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2007年11月18日 (日)

大正期の京都学派たち

    西田幾太郎(1870-1945)は、京都帝国大学を退官する際、自らの人生を顧みて「教室の黒板に向かって一回転したと言えば私の伝記は尽きるのだ」と言った。西田が「善の研究」を著わしたのが明治44年のことである。この時代の京大には錚々たる面々の教授陣であった。明治40年に新聞記者であった内藤湖南が狩野亨吉に招かれて講師、のち教授となり、狩野直喜とともに東洋史の京都学派を育てた。東洋史ではこのほか羽田亨、小島祐馬、中国文学の鈴木虎雄、中国天文学の新城新蔵、考古学の濱田耕作、地理学の小川琢治、日本史では経済史の内田銀蔵、西洋史では坂口昴、哲学では朝永三十郎、西田幾太郎がいた。美学美術史では深田康算、国語学では「広辞苑」で知られる新村出もいた。

    戦後、湯川秀樹が日本人として最初の、朝永振一郎が2番目となるノーベル賞を受賞している。湯川は小川琢治の三男であり、朝永振一郎も朝永三十郎の長男である。2人は戦前の京都での学問的雰囲気のなかで育ち、研究者としての気質を自然と身につけたものであろう。

2007年9月29日 (土)

蛍窓雪案

    「灯火親しむの候」、「読書の秋」。そこで「灯かり」と「読書」について一考。石川啄木の歌集「悲しき玩具」(明治44年)に次の歌が収録されている。

  秋近し!

     電燈の球のぬくもりの

     さはれば指の皮膚に親しき。

    これ以前の室内の灯火具といえば、行燈、燭台、ランプだった。明治15年に銀座に初めて電灯が灯されたが、家庭に電気が使われるようになったのは明治19年ごろから。しかし、家庭で電気が一般に使われるようになったのは大正になってからであるので、東京にいる啄木の電気スタンドは明治末年に売り出された新機種だったのだろうか。

    灯かりと読書の話は、中国の古い故事が有名であろう。晋の時代に、車胤と孫康という二人の青年がいた。二人は、本を読むのに、灯かりの油が買えないほど貧しかった。そこで車胤は、夏の夜には、ねり絹のふくろに数十匹の蛍を入れて、蛍の光で本を読んで勉強した。孫康は、冬の夜には、降り積もった雪の灯かりで本を読んで勉強した。この故事から「蛍雪の功」という言葉が生まれ、「蛍窓雪案」(蛍窓はふみ読む窓、雪案は勉強机)は「苦学すること」をさすようになった。

   戦前の歴史学者の朝河貫一(1873-1949)は英語の辞書を1ページずつ覚えては破り、残った皮の表紙を桜の木の根元に埋めた。天文学者の新城新蔵(1873-1938)は深夜勉強していて眠気をもよおすと錐で自分の太ももを突いて眠気を振り払って勉強したという。東大に合格すると、その錐を松の木の根元に埋めた。「朝河桜」「新城松」はまるで車胤、孫康の日本版「蛍雪の功」として伝えられている。