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2008年6月15日 (日)

新東宝メロドラマ

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         「細雪」(阿部豊監督)高峰秀子、田崎潤

  「新東宝の亡霊が夜な夜な都会の安眠をさまたげている」昭和36年につぶれた新東宝作品が深夜テレビで放送されて、時ならぬ新東宝ブームをまきおこしたときの週刊誌の記事の見出しだ。新東宝といえば、まさにエロとグロが氾濫する見世物映画であった。だが、このような大蔵貢(1899-1978)にみられる路線は昭和31年からのもので、初代社長の佐生正三郎の時代には溝口健二の「西鶴一代女」のような傑作も製作され、どちらかというと文芸メロドラマ路線の感があった。

    昭和21年秋、東宝映画の労働者は製作体制の民主化を要求して、大規模なストライキにはいった。当時、東宝は大河内伝次郎、長谷川一夫、原節子、高峰秀子、藤田進、黒川弥太郎、山根寿子、花井蘭子、入江たか子、山田五十鈴という「十人の旗の会」というスターを専属にしていた。彼らはその年の11月、東宝を離脱した。こうして誕生したのが新東宝であり、昭和22年3月、劇映画の製作を開始した。第1回作品は「東宝千一夜」(山根寿子)、つづいて「今日は踊って」(長谷川一夫)、「大江戸の鬼」(高峰秀子)であった。やがて「花ひらく」(高峰秀子)、「天の夕顔」(高峰三枝子)、「三百六十五夜」(高峰秀子)と新東宝メロドラマ路線が確立した。「夢よもう一度」「結婚三銃士」(上原謙、高杉早苗、山根寿子)、「望みなきに非ず」(小杉勇、木暮実千代)、「異国の丘」(花井蘭子)、「湯の町エレジー」、「人間模様」(山口淑子)、「グッドバイ」(高峰秀子)、「深夜の告白」(池部良)である。翌25年になると、「処女室」(高峰秀子)、「暁の脱走」(山口淑子)、「細雪」(轟夕起子、高峰秀子)、「山のかなたに」(池部良、角梨枝子)、「雪夫人絵図」(木暮実千代、上原謙)などである。わけても「細雪」は、谷崎潤一郎のベストセラーを原作に、蒔岡家の四姉妹を鶴子(花井蘭子)、幸子(轟夕起子)、雪子(山根寿子)、妙子(高峰秀子)と当時最高の人気女優をズラリと並べ、一流の技術スタッフ、豪華なセット、衣裳を駆使した文芸大作だった。佐生正三郎社長は「配給の神様」と言われたが、経営状態は悪化し、昭和28年2月には退陣した。大蔵貢新社長が就任するのは昭和30年12月29日で、昭和31年から「大蔵路線」といわれる見世物的な娯楽映画の製作に切り替わる。しかし、質は悪かったが、そこには娯楽映画特有の魅力や活力があった。

2008年6月13日 (金)

山口百恵・水野晴郎対談

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    「水曜ロードショー」の解説者で「シェーン」のあとで、「いゃあ、映画って本当にいいもんですね」で知られた水野晴郎さんが6月10日亡くなられた。76歳だった。雑誌「スクリーン1975年4月号」に「水野晴郎連載対談」で16歳の山口百恵と対談している。

百恵 映画の中でも冒険する人の姿にすごく憧れるんですよ。

水野 百恵ちゃんが冒険心をもっているんだよね、何でも挑戦の…(笑)。

百恵 街なんかでも知らないところへ平気で一人でスタスタと行っちゃうんです。冒険と言う事とは違うんですけど、自分がココへ行きたいと思うともうまっすぐ行ってしまうんです。

水野 人間誰でも大小は別として冒険心をもってると思うんだな。その冒険心がどんな形で表へ出て来るのか…。冒険心というのは人間の生命力の一つの象徴だと思う。

百恵 ある人に言われたんです。人間はいつも砂漠の砂であるべきだって…あらゆるものを吸収することが必要だって。

水野 映画というすばらしい世界の知識や人生をいつぱいもった水分を、うんとぼくたちは吸収できるチャンスがあるんだから、幸せだよね。

    1月17日で16歳になったばかりの百恵ちゃん。「伊豆の踊り子」で映画デビュー。「人間はいつも砂漠の砂であるべきだ」という名言は、なかなか16歳の少女でいえるものではない。ところで写真の百恵ちゃんの服は実際の高校の制服であろうか。とても爽やかだ。

 水野はその後、山口百恵に映画「シベリア超特急」の出演を依頼している。脚本を送ったところ、「今はまだできません」と断わられたそうだ。おそらく水野は16歳の百恵ちゃんに好感を何十年も持ち続けていたのであろう。アイドル百恵伝説の一つのエピソードではないだろうか。

2008年6月 7日 (土)

ジーン・ハーロウの急死

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    昭和12年6月7日、プラチナ・ブロンドで人気のあったジーン・ハーロウ(1911-1937)が映画「サラトガ」の撮影中に急死するという海外特報が入った。当時、ハーロウはクラーク・ゲイブル(1901-1960)と供にMBMの2大看板スターであった。

    今日ではクラーク・ゲイブルと言えば、「風と共に去りぬ」(1939)で共演したヴィヴィアン・リー(1913-1967)を名コンビと思いうかべるかもしれないが、実はゲーブル=ハーロウのコンビは、「紅塵」「春の火遊び」「支那海」「妻と女秘書」「サラトガ」と日本でもヒットしていた。ジーン・ハーロウとヴィヴィアン・リーとの年齢は僅か2歳しか違わないのである。

   ジーン・ハーロウの役柄は、夜の世界の女、いかがわしい稼業の獏連女がよく似合った。セクシー女優で、演技力はなかったが、主演作を重ねるうちにメキメキ上達し、役者として次第に演技開眼していく途上であった。腎臓病を患っていたらしいが、母親がクリスチャン・サイエンスという医学的な処置を拒否する宗教を信奉していたために、医者に見せることが遅れて亡くなったということは、なんとも惜しまれる死であった。

2008年5月25日 (日)

ガルボとファッション

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   1925年、アール・デコの展覧会がパリで開催された。スカート丈が、膝の丈にまで短くなったということは、ファッションの歴史でも革命的な出来事だった。この年、グレタ・ガルボはスウェーデンからハリウッドへやって来た。大女で、大きな足、うどの大木といわれた女性が、数年後には1920年代のファッション・リーダーになる。ガルボこそがこの時代に要求した女であり、ギャルソンヌ・スタイルにぴったりした理想のスターであった。1920年代後半のモードは、ガルボを中心にして世界が回った。ギャルソンヌ・スタイルの特徴は、余分なものを捨て去ることだった。手始めにまず髪を切り、スカート丈を短くする。そのことによって、きりっとしたなかに、女性らしい色気と個性美が生まれた。ガルボといえば帽子が連想される。しかし、帽子はガルボに限らず、グロリア・スワンソン、ヴィルマ・パンキー、ベティ・アーマン、ジョン・クロフォードなどなど、ほとんどの女優が愛用している。

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髯剃り見習いから「神聖ガルボ帝国」の女王へ

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    グレタ・グスタフソンは、1905年9月18日、ストックホルムの貧しい家庭に生まれた。両親は正式な結婚ではなく、14歳の時に日雇労務者の父が病死すると、学校を中退して、理髪店で髯剃り見習いをやっていたという。(この世の中には少女時代のガルボに髯を剃ってもらった男がいたという驚きの歴史的事実)その後、姉の友人の紹介でデパートに就職。帽子売り場の売り子をした。やがて、その美貌を買われて帽子カタログのモデルを努める。1924年、スウェーデン映画の立役者マウリッツ・スティルレル(1883-1928)に見出されて、「イェスタ・ベルリングの伝説」のヒロインに抜擢される。1925年6月6日、二人はニューヨークに着いた。メトロの重役ルイス・B・メイヤーはハリウッド中の美容師を動員して泥臭い女優を磨きあげ、「グレタ・ガルボ」という芸名をつけた。またスティルレルは、ガルボに礼儀作法から服の選び方まであらゆるたしなみを教えた。こうして理想の女性は男たちによって創りあげられた。

   主演第2回作品「明眸罪あり」の初日あいさつで、司会者が「こちらがミス・ガルボです。一言も英語がしゃべれません」と紹介し、ガルボもスウェーデン語で答えたが、観客はなんとなく笑ってしまった。以来ガルボは決して、初日の招待試写会に出席しなくなった。言葉の問題と、生来の社交嫌いは、ガルボの神秘性を際立たせ、効果的な魅力となった。ロン・チャーニーはガルボにこう言った。「神秘はぼくに役立っている。しかし、きみにはもっと役立つだろう」ガルボ伝説のはじまりである。華やか名声とは裏腹に、倹約家で香水や化粧品のたぐいを持たなかったという。その謎めいた私生活のゆえに、ガルボはいっそう永遠の面影を人々に与えた。日本ではむかしから永遠に冒すべからざる女神として「神聖ガルボ帝国」とよく呼んでいる。(これは映画評論家の筈見恒夫の造語である。)36歳の若さで引退し、何度もカムバックの噂はあったが、長い隠遁生活に入る。1990年、85歳で永眠。

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銀幕の女王グレタ・ガルボ

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   きら星のごとく女神がひしめくハリウッドにあって、最高に美しく輝くスターは、おそらくグレタ・ガルボ(1905-1990)であろう。映画史上もっともフォトジェニックな面立ちといわれるガルボの写真を何枚も見比べてみても、彼女の変幻自在な表情のため同一人物とは思われないほどである。と、言っても彼女につけられた渾名は「スウェーデンの美のスフィンクス」である。エキゾチックでミステリアスではあるが、図体がでかく、無表情で無愛想、どこか得体の知れない女という嘲笑が込められている。「変幻自在な無表情」「無個性で個性的」な顔立ちに神秘性を感じ、美の女神として崇め、ひれ伏したのであろうか。その謎を解くカギは、やはり「笑わない」ということであろう。ほとんどの女優は笑顔をチャーム・ポイントにするであろう。ところがガルボは、眉をひそめて不快そうな顔をしていても美しかった。否、怒ったときの顔が一番美しいという人もいる。

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2008年5月24日 (土)

エステル・テイラー

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    セダ・バラは「愚者ありき」(1914)という映画で、男を片っ端から破滅に陥れる悪女を演じ、「ヴァンプ」と呼ばれて人気を集めた。以後も、クレオパトラ、カルメン、サロメといった毒婦、悪女を次々と演じた。そもそも「ヴァンプ」とは何か。「ヴァンパイア」の略である。広辞苑には「妖婦。毒婦。淫婦。また、その役を演ずる女優。バンプ」とある。ほかの辞書には「故意に男性を魅惑し食い物にする女」とある。イギリスの詩人ラドヤード・キップリングの詩に「ヴァンパイア」があるのが起源という。

    1920年代のハリウッド映画はまさにヴァンプ花盛りであった。今ではその名をほとんど知られないが、エステル・テイラー(1899-1958)もヴァンプ女優の典型であった。古老の話(双葉十三郎と淀川長治の対談)を聞いてみよう。

双葉 セダ・バラは長さんが言ったみたいに演技もメークもいわば歌舞伎的だったけど、その後に来たエステル・テーラーは同じヴァンプでも少し現実味が出てきて、ほんとになまめかしい、いい女だったね。

淀川 フォックスはだいたい田舎くさいのに、エステル・テーラーが出てきた時はびっくりしたね。何とも知れんきれいで、「ある愚者ありき」なんかセダ・バラがやった後にエステル・テーラーで作ったけど、よかったよ。あんな女優には誰でも征服されちゃうね。

双葉 長さんはエステル・テーラー気違いだからな。ヘビー級のチャンピオンのジャック・デンプシーと結婚して、また有名になったね。

淀川 僕は清純派の双葉さんと違って、ヴァンパイアーが好きだから(笑)。

   *   *   *   *   *

    エステル・テイラーは17歳で離婚後に演技を学び、ブロードウェイのコーラス・ガールになる。美女テイラーと結婚した拳闘家ジャック・テンプシーは闘争本能を忘れ3年間も試合をせず、1926年9月にジェーン・タニーに敗れ王座を去った。映画だけでなく実生活でも男を破滅する女だったのだろうか。代表作「紐育の丑満時」(1920)「或る愚者有りき」(1922)「十誡」(1923)「ドン・ファン」(1926)「リリオム」(1930)「街の風景」(1931)「シマロン」(1931)「南部の人」(1945)

   (参考文献:「スタアがスタアだった時代」別冊太陽・女優Ⅱ)

2008年5月20日 (火)

禁酒法時代の女性のファッションと映画

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リリアン・ギッシュ(1896-1993)アメリカ映画の先駆者グリフィスに育てられた純情型の人気スター。「散り行く花」「東への道」

  アメリカの1920年代を歴史家は「ローリング・トゥウェンティーズ」と呼んでいる。景気がよく、なにかと騒々しかった時代という意味である。この他にも、ジャズ・エイジ、ナンセンス時代、迷える世代、とかあるが、やはり禁酒法時代(1920-1933)という呼び名が最も知られているだろう。ナイトクラブがニューヨークやシカゴに続々と誕生した。そうしたナイトクラブはギャングが経営する店であり、たいていジャズ・バンドと美しいコーラス・ガールが客を楽しませていた。ギャングはジャズ・バンドのパトロンであり、コーラス・ガールの愛人だった。そして、ギャングは禁制の酒を大衆に提供する「恩人」だった。アル・カポネは言った。「私はビジネス・マンだ。」

   政治の世界では汚職・スキャンダルが絶えなかった。ハーディング大統領は、大統領らしい顔をしているからという理由で、大統領に選ばれ、クーリッジはホワイト・ハウスで最も多く昼寝した大統領だといわれる。

   しかしながらこの1920年代を最も象徴する出来事は女性のファッションが激変したことではないだろうか。スカートは足首から膝まで上昇した。これはミニ・スカート以上の女性の服装の変化であった。肌の色に近いストッキングを女性がはくようになったのも1920年代である。ブラジャーの発達によって、女性たちはヴィクトリア朝の遺物と化したコルセットを棄てるようになった。しかし、女性のファッションには、1920年代のアメリカにおいて、もっと大きな変化があった。一つはスタイルの国際化である。アメリカはパリの影響をもろに受けるようになり、そして、パリ・コレクション紹介の先達となったのが、いまでもつづいている「ヴォーグ」である。もう一つの変化は既製服の大量生産であり、これによってファッショナブルな衣類が安い値段で着られるようになった。だが、1920年代に行なわれた調査によると、女がどんなものを着ているかということに大部分の男は気がついていない。とすれば、なせファッションは1920年代にこれほど大きな重要性を持っていたのか?それは女は男のために着飾るのではなく、ほかの女と競争するために着飾る、と。

   とにかく、鈍感なる男たちも女性のファッションの変化に気づくとすれば、それは映画の中で華やかに着飾った女優たちによってであろう。アメリカ映画はスター・システムによって映画の最初の黄金時代をつくり、世界の映画市場を征服した。アラ・ナジモヴァ、セダ・バラ、パール・ホワイト、ルース・チャタートン、メアリー・ピックフォード、ルース・ローランド、ノーマ・タルマッジ、リリアン・ギッシュ、ポーラ・ネグり、コンスタンス・タルマッジ、グロリア・スワンスン、ドロシー・ギッシュ、ビリー・ダヴ、マレーネ・ディートリッヒ、クララ・バウ、ジャネット・ゲイナー、グレタ・ガルボなどなど女優たちによって、1920年代がそれを知らない後世の者たちにとっても、夢のような、楽しい時代として想い描かれるのである。

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  アラ・ナジモヴァ(1879-1943) ロシア出身の名女優。「人形の家」「サロメ」「椿姫」「孔雀夫人」

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 セダ・バラ(1885-1955)ヴァンプ(妖婦)の女王。「愚者ありき」「カルメン」「クレオパトラ」

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パール・ホワイト(1889-1938)連続冒険活劇の女王。「ポーリンの危難」「電光石火の侵入者」

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メアリー・ピックフォード(1893-1979)「アメリカの恋人」といわれた大スター。「小公女」「嵐の国のテス」「ロジタ」「雀」

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ノーマ・タルマッジ(1893-1957)美貌、演技力を兼ね備えた実力スター。「久遠の微笑み」「椿姫」「秘密」

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ルス・ローランド(1892-1937)連続冒険活劇の女王。「赤輪」「ルスの冒険」

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 ポーラ・ネグり(1897-1987)ヴァレンチノの恋人「カルメン」「チート」「スエズの東」

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 グロリア・スワンソン(1897-1983)社交界の女王。「夫を変える勿れ」「港の女」「男性と女性」「ありし日のナポレオン」「今宵ひととき」

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   コンスタンス・タルマッジ(1897-1973)「イントレランス」「恋のかけひき」「桃色女白波」「金魚娘」「粋な殿様」

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   ドロシー・ギッシュ(1898-1968)「嵐の孤児」「ロモラ」

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ビリー・ダヴ(1900-1998)ジークフォルド・フォリーズの踊り子からスターになった美女。「ダグラスの海賊」「アメリカ美人」

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 クララ・ボウ(1905-1965)性的魅力あふれる現代娘イット・ガール。「It(あれ)」「つばさ」「フラ」「暗黒街の女」

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ジャネット・ゲイナー(1906-1984)純情可憐の典型的美人。栄光あるオスカー女優第1号。「第七天国」「サンライズ」「街の天使」

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ルイーズ・ブルック(1906-1985)都会派、モダンガールの代表的女優。「美女競艶」「百貨店」「夜会服」「人生の乞食」

2008年5月19日 (月)

ヘプバーン、父親との再会

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    オードリー・ヘプバーンはイギリス人の保険会社で働く父ジョセフ・アンソニー・ヘプバーン・ラストンと、オランダ王室貴族へームストラ男爵の血筋を持つ母エッラ・ファン・ヘームストラとの間に1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルで生まれた。第二次大戦中、両親は離婚し、ヘプバーンは母の母国オランダのアルンヘムに住み、ナチス・ドイツ占領下の苦労を味わった。イギリス人の父ジョセフは、親ナチス運動に加わっていた。そのような彼女の経歴は当時、極秘とされていた。「魔女狩り」のようなマッカーシズムが吹き荒れていたアメリカの芸能界で、父親の親ナチス運動が公になることは、彼女にとって危険なことであったが、どうしても父親の安否が気がかりであった。

   1953年、「ローマの休日」で一躍世界のトップスターとなったヘプバーンは、1959年、映画「尼僧物語」の撮影のため、20年ぶりに故郷ベルギーのブルッへに戻ってきた。ヘプバーンは別れ別れになった父とどうしても会いたかった。その願いはかなえられた。父方の従兄、ウォルター・ラストンの手引きで、ヘプバーンは父親と再会をはたした。(一説によると二人は1957年、アイルランドのダブリンで再会したとも伝えられる。)

外国スターと声優

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   ケペルが小学生の頃、学校から帰るとテレビで「3時の名画座」を見ていた。主に1950年代以前のアメリカ映画を放送していた。お気に入りは、ビング・クロスビーとボブ・ホープの珍道中シリーズ。とくにボブ・ポープの柳沢真一の吹き替えが印象に残る。しかし、販売されているビデオの吹き替えでは、藤村有弘(ボブ・ホープ)、中村正(ビング・クロスビー)とある。記憶ちがいなのだろうか。

   最近はテレビ放送でも吹き替えより字幕を好む人が増えているという。ケペルは断然吹き替え派である。「ローマの休日」もオードリー・ヘプバーンの声を何人もの女性が担当しているが、声優により雰囲気が変わる。そのため放送される度に録画している。やはり池田昌子が好きだ。だいたい昭和40年代にはスターと声優は固定化されているようだ。それらの主なアテレコ声優をあげてみる。

クラーク・ゲーブル、ロバート・テーラー(納谷悟朗)

ハンフリー・ボガート(久米明)

ジャン・ギャバン(森山周一郎)

グレゴリー・ペック(城達也)

フランク・シナトラ(家弓家正)

モンゴメリー・クリフト(山内雅人)

アラン・ドロン(野沢那智、堀勝之佑)

トニー・カーチス(広川太一郎)

ケーリー・グラント(中村正)

リチャード・ウィドマーク(大塚周夫)

タイロン・パワー(前田昌明)

ジョン・ウェイン(小林昭二)

ジェームズ・ギャグニー(近石真介)

ジャック・レモン(愛川欽也)

ヘンリ・フォンダ(小山田宗徳)

ウィリアム・ホールデン(近藤洋介)

イングリッド・バーグマン、デボラ・カー(水城蘭子)

オードリー・ヘプバーン(池田昌子)

マリリン・モンロー(向井真理子)

エヴァ・ガードナー(翠準子、沢田敏子)

ドリス・デイ(楠トシエ)

ローレン・バコール(来宮良子、大塚道子)

エリザベス・テーラー(武藤礼子)

ソフィア・ローレン(此島愛子、今井和子)

ラナ・ターナー(瀬能礼子、津村悠子)

ブリジッド・バルドー(渋沢詩子、白石冬美)

シャーリー・マクレーン(小原乃梨子)

コニー・スティーヴンス(増山江威子)

キム・ノヴァク(真山知子)

グレース・ケリー(野口ふみえ)

ヴィヴィアン・リー(寺島信子)

ジナ・ロロブリジダ(森ひろ子)

   なかでも、知性派ヘンリー・フォンダ(小山田宗徳)や情熱家バート・ランカスター(久松保夫)はスターの個性と声優の持ち味がブレンドして、今でも耳に残る。久松保夫(1919-1982)は「日真名氏飛び出す」でお茶の間のスターとなり、「ララミー牧場」のジェス・ハーパー(ロバート・フラー)や「スタートレック」のスポック(レナード・ニモイ)もあるが、持ち役はバート・ランカスターである。

2008年5月17日 (土)

男の色気

   男の色気とは何か?これがなかなか定義することが難しい。タバコを加えて、一人で悦に入っている男もいるだろう。イタリア男のような軽いのりでジョークをとばす男もいるだろう。作務衣を着て修行僧になったつもりの男もいる。人それぞれで自分流のスタイルを見つけるのが良いだろう。

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    さて、「男の色気を感じる俳優は?」というアンケートをとれば、おそらくジョニー・デップかもしれない。でもケペル世代としては、アラン・ラッドとジェラール・フィリップをあげる。これぞ「男の色気ここにあり」という二人の珍しい写真である。軍服姿のアラン・ラッド(1913-1964)は天下一品であろう。「マッコーネル物語」(1955)の撮影開始まえの一瞬を捕らえた写真で、穏やかな人柄がよくでている。送られたファン・レターにはほとんど自筆で返事していたという。日本にもファンは多かったが、背の低さに悩み続け、ほとんど人前に出るのを嫌った孤独で寂しいアラン・ラッドに、ケペルは「シェーン!カムバック」と泣きながら叫ぶのである。

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   ジェラール・フィリップ(1922-1959)といえば、世界中の女性のハートを鷲つかみにしたフランスの貴公子である。わずか36歳でこの世を去ったが、佳人薄命は男にも適用されるものなのか。淡くやさしい瞳の二枚目であるが、容貌もさることながら、その演技力で名優としての高い評価を得た俳優なのである。あまりにも完璧であるため、これまでケペルは近づきにくかったが、この写真、どこかおどけていて親しみがもてます。パリの馴染みの喫茶店。一人でリラックスしていた時間、突然、日本人カメラマンの早田雄二が闖入して「写真をお願いします」といわれて、まずは、日本のファンへのごあいさつ、といったところかもしれない。

2008年5月 4日 (日)

ヴェロニカ・ゲリン

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   次々と新作が公開され、好調なケート・ブランシェット。実在した女性記者ヴェロニカ・ゲリン(1959-1996)の麻薬犯罪との勇気ある戦いを描く。BSで映画「ヴェロニカ・ゲリン」(2003年度、ジョエル・シューマカー監督)を見た。

   1994年、ダブリンの低所得者住宅地にはまだ子供の麻薬中毒者が溢れていた。女性記者ヴェロニカは犯罪者の利益のため多くの子供が犠牲になっていることを許せず、この事実を報道する決意を夫に打ち明ける。早速、裏社会に詳しいトレーナーや刑事から情報を集め、危険人物にも果敢な取材を行なう。そんなある日、彼女の自宅の窓に銃弾が撃ち込まれる。恐怖を感じるヴェロニカだが、脅しに屈せず取材を続ける。そんな彼女に2度目の渓谷が。今度は自宅に押し入った男が彼女の太股に銃弾を撃ったのだ。だがこれで世論を味方につけたヴェロニカは、麻薬犯罪組織の首謀者ギリガン(ジェラード・マクソーリー)に迫る。

   この映画の背景には北アイルランドをめぐる民族問題がある。17世紀以降、アイルランド北部のアルスター地方にイギリスから多数のプロテスタントが移住した。19世紀になり、アルスター地方に繊維工業や造船業などがさかんになると、アイルランド南部から移住するカトリック教徒も増え、文化・習慣が異なる両者の間で、職や住居をめぐり、対立が激化するようになった。1922年、イギリス自治領としてアイルランド自由国が成立したとき、9州からなるアルスター地方のうち、プロテスタントの多い6州はそれに加わらず、「北アイルランド」としてイギリス(連合王国)に属した。アイルランド共和国も1937年の憲法で北アイルランドを自国領とした。しかし、カトリックの多い地方でも自己に有利な選挙区を設定して政治の実権を握っている北アイルランドのプロテスタントは、政治や経済の上で、少数派のカトリック教徒に対し優位を占めてきた。就職や住居などでしばしばプロテスタントから差別をうけているカトリックの住民の中には、実力でアイルランドの統一をめざすIRA(アイルランド共和国軍)などの組織も生まれている。プロテスタントとカトリック教徒の対立の根は深く、住民の意見も多様だが、1998年になってようやく平和的な解決に向かうって動きはじめた。

2008年5月 3日 (土)

ブルース・リー伝説

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 子役時代のブルース・リー(作品不明)

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   「グリーン・ホーネット」の頃(1966年)

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 バン・ウィリアムズとブルース・リー

    ブルース・リー(1940-1973)は、サンフランシスコで生まれたが、6歳のときから少年時代を香港で過ごす。古典劇の名優であった父親の影響で子役として約20本の香港映画に出演している。18歳のとき単身渡米する。ワシントン大学哲学科に入学。道場を開いて、中国武術を広めようとしていた。当時の写真を見ると、書棚には武道・哲学・古美術などあらゆる書物が並べられ向学心に燃えた青年であることがうかがえる。ところが、その武道がハリウッド関係者の目にとまり、TV「グリーン・ホーネット」のカトー役に抜擢される。たちまち派手なアクションで人気がでる。いま世界中で武道が見直されているが、ブルース・リーが世界に与えた影響ははかりしれないものがある。

デビッド・キャシディ

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   映画「理想の恋人.com」を見ていたら、サラ・ノーラン(ダイアン・レーン)の理想のタイプはデビッド・キャシディ、という話がでてくる。そして「人気家族パートリッジ」の歌を三姉妹で歌うシーンもある。デビッド・キャシデイとはその甘いマスクと歌声で70年代初期、少女達を夢中にさせたアイドルである。日本でもかなりのファンがいた。その人気絶頂のとき、あるライブ会場でファンの少女が転倒して死亡するという事故があって、それが原因で一時ステージから遠ざかったという。現在58歳。ネットで調べるといまは元気に歌手として活動しているようだ。ちなみにケペルは長女のローリーを演じていたスーザン・デイがお気に入りだった。あの人は今、どうしているだろう。

2008年5月 1日 (木)

実力派女優ケート・ブランシェット

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  クリスチィーナ・リッチが好きで、「耳に残るは君の歌声」(2000年)を映画館でみた。だがヒロインのスージー(クリスチィーナ・リッチ)よりも友人のロシア人ダンサーのブロンド美女に魅せられた記憶がある。あの「エリザベス」で有名になったケート・ブランシェットである。昨夜はBSで「シャーロット・グレイ」(2001年)を見る。

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   第二次大戦下、シャーロットはスパイの特訓を受けて、フランスに潜入する。南仏のレジスタンスのリーダーのジュリアン(ビリー・クラダップ)の手引きで、彼の父ルベード(マイケル・ガンボン)の家のメードとして住み込み、諜報活動をする。その家には二人のユダヤ人少年がかくまわれていた。彼女はドイツ軍列車爆破などに関わっていく。やがてドイツ軍がこの山奥の町にも侵攻してくる。何者かが仕組んだわなで偽の情報をつかまされ仲間を失い、さらには探していたピーター(ロバート・ペンリー・ジョーンズ)も死んだと聞かされ失意のシャーロットに、ナチの手先となった村の教師が言い寄ってくる。彼はルベード家に乗り込み、ルベードと少年たちをナチに引き渡す。ジュリアンは教師を殺害し、シャーロットと逃亡しようとする。だが、彼女はそれを断わると、少年たちの乗る収容所行きの列車を追いかけ、彼らに生きる希望を与える一通の手紙を渡す。戦争が終わり、ジュリアンと再会する。「ずっと言いたかった。私の名前はシャーロット・グレイよ」と。

   今夜もBSでケート・ブランシェットの「ヴェロニカ・ゲリン」(2003年)が放送される。楽しみだ。

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2008年4月29日 (火)

今宵もダイアン・レーン

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    今宵もBSでダイアン・レーン主演の「理想の恋人.com」を見る。離婚したばかりの幼稚園の教諭サラ・ノーラン(ダイアン・レーン)は落ち込んでいる。姉のキャロル(エリザベス・パーキンス)はサラになりすましてインターネットの恋人募集サイトに無断で登録する。「当方、グラマーでユーモア抜群。愛犬家に限る」まもなくサラは殺到する恋人候補とのデートで大忙しになる。なんと50歳といっていた男は、サラの父親の71歳のビル(クリストファー・プラマー)だった。悲惨な初デートの連続の中で、サラが気になる男性が一人だけ。ボートの設計者のジェイク(ジョン・キューザック)だ。ビルからジェイクの本当の気持ちを知ったサラは真実の愛を自ら進んでつかむ。ネットで見つけた理想の恋人探しをロマンチック・コメディとしてまとめている。

    40歳を越えて主演作品が続くダイアン・レーン。思えば、80年代初頭は美少女スターが花盛りだった。ブルック・シールズ(「青い珊瑚礁」「エンドレス・ラブ」)、テータム・オ二ール(「インターナショナル・ベルベッド」「リトル・ダーリング」)、クリスティー・マクニコル(「リトル・ダーリング」)、ジョディー・フォスター(「白い家の少女」「フォクシー・レディー」)、そしてダイアン・レーン(「リトル・ロマンス」「ラスト・レター」)。ジョディー・フォスターは別格として、一番個性的ではなかったダイアン・レーンが今日までスター女優として生き残れたのは何故だろうか。それはダイアンが少女のみずみずしさを保ちながら、大人の女性としての知的なセンスを磨きあげたことに、現代女性から支持されたのだろう。映画「理想の恋人」は決して名作ではないかもしれないが、リラックスして大人が楽しめる娯楽作品に仕上がっている。ダイアン・レーンも適役である。美少女スターが年をとって老け顔になっても、年齢が魅力になって人気が回復したケースは稀であろう。

2008年4月28日 (月)

ダイアン・レーンはイタリアがよく似合う

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   今夜はBSでダイアン・レーンの「トスカーナの休日」(2003年)を見る。離婚を経験したアメリカの書評家(作家)フランシス(ダイアン・レーン)は、その傷心ぶりをみかねた親友からトスカーナ旅行をプレゼントされる。コルトーナで一軒の築300年の屋敷を衝動買いしてしまう。フランシスは親切な不動産屋(ヴィンセント・リオッタ)の協力で、荒れ果てた家の修復に取りかかる。フランシスの夢はこの家で結婚式のパーティーをして家族をもつことになった。シャンデリアの部品を買うためローマに出かけたフランシスは、若くてハンサムなマルチェロ(ラウル・ボヴァ)と出会い、情熱的な一夜を過ごす。その日から見違えたように輝いていくフランシス。だが、妊娠した親友が遊びに来たり、若いポーランド人の大工の純愛をサポートしたりして、マルチェロとは会えない日々が続く。ある日、フランシスは思いきって白いドレスを着てマルチェロのいるアマルフィ海岸のポジターノへ突然に会いに行く。待望の彼との再会も悲恋に終わってしまう。それでも彼女はトスカーナの太陽のもと、力強く生きていくことをちかう。

   原作はフランシス・メーズのベストセラー小説だそうだが、往年のキャサリン・ヘプバーン主演「旅情」を彷彿させるものがある。「リトル・ロマンス」(1979)で14歳でデビューしたダイアン・レーンも43歳。少女スターが大人の女優として成功することは至難であるが、ダイアンはみごと演技派として復活した。クリストフ・ランベールとの結婚、出産、離婚、ジョシェ・ブローリンとの再婚と、ひととおりの経験を経て、「パーフェクト・ストーム」(2000)ではマーク・ワールバーグの年上の恋人、「運命の女」(2002)では不倫するリチャード・ギアの妻を演じている。この「トスカーナの休日」以後も「理想の恋人.com」などロマンチック・コメディーなどの作品が好調である。

    それにしても「リトル・ロマンス」の舞台はベニスだったが、今回はトスカーナ。なぜかダイアン・レーンのお相手には明るく陽気なイタリア男がよく似合う。

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2008年4月26日 (土)

スーパーマンの悲劇

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弾よりも速く、力は機関車よりも強く

高いビルも、ひとっ飛び

空を見ろ!

鳥だ!

飛行機だ!

いや スーパーマンだ!

そうだ スーパーマンだ。よその星から、人間をはるかにしのぐ力と能力を持ってやって来たスーパーマン。凄まじい河の流れを変え、鋼鉄を素手で曲げる。普段は、メトロポリタン紙の礼儀正しい記者クラーク・ケントと名を変えて、真実と正義と、アメリカのために、日夜闘いを続けるのである。

    地球を守るために遠い星からやって来たスーパーマンは、クラーク・ケントと名乗り、デーリー・プラネット新聞の記者としてあらゆる犯罪に挑みこれを撲滅する。テレビシリーズ「スーパーマン」(1952-1958)が日本でも放送されるや、ジョージ・リーブスは世界のヒーローになった。だがスーパーマンの重圧に負けたのか、1959年6月、謎のピストル自殺を遂げた。

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 「スーパーマン」はその後、クリストファー・リーブ(1952-2004)主演によりSFX劇場用映画として見事に蘇った。クリスファー・リーブの「スーパーマン」は、1978年、1980年、1983年、1987年と4本制作され、いずれも世界的な大ヒット。もともと舞台俳優をめざしていたクリストファー・リーブも様々な役に挑戦することを望んだが、スーパーマンとしてのイメージが強いため俳優として伸び悩んでいた。1995年落馬事故により、半身不随となり、2004年に52歳の若さで死去。何故かスーパーマン役者には、不運、不幸などの悲劇がつきまとうようだ。

2008年4月21日 (月)

プロレスラーになった逃亡者

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   東京オリンピックが華やかに行なわれていた頃、日本の奥様方は今でいうヨン様の「太王四神記」のように、ひとりのアメリカ俳優のドラマ「逃亡者」を夢中になってみていた。デビッド・ジャンセンという中年の渋い俳優だった。それまでアメリカ人といえば陽気なヤンキーというイメージがあったが、無実の罪をきせられたリチャード・キンブルは物静かで理知的で、いつも孤独な影がある、そこが母性本能を刺激したようだ。睦五郎の吹き替えも女心を酔わせた。

    リチャード・キンブル。職業、医師。正しいかるべき正義も時として盲しいる事がある。彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って辛くも脱走した。孤独と絶望の逃亡生活が始まる。髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。彼は逃げる、執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら、現在を、今夜を、そして明日を生きるために。

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   矢島正明のナレーションが始まるとテレビの前に釘づけになった。妻殺しの片腕の男を追うキンブルと、キンブルを追うジェラード警部の、二つの逃亡・追跡劇がサスペンスを盛りあげる。これまで日本で放送されたアメリカのテレビは西部劇中心だったが、「逃亡者」は、長距離バスや列車、田舎町、ドラグストアなどアメリカの現代社会を知るうえでも役立ったドラマだった。最終回、キンブルが片腕の男を追いつめ無人の遊園地でのシーンは全米でもテレビ史上最高の視聴率をマークしたという。

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    ところで、「逃亡者」リチャード・キンブルには実際のモデルがいる。1954年7月4日、オハイオ州クリーブランド郊外の自宅で医師のサム・シェパードは妻マリリン・シェバードを殴り殺した罪で有罪を宣告された。1966年11月16日、無罪となった。翌年12月に医師免許の復活を認められたが、医療事故を起こして廃業。その後、45歳のサムはなんとプロレスラーに転向、初戦を勝利で飾った。コリーン・ストリックランドという20歳の女性とも再婚したが、その半年後の1970年4月6日、急死した。

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わたし作る人、ぼく食べる人

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    ハウス食品初の即席めん「シャンメンしょう味」のCMがテレビで放送されたのは昭和50年8月末のことだった。

「今なんどきですか?」

「ハイ、ラーメンどっきっよ!」

そして結城アンナがラーメンをテーブルに座った佐藤祐介に運ぶ。

「わたし作る人」(結城アンナ)、「ぼく食べる人」(佐藤祐介)と言いつつラーメンを食べる。そして町田義人の歌が流れ、「結果!、♪ハウスシャンメン、しょうゆ味!」と終わる。

   このCM開始から1ヵ月余り過ぎた9月30日、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」のメンバー7人は、ハウス食品の本社を訪れ、「男は仕事、女は家事・育児という従来の性別役割をより定着させるもの」としてCM中止を要請した。ハウス食品では消費者の声を無視できないとして、CM中止を決定した。新聞や週刊誌はこぞってこの問題を取り上げた。「言葉狩り」「重箱の隅をつつく行動」など、抗議に批判的な論調も少なくなかったが、これが、日本で始めて性差別広告として批判された事例として画期的な意味を持つものとなった。これを契機に性差別広告批判運動は高まりを見せ、「男女の性別役割分業」という言葉を、世に広めた結果となった。

2008年4月20日 (日)

山口百恵不死鳥伝説

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    昭和48年ひとりの14歳の少女が歌手としてデビューした。山口百恵である。昭和55年10月日本武道館で引退コンサートまで、8年間、1970年代を疾風の如く駆け抜けた。「山口百恵は菩薩である」(平岡正明)と評されるほどに、芸能活動を一切行なわなくとも不死鳥のようなスターとしての存在感は今や伝説となっている。

    昭和47年12月、「スター誕生」決勝大会で牧葉ユミ「回転木馬」を歌った山口百恵は、昭和48年5月「としごろ」でデビュー。続く「青い果実」「ひと夏の経験」のキワドイ歌詞で注目されるようになった。昭和48年ではまだライバルたちとは横一線であった。画像は、左から菅原昭子、百恵、森昌子、藤正樹、桜田淳子である。菅原昭子は「17才の行進曲」、森昌子は「せんせい」、桜田淳子「天使も夢みる」でそれぞれデビューした。百恵の最大のライバル、桜田淳子はメリハリのきいた明るい歌声で「花物語」「三色すみれ」「黄色いリボン」「わたしの青い鳥」「はじめての出来事」「夏にご用心」「気まぐれヴィーナス」とヒットを連発させていた。百恵は映画「伊豆の踊り子」が興行的に成功し、テレビ「赤いシリーズ」も高視聴率をマークした。東大生が「山口百恵を守る会」を発足した話題も人気向上に貢献したであろう。芸能界で売れる、売れないは紙一重の違いであろう。演歌の菅原昭子は歌唱力もあり美人だったが、売れなかった。あゆ朱美(「ギターをひいてよ」「小さなブランコ」)も売れなかったが、のちに戸田恵子として声優、女優として成功をおさめた。小林美樹(「人魚の夏」)も人気はありながらヒットに恵まれず、アナウンサーに転身した。麻丘めぐみの実姉の立木久美子(「思い出のカルチェラタン」)も山口百恵の「青い果実」と同時昭和48年9月にリリースしたが売れなかった。スタ誕出身者では、最上由紀子(「初恋」)、松下恵子(「花嫁の父」)、三橋ひろ子(「私の花言葉」)、堺淳子(「祭りの想い出」)、そして百恵に勝利したシルビア・リー(「霧のエトランゼ」)、すべて玉砕した。百恵のライバル・マッハ文朱(「花を咲かそう」)も女子プロ界でスターとなったが、百恵に敗れたタレントといえるであろう。百恵・淳子の戦いは、淳子が少女歌手から大人女性への転身を図るため中島みゆきの曲を歌う頃から、アイドル性を喪失してファンは少しづつ離れていったように思える。平成4年に結婚し、結局二人は主婦という同じ道を歩むことになる。百恵にとって淳子は最大のライバルであったであろう。「淳子ちゃんは、正しいと思ったことは、私たちにとって鬼より怖いプロデューサーやディレクターにも堂々と意見を言った。淳子ちゃんは誰がなんと言おうと自分のペースで成長してきたけど、私は周囲に無理矢理大人にさせられたようで、そんな私を淳子ちゃんにだけは見られるのがいやで、いつも淳子ちゃんを意識していた」と雑誌のインタビューに百恵は語った。

安保闘争と炎加代子

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    昭和35年は安保闘争の年である。炎加代子という女優はこの時代を象徴している。当時、学生たちの間では既存の権威を否定してかかる「ナンセンス」という言葉が流行った。炎加代子が出演した作品にも安保闘争を描いたものが多い。「乾いた湖」(篠田正浩監督)では学生運動の闘士・下条卓也(三上真一郎)が大衆運動を軽蔑し、「デモなんかくだらない!革命だ」と叫ぶ。「太陽の墓場」(大島渚監督)では炎加代子は大阪の釜ヶ崎の女を熱演した。実生活では共演の若手男優と心中未遂を起こして、すぐに映画界から消えたが、少年たちに強烈な印象を残した女優である。ある雑誌の対談での発言「セックスしている時が最高よ」と語ったことからたちまち流行語となった。それは安保という政治的な時代の中で、ひたすらセックスという私ごとを追い求めることへの共感があったからであろう。

2008年4月13日 (日)

ハリス・フーセンガムと恵とも子

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    いま50歳以上の男性ならば、この懐かしいアイドル・タレントの名前を半数近くの方は知っているだろうし、50歳以下ならばほとんど知らないだろう。現在のようなグラビア・アイドルの位置が確立していない時代、男の子の記憶に残る永遠の青春スターであった。

    恵とも子。昭和24年生まれ。アメリカ人の父を持つハーフ・タレント。茶色の髪に青い瞳が可愛い。昭和38年に東京音楽院に入学、スクール・メイツの一員として音楽番組に出演。明星スター・パレードのマスコットガールになる。太田博之との「プラチナ・ゴールデンショー」の司会や映画「てなもんや幽霊道中」「東京市街戦」「陽のあたる坂道」に出演。レコードは昭和40年「ピンクの口紅」(「なぜか教えて」)、「大人の匂い」(花のおしゃべり」)。渡辺プロに所属し、テレビ出演も多数ある。昭和40年、41年、42年と雑誌のモデルとしても活躍する。「明星」の昭和41年1月号は橋幸夫、恵とも子である。2月号が舟木一夫、吉永小百合であるから、当時全盛だった吉永を抑えての正月号の登場であった。プロマイドの売り上げもローティーンの男子に人気があったので吉永に匹敵していたと思う。カネボウハリスはフーセンガム広告に恵とも子を大々的に起用し、週刊少年マガジンに頻繁に登場した。ちばてつや「ハリスの旋風」は「あしたのジョー」の前作品であるが、それまで少年週刊誌は戦争記事や忍者特集などで、女性タレントが誌面にでることは皆無だった。現在の少年誌は表紙も中味も女性アイドル中心であるが、恵とも子はその先駆け的役割を果たしたグラビア・アイドルといえる。

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              昭和41年1月号

女優の顔

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   「立川志らくのシネマ徒然草」248回「ソン・ヘギョ淡いままでいてください」(キネマ旬報1480)を読む。立川は女優の顔を「濃い顔」と「淡い顔」に分類している。エリザベス・テーラー、ソフィア・ローレン、オードリー・ヘプバーンは濃い顔である。韓国女優のソン・ヘギョ(「フルハウス」)は「淡い顔」(薄い顔)であるという。

    立川に限らず最近の日本男性はどうやら「薄い顔」を好むようである。そういえば電車の中吊り広告に見る女性誌の特集記事には「モテ顔」「小顔」「あっさり顔」「癒し系」「童顔」「かわいい」「さわやか」「ナチュラル」「自然美」という語が肯定的に使われていることからも、薄いメイクでキツイ印象を与えない女性が当世風美人とされているようである。インドの女優の写真を見るとスゴイ美人が多いが、日本でスターとなった女優は一人もいない。しかし日本男性は昔から「薄い顔」が好みだったというとそうでもない。日本映画界最大の美人女優といえば原節子である。ところが原の顔立ちは鼻は大きく、あっさり顔というよりは「濃い顔」である。山本富士子も鼻が立派で「濃い顔」である。石原裕次郎の奥さん、北原三枝は「君の名は」で情熱的なアイヌ娘を演じて人気がでた女優である。やはり「濃い眉」が特徴である。当時、ヘプバーン旋風が日本を席巻していたが、サブリナの濃い眉を若い女性はまねをしていた。久我美子、岡田茉莉子、有馬稲子、司葉子、淡路恵子、根岸明美、青山京子など皆んな眉は太く長く「濃い顔」をしている。この傾向は基本的には1980年代まで続いている。薬師丸ひろ子が一人勝ちの人気を誇った時代も、「濃い顔」で売れた。「跳んだカップル」の敵役の石原真理子の濃い眉は時代の象徴であった。現在のような「薄い顔」が好まれるようになったのは、何時頃からであるかは明言できない。例えば、飯島直子が濃い眉をしていたが、缶コーヒーのCMでブレイクしたときは、「癒し系」の顔立ちへと変化していた。現在の「薄い顔」の象徴は小西真奈美であろう。長身で小顔。小さい目であっさりした顔立ち。モデルのShihoがさわやか系で人気をえたことも、「薄い顔」の成立に大きく貢献したかもしれない。

    このように「薄い顔」が標準美人として君臨するようになったが、「爽やかな笑顔と明るいキャラクター」というだけでは女優としては物足らないように感じる。やはりハリウッドでは「濃い顔」「個性的キャラクター」が女優に求められる。美人系のキーラ・ナイトリー(「パイレーツ・オブ・カビリアン」)、アン・ハサウェー、ペネロペ・クルズは「濃い顔」であるし、ミラ・ジョヴォヴィッチ、アンジェリーナ・ジョリー、レネー・ゼルウェガー、ナタリー・ポートマン、二コール・キッドマン、シャリーズ・セロン、ジョデー・フォスターなどトップ女優は個性派(知性派とアクション派に分かれるが)が健在で「薄い顔」の女優は少ない。日本映画界のほうは、上野樹里、沢尻エリカ、長澤まさみ、田中麗奈、石原さとみ、宮崎あおい、蒼井優、榮倉奈々、谷村美月、成海璃子、伊藤美咲、長谷川京子、相武紗季、多部未華子、新垣結衣、堀北真希、山田優、池脇千鶴と若手主演級の女優を並べてみたが、往年の映画女優の華やかさに比べると物足らなさを感ずるのはケペルだけだろうか。やはり現在アジアでの人気女優は韓国女優のソン・ヘギョが一番かもしれない。

2008年4月 5日 (土)

松竹歌舞伎と松竹映画

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(左より)佐分利信、佐野周二、上原謙、岡田茉莉子、小山明子、高千穂ひづる、佐田啓二、高橋貞二ら松竹映画スター

 松竹の創業は、大谷竹次郎(1877-1969)が京都阪井座を買収した明治28年である。「松竹」の名前は、明治35年、双子の兄の白井松五郎(1877-1951)と共に、松竹合名会社を設立したことに始まる。演劇興行会社で100年以上もの歴史を持つことは世界にもあまり類例がない。

    明治36年1月、1回目の興行は、歌舞伎の実川延二郎(後の2代目延若)一座で、出し物は「曽我の実録」「乳貰い」「左甚五郎」。興行は大成功だったという。竹次郎が大津の連隊に入隊したのを契機に兄松次郎もこの仕事に加わり、2人は競い合うように京阪の劇場を手中にして、明治43年には本郷座と新富座を買収して東京へ進出した。大正3年、歌舞伎座経営、昭和5年には東京劇場を新築開場した。松竹が、映画に乗り出したのは大正9年のことで、「松竹キネマ」を興し、栗島すみ子、川田芳子、五月信子、英百合子、柳さく子、岡田嘉子、伏見直江、歌川八重子、八雲恵美子、田中絹代などの看板女優を中心に蒲田調といわれる女性向映画を得意とした。戦後の松竹大船調では、小津安二郎、木下恵介、大庭秀雄、中村登、吉村公三郎、渋谷実、野村芳太郎などの監督が健在で日本映画の黄金時代を築いた。昭和35年頃から大島渚、吉田喜重、篠田正浩ら松竹ヌーベル・バーグといわれる若手監督が登場する。映画産業そのものは斜陽となったが、松竹では山田洋次監督による渥美清の喜劇路線で不振を何とか乗り切ってきた。岩下志麻、倍賞千恵子、松坂慶子らが長らく松竹の看板女優であったが、近年、田中麗奈が「犬と私の10の約束」「築地魚河岸三代目」「ゲゲケの鬼太郎千年呪い歌」と松竹作品の出演が続いている。

角川春樹とハワード・ヒューズ

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    「愛情物語」クランク・アップ記念撮影

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      「地獄の天使」(1930年)ポスター

   16歳のミュージカルを夢見る少女仲道美帆(原田知世)は3歳の時に捨てられた孤児ではあるが、「あしながおじさん」を探すために長崎へ旅をする。「時をかける少女」(昭和58年)で一躍、薬師丸ひろ子に並ぶアイドル女優になった原田知世の主演第二作は、角川春樹自らが監督した作品「愛情物語」(昭和59年)だった。このように実業家(出版業)がメガホンをとることはめずらしいが、映画の都ハリウッドでもサイレントからトーキーへと代わる時代に、実業家ハワード・ヒューズ(1905-1976)が映画監督をしている。

   1930年、石油成金の息子で大富豪のハワード・ヒューズは初作品「地獄の天使」のヒロインの代役を探していた。主演女優はスウェーデンの女優グレタ・ニッセンであったが、彼女の訛りがひどかったので、トーキー映画に使えなくなった。そんな時、たまたまエキストラの無名女優ジーン・ハーロウ(1911-1937)がスタジオにいた。ヒューズはこの映画に莫大な制作費を投じた。世間はヒューズの愚かさを嘲笑し、その失敗を誰もが予言した。ところが大方の予想に反して、映画は大ヒットした。妖婦ジーン・ハーロウはこの映画で「プラチナ・ブロンド」といわれるセックス・シンボルになった。ジーンが登場する舞踏会のシーンはブロンドを見せるためにテクニカラーが施している。

   最近では「アビエイター」(2005年)という映画で、レオナルド・デカプリオがヒューズを演じている。そしてジーン・ハーロウをグウェン・ステファニー、キャサリン・ヘプバーンをケイト・ブランシェット、エヴァ・ガードナーをケイト・ベッキンセールが演じているというが興味をそそられる。

   ジーン・ハーロウの私生活は不可解をきわめ、1932年、MGMの製作者ポール・バーンと結婚したものの、バーンは謎の自殺をとげた。1933年撮影監督ハロルド・ロッスンと三度目の結婚をしたがこれも長つづきはしなかった。バーンに打たれた腎臓が障害をおこして、1937年6月7日、26歳の若さで急死した。

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2008年4月 3日 (木)

映画にみるクレオパトラ

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  古代エジプト、プトレマイオス朝の女王クレオパトラ(前69-前30)はその美貌をもってして歴史にその名を知られるが、彼女は本当に美人だったのだろうか。残念なことにクレオパトラが美人だったという証拠は何もない。ただプルタルコスの記録には、「彼女に親しく接することには、抵抗できない魅力があった。そして彼女の容姿は、説得力にみちた言葉や、そのふるまいに多少とも表れていた独自の性格と結びついて、一種の心地よい刺激をかもし出した。彼女が語るとき、その声の響きは甘く快かった」とあるように魅力的な女性だったことは間違いなさそうだ。実際は小柄で痩せ型だったといわれるクレオパトラを絶世の美女にしたのは、やはり映画の影響が大きいだろう。無声映画時代からクレオパトラはスクリーンに登場した。セダ・バラの「クレオパトラ」(1917年)は彼女の数ある出演作のなかでも、有名な作品となった。続いてクローデット・コルベールの「クレオパトラ」(1939年)、ヴィヴィアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」(1945年)、リンダ・クリスタルの「クレオパトラ」(1959年)などがあるが、なんといっても20世紀フォックスが社運をかけた超大作、エリザベス・テーラーの「クレオパトラ」(1963年)がクレオパトラ映画の決定版であろう。その後もヒルデガード・ニールが「アントニーとクレオパトラ」(1971年)で演じているが、エリザベス・テーラーを超える存在感のあるクレオパトラはスクリーンでは登場していない。

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  セダ・バラ

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  クローデット・コルベール

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  ヴィウィアン・リー

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  リンダ・クリスタル

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  ヒルデガード・ニール

2008年3月20日 (木)

東京大空襲

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     焼け野原となった東京

   2夜連続でドラマ「東京大空襲」を見た。ケペルの両親はすでに他界したが、東京大空襲のとき、墨田区に住んでいた。姉和子(当時3歳)と3人で暮らしていた。母から断片的に聞いたことはあるが、詳しく聞いたことは一度も無い。こんな悲惨な経験をしていたのかと思うと、何ともいえない感情になる。両親がもし空襲で死んでいたら、今の自分はこの世に存在していないのだから…。家を失い、父の田舎へ疎開したが、都会育ちの母は疎開先での暮らしに馴れなかった。

   昭和20年3月10日未明、グアム、サイパン、テニアンから飛来した米軍のB29爆撃機279機が、低空で東京上空に侵入、江東、墨田、台東区を中心に2時間あまりにわたって東京下町一帯を爆撃した。約10万人以上の尊い命が一夜にして奪われた。

   このようなわたしたちの父母の時代の出来事をもとに、フィクションを加えてドラマをつくっている。藤原竜也(大場博人)、堀北真希(桜木晴子)、瑛太(朴順仁)、柴本幸(山田和江)などフレッシュな顔ぶれも魅力である。主題歌は秋川雅史「愛する人よ」。

2008年3月17日 (月)

七人の刑事と警視庁物語

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        七人の刑事

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        警視庁物語

  もの悲しいハミングが流れ、よれよれのコートにハンチング帽という中年の渋い部長刑事、芦田伸介が登場する。TBSのテレビドラマ「七人の刑事」(昭和36年から44年)は警視庁赤木班(堀雄二)の七人の刑事たちの聞き込みや張り込み、参考人への取調べといった地道な捜査を通じて真実に迫るドキュメンタリー・タッチの社会派ドラマだった。キャストは課長の堀雄二をはじめ、芦田伸介、菅原謙次、佐藤英夫、美川陽一郎、城所英夫、天田俊明。山下毅雄作曲、歌・ゼーグ・デチネのテーマソングも良かった。赤坂のクラブで遊び歌っていた客のユダヤ人の宝石商デチネをたまたま居あわせた山下がレコーディングさせ、大ヒットとなった。ところが、ゼーグはその後、詐欺容疑で海外に逃亡したため、「七人の刑事」の歌を聞くことはできない。またドラマそのものも当時は録画保存という体制がなかったため、数回分だけでほとんど現存していない。リアルタイムで見れた幸せを感謝したい。

   この「七人の刑事」の原型ともいえるのが、東映の「警視庁物語」である。脚本の多くは長谷川公之が手がけているし、堀雄二が主演している。1時間ちょっとの映画なのでSP作品。二本立てということだが、地方の映画館では三本立て興行だったかもしれない。お目当ては東映イーストマンカラーのオールスター総天然色、明朗痛快娯楽時代劇だったが、添え物的に白黒のリアルな現代ドラマをみせられ強烈な印象となった記憶がある。それにあの月光仮面の大村文武が登場している。込み入った話の筋は理解できなかったかもしれないが、リアリズムというものも意外に、子どもにも楽しめる作品だった。警視庁に電話がなって、捜査員が受話器をとる。「なに!女性のバラバラ死体!」と、いった調子で話が展開していく。全25本あるそうだが、昭和30年の「終電車の死美人」を第1回とするかどうかは、研究者によって異なるという。昭和31年作品は「逃亡五分前」「魔の最終列車」「追跡七十三時間」、昭和32年作品は「白昼魔」「上野発五時三五分」「夜の野獣」、昭和33年作品は「七人の追跡者」「魔の伝言板」、昭和34年作品は「顔のない女」「一〇八号車」「遺留品なし」、昭和35年作品は「深夜便一三〇号車」「血液型の秘密」「聞き込み」、昭和36年作品は「不在証明(ありばい)」「十五才の女」「十二人の刑事」、昭和37年作品は「謎の赤電話」「十九号埋立地」、昭和38年作品は「ウラ付け捜査」「全国縦断捜査」「十代の足どり」、昭和39年作品は「自供」「行方不明」。  メンバーは「七人の刑事」のような固定制ではなく、毎回異なっている。堀雄二、神田隆、花沢徳衛、中山昭二、波島進、宇佐美諄、伊藤久哉、松本克平、福原秀雄、曽根秀介、菅沼正、外野村晋、関山耕司、南原伸二(南原宏治)、今井健二ら。下の写真の俳優すべて知っているかたは相当なマニアですね。

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左上より:佐原広二、山本麟一、須藤健、千葉真一、花沢徳衛、堀雄二

右上より:神田隆、南広、中山昭二、波島進、大村文武、石原房太郎

2008年2月28日 (木)

ふたりのナターシャ

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(ご注意)本記事は「ケペルの架空対談」第3回。ケペルが往年のアイドル女優に面会するとい新企画の架空記事です。

   1968年、朱里エイコがパンチのきいた声で「がんばれアニマル・ワン。メキシコめざして」と歌っていた年、ケペルにとって二人のナターシャがいた。ひとりは、メキシコ五輪の女子体操の名花ナタリア・クチンスカヤ。当時、ソ連のプラハ侵攻の直後であったため、世界の同情はベラ・チャフラフスカに集まった。しかしケペルの視線は19歳のクチンスカヤの若々しい肢体に集中していた。判定においても彼女に不利な状況であっかが、笑顔を絶やさず可愛らしかった。まさしく、彼女こそ「戦争と平和」のナターシャであった。

   その2年前、ソ連は国家的事業で「戦争と平和」を制作していた。完成までに6年を費やした、ヒロインのリュドミラ・サベーリエワに会いにケペルはモスクワへ行った。

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ケペル「はじめまして。戦争と平和は本当に大作ですね。ナターシャ役はどのようにして決ったのですか」

リュドミラ「子どもの頃からバレエの学校へ行ってプリマになることが夢だっんです。そのころセルゲイ・ボンダルチュク監督は超大作の映画に取り組んでいましたが、ナターシャ役が未定で1年が過ぎていました。そこで文化省のお声がかりで、コンテストにでることになって、選ばれてしまいました」

ケペル「撮影にはどれくらいかかりましたか」

リュドミラ「原作では17歳から21歳までですが、私もナターシャの年齢とほぼ同じに少女から女性へと成長していくように撮影しました。」

ケペル「これからの夢は何ですか」

リュドミラ「もうプリマへの夢は諦めました。ナターシャの役が大きすぎたのでなかなか映画出演も決らなかったのですが、最近、新作を撮っています」

ケペル「何という映画ですか」

リュドミラ「ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの映画です」

ケペル「最近結婚されたそうですね」

リュドミラ「ええ、アレクサンドル・ズブルーイェフと結婚しました。娘が生まれました」

可愛い赤ちゃんを抱いていた。

ケペル「名前はなんというの?}

リュドミラ「ナターシャです」

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   旧ソ連が制作した超大作「戦争と平和」のヒロイン女優リュドミラ・サベーリエワは1942年1月24日生まれ。現在66歳になっている。澄んだ瞳は北国の湖、透明な肌は純白の雪。ソビエト映画界が世界に誇る花リュドミラ・サベーリエワ、いまごろどうしているだろう。