浅野長矩辞世の歌は後世の偽作
家康の江戸開府からほぼ100年、五代将軍綱吉の時代、幕府の体制もようやく固まり、力による武の政治から文治政治へと時代は変わってきたのである。そして、ときは元禄、貨幣経済の発達とともに武士に代わって商人が力を持ち始め、その経済に支えられて町人文化が花開くときであった。賄賂は、習慣として定着していた。江戸城松の廊下で、播州赤穂城主・浅野内匠頭が高家筆頭・吉良上野介義央に腰の刀を抜いて斬りつけるという事件が起こった。即日のうちに、「浅野内匠頭は場所柄も弁えず、吉良上野介に刃傷に及びし段は不届きにつき、切腹を申しつける。上野介は、手向かいもせず神妙だっためお構いなし」という判決が下された。
浅野長矩の辞世の歌として知られる「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん」は、忠臣蔵映画には欠くことができないものである。これは、刃傷松の廊下の当日、御目付部屋に詰めていた目付、多門伝八郎が記した「多門伝八郎筆記」にみえる。しかし、宝永2年7月(陽暦1705年8月)以降に都乃錦という浮世作家(本名、宍戸円喜)の著作「播磨椙原」にある「風さそふ花よりも亦われは猶春の名残をいかにとかせむ」と酷似している。長矩の辞世は本人の作ではなく、円喜の創作とみるのが自然であろう。
多門伝八郎重共は元禄14年の赤穂事件において浅野長政の取調べと切腹副検死役をつとめた。「多門筆記」は赤穂側に肩入れした記述が多く見られ、多門の著作ではなく、後世に別人が書いたとする説が有力である。刃傷事件後、元禄16年10月から多門は防火の仕事に従事し、宝永元年6月にはその功績で黄金三枚を賜わった。ところが8月2日になってその務めが良くなかったとされて小普請入りにされ、宝永2年には埼玉郡の所領も多摩郡に移された。享保8年6月22日に死去、享年65歳。硬骨漢は出世コースをはずされ、干されて不遇のうちに一生を過ごしたらしい。
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