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2019年2月15日 (金)

蛍の光

    「♪蛍の光、窓の雪~」。卒業式のシーズン。ほんとうに蛍の光や積もった雪の灯かりで読書ができるのだろうか。石川啄木の歌集「悲しき玩具」(明治44年)に次の歌が収録されている。

  秋近し!

     電燈の球のぬくもりの

     さはれば指の皮膚に親しき。

    これ以前の室内の灯火具といえば、行燈、燭台、ランプだった。明治15年に銀座に初めて電灯が灯されたが、家庭に電気が使われるようになったのは明治19年ごろから。しかし、家庭で電気が一般に使われるようになったのは大正になってからであるので、東京にいる啄木の電気スタンドは明治末年に売り出された新機種だったのだろうか。

    灯かりと読書の話は、中国の古い故事が有名であろう。晋の時代に、車胤と孫康という二人の青年がいた。二人は、本を読むのに、灯かりの油が買えないほど貧しかった。そこで車胤は、夏の夜には、ねり絹のふくろに数十匹の蛍を入れて、蛍の光で本を読んで勉強した。孫康は、冬の夜には、降り積もった雪の灯かりで本を読んで勉強した。この故事から「蛍雪の功」という言葉が生まれ、「蛍窓雪案」(蛍窓はふみ読む窓、雪案は勉強机)は「苦学すること」をさすようになった。

   戦前の歴史学者の朝河貫一(1873-1949)は英語の辞書を1ページずつ覚えては破り、残った皮の表紙を桜の木の根元に埋めた。天文学者の新城新蔵(1873-1938)は深夜勉強していて眠気をもよおすと錐で自分の太ももを突いて眠気を振り払って勉強したという。東大に合格すると、その錐を松の木の根元に埋めた。「朝河桜」「新城松」はまるで車胤、孫康の日本版「蛍雪の功」として伝えられている。

 ちなみに卒業式や店舗の閉店にBGMとして使われる名曲「蛍の光」は原曲はスコットランド民謡で歌詞はイギリスの国民詩人ロバート・バーンズ(1759-1796)の作詞。オールド・ラング・サイン(Auld Lang Syne)はスコットランド語で、英訳するとold long sicne(久しき昔)。日本語歌詞とは全然異なり、旧友と再会し、思い出話わしつつ酒を酌み交わそうという内容である。

2019年2月13日 (水)

いとしのバレンタイン

Franksinatramyfunnyvalentin408872    スーパーの棚にはチョコレートが並べられ、バレンタインデーが待ち遠しいシーズン。むかしこの時期聴きたい曲は「マイ・ファニー・バレンタイン」。なかでもフランク・シナトラ盤はネルソン・リドルの指揮・演奏でシナトラの名唱中の名唱。シナトラとキム・ノヴァック主演の映画「夜の豹」(1957年)に挿入されていた。もともとはロレンツ・ハート作詞、リチャード・ロジャーズ作曲による1937年の作品。同年のミュージカル「ベイブス・イン・マイ・アームズ」で使われた曲だった。このミュージカルは2年後MGMで映画化され、ジュディ・ガーランドが歌って知られるようになった。バレンタインとは男性の名前。つまり、この曲はバレンタインデーとは関係がない。「私のいとしのバレンタイン様」とあこがれの男性に思いを伝える女性が歌うべき曲ではあるが、なぜかベン・ウェブスター、マイルス・ディビス、チェット・ベーカーなど男性ミュージシャンに人気が高い。ロレンツ・ハートの歌詞にはvalentineと小文字で、つまりバレンタインデーにカードを送る相手、つまり「恋人、特別な人」を意味するともいわれる。でもこの曲の最後の歌詞に「毎日がバレンタインデーなんだから」と彼氏の名前をつなげているので、やっぱりバレンタインデーにふさわしい名曲なのだ。(MY FUNNY VALENTINE)

2019年2月 2日 (土)

雪の降る街を

61rzqet7fal__sl500_     「雪の降る街を」は、1949年10月から52年4月までNHKラジオで放送されていた「えり子とともに」の冬の場面の挿入歌として作られた曲である。大学教授とその娘えり子が、戦後のすさんだ世相の中で、いたわり合い励まし合って、母のない家庭を守っていく話だが、主演のえり子役、劇団民芸の阿里道子の美しい声に人気が沸騰し、2年半のロングランとなった。音楽は初め、当時新進の芥川也寸志が担当したが、続編からは中田喜直に代わった。番組も終わり近くになった52年初めのある日、作者の内村直也が音楽担当の中田にいった。「今日は台本が足りなくなってね、歌を一本入れさせてもらうよ」。ビテオ編集の現在ではあまりないことだが、生放送のときはこういうことがしばしばあったのだ。30分番組で予定して書いた台本が27分で終わってしまうので、そのつじつまを合わせようとしたわけである。内村が15分ほどですらすらと書いた詩に、中田がその場でパッと曲をつけ、ドラマの中で文学座の南美江と阿里道子のふたりが歌った。放送すると、あちらこちらから反響があって、評判がいいので「ラジオ歌謡」で取り上げられた。当時フランスから帰ってきたシャンソン歌手、高英男の歌で1953年2月2日から1週間放送され、全国的に広まったのである。

 

 

 

 

 

2019年1月22日 (火)

ジャズが流れる部屋

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   本日は「ジャズの日」。1月22日が何故か?JAZZの「JA」がJanuaryの先頭2文字であり、「ZZ」が「22」に似ていることからという。

    ジャズといえば中高年の男性というイメージがある。ジョン・コルトレーンだ、ソニー・ロリンズだ、マイルス・デイビスだとか、ジャズにうるさいのが友達にいる。ところが最近、「女子ジャズ」という言葉が生まれ、いま若い女性にジャズがうけているというオジサンたちにちょっと嬉しいようなニュース。ジャズにもいろいろあるので、女子ジャズがどんな傾向なのかは知らない。1910年代にニューオーリンズで生まれたジャズも、1930年代ではスイングジャズとしてダンス音楽として広まり、戦後1950年代からジャズは世界中の音楽して多様化してきた。ヨーロッパ映画のヌーヴェル・ヴァーグにもジャズが取り入れられ、日本も1960年代の映画・ドラマの音楽にもモダンジャズがバックに流れた。戦後の洋楽はジャズが中心だったといってよい。ケペルの趣味は、懐古的でサッチモやベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、グレン・ミラーといったビッグバンドのスイングジャズが好みだ。もっとも自分ひとりで聞くにはいいが、BGMとしてはうるさ過ぎるので、女子ジャズといわれるものが心地よさそうだ。(New Orleans)

You'd be so nice to come home to   Helen Merrill  1956

Lallaby of Birdland  Sarah Vaughan  1954

You Belong To Me  雪村いづみ

Fools Rush ln(恋は愚かと言うけれど)Jimmy Dorsey 1945   

Strange Fruit(奇妙な果実) Billie Holiday

2019年1月 3日 (木)

チャルメラのルーツ

Gaka3vCharumeraojisan  明星食品は1966年即席めん「明星チャルメラ」を発売。屋台のラーメン屋おじさんの吹くチャルメラのトレードマークで40年以上も続くロングセラー商品となった。

 チャルメラのメロディーは「♪ドレミーレド ドレミレドレ~」(または♪ソラシーラソ、ソラシラソラ~)明治時代はラーメン屋ではなく、飴売りの楽器だった。石川啄木の歌に「飴売のチャルメラ聴けば うしなひし をさなき心 ひろへるごとし」とある。

 ところでこのチャルメラという楽器は複簧をもつ日本の管楽器だが、ルーツは7世紀ササン朝ペルシアで軍楽隊が使用していたもの。日本には中国の楽器「哨吶」(スオナー)が安土桃山時代に長崎に渡来し、「唐人笛」と呼んでいたが、ポルトガル人がそれを「チャラメラ charamela」と呼んだことから、「チャルメラ」に転訛した。江戸時代は正月の獅子舞が使っていたが、明治時代は飴売の専門の楽器となった。中華そば屋でチャラメラが使われるようになったのは、明治30年代後半の横浜が最初である。その後大正時代には、東京にもチャルメラを吹く屋台がいたるところに見られるようになった。

2018年12月25日 (火)

チャップリン「スマイル」

Photo    本日はクリスマスですが、喜劇王チャールズ・チャップリンの命日でもある。シネフィルWOWOW没後40年企画で「黄金郷時代」「独裁者」「モダンタイムス」「街の灯」一挙上映。チャップリンの映画は音楽もすばらしい。「ラ・ヴィオレテラ」(街の灯)、「テリーのテーマ」(ライムライト)、「スマイル」(モダン・タイムス)などスタンダードな曲。なかでも「スマイル」はもの悲しいメロディーのなかに明日への希望が感じられ、永く多くの人々に愛されてきた。もともとメロディのみのインストゥルメンタルだったが、1954年にナット・キング・コールが歌詞付で歌った。以後、マイケル・ジャクソンはじめ多くの歌手によってカバーされている。またマントヴァーニ・オーケストラなどイージーリスニングとしても定番の曲である。この曲は近年フィギュアスケートの浅田真央や織田信成選手のエキシビション使用曲となり若い人も知るようになった。

  これまでに「スマイル」をカバーした主なミュージシャン。ペトゥラ・クラーク、ニール・セダカ、スキータ・ディヴィス、ペリー・コモ、ジュディ・ガーランド、トニー・ベネットなど。(12月25日)

2018年12月24日 (月)

「きよしこの夜」と「ホワイト・クリスマス」

Bingcros   クリスマスの定番曲といえば、古くから伝わる讃美歌とワムや山下達郎のような20 世紀に入ってからのポビュラーソングのクリスマス曲がある。古くからのクリスマス曲の代表といえば「きよしこの夜」。1818年オーストリアのザルツブルク近郊の小さな村オーペンドルフの司祭ヨゼフ・モールが作詞し、教会のオルガン奏者フランツ・クサーヴァー・グルーバーによって作曲された。今年はこの有名なクリスマスキャロルが初演されてちょうど200年となる。1859年ジョン・フリーマン・ヤングによって英語に訳され、世界中に広まった。日本人で最初にクリスマス・ソングをレコード化した歌手は誰か?正確にはわからない。戦前にすでに録音された曲もあると思われるが不明でただいま調査中。戦後になると美空ひばりが昭和28年に「クリスマス・ワルツ」(米山正夫作曲)を発売している。間奏に「きよしこの夜」が入っている。

   ポピュラーソングの代表曲といえば「ホワイト・クリスマス」。この曲は、元々は映画「スイング・ホテル」(1942年)の劇中歌。作曲者アーヴィング・バーリンが初めてのリハーサルでこの曲を弾いたとき、ビング・クロスビーはこの曲の可能性を十分に認識しなかった。クロスビーは「この曲は何も問題ないね、アーヴィング」と言っただけだった、と伝えられる。クロスビーにとっては普段の調子ですぐに歌える簡単なメロディーだったのだろう。いまでは多くの歌手にカバーされており、史上もっともヒットした歌曲の一つとされている。「ホワイトクリスマス」は従来の宗教のわくを離れて、アメリカの新しいクリスマスを祝うスタイルを理想化した作品といわれている。(Bing Crosby)

2018年12月17日 (月)

シューベルト「未完成」

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「シューベルトと婚約者テレーゼ・グローヴ」 オットー・ノーヴァク(1874-1950)の絵

 青春の夢と希望は未完のまま美しく閉じられる。

   1822年秋、25歳の青年フランツ・シューベルト(1797-1828)は「交響曲第8番ロ短調」を書き上げた。この曲が「未完成」と呼ばれるのは、当時の交響曲がふつう第4楽章だったのに、シューベルトは第3楽章を書きはじめたところで作曲を中止してしまい、2度と取り上げなかったためである。理由はわからない。往年の映画「未完成交響楽」(1933年)を見た人は「我が恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし」と失恋のためと理解したがるが、もちろん後世のフィクションである。実際にはテレーゼ・グローヴという歌の上手い女性がいたそうだが、3年後にパン屋に嫁いでしまった。「未完成」は、曲の外観が未完成であるがゆえに、シューベルトの生前にはついに演奏されなかった。シューベルトの親しい友人だったヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーが「未完成」の自筆楽譜のある場所をウィーンの高名な指揮者ヨハン・ヘルベックに教え、ヘルベックの尽力で自筆楽譜は世に出、かつウィーンで初演されたのだった。初演は1865年12月17日、作曲者の死後37年、作曲から実に43年間が経過していた。この日は奇しくもベートーベンの誕生日。生前、栄光が与えられなかったという点では、シューベルトはベートーベン以上に悲劇の天才であった。

2018年12月12日 (水)

謡「鶴亀」

能の音楽は、大別して「謡(うたい)」という声楽と、「囃子」という能楽で構成されています。能は歌舞劇ですので、物語に沿って舞台が進行します。観世流「鶴亀」。
庭の砂は金銀の。庭の砂は金銀の。珠を連ねて敷妙乃。五百里の錦や瑠璃の樞。硨磲の。行桁瑪瑙の階。池の汀乃鶴亀は。蓬莱山も外ならず。君乃恵みぞ。ありがたき君の恵みぞありがたき。

2018年12月 9日 (日)

歌謡曲・演歌とトロット

   大みそかのNHK紅白歌合戦に当選・落選した歌手の話題になるシーズン。ここ数年、演歌にヒットがなく、J・POP中心の番組構成になってきている。しかしAKBやジャニーズばかりのグループ歌謡もつまらない。このような状況はお隣の韓国も似ているが、韓国にはトロットといわれる大衆歌謡がある。「トロット王子」といわれるパク・ヒョンビンやチャーミングな女性歌手ホン・ジニョンが人気があり、いまでもトロットの人気は衰えをしらない。

  さて、ここで問題です。日本で初めて「歌謡曲」と名づけられた曲は?

A 大正3年の「カチューシャの唄」

B 大正14年の「夏が来たかと」

C 昭和4年の「東京行進曲」

 「カチューシャの唄」は爆発的な流行を示し、いわゆる大衆流行歌謡のルーツになっているが、当時は「流行唄」「流行小唄」などと呼ばれていた。「歌謡曲」ということばがはじめて用いられたのは、大正14年7月12日に東京放送局の本放送が始まってからであり、その直後の7月27日に「夏が来たかと」など4曲(北原白秋作詞・町田嘉章作曲)が放送されたとき、町田嘉章がこれをはじめて歌謡曲と名づけたことから始まっている。昭和4年に西条八十作詞・中山晋平作曲・佐藤千夜子の「東京行進曲」がレコードになって、当時25 万枚という売行きを示したが、このころになると、この種の歌を「流行歌」というようになり、このあとぞくぞくと流行歌が大衆のあいだにうたよれるようになる。戦後になると、NHKなどの放送で、この種の流行歌をすべて「歌謡曲」というようになって、流行歌ということばの影がうすくなっていった。昭和30年代、美空ひばりや三波春夫などの活躍で歌謡曲の全盛時代を迎えたが、海外のヒット曲を日本語でカバーする和製ポップスも出現した。昭和40年代ビートルズの来日以降、GSブームやフォーク、ニューミュージックとさまざまなジャンルが区分されるようになり、旧来の歌謡曲は次第に「怨歌」「演歌」ということばが用いられるようになった。カラオケブームで昭和末期まで演歌のヒット曲は生まれたが、売り上げでは次第に衰退する。平成になると旧来の和製ポップスが「Jポップス」と呼んで若者たちに支持されるようになった。しかし新時代を迎え、ふたたび昭和歌謡の名曲をカバーする動きもみられる。8日に「日本作詞大賞」福田こうへい(天竜流し)が発表され、30日のレコード大賞に向けた歌謡レースが始まる。Park Hyun Bin、Hong Jin Young

2018年のヒット曲

U.S.A.  DA PAMP

Lemon 米津玄師

オールドファッション back number

プロローグ Uru

今夜このまま あいみょん

half of me   平井堅

Gifts   Superfly

プロポーズ  純烈

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