいった。そして3月20日、ナポレオンはパリに到着し、熱狂的な歓迎を受けた。 ナポレオンの「百日天下」が始まる。

 

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2024年2月15日 (木)

食中毒で死んだお釈迦さま

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  イエス・キリストは十字架磔刑の壮絶な死であったが、釈迦はどのようにして亡くなったのだろうか。前483年(前383年説もある)、80歳の老齢となって首都ラージャグリハを出て、自分の生まれ故郷のほうに向かって最後の旅に出た。途中、鍛治工チュンダの供養したキノコの料理を食べて激しい下痢をおこした。まもなく、クシーナガラ(現ビハール州カシア)の沙羅双樹の下で安らかに没したといわれる。涅槃絵は3月15日に行われる。(2月15日)

2024年2月13日 (火)

世界大戦で2度も敗れた国

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 トラキア人の墳墓

 

    1940年11月20日、ハンガリーは日独伊三国同盟に加盟した。ドイツ・オーストリアの他に、第一次、第二次世界大戦、2度ともに敗れた国はハンガリーとブルガリアである。ハンガリーは1914年に始まった第一次世界大戦にやぶれ、オーストリア・ハンガリー二重帝国は崩壊。ハンガリーは国土の3分の2を失った。1930年代になると領土の回復を求める運動が高まり、ナチス・ドイツに近づき、三国同盟に加わり、参戦するが、途中で停戦しようとしたため、1941年にドイツに占領され、1945年2月13日にソ連軍により解放される。 

   ヨーロッパのバルカン半島北東部に位置するブルガリアは、古来より東西を結ぶ交通の要地にあり、紀元前はトラキアと呼ばれていた。7世紀後半、タタール系のブルガリア民族が侵入、681年にブルガリア王国が成立。1018年東ローマ帝国領となり、1186年独立したが、1396年トルコに征服された。1908年ブルガリア王国として正式に独立を宣言した。第一次大戦では同盟国側に参戦し敗戦。1919年に連合国と講和条約(ヌイイ条約)を締結、多額の賠償金の支払いは小国ブリガリアにとって大きな負担となった。第二次大戦では1941年に日独伊三国同盟の枢軸国に加盟したが、国内では反ナチスの祖国戦線が結成され、1944年親独政権は倒され、1947年ブルガリア人民共和国が成立した。

    第一次大戦でその動向が注目されるのはイタリアである。イタリアは1882年以来、伊独墺で三国同盟を結んでいたが、イタリア政府は中立を宣言して戦局の推移を見守った。しばらく参戦への態度を決しかねていたが、サラウンドラ首相・ソンニーノ外相は1915年4月26日、秘密裏に英仏とロンドン条約を結んで、協商側につく見返りとしてトレンティーノ・トリエステ・ダルマーツィァを取得する約束を得た。この秘密条約にもとづいて政府は三国同盟を破棄し、5月24日オーストリアに対する宣戦を布告する。戦争には悲惨な犠牲を払いながらも、1918年11月3日勝利する。

 

 

 

 

2024年2月10日 (土)

ハーグ密使事件(1907年)

 1905年の第2次日韓協約によって、韓国は日本に外交権を接収され保護国とされた。1907年、オランダのハーグで開催中の万国平和会議に排日派が皇帝の密約を送り、日本からの独立を提訴した。しかし会議参加を拒否されて成功しなかった。この事件で皇帝は譲位、第3次日韓協約を締結。韓国軍隊は解散させられ内政権は総督府の監督下におかれ、後に韓国併合条約が締結さけた。

 

2024年2月 6日 (火)

多民族国家シンガポール

5971233_134151915319  シンガポールはアジアと欧米諸国との接点である。18世紀末ころ、マレー半島南部を支配するジョホール王国はリアウ王国とパハン王国に分かれていた。イギリスのインド副総督トーマス・スタンフォード・ラッフルズ(1781-1826)はリアウにあったマレー派の王族フサインをジョホール王として即位させた。1819年2月6日、ラッフルズは条約を締結し、シンガポールを買収した。以後イギリスは、この島に関税のかからない、自由貿易港を建設し、東南アジア貿易の拠点として、イギリス東洋進出が始まった。

 現在、シンガポールは総人口約585万人。うち中華系が7割以上を占め、次いでマレー系、インド系が主要な民族構成となっています。公用語としては、英語、中国語、マレー語、タミル語があります。言語だけでなく、宗教も多様で仏教、道教、イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教などが信奉されている。(Thomas Stanford Raffles,Singapore,Johor Riau)

2024年2月 1日 (木)

「政治に口出ししたければ金持ちになりたまえ」(ギゾー)

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  「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という幽霊が。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる。法皇とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランス急進派とドイツ官憲」

   この有名な「共産党宣言」の冒頭に登場するフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(1787-1874)とはいかなる人物であろうか。フランスは七月王政時代に産業革命がすすんだが、大地主・銀行家・大商工業資本家などの富裕層によって支配され、たとえば選挙権・被選挙権は一定額以上の納税者に限られていた。有権者はフランス全人口の数パーセントにすぎず、国民の大部分は政治から除外されている。ギゾーは野党の追求に、話が選挙権の拡大におよぶと、かならず「金持ちになりたまえ!」と選挙法改正に反対した。このため1848年2月、労働者や学生が蜂起し、多くのパリ市民も加わり二月革命が起こった。ルイ・フィリップは退位し、臨時政府(第二共和制)は、男子普通選挙法を認めた。ギゾーはロンドンに亡命し、以後は歴史研究に専念した。

 

 

2024年1月28日 (日)

ピョートル大帝

Photo_4   1724年の晩秋のある日、兵士と水兵を乗せたボートが浅瀬にのりあげるという思いがけない出来事が起こった。救助隊がどうすることもできないのを見ると、ロシア皇帝ピョートル1世(大帝)はなんとみずから腰まで冷たい海に浸りながら、ボートを動かした。ピョートル大帝は身長2メートルを超える巨体で、腕力も人一倍強かった。だがこれがもとで肺炎にかかり、翌年1月28日に死去する。

    ピョートル大帝(1671-1725)は、若い頃、西ヨーロッパを遊歴して西欧化に努めた。また、北方戦争でスウェーデン王カール12世を破り、バルト海進出の初志を貫いた。ぺテルブルクの建設。ネルチンスク条約で清・ロシア間の国境を定めた。その多くの事業はエカテリーナ2世によって受け継がれた。女帝は、1782年ぺテルブルクのデカブリスト広場に、馬にまたがるピョートル大帝記念碑を建てた。この像は、のちにプーシキンの詩にうたわれて以来「青銅の騎士」と呼ばれるようになった。(PyotrⅠ)

 

 

 

 

2024年1月19日 (金)

やかんの湯気

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    蒸気機関を改良した技術者ジェームズ・ワットは1736年のこの日、スコットランド・グリーノックの大工の子として生まれる。1763年グラスゴーでのこと。家族そろってのティータイム。ワット家では、食卓のヤカンが沸騰している。息子がヤカンの口をふさぐと、沸騰した蒸気の力で蓋がカタカタと音をたててもちあがった。それをみんなが楽しそうに眺めていた。だがワットはふと「蒸気の力」に気づいた。その日からワットはニューコメン機関の改良に関心を抱くようになり、新しい蒸気機関を発明したという。このワットの有名な逸話は実は、作り話である。17世紀のウスター卿が炉の上の鉄瓶の蓋が湯気で持ち上がるのをみて、蒸気ポンプを作ったという逸話をワットにすりかえたものらしい。

   スコットランド南西部のグラスゴーは産業都市。「国富論」を著わした経済学者アダム・スミス(カコーディー出身)はグラスゴー大学で学び、ジェームズ・ワット(グリーノック出身)はグラスゴー大学で機械工作の仕事に従事していた。(James Watt,Adam Smith,Glasgow,Greenock,Kirkcaldy,1月19日)

2024年1月15日 (月)

ブラック・ダリア殺人切断事件

C54e9a92c3d68f785bcee2d660aaa030     戦争中の殺人事件の増加や、簡単に人を殺す風潮は、多くの人間が戦地で死んでいく状況で生命の価値が軽視されていたことと強く結びついている。戦争によって人間性を踏みにじられた軍人たちが、どのような精神状況で終戦直後を生き抜いたか知ることはなかなかできない。世界的にみても終戦直後の数年は犯罪は、暴力犯罪は55%、性犯罪はほぼ40%も増加した。日本においても金田一耕助シリーズの小説にみえる猟奇的な犯罪が多く終戦直後という時代設定にしているという事も無関係といえない。

   1947年1月15日、ロサンゼルスで起きたエリザベス・ショート(1924-1947)という若い女性の迷宮入りとなった悲惨な殺人事件がよく知られている。女優志望の被害者エリザベスは売春婦・ウェイトレスなどをして稼いでいたが、いつも黒い下着を身につけていたことから、ブラック・ダリアと呼ばれている。女性の死体はウエストの下で2つに切断されていた。片方の大腿には「BV」の文字が刃物で刻まれており、一方の乳房は半ば切り取られ、口の両端は頬まで深く切り裂かれていた。そして死体からは、明らかに血液が抜かれていた。このアメリカ犯罪史上、最も有名な猟奇殺人では40人あまりの嘘の自白があった。この事件では、男性だけではなく女性からも自首してきて、虚偽の自白をした。彼女たちの告白には、べスが自分の男を盗んだので殺したというものが多かったが、自分を捨ててほかの女のもとに走ったので殺したと言った女性もいた。結局、事件から70年近くが経つが真犯人は判らず、迷宮入りとなってしまった。2006年ブライアン・デ・パルマ監督によって、この事件を題材として映画化されている。(Black Dahlia,Elizabeth Short)

2024年1月10日 (水)

賽は投げられたり

Caesarcrossesrubicon   古代ローマの武将・政治家ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前49年1月10日、手兵を率いて、ルビコン川のほとりに着いた。この小川はカエサルが軍事指揮権を持つガリア・キサルピナとポンペイウスの支配下のイタリア本国との境界になっており、軍隊を率いてこの川を越えると、国法にそむくことになる。カエサルはしばらく向こう岸をにらんでためらっていたが、ついに決心して進軍ラッパを吹かせた。

   「賽は投げられたり」とギリシアの喜劇作家メナンドロスのせりふをさけびながらカエサルがルビコンの流れに馬をのり入れると、全軍も彼に従って、ポンペイウスを討とうと一斉に川を渡った。

   ところでアドリア海に注ぐ世界史で最も有名なルビコン川が現在、どの川であるのか、実のところあまりはっきりしない。たくさんの川の中から、どうやらウソ川がそれだというが、嘘のようなホントの話である。(Caesar,Rubicon) 

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