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2020年1月 6日 (月)

箱根八里

  瀧廉太郎が作曲した有名な唱歌「箱根八里」の一番の歌詞に「一夫関に当たるや、萬夫も開くなし」(作詞者は鳥居忱)とある。大意は、箱根の山は難所で一人が守備にあたれば万人が攻めてもこれをうちやぶることができないということ。一般に李白の「蜀道難」の「一関に当たれば、万夫も開く莫し」からの引用と説く本が多い。元ネタは李白よりも数百年前の左思(3世紀の人)の「蜀都賦」の「一人守隘、萬夫莫向」である。『文選』に所収されている。

 

2020年1月 1日 (水)

わびさびと「MESSY」

   大晦日、年越しそばを食べている頃、テレビの紅白から歌が流れていた。星野源が最近オープンしたばかりの渋谷スカイの屋上で新曲「Same Thing」を披露している。全編英語でテロップも訳詞がないので正確な意味は自分にはわからない。「Wabi sabi Make it messy」。「わびさび」とは「もの静かなふかいおもむき」のことで日本精神にも通じるもの。「messy」とは「取り散らかす」「整然としていない」「乱雑な」という意味で、相反する言葉だ。「雨が降ったって日の光がさしていたって僕にはどっちでもいいのさ」という、まるで禅哲学の悟りのような深い内容の意味らしい。J-POPもいつまでも欲望の資本主義や利潤を追求するばかりでなく、日本文化や音楽を世界にむかって発信しようとする意図が感じられ、愉快に思った。

 

 

2019年12月17日 (火)

シューベルト「未完成」

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「シューベルトと婚約者テレーゼ・グローヴ」 オットー・ノーヴァク(1874-1950)の絵

 

 青春の夢と希望は未完のまま美しく閉じられる。

   1822年秋、25歳の青年フランツ・シューベルト(1797-1828)は「交響曲第8番ロ短調」を書き上げた。この曲が「未完成」と呼ばれるのは、当時の交響曲がふつう第4楽章だったのに、シューベルトは第3楽章を書きはじめたところで作曲を中止してしまい、2度と取り上げなかったためである。理由はわからない。往年の映画「未完成交響楽」(1933年)を見た人は「我が恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし」と失恋のためと理解したがるが、もちろん後世のフィクションである。実際にはテレーゼ・グローヴという歌の上手い女性がいたそうだが、3年後にパン屋に嫁いでしまった。「未完成」は、曲の外観が未完成であるがゆえに、シューベルトの生前にはついに演奏されなかった。シューベルトの親しい友人だったヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーが「未完成」の自筆楽譜のある場所をウィーンの高名な指揮者ヨハン・ヘルベックに教え、ヘルベックの尽力で自筆楽譜は世に出、かつウィーンで初演されたのだった。初演は1865年12月17日、作曲者の死後37年、作曲から実に43年間が経過していた。この日は奇しくもベートーベンの誕生日。生前、栄光が与えられなかったという点では、シューベルトはベートーベン以上に悲劇の天才であった。

 

 

2019年12月 5日 (木)

モーツァルト忌

Mozart   ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ちなみに「ヴ」というカタカナはもともとなかったが、福沢諭吉が外国語を翻訳するので作ったとされる。1756年、オーストリアのザルツブルクで生まれたモーツァルトは25歳のときに故郷を捨ててウィーンに来た。そして彼は経済的には苦しかったが、独立した音楽家として自由を勝ちとることに成功した作曲家である。歌劇「フィガロの結婚」「魔笛」にはフランス革命の自由と平等の精神が盛り込まれている。モーツァルトには時代を見る目があった。1791年12月5日未明チフスのため死亡。6日の葬儀は数人の弟子が集まっただけで、折からの雷雨のため誰1人付き添わずにウィーンの共同墓地に葬られたため、現在も遺骨の所在は不明である。その急死について、当時から、彼の才能を妬んだイタリア人の宮廷楽士サリエリによる毒殺との噂もでたが、必ずしも信頼できず、やはりチフスが原因であったであろう。

  ところで、「♪眠れよい子よ、庭や牧場に~」で知られるモーツァルトの子守歌。長い間、モーツアルトの作曲といわれていたが、実はベルハルト・フリースの作曲である。作詞はフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ゴッター。(Mozart)

2019年12月 1日 (日)

ホワイト・クリスマス

0571527701   アーヴィング・バーリン(1888-1989)が作曲した「ホワイト・クリスマス」は映画「スイング・ホテル」(1942)の挿入歌で、クリスマスソングの代表曲として21世紀に至るまで歌いつがれ、史上もっともヒットした歌曲といわれている。アメリカを代表する作曲家アーヴィング・バーリンは実はロシア人で、誕生時の名前は、イスロエル・イジドル・ベイリン Israel Isidore Balineであった。映画音楽を担当した作曲家には祖国からアメリカに亡命した活躍した人が多い。ビング・クロスビーの歌唱が有名であるが、1964年飛行機事故で亡くなったカントリーのジム・リーブスもよい。(Irving Berlin,White Christmas)

2019年11月21日 (木)

なぜ年末に第九が演奏されるのか?

 楽聖ベートーヴェン。来年は生誕250年を迎え、世界で盛り上がっている。1824年5月7日、ウィーンのケルントナートア劇場においてベートーヴェンの交響曲第9番がはじめて演奏された。合唱曲「歓喜に寄す」が入った第九は、今日、世界中で平和と国際協調のための賛歌とされ、もっとも有名で人気のあるクラシック作品のひとつである。ところで日本では、第九は年末の風物詩といわれ、12月になると毎年全国各地でコンサートが開催される。年末に第九を演奏するというのは、もともと第一次世界大戦後、平和を願うドイツのライプツィヒで始まった。いまでも伝統行事として、大晦日に第九の演奏会が開かれている。だが海外では、年末にはヘンデルの「メサイア」(ハレルヤコーラスで有名な曲)が一般で、第九を演奏することは少ない。ではなぜ、日本に第九演奏が定着したのか?これには諸説あるが、太平洋戦争でな亡くなった人々への鎮魂歌だったという意味が大きい。日本交響楽団(現NHK交響楽団)が1947年12月9、10、13日にレオニード・クロイツァー指揮(1884-1953)で3夜も第九の演奏会で成功を収めた。これが契機となって全国各地でも第九の演奏会が行われた。つまり、第九の演奏は貧乏な楽団員にとって年越しの餅代稼ぎとなった。第九は大合唱付きで、チケットがさばきやすかった。また12月はベートーヴェンの誕生月でもあることや、日本人に第九は絶大な人気があることがあげられる。

 

 

2019年11月20日 (水)

日本歌謡史男性アイドル編

   NHK「鶴瓶の家族に乾杯」久しぶりに西郷輝彦が登場していた。数年前に癌を患い痩せている。町の人も白髪の姿に驚いている様子。中年の女性が「西郷さんといえば歌手よりも時代劇のスターという感じです」と。この言葉を西郷自身はどう受け止めていたのか。歌手西郷輝彦は「星のフラメンコ」に代表されるが、歌謡史においては必ずしも高い評価がされていない。しかし私はとても重要な役割を果たした男性歌手だと思っている。60年代ポップス界は創成期であり、お手本はエルビス・プレスリーであった。カントリー・ウェスタンやロカビリー旋風が過ぎた後、揺り戻しに日本的な青春歌謡のブームがやってきた。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家の登場である。ところがビートルズ来日によってグループ・サウンズの大流行で橋幸夫と舟木一夫はピンチに立たされる。西郷はもともとブリスリーが好きで、ビートが利いたリズム・サウンドが得意だった。70年代に入ると「真夏のあらし」や「情熱」「略奪」「愛したいなら今」とロックポップ色を前面に出した曲をリリースする。西郷のポップス・サウンドはにしきのあきら、西城秀樹に継がれていく。西城の曲「情熱の嵐」も西郷の「真夏のあらし」と「情熱」を足して割ったタイトルだ。2000代になるとJポップ全盛となるが、流行とは不思議なもので、元型を創設したミュージシャンのことはすっかり忘れされるものらしい。またネット記事のほとんどは商業ベースであり、公平性・客観性・中立性が確保されず、正当な評価は生まれない。とくに音楽というジャンルは好みがあるので顕著である。歌の上手下手ではなく、歌謡史の流れでみると西郷輝彦という歌手はとても重要な位置づけをもつと考えている。僕の意見に賛同する人は少ないだろう。

 

 

2019年11月12日 (火)

苦海女神龍(アジア共通の歌謡曲)

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   「最愛」(1984)は柏原芳恵の21枚目のシングル。オリコンチャートでは最高位8位だった。芳恵のヒット曲は「春なのに」「ハローグッバイ」「花梨」など多数あるので、日本ではそれほど知られていないかもしれない。だが「最愛」はアジア圏ではとても広く知られた歌である。香港のアイドル歌手ヴィヴィアン・チョウ(周慧敏)が「最愛」をカバーして大ヒットしたからだ。上海でのコンサートでもラストに歌う曲でファンにはたまらない極上の一曲である周慧敏はスタイル抜群のとても美しい歌手である。河合奈保子の「ハーフムーン・セレナード」も中国では「月半小夜曲」として広く知られている。水越恵子の「Too Far Away」も日本ではそれほどヒットしなかったが、韓国ではジョンフンなどがカバーして今では名曲となっている。

 

蔡淳佳(ツァイ・チュンジア)はシンガポールの歌手だが、中国語で「涙そうそう」や「雪の華」をカバーしている。「療傷系紙片人」と呼ばれ、いやし系の紙のように痩せている美人という意味。

日本の歌曲はアジア各国で知られているというのは戦前からのことで、日帝植民地支配による影響が大きい。だがアジアの歌姫テレサ・テンが歌ってアジアで広まった日本の歌謡曲は多い。「グッド・バイ・マイ・ラブ」「長崎は今日も雨だった」「港町ブルース(苦海女神龍)」「襟裳岬」「北国の春」「昴」などなど。梓みちよの「渚のシャララ」などは本国日本よりも海外で知られている。

 

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Vivian Chow

2019年11月 4日 (月)

珈琲とバッハ

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2019年10月 8日 (火)

世界で最も売れた歌手

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  MBSテレビで「歴代歌王100」を放送していた。つまり日本で一番よく売れた男性歌手は誰か?五木ひろしでも森進一でもない。オリコンによると第1位は松本孝弘、稲葉浩志からなるロックユニットB'zである。だが結果になんとなくしっくりとこない。アメリカなら調査するまでもなくNo1はフランク・シナトラである。

   わが家で最初にレコードが来たのは、兄貴が買ってきたフランク・シナトラのEP盤4曲入りだった。はじめたった1枚きりのレコードなので何回もすりきれるほど聞いた。「夜のストレンジャー」「夜も昼も」「愛の泉」「慕情」。それから私はビング・クロスビーやナット・キング・コール、パット・ブーン、アンディ・ウィリアムなどのLPを集めはじめた。しかしネットで調べるとシナトラはランキング10位にも入らない。ビートルズ、エルヴィス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、ABBA、クイーン、マドンナ、エルトン・ジョン、レッド・ツェッペリン、A.R.、ラフマーン、ナナ・ムスクーリ、ティノ・ロッシ、フリオ・イグレシアス、アーラ・プガチョワ、マライア・キャリー、ビージーズ、ピンク・フロイド、AC/DC、セリーヌ・ディオン、ローリング・ストーンズ、ホイットニー・ヒューストン、エアロ・スミス、U2、スティーヴィー・ワンダー、ジュネシス、デヴィッド・ボウイ、バーバラ・ストライサンド、バックストリート・ホーイズ、ボン・ジョヴィ、ガース、ブルックス、シカゴ、ダイア・ストレイツ、ブルース・スプリングスティーン、イーグルス、ステイタス・クオー、二ール・ダイアモンド、バリー・ホワイト、ガンズ・アンド・ローゼス、ビリー・ジョエル、ボニーM、ブリトニー・スピアーズ、ブライアン・アダムズ、カーペンターズ、シェール、ティープ・パープル、デパッシュ・モード、ドリー・パート、フリードウッド・マック、ジョージ・マイケル、ジョニー・アリディ、ケニー・ロジャース、キッス、ライオネル・リッチー、ルチアーノ・パヴァロッティ、メタリカ、オリビア・ニュートン・ジョン、ポール・マッカートニー、フィル・コリンズ、スコーピオンズ、ロッド・スチュワート、ティナ・ターナー、ザ・フー、グロリア・エスティファン、レディー・ガガ、エミネム、アイアン・メイデン、B’z、ドアーズ、プリンス、リアーナ、カルロス・サンタナ、ヴァン・ヘイレン、ビヨンセ、ジャーニー、ユーリズミックス、ルイス・ミゲル、ユパック

これらは順位ではない。たえず新しいアーティストが生れる。しかし私はシナトラが一番と思っている。

   1942(年12月30日、ニューヨークのパラマウント劇場。フランク・シナトラはベニ―・グッドマンに紹介されてステージに立った。割れんばかりの歓声。グッドマンは思わずつぶやいた。「こりゃ、いったい、どうしたっていうんだ?」スマートな容姿、情感豊かな甘い歌声。その年にデビューを果たしていたシナトラはすでに女学生たちのアイドルだった。興奮のあまり失神するファンも現れた。とんとん拍子に人気を得たが、第二次大戦後、その人気は一時下降する。だが、1953年、映画「地上より永遠に」でアカデミー助演男優賞を受賞、みごとに返り咲いた。しかし、その華やかな名声の陰には、黒い噂が絶えなかった。ジョン・F・ケネディにモンローを紹介したのはシナトラだったため、ふたりの謎の死に関わったのではないかと囁かれ、映画「ゴッドファーザー」のジョニー役はシナトラがモデルともいわれている。その私生活の明暗も、歌声に反映されたのか、1969年、波瀾の人生を思うかのような名曲「マイウェイ」は空前の大ヒットとなる。「ザ・ヴォイス」と呼ばれ、歌手の第一人者はシナトラである。TBSチャンネル2で「音楽の巨人たち#1」1962年に初来日のときキャバレー・ミカドで公演したショーの模様が放送される。(5月14日)

 

 

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