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2008年6月23日 (月)

19世紀ドイツ写実主義

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バルコニーのある部屋 1845  ベルリン国立美術館

   アドルフ・フォン・メンツェル(1815-1905)は、「サンスーシー宮殿におけるフリードリヒ大王のフルート・コンサート」などの歴史画にすぐれた画家として知られるが、その鋭い観察の写実性は、ありふれた日常生活を描いた風俗画にその特色がよく現れている。

   メンツェルは1815年12月8日、ドイツのブレスラに石版画家の子として生まれた。1830年一家とともにベルリンに移住、ベルリン美術学校に学ぶ。1832年、父の死後、その工房をついで石版挿絵で一家を養う。歴史的なテーマによる石版画シリーズの制作を始め、油彩を試みる。1839年以来クーグラーの『フリードリヒ大王伝』の400点に及ぶ木版挿絵を制作し、名声を得る。つづいて銅版画を始める。1845年ごろ印象派を先取りするような光の効果をとらえた風景画を描く。晩年にかけて劇場の桟敷席、居室、鉄工場の労働者などを写実的に描いた。

2008年6月 1日 (日)

レイトンの女性美

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         「燃え立つ6月」 1895年

    フレデリック・レイトン(1830-1896)はイギリス・ヨークシャーのスカーボローの生まれ。幼少時より家族でヨーロッパ旅行をしていたので、数ヶ国語を話し、美術に関する知識も自然と身についていた。さらにフィレンツェ、フランクフルト、パリ、ブリュッセルなどで本格的な美術を学び、ロンドンに戻ってからはラファエル前派とも親交を深める。1868年ロイヤル・アカデミー会員、1878年同会長となりナイト爵を授与され、1886年準男爵、1896年の死の前日にはイギリス画家として初めて男爵の称号を得た。彼の作品は歴史、聖書、古典的な題材がほとんでビクトリア朝時代の画風であるが、近年、再評価がなされている。主作品には「プシケの入浴」(1890)「燃え立つ6月」(1895)など。

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      「果物かごを持つ娘」

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        「無言歌」 1860年

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         「ローマの農家の娘」 

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     「書見台に向かって」 1877年

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          「ソリテュード」

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   「ペリセフォネの帰還」 1891年

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      「ヘスペリデスの園」 1892年

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        「ヘロの最後の眺め」

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 「プシュケの水浴」 1889-1890年頃

   ここでの水浴するプシュケは、単なるギリシャ趣味の口実でしかない。題材は19世紀以来、さまざまな口実のもとに展開されてきたヌードである。近年、世界的規模の「ビクトリアン・ヌード」展があり、レイトンという画家が注目をされるようになっている。その在世時、少なくともイギリスでは極めて高い名声を得た画家ではあった。レイトンの作品はイギリスに欠如していたある種の高踏性と洗練があり、それがヴィクトリア王朝趣味に適合したのであろう。レイトンはラファエル前派に深い共感を持っていたようであるが、画風はよりアカデミックであり、古典主義的であった。

2008年4月29日 (火)

マネとベルト・モリゾ

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         黒い帽子のベルト・モリゾ

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   エドゥアール・マネ(1832-1883)の「バルコン」(1868年)に扇子をもって座っている美しい女性はベルト・モリゾ(1841-1895)である。モリゾはこれまでマネのモデルとして知られていたかも知れないが、近年は個展も開かれ、女流画家としても高く評価されるようになっている。第1回から第8回まで開催された印象派展に実に7回も出品している。モリゾの作品にはシルバー・ホワイトがなされたと思われる層の上に明るい透明に近い黄土色の薄い層を重ねて下地とした作品が多くみられ、身近な人々を女性らしいこまやかな愛情をこめて描いている点に彼女の特徴がみうけられる。

    マネは「草上の昼食」「オランピア」などで世の非難を浴びていた1858年のある日、ルーブル美術館で、リューベンスの模写をしている若くて美しい女性を、友人のファンタン・ラトゥールから紹介された。マネは彼女の漆黒の瞳とエキゾチックな容貌に魅せられた。すぐさま、モデルを努めてくれるように頼んだ。ベルトのスペイン風なエキゾティズムはマネを虜にした。「黒い帽子のベルト・モリゾ」(1872年)など1872年の7月から9月の間にベルトの肖像画が4点もある。マネとベルトとの恋の噂もあったが、1874年、ベルトは弟のウージェーヌ・マネと結婚した。ウージェーヌはベルトより8歳年長だった。健康にあまり恵まれなかったのと生来の気まぐれもあって、生涯いかなる職にもつかずディレッタントとして過ごした。モリゾは37歳で娘ジュリーが生まれた。「私の赤ちゃんは爪の先までマネです。もうこの子の叔父さまたちそっくり。私に似たところはまるでありません」と「エドマへの手紙」に書いている。ベルト・モリゾの54年の生涯は愛情に満ちた家庭と比較的恵まれた経済状態で幸福であったようだ。

2008年4月28日 (月)

ヌードのモナ・リザ

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  世界で最も有名な絵画は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」(ラ・ジョコンダ)であろう。.このルーブル美術館の至宝「モナ・リザ」には、ほかに、もう1枚の「モナ・リザ」が存在していたといわれる。ダ・ヴィンチは、肖像画を描くときはいつでも2枚以上の版を作る習慣があったためだ。だが、いま世界には60点以上も「モナ・リザ」といわれる絵画が存在するが、本物と断定できるものはない。その中でも「ヌードのモナ・リザ」は珍品中の珍品であろう。なんと上半身裸である。この絵画はイギリスのノーサンプトンシャーのスペンサー卿(あのダイアナ妃の実家)が所有している。「美女ガブリエル」といわれ、おそらくダ・ヴィンチ派の画家の作であろう。

2008年4月24日 (木)

ゴッホ「聖書のある静物」

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     開かれた聖書のある静物 

      ゴッホ  1885年4月   ヌエネン

    読める文字の書き込まれた本が画面に登場してくるゴッホの最初の作品は、アムステルダムのゴッホ美術館に所蔵されている「開かれた聖書のある静物」である。この聖書はゴッホの父が所有していたもので、使い古されている。その年、父は死んだ。火の消えたろうそくは父の死を象徴している。父の死の床に、うなだれたゴッホは、ぽっつりと一言いった。「死ぬのはつらい。しかし、生きることは、もっとつらい」と。手前の小さな本は、ゴッホの愛読書、ゾラの「生きる喜び」である。開かれた聖書は、文字からイザヤ書53章であることがわかる。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている

彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちに彼を軽蔑し、無視していた

彼が担ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた

神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

   (「イザヤ書」第53章3節、4節)

   ゴッホは聖書の「イザヤ書」を開いて何がいいたかったのであろうか。「イザヤ書」第53章全体は、われらすべての「悲しみとなやみ」を担い給う人の子についての預言である。それは当然、救主としてのキリストのイメージにつながると同時に、人々から「侮られ、すてられ」ていたと感じていたゴッホ自身の姿でもある。ハーグで同棲していた娼婦シーンとの結婚問題で、ゴッホは家族から反対され、「軽蔑され、人々から見捨てられ」たと感じたに相違ない。ゴッホがシーンを描いた石版画「悲しみ」には、英語ではっきりと「Sorrow」の文字が書き込まれている。

ゴッホ「黄色い本」

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      黄色い本  パリ  1887年秋

    画家が静物画の対象として花や果物を描くことはよくあるが、本そのものを描くことはあまりない。ただ一人ゴッホだけは画面の中に本を描き出した作品をかなり残している画家である。そして、その中には、標題その他の文字が読めるように描いてあるものも少なくない。ゴッホはどのようなメッセージを残したかったのだろうか。「黄色い本」と題する作品は、文字としては読めないが、標題があるといことはわかるように描かれている。この作品は、パリに来てから学んだ新印象派のいわゆる点描画法に近い様式で描かれている。1888年3月、この作品を預かっていたテオがアンデパンダン展に出品しようとした時、ゴッホはわざわざアルルからテオに「もし出品するなら、パリの小説本、という題名にしてほしい」と、注文をつけている。ゴッホはかなりな読書家で、バルザック、ゾラ、モーパッサン、フローベル、ゴンクール兄弟などを愛読していた。当時の社会において、これらの「黄表紙本が堕落したものとして、いささか疑わしい眼で見られていたことを考えると、ゴッホはあえて敬愛する作家たちの作品を、少しも隠そうとはせず、「レモン・イェロー」を使った色彩の象徴主義の萌芽を見ることができる。黄色に「生命の燃焼」と「生きる喜び」を求めようとするゴッホの決意を読み取ることができるであろう。

2008年4月14日 (月)

花を持つ少女

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      花を持つ少女   木炭と水彩、紙

   フランス近代絵画の肖像画・風俗画において、「美しい女性こそ最高の美である」という理念がサロンでは主流であった。印象主義及びそれに続くさまざまな運動の高まりの中でサロンの画家たちは美術史の中で軽視されていくが、最近見直しされる傾向にある。

    フリッツ・ツベル=ビューレル(1822-1896)。スイスの肖像画家、風俗画家。ルイ・グロクロード、ピコの弟子。美術学校で学ぶ。1850年からサロンに出品し始める。ベルヌ、ル・ロクル、モンペリエ、スシャテルの美術館に作品が収蔵されている。

2008年3月31日 (月)

画家とエッフェル塔

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   1889年のパリ万国博覧会開催を決定したフランス政府は、会場入口に1870年の敗戦から立ち直るフランスを象徴する記念碑を建てることを望んだ。いくつかの計画が提出されたが、結局、技師ギュスターヴ・エッフェル(1832-1923)の案が採用される。塔はフランスでつくられた金属による構築物の領域での偉大な進歩の象徴であった。300メートルの高さの塔の出現は前代未聞だった。ちなみに高い建造物といえば、

  トリノのアントネリアーナ塔 170m

  ワシントン記念塔       169m

  ケルン大聖堂         156m

  ギゼーのピラミッド      146m

  サン・ピエトロ寺院      132m

    したがって、エッフェル塔の高さは当時、人間が建てた建造物では世界一だった。だが、同時代の人びとからはひどく嫌われる。1897年2月にはメッソニエ、ジェロームなど官展派の画家と、ドーメ、ケルテス、ヴォードルメなどのアカデミー会員を含む150人の名士によるエッフェル塔撤去の請願書が作成されている。作家のユイスマンは、「穴のあいた燭台」といった。しかし塔の美学は次第に画家たちを魅惑していく。ジョルジュ・スーラ、ラウル・デュフィ、アンリ・ルソーがエッフェル塔を描いた。とりわけロベール・ドローネー(1885-1941)はルソーの影響によってエッフェル塔の連作を描きはじめた。

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    赤いエッフェル塔 ドローネー  シカゴ美術館蔵

2008年3月20日 (木)

韓服(ハンボク)の美しさ

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    韓国ドラマが数多く日本でも放送されるようになって、韓国の歴史や伝統に興味をもたれるようになった方も多いことだろう。「冬のソナタ」という純愛ドラマに始まった韓流ブームは、「宮廷女官チャングムの誓い」「海神(チャン・ボゴ)」そして「太王四神記」と韓国時代劇に推移し、新たなファン層を拡大している。とくにチャングム(イ・ヨンエ)やハン尚宮(ヤン・ミギョン)の正統派韓国美人女優に心を奪われた日本男性も多いだろう。そして彼女たちは当然のことながらチマチョゴリがよく似合う。

   伝統韓服の一般女性の衣装は、短いチョゴリ(上着)とゆったりしたチマ(スカート)である。チョゴリは時代により長さが変化する。脇の下に色違いの布が配色されている。首の周りの白いラインはドンジョン(掛け襟)という。そしてチョゴリの襟を結び合わせるために、襟の端ともう片方の向かい側に突けたオッコルム(結び紐)が前方に垂直に垂れ下がっている。画像のチマチョゴリは一般的な普段着である。

2008年3月12日 (水)

岡本信治郎「10人のインディアン」

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10人のインディアン(10枚組の内)  岡本信治郎 

  昭和39年 長岡現代美術館蔵

   ゴッホに関心をよせていた岡本信治郎は、やはりゴッホを象徴する色、いわばゴッホ色として黄色を用いた作品がよく見られる。「10人のインディアン」は髪飾りをつけ長靴をはいたインディアンの姿が、太い描線で囲まれた簡潔な形体と、明るく鮮やかな色調で描かれている。記号のように著しく単純化されたイメージは、豊かなユーモアと鋭いアイロニーに満ちて、抽象的戯画ともいうべき独自な世界を示す。戦後、抽象画が流行していたが、岡本はマンガ的絵画を描くことで、見るものにさまざまなメッセージを送り続けている。

    岡本信治郎(おかもとしんじろう)は昭和8年、東京生まれ。昭和27年、都立日本橋高等学校を卒業後、印刷会社のアート・ディレクターとして26年間勤務。独学で水彩画をはじめ、日本水彩画展、二紀展などに出品。昭和31年、村松画廊で最初の個展を開き、同年ヨシダ・ヨシエらと「制作会議」を結成、新印象派の画家スーラの作品に出会うことで、現代の病理を明るい色彩と単純な形態によって表わす発想を得る。昭和31年から読売アンデパンダン展に出品、昭和37年と翌年のシェル美術賞展で佳作賞を、昭和39年第1回長岡現代美術館賞展で大賞を受賞。この間、「聖家族」「10人のインディアン」など、ユーモラスな形態の内に空虚感を込めた連作を発表し、現代日本のポップ・アートを代表する一人となる。

2008年3月11日 (火)

未来派・尾形亀之助

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  化粧   尾形亀之助 1922年 仙台・個人蔵

    尾形亀之助(1900-1942)は、アナーキスト系詩人の仲間に加わり詩誌「銅羅」「歴程」などに参加。虚無的心情を平明な言葉に託してうたった詩人として知られる。画家としては、大正10年の第2回未来派美術協会展に、木下秀一郎に誘われて出品したが、それ以前の画歴はよくわからない。未来派美術協会に属し、村山知義や柳瀬正夢とマヴォの結成にも加わった。彼の油絵の作品は、絵を描いた時期が短かったせいもあるが、この「化粧」以外、残っているものがあるかどうか、現在のところ不明である。平面的な線と色によって対象を抽象化して描いており、瀟洒な色感と洗練された近代感覚が認められる。

2008年3月 6日 (木)

ゴッホの椅子

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  ゴッホの椅子 1888年12月~1889年1月

  ロンドン テート・ギャラリー蔵

   ゴーギャンとの共同生活が始まって間もなく、ゴッホは二つの椅子を描いた。一方はゴッホ自身の、他方はゴーギャンの椅子である。前者がこの作品で、日光のもとで描かれ、ゴーギャンのそれは、ランプの光で描かれる。ゴッホのは頑丈で素朴だし、ゴーギャンのそれは、しなやかな曲線で描かれている。意図的ではなかったかもしれないが、二つの椅子は、まったく対照的な二人の性格を暗示し、やがて悲劇に終わべき共同生活の運命を象徴しているかのようである。なにげない椅子を一つ描くことによって、それを用いる人間の生活そのものを、性格までをも描写するゴッホの感受性の鋭さ、存在についての意識を表現するゴッホ芸術の典型ともいうべき作品だろう。

2008年3月 5日 (水)

大地の生命力を描く画家ピサロ

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    朝のコーヒーを入れる農家の娘

    1881年 シカゴ・アート・インスティテュート蔵

    ピサロは、この作品と「棒切れを持って坐る農家の娘」を一時最高の出来栄えの作品と言っている。息子に宛てた手紙には次のようにある。「お前は、私がもし再び出品するなら最高の作品をロンドンに送るべきだという。…しかし最高作が何かと自問するとき、誰でも大いに困るのだということはお前にもわかるだろう。「朝のコーヒーも入れる農家の娘」と「棒切れを持って坐る農家の娘」をロンドンに送っているのかというが、もちろんこれ以上完成された会心の作品を私には送れない。けれどもこれらはロンドンでは無器用とみなされた。…私が、田舎者の気質をもち、陰気な人間で、絵が荒削りの野性味をもっていることを思い出してくれ…」

    カミーユ・ピサロ(1830-1903)は西インド諸島のセント・トマス島に生まれた。1855年、画家を志してパリに出て、アカデミー・シュイスに学ぶ。万国博覧会の美術展でコローの作品に感激してから、風景画一筋の制作を始め、サロンに出品するがいずれも落選。1863年の落選画展にはじめて並んだ。1870年の普仏戦争の時はロンドンに難を逃がれ、そこでモネとともにターナーらのイギリスの風景画を研究。戦後パリ北西郊外のポントアーズに居を構えて、ふたたび質朴な田園風景を連作。モネらと印象派グループ展に参加し、以後同派の最年長者としてただ一人毎回これに出品しつつげた。その作風は、印象派独特の技法を用いながら地味な堅実さを示し、モネやシスレーよりいっそう構成的な点に特色がある。

ゴッホのはね橋

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  アングロワ橋(アルルのはね橋)   1888年3月

  オッテルロー クレラー・ミュラー美術館蔵

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  アングロワ橋(アルルのはね橋)  1888年5月

  ケルン ヴァルラフ・リヒャルツ美術館蔵

    ゴッホがアルルで見いだしたもっとも有名なモチーフが、アングロワのはね橋である。アルルからブークに至る運河にかかるこの橋は、オランダのはね橋への郷愁を彼のなかによび起こしたにちがいない。そしておそらくそれ以上に、青い空と水、単純なはね橋の造型は、浮世絵風の明確さ、単純さを求めるゴッホにとって好個の題材となったにちがいない。「この手紙の最初に、ちょっとしたデッサンを書き送りましたが、ぼくはその習作をなんとかものにしようとして夢中です。黄色い大きな太陽に照らすし出されたはね橋の奇妙なシルエット上に、恋人たちを乗せた馬車が町ー向かっている図です。ぼくは同じはね橋で洗濯女たちのいる習作もこころみています」(エミール・ベルナールあての手紙)アルル時代のゴッホの古典的な成熟を示すもっともよい作例の一つだろう。

    このはね橋の連作の一群は、ゴッホが理想のひとつとした浮世絵の色彩や輪郭線以上に、明晰で硬質の定着した世界を示している。ゴッホは、わずか10年という短かい年月のあいだに、他の巨匠たちが生涯をかけてたどる成熟の軌跡を圧縮しているが、アルルの初期のこれらの作品は、ゴッホにおける古典的な成熟、つかの間の安定をもっともよく示している。

2008年3月 4日 (火)

サン・マメス6月の朝

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 アルフレッド・シスレー「サン・マメス6月の朝」

   1884年 東京 ブリジストン美術館蔵

    6月の朝の光のさわやかさを、遠近法のうちに、鮮やかな光と影の入念な描き分けによって惜しみなく表現している。樹葉のひろがりに点綴された色斑の筆触も制御されたものであり、色彩も豊潤である。

   「彼はすぐれた空の画家であり、エーテルの奥行きを表現し、この広がりの中に雲の群れを浮ばせることを知っていた。彼は、晴れやかな自然への愛をもって、ある一日の風景の魅力や穏やかさを彼なりに表現した」(ギュスターヴ・ジェフロワ)

安源へ赴く毛主席

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              安源へ赴く毛主席 1968年

    無名の画学生であった劉春華(リュウ・チュンホワ)が大学の卒業制作として描いた作品。若き毛沢東が共産主義革命の志をもって江西省安源へ向かう颯爽とした姿を描いたもので、模範的なテーマと表現であると評価され、各家庭に行き渡るほど膨大な量のポスターが印刷され社会に流布した。「安源へ赴く毛主席」は、単なる文化大革命期のプロパガンダ・ポスターというより、時代と社会をイメージとして人びとの脳裏に強烈に記憶されている。

岡田三郎助「あやめの女」

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          あやめの女  昭和2年

    明るい藍地に目も醒めるばかりのあやめの大柄模様、それから脱け出た若い女性の肌の清らかな香気、さらにバラ色に染まったような耳のあたりの艶っぽさ、そんな構成と色彩感覚が見事である。

    岡田三郎助(1869-1939)は、佐賀県佐賀町八幡小路に石尾孝基の4男として生まれる。はじめ曾山幸彦に、のち黒田清輝に学んで白馬会の創立に参加、東京美術学校西洋画科の新設に際し助教授となった。フランスに留学してラファエル・コランに師事、帰国して美術学校の教授になり、明治40年東京勧業博覧会で「某夫人像」が一等賞となった。のち藤島武二と本郷絵画研究所を設立、帝国美術院会員、帝室技芸員になり、昭和12年には第1回文化勲章を受賞したが、昭和14年9月23日没した。

2008年3月 3日 (月)

マルケ「シブール」

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    マルケ「シブール」 1907年

    ジュネーブ 個人蔵

    アルバート・マルケ(1875-1947)は、ギュスターブ・モローに師事、同時に同門のマチスやルオーらと親交を重ねた。1905年サロン・ドートンヌに出品したところの初期の仕事は、鮮烈な色彩の対比と大胆な描法とによって、マチスらとともにフォービズムの代表的作例と目された。やがて1912年のモロッコ旅行後、次第にフォーブ的傾向から離れ、色彩の調和を重んずる温雅な作風に向かった。以後マルケはほとんど風景画を専門とし、各地を旅しながらいずれも川・港・橋など水の見える情景を対象に、柔らかな灰色や緑・青などを主調とする微妙な色合いと的確な描写で、「海辺の謝肉祭」(1906年)などのすぐれた作品を数多く残した。

   本図の作品はフランスのスペイン国境近くの港町シブールの風景を、大胆な色彩と筆触を駆使している。

ポライオロ「貴婦人の肖像」

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 ポライオロ「貴婦人の肖像」

 ポルディ・ペッツォリ美術館蔵(ミラノ)

   アントニオ・ポライオロ(1429-1498)は、フィレンツェ派の金工家・彫刻家・画家。ドナテルロとカスターニョの弟子で、バルドビネッティの影響も強い。はじめ金工家として出発し、やがて青銅彫刻を学び、1460年ごろから弟ピエロとともに絵画活動も始める。「アンタエウスと戦うヘラクレス」と「ヒドラと戦うヘラクレス」では、深い解剖学的知識を駆使して激しい動きと複雑な姿態を迫真的に描写して、この期の自然主義者としての徹底をみせた。しかも彼は筋肉の躍動美の表現だけでなく、「ダビデ」のような優雅な姿態描出や「貴婦人の肖像」のような洗練された線の手法も持ち合わせていた。さらに「聖セバスチャンの殉教」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)の背景に見られるように、自然の実感に即した新鮮な風景描写もよくした。

   本図の「貴婦人の肖像」は、かつてはウッチェロやベネチアーノ・ピエロ・デラ・フランチェスカなどの作とされていたが、今日では線のあつかいの美しさからポライオロの作品とされている。

聖アポステルン教会

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       聖アポステルン教会(ケルン)

   ドイツ西部のラインラント地方にはケルン、マインツ、マンハイム、ボン、アーヘン、デュッセルドルフなどの都市が点在し、中世の教会も多数残っている。とくにケルンにはゴッシック建築のケルン大聖堂をはじめ、ロマネスク建築の聖マーチン教会、聖セヴェリン教会、聖バンタエロン教会、聖アポステルン教会などがある。1192年建築の聖アポステルン教会は、三つの祭室を備え、外壁は3段のアーケードによって飾られている。

夢二式美人

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       お葉

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       マコチャン

  竹久夢二のモデルといえば、たまき、彦乃、マコチャンなどいるが、「お葉」が最も知られているかも知れない。佐々木カ子ヨ(1904-1980)は、東京美術学校のモデルとして人気があった。大正8年春頃、夢二のモデルとなり、「お葉」という愛称をつけられる。妖精のような可憐さと成熟した女性の妖艶さをあわせもつというまさに理想的モデルだ。夢二の代表作「黒船屋」はお葉をモデルとして生まれた。物憂げな表情をたたえた細面の大正美人は「夢二式美人画」といわれる。

彦乃と京都

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笠井彦乃 京都・高台寺鳥居わきの家の2階にて(背後は八坂の五重塔)

    笠井彦乃(1896-1920)は、日本橋の紙問屋・笠井宗重の娘で、裕福に育ち、女子美術学校の学生であった。竹久夢二のファンで、大正3年秋、夢二に絵をかいてほしいと頼んだのが切っ掛けで、愛し合うようになる。しかし夢二には岸多万喜との離婚歴があり、父宗重は反対した。大正6年2月、夢二が次男不二彦を連れて京都へ引っ越すと、彦乃は6月には京都へ行く。夢二との幸福な京都高台寺での同棲生活を過ごす。大正7年、彦乃は旅行中の夢二に会うために九州へ向かう途中、結核を発病し、別府で入院する。夢二とは引き裂かれたまま、大正9年1月16日、順天堂医院で亡くなる。享年25歳だった。

港屋絵草子店たまき

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            港屋絵草子店の岸たまき

   抒情画の天才、竹久夢二(1884-1934)は明治17年9月10日、岡山県邑久郡本庄村の酒造家の次男に生まれた。15歳の頃に家運が傾き、18歳で上京。その画才は岡田三郎助、島村抱月に認められ、やがて甘美な哀感ただよう詩情は、大正の人々の心をとらえた。

    岸多万喜(きしたまき、1882-1945)との出会いは明治39年、夢二が早稲田鶴巻町にある絵葉書店「つるや」を訪ねたときに始まる。やがて二人は結婚し子供も生まれる。「港屋絵草子店」を開店するが、二歳年上のたまきとはいさかいが絶えなかった。大正4年、たまきと東郷青児との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎えるが、たまきは夢二亡き後も彼を慕い続けたという。

2008年3月 2日 (日)

ゴッホの自殺は失恋が一因にある?

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    ピアノをひくガッシェの娘

    1890年 バーゼル美術館蔵

   1890年7月27日、ゴッホが夕刻ピストル自殺を図った。29日、テオに見守られながら息を引き取る。37歳。自殺の原因はいろいろ考えられるが本当の理由はわからない。ただその数ヶ月前に描かれたゴッホの一枚の絵のモデルの女性マルグリート・ガッシェについて調べてみたい。

   医師ガシェの娘マルグリート(あるいはマルガリート)である。ピアノをひく女性は未婚であるが、あまり若い娘のようにはみえない。30歳前後であろうか。ゴッホは医師ガッシェと親しくなり、尊敬していたようである。ガッシェの家にも出入りし、娘をモデルにして絵を描いているので、ゴッホとマルグリートは親しく会話もしたであろう。白にピンクの服と黒いコントラスト、装飾的な背景の処理などみると、とても数ヶ月後に自殺する人の絵とは思えない、穏やかで平和な家庭の気分が伝わってくる。ゴッホはマルグリートに恋をしていたようだ。このようなタテに長い絵はゴッホには珍しい。特別な感情のあらわれではないだろうか。しかし、ここでもゴッホの恋はみのることはなかった。それは相当な痛手であったに違いない。生への希望を奪った原因の一つと考えてもいいのではないだろうか。

2008年3月 1日 (土)

カルロ・マデルナ

Img_0004     サンタ・スザンナ聖堂

    ローマ 1595-1603年

   カルロ・マデルナ(1556-1629)は、イタリア・バロックの建築家。北イタリア、ルガノ近郊のカポラーゴ生まれ。ビニョーラの影響が強い。教皇シクストス5世のとき、ローマでこの教皇のために働いていた建築家の伯父ドメニコ・フォンタナのもとで助手をつとめ、独立の建築家としての活動をみせるのは1592年以後である。1603年、ポルタの跡を継いでサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となり、いわゆるマデルナの長堂およびファサードを完成(1607-1617)。

   そのほか、聖堂建築には、サンタ・マリア・デラ・ビットーリア聖堂(1608-1620)やサンタンドレア・デラ・パレ聖堂(1608-1616)など、邸館建築には、パラッツォ・マッティ(1603-1616)やパラッツォ・バルベリーニの設計(1625-1629、建設はベルニーニ)などがあり、いずれも盛期バロックへの先駆をなす作品として重要である。パラッツォ・バルベリーニの着工後まもなく没した。

   本図のサンタ・スザンナ聖堂は、マデルナの代表的な建築とされ、明暗の効果や列柱の扱い方にも特徴がある。前時代の建築家ビニョーラの設計したローマのイル・ジェス教会などのシステムに従ったものであるが、壁面に埋め込まれた円柱や角柱、また、壁面に掘り込まれた壁龕(像を置くための壁のくぼみ)や突出した軒蛇腹などの使用により、壁面は平坦ではなく、より変化に富んだ陰影をつくり、バロック的・絵画的な効果を上げている。上層部の両側にある渦巻形の装飾はかろやかで、ダイナミックな感じを与える。盛期バロック建築正面の最初の代表例であり、17世紀の教会堂正面の典型となった。

2008年2月29日 (金)

揚州八怪・金農

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  墨竹図  金農 1750年

  大阪市立美術館蔵

    南北交通の中心地であり、商業都市として栄えた揚州に、18世紀半ば、独創的で、きわめて個性的な画家たちの一群が集まった。これらの画家を「揚州八怪」と総称しているが、その筆頭にあげられるのが、本図の筆者金農である。 

    金農(1687-1763)は、清の書家・詩人。銭塘の人。号は冬心。30歳のころまでは、郷里にあって学習に努め、地方詩壇に令名を得る一方、すでに金石拓本の蒐集をはじめたらしく、これは彼の書法形成と密接な関連があると考えられる。受験に失敗して、官途に望みを絶った。金農が、はじめて揚州を訪れたのは35歳のときで、その後たびたびこの地にあそび、鄭燮、汪士慎、高翔、華嵓らと交わり、また多くの蔵書をもち、文人墨客を優遇した馬日琯、日璐兄弟とあいしり、ついに晩年はこの地に寄寓して、書画三昧の生活をおくり、揚州は終焉の地となった。友人の1人が「嗜奇好古」と評したように、超俗的人物で自我がつよく、読書画において古代の美を愛賞し、しかも古人の法式を墨守することなく、自己の胸懐を吐露した個性的芸術を創成した。詩人、書家として、はやくから知られたが、絵を描きはじめたのは50歳をすぎてからであった。竹、梅、馬、花果を得意とし、晩年には仏像を描いた。単純卑近な事物を、水墨や彩色をまじえた線描ふうの、自由な画法で描いたその作は、また自然に即し自然に学んだものであって、主観的象徴的な表現の底に、それを支えるいきいきとした感覚が躍動している。「墨竹図」は64歳の時の制作によるものである。(引用文献:「アジア歴史事典3」平凡社)

2008年2月28日 (木)

ドイツ表現主義

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 ブリュッケの芸術家の肖像 キルヒナー 1925年

 ケルン市立バルラフ・リヒャルツ美術館蔵

   表現主義とは、自然描写に対立して感情表現をねらいとする芸術上の様式概念をいう。思潮としては20世紀初頭のドイツにおいてもっとも典型的な高揚をみた。ドレスデンで1905年に前衛絵画グループ「橋(ブリュッケ)派」が生まれ、運動の起点になった。エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー(1880-1938)、エーリッヒ・ヘッケル(1883-1970)、カール・シュミット・ロットルフ(1884-1976)、オットー・ミュラー(1874-1930)を創立メンバーとする「ブリュッケ」派は、のちにベルリンに活躍の舞台を移してマックス・ペヒシュタイン(1881-1955)を加えた。グループの名称は、若い世代の美術家をひろく結集する橋渡しの意味で命名された。

    画像の作品は「ブリュッケ」解体後20年もたった時点で描かれたものであるが、いかに過去の緊密な時代をなつかしんだか、キルヒナーの胸中を察するに十分な作品である。左から、ミュラー、キルヒナー、ヘッケル、ロットルフを描いている。

鋳金家・香取秀真

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    みみずく香炉 香取秀真 昭和28年

    香取秀真(かとりほづま、1874-1954)は、はじめ鋳金家大島如雲(1858-1940)に学び、美術学校では岡崎雪声(1854-1921)に学んだ。香取は東洋や日本の古代の金工についても深い関心をもち研究していた。したがって彼の作品は若い時代から晩年にいたるまで、常に古典の影響を受けていたともいえる。

   みみずく、鳩、ふくろう等の置物(香炉が多い)をよく作っているのは、中国銅器に鳥形尊や卣(ゆう)と無関係ではないと思う。青銅鋳物に金の象嵌を施して、色彩効果をあげようとしている。目・耳・足・翼などにかなりの抽象化をみせているのは、この作品の特色であるとともに、このころの彼の傾向でもあった。

    金工史家としても、すぐれた著作があり、また正岡子規の根岸短歌会の1人、アララギ派の歌人として、「天之真榊」「還暦以後」などの歌集を残した。

快慶「地蔵菩薩立像」

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   地蔵菩薩立像 快慶 奈良・東大寺蔵

   端麗な顔だち、神経質なまでに美しい整えられた衣文など、いかにも几帳面な快慶の特色を示している。彼のそれ以前の作品に見られる宋風を取り入れた繁雑さややにっこさは影をひそめ、むしろこの像に見られるような和風化への傾向がみられるようになるのもこの時期である。彩色もきわめて美しく、白雲上の蓮華も白地に緑青と金線を点じ、衣や袈裟には美しいいろいろな切金文が施されている。像の右足下の柄に「巧匠法橋快慶」と刻まれているので、快慶の法橋時代(1203-1208)の唯一の在銘像である。

   快慶は康慶の弟子で運慶とは同門。文治から貞応年間(1185-1223)に活躍。作風は巧緻優雅で、わかりやすく親しみやすい美しさ、とくに端麗な面相は非常に好まれた。東大寺再興に全力を傾けた僧重源に深く帰依して阿弥陀浄土を信じ、号もそれに因む。また明恵・明徳とも親交があった。

岸田劉生の作風の変化

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       新緑小閑(紙本着色)  大正14年

   岸田劉生(1891-1929)は明治41年、赤坂の白馬会葵橋洋画研究所に入って黒田清輝に師事している。そして2年後の19歳のとき、第4回文展に外光派風の風景画二点を初出品して入選するなど、早くから洋画家としての才能を認められた。

   明治44年ごろから、白樺派に共鳴してゴッホやセザンヌに傾倒し、大正元年、高村光太郎、斉藤与里、木村荘八、万鉄五郎らとフューザン会を結成した。

   しかしデューラーなどの北欧ルネサンスへの傾倒から厳格な写実主義を追求し、時流の印象派とは完全に対立する方向に進んだ。

   大正6年、鵠沼に転地してからは、自分の娘麗子や村娘お松の像などを連作、写実と装飾を融合する充実した作境を展開した。だが、その間に宋元院体画や初期肉筆浮世絵への傾倒と、日本画を描き残し、その作風はつねに大きく変化していった。

2008年2月24日 (日)

サヴィニャックとロイピン

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 ルッフ社のソーセージの宣伝ポスター

 ロイピン 1950年 ポスター美術館

    戦後のグラフィックデザイナー、ポスター作家の巨匠といえば、レンモンド・サヴィニャック(1907-2002)とヘルベルト・ロイピン(1916-1999)があげられる。広告業界において「視覚ギャグ」「ヴィジュアル・スキャンダル」という言葉も彼らの出現によって生まれた。

  レイモンド・サヴィニャックはアール・デコの巨匠アドルフ・ムーロン・カッサンドル(1901-1968)に学んだ。1949年に注文なし描いた「牛乳石鹸」のポスターで一躍注目を浴びた。以後フランスのポスターの分野で最も注目された一人である。その作風に見られる愉快な驚きを誘う表現は、多くのデザイナーに強い刺激と影響を与えた。

   ヘルベルト・ロイピンはスイスのバインビルに生まれ、パリでポール・コランに学ぶ。画像のルッフ社のためのソーセージの宣伝ポスターからもわかるように、彼は対象になる商品をきわめて大胆に、誇張した形でとりあげながら、そこに親しみとユーモアとウィットを感じさせる表現にはサヴィニャックと共通するものが見られる。

赤い風車(ムーラン・ルージュ)

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   夜のモンマルトルの象徴といえば、「赤い風車」の明かりであろう。ナイトクラブ、パル・デュ・ムーラン・ルージュが、酒と踊りであらゆる階層のパリっ子を魅了したのは19世紀末。クリシー大通りの「レーヌ・ブランシュ(白の女王)」という安ダンス・ホールの跡地、ブランシュ広場に、「赤い風車」(ムーラン・ルージュ)が開店したのは1889年のことであった。1891年以来、入口のロビーは絵のギャラリーとなっていた。そこでは大勢の客が酒を飲んだり、ぽんびきや娼婦、踊り子、おとりの警官などがたむろしていた。内部は、見物席に囲まれた大ダンスフロア、大きなバー、そして道化師や歌手、エキゾチィックな踊り子、アクロバット師、にぎやかなカンカン踊りの一団など、一風変わった多種多様な芸人たちが毎晩出演する舞台になっていた。

   ムーラン・ルージュには、客たちが座って休むことのできる、小さなテーブルと椅子をおいた中庭があり、それを囲むように屋根つきのプロムナードが広がっていた。庭の真ん中を占めていたのはオーケストラ全員がなかに入れるほどの大きさの張りぼての象であった。そのまわりに客を楽しませるために猿が鎖につながれていた。また人々は、モンマルトルのバーで最もよく飲まれていた「緑の妖精」つまりアブサンと呼ばれたアニスシードの酒を飲み過ぎなければ、ロバに乗って庭を回ることもできた。官能の悦びを求める人のための標識である屋根の赤い風車は、木製の模型であり、本物の風車が数多く点在していた緑豊かな丘の村であったころのモンマルトルの、そう遠くない昔を思い起こさせた。ムーラン・ルージュを開店したシャルル・ジドレールは、クリシー街のダンス・ホール「エリゼー・モンマルトル」や「カジノ・ド・パリ」といった競争相手から常連客を呼び寄せるために、あり余るほどの娯楽を用意することにあらゆる手をつくした。

   夕べの調べは、オッフェンバックとオリビエール・メトラの音楽によるサーカスなみの喧騒であり、トロンボーン、シンバル、ドラムによって大音響で演奏された。世紀の変わり目ころには、踊りの流行はマティッシュやケーキウォークのようなものになっており、バンドは聴衆を馬鹿騒ぎに駆り立てたので、外国からの客は驚いて立ち去るほどであった。ある偏見のないイギリスの雑誌記者は「ここではどのような欲情も抑える必要はない。わめき声と馬鹿騒ぎがある。女たちは男たちの肩にすがってホール中引き回されている。酒を注文するすさまじい叫び声がある」と記している。

   しかし、ロシア、イギリス、ルーマニア、南アメリカなど世界中からやってくるムーラン・ルージュの男の常連客にとって一番の魅力は、小粋で性道徳にとらわれない女たちであった。性取引はパリの周辺では盛んであった。悪徳はナイトクラブや娼家だけの商売ではなかった。外国商人たちは娼婦にするパリの娘を求めた。ヨーロッパ最大の肉体市場と考えられていたムーラン・ルージュは、表面は華やかでうわついて見えたが、踊り子兼娼婦といううす汚れた仕事に携わる女は、白人奴隷市場の手配師に誘拐されてきた者が多かった。(引用:「ロートレック」同朋舎出版、1990)

恋多き女シュザンヌ・ヴァラドン

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            シュザンヌ・ヴァラドンとモーリス・ユトリロ

   ひとりの貧しい田舎娘マドレーヌ・ヴァラドンはフランス中西部リモージュ近郊のベッシーヌで道路建設技師との情事から一人の女児を生んだ。マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(通称シュザンヌ、1865-1938)である。5年後、マドレーヌは娘シュザンヌとともにパリに出た。彼女たちは貧しい労働者たちが住むロシュシュアール大通りに落ち着き、裕福な家庭の家事手伝いをしたり、洗濯屋で働いた。

   マリーは生まれつき人の言うことをきかない性格の子供であったらしいが、ロシュシュアール大通りの路上に白墨をつかって物を書くのが好きだった。強い好奇心と鋭い物を見る眼とがこの女の子に与えられた天の贈物だった。マリーは13歳の頃にはお針子としてオート・クチュールの仕事場で見習いとなったが、その後も転々と仕事を変えて行った。やがてマリーはパリ16区にあった「モリエ」サーカス団のアクロバットの美少女として人気がでた。ある時、空中ブランコから転落して、脚をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。写真で見るマリーは、濃い眉毛と刺すような目差すで男達の好き心をそそる美少女に成長していたらしい。15歳の時、当時画壇の大御所だったピュヴィウス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。シャヴァンヌは58歳、年齢的には孫娘にも近いマリーと画家はモデル以上の関係を結ぶようになる。この画家の最も有名な作品「聖なる森」に描かれた上半身裸の8人の女人像はすべてマリーがモデルをつとめたといわれる。1883年からほぼ7年にわたりマリーはポーズをとった。

   そんなころモンマルトルは酒場、あるいはダンスホールなどが開設され、歓楽街としての賑わいを大きくしてくる。ボヘミヤン風の生活を若さにまかせて楽しんでいたマリーは1883年の冬、男児を出産する。将来のモーリス・ユトリロである。時にマリーは18歳だった。そして、このポトー通り8番地で生まれたモーリスの父親が一体誰であるかについては諸説ある。①ユトリロ姓を与えたスペイン人の芸術家ミゲル・ユトリロ説②カッフェ「黒猫」のなじみ客で、モンマルトルの酔いどれ詩人モーリス・ボワシー説③ピュヴィス・シャヴァンヌ説

   後年さまざまな推測がなされたがシュザンヌ自身が「本当のところは私にも分からない」と言っているとおり、浮気なシュザンヌだった。

   シュザンヌはドガ、ロートレック、ルノワールらのモデルをつとめた。2歳のモーリスを連れたシュザンヌはロートレックの愛人となる。ロートレックは身体が不具であったが、シュザンヌは彼にひとかたならぬ魅力を感じていたらしい。というのも、この美しく意志の強い女性は、彼に結婚する気にさせようとして狂言自殺を試みたといわれている。おそらくこれによって、数年間続いてきた彼らのつかず離れずの関係に終止符が打たれたと思われる。1893年にはエリック・サティと交際したが半年で破局した。1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚。その後、離婚し、1914年に息子のユトリロよりも若い画家アンドレ・ユテルと再婚する。まさにシュザンヌは恋多き女であった。ロートレックやドガの指導で画家として成功したシュザンヌは、息子のモーリスをアルコールから遠ざけるために、彼に絵をすすめたエピソードはあまりにも有名であろう。ユトリロが風景画家であるのに対して、シュザンヌの作品はほとんどが人物画であるが、その大胆なフォルムはロートレックの影響を思わせるものがある。

シュルレアリスト・ダリとフロイト

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                  サルバドール・ダリ

  ジグムント・フロイト(1856-1939)は精神分析の創始者とされている。患者が催眠状態のなかで、忘れ去っていた感情的体験を思い出し、記憶を呼び起こすことにより精神障害の症状が改善されるらしいということを発見したのである。つまりフロイトの大きな功績は、意識下に埋もれた記憶や経験のもつ価値と、それらに到着することにある。シュルレアリストたちは、この理論が意味する想像力の解放に関心をもった。

   シュルレアリスム運動に参加した若き芸術家サルバドール・ダリ(1904-1989)は、学生時代にフロイトの「夢判断」を読み、次のように述べている。

「これは私の人生における重大な発見の1つだった。……私は夢だけでなく、わが身に起こったあらゆる出来事を自己解釈せずにいられないという真の悪習にとりつかれてしまった

    フロイトの著作や精神分析に深く心を奪われたダリは、シュルレアリスムの理論を発展させて、独自の「偏執狂的批判的方法」を生み出した。これは見る者の空想能力にもとづくイメージ解釈の一種であり、ダブル・イメージが1930年代のダリの作品に多数見られる。これは、自らは精神の異常をきたすことなく、偏執狂患者の狂った心を装い、外観の背後にあるイメージを感じとるという彼の能力によって生み出された。彼は「私自身と狂人との唯一の違いは、私は狂っていないということだけだ」と言っている。

蛇信仰と女性

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  タロット・ガーデンの彫刻 ガラビッチョ(イタリア)

   古代社会においては、蛇は死者礼拝と結びついて霊獣とみなされる。古代エジプトでは、蛇のヒエログリフは女神の象徴とされる。ギリシアのクノッソスからも「蛇をもつ女神」が出土されている。また蛇は定期的に脱皮を繰り返すことから、人類の「生、死、再生」の象徴であるとされる。とくに女性は月経を迎えると、古くなった子宮の層を剥がす。すなわち、女性は、月経によって新しい女に生まれ変わる。蛇には永遠性を象徴する神聖な生き物であるという信仰が生まれた。

    ニキ・ド・サンファール(1930-2002)というフランス生れの女性芸術家は人生の岐路に立った時、人生の指針としてタロットカードに力を借りていた。イタリアのトスカーナ地方のガラビッチョにある「タロット・ガーデン」には、ニキが20年の歳月をかけて制作したタロットカードのシンボルをモチーフとした彫刻作品が並んでいる。そこを訪れた人々は女性ばかりでなく、男性や子供から老人まで誰もが理屈ぬきに元気のパワーをもらうという。ニキ・ド・サンファールは動く彫刻で知られるジャン・ティンゲリー(1925-1991)と知り合い、1961年、絵の具を仕込んだ銃でカンヴァスを撃つという「射撃絵画」によってヌーヴォー・レアリスムの一員として知られるようになった。画像作品は、女性器から人々が入ってゆくという巨大な女性像のオブジェで、女性には蛇が絡み付いている。カラフルな色彩のユニークな作品は多くの人々に親しまれている。とくに胎内回帰願望の方にオススメである。

モンマルトルとサクレ・クール寺院

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    ハニー・リュティ  「サクレ・クール聖堂」

   モンマルトルはパリで一番高い丘にあり、現在でもパリの観光地として世界中から旅行客で賑わっている。サクレ・クール寺院左手のこじんまりしたテルトル広場に軒を並べたカフェ、レストランの前では大道芸人や似顔絵描きが屯したり、派手な色彩やきまり切った構図のどう見ても観光客用のお土産でしかない絵が販売されている。

   19世紀後半から、モンマルトル界隈はムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールなどのキャバレーが建ち並び、歓楽街となっていった。ヨハン・ヨンキント、カミーユ・ピサロ、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ドゥ・トゥールーズ・ロートレック、エドガー・ドガ、ピエール・オーギュスト・ルノワールなどの印象派画家たちがモンマルトルを制作の場とした。

   19世紀末から第一次大戦までのベル・エポックの時代には、世界中から画家・詩人・小説家など多くの芸術家たちが集まり、ここを活動の拠点とした。モンマルトルの「洗濯船」、モンパルナス近くの「蜂の巣」は、当時の画家たちのアトリエ兼アパートだった。パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン、シュザンヌ・ヴァラドン、アンドレ・ドラン、ピエール・ブリソー、アルフレッド・ジャリ、ジャック・ヴィヨン、マックス・ジャコブ、レイモン・デュシャン・ヴィヨン、アンドレ・サルモン、サン=ポール・ルー、フランシス・カルコたちがモンマルトルで育っていった。

    1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の頂にサクレ・クール寺院が建設され、シンボルのようになった。

    第一次大戦後、フランス以外の国から芸術家たちがモンマルトルやモンパルナスに移り住むようになった。モディリアニ(イタリア)、パスキン(ブルガリア)、シャガール(ロシア)、キスリング(ポーランド)、スーティン(リトアニア)たちである。彼らにはフォービズムやキュビズムの画家たちのような特定の理論や主義があったわけではない。しかもフランス国外からきたユダヤ人だった。彼らはパリをこよなく愛し、そのフランス的な感受性に傾倒して大いにそれを養分としていった。彼らは「エコール・ド・パリ」の画家と呼ばれるようになった。彼ら以外にもユトリロ、ピカソ、グリス、ドンゲン、藤田嗣治(レオナール・フジタ)、マリー・ローランサン、ホアン・ミロ、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリあたりまで含める場合もある。

2008年2月22日 (金)

ボッティチェリとフィレンツェ

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ボッティチェリの自画像「東方三博士の礼拝」(部分) 1475年 フィレンツェ ウフィツィ美術館蔵

   アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピ(1445-1510)はフィレンツェの皮なめし職人マリアーノ・フィリペーピの末子として生まれた。フィレンツェ人は驚くほど愛称を好み、アレッサンドロの長兄ジョヴァンニは「イル・ボッティチェロ」(小さな樽を意味する)と呼ばれた。おそらく彼が丸々と太っていたからだろう。アレッサンドロ(通称サンドロ)は1470年以前のいつのころからかこの愛称を肩代わりし、ついにはそれが一家の姓となった。

   サンドロ・ボッティチェリの若いころについて確かなことはほとんど知られていないが、13歳で金細工師の徒弟になったという話は真実らしく思われる。しかし、まもなくして画家になろうと決心し、1461、2年ごろ、父親は彼をフィリッポ・リッピの工房に入れた。リッピはフィレンツェの名高い画家だった。その後、ボッティチェリは「プリマヴェラ(春)」と「ヴィーナスの誕生」によって、ルネサンスを代表する芸術家の一人になった。

    彼は旅嫌いで、めったに故郷のフィレンツェを離れなかった。1473年、注文に応じるためにピサを旅したが、計画が頓挫すると、すぐに家に帰った。1481年、ローマのシスティナ礼拝堂を飾る芸術家の一人に選ばれたためフィレンツェを離れたが翌年にはフィレンツェに戻っている。

   晩年、修道僧サヴォナローラが処刑されると、ボッティチェリも人気を失い、数世紀にわたってほとんど忘れられた存在となった。ボッティチェリがイタリア・ルネサンス最大の芸術家として認められたのは、ようやく19世紀の末に再評価されたからである。

2008年2月21日 (木)

犬と水差しを持つ田舎娘

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    「犬と水差しを持つ田舎娘」(部分)

    1785年 サー・アルフレッド・バイト准男爵蔵

    トマス・ゲインズバラ(1727-1788)は、フランスのロココ美術と17世紀オランダの風景画の双方の影響を受けつつ、イギリス人やイギリスの田園風景を独自の感覚で描いた。晩年における「ファンシー・ピクチャー」といわれる人物画は風景がロマンティックな世界をつくり上げて、19世紀風景画の先駆的役割を果たした。「犬と水差しを持つ田舎娘」はゲインズボロの「ファンシー・ピクチャー」の代表的作品である。物思いに沈む子供の表情は魅力的で、最高の出来ばえをみせている。

   トマス・ゲインズバラ(ゲーンズボロ)は南サフォーク地方の市場町として繁栄するサドバリーに生まれた。父親は羊毛業者だったが、後年には事業に失敗し、職を変えて郵便局長となっている。トマスは創造性にあふれた一家の9人兄弟の末っ子として育った。彼はロンドンで絵の修業をしたのち、故郷に帰って肖像画家となり、やがてファッショナブルな町バースに移り住むと、ヴァン・ダイクの後継者にふさわしい肖像画家としての評判を築きあげた。

2008年2月19日 (火)

「赤いチョッキの少年」の悲劇

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    1890年代までは、ポール・セザンヌ(1839-1906)の作品はパリのタンギー爺さんの小さな画材店でしか彼の絵を買うことができず、ほとんど無名に近かった。1895年に、画商のアンブロワーズ・ヴォラールがセザンヌの個展をパリで開いた。この個展を境としてセザンヌの名声は高まっていった。

   半世紀後の1958年10月15日。1400人の美術愛好家と何万というテレビ視聴者が、ロンドンのサザビーズのオークション・ルームにおける記録破りの競売を見つめた。アメリカのポール・メロンがセザンヌの「赤いチョッキの少年」を61万6000ドルで競り落としたのである。「世紀のオークション」といわれ、当時近代絵画に支払われた史上最高の額であった。セザンヌの「赤いチョッキの少年」といえば最近あった盗難事件を思いうかべるであろう。だが、当時のサザビーズの写真をみると盗まれた絵とは異なる。「赤いチョッキの少年」というモチーフは複数存在するのだろうか。

   盗難の絵画がどのような経緯でスイスの実業家エミール・ビュールレ(1890-1956)の手に渡ったのかも明らかではない。ビュールレ・コレクションとしてチューリヒ美術館、ビュールレ美術館に蔵されるようになった。個人美術館の警備の甘さがあったのかも知れない。ここに名画の悲劇が生まれた。2月10日、覆面をした3人組の強盗団に油絵4点が盗まれた。「赤いチョッキの少年」はそのなかの1点である。

    犯人たちよ、いまからでも遅くない。すぐに返せ!

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2008年2月16日 (土)

ヨルダーンス「夫妻像」

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    ヨルダーンス   「夫妻像」

    17世紀 ボストン美術館蔵

   誇り高く落ち着き払いかつ富裕さの歴然とした若き夫婦を描いたこの美しい肖像画は、ヨルダーンスがその先輩でもありかつより有名な、同世代であったルーベンスやヴァン・ダイクの後を継いで、アントワープにおける評判高い肖像画家となった理由を、明確に示している。この作品は夫妻の人物描写において着想が率直でありかつ生気に溢れており、17世紀のフランドル芸術の特徴である健全さ、力強さを具えている。もちろんこの理念は、ヨルダーンスが助手として充分に吸収する機会を得たルーベンスの大芸術の、多大な影響を基礎に形成されたものである。この「夫妻像」が永い間ルーベンス自身の作と考えられていたという。

   ヤーコブ・ヨルダーンス(1593-1678)はルーベンスやヴァン・ダイクと同時代に活躍した画家。アダム・ファン・ノートルに師事し絵画を学ぶ。1615年にアントワープの聖ルカ組合に認められ、翌年にはノートルの長女と結婚し、画家としての道を順調に歩みはじめる。以後、教会の注文による大規模な祭壇画やタペストリーの作成に携わるほか、ルーベンスの工房と共同でネーデルランドの総督でもあったフェルナンド枢機卿の同地入市に伴う装飾、スペイン国王フェリペ4世の住居を飾る神話画などの制作をおこない国際的に名声を手にし、同時期に大規模な工房をかまえた。彼の才能は多方面にわたるが、本質的には当時の市民的な基盤に立つもので、市民の日常生活の情景を描いた作品の秀作が多い。神話や古典に取材した作品にも現世的、風俗的な要素がしばしばうかがわれる。

ラファエロの「牧場の聖母」

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        牧場の聖母(聖母子と幼児聖ヨハネ)

                          ウィーン美術史博物館蔵

   広々とした背景の風景