無料ブログはココログ

2026年5月25日 (月)

敦煌とシルクロード

101011160122625  1980年代ころ、日本ではシルクロード・ブームがあった。歌謡曲「異邦人」がヒットし、井上靖や陳舜臣の本がベストセラーとなり、敦煌が観光客で賑わった。映画「敦煌」(1988年)もその頃の作品である。井上靖の小説をもとに、11世紀の戦乱の中国でシルクロードに旅立った青年と砂漠に生きる日人々を壮大なスケールで描く歴史大作。当時、日本ではシルクロードブームに湧いていた。世界の諸地域にはそれぞれの独特の文明が発展してきたが、それらは孤立したものでなく、現代から見れば緩慢ではあるが、政治・経済・文化にわたって伝播・交流をくりかえし、互いに他地域の文明と直接・間接に関連しながら現代にいたっている。古くは石器時代末期から青銅器初期にわたる彩陶文化があげられるが、ここでは甘粛省敦煌市にある仏教遺跡「敦煌莫高窟」の事例をふりかえってみよう。

  敦煌は中国の歴史文化の名域である。早く前漢時代に敦煌郡として設立されて以来、古代シルクロードの交通の中枢として発展してきた。莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、俗に千仏洞とも呼ばれ、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。開掘され始めたのは五胡十六国時代の355年あるいは366年とされ、その後、元代に至るまで1000年に渡って掘り続けられた。しかし永い歳月がたって、敦煌は忘れ去られたが、1900年5月26日に王円籙が発見し、このニュースは世界中に知れ渡った。オブルーチュフ(ロシア、1905)を初めとして、スタイン(イギリス、1907、1914)、ペリオ(ランス、1908)、ウォーナー(アメリカ、1922)等が敦煌写本の大部分を莫高窟から持ち去ったのである。敦煌莫高窟は世界に現存する規模が最も大きく、最も完全な形に保たれた芸術の宝庫として、1991年に国連のユネスコによって世界文化遺産に指定された。敦煌には莫高窟のほか、鳴沙山の月牙泉、陽関、玉門関、宋代風の沙州古城等の名勝の地がある。

 シルクロードとは、ユーラシア大陸を横断して東西を結ぶ古代の交通路のことであるが、そのルートは中国の西安を出発点とし、蘭州、酒泉、嘉峪関から敦煌に至る。敦煌を経て新疆に入ると、道は3つに分かれる。天山山脈を挟んで天山北路、天山南路、そして西域南道である。天山北路は敦煌からハミ、ウルムチ、イーニン、アルマティ、サマルカンドに至る。天山南路は敦煌からハミ、タクラマカン砂漠の北をトルファン、ウルムチ、コルラ、クチャ、アクスを経てカシュガル、サマルカンドに到るコースを横断する。

 

新疆探検記 橘瑞超 民友社 1912
西域発見の絵画に見えたる服飾研究 原田淑人 東洋文庫 1925
敦煌石室の遺書 石浜純太郎 大阪・懐徳堂夏期講座 1925
鳴沙余韻 敦煌出土未伝古逸仏典開宝 矢吹慶輝編著 岩波書店 1930
西域文明史概論 羽田亨 弘文堂 1931
塞外民族 岩波講座東洋思潮12  白鳥庫吉 岩波書店 1935
中央亜細亜の文化 岩波講座東洋思潮14  羽田亨 岩波書店 1935
新西域記 大谷探検隊報告 全2巻 上原芳太郎編 有光社 1937
敦煌秘籍留真 神田喜一郎 小林写真製版所 1938
十三世紀東西交渉史序説 岩村忍 三省堂 1939
西康西蔵踏査記 劉曼卿著 松枝茂夫、岡崎俊夫訳 改造社 1939
西域画聚成 結城素明 審美書院 1941
ゴビ沙漠探検記 澤壽次 東雲堂 1943
古代絹街道 アルベルト・ヘルマン著 安武納訳 霞ヶ関書房 1944
支那西域経綸史 上 曾問吾著 野見山温訳補 京都・東光書林 1945
大夏と月氏 駒井義明 京都謄写版 1953
ゴビ砂漠探検記 世界探検紀行全集11 スウェン・ヘディン著 梅棹忠夫訳 河出書房 1955
西域経営史の研究 伊瀬仙太郎 日本学術振興会 1955
中国西域経営史研究 伊瀬仙太郎 :巌南堂書店 1955
東西文化の交流 アテネ文庫 伊瀬仙太郎 弘文堂 1955
古代天山の歴史地理学的研究 松田寿男 早稲田大学出版部 1956
西域 中国の名画 熊谷宣夫 平凡社 1957
敦煌 中国の名画 長広敏雄 平凡社 1957
敦煌仏教資料 西域文化研究 西域文化研究会編 法蔵館 1958
敦煌 井上靖 講談社 1959
敦煌文献研究論文目録 東洋文庫内 敦煌文献研究連絡会編 1959
東方見聞録 青木一夫訳 校倉書房 1960
ゴビ沙漠綺譚 危険を買う8000キロの旅 アーサー・ブリーン著 山崎ミドリ訳 内田老鶴圃 1961
モンゴルから中央アジアへ 坂本是忠 地人書館 1961
シルクロード 東西文化のかけ橋 長澤和俊 校倉書房 1962
ゴビ砂漠探検記 秘境探検双書 ロジェトベンスキー著 南信四郎訳 ベースボール・マガジン社 1963
ゴビ砂漠横断 ヘディン中央アジア探検紀行全集6 スウェン・ヘディン著 羽島重雄訳 白水社 1964
西域佛典の研究 敦煌逸書簡譯 宇井伯寿 岩波書店 1969
西域 グリーンベルト・シリーズ 現代教養文庫 井上靖・岩村忍 筑摩書房 1963
敦煌美術の旅 北川桃雄 雪華社 1963
敦煌資料 1 中国科学院歴史研究所資料室 大安 1963
シルクロードと正倉院 林良一 平凡社 1966
西域 世界の文化15 水野清一編 河出書房新社 1966
シルクロード踏査記 角川新書 長沢和俊 角川書店 1967
スタイン敦煌文献及び研究文献に引用紹介せられたる西域出土漢文文献分類目録初稿 非仏教文献之部 文書類Ⅱ 東洋文庫敦煌文献研究委員会 1967
海のシルクロードを求めて 三杉隆敏 創元社 1968
西域 大世界史10 羽田明 文芸春秋 1968
西域 カラー版世界の歴史10 羽田明 河出書房新社 1969
西域仏典の研究 敦煌逸書簡訳 宇井伯寿 岩波書店 1969
埋もれたシルクロード 岩波新書 V・マッソン著 加藤九祚訳 岩波書店 1970
敦煌学五十年 神田喜一郎 筑摩書房 1970
シルクロードの詩(うた) 森豊 第三文明社 1971
西域 筑摩教養選 井上靖・岩村忍 筑摩書房 1971
敦煌の文学 金岡照光 大蔵出版 1971
絲綢之路 漢唐織物 新彊維吾尓自治区博物館出土文物展覧工作組編 文物出版社 1972
敦煌の民衆 その生活と知恵 東洋人の行動と思想8 金岡照光 評論社 1972
明代西域史料 明実録鈔 明代西域史研究会 京都大学文学部内陸アジア研究会 1974
おばあさんシルクロードを走る 森村浅香 日本交通公社 1975
アレキサンダーの道 アジア古代遺跡の旅 井上靖 文藝春秋 1976
古代遊牧帝国 中公新書 護雅夫 中央公論社 1976
敦煌出土于闐語秘密教典集の研究 論説篇・賢劫佛名経と毘盧舎那仏の研究 田久保周誉著 春秋社 1976
敦煌の旅 陳舜臣 平凡社 1976
シルクロード地帯の自然の変遷 保柳睦美 古今書院 1976
シルクロードのドラマとロマン 青江舜二郎 芙蓉書房 1976
遺跡の旅・シルクロード 井上靖 新潮社 1977
西域物語 新潮文庫 井上靖 新潮社 1977
西域紀行 シルクロードの歴史と旅 藤堂明保 日本経済新聞社 1978
シルクロード探検 大谷短剣隊  長沢和俊編 白水社 1978
敦煌千仏洞 萩原正三編著 シルクロード 1978
敦煌道経 目録編 大淵忍爾 福武書店 1978
敦煌の美百選 円城寺次郎編 日本経済新聞社 1978
シルクロード史研究 長澤和俊 国書刊行会 1979
シルクロードと仏教文化 岡崎敬編 東洋哲学研究所 1979
チムール帝国紀行 クラヴィホ著 山田信夫訳 桃源社  1979
敦煌道経 図録編 大淵忍爾 福武書店 1979
熱砂とまぼろし シルクロード列伝 陳舜臣 角川書店 1979
シルクロード 全6巻 日本放送出版協会  1980
シルクロードと仏教文化 続 岡崎敬編 東洋哲学研究所 1980
シルクロードと仏教 金岡秀友・井本英一・杉山二郎著 大法輪閣 1980
シルクロードのアクセサリー 砂漠の華 並河萬里 文化出版局 1980
敦煌の自然と現状 講座敦煌1 榎一雄編 大東出版社 1980
敦煌の歴史 講座敦煌2 榎一雄編 大東出版社 1980
敦煌の石窟芸術 潘絜茲編著 土居淑子訳 中央公論社 1980
敦煌の美術 莫高窟の壁画・塑像 常書鴻ほか 大日本絵画 1980
敦煌莫高窟 全5巻 岡崎敬・鄧健吾編 平凡社 1980-1982
シルクロード・絲網之路6 民族の十字路(イリ・カシュガル) 司馬遼太郎・NHK取材班 日本放送出版会 1981
シルクロードと日本 雄山閣 1981
シルクロードの文化交流 その虚像と実像 大庭脩編 同朋舎 1981
西域 人物と歴史 教養文庫 井上靖・岩村忍 社会思想社 1981
西安から敦煌へ シルクロード今と昔・上 車慕奇 小学館 1981
敦煌の絵物語 東方選書8 金岡照光 東方書店 1981
日本に生きるシルクロード 仏教・音楽・風俗の源流を訪ねて 鎌田茂雄ほか 廣済堂出版 1981
熱砂の中央アジア ユーラシア・シルクロード1 加藤九祚・加藤久晴 日本テレビ放送網 1981
魅惑のシルクロード(講談社ゼミナール選書) 長沢和俊ほか 講談社 1981
わたしのシルクロード NHK編 平山郁夫ほか 日本放送協会 1981
海のシルクロード 絹・香料・陶磁器 藤本勝次ほか 大阪書籍 1982
シルクロードと日本文化 森豊 白水社 1982
シルクロードに生きる  踏査記録 森田勇造 学習研究社 1982
西域美術1~2 敦煌絵画 大英博物館スタイン・コレクション ロデリック・ウィットフィード 上野アキ訳 講談社 1981
シルクロードの化粧史 シルクロード史考察18  森豊 六興出版 1982
トルキスタンへの旅 岩波新書 タイクマン著 神近市子訳 岩波書店 1982
敦煌莫高窟壁画 中国の文様3 上海人民美術出版社 美乃美 1982
敦煌石窟 美とこころ 田川純三 日本放送出版協会 1982
敦煌石窟 敦煌文物研究所編 鄧健吾文 平凡社 1982
敦煌石窟寺院 世界の聖域別巻2 柳宗玄、金岡照光 講談社 1982
敦煌の風鐸 常書鴻著 秋岡家栄訳 学習研究社 1982
果物のシルクロード 城山桃夫 八坂書店 1983
シルクロード踏査行 長沢和俊 くもん出版 1983
シルクロードの文化と日本 長沢和俊 雄山閣 1983
敦煌書法叢刊 全29冊 拓本 饒宗頤編 二玄社 1983-84
敦煌禅宗文献の研究 田中良昭 大東出版社 1983
敦煌・西蔵・洛陽 美と愛の旅1 瀬戸内寂聴 講談社 1983
シルクロードの風 カメラ紀行 平山美知子写真、平山郁夫挿画 読売新聞社 1984
西域紀行 旺文社文庫 藤堂明保 旺文社 1984
敦煌を語る 池田大作 角川書店 1984
アジアの奥地へ(西域を行く) 上 ユーリ・レーリヒ著 藤塚正道・鈴木美保子訳 連合出版 1985
シルクロードの謎 前嶋信次 大和書房 1985
塞外民族史研究 上下 白鳥庫吉 岩波書店 1986
三蔵法師の旅を旅する 杉本茂春 編集工房ノア 1986
.シルクロード考古学  全4巻 樋口隆康 法蔵館 1986
西安からカシュガルへ 旺文社文庫 長沢和俊 旺文社 1986
敦煌物語 中国の都城3 集英社 1987
敦煌資料による中国語史の研究 東洋学叢書 高田時雄 創文社 1988
敦煌・吐魯蕃発見社会経済史料集3(全2冊) 東洋文庫編 汲古書院 1988
ならシルクロード博覧会公式ガイドブック 財団法人なら・シルクロード博協会 1988
私のシルクロード 細呂木千鶴子著 大阪書籍 1988
流砂の楼蘭 玉木重輝 白水社 1988
敦煌の伝説 上下 陳鈺編 東京美術 1989
シルクロードの謎 光文社文庫 町田隆吉 光文社 1989
敦煌の文学文献 講座敦煌9 金岡照光編 大東出版社 1990
敦煌仏教の研究 上山大峻 法蔵館 1990
シルクロードの開拓者 張騫 田川純三著 筑摩書房 1991
西域 後藤正治写真集 日本カメラ社 1992
西域仏跡紀行 井上靖 法蔵館 1992
漢代以前のシルクロード 川又正智 雄山閣 2006
図説シルクロード文化史 ヴァレリー・ハンセン著 田口未和訳 原書房 2016
ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王の謎 山田勝久、児島建次郎、森谷公俊 雄山閣 2016
シルクロードに仏跡を訪ねて 大谷探検隊紀行 本多隆成 吉川弘文館 2016
「敦煌」と日本人 中公選書 榎本泰子 中央公論新社 2021

 

 

 

 

 

2026年4月24日 (金)

ミッデルハルニスの並木道

    むかしは学校に美術商が複製画の販売によく来ていた。一枚でも子供の小遣いで買うにはかなり高かったのでもっぱら見るだけだったが、強く印象に残る絵画がある。泰西名画といわれる一種だが、雲の多い高い空の下、画面の中央を遠くにまでつづく田園の並木道。遠近法と左右対称のシンメトリーの構図のお手本として美術の教科書にもよく採りあげられることが多い絵だ。向かって左側には高い塔のような建物、右側には民家が描かれている。人物も絵の中には数人描かれていて、ロイスダールの絵のように暗い感じはしないが、やはり物悲しい詩情が漂う。それはロンドンナショナルギャラリーが所蔵する「ミッデルハルニスの並木道」(1689)というマインデルト・ホッベマ(1638-1709)の17世紀オランダ風景画の傑作である。

    ホッベマという画家について、あまり詳しいことは知らないが、ロイスダールの弟子だったが、1688年に結婚し、アムステルダムの葡萄酒および油の計量器検定官として働き、そのため一時画家は断念したかにみえたが、1689年に大胆な遠近法をとりいれた代表作「ミッデルハルニスの並木道」を完成させ、彼の名は美術史に永遠に刻まれたということである。

   ところで、オランダにはこのようなポプラ並木が実際にあるのだろうか。現在、小村ミッデルハニルスにはこの並木道はないし、また当時存在したという確証もないという。いずれにしてもなんらかの形で実際の風景に触発されたにしても、この作品はホッベマ自身の自由な構想の所産と考えるべきであろう。ホッベマの作品はそれほど多く残されていないが、バルビゾン派の先駆的存在としてもっと評価されてもいいように思う。

   ところで美術史のなかで、いつ頃、どのような過程をへて風景画が誕生したのかを問うてみるのは、興味深いことである。西洋では、ローマの絵画で風景は背景として描かれ、中世の宗教画でも要素的扱いとされていたが、ルネサンスの時代において自然認識の深化とともに遠近法が確立され、自然風物の背景が重視されるように至った。17世紀オランダでロイスダール、ゴイエン、ホッベマ、ベルメールらが自然風景を写実的に描いて風景画が確立されるようになったことは一般によく知られているが、それ以前から中世の12ヵ月の月暦図のなかに年中行事や風景が描かれていたり、ルネサンス期のネーデルラントの画家ヒエロニムス・ボスの作品のなかに奇妙な風景が見出される。(メインデルト・ホッベマ,Meindert Hobbem,The avenue Middelharnis)

 

 

 

 

2026年2月23日 (月)

富士山と日本人

 本日は天皇誕生日であるが「富士山の日」でもある。富士山と天皇とはいかにも日本的である。富士山は古くから日本人のあこがれや信仰の対象として親しまれてた美しい山である。ある照明装置の会社が富士山のライトアップを計画したところ、反対の意見が多数寄せられた。霊峰富士山はすべての日本人がそこに回帰する心のふるさと、信仰の対象なのである。また外国人からみてもフジヤマは日本の象徴なのだ。戦時中、富士山をペンキで赤く染める作戦がたてられていたそうだ。ダウンフォール作戦という。富士山の姿をかえることで、日本人の戦意を失わせようと考えたから。ところが、とんでもないペンキの量と、ペンキを運ぶ飛行機が必要とわかり、作戦は中止となった。

  これまで、数多くの文人・画家・武人から一般の庶民にいたるまで、あらゆる階層の人びとが富士を語り、作品に表現している。だがなぜ日本人は富士山を三峰に描くのだろうか。実際にはほとんど三峰には見えない。藤原成一は「三峰に富士山が描かれた場合は、これは普通の絵ではなく、聖なる絵、聖画といっていい」と言う(NHK「美の壺」276)。鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立された。室町時代に描かれた「富士曼荼羅図」は現存する最初の三峰型富士である。仏の三尊様式にのっとって、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来の姿が象徴されている。(参考:天野紀代子・澤登寛聡編「富士山と日本人の心性」)  Operation Downfall、2月23日

 

Sattamihofuji1

 

 

2026年2月 3日 (火)

安源へ赴く毛主席

Img_0001

     安源へ赴く毛主席 1968年

  無名の画学生であった劉春華(リュウ・チュンホワ)が大学の卒業制作として描いた作品。若き毛沢東が共産主義革命の志をもって江西省安源へ向かう颯爽とした姿を描いたもので、模範的なテーマと表現であると評価され、各家庭に行き渡るほど膨大な量のポスターが印刷され社会に流布した。「安源へ赴く毛主席」は、単なる文化大革命期のプロパガンダ・ポスターというより、時代と社会をイメージとして人びとの脳裏に強烈に記憶されている。

 毛沢東は1934年に1万キロに及ぶ長正を行い、その途中、1935年1月15日、貴州省遵義で政治局拡大会議を行い全党的指導性を確立した。

2026年1月31日 (土)

オランダの集団肖像画

Photo_2

 

    レムブラント(1606-1669)の「トゥルプ博士の解剖学講義」は革新的な創意によって、全く新しい集団肖像画をつくりあげた。この絵の成功により、彼はいわゆる流行作家となったのである。ニコラース・トゥルプは著名な医者として知られていただけでなく、アムステルダム市長を4期も務めた人でもあった。本図は、1632年1月31日に行われた通称キットなる28歳の死刑囚の解剖場面を表わしたものと考えられている。

    集団肖像画はオランダ特有の伝統で、16世紀に起源を発し、17世紀において、レンブラントを頂点として、他に類をみないジャンルの芸術を開花させた。各種組合や自警団、医師団、慈善団体が自分たちの会館の壁画を飾るために依頼したことから始まる。ときには20人もが一堂に描かれたが、構図はおおむね変化がなく、モデルが横一列か扇形に並んだ。この伝統を打ち破ったのがレンブラントのきわめて独創的な集団肖像画である。「トゥルプ博士の解剖学講義」、「夜警」(1642年)、「アムステルダム布地組合の品質鑑査官たち」(1661-1662年)。近刊書としてアロイス・リーグル著「オランダ集団肖像画」の翻訳が中央公論美術出版からでている。収録されている画家は、コルネリス・ケテル、ウェルネル・ファン・ファルケルト、トーマス・デ・ケイセル(1596-1667)、バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト、フランス・ハルス(1582-1666)ほか。

   レンブラントは20代の末にはアムステルダム随一の人気画家となったが、晩年は経済的に恵まれず破産した。当時の人々は彼の弟子たちが描く口あたりのいい絵のほうを好んだ。レンブラントが美術史における最高の画家と認められるようになったのは、ようやく19世紀になってからである。

2026年1月 7日 (水)

浮世絵の変遷(元禄から幕末まで)

Photo  本日は文政8年(1825)のこの日、役者絵や美人画で絶大な人気を得た初代歌川豊国が死去した。豊国の活動時期は天明から寛政、文化文政と50年ちかくにわたる。浮世絵は江戸の庶民社会に栄えた風俗画の一種である。遊里や歌舞伎など「浮世」(庶民階級抬頭の江戸時代初期に生れた流行語で、享楽的現地とか、好色的、当世風などの意に用いられた)の風俗をもっぱら題材としたので、この新様式の絵画を「浮世絵」という新語で呼び、天和年間(1681-1684)には、すでに使用例が見出される。墨摺から出発し、それにおおまかな彩色を加える丹絵、さらには最初の色刷の段階である紅摺絵とすすむ。つづいて明和年間、春信が多色版画の錦絵を創始、「江戸絵」とよばれた。浮世絵は木版画と肉筆画とがあるが、初期の画家および少数の例外を除いて、浮世絵師は版画を専門とし、肉筆画は余技的制作にすぎなかった。浮世絵は美人画と役者絵が二大人気ジャンルであるが、このほか好色的な春画と呼ばれるポルノグラフィーも人気が高かった。もちろん中学美術では、これら春画を除いた作品が紹介されている。一般に六大浮世絵師とは、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、写楽、北斎、広重を言うが、彼ら以外にも江戸の風俗を見事に描いた浮世絵師たくさんいた。菱川師宣、鳥居清信、奥村政信、西川裕信、宮川長春、北尾重政、勝川春草、勝川春潮、勝川春英、鳥居清長、窪俊満、鳥文斎栄之、渓斎英泉、歌川国芳、歌川豊国、歌川国政、歌川国貞、豊原国周、月岡芳年、河鍋暁斎等。画像は鳥文斎栄之の「青楼芸者選 いつとみ」。歌麿のライバルで清楚で慎ましやかな全身美人画で人気を博した。(1月7日)

 

 

 

 

 

2025年11月 8日 (土)

ルーヴル美術館

    パリはいうまでもなく世界で最も美しい観光都市であり、主要な名所旧蹟を訪れるだけでも数日間は要する。ルーヴル界隈の美術館、博物館だけでも大小100近くある。なかでもルーヴル美術館は世界中から年間800万人の来館者が訪れる。美術品が40万点以上収蔵しており、3万5000点が展示されている。宮殿の美術品を公開したのは1763年11月8日のことで、ルーヴル美術館のはじまりである。

    建物は3翼に分かれており展示は、リシュリー翼、ドノン翼、シュリー翼からなっている。フィリップ2世(在位1180-1223)が1200年ころにパリ右岸の町を防備するために要塞を築いたのがはじまりで、14世紀にシャルル5世、16世紀にフランソワ1世(在位1515-1547)が改修して王の居城に改め、次いでアンリ2世(在位1547-1559)が改造拡張し、その後も大規模な工事が続けられた。宮殿ルーヴルが美術館に生まれ変わったのは1793年8月10日。この時、王家の美術品は市民のものとなった。ほぼ現在の形になったのは、19世紀ナポレオン3世の時代である。このようにルーヴル美術館は開館以来250年以上の歴史を刻んできた。

代表的な作品
ミロのヴィーナス
サッカラの「書記座像」
プラクシテレス女神像
レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」
ヤン・ファン・エイク「宰相ロランの聖母」
フォンテーヌブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」
デューラー「自画像」
ルーベンス「マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸」
プーシエ「オダリスク」
フラゴナール「勉強」
モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール「ポンパドール夫人」
コロー「モルト・フォンテーヌの思い出」

 

Photo
「鉛筆をけずる若いデッサン画家」シャルダン 1737年

 

( keyword;Musee du Louvre )

2025年11月 1日 (土)

色彩の心理と象徴性

1007041735004099321

 

    韓国時代劇「大長今」や「同伊」などを見ると、煌びやかで美しい衣装が目にとまる。実は時代考証に忠実ではなく、かなり映像美を演出しているらしい。朝鮮半島では近代まで染色文化がなく、色のついた服を着ているのは宮中の王侯貴族だけで、庶民はみな白い服を着ていたという。ところが日本は飛鳥・奈良時代に大陸の先進文化に憧憬し、色彩文化の面でも、原色を多用する衣装が移入された。たが894年の遣唐使廃止により、10世紀には、襲色目と称する日本の自然環境に合致する独自の美意識を取り入れた国風文化が確立された。ところで古代の色彩は、高松塚古墳やキトラ古墳の彩色などをみても陰陽五行説に基づくている。それは平安時代、室町時代まで天皇=神として継承されている。五色とは青・赤・黄・白・黒であり、最上位に紫を置く。四神(青龍、朱雀(鳳凰)、白虎、玄武)、そして黄に対応する黄龍(麒麟)が相応する。神職が祭礼において着用する萌黄色は中央に対応する「黄」と同一と考えられ、神の存在を暗示している。なお陰陽五行と日本の民俗との関連については近年、吉野裕子の研究が知られている。「陰陽五行における色彩の象徴性」(「陰陽五行と日本の民俗」人文書院に所収)

 

Image Uid000069_20130508095002c38f8e78
 萌黄色は陰陽五行説において神を象徴する

 

Img04

 

 

2025年9月25日 (木)

芸術家たちに愛されたモンマルトル

Img_0002
 ハニー・リュティ  「サクレ・クール聖堂」

 

   モンマルトルはパリで一番高い丘にあり、現在でもパリの観光地として世界中から旅行客で賑わっている。サクレ・クール寺院左手のこじんまりしたテルトル広場に軒を並べたカフェ、レストランの前では大道芸人や似顔絵描きが屯したり、派手な色彩やきまり切った構図のどう見ても観光客用のお土産でしかない絵が販売されている。

   19世紀後半から、モンマルトル界隈はムーラン・ルージュやル・シャ・ノワール、カフェ・ゲルボワ、ディヴァン・ジャポネなどのキャバレーやミュージック・ホールが建ち並び、歓楽街となっていった。ヨハン・ヨンキント、カミーユ・ピサロ、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ドゥ・トゥールーズ・ロートレック、エドガー・ドガ、ピエール・オーギュスト・ルノワールなどの印象派画家たちがモンマルトルを制作の場とした。ルビック通り54番地はゴッホが1886年から2年間、弟のテオと共同生活を送ったアパルトマン。建物にはその証のプレートが飾られている。

   19世紀末から第一次大戦までのベル・エポックの時代には、世界中から画家・詩人・小説家など多くの芸術家たちが集まり、ここを活動の拠点とした。モンマルトルの「洗濯船」、モンパルナス近くの「蜂の巣」は、当時の画家たちのアトリエ兼アパートだった。パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、モディリアニ、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン、シュザンヌ・ヴァラドン、アンドレ・ドラン、ピエール・ブリソー、アルフレッド・ジャリ、ジャック・ヴィヨン、マックス・ジャコブ、レイモン・デュシャン・ヴィヨン、アンドレ・サルモン、サン=ポール・ルー、フランシス・カルコたちがモンマルトルで育っていった。

 

    1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の頂にサクレ・クール寺院が建設され、シンボルのようになった。

 

    第一次大戦後、フランス以外の国から芸術家たちがモンマルトルやモンパルナスに移り住むようになった。モディリアニ(イタリア)、パスキン(ブルガリア)、シャガール(ロシア)、キスリング(ポーランド)、スーティン(リトアニア)たちである。彼らにはフォービズムやキュビズムの画家たちのような特定の理論や主義があったわけではない。しかもフランス国外からきたユダヤ人だった。彼らはパリをこよなく愛し、そのフランス的な感受性に傾倒して大いにそれを養分としていった。彼らは「エコール・ド・パリ」の画家と呼ばれるようになった。彼ら以外にもユトリロ、ピカソ、グリス、ドンゲン、藤田嗣治(レオナール・フジタ)、マリー・ローランサン、ホアン・ミロ、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリあたりまで含める場合もある。

2025年9月22日 (月)

フランスの美術館・博物館

 パリ・ルーブル美術館では、近く全所蔵品約50万点の画像を無料でオンライン公開するという。パリだけでも大小あわせて130を超える美術館・博物館がある。日本では美術館・博物館という区別が明示されるが、フランスではすべてミュージアム(ミュゼ)である。だから、フランスの展示施設を日本語に直すときには、収蔵品の性格にしたがって、ルーヴル美術館とか自然史博物館とか、選択がなされている。ルーヴル美術館は古代から19世紀にわたり、ルーヴルの続き、つまり19世紀の終わりから20世紀に関する芸術は、オルセー美術館と国立現代美術館が紹介している。パリにはルーヴル、オルセー、ポンピドーセンターといった有名美術館のほか、オランジュリー美術館、ギメ美術館、ピカソ美術館、パリ市立近代美術館、国立近代美術館、パリ工芸博物館、プティ・パレ美術館、マルモッタン美術館、カリナヴァレ美術館、市立近代美術館、モンパルナス美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ジャックマール・アンドレ美術館、バカラ・ギャラリー・ミュージアム、コニャック・ジェイ美術館、ルイ・ヴィトン財団美術館、カルティエ現代美術館、クリュニー中世美術館、ダリ美術館、ドラクロワ美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ロマン派美術館、ロダン美術館、ブールデル美術館、マイヨール美術館、パリ市立ガリエラ・モード美術館、建築・文化博物館、国立自然歴史博物館。欧州写真博物館。アラブ世界研究所。スーピース館。チェルヌスキ美術館(パリ市立アジア芸術美術館)がある。このほかモンマルトルにはゴッホの像で知られるザッキン美術館や素朴派の画家たちの作品を集めたパリ市立アル・サン・ピエール素朴派美術館、モンマルトル博物館がある。パリ郊外にはコンデ美術館。ここには世界で一番美しい本といわれる「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」が所蔵されている。南フランスにも特色ある美術館がある。マーグ財団美術館にはシャガール、ブラック、ジャコメッティなど、20世紀を代表する芸術家たちの作品が展示されている。ニースにはマティス美術館やマルク・シャガール美術館がある。

Musee_1
  ジャックマール・アンドレ美術館

 

  そしてモンソー通り沿いに建つニッシム・ド・カモンド美術館。19世紀末のユダヤ人豪商モイズ・ド・カモンド伯爵(1860-1935)の邸宅を改装して一般公開している。ゴブラン織りのタピストリー、棚にはセーブルの食器セット、壁にはヴェネツィア派の絵画、図書室、と当時のパリの香気が漂う。(Paris,Nissim de Camondo)

 

Abrahamsalomonnissimdecamondo
祖父アブラハム・ソロモン・カモンド(左)、ニッシム・ド・カモンド(右) 1868年

 

  セーヌ川沿いにあるケ・ブランリ美術館は原始美術のコレクター、ジャック・ケルシャン(1942-2001)が収集したアフリカ・アジア・オセアニア・南北アメリカの民俗芸術品を展示している

 

Quai_branly2
 ケ・ブランリ美術館

 

  欧州初公開された「風神雷神図屏風」。チェルヌスキ美術館はパリ8区、モンソー公園沿いのヴェラスケス通り7番地にある。

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2026年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31