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2020年3月26日 (木)

後鳥羽天皇と新古今和歌集

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伊賀の局 伊藤小坡  昭和5年

 

  歴代天皇のうち、第82代後鳥羽天皇ほど多芸多才な天皇は見当たらない。歌道、書画、管弦、蹴鞠などの宮廷に伝統の技芸は玄人はだしであったし、刀剣の鍛錬も行った。天皇みずからの鍛刀は「菊一文字」と称して現在も幾振りか伝えられている。なかでも秀でているのは歌道だった。元久2年(1205)3月26日、「新古今和歌集」が完成した。1978首、20巻。撰者は源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経。

  ところで後鳥羽院の愛妃に伊賀の局がいた。もとは白拍子で亀菊という。上皇は寵愛のあまり摂津国長江・倉橋の二荘を賜った。鎌倉幕府はこの荘園に地頭を補任したが、地頭の横暴が激しいという理由で、上皇はその地頭の罷免を幕府に命じた。しかし執権・北条義時は聞き入れず拒否したため、この事件が一因となって承久の変が起こった。上皇は承久の変に敗れて、1221年7月13日、隠岐に配流され同島で没した。いわば伊賀局も傾国の美女といえなくもない。

    伊藤小坡(1877-1968)は、三重県宇治山田(現・伊勢市)の猿田彦神社の宮司の長女として生まれた。明治31年京都に来て、谷口香嶠に師事。大正4年第9回文展で「制作の前」で三等賞となり、以後文展、帝展に出品、大正8年日本自由画壇の結成に参加したが、翌年には竹内栖鳳のすすめで脱退し再び官展に帰った。上村松園につぐ閨秀作家といわれる。昭和43年に90歳で没した。

2020年2月23日 (日)

富士山と日本人

 本日は天皇誕生日であるが「富士山の日」でもある。富士山と天皇とはいかにも日本的である。天皇陛下60歳の還暦の祝と日曜日が重なっているが、新型コロナウイルス流行のため盛大な集会が行われないのは残念である。富士山は古くから日本人のあこがれや信仰の対象として親しまれてた美しい山である。ある照明装置の会社が富士山のライトアップを計画したところ、反対の意見が多数寄せられた。霊峰富士山はすべての日本人がそこに回帰する心のふるさと、信仰の対象なのである。また外国人からみてもフジヤマは日本の象徴なのだ。戦時中、富士山をペンキで赤く染める作戦がたてられていたそうだ。ダウンフォール作戦という。富士山の姿をかえることで、日本人の戦意を失わせようと考えたから。ところが、とんでもないペンキの量と、ペンキを運ぶ飛行機が必要とわかり、作戦は中止となった。

  これまで、数多くの文人・画家・武人から一般の庶民にいたるまで、あらゆる階層の人びとが富士を語り、作品に表現している。だがなぜ日本人は富士山を三峰に描くのだろうか。実際にはほとんど三峰には見えない。藤原成一は「三峰に富士山が描かれた場合は、これは普通の絵ではなく、聖なる絵、聖画といっていい」と言う(NHK「美の壺」276)。鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立された。室町時代に描かれた「富士曼荼羅図」は現存する最初の三峰型富士である。仏の三尊様式にのっとって、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来の姿が象徴されている。(参考:天野紀代子・澤登寛聡編「富士山と日本人の心性」)  Operation Downfall、2月23日

 

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2019年11月24日 (日)

カナの婚礼

 ナポレオン時代、ルーヴル美術館の収蔵品は、イタリア遠征、エジプト遠征で、膨大な数にふくれあがった。ルーヴルで一番大きな絵画「カナの婚礼」も、ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョレー修道院の食堂に飾られていたが、ナポレオンによって1798年フランスに運ばれた。縦666㎝、横990㎝の最大の絵画の作者パオロ・カリアーリ、通称ヴェロネーゼは15世紀末、ヴェネツィア派の画家で、多くの祭壇画、壁画を制作したが、演劇的な空間の大画面の「饗宴図」で知られる。「カナの婚礼」(1562年)は婚礼に招かれたキリストが、瓶のなかの水をワインに変えたという最初の奇跡を主題に描かれたもの。

2019年11月11日 (月)

パリの美術館・博物館

  パリには大小あわせて100以上の美術館・博物館がある。日本では美術館・博物館という区別が明示されるが、フランスではすべてミュージアム(ミュゼ)である。だから、フランスの展示施設を日本語に直すときには、収蔵品の性格にしたがって、ルーヴル美術館とか自然史博物館とか、選択がなされている。ルーヴル美術館は古代から19世紀にわたり、ルーヴルの続き、つまり19世紀の終わりから20世紀に関する芸術は、オルセー美術館と国立現代美術館が紹介している。パリにはルーヴル、オルセー、ポンピドーセンターといった有名美術館のほか、オランジュリー美術館、ギメ美術館、ピカソ美術館、パリ市立近代美術館、国立近代美術館、パリ工芸博物館、プティ・パレ美術館、マルモッタン美術館、カリナヴァレ美術館、市立近代美術館、モンパルナス美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ジャックマール・アンドレ美術館、バカラ・ギャラリー・ミュージアム、コニャック・ジェイ美術館、ルイ・ヴィトン財団美術館、カルティエ現代美術館、クリュニー中世美術館、ダリ美術館、ドラクロワ美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ロマン派美術館、ロダン美術館、ブールデル美術館、マイヨール美術館、パリ市立ガリエラ・モード美術館、建築・文化博物館、国立自然歴史博物館。欧州写真博物館。チェルヌスキ美術館(パリ市立アジア芸術美術館)がある。このほかモンマルトルにはゴッホの像で知られるザッキン美術館や素朴派の画家たちの作品を集めたパリ市立アル・サン・ピエール素朴派美術館がある。

 

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  ジャックマール・アンドレ美術館

 

  そしてモンソー通り沿いに建つニッシム・ド・カモンド美術館。19世紀末のユダヤ人豪商モイズ・ド・カモンド伯爵(1860-1935)の邸宅を改装して一般公開している。ゴブラン織りのタピストリー、棚にはセーブルの食器セット、壁にはヴェネツィア派の絵画、図書室、と当時のパリの香気が漂う。(Paris,Nissim de Camondo)

 

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祖父アブラハム・ソロモン・カモンド(左)、ニッシム・ド・カモンド(右) 1868年

 

  セーヌ川沿いにあるケ・ブランリ美術館は原始美術のコレクター、ジャック・ケルシャン(1942-2001)が収集したアフリカ・アジア・オセアニア・南北アメリカの民俗芸術品を展示している

 

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 ケ・ブランリ美術館

 

  欧州初公開された「風神雷神図屏風」。チェルヌスキ美術館はパリ8区、モンソー公園沿いのヴェラスケス通り7番地にある。

 

 

2019年11月 8日 (金)

ルーヴル美術館

    パリはいうまでもなく世界で最も美しい観光都市であり、主要な名所旧蹟を訪れるだけでも数日間は要する。ルーヴル界隈の美術館、博物館だけでも大小100近くある。なかでもルーヴル美術館は世界中から年間800万人の来館者が訪れる。美術品が40万点以上収蔵しており、3万5000点が展示されている。宮殿の美術品を公開したのは1763年11月8日のことで、ルーヴル美術館のはじまりである。

    建物は3翼に分かれており展示は、リシュリー翼、ドノン翼、シュリー翼からなっている。フィリップ2世(在位1180-1223)が1200年ころにパリ右岸の町を防備するために要塞を築いたのがはじまりで、14世紀にシャルル5世、16世紀にフランソワ1世(在位1515-1547)が改修して王の居城に改め、次いでアンリ2世(在位1547-1559)が改造拡張し、その後も大規模な工事が続けられた。宮殿ルーヴルが美術館に生まれ変わったのは1793年8月10日。この時、王家の美術品は市民のものとなった。ほぼ現在の形になったのは、19世紀ナポレオン3世の時代である。このようにルーヴル美術館は開館以来220年の歴史を刻んできた。

 

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「鉛筆をけずる若いデッサン画家」シャルダン 1737年

 

( keyword;Musee du Louvre )

2019年10月28日 (月)

トレドとエル・グレコ

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 トレドはスペイン・カスティーリャ・ラマンチャ州にある。マドリードから南に71㎞の距離で、町の三方をタホ川で囲まれている。起源は例にもれず常に論争の元であり、時の流れという暗闇の中に見失われています。考古学では先史時代の遺跡も出土されているが、トレドに関しての最初の文献資料はローマ時代のものであり、要塞化された町であったと述べられています。紀元前190年にローマ衛士マルコ・フルビオ・ノビリオルの率いる軍隊によって征服が行われた。後日、ローマの歴史家ティト・リビオは彼の書物の中で、ローマの領地になってからは「トレトゥム」と呼ばれたとある。やがて5世紀にはゲルマン系の蛮族にイベリア半島は征服されてしまい、トレドも西ゴート王国の支配下に入った。レオビヒルド王はトレドをその王国の首都とし、トレドはそこに最初の輝かしい時代を迎えた。しかし712年にウマイヤ朝の指揮官ターリク・文・ジャードによって征服され、その町をトライトラと名付けられた。しかしアラビア人による占領も373年間にしか及びませんでした。カスティーリャ王国の国王配下アルフォンソ6世の指揮下にキリスト教徒の軍隊が1085年5月28日にトレド侵入に成功したからです。16世紀に、皇帝カルロス5世はトレドを広大な帝国の中心地、首都としたのです。だが1561年フェリペ2世がトレドからマドリードに宮廷を移すと、トレドはゆるやかに衰退を始める。その頃、この町にギリシャ出身の若き画家エル・グレコがやってくる。彼はヴェネツィア・ローマに学んだのち、強烈な色彩・自由な構図を特徴とする多くの肖像画・宗教画をトレドに残している。

    クレタ島に生まれたドメニコス・テオトコプーロス(1541-1614)が、いつスペインにやって来たのかわかっていない。1577年の春にはトレドで暮している。36歳のときである。生涯の大半をトレドで過ごしたが、ギリシア人であることに固執した。人は彼を「エル・グレコ」(スペイン語でギリシア人を意味する)と呼んだ。彼が描いたトレドの風景は、今日の景観と比べてみてもあまり違いがないといわれる。エル・グレコはトレドで何度も住まいを変えたが、最も長く暮したのはビリェーナ侯爵邸の主翼に隣接する多数の部屋で、そこは豪華をきわめた。彼の死後、屋敷は荒れ果てたものの、のちにもとの場所に再建され、現在はエル・グレコ美術館となっている。

2018年12月 8日 (土)

ロマネスク美術「枠組みの法則」

Photo 11世紀から12世紀にかけて西欧でみられたキリスト教美術をロマネスクとよぶ。聖堂の柱や梁、壁には数々の彫刻が施されているが、身体が不自然にデフォルメされたり、変に曲がっていることがある。フランスの美術史家アンリ・フォション(1881-1943)は、この奇怪な造形の秘密を「枠の法則」というルールで説明している。つまり聖堂の浮彫などは建築の構造に支配されているので、必然的にデフォルメされることがある。画像の浮彫りはシャルトル大聖堂の枠組みの法則の実例。 Henri Focillon

2018年10月15日 (月)

ラ・ボエーム

 ジャコモ・プッチーニの作曲した4幕オペラ。19世紀のパリ、カルチェラタンには貧しい芸術家の若者が暮らしていた。とくに物語は詩人ロドルフォとお針子ミミの悲恋を中心に描く。オペラ原作はアンリ・ミュルジェールの小説「ボヘミアン生活の情景」(1851年)からとられた。初演は1896年2月1日、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮によりトリノ・レージョ劇場で行われた。初演はまずまずの成功をおさめ、批評家の不評はあったものの各地での再演の度に聴衆からの人気は次第に高まっていった。

2018年9月 1日 (土)

上方の浮世絵

歌麿、写楽、北斎、広重。有名な浮世絵の多くは江戸で描かれ出版されたもので、浮世絵といえば江戸というイメージがあるが、じつは京都や大坂など上方にも浮世絵はあって、大勢の浮世絵師が活躍していたのだ。今ではその名前はほとんど知られていないが、初期の流光斎如圭や松好斎半兵衛、西川祐信、幕末の柳斎重春、長谷川貞信、一養亭芳滝といった名匠がいいた。

江戸の浮世絵は美人画、役者絵、相撲絵、風景画など題材が豊富であるが、上方の浮世絵の九割近くが役者絵である。役者絵を楽しむには、描かれている芝居や役柄、役者など、その背景についての知識が必要になってくる。その特色ゆえに上方浮世絵は、後に浮世絵を鑑賞する人々に受け入れられることなく、忘れ去られて行ったと考えられる。

2018年8月 2日 (木)

伊闕仏龕碑

   唐の書道家、猪遂良45歳の時の楷書である。貞観15年(641)伊闕とは洛陽の南方にある龍門のことで、そこの石窟の賓陽洞の南の外壁の刻された摩崖碑を「伊闕仏龕之碑(いけつぶつがんのひ)」と呼ばれる。碑文の内容は太宗の第四子の魏王泰が生母の長孫皇后の追善のために、新たに石窟を造営したことを記したものである。

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