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2020年3月28日 (土)

シルクロード東西文物交流史

 本日は「シルクロードの日」。1900年のこの日、スウェン・ヘディンによって砂漠に埋もれていた古代都市、楼蘭(クロライナ)が発見された。以来100年あまり、世界史では東西交渉や東西交流の研究がさかんである。東西貿易の品目は、珍奇な特産物や上流階級の奢侈品で、たとえば中国の生糸や絹、陶磁器、茶、東南アジアの香辛料。時代が下り、中国で発明された製紙法が西伝した。西から東へは馬、トンボ玉、ガラス器、葡萄酒など多くの文物が東伝した。中国の本草書「本草綱目」などによると、「葡萄」や「苴宿(馬ゴヤシ)」はいずれも漢の張騫が持ってきたと書いてある。ほうれん草も西方からもたらされたものだが、ずっと後のこと。唐代に「頗稜国」からきたとある。ペルシア(現在のイランを指す)であるが、後に改字して「菠薐(ホリン)」となり、日本では転化して「ホウレン」となった。ちなみに日本に伝わったのは江戸時代初期の頃で、「唐菜」「赤根菜」」の名称で渡来したが、あまり普及しなかった。

   東西交流の影響は文物だけではない。絵画をはじめとする芸術もその影響がみられる。7世紀末の仏教絵画である法隆寺金堂壁画は1949年の火災で惜しくも消失したが、近年東京芸大のクローン復元でよみがえった。この絵画はむかしインドのアジャンター石窟群との類似が説かれたこともあったが、近年は中国唐代に盛行むした、仏教絵画様式が直接的に影響を受けている。つまり、敦煌、キジル、ホータン・・・シルクロードのさまざまなオアシスで開花した技法が使われていた。作者は不明であるが、高句麗から渡来した僧、曇徴とする説もある。中央に阿弥陀仏を描き、両脇に観音菩薩立像、勢至菩薩立像のの両脇侍像が配置された三尊仏の構図である。(3月28日)

 

 

2020年3月27日 (金)

朝鮮王朝廟号の謎

    高麗王朝を倒し、1392年のこの日、李成桂は朝鮮を建国した。太祖(在位1392-1398)から定宗、太宗、世宗、文宗、端宗、世祖、睿宗、成宗、燕山君、中宗、仁宗、明宗、宣祖、光海君、仁祖、孝宗、顕宗、粛宗、景宗、英祖、世祖、純祖、憲宗、哲宗、高宗、純宗。朝鮮王朝は27代、518年間続いた。○祖が7人、○宗が18人、〇君が2人である。燕山君と光海君は王位を剥奪されたため廟号がない。では○祖と○宗、その違いは何か?どの王が祖になるか宗になるについては「祖功宗徳」とあって、すなわち「功のあった王には祖、徳のあった王には宗」という原則がある。例えば世祖は「癸酉靖難」という危機を克服した功で、宣祖は「壬辰倭乱」を克服した功で祖である。朝鮮ルネサンスを築いた正祖はもともとは「正宗」だったが、後に「正祖」となった。最後の王である純宗は1910年、日韓併合によって、李王として王族に封じられ、ソウルの昌徳宮に住んだが、1926年に死去した。皇太子の李垠(イ・ウン)は1920年に梨本宮方子(1901-1989)と政略結婚させられた。2人の間には李晋(夭折)と李玖の2人の子があった。李玖には実子はなく、2005年に日本で死去。李方子は1989年4月にソウルで死去している。(3月27日)

 

2020年3月17日 (火)

ウィンドボナ(白い岩)

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    ヨーロッパの古都ウィーンという地名は、心を明るくする響きをもつ。なごやかな気持ちになり、何となくはしゃぎたくなるのだ。モーツアルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウスなどの音楽家が活躍した音楽の都だからだろうか。あるいは多くの人々の想念のなかにある御伽の国を思い浮かべるだろうか。

    紀元前4世紀頃、ケルト人たちによってドナウ川上流右岸に集落がつくられ、前50年にローマ軍はここに侵入し、前15年から14年にティベリウスとドルススが征服し、レディア・ノリクム・バンノニアの3州がつくられた。バンノニアの中心地はケルト語をそのまま引き継いで、ウィンドボナ(白い岩)またはウィンドミナ(白い河)と呼ばれ、ローマ帝国の北辺を守る要衝の一つとして軍隊が駐屯する要塞都市となった。「ボナ」は「集落・町」、「ウィンド」は「白い」という意味。別の説ではウィンドの語源はケルト語のベズニア(木、森)の意味とある。この付近が「ウィーンの森」といわれるように、アルプス山系の森林地帯であったからである。いずれが正しいか明らかではない。

   177年ドナウ戦争のために出征していたローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)は180年3月17日、この地で陣没したといわれる。民族移動の口火をきったフン族はアッチラに率いられて5世紀ころには一時このあたりにとどまり、またイタリアにはいる前の東ゴートもここに国をつくった時代がある。城砦と町は5世紀の民族移動による混乱で消滅したが、その構造が一部残って中世都市の基礎となり、それが今日でも市の中心部の地取りを決めている。

    古名ウィンドボナは、881年にはヴェニア(Wenia)と記録され、これが転化してウィーンとなった。1156年にはバーベンベルク家の下で首都となり、急速に重要性を増した。都市キビタスとしての特許状は1137年にすでに与えられていたが、1221年には商業独占権が認められて商業の中心地となり、その関係で十字軍の聖地への発進地にもなれば、ドイツ騎士団の後援者にもなった。

2020年3月16日 (月)

アリアドネの糸

  1900年3月16日、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズがミノタウロス伝説で有名なクレタ島のクノッソス遺跡を発掘した。ミノタウロス伝説とは次のようなお話である。

   むかしクレタ島のクノッソスにはミノスという王がいて、エーゲ海の他の島々まで支配していた。その妃が美しい牡牛に恋して、その間に牛頭人身の怪物ミノタウロスが生まれた。ミノス王は海上支配の手をギリシアの本土までのばし、その結果アテネ人は9年ごとに未婚の男女7人ずつをクレタの王宮に送らねばならなかった。そしてかれらは迷宮の奥に棲むミノタウロスの餌食となろうとしたが、アテネの英雄テセウスがみずからすすんでクレタに送られる仲間にはいる。テセウスに好意を抱くミノス王の娘アリアドネは、迷宮へはいる際に一個の糸玉をかれに与える。テセウスは糸に導かれて、ついに怪物を退治する。そして糸をたよりに出口を探し出し、迷宮から無事ぬけだすことができた。テセウスとアリアドネの二人は結ばれる。この伝説からして、「アリアドネの糸」とは、難問に手がかりを与えるものを指すことになっている。(参考:村川堅太郎『世界の歴史2』中央公論社 1961年)

 

 

2020年3月15日 (日)

西晋

UNIT25.西晋

 

中国の再統一 280年3月15日、魏の将軍・司馬炎(武帝)が呉の孫皓を滅ぼして、晋(西晋)を建国。首都・洛陽。

 

門閥貴族 九品官人法の整備 「上品に寒門なく、下品に勢族なし」

 

占田・課田(土地制度)

 

戸調式(税制)

 

八王の乱(300-306年)帝位をめぐる一族の争い

 

滅亡 永嘉の乱(311年)により、長安は衰退。315年、前趙の軍が長安に迫り、官民に餓死者がでる。愍帝は劉曜に滅ぼされる(316年)

2020年3月14日 (土)

朝鮮戦争

38dosen_s   思い違いで、ずっと勘違いしていることがある。「38度線」は、朝鮮半島の南北の分断を象徴する言葉だが、実際は38度線そのものが国境線ではない。

   1945年、日本の敗戦により朝鮮半島は36年に及ぶ日本の植民地支配から解放された。同年12月、米英ソ3国外相会議は朝鮮半島を向こう5年間信託統治する案を決めたが、東西冷戦の深まるなか、1947年10月、最終的に決裂。翌48年5月には南側地域のみで単独選挙が行われ、同年8月、大韓民国が成立。北側にも、ソ連などに後押しされる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立され、38度線は東西対決の軍事境界線となった。

   東西両陣営の対立を背景に、1950年6月に始まった朝鮮戦争はアメリカを主力とする国連軍が韓国側に、中国義勇軍が北朝鮮側に加わり、戦局は一進一退を繰り返した。1951年3月14日には国連軍がソウルを再奪回した。やがて、平和を切望する国際世論が高まり、53年7月27日、休戦協定が板門店(パンムンジョン)で調印された。「板門店」の地名の由来は一人の中国人兵士が食堂に書いた漢字の落書きが発端になったといわれる。協定で画定された休戦ラインは板門店がある38度線を横切り、その西端で38度線の南側へ、東は端で北側にそれぞれくいこむ形となっている。

 

 

 

 

2020年3月 7日 (土)

エルバ島からの脱出

Elba   1814年3月31日、パリは陥落した。ナポレオンはフランス皇帝からの退位宣言に署名させられて、5月3日エルバ島の小領主として追放される。エルバ島はイタリア半島中西部に位置する面積224k㎡の小島。「すみれの花咲くころにはパリに戻ってくる」と言い残していた。戦後処理会議としてウィーンで国際会議が開かれた。会議にはヨーロッパ中の2帝国・90王国・53公国から代表が集まった。接待役オーストリアのリーニュ将軍の「会議は踊る、されど進まず」の言葉どうりに紛糾が続いた。1815年2月27日、ナポレオンは100人の兵士とともにエルバ島を脱出した。3月1日、カンヌ付近に上陸したのち、敵との遭遇を避けるため、険しいアルプスを越えてパリまで進軍した。3月になるころには、ウィーン会議は決裂寸前の状態まできていた。そして3月7日、ナポレオンがエルバ島を脱出したという情報が届いた。列国は数週間のうちに和解を進め、力を合わせてナポレオンと戦うことを約束した。一方、ナポレオン軍は、ナポレオンを攻撃するために差し向けられた兵隊たちも加わって、しだいに膨らんでいった。そして3月20日、ナポレオンはパリに到着し、熱狂的な歓迎を受けた。 ナポレオンの「百日天下」が始まる。

 

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2020年3月 2日 (月)

フランス革命の群像

Aduc_01     宝塚歌劇の魅力の一つは男装の麗人である。戦後最大のヒット作「ベルサイユのばら」は王妃マリー・アントワネットを中心にオスカル、アンドレ、フェルゼンといった貴公子が颯爽と登場する。とくにオスカルは父ジャルジュ将軍の意向で、女でありながら男のように精悍に育てられ、王妃を身を挺して守るというストーリー。歴女と言う言葉が流行しているが、架空人物を知っていても歴史ではない。フランス革命史に登場する人物名は多く複雑である。女性がこれほど歴史に現われる時代は他国にはみられない現象であろう。たとえば「ああ、自由よ!汝の名においていかに多くの罪がおかされていることか」という名言をのこして、処刑されたのはマノン・ロラン(1754-1793)である。テロワーニュ・ド・メリクール(画像1762-1817)はバスティーユ牢獄を襲撃し、ベルサイユ行進を指揮した男装の麗人で、「自由のアマゾンヌ」と呼ばれた。マラー(1743-1793)を刺殺したジロンド派の若い女シャルロット・コルデー(1768-1793)も絵画に描かれ有名である。ルイ15世の愛妾ジャンヌ・デュ・ベリ(1743-1793)やマリー・アントワネットの女友だちランバル公爵夫人(1749-1792)もフランス革命史にその名を残すこととなった。

 

    18世紀に起きたフランス革命は現代の世界においても最も影響を及ぼした事件である。しかしながらフランス革命史の中心人物はアンシャン・レジームの中心人物、ルイ16世(1754-1793)であろう。つぎにルイ16世の従弟オルレアン公(1754-1791)。銀行家ネッケル(1732-1804)、ラモワニョン、オノーレ・ミラボー(1749-1791)、バルナーヴ(1761-1793)、ロベスピエール(1758-1794)、ダントン(1759-1794)、マラー(1743-1793)、カミーユ・デムーラン(1762-1794)、シェニエ(1762-1794)、サン・ジュスト(1767-1794)、コロー・デルボワ(1749-1796)、ジロンド派のブリッソー(1754-1793)、ヴェルニヨ(1753-1793)、イスナール(1751-1825)、アンリオ(1761-1825)、私有財産廃止を説いたバブーフ(1760-1797)。メルラン(1755-1793)、ペチヨン(1756-1794)、ビュゾー(1760-1794)、天文学者バイイ(1761-1793)、ラメット兄(1757-1832)、ラメット弟(1760-1829)、タレーラン(1754-1838)などなど複雑である。Theroigne de Mericourt

2020年3月 1日 (日)

世界史におけるロマン主義

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 死の直前に撮影されたショパンの写真

 

   フレデリック・ショパンは1810年3月1日、ワルシャワ近郊のジェラソワ・ウォラで生まれた。ロバート・シューマンは1810年6月8日、ザクセンのシウィッカウの書籍商の子として生まれた。音楽の分野では2人はロマン主義音楽といわれる。ここではロマン主義とは何か、世界史の歩みのなかで考えてみよう。 

     18世紀の啓蒙主義はアメリカの独立宣言(1776年)、またフランス大革命(1789年)のための思想的武器となったものであり、イギリス産業革命の基調たる経済的合理化主義にも大きな影響を与えた。だがドイツの哲学者カントはすでに「純粋理性批判」(1781年)において人間理性の認識能力の限界を批判論断し、啓蒙主義から超脱していた。音楽の分野においては、ベートーベンの作品はウィーン古典派の頂点わ示すものである。今やフランス革命、ナポレオン戦争を経て、多年の戦乱に疲れ果て平和を求めること切であった。19世紀初めの欧州では、保守的復古的な反動が支配し、この反動と結びついたロマン主義が啓蒙主義に対する反動として隆盛をきわめた。フィヒテ、シェリングや弁証法で名高いヘーゲルの哲学のなかにもロマン主義的傾向が濃厚である。「アタラ」「ルネ」を著わしてフランス・ロマン主義の先駆となったシャトーブリアンや、義勇兵としてギリシア独立戦争に参加陣没したイギリスの情熱詩人バイロン、さらに未完成交響曲で知られるオーストリアのシューベルトなどは、代表的なロマン主義の芸術家である。しかるにロマン主義は極端に感情と空想とを重んじ、過去を美化しその栄光に溺れて、現実から全く遊離したものであったがために、19世紀中頃になると、その反動として、現実主義が台頭してきた。現実主義は、産業革命の所産と言われる科学的社会主義やコントの実証主義や自然科学の発展と結びついたものである。イギリスのチャールズ・ダーウィンの「種の起源」は、現実主義隆盛の序曲を奏でたものといえよう。現実主義は、文芸上は自然主義と称せられ、現実・理知・客観を追及して、人生の真理を白日のもとに暴露し世の批判を求めんとするものである。だが音楽の分野においては自然主義的傾向はほとんど認められず、シューベルト、ベルリオーズ、シューマン、ショパン、リスト、ワグナーとロマン主義が開花していく。

2020年2月28日 (金)

マダガスカルの歴史

  アフリカ大陸の南東、インド洋西部に位置する世界第4位の面積を持つマダガスカル島。この島には、鉄器時代からインドネシアと東アフリカの船乗りたちが住んでいた。インド洋は中世初期にインドネシア人とインド人によって盛んに航海が行われており、現在の住民構成にもその跡を残している。9世紀からはアラブのイスラム教徒がアフリカ東海岸にも移民していた。南東岸では彼らは先住民、特にアンテモロ族と混血していった。北西岸にはいくつかの大きなアラブ植民地があり、アノロツェンガナ、マジュンガその他の港を支配し、その固有の風俗を保持していた。17世紀初めのおもな王国はアンテモロ、アンテサカ、ベツィレオ、ならびにメリナであったが、いずれもまだ小地域を支配するにすぎず、メリナ族はタナナリブ周辺を支配するだけであった。18世紀の末にはアンバリアナムボイニメリナ(在位1787-1810)という英雄が現れ、分裂していたメリナ王国を統一した。しかし19世紀になるとフランスからの攻撃を受け、やがてメリナ王国は衰退の道をたどる。1897年フランスはマダガスカルを占領し、メリナ王国の最後の国王ラナヴァルナ2世は退位した。1946年までフランス植民地であり、58年までフランス連合内の海外領土。それ以後はフランス共同体に属する一国となった。1960年マダガスカル共和国として独立する。

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