水師営の会見(1905年)
明治38年1月5日、午前11時40分から旅順の水師営で第3軍司令官乃木希典とロシア軍の司令官ステッセルとの会談が行われた。5日前の1月1日、旅順の要塞が陥落し、3日には旅順の開城規約が本調印された。日本軍はこの戦闘に155日間を費やし、死傷者5万9000人という犠牲をはらっていた。両将軍はたがいの健闘をたたえ、乃木は、天皇からステッセルに武士としての面目と名誉を全うするようにとのことばがあったことを伝えた。ステッセルは、乃木の2人の子息が戦死したことに哀悼の意を表し、乃木は武士の家に生まれた者としてよい死に場所をえたと答え、たがいに胸襟を開いて語り合った。またステッセルから乃木将軍にピアノが贈られた。現在、金沢学院大学に「ステッセルのピアノ」として所蔵・保管されている。
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