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2017年5月26日 (金)

古代エジプトの猫崇拝

Basuteto1     イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」の中で、「旧約聖書には猫という言葉が全く出てこない」と書いてある。ある人が調べたところ、旧約新約をあわせて猫が出てくるのは外典の「エレミアの手紙」の中の1ヵ所だけだという。しかも悪いたとえ話として猫が登場する。ユダヤ人は猫が嫌いのようだ。しかし隣国の紀元前5世紀頃の古代エジプトでは猫が大層かわいがられていた。ミイラにして棺桶に入れられたり丁重に葬られたことはよく知られている。猫が亡くなると飼い主は風習として眉毛をそって喪に服した。猫を殺すと死刑にされることもあったようだ。猫の守護神であるバステト女神がおり、猫たちにひどいことをする者に残虐な復讐するという。このように猫が崇拝される理由はやはり古代エジプトが農耕文明のうえに成立した国家であったことと関係がある。考古学の研究から、ペットとしての猫の祖先はアフリカンワイルドキャット(Felis sylvestris Lybica)と推測され、エジプトのナイル川沿いで穀物倉庫などを荒らすネズミなどを退治する目的で飼われたことから、人間に重宝され始めたと言われている。人々は農作物を食い荒らす水鳥を退治するため猫を飼う習慣があった。そして猫の存在に感謝し、神のように崇拝し、猫を守護神としたのではないだろうか。

Imageca19agzu     ちなみに島国日本に猫は本来いなかったが仏教伝来とともに中国から渡ってきた。大切な経典をネズミから守るため益獣として輸入されたと言われた。しかし近年、カラカミ遺跡(長崎県壱岐市)の弥生時代(前1世紀)の遺骨が発見され、猫がむかしから存在していた可能性が探られている。中国で猫を飼う風習がはじまったのは前漢のころからで、唐代には犬や鶏とならんで家々で飼われるようになった。(Basted)

参考文献;金沢庄三郎「猫と鼠」 創元社 1947
今村与志雄「猫談議 今と昔」 東方書店 1986
後藤秋正「猫と漢詩 札記」 北海道教育大学紀要人文科学・社会科学編57-2,2007

2017年5月12日 (金)

看護の日

Photo_3     本日を「看護の日」とするのは、1820年フローレンス・ナイチンゲールの誕生日に由来する。1853年、トルコとロシアの間にクリミア戦争が始まった。イギリス、フランスらがトルコを支援した。この戦争には19世紀を代表する2人の人物が関わっている。ナイチンゲールとトルストイである。1853年、ナイチンゲールはロンドンのハーレー街の小さな婦人施療院で看護婦として働いていた。これが陸軍大臣シドニー・ハーバートの目にとまった。翌年10月、ナイチンゲールは38人の看護婦とともにクリミアに向かった。同年7月、ロシアの青年将校トルストイは激戦地セバストーポリに従軍している。信仰心の篤い2人が戦場でみた光景が何であっのかそれは知らない。ただ戦争が青年たちの人生観を大きくかえる出来事だったことは間違いない。ナイチンゲールとトルストイは同じ年の1910年に亡くなっている。ナイチンゲールが亡くなるとき、国葬にしてウェストミンスター寺院に葬ることが話されたが、ナイチンゲールは遺書で拒否し、ハンプシャーのイーストウェロウの小さな教会墓地に埋葬された。世間が偉人と認めながら、偉人であることを拒みつつけた2人はよく似ている。(5月12日)

2017年5月 8日 (月)

五月は悪月?

    そのむかし中国では相当古くから5月を悪月とみなす習慣があった。史記によると、斉の田嬰には40余人の子供があり、そのなかの一人に田文がいた。田文は賤妾の子で、しかも5月5日に生まれた。当時の俗説では「5月5日に生まれた子どもは父母に仇をする」といわれた。田嬰もはじめはいい顔をされなかったが、実はなかなかの才人で、やがて父のあとをついで城主になる。善政をおさめて、食客数千人を招いて厚遇し、その勢力は諸侯に聞こえ、孟嘗君として戦国末の四君の1人に数えられるようになった。なぜ5月が悪月なのか不明である。さわやかな新緑の季節なのに五月病というようにノイローゼなどの症状が現れるのもこの季節。5月は注意が必要である。

ジャンヌ・ダルク祭

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  イザボー・ド・バヴィエール

  1429年5月8日、ジャンヌ・ダルク(1412-1431)はオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を大敗させた。ジャンヌの父はジャック・ダルク、母はイザベル・ロメールといわれる。しかしフランスには「フランスはイザボーによって破滅し、ジャンヌによって救われた」という言葉がある。この意味はジャンヌ・ダルクはフランス王室(シャルル)の血を受け継ぐものであったという伝説にもとづくものである。イザボーとはシャルル5世の王妃イザボー・ド・バヴィエール(1370-1433)のこと。イザボーは夫のシャルル5世が発狂したあと、シャルル5世の弟ルイ・ド・ヴァロア(オルレアン公)と親密な関係となり、生まれた子がジャンヌ・ダルクと一説にいわれている。ところがヴァロワは1407年謀殺されているので、ジャンヌ・ダルクの生年は定説よりも5年もさかのぼることになるので、24歳で処刑されたことになる。もちろん生年とされる1412年説も明確な根拠があるわけではないのだが、これらの伝説が生まれる背景には、聖女の母親がたとえ裏切者、売国奴、淫乱とされるイザボーであっても、オルレアン党を正当な王統とする史観があるからであろうか。ジャンヌの王女伝説を信奉する人々を「バタルディザン」(バタールとは私生児の意)と呼ぶ。

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2017年5月 4日 (木)

名刺のルーツ

Garamontdebernyetpeignotdsc4444    本日は「名刺の日」。May(メイ)と四(し)で「めいし」の語呂合わせ。日本のサラリーマンが必ず持っているもので、欧米ではあまり見られないものに名刺がある。だが世界で最初に名刺が使われたのはヨーロッパで、16世紀のドイツが起源といわれている。当時、人を訪ねていって不在だった場合、自分の名前を書いたカードを残していったのが名刺の始まり。その後18世紀、名刺はヨーロッパ社交界で盛んになる。この頃の名刺は銅版画を入れた美しいものが流行った。

Img_news    官僚制度が古くから発達した中国では名刺の起源は、少なくとも秦の末期に遡ることができる。漢代には「刺」「謁」と言い、謁見を求める者の姓名と身分を札に記して、取り次ぎを要請するのに使われた。三国、唐と「名謁」「名刺」と呼ばれ、宋代以降「名帖」「名紙」「拝帖」などの呼称がある。近年、古い名刺が墓から出土している。1984年に呉の武将、朱然(182-248)の名刺が発見された。「丹陽朱然再拝 問起居 字義封」と墨書してあり、木簡の長さは24.8㎝、幅3.4㎝。(参考:「漢晋時期における名謁・名刺」呂静香、程博麗、東洋文化研究所紀要160、「人間関係のはじまり」貝塚茂樹 1971、5月4日)

2017年5月 1日 (月)

眼鏡の歴史

    メガネの発明者が誰であるか正確にはわからない。原理はアラビアの学者アルハーゼン(956-1038)やイギリスのロジャー・ベーコン(1214-1294)によって研究されたが、メガネを使っていたという記録はない。1021年にイブン・アル・ハイサムが出版した「光学の書」が12世紀にラテン語に翻訳されて、13世紀イタリアでメガネが発明されたとみられている。発明者は①フィレンツェの貴族サルヴィヌス・アルマタス②ピサのフラ・アレッサンドロ・ダ・スピナ③フィレンツェのアルマルト・デグリ・アルマティなど諸説ある。そのほか13世紀末のイタリアでメガネを使用したとする断片的な記録が多数残っている。その年代は1284年とされている。

Hugh_specs     メガネが描かれている最も古い絵画は、イタリアにあるサン・ニコロ修道院のトマソ・ダ・モデナ(1325-1379)という画家による、ある枢機卿の肖像画(1352年)である。ラファエロが描いた教皇レオ10世の手もとにも、レンズがひとつの拡大鏡のような形のメガネが描かれている。下の画像「レオ10世と2人の枢機卿の肖像」(1518~1519年)。

     最初のメガネは老眼鏡で、次いで近眼鏡ができる。レンズがふたつのメガネは、ふたつの虫メガネの柄の先を鋲でひとつに留めたようなものであったから、手で押さえたままでいるか、バランスよく鼻の上にのせておくかであり、長時間着用するのは困難であった。メガネの素材は最初、水晶や緑柱石のような鉱物が使われていたが、そして後にガラスが使われるようになっていく。ガラス工業が盛んであったヴェネチアは、14世紀になるとメガネの産地として知られるようになった。(Salino D'Armate,Tomaso da Modena)

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  レオ10世と2人の枢機卿の肖像 部分

  日本で眼鏡がつくられるようになったのは、1620年ころのこと。浜田弥兵衛という船乗りが、オランダの領地だった東南アジアの島から眼鏡のつくり方を学び、その技術を長崎の生島藤七という職人に伝えたという。ちなみに、眼鏡がずり落ちないようにするための、鼻あての部分を、初めて作ったのは日本人だといわれている。

2017年4月30日 (日)

孔子の妻

   孔子の妻のことは詳しくわからないが、宋の幵官氏(けんかんし)の娘といわれる。孔子19歳のとき結婚し、翌年には長男の孔鯉を産んだ。夫婦仲があまりよくなく妻に逃げられたという説もある。正式に離婚したかどうか定かではないが、孔子は55歳のとき放浪の旅に出て14年間も妻とは一度も会っていない。幵官氏の娘は孔子が帰国する前年魯哀公10年(紀元前485年)に亡くなった。

2017年4月28日 (金)

史記・司馬遷関係文献目録

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  前漢武帝の治世の元朔3年(前126)、司馬遷20歳のとき、天下漫遊の旅に出た。河南、安徽、江蘇、浙江、江西、湖南、湖北、山東の各省にわたる大旅行で、前後二、三年はついやしたようである。司馬遷は淮陰に立ち寄った。この地は、漢王朝の成立後、劉邦にあっけなく滅ぼされたが、劉邦、項羽の漢楚興亡のただ中にあっては斉王となり、漢室の一敵国となした名将・韓信の故郷である。司馬遷はこの地の父老たちから韓信の人柄を示す故事を聞くことができた。韓信は若い頃、屠殺屋仲間の若者にばかにされて、その股をくぐらされた「韓信の股くぐり」の話は有名であるが、のちに韓信は、その若者を召し出し、「わしの今日があるのはおまえのおかげだ」といって厚く報いたという。司馬遷は、どのように、こうしたエピソードを集めたのであろうか。じつは「史記淮陰候列伝」の論賛に、司馬遷が収集の経緯の一端を語っている。

    わたしが淮陰に行ったとき、淮陰の人々はわたしにこういった。「韓信は平民であったときでも、その気がまえは普通のものとはちがっていました。彼の母が死にましたとき、貧乏で葬式もできなかったのです。ところが、彼は高爽な、ひらけた場所に墓をつくり、将来その周囲に何万軒もの墓守りをおけるようにしたのです。」と。わたしは彼の母の墓を見にいったが、まことにその通りであった。もし韓信が道理を学び、謙虚な態度をとって自分の功績を自慢せず、その才能を鼻にかけなかったならば、漢室に対して、その勲功はかの周公、召公や太公望などにも比せられて、後世ながく国家の元勲として廟に祭られることにもなったろうものを。ところが彼はそうなろうとつとめずに、天下が統合されたあとで、なお反逆をたくらんだ。一族全滅にみまわれたのも当然ではなかろうか。

    ここには司馬遷の韓信の人柄に対する愛情と、それ故にこそあえて加える批判の筆とがよくあらわれている。(参考:大島利一「司馬遷」清水書院)

史記 影印本「二十五史」所収 2冊 台北・芸文印書館
史記考要 柯維騏 明
史記会注考証 瀧川亀太郎 東方文化学院研究所 1932-34
史記及注釈綜合引得 北平・哈仏燕京学社 1947
史記会注考証校補 6冊 水沢利忠著 中文出版社
史記研究資料索引和論文専著提要 楊燕起・兪樟華編 蘭州大学出版社 1989
史記研究的資料和論文索引 中国科学院歴史研究所 科学出版社 1957
史記故事精選連環画 全4冊 冀汝枢等編絵 二世一世 1990
史記三家注引書索引 段書安 中華書局 1982
史記参考書目 二十五史史記後附録 開明書店 1935
史記書録 賀次君 商務印書館 1958
史記 世界文学大系 小竹文夫・小竹武夫 筑摩書房 1962
史記 中公新書 貝塚茂樹 中央公論社 1963
史記人名索引 呉樹平 中華書局 1982
史記人名索引 鐘華 中華書局 1977
史記新論 白寿彜 北京・新華書店 1981
史記菁華録 楊姚荢田輯 王興康等標点 上海古籍出版社 1988
史記地名考 銭穆 
史記百三十篇篇目的研究 劉偉民 香港聯合書院学報第10期 1972
史記研究之資料与論文索引 王民信編 台湾学海出版会 1976
史記選注賄匯評 韓兆琦編注 中州古籍 1990
史記探源 二十四史研究資料叢刊 崔適 北京・中華書局 1986

司馬遷 東洋思想叢書 武田泰淳 日本評論社 1943
司馬遷 教養文庫 岡崎文夫 弘文堂書店 1947
司馬遷之人格与風格 李長之 上海開明書店 1948
司馬遷 史記の世界 創元文庫 武田泰淳 創元社 1952
司馬遷著作及其研究資料書目 上海市歴史文献図書館 1955
司馬遷 李鎮淮  上海人民出版社 1955
司馬遷年譜 鄭鶴声編 商務印書館 1956
司馬遷 岡崎文夫 弘文堂 1958
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 文芸春秋社 1959
司馬遷 記録者の意義と生涯 小倉芳彦(世界の歴史3) 筑摩書房 1960
司馬遷所見考 金徳建 上海人民出版社 1963
司馬遷 筑摩叢書 バートン・ワトソン著 今鷹真訳 筑摩書房 1965
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 講談社 1965
司馬遷 史記列伝 世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1968
司馬遷 史記の成立 人と歴史シリーズ 大島利一 清水書院 1972
司馬遷 史記の世界 講談社文庫 武田泰淳 講談社 1972
史記3 支配の力学 丸山松幸・和田武司訳 徳間書店 1972
世界をとらえた生涯 司馬遷 市川宏 人物中国志3 1975
司馬遷 中公バックス世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1978
司馬遷 諷刺と称揚の精神 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1980
司馬遷 起死回生を期す 中国の人と思想6 林田慎之助 集英社 1984
司馬遷評伝 肖黎著 吉林文史出版社 1986
司馬遷的創作意識與写作技巧 范文芳 文史哲出版社 1987
司馬遷和史記 劉乃和主編 北京出版社 1987
司馬遷與其史学 周虎林 文史哲出版社 1987
司馬遷 徳間文庫 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1988

2017年4月12日 (水)

映画でみる歴史偉人伝

Img_1189021_32131373_0     オリビア・ハッセーの「マザー・テレサ」(2003年)を見る。あのジュリエットの面影はないが、聖女を美化せず真実の姿が感じられる人間ドラマに出来ている。意外な大物スターが歴史上の偉人を演じる例はいくつかみられる。なかには失敗作もあるが、ご愛嬌的な面がある。無声映画のころから、クレオパトラなどの映画(ゼダ・バラ)は見世物的で人気があった。ハリウッドは大物スターもトンデモ映画に出ている。

  ゲーリー・クーパーがマルコ・ポーロ(「マルコ・ポーロの冒険」1938)、ジョン・ウェインがジンギスカン(「征服者」1956)、モンゴメリー・クリフトがフロイト(「フロイド」1962)、ヘンリー・フォンダがリンカーン(「若き日のリンカーン」1939)、リチャード・バートンがアレキサンダー大王(1956)、カーク・ダグラスがゴッホ(「炎の人ゴッホ」1956)、グレゴリー・ペックがダビデ王(「愛欲の十字架」1951)やマッカーサー(1977)、ジェフリー・ハンターがイエス・キリスト(「キング・オブ・キングス」1961)、ロッド・スタイガーがナポレオン(「ワーテルロー」1970)、クリフ・ロバートソンのケネディ(「魚雷艇109」1963)、ジェラール・ドパルデュー(コロンブス、1492」1991)、オマー・シャリフがゲバラ(1969)、イングリッド・バーグマンがジャンヌ・ダルク(「ジャンヌ・ダーク」1948)など。アジアではチョウ・ユンファが孔子、金城武が諸葛孔明、本郷功次郎が釈迦、勝新太郎が秦始皇帝、山本富士子が楊貴妃、田中裕子が西太后(ドラマ)などを演じている。聖徳太子を本木雅弘、空海を北大路欣也、最澄を加藤剛、親鸞を中村錦之助が演じている。NHKドラマで八百屋お七を前田敦子が演じたが、過去、坂東秋子、柳さく子、美空ひばり、中島そのみ、らが演じている。栗塚旭演じる土方歳三が最高のハマリ役である。 片岡千恵蔵は宮本武蔵、大石内蔵助、近藤勇、国定忠治などヒーローを演じてきたが、「日本暗殺秘録」(1969年)の井上日召は異色である。

    成功例をみると、ジェームズ・スチュワートのリンドバーグ(「翼よ!あれが巴里の灯だ1957)、ポール・スコフィールドのトマス・モア(「わが命つきるとも」1966)、グリア・ガースンのキュリー夫人(1943)、グレタ・ガルボのクリスチナ女王(1935)、マドンナのエビータ(1996)、マリオン・コティヤールのエディット・ピアフ(2007)。なぜか女性物が多い。

2017年4月10日 (月)

中国における名と字と号の話

   「ちんぷんかん」 珍糞漢、陳紛漢などいろいろな字を充てるが、要するになにがなんだかわけがわからないことである。江戸時代、中国人の姓名に、陳文述とか陳文龍など、陳文というのが多いといことから、この言葉が生まれたといわれる。人物の名前・呼び名はじつに複雑でややこしい。古代中国では「避諱(ひき)」という習慣があり、帝王の名の漢字を使用することができなかった。歴代帝王の避諱字を挙げると、秦始皇帝の「政」→「端」、漢高祖の「邦」→「国」、武帝の「徹」→「通」が代字で使用されている。唐代では太宗の諱「世民」を避け、世を曳く、民を氏などに改めている。

    中国では、古来より男は成年(20歳)に達すると、本名のほかに通称の「字(あざな)」をつけ、女は15歳になると婚約者を定め、「字」をつけた。本名をよぶのは目上の者が目下の者をよぶときにかぎられ、一般に相手をよぶときは「字」を呼ぶことになった。本名は生前は「名(な)」といい、死後は「諱(いみな)」とよばれる。

    ちなみに孔子は、姓は孔、名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)という。孟子は、姓は孟、名は軻(か)、字は子輿(しよ)、子居(しきょ)、子車(ししゃ)という。曹操は、姓は曹、諱は操、字は孟徳である。杜甫は、姓は杜、諱は甫、字は子美である。李白は、諱は白、字は太白、号は青蓮である。名を忌むという中国の習慣から考えると、後世の者が杜甫や李白の名をよぶのが失礼であろう。そこで杜甫の号である少陵というので『杜少陵集註』とか『李太白集』という詩集がつくられている。

東晋の自然詩人の陶淵明は名と字が諸説ある。「淵明」は本名とも、字ともいわれる。あるいは名は「潜」、字は「元亮」ともいう。

  近代の中国人名を名で呼ぶか、字で呼ぶかは悩ましい問題である。

       名    字    号
顔回    回    子淵(しえん) 
劉備    備    玄徳
諸葛孔明 亮    孔明
陶淵明   潜        元亮
朱子    熹    元晦   晦庵
周敦頤        茂叔   濂渓
孫文         載之   逸仙または中山
魯迅         豫才
蒋介石  中正   介石
毛沢東  沢東   潤之

  孫文は中国では孫中山の名称が一般的である。孫文には載之という字もある。魯迅は筆名で、本名は周樹人。蒋介石は介石は字で、台湾では蒋中正が一般的な呼び名である。毛沢東には「潤之」という字があるが、ほとんど使われない。新中国成立後、旧時代の風習を捨てる運動があり、現代中国では字を持っている人はほとんどいない。階級制度の否定により、「避諱」や「字」などの慣習も消滅している。

参考:史諱挙例 8巻 陳垣著 1933

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