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2022年6月28日 (火)

サラエボ事件

P0790  1914年のこの日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナンド夫妻が、バルカン半島のサラエボで一青年ガヴリロ・プリンツィプにピストルで暗殺された。7人の暗殺犯は、かねてから反オーストリア運動を企てていた「黒手組(「黒い手」とも訳す)」ツルナ・ルカの団員であった。反オーストリア運動に憤激していたオーストリアは、セルビア政府に対し、「犯人の裁判にオーストリア判事の参加」を含む最後通牒を1ヶ月の期限付きでつきっけ、セルビアがこの項目をうけいれないため、戦争は勃発した。短期間のうち、世界的規模で戦争が拡大したので「世界大戦」と呼ばれるようになった。ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国側に対し、イギリス・フランス・ロシアの協商側は連合国と称した。この戦争は、予想を裏切って短期決戦では終わらず、長期化するとともに世界化し、国民の総力を動員する総力戦または全体戦争となった。

220pxgavrilloprincip_2     世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の7人の暗殺犯はどうなったのか。大公暗殺犯(サラエボ事件)の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(1894-1918)はその後、セルビアの愛国者として賞揚された。プリンツィプは犯行当時、未成年だっため死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。しかし劣悪な刑務所環境のため結核により、1918年4月28日、獄死した。7人の暗殺犯のうち、ヴァソ・チュブリロヴィチはベオグラード大学教授、ユーゴスラビア森林相を勤め、1990年に死去した。最初に手榴弾を投げたネデリュコ・チャブリノヴィチは1916年に獄中で死亡。Gavrilo Princip(6月28日)

 

 

2022年6月24日 (金)

ソルフェリーノの戦い

  1859年のこの日、ナポレオン3世率いるフランス帝国とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルディーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦い、フランス・サルディーニャ連合軍が勝利し、翌年イタリアの統一に向かう。日本史に例えるなら、鳥羽伏見の戦い。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が明治天皇、ガリバルディが西郷隆盛、アンリ・デュナンが松本良順か。

現代戦はプーチンやゼレンスキーは戦場からは離れた大本営に常にいるが、ソルフェリーノの戦いまでは、当事国の君主が親征に出て軍を指揮していたという、世界戦史上、最後の戦争といわれている。(6月24日)

 

2022年6月19日 (日)

辛店遺蹟

 中国甘粛省洮沙県にある先史時代の埋蔵遺蹟。紀元前1300年から紀元前1000年頃の彩陶文化。1923年洮河東岸の段丘上でアンダーソン博士が発掘し、土器・石器・骨角器・青銅製小刀などをともなう伸展葬の墓を発見した。土器は一般に粗製で、頸部に1個または1対の把手を備えたものが多く、黒か赤で種々の幾何学文のほか、人物や動物の形を描いている。なお彩文をほどこした鬲が2個発見されたことは、黄河中流域方面からの影響を示すものである。中国西部の新石器文化は、土地の自然的条件により分布範囲も狭く独自の文化が発達した。辛店文化、寺窪文化、卞窑文化、唐汪文化、沙井文化とよばれる。

2022年6月18日 (土)

ワーテルローの敗因は情報伝達ミスだった…

  映画「ワーテルロー」は19世紀初頭ヨーロッパの運命を決定したワーテルローの戦いを早朝から夕方までの戦況を克明に描いた作品。フランス皇帝ナポレオンをロッド・スタイガー、イギリス軍司令官ウェリントン提督をクリストファー・プラマーが扮する。1815年、追放先のエルバ島を脱走し、フランス皇帝として復権したナポレオン。ヨーロッパ各国はこれに対して軍備を整え、6月18日ワーテルローの大決戦がはじまる。10万の兵を超えるフランスのナポレオン軍と、知将ウェリントン率いる6万の英軍とブリュッヒャー率いる7万のプロイセンとの連合軍が激突する。結果はナポレオンの大敗に終わる。映画では仏軍エマニュエル・ド・クルーシー(チャールズ・ミロットが演じる)がプロイセン軍を深追いしたためワーテルローの主戦場に到着が遅れたといわれる。また一説によると、ワーテルローの敗因は、ナポレオンの命令書の文字が悪筆のため「援軍よこせ」と書いたつもりが、「うまくいっている」と誤読したため、味方の将軍が援軍に行かなかったからといわれる。

 

 

2022年6月17日 (金)

世界遺産タージ・マハル

Lrg_10669522  インド北部のアグラにある「世界で最も美しい建築」といわれるタージ・マハルはムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666)が愛妃ムムターズ・マハル(1595-1631)の死を悲しんで建てた廟墓である。建築者ウスタッド・アーマド・ラホーリはインド・イスラーム建築に大きな業績を残した。ムムターズがまだ皇太子だったシャー・ジャハーンと結婚したのは1612年、ムムターズ18歳の時だった。彼女はもちろん初婚だったが、シャー・ジャハーンには2年前に結婚した妃がおり彼女とのあいだに娘が1人いた。美貌の皇妃として知られたムムターズは、夫に深く寵愛され、男子8人、女子6人という子沢山であった。そして20年近く、ムガール朝の大奥で権勢をほしいままにした。1631年6月17日、王がデカン遠征中、妃は36歳で産褥死した。王はその死を悲しみ、彼女の廟の建設を翌年から着工し、21年の歳月をかけて1653年タージ・マハルが完成した。タージ・マハル Taj Mahal とは「マハル妃の王冠」の意味。王妃の墓は、このドームの真下の地下にある。(世界史)

2022年6月16日 (木)

シレジア織布工の反乱

   1844年6月プロイセン王国のシュレジェンで起こった織布工の反乱。これは単に地方的な暴動ではなく、ドイツでプロレタリア労働運動に最初に火を点じたという意味で歴史的な出来事であった。当時シレジアの織布工は資本主義的搾取と封建的収奪という二重の責苦にあっていた。ここではしばしば封建的領主と資本主義的企業家とが同じ人間だったからである。そのため労働者はアイルランド以下の低い生活水準にあった。反乱にはギータースワルダウとランゲンビーラウらの約3000人の織布工が加わり、機械を破壊し、織元の家を襲った。反乱は約2日で軍隊によって鎮圧されたが、全ドイツの労働者に深刻な影響を与えた。ゲアハルト・ハウプトマンの戯曲「織工」もこの一揆を主題にしている。

 

 

ヤー・チャイカ(わたしはカモメ)

Soviet_union1963stamp0_10__valentin   女性初の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワを乗せたボストーク6号は1963年6月16日、打ち上げられた。「わたしはカモメ」彼女が宇宙から発したこの言葉は、その女性らしい感性と表現で世界中の人々が感動した。ところが、実は「かもめ」というのは、そのミッションで与えられた彼女のコードネームだった。打ち上げ直後、機器の故障で地上との交信が途切れた。テレシコワはパニック状態となり、やたらめたら通信機で「こちらはカモメ、応答願います!」と連呼して叫んだ。この通信を世界中のアマチュア無線家たちが傍受して、「こちらはカモメ(ヤー・チャイカ)」を優雅な通信と取り違えた。ときには勘違いから感動がうまれることがある。( Tereshkova )

2022年6月10日 (金)

ポルトガルの日

 本日はポルトガルの日。ポルトガルの大詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイスが亡くなった日(1580年)に由来する。ポルトガルのリスボンにあるベレンの塔は、マヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。1515年着工、1521年完成。リスボン最西端のロカ岬にはカモンイスの詩「ここに地終わり海始まる」を刻んだ石碑が建っている。17生気、スペインの支配に対する反発が高まり、1640年ブラガンサ公が蜂起して新王朝を名乗り、オランダ、フランス、イギリスの援助を得て、1668年スペインに再独立を認めさせた。(6月10日)

 

 

 

 

 

2022年6月 9日 (木)

イギリスにおけるエンクロージャー運動

  農村共同体的諸権利なかんずく共同放牧権を排除し、私的・個別的土地利用を実現するために、特定の土地を柵とか生け垣・石垣・土手などをもって囲い込むことをエンクロージャーという。エンクロージャーの歴史は、早期エンクロージャー(16世紀以前)、16世紀の第一次エンクロージャー、産業革命期の第二次エンクロージャーの3つに分けられる。第一次エンクロージャー運動は15世紀末から17世紀中頃にかけて起こった。主として牧羊場にするために、領主が農民の利害を無視して暴力的に耕地や共同地を囲ん込んだ。トマス・モアが「ユートピア」のなかで「羊が人を食う」といったのは、このときのことである。土地を追われた農民は浮浪人となって全国をさまよい歩いた。そこで政府はエンクロージャーによる治安の乱れと人口の減少をおそれて、しばしばエンクロージャー禁止令を出したが、これを抑止できず、そのためにエンクロージャーに反対する農民一揆が頻発した。ついで起こった第二次エンクロージャー運動は17世紀後半から始まり19世紀中頃すぎまで続き、それによってイギリス全土はほぼ完全に囲まれてしまい、中世以来の三圃式開放耕地、共同牧草地、荒蕪地は姿を消して私有化された耕地になった。第二次エンクロージャーは改良農法の必要のために起こったもので、大地主が議会を通じて個別的にエンクロージャー法を獲得し合法的に土地を囲い込んだので、これを「議会エンクロージャー」し呼んでいる。議会エンクロージャーは新農法が普及しはじめた18世紀中頃から急速に増加し、都市における産業革命の進展に大きな役割を果たした。エンクロージャー運動の歴史的役割とは、開放耕地制度を崩壊せしめ、生け垣などで囲まれた大農場をつくりだすことになったが、それは同時に、イギリスに特徴的ないわゆる三分割制、つまり近代的大土地所有者・資本制借地大経営者・農業労働者、という3つの階級関係を成立せしめる過程でもあった。囲い込みによって、ヨーマン(独立自営農民)の没落が促進され、彼らは工業労働者として都市に流出するか、農業労働者として農村にとどまった。

2022年6月 8日 (水)

異常気象と世界史

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    ギルバート・ホワイト(1720-1793)の「セルボーンの博物誌」は古典的名著である。セルボーンという場所はイギリスのハンプシャー州の寒村。1789年、フランス革命と同じ年に刊行されている。「1783年の夏は、驚くべき異常な夏で、恐ろしい現象があいついで起こった」とある。この恐ろしい現象は実は日本とも深く関係している。浅間山は1783年5月9日から8月5日にかけて活動が活発化し、6月25日には大噴火が起こった。この時の噴煙は成層圏にまで達し、その後数年にわたって、そこに滞留したため、世界的な気候の寒冷化をもたらした。気温の低下は平均で、セ氏1.5度に達したと推定される。浅間山の噴火によって日本では天明の大飢饉が全国に及ぶ。津軽藩では、1783年9月から翌年6月までの餓死者は、男女合計81702人といわれる。菅江真澄は旅日記「楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)」の天明五年八月の項に、草むらに山と積まれた餓死者の白骨を目にし、飢饉の惨状を記録している。1783年6月8日、アイスランドのラキ火山が噴火した。火山灰などの影響により数年にわたりヨーロッパが異常気象に見舞われる。噴火の直後から小麦の不作がフランスを襲った。小麦価格の高騰がみられるような社会不安がフランス革命の原因となったと考えられる。気候変動が世界史を動かすことがある。近年、4世紀後半から始まった民族大移動によるローマ帝国の滅亡や中国南北朝時代は寒冷化による気候変動が一因と考えられている。

   近い将来、学校の世界史の教科書が大きく書きかえられるかもしれない。これまで歴史と自然科学は別物として区別されてきた。しかし人類誕生から歴史をかんがえるのではなく、宇宙に目を向けてビッグバンから解き明かすべきであろう。デーヴィッド・クリスチャンが提唱するビッグヒストリーがDVDなどで浸透している。歴史は全宇宙の壮大な物語の中から、人類の過去と未来を研究する学問へと変わろうとしている。

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