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2021年12月26日 (日)

ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドン

    エコール・ド・パリを代表する画家モーリス・ユトリロ(1883-1955)の母であるシュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)は女流画家として知られている。1883年12月26日、パリ、モンマルトルのポトー通りの一角で、男児を生んだ。彼女は18歳、父親はわからない。シュザンヌは1865年、フランスのリムーザンで洗濯女の私生児として生まれた。本名は、マリ・クレマンティーヌ・ヴァラドン。5歳のとき母とパリに出てモンマルトルで暮らした。はじめサーカスのアクロバットの美少女として人気があったが、ブランコから転落して足をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。15歳のとき、画家ビュヴィス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。画家は彼女にモデルになることをすすめた。娘はマリアという名でモンマルトル界隈の画家たちを相手にポーズをとった。ドガ、ロートレック、ルノワールの名があげられる。祖母のマドレーヌと三人でトゥールラック三番街に住んでいた。その隣に住んでいたのがロートレック(1864-1901)である。20歳のシュザンヌは2歳のモーリス・ユトリロを連れて、ロートレック(21歳)の愛人になる。そしてシュザンヌもいつとはなしに絵筆を持つようになっていた。ロートレックは気難し屋で皮肉屋の画家ドガ(1834-1917)に彼女のデッサンを見せた。抜群のデッサン力を持つこの老画家は、彼女のデッサンをしげしげと眺めて「この娘はぼくらの仲間だね」といった。

   シュザンヌは1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚する。その後、離婚し、ユトリロよりも若い凡庸な画家アンドレ・ユテルと再婚し、奇妙な三人暮らしが始まる。1935年、ユトリロは裕福な未亡人リュシー・ポーウェルと結婚し、ユトリロ夫婦と母は幸せな生活を送る。シュザンヌは、1938年、73歳で亡くなっている。

2021年12月13日 (月)

奈良六大寺散策

    法隆寺、薬師寺、興福寺、東大寺、唐招提寺、西大寺を奈良六大寺と称する。これとは別に歴史的にみると、むかし諸国から集った学問僧が仏教の哲理を考究する学問寺を南都七大寺、法隆寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、東大寺、西大寺と称した。

    奈良の寺は、堂の前面を開け放って、堂の屋外正面からこれを礼拝した。人間は堂の内部に立ち入ることはしなかった。奈良の寺が、たとえ堂内に入ることがあっても靴を脱ぐ必要がないのはそのような古い様式を残しているからである。京都に見られる中世以降の寺には、畳敷きの礼拝用の大広間の作られているものがある。以下、奈良六大寺の創建のみ記す。

法隆寺 7世紀はじめに聖徳太子の父用明天皇の勅願で、推古天皇の協力を得て聖徳太子が創建したとされる。日本書紀に天智9年(670)に全焼したとある。昭和14年の発掘調査で、今の若草伽藍が前身とされる。

薬師寺 天武天皇が680年に、皇后の病気平癒を祈って創建した寺を、都が藤原京から平城京へ遷された際に、現在地へ移建したものといわれるが、寺籍と由緒を引き継いだだけという説が有力である。

興福寺 平城京建設とともに藤原不比等はいち早くここに自分たちの寺を移した。多くの荘園を所有して南都七大寺の一つに数えられた。法相宗大本山。

東大寺 聖武天皇の天平13年、諸国に国分寺建立の詔が発せられ、大和の国分寺兼総国分寺として造営された。華厳宗大本山。

唐招提寺 8世紀半ばに来日した中国の僧鑑真が、新田部親王の旧宅の地に建立した。天平宝字3年(759)のことで、当初は唐律招提といった。のちに官位の寺となって唐招提寺となった。律宗総本山である。

西大寺 天平神護元年(765)、称徳天皇の勅願寺として建立された南都七大寺の一つ。その後、戦国時代に焼失したが、宝暦2年(1752)に本堂が再建された。真言律宗総本山である。

 

 

2021年11月 8日 (月)

ルーヴル美術館

    パリはいうまでもなく世界で最も美しい観光都市であり、主要な名所旧蹟を訪れるだけでも数日間は要する。ルーヴル界隈の美術館、博物館だけでも大小100近くある。なかでもルーヴル美術館は世界中から年間800万人の来館者が訪れる。美術品が40万点以上収蔵しており、3万5000点が展示されている。宮殿の美術品を公開したのは1763年11月8日のことで、ルーヴル美術館のはじまりである。

    建物は3翼に分かれており展示は、リシュリー翼、ドノン翼、シュリー翼からなっている。フィリップ2世(在位1180-1223)が1200年ころにパリ右岸の町を防備するために要塞を築いたのがはじまりで、14世紀にシャルル5世、16世紀にフランソワ1世(在位1515-1547)が改修して王の居城に改め、次いでアンリ2世(在位1547-1559)が改造拡張し、その後も大規模な工事が続けられた。宮殿ルーヴルが美術館に生まれ変わったのは1793年8月10日。この時、王家の美術品は市民のものとなった。ほぼ現在の形になったのは、19世紀ナポレオン3世の時代である。このようにルーヴル美術館は開館以来250年以上の歴史を刻んできた。

代表的な作品
ミロのヴィーナス
サッカラの「書記座像」
プラクシテレス女神像
レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」
ヤン・ファン・エイク「宰相ロランの聖母」
フォンテーヌブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」
デューラー「自画像」
ルーベンス「マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸」
プーシエ「オダリスク」
フラゴナール「勉強」
モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール「ポンパドール夫人」
コロー「モルト・フォンテーヌの思い出」

 

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「鉛筆をけずる若いデッサン画家」シャルダン 1737年

 

( keyword;Musee du Louvre )

2021年10月25日 (月)

ピカソはなぜいつも横縞シャツを着ているのか?

P_picasso2   画家パブロ・ルイス・イ・ピカソは1881年10月25日スペイン南部の港町マラガに生れた(プラサ・デ・ラ・メルセド36番地)。父ドン・ホセ・ルイス・ブラスコはマラガ州立サン・テルモ工芸学校の図画教師、母マリア・ピカソ・ロペスはアンダルシア出身。したがってパブロ・ルイス・ピカソがスペインの通常の呼び名であるが、父の姓ルイスはアンダルシアではよくある姓なので、1901年以降は署名から削って「パブロ・ピカソ」(Pablo Picasso)としている。ネットでもピカソの本名が長いことが話題になっている。マラガ市役所にある出生届には「 Pablo Diego  Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Cipriano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso 」(パブロ、ディエゴ、ホセ、フランシスコ、デ、パクラ、ファン、ネポムセーノ、マリア、デ、ロス、レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ、ラ、サンティシマ、トリニダード、ルイス、イ、ピカソ)と書かれている。スペインでは名前の長さは家柄が古くて由緒正しいものであることを示している。また名前は長いほど幸福がやどると信じられてきた。パブロは一人息子で、美しい顔立ちのうえに早熟な才能に恵まれていたので、小さいころから愛情に慣れっこになり、これは生涯彼につきまとった。ピカソの写真を見ると多くは横縞のシャツを着ている。これは彼が港町マラガの生まれで生来、海が好きだからなのだろう。ピカソのポーターは「バスク」柄といわれるもの。バスク地方の漁師が仕事着として着ていたもので、バスク州ゲルニカがナチスに空爆されたことを忘れないという決意があるのであろう。(4月8日)

 

 

 

 

 

 

2021年10月15日 (金)

漱石と高村光太郎

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    大正元年の秋、銀座の読売新聞3階の催し物会場で若手芸術家たち「フューザン会」のグールプ展が開かれた。ある日、夏目漱石は寺田寅彦と共に来場、斎藤与里と高村光太郎の作品を購入したという。だが漱石と光太郎はその後、光太郎が新聞に漱石の芸術家としての態度を難じたことで不仲となった。漱石と親交のあった洋画家・浅井忠が明治40年、開設された第1回文展(文部省美術展覧会)の審査委員会委員になったことから、漱石も文展との関わりが深かった。漱石の「文展と芸術」は東京朝日新聞大正元年10月15日から28日に掲載されている。漱石は芸術への造詣が深く、己の審美眼に自信があったはずである。とくに英国留学経験から世紀末美術を愛好していたが、ようやく日本に紹介されたばかりのポスト印象派などの理解は十分とはいえない。つまり大正初期の新芸術を提唱した高村光太郎たちとは断絶があったと思われる。その間の事情は漱石が津田青楓に宛てた手紙で推測してみる。「高村君の批評の出ている読売新聞もありがとう。ちょっとあけてみたら芸術は自己の表現にはじまって自己の表現に終わるという小生の句を曖昧だといっています。それから陳腐だと断言しています。そのくせ読まないと明言しています。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました」とある。(大正元年11月13日)東京朝日新聞VS読売新聞、文展(官展)VS新興芸術、といった構図もみえる。「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終わるものである」という漱石のテーゼは余裕派といわれた漱石の作家としてのスタンスでもある。芸術の最初最終の大目的は他人には没交渉である。芸術家の孤独性、純粋性といっている。文展の会場に「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終わるものである」という漱石の句が飾られていたらしい。やはり明治文人がすましているだけのことに青年には感じられるのだろう。高村光太郎の意気もまた賞賛すべきところであるか。

 

 

 

 

2021年6月 2日 (水)

契丹の3人のプリンセス。萌ぇ~

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   静岡県立美術館(静岡市駿河区)で開催された「草原の王朝 契丹 美しき3人のプリンセス」展。10世紀初め、耶律阿保機が部族を統合して遼を建国(916-1125)。1人目はトルキ古墳に埋葬されていた女性で名前は判らない。数々の副葬品から位の高い女性だったらしい。2人目は18歳で亡くなった契丹第5代皇帝・景帝(在位969-982)の孫、陳国公主。3人目は第6代皇帝・聖宗(在位982-1031)の第2夫人・章聖皇太后。あなたはどのタイプがお好みかな。

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  鏡箱、鏡 10世紀前半

 

契丹世系表
太祖ー太宗ー世宗ー穆宗ー景宗ー聖宗ー興宗ー道宗ー天祚帝

 

世界史で学ぶ「澶淵の盟」とは、1004年に北宋の真宗と遼聖宗との間で結ばれた盟約。国境の維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を歳幣として送ることが決められた。中国ドラマ「燕雲台」のヒロイン蕭燕燕(953-1003)は聖宗の母親である。

 

 

2021年4月25日 (日)

玉杖十簡

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孝平皇帝元始五年幼伯生。永平十五年受玉杖

    1959年秋に甘粛省武威県磨咀子第18号墳から出土した各簡23ミリ余りの武威漢簡の一例をあげる。漢代では高祖以来高齢者を優遇する養老政策をとり、老人に特権を与えていたが、その一つに杖頭に鳩のついた玉杖を下賜した。画像は玉杖十簡といわれる第1簡である。

    幼伯はこの墓の被葬者である。前漢平帝の元始5年(5)に生まれて、後漢明帝の永平15年(72)に鳩杖を賜わった。玉杖を与えられたものの特権を規定した法令(制詔)と鳩杖とを一緒にして棺の上に置かれていた。

    簡の初めに黒丸をつけ、1字あけて10数字書いている。空いた部分を麻縄で冊書にしてあったが、1900年が経過して、麻縄が朽ちて簡の順序が混乱したため配列の順序は不明である。画像は郭沫若の説に拠るものであるが他に4説があるという。

    第3簡と第9簡に、皇帝の命令である制の字が見えることから、漢代の令を研究する上に玉杖十簡は重要な資料である。(参考:「書道全集26」平凡社,大庭脩「漢代の決事比 玉杖十簡配列の一案」関西大学文学論集創立90周年記念特輯 関西大学文学論集 1975年)

 

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2021年4月15日 (木)

印象派30人の画家たち

Works_c3a_32    19世紀後半の絵画の流れをふりかえった場合、その主流をなすものは、モネなどの印象派グループの活動であろう。しかし、彼らの活動は、まとまった芸術運動としてはざっと10年ほどしか続かなかった。1874年のこの日、パリで第1回印象派展覧会が開かれ、1886年まで前後8回にわたって続いた。しかし、その最後の展覧会は、メンバーからいっても出品内容からいっても、もはや正統な印象派の枠を完全に越えてさらに新しい方向へとむかうものであった。スーラたちの新印象派や、一般に後期印象派と呼ばれるゴーギャンやゴッホの作品であった。強烈な色彩による感情表現は表現主義の先駆となり、やがて20世紀に入り抽象表現を生んでいく。(4月15日)

 

コンスタン・ギース    1802-1892
ルイ・ウジェーヌ・ブーダン 1824-1898
カミーユ・ピサロ     1830-1903
エドゥワール・マネ    1832-1883
エドガー・ドガ      1834-1917 
ポール・セザンヌ    1839-1906
アルフレッド・シスレー 1839-1899
クロード・モネ      1840-1926
オディロン・ルドン    1840-1916 
ピエール・オーギュスト・ルノワール 1841-1919
フレデリック・バジール 1841-1870
アルマン・ギヨマン   1841-1927 
ベルト・モリゾ      1841-1895
メアリー・スティーヴンソン・カサット 1844-1926
アルベール・デュボワ・ピエ 1846-1890
ポール・ゴーギャン   1848-1903
ギュスターヴ・カイユボット 1848-1910
フィンセント・ファン・ゴッホ 1853-1890
イポリット・プティジャン  1854-1929
シャルル・アングラン 1854-1926
アンリ・エドモン・クロス 1856-1910
マクシミリアン・リュス  1858-1941 
 
ジョルジュ・スーラ    1859-1891
レオ・ゴーソン      1860-1944
テオ・ファン・ライセルベルク 1862-1926
ボール・シニャック       1863-1935
リュシアン・ピサロ    1863-1944
アンリ・クレメンス・ヴァン・デ・ウェルデ 1863-1957
 
アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック 1864-1901
ルイ・エ          1864-1940 

 

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 アルベール・デュボワ・ピエ「夜明けのマルヌ河」
 

 

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 クロード・モネ「黄昏、ヴェネツィア」

 

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マクシミリアン・リュス「ルーブルとカルーゼル橋、夜の効果」 1890年


2021年4月 8日 (木)

ミロのヴィーナスの両腕

397305055810999  本日は「ヴィーナスの日」。1820年のこの日、エーゲ海のメロス島のある農夫がヴィーナス像を発見した。農夫の名前には諸説ある。ヨルゴス・ケンドロタスという説、あるいは彼の息子のアントニオであったという説。また、彼の父親のテオドロス・ケンドロタスという説もある。ともかく第一発見者は、この像を司祭のマカリオ・ヴェルギスという人物に売り払った。この司祭は、トルコ人の役人への贈り物にしようとした。この像がイスタンブール行の船にまさに積み込まれようとしている時に、フランス大使の代理がメロス島に駆けつけて、阻止して、フランスがこの像を手に入れることができた。こうしてミロのヴィーナスはルーヴル美術館に所蔵されることになったのである。

 ルーヴル美術館の至宝ミロのヴィーナスは理想のプロポーションといわれる。上半身と下半身の比率が1対1.618で、人間が最も美しいと感じる黄金比だそうである。両腕がないことも全身が露わになって魅力を増している。清岡卓行はミロのヴィーナスが両腕を失ったたがため思いがけなくも心象的な美というものの一つの典型になったと説いている。(手の変幻)失われた両腕は本来どのようなしぐさをしていたのだろうか。右手は衣のすそを抑えるように下にたれて、左手は筋肉の隆起から見て、前にだし肩よりは少し上でリンゴを持っていたと考えられる。(keyword;Venus de Milo,Golden Ratio、4月8日 )

 

 

2021年3月28日 (日)

パリの美術館・博物館

 パリ・ルーブル美術館では、近く全所蔵品約50万点の画像を無料でオンライン公開するという。パリには大小あわせて100以上の美術館・博物館がある。日本では美術館・博物館という区別が明示されるが、フランスではすべてミュージアム(ミュゼ)である。だから、フランスの展示施設を日本語に直すときには、収蔵品の性格にしたがって、ルーヴル美術館とか自然史博物館とか、選択がなされている。ルーヴル美術館は古代から19世紀にわたり、ルーヴルの続き、つまり19世紀の終わりから20世紀に関する芸術は、オルセー美術館と国立現代美術館が紹介している。パリにはルーヴル、オルセー、ポンピドーセンターといった有名美術館のほか、オランジュリー美術館、ギメ美術館、ピカソ美術館、パリ市立近代美術館、国立近代美術館、パリ工芸博物館、プティ・パレ美術館、マルモッタン美術館、カリナヴァレ美術館、市立近代美術館、モンパルナス美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ジャックマール・アンドレ美術館、バカラ・ギャラリー・ミュージアム、コニャック・ジェイ美術館、ルイ・ヴィトン財団美術館、カルティエ現代美術館、クリュニー中世美術館、ダリ美術館、ドラクロワ美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ロマン派美術館、ロダン美術館、ブールデル美術館、マイヨール美術館、パリ市立ガリエラ・モード美術館、建築・文化博物館、国立自然歴史博物館。欧州写真博物館。アラブ世界研究所。スーピース館。チェルヌスキ美術館(パリ市立アジア芸術美術館)がある。このほかモンマルトルにはゴッホの像で知られるザッキン美術館や素朴派の画家たちの作品を集めたパリ市立アル・サン・ピエール素朴派美術館がある。パリ郊外にはコンデ美術館。ここには世界で一番美しい本といわれる「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」が所蔵されている。

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  ジャックマール・アンドレ美術館

 

  そしてモンソー通り沿いに建つニッシム・ド・カモンド美術館。19世紀末のユダヤ人豪商モイズ・ド・カモンド伯爵(1860-1935)の邸宅を改装して一般公開している。ゴブラン織りのタピストリー、棚にはセーブルの食器セット、壁にはヴェネツィア派の絵画、図書室、と当時のパリの香気が漂う。(Paris,Nissim de Camondo)

 

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祖父アブラハム・ソロモン・カモンド(左)、ニッシム・ド・カモンド(右) 1868年

 

  セーヌ川沿いにあるケ・ブランリ美術館は原始美術のコレクター、ジャック・ケルシャン(1942-2001)が収集したアフリカ・アジア・オセアニア・南北アメリカの民俗芸術品を展示している

 

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 ケ・ブランリ美術館

 

  欧州初公開された「風神雷神図屏風」。チェルヌスキ美術館はパリ8区、モンソー公園沿いのヴェラスケス通り7番地にある。

 

 

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