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2018年11月19日 (月)

ゲティスバーグ演説

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    1863年7月3日、アメリカ独立戦争の転換点となったゲティスバーグの戦いは終結した。戦場に横たわる戦死者の数は、南軍北軍合わせて数千人にのぼった。11月19日、ペンシルヴェニア州南部のゲティスバーグで行われた国立戦没者墓地奉献の式典でリンカン大統領は「人民の、人民による、人民のための政治を地上から消滅させてはならない」と演説した。しかしこのとき、ほとんどの聴衆は疲れて演説を聴いていなかった。そして実はこの句はリンカンのオリジナルではなく、イギリスの宗教改革者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)が1384年に出版した旧約聖書の序文に書いたものである。それもウィクリフの言葉を直接引用したものではなく、ユニテリアン派の牧師セオドア・パーカー(1810-1860)の著書からの孫引きだった。(Abraham Lincoln,Gettysburg,Theodore Paker)

2018年11月18日 (日)

都市の発生と成長の3つの段階

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  近代の交通革命、産業革命は、鉱工業都市の発生を促し、人口の都市集中が始まる。そして一国内の内陸部の開発と海上交通の発展は港の繁栄を促し、多くの百万都市が出現する。日本の東海道やニューヨークを中心とする地帯はメガロポリスに発展している。(東京・大阪間は556,4km、ボストン・ニューヨーク・ワシントンD.C.間は約700km)。さまざまな困難に直面する現代都市の問題を考えるには、先ず都市の発生を明らかにしなければならない。

   古代では政治・軍事の中心として城郭都市が発達し、碁盤目状などの道路と城壁をもつ計画都市が発生する。中世になると封建制の成立によって、各地に城主の館を中心とする政治都市・軍事都市が発展、ヨーロッパにはキリスト教寺院を中心とする宗教都市が発展。中世には産業の発達につれて、交通の要地にヴェニスのような商業的な都市が発展する。さらに近世になると、貿易による国家の繁栄を背景にして、海外交通に便利な位置を占める都市が発展する。(リスボン、アントワープ)18世紀末から19世紀にかけてはヨーロッパに産業革命が起こり、工場を中心とした工業都市が現れる。イギリスのマンチェスターでは1760年に3万人だった人口が、1861年には46万人と、100年で15倍になったという。

さまざまな都市(都市の分類)
政治都市 キャンベラ ブラジリア
宗教都市 エルサレム バチカン ラサ 天理
軍事都市 キール トゥーロン ポーツマス サンディエゴ ウラジオストク セヴァストポリ
工業都市 エッセン ピッツバーグ デトロイト 豊田 門真
鉱山都市 ビンガム チュキカマタ カルグーリ
水産都市 ベルゲン アバジーン セント・ジョンズ 焼津
林産都市 シトカ 新宮
海港都市 パナマ ポートサイド 神戸 横浜
交通都市 シカゴ アンカレジ
観光都市 ナポリ モナコ マイアミ
学術都市 オックスフォード ケンブリッジ ハイデルベルク ウプサラ
保養都市 アカプルコ ダージリン ニース

都市の発生
古代オリエント都市国家ウル ジッグラト(ziggurat)
古代ゲルマンの政治的部族社会 キヴィタス(civitas)
中世イタリアの自由都市 コムーネ(comune)

紀元前3000年前の都市は、あくまでも特殊な空間であり、自給自足を原則とする広大な農村に囲まれた特殊な空間だった。今から250年前の産業革命以後になると、都市の工場で生産される工業製品が人類の生活の大部分を占めるようになって都市は強力な「生産の場」となり、著しくパワフルになった。それが都市成長の第二段階である。現在、情報革命の変貌を遂げつつあり、第三段階に入った。情報の集中、地球規模の経済の拠点、電話、インターネット、海・陸・空の一貫高速・大量輸送システムにより維持。

2018年11月17日 (土)

史記・司馬遷関係文献目録

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  前漢武帝の治世の元朔3年(前126)、司馬遷20歳のとき、天下漫遊の旅に出た。河南、安徽、江蘇、浙江、江西、湖南、湖北、山東の各省にわたる大旅行で、前後二、三年はついやしたようである。司馬遷は淮陰に立ち寄った。この地は、漢王朝の成立後、劉邦にあっけなく滅ぼされたが、劉邦、項羽の漢楚興亡のただ中にあっては斉王となり、漢室の一敵国となした名将・韓信の故郷である。司馬遷はこの地の父老たちから韓信の人柄を示す故事を聞くことができた。韓信は若い頃、屠殺屋仲間の若者にばかにされて、その股をくぐらされた「韓信の股くぐり」の話は有名であるが、のちに韓信は、その若者を召し出し、「わしの今日があるのはおまえのおかげだ」といって厚く報いたという。司馬遷は、どのように、こうしたエピソードを集めたのであろうか。じつは「史記淮陰候列伝」の論賛に、司馬遷が収集の経緯の一端を語っている。

    わたしが淮陰に行ったとき、淮陰の人々はわたしにこういった。「韓信は平民であったときでも、その気がまえは普通のものとはちがっていました。彼の母が死にましたとき、貧乏で葬式もできなかったのです。ところが、彼は高爽な、ひらけた場所に墓をつくり、将来その周囲に何万軒もの墓守りをおけるようにしたのです。」と。わたしは彼の母の墓を見にいったが、まことにその通りであった。もし韓信が道理を学び、謙虚な態度をとって自分の功績を自慢せず、その才能を鼻にかけなかったならば、漢室に対して、その勲功はかの周公、召公や太公望などにも比せられて、後世ながく国家の元勲として廟に祭られることにもなったろうものを。ところが彼はそうなろうとつとめずに、天下が統合されたあとで、なお反逆をたくらんだ。一族全滅にみまわれたのも当然ではなかろうか。

    ここには司馬遷の韓信の人柄に対する愛情と、それ故にこそあえて加える批判の筆とがよくあらわれている。(参考:大島利一「司馬遷」清水書院)

史記 影印本「二十五史」所収 2冊 台北・芸文印書館
史記考要 柯維騏 明
史記啓弁 詳論註解 堤大介編 松林堂 1879
啓蒙史記列伝 太田秀敬 青梅堂 1881
史記列伝講義 太田才次郎 開新堂 1893
史記国字解 8冊 桂五十郎 早稲田大学出版部 1919~1920
史記読本 田中慶太郎校訂 文求堂 1930
史記会注考証 10冊 瀧川亀太郎 東方文化学院研究所 1932-34
司馬遷の見たる古代支那の人文地理に就いて 藤田元春 地球16-2、3  1931
史記の孔子伝大要 岡崎文夫 史林17-3  1932
司馬遷と班固 岡崎文夫 史林17-3  1932
史記新講 新撰漢文叢書 梁田忠山 三省堂 1933
史記列伝 上下(国訳漢文大成・経史子部) 国民文庫刊行会 1934
史記・書・世家 国訳漢文大成・経子史部14  国民文庫刊行会 1935
新撰史記鈔詳解 沢田総清・滝沢良芳編 健文社 1936
史記著作考 支那学翻訳叢書5 シャヴァンヌ著 岩村忍訳 文求堂書店 1939
史記編述年代考 山下寅次 六盟館 1940
史記及注釈綜合引得 北平・哈仏燕京学社 1947
史記物語 世界名作全集 増田渉 講談社 1956
史記会注考証校補 全15冊 水沢利忠著 史記会注考証校補刊行会 1955~1960
現代語訳史記4列伝篇 小竹文夫・小竹武夫訳 弘文堂 1957
史記 楚漢篇 新訂中国古典選11  田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1967
史記 漢武篇 新訂中国古典選12  田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1967
史記研究資料索引和論文専著提要 楊燕起・兪樟華編 蘭州大学出版社 1989
史記研究的資料和論文索引 中国科学院歴史研究所 科学出版社 1957
史記 上 中国古典文学全集 野口定男、頼惟勤、近藤光男、吉田光邦訳注 平凡社 1958
史記 中・下 中国古典文学全集 野口定男ほか 平凡社 1959
史記故事精選連環画 全4冊 冀汝枢等編絵 二世一世 1990
史記三家注引書索引 段書安 中華書局 1982
史記参考書目 二十五史史記後附録 開明書店 1935
史記書録 賀次君 商務印書館 1958
史記 楚漢篇 中国古典選 田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1958
史記 世界文学大系 小竹文夫・小竹武夫 筑摩書房 1962
史記 中公新書 貝塚茂樹 中央公論社 1963
史記人名索引 呉樹平 中華書局 1982
史記人名索引 鐘華 中華書局 1977
史記 司馬遷の世界 講談社現代新書 加地伸行 講談社 1978
史記新論 白寿彜 北京・新華書店 1981
史記菁華録 楊姚荢田輯 王興康等標点 上海古籍出版社 1988
史記地名考 銭穆 
史記桃源抄の研究 全5巻 亀井孝・水沢利忠 日本学術振興会 1965~1969
史記桃源抄の研究 本文篇3 日本学術振興会 1970
史記・十八史略演習 吹野安編 笠間書院 1970
史記・十八史略新釈 吹野安編 笠間書院 1970
史記百三十篇篇目的研究 劉偉民 香港聯合書院学報第10期 1972
史記・十八史略 明解古典学習シリーズ 三省堂 1973
史記列伝 下 漢文大系7 重野安繹 冨山房 1973
史記列伝 全5冊 岩波文庫 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳 岩波書店 1975
史記研究之資料与論文索引 王民信編 台湾学海出版会 1976
史記選 項羽本紀 漢文講読課本6 朋友書店 1979
史記を語る 岩波新書 宮崎市定 岩波書店 1979
史記世家 上岩波文庫 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳 岩波書店 1980
史記を読む 研文叢書7 野口定男 研文出版 1980
史記世家 中岩波文庫 岩波書店 1982
史記列伝 世界古典文学全集20  小川環樹他訳 筑摩書房 1982
史記水滸伝唐代伝奇 朝日文庫 陳舜臣 朝日新聞社 1983
「史記」を中国語で読む 相浦杲 PHP研究所 1985
史記選注賄匯評 韓兆琦編注 中州古籍 1990
史記世家 下岩波文庫 岩波書店 1991
史記雕題 上 懐徳堂文庫復刻刊行会監 吉川弘文館 1991
史記探源 二十四史研究資料叢刊 崔適 北京・中華書局 1986
史記点描 人間の生きざまをつづった四十二話 山崎正 公人社 1987
史記・本紀1 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1988
史記・本紀2 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1988
史記・世家上 新釈漢文大系 吉田賢抗  明治書院 1988
「史記」小事典 久米旺生・竹内良雄・丹羽隼兵 徳間書店 1988
史記のつまみぐい 宮脇俊三 新潮社 2004
史記 ビギナーズ・クラシックス中国の古典 福島正 角川ソフィア文庫 2010 

「史才と文章上より見たる司馬遷」 日下寛 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の性行と史記の文章」 児島献吉郎 東亜研究2-5  1912
「史記と外交」 武藤長年 東亜研究2-5  1912
「司馬遷年表並に其孝道」 中山久四郎 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の経学」 狩野直喜 哲学研究3-7  1918
「司馬遷の自由放任説」 小島祐馬 政治経済学論叢1-1   1919
「公羊家の観たる史記」 小島祐馬 支那学1-1  1921
「司馬遷の歴史観に就いて」 本田成之 支那学2-8,9  1922
「史記ノ漢高本紀ニ就テ」 稲葉岩吉 東亜経済研究8-2  1924
「司馬遷の生年に関する一新説」 桑原隲蔵 史学研究(東京)1-1  1929
「史記貨殖列伝論稿」 穂積文雄 東亜同文書院論文集 1930
「司馬遷の人文地理学」 藤田元春 立命館大学1-12  1934
「史記と春秋学」 岡崎文夫 文化1-9  1934
司馬遷 東洋思想叢書 武田泰淳 日本評論社 1943
司馬遷 教養文庫 岡崎文夫 弘文堂書店 1947
司馬遷之人格与風格 李長之 上海開明書店 1948
司馬遷 史記の世界 創元文庫 武田泰淳 創元社 1952
司馬遷著作及其研究資料書目 上海市歴史文献図書館 1955
司馬遷 李鎮淮  上海人民出版社 1955
司馬遷年譜 鄭鶴声編 商務印書館 1956
司馬遷 岡崎文夫 弘文堂 1958
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 文芸春秋社 1959
司馬遷 記録者の意義と生涯 小倉芳彦(世界の歴史3) 筑摩書房 1960
司馬遷所見考 金徳建 上海人民出版社 1963
司馬遷 筑摩叢書 バートン・ワトソン著 今鷹真訳 筑摩書房 1965
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 講談社 1965
司馬遷 史記列伝 世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1968
司馬遷 史記の成立 人と歴史シリーズ 大島利一 清水書院 1972
司馬遷 史記の世界 講談社文庫 武田泰淳 講談社 1972
史記3 支配の力学 丸山松幸・和田武司訳 徳間書店 1972
史記 中国古典シリーズ1 陳舜臣 朝日新聞社 1974
史記補注 池田四郎次郎 明徳出版社 1975
世界をとらえた生涯 司馬遷 市川宏 人物中国志3 1975
史記 中国古典選 田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1978
司馬遷 中公バックス世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1978
司馬遷 諷刺と称揚の精神 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1980
司馬遷 起死回生を期す 中国の人と思想6 林田慎之助 集英社 1984
司馬遷評伝 肖黎著 吉林文史出版社 1986
史記世家 上中下 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1986
史記 司馬遷 徳間書店 1987
司馬遷的創作意識與写作技巧 范文芳 文史哲出版社 1987
司馬遷和史記 劉乃和主編 北京出版社 1987
司馬遷與其史学 周虎林 文史哲出版社 1987
史記 中国古典百言百話 西野広祥 PHP研究所 1988
司馬遷 徳間文庫 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1988
史記 呉越燃ゆ 久松文雄 講談社 1989
史記 世界の名作全集 渡辺武訳 国土社 1990

2018年11月11日 (日)

僭主と陶片追放

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  アテネでは、ペイシストラトス家の僭主政治が倒れたのち、平民の指導者クレイステネスは貴族をおさえ、オストラキスモス(陶片追放制度)により、僭主(チュランノス)の再出をもおさえて民主政の基礎を確立した。前510年クレイステネスの創設といわれるが、前487年になって初めて用いられた。

  毎年、春の民会で、この制度を適用するかどうかが決定され、必要となると一定の日にアゴラで投票が行われた。投票には、オストラコン、すなわち陶片が使われた。陶片に追放者の名前を刻んで投票し、一定数に達すると(一説では6000枚)追放された。

    発見された陶片に書かれた名前を見ると、当時のアテネ市民から、僭主の地位をうかがう者として、疑惑の目を向けられていたことがはっきりわかる。ヒッパルコス、アリスティデス、テミストクレス、キモン、カリクセノス、そしてペリクレスの名前もある。もっともペリクレスは追放の憂き目には遭わなかったという。陶片追放は刑罰ではないので、これにあった者は10年間アテネから一定の距離をはなれたところに住み、解除後は市民となって帰国できることになっていた。また財産権など私法上の市民資格を失うことはなかった。アテネは、この制度でデモクラシーを確立したといわれている。(世界史、tyrannos)

2018年11月 8日 (木)

ワーテルローの敗因は情報伝達ミスだった…

  本日のBSプレミアムは19世紀初頭ヨーロッパの運命を決定した「ワーテルロー」の戦いを早朝から夕方までの戦況を克明に描いた作品。フランス皇帝ナポレオンをロッド・スタイガー、イギリス軍司令官ウェリントン提督をクリストファー・プラマーが扮する。1815年、追放先のエルバ島を脱走し、フランス皇帝として復権したナポレオン。ヨーロッパ各国はこれに対して軍備を整え、6月18日ワーテルローの大決戦がはじまる。10万の兵を超えるフランスのナポレオン軍と、知将ウェリントン率いる6万の英軍とブリュッヒャー率いる7万のプロイセンとの連合軍が激突する。結果はナポレオンの大敗に終わる。映画では仏軍エマニュエル・ド・クルーシー(チャールズ・ミロットが演じる)がプロイセン軍を深追いしたためワーテルローの主戦場に到着が遅れたといわれる。また一説によると、ワーテルローの敗因は、ナポレオンの命令書の文字が悪筆のため「援軍よこせ」と書いたつもりが、「うまくいっている」と誤読したため、味方の将軍が援軍に行かなかったからといわれる。

2018年11月 5日 (月)

ベレンの塔

 ポルトガルのリスボンにある塔で、マヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。1515年着工、1521年完成。

ファラオの呪い

Photo    古代エジプト第18王朝の王ツタンカーメンの墓は1922年のこの日、盗掘を免れて完全な状態で発見された。ところが発見者の1人カーナボン卿が翌年に毒虫に刺されて死んだ。と、思うと、つぎつぎに発掘に関係した人々が変死を遂げた。それは「ファラオの呪い」のためであり、ツタンカーメン王の墓には、「ファラオの休息を乱した者には、たちまち死が襲うだろう」という呪いの銘文が刻まれている。ファラオとは「ペル・アア」(大いなる家)という古代エジプト語のギリシア語形で、もともと王ではなく、王宮を指すのに使われていた。「大いなる家」は神殿領や貴族の所領のような小さなペウル(家)の課税を行うことになっていた。新王国時代以降、この用語は王自身を指すのにしばしば使われるようになった。(11月5日、Tut-ankh-Amen,pharaoh)

2018年11月 4日 (日)

ミハイル・ロマノフ

   1609年から1612年までロシア・ポーランド戦争おこる。ロシアでは皇帝不在の空位期間に陥ったが、1612年のこの日、ロシア国民軍はクレムリンに拠るポーランド軍を一掃し、モスクワを取り戻して、その後、1613年2月、人民、コサックも参加した全国議会にてミハイル・フョードロヴッチはツァーリに選出された。ロマノフ朝のはじまりである。(11月4日)

2018年11月 3日 (土)

メソポタミアにおける灌漑文明の形成

Sumerian  紀元前7000年頃から、北イラクの高地の南のふもとにあるジャルモ遺跡から最も初期の農耕遺蹟、定住的な村落がはじまったと考えられる。牛・羊が飼育され、穀物が栽培されていた。もっとも、はじめのころの農法は、もっぱら天水にたより肥料もほどこさないものだった。紀元前6000年期前半には、ティグリス川中流域におけるサマラ文化の下で灌漑農耕が始まった。イラク北部のハラフ期(前5000年ころ)に、はじめて灌漑をおこない、沼沢地を農地に変えて、バビロニア南部を開拓したのは、エリドゥ人である。この地方は、新石器時代末までは、定住は全くおこなわれなかった。次のウバイド期(前4000年ころ)になるとシュメール人が南メソポタミア地方のアル・ウバイド、ウル、ウルク、ラガシュ、ウカイルなどにウバイド文化を形成する。シュメール人の原住地は不明で、メソポタミア周辺のセム族の言語でもなく、中央アジアを原住地とするアーリア民族の言語でもないところから、インド原住民との関係があるのではないかといわれている。ともなくシュメール人は前4000年ごろに移住定着し、沼地を干拓し、原始農耕を営んでエリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家を建設し、楔形文字と青銅器農具の使用を発明して、古代オリエント文化の基礎を築いた。メソポタミアからパレスチナにおける農耕文明の発生地域を「肥沃な三日月地帯」と言う。

  ウルク期になると、人間の集住のあり方でも、村落をこえて都市というべきものが生まれ、かつての小さな祭祀場も、神殿というべきものに発達していった。そして都市神を奉ずる諸都市では、王権が生まれ、シュメール人の諸王朝が成立した。考古学編年としては、ウバイド期、ウルク期、ジュムデト・ナスル期、初期王朝時代へと続く。(Shumer,Sumerians) 世界史

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2018年11月 2日 (金)

英国カトリック陰謀事件

1678年から1681年に発生したイングランドのカトリック教徒がロンドンを放火し、チャールズ2世を暗殺し、プロテスタントを虐殺し、カトリック復活を計画しているという陰謀の捏造と、それに伴う集団ヒステリーの事件・社会現象である。タイタス・オーツとイズレイエル・トングが事件の仕掛人である。2年半にわたってカトリックを敵視した立法・裁判が横行した。この無謀なたくらみによって、35人におよぶ無実の人々が処刑された。

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