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2020年6月 4日 (木)

天安門事件と鄧麗君

6_1r32c608_0  1989年のこの日、北京市で天安門事件が起こった。民主化を求めて数万人の市民が集結していた。軍が戦車・装甲車で出動し武力鎮圧し数千人の死傷者が出た。香港や台湾では激しい事件への抗議が起きたが、なかでも台湾出身のアジアの歌姫・テレサ・テン(鄧麗君)の行動が注目される。テレサが歌う「何日君再来」は1980年になって、中国大陸で音楽テープによって爆発的に広まっていた。共産党当局は彼女の歌を不健全な「黄色歌曲」(ピンク歌曲)として禁止していたが、人々はひそかにこの歌を聴いていた。これは1983年末まで続けられた。やがて鄧小平の開放政策への転換によって、テレサの歌も解除されたが、天安門事件によって北京コンサートは中止となる。テレサは天安門事件後、中国の自由と民主化を願っていた。「わたしはチャイニーズです」と述べた後、自由を語りはじめた。彼女の歌声は今も、台湾、香港、中国、韓国、フィリピン、日本、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ベトナム、タイなどアジア各地で流れている。20世紀最高のアジアの歌姫と呼ばれている。代表曲は日本語の「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」「別れの予感」のほか、中国語の代表曲「千言萬語」「甜蜜蜜」「小城故事」「月亮代表我的心」、アルバム「淡淡幽情」。アン・ルイスの「グッバイ・マイ・ラブ」のカバー曲「再見我的愛人」もヒットした。生前テレサはこんなことを言った「わたしには3つのことが出来なかったことがある。1つは高い学歴をもてなかった、1つは結婚できなかった、そして最後の1つは中国で歌えなかったこと。」1967年「鄧麗君之歌第一集」は二種類あり、「何日君再來」を改題した「幾時称回來」が入っているのと、「女鯨兒園」に差し替えたもの。「何日君再來」は文化統制下の台湾で禁歌だった。生涯、テレサは「何日君再來」を4回レコーディングしている。母が歌っていたというこの歌にテレサはどのような思いを重ねたのであろうか。(中薗英助「何日君再来物語」 河出書房新社) Dang Le Quan 6月4日

 

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2020年6月 3日 (水)

同じタイトルの曲

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   タイトルが同じでも曲が違う、いわゆる「同名異曲」の作品が数多くある。たとえば「卒業」というタイトルの曲は尾崎豊、斉藤由貴、菊池桃子、沢田聖子など40種以上もある。「夏の思い出」は中田喜直作曲、江間章子作詞の曲が有名だが、ケツメイシの曲もある。愛情物語(中島みゆき、原田知世)、愛の園(布施明、西城秀樹)、朝顔(コブクロ、レミオロメン)、雨(三善英史、森高千里、下成佐登子、ジリオラ・チンクエッティ、市川由衣)、異邦人(久保田早紀、さだまさし)、泣かないで(和田弘とマヒナスターズ、舘ひろし)、初恋(松山千春、村下孝蔵、斉藤由貴、舟木一夫、奥華子)。星野源主演のドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主題歌のタイトルが「恋」。布施明、松山千春、石川ひとみ。いずれも「恋」はヒットしている。

2020年5月25日 (月)

リリー・マルレーン

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    一般にはマレーネー・デートリッヒの持ち歌として知られている。1970年大阪万国博覧会でも彼女はこの歌を歌った。日本語訳詩では加藤登紀子、梓みちよが広く知られる。他に淡谷のり子、鮫島有美子、麻美れい、木の実ナナが歌っている。最近、キム・ヨンジャがステージでよく歌う。

 

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2020年5月24日 (日)

ジョン・ブラウンの遺体は墓の下

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ニューヨーク州ノース・エルバにあるジョン・ブラウン(奴隷解放運動家)の墓

 

  南北戦争下、リンカンが招集した北軍の志願兵によって編成された部隊のひとつに「ボストン第2騎兵隊部隊」があった。その中にジョン・ブラウンという名前の3等軍曹がいた。このジョン・ブラウンは2年前に、絞首刑に処された奴隷解放廃止運動家と偶然に同姓同名だったが、2人は全くの赤の他人だった。ある日、ジョン・ブラウンの部隊は瓦礫除去の作業をしていたが、その作業中にある兵士が「おお兄弟達よ、我らに会わないか」(1856年作)のメロディーを口ずさんでいた。それを耳にしたジョン・ブラウンの同僚が即興にある歌詞をつけて歌いはじめた。Jhon Brown's  body lies a moul dering in the grave~♪ ジョン・ブラウンの遺体は墓の下~。この替え歌はジョン・ブラウン3等軍曹をからかっているのだが、他の同僚も面白がってさらに、His soul's marching on!彼の魂は行進し続ける、と歌詞を続け、Jhon Brown's body の1番の歌詞が完成した。この替え歌は、さらに他の部隊に広められ人気を博した。数年後、ジュリア・ウォード・ハウによって修正され「リパブリック讃歌」(1862年)として発表されるや、直ちに北軍兵士の間で最も人気の高い歌となった。やがて世界中で様々な替歌がつくられる。「おたまじゃくしはカエルの子」や「「ごんべさんの赤ちゃん」「ともだち讃歌」。CMソング「ヨドバシカメラの歌」もその一つ。

2020年5月16日 (土)

文部省唱歌・田道間守の歌

1 香りも高い橘を

 

  積んだお船が今帰る

 

  君の仰せをかしこみて

 

  万里の海をまっしぐら

 

  今帰る 田道間守 田道間

 

2 おはさぬ君のみささぎに

 

  泣いて帰らぬ真心よ

 

  遠い国から積んで来た

 

  花橘の香と共に

 

  名は香る 田道間守 田道間守

 

    田道間守(たじまもり)は、古事記では多遅麻毛理、日本書紀では田道間守と表記される。垂仁天皇の命をうけて、不老不死の霊果を求めて海外に渡った。常世の国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を10年の歳月を要して持ち帰るが、天皇はすでにこの世におられなかった。田道間守は悲しみのあまり、天皇の御陵の前で非時香菓を献じて、号泣して殉死した。その跡に生えてきた樹が橘(ミカン)であったことから、明治40年に柑橘や菓子業の祖神として、祀られるようになった。(参考:三好右京『菓祖田道間守公』昭和4年)

2020年5月 7日 (木)

なぜ年末に第九が演奏されるのか?

 1824年5月7日、ウィーンのケルントナートア劇場においてベートーヴェンの交響曲第9番がはじめて演奏された。ベートーベン自身が指揮した。1824年5月7日のことである。合唱曲「歓喜に寄す」が入った第九は、今日、世界中で平和と国際協調のための賛歌とされ、もっとも有名で人気のあるクラシック作品のひとつである。ところで日本では、第九は年末の風物詩といわれ、12月になると毎年全国各地でコンサートが開催される。年末に第九を演奏するというのは、もともと第一次世界大戦後、平和を願うドイツのライプツィヒで始まった。いまでも伝統行事として、大晦日に第九の演奏会が開かれている。だが海外では、年末にはヘンデルの「メサイア」(ハレルヤコーラスで有名な曲)が一般で、第九を演奏することは少ない。ではなぜ、日本に第九演奏が定着したのか?これには諸説あるが、太平洋戦争でな亡くなった人々への鎮魂歌だったという意味が大きい。日本交響楽団(現NHK交響楽団)が1947年12月9、10、13日にレオニード・クロイツァー指揮(1884-1953)で3夜も第九の演奏会で成功を収めた。これが契機となって全国各地でも第九の演奏会が行われた。つまり、第九の演奏は貧乏な楽団員にとって年越しの餅代稼ぎとなった。第九は大合唱付きで、チケットがさばきやすかった。また12月はベートーヴェンの誕生月でもあることや、日本人に第九は絶大な人気があることがあげられる。

 

 

2020年4月25日 (土)

近頃聞いた女性歌手100人の唄

朝花美穂「出世街道旅がらす」
浅田あつこ「米原の雪」
足立佳奈「ひとりよがり」
池田エライザ「カナリア」
石川優子「レット・ミー・フライ」
五輪真弓「さよならだけは言わないで」
Uru「あなたがいることで」
柏原芳恵「古都の恋めぐり」
上白石萌音「木蘭の涙」
小柳ルミ子「逢いたくて北国へ」
昆夏美「On My Own」
崎島じゅん「ずっと愛してる」
城南海「リフレクション」
田村芽実「いちじく」
西田あい「My Story」
築地容子「ジャニー・ギター」
花井美春「おんなの道は星の道」
広田ひさ子「夜の虫」
藤井香愛「その気もないくせに」
マルシア「ALEGRIA(アレグリア)」
森山愛子「尾曳の渡し」
山崎エリイ「聖少女領域」

2020年4月19日 (日)

ムード音楽のはじまり

   真偽のほどはわかりませんが、世界のどこかで四六時中流れている曲は、タンゴの名曲「ラ・クンパルシータ」といわれています。たしかに「ベッサメ・ムーチョ」や「マドンナの宝石」など南米ラテン音楽はダンスによし、ムードミュージックによし、何度聞いても飽きないのかもしれません。ムード音楽の流行はダンスをするのに必要だったから。いつしか蓄音機をみなが所有するようになると、ダンスをしないで自宅で夜に静かに聞いて眠れような音楽が求められた。

  さてムード音楽のはじまりはいつ頃からか?1940年代のジャズを中心とするオーケストラ・ビッグバンドの隆盛があけがられるが、今日のBGMに使われる都会的に洗練されたムード音楽が登場するのは1950年代になってからのことである。機械的にはLPレコードの普及が挙げられる。次に「枯葉」「セシボン」「ラメール」「ばら色の人生」などのシャンソンがアメリカで大流行したことがあげられる。第三にムード音楽の発明者はジャッキー・グリーソンだといわれる。彼はコメディアンだが、1952年TV番組「ジャッキー・グリーソン・ショー」で自らバンドを作り数多くのLPを発売してムード音楽というジャンルを確立させた。第四にムード音楽はクラックに比べ軽音楽といわれ、エレベーター・ミュージックともいわれる。全世界のデパートやスーパー・マーケットなどで一日中BGMとして流されることから、揶揄してつけられた言葉である。

ドイツ映画「撃墜王アフリカの星」(1957)の主題曲「アフリカの星のボレロ」が聞きたくなった。オリジナルはエルヴィン・レーン楽団だが、フイルム・シンフォニック・オーケストラという演奏のレコードから誰かが投稿している。聞くと懐かしく不思議な感じ。戦争映画なのにとても美しくてやさしいメロディー。サントラ盤のエルヴィン・レーン楽団もアップされている。

「春の如くに」ミュージカル映画「ステート・フェア」(1945)で歌われた一曲。It Might As Well Be Spring

 

こんどは「ラントコンサート」で甘くひたる。なんと映画の予告編。モン・サン・ミッシェルの景色や日本語のナレーションまでついている。
   アントニオ・カルロス・ジョビンの「オルフェの歌」(映画「黒いオルフェ」主題歌)。ワンパターンでも「白い恋人たち」「ガラスの部屋」「ブーべの恋人」「さらば夏の日」は何回聴いても心地よい。ジャネット・アグランを何十年ぶりかで見る。イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」なんと音がでない。著作権保護のためカットされたている。しかし誰かがまたアップしている。イタチごっこは当分続く。いずれは多くの作品も聞けなくなるかもしれない。いまのうちいっぱい見ておこう。
   「ムーン・リバー」(映画「ティファニーで朝食を」)を聴く。「酒とバラの日々」などスタンダードな曲は、ヘンリー・マンシーニはもちろん、アンディ・ウィリアムズ、ジュリー・ロンドンなど聞き比べできる。サム・テイラーのサックスも懐かしい。B・J・トーマスの「雨にぬれても」(映画「明日に向かって撃て」)
  シャンソンの名曲「枯葉」も映画「夜の門」(1946年)の主題歌だった。ドリス・デイ「君を想いて」は映画「情熱の狂想曲」(1950年)の挿入歌だが、元は1934年アル・ボウリーが歌ってヒットした。

 

ムードサックスの王者として知られるサム・テイラーもムード音楽からジャズ・スタンダード、R&B、映画音楽と幅広い。「ハーレム・ノクターン」「ダニー・ボーイ」「ミスティ」「夜霧のしのび逢い」「枯葉」「ムーングロウ」「ジャニー・ギター」。ほかにボビー・ハケット。

 

  世界にあって日本にはないもの。それはジャズのビッグバンドだ。グレン・ミラーやポール・ホワイトマン、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、アーティー・ショー、オリバー・ネルソン、ウディー・ハーマン、バディ・リッチ。トミー・ドーシーの「センチになって」が一番すきたが、もともとはジミー・ドーシーと兄弟バンドで1934年の曲。戦後もいろいろなバンドが演奏しているが、ベルト・ケンプフェルト楽団で聴いた。

 

「ラ・クンパルシータ」 アルフレッド・ハウゼ楽団

 

「マドンナの宝石」 マランド楽団

 

「引き潮」 フランク・チャックスフィールド楽団

 

「ミスティ」 ジョージ・メラクリーノ楽団

 

「黒い瞳のナタリー」 フィリオ・イグレシアス

 

「ムーン・リヴァー」 ヒズ・ボ―ウェン Hill Bowen and his Orchstra

 

「可愛い花」 ピーナッツ・ハッコー Peanats Hucko

 

「一人ぼっちの浜辺(夜霧のしのび逢い)」 ロス・マヤス楽団

 

「ブルーレディに紅いバラ」 ビクター・シルベスター楽団

 

「友情ある説得」 ジョー・ロス楽団

 

「さらばベルリンの灯」 ジョン・バリーオーケストラ

 

「悲しみは星影と共に」 ブルーノ・ニコライオーケストラ

 

「慕情」 soundtrack suite アルフレッド・ニューマン

 

「Never Till Now」(愛情の花咲く樹)  ゴードン・マクレイ

 

「春のごとく」(ステート・フェア) ブランノン・ストリングス・オーケストラ

 

「モーニング・アフター」(ポセイドン・アドベンチャー) モーリン・マクガバン

 

「チコと鮫」 フランチェスコ・デ・マージ

 

「忘れじの面影(She)」(ノッチング・ヒルの恋人) エルヴィス・コステロ

 

「スピーク・ロウ」(ヴィーナスの接吻) テッド・ヒース・オーケストラ

 

「真夜中のブルース」(朝な夕なに) ベルト・ケンプフェルト

 

「炎のランナー」 ヴァンゲルス

 

「ボルサリーノのテーマ」 クロード・ボラン

 

「レット・イット・ゴー」(アナと雪の女王) イディナ・メンゼル

 

「ハイリリー・ハイ・ロー」(リリー) ダイナ・ショア

 

「暗いはしけ」(過去を持つ愛情) アマリア・ロドリゲス

 

「ウォルシング・マチルダ」(渚にて) ジミー・ロジャース

 

シャレード フランク・チャックフィールド

 

情事のテーマ モーリス・ルクレール楽団

誘惑されて棄てられて ピノ・フェルラーラ

 

刑事 死ぬまで愛して アリダ・ケッり

 

禁じられた恋の島 エリオ・ブルーノ楽団

 

太陽の誘惑 ニコ・フィデシコ

 

女と男のいる舗道 ロベール・モノ―楽団

 

「ステラに捧げるコンチェルト」「st.Michel」ステルヴィオ・チプリアーニ(ラスト・コンサート)

 

サークル・ゲーム(いちご白書)

 

地下室のメロディ ミッシェル・マーニュ

 

太陽はひとりぼっち コレット・テンピア楽団

 

荒野の三軍曹 アル・カイオラ楽団

 

リーザの恋人 モーリス・ルクレール楽団

 

アルディラ(恋愛専科) エミリオ・ペリコーリ

 

夢のカルカッタ ローレンス・ウェルク楽団

 

唄う風 ラルフ・フラナガン楽団

 

ブルー・ベルベット レイ・アンソニー楽団

 

引き潮 ジョニー・ダグラス楽団

 

サンセット77  ウォーレン・バーカー

 

エデンの少女 レーモン・ルフェーブル

 

ロワールの星 カラべリときらめくストリングス

 

アローン・アゲイン ピーター・ネロ

 

街角のカフェ  フランク・ミルズ

 

今宵のあなた モートン・グールド

 

セプテンバー・ソング ジャンゴ・ラインハルト

 

酒とバラの日々 ヘンリー・マンシーニ 1962

 

   ムード音楽のオーケストラは、パーシー・フェイス、ポール・モーリア、フランク・プールセル、ビリー・ボーン、マントヴァーニー、ジョージ・メラックリーノ、モートン・グールド、ポール・ウエストン、ローレンス・ウェルク、ジャッキー・グリーソン、フランク・チャックスフィールド、レイ・コニフ、ジェームズ・ラスト、101ストリングス・オーケストラ、アンドレ・コステラネッッ、ネルソン・リドル、ユーゴ・ウィンターハルタ―楽団、ファン・ダリエンソ楽団、ラモン・マルケス楽団、スタンリー・ブラック楽団、ファウスト・パペッティ楽団、ウーゴ・ブランコ楽団、ジョージ・メラクリーノ楽団と世界にはいろいろあるが、最近は図書館でレイモン・ルフェーブルの二枚組CDを借りて聴いている。「シバの女王」「さよなら、マリンブルーの夜」「エマニュエル夫人」「オペラ座の怪人」「メモリー」「オン・マイ・オウン(「レ・ミゼラブル」より)」など。Elivin Rane Orchester、Bert Kaempfert、Morton Gould、Geoff Love his Orchestra(ジェフ・ラブ&ヒズ・オーケストラ)

 

 

 

 

2020年4月 5日 (日)

「露営の歌」古関裕而

20091005_2867431  連続テレビ小説「エール」。作曲家・古関裕而がモデルのドラマで今夜の「うたコン」は古関裕而特集。「栄冠は君に輝く」や「オリンピック・マーチ」「大阪タイガースの歌」などスポーツ関係の名曲が多いと解説していた。だが実は軍歌や戦時歌謡の作品に名曲が多い。「暁に祈る」「海の進軍」「若鷲の歌」「ラバウル海軍航空隊」「嗚呼神風特別航空隊」などなど。とくに代表作は「露営の歌」である。「♪ 天皇陛下万歳と残した声が忘らりょか」古関の曲は時を超えて永遠に残る力がみなぎっている。現在、テレビなどで軍歌を流すことは憚られるらしい。昭和38年から40年代半ばころまでは懐メロブームが起こり、軍歌もしばしば放送されていた。ドラマの中での軍歌の扱いに注目したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年3月22日 (日)

演歌は滅亡するのか?

  日本の音楽のジャンルは一般に国内ロック・ポップスと歌謡曲・演歌に分けられる。大みそか恒例のNHK紅白歌合戦は、ここ数年、歌謡曲・演歌に大ヒット曲がなく、J・POP中心の番組構成になってきている。若者はいう「JAZZや演歌は今どきオワコンである!」と。しかしAKBやジャニーズばかりのグループ&ダンス歌謡もつまらない。このような状況はお隣の韓国も似ているが、韓国にはトロットといわれる大衆歌謡がある。「トロット王子」といわれるパク・ヒョンビンやチャーミングな女性歌手ホン・ジニョンが人気があり、いまでもトロットの人気は衰えをしらない。

  さて、ここで問題です。日本で初めて「歌謡曲」と名づけられた曲は?

A 大正3年の「カチューシャの唄」

B 大正14年の「夏が来たかと」

C 昭和4年の「東京行進曲」

 「カチューシャの唄」は爆発的な流行を示し、いわゆる大衆流行歌謡のルーツになっているが、当時は「流行唄」「流行小唄」などと呼ばれていた。「歌謡曲」ということばがはじめて用いられたのは、大正14年7月12日に東京放送局の本放送が始まってからであり、その直後の7月27日に「夏が来たかと」など4曲(北原白秋作詞・町田嘉章作曲)が放送されたとき、町田嘉章がこれをはじめて歌謡曲と名づけたことから始まっている。昭和4年に西条八十作詞・中山晋平作曲・佐藤千夜子の「東京行進曲」がレコードになって、当時25 万枚という売行きを示したが、このころになると、この種の歌を「流行歌」というようになり、このあとぞくぞくと流行歌が大衆のあいだにうたよれるようになる。戦後になると、NHKなどの放送で、この種の流行歌をすべて「歌謡曲」というようになって、流行歌ということばの影がうすくなっていった。昭和30年代、美空ひばりや三波春夫などの活躍で歌謡曲の全盛時代を迎えたが、海外のヒット曲を日本語でカバーする和製ポップスも出現した。昭和40年代ビートルズの来日以降、GSブームやフォーク、ニューミュージックとさまざまなジャンルが区分されるようになり、旧来の歌謡曲は次第に「怨歌」「演歌」ということばが用いられるようになった。カラオケブームで昭和末期まで演歌のヒット曲は生まれたが、売り上げでは次第に衰退する。平成になると旧来の和製ポップスが「Jポップス」と呼んで若者たちに支持されるようになった。しかし新時代を迎え、ふたたび昭和歌謡の名曲をカバーする動きもみられる。また若者たちが好むアニメに演歌好きな女子が登場することもある。例えば村上巴(声:花井美春)「おんなの道は星の道」など。

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