無料ブログはココログ

2018年12月17日 (月)

シューベルト「未完成」

Img_0006_2
「シューベルトと婚約者テレーゼ・グローヴ」 オットー・ノーヴァク(1874-1950)の絵

 青春の夢と希望は未完のまま美しく閉じられる。

   1822年秋、25歳の青年フランツ・シューベルト(1797-1828)は「交響曲第8番ロ短調」を書き上げた。この曲が「未完成」と呼ばれるのは、当時の交響曲がふつう第4楽章だったのに、シューベルトは第3楽章を書きはじめたところで作曲を中止してしまい、2度と取り上げなかったためである。理由はわからない。往年の映画「未完成交響楽」(1933年)を見た人は「我が恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし」と失恋のためと理解したがるが、もちろん後世のフィクションである。実際にはテレーゼ・グローヴという歌の上手い女性がいたそうだが、3年後にパン屋に嫁いでしまった。「未完成」は、曲の外観が未完成であるがゆえに、シューベルトの生前にはついに演奏されなかった。シューベルトの親しい友人だったヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーが「未完成」の自筆楽譜のある場所をウィーンの高名な指揮者ヨハン・ヘルベックに教え、ヘルベックの尽力で自筆楽譜は世に出、かつウィーンで初演されたのだった。初演は1865年12月17日、作曲者の死後37年、作曲から実に43年間が経過していた。この日は奇しくもベートーベンの誕生日。生前、栄光が与えられなかったという点では、シューベルトはベートーベン以上に悲劇の天才であった。

2018年12月12日 (水)

謡「鶴亀」

能の音楽は、大別して「謡(うたい)」という声楽と、「囃子」という能楽で構成されています。能は歌舞劇ですので、物語に沿って舞台が進行します。観世流「鶴亀」。
庭の砂は金銀の。庭の砂は金銀の。珠を連ねて敷妙乃。五百里の錦や瑠璃の樞。硨磲の。行桁瑪瑙の階。池の汀乃鶴亀は。蓬莱山も外ならず。君乃恵みぞ。ありがたき君の恵みぞありがたき。

2018年12月 9日 (日)

歌謡曲・演歌とトロット

   大みそかのNHK紅白歌合戦に当選・落選した歌手の話題になるシーズン。ここ数年、演歌にヒットがなく、J・POP中心の番組構成になってきている。しかしAKBやジャニーズばかりのグループ歌謡もつまらない。このような状況はお隣の韓国も似ているが、韓国にはトロットといわれる大衆歌謡がある。「トロット王子」といわれるパク・ヒョンビンやチャーミングな女性歌手ホン・ジニョンが人気があり、いまでもトロットの人気は衰えをしらない。

  さて、ここで問題です。日本で初めて「歌謡曲」と名づけられた曲は?

A 大正3年の「カチューシャの唄」

B 大正14年の「夏が来たかと」

C 昭和4年の「東京行進曲」

 「カチューシャの唄」は爆発的な流行を示し、いわゆる大衆流行歌謡のルーツになっているが、当時は「流行唄」「流行小唄」などと呼ばれていた。「歌謡曲」ということばがはじめて用いられたのは、大正14年7月12日に東京放送局の本放送が始まってからであり、その直後の7月27日に「夏が来たかと」など4曲(北原白秋作詞・町田嘉章作曲)が放送されたとき、町田嘉章がこれをはじめて歌謡曲と名づけたことから始まっている。昭和4年に西条八十作詞・中山晋平作曲・佐藤千夜子の「東京行進曲」がレコードになって、当時25 万枚という売行きを示したが、このころになると、この種の歌を「流行歌」というようになり、このあとぞくぞくと流行歌が大衆のあいだにうたよれるようになる。戦後になると、NHKなどの放送で、この種の流行歌をすべて「歌謡曲」というようになって、流行歌ということばの影がうすくなっていった。昭和30年代、美空ひばりや三波春夫などの活躍で歌謡曲の全盛時代を迎えたが、海外のヒット曲を日本語でカバーする和製ポップスも出現した。昭和40年代ビートルズの来日以降、GSブームやフォーク、ニューミュージックとさまざまなジャンルが区分されるようになり、旧来の歌謡曲は次第に「怨歌」「演歌」ということばが用いられるようになった。カラオケブームで昭和末期まで演歌のヒット曲は生まれたが、売り上げでは次第に衰退する。平成になると旧来の和製ポップスが「Jポップス」と呼んで若者たちに支持されるようになった。しかし新時代を迎え、ふたたび昭和歌謡の名曲をカバーする動きもみられる。8日に「日本作詞大賞」福田こうへい(天竜流し)が発表され、30日のレコード大賞に向けた歌謡レースが始まる。Park Hyun Bin、Hong Jin Young

2018年のヒット曲

U.S.A.  DA PAMP

Lemon 米津玄師

オールドファッション back number

プロローグ Uru

今夜このまま あいみょん

half of me   平井堅

Gifts   Superfly

プロポーズ  純烈

2018年12月 8日 (土)

なぜ年末に第九が演奏されるのか?

  ベートーベンの第九は年末の風物詩といわれ、12月になると毎年全国各地でコンサートが開催される。年末に第九を演奏するというのは、もともと第一次世界大戦後、平和を願うドイツのライプツィヒで始まった。いまでも伝統行事として、大晦日に第九の演奏会が開かれている。だが海外では、年末にはヘンデルの「メサイア」(ハレルヤコーラスで有名な曲)が一般で、第九を演奏することは少ない。ではなぜ、日本に第九演奏が定着したのか?これには諸説あるが、太平洋戦争でな亡くなった人々への鎮魂歌だったという意味が大きい。日本交響楽団(現NHK交響楽団)が1947年12月9、10、13日にレオニード・クロイツァー指揮(1884-1953)で3夜も第九の演奏会で成功を収めた。これが契機となって全国各地でも第九の演奏会が行われた。つまり、第九の演奏は貧乏な楽団員にとって年越しの餅代稼ぎとなった。第九は大合唱付きで、チケットがさばきやすかった。また12月はベートーベンの誕生月でもあることや、日本人に第九は絶大な人気があることがあげられる。

2018年12月 5日 (水)

モーツァルト忌

Mozart   ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ちなみに「ヴ」というカタカナはもともとなかったが、福沢諭吉が外国語を翻訳するので作ったとされる。1756年、オーストリアのザルツブルクで生まれたモーツァルトは25歳のときに故郷を捨ててウィーンに来た。そして彼は経済的には苦しかったが、独立した音楽家として自由を勝ちとることに成功した作曲家である。歌劇「フィガロの結婚」「魔笛」にはフランス革命の自由と平等の精神が盛り込まれている。モーツァルトには時代を見る目があった。1791年12月5日未明チフスのため死亡。6日の葬儀は数人の弟子が集まっただけで、折からの雷雨のため誰1人付き添わずにウィーンの共同墓地に葬られたため、現在も遺骨の所在は不明である。その急死について、当時から、彼の才能を妬んだイタリア人の宮廷楽士サリエリによる毒殺との噂もでたが、必ずしも信頼できず、やはりチフスが原因であったであろう。

  ところで、「♪眠れよい子よ、庭や牧場に~」で知られるモーツァルトの子守歌。長い間、モーツアルトの作曲といわれていたが、実はベルハルト・フリースの作曲である。作詞はフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ゴッター。(Mozart)

2018年11月21日 (水)

ワーグナーの「結婚行進曲」

   結婚式の披露宴で、新郎新婦の登場で必ずといってよいほど流れるワーグナーの「結婚行進曲」。しかしヨーロッパでは不吉な曲として結婚式で使われることはない。これはワーグナーの歌劇「ローエングリン」第3幕の中で演奏される曲「婚礼の合唱」で、ローエングリンとエルザは結婚するが別れてしまう悲しい内容である。

英国人はクリスマスソングが嫌い?

Frankbing003_zpsa7e5b6c6  もう街中でワム!のヒット曲「ラスト・クリスマス」を聞いた。本年のクリスマスソングの初観測。オーストラリアのラジオ局が「ラスト・クリスマス」を24回にわたって立て続けに放送し、リスナーたちから抗議が殺到したという。また英国人の25%がクリスマス音楽の繰り返しが心の健康に悪影響を及ぼしたり、もう聞き飽きてうんざりだという声がある。一方で、クリスマスソングがBGMで流れるとウキウキして買い物をしたくなるという効果もあるらしい。やはり世界中で人々はクリスマス・ソングを聴くことを楽しみにしている人のほうが多い。最近の人気曲は松任谷由美「恋人がサンタクロース」、山下達郎「クリスマス・イブ」、B'zの「いつかのメリー・クリスマス」、稲垣潤一「クリスマスキャロルの頃には」、辛島美登里「サイレント・イヴ」などいろいろある。私にとってのクリスマスソングは「ホワイト・クリスマス」である。極め付きはやはりビング・クロスビーの歌唱。YouTubeで探すと「フランク・シナトラ・ショー」(1957年)で男2人の歌唱が聞ける。ゲストのビングが自分のレコードとピザを持ってシナトラの部屋を訪問する。「赤鼻のトナカイ」(ビング)、「サンタが町にやってくる」(シナトラ)、「クリスマス・ソング」(2人で)を歌ったあと、ビング・クロスビーが窓の外の雪景色を眺めながら、「ホワイト・クリスマス」を静かに歌いあげる。

   一般に「三大クリスマス・ソング」といえば、「ジングル・ベル」「サンタが街にやってくる」「赤鼻のトナカイ」である。このほかに「ザ・クリスマスソング」「ウィンター・ワンダーランド」「ブルー・クリスマス」などがポピュラーである。1970年代以降の新しいクリスマスソングではジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」、マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」などがある。あなたにとっての思い出のクリスマスソングは何でしょうか。

2018年11月20日 (火)

イタリアの「黒猫のタンゴ」

300pxvolevo_un_gatto_nero 黒いネコといえば、日本では不吉の象徴だが、ヨーロッパでは白色のネコが不吉とされる。白には幽霊のイメージがある。ところで黒ネコといえば皆川おさむが1969年に歌いシングル260万枚の大ヒット曲「黒猫のタンゴ」。原曲はイタリアの童謡でヴィンチェンツァ・パストレッリちゃん(当時4歳)が歌いレコード900万枚を売り上げた。原題「ヴェルヴォ・アン・ガット・ネロ(黒い猫がほしかった)」というフランチェスコ・パガーノの曲である。歳月は流れ、彼女は2007年に売春斡旋と麻薬取引で逮捕されるというニュースもあった。皆川おさむには「ミャゴラ猫の初恋」(1970)という歌もある。幼稚園のお遊戯会でいまでも歌われるらしい。ミャゴラとは何か。ミャゴラという名前の猫がネズミに恋する話らしいが、やはりイタリア語と関係するらしい。猫の鳴き声は国によって多少ちがうが大体似ている。英語はmiaw、ドイツ語はmiaow、そしてイタリア語はmiao。「ミャオ」と発音するのだろう。動詞にミャゴラーレmiagolareがあって、「猫がミャーゴと鳴く」という意味。(Volevo un gatto nero,Vincenza Pastorelli,Francesco Pagano)

2018年11月12日 (月)

太陽のラテン音楽

ラテン音楽はあらゆる人々をとりこにしてしまう、なんともいえない不思議な魅力を持っています。なぜ、これほどまでにラテン音楽が愛されているのでしようか。ラテン音楽を一口に説明することはむずかしいことです。なぜなら、中南米はあまりにも広大であり、いくつもの国が、それぞれのお国ぶりの音楽を持っいるからです。ラテン・アメリカが世界史に登場するのは、15世紀末にコロンブスがこの新大陸を発見してからのことです。その頃、メキシコ以南には約1500万人のインディオが住んでいたと推定されています。名高いインカ帝国において、歌と踊りがつくられました。そして征服者であるスペイン人がはなやかなスペインの歌や踊りを新大陸にうえつけ、自分たちの民族楽器であるギターを普及させました。こうしてスペイン人とインディオの音楽がまざり合い、初めてラテン音楽が出来上がりました。こうしたラテン音楽を、さまざまなリズムにのせてはなやかにしたのは、アフリカから奴隷として輸入された黒人たちでした。彼らは鋭いリズム感覚の持ち主で、数多くのリズム楽器を工夫し、多彩なリズムを発展させました。ラテン音楽の中でもっとも早くから世界に知られたのは、19世紀の中頃、キューバで大流行したハバネラです。これはスペイン系の優雅な舞曲で、黒人のリズムではありません。その後、黒人のリズムは、すこしずつラテン音楽の底にしみこんでいき、1930年代になって、ルンバやコンガなどの黒人系舞曲が、社交ダンスにとり入れられるようになりました。第一次大戦後、ラテン音楽がパリを初めヨーロッパで受け入れられるようになりました。「南京豆売り」(1927年)はリタ・モンタネルが歌い、スタン・ケントン楽団、ザビア・クガートやペレス・プラードらがカバーしてラテン音楽のスタンダードになりました。1950年代末にはブラジルのサンバからボサノバが生まれました。

さてラテン音楽を分類すると、メキシコの音楽、キューバを中心としたルンバ、ブラジルのボサノバ、アルゼンチンのタンゴ。アンデス・アルゼンチン・パラグアイ・チリなど諸国の民族音楽をポピュラー化したフォルクローレなどがあります。

代表的なラテン音楽

べサメ・ムーチョ トリオ・ロス・パンチョス

ラ・クンパルシータ ファン・ダリエンソ楽団

マンボNo.5 ペレス・プラード

ブラジルの水彩画  ペドロ・ミランダ

パリのカナロ フランシスコ・カナロ

カプリ海 ザビア・クガート

そよ風と私 スタンリー・ブラック楽団

イパネマの娘 アストラッド・ジルベルト

アマポーラ ジミー・ドーシー楽団

2018年11月11日 (日)

東京ソング

Img_943571_34041895_0    東京を題材にした歌謡曲は佐藤千夜子の「東京行進曲」や小唄勝太郎・三島一声の「東京音頭」をはじめとして無数にある。某テレビ局が調査したところ、1271曲あるという。

    戦後は笠置シズ子「東京ブギウギ」、灰田勝彦「東京の屋根の下」、フランク永井「有楽町で逢いましょう」「西銀座駅前」。しかし東京ご当地ソングが増加するのは1960年代になってからである。東京オリンピック前後の東京は好景気に沸き、繁華街が大盛況となり、東京は不夜城となっていった。石原裕次郎・牧村旬子「銀座の恋の物語」、新川二郎「東京の灯よいつまでも」、ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」、松尾和子「グッド・ナイト東京」、坂本九「サヨナラ東京」、井沢八郎「ああ上野駅」、西田佐知子「赤坂の夜は更けて」、日野てる子・高城丈二「青山の灯も消えて」、三田明「アイビー東京」、黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」、和泉雅子・山内賢「二人の銀座」、大木英夫・津山洋子「新宿そだち」、藤圭子「新宿の女」、青江三奈「池袋の夜」 etc.このように東京を題材としたヒット曲は無数にある。私の好きな東京ソングはピチカート・ファイブ「トーキョーは夜の七時」、裕木奈江の「冬の東京」(1994)。ズバリ「東京」というシンプルなタイトルは、やしきたかじん、マイペース、juju、やケツメイシ、手嶌葵の曲がある。

  海外をみてもロンドンとかパリとか単に都市名のみの曲はあまり見当たらない。「モスクワの夜は更けて」「とんでイスタンブール」とか「想い出のサンフランシスコ」とか形容詞がつくものである。稀少例としてファウスト・チリアーノの「ローマ」(1972)がある。ローマの橋をテーマにした佳曲。彼は特捜最前線のエンディング「私だけの十字架」で日本でもお馴染みの歌手であるが本国でも有名な一流歌手だ。

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31