儒者たちの赤穂事件
元禄14年に起きた赤穂事件は世間の浅野家家臣への同情論があり、浪士らをどのように処分すべきかは、幕府にとって厄介な問題であった。幕府内にも様々な意見があり、また世間の目もあった。こうした状況で、大石らをいかに処すべきか、学者の意見は二つに分かれた。林鳳岡・室鳩巣・三宅観蘭らは擁護論であり、大衆や多くの有識者はその仇討ちを義挙として礼賛している。しかし、荻生徂徠・佐藤直方らは反対の立場をとり処罰論であった。赤穂事件と関わりが深い儒者といえば、すぐに新井白石の名前があげられよう。白石は、上総久留里の土屋家に仕官していたことがあるので、土屋の一族とは交渉があった。赤穂の浪人たちが本所二ッ目の吉良屋敷に討ち入った翌日に、白石は、吉良屋敷の北隣であった土屋主税の屋敷を訪問している。白石の残している日記では、ただ訪問したことだけが書いているが、どういう目的で、なんのために行ったのか、よくわからないが、白石は土屋主税に会って前夜の模様を聴いている。白石の所説は、赤穂の浪士たちに同情的であること、少なくとも批判的であったり、冷厳であったりしていないと推測される。また白石の親しい後輩の室鳩巣は、「赤穂義人録」を著して、討ち入りを義とみなし、是認論の立場をとった。他方、否認論の立場をとったのは荻生徂徠である。徂徠の献言は「徂徠擬律書」に伝えられている。徂徠は「法」の立場から見れば、大石らの義挙は、私の論と言わざるをえない。故に許すことはできない。四十六士に罪ありとして、侍の礼をもって切腹を進言している。柳沢吉保の「柳沢秘記」に伝えるところらよると、幕議において夜盗同然の振る舞いという理由から打首に処するとの決定がなされたことを嘆いた柳沢吉保が、忠孝を顕彰する点から切腹とすべきであるという徂徠の意見によって、討議を変えさせたという話が伝えられている。いずれにせよ、幕府の裁定は吉良邸に討ち入った義士たちの行為が仇討ちとはならず、徒党禁止に違反したということにより、裁定は徂徠の意見をもって下された。(参考;尾藤正英「荻生徂徠」日本名著16 1969年)
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