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2008年5月17日 (土)

浦ノ濱栄治郎

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   今場所は、久しぶりに琴欧洲が元気だ。やはり美男力士が活躍すると女性ファンが喜び、土俵も華やぐ。大相撲の歴史で美男力士というと、大正時代の浦ノ濱栄治郎(1889-1945)の名前が筆頭にでてくるかもしれない。

    新潟県三島郡(現・小千谷市)出身で、板前修業中、推されて角界入り。その美貌から「浦さま」と慕う女性ファンが多く、大正時代、プロマイドの売り上げは横綱を抑えて常にトップだった。太刀山や栃木山は残念ながら美男力士とは言えない。それに大正時代は、野球も活動写真もまだ草創期だったのでやはり力士が憧れのスター的存在だった。浦ノ濱の最高位は関脇どまりで、あまり強かったとは言えないが、「浦さま」は雷蔵さまやヨンさま並みの人気者だった。

2008年4月10日 (木)

円谷幸吉の栄光と死

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(左から)畠野洋夫(コーチ)、円谷幸吉、南三男、宮路道雄

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   昭和58年から東京オリンピックリのマラソンで日本人初の銅メダルに輝いた福島県須加川市出身の円谷幸吉(1940-1968)の業績を讃えた「円谷幸吉メモリアルマラソン」が毎年行なわれている。昨年の第25回の記録のなかに10km招待選手として宮路道雄の名前をみることができた。

    昭和43年1月7日、宮路道雄は自衛隊体育学校の校庭で偶然に円谷幸吉に出会った。「やあ、明けましておめでとう。今年も頑張ろう」新年の挨拶を交わした二人は、しばらく並んで走った。二人で走るのは、東京オリンピックのレースの朝、逗子海岸で、南三男と三人でジョギングをして以来のことだ。「もうすっかりいいんだろう。よかったなあ。もちろんやるんだろう、オリンピック…」宮路は話かけたが、幸吉はうなづいただけで、それには言葉で答えず、ほかの話題に移した。「宮路君も、目を悪くしたと聞いたけど、もうよくなったのか」「医者に、栄養失調だと、いわれてね。左右とも1.5に戻ったよ。アハハハ…」疲労のためだというと、幸吉が気を使うと思って、宮路は、しきりに栄養失調を強調した。競技のことには、ほとんど触れぬまま、二人は別れた。それが二人の最後の出会いだった。二日後、幸吉は、自衛隊体育学校の自室で肉親と上官に遺書をしたため、剃刀自殺した。

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周囲の人々の善意と好意への謝辞と、その期待に応えられないことへの詫びからなる、せつなくも悲しい円谷幸吉の遺書

2008年3月 9日 (日)

流転の闘将・江藤愼一

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    2月28日、中日、ロッテで活躍した強打者・江藤愼一(1937-2008)が肝臓がんのため死去した。享年70歳。熊本出身の気性の荒い九州男児は筑豊のノンプロを経て中日へ入り、以後、流転とまで形容できる野球人生を歩んだ。気迫をむき出しにする豪快なプレーから「闘将」と呼ばれ、昭和39年、40年に中日で、46年にロッテで首位打者になった。両リーグ首位打者はプロ野球史上唯一の記録。とくに長嶋茂雄、王貞治、張本勲の全盛期にあって、彼らのタイトル独占を阻止した敢闘精神は見事である。

    昭和38年8月25日の巨人戦。6回を終えて6-6と並んでいたが、降雨となった。同僚は全員ベンチへ引き上げるも左翼手江藤だけは動かない。結局コールドとなったが、江藤はずぶ濡れのまま左翼から20分以上も動かなかった。「自分が下がれば試合は中止になる」なんとしても憎き巨人と決着をつけたい思いからだったろう。

2008年2月14日 (木)

双葉山と縁結びの高安病院

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    双葉山定次(1912-1968)は昭和13年の満州巡業で赤痢にかかり、大阪の高安病院(道修町旧4丁目)に入院することとなった。体調不良をおしての大阪1月場所。4日目、安芸ノ海の外掛けに敗れ70連勝はならず。和田信賢アナウンサーの「70古来やはり稀なり」という名言がラジオから流れた。

   場所後、双葉山は小柴澄子(23歳)と結婚した。澄子は高安病院に入院したとき見舞ってくれ、看護してくれたことが二人の愛を育くむきっかけとなった。

   澄子は大阪天王寺区夕陽丘の金融業者の一人娘。天王寺高校から樟蔭女子専門学校、大阪堂ビルの割烹学院に通っていた。澄子は両親を亡くし、大阪帝大理学部助教授で叔父の渡瀬武男の元で暮らしていた。二人の突然の結婚は関係者を驚かせた。当時横綱が相撲界とは関係のない世界から花嫁を迎えるのは異例のことで、当初は関係者から反対もあった。しかし双葉山と相撲の人気はますます上がり、5月場所から興行日数は現在と同様の15日となった。そして結婚後初の場所、双葉山はみごと15戦全勝で優勝した。

   二人の縁結びの病院はそれからまもなくのこと、昭和17年に閉院となったのは残念なことである。建物は空襲により焼失し現在はないという。

2008年2月 8日 (金)

冠松は行く

   登山の楽しみは、山の頂を征服することだけではなく、山と山との間の渓谷を歩くことにも楽しみがあることを気づかせてくれたのは、冠松次郎(1883-1970)であろう。冠松が渓谷の美に魅せられて歩いていた頃は大正中期から昭和初期にかけてである。彼は30代半ばから40代前半であろう。そのころ黒部上流にはまだ太古の自然が残されていた。「その美しさは大自然の成せる美しさである。古来その峻険と深奥をもって名あるこの渓谷は、今日なお殆ど斧鉞を加えられていない原生林によって占められている。かりにこの森林に伐採を試みても、その木材を搬出することには容易ではなく、莫大な費用を要するため採算がとれずに、今なお昔日の幽深を存している」

    冠松は黒部ダム建設工事に対してどのような思いであったろうか。徹底抗戦するのかと思いきや、彼に自然の景勝を保全する自然保護の思想があまりみられないのは、不思議なほどである。むしろ観光レジャー化を推奨しているようにすらみえる。次のような文章が残る。「この発電工事の竣工につれて立山の秘境とされていた東面の景勝がにわかに脚光を浴びてくることが予想される。内蔵の助谷、内蔵の助平、黒部別山、御前谷、御前の滝、御山谷などの美しい、あるいは壮大な風景が、一般登山者の前にデビューしてくると思う。とにかく黒部に山上湖が出現し、黒部の中流の美しさが開発されれば、都会からほとんど歩かずに黒部の奥に入れる。それこで魚釣もできるし舟遊びもできる。湖畔のキャンプも考えられる。君、黒部へ月見に行かないかと、夜行で東京から乗物で大町へ、大町からバスで湖畔に乗りつけ、翌日は湖辺に遊び、夜は湖上に舟を浮べて、君、立山の月はすばらしいなあ!と得意になる者もいるだろう。(中略)原始的な黒部は、その中流において影をひそめるが、それに代って日本第一の観光遊山地の出現を見ることは、疑いないことと思われる」(「黒部」修道社、昭和34年)

    今日、冠松の著書が広く愛読されるのは、黒部ダム建設で渓の美が見られなくなってしまったために、かえって短期間に古典的な価値や評価が上がり、登山家には憧憬をもって読まれるのであろう。冠松とは本当に幸せな人である。

    余談だが、ケペルは学校映画会で三船敏郎、石原裕次郎主演の「黒部の太陽」(昭和43年)を観た記憶がある。冠松が亡くなられたのが昭和45年。おそらく冠松もあの映画を観ただろう。今日、容易に見ることができないあの映画を観て死んだのも彼の運のよさを感じる。

▼剣の大滝を囲む大山壁

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2008年2月 5日 (火)

スポーツと遊び

   ロジェ・カイヨワ(19913-1978)によると、「遊び」はアゴン(競争)、アレア(運、偶然)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(めまい)の4種類に分類されるという。

   アゴンとは競争の形をとる遊びで、徒競走、競泳などが含まれる。アレアとは偶然にゆだねる遊びで、じゃんけん、サイコロ、賭博などが含まれる。ミミクリとは別の人格をよそおう遊びで、ごっこ遊びや演劇などが含まれる。イリンクスとは意識の混乱を求める遊びで、ブランコ、メリーゴーランド、ジェットコースターなどの疾走感をともなうものなどが含まれる。

    スポーツとは、本来、遊びが発展し、一定の共通した規則に従って身体的諸能力を競い合う、アゴンのカテゴリーの一つである。現代におけるスポーツという活動の解釈は多様であり、広義にとらえると、健康・体力の維持向上を目指した身体活動やレクリェーションなどの身体活動としてとらえられるが、狭義にとらえると、スポーツとはアゴン(競争)の原理によって構成されるプレイであり、身体技量の競争としてとらえられる。

   このことから、スポーツの原動力は「アゴンの欲求」であるといわれる。アゴンは自己の優越性、つまり自分がすぐれていることを他人に認めさせ、客観的な承認を得ようとする欲求であり、通常、オリンピックなどのように高度なスポーツ技術を大勢の観衆が見物するスタジアムで競い合うイベント形式で行われる。自己の優越性を誇示することが動物本来の欲求であり、今日の選手の「ガッツポーズ」や「雄叫び」などはその自己表現であろう。またすぐれたものを選び出し、栄誉を与えるのも社会的な機能のひとつである。例えばマラソンはオリンピックの華といわれるが、優勝者には月桂冠が授けられる。月桂冠とは、古代ギリシアで月桂樹をアポロ神の霊木とし、その枝葉を輪にして冠とし、優勝者の栄誉をたたえるために授けるのである。現代では月桂冠よりも多額の賞金を選手は好むようであるが。

2008年2月 4日 (月)

黒部の父、冠松次郎

   「黒部の父」と称され日本アルプスの未踏の山域に多くの足跡を残し、山岳紀行文でも知られた登山家・冠松次郎(1883-1970)は、明治16年の今日、2月4日に東京で生まれた。

   日本アルプスが開拓されていない明治末期、家業の質屋を経営するかたわら、登山に熱中する。誰もが高い山への登頂を目指していた頃、冠松次郎は流行に背くかのように、黙々と渓谷美を訪ね歩いた。明治44年、松次郎は白馬岳に登り、祖母谷を流れに沿って下り、初めて黒部峡谷に入った。さらにその最奥部にある幻の滝と呼ばれた剣沢大滝遡行に挑戦した。十字峡の命名者でもある。それらの体験記を発表し、著書は昭和3年「黒部渓谷」を刊行したほか「渓」「立山群峰」「黒部」「剣岳」「渓からの山旅」「峰・渓々」「廊下と窓」「雲表を行く」「山渓記」など20冊を超える。

2008年1月30日 (水)

太陽の子・福士加代子

    大阪国際女子マラソンは1月27日、イギリスのマーラ・ヤマウチが2時間25分10秒で初優勝した。5000メートル、ハーフマラソンなどの日本記録保持者で初マラソンに臨んだ福士加代子は序盤から飛び出したが、30キロ過ぎから失速し、19位に終わった。福士はゴール長居競技場前で1度、トラックに入ってからも3度転倒した。準備期間はわずか1ヵ月、マラソン練習の40キロ走は1回もなし、という無謀ともおもえる挑戦だった。トラックのエースといえども「マラソンは甘くない」。日本陸連専務理事の沢木啓祐もかってトラックでは大活躍した選手だが、マラソンでは十分な結果を残せなかった。テレビでフラフラの福士選手をみて、同姓の福士幸次郎の詩「太陽の子」を思いうかべるのはケペルだけだろうか。そういえば福士幸次郎(1889-1946)の出身地は青森県弘前市だが、福士加代子も青森県北津軽郡板柳町出身である。青森には福士姓は多いのだろうか。

   自分は太陽の子である

自分は太陽の子である

未だ燃えるだけ燃えたことのない太陽の子である

今口火をつけられてゐる

そろそろ燻りかけてゐる

ああこの燻りが焔になる

自分はまっぴるまのあかるい幻想にせめられて止まないのだ

明るい白光の原っぱである

ひかり充ちた都会のまんなかである

嶺にはづかしさうに純白な雪が輝く山脈である

自分はこの幻想にせめられて

今燻りつつあるのだ

黒いむせぼったい重い烟りを吐きつつあるのだ

ああひかりある世界よ

ひかりある空中よ

ああひかりある人間よ

総身眼のごとき人よ

総身象牙彫のごとき人よ

怜悧で健康で力あふれる人よ

自分は暗い水ぼったいじめじめした所から産声をあげたけれども

自分は太陽の子である

燃えることを憧れてやまない太陽の子である

   福士幸次郎「太陽の子」(大正3年)

   福士選手はまだまだ若い。十分に休養し、基礎的なトレーニングをきっちりとして、リベンジしてほしい。燃えることのなかった太陽の子・福士加代子の輝く笑顔がみたい。

2008年1月19日 (土)

小泉信三「スポーツはかなり私の時を取る」

    「練習は不可能を可能にす」で知られるように小泉信三(1888-1966)はテニス、野球に限らずスポーツ、運動全般を基本にした教育家という印象がある。だが青年時代スポーツマンであった小泉信三も晩年には自分で球を打ったり、走ったりすることはできなくなり、人のするのを見るだけとなった。

    晩年のある一日。昭和36年9月24日。日曜日。「この日、私は午後、例により双眼鏡を携えて神宮球場に行き、法政-立教、慶応-東大の二試合を見た。2-0、5-1でそれぞれ法政、慶応の勝つのを見終わって広尾町の家に帰ると、ちょうどその時間なので、更にテレビの前に座り込んだ。そうして大相撲秋場所千秋楽、大鵬、柏戸、明武谷の優勝決定勝負に大鵬が柏戸をうっちゃり、明武谷を寄り倒すのを見た。考えて見ると、私は野球と相撲を見ることすでに60年である。私は明治36年秋(11月21日)、慶応と早稲田が初めて三田綱町グラウンドに戦った第1回の試合から見ている。相撲は更にその数年前、本所回向院境内の小屋掛け時代、時の横綱、紅顔の小錦八十吉が、逆鉾の露払、源氏山の太刀持ちで土俵入りをするのを見て以来、今日の大鵬・柏戸時代に及んでいる。まことにスポーツはかなり私の時を取る」。

   かって戦死した長男を悼む小泉信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」を杉浦直樹主演のドラマで、ナレーターの西田敏行が言っていたが、武者小路実篤(1885-1976)の「友情」の大宮のモデルは小泉信三だという説があるそうだ。小泉は大正元年に欧州へ留学し、大正5年に帰国し、阿部とみ(1895-1991)と結婚している。スポーツが苦手な実篤にはコンプレックスがあって、大宮という人物には男前でスポーツマンの志賀直哉(1883-1971)と小泉信三を混ぜ合わせたような人物をイメージしたのかもしれない。慶応ボーイと学習院生とのサロンが明治末年にあったのだろう。しかしスポーツをほとんどやらず絵画が趣味だった実篤が三人で一番長命だったのは、青年時代におけるスポーツの蓄積はかならずしも寿命に比例しないということであろうか。

2008年1月18日 (金)

北海道の野球のルーツ

    日本ハムファイターズは2004年に本拠地を札幌ドームに移転し、「北海道日本ハムファイターズ」と改称して球団初のリーグ2連覇を達成した。観客動員は増加し北の大地にプロ野球が育ちつつある。だがベースボール伝来の歴史を調べると、北海道こそは野球の発祥地といってもいい。

    これまでの通説では、日本における野球は明治6年開成学校の生徒がアメリカ人のホーレス・ウィルソン(843-1927)、同校予備門のイギリス人のストレンジ、マジェットらの外人教師らに教えられてはじめたのが最初とされてきた。また明治15年アメリカから帰国した平岡熙(1856-1934)によって日本初の野球チーム「新橋アスレチック・クラブ」が結成された。この功績によって平岡熙は1959年、正岡子規は野球用語を邦訳したとして2002年、ホーレス・ウィルソンは日本に野球を伝えた功績により2003年、それぞれ野球殿堂入りをはたしている。

    ところがスポーツライターの大和球士(1910-1992)は一冊の本を読んでもうひとつの日本野球のルーツがあることに気づいた。その本は言語学者の大島正健(1859-1938)の回想記で『クラーク先生とその弟子たち』という。クラーク博士を敬愛するキリスト者にとってはたいへんに有名な名著であり、古い県立図書館には所蔵している本である。ただしそれに野球の関係する重要な記述が含まれているとは誰しも思わなかった。その本は病床にあった大島正健の口述を長男の大島正満がまとめたもので、初版は帝国書院(1937)、第2版(1948)、補訂第3版宝文館(1958)、国書刊行会(1973)、補訂増補版(1990)と版を重ねて出版され関係者のその本に対する情熱が察せられるであろう。

    さて、開拓使仮学校(札幌農学校の前身)は明治5年5月に東京・芝の増上寺境内に開校、当時、アメリカ人アルバート・G・ベーツが英語教師として明治6年2月に来日した。彼は無類のベースボール好きで、持参した1本のバットと3個のボールで生徒たちにベースボールを教えた。当時は道具などもなく、ボールは手縫いで素手で捕球していた。対外試合はなく、仲間内でプレーしていた草野球程度のものであったであろう。開拓使仮学校は明治8年7月に札幌農学校となり、札幌へ移転した。もちろん北海道でもベースボールは続けられていた。明治13年に入学した第4期生の河村九淵によると「寄宿生は一般に身体の摂生に注意し、殊に運動と体育とに務めた。春から秋の間はベースボールにいそしみ、積雪期には毎夕三々五々相携えて散歩した」とある。この文章から、ベースボールが特別なスポーツというよりも健康的なレクリェーションとして楽しんでいたことがうかがわれるであろう。新渡戸稲造も「私も日本の野球史以前には、自分で球を縫ったり、打棒を作ったりして野球をやったこともあった」(東京朝日新聞明治44年8月29日)と語っている。

    さて、本題の日本における野球のはじまりであるが、何事につけもののはじまりは諸説あることをご理解たまわりたい。ホーレス・ウィルソンが殿堂入りしていることから開成学校が野球博物館公認ではあるが、野球事始が明治6年ということであるならば、ある調査によると、開成学校は10月9日に開校したのに対し、開拓使仮学校の開校は4月15日である。この半年間でアルバート・ベーツが生徒たちにベースボールを教えていたことは十分に考えられることではないだろうか。

    ただし、ベースボールの伝来がイコール日本野球のはじまりではない、とする意見もある。野球は2チームあって対戦して成り立つスポーツで、キャッチボールや仲間内でプレーしたり、練習試合をしていても、野球のはじまりとは認められない。残念ながら開拓使仮学校ではリクレーションとしてベースボールをしていたものの、チームを組織して公式試合をした記録が確認できないので、正式なベースボールとして現在の段階では認定されていないのであろう。

2008年1月12日 (土)

堀内恒夫と川崎徳次

    野球体育博物館は野球殿堂入りに山本浩二、堀内恒夫、嶋清一を選出すると発表した。堀内は昭和41年に甲府商高から巨人に入団し、ルーキーで16勝2敗、防御率1.39とV2に大きく貢献し、新人王、最優秀防御率、沢村賞を獲得した。新人堀内は投げ終わったあといつも帽子がななめになるダイナミックなフォームで人気をよんだ。V9時代、巨人の選手でON以外でシーズン最優秀選手賞を獲得したのは堀内のみ(昭和47年に26勝をあげて最多勝)である。堀内の殿堂入りはやはりV9のエースということが大きな理由であろう。

    堀内恒夫は投手ながらバッティングにおいてもスゴイ記録がある。昭和41年10月10日、対広島22回戦で、ノーヒット・ノーランと3打席連続ホームランを放っている。投手で3打席連続という記録はプロ野球史上初である。これ以降もない。ただし、連続でなければ、投手で1試合に3本塁打った選手が過去にいる。川崎徳次(1921-2006)である。

    川崎徳次は佐賀県出身で昭和15年から17年まで南海に在籍、昭和17年に応召し、ビルマで拘留生活の後、昭和21年に復員。昭和21年10月に巨人に入団し、エースとなった。翌年24勝、23年には27勝している。そして昭和24年4月、対大映戦で3本塁打を含む4安打9打点と大活躍し、完投勝利を収めた。その後、昭和25年西鉄クリッパースに移籍し、昭和28年には24勝で最多勝と最優秀防御率の2冠を獲得している。

   ここで堀内恒夫と川崎徳次の通算成績を比較してみる。

      勝   敗  勝率  防御率

堀内   203     139    .594     3.27

川崎       188     156    .546     2.53

   時代が違うので単純に比較することは難しいかもしれないが、選手としての全盛期に兵隊となったことを考えると、いかに川崎という選手が偉大であったかわかるであろう。巨人OB広岡ならずとも栄光の巨人軍は諸先輩の歴史のうえに、成り立っているのである。

   川崎徳次は昭和23年対阪急の開幕投手。堀内恒夫が巨人に入団した昭和41年の開幕試合のオーダーは次のとおり。

8 呉新亨      8 柴田勲

5 山川喜作     4  土井正三

4 千葉茂      3 王貞治

3 川上哲治      5  長嶋茂雄

9 平山菊二      9  田中久寿男

7 黒沢俊夫      2  森昌彦

1 川崎徳次      7  柳田利夫

2 武宮敏昭      6  広岡達朗

6 田中資昭      1  金田正一

2008年1月 6日 (日)

卓球のイチロー

   戦後、卓球は日本人得意のスポーツだった。いま福原愛がアイドル的存在だが、かっては卓球といえば荻村伊智朗(1932-1994)であった。(めんこの絵柄にもあった)「卓球のイチロー」は卓球日本の名を世界にとどろかせた人なのである。彼の強さの秘訣はなんだったのか。彼は「ハングリーだったからね」という。三歳のときに父親に死なれて、母親一人で育てられた。三鷹の駅前で揚げパンやおツマミを売ったり、砂利運びをした。日大時代も昼間はアルバイトをしていた。母に「卓球なんかしないで勉強しなさい」といわれるたびに、不思議なもので卓球がやりたくなったそうだ。

     

佐藤次郎・青春の蹉跌

   昭和8年、テニスの佐藤次郎(1908-1934)の活躍ぶりはめざしましいものがあった。世界の強豪、フレッド・ペリー(英)、オースティン(英)、ステファーニ(伊)を破って、世界ランキング3位に選ばれた。翌昭和9年、デビスカップ出場のため欧州遠征をする。だが途中、箱根丸船上で佐藤に異変が起こった。お抱え看護婦が、便器に血がついていることに気づいた。事情を聞きだすのに苦労したが、それでも単刀直入に「お前トリッペルをやっているのか?」とたずねた。フランス選手ジャン・ボロトラの招待を受け、その延長で、パリの夜、かりそめの一夜をマドモアゼルと過ごしたという。当時、岡田早苗と婚約していた佐藤は、ああ大変なことをしてしまったというショックと、病苦と主将としての責任感とが入り混じって、極度の精神衰弱に陥ってしまった。佐藤は4月5日、マラッカ海峡で投身自殺を遂げた。26歳の若さであった。

2007年11月14日 (水)

ラグビーと青春

    「空に燃えてるでっかい太陽 腕にかかえた 貴様と俺だ」と布施明が歌う「貴様と俺」は夏木陽介主演の「青春とは何だ」の挿入歌だ。ドラマの山場に流れるので主題歌よりも有名になった。むかしの学園ドラマはラグビー、サッカーなどの球技クラブを主体に熱血教師の奮闘ぶりを描くので、試合のシーンが多い。「貴様と俺」は永遠の青春の応援歌となった。そして青春ドラマの花形スポーツといえばサッカーよりもラクビーがまさるように思う。「青春とは何だ」「でっかい青春」(竜雷太)「われら!青春」(中村雅俊)「スクール・ウォーズ」(山下真司)はラグヒーを通じて友情、団結、純愛を描く青春ドラマだった。

  「紳士が行なう獣のスポーツ」と形容されるラグビー。正式名称は「ラグビー・フットボール」という。イギリスのパブリック・スクールで各校独特のルールで盛んにおこなわれていたが、1823年ラグビー校におけるゲーム中興奮のあまりウィリアム・ウェブ・エリスが規則と慣習に反して相手のキックを受けてそのまま走ったことが契機となってラグビー・ゲームの特徴が創始されたと言われている。また一説にはエリスは興奮のあまりボールを受けて走ったのではなく、彼が故郷のアイルランドでやっていたゲーリック・フットボールのプレーをそのままやったにすぎないともいわれている。ラグビーとサッカーがさまざまな点で類似するのはその起源を同じくするためである。

  日本で初めてラグビーを指導したのは明治32年の秋、イギリス人英語教師エドワード・ブラムエル・クラーク(1874-1934)が慶応義塾の学生たちに伝えたのが最初とされる。クラークはまだ日本語が上手でないため、ケンブリッジ大学で同級生だった実業家の田中銀之助(1873-1935)にコーチを依頼し、共に学生たちの指導を始めた。(因みに田中銀之助は「天下の糸平」といわれた田中平八の孫である)当初は、麻布の仙台ヶ原(現在の南麻布一丁目)の野原をグラウンドにして練習していた。その前からあった横浜の外人クラブと明治34年に最初の試合が行なわれた。明治43年には京都第三高等学校、明治44年には同志社大学、大正7年には早稲田大学ラグビー蹴球部が創部された。昭和4年に大阪に花園ラグビー場が、昭和22年に港区青山に東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)がラグビー専用競技場として誕生した。日本におけるラグビーは大学・社会人を中心に発展してきたといえる。

2007年7月 1日 (日)

ウィルソン大統領と野球

   フランク・シナトラ、ジーン・ケリー主演のミュージカル野球映画「私を野球につれてって」(1949)の主題歌は今でも大リーグ試合中の7回の攻撃の前に歌われる国民の愛唱歌である。映画の中で当時の大統領セオドア・ルーズベルト(1858-1919)が登場している。第26代大統領で在位期間は、1901-1909なので、今からほぼ100前のお話。エスター・ウィリアムズのクラシックな水着姿も美しい。他にベティー・ギャレット、エドワード・アーノルドが出演している。

   だがなぜかこの映画は日本未公開だった。昭和24年といえば、赤バット・青バットで野球ブームが到来、笠置シズ子の「ホームラン・ブギ」が流れていた。フランク・オドール監督(1897-1969)率いるサンフランシスコ・シールズが来日。3Aのチームに対して日本は1勝10敗という結果に悔しい思いをしたものだ。

    ところで映画の中のようにセオドア・ルーズベルトが熱心な野球ファンであったかは知らないが、第28代大統領ウッドロー・ウィルソン(1856-1924)には次のようなエピソードがある。

   第一次世界大戦中のことで、大統領は好きな野球を見ることができなかった。だが、ある日、ワシントンで赤十字の基金を集めるための慈善試合が行なわれ、久しぶりに野球を見ることができた。ご機嫌でホワイトハウスに帰ってきたが、待っていたのは憂鬱な知らせであった。

「閣下、炭鉱のストライキで石炭が不足しています」

「大統領も、ストライキ三つでアウト、ということにならんもんかね」とウィルソンは補佐官にぼやいてみせたという。

2007年4月29日 (日)

伊藤一隆と日本野球のはじまり

    事物の始まりに諸説はあるものの、日本での野球のはじまりは、一説によると、札幌農学校の一期生たちによるベースボール・ゲームであり、その開始時期は、東京にあった開拓使仮学校の時代、すでに野球が行なわれていたという。

    開拓使仮学校は明治5年4月15日開校された。場所は東京芝増上寺境内。英語教師アルバート・G・ベーツが、アメリカから持参してきた1本のバットと3個のボールで生徒たちに野球を教えた。生徒は伊藤徳松(のち伊藤一隆)、荒川重秀、安田長秋、小野琢魔、佐藤勇たち。とくに伊藤は長身で何事にも器用なので上手だったという。明治8年3月に開拓使仮学校は東京から札幌へ移転し、ベーツは札幌でも野球を生徒たちに教えていた。しかしベーツの急死により、野球はしなくなったようだ。

    中川翔子さんのブログで伊藤一隆の子孫であると知った。つまり、しょこたんのご先祖は日本人で始めて野球をした人なのである。それはさておき、伊藤一隆の実父の平野弥十郎も偉い人であることをご存知だろうか。(参考:大島正健「クラーク先生とその弟子たち」)

2007年3月 7日 (水)

テニスの起源

    近代スポーツであるテニスの原型は、「ポーム遊び」の発達にその一端をうかがうことができる。フランスでは古くは「ラ・ソーユ」という球技が8世紀に発生したが、11世紀には修道院で行なわれていた球技がフランスの貴族の間に広まり、13世紀には盛況をきわめた。ジュ・ド・ポーム(Jeu  de paume)と呼ばれる球技がそれである。ポームとは「手のひら」を意味するが、当初は手を使ってロープ越しに打ち返すというものだったが、11世紀にはグローブをはめるようになり、16世紀にはラケットが発明された。「エセー」(随想録)で知られる16世紀の思想家モンテーニュの弟のアルノー・エイケム・ド・モンテーニュ(1541-1564、サン・マルタン隊長)は23歳の時にポーム遊びの事故で死んだという。フランス革命で有名な「テニスコートの誓い」(1789.6.20)は国王が議場を閉鎖したため、ベルサイユ宮殿内の球技場(ジュ・ド・ポーム競技場)で第三身分の議員が集会を開いたものである。

   ポーム遊びはもともと貴族の球技だったので、動作には礼儀が残っており、最初ボールを打つとき、相手に「どうぞ、受けて(Tenez)」とあいさつの言葉をかけた。その言葉を英語式に読むと、「テニス(Tennis)」となる。

2007年3月 5日 (月)

近代以前の日本人の歩き方

   現代のわれわれは通常は歩く時、右足を前に踏み出すと同時に左手を前に振り出し、左足を前に出すと一緒に右手を前に振る。このようなウォーキングの動作は実は明治以降の学校教育の中で訓練されたものであるという説が巷間に流布しているようである。それは最近、「ナンバ歩き」という耳慣れない言葉が流行していることとも関連している。ナンバとは簡単に言うと、右手と右足、左手と左足を同時に出す歩き方である。ナンバは農耕民族の基本動作であり、たとえば利き手の右で鍬を打ち下ろすとき、人は右足を前にして踏ん張るはずである。右手と右足、左手と左足が組みになっていないと、鍬は自分の足を打ち込んでしまう。

   ナンバは歌舞伎の所作や伝統舞踏に見られるが、相撲の押し、剣道・能のすり足、盆踊りなどに現在残っている。西洋人の歩行のように腰をねじる動きは、とくに武士の刀の大小が邪魔になるし、着物の帯がゆるみやすい。ただし、ナンバ歩きが日本独自の歩き方かというとかならずしもそうとも言えず、例えば古代ギリシアの壷絵にもナンバ走法が描かれているし、オスマントルコの軍隊のイェニチェリはナンバ歩行だという説がある。また近代以前の日本人の歩き方すべてがナンバ歩きかというと、それも一概には言えない。江戸時代でも都市と農村では多少異なるかもしれないが、近世後期の都市においてはナンバはすでに消滅していたという説も有力である。幕末から明治の外国人の見聞録などの調査研究によると、日本人の歩行の特徴として、引き摺り足、歩行の音、爪先歩行、前傾姿勢、小股・内股、奇妙な歩き方といった項目が挙げられた。このうちの多くは草履や下駄などの履物による影響により、小股・内股は主に女性に見られ、着物による必然化した特徴である。外国人の見聞録からはナンバ歩行に関する記述は見いだせない。日本人によるナンバ歩行の史料が少ないのは、歩行という動作があまりに日常的であるため、意識的に記録することがなかったためであろう。近世後期の日本にナンバ歩きがあったのか、あるいは無かったのだろうか。一つ考えられるとすれば、ナンバは実際には一見してそれとは判明しないほどに、自然で目立たない動作であったのかもしれない。かつての日本人が右手と右足、左手と左足を、手を振らずに、エネルギーのロスを最小限にした自然な歩行をしていたとすれば、外国人にとっても奇妙に感じなかったであろう。明治10年の西南戦争のとき、明治政府の農民兵は薩摩兵に完敗を喫したので、洋式練兵法を採用し、それを義務教育にまで取り入れて新しい歩き方が普及されたというのが通説であるが、近世日本人が整列行進ができず、近代明治の軍隊で整列行進ができるようになったというのである。しかしながらナンバ歩行、ナンバ走法と関連づけられるこの説も戦国時代の足軽の存在や秀吉の大返しの故事を考えると機動力の点で近世がすごく劣っていたと考えるには無理な点がある。

   そもそも「ナンバ」については由来があまりはっきりしない用語である。①骨筋の違うという意から、骨筋の違いをなおす医者が大阪の難波にいたのでそれからきたという説②南蛮人すなわち外国人の動作からきたという説(「演劇百科大事典」平凡社)これらのいずれも信憑性を欠く説であろう。

   いずれにしても、近代以前の日本人の歩き方は、着物と履物に強く規制されていたことは間違いないことであり、その歩行をナンバと呼ぶのがはたして適切であるのか、ではウォーキングがいつごろからはじまったのか、などの疑問は今後の研究調査が待たれる興味あるテーマであろう。

2007年2月19日 (月)

ゼッケン67

    第1回東京マラソンが終わった翌日の朝日新聞夕刊「惜別」という物故者の記事で、かつて「アジアの鉄人」といわれた台湾の楊伝広がご逝去されたことを知った。すでに1月27日脳卒中で73歳で亡くなり、2月9日台北で追悼式があったということである。ローマ五輪で10種競技の銀メダルだった(陸上ではアジア唯一のメダリスト)楊伝広は大会前の予想では金メダルの有力候補だったが、5位に終わった。ケペルは何故か勝者よりも敗者の涙に感動をおぼえた。東京五輪の涙の敗者といえば、まず第一はヘーシンクにやぶれ、柔道無差別級二位に甘んじた神永昭夫であろう。マラソンの日本勢のエースだった寺沢徹の15位という予想外の不調も、若手の円谷幸吉3位、君原健ニ8位の活躍の陰で無念の涙だった。女子では水泳100m背泳で日本新ながらも田中聡子選手の4位に同情の涙を禁じえなかった。女子80メートル障害の依田郁子選手は5位だったが、トラックでは人見絹枝以来36年ぶりということで、大検討だったのかもしれない。そのような敗者の涙のなかで、栄光の敗者という光景を陸上1万メートルでみることができた。この話は後に国語の教科書にとりあげられたので若い人のほうがよく知っているかもしれない。

                    ゼッケン67

    ゴール前50メートルで勝負がきまるという熱戦をくりひろげた一万メートル決勝も、アメリカのウイリアム・ミルズ選手が優勝しました。ほかの選手もほとんどゴールインをして、トラックからすがたをけしていました。しかし、たったひとりで必死の表情で走りつづける青年がいました。ゼッケン67、セイロンのカルナナンダ選手です。まだ、あと三周しなければゴールインできません。

    二十三、四、五周めと、一万メートルに出場したセイロンの陸上競技の選手として、全身あせまみれになりながらも、しっかりと大地をけって走りに走っています。

    そのほかには人かげ一つありません。ゴールに向かって力走する、カルナナンダ選手のすがたに、七万五千人の大観衆は、おしみない賞賛の声を感動をこめて送りました。

   あるかぎりの力をふりしぼって、最後まで、レースをすてなかった、カルナナンダ選手のおこないは、すべての人々の心にいつまでも残るでしょう。

   レースのあと、カルナナンダ選手は、「わたしはできるだけ力をふりしぼって走りました。びりになったのは、こんどがはじめてです。むすめが大きくなったら、おとうさんは、東京で力いっぱい頑張ったと話してやりたい。」と、胸をはって話していました。(「学研版小学生のための東京オリンピック」より)

2007年2月10日 (土)

おらァ三太だ! 千代ノ山はおいらの親友だ

   噂の大相撲疑惑がついに訴訟沙汰となる。八百長の語源は「八百屋の長兵衛、通称八百長という人がある相撲の年寄とよく碁をうち、勝てる腕前を持ちながら、巧みにあしらって常に一勝一敗になるように細工したところから起こるという」(「国語大辞典」小学館)とある。実は八百長の語源は、相撲ではなく囲碁だった。「ある相撲の年寄」とは、明治時代の伊勢ノ海五太夫だといわれる。相撲人気は低迷といわれるが、ケペルの少年時代はすごい人気だった。横綱が栃錦、吉葉山、鏡里、千代ノ山と4人おり、大関が若乃花、朝汐、松登。テレビは普及していなかったが、めんこでその雄姿はみな知っていたのでラジオでも十分満足だった。相撲ヒーローの伝記映画もしばしば作られたし、映画館では「大相撲速報」というニュースがあった。家庭では月刊漫画誌の別冊付録「若ノ乃物語」を熟読する。「朝は朝星、夜は夜星、雨が降っても、槍が降っても若ノ花は稽古を休まなかった」というコマ絵をいまも覚えている。昭和34年から創刊された少年週刊誌は現在のグラビアアイドルではなく、人気力士が表紙を飾ることも少なくなかった。映画作品には、「涙の敢闘賞」(名寄岩、山根寿子、高田敏江、芦川いずみ)、「風雪十年全勝吉葉山」、褐色の弾丸房錦の「土俵物語」、「三太と千代ノ山」、「力道山物語、怒涛の男」、そして極めつけは「若ノ花物語 土俵の鬼」(若ノ花勝治、北原三枝)。若き日の花田勝治は青山恭二だったが、力道山にしろ若ノ花にしろ本人が主演しているところがスゴイ時代だったと思う。

ここに昭和33年頃のものだと推定するが、「大相撲かるた」を紹介する。

いっきにつきだす千代の山

ろうこうなとりくちみせる清恵波

はりて一発 大晃

錦絵みるような吉葉山

ぼくらのすきな島錦

へんかにとんだ出羽湊

とうしまんまん泉洋

ちりをきり この一番どひょう上

りきとうの新進気鋭若の海

ぬーっと大起(おおだち)四十八貫

るいのない内掛名人琴ヶ浜

おしをとくいの若前田

若葉山かわりみ早くあれまわる

かいきりのむそうの玉の海

よりみにするどい三根山

大豪大関大内山

連日元気な鶴ヶ浜

速攻に成山うけるかちなのり

つりだしぐいっと双ッ竜

ねっ戦に火花をちらす時津山

なげわざふるう潮錦

ラジオがつたえる最高潮

むすぴのいちばん庄之助

上手だしなげ名人横綱栃錦

のっしのっしと鏡里

大昇外掛にきめるあざやかさ

蔵前にひろげる熱戦十五日

やぐらでとばす羽島山

松登たちあい一発ぶちかまし

けいこねっしんな栃光

ふれ太鼓相撲ファンの血をわかし

五百かい出場記録の若瀬川

えいしさっそう朝汐太郎

であしのするどい宮錦

あしこししぶとい常の山

さっとけたぐり北の洋

きおってよりきる大天竜

ゆさぶりできめるあらわざ若の花

めざましいかつやく芳の嶺

みらいのホープ安念山

清水川師匠ゆずりの上手投げ

ひだりよつさっとよりきる国登

もろざしいっきの信夫山

正攻法江戸っ子力士出羽錦

すもうのうまい鳴門海

    「おらァ三太だ!千代ノ山はおいらの親友だ!」の三太少年のような夢と希望をいつまでも持ち続けたい。

2006年10月15日 (日)

徳三宝と三船久蔵

   講道館四天王といわれた西郷四郎、富田常次郎、横山作次郎、山下義韶の次代をになったのは、磯貝一(1871-1947)、永岡秀一(1876-1952)、飯塚国三郎(1875-1957)、佐村嘉一郎(1880-1964)らであった。その後に三船久蔵(1883-1965)、高橋数良(1885-1942)、徳三宝(1887-1945)、中野正三(1888-1977)らの時代が続く。とくに三船と徳の名勝負物語は少年雑誌などの読み物で戦前の少年たちにもよく知られた柔道家であった。

徳三宝 明治20年12月12日、鹿児島県徳之島に生まれる。175cm、88kgの体格は当時としては頭抜けた巨漢であった。佐村嘉一郎に見出され、明治39年上京。5月に講道館に入門して修行に入り、翌年1月に初段、同9月に二段、明治41年9月に三段に昇段。翌年4月に東京高等師範学校文科兼修体操専修科に入学、学業と共に講道館の稽古を続け、明治43年1月に四段に昇段、翌年に同校を中退して専ら講道館で修行。誰よりも早く道場に出て、稽古することを目標にして実行、早朝5時からの寒稽古では、電車が動いていないので、小松川から10キロを歩いて一番乗りで皆勤した。大正8年5月に五段、大正15年に六段、昭和8年6月に七段、昭和12年12月に八段に昇段。その間、早稲田大学、日本大学、拓殖大学等の柔道部師範として子弟の教育に専念していたが、昭和20年3月10日の東京大空襲で死去。同日九段に昇段。享年59歳。

三船久蔵 明治36年、講道館に入門。短躯ながら投げの妙技を発揮、大車・隅落としなどの技を得意とし、空気投げを創案した。大正7年に七段に昇進、講道館の指南役をつとめるかたわら、東大・早大・明治大・日大などの師範を兼ね、柔道の普及に努めた。昭和20年十段に列し、70歳を越えても講道館で後進育成の稽古を続けた。(参考:「柔道大事典」アテネ書房)

2006年9月28日 (木)

嘉納治五郎と講道館四天王

   嘉納治五郎(1860-1938)がそれまでの柔術という名称を改め、新たに「日本伝講道館柔道」を起こしたのは、明治15年2月、東京下谷区稲荷町の永昌寺内に道場を開いたときからである。

   嘉納は明治4年上京し、明治10年、天神真楊流の福田八之助について柔術を学ぶ。福田の病没後、その伝書を継承し、さらに神田お玉が池に道場を開いた同じ流儀の磯正智に従い、また明治14年、起倒流の名人飯久保恒年に師事した。同年東京帝国大学文学部を卒業、学習院に奉職するかたわら、永昌寺に居をかまえ、従来の柔術に科学的改良を加えて講道館柔道を創始する。時に嘉納師範23歳。道場は広さ畳12枚、初年度の入門者は富田常次郎、西郷四郎、山県正雄、白藤丈太郎ら9名であった。講道館は、その後、南神保町へ移った。この道場は別名土蔵道場といわれる。西郷四郎が代稽古に立つのはこのころからである。明治18年ごろ、攻玉社の学生であった広瀬武夫も講道館に通った一人だった。明治海軍に柔道を導入したのは、彼と在校中の教官八代六郎の尽力によるものである。

   嘉納治五郎を中心とする講道館柔道の草創期の逸材は、西郷四郎(1869-1922)、富田常次郎(1865-1937)、山下義韶(1865-1935)、横山作次郎(1869-1912)の講道館四天王である。明治18年に山下は揚心流の照島太郎を他流試合で破り、講道館の名声は上がり、山下は警視庁師範となる。小説「姿三四郎」のモデルといわれる西郷四郎は、のちに野望を抱いて中国に渡り各地を転々とするが志を得ず帰国、長崎に住んで「東洋日の出新聞」の経営に加わったが失敗、晩年は尾道で零落した。

   嘉納はスポーツ振興のために尽力し、IOC総会で第12回オリンピックの東京招致に成功(戦争のため中止となる)。昭和13年カイロIOC総会に出席し、その帰途太平洋を渡る氷川丸船中で急性肺炎のため死去した。

2006年9月19日 (火)

山田敬蔵、ボストンマラソン優勝

    昭和28年4月20日、第57回ボストン・マラソンで山田敬蔵(同和鉱業花輪鉱業所)は2時間18分51秒の世界新記録で優勝した。レースは第53回大会優勝者スウェーデンのレアンデルソンがまずリード、これを山田、カルヴォネンが追う展開となる。マラソンでよく使われる「心臓破りの丘」という言葉はこのレースが起源といわれるが、山田、カルヴォネン、アンダーソンの3人の大接戦となった。まさに終盤に山田がスパートして2人を離してゴールイン。タイムはザトペックの2時間23分3秒を大幅に更新する大記録。しかし2位のカルヴォーネンとはわずか28秒差、3位のアンダーソンともわずか41秒差という激しいものだった。日本人としては、第55回優勝の田中茂樹に次いで2人目。いよいよマラソンは10分台に突入した。しかしのちに残念ながらコースの距離不足が判明し、記録は抹消されている。

    山田敬蔵78歳。2006年4月のボストン・マラソンに挑戦し、4時間16分07秒という記録を残し完走する。生涯現役ランナーに拍手。

2006年8月24日 (木)

切れたナイロンザイル

    井上靖の小説『氷壁』の題材となったのは「切れたナイロンザイルの謎」である。石岡繁雄(1918-2006)は、弟を昭和30年1月、北アルプスで失った(いわゆるナイロンザイル切断事件)。麻ザイルに勝ると言われていたナイロンザイルの強度に疑問を抱いたが、専門家メーカー側は欠陥を認めなかった。だが石岡は独自の実験を重ねて当時のナイロンザイルは岩角で切れやすいことを実証した。21年かかって真実が認められたが、その間、ナイロンザイルの切断事故で20人近くが死んでいる。

   石岡繁雄は、旧制八高山岳部時代より穂高岳などでの登山活動を始める。戦後旧制三重県立神戸中学校教諭となり、山岳部を創設、そのOB会を中心として岩稜会を設立。明神岳を始めとして穂高岳の岩壁を登り、その成果を『穂高の岩場』上・下巻として発表した。また穂高岳屏風岩の開拓に取り組み、昭和22年7月、同壁中央カンテの初登攀に成功する。『屏風岩登攀記』がある。

2006年8月12日 (土)

藤木九三とロックガーデン

    藤木九三(ふじきくぞう、1887-1970)。京都福知山生まれ。早大英文科中退。東京日日、やまと新聞を経て朝日新聞に入社。

    阪急電鉄神戸線が開通まもない大正末期ごろ、若い新聞記者・藤木は芦屋川駅付近の車窓から見える六甲山の岩肌を見て興味を覚えた。その後、彼はこの岩場で、岩登りの練習を重ね、わが国初のロッククライミングRCCを創設した。1926年1月のことである。そしてこの岩場を「ロックガーデン」と命名した。

    現在、芦屋川上流のコース入り口の高座の滝の左壁には、藤木の顔のレリーフがある。毎年、藤木の誕生日(9月30日)に近い日曜日には藤木祭が開かれている。

                                  *

   登山家藤木の登山歴を概述する。1916年夏、東久邇宮の槍ヶ岳登山に同行報道する。19924年1月、有峰から上ノ岳積雪期登山。6月上旬、槍平小屋から残雪の南岳、奥穂縦走。1925年8月、早大隊と前後して北穂高滝谷を登攀した。1926年、ヨーロッパに遊びモン・ブラン、フィンシュターアールホーン、マッターホルン、モンテ・ローザなどに登り、秩父宮のお供をした。1934年12月、京大の厳冬期白頭山登山隊に報道部員として参加し、極地法登山について広く一般に紹介した。1936年12月には四国石鎚山冬期登山を記録した。

    著書は『屋上登攀者』『槍・穂高・岩登り』『雪・岩・アルプス』『雪線散歩』『雪表縦走』など多数ある。新田次郎『孤高の人』では、主人公のよき理解者で関西登山界の大立者の藤沢久造として登場する。また甲子園球場の「アルプススタンド」の名付け親でもある。

2006年8月11日 (金)

マッターホルンの悲劇

   ヨーロッパに、イギリス人を中心とした登山というスポーツが発生したのは、18世紀の中頃だが、それから約100年くらいのうちに、モンブラン、マッターホルンといった4000メートルクラスの高山は、つぎつぎと征服された。

    1865年に、イギリスの登山家エドワード・ウィンパー(1840-1911)が、いくどかの苦心のすえに、マッターホルンの初登頂に成功したことは、いまなお、世界的に有名な壮挙であるが、下山において悲劇的な遭難事件があったことでも広く知られている。

    8人の一行は下山途中で一人は足場を確保したが、ロープの途中が切れてしまい、下の4人は滑落して死んでしまった。下山後、ウィンパーはスイス当局の査問委員会に引き止められ、裁判にかけられることになった。無罪になったものの、イギリスに帰国後も彼はタイムズ紙などマスコミから非難された。ウィンパーは地質学研究をしながら、1867年から1872年と2度にわたるグリーンランドの探査、チンボラソに初登頂した1879年から1880年にかけての南アメリカ・エクアドル・アンデス、あるいは北アメリカのロッキー山地と、精力的な活動を続けた。1871年に出版した『アルプス登攀記』は、批判も多かったが、大衆には熱狂的に受け入れられた。1911年、71歳で亡くなり旅先のシャモニの墓地に埋葬された。

   『アルプス登攀記』の最後を、彼は次の言葉で締めくくっている。

いかに勇気や体力があろうと、慎重さを欠いては何にもならない、ということを忘れないでほしい。そして一瞬の不注意が、一生の幸福を台無しにしかねない、ということも

2006年7月23日 (日)

赤バットと青バット

    昭和20年11月23日、神宮球場。この日、戦後初の職業野球の試合が行われた。戦前のスターたちが勢ぞろいしたが、観客の目を釘付けにしたのはまったく無名の若者だった。大下弘22歳。

   大下の大学時代は補欠選手だった。ところが、明治大学先輩のセネターズの横沢監督に、大きな打球を飛ばしているのを見出されてプロ入り。公式戦が再開された翌21年には第1号がいきなり満塁ホームラン。その華麗な打球、白面の二枚目から「貴公子」と呼ばれ一躍人気を博することになった。

   同じ頃、巨人では一人の大打者がチームに復帰した。川上哲治。戦後郷里の熊本に引きこもっていたが、強い説得に折れ、再びグランドに戻ってきた。この川上に、日本野球連盟副会長の鈴木惣太郎が「赤いバットを使ってみる?」と耳打ち。並木路子の「リンゴの歌」からヒントを得たアイデアだった。

   これに対抗したのが、大下弘。「川上さんが赤ならオレは青だ」と青バットを使い始め、二人が打ちまくった。

   この年、大下は20本で本塁打王になった。これまでの記録が10本が最高であったから、大下はなんとその2倍ものアーチを量産したのだ。川上もこれに負けじと昭和23年に25本を打って本塁打王になった。巷には笠置シズ子の「ホームラン・ブギ」が流行り、戦後プロ野球は、ホームランとナイターでブームが到来した。

2006年7月18日 (火)

巨人軍選手名鑑(昭和27年)

読売ジャイアンツ

水原茂(監督)

 手堅いが、ときに強気にでる名監督

千葉茂(助監督内野)

 日本一の名二塁手。ライト打ち

川上哲治(助監督内野)

 10年間3割を打っている強打者

別所毅彦(投手)

 べーやんと親しまれている剛球の大投手

宇野光雄(内野)

 肩がなおって攻守あざやかな三塁手

平井三郎(内野)

 好守好打好走三拍子がそろっている

青田昇(外野)

 アオの呼び名。元気いっぱいの本塁打者

与那嶺要(外野)

 確実な短打法で、人気のある名左翼手

           *

中尾碩志(投手)藤本英雄(投手)多田文久三(投手)大友工(投手)入谷正典(投手)武宮敏明(捕手)楠協郎(捕手)広田順(捕手)手塚明治(内野)内藤博文(内野)桝重正(内野)小松原博喜(外野)南村不可止(外野)萩原寛(外野)樋笠一夫(外野)