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2026年4月30日 (木)

図書館記念日


 本日は「図書館記念日」。NHK「おはよう関西」で「みんなでつくる図書館」が紹介されていた。「まちライブラリー」はみんなが本を持ち寄って、テーマに沿って本棚を作っていく。寄贈者のメッセージを記入し、次に読んだ人が感想を連ねていく。本をきっかけに人と人とがつながる。また本棚を囲んでお茶会を開催したりする。磯井純充さんが2011年に大阪市中央区のピルの一室から始めて、現在ではカフェやお寺、病院など全国に約110ヵ所に広がっている。海外では「リトル・フリー・ライブラリー」という図書ボックス(ミニ私設図書館)が流行している。郵便ポストか鳥小屋のような小さな本棚を庭先につくり、近隣の人たちに利用してもらう制度である。(4月30日)

 

 

 

 

 

 

万福丸と万寿丸、そして於市の方

 大河ドラマ「豊臣兄弟」第17回(5月3日放送)小谷落城。武田信玄没。足利義明を槙島城で降伏し、室町幕府滅亡する。越前から軍をかえした信長は、小谷城に猛攻をかけ、浅井久政・長政父子を自刃させた。天正元年8月27日のことである。お市と娘3人は脱出させ、信長の陣屋に届けた。小谷落城の後、城と浅井氏の旧領はそっくり秀吉に与えられる。茶々、初、江のその後の人生はよく知られるが、長政には嫡男万福丸、二男万寿丸という2人の男児がいた(お市の子ではない)。落城後の人生は悲惨なのものだった。万福丸は当時10歳で、逃亡したが見つかり、9月に関ケ原で串刺しの刑に処せられた。もう一人の男児万寿丸は生まれたばかりの赤子で、難を逃れ後に僧侶となったというが詳しいことは記録にない。本能寺の変まであと10年。お市は天正10年、柴田勝家と再婚した。翌年、北ノ庄城が落城し、4月24日、市は自害した。高野山持明院所蔵のお市の方「浅井長政夫人像」は戦国一の美人といわれた美貌と品格がよく表れている。この画像には、天正17年の年紀の画賛があるので、長政の17回忌、於市の7回忌にあたって、淀君あたりが描かせたものと推測される。

火の用心

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    火災はいつ発生するかわからない。出火の原因は煙草などの不始末、漏電、飛び火、放火、落雷などの理由が考えられる。過去の有名な火事の原因を調べてもさまざまである。天智9年(670年)のこの日、法隆寺が落雷により全焼している。昭和25年11月18日、国鉄京都駅全焼。原因は駅構内の配電室から出火。昭和24年1月26日午前7時20分、法隆寺金堂の壁画が焼失した。電気座布団のスイッチの切り忘れが原因だった。2ヵ月前には石川県立図書館が類焼している。昭和23年11月15日午後11時50分に発生している。同年2月26日には強風によって東京永田町が火の海となる。新築したばかりの総理庁庁舎に延焼し多くの重要書類が失われた。昭和25年7月2日には金閣寺が炎上した。若い僧侶の動機には不明な部分もある。金閣寺に対するねたみ、とか、英雄死をとげるつもりが死にきれなかったとか謎である。この事件をすばやく三島由紀夫は小説「金閣寺」として発表し、「炎上」と題して映画化している。映画の中では、住職が戒律を犯して女色におぼれることを知り、堕落を意識するようになり、金閣寺に放火したことになっている。(4月30日) 参考:「京都の歴史10」京都市史編さん所

 

 

 

 

2026年4月29日 (水)

昭和の日

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   日本で戦中派といえば、第二次大戦という最も困難な時期に青春を送った世代という意味であろう。いまだいたい100歳以上の世代でその数は少ないが、子や孫の代でも、戦争の傷跡は残っている。このような言葉はドイツはじめ諸外国にはあまりないらしい。日本における戦中派の特色としては、「戦争責任という道徳的な問題から触発されて生まれている。戦争中のギリギリの体験が、戦後になるとすべてむなしくむだになことに思える。それまでの鬼畜米英といっていたかと思うと、8月15日以後は一億総懺悔ということになる」(石田英一郎「日本文化論」)このような思いを一様に抱いて戦後を生きてきたといえよう。ドイツ人には、戦中派意識などは微塵もない。戦争に加担したといいだせば、なにが責任だ、戦争に協力するのが国民として当然である、と割り切ることができる。戦争についてはドイツ国民が一枚岩の感情を持つ続けていたという。ところが日本人は複雑である。ドラマ「泣いてたまるか」の一編に「ああ軍歌」という話がある。渥美清が扮するサラリーマンは宴会で軍歌を歌うことを拒否する。彼には戦争体験があるからだ。しかし同僚のなかにも軍隊経験者はいるが、平気で懐かしんで歌っている。日本人の戦争への感情は一枚岩ではなく、それぞれが複雑な思いを持ち続けている。たとえば戦中派といわれる作家や著述家をみてもそのスタンスはさまざまである。松本清張(1909年生れ)、丸山真男(1914年生れ)、野間宏(1915年生れ)、司馬遼太郎(1923年生れ)などなど。だが「一億総懺悔」という言葉には抵抗があるであろう。戦争指導者の国民に対する責任を国民にすりかえるだけで終わってしまった。そして天皇陛下にお詫びしなければならない・・・という奇妙な論理までがつくりだされてしまった。いまや戦後派、あるいは戦無派の時代となってしまった。

参考文献
激動の昭和 図説日本の歴史17 集英社 1976年 

地方紙を買う女

   松本清張の小説には携帯電話やインターネットは出てこない。だが最近に放送される清張のドラマ化には必ずといってよいほど携帯電話が出てくる。昨夜放送の松本清張ドラマ「山峡の章」もそうだった。朝川昌子(菊川怜)が妹と心中した夫の真相を調べるため銀座のバーにホステスとして勤める。そこで見つけた夫の同僚外務官僚をケータイで隠し撮りする。その他メールのやりとりなど携帯電話は頻繁に出てくる。われわれ年のいったものが清張のドラマを見ようと期待する何がしかのムードは木っ端微塵に裏切られる。たとえば「地方紙を買う女」という作品がある。甲府・臨雲峡の山林で心中とみせかけて男を殺した女は、死体が発見されたことを知りたいために「甲信新聞」を新聞社から直接取り寄せる。このとき連載中の小説を読みたいという理由をつけたために、小説家から嫌疑を受けるという奇妙な展開である。完全犯罪をたくらむ女性と、それを暴こうとする作家の心理を描くミステリー感が絶妙である。この話を現代に置き換えることは不可能だろう。ネット検索をすれば済む話だから作品が成立しない。だが清張の時代を再現しようとすれば、セットや衣装などで経費はかかる。安くあげるためには、現代に置き換えられる清張作品を見つけることであろう。しかし、清張独自のムードはやはり昭和であってこそ生まれるものだとおもいたい。

    「地方紙を買う女」の映像化は、これまで映画「危険な女」(1959)に始まり、ドラマで9回製作されている。ヒロインの潮田芳子は渡辺美佐子(1959)、藤野節子(1957)、池内淳子(1960)、柏まゆみ(1962)、岡田茉莉子(1966)、夏圭子(1973)、安奈淳(1981)、小柳ルミ子(1987)、内田有紀(2007)が演じている。男女2人を心中にみせかけ山中で毒殺した女の話であるが、不幸な芳子の自殺で話は終わる。多くの作品はヒロイン芳子が主役であるが、1973年の夏圭子主演「地方紙を買う女」ではむしろ売れない小説家・杉本隆治(井川比佐志)の心理がよく描かれている。トップ屋・木次(山本圭)と杉本が作家の懊悩を表現しているラストが出色である。俳優座らしい演出といえる。

昭和の名女優

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昭和らしい雰囲気がある紙京子のブロマイド

 Youtubeで「夜の素顔」を観る。京マチ子主演、戦後の舞踊界を生き抜く芸者小えんの半生を描く大映全盛期の文芸巨編。切れ長の目に厚ぼったい唇、肉感的な肢体に圧倒される。美人の基準はカワイイとか透明感などではない。ある調査で「昭和の名女優」のアンケート結果は、1位の吉永小百合、2位夏目雅子、3位大原麗子から30位の京マチ子まで発表されている。その他は八千草薫、池内淳子、岩下志麻、大竹しのぶ、高峰秀子、浅丘ルリ子、松坂慶子、田中裕子、市原悦子、栗原小巻、岸恵子、杉村春子、竹下景子、原節子、太地喜和子、倍賞千恵子、桃井かおり、森光子、秋吉久美子、岸田今日子、高橋恵子、香川京子、酒井和歌子、田中絹代、加賀まりこ、樫山文枝、若尾文子。自分の好きな淡路恵子、島田陽子、薬師丸ひろ子は選外。2度も叙勲された扇千景が番外は当然としても、高峰三枝子、山口淑子(李香蘭)、山田五十鈴、轟夕起子、入江たか子、淡島千景、乙羽信子、沢村貞子など大物も選外というスゴイ結果となっている。あまたいる大女優を押し分けて、吉永が1位なのは知名度と国民的女優といえる品格であろうが、2位、3位は、女優の評価とは別の要因があるように思える。つまり具体的な映画作品の演技や女優としての評価というよりは、イメージ先行の結果であろう。

 

    舞台女優は女優とはみなされないのか山本安英、水谷八重子、東山千栄子、北林谷栄、奈良岡朋子、長岡輝子、渡辺美佐子、光本幸子、波野久里子、英つや子、岩崎加根子、加藤治子、日色ともえ、佐藤オリエ、劇団四季の藤野節子、久野綾希子、女剣劇の大江美智子、不二洋子、京唄子らは落選。

 

   本業は歌手だが女優としても活躍した奈良光枝、美空ひばり、由美かおる、小川知子、山口百恵、小泉今日子、浅野ゆう子、菊池桃子、南野陽子、中山美穂、西田ひかる、酒井法子らも惨敗。

 

    テレビでおなじみの女優さん。小林千登勢、弓恵子、広瀬みさ、夏純子、大谷直子、岡崎友紀、吉沢京子、土田早苗、栗田ひろみ、尾崎奈々、榊原るみ、坂口良子、岡田可愛、松尾嘉代、新藤恵美、紀比呂子、早瀬久美、小川ひろみ、浅茅陽子、杉田かおる、水沢アキ、壇ふみ、原日出子、万田久子、伊藤麻衣子、伊藤かずえ、鈴木保奈美。お嫁さんにしたい女優やアイドル女優も選外。市毛良枝、沢口靖子、古手川裕子、樋口可奈子、斉藤由貴なども選外。鰐淵晴子、十朱幸代、三田佳子、山本陽子、内藤洋子、星由里子、浜美枝、松原智恵子、和泉雅子、梶芽衣子(太田雅子)など吉永のライバル女優も不運だ。宝塚歌劇のスターはなぜいないのか。春日野八千代の初舞台は1929年だからズバリ昭和だ。小夜福子、葦原邦子、月丘夢路、越路吹雪、新珠三千代、明石照子、淀かおる、寿美花代、有馬稲子、真帆しぶき、那智わたる、藤里美保、麻鳥千穂、内重のぼる、加茂さくら、甲にしき、上月晃、古城都、八汐路まり、初風諄、郷ちぐさ、大原ますみ、榛名由梨、汀夏子、鳳蘭、安奈淳、松あきら、瀬戸内美八、高宮沙千、順みつき、麻美れい、遥くらら、東汐巴、大地真央、平みち、黒木瞳、秋篠美帆、神奈美帆、剣幸。大浦みずき、日向薫、杜けあき、ひびき美都、南風まい、こだま愛、毬藻えり、涼風真世、そして鮎ゆうきが昭和最後のスターか。

 

    映画では夏川静江、原駒子、千葉早智子、及川道子、高津慶子、川崎弘子、市川春代、山路ふみ子、飯塚敏子、逢初夢子、伏見信子、桑野通子、三宅邦子、水久保澄子、三浦光子、高杉早苗、水戸光子、花柳小菊、山根寿子、風見章子、宮城千賀子らは懐かしい。

   戦後では、中北千枝子、関千恵子、杉葉子、折原啓子、津島恵子、三条美紀、西條鮎子、若山セツ子、花井蘭子、宮城野由美子、滝花久子、細川ちか子、相馬千恵子、野上千鶴子、月丘千秋、高倉みゆき、利根はる恵、市川和子、筑紫あけみ、久保菜穂子、大空真弓、小畑絹子、宇治みさ子、桂木洋子、左幸子、宮城まり子、高千穂ひづる。久我美子、香川京子、久慈あさみ、岸旗江、英百合子、島崎雪子、広瀬嘉子、小園蓉子、木村美津子、倉田マユミ、日高澄子、草笛光子、山本富士子、喜多川千鶴、千原しのぶ、長谷川裕見子、星美智子、田代百合子、川上康子、中田康子、三谷幸子、村田知栄子、浜田百合子、野上千鶴子、田村秋子、井川邦子、幾野道子、羽鳥敏子、岡田茉莉子、南田洋子、北原三枝、司葉子、安西郷子、吉村実子、西原泰子、井田綾子、水原真知子、小田切みき、阿部寿美子、有田紀子、小林トシ子、角梨枝子、高田敏江、紙京子、杉田弘子、牧紀子、桑野みゆき、小山明子、嵯峨美智子、団令子、田代百合子、丘さとみ、花園ひろみ、入江若葉、芦川いずみ、青山京子、大川恵子、叶順子、中原ひとみ、三ツ矢歌子、白川由美、水野久美、中原早苗、清水まゆみ、笹森礼子、吉行和子、野添ひとみ、桜町弘子、中村玉緒、朝丘雪路、鳳八千代、緑魔子、馬渕晴子、日比野恵子、山東昭子、江波恭子、藤村志保、香山美子、高田美和、御影京子、坪内キミ子、大川栄子、大楠道代、赤座美代子、しめぎしがこ、岩本多代、生田悦子、宇津宮雅代、奈美悦子、丘みつ子、岡江久美子、田島令子、中野良子、金沢碧、岡まゆみ、結城しのぶ、叶和貴子、石田えり、宮崎美子、有森也美、池上季実子、荻野目慶子、岸本加世子、小林聡美、富田靖子、田中美佐子、常盤貴子、手塚理美、早乙女愛、名取裕子、真野響子、真野あずさ、紺野美沙子、仁科明子、風吹ジュン、片平なぎさ、原田知世、渡辺典子、斉藤とも子、萩尾みどり、賀来千香子、三浦リカ、島田淳子、柿崎澄子、増田未亜、松雪泰子、松下由樹も昭和にデビューか。

    NHKの朝のヒロインも国民女優への道は険しく、30位以内に入ったのは、田中裕子、大竹しのぶ、樫山文枝の3人だけである。林美智子、藤田弓子、山口果林、真木洋子、高橋洋子、藤田美保子、秋野暢子、中田嘉子、鈴鹿景子、高瀬春奈、五大路子、新井春美、友里千賀子、相原友子、熊谷真実、山崎千里、星野知子、中村明美、藤吉久美子、小林綾子、加納みゆき、古村比呂、若村麻由美、藤田朋子、山口朋子。

  筑波久子、根岸明美、宮下順子、白木マリ、真理明美、三原葉子、前田通子、紅千登世、万里昌代、若杉嘉津子、炎加世子、渥美マリ、大信田礼子、絵沢崩子、白川和子、谷ナオミ、寺島まゆみ、風祭ゆき、竹田かほり、田中真理、亜湖、伊佐山ひろ子、竹井みどり、烏丸せつ子、朝岡実嶺、川島なお美らセクシー系は番外か。個人的には北沢典子、鈴村由美、梓英子、磯部玉枝、佐藤友美、篠ひろ子、永島瑛子、洞口依子、川上麻衣子やプッツン女優の藤谷美和子も気になる。脇役の吉川満子、飯田蝶子、毛利菊枝、浦辺粂子、村瀬幸子、清川虹子、岸輝子、浪花千栄子、菅井きん、千石規子、初井言栄、赤木春恵、樹木希林、泉ピン子らにも1票入れたい。それでも大物がもれていた。志穂美悦子だ。

 

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「に」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Nickolauscopernicus06    「ニコラウス・コペルニクス」ポーランド出身の天文学者。天動説を覆す地動説を唱えた。▽「ニコライ・レスコフ」ロシアの小説家。代表作には「魅せられた旅人」「美容師」「僧院の人々」など。▽「二コラエ・チャウシェスク」ルーマニア初代大統領。

 

ニキ・ラウダ
ニキータ・セルゲーヴィチ・ミハルコフ
ニキータ・フルシチョフ
ニケフォロス1世(東ローマ皇帝)
ニコラ・サルコジ
二コラ・テオドール・ド・ソシュール
二コラ・テスラ
ニコラ・プッサン
二コラ・ベルツ
ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ
ニコライ・オガリョフ
ニコライ・カサートキン
ニコライ・グルントヴィ
ニコライ・コンドラチェフ
ニコライ・セミョノヴィッチ・レスコフ
ニコライ・ドミートリエヴィチ・コンドラチェフ
ニコライ・ドルジーニン
ニコライ・ブハーリン
ニコライ・ブルガーニン
ニコライ・プルジェワルスキー
ニコライ・ぺトロヴィチ・レザノフ
ニコライ・ベルジャーエフ
ニコライ・ポドゴルヌイ
ニコラーイ・オストロフスキー
ニコライ・ネクラーソフ
ニコライ・リムスキー・コルサコフ
ニコライ・ルカビシュニコフ
ニコライ・レザノフ
ニコライ・ロバチェフスキー
ニコライ・ワシリエビチ・ゴーゴリ
ニコラウス・クザーヌス
ニコラウス・コペルニクス
ニコラウス・ステノ
ニコラエ・チャウシェスク
ニコラス・ウィントン
ニコラス・ケージ
ニコラス・マドゥロ・モロス
ニコラス・ホールト
ニコラース・ティンバーゲン
ニコーラス・マース
ニコール・カルファン
ニコール・キッドマン
ニコル・パシニャン
ニコロ・パガニーニ
ニザーム・アルムルク
ニッキー・リード
ニッキ・パロット
ニック・アダムス
ニック・ノールティー
ニック・ポープ
ニッコロ・マキァヴェリ
ニナ・フォック
ニナ・リッチ
ニニ・ロッソ
ニーノ・ロータ
ニール・アームストロング
二ール・ジョーダン
ニール・サイモン
二ール・セダカ
二ール・ダイヤモンド
ニルス・アドルフ・エリク・ノルデンショルド
ニルス・グスタフ・ダレーン
ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア
ニールス・ボーア

 

Original
   ニコール・カルファン

竹丸はエースの顔じゃないの!?

  巨人・ヤクルト戦。4回2死一、二塁。ピッチャー竹丸は投球する際にバランスを崩し、転倒しながら投じた球が大きく山なりで、ワンバウンド。三盗を試みた二塁走者が走りだすと、すかさず捕手岸田が三塁へ送球。盗塁死が記録され、ピンチを脱した。

 巨人ドラフト1位の竹丸和幸とはどんな投手なのか。高校・大学時代は無名の存在だった。大学を出て社会人野球へ。鷺宮製作所は自動制御装置など精密機械の企業で、野球部は都市対抗野球の強豪である。注目されだしたのは社会人2年目のシーズンだった。なにより巨人のスカウトの慧眼がスゴイぞ。

  一見、無表情で大人しそうな風貌からボンボンとみられがちである。評論家の廣岡達朗が「竹丸は巨人のエースの顔じゃない」と一刀両断に酷評した。エース顔とは、戸郷翔征のようなビリケン顔なのだろうか。顔で投手の良し悪しがわかるのかさておき、幸運も手伝って竹丸は早くも4勝目をあげた。あんまり舐めたらあかんぜよ。

 

 

 

阿野廉子と隠岐

Photo_3  正平14年のこの日、阿野廉子が崩御する。阿野廉子は後醍醐天皇の后妃。恒良親王・成良親王・義良親の3人の子を産んでいる。後醍醐の隠岐配流の期間、阿野廉子は随行していたであろう。おそらくこの1年間に、生涯を結ぶきずなとなる愛情が2人の間にできたのではないだろうか。

  隠岐の月の出は遅く、あたりは漆黒の闇に包まれている。その間にまぎれるようにして、黒木の御所から慌しく一丁の輿が担ぎ出された。当然、御所警固の侍が怪しんで誰何する。駕籠から顔を出したのは廉子だった。日頃は取り澄ました廉子があでやかに微笑みかけて「ちょっと侍女のお産見舞いに行くところなの」と言う。どぎまぎした警固の侍はそれ以上の吟味もせず、うっかり通してしまった。ところがなんとその輿には、廉子とともに後醍醐が息を殺して身をひそめていたのだった。廉子の機転で後醍醐は無事、隠岐を脱出できた。廉子=悪女説は後世の創作と考えられている。(4月29日)

足利義政と銀閣寺

 宝徳元年(1449年)のこの日、足利義政が室町幕府の第8代将軍になる。13歳で就任したが、有力守護の圧力に抗することはできず、応仁の乱を引き起こすことになる。義政と言えば銀閣寺である。銀閣寺とは俗称であり、足利義政の死後は、その遺命により禅寺とし、彼の法号に因んで慈照寺と名づけられた。応仁の乱の直後の財政難で工事はなかなか進まなかったようである。一年有半の歳月を費やして、竣工したのは翌年の文明15年(1483)6月27日である。実際に観音殿(銀閣)が完成するのは、さらに6年後の延徳元年(1489年)である。

  造営が竣工した日、義政は長谷御所から浄土寺山荘に移った。「女中連れの賑やかな移転であった。山荘の落成を祝賀して貴戚権門が多数参集した。冠蓋織るが如くであった」と横川景三は書いている。義政の満足想うべきである。しかしまだ住居部分の山荘が落成しただけで、実は全体の構想の二分ばかりにすぎなかった。延徳元年(1489年)に、ようやく観音殿(銀閣)が上棟された。銀閣は2層からなり、第一層心空殿は正面4間・側面約3間で和様書院造風の構造。第ニ層潮音閣は3間四方、禅宗様仏風で、堂中に観音像を安置する。東山殿の建物は10箇所と伝えられる。そのうちでも特に念を入れて造ったのは持仏堂である。仏間には阿弥陀三尊像を安置し、その名を東求堂と名づけた。またこの堂内に小書院の「同仁斎」がある。この部屋は書斎で、書画奇玩を鑑賞するに最適の設備が施された。しかもその大きさは僅かに四畳半敷である。後世この小室を茶室の祖と称する。東求堂に対して「西指庵」があった。ここも義政が造営に力を入れたところである。亀泉集証は文明17年4月9日始めてここに入り、「実に天下の奇観なり」と讃えている。

  また俗に銀閣と称されている観音殿がある。これまで銀箔が貼られていたのではないかという言い伝えもあったが、このほど奈良文化財研究所のエックス線による分析で、銀閣は創建当時から一度も銀箔が施されていなかったことが科学的に証明された。創建時、2階の外壁は漆黒が塗られていた。資金難で銀箔が貼られることはなかった。では、なぜ銀閣寺と呼ばれたのであろうか。ひとつは、北山の金閣寺に対する呼び方として銀閣寺が定着したとする説。二つ目には、池の反射光が漆塗の外壁に映って銀色に輝いて見えたからという説がある。本堂・東求堂の南面に庭園が広がり、庭の主要部には錦鏡池がある。また庭の西北隅、即ち本堂の南面に不思議な砂盛りがある。これを銀沙灘(ぎんさだん)と呼ぶ。(4月29日)

2026年4月28日 (火)

日本人物伝・左甚五郎

   慶安4年(1651年)のこの日、日光東照宮の眠り猫などで知られる江戸寛永の名工・左甚五郎が56歳で逝去した。播磨国明石の生まれで、京都に出て禁裏大工の棟梁遊佐与平次に師事し、豊臣秀吉・徳川家康とも面識があった。寛永12年、師のあとを継いで禁裏大工の棟梁となった。日光東照宮・上野寛永寺の造営に従事したが、晩年は讃岐国高松の松平家に召しかかえられ、そこで没した。東照宮の眠り猫、寛永寺の水呑み竜などは彼の作とされるが、いずれも疑わしい。その作品があまりにも精巧をきわめたために、それらが抜け出て行動するという伝説がある。甚五郎は、きわめてさっぱりとした性格で、すこしもモノに対する執着というものが無かった。だから貯えているものがなくれば、その業につとめるという有様だった。ある人がこれを諌めると、甚五郎はニッコリとして、

 たのしみは貧しさにあり梅の花

と詠じたという。ただし類似の歌は「講談・紀伊国屋文左衛門」にもある。(4月28日)

 

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 左甚五郎作「大黒天」 

 

   左甚五郎のまとまった伝記資料は講談などでお馴染みの人物のわりに少ない。出身地も播磨明石、紀伊根来、讃岐高松など諸説ある。

 

匠左甚五郎伝 柳沢武運三 福老館 1888

 

左甚五郎 名人奇談 中村兵衛 大学館 1908

 

左甚五郎 山本瑞雲 書画骨董雑誌100  1916

 

左甚五郎利勝の略史 香川県先哲宣揚会編刊 1934

 

名匠左小刀実記左甚五郎伝  左光挙 世界社 1953

 

讃岐と左甚五郎:考証左甚考  左光挙 先哲宣揚会 1958

 

左甚五郎考 森本一雄 飛騨春秋35  1959

 

 

 

 

 

 

 

 

2026年4月27日 (月)

ローカル路線バスの旅

 月曜日はプロ野球が休みなので、テレ東の再放送「ローカル路線バスの旅」を観ている。2014年放送で懐かしい。太川陽介・蛭子能収の名コンビにちはるをマドンナに迎え、館山から会津若松山を目指すバス旅珍道中。この番組は田中要次、羽田圭介のZ、そして女性だけのWと続いている。現在はスケートの高木奈那がリーダーとなっている。それにしても日本全国をめぐる旅がしたい。温泉めぐり、古寺など名所・史跡めぐり、鉄道旅もいい。でもお金と体力がない。もう一度、若者にもどれるなら旅がしたい。

ルールは変更されて過酷な競争レースになった。蛭子さん時代のゆるキャラが懐かしい。当時蛭子さんも60歳の男盛りだったか、引退して認知症が進行しているようで、写真を見るとかなりお痩せになっている。現在78歳だが、自分が出演した回を懐かしく見ているだろうか。

 

 

エマーソンの読書法則

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 私の実際的な読書の法則は三つある。  

1.1年を経過していない本は読まないこと  

2.有名な本のほかは読まないこと  

3.好きな本のほかは読まないこと

 

   ラルフ・ワルド・エマーソンは1882年のこの日、死去。エマーソンは超絶主義運動の指導者として、マサチューセッツ州コンコードに隠棲し、思索と読書の生活を送った。(Ralph Waldo Emerson)4月27日

哲学の日

  本日は「哲学の日」。紀元前399年のこの日、ギリシアの哲学者・ソクラテスは、死刑宣告を受けて、「悪法もまた法なり」と言って、自ら毒杯を飲んで亡くなったとされる。だがソクラテスの有名な言葉「悪法もまた法なり」の出典は、いくらさがしてもない。弟子のプラトンが書き残したという事実もない。この言葉は本当にソクラテスの言葉なのであろうか。プラトン(前427-前347)がソクラテス(前470頃-前399)に出会ったのは、ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」によればプラトン20歳、ソクラテス56歳、前407年と推定している。一説によると、プラトンの兄のアディマントスかグラウコンがソクラテスと親しかったからといわれる。ともかく、プラトンは以後8年間ソクラテスの弟子となる。その後ソクラテスは前399年、死刑となるが、その時、プラトンは28歳だった。ソクラテスの死は、プラトンにとって哲学の原点となった。

    ソクラテスの死後、プラトンは他の人々とともに、メガラのエウクレイデスのところに一時身を寄せたほか、キュレネやエジプトに旅をしたと伝えられている。この頃、亡きソクラテスを主人公とする対話篇を書きはじめた。「政治家が哲学するか、哲学者が政治をするようにならないかぎり、人類は不幸から救われないであろう」(『国家』)というプラトンの政治哲学が生まれた。

   ソクラテスが投獄されたとき、毒逃亡の機会があったにもかかわらず、国法に従って毒杯をあおいで死んだ、という話が日本では明治以来伝わるが、実はこれは作りはなしである。ソクラテス自身の著作はなく、弟子の伝聞にもない。英語でそれらしき部分には、「obey and do not do otherwise」つまり「自分の哲学に殉じて死を選ぼう」という意味。悪法でも刑に服する、の意味とは正反対。むしろ「法だからといって従う義務はない。自分自身の信念にのみ従う」ということである。明治の法曹はソクラテスの故事を遵法精神として鼓吹した。まことに国家にとって都合のよい名言である。(4月27日)

 

 

2026年4月26日 (日)

悪妻の日

Img_0005   「良妻に恵まれれば、幸福になれるだろう。悪妻を持てば哲学者になれる」本日はソクラテスの命日だが、悪妻の日でもある。世界三大悪妻とは、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェ・ヴェーバー、トルストイの妻ソフィア・トルスタヤ。本当に悪妻であったかは、いずれも真偽のほどはわからない。 文豪シェイクスピアの8歳年上のアン・ハサウェイも一般には悪妻として知られている。

日本三大悪女といえば、北条政子、日野富子、淀殿。文豪夏目漱石の妻鏡子も悪妻と言われている。漱石は第五高等学校(現熊本大学)の英語教師時代に、中根鏡子と見合い結婚している。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」といっている。夏目鏡子は通説では「悪妻」という評判であった。しかし2011年夏、古書市で鏡子の3通の手紙が発見された。明治43年の日付があり、漱石の修善寺大患の容態を心配したり、家庭のことや門下生のことを思いやる妻らしい面がみえる。鏡子は世間で言われているほど悪妻ではない。

 そもそも4月27日を「悪妻の日」とするのも怪しい。なぜならソクラテスが刑死の日付は文献上の根拠がないからである。「ビジネス記念日データーブック」日本経済新聞社に「悪妻の日」が収録されているが、1993年刊行が初登場である。(4月27日)

太田花子

 太田花子(1868-1945)。明治34年、単身でヨーロッパに渡り、大正10年に帰国するまで20年間、ヨーロッパ各地で日本の芝居を演じた。川上貞奴と並ぶ日本の名女優として大評判を博するが、貞奴と比べ記録が少ないため、今日知る人は少ない。コンサイス日本人名事典にも収録されていない。森鴎外の「花子」は彼女を題材としている。参考文献 「花子とロダン;知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い:特別展」一宮市尾西歴史民俗博物館 2008年

 

 

長崎から江戸を歩いた渡来象

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   本日は「象の日」である。1729年、海をわたって2頭の像が交趾(ベトナム)からやってきた。貿易商人の鄭大成が徳川吉宗の命で中国船で輸入したのだ。不幸にも牝の1頭は病死したが、残る牡1頭は享保13年(1728)3月、長崎を出発、4月26日には伏見から京都に入った。「爵位のない者が宮中に入つた例はない」「では象に従四位の位を授けよう」となり、28日に叙されたうえで、中御門天皇、霊元上皇に拝謁した。その後29日に京都をたち、東海道を下って、5月25日江戸に到着した。初めてパンダが来日したときのような江戸のフィーバーぶりだった。そして5月27日には将軍吉宗と対面した。象は浜御殿で13年間生活し、1741年4月に、多摩郡中野村(東京都八王子市)の源助にお預かりとなる。

 

 

2026年4月25日 (土)

ニューシネマとは何だったのか

    アメリカの代表的な週刊誌「タイム」は、1969年12月号で「ニューシネマ、暴力、セックス、芸術、自由に目覚めてハリウッド映画の衝撃」という大見出しをつけて、「俺たちに明日はない」の特集記事を掲載した。「俺たちに明日はない」は興行的には成功しなかったが、このあとアメリカ映画は「卒業」「イージー・ライダー」「明日に向かって撃て」が次々とヒット作を連発した。だが「ニューシネマとは何か」と改めて問うとよくわからないところがある。ある人はベトナム反戦で生まれたといい、ある人はアメリカという国の体制にうまくなじめない若者を描いたという。しかし、このような定義では括れない映画もニューシネマといわれる。「俺たちに明日はない」はベトナム反戦の主張が含まれているわけではない。新しいスター、非ハリウッドというが、主演のウォーレン・ビューティは「草原の輝き」で知られた既成のハリウッドの美男スターだ。「アリスのレストラン」という映画が、ベトナム戦争、徴兵制度、ヒッピー、麻薬などニューシネマ的素材をてんこもりにした作品だろうか。しかし、「バニシング・ポイント」などただ猛スピードでアメリカを横断し、爆死するという内容に映画的な新しさを感じても、ニューシネマ運動という共通の芸術理念を見出すことは困難である。つまり、イタリア・ネオリスモやフランス・ヌーベルバーグのような映像作家の共通した芸術意識をニューシネマからは見出しにくいのである。「俺たちに明日はない」が制作されたころ、既成のハリウッド映画界は「哀愁の花びら」や「サンタモニカの週末」などが作られた。両作に出演しているシャロン・テートはその時代のハリウッド・シンボルともいえよう。トニー・カーティスやロック・ハドソンといった二枚目がシリアスからコメディ路線に転向しやがて人気に陰りがみえはじめた。そうしてニューシネマはパニック映画「ポセイドン・アドベンチャー」「タワーリング・インフェルノ」などのグランド・ホテル形式の既成の豪華ハリウッド・スター映画のヒット作の攻勢によって自然的に消滅していった。スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスなどニュー・シネマ後期から出現した新しい若手監督によって、ハリウッドは再び活発になっていったことがニューシネマの功績といえる。

武漢と武昌

 今日、新型コロナが中国・武漢のウイルス研究所から世界に広がったとするのは衆目の一致するところです。武漢市は湖北省の省都。面積1,557k㎡、人口1089万人の大都市である。中国は歴史が古いので、地名の話になるとどうしてもややこしくなる。ここでは武漢と武昌の違いを簡潔に記すことにする。1911年の孫文「武昌起義」など、武昌も政治的に重要な地名なのでポイントをおさえておきたい。

現在の武漢は、1926年に国民革命軍が武昌を攻略し、武昌・漢陽・漢口の「武漢三鎮」を合わせて武漢市としたものである。中華人民共和国成立後も、武漢市は引き続き湖北省の省会となり、武昌は長江以南(右岸)の4つの行政区、武昌・青山区・洪山区・東湖新技術開発区の行政区画を武昌と総称している。武漢市は元代から明代にかけて、長江と漢水が合流する水運の要衝として農産物集積地として商業が発展した。「中国のシカゴ」とも呼ばれている。

拾得物の日

Pn2009042501000103___ci0003 本日は「拾得物の日」。落とし物を路上で拾得し、警察に提出した場合、遺失者が判明した場合は、物件の価格の5%~20%の報労金を請求できる権利がある。もし3ヶ月経過しても遺失者が判明しない場合は、拾得者が物件を受け取る権利がある。  

 大金を拾得して警察に届け出たが、遺失者が判明せず、大金持ちになったという夢のような話があった。拾得者はそれまで無名の人だったが、マスコミにその名前が知られ、一夜にして有名人になってしまった。

  トラック運転手だった大貫久男は1980年4月25日夜、仕事帰りに、銀座の昭和通りで、ガードレールの支柱の上に風呂敷にくるまれて置かれていた現金1億円を発見した。「選挙費用」「株の仕手戦の資金」など、さまざまな憶測をよんだが、結局、落とし主は現われず、1億円は大貫久男のものになった。だが所得税が約3400万円かかるため、実際の手取りは約6600万円だった。大貫は記者会見で、「幸せになるか不幸になるか、ぼくの人生が終わった時に答えが出ると思う」という名言を残した。大金を手に入れても、その後の人生を大貫は堅実に生き、平成12年11月9日、病気で61歳の幸福な生涯をとじた。お笑いタレントとして吉本所属しているタカダ・コーポレーションの大貫幹枝は大貫久男の孫になる。近年の週刊誌情報によれば、一億円の落とし主は「政界の暴れん坊」と呼ばれた浜田幸一という代議士らしい。(一億円拾得事件)

ギロチンの日

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  1792年のこの日、のちにフランス国歌になる「ラ・マルセイエーズ」が作曲された。同じ日、フランス国民会議で、断頭装置ギロチンが正式処刑道具として採用することが採択された。2本の柱の間に吊るして刃を落とし、柱の間にうつ伏せ状態にさせた受刑者の首を切断する執行装置である。その呼び名は解剖学者ギロチンに由来するといわれる。しかし、これは事実ではない。断頭装置は少なくとも13世紀からヨーロッパにすでに存在していた。イタリアでは「マナイア」、イギリスでは「メイドン(処女)」、ドイツでは「ディーレ」「ホッペル」「ドラブラ」などと呼ばれた。時は流れて18世紀フランス。ジョセフ・ギロチンはギロチンは機械的な装置を使用することによって受刑者に無駄な苦痛を与えず、人道的な処刑を行うように、議会に提案した人である。処刑具の開発には関わっていない。ギヨタンから名前をとったギヨチーヌGuillotine(ドイツ語読みでギロチン)が広まった。一般にはギヨチンがギロチンを発明したかのような印象がある。正確はジョゼフ・ギヨタンという医師とギロチンとは別で、ギロチンとは「ギヨタンの息子」を意味する。彼の親類は、この機械に名前を使用することをやめてくれるように政府に依頼したが、この言葉が広く認知されてしまったので、やむなく姓を変更したという。フランス革命まで、首をはねる死刑は貴族に限られていたが、ギロチンの発明が王侯貴族(ルイ16世とマリー・アントワネット)ばかりか、ダントンやロベスピエール、一般人もその対象になった。死刑執行人は代々「ムッシュ・ド・パリ」と呼ばれて、担当を格式を持っていた。1967年9月10日、フランスで最後のギロチンによる死刑執行が行われた。1981年、ミッテラン大統領の提案に基づき、ギロチンの使用中止が提案された。ギロチンだけでなく、死刑そのものが廃止され、フランスは西ヨーロッパの大半の諸国と並んで死刑のない国になった。(4月25日)

 

 

2026年4月24日 (金)

ええじゃないか

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「ええじゃないか」は、慶応3年7月半ば頃から12月にかけて、東海地方から近畿地方で空から御札がふってくるという現象が起こり、それを喜んだ民衆が「ええじゃないか」と唱えながら踊り続けたという騒動である。「ええじゃないか」踊りは、お蔭参りの変型したものという説がある。誰がこのようなことを始め、なぜ一気に広がったのかは諸説あり、よく分かっていない。名古屋では慶応3年8月28日からお札の降下が始まった。討幕派が世の中を混乱させるために仕組んだという説もあるが、想像の域を出ていない。(週刊朝日百科日本の歴史94  近世から近代へ「世直しとええじゃないか」昭和63年2月)

 

 

 

 

ノイン・ウラ(「ノ」事項索引)

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「ノイン・ウラ」モンゴルのウランバートル北方にある匈奴の古墳群。▽「ノエシス ノイマ」現象学において「思考の働き」をさす「ノエシス」と、「思考されたもの」をさす「ノエマ」との、相関する二概念を用いて説明される。▽「ノアイユ夫人」恋愛をうたった20世紀仏の女流詩人。▽「ノイジードラー湖」オーストラリアとハンガリーとの国境にある湖。▽「ノアールムーチェ」フランス西部の島(画像)。▽「ノク文化」西アフリカのナイジェリア中央部、ジョス高原を中心に紀元前10世紀から紀元後6世紀頃にかけて栄えた鉄器文化。▽「野沢凡兆」芭蕉の弟子で、去来とともに「猿蓑」を編集。▽「莅戸太華(のざきたいか)」江戸後期の米沢藩士。中級家臣から抜擢され上杉治憲の改革政策を推進。▽「野帳(やちょう)」検地のとき野外で記入した帳簿。▽「のっこみ」とは魚が産卵期にはいったときのこと。▽「のどぐろ」高級魚。別名アカムツ。▽「ウンベルト・ノビレ」1926年に自作の飛行機で北極飛行に成功した。▽「ノリクム王国」オーストリア地方に前2世紀に諸部族を統合した国家。▽「ノンノス」5世紀ごろのギリシアの叙事詩人。▽「ノイン・ウラ」1924年コズロフが発見した匈奴の墳墓。▽「能見宿禰」相撲の伝説で知られるが、出雲国の勇士で土師氏の祖とされる。▽「野村吉三郎」太平洋戦争開戦前の外相・駐米大使として日米交渉にあたる。▽「ノーデ」フランスの司書。近代図書館の基礎を築いた一人とされる。(ののの)

 

ノアイユ夫人
ノアの洪水
ノアールムーチェ(島)
ノイエ・ザッハリヒカイト(新則物主義)
ノイエタンツ
ノイジードラー(湖)
ノイシュバンシュタイン城(ドイツ)
ノイン・ウラ
ノヴォシビルスク
ノヴォトニー
ノヴゴロド国
農政全書(徐光啓編)
凌霄花(のうぜんがずら)
農地改革
濃尾地震
ノエシス ノエマ
ノク文化
納沙布岬
野沢凡兆
ノーサンガー寺院(ジェーン・オースティンの小説)
ノースウェストテリトリーズ(カナダ)
のすり
及位(山形県真室川町)
莅戸太華
野帳
のっこみ
ノーデ、ガブリエル
ノードカップ(岬) ノルウェー
のどぐろ
能登半島地震(2024年)
ノートル・ダム
ノートルダムのせむし男
野々村仁清
ノバスコシア(州) カナダ
ノバヤゼムリャ(ロシア)
野火止用水(埼玉県)
ノビレ
ノーベル
ノボシビルスク
野馬追い
能見宿禰
ノマドワーキング
野麦峠
野村望東尼
野村吉三郎
ノモス(都市国家)
ノモンハン事件(1939年)
野山獄
ノリクム王国
乗鞍岳
ノーリッジ(イギリス)
ノルウェー
ノルチェビング(スウェーデン)
ノルマン王朝
ノルマンディー上陸
ノルマントン号事件(1886年)
のろ(祝女)
ノロウイルス
のろま人形
ノンキナトウサン
ノンノス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミッデルハルニスの並木道

    むかしは学校に美術商が複製画の販売によく来ていた。一枚でも子供の小遣いで買うにはかなり高かったのでもっぱら見るだけだったが、強く印象に残る絵画がある。泰西名画といわれる一種だが、雲の多い高い空の下、画面の中央を遠くにまでつづく田園の並木道。遠近法と左右対称のシンメトリーの構図のお手本として美術の教科書にもよく採りあげられることが多い絵だ。向かって左側には高い塔のような建物、右側には民家が描かれている。人物も絵の中には数人描かれていて、ロイスダールの絵のように暗い感じはしないが、やはり物悲しい詩情が漂う。それはロンドンナショナルギャラリーが所蔵する「ミッデルハルニスの並木道」(1689)というマインデルト・ホッベマ(1638-1709)の17世紀オランダ風景画の傑作である。

    ホッベマという画家について、あまり詳しいことは知らないが、ロイスダールの弟子だったが、1688年に結婚し、アムステルダムの葡萄酒および油の計量器検定官として働き、そのため一時画家は断念したかにみえたが、1689年に大胆な遠近法をとりいれた代表作「ミッデルハルニスの並木道」を完成させ、彼の名は美術史に永遠に刻まれたということである。

   ところで、オランダにはこのようなポプラ並木が実際にあるのだろうか。現在、小村ミッデルハニルスにはこの並木道はないし、また当時存在したという確証もないという。いずれにしてもなんらかの形で実際の風景に触発されたにしても、この作品はホッベマ自身の自由な構想の所産と考えるべきであろう。ホッベマの作品はそれほど多く残されていないが、バルビゾン派の先駆的存在としてもっと評価されてもいいように思う。

   ところで美術史のなかで、いつ頃、どのような過程をへて風景画が誕生したのかを問うてみるのは、興味深いことである。西洋では、ローマの絵画で風景は背景として描かれ、中世の宗教画でも要素的扱いとされていたが、ルネサンスの時代において自然認識の深化とともに遠近法が確立され、自然風物の背景が重視されるように至った。17世紀オランダでロイスダール、ゴイエン、ホッベマ、ベルメールらが自然風景を写実的に描いて風景画が確立されるようになったことは一般によく知られているが、それ以前から中世の12ヵ月の月暦図のなかに年中行事や風景が描かれていたり、ルネサンス期のネーデルラントの画家ヒエロニムス・ボスの作品のなかに奇妙な風景が見出される。(メインデルト・ホッベマ,Meindert Hobbem,The avenue Middelharnis)

 

 

 

 

メイフラワー号(「メ」事項索引)

 「メイフラワー号」1620年、宗教上の迫害をのがれて清教徒30人を含む102人を乗せたメイフラワー号はイギリスのプリマス港を出帆し、大西洋を約65日かかって渡り、アメリカ東部マサチューセッツ州のコッド岬に到着し、のちプリマスに上陸した。彼らはやがてピルグリム・ファーザーズとよばれることになる。▽「メソロンギオン」ギリシア南部の町。イギリスの詩人バイロンはギリシア独立戦争に参加後、この町で客死した。▽「メーメル地方」バルト海に面したリトアニアに属する地域で、現在はクライぺダと呼ばれる。▽「明応の政変」1493年、足利義澄を擁した細川政元が将軍足利義稙を排斥し、幕府の実権を握る。(めめめ)


目明(めあかし)
雌阿寒温泉
メアリ1世
メアリ―・セレスト号
明応の政変
迷宮入り
メイエルホリド
冥王星
明月記
名刺
明治維新
明治神宮
名神高速道路(1963年)
名鉄百貨店
メイソン・ディクソン線
命題
明徳の乱
明白な天命
メイフラワー号
メイラード反応
名誉革命
明暦の大火
明六社
メガステネス
目からウロコ
メキシコ
メキシコ革命
メグレ警部
メシア
メスティーソ
珍敷塚古墳(めずらしづか)
メソアメリカ文明
メソジスト
メゾチント
メソポタミア
メソロンギオン(ギリシア)
メダカ
メタセコイア
メダルチギ
メッカ
メッテルニヒ
滅満興漢
馬手(めて)
メーデー
メディア
メディチ家
メディナ
メディナ・デル・カンポ条約
メーテルリンク
メトロポリタン美術館
メナンドロス
目には目を、歯には歯を
メニエール症候群
メネラウスの定理
メバラゲシ
メービウスの帯
メフメト2世
めまい
メーメル地方(リトアニア)
目安箱
目病み女に風邪ひき男
メラネシア
メランヒトン
メリーさんのひつじ
メリナ王国
メルセン条約
メロヴィング朝
メロエ
メロエ文字
メロリアの戦(1284)
メロンパン
メーン州
メンサ
免罪符
メンシェヴィキ
メンデル
メンデルスゾーン
メンフィス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界の墓地

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 アーリントン国立墓地(米国ワシントン)

    国の数だけの風俗・習慣がある。とくに多種多様なのはお墓である。イスラム教はお墓がないといわれる。英語で言う墓地 graveyardは、たいていは教会の中庭に設けられている。おそよ17世紀頃からヨーロッパでは、教会の統制の下に、行なわれるようになってきた。通常、キリスト教国は土葬で、腐ると掘り起こして納骨堂に納められた。しかし、ペストやコレラなど伝染病の蔓延につながり公衆衛生上の問題から、お墓が都市から離れた場所に作られるようになった。19世紀のイギリスでは多くの共同墓地セメタリーcemeteryが建設され、共同墓地は先行した教会墓地と対照的な点が多い。米国ワシントンDCの国立アーリントン墓地。主な埋葬者。ウィリアム・ハルゼー、グレン・ミラー、ジョー・ルイス、リー・マーヴィン、最も有名なのは、第35代大統領ジョン・F・ケネディのお墓である。パリで有名な墓地はモンマルトルの丘にあるモンマルトル墓地。ここにはゾラ、ハイネ、デュマ(子)、スタンダール、モーパッサン、ベルリオーズ、オッフェンバッハ、ボードレール、サルトル、ボーヴォワール、フラゴナール、ドガなどが眠っている。

 

 

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 イギリス・ウェールズの墓           沖縄の墓

渡世人の口上

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  渥美清の映画「フーテンの寅さん」の職業はテキヤである。香具師(やし)ともいう。大道商人で、縁日、夜店などで商いをする。現在、ガマの油は薬事法で販売禁止となったが、寅さんは弁舌さわやかに怪しげな商品を売っている。テキ屋の口上は、ヤクザ映画で旅の博徒が「おひけえなすって」にはじまる仁義の流れを汲むものであろうか。渡世人の口上が実際にどのような内容のものか歴史的文献ではあまり探せなかったが、愛知県の伊六万歳師、中村源若三代目の仁義が残っている。明治20年ころのものである。

おひかえなさんせ、おひかえなさんせ、早速おひかえあって、ありがとうござんす。手前、生国と申しまするは、尾州は尾張の国、海部郡は佐藤村、字草平新田、番地は六十二番区に住居をかまえております。渡世上についての親分と申しまするは、同じ尾州の国、海部郡は佐織村、字草平新田、番地は六十一番区に住居をかまえておりまする。名前発しまするは失礼にござんす、本名は加藤源七にござんす。二代目と申しますのが加藤源内、芸名発しまするは失礼さんにござんす、中村源若二代目。手前は、中村源若三代目つがさしております。いずれの土地へあがりましてもお師匠さま、またお友達の厄介、粗相になりがちの手前にござんす。行く末万端、ご昵懇(じっこん)にて、よろしくお引き立てのほど願っておきます。(参考文献:「雑学面白ことば」三省堂)

本と読書に関する名言・ことわざ・文献書誌学

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   印刷術が広くゆきわたるまで、写本図書の利用は一握りの学者に限られていた。刊本の図書がその数を増すにつれて、書物は万人のためにあり、民主主義の精神にとって重要であることがわかってきた。ここでは、古今東西の本と読書に関する格言・箴言・名言・文献を集める。

吉田松陰の言葉に「万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん 一己の労を軽んずるに非ざるよりは、丁寧んぞ兆民の安きを致すを得ん」意味は、たくさんの本を読んで人間としての生き方を学ばない限り、後世に名を残せるような人になることはできない。

有益な書物とは、読者に補足を要求せずにはおかれぬような書物のことである。(ボルテール)

 

三日、書を読まざれば、語言味わいなし。(世説新語)

 

単に知るのみならず、その知識に従って行動せよ。(フィヒテ)

 

どの時代にもそれぞれの課題があり、それを解くことによって人類は進歩する。(ハイネ)

 

人生の至楽は読書にあり。(永井荷風)

 

書物はひもとかなければ、一片の木片にすぎない。(イギリスのことわざ)

 

A closed mind is like a closed book,just a block of wood.

 

閉じられた本は塊でしかない

 

A book that is shut is but a block.

 

良き書物を読むことは、過去の最も優れた人々と会話をかわすようなものである。(デカルト)

 

書を読みて栄える者を見たり、書を読みて落ちぶれる者を見ず。(金言童子教)

 

機知に富みうちとけた言葉は永久に生命を持つ。(ゲーテ)

 

身体には鍛錬、心には読書。(アディソン)

 

この世のあらゆる書物もお前に幸福をもたらしはしない。だが書物はひそかにお前自身の中にお前を立ち帰らせる。(ヘッセ)

 

書物なき部屋は魂なき肉体のごとし。(キケロ)

 

私の実際的な読書の法則は三つある。
1.一年を経過していない本はどれも読まないこと
2.有名な本のほかは読まないこと
3.好きな本のほかは読まないこと(エマーソン)

 

私は人生を知ったのは人と接したからではなく、本と接したからである。(アナトール・フランス)

 

人生は短い。この書物を読めばあの書物は読めないのである。(ラスキン)

 

人の品格はその読む書物によって判断できる。それはあたかも、人の品格がその交わる友によって判断できるがごときものである。(スマイルズ)

 

本の世界では物事が説明されるが、実人生では説明なんかありはしない。人生よりも本を好むという人がいるが、驚くにはあたらないと思う。本は人生に意味づけしてくれるものだから。(バーンズ「フローベールの鸚鵡」)

 

読書百遍、義自(ぎおのずから)見(あら)わる。(魏志)

 

万巻の書を読み万里の路を行けば自ずと胸中に自然が映し出されるようになる。(董其昌)

 

読書とは、著者の魂との邂逅である。(亀井勝一郎)

 

読書は人間としての純粋な時間である。(亀井勝一郎)

 

インドの全財宝をあげても、読書の楽しみには換え難い。(エドワード・ギボン)

 

書物は友人と同様、数多くあるべきであり、そしてよく選択すべきである。(フラア)

 

読書のほんとうの喜びは、なんどもそれを読み返すことにある。(ロレンス)

 

読書に費やしただけの時間を、考えることに費やせ。(アーノルド・ベネット)

 

書物は一冊一冊が一つの世界である。(ワーズワース)

 

用例なき辞書は骸骨である(ヴォルテール)

 

書物を読むということは、他人が辛苦してなしとげたことを、容易に自分に取り入れて自己改善する最良の方法である。(ソクラテス)

 

本は知性のさまざまな機能に働きかける(フランシス・ベーコン)

 

おろかな学者は、おろかな馬鹿者よりも、ずっとおろかである(モリエール)

 

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   書物に関する文献目録

図書の部
倭板書籍考 幸島宗意撰 1702
官板書籍解題略 杉山精一訳 1847
日本書籍考 林羅山撰 1850
文芸類纂 榊原芳郎 1878
古梓一覧 西村兼文 1882
本朝書籍刊考 黒川真頼 1895
日本訪書誌 楊守敬 1897
国書解題 佐村八郎 1897
日本印書考 中根粛治 1899
明治出版史話 三木佐助 1901
古文旧書考 島田翰 民友社 1905
漢籍解題 桂五十郎 明治書院 1905
近藤正斎全集 近藤守重 1907
日本古刻書史 朝倉亀三 1907
徳川幕府時代書籍考 牧野善兵衛 1912
朝鮮図書解題 朝鮮総督府 1914
江戸物語 和田維四郎 1915
慶長以来書賈集覧 井上和雄編 1916
嵯峨本考 和田維四郎 1916
訪書余禄 和田維四郎 1918
製本術 島屋政一 1918
図書学概論 田中敬 冨山房 1924
解題叢書 経籍訪古志 廣谷雄太郎 廣谷国書刊行会 1925
典籍叢談 新村出 岡書院 1925
敦煌石室の遺書 石浜純太郎 懐徳堂 1925
書庫之起原 植松安 間宮書店 1927
京阪書籍商史 蒔田稲城 1928
書物装釘の歴史と実際 庄司浅水 1929
思想名著解題 春秋社 1929
本邦書誌学概要 植松安 図書館研究会 1929
書物の敵 庄司浅水  1930
書誌学とは何か 寿岳文章 ぐろりあそさえて 1930
装釘の常識 三村清三郎 岡書院 1930
日本訪書志補 王重民 1930
修訂建武年中行事註解 和田英松 明治書院 1930
中国図書館事業的史的研究 馬宗榮 中華学藝社編 商務印書館 1930
製本術 ブレガー著 赤坂・庄司訳 ブックドム 1931
日本蔵書印考 小野則秋 文友堂 1931
書誌学 小見山寿海 芸艸会 1931
宋元版の話 内藤虎次郎 名古屋市立図書館 1931
正徹本徒然草 川瀬一馬 文学社 1931
善本影譜 長沢・川瀬編 日本書誌学会 1931~35
影宋刊本御注孝経 長沢規矩也編 日本書誌学会 1932
好書雑載 高木文 井上書店 1932
西洋書誌学要略 橘井清五郎 図書館事業研究会 1932
粘葉考 田中敬 巌松堂 1932
成簣堂善本書目 川瀬・長沢 民友社 1932
成簣堂善本書影七十種 川瀬・長沢 民友社 1932
舊刊影譜 川瀬・長沢 日本書誌学会 1932
嵯峨本図考 川瀬・長沢 一誠堂  1932
漢籍解題1 漢文学講座2 長沢規矩也 共立社 1933
書誌学論考 長沢規矩也 松雲堂書店 1937
書誌学序説 長沢規矩也 吉川弘文館 1960
漢籍分類目録 集部東洋文庫之部 東洋学文献センター連絡協議会 東洋文庫 1967
書林清話 葉徳輝 世界書局 1968
書林掌故 葉徳輝等撰 中山図書公司 1972
書林清話・書林雑話 楊家駱主編 台湾・世界書局 1974
中国訪書志 阿部隆一 汲古書院 1976
書誌学序説 長沢規矩也 吉川弘文館 1979
図書の歴史と中国 劉国鈞著 松見弘道訳 理想社 1980
江浙蔵書家史略 呉辰伯 中華書局 1982
中国古代蔵書与近代図書館史料 春秋至五四前後 李希泌、張椒華編 中華書局 1982
書籍装幀芸術簡史 邱陵編著 黒龍江人民出版社 1984
目で見る本の歴史 庄司浅水、吉村善太郎 出版ニュース社 1984
造紙の源流 久米康生 雄松堂 1985
中国省市図書館概況 1919-1949 楊宝華・韓徳昌編 書目文献出版社 1985
書物に関する名句・名言・名文 エンカイリーディオン アリグザーンダー・アイアランド編 タングラム 1986
簡明中国古籍辞典 呉楓編 吉林文史出版社 1987
中国古代図書館事業史概要 来新夏 天津古籍出版社 1987
中国図書和図書館史 謝灼華編 武漢大学出版社 1987
中国図書の歴史 庄威著 吉村善太郎訳 臨川書店 1989
西洋図書の歴史 吉村善太郎 臨川書店 1990
中国蔵書史話 焦樹安著 商務印書館 1997
図書及び図書館史 寺田光孝ほか著 樹村房 1999
図説図書館の歴史 スチュアート・A・P・マレー 原書房 2011
写真でみる本の歴史 庄司浅水、吉村善太郎 日本図書センター 2011
図書・図書館史 三浦太郎編著 ミネルヴァ書房 2019
西洋書物史への扉 岩波新書 高宮利行 岩波書店 2023
中国目録学 ちくま学芸文庫 清水茂 筑摩書房 2024
中国目録学史 新・中国文化史叢書4 李端良 商務印書館
古今偽書考 姚際恒撰 清

 

論文の部
写本時代と板本時代とに於ける支那書籍の存亡聚散 市村瓚次郎 史学雑誌第13編1・3号 1902
唐以前の図書 那波利貞 歴史と地理2-2  1918
支那に於ける屋瓦使用の起源に就きて 那波利貞 支那学2-8 1922
支那における図書館事業 岡野一郎 支那研究5 1923
書帙の歴史 那波利貞 歴史と地理19-3・4・5 1927
支那書籍小史 1・2・3 長沢規矩也 書誌学1-4・5・6 1933
清代図書館発展史 譚卓垣著 西村捨也訳 図書館研究14(2)~(4) 1941
中国図書館の沿革及び現況 兪爽迷 書香128  1941
国立北京図書館の概況に就いて 法本義弘 支那文化雑攷 1943
毛沢東戸図書館 平和彦 読書春秋4-11 1953
中国図書館の揺籃時代 松見弘道 図書館界6-5  1954
中国の文教政策 内田幸一 日本及び日本人 1954
転期に立つ中国の図書館活動 図書館雑誌51-3  1957
記録の文化史 小倉親雄 図説世界文化史体系別巻 1961
武英殿輯聚珍版について 金子和正 ビブリア23   1962
年表図書館物語 矢島玄亮 東北地区大学図書館協議会誌13,14,15  1962-63
図書・図書館の歴史(断章) 中村初雄 早稲田大学図書館紀要4  1963
唐本の値段 餘自録 大庭脩 東洋史研究24-4  1966
洛図洛書の一考察 原田正己 早大・東洋文学研究6  1967
支那における図書館の誕生 長沢規矩也 書誌学11  1968
中国図書館学史序説 加納正巳 静岡女子大研究紀要3  1970
中国における著作意識の発達 石田公道 図書館界21-5~23・4 1970~71
香港の図書館 木村宗吉 日本歴史270  1970
古代中国図書史 木村靖 文化史学26  1971
図書館に就いて 内藤湖南 大阪朝日新聞明治33年11月29・30日 (内藤湖南全集3所収)  1971
北周の麒麟殿と北斉の文林館 山崎宏 鈴木由次郎博士古稀記念東洋学論叢所収 1972
清代の官書局の設置について 大西寛 長沢先生古稀記念図書学論集 1973
書禁と禁書 宮崎市定 アジア史研究2所収 1974
中国に於ける図書館事業史(1) 漢代の図書館事業 宮内美智子 青葉女子短期大学紀要1  1976
中国本ものがたり1~8  劉国鈞著 松見弘道訳 東海地区大学図書館協議会誌22  1977~78
中国の図書館事情 各地の図書館を参観して1 中原ますえ びぶろす29-11  1978
中国における図書分類法 井坂清信 参考書誌研究17  1979
図書館起源小記 黎紅 広西大学学報1979年第3期 1979
秘閣図書の源流について 神田喜一郎 「芸林談叢」所収 1981
洛陽の紙価 小池秋羊 東西交渉1 1982
中国に於ける刻書事業 宮内美智子 青葉女子短期大学紀要7 1982
禁書に関する二三の資料 長崎聖堂文書研究1 大庭脩 史泉40 1970
篠崎小竹旧蔵の「欽定四庫全書拾遺目録」について 大庭脩 近世大阪芸文叢談 1973

 

 

 

 

アメリカ議会図書館

 1800年4月24日、アメリカ議会図書館が設立される。略称はLC。法定納本図書館として、国内で刊行される著作物をほぼすべて収めており、日本の国立国会図書館のモデルとなった。蔵書数3200万冊、世界最大規模の図書館て、アメリカの知の象徴といえる。1814年ワシントンを攻略したイギリス軍が議事堂に火を放った際に、蔵書はほとんど失われたが、1815年トーマス・ジェファーソンの蔵書約6000冊を購入し、これを核にして再建された。その後1825年と1851年にも火災に遭い、1897年に現在地に移転した。蔵書の増加に伴って、1939年に別館が開設され、1980年に新館マディソン・ビルが完成した。1899年3月から40年間在任した第8代館長ハーバート・パトナムの時代に、資料・整理・サービスのあらゆる面において整備拡充された。(Library of Congress,Herbert Putnam )

 

 

2026年4月23日 (木)

名曲アルバム「コンドルは飛んで行く」 

Photo_6  「コンドルは飛んで行く」はダニエル・アロミア・ロブレスによって1913年に作曲されたアンデスのフォルクローレの代表的なム楽曲である。1970年にサイモン&ガーファンクルによってカバーされた曲は世界中に広く知られるようになった。そもそもアンデス文明は1532年にスペイン人によってインカ帝国が滅ぼされたが、それ以前から古くアンデス文明を形成していた。ペルー東南部のアンデス山中の谷にある都市クスコ(Cuzco)。人口はおよそ30万人で商業・交通の中心地である。インカ帝国の王都であったクスコとは、ケチュア語で「へそ」を意味するコスコcosco(中心地)から出たとする説がある。その他、インカ語で「トウモロコシを作る畑」という説もあり定説はない。アンデス文明の起源は古くカラウ遺跡など4000年以上も前のことである。2026年バンドゥリア遺跡で古代アンデス文明の神殿跡と生贄とみられる遺体が発見された。宗教儀式が存在していたとみられ。(Quechua)

ガーター勲章

 1348年のこの日、イングランド王エドワード3世がガーター騎士団を創設した。ガーター勲章とは英国の最高勲章。靴下留に似て、左膝下に着ける。エドワード3世がソールズベリー伯爵夫人とダンスを踊っていたとき、夫人のガーターが落ちた。これは当時としては大変はしたないことだった。王はそっとこれを拾って、自分の膝にはめ、自分のもののようなふりをして、彼女を助けた。そして「悪意を抱く者に災いあれ」といった。この言葉がガーター勲章に銘文となってぬいとりされている。(4月23日)

スズランの毒

 5月の終わりころ、北海道ではスズランが咲き始める。釣り鐘状の小さな白い花をつけていい香りがするスズランだが、可愛い花には毒がある、有毒性の成分を含んでいる。20世紀の終わり、ドイツのオスターマーケンという町で3歳になる養女が、のどが渇いたのスズランを挿したコップの水を飲んで死亡した例がある。スズランに含まれる有毒成分は30種を超えるが、その多くはま心臓への影響を持つもので、中でもコルバラトキシンは致死傷がおよそ18mg前後という強力なものである。

 

寺田屋事件(1862年)

Teradaya_01   文久2年のこの日、島津久光が京都の鎮静のため有馬新七ら薩摩藩尊攘派を惨殺するという寺田屋事件が起こった。寺田屋といえば文久2年の歴史的事を一般に指すが、それから3年後の慶応元年、坂本龍馬が幕府から襲撃され無事脱出した事件も寺田屋事件とよばれる。つまり文久2年と慶応元年の2つの寺田屋事件があったことになる。近年、龍馬ブームから寺田屋事件=龍馬襲撃事件と誤解する人も多い。京都伏見に寺田屋という観光スポットがある。中には龍馬やお龍、お登勢の写真が飾られている。刀痕のある柱や、お龍が龍馬に裸で追っ手を知らせる時に上った階段、昔の風呂場なども展示されている。だがこれらはすべて本物ではない。寺田屋は鳥羽伏見の戦いで全焼しており、現在の建物は明治になって再建されたものである。西村天囚は「寺田屋は、伏見の兵火に焚けしかば、家の跡を取払ひて、近き此処に銅碑を建て、寺田屋は其西に建てけり」(紀行八種、明治32年刊)とある。つまり現在の寺田屋は再建されたもので、展示品はレプリカであろう。経営者の安達清が昭和37年頃にこの古い建物を買いとり、龍馬ブームに便乗して旅館経営と観光地化を狙ったのであろう。(4月23日)

 

 

ビールの日

Fc852665a8481518dfb43de74b3c9b62   職場の同僚や仲間たちが集まって飲み会をするときは「先ずはビール」がお決まりである。ビールは世界中でもっとも親しまれている酒であろう。ビールの起源はメソポタミアや古代エジプトにまでさかのぼる。11世紀後半になるとホップを使った美味しいビールがつくられ、中世ドイツでビールの醸造がさかんになった。ところが品質の悪いものビールが横行するようになり、バイエルン公ウィルヘルム4世が1516年のこの日に「ビールは麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」というビール純粋令が発布され、品質が向上した。1935年1月24日アメリカのクルーガー社が世界初の缶入りビールを発売した。日本人による醸造は、1853年に蘭学者の川本幸民が江戸で醸造実験を行ったのが最初とされる。明治初年から輸入され、中期にはいくつものビール会社ができた。しかし、ひろくビールが飲まれるようになったのは大正期からであり、サラリーマンの時代の到来とともに社交に欠かせない飲み物となった。

ところで最近のキリン、アサヒ、サントリー、サッポロなどのCMは各社似ていてあまり記憶に残らない。「男は黙ってサッポロビール」三船敏郎が一番インパクトがあった。((4月23日)

参考文献
「ビールの歴史」ギャビン・D・スミス著 原書房 2014年

 

 

2026年4月22日 (水)

嵯峨天皇と喫茶の宴

Dsc02138   平安時代初期の弘仁6年(815年)4月22日、嵯峨天皇が近江国(大津市)に行幸したとき、梵釈寺の永忠という僧が、茶を煎じて献上したという記録が「日本後紀」に見える。これが確認できる、日本最初の喫茶の記録である。その茶がどういうものであるかは伝わっていないが、永忠は在唐30年の留学僧である。新渡の唐風俗である喫茶をもたらしたと思われる。おそらく永忠は苗木を持ち帰り、栽培した。苗木は10年もすれば成木となり、風味が生まれ、献茶にふさわしい条件をそろえたであろう。嵯峨天皇はこの茶が気に入り、直ちに各地に茶の栽培を命じたといわれる。しかし抹茶を用いるようになるのは鎌倉時代になるまで待たなければならない。

 

 

 

 

ゴッホはどのようにして評価されていったのか

ホフマンスタール

 

Photo_7   1901年、フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874-1929)はパリのラフィット街の画廊で初めてゴッホの作品と出会った衝撃を次のように書いている。

 

わたしはそれらの力強い、激しい存在の信ずべからざる奇蹟に衝撃をうたれた。樹木、黄色や緑色のいい地面、垣根、石だらけの丘にうがたれた道、錫の水差し、焼物の鉢、テーブル、粗末な椅子のおのおのは新しい生命そのものであった。それらは無生命の恐るべき混沌から、また無存在の深みから出てわたしの方へ向かって立ち上ってくるのであった。わたしは感じた。いやわたしは悟った。これらの被造物は全世界に絶望したかのような恐るべき懐疑から生れたものであり、その存在は虚無の醜悪な裂け目を永遠にうかがっているということを、わたしは、これらすべてを創った人、また恐るべき懐疑の死の痙攣から逃れるためにこの映像によって自らに答えたその人の魂をいたるところに感じた。(1901年5月26日付の手紙、「散文集」所収)

 

    ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、1890年7月27日、ピストル自殺を図り、29日午前1時半死亡した。弟のテドルス・ファン・ゴッホは画商のデュラン・リエルにゴッホの展覧会の開催を願ったが断わられる。このころゴッホの芸術を理解しているゴーギャンもエミール・ベルナール宛の手紙で「世間に馬鹿にされるだろう。時宜を得ていない。多くの人はゴッホの絵を気ちがいざたという。ゴッホのためにもならない」と書いている。

 

    ゴッホが死んでから半年後の1月21日、弟テオも死ぬとテオ未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862-1925)の世話でアムステルダムでゴッホ展が開催された。1896年、オーギュスト・フェルメーレンはオランダのフローニンゲンでゴッホと作品について講演をした。1896年、ゴーギャンはダニエル・ド・モンフレー宛ての手紙に「ゴッホの作品は値を安くすれば容易に売れる」と書いている。1900年画商のアムブローズ・ヴォラールは医師レーから鶏小屋の穴ふさぎにしていたゴッホの絵を150フランで買った。1901年3月、パリのラフィット街のベルネーム・ジューヌ画廊でゴッホの回顧展が開催される。展覧会場を出ながらブラマンクはマチスに語った。「わたしは親父よりゴッホが好きだ」。同じくフーゴ・フォン・ホフマンスタールは、この未知の画家に異常にほど魅かれた。そして1905年からオランダのアムステルダム国立美術館で大回顧展が開かれてから、ゴッホは評価されるようになっていく。アメリカの小説家アーヴィング・ストーン(1903-1989)はゴッホの芸術と生涯にふかい感動をうけ、「人生への情熱」(1934)を著し、好評を博した。3年後には「ゴッホ伝」を著し、ゴッホの「炎の人」としてのイメージが世界中に定着していく。ゴッホは絵画そのものよりも伝記などの生涯で注目されだした。ゴッホ人気が過熱したのは、ゆかりの地フランスではなく、表現主義が起こったドイツであった。ゲルマン系のドイツでは、オランダ人が同じゲルマン系、フランスはケルト系という民族の違いも背景にあったといわれている。

 

 

2026年4月21日 (火)

賤ヶ岳の戦い

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    織田信長が京都本能寺で明智光秀に殺害されると、跡目相続をめぐって、光秀を討って声望を得た羽柴秀吉と、織田氏の老臣柴田勝家は、対立、戦闘状態にはいった。天正11年(1583年)、勝家は越前北荘の居城を発し、近江柳ヶ瀬の北方内中尾山に陣を進め、秀吉は近江木之本に陣を張って対峙した。4月16日、秀吉は神戸信孝をせめるため岐阜の支城大垣に向かった。しかし、勝家の部将佐久間盛政が中川清秀(摂津茨木城主)が守る大岩山の砦などを奇襲し、中川は討ち死にし、近江の戦局は急を告げた。そして、盛政は勝家のすぐ退却せよという命令を無視して、敵中の大岩山に居座ってしまった。寡勢の柴田軍が兵力を分散させていては不利である。秀吉はすぐに北近江に引き返し、21日には賤ヶ岳に盛政を破り、続いて勝家を北荘に走らせた。さらにこれを追撃して北荘をおとしいれ、24日、ついに勝家を自刃させた。お市の方も共に自害した。この賤ヶ岳の戦闘で華々しい活躍をし、羽柴軍を勝利に導いた秀吉輩下の若武者、福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟屋武則、桜井佐吉、石河一光ら9人を賤ヶ岳七本槍という。七本槍と称しても実数で七人をさしてはいない。江戸の諸書では七名に数をそろえるため、たとえば甫庵「太閤記」では桜井・石河を省いている。(4月21日)

 

 

大岡越前守と天一坊事件

 大岡忠相は公正な裁判で名奉行とよばれ、映画・ドラマなどでその名が広く知られている。享保14年(1729年)4月21日、将軍吉宗の御落胤と騙った天一坊改行(1699-1729)が品川で死罪の上、獄門となった。天一坊のもとに集まっていた常楽院(赤川大膳)や山内伊賀亮など浪人たちも遠島や江戸払いとなる。

    天一坊の正体は紀州田辺の生まれで、幼名は半之助というが真偽は定かではない。「大岡政談」では宝沢(ほうたく)という感応院というお寺の小坊主となっている。享保日録等の史料に見え、天一坊は実在の人物と思われるが、将軍家を揺るがすような大事件ではなかった。大岡忠相の名裁きの一つとされるが、実際には大岡忠相はこの事件には全く関係していない。関係のない出来事を越前一人にに集めて作りかえられた創作である。

 「大岡政談」には、中国の「捌き物(裁判物)」が大きく影響している。例えば「石地蔵吟味の事」は「包公案」、「実母継母の子供争」ぱ「棠蔭比事」という中国小説集所集の話の翻案である。

 

 

2026年4月20日 (月)

郵政記念日

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 楽浪出土の封泥

 

    4月20日は「郵政記念日」。昭和9年、逓信省によって「逓信記念日」と制定されたことに因む。手紙を運ぶ近代郵便制度は1635年にイギリスででき、ローランド・ヒルが1837年にペニー郵便制を提案したが、通信の歴史は人間の歴史とともにある。最も古い記録では前1500年頃、古代エジプト第12王朝時代にすでに手紙を運ぶ飛脚を職業とする者がいた。しかし郵便が一定の組織をもち定期的な通信を行うように制度化されたのは、古代アケメネス朝ペルシアの駅制である。この駅制はアンガライオンと呼ばれた。前500年代にキュロス王が創設し、ダレイオス王が完成したこの駅制は広大な版図内に首府を中心として一定の距離に宿泊所を設けて、馬と馬丁を置き、騎馬による継走によって手紙を運ぶという通信機関であった。ペルシアに劣らず古い郵便制度をもっているのが中国である。周代の頃からあると推察されるが、漢の時代に整備された。のちに封泥が発見された。信書としてしたためた木簡に発送するとき封緘をした。それは木簡を縄で縛り、そのうえに泥を押しつけ、泥のうえに印を押捺する。封緘に用いられた泥だから封泥とよばれた。従って封泥のウラ側には縄のあとがくぼんで見られる。郵便物は郵亭をリレー式に運ばれた。angaraion

消えた二宮金次郎の銅像

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    戦前、全国の小学校の校庭には必ずといっていいほど二宮金次郎の像があった。背中に薪を背負い本を読みながら歩いている姿は勤勉の手本と称された。年輩の人ならだれでも知っているが、最近の若い人は金次郎の銅像を見たことないかもしれない。最初の金次郎像は1924年、愛知県前芝小学校に建てられたものだが、金次郎にゆかりのある神奈川県の桜井小学校や神戸や明石にも昭和の初めに建てられ、全国的に広がった。なぜ金次郎の像がなくなったのかはっきりとした理由はわからない。銅製の像は戦時中の金属供出のためであるが、石像のものは戦後もかなりの数は残っていた。1970年代、校舎の建替え工事などの際に無くなったものも多い。おそらく戦後の教育関係者が好まなかったのだろう。封建的、戦後民主主義に反するというイメージを持ったのかもしれない。金次郎の親孝行、勤勉、努力という考え方のどこがいけないのだろうか。ともかく二宮尊徳は教育現場から抹殺された。ところが最近、「フリー二宮金次郎」というブームがある。二宮金次郎を愛するイタリア人の青年が、純粋に人をなごませるために、道行く人に声をかけ、本を読みながら、ほんの少し一緒に歩いてもらうという活動をしている。世界的に普及しているFree Hug(フリー・ハグ)運動に因むという。街行く娘さんが携帯を手に持って急ぎ足で行く光景は感心しないが、フリー二宮金次郎という試みは大いに賞賛する。それをはじめたのがイタリア人だったというのが、なんともやりきれない。二宮金次郎は報徳思想といって「努力すれば報われる」という勤勉をうたったものだが、何でも簡単に手にはいる大量消費になれた日本人にとっては、忘れ去られた精神なのだろうか。大震災に遭った日本人にいま求められるのは二宮金次郎の「勤勉さ」「辛抱強さ」だろう。かつて田園調布の長嶋茂雄の家には二宮金次郎の石像があったらしい。ミスターも古い日本男児で二宮金次郎を尊敬していたのである。

2026年4月19日 (日)

ビリケンの流行

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 1910年頃の米国ノースダコタの店のウィンドー

 

  とがった頭で眉が釣り上がった裸体の人形ビリケンさんは大阪だけのものではない。ミズーリ州カンザスの若い女性芸術家フローレンス・プリッツが1908年、シカゴのデザインコンテストで優勝した作品。特許登録をしたところ、ビリケンカンパニーという会社が商標ライセンスを買い取り、福の神としてビリケンの貯金箱を売出し大ヒット商品となった。日本にも1909年頃に入ってきたが、とくに花柳界で人気となった。永井荷風が「今の世の中で西洋というなれば有難がる。醜悪なるビリケンの流行もまた理なきにあらず」(「厠の窓」)と皮肉っている。

 

ビリケンコイン(アメリカ 1930年代)

 

Billikencoinfront   「ビリケン」という奇妙な名前は当時、アメリカで知られた政治家ウイリアム・ハワード・タフト(1857-1930)の愛称ビリーにあやかり、「ビリケン」Billikenと命名したと伝えられる。タフトは「桂・タフト協定」(1905)で日本でも知られる。(アメリカは韓国における日本の支配権を、日本はフィリピンにおけるアメリカの支配権をお互いに確認した協定)タフトは1909年に第27代アメリカ大統領となる。

 

Photo   日本では寺内正毅(1852-1919)が1916年、内閣総理大臣となった。寺内はシベリア出兵を強行し、軍備拡張、大衆課税の増徴、言論弾圧を行い、その超然主義的態度は軍閥政治、非立憲内閣と世論の批判を受ける。寺内の禿げ頭がビリケンにそっくりだったことから、非立憲(ひりっけん)をひっかけて「ビリケン内閣」と呼んだ。1918年、米騒動によって内閣は崩壊した。巨人のエース戸郷翔征はビリケンに似ている。(North Dakota)

戦争の世界全史

300px131_bataille_de_malazgirt  ロシアのウクライナ侵攻から5年が経つ。「人類の歴史から戦争をなくさなければならない」(ゼレンスキー大統領の広島サミットでの演説) だが仲介役の米国トランプ大統領は暴走し、さらに国際秩序は崩壊へと向かっている。

 数千年以上の太古の昔から今日まで、人類は文明の発生とともにいつも戦争を繰り返してきた。戦争は何故起こるのか。最近の考古学的知見によると、世界のどこでも旧石器時代の男子の死者のおよそ15%は殺人によって死亡している。これは人類の顕著な特徴であり、食糧や雌をめぐる争いはどの動物にもあるが、このような激しい戦いはみとめられない。人類が道具を使うことにより、武器による先制攻撃が優位となること、確実に勝てるという合理的行動が戦闘をひきおこすのである。こうして戦争はいつの時代も絶えることなく繰り返される。ヒストリーチャンネル「MANKIND人間史」によると有史以来人類は1万4500回もの戦争を繰り返してきたとある。戦争の原因も民族・宗教にイデオロギーが加わって、世界各地でテロが発生した。集団的自衛権を容認する安保法制が成立し、日本も紛争にまきこまれるようになった。2016年7月、ダッカでISに日本人7人が殺害された。

前25世紀、ラガシュの王エアンナトゥムがウンマの軍を破る

前23世紀、古代バビロニア、アッカド王国のサルゴン王は「戦いの王」といわれ、オリエント各地を遠征・征服を繰り返す

前1674年、ヒクソスのエジプト侵入(前1674~前1567)

前1620年、ヒッタイト・フルリ戦争(前1620~前1325)

前1457年、エジプト王国のトトメス3世はメギドの戦でカデシュ王率いるカナン連合軍(カデシュ、メギド、ミタンニ)を破る

前1350年、ヒッタイト王シュピルリウマ1世がミタンニ王トゥシュラクを滅ぼす

前1274年、エジプト王国のラムセス2世はカデシュの戦でヒッタイト王ムワタリに敗れる

前1200年、トロヤ戦争起こる。アカイア人の遠征軍と小アジアのトロイアの戦い

前1070年、殷の紂王は牧野の戦で、周の武王に敗れ、700年に及ぶ殷王朝は滅び、周王朝が成立する

前736年、スパルタがメッセニアを破る(メッセニア戦争)

前638年、楚の成王が泓水の戦で宋の襄公を破る

前632年、晋の文公が城濮の戦で楚の成王を破る

前609年、ユダ王国のヨシヤがメギドの戦でエジプトのネコ2世に敗れる

前605年、ネコ2世はカルケミッシュの戦で新バビロニアのネブカドネザルに敗れる

前591年、プサメティク2世、クシュ王国に侵攻

前580年、スキタイ遊牧民マッサゲタイのトミュリス女王がペルシアのキュロス大王を破る

前575年、晋が鄢陵の戦で楚を破る

前540年、エトルリア・カルタゴ連合軍がサルディニア島のアラリア沖で、ギリシャ軍と海戦し勝利する。

前484年、呉王夫差が艾陵の戦で斉を破る

前490年、ダリウス1世 マラトンの戦でミルティアデス率いるギリシア軍に敗れる

前480年、ギリシアのスパルタ王レオニダスはテルモピュライの戦でペルシア軍を迎え撃ち、その南下を防いたが部隊は全滅する

前480年、ギリシアのテミストクレスはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破り、クセルクセス1世は退却する

前479年、ギリシアがミュカレの戦でペルシアに勝利する

前479年、ギリシアがプラタイアの戦でペルシアに大勝する

前432年~前430年、アテネがポティダイアの戦でコリントスとペロポネソス同盟諸国に勝利した

前406年、アテネがアルギスサイの戦でスパルタに勝利した

前405年、スパルタはペルシアの資金により海軍を設け、アイゴスポタモイの海戦でアテネに勝利した

前404年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終わる

前396年、ローマ軍、エトルリア人の首都ウェイイを征服

前394年、アテネ人コノン指揮のペルシア軍はクニドスの海戦でスパルタ(ラケダイモーン)を破る

前390年、アッリアの戦い。ガリア人が初めてイタリアに侵入し、ローマが敗北。

前371年、スパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がレウクトラの戦でテーバイを中心とするボィオティア同盟軍に敗れる

前362年、アテネ・スパルタ連合軍がマンティネイアの戦でテーベのエパミノンダスの軍に敗れる

前343年、秦は馬陵の戦で斉の孫臏の策により大敗する。

前343年、第一次サムニテス戦争(~前301年)

前338年、ギリシャがカイロネイアの戦でマケドニアのフィリッポス2世の軍に敗れる

前333年、ペルシア軍がイッソスの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前334年、ペルシア軍がグラニコス川の戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前331年、ペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前326年、アレクサンドロス3世はインドのパンジャブ地方まで侵攻したが、ピュダスぺス河畔の戦でパンジャブ地方の領主ポロス王に苦戦し、やむなく東方遠征をやめる。

前317年、パラエタケネの戦でアンティゴノスとエウメネス引き分ける。

前316年、ガピエネの戦で、アンティゴノスが勝つ。

前305年、シリア王セレウコス1世、マウリア朝チャンドラグプタに敗れる

前280年、エペイウス王ピュロスがローマ・カルタゴと戦う(~前275年)

前267年、マケドニアのアンティゴノス2世がクレモニア戦争でアテネスパルタを・スパルタを破る(~前261年)

前260年、秦の昭王が長平の戦で趙を破る

前241年、ローマ軍がアエガテスの海戦でカルタゴを破る

前220年、メディア総督モロンはアポロニアの戦でセレウコス朝のアンティオコス3世に敗れる

前216年、ローマ軍がカンネーの戦でカルタゴのハンニバルに敗れる

前202年、カルタゴのハンニバルがザマの戦でローマのスキピオに敗れる

前202年、項羽、垓下の戦で劉邦に敗れ自殺

前168年、ピュドナの戦い。共和政ローマ軍アエミリウスがマケドニア軍ペルセウスに大勝し、マケドニア王国滅ぶ(第三次マケドニア戦争が終結)。

前111年、ローマの保護領ヌミディアの王位をめぐりユグルタとローマ軍が争う。前105年にマリウスが勝利する。

前101年、ローマ軍がキンプリ・テウトニ族を破る。

前95年、同盟市戦争。

前85年、ローマのスッラがオルコメノスの戦でポントス王ミトリダテス6世を破る

前52年、アレシアの戦いが終結し、ガリアがローマの属州となる。

前48年 ポンペイウス、テッサリア平原のファルサルスの戦でカエサルに敗れる

前46年 タプススの戦い。カエサル軍が元老院派の軍を破る

前45年、カエサル、ムンダの戦でポンペイウス派の残党を破る。

前44年、カエサル暗殺される。

前42年、カエサルを暗殺したブルトゥス、カッシウスがフィリッピの戦でアントニウス、オクタウィアヌスに敗れる

前31年、アントニウス、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れる

前23年、劉秀、昆陽の戦で王莽を破り、漢室再興を果たす

後9年、ローマ帝国がトイトブルクの戦でゲルマンに大敗する

49年、ベトナムのチュン姉妹は後漢の侵略に抵抗し、処刑される

66年、ユダヤ民族のシモン・バル・ギオラが反乱を起こす。

70年、エルサレム攻囲戦で、ローマ軍がエルサレムの第2神殿を破壊する。

73年、マサダ砦に籠城したユダヤ人967人が集団自決し、ユダヤ戦争(66-73)が終わる

191年、董卓と袁紹が虎牢関で衝突。董卓の部下呂布が盤下で董卓を殺す。

192年、襄陽の戦で孫策は戦死し、劉表が勝利する。

200年、曹操、官渡の戦で袁紹を破る。

208年、曹操が劉備・孫権連合軍に赤壁の戦でい敗れる。

211年、曹操が渭水の戦で馬超・韓遂らを破る。

215年、陽平関の戦い。曹操、関中の張魯を下す。

215年、曹操が合肥の戦で孫権を呉の孫権を破る。

219年、定軍山の戦い。曹操、劉備軍に敗れ、関中を放棄。

219年、劉備軍の関羽が樊城の戦いで水攻めにされて殺される。

222年、劉備率いる蜀漢軍が夷陵の戦で呉の陸遜軍に敗れる。

224年、曹丕が呉を攻めるも長江で大敗する。

228年、蜀漢軍の馬謖が街亭の戦い(第一次北伐)で魏軍に敗れる。

228年、蜀漢軍が陳倉を攻略、第二次北伐が失敗する。

228年、呉の孫権が石亭の戦で魏の曹休を破る。

230年、蜀の魏延が涼州へ侵攻、首陽の戦い(第三次北伐)。

234年、蜀諸葛亮が五丈原の戦で魏司馬懿と対戦したが、蜀漢による第五次北伐が失敗する。

238年、遼東平定戦。司馬懿、公孫淵を討つ。

244年、魏の曹爽は興勢の役で蜀軍に敗北し撤退した。

260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。

280年、石頭城の戦い。晋軍、呉に侵攻。大勝して呉滅び、中国を統一。

312年、ローマ皇帝正帝マクセンティウスがローマ郊外のミルウィウス橋の戦(サクサ・ルブラの戦)で副帝コンスタンティヌス1世に敗れる

313年、東のローマ皇帝マクシミヌス・ダイアがツィラッルムの戦でローマ皇帝リキニウスに敗れる

351年、ローマ皇帝コンスタンス1世がムルサの戦でコンスタンティウス2世に敗れる

363年 ローマ皇帝ユリアヌスが、ササン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、城を落せず撤退する

378年、ローマ帝国軍、ハドリアノポリス(アドリアノーブル)の戦で西ゴート族に敗れ、皇帝ヴァレンスが戦死。トラキア地方がゴート族に占領される。

383年、前秦の符堅が淝水の戦で晋の謝石・謝玄に敗れる

402年、スティリコがボレンツァの戦でアラリックの西ゴート軍を破る

451年、フン族の王アッティラがカタラウヌムの戦で西ローマ軍のアエティウスに敗れる

454年、フン族がネグオ川の戦で東ローマ帝国に敗れる

486年、クロヴィス率いるフランク族がソワソンの戦でシアグリウス率いる西ローマ軍を破る

489年、ゲルマンのオドアケルがイゾンツォの戦でテオドリックに敗れる。

523年、六鎮の乱。

624年、マホメットがバドルの戦いでメッカ軍を破る

625年、ウフドの戦い

627年、ハンダクの戦いでメッカ軍を破る

627年、ササン朝ペルシアのコスロー2世はニネヴェの戦でへラクリウス率いる東ローマ軍に敗れる

636年、東ローマ帝国ヘラクレイオスがイスラム教カリフ軍とヤルムークで戦い敗れる

636年、カーディシーヤの戦

642年 ヤズデギルド3世 ニハーヴァンド(ネハーヴァンド)の戦でアラブ軍に敗れ、ササン朝は耀事実上滅亡した。

645年、唐の長孫無忌が朝鮮を侵攻したが、高句麗は安市城の戦で唐を撃退した

663年、日本軍は白村江の戦で唐軍に敗れ、百済滅ぶ

687年、フランク王国のピピン2世がテルトリーの戦でネウストリアのベルナルらを破る

715年、コンピエーニュの戦(フランク王国の内戦)

718年、西ゴート王国がグアタレーテの戦でイスラームに敗れて滅亡した

722年、ペラヨがコバドンガの戦でイスラム軍に勝利する。

732年、サラセン軍、ツール・ポワチエの戦でフランク王国カール・マルテルに敗れる

751年、唐の高仙芝、イスラム軍とタラス河畔に戦う。サラセン軍に捕らわれ、製紙法を伝う

756年、唐の玄宗は潼関の戦で安禄山に敗れる

778年、フランク王国軍がロンスヴォ―の戦でバスク軍に敗れる

804年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はクラソスの戦でアッバース朝に大敗する

811年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はプリスカの戦でブルガリア皇帝クルム・ハーンに敗れ、戦死した

841年、フランク王ロタール1世、フォントノワの戦でシャルルとルートヴィヒに敗れる

849年、ナポリ・アマルフィ・ガエータなどの艦隊がオスティア沖でイスラム艦隊を破る。

939年、神聖ローマ皇帝オットー1世はアンダーナッハの戦でフランケン公エバーハルトの反乱を鎮圧

955年、ハンガリーのマジャール軍がレヒフェルトの戦で東フランク王国のオットー1世トーマスにに敗れる

1014年、第1次ブルガリア帝国がキンバロングーの戦(クレイディオン峠の戦)で、東ローマ帝国に敗れる。

 

1014年、ブライアン・ボル―軍とレンスターのアイルランド人とダブリンのヴァイキングの連合軍が、クロンターフの戦いで、ボル―軍が勝つが戦死する。

1016年、デンマーク王クヌートがアシンドンの戦いでイングランド王エドマンド2世を破る

1057年、スコットランド王マクベスはランファナンの戦でマルカム3世に敗れ死没する

1063年、イタリアの中世都市国家ピサがパレルモ沖の海戦でイスラーム艦隊に大勝する

1066年、イングランド王ハロルド2世がへースティングズの戦でノルマンディー公ウィリアム1世に敗れる

1071年、ビザンツ王ロマノス4世ディオゲネス マンジケルトの戦でセルジューク朝に敗れる。

1081年、ノルマン軍がデュッラキウムの戦で東ローマ帝国に勝利する

1096年、第1回十字軍のエルサレム攻囲戦が始まる。(~1099年)

1106年、イングランド王ヘンリー1世がタンシュブレーの戦でロベール短袴公を破る

1107年、高麗の尹瓘が女真を討ち9城を築くが(尹瓘九城の役)、翌年に撤退する。

1147年、レコンキスタで、ポルトガル王国アフォンソ1世がイスラムの勢力下からリスボンを奪回。

1148年、第2回十字軍、ダマスカス攻撃。もつとも成果の少ない十字軍だった。(~1149年)

1176年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がレニャーノの戦で北イタリア・ロンバルディア同盟軍に敗れる

1187年、ギード・リュジニャン率いるエルサレム王国の十字軍がヒッティーンの戦でアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンに敗れる

1189年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス墺フィリップ2世、イギリス王リチャード1世らが第3回十字軍に参戦(~1192年)

1201年、チンギス・カンはコイテンの戦でジャムカを破る

1202年、第4回十字軍。ヴェネツィア商人に利用され、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領(~1204年)

1214年、仏王フィリップ2世が、ブーヴィーヌの戦で神聖ローマ帝国、英国連合軍に勝利する

1219年、モンゴル軍はホラズムに侵攻し、翌年にはサマルカンドを攻略する

1223年、モンゴル軍はカルカ河畔の戦でキエフ大公国を破る

1226年、ホーエンシュタウフェン家とカペー家のシャルル・ダンジューが南イタリアのベネヴェントの戦う。カペー家の勝利。

1228年、第5回十字軍。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が交渉によって平和裏に聖地を回復するが、長くは続かず(~1229年)

1235年、マリ王国のスンディアタがキリナの戦いでソソ王国のスマンゲルを破る

1236年、リトアニアがザウレの戦いでリヴォニア帯剣騎士団を破る

1241年、シュレージェン公ハインリヒ2世、リーグニッツ(ワールシュタット)の戦でバトゥが率いるモンゴル軍と戦い、大敗し、戦死。

1242年、ウラジーミル大公国がチュド湖上の戦いでドイツ騎士団を破る

1245年、ハールィチ・ヴォルイーニ大公国がヤロスラヴの戦いでポーランド・ハンガリーと戦う。

1248年、第6回十字軍。教皇の信任厚いフランス王ルイ9世がエジプトに侵攻するも失敗(~1254年)

1250年、フランス王ルイ9世率いる十字軍がマンスーラの戦でエジプトのアイユーブ朝に敗れる。

1258年、モンゴル軍のフラグがバグダードの戦でバグダードを占領し、アッバース朝滅ぶ。

1260年、フィレンツェがモンタベルティの戦いでシエーナ軍に敗れる。

1260年、モンゴル軍のキト-ブカはアイン・ジャールートの戦でマムルーク朝のバイバルスに敗れる。

1264年、イングランド王ヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールらが反乱。王党派の勝利に終わった。これを第2次バロン戦争という。

1265年、イーブシャムの戦い。

1266年、ホーエンシュタウフェン家がイタリアのベネヴェントの戦でカペー家と戦い、敗れる。シチリアの支配が終わる

1270年、第7回十字軍。チュニスに侵攻したが、フランス王ルイ9世が病没したため中止。

1268~1274年、モンゴル軍は襄樊の戦で南宋を滅ぼす。

1272年、最後の十字軍(第9回十字軍)終わる。

1274年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(文永の役)

1278年、モンゴル軍、ポーランド・ドイツ連合軍を破る

1278年、神聖ローマ帝国ルドルフ1世、マルヒフェルデの戦いでボヘミア王オットカルを破る

1279年、モンゴル軍、厓山の戦いで南宋を滅ぼす

1281年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(弘安の役)

1284年、ピサがメロリアの海戦でジェノバに大敗する。

1288年、ドカン率いるモンゴル軍は白藤江の戦いで陳国峻率いるベトナム軍に敗れ、モンゴルのベトナム侵攻は失敗におわる。

1291年、第9回十字軍。イスラエル王国の首都アッコン滅亡する。(十字軍戦争終わる)

1294年、英仏戦争はじまる。

1298年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世はゲルハイムの戦で長子アドルフを殺す。

1301年、オスマン1世がビザンツ帝国軍をコユンヒサルの戦で破る。

1302年、フランス王フィリップ4世はクルトレー(コルトレイク、金拍車)の戦でフランドル市民軍に敗れる

1311年、アテネ公国ゴーティエ5世がアルミュロスの戦いで東ローマ軍に敗れる

1314年、エドワード2世率いるイングランド軍がバノックバーンの戦でロバート1世のスコットランド軍に敗れる

1315年、スイス独立同盟軍がモルガルテンの戦でハプスブルク家オーストリア軍を破り、現在に至る永久盟約を得る

1322年、神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世がミュールドルフの戦でオーストリア大公フリードリヒ1世を破る

1331年、ヴワディスワフ1世率いるポーランド王国がブウォフツェの戦でドイツ騎士団に勝利する

1337年、英仏の百年戦争がおこる

1338年、アルネマイネンの海戦でフランスが勝利する

1345年、北フランスの貴族ギヨーム2世はワルスの戦でフリース人に敗れ戦死した

1346年 フランス王フィリップ6世、クレシーの戦でエドワード3世に敗れる

1346年、ネヴィルズ・クロスの戦。スコットランドがイギリスに敗れる

1356年、フランス王ジャン2世はポアティエの戦でイギリス王エドワード黒太子に敗れる

1360年、明の朱元璋が竜湾の海戦で元の陳友諒を破る

1363年、明の朱元璋が鄱陽湖の海戦で元の陳友諒を破る

1369~70年 エドワード3世、フランス王シャルル5世に敗れて獲得した領土の大部分を失う

1371年、セルビア帝国はマリツァリの戦でオスマン軍に敗れ、ウロシュ5世はまもなく死亡。

1377年、ドイツのシュヴァーベン同盟はロイトリンゲンの戦いで、ヴュルテンブルク伯エーベルハルト2世を破る。

1378年、イタリアのフィレンツェで労働者の反乱おこる。

1378年、モスクワ大公国がヴォジャ河畔の戦いでモンゴルを破る。

1380年、モスクワ大公国ドミトリー・ドンスコイがクリコボの戦いでタタール・モンゴル軍を破る。

1380年、ジェノバがキオッジャの海戦でヴェネツィアに完敗する。

1382年、百年戦争。ローゼンバーグの戦いでフランス軍がフランドル諸都市を破る。

1385年、ジョアン1世率いるポルトガル軍がアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王ファン1世を破る。

1386年、スイス独立軍がゼンパハの戦でハプスブルク家の騎士軍を破る

1388年、ハプスブルク家アルブレヒト3世、ネーフェルトの戦いでスイス自由連邦に敗れる

1389年、オスマン帝国のムラト1世がコソボの戦でセルビアを破る

1391年、ティムールはコンドゥルチャ川の戦いでトクタミシュを破る

1396年、神聖ローマ皇帝・ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国軍がニコポリスの戦でバヤズィト1世率いるオスマン帝国軍に大敗する

1402年、バヤズィト1世率いるオスマン帝国がアンカラの戦でティムールに敗れる。バヤズィト1世は捕虜になり、翌年自害する

1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルトの戦(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を破る

1415年、フランス軍が百年戦争アジャンクールの戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍に敗れる。

1419年、ボヘミアのフス戦争(~1434)。フス派の勝利。

1429年、ジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍がパテーの戦いでイングランド軍に圧勝。イングランドのジョン・タルボットは敗れて、捕虜となる。百年戦争の仏軍の初めての勝利であった

1444年、オスマン帝国のムラト2世はヴァルナの戦でハンガリー・ポーランド連合軍を破る。

1449年、オイラトのエセンは土木堡の戦で明を破る。

1450年、百年戦争。イングランド軍はフォルミニーの戦でフランスに大敗し、ノルマンディーから撤退する。

1453年、イングランド軍はカスティヨンの戦でフランスに敗れる。百年戦争最後の戦い。

1453年、東ローマ帝国コンスタンティノス11世 メフメト2世のオスマントルコ軍に攻められコンスタンティノープル陥落

1454年、十三年戦争が始まる。

1455年、薔薇戦争最初の戦い。ヨーク公リチャードはサマセット公エドムンド率いるランカスター派をセント・オールバーンズの戦で破る。

1456年、ワラキア公国のフニャディ・ヤーノシュがベオグラード包囲戦でオスマン帝国に勝利する。

1460年、薔薇戦争、ウエイクフィールドの戦い。

1460年、薔薇戦争、ノーサンプトンの戦いでヨーク派がランカスター派を破る。

1461年、薔薇戦争・タウトンの戦い。ヨーク家のエドワード4世がマーガレット王妃らランカスター派を破る。

1466年、ポーランドとプロシア連合の同盟とドイツ騎士団国とのあいだで起きた十三年戦争がプロシアとポーランドの勝利に終わる(~1454年)。

1471年、薔薇戦争・テュークスベリ―の戦い。ランカスター家のエドワード王太子が戦死。

1477年、ブルゴーニュ公シャルル(豪肝公)がナンシーの戦い(ブルゴーニュ戦争)でロレーヌ公ルネ2世に敗れ戦死。

1485年、ヨーク派のリチャード3世はボズワースの戦でランカスター派のヘンリー7世に敗れる

1487年、薔薇戦争の最後の闘いストーク・フィールドの戦いが行われる

1503年、フランスはチョリニョーラの戦、ガレラノの戦でスペインに敗れる

1507年、ポルトガルのインド総督アルブケルケ、ペルシャ湾口の香辛料集散地ホルムズ島を占領した。

1509年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル海軍がディウ沖海戦でイスラム教徒のマムルーク朝、クジャラート・スルタン朝及びカリカットの領主ザモリンの連合海軍を破る

1513年、スコットランドがフロドゥンの戦でイングランドに大敗し、国王ジェームズ4世が戦死。

1514年、サファヴィ朝ペルシャ軍イスマーイール1世がチャルディラーンの戦でオスマン帝国セリム1世に敗れる。以後両国の戦いは124年間続く。

1515年、仏王フランソワ1世・ヴェネツィアがスペイン・神聖ローマ・イギリス・ミラノのスイス傭兵軍とマリニャーノ戦いで勝利する。

1516年、オスマン帝国がマルジュ・ダービクの戦でマムルーク朝を破り、シリアを支配する。

1519年、スペインのコルテスがタバスコの戦でインディオに勝利し、メキシコを征服した。

1521年、独帝カール5世と仏王フランソワ1世との間にイタリア戦争始まる。

1524年、ドイツ農民戦争。フランケンハウゼンの戦で農民軍が諸侯軍に敗れて終結する(~1525年)

1525年、仏王フランソワ1世、パヴィアの戦でスペインに敗れる。

1526年、インドのロディ朝がパーニーパットの戦でムガール帝国のバーブルに敗れる

1526年、オスマン帝国がモハーチの戦でハンガリー王国を破る

1529年、オスマン帝国の第一次ウィーン包囲。

1529年、スイスの宗教戦争、第一次カッペル戦争

1531年、第二次カッペル戦争でチューリヒのカトリック軍が勝利する。

1531年、スコットランド王ジェームズ4世が2万の軍勢を率いて国境を侵攻するが、英国軍にフロッドンの戦で大敗し、ジェームズ4世は戦死する

1531年、チューリヒの宗教改革の指導者ツヴィングリがカベルの戦で戦死

1532年、スペインのピサロがカハマルカの戦いでインカ帝国アタワルパを捕らえた。何千もの市民や軍人を殺戮した。

1538年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国と対戦するが、連語国側は統制がとれずに敗れる。

1546年、シュマルカルデン戦争がはじまる。

1547年、プロテスタント軍がミュールベルクの戦で神聖ローマ軍に敗れる

1558年、リヴォニア戦争(~1583)。

1562年、ユグノー戦争。フランスのヴァシーでプロテスタントが大量に殺される。

1565年、南インドのヴィジャナガル王朝がターリーコータの戦でデカン・スルターン朝に敗れる。

1568年、オランダ独立戦争おこる。

1570年、スペインのレガスピがフィリピン・マニラの戦で勝利し、翌年には城郭都市イントラムロスを建設。

1571年、オスマントルコ帝国がレパントの海戦でスペイン、ベネチア、ローマ教皇の連合軍に敗れる

1588年、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊(アルマダ)がプリマス沖、カレー沖、グラヴリーヌ沖の海戦でイギリス艦隊に敗れる

1593年、オスマントルコ帝国ムラート3世の宰相ハサン・パシャは、シサクの戦でクロアチア軍に敗れる

1593年、ハプスブルク家とトルコの十五年戦争(~1606)。

1593年、小早川隆景らが李如松率いる明軍を碧蹄館の戦いで破る

1618年、三十年戦争

1619年、ヌルハチ率いる後金(のちの清)がサルフの戦で明を破る

1620年、白山の戦。

1630年~31年、ルター派の都市マグデブルクが包囲され、破壊・略奪される(三十年戦争)

1630年、フランスがヴェイッラーネの戦でスペインを破る。

1631年、神聖ローマ帝国がブライテンフェルトの戦でグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンに敗れる。

1632年、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国がリュッツェンの戦でグスタフ・アドレス2世(スウェーデン)の軍に敗れる。

1632 年、ロシアがスモレンスクの戦でポーランドの軍に敗れる。

1640年、ポルトガルの貴族ブラガンサ公ジョアンらがリスボンのスペイン王宮を襲撃、ポルトガル王政復古戦争が始る。

1641年、清のホンタイジが松山・錦州の戦で明を滅ぼす

1643年、清教徒革命。国王軍がアドウォルトン・ムーアの戦で議会軍に勝利する。

1644年、清教徒革命。チャールズ1世の国王軍がマーストン・ムーアの戦でクロムウェル率いる議会軍に敗れる。

1645年、イギリス、ルーパート王子軍がネーズビーの戦でクロムウェルの議会軍に敗れる。ロートン・ヒースの戦い。

1648年、ウェストファリア講和条約。三十年戦争終わる。

1652年、第一次英蘭戦争。イギリスの勝利。

1653年、ポートランドの海戦(第一次英蘭戦争)~1654年まで

1654年から1667年、ロシア・ポーランド戦争

1659年、ロシア大公アレクセイ3世がコノトプの戦でウクライナ・コサック軍に敗れる。

1666年、ダンケルク沖の海戦でオランダがイギリスを破る。

1667年、ルイ14世のフランドル戦争(~1668年)

1667年、第二次英蘭戦争終わる。

1670年、ロシアでステンカ・ラージンの農民反乱おこる。(~1671年)

1672年、英仏対オランダの戦争始まる(第三次英蘭戦争)。ソールベイの海戦でオランダが英仏艦隊を破る。

1674年、英蘭戦争終わる、ウェストミンスター条約の締結。イギリスの制海権が確立。北米植民地ニューアムステルダム(ニューヨーク)はイギリスに返還される。

1675年、デンマーク・スウェーデンでスコーネ戦争始まる(~1679年)。

1680年、インドでラージプート戦争が起こる。

1685年、清の康熙帝はロシアが東方に進出して黒竜江流域にきずいたアルバジン城を奪回した。

1687年、清ジュンガル戦争起こる。康熙帝、乾隆帝と三次にわたるが、清に対して反乱を起こしたアムルサナーは1759年敗れる。

1688年、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国領のファルツ公家の継承問題に介入してファルツ戦争(~1697年)が始まる。

1690年、イングランド軍がボイン川の戦いでアイルランド軍に勝利する。

1697年、オスマン帝国がゼンタの戦でオーストリア軍に大敗する。

1700年、スウェーデン王カール12世がナルヴァの戦でロシアのピョートル1世に勝利する。1721年まで続く北方戦争はロシア側が勝利し、バルト海の覇権はロシアに移る。

1701年、スペイン継承戦争始まる。1714年まで続く。

1702年、アン女王戦争。

1704年、イングランド・オーストリア同盟軍がフランス軍と戦い、ブレンハイムの戦いで勝利した(スペイン継承戦争の一つ)。

1706年、オーストラリア軍がトリノの戦いでフランス軍を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1707年、ロシアのピョートル大帝はレースナヤの戦でスウェーデン軍を破る。

1709年、スウェーデンのカール12世、ボルタヴァの戦でロシアのピョートル大帝に敗れる。

1710年、スペイン・フランス連合軍がビリャビシオーサの戦でカール大公率いるハプスブルグ家を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1710年、イギリスがカナダ植民地ポートロワイヤルでフランスに勝利する

1712年、スウェーデンがガーデブッシュの戦でデンマークに敗れる。

1714年、ロシアのピョートル1世がハンゴ沖海戦でスウェーデンを破る。

1721年、スウェーデンとロシア・デンマークを中心に行われた大北方戦争(1700-1721)が終る。ニスタット条約を締結。

1722年から1725年までラル神父戦争。アメリカ東部植民地とインディアンの戦い。セバスチャン・ラルがノリッジウォックの戦いで戦死。

1733年、ポーランド継承戦争始まる(~1735)。

1734年、ロシア軍がフランス、スウェーデンと戦い、ダンツィヒを攻囲する。

1739年、アフガニスタンのホータキー朝がカンダハール包囲戦でペルシアのアフシャール朝に敗北し滅亡する。

1740年、オーストラリアのマリア・テレジアが即位し、オーストラリア継承戦争始まる。

1741年、マリア・テレジアがモルヴィッツの戦でフリードリヒ2世のプロシアに敗れる。

1743年、オーストリア継承戦争。英墺連合軍と仏軍がディティンゲンで戦い、英墺連合軍が勝利する。

1744年、オーストリア継承戦争。スペイン・フランス連合軍がクーネオの戦でサルディニーア王国に勝利した。

1745年、フランスがフォントノワの戦で英蘭墺連合軍に勝利する。

1746年、カロデンの戦。スコットランドで名誉革命反対派・ジャコバイトがイギリス政府軍に敗れ、多数が虐殺される。

1756年、プロイセンとオーストリアで七年戦争始まる。

1757年、プロイセンのフリードリヒ2世がロスバッハの戦、ロイテンの戦でオーストリアを破る。

1757年、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラはプラッシーの戦でロバート・クライブ率いるイギリス軍に敗れる。

1758年、プロイセン軍がツォルンドルフの戦でロシア軍に勝利する。

1758年、七年戦争;ホッホキルヒの戦 オーストリア軍の勝利

1759年、プロイセン軍がクネルスドルフの戦でロシア・オーストリア連合軍に敗れる。

1761年、第3次バーニーパッドの戦い、マラーダ連合軍敗北する。

1763年、フベルトゥスブルク条約、七年戦争おわる。

1764年、イギリス東インド会社がインドのブクサールの戦でムガル帝国を破る。

1764年、アメリカ大陸軍がカナダ侵攻。ロングポイントの戦でイギリス軍が勝利する。

1767年、第1回マイソール戦争(~1769)。マイソール王国がイギリス東インド会社に勝利する。

1768年、露土戦争起こる。

1775年、アメリカ独立戦争始まる(~1783)。レキシントン・コンコードの戦で英軍と米植民地兵が武力衝突。アメリカ軍はモントリオールを占領するが、ケベックの戦いに敗れる。

1775年~82年。マラータ戦争が起こる。マラータ同盟がイギリス東インド会社に勝利する。(~1818年)

1776年冬、大陸軍はニュージャージーの戦いでイギリス軍に勝利する。

1777年、アメリカ独立戦争:クリントン砦とモントゴメリー砦の戦いで英軍の勝利。

1777年、英軍バーゴイン将軍がサラトガの戦で米植民地軍に敗れる。

1778年、アメリカ独立戦争・ジョージア植民市サバンナの戦いで、英軍の勝利。

1780年、アメリカ独立戦争・ワックスホーの戦。戦闘に勝利した英軍は、大陸軍が白旗を挙げたのを無視して大陸軍兵113人を虐殺。

1781年、アメリカ独立戦争・ヘンリー岬の海戦・チェサピーク湾の海戦。英軍の敗北。

1781年、チャールズ・コンーウォリス率いる英軍はヨークタウンの戦でジョージ・ワシントン率いる独立軍に攻囲され敗れる。

1781年、インドのポルト・ノヴァでマイソール王国はイギリス軍に敗れる。(第二次マイソール戦争の1つ)。

1783年、パリ条約(アメリカの独立を承認)

1789年、フランス革命起こる。

1790年、第3回マイソール戦争。

1792年、フランス革命を巡ってフランスとヨーロッパ諸国との間で戦争がおこる(フランス革命戦争、~1799)

1793年、フランス軍はナポレオン率いる革命軍にツーロン要塞の攻撃で敗れる。

1796年、オーストリア軍がカスティリオーネの戦でナポレオン軍に敗れる。

1798年、オスマン帝国がピラミッドの戦でナポレオン軍に敗れる。

1799年、第4回マイソール戦争。

1800年、オーストリア軍がアルプスを越えて侵攻したナポレオン軍にマレンゴの戦で敗れる。

1805年、オーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンに敗れる。

1805年、トラファルガルの海戦でイギリス艦隊がナポレオン率いるフランス・スペイン聨合艦隊に勝利。ネルソン提督は戦死。

1806年、プロシア軍がイエナ・アウェルシュタットの戦でフランス軍に敗れる。

1809年、ナポレオン、ワグラムの戦でオーストリア軍に大勝する。

1810年、セブンオークスの戦い。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1812年、モスクワに遠征したナポレオンがクトゥーゾフ将軍のロシア軍とボロジノの戦で交戦。10万人の犠牲を出したが勝敗は決せず。

1812年、米英戦争はじまる。

1813年、ナポレオン軍がライプチヒの戦でプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れる。

1814年、アメリカ軍はブラーデンスバーグの戦でイギリス軍に敗れ、ワシントンのホワイトハウスなどの建物が焼失した。

1814年、イギリス東インド会社とネパール(ゴルカ朝)とのグルカ戦争が起こり、1816年イギリスの勝利により、スガウリ条約が結ばれる。

1815年、ナポレオンがワーテルローの戦でイギリス・プロシア連合軍に敗れる。

1815年、米英戦争ニューオーリンズの戦でイギリス軍はアンドリュー・ジャクソン率いる5千人の米兵に敗れる。

1816年、セブンオークスの戦。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1817年、第3回マラータ戦争。

1819年、シモン・ボリバルの独立革命軍はボヤカの戦(コロンビアのボゴタ近郊)でスペイン軍に勝利する。

1821年、スペイン軍がカラボボの戦でシモン・ボリバル率いる反乱軍に敗れ、ベネズエラの独立が決定した。

1821年、ギリシャ独立戦争。

1824年、スペイン軍がアヤクーチョの戦でスクレ将軍率いるペルー解放軍に敗れる。

1824年~26年、ビルマ戦争。イギリスがビルマのコンバウン朝に勝利する。

1827年、英仏露3国艦隊がナヴァリノの海戦でトルコ艦隊を破る。

1836年、テキサス軍がサンジャシントの戦いでメキシコ軍を破る。

1836年、テキサス軍がアラモ砦でメキシコ軍と戦い全滅する。

1838年、ズールー族がブラッド・リバーの戦いでボーア人に敗れる。

1839年、バーラクサイ朝アフガニスタン首長国がイギリスを討つ(第1次アフガン戦争(~1842年)

1840年、アヘン戦争(~1842年)

1845年~46年、第一次シク戦争。シク王国とイギリス東インド会社の戦争。イギリスの勝利。

1848年、サルディニア王カルロ・アルベルトがクストッツァー・ノヴァラの戦でオーストリアに敗れる。これにより、イタリアの統一運動は一時中絶した。

1846年~48年 アメリカ・メキシコ戦争

1849年、ガリバルディがローマ大学の戦いでフランス軍を破る。

1852年、第二次ビルマ戦争。

1854年、クリミア戦争でロシアのセヴァストーポリ要塞を目指す英仏軍がアルマでロシアと交戦する。

1855年、セヴァストーポリ要塞が英仏軍の攻撃によって陥落する。

1856年、アロー号戦争(~1860年)

1856年、コスタリカ軍が第二次リバスの戦いでニカラグア軍を破る。

1857年、セポイの反乱(~58年)

1859年、イタリア統一戦争・ソルフェリーノの戦い。アンリ・デュナンが戦場の惨状に衝撃を受け、後の赤十字運動につなげる。

1860年、ガリバルディ率いるイタリア義勇軍はヴォルトルノ河畔の戦でナポリ軍を破り南イタリアを制圧する。

1861年、南北戦争:北軍はブル・ランの戦で南軍に敗れる。

1861年、南北戦争:ボールズブラフの戦。

1862年、南北戦争:セブンパインズの戦。決着つかず。

1862年、南北戦争:ヘンリー砦の戦で北軍の初勝利。

1862年、南北戦争:シャイローの戦。北軍の勝利。

1862年、南北戦争:ペリービルの戦

1862年、フランスのナポレオン3世がメキシコ出兵、プエフラの戦でフランスに勝利する。(フランス・メキシコ戦争1862-1867)

1863年、カメロンの戦でメキシコが勝利するも、フランスの傀儡政権であるメキシコ帝国が建国。

1863年、南北戦争、ゲッティスバーグの戦で南軍の衰勢が決定した。

1864年、南北戦争:シーダークリークの戦い

1864年、曽国藩が太平天国の乱を鎮圧した。

1866年、イタリア海軍がリッサの海戦でオーストリア海軍に敗れる。

1866年、オーストリア帝国はチェコのケーニヒグーレツの戦(サドワの戦)でプロシアに敗れる。

1868年、アメリカ軍のカスター中佐が率いる第7騎兵隊がシャイアン族インディアンを虐殺する(ウォシタ川の戦)。

1868年、エチオピアのテオドロス2世、マグダラの戦いでイギリス軍に大敗し、自殺する。

1870年、モルトケ率いるドイツ軍がグラヴロットの戦でバーゼル率いるフランス軍を破る

1870年、フランスのナポレオン3世はセダンの戦でプロイセン軍に敗れる。

1873年、アチェ-戦争、オランダがスマトラのアチェー王国征服(1904年)

1876年、アメリカ陸軍とインディアンがモンタナ州のリトルビックホーンで戦い、カスター将軍率いる第7騎兵隊ら本隊が全滅した。

1877年、露土戦争(~1878)

1878年、第2次アフガン戦争(~80年)

1879年、ズールー戦争おこる。イギリスと南アメリカのズールー王国との間で行われた戦争でアフリカの植民地支配がはじまる。

1880-1881年、イギリスがトランスヴァール共和国に破れる(第一次ボーア戦争)

1885年、清仏戦争でフランスによるベトナムの植民地化が始まる。

1885年、ビルマ王ティーボーは英緬戦争でイギリス軍に敗れ、コウバウン朝は滅亡し、イギリス領インド帝国に併合される。

1894年、日清戦争(~1895年)

1896年、イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦でエチオピアのメネリク2世に大敗する。

1898年、米西戦争。7月アメリカ軍がキューバのサン・ファン・ヒルの戦いでスペイン軍を撃破する。

1899年、南アフリカのルイス・ボータ将軍がコレンソの戦いでイギリスを破る。

1899年、米比戦争始まる(~1902年)アメリカの植民地支配が始まる。

1902年、南アフリカのボーア戦争、イギリスの勝利に終わる。

1904年、日露戦争(~1905年)

1905年、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本の連合艦隊に敗れる。

1911年、イタリア・トルコ戦争。イタリアがオスマントルコ領リビアの領有を図って起こす。イタリア敗北。

1912年、バルカン戦争(~1913年)。

1914年、ベルギーを突破し、北仏に進軍したドイツ軍(モルトケ)は、マルヌの戦でフランス軍(ジョッフル)に敗れる。

1914年、ロシア軍がタンネンベルクの戦でドイツ軍(ヒンデンブルク)に包囲、殲滅される。

1915年、オスマン帝国はダーダネルス海峡のガリポリの戦で英仏連合軍に勝利する。

1915年、第一次大戦・イ―ペルの戦い。ドイツ軍がフランス軍に対し、毒ガス攻撃。

1916年、ヴェルダンの戦、フランスは守り切った。

1916年、ソンムの戦。第一次世界大戦における最大の戦争であるが、英仏連合軍とドイツ軍がフランスのソンムで激突したが、両軍目立った戦果をあげることがなかった。

1916年、ユトランド沖海戦。

1916年、アメリカ、パンチョ・ビリャ遠征軍をメキシコに派遣。

1917年、ロシア革命。

1917年、第一次世界大戦におけるカンプレーの戦いで、英軍が世界初となる大規模な戦車の投入を行った。

1918年、イ―ペルの戦でドイツ軍か毒ガスを使用。

1918年、フィンランド内戦がおこる。タンペレの戦いで白軍が赤軍に勝利し、共和国となる。

1920年、ポーランド・ソ連戦争。ポーランドの旧版図回復。

1922年、トルコ軍がドゥムルプナルの戦でギリシャ軍に勝利する。

1935年、イタリア、エチオピア侵略。

1936年、スペイン内戦始まる。

1937年、日中戦争始まる。

1939年、関東軍とソ連が満蒙国境線めぐりノモンハン事件おこる。

1939年、ソ連がフィンランドに侵攻し冬戦争がおこる。(~1940年)

1940年、ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵入(ベルギーの戦い)。

1940年、フランス軍はダンケルクの戦でドイツに敗れ、降伏する。

1941年、ドイツ軍がロシアに侵攻する(~1945年)。

1941年、太平洋戦争始まる。

1942年、ドイツの戦車軍団ロンメルは北アフリカのエル・アラメインの戦で英軍モントゴメリーに敗れる。

1942年、ドイツ軍はソ連とのスターリングラードの戦(~1943年)で消耗し、これによってドイツの後退が始まる。

1942年、太平洋戦争最大の激戦、ガダルカナル島の戦いで日本軍が全滅。

1943年、ドイツ軍はドニエプル川の戦でソ連軍に敗れる。

1943年、ドイツ軍はクルスクの戦でソ連軍に大敗。

1943年、スターリングラードの戦でドイツ軍のパウルス司令官と幕僚がソ連に降伏する。

1943年、アッツ島の戦い。

1944年、ドイツ軍はナルヴァの戦でソ連軍の進撃を阻止する。

1944年、日本はレイテ沖海戦で米軍に大敗し、事実上壊滅。シブヤン海海戦・戦艦武蔵が沈没。

1944年、連合軍、ノルマンディー上陸作戦に成功する。

1944年、フィンランドとドイツ連合軍はタリ・イハンタラの戦いでソ連軍の侵攻を阻止する。

1945年、独ソ戦最後の戦い、プラハの戦い。

1945年、硫黄島の戦いで、アメリカが硫黄島を完全占領

1946年、フランス・インドシナ戦争(~1954年)

1947年、第一次印パ戦争(~1949年)

1950年、朝鮮戦争が始まる(~1953年)

1950年、マッカーサーの国連軍が長津湖の戦いで毛沢東率いる中国軍と戦う。

1953年、ポークチョップヒルの戦い

1954年、アルジェリアとフランスとでアルジェリア戦争始まる(~1962年)。

1954年、ディエンビエンフーのフランス軍拠点が陥落。インドシナから撤退する。同年ジュネーヴ協定結ばれる。

1959年、チベットで反中国暴動。

1959年、中印戦争(~1962年)

1963年、インドネシア、マレーシア戦争(~1966年)

1963年、ギニアビサウ独立戦争(~1974年)

1963年、アメリカ軍と南ベトナム軍がアプバクの戦いでベトコンに敗北する。

1965年、第二次印パ戦争(1966年)

1967年、ビアフラ戦争(~1970年)。

1967年、第三次中東戦争。

1968年、南ベトナムのケサンでアメリカ軍と北ベトナム軍が戦う。

1969年、北アイルランド紛争(~98年)

1971年、第3次印パ戦争

1973年、第四次中東戦争。

1974年、カンボジアのロン・ノルがカンポットの戦でボル・ポトに敗れる。

1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。

1975年、アンゴラ内戦。

1979年、ソ連のアフガニスタンへの侵攻

1982年、アルゼンチンはフォークランド紛争でイギリスに敗れる。

1991年、第一次湾岸戦争。

1991年、スロヴェニア独立戦争。

1991年、ソマリア内戦(~継続中)

1994年、ルワンダで内戦始まる。50万人が殺される。

1994年、第一次チェチェン紛争(~1996年)

1998年、コソボ紛争起こる。コソボは2008年にセルビアから独立。

1999年、第二次チェチェン紛争(~2000年)

2001年、アメリカのアフガニスタン侵攻。

2003年、第二次湾岸戦争。

2005年、イラク戦争。ハディサで米軍兵士がイラク市民24人を虐殺(ハディサ事件)。

2006年、カンダハルの戦い。米軍対タリバン。

2006年、ヒズボラ戦争。イスラエル対レバノン。

2008年、イスラエル軍がパレスチナのガザに侵攻。ハマースとの間にガザ紛争おこる(~2009年)

2011年、シリア内戦(継続中)。アサド政府軍(シーア派)と反政府軍(スンニ派)との間で内戦おこる。

2014年、ロシアがウクライナのクリミヤ半島を一方的に併合。

2022年、ロシアのウクライナへの侵攻。

2026年、米トランプ大統領のイラン戦争。

 

 

 

 

地図の日

Orai07b 寛政12年(1800年)4月19日、伊能忠敬(1745-1818)が蝦夷測量に出発した日を記念して本日は「地図の日」。文化13年(1816年)の測量完了までに4万km、つまり地球を一周歩いた距離に等しい。地図の編纂は死後3年目の文政4年(1821年)に高橋景保によって完成し幕府に上呈した。これが日本沿海與地全図(伊能図)である。大図214枚、中図8枚、小図3枚。それまでは日本の正確な実測図はなかった。オルテリウス地図帳のテイセラ日本図(1595年)には蝦夷地の未記入で、本州も不正確である。伊能忠敬の実測図をシーボルトが持ち帰ってから日本の地図が世界図に正確に記るされる。

  ではなぜ地図は北が上なのか?大航海時代、羅針盤もない頃、船乗りは地軸のほぼ真北に位置する北極星を目印にして、地図で航海したからだと考えられる。

 

 

 

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オルテリウス地図帳(1595)

2026年4月18日 (土)

芭蕉のガールフレンド

 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」

  芭蕉の生涯は旅によってその人間を完成し、脱俗的俳諧に身をささげたといわれている。このような俳諧隠者としての名声は貞享元年から2年にかけて「野ざらし紀行」の頃には出来上がっていたと考えられる。つまり反俗的な文学が世間で受け入れられたというのは、世俗秩序の愚かさや、ずるさや、ごまかしや、わずらわしさに、世間の人々が何ほどか気づいたということである。フランスの文芸批評家ティボーデの「真の小説は小説に対して発する否(ノン)に始まる」という有名な言葉があるが、芭蕉の風狂文学こそ真の芸術であった。だが芭蕉自身は後世の門人たちが創り上げた隠者ではなく、若い頃は女好きで遊女や女中と遊んでいたらしい。芭蕉は生涯家庭を持ったことがなく、当然に妻もいなかったが、すくなくとも3、4人の親しい女性の名前が残されている。寛文2年から6年まで、藤堂新七郎家で料理人として勤めていたが、そこで「おとせ」という女中と恋仲になった。また近江には河合智月という女流俳人がいた。一番有名なのは「寿貞」という女であろう。一緒に江戸に出て同棲していた。芭蕉の弟子の野坡によると、「寿貞は翁の若き時の妾にて、とく尼になりしなり」とある。芭蕉が彼女を愛していたことは「松村猪兵衛宛真蹟書簡」から読み取ることができる。のち寿貞は門弟と駆け落ちしたため、芭蕉は隠者、脱俗的な境地になっていった。晩年には大坂で「園女(そのめ)」という美人で教養の高い人妻と親しくなっている。元禄7年芭蕉が没したのは園女邸である。園女は宝井其角を頼って上京し、俳諧師になっている。

 

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深川雄松院の園女墓。「度会氏園女之墓」とあるのは、伊勢度会郡の出身であるためか

 

 

温泉と大国主命

  火山列島といわれるわが国には、多くの温泉がある。その数は実に全国に3085ヵ所あり、温泉のない都道府県はただ一つとしてない。日本は世界有数の温泉国である。「因幡の白うさぎ」の伝説で知られる大国主命は、須佐之男命の六世の孫で、五穀豊穣・商売繁盛・縁結びなど偉大な神として崇拝されているが、病を封じる神(医療神)として全国各地の温泉を開設した事でも知られる。景行天皇は道後温泉、別所温泉に行幸した。成務天皇は湯の峰温泉、欽明天皇は秋保温泉(宮城県)に、舒明天皇や孝徳天皇は有馬温泉、有馬皇子と斉明天皇は白浜温泉にそれぞれ行幸している。ほか紀の湯温泉、牟漏温泉、伊香保、那須、玉造、連見の湯(別府温泉)などが古くから温泉地として知られている.阿蘇の山あいの小さな黒川温泉が全国の温泉ファンに人気だという。

全国の主な温泉地

 

北海道  登別温泉、定山渓温泉

 

東北   乳頭温泉、田沢湖の温泉、上山温泉

 

北関東  草津温泉、鬼怒川温泉、伊香保温泉

 

甲信越  白骨温泉、野沢温泉

 

首都圏  箱根温泉 湯河原温泉

 

東海   熱海温泉、下呂温泉、奥飛騨温泉郷

 

北陸   和倉温泉、宇奈月温泉、山中温泉

 

近畿   有馬温泉、城崎温泉

 

山陰・山陽 玉造温泉、皆生温泉

 

四国   道後温泉、こんぴら温泉郷

 

九州   別府温泉、湯布院、黒川温泉

 

 

 

 

不快語

7554_061_20090510215011_1   日本語の音がたまたま外国では口をはばかるような言葉とよく似ていることがある。アメリカでは「コックさん!」と呼んではいけない。(ペニスの意味)。イタリアでは「カツオ」と言ってはいけない。韓国で「ちょっと」と呼びかけてはいけない。「ジャージ」も使わないほうがいい。作家の今日出海(こんひでみ)はパスポートのサインには、「イマヒデミ」と書いていた。フランス語で女性の膣を「コン(con)」というからだ。だが名前だと変えようがない。岡田奈々。フランス語「ナナ」(nana)は「情婦・売春婦」の意味がある。村岡花子・十勝花子・山田花子。花子は中国語で「乞食」。松嶋菜々子。中国語で「白菜・キャベツ」。反対に外国人の名前で日本人が聞くと変な名前もある。「踊るリッツの夜」(1983)の歌手の名前は「タコ」(Taco)。「バルサン」はダニ・ゴキブリ退治の殺虫剤だが、モンゴルの英雄はチョイバルサン。インカ帝国初代皇帝はマンコ・カパック(1200年前後)。「素晴らしき礎」の意味。ペルーにインカ・マンコ・カパック国際空港がある。タイの国王ラーマ5世の名はチュラーロンコーン。珍名に聞こえる。(Manqu Qhapaq)

江戸時代の書肆

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耕書堂の店先(画本東都遊)

 

 

    江戸時代の出版文化の隆盛ぶりは、朝鮮半島から来日した朝鮮通信使の記録にも見られる。享保4年(1719年)、第9次朝鮮通信使の製述官(書記官)として来日した申維翰( シン・イハン)は、その日記「海游録」で大坂の賑わいを次のように記している。

書林や書屋があり、看板をかかげて、曰く柳枝軒、玉樹堂などなど。古今百家の文籍を貯え、またそれを復刻して販売し、貨に転じてこれを蓄える。中国の書、我が朝の諸賢の撰集も、あらざるはない

 

   日本における万般の書の流通と書肆が書物によって利潤を得ていることに驚いたのである。朝鮮、中国ではまだ出版文化は形成していなかったが、江戸時代の出版文化の隆盛は世界的にもめずらしいものであろう。

川柳に「鶴に蔦 こたつの上に二三冊」というのがある。江戸で黄表紙などの草双紙や一枚絵を刊行する地本問屋鶴屋や蔦屋の本は、どこの家庭にもあったもののようだ。

   さて、申維翰が触れた「柳枝軒」は、京都六角通御幸町西入の書肆、茨城屋小川多左衛門の軒号。この店は初代が経書や禅宗関係書の廉価販売で成功を収め、二代の時には貝原益軒の教訓書や実用書、紀行などを販売した。「玉樹堂」は、京都西堀川通仏光寺下ル町の唐本屋吉左衛門で、「唐詩鼓吹」や「明詩大観」などの漢詩関連書や伊藤仁斎・息子の東涯の詩文集や「中庸発揮」「孟子古義」といった経書注釈書などを出版した書肆である。

   挿図は、江戸の蔦屋重三郎(1750-1797)の書肆「耕書堂」である。出版と販売の両方を行なっていたが、黄表紙・洒落本・狂歌集から浮世絵も扱って歌麿や写楽らを世に出した。

参考;長友千代治「江戸時代の書物と読書」 東京堂出版 2001

流行歌の当て字・当て読み

 当て字とは、漢字の本来の意味とはかかわりなく、漢字の音や訓を適当にあてはめて書くことをいう。「滅茶苦茶」とか「出鱈目」とか、例は数限りない。最近の子供の名前も「キラキラネーム」が流行っている。当て字は流行歌にも多く見られる。子供のころよく歌った飯田久彦の「♪あの娘はルイジアナ・ママ」(ルイジアナ・ママ)「街角で別れたあの娘はいまどこに」(悲しき街角)。「あの娘」は「あのむすめ」とは読まない。「あのこ」と読む。だが「娘」という漢字を字引で調べても、「ニョウ」「ジョウ」という音はあっても、「コ」はない。つまり当て読みである。歌謡曲には当て字・当て読みは多い。谷村新司の「昴」に「宿命の星たちよ」とある。宿命を「さだめ」と読む。他の歌謡曲では「運命(さだめ)」が多い。よくある当て字は、理由(わけ)、故郷(くに)、男女(みょうと)、生命(いのち)、女(ひと)、幸福(しあわせ)、過去(むかし)、季節(とき)、瞬間(とき)、真実(ほんとう)、地球(ほし)、心臓(ハート)、失望(なやみ)など。歌謡曲の当て字の最初は、昭和8年の佐伯孝夫が作詞した「僕の青春」だろうか。「青春」を「はる」と読ませ、藤山一郎が歌ったところヒットした。

 

  永遠(とわ)も辞書には永久(とわ)とあるが、永遠(とわ)はない。歌謡曲でよく使われる当て字の一つである。

お蔭参り

 ディスカバージャパンはもう古いが、いまも旅行はブームである。われわれ日本人の旅行好きは江戸の「お蔭参り」にはじまったものだろう。沿道の人びとの好意のおかげによって旅行したことからいう。江戸時代、主人の父兄に話さず、費用も持たず、伊勢神宮に参詣すること。江戸期、伊勢まいりは全時代を通じて流行したが、寛永15年(1638年)の記録がもっとも古い。慶安の「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたという。後期には、1830年、1855年4、1867年、お蔭参りが流行した。とくに1867年のお蔭参りを「ええんじゃないか」騒動として知られる。慶応3年7月半ば頃から12月にかけて、東海地方から近畿地方で空から御札がふってくるという現象が起こり、それを喜んで民衆が「ええじゃないか」と唱え踊り続けた騒動を「ええじゃないか」という。誰がこのようなことを始め、なぜ一気に広がったのかはよく分かっていないが、討幕派が世の中を混乱させるために仕組んだという説もある。(参考;「おかげまいり」と「ええじゃないか」 藤谷俊雄 苧岩波書店 1993)

 

 

 

 

 

 

好きです!ボビー・ダルベック

 巨人が3位。かつての常勝球団ながら、新旧交代の時代なので予想外の健闘といえる。今年、巨人が優勝できるか。その鍵は4番岡本の穴を誰が埋めるかに尽きる。今のところ、新戦力の松本、浦田の好走守の選手の活躍が光っている。新外国人ボビー・ダルベックの評価はいかがなものか。下馬評では、高木豊は「岡本の後釜になるかと聞かれると、厳しいと思う。インサイドの球が引っ張り切れない」と。一方、張本は「私は打てると思う」と評価していた。現在までの成績は打率0.246、本塁打4本、打点11。やや低打率が気になるが、まずは合格といったところ。阪神戦14日の甲子園での先制3ランなど重要な試合で打っている。真面目で派手なパフォーマンスなどしない。かつてのレジ―・スミス、クロマティ、呂明賜、李承燁のような大砲を望まず、25本くらいでよいから、つなぎのチームバッティングで率を上げてもらいたい。

孔子生卒年の謎

200111_10_n051kousigazou     孔子の生年は前552年、あるいは前551年という説もありはっきりしない。そめためかどうか知らないが、釈迦やキリストのように生誕を祝うという風習がない。名は丘(きゅう)、字は仲尼。父は叔梁紇、母は顔徴在。父母の年齢がかなり離れていたので、子どもが生まれるかどうか、とくに母は心配だった。そこで、祈祷師でもある母は「尼丘に祈り、孔子を得たり」近くの尼丘山に祈って、孔子をさずかることができた。ある記録によると、魯国の襄公22年(前551)8月27日(新暦9月28日)に魯国の昌平郷・陬邑(現在の山東省曲阜県東南の鄹城)で生まれ、魯国の哀公の16年(前479)2月11日(新暦3月9日)に魯国・曲阜で死んだとされている。4月18日という説もある。生年についても諸説がある。原因は周と魯とで暦が異なるからで古来何人もの偉い学者が調べてもはっきりとわからない。孔子の生まれ月については、10月と11月との二つの異なった本文がある。「春秋公羊伝」は「襄公21年(前552)10月1日庚子孔子生」とする。同穀梁伝は「21年庚子、孔子10月の後に生まれる」とする。

   生まれ年については、『春秋』の襄公21年と『史記』の襄公22年誕生説がある。「史記集解索隠正義礼記」は、周の正月は11月なので、「史記・孔子世家」の22年は実際は21年になる、という。現在の中国の暦法で、前551年9月28日とするのが妥当であろう。台湾では9月28日を孔子の誕生日としている。

 

 

円空と芭蕉

Photo     生涯を旅の中に送った漂白の詩人といえば「奥の細道」の俳人・松尾芭蕉(1644-1694)を思いうかべるだろう。だが円空(1632-1695)という謎の僧も苦難の旅を生涯続けながら、10万とも12万ともいわれる多数の仏像を彫り続けた。円空は元禄8年7月15日に関市の弥勒寺で亡くなっているが、芭蕉も前年に世を去っているので、二人が旅の途中に出会っている可能性もある。だが二人の旅は対照的だったともいわれる。自己を追求した芭蕉に対して、円空は他者救済に自らの生涯を捧げた。富士川で芭蕉は捨て子に出会うが、食べ物を与えたものの、「汝の性のつたなきを泣け」と突き放して去っていく。円空は美濃の宿に泊まっていた。宿屋の主人は円空の身なりをみて、寒さしのぎの半纏を贈った。ところが円空は旅の途中で物乞いの女に出会いその半纏をあげただけでなく、持っていた金もすべて与えてしまった、という逸話が残されている。江戸時代初期、みちのくは未開の地という観があるが、円空は芭蕉よりもさらに遠く、北海道に渡り、2年ほど滞在している。芭蕉の旅にくらべ、円空の旅は想像を絶する過酷なものだったであろう。円空の願いは、多数の人々の救いを祈ることであったのだろうか。

 

 

 

アメリカ大統領の漢字表記

 合衆国大統領ドナルド・トランプ。俳優ではシルヴェスター・スタローンやトミー・リー・ジョーンズと同じ年。ところでトランプ大統領の中国語名は、下記の中国語を使う5つの地域で、それぞれ違う表記になっている。

 

 大陸簡体:唐納徳・徳朗普
 香港繁體:當勞・特朗普
 澳門繁體:當勞・杜林普
 馬新簡体:唐納徳・川普
 臺灣正體:唐納・川普

 

では、これって何と読むの?
 約翰・費茲傑拉爾徳・肯尼迪

 

22997002013  アメリカ合衆国第35代大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディである。中国語での西洋人の人名表記は、とにかく似ている音の漢字を宛てるが、それなりに漢字の持つ意味も考慮している。華盛頓はワシントン、亜当斯はアダムス、林肯、あるいは林根はリンカン、柯立芝はクーリッジ、羅斯福はルーズヴェルト、杜魯門はトルーマン、街艾森豪威尓はアイゼンハワー、肯尼迪はケネディ、尼克松はニクソン、卡特はカーター、里根はレーガン、克林頓はクリントン、布什はブッシュ、奥巴馬(台湾と香港は欧巴馬)はオバマ、特朗普はトランプ。

 

 

河村瑞賢「小田原での決心」

  河村瑞賢(1618~1699)。近世初期の商人、海運、治水の功労者。伊勢の貧家に生まれ、江戸で材木商となり、明暦の大火で巨利を得て、以後、幕府、諸藩の事業を勤める。洪水の多発する淀川を改修させたほか、寛文12年、東北地方の幕領年貢米を大阪に回送するため西廻航路を整備させた。これにより、日本海側の米の大部分は大阪に集中するようになり、大阪は「天下の台所」といわれるようになった。

 瑞賢13歳の時に、江戸に出たが運命は開かなかった。そこで上方へ行こうと東海道を小田原まで来た。そこの宿屋に宿泊していた一老翁と談話し、老翁は笑って。日本の中心である江戸を去って上方に行くのは間違っている。お前の骨相を見ると、大いに成功する相があるから、江戸に帰って努力せよ、といった。瑞賢はこの老翁の言を信じて、江戸に戻ることとし、品川まで帰った。その時は7月の盂蘭盆の後であって、精霊にそなえた瓜、茄子が捨てられてあった。そこで乞食にわずかの銭を与えて拾い集めさせて、古桶を買って塩漬けにし普請場の労夫に売り歩いた。かなりの利益を得て、こうして漬物を売るあいだに、役人と知り合いになり、その信頼をえて人夫頭となったが、やがていつしか材木商を営むまでになる。瑞賢の成功の第一歩は捨てられていた野菜であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふるさと福島

Photo_4    蒲生氏郷は1590年、奥州の目付役として会津黒川に移封、92万石を領した。このとき杉目(杉妻)を福島と改めた。1643年、出羽山形より保科正之が入封し、会津23万石の藩祖となった。幕末に会津藩主松平容保は京都守護職に任命されたが、再三固辞したほどで、自身で望んだものではなかった。会津は王政復古により朝敵としてみなされ多くの悲劇が生れた。戊辰戦争後、斗南に移封され、会津人は塗炭の苦しみを味わう。その中からも、教育の近代化に貢献した山川健次郎、浩、捨松の三兄妹がいる。鶴ヶ城で砲弾を運んだという経験わもつ捨松はその後岩倉使節団の日本最初の女子留学生となり、帰国後、大山巌と結婚し、看護婦教育などに活躍した。会津藩士の山本覚馬(画像、1828-1892)は京都の近代化に尽くした。覚馬の妹、新島八重子(1845-1932)は新島襄の妻である。社会福祉活動の先駆、瓜生岩(1829-1897)、『小公子』の翻訳者、若松賤子(18864-1896)がいる。キリスト教徒で日露戦争時、徴兵拒否で投獄された矢部喜好(1884-1935)は耶麻郡木幡村(現・喜多方市)の出身。スポーツでは江川卓が福島県いわき市。

 

 

2026年4月17日 (金)

猫又伝説

 猫又とは、古来から民間伝承の猫に似た妖怪。初出は藤原定家「明月記」で、「猫肹が一晩で数人の人間を食い殺した」とある。鎌倉時代の徒然草に「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに」と記されている。野生のネコが猫又の正体だろう。猫はその眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、そうした俗信が背景となって猫又伝説が生まれたものと考えられる。

 

論語読みの論語知らず

2426591    論語は、日本で古くから道徳の基本の書とされてきた。ところが、論語を読んでいながら、実践はこれを伴わない先生が世の中にはいる。論語をいくら知っていても、それが実践されないならなんの益があろうか。それでは論語を読まないのも同然だ。江戸時代の松江重輯の俳書「毛吹草」には「論語読みの論語知らず」とある。英語にも「A mere scholar,a mere ass.」(単なる学者は、単なる馬鹿だ)がある。

釋奠

  釋奠(せきてん)とは、毎年11月23日に史跡足利学校の大成殿(孔子堂)で行われる伝統行事。孔子とその高弟、小野篁を祀る儀式で、「供え物を置く」という意味がある。足利学校での釋奠の起源ははっきりしていないが、古くは上杉憲実が中興した頃から実施されていたとの説があり、寛文8年の「足利学校再興告文」には釋奠祭器の名称が記載されている。足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説など諸説あり論争が続いている。

参考:市橋一郎「足利学校の釋奠」「学校:史跡足利学校 研究紀要20」  2022年3月

 

お酒のことで困っていませんか

163232554   4月は送別会や歓迎会、大学のコンパなど酒を飲む機会も多い。テレビコマーシャルでは広瀬すず、芳根京子、上白石萌音など売れっ子女優たちがビール片手に可愛く微笑む。これらはどれがキリンかアサヒかサッポロか意識しない。購買意欲を高めることを意図しているため、日常生活にビールが必要だと感じさせれば良いのである。テレビ局は視聴者の健康面よりも、スポンサーが大事なのである。かつてアメリカ映画にはアルコール依存症の悲劇を描いた映画が多かった。「失われた週末」「酒とバラの日々」などが代表例である。現代の日本でもアーコール依存症は100万人を超えるといわれる。大量の飲酒をすると、肝臓障害が引き起こされます。浅野忠信の新作映画「酔いがさめたら、うちに帰ろう」もアルコールに悩む家族の物語である。大学でもコンパなどといって学生が当たり前のように酒を飲んでいる。20歳までは飲酒してはいけないことは当然であるにもかかわらず、新入生歓迎などと称して(当然18歳くらいか)、無理やり飲ませて、死亡するという事件が後を絶たない。ある調査によると、飲酒を強要されたことがある、と答えた人は11.7%もいる。2010年5月、神奈川歯科大学でアメリカンフットボール部の新入生歓迎会で男子学生が飲酒のあと急死した。学生には糖尿病があったそうだ。京都精華大学では11月に学園祭の打ち上げで18歳の女子大生が急性アルコール中毒で死亡している。学校内での飲酒は禁じられていないそうだが、未成年の飲酒を放置しているのが現状である。また飲んだあと飲酒運転で検挙される学生も多い。関西学院では秋から連続しての学生の飲酒運転があった。酒で人生を失敗するのはつまらない。テレビコマーシャルで酒やビールを見る度に飲みたいと思うだろう。横山やすし、朝青龍、草薙剛、中川昭一、中村七之助、市川海老蔵を思い出すべし。テレビコマーシャルは、アルコールに限らず、クルマ、ゲーム、ギャンブル、スマホなど依存症を生み出し、購買意欲を促すものが多く見られる。大量消費は資本主義経済の健全な発展を促すという意見もあるだろうが、アルコール依存症になると、彼らが病欠や仕事中の事故、犯罪などのために国にもたらす損害は、国民総生産の5.4%に達する。もちろん、その代償はもっと高価だ。アルコール依存症、ギャンブル依存症などは、その配偶者や子供に及んだ感情面の被害はお金に換算できないからである。(参考:斉藤学ほか編「アルコール依存症」 1975年)

 

 

日光東照宮

Photo_6     元和2年4月17日、駿府城において75歳の天寿をまっとうした徳川家康の遺骸は、久能山の仮殿に移された。生前病状の悪化を自覚した家康は、4月2日に本多正純、金地院崇伝、南光坊天海を召して、遺体は駿河の久能山に、葬礼は江戸の増上寺で、位牌は三河の大樹寺に立つるべきことを命じたのち、1周忌後に、下野の日光山に小堂を建てるて御霊を勧請し、関八州の鎮守とすべきことを遺言した。これを受けて、同年10月には幕府より日光山に東照宮の社地が選定され、11月17日には造営に着手し、1周忌にあたる4月17日には、主要な社殿が完成した。 

   この元和の造営を指揮した奉行は、本多上野介正純で、藤堂和泉守高虎が補佐し、建築の計画にあたったのは、幕府の大工頭中井大和守正清(1565-1619)であった。正清は奈良・法隆寺大工の中村家の出身で、家康の生前、格別の愛顧を受け、久能山の仮殿も建てた。 

    この元和創建の東照宮は、寛永の造替ですっかり破却されてしまい、伝わらないが、大河直躬、内藤昌両博士の研究によると、本社はやはり権現造で、その周囲を玉垣がかこみ、正面には唐門を開いていた。またその外周に回廊と楼門があり、ほかに本地堂、仮殿、御供所、水盤、厩、神庫、輪蔵、奥社拝殿、奥社宝塔が存在していたことがわかる。元和3年4月の遷宮後も、境内整備の工事は進められ、元和4年には現存する石の大鳥居を黒田長政が、石の水盤を鍋島勝茂が献納しており、また中神庫は元和5年に建てられている。造替に際して、本地堂、奥社拝殿、奥社宝塔は、群馬県の世良田の長楽寺に移されたと伝えられていたが、近年、長楽寺の東照宮拝殿が、社伝のごとく、神柩を安置していた奥社の拝殿を移築したものであることが明らかとなった。これによると、元和創建の東照宮は、現在の寛永造替のものほど装飾が派手ではなかったと推察される。 

 

    家康薨去後、ちょうど20年をめざして、寛永11年11月に開始された造替は、秋元但馬守泰朝を造営奉行とし、建築の総指揮をとったのは幕府作事方の大棟梁、甲良豊後守宗広であった。甲良氏は近江の出身で、建仁寺流を名のり、平内氏とならんで、江戸時代を通じて幕府作事方大棟梁の地位にあった。なお、一族の古い作品として、近江の油日神社楼門が現存している。寛永造替の東照宮では、それまでの和様と違い、禅宗様を基調として統一をはかり、これまでの大社や古社の本殿ではみられぬ様式で、このような発想自体、当時としては異例のものであったとみられる。それが大きな抵抗もなく受け入れられたのは、日光が男女山の山岳信仰の霊場、すなわち神仏混交の地であったからであろう。寛永13年4月10日、家康の遺骨が正式に静岡の久能山から東照宮に移された。 

   東照宮の構成は、その基本的な社殿の形式を、すでに平安末期に成立した北野神社に負っており、その全体構成は、豊臣秀吉をまつる豊国廟を強く意識して成立したものとみられる。

    東照宮の鎮座する恒例山は、円錐形の神奈備山で、本社の位置には、かつて二荒山神社(現在、東照宮の地主神)がまつられ、三神庫付近には常行堂や法華寺などが存在した。寛永造替の附属社殿の数は、創建時のものより圧倒的に多くなっているが、種類においてはほぼ同じで、神與舎が新しくあらわれるのみである。

    表参道の大鳥居をすぎ、表門をくぐると、東照宮の空間が巧みに展開する。東照宮の中核は、本社と奥社であるが、本社にいたる空間の構成は、石垣でかこまれた表門前の広場(千人枡形)、それより斜路をもって水盤舎にいたる空間、銅鳥居より陽明門にかけて、階段によって高まりをみせながら展開する対照的な空間、陽明門をくぐり、唐門・透塀など本社の正面を広くみせた前庭、そして透塀でかこまれる奥の本社の一郭があり、深い緑にしげる杉木立を背景に鎮座する。

   このように、建物の種類や空間構成をみると、寛永造替の東照宮は、それまでの霊廟の附属社殿を、大規模な計画によって再構成し、またその配置方法に巧みな創意と工夫をこらしたものとみることができる。その後の全国の神社や寺院に与えた影響には、いろいろな意味でいちじるしいものがあった。

    徳川家康の家臣・松平正綱(1576-1648)は慶安元年(1648)、20年をかけて日光東照宮への参道に杉を植林した。日光街道の日光から今市間の8.5キロ、御成街道の今市から大沢間の10.7キロ、会津街道の今市から大桑間の3.9キロ、例幣使街道の今市から小倉間の13.9キロ、計37キロにわたり、約13,700本の日光杉並木が現存している。3つの街道を合わせて「日光杉並木街道」と呼んでいる。(参考文献:「名宝日本の美術31」小学館)

2026年4月16日 (木)

押絵と旅する男

447956678_0   「ビブリオ古書堂の事件手帖」最終回。「押絵と旅する男」の第1稿は江戸川乱歩が関西の旅の途中で書いたもので、その原稿を持って名古屋の作家組合の会合に参加するが、自信のなさから原稿を渡すことができず、夜中のトイレで破り捨てたというエピソードが元になっている。乱歩のファンである鹿山は金庫にある大切な物をしまっておいた。栞子は金庫の暗号の謎を解き、第1稿を手に入れた。その題名はなんと「押絵と旅する女」???。つまり鹿山が創作したもので偽物であろうか。栞子の母は、本物の原稿は断片が残り、鹿山が、足らない部分を書き足した可能性があるという。依頼人は原稿「押絵と旅する女」を持って逃走する。まさに押絵と旅する女というのが落ちになっている。話は捻っていて面白いとおもうのだが最終回視聴率は振るわなかったらしい。むしろ古書マニアが8.1%もいるなんて頼もしいと思うべきだろう。

   乱歩の有名な小説は、ある男が浅草十二階の展望台から偶然に見つけた女に恋する話である。さしずめ現代なら生成AIで創り出された架空の美女をネットでたまたま見かけて恋する話である。はかなくて哀しい。こうした人工的な実写キャラクターは、不自然で不気味である。男性の理想像が結集しているので、特徴的には、髪が長くて、目が大きくて、瞬きの回数が多い。そして胸が小ぶりだが膨らみがある。

 

南山一揆

 幕末の長野県で起こった百姓一揆。安政6年、南山36ヶ所(飯田市龍江、千代、上久堅の一部、泰阜村)の百姓は、領主・白河藩の苛政に反発して、小曽木猪兵衛の指導の下、1616名のもの人々が集結して、市田陣屋へ請願し、一人の犠牲者もなく要求を通すことができた。参考:「南山一揆」平沢清人著 伊那史学会 1970年

足利義満と金閣寺

    応永4年(1397年)のこの日、足利義満の北山別荘が完成した。通称は金閣寺と呼ばれるが、正式名称は鹿苑寺。北山別第は、衣笠山の麓にあり、もと西園寺家の別邸があったところである。西園寺公経が築いたが、死後すつかり荒廃していた。義満はここに壮麗な別第を営むことを考え、この地を入手した。芥川賞作家の綿矢りさは数年前から京都に住んでいる。お奨めスポットはどこか、と訊かれたら「金閣寺です」という答えだった。「愛読書は?」と訊くと、「風と共に去りぬと太宰治です」と。あくまで自然流の女性である。(4月16日)

 

 

方広寺鐘銘事件と片桐且元

Houkouji06062510_1  慶長19年のこの日、豊臣秀頼が、焼失した京都・方広寺を再建した。これが後に方広寺鐘銘事件の発端となる。同年7月26日、南禅寺の僧、文英清韓(1568-1621)は片桐且元の命により方広寺の梵鐘の銘文を起草したが、徳川家康はその文言に不吉な語句があるとして、言いがかりをつけ大仏開眼供養の中止を求めた。中止の根拠とされたのが鐘銘の「国家安康君臣豊楽」の8文字。上の4字は家康を真っ二つに斬り、下4文字は豊臣を君として末ながく楽しむ、の意に他ならないという。鐘銘は家康を呪詛する不吉の語とする。この解釈を家康に耳打ちしたのは、林羅山や天海、金地院崇伝の学者・僧侶たちである。且元は弁明のために駿府に赴いたが、家康に会うこともできず、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を明け渡すか」と3ヶ条を言い渡された。しかし淀殿のいまひとりの使者・大蔵卿の局が言うのには「家康は機嫌よく会い、いささかの害心もない」というのであった。淀殿は大蔵卿の局の報告を信じ、且元を裏切り者として罵った。こうして淀殿の信頼を失った且元は大坂城を退去する。しかしこれが豊臣家討伐を目論む家康の筋書きであった。(4月16日)

参考文献:曽根勇二「片桐且元」(人物叢書)

 

 

チャップリン・デー

Chaplincharles03g  山高帽にダブダブのズボンとドタ靴、そしてステッキというおなじみのスタイルでサイレント映画界の喜劇王として世界中で愛されたチャールズ・チャップリン。1889年のこの日、喜劇王チャップリンは寄席芸人を両親としてロンドン南部ヴォルワース(現在のサザーク区)のイースト・ストーリーに生まれた。7歳の頃はランべスで育った。1914年に渡米し、映画で山高帽、ちょび髭、だぶだぶズボン、どた靴、ステッキの独特の扮装で人気を得た。この独特のスタイルは1914年の出演第三作の「メイベルの窮境」で、マック・セネット監督が「なんでもいいから、喜劇の扮装をしてこい」と言われ、衣裳部屋へ向かう途中で思いついた。その後「モダンタイムス」「街の灯」「独裁者」などの名作を残した。だが1952年には赤狩りの嵐の前にアメリカを追放される。1977年のクリスマスの日にスイスで老衰のため没した。4度結婚し、女優のジェラルディン・チャップリンら11人の子供がいる。(Charlie Chaplin、4月16日)

 

 

 

 

2026年4月15日 (水)

レオナルド・ダ・ヴィンチの生家

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   レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日に、イタリアのアルバーノ山の麓の丘陵に抱かれた小さな町ヴィンチの近くで生まれた。ヴィンチの町は、きらびやかなフィレンツェから1日の旅程である。彼は、繁栄するフィレンツェで、公証人をしていたセル・ピエロ・ダ・ヴィンチの私生児として生まれた。レオナルドの母カテリーナのことはほとんど知られていないが、少年は1457年セル・ピエロに喜んで迎えられ、セル・ピエロと義母アルビエラ・アマドリアによって育ててられた。彼の生家がいまも残っている。実母カテリーナも同地の農家に嫁しているので、レオナルドは少年期をここで過ごした。アルビエラは、継子のレオナルドをかわいがったが、若くして亡くなっている。

レオナルドの生家も下図のように1979年ころはまだ牧歌的な感じだった(週刊朝日百科世界の美術44)

 

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(Leonardo da Vinci,Albiera degli Amadori,Messer Piero Fruosino di Antonio de Vinci,セル・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチ)

 

 

中国語で「愛情故事突然發生」と表す日本のドラマは?

48bb8ed5bc78a 中国語漢字圏ではカタカナのような元の発音に近い音で表記する記号がないので、どんな外来語でも漢字を充てる。「スチューワーデス物語」(1983)堀ちえみ主演は、「空中小姐」堀千恵美、「東京エレベーターガール」(1992)宮沢りえ主演は、「東京電梯女郎」宮澤理恵というタイトルで台湾で放送されていた。台湾でドリームズ・カム・トゥルーは「美夢成真」。「花より男子」はそのまま「花様男子」。韓国ドラマ「秋の童話」は「藍色生死戀」。「逃げるは恥だが役に立つ」は、「逃避雖可恥但有用」。台湾では「月薪嬌妻」。月薪は月給、嬌妻は可愛い奥さんの意味。「孤単的心痛(愛はかげろうのように)」。「對不起我愛你(ごめん愛してる)」。「愛情故事突然發生(ラブストリーは突然に)」。「愛的小路(北酒場)」。「水手服輿機関槍(セーラー服と機関銃)」洋画の中国タイトル「羅馬假日(ローマの休日)」。「窈窕淑女(マイ・フェア・レディ)」。「蒂凡尼的早餐あるいは第凡内早餐(ティファニーで朝食を)」。「乱世佳人(風と共に去りぬ)」。「呼嘯山荘(嵐が丘)」。「魂断藍橋(哀愁)」。「睡美人(眠れる森の美女)」。「人鬼情未了(ゴースト/ニューヨークの幻)」。「泰坦尼克号(タイタニック)」。「公民凱恩(市民ケーン)」。「雨中曲(雨に唄えば)」。「原野奇侠(シェーン)」。「舞台生涯(ライムライト)」。「城市之光(街の灯)。「摩登時代(モダンタイムス)」。「西区故事(ウェストサイド物語)」。「美人計(断崖)」。「荒漠怪客(大砂塵)」。「回到未来(バック・トゥ・ザ・フューチャー)」。「郎心似鉄(陽のあたる場所)」。「大白鯊(ジョーズ)」。「星際大戦(スター・ウォーズ)」。「外星人(エイリアン)」。「緑野仙綜(オズの魔法使い)」。「公寓春光(アパートの鍵貸します)」。「教父(ゴッド・ファーザー)」。「日落大道(サンセット大道り)」。「雙重賠償(深夜の告白)」。「龍鳳配(麗しのサブリナ)」。「阿甘正伝(フォレスト・ガンプ)」。「魔蠍大帝(スコーピオン・キング)」。「小偸家族(万引き家族)」など。

 音楽グループ名。「生物股長(いきものがかり)」「色情塗鴉(ポルノグラフィティ)」「早安少女組(モーニング娘)」「格子楽隊(チェッカーズ)」「極品下流少女(ゲスの極み乙女)」

 いま中国はペットブーム。チワワは「吉娃娃」。ポメラニアンは「博美人」。ポインターは「指示犬」。

  トヨタ自動車は「丰田汽車」。車名ではクラウンは「皇冠」、レクサスは「雷克薩斯」。ブリジストンは「普利司通」。ミッキーマウスは「米奇老鼠」。アンパンマンは「安麺包人員」。ドラえもんは「机器猫」。ポパイは「大力水手」(水手とは水夫のこと)。「セーラームーン」は「水手月亮」(「セーラー服」は「水手服」)。ポケットモンスターは「寶可夢旅途」。

   しかしすべての言葉が中国で翻訳されるわけではない。「ストレス」に相当する言葉はこれまでなかった。ここ数年、ストレスを感じるビジネスマンも増加してきた。「圧力」が「プレッシャー」や「ストレス」を意味する。いま中国では「圧力山大」=「ストレスがアレキサンダーのように大きい」という言葉が流行語になっている。中国語で「亜歴山大(アレキサンダー)」と発音が同じで、だじゃれ言葉である。

信息素(フェロモン)

阿司匹林(アスピリン)

大熊猫(パンダ)

火箭(ロケット)

口香糖(チューインガム)

電脳(コンピューター)

爵士楽(ジャズ)

迪斯科(ディスコ)

聖誕(クリスマス)

巧克力(チョコレート)

油炸糖点心(かりんとう)

康乃馨(カーネーション)

生魚片(さしみ)

胡蘿蔔(ニンジン)

巴洛克(バロック)

鋼琴(ガンチィン) ピアノ

月歴(カレンダー)

東京晴空塔(東京スカイツリー)

慮會(アロエ)

直升機(ヘリコプター)

高爾夫球(ゴルフ)

信用卡(クレジットカード)

自動櫃貝機(ATM)

新型コロナウイルス。中国語では「新型冠状病毒」と表記される。

 

 

 

 

2026年4月14日 (火)

タイタニック号、沈没事故(1912年)

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  イギリスのホワイト・スター社の豪華客船タイタニック号が、1912年4月11日、ニューヨークまでの処女航海にイギリス・サウサンプトンから出航。4日後の14日、午後11時45分、ニューファンドランド島沖で氷山に衝突し、翌日未明、沈没した。 タイタニック号の沈没は、世界大戦を除けば、20世紀の最大の悲劇の1つである。エドワード・ジョン・スミス船長(1850-1912)は非常信号CQDを、ついでSOSの発信を命ずる。救命ボートは、乗員乗客2208人に対して、半数分しかなかったので、婦人と子供だけにボートに乗ることが許された。やがてSOSを受信したカーパチア号が現場に到着したが、同船が救助したのは695人、結局1513人が死亡した。タイタニック号の事故原因は、氷山との衝突ではなく、石炭庫に積載された石炭火災で出港前から発生していたとする説がある。火災により隔壁の強度が低下し、浸水開始から2時間で沈没した。ちなみにタイタニック号の名前の由来は、ギリシャ神話に登場する巨人の神「タイタン」に由来し、「巨大な」「怪力の」を意味する。Keyyword;Titanic,Belfast,Southampton,Edward Jhon Smith、4月14日 )

2026年4月13日 (月)

大江戸繁盛記

Ginza090721_image301    江戸は、12世紀に江戸重継が居館を定め、1457年に太田道灌が城郭を築いた。本格的に築城されたのは1603年2月12日、征夷大将軍に就任した徳川家康(当時62歳)によって江戸幕府が開かれてからで、以来、江戸は目覚ましい発展を遂げた。元禄6年、人口は35万だったが、天保14年には58万人に増加した。当時、ロンドンの人口は約55万、パリも50万人程度で、江戸はまさに、世界一の巨大都市であった。大江戸八百八町というが、はたして実際はどれくらいの町数があったのか。寛文2年(1662年)が674町、正徳3年(1713年)が933町、延享年間(1744-1747)が1678町となる。実に、八百八町の倍以上である。

    江戸には、将軍と幕臣団(旗本・御家人)だけでなく、参勤交代制により、二百数十藩の江戸詰めの大名家臣団が、大勢各藩邸で生活していた。その上に、これら武家たちの膨大な需要を支える商人・職人らが、多数、集住していた。

    天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし、その旧領関八州を徳川家康(1542-1616)に与えると、家康は江戸城を本拠と定める。慶長8年8月1日、家康は江戸城に入る。江戸城は将軍の居城、また中央政庁としての偉容と規模を整えていく。天下普請として諸大名に工事を分担させ、神田山の切り崩し、海岸の埋め立て、掘割の開削により城下の整備が行われ、三代将軍家光の頃までに、江戸の都市づくりの基礎はほぼ完成した。

サヨナラダケガ人生ダ

  井伏鱒二は「厄除け詩集」の中で、晩唐の詩人・于武陵の「勧酒」を「ハナニアラシノタトエモアルゾ サヨナラダケガ人生ダ」と戯訳した。第四句は太宰治が未完のの小説「グッドバイ」で引用したことで、多くの人々に知られている。

巌流島の決闘

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 江戸時代の絵では武蔵のほうが若く描かれている

   宮本武蔵と佐々木小次郎が長門の船島で試合した巌流島の決闘は時代劇などで広く知られ、名高い武術の試合である。ところが手元の日本史年表などで調べると、巌流島の決闘は載っていないことが多い。(「日本史年表・地図」(吉川弘文館)「コンサイス世界年表」(三省堂) )これは 信頼できる史料が乏しいことによるものである。決闘の期日も慶長17年説、慶長19年説など諸説ある。「二天記」には「慶長十七年四月」と記されているので、慶長17年(1612年)4月13日とするのが一般的である。巌流を俗に佐々木小次郎と当てているが、これも後年の芝居で名づけられたもので根拠はない。中条流富田勢源の弟子であったことから武蔵よりだいぶんと高齢であったと考えられる。「沼田家記」によれば、武蔵の一撃で気を失った小次郎は、その後いったん目を覚ましたものの、巌流島に来ていた武蔵の弟子たちに寄ってたかって殺されたと記されている。このほかに、武蔵は決闘の時間に遅れず、小次郎の長い刀より長い刀を用いて勝利した説、弟子が倒した説、などなど諸説紛々たり。そもそも決闘が実際に行われていたかどうかすら疑わしい。漁業権をめぐる漁師たちの争いが武蔵・小次郎の決闘となったのではないかと専門家は語る。とかく伝説というものは、年代を経るにしたがって変貌していく。宮本武蔵は「五輪書」に人生に六十余度の勝負をして一度も負けなかったと記しているが、相手の中で大家といわれるものは吉岡一門だけで剣聖どころか田舎剣客にすぎない。講談や小説で武蔵はいちばんの剣豪にまつりあげられたといえる。

   このほか武蔵の伝記で関ヶ原合戦に初陣として参戦し負け組と伝わるが、福田正秀は武蔵西軍説を否定し、東軍黒田如水軍に父無二と共に「九州の関ヶ原」豊後合戦に出陣したことを論証している。

 

 

 

 

沖縄シーサーの起源

Okinawa0013  本日は「シーサーの日」。シーサーの発祥地である那覇市壺屋で2002年より実施。四(しー)三(さー)で「シーサー」の語呂合わせ。沖縄の民家といえば、石垣に囲まれた厚い赤かわらと白い漆喰の屋根が目に浮かぶ。雪害のない沖縄の民家の屋根のスロープは緩やかで、しかも低い。軒の高さは、ほぼ石垣の高さに近い。このような形態は台風の被害を防ぐためにできたもので、沖縄の民家の独特な風情を醸しだしている。青い空に赤かわらとそれを固定する漆喰の白さは鮮やかに映える。さらに、この風情を強調するものに屋根の上に置かれたシーサーと呼ばれる小さな獅子の像がある。往来から玄関の辺りに置かれたシーサーは、魔除けのためにつくられたものである。シーサーにはさまざまな形があるが、2体が対になっているのが基本である。

   シーサーの起源を求めると、中国伝統の魔除けの神獣「白澤(はくたく)」がそのルーツかもしれない。インドのライオンが中国に伝わって「白澤」となり、唐代以降時代を超えてアジア全域に広がった。日本「シシ(獅子・狛犬・唐獅子)」、朝鮮「サジャ」、沖縄「シーサー」。シンガーポールのシンガ(Sinhaシンハは獅子)。マーライオンもその影響。

   沖縄での始まりは1689年のこと。当時、富盛村(八重瀬町東風平)はたびだび火災で悩まされていた。村民が、風水師に占ってもらった結果、八重瀬岳が原因だという。その対処として山に向かって獅子を建てると良いとの助言を受けて設置したところ火事は発生しなくなった(「球陽」)。それ以来、シーサーは火災や邪気を防ぐ魔よけとして沖縄に広まっていったという。現在も富盛に石彫大獅子が残っている。(4月13日)

参考文献
沖縄シーサーと狛犬 堀幸夫 地中海歴史風土研究誌27   2008年

 

 

 

 

喫茶店の日

    歌人の穂村弘は言う。「カフェと古書店がある街は、良い街…」と。もともとヨーロッパにはタヴェルヌやキャバレのような酩酊の場所はあったが、覚醒作用の伴うコーヒーを飲む場所はなかった。イギリスのオックスフォードに最初のコーヒーハウスができたのは1650年のこと。ジェイコブスという。カフェは近代市民社会の発展と共に普及していった。日本で初めてのカフェは東京上野下谷に明治21年4月13日、「可否茶館」が開業した。鄭永慶(18859-1895)という中国名前だが日本人。洋館2階建てで、新聞・雑誌を置いて閲覧させ、ビリヤード場、トランプ、クリケット、碁、将棋、図書室などが設けられていた。コーヒー1杯が1銭5厘。しかし赤字続きで明治24年に倒産。翌年、鄭は西村鶴吉という名前で渡米し、シアトルで没する。明治34年ごろに新聞を閲覧させるミルクホールが出現する。昭和9年「喫茶店」が急増し、学生や文化人が愛用するようになった。そのころ東京に喫茶店は1万5000店を数えたという。

 喫茶店といえば名古屋。名古屋には喫茶店が多く、地元の人はもちろん観光客からも愛されているお店があります。なぜ名古屋には喫茶店が多いのでしようか?歴史的に考えると、尾張地方は江戸時代からお茶を楽しむ茶の湯文化がありました。庶民の間でもお茶をたしなむ習慣があったため、喫茶店文化も自然に受け入れられ、発展していきました。この「おもてなしの心」が、モーニングといったサービスにもつながった考えられています(4月13日)

 

 

2026年4月12日 (日)

パンの日

Img_0735_3  「パンさえあれば、たいていの悲しみには堪えられる」セルバンテス

 

 コメ価格高騰で、主食をパンに切り替える家庭が増えている。本日は「パンの日」。 日本語パン pan は、ポルトガル語 pao から来ている。1600年ごろ、長崎に来たポルトガル人が、その製法を教えたのである。ところが、日本は米、大麦、アワ、ヒエなどを、粒のままで煮て食べる粒食民族だったため、小麦粉で作るパンは、あまり口にあわなかったとみえ、それほど普及しなかった。

   天保12年のこの日、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを作った。これが日本で初めて焼かれたパンと言われている。昭和58年、パン食普及協議会が制定。明治になっても、どちらかというと菓子パンとして発達したのがパンの歴史である。アンパンを発明したり、ジャムパンやクリームパンなどがさかんに作られ、おやつがわりとして食べられていた。

Img_3939    日本の家庭でパンを食べるようになったのは、1900年以降で、文化人が好んで洋食として取り入れたからである。志賀直哉は大正時代末期からすでにパン、バター、牛乳という朝食スタイルだった。一般大衆がパン食になるのは、学校給食が普及した戦後からである。今では、あんパン、ジャムパンといった菓子パンからホットドック、クロワッサンやマカロンといったスイーツの種類も豊富になった。最近は炭火であぶったチョリソーを、半分に切ったフランスパンにソーセージをはさんだアルゼンチンのチョリパンが日本でも食べられる。

 

1egyptbreadmakinggranger     世界でパンを初めて食べだしたのは古代エジプト人である。6000年前ナイル流域に定着しだしたころから、ひたすらパンを主食にしてきた。パンつくりは女の仕事で、そのころ「パンをふくらます技術」は秘中の秘としてエジプト人の間に守られていたが、イオニアを経てギリシアへ、さらにローマへ伝わった。ローマ時代にはパン屋やパンの工場もできていたことが、ポンペイの遺跡発掘で、わかっている。その後、ルネサンスの勃興とともにその技術は向上し各国に広まったが、フランスにおいて特に著しい発達を遂げた。一方、イギリスには古代ローマから伝えられたものが山高の独自の形態を生み出し、現在のアメリカのパンの元祖となり、中央アジアに始まるライ麦パンはロシア・ドイツなどで発展した。(choripan) 4月12日

 

屋久島の奇岩

   屋久島と聞いて、誰もが思い浮かべるのは、あの樹齢1000年以上の縄文杉だろう。しかし屋久島は縄文杉だけではない。全島が山岳地帯といえる。九州最高峰の宮之浦岳(1935m)が中央にそびえ、付近には永田岳、翁岳、黒味岳など1800m以上の高峰が連坐し、八重山連邦を形成する。山岳付近には侵食された奇岩が多く見られる。永田岳とローソク岩、黒味岳とトーフ岩、自然のオブジェの宝庫である。Qさま学力王。出題は世界遺産から。伊能忠敬が測量した最南端地点として、種子島・屋久島があげられていた。

 

 

 

 

武田信玄忌

    武田信玄(1521-1573)の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という歌は古来よく人口に膾炙され、信玄の仁政の姿勢があらわされている。しかし、信玄こそ本当は戦国一の非道の典型ともいわれている。父の信虎を追放し甲斐国を簒奪したこと、わが子義信を謀殺したこと、そして虐殺と奴隷狩りである。とくに1547年8月、信濃志賀城を攻略したとき、生捕りにした多数の男女を甲斐に連行して、奴隷市を開催して売り飛ばした。江戸時代の書物「勝山記」は、信玄に対してはかなり好意的な記述が多いが、それでも志賀城攻略戦だけは悪評である。「信玄は七書にひいで四書にもれ」とは兵法は得意だが、倫理道徳に劣ることをさしているのであろう。JR甲府駅前の武田信玄公銅像。像の原型は彫刻家の宮地寅彦、製作は盛岡勇夫・公彦(立体写真像株式会社)、1969年に完成した。(4月12日)

 

2026年4月11日 (土)

ホルム詞(「ホ」事項索引)



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[  ほ ]

「ホアビン文化」東南アジアの中石器時代から新石器時代前期の文化。狩猟採集時代。無土器文化。紀元前1万年前から紀元前5000年頃まで。▽「ホイットニー美術館」1931年ニューヨークに設立された近代・現代美術作品を中心とする美術館。とくにエドワード・ホッパーの作品で有名。▽「ホイヘンスの原理」波動がつたわるときは、ある時刻における1つの波面上の各点がそれぞれ波源となって素元波とよばれる2次波を送り出し、これらの素元波のすべてに接する面(包絡面)次の時刻の波面があたえられるという原理。▽「ホイッグ党」1680年ごろ、イギリスの都市の商工業者を基礎に形成され、王権の制限、人権の保護を重視する革新派で、国王を支持するトーリー党と対立した。▽「ホイットニー山」カリフォルニア州にあり、アメリカ合衆国本土で最も高い山。標高4421m。▽「放散痛」病気の原因部位とまったくかけ離れた部位に現れる痛みのこと。▽「豊年虫」オオシロカゲロウのこと。志賀直哉の短編に「豊年虫」がある。小説家が温泉に逗留し、人力車夫から、この虫が大量発生した年は作が良いのでこの名前がついたことが書かれれている。▽「ボガズキョイ」トルコのアナトリア高原にあるヒッタイト王国の首都の遺跡。▽「包丁」BC4世紀ころ魏の恵王に仕えた料理人。その牛のさばき方が見事であったと「荘子」に見える。▽「宝暦事件」1758年、尊王論者・竹内式部が逮捕され。式部の講義を聴講していた桃園天皇の側近、徳大寺公城ら公家も処罰される。これを宝暦事件という。▽「ホーエンシュタウフェン朝」神聖ローマ帝国の王朝。シュヴァーベン大公でもあった。1138-1254。フリードリヒ1世、ハインリヒ6世のとき帝権は強力であったが、12世紀末から諸侯は2派に分かれ、二重選挙を実施、帝国を崩壊に導いた。▽「勃極烈(ぼぎれ)」中国、金朝初期の官名。▽「ボコ・ハラム」ナイジェリアのサラフィー・ジハート主義の武装集団。スンニ派イスラム教徒。ボコハラムとは「西洋の教育は罪」の意味。▽「歩荷(ぼっか)」荷物を背負って山越えをすること。▽「ボッチャ」パラリンピックソウル大会から正式競技として採用された障害者スポーツの一つ。赤または青のボールを投げ、ジャックと呼ばれる白い的球にどれだけ近づけられるかを競うゲーム。▽「ボスコリ事件」1513年フィレンツェ共和国で発覚した反メディチ家殺害計画。首謀者パオロ・ボスコリは死罪となる。▽「ボパール化学工場事故」1984年インドのボパールで発生した化学工場のガス漏れ事故。1万6000人以上が死亡したとされる。▽「ボーマン嚢」腎臓の糸球体を囲む膜。名称はイギリスの内科医ウィリアム・ボーマンにちなむ。▽「ポモロード・テクニック」25分集中+5分休憩を繰り返すことで生産性を最大化するメソッド。▽「ボランティア」社会事業などに自発的に参加し、技能や労力を無報酬限で役立てる人々。▽「ボリシェヴィキ」1903年、レーニンが率いたロシア社会民主労働党の多数派。「ポリファーマシー」患者が必要以上に多種類の薬を処方され、何らかの有害事象が起こること。▽「ホペイロ」プロサッカー選手の用具や身の回りのものを管理・ケア・準備する人、仕事のこと。ポルトガル語で「用具係」の意味。▽「捕盗庁(ポドチョン)」李氏朝鮮の漢城府及び京畿道の警察業務を担当する部署。▽「堀川夜討ち」1185年、土佐坊昌俊が六条・堀川館の義経を襲撃するも義経が敗走。▽「ボルハン・ハルドゥン」モンゴル北東部の地名。チンギス・ハンの生まれた所とされる。▽「ホルム詞」英語の前置詞と日本語の後置詞をあわせた概念。▽「ホルンフェルス」変成岩の一種。泥岩・粘板岩などが接触変成作用を受け手できる、暗黒色で硬く緻密な岩石。▽「ポーレット法」1604年、仏王アンリ4世は、ポーレット法を制定して売官制を公認した。地位を世襲するため、毎年、一定額の税金を納める。▽「ホンタイジ」清第2代皇帝。父の遺業を継いで、国の基礎を置いた。(ほほほ)

 

ボーア戦争
ポー川(イタリア)
ポアンカレ予想
ホアンホアン(パンダ)
保育所
ホイッグ党
ホイットニー(綿繰り機)
ホイットニー美術館
ホイットニー山(カリフォルニア)
ホイットマン
ホイヘンス・フレネルの原理
ボイル・シャルルの法則
ボーイング707
ボーイング767
ポインセチア
防衛
貿易風
法家
法界寺阿弥陀堂
望厦条約
封建社会
房玄齢
膀胱
方広寺鐘銘事件(1614年)
放散虫
放散痛
法成寺
北条氏康
北条時宗
北条早雲
仿製鏡
封禅
暴走族
房総半島
法治国家
放置自転車
放送
奉直戦争
包丁(ほうてい)
奉天事件
豊年虫
法の精神
放屁論(平賀源内)
法律
法隆寺
暴力団
ボウリング
宝暦事件(1758年)
宝暦治水事件(1754年)
方臘の乱
募役法
ホーエンシュタウフェン朝
ボガズキョイ
ボーキサイト
ボギー台車
勃極烈
ホーキンス家
朴正熙暗殺事件(1979年)
牧畜
濹東綺譚
北伐
ポケットベル
ホケノ山古墳
母原病
冒頓単于
捕鯨
保甲法
保護司
ボゴタ
ボコ・ハラム
菩薩信仰
ボサノバ
ボザール様式
ポシェット
星亨
星野源
ボシュエ
戊戌の政変(1898年)
保守党(英)
ホジキンリンパ種
蒲松齢
ボース,チャンドラ
ボスコリ事件(1513年)
ポスター
ポストイナ鍾乳洞(スロベニア)
ポストモダン
ボストン茶会事件
ポズナニ
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合
ホスロー1世
ポセイドン・アドベンチャー
ホセ・リサール
細川ガラシャ
細川護熙
ポタラ宮殿
ほだれ祭り
ボタンインコ
牡丹灯籠
ホー・チ・ミン
歩荷(ぼっか)
渤海国
北海道
北海道立羽幌病院事件(2004年)
ボッカチオ
ホッキ貝(北寄貝)
北極海
法顕
ホッスガイ
ポツダム会談
ボッティチェリ
ボッチャ
ポッパエア
ホッブズ
北方領土問題
ホッホキルヒの戦い(1758年)
ポーツマス条約
ボツリヌス菌
ボツワナ
ボデコン
歩天歌(ほてんか)
ポートアイランド
ポトシ銀山
捕盗庁
ポトマック川(ボストン)
ポトリオコッカス・ブラウニー
ボトルネック現象
ボードレール
ボニファティウス4世
ボニファティウス8世
ホネカー
ホノリウス
保馬法
ボパール化学工場事故
浦項(ぽはん)
ポピュラー音楽
ボブスレー
ボフニア王立岩塩坑(ポーランド)
募兵制
ホペイロ
ホーボー
ポポカテペトル山(メキシコ)
ポポロ事件
ボーマン嚢
ホームステッド法
ポームスパン
ホメイニ
ホメロス
ポモロード・テクニック
ホラズム王朝
ホラティウス
ボランティア
ポーランド
ポーランド継承戦争
ホラント州
ポリアクリルアミド
ポリアリレート
ポリオウイルス
堀川夜討ち
ポリグラム(嘘発見器)
ボリシェヴィキ
ポリス
ポリティカル・コレクトネス
ボリバル
ボリビア
ポリビオス
ポリファーマシー
ポリネシア
ホールインワン
ポルカ
ボルゴグラード
ボルジア、ルクレツィア
ホルシュタイン
ホルシュタイン・ゴットルプ朝
ボルステッド法(国家禁酒法)
ポルダー
ポルターガイスト
ボルタヴァの戦い(1709年)
ホルテンシウス法
ボールドウィン
ポルトガル
ホルバイン
ボルハン・ハルドゥン
ボールペン
ボルボックス
ポル・ポト
ホルム詞
ホルムズ海峡
ホルンフェルス
ポーレット法(1604年)
ボロジノの戦い(1812年)
ホロスコープ
ボローニャ大学
ボローニャ中央駅爆破事件
ボロブドゥール
ボン
ホーン(角笛)
本阿弥光悦
盆アンガマ(八重山)
本因坊
香港
盆栽
ホンジュラス
梵字
ボン宣言
本草学
本草綱目
ホンタイジ
本地垂迹
ポンディシェリ
ポンテ・ヴェキオ
ポン・デュ・ガール
ボンヌ図法
ポン・ヌフ橋
本能寺の変
ポンピドゥー
ポンペイ
ボンベイ
ポンペイウス
ボンホルムスガッテト海峡
ポンメルン

 

 

広辞苑に収録されない見出し項目

   広辞苑は1955年刊行以来、わが国の代表的な国語辞典としての地位を確立している。来年1月には待望の第7版が刊行される。その大きな特長として、国語辞典としての日本語の語彙だけではなく、人名・地名などの固有名詞や百科的事項もあり、しかも古語、新語、外来語も豊富である。このような本は諸外国をさがしても珍しい。収録対象が際限ないからである。最新の第6版では植木等や杉原千畝なども追加されている。金子みすず、広岡浅子などは最近知られるようになった人名は仕方ないとして、源氏鶏太、山手樹一郎、高木彬光といった著名作家が収録されていない。これら人名に関しては際限ないことであろう。ただし、気になる点もある。恐竜などの地球上から絶滅した動物も始祖鳥、ティラノサウルス、トリケラトプスは収録されている。スピノサウルス、リオプレウロドンはない。収録の基準がわからない。単なる知名度であろうか。すべての分野の事項を取り扱うだけに、収録の基準の明確性に欠けるのが惜しい。

   際限のない膨大な数のことを「星の数ほど」と表現する。シリウス、カノープス、アルデバランなど一等星は採録されている。太陽系に属する銀河系は、2000億個の星があるといわれている。また地球上には、1000万種とも1億種ともいわれる生物が生きている。昆虫は種類が非常に多く、約75万種ある。脊椎動物には、魚類が約1万9000種、鳥類が約9000種、爬虫類が約6000種、両生類が約400種、哺乳類が約5400種いるといわれている。比較的少ないと思われる鉱物でも数千種ある。これらの名前をすべて集めるというのは際限ない話である。

   本のタイトル。世界中に存在する全ての本の数は1億2986万4880冊とグーグルは推定している。広辞苑にも「金色夜叉」「雪国」「暗夜行路」「夜明け前」「細雪」と代表的な書名のタイトルが項目として扱われている。つのだじろう作「すみれ雲のうた」は雑誌「りぼん」の付録(1964年)でもちろん広辞苑に収録されていないが、本のタイトルも際限ない事の1つである。

   専門用語も際限ない事の1つ。たとえば「リーゼガング現象」「アミタール面接」という項目は広辞苑には見当たらない。アミタール面接とは、麻酔薬や睡眠薬(アミタールなど)を用いて半覚醒の状態をつくり、不安や緊張をやわらげることによっておこなう面接法。

 地名も際限ない事の1つ。市町村名すべては項目に取り扱われていると思っていたが、和歌山県すさみ町を引いてもなかった。市はあるが町村はとりあげられていないらしい。東京都檜原村も収録されていない。日本のおもな山や川を引いても載っていないことが多い。近くの甲山や武庫川もなかった。日本有数の清流として、鮎釣りで知られる高津川(島根県)もない。一級河川だけでも1万4048あるのだから仕方ない。おもな駅名もない。新大阪はない。際限のない事の1つである。

 歌のタイトルも際限ない事の1つである。広辞苑には「荒城の月」はあるが、「ふるさと」(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)は収録されていない。第一興商DBMによるとカラオケで10万曲くらいの歌曲があります。でも歌のない器楽のための楽曲や世界の民謡やクラシックなど、インストゥルメンタルで多くの人が耳にする曲も多くあります。ほんとうに世界中で楽曲は何曲あるのかわかりません。ちなみに最新のヒット曲はGLAY「あなといきてゆく」。

 

   インターネットなどで使われる用語。黒歴史(クロレキシ)意味は「人には言えない過去の恥ずかしい言動」。など。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楽山大仏

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    楽山は四川省の中南部、成都からは南西に約160km離れた位置にある。西には「天下第一の美しさ」とたたえられた峨眉山が聳える。楽山は昔から自然が豊かで、多くの民が暮らす「魚米の里」として知られていた。新石器時代は長江文明で栄え、四川が巴や蜀と呼ばれていた時代は蜀王開明氏の部族が暮していた。秦漢には南安県(漢書地理志に犍為郡南安県とある)に属し、北周の時代に嘉州と改められた。宋の時代に行政単位が格下げられて嘉定府となり、明大に嘉定州、清代には楽山県と改称され、現在、楽山市となっている。

高さ71mの世界最大の磨崖仏「楽山大仏」は世界遺産となり観光スポットである。玄宗皇帝の開元元年(713)に海通和尚の発願により開削が始まり、90年後の貞元19年(803)にようやく完成した。当初は、大仏を保護するために13層の木造楼閣でおおわれていたが、明代末に焼失し、露天仏となった。

鳥取砂丘と民謡「貝殻節」

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    今でこそ全国的にもよく知られている民謡「貝殻節」であるが、戦前はほとんど知る人はなかった。「浜村貝殻節」は昭和8年、浜村温泉をPRするためレコードに吹き込まれた。しかし「貝殻節」が全国に広まったのは、昭和27年、朝日放送全国民謡大会で第1位になったからだという。貝殻節踊りも昭和8年には振り付けがなされたものの、戦時中はすたれ一時は忘れさられたが、昭和22年に再振り付けがなされたものである。

    もともと「貝殻節」は、山陰沖に発生した帆立貝を獲る漁をした漁師たちが歌った労働歌がもとになっている。記録によると、文政7年(1824年)に中国に帆立貝を大量に輸出したとあるから、それ以前から帆立貝の乾し身を産業としていたのであろう。また、「天保5年(1834年)、青谷海岸に帆立貝が集まる」と年表にもある。鳥取県の沖合いでは10年とか20年に1度、帆立貝(イタヤ貝)が大量に獲れた「貝殻年(帆立年)」があった。明治になってからは、明治10年、明治21年、明治22年、明治34年、明治35年、大正14年、昭和4年が貝殻年である。帆立貝を獲ることはほねのおれる仕事で、ジョレンという馬鍬のようなものを海の底に沈め、舟の櫓を漕いで底引きするのである。それで「なんの因果に貝殻漕ぎなろうた」と自虐的に歌うのである。因幡国の城主・亀井武蔵守に仕える若い侍がこの海辺にきたとき、帆立貝を採取する娘に見とれて、つい武士の身分を捨てて漁師となり、その因果で歌が生まれたという説もある。

    最近では、吉永小百合の「夢千代日記」の中でも芸者が座敷で歌い踊るシーンが出てくることから、ますます「貝殻節」が全国的に知られるようになっている。ところがドラマは兵庫県の湯村温泉が舞台なので「貝殻節」を鳥取県と思わない人もいるのではないだろうか。吉永はCDで「浜唄と貝殻節」という歌を吹き込んでいる。早坂暁が山陰に取材をしたとき、湯村にいい民謡がなかったので、鳥取の民謡を使ったのだろうが、東京の人からみると兵庫県の北部も鳥取県も山陰で、あまり違いを感じないないのだろうか。

 

   「貝殻節」の歌詞には、異なるものが多数存在する。

 

  なんの因果に 貝殻漕ぎなろうた

 

  (カワイヤノー カワイヤノー)

 

  色は黒うなる 身はやせる

 

  (ヤサホー エイヤー ホーエヤエー

 

  ヨイヤサノサッサ エンヤノエーエ)

 

   なお、貝殻節は浜村だけで歌われていたものではない。二番の歌詞「♪浜村沖から貝殻が招く」というところを、青谷では「青谷沖から」と歌い、賀露では「賀露の沖から」、泊では「泊沖から」と歌う。

マッカーサー解任

Old soldiers never die,they just fade away. 

 1951年のこの日、トルーマン大統領は、ついに断を下し、マッカーサー最高司令官を解任した。原因は朝鮮戦争への対策に関して、本国政府と意見が対立したため。5年7か月にわたって、日本に君臨し、帝王のこどくふるまったマッカーサーも、ここにその政治生命を終わり、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という名文句を残し、4月16日、日本を去った。

 

satonoka4K

 テレビチャンネルは90局以上あるので見たい番組を探すのもたいへんである。satonoka4Kという放送局を知っていますか?全国各地の地域の魅力を4KHDで毎日・24時間放送している。たとえば日曜日には「ふるさと選 東京都 都市の夜景」など。全国各地のケーブルテレビの番組を再編集して構成している。うるさいコマーシャルが入っていないし、まじめな番組(郷土芸能やお祭り・イベント)が多い。J-COMに加入していれば見れるようだ。

 

 

異なる意味を持つ英単語

  「ドロップ(drop)」と聞けば、日本では英語を知らない人でも「サクマのドロップ」を連想する。英語では「落ちる」が原義。名詞は「しずく」。飴玉がしずくの形をしていることから。▽「run(ラン)」はもちろん「走る」の意味ですが、手元にある辞書を引くと「立候補する」「動く」「経営する」など全部で14の意味があります。▽「ドライブ(drive)」という語はクルマの運転をイメージするが、「やる気」という意味もある。▽「クレーン」と聞けば起重機を思いうかべる。ところが英単語のcraneは、もともと長い首が特徴的なツルから来ている。▽「マフラー」は襟巻き。でもアメリカでは古語で、ふつうは自動車の消音装置のこと。▽「アーチン(urchin)」は「ウニ」と「いたずらっ子」という意味がある。古語で「浮浪児」のことで、「ウニ」のときは「sea urchin」という。▽「ラスト」には「最後の」と「この前の」の意味がある。ワㇺの「ラストクリスマス」は「去年のクリスマス」のほうの意味です。多義語の英単語を集める。

 

age     年齢、時代
bank   銀行、堤
bat     こうもり、野球のバット
ballon  風船、医療用カテーテル
blue    青い、憂鬱な
broom  ほうき、エニシダ
case   箱、場合
crane   鶴、起重機
cross   横切る、十字架
die      死ぬ、サイコロ
figure  人の姿、数字、フィギュア(舞踊)
field    野原、分野
grave   墓、重大な
horse   馬、消防車のホース
kind     親切な、種類
long     長い、切望する
marble  大理石、おはじき
match   マッチ、試合
mean   意味する(動詞) 卑しい(形容詞) 平均的な(形容詞)
muffler  消音装置、襟巻き
nail       つめ、釘
own     自分自身の、ひとりで
pink      桃色の、なでしこ
plane   飛行機、平面
pool    プール、溜まり、球撞き
saw     のこぎり、ことわざ
scale   目盛り、うろこ
school  学校、魚などの群れ
star      星、人気者
staff     職員、つえ
staple   主要産物、ホッチキスの針、繊維
story     物語、建物の階
strip     脱ぐ、薄い金属板
swallow  飲み込む、つばめ
tank      戦車、貯水槽
tear       涙、引き裂く
toast      トースト、乾杯
top         頂上、独楽
trip        旅、トースト
trunk      旅行用かばん、象の鼻
urchin     ウニ、いたずらっ子
violla      楽器、植物
vessel     容器、船
well        上手に、井戸
wind       風、曲がりくねる
wire        針金、電報

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

峨眉山と三峡

8715     峨眉山は、嘉州(四川省嘉定)の西方にある山で、その美しさは天下随一と讃えられている。初めその形が蛾眉(蚕のまゆ)に似ているために蛾眉と書いたが、のちに二つの山が向き合っているその姿が美女の眉を連想させるというので峨眉と書くようになった。

 

    峨眉山は様々な樹木が生い茂る険しい山で、古くから「高きこと五岳を出で、秀なること九州の甲たり。天下第一の山なり」と誉め称えられた。五岳とは泰山、崋山、衝山、恒山、嵩山の中国五大名山を指し、九州とはすなわち中国全土のことである。

 

   李白が故郷を出て三峡に遊んだときの詩「峨眉山月歌」が知られる。

 

  峨眉山月半輪の秋

 

  影は平羌江水に入りて流る

 

  夜清渓を発して三峡に向ふ

 

  君を思へども見えず渝州に下る

 

   三峡とは、四川省奉節県より湖北省宜昌までの間に峡をなす所が三箇所あり、これをいう。巫峡・西陵峡・帰峡の三つともいい、また、巫山峡・明月峡・広沢峡の三つともいう。

 

 

 

 

江戸城無血開城(1868年)

 NHK大河ドラマは、来年が小栗上野介、再来年がジョン万、つまり2年連続で勝海舟が登場するだろう。勝海舟は江戸城無血開城で平和主義者といわれているがはたしてそうであろうか。徳川慶喜によれば、鳥羽伏見で敗戦したとき、この時期海舟は「あくまで戦うつもりなら軍艦を清水港に集めて東下の敵兵を扼し、一方では鹿児島を攻める軍がある」といい、慶喜が耳を貸さなかったことになっている。慶応4年2月9日、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、西郷隆盛、広沢真臣、林玖十郎を参謀とする東征軍は、沿道諸藩の兵をあわせて総数は約5万の軍勢で、錦旗をひるがえしつつ東海道を江戸に向かい、2月28日、駿府に着陣した。

   その頃、江戸では幕臣の間で議論がたたかわされていた。主戦派は榎本武揚、小栗上野介、大鳥圭介、非戦派は勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟らであった。和宮や輪王寺宮公現法親王(北白川能久親王)など天皇家に関係深い筋からは、慶喜助命や徳川家存続の嘆願がなされたが、効果はなかった。2月17日には、上野東叡山寛永寺にいた輪王寺宮の京都行きが決定した。目的は、天皇に会い、慶喜の恭順の意を伝え、官軍の江戸城攻撃を食い止めることにあった。

 駿府の官軍の軍議は3月6日に開かれ、江戸城攻撃を3月15日とするとともに、徳川処分の方策も決定していた。3月7日、上洛途中で輪王寺宮は、数日滞在して、ようやくにして有栖川宮に面会できた。3月12日にも二度目の会見が行なわれた。有栖川宮はこう言った。「徳川慶喜が上野の閉居しているとしても、それだけでは今までの罪をつぐなうことは出来ない。」結局、輪王寺宮は、自分はひとりでも京都へ行くと言った。すると、有栖川は顔色をかえて「それはならぬ。宮の使命は、ここで終わっているではないか。これ以上何を聖に申し上げることがあるか」と強い口調で制止した。このとき、有栖川宮は33歳、輪王寺宮は22歳だった。

   そのころ、勝は西郷のもとへ山岡鉄舟を派遣した。しかし両者の間には大きな開きがあった。江戸城攻撃の期日を目前となったが、勝・西郷の会見は、3月13日と14日の2回にわたって薩摩藩邸で行なわれた。1回目はたんに挨拶だけにとどまり、2回目にいたって、はじめて徳川氏の降伏条件についての交渉が開始された。日本史の中では西郷・勝の江戸城無血開城が知られているが、駿府城での、有栖川と輪王寺宮の会見はほとんど知られていない。結局、輪王寺宮は上洛計画を諦めて、江戸に戻った。その後、上野に居合わせた輪王寺宮は彰義隊の総大将にさせられて、官軍の攻撃の矢面にさらされる。戦いに利あらず、輪王寺宮はさらに奥州に落ちることになる。4月11日、官軍が江戸城に入城し徳川慶喜は寛永寺から水戸へ退居する。(参考:有馬頼義「江戸開城異聞」『日本人の100年 2』)

ガッツポーズの起源

Photo_10  喜びと悲しみ、愛着と嫌悪、幸福と不幸、成功と失敗など、人は様々な感情の状態をもち、快をもとめて不快をさけようとする。身体に表出される感情の変化は恥ずかしい時に赤面し、恐れた時に蒼白になるなど、自律神経系の働きによる表出にはじまり、意志的な支配する姿勢・ポーズにいたるまで、他から認知されうる種々の変化として捉えられる。

    スポーツでの喜びのポーズといえば、野球でみられるハイ・タッチ、サッカーではトンボ返りをしたり、飛び上がって喜ぶものもいる。なかでもガッツポーズは勝利を意味する最高の決めポーズである。こうした人間のもつ喜怒哀楽の感情を身体動作で全身を使って観衆にアピールすることは多くのスポーツで許されている。ただし日本での柔道、剣道、空手などの武道では禁じられている。相撲も当然のこと禁じられている。かつて朝青龍が勝ち名乗りを受けた後、土俵上で両手を突き上げた。これがガッツポーズであるのか、「ばんざい」なのか意見の分かれるところだが、内館牧子は「絶対にいけない」と批判し、鶴田卓彦は「わたし個人としては違和感がなかった」として意見が分かれた。ガッツポーズが相撲の品格を落すものという強い姿勢を示さないと、他のスポーツのように派手なアクションが次々と出て「スモウレスリング」となるであろう。また野球界でも「ガッツポーズは相手に失礼」という不文律がある。大リーグではホームランを打った後の派手なガッツポーズ等は行ってはいけない行為とされている。高校野球でもガッツポーズなどのパフォーマンスは禁止されている。

Imagecaxc11iy   ところがテニスとか卓球とか小さい球の競技は、一球ごとに必ず拳を握りしめる。福原愛は「サーッ!」と掛け声でガッツポーズを連発。スポーツによって考え方が違うようである。本日は「ガッツポーズの日」。1974年のこの日、ガッツ石松がボクシングWBCライト級タイトルマッチでチャンピオンのロドルフォ・ゴンザレスにKO勝ちした。この時両手を挙げて喜びを表わした姿を新聞記者の柏英樹が「ガッツポーズ」と表現したのが、ガッツポーズが広まるきっかけとなった、と巷間では言われているが、これは正確ではない。「勇気、気力、根性」という意味で外来語「ガッツ」が使われだしたのは1964年の東京オリンピック以降で、1970年ころには和製英語「ガッツポーズ」は既にボウリング界などで一般的に使われていた。1972年11月30日発行のボウリング雑誌「週刊ガッツボウル」が、ストライクを取った時のポーズをガッツポーズと言っている。(4月11日)

 

 

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  日本でガッツポーズが生まれたのは、昭和30年代の「鉄人28号」「鉄腕アトム」らヒーローたちの決めポーズの影響が大きいと思われる。

 

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2026年4月10日 (金)

ルイ3世(西フランク王)

  879年のこの日、ルイ3世は父王ルイ2世の崩御をうけ、弟カルロマン2世とともに西フランク国の王位に就く。フランク王国はカール大帝の死後、3分割されたが、西フランク王国(のちのフランス王国)は、シャルル2世、ルイ2世と継いだ。ルイ3世は882年、狩猟中に事故で崩御。カルロマン2世も2年後に事故死する。(4月10日)

 

死語辞典「婦人」

Photo_8     今日、「婦人」という言葉は公的な場所でほとんど使われなくなっている。1949年以来、4月10日に始まる1週間を「婦人週間」と呼んで、女性の地位向上のための啓発活動を展開してきたが、1998年から「女性週間」に改められた。これより先、1996年度に労働省(現厚生労働省)は「婦人局」から「女性局」へと名称変更を行うなど、各地の自治体の部署名や女性団体の「婦人」という名称を「女性」に改められた。なぜ婦人から女性へと、呼称が変化したのだろうか。「婦人」は、年配の女性や既婚の女性という限定的な意味合いが強いというのが理由という。しかし「婦人」から「女性」へと行政が主導的に変更した理由は、「婦」の漢字の文字構造を分解したとき、封建的で差別的な要素が認められると判断したのではあるまいか。「婦」という字が旁の部分に竹カンムリをつけると「箒(ほうき)」という字になるから、「婦」という字は「ほうきを持った女性」のことで、これは女性を家事労働にしばりつける、きわめて差別的な文字である、と一部の人が主張したのである。このような文字の解釈は俗受けするものの、古代中国の生活や文化について正しく理解しているものではなく、漢字の成り立ちから考えるとおかしい話である。この場合の箒は、戸外や一般家庭の掃除に使われるものではなく、先祖の位牌を祀った祭壇を清めるために使われるものであって、それを管轄する「婦」は、一族の中でもっとも地位の高い女性にほかならない。実際の甲骨文字などでは「王妃」という意味で使われている。「婦」が一般の女性を意味するようになるのは、ずつと後の時代のことである。だが俗受けする説は広がって、「婦人警官」「看護婦」「助産婦」などという言葉も言い換えされている。言葉狩りをすれば際限がない。

2026年4月 9日 (木)

奈良の大仏さんの身長は?

Photo188077    本日は「大仏の日」。天平20年(747年)9月29日、東大寺大仏造立を開始し、5年後の天平勝宝4年4月9日、完成し、大仏開眼供養会が行われた。その後、大仏は頭部が欠落するなどの事故をたびたび引き起こし、そのつど修理を加えて維持してきたが、治承4年、平重衡の南都焼き討ちに災をこうむり、焼失した。第1回の復興は、源頼朝の援助を受けて俊乗房重源が着手し、文治元年には大仏を供養しており、東大寺全体の総供養は建仁3年盛大に執行された。ところが、永禄10年三好・松永の兵火がふたたび大仏を焼くにいたった。今回は戦国の世で復興事業はおもうように進まず、江戸期になって公慶上人がよく幕府を動かし、元禄5年大仏はここに3度雄姿を現した。これが、今日われわれが東大寺に拝む盧舎那仏大像である。奈良の大仏さんを見学する子どもたちの質問で、よくあるのが「大仏の毛髪、これを螺髪(らほつ)という、その数は?」 古くから966個と伝えられてきたが、レーザー光を使った最新技術によって492個だったことがわかった。大仏の身長は、座っているので座高は15m。蓮の台を含めると(つまり下から見上げたときの高さ)は、18mになる。高層マンションの平均階高で考えると、約5階建てに相当します。

 

 

 

 

中国の地理

 

 ユーラシア大陸からアフリカ大陸北部にかけて成立したいくつかの古代文明のうちで、その基本的性格を、現在に至るまで持ち続けているのは、中国文明だけであろう。その理由はいくつか考えられるが、その最大のものは、中国がユーラシア大陸の東端に位置し、西アジアからは砂漠や大草原をはさんで遠く離れており、直接の交流を阻害されてきたという、地理的孤立性に求められるであろう。

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 広大な国土を有する中国は南北での自然のちがいがある。まず地理的概観を調べてみよう。

地理的概観(UNIT1)

中国の位置 アジアの東部、太平洋の西岸に位置する。中国には「北に行くほどトランクが軽くなり、南に行くほどトランクが重くなる」という言葉がある。これは旅行者が北に行くにつれて、トランクから1枚ずつ着るものを取り出して重ね着して行くこと、反対に南に行くにつれて、1枚ずつトランクにしまいこんで行かねばならないことをいったものだ。南北は、緯度およそ北緯4度から54度、東西は経度およそ東経78度から東経135度のあいだにある。

中国の境域 陸上では北朝鮮、ベトナム、ラオス、ミャンマ、インド、ブータン、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、ロシア、モンゴル人民共和国と国境を接している。海上では日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアおよびブルネイと相対している。

面積と人口 中国は面積959万7000k㎡、人口14億1492万4743人です(台湾、香港、マカオを除く)。2025年11月の国連の推計による。面積はアジア大陸の25%をしめ、ロシア、カナダについで世界第3位。現時点では中国の人口は世界第2位である。つまり世界の人口約77億のうち約5人に1人が中国人である。

民族 中国は人口の9割(91.5%)占める漢民族と、蒙古・カザフ・回・チベット・ウイグル・タジク・シボ・ウズベク・ロシア・ミャオ・トチャ・イ・チワン・プイ・朝鮮・満・高山族・ナシ族など55の少数民族からなる多民族国家である。そのうち、北方の森林で狩猟をいとなむツングース系諸民族、ステップで遊牧をいとなむモンゴル系諸民族、オアシス世界に生きるテュルク系諸民族、高原で牧畜・農耕をいとなむチベット諸民族、南西山地で農耕をいとなむミャオ・ヤオ系およびモン・クメール系諸民族、南部で水稲耕作をいとなむタイ系諸民族のグループにわかれる。

行政区 全国には、合わせて23の省、5つの自治区(広西チワン族・内モンゴル・新疆ウィグル・寧夏回族・西蔵)、3つの直轄市(中央政府の直轄する市、北京・上海・天津市)があり、首都は北京。その面積を日本と比較すると、新疆ウイグル自治区の160万㎢を筆頭に、チベット自治区、内モンゴル自治区、青海省、四川省、黒竜江省、甘粛省が日本より広い。

自然環境 中国の地形は西に高く、東に低いが、複雑であり、気候風土も変化に富んでいる。気候は、秦嶺山脈と淮河を結ぶ年間降水量1000mmの線(チンリン=ホワイ線)を境として、北部が寒冷で乾燥、南部は温暖で湿潤であり、「南船北馬」という言葉に表されている。南は船で、北は馬による交通の違いを指した言葉であるが、その背後には自然のちがいがある。

国土総面積に占める各種地形の比率は、山地が約33%、高原が約26%、盆地が約19%、平原が約12%、丘陵が約10%となっている。慣習的に山区といわれるものには山地、丘陵、そして比較的起伏のある高原が含まれ、それらが全国土の3分の2を占めている。中国の名山は「五岳」といい、泰山・華山、衝山、恒山、崇山。

 

中国の地域区分

 

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   広大な中国の地域を、地形・気候その他の自然的条件により、また人文地理的要素を考えて、華北・華中・華南の3地域に区分することができる。華北と華中の境界は、淮河と秦嶺を結ぶ線にある。華北が黄土地帯を中心とする乾燥農耕地帯であるのに対して、華中は水田耕作に適している。「南船北馬」という言葉は、華北では馬が主要な交通機関であったのに対して、江南では交通や灌漑のための水路が縦横に発達していたことを語っている。

 

option  中国文明は世界最古の文明であるとともに、独自の文化を今日まで持続したという点では世界でも類例がない。このことを地理的観点から考えてみよう。

   アジア大陸の東端に位置している中国は、エジプト、メソポタミアなどの古代文明諸国からもっとも遠くはなれたところで文明を形成した。地理的位置に起因する文化的孤立性は中国の民族文化の形成に深い影響をあたえずにおかなかった。中国をふくめた四つの古代文明は、いわゆるアフロ・ユーラジアン複合体をつくっているが、世界の屋根である高峻なヒマラヤ山脈とタクラマカン砂漠などの天然の障壁とにさえぎられた遠東の中国は、他の三文明からもっともかけはなれた存在であって、相互の交渉はわずかに駱駝の背にのって砂漠をわたる隊商によってもたらされた。西アジアやヨーロッパの政治的支配が中国の領土や勢力圏に直接及んできたことは、17世紀にいたるまではなかった。したがって、中国は巨大な領域をしめながら、地理的にも、政治的にも、孤立した地域を形成し、そのなかで独自の文化を発展させてきたのである。すなわち、古い文化を発生させたエジプトのナイル川やチグリス・ユーフラテス河流域、あるいはギリシアやインダスにおいて、その文化が停滞し、衰亡したのに比べ、中国はむしろその孤立性を生かし、インドや西方の文化的な刺激を生かして、独特の文化を形成したのである。(参考:貝塚茂樹「中国の歴史」岩波新書)

中国地理関係文献

清国地理小誌 高田義甫著 島林専二郎刊行 1880
清国道中里程図誌 川端恒太郎 京都・杉本甚助 1885 地図
禹域通纂 楢原陳政 大蔵省 1888
清国本部與地図  中田貞矩編 中村芳松(大阪) 1894
中国彊域沿革図 附説略 重野安易繹 河田黒合 冨山房 1896
朝鮮支那地名辞彙 根来可敏編纂 共同出版社 1910
支那省別全誌 全18巻 東亜同文会 1917-1920
中国地名大辞典 劉鈞仁著 国立北平研究院 1930
中国古今地名大辞典 商務印書館 1931
満州地名辞典 岡野一朗 日本外事教会 1933
満州地名索引 加藤新吉 満州鉄道総局 1936
現勢上海・南京詳図 六芸社 1937
最新支那及極東地図 アトラス社編 アトラス社 1937
最新支那大地図 大林堂 1937
満州国地名大辞典 山崎惣与 満州国地名大辞典刊行会 1937
古地理学 陳兼善 長沙商務印書館 1940
支那地名辞典 星斌夫著 富山房 1941
新中国地理 森下修一訳編 古今書院 1956
中国地方誌連合目録 1964 東洋学文献センター連絡協議会編 東洋文庫 1965
アジアの農業 アジア経済講座3 石川滋編 東洋経済新報社 1971 
中国総覧 中国総覧編集委員会編 アジア調査会(霞山会) 1971-1986
中国大陸省別地図 越村衛一・矢野光二編 外交時報社 1971
中国地図帳 平凡社編 平凡社 1973
中国地名大辞典 旧・国立北平研究所版 東京美術 1974
中国の地理 浅川謙次監修 人民中国編集部編 築地書館 1975
中国地理の散歩 阿部治平 日中出版 1979
中華人民共和国地質図集 付・別冊 中国地質科学研究院主編 佐藤信次訳 築地書館 1980
現代中国地理 その自然と人間 黄就順著 山下龍三訳 帝国書院 1981
中国大陸五万分の一地図集成 8冊 総合索引 科学書院 1986-2002
中国大陸二万五千分の一地図集成 4冊 索引図 科学書院 1989-1993

 

 

南北戦争の終結(1865年)

Img_0013 グラント将軍(左)とリー将軍(右)

 

  ユリシーズ・グラント(1822-1885)は南北戦争が起こるや、義勇軍を率いて奮戦、1863年、北軍の最高司令官となり、1864年5月から6月、ロバート・リー将軍(1807-1870)の率いる南軍をミシシッピー川の線で分断し、リーの軍団をリッチモンド付近のピーターバラに固定させ、1865年4月、リーのピーターバラ防衛線を破ってアポマトクスで降伏せしめた。(4月9日)

参考文献
南北戦争 小川寛大 中央公論新社 2020年

 

東方朔と三浦大介

    大晦日や節分の夜などに唱えた厄払いの文句に次のような一節がある。

   鶴は千年 亀は万年

   東方朔は八千歳

 浦島太郎は三千年

   三浦大介百六つ

 

  東方朔(とうほうさく、前154-前93)は漢武帝に仕えた滑稽文学者であるが、早くから仙人的存在に祭りあげられている。三浦大介(みうらおおすけ、1092-1180)は源頼朝の家来で、いずれも長寿の代表にされた。仙人として名前だけは日本人にも知られけているが、架空の人物ではなく、実在していたらしい。中国の正史「漢書」に、独立した列伝が立てられている。

   東方朔は厭次(山東省恵民)の人。たいへんな物知りでなにを聞かれても知らないことはなく、武帝のいい話相手で朗官として出世するが、御前で出た食事の余りは懐に入れて持ち帰る。下賜された銭で、派手な格好で長安の巷に現れて次々に女を漁っては金を浪費する。世人は朔を気狂い扱いしていたが、当人は平気なもの。「宮廷でぶらぶらしている隠者だよ」そう嘯きながら、みるべきものはしっかり見ていて、それを詩文に諷する。「文選」には「客の難に答う」「非有先生の論」があり、「楚辞」には「七諌」が収められている。

   三浦大介は三浦義明ともいい、三浦半島全域を本領とした豪族。源頼朝挙兵に当たり、長子三浦義澄らと頼朝のもとに向かったが、すでに石橋山の戦において頼朝が敗北したのを聞いて、三浦に引き返した。衣笠城にこもり畠山重忠らと戦い、討死した。源家再興にさいし、老命を頼朝にささげたことで知られる。

 

 

奴隷解放宣言(1862年)

 今日、アメリカ史における南北戦争の意義として第一に数えられるのは、黒人奴隷の解放であろう。しかし、リンカンはそれほど奴隷解放に積極的ではなかった。北部の味方となる近接した五つの境界州の奴隷保有者への配慮もあった。そもそもリンカンは道徳家ではなく、現実を重んじる政治家であった。奴隷制度は悪であり、いずれは消滅させた方がよいが、ただちに廃止すべきではないと考えていた。しかし政治的状況の変化で、奴隷制度廃止の動きが高まっていった。1861年4月、南部軍のサムター要塞に対する攻撃をもって南北戦争の火ぶたが切られた。経済力の点では北部は圧倒的に優勢だったが、南部にはリーのような有能な将軍がいて、戦争の前半は南部に有利に展開した。しかし戦局が北軍の優勢に転じ始めるのは、1862年9月のアンティタムの戦いころからである。1863年7月1~3日ゲティスバーク会戦で北軍は勝利した。そのころすでにミシシッピー川は全域にわたって北軍に制圧され、シャーマン将軍はアトランタからジョージア州の海岸部に向かって徹底的な破壊作戦を行ない、さらにカロライナへ北上した。一方、引き続く激戦の背後では、南北ともに慎重な外交戦略を展開していた。南部連合にとってはヨーロッパ、とくにイギリスに南部独立を承認させることに、連邦にとってはそれを阻止することが、外交の優先課題だった。1862年9月、イギリスが南部承認の気配をみせると、9月22日、リンカーンは軍総司令部の権限で1863年1月1日を期し占領地域の奴隷を解放する「奴隷解放予備宣言」を発した。リンカーンのこの卓越した政治行動によって、イギリスその他のヨーロッパ諸国の南部承認は中止となった。1865年4月9日、グラント将軍に追われたリー将軍とその軍隊は、バージニア州アポマトックスで降伏、南北戦争はここに事実上終了した。リンカーンがフォード劇場で暗殺者ジョン・ウィルクス・ブースに撃たれたのは4月14日である。リンカーンの死は殉教としてとらえられ、「キリストは人間を尊いものとするために死に、リンカーンは人間を自由にするために死んだ」、あるいは「イエス・キリストは世界のために死に、エイブラハム・リンカーンはかれの国のために死んだ」という言葉が語られ、リンカーンはアメリカ最高の偉人として伝説化されていった。(9月22日)

令義解(「リ」事項索引)

 「リカオン」中型の犬くらいの大きさで、一見ハイエナに似る。白地に黒と黄褐色が不規則に入り混じり、尾先は白い。ほぼアフリカ一帯に広く分布する。▽「リアウ諸島」スマトラ島東方にあり、シンガポール南方に位置する。主な島はビンタン島。シンガポール海峡に面する諸島でもあり、周辺海域は通航船舶量が多い。▽「リサジュー図形」互いに直交する二つの単振動を合成して得られる二次元運動の軌道が描く図形。▽「リヴィエラ」フランス・イタリアにまたがる保養地として名高い地中海沿岸の地名。▽「李璮の乱」1262年李璮が元朝に離反した事件。▽「李舜臣(りしゅんしん)」1545-98。朝鮮王朝の武将。亀甲船で豊臣秀吉軍を撃退した救国の英雄。イ・スンシン。▽「リッカート尺度」アンケートなどで使われる心理検査的回答の一種であり、各種調査で広く使われている。▽「李定国」明末の武将。張献忠の養子で、その四部将の一人。張の死後、明の永暦帝に従い、晋王に封じられた。永暦帝の死とともに1662年病死。▽「李提摩太(りていまた)」イギリス人宣教師ティモシー・リチャード。▽「リミニ勅書」1226年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がプロシアに対する主権をドイツ騎士団に授与した勅書。▽「琉球王国」1429年、中山王尚巴志が南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一。首里城を首都とする。1879年まで450年間、国家として存在した。▽「龍頭岩」高さ10mほどの岩。済州島観光の名所。▽「リンゴ事件」1933年、大学野球早慶戦で判定に抗議された慶大水原茂選手に早大側スタンドからリンゴの芯が投げられ、水原が投げ返したために応援団が衝突した事件。▽「リンボク」現生のバラ科サクラ属の樹木。(りりり)

リアウ諸島(インドネシア)
リア王
リアス式海岸
リヴァイアサン
リヴィエラ
リウトプランド
リエカ(クロアチア)
リエゴ革命
リェージュ(ベルギー)
リオガジェゴス(アルゼンチン)
リオグランデ
リオデジャネイロ(ブラジル)
リオムニ(赤道ギニア)
リオン湾(フランス)
リカオン
リカードの比較生産費説
力道山
裏急後重
陸九淵
陸象山
六朝文化
六鎮の乱
リークドシクティス・プロブマティカス
六諭
リクルート事件
里甲制
リゴリズム(厳格主義)
リサジューの図形
リーグニッツの戦い
李舜臣
李承晩ライン
リス氷期
リスボン
リーゼガング現象
リソホスファチデートアシルトランスフェラーゼ
李璮の乱
リチウム
リッカート尺度
リッチモンド
リットン調査団
リップ・ヴァン・ウィンクル
律令格式
リディア
李定国
李提摩太
リトアニア
リトルビッグホーンの戦い
李白
理藩院
リビア
リビト・イシュタル法典(前19世紀)
リービヒ
リベリア共和国
リボソーム
リマ症候群
リマン海流
リーマン・ショック
リミニ勅書
リリーマルレーン
龍ヶ崎地震(茨城県南部、1921年)
琉球王国
劉勰
劉暁波(りゅうぎょうは)
劉少奇
龍頭岩
劉邦
竜湾の海戦(1360年)
リュクルゴス制
リュサンドロス
リュッツェンの戦い(1632年)
リディア王国
リューリクアンキキ
凌家灘(りょうかたん)遺跡(安徽省)
令義解(833年)
呂不韋
梁啓超
聊斎志異
両シチリア王国
梁塵秘抄
両税法
旅順
リンガジャチ協定
リンカン
リンゴ事件
リンゴの歌
リン酸
リンディスファーン修道院
リンドバーグ
リンネ
リンパ
リンボク

2026年4月 8日 (水)

参考書の日

2013021620971thumb 本日はお釈迦さまの生誕を祝う「灌仏会」(一般には「花まつり」)であるが、「参考書の日」でもある。全国的に入学式が多いこの日が選ばれた。参考書とは主に受験用の参考書であり、合格した者にとっては不用となることも多い。したがって街角で紙ゴミの日に紐で縛った新しそうな本が捨てられているのをよく見かけるのもこの頃である。

   「参考書」という語は、本来は「調査・研究・学習などの参考にする書」(広辞苑)であり、もちろん受験生だけのものではない。公共図書館の奉仕業務の一つに参考事務がある。図書館の利用者が、職員に「大鏡ありますか?」とたずねたところ、職員は「トイレに大きな鏡があります」と答えた。大鏡は、もちろん平安時代後期の歴史物語であるが、職員は大型ミラーと勘違いしたのである。これは単なる笑い話であるが、職員の技量の問題というよりも、図書館の奉仕活動のあり方やレファレンス・サービス(参考調査)など組織的な問題でもある。(4月8日)

 

 

 

 

 

 

2026年4月 6日 (月)

相原尚褧(あいはらなおぶみ)

   1882年4月6日岐阜遊説中の板垣退助を刺した暴漢。相原尚褧は愛知県東海市横須賀の小学校教員であり、東京日日新聞の保守主義に傾倒していた。そのため自由党を敵視しており、板垣の遊説を知ると、板垣の殺害を決意する。前日、自由党員に扮し、岐阜の玉井屋に泊まる。この時、殺害のために板垣との面会を試みたが断られる。そして翌日、犯行に及ぶ。傷は全身7ヵ所にも及んだが、いずれも致命傷にはいたらなかった。事件後、岐阜重罪裁判所で裁判を受ける。相原は無期懲役の判決を受けるが、1889年、大日本国憲法発布の恩赦で釈放される。釈放後、板垣の元に謝罪に訪れる。板垣は罪を許した。相原は北海道の殖民事業に携わるため北海道へ向かうが、その途上の船上で行方不明となる。自殺したとも、誤って海に転落したとも相原の背後にいた板垣襲撃を計画したものに殺害されたともいわれており、真相は不明である。

 

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板垣退助が刺された時の短刀(高知市立自由民権記念館)

 

 

女郎谷

 本日は「城の日」。姫路市が1991年に制定した。四(し)六(ろ)で「しろ」の語呂合わせ。日本全国各地にはたくさんの城がある。2万5千ともいわれるが正確にはわからない。建物はなく石垣だけ残っているところもある。私の近所には有岡城(伊丹)富松城(尼崎)瓦林城(西宮)鷹尾城(芦屋)などがある。彦根城の東およそ2kmのところに女郎谷という所がある。何やら不気味な妖気があたりにただよう。かつて石田三成の居城佐和山城の裏山である。三成は石高19万4000石と、そう高くないが、「五奉行一の実力者」といわれ、佐和山城は威容を誇った。「三成に過ぎたものが2つある。島の左近と佐和山城」と落首されたほどの名城であった。関ヶ原の合戦後、東軍の寄せ手はさぞかし金品があろうと思って入ったところ、どの部屋もみな粗壁・板張のままであった。襖なども反故紙を用いており、城中に財宝らしい金銀は少しもなかった。三成は権力を握っても、決して贅沢な生活はしなかったのである。佐和山城の落城にはこんな悲話が残る。講和がまとまると油断していた城兵側は、突如、襲撃され城内は大混乱をなし、石田正継ら一族全員は自害し、佐和山城はあえなく落城した。城中にいた2000人の婦女子は女郎谷という崖から身投げをして自決したという。敵方の兵に陵辱されるよりも死を選んだのだろう。落城の日、この谷の方角から女たちの断末魔の悲鳴が遠くまで聞こえてきたといわれる。(4月6日)

 

新聞をヨム日

 4月6日は、「新聞をヨム日」である。「よ(4)む(6)」の語呂合わせから、日本新聞協会販売委員会が制定した。IT化・デジタル化が進んだ時代に育ったいわゆる「Z 世代」は新聞をオールドメディアを揶揄して、ほとんど読まないらしい。SNSなど自分に都合のよい情報だけを拾って、考えていると誤った価値観や選択をしてしまう。新聞や本など活字を読もう。

 

 

黒瀬久賀という女性

   谷崎潤一郎の研究家たつみ都志が谷崎・吉井勇書簡を調査したところ、黒瀬久賀という女性名がしばしば散見する。第7代神戸市長、黒瀬弘志夫人である。昭和17年頃、黒瀬夫妻は谷崎が住む反高林の家から北側、「1軒おいて隣」に引っ越してきた。久賀夫人は明治28年生まれで、当時47歳くらい。大きな屋敷に住み、社交的な華やかな美人であっという。谷崎は黒瀬夫人に関心を引き、松子を通して交際が戦後まで続いた。吉井勇宛て書簡には「今度拙宅付近在住の夫人令嬢たち寄り集まり、大体一週間一度くらい貴公の御来駕を仰ぎて和歌の御教授にあづかり度とのことにて(中略)人数は十人内外前神戸市長黒瀬氏の夫人令嬢など(中略)愚妻もその中に加えて頂度と申居候場所は黒瀬邸(拙宅の一軒おいて隣)を選ぶ事と相成べく小生も時々御目に懸かれて楽しみに御座候」とある。ただ残念なことに、黒瀬久賀が谷崎の『細雪』の中でどのような形で投影されたのかは未だ定かではない。(参考;たつみ都志「第3の女人像 黒瀬久賀の存在」谷崎潤一郎記念館ニュース25  1998.6)

 

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左から黒瀬雅子、黒瀬弘志、黒瀬久賀(昭和11年7月8日)

 

 

2026年4月 5日 (日)

漱石の知られざる兵役忌避

 戦前の日本には国民皆兵であり、徴兵制度があった。明治6年1月に徴兵が始まった。明治12年、16年、22年と改定され、以後昭和20年11月17日に廃止されるまで、およそ70年、この制度が続いた。当時の徴兵制は本籍地主義を採用していたが、北海道と沖縄は兵役が免除された。森鴎外と夏目漱石の生きた時代は、激動の日清・日露の戦争の時代であった。ことに鴎外は陸軍の軍医を務めており、日清戦争で明治27年から28年にかけて、朝鮮・清国・台湾へと出征している。一方の漱石は戦争に対してどのような考えをもっていたのであろうか。夏目漱石は生粋の江戸っ子で、その本籍地は東京(江戸牛込馬場下横町)だと思っている方が多いだろう。しかし実は22年間も本籍が北海道にあったのです。本籍は「後志国岩内郡吹上町17番地浅岡仁三郎方」ちなみに浅岡仁三郎とは三井物産硫黄山の御用商人であり、夏目家とは直接知り合いというわけではなかった。東京から後志国岩内へ転籍したのは1892年(明治25年)4月5日。1897年(明治30年)1月22日に岩内郡鷹台町54番地に移転した後、1914年(大正3年)6月2日に東京に籍を戻している。なぜ漱石は北海道に籍を移したのであろうか。当時、国内では徴兵制が敷かれていた。漱石は25歳の学生なので徴兵猶予がありましたが、卒業後徴兵される可能性がありました。そこで当時免除地域あった北海道に籍を移転して徴兵逃れという方策をとったものと考えられる。漱石は一度も岩内を訪れたことや北海道の地へ旅行したことも一度もなかった。1969年には、漱石の本籍があった場所に「文豪夏目漱石立籍地」と書かれた記念碑が建立された。岩内町の郷土館には夏目漱石の本物の戸籍謄本が展示されている。

  日清戦争や日露戦争で、同世代の若者が多数死傷しているので、漱石の胸中は複雑な思いがしていたであろう。漱石が到達した境地は国家主義に対立する個人主義という立場だった。しかし富国強兵をスローガンとする明治日本では漱石はあくまで慎重に言葉をえらんでいたように思う。

 

2026年4月 4日 (土)

「おはなはん」放送開始(1966年)

53fdad72 NHK連続テレビ小説「風、薫る」。明治時代に日本で初めて近代看護学を学んだ大関和と鈴木雅をモチーフに、2人の生き様をフィクションとして再構成している。俗に明治物は当たるというジンクスがあり、王道朝ドラ。それは昭和41年のこの日、「おはなはん」の放送が開始されたことから始まった。四国に生まれ、青年将校早見謙四郎に嫁いだ浅見はなの一代記であるが、平凡な女の一生が、平凡なゆえに教育ママブームの主婦層の共感を呼び、朝ドラのスタイルを確立した作品である。そもそも朝ドラとは何か。昭和36年「娘と私」(獅子文六)、昭和37年「あしたの風(」壺井栄)、昭和38年「あかつき」(武者小路実篤)、昭和39年「うず潮」(林芙美子)、昭和40年「たまゆら」(川端康成)、昭和41年「おはなはん」(林謙一)と第1回から第6回までを一覧する。そもそも連続テレビ小説というのは、新聞小説のような味わいで文芸作品をドラマ化するという試みであろう。現在のような新進女優の登竜門となったのは第4回の林美智子と第6回の樫山文枝の人気によって、朝ドラ・ヒロインが定着したのである。

 その中で「たまゆら」は川端康成の初のテレビに書き下ろし、映画界の名優・笠智衆はテレビ初出演という意欲作であった。川端の1回分の分量が400字詰め1枚半。これを山田豊、尾崎甫が脚本にする。扇千景、直木晶子、亀井光代の3人の娘は美人ぞろい。平和な家庭である。これだけ条件がそろいながら、評判はあまり良くなかった。家庭内の平凡な生活ばかりがダラダラつづき、事件らしいものは一つもない。ようするに「つまらない」の一言に尽きる。川端文学の世界と昭和40年時代の視聴者のテンポとには大きな隔たりがあったようだ。続く「おはなはん」は無名の新人で誰もが期待していなかった。しかし初回から木に登って婿殿をみつめるとき、新しいテレビのヒロイン誕生が予感された。朝ドラ・ヒロインのたくましさと聡明さ、明治の近代的女性の魅力、次々起こる事件、多くの視聴者は「おはなはん」に感情移入できた。6年目にしてようやく連続テレビ小説のスタッフは成功の方程式をつかんだようだ。(4月4日)

 

項羽と虞美人

 紀元前202年12月、秦が倒れたのち、楚の項羽は、天下の覇を漢の劉邦と争って激しい戦いを繰り返すが、敗れて垓下に追いつめられる。陣中で四面楚歌の声を聞き、運命の尽きたことを知った項羽は、最後の酒宴をひらく。その席で項羽みずから作り、歌ったのが「垓下の歌」である。「力は山を抜き、気は世を蓋う。時に利あらず 騅逝かず。騅の逝かざを奈何すべき。虞や虞や 若を奈何せん」虞美人これに和する。左右の者も皆泣きて、能く仰ぎ見るものなし。

   韓国ドラマ「師任堂」。中部学堂の入試問題は、「司馬遷の項羽の評価について」司馬遷は史記で「志は果たせなかった。しかし項羽ほどの人物は再び現れまい」とする。項羽は、古来より「最期に及んで愛人や馬などに未練を見せ、めめしくて武人らしくない」と批判するものが多い。ところが明の呉偉業(1609-1671)の漢詩「虞兮」では、虞美人や騅など、愛する者への思いやりをつねに忘れなかった項羽は、一人の女性から、死を共にするほどの信頼を寄せられた。このことこそ、項羽をまことの英雄と呼ぶにふさわしいと賛辞を送っている。

 

      虞兮

 

千夫も辟易す 楚の重瞳

 

仁謹 居然たり 百戦の中

 

博し得たり 美人 心に死を肯ずるを

 

項王 此の処 是れ英雄

 

         *

 

瞳が二つずつの両目でにらみつけると、千人の敵兵も圧倒されしりごみをした。あまたの戦の最中、つねに愛する者へのいつくしみを忘れなかった。そのために、虞美人が進んで殉死を受け入れる結果を得たということ。項羽はこの点においてこそ、英雄と呼ぶにふさわしい男だ。(参考:石川忠久「漢詩をよむ」1994)

2026年4月 3日 (金)

裏急後重(りきゅうこうじゅう)

 「快便は、健康のバロメーター」といいますが、お通じの悩みを持つ人は多い。「裏急後重」という言葉を御存知でしょうか?広辞苑にも載っています。 渋り腹のこと。しきりに便意を催すのに排便がごく少量で、すぐまた行きたくなる症状。テネスムス。谷崎潤一郎「細雪」で四女妙子が赤痢になって裏急後重の苦しみに陥る場面がある。

 

太子虚構説と教育の影響力

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 叡福寺北古墳

 604年のこの日、聖徳太子が「憲法十七条」を制定したとされる。聖徳太子を知らない日本人はいない。かつては紙幣の肖像になり、学校の教科書で実在の人物として習っている。しかし聖徳太子の「冠位十二階の制定」「十七条の憲法」などの事蹟を全て史実をみている研究者は少ない。とくに憲法十七条は、その内容・字句などから当時のものであるかどうかには論争がある。聖徳太子は後世の聖徳太子信仰によるさまざまな伝承に彩られた人物であり、そのベールを1つ1つはがしながら、実像に迫っていくことが課題となっている。太子を讃仰する人は大勢いるが、意外と太子の墓の所在を知る人は少ない。太子の墓は大阪府太子町にある叡福寺北古墳とされる。宮内庁の陵墓で調査はできない。7世紀の築造とされているが、本当は鎌倉以降と見られる。大正期からすでに聖徳太子の幾つかの疑問は提示されていた。なぜ教科書には聖徳太子が中心の古代史が組み立てられたのか。東京大学教授の坂本太郎の影響力が強かったとみている。大山誠一著「聖徳太子の誕生」(1991年)以降、太子虚構説が主流となりつつあるが、一方で不世出の偉人を中心に据えた古代史観がいまだ定着しており、国民の太子像は根強いものがある。ただし、この10年間で歴史教科書での聖徳太子の取り扱いは大きく変化している。2016年度からの高校日本史の教科書(清水書院)には「聖徳太子は実在したか」という記事をのせ、架空の人物ではないかとする説を紹介している。(4月3日)

 

 

ジス・イズ・ア・ペン (これはペンです)

Image146   英語の教科書で最初に習った文章で世代が分かるという。「Ⅰ am Tom Brown.」は戦後、中学が義務教育となり、生徒が最初に手にした教科書(1947年文部省刊)で使われた一文。1949年から三省堂の教科書は「This is a pen.」荒井注の世代。1962年からbe動詞ではなく、一般動詞の英文が登場した。「Ⅰ have a book.」この教科書はアメリカ英語の口語教本を執筆したW・L・クラークの書き下ろしたもの。haveからplayやlikeといった他の動詞に置き換えやすい。しかし一般動詞が最初に出てきた教科書は三省堂だけで、1978年から「be動詞から」に戻した。 

 学校の教科書で習う「Do you have a pen?」。こう聞かれたら、「Yes,I do.」という返す。文法的には100%正解なのだが、実際のネイティブの会話では、「Here you are.」(はい、どうぞ)と返す方が自然でベストです。「ペン持っている?」貸してほしいんだけど、という意味が含まれている場合、「イエス アイ ドウ」だと会話が途切れてしまうからです。

ところで have動詞にはいろいろな意味がある。 

 

Ⅰ have a family. 

 

家族がいます 

 

Ⅰ have a good time. 

 

良い時間を過ごす 

 

Ⅰ have a dream. 

 

私には夢がある 

 

Ⅰ have a cold. 

 

風邪をひいています 

 

Ⅰ have a good memory. 

 

記憶力がいいです 

 

My sister is going to have a baby on March 3.

姉は3月3日が出産予定日です。

 

Ⅰ have lunch. 

 

昼食をとります 

 

   最後の一文は「have lunch」か「have a lunch」か迷うだろう。食べることに焦点をあてた言い方なら「have lunch」が一般的な表現である。昼食の種類や性格について修飾語がつけば、have an early lunch(早い昼食をとる)とか、have a late dinner.(晩い夕食をとる)のように a がつく。 

 

また「have+物」で「ぜひ、(物を)どうぞ」の意味がある。 

 

Have some coffee. 

 

コーヒーをどうぞ 

 

Have a drink. 

 

飲み物をどうぞ

 

 

平成之大馬鹿門騒動

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   平成8年3月、京都の仏教大学が新図書館などの建設にあわせて正門周辺の改修工事をした際、彫刻家・空充秋(そらみつあき)が制作した門柱が贈られた。大学側は当初、気づかなかったが、4月3日の入学式で、教員が門柱の側面に30cm四方の大きさで「平成之大馬鹿門」と彫り込まれていることを発見した。大学と空とで題名を削るかどうか話し合いが続けられたが、決裂した。大学は「馬鹿という言葉は大学には不適切。削ってほしい」と要求。空は「作品を削るというのは、自殺しろというのと同じ」と対立。大学側が引き取りを拒否したため、2ヶ月後の6月、門柱を香川県木田郡庵治町の自宅に持ち帰った。その後、各地から門柱の要望があり、平成8年8月、空は兵庫県宍粟市へ寄贈した。現在、千種高原へ向かう道路を挟んで相対し聳える、おごしき山(1095m)と空山(901m)の、それぞれの山頂に1基づつ設置されている。(参考文献:中井真孝「平成之大馬鹿門と新聞記事」 鷹陵150号 1996年)

 

 

 

 

2026年4月 2日 (木)

小渕恵三急死(2000年)

   小渕恵三は今でも国民に愛される政治家の1人である。それはこんな有名な逸話によるからだろう。就任するやニューヨーク・タイムズ紙に「何をしても食べられない冷めたピザのような人」と紹介された。つまり「冷めたピザほどの魅力しかない」という意味である。普通ならば一国の首相に対して友好国のアメリカがあまりに無礼であると怒るところであるが、小渕はピザを用意して記者たちに振舞いながら「冷めたピザでも食べてみればなかなか味わいがあるんだよ」といった。そしてピザを手にして微笑む小渕の写真がタイム誌1998年10月5日号の表紙を飾った。人柄の小渕の面目躍如たる逸話である。逆にそのユーモアが日本では大うけして人気が高まった。

    この年、流行ったものが「バイアグラ」。それまでED治療薬はヤミで1錠1万から5万円くらいだった。ようやく厚生労働省が翌年に認可して、1錠当たり1500円から2000円くらいなった。副作用があるので、まだ市販薬は存在せず、医師の処方箋がないと購入できない薬である。

   ところで小渕首相は2000年4月2日、脳梗塞で順天堂大学医院に緊急入院、意識不明になった。そして5月14日、急死した。まだ62歳という若さだった。これまで在職中に亡くなった総理大臣は4人いる。原敬、濱口雄幸、犬養毅、大平正芳。小渕首相の場合は4月4日に青木幹雄が臨時代理に就き、後継者を森喜朗にしたため在職中の死亡とはならない。

 

 




 

 

 

 

2026年4月 1日 (水)

三日見ぬ間の桜かな

Img_0001_3 加治川の桜

 

 「世の中は三日見ぬ間に桜かな」三日外に出ないでいたら、桜の花が咲き揃っていたという俳句。あるいは、散っていたのかもしれない。この大島蓼太の句は世の中の移り変わりの早さを桜に例えたものとして受け止められ、「三日見ぬ間の桜」ということわざになっている。

今日は何の日。1989年4月1日、日本ではじめて消費税が税率3%でスタートした。ときの首相竹下登は、消費税導入と相前後して、リクルート事件が発覚し、内閣支持率は10%を割り込んだ。6月3日、内閣総辞職した。

 

 

あの著名人の故郷はどこですか?

 木曽義仲、島崎藤村、大江健三郎、高市早苗、三浦璃来。これらの人物の共通点は何ですか。答えは山に囲まれた内陸で育ったという5人に共通する自然環境です。みなさんは地元出身の有名人と言われて、誰を思い浮かべますか?たとえば高知県であれば、高知の女は「はちきん」と呼ばれて、男まさりで勝ち気な女性のこと。広末涼子や島崎和歌子を思い浮かべます。いまなら朝ドラ「あんぱん」のモデルやなせたかしの妻、小松暢。▽「福岡一可愛い女の子」で2018年前後にブレイクした今田美桜。▽「岡山の奇跡」といわれる桜井日奈子。このフレーズは「岡山には美人がいない」という説が由来になっている。▽嵐のメンバーの出身地。松本、二宮、櫻井、大野みな東京都。相葉雅紀だけが千葉県。▽大阪といえば天童よしみや和田アキ子だが、清原果耶が大阪市出身と聞いて意外な感じがします。▽雑誌「All About」が調査したところ、神奈川県出身の好きな芸能人ランキングは、1位は桑田佳祐、2位は中居正広、3位は日村勇紀(バナナマン)でした。▽大の里が横綱に昇進しましたが、地元では大喜びしているでしよう。石川県津幡町の出身。同郷にはほかにも若手美人女優の浜辺美波がいます。2人とも津幡町出身で2000年生まれの同じ年だそうです。▽秋田美人といえば藤あや子、桜田淳子、壇蜜。ところが今は佐々木希が秋田美人の代名詞。北関東も美人はいないとおもわれていた。ところが今は美人の産地。第1位は白石麻衣(群馬)、2位は山口智子(栃木)、3位は磯山さやか(茨城)。

 

 

北海道 北島三郎 鈴木宗男 玉置浩二 高橋恵子 細川たかし 大泉洋

 

青森県 吉幾三 淡谷のり子 松山ケンイチ

 

岩手県 大谷翔平 小沢一郎 千昌夫 新沼謙治

 

宮城県 羽生結弦 さとう宗幸 宮藤官九郎

 

秋田県 藤あや子 落合博満 内館牧子 佐々木希

 

山形県 佐高信 大泉逸郎 あき竹城 渡辺えり

 

福島県 伊東美咲 田部井淳子 西田敏行

 

茨城県 永作博美 東野峻

 

栃木県 森昌子 落合恵子 山口智子

 

群馬県 白石麻衣 篠原涼子 渡辺久信

 

埼玉県 石川遼 羽生義治 蜷川幸雄 星野真里

 

千葉県 長嶋茂雄 高橋由伸 阿部慎之助 小倉優子 野田佳彦

 

東京都 木村拓哉 石田純一 蓮舫 北島康介 長山洋子

 

神奈川県 加山雄三 向井理 成海璃子 織田裕二 ムロツヨシ

 

山梨県 根津甚八 松本哲也

 

長野県 上條恒彦 美川憲一

 

新潟県 小林幸子 高橋克実 馬場ふみか

 

富山県 野際陽子 風吹ジュン

 

石川県  松井秀喜 鹿賀丈史 田中美里 浜辺美波

 

福井県 五木ひろし 白川静夫

 

岐阜県 野田聖子 北川悦吏子 髙橋尚子

 

静岡県 広瀬すず 加藤剛 斎藤孝 長澤まさみ 春風亭昇太

 

愛知県 イチロー 琴光喜啓司 竹下景子 玉木宏

 

三重県 榊莫山 ドン小西  椎名桔平 西野カナ 鳥羽一郎 山川豊

 

滋賀県 田原総一朗 堀田真由

 

京都府 都はるみ 村上春樹 前原誠司 伊達公子 近藤正臣

 

大阪府 天童よしみ 和田アキ子 岡田武史 三池崇史 山中伸弥 清原果耶

 

兵庫県 北川景子 松下奈緒 上野樹里 松浦亜弥 戸田恵梨香

 

奈良県 堂本剛 吹石一恵

 

和歌山県 坂本冬実 田川寿美

 

鳥取県 水木しげる 石破茂 山本舞香

 

島根県 錦織圭 江角マキコ

 

岡山県 あさのあつこ 桜井日奈子

 

広島県 西城秀樹 金本知憲 綾瀬はるか 有吉弘行

 

山口県 菅直人 山本譲二

 

徳島県 板東英二

 

香川県 松本明子

 

愛媛県 大江健三郎 早坂暁

 

高知県 広末涼子 藤川球児 やなせたかし

 

福岡県 郷ひろみ 松田聖子 浜崎あゆみ 魁皇博之 氷川きよし タモリ つるの剛士 田中麗奈  今田美桜

 

佐賀県 松雪泰子

 

長崎県 さだまさし 福山雅治 前川清 仲里依紗 川口春奈

 

熊本県 八代亜紀 石川さゆり 島津亜矢 姜尚中 秋山幸二 森高千里

 

大分県 深津絵里 南こうせつ 麻丘めぐみ

 

宮崎県 髙石あかり 東国原英夫 青木宣親

 

鹿児島県 森進一 西郷輝彦 上白石萌音

 

沖縄県 新垣結衣 宮里藍 南沙織 安室奈美恵 夏川りみ 中島美嘉 黒島結菜

中国文明の誕生 その悠久の歴史

35d2b0b0s   広大なユーラシア大陸の中央から東端にまで位置する中国にはいつ頃から人類が住みついたのだろうか? 現在の人類の直接の祖先はおよそ20万年前にアフリカに現れ、10万年前にアフリカを出て、ヨーロッパやアジアに進出し、6万年前に東アジアに到達した、と考えられている。禄豊猿人(800万年前)、元謀猿人(400万年前)、巫山猿人(240-200万年前)の発見がある。かつて最古の人類の一つといわれた北京原人、藍田原人、元謀原人などもアフリカに起源をもつ原人のひとつで、中国の主流の学者は現代の中国人の祖先であるという見方をしているが、国際的には、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられている。

  アジアの人類の起源に関して、1979年に新しい発見があった。雲南省の赤鹿洞窟から1万1500年から1万4000年前のものとみられる人類化石が発見された。発見場所から鹿を食べていた痕跡があることから赤鹿人(画像)と呼ばれている。約1万年前に氷河期が終わって、気候が温暖となり、動物や植物の分布が変わるなかで、採集・狩猟の生活にも変化があらわれた。人類は東アジア各地に広がって住んでいく。中国では前5000年ころ、旧石器時代から新石器文化へと発展した。黄河の中・下流域の黄土地帯の住民は、村落生活にはいった。かれらが磨製石斧や彩文土器を用いたことから、この最初の黄河流域の文化を彩陶土器が出土する仰韶文化が代表的である。裵李崗、老官台、北辛、磁山、仰韶、後岡、大汶口、龍山、二里頭へと発展した。なぜ中国大陸に、いち早く古代国家が誕生したのかその起源が最大の課題である。かつては黄河流域に古代国家が生まれる前段階の農耕文明が生まれたと説かれたが、21世紀になると、長江流域などに生まれたさまざはな文化・文明が存在したことが明らかとなった。華北には二里頭、斉家、辛店、唐注、沙井などの諸文化が、華南の諸文化には大きく5つの群に代表される、河姆渡、屈家嶺、青連崗、良渚、湖熟などがある。黄河と長江の大河流域に芽生えた多元的な中国文明において、農業が生まれ、都市が形成され、やがて多大な人口を擁する帝国を形成するようになつたと考えられている。

   新石器時代の末期から青銅器時代にかけて、各地に都市国家が生れた。のちに邑国などの名でよばれたこれらの都市国家は、氏族制的遺制の強い国家であった。そのなかでも最も先進的な地位にあったのが殷であり、その文化を示すのが後半期の都のあとの殷墟である。王権はかなり発達して、犠牲と殉葬を伴う巨大な王墓が営まれており、亀甲獣骨を用いて神意を占い、政治を行った。すでに甲骨文字が生れて、占いの内容を記録しており、青銅器鋳造の技術は最高の段階に達していた。殷は前11世紀に西方の周に滅ぼされた。周は祖先の宗廟のある鎬京と、中原を統治するうに便利な東の洛邑という2つの都があった。この二都並立時代を西周時代という。武王から数えて12代目の幽王が犬戎に攻め滅ぼされて、その子の平王が都を洛邑に移した。それ以後を東周という。紀元前771年のことである。

   周のつくりあげた政治体制は、「封建制度」の名で知られる。西洋中世フェーダリズムとの違いは、周では本家と分家の血縁関係でつながれているが、西洋では君主と家臣とのあいだの個人的契約に基礎をおく主従関係である。前8世紀から、諸国家の上に君臨していた周の権威が失われた。都市国家を構成していた族制的秩序は解体して小家族が独立し、他方諸国家は征服併合をくりかえして中央集権的な領土国家に成長していった。この過渡期が春秋戦国時代であり、このような変動の原動力となったのが、春秋時代の鉄器の発明とこれに伴う農業生産力の発展であったと考えられる。族秩序の解体に伴い、新しい豪族、大商人が抬頭し、有能な個人は学者、官僚として諸君主や実力者の下に集まり、古い君主は実力ある臣下に国を奪われた。強大な君主は他国の領土を併合し、また大規模な灌漑工事によって未墾地を切り拓いた。このようにして広大な領土は、郡、県の行政単位を通して君主の直接支配をうけた。封建制度は郡県制度に変わっていった。この時代には、儒家・墨家・道家・法家をはじめとする諸子百家の思想が開花し、時代の指導理念を争った。ここに、のちの中国諸文化のさまざまな原型がつくられた。

   前3世紀末、中国は秦の始皇帝によって統一された。始皇帝は郡県制度を全国にしいたのをはじめ、あらゆる面で中央集権政治をおしすすめた。それは近代にいたるまで中国を支配した専制政治の確立を意味する。始皇帝の改革は急激にすぎ、旧貴族と農民の反乱を起こした。そのなかから漢が成立したが、漢も基本的には秦の体制をひきついだ。武帝の時期に漢の国力は絶頂に達し、ベトナム、北朝鮮を支配し、匈奴を討って西方との交通路を開いた。この時期に採用された儒教は、以後中国専制国家の指導理念となった。秦漢帝国の体制は、前代の族秩序の崩壊の結果生まれた小農民を、天子が直接支配する体制である。しかし、大土地所有者、商人としての豪族の成長は、このような小農民を没落させ、国家支配の危機を招いた。漢の天下を一時奪った王莽の豪族抑圧策が失敗したのちに、後漢の王室は豪族勢力によって擁立された。豪族勢力の拡大と、その結果としての農民反乱のなかで漢は崩壊する。

1850img_7577   漢の崩壊後、魏晋南北朝と総称される分裂時代にはいり、豪族の全盛時代が到来した。豪族勢力の基礎は、郷里に代々たくわえた資産と名望、同族の結合、奴隷、小作人、私兵などの多数の隷属民にあった。豪族の大土地経営を奴隷制とみるか農奴制とみるか、意見が分かれている。王朝の権威は否定されたわけではなく、この時代「九品中正」とよぶ官吏任用法によって、豪族は上級官僚の地位を独占した。こうして貴族政治が生れたが、貴族政治は江南でとくに盛んであった。しかし北朝では国家権力が強化され、5世紀の北魏で均田法が始まった。これは国家が、一定の土地を農民に与えるもので、これによって秦漢以来の伝統的な小農民支配が再編復活された。貴族の大土地所有も国家支配の下に組み入れられて、合法的に認められた。この時代、老荘思想、道教、仏教などが流行したが、形式化した儒教に代わって、国家宗教としての地位を獲得したのは仏教であった。中国の分裂は外民族の侵入を誘った。4世紀の初め、五胡諸民族は華北に侵入して多くの国を建てた。これよりさき中国文明の影響は周辺諸民族に及んだが、この動乱に際会して、朝鮮、日本などでも国家の形成がうながされた。中国民族の一部は華北を追われて揚子江の南に移住し、この地方の開発を進めて、新たな政治、文化の中心地をつくった。こうして長期にわたる分裂の反面、東アジアの歴史的世界が拡大したのもこの時代の一つの特徴である。つづく隋唐帝国の出現は、この東アジアの世界に統一性をもたらした。

   6世紀末に中国を再統一した隋は、大運河をつくって南北の中国を結び、科挙によって新官僚を登用しようとした。まもなく隋末の広範な農民反乱をへて唐が成立した。隋唐の支配階級は依然として貴族階級であり、均田法による農民の人頭支配をうけついだ。国家機構の運用を限定した律令法典は、この時代に整備された。唐は高句麗を滅ぼし、突厥、ウィグルなど周辺の諸民族を服属させ、ペルシア、アラビアへの道を通じ、東アジアの諸国家からは模範国と仰がれた。日本、新羅、渤海などの国々は、唐の制度、文化にならって国づくりを行なった。唐は中頃の安史の乱から衰亡にむかった。均田法は早くから解体をはじめ、新興地主と科挙官僚の台頭をみた。辺境では府兵に代わる傭兵が現われ、その指揮官として節度使の勢力がました。安史の乱は彼らの反乱から起こったが、乱後、節度使は内地に割拠するようになった。均田法下の定額均等の人頭税(租庸調)に代わって両税法が生まれ、資産に応じて課税されるようになった。土地所有者の拡大と商品流通は活発となり、破産した農民は黄巣の乱を起こして唐を崩壊させた。そして下層の兵士、農民のなかから節度使が出、節度使の天子が出て、五代の王朝が交替したが、この混乱の中で旧来の貴族階級は完全に没落し去った。

   960年に後周にかわり開封を都とした宋の趙匡胤(太祖)は混乱をおさめたが、つぎの太宗になって中国の統一を達成した。宋・遼・金・元・明と王朝は交代した後、1610年ヌルハチが清朝を建てる。清は1840年、アヘン戦争に敗れ、以来列強諸国による植民地化が進められる。1911年に辛亥革命がおこり、翌年に清朝は滅んだ。その結果、秦朝以来2100年あまりつづいてきた中国の専制王朝は終わりを告げた。こののち列強の援助を受ける軍閥が各地で勢力をふるうが、1921年7月1日、中国共産党が誕生する。毛沢東は日中戦争には国共合作して抗日戦を行い、戦後は蒋介石を打倒して国共内戦に勝利した。1949年に中華人民共和国が成立、敗れた国民党政府は台湾に逃れ、中台間の対立は現在もなお続く。毛沢東は文化大革命を推進するが、毛沢東が亡くなってからは、鄧小平が1979年から改革開放政策を推進し、農工業が発展・活性化して、2010年にはGDPで日本を抜いて世界第2位の経済大国の地位を得る。鄧小平の死後、指導者は江沢民、胡錦濤へと引き継がれ、現在は習近平に到っている。習近平fは2013年に巨大物流網である「一帯一路」構想を打ち出した。そして中国が主張している領土面でのおもな核心的利益は、ウイグル、チベット、南西諸島、台湾、尖閣諸島である。 またアフリカの経済支援に熱心である。(堀敏一)

参考:窪田善雄「中国史の概括的な理解のための再考察 斎藤忠和論文の検証を中心に」(世界史の研究244) 歴史と地理686、2015
中国の文明 全8巻 北京大学版 潮出版社 2015年から刊行中、今枝二郎「中国古代文化」1976

 

 

 

 

呂布、白門楼で死す

Tyousen  三国志に登場する呂布という男は、勇猛さは当代随一で、諸将から最も恐れられていた。呂布と貂蝉の話は有名である。 貂蝉は、後漢の司徒・王允のかかえていた歌姫の美少女で、歳は16歳であった。董卓の暴政に悩む大臣の王允の苦しむ姿を見て、娘同様に可愛いがられていた貂蝉は王允に訴えた。「殿様のお役に立てるならどんなことでもいたします」その姿を見てひらめいた王允は貂蝉の前にひれ伏して言った。「天下の逆賊の董卓と養子の呂布はどちらも好色のやからゆえ、連環の計を用いようと思う」と言ってふたりは打ち合わせた。呂布は貂蝉をひと目見るなり気に入り、貂蝉も意味ありげな視線を呂布におくった。そこで王允が側室として貂蝉を輿入れさせたいと申しでたので話はとんとん拍子に進んだ。しかし、呂布はいくら待っても貂蝉は嫁に来ない。それもそのはずで、貂蝉はとうに董卓の側女になっていたのである。呂布は王允に怒鳴り込んだが、王允は董卓が貂蝉をむりやり連れていったという。呂布はこっそり、董卓の寝所に行って貂蝉に確かめると、「わたしの身は汚されてしまいました。死んでわたくしの心をお見せいたします」とけなげなことを言ったので呂布は董卓を恨むようになり、王允もけしかけたのでついに董卓を殺害したのである。呂布は、その後、李催(りかく)・郭汜(かくし)に洛陽を追われるが、貂蝉は呂布が死ぬまで嘘をついていった。呂布は、白門楼で絞殺された。

    貂蝉は羅貫中の創作上の人物であるが、その美貌は中国四大美女(西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃)の一人に数えられている。

「も」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Image_0012_nagykep  モルナール・フェレンツ(1878-1952)はハンガリーの劇作家・小説家。法律を学んだが、新聞記者となり、人生に対する皮肉な観察眼を養った。1907年小説「パール街の少年たち」および戯曲「悪魔」で文壇に出て以来、機知に富む会話と巧妙な筋の運びをもつ多数の戯曲を書き、世界の劇界にその名を知られるようになった。代表作は「リリオム」「白い雲」「男の流行」「白鳥」「硝子の上靴」「城の中の戯れ」「善良な仙女」「山間の奇蹟」「煙の柱」など。▽モイズ・キスリング(1901-1953)ポーランド出身のエコール・パリの画家。▽モーリス・カンタン・ド・ラトゥール(1704-1788)は18世紀の画家。

モイズ・キスリング
モイミール1世
モイラ・ケリー
モーガン・フリーマン
モジタバ・ハーメネイー
モーセ
モッラー・サドラー
モディボ・ケイタ
モデスト・ペテロヴィッチ・ムソルグスキー
モニカ・ビッティ
モニカ・ベルッチ
モニカ・ルインスキー
モハマッド・ハッタ
モハマンド・モサデク
モハメド・アリ
モハメド・エルバラダイ
モハンマド・シャハブッディン
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー
モブツ・セセ・セコ
モホリ・ナジ・ラースロー
モリー・リングウォルド
モリエール
モーリス・アルブヴァクス
モーリス・エンゲル
モーリス・カンタン・ド・ラトゥール
モーリス・ケクラン
モーリス・シュバリエ
モーリス・センダック
モーリス・グリーン
モーリス・ジャ―ル
モーリス・ド・ヴラマンク
モーリス・メルロー・ポンティ
モーリス・ランバート
モーリス・ルブラン
モーリス・ユーイング
モーリス・ロネ
モーリン・オサリバン
モーリン・オハラ
モルナール・フェレンツ
モンゴメリー・クリフト
モンティ・パイソン

エイプリル・フール

Aprilfools 「万博跡地に吉原遊郭できる」「大谷翔平の愛犬デコピン、誘拐される」「能登に大油田発見」「奈良の大仏、深夜に消失」「巨人坂本、電撃引退」「第3次世界大戦勃発」・・・知の限りを尽くした虚言で世間を騒がす、より多くの人々をダマせた者が王者となる、1年で最も痛快な日、それが4月1日だ。別名4月ばか、April Fool、万愚節。友人たちをかついで興じる日。この習慣の起源については定説はない。16世紀頃からフランスで始まった習慣とされる。フランス語でPoisson d'Avril(4月の魚)といい、この時期よく捕れるサバのことを指している。1564年にシャルル9世がいまの暦であるグレゴリオ暦にかえたが、なかなか浸透しない。そこである貴族が4月1日に公爵の屋敷でパーティーがあるという嘘の招待状を出したのがはじまりといわれている。民衆が王に反発して、4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、バカ騒ぎをするようになったという説もある。だが「4月ばか」の慣習は18世紀初めまではそれほど一般に広まらなかった。イングランドでは、もっとも好まれた遊びは「無駄なお使い」に出すことであり、Aが犠牲者をBのところに使いに出すと、Bはさらに彼をCに送る。こうして犠牲者は、気づくまであちこちにやられるのである。北欧のスウェーデンでもエイプリルフールは盛んである。April skamt  アプリール・ファムト(四月冗談)という。一説によるとエイプリルフールは、キリストの死んだ日と関係するといわれる。キリストが死んだ日は春分の日(ニサン)の新月の日から14日たった日といわれる。(4月1日)

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