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2024年1月19日 (金)

けん玉の歴史

   外出自粛で屋内で誰もが手軽に楽しめる「けん玉」が注目を集めている。昨年の紅白歌合戦「けん玉チャレンジ」は残念ながら失敗に終わった。けん玉はいつ頃から始まったのか。その起源については諸説あるが、アジアではなくてヨーロッパであるという。フランスのビル・ボケ(Billboquet)が古い記録にある。16世紀のアンリ3世の頃である。ピエール・ド・エストワールが「1585年の夏、街角で子どもたちがよく遊んでいるビル・ボケを王様たちも遊ぶようになった」と記している。貴族や上流階級のビル・ボケは象牙などを使い、彫刻がほどこされていたので高価なものであった。現在世界各地にあるけん玉はおそらくこのビル・ボケが伝わったものらしい。日本で見慣れているけん玉は、大正時代に作られたもので、当時は「日月ボール」と呼ばれていた。1918年、広島県呉市の江草濱次が明治期のけん玉を改良した「日月ボール」を考案した。これが1927年ころ全国的に大流行した。

 

 

 

 

2022年4月19日 (火)

サイコロの1の目が赤いのはなぜ?

    サイコロの起源は古くインダス文明のハラッパー遺跡からも出土している。最初は必ずしも立方体ではなかった。日本にも中国から奈良時代に伝来している。今日見られるようなサイコロの1の目が赤く塗られているのは、それほど昔のことではなく、明治の頃までは黒く塗られていた。NHKのバラエティ番組「チコちゃんに叱られる」のスタッフが調査したところ「1926年に和歌山のサイコロ製造業者が日本の国旗の日の丸をイメージして1の目を赤くしたサイコロを販売したところから全国に広まった」との情報をつかみ問い合わせたが、この説は都市伝説であると否定された。大阪商業大学アミューズメント産業研究所の高橋浩徳氏に問い合わせたが「わからない」という回答を得るに至って、いまだ未解決問題となっている。

 

 

2021年10月29日 (金)

トランプの札、スペードのエースだけ模様が大きくて派手なのはなぜ?

  トランプの発生については種々の説があるが、東洋に発生してヨーロッパに移入されたという点では諸説とも一致している。中国の唐の末期からあった葉子という占いに用いるカードがヨーロッパに伝わってトランプになったという中国起源説が現在は有力である。13世紀にこの中国からイスラムに伝来したカードが変化してマムルーク・カードが出現したと思われる。このマムルーク・カードがヨーロッパに渡り、1320年頃プレイング・カード(トランプ)のスート(マーク)の原型(聖杯、こん棒、貨幣、刀剣)が発明された。そして、1377年にはヨハネスの文章や、フィレンツェ、シエナ、パリでもトランプの存在を表す記述が見つかっています。17世紀のイギリスでは賭博の流行を抑えるため、また相次ぐ戦争の戦費を調達するため、課税のためスペードのエースに納税の証として小さいスタンプが押された。しかしこのスタンプは偽造が簡単だったため、1765年から偽造防止のために、大きくて複雑な模様が描かれたスペードのエースが登場した。現在ではトランプ税は廃止されているが、その名残がスペードのエースに残っている。

 

 

2019年4月13日 (土)

ジグソーパズルの発明者は?

   ジグソーパズルとは厚紙や板に印刷した絵や写真を、入り組んだ形の小片に切りはなし、それを嵌め合わせて元通りにする玩具のこと。英語 jigsawとは、「糸鋸(いとのこ)」のことであり、元々このパズルが木の板を糸鋸で切って作られたことからこの名がついた。1760年ロンドンの地図職人のジョン・スピルズベリ(1739-1769)が子供の教育のためにピースが国の形のジグソーパズルを作ったのが最初といわれる。日本では昭和30年代後半には書店などでディズニーキャラクターのジグソーパズルが販売されていたが詳しくは不明である。1974年、名画「モナ・リザ」の日本公開でジグソーパズルブームがおきた。 John Spilsbury、雑学

 

 

2017年10月17日 (火)

カロム

カロム(闘球盤)は2人以上で行うボードゲーム。インド発祥で、日本へは明治末期にウィリアム・メレル・ヴォーリズが持ち込み流布させたとする説が有力。昭和初期に全国的に普及したが、戦後は彦根市を中心とした一部にのみ流布するゲームである。

2017年10月 4日 (水)

じゃん拳の歴史

  「じゃんけん」の歴史は意外に浅く、近世になってから誕生したものといわれている。最初は中国から入ってきた豁拳(かつけん)である。向かい合って2人が、互いに右手の指を出し、すばやく屈伸させ、数を数え、2人が伸ばした指の合計を言い当てた方が勝ちになる遊戯で、寛永頃に長崎に入ってきた。のち三つのものが互いに強弱があって三すくみとなる「じゃん拳」「虫拳」「虎拳」「狐拳」が生まれた。ハサミのことを「チョキ」、中国語で「りゃん」、これが「りゃん拳」で訛って「じゃんけん」と呼んだ。狐拳のことを藤八拳(とうはちけん)ともいい、明治に入って非常にさかんになった。グー・チョキ・パーも日本語であるとする説が有力。

French_jyanken   現代では世界中に広がったが、「じゃんけん」は欧米では順番などを決めるときは、硬貨を投げて決めることが多く、日本ほど一般的ではない。映画「007は二度死ぬ」(1967)では、日本的な雰囲気を出すためジェームズ・ボンドがじゃんけんをする場面がある。 じゃんけんは世界にいろいろな国にあるが、遊び方が少しすづちがう。ちがう指を使ったり、4種類や5種類も手の形があったりする。フランスはシゾー(はさみ)、ピエール(石)、木の葉(フュイユ)、ピュイ(井戸)の4種類ある。石とはさみでは、はさみを切れなくするので石が勝ち、井戸は、石とはさみを沈められるので石とはさみに勝ち、木の葉は、石を包み井戸をふさぐことができるので石と井戸に勝つ。

Rock_paper_scissors250    日本のテレビでは「じゃんけん」がよく登場する。「最初はグー!ジャンケンポン」という掛け声も志村けんの影響による。幕末の横浜の遊郭で流行った踊りが、松山で野球拳となり、お座敷芸となり、流行歌「三味線ブギ」「野球けん」(1954)でブーム、そして「コント55号の裏番組をぶっとばせ」(1969)で子どもまで広がった。現在コンピュータゲームにも「じゃんけん」をして勝つと美女が服を脱ぐというソフトがあるらしい。このことを知った萩本欣一は2005年に松山市を訪問し、謝罪している。第3回AKB48じゃんけん大会で島崎遥香が優勝しセンターを射止めたが、ずっとチョキで勝ってきたことからヤラセの出来レースとネットで批判が殺到した。一方プロレスのようなエンターテイメントだからヤラセでもOKとする擁護派もいる。ともかくも日本は「じゃんけん文化」である。「ジャンケン、メンコも拳のうち」という。確かにむかしのメンコの裏には必ず「グー、チョキ、パー」のいずれか1つの絵が描かれていた。英語で「じゃんけん」は scissors-paper-rockという。(Sepp Linhart)

 

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2015年10月 4日 (日)

歩のない将棋は負け将棋

   将棋において戒めや教訓の意味合いを短くまとめたものを「将棋の格言」という。多くは作者不詳であるが、将棋の普及に力を注いだ原田泰夫(1923-2004)が多くの格言を作っている。

桂馬の高飛び歩の餌じき

敵の歩がない筋を突け

三歩持ったら継ぎ歩で垂れ歩

三歩持ったら端攻めを考えよ

焦点の歩に好手あり

2015年2月11日 (水)

ビー玉の語源

Photo_2    語源研究のなかでも、「タンポポ」とか「ビー玉」は難題の一つである。ビー玉遊びは明治中期以降から子どもの遊びとして流行した。ラムネの栓をするガラス玉のうち、基準適合品をA玉、基準非適合品をB玉と呼び、不良品は「ビー玉」と呼ばれたとする。しかし権威ある辞書「広辞苑」はこの説に否定的である。「ビー」とは「ガラス」を意味するポルトガル語の「ビードロ(vidro)」に由来するという。「ビー」は「vi」でありも「b」ではない。もちろん江戸時代には高価品で遊びとして使えない。江戸時代、子供の遊びに「穴一(あないち)」があり、地面に10㎝程の穴を掘り、穴から数メートル離れた踏切船線から穴を狙って小石を投げる。穴に入った者が勝ちというゲーム。これが明治になってビー玉遊びの主流になった。

 

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2014年11月22日 (土)

土居市太郎

Photo   明治後期、将棋界は新聞の勝ち抜き戦連載によって新世紀を迎えた。時の十二世名人小野五平はすでに老齢、現役を退いて久しい。代わって関根金次郎八段が陣頭に立った。関根はたびたび全国を遍歴して強豪を訪ね、実績を重ねて八段位を戦いとったが、旅の間に大阪の鬼才坂田三吉が世に出る機会を作り、さらに四国の天才児土居市太郎を発掘、一番弟子とした。しかし、坂田の進境は実に目覚ましく、関根・坂田の時代となる。「♪明日は東京に出ていく行くからは、何がなんでも勝たねばならぬ」流行歌「王将」の歌詞に出てくる坂田三吉の初上京は大正2年4月のことである。「銀が泣いている」という名セリフを生んだほど苦戦した坂田が名角を放ち、逆転勝ちした。八段に昇った坂田はまず井上義雄を降し、大正6年に三度上京して関根にも勝つ。東京棋界あわや制圧、の危機に土居市太郎七段が平手で坂田を破り救世主となる。これで、関西から名人を、という夢は消えた。殊勲の土居は6年末、八段に昇り関根に代わって将棋同盟社を率いる。8年夏、坂田・土居の大阪対局は延べ6日、50時間を費やして坂田勝つ。大正13年、三派に分かれていた棋士団体が、「東京将棋連盟」として生まれ変わり、土居は初代会長になる。昭和15年、定山渓の決戦で木村義雄ら敗れるまで、実質、「土居時代」が続いた。だが土居は名人位に就くことは一度もなかった。

2014年11月20日 (木)

近代将棋史

Sekinesakata   将棋の歴史を書きはじめるにあたって、いつの時代に求めるかは悩ましい問題である。将棋を指すことを職業とする棋士が存在し、その棋士たちが一定の秩序のもとに組織化されたのは、初代大橋宗桂からで、つまり西暦1612年のことである。大橋宗桂以来330有余年、名人位は終身制であったが、小野五平12世名人の次の名人を決める大正6年ころから実力による名人がいわれるようになった。終身名人の小野は長命であったため関根金次郎はなかなか名人を襲位することができなかった。やがて大阪から阪田三吉が台頭すると、関根・阪田の時代が大正から昭和と続いた。大正13年、関根は13世名人を襲位する。昭和12年になってようやく第1回の名人戦が行われ、木村義雄が優勝し、実力による短期名人戦の時代がはじまる。昭和25年、大山康晴が木村に勝利し、29歳で名人位に就く。昭和47年の第31期名人戦で中原誠が大山康晴を4対3で破り、名人位に初めて就く。以後、中原時代が長く続き、少しだけ谷川浩司の時代があり、すぐに羽生善治の時代となる。

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