大正期の京都学派たち
西田幾太郎(1870-1945)は、京都帝国大学を退官する際、自らの人生を顧みて「教室の黒板に向かって一回転したと言えば私の伝記は尽きるのだ」と言った。西田が「善の研究」を著わしたのが明治44年のことである。この時代の京大には錚々たる面々の教授陣であった。明治40年に新聞記者であった内藤湖南が狩野亨吉に招かれて講師、のち教授となり、狩野直喜とともに東洋史の京都学派を育てた。東洋史ではこのほか羽田亨、小島祐馬、中国文学の鈴木虎雄、中国天文学の新城新蔵、考古学の濱田耕作、地理学の小川琢治、日本史では経済史の内田銀蔵、西洋史では坂口昴、哲学では朝永三十郎、西田幾太郎がいた。美学美術史では深田康算、国語学では「広辞苑」で知られる新村出もいた。
戦後、湯川秀樹が日本人として最初の、朝永振一郎が2番目となるノーベル賞を受賞している。湯川は小川琢治の三男であり、朝永振一郎も朝永三十郎の長男である。2人は戦前の京都での学問的雰囲気のなかで育ち、研究者としての気質を自然と身につけたものであろう。

最近のコメント