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2018年10月27日 (土)

マルコポーロ

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  13世紀の後半、ルスティケロ・ダ・ピサは獄中でマルコ・ポーロという人物から、彼がアジア諸国で見聞した話を採録し、「イル・ミリオーネ」(100万の嘘)という本を編纂した。これがのちに「東方見聞録」と呼ばれる本である。ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロ(1254-1324)は1275年フビライ・ハンのいる大都開平府に到着、以後フビライの厚遇を受け、帰国後その旅行記をルスティケロがまとめた。「東方見聞録」(正しくは「世界の叙述」)は、日本をジパングと呼び、豊かな黄金の産地としている。誇張癖のある彼自身の言動に周囲の不信感が強かったこともあってほとんど顧みられることはなかった。1324年、マルコ・ポーロは70歳で永眠したが、彼の偉さがはっきりしたのは、コロンブスのアメリカ発見が実現してからである。

マルコ・ポーロ 青木富太郎 平凡社 1948
マルコ・ポーロ 岩波新書 岩村忍 岩波書店 1951
マルコ・ポーロ 世界最初の探検家 少国民の偉人物語文庫 福田和彦 岩崎書店 1959
マルコ・ポーロ 少年少女世界探検家物語5 砂田弘 三十書房 1964
マルコ・ポーロ 人と歴史シリーズ・東洋11  佐口透 清水書院 1977
マルコ・ポーロ 講談社の子ども伝記19  川崎洋 講談社 1981
マルコ・ポーロ 講談社火の鳥伝記文庫 保永貞夫 講談社 1982
マルコ・ポーロ 国際カラー版世界の伝記21 たかしよいち 小学館 1983
マルコ・ポーロ紀行 瓜生寅訳 博文館 1912
マルコ・ポーロ東方見聞録 青木富太郎訳 社会思想社 1983
マルコ・ポーロの研究 上 岩村忍 筑摩書房 1948
マルコ・ポーロのぼうけん 日本児童文学 高木博 日本児童文庫刊行会 1958
マルコ・ポーロ旅行奇談 吉原公平 大同館 1936

(Marco Polo)

2018年9月12日 (水)

夢の宇宙飛行

Photo   本日は「宇宙の日」。毛利衛が1992年、スペースシャトル・エンデバーに搭乗したことに由来するる。理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士の説によると、今後地球は人口過多によるエネルギー消費の増大で600年後には燃える火の玉と化すと警告している。つまりその600年の間にに人類は宇宙開発を進めて、新しい惑星へ移住できるようにしなければならない。宇宙への人類の夢は1961年のガガーリンが初の宇宙飛行を成功させてから半世紀を経て、ついに民間人も宇宙船に搭乗できる時代になった。芸能人の岩城滉一が来年にパイロットと2人乗りの宇宙船リンクス・マークで約45分間のフライトをするという。ちなみに経費は約930万円ほどかかる。

2016年8月 4日 (木)

別れのテープ

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別府埠頭 

春風のテープもつれる別れたのしく 

出てゆく汽船の、入りくる汽船の、うららかな水平線 

                   種田山頭火

   ドラが鳴って、タラップは外され、船と岸壁を結ぶロープも解かれ、船が動き出す。見送る人と見送られる人との間には、色とりどりの紙テープで結ばれている。やがて、船は港を離れ、テープはプチっと切れていく。この別れのテープが考案されたのは、今からおよそ100年前の1915年のこと。サンフランシスコで博覧会が開かれ、日本から出品された包装用の紙が大量に売れ残った。サンフランシスコで近江屋商店というデパートを経営していた日本人移民の森野庄吉は、余った紙で、船出のテープにするアイデアを思いつく。これがサンフランシスコで大当たりして、またたくまに世界中の港で「別れのテープ」が習慣として広まっていった。(参考:杉浦昭典「海の慣習と伝説」 1983年)

2016年7月11日 (月)

知床の冬

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    2005年、自然遺産としては日本で3番目の世界遺産となった知床(シリエトク)。ヒグマ、オジロワシ、オオワシといった動物とオホーツク海の流氷。冬の平均気温はマイナス5度。オシコシンの港、オロンコ岩、夕陽台、ブユニ岬、知床峠、知床五湖、カムイワッカの港などの風景。一度は訪れてみたい。1952年、藤谷豊は知床100平方メートル運動を提唱、全国からの基金で開発予定地の保全に成功した。

2016年2月 5日 (金)

カナダの自然と歴史

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   褐色の岩肌を誇るカナディアン・ロッキーにあるキャッスル・マウンテンとバウ川。名称は1858年にジェームズ・ヘクターによって名づけられたが、アメリカのアイゼンハワー大統領がカナダを訪れたのを記念して、「アイゼンハワー山」と改称された。しかし地元の強い要請もあり、1983年に旧称のキャッスル・マウンテンに戻った。

   世界で一番面積が大きい国は、もちろんロシア。アジアとヨーロッパにまたがり、国土の面積は約1708万平方km。では、2番目に広い国はどこか。中国?それともアメリカ?いずれも面積は900万平方km以上あるが、カナダの国土面積は997万平方kmで、ロシアに次いで世界第2位である。

    ヨーロッパ人が北アメリカに来る以前から、カナダを縦横に走りまわっていたのが、インディアンである。かれらの祖先は、ベーリング海峡を通って、アジアからアメリカ大陸へ入って来たものと考えられている。ヨーロッパ人がカナダにやって来た近世の初めに、かれらの文化はまだ石器時代の段階にあって、狩猟生活を営んでいた。一部の部族は原始的な農業を営み、トオモロコシやカボチャなどをつくっていたが、イヌのほか家畜がなく、したがって牧畜も知らなかった。五大湖地方から、セントローレンス川流域には、イロコイ語族に属するインディアンの諸部族が居住し、かれらは同盟を結んで、近隣の諸部族を脅かしていた。セント・ローレンス河谷に、ヨーロッパ人から鉄の斧やナイフ、鉄砲や毛織物を手に入れ、狩猟の産物である毛皮と交換して、これらの便利な文明の利器をますます多く得たいと望むようになった。

   コロンブスのアメリカ発見の5年後、1497年から翌年にかけて、イタリア人ジョバンニ・カボート(イギリス名ジョン・カボット)が、イギリス王ヘンリー7世の許可を得て西航し、セント・ローレンス湾口にあるケープ・ブレトン島や、グリーンランドおよびニュー・ファンドランドを発見した。1524年、イタリア生まれの航海士ヴェラッツアーノは、フランス王の依頼を受けてニューファンドランドからフロリダ沿岸を探検した。フランス人ジャック・カルティエはフランス王フランソア1世の命を受けて、アジアに至る北西航路探検のため大西洋を西航し、1534年から翌年にかけて、同川をさかのぼって現在のモントリオールの地点まで到着した。

   フランスの探検隊カルティエ等がインディアンに「ここはどこか」と訊ねた。イロコイ族は「カナタ(村の意味)」と答えた。探検隊はこれを地名と誤認し、誤って「カナダ」となったという。(イギリスの地名研究家テイラーの説)

   カルティエはインディアンから「カナダ王国」の話を聞いたが、そこで見たものはインディアンの貧しい部落だけだった。しかしながらこの探検によって、フランスのカナダに対する領土権主張の根拠がすえられた。その後インディアンとの毛皮貿易の利益が知られるとフランス人の本格的な植民が始まった。フランス王アンリ4世から毛皮貿易の独占権を与えられたド・モンを説得してセント・ローレンス流域に向かったシャンプランは、1608年、ケベックの地に最初の恒久的な根拠地を築いた。1663年にルイ14世は新フランス植民地の知事や監督官や司教を任命し、その後有力な軍隊が派遣されて、フランス人に敵対するイロコイ族の討伐も行なわれた。軍隊の将校や兵士に、セント・ローレンス川沿岸の土地が与えられ、フランス本国に類似した封建的領主制が行なわれた。カトリック教会にも広大な土地が下付され、教会は入植者の生活のあらゆる部面において、指導的役割を果たした。

    17世紀末から19世紀初めのナポレオン戦争に至るまで、ヨーロッパで戦争が起こると、イギリスとフランスは必ず敵対する陣営に属して戦った。フレンチ・インディアン戦争(1754-1763)で、イギリス人の植民地は、フランス人の植民地に対してはるかに確固たる農業植民地を形成していたため、イギリスの決定的な勝利に終わった。カナダはイギリス領となった。ケベックその他のフランス人植民地は、イギリス軍の占領後ケベック州となった。人口の大部分がフランス系植民者からなり、宗教・言語・法律・習慣の異なるヨーロッパ人を統治するという新しい課題に直面したイギリス政府は、1774年にケベック法を定めて、ローマ・カトリック教の信仰の自由を保証し、フランス的な民法とイギリス刑法を適用することにして、フランス系カナダ人の自由と権利の保護に努めた。このような文化の異なる民族に対する寛容な政策により、イギリス領ケベック州とイギリス本国の間の統合が強化された。

   ケベック法によって、ケベック州の領域がオハイオ川北岸まで拡大されたことは、大西洋岸のイギリス領13州植民地に刺激を与えた。これらの植民地では独立の気運が高まり、独立軍は1775年ケベック州に侵入してモントリオールを攻略したが、ケベック要塞を占領することはできなかった。1783年のパリ条約により、五大湖の線がアメリカとイギリス領ケベック州の境界線となった。

   アメリカ独立戦争の際、これに反対したロイヤリスト(忠誠派)が大挙カナダに移住したことは、その後のカナダの人口構成に大きな変化を与えた。約4万人のロイヤリストがノバスコチアおよびニュー・ブランズウィックに移住し、後の上カナダ、現在のオンタリオ州に移住した者は約1万人にのぼるといわれている。このためカナダにはイギリス系の人口が急増し、かれらはケベック法で認められていなかった代議制や、その他のイギリス的な自由な諸制度の実施を求めるようになった。イギリス本国政府はこれらの要求にこたえて、1791年植民地政府組織法を定めた。この法律によりケベック州は、イギリス系人口からなる下カナダの二州に分離され、それぞれに立法院と衆議院が設けられた。これより以前、ノバスコチアには1758年、1763年イギリス領となったプリンス・エドワード島には1773年、ノバスコチアから分離したニュー・ブラウンズウィックには1784年に、それぞれ代議制議会が認められていた。なおケベック州では以前からフランス的な封建的土地保有制が行なわれていたが、1791年の法律により、新しく下付される土地についてイギリス的な自由な土地保有制が適用されるようになった。

   1867年7月1日、イギリス領北アメリカ法が成立し、ノバスコシア、ニューブランズウィック、ケベック、オンタリオの4州からなる連邦としてカナダ自治領が成立する。初代首相はジョン・アレクサンドル・マクドナルド(1815-1891)。1949年にニュー・ファンドランド島が連邦に加盟し、その結果現在のカナダの領域が最終的に確定する。英領アメリカ法が修正され、完全な主権を獲得する。1970年代以降はカナディアン・アイデンティティーの確立を模索するという動きが外交面でみられ、従来の対米依存の路線から自主路線への転換が図られるとともに、先進国の一員として国際的発言力を強めつつある。1982年カナダ新憲法が公布され、イギリスからの完全独立が達成される。(引用文献:「これが新しい世界だ9 カナダ」国際情報社)

2015年4月24日 (金)

郷に還れば即ち是れ書肆なり

Redulivre  ベルギーにルデュという小さな村がある。活性化のため、古本屋を集めて村おこしに成功したという。今では世界中から珍しい本を求めて観光客がやってくるという。画像の本はセギュール夫人の「ふたりのおばかさん」 (Rude,Comtesse de Segur)

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  「銀のスケート靴」 ドッジ夫人

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「ジャカネイブス」(1879年) ジュリアナ・ホレイシア・ユーイング作、ランドルス・コルデコット絵(Jacanapes
とは「いたずらっ子」の意)



 

 

 

2015年1月10日 (土)

特急乗り継ぎ旅

Photo_3   田中要次、八木さおり、中村昌也の三人が特急列車に乗って鹿児島から稚内までを行く。ルールは最低20種類以上の特急に乗車し、5日間でゴールに到着すること。

1日目、鹿児島~隼人(はやとの風)、隼人~宮崎(きりしま)、宮崎~大分(にちりん)、大分~別府(九州横断鉄道)

2日目、別府~小倉(ソニック)、普通(お助けカード)小倉~新山口、新山口~出雲市(スーパーおき)、出雲~姫路(ランライズ出雲)

3日目、姫路~城崎温泉(はまかぜ)、城崎温泉~豊岡(こうのとり)、豊岡~天橋立(たんごリレー)、天橋立~京都(はしだて)、京都~金沢(サンダーバード)

4日目、金沢~新潟(北越)、新潟~秋田(いなほ)、秋田~青森(つがる)

最終日、新青森~函館(白鳥)、函館~南千歳(北斗)、南千歳~札幌(スーパーおおぞら)、札幌~旭川(オホーツク)、旭川~稚内(スーパー宗谷)。

鹿児島から稚内まで3200㎞、旅費は106,580円。秋田でポートタワー・セリオンに寄ったため、乗り遅れたこと以外は順調であった。やはり路線バス乗り継ぎ旅のほうが面白い。

2014年7月26日 (土)

オールコックの富士登山

Fujiyama1     1860年9月、イギリス大使ラザフォード・オールコック(1809-1897)ら8名のイギリス人が外国人で初めて富士山に登山し、9月11日に富士山の山頂を登りつめた。登山の後に熱海の温泉が気に入り、2週間滞在している。8名の名前を記す。ラザフォード・オールコック、リチャード・ユースデン、アベル・A・J・ガワー、L・フレッチャー、J・マクドナルド、ロビンソン、ヴィーチ、エドワード・バーリングトン・デ・フォンブランク。

    富士山は静岡県と山梨県にまたがり、長く裾を引く秀麗な山容や高く清い姿から、いにしえより多くの歌に詠まれてきている、日本でもっとも高い(標高3776m)コニーデ型の火山。(山頂付近が静岡県か、山梨県なのかは、はっきりと決まっていない)。富士山の南側と北側とでは気象条件が異なるため、植生分布には独特なものがあります。富士山の森林限界は2400~2500mだが、高山でみられるようなハイマツはなく、カラマツ、ヒメコマツなどが低く生えている。また、高山植物も種類が少ないが、御中道付近の林にはハクサンシャクナゲやコケモモが見られる。山麓には針葉樹の広大な樹海が広がり、ツガ、ヒノキ、ウラジロモミ、ハリモミなどが多く見られる。初秋には溶岩が露出した荒れ地にフジアザミが咲く。動物は、青木ヶ原などの原生林でツキノワグマやキツネ・ヒメネズミ、大沢あたりでカモシカなどを見かける。鳥類は豊富で、キジ、イワヒバリ、ホトトギス、ヒヨドリ、ホオジロなど200種を数え、また、渡り鳥の繁殖地としても知られる。2010年、西湖で絶滅種とみられていた魚「クニマス」が生息していることがわかった。(7月26日,Ratherford Alcock)

参考;宮永孝「富士山に登ったヨーロッパ第1号 オールコック英公使」社会志林51-4,2005年
「富士登山と熱海の硫黄温泉訪問」 オールコック著 露蘭堂 2011年

2014年3月25日 (火)

サクラの語源

K1129965490    本日、東京の靖国神社の桜が開花した。桜の名所といえば、一目千本とうたわれた吉野山が古来から名高いが、嵐山、御室仁和寺、醍醐寺、石山寺、多武峰など京都に近い古くからの名所は多い。だが日本の桜は北は北海道から南は沖縄にいたるまで、各地にそれぞれの野生種があって春の盛りを告げている。新聞に桜の名所の人気ランキングが掲載している。 

 1.吉野山(奈良) 

 2,千鳥ヶ淵(東京) 

 3.嵐山(京都) 

 4.弘前公園(青森) 

 5.造幣局(大阪) 

 6.上野恩賜公園(東京) 

 7.高遠城址公園(長野)

 8.仁和寺・御室桜(京都) 

 9.新宿御苑(東京) 

 10.醍醐寺(京都) 

   この投票は朝日新聞の会員サービス「アスパラクラブ」の投票なので都市に偏りがあるが、この他、全国各地に桜の名所があるだろう。 

    サクラ自体の語源は、江戸時代から「古事記」の木花之開耶姫の「さくや」の転訛とされてきたが、大槻文彦は、「麗らかに咲く花」から「咲く」「麗らか」、つまり「咲麗」(サクラ)の名になったと「大言海」で説いている。中村浩(1910-1980)は咲くに、接尾語「ら」がついて成立したと見た。接尾語「ら」は、多数の集まりを示す群(むら)の略とする。咲群(さくむら)からサクラになったという説である。ちなみに中村浩博士は食品微生物学が専門で、ウンコを研究し、糞尿博士として知られた。クロレラ研究所を設立。著書に「植物名の由来」「園芸植物名の由来」「糞尿博士・世界漫遊記」がある。

2013年11月21日 (木)

旧国名で旅する

K13_02b_2     日本海に沿って西街道から山陰道、北陸道、蝦夷へ旅する。薩摩、肥後、筑後、筑前から関門海峡を越えて長門へ。石見、出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後、丹波、若狭、加賀、能登、越中、越後羽後、陸奥、そして津軽海峡を渡り、松前、蝦夷に着く。

   ちなみに旧国名につかわれる漢字で常用漢字、人名用漢字にないのは伯耆の「耆」である。意味は「老いた人」。

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