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2026年10月 9日 (金)

初めての三冠王ナップ・ラジョイ

Naplajoiecleveland   プロ野球も公式戦が終了した。阪神タイガースの佐藤輝明が三冠王に輝いた。史上9人目の快挙である。中島治康、野村克也、王貞治、落合博満、ブーマー、バース、松中信彦、村上宗隆らに並び、野球ファンなら覚えておくべき名前となった。これまで大リーグも含めてシーズン最高打率は?1901年のナップ・ラジョイ(1874-1959)が0.426を記録している。このとき本塁打王(14本)、打点王(125打点)も獲得し、史上初の三冠王に輝いた。

   ところで野球の成績の統計法をクリケットを参考に考案したのは、スポーツ記者のヘンリー・チャドウィック(1824-1908)である。打率と防御率を考案したといわれる。(Henry Chadwick,Nap Lajoie)

2026年9月30日 (水)

数字の7はなぜラッキーナンバーなのか?

Main8g20120408ddd1900552g30  古くから数字には意味のあることが信じられてきた。数字の中に7がある場合は「霊的な成長をしています」というメッセージが込められており、7は幸運の数字であることが英語圏で信じられてきた。とくに「777」は大当たりの数字とされている。野球でラッキーセブンはとくに有名である。巨人や中日ドラゴンズではホームの試合のとき7回裏の攻撃前にビーナスやドアラが宙返りをすることが恒例となっている。とくに9イニング制の野球において7回は先発投手の疲れが出始めるころで、試合が動くイニングと見なされている。俗にラッキーセブンといわれる。1885年9月30日、ホワイトストッキングスの7回の攻撃で、平凡なフライを打ち上げたが、強風に吹かれてホームランになった。これでホワイトストッキングスはリーグ優勝を決めたことから「ラッキーセブン」という言葉が生まれた。大リーグでは7回の少し休憩タイムがあり「わたしを野球に連れてって」を歌うのが恒例となっている。こうした7回の攻撃で試合が動くという通説は本当であろうか、名古屋大学で統計調査をしたところ、7回の攻撃の得点率は、むしろ全イニングの平均を下回るという結果がでた。7回よりも6回のほうが得点が入りやすいという。こうした7が特別な意味をもつ数字であることは、聖書からきている。旧約聖書にある「神は7日間で天地万物を創造した」という記述から、7は「完全」という意味をもつようになり、さらに新約聖書では神聖視され、幸運を招く数字になったといわれる。

7の実例

ユダヤ教では天地創造では7日

ノアが神殿を7回回った

七つの大罪、七徳、七霊

ピタゴラスは七を善の数とした

イスラム教徒はメッカの巡礼でカーバ神殿を7回回る

仏教では七日ごとに七回の法要を行う四十九日がある

ボーイング777

 

 

2026年8月28日 (金)

皇居ランニング

Img_beauty_06_01 皇居の総面積は1150.346㎢。東京ドームの24倍、東京ディズニーランドの約3倍ある。皇居外周は1周およそ5㎞といわれ、首都圏ランナーのジョギングコースとなっている。一周は正確には4,977㎞、あるいは4.93㎞といわれ5㎞に少し足りないが、キロ6分ペースでゆっくり走ると30分以内で走れる。時計の針と反対の左を回るのが一般的である。コースは桜田門時計台広場をスタート地点に、二重橋、皇居外苑、大手門、竹橋、代官町、千鳥ヶ淵公園、半蔵門、三宅坂を下ってコールするのが定番コースだ。

 なぜ皇居の周りをみんなが走るようになったのか?皇居ランニングが流行るようになったのは、「銀座のホステス」さんが走ったから。(チコちゃんに叱られるによる)。1964年の東京オリンピックで、マラソン競技において円谷幸吉選手が力走したことによりランニングのブームがおこった。ある主催者が銀座のホステスを40名ほど集めて、11月1日、「皇居一周マラソン」を開催した。午前1時40分スタートし、「女アベベ」という異名がついた21歳のホステスさんが優勝した。この大会は珍しかつたこともあり、大々的にニュースで扱われ、これにより皇居の周りを走ることが一般の多くの人に伝わって、皇居ランニングはブームとなった。

2026年8月11日 (火)

日本アルプスの由来

   「黒部の父」と称され日本アルプスの未踏の山域に多くの足跡を残し、山岳紀行文でも知られた登山家・冠松次郎(1883-1970)は、明治16年の今日、2月4日に東京で生まれた。

   日本アルプスが開拓されていない明治末期、家業の質屋を経営するかたわら、登山に熱中する。誰もが高い山への登頂を目指していた頃、冠松次郎は流行に背くかのように、黙々と渓谷美を訪ね歩いた。明治44年、松次郎は白馬岳に登り、祖母谷を流れに沿って下り、初めて黒部峡谷に入った。さらにその最奥部にある幻の滝と呼ばれた剣沢大滝遡行に挑戦した。十字峡の命名者でもある。それらの体験記を発表し、著書は昭和3年「黒部渓谷」を刊行したほか「渓」「立山群峰」「黒部」「剣岳」「渓からの山旅」「峰・渓々」「廊下と窓」「雲表を行く」「山渓記」など20冊を超える。

 日本アルプスとは、日本の中央高地にある飛騨、木曽、赤石の三山脈の総称。1888年イギリスのガウランドが飛騨山脈をスイスのアルプスと対比して「日本アルプス」と命名した。のちにウエストンが世界に広く紹介、初め飛騨山脈のみを呼称した。いずれにせよ、ヨーロッパ・アルプスに由来した名称で、アルプスという意味は高い山あるいは白ということを表したものである。(8月11日)

 

2026年7月17日 (金)

坂本勇人は神である

 17日、中日戦で九回裏、二死一二塁で坂本勇人が3ランを放ち巨人は劇的なサヨナラ勝利を収めた。通算2462安打の記録を残した、これは歴代10位である。王貞治の次にくるには、あと244本を打たねばならない。

イチロー  4367
張本勲   3085
野村克也  2901
王貞治   2786
松井稼頭央 2705
青木宣親  2703

 

2026年7月 2日 (木)

近代スポーツのはじまり(明治事物起源)

 FIFAワールドカップ、大相撲パリ公演、プロ野球、ウィンブルドン。テレビ中継のスポーツ番組が人気である。大相撲、大リーグ、プロ野球オープン戦、高校野球、サッカー、ゴルフ、競泳、カーリング、ジャンプなどなど多彩である。明治42年3月21日、神戸ー大阪間で日本初のマラソン「マラソン大競走」(大阪毎日新聞社主催)が行われた。参加者は20名で、優勝者は岡山の金子長之助だった。アメリカで生まれた野球がいつ日本に紹介されたかは諸説ある。一番よく知られるのは、明治6年、開成学校の生徒が、アメリカ人教師ホーレス・ウィルソン、同校予備門のイギリス人教師フレデリック・ウィリアム・ストレンジらに教えられて行ったのが最初とされる。野球は明治18年、19年ごろから学生野球を中心として発展、普及し、明治36年には早慶戦が始まり、今日の六大学リーグに発達した。なおベースボールを初めて野球と訳したのは、中馬庚である。

 

サッカーは明治6年、工学寮教師イギリス人のライメル・ジョーンズが紹介した。

 

テニス競技が日本に導入されたのもいつかはっきりとわからない。明治11年ごろ、アメリカの宣教師によってもたらされたといわれる。

 

ラグビーは明治32年慶応義塾に赴任したエドワード・プラムウェル・クラークとケンブリッジ大学の留学から帰国した田中銀之助により慶応の学生に対して初めて指導が行われた。

 

ゴルフは、明治34年に神戸在住のイギリス人アーサー・グルームによって導入された。神戸ゴルフ倶楽部としてオープンした。

 

バスケットボールは、明治41年スプリングフィールドYMCA体育学校を卒業し帰国した大森兵蔵が日本に初めて紹介した。

 

スキーは明治44年軍事研究のため来日していたオーストリアのテオドール・フォン・レルヒ少佐が高田連隊の青年将校のスキー専修員に技術を教授したことに始まる。

 

   陸上競技は明治7年に東京築地の海軍兵学寮で開催された「生徒競走遊戯会」が、日本で最初の運動会であるといわれている。明治16年にイギリス人教師ストレンジの指導によって東京大学で運動会が行われる。陸上種目は100ヤード、200ヤード、440ヤード、880ヤード、120ヤードハードル、クリケットボール投げ、走り高跳び、走り幅跳び、砲丸投げ、ハンマー投げ、棒高跳び、慰め競走の12種目が行われた。

 

わが国最初のスポーツ解説書は明治18年4月に刊行された坪井玄道・田中盛業共著の「戸外遊戯法」で、2年前にストレンジが丸善から刊行した英文の「アウトドア・ゲームズ」を参考に、各種のスポーツを解説している。

参考文献
宮本孝「わが国における陸上競技の導入について」 彦根論叢人文科学特集35、1976年
高橋孝蔵「倫敦から来た近代スポーツの伝道師 お雇い外国人F.W.ストレンジの活躍」小学館 2012年

 

 

 

 

 

 

2026年6月25日 (木)

天覧試合でサヨナラ本塁打

   1959年のこの日、昭和天皇、皇后両陛下のプロ野球初の天覧試合があった。両陛下が観戦されるとあって、伝統の一戦「巨人-阪神」が行われた後楽園球場は、試合前からいつもと違った特別なざわめきに包まれていた。試合は巨人が藤田元司、阪神は小山正明と両エースの先発で始まった。阪神が先制すると、巨人が逆転する白熱の攻防が繰り広げられ、4ー4の同点のまま9回裏、劇的な幕切れが訪れる。阪神のマウンドには村山実が上がっていた。実はこんなエピソードがある。9回になったとき、時計の針は21時をわまわっていた。天皇皇后両陛下が観戦できるのは21時15分まで。延長に入れば試合の途中で席を立つことになるだろう。やはり9回でケリをつけなければ、そして、午後21時12分。9回裏、先頭打者の長嶋が打席に入った。長嶋は2-2からのインハイの直球をフルスイング。球は左翼席のポール際に吸い込まれたのだった。劇的なサヨナラホームラン。両陛下は試合結果を見届けたうえで後楽園球場をあとにした。試合後のインタビューで長嶋は「この感激は一生忘れません」と語った。

 なぜこの試合が歴史的な意味をもって語られるのだろうか。大相撲では「天覧試合」は明治以来何度も行われた。大学野球の早慶戦や都市対抗野球でも「天覧試合」が行われていた。しかしプロ野球の「天覧試合」はこれまで一度もなかった。この年4月10日に皇太子明仁親王のご成婚があり、世紀の祭典はテレビ中継された。1年前は91万台にすぎなかったテレビが一挙に200万台を突破した。この日のナイター中継はNHKと日本テレビが放送したが、この試合を見た視聴者もさぞかし多かったであろう。ちなみに日本テレビのアナウンサーは越智正典は今年4月に96歳で死去した。そして長嶋は6月3日に89歳で死去した。この年9月には第18回オリンピック東京大会が決定し、日本は高度経済成長の始まりを迎えていた。 2025年、天覧試合で長嶋と共に闘った小山正明、吉田義男も同じ年に亡くなっているというのも不思議なめぐりあわせである。(6月25日)

2026年6月 6日 (土)

橋上秀樹監督代行は名将の器なり

 ワールドカップ。日本代表監督、森保一。危機管理能力に高く非カリスマ型マネンジメント監督。強いチームをつくるにはどのようなリーダーが最適なのか。阿部慎之助の突然の辞任で名門巨人の監督を任された橋上秀樹ってどんな人だろうか。野村のID野球の継承者でジェントルマンだという。原監督時代は忖度しない性格で、直言し干された経験もある。現役での成績は12年間で215安打、17本塁打、打率265。通算の打率は意外と高いが仏普通の成績である。実松が10年間で137安打、20本塁打、打率166。小林が378安打、16本塁打、打率204。名選手=名監督ならず、というが、凡庸な成績の選手が名監督になるかもしれない。阪急の芽衣監督、上田利治は3年足らずの現役生活、56安打、2本塁打、打率218である。

 2日のオリックス戦。1番に起用した松本や8番の浦田が活躍し、橋上監督の采配がズバリ的中。ベテラン坂本勇人も守備で美技を見せ観客を魅了させた。移籍後初勝利となった則本はお立ちで台で「最高でーす!」と絶叫し、巨人ファンを沸かせた。3日は丸の代打逆転満塁ホームランで快勝。4日は不振だった泉口の適時打で3連勝。5日は井上・中山の活躍で4連勝。10日、楽天戦は戸郷の完投勝利で6連勝。チームのムードはとても明るく負ける気がしない。

 

2026年5月29日 (金)

エヴェレスト初登頂(1953年)

Clark0508  近年、老若男女の多くの人たちが山を訪れる、戦後3回目の登山ブームと言われている。ただ単に山に登りたい、体を鍛えたい、野草や森林、さらに星空や地質などより専門的に自然を観察したいという人まで、登山への想いはひと様ざまである。最近は、山の頂上をめざすのではなく、自然を楽しみたい登山者が増えている。一方、遭難者が増えている。とくにシニアに人気の「低山登山」が意外に遭難が増加しているので注意してもらいたい。高齢者が多い理由は、激しい箇所での疲労、滑落・転倒によることに起因すると思われる。

「なぜ山にのぼるのか」という問いに対して、イギリスの著名な登山家ジョージ・マロリーが「そこに山があるからだ」と言ったのは、今からちょうど100年前のことだ。この有名な文句は、実は「なぜエベレストに登るのか」という質問に対するジョージ・マロリーの回答である。いつしか一般的な「人はなぜに登るのか?」と言い換えられて広まっているが、もともとは世界最高峰のエベレストに限定している。

    歴史記録としてはエベレスト初登頂は1953年5月29日、エドモンド・ヒラリー(1919-2008)とテンジン・ノルゲイ(1914-1986)が成功した。だが2人に遡ること29年前の1924年6月8日に、マロリーとアービンが世界の高みを極めていた可能性がある。1999年、エベレスト北面8160mの地点で、マロリーの遺体が発見された。そして標高8490mの地点からマロリーが使用した№9酸素ボンベが発見されている。これはマロリーは帰還の際に絶命したと考えられ、登頂に成功したことを推測させるものである。だが決定的な証拠となるコダックのカメラが未だ発見されていない。マロリーがエヴェレスト初登頂したか否かは謎のままである。

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ヒラリーとテンジンは登頂後、何杯も紅茶を飲んで、かわききった喉をうるおした

参考文献
「なぜ山へ登るか:ゲーテを雪山へ駆りたてるもの」三田博雄 岳人1963.11

 

 

2026年5月 2日 (土)

マラソン、人類初2時間の壁を破る

1967_photo  4月26日、ロンドンで行われたマラソン大会で、セバスチャン・サウェ(ケニア)選手が1時間59分30秒で有勝を果たした。スポーツにはルールがあり、記録がつぎつぎに塗り変えられている。数あるスポーツ記録の中で最も注目すべきは男子マラソンの2時間の壁であった。ついに人類は2時間を破ることができた。男子マラソンの世界記録の推移をみてみよう。

 

1908年 2時間55分18秒4

 

1925年 2時間29分1秒8

 

1953年 2時間18分40秒8

 

1967年 2時間9分36秒8 (クレイトン)

 

1998年 2時間6分5秒(ダコスタ)

 

1999年 2時間5分42秒(ハヌーン)

 

2003年 2時間4分55秒(テルガト)

 

2008年 2時間3分59秒(ゲブレシラシエ)

 

2011年 2時間3分38秒(マカウ)

 

2013年 2時間3分45秒(キメット)

 

2013年 2時間3分23秒(キプロティチ)

 

2014年 2時間2分57秒(キメット)

 

2018年 2時間1分39秒(キプチョゲ)

 

2022年 2時間1分9秒(キプチョゲ)

 

2026年 1時間59分30秒(サウェ)

   ちなみに現在、日本人男子の最高記録は、大迫傑の持つ、2時間4分55秒(2025年)である。

   1967年12月3日、福岡国際マラソンでデレク・クレイトン(画像)が2時間10分の壁を破ったが、この世界記録の達成には1人の日本人選手が貢献している。序盤戦はクレイトンが驚異のハイペースで独走したが、九州電工の佐々木精一郎が後方集団から1人追い上げ28㎞過ぎに並びかける。6㎞ほど並走したが、38㎞地点で佐々木は右脇腹をおさえて後退した。もし佐々木の猛追がなければクレイトンの大記録はなかったかもしれない。生中継でTVリアル観戦した記憶は今も鮮明に残っている。(Derek Clayton)

 

 

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