2008年7月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

2008年6月28日 (土)

ルソーのこと

Photo

    フランス革命の思想的支柱となったジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)は1712年の今日、6月28日にスイスのジュネーブの時計職人の息子として生れた。生後10日で母を失い、その後は正規の教育をうけず、父とともに「プルターク英雄伝」などを読みあさった。しかし、この父も10歳のとき蒸発した。彼は牧師のところの寄宿生となったり、ワラン夫人と同棲したりしたあと、故郷を去ってパリに出た。19歳のときである。ルソーはすぐ、12歳年上のバラン夫人、その後、ベルスリス夫人と二人の後家さんに可愛がられたが、いずれとも別れた。バラン夫人とは、「ママ・坊や」と呼び合うほどの生活を送ったらしい。その間、数字による音譜記号を発明して音楽界へ、大使秘書をつとめて政界へ、サロンへ出入りして社交界へと進出を企てたが、どれも大成しなかった。結局、自分を社会に適応させる努力を放棄し、社会を批判し、革命の戦いに転じた。彼はその著『エミール』(1762)で健全なる市民を作る教育法を説き、『社会契約論』(1762)では、18世紀後半の腐敗堕落した社会、文明を批判し、合理的な共和国建設を訴えた。

ミラノの歴史

Img_0001

           ミラノのドゥオーモ   1386年

  イタリア北部、ロンバルディア地方の中心都市ミラノの町は、古くはエトルリアの町で、前4世紀にガリア人に征服された。さらに前222年にローマ軍が占領、その時の記録によると、都市は「メディオラヌム」(平原の中心地)と呼ばれている。これは、ガリア語のメディオ(中心地)とラン(平原)を合成した地名である。前194年、ローマが都市を再び占領し、メディオラヌムの古名が用い続けられ、次第に転訛して、現在のミラノとなり、北イタリアの中心として繁栄した。374年に聖アンブロシウスがミラノの大司教となり、このころからミラノは北イタリアの宗教的中心となった。聖アンブロシウスは現在にいたるまでミラノ市の守護聖人とみなされている。大司教の権力が大きくなったのはシャルマーニュ治下のころからであり、戦乱を避けてミラノの城壁内に流入する人口は増大し、11世紀にはロンバルディアにおける最強の都市になった。1163年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世により市が破戒されたが、ミラノはロンバルディア同盟に加わり、1176年、レニャノの戦いにおいて皇帝軍を破った。その後ロンバルディア諸都市は再び反目し合い、またミラノはギベリン党とゲルフ党の抗争に巻き込まれ、市内が諸勢力に分裂するところとなった。しかしこの間に、ミラノでは織物工業の発達がはじまり、近郊農村においても土地改良がすすめられて、ロンバルディアにおけるミラノの経済的地位は圧倒的なものとなった。1277年、ビスコンティ家が、貴族勢力の支持を受けてミラノの領主となり、以後、わずかの中断を除いて、1447年までミラノに君臨した。3年間の共和制の後、ビスコンティのもとで将軍だったフランチェスコ・スフォルツァが領主になり、以後1535年スペインの支配はつづくが、この間に、すでに始められていた大聖堂の建設が大いに進み、運河が開かれ、ブラマンテ、レオナルド・ダ・ビンチをはじめとする文人・芸術家も集って黄金時代を呈した。この時以降、ミラノは経済的には繁栄を遂げ、ロンバルディア商人はヨーロッパ各地に進出したが、ミラノがイタリア史の中心的役割を果たすことはもうできなかった。

2008年6月21日 (土)

オルレアンの少女

Img_0001

 ロアール河に面したオルレアン大聖堂

    1428年5月、ついにジャンヌ・ダルクは、すべてを捨てて神のことばに従うことにした。「国王を助けて、祖国を救え」というお告げを、12歳のころから、いくたびも聞いたのである。当時のフランスは百年戦争のまっ最中である。フランス王シャルル6世の王妃イザボーとブルゴーニュ党は、イギリス王ヘンリー5世に通じフランスにイギリス軍を迎え入れ、アルマニャック党を滅ぼした。アルマニャック党の残党は、皇太子シャルルを連れて南フランスに逃れた。1420年、王妃イザボーはイギリスとトロア条約を結び、ヘンリー5世にフランスの王冠を与えた。そのため、フランスにはヘンリー5世とバロア家を継いだシャルル王のふたりが立ち、フランスは二つに分裂した。しかし質朴なフランスの農民たちは、戦争のたびに、田畑を踏みにじっていくイギリス兵をにくみ、太子シャルルに忠誠心をいだいていた。ジャンヌ・ダルクは、そういった農夫の娘の信仰だけは厚かった。ジャンヌは髪を切り、男装して、村から最も近いボークールーの町の守備隊を尋ねた。しかし、守備隊長は小娘のたわごととして相手にしなかった。1428年の秋、イギリス軍のオルレアン攻撃が始まり、敵がドムレミー村付近にも出没した。ジャンヌはあせりのうちにその年をおくり、翌年2月、敵中を11日間もくぐって、シノンにいる太子シャルルのところへたどりついた。ジャンヌは、この人こそフランスの王統を継ぐ人であり、フランスをイギリスの手から解放してくれる人だと信じていたからである。ところが、シャルルは戦意を失い、自信をなくしていた。ジャンヌが現れて、「私は神のおぼしめによって、あなたと王国を救うためにまいりました」というのを聞いても半信半疑だった。しかし、ふたりきりで話してみて、すっかり自信を得た。そして彼女に白みがきのよろいと、白い馬と、ユリの花の国旗を与えた。ジャンヌの出現を伝え聞いた農民たちは、兵糧と家畜をささげて、シノンへ集まってきた。ジャンヌは、白馬にまたがって、兵士の先頭に立った。奇跡が起こった。味方には「神の使者」とうつったジャンヌの姿は、敵には魔女に見えたのか、イギリス軍は恐れおののいてたちまち敗走してしまった。オルレアンは解放され、勝利の鐘の音が高らかに鳴り響いた。

    オルレアンはフランス中部、ロアール川中流の古都。オルレアン大聖堂をはじめ美しい建築が多い。

2008年6月17日 (火)

顔徴在

Img

    孔子(前552年ー前479年)の母は顔氏の娘で、徴在といった。顔氏は、特別の由緒のある家柄ではなくて、ごく普通の無名の家であったらしい。叔梁紇と顔徴在の結婚はどうやら正式の婚姻関係ではなかった。孔子は庶子(妾の子)だった。ただし、嫡子(正妻の子)、庶子とはっきり区別するのは、ずっと後代の道徳観であり、ほとんど問題なく孔子は育った。

    孔子はすでに老年であった父が亡くなったので、若い母・顔徴在によって育てられた。孔子の生きる道は、神さまにおそなえ物をささげるまねごとをすることで始まったというから、母から教わったのであろう。しかし、その母も孔子が24歳のとき、紀元前526年に亡くなっている。孔子の弟子、顔淵、顔回は母方の一族かもしれない。

2008年6月 1日 (日)

古代ローマ文明の発展

Img_4

    映画「ローマの休日」で広く知られたサンタマリア・イン・コスメディン教会の壁には「真実の口」(ボッカ・デラ・べリタ)といわれる観光名所がある。中世のころから、この口に手を入れてうそをつくと、「真実」がその手にかみつく、という言い伝えがある。かつては古代の排水口の蓋であったそうだが、なんとも陰鬱で神秘的な表情をたたえている。ローマの街は壁ひとつにも歴史の伝統が感じられる。

  伝説によれば、ローマは紀元前753年頃狼によって育てられた双生児の1人ロムルスにより建国され、ロムルスの名に因んでローマと呼ばれたといわれている。また、ローマとは当時の言葉で「川の町」を意味していたともいわれている。

    やがて、このローマの人々はしだいに勢力を拡張し、紀元前6世紀にはそれまでの王制をやめて共和制をとり、紀元前3世紀頃にはイタリア全半島を支配し、その後さらに海外遠征により地中海沿岸一帯を制圧し、次にくるローマ帝国時代の基礎が固められた。

    シーザーの暗殺後帝政に移行したローマは、名実ともに当時の世界文明と政治の中心地となった。現代ローマ市内外に残っている古代遺跡の大部分は、このローマ帝国の黄金時代のものである。たとえばコロセウムと呼ばれる円形闘技場は、観客5万人を収容できる4層建てで、剣闘士の真剣勝負や猛獣狩り、模擬海戦などが行なわれ、また、キリスト教伝来初期の弾圧時代には、大勢の信徒がこの中で殺害された。

    一方、紀元1世紀の中頃から、聖ペテロや聖パウロの渡来によって伝えられたキリスト教は、暴君ネロにばしまる迫害の200余年に耐え、紀元313年のコンスタンティヌス帝のキリスト教公認により、キリスト教はしだいにヨーロッパ各地に広まっていった。それにともなって、ローマ法王の権威も高まり、やがて西ローマ帝国や神聖ローマ皇帝の戴冠をローマ法王が行なうようになった。こうしてローマはヨーロッパ文明、特にキリスト教文明の中心地として2500年の歴史をそのまま現代に伝えてきている。この歴史と伝統の厚みこそ永遠の都ローマの真の姿である。

アンヴァリッドとナポレオン

Img_0005

  セントへレナ島のロックウッドハウスの居間復元Img_0003

                 アンヴァリッドの落成

   大西洋の孤島セント・ヘレナで英雄ナポレオンが1821年に没したとき、その遺言には「セーヌのほとりに埋めてほしい」と書かれてあった。ナポレオンの遺骸は1840年にようやくパリに帰ってきて、市内の教会に安置されたが、1861年にアンヴァリッド廃兵院に葬られた。

   アンヴァリッドは「朕は国家なり」で知られる、かの太陽王ルイ14世によって1676年に建てられ、のちドーム教会も1706年に竣工した。戦傷者の療養所として使われてきたが、現在は軍事博物館・ドーム教会として軍人の霊廟となっている。日本でいえば靖国神社に相当する。フランス革命勃発時には、民衆が武器を求めて襲撃の対象となったが、今日アンヴァリッドに対する批判的な声は聞かない。すべて見てまわるのに、まる一日は充分にかかるであろうこの博物館は、軍事関連の歴史博物館として、ヨーロッパでも最大といわれている。なかでもナポレオンの柩が最も有名であるが、ナポレオンにまつわる品々が数多く展示されている。

Img

              ナポレオンの柩

Img_0004

         ナポレオンのデスマスク

2008年5月25日 (日)

千慮の一失

Img_0001_3

渡辺崋山「韓信の股くぐりの図」 沼田市・長寿院蔵

    漢の劉邦の麾下の将軍で名将韓信(?-前197)がいた。彼は若い頃、屠殺業者に侮辱されて、じっと耐えてその者の股の下をくぐったという「韓信の股くぐり」の逸話は有名である。

    韓信ははじめ楚の項梁、項羽のもとに仕えたが目が出ず、蕭何の推挙を得て漢の劉邦に仕え、大将軍に任命された。彼の智将としての名声を一躍に高めたのは、趙攻略においてである。軍略家として知られた李左車は、奇襲をもって韓信の糧道を断つことを進言したが容れられず、ために趙は滅亡した。韓信は李左車を捕らえると、辞を低くして兵法の教えを乞うた。「敗軍の将兵を語らず」といったんは断わった李左車も韓信の熱意に動かされ、「知者も千慮に一失という言葉があります。わたし如きが申すことなど、お取りあげいただくほどのことはありますまいが、力の限りお役に立ちましょう」と言って、燕・斉を降す策略をさずけた。

我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ

Photo

パトリック・ヘンリーの名演説

   パトリック・ヘンリー(1736-1799)は、ヴァージニア州の有能な弁護士だった。州の議員となり、1765年の印紙条例に対し、北米植民地が本国議会に代表を送っていないので、「代表なくして課税なし」とヴァージニア植民地議会の決議などで反対運動をひきおこした。1767年、本国議会は新しくタウンゼント諸法でガラス・鉛・茶などの課税を定めた。これも本国製品の不買運動など広範囲の抵抗を招き、茶を残し廃止されたが、反対運動の続いたマサチュセッツでは1773年、ボストン茶事件が起こった。1774年、大陸会議を開き、1775年レキシントンの戦いで独立戦争となり、翌1776年にはアメリカ独立宣言が発表された。1781年のヨークタウンの戦いで大勢が決定したが、1783年パリ条約によって独立が正式に承認され、1787年アメリカ合衆国法を制定、1789年ワシントンを大統領とする新政府が発足した。

   「我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」という有名な文句は、1775年3月23日、ヴァージニアの植民地会議が解散されたため、リッチモンドで開かれた非合法の人民大会においてヘンリーがおこなった演説の一部で、イギリスとの開戦を主張したものである。

2008年5月23日 (金)

第一級の政治家ペリクレス

Img

   紀元前469年から429年にかけてアテネは軍人でもあり、雄弁をもってきこえる天才的な政治家ペリクレスによって統治された。同時代の歴史家ツキディデスをして、「名においては民主政だが、実際には第一人者の支配であった」と書いている。だが、口さがないアテネ市民たちが40年もの長期政権を認めたのか、実は史家にとっても歴史上の大きな謎のひとつだそうだ。ペリクレスが傑出した政治家であったことは疑う余地のないところではあるが、気位の高い一貴族が何故に民衆を惹きつけたのであろうか。

   ペリクレス(前495-前429)の父はクサンティッポスといい、在世中にテミストクレスと張り合って追放をうけたこともあるような、政界の大立者だった。その人柄は、近よりがたいくらいおごそかで、決して笑うことはなく、「オリンポスの神」などというあだ名がつけられていたことからしても、庶民的ではなく、やはり貴族的な人物であったと思われる。

   ある時、いつものようにアテネの中央広場で執務中のペリクレスが、一人の下劣な男につきまとわれたことがある。この男が非難や悪口を浴びせかける間、ペリクレスは、黙ったままそれを忍び、仕事をさばいていった。夕方になってから服装をととのえ家に帰るのを、その男は後を追ってきて罵言を浴びせる。家に入ろうとした時にはすでに暗くなっているのに気づいたペリクレスは、召使の一人に灯をもたせて、その男を家まで送るように言いつけた。

   これは、相手を軽蔑しきっている人にしてはじめてやれる振る舞いである。気位が高く、言葉つきも崇高で、庶民的な雰囲気などまったくなく、静かな歩きぶりと、よどみのない声の出し方をした男、ペリクレスこそアテネ最高の政治家であったといえる。(参考文献:塩野七生「男の肖像」)

2008年5月16日 (金)

人類の進化

Img

左から直立猿人,ネアンデルタール人,クロマニョン人

  ケペルがまだ高校生の頃だった。突然、家に訪問された若い女性が「あなたは人類の祖先がサルだと思いますか」と質問された。「ヒトが猿と分かれたのは、およそ700万年前、アフリカであろう」と進化論で答えた。その人はエホバの証人で進化論を否定された。ケペルもまだ若かったので、かなり向きになって進化論を主張した。それからもエホバの証人とは何年間も対話するが、やはり進化論では対立する。今でも人類化石の発掘報道がある度に新聞の切り抜きを集めたりする。ラミダス猿人、アファール猿人、ジンジャン・トロプス・ボイセイ、イダルトゥなど次々と発掘が続く。ところがトゥーマイのように実はゴリラだったということもある。人類誕生の謎はいつまでも続いている。

   人類は約700万年前から600万年前にアフリカで誕生したことは間違いあるまい。現在の段階で最古の人類と認められるのは猿人であり、アウストラロピテクス属の化石人骨は20世紀に入って多数発見されている。猿人は原人へと進化し、100万年以上前にアフリカを出て世界各地に広がったが、アジアに渡ったジャワ原人、北京原人やヨーロッパに渡ったネアンデルタール人は、最終的には絶滅したとされる説が有力である。近年のミトコンドリアDNAの研究では、わずか10数万年前に「出アフリカ」を果たした一団が現世人類(ホモ・サピエンス)となって世界各地に広がったとされる。

2008年5月 6日 (火)

カントのアジア認識

Img_0003

     16世紀のアジア

Img_0002

     17世紀~18世紀のアジア

   17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ諸国ではアジアをどのように見ていたであろうか。軍事力で圧倒的な優位に立つことを知り、ヨーロッパ諸国の政治家、商人たちは侵略と威嚇をもってアジア諸国の植民地化を画策していたであろう。しかし戦争に明け暮れるヨーロッパの現実を目の当りに見る学者たちの中には、アジア諸国に干渉してはいけないと考える人たちもいた。

   1680年代に長崎出島に逗留した経験のある庭師ゲオルク・マイスターは、1639年に日本が鎖国政策をとったことを高く評価している。「若し、この世に行動において賢く、国の政治や取り引きではちゃっかりと、戦いにおいては果敢で恐れを知らぬ勇気をもった民族がいるとしたら、それこそ日本人である」(「東洋とインドの芸術風庭園と娯楽用庭園の庭師」)と述べている。また18世紀末に出版された医師ケンペルの『日本誌』(1777-1779)は、1639年に日本が鎖国政策を肯定的に評価している。そこでは、鎖国は日本を脅かしつつあった西欧列強への服従を阻止するとともに、国有の文化を「最も幸いな状態の極致にまで発展ならしめた」と記している。イマヌエル・カント(1724-1804)は『永久平和のために』(1795)で次のように述べている。

中国と日本が、これらの来訪者を試した後で、次の措置をとったのは賢明であった。すなわち前者は、来航は許したが入国は許さず、また後者は来航すらもヨーロッパ民族のうちの一民族にすぎないオランダ人だけに許可し、しかもその際にかれらを囚人のように扱い、自国民との交際から閉め出したのである。こうした状態でもっとも悪いこと(道徳的裁判官の立場から見れば、むしろもっともよいこと)は、かれらヨーロッパ人がこの暴力行為から決して好結果を得ていないこと、これらの商業組織がすべて崩壊の危機にひんしていること、またもっとも残酷でもっとも巧妙な奴隷制の本拠である砂糖諸島が、なんら実益をあげず、ただ間接的に、しかもあまり称賛できない意図のために、つまり艦隊の乗組員を養成するために、したがってヨーロッパでふたたび戦争を行なうために役立っていること、であって、しかもこれらすべてを行なっているのは、敬虔について空騒ぎし、不正を水のように飲みながら、正統信仰で選ばれたものとみなされたがっている列強諸国なのである。

   カントは中国とチベットについても次のように書き残している。

絹が大チベットをこえてヨーロッパに運ばれたことがわかるが、このことは、この驚くべき国の古代について、これをチベットや、チベットを通じて日本と結びついていたヒンドゥスタンの古代と比較することで、多くの考察へと導くのである。しかしシナやチナといった、近隣諸国がこの国に与えた名称からは、なにも導かれることはない。またこれまで精確に知られてはいなかった太古のヨーロッパとチベットとの間の交流は、へシュキオスがそれについてわれわれに書き残してくれたことを、つまりコンクス・オームバークスという、エレウシウスの密儀で導師が叫ぶ言葉から、解明されるであろう。

   チベットに関する知識もわずかながらではあるが、当時のヨーロッパに伝わっていたようだ。ダライ・ラマという称号はモンゴルのアルタン・ハーン(1507-1582)が当時の座主であったソナム・キャツォ(1543-1588)に贈ったことに始まる。18世紀後半のカントの認識では、モンゴル、チベット、中国、日本という国家がアジアに存在していたのである。

2008年5月 4日 (日)

トマス・モアの処刑

Img

  『ユートピア』

  バーゼル、フローべン書店刊 1518年11月

   理想社会のことを「ユートピア」というが、それはイギリスの政治家で思想家トマス・モア(1478-1535)の造語であることはよく知られている。「ウ・トポス」(どこにも・ない)という二つのギリシア語を組み合わせてつくったものだ。『ユートピア』は1516年12月、現在のベルギーのレウフェン(フランス語でルーヴァン)で刊行された。原題は「最良の社会体制ならびにユートピア新島について。いとも著名にして、雄弁なるトマス・モアによる、機知に富むばかりか、効能もある、真の黄金の書物」という、ずいぶん長いタイトルのもので、ラテン語で書かれている。ユートピア新島は架空の島ということにはなっているが、読者にはイギリスを連想させる。モア自身と彼の友人ヒレス、それに架空のアメリゴ・ヴェスプッチの航海に同行した学者ヒュトロダエウスという3人の対話という形で物語は進む。ユートピアの島民は、農業と手工業を2年交代で兼務する自給自足の生活を送っている。もちろん働かずに暮らそうとする怠け者などいない。また、土地も道具も共有で、貨幣は存在しない。それで貨幣の基準になる金は何に使われているかといえば、これがなんと便器。理想社会で大切にされるのは金や銀ではなく、鉄やガラス、土など。生活に必要な食器には土器やガラス器を使い、金や銀は便器や奴隷をつないでおく足かせ、犯罪者のシンボルである耳輪や首輪、頭の帯などに使用する。第1巻に見られる「羊が人間を食い殺している」という言葉は、イギリスの浮浪者の増大の原因として、地主たちが羊毛の値上がりに目をつけ、畑をつぶして牧場として囲い込み、その結果農民が土地を失っていく状態を描き、囲い込み運動を非難したものである。

   トマス・モアは国王ヘンリー8世の信頼厚く大法官になったが、王の離婚に反対したため、反逆罪に問われ、ロンドン塔で処刑された。刑吏が当時の習慣によって罪人に許しを乞うと、モアは彼を抱きしめて、「元気をだして、役目を果たしなさい。私の首は大変短いから、やりそこねて恥をかいたりしないように気をつけなさい」と励まし、伸びた髯を首切台の外に出し、「これには罪はないから切らないでください」と冗談を言った。モアは最後まで、思いやりとユーモアを忘れなかった。(引用文献:『ウラからのぞく世界史』ダイソー文庫シリーズ17)

2008年4月28日 (月)

唐と吐蕃

Img_0001

        8世紀後半のアジア世界

    上掲の地図は吉川弘文館の「標準世界史地図」を一部引用したものである。8世紀後半、西から吐蕃、ウイグル、唐、渤海、新羅、日本という国家が存在していたことがわかる。吐蕃とはいまのチベットのことである。

     7世紀の頃、東アジアに強大な勢力を振るった唐も、玄宗皇帝の治世を頂点として8世紀の後半から次第に衰えはじめた。安史の乱(755-763)によって、華北の要地の多くは反乱軍に奪われたが、ウイグルなどの援助で回復した。唐は節度使の軍閥化により、衰退に向かう。

    チベット西方高原にいた「吐蕃」の漢字名称は、もともとチベット族の有力部族名「発」「蕃」などの呼称に由来している。吐蕃王朝の起源は明らかでないが、その祖先はネパールの北西部からカシミールの東部チベットのカムに移動して活発となった。中央チベット南部のヤルルン(渓谷)に拠った一部が、6世紀後半に台頭して王朝の基礎をつくり、7世紀中葉、ソンツェン・ガンポ(?-649)のとき吐蕃は国力が強大となった。鮮卑族の吐谷渾(とよくこん)の没落に乗じて勢いを伸ばし、しばしば唐を侵攻したので、唐は和蕃公主として皇女・文成公主を降嫁させ、その慰撫に努めた。8世紀後半以降、吐蕃は軍事国家として、西南部の支配権を完全に握った。

   吐蕃は仏教を受容し、インド系の文字をもとにして独特のチベット文字をつくった。823年、ラサに建てられた「唐蕃会盟碑」は、両国の和約を記したものである。吐蕃の隆盛期は約200年にわたった。11代目のラン・ダルマが仏教弾圧してから衰退に向かった。ダルマ廃仏以後は、中央チベットの情勢は不明の点が多いが、宋代では、これをやはり吐蕃と称している。元代にも吐蕃という名称は用いられたが、それは単にチベットという地域的な名称にすぎないものとなっている。チベット独立問題、つまりチベット人のアイデンティティーの歴史的根拠は吐蕃王国にあるといえる。

2008年4月21日 (月)

周恩来と魯迅

Img_0006

   周恩来と魯迅とは遠く共通の祖先をもつ親類であった。周恩来(1898-1976)は江蘇省淮安で生まれた。しかしその祖父は浙江省紹興から移住してきた家系であり、周家は代々紹興に住む名家であった。「阿Q正伝」などの作品で知られる魯迅(1881-1936)も本名を周樹人といい、紹興であることから、従来から魯迅・周恩来の親類説は存在した。近年の調査によれば、周恩来の出た保祐橘(地名)の周家が本家筋に当たり、魯迅の出た周家は分家筋に当たるという。両家の共通の先祖である周澳から数えると魯迅は第20世代、周恩来は第21世代になる。近年、浙江省上虞で発見された清代に編纂された家系図「天楽周氏宗譜」などの史料によれば、二人の共通の祖先は北宋の儒学者・周敦頤(周濂渓、1017-1073)であることが確認されたという。

2008年4月17日 (木)

平和五原則とチベット問題

Img

   北京五輪の聖火リレーがインドの首都ニューデリーで警察の厳戒態勢下、行なわれるといニュースを聞く。インドには約10万人の亡命チベット人がいるという。チベット問題にはほとんど無関心であったが画像の写真で興味がでてきた。インドの首相ネルーが北京へ行き、周恩来と会談し、共同声明「平和五原則」を発表したのが1954年4月29日である。つまり、領土・主権の相互尊重、対外不侵略、内政不干渉、平等互恵、平和的共存である。学校の社会科の授業では平和五原則はいかにも国際平和に寄与するもののように学んだが、これはインドと中国という大国間の平和共存であって、小国のチベットにとっては悲劇の始まりであった。この会談の真のねらいは「中国チベット地区とインドとの間の貿易及び交通に関するインド共和国と中華人民共和国との間の協定」を締結することであった。そして平和五原則の一項、内政不干渉により、中国はインドに気にすることなくチベットへの圧政をすることができるようになった。1959年3月10日、チベット民族蜂起、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命する。そもそもチベットは人民中国の支配以前から固有の文化、歴史、民族を有するチベット人が独立主権国家を形成していたことは、1913年のモンゴルとの蒙蔵条約、1914年のイギリスとのシムラ条約などからも立証されている。ただ国際連合に代表をもたなかったため世界各国が中国の侵略をたやすく容認してしまったのが遠因となって続いている。

2008年4月13日 (日)

漢の孝廉

Img_2

漢の武帝が政治についての意見を求めるために学者の家を訪問している図

    漢王朝(前206年~220年)のおよそ400年間は、後世の中国人が「黄金時代」として回顧する、長い安定と繁栄の時代であった。そして前漢の武帝(在位前141-前87)の50年を超える在位は中国歴代の諸君主のなかでも長きにわたり、匈奴遠征、絹の道、大帝国の建設と漢の最盛期であった。内政では「賢良方正直言極諌の士を挙げよ」と命じ、人材の登用を図り、儒教によって教育されたものを選抜した。有能な官僚によって、行政がおこなわれ、学問が盛んになった。武帝の人材登用や学者保護が伝説化されて、画像のような後代の想像図が残されている。

  武帝は地方長官の推薦による官吏の任用をはかり(郷挙里選)、董仲舒や公孫弘らを博士に任じた。そして儒教の経典である「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」に通暁している専門学者を五経博士に任じた。

    漢代の官吏になる道はいくつかあるが、正規の道は孝廉選挙である。 孝廉の制度は漢の武帝の時代から始まるが、次第に盛んになって、後漢になると、制度が整い、改正が加えられた。和帝の時に郡国の人口率に応じて孝廉の人数が定められ、順帝の時に限年制(孝廉は40歳以上)と課試制(後世の科挙の先駆)とが設けられた。地方から推薦される孝廉は、和帝の時、全国で毎年200人ほどいたという。その多くは地方豪族の子弟である。(参考文献:宮崎市定「九品官人法の研究」)

2008年4月 7日 (月)

廬山三絶と美廬別荘

Img

    江西省廬山は世界文化遺産に登録されているが、自然の景観がすばらしいことで知られている。海の向こうからのぼる朝日、山中に漂う幻想的な雲霧、空から流れ落ちてきたかのような瀑布、つまり日の出、雲霧、瀑布の3つの絶景があることから「廬山三絶」という。

    廬山の歴史は古く、「書経」や「史記」などの書物にも名前が見える。道教、仏教、儒教などの宗教にゆかりの深い山であるとともに、「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」の一節で知られる白居易(772-846)はじめ、李白、蘇軾など多くの文人墨客を魅了した詩歌の原郷でもある。近代以降は、政治家や文化人らの避暑地として別荘が建てられた。数多い別荘のなかで、もっとも有名なのが蒋介石(1886-1975)の美廬別荘である。1903年にイギリス人が建てたもので、その後、ある外国人女性の所有となり、その女性が蒋介石夫人の宋美齢と親交があったことから、1934年にこの別荘を夫妻にプレゼントしたという。1937年には蒋介石と周恩来がここで会合するなど、歴史の舞台としても知られる。

2008年4月 2日 (水)

「解語の花」楊貴妃

Img_0001

  楊貴妃   上村松園画

    「クレオパトラか楊貴妃か」といわれるほど、唐の楊貴妃は美人の典型になっている。だが、ひとくちに「美人」と言っても、その基準をどこに定めたらよいのか難しい。中国でも、六朝時代には、痩せ型で、柳腰の、すらりとした女性がもてはやされた。しかし、唐代にはいると、ふっくらと太った、ふくよかな感じの女性が美人の典型とされるようになった。つまり則天武后も、楊貴妃も、いわゆる肥満型美人であった。唐代の後宮を多彩に飾る美女たちの群れは、一様に、どっしりと、悠然としていたであろう。

    楊貴妃(719-756)は740年の驪山温泉宮(華清宮)行幸のとき玄宗にみそめられ、745年後宮の最高位である貴妃の称号を与えられた。ときに玄宗62歳、楊貴妃27歳であった。

    ある秋のことである。玄宗皇帝と楊貴妃が唐長安城大明宮にある庭園の太液の池を供を連れて散歩していた、池には美しい蓮の花が咲いていた。人びとはその美しさに思わず嘆声を発した。すると玄宗が傍らの楊貴妃を指さしていった。

「いかで我が解語の花に如(し)かん」

    解語とは言葉の意味を解するということ。つまり「わしの、言葉のできる花の方がよほど美しいわい」というのである。この逸話より「解語の花」とは美人のことをいうようになった。出典は王仁裕の『開元天宝遺事』

 さまざまな楊貴妃の画像

Img_0003

Img_0002

Img_2

2008年3月28日 (金)

張良、太公望の兵法をさずかる

Img_0002

      黄石公張良図沈金鞍  室町時代

      木製黒漆塗 馬の博物館蔵   

    張良(?-前168年)は秦に滅ぼされた韓王室の一族であった。その仇を報いようと始皇帝の暗殺を企てたが失敗に終わる。下邳に身を隠していた時、川のほとりで一人の老人に出会う。その老人が誤って自分の沓を川に落とし、張良にその沓を拾わせた。その老人は黄石公といい、張良に太公望の兵法(『六韜』)を授け、これによって張良は漢の劉邦の軍師となった。司馬遷の『史記』に書かれたこの伝説は日本中世でも好まれ、室町時代以降、絵画や工芸品の題材として多く表わされている。画像の鞍(くら)には黒漆に沈金の技法で中国の故事を図案にしている。(引用文献:「本郷 2008.1」吉川弘文館)

2008年3月10日 (月)

レオ・フランク事件

Img_0002

  無実の罪でリンチの犠牲となったレオ・フランク

    南北戦争に蹂躙されたジョージア州で、貧しい白人の少女メアリー・フェイガン(当時13歳)が惨殺される事件が起きた。北部出身の白人の工場長レオ・フランクに容疑がかけられた。北部への憎しみから生じた異様な興奮が渦巻く中、拘置中のフランクは市民によって拉致され、リンチの犠牲となった。新聞はリンチを称賛し、関与した者は1人も断罪されなかった。フランクの無実が明らかにされたのは、それから70年もの歳月がたってからのことである。

   1913年4月26日土曜日、メアリー・フェイガンは白いレースで縁取られたワンピースと花飾りのついた帽子で精いっぱいのお洒落をして、アトランタで行なわれる南軍戦没者追悼のパレードを見るために、期待に胸を弾ませながら家を出た。もうすぐ14歳というメアリーは、だれもが振り返るような魅力的な少女で、えくぼができるような笑顔に、とび色の長い髪がよく似合った。パレードを見に行く前に、メアリーは、勤め先のナショナル・ペンシル工場に立ち寄った。同僚の少女たちは、前日の金曜日に給料を支給されていたが、その日休みをとっていたメアリーは、まだ給料を受け取っていなかったのだ。正午過ぎに工場に着き、人けのない構内を歩いて2階の事務所に行くと、工場長のレオ・フランクがいた。メアリーは1週間分の賃金1ドル20セントの入った茶色の封筒を受け取った。その夜、メアリーがいつまでたっても帰宅しないので、家族は警察に届け出た。翌日の午前3時ころ、夜警がメアリーの死体を発見した。鉛筆の箱を縛るのに使うひもで首を絞められていた。工場長レオ・フランクは、生前のメアリーを最後に目撃した人物だっため、最重要容疑者となった。しかしフランクの供述に嘘はなかったし、裏づける証拠はなかった。

    レオ・フランクは1884年、テキサス州ダラス近郊のパリスという町で生まれた。18歳でコーネル大学に進学し、機械工学を専攻した。1907年に裕福な叔父のモウゼス・フランクからアトランタで始めた鉛筆工場の工場長のポストを提供された。1910年、名門ユダヤ人一族のルシール・シーリグと結婚し、働き者の工場長として知られていた。運命の日となった南軍戦没者追悼の日は、フランクは義兄に野球見物に誘われたが、断わり、いつものように出社して工場の事務所で帳簿をチェックしていた。

    1913年8月26日、レオ・フランクは死刑判決をうけたが、1914年の暮れになって、ジム・コンリーの弁護人がメアリーを殺したのは自分の依頼人、つまりジム・コンリーだったという爆弾発言がなされた。そのように異論の多い中、レオ・フランクへの刑には執行猶予命令が下された。1915年8月16日、総勢25人のリンチ・グループがミレッジビル刑務所に押し入り、フランクを拉致した。フランクを乗せたリンチ・グループの車は、メアリーが子どものころ遊んだフレイの森に向かった。8月17日午前7時ころ、リーダーがフランクに告げた。「ミスター、フランク、我々はこれから法の命ずるところに従うつもりだ。つまり、あなたを絞首刑にする。死ぬ前に何か言いたいことがあるか?」フランクは、刑務所に保管されている結婚指輪を妻に届けてほしいと頼んだ。「私は自分の命より妻と母のことの方が心配だ」フランクは勇気をもって冷静に死に臨んだ。彼の最後の言葉には、妻と母親を気づかう心情が表れていた。マリエッタの新聞は、フランクに対するリンチを「法を守る市民の行動」と称賛し、アトランタ市長は「言語道断の犯罪に対する正当な罰」と述べた。マリエッタではリンチ執行人たちの正体を知らぬ者はなかったが、結局だれひとり名前を明かされず、告発されることもなかった。大きな衝撃を受けたアトランタのユダヤ人社会も、フランク未亡人と同様、そっとしておいてもらうことを求めた。しかし、レオ・フランク事件の調査は細々と続いた。当時14歳で事務所の給仕をしていたロニー・マンは、犯行を目撃していたが、1980年代になるまで、1人で良心の呵責にさいなまれながら暮らしていた。1983年3月4日、マンは宣誓の上、「事件直後、自分は鉛筆工場の階段のそばに立っていて、ジム・コンリーがメアリーのぐったりした体を地下に通じる1階のはね上げ戸のそばに運んでいるのを目撃した」と語った。だが、彼はコンリーに見つかり、しゃべったら殺すと脅かされた。レオ・フランクは嘘の積み重ねによって有罪判決を受けた。マンは事件から、70年後、ようやく遅すぎた証言を行なった。1986年3月11日、レオ・フランクはジョージア州によってついに正式に特赦が認められた。有罪判決からすでに73年が経過していた。

    後日譚としては、ナショナル・ペンシル工場は、この事件で評判を落として廃業に追い込まれたが、工場や設備は新しい経営者に買収され、現在もスクリプトの社名で好業績を上げている。レオ・フランク事件を題材にした本や小説、映画が現在に至るまで続いている。最近では「メアリー・フェイガンのバラード」という映画で、ジャック・レモンがジョージア州知事ジョン・マーシャル・スレイトンを演じている。スレイトンは検察側の論拠の誤りや矛盾のすべてを詳細に箇条書きにした意見書をつけて、死刑執行猶予を認めるために勇敢に行動した州知事である。(引用文献:「マーダー・ケースブック56、暴走する狂気リンチ殺人の真実」1996)

赤いドレスの女

Img

   1933年、インディアナ州の刑務所から釈放されたジョン・デリンジャー(1903-1934)はアメリカ中西部を舞台に銀行強盗を繰り返した。神出鬼没の犯行に銀行は恐怖に陥り、庶民は喝采した。1934年7月22日の夜、デリンジャーはガールフレンドのポリー・ハミルトンとアンナ・セイジを連れて、シカゴのバイオグラフ劇場で上映中のギャング映画「男の世界」(クラーク・ケーブル主演)を観に出かけた。

    アンナ・セイジはルーマニア出身で旧姓をアナ・カンパナスといい、長年インディアナ州で売春宿を経営しており、ルーマニアへの強制送還を恐れ、デリンジャーの情報をFBに売っていた。アンナはデリンジャーとバイオグラフ劇場で映画に行くことになっているとFBIに打ち明けた。FBIは映画館の外で待ち伏せする際、デリンジャーを見失わないため、アンナに赤いドレスを着るように指示しておいた。8時すぎ、アンナがカップルと一緒にやってきた。女性2人はロビーに入って彼を待った。ロビーの照明の下でアンナのオレンジ色のスカートは血の色に見えた。映画館は満員で、踏み込んで逮捕すればほかの観客を巻き添えにするのは必死だった。デリンジャーが出てきたところで逮捕することにした。午後10時30分、デリンジャーは2人の女性に挟まれて映画館から姿を現した。罠にかかったことに気づいたデリンジャーは、ポケットから銃を抜き、そばの路地に逃げ込もうとしたが、発砲する前に撃たれ、顔を下にして路地に倒れたという。遺体を一目見ようと物見高い野次馬が集まった。バイオグラフ劇場横の路地では、人々が固まりかけた血の海にハンカチやスカートの裾を浸していた。司法当局にとってはデリンジャー事件は解決したが、デリンジャーを英雄視していた庶民の間では、FBIが撃ち殺したのはニセ物だという噂が広まった。いまでもアメリカでは「赤いドレスの女 (the lady in red)」とは「自分を破滅へ導く運命の女」を意味する用語として使われている。(引用文献:「マーダー・ケースブック48、伝説の無法者」1996)

2008年3月 9日 (日)

フルートを吹くフリードリヒ大王

Img_0002

    アドルフ・フォン・メンツェル画

     1852年 ベルリン国立美術館蔵

   プロイセンのフリードリヒ大王(1712-1786)は、ヴォルテールに師事した啓蒙専制君主として知られる。しかし、同時に、音楽の愛好家でもあり、1728年からヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697-1773)にフルートを習い、1740年にはベルリン宮廷楽団を設立した芸術の保護者でもあった。

   メンツェルの版画には、フリードリヒ大王、王女アンナ・アマーリア、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788、J.S.バッハの次男)、宮廷楽長のカルル・ハインリッヒ・グラウン、ヴァイオリンのフランツ・ベンダ、フルートのクヴァンツなどの音楽家たちがいる室内楽の様子が描かれている。

2008年3月 2日 (日)

劉備、蜀帝となる

Img

    帝王図巻 蜀主劉備 伝閻立本 

    北宋 ボストン美術館

   劉備玄徳(161-223)。昭烈帝。蜀を正統と認めぬ立場からは先主と称される。

    建安19年(214年)、劉備は、孔明の「天下三分の計」の方針どおり益州に侵入、つぎつぎに諸県を平定して、念願の蜀を手に入れる。ここに魏・呉・蜀の三国鼎立時代を掲げて漢中王の位についた。

    建安25年(220年)正月、曹操が洛陽で病没。あとを継いだ曹丕が、この年10月、献帝より禅譲を受けて魏王朝を創建した。劉備はこの知らせを受けると、翌年、元号を章武元年と定め、「漢室再興」の旗じるしをかかげて帝位に即く。これがいわゆる「蜀漢」あるいは「蜀国」である。妃は呉皇后、劉禅が太子。呉夫人の腹の劉永を魯王、劉理を梁王とし、百官も昇進、天下に大赦を行なった。

2008年2月17日 (日)

セゴビア城とイサベル1世

Img

           セゴビアの城

   カスティーリャ王国エンリケ4世が1474年、亡くなると異母妹のイサベル1世(1451-1504)がセゴビア城(アルカサス・デ・セゴビア)で即位した。イサベルはアラゴン王フェルナンドと結婚して、1479年には両国が統一してスペインが誕生した。1492年、グラナダの陥落により国土回復運動(レコンキスタ)は終わり、同時にコロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていった。

リプトン卿とアメリカスカップ

Cuty02m

        ティークリッパー

  イギリス東インド会社の独占貿易が廃止された19世紀。最初に届けられた新茶は高値で取引されたことから、中国からイギリスに紅茶を運ぶ船「ティークリッパー」は、その速さを競いあった。特にアメリカのニューイングランドで作られた帆船は、東インド会社の船の5倍の速さでイギリスに到着し人々を驚かせた。高速で帆走できるように、長さが幅の6倍もある細長い構造で、浅い船底に鋭い船首を持っていた。横風も受けられるようにマストを高くし、横張りの三角帆がついていた。次第に、優勝者には多額の懸賞金が支払われる「ティーレース」へと進化していき、人々はお金をかけてこのレースの始まりであり、現在有名な「アメリカスカップ」の元祖とも言える。アメリカスカップには、紅茶王と呼ばれるリプトン社の創始者であるリプトン卿も参加していた。

   1851年のロンドン大博覧会の際、ビクトリア女王が観戦する中、ワイト島1周帆船レースが開催された。14隻のイギリス船と、1隻のアメリカ船が参戦。優勝したのは、たった1隻で参加したアメリカの「アメリカ号」だった。優勝カップをアメリカに持ち帰ったアメリカ号のオーナーは「カップの保持者はいかなる国の挑戦も受けなければならない」という証書をつけた。そこから、このカップを賭けて始まったのがアメリカスカップだ。リプトン卿は30年間に渡って5回挑戦したが、惨敗続き。しかし、彼の勇敢な挑戦を讃え、ニューヨーク市民は一人1ドルずつ出し合って、ティファニーのカップを彼にプレゼントした。このカップを記念して創設されたのが「リプトン・カップ・レース」である。(引用文献:「世界のみなと物語」港湾空間高度化環境研究センター)

2008年2月16日 (土)

始皇帝と不老不死

Img_0004

   秦は中国の北西辺境の地におこり、渭水にそって次第に東に移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代初めの孝公のとき都を咸陽に移し、商鞅の変法によって富国強兵をおこない、中央集権化をはかった。その後、秦は戦国の七雄のうちで最強となり、秦王の政のとき、東周および東方の6国を次々と滅ぼして、前221年に史上初めて中国全土を統一した。

    秦王政は、皇帝に即位し、自ら始皇帝と称し、法治主義を採り、文字、貨幣、度量衡、法律など諸制を一新する。そして翌年から、前後5回にわたって各地を巡幸する。皇帝の威厳を天下に示すためであったが、不老不死の仙薬を求めるのがもうひとつの目的であった。この世の全ての権力を掌中にした始皇帝といえども得られなかったもの、それは不老長生だった。始皇帝は東方の海岸地帯を訪れ、そこの方士たちから東方の海上にある仙人のことを聞いた。かれらは不老不死の研究者であって、「海上の仙人が不老不死の薬をもっている」と始皇帝に話した。絶対者である自分が死ぬことに始皇帝は不満であり、自分は死ぬべきでないと考えた。彼は権力財力のすべてを挙げて、この薬の獲得に乗り出すことになる。徐福を東海に派遣したりしたが、なかなか成果は上がらなかった。

    前210年、始皇帝は最後の巡幸に出た。随行者は、末子の胡亥、丞相の李斯、宦官の趙高である。この旅の途中で、始皇帝は病にたおれた。晩年の始皇帝は、死ということばを極端に嫌ったため、臣下のだれもが、死を口にする者はいない。が、容態が悪化するいっぽうである。さすがの始皇帝も、北方に遠ざけていた長男の扶蘇にあてて遺書をしたため、「咸陽にもどって葬儀を司れ」と指示し、7月、崩御する。享年は50歳であった。

2008年2月15日 (金)

カサノヴァとマノン

Natti11

   マノン・バレッティの肖像

   1757年 ジャン=マルク・ナティエ画

   ロンドン ナショナル・ギャラリー蔵

  マノン・バレッティ(1740-1770)はイタリアの女優シルヴィア・バレッティの娘で、1757年、評判のプレイボーイのジャコモ・カサノヴァ(1725-1798)に激しい恋心を抱き、二人は婚約する。

    だが諸国を放蕩し悪業の限りを尽くすカサノヴァに17歳のマノンは、ほとほと愛想をつかして婚約を解消し、33歳も年上の建築家と結婚してしまう。カサノヴァはこれをつれない仕打ちとして生涯忘れなかったという。

2008年2月14日 (木)

こちらはロンドンです

Img_0002_2

   1940年夏、ドイツ軍のロンドン空襲を毎晩ラジオ中継で何百万人ものアメリカ人に生々しく伝え、のちに「アメリカの良心」といわれたひとりの通信員がいた。

   エドワード・R・マロー(1908-1965)。ノースカロライナ州ギルフォードに生まれる。ワシントン州立大学卒業後、1935年にCBSに入社。1938年、ヒトラーのオーストリア侵攻を取材。感情を抑えた冷静な口調で一躍有名になる。やがてマローの「こちらロンドンです」と例の口調で番組をはじめる現地レポート番組は人気をよび、その影響でラジオは急速に普及する。

   「わたしの左手では、怒ったように対空射撃する高射砲が激しく赤い火を吹き……サーチライトが4つ上空を照らして振れ動いています。敵機が、いまわたしの上空です。いま、すぐに2つの爆発音が聞えました」

   そのとき爆弾が落ちてくる音やサイレンが鳴り響くのを多くのアメリカ人はラジオから聞いた。

    画像は中折れ帽を小粋に傾けてCBS通信員マローが、ロンドンの万霊教会(右)や爆撃の最中にその屋根から放送したイギリス国営放送局の建物を大股に通り過ぎて行く様子である。

2008年2月13日 (水)

子沢山だった美貌の皇妃

Img_0003

   インド北部のアグラにある「世界で最も美しい建築」といわれるタージ・マハルはムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666)が愛妃ムムターズ・マハル(1595-1631)の死を悲しんで建てた廟墓である。

   ムムターズがまだ皇太子だったシャー・ジャハーンと結婚したのは1612年、ムムターズ18歳の時だった。彼女はもちろん初婚だったが、シャー・ジャハーンには2年前に結婚した妃がおり彼女とのあいだに娘が1人いた。

   美貌の皇妃として知られたムムターズは、夫に深く寵愛され、男子8人、女子6人という子沢山であった。そして20年近く、ムガール朝の大奥で権勢をほしいままにした。1631年、王がデカン遠征中、36歳で産褥死した。王はその死を悲しみ、彼女の廟の建設を翌年から着工し、21年の歳月をかけてタージ・マハルを完成した。

2008年2月10日 (日)

ジャール朝カーブース王の墓廟

Img_0018

         グンバイ・イ・カブス

              12世紀 イラン ゴルガーン地方

    「グンバイ」とは「ドーム」つまり「丸いドームの建物」という意味で、「カブス」は王の名前で一般には「カーブース」と表記されることが多い。イラン、ジャール朝第4代の王カーブース(976-1012)の名前を知るかたは相当な世界史の知識のある人であろう。彼の生涯は、孫のカイ・カーブースが1082年に書いたペルシア語による「ナーブース・ナーメ」という道徳的教訓書に記されているが、その一生はきわめて変化に富んでいた。

   10世紀から11世紀にかけてカスピ海沿岸地帯を支配していたのはアッバース朝が名目上イスラムの宗家として認められていたが、ブワイ朝(932-1055)、セルジュク・トルコ朝(1037-1157)が台頭してきた。その中でジャール朝第4代のカーブースは、ブワイ朝の皇子ファウル・ウッダウラを、その2人の兄弟アドゥード・ウッダウラとムアッイド・ウッダウラから守ったために、数年間姿を消さねばならなくなり、帰国後に暗殺された。カーブースは文芸の保護者としても有名で自らも4行詩を作った。王の死後、第5代マヌーチヒル(在位1012-1029)、第6代アノーシールワーン(在位1029-1049)の時代に衰退していく。しかし、カーブース王の墓廟は現在もイラン・ゴレスターン州ゴルガーンに残る。塔の形をした最初のモニュメンタルな墓として現存する世界で最も高いレンガ造りの塔である。頂の円錐は遊牧民のテントから発想したものか、セルジューク以前の墓廟をうかがうことができる。また下の稜線のある柱(中空)の部分は、中央アジアの砦に用いられた形だともいわれるが、同じトルコ系の文化の伝播の名残りともとれる。「カーブース・ナーメ」は平凡社の東洋文庫「ペルシア逸話集・カーブースの書、四つの講和」として翻訳されている。

ヒトラーとエッフェル塔

Img_0016

    1940年6月14日、パリはドイツ軍によって無血占領され、フランスは降伏した。6月20日、休戦条約の署名がおこなわれ、3日後の6月23日、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)はフゴー・シュペールとともにお忍びでパリの名所観光をしている。朝6時にレ・ブルージュ空港に着いたヒトラーは、同9時には、その飛行場から発った。わずか3時間のパリ見物だったが、ヒトラーは「パリを見物するのが私の夢だった。今日、その夢がかなって、とてもうれしい」と語っている。

   ヒトラーはパリのどこを見物したのだろうか。ドイツの彫刻家アルノ・ブレッカーによると、廃兵院(アンヴァリッド)、シャイヨー宮を廻って、エッフェル塔に上ったという。(『パリ、ヒトラーと私』)ヒトラーがエッフェル塔に上ろうとすると、突然エレベーターが故障した。やむなくヒトラーは最上階まで歩いて上った。ところが、ヒトラーはエッフェル塔には上らなかったとする説もある。この否定説によると、シャイョー宮に行くのにシャン・ド・マルスを横切りながら、下からエッフェル塔を眺めただけだったという。どちらが本当か不明である。真相はエッフェル塔だけが知っている。

   しかし、何故、ヒトラーはエッフェル塔を見物したのだろうか。ナポレオンの柩が納められた廃兵院(アンヴァリッド)や凱旋門ならば話はわかるが、エッフェル塔が花の都パリのシンボルというだけの理由なのだろうか。一説によると、エッフェル塔が完成したのはフランス革命100周年記念のパリ万博で、ヒトラーと「同じ年」だからという。つまりヒトラーは子供のころからエッフェル塔に憧れを持ち続け、エッフェル塔に行きたがっていたという。もともと画家志望であったヒトラーはキュービズムなど現代美術は頽廃芸術として嫌悪していたが、古典芸術であるルーブル美術館やパリには人並み以上の憧憬を抱いていたと想像するのはケペルだけであろうか。

   エッフェル塔を背景としたヒトラーの記念写真には合成もあるかもしれないが、この記事に載せた写真は、愛人エヴァ・ブラウン(1912-1945)に送った写真で、ジャン・ド・マルス公園あたりで撮影された本物とみられている。

2008年2月 8日 (金)

ホンタイジの朝鮮出兵と延辺地区

    16世紀初期の朝鮮時代が舞台である韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」などを見ると、朝鮮がいかに明国を宗主国として尊重していたかがわかる。劇中、宮廷の人々が中国の使者などに気を使うシーンがしばしば登場する。

    元・明代の東北地方には、ツングース系の女真族が居住しており、彼らの一部は12世紀に金朝を建国して中国北部をその領土とするまでになっていたが、元やそれに続く明代では、その支配をうけていた。当時の東北地方の女真族は、ハルビン方面の海西、瀋陽、遼東方面の建州、東北地方北部の野人の3大部に分かれて居住しており、毛皮や朝鮮人参などを瀋陽付近に設けられた交易場で、中国側の穀物や金属類と取り引きしていた。明の永楽帝(1360-1424)は、これらの女真族を統合させるために、黒竜江下流にヌルカン(奴児汗)都司を設け、遼東に建州衛をおき、名義だけの官職を授け、賜与や特典を与えていた。こうしたなかで女真族の間に民族的自覚が現れ、統一気運が生まれた。

   清の建国者ヌルハチ(奴児哈赤、1559-1629)は、蘇子河中流域の興京老城(ホトアラ)に居住していた建州女真族の一首長の子に生まれた。1616年ホトアラに国を建てて金と号し、1619年サルホの戦いで明に大勝し、1621年には遼河以東を制圧し、1625年には瀋陽を都とした。

    1629年にヌルハチが没すると、ホンタイジ(1592-1643)がハンの位についた(太宗、1626-1643)。1636年、国号を清とした。朝鮮は国初以来、明の忠実な藩属国で、毎年何回か朝貢していたことから、清の建国を認めなかったため、ホンタイジは1637年、李氏朝鮮を攻撃した。鴨緑江を越えた清軍は、またたくまに南下して、朝鮮のソウルに近い南漢山城に迫った。これに驚いた仁祖王は江華島に脱出したが、朝鮮は服属させられた。

    その後も清国は自らの祖先の発祥地である東北地方には特別な統治体制を行なった。盛京、寧古塔、璦琿などに三将軍を次々と設置して満州八旗官兵を統率させ、地域を分割し、各旗人民を統治した。今日、中国吉林省東南部に延辺朝鮮族自治州があり、多くの朝鮮族が居住している。南には図們江(朝鮮でいう豆満江)をはさんで朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡北道と向かあっている。延辺地区の諸民族が朝鮮文化を維持しながら、辺境地方を開拓し、自治州内において独自の地方自治権を行使しうるにいたったのは、17世紀以来のこのような歴史的経過によるものである。

2008年1月30日 (水)

青年ヒトラーとウィーン

    アドルフ・ヒトラー(1889-1945)は1889年4月20日、ドイツ国境にあるオーストリアのブラウナウで生まれた。父アロイスが税関を退職してからは、ドナウ河畔のリンツ付近に移った。小学校卒業後、この地の実業学校に入ったが、4年を修了しないで、1905年、退学した。ヒトラーはウィーンで画家を志し、1907年秋にウィーン造形美術大学絵画科を受験するが失敗、翌年も不合格になっている。ヒトラーはウィーンで1913年5月24日まで、定職ももたず貧しい青春時代を過ごした。酒もタバコも飲まず、女性にも近づかなかった。1908年から約10年間に2000枚の絵を描いたといわれる。思想的には反ユダヤ主義で知られたウィーン市長カール・ルエーガー(1849-1910)から多大な感化を受けたといわれる。1914年、ヒトラーは第一次世界大戦が始まると志願兵としてドイツ帝国軍隊に入隊した。24年後の1938年3月13日、ヒトラーはかつて画家志望を拒んだウィーンの街に無血進駐した。ウィーン時代を振り返ってこう言った。「ウィーンはもっとも基礎的な学校だった」と。

戦艦ドレッドノート

    アメリカの海軍理論家アルフレッド・セイヤ・マハン(1840-1914)は、1890年「歴史に及ぼした海上権力の影響」を著わした。そこで「海を制するものは世界を制する」の立場から、敵海軍を撃滅できる大鑑巨砲の海軍をもつことこそ、一国の興廃のもとであると説いた。この思想は植民地獲得をめざす列強に大きな影響を与えた。

    ドイツとの建艦競走に突入したイギリスは、1906年、単一口径主砲を搭載した当時世界最大の戦艦ドレッドノートを建造した。主要兵装は30cm砲10門で、5基の連装砲塔に収められ、うち3基は艦首に2基、艦尾に1基、中心線上に配置された。残り2基は中央部の上部構造部の両側に対照的に配置されている。本艦は、イギリス戦艦で最初にタービン推進機械を採用し、スクリュー4軸を用いていた。

    このイギリス海軍自慢の戦艦ドレッドノートにイタズラをした変わり者の大学生たちがいた。1910年、イギリス海軍に「エチオピア皇帝一行が戦艦を見学するので歓迎せよ」という偽電報が届く。海軍は突然の訪問に大慌てで用意し、軍楽隊に儀杖兵を準備して、ウェイマス港で迎えた。かくしてエチオピア皇帝と皇女ら4名は特別待遇で戦艦ドレッドノートに乗船し艦内を見学してまわった。後日、新聞社に投書があった。先日のエチオピア一行はケンブリッジ大学生によるイタズラである旨が書かれていた。仮装したブルームズ・ベリーのグループ、ウイリアム・ホーレス・ヴェア・コール(1879-1938)、皇帝に扮したのは友人のバクストン、皇女はバージニア・ウルフらであった。

2008年1月28日 (月)

龐統、落鳳坡に死す

    龐統(178-213)。字は士元。襄陽郡襄陽の人。劉備は司馬徽から「伏龍、鳳雛のどちらかひとりでも得られれば、天下を平定できるだろう」と聞いていた。まもなく「鳳雛」とは龐統のことだと徐庶に聞いて知る。龐統を迎えてその才能を知って、劉備は諸葛亮に次ぐ親愛ぶりを見せた。涪(ふ)の勝ち戦後の宴席で楽しそうに酔った劉備に龐統は「以前は同姓の親戚の国を取るなどとんでもないと言っていたのに、戦が楽しいとは、仁義の君主の言葉とも思えませんな」と言ってたしなめた。怒った劉備に命じられて龐統は退席した。が、劉備は後悔してすぐ呼びもどした。劉備は「先ほどはどちらが間違っていたのかな」と問うと、龐統が「君臣双方が」と答える。ふたりは大いに笑いあった。まもなく龐統は軍勢を率いて落鳳坡と言われるところで、矢に当たって落命した。劉備は悲しみ、龐統の話をするたびに涙を流した。

2008年1月27日 (日)

ウィンドボナ

    ヨーロッパの古都ウィーンという言葉は、心を明るくする響きをもつ。なごやかな気持ちになり、何となくはしゃぎたくなるのだ。モーツアルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウスなどの音楽家が活躍した音楽の都だからだろうか。あるいは多くの人々の想念のなかにある御伽の国を思い浮かべるだろうか。

    紀元前4世紀頃、ケルト人たちによってドナウ川上流右岸に集落がつくられ、前50年にローマ軍はここに侵入し、前15年から14年にティベリウスとドルススが征服し、レディア・ノリクム・バンノニアの3州がつくられた。バンノニアの中心地はケルト語をそのまま引き継いで、ウィンドボナ(白い岩)またはウィンドミナ(白い河)と呼ばれ、ローマ帝国の北辺を守る要衝の一つとして軍隊が駐屯する要塞都市となった。「ボナ」は「集落・町」、「ウィンド」は「白い」という意味。別の説ではウィンドの語源はケルト語のベズニア(木、森)の意味とある。この付近が「ウィーンの森」といわれるように、アルプス山系の森林地帯であったからである。いずれが正しいか明らかではない。

   177年ドナウ戦争のために出征していたローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)は180年3月17日、この地で陣没したといわれる。民族移動の口火をきったフン族はアッチラに率いられて5世紀ころには一時このあたりにとどまり、またイタリアにはいる前の東ゴートもここに国をつくった時代がある。城砦と町は5世紀の民族移動による混乱で消滅したが、その構造が一部残って中世都市の基礎となり、それが今日でも市の中心部の地取りを決めている。

    古名ウィンドボナは、881年にはヴェニア(Wenia)と記録され、これが転化してウィーンとなった。1156年にはバーベンベルク家の下で首都となり、急速に重要性を増した。都市キビタスとしての特許状は1137年にすでに与えられていたが、1221年には商業独占権が認められて商業の中心地となり、その関係で十字軍の聖地への発進地にもなれば、ドイツ騎士団の後援者にもなった。

2008年1月21日 (月)

ウラジーミル・レーニンの死

    ロシアの革命家、ソビエト連邦の建国者ウラジーミル・イリイッチ・レーニン(1870-1924)は、1924年の今日、1月21日に53歳で他界した。

    死因は、その精力的な仕事からくる過労といわれているが、1918年8月30日、モスクワの工場労働者に演説中、左翼エスエルの35歳女性党員ファーニャ・カプランから2発の銃弾を受けた際の後遺症も死を早めたともいわれる。1922年5月26日、レーニンは第1回目の発作に見舞われた。10月2日、彼は再びオフィスの仕事に向かいはじめたが、断続的に、しかも短時間しか続けられなかった。12月16日、第2回目の発作が起こり、右の腕と脚が麻痺状態に陥った。1924年1月21日午後6時50分、モスクワ近郊のゴルキで亡くなくなった。遺体はモスクワのレーニン廟に現在も保存されている。

    ところで、レーニンという名はペンネーム(偽名)である。本名はウラジーミル・イリイッチ・ウリヤノフ。1901年末、「N・レーニン」という変名を初めて使ったがその由来には諸説がある。①シベリアの大河レナ川に因んで、「レナ川の人」という意味②レナという級友の名前③N・レーニンという変名のNはニコライの略。

チャールズ1世の処刑

    王権神授説を信じたイギリス王チャールズ1世(1600-1649)は、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱が起こった。1642年国王は北部のヨークに逃れ、ノッティグガムで兵を挙げた。1642年10月、エッジ・ヒルの戦いは勝敗なく終わったが、議会派にオリヴァー・クロムウェルが現れると、鉄騎兵を編成し、1644年7月2日、マーストン・ムーアの戦い、1645年6月、ネーズビーの戦いで国王派は敗れ、第1次内戦は終結した。

   1647年12月、チャールズ1世はスコットランドへ逃亡し、これと軍事同盟を締結して革命軍に対抗し、第2次内乱が始まった。革命軍は国王軍ならびにスコットランド軍を破り、1648年3月再び国王は囚われた。一旦は脱出したものの、1648年11月、国王はワイド島のカリスブルック城に難を避けた。しかるに議会の多数派なる長老派は王との妥協を決議した。ここにおいて、クロムウェルはプライド大佐(?-1658)に命じて長老派議員140名を議会から締め出して、わずか60名の独立議員(ランプ議会という)で1649年1月1日、国王チャールズ1世の特別裁判所設置法案が可決された。反逆罪で裁かれたチャールズ1世は、1月27日に死刑の判決が下され、1月30日ロンドンのセント・ジェームズ宮殿からホワイトホールの門