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2019年4月 2日 (火)

和製英語

  プロ野球ペナントレースが始まった。テレビで野球中継を見ながらビールで晩酌。内野と外野との間にゆるく舞い上がって落ちる安打をテキサス・ヒットという。なぜテキサス州なのか。テキサスのマイナーリーグは貧打でクリーン・ヒットがなく、それを皮肉って Texas Leaguer's Hit という言葉が生まれた。日本の野球でよく使われるカタカナの野球用語は、そのまま使っても外国人には通じないものが多い。総てさがすと100個以上もあるといわれる。例えば、ピッチャーの投げたボールが直接にバッターの身体に当たることをデッドボール(dead ball)という。英語では、HEP、またはそのもともとの英語で hit-by-pitch (字間にハイフンをつけないでhit by pitch)も使われます)という。あるいはその状態を説明する pitch that hits the batter などといっている。動詞では、he was hit by a pitch and broke his right wrist(彼は死球を受けて右手首を骨折した)などと使う。

   日本語のキャッチボールの意味は、捕球したボールを相手に返球するところまで含んでいるが、英語 catch ballは単にボールを捕球するという意味。つまり正確には、catch a ball and return to the person who has thrown the ball to you(ボールを捕球し、それを投げた人に返球する)となる。

  サイクルヒット、シートノック、スイングアウト、タイムリーエラー、タイムリーヒット、スリーバント、トップバッター、ナイター、ノーカウント、フォアボール、フライ、ホームイン、ホームスチール、ランニングホームラン、すべて和製英語。

 野球以外ではカンニング、ワンパターン、オーダーメイド、スキンシップ、コンセント、キーホルダー、パワーハラスメント、デコレーションケーキ、ガードマン、コインランドリー、リフォーム、リベンジなどなど。

2019年3月18日 (月)

テニスの神様フレッド・ペリー

220pxfred_perry_01   2013年ウィンブルドン男子シングルス決勝ロジャー・フェデラー(スイス)対アンディー・マレー(イギリス)の対戦が行なわれ、マレーが勝利した。本大会でイギリス人選手が優勝するのはフレッド・ペリー(1909-1995)以来の実に77年ぶりとなる。ペリーはウィンブルドンでは1934年から36年まで3連覇を達成し、「テニスの神様」と呼ばれている。ハンサムで女性に人気があり、イギリスよりもむしろアメリカで人気が高く、マレーネ・ディートリッヒやジーン・ハーロウとも関係があった。第二次世界大戦には米空軍から参戦している。(Wimbledon,Andy Murray,Fred Perry)

2019年3月 3日 (日)

東京マラソン、日本勢不調

   冷たい雨が降る中、38000人のランナーが東京を走る。来年に迫った五輪とコースが重なる箇所もある。男子はビルハヌ・レゲセ、女子はルティ・アガが優勝(ともにエチオピア)。日本期待の大迫傑は29キロ付近でリタイヤ、設楽啓太は14位と不調だった。女子日本人トップは一山麻緒(7位)。

2019年2月15日 (金)

ヒマラヤ登山の歴史(19世紀)

   「世界の屋根」といわれるヒマラヤには、標高7000mを超えるピークが250種以上、8000mを超えるピークだけでもエベレスト(8848m)をはじめとして14座もある。現在ではそのほとんどが踏破されたが、19世紀以前は多くが人跡未踏の処女峰であった。ヒマラヤの近代登山は、イギリス人のウィリアム・ウッドマン・グレアム(1859-1932)が1883年にドゥナギリの試頂とシッキムのカブール周辺の登山から始まる。1887年、ヤングハズバンドが北方からムズターグ峠によるカラコルム越えに成功、1892年にコンウェイのカラコルム遠征があり、6888mの当時の人類到達新記録をつくった。1895年、8000m峰ナンガバルバットに挑戦したママリーは遭難し、1899年、フレッシュフィールドのカンチェジュンガの偵察と一周囲旅行をもって、19世紀のヒマラヤ登山史は終わりを告げた。

2019年2月 9日 (土)

バレーボールの歴史

634_1   バレーボールは1895年2月9日、アメリカでウィリアム・G・モーガン(1870-1942)が考案した。最初はミントネットと呼んでいた。1908年、アメリカに留学していた大森兵蔵(1876-1913)が日本に最初にバスケット・ボールとともに紹介した。1913年F・Hブラウンが東京・神田のYMCAで公開したのをきっかけに広まったといわれている。バレーボールが考案された当初、集まった選手たちが2チームに分かれてボールを打ち合い、落としたほうの失点という単純なルールだった。日本へ伝わったときもルールは明確に決まっていたわけではなく、1チーム12人であったり9人であったり規定はなかった。(Volleybaii,Mintonette,William Morgan)

2019年2月 3日 (日)

皇居ランニング

Img_beauty_06_01 皇居の総面積は1150.346㎢。東京ドームの24倍、東京ディズニーランドの約3倍ある。皇居外周は1周およそ5㎞といわれ、首都圏ランナーのジョギングコースとなっている。一周は正確には4,9777㎞、あるいは4.93㎞といわれ5㎞に少し足りないが、キロ6分ペースでゆっくり走ると30分以内で走れる。コースは桜田門時計台広場をスタート地点に、二重橋、皇居外苑、大手門、竹橋、代官町、千鳥ヶ淵公園、半蔵門、三宅坂。

2019年2月 1日 (金)

ヒマラヤ登山の歴史(20世紀後半)

1945年、第二次大戦が終わると、これまで厳重な鎖国政策をとり続けていたネパールが開国し、1950年、ネパール入りしたフランス隊は、たった一度の攻撃で、人類初の8000m峰アンナブルナに初登頂してしまった。これを皮切りに53年、世界最高峰エベレストが悲願のニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーとテンジンによってようやく落ち、同年、ナンガパルバットもドイツ・オーストリア隊によって登られた。こうして第二次大戦前には1つとして登られなかった8000m峰が、次々と登られ、56年、日本隊も宿願のマナスルを手にし、チベット領内にそびえる8000m峰の最後を飾るゴサインタンが、64年、中国隊によって登られた。これをもってヒマラヤの黄金時代はあっけなく去った。1970年5月11日、松浦輝夫、植村直己が日本人とし初登頂に成功する。そして、100座を超す7000m峰も、目ぼしいものはほとんど登りつくされ、新しい処女峰を地図の上で見つけることもむずかしくなった。これからはすでに登られた山の別ルートによる開拓、とくにカラビナ・ハーケン・アイゼンなどを用いる人工登山、すなわち鉄の時代にはいりつつある。またスキーを使った娯楽・スポーツといった観光化と、ヒマラヤはしだいに大衆化しようとしている。

2019年1月31日 (木)

ヒマラヤ登山の歴史(20世紀前半)

  20世紀になるとヒマラヤ登山は、早くも1907年、ガルワール・ヒマラヤにあるトリスル(7130m)が、トム・ロングスタッフ(1875-1964)によって初登頂された。7000m峰に人類が立った最初だった。さらにイギリスのアレクサンダー・マイケル・ケラス(1868-1921)は1911年、パウンフリ(7128m)に登っている。1909年、イタリアのアプリッチ公の率いる大遠征隊がカラコルムにはいり、K2に失敗後、チョゴリザ(7654m)に試頂し、7500m近くまで登って記録を更新した。1899年から1912年にかけてアメリカのワークマン夫妻が、7回にわたりカラコルム周辺を探り、1906年ワークマン夫人(ファニー・ブロック・ワークマン)はヌンクン山群のピナクルピーク(6930m)に初登頂して、女性最高到達記録をつくった。しかし、7000m峰は、わずか3つしか登れなかった。

   第一次世界大戦によって中断されたヒマラヤ登山は、大戦終了とともにふたたび活発な時代にはいった。1921年、イギリスは初のエベレスト偵察隊を派遣して以来、1938年までに合計7回に及ぶ攻撃をくり返し、1933年、約8572mまで達したのが最高だった。カンチェンジュンカは、1929年と31年にドイツ隊が、K2は38年と39年にアメリカ隊が8000m近くまで登ったが落ちず、ナンガパルバット(8126m)は32年から39年まで5回、ドイツ・オーストリア隊の攻撃にもかかわらず、犠牲のみ多く成功しなかった。1936年、8000m峰ヒドンピークをねらったフランス隊も撃退され、8000m峰はついに一つとして陥落しなかった。一方、7000m峰では、1931年、スマイス隊がカメートを、36年、ティルマン隊がナンダデビーに登り、また同年、日本から初めて送られた立教大学隊が6000m峰ナンダコットに初登頂して、ヒマラヤ登山は隆盛をみた。しかし第二次世界大戦の勃発とともにふたたび休戦の時代にはいった。

2019年1月 6日 (日)

「いだてん」三島弥彦と金栗四三

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    三島弥彦                  金栗四三

   3日、熊本県和水町で震度6弱の地震が発生。大河ドラマ「いだてん」のモデル、金栗四三の生家があることで知られる。来年はオリンピック・イヤー。ドラマは日本初参加のストックホルム大会から1964年の東京五輪までの歴史物語。前半はストックホルム大会の参加選手は短距離の三島弥彦(1885-1954)とマラソンの金栗四三(1891-1983)。三島は明治の内務官僚・三島通庸の息子。100m、200mは予選敗退したが、400mは準決勝へ。しかし足痛のため棄権。金栗は競技中に失踪し、行方不明。54年後、ストックホルムの競技場にゴールテープが用意され、マラソン記録に決着がついた。記録は54年と8ヵ月6日。「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。後半はアジア初の東京五輪開催に奔走した田畑政治が主役になる。脚本は宮藤官九郎、制作統括は訓覇圭で「あまちゃん」コンビに期待が高まる。出演者には橋本愛、平泉成、小泉今日子、杉本哲太、荒川良々など「あまちゃん」組が続々いる。

2018年12月26日 (水)

バタフライ

1933年アメリカの水泳選手ヘンリー・メイヤーズが平泳ぎのとき両手を水上から前に返して泳いだのがはじめてで、「バタフライ平泳ぎ」とよばれていた。1954年長沢二郎が「ドルフィンキック」という新しい足の動きを発明し、当時の200メートルバタフライの世界新記録を更新した。1956年のメルボルン大会から「バタフライ」という独自の種目となった。

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