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2008年3月10日 (月)

るんは風の中

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   ある日、アキラは高校に通う途中で、運命の少女と出会った。と、いってもそれはインスタント・コーヒーの広告に写った少女である。アキラはその少女に恋をした。ポスターの少女も当たり前のようにアキラに話しかけた。アキラはそのポスターをはがして家に持って帰る。

「よし、きみの名は、るんだ!」

   アキラはいつも、るんと一緒にいたい。学校へもポスターを持ち歩いた。二人の交際は深まっていく。

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   アキラは新しい学校にも馴染めず、一人で悩んでいた。人生の目的も進路もわからない。しかし時間だけが過ぎていく。るんだけがすべてだった。アキラは「ぼくは、るんがすきだ。できれば、きみのいる止まった世界にぼくもはいりたい!」

   るんは言った。「それは無理よ。だってあたしは思い出だけなんですもの。だからとまつたまま。未来はないの。あたしこそあなたがうらやましいわ。あなたには人生があるもの」

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  ある日、写真のモデルになった女性の娘が訪ねてきた。るんとそっくりである。るんは「あたしをはがして。アキラさん、あたしのつもりで彼女と交際しなさいよ。ね、それがいちばんいいのよ。」アキラは「だけど彼女はきみじゃない!」「アキラさん、さようなら。彼女と仲よくね」「風のバカヤロッ。るんを返せっ。るん!!」

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 るんは風の中

 るんは風の中

 思い出の空のかなたへ

 とび去っていった…

          (引用:手塚治虫「るんは風の中」)

2008年1月14日 (月)

運命の赤い糸

   将来結ばれる男と女は、互いの小指と小指が赤い糸で結ばれているというのは、何時頃から言われたのだろう。流行歌で確認できるところでは、1987年の南野陽子の「秋のIndication」のB面「ひとつ前の赤い糸」の歌詞に「彼ならひとつ前の赤い糸よ」「ときどきもつれてもね ふたりの糸 ひきちぎらないで」(小倉めぐみ作詞)というのがある。もちろんもっと古くさかのぼれるだろう。起源は、なんと中国の唐の時代に「赤縄」(せきじょう)という語があったという。

   韋固(いこ)という青年が結婚の相手を捜していると、月の光で読書をしている老人に出会った。この老人は赤い縄の入った袋を持っている。韋固は何のために持っているのかと聞いた。すると老人は「この赤い縄は夫婦となる人の足をつなぐもので、結び合わせれば契りは不変となる」と答えた。韋固は老人に連れられて市場にきた。一人の片目の老婆が三歳ほどの女の子を抱いている。見るからに汚くて醜い子である。老人はその子を指して言った。「あれがお前さんの女房だ」韋固は思わず怒りが込み上げてきた。「殺してもいいですか」「あの娘には富貴の運がある。一緒になれば幸せになれる」言い終わると老人はいなくなった。韋固は召使に女の子を殺すように命じた。だが召使は「心臓をめがけて突き刺したが、外れて、眉間に刺さり、逃げてきました」と答えた。

   その後、韋固はなかなか縁談がまとまらなかった。しかし14年後、とても美しい17歳の娘との縁談がまとまった。だがその娘の額には傷がある。娘は、貧しくて伯母さんに育てられたという。韋固は「伯母さんは片方の目が見えないのではないでか」とたずねた。娘は驚いて「どうして御存知ですの」韋固は「お前を刺した者はわしがよこしたものだ。なんと不思議なことだ」韋固はそう言うと、妻にことのすべてを話した。このときより、夫婦はますます互いを敬い愛するようになった。

   (この話は「定婚店」という唐代の伝奇小説で「太平広記」「続幽怪録」に見える。)

2008年1月11日 (金)

天国に結ぶ恋

    調所五郎、24歳、慶応義塾大学理財科3年生。湯山八重子、21歳、頌栄高女卒業生。二人が運命の出会いをしたのは、芝白金の三光キリスト教会だった。高女最上級生の八重子と、慶大にはいったばかりの五郎。八重子は五郎の眼差に、また五郎は八重子の楚々とした姿に、たちまち惹かれあった。

   「ぼくは継母が嫌いなんだ」と五郎。八重子も、「卒業しても東京にいたいわ」と胸の悩みをうちあける。語り合い、いたわりあいしているうちに、愛情をおぼえ、恋を意識するようになった。が、逢瀬はつづかない。八重子が卒業と同時に、郷里静岡へ呼び戻されてしまったのである。「また今日も父からの結婚話。もう耐えられそうもありません。」八重子の苦しい心情は、そのまま手紙で五郎に伝えられたが、東京と静岡に離れていては、どうしようもない。

   この間、八重子は思いきって五郎との結婚を父庄作に願い出たことがある。だが、当時は自由に恋愛が認められる時代ではない。一蹴されたばかりか、激しく罵倒される。しかも、それからというもの、五郎の手紙がプツリと途絶えてしまったのである。いまでは考えられないが、家人が手紙の抜き取りをやったのだ。そういったことを知ってから、八重子の五郎に対する思慕の情は急激に危険性を帯びていったのである。

   「五郎さん、死にましょう。天国へ行ってあなたの妻にしてください」昭和7年5月、八重子は思いつめた表情で上京した。五郎との再会は、想い出の三光キリスト教会。「天国に結ぶ恋」と歌われ、映画にもなったこの二人の心中事件が、坂田山心中である。坂田山は神奈川県中郡大磯町にある。この年、坂田山では6月から12月までの間に20組の心中事件が発生した。(参考:「歌謡の百年 3」実業之友社)

2008年1月 5日 (土)

俵万智と水原紫苑

「この味いいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

    昭和62年5月に発売された俵万智(昭和37年生)の歌集「サラダ記念日」は、このような口語体を交えた新鮮な言語感覚がブームとなり、年末までに250万部が売れた。飾り気のない日常感覚のなかで失恋や不倫をも明るくうたいあげる。

焼肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き

水密桃の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う

眠りつつ髪をまさぐる指やさし夢の中でも私を抱くの

チューリップの花咲くような明るさであなた私を拉致せよ二月

    *   *   *   *   *   *   *

    現代女流歌人として注目されているのが水原紫苑(昭和34年生)。端正な文語文体によって、見えないものを鋭い感受性でとらえている。

菜の花の黄溢れたりゆふぐれの素焼きの壷に処女のからだに

まつぶさに眺めてかなし月こそは全き裸身と思ひいたりぬ

ふり向けば椿は未だ咲きてをり純潔といふ奇蹟を信ず

死のうすき舌を感ずるそびらさへ与へけしな椿のごとく

2007年11月 4日 (日)

ベアトリス・へイスティングス

    1914年、モディリアーニ(1884-1920)は、ザッキン(1890-1967)の紹介でイギリスの女流詩人でジャーナリストであるベアトリス・へイスティングス(1879-1943)を知る。彼女は北アフリカに生まれ、へイスティングスと結婚するも、間もなく別居。ロンドンへ行き週刊誌「ニューエイジ」のパリ特派員としてモンパルナスのノルヴァン街13番地に住んでいた。詩人エズラ・バウンドを発見し、小説家キャサリン・マンスフィールドと交友があった。モディリアーニは教養が高く、女権論者の5歳年上のベアトリスに惹かれた。やがて2人は恋仲となり同棲する。ベアトリスをめぐる詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)との三角関係も1916年半ばには破局を迎えた。その後、ベアトリスはかつてモディリアーニから紹介されたレイモン・ラディゲ(1903-1923)と関係を持つようになる。ラディゲは年上女性との体験をもとに「肉体の悪魔」を1919年ころから書き始め、1923年に完成しベストセラーとなった。ラディゲは腸チフスにかかり、1923年12月12日、パリの病院で20歳の若い生涯を閉じた。ベアトリスはその後ファシズムのシンパとなったが、1943年に自殺している。翌年、ベアトリスの昔の恋人マックス・ジャコブもユダヤ人強制収容所で病死している。

2007年11月 2日 (金)

ハンカチと別れ

   ハンカチが服飾品として盛んに使われだしたのはブルボン王朝のフランス宮廷でのこと。貴婦人たちが絹のハンカチの美しさを競いあった。当時はロココ調が流行し、長方形、三角形、丸型など様々な形のものが存在していた。そこでマリー・アントワネットは正方形が使いやすいとルイ16世に進言して、1785年に「ハンカチのサイズは縦横同一にせよ」という法令を布告させた。それに因んで日本ハンカチーフ協会では11月3日を「ハンカチの日」に制定した。(昭和58年)理由はマリー・アントワネットの誕生日(11月2日)に近い祝日による。

    ハンカチはかつてはイニシャルや紋様を入れた愛の贈り物の定番だった。シェークスピアの「オセロ」では、オセロが妻デスデモーナに贈った一枚のハンカチが悲劇をもたらすことになる。また最近では、ハンカチを恋人に贈ると「もうお別れしましょう」という意味になるという。トレンディ・ドラマの先駆けとなった「東京ラブストーリー」の最終回で、赤名リカ(鈴木保奈美)が永尾完治(織田裕二)の故郷を訪れた帰りに、駅のホームの柵に結びつけたハンカチ。それには赤い口紅で「バンバイ カンチ」と書かれてあった。

2007年10月25日 (木)

安珍清姫

   安珍清姫の伝説は「本朝法華験記」や「今昔物語集」に見られるが、熊野詣での若僧と牟婁郡の宿の女主とあるだけで、安珍の名は「元亨釈書」、清姫は根津美術館蔵「賢学草紙」に出てくるのが最も古い。和歌山県日高郡の道成寺に「道成寺縁起絵巻」が伝来するが、名は見えない。

   物語は、熊野詣での奥州白河の安珍という若僧が紀州牟婁郡の真砂の里で庄司清重の家に泊まった。庄司の娘はみめうるわしく清姫といった。安珍は行く末はわが妻にせんとひそかに清姫に語った。ところが、ある夜、安珍は障子に映った蛇身の清姫を見て、その物凄い形相に恐れをなした。それとは知らず姫は安珍を慕いつづけた。安珍は熊野詣での帰りにきっと立ち寄って添い遂げましょうと約束して旅立った。けれども、熊野詣でをすませた頃になっても、安珍は戻って来なかった。裏切られた清姫は、真砂の里から、田辺、印南と、安珍を追って走る。清姫の姿は今は鬼女のような姿に変身していた。やがて安珍に追いついたものの、人違いと言われて清姫は激怒する。蛇身となって、日高川を渡る。安珍は女人禁制の道成寺の釣鐘の中に隠れるが、蛇となった清姫は鐘に巻きつくと炎となって燃えあがった。蛇が去ったあと、炭と化した安珍の亡骸があった。寺の老僧の夢に二匹の蛇が現われ、法華経の書写と回向をたのむので、そのとおりにすると、再び夢で、天人となったことを告げたという。この安珍清姫の伝説に基づいて、謡曲「道成寺」、浄瑠璃「日高川入相桜」、歌舞伎「京鹿子娘道成寺」などが成った。

三宅島と生島新五郎

    三宅島は東京から南南西175km伊豆諸島のほぼ中央で、大島、八丈島についで三番目に大きい島である。事代主命が渡島し、付近の島々を治めたという伝説があり、12の延喜式内社があることから宮家島といったのが島名の起源という。また8世紀に多治比直人三宅麿が流されたことによるとの説もある。源為朝の居住跡、竹内式部の墓などもある。江戸時代は流刑地で「絵島事件」の生島新五郎は正徳4年(1714)から寛保2年(1742)まで28年間、この島に流された。

    生島新五郎(1671-1743)は、寛文11年、大坂に生まれ、貞亨元年に野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ。元禄4年、生島新五郎と改名。徳川家継の時、正徳4年1月12日、大奥御年寄の絵島(1681-1741)が寛永寺、増上寺へ参詣した帰途、当時人気絶頂の歌舞伎役者・生島新五郎の山村座に立ち寄ったことが露見し、大奥の門限に遅れ、いわゆる「絵島事件」にまで発展した。かくて絵島は信濃高遠(現・長野県伊那市)へ、生島は三宅島へ流され、そのほか処罰者は大奥・御用商人・歌舞伎界に及んで1500人にものぼった。28年間、囲屋敷幽閉の末、病に倒れた絵島は生島の名を呼びつづけて、その生涯を終わった。寛保2年2月、生島は徳川吉宗により赦免され、江戸に戻ったが翌年、小網町で没した。

   舟橋聖一の新聞小説「絵島生島」(東京新聞昭和28年9月~29年11月)を原作に淡島千景、市川海老蔵主演で「絵島生島」(大庭秀雄監督、昭和30年)が映画化されている。

2007年10月23日 (火)

お夏清十郎悲話

   姫路本町の目抜き通りに店を構える但馬屋九左衛門。その娘にお夏という美少女がいた。次々と持ち込まれる縁談にもうひとつ気乗りしないまま16歳の春を迎えたある日、米問屋但馬屋に新しい手代が雇われた。それが清十郎である。男前で物腰もやさしく、帯の中に昔の恋文を無造作に縫い込んであるのが憎らしい。

   お夏はいつしか恋に落ちる。春の花も闇、雪の曙も白くは見えず、夕暮れに鳴く鳥の声も耳に入らなかった。純真で一途な思いが清十郎にも通じ、二人は手に手を取り合って駆け落ちするが、追手に捕らえられ座敷牢に入れられた。やがて、清十郎が窃盗の濡れ衣を着せられ、船場川下流の一枚橋の東の河原で打ち首になったことを知ったお夏は発狂する。そして、3ヵ月後、ようやく正気に返ったお夏は、頭を丸めて出家し、清十郎の菩提を弔うのであった。(一説によると、お夏は小豆島に縁づいたといわれる。)お夏清十郎の悲話は井原西鶴(1642-1693)の『好色五人女』巻1「姿姫路清十郎物語』、近松門左衛門(1653-1724)「おなつ清十郎五十年忌歌念仏」などで全国に広まった。映画では昭和11年の田中絹代、林長二郎の「お夏清十郎」(犬塚稔監督)、昭和21年の高峰三枝子、市川右太衛門の「お夏清十郎」(木村恵吾監督)が有名。

2007年9月 7日 (金)

アレクサンドル・デュマと椿姫

    アレクサンドル・デュマの庶子、デュマ・フィス(1824-1895)は、はやくから父の友人の文学者たちと交わり、はなやかな社交界に出入りしていた。ある日、デュマは連れの男とヴァリエテ劇場に行った。「あそこの女を見たかい」と、デュマは連れの男にたづねた。「やめてけよ。あの女にはとても近づけやしない。あれはマリー・デュプレッシーだぜ」と言った。

  彼女こそ椿姫の主人公マルグリット・ゴーチェ、その実在のモデルとなった娼婦マリー・デュプレシー(1824-1847)である。当時の批評家ジュール・ジャナンによれば、彼女は娼婦ながら、あたかも貴族の女のような人品をそなえていたそうだ。マリーの本名は、アルフォンシーヌ・プレシー。父は行商人で、母は地主の娘だった。13歳で男を知り、14歳で妾になり、16歳でパリに出てきた。洗濯屋や洋服屋を転々としながら、グリゼットとなり、男に囲われる生活をする。フェルナン・ド・モンギュヨン、アンリ・ド・コンタデ、エドゥアール・ドレッセール、グラモン公爵の子息ド・ギッシュなどに見初められ、愛人となる。ギッシュはマリーに貴族的な教育をして、マリー・デュプレシーと名前を変える。その後もロシア人の78歳のスタックルベルグ伯爵の愛人になる。

   若くて長身の美男だったデュマはマリーとの愉楽を次のような詩にしている。

あの夜をおぼえているか?恋人よ。

みだれたからだをキスのもとでよじらせ

はげしい情熱に焼きつくされて

疲れた感覚のなかに待ち望む眠りを見だしたあの夜を!

   彼女の好む花はただ一つ、椿だった。椿は華やかでいて、どこかはかなげだ。その花のように、二人の関係は長くは続かなかった。コルチザン(高級娼婦)と交際するだけの金を青年作家のデュマ・フィスは持ちあわせなかったからだ。

   1846年、マリーはエドワード・ベレゴー伯爵と結婚したが、1年後の1847年2月3日、23歳の若さでその生涯を閉じた。椿の花はしおれることなく、一番美しい時期に、急に花がポトリと落ちるので、哀れなコルチザンの一生を象徴しているようである。パリのモンマルトルにあるマリー・デュプレシーの墓は、今でも献花が絶えないという。

2007年8月27日 (月)

大正三美人

     明治41年3月、アメリカのヘラルド・トリビューンという新聞社から依頼されて、日本で初めての全国美人写真コンクールがおこなわれた。1位には、九州・小倉市長・末弘直方の令嬢で学習院中等科3年生の末弘ヒロ子(数え年16歳、1892-1942)が選ばれた。日本第1位の彼女は世界では第6位として入選した。しかし、このことが学校で問題となった。当時の学習院長・乃木稀典は粋な計らいをした。末弘ヒロ子を中途退学させて、乃木将軍夫妻の仲人で、野津道貫元帥の長男・野津鎮之助と結婚させ、伯爵夫人となった。

   このときの令嬢たちの写真を見ると、細面の愁い顔の美人は少なく、明眸皓歯の明るい感じの美人が多い。大正になると、映画女優が注目されだして、芸者型美人、令嬢型美人と分化される。

    明治・大正時代の美人といえば、一中節の名手として有名だった日向きん子がいた。彼女は純粋の日本美人とは違っていたという。因みに日向きん子は藤田まことの伯母にあたるという。

   九条武子(1887-1928)、柳原白蓮(1885-1967)、江木欣々(1877-1930)を大正三美人ということがある。九条武子は旧姓・大谷武子。明治20年10月20日、京都西本願寺大谷光尊の二女として生まれる。明治42年、男爵九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られた。柳原白蓮は北小路資武と結婚したがほどなく、離婚。九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚したが、宮崎龍介との恋愛で話題をふりまく。大正12年、宮崎と結婚し、情熱的歌人として知られた。江木欣々は、新橋の芸者で、法律学者江木衷(1858-1925)と結婚し、社交界で名を知られた。昭和5年2月20日、早川徳次(1893-1980)の家で縊死。

2007年7月30日 (月)

ローランサンとアポリネール

    マリー・ローランサンは、1883年10月31日、パリで生まれた。私立の画塾で学び、キュビズムの仲間たちと出会い人気者となる。1907年、ローランサンはピカソを介して詩人のアポリネール(1880-1918)と知りあい、ふたりは熱い仲となる。

   しかし、この恋は実らなかった。アポリネールはモナリザ盗難事件への関与を疑われてサンテ監獄に入ることとなった。ローランサンの母は、「そんな男に娘はやれない」と反対し、5年に及んだ恋は消えた。アポリネールはこのときのつらい別れの思いを詩「ミラボー橋」にうたった。

    ミラボー橋のしたセーヌは流れ

   わたしたちの恋も

   せめて思い出そうか

   悩みのあとには喜びが来ると

    アポリネールと別れ、母の死を看取ったローランサンは、1914年、男爵で画家のドイツ人ヴェッチェンと結婚する。だが、第一次大戦が勃発し、敵国人となった夫妻は中立国スペインに亡命する。夫はやがてアルコール依存症でローランサンを悩ませ、7年後に離婚する。

    アポリネールは第一次大戦に志願して、1916年に頭部を負傷、3度の手術を受けるが完治しないままスペイン風邪で38歳で死亡する。1921年、パリに戻ったローランサンは、気品のある高級感でパリで売れっ子の画家となり成功をおさめた。絵画をはじめ版画、詩、舞台美術など多くの分野で活躍した。1956年6月8日、パリで心臓発作で死去、享年72歳。

2007年7月26日 (木)

山本五十六の戦時下の恋

 うつし絵に口づけしつつ幾たびか

  千代子と呼びてけふも暮しつ

      *

 おほろかに吾し思はばかくばかり

  妹が夢のみ毎夜に見むや

    海軍少将・山本五十六が新橋芸者の梅龍(当時28歳)初めて会ったのは、昭和8年、築地の料亭錦水の宴席でのことだった。梅龍、本名は河合千代子(1904-1989)は家業は株屋であったが、関東大震災後、没落し、一時、ある資産家の世話になったが、やがてその人とも別れ、1年前からお座敷に出ていた。宴席で吸い物が出た。五十六は日本海海戦で左二本指を失っていたため、吸いついたお椀の蓋をとるのがなかなかできなかった。梅龍が「とってあげましょうか」と声をかけた。それに対して五十六は、「自分のことは自分でする」と怒ったように答え、それをきいて、梅龍は「いやな人」と思ったという。しかし、二人の仲は急速に深くなった。戦時下、寸暇を惜しんで二人は会い、手紙を交換する。妻子ある元帥と芸者の10年に及んだ恋は、五十六のブーゲンビル上空での戦死により、咲くことなくはかなく散った。(参考:渡辺淳一「キッスキッスキッス」小学館)

2007年4月18日 (水)

藤村の失恋と漂白の旅

   明治29年9月、25歳の島崎藤村は長く住みなれた東京を離れ、仙台の東北学院の英語教師になった。それは失恋、生家の没落、北村透谷の自殺など次々におとずれた不幸による孤独の道に徹するための旅であった。とくに初恋の人、佐藤輔子の死(明治28年8月)の知らせに絶望した。そして藤村は宮城野の宿において、苛酷な人生体験は深く内に潜んで詩人の真の生命となり、まことの自我の声としての詩作が次々とうまれた。これらの諸作が明治30年、まとめられて「若菜集」として世に送られた。

       初恋

 まだあげ初めし前髪の

 林檎のもとに見えしとき

 前にさしたる花櫛の

 花ある君と思いけり

 数ある恋の詩の中でも、最も有名な、そしてすぐれた作品である。「まだあげ初めし前髪」というので、それまでお下げにしていた少女が、ようやく成熟期に達したばかりの年ごろとわかる。この少女は誰であろうか。藤村は22歳の時、明治女学校の教師となり、1歳年上の女生徒の佐藤輔子(さとうすけこ、1871-1895)にひそかな恋心を抱いた。もちろん、この「初恋」の詩のモデルはもっと幼い日の少女かもしれない。あるいは特定の女性ではなく、それまでの純情な悲恋が芸術として結晶したのかもしれない。しかし、輔子の郷里に近い仙台に移ったのは、輔子への慕情が藤村の胸中にあったのではないだろうか。

    佐藤輔子は、岩手県選出の代議士・佐藤昌蔵の五女。異母兄の佐藤昌介(1856-1939)はのちの北海道大学の総長となり、北大育ての親といわれる。佐藤輔子は明治27年に明治女学校高等科を卒業し、父母のいる花巻に帰り、翌年5月、許婚の札幌農学校講師・鹿討豊太郎(ししうちとよたろう)と結婚し、札幌へ移る。輔子はその僅か3か月後の8月に、24歳で病死している。

   島崎藤村は、明治26年1月30日、雪の中を鎌倉の星野天知を宅を訪ね、創刊された「文学界」を手にして語りあかした後、植村正久の一番町教会からも離脱し、わずか4ヵ月の教職も辞し、関西へのあてどのない旅に出た。

2007年4月11日 (水)

白蛇姫、野溝七生子

   大正5年、19歳の野溝七生子は同志社大学英文科専門部予科に入学した。夏ごろ、体調を崩し、比叡山で兄弟三人で療養生活を過ごしていた。そのころ、辻潤は伊藤野枝と別れて、「唯一者とその所有」を翻訳するために、友人の武林無想庵の紹介で訪れた比叡山で野溝七生子と出会った。辻は、わが心の永遠の女性として、彼女にオマージュを捧げている。

ふみにじられた雑草の

 最初の花束を

わが観自在白痴菩薩

 白蛇姫の御前にささぐ

 わがままにして従順なる汝の奴隷 風流外道跪拝

ただしこれは辻の片思いであった。辻潤の永遠の人、野溝七生子(のみぞなおこ)とはどういう女性なのだろうか。

    野溝七生子(1897-1987)。明治20年1月20日、父野溝甚四郎、母正尾の二女として、兵庫県姫路市で生まれる。野溝家は代々豊後竹田の在で、中川家に仕えた士族であった。大正12年、震災のために東洋大学が休校となり、実家に帰省。上京後の10月末頃、福岡日日新聞の懸賞小説募集広告を知り、「山梔(くちなし)」を応募し入選する。歌人の鎌田敬と同棲、戦後は東洋大学で文学を講じながら、ホテルに一人暮らす。昭和53年、瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」でのトラブルが話題となった。野溝は辻潤との交際に関する記載が事実でないことに激怒し、瀬戸内は謝罪した。それと前後して病気が進行しホテル滞在ができなくなり、老人専門病院に移った。昭和62年、2月12日、急逝心不全のために仁友病院で死去。90歳。

    野溝七生子にとっては辻潤との関係を取り沙汰されることは、迷惑なことであったであろう。しかし、辻にとっても七生子の影響は大きかったようだ。後年の辻の放浪生活はここから始まる。

2007年4月 9日 (月)

愛の勝利者、伊藤野枝

    新らしき女の道      伊藤野枝

 新らしい女は今までの女の歩み古した足跡を何時までもさがして歩いては行かない。新らしい女には新らしい女の道がある。新らしい女は多くの人々の行止まった處より更に進んで新らしい道を先導者として行く。新らしい道は古き道を辿る人々若しくは古き道を行き詰めた人々に未だ知られざる道である。又辿らうとする先導者にも初めての道である。新らしき道は何處から何處に到る道なのか分からない。従って未知に伴ふ危険と恐怖がある。(「青鞜」大正2年1月号)

  伊藤野枝(1895-1923)は、明治28年1月21日、福岡県糸島郡今宿村で、瓦職人の父伊藤亀吉、母ウメとの長女として生まれた。明治43年4月、上野女学校に入学する。上野女学校は、私立の5年生で、当時としては自由主義的な気風に満ちた学校だった。教頭の佐藤正次郎は、女性の地位向上を教育方針に掲げ、バーナード・リーチや英語教師の辻潤がいた。野枝は親からしいられた結婚に反発して、辻潤と結ばれた。野枝は青鞜の平塚らいてうに宛てて身の上相談の手紙を出している。数日後らいてうを訪ね、強制されている結婚を破棄する決意を述べ、助言を求めている。らいてうは野枝を励まし、援助を約束した。大正元年、野枝は青鞜社の編集員として働くようになる。野枝は、「新しき女の道」「この頃の感想」「染井より、あるいは中篇「動揺」などをつぎつぎに発表している。この年、野枝は18歳である。大正2年、木村荘太(1889-1950)は青鞜に発表した野枝の詩が気に入り、ラブレターを出した。野枝は木村の求愛をことわった。このころ社会主義者の大杉栄が「近代思想」に平塚らいてうと伊藤野枝とを比較した時評を書いている。

    こういっては甚だ失礼であるかも知れないが、(野枝が)あの暮らしでしかも女という永い間無知に育てられたものの間に生まれて、あれ程の明晰な文章と思想とを持ちえたことは、実に敬服に堪えない。

    辻潤は野枝にとってはシュティルナーなどの思想で近代的自我をめざめさせてくれた師ではあるが、しょせんは書斎と放浪のニヒリストにすぎなかった。そうした点で野枝は大杉栄の革命的理論と行動力につよくひかれるようになっていく。

   大杉栄には妻の安子(旧姓・堀安子)と「東京日日新聞」記者だった愛人の神近市子がいた。ここに伊藤野枝が現れたわけであるが、自由恋愛論者であった大杉は、三人に、経済的におたがいに自立すること、同棲せずに別居生活を送ること、たがいの自由を完全に尊重すること、三条を示して同意をとりつけ、大杉は保子と別れて麹町の福四万館に移り住んだ。

    大正5年4月、長男の一(まこと)を残し、二男の流二を背負って辻家を出た野枝は、千葉県御宿の上野屋旅館に移り、小説を書きはじめる。そこに腰を据えたのは、大阪毎日新聞の菊池幽芳から、野枝の作品を採用するという言質を得ていたからであった。しかし、執筆生活への野枝の期待は裏切られた。幽芳に送った原稿が、称賛の辞とともに送り返されてきたのである。大杉も原稿依頼がとだえるようになった。金がなくなったため二人は、本郷の菊富士ホテルに同棲するようになる。その年11月9日の夜、いわゆる日陰茶屋事件が起こった。神奈川県葉山の旅館「日陰茶屋」で神近市子(1888-1981)は伊藤野枝の出現による嫉妬から大杉栄の喉部を刺したという事件である。この刺傷事件が、主義者の堕落と乱脈を象徴する大スキャンダルとして、ジャーナリズムの好餌となったことはいうまでもない。

    しかし、この無残な結末は、大杉と三人の女たちの四角関係に決着をつけた。翌年、市子は4年の刑に服して下獄し、保子は大杉と正式に離婚した。結果、伊藤は愛の勝利者となったが、そのために、彼女はいっそう社会からも友人からも孤立しなければならなかった。しかし、彼女に後悔はなかった。大杉とともに歩く将来をかたく信じていたからである。その死が訪れるまでの6年間に、大杉との間に、野枝は一男四女をもうけている。野枝は「愛の夫婦生活」という記事で「私共を結びつけるもの」として大杉を「寛大な愛人であり、思いやり深い友人であり、信頼すべき先輩であり、同志」であると評している。

辻潤と伊藤野枝

    辻潤(1884-1944)は、明治36年、20歳のとき日本橋千代田尋常高等小学校の助教員となった。以来、ずっと教員生活を続けた。明治41年、浅草精華高等小学校に教鞭をとる。そして、辻潤が上野高等女学校へ転職したのは、明治42年4月、26歳の時であった。女子高生だった伊藤野枝(1895-1923)との恋愛事件で、辻潤はわずか4年にして上野高女を退職する。辻潤の人生は伊藤野枝との出会いが大きな転機であった。

    当時、野枝は学園新聞「敬愛タイムス」の編集をしていた。辻はその野枝の編集と文筆の才に感心させられた。そして辻は、野枝を育てるために、西欧の近代文学や思想を教えた。教師と生徒の親しい関係はしだいに恋愛へと育っていった。

   そのとき伊藤野枝には、親が決めた末松福太郎という婚約者がすでにいた。卒業すると、野枝は郷里の福岡で挙式するが、9日目にはもう末松家を出て、東京へ戻り、辻と同棲するようになる。福太郎は、再三「ノエヲカエサネバウツタエル」と電報を打ってよこした。校長も「あくまで野枝を愛するなら、学校を辞めてからのことにしてもらいたい」と退職を促すような言い方をするので、辻は「それでは今日かぎり辞めさせていただきます」と啖呵を切って退職した。

    伊藤野枝は、辻潤によって新しい教養に導かれ、平塚らいてうの青鞜社に参加し、婦人解放運動にかかわっていく。辻潤との間には、二児をもうけながらも、夫に離婚を申し出てアナーキスト大杉栄に走った。そして大正12年、大杉栄とともに官憲によって扼殺される。

2007年3月 4日 (日)

山田美妙と田沢稲舟

    明治20年代半ば、樋口一葉と並び称せられる女流作家がいた。田沢稲舟(1874-1896)である。一葉が半井桃水に師事したように、稲舟は山形から上京して共立女子職業学校に学んだが、やがて山田美妙に師事した。稲舟の筆名は「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」(古今集東歌)に由来する。「医学修行」「しろばら」「小町湯」「五大堂」「唯我独尊」などがある。第二の一葉と呼ばれ、その原稿料は一葉の5倍で扱われたという。

    山田美妙(1868-1910)は、明治文壇で一番の美男であり、言文一致の新進作家として知られていた。明治22年1月の「国民之友」の小説「胡蝶」の渡辺省亭(1851-1918)が描いた挿絵の裸体画が世間の騒動となった。主人公の女性が武者と対面している絵柄であるが、明治期の裸体論争の第一号である。美妙は時代小説を中心に全盛期であり、美貌と才能に恵まれた稲舟とともに、やがて二人は大恋愛のうちに明治28年12月に結婚する。樋口一葉も二人の結婚を祝福するかのように、「結婚できてうらやましい」と日記に書いている。おそらく一葉と稲舟との間にはなんらかの交流があったのであろう。

   だが稲舟が幸福の絶頂にあったのは、ほんの短い期間だった。美妙の女癖の悪さと、姑との折り合いが悪く、稲舟は明治29年3月に郷里の山形県鶴岡五日町68番地に帰郷する。山田美妙は4月には西戸カメと再婚したが、稲舟は9月10日には急性肺炎により22歳で他界する。一葉も同年11月23日、24歳で亡くなっている。ところで稲舟の死因については、美妙との離婚の直後であったため誤報が飛び交い、自殺説が一般化されてしまった。その後、美妙は文壇から忘れ去られ、「大辞典」の編纂で生活の糧を得るという作家としては不遇な晩年であった。

2007年2月28日 (水)

二世紀にわたるキス

レディ・ハミルトンとネルソン提督の恋

   ロンドンのテートギャラリーにはジョージ・ロムニー(1734-1802)が描く「キルケーに扮したハミルトン夫人」(1782年)という作品が飾られている。ハミルトン夫人とはナポレオンのフランス艦隊を2度も撃破したイギリス海軍の英雄ネルソン提督の愛人としてヨーロッパにその名を知られた世紀の美女である。二人の恋物語はヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエ主演で「美女ありき」(1941年)という映画がつくられている。

   ハミルトン夫人(1765-1815)は本名はエミリー・リヨンといい、イギリスの貧しい鍛冶屋の娘であった。生後すぐに父は死亡、母と2人で貧しい暮らしをしていた。10代になるとロンドンに出て、子守り女として働くが、その美貌からパトロンがつくようになる。1780年ころエミリー・ハートという名でハリー・フェザストナフ卿の愛人となり、その後チャールズ・グレヴィル(後に夫となるウィリアム・ハミルトンの甥)と付き合う。グレヴィルの友人の画家ロムニーが彼女の美貌に驚嘆し、多くの肖像画を描いたのもこの頃である。ロムニーはエマを神話や歴史的なモチーフを加味してその美貌を賞賛した。

   チャールズ・グレヴィルは道楽者であったらしく、その借金の肩代わりをしてくれた叔父のヴィリアム・ダグラス・ハミルトン(1730-1803)にエマを譲り渡した。ハミルトンは火山研究と美術品の収集家でも知られた英国の駐ナポリ大使だった。1791年、60歳のハミルトンは26歳のエマと結婚した。これにより、エマは「レディ」の称号を得て。「レディ・ハミルトン」と呼ばれた。当時、ナポリ王国の社交界でエマの美貌は知られ、フランス語とイタリア語を流暢に話し、ナポリ王妃マリア・カロリーナとも親しい交流をもつようになった。ナポリ王国には強い軍隊はなく、フランス軍に攻められそうになったとき、イギリス海軍の指揮官ホレイショ・ネルソン(1765-1815)とハミルトン夫人との運命的な出会いが始まる。とくに1799年の大晦日から1800年にまたがる「二世紀にわたるキス」のエピソードは広く知られている。やがてハミルトン夫人とネルソンとの間には子どもまでできた。夫のハミルトンは高齢のためか二人の不倫を半ば公認していたようだ。ハミルトンが死ぬ時も夫人とネルソンが看病していたという。しかし世間の二人に対する風当たりは強かった。イギリス海軍は再びネルソンに出動要請を下す。1805年10月21日、ネルソンは「イギリスは諸君がそれぞれの義務を果たすことを望む」という言を合図に、トラファルガーの海戦に勝利するものの、英雄的な死をとげた。その後のハミルトン夫人の詳しい消息はわからないが、落魄のうちにフランスで死んだという。

2007年1月 8日 (月)

大正の自由主義恋愛、芳川鎌子

    大正5年から9年ごろにかけて、新聞はしばしば恋愛事件を報じた。大杉栄・神近市子の日蔭の茶屋事件(大正6年)、芳川伯爵若夫人の千葉心中事件(大正6年)、白蓮事件(大正10年)など、世間の好奇心をくすぐるような形でそれらの事件は報道された。それは恋愛問題や結婚問題について、婦人が独立の地位を要求し、男性の所有物から抜け出そうとする苦闘だったといえよう。そして「自由主義恋愛」という言葉がどこからともなくこの時代に生まれた。

   大正6年3月7日、千葉駅で若い女が列車に飛び込んだ。同行の男は女が死んだと思い、土手によりかかり短刀で喉を突いて死んだ。男は倉持陸助といい、芳川顕正伯爵のお抱え運転手、女は芳川顕正の娘で曾袮寛治の婦人の芳川鎌子であった。鎌子は重傷ながら一命をとりとめる。身分違いの男女が深い恋に落ち、情死にまで発展したことに世人は驚かされた。4月には退院した鎌子は麻布の本邸にもどったが、世間から逃れて下渋谷に隠棲した。世間は冷たく「姦婦鎌子ここにあり」「渋谷町民の汚れなり」などと板塀に書かれた。また彼女が鎌子だとわかると御用聞きまでが寄りつかなくなったという。正式に寛治と離婚して、芳川家からも除籍された鎌子は、青山の次姉邸などをへて鎌倉の別荘に住む。しかし大正7年10月には出沢佐太郎という運転手と再び駆け落ちしてしまう。出沢は倉持が心中する晩に涙しながら酒を飲んだ同僚であった。その後、無理やりに連れ戻された鎌子はうつ状態となり、自殺するおそれもあるので、やむなく出沢との結婚を許した。芳川家は鎌子に完全な「勘当義絶」をして一切仕送りも中止した。しかし生活苦と病気により、大正10年4月、鎌子は横浜の南吉田町で亡くなる。享年29歳。芳川鎌子はスキャンダラスな姦婦として世の指弾を浴びたが、爵位より愛を命がけで選びとった大正の自由主義恋愛を代表する女性といってよい。

2007年1月 2日 (火)

一夜の饗宴で佐々城信子の奏でた曲は?

   有島武郎の名作「或る女」のヒロイン早月葉子は、世間には多少名の聞えたクリスチャンの女丈夫を母親として、物質的にも恵まれた家庭に育ち、キリスト教の学校で学んだのだけれども、自由奔放な性格の葉子にとって、周囲のキリスト教的な雰囲気は息がつまるように感じられた。人間の自然な感情の動きを無視したせせこましい禁欲ずくめの歪んだ教育の中で、葉子は次第に反抗心を養い、周囲に対し嘲笑的になっていく。女学校の年ごろでもう幾人もの年上の男性を誑かす術を心得ている。そこへ折りから日清戦争の従軍記者で卓抜な文才を認められた木部が、世なれない純真な青年の姿で葉子の前に現れる。

         *

   それは恋によろしい若葉の六月のある夕方だった。日本橋の釘店にある葉子の家には七八人の若い従軍記者がまだ戦塵の抜けきらないようなふうをして集まって来た。十九でいながら十七にも十六にも見れば見られるような華奢な可憐な姿をした葉子が、慎みの中にも才走った面影を見せて、ふたりの妹とともに給仕に立った。そして強いられるままに、ケーベル博士から罵られたヴァイオリンの一手も奏でたりした。木部の全霊はただ一目でこの美しい才気の漲り溢れた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。そして運命は不思議な悪戯をするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌(骨細な、顔の造作の整った、天才ふうに蒼白い滑らか皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗な割合に下顎の発達した)まで何処か葉子のそれに似ていたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見つけ出したように思って、一種の好奇心を挑発せられずにはいなかった。木部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかき抱いて、葉子はまだ才走った頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴はさりげなく終わりを告げた。(有島武郎「或る女」)

   早月葉子は、国木田独歩に恋愛と結婚の喜びと失恋の嘆きを体験させた佐々城信子がモデルである。そして木部が独歩であることは言うまでもない。独歩の「欺かざるの記」の6月10日によれば「令嬢年のころ十六もしくは七、唱歌をよくし風姿素々、可憐の少女なり」とある。小説では、ヴァイオリンを奏でたとあり、日記では唱歌をうたったことなっている。

   だがこのほかに、信子はこの晩餐会で「雪の進軍」を歌ったという説もある。映画「八甲田山」でも印象的に使われていた軍歌「雪の進軍」は永井建子の作詞・作曲で明治28年1月につくられ、当時大流行していたらしい。「雪の進軍氷をふんで どこが河やら道さへ知れず」という男性的でリズミカルな曲であるが、可憐な信子がこの軍歌をどのように歌ったのだろうか。

2006年6月13日 (火)

斜陽族の自由恋愛

    昭和9年、近衛文麿の長女・近衛昭子(1916-2004)は、島津公爵家当主・島津忠秀(1912-1996、水産学者)へ18歳で見合い結婚で嫁入りしたが、夫とは性格的にあわなかった。近衛公が出頭期限の日に服毒自殺したのは昭和20年12月。それから2年後、昭子はついに離婚を決意し、昭和22年12月には整体師・野口晴哉(のぐちはるちか、1911-1976)と駆け落ちし、「昭和のノラ事件」と呼ばれた。斜陽族の恋愛結婚が戦後世相の話題になった。