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2026年9月 2日 (水)

法隆寺エンタシスのギリシア起源説の謎

 円柱の中央部に膨らみをつけて立体感を付ける建築技法はエンタシスと呼ばれ、ギリシアのパルテノン神殿の柱にみられる。法隆寺の柱にも同様のエンタシスがみられることを最初に指摘したのは伊東忠太といわれる。(近年の研究では石井敬吉が伊東より先に指摘しているという)ギリシアの技法がシルクロードをへて中国、朝鮮をへて法隆寺に伝わったとする「エンタシスのギリシア起源説」は和辻哲郎によって広く知られるようになった。しかし学術的には、かならずしも定説と認められていない。これを裏付ける実証的な論文はいまだなく、あくまで仮説にすぎない。中国では「梭柱」といい、韓国では「胴張り」といい、古い仏教社寺に見られる東アジアの建築技法とみなされている。法隆寺に六朝様式の影響は明らかであるが、仏像の「古拙の微笑」と同様に、それをギリシアの様式にまで広げるのは学術的に証明することはかなり困難がともなうらしい。

 

 

2026年9月 1日 (火)

社会文化的進化と時代区分

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  それぞれの民族は各自の時代区分法をもっている。現在われわれが共有する古代の概念はおよそ700年前ペトラルカによって発見されたといっていいであろう。彼は1337年古代ローマの遺跡を見た時の感動的な体験であった。「栄光に包まれた過去」と「嘆かわしい現在」との比較によって歴史を、古代・中世・現在とい区分を提唱した。やがて数世紀を経て、東洋の文化も知られるようになると、古代の幅は原始美術をも含む領域へと拡大した。20世紀になると、社会文化的進化という概念が生まれた。社会文化的進化とは、長期にわたってどのように文化や社会が発展したのかを究明する包括的用語である。ダニエル・ベルは、人類史を産業革命以前、産業革命、産業革命以後と大きく三区分した。(『脱工業社会の到来』1974)つまり工業社会の終焉がやってきて、産業と商品よりも、サービスと情報がいっそう重要になると指摘した。アルビン・トフラーは『第三の波』(1980)で、人類史の大きな変化を波という比喩をつかって、前8000~前1650年ごろの農耕と定住開始を「第一の波」として「農業革命」とよび、「第二の波」を18世紀後半に起こった「産業革命」、そして「第三の波」を20世紀後半に起こった「情報革命」であるとした。我が国の梅棹忠夫も農業の時代、工業の時代、情報産業の時代とすでに1960年代に三区分して、情報産業の出現を強調している。イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、すべての時代において神などの「フィクションを信じる力」を重要だと考えている。

   しかし、このような単純な時代区分に対して歴史家の立場からは批判もある。産業革命と科学革命とは関係があるし、情報革命は科学革命の延長線にあるものである。むしろ現代において人類がかかえている最大の課題は環境問題であり、工業化による環境破壊が地球の危機をもたらすという点のほうが人類史の転換であろう。1900年から2000年までに世界の人口は3倍となり、エネルギーの消費は15倍、GDPは21倍となった。伊東俊太郎はこれを「文明のアヘン効果」と呼んでいる。大量生産、大量消費は人のはてしなき物欲の証拠で、まるでアヘン中毒のようなものである、という。いま人類の社会生活の全体を簡素なものに戻すシステムが必要だ。

2026年8月30日 (日)

トロイの木馬

 1871年のこの日、商売で巨富を築いたシュリーマンは古代都市トロヤの発掘に着手した。シュリーマンは1822年ドイツのメックレンブルクのノイ・ブコウの貧しい牧師の家に生まれた。彼は幼少のころ「子供のための世界史」のなかでトロヤ落城の挿図を見て、いつかトロヤを掘ると誓っていたのだ。トロヤの木馬とはこんな話である。難攻不落を誇っていたトロヤであったが、知恵者として有名だったイタカの王オデュッセウスが、アテネの助けによって、「木馬」を利用した計略をめぐらした。オデュッセウスは、ギリシア軍に加わっていたエペイオスという工作の名人に命じて、腹が空洞になった巨大な木馬を作らせた。そしてそのなかに、ギリシア方の選り抜きの勇士たちと一緒に隠れた。その他の軍勢は、陣営を焼き払って船に乗り、沖の島の影に投錨し待機した。するとトロイの人びとは、ギリシア軍が勝利を断念して帰省したと思い、喜んで市の外に出て来た。そして木馬を戦利品として市内に引き入れ、敵の退却を祝って狂気乱舞し、歓楽の限りを尽くした。彼らが酔い痴れ疲れきって熟睡した夜更けに、木馬からギリシア方の勇士たちが外に出た。そして城門を開け、戻って来た味方の軍勢を引き入れて、市に火を放ち、不意を打たれて周章狼狽するトロイ人に対して、殺戮をほしいままにした。トロイの男たちは、かろうじて市外に逃げのびたほんの少数の落武者を除き、皆殺しにされ、女はみな捕虜にされて、略奪した戦利品の財宝などと一緒に、ギリシア方の大将たちに分配された。これが有名なトロイの木馬の話しである。考古学者シュリーマンは、この伝説を歴史的事実と信じて、その発掘を夢見ていた。その願いが通じて、1870年、小アジア、ダーダネルス海峡出口に面したヒッサルリクとバルカン半島のミケーネでトロヤの焼け跡の中から黄金のマスクなどを発掘する。(世界史こぼれ話、10月11日)

2026年8月27日 (木)

パレスチナ問題の原因

   同じ土地にユダヤ人とアラブ人が国家を主張していることがパレスチナ問題の根幹である。イスラエルは19世紀末のシオニズム運動で欧州などからユダヤ人が移住を開始したことでつくり始められた。この地はユダヤ人にとって祖先の地であり「約束の地」とされている。一方でここには長らくアラブ人が暮らしていた。

   イスラエル建国には西欧列強、特にイギリスの思惑が深く関与した。第一次世界大戦においてドイツと対立したイギリスは、親ドイツのオスマン帝国支配下のアラブ人たちに独立を約して反乱を起こさせ(フサイン・マクマホン協定1915年)、一方でユダヤ系資本とアメリカの協力を目当てにユダヤ人国家の建設を約束し(バルフォア宣言1917年)、またオスマン帝国の領土をフランスと分割する密約も結んでいた(サイクス・ピコ協定1916年)。結局はアラブ独立の約束は反故にされ、ユダヤ人の入植が本格化。第一次大戦後、イギリスはパレスチナを委任統治下に置き、第二次世界大戦のナチスの迫害でユダヤ人の入植は規模を拡大した。パレスティナ紛争の原因はイギリスの欺瞞外交にある。

   第二次大戦で国力が疲弊したイギリスからパレスチナ問題を委ねられた国連は、1947年「ユダヤ国家6対アラブ国家4」のパレスチナ分割案を可決。エルサレムを国際管理地区として翌48年5月14日に、ユダヤ人指導者ダヴィド・ベングリオンはイスラエル共和国の独立を宣言した。5月11日には国連に加盟したが、ヨルダン、シリア、エジプト、イラクなどアラブ諸国はこれに反発し、翌年5月15日にイスラエルを攻撃(第一次中東戦争)、中東戦争は第4次(1973年)まで続き、イスラエルは漸次領土を拡大、ついにはエルサレムを占領して首都とすることを宣言した(国際的には未承認)。

   一方アラブ側(パレスチナ)は1964年にパレスチナ解放機構(PLO)を組織しゲリラ活動で抵抗、1987年には一般民衆による草の根的抵抗活動「インティファーダ」が起きたが、イスラエルは圧倒的な兵力で押えこんだ。1993年、パレスチナの自治とイスラエルの撤退を内容とするオスロ合意がノルウェーの仲介で成立。翌94年にはアメリカを挟んで交渉を続けてきたイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が暫定自治合意(カイロ協定)に調印し和平は進展するかに思われた。しかし双方の内部の抵抗は強く、95年にはイスラエル右派活動家がラビン首相を暗殺。その後のネタニヤフ、バラク政権下では和平交渉は停滞した。2001年1月、アメリカ仲介の和平交渉は決裂。同年2月のイスラエル首相選でエルサレムへの強行訪問でパレスチナ側の反発を買ったリクードのシャロン党首が首相となった。シャロンはパレスチナ側にテロの即時停止を求め、報復としての軍事行動を本格化させつつ、不法な入植地の建設を推進し、パレスチナ議長府を包囲するなどの強硬な姿勢を示した。これに対しパレスチナ側からはハマスなどの自爆テロが続発。すると今度は自爆テロを阻止するためとして、イスラエルは6月にパレスチナ自治区とイスラエル入植地を隔てる分離壁に着工し、同時に自治区への侵攻と過激派暗殺作戦を続けた。2020年8月イスラエルとUAEが国交正常化案で合意する。

 

最新研究・文明の始まり

 人類の過去、言い換えれば人類が発生してから現在までの全期間は、チャドで発見されたサヘラントロブス・チャデンシスといわれ、それはおよそ700万年前のことである。それに比べると、文明の誕生は案外と新しいことで、世界最古といわれるメソポタミアのシュメール文明にしても、エジプトのナイル文明にしても、今から大体5000年前のことである。ところが、この最古の文明の年代も、いまではその起源が歴史学者の間で見直されようとしている。世界最古の文明メソポタミア、それより5000年以上前につくられた巨大遺跡がトルコ南東部、ギョベック・テぺ(トルコ語で太鼓腹の丘を意味する)で発見された。直径20mほどの円形の石の建物が並ぶ。そびえる石の柱の高さは5m以上。それはが農耕が始まるずっと前で、考古学上でいえば中石器時代の頃である。土器も金属器もない狩猟採集の時代に文明が誕生していたのだろうか。

 日本では文明の誕生は大河流域に発達した四大文明が長らく唱えられていた。しかし今世界では四大文明説を始まりとする考えをしている国はほとんどない。1967年刊行された「大世界史」の第1巻、三笠宮崇仁著の「ここに歴史がはじまる」がベストセラーとなり、最古の文明の担い手はシュメル人だと考えられた。文明形成の過程をよくあらわしているのがメソポタミアの遺跡である。長い年月にわたる生活の痕跡が、テベとか、テルとよばれる遺丘の形をとり、層位的に把握できる。シャニダール(前10000年ころ)、カリム・シャヒル(前8000年ころ)の遺跡は原始的な農耕と、粗放な牧畜による、早い段階の村落をしめしている。今日、中石器時代のナトゥフ文化(前10000年-前8000年)と呼ばれている。ジャルモ遺跡(前6800-前5800年ころ)は、それよりも格段に進歩した文化を持っている。もはや季節的な住居ではなく、牧畜をもった家屋が50戸ほどの集落で300人が住んでおり、エンマー小麦・豆類、ヤギ・犬・豚の家畜化がなされ、初期村落共同体に特有の粗製土器のほか、輸入品と考えられる彩文土器があり、すでに原始的な交流がおこなわれていたことをしめしている。その結果、人々は飢えの心配が少なくなり、村落ができて定住生活がはじまる。このような食料生産の開始は、18世紀後半にイギリスではじまった産業革命にもくらべられる大きな変革なので、食料生産革命といわれる。(Jarmo、世界史、文明の誕生)  文献:世界の農耕起源 スチュアート・ヘンリ編著 和田久彦ほか訳 雄山閣 1986 

 

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2026年8月23日 (日)

諸葛孔明と日本人

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    いま再び三国志ブームだという。乱世の奸雄曹操とその参謀の荀彧、赤壁で防いだ孫権と周瑜、義人劉備と関羽と張飛。三顧の礼で迎えられた軍師諸葛孔明。三国志に登場する英雄で誰が一番に人気があるのか?中国では、時代劇をする場合、登場人物を赤顔(善人)と白顔(悪人)に分ける。白顔の代表は曹操、映画「レッドクリフ」ではチャン・フォンイーが演じていた。関羽は中国では一番人気だ。他に趙雲、呉の周瑜(トニー・レオン)なども人気だ。しかし金城武の美男すぎる孔明像により新たに「三国志」の女性ファンが急増したようだ。日本では昔も今も至誠の忠臣、稀代の軍師として諸葛孔明には絶大な人気がある。そもそも日本の文献で孔明の名が初見されるのは、かの弘法大師、空海(774-835)の「招提寺の達嚫文(だつしんぶん)」という文章においてである。これは唐招提寺に供物を捧げた際の文で、如宝(?-814)という人物を「法城の葛亮(諸葛孔明のことをさす)なり」とたたえている。つまり天皇と如宝との関係を「水魚の交わり」のようだといったのである。以来中世には『太平記』『義経記』などにも登場するが、江戸期の湖南文山の『通俗三国志』のベストセラーの影響が大きいであろう。

   諸葛孔明(181-234)。名は亮。孔明はその字。没後、忠武と名を贈られたので、諸葛武侯ともいう。建興12年8月23日、五丈原の陣中で没した。享年54。諸葛孔明は日本人にとっては、おそらく孔子についでよくその名が知られている中国人ではないだろうか。明治期、とくに土井晩翠(1871-1952)の「星落秋風五丈原」(「帝国文学」明治31年11月号、『天地有情』明治32年4月刊行)によって愛唱され、ますますその人気は高まった。

 

  祁山悲秋の風更けて

  陣雲暗し五丈原

 零露の文は繁くして

 草枯れ馬は肥ゆれども

 蜀軍の旗光無く

 鼓角の音も今しづか

 丞相病篤かりき

 草盧にありて竜と臥し

 四海に出でて竜と飛ぶ

 千載の末今も尚

 名はかんばしき諸葛亮

   土井晩翠は、後年「無題録」(『雨の降る日は天気が悪い』所収)で次のように述べている。

「私は小学校時代から父に八犬伝、水滸伝、三国志に対する趣味を鼓吹された。孔明に対する崇拝はその頃からである。大学卒業後、星落秋風五丈原を書いたのも思えば父の教えからであった」

   明治から昭和戦前期にかけて大家も孔明に関する著作をのこしている。内藤虎次郎「諸葛武侯」(明治30年)、白河次郎「諸葛孔明」(明治42年)、猪狩又蔵「諸葛亮」(大正2年)、宮川尚志「諸葛孔明」(昭和15年)、そして吉川英治「三国志」が昭和15年に刊行されている。東洋史家の市村讃次郎も「諸葛亮伝」(教材講座第3巻1-2)を昭和3年に発表し、『支那史研究』(昭和14年)として刊行された。戦後、植村清二「諸葛孔明」(昭和39年)や狩野直禎らが多数の諸葛孔明関連の論文を著述している。

 

 

2026年8月15日 (土)

現在では否定されている「古代四大文明」史観

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 かつての歴史授業では必ず四大文明が説明された(田中文治「中学歴史の精解と資料」1977年)

 

 紀元前5000年紀以降、エジプト・メソポタミア・インダス・黄河の各文明が誕生、世界史では古代の四大文明と呼んでいる。四大文明は、いずれも大河流域のデルタ地帯で灌漑農耕国家を成立させ、都市文明を発達させた。その言葉の起源は清の梁啓超の詩(「二十世紀太平洋歌」1900年)に見えるが、現在、四大文明史観はトインビーなどにより世界の歴史学会では完全に否定されており、中国・韓国・日本のみで学校の歴史用語で教えられているが、欧米諸国には存在しない。ウイットフォーゲルの「アジア的専制政治」説は、当時の日本でも主流であったマルクス唯物史観の学者たちによって長らく支持されていた。つまり古代文明は4つに限定されたものではなく、前3千年紀の後半には、すでに南米アンデス地帯の一部に、オリエントの影響をうけない、しかし本質的にはあまり差異のない原始農耕文化がおこっており、神殿をもつ集落の遺跡、カラル遺蹟が発見されている。

   西アジア「肥沃な三日月地帯」からは前9000年ころのムギ・マメの化石が大量に出土している。中国においては華北(黄河流域)のアワ・キビと華中(長江の中・下流域)のイネが生態系の違いを反映しているが、イネの長江文明などの農耕の始まりが多くの遺跡によって明らかになりつつある。1996年には成都黄河文明よりも古い前5000年の都市国家(竜馬宝墩古遺跡)が発見されている。世界の主要な穀物はムギとイネとトウモロコシである。前7000年ころウィスコンシン氷期がはじまり、古代アジア人はベーリング海峡をわたってアメリカに進出し、南下した古インデォはメキシコやペルーに定住し、前2000年から前1500年ころトウモロコシをはじめジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、トマトなどの栽培が起こる。とくにオルメカ人は前1200年ころ、南米に石像をはじめ神殿などの初期国家を形成していった。アメリカの文化人類学者エルマン・サーヴィス(1915-1996)の初期国家の定義によれば、集団で生活し「人口規模が2万人以上であること」とある。マイケル・コーは調査の結果、サン・ロレンソの遺跡を25000人規模の都市と推定している。とくに中国の黄河文明に関しては、一つに括ることを誤りとしなければならない。長江下流域の河姆渡文化や良渚文化など、中国新石器時代の遺跡は黄河流域だけに限らない。近年、杉龍崗遺蹟(湖南省常徳市)から9000年前の米粒が発見された。(世界史)

2026年8月10日 (月)

悪女たちの知られざる真実

  大河ドラマ「豊臣兄弟」乃木坂46井上和が大河デビュー。初々しい茶々だった。そんなときに小川真由美の訃報が流れた。すでに3月に他界しており出家していたという。小川真由美は映画・テレビ・舞台に活躍し、個性的な悪女が多かった。大河「葵三代」での淀君も印象的だった。淀君やクレオパトラなど気の強い悪女が似合う女優は彼女の他にいないだろう。

   女は古来、浮薄で、浅はかで、愚かで、思慮に欠け、気まぐれとされる。こう書けば女性からクレームが殺到するかもしれない。しかし世界史に登場する女性は悪女が多い。ルクレツィア・ボルジア、メアリ・スチュワート、カトリーヌ・ド・メディチ、ベアトリーチェ・チェンチ、則天武后、西太后、イメルダ・マルコス、称徳天皇、日野富子、淀君などなど。そのなかでも奢侈にふけって王室費を乱費したため、国民の反感をかい、断頭台の露と消えたマリ・アントワネットは最も広く知られているだろう。ランブイエ、サン・クルー、ベルサイユ、フォンテーヌ・ブロー、サンジェルマン、マルリー、バンセンヌとお城や宮殿の数も半端じゃない。ファッション、食事などまるで病気のように宮廷内に贅沢が蔓延した。賭博の負けも凄まじかった。ポリニャック伯爵夫人をはじめ取り巻きたちに賭け金を次々に巻き上げられ、50万リーブルもの借金を作った。ルイ16世は「自分自身を滑稽に見せるためにフランスの女がこれほど多くの金を浪費したことは、かってなかった」と嘆いていた。

   NHK「中国王朝よみがえる伝説・西太后」 女優の戸田恵梨香が紫禁城を訪れる。西太后は清朝末期の咸豊帝の后で同治帝の生母。1898年、光緒帝が変法派による改革を推進するや、これを嫌い、保守派と結んで光緒帝を幽閉し、寵后の珍后も殺された。光緒帝の急死については、近年、帝の遺髪から致死量を超える砒素が検出されたことから、西太后の毒殺説がほぼ裏付けられた。また前日、光緒帝が伊藤博文と面会してることから、国際的な謀略説も指摘されている。他方、「男子居外、女子居内」(礼記)という伝統がある中国において、48年間という中国史上最も長く政権にあった女性であるということから、纏足の廃止、鉄道・軍備などの近代化など西太合を有能な政治家として肯定的な評価をする傾向もある。

 

 

2026年8月 6日 (木)

残念な北京原人

Img_1548940_28906951_0    1929年12月2日、裴文中が中国・周口店で北京原人の完全な頭蓋骨を発見した。これまで人類が初めて火を使ったのは50万年前の北京原人(学名ホモ・エレクトス・ペキネンシス)と考えられていた。近年の研究では、周口店の北京原人は現生人類の祖先ではなく、絶滅種と考えられている。むかし貝塚茂樹先生は「世界の歴史1 古代文明の発見」で難解な中国古代史をわかりやすく説いてくれた。しかし貝塚先生も北京原人は現生人類の祖先と思っていたらしく、この事実を知らずに亡くなっている。

   近年、南アフリカ北部で約100万年前に草木を燃やし、獲物の動物などを焼いて食べていたとみられる跡が発見された。しかし欧米の学者は、洞窟内の灰の跡は堆積したコウモリの糞が自然発火したものであり、北京原人が火を使い、調理したり、火種を保存する能力がなかったのではと見ている。ブラックによって学名シナントロプス・ペキネンシスと名付けられていたが、現在はホモ・エレクトス・ペキネンシスと改称されている。アフリカ起源の人類が世界各地域に広がったとする単一起源説が優位であるが、米学者ミルフォード・ヴォルポフらは北京原人を根拠に多地域並行起源説を唱えている。中国の学者らも単一起源説に批判的であり、北京原人が火を使い、火種を保存する能力があったと反論している。

 

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    20世紀初頭の北京原人の調査にあたった学者たちは米の古生物学者ヘンリー・オズボーン(1857-1935)の影響下にあった。オズボーンは中央アジアこそが人類の起源であるという仮説をたてた。1914年、スウェーデンの地質学者ヨハン・アンダーソン(1874-1934)は中国全土を調査した。1919年にカナダ人のダヴィッドソン・ブラック(1884-1934)が北京にやって来た。1921年、ブラックとオットー・ツダンスキーは周口店で北京原人の歯を発見した。続いて輩斐文中がほぼ完全な頭蓋骨の化石を発見し、世界的に注目が集まった。ワイデンライヒは北京原人を現生人類の祖先と考えたが、現在では否定する学者が多い。未だ北京原人がアジア人の祖先か、火を使用したのか、使用しなかったのか、決定的なことは謎のままである。もつとも確実な炉の址が見つかったのはフランスのテラ・アマタ遺蹟で約40~35万年前である。

 

 

 

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  アンダーソン              ブラック

( keyword;Homm erectus Pekinensis,F・Weidenreich,Davidson Black,Johan Gannar Andersson )

2026年8月 5日 (水)

王昭君の墓

   王昭君は名を嬙(しょう)といい、故北省興山県郡の南郊外の宝埠村に生まれる。漢の元帝の時、妃に選ばれた。後宮にはあまたの美女がいたが、王昭君はその清廉な人柄ゆえに賄賂など一切しない人だった。匈奴の呼韓邪は友好のため漢室の宮女を求めた。元帝は数多い後宮の女性の中から絵姿の醜い王昭君を選んで、その強要に応えることにした。別れに臨んで対面すると、画像とは似ても似つかない絶世の美女であり、人選の誤りを悔やんだが、すでに遅かった。賄賂を贈らなかった王昭君を偽って醜く描いた画家毛延寿は、帝の怒りに触れて首をはねられたが、王昭君もまた後に胡地において怨思の歌を作り、服毒自殺したと伝えられる。王昭君哀話は「西京雑記」にあるが、元代の馬致遠の「漢宮秋」により広く知られるようになった。ここでの王昭君は、匈奴におくられる途中、国境の大河に身をあげて死ぬことなっている。昭君悲話はかなりの部分は作り話であるが、偽りの絵筆を執ったとされる毛延寿の冤罪も哀れさを感じる。毛延寿の刑死の年が紀元前33年のことでクレオパトラの没年と同じ。王昭君の生没年を推定すると、紀元前53年から紀元前33年とみられる。

 王昭君の墓は、内モンゴル自治区の呼和浩特(フフホト)市から9㎞離れた南郊外にある。敷地面積は1.4haで、高さは33m。「大黒河の畔、青き塚に黛いだかれる」とある。およそ2000年前に造られたと思われる。

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