褐色の岩肌を誇るカナディアン・ロッキーにあるキャッスル・マウンテンとバウ川。名称は1858年にジェームズ・ヘクターによって名づけられたが、アメリカのアイゼンハワー大統領がカナダを訪れたのを記念して、「アイゼンハワー山」と改称された。しかし地元の強い要請もあり、1983年に旧称のキャッスル・マウンテンに戻った。
世界で一番面積が大きい国は、もちろんロシア。アジアとヨーロッパにまたがり、国土の面積は約1708万平方km。では、2番目に広い国はどこか。中国?それともアメリカ?いずれも面積は900万平方km以上あるが、カナダの国土面積は997万平方kmで、ロシアに次いで世界第2位である。
ヨーロッパ人が北アメリカに来る以前から、カナダを縦横に走りまわっていたのが、インディアンである。かれらの祖先は、ベーリング海峡を通って、アジアからアメリカ大陸へ入って来たものと考えられている。ヨーロッパ人がカナダにやって来た近世の初めに、かれらの文化はまだ石器時代の段階にあって、狩猟生活を営んでいた。一部の部族は原始的な農業を営み、トオモロコシやカボチャなどをつくっていたが、イヌのほか家畜がなく、したがって牧畜も知らなかった。五大湖地方から、セントローレンス川流域には、イロコイ語族に属するインディアンの諸部族が居住し、かれらは同盟を結んで、近隣の諸部族を脅かしていた。セント・ローレンス河谷に、ヨーロッパ人から鉄の斧やナイフ、鉄砲や毛織物を手に入れ、狩猟の産物である毛皮と交換して、これらの便利な文明の利器をますます多く得たいと望むようになった。
コロンブスのアメリカ発見の5年後、1497年から翌年にかけて、イタリア人ジョバンニ・カボート(イギリス名ジョン・カボット)が、イギリス王ヘンリー7世の許可を得て西航し、セント・ローレンス湾口にあるケープ・ブレトン島や、グリーンランドおよびニュー・ファンドランドを発見した。フランス人ジャック・カルティエはフランス王フランソア1世の命を受けて、アジアに至る北西航路探検のため大西洋を西航し、1534年から翌年にかけて、同川をさかのぼって現在のモントリオールの地点まで到着した。
フランスの探検隊カルティエ等がインディアンに「ここはどこか」と訊ねた。イロコイ族は「カナタ(村の意味)」と答えた。探検隊はこれを地名と誤認し、誤って「カナダ」となったという。(イギリスの地名研究家テイラーの説)
カルティエはインディアンから「カナダ王国」の話を聞いたが、そこで見たものはインディアンの貧しい部落だけだった。しかしながらこの探検によって、フランスのカナダに対する領土権主張の根拠がすえられた。その後インディアンとの毛皮貿易の利益が知られるとフランス人の本格的な植民が始まった。フランス王アンリ4世から毛皮貿易の独占権を与えられたド・モンを説得してセント・ローレンス流域に向かったシャンプランは、1608年、ケベックの地に最初の恒久的な根拠地を築いた。1663年にルイ14世は新フランス植民地の知事や監督官や司教を任命し、その後有力な軍隊が派遣されて、フランス人に敵対するイロコイ族の討伐も行なわれた。軍隊の将校や兵士に、セント・ローレンス川沿岸の土地が与えられ、フランス本国に類似した封建的領主制が行なわれた。カトリック教会にも広大な土地が下付され、教会は入植者の生活のあらゆる部面において、指導的役割を果たした。
17世紀末から19世紀初めのナポレオン戦争に至るまで、ヨーロッパで戦争が起こると、イギリスとフランスは必ず敵対する陣営に属して戦った。イギリス人の植民地は、フランス人の植民地に対してはるかに確固たる農業植民地を形成していたため、新大陸における両国の争いはイギリスの決定的な勝利に終わった。カナダはイギリス領となった。ケベックその他のフランス人植民地は、イギリス軍の占領後ケベック州となった。人口の大部分がフランス系植民者からなり、宗教・言語・法律・習慣の異なるヨーロッパ人を統治するという新しい課題に直面したイギリス政府は、1774年にケベック法を定めて、ローマ・カトリック教の信仰の自由を保証し、フランス的な民法とイギリス刑法を適用することにして、フランス系カナダ人の自由と権利の保護に努めた。このような文化の異なる民族に対する寛容な政策により、イギリス領ケベック州とイギリス本国の間の統合が強化された。
ケベック法によって、ケベック州の領域がオハイオ川北岸まで拡大されたことは、大西洋岸のイギリス領13州植民地に刺激を与えた。これらの植民地では独立の気運が高まり、独立軍は1775年ケベック州に侵入してモントリオールを攻略したが、ケベック要塞を占領することはできなかった。1783年のパリ条約により、五大湖の線がアメリカとイギリス領ケベック州の境界線となった。
アメリカ独立戦争の際、これに反対したロイヤリスト(忠誠派)が大挙カナダに移住したことは、その後のカナダの人口構成に大きな変化を与えた。約4万人のロイヤリストがノバスコチアおよびニュー・ブランズウィックに移住し、後の上カナダ、現在のオンタリオ州に移住した者は約1万人にのぼるといわれている。このためカナダにはイギリス系の人口が急増し、かれらはケベック法で認められていなかった代議制や、その他のイギリス的な自由な諸制度の実施を求めるようになった。イギリス本国政府はこれらの要求にこたえて、1791年植民地政府組織法を定めた。この法律によりケベック州は、イギリス系人口からなる下カナダの二州に分離され、それぞれに立法院と衆議院が設けられた。これより以前、ノバスコチアには1758年、1763年イギリス領となったプリンス・エドワード島には1773年、ノバスコチアから分離したニュー・ブラウンズウィックには1784年に、それぞれ代議制議会が認められていた。なおケベック州では以前からフランス的な封建的土地保有制が行なわれていたが、1791年の法律により、新しく下付される土地についてイギリス的な自由な土地保有制が適用されるようになった。
1867年7月1日、イギリス領北アメリカ法が成立し、ノバスコシア、ニューブランズウィック、ケベック、オンタリオの4州からなる連邦としてカナダ自治領が成立する。初代首相はジョン・A・マクドナルド(1815-1891)。1949年にニュー・ファンドランド島が連邦に加盟し、その結果現在のカナダの領域が最終的に確定する。英領アメリカ法が修正され、完全な主権を獲得する。1970年代以降はカナディアン・アイデンティティーの確立を模索するという動きが外交面でみられ、従来の対米依存の路線から自主路線への転換が図られるとともに、先進国の一員として国際的発言力を強めつつある。(引用文献:「これが新しい世界だ9 カナダ」国際情報社)
昭和6年頃、パリには多くの日本人がいた。画家では藤田嗣治、海老原喜之助、鳥海青児。美術評論家の土方定一、詩人の金子光晴など。そんな中で異彩を放つのは考古学者・森本六爾(1903-19036)のパリ遊学である。
森本六爾は畝傍中学卒業後、奈良県下の遺跡を独力で調査し、昭和2年に考古学研究会(後の東京考古学会)を創設し、主幹となり雑誌「考古学」を発刊した。弥生時代に稲作農耕が存在したことをいち早く提唱した夭折の考古学者。この時「放浪記」(昭和5年刊行)で文壇に華々しくデビューした女流作家・林芙美子(1903-1951)も昭和6年11月にパリに来ており、孤独な二人の旅情はやがてかりそめの恋となる。
林芙美子は小柄で美人ではなかったが、明るくて女性的な魅力があった人である。このとき芙美子はすでに画家・手塚緑敏と結婚しているが、パリ滞在中も森本のほかにも、画家の外山五郎、建築家の白井晟一、坂倉準三、詩人の辻潤、仏文学者の渡辺一夫などとも交遊があった。芙美子は画家の外山五郎に会いたい一心で渡仏したらしい。失恋した芙美子の前に現れた男性が森本である。森本は芙美子と同じ年の28歳、ミツギ夫人がいる。
芙美子の日記に森本が登場するのは昭和6年12月26日である。「夕方顔氏(台湾人留学生)、森本氏達と支那めしをたべ、サンミッシェルを散歩する」とある。12月29日には森本、田嶋隆純(真言宗の学僧)とギメ美術館へ行った。翌年1月6日、芙美子は森本と田嶋を自分の部屋に招いて食事を供にした。翌日森本は朝早く芙美子を訪ねた。芙美子が好きだといった。日記には「へえ! こんなやぶれた女がね」「此男とは絶交する必要がある。本当はいいひとなのだろうが、学者にはどうも、精神的ケッカン者が多い」とある。1月10日にも森本が姿を見せたので、芙美子は「来らば水かけん」と宣言する。その翌日、ホテルに帰ると森本からリラの花三本が、「此花が御部屋を訪問いたします。どうか水をぶっかけて下さい。出来たら根の方が結構です」という手紙を添えて届けられていた。
やがて、2人はパリを離れロンドンへ。森本は1月29日、靖国丸で帰国する。芙美子は1月23日から2月25日までロンドンに滞在する。ケンジントンの下宿は森本に紹介してもらった。森本は3月9日帰国した。その年から翌年にかけて森本は活発に仕事をおこない、弥生文化研究の基礎をつくった。だが結核は進行していき、昭和11年1月、32歳で死んだ。(参考:関川夏央「女流 林芙美子と有吉佐和子」)
最近のコメント