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2009年12月10日 (木)

張良の仙人志願

    留侯張良は、漢室創業なるや、病と称して引退し、食事をしない。張良が言うには、「わたしの家は代々韓の宰相であったが、秦のため亡ぼされたので、仇討をすることができた。かくして今は舌先三寸をもって帝王の軍師となり、一万戸の封地を拝領して列侯になっている。平民にとって、これ以上の栄達はない。あとは俗世を捨てて、赤松子のように仙界で遊びたい」と。赤松子とは神農時代の仙人だそうだが、詳しいことはわからない。水玉という水晶からつくる妙薬で体を鍛えたのち、炎に身を投じ、全身を焼きつくして神仙となった。さらに崑崙山で修行をかさねた。炎帝(神農)の末娘が赤松子を追ってきたので、娘にも水晶を飲ませて尸解を施し、2人は天に昇っていった。張良は栄達を遂げた人のお手本のような人物だ。

2009年12月 2日 (水)

アナウの彩文土器文化

    カスピ海東方480㎞、トルクメニスタン南部のアシガバッド東12㎞付近に北丘、南丘、アナウ・テペ(19世紀に廃棄)の3遺跡からなるアナウ遺跡は彩文土器文化の先史遺跡で知られる。1903年から04年アメリカの地質学者パンペリーはカーネギー財団の援助によりロシア領トルキスタンに学術調査をおこなったが、この際ドイツの考古学者フーバート・シュミット(1864-1933)によってアナウ遺跡の発掘調査がされた。のちスウェーデンの地質学者ヨハン・グンナー・アンダースン(1874-1960)が1923年から24年、甘粛省寧定県半山で仰韶文化を発掘報告したが、彩文土器の類似性から西から東へ彩文文化が広がったとする西方伝来説が流行した。しかし近年の学者たちは彩陶の西アジア起源説には批判的である。彩陶は農耕社会のものであり、いかなる移住民もこのような彩陶土器を動物の背中にのせて持ち運ぶことはなかっただろう。つまり西アジアにおいても、中国においても、新石器農耕文化のある段階には彩色土器があらわれるという共通する意識形態が存在するという興味ある結果が明らかとなりつつある。

2009年11月29日 (日)

産業革命と女流作家

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  フランス革命からナポレオン戦争へとヨーロッパの戦乱が続き、イギリス国内には産業革命が進行した。文学の世界ではロマン主義運動が盛んであった。工場と資本主義農場の発達は、婦人たちの生活にも大きな変化が現われた。やがてマリア・エッジワース(1767-1849)、ジェーン・オースチン(1775-1815)、ハンナ・モア(1745-1833)、メリー・ルイーズ・ミットフォード(1787-1855)らのように自ら作家となるほどの教養を積んだ女性が現われる。とくにオースチンほど驚嘆すべき女性作家はおそらくいかなる国の小説史にもいないだろう。夏目漱石が晩年創作の原理とした「則天去私」は、オースチンの小説上に実現されているといわれている。ロマン主義的な女流作家では、アイルランドの因果な地主の搾取を描いた「ラックレント城」(1800年)の作者エッジワースがいる。そのほかオウピ夫人(Mrs.Opie Amelia 1769-1853)、スコットランド人でスコットの友で「結婚」の作者スーザン・フェリア(1782-1854)、また恐怖小説の「フランケンシュタイン」の作者のメアリー・シェリー(1795-1851)がいる。

2009年11月28日 (土)

特高のルーツは御史(ぎょし)

    李朝に実際にあった官職「暗行御史」(アメンオサ)がいまコミックやドラマなどでブームとなっている。地方官の監察を秘密裏に行った国王直属の官吏のことである。ウィキペディアでは「あんこうぎょし」と正しく日本語読みがされているのだが、なぜかコミックでは「あんこうおんし」となっている。もちろんコミックの独自性があるので読み方は作者の自由で許されるのであるが、「御史」という官職は古代中国の伝統を引き継いでいると思われるので、「ぎょし」と読むほうが一般的には素直に理解できると考えている。

    ここで一言申しそえたいのは、韓国の暗行御史は物語の中でだいたい正義のヒーローだそうだが、中国の御史そのものは高官であり、国家権力の中枢を担う職掌である。とくに御史が歴史に登場するのは、有名な秦の始皇帝の焚書坑儒の話の時である。

    方士の侯生と廬生とは、焚書事件の後に夜逃げした。始皇帝はこれを捕えようとしたところ、儒者たちはふたりをかくまったので、御史をして学者を取り調べさせた。学者らは伝え聞いて、次から次へと他人を告げて引き合いに出し、自分だけは罪を逃れようとした。そこで460余人を捕えて、みな咸陽に穴埋めにしたという。有名な史記の焚書坑儒の記述にでてくる御史である。御史は監察を掌る官職であることは、朝鮮、日本でも同じである。図書の検閲などもこの御史が行う。例えていえば、戦前日本の特高(特別高等警察)に似ていないこともない。治安維持法をふりかざし、国体維持の名の下に社会主義、共産主義などあらゆる政治的、思想的自由をふみにじる暗黒政治をおこなう機構である。正義の味方「暗行御史」と悪名高い「特高」のルーツは秦代の「御史」なのである。

2009年11月24日 (火)

水戸黄門と暗行御史

    東映時代劇が好きだ。だが今年は大原麗子、山城新伍、千原しのぶ、かつてのスターが亡くなられて淋しいかぎりである。せめてもの救いは里見浩太朗、北大路欣也、松方弘樹らが大物スターとしての貫禄をテレビで見せてくれていることだ。朝日新聞夕刊連載の「黄門は旅ゆく」も欠かさず読んでいる。水戸黄門の印籠に似たような話が韓国にもあるという。李朝の国王直属の密偵で「暗行御史」という。ケペルは東洋史専攻なので興味を覚える。「御史」とはもともと古代中国の官名で、君主に侍御する史官のことで、秦以後監察官の名称となった。監察とは、監督・視察することである。そういえば、黄門というのも中納言の唐名であり、中国の制度に由来していることも共通する。

  暗行御史は地方官の不正陰謀を糾弾するため、国王がみずから人をえらんで面接し、探索すべき事柄を書いた親書および辞令、旅費を手交する。暗行御史に任命されたものは即刻出発し、都城を出てはじめて自分の行き先や探査事項を知る。使命をはたすまではどんな事情があっても帰京できず、家族への通信も許されなかった。任命されたものの官位は低いものの、国王の分身として絶大な権限が与えられ、誰もその行動を防げることはできなかった。暗行御史が都城を出たという噂がたつと、各地の官吏は畏れた。水戸黄門と言うよりも、「隠密剣士」の秋草新太郎や「薩摩飛脚」の嵐寛寿郎に近い。薩摩飛脚とは大仏次郎の小説だが、幕府の密命を受けて薩摩藩に入る隠密のことである。薩摩藩は西南の雄藩で、砂糖の専売や琉球貿易で財政が豊かである。洋式軍備と藩営工場の建設で謀反の惧れがある。幕府としてはその動向に警戒しておく必要があったのだ。江戸時代の地方監察制度は知らないが、朝鮮の暗行御史の制度など正確な書物があれば研究したい。

2009年11月23日 (月)

百歳万歳

    今月の訃報には高齢の有名人が多かった。レヴィ・ストロース100歳、森繁久弥96歳、水の江滝子94歳。「棺を蓋いて事始めて定まる」というが、人間の成功、失敗、遇不遇は、その人の死後棺にふたをしてはじめていえることであろう。今年、松本清張、太宰治が生誕百年でブームとなった。死後もかわらず読まれている作家の代表であろう。来年、生誕百年を迎える有名人を調べてみた。つまり明治43年(1910年)生れの人である。

  まずは芸能界から。三益愛子(「流れる星は生きている」「母の曲」)、原駒子(「剣難女難」)、阿部九州男(「鳴門秘帖」「荒神山」)、黒川弥太郎(「南国太平記」「関の弥太ッペ」)、山村聡(「山の音」)、坊屋三郎(俳優)、松本白鸚(俳優)、アナベラ(「巴里祭」「ル・ミリオン」)、ジャック・ホーキンス(「ベン・ハー」「アラビアのロレンス」)、ジャン・ルイ・バロー(「天井桟敷の人々」)、デビッド・ニーブン(「天国への階段」「八十日間世界一周」)、バン・ヘフリン(「シェーン」)、レッド・スケルトン(「水着の女王」)、ジョーン・ベネット(「飾窓の女」)、シルビア・シドニー(「市街」「暗黒街の弾痕」)、ルイーズ・ライナー(「巨星ジークフェルト」「大地」)。文学歴史ではアヌイ(劇作家)、ジャン・ジュネ(作家)、レオ・レオニ(絵本作家)、白洲正子(作家)、村上元三(作家)、石上玄一郎(小説家)、保田與重郎(文芸評論家)、篠原梵(俳人)、艾青(中国の詩人)、小川環樹(中国文学)、白川静(漢字学)、宇野精一(中国哲学)、山本達郎(東洋史)、佐伯富(中国史)、羽田明(中国史)。
大庭秀雄(映画監督)、黒澤明(映画監督)、田中友幸(映画プロデューサー)、双葉十三郎(映画評論家)、安藤百福(実業家)、久野収(哲学者)、伊藤久男(歌手)、渡辺はま子(歌手)、西田修平(陸上競技)、木内信蔵(地理学)、大平正芳(政治家)、鈴木俊一(政治家)など。これらのかたがたは物故者である。
まど・みちお(詩人)、吉行あぐり(美容士)のように100歳を超えて元気な著名人の方は少ない。
  「死んだ子の年を数える」というが、もし早世した著名人が現在も生きていたら何歳になっているか考えることは無意味なことだろうか。ジョン・F・ケネディは来年で93歳になる。三島由紀夫は85歳、マリリン・モンローは84歳、チェ・ゲバラは82歳、ジェームズ・ディーンは79歳、アベベ・ビキラは78歳、ガガーリンは76歳、サッダーム・フセインは73歳である。みな若くして亡くなったものである。

トリビア来年どんな年?

  2009年もあと一月と少し。2010年はどんな年だろうか?歴史年表で100年前の1910年を調べると、重要な出来事は「日韓併合」と「大逆事件」である。ここではトリビアのネタを紹介する。

日本メキシコ友好五百年 日本とメキシコとの正式な国交樹立は明治21年11月30日であるが(最初の対等条約)、慶安15年、徳川家康がピペロを三浦按針建造の船でメキシコに遣使をおくっている。

京阪電車百年 会社の設立は明治39年であるが、明治43年4月15日、大阪天満橋と京都五条間で開通した。

不二家創業百年 明治43年、藤井林右衛門が横浜市元町2丁目で不二家洋菓子舗創業。

文芸雑誌「白樺」百年 明治43年、学習院出身の武者小路実篤、志賀直哉、木下利玄、園池公致、柳宗玄、郡虎彦らが、反自然主義を掲げて文芸雑誌「白樺」を発行した。

「修善寺の大患」百年 夏目漱石は伊豆修善寺の菊屋旅館に行くが、8月24日、大吐血、脳貧血を起こし、人事不省、危篤状態に陥る。「生き返るわれ嬉しさよ菊の秋」の句がある。

英国エドワード7世没後百年 エドワード7世はヴィクトリア女王の長男。しばしばヨーロッパ諸国を訪問して国際協調に努め、日本とも1902年、日英同盟を結んだ。庶民的な性格で人気があった。心臓発作のためフランスの保養地で死んだ。

生誕記念 上杉憲実生誕600年、角屋七郎兵衛生誕500年、葛飾北斎生誕250年、緒方洪庵生誕200年、嘉納治五郎生誕150年。
    葛飾北斎は「富嶽三十六景」などで有名な江戸の浮世絵師。北斎の曾祖父が吉良義央の家臣小林平八郎だという説があるが確証はない。

2009年11月15日 (日)

中世都市とゴシック美術

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   中世初期の間、ローマ帝国時代から続いた都市はほとんど荒廃し、新しくできた都市はまだ小さく、あまり重要なものではなかった。人びとの多くは田園に住み、修道院や貴族に従属して農耕した。しかし、12世紀以来、都市はふたたび栄えはじめる。人びとはだんだんと田園を捨て、自由な自治都市の住民となり、土地所有者である君主にしばられなくなった。このことが中世の生活に大きな変化をもたらした。自由市民は熟練した職人であり、企業力ある商人だったので、都市はやがて、富と芸術と学問の中心地となった。また、都市生活は人びとに独立心と実行力とを与えた。人びとは新しい考えにめざめ、自分たちの周囲の世界により多くの関心を持つようになった。この新しい精神から、ゴシックと呼ばれる、新しい芸術様式が生まれた。ゴシックは1150年頃フランスにはじまって、西ヨーロッパ全域に広まった。ゴシック時代、フランス、イギリス、ドイツでは小さな色ガラスがいろいろな形に裁断され、鉛の枠(ジョイナー)で組み合わされ、聖堂建築において不可欠なものとしていちじるしい発展をみた。フランスのシャルトル大聖堂、ル・マン大聖堂、ノートル・ダム大聖堂、イギリスのヨークおよびカンタベリーなどの諸聖堂のものが、12~13世紀の代表的な作例として名高い。教会そのものがまるでガラスの家のように見え、壁として残る部分は、はなはだ少なくなった。ただイタリアだけは例外である。イタリアでは、教会はかたい壁を保存し、壁画は数世紀間主要な芸術であった。イタリア人はいろいろな点で北方の国民とちがっていた。彼らはローマと初期キリスト教の継承者であることを決して忘れなかったし、また、都市生活のこともずっとよく知っていた。イタリアには豊かな、強力な中世都市が他の諸国より、はやくからある。13世紀末から14世紀にかけてチマブーエ、カバリーニ、ジョットその他の画家が活躍した。とくにジョットの描く大胆な人物像は近代的精神が見られる。(参考:H・W・ジャンソン「絵画の歴史」1963)

2009年11月12日 (木)

唐宋転換期と社会経済の推移

   中国史のうえで最も論議が盛んだったのは唐の中期から宋初にかけての時代である。わが国の学界では、この時期を古代と中世との変革期とみるか、あるいは中世と近世との転換期とみるか意見が分かれた。(変革期と転換期との用語の違いに注目!)

   内藤湖南(1866-1934)は古代を後漢まで、中世を五胡十六国から唐の中頃まで、近世は宋代以後としている(「概括的唐宋時代観」1921年)。前田直典はマルクス史観にもとづいて、古代を奴隷制の社会とする立場に立ち、9世紀前後に古代が終り、そのほかの東アジアの日本と朝鮮でも12世紀から13世紀に同様のことがおこり、東アジアで古代の終末について連関性があったと説いた(「東アジアに於ける古代の終末」1948年)

   以下、唐宋から明清に至る社会経済的推移を略述する。北魏王朝に始まる均田制は隋唐王朝に受け継がれて、日本の班田収受の法の手本となったが、荘園制の発達にともなう新しい地主階級の勃興とともにくずれはじめ、安録山の乱(755年)以後は全く崩壊して両税法が行われるようになってしまった。宋代になると、政治のうえで大きな力をふるっていた貴族や均田農民も没落し、佃戸を小作人とする新しい地主階級が荘園を所有した。また、宋の時代以後は国内商業の発展もめざましく、行とよばれる商人の同業組合、作とよばれる手工業者の組合があらわれ、貨幣としては銅銭が広く用いられたが、元の時代を経て明の時代になると銀が最も重要な貨幣となり、税制のうえでも地税・徭役の貨幣納が進んだ結果、明の末期(16世紀後半)には地租とそれに応ずる丁税とを銀でまとめて収めさせる一条鞭法が行われて唐中期以来の両税法に代わるようになった。神宗の時代になると宰相となった張居正(1525-1582)によって全国的に施行させるにいたった。

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   張居正

2009年11月 4日 (水)

かわいそうな金持娘

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    バーバラ・ハットン(1912-1979)は4歳で母を、7歳で大好きな祖父を亡くした。祖父F・W・ウールワースは総合小売業の草分け的存在の人物で、彼の巨額財産の一部が孫娘のバーバラに残された。その額は現在の額に直すと約5億7千万ドル。21歳で社交界デビュー。パーティーに出席すると「お金があると幸せも買えるんでしょ」と女性たちに皮肉られた。会場から出ると、有名人みたさに集った群衆から腐ったトマトや卵を投げつけられた。硫酸をかけられたこともあった。バーバラは少女時代ふっくらとしていたが、最初の夫アレクシスに「君は太りすぎだよ」と言われて、極端なダイエットで拒食症になった。生涯7度の結婚。最初の相手はロシア貴族のアレクシス・ムディバニ公。2番目はデンマークのコート・ハウクウィッツーレンベルトロウ、3番目は俳優のケーリー・グラント、テニスの名選手ゴッドフリート・フォン・クラムなど。60歳を過ぎて、バーバラはカリフォルニアのビーチボーイを部屋に入れるようになった。1979年、ホテルの一室ですでに亡くなっているのが発見された。かつてイギリスの俳優ノエル・カワードはバーバラを「かわいそうな金持ちの小さな女の子」と呼んだ。

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