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2009年11月 2日 (月)

変節漢

    もうはや今年も一年を回顧する季節になったが、やはり雑誌の休刊が相次いだことが印象的である。とくに総合オピニオン雑誌「諸君!」(文芸春秋)は6月号で休刊した。創刊は昭和44年6月という。たしかに総合誌はあまり若い読者はいないし、書き手も多くは亡くなり、近頃の大学の学者たちはあまり過激な論文はないように思える。そのため「論座」「月刊現代」そして「諸君」と消えていった。「諸君!」は「正論」と並んで保守オピニオン誌の代表誌である。休刊を惜しむ人、歓迎する人、さまざまであろう。わたしは政論に無関心であるが、そのむかし清水幾太郎(1907-1988)が「日本よ国家たれ、核の選択」(諸君1980年7月号)が掲載されたときは衝撃的であった。清水幾太郎といえば、何といっても戦後の「反基地闘争」「反安保闘争」などをリードした進歩的知識人の代表であった。「転向」「変節漢」などの声が聞かれた。だが思想の世界は、基本的にとどまるも良し、変転するも良し、一個人の自由であろう。

「日本も世界も猛烈な勢いで変っている。日本の高度成長にしても、終戦直後の日本人に想像もつかないことだった。・・・・Aの時点で言ったことと、Bの時点で言うこととは、同じことであろうはずはないですよ。隠居してしまえば別ですがね・・・・」清水はこのように言っている。それから社会主義国のソビエトが解体した。大国がもろく崩壊するのを初めて見た。凡人はあとで知る。清水クラスのインテリは先を読む。清水ほどではなくても、身近にいる全共闘世代も変節するのが得意だ。むかし館長を難癖をつけて攻撃しておきながら、30年後のいま自らがその職にいる。当人にはそれなりの理由づけがなされるのだろうが、端で見て知っている者にはどうにも官の無定見さが愚かしく思える。人生、隠居するのが一番である。

2009年10月12日 (月)

多元主義とアメリカ社会

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   バラク・オバマ米大統領がノーベル平和賞を受賞することになった。早すぎるという声もあるが、とりあえず、オバマ大統領、おめでとう。「核なき世界」にむけての行動にみんなが期待しているということであろうか。

   アメリカは、当初100万人といわれたアメリカインディアンの土地に、主としてヨーロッパからの移民によって開拓が進められた新興国である。ヨーロッパ諸国と比べて後進国であったアメリカが何故世界中で一番資本主義が発達した国となったのか。それは「人種のるつぼ」といわれるように、地球上のあらゆる人種・民族が混在する複合民族国家であることが大きな要因のひとつであろう。世界中からの移民によって建設した国家である。それが経済的にも、文化的にも、豊かさとダイナミズムとヴァイタリティをもたらした。アメリカの社会学者タルコット・パーソンズ(1902-1979)はそれを多元主義と呼んでいる。個人の進取の気性と、自由と、個々のイニシャティブ、つまりリベラル・デモクラシーの健全な発展が必要なのである。

2009年9月22日 (火)

国家と戦争

Img_0014 ホッブズ「リヴァイアサン」扉絵

  歌人というのは一般人より言語感覚に鋭いのだろう。道浦母都子の朝日新聞2009.9.13付論稿「国家戦略局、違和感ある政治用語一新を」は考えさせられるものがある。民主党新政権が作り出した新しい機関「国家戦略局」という名称が戦争を想起させるもので政治用語として適切でないという趣旨である。決して機関設立そのものへの異議ではない。単なる言葉だけの問題ではあるが、歌人ならではの意見であろう。同様の趣旨は朝日新聞の投稿欄「声」にもあった。国家は国家総動員法を想起させるとのことであった。しかし単に「国家」がいけないのであれば、「国家公務員」「国家賠償法」「国家補償」「国家法人法」などいくらでも使用例があり、一笑にふされるであろう。現在、地球上の民族は国家を一つの単位として国家を構成し、国権の発動する機関であるので、「国家」の政治用語としての使用に関しては全然問題がないといわざるをえない。

   しかしながら、歴史家の立場として考えてみると国家と戦争とは常につきまとうのも事実である。中世封建社会の変化により、ヨーロッパの各国では国王による中央集権化が進み、近代市民社会への過渡期にあたる絶対主義体制が成立した。16世紀におけるスペイン、イギリス、17世紀のフランスがその典型であるが、18世紀初めのスペイン継承戦争によりスペインが没落し、かわってオーストリア、プロイセン、ロシアが登場した。これら諸国はヨーロッパの覇権をめぐってたえず争いを続けた。とくに17世紀に覇をとなえたフランスは、たびかさなる戦争で財政難をおこし、18世紀後半に革命を起こすに至った。ナポレオン戦争後の19世紀のヨーロッパは、自由主義と国民主義、そして帝国主義へと移行した。近代化に遅れた日本も明治国家となって帝国列強に加わるようになる。そして日清、日露戦争に勝利する。

   歌人・与謝野晶子には二つ年下の籌三郎という弟がいる。明治37年秋、晶子は旅順に出征している弟に「君死に給ふこと勿れ」とよびかける詩を「明星」に発表した。「旅順の城はほろぶとも、ほろびずとも何事か」と決然といいきった。非国民と非難されても、晶子は「少女と申す者は誰も戦争ぎらいに候」と答えたという。国家よりも肉親の情が大事であることはいつも世も変わりない。やはり「国家戦略局」は陳腐な名称である。

2009年9月17日 (木)

秋扇

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    77パーセントという高い支持率の鳩山内閣が始動した。新人議員、田中絵美子や福田衣里子の国会初登院姿もういういしい。4年前、小泉チルドレンの佐藤ゆかり、片山さつきを思い出す。夏の総選挙が終って、季節はもう秋。まるで使わなくなった扇がひっそりしまわれるような寂しさである。

  一夜明けて忽ち秋の扇かな
                  虚子

2009年9月10日 (木)

姦通罪と掠奪婚

   有島武郎(1878-1923)は大正12年軽井沢別荘で波多野秋子と情死した。有島の死は彼女の夫波多野春彦から姦通罪をもって脅迫されたことが、直接的原因とされている。ところで有島の代表作「或る女」のヒロイン葉子をスキャンダル記事で追い込む田川法学士夫人のモデルは鳩山一郎の母・鳩山春子(1863-1938)だといわれている。有島は社会主義高揚期にあって、ブルジョワとプロレタリアとで苦悩し、鳩山一族をブルジョワの代表して考えたのであろう。100年経っても日本一の政界の名家は健在だった。鳩山由紀夫の内閣総理大臣誕生の日が来るのは近い。ファースト・レディは鳩山幸。鳩山幸は上海生れの神戸育ち。「若みゆき」という名で宝塚歌劇団で娘役として活躍していた。退団後、渡米し、サンフランシスコでレストランを経営する日本人男性と結婚。ところが、その3年後に留学生・鳩山由紀夫と出会って不倫関係となる。2人はそのまま日本に帰国。つまり留学先のお世話になった人と奥さんを奪ってしまったことになる。いまだから掠奪婚ですませられるが、むかしでいう姦通罪である。あの有島武郎が心中におついめられた行為が、名家鳩山一族ならば許されるという日本社会がなんとも言葉にないものを感じている。

2009年8月13日 (木)

社会の木鐸

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    世の中に警告を発し、社会を正しい方向に導くというこの意味の言葉は、新聞の代名詞としてしばしば使われる言葉である。しかしながら最近の新聞を読んでいると、「社会の木鐸」というよりも「世論誘導」というような気がする。近頃の政権交代ムードはマスコミのあおりの結果であり、真の民衆の声からの革命とは無縁のものであろう。だが日本の歴史的な出来事がこれからはじまるのも事実であろう。如何なる結果になるにせよ静かに見守りつづけよう。どうせこの世は有為転変。つくられたものは変わっていくのだから。

2009年8月 4日 (火)

象徴天皇論と筧克彦

    敗戦後、新憲法の制定が問題になったとき、従来の神権天皇制をどうすべきかが争点となり、天皇制廃止論も一部にはあった。しかしアメリカの判断によって、新憲法は天皇主権・神権主義は否定しつつも、天皇という世襲的機関は、まったく政治的権力をもたない儀礼的役割をもつものとして認めることとなった。つまり象徴天皇制は主にアメリカの意向によるものとされているが、日本の憲法学者たちはいつごろから象徴天皇論を唱えるようになったのであろうか。新憲法制定には三宅正太郎、横田喜三郎、金森徳次郎ら憲法学者の名前が挙げられる。ところが戦前、美濃部達吉よりも優秀な人材として知られた筧克彦(1872-1961)の名前については今日では秘されることが多い。筧はドイツ留学時にキリスト教と出会い、帰国後、すでに大正初期から独自の古神道論を展開し、キリスト教の神と天皇制との融合を試みようとしていた。この筧克彦から貞明皇后はキリスト教に接したといわれる。その仲介となったのは関屋貞三郎の妻である関屋貞子である。また戦時中には吉田茂らのグループは敗戦を想定して、戦争放棄と天皇の象徴制を構想していたらしい。つまり筧の象徴天皇論は明確な形ではないものの、独自の神道哲学とヘーゲル哲学の融合から、天皇を非権力的な存在にしようとする戦前の思想がすでに国内にも存在しており、新憲法の「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」という戦後の思想潮流へと帰一するのである。

2009年7月27日 (月)

ファースト・レディはトップモデルで歌手

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   フランス大統領サルコジは26日ベルサイユ宮殿の庭園内をジョギング中に身体の不調を訴え、ペリコプターで陸軍病院へ搬送された。サルコジの趣味はジョギングで、今月訪問先のニューヨークでもセントラルパークでジョギングをしていた。サルコジはセシリアと離婚したのちモデルで歌手のカーラ・ブルーニと結婚。18日に開かれた南アフリカ元大統領マンデラの誕生日を祝うパーティーで、ブルーニは自身のヒット曲「ケルカン・マ・ディ~風のうわさ」を歌った。パーティーにはスティービー・ワンダーやシンディー・ローパーなども出席していたが、サルコジ大統領の親米ぶりに夫人の内助の功ありということか。美しいファースト・レディー、今度は献身的な介護に務めるのだろうか。

2009年7月14日 (火)

選挙の夏がやって来る

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  ついに麻生首相は総選挙の日程を「8月18日公示、30日投開票」と決めた。7月21日にも衆議院を解散するという。戦後の衆議院解散にはさまざまな名称が与えられている。一番知られているのが、昭和28年4月19日の「バカヤロー解散」(吉田茂)、昭和35年11月20日の「安保解散」(池田勇人)、昭和42年1月29日の「黒い霧解散」(佐藤栄作)、昭和61年7月6日の「死んだふり解散」(中曽根康弘)というおかしな名称もある。今回の解散はどんな名称になるのだろう?「バカタロー解散」「のたれ死に解散」「玉砕解散」「頓死解散」などなど。ともかく帰省シーズンのお盆直後の選挙戦。議員の先生や運動員など炎暑の中で熱中症にならないかと心配だ。全国の夏祭りや花火大会。それに高校野球。日本テレビの恒例24時間テレビ「愛は地球を救う」はどうなるんだろう(笑)今年の日本の夏は暑くなりそうだ。

2009年5月19日 (火)

新型インフルエンザ感染予防のためのマスクに関して

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   新型インフルエンザの水際対策に失敗した日本では、いま感染拡大期、あるいは蔓延期になって患者が日々増加しつつある。19日午前11時現在で173人(兵庫103人、大阪70人)いずれ京都、奈良へと拡大するのも時間の問題であろう。関西を中心とする修学旅行のキャンセルが相次いでいる。関西では神戸まつりの中止など、イベント、催しの自粛ムードで沈滞気味である。兵庫県と大阪府では一斉休校の措置がとられている。美術館、図書館でも臨時休館しているところがある。とくに目立つのはマスク姿の通勤客である。国も「マスクの着用」を要請しているし、マスクは会社でも常時着用しているところも多い。マスク製造販売業者の方からは叱られるだろうが、マスクという物に依存した対策に疑問があるように思う。
   われわれはふつう風邪をひいたときマスクをする。これは患者がくしゃみや咳で他人に感染したないための「咳エチケット」としてのマスク着用である。だが今回は感染予防としての自衛手段としてのマスク着用のように見受けられる。マスクはのどの保温保湿効果で抵抗力も高めることができる。ただし、街中での感染予防効果はどれほどあるかは、わからない。科学的根拠は明らかではないという。むしろ衛生の基本として、栄養や睡眠を十分とり、規則正しい日常生活を続けることこそ大切ではないだろうか。マスクも品切れ状態が続き、薬局で何十人も並んでやっと買ったが、人混みで感染したということにならないだろうか。感染者が推定5千人以上いるというアメリカでもマスクをしている人をほとんど見かけないという。世界的にみてもこれほどの人がマスクを着用しているのは日本だけだろう。もちろん官庁や会社でマスク着用を義務づけているところもあるだろうが、みずから進んでマスクをしている人も多い。日本人にマスク着用者がとくに多いのは、おそらく花粉症対策の習慣からくるもので、マスクをしておれば安心として、一種のマスク過信が存在するのではないだろうか。マスクをはずすとき、ひもをもってはずさないと、ガーゼの面にふれるとむしろ汚染するので、使い方を間違えばかえって感染することも多い。ともかくマスクは国民的風習なのか、行政指導なのか知らないが、マスクなしで街中を歩くと白い眼で見られるような状況である。休校で中・高校生は繁華街やカラオケボックスで遊んでいるし、母親やお父さんも家庭や職場でストレスがたまっている。長期戦になると思うし、感染よりも過剰な不安による社会マヒが悪影響を与えることをなにより懸念している。

2009年5月13日 (水)

政治家の品格

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  鴻池祥肇官房副長官が突然辞任した。なんと愛人同伴で2泊3日の熱海ゴルフ旅行を週刊誌にフォーカスされたことが理由らしい。まったく国民をバカにしたあきれた話だ。不倫は個人の問題であるとしても、とくにJR無料パスを使用したことは、国会議員の特権を悪用したものとして許せない。週刊新潮には「ボクは祖父からのDNAがあって女癖が悪い。あのタレントの草なぎと同じように失敗してきた。麻生政権の足を引っ張るようなことをやって申し訳ない」「浮気といえば浮気や。全部捨てて一緒になるわけやない」草なぎを持ち出して世間の同情をかおうとするし、祖父からのDNAのせいにする。自身を3代にわたる艶福家、つまり女にようもてる、10人の女がいた、とか自慢話のように聞える。週刊誌を読んだ印象では、反省の色なし。というより政治家としての責任感というか使命感が全く欠如している。4月28日といえば新型インフルエンザの対策本部を設置した当日のこと。危機感ゼロ。麻生首相は健康上の理由で辞任したのだから、任命責任は無しという。役職を辞任したといっても議員をやめるわけでないから、どうってことないわけだ。麻生にしても小沢にしても鴻池にしても、どうしてこのような人が政治家になるのだろうか。結局、その権力にむらがり、利権をあさる国民がいるからだ。すべて己の欲や利害関係で投票する人が多いのだろう。汚れた顔の日本人をみるのが辛く悲しい。

2009年5月11日 (月)

国家権力と自然法との上下関係

Photo トマス・ホッブズ

    近代国家においては、すべての政治は原則として法によって行なわれる(法治国家の原則)。ところが古代においてはローマ帝国の場合、「君主は法に拘束されない」とか「君主の欲するところは法の効力をもつ」という法諺が示すように、イムペリウムは絶対的な権限として考えられていた。
    中世のローマ教会が支配する時代になると、トマス・アクィナス(1225-1274)が体系化した自然法は、「理性的被造物によって分有された永遠法」であり、神法的性格をもつ。ゆえに、自然法は実定法を制約する。そこで、かりに「君主の欲するところが法である」としても、その法は実定法にほかならないから、自然法による制約を受ける。したがって、君主もまた自然法の下位にあると考えられた。
   これに対してトマス・ホッブズ(1588-1679)は、自然法とは人間が快適に生きるための条件であり、自然権の確保のために人間が必要としする条件であるとした。そのため契約によって全権を主催者にゆだねて国家を造ったとする一種の社会契約説が生れるようになる。ホッブズは近代的法の支配の主唱者であるといえる。

2009年4月26日 (日)

ブルジョワとプロレタリアの階級制度は今も健在である

    自民党の若手議員の勉強会で国会議員の世襲制限が話題になっている。もちろん党内実力者から批判が相次いだ。鳩山邦夫は21日の会見で「世襲は一切認めない、直系の両親どちらかが国会議員だったら選挙に出ないという規則が決まったら、私も総理も出られない。潔く従うことはありうる」と述べた。

    鳩山邦夫の祖父・鳩山一郎は元首相、父・鳩山威一郎は元外相。戦前、鳩山一郎が文部大臣だったとき、学問の自由の弾圧で知られる京大滝川事件があった。(昭和8年)

    有島武郎(1878-1923)の名作「或る女」(大正8年)でヒロイン早月葉子は、アメリカにいる許婚の木村のもとへおもむく途中、船の事務長倉地と恋仲になる。そこで葉子をスキャンダル記事で追い込む田川法学士夫人のモデルは、鳩山一郎の母・鳩山春子(1861-1938)だといわれている。社会主義運動の昂揚期にあって、ブルジョワとプロレタリアとで苦悩した有島武郎は、鳩山ファミリーをブルジョワの代表として描いた。100年後も鳩山ファミリーは健在だ。ただ酔っぱらっただけの草なぎ剛を「最低の人間」と罵倒しえるのは、自分は名門の出身で偉い人間と思っている傲慢さから出た言葉である。金があり権勢のある者が、人を死刑をできる権限が与えられ、マスコミの会見で人間を評価できる、ということに、この国の民主主義制度の怪しいものを感じる。

2009年4月22日 (水)

サンヨー夫人

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   戦後の日本社会を一口で言うと、電化時代である。この電化時代の旗手は、家電業界で、日立、東芝といった関東の重電機メーカーに対して関西の松下、三洋、シャープは、初めから家電一本槍で事業を展開をしてきた。三洋電機といえば、バドミントンのオグシオ(小椋久美子、潮田玲子)が有名であるが、かっては女優の木暮実千代(1918-1990)が「サンヨー夫人」として知られていた。

   昭和28年のことである。三洋電機宣伝課では新製品の洗濯機でイメージ・タレントの選択会議がおこなわれていた。「洗濯機は主婦が使うものでして、その主婦代表として3人のスターの中からサンヨー夫人と命名して、当社の宣伝に使います」と亀山太一宣伝次長は述べた。その3人のスターとは、小桜葉子(上原謙夫人)、高杉早苗(市川段四郎夫人)、木暮実千代(和田日出吉夫人)であった。木暮は当時「25才以下の方は、お使いになってはいけません」という斬新なキャッチコピーで知られた「マダムジュジュ」化粧品クリームのイメージが強かった。社内には木暮反対のムードが強かった。だが亀山はサンヨー夫人のイメージは木暮しかないと決断した。まもなく新聞にサンヨー夫人が「みなさまにおすすめします」という形で登場した。宣伝キャンペーンは大成功だった。1年後には生産は月1万台とはねあがった。それに昭和29年には、ジュジュ化粧品は、CMタレントを、木暮実千代から新星・岡田茉莉子に切り替えていた。ある新聞の調査によると、あの大スターの木暮を、サンヨー夫人の広告をみて、木暮実千代と答えた人より、驚いたことに、サンヨー夫人と答えた人の方が多かった。広告の力たるや恐るべし。

2009年4月21日 (火)

宝塚に女性市長誕生

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   六甲・長尾の山々のふもとに広がる、宝塚市。武庫川がゆったりと流れ、自然があふれる街。この宝塚に少女歌劇が誕生したのは大正3年3月のことである。わずか20人の少女たちによる初演は桃太郎をモチーフにした「ドンブラコ」だった。以来、女性だけが出演する舞台は、昭和初期にはまだ目新しかったレビューを取り入れるなど、芝居あり、ショーあり、日舞ありと多彩な公演スタイルでタカラヅカが全国的に知られるようになった。このような宝塚市に19日、初の女性市長が誕生した。中川智子は唯一の女性候補であることを強調し、「汚職で逮捕された女性首長はいない。クリーンな女性市長を誕生させよう」と訴え、保守分裂の選挙のなか、他の5人の候補者(伊藤順一、芝拓哉、西田雅彦、菊川美善、中原等)を制して当選した。阪神間では平成になって、芦屋市、尼崎市と女性市長が誕生している。「宝塚を変える」という願いが投票になって現われたが、これから議会運営が課題となりそうだ。これまで無関心だった市政にもっと市民が積極的に参加することが求められているのではないだろうか。

2009年1月22日 (木)

あれから14年

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1月21日早朝に放送されたNHKのニュース番組での小さなお話。

    神戸市長田区の写真屋Aさんは震災でお店が全壊した。すでに60歳を超えていたAさんは店の再建を断念した。手許には1月17日の数日前に撮った成人式の晴着姿の記念写真があった。Aさんはノートを頼りに14年間、現住所を調べて記念写真をお客様に届けた。だが14年たった今も行方のわからない写真が2枚あった。それも今年Aさんの努力が実ってようやく振袖姿の写真を渡すことができた。14年後に受け取った女性の喜びはどんなであろうか。その女性は受け取り書を今も大切に保管していたという。当たり前の話で小さな話だが視聴者にも大きな感銘が伝わってくる。写真屋Aさんのほっとした表情がなにより印象的であった。

2008年12月15日 (月)

裁判員制度と陪審制

   いよいよ2009年5月21日から裁判員制度が始まる。制度そのものをあまり理解していないから、この記事には誤りがあるかもしれないことをあらかじめお断りしておく。裁判員制度とは「現代用語の基礎知識2009」に「法律の専門家でない一般国民が刑事裁判に参加し、裁判官とともに審理を進め、評決によって判決の内容を決める制度」とあり、つまりいわゆる陪審制と解釈する。広辞苑には「陪審(ばいしん)一般市民から選定された陪審員が審判に参与して、事実の有無などにつき評決する裁判制度。わが国では、1923年の陪審法によって刑事事件に関する審理陪審が認められたが、1943年停止」とある。日本にも陪審制度があったとは知らなかった。ただし、戦前の陪審法では、陪審員の答申には拘束力がなく、法律の適用や量刑は裁判官が行ったので、実際は「参審」というもので、つまり「狭義の陪審制」である。有罪の場合、被告は多額の陪審費用を請求されたり、陪審制度を利用すると控訴が許されないなどから、次第に利用件数が減り、昭和3年から昭和18年までの15年間で、陪審裁判は484件、無罪率は16.7%と制度導入実績は低調で失敗だったといえる。

    今回の裁判員制度導入の経緯は詳しくは知らない。裁判の短期化、裁判コストの削減などにその理由をあげられるが、その導入には問題点が多いように感ずる。社会の関心が集るような重大事件に限って導入するような背景には、「凶悪犯罪のショー化」という一面が見られる。また裁判官よりも選任された裁判員のほうが、「社会常識」がある、というのもウソ臭い話である。おそらく一般国民はメディアがつくった倫理や情緒に左右されやす傾向にあるだろう。「凶悪犯に死刑判決を」と煽られて、スピード判決で、数年後に真犯人が現われて、実は冤罪だったという事例が起こりうる可能性が高い。もちろん選任された裁判員は個々の良心に従って、真剣に審理するだろうが、素人に人を裁くことがほんとうにできるのだろうか。

   陪審制の起源は、ゲルマンのフランク時代に、事件が起こったとき村人たちに宣誓をさせて犯人を指名させる慣行ができた。これがノルマン・コンクェストによって、イギリスに伝えられたといわれる。イギリスでは12世紀に、これが起訴陪審の原型を形づくることになった。起訴陪審とは、被告人を審判にまわすかどうかを陪審できめる制度である。はじめは、この起訴陪審で審判にまわされた被告人は、いわゆる神裁(くがたち)であかしを立てないかぎり有罪とされたが、13世紀に神裁が禁止されてのち、その同じ起訴陪審の人たちによって裁かれることになった。しかし、起訴した者が自分で裁判するのでは不公平のおそれがある。そこで、やがて裁判するときには、新しいメンバーを加えるようになり、さらにのちには、新しいメンバーだけで裁判するようになった。このようにして起訴陪審のほかに審判陪審ができた。前者は一般に大陪審といわれ、後者は小陪審といわれる。大陪審はうまく機能しないことが多いが、小陪審のほうは人権を保障するための制度として、世界で多く採用されている。日本の裁判員制度の性格は、被告の人権を保障するという点よりも、一般国民という法の素人によるリンチ刑という色彩が濃い。古代日本には、「盟神探湯(くがたち)」といって、真偽正邪を裁くのに神に誓って手で熱湯を探らせたことが知られているが、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」や「くがたち」など古代の律法は苦痛を与えるというある種の拷問の性格をもっていたと考えられる。裁判員制度導入による厳罰主義で死刑が増えることによる見せしめ的効果を図り、凶悪犯罪を抑止することが本当の狙いなのだろうか。

   もちろん裁判員法では、「私刑(リンチ)」や「素人の暴走」にならないための配慮が加えられている。裁判員と裁判官とがそれぞれ最低1人ずつは有罪に賛成していなければ被告人を有罪にできない。例えば、裁判官3人が無罪、裁判員6人が有罪として場合には、多数意見は有罪だが、裁判官が1人も賛成していないので無罪となる。なお、裁判官と裁判員とで一票の価値に差はない。このような法文があること事体、「裁判員の暴走」という懸念があるという証左であろう。

2008年11月27日 (木)

花王と新聞広告

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「新装花王」石鹸発売当時の全ページ広告

   長瀬富郎(1863-1911)は、明治20年、洋小間物店「長瀬商店」(のちの花王)を馬喰町2丁目に創業したが、間もなく石けんの製造・販売を始め、明治23年に「花王石鹸」を発表した。ちなみに製品名に付けられ、その後社名にもなった「花王」とは「顔を洗う」からとられたものである。また会社のロゴとなっている「月のマーク」もこの時期採用された。当時、国産石けんは輸入石けんとは比べものにならないほど低廉で粗悪なものであったが、「花王石鹸」は、国産初の高級石けんであり、販売方法も当時としては珍しい全国販売を目指していた。

   昭和6年3月1日、「新装花王」石鹸発売の全ページ広告が当日の「東京朝日」「国民」「時事」「大阪毎日」「大阪朝日」など新聞各紙に掲載された。その後も花王は、太田英茂(アート・ディレクター)、飛鳥哲雄(デザイナー)、金丸重嶺(写真家)らの才能を結集した宣伝活動により、着実にその業績を伸ばしていった。

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   創業者・長瀬富郎

2008年11月11日 (火)

貴族階級はいつも無定見である

    麻生首相が国会で、戦争責任に関する政府見解で「村山談話をふしゅう?する」という答弁を何度も繰り返した。「ふしゅう」とは「踏襲(とうしゅう)」の誤読だという。麻生はこれまでも、前場(ぜんば)を「まえば」、有無(うむ)を「ゆうむ」、詳細(しょうさい)を「ようさい」と誤読している。漫画が好きで漢字が苦手というのは分からぬでもないが、「村山談話を踏襲する」が正しく読めないようでは、本人がどこまで戦争責任を感じているか疑問である。かつて「小説の神様」とまで讃えられた志賀直哉は戦時中に「シンガポール陥落」という短文で時局に迎合する文章を書いたが、戦後はすぐに変節して、「国語問題」という一文を「改造」に載せている。「私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考えている。それにはフランス語が最もいいのではないかと思う。六十年前に森有礼が考えた事を今こそ実現してはどんなものであろう。不徹底な改革よりもこれは間違いない事である」と平気で言っている。麻生にしても志賀にしても貴族社会で育った人は現実離れしている。体制が変われば言説を変えることは平気である。

2008年1月11日 (金)

泉大助と「明るいナショナル」

    わが家に初めて白黒テレビが来たのは昭和35年のことであった。その日のことを鮮明に覚えているのは、よほど子どもにとってテレビという存在が、革命的な出来事だからであろう。視覚に訴える映像の力の大きさを思い知らされる。電器屋が届けてくれた新しいテレビはシャープだった。ちょうど「ララミー牧場」がラストで淀川長治の「西部こぼれ話」が映されていた。ナショナルキッドが放送開始されたのはまもなくのことだった。(昭和35年8月):つまりケペルはウルトラマンはほとんど見ていない。かぶりものヒーローといえばナショナルキッドなのだ。原作は月刊漫画誌「ぼくら」に連載された一峰大二の漫画。ナショナルキッドは、当時、新東宝の宇津井健のスパージャイアンツが子どもたちに大人気だったので、そのテレビ版として東映が企画したものだそうで、タイトルは「スーパーキッド」とする予定であった。単独スポンサーの松下電器の要請により、「ナショナルキッド」と変更された。子ども向けヒーローの名前に会社名が露骨につくところが今思えばスゴイ時代である思うが、あの頃は何の抵抗感もなく主題歌「雲か嵐か雷光(いかづち)か」と歌っていた。「いかづち」とはナショナルのロゴマークであることも今になって気づいた。オープニング映像にはナショナルの電飾広告塔が聳え、バックに空を飛ぶナショナルキッドが見える。光線銃はナショナルの懐中電灯のように見える。このようにマーチャンダイジングが徹底して行われた。電気屋の店頭にはナショナル坊やの人形が置かれ、テレビでは「ナショナルプライスクイズ、ズバリ!当てましょう」が始まった。(昭和36年)泉大助というあまり個性のない背の高い平凡な感じのおじさんが司会で「内輪で一番近い方は」と毎度のように言うので流行語となった。解答者は一般人だったが、ゲストタレントの時もあり、ノーヒントでズバリ当てて100万円相当のナショナル電化製品を手にした有名人もいたと思うが、それが誰であったか思い出せない。子ども心にうらやましいと思い、消費欲をかきたたせる趣向であった。三木鶏郎の「明るいナショナル」というテーマソングもこの番組によって親しんだ。

    昨日、松下電器産業は会社名を「パナソニック」に統一する方針を発表した。さすがは大企業の話題だけにメディアはどことも大きく取り扱っている。社名変更の問題は、松下幸之助(1894-1989)の生前からあったという。朝日新聞によると、病院に入っていた松下幸之助に「もうナショナルは古い。ブランドをパナソニックに統一してはどうか」と打診したところ、幸之助は何も言わずに顔をぶるぶる震わせて憤り、この役員は青い顔をして病院を後にしたという。以後、20年間、松下電器では、ブランド名の統一の話はタブーであったという。このエピソードは、昭和産業史の一つのエピソードとして後世に残るものであろう。

2007年3月10日 (土)

古典的なイギリスの貧困研究

   貧困や格差、ワーキングプアなど日本で大きな問題となっている。貧困の研究は、経済学を中心とした社会科学の一つの原点となるものである。社会に現存する貧乏を的確に把握し、それを克服する方策を検討することが重要であることはいうまでもない。かつて河上肇が「貧乏物語」のなかで「貧乏は国家の大病」と喝破したことを肝に銘じて、資本主義にとっての最大の悪弊である貧困問題を追及していきたい。

   およそ100年前のイギリスで2人の学者が別々の都市で貧困調査をした。驚くことにどちらも30%に近い市民が貧乏線以下の生活であり、その原因はそれまで信じられていた飲酒・怠惰・浪費などの個人的責任ではなく、失業・低賃金・疾病など社会構造に問題があり、その改良は政府の責任と考えられるようになった。貧乏線とは、貧困の範囲または境界を決定するために示す最低の生活標準。それ以下の収入では一家の生活を支えられないと認められる境界線(広辞苑)。

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   チャールズ・ブース(1840-1914)は、1886-1902年の間に、3回にわたってロンドンの労働者階級を中心にすえた貧困調査の実施と、その結果を「ロンドン民衆の生活と労働」(1902-1903)としてまとめた。報告書の主な内容は次のとおりである。

1.全人口の約3分の1が貧困線以下の生活を送っている。

2.貧困の原因は飲酒・浪費等の「習慣の問題」ではなく、賃金などの「雇用の問題」に起因し、特に前者が大きく作用している。

3.貧困と密住は相関する。

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   シーボーム・ロウントリーは、ブースのロンドン調査に影響を受け、ヨーク市調査を1899年に行なった。ロウントリーはまず貧乏生活している家庭を2種に分類した。

第1次的貧乏とは、その総収入が単なる肉体的能率を保持するために必要な最小限度にも足らぬ家庭。

第2次的貧乏とは、その総収入が、もしその一部分が他の支出にふりむけられぬ限り、単なる肉体的能率を保持するにたる家庭。1901年の「貧乏研究」によると、第1次と第2次的貧乏をあわせると全人口の27.6%にのぼることが明らかになった。

    ロウントリーは、1936年に第2回目の調査を行なうが、この場合の貧困調査の基準は1899年の貧困線ではなく、「健康と労働能力を維持するための、最低消費食料」を採用した。第1次的貧困は19.9%、第2次的貧困は17.9%にものぼった。