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2017年11月18日 (土)

モナリザの本当のモデルは誰か!?

Leonardoepareu  パリのルーヴル美術館には30万点以上の名品が所蔵されているが、なかでもレオナルド・ダ・ヴィンチの名画「モナ・リザ」ほど有名な絵画は他にない。謎の微笑をたたえる美女のモデルは誰なのか、永遠の謎の一つであった。ルネサンスの美術史家ジョルジョ・ヴァザーリは著作で、「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドのため、彼の妻モンナ・リザの肖像画を引き受けた」と記している。1503年頃のことと思われる。近年、そのモナリザのモデルと考えられる女性の遺体を発掘して顔面を復元しようというプロジェクトがイタリアで進められている。「モナ」は婦人、「リザ」はエリザベッタの愛称であることから、フィレンツェの豪商フランチェスコ・ジョコンドの2人目の妻エリザベッタ・デル・ジョコンド(本名は長い。リザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーノ、あるいはリザ・ゲラルディーニ、1479-1542)とする説が有力である。彼女の遺体はフィレンチェの聖ウルスラ女子修道院にある古い建物に保存されている。調査チームがジョコンド夫人の頭蓋骨の断片を発見し、別の場所に埋葬されていたジョコンド夫人の親族とDNAの照合を行うことになった。しかし親族の遺体が多湿で保存状態が悪く現在の技術ではDNA抽出は不可能であるとわかった 。

   モナリザの謎はほかにも幾つかある。レオナルドの注文主がフランチェスコ・デル・ジョコンドだったとしたら、いったいなぜ画家は注文主に肖像画を引き渡さなかったのか。また何年も手元に置き、晩年のフランス行にまで持参したのか?フランス国立公文書館にはモナリザが売却された領収書が残っている。フランソワ1世が2604ルーブルという莫大な金額で買い上げた。売主はサライという名のレオナルドの弟子である。つまり生前贈与として弟子のためにモナリザを売り渡したのである。モデルをめぐる謎はいまだ未解決である。

   NHKドキュメンタリー「4人のモナ・リザ」。最新研究によると、1503年にフィレンツェでモナ・リザを書き上げたのち、ジュリアーノ ・デ・メディチから3歳の息子のために母親像の依頼をうけたとある。ジュリアーノはウルビーノの宮廷で恋をして庶子イッポ一リト(後の枢機卿)生まれたが母パチフィカ・ブランジーニは死んだ。母を恋しがる幼子のために、レオナルドは理想の母親像をとして、正面向きに修正しなおして、リザの肖像画の上に新しく描いたと推測している。これが今日われわれが見るモナ・リザである。レオナルドの母カテリーナを想いうかべたのかもしれない。

2017年11月17日 (金)

モナ・リザの瞳

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    レオナルド・ダ・ヴィンチは1503年3月、ローマから故郷に近いフィレンチェに戻り、フィレンツェ政庁の会議室のための壁画(戦闘図)に着手した。(「アンギアーリの戦い」)現在、この壁画で残っているのは彼の素描とルーベンスによる模写だけである。ダ・ヴィンチの向かい側には、ライバルであるミケランジェロが「カッシーナの戦い」を描いていた。

    この時期はダ・ヴィンチの創作意欲の盛んな時期であった。彼の作品のうちで最も有名なあの「モナ・リザ」の制作にとりかかったのは、1503年10月ころからである。「モナ・リザ」という題は、ジョルジョ・ヴァザーリが「美術家列伝」で記している。モナは婦人、リザとはエリザベッタの愛称で、ヴァザーリはこの女性がフィレンツェの豪商フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻としている。この説をもとに、後世の美術史家は、モナ・リザのモデルは、フランチェスコ・ディ・ザノビ・デル・ジョコンドの3番目の妻であるエリザベッタ・デル・ジョコンドであると考えられていた。本名リザ・ゲラルディーニ(正式名はリザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーノという長い名前である)は1479年10月16日に生まれ、ナポリの上流階級の出身であった。1495年にジョコンダと結婚した。モナ・リザがリザ・ゲラルディーニだとすれば、当時24歳ということになる。ダ・ヴィンチの肖像画の女性はもっと年齢が高く見える。そこで古来からモデルの女性は別人ではないかという説もあった。ナポリ公妃コンスタンツァ・ダヴァロス、イザベラ・タラゴーナ、イザベラ・デステ、はてはダ・ヴィンチの自画像説まで登場した。

    2008年1月14日、ドイツのハイデルベルク大学図書館はモナ・リザのモデルがフィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザであることを裏付ける証拠を見つけたと発表した。証拠は、1477年に印刷された所蔵図書の欄外にフィレンツェの役人による書き込みがあり「ダ・ヴィンチは今、リザ・デル・ジョコンドの肖像を描いている」と記述されていた。今回の発見はモナ・リザのモデルを特定する有力な証拠になったことは間違いない。

   ところが最近、モナ・リザの瞳に書き込まれた文字が、モデルの正体を示しているという新説がでてきた。文字は小さくて肉眼で確認することはできないが、超高解像度の写真を分析することでわかった。モナ・リザの右目には「LV」と書き込まれていて、ダ・ヴィンチのイニシャルが、左目には「B」または「S」、あるいは「CE」とイニシャルらしい文字が見られる。これがモデルの正体を示すものと考えられるが、リザ・デ・ジョコンドであるとする説には否定的であるという。

 近年の新発見によると、現在われわれが見るモナ・リザは若いジョコンダ夫人の像の上にに新たに描きたされたものたどする説が浮上している。ジュリアーノ・デ・メディチが庶子イッポリートのために母親の肖像をレオナルドに依頼した。パチフィカ・ブラダーニはイッポリートを生むとすぐに死んだためモデルではない。つまり現在の喪服を着て正面向きになった夫人像はレオナルドの理想の母親像といえる。モナ・リザの瞳に見える「C」というイニシャルは、母の名前カテリーナを意味しているのかもしれない。

2017年11月 3日 (金)

ゴッホは日本の夢をみた

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グラスに差した花咲く巴旦杏の枝 1888

    アーモンドは地中海から黒海にかけて自生している。日本では巴旦杏(はたんきょう)という名前で知られている。春に白い花が咲く。ゴッホの作品には、白いアーモンドの花を描いたものが数点残っている。下の「花咲く巴旦杏の枝」の絵は、弟テオの赤ん坊へのお祝いとして描かれたといわれている。ちなみに、かつてハーグで絵の手ほどきを受けたアントン・マウヴェの知らせもこの時に受けた。「誕生」と「死」の知らせ。その両方に対して、ゴッホの優しさが表現されている。

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 花咲く巴旦杏の枝  1890

 

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花咲く巴旦杏の木  1888

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ハタンキョウ

 NHKの特別番組「ゴッホは日本の夢を見た」癒し系の女優・吉岡里帆がパリのオルセー美術館やロダン美術館、南仏アルルなどを10日間旅して、ゴッホの作品や人生にふれる。また帰国後、上野の東京都美術館「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」の内覧展にも足をはこぶ。「花咲くアーモンドの枝」を見る里帆ちゃん、アートが好きなんだ。日本美術がゴッホに与えた影響や、ゴッホのやさしい人柄を自分の言葉で語っていたのが印象的だった。水着の里帆ちゃんもいいけど、秋服の里帆も最高だね‼

2017年10月25日 (水)

ピカソはなぜいつも横縞シャツを着ているのか?

P_picasso2   画家パブロ・ルイス・イ・ピカソは1881年10月25日スペイン南部の港町マラガに生れた(プラサ・デ・ラ・メルセド36番地)。父ドン・ホセ・ルイス・ブラスコはマラガ州立サン・テルモ工芸学校の図画教師、母マリア・ピカソ・ロペスはアンダルシア出身。したがってパブロ・ルイス・ピカソがスペインの通常の呼び名であるが、父の姓ルイスはアンダルシアではよくある姓なので、1901年以降は署名から削って「パブロ・ピカソ」(Pablo Picasso)としている。ネットでもピカソの本名が長いことが話題になっている。マラガ市役所にある出生届には「 Pablo Diego  Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Cipriano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso 」(パブロ、ディエゴ、ホセ、フランシスコ、デ、パクラ、ファン、ネポムセーノ、マリア、デ、ロス、レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ、ラ、サンティシマ、トリニダード、ルイス、イ、ピカソ)と書かれている。スペインでは名前の長さは家柄が古くて由緒正しいものであることを示している。また名前は長いほど幸福がやどると信じられてきた。パブロは一人息子で、美しい顔立ちのうえに早熟な才能に恵まれていたので、小さいころから愛情に慣れっこになり、これは生涯彼につきまとった。ピカソの写真を見ると多くは横縞のシャツを着ている。これは彼が港町マラガの生まれで生来、海が好きだからなのだろう。ピカソのポーターは「バスク」柄といわれるもの。バスク地方の漁師が仕事着として着ていたもので、バスク州ゲルニカがナチスに空爆されたことを忘れないという決意があるのであろう。(4月8日)

2017年10月 1日 (日)

裸のモナ・リザはダヴィンチの真作か!?

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  世界で最も有名な絵画は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」(ラ・ジョコンダ)であろう。.このルーブル美術館の至宝「モナ・リザ」には、ほかに、もう1枚の「モナ・リザ」が存在していたといわれる。ダ・ヴィンチは、肖像画を描くときはいつでも2枚以上の版を作る習慣があったためだ。だが、いま世界には60点以上も「モナ・リザ」といわれる絵画が存在するが、本物と断定できるものはない。その中でも「ヌードのモナ・リザ」は珍品中の珍品であろう。なんと上半身裸である。この絵画はイギリスのノーサンプトンシャーのスペンサー卿(あのダイアナ妃の実家)が所有している。「美女ガブリエル」といわれ、おそらくダ・ヴィンチ派の画家の作であろう。

仏シャンティイ・コンデ美術館所蔵の木炭画「モナバンナ(Monna Vanna)」。この度ルーブル美術館が調査したところ、ダヴィンチ自身の手で描かれた可能性が高いという結果が発表された。

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大きさはモナ・リザとほぼ同じで、両手や胴が一致する。裸婦の周囲には小さな穴があることから、カンバスに裸婦を転写した可能性もある。

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2017年7月30日 (日)

パリの美術館

  パリには大小あわせて100以上の美術館・博物館がある。ルーヴル、オルセー、ポンピドーセンターといった有名美術館のほか、オランジュリー美術館、ギメ美術館、ピカソ美術館、パリ市立近代美術館、国立近代美術館、パリ工芸博物館、プティ・パレ美術館、マルモッタン美術館、カリナヴァレ美術館、市立近代美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ジャックマール・アンドレ美術館、バカラ・ギャラリー・ミュージアム、コニャック・ジェイ美術館、ルイ・ヴィトン財団美術館、カルティエ現代美術館、クリュニー中世美術館、ダリ美術館、ドラクロワ美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ロマン派美術館、ロダン美術館、ブールデル美術館、ザッキン美術館、マイヨール美術館、パリ市立ガリエラ・モード美術館、建築・文化博物館、国立自然歴史博物館。欧州写真博物館。チェルヌスキ美術館(パリ市立アジア芸術美術館)。このほかモンマルトルにはゴッホの像で知られるザッキン美術館がある。

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  ジャックマール・アンドレ美術館

  そしてモンソー通り沿いに建つニッシム・ド・カモンド美術館。19世紀末のユダヤ人豪商モイズ・ド・カモンド伯爵(1860-1935)の邸宅を改装して一般公開している。ゴブラン織りのタピストリー、棚にはセーブルの食器セット、壁にはヴェネツィア派の絵画、図書室、と当時のパリの香気が漂う。(Paris,Nissim de Camondo)

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祖父アブラハム・ソロモン・カモンド(左)、ニッシム・ド・カモンド(右) 1868年

  セーヌ川沿いにあるケ・ブランリ美術館は原始美術のコレクター、ジャック・ケルシャン(1942-2001)が収集したアフリカ・アジア・オセアニア・南北アメリカの民俗芸術品を展示している

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 ケ・ブランリ美術館

2017年4月 8日 (土)

ミロのヴィーナスの両腕

397305055810999  本日は「ヴィーナスの日」。1820年のこの日、エーゲ海のメロス島の農夫がヴィーナス像を発見した。ルーヴル美術館の至宝ミロのヴィーナスは理想のプロポーションといわれる。上半身と下半身の比率が1対1.618で、人間が最も美しいと感じる黄金比だそうである。両腕がないことも全身が露わになって魅力を増している。失われた両腕は本来どのようなしぐさをしていたのだろうか。右手は衣のすそを抑えるように下にたれて、左手は筋肉の隆起から見て、前にだし肩よりは少し上でリンゴを持っていたと考えられる。(keyword;Venus de Milo,Golden Ratio、4月8日 )

2017年3月19日 (日)

古代人と文様

6921538336347ee6b144fed4b3f9783e   日本の先史時代や古代には多数の素晴らしい土器や青銅器が作られていた。そして今日、われわれはこれらの作品を美術館や博物館で鑑賞できる。しかしながら、これらの作品は本来、美術品として作られたものではない。容器や煮沸用として日常生活で使用されるものであったり、または銅鐸のように、広い意味で宗教目的のために作られたものである。

   古代の器物をみると、たいがい文様がほどこされている。文様はあってもなくても、用具としてはつかえるので、なぜ器物に装飾をするのであろうか。中国の青銅器や日本の縄文土器のように、文様の上に文様を重ねて、いわば文様過多の状態をみせているものも多くみられる。人間はひとたび文様を知ると、文様のない空白に不安や恐怖を覚えるといわれる。これを空白の恐怖(horror vacui)という。空白を嫌う人間の心理は、器物に文様をつけるという激しい表現意欲へと発展していく。近年の考古学研究の成果によると、縄文文化は中国の長江文明(良渚文化)の影響を受けているといわれる(安田喜憲の説)。

   古代の文様をタイプによって分類すると、幾何学的なものと、様式化または便化されたものと、動植物や人体にモティーフを求めた自然主義的なものとが見いだされる。この三つのタイプのいずれが、文様の最初の起源であるかということは、にわかに断定できない。縄文中期の土器「顔面把手付深鉢」(山梨県須玉町津金御所前遺跡)にみえる、土器本体に描かれた文様は、今まさに子供が生まれ出る瞬間を表現した人体のような文様と人面文様が描かれている。

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2017年3月16日 (木)

ブランクーシ「無限柱」

Img14625  1957年のこの日、彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの忌日。ブランクーシはルーマニア南西部のオルテニア地方のゴルシュ県ホビツァに生まれる。ルーマニアで木工職人の修行をし、1904年パリ美術学校で彫刻を学んだ。彼の作品の中でも最もスケールの大きいものは、第一次大戦の戦没者のための記念碑として、1937年、ルーマニアのトゥルグ・ジュ市に設置された「無限柱」である。

   高さ30メートル近くの鉄製の柱で、そろばんのたまを積み重ねたような形状を特徴としている。正式の名称は「終わることなき感謝の柱、英雄たちの記念碑」である。(3月16日)

2017年2月 9日 (木)

忘れられた漫画家

Img_0005     本日は「漫画の日」(手塚治虫の命日にちなむ)。子供のころ漫画は大好きだった。私は赤塚不二夫の「おそ松くん」が週刊少年サンデーに初登場したときからのリアルタイムに読んでいた。だが創刊初期のサンデーの人気漫画は何といっても寺田ヒロオ(1931-1992)の「スポーツマン金太郎」であった。この野球マンガの驚くべきことは、本当の野球選手が実名で登場することであった。テレビが各家庭になかったので、子どもたちはマンガで野球選手の名前を覚えた。これが正統派のマンガであって、赤塚のギャグマンガは子ども心にもすこし稚拙なものと感じていた。しかし、毎回読みきりであり、話の展開が早く、回を重ねるうちにチビ太、イヤミのキャラクターに惹かれていった。そしてサンデーで一番楽しみにするようになった。そのころ正統派漫画家の超人気者は関谷ひさし(1928-2008)だった。「ジャジャ馬くん」「ストップ、にいちゃん」そしてサンデーには「翔けろ天馬」を連載していた。赤塚不二夫の「おそ松くん」と同じ昭和37年のことである。関谷ひさしも同年の2008年2月25日に亡くなっている。いま水木しげるが評価されているが、関谷ひさしの作品も復活してほしい。(2月9日)

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