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2008年6月 1日 (日)

夏は文庫本で青春にかえる

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    今年も夏が来た!と感じるのは、書店にお薦めの文庫本のキャンペーンがはじまるのを見る時だ。「読書の秋」というけれど、最近は夏の文庫本フェアのほうに出版各社は力を入れている。もともとは中学生、高校生の夏休みの読書感想文をねらった企画であったが、サラリーマンや主婦にもそのターゲットは広がってきた。社会人も夏は昔読んだ名作をもう一度読み返して、青春にかえる気分であろうか。そして各出版社から小冊子がでている。店頭でタダで貰えるのでいつしかむかしのものが何冊も本箱にあった。「発見、夏の百冊」「海と山と太陽と一冊、理沙のオススメ」「角川文庫の名作150完全カタログ」。宮沢りえの「新潮文庫の百冊」(1991年)の内容は充実している。山田太一・鷺沢萌の対談「そこにはいつも本があった」、小川洋子のエッセイ「夜の高田馬場」などを掲載している。夏休みから読書をはじめてみようか。女優をモデルにして本を宣伝するのは、河出書房などの全集ブームの頃からあった。しかし文庫本のキャンペーンは何時から始まったか正確には知らない。1970年代の半ば頃にはあったような気がする。

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  昭和42年頃のカラー版日本文学全集

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   内藤洋子、深田恭子、後藤理沙、夏帆とモデルの子が可愛いので古くなるとコレクションとして結構楽しめる。

これらの小冊子にどんな本が紹介されているのか。「坊ちゃん」「こころ」「舞姫」「河童」「たけくらべ」「人間失格」「走れメロス」「斜陽」「銀河鉄道の夜」「友情」「堕落論」「車輪の下」「絵のない絵本」「ロビンソン・クルーソー」「シャーロック・ホームズ傑作選」などの古典。新しいものでは赤川次郎「午前0時の忘れもの」、江川晴「救急外来」、江國香織「なつのひかり」、岡崎弘明「学校の怪談」、北杜夫「船乗りクプクプの冒険」、北方謙三「檻」、小池真理子「無伴奏」、田辺聖子「お気に入りの孤独」、椎名誠「岳物語」「麦の道」、辻仁成「ピアニシモ」「オープンハウス」、花村萬月「風に舞う」、原田宗典「平成トム・ソーヤー」などなど。

新潮文庫のロングセラーのベストテンが紹介されていた。(1991年3月)①「人間失格」②「こころ」③「友情」④「老人と海」⑤「破戒」⑥「異邦人」⑦「悲しみよこんにちは」⑧「雪国」⑨「坊ちゃん」10「斜陽」

2008年4月20日 (日)

熱血柔道漫画全盛の頃

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   日本のアニメや漫画が世界で高く評価され、最近では美術館でも昔の漫画が展示されることが珍しくない。ケペルが幼い頃、まだ文字が読めない前から漫画を見ていた。市場内にある二軒隣りの本屋は新刊と貸し本の漫画を置いていた。一日10円であった。「少年」「少年画報」「冒険王」といった月刊誌の最新号も借りてほとんど読んだ。好きなのは、手塚治虫「鉄腕アトム」(少年)、横山光輝「鉄人28号」(少年)。これらロボット漫画、科学漫画はテレビ化される前から、当時の少年に圧倒的に人気があった。「赤銅鈴之助」(少年画報)よりスマートでカッコよかった。桑田次郎の「まぼろし探偵」や「月光仮面」などのヒーロー物も人気があった。しかし、空想科学漫画やヒーロー物よりも人気があったのは、スポ根ものである。スポ根という言葉は1970年代の「巨人の星」「あしたのジョー」で生まれた言葉で、当時はなかったが、「熱血柔道漫画」というジャンルが存在しており、ライバルとの対決、友情、貧困、根性、涙、などの要素はすでに揃い、スポ根漫画の元祖は、おそらく福田英一の「イガグリくん」(冒険王)といっても過言ではない。このほか田中正雄の「ダルマくん」(少年)、下山長平の「イガグリくん」(少年画報)が人気があった。当時、おそらく手塚治虫より福田英一のほうが人気があったと思う。NHK番組で手塚本人が出演して、福田を最大のライバルだと言っていたことを記憶する。日本の少年漫画が正当なる評価を受ける時代がきたように思うが、残念ながら手塚治虫以外の漫画家研究はあまりされていない。手元のコンサイス人名事典にも手塚治虫と白土三平、以外はほとんど掲載されていない。ウィキペディアの項目にも昭和30年代に活躍した漫画家にはあまりふれていない。単行本化されていない作品も多く、当時の記憶もうすれていくであろう。もっと早い段階で公的な漫画図書館を各県に設置しておればと悔やまれる。

2008年1月 3日 (木)

「平凡」「明星」「近代映画」

    大衆芸能誌「平凡」の創刊号が出版されたのは、昭和20年12月である。創刊号は、玉川一郎、清水崑、壺井栄などの小説読物が中心で、大衆文芸誌であった。表紙が大橋正のイラストから、スターに変わるのは、昭和22年11月号の高峰秀子が最初である。以降、表紙は原節子などの女優中心であったが、昭和26年9月号に当時の若手アイドルである美空ひばりが表紙に初登場する。以来、ひばりが大スターの階段を昇るにつれて、「平凡」は芸能娯楽雑誌として部数を伸ばしていく。美空ひばりは、「平凡」の人気投票では実に13年間にわたりベストワンであった。「平凡」とともに「近代映画」(昭和20年12月)「明星」(昭和27年10月号、表紙・津島恵子)も相次いで創刊された。これら三誌の表紙は最初一人の女優の笑顔がお決まりであったが、やがて男女二人となり、その後、表紙は大勢のスターの顔写真が定番となる。「平凡」の表紙が二人になったのは、昭和36年12月号がザ・ピーナッツだったから当然の成り行きことであるが、翌月(37年1月号)も橋幸夫・森山加代子の男女カップルが登場する。「明星」は少し遅れて昭和39年4月号で三田明・いしだあゆみの男女カップルが表紙に登場する。複数のスターが表紙に登場するのは、グループ・サウンズの大流行によるものである。「平凡」昭和43年5月号にザ・タイガースと吉永小百合、合計6人が登場している。「明星」昭和43年4月号で、黛ジュン、植田芳暁、瞳みのる、3人が表紙に登場する。

   「複数のスターの正面笑顔」という表紙の基本構図が確立するのは、昭和47年頃、アイドルの世代交代があり、ティーン・エイジャーのスターが台頭してきたことに起因する現象であった。新御三家(野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹)、花の中三トリオ(森昌子、桜田淳子、山口百恵)。芸能アイドル誌の老舗「平凡」は昭和62年に休刊したが、「Myojo」(旧名「明星」)、「Kindai」(旧名「近代映画」)は今も複数スターで表紙が飾られている。

    スターは顔と芸名を知られることが第一であり、インターネットの無い時代、雑誌に掲載されることが人気に大きな役割を果たした。ここで、アイドル黄金時代を支えた男性スターの本名で、誰か、わかるかな?

①上田成幸

②今川盛揮

③辻川潮

④森内一寛

⑤松山数夫

⑥原武裕美

⑦佐藤靖

⑧木本龍雄

    *

       回答

①舟木一夫、②西郷輝彦、③三田明、④森進一、⑤五木ひろし、⑥郷ひろみ、⑦野口五郎、⑧西城秀樹

2007年7月28日 (土)

レクラム生誕200年

    今日はドイツの出版業者アントン・フィリップ・レクラム(1807-1896)の生誕200年にあたる。レクラムは1807年7月28日ドイツで生まれた。1828年、21歳のレクラムは父親から3000ターラーを借りて、読書室のある貸本店、ライプチヒにある「文芸館」を買い入れる。同年、彼は「文芸出版社」を設立し、9年後にこれを「フィリップ・レクラム」と改名する。

    ニーチェがショーペンハウエルの「意思と表象との世界」を読んでいた2年後にあたる、1867年、同じライプチヒでレクラム60歳のとき、古典文学書の版権が著者の死後30年で自由となるようになり、息子のハインリヒ・H・レクラム(1840-1920)とともにレクラム文庫を創刊した。星一つ40ペニヒ、その頃の相場で20銭という廉価版の小型書籍を刊行し、世界の文学書を網羅して、大いに読者の人気を博した。

レクラム文庫最初の10冊は以下のとおり。

ゲーテ「ファウスト第一部」

ゲーテ「ファウスト第二部」

レッシング「賢者ナータン」

ケルネル「剣と琴」

シェークスピア「ロミオとジュリエット」

ミュルネル「罪」

ハウフ「美術橋上の乞食乙女(ラウラの絵姿)」

クライスト「ミヒャエル・コールハウス」

シェークスピア「ユーリウス・ツェーザル」

レッシング「ミンナ・フォン・バルンヘルム」

わが国では岩波茂雄が昭和2年「岩波文庫」を創刊。ドイツのレクラム文庫を範として星一つ20銭とした。(参考:萩谷朴「歴史366日、今日はどんな日」新潮社)

2007年7月23日 (月)

金尾種次郎

    オッぺケペー節で知られる川上音二郎(1864-1911)は、明治32年、妻の川上貞奴(1872-1946)ら座員20名らと共にアメリカを巡業。翌年、パリ万博でも人気を博した。明治34年2月には「川上音二郎欧米漫遊記」という本が大阪の金尾文淵堂から出版されている。著者は金尾文淵堂の主人、金尾種次郎(1879-1947)である。

    金尾種次郎(かねおたねじろう)は江戸時代から続く本屋の3代目として、明治12年、大阪で生まれた。明治32年、文芸雑誌「ふた葉」を創刊、薄田泣菫詩集「暮笛集」などを出版した。明治33年10月には「ふた葉」を「小天地」と改題して発行。しかし、経営はふるわず破綻した。

    明治38年には、上京して麹町平河町5丁目5番地に金尾文淵堂を創業した。そして、薄田泣菫詩集「白羊宮」が好評であった。その後も、三宅雪嶺の「日本及び日本人」を引き受け、木下尚江「火の柱」、河井酔茗「塔影」、綱島梁川「病間録」、与謝野晶子「新釈源氏物語」などを出版。美本、良書の出版社として明治、大正の出版史に残る著作を数多く手がけた。

2007年6月18日 (月)

足助素一と叢文閣

   足助素一(あすけそいち、1878-1930)は札幌農学校に学び、小樽で貸本屋独立社を経営したが、上京して大正2年、叢文閣を創業した。農学校時代の先輩有島武郎の社会主義研究会に出席していた足助は、当時新潮社が大正6年から出しはじめていた「有島武郎著作集」の出版権を佐藤義亮社長に懇望して譲り受け、「小さき者へ」「或る女」「惜しみなく愛は奪ふ」「一房の葡萄」など、6年ほどで16 冊を出版、大部数を売り、大正出版史上の壮挙となった。有島武郎の個人雑誌「泉」も刊行した。このほか、大杉栄「無政府主義者のみたロシア革命」(大正11年)、大杉栄訳の「アンリ・ファブル昆虫記」、柳宗悦など。昭和初年、左翼系の出版物をだしている。

   足助素一は大正12年の有島武郎の心中事件(7月12日)、大杉栄、伊藤野枝の死(9月16日)に奔走した。足助は有島から大杉と伊藤を経済的支援するよう申し渡されていたという。

2007年5月15日 (火)

雑誌「少年園」編集主任・高橋太華

    高橋太華(1863-1947)は、文久3年8月12日、二本松藩の剣術指南である根来正緩の二男として生まれる。明治14年に上京し、岡鹿門の塾に入り、翌年には塾頭となる。明治16年3月、堤正勝に学ぶ。また中村正直、重野安繹に師事し、詩文を修める。同年8月、東京大学文学部古典講習科に入学するが、明治18年2月、病気のため退学。明治22年、文部省で教科書編集をしていた友人の山県悌三郎(1858-1940)と、児童雑誌「少年園」を創刊する。月2回の発行の同誌は、当時の少年雑誌の先駆であり、児童文芸の興隆をもたらした。この雑誌は、子供達の心をとらえて、爆発的人気を得た。また、明治22年学齢館より創刊された「小国民」に多く史伝類を執筆した。博文館の「少年文学」叢書には、第15編「河村瑞軒」(明治25)、第17編「太閤秀吉」(明治25)、第21編「新太郎少将」(明治26)と多く執筆し、他に「葛飾北斎」(明治26・学齢館)、「子供のてがら」(明治27・博文館)、「宝ばなし」(明治29・崇山堂)などがある。東海散士の「佳人之奇偶」は、散士の立案を太華とその友人・西村天囚が稿したとの説がある。

2007年4月27日 (金)

蔵書家、林若樹

  書誌学の森銑三(1895-1985)は、林若樹(1875-1938)のことを三田村鳶魚(1870-1952)、三村清三郎(三村竹清、みむらちくせい1876-1950)と並ぶ江戸通と賞賛している。

   林若樹は、本名を若吉といい、明治8年1月16日、東京麹町四番町に生まれる。父の林研海は、明治15年パリで病没し、さらに母もまもなく死亡。病弱であった林若吉は、叔父の林董(はやしただす、1850-1913)に養育されたらしい。しかし学業は中学中退で、以後趣味人としての人生を歩む。

   彼が今日その名を知られるのは「若樹文庫」という蔵書印のある貴重な古典籍のためである。その収集は、鳶魚によれば「天下の愚書をもってゐなければ、蔵書家とは云へない」といったもので広範にわたったという。また、その大半を一通りは読了していたといわれ、三村竹清は「所謂の蔵書家と伍すべき人ではない、寧ろ、読書家といふ可きである」と記している。類稀な学識の持ち主であったようだが、残念ながら林若樹自らが書き残した文章は極めて少ない。死後、若樹文庫は古書で売買され散逸した。現在「若樹文庫収得書目」(青裳堂)が刊行されている。

2007年3月24日 (土)

輝く巨人の星となれ

   昭和32年、長嶋茂雄の巨人軍入団が決まった日、その話題を憎らしそうに聞いている少年がいた。少年の名は、星飛雄馬。飛雄馬は父・一徹からしごかれる日々に、野球を憎んでさえいた。そこは長嶋選手入団発表パーティ会場である。

「ではここで偉大なる先輩である千葉さんから栄光の背番号3が励ましを込めて長嶋くんに譲られます」

「長嶋くんを迎え史上最大の三塁手も巨人軍から生まれるだろう」

   その時、飛雄馬は長嶋に魔送球を投げつけた。それを見た川上監督は、かつて星一徹が投げていた魔送球を投げる少年に驚き、逃げる少年を追いかける。

   飛雄馬が家に帰ると、一徹は酔っ払って暴れている。理由は飛雄馬が禁じている魔送球を投げたからだけではない。長嶋が恐れもしないでみこど見破ったからでもあった。この様子をみていた川上は、明日の巨人軍のために一徹が史上最大の投手を育てていることを知る。

    一徹は夜空を指しながら飛雄馬に言う。「飛雄馬よ、見るがいい。あの星座がプロ野球最高の名門巨人軍だ。おれもかってはあの輝かしい星座の一員だった。だがそれが今ではもう手の届かない彼方に遠ざかってしまった。飛雄馬!お前はなにがなんでもあの星座まで駈け登るのだ。巨人軍という星座のど真ん中でひときわでっかい明星となって光れ!輝け!」「野球は憎いけどこと野球となると、しゃんとするとうちゃんはやっぱり好きだぜ」そして厳しい秘密の訓練が続けられた。(巨人の星1)

2007年3月 6日 (火)

離島の保健婦・荒木初子

    戦後間もない頃の沖ノ島(高知県宿毛市)は医師も医療施設もなく、乳児死亡率は全国平均の4倍、それに加えて風土病フィラリアの発生地でもあった。荒木初子(1917-1998)は高知県衛生会産婆学を卒業後、昭和24年の春、沖ノ島の駐在保健婦として赴任した。初子は毎日、石段だらけの島内を巡回し、献身的に働いた。当初非協力的だった島民にも受け入れられ、その努力の結果、島の乳児死亡率、フィラリアの発生などは大幅に低下した。この活動に対して第1回吉川英治文化賞が贈られた。そして伊藤桂一の著書「沖の島よ、私の愛と献身を」や樫山文枝主演で映画化「孤島の太陽」が制作された。その頃、学校映画会といって講堂で年数回の上映会あったがケペルは映画「孤島の太陽」をよく憶えている。テレビでは小林千登勢が演じていた。ところで、映画のモデルである荒木初子はこの映画の試写会の出席のため上京したが、その直後に脳卒中で倒れている。昭和43年、51歳であった。治療を続けたが右半身不随になり昭和47年に退職、平成10年9月に81歳で他界する。劇中の半生より、それからの人生が壮絶だった。ちなみに「やすきよ漫才」の横山やすし、本名は木村雄二は沖ノ島出身。産婆の荒木初子がはじめてとりあげた赤ん坊は横山やすしという風説がある。横山は昭和19年生まれで、荒木は昭和24年に赴任したので疑問点はあるものの、ともに引瀬集落に住んでいたので、荒木は巡回診療に行って顔なじみであったことは事実であろう。

2006年10月23日 (月)

広瀬アキと廣瀬亜紀との間

   秋の読書週間が10月27日から11月9日まで開始される。主催は読書推進協議会である。つまり出版業界が中心になっているのだ。今年は第60回目であり、ついに還暦を迎えた。ポスターには「しおりいらずの一気読み」という標語がある。そして「秋」と「一気読み」という言葉で思いあたることがある。「世界の中心で、愛をさけぶ」という小説のことだ。

   いうまでもなく「世界の中心で、愛をさけぶ」は、2001年4月20日発行の片山恭一のベストセラー小説である。一説によると紫咲コウの本の帯にある「泣きながら一気に読みました」というコピーが若者たちにブームの火をつけたといわれている。ただ小説の評価としては、初恋の相手が白血病で死ぬというベタな話が「あまりに通俗的」(朝日新聞2003.12.3記事)であり、斉藤美奈子も香山リカら評論家(?)の意見も若者たちは経験が少ないので陳腐な内容であってもそれを新鮮に感じるという程度の評価であった。ところで紫咲コウのコピーの元ネタは雑誌「ダ・ヴィンチ」のインタビュー記事である。「『世界の中心で、愛をさけぶ』は、久々に純粋に物語として楽しめた作品。本屋さんでみつけて、たまには恋愛ものもいいかなと思って。(笑)これは、泣きながら一気に読みました。それに、全体にユーモアもあって、ちょっとしたひとことも面白いんですよ」とある。

   斉藤美奈子や香山リカには、理解できない、あるいは感じとれない部分を紫咲コウは楽しんで読み取っていたようだ。そのベストセラーの謎をライターズ・ジム(見崎鉄)は「謎解き世界の中心で、愛をさけぶ」という本で丹念な作品研究をしていて面白い。単なる便乗本ではない。とりあえず今回はヒロインの広瀬アキを中心にまだ小説を読んでないかたのために紹介しよう。

広瀬アキのプロフィール 風の谷のナウシカに似ている。性格は明るく勉強もできるために男子に人気がある。中学2年で同じクラスになる前からアキは朔太郎(小説の主人公)のことを見ており、彼の音楽の趣味(ロック)も知っていた。だが自分はロックは苦手で聞かない。また、音楽の授業で歌を歌わされたとき声が小さくて恥をかいたことがある。音痴なのかもしれない。小さいころから、ほとんど風邪もひいたことがなかったのに白血病で夭折する。

名前の謎 朔太郎は、つきあって4年近くもたつのに、アキの本名を季節の「秋」だと思っていた。それが間違いだということをアキの死の数日前に知る。本当の名前は「廣瀬亜紀」が正しい。また、彼女自身も自分の名前を「アキ」と片仮名で書いていた。その理由をアキの母は「面倒くさがり屋なのよ」と言っていた。この自分の名前に対する無頓着さを見崎鉄は次のように分析している。

   つまり「廣瀬亜紀」を「広瀬アキ」と簡略化して書くことに、どういう意味があるのでしょうか。普通、人は「広瀬」が「廣瀬」であることに特別さを見出し、面倒くさくても「廣瀬」と書くものではないでしようか。とくに名前にアイデンティティを託している人はそうですし、女性のほうが姓名判断などの占いを信じる傾向が強いから、なるべく正確に書こうとするものです。アキはこの点で変わっています。アキが漢字で「亜紀」と書かなかったために、名前のもつ呪術効果、つまり父親の願いである「白亜紀のように生命が栄えること」が発揮されなかつたのかもしれません。しかし「廣瀬亜紀」という文字はいかにも重い感じがすることも事実です。アキは自分の名前を「広瀬アキ」と書くことによって、両親の託した思いと表意文字としての漢字の二重の重みから自分を解き放ち軽くなりたかったのかもしれません。では、なぜ平仮名で「あき」とせずに片仮名で「アキ」としたのでしょうか。それは片仮名にしたほうが、「本当は漢字の名前だけど省略して片仮名で書いている」という「省略している」感じがよく伝わるからです。平仮名で「あき」と書いてしまうと、それが本当の記名だと誤解されてしまいますが、片仮名のほうがその可能性が少ないと言えます。また、小説として読むときも、平仮名で「あき」という名前でしたら地の文に埋もれて非常に読みにくくなりますが、片仮名でしたら名前がパッと目に入ってきます。アキが名前に頓着しないたちであることをよくあらわしているのが、朔太郎の呼び方です。「朔太郎」という時代がかった名前を大胆に省略して「朔ちゃん」にしてしまいます。アキの頭の中ではたぶん、もっと簡単に「サクちゃん」となっていたことでしょう。アキの名前に対する無頓着さは、彼女がおおざっぱな性格であることを表わしています。アキが深刻にならないことでこの小説は暗さから救われています。

   紫咲コウが指摘する「全体にユーモアがあって」と見崎鉄のいう「アキが深刻にならないことで小説は暗さから救われている」とは共通するものがある。容姿はナウシカに似た少女、透明感(実在感の希薄性)、無頓着さと明るさ、これらヒロイン広瀬アキの性格をうまく表出できたことが成功の要因の一つと考えられる。

2006年7月24日 (月)

朝日・毎日の全国制覇(大正末期)

    関東大震災によって、東京を本拠とする新聞社・国民新聞、時事新報・報知新聞などは大きな打撃を被った。ところが、東京朝日・東京日日は、本社が大阪にあるので、復興もはやかった。東京朝日新聞社は、ただちに編集局を帝国ホテルに置いて発行をつづけた。朝日新聞社は、大正14年、日本ではじめての訪欧飛行を実施し、二機の朝日新聞社機が、中国・シベリアを経由してローマへ飛んだ。大阪毎日新聞は、大正13年1月1日付で、部数100万部突破の社告を出す。大阪朝日新聞も同年1月2日付で100万部突破の社告を出した。朝日・毎日は、このころから名実ともに全国紙としての地位にのし上がった。

    昭和2年、数寄屋橋に朝日新聞社が竣工した。のちに、隣に日本劇場が建ち、有楽町は銀座の中心としての地位を確立する。同じころ、大阪には朝日会館が竣工した。展示会場とホールを備え、大阪文化の中心となる。

2006年7月23日 (日)

朝日新聞の懸賞小説

   朝日新聞社は無名の新人を発掘するために、明治末期からしぱしば懸賞小説を主催している。賞金は大正14年の「大地は微笑む」が一千円、昭和39年の「氷点」が一千万円といずれも当時としては破格の大金である。これまでの受賞者で現在余のその名を知るところの著者は、田村俊子、吉屋信子、三浦綾子といずれも女流作家であることが何か理由があるかは不明である。

  受賞作品と受賞者の一覧

明治37年「長恨」大江素天

明治38年「琵琶歌」黒風百雨楼、「人こころ」多和田菱軒

明治39年「人の罪」鳥海嵩香

明治40年「宗行卿」中原指月

明治44年「あきらめ」田村俊子、「父の罪」尾嶋菊子

大正7年「宿命」沖野岩三郎

大正9年「地の果てまで」吉屋信子、「猿」木村恒、「足」岩瀬重五郎、「恐怖の影」大橋房子、「白露の歌」篠平作(新見波蔵)

大正11年「新しき生へ」井出訶六

大正12年「淡路町心中」藤田草之助、「晴れゆく空」辻本和一

大正14年「紙上映画・大地は微笑む」吉田百助、「黎明」番匠谷英一

大正15年「二つの玉」牧野大誓

昭和2年「或る醜き美顔術師」川上喜久子、「道中双六」秋山正香、「光は暗から」加藤秀雄、「二つの心」小林しづ子、「追われる者」山河権之助、「秋子と娘達」雨宮静子、「群青」花田うた子

昭和4年「罌栗坊主を見る」光成信男、「眉を開く」黒枝耀太郎

昭和5年「死芽」安田八重子、「踊る幻影」内田虎之助、「緑の札」石原栄三郎

昭和10年「緑の地平線」横山美智子

昭和15年「桜の園」大田洋子、「英雄峠」松前治策

昭和39年「氷点」三浦綾子

2006年7月 2日 (日)

パリのアンタン街での競売会

    私がこの哀しい物語に激しく胸を打たれて、ぜひ本に書き残そうと決心したのは、パリのアンタン街で、家具類やぜいたくな骨董品の競売会がある旨の一枚の貼り紙を見たのがきっかけだった。この競売は、持ち主である女主人が死んだので行われるのだった。私は根が骨董好きなだけに、この機会をのがさず、買わないまでも、せめて見るだけは見ようと思い出かけて行った。

   表門のところまで来ると、すでに物見高い客でいっぱいだった。邸内の部屋には、すばらしい家財道具や骨董品が並べられていた。バラ材やブール細工の家具、セーヴル焼きやシナ焼きの花瓶、サクソン焼きの陶器人形、しゅす、びろうど、レース、金銀宝石類、化粧品など、なにからなにまでそろっていた。私はこれらの品々をじっと眺めまわした。どれもこれも哀れな女の賤業をしのばせるものばかりだった。そして私は心ひそかに、この女に対する神の慈悲を思った。なぜなら、神はこの女を世の常のこらしめの時の来るまで生きながらえさせずに、娼婦にとっては第一の死ともいえるあの老齢にまで達しないうちに、栄華と美しさのなかで死なせたもうたからである。

「ちょっとおたずねしますが、ここに住んでおられた方はなんとおっしゃるんですか?」

「マルグリット・ゴーチェさんです」

   私はこの人なら名前も知っていたし、またシャンゼリゼでよく姿を見かけたことを思い出した。彼女は必ず毎日、すばらしい二頭の栗毛の馬にひかせた小形の青い箱馬車に乗ってやってきた。そして私は、彼女がああいったたぐいの女性にはまれな一種の気品を持っていたことに気づいたものだった。またこの気品は、比類ない美しさによっていっそう引き立てられていた。

「彼女が亡くなったんですって?」「そうです」

「いつのことです、それは?」「たしか三週間ばかり前です」

「それも あなた肺病でね。みじめな死に方だったとか・・・・」

「しかし、競売とはね」「大変な借金があったらしいから」

「生前はパトロンにかこまれて派手な生活をしていのに」

「どうせそんなもんさ。所詮は卑しい娼婦なんだから」

私は足早にその場を離れた。

   生前パリでは知らぬ者のないほど美しく輝いていたマルグリット・ゴーチェ。気品ある大きな瞳、長いまつ毛がビロードの桃のような肌にうっすらと影を落とし、微笑めば真珠の歯がキラリとのぞいて、一目見た人を魅了させる。彼女の側にはいつも青年貴族たちがかしずくように従っていてパリの夜を飾っていた。私は今でもよく覚えている。彼女の側にはいつも椿(カメリア)の花束があった。もちろん私は彼女とは言葉を交わしたことは一度もない。

   競売は故人の邸の客間で行われた。無責任で物好きな連中のざわめき。誰一人マルグリットの死を哀しんでいる者はなかった。衣装、カシミアのショール、宝石などは、まるで羽が生えたように売り切れてしまった。そうしたものは、私に用のないものだから、帰ろうとしたが、突然の競売人の大声に足をとめた。

「書物一冊、製本とびきり上等。天金。表題は、マノン・レスコー。扉になにか書き入れがあります。まず10フランから!!」

「12フラン」と、かなり長いあいだ沈黙がつづいた後だれかが叫んだ。私は思わず「15フラン」と言った。「30フラン」挑戦的な声がどなった。「35フラン」「40フラン」「50フラン」と競争が続いた。

「100フランだ!!」

書物は結局、私の手に落ちた。私はその高価な「マノン・レスコー」を手にしてページを開けた。扉に何か書き入れがあった。

「マノンをマルグリットに贈る。慎み深くあれ。」

そしてそのあとにアルマン・デュヴァールと署名してあった。

   『マノン・レスコー』は哀切きわまりない物語である。私は、この物語のどんな些細な部分も覚えているが、この本を手に取るたびに、いつも同感をそそられてページをひらき、そして幾度読んでもつねに、作者アベ・プレヴォの女主人公とともにある思いがするのだった。実際この女主人公は、まるで私が現実に知っていた女のような気がするほどに真実性を持っていた。マノンやマルグリットを思うにつけても、思い出されるてくるのは、私が知っていた女たち、いつも歌を口ずさみながら、ほとんど同じような死の道をたどっていった女たちのことだった。哀れな女たちよ!! もしも彼女たちを愛してやることが悪いというのなら、せめて憐れんでやってほしい。母でもなく、妹でもなく、娘でもなく、また人妻でもない女、そういった女をさげすまないようにしよう。家庭に対してはもっと尊敬の念を抱き、利己主義に対してはもっと寛大な目で接してやろう。神は、かつて一度も罪を犯したこともない百人の正しい人々よりも、ひとりの罪人の悔い改めたのを喜びたもうものであるから、われわれは神をお喜ばせするようつとめようではないか。そうすれば、神は必ずやわれわれにあたってあつく報いたもうであろう。地上の煩悩のために身を持ちくずしはしたものの、神にすがりさえすれば救われるような人々に対しては、つとめて寛大な気持ちでいよう。(『椿姫』第1話)

2006年6月18日 (日)

緑衣女

  ある書生のもとに、毎夜通ってくる緑衣の女は、腰がほっそりしていて歌がうまい。ある夜、帰りまぎわに女の叫び声がしたので、出て行ってみると、緑色の蜂が蜘蛛の糸にからめられて悲しげに泣いている。書生が助けてやると、蜂は硯の墨汁にからだをぬらして机の上を歩き、「謝」の字を書いて飛び去ってしまった。(聊斎志異)

2006年6月12日 (月)

グレース・ダーリングの勇気

 これは古いイギリスの小話です。

 九月のある朝、海で嵐があり、一隻の船が岩に打ち上げられました。そして数人の水夫たちは難破船の壊れた船体の一部にしがみついてなんとか生きながらえていました。

 事故現場からあまり離れていない島に灯台がありました。灯台にはグレース・ダーリングという名前の少女とその父とが住んでいました。彼らは水夫たちが遭難しているのを見ました。グレースは「お父さん、なんとかあの人々を助けてあげて」といいました。「それはやってみてもだめだ。あそこまで行きつけないよ」グレースはあきらめませんでした。彼女と父はがっしりしたボートに乗って出かけました。グレースは片方のオールをこぎ、父はもう片方のをこぎました。ついにふたりは難破船に行きついて、水夫たちを救助しました。彼らをボートに乗せてふたりは灯台までこぎ帰り、温かい食物と着物を与えました。人々はその少女の勇気ある行動を褒め称えました。

2006年6月10日 (土)

岩野次郎先生の思い出

 わたしは若い頃、岩野次郎先生の授業を聴講したことがあります。先生はソフトボール協会などで知られた方で、関西大学では昭和38年から必須科目である「保健体育」を講義されましたのでなかにはご記憶の方もいらっしゃるだろう。だが当時は教授の経歴などはほとんど無関心であり、ただ老教授という印象であった。「保健体育の原論」という先生の著書を読み直すうちに、師が理論と実践の人であり、その業績に関心を持つようになった。これも最近になり知ったことの一つであるが、日本での学生ハンドボールの普及に貢献されたというあまり知られていない業績があった。

 岩野次郎(明治37年生)は昭和11年、岡山県の体育運動主事に赴任。岩野の指導によりハンドボールが県下の学校に普及した。そして昭和12年11月21日、第1回東西対抗(国民精神作與体育大会関西大会)が南甲子園運動場でおこなわれた。女子対抗戦の決勝は岡山県倉敷高等女学校が生野高等女学校を8対4で破って優勝した。これが学生ハンドボールの最初の公式試合である。

ケペル先生の研究分野

 ブログ開設から1週間がたちました。このブログを見ていただいたり、コメントを送ってくださったり、多くの皆さん ありがとうございます。ケペル先生とは昭和36年4月から昭和44年3月まで放送されたNHKの子供番組「ものしり博士」に登場する人形の博士のことで「何でも考え何んでも知って、何でもかんでもやってみよう」という言葉がとても印象にあってブログ名に即座に使用しました。(ちなみに助手はマーブルチョコレートで有名な上原ゆかりちゃんです。ベレー帽が可愛かったですが、いまごろどうしてるかなあ・・・)後でわかったことですが、「ケペル先生」というブログがほかにもいくつかあることを知りましたが、重なってすみません。同世代の人にとても影響をあたえた番組なんでしょうね。わたしは36年の最初から見ていた世代ですが、8年というのはかなり長寿番組なので6歳年下の妻もかすかに知っているとのことで、推定年齢55歳から45歳くらいまでが、ケペル先生=ものしり博士と連想できる世代です。このブログ名が本人結構気に入ってますのでこのまま変えずにいこうかと思います。「ケペル」はイタリア語のPerche(なぜという意味)からの造語だそうです。

 このブログのカテゴリーというか範囲に関してですが、あまりしぼるとネタ切れしそうなので、古今東西、森羅万象すべての事柄を取り扱います。博覧強記のケペル先生は独学であらゆる分野の研究をしています。いわゆる巷の「専門なき専門家」です。一見雑学の知識のようですが、小石を積み重ねて裾野を広くして富士山を築くことを夢みています。ところで「少年発明王」さん、わたしその番組を楽しみに見ていました。フジテレビで日清食品提供だったことを何故か覚えています。

2006年6月 9日 (金)

浅川伯教・浅川巧兄弟

浅川巧の名前を知ったのはつい最近のことだが、鎌田東二「浅川巧と朝鮮民族美術館設立運動」春秋2006年6月№479)が目につき読む。宗教学者で知られる鎌田ですら最近になって浅川伯教・巧兄弟の記念館を行って来たそうだから、浅川巧ブームと言えるような状況はまだまだ始まったばかりのようだ。でもこの論稿で浅川巧の生涯の概略は知ることができる。だが現代のわれわれに与えられた問題は浅川のもっと内面的・思想的なことを深く知らなければ意味がないと思う。浅川研究は緒についたところというべきか。

論理によって納得できるか

石原武政の「論理によって納得できるか」(書斎の窓2006年6月№555)を読む。著者は長年にわたり論理学を学び、論理をもって考え、論理をもって議論し、論理をもって人を説明する、理屈屋を自認している。だが論理によってすべて相手を納得できるものではないことに気づいた。理屈ぬきで納得できることもある。感覚的にしつくりこなければ収まりがつかない。感覚の論理化をめざしているらしい。著者はそのことを囲碁でもって説明する。わたしは囲碁はしたことがないので説明にはあまりピンとこない。だが論理と感覚の説明で、ふと遠いむかしのことを思い出した。若い頃昼間は図書館で働き、夜間は大学に行っていた。大学の先生は東洋法制史が専門で古代の木簡、たとえば居延漢簡などを研究していた。そのことを館長に話すと二人は昭和20年代に三田の高校でともに教師をしていたころの仲間だという。そこでわたしが契機になって2人は20年ぶりで再会した。館長は趣味の域をはるかに超えた有名な前衛書道家だった。(後年アメリカで前衛書の普及活動をしている)前衛書の作品の多くは見ても何という文字であるか判読できない。わたしは「前衛芸術はわかりません」と率直にいうと館長は「わかろうとせずに感じればいいんだ」という。あるとき「書道辞典」という大著が刊行された。この本には法帖だけでなく近年中国で多数出土した木簡の項目もあったので先生にみせた。先生の話では「書道家の釈文には文字の誤読が多いという。おそらく前後の文章の脈絡や資料の歴史的な背景をあまり考慮していないからだろう。木簡はこれまでの史記・漢書などの文献資料の不足を補う新たな同時代の記録・文書なので文字を判読し正しい意味を知ることが大切である。」と。つまり同じ文字を見ても、書道家は感覚的に美を感ずる、歴史家は文字を判読し論理的に歴史的体系化として構築するのが究極の目的なのだ。その両者の相違は平行線であり、「論理と感覚の一体化」とは永遠に不可能なことなのだと若い頃感じたものである。

2006年6月 5日 (月)

浅川巧

   昭和期の朝鮮民芸研究家・浅川巧(あさかわたくみ 1891-1931)の再評価がなされている。きのう早朝のNHKの番組で初めて知った。どのような人物か気になったのでコンサイス人名辞典で調べる。「1914年朝鮮に渡り、朝鮮総督府の林業試験所に入り、養苗などに従事。植物学者中平猛之進と親交。朝鮮民芸のなかに民族文化の美を発見し、深く傾倒。日本民芸運動の源流となる。1924年柳宗悦と協力し、ソウルに朝鮮民族美術館を開館。また植民地下にある朝鮮民族への温かい敬愛は、朝鮮人の信頼を得た」とある。著書に「朝鮮の膳」(1929年)「朝鮮陶磁名考」(朝鮮工芸刊行会1931年)近年関係書が刊行される。高崎宗司「朝鮮の土となった日本人」(草風館1982年)「浅川巧全集」(草風館1996年)浅川巧「朝鮮民芸論集」(岩波書店2003年)「浅川巧日記と書簡」(草風館2003年)「朝鮮陶磁名考」(草風館2004年)

恐怖を煽る「理論」

   最近よく耳にする言葉に「危機管理」というのがある。例えばある職場で時代劇でよくみかける「さすまた」を購入して「曲者だ。御用、御用」と訓練しているという。「危機意識をしっかり持て」と社会全体が警鐘しているようだ。危機管理と安全なシステムづくりを構築することは大切である。ただ一面に、このような恐怖を煽られている社会において現実と意識の問題を区別して考えることも必要であろう。これに関してやさしく解説してくれた教授がいる。石原武政(関西学院大学商学部教授)のエッセイ「恐怖を煽る理論」(書斎の窓2006年5月№554)である。概要は、教授が地方出身の真面目な青年から悩みの相談をうける。「めぐまれた大学生活だがこのような快適な環境の中に浸っていていいのでしようか」という内容だ。教授は「ゆでガエルの理論」を引き合いに出して、ぬるま湯につかっていると死んでしまうという。青年は「そうなんです」とうなづく。ところが一転して教授の意見は「大丈夫。そんなに気にしなくていい」という。カエルの話は客観的な現実であるが、われわれの現実世界は危機管理が足りないと煽られているだけで、単なる意識の問題である。教授は続けていう。「逆境が人を強くするというのは事実であろう。しかし、逆に順境が人を弱くするのであろうか」「人は恐怖の中よりも希望の中でもっと豊かに成長できるものだ」と結んでいる。このエッセイは悩める学生だけでなく、現代の管理社会で真面目に働き、危機意識を持てと煽られている管理職の人が読んでも癒される名文である。とくに、ラストの武者小路実篤の詩がいい。

     「生長」  

どうしてもとどかなかった枝に 

ふと手を上げて見たら 

楽にとどくようになった。

私も学生時代に学校図書館にあった「武者小路実篤全集」をほとんど読んだ。若い頃に個人全集を読破したことは、本人の人生観形成に与える影響力は大きい。この詩については記憶がないが、馬鹿一のようにじゃがいもなどの野菜を描いている実篤の文学的世界からもうなずける。もちろん実篤先生は若い頃真剣にトルストイやホイットマンなどから影響をうけ独自の高みに到達した万人の師であるが、最近は内心いささか古く時代遅れと思っていたのも事実である。ところが、実篤の作品がいつまでも人々に希望を与えてくれるものであることを確信できて喜ばしい。

2006年6月 4日 (日)

寺田望南

   寺田望南は明治の書物収集家である。生没年は不詳。薩摩の出身で、名は弘または盛業、字は士弘、望南と号した。明治初年頃文部省大書記官で、西郷隆盛が下野した際、ともに国に帰ったという。明治9年の「官員録」に、文部省督学局少視学として寺田弘の名が見える。その後は官途につかず、古書の売買、斡旋などにより生計を立てていたという。かれが後世に名を残すのは「読杜草堂」「天下無双」「東京溜池霊南街第六号読杜草堂主人寺田盛業印記」の三種の蔵書印の捺された書物からその存在が今日に至るまで知られている。一説によると昭和の初期まで世に在ったという。