禁門の変
文久3年の八月十八日の政変で地位を失った長州藩勢力は、自重論と進発論が渦巻いた。尊王討幕の進発論が藩を動かし、益田弾正ら家老3名と久坂玄瑞、真木保臣らの志士たちが挙兵した。元治元年のこの日、禁門の変がおこる。なかでも蛤御門に陣をはる会津・薩摩・桑名藩との戦が最も激烈であったので、蛤御門の変とも呼ばれる。長州兵が蛤御門に迫ると、会津・桑名の兵と射ち合いになった。頃合を見計らった薩摩も長州兵へ射ちかけたので、ついに長州兵は大敗して退いた。長州藩の久坂玄瑞らは鷹司輔熙邸に立て篭もるが、会津・薩摩・幕府軍の攻撃を受けて焼失する。玄瑞は寺島忠三郎と共に自刃する。数え年25歳だった。真木和泉は山崎天王山で自刃する。この戦闘で京都市中は約3万戸が焼失した。
禁門の変は会津と薩摩の協力によるものであり、実際の行動は、守護職松平容保が指揮する手兵1800人を中核としたものであったが、その筋書きはは、薩摩の入説によるところが大きい。しかも薩摩の島津久光は公武合体派の巨頭であり、政変後の政局も薩摩抜きでは考えられなかったし、また、松平容保と同様、島津久光に対する朝廷の信頼ははなはだ厚いものがあった。(7月19日)
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