ヒュースケン暗殺(1860年)
万延元年12月5日、プロイセン使節のもとからアメリカ公使館への帰途、三田でハリスの秘書兼通訳ヘンリー・ヒュースケン(1832-1860)が薩摩の浪士(伊牟田尚平、神田橋直助、樋渡八兵衛ほか4人)に斬られ、翌日に死亡した。攘夷派がはじめて外国使節を殺傷した事件であった。ヒュースケンはオランダ人で、蘭・英・仏語を操る上に、明るく社交的な性格から、日本語もすぐに習得した。語学力を買われ、イギリス・プロイセン両国の条約交渉にも通訳として協力している。ヒュースケン暗殺前後にプロイセンとの交渉にあたっていた幕府高官、堀利熙(1818-1860)が自決している。ヒュースケン殺害は、各国の駐日外交団に大きな衝撃を与えた。主謀者、伊牟田尚平(1832-1862)は鬼界ヶ島に流刑される。幕府はオランダのヒュースケンの母ジュアンネに、賠償金として洋銀1万ドルを支払い事件を落着させた。(Henry Heusken)
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