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2026年5月31日 (日)

深刻な高齢社会の孤独死問題

 先日、大阪市で「父親の介護に疲れた」と90歳の父親の首をロープで絞め殺害したため61歳の息子が逮捕されるという痛ましい事件があった。令和5年の総人口に占める65歳以上の高齢者の割合は約3割で、80歳以上は約1割である。この割合はさらに厳しくなる。昨年の65歳以上の高齢者の孤独死は全国で5万8919人でした。

 2025年問題という言葉がある。いわゆる団塊の世代800万人が後期高齢者になる75歳に達する超高齢社会のことである。医療費や介護費の増大で、若者の負担がさらに増加する。認知症や要介護者数は急増し、老人ホームの部屋が不足し、介護職の確保も難しくなる。このような社会保障制度の課題は2025年にならないでも今現在でもすでに始まっている。核家族の進行によって、一人暮らしのお年寄りが増加している。年金だけで暮らしていけるのか、都会では地域との繋がりも希薄で孤独死もみられる。わが国の高齢社会の状態は今後100年続くといわれている。大地震や感染症対策も大切だが、徐々にしのびよる高齢社会に対応した社会基盤を整備をすることが求められている。

クリント・イーストウッド讃歌

   1930年のこの日、クリント・イーストウッドはサンフランシスコで生まれた。86歳になる。映画雑誌「スクリーン1993年3月号」の人気投票をみると不思議である。前年には「許されざる者」(兼監督)のクリント・イーストウッドは30位にもランキングしていない。男優部門の第1位はケビン・コスナーである。彼は誠実なアメリカ男を演じて、誰からも愛されるスターだった。「アンタッチャブル」「JFK」「ボディガード」までは良かったが、不倫や訴訟などで人気は急落した。もちろん完全無欠のヒーローなどこの世にいるはずもない。アメリカでは人気の出てきた男優には「ゲイリー・クーパーの再来」という評価がよく使われる。グレゴリー・ペック、ロック・ハドソン、ケビン・コスナー。クリント・イーストウッドもテレビ「ローハイド」で人気がでたころは、そう呼ばれたことがある。しかしその後の人生は必ずしも順調ではなく、個性的な役柄を選んだ。イタリアに渡り「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」で人気は決定的となり、ハリウッドに復帰して「ダーティーハリー」でマネー・メーキング・スターの道を歩む。以後、大作というよりもB級アクションを中心に活動し、映画の面白さを体現する姿勢は現代のプロの俳優・監督の鑑となる。95歳になっても現役で第一線のスターでいることは、ハリウッドの長い歴史でもないことだ。また意外に親日家でもある。日本での人気が低いのは映画七不思議の一つであろう。それは仲代達矢と共通するかもしれない。三船敏郎、高倉健、勝新太郎などの個性的なスターほどの人気はないが、演技力と芝居への情熱で長い第一線スターを維持してきた点に共通するものがある。役者人生に成功のセオリーはない。(5月31日)

 

世界禁煙デー

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 世界保健機関(WHO)が世界人類の健康のために制定した国際デーの一つ。第1回世界禁煙デーは1988年̪4月7日に実施した。翌年の第2回からこの日に実施。

 なぜ人は、たばこを吸うのか。精神分析の創始者とされるフロイトによれば口唇要求(幼児の指しゃぶり)のあらわれだとか。この真偽はともかくフロイト自身、毎日20本以上の葉巻を吸うヘビー・スモーカーだった。一度、禁煙をしたことがあったが、「葉巻を吸うというすばらしい習慣をやめたことで、私の知的関心が大幅に減退する結果となった」と後悔したという。

    マーク・トウェインが言った。「煙草をやめるなんて非常に簡単なものだ。私はもう百回以上も禁煙している」

    煙草の伝来はポルトガル人が鉄砲とともに伝えたといわれる。江戸幕府は贅沢禁止と防火のため慶長14年に煙草禁止令を出し、栽培と喫煙を取り締まった。しかし煙草は庶民の嗜好品として広まった。明治政府は明治9年、煙草税を課し、日清戦争の財源とした。そして日露戦争中の明治37年に完全な専売制をしいた。昭和49年頃から、非喫煙者が煙を吸わされる受動喫煙が問題になり始めた。近年、煙草の健康への被害を理由に煙草の値上げが著しい。大阪市では煙草1本で懲戒処分された運転士がいる。(5月31日)

 

 

 

 

2026年5月30日 (土)

ジャンヌ・ダルクの指輪の謎

Photo_4   1431年のこの日、仏ルーアンでジャンヌ・ダルクが異端者として処刑された。神の声にうながされ、片田舎から出てきたひとりの少女ジャンヌ(1412-1431)がオルレアンの町を解放したが、わずか1年ののち、処刑されたという話は誰でも知っている。しかしジャンヌ・ダルクの初期の肖像は15世紀後半のミニアチュールにも見られるものの、死後350年間は歴史上、ほとんど忘れられた存在だった。ドイツの詩人シラーが「オルレアンの少女」を書き、ナポレオンがフランスの国民意識の高揚を促すためにジャンヌ・ダルクという国民的英雄を讃えるようになったのである。

   先ごろロンドンの競売でジャンヌ・ダルクの指輪が売られたという。買ったのはフランスのある財団で24万ポンドで落札した。この指はジャンヌが身に着けていたもので、のちにイギリス王のヘンリー7世が所有していたとされる。指輪は実に585年ぶりにフランスに戻ったこととなる。それにしても貧しい農家の19歳の娘がどうしてこのような高価な指輪を持っていたのかは不思議である。(Jeanne d'Arc,Schiller) 5月30日

沖田総司没す(1868年)

 新選組一番隊組長、沖田総司は試衛館に内弟子として入り,十代にして免許皆伝を取得した新選組最強の天才剣士である。沖田は慶応4年5月30日(明治元年)、江戸・千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に匿されて、病死した。前月には、討幕軍が江戸に入城していた。沖田の享年については、生年が明確でないため、24歳・25歳・27歳の3説が存在する。沖田総司の実像は容姿など不明なところが多いが、司馬遼太郎などの作家によるフィクションの影響が大きい。 時代劇チャンネル「新選組血風録」第7話。沖田総司(島田順司)は懇意の刀屋播磨屋道伯から名刀の菊一文字を借りた。鎌倉期の古刀の代表的なもので、最も有名なのは、足利家重大の宝刀といわれた「二つ銘則宗」が京都の愛宕神社所蔵のもので国宝である。則宗は備前福岡の刀工で、いわゆる福岡一文字派に属し、後鳥羽上皇の後番鍛冶に列し菊花紋章を彫ることをゆるされたため、俗に菊一文字といわれる。

    司馬遼太郎の原作では、近藤勇の虎徹と土方歳三の和泉守兼定、それに菊一文字則宗を横に置きならべてみる描写がある。「虎徹は厚重ねで反りは浅く、姿には、この道でいう怒味と武骨味をもち、いかにも人切り包丁といった凄みがある。むろん、虎徹にもそれなりに品位はある。だが、しかし鎌倉の古刀である菊一文字には遠くおよばない。要するに、神韻縹渺としたところが、兼定にも虎徹にもないのである」「細身は当節はやらない。重さで切れるようなものが、幕末の流行であった」とある。

   ドラマでは、三人の差料を比べるシーンはない。土方は沖田に「俺の刀を貸そう」というと、沖田は笑って「土方さんのは重いから結構です」という台詞がある。

   ドラマ「菊一文字」は沖田総司が医師半井玄節(原健策)に診察してもらったところ、「安静が必要であり、このままだとあと5年しか生きられない」といわれる。天真爛漫な性格と労咳という沖田総司の明と暗のイメージがお茶の間に浸透したと思われる重要な回である。「刀の命は七百年、おれの命は二十五年か」若くしてこの世を去った沖田の命と古刀との対比も鮮やかである。結束信二の脚本も原作の持ち味を十分に出している。何よりも月代の似合う島田順司は沖田総司の役のために生まれたといってもいいほど似合っている。沖田を慕う医師の娘お悠に当時、「忍びの者」で人気があった清純派の鈴村由美がでている。ドラマでは菊十文字を大切にするあまり、陸援隊の戸沢鷲郎を沖田が殺さなかったために同僚の日野助次郎が死んだ。土方が「刀は飾り物ではない。あの時、戸沢を斬っておれば、日野は死なずに済んだ」と沖田に言う。沖田は菊一文字で戸沢を殺し日野の復讐を果たす。しかし、沖田が菊一文字を使ったのは、このときだけだったという。刃こぼれ一つしなかった。

Kiku    しかし、実際に沖田が菊一文字を所持していたという可能性はほとんどない。当時、大名すら入手は難しく、実践では不向きな刀。これは下母澤寛の著作に「沖田の刀は菊一文字細身のつくり」とされたことが広まったものという。現在も菊一文字という屋号の刃物屋が京都にある。包丁、鋏などを販売している。「桐箱入り鶴亀卸し金セット」など贈答品に人気がある。価格5775円。だいこん卸しに使うには畏れおおい気がする。

ジャンヌ・ダルク処刑される(1431年)

Jeanne_d_arc_2004_61x46cm   ジャンヌ・ダルクは百年戦争がつづくなかイギリス軍をやぶり、シャルル7世の戴冠式を実現させたが、王側近の妬みを買い、宗教裁判で「異端の魔女」として1431年のこの日、ルーアンで火刑に処せられた。場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場。彼女はローマ教皇庁によって1909年に福者(Beatus)となり、1920年に聖人(Sanctus)になっている。.(Jeanne d'Arc) 5月30日

 

 

2026年5月29日 (金)

エヴェレスト初登頂(1953年)

Clark0508  近年、老若男女の多くの人たちが山を訪れる、戦後3回目の登山ブームと言われている。ただ単に山に登りたい、体を鍛えたい、野草や森林、さらに星空や地質などより専門的に自然を観察したいという人まで、登山への想いはひと様ざまである。最近は、山の頂上をめざすのではなく、自然を楽しみたい登山者が増えている。一方、遭難者が増えている。とくにシニアに人気の「低山登山」が意外に遭難が増加しているので注意してもらいたい。高齢者が多い理由は、激しい箇所での疲労、滑落・転倒によることに起因すると思われる。

「なぜ山にのぼるのか」という問いに対して、イギリスの著名な登山家ジョージ・マロリーが「そこに山があるからだ」と言ったのは、今からちょうど100年前のことだ。この有名な文句は、実は「なぜエベレストに登るのか」という質問に対するジョージ・マロリーの回答である。いつしか一般的な「人はなぜに登るのか?」と言い換えられて広まっているが、もともとは世界最高峰のエベレストに限定している。

    歴史記録としてはエベレスト初登頂は1953年5月29日、エドモンド・ヒラリー(1919-2008)とテンジン・ノルゲイ(1914-1986)が成功した。だが2人に遡ること29年前の1924年6月8日に、マロリーとアービンが世界の高みを極めていた可能性がある。1999年、エベレスト北面8160mの地点で、マロリーの遺体が発見された。そして標高8490mの地点からマロリーが使用した№9酸素ボンベが発見されている。これはマロリーは帰還の際に絶命したと考えられ、登頂に成功したことを推測させるものである。だが決定的な証拠となるコダックのカメラが未だ発見されていない。マロリーがエヴェレスト初登頂したか否かは謎のままである。

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ヒラリーとテンジンは登頂後、何杯も紅茶を飲んで、かわききった喉をうるおした

参考文献
「なぜ山へ登るか:ゲーテを雪山へ駆りたてるもの」三田博雄 岳人1963.11

 

 

蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)「ツ」事項索引)

 「通州事件」1937年7月29日、北京郊外の通州(つうしゅう)で邦人200人が殺害された事件。日本軍の誤爆が契機となっており、冀東防共自治政府(殷汝耕主席)側の責任とはいえなかったが、殷汝耕(1889-1947)は責任を問われて辞職し、同年末後任の池宗墨(ちそうぼく)との間で、120万円の賠償金を居留民の遺族に支払う条件で解決した。新聞社は号外をだし、大々的に虐殺と報じ、中国に対する敵意を高め、日中戦争拡大の心理的要因を煽った。▽「ツアボの人喰いライオン」1898年ウガンダ鉄道の建設中、2頭のライオンが出没し多くの作業員が殺された。▽「ツィゴイネルワイセン」サラサーテが1878年に作曲したヴァイオリン独奏曲。▽「ツンドラ」タイガ地帯以北の不毛の草原。▽「ツァーベルン事件」1913年10月ドイツ・エルザスの小さな町ツァーベルンで、駐屯ドイツ軍と住民との衝突事件。▽「通済渠」隋の煬帝が開いた運河。▽「ツォンカバ(1357-1419)」ラマ教の改革者。▽「蔦紅葉宇都谷峠」歌舞伎脚本。二世河竹黙阿弥作。▽「ツツガムシ病」ツツガムシに媒介されるリケッチアによっておこる風土病。

105_0543_2▽「鶴見事故」1963年11月9日、東海道線鶴見で二重衝突。横浜市立大学長の三枝博音ら死者161人。▽「頬貫」鎧を着て乗馬するときにはく毛皮のくつ。 ▽「ツルマギ(トゥルギ)」(画像)朝鮮族の男子の礼服にあたる外套。のち女子も着用するようになった。▽「辻が花」室町時代から安土桃山時代にかけてわずかな間だけ出現した、独特な絞り染め。辻が花の語源も作者も定かではなく、幻の染めともいわれる。花模様が多く、大ぶりな柄の輪郭を縫い絞りの繊細な線で染め、筆による墨書きや墨・暈し、帽子絞りの花模様などをあしらい、刺繍も用いられている。上杉謙信、豊臣秀吉や徳川家康が着用した胴服などが現存している。(つつつつ)

 

津
ツァーベルン事件
ツアボの人喰いライオン
ツァラトゥストラはこう語った(ニーチェ)
ツァーリ
ツィゴイネルワイセン
ツイッギー
追捕使
ツインメルヴァルト会議(1915年)
ツヴィングリ
通貨
通済渠
通州事件
通天閣
ツェッペリン
ツォンカバ
築地大橋(東京・中央区)
築地小劇場
ツキジデス
築地八宝亭一家殺人事件(1951年)
筑紫国造磐井
ツキノワグマ
津雲貝塚
杜撰(ずさん)
辻が花
対馬海流
津田梅子
津田左右吉
津田真道
蔦紅葉宇都谷峠
蔦屋重三郎
ツタンカーメン
土一揆
土井晩翠
ツチノコ
ツチブタ
土御門東洞院殿
ツツガムシ病
つつもたせ(美人局)
津波
ツヌガアラシト
ツパイ
ツベルクリン反応
坪内逍遥
投馬国
罪と罰 (ドストエフスキー)
冷たい戦争
梅雨
ツラギ島
つらぬき(頬貫)
釣り
敦賀(福井県)
ツルゲーネフ
ツルマギ
鶴見事故
鶴屋南北
ツーロン攻囲戦
つんく
ツングース系
ツンドラ
ツンフト闘争

 

 

コンニャクは英語でkonjac?

Konjac_package

   本日は「こんにゃくの日」。語呂合わせで日本こんにゃく協会が1989年に定めた。カロリーがなく、カルシウムが多く含むことからダイエット食品として人気が高い。英語版ウィキペディアではkonjacとある。ほかにも、konjak、konnyaku、konjakuなどの表記が見られる。またデビルズ・タングdevil's tongue(悪魔の舌)ともいう。

    地下に球茎を生じ、これを採取し、粉末にして水を加えてこね、石灰乳を混ぜて煮沸し固めて製した食品。原産地はインドで、日本へは奈良時代、中国を通じて渡来した。漢語の蒟蒻(コニャク)の音転で「コンニャク」となった。鎌倉時代の僧侶はコンニャクを味つけして煮たものを糟雞(そうけい)と称して食べていた。コンニャクの田楽が現れるのは元禄のころで、芭蕉はコンニャクが好物だったといわれる。江戸時代にコンニャクの料理が実に多く行なわれた。5月29日

2026年5月28日 (木)

病気を表す英語 医学英語

 連続テレビ小説「風、薫る」いよいよ看護学校に入って猛勉強が始まった。明治20年頃、医学(看護学)と英語学習の両立はさぞや大変なことだったろう。医療英語では専門用語など日常会話などではあまり使われない単語や表現が使われるが、医療英語は普通の英和辞典には載っていないことが多い。「おなら」は日常会話では、「fat」と言うが、診察やカルテでは「intestinal gas」という。食道は俗にgulletというが、医学英語では、エソファガス「esophagus」である。

 癌は英語で「cancer」です。語源は「蟹(かに)」。ギリシアの名医ヒポクラテスが進行した乳がん組織の血管が浮き出たような様態でカニの甲羅のように硬いことから命名したことに由来している。癌を治せる病気にしようというキャンペーン「delets C」のため、炭酸飲料「C.C.レモン」の「C」が消された商品が販売されている。いろいろな病気を集めてみました。医療英語集 医学英和大辞典。

 

Aicardi syndrome  アイカルディ症候群

 

appendicitis      虫垂炎

 

asthma            喘息

 

amnesia           記憶喪失

 

autism             自閉症

 

bowel movements 便通

 

brain tumer  脳腫瘍

 

blood  pressure   血圧

 

catheter  カテーテル

 

chap  あかぎれ、しもやけ

 

Collagen disease  膠原病

 

deprassion   うつ病

 

diabetes    糖尿病

 

ejaculetion   射精

 

esophagus  食道

 

Esophageal cancer  食道癌

 

somnambulism  夢遊病

 

nyctophobia     暗闇恐怖症

 

Kinesophobia  運動恐怖症

 

Misophonia  音恐怖症

 

bed wetting      夜尿症

 

belly button   おへそ

 

forgetfulness    健忘症

 

alcoholics         アルコール中毒症

 

alcoholic dependency  アルコール依存症

 

starvation        餓死

 

heat disorder   熱中症

 

phobia             恐怖症

 

anthrophobia  対人恐怖症

 

antibiotics  抗生物質

 

exnophobia    外国人恐怖症

 

acrophobia    高所恐怖症

 

triskaidekaphobia 13恐怖症

 

compression fracture  圧迫骨折

 

claustrophobia  閉所恐怖症

 

ombrophobia   雨恐怖症

 

erythrophobia  赤面恐怖症

 

mysophobia   不潔恐怖症        

 

aphasia        失語症

 

autism         自閉症

 

suicide        自殺

 

amnesia      記憶喪失症

 

obsession   強迫観念、妄想などが取り憑くこと

 

asphyxia     仮死状態

 

disease       病気

 

thoracic diaphragm  横隔膜

 

prohibition   禁酒

 

get a crick in my neck  寝違える

 

get carsick   乗り物酔いになる

 

poor  circulation  冷え症

 

monomania   モノマニア、偏執狂

 

muscalar dystruphy  筋ジストロフィー

 

hypnotism    催眠術

 

bladder        膀胱

 

insomnia     不眠症

 

atopy          アトピー。先天性過敏症。atopos(奇妙な)というギリシャ語に由来する。

 

nosebleed      鼻血

 

strained back  ぎっくり腰

 

scoliosis   側弯症

 

sphincter    肛門活約筋

 

flasher         露出狂

 

locomotive syndrome 運動器症候群

 

cerebral infarction   脳梗塞   

 

disinfection    消毒

 

pregnacy      妊娠

 

abortion      妊娠中絶

 

infertility     不妊症

 

cramp        けいれん

 

gastrospasm  胃けいれん

 

clitoromegaly  陰核巨大症

 

phallitis         陰茎炎

 

hydrophobia   狂犬病

 

bruxism        歯軋り ブラキシズム

 

cavity           虫歯

 

chilblain        しもやけ

 

Hubris Syndrome ヒュブリス・シンドローム(傲慢症候群)

 

tiredness  疲労

 

exhaustion  極度の疲労

 

cervical spine injury  頸椎損傷

 

easy delivery  安産

 

rabies    狂犬病

 

osteopath  整骨医

 

hymen    処女膜

 

hearing aid  補聴器

 

heart failure  心不全

 

heat rash  あせも

 

hypochondrie  ヒポコンデリー 心気症

 

suppressant  食欲抑制剤

 

Schizophrenia 統合失調症

 

placebo   偽薬

 

glaucoma  緑内障

 

cataracts  白内障

 

arthritis    関節炎

 

hay fever   花粉症

 

empyema  蓄膿症

 

leg cramp  脚がつる、こむら返り

 

stillbirth    死産

 

parasite    寄生虫

 

peritonitis  腹膜炎

 

hyperemia  充血

 

examination 検診

 

lactation     授乳

 

esophgus   食道

 

disinfection 消毒

 

apnea        無呼吸

 

slipped disc 椎間板ヘルニア

 

stomach ulcer  胃潰瘍

 

thyroid gland    甲状腺

 

measles       はしか

 

cancer       がん

 

epilepsy     てんかん

 

prescription  処方箋

 

cabin fever  僻地や狭い空間で生活するときに生ずる情緒不安定。閉所性発熱。

 

respiratory 呼吸器

 

gargle       うがい

 

New coronavirus  新型コロナウイルス 

 

infection      感染

 

saliva    唾液

 

spit   唾を吐く

 

sprain   捻挫

 

obesity 肥満

 

ultravioiet ray   紫外線

 

induced abortion  人工妊娠中絶

 

interstital pneamonica  間質性肺炎

 

tinnitus  耳鳴(じめい)

 

malignant  lymphma  悪性リンパ種

 

nevas  あざ

 

scordinema   あくび

 

(医学英語,medical sciences)

 

 

在原業平の墓

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    平安時代の歌人・在原業平の元慶4年5月28日(陽暦880年7月9日)忌日。京都西郊の十輪寺(西京区大原野小塩町)には在原業平の墓と伝えられる宝篋印塔がある。十輪寺は850年に創建され、業平の隠棲地。

 

Heian39   実はもうひとつの業平の墓がある。十輪寺から少し離れたところに3基の五輪塔がある(大原野上羽町)。中央の大きな塔が業平の母・伊都内親王の墓、右側が父・阿保親王の墓、左の小さな五輪塔が業平の墓である。なお阿保親王墓は兵庫県芦屋市にある。

 

参考文献
「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄 遊子館 2010年

 

 

 

2026年5月27日 (水)

ネルー少年と日露戦争

Jawaharlal_nehru_at_harrow_at_15    1964年のこの日、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーが心臓発作で死去した。74歳。ネルーは没するまで首相の地位にあった。ネルーは、16歳のとき、父母とともにイギリスに渡ったが、ロンドンに着く途中「ドーバーからの汽車の中で、日本海海戦で日本が大勝利を収めたというニュースを知った。私はたいへん好い気持ちになった」と自叙伝にある。インドのみならずアジアの小国・日本が大国ロシアに勝利したことは世界の独立運動家に勇気を与えた。イラン立憲革命(1905年)、中国革命同盟会(1905年)、フィンランド独立(1917年)、青年トルコ党(1908年)と民族の自覚をよびおこした。Jawaharlal Nehru、5月27日

芭蕉「閑さや」の句、何ゼミか?

閑さや岩にしみ入る蝉の声

  元禄2年(1689年)、松尾芭蕉は出羽の立石寺を訪れたときの句である。ひっそりとして、閑かな山寺。一山の岩にしみ入るように、蝉の声が澄み透ってきこえる。昭和元年、この蝉の種類をめぐって斎藤茂吉と小宮豊隆が論争している。アブラゼミと主張した斎藤に対して、小宮は威勢のよいアブラゼミよりも、声が細く澄み切っているニイニイゼミの方がふさわしいとした。元禄2年5月27日は太陽暦では7月13日である。この時期、アブラゼミは少なく、ほとんどがニイニイゼミである。結局、茂吉のアブラゼミ説は敗れた。のちに荻原井泉水は「涼しげに鳴くヒグラシではないかと思う」と著書に書いている。芭蕉が聞いた蝉の種類が何であったかは、決定的な証拠はなく、永遠の謎といえるが、この時期と場所から推定すると、ニイニイゼミと考えてほぼ間違いないということである。(5月27日)

 

 

餃子が耳の様な形をしている理由は?

A4omote_olcs3_ol   先日、宮部みゆき「火車」のテレビドラマを観ていたら、被害者の女性が宇都宮出身で刑事がそこを訪れ、餃子を食べるシーンがある。餃子は宇都宮の名物らしい。だが浜松も餃子の消費量は日本一で、宇都宮と浜松とは餃子のご当地グルメとしてPRしているのでライバル関係にある。だが歴史を調べるとそれほど古いものではない。1990年代から地元で日常的に食べられている食品を地域ブランドとして売り出す、ご当地グルメブームが起こってきた。ご当地グルメとは、戦後の高度成長期に産業の発展とともに労働者の胃袋を満たしたものを中心に現在も食文化として続いてきたものをいう。

 餃子が耳の様な形はしてるのは何故だろうか?それは中国の伝統医学と関りがある。後漢の医者・張仲景が村人が凍傷で悩んでいるため、耳の腫れを治そうと薬膳スープを考案したことによるものである。怯寒媽耳湯(きょうかんとうじとう)という今日の水餃子のようなスープである。この伝説から11月の冬至にはみんなで水餃子を食べるという習慣が中国にはある。

2026年5月26日 (火)

吸血鬼ドラキュラ

 イギリスの小説家ブラム・ストーカーはある日、図書館で「ワラキア公国とモルダヴィア公国の物語」の中から「串刺し公」ヴラド・ツェペシュという君主の記述を見つけた。ブラムはこれをヒントに1897年5月26日に「ドラキュラ」という小説を発表した。本はよく売れた。小説の年代は明記されていないが、19世紀末の同時期と推測される。だが吸血鬼ドラキュラのモデルは、15世紀後半のワラキュラ公国(現ルーマニア南部)の君主ヴラド・ツェべシュ・ドゥラクルという実在の人物だった。 ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュ(1387頃-1456)は、オスマントルコの大軍をベオグラードの戦い(1456)で破り、侵入を阻止したが、疫病で死亡した。そのころワラキアの君主になったヴラド・ツェぺシュは、首都に貴族たちを招集して、自分の父親と兄の暗殺に加担した貴族たちを串刺しの刑に処した。そして、杭に刺されて悶絶する貴族たちの姿を眺めながら祝宴を開いたという。処刑して血を好んだことから、東欧の吸血鬼伝説と結びつけられて、ドラキュラ伝説が生まれた。本当はオスマントルコの侵略からワラキア(ルーマニア)を守り、独立のために戦った英雄だった。

 

 

泉鏡花「婦系図」

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   泉鏡花(1873-1939)は明治6年11月4日、石川県金沢市下新町で生れた。明治23年作家を志して上京。翌年尾崎紅葉の門下に入ることを許され玄関番として同家に寄宿。いくつかの作品を発表したが不評で自信を失い、帰郷したり自殺をはかったこともある。明治40年の「婦系図」は新派悲劇の代表作として広く愛された。画像は大映「婦系図」(昭和37年)の市川雷蔵・万里昌代の主税・お蔦の湯島天神の場面だが、「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ、…私にゃ死ねと云って下さい…」という有名なセリフは本来小説にはなかった。これは明治41年の新富座で上演したとき柳川春葉と喜多村緑郎が付け加えたもの。鏡花はそれを気に入って、大正3年、舞台のために「湯島の境内」を書き下ろし、これが湯島天神の場面として広まったものである。

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   柳橋の芸者お蔦と恋仲になった早瀬主税は、恩師・酒井俊蔵に隠れて世帯を持つが、これが知れて怒った酒井は二人を別れさせる。早瀬は郷里静岡に帰り、お蔦は八丁堀に身を寄せ髪結いになるが胸をわずらって床につく。元軍医監・河野英臣は息子英吉の嫁に酒井の娘妙子を得ようと策動し、早瀬の妨害にあたったことから彼の身元を調査する。一方、お蔦の病は重く、駆けつけた酒井に手をとられながら、死んでいく。河野家の仕打ちに憤慨していた早瀬はお蔦の死を聞くや、河野の前に己の前身が巾着切りであったことを明かし、河野家の不倫を暴いてお蔦の黒髪を抱きながら毒をあおる。市川雷蔵版「婦系図」は後半の主税の復讐も省略せずに描いている。また題名の「婦系図」の意味合いがこの映画をみればわかる。妙子の女学校の国文の授業で系図が黒板に描かれる。実は妙子は柳橋の芸者置屋の女将・小芳(木暮美千代)の娘。河野の娘道子(藤原礼子)も夫人(水戸光子)が馬丁と不倫して生まれた子である。原作「婦系図」は新派のお涙頂戴ものではなく、複雑なテーマを含んだ近代小説だった。

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  「婦系図」といえば、新派の舞台では「湯島の境内の別れ」が名場面である。ところで早瀬の専攻していた学問とは何か。私は長らく湯島から昌平黌を連想し、孔子とか儒学だと思っていた。最近、映画を見直すと、早瀬はドイツ文学を学び、ドイツ語辞典の編纂をしているということだった。

 

 

 

 

おかげ参り

  日本人の旅行ブームは、中世後期の社寺参詣に始まる。熊野の那智滝・高野山をはじめ、富士浅間神社から天橋にいたるまで全国各地に至る。  庶民が伊勢参りにあこがれる「おかげ参り」は、すでに室町から戦国時代にあったようだが、爆発的な流行となったのは、江戸時代に入ってからである。戦乱が遠ざかり、生産力が上がって、たいていの庶民も少し無理をすれば長旅ができる。その口実として、伊勢参宮はかっこうのものだった。宝永2年、明和8年にブームがおきたが、最も大規模なおかげ参りは、文政13年(1830)、すなわち文政のおかげ参りで、参加した人々の数は、400万余といわれる。当時の総人口を3000万として考えると10人に1人より、もっと大きな割合でおかげ参りがなされていたことになる。庶民の旅行ブームはもちろん伊勢だけではない。関東では出羽三山や成田不動、西日本では高野山・熊野・金毘羅・厳島社などなどへの参詣も大流行だった。(参考;「お伊勢まいり」岩波新書 西垣晴次 1983年)

 

レオ14世、回勅を発表

   ローマ教皇レオ14世が5月25日、最初の回勅を発表した。タイトルは「マニフィカ・フマニタス(偉大な人類)」。その中で加速するAI(人工知能)の軍事利用の危険性について警鐘をし、トランプ政権の「正当な戦争」を批判している。トランプは「レオが教皇になれたのは俺のおかげだ」と豪語していたが、「物静か」「控えめ」と言われた新教皇が、政権の圧力に屈せずに堂々と声を上げたことに賞賛の声が高まっている。その中で、AIや大規模な自動化、急速な技術進歩によって現代版の「バベルの塔」が建設されていると警告している。強欲や不道徳、人間の生命に対する敬意の欠如、現代の資本主義批判、と明快かつ大胆に信念に裏打ちされたメッセージを発信している。

英文1日1文

Man's personality is,after all,the final key to everything he wants to attain in the world .

人がらは、けっきょく、この世で得たいと思うすべてのものを得る最後の鍵だ。

 

Do you often listen to classical music?

あなたはよくクラシック音楽を聴きますか。

 

She has a bruise onher face.

彼女は顔にあざがある。

 

 

 

 

 

 

 

征韓論

 征韓論は、幕末以来の政治思想の一つであった。西欧諸国に武力に対抗するには、日本の力では無理があり、吉田松陰は李氏朝鮮・清にまで打って出て、東アジアを統一した勢力にすることが必要だと主張していた。また勝海舟は、アジア各国を説いて連合し、大いに海軍をおこして西洋と対処すべしと主張した。木戸孝允も王政復古以来、たえず中央権力を強化させる施策として征韓論の実行を唱えた。征韓論の思想には、領土・貿易獲得のほか、不平士族の反抗を外にそらし、強兵に向かって一致せしめようとする戦術的な企図などが混在していた。征韓の議がとくに明治6年に至って現実の政治問題となったのは、岩倉大使の欧米巡歴中の留守政府にあって西郷隆盛らがこの問題をとらえて自己の勢力扶植をはかったからである。ところが岩倉大使一行が9月に帰朝すると、岩倉・大久保らは内治の整備にあるとの理由でこれに反対した。ここにおいて10月23日、西郷隆盛は参議を辞任し、つづいて24日、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らの4参議も辞職した。新内閣は、内治派によって構成された。明治7年2月には、ついに佐賀の乱が起こった。その後も士族の不平不満はますます強まり、熊本の神風連の乱を皮切りに、秋月・萩で士族の反政府暴動が起こる。

参考文献
「再考・征韓論政変と大久保利通」勝田政治 国士館史学30  2026年3月

 

 

2026年5月25日 (月)

有無(ありなし)の日

 今日は「有無の日」。記念日の制定した団体や目的などは定かではない。さらに、「記念日」を登録管理している日本記念日協会にも登録はない。とすれば、最近つくられた記念日ではなく、古来からあるものだろう。中右記の天仁元年五月二五日に「今日は宮中号有無日」とある。陰暦の康保5月25日は第62代村上天皇の忌日。天皇は、急な事件のほかは、政治を行わなかったことから「有無の日」と呼ばれたらしい。平安時代から続く由緒深き記念日なのだ。「広辞苑」にも見える。仕事の有る、無し。財産の有る、無し。命の有る、無し。コロナ感染者の有り、無し。本日は大谷翔平の本塁打、有り、無し。有無の日を現代風に解するならば、あらゆるものを0と1で把握する世界観、ということなのだろうか(5月25日)参考:小島小五郎「有無日考」社会科学論叢9 1959年

 

 

明暦の大火

 江戸は「火事と喧嘩は江戸の花」といわれたが、喧嘩はともかくとして、一町を焼き尽くすほどの火事は幾度かあった。

  明暦3年1月18日午後2時ごろ、江戸本郷丸山町(文京区)の本妙寺からでた火は、おりからの西北のカラッ風にあおられて、湯島・神田に広がり、さらに日本橋一帯から八丁堀・霊岸島・鉄砲洲・佃島・隅田川をこえて深川にまで飛び火した。このとき、浅草見附門では伝馬町の囚人が解き放たれたことを知らない番人が、囚人の脱獄と勘違いして門をしめたため、火に追われた人びとが逃げ場を失って焼死したり、見附門を乗り越えたが神田川で溺死したりした。また、江戸防衛の目的から隅田川に千住大橋・両国橋のほかは橋がかけられていなかったことが、多くの犠牲者をだす原因となった。翌19日午前10時ごろ、小石川伝通院表門下の与力屋敷からでた火が、またたくまに燃え広がり、江戸城内濠をこえて北の丸の幕府重臣の屋敷を焼き尽くし、さらに天守閣・本丸・二の丸・三の丸の豪華な大建築もつぎつぎに焼け落ちた。その夕方にも麹町の町屋から火の手があがり、桜田一帯の大名屋敷を焼き尽くした。火は、山王荘から日比谷・芝まで燃え広がった。家康・秀忠・家光の3代50年間で築きあげた江戸城と江戸の町は、わずか2日間の火災で壊滅してしまった。この火災ののち、幕府は再び江戸の本格的な町づくりに取り組み、大名屋敷や神社・寺院の移転、火除地(広小路)の設定、隅田川の架橋など、防災体制の強化につとめた。明暦の大火の死者数は諸説あるが3万から10万と記録されている。出火原因葉、本妙寺失火説、幕府放火説、油井正雪の残党による放火説などいろいろ取りざたされるが、現在も特定されていない。なお日本橋にあった吉原遊郭は全焼し(元吉原)、翌年、浅草千束村へ移った。以後を新吉原と呼ぶ。

「若気る」 この漢字読めますか?

 クイズ番組「ネプリーグ」原田泰造が林修先生に漢字を出題した。ところが残念なことに先生でも「にやける」という漢字が書けなかった。漢字が読めなかったり、書けないと笑われたり恥をかくことがある。漢字学習は毎日ひたすらトレーニングするほかない。

    石原裕次郎の映画主題歌。「♪あの娘が窃っと瞼を拭いた赤いハンカチよ~」「窃(そ)っと」と読む。「窃盗」などの熟語があるように「ぬすむ」の意があるが、ここでは「ひそかに」という意味。だが「そっと」という訓読みはほとんどの漢和辞典には見えない。作詞家・萩原四朗の当て字であろうか。

   次の漢字、全部読めますか?

 

1 夢寐にも忘れない

 

2 眼路を限る

 

3 眦を決する

 

4 忝い

 

5 盥回し

 

6 車前草

 

7 墓を発く

 

8 明礬石

 

9 象潟

 

10 鹵簿

 

11 縹緻良し

 

12 麩

 

13 死者への手向け

 

14 お相伴に与る

 

15 箍が緩む

 

16 屁理屈を捏ねる

 

17 口を噤む

 

18 跡を晦ます

 

19 鼬ごっこ

 

20 一籌を輸する

 

21 掉尾を飾る

 

22 頤を叩く

 

23 素見

 

24 良心の呵責に苛まれる

 

25 手紙を認める

 

26 遏雲の曲

 

27 轄まる

 

28 微酔い

 

29 畷り泣く

 

30 響動く

 

31 蕁麻疹

 

32 滾る

 

33 篳篥

 

34 犇めく

 

35 口が辷る

 

36 彳む

 

37 乍ら

 

38 唆す

 

39 阿る

 

40 截然 

 

41 率う

 

42 魚醤

 

43宛ら

 

44軈て

 

1むび 2めじ 3まなじり 4かたじけない 5たらいまわし 6おおばこ 7あばく 8みょうばんせき 9きさかた 10ろぼ 11きりょうよし  12 ふ 13たむけ 14おしょうばんにあずかる 15たががゆるむ 16へりくつをこねる 17くちをつぐむ 18あとをくらます 19いたちごっこ 20いっちゅうをゆする 21ちょうびをかざる 22おとがいをたたく 23ひやかし 24さいなまれる 25したためる 26あつうん 27とりしまる 28ほろよい 29すすりなく 30どよめく 31じんましん 32たぎる 33ひちりき 34ひしめく 35 すべる 36 たたずむ 37ながら 38そそのかす  39おもねる 40せつぜん 41したかう  42うおびしお 43さながら 44  やがて

 

「手紙を認める(したためる)」どうして「認」という字を使うのか?むかしは殿さまとかえらい人は自分で手紙を書くことはめったになかった。たいてい、祐筆等の書記が書いていた。殿さまたちは、口述筆記された手紙をサイン(花押)するだけだった。そこから、手紙の内容を確認する、という「認(みと)める=認(した)ためる」という意味で「認」という字が用いられられるようになったと考えられている。遏雲の曲とは、流れていく雲を遏(とど)めるほどの美しい音楽のこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2026年5月24日 (日)

「ち」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Charlesbooth18401916   「チャールズ・ブース」1840年リヴァプールの裕福な企業家の息子として生まれ、1886年から1902年にかけて3回にわたってロンドンの労働者階級を中心にすえた貧困調査を実施し、その結果を「ロンドン民衆の生活と労働」にまとめた。▽「チェズレイ・サレンバーガー」1951年生まれ。2009年ハドソン川に不時着水した航空機事故の機長。

チェ・ゲバラ
チェーザレ・シエピ
チェーザレ・ボルジア
チェーザレ・ロンプローゾ
チェース・クローフォード
チェスター・アラン・アーサー
チェスター・ニミッツ
チェズレイ・サレンバーガー
チェッキー・カリョ
チェビー・チェイス
チェン・カイコー
チコ・マルクス
チック・コリア
チモフェイ・グラノフスキー
チャウ・シンチー
チャズ・パルミンテリ
チャック・コナーズ
チャック・ノリス
チャド・エべレット
チャニング・テータム
チャーリー・シーン
チャーリー・プライド
チャールズ・ウォルターズ
チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ
チャールズ・オースチン・ビアード
チャールズ・オズボーン
チャールズ・キングズリー
チャールズ・グローディン
チャールズ・ケイ・オグデン
チャールズ・コーンウォリス
チャールズ・サンダース・パース
チャールズ・スチュアート・ロールズ
チャールズ・ダーウィン
チャールズ・ダーニング
チャールズ・タルボット
チャールズ・チャップリン
チャールズ・ティズ・ラッセル
チャールズ・トムスン・ウィルソン
チャールズ・パース
チャールズ・バリントン
チャールズ・バーン
チャールズ・ビックフォード
チャールズ・ブース
チャールズ・ブロンソン
チャールズ・ベネディクト・ダベンポート
チャールズ・ボイコット
チャールズ・マーティン・スミス
チャールズ・マルソン
チャールズ・ラプラント
チャールズ・ラム
チャールズ・リヒター
チャールズ・リンドバーグ
チャールズ・ルイス・ティファニー
チャールズ・ロートン
チャールズ・ワーグマン
チャールトン・ヘストン
チャン・イーモウ
チャン・チェン
チャン・ツィイー
チャン・ドンゴン
チャンドラグプタ1世
チャンドラセカール・テイラー
チョウ・ユンファ
チュイテル・イジョフォー
チューズデイ・ウェルド
チラデンテス

 

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ライフルマンのチャック・コナーズは大リーグ選手だった

 

 

 

 

銭湯の歴史

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    江戸では入浴といえば、湯屋(銭湯)に行くことに決まっていた。町人が風呂を持つことはなく、江戸一番の呉服商越後屋でさえ風呂はない。幕末に600余軒というから、人口の割には数が少なく、どこの町の湯屋も混んでいた。誰でも毎日入浴し、料金は銭6文。男女老若とも同じ浴槽に入る。寛政(1789-1804)ころから男女別々となったと書物には記されるが、確かなことはわからない。寺院などの社会事業としての共同浴場は平安時代にもあったが、営業浴場の始まりは鎌倉時代の頃といわれている。個人営業としては天正19年(1591年)頃に伊勢与市なる人物が江戸日本橋に開業したのが始まりと記録に残る。1791年には江戸市中の銭湯での男女混浴を禁止する法令が出されたが、混浴の風習はその後も続いた。

   幕末のハリスやヒュースケンには、下田の湯屋で14歳くらいの女の子が平気で、若い男が入っている浴槽に、全裸で入浴する光景を目にして驚いている。考古学者シュリーマンは世界一周の旅の途中、日本に立ち寄っている。江戸の男女混浴を「旅行記」(1865年)に次のように記している。「浴場の前を通ったらアダムとイブそのままに、丸裸の男女がそれぞれ出てきて、外国人の私を見物した。羞恥心も無ければ風紀の乱れる様子もなく、なんという聖なる単純さであろうか」と。混浴が風紀上問題となったのは西洋人の指摘で改善したものであろう。1869年2月19日、東京府が男女混浴を禁止した。1900年5月24日、12歳以上の男女混浴を禁止する内務省令公布される。

陰間茶屋

 陰間茶屋とは、元禄年間ごろに成立した陰間が売春する居酒屋・料理屋・傾城屋の類。元来は陰間とは歌舞伎における女形の修行中の舞台に立つことがない少年を指した。彼らが男性と性的関係を持つことは、女形としての修行の一環と考えられていた。江戸で特に陰間茶屋が多く集まった場所は、本郷の湯島天神門前町や、日本橋の芳町(葭町)がある。料金は非常に高くて、庶民の手の出せるものではなかった。天保の改革で風俗の取り締まりが行われ、天保13年に禁止された。

参考文献
江戸の下半身事情 永井義男 祥伝社 2008年

 

 

2026年5月23日 (土)

ゾウハナミズケムシ

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    アメーバやゾウリムシのような原生動物は顕微鏡を使わないと見えませんが、身近な池や沼にすんでいます。ゾウハナミズケムシは、学名ディレプタス(Dileputas)といい、細胞の先が、ゾウの鼻のようにのびています。ここにほかのせん毛虫がぶつかると毒針を出して動けなくし、鼻のつけ根にある口で食べます。ディレプタスはゾウリムシを捕食します。アルジェリアの原生動物学者エミール・マーパス Emile Maupas(1842-1916)は、19世紀にすでに光学顕微鏡を使って、原生動物の「せん毛」を発見しています。

世界亀の日

Tortuga    本日は「亀について知り、亀に敬意を払い、亀の生存と繁栄のために人間の手助けをする日」だそうだ。亀はとても長寿で、もっとも身近なミドリカメは40年、クサガメは60年以上です。カメがどうして長生きなのか、その理由ははっきりとわかっていませんが、カメの呼吸や生活スタイルに関係があるようです。生物は呼吸をし、体に酸素を取り込むことで活動エネルギーを出しています。その一方で、使われない余分な酸素は、活性酸素となり細胞を劣化させる要因となります。一説には、呼吸数が多い生き物は、体に取り込む酸素が多く、活性酸素の発生量も多くなる傾向にあるため老化や病気で寿命が短くなると考えられます。それでいうと、亀は心拍数が少なく呼吸量が少ないため、長い生きをするというわけです。

    アメリカでは亀を全部、turtle と呼ぶが、陸生のものを tortoise(トータス) とも言う。イギリスでは turtle はおもに海水産のもので、陸生・淡水産の亀を通例 tortoise と言う。

  陸亀のことをフランス語、ドイツ語、スペイン語では、それぞれ、tortue(トルテュ)、Schildkrote(シルトクレーテ)、tortuga(トルトゥーガ)。イタリア語はtartaruga(タルタル―ガ)、スウェーデン語は skoldpadda(シェルドバッダ)。ロシア語はチェレバーハ、ギリシャ語はへロナ、アラビア語はソルホファー。

海亀のことは、フランス語tortue marine(トルテュ・マリヌ)、ドイツ語Meeress childkrote(メーレスシルトクレーテ)、スペイン語 carey  (カレイ) もしくは tortuga marina(トルトゥーガ・マリーナ)と言う。

   亀は長寿の象徴とされることから、石碑の台座によくみることができる。これを「亀跌(きふ)」という。亀の胴に龍の首を持った神獣で、中国、朝鮮、日本などみられる。 

   名前に「亀」の漢字がつくと「カメ」とか「カメちゃん」と呼ばれることが多い。著名人を集める。亀山天皇(大覚寺党の祖)、亀井南冥、亀井勝一郎、亀倉雄策(デザイナー)、亀井静香(政治家)、亀田興毅(ボクサー)、亀梨和也(ジャニーズ)、亀井善行(野球)。アトピー治療でモーニング娘を退団した亀井絵里は元気にしているだろうか。「水戸黄門」や必殺シリーズなど数々の時代劇で悪役として活躍している亀石征一郎。若い頃は「特別機動捜査隊」や「鉄道公安36号」など二枚目の青年だった。「燃えよ剣」(1970)の七里研之助あたりからニヒルな剣鬼が似合うようになった。(5月23日)

2026年5月22日 (金)

アボカドの語源は睾丸

 アボカドはクスノキ科の常緑高木。果実は食用にするが、味はほとんどなく、トロリとした食感から「森のバター」といわれている。語源はアステカ人の言葉であるナワトル語の「ahuacatl(睾丸の意)」。スペイン人がこれをaguacateと名付けヨーロッパに広めた。アボカドの種はなぜ大きいのか。むかし恐竜に種を丸のみしてもらうことで種を広めていた。恐竜が絶滅したのちは、人類に果実を食べさせて種を拡散させて広まった。日本には大正時代に渡来したが広まらず、昭和後期になって一般家庭に普及した。いまでは栄養価が高く人気の食材である。avocado

 

 

徳本上人について

 徳本上人とは、江戸時代の念仏僧として知られ、全国をただ「南無阿弥陀仏」と唱えて行脚し、「流行神」と称されるほど熱狂的な支持を集めた。上人の足跡を物語る石碑「徳本上人名号碑」は全国各地の存在し、彼が書いた特異な文字で「南無阿弥陀仏 徳本」と彫られた石碑が1500基以上が確認されている。とくに信州に多く、長野市には162基ある。その伝記については詳細はわからないが、宝暦8年に和歌山県日高町に生まれた。生没年は1757年から1818年まで。

参考文献
徳本上人の伝記について 石川達也 仏教論叢69号 2025年3月

 

劉裕と陶淵明

 いつものようにwebsite「今日は何の日 毎日が記念日」から歴史的出来事をひろう。422年、宋の初代皇帝劉裕(武帝)が没したとある。元号で記すと永初3年5月22日(一説に21日ともある)。劉裕は身分の低い人で、貴族政治の刷新を断行した。「帰去来辞」で知られる陶淵明とはほぼ同時代人である。淵明は劉宋の時代になっても朝廷から召されたが、固辞して田園で暮らすことを好んだ。およそ1600年くらい昔のことである。

山気 日夕 佳なり

飛鳥 相与に還る

此の中に 真意有り

 

 

雨に濡れた東京タワー

  2012年のこの日、東京の新ランドマークとして東京スカイツリーが開業した。地上634mは世界一の高さである。タワーの足元には東京ソラマチという300を越える商業施設がある。「スカイツリーは雲の上」(さくらまや)、「夜空のスカイツリー」(西郷輝彦)、「東京スカイツリーの歌」(みどりこ)、「東京スカイツリー音頭」(相原ひろ子)と、スカイツリーを題材にした歌謡曲もあるが、あまり耳にしたことはない。韓国人歌手チェウニは東京をテーマとした曲をこれまで歌ってきた。「ガラスの東京タワー」。でもなぜか東京タワーを歌った曲はヒットしないというジンクスがある。通天閣なら村田英雄「王将」という大ヒット曲がある。なぎら健壱「東京タワー」、角松敏生「Tokyo Tower」、松任谷由実「手のひらの東京」、CHAGE 「トウキョータワー」、美空ひばり「東京タワー」、池田聡「東京タワーを消せるなら」、アグネス・チャン「東京タワーを鉛筆にして」など多数あるが歌うことすらできない。あまりに有名な観光スポットであるため、ベタになり映画、小説、流行歌になりにくいのだろうか。でも最近は江國香織の小説でちょっと事情が変わってきたようだ。「世の中でいちばんかなしい景色は雨に濡れた東京タワーだ」という書き出しで物語ははじまる。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でも東京タワーは重要な役割を果たしていた。完成から半世紀を経て歴史的建造物となって風格がでてきたのだろうか。高さ333m。内藤・日建設計。内藤多仲(1886-1970)の設計による。(5月22日)

 

 

2026年5月21日 (木)

鳥取県は高校日本史の教科書に登場しているのか?

 高校日本史の教科書には、47都道府県のうち鳥取県の記述はゼロという話は本当だろうか?高市早苗は奈良県出身だが、石破茂は鳥取県なので先ずゼロということはない。厳密には石破は東京都千代田区で出生しているが、本籍地は鳥取県八頭郡なので鳥取県にゆかりがある人物といえるだろう。高校日本史の教科書に記載がゼロというのは所詮ジョークであろうが、ここでは第一学習社の「日本史B」(平成14年)を基にして47都道府県の記載を検証していく。

先ずは巻末の「索引」を調べる。

兵庫県 明石の人骨、赤穂事件、一の谷の戦い、大輪田泊

秋田県 秋田城

福岡県 秋月の乱、板付遺跡、三池炭鉱

長野県 浅間山噴火

群馬県 浅間山噴火、群馬事件

栃木県 足尾銅山鉱毒問題、足利学校

奈良県 飛鳥寺 飛鳥文化 芸亭、興福寺

京都府 安土・桃山時代、応仁の乱、桂離宮、京都守護職、禁門の変

滋賀県 安土・桃山時代、大津事件

島根県 尼子氏

新潟県 生田万の乱

三重県 伊勢神宮

静岡県 石橋山の戦い

広島県 厳島神社

埼玉県 稲荷山古墳の鉄剣

千葉県 印旛沼干拓

福井県 永平寺

大阪府 大坂城

愛知県 桶狭間の戦い

神奈川県 鎌倉幕府、生麦事件

東京都 桜田門外の変、関東大震災、小笠原諸島返還

熊本県 熊本バンド

和歌山県 高野山

山口県 下関戦争

鹿児島県 西南戦争

沖縄県 琉球処分

北海道 五稜郭

富山県 米騒動、倶利伽羅峠

香川県 満濃池

青森県 太宰治「津軽」

高知県 自由民権運動

石川県 安宅の関

大分県 臼杵の石仏

福島県 東日本大震災

岩手県 平泉中尊寺

長崎県 長崎造船所

   *

  結論でございます。鳥取県に関する記述は、高校日本史の教科書においてはゼロで御座います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ショートヘアの流行

16_00107img1    1973年のこの日、山口百恵が「としごろ」でデビューした。70年代岡崎友紀、森昌子、桜田淳子などによってショートヘアはちょっとしたブームだった。ショートヘアの歴史を見れば、一時期オードリー・ヘプバーンやジーン・セバーグなどが一世を風靡した。司葉子のデビュー作「君死に給うことなかれ」もヘップバーン・カットの影響が見える。しかし日本の女優がショートにするというは水の江滝子ら男装の麗人以外にはあまりみられなかった。ショートヘアは1960年代後半、ミニスカートブームとともに起こり、70年代、山口百恵によって一般化した。1981年、初夏、松田聖子は「♫髪を切った私に違う女みたいと」と「夏の扉」を歌ったが、その髪型はあの「聖子ちゃんカット」のままだった。なぜこの時、髪を切らなかったのか永遠の謎と言われている。ちなみに聖子ちゃんカットとは、全体にレイヤーを入れ、ブローでサイドの髪を後ろに流し、耳の脇をフワッとふくらませるスタイルのことだ。その年の12月「聖子ちゃんカット」をバッサリ切って、ショートになる。そして翌年、彼女の代表曲「赤いスイートピー」が誕生した。この頃、薬師丸ひろ子、原田知世らアイドル女優の出現でショート・カットは定着化する。酒井法子、広末涼子、内田有紀。最近では長澤まさみ、剛力彩芽、菊池亜希子(画像)、広瀬すず、有村架純、本田翼、西内まりや、波瑠など芸能界で広まっている。しかしショートヘアはいつの時代も少数派である。秋元康の個人的な嗜好なのか長髪・清楚系が王道となっている。(5月21日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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最近は韓国のイヒョリもショートヘアにしている。

 

Photo

 

番外編

 

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正統派美女ではなくても笑顔をショートヘアで魅力的になる(本田翼)

 

ツイギーの影響により、60年代はミニスカートとショートヘアはセットだったようです。

 

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リンドバーグのその後

 チャールズ・リンドバーグ。1927年のこの日、NY・パリ間を単葉機「スピリット・オブ・セントルイス」号で33時間30分で飛び無事パリのル・ブールジェ空港に着いた。初の大西洋単独機無着陸横断飛行である。無名の青年がアメリカはもとより、全世界の英雄となったが、32年に幼い息子が誘拐されて殺されるという悲劇が起こる。1932年3月1日、リンドバーグの長男(当時1歳8か月)がニュージャージー州の自宅で誘拐された。同年5月12日、遺体で発見された。現場には犯人からの身代金5万ドル要求の手紙が残されていた。事件から2日たった4日に、新聞はリンドバーグの声明文を掲載した。「身代金を支払って息子の身柄を引き取ることができるなら、犯人の不利になるようなことは、断じてしない」。これを見た法務長官は「リンドバーグに、犯罪訴追の免責を申し出る権限などはない」と語った。3月8日には、ジョン・コンドンという72歳の老講師が、誘拐事件の仲介役を申し出た。12日に、コンドンはジョンという男(「墓場のジョン」)と会い、子どもは船の中で元気にしていると聞く。16日には、コンドンの家に息子のパジャマと身代金の受け渡し方法が書かれたメモの入った小包が届けられた。リンドバーグは警察には一切干渉しないことを約束させた。4月2日、1通の封筒がタクシー運転手によってコンドンの家に届けられた。コンドンとリンドバーグは、現金を持って指定されたブロンクスのセント・レイモン墓地に着き、コンドンは「墓場のジョン」と会い、子どもが隠されている場所の書いてあるメモの入った封筒と身代金を交換することになった。しかし子どもは発見できなかった。子どもの遺体が発見され、検視結果は、子どもは誘拐された直後に死亡していたことが判明した。

 

Hauptmann_6 それから2年半後、ドイツ系移民の大工のブルーノ・ハウプトマン(画像)という男が逮捕された。身代金として支払われた紙幣をガソリンスタンドで使ったこと、そして、何よりも自宅から残りの紙幣が大量に発見されたことが決め手になった。法廷では、リンドバーグはハウプトマンを指さして犯人と断言した。コンドンは、公判開始前の段階ではハウプトマンを「墓場のジョン」と断定するのを繰り返し拒んでいたが、証言を翻し、ハウプトマンを「墓場のジョン」と断定した。人間は、たった一度しか聞いたことのない人の声を2年も3年もたってから思い出すことができるのだろうかという疑問は最後まで残った。しかし、デビット・ウィレンツ法務長官は当時広がっていた反独感情をたくみに利用しながら、ハウプトマンを蛇呼ばわりして彼の人格を誹謗し、陪審員に偏見を持たせようとしていた。

    ハウプトマンは最後まで無罪を主張したが、1936年4月3日、トレントン刑務所で電気椅子によって処刑された。しかし、彼の有罪を疑問視する人も少なくなかった。ニュージャージー州知事のハロルド・ホフマンもその一人だ。彼は「私はこの犯罪が1人の人物によってなされ得たとは思えない」と、彼は公式に声明した。70年たった今も真相は謎であり、この事件の裁判は米国司法史上に疑問と汚点を残すことになった。(5月21日)

 

 疑問は多数ある。ハウプトマン逮捕後も、リンドバーグの身代金に使われた紙幣はいまだに街にながれていた。それに決定的なアリバイがハウプトマンにはあった。1931年3月1日にはニューヨークのアパートで仕事をしていた。それが事実なら、同じ日にニュージャージー州ホープウェルに行って、夜9時すぎにリンドバーグ家に行って、息子を誘拐することは極めて困難になる。アパートの所有者は、ハウプトマンの主張が事実であることを証言したが、作業時間記録表と賃金支払い記録はなくなっていた。記録はすでに検察と警察に押収され、検察側の主張を裏付けるものに改ざんされていた。驚くべきことに弁護人のレイリーは法廷でのこれらの決定的な物証を十分に調べることもせずに、ハウプトマンのアリバイを立証できなかった。弁護人エドワード・レイリーは、反ハウプトマンを標榜していたヒュース・プレス社から金をもらっていただけではなく、以前からリンドバーグの熱烈なファンだった。法廷でのあまりの失策に、次席弁護人のフィッシャーは公判の審理中に「あなたは、ハウプトマンを電気椅子に送ろうとしている。それでも彼を弁護しているつもりなのか?」と公然と非難した。

    検察側は、事件の夜にハウプトマンを見たと証言する87歳のアマンダス・ホークス(彼は1000ドルの賞金を得た)を証人として喚問した。彼はハウプトマンがはしごを積んだ車に乗っているのを見たと主張した。このほとんど目の見えない老人の信頼しがたい証言に対して、弁護側はほとんど反論していない。

    結審後5か月たった1935年7月には、米国法律家協会が「純然たる裁判を公開ショーのように扱うのは、生命そのものを軽んずることと同じだ」と述べ、検察・弁護側双方を手厳しく批判した。

    リンドバーグは、晩年はハワイでひっそりと暮らし、72歳で他界した。ハウプトマンの遺体が霊柩車で刑務所から出で行くのを見守る群集を写した一枚の写真がある。司法が過ちを犯したと考える人々も多かったのだ。(3月1日、5月21日)

 

 

 

 

不入斗(いりやまず)

Photo    1973年のこの日、山口百恵は「としごろ」でデビューした。横須賀「不入斗」(いりやまず)とは不思議な感じを受ける地名だが全国に多数ある地名である。その土地の人しか読めない地名だが、かつて花街や遊郭だった所が多い。旅籠、湯屋、飯屋、飲み屋、遊郭が狭いところに集まれば、迷路のようになる。イリヤマズとは地形のことを指しているのだろう。元来は「不入計」と記して「イリヨマズ」と読み、神領(免租地)を表わした。百恵は横須賀の不入斗中学校に通っていた。品川中学校に転校しているので長くはいなかっただろう。「としごろ」はヒットしなかつたが、「ひと夏の経験」の頃から青い性路線といわれて好奇の目でみられたが、歌詞とは裏腹に清純な印象を人々に与えた。だが高い人気もアイドル路線ではいつか飽きられる。シングル13曲目「横須賀ストーリー」が百恵の分岐点だった。少女時代の情景を歌に入れることでリアルになった百恵とファンは一体となり、他のアイドルとは異なる稀有のスターになった。(5月21日)

 

 

2026年5月20日 (水)

米沢市の大火

 大正6年のこの日、山形県米沢市で大火が発生した。午前10時30分、米沢市の代官町から出火し、北西の強風に煽られて大火災となり、市街地はほとんど焼失した。死者11名、罹災者10,464名、焼失3,325棟の被害を出し、午後4時30分頃に鎮火した。その後、大正8年にも大火があり、現在見られる伝統様式の町並みは、大火後の大正期から昭和初期につくられたものである。したがって近世の直江兼続が作った城下町の遺構はあまり残っていない。江戸から明治前期までは、山形市より米沢市のほうが人口は多かったが、大正期の2度の大火で米沢市の人口が減少した。

参考文献
米澤市火災後の新家屋 建築雑誌368  1917年8月 

 

馬酔木

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    アセビはツツジ科アセビ属に属する常緑低木。山地に自生、また庭木として栽培。桜が散る頃、壺形の小白花を総状に垂れ下がる。全株が有毒、馬が葉を食るとしびれ酔ったように苦しむという所からついた名前らしい。万葉の時代から愛されたらしく、あせび。あしみ。あしび。あせぼ。あせみ、いくつもの呼び名を持っている。

 

馬酔木より低い門なり浄瑠璃寺 水原秋櫻子

 

馬酔木折つて髪に翳せば昔めき 虚子

 

   昭和のはじめ、高浜虚子は「俳句の目的は花鳥風月を諷詠するにある」と提唱した。そして晩年には、「存問」つまり森羅万象の自然に語りかけることが大切だと述べている。

 

 

コロンブス忌

    クリストファー・コロンブスは地位も名誉も失い不遇のうちに、1506年5月20日、マラリアの後遺症と痛風にいためつけられてスペインのバリャドリッドで没した。自身はアメリカ大陸のことは死ぬまでインドだと信じていた。55歳だった。イタリアのジェノヴァの生まれと一般にいわれるが、幼年時代の記録はなく、両親がスペインのバルセロナ出身という説もある。スペインでユーロ切り替え以前に発行された5000ペセタ紙幣にコロンブスの肖像が使用されている。(Christopher Columbus、5月20日)

 

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2026年5月19日 (火)

呪われた子

  1536年5月19日、イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンはロンドン塔で斬首刑に処せられた。ヘンリー8世は熱心なカトリック信者で、教皇から「信仰の擁護者」の称号を受けたが、王妃キャサリン・オヴ・アラゴンと離別し、宮女アン・ブーリンとの結婚問題で、その許可を教皇に求めていたが、ローマ法王クレメンス7世はこれを拒絶した。このため、ヘンリー8世はカトリックから独立して首長令を発して、イギリス国教会が成立した(1534年)。ローマ教会は「邪悪な子をもつことになるだろう」といったが、アン・ブーリンの産んだ子がイギリス国家最大の繁栄をもたらしたエリザベス女王である。

    ヘンリー8世は生涯6回結婚しているが、ロシアのイワン雷帝は7回結婚している。イワン雷帝の父・モスクワ大公ヴァシーリー3世も子どもができない妃ソロモニア・サブーロヴァと離婚して、タタール出自のリトワ貴族の女エレーナ・グリンスカヤ(1510-1538)と結婚しようとしたが、ロシア正教会は反対した。1522年、大公はロシア正教会のヴァルラームを追い出し、代わりにダニエールをすえた。ダニエールは結婚を承認した。母グリンスカヤは皇太子イワンを産んだ。のちのイワン雷帝である。イワン雷帝(1530-1584)とエリザベス女王(1533-1603)はこのように教会から認められずに産まれた子である。抵抗する者には徹底的に弾圧する残忍性など共通している。エリザベスは反対派のメアリ・スチュアートを斬首し、イワン雷帝はわが息子を自らの手で殺した。世界に恐れられた専制君主は生まれながら似ている運命にあったが、激しい気性で国家繁栄の基礎を築いた。

英語になった日本語

   林立す五月相撲の幟かな (犀星)

 

B0016565_1801314   大相撲夏場所。日本の国技である相撲は、海外でも人気があり、男性同士が裸で取り組み合う姿が欧米人には珍しくもあり、文化面でも、外国から見た日本のイメージを構成する一因になっている。日本語が英語の単語になったものは、数としては多くはないがkimono(着物)、mikado(帝)、shogun(将軍)などは古くから英語化された日本語で、最近ではsushi(寿司)、sukiyaki(スキヤキ)、sashimi(刺身)、sake(酒)などの食べ物の名前とか、salaryman,karaokeなども英語の仲間入りをしている。

 「ひきこもり」仕事や学校に行けず家に籠り、家族以外と交流がない生活をしている人を指す。1982年頃から登場する。オックスフォード英語辞典2010年版には「hikikomori」の単語が収録されている。

その他の英語になった日本語。

banzai(万歳)、nonsai(盆栽)、bonze(坊主)、daikon(大根)、fuji(富士)、geisha(芸者)、geta(げた)、go(碁)、haiku(俳句)、harakiri(切腹)、hibachi(火鉢)、judo(柔道)、kamikaze(神風)、karate(空手)、manga(漫画)、ninja(忍者)、noh(能)、origami(折り紙)、samurai(侍)、sayonara(さようなら)、shiatsu(指圧)、tatami(畳)、Tenno(天皇)、tempura(天麩羅)、tsunami(津波)、wasabi(わさび)、zen(禅)。

桶狭間の戦い(1560年)

Tz_22_25 織田信長が着々と尾張統一を図っていたころ、その最も脅威としたのは、駿河を中心に遠江・三河にまで勢力を張る東海の雄将今川義元であった。永禄3年(1560年)5月、義元は、斎藤道三の亡きあと衰えた美濃を踏み破り、諸城を落として一気に上洛せんものと25000の大軍を率いて西上の途にのぼった。5月18日、織田領の丸根・鷲津両城にも今川の脅威が迫ったとの報に接した信長は清洲城で軍議を開いた。織田の兵力はわずか3000にすぎず、籠城説が大勢を占めた。しかしその夜信長はにわかに出陣を触れ、真っ先に馬を駆けさせた。信長のあとを追ってきた兵は熱田神宮まできたとき1000人となり、善照寺についたときは3000人に増えていた。今川の25000人に比すれば問題にならない劣勢である。しかし危機に立たされた信長としては、死中に活を求めるしかなかった。一方、今川義元は18日、沓掛城に入り、翌19日、義元は、桶狭間の北、田楽狭間(愛知県豊明市栄町)に駐屯して、勝ち戦の祝杯をあげていた。兵士にも酒を配り、警備は全くおろそかにしていた。折から空には黒雲がたれこめ、豪雨がふり注ぎ、あたりは全く見通しがきかなくなった。その機をのがさず信長は横合いから義元の旗本めがけて襲いかかった。義元の軍はたちまち混乱し、軍を立て直す暇もなく、ついに義元が毛利新介・服部小平太によって討ち取られた。義元享年42歳。将を討たれた今川軍はたちまち駿河に向かって敗走した。この時徳川家康は義元軍に従軍していたが、この合戦ののち自立し、信長に属している。この戦いには迅速果断な信長の面目がよくあらわれている。信長の武名は一躍とどろき、この日を境に天下布武の道を疾走することになる。

 桶狭間で義元が戦死した今川家は、一気に転落。永禄11年、武田氏と徳川氏に攻められて、氏真は、本拠地の今川館を捨て他国に亡命した。江戸時代には、500石の領地を得て、幕府直属の家来となった。(5月19日)

参考文献
桶狭間の戦 講談社文庫 矢野隆一 2021年

 

 

 

宮本武蔵忌日

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大津街道脇にあった武蔵の墓は平成元年から武蔵塚公園として整備された

  二天一流の創始者で、剣聖と仰がれる宮本武蔵の墓は熊本にある。寛永17年、細川忠利に招かれて来熊。晩年は熊本で過ごした。1年後に忠利に先立たれた後は岩戸観音の霊巌洞にこもる日々が続き、「五輪書」「独行道」などを著し、また画人として水墨画の名品を残した。剣豪武蔵は、芸術にも優れ二刀流だった。「五輪書」の自筆本は焼失し、現存するのは写本のみである。正保2年5月19日に飽田郡五町手永弓削村(現熊本市龍田弓削1丁目)に葬られた。墓は武蔵塚公園内ある。墓碑には「兵法天下一 新免武蔵居士石塔 正保酉乙年五月十九日」と記されている。武蔵の墓はもう一つある。熊本市島崎町霊寿庵裏の自然石で、碑面に「貞岳玄信居士」とある。その横には、「心月清円信女」という女性の墓石が並んでいる。享年62歳。病名は神経痛と胃癌だった。

2026年5月18日 (月)

チキウイテ洞窟(「チ」事項索引)

[ ち ]

  「チキウイテ洞窟」メキシコ中北部チキウイテ洞窟で、約2万6500年前の人類の痕跡が発見される。▽ 「チンダル現象」閉め切った雨戸のすきまから入る日の光や、映写機からスクリーンへ送られる光が、ひとすじの明るい通路を示していることがある。その中には、無数のほこりのきらめきが見られる。光の通路が見えるのは、空間にうかぶ無数の微粒子によって散乱された光が目にはいるためで、真空中では見られない。このように、空気中・液体中にういている微粒子に光のたば(光束)があたって、その通路のかがやいて見える現象をチンダル現象といい、イギリスの物理学者ジョン・ティンダルが1850年頃に発見した。▽「地球温暖化」産業の発達によって人間活動が活発になり、二酸化炭素などの温室効果ガスが増えて、地球の平均気温が高くなること。▽「チーター世代」アフリカの次代を担う⒛~30歳代の若者たちの総称。欧米に留学し、ビジネスなどの経験を積んでアフリカに戻ってくる。チーターのようなスピードという意味からきている。▽「チチェン・イッツァ」メキシコのマヤ文明の遺跡。▽「チバニアン」77.4万年前から12.9万年前にあたる地質時代の期、または地層形成年代を表す年代層序における階の一つ。▽「チャコ戦争」1932年から35年まで、グラン・チャコの国境紛争によってボリビアとパラグアイ両国間に起こった戦争。▽「チャドウィック」ジョン・チャドウィック1920年ー1998年。イギリスの言語学者。マイケル・ヴェントリスとともに線文字Bを解読した。▽「チェサピーク湾」バージニア州とメリーランド州に入くんだ大西洋岸の溺れ谷で、複雑な海岸線をもちカキ養殖地として有名。▽「茶湯銭(ちゃとうせん)」宋代の茶代、弁当代の意味で、一種の職務手当。▽「智異山(ちいさん)」小白山脈の南部に位置する標高1915mの名山。李成桂が1377年倭寇を破ったことでも知られる。 ▽「チョウノスケソウ」バラ科の高山植物で名は発見者の須川長之助にちなむ。▽「チューリップ時代」オスマン帝国の1718年から1730年までを指す。チューリップ栽培が流行したことからこのように呼ばれる。▽「趙孟頫(ちょうもふ)1254-1322。元代の書家。▽「チョゴリ」裾の短い朝鮮の婦人用上着。▽「チョンガー(総角)」独身男の卑称。▽「チョモランマ」エヴェレストのチベット語名。▽「知恩院」法然の死後、その往生の地に営まれた廟に始まる。▽「値嘉島」古代、肥前国の五島と平戸島の称。古来、朝鮮・中国航路の要地に当り、遣唐使関係の記録にも多くみえる。▽「ちはやぶる(千早振る)」とは「勢いの鋭い」「あらあらしい」の意味で、和歌では「神」にかかる枕詞。▽「チャレンジャー号爆発事故」1986年ケネディ宇宙センターから発射されたスペースシャトルは直後に爆発し、7名の全乗組員が死亡した事故。▽「チンポー族」中国雲南省に分布するチベット系の少数民族。カチン族。▽「チャクリー改革」タイのラーマ5世による教育などの近代化政策。▽「チャンキロ遺跡」ペルーの砂漠にある紀元前300年頃の遺跡。▽「張居正」1525-1582。明代の政治家。▽「逃散」江戸時代、農民が領主に対する合法的な誓願がうけいれられないときに、耕作を放棄して村外に逃亡するという非常手段に訴え、要求が通れば再び帰郷するという形の抵抗形態をいう。▽「チョンピ一揆」1378年フィレンツェで起こった毛織物業者による反乱。▽「智異山」チリサン。大韓民国南部の全羅南道・全羅北道・慶尚南道にまたがる小白山脈の南端に位置する山。標高1915m。同国で最も標高が高い済州島の漢弩山に次いで2番目に高い山。古くから登山のメッカとして知られ、多くの登山客で賑わう。▽「チンアナゴ」ウナギ目アナゴ科に属する海水魚の一種。顔が犬の狆に似ていることからこの名がついた。(ちちちち)

 

屐(ち)  中国の木ぐつ、げた
血合肉 鮪、鰹、鰤などの身の黒ずんだところ
チアゾール
治安維持法
地域格差
ちいさな親切運動(1963年)
智異山  (韓国)
チェコ
チェサピーク湾
チェチェン・イチケリア共和国
チェチェン共和国
チェチェン紛争
チェッカー・フラッグ
知恵熱
チェバの定理
チェブラーシカ
チェーホフ
チェリャビンスク(ロシア)
チェルシーFC
チェルスキー山脈(ロシア)
チェルノブイリ原発事故
チェーレン山脈(スウェーデン)
チェロ
チェロキー族インディアン
チェンバーズ百科事典
チエンマイ(タイ)
知恩院
チオンピの乱
茅ヶ崎(神奈川)
地下鉄サリン事件(1995年)
値嘉島(ちかのしま)
近松語彙
近松門左衛門
チカモリ遺蹟
チキウイテ洞窟
地球
地球温暖化
知行国
蓄銭叙位令
チーク材
筑前煮
竹林の七賢
チゴイネルワイゼン(サラサーテ)
知行合一
地産地消
千島樺太交換条約
地図
チーズ
地租改正
チーター世代
チタン
チチェン・イッツァ(マヤ文明)
秩父事件
地中海
チッタゴン(バングラデシュ)
智頭枕田遺跡(鳥取県)
地丁銀制
地動説
千鳥ヶ淵(東京都千代田区)
済南事件
血の日曜日事件
血のメーデー事件(1952年)
千葉
チバニアン
ちはやぶる
チビリケテ国立公園(コロンビア)
知夫里島(隠岐)
チベット
地方交付税
地方自治
蚕室(チムシル)
チムール
チャイコフスキー
チャウカンデー塚
チャウチャウ(犬種)
チャガタイ(察合台)
チャグチャグ馬ッコ
チャクリー朝
チャクリー改革
チャコ戦争
チャタレイ事件
チャーチル
チャーティスト運動
チャップリン
チャド
チャドウィック
チャトランガ
チャネケ(メキシコの妖精)
茶湯銭
チャベス,ウゴ(ベネズエラの大統領)
チャールズ1世
チャールズ2世
チャールズ・バベッジ研究所
チャールストン
チャルディラーンの戦い(1514年)
茶屋四郎次郎
チャレンジャー号爆発事故(1986年)
チャン・イーモウ(張芸謀,映画監督)
チャンギ国際空港(シンガポール)
チャンキロ遺跡
チャンチン(センダン科の落葉高木)
チャンドラグプタ2世
チャンドラセカール限界
チャンパ
中華民国
中国
中尊寺金色堂
チュニジア
チュノム
チュランノス(僭主)
チューリップ時代
チュンダ(純陀)
調
長安
張学良
張作霖
趙樹理
長征
朝鮮戦争
朝鮮通信使
朝鮮労働党
徴兵令
チョイバルサン
張家口
張居正
張鼓峰事件
趙孟頫
チョゴリ
チョコレート
チョコレート嚢胞
チョーサー
逃散
長春真人
長州征討
チョウチンアンコウ
ちょうちんブルマー
チョウノスケソウ
チョモランマ
チョンガー
手斧掛け(ちょんがけ)
チョンピの乱(1378年)
チリ
チリ鉱山落盤事故(2010年)
智異山
チワワ
チンアナゴ
チンギス・ハン
チングルマ
鎮西探題
頂相
チンダル現象
陳朝
陳独秀
チンポー族
珍宝島(ダマンスキー島)
チンボラソ山(エクアドル)
陳和卿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

総すかん

 周りの人間から嫌われたり、無視されたりされる、という意味。「総スカンを食う」など現在でもよく使われる。語源は明らかではないが大正時代には使われていたようである。内田魯庵が昭和8年に発表した随筆「読書放浪」に「其の上に同じ滞留客を下目に見る尊大振りが鼻持ちならんので宿屋中の総スカンになった」とある。

レウォトビ火山(「レ」事項索引)

[  れ ]

   「レオポルド2世」ベルギー王。コンゴ虐殺で国際的批判を浴びる。▽「レムブラント」アムステルダムの中心部ヨーデンプレー通りに画家レンブラントが住んだ家がある。この家に1639年から1658年までレンブラントは住んだが、最愛の妻サスキアが死亡したのは、有名な作品「夜警」を描いた1642年のころであった。この年を境として彼の芸術家としての苦悩が起こり、借金が重なって1656年に破産し、家は競売にかけられてしまった。▽「レコンキスタ」スペインのキリスト教徒が、イベリア半島からイスラム教徒を追い出す失地回復運動。718年から最終的には1492年まで行われた。▽「レ・トロワ・フレール洞窟」フランス南西部アリエージ県のモンテスキュー・アバンテ県にある旧石器時代の洞窟壁画。呪術師がけものの皮を着て踊っている絵で知られている。▽「連鎖地図」染色体上の遺伝子の位置を示した地図のこと。▽「レンドリース法」アメリカ合衆国が第二次世界大戦において、イギリス・ソ連・中国などその他の連合国に対して物資や武器を貸与する法律。(れれれ)

レアメタル
レイキャビク
麗江古城(雲南省)
隷書
令嬢ジュリー
レイスウェイク条約
冷泉家
レイテ島
レイヨウ(羚羊)
令和
レウォトビ火山(インドネシア)
レウクトラの戦い(BC371)
レオ3世
レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオポルド2世
レガスピ
レーガン
レキシントンの戦い
レギュラシオン理論
レーゲンスブルク
レコンキスタ
レジオネラ菌
レジスタンス
レセップス
レットウィング作戦
レッドパージ
レーティシュ鉄道
レディファースト
レトロウイルス
レ・トロワ・フレール洞窟
レナ虐殺事件(1912年)
レナペ族
レニャーノの戦い
レーニン
レーニン(原子力砕氷艦)
レニングラード
レニンスク・クズネツキー
レバノン
レパントの海戦
レピジャヒヘド諸島
レビー小体型認知症
レピドゥス
レファレンス
レファレンダム(住民投票)
礼文島
レベッカ
レマン湖
レ・ミゼラブル
レモン祭り
レユニオン島(フランスの海外県)
恋愛対位法
錬金術
連合艦隊
連合赤軍
連鎖地図
レンテンマルク
レントゲン
レンドリース法(武器貸与法)
レンブラント

阿部定事件

Photo_2  阿部定事件をご存じだろうか。阿部定は戦前の日本国民の間では超有名人だった。どんなに有名だったかというと、昭和11年というのはニ・ニ六事件が起こった年であるが同じ年の5月18日に起きた阿部定事件のほうが国民の関心は遥かに高かったという一事からもわかるであろう。阿部定が細面の美人と報ぜられ、日本中がその話題でもちきりとなった。阿部定は明治38年神田の畳屋の娘として生まれ、芸者や娼婦として各地を転々とした。32歳当時東京中野の鰻屋「吉田屋」の女中として入り、石田吉蔵と昵懇になる。まもなく不倫関係となり吉蔵を絞殺し、東京から逃走し、3日後の20日に捕まった。大阪駅にいた、横浜に飛んだ、いや広島だ、仙台だと怪情報が錯綜した。阿部定逮捕の様子はこうである。高輪署の安藤部長刑事は管内の旅館をしらみつぶしに調べた。「お定さんだね」女はこっくりうなづいた。もう逃れられないと覚悟して「夜になったら死ぬつもりでした」と語った。「例のものはどうした」と聞くと、定は帯の間から、ハトロン紙包みをとり出し、それを大事そうにみせただけですぐにしまい込んでしまった。定は「あの人が好きでたまらないから殺した。殺してしまえば他の女が指一本触れなくなるから」と供述している。後年、この事件は、渡辺淳一「失楽園」でも重要なモチーフとして取り上げられ大ベストセラーになった。現在阿部定の消息は1974年以降不明で墓も戒名もわからない。Wikipediaの注釈によれば、佐川一政が1992年頃、「伊豆の老人保養施設にいる」と語っていた、とあることから、およそ87歳まで生存していたと推定される。ちなみに岩波書店の「広辞苑」には「阿部定」「阿部定事件」などの項目は初版以来一度も収録されていない。

 

 

 

 

 

箱館戊辰戦争

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 明治元年5月、江戸城無血開城より後、戊辰戦争は北陸、東北、そして蝦夷へと舞台を移した。旧幕府軍の海軍副総裁の榎本武揚は、艦船8艘を率いて江戸を脱出、仙台・石巻へと移動する。宮古湾で補給の後、蝦夷へ向かう。明治元年10月には箱館北の鷲ノ木に上陸、新政府軍を撃破し、10月26日、五稜郭を占領する。11月には蝦夷地を平定する。12月15日、蝦夷地・箱館五稜郭を本営とする佐幕派の政権が誕生した。一般に蝦夷共和国という。投票によって、総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、陸海裁判官に竹中重固、今井信郎、陸軍奉行並に土方歳三らが選ばれた。土方は箱館五稜郭で抗戦中、明治2年5月11日、新政府軍に包囲された弁天砲台を奪回するために、50人の兵を率いて、馬で一本木の関門の木柵を出、西に向かって進んだとき、新政府軍の一斉射撃を受け、腹部貫通銃創で落馬した。部下の相馬主計と島田魁が土方を近くの民家に収容したが、出血多量のため35歳の生涯を閉じた。榎本武揚は亀田の会見で無条件降伏に同意し、18日昼には五稜郭が開城された。ここに戊辰戦争は、箱館戦争終結とともに終結した。(5月18日)

 

2026年5月17日 (日)

明治政府の北海道開拓

    明治政府は五稜郭の戦がおわってまもなく、ロシアの南下にそなえて北海道(および樺太)開拓のことを決し、蝦夷地を北海道と改称し、北海道開拓使を設置した。北海道開拓使となった黒田清隆はみずからアメリカに渡ってケプロンらを顧問として招き、そのほか70人をこえる外国人を雇った。そしてその計画・指導のもとに、開拓計画を進めた。札幌農学校では開拓指導者が養成され、また官営工場を設けて販売の困難な農作物を購入し、加工品の製造を試みた。石炭の採掘を志し、札幌への輸送をも考慮して、明治15年、小樽ー札幌間の鉄道を敷設した。明治5年以降10年間に政府が、道路・鉄道・炭鉱・官営工場・農場・屯田兵などの開拓事業に投下した資本は約1500万円以上であった。しかし、これらの努力にもかかわらず、内地からの移民は期待したほど多くはなく、開拓とくに農業開拓は遅々として進まなかった。明治7年10月に設けられた屯田兵制度は、このような事態のなかで開拓の進展をはかり、また当時失職した士族の救済を兼ね、あわせて北門防備の任務を果たそうという一石三鳥をねらったものであった。屯田兵は治安維持にもあたり、その労働によって開かれた道路・土地は少なくない。(参考:『世界大百科事典23』平凡社、5月17日)

参考文献
「屯田兵とは何か」有馬尚経 幻冬舎 2020年 

七年戦争

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 1756年5月17日、イングランド(ジョージ2世、大ピット)がフランス(ルイ15世)に宣戦布告。七年戦争の始まりである。そして8月29日、プロイセンのフリードリヒ大王がザクセンに侵攻した。この世界戦争は1763年まで続いた。プロイセン王国とオーストラリアなどの間でフベルトゥスブルク条約が締結された。歴史学習には記憶すべき重要年代がある。遠藤正典によれば日本史では100以上の重要年代があるという。歴史は暗記というが無理矢理に記憶しても無意味であろう。むかしから「いい国つくろう鎌倉幕府」とか口調よく暗記できる記憶法がある。「日本史重要年代記憶法550」ではなんと550もの実例が紹介されている。わたしは年代は記憶しない主義で暗記しているのはほんとうに少しだけである。645年、710年、1192年、1600年、1868年、1945年。世界史では1914年(あるいは1756年、1763年)が重要年である。シレジア領有の七年戦争の講和条約(フベルトゥスブルク条約)と英仏間の植民地戦争のパリ条約締結の年であり、英のインド・米大陸における優位を約束するものであった。現代の英米の優位する時代の出発点としてのメルクマールになる。そのころ日本は10代将軍家治の頃で完全な鎖国状態にあった(1639-1854)。世界史は18・19・20世紀の300年間が重要である。

「犬」と「猫」どっちが好きですか?

 17日は、ドジャースの大谷翔平選手の愛犬・デコピンの2歳の誕生日。ペットフード協会の調査によると、わが国では犬と猫の飼育頭数は、猫がおよそ952万、犬が892万頭で猫のほうが多い。 オバマ元大統領の愛犬「ボー(Bo)」はおそらく世界で一番有名な犬だろう。オス4歳で、ポヂュギース・ウォーター・ドッグというあまり聞いたことがない犬種である。長嶋一茂の愛犬はトイプードルの「キラ」ちゃん。イチローの愛犬「一弓(いっきゅう)」も日本人にはよく知られている。こちらは柴犬。喜劇王チャプリンも犬派である。「犬の生活」「黄金郷時代」「街の灯」「モダンタイムス」など名作にはいつも犬が登場する。雑種犬がお好みで、ポメラニアン、プードル、ブルドッグ、ラブラドール・レトリバーといった一流の品種には興味がない。オードリー・ヘップバーンの愛犬はヨークシャーテリアの「フェイマス」。

   著名人には愛犬家と愛猫家がある。もちろんどちらも大好きなオールマイティーもいる。前田敦子の家には猫8匹、犬6匹の合計14匹のペットがいる。ブリジッド・バルドーは猫といる写真が多いが動物すべての保護活動家として有名である。女優には猫派が多い。ジーン・ハーロー、マリリン・モンロー、キム・ノバック、ジェーン・マンスフィールド。これらは撮影のためだけかもしれない。ジョン・レノンは正真正銘の猫派。夏目漱石、ヘミングウェイ、三島由紀夫、赤川次郎、向田邦子、大島弓子、群洋子、大杉漣、サンシャイン池崎、川上麻衣子、石田ゆり子、中川翔子は猫派。ドイツの哲学者ショーペンハウアーはイヌが好きでプードルを飼っていた。アラン・ドロン、西村寿行、戸川幸夫、坂上忍もイヌ派。

 

 

 

 

2026年5月16日 (土)

日韓の美人女優の激変ぶり

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 3人区別がつきますか

 

   テレビをつけたら、めずらしく韓国の女優キム・ハヌルがNHKに出演していると思ったら、青木さやかだった。ムムム・・・似ている。歌手のチェウニにも見える。キム・ハヌルは韓国ドラマ「空港に行く道」では相変わらず清楚な美女を演じている。でも若い頃に比べると何だか顔が老けた感じがする。女優といえど50歳前後になると印象は激変する。最近ネットでは富田靖子の激変ぶりが話題だ。「地獄に堕ちるわよ」で戸田恵梨香の母役をすごく老けメイクで熱演している。女優魂なのだろう。「ざびしんぼう」の面影は微塵もない。

一万三千人の容疑者

 昭和35年のこの日、東京都世田谷区の小学校2年生男児が誘拐される。3日後に遺体で発見された。雅樹ちゃん誘拐殺人事件である。犯人である男MSは逮捕され、昭和45年死刑が執行された。この時代、身代金目的の誘拐事件が引き続き発生した。この事件から3年後の昭和38年、東京都台東区入谷の公園で村越吉展ちゃん(当時4歳)が誘拐された。事件は大きな社会問題にもなったが、2年後刑務所に服役中の小原保が犯行を自供し、遺体が発見される。動機は「失業し借金の返済に困ったため」だったが、その冷酷な手口は世の親たちを震撼させた。昨夜、東映映画「一万三千人の容疑者」を観る。吉展ちゃん事件をもとに制作されたドキュメントタッチの刑事もの。東映のスターは少なく、劇団の地味な俳優で固めている。芦田伸介はトレードマークのハンチングは被っていないがやはり「七人の刑事」の風格がただよう。東映お得意の警視庁シリーズの香りがする。スターらしき俳優は小山明子くらいで、市原悦子、井川比佐志、織本順吉も当時はそれほど有名ではない。「キカイダー01」の池田駿介は東映か。新人の刑事田畑孝も懐かしい。古いところでは稲葉義雄、浜田寅彦、神山寛、村瀬幸子など。吉展ちゃん事件に近い時代の風俗的な臨場感は何物にも代えがたい。映画担当はゴジラを生んだ作曲家、伊福部昭。すごい重厚感。(5月16日)

 

 

 

論語及び孔子関係文献目録

Photo_2  1690年2月7日、孔子を祭る湯島聖堂が完成した。孔子の学問を儒学として薦めたのは江戸時代になってからだが、すでに江戸初期にもその気運はあった。加藤清正は戦国の武将の例にもれず、本などあまり読まなかったが、教養派の前田利家の影響から読書するようになった。清正が、江戸と熊本を往来する船の中で、「論語」を読みながら朱点ほほどこしているのを見ていた飼い猿が、清正が厠へ行った間に主人の真似をして「論語」の上に縦横に朱の線を走らせてしまった。戻ってきた清正はこれを見てニッコリ笑い、「おぉ、そちも聖人の教えを知りたいか」と言って、猿の頭を撫でたという。この逸話によって、清正が平生「論語」に親しんでいたことがよくわかる。清正ならずとも心ある部将はみな論語を愛読した。大内義隆、徳川家康など。明治以後は渋沢栄一、下村湖人、武者小路実篤など。第一生命の創始者・矢野恒太にも『ポケット論語』の著書がある。講談社をつくった野間清治にも、事業運営の柱に「論語」を据えたことは、あまねく知られている。最近では野球の野村克也が『野村の実践論語』の著書を刊行している。明治以降、「孔子及び論語」に関する文献は何点くらい出版されたのであろう。国会図書館で「論語」を検索すれば書籍だけで10681件がヒットする。

 

  論語関係文献
図書の部
論語微 10巻 荻生徂徠
論語古義 10巻 伊藤仁斎撰 1712
論語 全4巻 朱熹 学習館 1870
論語集説 全6巻 安井息軒 1872
論語類編心解 4冊和本 渋谷鉄臣(如意)編 京都・文石堂 1891
孔子 世界歴史譚第2篇 吉国藤吉 博文館 1899
論語新証 于省吾 1900
和論語 本社出版部 仏教図書出版 1900
孔門之徳育 亘理章三郎 開発社 1901
論語纂註 米良東嶠(倉子痩) 村上書店 1901
論語訓釈 斎藤清之丞 金華堂 1903
論語補註 山本章夫 山本読書室 1903
論語講義 上下 花輪時之輔講述 深井鑑一郎編 誠之堂 1903
孔門之徳育  1巻 亘理章三郎 開発社 1901
論語補註 2冊 和本 山本章夫註 京都・山本読書室 1903
孔夫子伝 蜷川龍夫 文明堂 1904
孔子研究 蟹江義丸 金港堂 1905
論語講義 根本通明 早稲田大学出版部 1906
論語 ジェームズ・レッグ訳 依田喜一郎 嵩山房 1908
孔子 西脇玉峰 内外出版協会 1909
ポケット論語注釈 奥村恒次郎註釈 大阪・山本文友堂 1909
論語経典余師 渓世尊講 宮崎璋蔵校訂 日吉丸書房 1909
論語講義 近藤元粋 篠田栗夫共著 大日本商業学会 1909
論語古義 佐藤正範 六盟館 1909
論語集説 漢文大系1 安井息軒 服部宇之吉校 冨山房 1909
論語講話 大江文城 東洋大学出版部 1909
孔子伝 遠藤隆吉 丙午出版社 1910
孔子 白川次郎 東亜堂 1910
孔子之聖訓 二條基弘 東久世通禧 名著学会出版部 1910
荻生徂徠論語辨 祥雲碓悟校 1910
論語弁 荻生徂徠 祥雲碓悟校 天書閣 1910
論語講義 一戸隆太郎 大成社 1910
論語国字解 一名経伝余師 渓世尊講 深井鑑一郎校 宝文館 1910
論語詳解 川岸華岳 郁文舎 1910
新訳論語(新訳漢文叢書11) 大町桂月訳 至誠堂 1912
論語示蒙句解 漢籍国字解全書1 中村惕斎 早稲田大学出版部 1912
論語書目 中村久四郎編 孔子祭典会 1913
論語源流 林泰輔 自筆稿本 1915
論語年譜 林泰輔 龍門社 1916
孔子及び孔子教 服部宇之吉 明治出版社 1917
論語講義 漢文註釈全書1 三島毅(中洲) 明治出版社 1917
論語鈔 成簣堂叢書10  上村観光解題 1917
儒教と現代思潮 国民思想涵養叢書3 服部宇之吉 明治出版社 1918
論語講義 細川潤次郎 南摩鋼紀共著 吉川弘文館 1919
孔子と其思想及教義 鈴木周作 弘道館 1922
渋沢子爵活論語 安達大寿計編 宣伝社 1922
世界三聖伝 基督・釈迦・孔子 松本雲母・大屋徳城・西脇玉峯編著 1923
現代に活かした論語講座 西川光二郎 丙午出版社 1924
孔子聖教之攻究 景仰子、柿本寸鉄 人文社 1924
孔子聖蹟志 馬場春吉 大東文化協会 1924
孔子研究 改版 蟹江義丸 京文社 1927
国訳論語 斯文会編 龍門社 1928
孔子鑑賞 大月隆仗 敬文館 1929
論語明解 江口天峰 至玄社 1929
孔子 小学児童学習の友 高橋喜藤治 郁文書院 1930
政教より観たる論語新釈 赤池濃 早稲田大学出版部 1930
論語講本(集註) 島田欽一校訂 有精堂 1930
論語鈔 村上龍英 広文堂 1930
論語詳解 沢田総清 健文社 1930
孔子全集 全2冊 藤原正纂訳 岩波書店 1931
論語善本書影 大阪府立図書館編 京都・貴重書影本刊行会 1931
論語詳解 簡野道明 健文社 1931
孔子家語 岩波文庫 藤原正訳 岩波書店 1933
論語證解 上中下 漢籍国字解全書28,29,30 早稲田大学出版部 1933
論語私感 武者小路実篤 岩波書店 1933
論語・孟子 東方古典叢刊7 五十沢二郎 竹村書房 1933
論語・孟子の話 国民修養講和3 西川光二郎 春陽堂 1933
孔子 室伏高信 日本評論社 1934
孔子解説 学庸篇 北村佳逸 立命館出版部 1934
論語講義 岡田正三 第一書房 1934
論語心解 西川光二郎 自動道話社 1934
論語の解釈 村田慎三 白帝社 1934
論語詳解 前島成 大修館 1934
論語全解 島田鈞一 有精堂 1934
孔子及孔子教 住谷天来 新生堂 1935
孔子教と其反対者 北村佳逸 言海書房 1935
孔子教の戦争理論 北村佳逸 南郊社 1935
論語評釈 大江文城 関書院 1935
論語講義 安井小太郎 大東文化協会 1935
論語古伝 10巻 仁井田好古撰 南紀徳川史刊行会 1935
論語大学中庸 漢籍を語る叢書2 田中貢太郎 大東出版会 1935
論語新解 国語漢文研究会編 明治書院 1935
孔子 社会科学の建設者・人と学説叢書 田崎仁義 三省堂 1936
孔子の生涯 諸橋轍次 章華社 1936
仁の研究 山口察常 岩波書店 1936
精講 論語百講 松田金重編 三省堂 1936
日本精神と孔子教 社会教育パンフレット236  岡村利平 社会教育協会 1936
ものがたり論語 三宅昭 モナス 1936
論語講座 全6巻 高田真治・諸橋轍次・山口察常編 春陽堂 1936-37
孔子伝 岡村利平 春陽堂 1937
孔子伝 (附)弟子列伝・集語 岩波文庫 藤原正訳注 岩波書店 1937
孔子とをしえ 加藤虎之亮 国民精神文化研究所 1937
孔子の思想・伝記及年譜 論語講座研究篇 春陽堂 1937
孔子の人格と教訓 塩谷温 開隆堂書房 1937
儒教の史的概観 高田真治 春陽堂 1937
論語・孔子 室伏高信全集8 青年書房 1937
孔子 大教育家文庫1 和辻哲郎 岩波書店 1938
全釈論語 幸田露伴 双葉書房 1938
大学論語解義 四書研究 岩部撓・深谷賢太郎 啓文社 1938
論語精解 重野篤二郎 白帝社 1938
論語物語 下村湖人 講談社
孔子論 林語堂著 川口浩訳 育成社 1939
四書新釋論語 上下 内野台嶺 賢文館 1939
論語講義 渋沢栄一 二松学舎大学出版部 1939
論語私見 上下 山本憲永弼 松村末吉家 1939
新講論語読本 西川光二郎 春陽堂書店 1939
論語読本(興亜国民) 上下 論語 東洋思想文庫 東洋思想文庫刊行会 第一出版協会 1939
論語之研究 武内義雄 岩波書店 1939
論語と教養 谷口廻瀾 谷口廻瀾先生還暦記念刊行会 1940
孔子 武者小路実篤 講談社 1941
孔子と其の生涯 田中貢太郎 東海出版社 1941
孔子廟参拝記 菟田茂丸 平凡社 1941
算標論語集註 瀧川亀太郎 金港堂書籍 1941(1913)
論語と支那の実生活 後藤朝太郎 高陽書院 1941
論語詳解 最新研究 徳本正俊 芳文堂 1941
論語の思想 渡部信治郎 畝傍書房 1941
論語の組織的研究 中島徳蔵 大日本出版株式会社 1941
孔子・人とその哲学 室伏高信 潮文閣 1942
孔子の新研究 大月隆仗 新民書房 1942
孔孟思想講話 新潮文庫 高須芳次郎 新潮社 1943
論語ものがたり 全釋 三宅昭編 博文社 1943
孔子 和辻哲郎 植村書店 1948
論語総説 藤塚鄰 弘文堂 1949
論語十二回講話 西川光二郎 1942
論語と孔子の思想 津田左右吉 岩波書店 1946
論語抄 幸田露伴 中央公論社 1947
孔子とその弟子 下村湖人 西荻書店 1950
論語集註 簡野道明 明治書院 1950
孔子 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1951
孔子 室伏高信 潮文閣 1951
孔子廟堂碑 展大法帳1 虞世南 春潮社 1951
論語物語 角川文庫 下村湖人 角川書店 1951
論語私感 三笠文庫 武者小路実篤 1951
論語私感 新潮文庫 武者小路実篤 1951
孔子 偉人物語文庫 小田嶽夫 偕成社 1952
孔子と老子 諸橋轍次 不昧堂書店 1952
論語に学ぶ 赤木三良 池田書店 1952
論語新解 簡野道明 明治書院 1952
論孟精選 簡野道明 明治書院 1952
全訳論語精解 重野篤二郎 桜井書店 1953
論語新釈 宇野哲人 弘道館 1953
論語全解 島田鈞一 有精堂 1953
現代語訳論語 下村湖人 池田書店 1954
論語物語 人生叢書 下村湖人 池田書店 1954
孔子 角川文庫 和辻哲郎 角川書店 1955
孔子 武者小路実篤全集11  新潮社 1955
論語は生きている 堀秀彦 河出書房 1956
孔子 三一新書 尾崎辰之助 三一書店 1957
論語百選 現代人のために 三省堂百科シリーズ 新垣淑明 三省堂 1957
論語の言葉 現代に生きる言葉? 堀秀彦 実業之日本社 1957
論語と現状 岩越元一郎 明徳出版社 1957
論語新釈 学生社新書 魚返善雄訳 学生社 1957
論語集注 上下 影璜川呉氏仿宋刊本 書物文物流通会 1959
孔子 その人とその伝説 H・G・クリール著 田島道治訳 岩波書店 1961
顔淵・孔子 中勘助全集10 角川書店 1962
孔子 和辻哲郎全集6 和辻哲郎 岩波書店 1962
論語物語・聖書物語 世界教養全集8 下村湖人、ヴァン・ルーン 平凡社 1962
輯佚論語鄭氏注 月洞譲 編者油印 1963
論語は生きている 潮文社新書 堀秀彦 潮文社  1963
仁の古義の研究 竹内照夫 明治書院 1964
論語集註(標註) 渡辺末吉 武蔵野書院 1964
孝の孔子の新解釈 加藤常賢 斯文43   1965
古典のかがみ 論語33章 れいろうブックス 諸橋轍次 広池学園出版部 1965
孟荀における孔子 浅間敏太 中国哲学3  1965
論語のことば 中国の知恵1 吉田賢抗 黎明書房 1965
論語知言 東条一堂 原田種成校訂 書籍文物流通会 1965
論語と人間孔子 山田統 明治書院 1965
孔子 その礼説を中心とする考察 松代尚江 懐徳37   1966
孔子・孟子 世界の名著3 貝塚茂樹編 中央公論社 1966
仁の研究 下斗米晟 大東文化大学東洋文化研究所 1966
ポケット論語 藤原楚水訳述 実業之日本社 1966
論語物語 アイドル・ブックス 下村湖人 ポプラ社 1966
論語物語 旺文社文庫 下村湖人 旺文社 1966
論語物語 改版 角川文庫 下村湖人 角川書店 1966
現代語訳論語 角川文庫 下村湖人 角川書店 1967
孔子と老子 ヤスパース選集22  田中元訳 理想社 1967
孔子名言集 世界名言集6 伊藤貴麿 ポプラ社 1967
孔子孟子老子荘子 世界の大思想Ⅱ‐1  本田済、松代尚江、木村英一ほか訳 河出書房 1968
論語私感想 現代教養文庫 武者小路実篤 1968
論語孟子大学中庸 世界文学大系69  倉石武四郎・湯浅幸孫・金谷治編 筑摩書房 1968
現代語訳論語 原富男 春秋社 1969
孔子 センチュリーブックス人と思想2 内野熊一郎、西村文夫、鈴木壮一 清水書院 1969
孔子伝 如是我聞 諸橋轍次 大法輪閣 1969
吾が道 孔子の人生観大系 吉野浴風 大坂発色 1969
論語孟子荀子礼記(抄) 中国古典文学大系3 木村英一・鈴木喜一ほか訳 平凡社 1970
孔子家語 中国古典新書 清田清 明徳出版社 1971
孔子と論語 東洋学叢書 木村英一 創文社 1971
論語源流 林泰輔 汲古書院 1971
論語のために 私の古典 吉川幸次郎 筑摩書房 1971
唐卜天壽注抄写鄭氏論語 中国科学院考古研究所編 平凡社 1972
論語古義 日本の名著13  伊藤仁斎著 貝塚茂樹訳 中央公論社 1972
論語抄 足利本 中田祝夫編 勉誠社 1972
論語之研究 武内義雄 岩波書店 1972
論語を活かせ 武藤紀郎編 文進堂 1972
聖人の虚像と実像 論語 現代人のための中国思想叢書1 駒田信二 新人物往来社 1973
論語講義と長寿法 村田直彌 明治書院 1973
論語の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
孔子与論語 銭穆 聯経出版事業公司 1974
孔子批判 中国通信社東方書店編 東方書店 1974
論語三十講 斯文会編 大修館書店 1974
論語入門 ダルマ・ブックス 阿部幸夫 日本文芸社 1974
論語の新研究 宮崎市定 岩波書店 1974
孔子伝 銭穆 池田篤紀訳 アジア問題研究会 1975
聖人孔子の化けの皮をひっ剥がせ! 香坂順一編訳 青年出版社 1975
論語発掘 通釈への疑問と解明 合山究 明治書院 1975
論語講義 渋沢栄一 二松学舎大学出版部 1975
論語私見 民主主義時代の論語 小沢俊雄 岡谷 中央印刷 1975
論語大東急記念文庫講座講演録 石井千秋等講述 大東急記念文庫 1975
現代語訳論語 下村湖人全集8 下村湖人 国土社 1976
論語について 講談社学術文庫 吉川幸次郎 講談社 1976
修訂・論語年譜 林泰輔編 麓保孝修訂 国書刊行会 1976
論語・孟子 西谷元夫 有朋堂 1976
論語物語・現代訳論語 下村湖人全集8 国土社 1976
論語講義 全7巻 講談社学術文庫 渋沢栄一 講談社 1977
論語精義 上・下 和刻本近世漢籍叢刊思想三編 1・2 朱熹撰 佐藤仁著 中文出版社 1977
論語孟子研究 狩野直喜 みすず書房 1977
論語新釈 新装版 魚返善雄訳 学生社 1978
論語の散歩道 重沢俊郎 日中出版 1979
孔子 人類の知的遺産4 金谷治 講談社 1980
論語新釈 講談社学術文庫451 宇野哲人訳 講談社 1980
朝の論語 安岡正篤述 明徳出版社 1981
論語墨書 名筆による名言鑑賞 広論社出版局編 広論社 1981
論語私感 内田智雄 創文社 1981
論語新探 論語とその時代 趙紀彬著 高橋均訳 大修館書店 1981
論語の読み方 ノン・ブックス 山本七平 祥伝社 1981
よみがえる論語 色部義明 徳間書店 1981
論語のことば グリーン・ブックス 堀秀彦 大和出版 1982
論語の散歩道 重沢俊郎 日中出版 1982
論語八方破れ TOKUMA BOOKS 竹村健一 徳間書店 1982
論語を読む 常石茂 勁草書房 1982
孔子新伝 「論語」の新しい読み方 林復生 新潮社 1983
孔子のことば 現代語訳の「論語」 林復生 グラフ社 1983
論語に学ぶ部課長学 仁田敏男 日本経営団体連盟弘報部 1983
異質孔子記 矢作幸四郎 八重洲ブックセンター 1984
孔子 時を越えて新しく 中国の人と思想1 加地伸行 集英社 1984
論語のこころ 加藤富一 近代文芸社 1984
論語と孔子 人間関係論のエッセンス「論語」の新しい読み方 鈴木修次 PHP研究所 1984
論語を読む 講談社現代新書 加地伸行 講談社 1984
孔子 伝記世界の偉人2 中央コミックス 永井道雄・手塚治虫監修 中央公論社 1985
孔子廟堂碑・他 書道基本名品集2 虞世南 雄山閣出版 1985
孔子廟堂碑   原色法帖選12  虞世南 二玄社 1985
ポケット論語 角川文庫 山田勝美 角川書店 1985
「論語」その裏おもて 旺文社文庫 駒田信二 旺文社 1985
論語と算盤 渋沢栄一述 梶山彬編 国書刊行会 1985
「論語」&老子入門 徳間文庫 野末陳平 徳間書店 1985
論語の世界 加地伸行編 新人物往来社 1985
孔子と失われた十支族 鹿島辨 新国民社 1986
孔子の復活 孔子をめぐる虚構と真実 李家正文 冨山房 1986
孔子の末裔 孔徳懋口述、柯蘭筆記 和田武司訳 筑摩書房 1986
論語の人間学 服部武 冨山房 1986
論語との対話 金子知太郎 竹井出版 1987
論語の活学 安岡正篤 プレジデント社 1987
論語抄の国語学的研究・索引篇 坂詰力治編 武蔵野書院 1987
孔子の経営学 孔健 PHP研究所 1988
孔子家語 岩波文庫 藤原正訳 岩波書店 1988
小説孔子 谷崎旭寿 新人物往来社 1988
論語総説 藤塚鄰  国書刊行会 1988
論語と禅 半頭大雅 山田邦男 春秋社 1988
孔子 井上靖 新潮社 1989
孔子 日本人にとって「論語」とは何か 歴史と人間学シリーズ 山本七平、渡辺昇一、谷沢永一、小室直樹 プレジデント社 1989
論語は問いかける 孔子との対話 ハーバート・.フィンガレット著 山本和人訳 平凡社 1989
「論語」その裏おもて 徳間文庫 駒田信二 徳間書店 1989
論語の講義 新装版 諸橋轍次 大修館書店 1989
論語の人間学 人間と知恵とを語り尽くす 守屋洋 プレジデント社 1989
論語名言集 ビジネス選書8 村山吉広 永岡書店 1989
壽(いのちなが)し日日論語 斎藤十九八 一休社 1990
孔子 講談社学術文庫 金谷治 講談社 1990
孔子家の極意 ワニの本 孔健 ベストセラーズ 1990
孔子と教育 俵木浩太郎 みすず書房 1990
わが祖・孔子と「論語」のこころ 孔健 日本文芸社 1990
孔子 集英社文庫 加地伸行 集英社 1991
孔子画伝 加地伸行 集英社 1991
孔子伝 中公文庫 白川静 中央公論社 1991
孔子・孟子に関する文献目録 瀬尾邦男編 白帝社 1992
真説人間孔子 孔祥林 河出書房新社 1994
男の論語 童門冬二 PHP研究所 1999
論語名言集 村山吉廣 中央公論新社 1999
論語 石川忠久監修 サン・エデュケーショナル 2000
論語 吉田公平 たちばな出版  2000
論語紀行 坂田新 日本放送出版協会 2000
宋明の論語 松川健二 汲古書院 2000
男の論語2 童門冬二 PHP研究所 2000
論語234 吹野安、石本道明 明徳出版社  2000
人生は論語に窮まる 谷沢永一、渡辺昇一 PHP研究所 2000
孔子「論語」に関する文献目録 単行本篇 瀬尾邦雄 明治書院 2000
江戸古学派における「論語」注釈史の研究 金培懿 博士論文 2000
論語 現代五訳 宮崎市定 岩波書店 2000
論語の新しい読み方 宮崎市定 岩波書店 2000
孔子百科辞典 上海辞書出版社 2010
さまよえる孔子、よみがえる論語 朝日選書 竹内実 朝日新聞出版 2011
孔子学院伝播研究 劉程、安然 中国社会科学出版社 2012
孔子の倫理哲学論 道徳論を中心として 浅井茂紀 International Philosoply Institute
孔子論語 佐久協 NHK出版 2012
論語正 石永楙 中華書局 2012
論語入門(岩波新書) 井波律子 岩波書店 2012
論語の読み方 中野孝次 海竜社 2012
孔子 世界史リブレット人 高木智見 山川出版社 2013
論語集注 1~4 東洋文庫 朱熹 土田健次郎訳注 平凡社 2013
孔子聖蹟図 和版集成 竹村則行 花書院 2014
図説孔子:生涯と思想 孔祥林 科学出版社 2014
全訳論語 山田史生 東京堂出版 2014
徳川日本の論語解釈 黄俊傑著 工藤卓司訳 ぺりかん社 2014
近代における「論語」の訓読に関する研究 石川洋子 新典社 2015
孔子と魯迅 片山智行 筑摩書房 2015
日本古代「論語義疏」受容史の研究 髙田宗平 塙書房 2015
論語与近代日本 劉萍 中国青年出版社 2015
経典釈文論語音義の研究 髙橋均 創文社 2017
儒教 怨念と復讐の宗教 浅野裕一 講談社 2017
論語から人間学を学ぶ 田村重信 内外出版 2017
論語象義 三野象麓撰 上海古籍出版社 2017
論語徴集覧 松平頼寛撰 中国典籍日本注釈叢書論語巻 上海古籍出版社 2017
論語と社会 加藤要 おうふう 2017
「論語」と「西洋哲学」 藤本一司 北樹出版 2017
論語補鮮 山本楽所撰 上海古籍出版社 2017
論語入門 加地伸行 幻冬舎 2021
六朝論語注釈史の研究 高橋均 知泉書館 2022

 

論文の部
泰西人の孔子を評するを評す 井上哲次郎 東学芸4  1882
孔子ノ教ハ支那国ニ如何ナル影響ヲ与ヘンヤ 赤座好義 東学芸3-46  1885
孔子の学術を汎論す 柳沢保恵 輔仁会雑23,24,28  1893~94
孔子之道と徂徠学 加藤弘之 東哲1-6  1894
孔子以後の学派 藤田豊八 東哲1-8,11,12   1894,95
孔孟の道 内藤耻叟  東哲1-3  1894
孔子と儒教 神谷初之助 斯文4-5  1922
孔子と文 柿村重松 斯文4-5  1922
孔子に於ける妥当性の個性的実現の問題 斎藤要 斯文18-1  1922
孔門の「時中」に就いて 成田衡夫 斯文3-2  1921
孔夫子追遠記念祭典の意義 塩谷温 斯文4-6  1922
孔夫子伝 服部宇之吉 斯文7-2  1922
孔夫子の偉大なる点に就いて 手塚良道 斯文4-5  1922
孔夫子略伝 服部宇之吉 斯文4-5  1922
周公孔子之道 今井彦三郎 朝鮮教育6-12  朝鮮教育会 1922
文廟の従祀及び清代尊孔御書匾額について 中山久四郎 斯文4-5  1922
予の孔子観 桑原隲蔵 斯文4-5   1922
余の観たる孔夫子 渋沢栄一 斯文4-5  1922
孔夫子の政治観 島田三郎 斯文5-4  1923
孔子とソクラテス 吉田熊次 斯文5-5  1923
大聖孔子 牧野謙次郎 斯文5-5  1923
孔夫子の二大事業 小柳司気太 斯文7-4  1925
孔夫子及び其の家系に就きての二三の考察 那波利貞 歴史と地理18-1  1926
孔夫子と我が国体 塩谷温 斯文8-5  1926
孔子の聖徳 宇野哲人 斯文8-8,9  1926
孔子の知天命 服部宇之吉 斯文9-9  1927
孔夫子と集大成 児島献吉郎 斯文9-5  1927
孔夫子の道 小野錬太郎 斯文9-12  1927
孔孟の権道に就いて 内野台嶺 斯文9-7  1927
支那史上の偉人 孔子と孔明 桑原隲蔵 東洋史説苑 1927
孔子の敬天思想 青木晦蔵 東洋文化54  1928
孔子祭典に就て 阪谷芳男 斯文10-1  1928
孔子の謙虚の心 高田真治 斯文10-6  1928
孔子の実行主義 飯島忠夫 斯文10-3  1928
孔子の知天命に就いて 青木晦蔵 東洋文化46  1928
孔子の徳業 小柳司気太 斯文10-2  1928
孔夫子と現代支那 塩谷温 斯文10-6  1928
孔夫子の政教 赤池濃  斯文10-11  1928
孔孟紀年 新城新蔵 高瀬還暦記念支那学論叢 1928
孔子の仁 蟹江義丸 斯文11-4  1929
孔子の聖徳に就いて 今村完道 斯文11-11  1929
孔子の大義名分説に就いて 宇野哲人 斯文10-6  1929
孔老の思想 常盤大定 丁酉倫理会倫理講演集326  1929
正しく観たる孔夫子の聖徳 中山久四郎 斯文11-8  1929
孔子の道 飯島忠夫 斯文12-9  1930
孔子の仁と儒者の学 遠藤隆吉 哲学雑誌46-535  1931
孔子の榡像及画像 馬場春吉 東亜4-2,3  1931
史記の孔子伝大要 岡崎文夫 歴史と地理27-1   1931
孔子教について 荻原拡 斯文14-7  1932
支那思想史上に於ける孔子の地位 高田真治 哲学雑誌47-539  1932
満州の孔子廟建築 村田治郎 満州学報1 1932
孔子教のフランス進出 後藤末雄 丁酉倫理会講演集373  1933
孔子と老子 加藤一夫 東洋哲学38-1   1931
孔子の軍事観 岡村利平 大東文化9 1935
論語より観たる孔夫子の教導法 合田万吉 斯文17-7  1935
孔子教に於ける実行の価値 飯島忠夫 斯文4-5  1936
孔子以前の仁字とその意義 山口察常 斯文18-8  1936
孔門伝授の心法 成田衡夫 服部古稀記念論文集 1936
孔子とイエス 大塚繁樹 媛大紀要1-4  1953
詩書と孔子の天及び天命の思想 米田登 文と思6  1953
孔子および孟子の兵戦思想 内田智雄 同志社法学26  1954
孔子学団 宇都宮清吉 東洋学報(京都)25  1954
天下周遊の構造 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報5  1954
孔子の管仲譚 華夷論の一端として 高田真治 東洋研究6  1963
孔子の仁の思想について 馮友蘭著 高橋均訳 漢文教室64  1963
貝塚茂樹著「孔子」についての往復書簡 西谷啓治、貝塚茂樹 図書24  1951
孔子に於ける仁思想成立の過程 石黒俊逸 支那学研究8  1951
尚書孔子伝の態度 加賀栄治 学芸3-1  1951
人間孔子 谷川徹三 斯文4  1951
孔子死生の説 那智佐典 東洋学研究7  1938
孔孟以後の儒教 秋月胤継 斯文20-6  1938
東洋史上に於ける孔子の位置 宮崎市定 東洋史研究4-2  1938
論語に現われたる孔子の人間観 西村侃三 斯文21-11,12  1939
孔子的自我の展開 牧尾良海 哲学雑誌55-639,642  1940
孔子の仁 平田栄(講演)  斯文22-1  1940
孔子の学的精神とその展開 田所義行 漢学雑9-3,10-1  1941-42
孔子より孟子に至る自己観の展開に就いて 赤塚忠(講演) 斯文24-12  1942
孔子の思索生活  1,2 田所義行 漢学雑11-2,3;12-1,2   1943~44
孔子の教学 佐藤匡玄  建大研月報38  1944
孔学総論 谷本富 東学芸4-73  1945
孔子について 貝塚茂樹 世界10  1946
人間孔子 林語堂 実藤恵秀訳 新中国1-3  1946
マルクス孔子に会う 郭沫若 実藤恵秀訳 中国文学95  1946
孔子と子産 貝塚茂樹 東光1   1947
孔子の学問精神 原佑 叙説4  1950
孔子の人間観 板野長八 学士院紀要8-1  1950
春秋著者説話の原形 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 叙説5  1950
フランス人の観たる孔子 附・戦后欧米における孔子の研究 麓保孝 斯文33-4 1951
去魯 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学芸報3 1952
孔子とゾロアスター 飯島忠夫 長野短期大学4 1952
顔回と孔子門の学風 髙橋享 天理大学報6 1952
夾谷の会 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学芸報4 1953
陽虎雑考 孔子伝 田中佩刀 斯文25  1959
孔子礼思想管見 山下実 支那学研究24,25  1960
孔子と尚書 松本雅明 福井康順博士頌寿記念  1960
孔子の宗教的立場 金谷治 集刊東洋学6 1961
孔孟の思想と漢唐の儒教 小島佑馬 東洋文化7 1961
孔子思想の三支点 道・命・楽 大浜晧 中国文社12  1963 
孔子の精神に関して所感を陳ぶ 元良勇次郎 東洋哲学2-10  1895
孔子の誕生会に就て 日下寛 東洋哲学2-9  1895
孔夫子誕生祭に就き 関根正直 東洋哲学4-2  1896
孔子誕生に就きて 重野安繹 東洋哲学3-1  1896
孔子の精神 日下寛 東洋哲学4-2  1897
孔子の降誕に就きて  島田重礼 東洋哲学4-1  1897
孔子の学説 松村正一 東洋哲学8-9~12 1901
孔子の教育及宗教 穂積秀範 龍谷史壇10  1902
孔夫子と儒教 島田三郎 東洋哲学 9-1,2  1902
孔子の所謂君子に就きて 蟹江義丸 東洋哲学10-1  1903
孔子教の趣旨 星野恒 東洋哲学11-1   1904
孔夫子研究を評す 中島徳蔵 丁酉倫理会講演集33,34  1905
孔子ノ人格ニ就テ 井上哲次郎 太陽13-10  1907
孔聖の修養 山田準 東洋哲学15-6  1908
孔夫子の運命観 大島順三郎 東洋哲学17-6,8・18-3 1910~11
孔子に対する社会的信仰の矛盾 村上専精 丁酉倫理会講演集101  1911
孔子の倫理説に就て 松村正一 東洋哲学18-5   1911
支那に於ける孔夫子の尊崇 服部宇之吉 東亜研究1-1  1911
孔夫子の政治上に於ける教訓 深作安文 東亜研究3-6  1913
孔子教 及川生 慶義学208,209  1914
孔子 井上哲次郎 斯文20-6  1938
孔子伝より見たる論語の解釈 岡村利平 大東文化16  1937
孔子と老子 諸橋轍次 斯文33-4  1937
遭難 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報6  1955
文学としての孔子世家 バートン・ワトソン 中文教2  1955
孔子の思想について 吉川秀一 阪学大紀4  1956
孔孟の命について 金谷治 日中会報8  1956
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報7  1956
孔子の陳蔡厄考 田中佩刀 静岡女子大紀要4  1957
「孔子の道」の解釈をめぐる二三の疑義 近藤康信 東支学報3 1957
孔教私観 長谷川如是閑 斯文22  1958
孔子と易 高田真治(講演)  大東漢学1  1958
孔子と墨子 山室三良 九中会報5  1959
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報9  1959
孔子の大同思想 張厲生 斯文28  1960
孔門の十哲に就いて 山本徳一 漢学研究1  1936
孔子の情操面の一考察 田所義行 東女大論14-2  1964
孔子における愛と死と考と 加地伸行 東方宗教24  1964
孔子教学の宗教性 金戸守 四天女子紀要7  1965
孔子の虚構性 山田統 国学雑誌66-10   1965
孔子の天下遊説について 木村英一 日中会報18  1966
孔子の職歴について 木村英一 立命館文学264-5  1967
弟子7、8 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大教育報17-1  1967
孔子と易 鈴木由次郎 東方宗教31   1968
論語と人間 孔子における人間性と宗教性 西藤雅夫 彦根論叢132、133   1968
孔子の学校について 木村英一 東方学38   1969
孔子とその教育 喜多川忠一 群馬大学教育学部紀要人文社会科学18  1969
聖人の虚像と実像(孔丘) 丸山松幸 人物中国志2 1974
官吏養成を目的とした孔子学園の教育 高峰文義 福岡大学人文論叢10-3  1978-1979
論語にみる孔子の人間評価基準 その識別に関する一考察 仙田美智子 近畿大学女子短期大学研究紀要16  1986
孔子と「論語」 森野繁夫 漢文教育 1999
「論語徴」における「礼」 暢素梅 人間文化研究年報23  1999
孔子の身長について 春秋時代の尺度と評価 若江賢三 人文学論叢16  2014年
孔子の仁説について 青木晦蔵 大谷大学仏教研究会  2017,4,4
孔子の仁と何か 上・下 吉永慎二郎 秋田大学教育学部 2017.2.16
孔子の天に対する思想:その宗教的性格について 三浦吉明 集刊東洋学36  2017.4.12
後桜町女帝宸筆仮名論語について 所功 京都産業大学2018.02.01

 

 

 

  このように孔子及び論語に関する文献は古来から今日に至るまで実に膨大な量にのぼる。若い読書子に一冊を奨めるとすれば、高木智見「孔子」(世界史リブレット)である。100頁たらずの冊子であるが、比較的本を求めやすい。また最新の出土資料をもとに論語のテキストを検討している。孔子の中心思想である「仁」についてしぼって論述している。論語と孔子の関係書は多いがほとんどが現代的な解釈を各自が自由に論じているが、本書は春秋という時代状況を可能な限り考察し、孔子の思想について論述している点を評価したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旅の日

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   本日は「旅の日」。松尾芭蕉が、門人の河合曽良とともに江戸深川の芭蕉庵から奥州へと旅立ったのは、元禄2年3月27日、芭蕉46歳のことであった。これは旧暦であるので、太陽暦でいえば5月16日にあたる。旅に立つには快適のころである。「行春や烏啼魚の目は泪」 この句を矢立の初めとして、芭蕉は日光街道を北に向かう。素盞雄神社の境内に文政3年10月12日の芭蕉忌に「松尾芭蕉奥の細道矢立初め碑」が建てられた。亀田鵬斎が銘文を書いている。また碑面の下部の芭蕉像は建部巣兆の筆。芭蕉は伊賀上野の藩士であった。脱藩して江戸に出て談林派の世界に身を投じたが、やがて庶民的生活に根ざした芸術として開花させたのが蕉風である。

 

 

 

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 首途の句碑

2026年5月15日 (金)

案山子(かがし)の話

    農作物の鳥獣害を避ける手段は、およそ3種に分類できる。

1.農神や田の神を迎えて豊穣を祈るとともに、害を避けようとする方法で、神の依代の人形や神札を田畑に立てたり、注連を張り廻す。これを中部東海地方ではソメといい、静岡地方では山人(やまびと)、北陸近畿以西では脅(おどし)といっている。

2.悪臭のする物を畦畔に置いて、鳥獣を畏怖または嫌悪させる方法で、襤褸(ぼろ)・毛髪・魚の頭・獣肉などを焼いて串に挟んだり注連に下げたりする。これを一般に嗅(かが)しという。

Photo_5 3.物音を立てたり、鳥獣の死屍を吊し下げて畏怖させる方法で、人が大声で追うたり、水車・板木・空缶・空砲を利用したり、死屍を吊るしたり、その方法は近年の発案が極めて多く変化に富んでいる。山の添水(そうず)・ボットリというのは、水力による搗杵の音の利用名であり、夜追・猪追・鳥脅そのほか新案の名称も多い。現在ではこれらのものを総称して案山子(かがし)という。 かかしを「案山子」という字をあてる理由は判然としない。元々中国の僧侶が用いた言葉で、「案山」は山の中でも平らなところを意味し、「子」は人や人形のことだそうだ。かかしは、「鹿驚(かがせ)」の意から出たともいわれるが、一般には悪臭を発して鳥獣を追う「嗅(かがし)」が語源とされる。

参考までに世界の「かかし」の単語を列挙する。

scarecrow スケアクロウ 英語

 

epouvantail エプヴァンタイユ 仏語

 

Vogelscheuche フォーゲルショイヒェ 独語

 

spaventapasseri スパヴェンタパッセリ 伊語

 

espantapajaros エスパンタパッハロス 西語

 

スキャフトロ  ギリシャ語

 

ブーガラ    ロシア語

 

フォルミード formido   ラテン語

 

ダオツァオレン 稲草人 中国語

 

ホスアビ 韓国語

 

 鳥取県八頭町では案山子を使った町おこしに取り組んでいる。2013年には世界13ヵ国の案山子を集めた「世界かかしサミット」が開催された。韓国やロシア、モロッコなどさまざまな国の案山子が展示された。 

参考文献
『案山子考』横井照秀編 住吉研究会 1935年
『呵呵誌 案山子百科全集』佐藤信二 2003年

 

 

 

葵祭

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    在来的な神祇信仰に対して、6世紀に仏教が日本に伝来して、飛鳥時代には崇仏、排仏の主張が対立したことはよく知られている。しかし奈良時代には仏教の信仰が隆盛をみるようになり、神は仏法を喜び、仏法を擁護するという神仏習合の思想があらわれた。しかしながら両者の習合は決して一朝一夕にスムーズに進展したものではなかった。

    たとえば、平安時代の貴族たちは、その邸内に持仏堂をもち、平素は仏像をそこに安置したが、内裏で神祭りの行われる日には忌みのかかっているものと同様に、僧侶を参内させなかった。神事と仏事はその場所を別にし、両者がたがいに障りあいしないように配慮がなされていた。

    平安時代の末、藤原頼長の日記「台記」天養2年(1145)3月7日条には、伊勢神宮への勅使の役を命ぜられた左大将雅定が、邸内の仏像・経文の類を邸外に出して精進潔斎していたとこめ、にわかに寝殿の屋根から煙があがったので放火かと思い、あわてて天井を破ってみたら、天井裏に絵像の仏五体と法会に使う色旗など゛があったので、これらを門外に運び出したら煙が消えたという話が記されている。これなど、王城鎮護の神である京では神祇信仰が第1であり、私邸でさえ、清浄を保持して異物の侵入を防がねばならないという事例である。

    本日の葵祭。祭の起源は欽明天皇の時代といえが明らかではなく、賀茂神社の創建は社伝によれば、天武6年(677)とある。文武2年(698)に賀茂祭(葵祭)の記事があり、このころすでに賀茂神社は強大な神社となっていた。平安帝奠都以後、祭は皇室のなかば公的な祭として盛行をみた。祭の中心人物は斎王であり、9世紀中頃以後は内親王がこれにつくのが慣例となり、皇室との関係が深まった。葵祭は古くは賀茂祭(かもさい)とも称し、平安時代の貴族の間では、単に「祭り」と言えば、葵祭のことをさしていた。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の元禄7年に幕府の援助により、祭が再現されたからである。当日の内裏宸殿の御暖簾をはじめ、牛車、御使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉でかざるようになって、この名があるとされる。

 

 

 

お子様ランチの謎

 ハンバーグやスパゲッティ、コロッケなど、子どもに人気なメニューが1枚の皿に載った「お子様ランチ」。NHK番組「チコちゃんに叱られる」では「なんでお子様ランチには旗が立っているのか?」という疑問。梅花女子大学で日本の食文化に詳しい東四栁祥子教授によると、お子様ランチが誕生したのは昭和になってからだという。昭和5年12月1日、東京日本橋にある三越デパートの食堂部主任だった安藤太郎(当時23歳)が数種類の人気メニューを揃えた子供用定食を考案し販売したのが始まりという。値段は30銭。世界恐慌の暗い時代でもあり、子供には楽しい気持ちになってもらおうと開発したという。ではなぜケチャップライスのてっぺんに爪楊枝と紙でつくられた小さな旗(日章旗など)が立てられたのか。番組では安藤太郎さんが登山が好きで富士山をイメージし、ごはんを山に見立てて旗を立てたと考えている。安藤さんは、その後どのように人生を歩んだのか、戦地へ行ったのか、戦後も生き抜いたのか、当時の記録や写真が一切残っておらず(おそらく空襲で焼失したのであろう)、一言でいえば「誰にもわからない」という事なのです。(参考文献:「文化教養講座 日本はじめて物語デパート事始め・大食堂とお子様ランチの始まり」渡邊洋一 歴史研究60-5、2018年5月)

 

2026年5月14日 (木)

黒田清隆、妻殺しの真実

   五代友厚は、大久保遭難の直後に松方巌に次のような手紙を送っている。

 

   「内閣の光景は暗夜に火を失するに似たり、いずれも首を傾け、慨歎の他これなく、深く御推計下さるべく候。実は迂生も午前に駆けつけ、夕刻暇を以て大隈方へ廻り、尚向来の目的を論じ、且嘆息致しおり候処、黒田にも来会、共々慨歎を増す。然るに黒田は、頃日妻君暴殺せし云々の事を頻りに新聞上に触れられ云々の事情も之あり候より、辞表を提出したる事も之あり候えども、もはや一歩も跡に引かず、大隈にも一層に勉励を頼むという趣意にして大隈に迫り、もとより大隈にも共に斃る迄は尽すべしとの事にして、堅く明誓を為すに至る」(大久保利通文書)。

 黒田清隆は鹿児島に生まれ、明治元年には鳥羽伏見戦に参加、つづく奥羽征討には清水谷公考中将の参謀として各地を転戦、箱館戦争でも大いに活躍し、凱旋した。明治新政府では北海道開拓の任にあたった。

   黒田清隆は明治11年3月のある日、泥酔して帰宅し、妻の出迎えが遅いとかなんとかいう、つまらないことから逆上し、病みがちの妻せいを斬り殺したのだと巷間に広められてしまった。この事件は「団々珍聞」4月13日号に痛烈な1ページ大の風刺画を掲げスッパぬかれた。警視庁はすぐ処罰したが、口から口へとひろがる世論にはふたはできない。ついに黒田は辞表を出して家にひきこもった。伊藤博文と大隈重信は黒田の処罰を迫ったが、大久保は黒田を弁護して「黒田は断じてさようなことをする無慈悲な人間ではない。拙者がそれを保証するから、しばらく拙者にまかされたい」といいきって、腹心の川路利良に検視を命じた。川路は夫人の墓を掘り起こして、医師は病死と診断した。こうして、黒田は大久保に説得されて、辞表を撤回した。五代の手紙にもあったように、紀尾井坂の兇変はそれから数日後の5月14日に起こったのである。黒田のスキャンダルが罪に問われなかったことも、ひとつの引き金となって、大久保利通が島田一良に斬殺されたのだともいわれている。しかしこのころの時勢は西南の役の直後の不穏な時代、大久保、黒田に対する風あたりも強く、黒田の妻殺しは陰謀説とも考えられる。黒田は直情径行、酒乱の癖があるという事、小樽沖で軍艦から高嶋村に発砲し娘を一人死なせた事、黒田みずから辞職すると言った事、川路大警視は薩摩出身で黒田、大久保とグルである事、などの理由から、いまでも黒田清隆の妻殺しを事実としている人もいる。(夏堀正元「明治の北海道」岩波書店)。とくに色川大吉の影響が大きいのだろう(「日本の歴史21」中央公論社)。もっとも本書の付録の石川達三との対談で「いまでも白黒はわからないのじゃないですか。もちろん妻を斬っただろうとは思いますけども、確実な証拠というものはないわけですね」と色川は語っている。(昭和41年9月10日)黒田の妻殺しの真実は、どうやら歴史家よりも小説家のほうが興味がそそられる話のようだ。

加賀の千代女

朝顔に釣瓶とられて貰い水

    朝、起きだして井戸端へ行ってみると、朝顔の蔓が井戸の釣瓶に巻きついている。水を汲むために、蔓をちぎってしまう気にもなれず、そのままにして隣家の井戸まで水を汲ませてもらいにいった、というのである。やさしく風雅な思いやりが、きわめてはっきり、万人に分かりやすいように表現されている。通俗的な意味で俳句を代表する作としてよく知られ、英・独・仏語にも翻訳されて海外にまで聞えた句である。この句に含まれている季語は「朝顔」で、季節は「秋」である。釣瓶(つるべ)とは、井戸の水をくみ上げるために縄や竿をつけた桶のことである。宝暦14(1764)年頃、無外庵既白の「千代尼句集」に入っている。「朝顔や」と書かれている掛け軸も残っている。

 

里の子の肌まだ白しももの花

 

春になって、村里には美しく桃の花が咲いた。そのあたりに遊んでいる里の子は、まだ日焼けもせず、膚は白いままである。

 

落鮎や日に日に水のおそろしさ

 

秋も深く、上流で産卵を終えた鮎は流れを下ってゆき、その水のようすは、一日一日恐ろしげなものになってゆくような気がする。

 

月の夜や石に出て鳴くきりぎりす

 

皎々たる秋月の下、つめたく光る庭石の上で、きりぎりすが切々とむせぶように鳴いている。人目のおよばぬ物陰でなくかなしい性を持つきりぎりすであるだけに、月の光にさそわれて石に出て鳴く姿はいやさらに哀れである。

 

    加賀千代(かがのちよ、1703-1775)。千代女。加賀国松任の人。表具師福増屋六左衛門の娘として生まれ、幼少から俳諧を好み、17歳のとき各務支考に師事。金沢藩の足軽のもとに嫁し、子供を産んでからまもなく夫に死なれたというが、嫁に行かなかったという説もある。51歳のときに剃髪して尼になり、素園と号したのちは家業を離れて俳諧に専念した。美濃派や伊勢派の地方俳壇と親しかったため、作風は親しみやすいものであった。生前から女流歌人として著名であり、『千代尼句集』『松の声』などの作品がある。安永4年没、年73歳。

   夫との死別後によんだ「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さ哉」が伝わるが、これは千代の生まれる9年前に遊女浮橋がよんだものである。また「蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら」「ほととぎすほととぎすとて明けにけり」「しぶかろかしらねど柿のはつちぎり」などの句も千代の作といわれることがあるが、これらはいずれも伝説的な誤伝によるもので、千代女の作品ではない。

島田一郎の墓

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2b005  現代人は有名願望がつよい。ということは現代の人物評価のものさしが有名か、無名かにあるからだ。島田一郎は有名人であろうか。歴史に相当に詳しい人なら知っている名前である。ちなみにコンサイス日本人名事典には所載されている。名前は「島田一良」とある。明治11年5月14日、島田一郎(左画像、1848-1878)ほか5人は、内務卿大久保利通を東京麹町紀尾井坂清水谷で暗殺した。その足で自首し、同年7月27日に斬首された。49歳であった。谷中霊園(台東区)には、6人の墓が並んでいる。実行犯は、石川県士族島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一および島根県士族の浅井寿篤である。

承久の乱と北条義時

    承久3年のこの日、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。いわゆる承久の乱である。65歳になる尼将軍・北条政子は、鎌倉に集まってきた御家人たちに向かい、こんな演説をぶった。「頼朝が出てくるまで、あなた方は貴族に言いように使われ、東海道を徒裸足で上り下りする惨めな境遇だったことを思い出してほしい。夫のお陰であなた方は官位をもらい、俸禄をもらうことができた。今、幕府は朝廷から追討を受けるいわれはまったくない。みんなで鎌倉を守り抜こうではありませんか」このとき政子は65歳。一世一代の名演説であった。幕府につくか朝廷につくかを決めかねていた武士たちはこの演説に心を揺さぶられ、幕府に味方したとされている。戦いは幕府軍の完全勝利だった。幕府は、仲恭天皇を廃して後堀河天皇を立て、後鳥羽・土御門・順徳3上皇を流罪とした。院政の機能は徹底的に破壊された。このような処置は日本史未曾有であり、当時の人々に大きな衝撃を与えた。天皇の権威の動揺は否定できず、天皇といえども帝徳が必要であり、無道の君・不善の主は討伐してもよいという思想も起こった。しかし、その後の日本史の天皇への畏敬は南北朝を通じてかえって高まったように思える。北畠親房の「神皇正統記」(1339年)の歴史書も現れた。後世、承久の乱における幕府の処置は臣として非難されるべきだという評価も起こる。北条義時がその業績に対して、歴史家に評価されず、国民に人気がないのはそのためであろうか。(5月14日)

2026年5月13日 (水)

忠臣蔵おかるの墓

Photo_8    仮名手本忠臣蔵で早野勘平の妻で、祇園で遊女となったお軽。たまたま大石内蔵助が密書を読んでいるのを手鏡にうつして盗み読みし、大事を悟られたと知った大石が女を身請けするというくだりは、仮名手本忠臣蔵七段目の筋書きで創作だが、おかるという女は実在していた。

 実在のモデルとなった「おかる(本名おかじ)の墓」が京都市の上善寺(上京区千本今出川)にある。二文字屋という版木屋の二文字屋次郎左衛門の娘で大石内蔵助の妾であった。美人だったらしいが、詳しいことはわからない。元禄15年、内蔵助が江戸に下った後、お軽は出産している。男の子で、町医者の寺井玄渓の手によって里子に出され、幼名を石之助、長じて大石良知と名乗るが、九州平戸へ向かう途中、佐賀の伊万里で病死した。伊万里に墓碑がある。お軽は29歳の若さで世を去り、実家に近い上善寺に葬られた。墓石には「清誉貞林法尼」と刻まれている。

生田万の乱

 天保8年、国学者の生田万が越後国柏崎で貧民救済のため蜂起した事件。乱は不成功に終わり、生田万は自刃した。

五月のバラ

Photo_2  バラの季節となった。赤いバラの花言葉は「純愛」。伊丹市荒牧バラ公園には世界のバラ約250種1万本が咲いている。「五月のバラ」というバラードを聴き比べ。塚田三喜夫、尾崎紀世彦、布施明、松崎しげる、舟木一夫、鹿内孝、菅原洋一、藤原誠、秋川雅史、岩出和也などがリリースしている。この曲のオリジナルは、「思い出のバラ」という題名でフランツ・フリーデル(津川晃)が1969年に創唱した。その後、ブレンダ・リーがカバーして広く知られるようになった。

お由羅騒動

 幕末薩摩藩で発生した御家騒動。藩主・島津斉興の後継者として側室の子・島津久光を藩主にしようとする一派と嫡子・島津斉彬の藩主襲封を願う家臣団が対立した。お由羅は、騒動の鎮圧後に罰を受けることはなかった。なお、昭和天皇の妃となった良子女王は、お由羅の曽孫になる。

始皇帝、不老不死を求めて

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   秦は中国の北西辺境の地におこり、渭水にそって次第に東に移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代初めの孝公のとき都を咸陽に移し、商鞅の変法によって富国強兵をおこない、中央集権化をはかった。その後、秦は戦国の七雄のうちで最強となり、秦王の政のとき、東周および東方の6国を次々と滅ぼして、前221年に史上初めて中国全土を統一した。秦王政は、皇帝に即位し、自ら始皇帝と称し、法治主義を採り、文字、貨幣、度量衡、法律など諸制を一新する。そして前219年に泰山で封禅を行った。途中で暴風雨にあい封禅できなかったという話もあり、その真偽については不明である。その後も、前後5回にわたって各地を巡幸する。皇帝の威厳を天下に示すためであったが、不老不死の仙薬を求めるのがもうひとつの目的であった。この世の全ての権力を掌中にした始皇帝といえども得られなかったもの、それは不老長生だった。「史記」によると、始皇帝は東方の海岸地帯を訪れ、そこの韓終、候公、石生の方士たちから東方の海上にある仙人のことを聞いた。かれらは不老不死の研究者であって、「海上の仙人が不老不死の薬をもっている」と始皇帝に話した。絶対者である自分が死ぬことに始皇帝は不満であり、自分は死ぬべきでないと考えた。彼は権力財力のすべてを挙げて、この薬の獲得に乗り出すことになる。徐福を東海に派遣したりしたが、なかなか成果は上がらなかった。結局、徐福は日本に亡命したらしい。徐福にちなむ伝承は、紀州熊野をはじめとする全国各地に存在する。

    前210年、始皇帝は最後の巡幸に出た。随行者は、末子の胡亥、丞相の李斯、宦官の趙高である。この旅の途中で、始皇帝は病にたおれた。晩年の始皇帝は、死ということばを極端に嫌ったため、臣下のだれもが、死を口にする者はいない。が、容態が悪化するいっぽうである。さすがの始皇帝も、北方に遠ざけていた長男の扶蘇にあてて遺書をしたため、「咸陽にもどって葬儀を司れ」と指示し、7月、崩御する。享年は50歳であった。権力者の死は、いつの時代にあっても内乱を引き起こしかねない。始皇帝には20人余りの子がいた。遺書には、長男の扶蘇を次の皇帝とするとあったが、趙高らはなんと18番目の子、胡亥に皇位につけるように書き換えてしまった。

  一方、徐福は数十艘の巨船と薬物、天文、航海、造船、農業、呪術などの専門家、さらに三千人の童男童女を引き連れて出発し、弥生時代中期に紀州の熊野地方に到着したと伝えられている。しかし、この仙薬は数年経っても見つけられることができなかった。そのために、彼は譴責を恐れて始皇帝の元へ帰ることなく、そのまま熊野の地に住み着いた。一説に、徐福らの一行は不老長生の仙薬を探すために東進し、たどり着いた場所が富士山(不死山)であるというのである。これらが有名な徐福伝説であるが、多くの謎を秘めている。(世界史)

徐福東来伝説考 山本紀綱 謙光社 1975
徐福渡来伝説 徳間文庫 岡本好古 徳間書店 1985
徐福 弥生の虹桟 羅其湘、飯野孝宥 東京書籍 1988
徐福を探る 梅原猛、樋口隆康ほか 小学館 1990
中国古代の交通と祭祀 泰山の信仰 藤田勝久 四国遍路・世界の巡礼研究センター 2001年12月

 

 

 

 

 

仙石騒動

 天保5年に出石藩仙石家で発生したお家騒動。家老の仙石左京は自分の子を藩主にしようとし、反対派を弾圧した。幕府の川路聖謨は、裁定を下し、左京を断罪、出石藩を減封にした。

参考文献
「仙石騒動史」坂口憲修著 坂口すみ子刊行 2011年

 

 

虹を七色と決めたのは、あの科学者!?

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 「♪七色の虹が消えてしまったのシャボン玉のような私の涙」(ラブユー東京)

日本人なら誰もが「虹は7色」と思っている。だが科学的に考えると絶対的な事項ではない。

 わたしたちの周りには、さまざまな色が見られるが、それらの万物が固有の色をもっているのではなく、万物の表面が光の一部を反射するということなのである。リンゴが赤いのはリンゴ自体が赤いのではなく、赤色の光を反射するためであり、同じく木の葉は緑色の光を反射するから緑色に見えるのである。日本では、虹の色といえば7色というのが一般的だが、欧米では6色あるいは5色と思われている場合が多い。(アメリカ・イギリスは6色、ドイツ・フランスは5色、ロシアは4色)では、なぜ7色になったかといえば、17世紀の科学者ニュートンが影響している。NHKバラエティ番組「チコちゃんに叱られる」で多久和理実(東京工業大学)によると虹の七色の説はニュートンが先駆だという。1672年、彼はケンブリッジ大学でスペクトルの実験を行い、物体の色はスペクトルの色の一部を吸収し、他色を反射するため生ずることがわかっていた。ところがニュートンの研究はほとんど注目をひかず、彼はがらがらの教室で講義をしていた。彼が、色は目と脳でどのようにして知覚されるか、という問題を解明したのは「光学」(1703年)を発表してからである。虹は大気中の光学現象のなかでいちばんよく知られ、古くから宗教や説話のうちにあらわれるが、光の7色のスペクトルで科学的に説明したのはニュートンが最初である。光をめぐる論争は古代ギリシア時代以来からあり、17世紀にはホイヘンスの波動説とニュートンの粒子説の論争が最高潮に達し、対立していた。粒子説はニュートンの時代から一時優勢であったが、ジェームズ・マクスウェル(1831-1879)の研究により、波動説が完全な勝利をおさめた。(Isac Newton,James Maxwel,rainbow)

2026年5月12日 (火)

猪名川町の地名「紫合」って何て読むの?

 兵庫県の猪名川町には地元民しか読めない難読地名が多いことで知られる。槻並(つくなみ)、柏梨田(うしうだ)、木間生(こもお)、杤原(とちはら)。なかでも「紫合〔ゆうだ)」がナンバー・ワンだろう。紫合の地名は、結(ゆい)に因むとの説がある。山間地の困難な条件の下では助け合いが必要で、江戸時代、村の各戸は五人組に組織されていた。協同でひらいた田んぼだからユイ田。漢字で書くと「結田」、これがなぜ紫合となったのかはハッキリとはわからない。「阪神間の地名」(神戸新聞出版センター)によると、当地の薬師堂に老松が繁茂し、常に紫色の雲が漂っていた。この松が枯れた跡から薬師如来が掘り出され、村人がここに御堂を建て安置した。そして夕田を紫合と書くようになったという。

 

 

信長人気の理由は?

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  織田信長は天文3年のこの日、織田信秀と土田御前の間に嫡男として誕生した。戦国武将なかでも徳川家康や豊臣秀吉のように偉業を成し遂げた人物は、他にもいるが、なぜ信長だけがこれほど現代でも人気を集めているのだろうか。2024年1月6日、岐阜で行われた「ぎふ信長まつり」で、木村拓哉が扮する馬上の信長をひと目見ようと、なんと約46万人もの人々が来場した。キムタク人気もあるだろうが、やはり日本人の信長人気は衰えを知らない。

    信長人気が高まったのは、実はそれほど昔からではない。戦前、日本人の好きな歴史上人物といえば、楠木正成、国定忠治、清水次郎長、西郷隆盛、乃木希典がランキング上位であった。戦後、価値観が変わり、人気ランキングは大きく変化した。浪曲や講談は亡くなり、メディアはドラマ・映画・ゲーム・漫画になると、信長は「戦国最強のボス」として取り扱われ方が大きくなった。ドラマ・映画でとくにエポックとなる作品があるわけでない。光栄のゲームソフト「信長の野望」シリーズの第1作が1983年3月に発売されたので、その頃から若者たちの間で信長人気が定着しだしたと考えている。

戦後の人気ランキングは、これまで何度も調査しても織田信長と坂本龍馬の首位を争っている。なぜ2人は魅力があるのだろうか。信長などは非情で残忍な人物という一面も知られているが、それでも現代人は信長を愛している。信長の魅力は、決断力に富んでいる、私欲がない、能力主義である、不言実行のタイプである、当世風にいえば、カッコいい優れた経営者であり、リーダー・シップがあるというのが評価されるのだろう。宣教師ルイス・フロイスは「信長はすぐれた理解力と明晰な判断力をもっており、神仏やその他の偶像も軽視し、およそ宗教的なことは一切信じていない。したがって宇宙に造物主のあることも、霊魂が不滅であることも信じていないし、人は死んだら無に帰するのだと考えている」と記している。

  坂本龍馬は最近の政治家が維新八策とか称して、龍馬のイメージを肖ろうとするように、既成の観念にとらわれず、自由に、創造的に考え、行動することに共感を覚えるのであろう。つまり織田信長と坂本龍馬とは共通点が多い。新時代への扉を開くという点であろう。2人はちょうど300年を隔てているが、信長より400年むかしは平清盛が生きた時代である。つまり貴族の時代から武士の時代への扉を開いた清盛、武士の時代を生きた信長、明治という時代の魁となった龍馬。これの結果によると、日本人が期待するような英雄が登場するのは300年周期なので、あと100年ほど英雄が現れるのを辛抱しなければならないことになる。(5月12日)

 

 

 

「明治詩文」の漢詩人たち

    明治8年、9年頃から漢詩文を主とする雑誌がにわかに起こってきた。

「新文詩」8年7月創刊 森春涛主宰

「東洋新報」9年7月 岡本監輔主宰

「明治詩文」9年12月 佐田白茅主宰

「花月新誌」10年1月 成島柳北主宰

「古今詩文詳解」13年12月 吉田次郎

   この中でもっとも勢力があり名高かったのは「明治詩文」と「古今詩文詳解」であった。

   漢学が衰退して洋学を盛んに謳歌した時代に、こうした雑誌が創刊されたことは奇異に感じられるが、これは一つは洋学の興隆、西洋文化の心酔に対する反感から生まれたところであろう。

   「明治詩文」は久留米の佐田白茅によって編集されたが、佐田は若い頃、真木和泉に従って勤王論を唱えた。維新の後外務方面の官吏となったが、西郷隆盛、江藤新平、副島種臣らと征韓論を主張して、破れ職を辞した。人物は、磊落で才を愛した。重野成斎、川田甕江の両大家と交わりをよくしたため、この雑誌には重野・川田をはじめ、当時日本国中の名家、あるいは高官の作品が録載されたので、権威のある雑誌となった。その主な人々をあげると、島津久光、山内豊信、木戸松菊、鍋島閑叟、伊藤春畝、勝海舟、副島蒼海、亀谷省軒、加藤桜老、岡鹿門、小野湖山、阪谷朗蘆、川田甕江、青山鉄槍、秋月韋軒、安井息軒、村上佛山、岡松甕谷、重野成斎、南摩羽峰、藤澤南岳、三島中洲、藤野海南、大沼枕山、中村敬宇、今藤悔堂、小永井小舟、島田篁、広瀬林外、鷲津毅堂、鱸松塘、松岡毅軒、芳野金陵、村山拙軒、小山春山、依田百川、木原老谷、青山佩弦斎、江馬天江、神山鳳陽、頼支峰、菊池三渓、林鶴梁、田口江村、大槻磐渓、林鶯渓、小林卓斎、浅田栗園、土井聱牙、西薇山、片山沖堂、蒲生褧亭、小牧櫻泉、吉嗣拜山、山本迂斎、谷口藍田、隄静斎、岡本韋庵、石川鴻斎、矢土錦山、土屋鳳洲、高橋白山、日下勺水、草場船山、森槐南、末松青萍。

力士が食べる「ちゃんこ鍋」の由来は、あの大横綱!?

 力士がちゃんこ鍋を食べるようになったのは出羽海部屋に入門者が殺到したからと言われています。それまでは個々に食事は配膳されていたが、1909年頃、横綱常陸山の人気で出羽海部屋の入門者が一気に増えた。個々に配膳していては間に合わないため、鍋料理が考案された。「ちゃんこ鍋」の語源は、「ちゃん=父(親方)」と「こ=子(弟子)」を合体させて「ちゃんこ」が生まれたと説が一般的である。

 常陸山は女性にモテることで有名である。英雄色を好むの言葉通り、艶聞の方も大変なものでした。しかし、その態度もさすが横綱。「あなたの子供よ」と連れてきたものすべて認知して、それぞれに十分な仕送りをしたといいます。その子供たちの合計数が、なんと55人にもなったそうです。

図書分類と何か

 近代の図書館で採用されている標準分類表であるDC、NDC、LC、ECなどのほとんどの図書分類表に、大なり小なりの影響を与えているといわれるのがフランシス・ベーコン(1561-1626)の知識の分類である。ベーコンは「知識は力なり」(For knowledge itself is power)と「ベーコン随想集」にある。ベーコンは「学問の進歩」(1605)で、学問全体を人間と神学に、大別し、さらに人間の知識には記憶、想像、理性の精神活動があるとして、記憶(歴史)想像(詩)理性(哲学)と三部門に分類している。このベーコンの知識の分類は1870年に発表されたハリスの分類表の主題の配列に取り入れられた。ハリスは、主題の配列がベーコンと逆であることから逆ベーコン式とよばれている。(ここまでは図書館学のテキスト的な内容である。)

 現代の図書分類表の淵源となるベーコンの知識の三分類法は、経部を除くと中国の四部分類法と共通するものがある。漢籍の分類は今日でも四部分類法が採用されているが、その基本となったのは四庫全書である。四庫全書とは、清の乾隆帝が、当時集められる限り集めた古今の図書を、経・子・史・集の四部に分類編集した一大叢書の名称である。しかしながら、この経・史・子・集という分類は唐の高宗顕慶元年(656)に魏徴らが編集した「隋書経籍志」が基礎となっている。ベーコンは中国文化の影響を強く受けていたので、四部分類法がヒントになったのではないかと考えているが、根拠ある資料で立証できないのが残念である。

 現在、日本での図書分類はほとんどの図書館で「日本十進分類法」が採用されている。最新版は新訂10版。たとえば、時実俊彦著「脳と保育」雷鳥社 1974年7月30日刊行、の分類番号は「491.37」である。類、綱、目、細目と順次細分していく。これをデシマル・システムという。

4   自然科学
49     医学
491   自然医学
4913 生理学
49137 神経系・感覚器の生理

(参考:ヘルゲ・ヘッセ「その一言が歴史を変えた」)

戦前の思想弾圧小史

Photo_4     1940年、津田左右吉の「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」などが、記紀を批判し、皇室を冒瀆しているとして発禁となった。戦前の思想弾圧の概略を記す。

    1925年のこの日、日本最初の男子普通選挙法制定とほぼ同時に成立した治安維持法は、国体を変革し、私有財産を否認しようとするいっさいの結社・行動を禁止した。特高警察と結合して国民生活の末端にまで暴威をふるい、国民に深刻な恐怖を与えた。滝川幸辰(ゆきとし)事件、美濃部達吉の天皇機関説事件、矢内原忠雄事件、二次にわたる人民戦線事件、河合栄治郎事件、津田左右吉事件など思想弾圧が相ついだ。直接に刑事罰の対象とはされないまでも、出版物にたいする発禁・削除・改訂などの処分は数えきれないほどの数にのぼった。

    こうした統制は映像文化にも及び、1939年の「映画法」は、作品の検閲にとどまる域をこえて、映画製作やその配給自体を許可制にした。太平洋戦争が始まると、言論弾圧はいっそう苛酷となり、「中央公論」「改造」の二大総合雑誌が廃刊を命じられたばかりか、編集者たちを検挙して拷問で四人の獄死者をだす、いわゆる横浜事件がおこった。

    このような統制の強化により、人々は神国意識のとりことなりはて、言論や映像・造形芸術は、戦意高揚の手段と化した。しかしそういう苛烈な状況下にあっても、理性への目を失わなかった人々もいた。美濃部達吉・矢内原忠雄・津田左右吉らをはじめとする受難の人々はそうであったし、「ミケルアンヂェロ」を書いた羽仁五郎、封建社会のなかでの近代精神の成長を追いつづけた丸山真男や、グループとしては「世界文化」や「土曜日」に拠る中井正一ら京都の人々が、狂気のなかで理性の立場をとりつづけた。また柳宗悦は、沖縄での方言撲滅運動を正面きって批判した。しかし文化活動としての抵抗は、おおむね偽装を余儀なくされ、戦争協力と紙一重の論理を錯雑としたかたちでくりひろげる場合が少なくなかった。5月12日(参考:「図説日本文化の歴史12」小学館)

 

 

2026年5月11日 (月)

徳川慶喜と大政奉還

Yosinobu  慶応2年1月21日武力討幕を目的とする薩長同盟が成立する。慶応3年10月12日、徳川慶喜は二条城に閣老以下を集め、大政奉還の件を諮問したが、反対者が多かった。翌日再び在京諸藩の重臣を集めて所260余年にわたって政権を維持してきた徳川幕府が倒れて明治政府にとってかわる過程の中での、第一歩を踏み出した出来事であった。大政奉還は西南雄藩の武力倒幕運動を先手を打ってその口実を奪うためのものであった。慶喜は、幕府勢力を温存させる方向で、当面政局を打開と収拾をはかったのである。

  慶喜を「ヨシノブ」と読むことは小学生でも知っている。だが手元の漢和辞典で「慶」を調べても「ケイ」「キョウ」とはあるが、「ヨシ」とは出ていない。人の名前に使われる特別な読み方を、「名乗り(なのり)」という。頼朝、正成、家光の朝(トモ)、成(シゲ)、光(ミツ)も特別な読み方である。「お言葉ですが…」で知られる高島俊男もなぜ「朝(とも)」と読むのか分からないと書いている。つまり名乗りは長い間の慣用的な読み方でいまでは理由を説明することは学者でも困難な場合が多い。現行法では人名に使用する漢字は制限されるているが、読み方は戸籍に記載されないから、自由に読んでよいとされている。徳川慶喜は現行の法体系以前の人物だから、関係ないのだが、仮に、現在でも「慶喜」と書いて「ヨシノブ」と読ませることに、何ら支障はない。ただし、読みは自由といっても、100人のうち99人までが読めない命名は避けたほうがいい。人名読み方の基本や名乗り事典にある範囲内にとどめるべきだろう。ちなみに徳川慶喜自身は「けいき様」と呼ばれることを好んだといわれる。「ヨシノブ→世忍ぶ」という音韻連鎖を嫌ったのだろうか。 

 

倶利伽羅峠の戦い(1183年)

F35469e209fd09040c860ea6a598154c    富山県小矢部市は石川県との県境にあり、源平合戦の古戦場で名高い倶利伽羅峠がある。寿永2年5月11日(1183年6月20日)、木曽義仲は牛の角に松明をつけて平維盛を総大将とする平家軍10万を撃ち破ったとされる。しかしこれが史実であるかは疑問視されている。火牛の計は「史記」の斉の名将田単にみえる故事で剽窃した可能性が高い。

7月、義仲は念願の入京を果たす。平家は安徳天皇を伴って京から西国へと逃げ延びた。

 

ナポレオンと酒

Antiguabotelladebrandyjereznapoleon    皇帝ナポレオン・ボナパルトは高級ブランデーにその名がついていることから、さぞかし酒好きと思われるかたも多いが、実はあまり酒が飲めず、コーヒーを好んだといわれる。高級ワインを水で薄めて飲んでいた。ではどうしてブランデーにナポレオンという名称が付いたのか。1811年、ロシア遠征の前の年のこと、ヨーロッパの空に彗星が現れた。彗星は不吉な出来事とされていたのだ、人々は、戦争や飢饉が起こるのではないかと心配した。しかし、案に相違して、3月20日、ナポレオンの妃マリー・ルイーズがナポレオン2世(1811-1832)を出産。そのうえ、この年はまれにみる好天続きで、葡萄は空前の豊作、いわゆるビンテージ・イヤーだった。以前から彗星の出現した年のワインは「コメット・ワイン」として珍重されてきたが、この年、1811年の「コメット・ワイン」を蒸留してつくったブランデーは、ナポレオン2世の誕生にあやかって特に「ナポレオン・ブランデー」として名付けられ、珍重されてきた。つまり洋酒ナポレオンとは、めいがらではなく等級のひとつ。今日では、世界中に残り少なくなったので、市販されることはなく、わずかに個人の酒庫に1本か2本ずつ秘蔵されている。現在、市販されているナポレオンは、今日では、世界中に残り少なくなったので、市販されることはなく、わずかに個人の酒庫に1本か2本ずつ秘蔵されている。現在、市販されているナポレオンは、ここれらは無関係のものである。(Napoleon,Brandy)

アンボイナ事件に現れた日本人

 アンボイナ事件とは、1623年にオランダ領東インド・モルッカ諸島アンボイナ島で起こった虐殺事件。当時、英蘭でグローブ(丁子)などの香辛料を求めて激しく英蘭で対立していた。商館長ガブリエル・タワーソンを含む18人のイギリス人、日本人11人、そしてポルトガル人1人、合計30人が水責め・火責め・四肢の切断などの残虐な刑で処刑された。被告に七蔵、久大夫ら日本人が含まれているのは、この時期の「牢人問題」があるる。関ケ原の戦い後の大名改易により大量の浪人が発生し、慶安に至る50年間に約40万人の牢人が生まれた。再仕官した者を差し引いても、20数万人に及ぶであろう。生活に困窮した牢人の中には東南アジアの傭兵として渡航した侍もいたらしい。アンボイナ事件の後はイギリスは東南アジアから撤退し、オランダが支配権を強めた。

津田三蔵のトラウマ

180pxsanzo_tsuda     明治24年5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ロマノフ(1868-1918)が滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵(1854-1891)に襲撃され負傷した。いわゆる大津事件(湖南事件ともいう)から135年が経つ。どうしてこのような大事件が発生したのか、津田の動機が実際のところあまりわからなかった。ところが、近年、津田三蔵の自筆書簡53通が三重県上野市の個人宅から発見された。

    津田三蔵は安政元年12月29日、上野の津藩士の子として生れた。西南戦争に従軍し負傷したが、少なからぬ功績があったようで勲七等を授与されている。当時22歳の青年だった津田にとって西南戦争の記憶は14年たっても生々しい記憶として残っていた。ロシア皇太子の警護は厳重を極めた。津田は同僚と街道からわずか入った御幸山にある西南戦争記念碑付近の警備を担当していた。この慰霊碑は大津の第九連隊戦死者441名の霊を慰めるために建立されていた。ニコライ皇太子は、観音堂を訪れた際、この記念碑にまで足を伸ばした。そのとき、突然、津田はサーベルを抜いてニコライに斬りかかり、右側頭部を負傷させた。

 

   津田の動機としては、大きく次の4点が考えられる。

①ロシアの強行姿勢に不満があった

②死んだ西郷隆盛がニコライと一緒に帰国し、西南戦争で受勲した者から勲章を剥奪されるのを怖れた

③ロシアの随行員が西南戦争記念碑に敬礼せずに通過した非礼に対する制裁

④皇太子の歓迎の花火の音から西南戦争の大砲の音を想起した

    津田三蔵の精神状態の解明は困難ではあるが、津田にとって西南戦争という悲惨な出来事がトラウマとなっていたことは事実のようである。

参考文献
尾佐竹猛「大津事件」岩波文庫 1991年

 

 

 

 

 

2026年5月10日 (日)

アメリカ鉄道発達史

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    1810年代からイギリスに若干遅れて現れはじめたアメリカの鉄道は、クーパーがトムサム号で1830年にボルティモア・オハイオ鉄道で本格的建設を始めた。1840年には、東部および中部大西洋岸からイリノイ州の地域に広がった鉄道網は2800マイルに達し、すでに将来の鉄道王国を予想させた。1850年には9000マイルが敷設されるが、その後の10年間の伸びはいちじるしく、1860年には約3万マイルに達した。このころボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルティモアとシカゴを中心とする西部を結ぶ東西諸幹線が貫通し、1851年のイリノイ・セントラル鉄道をはじめとして、鉄道建設援助のための公有地が各鉄道会社に与えられて、西部での建設も本格化し、東部の工業地域と西部の農業生産地域を結ぶ大動脈を形成しはじめた。南北戦争中の混乱期を経て、戦後には大陸横断鉄道(1869年5月10日にユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・バシフィック鉄道がユタ州プロモントリーで結合し完成する)をはじめ西部の未開地へ鉄道が伸長し、東部のすでに鉄道を持っている地域でも間隙を埋めるかたちの建設が続き、1880年代には毎年7000マイルが増えるという最高の建設期を迎えた。この間、鋼レールの普及、機関車の大型化を中心とする技術革新が続いた。南部の鉄道網は南北戦争前には貧弱であり、戦後は北部の資本の支配を受けることになるが、80年代以降いちおう整備された。これを含めて全国的にウォール街が鉄道金融を支配することになり、鉄道経営者のなかからC.バンダービルト、A.L.スタンフォードらの富豪が続出することになった。

   一方、すでに1870年代から鉄道業においても大ストライキが起こり、グレンジャー運動などの農民の反鉄道運動もみられたが、90年代の鉄道独占形成の時代には各方面で鉄道批判が行なわれた。アメリカ鉄道業は、1916年に25万マイルに達してピークを迎え、その後第2次大戦期まで黄金時代であったが、その間石油の大量生産と低価格化、内燃機関の技術革新によって大衆化した自動車、飛行機に徐々に地位を奪われ、70年代には20万マイルに減って、旅客輸送は激減し、アムトラックと呼ばれる半国鉄制度に移行した。日本と異なり、貨物輸送ではいまだに三分の一が鉄道によっているが、長距離輸送が必要なことがその原因である。(参考:小沢治郎「アメリカを知る事典」平凡社)

三国干渉問題

    最初の本格的な対外戦争である日清戦争に勝利し、下関講和条約調印した日本であったが、明治28年4月23日、露・独・仏が遼東半島の清への返還の勧告、いわゆる三国干渉が起こり、同年5月10日、日本は遼東半島を清に還付、同年11月8日に調印し、世論は沸騰した。このときの国民協会の『報告』で、党派の異同をこえて挙国一致し、「勤倹以テ薪ニ臥シ胆ヲ嘗メ大ニ国力ヲ養成シ盛ニ軍備ヲ拡張シ以テ速ニ其準備ヲ整ヘザル可カラズ」と、当時さかんにとなえられた「臥薪嘗胆」の必要を説き、国力の充実と軍備拡張という、国民協会ほんらいのスローガンを高唱している。

    こうして国民各層のなかに遼東還附への無念の思いは、西洋列強の力のまえに屈服させられた屈辱感となり、それは政府や新聞・雑誌がとなえる「臥薪嘗胆」の合言葉のなかに容易にみちびかれ、日清戦争後にはじまる膨大な軍備拡張を中心とする、いわゆる戦後経営を受容する素地をつくらせたのである。(4月23日)

 

 

 

母の日にはなぜカーネーションを贈るのか?

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  あお葉わか葉に 風かおりて

  せせらぎに聞く 奇しき調べ

  木かげに立てば とわのみ母

  みもとに行き 我ら憩わん

                                  聖母月(カトリック聖歌)

「母の日になんにもしないそれがうち」

ある俳句大賞で選考委員特別賞に選ばれた小学生の一句。「好きなことは好き、嫌いなものは嫌い」という竹を割ったような性格で、「それがうち」と決定的に言い切ったことが評価された。

 

 1908年5月にアメリカ人で、メソジスト教会信者の教師アンナ・ジャーヴィスが、母の命日に、亡き母をしのぶ盛大な記念の会を催し、この時、白いカーネーションの花を霊前にたむけ、教友にわけたのが始まりだといわれる。その後、1914年、ウィルソン大統領の提唱でアメリカ議会の決議を得て、5月の第二日曜日を母の日と定め、母の恩に感謝することになった。母の日を象徴する赤いカーネーションは、ジャーヴィスの亡き母が大好きだったからである。

ハンカチを正方形と決めたのは、あの王妃

 ハンカチがいつ頃から使われるようになったのかは定かではないが、紀元前3000年頃のエジプト王女の墓から発見された精巧な麻の端切れは、汗を拭いたりするためのハンカチであったと考えられる。ハンカチが服飾品として盛んに使われだしたのは、西洋では16世紀ブルボン王朝のフランス宮廷でのこと。貴婦人たちが絹のハンカチの美しさを競いあった。当時はロココ調が流行し、長方形、三角形、丸型など様々な形のものが存在していた。そこでマリー・アントワネットは正方形が使いやすいとルイ16世に進言して、1785年に「ハンカチのサイズは縦横同一にせよ」という法令を布告させた。これがハンカチが正方形になった起源である。それに因んで日本ハンカチーフ協会では11月3日を「ハンカチの日」に制定した。(昭和58年)理由はマリー・アントワネットの誕生日(11月2日)に近い祝日による。

    ハンカチはかつてはイニシャルや紋様を入れた愛の贈り物の定番だった。シェークスピアの「オセロ」では、オセロが妻デスデモーナに贈った一枚のハンカチが悲劇をもたらすことになる。また最近では、ハンカチを恋人に贈ると「もうお別れしましょう」という意味になるという。トレンディ・ドラマの先駆けとなった「東京ラブストーリー」の最終回で、赤名リカ(鈴木保奈美)が永尾完治(織田裕二)の故郷を訪れた帰りに、駅のホームの柵に結びつけたハンカチ。それには赤い口紅で「バイバイ カンチ」と書かれてあった。でも最近はハンカチをプレゼントすることはプチギフトとしてお勧め商品である。実用的で何枚あっても相手に喜ばれます。

江戸城の本丸焼失(1844年)

  天保15年のこの日、夕刻に起きた大火災は、本丸の広敷一の側から出火して城内ことごとくを焼いた。大奥、表御殿、黒書院、柳営御殿を全焼、長屋門も類焼した。天守は明暦の大火以来再建されておらず、新たな被害は出さずにすんだ。とはいえこの時代、江戸城はたびたび大火が起こった。ときの将軍は12代徳川家慶。家慶の一般的な評価は、何もなしえていない凡庸な将軍、「そうせい様」と呼ばれていた。だが天保12年に大御所・家斉が病没すると、水野忠邦を老中に据えて天保の改革を断行するなど、意外とデキる男であったらしい。大奥の正室は楽宮喬子(浄観院)であるが火災の時は既に他界しており、大奥は家定の生母・お美津の方(のちの本寿院)が実権を握っていた。この年12月、元号を弘化と改める。ペリー来航まであと9年のことである。(5月10日)

 

2026年5月 9日 (土)

どんな本でも価値がある

 いかなる本でも少しの良いところはあるものだ。10年、20年と時間が経過すればがその良さがわかってくる。でも本の敵は人間そのものである。読書の秋、NHKあさイチで、読書の特集をしていた。番組制作者は「本の敵」とは何か全く理解していないようだ。この日のゲストは「わたしの読書スタイル」として好感度抜群の上白石萌音。大の読書好きで知られ、最近読んだ本の紹介でもインテリジェンスが漂う。話を面白くするためか時折、暴走してしまう。ドッグイアーをしているという。ドッグイアーとは本のページの隅を折り曲げて、しおり代わりにすることである。彼女はなんとなくカッコよく思っているらしいが、とても本に対しては悪い行為である。(番組内で県立の図書館の館長が出演しているが理解に苦しむ)そしてお風呂で本を読むという。愛書家にとっては聞き捨てならぬことだ。本がふやけるし、誤って濡らすこともあるだろう。本にとって最大の敵は「水」である。聡明な萌音ちゃんは、本がかわいそうだとは思わないのか。ネットで調べると、最近の人は、入浴中に読書する人はかなり多いようだ。かつてイギリスのウィリアム・ブレイズ(1824-1890)は、「書物の敵」という名著で、本の10敵として次のものをあげている。火、水、ガスと熱、塵となおざり、無智と頑冥、紙魚、その他の害虫、製本師、蒐集家の身勝手、下卑と子ども。19世紀の話なので多少修正する必要があるだろう。ともかく火と水は最大の敵であろう。火事や津波は大敵である。しかし歴史的にみるなら政治的な権力者も図書館にとっては敵である。知事の一声で公立図書館が廃止になることもある。シーザーは70万冊のアレキサンドリア図書館を、みな焼いてしまった。前221年、秦始皇帝が六国を統一したとき、思想統一をはかるため多くの図書を焼いたといわれる。フランスに侵入したオータンのドルイド教団の数千巻の図書もみな焼かれた。カルタゴの50万巻の図書館もローマ人に焼かれた。デ・ランダというスペインの宣教師は、1562年にメリダでおこなった宗教裁判で、無数のマヤの絵文書を焼き捨ててしまった。彼らの行為は、異文化への破壊行為である。図書の最大の敵は人間であるといえる。現代の図書館においては過去の歴史にもないような大量の図書廃棄が行われている。デジタル化による紙文書の省スペース化であるが、なかには書物破壊症(ビブリオクラスト)のような館員もいる。書物破壊狂に呪いあれ!William Blades、ビブリオマニア

   話題を上白石萌音の読書スタイルに戻そう。結論的にいえば、入浴して本を濡らそうが、栞や付箋を使わずに、本の隅を折ることも自分の所有する本であれば何の問題もない。ただ影響力のあるインフルエンサーの有名人が「私の読書スタイル」とパフォーマンスすれば、真似をする人もでてくる。とくに未成年たちは公共の図書館や学校図書館の本まで悪戯で面白がって頁を折ることだろう。つまり読書という行為にはマナーが大切である。食事と同じで料理を手づかみを食べたり、話しながら食べてあたりにまき散らすのは見苦しい。見苦しいことを勧めていることと同じである。永野芽郁は不倫でテレビであまり見なくなったが、不倫は一般の者とは何ら関係のない事柄だが、読書の無作法は社会に悪影響を及ぼすものなので小さなことのように思うが、意外と大事なことなのだ。NHKは大物タレントに忖度しすぎている。駄目なことは駄目ということが制作者には大切だ。華丸大吉あたりが「良い子のみんなはマネしないでね」とコメントすればよかった。

 

 

 

参勤交代と大名行列

   徳川家康は関ヶ原の役ののち、外様大名の江戸参勤や妻子の江戸居住を奨励した。慶長7年に前田利長が母の芳春院をたずねて江戸に参勤したのが、その最も早い例といわれる。翌年、家康が征夷大将軍に就任すると西国大名の江戸参勤が急にふえ、幕府も諸大名に江戸に邸宅を与え、刀剣・書画・鷹・馬などを参勤のときにおくり、大大名に対しては鷹狩に託して秀忠が東海道は高輪御殿、中山道は白山御殿、奥州街道は小菅御殿など迎えて優遇し慶長の末年には参勤が一般の風となった。はじめ幕府は参勤の供連れの人数を規定しただけで、参勤を命令することはなかったが、寛永11年8月4日、譜代大名の妻子の江戸居住を命じ、翌寛永12年6月21日の武家諸法度の改正で毎年4月の外様大名の参勤交代が義務化することとなり、参勤交代は法制として確立した。通則は隔年交代、関東の大名は半年交代、対馬の宗氏は3年1度の参勤、水戸家や役付大名は定府(じょうふ)であった。当初は外様大名にのみ適用されたものであったが、寛永19年5月9日には譜代大名へも拡充されて、参勤交代は確立した。

  大名行列は本来、軍事に備える移動形態であったが、太平が続くと大名の権威と格式を誇示するための華美なものに変容した。参勤の道中には武具一式、衣服、雨具、非常食糧、漬物、湯道具、娯楽道具、休憩用具(幕・床几など)、ろうそくなどに至るまで持って歩く。他家の行列とすれちがう場合には、道中では格式にかかわらず、乗り物のとびらあるいは窓をあけ、行列は止まらない。長途の旅行で病気におちいり、一命を失うという場合も少なくなかった。加賀藩では最盛期には4000人の従者がいたといわれる。行列の際、先払いが「下に下に」と触れ声をかけ、庶民は土下座して道を譲る。ただし沿道の人を土下座させることができたのは親藩だけで、譜代と外様は「片よけ片よれ」と命令して通行した。

 参勤交代は、遠国地の大名には負担の多いものであった。しかし他方、五街道を中心とする陸上交通、瀬戸内の海上交通を発展させるとともに、沿道における商品流通と、江戸の消費市場としての発展を促す一因となった。(参考文献;平山敏治郎「参勤交代する旗本」 人文研究大阪市立大学大学院文学研究科紀要7-8,1956)

 

 

 

 

 

 

 

 

家柄をあらわす「長い名前」

 日本では、名前は「常用平易な文字」を用いることが求められるが、名前の字数制限はない。しかしパスポートなどの申請でローマ字て30文字以内という制限があるので、あまり長いといろいろ厄介なことがあるだろう。日本人には長い名前は少ないが、海外には長い名前が多い。

Photo_2 アメリカの実業家ビル・ゲイツの正式名は「ウィリアム・ヘンリー・ビル・ゲイツ3世」という。わたしは外国人のフルネーム(全名)にはまっている。とくに「長い名前」には興味がそそられる。例えば、ムガール帝国第3代皇帝アクバルの本名は、「ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバル」。誕生名は「バドルッディン・ムハンマド・アクバル」。(むかしの本にはタタール・アルディン・マホメット・アクバルと書かれている)。ガンディーの本名は、「モハンダス・カラムチャンド・ガンディー」。アメリカ人なら誰でも「ドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワ」ーとフル・ネームで知っているが、日本人のほとんどはアイゼンハワーしか知らない。サルコジの全名は「ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ・ボクサ」。カダフィは「ムアンマル・アル・カッザーフィー」。ハワイ最後の国王リリウオカラニは「リディア・リリウ・ロロク・ワラニア・ウェウェヒ・カマカエハ・カパアケア・リディア・カマカエハ・パキ」と超長い名前だ。

    落語に「寿限無」があるが、元気で長生きするようにと、とにかく「長い名前」を命名する話。日本人で長い名前といえば、紀伊国屋文左衛門、飯尾彦六左衛門尉(応仁の乱頃の京都の人)、釈迦ヶ嶽雲右衛門(相撲、しゃかがたけくもえもん)などが漢字8文字である。江戸後期の兵学者、江川太郎左衛門英竜は漢字9文字。園芸研究家、小笠原左衛門尉亮軒も漢字9文字。一番長い名前は、江戸時代の豪商、藤本太郎喜左衛門将時能の11文字である。

 西洋では長い名前は幸福がやっていると信じられるし、家柄が古くて由緒正しいことの証でもある。チャールス皇太子は「チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョン」、ウイリアム王子は「ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス」である。ドイツヴァイマル共和国第2代大統領ヒンデンブルク。正式名は「パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アンドレ・フォン・べネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク」(39字)と長い。画家のローレックも貴族出身で「アンリ・マリー・レイモンド・ド・トゥールーズ・ロートレック」(20字)。米女優のユア・サーマンが娘の名前を公表した。「ロザリンド・アルーシャ・アーカディーナ・アルタルーン・フローレンス・サーマン=ブッソン」(31字)という長い名前である。とても全部は言えないので、「ルナ」という愛称で呼んでいる。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のモデルとされるジョコンダ夫人の本名も長い。「リザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーノ」(23字)が正式名だそうだ。ミケランジェロは正式には「ミケランジェロ・ディ・ロドヴィコ・ブォナローティ・シモーニ」(23字)。マリー・アントワネットの全名は「マリー・アンワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ」(27字)である。母の名は「マリア・テレジア・ワルブルガ・アマリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ(31字)。30年戦争期のボヘミアの傭兵隊長アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン(31字)。プロシアの鉄血宰相オットー・エドワルド・レオポルド・フュルスト・フォン・ビスマルク(26字)。セイロンの首相ソロモン・ウェスト・リッジウェイ・ディアス・バンダラナイケ(25字)。ヤセル・アラファトという名は通名であり、本名はムハンマド・アブドゥッ・ラウーフ・アル・クドゥワ・アル・フサイニー(27字)。鉄血宰相オットー・エドゥアルト・レオポルド・フェルスと・フォン・ビスマルク・シェーンハウゼン(34字)。フランス革命の軍人ラファイエットは「マリー・ジョゼフ・ボール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ・ラファイエット」(30字)。

    ピカソの本名はとても長くて書ききれない。カタカナで70字ある。「星の王子さま」で知られるフランスの作家はアントワーヌ・マリー・ジャン・バティスト・ロジュード・サン・テグジュペリ、カタカナで27文字。

    朝青龍の本名は「ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ」(15字)。本人の名前はダグワドルジだが、前に父親の名前が姓の代わりにつく。

  16字以下は普通である。ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(16字、スリランカ初代大統領)、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(15字)、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(15字)、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(14字)、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(14字)、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(13字)、エル・グレコの本名ドメニコス・テオトコブーロス(12字)

 競走馬には、いろいろと面白い名前があります。歴代の名馬をあげると、シンザン、ハイセーコー、シンボリルドルフ、オグリキャップ、ディープインパクトなどなど。ただし中央競馬会には、馬名は9文字以内という規定があります。

 

 

アイスクリームはもともと兵士の健康食だった?

0231   5月9日は「アイスクリームの日」。今では暑くても、寒くても一年中アイスクリームを食べる人が多くなった。アイスクリームが嫌いという人はあまり聞いたことがない。アイスクリームのそもそものルーツは諸説あるが、古代ギリシア・ローマ時代にまでさかのぼる。冬の間に降った雪や、自然にできた氷を保存し、蜜などを加えたものを戦場で戦っている兵士に疲労回復の健康食として供したのが始まりといわれる。ほかに中国が起源とする説もある。13世紀の終わりころ、中国でアイスクリームを食べたマルコ・ポーロが帰国後、そのつくり方をイタリアに伝えたといわれる。現在のようなアイスクリームは16世紀のイタリアルネサンス期の錬金術師によって製法が発明されたといわれる。楽聖ベートーヴェンもアイスクリームが好きだった。「今年の冬は暖かいので氷が少なく、アイスクリームが食べられるかどうか心配だ」と日記に書いている。日本でアイスクリームが広まるのは明治になってから。米国で製法を学んだ出島松蔵が明治6年、明治天皇にレイシの果物と共に「あいすくりん」を献上したのが始まりである。

 

ソロバンの元祖はローマにあり

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毛利重能の顕彰碑(兵庫県西宮市)

 

    西宮市の熊野神社に「算学神社」がある。毎年8月8日は「そろばんの日」でソロバン供養祭が開催される。この日になったのは、「パチパチ」というのが、ソロバンを弾く音に似ているからだという。算盤は中国では2世紀に作られた。日本に伝来したのは安土桃山時代の頃。「日本風土記」(1570年代)には「そおばん」と表記されている。豊臣秀吉の家臣の毛利重能が明から伝来したとも言われる。重能は京都でそろばん道場を開いて、多くの塾生を育てた。吉田光由、今村知商、高原吉種などの弟子が輩出した。江戸時代、商業が盛んになると算盤は普及した。三国時代の関羽が算盤を発明したと信じられ、華僑によって商売の神となり、世界各地に関帝廟が建てられている。本当の算盤の発明はギリシャ・ローマ人であろう。「溝そろばん」といい、溝に玉をはめて上下に分けた現在の算盤に近いものが現れた。ローマ帝国時代にシルクロードを通って中国に伝来したと考えられる。中国語で「スアンパン」と発音するので、それがなまってソロバンとなった。

 ソロバンを習うと、「願いましては」のかけ声を合図に読み上げ算が始まり、室内にはパチパチという音が響く。ところで、この「願いましては」という掛け声、いったい何を願っているのだろうか。珠算史を研究している専門家に聞くと、じつは単なる語呂合わせで、とくに意味はないという。もともと、ソロバンの読み上げ算の前に掛ける声は、地域らよってマチマチだった。「上げては」「置いては」「始めて」などが使われていたが、昔から「願いましては」と言っていたのが、三重県内の珠算競技会。昭和三十年代、その語感がいいと評判になり、全国へと広がった。やがて「願いましては」で、全国的に統一されたという。

 

2026年5月 8日 (金)

五月病

    さわやかな新緑の季節になったが、石油高騰による物価高やウクライナやイランの世界情勢の暗いニュースが多い。そのむかし中国では相当古くから5月を悪月とみなす習慣があった。史記によると、斉の田嬰には40余人の子供があり、そのなかの一人に田文がいた。田文は賤妾の子で、しかも5月5日に生まれた。当時の俗説では「5月5日に生まれた子どもは父母に仇をする」といわれた。田嬰もはじめはいい顔をされなかったが、実はなかなかの才人で、やがて父のあとをついで城主になる。善政をおさめて、食客数千人を招いて厚遇し、その勢力は諸侯に聞こえ、孟嘗君として戦国末の四君の1人に数えられるようになった。なぜ5月が悪月なのか不明である。現代社会にも「五月病」というような心身の不安や強い優鬱感に襲われるのもこの季節。とくに新社会人や学生・児童に多く見られ、5月は注意が必要である。五月病という言葉は1968年から日本では流行語になった。五月病の対処法としては、三食きちんととることが基本です。よく睡眠をとること。適当な運動をする。「なにかをしないと」と思いすぎないこと。とにかくストレスをためないことです。

 

豊臣国松の消息は?!

   慶長20年(1615年)のこの日、大坂夏の陣で大坂城が落城した。ついに秀頼・淀殿母子は自害して、豊臣家は滅んだ。ときに秀頼は23歳、淀殿は49歳である。「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命したとある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ、「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓」だろうということである。秀頼・幸村生存説は怪しげな話であるが、秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この豊臣国松にも生存説がある。

    大坂落城の際、国松は真田大助らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。(5月8日) 

参考文献
桑田忠親「淀君」吉川弘文館 1958
白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285

 

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。彼はユダヤ人以外の者、つまり異邦人に福音を伝えることを、使命と理解し、ローマ帝国の東半で活発な伝道活動を展開した。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。参考;「使徒パウロ 伝道にかけた生涯」佐竹明著 日本放送出版協会 1981年

2026年5月 7日 (木)

ジャンヌ・ダルク祭

  ジャンヌ・ダルクは1431年の5月30日に火刑に処されたが、毎年フランス中部のオルレアンでは5月7日、8日の2日間がジャンヌ・ダルク祭のメインです。ちょうど8日は第二次世界大戦の終戦記念日にあたる。もともと1429年のこの日、ジャンヌ・ダルクがイギリス軍を破った日である。市内で民族衣装を着た人々がパレードしたり、ミス・ジャンヌ・ダルクが選ばれる。

5月生まれのゲーリー・クーパーとジョン・ウェイン

   西部劇を代表するスターといえばゲーリー・クーパーとジョン・ウェイン。二人とも5月生まれだがクーパーのほうが6歳年上。ジョンはアイオワ州ウィンターセットで生まれたが、4歳のときカリフォルニア州グレンデール(ロサンゼルス郊外)に移る。つまりジョン・ウェインは大西部の自然で育ったのではないが、ゲーリー・クーパーはモンタナ州の山の中で育ったが、イギリス移民の父は彼を母国に送り教育を受けさせた。モンタナといえば何を想像するだろうか。ロッキー山脈の麓の西部の大自然だろう。ロバート・レッドフォードの「リバーランズ・スルー・イット」や「モンタナの風に吹かれて」のようなアメリカらしい雄大な自然に魅かれる。ゲーリー・クーパーは1901年5月7日モンタナ州へレナの生まれ。クーパーのデビュー作は「夢想の楽園」(1926)とあるが、ネットなどで調べると1925年に「轟く牛の群れ」「荒馬のメサ」「幸運の馬蹄」「滅び行く民族」「荒鷲」と5本のエキストラ出演があり、「トリックス」(短編)にも出演している。同年にマーナ・ロイは「美人帝国」という映画の端役でデビューしている。マーナ・ロイもモンタナ州のレイダーズバーグ(ヘレナとはそれぼど離れていない)の出身である。つまりクーパーとロイは同郷で映画デビューも同じ。クーパーが4歳上であるが、活躍時期も同じである。パーティーなどで2人は会っているとは思うが、共演作は一本もなかった。パナマウントとMGMとライバル関係であるが、惜しいことだった。最も愛すべき善良なモンタナ男と良妻賢母のロイの夫婦映画を見たかった。

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな

  太古から現代にいたるので、どんな人もみな死ぬ。その数およそ1000億人といわれる。江戸期の文人、蜀山人(大田南畝)がそのことを素直に歌っている。「今までは人のことだと思ふだに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」。歴史を彩った英雄・偉人たちは、それぞれどのような場所で、どのような死に方をしたのだろうか。奇才・山田風太郎は「人間臨終図鑑」で著名人923名の臨終の模様を描いた。「メメント・モリ」なんじは死を覚悟せよの意味。死について考えることで、今をよりよく生きるようにしたい。ただし、故人や遺族の意志により、死因を公表していない場合もあるので、細心の注意が必要である。

9月19日
正岡子規、享年34歳。東京都台東区根岸の自宅で結核のため没す。

9月2日
岡倉天心、享年50歳。新潟県赤倉温泉の山荘で死去。慢性腎炎で尿毒症を併発。

8月28日
道元、享年53歳。京都高辻西洞院で死去。

8月18日
豊臣秀吉、享年61歳。伏見城にて病没。

8月11日
三遊亭圓朝、享年61歳。明治33年(1900年)進行性麻痺と続発性脳髄炎で死去。

8月8日
柳田國男、享年87歳。昭和37年(1962年)東京世田谷区成城にある自宅にて心臓衰弱のため死去。

7月30日
明治天皇、享年59歳。明治45年(1912年)持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発した。

吉岡久子、享年96歳。令和2年(2020年)筑波山ガマの口上名人。

7月25日
オリヴィア・デ・ハヴィランド、享年104歳。令和2年(2020年)米国女優、「風と共に去りぬ」のメラニー。

7月24日
芥川龍之介、享年35歳。昭和2年(1927年)東京府田端の自宅で服毒自殺。

7月23日
葛西善蔵、享年41歳。昭和3年(1928年)東京府世田谷の自宅で死没。肺病。

7月20日
岩倉具視、享年57歳。明治16年(1883年)咽頭癌。

7月19日
久坂玄瑞、享年24歳。元治元年(1854年)京都堺町、蛤御門で死亡。

7月16日
板垣退助、享年82歳。大正8年(1919年)病死。

7月11日
佐久間象山、享年53歳。元治元年(1864年)京都三条木屋町で暗殺される。

7月9日
森鴎外、享年60歳。大正11年(1922年)東京文京区の自宅で腎萎縮、肺結核のため死去。

7月8日
ヴィヴィアン・リー、享年53歳。1967年ロンドン、ベルグレイヴィアで病死。結核。

7月7日
エドワード1世、享年68歳。1307年。

7月6日
下山定則、享年48歳。昭和24年(1949年)足立区綾瀬で轢死。

7月1日
児島惟謙、享年71歳。明治41年(1908年)死去。咽頭結核。

6月30日
川合玉堂、享年83歳。昭和32年(1957年)青梅の自宅で死去。心臓喘息病。

6月29日
瀧連太郎、享年24歳。明治36年(1903年)大分市稲荷町の自宅で死去。肺結核。

6月28日
林芙美子、享年47歳。昭和26年(1951年)急死。心臓麻痺。

6月27日
松岡洋右、享年66歳。昭和21年(1946年)東大病院で死没。肺結核。

6月26日
内藤湖南、享年67歳。昭和9年(1934年)病死。

6月25日
宮城道雄、享年62歳。昭和31年(1956年)愛知県刈谷市付近で列車から転落、病院で死没。

6月24日
美空ひばり、享年52歳。平成元年(1989年)順天堂病院で死亡。肺炎。

6月23日
国木田独歩、享年36歳。明治41年(1908年)神奈川県茅ヶ崎にある結核療養所の南湖院で死去。

6月22日
畠山重忠、享年42歳。元久2年(1205年)謀殺される。

6月21日
林子平、享年56歳。寛政5年(1793年)。

6月20日
徳川吉宗、享年56歳。寛延4年(1751年)再発性脳卒中。

6月19日
世宗(柴栄)、享年39歳。顕徳6年(959年)病没。
酒井田柿右衛門、享年70歳。寛文6年(1666年)死没。

6月18日
豊島与志雄、享年64歳。昭和30年(1955)千駄木の自宅で死去。心筋梗塞。

6月15日
空海、享年61歳。宝亀2年(774年)高野山で没。(4月22日説あり)

6月14日
毛利元就、享年75歳。元亀2年(1571年)

6月13日
明智光秀、享年55歳。天正10年(1520年)小栗栖(伏見区)で刺されて自刃。
太宰治、享年38歳。三鷹市で入水自殺。

6月12日
蘇我入鹿、享年35歳。皇極天皇4年(645年)飛鳥板蓋宮の大極殿において暗殺される。

6月11日
長谷川伸、79歳。昭和38年(1963年)聖路加国際病院で死去。

6月10日
鴨長明、62歳。建保4年(1216年)
大町桂月、57歳。大正14年(1925年)十和田湖の蔦温泉で死亡。

6月9日
有島武郎、46歳。大正12年(1923年)軽井沢の別荘で心中。

6月8日
ムハンマド(マホメット、モハメッド)、享年62歳。632年、マディーナで病死。

6月7日
西田幾多郎、享年75歳。昭和20年(1945年)鎌倉で病死。尿毒症。

6月6日
鑑真、享年76歳。天平宝宇7年(763年)病死。
袁世凱、享年56歳。1916年、北京で病死。尿毒症。

6月5日
宮部鼎藏、享年44歳。元治元年(1864年)京都池田屋で新選組に襲撃され自刃。

6月4日
最澄、享年54歳。弘仁13年(822年)比叡山の中道院で没。

6月3日
佐藤栄作、享年74歳。1974年(昭和49年)東京慈恵会医科大学附属病院で死去。脳溢血。

6月2日
織田信長、享年49歳。天正10年(1582年)京都本願寺本堂で切腹、焼死。

6月1日
ヘレン・ケラー、享年87歳。1968年アメリカ合衆国コネチカット州イーストンの自宅で死去。

5月31日
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、享年74歳。1809年ナポレオンのウィーン侵攻の中で病死。

5月30日
沖田総司。享年については24歳、25歳、27歳など諸説あり。明治元年(1868年)千駄ヶ谷で病死。肺結核。

5月29日
与謝野晶子、享年63歳。昭和17年(1942年)、荻窪の自宅で死去。狭心症に尿毒症を併発。

5月28日
在原業平、享年56歳。元慶4年(880年)死没。

5月27日
ジャワハルラール・ネルー、享年74歳。1964年、自宅で突発的な心臓発作で死去。

5月26日
木戸孝允、享年43歳。明治10年(1877年)京都で病死。死因は胃癌らしい。

5月24日
伊達政宗、享年68歳。寛永13年(1638年)江戸の伊達藩上屋敷で死去。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌と推定される。

5月23日
ヘンリック・イプセン、享年78歳。オスロにて死去。

5月22日
ヴィクトル・ユーゴー、享年83歳。1885年パリにて死去。急性肺炎。

5月21日
野口英世、享年51歳。1928年ガーナ・アクラで研究中黄熱病に感染し死亡。

5月20日
日野富子、享年57歳。明応5年(1496年)死亡。
生田春月、享年38歳。昭和5年(1930年)播磨灘沖で投身自殺。

5月19日
宮本武蔵、享年62歳。正保2年(1645年)熊本千葉城の自宅で死没。神経痛と胃癌。

5月18日
紀貫之、享年79歳。天慶8年(945年)死去。

5月17日
サンドロ・ボッティチェリ、享年65歳。1510年フィレンツェで死亡。彼の絵は人気を失い、数世紀にわたってほとんど忘れられた存在となった。

5月16日
北村透谷、享年25歳。明治27年(1894年)東京芝公園で首吊り自殺。

5月15日
犬養毅、享年76歳。昭和7年(1932年)五・一五事件で暗殺される。

5月14日
大久保利通、享年49歳。東京紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら6人に襲われ死去。

5月13日
谷干城、享年74歳。明治44年(1911年)
田山花袋、享年60歳。昭和5年(1930年)自宅で死去。咽頭癌。

5月12日
青木昆陽、享年71歳。元禄11年(1698年)
秋田雨雀、享年79歳。昭和37年(1962年)結核と老衰のため自宅で死去。

5月11日
脇屋義助、享年38歳。興国3年、康永元年(1342年)病没。
土方歳三、享年34歳。明治2年(1869年)箱館で戦死。
萩原朔太郎、享年57歳。昭和17年(1942年)急性肺炎により世田谷の自宅で死去。
小泉信三、享年78歳。昭和41年(1966年)。心筋梗塞。

5月10日
二葉亭四迷、享年46歳。明治42年(1909年)シンガポール沖ベンガル湾洋上にて死去。腹膜炎。

5月9日
フリードリヒ・フォン・シラー、享年45歳。ザクセン・ヴァイマルの自宅で病死。
岩野泡鳴、享年47歳。大正9年(1920年)東京帝大病院で病死。腸チフス。

5月8日
テレサ・テン、42歳。1995年タイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。

5月7日
真田信繁、享年49歳。慶長20年(1615年)大坂夏の陣で戦死。

5月6日
足利義満、享年49歳。応永15年(1408年)病死。

5月5日
ナポレオン1世、享年51歳。1821年セントへレナ島で死去。胃癌。

5月4日
藤原旅子、享年30歳。桓武天皇の夫人、藤原百川の長女。延暦7年(788年)死亡。
嘉納治五郎、享年71歳。昭和13年(1938年)カイロからの帰途、氷川丸船中で死去。肺炎。

5月3日
和田義盛、享年67歳。建暦3年(1213年)和田合戦で敗死。
柳宗悦、享年72歳。昭和36年(1961年)脳溢血。
高橋和巳、享年39歳。昭和46年(1971年)結腸がんのため東京女子医科大学病院で死去。

5月2日
レオナルド・ダ・ヴィンチ、享年67歳。1519年フランス、アンボワーズ近郊のクルーの館で死去。
福田英子(景山英子)、享年62歳。昭和2年(1927年)死去。

5月1日
萬鉄五郎、享年41歳。昭和2年(1927年)神奈川県茅ヶ崎の自宅にて死去。結核。

4月30日
源義経、享年31歳。文治元年(1189年)衣川の戦いにて死去。

4月29日
アルフレッド・ヒッチコック、享年80歳。1980年、ロサンゼルスにて死去。腎不全。

4月28日
中里介山、享年59歳。昭和19年(1944年)東京都阿伎留病院にて死去。腸チフス。

4月27日
ソクラテス、享年70歳。紀元前399年、アテネの獄中で自殺。

4月26日
足利基氏、享年28歳。正平22年(1367年)病死。死因は麻疹とされる。

4月25日
近藤勇、享年33歳。明治元年(1868年)東京・板橋で斬首さる。

4月24日
紀伊国屋文左衛門、享年66歳。享保19年(1734年)。

4月23日
ウィリアム・シェイクスピア、享年52歳。死因は腐りきったニシンから伝染した感染症らしい。ストラトフォード。

4月22日
慶光院清順、1566年。戦国時代の尼僧。伊勢神宮の式年遷宮の復興に尽力。
リチャード・ニクソン、享年81歳。ニューヨークシティで脳卒中で死去。

4月21日
ダニエル・デフォー、享年71歳。1731年ロンドンで死去。

4月20日
下村湖人、70歳。昭和30年(1955年)東京都新宿区の自宅で死去。脳軟化症と老衰。

4月19日
チャールズ・ダーウィン、73歳。1882年イギリス・ケント州ダウン村の自宅で死去。

4月18日
孔子、享年71歳。魯国哀公16年(紀元前479年)、魯で没した。

4月17日
徳川家康、享年73歳。元和元年(1616年)駿府城にて死去。胃がん。

4月16日
川端康成、享年72歳。昭和47年(1972年)神奈川県逗子市にてガス自殺。

4月15日
里見成義、享年57歳。永正元年(1504年)没。安房里見氏2代目当主。南総里見八犬伝に名前は義成(よししげ)として登場するが実在は不明。

4月14日
高杉晋作、享年27歳。慶応3年(1867年)下田市桜山にて肺結核のため死去。

4月13日
草壁皇子、享年27歳。持統天皇3年(689年)
伊能忠敬、享年73歳。文化15年(1818年)
石川啄木、享年26歳。明治45年(1912年)小石川区久堅町にて肺結核のため死去。

4月12日
武田信玄、享年53歳。天正元年(1573年)病没。

4月11日
木村正辞(国文学者)、享年87歳。大正2年(1913年)腎炎で死去。
昭憲皇太后、享年64歳。大正3年(1914年)崩御。狭心症。

4月10日
川端龍子、享年80歳。昭和41年(1966年)老衰。
桑原武夫、享年83歳。昭和63年(1988年)病没。

4月9日
藤原家隆、享年80歳。嘉禎3年(1237年)大阪の夕陽丘で死没。
足利義稙、享年56歳。大永3年(1523年)徳島県鳴門で死没。
武者小路実篤、享年91歳。昭和51年(1976年)狛江の慈恵医大第三病院にて死去。尿毒症。

4月8日
結城秀康、享年34歳。慶長12年(1607年)死去。梅毒。
吉田東洋、享年46歳。文久2年(1862年)土佐帯屋町にて暗殺さる。
高浜虚子、享年85歳。鎌倉由比ヶ浜の自宅で死去。脳溢血。

4月7日
弓削道鏡、享年72歳。宝亀3年(772年)栃木県下野市で死去。
浅野長政、享年68歳。慶長16年(1611年)茨城県桜川市で死去。

4月6日
大田南畝、享年75歳。文政6年(1823年)登城の道での転倒が元で死去。
小栗上野介忠順、享年42歳。慶応4年(1868年)群馬県高崎で斬首。

4月5日
九条兼実、享年59歳。建永2年(1207年)
高田屋嘉兵衛、59歳。文政10年(1827年)背中にできた腫物が悪化。

4月4日
北条時宗、享年34歳。弘安7年(1284年)死因は結核とも心臓病ともいわれ明らかでない

4月3日
快川紹喜、享年80歳。天正10年(1582年)恵林寺において焼死。
隠元隆琦、享年80歳。延宝元年(1673年)没。
小林古径、享年74歳。昭和32年(1957年)慶応病院においてパーキンソン病と脳軟化症のため死去。

4月2日
一条兼良、享年78歳。文明13年(1481年)病没。
田沼意知、享年36歳。天明4年(1784年)江戸城内において佐野政信に殺害される。
高村光太郎、享年74歳。昭和31年(1956年)東京中野のアトリエで病没。結核。

4月1日
北條経時、享年23歳。寛元4年(1246年)死去。
岩倉具定、享年58歳。明治43年(1910年)死去。
西東三鬼、享年62歳。昭和37年(1962年)葉山で死去。

3月31日
尾崎一雄、享年83歳。昭和58年(1983年)小田原で死去。

3月30日
大槻玄澤、享年69歳。文政10年(1829年)江戸で病没。
野上彌生子、99歳。昭和60年(1985年)老衰のため成城の自宅で死去。

3月29日
八百屋お七、享年16歳。天和3年(1683年)鈴ヶ森で火刑。
立原道造、享年24歳。昭和14年(1939年)中野区江古田の市立療養所で病没。結核。

3月28日
内村鑑三、享年69歳。昭和5年(1930年)新宿区北新宿の柏木の自宅で病没。
椎名麟三、享年61歳。昭和48年(1973年)脳内出血のため世田谷区松原の自宅で死去。

3月27日
懐良親王、享年54歳。弘和3年・永徳3年(1383年)筑後矢部で病没。
広瀬武夫、享年35歳。明治37年(1904年)旅順港閉塞作戦において福井丸で戦死。

3月26日
足利義尚。享年23歳。延徳元年(1489年)近江鈎の陣中で病死。
与謝野鉄幹、62歳。気管支カタルがもとで慶應義塾大学病院で死去。
室生犀星。享年72歳。昭和37年(1963年)東京都港区虎ノ門病院で死去。肺癌。

3月25日
蘇我倉山田石川麻呂。大化5年(649年)没、享年不詳。山田寺(奈良県桜井市)で自殺。
蓮如、享年84歳。明応8年(1499年)、京都・山科本願寺で死去。

3月24日
平時子、享年59歳。文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで安徳天皇を抱いて入水。

3月23日
水上滝太郎、享年53歳。昭和15年(1940年)東京で病没。脳溢血。

3月22日
新美南吉、享年29歳。昭和18年(1943年)愛知県半田市の自宅で病没。結核。
藤原義江、享年77歳。昭和51年(1976年)日比谷病院で病没。脳血栓症。

3月21日
空海、享年62歳。承和2年(835年)高野山で入定。
柳生十兵衛、享年44歳。慶安3年(1650年)急逝、死因は不明。
田中絹代、享年67歳。昭和52年(1977年)順天堂病院で没。脳腫瘍。

3月20日
黒田如水、享年59歳、慶長9年(1604年)京都伏見の黒田邸で病没。
上杉景勝、享年69歳。元和9年(1623年)米沢城で病没。

2026年5月 6日 (水)

ゴムの日

Close_up_rubber_band300x300   本日は「ゴムの日」。 物を束ねたりする時などに用いる輪状のゴム。「輪ゴム」は大変に便利な日用品である。日本語ではゴムバンドというが英語ではラバーバンド。ドイツ語でグンミリング、フランス語でエラスティーク、ロシア語でリズィーンカ。

   イギリスの馬車製作工だったトーマス・ハンコック(1786-1865)は、馬車の乗客を保護したいと防水布に興味をもち、1819年までに数々のゴム液を使って実験をしていた。輪ゴムは1820年、中南米の先住民族が使用していたゴム製の袋を薄く輪切りにすることで、靴下や服の袖を止めるのに利用できることを発見したことに始まる。

   加硫ゴムの特許を得たのは、1843年11月21日のことで、アメリカのチャールズ・グッドイヤー(1800-1844)の8週間前のことである。加硫ゴムの発明によりゴムはべたつきにくくなり、タイヤ・ホース・靴の踵が効率的に製造できるようになった。( rubber band,Thomas Hancock,Charles Goodyear,Stephen Perry ) 5月6日

 

そんなに痩せなくてもいいよ

Indd_founder    振替休日の朝、NHKでは「あしたが変わるトリセツショー」の再放送。TJDという和食ダイエット法を紹介していた。だが本日は国際ノーダイエットデーなのでいいかがものか。イギリスのフェミニストのメリー・エヴァンス・ヤングが1992年に提唱。世間のダイエットへの心のプレッシャーに対抗し、ダイエットによる健康影響を訴える。女性のダイエットへの関心は1920年代、女性の社会進出に伴なって高まっていった。女性の性的魅力が重要となり、スリムで若々しいことが理想となった。1950年代からダイエットのためのエステと美容整形が行われた。

 

Twiggythemodelthe60s7053212381500    1960年代、モデルのツィッギーがブームとなり、若さとスレンダーを求め、女性は過激なダイエットを行うようになった。1970年代、拒食症や過食症が社会問題となる。ダイエット食が一般的に普及する。1982年ジェーン・フォンダのエアロビクスのビデオがベストセラーとなる。だが近年の日本人女性の「やせ願望」や「ダイエット志向」は、寿命を縮める危険な行為といわれている。5月6日

(Mary Evans Young,No Internationl No Diet Day)

2026年5月 5日 (火)

巨人がやっと勝った

 大城の3ランで3連敗が止まった。それにしても2安打で貧打線が目立つ。とくに吉川083、松本203、ベテランの丸・坂本も調子が出てこない。このままでは今シーズンはダメだろう。

 

夫婦共演

 人気スター同士が結婚すると、堀北真希のように女性が芸能界を引退するというケースが多い。先ごろ急逝された五十嵐淳子も当時男性に絶大な人気があったが、中村雅俊と結婚するやほとんど映画・テレビで見れなくなってしまった。飯豊まりえはそれほど売れなかったので、売れたいという願望が強いのか。NHK「岸辺露伴」シリーズ。これまで地味な女優だったのに、飯豊まりえがとても魅力的である。泉京香の役で開花したみたいだ。高橋一生との相性がいいのか。夫婦共演でヒットするというのは余り最近ではめずらしい。たとえば星野源と新垣結衣が共演するとは思えないだろう。むかしは多かったのだ。ハンフリー・ボガート&ローレン・バコール、チャールズ・ブロンソン&ジル・アイアランド。

 

 

 

新選組副長・土方歳三

   天保6年のこの日、武州武蔵国多摩郡石田村の土方義醇・恵津の四男として生れた。歳三が生まれた時、父はすでにこの世の人ではなかった。母も6歳の時に失い、14歳年上の次兄喜六に育てられた。文久3年の上洛浪士組に参じた歳三は、近藤、沖田とともに京に残留して新選組発足の礎となった。その後、芹沢鴨や新見錦の両局長を粛清して、近藤一門の結束を固め、新選組の副長として、その辣腕ぶりを発揮した。元治元年、池田屋で凄惨な斬り合いを演じた。近藤が高台寺の残党に狙撃された後、明治元年、鳥羽・伏見の戦いを指揮した。甲州勝沼、小山、宇都宮と官軍に抗戦するも江戸城無血開城となる。8月、会津戦争が開始され、母成峠の戦いに敗れた後、会津から後退し、さらに仙台より奥羽の脱藩兵と箱館に逃れ、榎本武揚の指揮下に入り、甲鉄艦奪取の宮古湾海戦に失敗。明治2年5月箱館五稜郭で抗戦中、流弾に当たって戦死した。35歳。(5月5日)

 

 

2026年5月 4日 (月)

愛鳥週間

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  5月10日から16日まで愛鳥週間である。鳥の和名や地方名について調べたことはない。もっとも身近な鳥といえば「スズメ」だが考えれば不思議だ。「古事記」「日本書紀」にでてくる「雀」は「すずめ」のことだが、「万葉集」には「すずめ」という語はないそうだ。全国各地で様々な名前がある。奈良では「イタクラ」、沖縄では「ヨモンドリ」「ヨモドリ」「ヨメンドリ」と呼ぶ。巫女のことで、神がかり状態で巫女がよく喋り続けることから、よく囀る小鳥の意でよばれたのであろう。富山では「バンチク」と呼ぶ。日本古語大辞典には「スズメ。雀。スズは擬声語であろう。メは群の意であるが、鳥の呼称にこの語を添えて用いる例は少なくない。ツバメ、カモメ、キジメ」とある。「スズ」は「小さい」という意味がある。少ない金額を「雀の涙ほど」ともいうように。

永遠の妖精オードリー・ヘプバーン

 オード―・ヘプバーン1929年のこの日、ベルギー・ブリュッセルで生まれた。父は貿易商、母はオランダの貴族。第二次大戦後にロンドンに渡って教育を受け、バレエを修得。51年にイギリス映画に端役で出演したが、コレット女史に発見され、ブロードウェイ公演のの「ジジ」の主役に抜擢された。戦後いろいろの洋画雑誌が国内でも刊行されたが、記事の総量からみると、オ―ドリー・ヘプバーンが断トツで多い。ある雑誌には15頁にわたる豊富なカラー写真はこれまでのどの特集より充実している。もちろん新時代の女優たちも紹介している。ナタリー・ポートマン、オドレー・トトゥー、アン・ハサウェー、キーラ・ナイトリー、でも写真でみる限り、オードリーの魅力には遠く及ばない。

    世界の美人スターといえば、戦後はイングリッド・バーグマンから始まった。イギリスの名花ヴィヴィアン・リーも戦前の女優だが、大戦の関係で戦後人気女優にのしあがった。ヴィヴィアン・リーの「哀愁」と並んで人気のあったのは、「心の旅路」のグリア・ガースンである。バーグマン同様に大柄な美人であり、上品で教養がある。貴婦人と呼ぶのに最もふさわしい女優はグリア・ガースンかもしれない。

    妖艶な魅力といえば「賄賂」「パンドラ」「裸足の伯爵夫人」のエヴァ・ガードナー。知的で気品のある美しさといえばイギリスの「黒水仙」「イグアナの夜」のデボラ・カーやフランスの「うたかたの恋」のダニエル・ダリューがいる。だがオードリー以前の映画界はむしろグラマー美人に人気があった。肉体派のはしりは「にがい米」「シーラ山の狼」「紅薔薇は山に眠る」のイタリアのシルバーナ・マンガーノだろうか。マリリン・モンローが「ナイアガラ」でお尻を左右に大きく振って歩いたとき、日本の男性は生ツバをのみこんだものである。そしてオードリーの最大のライバルといえば、グレース・ケリーとエリザベス・テーラーだろうか。だがオードリーの魅力がいつまでも新鮮で人気があるのは、映画での名演だけでなく、古びないファッションセンスにある。とくに「麗しのサブリナ」にはジヴァンシーのオードリー・ファッションの基本アイテムがぎっしりある。洗練の極致「ティファニーで朝食を」、シック&カジュアルな「シャレード」「いつも2人で」など女性にとってオードリー映画はファッションのお手本だ。(5月4日)

 

みどりの日

  自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむという趣旨の国民の祝日。1989年から2006年までは4月29日で、2007年から5月4日になった。

   頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。(寺田寅彦「科学者とあたま」)

   春のいまごろの季節、森林を散歩するのがよい。早春特有の匂いがある。若葉と雪解け水のかもしだす、心のはずむような気配が感じられる。森林には樹の種類によって匂いも異なる。ある場所で何年か過ごしたとする。それから長い年月ののちにそこをふたたび訪れ、かすな匂いをかぐ。もうそれだけで、そこで過ごした時のことを思い出すことがある。匂いはそれくらい強い力があるのだ。寺田寅彦(1878-1935)の言葉どおり「自然を恋人」にしよう。森林へ行けば、野鳥はさえずり、草花は咲いている。行く場所は自由だ。いつでもどこにでも、自然の喜びは満ちあふれている。

 

 

天泣の教室

 朝ドラ「風、薫る」イギリスからバーンズ先生がようやく来日する。ベッドのシーツ替え、旧校舎の清掃、髪型をかえらせられる、など不可解なことばかりで、生徒たちの不満はつのっていく。第6週のタイトルは「天泣の教室」という。天泣(てんきゅう)とは、晴れているのに空から雨が降ること。意訳するば、晴れ舞台(教室)が始まるのに、内容は不可解で生徒たちには理解しがたい「雨」の様な状況をさしているのであろうか。

艶ほくろ

 女性の口の斜め下にあるホクロを「艶ほくろ」という。昔の女優でいえば、木暮実千代といったところ。テレビ東京で深夜に放送している番組「週末旅の極意3~結婚ってしなきゃいけないもの~」を観る。交際して6年が経つカップルだが、自分が子どもを産めない体であることがわかり、結婚に逡巡する女性を深川麻衣が演じている。深川は乃木坂一期生でグループを卒業後もう10年女優一本でやってきた。「まいまい」「聖母」の愛称とうり、大人しくて控えめな役柄が多かった。口元の「艶ほくろ」がチャームポイントだ。深夜ドラマは過剰な演技よりも、まいまいの物静かな表情に癒される。

 

ラムネの瓶に丸いビー玉が入っているのはなぜか?

24018772_120063319958    飲み口にガラス玉を嵌めた瓶に炭酸飲料を入れたラムネ。その語源は英語のレモネードからきている。1872年、イギリス人のハイラム・コッドが炭酸飲料を密封するためビー玉栓を開発した。「ラムネの日」は1872年のこの日、東京の千葉勝五郎(1833-1903)がラムネの製造販売の許可を取得したことに因む。一説によると、スコットランド生れの薬剤師アレキサンダー・キャメロン・シム(1840-1900)が明治初期来日し、1884年頃からラムネの製造・販売を始めた。その2年後、コレラが大流行すると、新聞に「ガスを含有している飲料を用いると、コレラ病におかされることがない」という記事が掲載され、ラムネが一気に日本中に広まった。

 サイダーとラムネの違いは何か?どちらも甘い炭酸飲料で中身の味や成分は明確な規格上の違いはほぼなく、ビー玉入りのガラス瓶でガラス王栓になっているものをラムネ、それ以外の容器の類似炭酸飲料をサイダーと呼んでいる。(5月4日)

2026年5月 3日 (日)

江藤新平は、反乱者ではなかった!?

 明治7年2月、佐賀の江藤新平らは明治政府に反抗し、交戦状態となった。「佐賀の乱」である。現在、都道府県名で「〇〇の乱」とあるのは、佐賀県だけだろう。たとえば山口の乱とか高知の乱という歴史用語はない。このことを佐賀県民はどのように思っているのだろうか。実はホンネを言えば多くの県民は「江藤は反乱者、犯罪者ではない」と思っているみたいだ。ほとんどの歴史教科書で、佐賀の乱は、西郷隆盛による西南戦争へと続く一連の不平士族の反乱という認識であろう。県民は自衛のための戦いで、乱ではないと捉えている。最近に刊行された帝国書院の中学の歴史教科書では「佐賀の乱(佐賀戦争)」と括弧付きの記述が登場している。地元では中立的な「佐賀戦争」の呼称を望んでいるようだ。

ロンドンとはこんなところだ

 テムズ河に架かるタワーブリッジは1894年6月30日に開通した。いつかロンドン観光をゆっくりしてみたい。まずロンドンという地名の語源について、イギリスでも定説はないそうだ。紀元前43年、ブリタニアを占領したローマ人がテムズ川北岸に交易所ロンデニウムを設置した。だがこれはローマ人がつけた地名ではなく、おそらくケルト語の一種である古代アイルランド語のロンド(「野性味のある」「勇敢な」)が、人名か部族名に用いられて、ロンデヌスになり、その形容詞形ロンデニウムが地名になったと推定される。19世紀にビクトリア女王時代にロンドンは政治経済で世界の中心地となった。とくに1851年にハイドパークで開かれた第1回ロンドン万国博覧会に成功を収めた。巨大なガラスの建物「水晶宮」は新時代の到来を告げるものだった。

 「ロンドンに飽きた者は、人生に倦きた者だ」といったのは18世紀の文学者サミュエル・ジョンソン博士の名言だが、ロンドンの街は大英帝国のおもかげを今に残しながら、ビートルズからローリングストーンズ、ミニスカート、パンク、とここで生まれた音楽やファッションはつねに時代をリードしている。観光地もバッキンガム宮殿の衛兵交代式、ロンドン塔、タワー・ブリッジ、英国国会議事堂のビッグベン、セント・ポール寺院、トラファルガー広場、ハイドパーク、ピカデリーサーカス周辺といった有名なスポットから、ロンドン・アイの観覧車、サザーク地区にあるバラ・マーケットまで見所が豊富である。Borough Market、

 

ビング・クロスビー

Bingcrosby2    20世紀最大のポピュラー歌手ビング・クロスビーは1904年のこの日、ワシントン州タコマで生まれた。本名はハリー・リリース・クロスビー。1925年、アル・リンカーと一緒にロサンゼルスに移り、翌年10月、ドン・クラーク楽団をバックにリンカーとのデュオによる「アイヴ・ガット・ザ・ガール」を録音した。同年12月22日、ポール・ホワイトマン楽団での初録音は、リンカーとのデュオした「ウィッスフル・アンド・ブルー」で、そのあと楽団員とのデュオやコーラス録音が続き、ソロでの初レコードは1927年3月7日、ニューヨーク録音の「マディ・ウォーター」。ラジオの普及により、オペラのように声を張り上げず、滑らかに発声するクルーナー・スタイルで人気を得た。「ホワイト・クリスマス」や「星にスイング」「スイート・レイラニ」「冷たき宵に」「黄金の雨」など数々のヒット曲を連発し、映画の主演スターとしても長年ハリウッドのトップとして君臨した。「ホワイト・クリスマス」のレコード売り上げだけで4500万枚以上あり、ギネス記録に認定されている。「きよしこの夜」や「ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー」「峠の我が家」など今日誰もが口づさめるようなポピュラー・ソングも数多く創唱した。( Bing Crosby,Muddy Water,Al Rinker,5月3日 )

2026年5月 2日 (土)

エンピツ記念日

Oldestpencil   本日は「エンピツ記念日」。1887年のこの日、眞崎仁六が東京・新宿に「眞崎鉛筆製造所」(現在の三菱鉛筆)を創立し、日本初の鉛筆の工場生産が始まった。鉛筆は14世紀ごろのイタリアに鉛と錫を混和した鉛筆があったという。記録のあるところでは1565年にスイスの博物学者コンラート・ゲスナー(1516-1565)が自家製鉛筆を使用していた。1564年イングランドのカンブリア州ボローデールで、良質の黒鉛が大量に発見され、棒状の木に挟んだ鉛筆が作られていた。1610年までには、ロンドンの市場で鉛筆が普通に売られていた。1662年には、黒鉛粉、硫黄、アンチモンを使った初の大量生産による鉛筆が、ドイツのニュルンベルクでつくられている。17世紀の鉛筆は2枚の細長い木の板の間に、芯となる細長い黒鉛の棒をはさんで固定していた。1761年にはドイツでカスパー・ファーバーが現在のような鉛筆の製造をはじめた。1795年、フランス人のニコラ・ジャック・コンテが黒鉛と粘土で作った芯を高温で焼くという方法を発明した。ちなみに日本で初めて鉛筆を使ったのは徳川家康。ヨーロッパ製のもので久能山東照宮に保管されている。( keyword;Konrad Gesner,Nicholas Jacques Conte ) 5月2日

 

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 シャルダン「鉛筆を削る若いデッサン画家」 1737年

春ドラマ最新情報

 4月スタートの春の新ドラマを一挙に紹介する。

 毎朝の癒し、連続テレビ小説は「風、薫る」。明治の頃、大関和と鈴木雅という2人の実在の看護婦をモデルにした吉澤智子脚本のオリジナルドラマ。見上愛と上坂樹里のWヒロイン。養成所の同級生に生田絵梨花、菊池亜希子、中井友梨、木越昭、原嶋凛。田中ひかる著「明治のナイチンゲール 大関和物語」が元になっている。明治の女性史のなかで近代的看護婦誕生の物語。しかしヒロイン2人の恋愛に感情移入できない。BSでは松嶋菜々子の「ひまわり」が再放送。▽「102回目のプロポーズ」「君が死刑になる前に」ミゾキがすんだのか(?)唐田えりか出演。▽ベテラン俳優・根岸季枝の活躍ぶり。ドラマ「風、薫る」「ひらやすみ」「お別れホスピタル」「るなし」映画が2025年3本「光る川」「金子差入店」「生きがい」ほか舞台。▽「LOVED ONE」タイトルのラブド・ワンとは法医学者が遺体にさざける敬意が込められた言葉。▽「時すでにおスシ」永作博美と松山ケンイチ共演といえば「人のセックスを笑うな」。▽「サバ缶、宇宙へ行く」月9らしくないがナイス。朝ドラヒロイン「風のハルカ」の村川絵梨が大衆食堂のおかみさん役で出演している。▽坂東彌十郎が超売れっ子。「風、薫る」「銀河の一票」「夫婦別姓刑事」

日曜
「GIFT」堤真一、山田裕貴、有村架純。、本田響矢。「対決」松本若菜、鈴木保奈美、豊崎花。「エラー」志田未來、畑芽育、藤井流星、栗山千明。「10回切って倒れない木はない」志尊淳、仁村紗和。「スモークブルーの雨のち晴れ」武田航平、渋谷謙人。

月曜
「銀河の一票」黒木華、野呂佳代。「サバ缶、宇宙へ行く」北村匠海、神木隆之介、出口夏希。「産まない女はダメですか?」宮澤エマ、浅香航大。「ラジオスター」福地桃子、常盤貴子。「ミッドナイトタクシー」古川琴音。「多すぎる恋と殺人」森カンナ、西垣匠、小出惠介、大沢あかね。「その着せ替え人形は恋をする」(再放送)永瀬莉子。

火曜
「時すでにおスシ!?」永作博美、松山ケンイチ、ファーストサマーウイカ、佐野史郎、杏花。「夫婦別姓刑事」佐藤二郎、橋本愛、斎藤京子。「リボーン」高橋一生、中村アン、鈴鹿央士、横田真悠。「失恋カルタ」梅澤美波、西垣匠、加藤小夏。「コンビニ兄弟」田中麗奈、中島健人。

水曜
「月夜行路」波瑠、麻生久美子。「ボーダーレス」佐藤勝利、土屋太鳳、井ノ原快彦。『LOVED ONE」ディーン・フジオカ、瀧内公美。「鬼女の棲む家」石田ひかり。「水曜日、私の夫に抱かれてください」菅井友香。「サレタ側の復讐」篠田麻里子、水崎綾女、矢吹奈子。「102回目のプロポーズ」唐田えりか、せいや、武田鉄矢。

木曜
「惡の華」あの、鈴木福。「るなしい」原菜乃華、窪塚愛流、本島純政、影山優佳、瀧澤エリカ。「今夜、秘密のキッチンで」木南晴香、高杉真宙、瀧本美織、筒井真理子、中村俊介。「未解決の女」鈴木京香、黒島結菜、宮世琉弥。「君が死刑になる前に」加藤清史郎、与田祐希、唐田えりか。「あざとかわいいワタシが優勝」大友花恋。「ディープリベンジ」堀未央奈、石川恋。「女の子が抱いちゃダメですか?」高尾颯斗。「あの夜、社長の子供を授かりました」佐々木美玲、森次政裕。「ネタジョ」辻凪子、のりせん、中山莉子。

金曜
「余命3ヵ月のサレ夫」白洲迅、桜井日奈子。「田鎖ブラザーズ」岡田将生、染谷将太、中条あやみ、宮近海斗、井川遥、岸谷五朗。「刑事、ふりだしに戻る」濱田岳、石井杏奈、鈴木伸之。「週末旅の極意3」深川麻衣、千賀健永。

土曜
「ターミネーターと恋しちゃったら」宮館涼太、臼田あさ美。「お別れホスピタル2」松山ケンイチ、岸井ゆきの。「タツキ先生は甘すぎる!」町田啓太。「時光代理人」本郷奏多、林芽亜里。

海外ドラマ
「トミーとタペンス 2人で探偵を」

「美しき日々」

朝ドラ豆知識。
「ばけばけ」を毎日楽しみに見ている。その前に「どんど晴れ」の再放送があって観ていた。老舗旅館が舞台のワンパターンの展開が続く。石原良純が登場して旅館を買収しようと企む。脚本の悪さが目立つ。ヒロインは綺麗なのに残念なドラマだった。ドラマは脚本家が一番重要だ。吉澤智子とはどんな脚本家なのだろう。「風、薫る」はWヒロインだが、朝ドラ史上で初のWヒロイン作品は何か。1975年の「おはようさん」は秋野暢子、中田喜子が主演だったが、Wヒロインの位置づけではなかったが姉妹の話なので中田の登場も多かったように思う。

 

 

 

シネマの名セリフ

Casablancahitomi    英米では最初にいつも天気について話す。そのあと映画やテレビの話をする。会話にシネマのセリフを引用するのが好きである。とくにハンフリー・ボガート扮するリック・ブレインのカサブランカでの台詞「君の瞳に乾杯」は人口に膾炙するところである。日本語は字幕翻訳者・高瀬鎮夫によるものでかなり意訳ともいえる。「Here's looking at you, kid.」直訳すると、「あなたを見ているということに乾杯」となり、「君のことを見ているだけで僕は幸せだ」ということだろうか。さらに美しいバーグマンを目の前にしたボガートの心境になりきって、その感動を込めてハードボイルド風に解釈すれば、「美酒を湛えた杯のような君の瞳に映っている男はじっと君を見つめていて、なんとそれは俺ではないか。その俺の感動を、いまここにこうしている俺の刹那を祝して君に伝えよう」となる。

 「望郷」。カスバに身を隠していたジャン・ギャバンが、パリから来た美しい女に「君はパリのメトロのにおいがする」というセリフが有名である。

「民主主義と平和の50年の慈愛に満ちた歴史は一体何をもたらしたのか。鳩時計だ」(第三の男)

「人生には、勇気と想像力、それとほんの少しのお金があればいい」(ライムライト)

「愛とは決して後悔しないこと」(ある愛の詩)。「やっぱり、おうちが一番だわ」(オズの魔法使い」)。「嫌な予感がするぜ」スターウォーズ・シリーズで何度も登場するセリフだ。「地獄へ落ちな、ベイビー」(ターミネーター2)。「もう二度と飢えないわ」(風と共に去りぬ)。「キスの時、鼻はぶつからないの?」)(誰がために鐘は鳴る)(Humphrey Bogart)

カナダとはどんな国

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   褐色の岩肌を誇るカナディアン・ロッキーにあるキャッスル・マウンテンとバウ川。名称は1858年にジェームズ・ヘクターによって名づけられたが、アメリカのアイゼンハワー大統領がカナダを訪れたのを記念して、「アイゼンハワー山」と改称された。しかし地元の強い要請もあり、1983年に旧称のキャッスル・マウンテンに戻った。

   世界で一番面積が大きい国は、もちろんロシア。アジアとヨーロッパにまたがり、国土の面積は約1708万平方km。では、2番目に広い国はどこか。中国?それともアメリカ?いずれも面積は900万平方km以上あるが、カナダの国土面積は998.5万平方kmで、ロシアに次いで世界第2位である。人口は4,009万人。

    ヨーロッパ人が北アメリカに来る以前から、カナダを縦横に走りまわっていたのが、インディアンである。かれらの祖先は、ベーリング海峡を通って、アジアからアメリカ大陸へ入って来たものと考えられている。ヨーロッパ人がカナダにやって来た近世の初めに、かれらの文化はまだ石器時代の段階にあって、狩猟生活を営んでいた。一部の部族は原始的な農業を営み、トオモロコシやカボチャなどをつくっていたが、イヌのほか家畜がなく、したがって牧畜も知らなかった。五大湖地方から、セントローレンス川流域には、イロコイ語族に属するインディアンの諸部族が居住し、かれらは同盟を結んで、近隣の諸部族を脅かしていた。セント・ローレンス河谷に、ヨーロッパ人から鉄の斧やナイフ、鉄砲や毛織物を手に入れ、狩猟の産物である毛皮と交換して、これらの便利な文明の利器をますます多く得たいと望むようになった。

   コロンブスのアメリカ発見の5年後、1497年から翌年にかけて、イタリア人ジョバンニ・カボート(イギリス名ジョン・カボット)が、イギリス王ヘンリー7世の許可を得て西航し、セント・ローレンス湾口にあるケープ・ブレトン島や、グリーンランドおよびニュー・ファンドランドを発見した。1524年、イタリア生まれの航海士ヴェラッツアーノは、フランス王の依頼を受けてニューファンドランドからフロリダ沿岸を探検した。フランス人ジャック・カルティエはフランス王フランソア1世の命を受けて、アジアに至る北西航路探検のため大西洋を西航し、1534年から翌年にかけて、同川をさかのぼって現在のモントリオールの地点まで到着した。

   フランスの探検隊カルティエ等がインディアンに「ここはどこか」と訊ねた。イロコイ族は「カナタ(村の意味)」と答えた。探検隊はこれを地名と誤認し、誤って「カナダ」となったという。(イギリスの地名研究家テイラーの説)

   カルティエはインディアンから「カナダ王国」の話を聞いたが、そこで見たものはインディアンの貧しい部落だけだった。しかしながらこの探検によって、フランスのカナダに対する領土権主張の根拠がすえられた。その後インディアンとの毛皮貿易の利益が知られるとフランス人の本格的な植民が始まった。フランス王アンリ4世から毛皮貿易の独占権を与えられたド・モンを説得してセント・ローレンス流域に向かったシャンプランは、1608年、ケベックの地に最初の恒久的な根拠地を築いた。1663年にルイ14世は新フランス植民地の知事や監督官や司教を任命し、その後有力な軍隊が派遣されて、フランス人に敵対するイロコイ族の討伐も行なわれた。軍隊の将校や兵士に、セント・ローレンス川沿岸の土地が与えられ、フランス本国に類似した封建的領主制が行なわれた。カトリック教会にも広大な土地が下付され、教会は入植者の生活のあらゆる部面において、指導的役割を果たした。

    17世紀末から19世紀初めのナポレオン戦争に至るまで、ヨーロッパで戦争が起こると、イギリスとフランスは必ず敵対する陣営に属して戦った。フレンチ・インディアン戦争(1754-1763)で、イギリス人の植民地は、フランス人の植民地に対してはるかに確固たる農業植民地を形成していたため、イギリスの決定的な勝利に終わった。カナダはイギリス領となった。ケベックその他のフランス人植民地は、イギリス軍の占領後ケベック州となった。人口の大部分がフランス系植民者からなり、宗教・言語・法律・習慣の異なるヨーロッパ人を統治するという新しい課題に直面したイギリス政府は、1774年にケベック法を定めて、ローマ・カトリック教の信仰の自由を保証し、フランス的な民法とイギリス刑法を適用することにして、フランス系カナダ人の自由と権利の保護に努めた。このような文化の異なる民族に対する寛容な政策により、イギリス領ケベック州とイギリス本国の間の統合が強化された。

   ケベック法によって、ケベック州の領域がオハイオ川北岸まで拡大されたことは、大西洋岸のイギリス領13州植民地に刺激を与えた。これらの植民地では独立の気運が高まり、独立軍は1775年ケベック州に侵入してモントリオールを攻略したが、ケベック要塞を占領することはできなかった。1783年のパリ条約により、五大湖の線がアメリカとイギリス領ケベック州の境界線となった。

   アメリカ独立戦争の際、これに反対したロイヤリスト(忠誠派)が大挙カナダに移住したことは、その後のカナダの人口構成に大きな変化を与えた。約4万人のロイヤリストがノバスコチアおよびニュー・ブランズウィックに移住し、後の上カナダ、現在のオンタリオ州に移住した者は約1万人にのぼるといわれている。このためカナダにはイギリス系の人口が急増し、かれらはケベック法で認められていなかった代議制や、その他のイギリス的な自由な諸制度の実施を求めるようになった。イギリス本国政府はこれらの要求にこたえて、1791年植民地政府組織法を定めた。この法律によりケベック州は、イギリス系人口からなる下カナダの二州に分離され、それぞれに立法院と衆議院が設けられた。これより以前、ノバスコチアには1758年、1763年イギリス領となったプリンス・エドワード島には1773年、ノバスコチアから分離したニュー・ブラウンズウィックには1784年に、それぞれ代議制議会が認められていた。なおケベック州では以前からフランス的な封建的土地保有制が行なわれていたが、1791年の法律により、新しく下付される土地についてイギリス的な自由な土地保有制が適用されるようになった。

   1867年7月1日、イギリス領北アメリカ法が成立し、ノバスコシア、ニューブランズウィック、ケベック、オンタリオの4州からなる連邦としてカナダ自治領が成立する。初代首相はジョン・アレクサンドル・マクドナルド(1815-1891)。1949年にニュー・ファンドランド島が連邦に加盟し、その結果現在のカナダの領域が最終的に確定する。英領アメリカ法が修正され、完全な主権を獲得する。1970年代以降はカナディアン・アイデンティティーの確立を模索するという動きが外交面でみられ、従来の対米依存の路線から自主路線への転換が図られるとともに、先進国の一員として国際的発言力を強めつつある。1982年カナダ新憲法が公布され、イギリスからの完全独立が達成される。(引用文献:「これが新しい世界だ9 カナダ」国際情報社)

 

 

大型連休

 ゴールデンウィークがはじまる。低気圧の通過に伴い全国的に雨となりそうです。海や山、川へのレジャーを計画している人も多い。高速道路の渋滞にご用心。大型連休中は、ほとんどの医療機関が休診となるので高齢者にとっては不安な日々が続く。銀行、郵便局も休業。すべての国民が喜んでいるわけではなく、迷惑な季節と考えている高齢者もいるだろう。そもそもゴールデンウィークとは何か。むかし「飛び石連休」などといっていたが、いろいろな法改正で振替休日などで9日から10日くらい連休がつながるようになった。ゴールデンウィークの呼称の起源は大映常務取締役であった松山英夫によって作成された宣伝用語といわれる。NHKでは商業的な色彩が強いことばとして原則「大型連休」を使うことにしている。ただし略語としてGWは使われている。ほんとうに、大型連休は必要なのであろうか。29日は「昭和の日」、3日が「憲法記念日」4日が「みどりの日」、5日が「こどもの日」。祝祭日の起源や由来はそれぞれ異なるが、大型連休導入の真のねらいは経済効果である。昭和は百貨店での買い物、近郊の遊園地への行楽、近くの公園や山へのハイキングなどの日帰り旅行が一般的であった。近年になって大型イベントや海外旅行も盛んとなり、大きな経済効果を生み出すビジネス・チャンスとなっている。しかし、本来の意味をしっかりと周知することが大切ではないだろうか。

 足腰が弱くなって外出はできない。テレビを見るしかない。

5月1日 「ひとつ屋根の下」フジテレビTWO 13:00~

5月2日 日曜劇場「今日の日をこそ」TBSムチャンネル2 7:00~ 小泉今日子

5月3日 映画「岸辺露伴は動かない 懺悔室」16;10~18:00

     「岸辺露伴は動かない(7) ホットサマ・マーサ」 01:10~01:04

             「岸辺露伴は動かない(8)ジャンケン小僧」 01:04~01:58

5月4日 「岸辺露伴は動かない 泉京香は黙らない」 21:30~22:30

 

 

校正ミスはなぜおこるのか

 NHKニュースのテロップで学習指導要領の「かいてい」が「改定」になっていた。「改訂」が正しい。校正しているのだろうか。2023年1月14日に行われた大学入学共通テストの世界史Bの問題で「科挙」を「科拳」、ウマイヤ朝初代カリフ「ムアーウヤ」を「ムアーウィア」と誤記があった。「科挙」とは中国隋代からはじまる官僚登用試験のことで、清末まで1300年間にわたり行われた。有能な人材を採用するものであるが、日本の大学入試試験もある種の科挙制度に類似するものであるといってもあながち間違いではない。ほかにも生物で「勾配」を「匂配」というミスがあった。なぜ厳正なる試験問題に単純な校正ミスが頻発するのか、情けない話である。印刷所、校正者など秘密性を保持するため少人数で行っているのであろう。3月には尼崎の中学校で卒業証書の校正ミスが起きた。「課程」を「過程」と変換ミス。欧米ならABCと直接入力するだけだが、日本語の場合、漢字変換するので同音異義語の選択にミスが生じることが多い。

 講談社刊行の帚木蓬生著の歴史小説「少弐」が回収される。実在の人物が死亡の設定であったため、本人や家族が抗議、講談社側が編集上のチェックの不備を認めた。出版社の校正は、文字の誤字脱字だけではなく、記載されている内容の事実確認が重要である。

 高級官僚の集まる政府でも菅政権の看板であるデジタル法案の関係資料に大量の誤りがあった。例えば「地縁」が「地緑」に、「昭和六十六」(実際には存在しない)や「海上保安長長官」(正しくは海上保安庁長官)といった誤記が計45カ所に上る。あり得ないようなミスで、「それこそデジタル技術でチェックできないのか」という声が上がっている。校閲ガールの河野悦子ならどんなリアクションをするのだろう。

よくあるミス。

×すいません。 〇すみません

✕運賃の改訂  〇運賃の改定

✕教科書の改定 〇教科書の改訂

✕専問学校   〇専門学校

 

 

マラソン、人類初2時間の壁を破る

1967_photo  4月26日、ロンドンで行われたマラソン大会で、セバスチャン・サウェ(ケニア)選手が1時間59分30秒で有勝を果たした。スポーツにはルールがあり、記録がつぎつぎに塗り変えられている。数あるスポーツ記録の中で最も注目すべきは男子マラソンの2時間の壁であった。ついに人類は2時間を破ることができた。男子マラソンの世界記録の推移をみてみよう。

 

1908年 2時間55分18秒4

 

1925年 2時間29分1秒8

 

1953年 2時間18分40秒8

 

1967年 2時間9分36秒8 (クレイトン)

 

1998年 2時間6分5秒(ダコスタ)

 

1999年 2時間5分42秒(ハヌーン)

 

2003年 2時間4分55秒(テルガト)

 

2008年 2時間3分59秒(ゲブレシラシエ)

 

2011年 2時間3分38秒(マカウ)

 

2013年 2時間3分45秒(キメット)

 

2013年 2時間3分23秒(キプロティチ)

 

2014年 2時間2分57秒(キメット)

 

2018年 2時間1分39秒(キプチョゲ)

 

2022年 2時間1分9秒(キプチョゲ)

 

2026年 1時間59分30秒(サウェ)

   ちなみに現在、日本人男子の最高記録は、大迫傑の持つ、2時間4分55秒(2025年)である。

   1967年12月3日、福岡国際マラソンでデレク・クレイトン(画像)が2時間10分の壁を破ったが、この世界記録の達成には1人の日本人選手が貢献している。序盤戦はクレイトンが驚異のハイペースで独走したが、九州電工の佐々木精一郎が後方集団から1人追い上げ28㎞過ぎに並びかける。6㎞ほど並走したが、38㎞地点で佐々木は右脇腹をおさえて後退した。もし佐々木の猛追がなければクレイトンの大記録はなかったかもしれない。生中継でTVリアル観戦した記憶は今も鮮明に残っている。(Derek Clayton)

 

 

知性と教養って何?

Vitruvian20man    とにかく現代ほど知性と教養が求められる時代はない。池上彰や林修先生の冠番組がテレビで放送され、某大学教授が毎日のようにテレビ出演しているのを観ると、勉強している時間はあるのか、と心配したくなる。漱石・鷗外の時代に比べると、現代人は知性と教養が劣化したと感じるのは私だけだろうか。ネプリーグというクイズ番組を見ていると、ダンスパフォーマーたちが持ち歌の歌詞の漢字が正しく書けない。携帯世代は英語は得意だけど、漢字は苦手である。脳でゲシュタルト崩壊が始まっている。大人であれば中学生レペレの常用漢字は正しく書けるようにしておきたい。2月26日に放送された報道番組「サンデーモーニング」で松本零士さん追悼にふれるコーナーがあった。司会の関口宏がコメンテーターに「松本さんについてご感想は?」。田中優子(71)は、「世代が違うので見ていない」藪中三十二(75)も「まったく恥ずかしいですけど、無知で、見ても読んでもいない」渡辺カンコロンゴ清花(31)も「お名前ぐらいしか存じ上げていない」とみんな無知を告白した。漫画家に関することなので知らないもOKなのだろうか。しかし松本零士の漫画家としての活動は昭和30年代はじめである。当時団塊の世代が子どもなので少年誌は月刊誌が全盛で漫画は黄金期に向かうころで、「松本あきら」の名前で「日の丸」「ぼくら」「冒険王」「まんが王」「少年ブック」に戦記物や冒険物を発表していた。昭和30年代のプラモデルや戦争物ブームが後の宇宙戦艦ヤマトにつながるので、70代以上の方はむしろ松本零士ど真ん中世代である。つまり少年時代に漫画を読まずに難関校の受験勉強をしていた人なのだ。「松本零士なんか知らない」と言ってのけるのは、サブカルや漫画家を低く見ている証拠であり、勉強不足と指摘されても仕方ないだろう。

   ルネサンスが生んだ偉大な天才レオナルド・ダ・ヴィンチの興味や関心は当時知られていた学問のほとんどすべての分野に及んでいる。レオナルドが残した手稿の大半が科学や技術に関するものである。そしてそこにはレオナルドの深い洞察力と自然に対する鋭い観察がある。

Marnold  イギリスのマシュー・アーノルドは19世紀繁栄をもたらした自由主義が本来の姿を失って、社会の各階級は物質万能の思想にとりつかれ、政治・経済・文化・宗教の各領域に混乱と無秩序が現出していることを憂い、この無秩序を教養によって救うことを説いた。主著「教養と無秩序」(1869年)では個人の教養の充実によって社会の文化もまた進歩するものと説いている。

    では常識や知識・教養とは何か。インターネットが発達した現代、スマホで簡単に必要な情報を得ることができる。だが指先が自然に動くだけで、脳そのものが深く働いているわけではないので、現代人はこのことにつねにどこかしら不安を感じている。若い人は学校などで教わる科目や授業内容で将来役に立つのだろうかと。また大学の進路で、人文科学・自然科学・社会科学のいずれを選択するのか。画家や音楽家になりたかったが、親のすすめで法学部や経済学部へ行ったという人も多いだろう。またクイズ問題が得意で、実社会では物知りと言われても、教養人とは言われないだろう。口語的に「あの人は教養がある」と言う場合は、人付き合いや社交の場において、洗練された会話や身のこなし、マナーのある人ができる能力をさすことが多い。だが人ウケがする話術だけが教養人の要素ではない。ある人は教養人とは「慎みと品格」である、と言っていた。その人が学習して得た知識をひけらかして得意満面の人間は教養を感じさせない。だからといって、過去の人類の知識をまったく貯蔵しなければおバカといわれる。つまり人格プラス知識の貯蔵庫、の両輪が求められる。功績を誇り学問をひけらかす人々は、人間としての価値を外面にだけ求めている。本来そなわっているまことの心を失わなければ、たとい功績や学問がなくても、それだけで立派な人生が送れることを理解していない。

   日本国際ギデオン協会という団体がある。日本人にはこの「ギデオン」がわからない。ギデオンとは旧約聖書・士師記に登場する12人の士師の1人。神からの召命を受け、当時のイスラエル人を近隣の部族の襲撃から守るリーダーとなった。わずか300人の兵で12万人のミデヤン人の軍勢を破った戦いは有名で、信仰の勇者として知られる。女士師デボラや怪力のサムソンの物語などは教養として知っておくべきだろう。「刑事コロンボ」を観ていると「殺しの序曲」という作品に知能指数の上位2%が入会の条件のシグマ会という興味深い社交クラブが登場する。モデルはメンサ(Mensa)である。ランス・ウエアとローランド・ベリルによって1946年にオックスフォードに設置された。マリリン・ボス・サンバントやジョディ・フォスターなどが会員にいる。日本人の会員数は3500人で宇治原史規や茂木健一郎などがいる。

異常なまでに高められた常識のことを、世間は知恵と呼んでいる(コールリッジ)。Matthew Arnold、5月2日

 

 

全裸のランニング

 1972年のアラン・ドロンの映画に「ショック療法」というのがあった。統合失調症や鬱病の治療に、患者に何らかの衝撃ないし身体的ストレスを与えることによって症状の緩解をはかる方法である。映画で全裸で海辺をランニングしていた。現在では公然わいせつ罪で違法行為とみなされるだろうが、やってみると野性的な解放感を感じて、生きる喜びに全身がみなぎるかもしれない。1970年代にストリーキングが世界的に流行したのもその頃である。全裸ランニングのルーツはもっと遡り、1804年に米国バージニア州レキシントンで大学生による全裸ランニングが記録されている。最近読んだ小説の中に奇妙な作品を発見した。アレクセイ・トルストイの小説で「アルテーミーという富豪は毎朝、邸内を全裸でランニングするという。目的は健康増進のためで、発明家で永久機関から考案したものだという。1845年の作品である。(19世紀ロシア奇譚集」所収)

2026年5月 1日 (金)

宇和島城

 宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭である。現在、見られる天守などの建築は宇和島伊達家によるものである。慶長19年に伊達秀宗が入封、以後仙台伊達家の別家として仙台伊達家が9代に渡り幕末まで城主となる。秀宗は城の改修を幕府に願い出て、寛文2年から天守を築き始めた。三重三層の美しい姿から「鶴島城」とも呼ばれて、江戸時代から残っている全国に12しかない現存する天守である。

 

パリとはこんなところだ

Img_  フランスの首都パリは、人口204万人を擁する大都会。政治・経済・文化の中心地であり、ファッション、美食といった多様な現代文化のなかで、揺るぎない存在感を確立し、「花の都パリ」と形容される。ほぼ中央部をセーヌ河が流れ、河岸には数々の歴史的大事件が繰り広げられた建造物が点在し、ユネスコの世界遺産にも登録されている。フランス革命、ナポレオンの第一帝政期、パリ・コミューンと第三共和政など19世紀の世界史を動かす震源地となった。ゴシック様式の代表的建築物ノートルダム寺院の尖塔が2019年4月15日、大規模な火災はに見舞われた。1163年春、パリ司教モーリス・ド・シュリ―によって建築が始まった。そもそもパリの歴史は、現在ノートルダム寺院のあるセーヌ川の中州「シテ島」に始まる。パリの名も、このシテ島に紀元前1世紀ごろ住みついていたケルト人の一部族パリシー人に由来している。紀元前200年頃のこと、パリシー人たちが、セーヌを往来しているうちに中州を見つけ、ここに住み始めた。木造の砦が廻らされた村は、リュテス(リュテティア)と呼ばれ。パリ市の紋章には波に浮ぶ帆船と「たゆたえども沈まず」の銘が記されているが、シテ島は古く紀元前のガリア時代から、東西に流れるセーヌと南北にのびる陸路の交わる水運交通の要衝であった。ケルト系部族が定住していた4ガリアがローマの支配下におかれると、石造りの神殿、宮殿の建設が進み、パリはローマ人の町として発展する。キリスト教布教が始まり、やがてリュテスは「パリ」と呼ばれるようになった。現在のフランスに相当する国の首都としてパリが出現するのは、フランク族のメロビング王朝時代である。カペー王朝の時代には、はじめてセーヌ両岸にまたがる城壁が築かれ、パリは要塞都市となった。

Photo    カペー歴代の王の中で、パリの歴史上忘れられないのはフィリップ2世である。王は道路の舗装、上下水道の工事、教会、修道院の建設に力をいれ、パリの最も美しいゴシック建築であるノートルダム寺院も、大部分はその治世の1345年に完成を見た。百年戦争中フランスはシャルル7世(アルマニャック派)と、イギリスと結んだブルゴーニュ派に分裂していた。当初イギリスがフランスのかなりの部分を占領したが、ジャンヌ・ダルクの出現により戦局は逆転した。

 パリはセーヌの右岸と左岸に分けて考えると、その性格は相反している。右岸にはシャンゼリゼ、オペラ、サントレノ通りという繁華街がある。一方左岸は、カルチェ・ラタン、サン・ジェルマン・デ・プレと教育・文化の町である。16世紀になると、政治・経済の中心は左岸から右岸へと移っていく。王家の宮殿ルーヴル宮、ブルボン宮、そしてマリー・アントワネットの最後の住まいであったコンシェル・ジュリー宮がある。18世紀末に始まるフランス革命、ナポレオン時代に際して、パリはいくたの劇的事件の舞台となり混乱をきわめた。だが「たゆたえども沈まず」という諺が表すようにパリは発展してきた。現在のパリは右岸は政治・経済の街で高級住宅街、左岸は学問と芸術の街で庶民的で自由な雰囲気にあふれている。もし一日中、パリをぶらりとひとりで散歩するならルーブル美術館やシャンゼリゼ通りなどがある右岸よりも、ノートル・ダム教会前の広場からブキニスト(古書露天商)たちのいる左岸のカルチェラタンやサンジェルマンデュプレに足を運んでみよう。ソルボンヌ周辺は、今も昔もフランスの学問の中心地として、その伝統を保ち続けている。

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 イザボー・ド・バヴィエール

 

 

ネコの自己認識について

 夏目漱石の「吾輩は猫である」でという小説があるが、はたして猫には自分が猫であるという自己認識があるのだろうか。自分が自分であると感じる仕組みは、脳の中ではかなり複雑なネットワークで働いており、最近の脳の画像研究から、「自分の動き」と「他者の動き」を区別して処理していることは分かってきた。これは自分の体の位置や大きさを把握したり、自分のニオイと他のニオイを区別できるということである。しかしミラーテストで自分を自覚しているかというと、チンパンジーやイルカ、ゾウなどの動物は合格しているが、ネコは不合格である。よく「猫は三日で恩を忘れる」というが、必要な記憶については保持するが、不要な情報は早く忘れる傾向にある。サルのようにメタ記憶も発達していないので、ネコは自己認識の程度はほとんど皆無といってよい。

第九の呪い

 ベートーヴェンは1821年から23年までドイツ南部にある温泉保養地バーデンを訪れた。ここで交響曲第九番の大部分を作曲し、1824年に完成した。そして闘病の末、3年後にウィーンで亡くなっている。年末になると「第九」が演奏される。なぜ年末に「第九」なのか。むかし、オーケストラの団員が貧しくて、年越しのお金を稼ぐために演奏会に第九を演奏したのが始まりといわれる。べートーヴェンは交響曲を9番まで作って亡くなった。それ以後の作曲家たち、シューベルト、ブルックナー、ドヴォルザークも、何故か交響曲を9番目まで作ると死んでいる。マーラーはこのことを非常に怖れて、9番目の交響曲にはNoをつけず、「大地の歌」という題をつけた。しかしマーラーは「第九の呪い」を克服しよう、迷信を打破するために、ついに9番目の交響曲「第九」を作曲し、10番目の交響曲にも着手したが、ついに完成を迎えることなくこの世を去ってしまった。

 

 

ローマとはこんなところだ

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18世紀ピラネージの銅版画

 

 

 

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ウェスパシアヌス皇帝 (在位69-79)

   ローマで人気のある観光スポットといえば、フォロ・ロマーノ、スペイン広場、パンテオン、トレヴィの泉、サンタンジェロ城、カラカラ浴場、バチカン宮殿など多数あるが、一番はコロッセオである。古代ローマ帝国の残酷な競技場であるが、歴史が一目瞭然と分かる。日本語での表記は様々で、英語でコロシアム、イタリア語でコロッセオ、ラテン語でコロッセウム。正式にはフラウィウスの円形競技場といい、フラウィウス朝の皇帝ウェスパシアヌスと彼の息子ティトゥスとドミティアヌスが完成した。名前の由来はネロ帝の黄金宮殿の人造池址に建設され、ネロ帝の巨大な石像(コロッセオ)があったことから「コロッセオ」と呼ばれた。コロッセオの建造に当たっては、近隣で切り出される石灰石を利用していたが、石灰岩と火山灰と混ぜて作られた古代のコンクリートも使用されている。外縁には各階80のアーチの中に彫像が飾られ、外壁には大理石で覆われていた。

   この名高い闘技場でたくさんの剣闘士たちが傷を負ったり死んだりしている。猛獣と人間との戦い、剣闘士による人間同士の戦いを観て、大観衆が流れる血にわきかえる。このような残忍なローマの風習はなぜ長く続いたのか。一説では、この競技は、エトルスキ人の宗教儀式に起源をもつと考えられる。紀元1世紀に、キリスト教会の創始者の1人で、アンティオキアの司教でぁつた聖イグナティオスがライオンに身体を引き裂かれ、ここで殉教している。西暦404年には、キリスト教の修道士聖テレマコスが、ある剣闘士の闘いを止めさせようと間に入るが、群衆に石を投げつられて殺されてしまう。この蛮行に立腹した時の皇帝ホノリウスは、ローマでは剣闘士の登場する娯楽はすべて廃止した。それでも細々と続いていた剣闘士競技も5世紀半ばには行われなくなり、こうしてコロセウムも次第に衰退していった。ルネサンスの古代崇拝にもかかわらず、コロッセウムは長い間に荒廃していった。おそらく1231年の大地震のときに、南西部の外郭全体が崩落し、形をとどめない石のかたまりになってしまった。数百種の珍しい植物が生い茂り、1855年にはリチャード・ディーキンの「コロッセウムの植物誌」が出版されるほどであったが、周辺の衛生環境は悪く、当時のコロッセウムはチフスなど病気の発生源ともなっていた。ナポレオンがローマを占領してから、フランス人によって雑草が除去され、19世紀から20世紀はじめにかけて修復工事がおこなわれた。

 

 

眠れてますか?しっかり食べてますか?

  さし当る用も先なし夕涼み 岩田涼菟

 あの高市早苗首相が「睡眠をもうちょっと取りたい」と側近に漏らしているそうである。睡眠時間は一日二、三時間くらい。食事も十分にとれていないらしい。「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」と宣言したが、半年で限界がきたみたいだ。

  朝晩の温度差が大きく、新生活になじめず五月病になる人も多い。「何となくやる気がない」「朝起きるのがつらい」「仕事に行きたくない」という症状はむしろ今の時期に多くみられ、「六月病」という言葉もあるようです。1年で自殺者が多い頃だそうです。決算期で支払いのできない自営業者、年金生活者、無職やホームレス状態の人、うつ病者、いろいろな問題を抱える人、ひっそり自死しています。自殺者は年間で3万人を超えています。日露戦争の戦死者数はおよそ8万4千人ですが、自殺による死者は3年で日露戦争を超えることになります。みなさん、毎晩、眠れてますか?しっかり食事できてますか?楽しいことをあれこれ考えて暮しましょう。

 

 

郵便(明治事物起源)

    近代日本の郵便制度は前島密により明治4年3月1日に始まった。創業時の郵便ポストは「書状集箱(しょじょうあつめばこ)」という。肘付き台に四角い箱をのせた木製ポストで、「上り方」「下り方」の二つの箱があり、上の掲示板に取集時刻や料金が書かれた。東京、京都、大阪、そして東海道の宿場62ヵ所に設置された。明治5年になると、黒いペンキを塗った「黒塗柱箱」(黒ポスト)が現れる。そして明治34年に鉄製の赤色丸型ポスト(中村幸治考案)ができる。
   近代郵便制度は、イギリスのローランド・ヒルが1837年にペニー郵便制を創案したことに始まる。それとともに登場したのが、四種の切符手形、いわゆる「切手」である。意匠に竜をあしらったことから、総じて「竜文切手」と呼ばれている。松田禄山の玄々堂が手作業で切手を製作していた。(これを手彫切手という)この日扱った郵便の数は、東京・大阪間でわずか308通しかなかった。やがて明治9年から明治政府に雇われたキヨソーネが印刷技術による切手を製作する。これより以前の明治3年、イギリスの貿易会社が発行した外国人向けのサザーランド切手というのが15枚ほど確認されている。東京築地ホテル館と横浜アフターハウスホテル間を馬車で手紙を運んだ。翌年には郵便制度が始まったので短期間で中止されている。世界初は1840年5月1日、イギリス郵政省が「ペニー・ブラック」を発行した。

 

 

5月1日の朝

Photo_2    令和8年の5月1日の朝である。英語のMayはユリウス暦およびグレゴリー暦による、1年の第5番目の月。豊饒の女神マイアMaiaに結びつけたことによるのだろう。マイアはアトラスの娘たち7姉妹の最年長で、ゼウスとの間にヘルメスを生んだ。キーツにマイアをうたった優れた詩がある。「ヘルメスの母!いまもなお若々しいマイアよ!かつてベイアの岸で崇め謳われたように、あなたに歌を捧げようか?」 5月1日の朝を「May morning」という。

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