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2009年11月 1日 (日)

マティスとドラン

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    マティスとドランは年齢はマティスが10歳ほど上であるが、同年に亡くなっており、ほぼ同時代に生きた芸術家だといえる。アンドレ・ドラン(1880-1954)は中流階級の家庭に生まれ、技術者にしたいという父の期待に反して早くから絵画に関心を示す。1898年からアカデミー・カリエールに学び、ここでマティスと出会う。1900年以来ヴラマンクとパリ近郊のシャトーでアトリエを共有し、「シャトー派」と呼ばれる前期フォーヴィスムを展開。ドランとヴラマンクはゴッホ回顧展を訪れて非常な感銘を受け、またそこでマティスにヴラマンクを紹介した。1905年の夏、ドランはマティスと南フランスの小さな港町コリウールで制作し、秋のサロンにフォーヴの一員として名を連ねた。この時期、マティス、ヴラマンクとともにドランはフォーヴィスム運動の中心的立場にあった。フォーヴの時代をへたドランは、やがてセザンヌに傾倒し、古典に魅惑されて、豊かな量感の抽出へと向かっていく。ドランは第二次大戦中、対独協力のために、戦後多くの批判をうけた。しかし彼の描いた世界の力強さは、戦後の巨匠のひとりとしての位置を占めた。

2009年10月31日 (土)

マティスとその仲間たち

    アンリ・マティス(1869-1954)は今世紀最高の革新的な画家の1人である。マティスの芸術は「心を慰める絵画」といわれるが、彼の一生も画家仲間やパトロンに恵まれ幸福なものであった。

    マティスは北フランスの町ル・カトー・カンブレンスに生まれた。1892年にパリ美術学校に入り、ギュスターヴ・モローに認められる。モローのアトリエでアルベール・マルケ(1875-1947)、シャルル・カモワン(1879-1965)、ジョルジュ・ルオー(1871-1958)、アンリ・マンギャン(1874-1949)等と知り合う。1899年にはレンヌ街のアカデミー・カリエールに学び、そこでアンドレ・ドラン(1880-1954)、ビエット、ジャン・ピュイ(1876-1960)、ピエール・ラプラード(1875-1931)、オーギュスト・シャボー(1882-1955)等と知り合う。1903年に創設されたサロン・ドートンヌではシャルル・ゲラン(1875-1939)、ラプラード、マルケ、ルオー、マンギャンらと作品を並べた。1904年、サントロペ滞在中にアンリ・エドモン・クロスとポール・シニャック(1863-1935)に出会った。1905年マティスはマルケ、モーリス・ド・ブラマンク(1876-1958)、ドランとともに、サロン・ドートンヌに出品。ルイ・ヴォークセルによって「フォーヴ(野獣)」と名づけられる。マティスの生涯において、次に重要な出来事はよき理解者との出合いである。スタイン家との出合いである。スタイン家の紹介で進歩的な批評家のグループや画商、美術愛好家とも知り合った。またロシアの教養ある豪商セルゲイ・シュチューキンの庇護も受けた。1909年、マティスはシュチューキンの自邸を飾る2点の壁画「ダンス」「音楽」を制作した。パブロ・ピカソとは1906年ころ知り合った。このほか、フォーヴ仲間の画家たち、キース・ヴァン・ドンゲン(1877-1968)、ルイ・ヴァルタ(1869-1952)、ラウル・デュフィ(1877-1953)、エミール・オトン・フリエス(1879-1949)、ジョルジュ・ブラック(1882-1963)など多くの仲間がいる。

2009年10月12日 (月)

マニエリズムの画家たち

Photo 「凸面鏡の自画像」 ウィーン美術史美術館

    宗教改革はルネサンスの芸術家たちにも深い動揺を与えた。1520年以後、若い芸術家たちは、もはや盛期ルネサンスの確信をもたなかった。彼らは人間の姿を奇妙な新方式で示しはじめ、人体をもとに複雑なポーズにねじったり、不自然な長さにひきのばしたりした。イタリア芸術の、この混乱した相は、マニエリズモとして見下されることが多かった。が、現在ではこれを一つの重要な様式として受け入れている。

   パルミジャニーノ(1503-1540)という、パルマ生れの若い画家の「凸面鏡の自画像」(1523-1524)に、ルネサンス末期のマニエリスモの新様式のはじまりを見ることができる。理髪店で半球状の凸面鏡に映った自分の姿を見て、パルミジャニーノは自分の姿を描くことを思い立った。円い凸面鏡にうつる優美な自己の姿と、手はものすごく大きく見え、壁と天井はまがっている。この奇抜な若者の発想が好まれたのがマニエリスムの時代なのである。

   イタリア語でマニエリズモ、フランス語でマニエリスム、英語でマナリズムと呼ばれている。様式、画風を意味するイタリア語「マニエラ」に由来する言葉で、一般には独創性に欠け、既成の手法や型を踏襲しながら、器用にまとめあげるような仕方を非難する意味をもっていた。ところが、今日では、盛期ルネサンスからバロックに移行する過渡期(1525-1610年ごろ)に流行した特定の様式に対して用いられる。この様式の傾向は、極度に洗練された技巧をもち、錯綜した複雑な構成、ひずんだ遠近法などを駆使し、幻想的な細部の表現、ときには不自然なまでのプロポーションや現実離れした色彩を取り入れた点に特色をもつ。マニエリズモの最初の使用例は、イタリアの美術史家ルイージ・ランツィ(1732-1810)の著書「イタリア絵画史」(1789年)の中に見られるのであるが、型にはまった新鮮味を失った状態という否定的な意味で使用している。だがマニエリズモの新様式は一種の前衛芸術であり、世の耳目を奪うのであるが、その努力は長くは続かず、またあまりにも容易に亜流を生んで、たちまち芸術的混乱を招き、やがて、健全な、またより着実な芸術思想の到来によって消滅せしめられるのである。それがカラヴァッジオに始まるバロックであった。

ここではマニエ時代の代表的な画家の名のみ列挙しておくにとどめる。

ポントルモ(1494-1557)
ロッソ(1494-1540)
ベッカフーミ(1486?-1551)
パルミジアニーノ(1503-1540)
ブロンツィーノ(1503-1572)
ダニエーレ・ダ・ヴォルテラ(1509?-1566)
ジョルージォ・ヴァザーリ(1511-1574)
ティントレット(1518-1594)
アントワーヌ・カロン
ピエル・フランチェスコ・ディ・ヤコポ・フォスキ
マゾ・ダ・サン・フリアーノ
サントディ・トト
ジローラモ・マッキエッティ
ジュゼッペ・アルチンボルド(1521-1593)
カミルロ・ボッカチーノ
クリストファーノ・アルロリ
レリオ・オルシ
ティバルディ
パラッツィ・サッケッティ
ニッコロ・デルラバーテ
サルヴィアーティ
シュプランガー(1546-1611)
ヨハン・フォン・アーヒェン(1522-1616)
ホルツィウス(1558-1617)
スペランヘル(1546-1611)
エル・グレコ(1540-1618)

2009年10月11日 (日)

イタリア・ルネサンスの画家たち

47salon38 フラ・アンジェリコ 「受胎告知」  1440年代前半

   ルネサンスとは「人間が自然と人間にめざめた時代」といわれる。長い中世の間、キリスト教や封建君主のもとであらゆる自由や人間としての欲望や楽しみを束縛されていた人々が、教会の掟や中世風の考え方からめざめ、ギリシア・ローマの自由な精神にあこがれて、新しい世界を求めてたちあがった。この中心となったのが中部イタリアの自由都市フィレンツェで、数多くの芸術家が出て活躍した。

    画題はまだキリスト教関係のものが選ばれたが、中世風の神秘感から抜け出し、人間的なものが見られるようになった。人間や自然の姿を見えるままに写しとろうとして、透視画法が考え出された。ジョットは、約束にとらわれず自分の眼で見て描こうとした最初の画家で、マザッチョはジョットの態度を進めて、自然の広がりや、生き生きとした人間の動きを表わし、裸体画も残している。フラ・アンジェリコは、静かで清らかな宗教画を残し、フィリッポ・リッピは優美で世俗的な画風で人気を得た。ボッティチェルリは、古代の復活といわれるルネサンスの理想を作品の上に表わした。ピエロ・デラ・フランチェスカは明晰で静謐な世界を遠近法を駆使して描いた。

    ルネサンスの波はイタリア各地に広まり、16世紀はイタリア・ルネサンスが最盛期に達した。やがてフィレンツェにかわってローマが中心となり、新しい美術を創造しようという熱意にもえた芸術家たちは、古代を研究するとともに、透視画法、解剖学などの科学的研究をも進め、写実的に表現することにも苦心した。なかでもレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブォナローテイ、ラファエロはこの時代を代表する三大天才といわれている。

    フィレンツェとローマに次いで、ヴェネツィアは、ルネサンスの第三の重要な美術の中心地となった。ヴェネツィア派の始祖ヤコボ・ベッリーニの娘と結婚したマンテーニャは古代美術を深く学び、写実的な描写を得意とした。ジョヴァンニ・ベッリーニはマンテーニャから影響を受け、細密な写実描写と調和のとれた色彩を特徴としている。ヴェネツィア派の最初の巨匠はジョルジョーネである。ミケランジェロとラファエロは形態を征服することによって理想の世界を創造したが、ジョルジョーネは光と色とで理想の世界を創造したのだ。ヴェネツィア派の傑出した画家はティツィアーノ・ヴェチェリオである。彼はジョルジョーネの助手を経て、あでやかな色彩と流麗な筆さばきで国際的にその名が知られるようになった。ヴェネツィア派の画家たちが関心を寄せたのは、デッサンや絵画の数学的構築(デイゼーニョ)ではなく、色彩を優先する配合(コロリート)であった。

    16世紀後半になると、均斉と調和が保たれていたルネサンスの様式がイリュージョン的な絵画構成へと大きく変化していく。後の美術史家はこの新様式をマニエリスムまたはマニエリズモと呼んでいる。ヴェネツィアのティントレットやスペインのエル・グレコが代表的画家である。20世紀初めの美術家たちはエル・グレコを「モダン・アートの先駆者」と高く評価している。

2009年10月 7日 (水)

デボラの歌

Img_0015 ディアズ 「デボラの歌」 1852年

   デボラとは、旧約聖書でいう預言者、士師の一人。紀元前1200年頃シセラ王に対する古代ユダヤ人たちの反抗を指導し、彼らをカナンの地から解放する手助けをした。ナルシス=ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ベニャ(1807-1876)は「バルビゾンの七星」の一人だが、ロマン主義的な雅宴画によって早くから売っ子の画家だった。ディアズはミレーやルソーらと違い、大衆的な成功を望み、顧客や画商らの好む作品を制作したので、バルビゾン派の絵が早くからアメリカやイギリスで支持を得て、その普及に貢献した。

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2009年10月 4日 (日)

アール・ヌーヴォーと日本美術

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   造形様式としてのアール・ヌーヴォーは、1890年から1910年にかけて、ヨーロッパやアメリカで流行した。1896年に、ドイツの美術商ビンクがバン・デ・ベルデに依頼して内装を施したパリの店は「アール・ヌーボー館」と名づけられたが、これが名称の起こりとなり、その装飾の独自性によって非常な人気を博したことが、この新様式の流行に拍車をかけた。アール・ヌーヴォーを代表する人物のひとりにエミール・ガレ(1846-1904)は、まさにガラスの天才であった。ガレの父親はネオ・ロココ様式の家具製造業者であった。アール・ヌーヴォーはロココの伝統に連なり、融けあいながら進められたものであった。また日本の浮世絵や工芸美術の影響も強く受けている。植物、昆虫などをモティーフにした味わいのある装飾の技法、新鮮な表現はいま見ても見事である。

2009年10月 2日 (金)

桐一葉

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   「桐一葉」または「一葉」は、秋を表わす季語になっている。これは中国古代の書物「淮南子」に「一葉落ちて天下の秋を知る」に由来するからである。初秋、大きな桐の葉が風もなくばさりと音を立てて落ちる。高浜虚子の句に「桐一葉日当りながら落ちにけり」がある。

    画家ゴッホはこのような東洋芸術の真髄を直感的に理解していたようだ。「日本芸術を研究すると、このうえなく賢く哲学的で頭のいい男が、いったい何をして時を過ごしているのか分かる。月と地球の距離を測っているのか。そうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか。違う。彼はたった1本の草の葉を研究しているのだ。しかし、この草の葉からすべての植物を、四季を、広大な風景を、最後に動物を、そして人間を描くようになるのだ。彼はこうして人生を過ごすが、人生はすべてを描くには短すぎるのだ」(ゴッホ書簡542)とある。

2009年9月25日 (金)

一枚の葉っぱ

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   新古典主義と呼ばれる日本画家・安田靫彦に入門してまもない女流画家・小倉遊亀は、下図さえ描けないほど悩んでいた。「私には絵を描く天分があるのかしら?」と思わず口走ったとき、絵筆を動かしておられた師靫彦が筆をおいて、静かな口調で言った。「一枚の葉っぱが手に入ったら宇宙全体が手に入ったのと同じだよ」と。その一言で遊喜は105歳になるまで絵を描き続けられた。座りづめで、ひざの骨が変形し、車椅子生活となったが、最晩年まで絵筆をとり、一枚の葉を追い続けた。

2009年8月16日 (日)

仁阿弥道八

Img_0007 色絵桜楓文鉢

  仁阿弥道八(1783-1855)は木米とともに頴川門下の逸材として知られるが、仁清、乾山につぐ京焼の名手となり、ことに琳派風の意匠に独特の境地を築いた。なかでも桜と楓を相対してあらわした意匠は雲錦手(うんきんで)と呼ばれる色絵陶器は高く評価されている。当時の文人の中国趣味の風潮の中にあって、あくまで日本的趣味の京焼の陶器に終始し、幕末の作陶界に光彩を放っている。

2009年8月13日 (木)

ブランデージ会長の東洋美術コレクション

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   アヴェレジ・ブランデージ(1887-1975)の名前は国際オリンピック会長として、わが国では記憶されている方も多いだろうが、東洋美術の愛好家、コレクターとしてその方面の人たちの間ではよく知られていた。ネットなどで調べるとブランデージ・コレクションはすべて現在サンフランシスコ市が管理するデ・ヤング博物館で展示されているようだ。デ・ヤング博物館は1894年のサンフランシスコ万国博覧会が開催されるときに建設されたアメリカでも有数の歴史ある博物館である。もともとでランデージはシカゴの建設業者で成功し、大富豪となった人物で、中国動機、玉、仏像彫刻、陶磁器、東南アジアの美術、インドの美術、書画など6000点以上が展示されている。

2009年8月10日 (月)

ナビ派

Photo_2 ドニ 踊る女たち 1905

    モーリス・ドニ(1870-1943)はフランスの画家。ナビ派。ナビ(Nabi)とは預言者を意味するヘブライ語で、詩人ガザリスが名づけた名称である。ナビ派は1889年、印象派と総合主義の展覧会がカフェ・ボルピニで開かれたのを機にはっきりとしたグループを形成するにいたった。ナビ派にはポール・セリュジェ、ドニ、ボナール、ビュイヤール、ルーセン、イベルス、ピオ、ベルカーデ、バロットン、マイヨールらがいた。彼らは毎月、パリのブラディ街のカフェに集って討論した。ナビ派の様式はフォービズム、キュビズム、抽象絵画を支える理論的な支柱となった。

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2009年7月31日 (金)

納豆売りの少年

Img_0008 マッチ売りの少女 茂田井武 1946

   終戦の年の寒い冬の日のことであった。挿絵画家の茂田井武は、「マッチ売りの少女」の挿絵を頼まれた。大好きなアンデルセンの童話だ。何時になく張り切って数枚描いてみたが、どうしても少女の表情が上手く描けずに悩んでいた。そんなとき、2人の娘たちの無邪気な笑い声が聞えた。「毎朝売りに来る納豆売りの少年、冬でも薄着でおんほろの服なのよ」「こないだは鼻水たらしていたわ」「たべもの売っているのきたないね、アハッハ…」それを聞いてた茂田井は娘たちを厳しく叱った。当時は、父を戦争で失い、納豆売りで母親を助ける子供たちもおおかった。そして茂田井は「まだ納豆が残っているのなら、全部買ってあげなさい」といってアルミの器を姉に渡した。姉妹たちは父のやさしい言葉を聞いて、喜んで買いに出かけた。そのとき、茂田井の脳裏にマッチ売りの少女が現われた。純真無垢なその表情は、いまも観るものの心の中に灯をともし続けている。

2009年7月29日 (水)

忘れられた名人・伊上凡骨

   伊上凡骨(いがみぼんこつ 1857-1933)という名前を知る人は今日あまりいないだろう。明治・大正・昭和の三代にわたり木版彫刻の第一人者であった。夏目漱石「心」の自序にその名がでてくる。「装幀の事は今迄専門家ばかりに依頼していたのだが、今度はふとした動機から自分で遣って見る気になって箱、表紙、見返し、扉及び奥付の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた。木版の刻は伊上凡骨氏を煩はした。それから校正には岩波茂雄君の手を借りた。両君の好意を感謝する。」とある。「心」の刊行には造本、装幀、装飾すべてにわたって漱石の芸術性が発揮されているが、流石に彫刻刀を持ってすることだけは名人の凡骨にお願いしたようである。漱石といえば名取春仙、中村不拙、橋口五葉、津田晴楓などの画家が注目されることが多いが、実は漱石と彫師・凡骨こそ密接な関係にあり、もっと注目されていい芸術家であると思う。凡骨は阿波の出身で川柳仲間であった若き吉川英治に阿波の話をしたことが「鳴門秘帖」を執筆する切っ掛けであったことはよく知られている。凡骨は与謝野寛、晶子夫妻の「明星」や「白樺」などの雑誌の挿絵やカットを制作し、平福百穂、冨田渓仙、岸田劉生、速水御舟など多くの画家に敬愛された。凡骨の技術は当時神技といわれ、その技術と名人肌の奇行ぶりは有名であった。

2009年7月 5日 (日)

入江泰吉、古寺との出会い

Photo_3 興福寺の五重塔

   大阪空襲で家を消失した入江泰吉(1905-1992)は郷里の奈良に戻った。ある日、古本屋で亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』が目に止まり、題名に惹かれて買い求めた。ページを繰るうちに、しだいに感動がたかまり、一心に読みふけった。昭和20年も暮れに近いころであった。東大寺境内を訪ね、三月堂に立ち寄った。その時、お坊さんが話している声を、聞くともなく聞いて入江はびっくりした。「アメリカ軍が賠償として、わが国の有名な古美術品を持って帰るらしい。京都や奈良を爆撃しなかったのもそのつもりらしい」というのであった。そうだとすれば、この三月堂の諸像はもとより、大和の古寺のものはおろか、諸国のすぐれた古美術、わが民族の誇る貴重な文化遺産の大半が、わが国から姿を消してしまうのではないか。「そうだ、私はカメラマンである。せめて写真に記録しよう。いや、しなくてはならない」と、その場で決意した。古寺巡礼をつづけ、奈良にとどまり、急を要する仏像などの撮影を始めるに至ったのであった。

2009年6月 8日 (月)

梅雨の思い出

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   小学生の頃、絵が上手だと先生に認められて職員室の前の掲示板にイラストを描かせてもらったことがある。ハリキッてかいた。6月だったので、カエルをたくさんかいて「カエルの合唱」だった。もちろんほめられた。だが人は半世紀たつと能力は衰える。朝近くの市役所に行くと水道週間のポスターが飾っている。どれも稚拙だが元気いっぱいの絵だ。いろいろアイデアを工夫して、楽しそうだ。下手でいいから根気と集中力、そして描く楽しさを取り戻したい。戯れにむかしを思い出し描く。出来上がりはへタッピーだった。

   それでも画材はスワン・スタビロというドイツ製の高級水彩色鉛筆を使っている。そうは見えないだろうが、池のところを筆に水を含ませて広げて、水の透明感を表現している。紙は古いレポート用紙。今度はクレヨンで描いてみよう。実は使わないがパステルもある。高級な画材があってもその特長を十分に生かしきれない。

2009年6月 7日 (日)

帽子と少女

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   高級クッキー「チボリーナ」の缶の箱絵は深沢邦朗(1923-2009)が描く帽子を深くかぶった少女である。少しふっくらした横顔だが日本人好みの天使のようだ。正面顔が見たい。探すと見つかった。やはり美しい。

   「富士には月見草がよく似合う」というが、「少女に帽子はよく似合う」。とくに夏帽子はいい。「夏帽のリボンたがへて姉妹」という千原叡子の俳句が好きだが、これにふさわしいイラストが見つからない。いわさきちひろ、永田萌にありそうな題材だが。「よし、自分で描いてみよう」ふと、そんな絵心がわく。こんど暇があったらスーパーで売っている学童用の水彩えのぐを買ってきてメルヘン画をかいてみよう。実はケペルは日本絵本専門学校イラスト科の卒業生なのだ。

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2009年4月20日 (月)

富士山と芸術家

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    「不二霊峰」 横山大観 昭和11年頃

    富士山を描いた代表的名画としては葛飾北斎(1760-1849)の「富嶽三十六景」が有名である。36景というものの、じつは全部で46図もあるそうだ。近代美術でいうと、日本画家の横山大観(1868-1958)や洋画家の梅原龍三郎(18888-1986)が知られている。北斎、大観、龍三郎と何れも画風は大きくことなるものの、長命(北斎90歳、大観89歳、龍三郎98歳)であったことは共通する。霊峰富士を描くとご利益があるのだろうか。

2009年3月17日 (火)

プレンダーガストとジ・エイト

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        ボストン、チャールス通り  1895年

  モーリス・プレンダーガスト(1859-1924)は英国領ニューファンドランドに生まれの米国人で、少年時代にボストンに移住した。1892年にパリに留学し、ナビ派の影響をうけ、独自の画風を確立する。プレンダーガストはジ・エイト(8人の会)の一員であった。この会は、当時の美術界の伝統主義や、感傷的な道徳主義の傾向に立ち向かい、現実に即した絵を描こうとする集団だった。彼の他にロバート・ヘンリ、ジョン・スローン、ジョージ・ラクス、ウィリアム・グラッケンズなどがいた。プレンダーガストの作品も身近な都会生活を題材としたモダニズム的な現代風俗画が多い。油絵も版画も描くが、水彩画家として著名である。彼は病弱で生涯独身だった。

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       セントラル・パーク  1910年頃

1895

        サウス・ボストン埠頭  1895年

1897

          リベアビーチ   1897年

1901

             五月祭  1901年

2009年2月16日 (月)

アントネッロ・ダ・メッシーナ

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「お告げのマリア」1475年頃 アントネッロ・ダ・メッシーナ 

    アントネッロ・ダ・メッシーナ(1430年頃~1479年)は、初期ルネサンスの画家。シチリア島メッシーナに生まれ、ナポリでコラントニオに学ぶ。フランドル絵画、とくにファン・アイクの作品から学び、油絵の技法を習得。絵画に奥行きとぼかし効果を与えるとともに、緻密な筆致によって物の材質を再現することに成功する。ミラノにおもむき、1456年頃まで滞在。1457-1474年はメッシーナに帰って制作を続ける。1475-1476年にかけてヴェネツィア、ミラノにおもむき、サン・カッシアーノ聖堂の祭壇画を制作した。

2009年2月14日 (土)

イスラム美術とミニアチュール

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  ウーラード王の首に綱をかけるロスタム「シャー・ナーマ」手写本の挿絵  シラーズ派

    イスラム文学の発達にともない、物語詩などの写本がつくられ、その装丁の装飾と平行し、挿画をいれるようになった。それがイスラムの画家にとって、小さい画面ながら、腕をふるいえた唯一の場所であった。だから繊細な描線とさまざまな彩色のかぎりをつくして、ロマンの世界を実現することに、情熱をそそいだ。物語性の関係もあって、ここでは三次元的な空間構成は問題とせず、もっぱら説明的な表現に終始し、画面はやはりオリエント古来の平面性と装飾的な効果をあげることに、つとめている。イスラムのミニアチュールは15世紀から16世紀、ペルシアの画派において黄金時代をむかえるが、それらはやがてムガール朝やオスマン・トルコ朝のミニアチュールの発達をうながした。なおその間に、中国の宋元画や明画などの影響をうけたものも少なくなかった。ことに白描画の発達は注目すべきである。(林良一「イスラム 講談社版世界美術17」)

ブックオフへ行く。「A Day in the Life of Canada」、「A Day in the Life of Australia」、絲山秋子「沖で待つ」、講談社版世界美術「メソポタミア」、「ローマ」、「ビザンチン」、「イスラム」購入。ずっしり重たい。

2009年2月13日 (金)

裸眼でとらえた風景

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   素朴派礼賛の風潮は、19世紀末のパリで、ドイツの評論家ヴィルヘルム・ウーデや当時第一線で活躍した芸術家たちによって、アンデパンダン展(無審査展)に参加した税関吏アンリ・ルソー(1844-1910)の芸術が認められたことに始まる。ルソーの後、最も優れた素朴派の画家はアンドレ・ボーシャン(1873-1958)である。

   フランス中部のシャトー・ルノーに庭師の息子として生れたボーシャンは、第一次世界大戦中に測量技術を習得し、技師となる。測量図の正確さを認められデッサンの勉強を続けるよう進められドローイングに興味を持つようになる。46歳を過ぎてから本格的に絵画を描き始めた。48歳の時、サロン・ドートンヌに出品した作品がアメデ・オサンファンやル・コルビュジュらに認められる。その作品は柔らかく上品な色調にまとめられ、自然への愛情に満ちている。

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     花咲ける丘

2009年1月31日 (土)

パリと裸の大将

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    山下清(1922-1971)は、昭和36年にヨーロッパ旅行をして多くの作品(貼り絵、スケッチ、手記)を残している。パリのモンマルトルは映画館や芝居小屋がたくさんあって、東京の浅草みたいなところだと言っている。浅草とちがうところは、モンマルトルには絵かきがたくさんいることである。モンマルトルの絵は、ひやかす人が多くてあまり売れないので、関口さんにあれで食べていけるのかときいたら、ここにいる絵かきはみんなパリへ絵の勉強にきているので、倹約して暮らしているし、パリにはいろんな内職があるので、なんとか食べていける。どんな内職をするのかと聞いたら、ペンキ塗りなどはいい内職だそうだ。

    やっとエッフェル塔にきた。いままでエッフェル塔は世界一に高かったのに、東京タワーができて世界で二番目になってしまったので、パリの人はがっかりしていると思ったら、エッフェル塔は高いだけが自慢なのでなくて、塔から見下ろしたパリの街の美しさを一番自慢しているので、からわないという。山下は兵隊のくらいになおすとエッフェル塔は退役の大将で、現役の大将は東京タワーだと思った。(参考文献:「裸の大将ヨーロッパを行く」ノーベル書房)

2009年1月 5日 (月)

ゴッホはどのようにして評価されていったのか

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      フーゴ・フォン・ホフマンスタール (1874-1929)

  1901年、ホフマンスタールはパリのラフィット街の画廊で初めてゴッホの作品と出会った衝撃を次のように書いている。

わたしはそれらの力強い、激しい存在の信ずべからざる奇蹟に衝撃をうたれた。樹木、黄色や緑色のいい地面、垣根、石だらけの丘にうがたれた道、錫の水差し、焼物の鉢、テーブル、粗末な椅子のおのおのは新しい生命そのものであった。それらは無生命の恐るべき混沌から、また無存在の深みから出てわたしの方へ向かって立ち上ってくるのであった。わたしは感じた。いやわたしは悟った。これらの被造物は全世界に絶望したかのような恐るべき懐疑から生れたものであり、その存在は虚無の醜悪な裂け目を永遠にうかがっているということを、わたしは、これらすべてを創った人、また恐るべき懐疑の死の痙攣から逃れるためにこの映像によって自らに答えたその人の魂をいたるところに感じた。(1901年5月26日付の手紙、「散文集」所収)

    ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、1890年7月27日、ピストル自殺を図り、29日午前1時半死亡した。弟のテドルス・ファン・ゴッホは画商のデュラン・リエルにゴッホの展覧会の開催を願ったが断わられる。このころゴッホの芸術を理解しているゴーギャンもエミール・ベルナール宛の手紙で「世間に馬鹿にされるだろう。時宜を得ていない。多くの人はゴッホの絵を気ちがいざたという。ゴッホのためにもならない」と書いている。

    ゴッホが死んでから半年後の1月21日、弟テオも死ぬとテオ未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862-1925)の世話でアムステルダムでゴッホ展が開催された。1896年、オーギュスト・フェルメーレンはオランダのフローニンゲンでゴッホと作品について講演をした。1896年、ゴーギャンはダニエル・ド・モンフレー宛ての手紙に「ゴッホの作品は値を安くすれば容易に売れる」と書いている。1900年画商のアムブローズ・ヴォラールは医師レーから鶏小屋の穴ふさぎにしていたゴッホの絵を150フランで買った。1901年3月、パリのラフィット街のベルネーム・ジューヌ画廊でゴッホの回顧展が開催される。展覧会場を出ながらブラマンクはマチスに語った。「わたしは親父よりゴッホが好きだ」。同じくフーゴ・フォン・ホフマンスタールは、この未知の画家に異常にほど魅かれた。そして1905年からオランダのアムステルダム国立美術館で大回顧展が開かれてから、ゴッホは評価されるようになっていく。

2009年1月 1日 (木)

雪舟と山口

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    雪舟等揚 「四季山水図(山水長巻)」 晩秋

    如拙、周文に学び、入明して画人として自信をもった雪舟(1420-1506)は、宗湛のあと幕府の絵師になることをすすめられると、「金殿の絵は僧の筆に適せず」と辞退し、狩野正信を推したという。帰国後の雪舟は豊後の天開図画楼、周防の雲谷庵にとどまり、この時期に大作「四季山水図」(山水長巻)を描いた。以後永正3年に87歳で没するまで、主として山口の雲谷庵で制作に励んだ。雪舟を山口にひきつけたのは、大内氏の文化的雰囲気であったろうか。毛利博物館には雪舟の名品「四季山水図」(国宝)がある。

2008年12月 4日 (木)

アントン・モーヴとゴッホ

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            池のかたわらの二頭の牛

   どんなに天才芸術家でも最初は、いずれかの師から技術的な指導を受けているはずである。アントン・モーヴ(1838-1888)というオランダの風景画家は当時ハーグではその名を知られた芸術家であったが、今ではゴッホの恩師としてその名を美術史に残すことになった。モーヴの妻がゴッホの従兄弟にあたることから、若きゴッホはハーグ時代、油彩や水彩の手ほどきを受けた。モーヴは石膏デッサンの基本をゴッホに教えようとしたが、強情なゴッホはモーヴと口論して、石膏を打ち砕いてしまう。後にゴッホは、アルルでモーヴの訃報を聞いて、満開の花樹を描いて、その絵に「モーヴの思い出」と書き入れた。

巴旦杏とゴッホ

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       グラスに差した花咲く巴旦杏の枝 1888

    アーモンドは地中海から黒海にかけて自生している。日本では巴旦杏(はたんきょう)という名前で知られている。春に白い花が咲く。ゴッホの作品には、白いアーモンドの花を描いたものが数点残っている。「花咲く巴旦杏の枝」の絵は、弟テオの赤ん坊へのお祝いとして描かれたといわれている。

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                        花咲く巴旦杏の枝  1890

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                           花咲く巴旦杏の木  1888

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                      ハタンキョウ

2008年9月28日 (日)

エドワード・ホッパー「夜のオフィス」

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「夜のオフィス」 ミネアポリス ウォーカー・アート・センター蔵

  エドワード・ホッパー(1882-1967)は、ニューヨーク市の近郊、ハドソン川沿いのナイアックで生れた。ホッパーのきわめて独創的な作品は、アメリカの現代生活の不安な精神を伝えているが、特に都会という環境におかれた人間の寂しさと孤独感が強調されている。

   ニューヨークで、アシュカン派(ごみ箱派)の創設者のロバート・ヘンリに絵を学んだ。美術学校を卒業すると彼は商業美術の道に進み、42歳でようやくこの職をなげうって専業画家となった。1920年代にきわめて独特な画風を見出し、以降それはほとんど変わることがなかった。抽象画の全盛期に身をおきながらも、彼は具象絵画の伝統にかかわりつづけた。画家としての出発は遅かったが、アメリカはすぐさま彼に数々の栄誉を与えた。しかし、ホッパーはひっそりとして暮らしを守りつづけ、同じく画家であった妻ジョー・ヴァースティル・ニヴィソンとともに生涯を絵画にささげた。

  「夜の会社」(1940年)というこの作品には、ホッパーの特徴がよくあらわれている。2人の人物のあいだには意思疎通はない。女性は、上司からの何かの合図をじっと待つようでいながら、同時に自分だけの世界に浸っているようでもある。人物相互のコミュニケーションはほとんど感じられない。それどころか、彼らは家具や建物によって互いに隔てられ、彼らをいっしょに結びつける明確な話の筋は、1つとしてないのだ。ホッパーは自分の作品に物語性をもち込むのを故意に避けているようにも思える。ある意味でホッパーの作品では人物よりも、人物と人物との空間が重要な意味をもっている。それが何か正確にはいえないが、どこかおかしいと感じさせるものがある。現代生活の味気なさを表わしているいるのかもしれないが、それが作品の魅力となっている。

2008年9月23日 (火)

川上澄生と横浜

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    横浜山手之図 大正10年

    版画家・川上澄生(1895-1972)は、横浜市紅葉坂(現・西区紅葉ヶ丘)に生れた。川上の作品には、明治時代の文明開化や西欧異国情緒に満ちた南蛮もの、キリシタンもの、をテーマにした木版画が多く、横浜の情緒を生涯追い求めた作家といえる。だが、川上は3歳にときに一家はすぐに東京に転勤しており、東京で青山学院高等科卒業後は、カナダのヴィクトリア、アメリカのシアトル、アラスカ、帰国後は宇都宮、北海道の苫小牧、そして宇都宮と横浜に在住した記録はないようだ。しかし横浜のスケッチが多数残されており、しばしば訪れたことは間違いない。文明開化調、異国趣味、南蛮趣味の原風景はやはり横浜にあるのであろう。そして天才少女歌手・美空ひばりの原点が横浜にあるが、ブギとジャズ、そして演歌、その楽曲の多様性に中に横浜の魅力をみいだすことは容易であろう。横浜は不思議な文化が育つところである。

2008年9月 3日 (水)

手が4本ある化学者

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    女流画家マギー・ハンブリング(1945年生まれ)が描いた人物画のモデルはドロシー・ホジキン(1910-1994)というイギリスの化学者であるが、なんと、手が4本もある。ホジキン(正式名はドロシー・メアリー・クラウフット・ホジキン)はX線回折法による生体物質の分子構造の決定により1966年ノーベル化学賞を受賞した。ハンブリングは近年は画家としてよりも彫刻家として知られ、ロンドンのアデレイド通りのオスカー・ワイルドのブロンズ像などを制作している。

2008年8月21日 (木)

古代エジプト王妃メリトの宝飾品

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                 王妃メリトの首飾り

   王妃メリトは古代エジプト第12王朝のセンウスレト2世の娘であり、センウスレト3世(在位前1874-前1855)の妻であった。1894年、ジャック・ドゥ・モルガンがダハシュールのセンウスレト3世の煉瓦ピラミッドの北側の王妃メリトの地下回廊から発見した宝飾品2点を紹介する。

    首飾りは墓から発見された金、ラピズ・ラズリ、紅玉髄、トルコ石などのビーズから復元されたものである。ペンダントは8個のトルコ石、5個の紅玉髄、5個のラピズ・ラズリからなり、各々の貴石は底部で交差する2本の金線でカゴ状に包まれ、上部は金箔の管玉とつながっている。これらの管玉の上端は輪になり、同じ様に金のビーズ玉にペンダントを下げるようになっている。留金となる部分はカゴとその上に「アンク」の文字、両側に二つのサアの文字からなることばをデザインしている。その意味は「全ての保護と生命」である。

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              王妃メリトの貝形ペンダント

   金製で、紅玉髄、碧玉、トルコ石の象嵌がある。全体の形は真珠貝をかたどっており、中心の蓮の花から様式化された花弁がのび、逆V字で終って七宝細工のデザインが施されている。(「古代エジプト展」1978、京都市美術館)

2008年8月15日 (金)

絵葉書の歴史

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    絵葉書の歴史は私製絵葉書が認可された明治33年から始まる。各地風景、美人、風俗、美術などなど様々なジャンルの絵葉書が生まれ、一大ブームとなって全国に絵葉書専門店が次々と開店した。ケペルも25年ほど前にヨーロッパ旅行したとき、お土産は絵葉書だけだった。いまも汚れているが、手元にある。

美術の起源

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         ラスコー洞窟画     フランス

   人類学・考古学によれば、アフリカで生れた現世人類は、やがてアフリカを出て、アジア、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカへと世界各地へ広がっていった。この何十万年という長い歳月のうちに人類は石を用いて道具を作りはじめた。この時代を考古学では旧石器時代と呼んでいる。この時期の初期・中期には石を打ち砕いて形どったさまざまな打製の道具が作られたが、その中には早くも左右均等を保った美意識によって形どられたものが見られる。人類の造形活動はこのように道具を用いるようになったときにはじまったと見てよいが、そこでは未だ純粋な意味での美術作品、すなわち絵画や彫刻のようなものは見られず、原始人の造形が現代人の美的観賞に価するようになるのは旧石器時代後期、紀元前3万年から前1万年にかけてである。1879年北スペインのサンタンデル県のアルタミラ洞窟で動物を描いた壁画が発見され、つづいてフランスのラスコー、ロウセル、フォン・ド・ゴーム、二オー、レ・トロア・フレールやほかでも、同じような画が発見された。これが人類の残した最初の美術と考えられ、これらを総称して一般にフランコ・カンタブリア美術と呼ぶ。この期に残されている造形が如何なる意味や目的によって制作されたものか定かでないが、生存のための願望の呪術的行為とする見方が強い。(参考:前田正明「西洋美術史」武蔵野美術短期大学)

2008年8月 5日 (火)

忘れさられた漫画家

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  ストップ、にいちゃん(「少年」連載)

    赤塚不二夫(1935-2008)さんが去る8月2日、亡くなられた。新聞各紙ともトップで大きく報道していた。ケペルも「おそ松くん」が週刊少年サンデーに初登場したときからの読者であった。だが同時代の一少年愛読者の記憶によると、当時の状況を二、三述べたいことがある。初期のサンデーの人気漫画は何といっても寺田ヒロオ(1931-1992)の「スポーツマン金太郎」であった。この野球マンガの驚くべきことは、本当の野球選手が実名で登場することであった。テレビが各家庭になかったので、子どもたちはマンガで野球選手の名前を覚えた。これが正統派のマンガであって、赤塚のギャグマンガは子ども心にもすこし稚拙なものと感じていた。しかし、毎回読みきりであり、話の展開が早く、回を重ねるうちにチビ太、イヤミのキャラクターに惹かれていった。そしてサンデーで一番楽しみにするようになった。そのころ正統派漫画家の超人気者は関谷ひさし(1928-2008)だった。「ジャジャ馬くん」「ストップ、にいちゃん」そしてサンデーには「翔けろ天馬」を連載していた。赤塚不二夫の「おそ松くん」と同じ昭和37年のことである。関谷ひさしは今年の2月25日に亡くなっている。近い将来、これからの美術館では、赤塚不二夫や関谷ひさしの作品が展示されるかもしれない。

2008年8月 2日 (土)

シャガールとベラ

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  シャガール 「町の上の恋人たち」(1917-18)

    マルク・シャガール(1887-1985)は、21歳の時、故郷のヴィテブスクに帰った。そこで裕福な宝石商の娘ベラ・ローゼンフェルト(当時13歳)と運命的に出会う。二人は、恋に落ち、反対をおしきり、28歳のときの1915年3月、結婚する。シャガールはベラとの出会いを「美の神が舞い降りてきたかのようだった」と回想している。翌年には娘イダが生まれ、2年後にはロシア革命が勃発している。だが、シャガール夫妻はアメリカ滞在中の1944年9月、ベラはウィルスに感染して亡くなる。シャガールは創作活動もできないほど落ち込んだが、1952年、ヴァランティーヌ・ブロツキーと再婚する。だが最初の妻ベラは最愛の伴侶であり、霊感の最大の源泉だった。

2008年7月21日 (月)

セザンヌの死

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 セザンヌ夫人、オルタンス  1900年ころ

   晩年、セザンヌの名声は日を経るに従って高まっていったが、セザンヌは孤独な日々を過ごしていた。1898年には、母アンヌが死んだ。妻のオルタンスは息子の教育のためと称してパリへ行き、セザンヌのもとには帰らなかった。そして、糖尿病がセザンヌを苦しめるようになった。しかし、その苦しさのなかでも、絵を描くことだけは絶対にやめられない。1906年10月15日、セザンヌは野外で風景の写生をしているうちに、豪雨にあい、帰り道で倒れた。農夫に発見されてエクスの家にかつぎこまれたが、翌日はすぐに起き上がり、庭師ヴァリエの肖像画を描き続けようとした。しかし、そのために肺炎を悪化させて再び床につく。パリにいる妻のオルタンスは危篤の電報を手にしても、なぜか駆けつけようとはしなかった。5日後、10月22日、パリから帰らない息子の名前をよびながら、妹マリーにみとられブルゴン街の自宅でセザンヌの67歳の生涯は終わった。故郷エクスの墓地に埋葬される。

セザンヌ夫人の肖像画

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扇子を持つ婦人 セザンヌ夫人 1879年~1882年

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          温室のセザンヌ夫人 1891年

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         セザンヌ夫人の肖像 1885年~1887年

  ポール・セザンヌ(1839-1906)は、30歳の頃、パリで19歳のモデル、オルタンス・フィケを知る。やがて普仏戦争が始まり、徴兵を逃れるため、マルセイユに近い漁村エスタックにオルタンスと逃れる。オルタンスとは父親の反対もあり内縁関係であったが、長男も生まれ、1886年に二人は正式に結婚した。セザンヌ夫人は「スイスとレモネード以外に何ら興味を持たない女性」とセザンヌが語っているが、内向的なセザンヌとは対照的に陽気で明るい性格の人だったそうだ。セザンヌ夫人の肖像画は全部合わせると49点以上、油絵だけでも30点以上ある。つまり、夫婦仲は睦まじかった、といえるであろうが、絵からはどの作品をみても、夫人に対する愛情はあまり感じられず、いずれも不機嫌そうな表情である。セザンヌにとつては自分の妻も卓上のリンゴも、モチィーフとして見るかぎり何ら変わりなかった。

2008年7月14日 (月)

永遠の美女モナ・リザ

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   名画中の名画、それがダ・ヴィンチの「モナ・リザ」である。19世紀の文学者・ゴーチェは「かつて女というものの理想が、これ以上誘惑的な形態をまとっていたことはなかった」といっている。つまり、この謎の多い名画を解くキーワードは「理想美」。ダ・ヴィンチはこの絵を、ひとりの婦人の肖像画としてではなく、女性の理想美を表現すべく描いたとしている。「モナ・リザ」以前の西洋絵画にはこれほど自然なポーズで背景と調和し、均衡を作品を保っている作品はなかった。「幸福の持ち物」とされる微笑を浮かべ、抑制された威厳をたたえた美女は、500年を経た今日も、その美しさをいささかも失うことなく生き続けている。(引用文献:「週刊世界の美術 1 ルーヴル美術館」)

2008年7月 7日 (月)

ユトリロの信仰心

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   郊外の教会  1917年

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   コルシカ島の教会 1912年頃

   モーリス・ユトリロ(1883-1955)は1883年12月26日、パリのモンマルトルのポトー街3番地に、女流画家シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)の私生児として生れた。ユトリロの前半生において、およそ10回におよぶアルコール中毒治療のための精神病院への入院がよく知られている。入院中、懸命に絵を描いては医師や看護婦たちにそれを見せ、自分が正常であることを示そうとした。作品のほとんどが風景画である。それもありふれたパリの街並み。なかでも注目されるのが教会が多いことである。サント・マルグリート教会、セント・セブリン教会、ドウィユの教会、モンマルトルの教会、サン・ジェルヴェの教会、シャティヨン・シュル・セーヌ教会、クリニャンクールのノートルダム教会など名作が多い。

   ユトリロは少年期から信仰に心ひかれるものがあったらしい。しかし母親のヴァラドンは少女時代の体験から聖職者たちに深い憎悪を抱いていた。母はユトリロに洗礼を受けさせず、彼の手から説教の本をとりあげることもたびたびあった。にもかかわらず、ユトリロの神への希求は衰えなかった。

    また、少年時代からジャンヌ・ダルクに魅せられていた彼は、第一次世界大戦の始まった1914年、ランスの聖堂(百年戦争の時、ジャンヌ・ダルクがフランス国王を即位させた場所)が、ドイツ軍に爆撃されたことを知って逆上し、その怒りを作品「炎上するランスの聖堂」として残している。1933年、49歳の年にようやくリヨンで洗礼を受け、4年後に聖体拝受をしたユトリロは、ますます狂信的ともいえる信仰の生活に入っていく。アトリエに祭壇を設け、教理問答書も暦の聖人の名もすべて暗記し、1日に6時間も祈りを続けた。ジャンヌ・ダルクが処刑された水曜日と、キリストが十字架にかけられた金曜日は仕事をせず、聖母マリア像の足や聖人の聖脾に接吻したりして過ごしたという。晩年のユトリロにとって、信仰は、若き日の絵と酒に代わる最後の心の拠り所であった。

2008年6月23日 (月)

19世紀ドイツ写実主義

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バルコニーのある部屋 1845  ベルリン国立美術館

   アドルフ・フォン・メンツェル(1815-1905)は、「サンスーシー宮殿におけるフリードリヒ大王のフルート・コンサート」などの歴史画にすぐれた画家として知られるが、その鋭い観察の写実性は、ありふれた日常生活を描いた風俗画にその特色がよく現れている。

   メンツェルは1815年12月8日、ドイツのブレスラに石版画家の子として生まれた。1830年一家とともにベルリンに移住、ベルリン美術学校に学ぶ。1832年、父の死後、その工房をついで石版挿絵で一家を養う。歴史的なテーマによる石版画シリーズの制作を始め、油彩を試みる。1839年以来クーグラーの『フリードリヒ大王伝』の400点に及ぶ木版挿絵を制作し、名声を得る。つづいて銅版画を始める。1845年ごろ印象派を先取りするような光の効果をとらえた風景画を描く。晩年にかけて劇場の桟敷席、居室、鉄工場の労働者などを写実的に描いた。

2008年6月 1日 (日)

レイトンの女性美

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         「燃え立つ6月」 1895年

    フレデリック・レイトン(1830-1896)はイギリス・ヨークシャーのスカーボローの生まれ。幼少時より家族でヨーロッパ旅行をしていたので、数ヶ国語を話し、美術に関する知識も自然と身についていた。さらにフィレンツェ、フランクフルト、パリ、ブリュッセルなどで本格的な美術を学び、ロンドンに戻ってからはラファエル前派とも親交を深める。1868年ロイヤル・アカデミー会員、1878年同会長となりナイト爵を授与され、1886年準男爵、1896年の死の前日にはイギリス画家として初めて男爵の称号を得た。彼の作品は歴史、聖書、古典的な題材がほとんでビクトリア朝時代の画風であるが、近年、再評価がなされている。主作品には「プシケの入浴」(1890)「燃え立つ6月」(1895)など。

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      「果物かごを持つ娘」

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        「無言歌」 1860年

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         「ローマの農家の娘」 

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     「書見台に向かって」 1877年

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          「ソリテュード」

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   「ペリセフォネの帰還」 1891年

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      「ヘスペリデスの園」 1892年

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        「ヘロの最後の眺め」

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 「プシュケの水浴」 1889-1890年頃

   ここでの水浴するプシュケは、単なるギリシャ趣味の口実でしかない。題材は19世紀以来、さまざまな口実のもとに展開されてきたヌードである。近年、世界的規模の「ビクトリアン・ヌード」展があり、レイトンという画家が注目をされるようになっている。その在世時、少なくともイギリスでは極めて高い名声を得た画家ではあった。レイトンの作品はイギリスに欠如していたある種の高踏性と洗練があり、それがヴィクトリア王朝趣味に適合したのであろう。レイトンはラファエル前派に深い共感を持っていたようであるが、画風はよりアカデミックであり、古典主義的であった。

2008年4月29日 (火)

マネとベルト・モリゾ

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         黒い帽子のベルト・モリゾ

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   エドゥアール・マネ(1832-1883)の「バルコン」(1868年)に扇子をもって座っている美しい女性はベルト・モリゾ(1841-1895)である。モリゾはこれまでマネのモデルとして知られていたかも知れないが、近年は個展も開かれ、女流画家としても高く評価されるようになっている。第1回から第8回まで開催された印象派展に実に7回も出品している。モリゾの作品にはシルバー・ホワイトがなされたと思われる層の上に明るい透明に近い黄土色の薄い層を重ねて下地とした作品が多くみられ、身近な人々を女性らしいこまやかな愛情をこめて描いている点に彼女の特徴がみうけられる。

    マネは「草上の昼食」「オランピア」などで世の非難を浴びていた1858年のある日、ルーブル美術館で、リューベンスの模写をしている若くて美しい女性を、友人のファンタン・ラトゥールから紹介された。マネは彼女の漆黒の瞳とエキゾチックな容貌に魅せられた。すぐさま、モデルを努めてくれるように頼んだ。ベルトのスペイン風なエキゾティズムはマネを虜にした。「黒い帽子のベルト・モリゾ」(1872年)など1872年の7月から9月の間にベルトの肖像画が4点もある。マネとベルトとの恋の噂もあったが、1874年、ベルトは弟のウージェーヌ・マネと結婚した。ウージェーヌはベルトより8歳年長だった。健康にあまり恵まれなかったのと生来の気まぐれもあって、生涯いかなる職にもつかずディレッタントとして過ごした。モリゾは37歳で娘ジュリーが生まれた。「私の赤ちゃんは爪の先までマネです。もうこの子の叔父さまたちそっくり。私に似たところはまるでありません」と「エドマへの手紙」に書いている。ベルト・モリゾの54年の生涯は愛情に満ちた家庭と比較的恵まれた経済状態で幸福であったようだ。

2008年4月28日 (月)

ヌードのモナ・リザ

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  世界で最も有名な絵画は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」(ラ・ジョコンダ)であろう。.このルーブル美術館の至宝「モナ・リザ」には、ほかに、もう1枚の「モナ・リザ」が存在していたといわれる。ダ・ヴィンチは、肖像画を描くときはいつでも2枚以上の版を作る習慣があったためだ。だが、いま世界には60点以上も「モナ・リザ」といわれる絵画が存在するが、本物と断定できるものはない。その中でも「ヌードのモナ・リザ」は珍品中の珍品であろう。なんと上半身裸である。この絵画はイギリスのノーサンプトンシャーのスペンサー卿(あのダイアナ妃の実家)が所有している。「美女ガブリエル」といわれ、おそらくダ・ヴィンチ派の画家の作であろう。

2008年4月24日 (木)

ゴッホ「聖書のある静物」

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     開かれた聖書のある静物 

      ゴッホ  1885年4月   ヌエネン

    読める文字の書き込まれた本が画面に登場してくるゴッホの最初の作品は、アムステルダムのゴッホ美術館に所蔵されている「開かれた聖書のある静物」である。この聖書はゴッホの父が所有していたもので、使い古されている。その年、父は死んだ。火の消えたろうそくは父の死を象徴している。父の死の床に、うなだれたゴッホは、ぽっつりと一言いった。「死ぬのはつらい。しかし、生きることは、もっとつらい」と。手前の小さな本は、ゴッホの愛読書、ゾラの「生きる喜び」である。開かれた聖書は、文字からイザヤ書53章であることがわかる。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている

彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちに彼を軽蔑し、無視していた

彼が担ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた

神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

   (「イザヤ書」第53章3節、4節)

   ゴッホは聖書の「イザヤ書」を開いて何がいいたかったのであろうか。「イザヤ書」第53章全体は、われらすべての「悲しみとなやみ」を担い給う人の子についての預言である。それは当然、救主としてのキリストのイメージにつながると同時に、人々から「侮られ、すてられ」ていたと感じていたゴッホ自身の姿でもある。ハーグで同棲していた娼婦シーンとの結婚問題で、ゴッホは家族から反対され、「軽蔑され、人々から見捨てられ」たと感じたに相違ない。ゴッホがシーンを描いた石版画「悲しみ」には、英語ではっきりと「Sorrow」の文字が書き込まれている。

ゴッホ「黄色い本」

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      黄色い本  パリ  1887年秋

    画家が静物画の対象として花や果物を描くことはよくあるが、本そのものを描くことはあまりない。ただ一人ゴッホだけは画面の中に本を描き出した作品をかなり残している画家である。そして、その中には、標題その他の文字が読めるように描いてあるものも少なくない。ゴッホはどのようなメッセージを残したかったのだろうか。「黄色い本」と題する作品は、文字としては読めないが、標題があるといことはわかるように描かれている。この作品は、パリに来てから学んだ新印象派のいわゆる点描画法に近い様式で描かれている。1888年3月、この作品を預かっていたテオがアンデパンダン展に出品しようとした時、ゴッホはわざわざアルルからテオに「もし出品するなら、パリの小説本、という題名にしてほしい」と、注文をつけている。ゴッホはかなりな読書家で、バルザック、ゾラ、モーパッサン、フローベル、ゴンクール兄弟などを愛読していた。当時の社会において、これらの「黄表紙本が堕落したものとして、いささか疑わしい眼で見られていたことを考えると、ゴッホはあえて敬愛する作家たちの作品を、少しも隠そうとはせず、「レモン・イェロー」を使った色彩の象徴主義の萌芽を見ることができる。黄色に「生命の燃焼」と「生きる喜び」を求めようとするゴッホの決意を読み取ることができるであろう。

2008年4月14日 (月)

花を持つ少女

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      花を持つ少女   木炭と水彩、紙

   フランス近代絵画の肖像画・風俗画において、「美しい女性こそ最高の美である」という理念がサロンでは主流であった。印象主義及びそれに続くさまざまな運動の高まりの中でサロンの画家たちは美術史の中で軽視されていくが、最近見直しされる傾向にある。

    フリッツ・ツベル=ビューレル(1822-1896)。スイスの肖像画家、風俗画家。ルイ・グロクロード、ピコの弟子。美術学校で学ぶ。1850年からサロンに出品し始める。ベルヌ、ル・ロクル、モンペリエ、スシャテルの美術館に作品が収蔵されている。

2008年3月31日 (月)

画家とエッフェル塔

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   1889年のパリ万国博覧会開催を決定したフランス政府は、会場入口に1870年の敗戦から立ち直るフランスを象徴する記念碑を建てることを望んだ。いくつかの計画が提出されたが、結局、技師ギュスターヴ・エッフェル(1832-1923)の案が採用される。塔はフランスでつくられた金属による構築物の領域での偉大な進歩の象徴であった。300メートルの高さの塔の出現は前代未聞だった。ちなみに高い建造物といえば、

  トリノのアントネリアーナ塔 170m

  ワシントン記念塔       169m

  ケルン大聖堂         156m

  ギゼーのピラミッド      146m

  サン・ピエトロ寺院      132m

    したがって、エッフェル塔の高さは当時、人間が建てた建造物では世界一だった。だが、同時代の人びとからはひどく嫌われる。1897年2月にはメッソニエ、ジェロームなど官展派の画家と、ドーメ、ケルテス、ヴォードルメなどのアカデミー会員を含む150人の名士によるエッフェル塔撤去の請願書が作成されている。作家のユイスマンは、「穴のあいた燭台」といった。しかし塔の美学は次第に画家たちを魅惑していく。ジョルジュ・スーラ、ラウル・デュフィ、アンリ・ルソーがエッフェル塔を描いた。とりわけロベール・ドローネー(1885-1941)はルソーの影響によってエッフェル塔の連作を描きはじめた。

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    赤いエッフェル塔 ドローネー  シカゴ美術館蔵

2008年3月20日 (木)

韓服(ハンボク)の美しさ

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    韓国ドラマが数多く日本でも放送されるようになって、韓国の歴史や伝統に興味をもたれるようになった方も多いことだろう。「冬のソナタ」という純愛ドラマに始まった韓流ブームは、「宮廷女官チャングムの誓い」「海神(チャン・ボゴ)」そして「太王四神記」と韓国時代劇に推移し、新たなファン層を拡大している。とくにチャングム(イ・ヨンエ)やハン尚宮(ヤン・ミギョン)の正統派韓国美人女優に心を奪われた日本男性も多いだろう。そして彼女たちは当然のことながらチマチョゴリがよく似合う。

   伝統韓服の一般女性の衣装は、短いチョゴリ(上着)とゆったりしたチマ(スカート)である。チョゴリは時代により長さが変化する。脇の下に色違いの布が配色されている。首の周りの白いラインはドンジョン(掛け襟)という。そしてチョゴリの襟を結び合わせるために、襟の端ともう片方の向かい側に突けたオッコルム(結び紐)が前方に垂直に垂れ下がっている。画像のチマチョゴリは一般的な普段着である。

2008年3月12日 (水)

岡本信治郎「10人のインディアン」

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10人のインディアン(10枚組の内)  岡本信治郎 

  昭和39年 長岡現代美術館蔵

   ゴッホに関心をよせていた岡本信治郎は、やはりゴッホを象徴する色、いわばゴッホ色として黄色を用いた作品がよく見られる。「10人のインディアン」は髪飾りをつけ長靴をはいたインディアンの姿が、太い描線で囲まれた簡潔な形体と、明るく鮮やかな色調で描かれている。記号のように著しく単純化されたイメージは、豊かなユーモアと鋭いアイロニーに満ちて、抽象的戯画ともいうべき独自な世界を示す。戦後、抽象画が流行していたが、岡本はマンガ的絵画を描くことで、見るものにさまざまなメッセージを送り続けている。

    岡本信治郎(おかもとしんじろう)は昭和8年、東京生まれ。昭和27年、都立日本橋高等学校を卒業後、印刷会社のアート・ディレクターとして26年間勤務。独学で水彩画をはじめ、日本水彩画展、二紀展などに出品。昭和31年、村松画廊で最初の個展を開き、同年ヨシダ・ヨシエらと「制作会議」を結成、新印象派の画家スーラの作品に出会うことで、現代の病理を明るい色彩と単純な形態によって表わす発想を得る。昭和31年から読売アンデパンダン展に出品、昭和37年と翌年のシェル美術賞展で佳作賞を、昭和39年第1回長岡現代美術館賞展で大賞を受賞。この間、「聖家族」「10人のインディアン」など、ユーモラスな形態の内に空虚感を込めた連作を発表し、現代日本のポップ・アートを代表する一人となる。

2008年3月11日 (火)

未来派・尾形亀之助

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  化粧   尾形亀之助 1922年 仙台・個人蔵

    尾形亀之助(1900-1942)は、アナーキスト系詩人の仲間に加わり詩誌「銅羅」「歴程」などに参加。虚無的心情を平明な言葉に託してうたった詩人として知られる。画家としては、大正10年の第2回未来派美術協会展に、木下秀一郎に誘われて出品したが、それ以前の画歴はよくわからない。未来派美術協会に属し、村山知義や柳瀬正夢とマヴォの結成にも加わった。彼の油絵の作品は、絵を描いた時期が短かったせいもあるが、この「化粧」以外、残っているものがあるかどうか、現在のところ不明である。平面的な線と色によって対象を抽象化して描いており、瀟洒な色感と洗練された近代感覚が認められる。

2008年3月 4日 (火)

安源へ赴く毛主席

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              安源へ赴く毛主席 1968年

    無名の画学生であった劉春華(リュウ・チュンホワ)が大学の卒業制作として描いた作品。若き毛沢東が共産主義革命の志をもって江西省安源へ向かう颯爽とした姿を描いたもので、模範的なテーマと表現であると評価され、各家庭に行き渡るほど膨大な量のポスターが印刷され社会に流布した。「安源へ赴く毛主席」は、単なる文化大革命期のプロパガンダ・ポスターというより、時代と社会をイメージとして人びとの脳裏に強烈に記憶されている。

岡田三郎助「あやめの女」

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          あやめの女  昭和2年

    明るい藍地に目も醒めるばかりのあやめの大柄模様、それから脱け出た若い女性の肌の清らかな香気、さらにバラ色に染まったような耳のあたりの艶っぽさ、そんな構成と色彩感覚が見事である。

    岡田三郎助(1869-1939)は、佐賀県佐賀町八幡小路に石尾孝基の4男として生まれる。はじめ曾山幸彦に、のち黒田清輝に学んで白馬会の創立に参加、東京美術学校西洋画科の新設に際し助教授となった。フランスに留学してラファエル・コランに師事、帰国して美術学校の教授になり、明治40年東京勧業博覧会で「某夫人像」が一等賞となった。のち藤島武二と本郷絵画研究所を設立、帝国美術院会員、帝室技芸員になり、昭和12年には第1回文化勲章を受賞したが、昭和14年9月23日没した。

2008年3月 3日 (月)

マルケ「シブール」

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    マルケ「シブール」 1907年

    ジュネーブ 個人蔵

    アルバート・マルケ(1875-1947)は、ギュスターブ・モローに師事、同時に同門のマチスやルオーらと親交を重ねた。1905年サロン・ドートンヌに出品したところの初期の仕事は、鮮烈な色彩の対比と大胆な描法とによって、マチスらとともにフォービズムの代表的作例と目された。やがて1912年のモロッコ旅行後、次第にフォーブ的傾向から離れ、色彩の調和を重んずる温雅な作風に向かった。以後マルケはほとんど風景画を専門とし、各地を旅しながらいずれも川・港・橋など水の見える情景を対象に、柔らかな灰色や緑・青などを主調とする微妙な色合いと的確な描写で、「海辺の謝肉祭」(1906年)などのすぐれた作品を数多く残した。

   本図の作品はフランスのスペイン国境近くの港町シブールの風景を、大胆な色彩と筆触を駆使している。

ポライオロ「貴婦人の肖像」

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 ポライオロ「貴婦人の肖像」

 ポルディ・ペッツォリ美術館蔵(ミラノ)

   アントニオ・ポライオロ(1429-1498)は、フィレンツェ派の金工家・彫刻家・画家。ドナテルロとカスターニョの弟子で、バルドビネッティの影響も強い。はじめ金工家として出発し、やがて青銅彫刻を学び、1460年ごろから弟ピエロとともに絵画活動も始める。「アンタエウスと戦うヘラクレス」と「ヒドラと戦うヘラクレス」では、深い解剖学的知識を駆使して激しい動きと複雑な姿態を迫真的に描写して、この期の自然主義者としての徹底をみせた。しかも彼は筋肉の躍動美の表現だけでなく、「ダビデ」のような優雅な姿態描出や「貴婦人の肖像」のような洗練された線の手法も持ち合わせていた。さらに「聖セバスチャンの殉教」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)の背景に見られるように、自然の実感に即した新鮮な風景描写もよくした。

   本図の「貴婦人の肖像」は、かつてはウッチェロやベネチアーノ・ピエロ・デラ・フランチェスカなどの作とされていたが、今日では線のあつかいの美しさからポライオロの作品とされている。

聖アポステルン教会

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       聖アポステルン教会(ケルン)

   ドイツ西部のラインラント地方にはケルン、マインツ、マンハイム、ボン、アーヘン、デュッセルドルフなどの都市が点在し、中世の教会も多数残っている。とくにケルンにはゴッシック建築のケルン大聖堂をはじめ、ロマネスク建築の聖マーチン教会、聖セヴェリン教会、聖バンタエロン教会、聖アポステルン教会などがある。1192年建築の聖アポステルン教会は、三つの祭室を備え、外壁は3段のアーケードによって飾られている。

夢二式美人

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       お葉

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       マコチャン

  竹久夢二のモデルといえば、たまき、彦乃、マコチャンなどいるが、「お葉」が最も知られているかも知れない。佐々木カ子ヨ(1904-1980)は、東京美術学校のモデルとして人気があった。大正8年春頃、夢二のモデルとなり、「お葉」という愛称をつけられる。妖精のような可憐さと成熟した女性の妖艶さをあわせもつというまさに理想的モデルだ。夢二の代表作「黒船屋」はお葉をモデルとして生まれた。物憂げな表情をたたえた細面の大正美人は「夢二式美人画」といわれる。

彦乃と京都

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笠井彦乃 京都・高台寺鳥居わきの家の2階にて(背後は八坂の五重塔)

    笠井彦乃(1896-1920)は、日本橋の紙問屋・笠井宗重の娘で、裕福に育ち、女子美術学校の学生であった。竹久夢二のファンで、大正3年秋、夢二に絵をかいてほしいと頼んだのが切っ掛けで、愛し合うようになる。しかし夢二には岸多万喜との離婚歴があり、父宗重は反対した。大正6年2月、夢二が次男不二彦を連れて京都へ引っ越すと、彦乃は6月には京都へ行く。夢二との幸福な京都高台寺での同棲生活を過ごす。大正7年、彦乃は旅行中の夢二に会うために九州へ向かう途中、結核を発病し、別府で入院する。夢二とは引き裂かれたまま、大正9年1月16日、順天堂医院で亡くなる。享年25歳だった。

港屋絵草子店たまき

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            港屋絵草子店の岸たまき

   抒情画の天才、竹久夢二(1884-1934)は明治17年9月10日、岡山県邑久郡本庄村の酒造家の次男に生まれた。15歳の頃に家運が傾き、18歳で上京。その画才は岡田三郎助、島村抱月に認められ、やがて甘美な哀感ただよう詩情は、大正の人々の心をとらえた。

    岸多万喜(きしたまき、1882-1945)との出会いは明治39年、夢二が早稲田鶴巻町にある絵葉書店「つるや」を訪ねたときに始まる。やがて二人は結婚し子供も生まれる。「港屋絵草子店」を開店するが、二歳年上のたまきとはいさかいが絶えなかった。大正4年、たまきと東郷青児との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎えるが、たまきは夢二亡き後も彼を慕い続けたという。

2008年3月 2日 (日)

ゴッホの自殺は失恋が一因にある?

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    ピアノをひくガッシェの娘

    1890年 バーゼル美術館蔵

   1890年7月27日、ゴッホが夕刻ピストル自殺を図った。29日、テオに見守られながら息を引き取る。37歳。自殺の原因はいろいろ考えられるが本当の理由はわからない。ただその数ヶ月前に描かれたゴッホの一枚の絵のモデルの女性マルグリート・ガッシェについて調べてみたい。

   医師ガシェの娘マルグリート(あるいはマルガリート)である。ピアノをひく女性は未婚であるが、あまり若い娘のようにはみえない。30歳前後であろうか。ゴッホは医師ガッシェと親しくなり、尊敬していたようである。ガッシェの家にも出入りし、娘をモデルにして絵を描いているので、ゴッホとマルグリートは親しく会話もしたであろう。白にピンクの服と黒いコントラスト、装飾的な背景の処理などみると、とても数ヶ月後に自殺する人の絵とは思えない、穏やかで平和な家庭の気分が伝わってくる。ゴッホはマルグリートに恋をしていたようだ。このようなタテに長い絵はゴッホには珍しい。特別な感情のあらわれではないだろうか。しかし、ここでもゴッホの恋はみのることはなかった。それは相当な痛手であったに違いない。生への希望を奪った原因の一つと考えてもいいのではないだろうか。

2008年3月 1日 (土)

カルロ・マデルナ

Img_0004     サンタ・スザンナ聖堂

    ローマ 1595-1603年

   カルロ・マデルナ(1556-1629)は、イタリア・バロックの建築家。北イタリア、ルガノ近郊のカポラーゴ生まれ。ビニョーラの影響が強い。教皇シクストス5世のとき、ローマでこの教皇のために働いていた建築家の伯父ドメニコ・フォンタナのもとで助手をつとめ、独立の建築家としての活動をみせるのは1592年以後である。1603年、ポルタの跡を継いでサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となり、いわゆるマデルナの長堂およびファサードを完成(1607-1617)。

   そのほか、聖堂建築には、サンタ・マリア・デラ・ビットーリア聖堂(1608-1620)やサンタンドレア・デラ・パレ聖堂(1608-1616)など、邸館建築には、パラッツォ・マッティ(1603-1616)やパラッツォ・バルベリーニの設計(1625-1629、建設はベルニーニ)などがあり、いずれも盛期バロックへの先駆をなす作品として重要である。パラッツォ・バルベリーニの着工後まもなく没した。

   本図のサンタ・スザンナ聖堂は、マデルナの代表的な建築とされ、明暗の効果や列柱の扱い方にも特徴がある。前時代の建築家ビニョーラの設計したローマのイル・ジェス教会などのシステムに従ったものであるが、壁面に埋め込まれた円柱や角柱、また、壁面に掘り込まれた壁龕(像を置くための壁のくぼみ)や突出した軒蛇腹などの使用により、壁面は平坦ではなく、より変化に富んだ陰影をつくり、バロック的・絵画的な効果を上げている。上層部の両側にある渦巻形の装飾はかろやかで、ダイナミックな感じを与える。盛期バロック建築正面の最初の代表例であり、17世紀の教会堂正面の典型となった。

2008年2月29日 (金)

揚州八怪・金農

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  墨竹図  金農 1750年

  大阪市立美術館蔵

    南北交通の中心地であり、商業都市として栄えた揚州に、18世紀半ば、独創的で、きわめて個性的な画家たちの一群が集まった。これらの画家を「揚州八怪」と総称しているが、その筆頭にあげられるのが、本図の筆者金農である。 

    金農(1687-1763)は、清の書家・詩人。銭塘の人。号は冬心。30歳のころまでは、郷里にあって学習に努め、地方詩壇に令名を得る一方、すでに金石拓本の蒐集をはじめたらしく、これは彼の書法形成と密接な関連があると考えられる。受験に失敗して、官途に望みを絶った。金農が、はじめて揚州を訪れたのは35歳のときで、その後たびたびこの地にあそび、鄭燮、汪士慎、高翔、華嵓らと交わり、また多くの蔵書をもち、文人墨客を優遇した馬日琯、日璐兄弟とあいしり、ついに晩年はこの地に寄寓して、書画三昧の生活をおくり、揚州は終焉の地となった。友人の1人が「嗜奇好古」と評したように、超俗的人物で自我がつよく、読書画において古代の美を愛賞し、しかも古人の法式を墨守することなく、自己の胸懐を吐露した個性的芸術を創成した。詩人、書家として、はやくから知られたが、絵を描きはじめたのは50歳をすぎてからであった。竹、梅、馬、花果を得意とし、晩年には仏像を描いた。単純卑近な事物を、水墨や彩色をまじえた線描ふうの、自由な画法で描いたその作は、また自然に即し自然に学んだものであって、主観的象徴的な表現の底に、それを支えるいきいきとした感覚が躍動している。「墨竹図」は64歳の時の制作によるものである。(引用文献:「アジア歴史事典3」平凡社)

2008年2月28日 (木)

ドイツ表現主義

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 ブリュッケの芸術家の肖像 キルヒナー 1925年

 ケルン市立バルラフ・リヒャルツ美術館蔵

   表現主義とは、自然描写に対立して感情表現をねらいとする芸術上の様式概念をいう。思潮としては20世紀初頭のドイツにおいてもっとも典型的な高揚をみた。ドレスデンで1905年に前衛絵画グループ「橋(ブリュッケ)派」が生まれ、運動の起点になった。エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー(1880-1938)、エーリッヒ・ヘッケル(1883-1970)、カール・シュミット・ロットルフ(1884-1976)、オットー・ミュラー(1874-1930)を創立メンバーとする「ブリュッケ」派は、のちにベルリンに活躍の舞台を移してマックス・ペヒシュタイン(1881-1955)を加えた。グループの名称は、若い世代の美術家をひろく結集する橋渡しの意味で命名された。

    画像の作品は「ブリュッケ」解体後20年もたった時点で描かれたものであるが、いかに過去の緊密な時代をなつかしんだか、キルヒナーの胸中を察するに十分な作品である。左から、ミュラー、キルヒナー、ヘッケル、ロットルフを描いている。

鋳金家・香取秀真

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    みみずく香炉 香取秀真 昭和28年

    香取秀真(かとりほづま、1874-1954)は、はじめ鋳金家大島如雲(1858-1940)に学び、美術学校では岡崎雪声(1854-1921)に学んだ。香取は東洋や日本の古代の金工についても深い関心をもち研究していた。したがって彼の作品は若い時代から晩年にいたるまで、常に古典の影響を受けていたともいえる。

   みみずく、鳩、ふくろう等の置物(香炉が多い)をよく作っているのは、中国銅器に鳥形尊や卣(ゆう)と無関係ではないと思う。青銅鋳物に金の象嵌を施して、色彩効果をあげようとしている。目・耳・足・翼などにかなりの抽象化をみせているのは、この作品の特色であるとともに、このころの彼の傾向でもあった。

    金工史家としても、すぐれた著作があり、また正岡子規の根岸短歌会の1人、アララギ派の歌人として、「天之真榊」「還暦以後」などの歌集を残した。

快慶「地蔵菩薩立像」

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   地蔵菩薩立像 快慶 奈良・東大寺蔵

   端麗な顔だち、神経質なまでに美しい整えられた衣文など、いかにも几帳面な快慶の特色を示している。彼のそれ以前の作品に見られる宋風を取り入れた繁雑さややにっこさは影をひそめ、むしろこの像に見られるような和風化への傾向がみられるようになるのもこの時期である。彩色もきわめて美しく、白雲上の蓮華も白地に緑青と金線を点じ、衣や袈裟には美しいいろいろな切金文が施されている。像の右足下の柄に「巧匠法橋快慶」と刻まれているので、快慶の法橋時代(1203-1208)の唯一の在銘像である。

   快慶は康慶の弟子で運慶とは同門。文治から貞応年間(1185-1223)に活躍。作風は巧緻優雅で、わかりやすく親しみやすい美しさ、とくに端麗な面相は非常に好まれた。東大寺再興に全力を傾けた僧重源に深く帰依して阿弥陀浄土を信じ、号もそれに因む。また明恵・明徳とも親交があった。

岸田劉生の作風の変化

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       新緑小閑(紙本着色)  大正14年

   岸田劉生(1891-1929)は明治41年、赤坂の白馬会葵橋洋画研究所に入って黒田清輝に師事している。そして2年後の19歳のとき、第4回文展に外光派風の風景画二点を初出品して入選するなど、早くから洋画家としての才能を認められた。

   明治44年ごろから、白樺派に共鳴してゴッホやセザンヌに傾倒し、大正元年、高村光太郎、斉藤与里、木村荘八、万鉄五郎らとフューザン会を結成した。

   しかしデューラーなどの北欧ルネサンスへの傾倒から厳格な写実主義を追求し、時流の印象派とは完全に対立する方向に進んだ。

   大正6年、鵠沼に転地してからは、自分の娘麗子や村娘お松の像などを連作、写実と装飾を融合する充実した作境を展開した。だが、その間に宋元院体画や初期肉筆浮世絵への傾倒と、日本画を描き残し、その作風はつねに大きく変化していった。

2008年2月24日 (日)

サヴィニャックとロイピン

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 ルッフ社のソーセージの宣伝ポスター

 ロイピン 1950年 ポスター美術館

    戦後のグラフィックデザイナー、ポスター作家の巨匠といえば、レンモンド・サヴィニャック(1907-2002)とヘルベルト・ロイピン(1916-1999)があげられる。広告業界において「視覚ギャグ」「ヴィジュアル・スキャンダル」という言葉も彼らの出現によって生まれた。

  レイモンド・サヴィニャックはアール・デコの巨匠アドルフ・ムーロン・カッサンドル(1901-1968)に学んだ。1949年に注文なし描いた「牛乳石鹸」のポスターで一躍注目を浴びた。以後フランスのポスターの分野で最も注目された一人である。その作風に見られる愉快な驚きを誘う表現は、多くのデザイナーに強い刺激と影響を与えた。

   ヘルベルト・ロイピンはスイスのバインビルに生まれ、パリでポール・コランに学ぶ。画像のルッフ社のためのソーセージの宣伝ポスターからもわかるように、彼は対象になる商品をきわめて大胆に、誇張した形でとりあげながら、そこに親しみとユーモアとウィットを感じさせる表現にはサヴィニャックと共通するものが見られる。

赤い風車(ムーラン・ルージュ)

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   夜のモンマルトルの象徴といえば、「赤い風車」の明かりであろう。ナイトクラブ、パル・デュ・ムーラン・ルージュが、酒と踊りであらゆる階層のパリっ子を魅了したのは19世紀末。クリシー大通りの「レーヌ・ブランシュ(白の女王)」という安ダンス・ホールの跡地、ブランシュ広場に、「赤い風車」(ムーラン・ルージュ)が開店したのは1889年のことであった。1891年以来、入口のロビーは絵のギャラリーとなっていた。そこでは大勢の客が酒を飲んだり、ぽんびきや娼婦、踊り子、おとりの警官などがたむろしていた。内部は、見物席に囲まれた大ダンスフロア、大きなバー、そして道化師や歌手、エキゾチィックな踊り子、アクロバット師、にぎやかなカンカン踊りの一団など、一風変わった多種多様な芸人たちが毎晩出演する舞台になっていた。

   ムーラン・ルージュには、客たちが座って休むことのできる、小さなテーブルと椅子をおいた中庭があり、それを囲むように屋根つきのプロムナードが広がっていた。庭の真ん中を占めていたのはオーケストラ全員がなかに入れるほどの大きさの張りぼての象であった。そのまわりに客を楽しませるために猿が鎖につながれていた。また人々は、モンマルトルのバーで最もよく飲まれていた「緑の妖精」つまりアブサンと呼ばれたアニスシードの酒を飲み過ぎなければ、ロバに乗って庭を回ることもできた。官能の悦びを求める人のための標識である屋根の赤い風車は、木製の模型であり、本物の風車が数多く点在していた緑豊かな丘の村であったころのモンマルトルの、そう遠くない昔を思い起こさせた。ムーラン・ルージュを開店したシャルル・ジドレールは、クリシー街のダンス・ホール「エリゼー・モンマルトル」や「カジノ・ド・パリ」といった競争相手から常連客を呼び寄せるために、あり余るほどの娯楽を用意することにあらゆる手をつくした。

   夕べの調べは、オッフェンバックとオリビエール・メトラの音楽によるサーカスなみの喧騒であり、トロンボーン、シンバル、ドラムによって大音響で演奏された。世紀の変わり目ころには、踊りの流行はマティッシュやケーキウォークのようなものになっており、バンドは聴衆を馬鹿騒ぎに駆り立てたので、外国からの客は驚いて立ち去るほどであった。ある偏見のないイギリスの雑誌記者は「ここではどのような欲情も抑える必要はない。わめき声と馬鹿騒ぎがある。女たちは男たちの肩にすがってホール中引き回されている。酒を注文するすさまじい叫び声がある」と記している。

   しかし、ロシア、イギリス、ルーマニア、南アメリカなど世界中からやってくるムーラン・ルージュの男の常連客にとって一番の魅力は、小粋で性道徳にとらわれない女たちであった。性取引はパリの周辺では盛んであった。悪徳はナイトクラブや娼家だけの商売ではなかった。外国商人たちは娼婦にするパリの娘を求めた。ヨーロッパ最大の肉体市場と考えられていたムーラン・ルージュは、表面は華やかでうわついて見えたが、踊り子兼娼婦といううす汚れた仕事に携わる女は、白人奴隷市場の手配師に誘拐されてきた者が多かった。(引用:「ロートレック」同朋舎出版、1990)

恋多き女シュザンヌ・ヴァラドン

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            シュザンヌ・ヴァラドンとモーリス・ユトリロ

   ひとりの貧しい田舎娘マドレーヌ・ヴァラドンはフランス中西部リモージュ近郊のベッシーヌで道路建設技師との情事から一人の女児を生んだ。マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(通称シュザンヌ、1865-1938)である。5年後、マドレーヌは娘シュザンヌとともにパリに出た。彼女たちは貧しい労働者たちが住むロシュシュアール大通りに落ち着き、裕福な家庭の家事手伝いをしたり、洗濯屋で働いた。

   マリーは生まれつき人の言うことをきかない性格の子供であったらしいが、ロシュシュアール大通りの路上に白墨をつかって物を書くのが好きだった。強い好奇心と鋭い物を見る眼とがこの女の子に与えられた天の贈物だった。マリーは13歳の頃にはお針子としてオート・クチュールの仕事場で見習いとなったが、その後も転々と仕事を変えて行った。やがてマリーはパリ16区にあった「モリエ」サーカス団のアクロバットの美少女として人気がでた。ある時、空中ブランコから転落して、脚をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。写真で見るマリーは、濃い眉毛と刺すような目差すで男達の好き心をそそる美少女に成長していたらしい。15歳の時、当時画壇の大御所だったピュヴィウス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。シャヴァンヌは58歳、年齢的には孫娘にも近いマリーと画家はモデル以上の関係を結ぶようになる。この画家の最も有名な作品「聖なる森」に描かれた上半身裸の8人の女人像はすべてマリーがモデルをつとめたといわれる。1883年からほぼ7年にわたりマリーはポーズをとった。

   そんなころモンマルトルは酒場、あるいはダンスホールなどが開設され、歓楽街としての賑わいを大きくしてくる。ボヘミヤン風の生活を若さにまかせて楽しんでいたマリーは1883年の冬、男児を出産する。将来のモーリス・ユトリロである。時にマリーは18歳だった。そして、このポトー通り8番地で生まれたモーリスの父親が一体誰であるかについては諸説ある。①ユトリロ姓を与えたスペイン人の芸術家ミゲル・ユトリロ説②カッフェ「黒猫」のなじみ客で、モンマルトルの酔いどれ詩人モーリス・ボワシー説③ピュヴィス・シャヴァンヌ説

   後年さまざまな推測がなされたがシュザンヌ自身が「本当のところは私にも分からない」と言っているとおり、浮気なシュザンヌだった。

   シュザンヌはドガ、ロートレック、ルノワールらのモデルをつとめた。2歳のモーリスを連れたシュザンヌはロートレックの愛人となる。ロートレックは身体が不具であったが、シュザンヌは彼にひとかたならぬ魅力を感じていたらしい。というのも、この美しく意志の強い女性は、彼に結婚する気にさせようとして狂言自殺を試みたといわれている。おそらくこれによって、数年間続いてきた彼らのつかず離れずの関係に終止符が打たれたと思われる。1893年にはエリック・サティと交際したが半年で破局した。1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚。その後、離婚し、1914年に息子のユトリロよりも若い画家アンドレ・ユテルと再婚する。まさにシュザンヌは恋多き女であった。ロートレックやドガの指導で画家として成功したシュザンヌは、息子のモーリスをアルコールから遠ざけるために、彼に絵をすすめたエピソードはあまりにも有名であろう。ユトリロが風景画家であるのに対して、シュザンヌの作品はほとんどが人物画であるが、その大胆なフォルムはロートレックの影響を思わせるものがある。

シュルレアリスト・ダリとフロイト

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                  サルバドール・ダリ

  ジグムント・フロイト(1856-1939)は精神分析の創始者とされている。患者が催眠状態のなかで、忘れ去っていた感情的体験を思い出し、記憶を呼び起こすことにより精神障害の症状が改善されるらしいということを発見したのである。つまりフロイトの大きな功績は、意識下に埋もれた記憶や経験のもつ価値と、それらに到着することにある。シュルレアリストたちは、この理論が意味する想像力の解放に関心をもった。

   シュルレアリスム運動に参加した若き芸術家サルバドール・ダリ(1904-1989)は、学生時代にフロイトの「夢判断」を読み、次のように述べている。

「これは私の人生における重大な発見の1つだった。……私は夢だけでなく、わが身に起こったあらゆる出来事を自己解釈せずにいられないという真の悪習にとりつかれてしまった

    フロイトの著作や精神分析に深く心を奪われたダリは、シュルレアリスムの理論を発展させて、独自の「偏執狂的批判的方法」を生み出した。これは見る者の空想能力にもとづくイメージ解釈の一種であり、ダブル・イメージが1930年代のダリの作品に多数見られる。これは、自らは精神の異常をきたすことなく、偏執狂患者の狂った心を装い、外観の背後にあるイメージを感じとるという彼の能力によって生み出された。彼は「私自身と狂人との唯一の違いは、私は狂っていないということだけだ」と言っている。

蛇信仰と女性

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  タロット・ガーデンの彫刻 ガラビッチョ(イタリア)

   古代社会においては、蛇は死者礼拝と結びついて霊獣とみなされる。古代エジプトでは、蛇のヒエログリフは女神の象徴とされる。ギリシアのクノッソスからも「蛇をもつ女神」が出土されている。また蛇は定期的に脱皮を繰り返すことから、人類の「生、死、再生」の象徴であるとされる。とくに女性は月経を迎えると、古くなった子宮の層を剥がす。すなわち、女性は、月経によって新しい女に生まれ変わる。蛇には永遠性を象徴する神聖な生き物であるという信仰が生まれた。

    ニキ・ド・サンファール(1930-2002)というフランス生れの女性芸術家は人生の岐路に立った時、人生の指針としてタロットカードに力を借りていた。イタリアのトスカーナ地方のガラビッチョにある「タロット・ガーデン」には、ニキが20年の歳月をかけて制作したタロットカードのシンボルをモチーフとした彫刻作品が並んでいる。そこを訪れた人々は女性ばかりでなく、男性や子供から老人まで誰もが理屈ぬきに元気のパワーをもらうという。ニキ・ド・サンファールは動く彫刻で知られるジャン・ティンゲリー(1925-1991)と知り合い、1961年、絵の具を仕込んだ銃でカンヴァスを撃つという「射撃絵画」によってヌーヴォー・レアリスムの一員として知られるようになった。画像作品は、女性器から人々が入ってゆくという巨大な女性像のオブジェで、女性には蛇が絡み付いている。カラフルな色彩のユニークな作品は多くの人々に親しまれている。とくに胎内回帰願望の方にオススメである。

モンマルトルとサクレ・クール寺院

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    ハニー・リュティ  「サクレ・クール聖堂」

   モンマルトルはパリで一番高い丘にあり、現在でもパリの観光地として世界中から旅行客で賑わっている。サクレ・クール寺院左手のこじんまりしたテルトル広場に軒を並べたカフェ、レストランの前では大道芸人や似顔絵描きが屯したり、派手な色彩やきまり切った構図のどう見ても観光客用のお土産でしかない絵が販売されている。

   19世紀後半から、モンマルトル界隈はムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールなどのキャバレーが建ち並び、歓楽街となっていった。ヨハン・ヨンキント、カミーユ・ピサロ、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ドゥ・トゥールーズ・ロートレック、エドガー・ドガ、ピエール・オーギュスト・ルノワールなどの印象派画家たちがモンマルトルを制作の場とした。

   19世紀末から第一次大戦までのベル・エポックの時代には、世界中から画家・詩人・小説家など多くの芸術家たちが集まり、ここを活動の拠点とした。モンマルトルの「洗濯船」、モンパルナス近くの「蜂の巣」は、当時の画家たちのアトリエ兼アパートだった。パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン、シュザンヌ・ヴァラドン、アンドレ・ドラン、ピエール・ブリソー、アルフレッド・ジャリ、ジャック・ヴィヨン、マックス・ジャコブ、レイモン・デュシャン・ヴィヨン、アンドレ・サルモン、サン=ポール・ルー、フランシス・カルコたちがモンマルトルで育っていった。

    1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の頂にサクレ・クール寺院が建設され、シンボルのようになった。

    第一次大戦後、フランス以外の国から芸術家たちがモンマルトルやモンパルナスに移り住むようになった。モディリアニ(イタリア)、パスキン(ブルガリア)、シャガール(ロシア)、キスリング(ポーランド)、スーティン(リトアニア)たちである。彼らにはフォービズムやキュビズムの画家たちのような特定の理論や主義があったわけではない。しかもフランス国外からきたユダヤ人だった。彼らはパリをこよなく愛し、そのフランス的な感受性に傾倒して大いにそれを養分としていった。彼らは「エコール・ド・パリ」の画家と呼ばれるようになった。彼ら以外にもユトリロ、ピカソ、グリス、ドンゲン、藤田嗣治(レオナール・フジタ)、マリー・ローランサン、ホアン・ミロ、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリあたりまで含める場合もある。

2008年2月22日 (金)

ボッティチェリとフィレンツェ

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ボッティチェリの自画像「東方三博士の礼拝」(部分) 1475年 フィレンツェ ウフィツィ美術館蔵

   アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピ(1445-1510)はフィレンツェの皮なめし職人マリアーノ・フィリペーピの末子として生まれた。フィレンツェ人は驚くほど愛称を好み、アレッサンドロの長兄ジョヴァンニは「イル・ボッティチェロ」(小さな樽を意味する)と呼ばれた。おそらく彼が丸々と太っていたからだろう。アレッサンドロ(通称サンドロ)は1470年以前のいつのころからかこの愛称を肩代わりし、ついにはそれが一家の姓となった。

   サンドロ・ボッティチェリの若いころについて確かなことはほとんど知られていないが、13歳で金細工師の徒弟になったという話は真実らしく思われる。しかし、まもなくして画家になろうと決心し、1461、2年ごろ、父親は彼をフィリッポ・リッピの工房に入れた。リッピはフィレンツェの名高い画家だった。その後、ボッティチェリは「プリマヴェラ(春)」と「ヴィーナスの誕生」によって、ルネサンスを代表する芸術家の一人になった。

    彼は旅嫌いで、めったに故郷のフィレンツェを離れなかった。1473年、注文に応じるためにピサを旅したが、計画が頓挫すると、すぐに家に帰った。1481年、ローマのシスティナ礼拝堂を飾る芸術家の一人に選ばれたためフィレンツェを離れたが翌年にはフィレンツェに戻っている。

   晩年、修道僧サヴォナローラが処刑されると、ボッティチェリも人気を失い、数世紀にわたってほとんど忘れられた存在となった。ボッティチェリがイタリア・ルネサンス最大の芸術家として認められたのは、ようやく19世紀の末に再評価されたからである。

2008年2月21日 (木)

犬と水差しを持つ田舎娘

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    「犬と水差しを持つ田舎娘」(部分)

    1785年 サー・アルフレッド・バイト准男爵蔵

    トマス・ゲインズバラ(1727-1788)は、フランスのロココ美術と17世紀オランダの風景画の双方の影響を受けつつ、イギリス人やイギリスの田園風景を独自の感覚で描いた。晩年における「ファンシー・ピクチャー」といわれる人物画は風景がロマンティックな世界をつくり上げて、19世紀風景画の先駆的役割を果たした。「犬と水差しを持つ田舎娘」はゲインズボロの「ファンシー・ピクチャー」の代表的作品である。物思いに沈む子供の表情は魅力的で、最高の出来ばえをみせている。

   トマス・ゲインズバラ(ゲーンズボロ)は南サフォーク地方の市場町として繁栄するサドバリーに生まれた。父親は羊毛業者だったが、後年には事業に失敗し、職を変えて郵便局長となっている。トマスは創造性にあふれた一家の9人兄弟の末っ子として育った。彼はロンドンで絵の修業をしたのち、故郷に帰って肖像画家となり、やがてファッショナブルな町バースに移り住むと、ヴァン・ダイクの後継者にふさわしい肖像画家としての評判を築きあげた。

2008年2月19日 (火)

「赤いチョッキの少年」の悲劇

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    1890年代までは、ポール・セザンヌ(1839-1906)の作品はパリのタンギー爺さんの小さな画材店でしか彼の絵を買うことができず、ほとんど無名に近かった。1895年に、画商のアンブロワーズ・ヴォラールがセザンヌの個展をパリで開いた。この個展を境としてセザンヌの名声は高まっていった。

   半世紀後の1958年10月15日。1400人の美術愛好家と何万というテレビ視聴者が、ロンドンのサザビーズのオークション・ルームにおける記録破りの競売を見つめた。アメリカのポール・メロンがセザンヌの「赤いチョッキの少年」を61万6000ドルで競り落としたのである。「世紀のオークション」といわれ、当時近代絵画に支払われた史上最高の額であった。セザンヌの「赤いチョッキの少年」といえば最近あった盗難事件を思いうかべるであろう。だが、当時のサザビーズの写真をみると盗まれた絵とは異なる。「赤いチョッキの少年」というモチーフは複数存在するのだろうか。

   盗難の絵画がどのような経緯でスイスの実業家エミール・ビュールレ(1890-1956)の手に渡ったのかも明らかではない。ビュールレ・コレクションとしてチューリヒ美術館、ビュールレ美術館に蔵されるようになった。個人美術館の警備の甘さがあったのかも知れない。ここに名画の悲劇が生まれた。2月10日、覆面をした3人組の強盗団に油絵4点が盗まれた。「赤いチョッキの少年」はそのなかの1点である。

    犯人たちよ、いまからでも遅くない。すぐに返せ!

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2008年2月16日 (土)

ヨルダーンス「夫妻像」

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    ヨルダーンス   「夫妻像」

    17世紀 ボストン美術館蔵

   誇り高く落ち着き払いかつ富裕さの歴然とした若き夫婦を描いたこの美しい肖像画は、ヨルダーンスがその先輩でもありかつより有名な、同世代であったルーベンスやヴァン・ダイクの後を継いで、アントワープにおける評判高い肖像画家となった理由を、明確に示している。この作品は夫妻の人物描写において着想が率直でありかつ生気に溢れており、17世紀のフランドル芸術の特徴である健全さ、力強さを具えている。もちろんこの理念は、ヨルダーンスが助手として充分に吸収する機会を得たルーベンスの大芸術の、多大な影響を基礎に形成されたものである。この「夫妻像」が永い間ルーベンス自身の作と考えられていたという。

   ヤーコブ・ヨルダーンス(1593-1678)はルーベンスやヴァン・ダイクと同時代に活躍した画家。アダム・ファン・ノートルに師事し絵画を学ぶ。1615年にアントワープの聖ルカ組合に認められ、翌年にはノートルの長女と結婚し、画家としての道を順調に歩みはじめる。以後、教会の注文による大規模な祭壇画やタペストリーの作成に携わるほか、ルーベンスの工房と共同でネーデルランドの総督でもあったフェルナンド枢機卿の同地入市に伴う装飾、スペイン国王フェリペ4世の住居を飾る神話画などの制作をおこない国際的に名声を手にし、同時期に大規模な工房をかまえた。彼の才能は多方面にわたるが、本質的には当時の市民的な基盤に立つもので、市民の日常生活の情景を描いた作品の秀作が多い。神話や古典に取材した作品にも現世的、風俗的な要素がしばしばうかがわれる。

ラファエロの「牧場の聖母」

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        牧場の聖母(聖母子と幼児聖ヨハネ)

                          ウィーン美術史博物館蔵

   広々とした背景の風景は聖母の表情をひとしお優雅に感じさせ、人物のつながりは美しい線の流れによって、ラファエロ独特の音楽的リズムをたたえている。幼児キリスト(右)と幼児聖ヨハネ(左)の童児と聖母マリアのピラミッド型の構成により親密感に満ちている。洗礼者ヨハネが持つ芧の十字は克服すべき人間の弱さを象徴している。この聖母子像は、神の母の尊厳よりもむしろ限りない母性愛を表現しており、聖母子像としてはマーテル・アマピリス(慈愛の母)といわれる。背景の自然風景は彼のよく知るトラシメーノ湖畔パシニャーノの町、マリアのローマの金の縁どりに「M.D.VI.」(1506)と書かれているが、1505年の作とされている。

    この絵はラファエロ・サンツィオ(1483-1520)が彼を厚遇したタッデオ・タッデイに贈ったとバザーリは伝えている。17世紀になってオーストリア大公フェルディナンドに渡り、1663年までインスブルック宮にあったが、その後チロルのアンブラス城に移った。さらにその後、1773年にウィーンの帝室コレクションに入り、収蔵された城の名に因んで、一名「ベルヴェデーレの聖母」ともよばれている。

アンドキデスと赤絵式陶器

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  アンフォラ  「ケルベロスをなだめるヘラクレス」 

  ヴルチ(エトルリア)出土 ルーブル美術館蔵

    前530年ころ、アテネの陶工アンドキデスは黒地に赤い形象という新しい赤絵様式を開発する。黒い背景から図像を浮び上がらせ、細部を筆により濃淡をもって表わすことにより、人間感情を自由に表現することが可能になった。

   この陶器の図像場面は、ヘラクレスの12の難業の一つで、冥界の3頭の番犬ケルベロスをなだめて地上に連れ出す話である。ヘラクレスの背後に守護女神アテナが立っている。前510年ころの作品。

2008年2月15日 (金)

挂甲の武人

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     挂甲の武人(埴輪)

          群馬県太田市強戸成塚出土

          群馬 相川考古館蔵

    5世紀ごろ、騎馬戦に適した武具として大陸よりもたらされた挂甲(けいこう)という鎧をつけている。右袵重ねで、衝角付き冑には頬当てと錣が付いている。両手には甲当ての上に鞆を結んで左手には弓を持ち、剣に右手をかけている。埴輪作者の関心はもっぱらこれらの武具にあり、挂甲の小札は刻線で、冑の鋲留は浮文で詳細にあらわされている。新式武具の威力に感銘したためだろうか。頬当ての間から見える武人の顔は、古墳時代後半の一般的な表現である。

ブランクーシの「無限柱」

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    コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)はルーマニア南西部のオルテニア地方のゴルシュ県ホビツァに生まれる。ルーマニアで木工職人の修行をし、1904年パリ美術学校で彫刻を学んだ。彼の作品の中でも最もスケールの大きいものは、第一次大戦の戦没者のための記念碑として、1937年、ルーマニアのトゥルグ・ジュ市に設置された「無限柱」である。

   高さ30メートル近くの鉄製の柱で、そろばんのたまを積み重ねたような形状を特徴としている。正式の名称は「終わることなき感謝の柱、英雄たちの記念碑」である。

2008年2月14日 (木)

法隆寺九面観音像

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      九面観音像 木造  法隆寺蔵 

    養老3年に唐から将来した白檀で彫られた尊像で、719年以前の盛唐の作。37.4センチの小像ながら、実に細部まで周到に彫刻されている。頭上の八面でやや頭でっかちにみえるところを、豪華な瓔珞と下裳のひだでよくそれを釣り合わせている。秀麗な表情がみごとで、肢体もよく均衡がとれている。たれた右手に数珠、あげた左手に水瓶を持っている。宝髷もみごとに整備されて、弧状にふくれるが、余ったところは、耳のうしろから左右の肩にシンメトリックにたれ下がる。頭上左右の6頭部は、みなこの本尊と同じように仏化をいただき、中央の仏頭は惜しいことに、その面相を失っている。しかし、あらゆる点で、盛唐の趣があり、細部に至るまでの精緻をきわめた造形の確かさは、壇像彫刻の典型的な作技を示しており、わが国の天平彫刻をはじめ木彫像に与えた影響ははかりしれないものがある。(引用文献:「世界美術全集15」角川書店)

西域出土胡服美人図

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               胡服美人図       8世紀前半

    大谷探検隊の将来品で、東トルキスタンのトルファンで出土した。長く土中したためか、いまは3つの断片だけが残存する。原本はおそらく士女が庭園に遊ぶ図と思われる。

    婦人はアップ・スタイルの驚鵠髷という髷を結い、額に大きな花弁形の花鈿、頬に細線で朱をさした化粧をする。花のかんばせと形容したい顔である。開襟式の衣服のそでは筒袖、いわゆる胡服で、イラン風の服装である。えりやそで口の宝相華の色彩あざやかな文様は朱と紺との対照を基調にしている。婦人の胡服は盛唐時代最も盛んであったが、この図はその例証とみることができる。婦人は片手で赤い盆形の器物を胸に抱いているが、あるいは楽器かもしれない。(引用文献:「世界美術全集15」角川書店)

天明の美人画家清長

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        鳥居清長「つらら取り」 天明6年

    雪に覆われた朝、振袖の若い2人の女が庭に立っている。1人は長い煙管を手にして軒端のつららをたたき落している。他の1人は雪をかぶった庭の梅の花を摘み取っている。何れも吉原の芸者で、遊里の朝の景色であろうか。

   鳥居清長(1752-1815)は江戸木材町1丁目で生まれた。父は書肆を営む白子屋市兵衛といい、家業の関係から浮世絵版画や草双紙・絵本などを目にすることが多く、幼くして鳥居清満に弟子入りする。明和7年師より清長の名を許され、一枚ものの芝居絵の何枚かを売り出した。天明元年には健康的で明るい、流麗な線描を主体とする清長独特の画風を確立し、歌麿が世に出るまで、浮世絵の世界の第一人者であった。

玉杖十簡

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孝平皇帝元始五年幼伯生。永平十五年受玉杖

    1959年秋に甘粛省武威県磨咀子第18号墳から出土した各簡23ミリ余りの武威漢簡の一例をあげる。漢代では高祖以来高齢者を優遇する養老政策をとり、老人に特権を与えていたが、その一つに杖頭に鳩のついた玉杖を下賜した。画像は玉杖十簡といわれる第1簡である。

    幼伯はこの墓の被葬者である。前漢平帝の元始5年(5)に生まれて、後漢明帝の永平15年(72)に鳩杖を賜わった。玉杖を与えられたものの特権を規定した法令(制詔)と鳩杖とを一緒にして棺の上に置かれていた。

    簡の初めに黒丸をつけ、1字あけて10数字書いている。空いた部分を麻縄で冊書にしてあったが、1900年が経過して、麻縄が朽ちて簡の順序が混乱したため配列の順序は不明である。画像は郭沫若の説に拠るものであるが他に4説があるという。

    第3簡と第9簡に、皇帝の命令である制の字が見えることから、漢代の令を研究する上に玉杖十簡は重要な資料である。(引用文献:「書道全集26」平凡社)

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2008年2月12日 (火)

マネとゾラ

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       笛吹きの少年

        オルセー美術館蔵  1866年

    エドゥアール・マネ(1832-1883)は19世紀における最も独創的で、影響力をもった画家の1人であった。1863年の「草上の昼食」「オランピア」が例のないほど悪評にさらされ、彼の絵はできそこないで、現代風の裸婦は猥褻だときめつけられた。落胆したマネは1865年、逃れるようにスペインへ行き、17世紀の画家ベラスケスの作品に勇気づけられパリに戻り、画いたのがこの「笛を吹く少年」(1866年2月)である。

    モデルの近衛軍鼓笛隊の少年兵は、ボードレールとマネの共通の友人だったルジョワーヌ少佐がアトリエへ連れてきたといわれている。だが、少年の顔はおそらく息子のレオン・コエラ=レーンホフ(1852年生まれ)をもとにしている。

   人体は極端に平面的だが、構図は自然かつ鮮明にまとめられ、非物質的な純粋色の響きが新鮮な感情をともなっている。人物をこのように「空気で包む」やり方をベラスケスから学んだ。そして浮世絵版画の影響も否定しえないだろう。

    マネが後年には著名な小説家となるエミール・ゾラ(1840-1902)と初めて出会ったのは、毎週木曜日に開かれているカフェ・ゲルボワで、この「笛を吹く少年」が「背景が消えている」と批判された頃(1866年2月~5月)であろう。マネ34歳、ゾラ26歳。

   同年のサロンに「笛を吹く少年」と「悲劇役者」を出品するが落選。マネは自分のアトリエで展覧会を開く。そこへゾラが訪れ、深く感動し、「エヴェヌマン」誌に「これほど単純な手段を用いてこれ以上強力な効果を生み出すことができるとは思わない」と、マネを擁護し賞賛した。この論評によって、ゾラは読者の反感をかい、同誌のサロン評連載を中断することとなる。

    ゾラはマネを「この上なく上品」で「とてつもなく人なつっこい」と感じ、2人は生涯変わらぬ固い友情で結ばれた。

2008年2月10日 (日)

ゴッホのハーグ時代と娼婦シーン

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シーンの娘 坐像(左向きのプロフィール)

   鉛筆 黒の石版用チョーク 水彩用紙

   フィセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(1853-1890)のハーグ時代(1882年から1883年9月までのおよそ20ヵ月)に「悲しみ」(1882年、ロンドン・ウォルソン美術館蔵)という黒チョークで描かれた作品がある。ゴッホは自ら「最上の作品」と呼び、石版画にもしている。上掲の図版「シーンの娘」のモデルはシーンの長女で、暗い表情、やせこけた頬に不幸と貧しさが哀しくも表現されている。

   1882年1月、ゴッホは街頭で酔っ払いの妊娠した娼婦に出会った。クリスティーヌ(ゴッホはシーンとよんだ)を拾い、20ヵ月間同棲生活が始まる。やがて赤ちゃんも生まれた。テオへの手紙には次のように書いている。「ちょうど今ここに、女が子供たちといっしょにいる。去年のことを思い出すと大きなちがいだ。女は元気になり、気むずかしさがなくなってきた。赤ん坊は、およそ想像がつく限りで最も可愛らしく、最も健康で、陽気なちびになっている。そしてあの可愛そうな女の子はデッサンを見れば分かるけれど、彼女が受けた恐ろしい不幸が未だ拭い去られてはいない。このことがしばしばぼくの気がかりになるのだ。しかし去年とはすっかり変わった。当時は全くひどかったが、今では彼女の顔はあどけない子供のような表情になっている」

   この手紙を読む限りでは、貧しいながらも4人で暮らすありふれた幸せな家庭が築けそうな期待がする。しかしゴッホとシーンに破局がやってくる。1883年12月、ゴッホは両親のいるヌエネンに戻る。シーンの2人の子供たちがその後どうなったのか、それは誰も知らない。

ペプロスとキトンを着たコレー

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          ペプロスとキトンを着たコレー 

             大理石 アクロポリス美術館

    前530年頃から20~.30年間に少女像(コレー)が多数制作された。それはアテネの貴族文化の最盛期をもたらした僭主ペイシストラトスとその子たちの時代にあたる。キトンという薄い麻布でできた衣服の上に、腰をベルトで締めたドリス風のペプロスを着て、両足をそろえて直立し、正面を向いている。キトンはペプロスの襟の上および裾の下にわずかに見えている。ペプロスを着たコレーの例は少ない。左腕は肘を曲げて前方に出し、掌に捧げ物をのせていた。肘から先は欠損。右腕はわずかに肘を曲げてたらし、拳を大腿部の脇へ当てている。頭髪のウェーブは入念につくられる。頭髪、唇、瞳、瞳孔、眉、まつげの彩色が保存されている。着衣と姿勢は古風であり、さらに個々の特徴から前550年頃に「アクロポリスの騎士」(アテネとパリ)の彫刻家の作と考えられる。

   少女の表情については、全身の様式化にもかかわらず、生き生きとしたアルカイック様式で見る者をとらえて離さない。いわゆる「アルカイックの微笑」の表現は、実際に笑っているのではなくて、顔面の表情に生命と動きをあたえるため、当時の彫刻家たちが考え出した方法だった。若い男(クーロス)が常に裸体であり、アポロンの神性の一部であるのに対して、若い女(コレー)は着衣で、神殿や神域に立つ奉納像である。

2008年2月 9日 (土)

後鳥羽上皇と伊賀局

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       伊賀の局 伊藤小坡  昭和5年

   伊賀の局は鎌倉時代、後鳥羽上皇の寵妃でもとは白拍子の亀菊といった。上皇は寵愛のあまり摂津国長江・倉橋の二荘を賜った。鎌倉幕府はこの荘園に地頭を補任したが、地頭の横暴が激しいという理由で、上皇はその地頭の罷免を幕府に命じた。しかし執権・北条義時は聞き入れず拒否したため、この事件が一因となって承久の変が起こった。上皇は承久の変に敗れて、隠岐島に配流され同島で没した。いわば伊賀局も傾国の美女といえなくもない。

    伊藤小坡(1877-1968)は、三重県宇治山田(現・伊勢市)の猿田彦神社の宮司の長女として生まれた。明治31年京都に来て、谷口香嶠に師事。大正4年第9回文展で「制作の前」で三等賞となり、以後文展、帝展に出品、大正8年日本自由画壇の結成に参加したが、翌年には竹内栖鳳のすすめで脱退し再び官展に帰った。上村松園につぐ閨秀作家といわれる。昭和43年に90歳で没した。

伊藤快彦「大奥女中」

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   大奥女中  伊藤快彦 明治41年

                 京都市美術館蔵

   伊藤快彦の代表作の一つに「少女像」(明治24年作)がある。小品であるが、師の原田直次郎の影響で緻密な写実による力作である。この「大奥女中」は明治後期に盛行した歴史風俗画を代表する作品で、将軍家の大奥の女中の初々しい局の表情に絵の題目がある。

   伊藤快彦(いとうよしひこ、1867-1942)は田村宗立に師事し、明治21年、京都府画学校を卒業すると上京して小山正太郎、原田直次郎の門に学ぶ。明治26年に家塾鍾美会を開設する。明治34年に同志と関西美術会を創立し、また浅井忠を助けて関西美術院を興し、晩年には院長として後進の指導に尽力した。

クールベ「物思い」

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     物思い  クールベ 1864年

             ドゥエー美術館蔵

   ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は、6月10日スイス国境近いフランシュ・コンテ地方の小村オルナンに生まれた。1840年父のすすめる法律研究のためにパリに出たが、画塾に通って絵画に没頭する一方、ルーヴル美術館で巨匠の作品を勉強した。1850年の「オルナンの埋葬」で評壇を二分する物議をかもした。この絵があまりにも実景の描写に徹しすぎ、当時の絵画思潮に反していたためである。その後もクールベは自分の芸術上の立場を挑戦的に表明し、写実主義のリーダーとなった。「現実をあるがままに直視して描写する」ことを主張した思想的立場は、美術史上きわめて大きな意義を残すものであった。

    この「物思い」はクールベ晩年の作品で、若い娘が何か物思いにふけるさびしげな横顔。クールベ好みの主題である。このような、自意識から解放され、いわば本然の姿に立ち還った女性の存在に、彼はインスピレーションを見出したといえようか。この女性は、1864年のサロンに出品した「ヴィーナスとプシケ」のヴィーナスになった人物と考えられている。これらのモデルを彼はパリからオルナンに呼び寄せ、女たちとの交際も派手で自由で、村の人々の顰蹙を買ったらしい。「波間の女」も、村の娘は裸になってくれないので、この女性がモデルになったといわれる。

コロー「シャルトル大聖堂」

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    シャルトル大聖堂 コロー 1830年

                             ルーヴル美術館蔵

    ジャン・バティスト・カミーユ・コロー(1798-1875)は1825年から28年、1834年、1843年と計3度イタリアへ旅行し、6年間のイタリア滞在の間に明るい光と色彩にも強い影響を受けた。1828年、第1回のイタリア旅行から帰国したコローはその感銘をフランスの田園風景の描写に生かそうとした。1830年7月の革命の勃発とともに、シャルトルへ逃れたコローは、大聖堂の圧倒する美に打たれてこの作品を描いた。前景の人物は、1830年に制作されたときには描かれていなかったが、それから40余年たった1872年に描き加えられたものである。またシャルトルの大聖堂は1834年に火災にあい、屋根の部分などが修復されたが、その意味からも、被災前の大聖堂の姿を知る上で、資料的に貴重な作品である。

2008年1月27日 (日)

チャーチル会と戦後文化人たち

    昭和24年頃、銀座泰明小学校の向かいにあった映画世界社(「映画の友」を発行)の画室を借りて、アマチュアの絵描き愛好会ができた。「あなたも私も絵を描こう」と著名文化人たちが集まった。会名はイギリス首相チャーチルが「絵を描くことは他人に迷惑をかけず、全てを忘れることができる、最も良いホビーだ」という言葉に由来。チャーチル会は現在も全国に53支部、2000名以上の会員がいる。

    毎週土曜の午後に集まり、当初、先生は石川滋彦(1909-1994)であった。やがて久保守、宮田重雄、益田義信、伊原宇三郎、猪熊弦一郎、佐藤敬、脇田和、硲伊之助、高野三三男などの画家仲間も顔を見せるようになった。生徒たちは、藤浦洸、藤山愛一郎、田村泰次郎、石川達三、伊志井寛、森雅之、宇野重吉、長門美保、佐藤美子、柴田早苗、高峰秀子、杉浦幸雄、横山隆一など多彩な顔ぶれであった。

   藤浦洸、宮田重雄、柴田早苗といえばNHKのラジオクイズ番組「二十の扉」のレギュラー解答者たちだ。あと作家や映画俳優、新劇俳優、オペラ歌手、漫画家などなど。さぞかしサロンは楽しいものだっただろう。高峰秀子はこのサロンを通じて、梅原龍三郎と40年以上も親交を結ぶこととなる。(参考:高峰秀子「私の梅原龍三郎」)

2008年1月16日 (水)

モナ・リザは24歳

    レオナルド・ダ・ヴィンチは1503年3月、ローマから故郷に近いフィレンチェに戻り、フィレンツェ政庁の会議室のための壁画(戦闘図)に着手した。(「アンギアーリの戦い」)現在、この壁画で残っているのは彼の素描とルーベンスによる模写だけである。ダ・ヴィンチの向かい側には、ライバルであるミケランジェロが「カッシーナの戦い」を描いていた。

    この時期はダ・ヴィンチの創作意欲の盛んな時期であった。彼の作品のうちで最も有名なあの「モナ・リザ」の制作にとりかかったのは、1503年10月ころからである。「モナ・リザ」という題は、ジョルジョ・ヴァザーリが「美術家列伝」で記している。モナは婦人、リザとはエリザベッタの愛称で、ヴァザーリはこの女性がフィレンツェの豪商フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻としている。この説をもとに、後世の美術史家は、モナ・リザのモデルは、フランチェスコ・ディ・ザノビ・デル・ジョコンドの3番目の妻であるエリザベッタ・デル・ジョコンドであると考えられていた。本名リザ・ゲラルディーニ(正式名はリザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーノという長い名前である)は1479年10月16日に生まれ、ナポリの上流階級の出身であった。1495年にジョコンダと結婚した。モナ・リザがリザ・ゲラルディーニだとすれば、当時24歳ということになる。ダ・ヴィンチの肖像画の女性はもっと年齢が高く見える。そこで古来からモデルの女性は別人ではないかという説もあった。ナポリ公妃コンスタンツァ・ダヴァロス、イザベラ・タラゴーナ、イザベラ・デステ、はてはダ・ヴィンチの自画像説まで登場した。

    2008年1月14日、ドイツのハイデルベルク大学図書館はモナ・リザのモデルがフィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザであることを裏付ける証拠を見つけたと発表した。証拠は、1477年に印刷された所蔵図書の欄外にフィレンツェの役人による書き込みがあり「ダ・ヴィンチは今、リザ・デル・ジョコンドの肖像を描いている」と記述されていた。今回の発見はモナ・リザのモデルを特定する有力な証拠になったことは間違いない。

    ところで、モナ・リザの謎の核心はモデルの戸籍調べではなく、「モナ・リザの微笑み」の謎であろう。古来、この微笑が何を表わそうとしているのか解明した者はいない。黒いヴェールをかぶっているのは、一人娘が死んだためという説があるが、確証はない。リザがいつも哀しい表情だったので、ダ・ヴィンチは制作中に音楽家と道化師を雇ってリザを癒やしたといわれている。

2008年1月 6日 (日)

集団肖像画

    集団肖像画はオランダ特有の伝統で、16世紀に起源を発し、17世紀において、レンブラント(1606-1669)を頂点として、他に類をみないジャンルの芸術を開花させた。

   各種組合や自警団、医師団、慈善団体が自分たちの会館の壁画を飾るために依頼したことから始まる。ときには20人もが一堂に描かれたが、構図はおおむね変化がなく、モデルが横一列か扇形に並んだ。この伝統を打ち破ったのがレンブラントのきわめて独創的な集団肖像画である。「トゥルプ博士の解剖学講義」(1632年)、「夜警」(1642年)、「アムステルダム布地組合の品質鑑査官たち」(1661-1662年)。近刊書としてアロイス・リーグル著「オランダ集団肖像画」の翻訳が中央公論美術出版からでている。収録されている画家は、コルネリス・ケテル、ウェルネル・ファン・ファルケルト、トーマス・デ・ケイセル(15596-1667)、バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト、フランス・ハルス(1582-1666)ほか。

   レンブラントは20代の末にはアムステルダム随一の人気画家となったが、晩年は経済的に恵まれず破産した。当時の人々は彼の弟子たちが描く口あたりのいい絵のほうを好んだ。レンブラントが美術史における最高の画家と認められるようになったのは、ようやく19世紀になってからである。

ネーデルランドの諺

   ブリューゲルの「ネーデルランドの諺」(1559年)には、当時の人々の生活を舞台に100種類以上(一説では120種とされる)とされる諺や格言の場面が描かれている。これらの諺は2種類に大別される。それは、人の愚かなる振る舞いを表わすものと、人間の罪深さ、七つの大罪(大食、強欲、怠惰、肉欲、高慢、嫉妬、憤怒)を表現するものとである。

壁に頭をぶつける。(むだ骨をおる)

ひよこがかえらぬうちにその数を数える。(捕らぬ狸の皮算用)

2つの口でしゃべる。(陰日なたがある)

光の籠を日なたに持ち出す。(よけいなことをする)

片の手に水、片方の手に火。(不誠実)

豚に薔薇の花。(豚に真珠)

一方が糸を紡いでいるのに、他方が糸巻棒を縛る。(相手がなければ噂話はできない)

尻でドアを開ける。(どうなっているやら、まるでわからない)

ひとつの骨に二匹の犬。(喧嘩になるにきまっている)

ひと叩きで2匹のハエを殺す。(一石二鳥)

自分が薪で温まれば、だれの家が燃えようと気にならない。(自分だけよければいい)

金を水に捨てる。(金を湯水のように使う)

車輪に棒を突っ込む。(人の邪魔をする)

粥をこぼすと、全部は拾えない。(覆水盆に返らず)

両方のパンには手が届かない。(やりくり算段ができない)

長いほうをちぎり取ろうと引っ張る。(くじを引く。幸運を引き当てる)

豚の毛を刈る。(無益な行い)

小魚を食らう大魚。(権力者の弱者への圧迫)

雌豚が栓を抜く。(大食らいをする)

円い平たい菓子が生えている。(怠惰)

立てた箒の下は安全。(亭主が不在中の目じるし)

夫に青いマントを着せる妻(不貞と金銭目的の結婚)

詳細については、グリュックの絵解き解説がある。

ブリューゲルとアントウェルペン

    画家ピーテル・ブリューゲルが生きた時代のアントウェルペン(英語名アントワープ)は「世界の環のなかのダイヤモンド」と呼ばれ、繁栄と発展の黄金期にあった。詩人ダンテがブリュージュを讃えた「太陽のごとく、その比を知らぬ、ブラバントのメトロポリス」(グイチャルディーニ)と書いた開港都市であったブリュージュの入江が泥で埋まってしまったため、代わってアントウェルペンが北海沿岸低地帯の主要港として、ヴェネチアとハンザ同盟の交易を引き継ぎ、また東方の香料を求めるポルトガル船団の重要な寄港地となった。16世紀の前半に人口は倍になり、美術品の輸出が盛んになったため、全国各地から芸術家たちが集まってきた。アントウェルペンはまた、印刷の中心地としての名声も急速に高めた。低地帯諸国で出される本の半分以上がここで印刷され、パリやリヨンの国際的地位を競い合うようになった。

    ブリューゲルがいつ、どこで生まれたか、確かなことはわからない。1525年から1530年の間と推定されている。マックス・J・フリードレンダーの推定によると1528年から1530年の間に生まれている、としている。これで算えると、ブリューゲルは39歳で死んでいることになる。生地については、フランドルの画家カレル・ファン・マンデルの著書「画家の書」(1604年)によると「プレダ市近くのブリューゲルという小さな村に生まれた」とある。ブリューゲルが地名であるか姓であるか明らかではないが、おそらく当時ブラバント公国にあったブレダに生まれ、アントウェルペンにやってきたのは1540年ころのことであろう。マンデルの記録によると、ブリューゲルはピーテル・クック・ファン・アールスト(1502-1550)の弟子として画家修業を始めた。クックはアントウェルペンの一流の画家だった。工房は非常に繁盛し、絵画制作は芸術であると同時に、一つの産業だった。クックは出版活動でもその名を知られた。クックが1545年に出版したセバスティリアーノ・セルリオの建築書の翻訳は、イタリア・ルネサンスの建築理念を北方ヨーロッパに広めるのに大きく貢献した。そしてブリューゲルは1540年から1545年の間、クックの工房で徒弟生活を送った。1551年、ブリューゲルはアントウェルペンの画家組合(サン・ルカ・ギルド)の親方として登録されている。

2008年1月 4日 (金)

ブリューゲルのイタリア旅行

    フランドルの画家ピーテル・ブリューゲル(1525-1569)のイタリア旅行(1552-1553)の影響は、「バベルの塔」(1563、ローマで実際に見たコロセウムがヒントになっている)や「雪中の狩人」(1565、アルプス風景)にはっきりと見ることができる。しかしイタリア絵画そのものの影響はあまりみられない。むしろ彼に一番大きな影響を与えたのは、行く途中のアルプスでの上から見下ろす視点であり、アルプスからの眺めであったであろう。(彼が育ったフランドル地方はほとんど平野であった)

    これは、これまでの絵画において自然景観は、宗教画や人物画の背景として脇役的にそえられていたものだったが、ブリューゲルは俯瞰的な見方で人物を描き、16世紀フランドル絵画に独自の風景画形式の確立に大きく貢献した。

    ロベール・ジュナイユは次のように言っている。「15世紀の美術では、人間が大きくとり扱われ、風景はわずかな添え物にすぎなかった。人間はつねに作品の中央、前景に浮かびあがり、風景はほんのつけたしであった。ところが、この関係を逆にしたのがブリューゲルなのである。彼は人間を、さながら群がるアリのようにみじめな存在としてとらえ、かわって風景を巨大なモニュマンにまで高めたのである。彼の風景は奥行きと広がりをもち、ディテールにいたるまで幻想を駆使し、有機体として構築されているのだ。おそらくブリューゲルはイタリア旅行の途中、アルプスを越える際に、自然のけだかさに強く打たれたのではなかったろうか」(ロベール・ジュナイユ「ヴァン・アイクからブリューゲルまで」)

2007年12月31日 (月)

佐伯祐三とブラマンク

   ブラマンクは「ヴァーミリオン(朱色)で官立美術学校を焼き尽くしたい」といったほど激しい改革者であった。パリに着いた佐伯祐三(1898-1928)がなぜブラマンクに会いたがったのか、その理由は明らかではない。ともかく、友人の里見勝蔵(1895-1981)に連れられて佐伯がブラマンクを訪ねたのは大正13年のことであった。そのときの様子を里見は次のように記している。

   「佐伯夫婦達が巴里へ来たのは私の巴里滞在三年目の冬だった。佐伯は最初の頃からブラマンクに会いたいと云っていたが、例え佐伯には有益であっても、ブラマンクをわずらわせるのを恐れて、少し我慢してもらった。やがて佐伯は非常に巧みに、野蛮な、美しい表現をした時、その最も優秀だと私達が思った勇敢な五十号の裸女を持ってオーエルのブラマンクの家を訪れた。実に驚くではないか。この強烈な佐伯の画に対しブラマンクは「アカデミック」と云って、アカデミックの抗撃を私達が彼の家を去るまで、一時間半もつづけた」

   このブラマンクとの会見後、佐伯は一時フォーブ風になったが、その後、自己の資質に目覚め、ユトリロの影響を受けてパリの街景を好んで描き、東洋的な感情のこもった独自の画風を確立した。昭和3年、31歳の若さでパリに客死した。(参考:「週刊朝日百科・世界の美術61・フォーヴィスム」1979)

2007年12月30日 (日)

競輪選手ブラマンク

  フォーブの画家たちの中でモーリス・ド・ブラマンク(1876-1958)は、「野獣」というニックネームが最もふさわしい激しい性格の画家であった。そして「実の父よりもヴァン・ゴッホを愛する」と語ったほど強い表現性を信条とし、あらゆる束縛や規律をきらい、絶対自由主義者を標榜していた。

   1876年4月4日、パリに生れた。1892年ころからパリ近郊のセーヌ河に面した小さな町シャトゥーに住む。1900年画家アンドレ・ドラン(1880-1954)と逢い、同居しながら制作した。初め競輪選手、バンドマン、俳優などをしながら絵を独学で勉強した。18歳で結婚。それでもブラマンクは30歳くらいまでは自転車競技に出場していた。「ブラマンク、1907年、パリ・ルーベ間を36位で走る」と古い記録にある。

2007年12月29日 (土)

ファム・ファタール

   「ファム・ファタール」とは、運命の女、宿命の女という意味。かかわった男を破滅させる、抗しがたく美しい女。

    女性美を崇拝した19世紀のラファエル前派の青年画家たちにとって、そのファム・ファタールの女性美の虜となって破滅することは、まさに宿命ともいうべきことであった。エリザベス・シッダルやジェーン・バーデンは背が高く、息をのむように魅力的で、理知的で神秘的な女性であったといわれる。

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)がジェーン・バーデンに初めて出会ったのはロンドンの劇場であった。当時、ロセッティはエリザベス・シッダルと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあった。だが、ジェーンはロセッティの弟子のウィリアム・モリス(1834-1896)と結婚し、ロセッティはエリザベスと結婚する。ロセッティの人妻ジェーンに対する思慕は止むことはなかった。結婚2年後には、美しきリジー(エリザベス)は、アヘンチキンの飲み過ぎで死んだ。

   モリスも妻ジェーンとは不仲であった。ロセッティとジェーンとの仲も続いた。モリスは友人のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-1893)の妻ジョージアナを愛するようになった。

    ロセッティはやがて麻薬とアルコールによって体が蝕まれていった。晩年は、病身で、気力も衰え、外出することもなくなった。1882年4月10日、53歳で亡くなった。

2007年12月21日 (金)

日本人とファン・ゴッホ

   ケペルは幼い頃から絵を描くのが好きで、学校へあがっても図画が得意科目で、高校半ば頃までは美大志望だった。石膏デッサンもやった。高校生のある日、国道沿いにある古本屋で一冊の古い本を見つけた。アトリエ社の「原色版ヴァン・ゴッホ」(昭和17年)である。古い戦前のゴッホの画集であったが、作品に対応する小山敬三、硲伊之介、足立源一郎の解説があった。ゴッホ初期の見たこともなかった絵が気に入り高価だったが購入した。もちろんその後カラー印刷も進歩し、その本よりいいものが出版され手もとにもあるが、なぜかアトリエ社の画集に愛着がある。発行部数は5000部程度で古書店でみたことがなかったので、貴重な本だと人に自慢したこともあるが、ネットで調べたら1200円程度で販売されていた。がっかりもしたが、むかし画家になることを夢みた頃の証の書物であり、大切にしたい。その巻頭に式場隆三郎(1898-1965)の跋がある。

    ヴァン・ゴッホの生涯ほど感動的なものはない。それはただ波瀾曲折にとむからではない。溢れる情熱のためばかりでもない。道徳的な誠実な魂に貫かれているからである。ゴッホの短い生涯は、単なる一画家の興味深い物語ではない。真摯な魂が背負う人間の悲劇的運命の表象だからである。彼を病気に追いこんだのは伝道的宿命が素地とはなったが、不健康な社会との闘争が大きな誘因となった。彼の自殺は退廃的な文明との訣別でもあった。ゴッホほど愛に飢えた作家はない。彼ほど誠実でごまかしのない仕事に精進した作家はない。しかもその背後には、いつも敬虔な宗教的な精神が強く動いていた。哀れなものや貧しいものへの愛が、彼の作物を純粋にした。しかし、一方彼は勇敢であった。この世の不正なものや汚辱と戦った。彼の生涯ほど真面目で、ごまかしのない、熱情的なものはない。この誠実性が、異色ある彼の芸術とともに人を打つのである。ゴッホを奇矯な画家とみるのは、最も浅い理解者である。彼の手紙をよんで泣かないものがあろうか。彼の作物が理解されるに先んじて書簡集がみとめられたのもこのために他ならぬ。

    ゴッホが明治末年から大正時代にかけて、日本の新しい文化的発展に与えた力は大きい。絵の好きなもの、好かないものなど区別なしに、ゴッホの生涯から受けた影響を否定できる人は少ないであろう。芥川龍之介はある日、本屋の店頭でゴッホの複製の入った本を開き豁然として芸術の門の開かれたのを感じたとかいている。(中略)私は欧州で彼の遺跡をしらべ、作品をみ、文献をあつめ、長年こつこつその生涯と作品の研究に従っている。この仕事は私の生きる限りはつづくであろう。私はいつもゴッホの偉大さに打たれる。そして自分の仕事を小さく、まだまだ先のことを感じる。このたびアトリエ社がゴッホ画集を刊行さるるについて、私にも一文を求められた。短い枚数では意をつくせないが、日本で一冊でも彼に関する本の刊行されることを希っている私にとって、欣びに堪えない気持だけでも伝えたいと思って筆をとった。ゴッホの霊に栄光あれ。式場隆三郎」

   白樺派の影響を受けた式場隆三郎に限らず、日本人には熱狂的なゴッホ崇拝者は多い。版画家の棟方志功(1903-1975)の言葉「わだばゴッホになる」はよく知られているとおりである。「ゴッホ展」を開催すれば必ず記録的な入場者数になる。劇団民芸「炎の人」は満員盛況である。ゴッホの作品はもとより、彼の生涯そのものが劇的である。またゴッホが浮世絵を通じて日本美術を愛したことも日本にゴッホのファンが多い原因の一つであろう。ところがこの過度のゴッホ熱のためか企業が豊富な資金にまかせて高額絵画を買うことに対する批判もないわけではない。そして日本人がとくに好きな「ゴッホのひまわり」の真贋論争は今も続いている。

    これまで日本人はあまりにゴッホという人間を愛するあまり、造形作家のゴッホではなく、「炎の人」としての創作されたゴッホ像を勝手につくりあげてきたきらいはないであろうか。いま隣の韓国のソウル市立美術館でも「不滅の画家ゴッホ展」が開かれ、大盛況だそうだ。そういえば韓国ドラマの「初恋」のテーマの一つである兄弟愛はゴッホとテオに似ている。弟のチャヌ(ペ・ヨンジュン)は「兄貴はゴッホになれ。自分はゴッホの弟のテオになって兄貴を支える」という台詞があった。そしてビジネスマンとして成功して日本から帰国した土産にゴッホの画集を兄のチャニョク(チェ・スジョン)に渡す。「また絵を描いてほしい」というと兄は感激で胸を熱くするというシーンがあった。

   これらをみると韓国人もやはりモーレツにゴッホという人間に感動しているようだ。ゴッホの「馬車と汽車がある風景」という絵を相当な高額で韓国が買ったというニュースもある。

    これからは、ドラマチックなゴッホの生涯を忘れて、ゴッホが絵画でどのように表現しようとしたか、作品から受ける美の感動、という美術本来の視点でゴッホの作品を鑑賞していきたい。

2007年12月17日 (月)

ゴッホの向日葵の謎

    フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の代表作といえば、南仏アルルで描いた「ひまわり」を、まず思い浮かべる人は多いだろう。よけいなものはすべて省略し、輝くような黄色を大胆に画面に広げて描いている。この独創的な「ひまわり」の連作は、彼がアルルで借りて通称「黄色い家」の部屋の装飾画として、一緒に暮らすことになったゴーガン(1848-1903)のために描きはじめたものだった。手紙のなかでゴッホは、ゴーガンを迎えるために「12枚のひまわりの絵で部屋を飾るつもり」であると、述べている。しかも「12本の花と蕾のあるもの」の予定であったらしい。おそらくこの「12」という数字は、キリストの12人の弟子たち、つまり十二使徒を表わしているのだ。しかし、連作を意図して実際に描かれた2枚目の「ひまわり」には、14本の花がえがかれている。新たに加わった2本のひまわりは、指導者として芸術共同体を導くべきゴーガンと画商テオと考えられている。12枚の「ひまわり」全作品リストは以下のとおり。

1.1886秋(F250)マンハイム市立美術館蔵

2.1887秋(F377)ゴッホ美術館蔵

3.1887秋(F376)ベルン美術館蔵

4.1887秋(F375)メトロポリタン美術館蔵

5.1887秋(F452)クレラー・ミュラー美術館蔵

6.1888年8月(F453)個人蔵

7.1888年8月(F459)芦屋、山本顧弥太氏旧蔵

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←芦屋のひまわり  

8.1888年8月(F454)ナショナル・ギャラリー蔵

9.1888年8月(F456)ノイエ・ピナコーク蔵

10.1889年1月(F455)フィラデルフィア美術館蔵

11.1889年1月(F456)ゴッホ美術館蔵

12.1889年1月(F457)東郷青児美術館蔵

   今年10月に刊行された小林英樹著『ゴッホの復活』によると、7番と12番のひまわりは贋作であるという。つまり既に焼失した「芦屋のひまわり」と1987年に安田火災海上が約58億円で購入した「東京のひまわり」は贋作と断定している。その鑑定が正当であるかどうかは、本書を精読していただきたい。(とくに第8章、非ゴッホの造形的証明)

   12枚のひまわりの作品の中で最も有名なのは、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵(8番)のものであろう。この絵でゴッホは、最も好んだ黄色を強烈に背景に使っている。「芦屋のひまわり」は、「ロイヤル・ブルーの背景の向日葵」と手紙にあるものと推定されるが、サイズや花の数が一致しない点も謎である。小林英樹はレプリカタイプの贋作と指摘している。

   「東京のひまわり」で小林はテーブル面に注目している。当時のゴッホの念頭には、徹底した平面処理を行うことによって広がりを生み出せるという信念があった。たしかに「ナショナルギャラリーのひまわり」をはじめ他の「ひまわり」のテーブルは平らに塗っているが、「東京のひまわり」だけは乱暴な厚塗りの水平方向のタッチである。平らなテーブルと花瓶、フォルムを構成するうえで重要な意味をもつものであり、「東京のひまわり」はゴッホのイメージからは遠い、という小林の指摘には納得させられる点がある。このほか造形の専門に関わった者でなければ、見えない問題点を本書では多数指摘している。

    ファン・ゴッホの作品には昔から真贋論争は多い。ひろしま美術館が所蔵している「ドービニーの庭」も同じ構図の絵がバーゼル美術館にあり、むかしから真贋論争は続いている。

2007年12月 7日 (金)

児島喜久雄と長尾よね

    「日本古代史の井上光貞(1917-1983)が学生の頃、美術・美術史家の児島喜久雄(1887-1950)からドイツ語の原書を読むことをすすめられたことが、後年、哲学的、世界史的な視野をもって日本史研究をすることに役立った」ことを車太郎さんのコメントで知った。

    井上光貞の父は井上三郎(1887-1959)で、桂太郎の三男。井上勝之助の養子となり、井上馨の長女・千代子と結婚。井上三郎と児島喜久雄とは同じ年だが、陸軍軍人と美術家との間に接点は見られない。児島の父・児島益謙は、和歌山出身の陸軍軍人である。むしろ児島益謙が桂太郎の部下としての関係から、幼少時から児島喜久雄と井上三郎の親交が生れたのかも知れない。

    学習院出身の児島は、白樺の同人であるから、当然志賀直哉、武者小路公共、細川護立らと親交があった。「生誕120年、児島喜久雄と白樺派の画家たち」展が清春白樺美術館で開催中という。

    ところで志賀直哉の「児島喜久雄の憶ひ出」にある「晩年の児島は近衛文麿につき、わかもとの長尾氏につき、何となく茶坊主的印象を他に与へ、非常に損をしたと私は思ふ」という箇所が気になる。

    長尾とは、栄養剤「わかもと」の創業者・長尾欽弥・よね夫妻のこと。長尾欽弥(ながおきんや)は明治25年7月3日、京都府下相楽郡湯船村射場に生まれる。戦後の「人事興信録第17版」(昭和28年)によると、ナガ製薬社長、長尾研究所、長尾美術館館長。妻の長尾米子(1890-1967)は明治22年8月26日、浅草馬道町で生れ、母志か、私生児であった。女傑で政財界に交友が広く、桜新町の長尾邸には多くの文化人が集まった。林房雄、久米正雄、小林勇、青山二郎、福田蘭童、梅原龍三郎、安井曽太郎、小林古径、安田靭彦、里見弴、志賀直哉、児島喜久雄など。近衛文麿が荻窪で自殺する前日まで、近衛は長尾邸に滞在し、よねから青酸カリをもらっている。鎌倉山にあった旧長尾欽弥旧別邸扇湖山荘には戦前国宝級、重文級の美術品があった。戦後、課税を免れるめ、財団法人「長尾美術館」を設立。児島喜久雄と長尾よねとの交友は蒐集した美術コレクションの鑑定で深い信頼関係ができたものであろう。よねの出生については謎が多く、人事興信録によれば、明治22年1月2日生れで、田中光顕(1843-1939)の長女とある。のちに認知したらしい。昭和42年2月8日死去。白洲正子は「女傑」(「小説新潮」昭和34年2月号)を書いている。

   志賀が言うように戦中戦後の混乱期で児島の仕事が正当に評価されない時代があったようだが、今ようやく彼の西洋美術移入の業績を見直してみたい。

2007年11月11日 (日)

マックス・ベックマン

   マックス・ベックマン(1884-1950)は、ドイツ表現主義を代表する画家。1903年、19歳のときにパリへ出て、マネの印象主義の影響を受けた。第一次大戦に衛生兵として参加したが、そこで目のあたりにした戦争による悲惨な体験が彼の芸術に大きな影響を与えた。とくに1918年の「夜」はその典型的な作品である。ドイツの敗戦による荒廃と戦後の混乱した世相は、オットー・ディックス(1891-1969)、ゲオルグ・グロッス(1893-1959)らのいわゆる新即物主義、あるいはルートヴィヒ・マイトナー(1884-1966)らの芸術に反映しており、ベックマンも新即物主義に通じるものをもっている。しかしその後「夢」「仮面舞踏会の前」「出発」に代表される作品は力強くモニュメンタルな様式へと変化していく。ナチスが政権をとると、「退廃的な芸術」としてレッテルを貼られたベックマンは、パリ、アムステルダムを経て、1947年にはアメリカへ渡った。初めセントルイスの大学で教鞭をとったが、1949年ニューヨークに行き、翌年ここで死去した。

2007年11月 9日 (金)

大正期新興美術運動

    東郷青児は大正8年、渡仏し、フランスやイタリアでダダや未来派の芸術運動にふれた。その後、東郷はむしろキュービズムの傾向に近づいた。未来派は明治末年から雑誌や画集を通じて紹介されていたが、神原泰や普門暁らによって作品として現れている。超現実主義の古賀春江も注目された画家であった。未来派やキュービズムの前衛傾向は大正11年の三科インデペンデント、あるいは同年のアクションやマヴォの集団に引き継がれていった。大正13年結成の三科会は未来派、表現派、ダダイズム、超現実主義などの急進的傾向の集団であった。このような近代日本における前衛的な一美術運動を近年「大正期新興美術運動」と称して、国内外で注目されている。アメリカでは有力な大学出版部から専門書が刊行されている。展覧会としては、デュッセルドルフ美術館における「日本のダダ」展(1983年)やパリのポンピドゥー・センターでの大規模な「前衛の日本」展(1986年)、また国内では東京都美術館における「一九二〇年代・日本の芸術」展(1988年)を筆頭に、神奈川県立近代美術館とシドニーのニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で開催された国際展「モボ・モガ」展(1989年)など、この20年間において相当数の展覧会が開かれている。大正期新興美術運動を担った作家たちには、浅野孟府、阿部貞夫、荒木留吉、有泉譲、井上富峰、大浦周蔵、大場清泉、岡田龍夫、岡本唐貴、尾形亀之助、荻島安二、尾竹竹坡、加藤正雄、河辺昌久、神原泰、木下秀一郎、古賀春江、後藤忠光、佐藤日梵、佐藤八郎、沢青鳥、重松岩吉、渋谷修、城山吐峰、住谷磐根、高木長葉、高見沢路直、田中一良、玉村善之助、東郷青児、戸田龍雄、中川紀元、仲田定之助、中原実、永田脩、永野芳光、萩原恭次郎、浜田増治、原弘、普門暁、牧寿雄、村雲毅一、村山知義、柳川槐人、柳瀬正夢、矢橋公麿、矢部友衛、山本行雄、横井弘三、横山潤之助、吉田謙吉、吉邨二郎、和達知男らがいる。

2007年11月 3日 (土)

モディリアーニの恋人

   1916年12月、アメディオ・モディリアーニ(1884-1920)32歳は、モンパルナスにあるアカデミー・コラロッシで絵を学んでいた画学生、18歳のジャンヌ・エビュテルヌ(1898-1920)と知り合う。ジャンヌの両親の反対を押し切って、1917年7月にグラン・ショミエール街に身を落ち着け、同棲を始める。1918年3月、彼らはコートダジュール、ニース、リヴィエラ、カーニュに移り住む。南仏の光はモディリアーニのパレットを明るくし、マティエールを薄くする。11月29日、ニースで娘のジャンヌが生まれる。1919年、モディリアーニはパリに戻り、グランド・ショミエール街8番地に住む。数ヵ月後、再び妊娠したジャンヌもパリに戻る。しかし、モディリアーニは酒と麻薬に溺れ、パリ慈善病院で1920年1月24日、結核性脳膜炎で死去。妻のジャンヌもその2日後の早朝、2人目の子供を身ごもったままアパートの6階から投身自殺。近年「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」などで、ジャンヌは知的で強い意志を持った女流画家であったことが評価されている。

2007年11月 2日 (金)

南天堂と大正アナキストたち

   松岡虎王麿は大正6年、本郷白山上に喫茶兼レストランの南天堂を開業した。関東大震災前まで思想家・芸術家のたまり場として知られていた。大杉栄(1885-1923)、近藤憲二(1895-1969)、和田久太郎(1893-1928)、辻潤(1884-1944)、宮嶋資夫(1887-1951)、秋山清(1905-1988)、岡本潤(1901-1978)、萩原恭次郎(1899-1938)、壺井繁治(1898-1975)、岡田龍夫(1904-没年不詳)、矢橋公麿(1902-1964)、小野十三郎(1903-1996)などアナキストやダダイストが頻繁に出入りしていた。

   そのほか南天堂に出入りしていた人々に、中西梧堂(1895-1984)、今東光(1898-1977)、村山知義(1901-1977)、橋爪健、高見順(1907-1965)、きだみのる(1895-1975)、菊田一夫(1908-1973)、池山薫子、友谷静枝、林芙美子、平林たい子などもいた。

2007年10月10日 (水)

シニャックとヨット

    ポール・シニャック(1863-1935)という新印象主義の画家は一生、海を愛し、ヨットを愛した。1884年、第1回アンデパンダン展でジョルジュ・ピエール・スーラ(1859-1891)と知り合う。4歳年長のスーラとの出会いはシニャックの芸術に決定的な影響を与えた。しかし、1891年3月29日、スーラの突然の死に深い打撃を受ける。何ヶ月間もまったく意気消沈した日々を過ごした。そこから彼を救ったのは地中海とその光であった。地中海に面したル・ラヴァンドゥの近くに住み始めたアンリ・クロスから「陽の光と豊かな線を愛するあなたはきっとここが気に入るだろう」という手紙をもらい、シニャックは、1892年4月、ヨットで大西洋からミディ運河を抜けて地中海に出、当時海からしか容易に近づけなかった、サン・トロペを発見する。当時はまだ鄙びた漁村であったサン・トロペに住み、以後20年にわたってここを基地としてマルセイユ、ヴェニス、コンスタンチノープルなどヨットで出かけて、地中海の港町を多数描いた。

    シニャックの偉大さは、スーラの科学的絵画理論を広めただけではない。スーラの死後、新印象主義の後継者となり、アンデパンダン協会の中心的存在として活躍する。20世紀初頭に現れたマテイス、マルケ、ピュイ、マンギャン、オトン・フリエス、ラウル・デュフィ、カモワン、ケース・ヴァン・ドンゲン、ルイ・ヴァルタ、ドラン、ヴラマンク、ジョルジュ・ブラックらの作品がほとんどこのサロンに出品された。フォーブ(野獣)の画家たちのほとんどは、シニャックを通じて新印象主義の影響を程度の差こそあれ受けているのである。

2007年9月 2日 (日)

ドガとニューオーリンズ

    アメリカ南部で一番大きく有名であるニューオーリンズは誰しもルイジアナの州都だと思うだろうが、実はニューオーリンズから百余マイル上流のバトンルージュである。ちなみにここの出身者で阪神タイガースで活躍している野球選手がアンディ・シーツである。(1971年生)

   ところで踊り子たちの愛らしい姿をデッサンしたことで知られるエドガー・ドガ(1834-1917)が、普仏戦争を逃れて母の実家のあるニューオーリンズに滞在していたことは、あまり知られていないように思う。

   ドガ(本名イレール・ジェルマン・エドガー・ド・ガス)の母セレスティーヌ・ミュッソンはニューオーリンズに植民したフランス人家庭の出身であった。1873年10月、ドガは綿花取引業をしていた叔父と弟ルネとアシルたちを訪ねてニューオーリンズを訪れた。そこには母セレスティーヌと家族が住んでいた。ドガはたちまち退屈してしまい、「人々は綿花のために生き、綿花によって生きている」とぼやいた。翌年まで滞在したドガは、ここで「ダンスのレッスン」(メトロポリタン美術館)「若い婦人の花瓶」(オルセー美術館)など家族の肖像を描いている。

   そのほか「エステル・ドガ夫人」(ニューオーリンズ美術館)、「ルネ・ド・ガス夫人の肖像」(ボストン美術館)がある。ドガのニューオーリンズ滞在中は、弟のルネに世話になった。この絵に描かれている女性は、弟ルネの夫人エステルである。彼女は、ドガの母を通じてドガ家とは縁続きにあたり、最初アメリカ人と結婚したが、南北戦争で夫を失ってから、ルネ・ド・ガスと結ばれた。彼女は当時すでに視力を失って、ほとんど盲目の状態であった。ドガは世話になった弟の家族への感謝と愛情を込めて描いた。しかしルネ夫妻は1878年離婚している。弟ルネはニューヨークで、レオンス・オリヴィエ夫人と再婚した。ドガはこのような弟の行為を非難し、兄弟は20年間交際を絶っている。ドガのやさしい人柄が現れた逸話である。

2007年8月30日 (木)

画人龍子と俳人茅舎

    川端龍子(1885-1966)。本名・川端昇太郎は、明治18年6月6日、和歌山市本町3丁目に川端信吉、せい(勢以)の長男として生まれた。生家は呉服商を営み、屋号を代々俵屋といった。しかし、川端家は家産が傾き、明治28年、上京し、浅草、日本橋に住む。信吉は弟・岡本武次の経営する日本橋病院に勤めることになった。

    川端茅舎(1900-1941)。本名・川端信一は、明治33年8月14日、父川端信吉と母ゆきとの間に生まれた。つまり川端龍子とは異母兄弟であった。母ゆきは、病院の看護婦で、父信吉が一時病院で働いていたとき親しい関係となった。その後、父は病院をやめ、日本橋蠣殻町で煙草屋を始めた。父は寿山堂という雅号で、俳句や日本画を嗜んだ通人であったが、家族は生活苦を強いられた。しかし、龍子、茅舎の芸術的資質は、この父の影響が大きいものと思われる。

   長男である龍子は、このような父を嫌いながらも、中学卒業後、画家への志をもち続け、新聞・雑誌の挿絵を描いていた。明治39年、林夏子と結婚し、神田錦町の煙草屋の二階に世帯を持つ。大正2年1月、周囲の反対を推して、渡米する。ボストン美術館で見た「平治物語絵詞」の美しさに心を打たれて、帰国後は日本画に転じた。大正5年、第3回院展に樗牛賞を受け、美術院同人に推され、大正6年「二荒山縁起」を発表、昭和3年、日本美術院を離れ、翌年、青龍社を創立して主催する。

    川端茅舎も初めは洋画家を志した、岸田劉生に師事。昭和4年まで京都東福寺内の正覚庵に寄宿し、半僧半俗的生活をしながら絵画の勉強を続けた。しかし胸部疾患のため絵画を断念、もっぱら俳句に励むようになった。大正11年高浜虚子の面識をえて、「ホトトギス」への投句一本になる。大正13年には「ホトトギス」の巻頭を占めるに至る。昭和5年以降は全く俳句に専念、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と賛嘆せしめ、自分でも「花鳥諷詠することもまた一個の大丈夫の道」というほど、花鳥諷詠に徹底した。「茅舎浄土」、あるいは比喩の名手、造語の名人として知られる。昭和3年ごろ、倉田艶子との失恋、以後10年間の闘病生活などで生涯独身だった。昭和16年7月17日、茅舎永眠。

   一枚の餅のごとくに雪残る

   金剛の露ひとつぶや石の上

  しんしんと雪降る空に鳶の笛

  ひらひらと月光降りぬ貝割菜

  生き馬の身を大根でうづめけり

  花杏受胎告知の翅音びび

  約束の寒の土筆を煮て下さい

   「約束の」の句は、病状が思わしくなく、なんとなく食欲がない。自分はいったい何が食べたいのだろうと自問したとき、以前約束しておいた「つくし」を思いだした。まだ冬で思うように手にはいらないかもしれない。しかし、そんなことはどうでもいい。とにかく「約束の寒のつくしを煮て下さい」と身の回りを世話してくれる姉の秋子に頼むのだった。

  兄龍子は戦後も壮大気宇な大作を数々発表し画壇の雄として名をはせた。昭和34年には文化勲章を受章、昭和38年6月6日、川端龍子記念館(東京都大田区)を設立した。3年後の昭和41年4月10日、老衰のため死去する。享年80歳。龍子は金力、権力にこびることを何よりも嫌って反骨心が強く、生涯在野精神に一貫した人だった。「画人生涯筆一管」という句にその精神がよく現れている。

2007年8月22日 (水)

長尾為景とゴッホ

    NHK大河ドラマ「風林火山」を楽しみに見ているが、いよいよドラマは川中島の戦いへとクライマックスに向かう。ところで過去にも大河ドラマでは「天と地と」「武田信玄」などがあったので、その配役の変遷を調べてみるのも興味深い。昭和44年の海音寺潮五郎原作の「天と地と」は石坂浩二(上杉謙信)、高橋幸治(武田信玄)であったが、滝沢修、宇野重吉、樫山文枝と民藝の看板スターが総出演している。とくに重厚、緻密な芸風で知られる「新劇の神様」滝沢修は、お茶の間のテレビではすこし近寄り難い印象があるが、意外に気さくな面もあったらしい。「天と地と」の配役は、上杉謙信の父・長尾為景の役であるが、これには次のようなエピソードがある。滝沢修は女優の新珠三千代のファンぶりは知られていた。これを知ったNHK側は、滝沢を担ぎ出すため、新珠三千代を妻の袈裟(のちの青岩院)とし、共演話をもってきたという。新珠さんのファンは、松本清張はじめ学者や文化人にも多いので、真実味のある話であろう。

   滝沢修(1906-2000)は、明治39年11月13日、東京に生まれた。大正13年に築地小劇場に入団し、翌年「ジュリアス・シーザー」で初舞台。左翼劇場をへて、昭和9年、新協劇団の結成に参加し、「夜明け前」の青山半蔵、「火山灰地」の雨宮聡などの名演技で名を知られたが、治安維持法違反により昭和15年8月から昭和16年12月に巣鴨拘置所に投獄された。戦後、久保栄、森雅之らと東京芸術劇場を結成。昭和22年、民衆芸術劇場(第一次民芸)を宇野重吉らと結成。昭和25年、滝沢修、清水将夫、宇野重吉らによって民芸が結成され、翌年、三好十郎作、岡倉士郎、村山知義演出で「炎の人」が初演された。ゴッホはもちろん滝沢修であるが、現在も大滝秀治で上演されている。初演の配役は、ゴーギャンを清水将夫、タンギーを宇野重吉、シーンを細川ちか子。昭和44年の再演は、テオを内藤武敏、ロートレックを山内明、ゴーギャンを清水将夫、アルルの踊子を有馬稲子。昭和51年の時は、ゴーギャンを芦田伸介、テオを伊藤孝雄、タンギーを内藤安彦、シーンを仙北谷和子。近年の大滝ゴッホでは、ゴーギャンを岩下浩、ロートレックを横島亘、ベルナールを千葉茂則、ポール・シニャックを矢野勇生、タンギーを水谷貞雄だった。先ごろ亡くなられた南風洋子さん(1930-2007)はベルト・モリゾの役だった。

   滝沢は10歳ころから鶴田吾郎(1890-1969)という有名な画家について油絵を習ったそうで、実際に油絵とカメラは相当な腕前である。戦前にステファン・ポラチェックの「焔と色」(牧野書店、昭和16年)という小説を式場隆三郎の訳で読んで感動した。これを劇化したいという思いはすでにその時から芽生えていた。ともかく滝沢・ゴッホは、その豊かな演技力によって、見る人に強烈な感動を与える歴史的名演技となった。

    因みに初演で宇野重吉が演じたタンギー爺さんというのは、ジュリアン・フランソワ・タンギー(1825-1894)のことで、パリのモンマルトルの画材兼画商。当時さっぱり売れなかったゴッホらの絵を買って画材の代金として、印象派の画家たちを支援していた。ゴッホの名画によって、人のよさそうな爺さんとして永遠に人々に愛され親しまれ続けている。

ポン・タヴァンのゴーギャン

    フランス西部ブルターニュにあるポン・タヴァンは、人口500人ほどの小さな村だったが、1886年にポール・ゴーギャン(1848-1903)が最初に訪れたころには、すでに画家たちにはよく知られた保養地となっていた。ゴーギャンはこの町で仕事に熱中するとともに、ボヘミアンのような生活を送ったが、ほかの芸術家たちは彼の強い性格を尊敬していた。ゴーギャンの周囲に集まった若い画家たち、エミール・ベルナール(1868-1941)、ポール・セリュジェ(1863-1927)、クーノ・アミエ(1868-1961)、アルマン・セガン(1869-1903)らは後にポン・タヴァン派と呼ばれ、20世紀美術を予告するような様々な絵画制作上の実験を行なった。

   1888年10月、ゴーギャンは2年ばかり前にパリで会ったことのあるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)からの招きで、南フランスのアルルで共同生活をすることになった。ゴーギャン40歳、ゴッホ35歳。最初の数週間の共同生活は順調だった。しかし、共同生活するには、2人の個性はあまりにも違いすぎた。見たものしか描けないゴッホに対して、ゴーギャンは想像力を駆使して表現した。また、画材の使い方や、お金のやりくりなどで、乱雑さが目立つゴッホは、神経質で几帳面なゴーギャンに、何度もその弱点を指摘されている。そして1888年12月23日、クリスマスをひかえた町を歩くゴーギャンを、突然かみそりを持ったゴッホが追いかけてきた。驚いたゴーギャンが、それでも厳しい視線でにらみつけると、ゴッホは何もできず、そのままうなだれて走り去る。翌日になって、ゴーギャンが家に戻ってみると、ゴッホは血まみれになってシーツにくるまっていた。この「耳切り事件」によって、ゴーギャンとゴッホの2ヵ月間の共同生活は終わった。パリに戻ったゴーギャンは、1891年4月1日、マルセイユから船出してタヒチに向かった。

テオとヨハンナ

   ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、サン・レミの精神病院で約1年間の入院生活の後、退院し、パリにいる弟テオドルス・ファン・ゴッホ(1857-1891)のもとに帰った。1890年5月20日、ゴッホは精神科医ポール・フェルディナン・ガシェ(1828-1909)のいるオーヴェル・シュル・オワーズへ列車で向かった。オーヴェルの豊かな自然と美しい風景はゴッホを慰めた。しかし、このときすでに悲劇の影は差し始めていた。

   1890年7月、ゴッホは久しぶりに弟テオとその妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(ボンガー、1862-1925)のいるパリに戻った。パリ滞在中は、ロートレックやアルベール・オリエに再会した。しかしある日、ゴッホとテオとの間で些細ないさかいが起こった。ゴッホが作品の保管の仕方を非難したのに対して、テオはいまの経済状態の苦しいことをこぼしたのだ。それは、テオにとっては口が滑ったくらいの小さな愚痴だったが、ゴッホの張りつめた糸を切ってしまうには十分すぎる言葉だった。

   1890年7月27日、ゴッホは拳銃で自殺を図った。2日後の29日、テオに見守れながら息をひきとる。「人間の苦しみは生きるているものだ」という言葉を残して。兄を尊敬しつづけ、理解者であろうと努めたテオもまた、兄の死からわずか半年で亡くなった。

   ゴッホは、わずか37年という短い生涯で、二種類の巨大な作品を生み出した。一つはデッサンと油絵からなる造形的な作品、もう一つは文学作品とよぶにふさわしい膨大に量の書簡である。テオの死後、652通にものぼった手紙の束を3巻の書簡集にまとめたのは、テオの妻ヨハンナだった。24年の歳月をかけてこの書簡集を刊行するまでの間、ヨハンナはテオの所蔵したゴッホの作品を世間に認めさせる活動に献身。その尽力は並大抵のものではなかった。手紙の整理は困難が多い仕事だ。しかし何よりも彼女は出版のタイミングを辛抱強く待った。愛情と知性をもった彼女の仕事は、息子フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(V.W.ファン・ゴッホ、1890-1978、技師)に引き継がれ、1931年からアムステルダム市立美術館で常設展示されることとなった。こうしてゴッホの評価は高まり、1960年にはゴッホ財団設立。1973年、国立ゴッホ美術館が開館され、作品はここに集められた。

2007年8月13日 (月)

ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドン

    エコール・ド・パリを代表する画家モーリス・ユトリロ(1883-1955)の母であるシュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)は女流画家として知られている。1883年12月26日、パリ、モンマルトルのポトー通りの一角で、男児を生んだ。彼女は18歳、父親はわからない。シュザンヌは1865年、フランスのリムーザンで洗濯女の私生児として生まれた。本名は、マリ・クレマンティーヌ・ヴァラドン。5歳のとき母とパリに出てモンマルトルで暮らした。はじめサーカスのアクロバットの美少女として人気があったが、ブランコから転落して足をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。15歳のとき、画家ビュヴィス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。画家は彼女にモデルになることをすすめた。娘はマリアという名でモンマルトル界隈の画家たちを相手にポーズをとった。ドガ、ロートレック、ルノワールの名があげられる。祖母のマドレーヌと三人でトゥールラック三番街に住んでいた。その隣に住んでいたのがロートレック(1864-1901)である。20歳のシュザンヌは2歳のモーリス・ユトリロを連れて、ロートレック(21歳)の愛人になる。そしてシュザンヌもいつとはなしに絵筆を持つようになっていた。ロートレックは気難し屋で皮肉屋の画家ドガ(1834-1917)に彼女のデッサンを見せた。抜群のデッサン力を持つこの老画家は、彼女のデッサンをしげしげと眺めて「この娘はぼくらの仲間だね」といった。

   シュザンヌは1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚する。その後、離婚し、ユトリロよりも若い凡庸な画家アンドレ・ユテルと再婚し、奇妙な三人暮らしが始まる。1935年、ユトリロは裕福な未亡人リュシー・ポーウェルと結婚し、ユトリロ夫婦と母は幸せな生活を送る。シュザンヌは、1938年、73歳で亡くなっている。

2007年8月 1日 (水)

ルソーとアポリネール

     一風変わった素朴画家として知られるアンリ・ルソー(1844-1910)は、1906年、ジャリの紹介で詩人のギョーム・アポリネールに出会った。ルソーはアポリネール(1880-1918)よりも36歳も年長だったが、アポリネールを尊敬し、特別なノートに、新聞から切り抜いた記事を貼り付けたり、また彼の愛人で画家のマリー・ローランサンと一緒にいるアポリネールの肖像画「詩人に霊感を授けるミューズ」を描いている。

    アポリネールもルソーにピカソやドローネーなどの多くの指導的な前衛芸術家たちを紹介し、ルソーの生前にもまた死後にも、ルソーをたたえた詩をいくつか残し、彼を敢然と擁護し、賞揚した。

   1910年9月2日、ルソーは生前は世間から認められることなく、パリの病院で亡くなった。翌年に友人たちはルソーの墓をつくった。墓碑銘には、次のようなアポリネールの詩が刻まれている。

 やさしいルソーよ 聞えますか

 私たちの挨拶が

 ドローネー夫妻とケヴァル氏と私

 私たちの持ち物は天国の門では無税で通してください

 あなたに筆と絵の具とカンバスを持ってきました

 永遠の真実の光で描いて

 あなたの神聖な余暇が過ごせるように

 かつてあなたが

 星を見ながら私を描いたように

2007年7月30日 (月)

ミケランジェロ「ダビデ」

   1501年、ミケランジェロは、「ダビデ」の制作のためにフィレンツェに戻ってきた。事務所の横に打ち捨てられていた大きな大理石の塊が彼に与えられた。40年ほど前に、別の彫刻家がそれで彫像をつくり始めたが、失敗して放置されたままになっていた、石の塊は丈高で幅がなく、かなりひび割れていた。それにもかかわらず、ミケランジェロはこうした障害を乗り越え、驚くほど解剖学的に正確な人物像を彫りあげた。

    1504年、「ダビデ」が完成してフィレンツェのシニョリア広場に設置しようとしたところ、市政長官ピエロ・ソデリーニがやって来て彫像の鼻が大きすぎると批評した。ミケランジェロは、足場にのぼってのみで鼻をなおしているようなふりをしながら、手に持つた大理石の粉を少しずつ落した。「これでどうでしょう?」「それでよくなった。生き生きとして来た」とソデリーニは答えた。(ヴァザーリ「美術家列伝」)

2007年6月23日 (土)

鳥海青児と美川きよ

   画家の鳥海青児(1902-1972)が小説家・美川きよと結婚したのは昭和14年1月15日である。美川きよは小島政二郎(1894-1994)の愛人としてよく知られていた。直木賞候補にもなり、戦前は多数の作品を残している。鳥海37歳、美川38歳。美川には小島との間に一人の男子がいる。昭和53年に刊行された美川きよ「夜のノートルダム」は暴露本であるかもしれない。しかし流石に流行作家であっただけに、鳥海との出会い、A(小島)との別れ、鳥海の求愛などステキな男女物語が小説風に描かれている。鳥海を夢中にさせた美川きよは魅力的な人だったのだろう。そして題名の「夜のノートルダム」がよい。昭和8年の作品であるが、渋い色調でぶ厚く塗られた重厚な質感は鳥海の特徴がよく現れている。美川が鳥海のアトリエで買った作品であるという。「夜のノートルダム」を読むと鳥海青児が画家として大きな仕事をしたのは夫人の支えがあったことが伺われる。

2007年2月25日 (日)

勝利の女神ニケ

  ルーブル美術館のダリュの階段踊り場には「サモトラケのニケ」といわれる翼を広げた女神像が展示されている。この有翼の勝利の女神像は前190年、ロードス島がセレウコス朝シリアのアンティオクス3世ギリシアへの戦勝を記念して、エーゲ海の北端のサモトラケ島の神殿近くに建てたという。最初の発掘は1863年フランスのシャルル・シャンポアソーがサモトラケ島のカビリ神殿の小室で数多くの断片で発見した。それから16年後、同地の近くでこの像が立っていた船首の部分が発見された。さらに1950年の同神殿址の再発掘の際、右掌と右薬指の断片が発見されたため、ウィーン美術館史博物館に保管されていた指の断片がこの像の一部であることが明らかとなった。女神は船の先端に立って勝利のトランペットを吹き鳴らしている。

    ニケはティターン神族の男神パラスと冥府の河の女神ステュクスとの間に生まれた4人の子(クラトス、ビア、ゼロス、ニケ)の1人。ニケは父や同族を捨てゼウス率いるオリュンポス陣営についた。ニケはアテナと親しく結びつき、アテナの随神と見なされるようになった。パルテノン神殿内の本尊アテナ・パルテノス像で、右手にニケの小像が載っていることはよく知られている。

   話は変わるが、映画「パリの恋人」(1957)でファションモデル役のオードリー・ヘプバーンが両手を広げて階段を降りるのも、「タイタニック」(1997)でケイト・ウィンスレットが船首で両手を広げるポーズも女神ニケを真似たものである。そして「冬のソナタ」(2002)でチェ・ジウが南怡島のデートで自転車に乗りながら両手を広げるシーンも「タイタニック」の影響があると思われる。

    実際の女神ニケの完全復元像を見たことはないが、一説によれば付根の状態から頭部は左にむけられ、右腕をあげ左腕をさげていた状態ではないかとする説が有力であり、おそらく勝利のラッパを吹奏していたのではないかといわれる。女優さんが真似たポーズとは大きく異なっているようだ。思うに、サモトラケのニケは完全な形体を止めていないがために、みる者をさまざまな夢想へと誘い、ロダンが言うように「美よりもさらに美しいもの。それは美の廃墟である」との思念が二つの大戦を経てヨーロッパ人に強く根をおろした。「自由」や「勝利」を想起させる女神ニケは、今日、オリンピックのメダルやスポーツブランド・ナイキの名の由来にもなって人気のある女神である。

2007年2月23日 (金)

ホッベマの並木道

    むかしは学校に美術商が複製画の販売によく来ていた。一枚でも子供の小遣いで買うにはかなり高かったのでもっぱら見るだけだったが、強く印象に残る絵画がある。泰西名画といわれる一種だが、雲の多い高い空の下、画面の中央を遠くにまでつづく田園の並木道。遠近法と左右対称のシンメトリーの構図のお手本として美術の教科書にもよく採りあげられることが多い絵だ。向かって左側には高い塔のような建物、右側には民家が描かれている。人物も絵の中には数人描かれていて、ロイスダールの絵のように暗い感じはしないが、やはり物悲しい詩情が漂う。それはロンドンナショナルギャラリーが所蔵する「ミッデルハルニスの並木道」(1689)というマインデルト・ホッベマ(1638-1709)の17世紀オランダ風景画の傑作である。

    ホッベマという画家について、あまり詳しいことは知らないが、ロイスダールの弟子だったが、1688年に結婚し、アムステルダムの葡萄酒および油の計量器検定官として働き、そのため一時画家は断念したかにみえたが、1689年に大胆な遠近法をとりいれた代表作「ミッデルハルニスの並木道」を完成させ、彼の名は美術史に永遠に刻まれたということである。

   ところで、オランダにはこのようなポプラ並木が実際にあるのだろうか。現在、小村ミッデルハニルスにはこの並木道はないし、また当時存在したという確証もないという。いずれにしてもなんらかの形で実際の風景に触発されたにしても、この作品はホッベマ自身の自由な構想の所産と考えるべきであろう。ホッベマの作品はそれほど多く残されていないが、バルビゾン派の先駆的存在としてもっと評価されてもいいように思う。

2007年2月22日 (木)

ケーテ・コルヴィッツ

   貧困にあえぐ農民や労働者、そして戦争に翻弄される民衆の苦しみを表現主義的な作風で描きだしたドイツの女流画家ケーテ・コルヴィッツ(1867-1945)。ドイツはもちろんのこと世界中でもその名は広く知られているが、なぜか日本ではケーテを知る人が少ないように思う。

    ケーテが、ベルリンの自由劇場に上演されたハウプトマンの「織工」を見たのは1893年2月のことであった。これは労働者階級のストライキを取り扱ったものであるが、ケーテは「織工」を見て深く刻まれた感動を6枚の連作版画「織工たちの蜂起」(1897)として描いた。その後もケーテは二つの大戦を経験し、ナチスへの抵抗を貫いて不条理な戦争や死に対する悲しみや憤りを力強い造形へと昇華させ、見る者の魂を揺さぶるような作品を生み出した。代表作品「死んだ子供を抱く母」(1903)「農民戦争・蜂起」(1906)「種を粉に挽いてはならない」(1941)

2007年2月11日 (日)

近代モード・ファッションと女優たち

   近代モードのファッションの基礎を形成したデザイナーといえば、オート・クチュールの創始者シャルル・フレデリック・ウォルト(1825-1895)、女性をコルセットから解放したポール・ポワレ(1879-1944)、そしてココ・シャネル(1883-1971 )である。

   イギリス人のウォルトだが、彼の権力はその時代の大臣もかなわないほどで、このエレガンスの使者は、フランス宮廷を征服してしまった。彼のサロンで日がな一日待って、やっと服をつくっていただくという高貴な女たちが、あとをたたなかった。そのころの舞台の名女優サラ・ベルナールでさえ、ウォルトに舞台衣装の一部をつくってほしいと頭を低くして頼んだものだが、ウォルトは冷たく断わったという。全部を彼自身の手でデザインするならまだしも、たとえサラ・ベルナールという大スターでさえがまんのできることではなかった。誇り高いサラも、二度とウォルトには頼もうとはしなかった。

   ポール・ポワレはウォルトの店で働いていたが、1903年、オペラ座近くに自分の店を持った。1906年に、ハイ・ウエストのドレス「ローラ・モンテス」を発表し、女性のウエストを締めつけていたコルセットを追放し、ファッション史上画期的な役割を果たした。女優サラ・ベルナールの衣装デザインを担当し、画家ラウル・デュフィは彼のために布地をデザインした。その後、衣装のデザインにとどまらず、色彩学、装飾一般まで教えたし、香水ロジーヌをつくり出し、一世を風靡した。またアメリカに渡った最初のオート・クチュールでもあった。1920年代になるとポール・ポワレのコルセット無しのドレスが流行したが、誇り高いポワレは、自分の作品がコピーされることを極力きらい、映画に自分の作品を出すことは考えもつかなかった。しかし、メアリー・ピックフォードやそのころ売り出したばかりのジョン・クロフォードのために、デザイン画を描いたという記録が残っている。

  それまでの映画は、会社おかかえのデザイナーが存在していて、スターのために衣装をつくった。グロリア・スワンソンはアイナ・モルガン、マレーネ・デートリッヒはトラヴィス・バントンだった。しかし、スターたちの中からも会社のお仕着せでは、あきたらないと思う女優が出てきた。グロリア・スワンソンは一年に一回はパリ、ロンドンに行って、自分の衣装を注文し始めるし、メエ・ウエストは、等身大のボディをつくらせて、イタリア出身のクチュリエのスキャパレリに注文した。こうした風潮の中で、メトロのゴールドウィン・メイヤーは、ココ・シャネルとの協力を考えた。シャネルは特別仕立ての白い列車に乗ってニューヨークからロサンゼルスに向かった。駅にはグレタ・ガルボをはじめ、数多くのスターが待ちかまえていた。ポワレとはちがって、シャネルは折りあえることには寛大だった。最初にシャネルの衣装を着たスターは、グロリア・スワンソンで、映画「今宵こそは」であった。戦後になって、クリスチャン・ディオールが登場すると、ピエール・カルダン、ユベル・ド・ジバンシー、ギ・ラロッシュ、イブ・サン・ローラン、ルイ・フェローらが続々現れた。スターもまた新しくなった。イングリッド・バーグマンは、ディオール、シャネル。ミッシェル・モルガンは、ピエール・バルマン。そして極めつけは、ジバンシーとオードリー・ヘップバーンのコンビであろう。彼女はスクリーンの上でも、オフ・スクリーンでもジバンシー一本槍で、彼女の不思議な魅力をより鮮明に打ち出すことに成功した。(参考:秦早穂子「スクリーン・モードと女優たち」)

追記:秦早穂子の引用するグロリア・スワンソン主演映画「今宵こそは」であるが、同名の映画がフィルモ・グラフィーには見当たらなかった。有名なドイツ映画「今宵こそは」(1931年)はアナトール・リトヴァク監督、主演ヤン・キープラ、マクダ・シュナイダー主演のセミ・ミュージカル・コメディとも言うべき作品で主題歌は日本でも戦前からよく知られているが、グロリア・スワンソンの作品ではない。グロリア・スワンソンの出演作品の中で近い題名は「今宵ひととき」(Tonight or Never)1931年作品、監督マービン・ルロイ、主演メルビン・ダグラスがあり、この映画の中でグロリア・スワンスンがシャネルの衣装で出演しているのではないかと推測する。

2007年2月 3日 (土)

ダゲレオタイプとカロタイプ

  フランス人のルイ・ダゲールが1839年に発明した銀板写真(ダゲレオタイプ)は、その後10年も経たない1847年にはパリだけでカメラの売り上げ台数が2000に達した。1849年には約10万人のパリっ子がポートレート写真を撮った。大衆の熱狂ぶりを見た批評家ボードレールは「スクラップ金属に写ったとるに足らぬ自分の姿を一目見んものと狂奔する男のナルシズム、なんとおぞましいわが社会」と嘆いた。1853年になるとアメリカにも1万人を超えるダゲレオタイプ写真家が誕生した。そのなかでもアメリカ北部出身の写真家、アルバート・S・サウスワースとジョシア・J・ハウズが芸術的にも技術的にも高度な水準であった。2人は1844年ボストンに合名会社サウスワース・アンド・ハウズ社を設立した。時の有名人、ヘンリー・ワーズワース、ロングフェロー、ハリエット・ストウ、元大統領ジョン・クインシー・アダムスなどが客として来た。作品「エマーソン学校」という写真は、ボストンのある女学校の陽の射しこむ教室で、授業を受けている少女たちを屋内写真に収めている。これほど人気を博したダゲレオタイプも10年後にはすたれてしまった。イギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが銅板のかわりに紙を用いて画像を恒久的に定着する技法を発明したのである。タルボットはのちにカロタイプの名で知られるようになった写真法を考案するにいたった。これは近代写真術の基礎ともなったネガ・ポジ法を採用していた。しかしそれも、やがてガラス板を使って原版をつくる方法が発明され、カロタイプもすたれてしまった。

2007年1月31日 (水)

クールベの客観表現

   ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は、フランスの片田舎フランシュ・コンテの富裕な農家に生まれた。1839年に、彼は画家になるために単身パリにでてきたが、学校には通わず、ルーブルで南仏バロック派の画家の作品にふれて、独学で修行した。生来田舎者で野人であった彼は、後期古典主義や、ロマン主義の非現実的な芸術に本能的な嫌悪感を抱いて、現実を客観的に把握することを目的として、リアリズムの手法を絵画に取り入れた。この彼の客観表現に徹する意識は、絵画の形体や、色彩の本質的な追求、絵画の純化にまで発展し、印象派や次代の画家に多大な影響を与えた。彼の絵画は、ロマン派や古典派の表現では表わせない自己主張の強さは社会活動にまで発展し、官憲と対立したり、政治運動にまきこまれたりして、彼の生涯は波瀾にとんだものだった。後年、共和派として活躍し、パリ・コミューンのヴァンドーム広場記念柱解体事件に連座して、スイスへ亡命し、かの地で客死した。

2007年1月 9日 (火)

黒田清輝と天真道場

    明治26年、黒田清輝(1866-1924)は、フランスから帰国した。外光派の画家ラファエル・コランに師事して、対象の形態を明確にとらえる古典的な描法と印象派風の色彩表現とを折衷する画風を学んだ。滞欧時の作品「読書」「厨房」、帰国直後の作品「舞妓」などに、すでに才能が開花しているのをうかがうことができる。明治27年、久米桂一郎と天真道場を開くと、そこに藤島武二、湯浅一郎、北蓮蔵、岡田三郎助、和田英作、小林万吾、中沢弘光などの俊英が集まった。天真道場の規則の中に、「当道場に於い絵画を学ぶ者は天真を主とす可き事」とあるが、ここにいう「天真」とは「拘束を排し自由を欲する近代の芸術家の意識のありよう」である。明治28年の「朝妝」事件も黒田清輝の先駆者としての自負をしめすものであろう。裸体画であるため囂々たる非難が集まったが、黒田は少しも動じなかった。

2006年12月18日 (月)

児島喜久雄の「意識的芸術活動」

    西洋美術史学の創始者である児島喜久雄(1887-1950)の「芸術」の定義は次のようなものである。

作家ー芸術家ーが、その意識的芸術活動によって、みずからの生活感情を、芸術的ー美的ーに表現したものである。

   児島は、ディルタイ(1833-1911)の「詩人の想像力」(1887)を読んで、劈頭の「意識的芸術的試作」という言葉にふれ、それから「意識的芸術活動」という言葉を造語して、芸術の定義づけに用いた。つまり、意識的な芸術活動の参加によって初めて、芸術とみなされるのであり、美意識の意識的な働きがまだ働かない段階は、芸術以前のものと解されるといのである。

    児島は芥川龍之介(1892-1927)、恒藤恭(法学者1888-1967)とも一高時代からの友人であった。初期の芥川には表現技巧の洗練こそが芸術の芸術性を保証するのだと考えて、やはり「意識的芸術活動」を標榜している。若い二人の間になんらかの芸術論が闘わされたのであろう。

   志賀直哉は「児島喜久雄の憶ひで」を次のように書いている。

   児島は子供から絵が上手で「明星」によくカット絵を出したりしている事は知っていた。中学の二三年で、藤島武二、長原止水などと肩を並べて新しい傾向のカットを描いている早熟さには驚いたものである。三宅克己に水彩画を習ひ、上野の白馬会にも出品していた。

    学習院、一高、東大哲学科を大正2年卒業。「白樺」同人として、美術批評を行なう。「白樺」創刊号の表紙は児島が描いたものである。東北大学、東大教授となり西洋美術史講座を担当する。大正10年から15年までヨーロッパ留学し、ボーデ、ヴェルフリン、ヴェントゥーリ、バノフスキーなど美術史家と接し、主として古代とルネサンス美術を研究した。著書として「美術館めぐり」「レオナルド研究」「古代彫刻の臍」「ショパンの肖像」「美術概論」「希臘の鋏」など。ちなみに岩波新書赤版の装丁は、昭和13年の創刊の折に児島が担当したものである。

反芸術の系譜

    20世紀に入ると、現代人は限りなく複雑化していく社会に対するひそかな不安がたえずつきまとうようになった。たとえば、イタリアの形而上派の画家ジォルジオ・デ・キリコは、静まりかえった広場、人気のない建物、長くのびた影などを主要モチーフとした白日夢のような町の風景を描いた。「街の神秘と憂鬱」(1914年)という作品には、どこか郷愁を誘う神秘的雰囲気と不気味な不安感がただよっている。それは、機械文明を讃美する未来派の騒々しい楽観主義の裏返しの世界といってよい。

   キリコが鋭敏に感じ取った不安は、第一次世界大戦という未曾有の災厄によって現実のものとなった。大戦の最中、中立国のスイス、チューリッヒには各国の芸術家が移り住み、ドイツの詩人、フーゴー・バルたちが経営するキャバレー・ヴォルテールを集いの場所としていた。不安定な社会状況をも反映して、彼らは芸術のみならずあらゆる領域の既成価値の否定を表明、辞書から「ダダ DaDa」(この語はたとえばフランス語では玩具の馬、クル族では聖牛の尻尾を意味するというが、元来、何ものをも意味していないために名づけられた)という単語を無差別に取り出し運動の名称とした。

   中心人物にルーマニアの詩人トリスタン・ツァラと画家のマルセル・ヤンコ、ドイツの詩人のリヒァルト・ヒューゼンべック、フランスの美術家ジャン・ハンス・アルプがいた。ツァラが「ダダ第一宣言」を書いたが、彼らの活動は各々の詩を同時に朗読したり、非道徳的パフォーマンスを行ったり、偶然による素描やコラージュを発表した。

   1917年、ニューヨークでは、マルセル・デュシャンとフランシス・ピカビアらが同様の活動をした。彼らは画家としては優れているとはいえなかったが、芸術家としての批評家的な慧眼から、芸術の網膜化・視覚化現象を批判し、精神に仕える芸術の誕生を唱えた。デュシャンは1916年、反芸術(Anti-Art)の名の下にみずからも委員であったアンデパンダン展にR・マットという匿名で逆さにした便器を「泉」と題し搬入したが、展示を拒否された。これがいわゆる「既成品のオブジェ」である。

   チューリッヒのダダイスト、ヒュールゼンべックは、1918年故国のドイツのベルリンに帰り、ダダを推進するが、このベルリン・ダダは政治的な色彩が濃い。ドイツのケルンでは、むしろシュールレアリストとして高名なマックス・エルンストらがダダ的な活動を行ない、これにアルプが加わるが、彼らはベルリン・ダダの政治性に反対していた。ドイツではまたハノーヴァーにダダが波及し、1919年、クルト・シュヴィッタースが「メルツ」という無意味な言葉を作り、コラージュや廃品の部屋を構築した。

   パリではアポリネールたちの「シック」(1916年)誌やアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴンたちの「リテラチュール」(1919年)のなかにダダ的精神が生じていたが、1919年、ツァラがパリに赴き、熱狂的に迎えられたときパリ・ダダが確立した。1920年ニューヨークから戻ったデュシャンは「モナ・リサ」の複製にカイゼル鬚をつけ、「L.H.O.O.Q.」(これを続けて読むと「彼女は尻が熱い<欲情している>」の意味になる)を発表、また詩人たちのダダ祭も催された。

    主として破壊的な方向をもったダダのなかから、いわば創造的な方向を目指して生まれたのがシュールレアリスムである。シュールレアリスム(その名はアポリネールの「ティレシアの乳房」の副題、シュールレアリスト劇にもとづく)は、ダダの芸術化として、ブルトンによって始められた。1924年、「シュールレアリスム第一宣言」がなされ、文学、美術にわたる前衛運動となったが、美術の上で中心となったのは、デュシャンの流れをくむグループ、とくにエルンストであった。さらにホアン・ミロ、イーヴ・タンギー、サルバドール・ダリなども加わる。また直接グループに参加しなかったがやはり典型的なシュールレアリスト、ポール・デルヴォー、ルネ・マグリットたちがいた。(参考:町田甲一「美術」武蔵野美術大学)

2006年12月17日 (日)

ゴシック建築

    ロマネスク様式に続き、12世紀中頃から15世紀にいたるまで、ヨーロッパを風靡した美術様式をゴシックという。ゴシックという言葉は、ヴァザーリ(1511-1574)により、「ゴート人による野蛮な建築様式」として軽蔑的に使用されたのが最初である。ゴシック美術の再評価がなされたのは19世紀、ロマン派の芸術家たちによってであった。彼らは中世ゴシック美術のなかに、幻想性と崇高な美を見出したのである。

  12世紀半ばになると、王領イル=ド=フランスを中心とする各司教座都市で大聖堂の建立事業が始まった。修道院院長シュジェールは、信仰を導く手段としての光の重要性を説き、神の館をできるだけ豪華に飾りたてることで神の栄光を讃えようとした。1144年に献堂された内陣には、尖頭アーチを用いた肋骨交差穹窿が、ステンド・グラスを嵌め込んだ大窓とともに組織的に活用されており、これはゴシック建築の最も古い作例のひとつに数えられている。

   サン=ドニで打ち出された新しい建築意匠は、ときを移さず、サンス、サンリス、ラン、パリなど、周辺の都市の教会堂建築へ伝播した。イギリスでも、大陸のこうした動きと並行して、カンタベリー大聖堂の再建事業がフランス人工匠長の指揮のもとに行なわれた。

   12世紀末になると、聖母へ捧げられた本格的なゴシック聖堂が各地に建設される。ブールジュ、シャルトル、ランス、アミヤン、ボーヴェなどのフランス各地の大聖堂、イギリスのソールズベリー大聖堂、マールブルクのザンクト・エリーザべト聖堂やケルンのザンクト・ペーター大聖堂などを挙げることができる。

   しかし、14世紀に入ると、教会の大分裂、黒死病の大流行、英仏百年戦争の荒廃によって、封建社会が揺らぎ出し、大聖堂造営のような大規模事業はほとんど見られなくなった。(参考:高階秀爾「西洋美術史」美術出版社)

2006年10月14日 (土)

奈良六大寺散策

    法隆寺、薬師寺、興福寺、東大寺、唐招提寺、西大寺を奈良六大寺と称する。これとは別に歴史的にみると、むかし諸国から集った学問僧が仏教の哲理を考究する学問寺を南都七大寺、法隆寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、東大寺、西大寺と称した。

    奈良の寺は、堂の前面を開け放って、堂の屋外正面からこれを礼拝した。人間は堂の内部に立ち入ることはしなかった。奈良の寺が、たとえ堂内に入ることがあっても靴を脱ぐ必要がないのはそのような古い様式を残しているからである。京都に見られる中世以降の寺には、畳敷きの礼拝用の大広間の作られているものがある。以下、奈良六大寺の創建のみ記す。

法隆寺 7世紀はじめに聖徳太子の父用明天皇の勅願で、推古天皇の協力を得て聖徳太子が創建したとされる。日本書紀に天智9年(670)に全焼したとある。昭和14年の発掘調査で、今の若草伽藍が前身とされる。

薬師寺 天武天皇が680年に、皇后の病気平癒を祈って創建した寺を、都が藤原京から平城京へ遷された際に、現在地へ移建したものといわれるが、寺籍と由緒を引き継いだだけという説が有力である。

興福寺 平城京建設とともに藤原不比等はいち早くここに自分たちの寺を移した。多くの荘園を所有して南都七大寺の一つに数えられた。法相宗大本山。

東大寺 聖武天皇の天平13年、諸国に国分寺建立の詔が発せられ、大和の国分寺兼総国分寺として造営された。華厳宗大本山。

唐招提寺 8世紀半ばに来日した中国の僧鑑真が、新田部親王の旧宅の地に建立した。天平宝字3年(759)のことで、当初は唐律招提といった。のちに官位の寺となって唐招提寺となった。律宗総本山である。

西大寺 天平神護元年(765)、称徳天皇の勅願寺として建立された南都七大寺の一つ。その後、戦国時代に焼失したが、宝暦2年(1752)に本堂が再建された。真言律宗総本山である。

2006年10月13日 (金)

共同便所のイリュージョン・関根正二

    関根正ニ(1899-1919)。大原美術館所蔵の「信仰の悲しみ」という絵は、関根自身が次のように語っている。「日比谷公園を歩いていたとき、突如、共同便所の中から、様々な光に燦爛として現れ出た行列の女たちの幻想を描いたものだ」そのパステル下絵を見ると、妊んだような女が五人、手に赤い実か花のようなものを持ち、やや喜々として関根の方を見ているようでもあり、どこか「天使の慰め」のようである。関根は初め、この下絵を「楽しき国土」という題にしていたとのことであるが、この下絵の性質は関根の幻想の性質をよく語っている。これ以後の関根の作品はすべて「天使の慰め」であり、関根の幻視のなかで、女性=天使がいつも関根を慰め(「信仰の悲しみ」下絵「慰められつつ悩む」)、関根のために祈り(「神の祈り」)、関根を誘惑するように見守っている(「三星」)。グリューネヴァルト的な暗鬱な背景をもち、黄色の女を先頭にして進んでいるが、中央の朱(関根のバーミリオン)の女が基調となっている。関根のデッサンは硬質な力強さをもち、顔、眼の表情にアクセントか置かれ、関根の幻想に限りない真実を付与している。当時友人だった今東光によると中央の女性は、関根が好きだった女性の田口真咲に似ているという。

    関根正二は、現実と自己の絵画のなかの世界との分裂の意識に苦悶し、極限の錯乱を経て、永遠の幻視の作品を描き残した、近代日本美術史の唯一の異色の画家であった。大正8年6月16日、スペイン風邪をこじらせた肺炎がもとで衰弱し、20歳の若さで夭折した。

2006年9月 8日 (金)

「スバル」と「白樺」の美術紹介

    明治43年前後は、ヨーロッパの新美術志向を学んで、相次いで帰国した一群の画家・彫刻家たちによってもたらされ、さらに詩歌雑誌「スバル」や、文芸雑誌「白樺」の活発なヨーロッパ美術紹介により、一層拍車をかけられたものである。まず、帰国作家を列挙しておくと、明治41年に斎藤与里、荻原守衛、明治42年には高村光太郎、津田青楓、明治43年には有島壬生馬、藤島武二、山下新太郎、南薫造、大正元年には石井柏亭、児島虎次郎、斎藤豊作、大正2年には梅原良三郎(龍三郎)、満谷国四郎、太田喜二郎、大正3年には安井曽太郎が帰国している。

    新時代の旗手のひとりである高村光太郎は、明治43年3月の「スバル」に「緑色の太陽」を発表した。これは、後期印象派に代表される、当時の新しい美術思想を高らかに宣言したものである。文芸同人雑誌「白樺」も、美術紹介に大きな比重を置いた。明治43年には有島「画家ポール・セザンヌ」、「ロダン特別号」、明治44年児島喜久雄訳「ヴィンツェント・ヴァン・ゴオホの手紙」、柳宗悦「ルノアールと其一派」、明治45年柳「革命の画家」、武者小路実篤「後期印象派について」、小泉鉄弥訳「ノア・ノア」(ゴーガン)、斎藤与里「ポール・ゴーガンの芸術」、有島「セザンヌを懐ふ」、「ゴッホ特別号」、大正2年高村訳「画論(アンリ・マチス)」、柳訳「アンリ・マチスと後印象派」、有島訳「回想のセザンヌ」(エミール・ベルナール)。そして作品図版もロダン、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マティス、ムンクが多く掲載されている。前期「白樺」の美術紹介が、後期印象派に主力を注いだことは明らかといえよう。

2006年8月30日 (水)

アルジャントゥーユのモネ

   1871年、ロンドンからオランダを経由して、ふたたびフランスに戻ってきたモネ一家は、アルジャントゥーユに家を借りて落ち着いた。パリから数㎞のセーヌ河畔のこの地での生活は、モネの生涯で実りの多い時期でもあった。

   印象派画家たちが最も結束を固めたのもこのころであり、1874年には第1回印象派展が開催された。モネの出品「印象、日の出」(1872年)を、見る者を驚かせあきれさせる絵の「印象」にひっかけて、新聞記事のタイトルには「印象主義者たちの展覧会」とつけられた。新聞記者ルイ・ルロアは「なんという気ままさ、なんという無造作!」と風刺のきつい『シャリバリ』紙上で酷評し、愚弄の意味の込めた「印象主義」という呼び名をつけたが、以後もモネたちに呼ばれるようになり「印象主義」の誕生となった。印象派展は1886年までさらに7回が開催された。モネは合計8回のうち5回に出品している。しかし、この展覧会は商業的には失敗であった。

   1880年代に入り、40歳になったモネはアリスや子どもたちとともに、ディエップ、プールヴィル、ヴァランジュヴィルといったノルマンディーの海岸地域を転々とするが、1883年に、やっとパリから60㎞離れたエプト河畔のジベルニーに腰をすえた。このころまでに、初期印象派グループはほぼ解散状態となっていたが、モネは印象派の理念である「自然の追求」をなおも試み続けていた。(参考:『モネ 週刊グレート・アーティスト3』同朋舎)

クロード・モネの青年時代

   クロード・オスカール・モネ(1840-1926)は、印象派画家のうちで最もひたむきで、純粋な実践者であった。モネは1840年11月14日、食料品商で元船乗りのアドルフ・モネの長男としてパリに生まれた。1845年、一家はノルマンディーの港町、ル・アーブルに移り、父親は食料品店と船具商の経営を継ぎ、家計は潤っていた。セーヌ河口のこの港町で、クロードは、幸せな子ども時代、そして青年期を過ごした。

   アマチュア画家であった叔母のソフィー・ルカードルがクロード少年の絵画の才能を喚起したようだ。ル・アーブル市の学校へ通うようになったモネは、よく教科書者やノートに戯画を落書きしていた。15歳になるころには、彼の絵は町の評判になり、売れるまでになった。

   モネの絵は地元の額縁屋に展示され、これが彼の人生を決定するきっかけとなった。同じように、オンフール出身の風景画家、ウジェーヌ・ブータンもこの店に絵を展示しており、ここで二人は知り合った。ブータンは年若いモネに風景画を描くことを勧め、ともに制作に励んだ。当時、風景画は室内で制作されるのが一般的だったが、海や浜辺の風景画を得意としていたブータンは、「じかにその場で描かれたものこそ、アトリエで描かれたものにはない力強さと躍動感がある」と主張して、外光のもとで描くのを好んだ。

   最初、モネはブータンの作品を「気に染まない」と感じていたが、やがて彼の考え方を理解し、共鳴するようになった。そして1858年の夏、17歳にしてモネは、「突然、目の前のベールが引きはがされ、絵画がどうあるべきかを悟った。独自の姿勢を貫いて自分自身の芸術に専念しているこの画家のただ1枚の絵によって、画家としての私の運命が開かれた」と述懐している。

   1859年、モネはブータンや叔母の推薦状を手にパリに出た。アトリエ・シュイスでは、のちに印象派の中心人物となるカミーユ・ピサロと知り合いになり、また、ギュスターヴ・クールベ、エドゥワール・マネら前衛芸術家のたまり場だった。モンマルトルのブラッスリー・デ・マルティルでしばしば芸術談義にふけったりした。(参考:『モネ 週刊グレート・アーティスト3』同朋舎)

2006年8月27日 (日)

アルフレッド・シスレー夫妻の愛

    印象派の画家たちの中で、つねに運動の中心的位置にいたにもかかわらずアルフレッド・シスレー(11839-1899)の生涯については、判然としないところが多い。控えめな性格と、隠遁生活のために、彼の私生活も画家としての生涯も、埋め尽くせない空白の部分が多く残されてしまう。ほとんど風景しか描かなかったため、妻や子どもや友人の肖像画すら一枚もないのである。

   アルフレッド・シスレーの祖父トマス・シスレーは、イギリス人で、フランスの贅沢品をロンドンに輸入する貿易商として成功し、フランス女性と結婚した。息子のウィリアム・シスレー(1799-1879)は、1830年代、パリの自社倉庫を管理するためにフランスに移り住み、その後パリで独自の事業を営むようになった。1839年10月30日、4番目の子としてアルフレッド・シスレーが生まれたのも、ここパリであった。

   シスレーの幼少期や青年期についてはほとんど何も分かっていない。一家は繁栄し、家庭も愛情に満ちていたようである。父親は、画家になるという息子の選択に当初は反対したものの、後には経済的に彼を支援し、その画家仲間たちを自宅に歓待するようになった。1860年代初めには、モネ、ルノワール、バジールなどの多くの若い画家たちが彼のアトリエに集まった。ルノワールが描いたシスレーの肖像画からは、シスレーは身だしなみの整った気さくな人物のように見受けられる。しかし同時に、彼のきまじめな一面、すなわち絵画に対する彼の思い入れの深まりと、その作品や人生を特徴づけるようになる内向性や慎み深さもほのめかしている。

   1860年代半ば、彼は画家のモデルをしていたウジェニー・レクーゼク(1834-98)という女性と関係を持つようになる。ウジェニーは1867年にシスレーの息子ピエールを、1869年には娘ジャンヌ・アデルを生んだ。シスレーはこの密通がもとで、すでに妻を亡くしていた父ウィリアムと仲たがいしたらしく、父は彼への援助を中止してしまったようだ。シスレーが60年代の終わり頃、しきりに金銭苦を訴えていたのはこれが一因だと思われる。

   ウジェニーという女性については、いまだによく分かっていない。ルノワールは彼女のことを「とても繊細な性格で、極めて育ちのよい」人であったと回想している。彼女の写真は全く残っておらず、シスレーの作品の中で、風景に混じってぼんやりと描かれているだけである。手紙の中でも彼は、ウジェニーに関して遠回しに触れているに過ぎない。彼女について恐らく最も直接言及したのは、全く目の見えない時期、ずっと自分を辛抱強く支えてくれた彼女に手向けたシスレーの弔辞であろう。「私が落ち込んでいるとき、私の良き勇敢な友がいつもこう言ってくれました。『私たちは最後まで闘い抜かなければならないのよ』と」。

   1870年、普仏戦争が起こった。戦争は、シスレーにさんざんな結果をもたらした。父親の事業が破綻して一家は貧困の中に投げ出された。プロイセン軍がパリを包囲すると、彼はブージヴァルの家からルヴェシェンヌに近い小村ヴォワザンに移った。この地で生活した間、シスレーの才能は急速に成熟に向かっていった。

   シスレーの晩年、1897年の夏、シスレーはイギリスのコーンウォールとウェールズを訪れる。そしてカーディフの登記所でウジェニーとの婚姻届を提出した。だがシスレー夫妻の結婚期間はほんの1年余りであった。1898年、シスレー夫人は舌がんにかかり、苦しみながら死んでいった。翌年1月、その後を追うようにシスレーもがんで亡くなった。シスレー夫婦の墓は同じモレ・シュル・ロワンの墓地に埋葬された。その生涯の大半を貧困のうちに送ったが、シスレーの死後まもなく、批評家たちの賞賛と絵画の高騰で、今日誰もが印象派の巨匠の一人として認めるようになった。(『シスレー 週刊アートギャラリー92』デアゴスティー二・ジャパン)

2006年8月 7日 (月)

ルノワールと印象派の仲間たち

    ピェール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919)は、1841年2月25日、中部フランスのリモージュで5人兄弟の第4子として生まれた。父のレオナールは仕立屋、母のマルグリットはお針子だった。ルノワールが4歳のときに一家はパリに移ったので、彼は首都で育つことになる。13歳のとき、ルノワールは小さな陶磁器工場の絵付け見習いとなった。工場に勤めていた時代、昼休みにルーヴル美術館にたびたび通っていた。彼の好んだ絵は、ヴァトーやブーシェやフラゴナールの描いた宮廷生活の目も綾な18世紀名画であり、劇的で鮮やかな色彩に富んだドラクロワの油絵だった。

   1862年、21歳のルノワールは、パリで有名な私立画塾シャルル・グレールのアトリエ学生となった。画塾の性格は伝統を重んじ保守的だったが、おかげでルーヴルに行って昔の巨匠たちに学ぶ時間がたっぷりでき、それが彼に良い影響を与えた。だが、グレールはまた戸外でスケッチすることの大切さも強調し、ルノワールにフォンテンブローの森へ行くように強くすすめた。

   学生仲間であったクロード・モネ、アルフレッド・シスレーやフレデリック・バジールらを通じてルノワールはエドガー・ドガやエドゥワール・マネをはじめ、多くの作家や批評家を知った。彼らはしだいに友情で固く結ばれ、定期的にパリのカフェで会っては自分たちの方法論を語り合ったのが印象主義という考え方であった。さらにピサロ、セザンヌ、ギョーマンらとも交わり、のちの印象派運動に向かう若い革新画家の一団に仲間入りした。こうして初期にはコロー、ドラクロア、クールベからの影響を受けた。ところが、1870年に普仏戦争が起こり、ルノワールも従軍し、仲間たちとの交遊も突然の休止を余儀なくされた。

ゴッホの青年時代

   フィンセント・ウイレム・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、1853年3月30日、オランダのベルギー国境近くのブラバント地方の小村、フロート・ツンデルトで生まれた。父テオドリウス・ファン・ゴッホは村の牧師、母コルネリアは優しく、芸術に理解のある女性だった。ゴッホには兄がいたが数週間で死んだため、ゴッホが長子となった。両親は幼くして逝った子供をひどくいたみ、その子の面影を常にゴッホに影響したことは否めない。彼は頑固で気むずかしい少年で、ひとりで野原を散歩しては時を過ごし、弟のテオや3人の妹たちと遊ぶこともほとんどなかった。

    ゴッホは母親にすすめられ、10代の初めごろからスケッチや水彩画をぴんぱんに描いたようだ。ゴッホにはハーグで手広く事業をやっているセントという伯父がいた。この伯父の経営する画廊は、パリの有名な画商グーピル商会と合併していた。ゴッホは16歳で学校を卒業すると、伯父の紹介でこのグーピル商会ハーグ支店に就職し、美術館通いに熱中する。数年後、ロンドン支店、さらにパリ支店へ移った。その間に恋愛に失敗したり、宗教書に熱中したりして次第に職務にふさわしくない行動が多くなり、1876年に解雇された。その後はロンドン近くの寄宿学校の語学教師、ドルトレヒトの書店員などになったが、いずれも長つづきせず、一方、宗教への情熱はいよいよ高まって、1877年(24歳)アムステルダムへ出て牧師になる勉強をはじめた。そして翌年、ブリッセルの短期牧師養成所を終わると、みずから志願して貧しいベルギーの炭鉱ボリナージュにおもむいた。ここでの彼は熱烈な信仰心から、すべてを犠牲にして伝道に従事したが、結局は失敗し、それとともに宗教的情熱も薄れて、一年に近い放浪生活のなかから、1880年になってようやく画家としての道を選んだ。そして、ブリッッセル、ハーグ、アンベルスの各地で勉強をつづけたが、彼の描くものは絶えず労働者や農民など、現実の下層の人たちの姿であり、その周辺の生活、風景であった。しかもその間、貧困と病苦につきまとわれ、また二度、三度恋愛に失敗した。1883年9月、疲れ果ててドレスデンへ逃れ、同年12月にはヌエネンの両親のもとに移り、孤独に耐えつつ絵画に専念する。彼の初期の傑作といわれる「馬鈴薯をたべる人たち」(1885)は、こうした時期の作品である。

2006年8月 5日 (土)

竹久夢二が描く女たち

    竹久夢二(1884-1934)は岡山県邑久郡本庄村119に、父菊蔵、母也須能(やすの)の次男として生まれる。名は茂次郎(もじろう)。家業は造り酒屋だったが、家産が傾き、16歳のとき、神戸で米屋を営む叔父竹久才五郎に身を寄せ、神戸中学校(のちの神戸一中、現在は神戸高校)に入学するが、8ヵ月で中退。18歳の夏に家出して上京、第一銀行重役土岐に見出され、書生として住み込む。早稲田実業学校に入学するが中退。牛乳や新聞の配達をしながら白馬会の研究所に通い、荒畑寒村のすすめで社会主義雑誌「直言」(平民社)に風刺画をのせ、21歳のときコマ絵が『中学世界』などに当選したのを機に画業に専念することになった。

    明治39年頃、夢二は早稲田鶴巻町にある小さな絵葉書店「つるや」を訪ねた。彼はそこで眼の大きな女性と出会う。金沢生まれの未亡人で、5日前にこの店を開いたばかりの岸多万喜(たまき)であった。翌年、二人は結婚するが、二歳年上の気の強いたまきとの生活はいさかいが絶えなかった。二人の結婚はわずか二年で破綻するが、夢二は彼女をモデルにして制作に励み、のちに目がつぶらで、胸うすく、だが手足の大きな夢二式美人が誕生し、これにセンチメンタルで素朴な詩文が加えられ「眼が大きく哀しく美しい女性」のスタイルは、明治末から大正初期にかけて、一世を風靡した。たまきとの関係も籍の上では他人になったものの、幾年にわたって同居と別居をくり返す。長男光之助(明治41年生)ののち、不二彦(明治44年生)、草一(大正5年生)が誕生しており、たまき以後は夢二に子どもはできなかった。

    第二の女性、笠井彦乃は本郷菊坂女子美術学校に通う20歳の画学生で、紙問屋・笠井宗重の長女である。二人の出会いは、大正3年に夢二が日本橋呉服町に「港屋」を開店し、可愛らしいものを売る店と人気を呼び、また、文人趣味の集うサロンでもあった。彦乃はその店の近くに住むことから、彦乃が夢二のファンであり、夢二から絵を習いたいと訪問したことから交際が始まる。二人はやがて結ばれ、親の反対を押し切り、大正6年には二人は京都に住む。8月から10月まで、石川県粟津温泉、金沢市、湯涌温泉を旅行する。しかし、彦乃は大正9年1月19日、死去。享年25歳。

    たまき去り、彦乃逝く。しかし、モデルなくては生きていけない身の上である。大正10年8月、お葉(夢二が名付ける。本名は佐々木カ子ヨ)と世帯をもつ。お葉は藤島武二などのモデルをつとめた後に、夢二のモデルとなり、その後、同棲。一児をもうけるが、大正14年5月、山田順子が現われ、お葉は自殺を図り、半年後に去っていった。

    山田順子は、当時の女流作家で長編『流るるままに』がある。夢二との関係は、その郷里秋田県本庄荘にともに行ったりしたが、ふた月後の7月には別れてしまった。順子はその後徳田秋声と同棲をはじめたという自由奔放な近代女性だった。

    夢二は、昭和9年1月、結核により友人正木不如丘の経営する信州富士見高原療養所に入院。9月1日、死去。享年50歳。、