無料ブログはココログ

2017年11月19日 (日)

ゲティスバーグ演説

Thegettysburgaddress

    1863年7月3日、ゲティスバーグの戦いは終結した。11月19日、ペンシルヴェニア州南部のゲティスバーグで行われた国立戦没者墓地奉献の式典でリンカン大統領は「人民の、人民による、人民のための政治を地上から消滅させてはならない」と演説した。しかしこのとき、ほとんどの聴衆は疲れて演説を聴いていなかった。そして実はこの句はリンカンのオリジナルではなく、イギリスの宗教改革者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)が1384年に出版した旧約聖書の序文に書いたものである。それもウィクリフの言葉を直接引用したものではなく、ユニテリアン派の牧師セオドア・パーカー(1810-1860)の著書からの孫引きだった。(Abraham Lincoln,Gettysburg,Theodore Paker)

2017年11月 4日 (土)

ミハイル・ロマノフ

   1609年から1612年までロシア・ポーランド戦争おこる。ロシアでは皇帝不在の空位期間に陥ったが、1612年のこの日、ロシア国民軍はクレムリンに拠るポーランド軍を一掃し、モスクワを取り戻して、その後、1613年2月、人民、コサックも参加した全国議会にてミハイル・フョードロヴッチはツァーリに選出された。ロマノフ朝のはじまりである。(11月4日)

2017年11月 1日 (水)

史記・司馬遷関係文献目録

3748c057fa9942ec487fd6d091ac364b

  前漢武帝の治世の元朔3年(前126)、司馬遷20歳のとき、天下漫遊の旅に出た。河南、安徽、江蘇、浙江、江西、湖南、湖北、山東の各省にわたる大旅行で、前後二、三年はついやしたようである。司馬遷は淮陰に立ち寄った。この地は、漢王朝の成立後、劉邦にあっけなく滅ぼされたが、劉邦、項羽の漢楚興亡のただ中にあっては斉王となり、漢室の一敵国となした名将・韓信の故郷である。司馬遷はこの地の父老たちから韓信の人柄を示す故事を聞くことができた。韓信は若い頃、屠殺屋仲間の若者にばかにされて、その股をくぐらされた「韓信の股くぐり」の話は有名であるが、のちに韓信は、その若者を召し出し、「わしの今日があるのはおまえのおかげだ」といって厚く報いたという。司馬遷は、どのように、こうしたエピソードを集めたのであろうか。じつは「史記淮陰候列伝」の論賛に、司馬遷が収集の経緯の一端を語っている。

    わたしが淮陰に行ったとき、淮陰の人々はわたしにこういった。「韓信は平民であったときでも、その気がまえは普通のものとはちがっていました。彼の母が死にましたとき、貧乏で葬式もできなかったのです。ところが、彼は高爽な、ひらけた場所に墓をつくり、将来その周囲に何万軒もの墓守りをおけるようにしたのです。」と。わたしは彼の母の墓を見にいったが、まことにその通りであった。もし韓信が道理を学び、謙虚な態度をとって自分の功績を自慢せず、その才能を鼻にかけなかったならば、漢室に対して、その勲功はかの周公、召公や太公望などにも比せられて、後世ながく国家の元勲として廟に祭られることにもなったろうものを。ところが彼はそうなろうとつとめずに、天下が統合されたあとで、なお反逆をたくらんだ。一族全滅にみまわれたのも当然ではなかろうか。

    ここには司馬遷の韓信の人柄に対する愛情と、それ故にこそあえて加える批判の筆とがよくあらわれている。(参考:大島利一「司馬遷」清水書院)

史記 影印本「二十五史」所収 2冊 台北・芸文印書館
史記考要 柯維騏 明
史記会注考証 瀧川亀太郎 東方文化学院研究所 1932-34
司馬遷の見たる古代支那の人文地理に就いて 藤田元春 地球16-2、3  1931
史記の孔子伝大要 岡崎文夫 史林17-3  1932
司馬遷と班固 岡崎文夫 史林17-3  1932
史記及注釈綜合引得 北平・哈仏燕京学社 1947
史記会注考証校補 6冊 水沢利忠著 中文出版社
史記研究資料索引和論文専著提要 楊燕起・兪樟華編 蘭州大学出版社 1989
史記研究的資料和論文索引 中国科学院歴史研究所 科学出版社 1957
史記故事精選連環画 全4冊 冀汝枢等編絵 二世一世 1990
史記三家注引書索引 段書安 中華書局 1982
史記参考書目 二十五史史記後附録 開明書店 1935
史記書録 賀次君 商務印書館 1958
史記 世界文学大系 小竹文夫・小竹武夫 筑摩書房 1962
史記 中公新書 貝塚茂樹 中央公論社 1963
史記人名索引 呉樹平 中華書局 1982
史記人名索引 鐘華 中華書局 1977
史記新論 白寿彜 北京・新華書店 1981
史記菁華録 楊姚荢田輯 王興康等標点 上海古籍出版社 1988
史記地名考 銭穆 
史記百三十篇篇目的研究 劉偉民 香港聯合書院学報第10期 1972
史記研究之資料与論文索引 王民信編 台湾学海出版会 1976
史記選注賄匯評 韓兆琦編注 中州古籍 1990
史記探源 二十四史研究資料叢刊 崔適 北京・中華書局 1986

「史才と文章上より見たる司馬遷」 日下寛 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の性行と史記の文章」 児島献吉郎 東亜研究2-5  1912
「史記と外交」 武藤長年 東亜研究2-5  1912
「司馬遷年表並に其孝道」 中山久四郎 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の自由放任説」 小島祐馬 政治経済学論叢1-1   1919
「司馬遷の生年に関する一新説」 桑原隲蔵 史学研究(東京)1-1  1929
「司馬遷の人文地理学」 藤田元春 立命館大学1-12  1934
司馬遷 東洋思想叢書 武田泰淳 日本評論社 1943
司馬遷 教養文庫 岡崎文夫 弘文堂書店 1947
司馬遷之人格与風格 李長之 上海開明書店 1948
司馬遷 史記の世界 創元文庫 武田泰淳 創元社 1952
司馬遷著作及其研究資料書目 上海市歴史文献図書館 1955
司馬遷 李鎮淮  上海人民出版社 1955
司馬遷年譜 鄭鶴声編 商務印書館 1956
司馬遷 岡崎文夫 弘文堂 1958
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 文芸春秋社 1959
司馬遷 記録者の意義と生涯 小倉芳彦(世界の歴史3) 筑摩書房 1960
司馬遷所見考 金徳建 上海人民出版社 1963
司馬遷 筑摩叢書 バートン・ワトソン著 今鷹真訳 筑摩書房 1965
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 講談社 1965
司馬遷 史記列伝 世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1968
司馬遷 史記の成立 人と歴史シリーズ 大島利一 清水書院 1972
司馬遷 史記の世界 講談社文庫 武田泰淳 講談社 1972
史記3 支配の力学 丸山松幸・和田武司訳 徳間書店 1972
世界をとらえた生涯 司馬遷 市川宏 人物中国志3 1975
司馬遷 中公バックス世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1978
司馬遷 諷刺と称揚の精神 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1980
司馬遷 起死回生を期す 中国の人と思想6 林田慎之助 集英社 1984
司馬遷評伝 肖黎著 吉林文史出版社 1986
司馬遷的創作意識與写作技巧 范文芳 文史哲出版社 1987
司馬遷和史記 劉乃和主編 北京出版社 1987
司馬遷與其史学 周虎林 文史哲出版社 1987
司馬遷 徳間文庫 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1988

2017年10月31日 (火)

大航海時代以前におけるユーラシア東西文化交流

   ユーラシア大陸は、5476万㎢という広大な面積をもち、その内にはヨーロッパ、西アジア、南アジア、中央アジア、東アジアなど、古くからの文化圏を有し、さまざまな国家が興亡をくりひろげてきた。日本では長らく古代文明の誕生を「四大文明」として固定化してきたが、それぞれの文化圏が各地域の独自性とともに、東西の交易活動によって人が往来し、文字や文物などが伝播・交流してきた多様性が説明しにくくなる。とくに中国文明=黄河文明としてきたが、長江文明を看過することはできない。だが東西相互の史料の一致や、物的証拠などを十分に揃えることは困難であり、その検証作業は難しい。いわゆる一元論か多元論か。二例あげると、いちばん有名なのは騎馬民族説。東北ユーラシア系の騎馬民族が、朝鮮を支配し、やがて日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の王朝を支配ないし合作して、大和朝廷を立てたという説。江上波夫がこの仮説を提唱するも、学界では否定されている。また有名な法隆寺のエンタシスなどもその起源をギリシアにあると仮説を立てたが、よく知られるわりには、学問上で実証されたわけではなく、今日においてはギリシアと法隆寺とは言う関連性が低いという考えが一般的である。

人類はるかな旅

  約20万年前の東アフリカで誕生したホモ・サピエンスの集団は、10万年前にシナイ半島を渡り、ユーラシア大陸に分布した。日本列島にはさまざなルートが考えられる。東南アジアに到着し、北上して日本列島に流入するというルートが有力である。(沖縄・港川人骨)。旧石器時代。前3万5000年移動狩猟生活。前3500年ころから新石器時代はじまる。

 気候の温暖化→文明の誕生。メソポタミア(ウル第一王朝)。エジプト(ノモス)。前2000年ごろ黄河文明の彩陶文化(オリエント文明の影響がみえる)。秦始皇兵馬俑(ギリシア美術の影響)。しかしこれらは推論の域をでず、実証することはなかなか難しい。後漢書に記された「大秦国王安敦」は本当にローマ皇帝の使者であるのか?ローマ側の史書には記述がなく、献上品はインドやアフリカのものであることなどから、ペルシアの商人が偽って中国と貿易を企てたのかもしれない。前4世紀ころから中央アジアやモンゴル高原、南ロシアにかけて遊牧騎馬民族が出現した。スキタイ、匈奴、鮮卑、柔然、エフタル、ウイグルそしてモンゴル。13~14世紀のユーラシア大陸はモンゴル帝国の成立によって、政治的秩序がもたらされ東西交流が発展した。

部族・国家の多様性(ユーラシア諸民族の興亡)

内陸アジアの遊牧民 スキタイ文化(南ロシア、ギリシアの影響を受けた青銅器文化)

匈奴が東西貿易権と中央アジアの征服を図る 漢との抗争 4世紀匈奴の西進(フン族の移動)→ゲルマン民族の大移動

西域諸国 亀茲 温宿 于闐 疏勒 姑墨 焉耆 楼蘭 鄯善 且末 杆彌 莎車 康居 奄蔡 大苑 烏孫 大月氏 安息

朝鮮 高句麗 百済 新羅 高麗王朝 李氏朝鮮 渤海

日本 徐福伝説 倭国 邪馬台国と卑弥呼 倭の五王 大和王権 倭寇と元寇 琉球 

チベット 吐蕃 吐谷渾

東南アジア ヴェトナム(ドンソン文化)

東モンゴリア 契丹→遼→西遼 モンゴル帝国 

トルコ系民族 鮮卑 柔然 エフタル 突厥 ウイグル ガズニ王朝 セルジューク王朝、ホラズム王朝 ゴール王朝 奴隷王朝 ティムール帝国 オスマン王朝

イスラム アッバース朝

イラン系民族 ペルシア パルティア ササン朝

スラブ民族

物の交流と多様性 西から東へ、東から西へ

原始農耕文化の伝播  ジャルモ遺跡(前6800年~前5800年頃) エンマー小麦・豆類、ヤギ・犬・豚の家畜化。黄河流域のアワ・キビ文化、長江流域のイネ。河姆渡遺跡(前5000年~前4500年頃)→日本の縄文文化(菜畑遺跡 熱帯ジャポニカ)→弥生時代の水田耕作(温帯ジャポニカ)

日本への土器の伝播 西アジアの彩文土器(前5000年頃) 仰韶文化(前4000年~前3000年) 縄文土器

日本への銅・青銅  メソポタミア・エジプト(前3500年) 二里頭文化(前2000年)→殷・周→朝鮮半島へ伝播(大邱遺跡)

Sub03_02_05_3
 青銅製の鏃(朝鮮・大邱)

鉄の伝播 小アジア(前1500年頃) ロシア沿海州クロウノフカ遺跡・ポリツェ遺跡(前1000年頃) 中国では殷時代に鉄が使用された

  インドやイランの文物が、「絹の道」により中国に伝播した。東アジアから西方に伝播したものに、生糸や絹、時代がくだると製紙法や養蚕技術、火薬・羅針盤の伝播などがある。またヨーロッパでは、中国産の陶器や茶、東南アジアの香辛料がもてはやされた。

ヒトの交流史

前334年 アレクサンドロス大王の東征(~前333)
前139年 漢の張騫、西域に使いす(~前126)
94年 班超、カシュガルを討ち、西域50余国を服属
97年 甘英をローマに派遣する
166年 大秦王安敦の使者、中国に来る
399年 法顕、天山路よりインドに出発(~413)
401年 クチャの僧、鳩摩羅什が長安において仏典の翻訳を開始する
629年 玄奘、西域よりインドに出発(~645)
635年 ペルシア人オロボン阿羅本、景教を伝う
1271年 マルコ・ポーロの東方旅行(~1295)
1325年 イブン・バトゥータの大旅行(~1349)
1562年 朶思麻、オスマン銃を伝う

7e61087e29e27f91358e06a16b523b75dcc

2017年10月28日 (土)

陽が当たらないからどいてくれ

Thomas_christian_wink__diogenes_and

   世の中、お金を儲けたい人や地位や名声・権勢を得たいと思っている人がほとんどであろう。ゆえにこの世界史挿話は永遠に語り継がれることだろう。アレクサンドロスはディオゲネスの評判を聞いて、コリントにいた老哲学者を訪ねた。学者は酒樽を住まいとし、物質的なものを求めず、無欲な生活をしていた。王は「ディオゲネスよ、望みを1つ言うがよい。かなえてやろう。費用はいくらかかっても構わぬ」と言うと、ディオゲネスは「ならば、ちょっとよけて陽が当たるようにしてくれ」と言った。居合わせた供の者たちは、学者の無礼に憤激してしきりに愚弄した。それをなだめて王は言った。「余が仮にアレクサンドロスでないならば、ディオゲネスになりたいところだ」

    この逸話は世界史の数あるエピソードのうちでも秀逸である。大王が33歳の若さで夭折したことを思うと、「陽が当たらないからどいてくれ」という言葉は、老哲学者の警告と取れないこともない。人生の大事なことを認識しなさい、物質的なもの、予測可能なものばかりを追わずに、心のなか、精神や魂に目を向けなさい、と言いたかったのかもしれない。参考;ヘルゲ・ヘッセ「その一言が歴史を変えた」(Diogenes)

2017年10月27日 (金)

始皇帝と万里の長城及び兵馬俑坑文献目録

Imageca9gxuul    中国を統一した秦王政は、王の称号をやめて皇帝と称した。彼が秦の始皇帝である。始皇帝は匈奴の侵入にそなえるため、戦国時代に北辺の燕・趙などが築いていた長城修復・連結した。いわゆる万里の長城といわれるものであるが、現在の長城は明代のもので、始皇帝の長城は版築とよばれた工法で、現在よりもはるか北方に位置し、煉瓦と石で築かれた明代の長城に比べて低い城壁であった。

Ryuumon
 龍文空心塼    陝西省咸陽市秦咸陽宮1号宮殿遺蹟出土

 始皇帝は貴族制度を打破し、法家思想を採用し、中央集権国家の確立に努めた。

皇帝制度 始皇帝が「王」という称号を改めて「皇帝」を名乗り始めた。煌々と輝く帝、すなわち「北極星」を意味する。(NHKスペシャル「中華文明の謎」) 三皇五帝から「皇帝」と称したとする説は誤り。一人称を「朕」といい、命令を「制詔」といい、墓を「陵」、居処を「宮」という。

郡県制度 全国を36郡に分け、それぞれの郡に長官として守、副長官として丞、軍の指揮官として尉、監察官として監(御史)などの官吏が中央から派遣される。この36郡は、その後さらに新領土が加わったことや、大郡を分けることによって増加し、48郡にされたといわれる。

思想統一 法家李斯の献策で、焚書坑儒を断行。

貨幣の統一 半両銭に統一。1個の重さは半両(1両は24銖、半両は12銖、約8g) 中央に四角の穴のある銅銭は基本形となった。

文字の統一 篆書には大篆と小篆の二種があり、前者は籀文ともいわれ、石鼓文はこの字で書かれている。李斯によって新たに制定されたのが小篆である。

度量衡の統一 秦量と秦権

交通路の整備 車軌を6尺(1.4m)に統一し、天子や貴人の通る馳道を巾50歩(70m)とする。また駅や亭を置き伝送に整備をおこなった。

対外政策 北方に将軍蒙恬を派遣し、匈奴を討伐。さらに旧六国の長城を補修して、東は遼東から西は臨洮までの万里の長城を築いた。南方では越を攻め、安南を平定し、桂林・象・南海の3郡を設置。

optin なぜ正月は1月か?

Img_0027

    一年の最初の月を正月というのは、当たり前と思われるでしょうが、国土の広い中国では始皇帝の統一以前、各地でそれぞれの暦が存在していました。また時代によっても異なります。だいたい古代中国の暦は、夏暦、殷暦、周暦を三正といって、それぞれ歳首(としはじめ)、朔日(つきのはじめ)など違います。秦と楚とは3カ月ズレています。最初、秦は南部の楚を統治するにあたって旧習俗を許容する柔軟な姿勢で臨んでいましたが、やがて始皇帝の全国統一で当然「暦の取り込み」が行われました。中国では歳首は「夏正」のごとく、立春をとっていますが、「秦正」は10月が歳首です。漢代になって、前103年以後はおおむね夏正が用いられました。唐の則天武后のとき「周正」を用いて冬至が1年のはじまりとなった例外もあります。

 

参考文献
長城雄游記 大鳥圭介 丸善 1894
長城の彼方へ 後藤朝太郎 大阪屋号書店 1922
万里の長城 上・下 中野江漢 支那風物研究会 1923
中国長城沿革考 王国良編 商務印書館 1933
内蒙古・長城地帯 江上波夫・水野清一 東亜考古学会 1935
秦始皇帝伝 馬元材 1937
万里の長城 植村清二 創元社 1944
「長城のまもり」藤枝晃 ユーラシア学会研究報告2  1955.07
秦始皇 楊寛 上海人民出版社 1956
万里の長城 大世界史3 植村清二 文芸春秋 1967
万里の長城 世界史研究双書13  青木富太郎 近藤出版社 1972
秦始皇 洪世滌 上海人民出版社 1972
秦皇長城考 黄麟書 九龍・造陽文学社 1972
「万里の長城・その盛衰小史」小倉芳彦 土木学会誌57(7) 1972.06
万里の長城 攻防戦史 渡辺龍策 秀英書房 1978
万里の長城 中国小史 中公文庫 植村清二 中央公論社 1979
秦始皇陵与兵馬俑 無戈 西安・陝西人民出版社 1982
万里の長城 ジャック・ジュネ、ディック・ウィルソン J.P.ドレージュ、ユベール・ドラエほか 田島淳訳 河出書房新社 1984
秦始皇帝伝 馬非百 江蘇古籍出版社 1985
秦始皇帝 新始皇兵馬俑博物館双書 呉梓林・郭興文 西安・西北大学出版社 1986
萬里の長城 サンデー毎日別冊写真集 幻の西端を求めて 矢口篤雄 毎日新聞社 1991
万里長城の歌 日本の詩歌2 土井晩翠 中央公論社
秦帝国の領土経営:雲夢龍崗秦簡と始皇帝の禁苑 馬彪 京都大学学術出版会 2013
秦の始皇帝の兵馬俑 二十世紀における考古学史上の最も偉大な発見 人民中国出版社 1999
門秦の始皇帝と兵馬俑 洋泉社 2015
人間・始皇帝 鶴間和幸 岩波書店 2015
史記秦・漢史の研究 藤田勝久 汲古書院 2016
始皇帝の永遠・天下一統 小前亮 講談社 2016
秦の始皇帝と中国古代史 宝島社 2016

2017年10月22日 (日)

世界の四大文明、でも古代文明は4つだけじゃない(異説世界史)

Img_0029
 かつての歴史授業では必ず四大文明が説明された(田中文治「中学歴史の精解と資料」1977年)

  エジプト、メソポタミア、インダス文明(モヘンジョ・ダロ)、中国の黄河文明(殷墟)を日本では「世界の四大文明」と呼んでいた。そのルーツは梁啓超の詩(「二十世紀太平洋歌」1900年)に見えるが、四大文明史観はトインビーなどにより世界の歴史学会では完全に否定されており、中国・韓国・日本のみで学校の歴史用語で教えられ、欧米諸国には存在しない。しかし教科書ではあまり「四大文明」の詳細を言わないらしい。いずれも温帯または亜熱帯に属する大河の流域に発達し、中心は農耕文化であった。それは、これらの川が定期的に氾濫して沃土を運び、治水の必要から暦法・天文・数学などが発達し、巨大な国家が出現したと説明する。

   西アジア「肥沃な三日月地帯」からは前9000年ころのムギ・マメの化石が大量に出土している。中国においては華北(黄河流域)のアワ・キビと華中(長江の中・下流域)のイネが生態系の違いを反映しているが、農耕の始まりが多くの遺跡によって明らかになりつつある。1996年には成都黄河文明よりも古い前5000年の都市国家(竜馬宝墩古遺跡)が発見されている。世界の主要な穀物はムギとイネとトウモロコシである。前7000年ころウィスコンシン氷期がはじまり、古代アジア人はベーリング海峡をわたってアメリカに進出し、南下した古インデォはメキシコやペルーに定住し、前2000年から前1500年ころトウモロコシをはじめジャガイモ、サツマイモ、トマトなどの農耕文明を成立させた。とくにオルメカ人は前1200年ころ、南米に石像をはじめ神殿などの初期国家を形成していった。アメリカの文化人類学者エルマン・サーヴィス(1915-1996)の初期国家の定義によれば、「人口規模が2万人以上であること」とある。マイケル・コーは調査の結果、サン・ロレンソの遺跡を25000人規模の都市と推定している。オルメカが古代国家として認知されて、「世界の五大文明」のひとつとしてオルメカ帝国と呼ばれるようになるのだろうか。(世界史)

2017年10月21日 (土)

トラファルガーの海戦

Photo

   英仏両国は、1802年にアミアンで和約を結んでいたが、1804年5月にウィリアム・ピットが首相に返り咲き、彼の提唱で第3次対仏大同盟が結成された。一方のフランスも、皇帝ナポレオン1世がスペインと同盟を結んだため、英仏両国の対立は再燃していた。

    ナポレオンは、イギリス本土上陸を計画し、フランス・スペイン連合艦隊司令長官のピエール・ヴィルヌーヴ提督にスペインのカディス港からの北上を指令した。この機会をとらえたホレーショ・ネルソン率いる27隻のイギリス地中海艦隊は、1805年10月21日、午前11時ごろから33隻のフランス・スペイン連合艦隊と戦闘を開始した。ネルソンの型破りな戦法と見事な砲撃に、フランス・スペイン連合艦隊は動揺した。

   ところが、午後1時15分ごろ、フランス狙撃兵が撃った弾丸がネルソンの肺を貫いた。瀕死のネルソンは部下の手により船内の治療室に運ばれた。しかし、彼は、3時間ほど生きながらえたものの、午後4時30分ついに息を引き取った。ちょうどそのころ、イギリス海軍の勝利が確定、33隻のフランス・スペイン連合艦隊のうち、残ったのはわずか6隻だけだった。対するイギリス艦隊はすべて無傷でまさに圧勝だった。

    ネルソンの死去により、イギリス国民は意気消沈したものの、トラファルガー海戦での勝利は、イギリスの海軍力をあらためてナポレオンにみせつける結果となる。そして、英本土上陸作戦を撤回させ、のちの大陸封鎖令へとつながっていく。

   翌年、ネルソンの遺体は王族以外では初の国葬で野辺送りされ、セント・ポール寺院に埋葬される。

ネルソンが残した名言の一つ。「私の人生における成功のすべては、どんな場合でも必ず15分前に到着したおかげである」

(Horatio Nelson,Trafalgar)

2017年10月15日 (日)

帝国の滅亡ラスト・エンペラー

7720tokugawayosinobu   君主の最後は1つの時代の終わりと新しい時代のはじまりを告げる役割を担う。徳川慶喜が江戸幕府最後の将軍として有名である。鎌倉幕府最後の執権は赤橋守門(1333年)、室町幕府最後の将軍は足利義昭(1573年)である。

    西洋史では、前330年、ダリウス3世は逃走中にバクトリア総督ベッソスに殺害されアケメネス朝ペルシアは滅んだ。古代エジプト最後の王はプトレマイオス15世(前30年)。パルティア最後の王アルダバヌス4世(224年)。ローマの将軍カエサルとクレオパトラの子でカエサリオンともいう。フラウィウス・エウゲニウスはローマ帝国最後の皇帝で(394年)、翌年から帝国は東西に分裂した。西ローマ最後の皇帝はロムルス・アウグスツルス。ササン朝ペルシアのヤズデギルド3世は641年ネハーヴェントの戦いでイスラム軍に敗れて滅亡(651年)。ガズナ朝ホスロー・マリク(1186年)。インドネシアのシンガサリ王国の最後の王はクルタナガラ(1292年)。シュリヴィジャヤ王国の最後はパラメスワラ(1414年)。東ローマ帝国コンスタンチヌス11世(1453年)。ティムール帝国ムザッファル・フサイン(1507年)。インカ帝国の最後の皇帝アタワルパは処刑される(1533年)。ムガール帝国最後の王バハードゥル・シャー2世(1858年)。琉球王国最後の王・尚泰王(1879年)。清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀(1912年)。ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世(1917年)。最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1918年)。イタリア国王ウンベルト2世(1946年)。ルーマニア国王ミハイ1世(1947年)。ギリシャ王国コンスタンティノス2世(1947年)。オスマン・トルコ帝国最後の皇帝メフメト6世(1922年)、ベトナム阮朝の皇帝はパオ・タイ(1945年)。エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ(1975年)。パフレヴィー朝ムハマンド・レザー国王(1979年)。

2017年10月14日 (土)

戦争の世界史・早わかり年表

300px131_bataille_de_malazgirt  現職のアメリカ大統領として初めて、オバマ大統領が広島を訪れた。17分に及ぶスピーチは人類と戦争の歴史から語られ始められた。「どの大陸でも、あらゆる文明は戦争の歴史に満ちています。穀物の不足や、金への欲望、あるいは国粋主義や宗教的な理由から戦争が起こってきました。帝国は台頭、衰退しました。人々は支配され、解放されました。それぞれの歴史の転換点で罪のないひとが苦しみ、多くが犠牲となりました。広島と長崎で残忍な終わりをみた世界戦争は、裕福で力のある国によって戦われました」

   そして今も世界と日本が、激しく変革している。数千年以上の太古の昔から今日まで、人類の歴史は戦争の繰り返しの歴史といえる。戦争は何故起こるのか。最近の考古学的知見によると、世界のどこでも旧石器時代の男子の死者のおよそ15%は殺人によって死亡している。これは人類の顕著な特徴であり、食糧や雌をめぐる争いはどの動物にもあるが、このような激しい戦いはみとめられない。人類が道具を使うことにより、武器による先制攻撃が優位となること、確実に勝てるという合理的行動が戦闘をひきおこすのである。こうして戦争はいつの時代も絶えることなく繰り返される。戦争の原因も民族・宗教にイデオロギーが加わって、世界各地でテロが発生した。集団的自衛権を容認する安保法制が成立し、日本も紛争にまきこまれるようになった。2016年7月、ダッカでISに日本人7人が殺害された。

前25世紀、ラガシュの王エアンナトゥムがウンマの軍を破る

前1674年、ヒクソスのエジプト侵入(前1674~前1567)

前1620年、ヒッタイト・フルリ戦争(前1620~前1325)

前1457年、エジプト王国のトトメス3世はメギドの戦でカデシュ王率いるカナン連合軍(カデシュ、メギド、ミタンニ)を破る

前1350年、ヒッタイト王シュピルリウマ1世がミタンニ王トゥシュラクを滅ぼす

前1274年、エジプト王国のラムセス2世はカデシュの戦でヒッタイト王ムワタリに敗れる

前1200年、トロヤ戦争起こる。アカイア人の遠征軍と小アジアのトロイアの戦い

前1070年、殷の紂王は牧野の戦で、周の武王に敗れ、700年に及ぶ殷王朝は滅び、周王朝が成立する

前736年、スパルタがメッセニアを破る(メッセニア戦争)

前632年、晋の文公が城濮の戦で楚の成王を破る

前609年、ユダ王国のヨシヤがメギドの戦でエジプトのネコ2世に敗れる

前605年、ネコ2世はカルケミッシュの戦で新バビロニアのネブカドネザルに敗れる

前575年、晋が鄢陵の戦で楚を破る

前484年、呉王夫差が艾陵の戦で斉を破る

前490年、ダリウス1世 マラトンの戦でミルティアデス率いるギリシア軍に敗れる

前480年、ギリシアのスパルタ王レオニダスはテルモピュライの戦でペルシア軍を迎え撃ち、その南下を防いたが部隊は全滅する

前480年、ギリシアのテミストクレスはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破り、クセルクセス1世は退却する

前432年~前430年、アテネがポティダイアの戦でコリントスとペロポネソス同盟諸国に勝利した

前406年、アテネがアルギスサイの戦でスパルタに勝利した

前405年、スパルタがアイゴスポタモイの海戦でアテネに勝利した

前404年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終わる

前394年、アテネ人コノン指揮のペルシア軍はクニドスの海戦でスパルタ(ラケダイモーン)を破る

前390年、ローマ軍クイントゥス・スルピキウスがイタリアに侵入したブレンヌス率いるガリア人セノネス族とアッリアの戦で敗れる

前371年、スパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がレウクトラの戦でテーバイを中心とするボィオティア同盟軍に敗れる

前362年、アテネ・スパルタ連合軍がマンティネイアの戦でテーベのエパミノンダスの軍に敗れる

前343年、秦は馬陵の戦で斉の孫臏の策により大敗する。

前338年、ギリシャがカイロネイアの戦でマケドニアのフィリッポス2世の軍に敗れる

前333年、ペルシア軍がイッソスの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前334年、ペルシア軍がグラニコス川の戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前331年、ペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前326年、アレクサンドロス3世はインドのパンジャブ地方まで侵攻したが、ヒュダスぺス河畔の戦で苦戦し、やむなく東方遠征をやめる。

前305年、シリア王セレウコス1世、マウリア朝チャンドラグプタに敗れる

前260年、秦の昭王が長平の戦で趙を破る

前241年、ローマ軍がアエガテスの海戦でカルタゴを破る

前220年、メディア総督モロンはアポロニアの戦でセレウコス朝のアンティオコス3世に敗れる

前216年、ローマ軍がカンネーの戦でカルタゴのハンニバルに敗れる

前202年、カルタゴのハンニバルがザマの戦でローマのスキピオに敗れる

前202年、項羽、垓下の戦で劉邦に敗れ自殺

前85年、ローマのスッラがオルコメノスの戦でポントス王ミトリダテス6世を破る

前48年 ポンペイウス、ファルサルスの戦でカエサルに敗れる

前45年、ポンペイウス派の残党がムンダの戦でカエサルに敗れる

前42年、カエサルを暗殺したブルトゥスがフィリッピの戦でアントニウスに敗れる

前31年、アントニウス、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れる

前23年、劉秀、昆陽の戦で王莽を破り、漢室再興を果たす

後9年、ローマ帝国がトイトブルクの戦でゲルマンに大敗する

49年、ベトナムのチュン姉妹は後漢の侵略に抵抗し、処刑される

66年、ユダヤ民族のシモン・バル・ギオラが反乱を起こす。

74年、ユダヤ民族の最後の拠点マサダがローマ軍により陥落し、ユダヤ戦争が終わる

191年、董卓と袁紹が虎牢関で衝突。董卓の部下呂布が盤下で董卓を殺す。

200年、曹操、官渡の戦で袁紹を破る。

208年、曹操が劉備・孫権連合軍に赤壁の戦でい敗れる。

211年、曹操が渭水の戦で馬超・韓遂らを破る。

215年、曹操が合肥の戦で孫権を破る。

219年、劉備軍の関羽が樊城の戦いで水攻めにされて殺される。

222年、劉備率いる蜀漢軍が夷陵の戦で呉の陸遜軍に敗れる。

234年、蜀諸葛亮が五丈原の戦で魏司馬懿と対戦したが、蜀漢による第五次北伐が失敗する。

260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。

280年、晋軍、呉に侵攻。大勝して呉滅ぶ。石頭城の戦い。

312年、ローマ皇帝正帝マクセンティウスがローマ郊外のミルウィウス橋の戦(サクサ・ルブラの戦)で副帝コンスタンティヌス1世に敗れる

313年、東のローマ皇帝マクシミヌス・ダイアがツィラッルムの戦でリキニウスに敗れる

363年 ローマ皇帝ユリアヌスが、ササン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、城を落せず撤退する

376年、ローマ皇帝ヴァレンスが、アドリアノーブルの戦で西ゴートに敗れ、戦死。

383年、前秦の符堅が淝水の戦で晋の謝石・謝玄に敗れる

451年、フン族の王アッティラ、カタラウヌムの戦で西ローマ軍のアエティウスに敗れる

486年、クロヴィス率いるフランク族がソワソンの戦で西ローマを破る

627年、ササン朝ペルシアのコスロー2世はニネヴェの戦でへラクリウス率いる東ローマ軍に敗れる

642年 ヤズデギルド3世 ニハーヴァンド(ネハーヴァンド)の戦でアラブ軍に敗れる

663年、日本軍は白村江の戦で唐軍に敗れ、百済滅ぶ

722年、ペラヨがコバドンガの戦でイスラム軍に勝利する。

732年、サラセン軍、ツール・ポワチエの戦でフランク王国カール・マルテルに敗れる

751年、唐の高仙芝、イスラム軍とタラス河畔に戦う。サラセン軍に捕らわれ、製紙法を伝う

756年、唐の玄宗は潼関の戦で安禄山に敗れる

811年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はブリスカの戦でブルガリアに敗れ、戦死した。

849年、ナポリ・アマルフィ・ガエータなどの艦隊がオスティア沖でイスラム艦隊を破る。

955年、ハンガリーのマジャール軍がレヒフェルトの戦で東フランク王国オットー1世に敗れる

1057年、スコットランド王マクベスはランファナンの戦でマルカム3世に敗れ死没する

1063年、イタリアの中世都市国家ピサがパレルモ沖の海戦でイスラーム艦隊に大勝する

1066年、イングランド王ハロルド2世がへースティングズの戦でノルマンディー公ウィリアム1世に敗れる

1071年、ロマノス4世ディオゲネス マンジケルトの戦でセルジューク朝に敗れる

1107年、高麗の尹瓘が女真を討ち9城を築くが(尹瓘九城の役)、翌年に撤退する。

1176年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がレニャーノフの戦でロンバルディア同盟軍に敗れる

1187年、ギード・リュジニャン率いるエルサレム王国の十字軍がヒッティーンの戦でサラーフ・アッディーンに敗れる

1201年、チンギス・カンはコイテンの戦でジャムカを破る

1214年、仏王フィリップ2世が、ブーヴィーヌの戦で神聖ローマ帝国、英国連合軍に勝利する

1219年、モンゴル軍はホラズムに侵攻し、翌年にはサマルカンドを攻略する

1223年、モンゴル軍はカルカ川の会戦でロシア軍を破る

1241年、シュレージェン公ハインリヒ2世はリーグニッツ(ワールシュタット)の戦でバトゥが率いるモンゴル軍と戦い、大敗し、戦死した。

1260年、フィレンツェがモンタベルティの戦いでシエーナ軍に敗れる。

1260年、モンゴル軍のフレグはアイン・ジャールートの戦でマムルーク朝のバイバルスに敗れる。

1268~1274年、モンゴル軍は襄樊の戦で南宋を滅ぼす。

1274年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(文永の役)

1278年、モンゴル軍、ポーランド・ドイツ連合軍を破る

1279年、厓山の戦い、南宋が滅ぶ

1281年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(弘安の役)

1284年、ピサがメロリアの海戦でジェノバに大敗。

1288年、ドカン率いるモンゴル軍は白藤江の戦いで陳国峻率いるベトナム軍に敗れ、モンゴルのベトナム侵攻は失敗におわる。

1298年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世はゲルハイムの戦で長子アドルフを殺す

1302年、フランス王フィリップ4世はクルトレー(コルトレイク、金拍車)の戦でフランドル市民軍に敗れる

1314年、エドワード2世率いるイングランド軍がバノックバーンの戦でロバート1世のスコットランド軍に敗れる

1337年、英仏の百年戦争がおこる

1346年 フランス王フィリップ6世、クレシーの戦でエドワード3世に敗れる

1356年、フランス王ジャン2世はポアティエの戦でイギリス王エドワード黒太子に敗れる

1363年、明の朱元璋は鄱陽湖の戦で元の陳友諒を破る

1369~70年 エドワード3世、フランス王シャルル5世に敗れて獲得した領土の大部分を失う

1380年、タタール軍はクリコヴォの戦でモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイに敗れる。

1380年、ジェノバがキオッジャの海戦でヴェネツィアに完敗する。

1388年、ハプスブルク家アルブレヒト3世、ネーフェルトの戦いでスイス自由連邦に敗れる

1389年、オスマン帝国のムラト1世がコソボの戦でセルビアを破る

1396年、ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国軍がニコポリスの戦でバヤズィト1世率いるオスマン帝国軍に大敗する

1402年、バヤズィト1世率いるオスマン帝国がアンカラの戦でティムールに敗れる。バヤズィト1世は捕虜になり、翌年自害する

1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルトの戦でドイツ騎士団を破る

1415年、フランス軍がアジャンクールの戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍に敗れる。

1419年、ボヘミアのフス戦争(~1434)。フス派の勝利。

1429年、イングランドのジョン・タルボットはパテーの戦でジャンヌとリッシュモン元帥の軍に敗れ、捕虜となる。百年戦争の仏軍の初めての勝利であった

1444年、オスマン帝国のムラト2世はヴァルナの戦でハンガリー王国を破る

1450年、イングランド軍はフェルミニーの戦でフランスに大敗する。

1453年、イングランド軍はカスティヨンの戦でフランスに敗れる

1453年、東ローマ帝国コンスタンティノス11世 メフメト2世のオスマントルコ軍に攻められコンスタンティノープル陥落

1455年、ヨーク公リチャードはサマセット公エドムンド率いるランカスター派をセント・オールバーンズの戦で破る。30年にもわたるバラ戦争(~1485年)の最初の戦い。

1460年、バラ戦争、ウエイクフィールドの戦い。

1477年、ブルゴーニュ公シャルル(豪肝公)がナンシーの戦いで戦死

1485年、ヨーク派のリチャード3世はボズワースの戦でランカスター派のヘンリー7世に敗れる

1503年、フランスはチョリニョーラの戦、ガレラノの戦でスペインに敗れる

1507年、ポルトガルのインド総督アルブケルケ、ペルシャ湾口の香辛料集散地ホルムズ島を占領した。

1509年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル海軍がディウ沖海戦でイスラム教徒のマムルーク朝、クジャラート・スルタン朝及びカリカットの領主ザモリンの連合海軍を破る

1514年、サファヴィ朝ペルシャ軍イスマーイール1世がチャルディラーンの戦でオスマン帝国セリム1世に敗れる。

1515年、仏王フランソワ1世・ヴェネツィアがスペイン・神聖ローマ・イギリス・ミラノのスイス傭兵軍とマリニャーノ戦いで勝利する。

1519年、スペインのコルテスがタバスコの戦でインディオに勝利し、メキシコを征服した。

1521年、独帝カール5世と仏王フランソワ1世との間にイタリア戦争始まる。

1524年、フランケンハウゼンの戦で農民軍が諸侯軍に敗れて壊滅し、ドイツ農民戦争が終結する

1526年、インドのロディ朝がパーニーパットの戦でムガール帝国のバーブルに敗れる

1526年、オスマン帝国がモハーチの戦でハンガリー王国を破る

1529年、スイスの宗教戦争、第一次カッペル戦争

1531年、第二次カッペル戦争でチューリヒのカトリック軍が勝利する。

1531年、スコットランド王ジェームズ4世が2万の軍勢を率いて国境を侵攻するが、英国軍にフロッドンの戦で大敗し、ジェームズ4世は戦死する

1531年、チューリヒの宗教改革の指導者ツヴィングリがカベルの戦で戦死

1532年、インカ帝国アタワルパ、カハマルカの戦いでピサロ率いるスペイン軍に敗れる。

1538年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国と対戦するが、連語国側は統制がとれずに敗れる。

1546年、シュマルカルデン戦争がはじまる。

1547年、プロテスタント軍がミュールベルクの戦で神聖ローマ軍に敗れる

1558年、リヴォニア戦争(~1583)。

1562年、ユグノー戦争

1571年、オスマントルコ海軍がレパントの海戦でスペイン国王フェリペ2世に敗れる

1587年、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊(アルマダ)がプリマス沖、カレー沖の海戦でイギリス艦隊に敗れる

1593年、オスマントルコ帝国ムラート3世の宰相ハサン・パシャは、シサクの戦でクロアチア軍に敗れる

1593年、ハプスブルク家とトルコの十五年戦争(~1606)。

1593年、小早川隆景らが李如松率いる明軍を碧蹄館の戦いで破る

1618年、三十年戦争

1619年、ヌルハチ率いる後金(のちの清)がサルフの戦で明を破る

1620年、白山の戦。

1631年、神聖ローマ帝国がブライテンフェルトの戦でグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンに敗れる。

1632年、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国がリュッツェンの戦でグスタフ・アドレス2世(スウェーデン)の軍に敗れる。

1632 年、ロシアがスモレンスクの戦でポーランドの軍に敗れる。

1640年、ポルトガルの貴族ブラガンサ公ジョアンらがリスボンのスペイン王宮を襲撃、ポルトガル王政復古戦争が始る。

1641年、清のホンタイジが松山・錦州の戦で明を滅ぼす

1644年、チャールズ1世がマーストンムーアの戦でクロムウェル率いる議会軍に敗れる。

1645年、イギリス、ルーパート王子軍がネーズビーの戦でクロムウェルの議会軍に敗れる。

1653年、ポートランドの海戦(第一次蘭英戦争)

1659年、ロシア大公アレクセイ3世がコノトプの戦でウクライナ・コサック軍に敗れる。

1672年、フランス・オランダ戦争始まる。

1675年、デンマーク・スウェーデンでスコーネ戦争始まる(~1679年)。

1685年、清の康熙帝はロシアが東方に進出して黒竜江流域にきずいたアルバジン城を奪回した。

1688年、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国領のファルツ公家の継承問題に介入してファルツ戦争(~1697年)が始まる。

1697年、オスマン帝国がゼンタの戦でオーストリア軍に大敗する。

1700年、スウェーデンがナルヴァの戦でロシアに勝利する。

1701年、スペイン継承戦争始まる。

1709年、スウェーデンのカール12世、ポルタヴァの戦でロシアに敗れる。

1712年、スウェーデンがガーデブッシュの戦でデンマークに敗れる。

1714年、ロシアのピョートル1世がハンゴ沖海戦でスウェーデンを破る。

1721年、スウェーデンとロシア・デンマークを中心に行われた大北方戦争(1700-1721)が終る。ニスタット条約を締結。

1722年から1725年までラル神父戦争。アメリカ東部植民地とインディアンの戦い。セバスチャン・ラルがノリッジウォックの戦いで戦死。

1733年、ポーランド継承戦争始まる。

1740年、オーストラリアのマリア・テレジアが即位し、オーストラリア継承戦争始まる。

1741年、マリア・テレジアがモルヴィッツの戦でフリードリヒ2世のプロシアに敗れる。

1745年、フランスがフォントノワの戦で英蘭墺連合軍に勝利する

1756年、ヨーロッパで七年戦争始まる。

1757年、プロイセンのフリードリヒ2世がロスバッハの戦、ロイテンの戦でオーストリアを破る。

1757年、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラはプラッシーの戦でロバート・クライブ率いるイギリス軍に敗れる。

1759年、プロイセン軍がクネルスドルフの戦でロシア・オーストリア連合軍に敗れる。

1764年、イギリス東インド会社がインドのブクサールの戦でムガル帝国を破る。

1775年、アメリカ独立戦争始まる。

1777年、英軍バーゴイン将軍がサラトガの戦で米植民地軍に敗れる。

1781年、チャールズ・コンーウォリス率いるイギリス軍はヨークタウンの戦でジョージ・ワシントン率いる独立軍に攻囲され敗れる。

1781年、インドのポルト・ノヴァでマイソール王国はイギリス軍に敗れる。(第二次マイソール戦争の1つ)。

1789年、フランス革命起こる。

1793年、フランス軍はナポレオン率いる革命軍にツーロン要塞の攻撃で敗れる。

1796年、オーストリア軍がカスティリオーネの戦でナポレオン軍に敗れる。

1798年、オスマン帝国がピラミッドの戦でナポレオン軍に敗れる。

1800年、オーストリア軍がアルプスを越えて侵攻したナポレオン軍にマレンゴの戦で敗れる。

1805年、オーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンに敗れる。

1805年、ナポレオン、トラファルガルの海戦でイギリスのネルソンに敗れる。

1806年、プロシア軍がイエナ・アウエルシュタットの戦でフランス軍に敗れる。

1809年、ナポレオン、ワグラムの戦でオーストリア軍に大勝する。

1812年、モスクワに遠征したナポレオンがクトゥーゾフ将軍のロシア軍とボロジノの戦で交戦。10万人の犠牲を出したが勝敗は決せず。

1813年、ナポレオン軍がライプチヒの戦でプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れる。

1814年、アメリカ軍はブラーデンスバーグの戦でイギリス軍に敗れ、ワシントンのホワイトハウスなどの建物が焼失した。

1815年、ナポレオン、ワーテルローの戦でイギリス・プロシア連合軍に敗れる。

1815年、米英戦争ニューオーリンズの戦でイギリス軍はアンドリュー・ジャクソン率いる5千人の兵に敗れる。

1819年、シモン・ボリバルの独立革命軍はボヤカの戦(コロンビアのボゴタ近郊)でスペイン軍に勝利する。

1821年、スペイン軍がカラボボの戦でシモン・ボリバル率いる反乱軍に敗れ、ベネズエラの独立が決定した。

1824年、スペイン軍がアヤクーチョの戦でスクレ将軍率いるペルー解放軍に敗れる。

1827年、英仏露3国艦隊がナヴァリノの海戦でトルコ艦隊を破る

1839年、バーラクサイ朝アフガニスタン首長国がイギリスを討つ(第一次アフガン戦争(~1842年)

1840年、アヘン戦争(~1842年)

1848年、サルディニア王カルロ・アルベルトがクストッツァー・ノヴァラの戦でオーストリアに敗れる。これにより、イタリアの統一運動は一時中絶した。

1854年、クリミア戦争でロシアのセヴァストーポリ要塞を目指す英仏軍がアルマでロシアと交戦する。

1855年、セヴァストーポリ要塞が英仏軍の攻撃によって陥落する。

1856年、アロー号戦争(~1860年)

1860年、ガリバルディ率いるイタリア義勇軍はヴォルトルノ河畔の戦でナポリ軍を破り南イタリアを制圧する。

1861年、アメリカの南北戦争、北軍はブル・ランの戦で南軍に敗れる。

1862年、メキシコがプエフラの戦でフランスに勝利する。(フランス・メキシコ戦争1862-1867)

1863年、南北戦争、ゲッティスバーグの戦で南軍の衰勢が決定した。

1866年、イタリア海軍がリッサの海戦でオーストリア海軍に敗れる。

1866年、オーストリア帝国はチェコのケーニヒグーレツの戦(サドワの戦)でプロシアに敗れる。

1868年、アメリカ軍のカスター中佐が率いる第7騎兵隊がシャイアン族インディアンを虐殺する(ウォシタ川の戦)。

1870年、モルトケ率いるドイツ軍がグラヴロットの戦でバーゼル率いるフランス軍を破る

1870年、フランスのナポレオン3世はセダンの戦でプロイセン軍に敗れる。

1873年、アチェ-戦争、オランダがスマトラのアチェー王国征服(1904年)

1876年、アメリカ陸軍とインディアンがモンタナ州のリトルビックホーンで戦い、カスター将軍の本隊が全滅した。

1877年、露土戦争(~1878)

1885年、ビルマ王ティーボーは英緬戦争でイギリス軍に敗れ、コウバウン朝は滅亡し、イギリス領インド帝国に併合される。

1894年、日清戦争(~1895年)

1896年、イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦で大敗する。

1898年、米西戦争。7月アメリカ軍がキューバのサン・ファン・ヒルの戦いでスペイン軍を撃破する。

1899年、南ア、ボーア戦争(~1902年)。

1904年、日露戦争(~1905年)

1905年、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本の連合艦隊に敗れる。

1911年、イタリア・トルコ戦争。イタリア敗北。

1912年、バルカン戦争(~1913年)。

1914年、ロシアがタンネンベルクでドイツに大敗。

1914年、ベルギーを突破し、北仏に進軍したドイツ軍(モルトケ)は、マルヌの戦でフランス軍(ジョッフル)に敗れる。

1914年、ロシア軍がタンネンベルクの戦でドイツ軍に包囲、殲滅される。

1915年、オスマン帝国はガリポリの戦で連合軍に勝利する。

1916年、ヴェルダンの戦、フランスは守り切った。

1916年、ソンムの戦。第一次世界大戦における最大の戦争であるが、英仏連合軍とドイツ軍がフランスのソンムで激突したが、両軍目立った戦果をあげることがなかった。

1917年、ロシア革命。

1920年、ポーランド・ソ連戦争。ポーランドの旧版図回復。

1935年、イタリア、エチオピア侵略。

1936年、スペイン内戦始まる。

1937年、日中戦争始まる。

1939年、満蒙国境線めぐりノモンハン事件。

1940年、フランス軍はダンケルクの戦でドイツに敗れ、降伏する。

1941年、太平洋戦争始まる。

1942年、ドイツの戦車軍団ロンメルは北アフリカのエル・アラメインの戦で英軍モントゴメリーに敗れる。

1942年、ドイツ軍はソ連とのスターリングラードの戦で消耗し、これによってドイツの後退が始まる。

1943年、ドイツ軍はクルスクの戦でソ連軍に大敗。

1944年、日本はレイテ沖海戦で米軍に大敗し、事実上壊滅。

1944年、連合軍、ノルマンディー上陸作戦に成功する。

1946年、フランス・インドシナ戦争(~1954年)

1950年、朝鮮戦争が始まる(~1953年)

1954年、フランスとアルジェリアでアルジェリア戦争始まる(~1962年)。

1954年、フランスはディエンビエンフーの戦でベトナム軍に敗れ撤退する。

1959年、チベットで反中国暴動。

1963年、インドネシア、マレーシア戦争(~1966年)

1967年、ビアフラ戦争(~1970年)。

1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。

1982年、アルゼンチンはフォークランド紛争でイギリスに敗れる。

1991年、第一次湾岸戦争。

1991年、スロヴェニア独立戦争。

1994年、ルワンダで内戦始まる。50万人が殺される。

2001年、アメリカのアフガニスタン侵攻。

2003年、第二次湾岸戦争。

2005年、イラク戦争。ハディサで米軍兵士がイラク市民24人を虐殺(ハディサ事件)。

Lunphanan

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30