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2008年6月29日 (日)

ハイライトよ永遠に

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男なら夢を見る いつも遠いとこを

煙草屋のおばあちゃん お世話になりました

お金がない時も あとでいいよと言って

ハイライトをくれた お世話になりました

 井上順が歌っていた「お世話になりました」(作詞・山上路夫、作曲・筒美京平)。むかしの歌謡曲は、平易で誰でもが口ずさめて、歌いやすいのがいい。そして「ハイライト」というタバコの銘柄に懐かしさをおぼえる。ケペルはタバコを吸わない。かつて成人したとき、ライターを買って、タバコも吸っていた時期はある。ハイライトだった。セブンスターは吸ったことはない。若き日の夏木陽介のハイライトの宣伝ポスター(昭和36年)を見ると、まさにハイライトは高度経済成長を支える企業戦士のベスト・パートナーだった。昭和35年発売当時の値段が70円、昭和43年に80円で、現在も290円で販売されている。ところが、タバコ1箱の値段を現在の3倍以上の1000円に値上げしようとする動きがあるそうだ。実に嫌な話だ。税収が足りないから、タバコというたった一種類の嗜好品に税収を補わせる案は、なるほどタバコを吸わない人たちからは大歓迎されるにきまっている。そして「タバコは有害である」「タバコは健康に悪い」という「健康の時代」の大合唱によって、数百年の歴史ある嗜好文化を学ぶことなく、全体を一つの方向に決めつけてしまうことに危険性を感じてしまう。なぜ人は、たばこを吸うのか。精神分析学の創始者であるフロイトによると、口唇要求(幼児の指しゃぶり)のあらわれであるという。喫煙行為がいつしか社会悪に貶められてしまったことに、むしろ現代の病巣をみるような気がする。

2008年6月12日 (木)

まぼろしの歌手・作曲家・江文也

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    江文也(1910-1983)。本名、江文彬。明治43年6月11日、日本植民地下の台湾、台北近郊の小基隆(三芝郷)で生まれた。大正12年に来日し、東京音楽学校で学ぶ。昭和7年3月、「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」で歌手デビューする。江は音楽コンクールにも出場したが、ライバルは東海林太郎だった。作曲家としては昭和11年のベルリンオリンピック音楽部門で「台湾の舞曲」で第4位(等外佳作)に入賞した。江文也はすぐれた音楽家であったが、戦後も文化大革命などなにかと悲運がつきまとった生涯である。1999年には井田敏「まぼろしの五線譜」として江文也の伝記を出版したが、銅製の参加メダルを第3位の銅メダルと誤認したため絶版となった。最近、平凡社から東洋文庫の一冊として「上代支那正楽考 孔子の音楽論」という珍しい本が刊行された。著者はなんと、「まぼろしの五線譜」の江文也である。今回はまぼしろにならねばいい、と願うばかりである。

2008年5月10日 (土)

テネシー・ワルツ

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美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミの三人娘

   久保智恵美(後の江利チエミ)は、駐留軍のキャンプ巡りでドリス・デイやローズマリー・クルーニーの持ち歌を歌って「エリー」の愛称で人気があった。ある日、進駐軍兵士ケネス・ボイドからパティ・ペイジの新曲「テネシー・ワルツ」を教えられる。だがレコード各社のテストを受けたが次々に落ちる。昭和26年、キングレコードのディレクター和田寿三や牧野剛は「テネシー・ワルツ」を聞いて衝撃を感じた。そのとき米軍キャンプショーで「テネシー・ワルツ」をレパートリーにしていたチエミは、すでに独自の日本語で歌う試みをしていた。その詞を下敷きにして、和田が音羽たかし、というペンネームで日本語歌詞を作り直した。「14歳の天才ジャズシンガー誕生」というキャッチフレーズで売出されたレコードは、発売2年間で40万枚とい大ヒットになった。

   「テネシー・ワルツ」はアコーディオン奏者であり、カントリー・バンドのリーダーでもあるピーウィー・キングが1946年に作曲した曲に、歌手レッド・スチュワートが詞をつけ、1948年にレコーディングした。1950年、パティ・ペイジが歌って大ヒット。恋人と「テネシー・ワルツ」を踊ったとき、友人に恋人を紹介したが、その友人が恋人を私から奪ってしまったという悲しい歌である。

   この「テネシー・ワルツ」はのちに州歌にもなったが、ナッシュビルはカントリー・アンド・ウェスタン、メンフィスはブルースと、テネシー州はアメリカ音楽の盛んな土地柄でもある。

2008年5月 3日 (土)

「水色の恋」の謎

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   天地真理。人気、実力の落差、振幅の大きさでは古今正統派アイドルの中でも無比である。名付け親が梶原一騎であることを考えると、やはり芸名というものには、大きなパワーが作用することを実感している。

    昭和46年10月、天地真理は「水色の恋」(田上えり・田上みどり作詞・作曲、森岡賢一郎編曲)でデビューした。愛らしく、屈託のないスマイルと「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「若葉のささやき」「恋する夏の日」とヒットを連発して、白雪姫はたちまちのうちに№1アイドルになった。天地真理はデビュー前にヤマハ・ミュージックスクールのレッスン生だったので、ヤマハ音楽振興会主催の作曲コンクール第1回大会(昭和44年)のエントリー曲「水色の恋」を歌っていた。国立音大付属高校出身の天地は譜面が読め、選曲のセンスもあり、自分のデビュー曲にしたいと主張した。仕上がりは森山賢一郎の編曲と天地独特のファルセット唱法で従来の歌謡曲に無い名曲となった。ところがまもなくこの「水色の恋」には盗作疑惑がもちあがった。そのころケペルは「アルゼンチンタンゴのすべて」(日本ビクター)のLPを愛聴していた。その中の1曲に「グラン・ホテル・ビクトリア」(フェリシアーノ・R・ラタサ作曲)がある。あるフレーズがほとんど同じであることにすぐに気づいた。もともと1906年にアルゼンチンのコルドバにある格式高いホテルの落成記念に作曲されたという。日本では「ホテル・ビクトリア」としてよく知られていた。歌謡曲「水色の恋」と古いタンゴの名曲。ファルセット唱法のアイドル歌手。トルコ嬢と白雪姫。すべてのミスマッチが増幅作用となって魅力となる。だが「水色の恋」と天地真理の不思議な謎を解明した者は誰もいない。日本では昭和30年代、タンゴブームであり(あるいは戦前にもブームがであった)、おそらく作曲者はかなり年輩の作曲家であり、古いタンゴをベースにして創作したとみて間違いなかろう。それゆえ田上えり・田上みどりは仮名なのだ。もちろんいまさら騒ぎ立てるつもりは毛頭ない。アイドル天地真理にふさわしい愛すべき一曲である。

2008年4月20日 (日)

背くらべ

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 柱の疵は 一昨年の

 五月五日の 背くらべ

 粽たべたべ 兄さんが

 計ってくれた 背の丈

 昨日くらべりゃ 何のこと

 やっと羽織の 紐の丈

       *

 柱に凭れりゃ すぐ見える

 遠いお山も 背くらべ

 雲の上まで 首出して

 てんでに 背伸(せのび)してゐても

 雪の帽子を 脱いでさへ

 一はやっぱり 冨士の山

 詩人・海野厚(1896-1925)は明治29年、静岡市曲金に生まれ、早稲田大学に学んだ。俳人の渡辺水巴に師事し、鈴木三重吉、会津八一、竹久夢二、中山晋平らと親交し、「おもちゃのマーチ」その他多くの作品を発表した。大正14年、肺結核を病み、東京・目黒で寂しく他界した。

鯉のぼり

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 甍の波と 雲の波

 重なる波の 中空を

 橘かをる 朝風に

 高く泳ぐや 鯉のぼり

     *

 開ける広き その口に

 舟をも呑まん さま見えて

 ゆたかに振るふ 尾鰭には

 物に動ぜぬ 姿あり

     *

 百瀬の瀧を 登りなば

 忽ち龍に なりぬべき

 わが身に似るや 男子(をのこご)と

 空に踊るや 鯉のぼり

2008年4月12日 (土)

天使の歌声・ディアナ・ダービン

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   ディアナ・ダービン(1921-  )はカナダのウィニペグに生まれ、美声を買われてMGMと契約。ジュディー・ガーランドと「アメリカーナの少女」(1936)で共演した。その後、ユニヴァーサルで「天使の花園」(1936)、「オーケストラの少女」(1937)が大ヒット。「天使の歌声」をもった美少女として戦前の日本の映画少年にも大人気だった。ちなみに「オーケストラの少女」のオーデションには当時13歳だったマリア・カラス(1923-1977)も受けたが残念ながら若すぎた。ダービンは「アヴェ・マリア」「年ごろ」「庭の千草」「銀の靴」「春の序曲」など音楽映画に多数出演し、1949年には引退し、パリで悠々自適の生活を送り、なんと今も健在である。

    ディアナ・ダービンのレコードは数枚持っているが、まさかCDなど無いだろうと思っていたら、ダイソーで8曲入り210円で売っていた。「アマポーラ」「ハレルヤ」「スプリング・イン・マイ・ハート」「ホーム・スイート・ホーム」「ラスト・ローズ・オブ・サマー」「アヴェ・マリア」「青きドナウ・ドリーム」「ある晴れた日に」である。やはりオペラの曲がある。映画「オーケストラの少女」でも歌われた「乾杯の歌」(ヴェルディ「椿姫」より)は収録されていなかった。日本語訳詩は浅草オペラの伊庭孝であるそうだが、詳しくは知らない。だだ次のような訳詩が見つかった。

  乾杯の歌

(アルフレード)

 友よ、いざ飲みあかそうよ

 こころゆくまで

 誇りある青春の日の

 楽しいひと夜を!

 若い胸には

 燃える恋心

 やさしいひとみが

 愛をささやく

 またと帰らぬ日のために

 さかずきをあげよ

(ヴィオレッタ)

 この世の命は短く

 やがては消えてゆく

 ねーだから今日もたのしく

 すごしましょうよ

 このひとときは

 ふたたびこない

 むなしくいつか

 過ぎてしまう

 若い日は夢とはかなく

 消えてしまう

 あーあー過ぎてゆく

 あーあー過ぎてゆく

 あーあー

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ディアナ・ダービン、ジュディ・ガーランドの夢の共演は「エヴリー・サンデー」(アメリカーナの少女)という短編一作だった

2008年4月 9日 (水)

ウィーンとザルツブルグ

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        ザルツブルグ(オーストラリア)

   ザルツァッハ川沿いにあるザルツブルクは、美しい町である。古代ローマ人が塩を取りにアルプスを越えてやってきたという歴史がある。モーツァルトの生まれた町ではあるが、あまり彼には好意的ではなかったという。別にその埋め合わせというわけでもないが、毎年行なわれる夏にはモーツァルトを記念する音楽祭を行なっている。

    ウィーンは音楽の都である。ヨハン・シュトラウスの像のある公園のベンチに腰をかけていると、ワルツが聴こえてきそうだ。この公園の近くには、ベートーベンの大きな銅像があり、その向かい側に、演奏会場コンツェルトハウス、並んでウィーン音楽院がある。グルック、ハイドン、シューベルト、ブラームスもウィーンに住んだことのある作曲家である。なかでもモーツァルト(1756-1791)はザルツブルグで生まれたが、25歳のときに故郷を捨ててウィーンに来た。そしてモーツァルトは経済的には苦しかったが、独立した音楽家として自由を勝ちとることに成功した作曲家である。歌劇「フイガロの結婚」や「魔笛」にはフランス革命の自由と平等の精神がもりこまれている。モーツァルトには時代を見る目があった。

  「人間を高めるのは身分ではなく心だ」

                (モーツァルト)

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2008年3月29日 (土)

水藻の花(歌劇「沈鐘」)

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  舞台劇「復活」のネフリュードフとカチューシャ

   大正期の新劇女優・松井須磨子(1886-1919)の「カチューシャの唄」(トルストイ原作「復活」)が一世を風靡したのは大正3年3月のことである。

  カチューシャ可愛や

  別れのつらさ

  せめて淡雪とけぬまに

  神に願いをララかけましょか

  須磨子の歌うこの哀切のメロディーは人々を魅了した。レコードは2万枚を売り尽くという前例のない人気ぶりであった。これにつづいて芸術座はツルゲーネフ原作「その前夜」。この主題歌「♪命短し恋せよ乙女」の「ゴンドラの唄」も大ヒット。吉井勇の「生ける屍」の主題歌「♪行こうか戻ろかオーロラの下を」の「さすらすの唄」。そして大正7年9月のハウプトマン原作、レスピーギの歌劇「沈鐘」で松井須磨子は森の妖精ラウテンデラインに扮した。劇中歌は「水藻の花」と「森の娘」(作詞・北原白秋、作曲・中山晋平)。遠藤さんがお探しの第5幕「♪森の姫とも歌われた、それは昔の夢じゃもの」という歌い出しではじまる「水藻の花」は作詞は島村抱月(1871-1918)と楠山正雄(1884-1950)、作曲は小松耕輔(1884-1966)。

   歌詞を調べるため国立音楽大学附属図書館のデーターベース「童謡・唱歌索引」を検索すると1件ヒットした。図書・楽譜ならば「世界音楽全集19巻、流行歌曲集」(春秋社)昭和6年の刊行に「水藻の花」が採録されているらしい。また実際の曲を聴きたいのであればCD8枚組(全193曲)「恋し懐かしはやり唄」がコロムビアファミリークラブから発売されており、DISC7に「水藻の花」が収録されている。ただし、これは「籠の鳥」「船頭小唄」で有名な演歌師・鳥取春陽(1900-1932)が歌っており、須磨子ではない。そして金額16800円也。創唱・松井須磨子のオリジナル版が聞きたければ、SPレコード「沈鐘の唄/水藻の花」が大正7年にニッポノフォンから発売されている。ヤフーオークション中古レコードはすぐに売り切れ。現在、松井須磨子CD全曲集が入手可能かどうかは知らない。「沈鐘」は翻訳物なので「水藻の花」はレスピーギの歌劇の曲と同様なのかは詳しくはわからない。「沈鐘」は阿部六郎訳で岩波文庫にあるが、昭和初期に楠山正雄訳で「世界名作翻訳全集12」に「沈鐘」があることがわかった。大正12年には松竹映画「水藻の花」伊藤大輔監督、栗島すみ子、岩田祐吉、岡島昇で映画化されている。

   結局、いろいろ調査しましたが、お探しの全歌詞には辿りつくことができませんでした。ゴメンナサイ。

追記

  「日本のうた第1集」野ばら社(1998年刊行)に「水藻の花」の歌詞と楽譜が収録されていましたので紹介します。

        1

もりのひめとも うたわれた

それはむかしの ゆめじゃもの

なさけないぞえ のろわれて

いまじゃ みずもに さくはなよ

        2

みずにうつした おもかげは

むかしこいしき そのひとよ

なつかしいなの ハインリーヒ

ほんに さようなら さようなら

2008年3月23日 (日)

エーゲ海の真珠

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    世界ムード音楽シリーズ(第6回)。「恋はみずいろ」(1968年)の世界的大ヒットでACCディスク大賞を受賞したポール・モーリア(1925-2006)は、「シバの女王」「蒼いノクターン」と次々とヒット曲を放つ。「エーゲ海の真珠」(1971)は原題が「ペネーロペ」で、ギリシア神話の英雄ユリシーズの貞淑な妻の名前である。スペインの作曲家アウグスト・アルゲロの作品を軽妙なロックビートと女性ソロ・ヴォーカルで地中海の雰囲気を見事に表現した編曲である。最初の録音版ではダニエル・リカーリが中間部のスキャトを担当している。画像はフィリップス・中央公論社の広告チラシであるが、リーダーズ・ダイジェストもポール・モーリアのレコードのセットものを多数販売しおり、愛聴したものである。

サバの女王

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 あなたゆえ くるおしく

 乱れた 私の心よ

 まどわされ そむかれて

 とまどう 愛のまぼろし

 私はあなたの 愛の奴隷

 命も真心も あげていたいの

 あなたがいないと

 生きる力も失われてゆく 砂時計

   世界ムード音楽シリーズ(第5回)。「サバの女王」(シバの女王ともいう)は旧約聖書に記されている南アラビアのシバ、そのシバの女王にわが恋人のイメージをたくして「君はボクのシバの女王、どうか戻ってもう一度君の国をここに築いておくれ」という意味。「シバの女王」はフランスの人気歌手ミッシェル・ローランが作詞・作曲し、自ら歌ってヒットさせた。ポール・モーリアやレーモン・ルフェーブルなども競演したが、昭和47年、日本語歌詞で歌ったアルゼンチン出身のグラシェラ・スサーナの低いもの悲しげな歌声が妙に心に切なく響いた。

2008年3月22日 (土)

ローマよ今夜はふざけないで

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ローマよ、今夜はふざけないで

私にダメと言わせて

きらめく星を消しておくれ

ロマンチックな月もかくしておくれ

でないと、大変なことになるわ

春になったことを忘れさせて

お願い、私にダメと言わせて

心をそそのかす

あのそよ風を止めておくれ

ローマよ 今夜はふざけないで

  *  *  *  *  *

世界ムード音楽シリーズ(第4回)「ローマよ今夜はふざけないでおくれ」はイタリア歌手オルネラ・ヴァノーニが歌ってヒットした。

ほほにかかる涙

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あなたは知っている このほほの涙

想い出を 流したい この涙で

あなたのため このほほの涙

あつい思いを そっとたえているの

もし だれかに聞かれたら

どう どう答えましょう

私の涙と 苦しい心を

あなたを想って このほほの涙

恋をなくしたために 淋しい夜

もう一度だけ 聞きたいの

サヨナラの言葉は

あなたの本当の心なのかしら

  *  *  *  *  *  *  *  

世界ムード音楽シリーズ(第3回)「ほほにかかる涙」は1964年の第14回サンレモ音楽祭の入賞曲で、日本にカンツォーネ・フームを巻き起こしたボビー・ソロの大ヒット曲。安井かずみ訳詩も知られており、ほりまさゆきが歌った。 

春のワルツ

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いつも信じていた 会えないけれど

いつかは会えると 涙で慰めてもみた

時には心を塞いでいた 

近くに抱き寄せられない

傷の中で 君がまた疼くから

君だけを待っていた

一日だけあたえられたら

幸せになる準備をしただろう

君のために 何もかも

アイ ラヴ ユー

僕が行くよ 遠いところにいても

希望の翼に包まれても

君と同じ夢を見る

離さないでくれ

運命が邪魔をして

たとえ世の中のすべてと引き換えても

君の手を離さないから

まだ聞いていなかったね

どこへ向かっているのかと

一緒にいられるなら

それが二人の進む道

    *    *    *    *    *    *    *

   世界ムード音楽シリーズ(第2回)「FLOWER-M」は韓国ドラマ「春のワルツ」の主題歌。ちょうど今の季節にぴったりの曲。ソ・ドヨンが甘く切なく歌っています。

ささやく瞳

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たとえ私があなたに少しも話さないでも

私の秘密がわかるでしょう

いつの日かあなたは読むでしょう

私の瞳に、私の瞳に

たとえあなたが聞かなくても

私の秘密がわかるでしょう

偽ることが決して出来ないって

私の瞳で 私の瞳で

なぜだか私に言って

でもどうして、でもどうして

あなたは私の瞳を決して見つめないの

それでもあなたは知っているわ

もうあなたがちょっと私が好きだって

なぜだか私に言って

でもどうして、でもどうして

あなたは私の瞳を決して見つめないの

それでもあなたは

私は知っている

どうあなたがちょっと好きだって

たとえあなたがたずねなくても

私の秘密を発見するでしょう

偽ることが決して出来ない

私の瞳で 私の瞳で

  *  *  *  *  *  *

世界ムード音楽シリーズ(第1回)「ささやく瞳」はイタリアの歌手ウィルマ・ゴイクのヒット曲。1967年のサンレモ音楽祭で男性歌手ディーノをパートナーに入賞した曲です。後にトム・ジョーンズも歌っていました。

2008年3月20日 (木)

メキシコ美人伝説

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    マリンチェというインディオの娘は、絶世の美人だった。メキシコに侵入した最初のスペイン人首領エルナン・コルテスも、彼女の美しさにコロリと参ってしまった。こうして「メキシコは美人の国」という伝説は誕生した。アメリカのメキシコ観光ポスターなどを見ると異国的なメキシコ美人が微笑んでいるものが多い。それはラテン音楽に関してもいえる。

   「ベサメ・ムーチョ」というメキシコのボレロ風の曲は1941年にコンスエロ・ベラスケス(1924-2005)が作曲し、スウィング時代のアメリカでポピュラーとなった。「ベサメ・ムーチョ」(もっとキッスして)という情熱的な言葉は、日常茶飯事のように使われている。しかも、男性だけではなく、女性もよく使うという。この「ベサメ・ムーチョ」を作曲したベラスケスは当時17歳の可憐なピアニストだった。そして16年後に「カチート」(1957)を作曲する。ナット・キング・コールで世界的なヒット曲となった。日本でもフランク永井が「東京カチート」を歌いヒットした。多くの日本人は「カチート」を女性の名前か娘さんをイメージしていたものだ。これは「メキシコ美人伝説」のためである。ところが本来は「かけら」「分身」という意味で、転じて「自分の子ども」「ちびっ子さん」という意味である。それも男性名詞なので男の子。女の子ならば「カチータ」である。それでもラテン音楽、情熱的、メキシコ、美人という連想は消えそうにない。

カチート 私のカチート

神さまが 私にくれた天のきれはし

おまえは私の命だ

おまえを見つめていると

しあわせが 私の心にみちあふれる

なぜ おまえは私のカチートなのか

と ひとにたずねられるたびに

私は いつもこう答える

おまえは とてもかわいいから と

2008年3月17日 (月)

鳥取砂丘と民謡「貝殻節」

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    今でこそ全国的にもよく知られている民謡「貝殻節」であるが、戦前はほとんど知る人はなかった。「浜村貝殻節」は昭和8年、浜村温泉をPRするためレコードに吹き込まれた。しかし「貝殻節」が全国に広まったのは、昭和27年、朝日放送全国民謡大会で第1位になったからだという。貝殻節踊りも昭和8年には振り付けがなされたものの、戦時中はすたれ一時は忘れさられたが、昭和22年に再振り付けがなされたものである。

    もともと「貝殻節」は、山陰沖に発生した帆立貝を獲る漁をした漁師たちが歌った労働歌がもとになっている。記録によると、文政7年(1824年)に中国に帆立貝を大量に輸出したとあるから、それ以前から帆立貝の乾し身を産業としていたのであろう。また、「天保5年(1834年)、青谷海岸に帆立貝が集まる」と年表にもある。鳥取県の沖合いでは10年とか20年に1度、帆立貝(イタヤ貝)が大量に獲れた「貝殻年(帆立年)」があった。明治になってからは、明治10年、明治21年、明治22年、明治34年、明治35年、大正14年、昭和4年が貝殻年である。帆立貝を獲ることはほねのおれる仕事で、ジョレンという馬鍬のようなものを海の底に沈め、舟の櫓を漕いで底引きするのである。それで「なんの因果に貝殻漕ぎなろうた」と自虐的に歌うのである。因幡国の城主・亀井武蔵守に仕える若い侍がこの海辺にきたとき、帆立貝を採取する娘に見とれて、つい武士の身分を捨てて漁師となり、その因果で歌が生まれたという説もある。

    最近では、吉永小百合の「夢千代日記」の中でも芸者が座敷で歌い踊るシーンが出てくることから、ますます「貝殻節」が全国的に知られるようになっている。ところがドラマは兵庫県の湯村温泉が舞台なので「貝殻節」を鳥取県と思わない人もいるのではないだろうか。吉永はCDで「浜唄と貝殻節」という歌を吹き込んでいる。早坂暁が山陰に取材をしたとき、湯村にいい民謡がなかったので、鳥取の民謡を使ったのだろうが、東京の人からみると兵庫県の北部も鳥取県も山陰で、あまり違いを感じないないのだろうか。

   「貝殻節」の歌詞には、異なるものが多数存在する。

  なんの因果に 貝殻漕ぎなろうた

  (カワイヤノー カワイヤノー)

  色は黒うなる 身はやせる

  (ヤサホー エイヤー ホーエヤエー

  ヨイヤサノサッサ エンヤノエーエ)

   なお、貝殻節は浜村だけで歌われていたものではない。二番の歌詞「♪浜村沖から貝殻が招く」というところを、青谷では「青谷沖から」と歌い、賀露では「賀露の沖から」、泊では「泊沖から」と歌う。

2008年3月16日 (日)

楽しい春がやってくる

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   子どものころラジオでよく聞いた歌。

「♪緑の森の彼方から、陽気な唄が聞えます。あれは水車のまわる音、耳をすましてお聞ききなさい」と、若い女性の明るく澄んだ美しい歌声。「森の水車」(作詞・清水みのる、作曲・米山正夫)だ。以前にも記事に書いたことがあるが、この曲は高峰秀子が昭和17年9月にレコード発売されたが、敵性歌謡とみなされ、発売禁止となった。広く知られるようになったのは、戦後のことで、昭和26年のNHKのラジオ歌謡で荒井恵子が歌ったからである。しかし荒井はNHK専属歌手のため、レコード化はされず、並木路子でレコード化された。ナツメロでテレビ番組で並木が歌っているのは見たことがある。だが、ケペルがラジオで記憶するのは荒井恵子のほうである。

    荒井恵子は戦後、農林省に勤務していたが、戦後の第2回「素人のど自慢」全国コンクールの歌謡部門で「南の花嫁さん」で優勝した。紅白歌合戦も6回出場している。

    ところで紅白トップバッターというのは、その時代の最高の可愛い歌手が登場する、という暗黙のきまりごとがある。南沙織「17才」、天地真理「ひとりじゃないの」、小柳ルミ子「漁火恋唄」、山口百恵「ひと夏の経験」、岩崎宏美「ロマンス」、山口百恵「横須賀ストーリー」、桜田淳子「気まぐれヴィーナス」、榊原郁恵「夏のお嬢さん」、石野真子「ジュリーがライバル」などなど。荒井恵子は昭和28年「ポカピカパカ」で紅白初出場はトップバッターを暁テル子に譲ったものの、「希望をのせて馬車は行く」(昭和30年)、「南の花嫁さん」(昭和31年)、「橇は飛ぶよ」(昭和33年)、「白菊の歌」(昭和34年)、「青い月夜の散歩道」(昭和35年)とトップバッターを5回も務めている。明るく澄んだ歌声に憧れる男性からは、顔が見られない苛立ちから、放送局にはラブレターが殺到したとか。

    画像は「平凡」の記事からだが、もちろん小柄で瞳の大きい女性が荒井恵子。大柄の女性はNHN東京放送劇団の七尾玲子。

2008年3月13日 (木)

ウシュカ・ダラ

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           セ・シ・ボン    歌アーサー・キット

  子どもの頃、ラジオから流れる音楽でとくに記憶にあるのは「ウシュカ・ダラ」という曲である。(ウスクダラ、ウシュク・ダラとも表記される)もともとトルコの曲なので、イーディ・ゴーメがトルコ語と英語で歌ったが、黒人歌手アーサー・キットのほうが断然人気を集めた。日本では江利チエミのレコードも昭和29年にヒットしたが、当時13歳の少女歌手・沢村みつ子(1941-2008)も人気があった。

   今日の夕刊に、「澤村美司子、3月11日、急性心不全のため、東京都世田谷区の自宅で死去。66歳」という記事があった。澤村美司子(さわむらみつこ)は、沢村みつ子のことであろう。最近まで歌手活動をしていたそうだが、全盛期は昭和30年ころで、「マンボ・イタリアーノ」「ケ・セラ・セラ」「パパはマンボがお好き」などの日本語カヴァー曲がある。和製ポップスの草分けといえるが、とりわけ「ウシュカ・ダラ」はとても流行った懐かしい曲だ。

2008年2月16日 (土)

榎本美佐江と日本調歌手

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         神楽坂はん子(左)と榎本美佐江(右)

    日本調美人歌手といえば、藤あや子、伍代夏子、長山洋子などを思い浮かべるかもしれない。しかし日本調歌手の定義を「着物姿で日本調の曲を歌う」とすれば該当するのだが、「鈴を鳴らしたような美声」という歌唱法を条件に加えるとすれば、いま日本調歌手は一人もいないかも知れない。

    鶯芸者といわれた芸者たちがレコーディングするようになったのは昭和5年ごろだろうか。藤本二三吉、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅、新橋喜代三、浅草〆香、日本橋きみ栄、豆千代などが戦前派日本調歌手。戦後は久保幸江「トンコ節」、鈴木三重子「むすめ巡礼」「愛ちゃんはお嫁に」、神楽坂はん子「ゲイシャ・ワルツ」「こんなベッピン見たことない」、榎本美佐江「お俊恋唄」、神楽坂浮子「十九の春」、五月みどり「おひまなら来てね」、二宮ゆき子「松ノ木小唄」など昭和30年代まではヒット曲が続いた。

   昭和40年代になると、日本調美人歌手はほとんど懐メロ歌番組でしか聴けなくなった。戦後最も親しまれた歌手は榎本美佐江かもしれない。当時、子供でも国鉄スワローズの金田正一の妻であることはよく知られていた。そして離婚後の芸能界復帰も藤田まことの「てなもんや三度笠」で鳥追い女でレギュラー出演していたのも覚えている。榎本美佐江こそは、天性の美貌と美声で日本調美人歌手の第一人者だ。戦前、小笠原美都子が歌った「十三夜」のリバイバルは名唱で「十三夜の榎本か、榎本の十三夜か」といわれるほどである。

2008年2月 9日 (土)

リベラーチ、世界が恋したピアニスト

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   リベラーチというアメリカのピアニストを知っているだろうか。ラスベガスにある博物館には生前に彼が着た豪華な衣裳やキャデラック、メルセデス・ベンツなどの愛車、そしてピアノが展示されている。年輩のアメリカ人なら誰でも知っている有名人といえる。「リベラーチ」という名は、「バレンチノ」と同様に高級ブランドとしての響きがある反面、「悪趣味の代名詞」ともいわれる。

   日本でその名前が知られないのは、彼がアメリカのテレビやラスベガスのショーを中心に演奏活動したことや、クラシックというよりもイージーリスニングのようにクラシックの名曲のさわりだけを演奏していたので、音楽批評家たちの評価は低かったからかも知れない。だが「世界が恋したピアニスト」といわれるようにその人気ぶりはスゴかったようだ。

    彼のエピソードとして知られるのは、「リベラーチの演奏会のある日は、恐妻家にとっては最高の夜だ」というジョークであろう。金持ちのご夫人方がリベラーチを聴くためにみんな外出しているからだそうだ。

    ワラジャー・ヴァレンティーノ・リベラーチ(1919-1987)。1919年5月16日、ウィスコンシン州ウェスト・アリスに住むポーランド系アメリカ人の音楽一家に生まれ、幼児からピアノを習う。7歳の時、イグナツィ・パデレフスキー(1860-1941)に演奏を絶賛され、神童と言われた。1950年代、全米にテレビが普及し始めると、テレビ・ピアニストとして一躍人気者となる。独身だったこともあってとくに女性に高い人気であった。リベラーチェをとくに有名にしたのは豪華で派手なファッションだった。極端に立った襟を持つ金ぴかの上着に、孔雀の羽をふんだんに使ったキッチュな衣裳は、エルビス・プレスリー、エルトン・ジョン、果ては美川憲一のルーツともいえる。

    1987年、カリフォルニア州パームスプリングの自宅で死去。享年67歳。死因はエイズであった。彼の主演映画「シンシアリー・ユアーズ」(共演・ドロシー・マローン、ジョン・ドルー、1951年)も残念ながら日本未公開で見ることはできなかった。

2008年1月15日 (火)

レコード大賞と選抜入場行進曲

    毎年、年明け早々に発表される春の選抜高校野球大会の開会式入場行進曲。今年はコブクロ(小渕健太郎・黒田俊介)の「蕾(つぼみ)」。日本レコード大賞を受賞した曲が入場行進曲となるのは過去8曲目。昭和34年から平成19年までの大賞受賞曲49曲の中でダブル受賞がわずか8曲とはなかなかの狭き門である。これまでの7曲は次のとおり。

いつでも夢を(橋幸夫、吉永小百合)

こんにちは赤ちゃん(梓みちよ)

また逢う日まで(尾崎紀世彦)

ルビーの指輪(寺尾聰)

パラダイス銀河(光GENJI)

おどるポンポコリン(B.B.クイーンズ)

TSUNAMI(サザンオールスターズ)

2008年1月 3日 (木)

なんてったってアイドル

    昭和46年4月、小柳ルミ子「わたしの城下町」でデビュー、6月には南沙織「17才」でデビュー、10月天地真理「水色の恋」でデビュー。この3人の登場が現代に続く原型女性アイドルの誕生とみるのが一般的であろう。その後、山口百恵、桜田淳子、松田聖子、中森明菜、小泉今日子とアイドル黄金時代は続く。秋元康の作詞「なんてったってアイドル」(昭和60年)は最初聴いたとき、狙いすぎ、という印象がしたが、アイドルという自らの立場をネタに遊んでしまう、余裕と自然体が、アイドルというスタイルを確立させた。同年結成された現役女子高生という等身大のアイドル集団「おニャン子クラブ」が若者たちに共感をあたえることに成功した。しかし平成になると、「アイドル氷河期」という言葉に示されるように新人女性アイドルが育たなくなる状況が長く続いた。このため「おニャン子クラブがアイドルをダメにした」という見方もなされることがある。おニャン子のメンバーの多くは芸名はなく本名でデビューすることが多い。河合その子、渡辺美奈代、新田恵利、高井麻巳子、国生さゆり、渡辺満理奈、福永恵規、城之内早苗、内海和子、生稲晃子、工藤静香、我妻佳代などすべて本名である。このころから本名がより自然体であり、身近なアイドルが要求されるようになった。中森明菜、南野陽子、中山美穂、斉藤由貴、工藤夕貴、芳本美代子、井森美幸などはみな本名である。

    昨年末の紅白歌合戦は、モー娘。ベリーズ工房&キュート、AKB48の三組の組み合わせで、メドレーを歌っていたが、フィナーレはやはり「なんてったってアイドル」という曲であった。

    安室奈美恵、宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、倖田來未などJ-POPの実力派女性シンガーの登場により、アイドル女性歌手は劣勢になりつつある。かっての歌謡ポップスの流れをくんだ、幅広い年齢層に親しまれる国民的なアイドルの登場を期待したい。

では、次の女性アイドル歌手は誰だろう?

①斎藤真理

②花村博美

③内間明美

④佐藤佳代

⑤蒲池法子

⑥日浦真里子

⑦金谷満紀子

⑧田沢奈江

⑨中山貴久子

⑩堀川麗子

    *

      回答

①天地真理、②森口博子、③南沙織、④岡田有希子、⑤松田聖子、⑥真璃子、⑦藤谷美紀、⑧裕木奈江、⑨北岡夢子、⑩風吹ジュン

2007年12月30日 (日)

とんぼのめがね

    額賀誠志(ぬかがたかし、1900-1964)。本名・額賀誠(ぬかがまこと)。明治33年、福島県いわき市で生れる。日本医学専門学校卒業後、児童文芸誌「赤い鳥」の同人として活躍。昭和12年、無医村であった福島県双葉郡広野町に内科医院を開業。童謡詩人としても知られた。「とんぼのめがね」「子馬の鈴」「田螺(たにし)」「山のお医者さま」「どんと波こい」「閑古鳥」「ねんねんころり」「浜防風」「入道雲」「筆の花」「たけうまごっこ」「シグナルさん」「秋の声」「お月さんの歌」など。

    「とんぼのめがね」は昭和26年NHK東京放送「ラジオこどもの歌」の中で歌われ全国に広まった。文化庁の「親子で歌いつごう日本の歌百選」にも選ばれ、幼稚園、保育園などでいまでも歌われている。

  とんぼのめがねは

  みずいろめがね

  あおいおそらを

  とんだから とんだから

心の窓にともし火を

    作詞家・横井弘は昭和21年に復員した。当時18歳だった。疎開先の下諏訪霧ヶ峰八島高原でアザミの花に自分の理想の女性像をだぶらせて「あざみの歌」という詩を作った。昭和25年からNHKのラジオ歌謡に流れ、伊藤久男の「あざみの歌」は知られるようになった。

   その後、横井弘は作詞家として、三橋美智也「哀愁列車」「達者でな」、仲宗根美樹「川は流れる」、倍賞千恵子「下町の太陽」「さよならはダンスの後に」、中村晃子「虹色の湖」、千昌夫「夕焼け雲」など数多くの歌謡曲を作詞した。

   横井弘の作詞で中田喜直作曲の「心の窓にともし火を」(昭和35年)は、歌ごえ喫茶で広まり、のちにザ・ピーナッツもリリースして、音楽の教科書にものるようになった。

  いじわる木枯らし吹きつける

  古いセーター ぼろシューズ

  泣けてくるよな 夜だけど

  ほっぺをよせて ともしましょう

  心の窓にともしびを ホラ

  えくぼが浮んでくるでしょう

2007年12月29日 (土)

大きな栗の木の下で

  大きな栗の木の下で

  あなたとわたし

  なかよくあそびましょ

  大きな栗の木の下で

   だれもが知っているこの童謡の作詞者・作曲者はともに不明である。イギリス民謡であるという。1937年、ヤロミール・ヴァイベルゲンの編曲。アメリカでボーイスカウトの間で広まった。日本には戦後、おそらく幼稚園の舞踏会などで歌われだした。ケペルが幼稚園児だったとき、昭和30年代前半にはかなり有名な曲であった。日本語の作詞者は平多正於説、阪田寛夫説がある。2007年、日本の歌百選(文化庁、日本PTA全国協議会)にも選出された名曲である。

   ちなみにこの曲もだれでも知っているであろう。

  この木なんの木 気になる木

  名前も知らない 木ですから

  名前も知らない 木になるでしょう

 「日立の樹」というコマーシャル・ソング。「日立世界ふしぎ発見」などでお馴染みの曲だが、作曲は小林亜星、作詞は伊藤アキラ。伊藤アキラはCMソング、歌謡曲、テレビ主題歌まで1000曲以上の作品がある。「青雲のうた」、丸善石油「オー・モーレツ」(はつみかんな)、「かもめが翔んだ日」(渡辺真知子)、「東京チカチカ」(加苗千恵、日吉ミミ)、「南の島のカメハメハ」(水森亜土とトップギャラン)など。

2007年12月23日 (日)

夢の紅白歌合戦

    NHK紅白歌合戦で一番輝いていたスターのひとりに江利チエミがあげられる。江利は昭和38年、39年と現役歌手ではじめて紅組キャプテンと司会を勤めた。そして昭和43年まで16回連続出場を果たしたが、翌年落選した。昭和45年は2年ぶりの復帰出場が決まっていたが、江利自ら「ヒット曲がないから」と辞退した。江利に代わって紅白初出場となったのが、その年に「男と女のお話」の日吉ミミだった。50万枚の大ヒットにもかかわらず選考されなかった理由は、おそらく頽廃的な内容によるものであろう。その後、数年間、日吉ミミはヒットを連発したが紅白の出場はなかった。

   大物歌手の紅白落選とかその年のヒット新人歌手が選考されなかったとか、紅白には歌手人生の悲喜こもごもがある。またファンにも鬱憤があるだろう。そこでケペル個人的好みによる紅白出場歌手を選考してみたい。(工事中)

    白組(キャプテン・司会、トニー谷)

アイ・ジョージ「硝子のジョニー」

井沢八郎「ああ上野駅」

石原裕次郎「夜霧よ今夜も有難う」

オックス「ガールフレンド」

春日八郎「新撰組の旗は行く」

克美しげる「さすらい」

叶修二「素敵なやつ」

加山雄三「別れたあの人」

北原謙二「北風」

西郷輝彦「恋人ならば」

西城秀樹「青春に賭けよう」

坂本九「一人ぼっちの二人」

佐川ミツオ「太陽に向かって」

三輪車「水色の街」

ザ・タイガース「僕のマリー」

島和彦「雨の夜あなたは帰る」

城卓矢「骨まで愛して」

笑福亭仁鶴「おばちゃんのブルース」

ずうとるび「みかん色の恋」

高田浩吉「風雲真田城」

田辺靖雄「名犬ロンドンの歌」

田原俊彦「ハッとして!Good」

チャー「気絶するほど悩ましい」

塚田三喜夫「五月のバラ」

手塚しげお「青春の夢のせて」

永田英二「あこがれ」

にしきのあきら「もう恋なのか」

野村真樹「一度だけなら」

橋幸夫「江梨子」

フランク永井「場末のペット吹き」

本郷直樹「燃える恋人」

望月浩「泣かないで」

矢吹健「あなたのブルース」

レイジー「赤頭巾ちゃん御用心」

    紅組(キャプテン・司会、江利チエミ)

朝倉理恵「あの場所から」

石川ひとみ「マリンブルーに溶けないで」

伊藤麻衣子「微熱かナ」

岩崎宏美「想い出の樹の下で」

梅木マリ「ファンキールックのお嬢さん」

江利チエミ「酒場にて」

岡田奈々「青春の坂道」

金井夕子「パステル・ラヴ」

河合その子「涙の茉莉花LOVE」

北野玲子「初恋景色」

久美かおり「くちづけが怖い」

倉田まり子「グラジュエイション」

九重佑三子「ウエディング・ドレス」

梢みわ「恋のバイカル」

小林美樹「人魚の夏」

小柳ルミ子「春のおとずれ」

桜田淳子「はじめての出来事」

ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」

シェリー「甘い経験」

島田奈美「パステル・ブルーのためいき」

朱里エイコ「北国行きで」

杉田愛子「島めぐり」

園まり「何も云わないで」

中尾ミエ「片想い」

高田みづえ「子守唄を聞かせて」

花村菊枝「琴姫七変化」

日野てる子「夏の日の思い出」

日吉ミミ「おじさまとデート」

弘田三枝子「子供ぢゃないの」

ペドロ&カプリシャス「ジョニイへの伝言」

堀ちえみ「リ・ボ・ン」

本田美奈子「殺意のバカンス」

槙みちる「若いってすばらしい」

松田聖子「ひまわりの丘」

三谷晃代「絶交」

ミッチー・サハラ「エーデルワイス」

森山加代子「五匹の仔ブタとチャールストン」

山口百恵「冬の色」

由美かおる「いたずらぽい目」

好本美代子「白いバスケットシューズ」

2007年12月16日 (日)

文部省唱歌・田道間守の歌

1 香りも高い橘を

  積んだお船が今帰る

  君の仰せをかしこみて

  万里の海をまっしぐら

  今帰る 田道間守 田道間

2 おはさぬ君のみささぎに

  泣いて帰らぬ真心よ

  遠い国から積んで来た

  花橘の香と共に

  名は香る 田道間守 田道間守

    田道間守(たじまもり)は、古事記では多遅麻毛理、日本書紀では田道間守と表記される。垂仁天皇の命をうけて、不老不死の霊果を求めて海外に渡った。常世の国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を10年の歳月を要して持ち帰るが、天皇はすでにこの世におられなかった。田道間守は悲しみのあまり、天皇の御陵の前で非時香菓を献じて、号泣して殉死した。その跡に生えてきた樹が橘(ミカン)であったことから、明治40年に柑橘や菓子業の祖神として、祀られるようになった。(参考:三好右京『菓祖田道間守公』昭和4年)

2007年10月 8日 (月)

ナンシー梅木と戦後ジャズ

    本年8月28日、ミズーリ州オザークのリッキングにある医療保養施設でナンシー梅木(1929-2007)が亡くなった。ナンシー梅木は昭和32年マーロン・ブランドー主演「サヨナラ」で日本人で初めてのアカデミー助演女優賞を獲得している。授賞式のプレゼンターはアンソニー・クインだった。

    後輩のペギー葉山は「私のデビュー当時、ナンシー梅木さんは大スターでした。彼女が穴を開けると私に声がかかり、ナンシーが一軍、私が二軍の感じでした。ハスキーボイスで歌声はセクシー、性格もおおらかで憎めない人でした」と語る。

   戦後の進駐軍時代にジャズは流行したが、日本人歌手たちは憧れの外国スターの名前を拝借して芸名をつけることが多かった。

  ペギー葉山…ペギー・リー

  フランキー堺…フランク・シナトラ

  フランク永井…フランク・シナトラ

  谷啓…ダニー・ケイ

以下の人たちは、関連性は希薄ですが、むりやり当時のハリウッドスターにあてはめるとすれば、

  トニー谷…トニー・カーチス

  ジョージ島袋…ジョージ・ラフト

  ジョージ川口…ジョージ・サンダース 

  ナンシー梅木…ナンシー・オルスン

  ディック・ミネ…ディック・パウエル

  エセル中田…エセル・マーマン

  チャーリー石黒…チャリー・パーカー

2007年10月 5日 (金)

ベアトリ姐ちゃん

   ベアトリーチェという名を聞けばダンテの理想の女性を連想されるかもしれない。しかしこの歌の「ベアトリ姐ちゃん」とは、床屋のスカルツァの妻ベアトリーチェであり、ダンテの永遠の女性とは無関係、というよりも正反対の浮気女である。スッペ作曲のオペレッタ「ボッカチオ」の中で清水金太郎(1889-1932)が歌った。そして昭和になって榎本健一の持ち歌になった。訳詩は小林愛雄(こばやし よしお、1881-1945)。

   ベアトリ姐ちゃん

  娘よベアトリチェ

  なぜそんなに寝坊なんだ

  さあ早く起きないと

  もう夜が明けてるぜ

  歌はトチチリチン

  トチチリチーツ

  歌はトチチリチン

  トチチリチーツ

  歌はペロペロぺ

  歌はペロペロペ

  さあ早く起きろよ

   大正6年、伊庭孝の作演出「女軍出征」のヒットによって誕生した浅草オペラは、安藤文子、清水金太郎、田谷力三、原信子、羽衣歌子、松木みどり、木村時子、清水静子、藤原義江らを輩出した。「ベアトリ姐ちゃん」のほかにも浅草オペラから生まれた愛唱歌は多い。コロッケーの唄(カフェーの夜)、ハバネラ(カルメン)、恋はやさし野辺の花よ(ボッカチオ)、乾杯の歌(ラ・トラヴィアータ)、大将閣下の名前はブンブン(ブンブン大将)、恋のために(アルカンタラの医者)、おてくさん(カフェーの夜)、波をけり(古城の鐘)、岩にもたれた(フラ・ティアボロ)、君が姿みし日より(マルタ)、闘牛士の唄(カルメン)、ジプシーの唄(カルメン)、テッベラリー(女軍出征)

   浅草オペラの活動は関東大震災により、衰退したが、日本における西洋音楽の移入と音楽の大衆化に大いに貢献した。

2007年9月29日 (土)

世界一の名歌手・エンリコ・カルーソー

   イタリアというば民謡、民謡といえばナポリがまず思いうかぶ。歌とおしゃべりに明け暮れる楽天的なナポリっ子だが、南イタリア共通の貧しさがひそんでいる。ごみごみした路地にはりめぐらされた洗濯物の洪水、だがナポリっ子はそれを「ナポリの旗」だと無邪気に自慢する。

   1873年2月25日、エンリコ・カルーソー(1873-1921)は、ナポリの貧民窟サン・ジョヴァンニエッロ街の機械工の18番目の子として生まれた。父親の名前は知らないが、母親はアンナ・カルーソーという。CARUSOはナポリ風に読めばカルーゾだが、日本では一般に英語風のカルーソーで通っている。ナポリの貧民窟に住む母アンナは、なけなしの金をはたいて小さなエンリコに歌を習わせた。シニョール・ヴェルジーネはエンリコの才能をあまり評価せず、「雨戸をふきぬける風みたいな歌だ」とあざけった。アンナはエンリコの成功を見ずに死んだ。1894年ナポリの新劇場でデビューし、イタリア国内のいくつかの小劇場で歌った。1898年、ミラノで「フェードラ」が初演され、大成功を収めた。1902年、ミラノのスカラ座で歌ったとき、グラモフォン社のフレッド・ガイズバーグと出会ったことが契機となり、レコード録音をする。1903年からニューヨークのメトロポリタン劇場での成功と併せて発売されたレコードによってその名は世界的に知られるようになった。カルーソはオペラ歌手というだけでなく、民謡やポピュラーソングまで歌い、世界のあらゆる階層の人々から愛される歌手であった。カルーソはアダ・ジャケッティとの間に、正式な結婚はしていなかったが二児をもうけていた。1918年、ニューヨークの実業家の娘ドロシー・P・ベンジャミンと結婚した。絶頂期の1921年8月2日に故郷で休暇中に亡くなった。若きカルーソを評して、トスカニーニは「このナポリ人がこのように歌い続けるなら、世界中、彼の噂でもちきりになるだろう」と言った。トスカニーニの言葉どおり、彼は現代につながる発声唱法とレコード産業をも確立させた。

   「オーソーレミオ」(私の太陽)というエドゥアルド・ディ・カープア(1865-1917)作曲のナポリ民謡はカルーソーの創唱で世界中に知られるようになった。のちのオペラのテノール歌手たちがこぞってナポリ民謡をうたのうは、カルーソーの影響によるものだろう。

2007年9月 7日 (金)

中田喜直・團伊玖麿、犬猿の仲

   「夏の思い出」「雪の降る町を」などの作曲家・中田喜直(1923-2000)は、嫌煙論者としても知られていた。あるとき中田が東京駅で新幹線を待っていたら、鮫島有美子、ヘルムート・ドイチェ夫妻と出会った。列車が来て、中田は禁煙の8号車に乗った。当然、鮫島夫妻も同じ車両に乗ると思ったら喫煙車の9号車に乗った。中田は「えっ、どうして」と聞いたら、夫がタバコを吸うので、ということだった。鮫島有美子はもちろんタバコは吸わない。「国民的ソプラノ歌手」といわれる鮫島にとって、美しい声が何より大切であり、声のためにも、体のためにも禁煙車の方がいいのにと中田は思った、と「音楽と人生」という随筆集に書いている。

   この鮫島夫妻のエピソードはファンにとっても心配事であろう。良妻である鮫島は、いまでも受動喫煙による健康の害を被りながらも、ご主人の傍らにいるのであろうか。(余計なお世話だ、と言われるかもしれないが)

   中田喜直は「嫌煙の時代タバコと社会」(昭和55年)を出版しており、当時としては過激で感情的とも思える嫌煙論者と見なされていた。「人間の生存に一番大切な空気を汚すことに無関心な人を信用するわけにいかない」という基本的な考えを通すためには奇妙な徹底振りも見受けられた。たとえばヘビースモーカーで知られる市川崑や今井正の映画は絶対に見ないという。監督がタバコを吸うからといって映画作品とは無関係なように思えるのだが、その異常とも思える嫌煙論は終生止むことはなかった。ことに音楽関係者への攻撃は激しい。「オーボエ奏者の宮本文昭氏の演奏も聴きたくない。体をくねくね動かしてオーボエを吹き、その後でタバコを吸うCMを見てがっかりした。音楽は音が出ればいい、というものではない。その演奏者の人間性も一応は気になる。TVのコマーシャルで有名になって、宮本氏のCDはかなり売れているらしいが、私は勿論買わないし、もらっても捨ててしまう」(「音楽と人生」音楽之友社)と書いている。

   「パイプのけむり」の随筆で知られる作曲家・團伊玖麿(1924-2001)とは、まさに音楽家ライバルというより、愛煙家vs嫌煙家との論戦バトルが繰り広げられた。「日本のもっとも美しいオペラ・夕鶴が演奏されている時、やくざ風の男が何人か入ってきてタバコをプカプカ吸いはじめたら、私は、今は演奏中だから休憩の時に外で吸って欲しい、と言う。これが嫌煙権の主張なのである。その時、團伊玖麿氏は、嫌煙権などという下らないもの、と言って、やくざの方に味方するだろうか。こんなことは実際にないかもしれないが、團氏は文章の上ではこれと同じような事をしばしば書いている。嫌煙権を犬猿という字でからかって嘲笑した、連載随筆「パイプのけむり」を読んだ。(「音楽と人生」72頁)

   中田喜直の「音楽と人生」という本には、このほか福田恆存、西部邁、岩城宏之、生島治郎など実名をあげて愛煙家たちを批判している。昨今の日本社会での分煙対策を見ていると、中田喜直の過激とも思えた嫌煙論はほぼ全面的に認められたと思える。

2007年8月13日 (月)

すこし早く秋を感じる歌を聴く

   8月11日(土)の晩はNHK「第39回思い出のメロディー」を見る。とくに印象に残ったのは、岩崎宏美の「思秋期」だった。おそらく阿久悠の作詞ということで選曲されたものであろうが、番組のテーマ「ありがとう青春の歌」にふさわしい曲だ。サビ歌詞は「青春はこわれもの 愛しても傷つき 青春は忘れもの 過ぎてから気がつく」。ケペルは格別の岩崎宏美のファンではないが、数年前にポリプによる喉の不調の時期があったときくが、さまざまな人生経験を経て、聴く人の心を打つ歌手に成長したように感ずる。「思秋期」は昭和52年9月の発売で、番組「スター誕生」などでアイドル時代の岩崎がうたっているのを聞いたが、歌唱力は抜群だが、むしろ大仰な曲の盛り上げが、かえってアイドル歌手としてはマイナスに感じられた。30年の歳月が流れて改めて聞くと、一編のロマンチックな名画を観たようなドラマチックな感動にひたれる曲だ。ところで「思秋期」とは阿久悠の造語だが、青春時代を過ぎた人生の秋に初恋をおもいだす、というニュアンスが感じられてとてもいい。「秋」という季節感も心惹かれるものがある。

  秋になると聴きたい曲は?秋を感じる曲、など探せばきりがないかもしれない。「♪だれかさんが だれかさんが だれかさんが みつけた ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた」と誰もが一番にあげるのは「ちいさい秋」(作詞:サトウハチロー、作曲:中田喜直)だろう。昭和30年の曲だが、昭和37年、ボニージャックスで広く知られるようになった。トワ・エ・モアの「誰もいない海」も秋を感じるだろう。山口百恵「秋桜」、アリス「秋止符」、横山みゆき「秋止符」も個人的に好きだ。ヒット曲とはいえないが、石川ひとみ「秋が燃える」(昭和55年)もよく味わうといい曲だ。しかしなんたってアイドルの王道ともいえる曲のなかでは、松田聖子のグリコのポッキーのCMでお馴染みの曲「風たちぬ 今は秋 今日から私は心の旅人」と歌いだしにサビがある「風立ちぬ」(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一、昭和56年)であろう。「高原のテラスで手紙 風のインクで したためています」という信州か軽井沢を思わせる歌詞が、堀辰雄の「風立ちぬ」の文学的旅情へと誘う。山口百恵にも映画化作品「風立ちぬ」(若杉光夫監督、昭和51年)がある。病身の若い女性・節子と求婚者の青年との、高原のサナトリウムでの純愛を描いた。堀辰雄の小説では「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の章で昭和10年頃の高原の春夏秋冬を描いているが、節子が血痰を吐くのは秋が深まった頃だった。秋は四季のなかでも最もセンチメンタルな季節であろう。

2007年8月 9日 (木)

戸田極子とブラームス

   日本画家・守屋多々志が平成4年第77回院展に出品した作品に「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」がある。

   戸田極子(とだきわこ、1859-1936)は岩倉具視の次女で、旧大垣藩主戸田氏共(とだうじたか)に嫁いだ。生来の美貌と華やかさで、陸奥亮子(1856-1900)と並び、鹿鳴館の華と呼ばれた。

   戸田氏共は、廃藩置県後、伯爵となり、オーストリアの全権公使としてウィーンに赴任。山田流の筝曲をたしなむ極子は、ウィーン公使館でのパーティーで、琴の演奏を披露した。1887年から1890年にかけての話である。その席の客の一人だったのが作曲家のヨハネス・ブラームス(1833-1897)で、東洋のめずらしい調べに真剣に耳を傾けていたという。

2007年7月 6日 (金)

ど忘れ

   美空ひばりは、いつものようにステージに立った。幕が上がり、伴奏が流れた。ところが、歌いだしの歌詞がどうしても思い出せない。ひばりは「えーっと、一番の歌詞、一番、いちばん、イチバン…」と心の中で念じた。すると、突如、思い出した。

  一番 乗りをやるんだと

  力んで 死んだ 戦友の

  遺骨を抱いて 今入る

  シンガポールの 街の朝

   「戦友の遺骨を抱いて」(昭和18年)は、陸軍主計軍曹だった達原実(1918年生)が陣中新聞に詩を発表し、それに松井孝造が曲をつけ、南西艦隊軍楽隊のコンクールで当選した歌。戦後になっても、多くの歌手によって歌い継がれている。

2007年6月25日 (月)

佐伯孝夫の青春

    佐伯孝夫(1912-1981)は歌謡曲作詞家として戦前は佐々木修一(1907-1957)、戦後は吉田正(1921-1998)とのコンビで数々のヒット曲をうんだ。歌手では戦前は藤山一郎、戦後は橋幸夫などのヒット曲に恵まれた。吉田正は「自分の歌の先生は佐伯孝夫氏だ」と言っていた。

    佐伯孝夫、本名・和泉孝夫は明治35年11月22日、東京・京橋の生まれ。宇都宮中学を経て、早稲田第二高等学院から早大仏文科に学び、西條八十に師事した。大正13年、同人誌「棕櫚の葉」を横山青蛾、加藤憲治、村野三郎、寺崎浩、渡辺修三らと創刊した。また吉江喬松が中心となっていた「青色の室」で詩作に励んだ。大正15年に大学を卒業すると、浅草のカジノ・フォリーの仕事もした。そして昭和4年に国民新聞学芸部記者をしながら、作詞家活動をはじめる。国民新聞(昭和19年まで)、東京日日新聞社に勤務。この間、ビクター専属となり、戦前「湯島の白梅」「鈴懸の径」戦後では「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」などがある。

   レコード歌謡曲のデビュー曲は、昭和6年12月に発売された、藤山一郎の「栄冠涙あり」である。若きボートマンをテーマにした青春讃歌。つづいて「青春グラウンド」「野球小僧」「若い力」などのスポーツソングを書いている。また作曲家・佐々木修一とのコンビのヒット曲に「僕の青春」「無情の夢」「燦めく星座」「新雪」「明日はおたちか」「月よりの使者」「桑港のチャイナタウン」「アルプスの牧場」「高原の駅よ、さようなら」などがある。このほか「思ひ出のギター」「チェリオ!」「赤い花」「さらば青春」「僕の銀座」などには佐伯歌謡の特色がよくでている。

2007年6月23日 (土)

謎のジャズ曲「アラビアの唄」

  砂漠に日が落ちて 夜となる頃

  恋人よ 懐かしい

  唄をうたおうよ

  あの淋しい 調べに

  今日も 涙 流そう

  恋人よ アラビアの

  唄をうたおうよ

    ケペルの父は昭和の初め、浅草の宝亭という店でコックをしていた。そのころ、カジノ・フォリーで榎本健一と二村定一をよくみたといっていた。カジノをもじって「タバコの火が落ちて、火事となる頃」という替え歌がはやった。ところでエノケンは日本の喜劇王だが、現在、二村定一の名を知る人は少ない。流行歌手第一号といってもいいだろう。

    二村定一(1900-1942)。本名・林貞一、愛称・べーちゃん。明治33年6月13日、下関市中之町で、料亭を営む二村貞衛、林トキの長男として生まれる。大正4年、大阪薬学校に進学したが、宝塚少女歌劇に傾倒したため、中退。大正9年、浅草金龍館で根岸歌劇団の高田雅夫に弟子入り。大正末年には森歌劇団、五彩会歌劇団、草玉木座で佐々紅華のオペレッタに出演。大正14年「ジャズ・ソング」、昭和3年「アラビアの唄」「青空」が大ヒット。

    この「アラビアの唄」はアメリカではほとんど知られていない曲である。昭和2年、アメリカから帰国した堀内敬三(1897-1983)がフレッド・フィッシャー(1875-1942)の曲に訳詩をつけて楽譜を出版した。同年、二村定一が浅草オペラで歌い、のち天野喜久代とデュエットのレコードを発売。フィッシャーは「ダーダネラ」「シカゴ」などのスタンダードを残した有名な音楽家であるが、ジャズであるかは疑問。また「アラビアの唄」もジャズであるか疑問がある。当時、アメリカの新曲であれば、即ジャズと考んがえられていたようだ。二村はやがてディック・ミネなどの登場によって人気は下降する。しかし「アラビアの唄」のもの哀しいメロディーは浅草オペラを代表する名曲として記憶にのこるであろう。

2007年5月 4日 (金)

歌謡曲日英混交歌詞のルーツを探る

    流行歌の中に英語のフレーズが挿入されるのは、今日ではあたりまえのようであるが、そのルーツを探ることは、ちょっと調査に時間がかかりそうで正確なことは難しい。伊藤雅光(国立国語研究所)fは荒井由美の楽曲を中心に日英混交テクストで国語学の観点から語彙調査をしているようだが(「ポップス系流行歌の語彙調査における外来語と外国語の判定基準」計量国語学23巻2号、2001.9.20)、ケペルは史的関心からの調査では1960年代後半のグループサウンドにそのルーツをみることができる。1970年代、橋本淳、松本隆らが、日本の歌謡曲に英語歌詞を定着させた作詞家である。もちろん洋楽カバー曲であれば1950年代から60年代に多数みられる。漣健児の訳業も評価すべきであろう。

飯田久彦「悲しき街角」(漣健児・訳詩、1961)

北原謙二「北風」(服部レイモンド・訳詩、1964)

ブルー・コメッツ「青い渚」(橋本淳・作詞、1966)

    二人で歩いた 砂山の

    どこかに消えた

    My  Lonely  First  Love

   ザ・タイガース「シーサイド・バウンド」(橋本淳・作詞、1968)、「シーシーシー」(安井かずみ・作詞、1968)などグループサウンズの歌詞には多く英語のフレーズが登場する。ザ・ジャガーズ「君に会いたい」(清川正一・作詞、1967)では「マイベイビー ウォンチュー ウォンチュー シーアゲン」とカタカナ表記である。歌手としては、南沙織(シンシア)が美しい発音で歌謡曲の中にさりげなくメロウなサウンドを聞かせてくれた。原田真二の音楽は、いまにして思えば先駆的な曲であった。1980年代、ニューミュージックに英語歌詞が多いのは、当然ながら、アイドル黄金時代の近藤真彦、田原俊彦の歌詞は「Ⅰ need you baby」「Ⅰ Love  YOU」などカタコト英語が多く、1960年代を超えるものではなかった。むしろ松田聖子の「赤いスイートピー」「スイート・メモリーズ」等にJ-POPにつながるものが見られる。そして歌謡曲日英混交歌詞の決定版は、小林明子「恋に落ちて」だろう。

         

南沙織「春の予感」(松本隆・作詞、1977)

  春の予感 そんな気分

  時を止めてしまえば

  春に誘われたわけじゃない

  だけど 気づいて

  Ⅰ've been mellow

原田真二「キャンディ」(松本隆・作詞、1977)

   Candy,Ⅰ love you

  目覚めてよ

  窓を超えて ぼくは来た

  イバラに囲まれ眠る

  横顔を揺り起こすのは風さ

ゴダイゴ「ガンダーラ」(タケカワ・ユキヒデ作詞、1978)

ジュディ・オング「魅せられて」(阿木耀子・作詞、1979)

桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」(松本隆・作詞、1979)

松田聖子「赤いスイートピー」(松本隆・作詞、1982)

松田聖子「SWEET   MEMORIES」(松本隆・作詞、1983)

吉川晃司「モニカ」(三浦徳子・作詞、1984)

アン・ルイス「六本木心中」(湯川れい子・作詞、1984)

小林明子「恋におちて」(小林明子・作詞、1985)

           *

ふと思い出した曲に、田辺靖雄「もちろん好きさ」(佐伯孝夫・作詞、1965.8)がある。

  好きかって聞くの もちろんさ

  いつでも いつも

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