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2018年6月29日 (金)

逃げるは恥だがともかく決勝進出おめでとう

  ポーランド戦、敗れるもなんと西野ジャパンが決勝進出。後半10分くらいは時間かせぎのパス回しで観客からはブーイングの嵐だった。これは同時に行われたセネガルが負けているとの情報で、たとえポーランドに負けても警告点で減点の少ない日本が2位になり決勝へ進出できる望みがでたため、消極策だがリスクを減らすという監督の戦術で、栄光もプライドも捨てても結果よければ良しとする苦渋の選択。フェアプレイポイント制が時間稼ぎの策を執らせたは皮肉な話ではある。むかし高校生の松井秀喜に5打席すべて敬遠策を命じた監督がいた。当時は非難を浴びたが慧眼だとのちでは言われるようになっている。ボクシングのクリンチ策、横綱鶴竜の立ち合いの変化技など、ルール内での戦術の1つと考えれば、西野監督の今回の術策は容認されるだろう。世界各国のメディアもこの消極的な作戦に対して様々な反応が出ている。韓国の安貞桓は「韓国は美しく敗退し、日本は醜くベスト16入り」と皮肉っぽく語った。名誉と栄光を重んずるイギリスやフランスでも厳しく否定的な意見が多い。一方イタリアでは思想家マキァヴェリの格言「目的は手段を正当化する」を引用して西野監督の決断に一定の理解を示している。ロシア大会。歴史を鑑みればナポレオンの大軍には力ではかなわぬが撤退して冬将軍で最終的に勝利したクトゥーゾフ将軍の故事もある。決勝リーグも西野ジャパンのミラクルがあるかもしれない。

2018年6月 8日 (金)

なぜ山に登るのか?

Clark0508  先月、エヴェレスト登頂において最難関とされる南西壁ルートを単独・無酸素で挑んだ登山家の栗城史多さんが、標高6600m付近で死亡したという悲しいニュースがあった。「なぜ山にのぼるのか」の問いに「そこに山があるから」。この有名な文句は、実は「なぜエベレストに登るのか」という質問に対するジョージ・マロリーの回答である。いつしか一般的な「山」と言い換えられて広まっているが、もともとは世界最高峰のエベレストに限定しているのである。

    歴史記録としてはエベレスト初登頂は1953年5月29日、エドモンド・ヒラリー(1919-2008)とテンジン・ノルゲイ(1914-1986)が成功した。だが2人に遡ること29年前の1924年6月8日に、マロリーとアービンが世界の高みを極めていた可能性がある。1999年、エベレスト北面8160mの地点で、マロリーの遺体が発見された。そして標高8490mの地点からマロリーが使用した№9酸素ボンベが発見されている。これはマロリーは帰還の際に絶命したと考えられ、登頂に成功したことを推測させるものである。だが決定的な証拠となるコダックのカメラが未だ発見されていない。マロリーがエヴェレスト初登頂したか否かは謎のままである。

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ヒラリーとテンジンは登頂後、何杯も紅茶を飲んで、かわききった喉をうるおした

2018年4月28日 (土)

ラッキーセブンは本当にラッキーか?

Main8g20120408ddd1900552g30   今日からゴールデンウィークがはじまる。ところでGW、ゴールデンウィーク(黄金週間)の語源が映画業界用語であることから、近年NHKなどでは「大型連休」と表現している。この時期は全国の行楽地や動物園、水族館、遊園地などがとくに賑わう。野球場も満員で、野球観戦たけなわのシーズン。中日ドラゴンズではホームの試合のとき7回裏の攻撃前にドアラが宙返りをすることが恒例となっている。7は幸運の数字であるとする英語圏の思想がある。とくに9イニング制の野球において7回は先発投手の疲れが出始めるころで、試合が動くイニングと見なされている。俗にラッキーセブンといわれる。1885年9月30日、ホワイトストッキングスの7回の攻撃で、平凡なフライを打ち上げたが、強風に吹かれてホームランになった。これでホワイトストッキングスはリーグ優勝を決めたことから「ラッキーセブン」という言葉が生まれた。大リーグでは7回の少し休憩タイムがあり「わたしを野球に連れてって」を歌うのが恒例となっている。

   こうした7回の攻撃で試合が動くという通説は本当であろうか、名古屋大学で統計調査をしたところ、7回の攻撃の得点率は、むしろ全イニングの平均を下回るという結果がでた。7回よりも6回のほうが得点が入りやすいという。

2018年4月 7日 (土)

女性と土俵

   4日にあった大相撲春巡業で舞鶴市長が土俵上で突然倒れた。動転した行司は介抱している女性に対して「女性は土俵から降りて」とアナウンスした。救命活動を阻止したことに多くの批判が起こり、相撲協会は謝罪した。6日には兵庫県宝塚市で開かれた巡業で中川智子市長は挨拶で土俵に上がることを要望したが、協会に認められず。「女性という理由でできないのは悔しい」と語る。土俵の女人禁制をめぐっては過去にも何度かゴタゴタがあった。1990年の森山真弓官房長官、2000年の太田房江知事、いすれも賜杯の授与をめぐって土俵に上がれなかった。2007年には観客の女性が突如、土俵に上がりかけたが取り押さえられるという事件があった。今後も強行突破しようとする女性が現れるかもしれない。大相撲の土俵が男尊女卑を肯定する象徴なのか?意見は解禁派と伝統を守る派、二分するかもしれない。メディア主導の一時のムードで伝統を簡単に変えるのもいかがなものか。舞鶴市で起きた不味い対応に乗じてメディアも宝塚中川市長の政治パフォーマンスを大きく取り上げた。舞鶴のような緊急対応時と宝塚市長の挨拶とは次元が異なる議論ではないだろうか。もしも大相撲が土俵を女性に解禁して、プロ野球にみられるチアガールやビキニ姿の女性が始球式するショービジネス化は良くない。大相撲を単なるプロレスとみるか、伝統的な神事とみるかの違いではないだろうか。

2018年3月 9日 (金)

平昌パラリンピック開会式

   障害者スポーツの祭典であるパラリンピックが今日から開幕する。第12回平昌パラリンピックは49ヵ国・地域、選手570人が参加し、6種目の競技がおこなわれる。パラリンピックの起源は、1944年、イギリスのチャーチル首相は、ドイツとの戦争激化により負傷し脊髄損傷になる兵士が急増することを見越して、ロンドン郊外にストーク・マンデビル病院内に脊髄損傷科を開設した。その初代科長にルードウィッヒ・グットマン卿が任命された。グットマンはスポーツを治療に取り入れる方法を用いた。1948年ロンドンオリンピックにあわせて車いす患者によるアーチェリー大会を開催、これがパラリンピックの原点である。

   ことばのパラリンピックはパラレジア(脊髄損傷等による下半身麻痺者)+オリンピックの造語である。第1回大会(23ヵ国、400名が参加)はローマだが、用語が広まったのは、1964年の東京大会からである。 Paraplegic Olympic

2018年3月 4日 (日)

近衛政家

 マラソンや湖岸を走るあたたかさ

  びわ湖毎日マラソン。石山寺や瀬田の唐橋など「近江八景」名所めぐりのマラソンコース。近衛政家が室町時代に近江八景の和歌8首を詠んだのがはじまり。このえまさいえ。室町戦国時代の公卿。近衛房嗣の次男。右大臣をへて、1470年関白、氏長者となる。同年左大臣に転じ、1488年太政大臣。従一位。古典を筆写し、その保存につとめた。

2018年2月28日 (水)

カー娘の心にひびく名言

   平昌五輪も閉幕した。メダル獲得は13個となり冬のオリンピックとしては過去最多。日本選手の活躍を観ながら、兄弟姉妹で参加しているケースが多いことに気づく。スピードスケートの高木菜那と美帆、カーリングの吉田知那美と夕梨花、両角友佑と公佑など。メンタルが勝負の競技にあって、兄弟姉妹が一緒というのは安心感があるのだろうか。

   とくに帰国後の会見でもカー娘は終始笑顔が絶えない。この活躍の立役者は試合は補欠だったマリリンの愛称で親しまれる本橋麻里にある。2010年、チーム青森を脱退し、北海道北見にロコ・ソラーレを設立した。そして長野の中部電力にいた藤澤五月を移籍させてチームを強化させた。27日夜LS北見チームが地元の空港に凱旋した。大勢の子供たちがいて、マリリンは「北見にこんなにたくさんの子供がいて驚いた」とコメント。吉田知那美は「正直この町何もないよね」と会場を笑わせた後、続けて「この町にいても絶対夢はかなわないと思っていた。だけど今はこの町にいなかったら夢はかなわなかったと思う。みんなもたくさん夢はあると思うけど、大切な仲間や家族がいれば夢は叶う。場所なんて関係ない。」いろんな人のスピーチがあるけど、このような心に響く素晴らしいスピーチは聞いたことがない。これからカーリング人気は一過性なものではなくきっと定着すると思われる。LS北見チームは3月17日からカナダのノースベイで開催する女子カーリング選手権大会に参加する。

2018年2月17日 (土)

フィギュアスケートの歴史

   平昌五輪男子フィギュアスケートで羽生結弦が金、宇野昌麿が銀を獲得。サンモリッツ・オスロと二大会連続金メダルのリチャード・パットンは羽生を「信じられないくらいすばらい」と絶賛した。フィギュアスケートは19世紀中ごろ、バレエ教師のアメリカ人、ジャクソン・ヘインズがバレエのポーズやタップとステップを取り入れ、音楽と合わせて滑走したことで普及するようになった。ヨーロッパではウィーンてにシュトラウスやモーツァルトの音楽に合わせて滑走する大会が開催される。1882年ウィーンで最初の国際大会が開催された。第一次世界大戦後、ノルウェーの女子シングルでソニア・へニーが世界的な人気者になった。ソニアはその後ハリウッドで映画スターとして成功した。日本では戦前の稲田悦子、戦後の佐野稔らが現れたが、五輪メダリストは実現できなかった。近年、伊藤みどり、荒川静香、浅田真央、高橋大輔ら世界レベルの選手が活躍するようになる。羽生の五輪連覇は国民栄誉賞に十分に価する歴史的快挙といえる。

2018年2月10日 (土)

望郷のモロッコに雪は降るのだ

   昨晩は平昌五輪の開会式をテレビで視聴する。4年後の北京大会は生きて見れるだろうか。冬季五輪は1924年に第1回がフランスのシャモニー(参加国16ヵ国)で開かれ、第23回の韓国・平昌大会は史上最多の92ヵ国・地域が参加する。選手団の入場順は、先頭がギリシャ。続いて、ハングルでの国名表記順で行進が行われ、日本はインドに続いて62番目に入場した。多くの日本人選手が体調管理優先で不参加のなかでジャンプの高梨沙羅の笑顔が見れたのは印象的だった。旗手はジャンプの葛西紀明選手。最後の91番目は韓国と北朝鮮が朝鮮半島旗の下、合同で入場する光景も感動的だった。聖火台点灯者はやっぱりキム・ヨナ。ともかく五輪の開会式は世界地理の勉強にもなる。NHKの実況でアナウンサーがモロッコの雪とか香港の旗の話を誤報していた。モロッコを漢字では摩洛哥と書くが、映画「望郷」や「カサブランカ」のイメージでサハラ砂漠=暑い、という印象がある。国土面積は日本よりだいぶん広く4000m級のアトラス山脈が走っているので真冬には山岳には積雪している。砂漠地帯も昼夜の寒暖差が大きくて、夜は寒い。ハンフリー・ボガードやバーグマンがコートを着ていたのもそのためだ。

2018年2月 9日 (金)

バレーボールの歴史

634_1   バレーボールは1895年2月9日、アメリカでウィリアム・G・モーガン(1870-1942)が考案した。最初はミントネットと呼んでいた。1908年、アメリカに留学していた大森兵蔵(1876-1913)が日本に最初にバスケット・ボールとともに紹介した。1913年F・Hブラウンが東京・神田のYMCAで公開したのをきっかけに広まったといわれている。バレーボールが考案された当初、集まった選手たちが2チームに分かれてボールを打ち合い、落としたほうの失点という単純なルールだった。日本へ伝わったときもルールは明確に決まっていたわけではなく、1チーム12人であったり9人であったり規定はなかった。(Volleybaii,Mintonette,William Morgan)

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