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2017年5月16日 (火)

パリの美術館

  パリには大小あわせて100以上の美術館・博物館がある。ルーヴル、オルセー、ポンピドーセンターといった有名美術館のほか、オランジュリー美術館、ギメ美術館、ピカソ美術館、パリ市立近代美術館、国立近代美術館、パリ工芸博物館、プティ・パレ美術館、マルモッタン美術館、カリナヴァレ美術館、市立近代美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ジャックマール・アンドレ美術館、バカラ・ギャラリー・ミュージアム、コニャック・ジェイ美術館、ルイ・ヴィトン財団美術館、カルティエ現代美術館、クリュニー中世美術館、ダリ美術館、ドラクロワ美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ロマン派美術館、ロダン美術館、ブールデル美術館、ザッキン美術館、マイヨール美術館、パリ市立ガリエラ・モード美術館、建築・文化博物館、国立自然歴史博物館。チェルヌスキ美術館(パリ市立アジア芸術美術館)。このほかモンマルトルにはゴッホの像で知られるザッキン美術館がある。

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  ジャックマール・アンドレ美術館

  そしてモンソー通り沿いに建つニッシム・ド・カモンド美術館。19世紀末のユダヤ人豪商モイズ・ド・カモンド伯爵(1860-1935)の邸宅を改装して一般公開している。ゴブラン織りのタピストリー、棚にはセーブルの食器セット、壁にはヴェネツィア派の絵画、図書室、と当時のパリの香気が漂う。(Paris,Nissim de Camondo)

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祖父アブラハム・ソロモン・カモンド(左)、ニッシム・ド・カモンド(右) 1868年

  セーヌ川沿いにあるケ・ブランリ美術館は原始美術のコレクター、ジャック・ケルシャン(1942-2001)が収集したアフリカ・アジア・オセアニア・南北アメリカの民俗芸術品を展示している

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 ケ・ブランリ美術館

2017年4月 8日 (土)

ミロのヴィーナスの両腕

397305055810999  本日は「ヴィーナスの日」。1820年のこの日、エーゲ海のメロス島の農夫がヴィーナス像を発見した。ルーヴル美術館の至宝ミロのヴィーナスは理想のプロポーションといわれる。上半身と下半身の比率が1対1.618で、人間が最も美しいと感じる黄金比だそうである。両腕がないことも全身が露わになって魅力を増している。失われた両腕は本来どのようなしぐさをしていたのだろうか。右手は衣のすそを抑えるように下にたれて、左手は筋肉の隆起から見て、前にだし肩よりは少し上でリンゴを持っていたと考えられる。(keyword;Venus de Milo,Golden Ratio、4月8日 )

2017年3月19日 (日)

古代人と文様

6921538336347ee6b144fed4b3f9783e   日本の先史時代や古代には多数の素晴らしい土器や青銅器が作られていた。そして今日、われわれはこれらの作品を美術館や博物館で鑑賞できる。しかしながら、これらの作品は本来、美術品として作られたものではない。容器や煮沸用として日常生活で使用されるものであったり、または銅鐸のように、広い意味で宗教目的のために作られたものである。

   古代の器物をみると、たいがい文様がほどこされている。文様はあってもなくても、用具としてはつかえるので、なぜ器物に装飾をするのであろうか。中国の青銅器や日本の縄文土器のように、文様の上に文様を重ねて、いわば文様過多の状態をみせているものも多くみられる。人間はひとたび文様を知ると、文様のない空白に不安や恐怖を覚えるといわれる。これを空白の恐怖(horror vacui)という。空白を嫌う人間の心理は、器物に文様をつけるという激しい表現意欲へと発展していく。近年の考古学研究の成果によると、縄文文化は中国の長江文明(良渚文化)の影響を受けているといわれる(安田喜憲の説)。

   古代の文様をタイプによって分類すると、幾何学的なものと、様式化または便化されたものと、動植物や人体にモティーフを求めた自然主義的なものとが見いだされる。この三つのタイプのいずれが、文様の最初の起源であるかということは、にわかに断定できない。縄文中期の土器「顔面把手付深鉢」(山梨県須玉町津金御所前遺跡)にみえる、土器本体に描かれた文様は、今まさに子供が生まれ出る瞬間を表現した人体のような文様と人面文様が描かれている。

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2017年3月16日 (木)

ブランクーシ「無限柱」

Img14625  1957年のこの日、彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの忌日。ブランクーシはルーマニア南西部のオルテニア地方のゴルシュ県ホビツァに生まれる。ルーマニアで木工職人の修行をし、1904年パリ美術学校で彫刻を学んだ。彼の作品の中でも最もスケールの大きいものは、第一次大戦の戦没者のための記念碑として、1937年、ルーマニアのトゥルグ・ジュ市に設置された「無限柱」である。

   高さ30メートル近くの鉄製の柱で、そろばんのたまを積み重ねたような形状を特徴としている。正式の名称は「終わることなき感謝の柱、英雄たちの記念碑」である。(3月16日)

2017年2月 9日 (木)

忘れられた漫画家

Img_0005     本日は「漫画の日」(手塚治虫の命日にちなむ)。子供のころ漫画は大好きだった。私は赤塚不二夫の「おそ松くん」が週刊少年サンデーに初登場したときからのリアルタイムに読んでいた。だが創刊初期のサンデーの人気漫画は何といっても寺田ヒロオ(1931-1992)の「スポーツマン金太郎」であった。この野球マンガの驚くべきことは、本当の野球選手が実名で登場することであった。テレビが各家庭になかったので、子どもたちはマンガで野球選手の名前を覚えた。これが正統派のマンガであって、赤塚のギャグマンガは子ども心にもすこし稚拙なものと感じていた。しかし、毎回読みきりであり、話の展開が早く、回を重ねるうちにチビ太、イヤミのキャラクターに惹かれていった。そしてサンデーで一番楽しみにするようになった。そのころ正統派漫画家の超人気者は関谷ひさし(1928-2008)だった。「ジャジャ馬くん」「ストップ、にいちゃん」そしてサンデーには「翔けろ天馬」を連載していた。赤塚不二夫の「おそ松くん」と同じ昭和37年のことである。関谷ひさしも同年の2008年2月25日に亡くなっている。いま水木しげるが評価されているが、関谷ひさしの作品も復活してほしい。(2月9日)

2017年1月22日 (日)

魂の画家・戸嶋靖昌

   スペインのグラナダの清貧な生活の中で、人間の魂を描き続けた知られざる日本人画家がいた。戸嶋靖昌(1934-2006)。栃木県出身の洋画家。武蔵野美術大卒。三島由紀夫の自決を機にスペインに渡った。スペインでの画家生活は妻・日子からの仕送りで支えられていた。死後、稲城市に戸嶋靖昌記念館が開館。「孤高のリアリズム」展が開催されている。

2017年1月19日 (木)

ロマネスク美術の「枠組みの法則」

Photo 11世紀から12世紀にかけて西欧でみられたキリスト教美術をロマネスクとよぶ。聖堂の柱や梁、壁には数々の彫刻が施されているが、身体が不自然にデフォルメされたり、変に曲がっていることがある。フランスの美術史家アンリ・フォション(1881-1943)は、この奇怪な造形の秘密を「枠の法則」というルールで説明している。つまり聖堂の浮彫などは建築の構造に支配されているので、必然的にデフォルメされることがある。画像の浮彫りはシャルトル大聖堂の枠組みの法則の実例。 Henri Focillon

2016年12月29日 (木)

年末年始の東京の美術館展示

   国立西洋美術館「クラーナハ展」。江戸東京博物館「戦国時代展」。練馬区立美術館「粟津則雄コレクション」。鴎外記念館「賀古鶴所という男」。賀古鶴所は陸軍軍医で、日本における耳鼻咽喉科の基礎を築いた人物。鴎外より6歳年上で、「一切秘密無ク交際シタル友」と記している。

2016年12月11日 (日)

なぜ「逃げ恥」星野源に女子が夢中なのか?

  今年は奇妙な年である。ミュージシャンのボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞。長い間不動の人気を誇ったキムタク、福山雅治の人気が凋落。米大統領選ではトランプが予想に反して大勝利。世界はピコ太郎の動画が大流行。この先何が流行るのか誰にもわからない。星野源というミュージシャン、俳優、文筆業などで活躍するタレントがいる。これまで「サブカルチャー女子」や「こじらせ系女子」の間で人気があったが、昨年紅白初出場してから全国区の知名度になった。駅のキオスクで星野源のポスター「ウコンの力」を見る。

   先日「逃げ恥」の裏でNHKBSプレミアム映画「箱入り息子の恋」が放送されていた。35歳独身、恋愛経験なし、という設定は似ているが、ドラマとはテイストが大きく異なる。盲目の美少女夏帆とお見合い、そしてラブホで初体験。だが夏帆の父親大杉漣が「この男には野心がない」と反対する。もみ合ううちに車にひかれたり、2階から転落して大けがする。朝ドラ「ゲゲゲの女房」でも星野は大杉の次男貴司で共演した。突然に事故死する影のうすい役だった。役の中では独身で真面目で几帳面な印象をうけるが、リアル源は草食系でなく、エッチで病弱、女性大好きな人。これまで恋の噂もアイコ、夏帆、二階堂ふみ、そしてガッキーと共演者とはいつも親密になるタイプ。イケメンじゃないので女性は安心して気軽につきあうのだろうか。音楽活動や俳優業として知られるが、出版活動もさかんでベストセラーを出している。昭和のマルチタレント青島幸男のような平成最強のタレントになる日もちかい。

2016年11月 5日 (土)

ユトリロの信仰心

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 郊外の教会  1917年

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 コルシカ島の教会 1912年頃

   1955年のこの日、モーリス・ユトリロは71歳で没した。ユトリロは1883年12月26日、パリのモンマルトルのポトー街3番地に、女流画家シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)の私生児として生れた。ユトリロの前半生において、およそ10回におよぶアルコール中毒治療のための精神病院への入院がよく知られている。入院中、懸命に絵を描いては医師や看護婦たちにそれを見せ、自分が正常であることを示そうとした。作品のほとんどが風景画である。それもありふれたパリの街並み。なかでも注目されるのが教会が多いことである。サント・マルグリート教会、セント・セブリン教会、ドウィユの教会、モンマルトルの教会、サン・ジェルヴェの教会、シャティヨン・シュル・セーヌ教会、クリニャンクールのノートルダム教会など名作が多い。

   ユトリロは少年期から信仰に心ひかれるものがあったらしい。しかし母親のヴァラドンは少女時代の体験から聖職者たちに深い憎悪を抱いていた。母はユトリロに洗礼を受けさせず、彼の手から説教の本をとりあげることもたびたびあった。にもかかわらず、ユトリロの神への希求は衰えなかった。

    また、少年時代からジャンヌ・ダルクに魅せられていた彼は、第一次世界大戦の始まった1914年、ランスの聖堂(百年戦争の時、ジャンヌ・ダルクがフランス国王を即位させた場所)が、ドイツ軍に爆撃されたことを知って逆上し、その怒りを作品「炎上するランスの聖堂」として残している。1933年、49歳の年にようやくリヨンで洗礼を受け、4年後に聖体拝受をしたユトリロは、ますます狂信的ともいえる信仰の生活に入っていく。アトリエに祭壇を設け、教理問答書も暦の聖人の名もすべて暗記し、1日に6時間も祈りを続けた。ジャンヌ・ダルクが処刑された水曜日と、キリストが十字架にかけられた金曜日は仕事をせず、聖母マリア像の足や聖人の聖脾に接吻したりして過ごしたという。晩年のユトリロにとって、信仰は、若き日の絵と酒に代わる最後の心の拠り所であった。(11月5日)

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