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2023年1月31日 (火)

オランダの集団肖像画

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    レムブラント(1606-1669)の「トゥルプ博士の解剖学講義」は革新的な創意によって、全く新しい集団肖像画をつくりあげた。この絵の成功により、彼はいわゆる流行作家となったのである。ニコラース・トゥルプは著名な医者として知られていただけでなく、アムステルダム市長を4期も務めた人でもあった。本図は、1632年1月31日に行われた通称キットなる28歳の死刑囚の解剖場面を表わしたものと考えられている。

    集団肖像画はオランダ特有の伝統で、16世紀に起源を発し、17世紀において、レンブラントを頂点として、他に類をみないジャンルの芸術を開花させた。各種組合や自警団、医師団、慈善団体が自分たちの会館の壁画を飾るために依頼したことから始まる。ときには20人もが一堂に描かれたが、構図はおおむね変化がなく、モデルが横一列か扇形に並んだ。この伝統を打ち破ったのがレンブラントのきわめて独創的な集団肖像画である。「トゥルプ博士の解剖学講義」、「夜警」(1642年)、「アムステルダム布地組合の品質鑑査官たち」(1661-1662年)。近刊書としてアロイス・リーグル著「オランダ集団肖像画」の翻訳が中央公論美術出版からでている。収録されている画家は、コルネリス・ケテル、ウェルネル・ファン・ファルケルト、トーマス・デ・ケイセル(1596-1667)、バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト、フランス・ハルス(1582-1666)ほか。

   レンブラントは20代の末にはアムステルダム随一の人気画家となったが、晩年は経済的に恵まれず破産した。当時の人々は彼の弟子たちが描く口あたりのいい絵のほうを好んだ。レンブラントが美術史における最高の画家と認められるようになったのは、ようやく19世紀になってからである。

2023年1月16日 (月)

画家土佐光則没す(1638年)

   土佐光則は江戸時代前期の土佐派の絵師。1583-1638。極めて発色の良い絵の具を用いた金地濃彩の小作品が多く、土佐派の伝統を守り、描写の繊細さ、色彩の繊細さにおいて巧みであった。代表作「源氏物語画帖」(徳川黎明会)、「雜画帖」(東京国立博物館)

2023年1月 7日 (土)

浮世絵版画(元禄から幕末まで)

Photo  本日は文政8年(1825)のこの日、役者絵や美人画で絶大な人気を得た初代歌川豊国が死去した。豊国の活動時期は天明から寛政、文化文政と50年ちかくにわたる。浮世絵は江戸の庶民社会に栄えた風俗画の一種である。遊里や歌舞伎など「浮世」(庶民階級抬頭の江戸時代初期に生れた流行語で、享楽的現地とか、好色的、当世風などの意に用いられた)の風俗をもっぱら題材としたので、この新様式の絵画を「浮世絵」という新語で呼び、天和年間(1681-1684)には、すでに使用例が見出される。墨摺から出発し、それにおおまかな彩色を加える丹絵、さらには最初の色刷の段階である紅摺絵とすすむ。つづいて明和年間、春信が多色版画の錦絵を創始、「江戸絵」とよばれた。浮世絵は木版画と肉筆画とがあるが、初期の画家および少数の例外を除いて、浮世絵師は版画を専門とし、肉筆画は余技的制作にすぎなかった。浮世絵は美人画と役者絵が二大人気ジャンルであるが、このほか好色的な春画と呼ばれるポルノグラフィーも人気が高かった。もちろん中学美術では、これら春画を除いた作品が紹介されている。一般に六大浮世絵師とは、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、写楽、北斎、広重を言うが、彼ら以にも江戸の風俗を見事に描いた浮世絵師たくさんいた。菱川師宣、奥村政信、西川裕信、宮川長春、北尾重政、勝川春草、勝川春潮、勝川春英、鳥居清長、窪俊満、鳥文斎栄之、渓斎英泉、歌川国芳、歌川豊国、歌川国政、歌川国貞、河鍋暁斎等。画像は鳥文斎栄之の「青楼芸者選 いつとみ」。歌麿のライバルで清楚で慎ましやかな全身美人画で人気を博した。(1月7日)

 

 

 

 

 

2022年11月 8日 (火)

ルーヴル美術館

    パリはいうまでもなく世界で最も美しい観光都市であり、主要な名所旧蹟を訪れるだけでも数日間は要する。ルーヴル界隈の美術館、博物館だけでも大小100近くある。なかでもルーヴル美術館は世界中から年間800万人の来館者が訪れる。美術品が40万点以上収蔵しており、3万5000点が展示されている。宮殿の美術品を公開したのは1763年11月8日のことで、ルーヴル美術館のはじまりである。

    建物は3翼に分かれており展示は、リシュリー翼、ドノン翼、シュリー翼からなっている。フィリップ2世(在位1180-1223)が1200年ころにパリ右岸の町を防備するために要塞を築いたのがはじまりで、14世紀にシャルル5世、16世紀にフランソワ1世(在位1515-1547)が改修して王の居城に改め、次いでアンリ2世(在位1547-1559)が改造拡張し、その後も大規模な工事が続けられた。宮殿ルーヴルが美術館に生まれ変わったのは1793年8月10日。この時、王家の美術品は市民のものとなった。ほぼ現在の形になったのは、19世紀ナポレオン3世の時代である。このようにルーヴル美術館は開館以来250年以上の歴史を刻んできた。

代表的な作品
ミロのヴィーナス
サッカラの「書記座像」
プラクシテレス女神像
レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」
ヤン・ファン・エイク「宰相ロランの聖母」
フォンテーヌブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」
デューラー「自画像」
ルーベンス「マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸」
プーシエ「オダリスク」
フラゴナール「勉強」
モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール「ポンパドール夫人」
コロー「モルト・フォンテーヌの思い出」

 

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「鉛筆をけずる若いデッサン画家」シャルダン 1737年

 

( keyword;Musee du Louvre )

2022年8月23日 (火)

犬と水差しを持つ田舎娘

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「犬と水差しを持つ田舎娘」(部分)1785年 サー・アルフレッド・バイト准男爵蔵

 

    トマス・ゲインズバラ(1727-1788)は、フランスのロココ美術と17世紀オランダの風景画の双方の影響を受けつつ、イギリス人やイギリスの田園風景を独自の感覚で描いた。晩年における「ファンシー・ピクチャー」といわれる人物画は風景がロマンティックな世界をつくり上げて、19世紀風景画の先駆的役割を果たした。「犬と水差しを持つ田舎娘」はゲインズボロの「ファンシー・ピクチャー」の代表的作品である。物思いに沈む子供の表情は魅力的で、最高の出来ばえをみせている。

 

   トマス・ゲインズバラ(ゲーンズボロ)は南サフォーク地方の市場町として繁栄するサドバリーに生まれた。父親は羊毛業者だったが、後年には事業に失敗し、職を変えて郵便局長となっている。トマスは創造性にあふれた一家の9人兄弟の末っ子として育った。彼はロンドンで絵の修業をしたのち、故郷に帰って肖像画家となり、やがてファッショナブルな町バースに移り住むと、ヴァン・ダイクの後継者にふさわしい肖像画家としての評判を築きあげた。

2022年8月 1日 (月)

シニャックとヨット

  今朝放送されたNHK「あさイチ」で国立西洋美術館に所蔵されているシニャックの絵画「サン・トロぺの港」(1902年)が紹介されていた。 ポール・シニャック(1863-1935)という新印象主義の画家は一生、海を愛し、ヨットを愛した。1884年、第1回アンデパンダン展でジョルジュ・ピエール・スーラ(1859-1891)と知り合う。4歳年長のスーラとの出会いはシニャックの芸術に決定的な影響を与えた。しかし、1891年3月29日、スーラの突然の死に深い打撃を受ける。何ヶ月間もまったく意気消沈した日々を過ごした。そこから彼を救ったのは地中海とその光であった。地中海に面したル・ラヴァンドゥの近くに住み始めたアンリ・クロスから「陽の光と豊かな線を愛するあなたはきっとここが気に入るだろう」という手紙をもらい、シニャックは、1892年4月、ヨットで大西洋からミディ運河を抜けて地中海に出、当時海からしか容易に近づけなかった、サン・トロペを発見する。当時はまだ鄙びた漁村であったサン・トロペに住み、以後20年にわたってここを基地としてマルセイユ、ヴェニス、コンスタンチノープルなどヨットで出かけて、地中海の港町を多数描いた。

    シニャックの偉大さは、スーラの科学的絵画理論を広めただけではない。スーラの死後、新印象主義の後継者となり、アンデパンダン協会の中心的存在として活躍する。20世紀初頭に現れたマテイス、マルケ、ピュイ、マンギャン、オトン・フリエス、ラウル・デュフィ、カモワン、ケース・ヴァン・ドンゲン、ルイ・ヴァルタ、ドラン、ヴラマンク、ジョルジュ・ブラックらの作品がほとんどこのサロンに出品された。フォーブ(野獣)の画家たちのほとんどは、シニャックを通じて新印象主義の影響を程度の差こそあれ受けているのである。

2022年7月27日 (水)

川上澄生と港町

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  横浜山手之図 大正10年

 

    版画家・川上澄生(1895-1972)は、横浜市紅葉坂(現・西区紅葉ヶ丘)に生れた。川上の作品には、明治時代の文明開化や西欧異国情緒に満ちた南蛮もの、キリシタンもの、をテーマにした木版画が多く、横浜の情緒を生涯追い求めた作家といえる。だが、川上は3歳にときに一家はすぐに東京に転勤しており、東京で青山学院高等科卒業後は、カナダのヴィクトリア、アメリカのシアトル、アラスカ、帰国後は宇都宮、北海道の苫小牧、そして宇都宮と横浜に在住した記録はないようだ。しかし横浜のスケッチが多数残されており、しばしば訪れたことは間違いない。文明開化調、異国趣味、南蛮趣味の原風景はやはり横浜にあるのであろう。そして天才少女歌手・美空ひばりの原点が横浜にあるが、ブギとジャズ、そして演歌、その楽曲の多様性に中に横浜の魅力をみいだすことは容易であろう。横浜は不思議な文化が育つところである。川上は港町と縁がある。

 

 

2022年4月21日 (木)

顔の左側を向けると美しい横顔になる

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 ドロテア・ヴィーク

 

    絵画にしろ、ポートレートにしろ、やはり彫りの深い外国人のほうが美しい横顔がみえる。古典的な作品としては、レオナルド・ダ・ヴィンチの「マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステの肖像」である。日本の洋画では藤島武二「芳恵」(1926)が有名である。ポートレートでは女優イングリッド・バーグマンやオードリー・ヘプバーン。男優では「偉大なる横顔」といわれたジョン・バリモア。

 こうして横顔の絵画やポートレートを調べてみると、顔の左側を写した写真・絵画が多いことがわかる。それは人によい印象を与えることができると言われているからだ。体の左半分は右脳、右半分は左脳が制御している。右脳は「芸術脳」とも呼ばれ、イメージやパターン認知をつかさどり、左脳は「理論脳」と呼ばれ、計算や分析をつかさどる。そのため、右脳が制御する、顔の左側の方が感情を表現できるのだという。つまり、好印象を与えたいのなら左側、冷静さを印象づけたいなら右側を見せる効果的なのである。

 

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2022年3月26日 (土)

後鳥羽天皇と新古今和歌集

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伊賀の局 伊藤小坡  昭和5年

 

  歴代天皇のうち、第82代後鳥羽天皇ほど多芸多才な天皇は見当たらない。歌道、書画、管弦、蹴鞠などの宮廷に伝統の技芸は玄人はだしであったし、刀剣の鍛錬も行った。天皇みずからの鍛刀は「菊一文字」と称して現在も幾振りか伝えられている。なかでも秀でているのは歌道だった。元久2年(1205)3月26日、「新古今和歌集」が完成した。1978首、20巻。撰者は源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経。

  ところで後鳥羽院の愛妃に伊賀の局がいた。もとは白拍子で亀菊という。上皇は寵愛のあまり摂津国長江・倉橋の二荘を賜った。鎌倉幕府はこの荘園に地頭を補任したが、地頭の横暴が激しいという理由で、上皇はその地頭の罷免を幕府に命じた。しかし執権・北条義時は聞き入れず拒否したため、この事件が一因となって承久の変が起こった。上皇は承久の変に敗れて、1221年7月13日、隠岐に配流され同島で没した。いわば伊賀局も傾国の美女といえなくもない。

    伊藤小坡(1877-1968)は、三重県宇治山田(現・伊勢市)の猿田彦神社の宮司の長女として生まれた。明治31年京都に来て、谷口香嶠に師事。大正4年第9回文展で「制作の前」で三等賞となり、以後文展、帝展に出品、大正8年日本自由画壇の結成に参加したが、翌年には竹内栖鳳のすすめで脱退し再び官展に帰った。上村松園につぐ閨秀作家といわれる。昭和43年に90歳で没した。

2021年12月26日 (日)

ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドン

    エコール・ド・パリを代表する画家モーリス・ユトリロ(1883-1955)の母であるシュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)は女流画家として知られている。1883年12月26日、パリ、モンマルトルのポトー通りの一角で、男児を生んだ。彼女は18歳、父親はわからない。シュザンヌは1865年、フランスのリムーザンで洗濯女の私生児として生まれた。本名は、マリ・クレマンティーヌ・ヴァラドン。5歳のとき母とパリに出てモンマルトルで暮らした。はじめサーカスのアクロバットの美少女として人気があったが、ブランコから転落して足をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。15歳のとき、画家ビュヴィス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。画家は彼女にモデルになることをすすめた。娘はマリアという名でモンマルトル界隈の画家たちを相手にポーズをとった。ドガ、ロートレック、ルノワールの名があげられる。祖母のマドレーヌと三人でトゥールラック三番街に住んでいた。その隣に住んでいたのがロートレック(1864-1901)である。20歳のシュザンヌは2歳のモーリス・ユトリロを連れて、ロートレック(21歳)の愛人になる。そしてシュザンヌもいつとはなしに絵筆を持つようになっていた。ロートレックは気難し屋で皮肉屋の画家ドガ(1834-1917)に彼女のデッサンを見せた。抜群のデッサン力を持つこの老画家は、彼女のデッサンをしげしげと眺めて「この娘はぼくらの仲間だね」といった。

   シュザンヌは1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚する。その後、離婚し、ユトリロよりも若い凡庸な画家アンドレ・ユテルと再婚し、奇妙な三人暮らしが始まる。1935年、ユトリロは裕福な未亡人リュシー・ポーウェルと結婚し、ユトリロ夫婦と母は幸せな生活を送る。シュザンヌは、1938年、73歳で亡くなっている。

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