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2023年9月24日 (日)

小泉信三「スポーツはかなり私の時を取る」

  スポーツ番組が盛んである。野球にサッカー、ラグビー。大相撲。そして来年のパリ五輪出場に向けた予選会がある。アジア大会も始まる。   「練習は不可能を可能にす」で知られるように小泉信三(1888-1966)はテニス、野球に限らずスポーツ、運動全般を基本にした教育家という印象がある。だが青年時代スポーツマンであった小泉信三も晩年には自分で球を打ったり、走ったりすることはできなくなり、人のするのを見るだけとなった。

    晩年のある一日。昭和36年9月24日。日曜日。「この日、私は午後、例により双眼鏡を携えて神宮球場に行き、法政-立教、慶応-東大の二試合を見た。2-0、5-1でそれぞれ法政、慶応の勝つのを見終わって広尾町の家に帰ると、ちょうどその時間なので、更にテレビの前に座り込んだ。そうして大相撲秋場所千秋楽、大鵬、柏戸、明武谷の優勝決定勝負に大鵬が柏戸をうっちゃり、明武谷を寄り倒すのを見た。考えて見ると、私は野球と相撲を見ることすでに60年である。私は明治36年秋(11月21日)、慶応と早稲田が初めて三田綱町グラウンドに戦った第1回の試合から見ている。相撲は更にその数年前、本所回向院境内の小屋掛け時代、時の横綱、紅顔の小錦八十吉が、逆鉾の露払、源氏山の太刀持ちで土俵入りをするのを見て以来、今日の大鵬・柏戸時代に及んでいる。まことにスポーツはかなり私の時を取る」。

   かって戦死した長男を悼む小泉信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」を杉浦直樹主演のドラマで、ナレーターの西田敏行が言っていたが、武者小路実篤(1885-1976)の「友情」の大宮のモデルは小泉信三だという説があるそうだ。小泉は大正元年に欧州へ留学し、大正5年に帰国し、阿部とみ(1895-1991)と結婚している。スポーツが苦手な実篤にはコンプレックスがあって、大宮という人物には男前でスポーツマンの志賀直哉(1883-1971)と小泉信三を混ぜ合わせたような人物をイメージしたのかもしれない。慶応ボーイと学習院生とのサロンが明治末年にあったのだろう。しかしスポーツをほとんどやらず絵画が趣味だった実篤が三人で一番長命だったのは、青年時代におけるスポーツの蓄積はかならずしも寿命に比例しないということであろうか。

2023年6月19日 (月)

ベースボール記念日

Cartwrightalexabio   1846年のこの日、公式の記録に残る史上初の野球の試合がニュージャージー州ホーボーケンで行われた。前年、アレクサンダー・カートライト(1820-1892)はイギリスの球技であるタウンボールを、文書化して統一ルールを定めた。これが現在の野球のはじまりといわれる。いわゆるニッカーボッカー・ルールでは「先に21点を取ったチームが勝ち」となっていた。あるとき「いつ試合が終わるか分からないから、料理の準備ができない」と野球チームのコックが苦情を言った。20対0で、あと1点取ればゲームは終了になるのに、点がはいらない場合など観客も飽きてくるだろう。そこで1試合最低1人3打席回ってくるようにした結果9イニング制となった。試合はカートライト率いるニューヨーク・ニッカーボッカーズがニューヨーク・ナイン相手に1-23で負けてしまった。この出来事が、「ベースボールの記念日」もしくは「ベースボールの日」と呼ばれている。その後、南北戦争を機に南部にも広まり、全米で人気を博するようになった。(Alexander Joy Cartwright Jr. 6月19日)

2023年5月29日 (月)

なぜ山に登るのか?

Clark0508  「なぜ山にのぼるのか」の問いに「そこに山があるから」。この有名な文句は、実は「なぜエベレストに登るのか」という質問に対するジョージ・マロリーの回答である。いつしか一般的な「山」と言い換えられて広まっているが、もともとは世界最高峰のエベレストに限定している。

    歴史記録としてはエベレスト初登頂は1953年5月29日、エドモンド・ヒラリー(1919-2008)とテンジン・ノルゲイ(1914-1986)が成功した。だが2人に遡ること29年前の1924年6月8日に、マロリーとアービンが世界の高みを極めていた可能性がある。1999年、エベレスト北面8160mの地点で、マロリーの遺体が発見された。そして標高8490mの地点からマロリーが使用した№9酸素ボンベが発見されている。これはマロリーは帰還の際に絶命したと考えられ、登頂に成功したことを推測させるものである。だが決定的な証拠となるコダックのカメラが未だ発見されていない。マロリーがエヴェレスト初登頂したか否かは謎のままである。

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ヒラリーとテンジンは登頂後、何杯も紅茶を飲んで、かわききった喉をうるおした

2023年5月 9日 (火)

ヒマラヤ登山の歴史(20世紀後半)

  1945年、第二次大戦が終わると、これまで厳重な鎖国政策をとり続けていたネパールが開国し、1950年、ネパール入りしたフランス隊は、たった一度の攻撃で、人類初の8000m峰アンナブルナに初登頂してしまった。これを皮切りに53年、世界最高峰エベレストが悲願のニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーとテンジンによってようやく落ち、同年、ナンガパルバットもドイツ・オーストリア隊によって登られた。こうして第二次大戦前には1つとして登られなかった8000m峰が、次々と登られ、56年5月9日、日本隊も宿願のマナスルの初登頂に成功した。そしてチベット領内にそびえる8000m峰の最後を飾るゴサインタンが、64年、中国隊によって登られた。これをもってヒマラヤの黄金時代はあっけなく去った。1970年5月11日、松浦輝夫、植村直己が日本人とし初登頂に成功する。1978年アンナプルナⅠ峰登頂に成功しするも、下山で2名が転落死した。今日、100座を超す7000m峰も、目ぼしいものはほとんど登りつくされ、新しい処女峰を地図の上で見つけることもむずかしくなった。これからはすでに登られた山の別ルートによる開拓、とくにカラビナ・ハーケン・アイゼンなどを用いる人工登山、すなわち鉄の時代にはいりつつある。またスキーを使った娯楽・スポーツといった観光化と、ヒマラヤはしだいに大衆化しようとしている。

 

 

2023年4月26日 (水)

何故ホームランを量産する選手がでないのか?

 昭和34年のこの日、王貞治は後楽園球場で国鉄スワローズの村田元一投手から7回に決勝の2ランホームランを打った。これが王の公式戦初安打で記念すべき第一号本塁打だった。あらためてホームランランキングをみる。王貞治868、野村657、門田567、山本536、清原525、落合510、張本504、衣笠504と500を超えた選手は8人である。今後8位以内に入る可能性があるのは、いまのところヤクルトの村上宗隆だけだろう。今シーズンは不調だが、現在160本で、年間30本を20年間打ったとすれば、160+600で760本となる。大きな怪我さえなければ到達するかもしれない。それにしてもなぜ昔と比べるとホームランを量産する選手がここ最近はいなくなった。理由は球場が広くなったことや投手の技術が向上したことである。また強打者も晩年になると怪我や故障で出場する機会が減ることもあるだろう。村上の場合、メジャーへの移籍もあるので、やはり本塁打ランキング10位に入る選手は今後もでそうにない。(4月26日)

2023年4月23日 (日)

自転車(明治事物起源)

   自転車という外国の乗り物が、近代日本に、いつ頃伝わり、どのように受容されたのであろうか。わが国に自転車が伝来したのは、長い間、明治3年(1870年)と見る説が定説のように流布されていた。これは石井研堂「明治事物起源」の影響が大きい。しかしこの説で日本で初めて自転車に乗ったとされる佐藤アイザックという人物の正体が明らかとなった。本名を横山錦柵といい、嘉永2年生まれで、18歳で英語を学ぶため渡米し、1877年に帰国している。つまり1870年の自転車渡来とは無関係であることが判明した。明治10年代には横浜で自転車のレンタル業が始まっている。また国産初の自転車製作は滋賀県長浜市の国友鉄砲鍛冶師が1891年に作ったともいわれている。「日本近代総合年表」(岩波書店)によると、1889(明治22)年の項に「この年、大阪・神戸に自転車(鉄輪)流行し、貸自転車ふえる。賃料1時間5銭」とある。

3d688a3a  自転車の発明は1817年ドイツのカール・フォン・ドライスが発明したドライジーネと呼ばれる木製の二輪車が今の自転車の元となったとされている。ところが自転車の発明は西洋ではなく、江戸中期に日本人がすでに発明していたという説が近年あきらかにされた。増田一裕によると、武州児玉郡北堀村の組頭の庄田門弥が1729年に「陸船車(りくせんしゃ)」という木製の乗り物を作った。徳川吉宗も興味をもち、陸船車を江戸に献上させたという。

 

 自転車といえば徳川慶喜。慶喜は明治20年ころ当時珍しかった自転車を購入し、静岡で乗り回し余生をエンジョイしている。 日本に自転車が一般に普及するのは1890年代に入ってからである。福沢諭吉や夏目漱石は自転車に乗れたのか?福沢は高齢になっているので少し無理かもしれない。ただし1902年に慶応義塾自転車競技部が設立され、息子の福沢一太郎が初代部長であるから、自転車にはなみなみならぬ関心があったことと思う。漱石には「自転車日記」という作品がある。1902年、留学先のロンドンで下宿の婆さんに薦められて自転車に初めて乗った。すでに35歳になっていたが、運動神経のよい漱石は悪戦苦闘のすえ、どうやら無事乗りこなすまでに上達した。漱石と同世代の東洋史学者、那珂通世は自転車博士といわれるほど自転車が好きで、朝鮮や満州に自転車旅行している。中村春吉は1902年、自転車で世界一周旅行を達成した。

 

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  徳川慶喜

 

Niigata192x300  最近、新潟県加茂市で「なるべく自転車に乗らないように」という文書が小中学生に配布された。交通事故防止のためであるが環境整備が大事であるとの批判もある。近代人にとってもはや自転車は不可欠なものだが、交通マナーなど安全教育の徹底を若いうちに図る必要がある。4月からはヘルメット着用が始まった。「人生とは自転車のようなもので、倒れないようにするには走らなければならない」(アインシュタイン)

 

 

2023年3月18日 (土)

ガッツポーズ論争

   ロジェ・カイヨワ(19913-1978)によると、「遊び」はアゴン(競争)、アレア(運、偶然)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(めまい)の4種類に分類されるという。

   アゴンとは競争の形をとる遊びで、徒競走、競泳などが含まれる。アレアとは偶然にゆだねる遊びで、じゃんけん、サイコロ、賭博などが含まれる。ミミクリとは別の人格をよそおう遊びで、ごっこ遊びや演劇などが含まれる。イリンクスとは意識の混乱を求める遊びで、ブランコ、メリーゴーランド、ジェットコースターなどの疾走感をともなうものなどが含まれる。

    スポーツとは、本来、遊びが発展し、一定の共通した規則に従って身体的諸能力を競い合う、アゴンのカテゴリーの一つである。現代におけるスポーツという活動の解釈は多様であり、広義にとらえると、健康・体力の維持向上を目指した身体活動やレクリェーションなどの身体活動としてとらえられるが、狭義にとらえると、スポーツとはアゴン(競争)の原理によって構成されるプレイであり、身体技量の競争としてとらえられる。

   このことから、スポーツの原動力は「アゴンの欲求」であるといわれる。アゴンは自己の優越性、つまり自分がすぐれていることを他人に認めさせ、客観的な承認を得ようとする欲求であり、通常、オリンピックなどのように高度なスポーツ技術を大勢の観衆が見物するスタジアムで競い合うイベント形式で行われる。自己の優越性を誇示することが動物本来の欲求であり、今日の選手の「ガッツポーズ」や「雄叫び」などはその自己表現であろう。またすぐれたものを選び出し、栄誉を与えるのも社会的な機能のひとつである。例えばマラソンはオリンピックの華といわれるが、優勝者には月桂冠が授けられる。月桂冠とは、古代ギリシアで月桂樹をアポロ神の霊木とし、その枝葉を輪にして冠とし、優勝者の栄誉をたたえるために授けるのである。

   リオ五輪もアゴンの欲求、つまりガッツポーズが目立つ。太田選手のフェンシングでも2人の競技者がほぼ同時にガッツポーズをして自分の優位性を誇示する。卓球やテニスも得点が入る度にガッツポーズがでる競技の1つである。評論家の張本勲が銅メダルを獲得した卓球選手に対して、「あんなガッツポーズはダメ。手は肩より上げてはいけない」と指摘した。しかし、王貞治が756号ホームランを打った瞬間の写真では、張本は大きくジャンプしながら右手をあげてガッポーズしている。

 ガッツポーズ以外にも最近は、アゲアゲとかさまざまなパフォーマンスが流行している。侍ジャパンのヌートバー選手が胡椒を挽くようなポーズをするペッパーミルが大流行だ。センバツ1回戦でも東北の選手がこれを真似したところ、審判は「相手にに失礼な行為」「煽り行為」と認定して注意した。ガッツポーズと何が違うとの声もあるが、高校野球は教育の場であることを考えればやむをえない判断であろう。

 

 

 

2023年3月11日 (土)

春がそろそろ来たのかな

Photo_2    3月中旬ながらスポーツ観戦でヒートアップ。WBCは連日侍ジャパンが期待どおり頑張っている。チェコの野球はほとんど情報がないのでかえって不気味だ。明日から大相撲春場所が始まるし、名古屋ウィメンズマラソンもある。「春はセンバツ」からというが高校野球が待ち遠しい。追伸。22日、日本はWBC決勝戦でアメリカに3-2で勝利した。侍ジャパンのスタメンを記録しておく。ヌートバー、近藤健介、大谷翔平、吉田正尚、村上宗隆、岡本和真、山田哲人、源田壮亮、中村悠平、先発は今永昇太。

2023年3月10日 (金)

野球伝来150年

    アメリカで発達したベースボールが我が国に伝来した歴史を調べると、北海道こそは野球の発祥地といってもいい。これまでの通説では、日本における野球は明治6年開成学校の生徒がアメリカ人のホーレス・ウィルソン(843-1927)、同校予備門のイギリス人のストレンジ、マジェットらの外人教師らに教えられてはじめたのが最初とされてきた。また明治15年アメリカから帰国した平岡熙(1856-1934)によって日本初の野球チーム「新橋アスレチック・クラブ」が結成された。この功績によって平岡熙は1959年、正岡子規は野球用語を邦訳したとして2002年、ホーレス・ウィルソンは日本に野球を伝えた功績により2003年、それぞれ野球殿堂入りをはたしている。

    ところがスポーツライターの大和球士(1910-1992)は一冊の本を読んでもうひとつの日本野球のルーツがあることに気づいた。その本は言語学者の大島正健(1859-1938)の回想記で『クラーク先生とその弟子たち』という。クラーク博士を敬愛するキリスト者にとってはたいへんに有名な名著であり、古い県立図書館には所蔵している本である。ただしそれに野球の関係する重要な記述が含まれているとは誰しも思わなかった。その本は病床にあった大島正健の口述を長男の大島正満がまとめたもので、初版は帝国書院(1937)、第2版(1948)、補訂第3版宝文館(1958)、国書刊行会(1973)、補訂増補版(1990)と版を重ねて出版され関係者のその本に対する情熱が察せられるであろう。

    さて、開拓使仮学校(札幌農学校の前身)は明治5年5月に東京・芝の増上寺境内に開校、当時、アメリカ人アルバート・G・ベーツが英語教師として明治6年2月に来日した。彼は無類のベースボール好きで、持参した1本のバットと3個のボールで生徒たちにベースボールを教えた。当時は道具などもなく、ボールは手縫いで素手で捕球していた。対外試合はなく、仲間内でプレーしていた草野球程度のものであったであろう。開拓使仮学校は明治8年7月に札幌農学校となり、札幌へ移転した。もちろん北海道でもベースボールは続けられていた。明治13年に入学した第4期生の河村九淵によると「寄宿生は一般に身体の摂生に注意し、殊に運動と体育とに務めた。春から秋の間はベースボールにいそしみ、積雪期には毎夕三々五々相携えて散歩した」とある。この文章から、ベースボールが特別なスポーツというよりも健康的なレクリェーションとして楽しんでいたことがうかがわれるであろう。新渡戸稲造も「私も日本の野球史以前には、自分で球を縫ったり、打棒を作ったりして野球をやったこともあった」(東京朝日新聞明治44年8月29日)と語っている。

    さて、本題の日本における野球のはじまりであるが、何事につけもののはじまりは諸説あることをご理解たまわりたい。ホーレス・ウィルソンが殿堂入りしていることから開成学校が野球博物館公認ではあるが、野球事始が明治6年ということであるならば、ある調査によると、開成学校は10月9日に開校したのに対し、開拓使仮学校の開校は4月15日である。この半年間でアルバート・ベーツが生徒たちにベースボールを教えていたことは十分に考えられることではないだろうか。

    ただし、ベースボールの伝来がイコール日本野球のはじまりではない、とする意見もある。野球は2チームあって対戦して成り立つスポーツで、キャッチボールや仲間内でプレーしたり、練習試合をしていても、野球のはじまりとは認められない。残念ながら開拓使仮学校ではリクレーションとしてベースボールをしていたものの、チームを組織して公式試合をした記録が確認できないので、正式なベースボールとして現在の段階では認定されていないのであろう。

2023年2月 5日 (日)

カーリング女子はなぜ可愛いのか?

   日本選手権女子はロコ・ソラーレがSC軽井沢クラブを破り、2年連続の優勝を決めた。カーリングの試合は3時間くらいあって長時間だが、藤澤五月選手を初めとする同チームの可愛さに男性視聴者は日曜日とあってテレビにくぎ付けで萌えまくったことであろう。藤澤の大転倒すらも可愛い。なぜカー娘はそんなに可愛いのか?モデルや乃木坂のような清楚系アイドルではなく、ネクストドアー型のお姉ちゃんタイプだから親近感がある。ちっちゃくて、ややぽっちゃり型が多い。声が高くて、ややおっとり。ひたむきだけど、悲壮感がない。やはり笑顔が最高だね。ロコ・ソラーレだけでなく他チームにも必ず一人は可愛い子がいる。SC軽井沢の上野美優は多部未華子かと思ったほど可愛いかった。昭和40年代半ばに起こった女子ボーリングブームに似た現象であろう。

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