無料ブログはココログ

2026年9月 6日 (日)

埴輪の美

Img_0003

    挂甲の武人(埴輪)

          群馬県太田市強戸成塚出土  群馬 相川考古館蔵

 古墳の周囲、中腹、頂上部などに並べて立てられた素焼きの粘土製品をいう。埴輪は、円筒、人物、動物、器財、家などの種類がある。埴輪の起源がなんであったか、ということについては諸説あってまだよくわかっていない。埴輪の存在は江戸期から知られていたであろうが、明治になって人類学を先導した坪井正五郎が、出土遺物の調査から過去の生活習俗を読み取る試みが進められた。1888年の論文「埴輪土偶に基づき古代の風俗を演ぶ」がある。大正昭和期にになると、美術の観点から埴輪をみるようになる。高村光太郎は「やさしい強さと、清らかさとはよく此の特質を示している。美の健康性がここに在る」(「日本美の源泉」婦人公論)と埴輪の日本美を高く評価している。このころ高村は日本文学報国会に属し、大和民族の優秀性を唱えた、昭和17年、戦時下に書かれた美術評論である。この反省があってか、戦後、埴輪は考古学上の遺物であり、博物館に飾られるが、美術館にはあまりみかけなくなった。

    5世紀ごろ、騎馬戦に適した武具として大陸よりもたらされた挂甲(けいこう)という鎧をつけている。右袵重ねで、衝角付き冑には頬当てと錣が付いている。両手には甲当ての上に鞆を結んで左手には弓を持ち、剣に右手をかけている。埴輪作者の関心はもっぱらこれらの武具にあり、挂甲の小札は刻線で、冑の鋲留は浮文で詳細にあらわされている。新式武具の威力に感銘したためだろうか。頬当ての間から見える武人の顔は、古墳時代後半の一般的な表現である。

 

 

2026年9月 1日 (火)

ヘレニズム

1311635053u3xdqb55
トルクメニスタン歴史民俗博物館蔵

 ヘレニズムとは何か。一般的にはギリシア風文化と訳されるが、19世紀英国の評論家マシュー・アーノルドは、ヘレニズムをヘブライズムと対置して、ギリシア精神あるいは人間中心的な生活態度の意味に用いた。19世紀ドイツの歴史家ドロイゼンが、アレクサンドロス大王の東征圧をもって始まる時代にこの語を用いて以来、歴史的時代限定の概念になっている。その場合、大王の東征から、彼の征服地に成立した諸勢力がローマの支配に帰するまでの約300年間(前334~前30)をさす。ヘレニズム文化は西洋では、ローマに継承されて西洋文化の主流を形成し、東方ではバクトリアを通じてインドに至り、その文化に深い影響を与え、東アジアにも影響を及ぼした。

   トルクメニスタン・アシガバート西方18㎞にあるニサ(Nisa)遺蹟は、パルティア王国(BC195~AD247)の最初の都として栄えた町。1952年にヘレニズム時代につくられたとされる彫刻が出土した。高さ60cm、大理石製。アフロディーテの姿をかりて、パルティア王ミトリダテス1世の娘ロドグナ王女を表したとされている。紀元前2世紀後半。官能的な美しさはミロのヴィーナスを思わせる。イラン人の遊牧国家はギリシア文化の影響が大きくみられる。(Mithridates)

2026年8月31日 (月)

マニエリズムの画家たち

Photo 「凸面鏡の自画像」 ウィーン美術史美術館

 

    宗教改革はルネサンスの芸術家たちにも深い動揺を与えた。1520年以後、若い芸術家たちは、もはや盛期ルネサンスの確信をもたなかった。彼らは人間の姿を奇妙な新方式で示しはじめ、人体をもとに複雑なポーズにねじったり、不自然な長さにひきのばしたりした。イタリア芸術の、この混乱した相は、マニエリズモとして見下されることが多かった。が、現在ではこれを一つの重要な様式として受け入れている。

   パルミジャニーノ(1503-1540)という、パルマ生れの若い画家の「凸面鏡の自画像」(1523-1524)に、ルネサンス末期のマニエリスモの新様式のはじまりを見ることができる。理髪店で半球状の凸面鏡に映った自分の姿を見て、パルミジャニーノは自分の姿を描くことを思い立った。円い凸面鏡にうつる優美な自己の姿と、手はものすごく大きく見え、壁と天井はまがっている。この奇抜な若者の発想が好まれたのがマニエリスムの時代なのである。

   イタリア語でマニエリズモ、フランス語でマニエリスム、英語でマナリズムと呼ばれている。様式、画風を意味するイタリア語「マニエラ」に由来する言葉で、一般には独創性に欠け、既成の手法や型を踏襲しながら、器用にまとめあげるような仕方を非難する意味をもっていた。ところが、今日では、盛期ルネサンスからバロックに移行する過渡期(1525-1610年ごろ)に流行した特定の様式に対して用いられる。この様式の傾向は、極度に洗練された技巧をもち、錯綜した複雑な構成、ひずんだ遠近法などを駆使し、幻想的な細部の表現、ときには不自然なまでのプロポーションや現実離れした色彩を取り入れた点に特色をもつ。マニエリズモの最初の使用例は、イタリアの美術史家ルイージ・ランツィ(1732-1810)の著書「イタリア絵画史」(1789年)の中に見られるのであるが、型にはまった新鮮味を失った状態という否定的な意味で使用している。だがマニエリズモの新様式は一種の前衛芸術であり、世の耳目を奪うのであるが、その努力は長くは続かず、またあまりにも容易に亜流を生んで、たちまち芸術的混乱を招き、やがて、健全な、またより着実な芸術思想の到来によって消滅せしめられるのである。それがカラヴァッジオに始まるバロックであった。

 

ここではマニエ時代の代表的な画家の名のみ列挙しておくにとどめる。

 

ポントルモ(1494-1557)
ロッソ(1494-1540)
ベッカフーミ(1486?-1551)
パルミジアニーノ(1503-1540)
ブロンツィーノ(1503-1572)
ダニエーレ・ダ・ヴォルテラ(1509?-1566)
ジョルージォ・ヴァザーリ(1511-1574)
ティントレット(1518-1594)
アントワーヌ・カロン
ピエル・フランチェスコ・ディ・ヤコポ・フォスキ
マゾ・ダ・サン・フリアーノ
サントディ・トト
ジローラモ・マッキエッティ
ジュゼッペ・アルチンボルド(1526-1593)
カミルロ・ボッカチーノ
クリストファーノ・アルロリ
レリオ・オルシ
ティバルディ
パラッツィ・サッケッティ
ニッコロ・デルラバーテ
サルヴィアーティ
シュプランガー(1546-1611)
ヨハン・フォン・アーヒェン(1522-1616)
ホルツィウス(1558-1617)
スペランヘル(1546-1611)
エル・グレコ(1540-1618)

2026年8月 1日 (土)

ドイツ表現主義

Img_2

ブリュッケの芸術家の肖像 キルヒナー 1925年

 パリは芸術の都というが、実は20世紀初頭、ドイツでは表現主義、ユーゲントシュティールが起こり抽象芸術が花開いた。ドレスデン・ミュンヘンなど各地に美術の中心地があった。   表現主義とは、自然描写に対立して感情表現をねらいとする芸術上の様式概念をいう。思潮としては20世紀初頭のドイツにおいてもっとも典型的な高揚をみた。ドレスデンで1905年に前衛絵画グループ「橋(ブリュッケ)派」が生まれ、運動の起点になった。エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー(1880-1938)、エーリッヒ・ヘッケル(1883-1970)、カール・シュミット・ロットルフ(1884-1976)、オットー・ミュラー(1874-1930)を創立メンバーとする「ブリュッケ」派は、のちにベルリンに活躍の舞台を移してマックス・ペヒシュタイン(1881-1955)を加えた。グループの名称は、若い世代の美術家をひろく結集する橋渡しの意味で命名された。

    画像の作品は「ブリュッケ」解体後20年もたった時点で描かれたものであるが、いかに過去の緊密な時代をなつかしんだか、キルヒナーの胸中を察するに十分な作品である。左から、ミュラー、キルヒナー、ヘッケル、ロットルフを描いている。

アールヌーヴォー

 アールヌーヴォーとは、19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスやベルギーを中心に広まった「新しい芸術」を意味する、有機的な曲線や植物文様を特徴とする国際的な芸術様式である。代表的な芸術家は、絵画ではムンク、セガンテイーニ、クリムト、カンディンスキー。建築ではアントニ・ガウディのサグラダ・ファミリア、ヴィクトール・オルタ、ガラス工芸のエミール・ガレ、ルネ・ラリック、挿絵のオーブリー・ビアスリーなど。

 

2026年7月14日 (火)

玉杖十簡

Img_0001

 

孝平皇帝元始五年幼伯生。永平十五年受玉杖

    1959年秋に甘粛省武威県磨咀子第18号墳から出土した各簡23ミリ余りの武威漢簡の一例をあげる。漢代では高祖以来高齢者を優遇する養老政策をとり、老人に特権を与えていたが、その一つに杖頭に鳩のついた玉杖を下賜した。画像は玉杖十簡といわれる第1簡である。

    幼伯はこの墓の被葬者である。前漢平帝の元始5年(5)に生まれて、後漢明帝の永平15年(72)に鳩杖を賜わった。玉杖を与えられたものの特権を規定した法令(制詔)と鳩杖とを一緒にして棺の上に置かれていた。

    簡の初めに黒丸をつけ、1字あけて10数字書いている。空いた部分を麻縄で冊書にしてあったが、1900年が経過して、麻縄が朽ちて簡の順序が混乱したため配列の順序は不明である。画像は郭沫若の説に拠るものであるが他に4説があるという。

    第3簡と第9簡に、皇帝の命令である制の字が見えることから、漢代の令を研究する上に玉杖十簡は重要な資料である。(参考:「書道全集26」平凡社,大庭脩「漢代の決事比 玉杖十簡配列の一案」関西大学文学論集創立90周年記念特輯 関西大学文学論集 1975年)

 

 

 

 

2026年6月10日 (水)

クールベ「物思い」

Img_0012
 物思い  クールベ 1864年 ドゥエー美術館蔵

 

   ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は、6月10日スイス国境近いフランシュ・コンテ地方の小村オルナンに生まれた。1840年父のすすめる法律研究のためにパリに出たが、画塾に通って絵画に没頭する一方、ルーヴル美術館で巨匠の作品を勉強した。1850年の「オルナンの埋葬」で評壇を二分する物議をかもした。この絵があまりにも実景の描写に徹しすぎ、当時の絵画思潮に反していたためである。その後もクールベは自分の芸術上の立場を挑戦的に表明し、写実主義のリーダーとなった。「現実をあるがままに直視して描写する」ことを主張した思想的立場は、美術史上きわめて大きな意義を残すものであった。

    この「物思い」はクールベ晩年の作品で、ジプシー風の若い娘が何か物思いにふけるさびしげな横顔。クールベ好みの主題である。このような、自意識から解放され、いわば本然の姿に立ち還った女性の存在に、彼はインスピレーションを見出したといえようか。この女性は、1864年のサロンに出品した「ヴィーナスとプシケ」のヴィーナスになった人物と考えられている。これらのモデルを彼はパリからオルナンに呼び寄せ、女たちとの交際も派手で自由で、村の人々の顰蹙を買ったらしい。「波間の女」も、村の娘は裸になってくれないので、この女性がモデルになったといわれる。

2026年5月25日 (月)

敦煌とシルクロード

101011160122625  1980年代ころ、日本ではシルクロード・ブームがあった。歌謡曲「異邦人」がヒットし、井上靖や陳舜臣の本がベストセラーとなり、敦煌が観光客で賑わった。映画「敦煌」(1988年)もその頃の作品である。井上靖の小説をもとに、11世紀の戦乱の中国でシルクロードに旅立った青年と砂漠に生きる日人々を壮大なスケールで描く歴史大作。当時、日本ではシルクロードブームに湧いていた。世界の諸地域にはそれぞれの独特の文明が発展してきたが、それらは孤立したものでなく、現代から見れば緩慢ではあるが、政治・経済・文化にわたって伝播・交流をくりかえし、互いに他地域の文明と直接・間接に関連しながら現代にいたっている。古くは石器時代末期から青銅器初期にわたる彩陶文化があげられるが、ここでは甘粛省敦煌市にある仏教遺跡「敦煌莫高窟」の事例をふりかえってみよう。

  敦煌は中国の歴史文化の名域である。早く前漢時代に敦煌郡として設立されて以来、古代シルクロードの交通の中枢として発展してきた。莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、俗に千仏洞とも呼ばれ、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。開掘され始めたのは五胡十六国時代の355年あるいは366年とされ、その後、元代に至るまで1000年に渡って掘り続けられた。しかし永い歳月がたって、敦煌は忘れ去られたが、1900年5月26日に王円籙が発見し、このニュースは世界中に知れ渡った。オブルーチュフ(ロシア、1905)を初めとして、スタイン(イギリス、1907、1914)、ペリオ(ランス、1908)、ウォーナー(アメリカ、1922)等が敦煌写本の大部分を莫高窟から持ち去ったのである。敦煌莫高窟は世界に現存する規模が最も大きく、最も完全な形に保たれた芸術の宝庫として、1991年に国連のユネスコによって世界文化遺産に指定された。敦煌には莫高窟のほか、鳴沙山の月牙泉、陽関、玉門関、宋代風の沙州古城等の名勝の地がある。

 シルクロードとは、ユーラシア大陸を横断して東西を結ぶ古代の交通路のことであるが、そのルートは中国の西安を出発点とし、蘭州、酒泉、嘉峪関から敦煌に至る。敦煌を経て新疆に入ると、道は3つに分かれる。天山山脈を挟んで天山北路、天山南路、そして西域南道である。天山北路は敦煌からハミ、ウルムチ、イーニン、アルマティ、サマルカンドに至る。天山南路は敦煌からハミ、タクラマカン砂漠の北をトルファン、ウルムチ、コルラ、クチャ、アクスを経てカシュガル、サマルカンドに到るコースを横断する。

 

新疆探検記 橘瑞超 民友社 1912
西域発見の絵画に見えたる服飾研究 原田淑人 東洋文庫 1925
敦煌石室の遺書 石浜純太郎 大阪・懐徳堂夏期講座 1925
鳴沙余韻 敦煌出土未伝古逸仏典開宝 矢吹慶輝編著 岩波書店 1930
西域文明史概論 羽田亨 弘文堂 1931
塞外民族 岩波講座東洋思潮12  白鳥庫吉 岩波書店 1935
中央亜細亜の文化 岩波講座東洋思潮14  羽田亨 岩波書店 1935
新西域記 大谷探検隊報告 全2巻 上原芳太郎編 有光社 1937
敦煌秘籍留真 神田喜一郎 小林写真製版所 1938
十三世紀東西交渉史序説 岩村忍 三省堂 1939
西康西蔵踏査記 劉曼卿著 松枝茂夫、岡崎俊夫訳 改造社 1939
西域画聚成 結城素明 審美書院 1941
ゴビ沙漠探検記 澤壽次 東雲堂 1943
古代絹街道 アルベルト・ヘルマン著 安武納訳 霞ヶ関書房 1944
支那西域経綸史 上 曾問吾著 野見山温訳補 京都・東光書林 1945
大夏と月氏 駒井義明 京都謄写版 1953
ゴビ砂漠探検記 世界探検紀行全集11 スウェン・ヘディン著 梅棹忠夫訳 河出書房 1955
西域経営史の研究 伊瀬仙太郎 日本学術振興会 1955
中国西域経営史研究 伊瀬仙太郎 :巌南堂書店 1955
東西文化の交流 アテネ文庫 伊瀬仙太郎 弘文堂 1955
古代天山の歴史地理学的研究 松田寿男 早稲田大学出版部 1956
西域 中国の名画 熊谷宣夫 平凡社 1957
敦煌 中国の名画 長広敏雄 平凡社 1957
敦煌仏教資料 西域文化研究 西域文化研究会編 法蔵館 1958
敦煌 井上靖 講談社 1959
敦煌文献研究論文目録 東洋文庫内 敦煌文献研究連絡会編 1959
東方見聞録 青木一夫訳 校倉書房 1960
ゴビ沙漠綺譚 危険を買う8000キロの旅 アーサー・ブリーン著 山崎ミドリ訳 内田老鶴圃 1961
モンゴルから中央アジアへ 坂本是忠 地人書館 1961
シルクロード 東西文化のかけ橋 長澤和俊 校倉書房 1962
ゴビ砂漠探検記 秘境探検双書 ロジェトベンスキー著 南信四郎訳 ベースボール・マガジン社 1963
ゴビ砂漠横断 ヘディン中央アジア探検紀行全集6 スウェン・ヘディン著 羽島重雄訳 白水社 1964
西域佛典の研究 敦煌逸書簡譯 宇井伯寿 岩波書店 1969
西域 グリーンベルト・シリーズ 現代教養文庫 井上靖・岩村忍 筑摩書房 1963
敦煌美術の旅 北川桃雄 雪華社 1963
敦煌資料 1 中国科学院歴史研究所資料室 大安 1963
シルクロードと正倉院 林良一 平凡社 1966
西域 世界の文化15 水野清一編 河出書房新社 1966
シルクロード踏査記 角川新書 長沢和俊 角川書店 1967
スタイン敦煌文献及び研究文献に引用紹介せられたる西域出土漢文文献分類目録初稿 非仏教文献之部 文書類Ⅱ 東洋文庫敦煌文献研究委員会 1967
海のシルクロードを求めて 三杉隆敏 創元社 1968
西域 大世界史10 羽田明 文芸春秋 1968
西域 カラー版世界の歴史10 羽田明 河出書房新社 1969
西域仏典の研究 敦煌逸書簡訳 宇井伯寿 岩波書店 1969
埋もれたシルクロード 岩波新書 V・マッソン著 加藤九祚訳 岩波書店 1970
敦煌学五十年 神田喜一郎 筑摩書房 1970
シルクロードの詩(うた) 森豊 第三文明社 1971
西域 筑摩教養選 井上靖・岩村忍 筑摩書房 1971
敦煌の文学 金岡照光 大蔵出版 1971
絲綢之路 漢唐織物 新彊維吾尓自治区博物館出土文物展覧工作組編 文物出版社 1972
敦煌の民衆 その生活と知恵 東洋人の行動と思想8 金岡照光 評論社 1972
明代西域史料 明実録鈔 明代西域史研究会 京都大学文学部内陸アジア研究会 1974
おばあさんシルクロードを走る 森村浅香 日本交通公社 1975
アレキサンダーの道 アジア古代遺跡の旅 井上靖 文藝春秋 1976
古代遊牧帝国 中公新書 護雅夫 中央公論社 1976
敦煌出土于闐語秘密教典集の研究 論説篇・賢劫佛名経と毘盧舎那仏の研究 田久保周誉著 春秋社 1976
敦煌の旅 陳舜臣 平凡社 1976
シルクロード地帯の自然の変遷 保柳睦美 古今書院 1976
シルクロードのドラマとロマン 青江舜二郎 芙蓉書房 1976
遺跡の旅・シルクロード 井上靖 新潮社 1977
西域物語 新潮文庫 井上靖 新潮社 1977
西域紀行 シルクロードの歴史と旅 藤堂明保 日本経済新聞社 1978
シルクロード探検 大谷短剣隊  長沢和俊編 白水社 1978
敦煌千仏洞 萩原正三編著 シルクロード 1978
敦煌道経 目録編 大淵忍爾 福武書店 1978
敦煌の美百選 円城寺次郎編 日本経済新聞社 1978
シルクロード史研究 長澤和俊 国書刊行会 1979
シルクロードと仏教文化 岡崎敬編 東洋哲学研究所 1979
チムール帝国紀行 クラヴィホ著 山田信夫訳 桃源社  1979
敦煌道経 図録編 大淵忍爾 福武書店 1979
熱砂とまぼろし シルクロード列伝 陳舜臣 角川書店 1979
シルクロード 全6巻 日本放送出版協会  1980
シルクロードと仏教文化 続 岡崎敬編 東洋哲学研究所 1980
シルクロードと仏教 金岡秀友・井本英一・杉山二郎著 大法輪閣 1980
シルクロードのアクセサリー 砂漠の華 並河萬里 文化出版局 1980
敦煌の自然と現状 講座敦煌1 榎一雄編 大東出版社 1980
敦煌の歴史 講座敦煌2 榎一雄編 大東出版社 1980
敦煌の石窟芸術 潘絜茲編著 土居淑子訳 中央公論社 1980
敦煌の美術 莫高窟の壁画・塑像 常書鴻ほか 大日本絵画 1980
敦煌莫高窟 全5巻 岡崎敬・鄧健吾編 平凡社 1980-1982
シルクロード・絲網之路6 民族の十字路(イリ・カシュガル) 司馬遼太郎・NHK取材班 日本放送出版会 1981
シルクロードと日本 雄山閣 1981
シルクロードの文化交流 その虚像と実像 大庭脩編 同朋舎 1981
西域 人物と歴史 教養文庫 井上靖・岩村忍 社会思想社 1981
西安から敦煌へ シルクロード今と昔・上 車慕奇 小学館 1981
敦煌の絵物語 東方選書8 金岡照光 東方書店 1981
日本に生きるシルクロード 仏教・音楽・風俗の源流を訪ねて 鎌田茂雄ほか 廣済堂出版 1981
熱砂の中央アジア ユーラシア・シルクロード1 加藤九祚・加藤久晴 日本テレビ放送網 1981
魅惑のシルクロード(講談社ゼミナール選書) 長沢和俊ほか 講談社 1981
わたしのシルクロード NHK編 平山郁夫ほか 日本放送協会 1981
海のシルクロード 絹・香料・陶磁器 藤本勝次ほか 大阪書籍 1982
シルクロードと日本文化 森豊 白水社 1982
シルクロードに生きる  踏査記録 森田勇造 学習研究社 1982
西域美術1~2 敦煌絵画 大英博物館スタイン・コレクション ロデリック・ウィットフィード 上野アキ訳 講談社 1981
シルクロードの化粧史 シルクロード史考察18  森豊 六興出版 1982
トルキスタンへの旅 岩波新書 タイクマン著 神近市子訳 岩波書店 1982
敦煌莫高窟壁画 中国の文様3 上海人民美術出版社 美乃美 1982
敦煌石窟 美とこころ 田川純三 日本放送出版協会 1982
敦煌石窟 敦煌文物研究所編 鄧健吾文 平凡社 1982
敦煌石窟寺院 世界の聖域別巻2 柳宗玄、金岡照光 講談社 1982
敦煌の風鐸 常書鴻著 秋岡家栄訳 学習研究社 1982
果物のシルクロード 城山桃夫 八坂書店 1983
シルクロード踏査行 長沢和俊 くもん出版 1983
シルクロードの文化と日本 長沢和俊 雄山閣 1983
敦煌書法叢刊 全29冊 拓本 饒宗頤編 二玄社 1983-84
敦煌禅宗文献の研究 田中良昭 大東出版社 1983
敦煌・西蔵・洛陽 美と愛の旅1 瀬戸内寂聴 講談社 1983
シルクロードの風 カメラ紀行 平山美知子写真、平山郁夫挿画 読売新聞社 1984
西域紀行 旺文社文庫 藤堂明保 旺文社 1984
敦煌を語る 池田大作 角川書店 1984
アジアの奥地へ(西域を行く) 上 ユーリ・レーリヒ著 藤塚正道・鈴木美保子訳 連合出版 1985
シルクロードの謎 前嶋信次 大和書房 1985
塞外民族史研究 上下 白鳥庫吉 岩波書店 1986
三蔵法師の旅を旅する 杉本茂春 編集工房ノア 1986
.シルクロード考古学  全4巻 樋口隆康 法蔵館 1986
西安からカシュガルへ 旺文社文庫 長沢和俊 旺文社 1986
敦煌物語 中国の都城3 集英社 1987
敦煌資料による中国語史の研究 東洋学叢書 高田時雄 創文社 1988
敦煌・吐魯蕃発見社会経済史料集3(全2冊) 東洋文庫編 汲古書院 1988
ならシルクロード博覧会公式ガイドブック 財団法人なら・シルクロード博協会 1988
私のシルクロード 細呂木千鶴子著 大阪書籍 1988
流砂の楼蘭 玉木重輝 白水社 1988
敦煌の伝説 上下 陳鈺編 東京美術 1989
シルクロードの謎 光文社文庫 町田隆吉 光文社 1989
敦煌の文学文献 講座敦煌9 金岡照光編 大東出版社 1990
敦煌仏教の研究 上山大峻 法蔵館 1990
シルクロードの開拓者 張騫 田川純三著 筑摩書房 1991
西域 後藤正治写真集 日本カメラ社 1992
西域仏跡紀行 井上靖 法蔵館 1992
漢代以前のシルクロード 川又正智 雄山閣 2006
図説シルクロード文化史 ヴァレリー・ハンセン著 田口未和訳 原書房 2016
ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王の謎 山田勝久、児島建次郎、森谷公俊 雄山閣 2016
シルクロードに仏跡を訪ねて 大谷探検隊紀行 本多隆成 吉川弘文館 2016
「敦煌」と日本人 中公選書 榎本泰子 中央公論新社 2021

 

 

 

 

 

2026年4月24日 (金)

ミッデルハルニスの並木道

    むかしは学校に美術商が複製画の販売によく来ていた。一枚でも子供の小遣いで買うにはかなり高かったのでもっぱら見るだけだったが、強く印象に残る絵画がある。泰西名画といわれる一種だが、雲の多い高い空の下、画面の中央を遠くにまでつづく田園の並木道。遠近法と左右対称のシンメトリーの構図のお手本として美術の教科書にもよく採りあげられることが多い絵だ。向かって左側には高い塔のような建物、右側には民家が描かれている。人物も絵の中には数人描かれていて、ロイスダールの絵のように暗い感じはしないが、やはり物悲しい詩情が漂う。それはロンドンナショナルギャラリーが所蔵する「ミッデルハルニスの並木道」(1689)というマインデルト・ホッベマ(1638-1709)の17世紀オランダ風景画の傑作である。

    ホッベマという画家について、あまり詳しいことは知らないが、ロイスダールの弟子だったが、1688年に結婚し、アムステルダムの葡萄酒および油の計量器検定官として働き、そのため一時画家は断念したかにみえたが、1689年に大胆な遠近法をとりいれた代表作「ミッデルハルニスの並木道」を完成させ、彼の名は美術史に永遠に刻まれたということである。

   ところで、オランダにはこのようなポプラ並木が実際にあるのだろうか。現在、小村ミッデルハニルスにはこの並木道はないし、また当時存在したという確証もないという。いずれにしてもなんらかの形で実際の風景に触発されたにしても、この作品はホッベマ自身の自由な構想の所産と考えるべきであろう。ホッベマの作品はそれほど多く残されていないが、バルビゾン派の先駆的存在としてもっと評価されてもいいように思う。

   ところで美術史のなかで、いつ頃、どのような過程をへて風景画が誕生したのかを問うてみるのは、興味深いことである。西洋では、ローマの絵画で風景は背景として描かれ、中世の宗教画でも要素的扱いとされていたが、ルネサンスの時代において自然認識の深化とともに遠近法が確立され、自然風物の背景が重視されるように至った。17世紀オランダでロイスダール、ゴイエン、ホッベマ、ベルメールらが自然風景を写実的に描いて風景画が確立されるようになったことは一般によく知られているが、それ以前から中世の12ヵ月の月暦図のなかに年中行事や風景が描かれていたり、ルネサンス期のネーデルラントの画家ヒエロニムス・ボスの作品のなかに奇妙な風景が見出される。(メインデルト・ホッベマ,Meindert Hobbem,The avenue Middelharnis)

 

 

 

 

2026年2月23日 (月)

富士山と日本人

 本日は天皇誕生日であるが「富士山の日」でもある。富士山と天皇とはいかにも日本的である。富士山は古くから日本人のあこがれや信仰の対象として親しまれてた美しい山である。ある照明装置の会社が富士山のライトアップを計画したところ、反対の意見が多数寄せられた。霊峰富士山はすべての日本人がそこに回帰する心のふるさと、信仰の対象なのである。また外国人からみてもフジヤマは日本の象徴なのだ。戦時中、富士山をペンキで赤く染める作戦がたてられていたそうだ。ダウンフォール作戦という。富士山の姿をかえることで、日本人の戦意を失わせようと考えたから。ところが、とんでもないペンキの量と、ペンキを運ぶ飛行機が必要とわかり、作戦は中止となった。

  これまで、数多くの文人・画家・武人から一般の庶民にいたるまで、あらゆる階層の人びとが富士を語り、作品に表現している。だがなぜ日本人は富士山を三峰に描くのだろうか。実際にはほとんど三峰には見えない。藤原成一は「三峰に富士山が描かれた場合は、これは普通の絵ではなく、聖なる絵、聖画といっていい」と言う(NHK「美の壺」276)。鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立された。室町時代に描かれた「富士曼荼羅図」は現存する最初の三峰型富士である。仏の三尊様式にのっとって、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来の姿が象徴されている。(参考:天野紀代子・澤登寛聡編「富士山と日本人の心性」)  Operation Downfall、2月23日

 

Sattamihofuji1

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2026年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30