芭蕉のガールフレンド
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
芭蕉の生涯は旅によってその人間を完成し、脱俗的俳諧に身をささげたといわれている。このような俳諧隠者としての名声は貞享元年から2年にかけて「野ざらし紀行」の頃には出来上がっていたと考えられる。つまり反俗的な文学が世間で受け入れられたというのは、世俗秩序の愚かさや、ずるさや、ごまかしや、わずらわしさに、世間の人々が何ほどか気づいたということである。フランスの文芸批評家ティボーデの「真の小説は小説に対して発する否(ノン)に始まる」という有名な言葉があるが、芭蕉の風狂文学こそ真の芸術であった。だが芭蕉自身は後世の門人たちが創り上げた隠者ではなく、若い頃は女好きで遊女や女中と遊んでいたらしい。芭蕉は生涯家庭を持ったことがなく、当然に妻もいなかったが、すくなくとも3、4人の親しい女性の名前が残されている。寛文2年から6年まで、藤堂新七郎家で料理人として勤めていたが、そこで「おとせ」という女中と恋仲になった。また近江には河合智月という女流俳人がいた。一番有名なのは「寿貞」という女であろう。一緒に江戸に出て同棲していた。芭蕉の弟子の野坡によると、「寿貞は翁の若き時の妾にて、とく尼になりしなり」とある。芭蕉が彼女を愛していたことは「松村猪兵衛宛真蹟書簡」から読み取ることができる。のち寿貞は門弟と駆け落ちしたため、芭蕉は隠者、脱俗的な境地になっていった。晩年には大坂で「園女(そのめ)」という美人で教養の高い人妻と親しくなっている。元禄7年芭蕉が没したのは園女邸である。園女は宝井其角を頼って上京し、俳諧師になっている。
深川雄松院の園女墓。「度会氏園女之墓」とあるのは、伊勢度会郡の出身であるためか。



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