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2025年11月30日 (日)

死刑廃止の日(シティズ・フォー・ライフの日)

Guillotine2   ローマなど世界各地、1625都市以上で行われる死刑廃止運動の日。1786年のこの日、神聖ローマ皇帝レオポルト2世(マリア・テレジアの子)がヨーロッパでは初めて死刑制度の廃止を宣言した。

1981年9月18日、フランスで死刑廃止法案が可決した。  ギロチンも廃止された。1977年にチュニジア人労働者がギロチンで死刑になった最後の例である。

現在、アメリカをはじめ日本と韓国・中国・旧ソ連諸国・カリブ海諸国など死刑維持国23か国と英国・フランス・ドイツなどヨーロッパなど廃止国104か国との国際的な動向がある。日本では死刑制度を必要とする世論が根強い。1948年3月12日の最高裁大法廷は「死刑制度は憲法第36条に禁止された残虐な刑罰には該当せず、合憲である」と判決した。この判決は死刑の合意性を肯定した判例として、現時点でもなお重要な判例とされている。

参考:「死刑制度廃止のための取り組み」ピーター・ホジキンソン他編、「勝者の裁きか、正義の裁きか」ウィリアム・A・シャバス著 Cities for Life Day,Gillotine11月30日

2025年11月29日 (土)

なぜ年末になると第九が演奏されるのか?

 1824年5月7日、ウィーンのケルントナートア劇場においてベートーヴェンの交響曲第9番がはじめて演奏された日である。ベートーベン自身が指揮した。合唱曲「歓喜に寄す」が入った第九は、今日、世界中で平和と国際協調のための賛歌とされ、もっとも有名で人気のあるクラシック作品のひとつである。日本での初演は1924年11月29日、東京音楽学校で上演された。

   ところで日本では、第九は年末の風物詩といわれ、12月になると毎年全国各地でコンサートが開催される。その理由は明らかでないが、ベルリンでは戦前からニューイヤーコンサートとして、大みそかの深夜に、ただ幾第九を演奏することが多かった。その風習が日本に持ち込まれたのかもしれない。年末に第九を演奏するというのは、もともと第一次世界大戦後、平和を願うドイツのライプツィヒで始まった。いまでも伝統行事として、大晦日に第九の演奏会が開かれている。だが海外では、年末にはヘンデルの「メサイア」(ハレルヤコーラスで有名な曲)が一般で、第九を演奏することは少ない。ではなぜ、日本に第九演奏が定着したのか?これには諸説あるが、太平洋戦争で亡くなった人々への鎮魂歌だったという意味が大きい。日本交響楽団(現NHK交響楽団)が1947年12月9、10、13日にレオニード・クロイツァー指揮(1884-1953)で3夜も第九の演奏会で成功を収めた。これが契機となって全国各地でも第九の演奏会が行われた。つまり、第九の演奏は貧乏な楽団員にとって年越しの餅代稼ぎとなった。第九は大合唱付きで、チケットがさばきやすかった。また12月はベートーヴェンの誕生月でもあることや、日本人に第九は絶大な人気があることがあげられる。

 

 

消えゆく森林

 いま、世界の森林面積は約40億3000ヘクタールで、陸地面積の31パーセントをしめていますが、年々減少しています。この10年間で日本の面積の約1.5倍にあたる森林がなくなりました。森林伐採の理由はさまざまですが、とくに、アフリカや南米の森の減少が深刻です。

 蛭子能収さんが「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」で「日本で一番多い木は竹である」と言っていた。なるほど竹林は全国どこにも自然に生育しているし、古来から竹で身近なものを生産している。だが残念ながら竹は草として分類されるので樹木とは言えない。樹木生産量で多いのは1番は「すぎ」で59%、2番は「ひのき」で14%、3番は「からまつ」で10%である。

Photo_5   現在、日本の森林の荒廃が問題になっている。その理由の1つが国産材需要の低迷による経営不振から、地域のいたるところで森林の荒廃が目立つようになってきたことである。日本は森林の割合が国土の68.9%を占めいている。森林大国として名高いカナダでも森林の比率は45.3%である。また樹木の体積量を示す森林蓄積量(約35億立方キロメートル)も人工林・天然林ともに増加し、日本の歴史上最高の水準にある。日本は豊富な自国の森林資源を使わず、7割以上は安い外国材に頼っている。そこで森林整備及びその促進に関する費用を捻出するため森林環境税が今年度から導入される。行政には税金の有効的な使途をしてもらいたい。

 

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 ではなぜ国産材を使わないであろうか。これには近年の住宅工法の変化や建売住宅の販売事情がある。大手住宅メーカーの参画によって、これまで小規模な工務店や大工仕事であった個人住宅建設が、大型サッシや建具の取り付け、空調機器名類など工業製品の取り付けなどで、それに見合うような建具の精度が要求されている。国産材は材質面では優れているが、乾燥が不十分な材料が混じっていたり、強度が不揃いな国産材では狂いが生じ怖くて使えないという。だがこのような部分的に理由のみで豊富な国産材を使わずに国土を荒廃されることは愚かしいことである。また荒廃した山林は台風などの防災上からも危険である。緑豊かな日本の国土を守るために森林の維持管理が重要である。

退屈恐怖症

 英デイリーメールによると、退屈を常に感じる人は、心臓病や脳卒中による死亡率が、そうでない人より2.5倍も高いという。退職後の人生、やることがなくて暇をもてあます。終日テレビを見続け、飽きると長々しい欠伸をし、無聊に苦しむ。退屈恐怖症という言葉があるそうだ。ネットで調べても解説は見つからない。講談社「日録20世紀1990年」の11月29日に「若い女性に退屈恐怖症広がる」と新聞にあるだけ。新聞記事索引を調べればわかるかもしれない。新語でもあまり流行らなかったようだ。だがバートランド・ラッセルがすでに60年も前に「Fear of  boredom(退屈を恐れる心)」と題して、現代人の堪え難い特殊な退屈を分析しているので、古くからある病である。近年、再注目されているのが、退屈症候群(ボアアウト)という概念です。スイスのピーター・ワイデルとフィリップ・ロスリンによって2007年に提唱された。英語の「boring」が語源となつている。

悲劇は繰り返される

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 26日に発生した香港の高層マンション火災で、これまでに128人の死亡が確認された。火災、飛行機の墜落、豪華船の沈没事故など繰り返し起こっている。

    イタリア豪華客船コスタ・コンコルディア号転覆事故の映像をみると1970年代に作られた映画「ポセイドン・アドベンチャー」を思い出す。「タワーリング・インフェルノ」「エアポート75」と続々パニック映画が生れた。そのころ1971年12月24日、ソウルの高級ホテルで火災が発生した。大然閣ホテル火災は163人の犠牲者を出した史上最悪の惨事である。翌年の5月13日、大阪の千日デパート火災で118人の死者、1973年11月29日、熊本の大洋デパート火災で103人の死者が出た。デパート火災では最大の惨事だった。1982年2月8日、東京都千代田区永田町のホテルニュージャパン火災で33人の死者が出た。横井英樹社長の徹底した合理化が生み出した悲劇だった。いま38階建てのプルデンシャルタワーが聳えている。

 

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 プルデンシャルタワー

2025年11月28日 (金)

壇蜜と原敬

   壇蜜。最近はグラビアを卒業して文化人タレントとして活躍している。ホステス時代の名は斎藤支静加(さいとうしずか)だった。壇蜜とは仏教を基に考えた名前で、「壇」は仏壇を、「蜜」はお供え物を意味している。近頃、波瑠、夏菜、夏帆、泰葉など漢字2文字のシンプルだがインパクトある芸名が流行している。ルーツは「桃尻娘」(1979)の亜湖だろうか。漢字2文字というと僧侶の名前を連想させる。空海、最澄、法然、一編、日蓮、栄西、道元、蓮如、隠元、源信、西行、慈円、雪舟、宗祇、行基、道鏡、空也、運慶、快慶、湛慶、定朝、一休、円空。いずれも仏教に関連するので、「壇蜜」も蜜が密をイメージし、密教→空海と連想され、この名前に神秘性を感じるのもそのためだろう。しかし壇蜜という名前は、壇が苗字で、蜜が名前だそうである。つまり原敬のように姓名で漢字2文字という名前と同じ。星亨(政治家)、西周(明治の啓蒙官僚学者)、原敬(政治家)辻潤(ダダイスト)、岡潔(数学者)、森清(図書館学者)、鶴彬(川柳作家)、暁伸(浪曲漫才師)、南広(俳優)、谷啓(タレント)、武豊(騎手)、要潤(俳優)など。筑波大学名誉教授の蓮精(はちす せい)なども読み方も珍しく難読例にあげられる。

 

 

その名前にふりがなを!

  改正戸籍法が5月26日に施行され、戸籍の氏名にカタカナで読み仮名を記す新制度がスタートする。職場や学校で話をしているとき、人の名前を間違えたりするとけっこう恥ずかしい。大相撲春場所7日目にゲスト出演した女優の伊原六花さんに、解説者・舞の海は「ずっとこれまで、ロッカだと思っていました。リッカさんですね」と平謝りした。最近の俳優さんは、名前の読み方がむづかしい。森田望智(もりたみさと)、高杉真宙(たかすぎまひろ)、宮沢氷魚(みやざわひお)。千葉真一の二人の息子が活躍しているが、名前が難しい。新田真剣佑と眞栄田郷敦。「あらたまっけんゆう」「まえだごうどん」と読む。朝ドラ「虎に翼」のヒロイン、伊藤沙莉の名前の読み。「さり」ではなく、「さいり」。

  人の名前の読み方は、どう読んだらいいのかわからない場合がある。例えば、「久曾神 昇(きゅうそじんひたく)」愛知大学中興の祖と言われる学長。1909-2012。国文学では著名な学者で「古今和歌集成立論」など著作が多数ある。「七五三掛龍也」アイドルグループ Travis Japanのメンバー。「しめかけりゅうや」と読む。

 芸能人でもよく似た名前があってややこしい。新垣結衣(あらがきゆい)と新垣里沙(にいがきりさ)、二宮和也(かずなり)と亀梨和也(かずや)。錦織圭(にしこりけい)と錦織一清(にしきおりかずきよ)、長野博(ながの)と長野久義(ちょうの)、菅野智之(すがのともゆき)・菅野美穂(かんのみほ)・菅野スガ(かんのすが)、藤木直人(ふじきなおひと)、菅直人(かんなおと)と菅義偉(すがよしひで)とロザンの菅広文(すがひろふみ)。上戸彩(うえとあや)と大相撲力士の上戸(かみと)。伊原剛志(いはらつよし)・内藤剛志(ないとうたかし)・宇梶剛士(うかじたけし)、みんな紛らわしい。小説家・万城目学(まきめまなぶ)と「リンゴの唄」の作曲家は万城目正(まんじょうめただし)。ウッチャンは内村光良(うちむらてるよし)。ダウンタウンの浜田雅功(まさとし)。内野聖陽(うちのまさあき)、大森南朋(おおもりなお)も難読人名。金本知憲(かねもとともあき)、梵英心(そよぎえいしん)、井口資仁(いぐちただひと)、筒香嘉智(つつごうよしとも)、馬場皐輔(ばばこうすけ)など野球選手は難読人名の宝庫だ。サッカーでは久保建英(くぼたけふさ)。「サザエさん」タラちゃんの声を務めた声優「貴家堂子(さすが・たかこ)」。

 

ハンムラビ法典

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    今から3600年ほど前の古代バビロニアのハンムラビ王が発布した法典に「人がもし他人の生命を奪ったときには、その生命でもって償わせ、目を傷つけたときには目でもってそれを償なわせる」(196,197条)という規定があった。「同害復讐法」とか「同態復讐法」とか呼ばれるもので、古代刑法上広汎にみられるが、ことにセム系に顕著であり、楔形文字法系をはじめ、ヘブライ法系、イスラム法系にもみられる。これらをタリオ talioと呼ぶのはローマの十二表法における自由人の四肢の傷害に関する規定で、「若し一肢を損ない、妥協を遂げないものは、タリオに處すべし」に由来する。Si membrum rupit,ni cum eo pacit,talio esto.7.10。ハンムラビ法典は後世まで深く影響を及ぼした。

 有名なパリのルーヴル美術館に所蔵されるハンムラビ法碑文は1901年にフランスのモルガンら考古学隊がイランのスーサで発見したものである。

  タリオは日本法でも絶無ではなく、京都所司代板倉勝重が慶長年間に制定した「板倉氏新式目」約60条には「刃傷切返」という稀例がみられる。

  タリオは原始的な刑罰規定とみられるが、ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを主目的にしていたわけではない。「目には目を」は現代では、「やられたらやりかえせ」の意味で使われるが、むしろ「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」のが本来の趣旨であった。(Code of Hammurabi、Lex talionis、世界史)参考:田中周友「世界法史概説」、原田慶吉「楔形文字法の研究」)

 

ドイツ中世都市

 12世紀から13世紀にかけて、中世ヨーロッパでは「都市の空気は自由にする」というドイツのことわざが広まった。中世ヨーロッパの農奴は他の地に行くという移動の自由をもたなかったが、都市に逃れて一定期間(ふつう1年1日)領主に見つからなかった場合には、農奴の身分を逃れて自由な市民になり得たことに由来する諺である。

   ドイツでは、中世末期におそよ3000の都市が存在していたが、そのほとんど人口1万人以下の小さな都市である。多くは定期市から発展したが、その成立事情から、2種に区別することができる。①自然成長的都市と②建設都市。

   自然成長的都市とは、10~11世紀に、しばしば司教座所在地や交通の要衝に成長した。多くは、遠隔地商業の拠点となる大都市であり、のちに帝国自由都市として、完全な自由と自治を享受する。建設都市は、築城権や市場開設権をもつ国王、司教、のちには、領邦君主が都市君主になり、自然成長的都市にならって、自領に作ったものである。一般に規模も小さく、ほとんどは、領邦君主に支配されるラント都市にとどまる。近隣商業や手工業が生業の主体で、自由と自治はおおはばに制限されている。

 北ドイツにはハンブルク、リューベック、ブレーメンなどの都市が栄えた。ハンザ同盟の中心的な都市。中央ドイツにはライン川に沿う都市ケルン、マインツ、ウォルムスなどが栄えた。大司教座がおかれ、10世紀以後交易の中心地として繁栄した。南ドイツにはアウグスブルク、ニュルンブルク、ネルトリンゲン、レーゲンスブルクなど。

 

 

 

もうすぐ師走

 去年今年貫く棒の如きもの(虚子)

 年去り年改まることに一喜一憂を託した時代もすでに過ぎている。去年も今年もいまは変わりがないのである。ただ一本の棒が貫くように、そこに変化なく過ぎてゆく歳月の一日一日であるにすぎない、という老いの述懐が感じられる。今年もあとひと月となり、さらに特別の哀感がただよう。テレビ番組は連ドラが最終話が近づきクライマックスになっている。

  12月を師走と当てる。なぜ「師走」というのか古来より諸説ある。12月は1年の終わりで皆忙しく、師匠といえども趨走(すうそう=ちょこちょこ走るの意)するというので「師趨」となり、これが「師走」となったとする。第2の説は、師は法師の意で、師が馳せ走る「師馳月」(しはせづき)であり、これが略されたものとする。第3は、漢語「歳終月」を「としはるつき」と読み、それが略されて「しはつ」となったとする新井白石の説がある。第4は、「し」は年を意味し、「はす」を「果つ」と解する説。

    「十二月」を「しはす」と読むことは、万葉集の時代にあったもので、「師走」を書いたのは平安時代になってからである。「師走の月夜の、曇りをなくさし出でたるぞ」と源氏物語総角に見える。「奥義抄」(平安後期の歌学書)には「十二月、僧をむかえ経を読ませ東西に走る故に師走というを誤れリ」とある。師走とは本来、極限という意味があったようである。

 

芭蕉忌

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   芭蕉忌。陰暦10月12日(陽暦の11月28日)。桃青忌、時雨忌、翁忌などとも呼ばれ、旧暦の気候にあわせて毎年11月の第2土曜日に法要が営まれる。

 秋深き隣は何をする人ぞ

    元禄7年秋、芭蕉(1644-1694)は各務支考と共に大坂に行く。園女亭で「秋深き」の句を詠む。斯波園女(1664-1726)は伊勢の神官の娘で芭蕉の門弟であった。数日後、下痢をして床につく。11月末、病床に侍していた呑舟を呼び、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    と書き取らせた。11月26日の暮れ方から高熱を発し、11月28日、申の刻(午後4時頃)、大坂南御堂前の旅舎で永眠した。享年51歳。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、翌日、近江膳所の義仲寺に運んだ。埋葬し、門人の焼香者80人、まねかざるに来る会葬者は300人以上いたと伝えられる。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺(大津市馬場)に葬られたのは、義経や義仲のような悲劇的な最期をとげた武人にとりわけ思いを寄せていたからといわれる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句がある。

  芭蕉忌とよばれるのは、江戸中期以降、俳壇で芭蕉復興が叫ばれるようになってから。素丸の句に「はせを忌の古則や茶飯(ちゃめし)茶の羽織」がある。芭蕉の命日には茶飯を食べて、芭蕉が愛した茶色の羽織を着るという習慣があったらしい。溝口素丸は1795年没。芭蕉発句註解の「説双大全」を著した。

 

 

鹿鳴館の淑女たち

Photo_2   外務卿井上馨は不平等条約改正交渉のため、日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。明治16年7月、イギリス人ジョサイア・コンドルの設計により、東京千代田区内幸町(麹町・旧薩摩藩装束屋敷跡)に鹿鳴館が完成した。総工費18万円の巨額と3年の歳月をかけて、大倉組(大倉喜八郎)の手になる煉瓦造2階建ての欧風建物。明治16年11月28日に開館。この日は井上馨の誕生日でもあった。「鹿鳴館」という名称は万葉集巻9の雄略天皇の歌に「夕されば小椋の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも」に由来する。詩経小雅の「鹿鳴」、つまり、高貴なる客をもてなす宴会という意味からとったという。

    舞踏会の主役である日本夫人たちも外国人の饗応に最初はとまどったことであろうが、夫人・令嬢は従順にふるまった。中心となった井上武子(1850-1920、井上馨夫人)、伊藤梅子(1848-1923、伊藤博文夫人)、大山捨松(画像1860-1919、大山巌夫人)、森阿常(1855-1900、森有礼夫人)らは積極的に舞踏会、仮装会、慈善バザーなどを主催した。また美貌で知られた陸奥亮子,戸田極子らは鹿鳴館の華といわれた。

   しかし、民間からは「鹿鳴館夜会の燭光は天に沖するも重税の為めに餓鬼道に陥りたる蒼生を照す能はず」と非難の声があがった。おりしも、場所は鹿鳴館ではなく、首相官邸であったが、明治20年の伊藤博文首相主催の仮装舞踏会(ファンシー・ボール)で伊藤が戸田極子に醜怪な事件を起こしたとして、スキャンダルとなった。明治22年には森有礼が刺客西野文太郎に暗殺された。民論は欧化主義への反対となって沸騰した。華美を誇った鹿鳴館も明治23年には華族会館となり、さらに保険会社のものとなり、昭和15年には国辱的建物として取り壊された。

2025年11月27日 (木)

常識クイズ

   われわれが日常生活を送るのに必要な知識、すなわち常識とは何か、その範囲を明確にすることは難しい。浜辺美波さんは世界三大珍味「キキャビア」「トリュフ」もうひとつは?という設問で答えられなかった。答えはフォアグラ。新垣結衣さんはドラマ「コードブルー」の番宣で「ネプリーグ」に出演した際、ドラマのタイトルにからめて「青」を英語で書く問題に「ble」と答え、赤ッ恥をかいた。世の中、美しさと知性とは相反するもので、才色兼備は稀である。つねに脳細胞を活性化させて、様々なさまざまなジャンルに関心を持つことが大事だ。

 

問1.太陽系の8つの惑星のうち、太陽に一番近いのは水星。では一番遠い惑星は?

 

問2.アメリカの2大政党は民主党と共和党。リンカン大統領はどっち?   

 

問3.1980年代後半ソ連邦のゴルバチョフ政権が進めた改革運動で、「建て直し」という意味のロシア語は?

 

問4.シベリア方面(東)に低気圧、オホーツク方面(西)に高気圧が発達している日本付近の典型的冬型気圧配置のことを漢字四文字で何という?

 

200511154s 問5.日本一長いトンネルは?

 

問6.エスペラント語の創始者は?

 

問7.「絆す」 「齎す」読み方は?

 

問8.在原業平、僧正遍照、喜撰法師、大友黒主、文屋康秀と並ぶ六歌仙の1人は?

 

問9.「allow」の反対語は?

 

問10.いずれの国家にも属さない海洋を何という?

 

問11.日本で募金をするともらえる赤や緑の羽根は何という鳥の羽根を染色したものか?

 

問12.植物の光合成に必要なものは光・水とあと一つは何?

 

問13.少年の犯罪に対し、家庭裁判所が審判の結果を言い渡す処分を何という?

 

問14.本州を陸路で縦断したとき、必ず通る都道府県は?

 

問15.大宝律令が完成した時の天皇は?

 

問16.衆議院、参議院、それぞれ議員定数は?

 

問17.ベーブ・ルースの生涯通算本塁打数は?

 

問18.中央省庁1府12省庁のうち、庁は何か?

 

問19.病院のカルテの保存期間は?

 

問20.室町幕府の最後の将軍は?

 

問21.赤ちゃんの歯は、上と下、どちら側から先に生えてくるのか?

 

問22.鉛筆1グロスは何本?

 

問23.昭和天皇が逝去し、元号が平成となった時の内閣総理大臣は誰?

 

問24.ビートルズのメンバーで誰が一番の年長者?

 

問25.ドレミファソラシドはもともと何語か?

 

問26.アメリカの国旗。横縞は紅白あわせて何本?

 

問27.俳句で「昼寝」はいつの季語か?

 

問28.海のない県はいつくある?

 

問29.数の子は何の魚の卵?

 

問30.3大栄養素とは?

 

問31.日本初の女性大臣は誰?

 

問32.参議院議員の任期は何年?

 

問33.「発条」 この漢字の読みは?

 

問34.日本初の昭和生まれの首相は?

 

問35.ヘレン・ケラーが家庭教師のサリバン先生から教わり、最初に理解したとされる英語の単語は?

 

問36.パキスタンの首都は?

 

問37.蒸留酒テキーラはどこの国の酒か?

 

問38.各務原市は何県にあるか?

 

問39.「広辞苑」を出しているのは岩波書店ですが、「広辞林」を出している出版社はどこ?

 

問40.「宵の明星」「明けの明星」として知られる太陽系の惑星は?

 

問41.休暇という意味の「バカンス」、もともと何語?

 

問42.関東では長命寺、関西では道明寺と呼ばれる、餅を葉で包んだ和菓子は?

 

問43.英語でデビルズタング(悪魔の舌の意)と呼ばれる食べ物は?

 

問44.バスケットボール。ダンクシュートでゴールを決めた得点は何点か?

 

問45.数字の1の下にゼロが8個ついた数字の呼び方は?

 

問46.都道府県面積ランキング。最下位はどこか?

 

問47.1884年の国際会議で子午線を経度0とする基点をイギリスのロンドン郊外の何という天文台に定められたか?

 

問48.円状にみえる7色の光でいちばん外側に見えるのは何色か?

 

問49.新幹線ひかり。現在、東京駅の次に停車する駅は?

 

問50.六角形の内角の和は何度か?

 

問51.原子番号は同じでも質量数は異なる元素を特に何というか?

 

問52.ピンキーリングという指輪を嵌めるのは何指か?

 

問53.パワーステーションって何?

 

問54.公認野球規則によるとホームベースの横幅はボール約何個分?

 

問55.液体が沸騰するときの温度は沸点、固体がとけるときの温度は?

 

問56.原子番号3の元素記号は何?

 

問57.「切手」の語を考案したのは誰?

 

問58.日本から見る北斗七星やカシオペア座のように、地平線に沈まない星のことを何という。

 

問59.わし座のアルタイルはくちょう座のデネブと「夏の大三角」を形づくり夜空を彩ること座の中でいちばん明るい星を何という?

 

問60.「葉月」とは何月のことか?

 

問61.毛髪や爪、皮膚の角質層を形成するための硫黄を含むたんぱく質の総称は何?

 

問62. 金閣寺、銀閣寺は何宗のお寺か?

 

問63.日本人で最初のオリンピック金メダリストは誰?

 

問64.第二次世界大戦時の連合国の指導者として広く大衆から支持され、アメリカ史上初の大統領4選をした合衆国大統領は?

 

問65.日本で販売されている鉛筆で一番濃くて柔らかいのは6B。では一番硬いのは?

 

問66.木版画で版木の上に当てた紙の上をこする用具は?

 

問67.小豆島は何県にある?

 

問68.ビリヤードの台に穴(ポケット)は幾つある?

 

問69.ハワイの首都ホノルルがある島は?

 

問70.ラグビーは1チーム何人?

 

問71.ラーメンでおなじみの具「メンマ」は何から作られているでしょう?

 

問72.空気中にいちばん多く含まれている気体といえば何でしょうか?

 

問73.スペインのマラガ生まれの20世紀最大の画家とは?

 

問74.京の着倒れ、大阪の食い倒れ。では江戸の何倒れ?

 

問75.2数に共通な約数を公約数という。6と12の公約数を答えよ。

 

問76.モーツァルトの全作品の年代順に配列した番号を何というか?

 

問77.歌舞伎の三大名作。「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」とあと1つは?

 

問78.現在、日本郵便が販売している往復はがきで通信用の宛名面に印刷されている文字は何色でしょう?

 

問79.サッカーで、1人の選手が1試合に3得点あげることを何というか?

 

問80.欧州連合(EU)が1999年に取り入れた単一通貨の単位は何か。

 

問81.特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約の通称を何というか。

 

問82.明智光秀は「三日天下」と呼ばれるが、実際には信長が本能寺で自刃してから光秀が死ぬまで何日間か。

 

問83.ビリヤードで使われる、球を突く棒のことを何というか。

 

問84.このロシアの楽器は?

 

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問85.日本に府知事は何人いる?

 

問86.被虐性愛「マゾヒズム」の由来となった人名は?

 

問87.プロ野球通算本塁打記録の1位は王貞治。2位は野村克也。では3位は?

 

問88.聖徳太子は何天皇の摂政か?

 

問89.中国語で「麦当労」と書かれたお店は?

 

問90.歌舞伎で松本幸四郎は高麗屋、尾上菊五郎は音羽屋。では市川團十郎の屋号は?

 

問91.「阿育王」何と読む?

 

問92.よく運動会のBGMに使われるオッフェンバック作曲のオペレッタ喜歌劇は?

 

問93.京の着だおれ、大坂食いだおれ。では江戸は?

 

問94.教育評論家、尾木ママの本名は?

 

問95.1アールの正方形の土地の1辺の長さは何メートルか?

 

問96.さそり座で一番明るい星は?

 

問97.春告鳥はウグイス。では春告魚は?

 

問98.戦争の放棄が規定されているのは第何条?

 

問99.領海の範囲は何海里?

 

問100.絶滅危惧種の国際取引を規制する条約は?

 

問101.ハマチの出世魚は?

 

問102.サンショウウオは何類?

 

問103.麦わらや動物の糞尿など、エネルギーに利用できる生物体を何というか。

 

問104.人類で初めて宇宙飛行に成功した人は。

 

問105.  爬虫類に属する動物は。

 

解答:問1.海王星。問2.共和党、問3.ペレストロイカ、問4.西高東低、問5.青函トンネル、問6.ザメンホフ、問7.ほだす、もたらす、問8.小野小町、問9.forbid、問10.公海、問11.ニワトリ。問12.二酸化炭素、問13.保護処分、問14.兵庫県、問15.文武天皇、問16.衆議院465、参議院245(令和4年改正以降は248名)。問17.714本。問18.国家公安委員会。問19.5年(医師法24条)。問20.足利義昭。問21.多くは下の歯。問22.144本。問23.竹下登。問24.リンゴ・スター。問25.イタリア語。問26.13本。問27.夏。問28.栃木、群馬、埼玉、山梨、長野、岐阜、滋賀、奈良の8県。問29.ニシン。問30.炭水化物、たんぱく質、脂肪。問31.中山マサ。問32.6年。問33.ぜんまい。問34.海部俊樹。問35.ウォーターwater。問36.イスラマバード。問37.メキシコ。問38.岐阜県。問39.三省堂。問40.金星。問41.フランス。問42.桜餅。問43.コンニャク。問44.2点。問45.億(おく)。問46.香川県。問47.クリニッジ。問48.赤。問49.品川。問50.720度。問51.アイソトープ。問52.小指。問53.発電所。問54.6個分。問55.融点。問56.リチウム。問57.前島密。問58.周極星。問59.ベガ。問60.8月。問61.ケラチン。問62.臨済宗。問63.織田幹雄。問64.フランクリン・ルーズベルト。問65.9H。問66.ばれん(馬棟)。問67.香川県。問68.6箇所。問69.オアフ島。問70.15人。問71.たけのこ。問72.窒素。問73.ピカソ。問74.飲み倒れ。問75.1.2.3.6。問76.ケッヘル番号。問77.仮名手本忠臣蔵。問78.緑色。問79.ハットトリック。問80.ユーロ。問81.ラムサール条約。問82.12日。問83.キュー。問84.バラライカ。問85.2人。問86.マゾッホ。問87.門田博光。問88.推古天皇。問89.マクドナルド。問90.成田屋。問91.アショーカ王。問92.天国と地獄序曲。問93.江戸呑みだおれ。問94.尾木直樹。問95.10m。問96.アンタレス。問97.ニシン。問98.第9条。問99.12海里。問100.ワシントン条約。(正式には「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引4に関する条約」という)。問101.ブリ。問102.両生類。問103.バイオマス。問104.ユーリイ・ガガーリン。問105.ヘビ、トカゲ、ワニ、カメなど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖地奪回の十字軍を宣言(1095年)

Blackcathedral    西ヨーロッパの封建社会は11世紀から13世紀の間にもっとも安定した発展をみせてきた。人口は増加し、国王・諸侯・騎士は外へ向かっての発展欲や冒険心をかきたたせ、ベネチア、ピサ、ジェノバなどの諸都市は経済的利害から東方への進出を求めていた。またこのころの西ヨーロッパでは、人々の宗教心が旺盛であった。11世紀に広まった巡礼は、長い旅程の困難と危険を通じて自己の罪を懺悔し、霊魂の救済を得んとする禁欲精神の一つのあらわれであり、なかんずくトゥールのサン・マルタン教会よりトゥールーズのサン・セルナン教会をへてイベリア半島の西北端、コンポステラのサン・ジャック教会にいたる道程は著名であった。そしてキリストの墳墓のあるイェルサレムは、巡礼者が最後に赴くべきもっとも重要な聖地であった。

 そのころ東方は、8世紀以来、アラビア人にかわって、もとアラビアの傭兵軍であったセルジュク・トルコが支配していた。セルジュク・トルコはパレスチナを奪って巡礼するキリスト教徒を迫害したので、西ヨーロッパ人を激昂させた。こうしたときにビザンチン皇帝アレクセウス1世は、ローマ教皇に東方の実情と西欧騎士団の援助を要請を求めてきた。ローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月17日から27日まで、クレルモン公会議を開いて聖地回復を決議し、ここに十字軍がおこなわれることになった。1096年8月15日の第1回十字軍より1270年の第8回十字軍まで、約2世紀にわたって聖地奪回の遠征がくりかえされた。(Clermont,Crusade,11月27日、世界史)

 

十字軍 とっくむ(1096年) 相手は イスラム教徒

2025年11月26日 (水)

どんな本でも価値がある

 いかなる本でも少しの良いところはあるものだ。10年、20年と時間が経過すればがその良さがわかってくる。でも本の敵は人間そのものである。読書の秋、NHKあさイチで、読書の特集をしていた。番組制作者は「本の敵」とは何か全く理解していないようだ。この日のゲストは「わたしの読書スタイル」として好感度抜群の上白石萌音。大の読書好きで知られ、最近読んだ本の紹介でもインテリジェンスが漂う。話を面白くするためか時折、暴走してしまう。ドッグイアーをしているという。ドッグイアーとは本のページの隅を折り曲げて、しおり代わりにすることである。彼女はなんとなくカッコよく思っているらしいが、とても本に対しては悪い行為である。(番組内で県立の図書館の館長が出演しているが理解に苦しむ)そしてお風呂で本を読むという。愛書家にとっては聞き捨てならぬことだ。本がふやけるし、誤って濡らすこともあるだろう。本にとって最大の敵は「水」である。聡明な萌音ちゃんは、本がかわいそうだとは思わないのか。ネットで調べると、最近の人は、入浴中に読書する人はかなり多いようだ。かつてイギリスのウィリアム・ブレイズ(1824-1890)は、「書物の敵」という名著で、本の10敵として次のものをあげている。火、水、ガスと熱、塵となおざり、無智と頑冥、紙魚、その他の害虫、製本師、蒐集家の身勝手、下卑と子ども。19世紀の話なので多少修正する必要があるだろう。ともかく火と水は最大の敵であろう。火事や津波は大敵である。しかし歴史的にみるなら政治的な権力者も図書館にとっては敵である。知事の一声で公立図書館が廃止になることもある。シーザーは70万冊のアレキサンドリア図書館を、みな焼いてしまった。前221年、秦始皇帝が六国を統一したとき、思想統一をはかるため多くの図書を焼いたといわれる。フランスに侵入したオータンのドルイド教団の数千巻の図書もみな焼かれた。カルタゴの50万巻の図書館もローマ人に焼かれた。デ・ランダというスペインの宣教師は、1562年にメリダでおこなった宗教裁判で、無数のマヤの絵文書を焼き捨ててしまった。彼らの行為は、異文化への破壊行為である。図書の最大の敵は人間であるといえる。現代の図書館においては過去の歴史にもないような大量の図書廃棄が行われている。デジタル化による紙文書の省スペース化であるが、なかには書物破壊症(ビブリオクラスト)のような館員もいる。書物破壊狂に呪いあれ!William Blades、ビブリオマニア

   話題を上白石萌音の読書スタイルに戻そう。結論的にいえば、入浴して本を濡らそうが、栞や付箋を使わずに、本の隅を折ることも自分の所有する本であれば何の問題もない。ただ影響力のあるインフルエンサーの有名人が「私の読書スタイル」とパフォーマンスすれば、真似をする人もでてくる。とくに未成年たちは公共の図書館や学校図書館の本まで悪戯で面白がって頁を折ることだろう。つまり読書という行為にはマナーが大切である。食事と同じで料理を手づかみを食べたり、話しながら食べてあたりにまき散らすのは見苦しい。見苦しいことを勧めていることと同じである。永野芽郁は不倫でテレビであまり見なくなったが、不倫は一般の者とは何ら関係のない事柄だが、読書の無作法は社会に悪影響を及ぼすものなので小さなことのように思うが、意外と大事なことなのだ。NHKは大物タレントに忖度しすぎている。駄目なことは駄目ということが制作者には大切だ。華丸大吉あたりが「良い子のみんなはマネしないでね」とコメントすればよかった。

 

 

 

コーヒーと牛乳(明治事物起源)

Syouwa2   文明開化の明治になると、西洋の様々な食べ物、飲み物が入ってきた。牛肉、カレー、パン、ビール、ワイン。そしてコーヒーもその1つ。1888年に鄭永慶(1859-1895)が上野西黒門町に喫茶店「可否茶館(かふえさかん)」を開店した。この店には、本、トランプ、封筒、便箋などが備え付けられ、小説家のたまり場ともなったが、あまり儲からず、1891年には閉店している。日本最初の喫茶店は他にも諸説がある。1876年に下岡蓮杖が浅草に開いたコーヒー茶館、1874年の神戸元町の放香堂、1886年に日本橋で開業した洪愁亭が可否茶館より以前に存在していたらしい。本格的な喫茶店としては、1911年に水野龍が銀座に創業した「カフェー・パウリスタ」、松山省三が創業した「カフェー・プランタン」などがある。

   日常のあたらしい飲み物として、コーヒーよりもっと早くに普及したのは、むしろ牛乳であった。牛乳に関しては、その栄養上の理由から、政府もその飲用を奨励したので明治13年には、牛乳会社もでき、また手軽に牛乳を飲むことのできるミルクホールのようなものもつくられるようになった。朝ドラ「ばけばけ」を見ていると、明治初期の松江で牛乳が飲まれていたらしい。(参考:星田広司「日本最初の喫茶店「可否茶館の歴史」) 

 

 

笹売り源五

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   大高源五は風流を解する武士で、俳人としても知られ子葉と号し、宝井其角と交流があった。当時、江戸に四方庵という著名な茶人がいて吉良邸に出入りしていた。源五は町人になりすまして四方庵の門を叩き、内弟子となった。13日、こうして四方庵から上野介の動静をさぐるうちに12月14日吉良邸で茶会の催しがあることをつきとめた。源五はその日の暮れ、両国橋にさしかかったところで偶然に其角と出会った。だが煤払いの笹売りに変装していた源五は其角に気づかれぬようそのまま通り過ぎようとした。しかし其角は「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源五も思わず、「あしたまたるる その宝船」と返歌した。源五からその報告を受けた内蔵助は、討ち入りを14日夜と決めた。

 源五の辞世の句がある。

 

  梅でのむ 茶屋もあるべし死出の山

 

  だがこの名高い逸話も事実ではなく、大高源五と其角とは面識はなかった。為永春水の「伊呂波文士」による虚構あたりが、出典とされる。史実は大高源五は水間沾徳の門弟である。沾徳は其角の没後、享保期の江戸俳壇の中心となった。代表句をあげる。

 

 帯ほどに川も流れて汐干かな

 

汐が遠く引いたので、海へ流れ込んでいる川が゛、干潟の中に細く帯のようにみられるという大意。

 

(参考:祖田浩一「なぞ解き忠臣蔵」)

 

 

学術論文を探す

 図書館学演習資料レファレンス・サービス演習問題に「昭和56年馬場房子の日米女性の消費行動に関する論文が「栗屋義純教授追悼号」に収録されているそうだが、論文名とこの追悼号はどこで刊行されたものか知りたい」とある。

回答;cinii論文サイトで検索。「日本の女性消費者行動の比較研究1 栗屋義純教授追悼号」亜細亜大学経営論集 17(1) p133ー154  1981-09

 

 

 

 

 

 

 

 

Buck to 1997

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    書棚の奥にしまっていた岩波新書の古い解説目録がやっとでてきた。実は「図書1997」の企画で「私の薦めるこの1冊」という429人の著名人のアンケートをみていて、武谷三男の「原子力発電」「原水爆実験」を挙げる識者が1人もいなかったことが気になっていたからだ。1997年という時代は高度経済成長を経て石油ショック、ロッキード事件、冷戦の終結、バブルとその崩壊、平成不況、阪神大震災という背景にあった。大江健三郎がノーベル賞を受賞直後で「ヒロシマ・ノート」「沖縄ノート」「あいまいな日本の私」をあげる識者も多い。しかし核問題、原発、農村などへの識者の関心は低い。岩波新書の古典といわれる「万葉秀歌」(斎藤茂吉)、「新唐詩選」(吉川幸次郎・三好達治)、「日本の思想」(丸山真男)、「知的生産の技術」(梅棹忠夫)など著名な作品が目立つ。岩波新書には地味な問題、日本の階級構成、労働問題、人口集中と過疎、農村と医療などをテーマにしたものが多いのが特色の一つだが、残念ながら選ばれることはなかった。この年は、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、徳陽シティ銀行の破綻が実に4件相次いで起きた。神戸連続児童殺傷事件、ダイアナ元皇太子妃交通事故があった年である。

いい風呂の日

Photo_7_2 児(こ)の眼澄むや雪の風呂屋の籠の中

 中島斌雄、昭和22年作。銭湯脱衣場風景。外は雪の降りしきる寒い昼だが、ここばかりはあたたかい湯気を立ちこめさせている。寒い日は風呂であったまるのがいいですね。11月26日は語呂合わせで「いい(11)ふろ(26)の日」。入浴剤の使用促進を目的として日本浴用剤工業会が1999年に制定した。

太宰治は、東京のアパートの窓から見る富士山をクリスマスの飾り菓子といい、天下茶屋から見た富士山を「風呂屋のペンキ絵」と言った。「おあつらえむき」にできすぎて「恥ずかしく」俗な富士であると短編小説「富獄百景」で書いている。太宰独特のユーモア精神と通俗的な権威に対する反抗心でもある。銭湯に富士山の絵が多いのはなぜか?

    都会の銭湯にペンキ絵が現れたのは大正になってから。大正元年、神田猿岩町にあるキカイ湯の店主、東雄三郎が子どもが喜んで銭湯に入れるようにと思い、川越広四郎画伯に依頼した。静岡県掛川市出身であった川越は子供の頃から親しんでいる富士山の絵をペンキで描いたのが始まりという。やっぱり富士山と銭湯はお似合いでキカイ湯は大繁盛し、全国各地でこれを真似た銭湯がつくられた。太宰のあの有名な言葉「富士には、月見草がよく似合う」という言葉は聖書の「マタイによる福音書」のソロモンの栄華と野の百合の対比を想起させる。だが太宰の欧米での文学評価のイマイチなのは、聖書からの引用が作品に深みを与えていなという指摘がなされていることにあるようだ。ドナルド・キーンも太宰が私生活でどの程度までキリスト教を信仰することができたか懐疑的であると述べている。海外では聖書の成句をヒントにした小話は文学的な深みを感じさせないようである。

 

 

大覚寺統と持明院統 南北朝の動乱

    平安時代のはじめ、京都の大山田と呼ばれていた地に嵯峨天皇の離宮があり、天皇が譲位の後ここに住居して深く弘法大師に帰依し、五大明王をまっつたことが大覚寺のおこりである。嵯峨野という地名は天皇の離宮、嵯峨院から始まる。その後、清和天皇は876年離宮を寺に改め、大覚寺と号し、恒寂法親王に与えた。よって法親王を当寺の開山と仰ぐ。その後、寛空、定昭が寺主となり、定昭が南都に一乗院を開いてからは、約280年間、一乗院の兼務となった。鎌倉時代にいたり、後嵯峨、亀山、後宇多法皇が入御されたが、特に後宇多天皇の帰依が厚く、寺観も大いに整えられた。後宇多法皇は大覚寺法皇と称せられ、中興開山と仰がれる。

  南北朝の対立の源流をなした大覚寺統とは、1259年11月26日、後深草天皇が父である後嵯峨上皇により弟の恒仁親王(亀山天皇)に譲位させられ、皇位は大覚寺統と持明院統に分裂した。大覚寺統は亀山、後宇多、後二条、後醍醐天皇の皇統をいう。1392年10月5日、南北朝講和が成立し、後亀山天皇と後小松天皇とのあいだに神器の授受がおこなわれたのもこの寺であった。その後の兵乱その他によって古い建物は残っていないが、古図によれば当時の寺域は現在の20倍にも及んでいる。(11月26日)

 

 

赤垣源蔵、徳利の別れ

Ce183902a51dd0f0f20a0788acc8fe14   赤垣源蔵は大の酒好き。脇坂淡路守に仕える塩山伊左衛門という兄がいた。ある雪の夜、源蔵は貧乏徳利と土産の品をさげて、芝新銭座にある兄の家をひょっこり訪ねた。折悪しく兄は留守で、嫂は癪で臥せていた。いつもは着たきり雀の源蔵は、今日に限って珍しく小袖を着ていたが、下女のおすぎに暫く待たせてもらうと断わって、横になってひと眠りした。目が覚めたが兄はまだ帰らない。すると源蔵は、兄の羽織を出させ、衣紋かけに通して柱にかけ、湯呑みに冷や酒を注いでその前におくと、居ずまいを正して両手をつき、「兄上、今日はお暇乞いに参りましたが御不在、源蔵、力なく戻ります」といって、ホロリとひとしずく、おすぎに遠方へ行くといって、帰っていった。

   その夜、兄は若党をつれて帰ってきたが、明くれば元禄15年12月15日、雪の朝の日本晴れ。大勢の者が、「仇討ちの引きあげだ」と叫びながら駆けて行く。よく聞くと、赤穂の浪人が吉良上野介の屋敷へ討ち入り、引きあげる途中だという。伊左衛門は驚いて、すぐ若党を走らせた。若党は返り血を浴びた源蔵に会い、槍につけた短冊や笛、癪の薬、小判などを貰って帰ってきた。伊左衛門は源蔵が残したた貧乏徳利とそれらの品物を床の間におき、その前に両手をついて、「源蔵、昨日は残念であった」と語りかけた。

   これをみたおすぎはたまげて、「昨日は源蔵さまが着物に口をきいていらっしゃいましたが、今日は、旦那さまが徳利に口をきいていらっしゃいます」

   さて、このことが脇坂淡路守のお耳に入り、伊左衛門は五十石の加増、貧乏徳利は脇坂家の家宝になり、徳利の入った箱には、「忠義赤垣の徳利」と墨くろぐろと書かれたという。

 この有名な「赤垣源蔵徳利の別れ」はつくり話であろう。赤垣には兄はおらず、弟と妹がいるだけである。(参考:「決定版忠臣蔵のすべて」人物往来社)

2025年11月25日 (火)

映画俳優デビューものがたり

  NHKスタジオパークからこんにちは、本日のゲストは俳優生活30年を迎える阿部寛。転機となった作品は自身によると「チロルの挽歌」「熱海殺人事件モンテカルロ・イリュージョン」そしてデビュー作の映画「はいからさんが通る」である。やはり俳優にとってデビュー作はなにものにも代えがたいものである。仲代達矢のデビュー作は「七人の侍」、台詞なしのエキストラだが、映画史に残る作品がデビューというのは何かをもっている男である。そして最大の謎は、片岡千恵蔵の「三色すみれ」である。題名から推察するに現代劇であろうが、如何せんフィルムが現存していないので内容がわからない。

1909年 「碁盤忠信・源氏礎」 尾上松之助
1920年 「アマチュア倶楽部」 岡田時彦
1921年 「路上の霊魂」 鈴木傳明
1923年 「三好清海」 阪東妻三郎
1923年 「三色すみれ」 片岡千恵蔵
1924年 「大盗伝」 高田稔
1925年 「弥陀ヶ原の殺陣」 大河内傳次郎
1925年 「黒髪地獄」 市川右太衛門
1927年 「稚児の剣法」 長谷川一夫
1927年 「鞍馬天狗余聞」 嵐寛寿郎
1927年 「異国の娘」 榎本健一
1927年 「彼をめぐる五人の女」 見明凡太郎
1928年 「維新の京洛」 岡譲司
1929年 「小金井小次郎」 阿部九州男
1930年 「落第はしたけれど」 笠智衆
1935年 「若旦那・春爛漫」 上原謙
1933年 「河向ふの青春」 宇野重吉
1935年 「忠次売り出す」 志村喬
1941年 「闘金」 池部良
1942年 「微笑の国」 小林桂樹
1947年 「銀嶺の果て」 三船敏郎
1947年 「不死鳥」 佐田啓二
1947年 「女優」 森繁久彌
1948年 「遊侠の群れ」 鶴田浩二
1949年 「花の素顔」 岡田英次
1951年 「善魔」 三国連太郎
1952年 「殺人容疑」 丹波哲郎
1952年 「歌の山脈」 天知茂
1953年 「思春の泉」 宇津井健
1954年 「花の白虎隊」 市川雷蔵、勝新太郎
1954年 「浅草の夜」 品川隆二
1954年 「七人の侍」 仲代達矢
1954年 「かくて自由の鐘は鳴る」 宝田明
1956年 「太陽の季節」 石原裕次郎
1956年 「飢える魂」 小林旭
1956年 「電光空手打ち」 高倉健
1956年 「森は生きている」 平幹二朗
1957年 「九時間の恐怖」 田宮二郎
1958年 「おトラさん大繁昌」 渥美清
1960年 「男対男」 加山雄三
1960年 「十七才の逆襲・暴力をぶっ潰せ」 松方弘樹
1970年 「その人は女教師」 水谷豊
1972年 ドラマ「シークレット部隊」 三浦友和
1974年 「卑弥呼」 草刈正雄

 

 

 

 

電子レンジのない生活

 コメ不足が続いてますが、最近はあまり電子レンジや炊飯器を使わなくなった。電子レンジを使わないと不便と思われるかもしれませんが、冷凍食品が食べられないわけではない。例えば冷凍チャーパンは、フライパンで炒めればOKです。カレーやハンバーグなどのレトルト食品も湯煎しています。近くに中型スーパーがあるので、いつでも新鮮なお惣菜が買えます。冷蔵庫の中は案外と充実しています。地震などの災害時の対応も普段の生活の中で心がけようと思います。女優の広瀬アリスさんは食品ロスをなくすため「冷蔵庫はいつもスカスカです」と言っていた。

 今日の一日ですが、天気なので先ずは洗濯をします。それから掃除。明日は燃えるゴミの日なので捨てるモノを選びます。

サラダが日本の一般家庭の食卓にあげられたのはいつ頃からか?

Photo_cabbage3   生野菜を主材料として、ドレッシングやマヨネーズなどであえた料理サラダsaladは現在の食卓に欠かせない一品となっているが、いつ頃からであろうか。1960年代、もちろんサラダは普及しているが、それはレストランや軽食にトースト、コーヒー、サラダと喫茶店やホテルで出るものであり、家庭の食卓をかざるものではなかった。新鮮なサラダを毎日食べるには冷蔵庫が必要である。そして鮮度が落ちない物流システムが確立される必要がある。

 シャンソン歌手の芦野宏のヒット曲に「フルーツサラダの歌」(1960年)がある。この頃から徐々にサラダに対する関心が高まっていった。中谷宇吉郎の「サラダの謎」(初出「あまカラ」1960年1月5日)がある。

私はごく普通のフランス風のサラダが好きである。レタスとトマトと、酢とオリーブ油でドレスしただけの簡単なサラダのことである。洋食は、一般にいってあまり好かないが、このサラダだけは例外で、食卓に出ていると、つい先に手が出る。ものの好き嫌いなどというものは、たいてい子供の頃か、せいぜい20代までの生活環境できまるものらしい。私がこのサラダを好きになったのは、若い頃、もう30年も昔のことであるが、ロンドンに留学していた頃に、下宿で毎晩非常にうまいサラダを食わされたのが、今日まで後をひているようである

   中谷宇吉郎は1900年生まれであるが、サラダ好きの物理学者の一文をもって、日本人は戦後サラダをよく食べていたと即断してはいけない。むしろ中谷は少数派の日本人で、1900年前後の生まれの日本人はほとんどサラダは食べていなかったのではないだろうか。青空文庫で「サラダ」と検索しても、太宰治(1909年生まれ)の僅かの短編に「サラダ」の文字が見られるものの、きわめて稀にしか文学作品に現れることはない。書誌で調べると、

 

近代的サラダの作り方 附・ドレッシングの調合法 村松信太郎編 国際料理研究所出版部 1939年

 

サラダ 飯田深雪 雄鶏社 1957

 

おいしいサラダ縫え和種 榊叔子 婦人画報社 1958

 

   などきわめて少ない。おそらく小津安二郎の映画作品に見られる食卓にはサラダをみることはないだろう。一説には1964年の東京オリンピックが契機となったといわれるが、現在みられるような一般の家庭の食卓でサラダが普及するのは1970年代をまたねばならい。1973年のキューピーマヨネーズがCMで吉永小百合を起用し、サラダが健康と美容によいというイメージが広まっていった。

   では世界のサラダの歴史をみると、古くはローマ時代にさかのぼることができる。ローマの初代皇帝アウグストゥスは病気にかかった際、レタスを食べて一命をとりとめた、という逸話が残っている。サラダの出現は中世イギリスとフランスにみえる。14世紀末にイギリスのリチャード2世の料理長がサラット(ラテン語のsal(塩)から)という名で製法をしるしているが、それによるとパセリ、セージ、ニンニク、タマネギ、ハッカ、ウイキョウなどを洗ってこまかにさき、生のアブラとまぜ酢と塩をかけて食卓に供した。この時代は、香料植物を主材料にしていたらしいが、16世紀には野菜、17世紀には魚やエビ、鶏肉、18世紀には果物を加えた。一説によると、サラダの名称は、フランスで16世紀のころに用いられた半球状の兜のことをサラードSaladeと呼んでいたが、サラダをあえたり盛ったりするサラダ・ボールの形がそれに似ているところからつけられたといわれている。

王莽の簒奪

   紀元8年のこの日、王莽が前漢の孺子嬰より禅譲を受けて皇帝に即位し、新を建国した。前漢が滅亡。新王朝(AD8-23)は、前漢と後漢との間に王莽(BC45-AD23)が建てたごく短命の封建王朝である。王莽は23年に殺され、一代限りで滅んだ。

王莽は東平陵(山東省章丘)の人。漢の成帝の生母は、王莽のおばにあたる。彼は外戚の身分で大司馬に任ぜられて尚書を担当し、政治的には最高の職権を掌握した。そのうちに平帝を毒殺し、ついで漢の皇帝孺子嬰をも廃して、国号を新と称した。

   王莽の身長はやや高く、やせ形で、口が大きく、あごが短かく、大きな赤眼がとび出し、声は大きいがしわがれていた。彼は自己のこうした風采が気に入らず、高いかかとの靴、高くつくった冠、剛毛でふくらませた服を用い、臣下と会う時、ことさら胸をそらし、あごを引いて見下すようなポーズをとったという。容貌をかげでけなした臣下を殺したり、常に雲母の扇子を手にし、親しい者と会う時以外は、それで顔を隠した。また、儀式の際には、ひげや髪を黒く染めて、若く見せようとした。

   儒教を信奉していた王莽は、すべての政治を周の制度に復することを理想とした。広く流通していた漢武帝の五銖銭を改めて、軽く小さい王莽銭を鋳て、財政不足を補おうとした。また奴婢の売買を禁じ、土地を国有化して王田と称するなどして、商業利潤の国家独占を図ったため、豪族らの強い反抗をうけた。反乱のうち有力なものは、山東に蜂起した農民集団赤眉と南陽豪族群の援助をえた漢の一族劉秀である。AD23年、長安に突入した劉玄(更始帝)の軍勢によって王莽は殺された。劉玄は酒色におぼれて、側近に政治をまかせた。側近は横暴な政治を行ない、そのため赤眉集団は離反した。25年9月、赤眉軍は劉玄を殺した。赤眉集団は一時的に都長安を占領したものの、豪族連合軍に破られて山東に退却し、結局勝利は劉秀の手に帰した。この劉秀こそ後漢の光武帝(在位25-57)である。(11月25日)

 

 

 

 

憂国忌

E0171614_1011879     1970年のこの日、三島由紀夫は「楯の会」のメンバーと東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乗り込み、憲法改正を唱え、自衛隊の決起を促したが果たせず、楯の会の森田必勝とともに割腹自殺した。現代社会において流行作家というのは富と名声を得た代表的存在といえる。知的な存在において人気俳優や大物政治家も及ばない影響力を持つ。経済的な困窮生活であった太宰の時代はともかく、昭和30年代になると職業作家の生活は庶民の羨望の的となる。石坂洋次郎のように軽井沢に別荘を持ち、趣味はゴルフというのがオーソドックスなスタイルであろう。そういった点をみても三島は他の作家とは変わっていた。なぜか別荘やゴルフは嫌いなようだ。かわりにボディビル、ボクシング、剣道という身体鍛錬がよく知られているところであるが、変わった趣味として天体観測がある。自宅の屋上に観測所を作り、毎晩のように星空を見ていた。天文に興味があるのではなく、宇宙人の存在を信じていたらしく、真の目的はUFOの発見にあった。「美しい星」という作品を残している。「日本空飛ぶ円盤研究会」という怪しげな団体にも入っている。三島の会員番号は12番だ。本当にUFOの存在を信じていた。だがついに三島はUFOを見ることはなかった。(11月25日)

 

 

死語「BG」

   本日は「OLの日」。1963年のこの日、週刊誌「女性自身」のアンケート「働く女性の総称は?」で、オフィスレディ(OL)という言葉が第一位となり、OLという語が世間に浸透した。それ以前は、職場で働く女性のことを「BG(business girl)」と呼んでいたが、この言葉がアメリカの隠語で「商売女・娼婦」という意味であることがわかり、1963年9月12日にNHKが放送禁止用語とした。いまでは「BG」は完全な死語となっている。もともと使用されなくなった語彙は廃語といった。「逓信省」「省線」「運上所」「書籍館」「代言人」「輪タク」「活動写真」「声帯模写」などは廃語である。最近では「古臭く感じる語彙」を含めて死語ということが多い。アッシー、イケイケ、かわい子ちゃん、銀ブラ、チャイドル、老人力、ゲッツ!!、聖苦、逢びき、アプレゲール、うたごえ喫茶、内ゲバ、えもんかけ、えんがちょ、ダベる、ちょっとタンマ、チョベリバ、ナウい、なるへそ、なんじゃらほい、ばいなら、ハウスマヌカン、バイビー、ばたんきゅ~、バッチグー、はなきん、半ドン、マイコン、マドロス、マンモスうれピー、ミツグくん、やったぜベイビー、ゆるしてチョンマゲ、レッツラゴー。「ギンギン」力が体中にみなぎっていること。「一円玉ブス」これ以上くずれない不美人のこと。アベックというのはフランス語で、「~とともに」という意味。日本では「カップル」と同意語でよく「男女、特に恋人同士の2人づれ」という意味で使われた。むかしトニー谷が司会の番組「アベック歌合戦」があった。「死語大全」という本では今では死語となっているそうだが、自分は今でも使う。野球では、打者が連続して本塁打を打つことを「アベックホームラン」という。英語では back-to-back homers(連続ホームラン)という。

 

 

2025年11月24日 (月)

消えた名刀「阿蘇の蛍丸」

 蛍丸とは鎌倉時代、刀工・国俊によって作られたとされる日本刀。名前の由来はホタルが刃こぼれを直したという伝説にちなんでいる。阿蘇神社に保管されていたが、戦後の米軍の刀狩りの際に行方不明となった。熊本県の三角港に沈められた、米国人が所有しているなど、諸説あるがいずれにしても所在不明のままである。近年の刀剣ブームやゲーム「刀剣乱舞」で蛍丸の存在が知られて話題になっている。

 

こんな紅白は嫌だ!!

 大晦日の日本の風物誌となった紅白歌合戦。これまで珍場面も多かった、白組司会の加山雄三が少年隊の「仮面舞踏会」を「仮面ライダー」と誤って紹介。▽鉄拳、時間の都合でネタ披露できず▽泉谷しげる、観客に向かって「手前ら、拍手するな」と怒声▽綾瀬はるか復興支援曲で号泣▽くまもんとふなっし~が大喧嘩▽大島優子の突然の卒業宣言で北島三郎かすむ▽有働アナのセクシー衣装▽脱がないで着物で踊る壇蜜

 生番組なので時間に追われてドタバタするが、気になるのは出演者のギャラだ。われわれの受信料で賄われている。出演者の回数なよって異なるが、およそ5万円から55万円前後といわれている。初出場は、どんなに人気があっても、最低ランクの約10万円。出演回数10回で約20万円。20回前後で30万円。過去最高ランクで北島三郎が100万円だったたことがある。いずれにしても有名歌手が大晦日に出演するギャラとしては破格に安いといえる。

 

 

 

 

鰹節の日

 本日は「鰹節の日」。カツオ自体は古くから日本人の食肉となつており、縄文時代の遺物からすでに食いていたことが知られている。古事記に堅魚(かたうお)と紹介されている。室町時代に現在に近い鰹節が出現した。鰹節が文字として見えるのは永正2年のことである。江戸時代に九州の角屋甚太郎が土佐の宇佐浦に燻製法を伝えたのが高知の鰹節の起こりである。(11月24日)

 

 

 

中国史関係文献目録(概説・通史)

20120716_660715   高度な文明を始まりとして、東アジア世界の中心に君臨した中華帝国。6000年という悠久の歴史の中で中国は、数多くの王朝が興亡を繰り返した。現在に至るまでの歴史はどのような展開をしたのであろうか。中国史の時代区分の問題については、わが国では現在二つの見方が行われている。

    一つは内藤湖南(1866-1934)による説で、彼は唐宋の間に中国の社会・文化は一大転換をとげたとみ、それまでを古代、以後を近世とした。貴族階級の消滅、したがって貴族政治の終焉、君主独裁制の確立、庶民文化の向上・発展などがこの時に行われたとみたのである。この内藤説は、主として彼の教えを受けた京都の東洋史学者の間に継承されてきている。もっとも後漢末より唐末までを、内藤は中古という呼び方をしているから、後の学者にはこれを中世とみなしている。しかし彼らも近世の設定については、ほぼ内藤説をそのまま承認しているのである。

    一方、第二次世界大戦後、前田直典(1915-49)が、唐宋間に大きな変化があったことは認めるとしても、唐末までを古代、宋以後を中世とすべきであるという説をたてた。 前田の主張は生産関係に注目し、唐末までは大土地所有者の土地が奴隷によって耕作され、一般農民が徭役など半奴隷的収奪を受けており、宋からはそれが農奴使用による耕作へと変化したとみたのである。

   ところで中国では、1930年代に唯物史観の影響を受け社会史論戦なるものが起こり、多くの学者が色々な発展段階説によって時代区分をたてた。一般に奴隷制を古代、封建制を中世、資本制を近代と一応規定したが、それらを現実に中国史に当てはめる点では種々の主張が現れた。代表的な郭沫若(1892-1979)の説を例にとると、殷以前を原始共産制、西周期を奴隷制、春秋以後アヘン戦争までを封建制、以後を近代としている。現在の中国の大学テキストを調べてみても復旦大学「中国通論」(1986年刊行)などは原始社会、夏朝・商朝・西周・春秋を奴隷社会、戦国・秦漢から清末までを封建社会、以後を近代社会としていることから、おおむね郭沫若の説が定説となっていることがわかる。

    現在では時代区分論争は、日本における二つの主張、中国人の種々の考え方とともに結論を得ることなく実りある成果なく消滅したと言わざるを得ない。

 中国の概説書としては、貝塚茂樹の「中国の歴史」(岩波新書 1964~1970)が入門書としてお勧めしたい。だが執筆後の1970年代以降から、中国各地で考古学の大発見があいつぎ、中国の古代史は書き換えなければならなくなった。当時、貝塚は70歳を過ぎ高齢であったが「文物」などの新しく見いだされた諸事実を入念に研究し、1979年に「中国古代再発見」(岩波新書)を刊行している。逝去される2年前のことである。(参考:「東洋史概説」佛教大学)

 

  中国史関係文献目録

 

支那開化小史 田口卯吉 嵩山房 1888
支那通史 5冊 那珂通世 大日本図書株式会社 1888~1890
支那史 6巻 市村讃次郎、滝川亀太郎 1888~1892
支那帝国史 上下(万国歴史全書) 北村三郎 東京博文館 1889
支那史要 上下 市村讚次郎 吉川半七 1893~1895
東洋史 中等教育 棚橋一郎編 三省堂書店 1899
東洋史要 小川銀次郎 金港堂 1899
東洋史略 小川銀次郎 金港堂 1901
東洋史 秋月胤継 内田老鶴圃 1901
中学中国歴史教科書 夏曾佑 1902(のちに改題「中国古代史」)
東洋近世史 上下 田中革一郎 丸善 1902
東洋史 斎藤坦蔵、成田衡夫編 高等成師学会 1902
東洋史 箭内直、小川銀次郎、藤岡継手 杉本書翰秀館 1903
清国通考 第1~2篇 服部宇之吉 三省堂 1905
清朝史 早稲田大学講義録 矢野仁一 早稲田大学出版部 1905
中国歴史教科書第1冊 夏曾佑 金港堂 1905
東洋史 地理歴史研究叢書 歴史研究会編 1905
東洋歴史講義 上下 河野元三 金刺芳流堂 1905~1906
参考東洋大歴史 高桑駒吉 宝文館 1906
実業学校東洋歴史 宝文館編輯所編 宝文館 1907
東洋四千年史 伊賀駒吉郎 宝文館 1907
東洋歴史 土屋説教 修学堂 1908
通俗西漢紀事 通俗東漢紀事 通俗21史3 称好軒徽庵著 早稲田大学出版部 1911
清史稿 趙爾巽・柯劭忞等編 1914~1928
清朝全史 全2冊 稲葉岩吉 早稲田大学出版部 1914
清朝全史 稲葉岩吉 冨山房 1915
東洋史学要書目録 那珂通世 大日本図書株式会社 1915
支那古代史 フリードリッヒ・ヒルト著 西山栄久訳 三省堂 1918
史記・漢籍国字解全書本 8冊 桂五十郎、菊池三九郎、松平康国、牧野謙次郎 早稲田大学出版部 1919-1920
支那共和史 平川清風 上海・春申社 1920
支那古代社会史論 郭沫若 藤枝丈夫訳 内外社 1921
史記・国訳漢文大成13・14・15・16  公田連太郎・箭内亘共著 国民文庫刊行会 1922
支那古代史論 東洋文庫論叢5 飯島忠夫 東洋文庫 1925
東洋歴史講義 河野元三 金刺芳流堂 1925
東洋文化の研究 松本文三郎 岩波書店 1926
古代中国 H.マスペロ  1927
制度史 瞿兌之 広業書社 1928
支那古代史 フリードリッヒ・ヒルト 西山栄久訳補 丙午出版社 1929
綜合東洋史 文検参考文化詳説 桜井時太郎 三友社 1929
史漢研究 鄭鶴声 商務印書館 1930
中国古代社会研究 郭沫若 上海連合書房 1930
東洋史概説 松井等 共立社 1930
東洋史概説 白鳥清 大観堂 1930
漢晋西陲木簡彙編 張鳳 有正書局 1931
参考東洋歴史 中山久四郎、佐藤恵編 立川書店 1931
世界古代文化史1 緒論・先史時代概観・アジア文化 西村真次 東京堂 1931
古代文化論 松本信広 共立社 1932
参考東洋歴史 最も理解し易い 山上徳信 受験研究社 1932
東洋史 研究社小参考書 研究社編集部編 研究社 1932
東洋歴史(受験本位の) 三省堂編輯所編 三省堂 1932
古代文化史 J・H・ブレステッド著 間埼万里訳 刀江書院 1933
中国古代史 賈曾佑 1933
史学及東洋史の研究 中山久四郎 賢文館 1934
城子崖 中国考古報告集1 李済・梁思永著 国立中央研究院歴史語言研究所 1934
秦漢経済史稿 中国史学叢書 馬元材 商務印書館 1934 
東洋文明発生時代 第1期前編 東洋史講座2 橋本増吉 雄山閣 1934
新撰総合東洋史 同文書院編修局編 同文書院 1935
朝鮮・満州史 世界歴史大系11 稲葉岩吉・矢野仁一 平凡社 1935
支那史概説 上 岡崎文夫 弘文堂書房 1935
世界歴史大系3 東洋古代史 橋本増吉 平凡社 1935
世界歴史大系11 朝鮮・満州史 稲葉岩吉・矢野仁一 平凡社 1935
中国古代史  大学叢書 夏曾佑 商務印書館 1935
中国文化史 柳詒徴 鍾山書局 1935
東洋史講座7 漢人復興時代 高桑駒吉、有高巌 雄山閣 1935 
満蒙歴史地理辞典 佐藤種治編 富山・佐藤家 1935
西漢社会経済研究  陳嘯江 新生命書局 1936
戦国式銅器の研究 東方文化学院京都研究所研究報告7 梅原末治 1936
周秦漢三代の古紐研究 上・下 高畑彦次郎 京都・東方文化学院京都研究所 1937
近世中国史 風間阜  叢文閣 1937
物語東洋史 全12巻 中山久四郎監修 雄山閣 1937
東洋文化史概説 上野菊爾 清教社 1937
東洋歴史概説 出石誠彦 大観堂 1937
古代の支那 支那正史1 オットー・フランケ著 高山洋吉訳 東学社 1938
古代北方系文物の研究 梅原末治 京都・星野書店 1938
支那正史 全5巻 オットー・フランケ著 高山洋吉訳 東学社 1938~39
支那通史 上中下 岩波文庫 那珂通世著 和田清訳 岩波書店 1938~39
支那の歴史 星一 星同窓会 1938
世界歴史大年表 改訂普及版 鈴木俊・井上幸治・宮城良造編 平凡社 1938
アロー戦争と円明園(支那外交史とイギリス2) 矢野仁一 弘文堂 1939
支那地方自治発達史 和田清編 中華民国法制研究会(中央大学出版部) 1939
東洋史概観 上野菊爾 清教社 1939
漢書及補注綜合引得 燕京大学引得編纂処編 1940
興亡五千年 支那歴史の話 加藤顕治 桑文社 1940
古代の蒙古 支那歴史地理叢書5 内田吟風 冨山房 1940
参考東洋史 鴛淵一 三省堂 1940
支那史物語 景山直治 清教社 1931
隋唐制度淵源略論稿 陳寅恪 商務印書館 1940
漢書紙背文書 古典保存会 1941
漢土の王道思想 亘理章三郎 金港堂 1941
近世満州開拓史 満州事情案内所 新京 1941
近世欧羅巴植民史 1 大川周明 慶応書房 1941
支那古代史論 補訂版 飯島忠夫 恒星社 1941
東洋史観 鳥山喜一 宝文館 1941
秦漢時代政治史 支那地理歴史体系4 宇都宮清吉 白揚社 1943
西南亜細亜の歴史と文化 満鉄調査局新亜細亜編輯部 大和書房 1943
アジア全史 ハーバーツ・H・ガウェン 白揚社 1944
亜細亜遊牧民族史 ルネ・グルセ 後藤十三雄訳 山一書房 1944
古代支那史要 岡崎文夫 弘文堂書房 1944
支那上古史 内藤虎次郎 弘文堂 1944
春秋繁露通検(盧文弨抱経堂校定本)  中法漢学研究所 1944
中国古代史学の発展 貝塚茂樹 弘文堂書房 1946
東亜の古代文化 梅原末治 養徳社 1946
秦漢史 上下 呂思勉 開明書店 1947
新観東洋史潮 有高巌 開成館 1947
漢代土地制度 王恒 正中書局 1947
中国古代文化史研究1 史学選書1 橋本増吉 鎌倉書房 1947
中国史鋼 翦伯賛 生活書店 1947
中国中古の文化 教養文庫 内藤虎次郎 弘文堂書房 1947
唐史叢鈔 石田幹之助 要書房 1947
アジア史概説 続編 宮崎市定 人文書林 1948
世界史における東洋社会 飯塚浩二 福村書店 1948
中国史学入門 下 東方文化協会 高桐書院 1948
明代建州女直史研究 園田一亀 東洋文庫 1948
漢の武帝 岩波新書 吉川幸次郎 岩波書店 1949
居延漢簡考釈 釈文之部1・2 労榦 国立中央研究院歴史語言研究所専刊21 1949
古代の世界 木村正雄 金星堂 1950
中国史概説 岩波全書 上下 和田清 岩波書店 1950
中国史綱 翦伯賛 三聯書店 1950
中国史綱 2 秦漢史 翦伯賛 三聯書店 1950
東洋史 岸辺成雄 世界書院 1950
東洋史 木村茂夫 日本通信教育会 1950
貴族社会 京大東洋史2 外山軍治 内田吟風ほか著 創元社 1951
古代帝国の成立 京大東洋史1 宮崎市定、宇都宮清吉ほか著 創元社 1951
西廂記 塩谷温 昌平堂 1951
中国史学入門 東方学術協会 平安文庫 1951
ユーラシア古代北方文化 江上波夫 山川出版社 1951
支那史概説 上 岡崎文夫 弘文堂 1952
秦漢史 労榦 中華文化出版事業社 1952
中国の古代国家 アテネ文庫 貝塚茂樹 弘文堂 1952
匈奴史研究 内田吟風 創元社 1953
中国史 京大東洋史 上下 外山軍治ほか 創元社 1953
新中国 岩村三千夫 要書房 1953
新中国 目ざめた五億の人人 村上知行 櫻井書店 1953
新中国 木村荘十二 東峰書房 1953
東洋史学論集 東京教育大学東洋史学研究室編 清水書院 1953
古代北方文化の研究 角田文衛 祖国社 1954
中国史 世界各国史9 鈴木俊編 山川出版社 1954
中国土地制度史研究 周藤吉之 東京大学出版会 1954
中国歴史綱要 尚鉞主編 北京・人民出版社 1954
目で見る歴史 日本・東洋・西洋 毎日新聞社 1954
アジア史講座 6巻 田村実造・羽田明監修 岩崎書店 1955-1957
殷墟発掘 胡厚宣 学習生活出版社 1955
漢史初探 安作璋 学習生活出版社 1955
簡明中国通史 呂振羽 人民出版社 1955
教養東洋史 杉本直治郎、浦康一編 柳原書店 1955
史可法 魏宏運 新知識 1955
秦会要訂補 孫楷、除復訂補 上海・群聯出版社 1955
中国古代史概観 ハーバート・燕京・同志社東方文化講座8 宮崎市定 京都・東方文化講座委員会 1955
中国古代漆器図案選 北京歴史博物館編 北京・栄宝斎新記 1955
中国古代社会史論 侯外盧 人民出版社 1955
中国史 国民文庫 ソヴエト大百科事典 山田茂勝訳 国民文庫社 1955
中国史 1・2・3 アジア史講座 田村実造・羽田明監修 岩崎書店 1955
西ウイグル国史の研究 安部健夫 京大人文科学研究所 1955
近世のアジア 絵で見る世界史7 小島真治、小山正明 国民図書刊行会 1956
世界史におけるアジア 現代アジア史4 大月書店 1956
東洋史 NHK教養大学 和田清 宝文館 1956
アジア史研究 第1 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1957
居延漢簡 図版之部 台北・国立中央研究院歴史語言研究所専刊40 労榦 1957
後漢書集解 5冊 王先謙 商務院書館 1959
古代殷帝国 貝塚茂樹編 みすず書房 1957
司馬遷与史記 文史哲雑誌編輯委員会編 北京・中華書局 1957
秦漢史 瞿益錯 華北編訳館 1957
中国古代の社会と文化 中国古代史研究会編 東京大学出版会 1957
中国史学史 金毓黻  商務印書館 1957
中国史学論文索引 中国科学院歴史研究所第一、二所 北京大学歴史系合編 科学出版社 1957
中国史の時代区分 鈴木俊・西島定生編 東京大学出版会 1957
中国歴代口語文 太田辰夫 江南書院 1957
東洋史 榎一雄・鎌田重雄 小川書店 1957
東洋史 小竹文夫・鈴木俊編 有信堂 1957
教養の歴史(東洋史) 鈴木俊・千々和実・太田常蔵・小林幸輔編 小峰書店 1958
居延漢簡 釈文之部   労榦 台北・国立中央研究所歴史語言研究所専刊21  1958
商鞅変法 楊寛 上海人民出版社 1958
新・韓非子物語 中国古典物語6  千田久一 河出書房新社 1958
新唐書吐蕃伝箋証 王忠 科学出版社 1958
隋唐五代史 呉楓 人民出版社 1958
西漢経済史料論叢 陳直 陝西人民出版社 1958
中国史談 全6冊 奥野信太郎・佐藤春夫・増田渉 河出書房新社 1958-59
中国通史 第1編上 范文蘭瀾著 貝塚茂樹・陳顕明訳 岩波書店 1958
秦会要訂補 孫楷 中華書局 1957
十六国彊域志 洪亮吉撰 商務印書館 1958
十六国春秋輯補 湯球撰 商務印書館 1958
アジア史研究 第2 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1959
アジア歴史事典 平凡社編 平凡社 1959-62
居延漢簡甲編 中国科学院考古研究所編 科学出版社 1959
史記 中華書局標点本 10冊 中華書局 1959
秦末農民戦争史略 劉開揚 商務印書館 1959
隋唐五代史 呂思勉 中華書局 1959
中国史十話 世界の歴史1 植村清二 中村書店 1959
古代文明の発見 世界の歴史1 貝塚茂樹編 中央公論社 1960
秦漢思想史研究 金谷治 日本学術振興会 1960
秦漢史の研究 栗原朋信 吉川弘文館 1960
中国古代の社会と国家 秦漢帝国成立過程の社会史的研究 増淵竜夫 弘文堂 1960
後漢書語彙集成 上中下 藤田至善編 京都大学人文科学研究所 1960-62
漢書補注弁証 施之弁 香港・新亜研究所 1961
古代史講座 13巻 学生社 1961-66
史前期中国社会研究 呂振羽 三聯書店 1961
新中国的考古収穫 中国科学院考古研究所 北京・科学出版社 1961
隋唐五代史 呂史勉 中華書局 1961
先秦史 呂思勉 台北・台湾開明書店 1961
中国古代帝国の形成と構造 二十等爵制の研究 西嶋定生 東京大学出版会 1961
唐とインド 世界の歴史4  塚本義隆編 中央公論社 1961
ゆらぐ中華帝国 世界の歴史11 筑摩書房 1961
漢書 全12冊 校点本 中華書局 1962
中国古代工業史の研究 佐藤武敏 吉川弘文館 1962
古代文明の形成 古代史講座3 学生社 1962
古中国と新中国 カルピス文化叢書4 矢野仁一 カルピス食品工業株式会社 1962
アジア史研究 第3 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1963
古代の商業と工業 古代史講座9 学生社 1963
古代の土地制度 古代史講座8 学生社 1963
史記 春秋戦国篇 中国古典選6 田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1963
史論史話 1 鎌田重雄 南雲堂エルガ社 1963
The Ancient east(古代の東洋) D・G・Hogarth 丸善 1963
中国史学論文引得 1902年ー1962年 余秉権編 香港・亜東学社 1963
アジア史研究 第4 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1964
朱元璋伝 呉晗 三聯書店 1964
中国征服王朝の研究 上中下 田村実造 京都大学東洋史研究会 1964
中国の歴史 上中下 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1964
東洋史通論 外山軍治、三田村泰助、大島利一、日比野丈夫 創元社 1964
教養としての中国史 講談社現代新書 植村清二 講談社 1965
古代中国 文庫クセジュ ジャック・ジェルネ 福井文雅訳 白水社 1965
古代における政治と民衆 古代史講座11 学生社 1965
楊貴妃伝 井上靖 中央公論社 1965
中国古代帝国の形成 特にその成立の基礎条件 木村正雄 不昧堂書店 1965
永楽帝 中国人物叢書10  寺田隆信 人物往来社 1966
漢書索引 黄福鑾 香港・中文大学崇基書院遠東学術研究所 1966
漢の高祖 中国人物叢書第二期1 河地重造 人物往来社 1966
教養人の東洋史 上 小倉芳彦、柳田節子、堀敏一、三木亘 社会思想社 1966
教養人の東洋史 下 田中正俊、小島晋治、新島淳良 社会思想社 1966
中国文化の成立 東洋の歴史1 水野清一、樋口隆康、伊藤道治、岡田芳三郎 人物往来社 1966
秦漢帝国 東洋の歴史3 日比野丈夫、米田賢次郎、大庭脩 人物往来社 1966
秦漢隋唐史の研究 上下 浜口重国 東京大学出版会 1966
新中国あんない 日中友好代表団編 法蔵館 1966
殷墟卜辞綜類 島邦男 大安 1967
古代殷王朝のなぞ 角川新書 伊藤道治 角川書店 1967
古代トルコ民族史研究1 護雅夫 山川出版社 1967
古代の復活 貝塚茂樹 講談社 1967
史記1 項羽本紀、伯夷列伝、魏公子列伝 大安 1967
史論史話 2 鎌田重雄 新生社 1967
中国古代の田制と税法 秦漢経済史研究 平中苓次 東洋史研究会 1967
武王伐紂王平話・七国春秋平話語彙索引 古屋二夫編著 采華書林 1967 
奴児哈赤 中国人物叢書 若松寛 人物往来社 1967
アジアのあらし(世界の歴史6) 栗原益男、山口修 集英社 1968
古代文明の発見 世界の歴史1 中公バックス 貝塚茂樹編 中央公論社 1968
史記 上 中国古典文学大系10 野口定男・近藤光男他訳 平凡社 1968
秦漢史  沈璋 自印 1968
秦漢史 李源澄 台北・商務印書館 1968
瞽説史記 村松暎 中央公論社 1968
中国古代の家族と国家 守屋美都雄 東洋史研究会 1968
中国史文鈔 大野実之助編 早稲田大学出版部 1968
モンゴル帝国史 1・2(東洋文庫) C・ドーソン 平凡社 1968-1975
乱世の英雄 桃源選書 栗原益男 桃源社 1968
五四運動 紀伊国屋新書 丸山松幸 紀伊国屋書店 1969
大唐の繁栄 世界歴史シリーズ7 世界文化社 1969
中華帝国の崩壊 世界歴史シリーズ20   世界文化社 1969
中国史研究 第1 佐伯富編 東洋史研究会 1969
中国の近代 世界の歴史20 市古宙三 河出書房新社 1969
中国文化の成熟 世界歴史シリーズ15 世界文化社 1969
中国チベット蒙古古代史考 三木偵、渋沢均 鷺の宮書房 1969
モンゴル帝国 世界歴史シリーズ12 世界文化社 1969
アジア史論 上 白鳥庫吉全集8 岩波書店 1970
漢代代田賦与土地問題 呉慶顕 油印本 1970
漢とローマ 東西文明の交流1 護雅夫編 平凡社 1970
陳書 和刻本正史 長沢規矩也解題 汲古書院 1970
後漢書 中国古典新書 藤田至善 明徳出版社 1970
東洋史研究 歴史地理篇 森鹿三 東洋史研究会 1970
鑑真 東洋美術選書 杉山二郎 三彩社 1971
アジアの歴史 松田壽男 日本放送出版協会 1971
後漢書 1~3 和刻本正史 長沢規矩也解題 古典研究会 1971-72
古代北方系文物の研究(復刻) 梅原末治 新時代社 1971
中国古代文明 世界古代史双書10  ウィリアム・ワトソン著 永田英正訳 創元社 1971
漢書 和刻本正史 評林本 古典保存会 汲古書院 1972
周秦漢政治社会結構之研究 徐復観 香港・新亜研究所 1972
乱世の英雄 史記2 司馬遷 奥平卓・守屋範太共訳 徳間書店 1972
漢代之長安与洛陽 馬先醒 油印本 1972
中国の先史時代 考古学選書6 松崎寿和 雄山閣出版 1972
中国の歴史と民衆 増井経夫 吉川弘文館 1972
史学論集 中国文明選12  川勝義雄 朝日新聞社 1972
隋書 全3冊 魏征、令狐徳棻撰 中華書局 1973
中国近代史論文資料索引 1960~1973.6  復旦大学歴史系資料室 1973
中国古代史教学参考地図 北京大学歴史系編 1973
中国神話の起源 角川文庫 貝塚茂樹 角川書店 1973
中国と中国人 岡田武彦 啓学出版 1973
中国歴史に生きる思想 重沢俊郎 日中出版 1973
漢代的以夷制夷政策 刑義田 油印本 1973
A History of Chinese Literature  Herbert G.Giles C.E.Tuttle Co.
アジア専制帝国 世界の歴史8 現代教養文庫 山本達郎、山口修 社会思想社 1974
元・明 中国の歴史6 愛宕松男・寺田隆信 講談社 1974
古代文明の発見 世界の歴史1 中公文庫 貝塚茂樹編 中央公論社 1974
西蔵仏教研究 長尾雅人 岩波書店 1974
中国文明の形成 薮内清 岩波書店 1974
中国文明と内陸アジア 人類文化史4 三上次男・護雅夫・佐久間重男 講談社 1974 
中国の歴史 全13巻 講談社 1974~1975
乱世の詩人たち 「詩経」から毛沢東まで 松本一男 徳間書店 1974
ユーラシア東西交渉史論攷 鈴木治 国書刊行会 1974
古代の東アジア世界 江上波夫・松本清張編 読売新聞社 1975
司馬遷史記入門 勝者と敗者の人間百科 ダルマブックス 竹内照夫 日本文芸社 1975
新唐書 全10冊 欧陽脩・宋祁撰 中華書局 1975
人物中国志 全6巻 毎日新聞社 1974
中国地方自治発達史 和田清編 汲古書院 1975
中国土地契約文書集 金~清 東洋文庫 明代史研究室編 平凡社 1975
アジア史論考 上中下 宮崎市定 朝日新聞社 1976
漢書 中国詩文選8 福島吉彦 筑摩書房 1976
古代東アジアの国際交流 市民講座・日本古代文化入門5 江波波夫・松本清張編 読売新聞社 1976
史記 南宋・黄善夫本(百衲本二十四史所収影印本上・下) 台湾商務印書館 1976
中国近代史論文資料篇目索引 杭州大学歴史系中国古代史近代史組 1976
中国古代文化 今枝二郎 高文堂出版社 1976
中国古代史論集 楠山修作 海南・著者刊 1976
中国史稿 第1冊 郭沫若 人民出版社 1976
中国の歴史 全15巻 陳舜臣 平凡社 1976
中国の歴史 貝塚茂樹著作集8 中央公論社 1976
中国歴史大事紀年 近古~1949年 徐州師範学院歴史系中国歴史大事紀年編写組 1979
漢史文献類目 増訂版 馬先醒編 簡牘社 1976
中国の古代国家 貝塚茂樹著作集 中央公論社 1976
よみがえる古代 図説中国の歴史1 伊藤道治 講談社 1976
漢書 上中下 小竹武夫訳 筑摩書房 1977-79
漢書 3冊 国宝宋慶元本 平中博士追悼出版委員会編 朋友書店 1977
門閥社会成立史 矢野主税 国書刊行会 1976
古代の中国 世界の歴史4 堀敏一 講談社 1977
古代の東アジアと日本 教育社歴史新書 佐伯有清 教育社 1977
中国近代史歴表 宋孟源編 中華書局 1977
中国古代中世史研究 東洋学叢書 宇都宮清吉 創文社 1977
中国の後宮 大空不二男 竜渓書舎 1977
中国歴史地理研究 日比野丈夫 同朋舎 1977
秦漢帝国の威容 図説中国の歴史2  大庭脩 講談社 1977
中国史と日本 三島一 新評論 1977
中国史 上 岩波全書 宮崎市定 岩波書店 1977
アジア史研究 第5 宮崎市定 同朋舎 1978
古代東アジア史論集 上下 末松保和博士古稀記念会編 吉川弘文館 1978
中国文明の原像 上下 放送ライブラリー 宮川寅雄・関野雄・長広敏雄編 日本放送出版協会 1978
秦漢帝国史研究 好並隆司 未来社 1978
秦漢思想研究文献目録 坂出祥伸編 関西大学出版広報部 1978
中国史 下 岩波全書 宮崎市定 岩波書店 1978
中国南北朝史研究 増補復刻 福島繁次郎 名著出版 1978
アジアの歴史 大沢陽典・大庭脩・小玉新次郎編 法律文化社 1978
アジア史論 斎藤実郎 高文堂出版会 1979
アジア遊牧民族史 上・下 ユーラシア叢書 ルネ・グルセ 後藤富男訳 1979
漢書藝文志・隋書経籍志 楊家駱主編 台北・世界書局 1979
漢の武帝 教育社歴史新書・東洋史 影山剛 教育社 1979
史論史話 鎌田重雄 大学教育社 1979
中国歴代皇帝文献目録 国書刊行会編 国書刊行会 1979
乱世の皇帝 後周の世宗とその時代 栗原益男 桃源社 1979
中国古代再発見 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1979
中国古代の再発見 1978-1979年 NHK大学講座 貝塚茂樹 日本放送出版協会 1979
中国史学論文索引 第二編 中国科学院歴史研究所資料室編 中華書局 1979
漢書食貨志訳注 黒羽英男 明治書院 1980
中国古代史籍挙要 張舜徽 湖北人民出版社 1980
中国古代の「家」と国家 皇帝支配下の秩序構造 尾形勇 岩波書店 1979
中国古代の文化 講談社学術文庫 白川静 講談社 1979
中国史稿地図集 上冊 郭沫若 地図出版社 1979
中国史における革命と宗教 鈴木中正 東京大学出版会 1980
中国史における宗教受難史 ホロート著 牧尾良海訳 国書刊行会  1980
中国史における仏教 アーサー・F・ライト著 木村隆一・小林俊孝訳 第三文社 1980
中国歴代年表 斉召南著 山根伸三訳補 国書刊行会 1980
楊貴妃後伝 渡辺龍策 秀英書房 1980
北アジア史 世界各国史12・新版 護雅夫・神田信夫編 山川出版社 1981
五四運動 丸山松幸 紀伊国屋書店 1981
人物中国の歴史 陳舜臣編 集英社 1981
秦漢音楽史料 吉聯抗輯訳 上海文芸出版社 1981
秦漢思想史研究 増補復刊 金谷治 平楽寺書店 1981
西安史話 武伯綸・武復興 陝西人民出版社 1981
戦国時代の群像 人物中国の歴史3 司馬遼太郎 集英社 1981
大統一時代 秦・前漢(中国の歴史3) 陳舜臣 平凡社 1981
中国古代の社会と経済 歴史学選書 西嶋定生 東京大学出版会 1981
中国史 そのしたたかな軌跡 人間の世界歴史10 増井経夫 三省堂 1981
中国歴史の旅 陳舜臣 東方書店 1981
三国志 完訳 全8巻 羅貫中 岩波書店 1982-83
史学論文索引 1979~1981 上 北京師範大学歴史系資料室 中華書局 1982
秦漢法制史の研究 大庭脩 創文社 1982
中国人の自然観と美意識  東洋学叢書 笠原仲二 創文社 1982
アジア歴史研究入門 1~5 別巻 宮崎市定ほか編 同朋舎  1983-1987
秦始皇陵兵馬俑 田辺昭三監修 平凡社 1983
中国古代国家と東アジア世界 西嶋定生 東京大学出版会 1983
中国古代の東西交流 考古学選書21  横田禎昭 雄山閣 1983
中国史における社会と民衆 増淵龍夫先生退官記念論集 汲古書院 1983
アジア史論叢 市古宙三教授古稀記念会 中央大学白東史学会編 刀水書房 1984
古代殷帝国 貝塚茂樹編 みすず書房 1984
三国志 4 秋風五丈原 谷崎旭寿 新人物往来社 1984
支那通史 全3冊 岩波文庫 那珂通世著 和田清訳 岩波書店 1984
秦漢官制史稿 上下 安作璋・熊鉄基 山東・斉魯書社 1984
中国史大事紀年 蔵雲浦・王雲度・朱崇業・何振東・叶青 山東教育出版社 1984
中国の古代国家 中公文庫 貝塚茂樹 中央公論社 1984
中国の歴史書 中国史学史 刀水歴史全書20 増井経夫 刀水書房 1984
中国文明の起源 NHKブックス453 夏鼐著 小南一郎訳 日本放送出版協会 1984
司馬遷と「史記」の成立 大島利一 清水書院 1985
秦漢思想史の研究 町田三郎 創文社 1985
秦漢土地制度与階級関係 朱紹侯 中州古籍出版社 1985
秦始皇帝 A・コットレル 田島淳 河出書房新社 1985
秦都咸陽 秦漢史研究双書 王学理 陝西人民出版社 1985
西漢人物故事 倉陽卿、張企栄 浙江教育出版 1985
中国の歴史と故事 旺文社文庫 藤堂明保 旺文社 1985
中国文明の成立 ビジュアル版世界の歴史5 松丸道雄・永田英正 講談社 1985
東アジアの変貌 ビジュアル版世界の歴史11  小山正明 講談社 1985
楊貴妃・安禄山 現代視点・中国の群像7 旺文社編 旺文社 1985
五・四運動史像の再検討 中央大学出版部  1986
昭和の戦争9 アジアの反乱 丸山静雄 講談社 1986
秦兵馬俑 張文立編写 西安・西北大学出版社 1986
秦陵同車馬 劉雲輝編写 西安・西北大学出版社 1986
西漢人口地理 葛剣雄 北京・人民出版社 1986
中国古代を掘る 城郭都市の発展 中公新書 杉本憲司 中央公論社 1986
中国史における乱の構図 野口鉄郎編 雄山閣 1986
中国の英傑 10 洪秀全 ユートピアをめざして 小島晋治 集英社 1986
アジア史概論 中公文庫 宮崎市定 中央公論社  1987
女たちの中国 古代を彩る史話 李家正文 東方書店 1987
漢書藝文志 顧實講疏 上海古籍 1987
漢書郊祁志 東洋文庫 班固 平凡社 1987
漢の武帝 中国の英傑3 福島吉彦 集英社 1987
中国からみた日本近大史  劉恵吾主編 早稲田大学出版部 1987
中国古代国家の支配構造 西周封建制度と金文 伊藤道治 中央公論社  1987
中国古代の身分制 明治大学人文科学研究所叢書 堀敏一 汲古書院 1987
中国の考古学 隋唐篇 岡崎敬 同朋舎 1987
新アジア学 板垣雄三、荒木重雄編 亜紀書房 1987
秦始皇帝とユダヤ人 鹿島曻 新国民社 1987
漢書古今人表疏證 王利器 斉魯 1988
漢武帝評伝 羅義俊 上海人民出版社 1988
古代中国の性生活 先史から明代まで R・H・ファン・フーリック 松平いを子訳 せりか書房 1988
中国古代史論 平凡社選書 宮崎市定 平凡社 1988
中国古代の法と社会 栗原益男先生古稀記念論集 汲古書院 1988
中国古代文明の謎 光文社文庫 工藤元男 光文社 1988
中国の歴史人物事典 中国の歴史別巻 集英社 1988
漢三国両晋南北朝の田制と税制 藤家禮之助 東海大学出版会 1989
秦漢帝国と稲作を始める倭人 マンガ日本の歴史1 石ノ森章太郎 中央公論社 1989
秦漢法制史論 堀毅 名著普及会 1989
真史ジンギス汗 谷崎旭寿 新人物往来社 1989
中国古代史を散歩する 李家正文 泰流社 1989
中国古代農業技術史研究 東洋史研究叢刊43 米田賢次郎 同朋舎  1989
中国の歴史と故事 徳間文庫 藤堂明保 徳間書店 1989
中国の歴史近・現代 全4巻 陳舜臣著 平凡社 1986-1991
アジア史を考える 田村実造 中央公論社 1990
アジア諸民族の歴史と文化 白鳥芳郎教授古稀記念論叢刊行会 六興出版 1990
漢書地名索引 陳家麟編 中華書局 1990
東洋史概説 岩見宏・清水稔編 佛教大学 1990
マンガ中国の歴史 陳舜臣・手塚治虫監修 中央公論社 1990
司馬遷 集英社文庫 林田慎之助 集英社 1991
中国古代国家論集 楠山修作 朋友書店 1991
中国の歴史と民俗 伊藤清司・大林太良ほか 第一書房 1991
中国文明史 ヴォルフラム・エーバーハルト著 大室幹緒・松平いを子訳 筑摩書房 1991
十八史略の人物列伝 守屋洋 プレジデント社 1992
図説中国近現代史 池田誠・安井三吉・副島昭一・西村成雄 法律文化社 1993
秦漢財政収入の研究 山田勝芳 汲古書院 1993
秦始皇陵研究 王学理 上海人民出版社 1994
中国古代漢族節日風情 中国文化史知識叢書44 朱啓新・朱篠新著 台湾商務印書館 1994
中國史1~5 松丸道雄ほか 山川出版社 1996
天空の玉座 中国古代帝国の朝政と儀礼 渡辺信一郎 柏書房 1996
三国志 英雄たちの100年戦争 瀬戸龍哉編 成美堂 1997
アジアと欧米世界 世界の歴史25 加藤祐三、川北稔 中央公論社  1998
中国史 新版世界各国史3 尾形勇・岸本美緒 山川出版社 1998
漢帝国の成立と劉邦集団 軍功受益階層の研究 李開元 汲古書院 2000
中国史論集 楠山修作 朋友書店 2001
中国史なるほど謎学事典 島崎晋 学習研究社 2001
すぐわかる中国の歴史 宇都木章監修 小田切英著 東京美術 2003
長城の中國史阪倉篤秀 講談社 2004
中国史のなかの諸民族 世界史リブレット 川本芳昭 山川出版社 2004
中国の歴史 全12巻 講談社 2004-2005
中国の歴史 上・下 愛宕元・冨谷至編 昭和堂 2005
清朝とは何か 別冊環16  岡田英弘編 藤原書店 2009
中国古代の財政と国家 渡辺信一郎 汲古書院 2010
中国の歴史 山本英史 河出書房新社 2010
中国王朝4000年史 渡邉義浩 新人物往来社 2012
秦帝国の形成と地域 鶴間和幸 汲古書院 2013
史記秦漢史の研究 藤田勝久 汲古書院 2015
中国の歴史 濱下武志・・平勢隆郎編 有斐閣 2015
中国の歴史 ちくま学芸文庫 岸本美緒 筑摩書房 2015
性からよむ中国史 男女隔離・纏足・同性愛 スーザン・マン著 小浜正子訳 平凡社 2015
中国の文明3 北京大学版 潮出版社 2015
武帝 始皇帝をこえた皇帝 世界史リブレット 冨田健之 吉川弘文館 2016
鏡鑑としての中国の歴史 礪波護 法蔵館 2017
簡牘が描く中国古代の政治と社会 藤田勝久 汲古書院 2017
96人の人物でわかる中国の歴史 ヴィクター・H・メア、サンピン・チェン、フランシス・ウッド著 大間知知子訳 原書房 2017
漢唐文化史 熊鉄基 湖南出版社
漢唐文化史論稿 汪籤 北京大学

 

 

 

 

光クラブ事件(1949年)

  1949年のこの日、闇金融業者「光クラブ」社長の山崎晃嗣(1923-1949)が服毒自殺した。この事件をモデルとした映画「白昼の死角」(村川透監督、1979年)は高木彬光の同名の小説を映画化したピカレスク・ロマン。戦後の混乱が続く昭和23年。東大生の隅田光一(岸田森)は鶴岡七郎(夏八木勲)、木島良助(竜崎勝)、九鬼善司(中尾彬)らと金融会社「太陽クラブ」を設立する。しかし闇金融疑惑で隅田は検挙され焼身自殺を遂げる。同志の非業の死を見た鶴岡は復讐を誓う。現行の法律の死角を突く完全なる経済犯罪者として鶴岡は蘇る。

    高木は昭和34年「黄金の死角」として「週刊スリラー」に連載したが、翌年カッパブックスに「白昼の死角」として改題し刊行した。小説の序盤に登場する隅田光一のモデルが山崎であることはよく知られている。ほかにも山崎をモデルにした小説としては、三島由紀夫「青の時代」、清水一行「産業集団」、北原武夫「悪の華」、田村泰次郎「大学の門」など多数あるが、高木作品が成功例といえるだろう。

    山崎晃嗣は大正12年、木更津に生まれた。父は市長を勤める医者の長男。木更津中学、一高、東大と進み、大学時代には17科目に優、3科目だけが良という秀才だった。この抜群の頭脳を生かして日医大3年生の三木仙也らと闇金融「光クラブ」を設立して、インフレに苦しむ中小企業に金貸しをはじめた。しかし昭和24年11月、資金繰りに困り、「貸借法、全て清算カリ自殺」と遺書を残して服毒自殺した。

    山崎は、翌日の行動プランを分刻みに記録していたというほど几帳面な性格であった。自分の合理主義をもって時代に挑戦することにあった。「人生は劇場だ。僕はそこで脚本を書き、演出し、主役を演じる」いわば劇場型人間。もっとも高木彬光「白昼の死角」では主役ではなく脇役である。山崎晃嗣は戦後社会が生んだアプレ・ゲール世代の典型であるが、山崎のエピゴーネンともいえる村上世彰、堀江貴文など現在においてもしばしば登場する。これまでも山崎の日記は出版されているが、大学ノート3冊に書かれた昭和21年ごろの日記が神田の古書店で出品され、いま話題になっている。(11月24日)

進化の日

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  美は真実であり、真理は美しい。それこそこの世界で知ること、知るべきことなのです。(キーツ)

 本日は1859年のこの日、ダーウィンがイギリスで「種の起源」を出版したことに由来し、「進化の日」が制定されている。

   ドイツのフリッツ・ロイターFritz Rcuter(1810-1874)は世界的に知られた作家であるが何故か日本ではほとんど知られていない。おそらく宗教的な内容を多く含んでいるからであろうか。かつて神を次の言葉で言い表している。

 

初めも終りも、主よ、あなたのもの。

その間の短い時、人生はわたしのもの。

されどわたしたちは暗やみの中を迷い、

なにも見いださない。

主よ、あなたは光であり、

光はあなたのみ住まいです。

   われわれは宇宙という天空の幻想の中で生きている。最近は大型望遠鏡によってはるかはなたの宇宙の果てまで画像を見ることができる。科学がもたらした新知識で広大な宇宙の神秘が解き明かされようとしている。現代の知識では宇宙はおよそ140億年前に誕生した。そして何十億という星雲のなかの一つである銀河系のなかの一つの小さな惑星、それが地球である。創造か進化か。なぜ人間は神のことを考えるのか。多くの民族は、表現の違いこそあれ、人間は自分ひとりで立っているのではなく、またそうすることはできないと考えた。人間は自分の外の自然や社会の種々の力を極めて重要な関係を持っており、その力に依存してさえいるのである。人は自分が世から離れて立つことのできる力の中心ではないことをぼんやりとではあれ、はっきりとであれ、知っているのだ。

 ダーウィンは「人類はサルから進化した」とは決して言っていない。環境により適応氏し、変化すると言っている。つまり、「進歩」「前進」「発展」「改良」などを意味しているevolutionとは異なる変化、変容、変態、転成(translation)を唱えたかったのである。

自然界で、生き物が作り出した造形美には驚嘆すべきものが少なくない。貝類はその最も代表的なもので、自ら貝殻をつくって彫刻士し、色とりどりの模様に仕上げている。この神秘的ともいえる造形は、約5億年前の古生代に出現した先祖から、長い歴史をへて環境に適応してきた進化の結果によるものである。(11月24日)

 参考:「科学的分析に基づく進化学方法論の基礎的考察」八杉龍一 1961年

 

 

 

2025年11月23日 (日)

削り友達

  「日漢辞典」(商務印書館)を見ていると、「削友達(けずりともだち)が載っている(2398p)。意味は「飲酒(東京木匠的行話」とある。つまり江戸期の大工の隠語で「酒」、「酒飲み仲間」のこと。日本人でも知らない言葉が中国の辞書にあることに驚く。「東海道中膝栗毛」にもある言葉。▽乃木坂46の最新シングル「ビリヤニ」。ビリヤニって何だろう?スパイスと米、肉、魚などで作るインドの炊き込みご飯。

 

アニタ・オデイ

  2006年11月23日、ロサンゼルスの病院でジャズ歌手のアニタ・オデイが死去した。享年87歳。アニタ・オデイは1918年12月、イリノイ州シカゴで生まれた。20歳頃からシカゴでプロ歌手として歌っていたが、1941年から43年までジーン・クルーパ楽団の専属となって活躍した。1944年から45年まではスタン・ケントン楽団に移籍し、花形歌手として活躍。続けて再び短期間クルーパ楽団に戻った後に独立、クラブにも積極的に出演、50年代に入るとノーマン・グランツの下で続々とレコーディングを行い、その人気を不動のものとした。

   日本で彼女の名が知られるようになったのは、映画「真夏の夜のジャズ」(1958年)の出演からである。この映画はニューポート・ジャズ・フェスティバルの模様を収録したもので、熱溢れるジャズと海をテーマとした美しい画面で、多くの観客を感動させた。1964年にバーブ・レーベルから離れた後、しばらくレコーディングに恵まれなかったが、1969年ニューヨークで本格的に復帰し、生涯歌い続けた。一方、麻薬や酒におぼれ、麻薬からは手を切ったが、アルコール依存は長く続き、1996年には自宅で酔って階段から転落、回復してから再び舞台に立ち、今年はCDをリリースした。

   代表作は「ハニーサックル・ローズ」「スイート・ジョージア・ブラウン」など多数あるが、スタンダードナンバーをアレンジした曲にスキャットを織りまぜ粋に表現することがアニタの持ち味である。ビリー・ホリディ(1915生)、エラ・フィッツジェラルド(1918生)、ペギー・リー(1920生)、ドリス・デイ(1924生)、サラ・ボーン(1924生)らと共にジャズ黄金時代の最後の花形歌手だった。

あんこうの日

 下関漁港はアンコウの水揚げ量が日本一です。アンコウという魚は、動作がにぶく、頭上の触手状の長いトゲを動かして、小さい魚が餌かと思って近寄ってくるとバクッと大きな口を開けて海水とともに小魚を飲み込む。アンコウはほとんど捨てるところがない魚で、「身・皮・肝・胃・エラ・卵巣・トモ」をアンコウの七つ道具とよぶ。肉が軟らかくて扱いにくいのでねつるしておいて切る。「アンコウのつるし切り」である。みそ汁、あえ物、鍋物などにする。

フクロウの擬態

 擬態とは、ある種の生物が自分以外の何物かに外見やにおい、動きなどを似せることにより、生存上の利益を得る現象をいう。枯葉に似た羽をもつコノハチョウなど昆虫などにその例は多い。鳥類で擬態というとフクロウが知られている。フクロウは外的から身を守るため木の枝に擬態している。まるでお地蔵様のように微動だにしない。また自分より強い相手が現れた時に身体をシュッと補足して、敵にバレないようにする。

2025年11月22日 (土)

始皇帝と兵馬俑坑の謎

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   1974年3月、西安郊外で発見された兵馬俑坑は誰もが始皇帝のものであると信じて疑わないが、始皇帝の時代を示す遺物は意外と少ない。一つは「呂不韋○年」と銘のある矛であるが、後代に侵入者が置き忘れたものであるかもしれない。専門家によると、副葬品の兵器は時代遅れものだという。始皇帝の時代は鉄製の兵器が主流であったが、副葬品のほとんどが青銅製のものである。また兵馬俑が極彩色に塗られているが、五行思想のため始皇帝の軍隊は黒色で統一されていたといわれている。車軌を統一したといわれるがバラバラである。数々の疑問から、始皇帝の時代ではなく、始皇帝の高祖母、5代前の恵文王の妻で宣太后の陵墓(前4世紀後半)ではないかと説く学者もいる。宣太后は「古代の西太后」とも称されるほど、国力は大いに繁栄していた。始皇帝陵、阿房宮の建設、そして万里の長城などで莫大な費用と人員を要したことを考えると、始皇帝以前のものとする説も十分にありうる話ではないだろうか。いまだ始皇帝の地下宮殿は発掘されていない。中国政府がわざと発掘を先延ばししている本当の理由は、被葬者の遺骸に女性用装身具を身につけていることを恐れているからかもしれない。なぜこのような無用の長物を建造したのだろうか。

 禅語に「秦時のたくらんさん」という言葉がある。「伝灯録」の陳尊宿章。ある僧が門をノックする。

陳尊宿「だれだ」
「それがしです」
「この秦時のたくらんさんめが」
 「秦時のたくらんさん」というのは、阿房宮の造営に使用された建築道具、すなわち穴を穿つためのドリルがその本義だといわれる。




蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)「ツ」事項索引)

 「通州事件」1937年7月29日、北京郊外の通州(つうしゅう)で邦人200人が殺害された事件。日本軍の誤爆が契機となっており、冀東防共自治政府(殷汝耕主席)側の責任とはいえなかったが、殷汝耕(1889-1947)は責任を問われて辞職し、同年末後任の池宗墨(ちそうぼく)との間で、120万円の賠償金を居留民の遺族に支払う条件で解決した。新聞社は号外をだし、大々的に虐殺と報じ、中国に対する敵意を高め、日中戦争拡大の心理的要因を煽った。▽「ツアボの人喰いライオン」1898年ウガンダ鉄道の建設中、2頭のライオンが出没し多くの作業員が殺された。▽「ツィゴイネルワイセン」サラサーテが1878年に作曲したヴァイオリン独奏曲。▽「ツンドラ」タイガ地帯以北の不毛の草原。▽「ツァーベルン事件」1913年10月ドイツ・エルザスの小さな町ツァーベルンで、駐屯ドイツ軍と住民との衝突事件。▽「通済渠」隋の煬帝が開いた運河。▽「ツォンカバ(1357-1419)」ラマ教の改革者。▽「蔦紅葉宇都谷峠」歌舞伎脚本。二世河竹黙阿弥作。▽「ツツガムシ病」ツツガムシに媒介されるリケッチアによっておこる風土病。

105_0543_2▽「鶴見事故」1963年11月9日、東海道線鶴見で二重衝突。横浜市立大学長の三枝博音ら死者161人。▽「頬貫」鎧を着て乗馬するときにはく毛皮のくつ。 ▽「ツルマギ(トゥルギ)」(画像)朝鮮族の男子の礼服にあたる外套。のち女子も着用するようになった。▽「辻が花」室町時代から安土桃山時代にかけてわずかな間だけ出現した、独特な絞り染め。辻が花の語源も作者も定かではなく、幻の染めともいわれる。花模様が多く、大ぶりな柄の輪郭を縫い絞りの繊細な線で染め、筆による墨書きや墨・暈し、帽子絞りの花模様などをあしらい、刺繍も用いられている。上杉謙信、豊臣秀吉や徳川家康が着用した胴服などが現存している。(つつつつ)

 


ツァーベルン事件
ツアボの人喰いライオン
ツァラトゥストラはこう語った(ニーチェ)
ツァーリ
ツィゴイネルワイセン
ツイッギー
追捕使
ツインメルヴァルト会議(1915年)
ツヴィングリ
通貨
通済渠
通州事件
通天閣
ツェッペリン
ツォンカバ
築地大橋(東京・中央区)
築地小劇場
ツキジデス
築地八宝亭一家殺人事件(1951年)
筑紫国造磐井
ツキノワグマ
津雲貝塚
杜撰(ずさん)
辻が花
対馬海流
津田梅子
津田左右吉
津田真道
蔦紅葉宇都谷峠
蔦屋重三郎
ツタンカーメン
土一揆
土井晩翠
ツチノコ
ツチブタ
土御門通観
ツツガムシ病
つつもたせ(美人局)
津波
ツヌガアラシト
ツパイ
ツベルクリン反応
坪内逍遥
罪と罰 (ドストエフスキー)
冷たい戦争
梅雨
ツラギ島
つらぬき(頬貫)
釣り
敦賀(福井県)
ツルゲーネフ
ツルマギ
鶴見事故
鶴屋南北
ツーロン攻囲戦
つんく
ツングース系
ツンドラ
ツンフト闘争

 

 

トドとオットセイ

 トドは哺乳鋼食肉目アシカ科トド属に分類される食肉類。北太平洋およびその沿海のオホーツク海、ベーリング海、北海道からカリフォルニア州南部チャンネル諸島にかけて生息する。漁業被害を防ぐため害獣としての駆除が行われている。トドとオットセイはどちらもアシカ科に属するが、アシカのうち大型のものをトド(北太平洋)、オタリア(南米)と呼ぶ。オットセイはアシカよりも体が小さい。

 

ダラスの金曜日

22997002000   11月22日は歴史的事件の特異日である。1497年ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸の南端の喜望峰を通過した。1620年清教徒らのメイフラワー号がアメリカ東海岸のプリマスに到着した。そして1963年、米大統領は11月22日現地時間12時30分にテキサス州ダラス、デイリープラザ広場で暗殺された。リー・ハーベイ・オズワルドが逮捕されたが、事件2日後、移送途中でダラスの劇場主ジャック・ルビーによって射殺された。後にルビーは、オズワルドを殺した理由について「ケネディへの愛とジャクリーン夫人への同情からだった」と証言した。ケネディ暗殺はオズワルドの単独犯なのか複数犯がいるのは背後関係は謎に包まれている。①オズワルドはケネディ暗殺後直ちにソ連に逃亡する計画だったらしい。ソ連大使館で外交官ワレリー・ウラジミロヴィチ・コスティコフと面会していた。コスティコフは表向きは外交官だが、要人の暗殺や誘拐を専門にするKGB第13総局に所属していた。②オズワルドは暗殺の前メキシコシティでキューバ大使館に行ったりして、シルヴィア・デュランという大使館職員と愛人関係にあった。③オズワルドは逮捕された翌日、70人の警官が見守る中ジャック・ルビーによって殺害される。犯人は本当にオズワルドなのだろうか?

    リンカーンとケネディの暗殺事件には謎が多い。そして不思議なことに両大統領の暗殺事件には奇怪な幾つかの共通点がみられる。①この2人の大統領は市民権利拡大のために積極的にはたらいた②2人は後頭部を銃で撃たれた③暗殺現場に夫人が同伴していた④ともに暗殺された日は金曜日だった。⑤場所はリンカーンは「フォード劇場」、ケネディはフォード車(フォード社が製造するリンカーン・コンチネンタル)。⑥2人とも4人の子供がいた。⑦2人とも60年に大統領に就任している。(リンカーンは1860年、ケネディは1960年)⑧次の大統領の名はいずれもジョンソンだった。(リンカーンはアンドリュー・ジョンソン、ケネディはリンドン・ジョンソン)⑨リンカーンを暗殺したジョン・ウィルクス・ブースは1839年、リー・ハーヴェイ・オズワルドは1939年に生まれた。そして最後に、リンカーンにはケネディという名の秘書がいて、ケネディにはリンカーンという名の秘書がいた。この不思議な、共通点をあなたはどう推理するだろう?

 

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2025年11月21日 (金)

江川の手抜き投法

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 「羽鳥慎一モーニングショー」(11月11日放送)で森山みなみアナウンサーはゲスト出演の江川卓のことを知らなかった。「ゴメンナサイ。昨日まで存じ上げませんでした」と明るく告白した。「怪物江川伝説」や、あの「空白の1日」事件は1978年11月21日の出来事で森山アナが生まれたのは1998年。知らないのも無理はないという声もあるが、メディアの方なら過去の事でも知ってほしいものだ。スマホ時代で、検索すればわかるということだが、ジャーナリストにとって過去の知識を頭脳に集積することが大切である。

    怪物江川卓。135勝72敗。全身に無駄な力が無く、剛速球を投げる安定した理想的な投球フォーム。現役引退後はコーチ、監督はせず、なぜか解説一筋。きれいな言葉でわかりやすく好評である。余談や雑談はせず、ひたすら忠実に試合の実況解説に徹したところがとてもよい。投手出身なので当然ピッチング中心。2011年5月、巨人の新人澤村が力投した試合。三振を次々奪取したが、7回下位打線からの攻撃。ここで江川は「7番からの打線だから、ここで一息ぬいて軽く投げて、8回、9回にそなえるといい」という。アナウンサーは「いつも全力投球というところが澤村のいいところなんでしょうね」と。「それでは完投はなかなか難しいね」と江川は言う。流石にアナウンサーも「江川の手抜き投法」という言葉は使わなかったが視聴者のおおくは過去を思い出しただろう。もちろん手抜きで完投したケースもあったが、痛打されたことも多々あり、「江川手抜き投法」は流行語にもなった。やっぱり江川の手抜きは本当だったことが本人の口から出てしまった。

2025年11月20日 (木)

たかが紅白、されど紅白

 日本の大晦日は「炬燵みかんで紅白歌合戦」。今年のテーマは「つなぐ、つながる、大みそか」。司会は有吉弘行、綾瀬はるか、今田美桜。最近は演歌にヒット曲がなく、高齢者になじみのないJポップ中心で、シニア世代にも紅白はなれが進んでいる。今年の紅白出場アーティストが発表されたが、個人的には演歌の貴公子、山内惠介が落選したのには少し驚いた。本人のブログで「僕自身の不徳の致すところです」と無念の思いをにじませているが、精力的に全国をまわり演歌の枠を超えたアレンジの効いた楽曲も素晴らしく、ファンからすれば不徳なことなんか一つもないでしょう、と思う。なぜ落選したのか謎である。山内は今年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞している。彼のライバル三山ひろしは今年も紅白を出場するらしい。三山にはけん玉のギネス世界記録があるからだろうか。もし彼が落選すれば、毎日練習している128人のけん玉メンバーにも影響がある。だが歌と無関係な事柄で評価されるのは疑問がのこる裁定である。それほど紅白落選は歌手にとって生命線だからである。ほかにも紅白をめぐる不穏な動きがある。Kポップ・グループ、aespaの出場停止を求める署名運動「きのこ雲ランプ騒動」である。エンタメ界は魑魅魍魎の世界だ。

 

 

岩波新書が刊行される(1938年)

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  来年の大河ドラマ「豊臣兄弟」はオリジナル脚本のため原作はとくにない。だが過去に堺屋太一の小説「豊臣秀長」があり、関係書は無数にあるだろう。岩波新書の福田千鶴の「豊臣家の女たち」(新赤版2086)もタイミングよく刊行された。実母「大政所」や寧々、浅井三姉妹。女たちの豊臣家を描く。

岩波新書の「新書」とは何か。文庫本より大きくて、解説的な教養書を中心とした叢書という意味だろうか。命名者は竹久夢二の研究家でも知られる長田幹雄(1905-1997)である。昭和13年11月20日に「岩波新書」が創刊されたが、この年の1月に女優の岡田嘉子が新協劇団の演出家の杉本良吉と共に樺太国境を越え、ソ連に亡命したことが話題となった。「岩波新書の新は新劇という言葉の連想から生れた」という説がある。新劇とは、新協劇団、新築地劇団、文学座である。新劇とは左翼的であったし、革新的な意味合いで「新書」という命名を好んだのであろう、と推測している。

ところで岩波新書には、赤版、青版、黄版、新赤版の4種類がある。新赤版が一番点数が多くて現在、1336点刊行されている。新赤版の名著といわれるものを若干、列挙してみる。

日本社会の歴史 網野善彦
日本語練習帳 大野晋
日本の経済格差 橘木俊詔
コンクリートが危ない 小林一輔
市民科学者として生きる 高木仁三郎
ボランティア もうひとつの情報社会(235) 金子郁容
地球環境報告(33) 石弘之
インターネット(416) 村井純
イスラームの日常世界(154) 片倉もとこ
大往生(329) 永六輔
新しい文学のために(1)  大江健三郎
日本語(1)(2)  金田一春彦
新哲学入門(5)  廣松渉
原発はなぜ危険か(102)  田中三彦
ハイデガーの思想(268)  木田元

ピザの日

   本日は「ピザの日」。 ピザの原型であるピッツァ・マルゲリータ誕生に関係した、イタリア王ウンベルト1世の妃マルゲリータ・ディ・サヴォイア・ジェノヴァ(1851-1926)の誕生日に因んでいる。ウンベルトは国民の人気が高かったが1898年に暗殺された。マルゲリータ王妃が、「バジリコの緑、モッツァレラチーズの白、トマトソースの赤がまるでイタリアの国旗を表しているようだ」と気に入り、自らの名を冠したと言われる。ピザの起源はそれより1世紀前のことで、18世紀スペイン領のナポリの貧しい住民がトマトとチーズをパンに乗せる具として食べたのが始まりと言われる。日本でピザが紹介されたのは昭和30年ころ。一般に普及しだしたのは東京オリンピックを契機として高度成長期で、はじめは「ピザパイ」とか「ピッツァ」と呼ばれていた。(11月20日、Margherita,pizza)

 

 

リムスキー・コルサコフ夫人の肖像

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    フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター(1805-1873)の作品に「リムスキー・コルサコフ夫人の肖像」(1864)というロシア上流貴婦人を描いた名画がオルセー美術館にある。日本人からの観光客が見て誰もが驚く。女優の名取裕子に激似なのだ。リムスキー・コルサコフはロシア五人組の作曲家とは別人である。ロシアの名取裕子Madame Barbe(1833-1878)は、このとき 31歳で、45歳で亡くなっている。

赤壁の戦いはどこまでが史実か

    建安13年のこの日、曹操軍が揚子江の赤壁で孫権・劉備の連合軍と交戦して敗れた。「三国志」に記される赤壁の戦いは中国戦史上、最も有名な戦役のひとつであるがどこまでが史実なのか。この戦役の結果、魏、蜀、呉の国が天下を三分して鼎立するようになった。

 赤壁の戦いを遡ること8年前、曹操は袁紹を白馬、官渡の戦いで撃破し、転戦ののち、ほぼ華北を手中におさめた。あとは江東の孫権、荊州の劉備・劉表を打ち破れば、積年の念願であった天下統一も夢ではない。孫堅は劉表と戦ってすでに敗死しており、その子の孫策は江東を平定したが暗殺され、江南の勢力は弟の孫権にゆだねられることになった。袁紹に味方して敗れた劉備は、南の荊州にのがれ、軍師の諸葛亮を得て自立の機会をねらっていた。建安13年秋、曹操は20万の大軍を率いて南下を開始し、荊州の劉琮を降した。これに対して孫権と劉備は同盟を結んで曹操と対決することにし、周瑜を総司令官に任命した。周瑜は、3万の水軍を率いて赤壁で、曹操の水軍に火攻めをかけ、一戦にして打ち破った。この有名な三国志の物語をアジアの人気俳優が競演するというジョン・ウー監督の映画「レッド・クリフ」が話題となった。魏の船団は、船と船を鉄のくさりで連結しているので、降伏を装って呉将黄蓋軍が火船を衝突させるという火計を企てる。ところが、真冬のため、東の風が吹かない。諸葛孔明は高台を築き風を祭って、東風をよび、火は風にあおられて曹操軍は敗走する。後世、この崖が火で赤くそまったため、赤壁という名がつけられたという。だがこういった話は14世紀の終わりころ羅貫中によってまとめられた「三国志演技」など、ほとんど後世のつくり話で、史実は映画のようなものではない。曹操の陣営に疫病がはやったため、自ら軍船を焼いて北へ引き上げたという。その理由として①赤壁の戦いのあと、周瑜の地位は上がらず、加封もされていない②孔明の「後出師の表」の中で、過去に曹操が喫した敗戦を数々上げているが、その中に赤壁の戦いが出てこない③「資治通鑑」には「赤壁の戦いの1年後に、曹操が周瑜に投降するように認めさせた」との記載がある、などの理由から曹操は赤壁の戦いで敗れたのではないと考えられる。華蓉道で敗走した曹操を関羽が情けをかけて見逃したという話も創作であろう。(11月20日)

2025年11月19日 (水)

月月火水木金金

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    伊集院五郎(1852-1921)は、明治41年5月、海軍第1艦隊司令長官となる。同年10月、連合艦隊司令長官に兼補され、11月20日まで務めた。伊集院は海軍には日露戦争での大勝によって軍紀の弛緩を感じた。そのため、土曜と日曜の半休、全休を返上して、猛訓練を行なった。この時の猛訓練を評して「月月火水木金金」という言葉が生まれた。海軍には休日なしという意味である。

 

    一般によく知られている軍歌「月月火水木金金」(作詞・高橋俊策、作曲・江口夜詩)は昭和10年のもので、休日返上で訓練や仕事に励むという標語として太平洋戦争に向けて定着していった。

 

 朝だ 夜明けだ 潮の息吹

 

 ぐんと吸い込む 銅色の

 

 海の男の 艦隊勤務

 

 月月火水木金金

 

 

 

 

推しの殺人

 10月ドラマ「推しの殺人」。大阪で活動する地下アイドル「ベイビー☆スターライト」。事務所社長を殺害し、殺人を隠蔽する。イズミが妊娠。ルイとテルマは二人体制でアイドルを続行。イズミは無事に出産するが、脅迫状が送られてくる。彼女たちを待ち受ける運命は、栄光か破滅か。田辺桃子、横田真悠、林芽亜里。三人の年齢差が妙に面白い。

 

始皇帝、出生の謎

  始皇帝の母の名前は史書には記されず本名は不明であるが、出身国の趙の女性を意味する「趙姫(ちょうき)」と表現されることがある。戦国の末、趙の都邯鄲に商用に出かけた韓の陽翟の豪商呂不韋は、偶然、秦の太子安国君の庶子の子楚が人質としてこの都に住んでいることを知った。その時、この商人は「この奇貨居くべし」(これはすばらしい掘り出し物だ。買っておこう)と口走った。すぐさま子楚に秦の太子になれる希望を抱かせ、ついで、その財力によって、ついにほんとうにこの一介の庶子を太子とすることに成功した。そして彼は、自分の子のみごもっていた朱姫を子楚にとつがせた。その生まれた子が後の始皇帝(前260-前210)である。かくして呂不韋の野望はみごとに達成された。しかし、この有名な「史記」の記述にある「始皇帝は呂不韋の子」という説は、郭沫若以来、近年の研究では否定される傾向にある。理由は司馬遷が始皇帝を貶めるために、虚構したというのである。(渡邊義浩『中国はいかにして統一されたか』12p NHK出版)

   始皇帝の母の実名は「史記」に記されていないが、後の小説類では趙姫、あるいは朱氏となっている。駒田信二は「朱姫」と呼んでいる。朱姫は歌と舞にかけては邯鄲の妓女たちの中でその右に出る者はないといわれている美女であった。しかし、後世の小説家たちは彼女を男と共謀し秦への反乱を企てた淫婦とみなしている。

   前249年、子楚は荘襄王となる。前247年、荘襄王死す。政(のちの始皇帝)秦王に即位する。まだ13歳だった。前238年、朱太后の乱行が暴露され、嫪毒の一族は皆殺しとなる。朱太后は萯陽宮(ぶようきゅう)という小さな離宮に移した。翌年、呂不韋は罷免され、2年後自殺する。朱太后はそれから7年後、前228年、50歳で死ぬ。萯陽宮に移されてから死ぬまでの10年間、かわるがわる男を引き入れて倦むことを知らなかったという。秦王政、のちの始皇帝は、父なる王は実の父ならず、実の父は死に追いやった。その母は淫乱に明けくれ、その同母の弟たちは殺さねばならなかった。秦王政は、孤独な生い立ちであった。近年、韓国ドラマ「コウラン伝 始皇帝の母」(原題「皓鑭伝 Beauty Hao Lan 2019年)がNHKで放送される。ウー・ジンイエンがヒロイン「李皓鑭」を演じる。(参考:駒田信二「世界の悪女たち」)

水洗トイレの話

Kani_img_01     本日は「世界トイレの日」。2001年にジャック・シムが設立したWTOが制定した。toiletは「便器」そのものを指し、いちばん直接的。ふつう、家庭内ではbathroom(浴室)、ホテルやレストラン、学校などではrest roomという。飛行機内の表示は主にlavatoryである。

 2010年のヒット曲「トイレの神様」。近代流行歌100年の歴史を振り返っても、トイレ、便所、うんこ・糞尿を歌った楽曲は少ない。「汚穢屋の恋歌」「いぼ痔のバラード」なんて無いよね。な~んでか?それは「トイレの神様」の歌を聴いても多くの人が水洗トイレをイメージするようになったからだ。一部のお年寄りはまだ溜め置き式、汲み取り式を想像する。溜め置き式が一般的で長く続いたのは農業の肥料としてリサイクルしていたことと関係する。水洗化が普及したのは昭和40年代だが遅いところは昭和50年代半ばになっても水洗化していない地域が都市部でもあった。屎尿を肥料としていたころは、回虫の寄生率は高かった。昭和30年代、毎年、小学校では肛門にシールを貼ってぎょう虫検査を行う。半数以上の子どもが回虫をもっていた。立小便はするし、野原で脱糞する女子もいた。昭和でもそんなだから幕末江戸期や明治期はどうだろう。これが意外にも清潔だったらしい。外国人の記録では当時のパリやロンドンでは悪臭が漂うほど路上に汚物があったが、日本は「一滴のこらず」都市の外に出されて、肥料となるというリサイクルシステムが確立されていた。都市に汲み取り人が屎尿を買い取りに来る。だが都市衛生が優れていたということではない。江戸の長屋は共同便所だが、尿は下水に放たれ、川にそのまま流れていた。立小便は当たり前だった。「トイレの神様」では亡くなったお祖母ちゃんを思い出して感動するだろうが、実は影で苦労した汚穢屋さんや下水道整備事業と屎尿処理技術の発達、すなわち地方自治体の半世紀にわたる努力の賜物と考えている。(11月10日,11月19日)

2025年11月18日 (火)

中国の新石器時代

中国における農耕と定住のはじまり

原中国人 長い旧石器時代を終わって、黄河中流域の黄土台地に新石器文化が生まれた。文化の担い手は現在の中国人の直接の祖先で原中国人とよばれる。すでにオリエントでは前7000年に新石器時代がはじまっている。では、中国で新石器時代がはじまるのは、いつごろのことであろうか。陝西省西安に近い半坡村という遺跡で出土された遺品を放射性炭素による年代測定をすると、前3955±105年、という結果が出ている。

仰韶文化 彩文土器を用いたところから彩陶文化、あるいは河南省にある代表的遺跡の名をとって、仰韶(ヤンシャオ)文化ともいう。磨製石器、土器の製作、アワ・キビの栽培、犬・豚の飼育、竪穴式住居で生活し、定住村落を形成。前5000年から前4000年ころ。

 

龍山文化 黒色磨研土器がさかんにつくられたことから黒陶文化、あるいは山東省にある代表的遺跡の名をとって龍山(ロンシャン)文化という。三本の足をもつ三足土器がつくられ、後代の鬲、鼎の起原となっている。前2000年から前1500年ころ。

 

各地の文化 中原地域以外にも新石器時代の古代文化が各地に存在した。浙江省の河娒渡(かぼと)遺跡からは稲作農耕や高床式建築技術をもち、独自の高い文化がみられる。大渓文化、屈家嶺文化、良渚文化、三星堆文化。

やがて二里頭文化が周辺の地の文化を吸収しつつ、最初の中国王朝になったか?

大人のための知的雑学

Watteaupierrot  「 サンドイッチ」がイギリスのサンドイッチ伯ジョン・モンタギューに由来しているのは有名な話であるが、既に存在する事物の名に因んで二次的に命名された言葉のことをエポニムという。たとえば、X線を用いて胸部などの透視撮影をするが、これを「レントゲン写真」ともいうのはドイツの物理学者ウィルへルム・レントゲンに因むからである。このような人名エポニムの例は多い。相手に苦痛を与えて満足を得ることをサディズムというが、その語源はマルキ・ド・サド(サド侯爵)の言行に由来するものである。

   1928年11月18日、ニューヨークで熊のぬいぐるみ「テディベア」が発売された。その名前はセオドア・ルーズベルト大統領に由来している。珈琲ブールマウンテンはジャマイカの山の名前。長ズボンを意味するパンタロンは、16世紀中期イタリアの道化師が穿いていたパンタローネ(画像)に由来する。たばこのニコチンはフランスの外交官ジャン・ニコに由来する。

 このほかアトウォーター係数、ギロチン、カーディガン、ピッツァ・マルゲリータ、ブーゲンビリア、コンテ、コルト45、シルエット、ハリー彗星、ハッブル望遠鏡、ツベルクリン反応、バウヒン弁、イナバウアー、ブルマ、エッフェル塔、ゲリマンダー、モールス信号、ロールシャッハ検査、ブラウン管、ドップラー効果、ラマン効果、ランドルト環、ボイコット、ディーゼル機関、ラッダイツ運動、リンチ、フンボルト海流、ナウマン象,ドルビーサラウンド、ラマーズ法、ベクレル、バドミントン、イナ・バウアー、チンダル現象、リーゼガング現象、ラムズデン現象、バセドウ病、スティーブンス・ジョンソン症候群、メニエール病、クロイツフェルト・ヤコブ病、パーキンソン病、ドップラー効果、フレミングの法則、ピタゴラスの定理、モホロヴィチィチ連続面、リケッチア、マゾヒズム、伊達巻(伊達政宗)、金時豆(坂田金時)、隠元豆、市松模様、ハヤシライス(早矢仕有的)など人名に由来する語が多い。古今東西のさまざまな人物が事物にその名を残すにいたったいきさつを調べることは雑学研究の王道である。( 11月18日;pantaloon,pantalon,Jean Nicot(1530-1600),nicotine,Theodore Roosevelt,Edmund Halley,Eiffel,Teddy Bear,Samuel Morse,Amelia Jenks Bloomer,bloomers,Humboldt,Lamaze,eponym )

2025年11月17日 (月)

将棋の日

Photo_6   本日は「将棋の日」。将棋好きの徳川吉宗が、この日を「お将棋の日」として、年に1回の御前対局を制度化したことに因む。将棋の起源は、前300年頃の古代インドにあった4人制のサイコロ将棋「チャトランガ」といわれている。これがインドから各地に広がり、さまざまな類似遊戯に発達した。ペルシャを経て西に伝わったのがヨーロッパでお馴染みのチェス、東に伝わったのが中国の象棋(シャンチー)、朝鮮のチャンギー。日本への伝来は、奈良時代の遣唐使・吉備真備が中国から儒学やあらゆる先端技術を持ち帰ったが将棋も含まれていたといわれる。一説では「駒の種類やルール」の類似性から、タイの「マークルック」がそのルーツではないかとも言われている。ただし取った駒を再使用するルール「持ち駒」は日本将棋だけである。2010年には出雲市高浜遺跡から将棋盤(部分)と駒2枚が出土している。15世紀から16世紀初期のもの。

 

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   日本の将棋の原型は室町時代末には成立していた。新奇好きの織田信長は「将棋は戦陣をかたどったもので、武人のたしなみ。よろしく修養せよ」と奨励し、将棋の流行に火をつけた。大橋宗桂(1555-1634)は、信長・秀吉・家康三代に仕え、囲碁の本因坊算砂と度々将棋を披露している。(11月17日)

 

 

 

2025年11月16日 (日)

現代かなづかい

 昭和戦前期まで、「てふてふ」と書いて、「ちょうちょう」と発音するなど、表記と音声に乖離があり、混乱を生んでいました。1946年のこの日、「現代かなづかいの実施」が告示、訓令された。同年11月26日、大阪朝日新聞が「現代かなづかい」による紙面作りを始める。1986年7月「現代仮名遣い」が内閣告示される。

   とくに「ぢ」「づ」の用法は注意すべきである。

「ぢ」 はなぢ(鼻血)いれぢえ(入れ知恵)  間近(まぢか) そこぢから(底力)

「づ」 はこづめ(箱詰)つづく(続く)

「ず」 きずな(絆) ゆうずう(融通) 

(11月16日)

 

2025年11月15日 (土)

龍馬暗殺の謎

    慶応3年11月15日、龍馬は京都近江屋で中岡慎太郎と共に何者かに暗殺された。暗殺グループは京都見廻組という説が有力である。見廻組は佐々木只三郎(1833-1868)を与頭とし、渡辺吉太郎、高橋安三郎、桂早之助、土肥仲茂、桜井大三郎、今井信郎らが暗殺に関与していたとされる。近年、龍馬を斬ったとされる小太刀が発見された。刀の持ち主は見廻組の一人である桂早之助である。つまり佐々木只三郎の指揮のもと桂早之助が龍馬を斬ったのだ。だが佐々木も桂も翌年の鳥羽伏見の戦であっけなく戦死したので、事件の詮議はされなかった。新史料の小太刀の鑑定については未だ謎が残る。只三郎は明治20年まで生きていたという異説もある(「会津剣道誌」1967年)。ネット上では佐々木只三郎の晩年の写真を見ることができる。

   だが龍馬の暗殺犯を当時海援隊は紀州藩の三浦休太郎と見ていた。海援隊士は三浦の常宿・天満屋を襲撃している。新選組が三浦を護衛したので逃げのびた。やはり龍馬暗殺に新選組が関与していたという説も捨てきれない。新選組の前野五郎(1845-1892)は三浦休太郎と親しく、天満屋事件のときも同席している。前野には実に不審な行動が多い。佐幕と尊皇を渡り歩いている。鳥羽伏見の戦で敗走した前野は甲州勝沼に参戦。その後、永倉新八をたよって靖兵隊へ入隊し東北各地を転戦した。のち薩摩に従軍の加納道之助に投降、ここで薩摩軍に加えられたという。加納は新選組から離脱し高台寺党を結成し、のち薩摩軍に加わった。おそらく前野とは新選組時代からの仲間だったであろう。前野が龍馬暗殺犯だったと知った薩摩の桐野らは近江屋事件を不問にしたと考えられる。明治になって前野は札幌の薄野で妓楼を経営して財産を築いた。その私財を投じて、岡本監輔の千島開発に出資し、自ら択捉島へ渡った。明治25年4月19日、沙那郡磯谷山中に狩猟中、磯谷川に架かる丸太橋から転落、渓流に押し流されるうちに、猟銃が暴発、弾丸が喉から頭を貫いて即死した。そして近江屋事件は迷宮入りとなった。

七五三

7m2   毎年11月15日に、3歳・7歳の女児と5歳の男児を、お宮詣りに連れていく慣習を七五三という。天和元年(1681年)11月15日に徳川綱吉が長男徳松(1679-1683)の健康を祈って始まったとされる。しかし徳松は3年後、5歳で夭折した。やがて武家社会の習俗として広まり、5歳の男児の祝いを「袴着」、7歳の女児の祝いを「帯解き」といっていたものが、明治以後一般化した。しかし、子供の成長段階のある時期に厄払いする習慣はかなり古くからあり、地方によっては男女3歳のときに「髪置きの祝い」と称して、身分を問わず頂髪を置く習慣があり、7歳の女児は「おびとき」「おびむすび」の祝いといい、部落の祭礼の日を選んでお宮詣りする風習もあったという。いずれにせよ、子供の死亡率の高かった昔は、3、4歳のころはじめて人別帳や氏子帳に登録をしたり、7歳前の子供の死亡は本葬を行わないという習わしもあったほどであるから、子供が3・5・7歳という幼児期の節目を無事に通過して成長したことを感謝し、将来の健康を祈ったということはうなずけることである。なお11月15日は霜月祭(氏神祭)に当たる。

 

 

2025年11月14日 (金)

後三年の役終わる(1087年)

 前九年の役で奥州地方を制覇した清原武則の子武貞の没後、真衡と家衡・清衡の間で紛争があり、真衡の死後には家衡と清衡が争った。この頃、陸奥守として源義家が入国して両者の調停をはかったが失敗し、清衡の請に応じてこれをたすけ、家衡と対抗した。戦役は、1087年11月14日、清衡方の勝利に終わった。清原一族は全滅した。この役の後、源氏は東国に勢力を確立した。

 

2025年11月13日 (木)

ポッキー&プリッツの日

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    江崎グリコが1966年から発売しているポッキーのCMといえば、山口百恵や松田聖子、岡田有希子というその時代を象徴するトップアイドルが起用されている。なかでも新垣結衣は軽妙なダンスが話題を呼び、現在につながる不動の人気女優となつた。現在はポッキープリンセスとして有村架純が起用されている。では初代は誰か?というと、初代・鎌田由紀子、2代目・渡辺直子、3代目・小林麻美、4代目・森和代、5代目・梅田智子、6代目・島田陽子、7代目・坂口良子、8代目・青柳雅子、9代目・木之内みどり、10代目・岡田奈々、と続くが以下省略する。つまり4から8代目までは、東宝に所属する売り出し中の青春スターだったが、9代目以降アイドル歌手に変更していった感じだ。江崎グリコの宣伝部も初めは芸能業界のことがわからず、適当な女優でCMを任せていたようだ。では、女優・鎌田由紀子とはどんな経歴で、どのような映画、ドラマに出演したことがあるのか?ケペルが調査したが不明だった。ただアサヒ芸能の表紙(昭和42年5月14日号)で顔だけは明らかとなった。当時のアサヒ芸能は女優を表紙にしていることは多いがやはりだいたいセクシー系だと思われる。いつも初代ポッキープリンセスとしてその名を歴史にとどめる鎌田由紀子の実体は謎のベールに包まれている。(11月11日)

 

 

2025年11月12日 (水)

応仁の乱(1467年)

 応仁元年(1467年)から文明8年の11年間にわたり、関東以東および南九州を除く諸国の大小名が、細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)とに分かれ、京都を主戦場として戦った大乱。原因は室町将軍義政は奢侈を好み、政治は夫人の日野富子やその閥族、政所執事の伊勢貞親や禅僧李瓊真蘂らの寵権臣のなすがままに動かされていた。義政は管領の斯波、畠山両氏や大名家の家督相続争いの裁許にも厳正を欠き、ために領国内両分の武力抗争にまで発展していった。政治紊乱に乗じて土一揆が類発し、おりから連年の旱水害で続出した難民が京都に流入するなど、社会不安も増大して京畿は戦雲におおわれた。始まりは、応仁元年1月18日、畠山義就が京都・上御霊社の畠山政長を襲い、応仁の乱が始まった。6月になると、戦火はさらに拡大し、京都の都は3万余戸が焼亡した。その後、将軍家に継嗣問題がおこり、細川、山名をそれぞれ盟主とする両党が形成されて中央決戦となった。勝元は宗全追討を将軍義政に強請し、応仁2年6月8日に足利義視を総大将とする追討軍を編成したが、山名方も畠山義就軍が到来し、8月には長門の大内政弘の大軍が入京したので勢いづいた。ここで勝元は後土御門天皇、後花岡上皇を迎えたが、義政が伊勢貞親を召したのに動揺した義視が出奔してしまった。かくて9月から山名方の将軍家奪還の戦いとな、10月に相国寺の激戦がおこった。これが互角に終わり、応仁の乱は長期戦化する。文明5年、持豊、勝元の東西両軍の将の相次いで死去するに及んで京都の戦火は下火となり、斯波義廉がまず領国に帰ったのをきっかけとして、諸守護大名は単独にに講和して帰国するものも現れた。文明8年11月12日(あるいは11日)、大内政弘が義政に懐柔されて右京太夫に任ぜられ所領を安堵されて帰国し、足利義視と畠山義就はそれぞれ京都を離れるにおよんで中央の戦争は終幕を告げた。大内が帰国した日を終結したとすれば、11月11日(新暦12月16日)であるが、なし崩し的になしくずし的に収まったので終りの日がはっきりしない。この乱の結果、室町幕府は完全に無力を暴露し、もはや全国的政権の実を失うことになる。また多くの守護大名たちも下剋上の風潮をともないつつ戦国の争乱の中で滅んでいった。

 

 

 

 

 

坂本龍馬と沖田総司もし戦わば

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 本日のBSプレミアムは映画「幕末純情伝」。沖田総司は女だったという設定で、沖田を巡って坂本龍馬と土方歳三の三角関係を描く歴史コメディ。坂本龍馬と沖田総司が剣で戦わばどちらが強かったか?などと想像しても無意味なことかもしれないが、二人は相当な剣の達人であったということは間違いない。龍馬は北辰一刀流、沖田総司は天然理心流。龍馬が学んだ北辰一刀流は江戸三大道場の一つで、千葉周作の神田お玉ヶ池道場玄武館には門人3千人といわれ、現代剣道に及ぼした影響は大きい。幕末の剣客としては、清河八郎、海保帆平、塚田孔平、大羽藤蔵、藤堂平助、山南敬助、伊藤甲子太郎、服部武雄などがいる。一方の天然理心流は開祖は近藤内蔵助で、武州多摩に広まった農民剣法。木刀による形稽古が中心。近藤勇、土方歳三らがいる。これだけみたのでは明らかに北辰一刀流のほうが勝るように思える。ちなみに年は龍馬は近藤の一つ下で土方と同年である。しかし沖田の剣の実力は近藤、土方よりも上であるという証言が残っている。沖田には「三段突き」という得意技があった。突く、引く、また突く、という三挙動を一調子でおこなう手練の早業である。「敵を刀で斬るな、からだで斬れ」と常に教えられ、よく真剣の呼吸を体得していた。つまり道場試合では北辰一刀流が勝るものの、激剣となると勝敗はわからない。ただし、ひとつ判断材料がある。慶応3年11月18日、高台寺党の伊東甲子太郎、服部武雄ら北辰一刀流の使い手たちが新撰組によってたちどころに斬殺されている。暗殺された場所をとって「三条油小路の血闘」といわれる。龍馬が近江屋で暗殺されたわずか3日後のことである。伊東の殺害者は大石鍬次郎。大石は武州日野の佐藤彦五郎の道場で剣術を磨いた居合い抜きの名人である。やはり史上最強の暗殺集団・新撰組の暗殺剣は北辰一刀流の道場剣法を相手にしない凄まじさがあった。小島鹿之助は「此人(沖田総司のこと)剣術者晩年必名人に可至人也、故ニ我等深心配いたす」と近藤勇が語ったことを日記に残している。近藤は自分に万一のことがあった場合は沖田に天然理心流の道統を継がせる腹であったといわれる。

2025年11月11日 (火)

黒浜貝塚(「ク」 事項索引)

  「クコ」東アジア原産のナス科の落葉低木。枸杞。赤い実は漢方として、古来より不老長寿の薬として食べられている。▽「クチクラ」生物の体のいちばん外側をおおう部分。▽「クシュ王国」紀元前10世紀から紀元後4世紀、ナイル川上流に存在した最古の黒人王国。メロエを中心にさかえた。▽「国友村」近江国坂田郡の地名で、現在の滋賀県長浜市国友町。戦国時代から江戸末期まで、鉄砲の生産地として栄えた。▽「グラミー賞」アメリカ音楽界最大の賞で、1959年から始まり、今年で第58回を迎えた。第1回の最優秀レコード賞はドメニコ・モドゥーニョ「ボラーレ」だった。58回目の最優秀レコード賞はマーク・ロンソン ft.ブルーノ・マーズのUptown Fnukが受賞した。ほかにテイラー・スウィフトが3冠を達成。▽「恭仁京」奈良時代、聖武天皇のとき一時期、都を置いたとされる。現在の京都府木津川市加茂地区。▽「クナシリ・メナシの戦い」1789年に東蝦夷地で起きたアイヌと和人の衝突。▽「クノッソス」1900年イギリスの考古学者エヴァンズによってクレタ島のクノッソス宮殿発掘される。▽「グルムキー文字」パンジャーブ語で使用されるインドの表音文字の一種。▽「グレーサー病」ブタの感染症。▽「クロール」1873年にイギリスのジョン・アーサー・トラジオンが南米に旅行した際に見た原住民の泳ぎをヒントに考案した。▽「軍機処」清の雍正帝がジュンガル征伐に際し、1729年に軍事機密の漏洩を防ぐ目的で内閣の分局として設置した。▽「クンデラ、ミラン」チェコ生まれのフランスの作家。代表作「冗談」「存在の耐えられない軽さ」「不滅」。(くくくく)

グアダラハラ爆発事故
グアダルーぺ・イダルゴ条約
グアテマラ
グアナファト(メキシコ)
クアハウス
グアム島
クアラルンプール(マレーシア)
グアンタナモ海軍基地
クイズ
グイドの手
クイビシェフ発電所(ロシア)
クウェート
空海
偶像崇拝
空中庭園
クエーカー
クエッケンシュテット試験
クエン酸
愚管抄
公卿補任
クコ
草加次郎事件
草津温泉(群馬県草津町)
草間彌生
楔形文字
草津(群馬県)
クシャトリア
九十九里浜(千葉県)
クシュ王国
釧路(北海道)
クシャン王朝
瞿秋白
愚神礼賛
葛生(群馬)
グスク
クスコ(ペルー)
楠木正成
クズネック(ロシア)
九頭竜川(福井県)
クセノフォン
グダニスク(ポーランド)
百済
駆逐艦
クチクラ
口永良部(くちのえらぶ)島
沓掛城(豊明市)
屈家嶺文化
クック
グッゲンハイム美術館
屈折望遠鏡
グッドマンの法則
グーツヘルシャフト
クディリ王朝
グーテンベルク
グーテンベルグ不連続面
宮内庁
狗奴国
クナシリ・メナシの蜂起
国木田独歩
恭仁京
国定忠治
国友村
クネルスドルフの戦い(1759年)
久能山(静岡県)
グノシエンヌ(サティ作曲)
クノッソス
クーパー,ゲーリー
首かけイチョウ(東京都千代田区)
クフ王
グプタ朝
久保山愛吉(第5福竜丸)
球磨川
熊野(和歌山県)
熊本
クメール人
クメール文字
倉敷
クラーク
クラウディオの神殿(ローマ)
グラスゴー(イギリス)
倉田百三
グラーツ(オーストリア)
クラックス兄弟
グラッドストン
クラテル(ギリシア陶器)
グラナダ(スペイン)
グラマー
グラミー賞
グランチャコ
グリコ・森永事件
クリコボの戦い
クリスマス
クリスマス病
グリセロールホスフェートアシルトランスフェラーゼ
クリッペル・ファイル症候群
クリシュナ川(インド)
クーリッジ効果
グリニッジ天文台
グリニッジ・ヴィレッジ
クリボイログ鉄山(ロシア)
クリミア戦争
クリミヤ暴風雨(1854年)
グリム兄弟
クリュタイムネストラ
クリルタイ
グルコース
グルジア
クルスクの戦い
クルタナガラ
くる病
くるみ割り人形
グルムキー文字
久留米(福岡県)
呉(広島県)
クレオパトラ
グレゴリオ暦
グレゴリオ聖歌
グレーサー病
クレシ―の戦い(1346年)
グレシャムの法則
クレタ島
クレッチマーの体格性格論
クレブス・マルチウス回路
クレマチス
クレムリン
クレモニデア戦争(前266-前262)
クレルモン公会議
グレンコーの虐殺(1692年)
グレンジャー運動
クロアチア
クロイツェル・ソナタ
黒い花びら
黒澤明
クロスビー,ビング
黒住教
クロスワード・パズル
黒田官兵衛
黒田清輝
クローヴィス文化
グロチウス
黒蜥蜴(江戸川乱歩)
黒羽藩(栃木県大田原市)
黒船
黒部ダム
グロズヌイ
クロタール1世
クロタール2世
グローテボール
黒浜貝塚(蓮田市)
クロポトキン
グローマー・チャレンジャー号
クロマニヨン人
クロムウェル
クロール
クローン
クロンシュタットの反乱(1921年)
クロンターフの戦い
クロンプトン
クーロンの法則
桑木厳翼
桑名(三重県)
軍艦島(端島)
軍機処
郡県制
郡国制
君主論
群書類聚
軍忠状
クンデラ
クントの実験
軍閥
群馬
訓民正音(フンミンジョンウム)
君臨すれども統治せず

 

 

 

サッカーの起源

Ancientsoccer   野球、サッカー、テニス、バスケットボール、ラグビー、相撲など世の中には様々なスポーツ・競技があるけれど、その起源を調べることは楽しい。バスケットボールのように(1891年にジェームズ・ネイスミスが考案)起源が明確なスポーツもあるが、サッカーのように、人類としての歴史が始まった頃からのある種のフットボールを行っていたと思われる遊戯もある。

 

    サッカーが11人対11人で行うスポーツであることから、11月11日を「サッカーの日」と制定されている。

 

    ところで今日アメリカではサッカー、イギリスではフットボールという。soccerという名は association の soc に -er を加えて簡単にしたものであるが、イギリスでは11世紀のはじめごろからフットボールが行われていたが、規則がまちまちで、2種類のフットボール、つまり Rugby footbal  と associastion football に区別された。

 

Greeksoccerhistory    足でボールを蹴る遊戯は、古代エジプト、古代ギリシア(ペニタ、エピスキロスと呼ばれる)、古代ローマ(パルパツウムと呼ばれる)などのレリーフが残されている。

 

   1個のボールを相手陣営のゴールに入れることで勝敗を決するというルールはヨーロッパが起源であろう。現在のゴールは城門を意味していた。14世紀のイギリスでは街中で乱暴なサッカーが氾濫し、王によって禁止令が出されたこともある。15世紀のイタリアではイギリスのフットボールによく似た「カルチョ」が生まれ、宮廷の門の前で数十人がボールを蹴り合い賞金をかけたゲームが流行した。

 

814ancientchinesesoccer1   このようにサッカー発祥の地は自国であると主張する国が多いが、FIFAでは最も古い形態のサッカーとして中国の「蹴鞠」を認めている。「蹴鞠」という遊戯は前漢の書物「戦国策」に記されている。

2025年11月10日 (月)

無人島に本を一冊だけ持ってゆくなら

Img_0005_2     無人島に本を一冊だけ持ってゆけるとすればどの本をあなたは選びますか?という質問にあなたは、どう答えるだろうか。わたしならダンテの「神曲」とか中原中也の詩集だとか、「万葉集」とか「古今集」とか「唐詩選」と、いろいろな書名が考えられ、あれこれと迷ってしまうが、やはり「歎異抄」だろうか。。イギリスの推理小説家チェスタトンの「造船術の本」というユーモラスな回答もよく知られている。だがやはり欧米人には聖書と答える人が圧倒的に多い。このことを最初に明言した人はだれだろう。明治期にドイツ系ロシア人の哲学者で東大で教鞭をとり、学生の人気を集めたラファエル・フォン・ケーベル(画像1848-1923)らしい。彼は「ケーベル博士随筆集」のなかで「無人島に1年間流されるとしたら、自分が選んでもってゆく一冊は、まず聖書である」と述べている。かれは次に、「ファウスト」「ホメロス」「ドン・キホーテ」、ニーチェのもの、ベートーベンの楽譜などをもって行きたいと書いている。しかし有名なデフォーの「ロビンソン・クルーソー」(1719)のなかで絶海の孤島に流れついた主人公が「聖書」を読んで信仰の支えにしたことを書いている。ケーベル博士のように、物静かに哲学に生きていきたい。(Raphael Koeber)

 

 

 

 

 

 

エレベーターの日

    1891年のこの日、浅草凌雲閣に日本初の電動式エレベーターが設置されたことを記念して制定した。電動式であったが、使い物にならずわずか1年で取り払われた。

  手動式エレベーターの歴史は古く、紀元前3世紀末のアレキサンドリアに始まる。アルキメデスが人力による巻き揚げ式のエレベーターを考案したといわれる。これを実用化したのがローマ皇帝ネロだった。コロッセオにはロープと滑車を利用して、奴隷たちが力をあわせてロープを引っ張ると、ゴンドラが上がって剣闘士が登場するという仕掛けである。

フランスのナポレオンは王妃が長いすそをひいて、階段を上るのが大変だろうと、椅子のケージをつけた簡易なリフトを製作させたといわれる。日本では徳川斉昭(1800-1860)が1842年、水戸に好文亭という図書館を建設したとき、本を運ぶためにロープを手繰ると昇り降りする小型リフトを設置した。以上は、いずれも手動式で、その後、水圧を利用するものや蒸気機関を応用したものが考えられ、1880年、ドイツのマンハイム博覧会で電動機を動力とする近代エレベーターがジーメンス・ハルスケ会社の発明品として初めて試運転された。1898年、アメリカのオーティス社がニューヨーク5番街33丁目のデマレスト・ビルに設置された。

    日本で最初にエレベーターを考案したのは水戸藩主、徳川斉昭で好文亭の配膳用として使用した。電動式では、1890年、浅草の凌雲閣(67m)の12階建てが最初であるが、本格的なエレベーターは1892年の帝国ホテルのものである。(Archimedes,11月10日)

 

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 好文亭のエレベーター

リヴィングストンのアフリカ探検

   ディヴィッド・リヴィングストン(1813-1873)は宣教師及び医師として最初中国に向うつもりであったが、1840年ロンドン伝道教会からアフリカ・ベチュアナランドにおもむくよう命ぜられた。さらに1849年この地を発した彼は北へカラハリ砂漠を縦断ヌガミ湖に達し、また1852年にはザンベジ川を中流からさかのぼりカタンガにおいてコンゴ川の支流カサイ川に達し大西洋岸に出た。さらに彼は同じ道を経てザンベジ上流におもむきヴィクトリア瀑布発見の後1856年5月インド洋岸に達し、史上最初のアフリカ大陸横断を達成した。1866年彼はニヤザ、タンガニーカを経て遂にコンゴ川上流のルアラバ川を発見しているが、これをナイル川の上流と見なしている。(のちスタンレーによってヴィクトリア湖がナイルの源流であるとほぼ確定された。その後の調査によると、ルヴィロンザ川やカゲラ川などが源流といわれる。)以後一時彼の消息は不明となるがその探索のため、1871年ニューヨーク・ヘラルド社からスタンレー(1841-1904)が派遣された。11月10日、彼はタンガニーカ湖畔のウジジで病めるひとりの白人の衰えた姿をみとめた。「リヴィングストン先生ではありませんか」スタンレーの感動にふるえる一声に、老人はうなずき、しっかりとスタンレーの手をにぎった。若きスタンレーとアフリカに一生をささげた老雄の劇的な出会いの一瞬であった。しかしその2年後の1873年5月、リヴィングストンは60年の波瀾の生涯をおえた。

2025年11月 9日 (日)

119番の日

    11月9日は、消防・救急のダイヤル119にちなみ「119番の日」。日本では警察への急報は110番、消防・救急は119番と区別しているが、海外では一本化している国が多い。アメリカの緊急電話番号 emergency numberは「911」。

因斯羅我(「イ」 事項索引)

Iigiri2[  い  ]

  「飯桐」イイギリ科の落葉高木。暖地の山地に自生。秋に南天に似た赤い実をつける。▽「イアリュソス」ロードス島にあったミケーネ時代の都市。▽「いいあ帖」綴込みの際に、折帖順を、誤って前後にしたものの称。▽「鋳掛屋の天秤棒」(鋳掛屋の天秤棒は普通のものより長いことから)でしゃばりな人、またさの行為をいうようになった。▽「イェニチェリ」オスマン・トルコ帝国の常備歩兵軍団。14世紀後半ムラト1世によって創設され、1430年頃までに制度的に完成された。帝国領内のキリスト教徒住民から強制徴収した年少者をイスラム教の戦士として訓練育成し、オスマン帝国の中核とした。身分的にはスルタンの奴隷であったが、大宰相をはじめ文武の高官が彼らの中から出た。1826年に廃止された。▽イカレポンチとは「いかれた男」の意味。獅子文六「自由学校」(1950)から流行語になった。▽「イカロス」は父が発明した翼をつけて空中高く飛んだため、翼が太陽熱で溶けて、イカリオス海に落ちて溺死した。▽「イー・クラートカェ」ロシア文字の名称。▽「いさば」魚を売買する店。「いさば屋」ともいう。魚市場や海産物を扱う商人をいうこともある。▽「イーストエンド」はロンドンの下町。貧民窟で有名。▽「イスファハーン」1579年サファヴー朝の都。▽「依存効果」消費者が企業の宣伝や広告に依存して消費活動を行うこと。▽「イップス」精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、突然自分の思い通りのプレーや意識が出来なくなる症状のこと。▽1933年、岩倉具視の孫娘「岩倉靖子」は日本共産党の活動に参加して検挙される。▽「イディシュ語」東欧のユダヤ人に用いられる言語。▽「イノセラムス」中生代を代表する化石で、絶滅した大型の二枚貝。▽「揖斐川」濃尾平野の水郷地帯を流れる一級河川で、木曽川、長良川、揖斐川を木曽三川と呼ぶ。▽「インキュナブラ(incunabula)15世紀ころ西欧で作られた最初の金属活字印刷物のこと。▽「イヒチオール」Ihthyol消炎・殺菌剤。▽「イルガ―トル」irrigator 輸血・膣洗浄・浣腸などに用いる医療器具。▽「五浦海岸」茨城県の那珂川河口付近にある美しい海岸。岡倉天心はこの五浦海岸を東洋的な風景ととらえ、1906年に日本美術院を東京からここに移し活動の拠点とした。▽「イスカリオテのユダ」イエスに選ばれた12人の弟子の1人。イエスを銀貨30枚で売ったことから、裏切り者の代名詞のような存在。十二使徒の会計係をしていた。後悔し、首を吊って自殺する。▽両側の表わすものが等しいという記号「=(等号、イコール)は1557年イギリスの数学者ロバート・レコード(1510-1558)によって考案された。ただし当初は「=」ではなく、「Z」のような形だった。あまり普及しなかったが、トマス・ハリエットが再び使用し、広まった。▽「医心方」30巻、平安時代の宮中医官・丹波康頼による日本最古の医学書。▽「イビサガール」NMB48の楽曲。イビサ島は地中海西部のスペインのバレアレス諸島にある島。▽「入江長八」江戸末期から明治初期の名工。鏝絵(こてえ)。▽「インケツ」最低最悪の絶望的な状態のこと、またはそんな状態を招く厄病神のようなヤツのこと。▽「一万円年金」1965年6月1日。厚生年金保険法が一部改正され、平均月収2万5000円で20年間の被保険者は老齢年金が月1万円となる。▽「インディギルカ号沈没」1939年旧ソ連貨客船インディギルカ号が北海道猿払村で座礁・沈没。(いいいい)


夷(い)
匜(い) 古代中国で水や酒を注ぐために使用された容器)
居合術
イアーゴ(「オセロ」に登場する悪人の副官)
イアコ川(Iaco ブラジル)
イアス(Iacu ブラジル)
イアリュソス
イアロス島(Yiaros ギリシャ)
慰安婦問題
イアンボス(古代ギリシャの古典詩に用いられた韻脚形式)
いいあ帖
飯岡助五郎
言い出しっ屁
イヴォルガ(ロシアにある匈奴の集落址 Ivolga)
イーヴァント,ハンス・ヨアヒム(ドイツの神学者)
イースター
イースター島(チリ)
イーストウッド,クリント(俳優)
イーストエンド(ロンドン)
イーストマン,ジョージ(写真技術者)
イーストレーキ,フレデリック(博言博士)
イーゼル
E.T.(スティーブン・スピルバーグの映画)
イーデン,ロバート(イギリスの政治家)
イートン校
イートン・ランバート症候群(筋無力症症候群)
飯岡(千葉県)
飯尾彦六左衛門尉(応仁の乱頃の京都の人)
飯篠長威斎(いいざさちょういさい)室町時代の刀槍術者
飯島魁(いいしまいさお) 寄生虫学者
飯島春敬
飯田(長野県)
飯田事件(1884年)
飯田橋事件
飯田蛇笏(俳人)
飯田忠彦(幕末の歴史家)
飯塚(福岡県)
飯塚琅玕斎(いいづかろうけんさい) 竹芸家
井伊直弼
飯沼正明(飛行士)
飯盛山(福岡県)
飯山(長野県)
伊井蓉峰(俳優)
イヴァン3世
イヴァン4世
イエイツ,フランセス
イエス・キリスト(Jesous Christos)
イエズス会
イェスペルセン,オットー(言語学者)
イエスの方舟
イェタン(韓国の結納)
イエーツ,ウィリアム・バトラー(詩人)
イエーツ,ピーター(映画監督)
家つきカーつきババア抜き
イェ―テボリ(スウェーデン)
イエップ,ローレンス
イエドヴァブネ事件
イエナ(ドイツ) Jena
イエナ・アウェルシュタットの戦い(1806年)
家永三郎
イェニチェリ(オスマン帝国の常備歩兵軍団)
イエメン
イェルマーク
イエローカード
イエローページ
イエローストーン公園
イエンセン,バージニア・アレン
イオウ
硫黄島
イオニア海
イオン交換樹脂
伊賀
威海衛
囲郭都市(いかくとし)
鋳掛屋の天秤棒
イカす
伊香保温泉(群馬県)
胃カメラ
怒りの葡萄(スタインベックの小説)
イカレポンチ
イカロス
壱岐島(長崎県)
イギリス
生きる(黒澤明の映画)
イグアス滝(ブラジル)
育英事業
イクター制(徴税権)
郁達夫
生田万の乱
イクチオステガ(古生物)
イグナティウス・ロヨラ
生野の変(但馬国生野で尊王攘夷派が挙兵)
イー・クラートカェ
イグルー(エスキモーの冬の住居)
幾世餅
池田市(大阪府)
池田小児童殺傷事件
池田大作
池田勇人
池田屋事件
池禅尼
生け花
イケメン
いこい(タバコ)
韋后
異国船打払令
イコール
イコン(icon 聖像画)
イサウリア朝
いざ鎌倉
イサク(Isaac イスラエル族長のひとり)
いざなぎ景気(1965年から70年にかけての好景気)
イザナギとイザナミ
いさば
諫早湾干拓
イサベル
イサム・ノグチ
イザヤ(Iaaich 旧約聖書の預言者)
胆沢城(いさわじょう)
石井茂吉
石井十次(キリスト教社会事業者)
石井・ランシング協定(1917年)
石垣島
イシガメ
石狩平野
石川五右衛門
石川啄木
イシス(エジプトの女神)
イシドルス偽文書
石の上にも三年
石破茂
石橋を叩いて渡る
石橋湛山
沙鉢略可汗(Ishbra)
いじめ
石山合戦
石山本願寺
イシュポシェテ(サウルの息子)
イシュマエル(アブラハムとハガルの間の息子)
衣食足りて礼節を知る
因斯羅我(いんしらが)
維新
以心伝心
医心方
伊豆
渭水
渭水の戦い
イスカのはし
イスカリオテのユダ
何処へ(正宗白鳥)
イースター島(チリ)
イスタンブール
イスパニア
イスファハン(イラン)
イズミル(トルコ)
出雲崎
出雲大社
イスラエル
イスラマバード(パキスタン)
イスラム教
イスンシン(李舜臣)
伊勢神宮
伊勢暴動(地租改正反対一揆 1876年12月)
伊勢物語
伊勢湾台風
礒女(いそおんな)
急がば回れ
イソクラテス
イソップ
磯のあわびの片思い
石上宅嗣
依存効果
イタイイタイ病訴訟
板垣退助
いたちごっこ
板付遺跡(福岡市)
韋駄天
イタビラ鉄山(ブラジル)
イタリア
イダルゴ
イタンキ浜事件
市川市(千葉県)
イチゴ
イチジク
一事不再理
市場
一億円拾得事件
一帯一路
一富士、二鷹、三茄子、四扇、五煙草、六座頭
一網打尽
一揆
一挙両得
一刻千金
一乗谷城
一姫二太郎
一里塚
イチロー
厳島
一級河川
一休宗純
一向宗
一神教
一票の格差
一万円年金
イッソスの戦い
五浦海岸
イデー(idee)
イデア論
イディシュ語
イデオロギー
いて座
囲田(いでん,宋代の田制)
緯度
糸魚川(新潟県)
伊藤若冲
伊藤博文
井戸尻遺蹟(長野県)
伊土戦争
イドメネオ(モーツァルト)
イトマン事件(1991年)
イドリーシー
イドリース朝(789ー926)
糸割符
猗頓(いとん)
因幡の白兎
稲むらの火
猪苗代湖(福島県)
稲荷
いなりずし
稲荷山古墳(埼玉県行田市)
イナンナ(Inanna メソポタミアの愛と豊穣の女神)
イニシアチブ
イヌイット
伊能忠敬

犬追物
犬養毅
犬上御田鍬
犬も歩けば棒にあたる
犬山市(愛知県)
イネス,ハモンド
井の頭公園
猪瀬直樹
イノセラムス
揖斐川
イビサ島
イヒチオール
イピランガの叫び
イプセン,ヘンリク
イブン・サウード
イブン・シーナー
イブン・バットゥーン
イブン・ハルドゥーン
イブン・ルシュド
イベリア半島
イ―ペルの戦い
異邦人
違星北斗
今川義元
今出川豆腐
イミタチオ・クリスチ
移民法
イムホテプ
イモ
いもち病
イヤミ
イヨマンテ(熊祭り)
イラク
岩倉具視
岩崎弥太郎
岩瀬忠震(いわせただのり)
イラワジ川(ミャンマー)
イラン
イラン革命(1978年)
イリアス
イリアンジャヤ(インドネシア)
入江九一(尊王攘夷運動の志士)
入江長八
入江惣兵衛(池田屋惣兵衛)
入江美樹
入江若葉
西表島(沖縄県)
イリオモテヤマネコ
イリ事件(1871年)
イリ条約
イリノイ州(アメリカ)
夷陵の戦い(222年)
医療保険
イルガートル
イルクーツク(ロシア)
イル・ハン国
岩尾別(北海道)
岩手県
岩戸景気(1958年から61年にかけての好景気)
岩波文庫
岩のドーム
イワン
インカ文明
因果応報
殷鑒遠からず
インキュナブラ
殷墟
インケツ
隠元
因業
印刷
陰山山脈
インシュリン
印象派
殷汝耕
院政
姻族
院体画
インダス文明
インターラーケン(スイス)
インターナショナル
インターネット
インディアナポリス
インディアン強制移住法
インディオ
インディギルカ号沈没(1939年)
インディーズ(独立プロ系の作品)
インディラ・ガンディ
インテリゲンツィア(intelligentsia 知識階級)
インド
インドシナ
インドネシア
インド・ヨーロッパ語族
インドラ
因縁
因島
インパナティオ(Inpanatio 「パンの中にある」の意)
印旛沼(千葉県)
インパラ
インパール(インド)
インピリアル谷(米国カリフォルニア州)
インフルエンサー
インプレーサ(標語付き図案)
インフレーション
インペラトル
インペリアル運河(スペイン)
インボイス制度
インノケンティウス3世(教皇)
インム二テート(immunitat 不可侵権)
陰陽家
陰陽五行説
韻律学
飲料
引力
印籠

2025年11月 8日 (土)

ルーヴル美術館

    パリはいうまでもなく世界で最も美しい観光都市であり、主要な名所旧蹟を訪れるだけでも数日間は要する。ルーヴル界隈の美術館、博物館だけでも大小100近くある。なかでもルーヴル美術館は世界中から年間800万人の来館者が訪れる。美術品が40万点以上収蔵しており、3万5000点が展示されている。宮殿の美術品を公開したのは1763年11月8日のことで、ルーヴル美術館のはじまりである。

    建物は3翼に分かれており展示は、リシュリー翼、ドノン翼、シュリー翼からなっている。フィリップ2世(在位1180-1223)が1200年ころにパリ右岸の町を防備するために要塞を築いたのがはじまりで、14世紀にシャルル5世、16世紀にフランソワ1世(在位1515-1547)が改修して王の居城に改め、次いでアンリ2世(在位1547-1559)が改造拡張し、その後も大規模な工事が続けられた。宮殿ルーヴルが美術館に生まれ変わったのは1793年8月10日。この時、王家の美術品は市民のものとなった。ほぼ現在の形になったのは、19世紀ナポレオン3世の時代である。このようにルーヴル美術館は開館以来250年以上の歴史を刻んできた。

代表的な作品
ミロのヴィーナス
サッカラの「書記座像」
プラクシテレス女神像
レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」
ヤン・ファン・エイク「宰相ロランの聖母」
フォンテーヌブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」
デューラー「自画像」
ルーベンス「マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸」
プーシエ「オダリスク」
フラゴナール「勉強」
モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール「ポンパドール夫人」
コロー「モルト・フォンテーヌの思い出」

 

Photo
「鉛筆をけずる若いデッサン画家」シャルダン 1737年

 

( keyword;Musee du Louvre )

人名研究は楽しい

 いろいろな生き物のなかで人間だけが、自覚的に生きていることのあかしのもつものとして歴史をもっている。そのような歴史を生きた、あるいは作り上げたのは一人ひとりの人間であり、識別するために人名がそれぞれに与えられている。

政治家
 初の女性首相の高市早苗。10月22日に発足した新内閣の閣僚たち。男性名前に伝統的な「郎」は3人いる。小泉信次郎(防衛)、上野賢一郎(農林水産)、赤間二郎(国家公安)。

世界の元首
 1721年4月4日、ロバート・ウォルポールが初代イギリス首相に就任した。1940年のウィンストン・チャーチルが第61・63代、現首相リシ・スナクは第79代である。1789年、アメリカ合衆国ジョージ・ワシントンが初代大統領。1961年のジョン・F・ケネディは第35代。

芸能界
 TBSオールスター感謝祭。総勢85人の豪華芸能人が出演する。神木隆之介、杉咲花、坂東龍汰、齋藤飛鳥、桜井ユキ、奈緒、玉森裕太、岡崎紗絵、白石麻衣、水谷隼、織田裕二、西川きよし、あの、美川憲一、野呂佳代、猫ひろし、設楽悠太、ワタリ119、ギャビー、森脇健児、ファーストサマーウイカ、あばれる君、ハリー杉山、桃田賢斗、満島真之介、ヒコロヒーなど多士多彩な人間模様が5時間半の生中継で繰り広げられる。

オリンピック
   東京五輪では世界から205の国・地域が参加し、全種目339、およそ11000人以上選手が集まった。世界各国のさまざまな選手が連日ニュースに取り上げられ、メダルを獲得すれば一夜明けると著名人になれる。男子陸上100mのラモントマルチェル・ヤコブス、競泳男子100m自由形ケーレブ・ドレッセル、トライアスロン男子金メダル、クリスティアン・プルメンフェルト、柔道大野の対戦相手、ジョージアのラシャ・シャフダトゥアシビリ。すべて名前を暗記することは困難であるが、世界中の多くの人の記憶に残る名前であるは間違いない。

野球
 大リーグの大谷翔平。連日その勇姿がテレビ中継される。しかしドジャーズは他にも強打者が揃っている。ムーキ・ベッツ。フレディ・フリーマン。ウィル・スミス(映画俳優とは同姓同名)。テオスカー・ヘルナンデス。2025年度ナ・リーグ本塁打王は56本を放ったフィラデルフィア・フィリーズのカイル・シュワバーである。NPBセ・リーグの4番打者は、岡本和真、村上宗隆、大山悠輔、牧秀悟、中田翔、堂林翔太。

世界史、正統カリフ系図の覚え方
 ①アブー・バクル②ウマル③ウスマーン④アリー。覚え方は、①アブーは来る。②埋まる。③うゥ、すまーん(救出される)。④アリー(ありがとう)

人名事典に載っていない人名
 誰でも知っている有名人。誰も知らない無名の人々。人名はこのネット時代、もっとも重要なキーワードである。チャールズ・バーンは1780年代ロンドンで長身で有名だった人物。およそ250cmくらいあった。ロバート・ホワイトヘッドを知っているか?魚雷を発明した科学者である。アメリカ人のレイ・チャップマンを知っているか?インデアンスの遊撃手、1920年頭部に死球を受け死亡した。MLB唯一の死亡事故である。アレキサンダ―・セルカークを知っているか?スコットランドの水夫で大西洋の孤島で4年余り遭難生活した。のち小説「ロビンソン・クルーソー」のモデルとなる。ジム・フィックスを知っているか?ジョギングの創始者だが、ジョギング中に心臓発作で死亡した。

 尾崎宗吉(1915-1945)という作曲家。若くして太平洋戦争に応召して戦死したので音楽界で活躍を果たせなかった。戦地に赴く前に「夜の歌」(チェロとピアノ)の小曲を遺したが、今は密かなブームである。

  ラファエル・ヒュトロダエウスという名前を知っているか?タイトルしか知らない古典の名作、トマス・モアの「ユートピア」に登場する。彼が見聞した島の様子を語る哲学者(旅人)である。もちろん架空の人物。

   山川出版社の「世界史のための人名事典」は便利なのでよく利用している。収録項目数は1914人である。しかしとても歴史的に重要な人物が漏れていることがある。三国時代の「司馬懿」である。179年ー251年。後漢王朝に仕えていた司馬防の子。幼時から英才の誉れが高く、のちに曹操に仕え、諸葛孔明のライバルとなる。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事が有名で、仲達は孔明が生きていると思い退却したことになっている。この逸話は五丈原の農民たちのフィクションで、仲達はそれほど臆病ではない。なにも深追いする必要はなかったのであろう。なぜ司馬懿は歴史事典には収録されないのか不思議である。孫の司馬炎(武帝)は、266年に晋を建国し占田法・課田法を制定したので重要とされ、収録されている。中国ドラマ「三国志 Three Kingdoms」(2010)後半の第四部はほとんど司馬懿が主役格である。倪大紅が演じているが老獪でとてもよい。わざと病気のふりをして曹丕・曹爽をだます。愛妾の李依暁もとても美しい女優さん。司馬懿を恐れる曹丕がスパイとして送り込まれた。やがて司馬懿の子を宿すが、司馬懿の手によって殺害される。オリジナル・ストーリーだろうが面白い。

 

車掌が鼻にかかった声でアナウンスするのはなぜ?

 中川家礼二や徳永ゆうきがよく車掌のモノマネで鼻にかかった独特のしゃべり方をする。車内アナウンスで意識して鼻腔跫音という方法で話すのは、騒音の中でもお客さんが聞こえやすくするためだといわれています。しかし最近は独特な話し方をする車掌は減っているそうです。放送設備の性能が良くなったからです。

2025年11月 7日 (金)

名曲アルバム「ダニー・ボーイ」

 17世紀ころからアイルランドで歌い継がれてきた「ロンドンデリーの歌」。この楽曲を19世紀にジミー・マッカリ―という盲目のヴァイオリニストが路上で演奏したいたものを、ジェイン・ロスという女性の民謡収集家が聞き取って採譜した。第一次世界大戦の前年、フレデリック・ウェザリーが平和への願いを込めて歌詞をつけて「ダニー・ボーイ」という題で発表した。レコードの時代になってビング・クロスビーやエルヴィス・プレスリーなど多くの歌手によって歌われている。

 

一杯のお茶

Konbui 立冬の昆布茶すする昼餉かな (厄介)

   本日は立冬、暦の上では冬が始まります。今朝は冷え込みが強まり、今季の最も低い気温を観測しました。これからだんだんと寒くなってきます。一日の生活の中でもっともうれしい瞬間の一つは、昼下がり夫婦一緒にあたたかいこぶ茶を飲むとき。じいさん、ばあさんの何もない一日ですが、不図この「昆布茶」を発明した人は誰なのか疑問がわく。こぶ茶の歴史は確かな記録が残ってないので定かではないが、江戸時代には既に刻み昆布を熱湯に入れて飲んでいたらしい。現在のような粉末状の昆布に各種調味料を加えた形の「こぶ茶」が発明されたのは大正時代のこと。1918年に藤田馬三(1894年生まれ)がお湯を注ぐだけで簡単に作れる昆布茶を考案した。

 

 

 

 

 

 

 

荒木又右衛門「三十六人斬り」

Meiji_067     寛永11年(1634年)11月7日、伊賀上野で渡辺数馬が弟の源太夫の仇を討つため、河合又五郎らを討った。仇討ちは君父に限られているため、弟の仇討は違法である。そのため主君の池田忠雄の遺恨を晴らすという上意討ちの形をとった。このとき荒木又右衛門(1599-1638)は数馬の姉・みねの夫であり、義弟の助太刀をしたのである。

    鍵屋の辻(伊賀市小田町)の決闘は6時間にも及んだ。死者は敵方は河合又五郎、河合甚左衛門、桜井半兵衛、三助の4人。数馬方は河合武右衛門の1人である。このとき又右衛門は敵を36人斬ったといわれているが、それは講談の上での話。実際に又右衛門が斬ったのは河合甚左衛門、桜井半兵衛の2人。後に又右衛門は鳥取池田家に招かれ、寛永15年8月28日、41歳で急死している。墓は玄忠寺(鳥取市新品治町176)にある。

後水尾天皇と紫衣事件

  寛永6年のこの日、紫衣事件により後水尾天皇退位される。紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから高徳の僧が朝廷から賜った。幕府は禁中公家諸法度で、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。だが後水尾天皇は幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。幕府は、寛永4年大徳寺、妙心寺などの僧の勅許状の無効を宣言し、紫衣を取り上げた。寛永6年7月25日、沢庵を出羽国上山に、大徳寺住持宗珀を陸奥国棚倉に、前妙心寺住持単伝を陸奥国由利に、同東源を陸奥津軽へ配流した。この事件によって面目を丸潰れにされた後水尾天皇は憤激して、にわかに明正天皇に位を譲り、院政を行なった。院政期間は霊元天皇の代まで51年の長きに及んでいる。後水尾天皇は学問(有職・和歌・連歌・詩・儒学など)や芸術に関心が深く、多くの御製や「当時年中行事」をはじめ多くの宮中行事関係などの著作を残した。日本屈指の名庭園、修学院離宮を造営した。(11月7日)

参考:「紫衣事件と沢庵宗彰」船岡誠 駿台史学34  1974年

 

新聞創刊(1665年)

London_gazette1705  1665年のこの日、現存する世界最古の新聞「オックスフォード・ガゼット」(現在のロンドン・ガゼット)が創刊された。イギリス政府の官報で最初は手書きであったが、のちに印刷となる。世界で最初に新聞が刊行されたのは17世紀のドイツであるが、イギリスでは1695年に特許閲覧法が廃止され、新聞が自由に刊行されるようになった。SNSだけを見るZ世代は新聞・テレビなどをオールド・メディアと呼んでいる。「偏向」や「切り取り報道」など既存メディアを揶揄する場合に使われることが多い。

  新聞という言葉は世界各国まちまちである。

 

英語 newspaper  ニューズペーパー

 

ドイツ語 Zeitung ツァイトゥング

 

フランス語 journal  ジュールナル

 

イタリア語 giornale  ジョルナール

 

スペイン語 periodico  ペリオーディコ

 

スウェーデン語 tidning  ティードニング

 

フィンランド語 sanomalehti  サノマレへティ

 

(the Oxford Gazette,11月7日)

 

 

2025年11月 6日 (木)

馬琴忌

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 鏑木清方「曲亭馬琴」 明治40年

  嘉永元年、1848年のこの日、滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」の作者・滝沢馬琴は82年の生涯を閉じた。墓は文京区小日向の深光寺にある。

滝沢馬琴は、明和4年(1767年)、父・滝沢興義、母・吉尾門左衛門の娘お門の五男として、江戸深川に生まれた。安永5年から天明7年の間、はじめ松平、次に戸田、水谷、小笠原、有馬の各家に仕えたが持前の傲慢な性格と不遜な野望が禍をして、いずれも短期で仕を辞している。寛政元年頃、亀田鵬斎に入門、石川五老から狂歌を学ぶ。翌年山東京伝を訪ねて知遇を得、京伝から貰った大栄山人の号で「用尽二分狂言」を刊行したのが戯作生活のはじめで、旺盛な創作活動が開始された。

  「南総里見八犬伝」(1814-1842)の第1輯が刊行されたのは、馬琴が48歳の時で、最後の第9輯帙下の下編の刊行を見たときは、馬琴は78歳に達していた。つまり八犬伝は28年という長年月を費やされて完成されたものであった。

   天保4年の秋のある朝のことである。67歳の馬琴は右目が見えなくなっていることに気づいた。長年の執筆の疲労が表れたのである。それでも左目がみえるので、苦にすることもなく書き続けていると、天保9年からは左目もかすみだし、11年の夏になるとまったく朦朧たる状態になり、原稿も手探りで書くようになった。八犬伝の完成のため、息子の宗伯(天保6年死亡)の嫁お路(みち)に口述筆記させることで完成しようとした。ところが、お路は無筆に近く、まず字の書きようから教えねばならない。八犬伝は、普通の読本以上に難字僻句が多用されているから、これを教わるお路の苦労は並大抵のものではない。ついには辛さのあまり泣き出すほどである。その内にはお路も仕事になれて、八犬伝の名前くらいは空で書けるようになり、進度もはかどるようになった。そして天保13年(1842年)8月20日、「南総里見八犬伝」が完成した。日本で最も長い小説、いな、世界でも有数の長編小説である。八犬伝の完成のうらには、一人の寡婦の血のにじむような苦闘があったのである。(参考:「南総里見八犬伝」日本の古典16、世界文化社)11月6日

お見合いの日

   本日は「お見合いの日」。1947年のこの日、東京の多摩川河畔で集団お見合いが開催された。結婚紹介雑誌「希望」が主催したもので、戦争のため婚期を逃した20歳~-50歳の男女386人が参加した。参加者は2対1の割合で男性が多かった。

 マッチング・アプリの登場で、お見合いは減少したが、ドラマでは今でもヒロインのお見合いシーンは「おはなはん」以来、定番となっている。 映画の中でのお見合いシーンといえば映画「遠雷」(1981年)。ちょっといい加減なところもあるが農村の青年のバイタリティを感じさせる作品だった。見合いのあとすぐにモーテルに行ったり、結婚式で振りつきで桜田淳子の「わたしの青い鳥」を2人で歌うシーンなど印象深い。最近では「箱入り息子の恋」(2013)恋愛経験のない35歳独身男が目が不自由な夏帆とお見合いし、本当の愛をつかむために奔走するラブ・コメ。公開時さほど話題にならなかったが、2016年ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のブームで原点として再評価される。婚活とかお見合いは結婚を真剣に考える場合はよいとしても、若者が自由恋愛で金や時間を浪費するのは無駄なことだと思う。「愛がすべてだ」と思いこまないようにしよぅ。(11月6日)

2025年11月 5日 (水)

パンダがいなくなる

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 1972年のこの日、上野動物園でパンダのカンカンとランランの一般公開が開始された。パンダブームが沸き起こり1974年度には入場者が約765万人あった。現在シャンシャンがいるが、来年に中国に返還される。このままでは、上野動物園の客足が減ってしまう。年間1億円といわれるレンタル料は高すぎるという声もあり、当初都民の抗議もあったが、最近は「パンダはいつ来るの?」という子どもからの問い合わせもあり、意見が分かれており、複雑な政治情勢も絡んでパンダ問題は難航しているようだ。(11月5日)

 

 

ヴィヴィアン・リー

Vivienp3 1913年のこの日、女優ヴィヴィアン・リーが生れる。茶の産地として知られるダージリンはインドとネパール、ブータン、シッキムを結ぶ交通の要地である。1911年12月2日、アーネスト・リチャード・ハートリーは若い花嫁ガートルード・ロビンスン・ヤクジェとジョージ5世とメリー王妃が着いたと同じ日にインドに着いた。フランス人とスコットランド人の先祖の血をひく新妻はセーヴル焼きの陶器のように手をふれると砕けそうに弱々しく、妖精のようにいたずらっぽい女性であった。翌年の4月になって彼らは汽車で北へ行き、ダージリンの山岳地帯の避暑地に向かった。二階のその家はハートリーが勤める金融業ピゴット・チャップマン商会の同僚のもので、街を見降ろす丘の斜面に建っていた。1913年11月5日の夜、カンチェンジュンガとエヴェレストの雪に覆われた頂に太陽が沈み、ダージリンの街に灯かりがつき始めたとき、英国人の医師は、二階から降りてくると、ハートリーに此の世にめったとないほどの美しい女の子の父になったことを告げた。インド人の女中が、母親がカンチェンジュンガを見た直後に生れた子は完璧な美貌を保証されるといった。やがてこの女の子が、映画史に最も輝かしいスカーレットとブランチの女優、そしてジュリエット、アンチゴーヌ、クレオパトラで絶賛を博した舞台女優で知られた伝説の女優ヴィヴィアン・リーとなるのである。 (Vivien Leigh)

2025年11月 4日 (火)

戦艦大和誕生

Dscn0487   1937年のこの日、戦艦大和の起工式が呉海軍工廠の第4ドッグでおこなわれた。秘密裏に計画されたため、少数の関係者だけで華やかさはなかった。大和建造の実質的な現場責任者は、西島亮二海軍技術大佐(当時35歳、1902-1995)。大和が完成するのは4年後の1942年10月16日である。西島は戦後、その口を閉ざして多くを語らなかったが、建造の記録を手記にしてひそかに残していた。2005年、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)開館。10分の1サイズの戦艦大和が展示されている。(11月4日)

 

 

ミハイル・ロマノフ

   1609年から1612年までロシア・ポーランド戦争おこる。ロシアでは皇帝不在の空位期間に陥ったが、1612年のこの日、ロシア国民軍はクレムリンに拠るポーランド軍を一掃し、モスクワを取り戻して、その後、1613年2月、人民、コサックも参加した全国議会にてミハイル・フョードロヴッチはツァーリに選出された。ロマノフ朝のはじまりである。(11月4日)

 

 

 

 

2025年11月 3日 (月)

広辞苑クイズ

[質問]次の言葉で広辞苑に載っていない言葉はどれか?

恋川春町、ピンクレディ―、俵星玄蕃、ドニゼッティ、パンパン、城崎にて、わわらば

  ↓

  ↓

  ↓

[解答] 俵星玄蕃。

 

 

日本人とノーベル賞

  1949年のこの日、湯川秀樹氏のノーベル物理学賞受賞が決定した。日本人初のノーベル賞であった。ことしのノーベル賞は、坂口志文氏、北川進氏の2人が受賞した。日本人が受賞するのは、2025年までに30人とⅠ団体となる。ちなみに湯川秀樹は「日本人の100年」の中で、は次のように書いている。

  「この百年間に日本人は一体何をしてきたか。父母も祖父母も、ふくまれている。例えば私の祖父は百年前に紀州の藩士から福沢諭吉門下の新知識人へと移行したが、大正時代には社会から完全に隠退した老人として、菊や朝顔を作ったり、私たちに漢籍を教えたりしていた。彼は私にとって身近な人であったと同時に遠い人であった。近いようで遠い、遠いようで近い。それが日本の百年であり、日本人である。知っていることも多いが、知らないことがもっと多い」

  なかなかの名文である。ここにでてくる祖父とは誰か。田辺藩の儒学者・浅井篤(南溟)のことだろう。子の小川琢治(1870-1941)は地質・地理学者。ちなみにケペルは湯川の実兄、東洋史学者・貝塚茂樹(1904-1987)の弟子の伊藤道治先生の講義を聴いている。浅井南溟先生の系譜に連なる弟子といえるだろうか。(11月3日)

 

 

岡山天音、山口百恵、宮崎美子。共通点は?

 本日、放送のドラマ「ひらやすみ」。主演している岡山天音は、最近、優れた演技力により映画ドラマに活躍している。本名は不詳だが、なかなか味わい深い芸名である。彼のように47都道府県とおなじ名前をもつ著名人を調べてみる。北から秋田雨雀、宮城まり子、福島瑞穂、東京ぼん太、千葉雄大、長野博、石川啄木、福井静夫(造船)、愛知揆一、奈良光枝、香川照之、広島日出国(陸上)、山口百恵、福岡翼、長崎慶一(プロ野球)。この他にもきっといろいろあるよね、

秋らしくなってきた

桐一葉落ちて天下の秋を知る

  「風立ちぬ今は秋 今日から私は心の旅人♪」「風立ちぬ」は1981年10月にリリースされた松田聖子の7枚目のシングル。11月になっても暑さは一向に収まらず、季節外れの残暑が続いています。でも今日から以降は、気温が下がってやっと秋らしい季節が訪れそうです。「秋のIndication」「秋からも、そばにいて」秋のアイドル曲といえば南野陽子ちゃん。ザ・ベストテン1988年11月3日放送では豪華な王女さま風のドレスを着て、落ち葉わ敷き詰めた北欧の城庭をさまよう姿が印象的でした。「秋止符」アリスがつくった曲に新人横山みゆきがリリースしてヒットした。その後も横山は「雨」「紫陽花」「誰かいい人みつけて」などをリリースするもすぐに消えた。岩崎宏美の代表曲ともいえる「思秋期」。青春の思い出をせつなくドラマチックに謳いあげている。テレサ・テンの隠れた秋の名曲「驛舎」(1988)アルバム「愛人」に収録されている。ほかに秋の名曲といえば、紙ふうせん「冬が来る前に」、奥村チヨ「終着駅」

文化の日

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古本の 埃(ほこり)を払うや 文化の日 (厄介)

   本日は「文化の日」。なぜ文化なのか?敗戦後、わが国は文化国家をめざそうという「文化ブーム」が一時期あった。戦前、11月3日は「明治節」で明治天皇の誕生を祝う日であった。現在では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としているが、GHQの占領下、明治天皇を讃美することは表向きはばかられた時代だった。そこで新憲法公布の日を明治節にあわせて制定し、カムフラージュして明治天皇の誕生を祝っていたのである。最近では糊塗する必要もないので、「文化の日」を堂々と「明治の日」に改めようとする動きもみられる。国民の祝日をみると6つは天皇家に由来するものがある。「建国記念の日」は神武天皇が即位したとされる日。かっての紀元節である。「昭和の日」は昭和天皇の誕生日。「海の日」は制定当初7月20日だった。この日は明治天皇が明治丸で横浜港に帰着した日を記念している。「勤労感謝の日」は皇極天皇時代の新嘗祭に由来する。そして今上天皇の誕生を祝う2月23日の「天皇誕生日」。

2025年11月 2日 (日)

死者の日

M1_17 子どもや若い人にはわからないだろうが、どんな人にも死はやってくる。生あるものは必ず滅び、変わらないものは何一つない。諸行無常、自然の摂理である。本日は「死者の日」。万霊節は、キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日である。死者を悼む風習は古代からあったが、キリスト教の歴史の中で「死者の日」といものを取り入れたのは11世紀のクリュニー修道院のオディロであるといわれる。メキシコではアステカの風習と習合して「死者の日」が盛大に行われている。映画「oo7 スペクター」の冒頭にメキシコシティーの「死者の日」がでてくる。毎年11月1日と2日は死者を偲びそして感謝し、生きる喜びを分かち合う。みんな骸骨のマスクをかぶって仮装パレードする。起源は中世スペイン・ポルトガルのカトリック教会の信仰にある。14世紀から15世紀になるとヨーロッパはペストが大流行した。とくに、1347~1348年のペストの流行は、イタリア半島や南フランスからほぼヨーロッパ全土に波及し、全人口の3分の1から5分の1を奪ったといわれている。ペストの死により、人々の間には「メメント・モリ(死なねばならないことを忘れるな)」という言葉が生まれ、死が身近にあることを伝えようとした。ポルトガルのエヴォラにあるサン・フランシスコ教会は15世紀から16世紀に建てられたゴシック様式の教会であるが、Capela dos Ossosと呼ばれる人骨堂には、壁が5000人分の骸骨で埋められている。(Evora,Saint Francis Church) 11月2日

「愛の妙薬」から「人知れぬ涙」

 ガエターノ・ドニゼッティ。1797ー1848。イタリアのベルガモに生れた。明朗で洗練された作風で、19゛世紀前半のオペラ作曲家として人気を博した。「アンナ・ボレーナ」「愛の妙薬」「ルクレツィア・ボルジア」「ランメルムーアのルチア」「ドン・パスクアーレ」など名作を次々と生み出した。

 

昭和流行・世相史

   1926年12月、大正天皇の死去で皇太子裕仁親王は第124代天皇となり、昭和がはじまった。「現人神」から「人間」宣言を行った64年はまさに激動の歴史であった。本日は遠くなった昭和を世相でふりかえってみる。

   昭和元年アッパッパが流行。女相撲の興行禁止。昭和2年 芥川龍之介自殺、モガ・モボ全盛、マッチ・ペーパー収集、円本ブーム。昭和3年 オカマ帽子、ラッパズボン。昭和4年 「大学は出たけれど」 パーマネント、マネキン、競馬、麻雀。昭和5年 キツネの襟巻、チンドン屋、コリントゲーム、カフェー全盛、マニュキア。昭和6年ショップガール、列車ガール、女給増加。昭和7年 坂田山心中、白木屋火事で婦人のズロース普及、人絹、向島八ッ斬り事件。昭和8年ネオンサイン、ヨーヨー。昭和9年 関西大風水害、東北凶作。昭和13年 阪神大水害、円タク、代用品流行。昭和14年パーマネント禁止。昭和15年サラリーマンの給与から税金の天引きはじまる。昭和17年 産めよ殖やせよ運動、殺人ウイスキー事件。昭和19年 風船爆弾を放流。昭和20年大空襲、進駐軍、ヤミ市、輪タク、踊る宗教、パンパン。昭和21年 アブレゲール、カストリ、「サザエさん」、発疹チフス流行。昭和22年 東京ブギウギ。昭和23年 鉄のカーテン、ストリップショー盛況、帝銀事件。昭和24年 洋裁学校激増、ヒロポン流行、ニコヨン。昭和25年 特需景気、アルサロ。昭和26年 パチンコ全国に流行、逆コース、「羅生門」、チャタレイ裁判。昭和27年「君の名は」ヒット。昭和28年 街頭テレビ、マンボブーム、赤電話。昭和29年 ヘプバーンカット、三種の神器、死の灰。昭和30年 ポロシャツ流行。昭和31年 神武景気、もはや戦後ではない。昭和32年 グラマー。昭和33年ミッチーブーム、ロカビリー、栃若時代、団地。昭和34年ボールペン。昭和35年ダッコちゃん、家つき・カーつき・ハバ抜き。昭和36年アンネ・ナプキン発売、歌ごえ喫茶、レジャーブーム。昭和37年ツイスト流行。昭和38年自動販売機登場、バカンス。昭和38年 マンションブーム、みゆき族。昭和39年、東京オリンピック、「氷点」。昭和40年 エレキギター、ミニスカート出現。昭和41年 丙午で出産が激減、交通戦争。昭和42年 ベトナム特需、ゴーゴー喫茶、マイカー族、昭和元禄。昭和43年 サイケ、ゲバルト。昭和44年 パンタロン流行、2ドア冷凍冷蔵庫登場。昭和45年 男性にロングヘア流行、三無主義。昭和46年 ホットトパンツ流行、ボーリング、アンノン族。昭和47年 パンダブーム、ロマンポルノ。昭和48年 オイル・ショック。昭和49年百恵ちゃん、オカルト。昭和50年 紅茶キノコ、赤ヘル。昭和51年 ディスコ、コマネチ、記憶にございません。昭和52年 カラオケブーム、ルーツ。昭和53年タンクトップ、ピンク・レディー、サラ金。昭和54年 インベーダーゲーム、関白宣言。昭和55年 漫才ブーム、家庭内暴力急増、竹の子族。昭和56年 ノーパン喫茶、ブリッ子、なめ猫。昭和57年 テレホンカード使用開始、ゲートボール、ネクラ・ネアカ。昭和58年 おしんブーム。昭和59年エリマキトカゲ。昭和60年CDプレーヤーが普及。昭和61年 おニャン子、プッツン。昭和62年 「サラダ記念日」。昭和63年 天皇の病状が悪化し自粛広がる。「ノルウェイの森」。オバタリアン

参考:20世紀のことばの年表 東京堂出版 2001年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年11月 1日 (土)

フェルナン・レジェ

 フェルナン・レジェ(1881-1955)は1911年以後、ピカソ・ブラックなどを知ってからキュビズムの運動にくわわる。第一次世界大戦に参加したが、毒ガス中毒になり、兵士をやめる。1917年ころまでに曲線的立体派の形式をはっきりさせ、ピカソらとはちがった代表的な立体派画家の1人となった。工業化社会の人間を単純に力強く描く。

 

 

 

色彩の心理と象徴性

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    韓国時代劇「大長今」や「同伊」などを見ると、煌びやかで美しい衣装が目にとまる。実は時代考証に忠実ではなく、かなり映像美を演出しているらしい。朝鮮半島では近代まで染色文化がなく、色のついた服を着ているのは宮中の王侯貴族だけで、庶民はみな白い服を着ていたという。ところが日本は飛鳥・奈良時代に大陸の先進文化に憧憬し、色彩文化の面でも、原色を多用する衣装が移入された。たが894年の遣唐使廃止により、10世紀には、襲色目と称する日本の自然環境に合致する独自の美意識を取り入れた国風文化が確立された。ところで古代の色彩は、高松塚古墳やキトラ古墳の彩色などをみても陰陽五行説に基づくている。それは平安時代、室町時代まで天皇=神として継承されている。五色とは青・赤・黄・白・黒であり、最上位に紫を置く。四神(青龍、朱雀(鳳凰)、白虎、玄武)、そして黄に対応する黄龍(麒麟)が相応する。神職が祭礼において着用する萌黄色は中央に対応する「黄」と同一と考えられ、神の存在を暗示している。なお陰陽五行と日本の民俗との関連については近年、吉野裕子の研究が知られている。「陰陽五行における色彩の象徴性」(「陰陽五行と日本の民俗」人文書院に所収)

 

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 萌黄色は陰陽五行説において神を象徴する

 

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木枯らしの舗道

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  「秋深き隣は何をする人ぞ」 (芭蕉)

 

  秋も深まってくると物悲しくなります。朝夕の冷え込みも厳しく、エアコンの暖房を初めて入れました。深まる秋には自分にとってのお気に入りの一曲を聞くのが一番です。トワ・エ・モア「誰もいない海」、ウィークエンド「岬めぐり」、シモンズ「秋がふたたび」、やまがたすみこ「秋を感じた日」、「ダ・カーポ「小さい秋みつけた」、チューンガム「風と落葉と旅人」など。70年代のフォークソングには秋の歌が多いです。天地真理は軽やかなポップなヒット曲が多いですね。例えば「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「ふたりの日曜日」「虹をわたって」「恋する夏の日」です。でもちょっぴり切ない感じの曲もなかなかいいです。「水色の恋」「若葉のささやき」「想い出のセレナーデ」。この季節に聞くなら、「木枯らしの舗道」が深まりゆく秋のムードにぴったりします。

 

 街の舗道に木枯らし吹きぬける

 

 さよならを言いましょう 次の角で

 

 いつか月日が 流れていったなら

 

 すばらしい青春と 思うでしょう

 

 山のぼり 魚つり いろんなことを

 

 教えてくれた あなた

 

 そんなことするだけで しあわせだった

 

 帰らない あの頃が とてもいとしい

夏王朝は実在した!

W020110218628986716771   NHKスペシャル「中国文明の謎」第1集「中華の源流 幻の王朝を追う」 司馬遷「史記」では三皇五帝に次いで禹が夏を建国したと伝えるが、中国最古の王朝「夏」については長い間その実在性が確認できず、伝説の王朝とされてきた。しかし近年、考古学の発掘成果によって、現代中国の史学界では夏王朝が実在したことはもはや常識となっている。中国の中学校歴史教科書では、夏王朝について原始社会から奴隷制社会に移行に伴って紀元前21世紀に成立した中国史上最初の世襲制王朝であるとしている。その最初の王都の陽城の位置は不明であるが、夏の後期の宮殿跡が黄河流域河南省の二里頭遺跡である、と定義している。1959年から発掘が進み、後に夏の王宮跡と2万人以上の大集落跡が発見された。そこから銅爵(画像)や「トルコ石の龍」が出土している。紀元前2300年前後のことである。わが国の京都大学岡村秀典教授も「夏王朝 王権誕生の考古学」(2003)を刊行し、最古の夏文明を紹介している。夏は紀元前1600年ころ、殷に滅ぼされた。だが殷は夏から宮廷儀礼など多くの文化をそのまま踏襲している。二里頭文化と同時期には、揚子江流域に宝墩文化、後石家文化、良渚文化が生まれ、華北の黄河流域には斉家文化が存在した。これらの多様性ある文化が栄える中で中国王朝が誕生する母胎となる。

2016年アメリカのパデュー大学の研究チームによる放射性炭素年代測定によれば、大洪水がおこったのは、従来の説よりおよそ400年の遅い紀元前1920年のことと推定される。

秋の新ドラマ

 連続テレビ小説「ばけばけ」ラフカディオ・ハーンと妻・小泉セツがモデルの作品で、明治の松江を舞台に怪談を通じて心を通わす、ほっこりする夫婦の物語を描く。いよいよトキは外国語教師ヘブンの女中になる。高石あかり、トミー・バストウが夫婦を演じる。ほかに吉沢亮、岡部たかし、北川景子、池脇千鶴、小日向文世、堤真一。TBS日曜劇場「ザ・ロイヤルファミリー」馬に情熱を燃やす人々の物語。妻夫木聡、目黒蓮。「ひらやすみ」森七菜、岡山天音、吉岡里帆、ベンガル。「終幕のロンド」草彅剛、中村ゆり、国仲涼子、風吹ジュン。「シナントロープ」水上恒司、山田杏奈。「ちょっとだけエスパー」大泉洋、久保史緒里、宮崎あおい、ディーン・フジオカ、北村匠海。「新東京水上警察」佐藤隆太、加藤シゲアキ、山本美月、椎名桔平「じゅあねあんたが作ってみろよ」竹内涼真、夏帆。「緊急取調室」天海祐希。「フェイクマミー」波瑠、川栄李奈、田中みな美。「ストロボ・エッジ」福本莉子、高橋恭平。「終活シェアハウス」畑芽育、城桧吏、竹下景子。「1972渚の蛍火」高橋一生、青木崇高、小林薫。「すべての恋が終わるとしても」葵わかな、神尾楓珠、市川由衣。「ぼくたちん家」及川光博、白鳥玉季。「放課後カルテ2025秋」松下洸平。「スクープのたまご」奥山葵。「小さい頃は、神様がいて」北村有起哉、仲間由紀恵、草刈正雄、阿川佐和子。「絶対零度」沢口靖子、安田顕、横山裕、黒島結菜、白本彩奈。「良いこと悪いこと」間宮祥太朗、新木優子。「娘の命を奪ったヤツを殺すのは罪ですか?」齋藤京子、水野美紀、新川優愛。「ESCAPE それは誘拐のはずだった」桜田ひより、佐野勇斗、山口馬木也、志田未来。「シバのおきて」大東駿介、飯豊まりえ、瀧内公美。「そこから先は地獄」井桁弘恵。「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」三谷幸喜の脚本。菅田将暉、二階堂ふみ、神木隆之介、浜辺美波。「推しが上司になりまして」鈴木愛理、八木勇征。「おいしい離婚届けます」前田公輝、水沢林太郎。「小さい頃は、神様がいて」北村有起哉、仲間由紀恵。「推しの殺人」田辺桃子、林芽亜里、横田真悠、トラウデン直美、なえなの。「できても、できなくても」宇垣美里、山中柔太郎。「死ぬまでバズってろ!!」与田祐希。「御社の乱れ正します2」山崎紘菜。「コーチ」唐沢寿明、木村多江、倉科カナ、犬飼貴丈。「恋する警護24時」白石麻衣、岩本照。「今日もふたり、スキップで」特別版。松村沙友里、白洲迅。韓国ドラマ「偉大なショー」ソン・スンホン。「ふたりエスケープ」岩本蓮加、冨里奈央。「パパと親父のウチご飯」松島聡、白洲迅、蓮佛美沙子、伊礼姫奈、山下リオ。単発ドラマが好きな方は「君としたキスはいつまでも」小関裕太、細田佳央太、莉子、川津明日香、小島藤子、中井友望。「悪いのはあなたです」工藤美桜、山中柔太朗。「ひと夏の共犯者」橋本将生、恒松祐理、片桐澪、永瀬莉子。Netflix配信の「匿名の恋人たち」小栗旬、ハン・ヒョジュ、赤西仁、中村ゆり。「仮面の忍者赤影」佐藤大樹 10月26日深夜 テレ朝日

 「ばけばけ」「ひらやすみ」など時代は変われど貧乏話が多いね。全体的に豊作揃いだが、「じやあ、あんたが作ってみろよ」が最高と評判である。「もしもこの世が舞台なら」「小さい頃は、神様がいて」など三谷幸喜、岡田惠和のドラマが予想に反して面白くなく、視聴率も振るわなかった。豪華俳優の無駄遣い、やはり一流とか大御所といわれるようになると天狗になってダメになるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石油ショック(1973年)

  昭和48年10月6日に勃発した第4次中東戦争を契機に起こった石油ショックは、世界経済を混乱に陥れた。エネルギー需要の7割を石油に依存し、しかも99.8%を輸入、うち75%を中東諸国から輸入する日本にとって、事態は深刻であった。日本経済は、激しいインフレに見舞われた。企業は先行きのモノ不足を見込んで、原材料のストックに狂奔した。異常な物価の値上がりと物不足がおこった。11月1日、大阪千里ニュータウンのスーパーで1400パックのトイレットペーパーが1時間で売り切れた。ほかにも洗剤など日用品を買いだめする客が殺到するパニックが起きた。11月6日、第一次オイルショックによる節電・節約を呼びかけるため、全国の広告塔が一斉に消灯された。産油国からの安い石油によって成り立ってきた先進工業国の高度経済成長は、危機におちいったのである。日本経済も、これをきっかけに低成長の時代にはいった。

スシ喰いねえ

 本日は「寿司の日」。トロ、アナゴ、甘エビ、しめサバ、スズキ、ホタテ、アワビ、赤貝、ミル貝、カツオ、カンパチ、ウニ、イクラ。「すし」とは「酸(ス)シ」の意である。古く「延喜式」の諸国の貢物のなかに多くの「すし」が出てくる。これらは「馴れずし」で魚介類を塩蔵して自然発酵させたものである。醗酵を早めるために、飯を加えて漬けるようになつたのは、慶長のころからと伝えられる。飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからである。そして江戸末期に酢飯のほうが主材となって飯鮨(いいずし)とよばれるようになり、散らし鮨や握り鮨が生まれる。スシはスシミ(酢染)の義とか、口に入れるとその味がスッとするところからスウキ味からスシになったとかいう。また、石を錘においたから、スはオス(押す)、シは石の義だというような説まである。すしは、初め、魚に塩をしておくと醗酵してできたものである。スシのシは、塩を意味している。魚に塩わしてすしになるその過程を示して酸塩(すし)としたものである。魚に塩をししてつくるのがすしなので鮓または鮨と書いてすしとよむ。すしは酢し魚(な)で、魚肉を酢に漬けたものという説があるが、魚肉に酢を用いるのは後世のことである。だから酢を用いたらすしというのはおかしい。すしをつくった初めは魚と塩である。たとえば、「すしあわび」というものがある。これは塩貝のことである。生鮑に塩をして上を押す、これがすし鮑である。つまり鮑に塩をしたものが、鮑のすしになる。飯を加えるようになったのは後世のことである。東京堂「たべもの語源辞典」より(11月1日)

 

紅茶と産業革命

   11月1日は「紅茶の日」。ある調査によると、コーヒーや紅茶、嗜好品を好む人は高所得者ほど飲む量が多いという話だ。コーヒーと紅茶、日本に伝来したのは、どちらが先だろうか?答えは、ほぼ同じころだそうだ。

    コーヒーは世界で最も多くの国で飲用されている嗜好飲料である。喫茶店(コーヒー・ハウス、カフェ)は近代社会において人々が情報を得る場所として文化的にも大きな役割を果たしてきた。日本には天明年間(1781年~1788年)頃に、長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれる。ところが産業革命を経てイギリスが世界を制覇する19世紀に入ると、砂糖の消費量は爆発的に増加した。18世紀以降、コーヒーにかわってイギリス人は紅茶を好んで飲むようになった。イギリス貴族の間でアフタヌーンティーの習慣が流行しだしたのは、およそ200年前からだといわれています。一説にはアンナ・マリア・ラッセルというヴィクトリア女王の側近も務めるほどの地位になった公爵夫人のアイデアともいわれています。またそれは産業革命の進展と関係する。産業革命による人口増加でミルクの供給が追いつかなくなり、その代用品として輸入した紅茶が飲まれるようになった。また紅茶の普及には、会社の経営者が勤勉な労働者を必要としたため、アルコールにかわる飲み物として奨励したこともあげられる。パブ(ビール)、コーヒーハウス(コーヒー)、ティールーム(紅茶)は、各時代において、イギリス人にとって社交の場であったり、ビジネスの場であったり、娯楽の場であつたりと、多様な役割を果たしてきた。イギリスの社会経済の発展の裏にはこれら3つが様々なかたちで関係してきた。

   NHK「ひるブラ」(2012年2月1日放送)で、はしのえみが幕末の弘前藩士が飲んでいた珈琲を味わっていた。酸味と苦味がある。寒さなどで殉難が多かったので薬用として珈琲を飲んでいたという。大田南畝は1804年に珈琲を飲んだときのことを次のように記している。「紅毛船にてカウヒイというものをすすむ。豆を黒く炒りて粉にし白糖を和したるものなり。焦げくさくして味ふるに堪えず」とある。1855年ころ青森県弘前で珈琲が飲用されていたとは驚きである。

    紅茶は1791年11月1日、大黒屋光太夫がロシアのエカテリーナ2世から茶会に招かれ、日本人として初めて紅茶を飲んだとされる。日本紅茶協会は、昭和58年、この史実をもとに、11月1日を「紅茶の日」に制定している。

 

 

犬の日

  「犬は人とともに生活し、怜悧で従順で、しかも犬ほど人類社会に貢献している動物しない」(大野淳一『犬・その銘柄』)11月1日はワンワンワンの語呂合わせから「犬の日」としている。ドッグショーなどでは、犬種の雄雌、年齢で区別されて審査される。雄犬はドッグ、雌犬はビッチ。

    犬の頭数の世界的な増加は人間の増加に匹敵するといわれる。いまや人間の住む世界各地で犬の姿が見られ、家犬の品種は400を超えるが、これらの品種はいずれも人為的淘汰の恩恵を受けて今日に至っている。というのも、大型犬のグレートデンであれ、小型犬のチワワであれ、犬はすべて、先史時代の猟人に飼い馴らされたオオカミの末裔だからである。大谷翔平の愛犬「デコピンくん」は一躍有名になったが、犬種は「コーイケルホンディエ」というオランダ原産の狩猟犬である。

    今日の家犬は長い年代を経て人間に飼育されているので、その形態の変化や大小が非常にちがってきていて、一種の動物として、犬ほど形態や大きさのちがう動物は他に見ることができない。これは犬の遺伝子が多数であることにもよるが、その祖先が多元的であり、長い人為的選択をくり返してきたためと思われる。そして多数の品種が生じたのである。また形態ばかりでなく、性質も非常にちがっているので、古くから世界の各地方で、番犬・狩猟犬・愛玩犬が発達し、北方地方ではそり犬のような運搬用に用いられ、またある地方では食犬として食用に供せられていた。人類の生活が複雑化するにつれて、狩猟犬もその獲物によって特長をもつ犬種が生じ、愛玩犬も種々の形のものが発達し、さらに牧羊犬が生じ、各種の軍用犬・警察犬のような高度の性能の犬や、盲導犬のような特別な性能をもつものもつくられるようになってきた。犬を人間の目の代わりに利用しようとすることは古代ローマ時代からみられるが、近代になっては1819年にウィーンの神父ヨハン・ヴィルヘルム・クライン(1765-1848)が、犬の首輪に細長い棒をつけれ盲導犬として訓練したのがはじまりとされている。

    原始的な犬は現在も野犬となっているオーストラリア産のディンゴー犬、インド産のバリア犬などの一亜種にはいっているが、現在の家犬は次の6亜種に分けられる。ポメラニアン型、北方犬型、番犬型、青銅犬型、狩犬型、グレイハウンド型。そのほかに南米のインカ犬型も一亜種とされている。(11月1日、Johann Wilhelm Klein)

灯台記念日

Photo   灯台の歴史は古く紀元前280年、アレキサンドリア港に対面するファロスPharos島に建てられたファロス灯台、高さ約180mの石積塔、樹脂混合草木燃焼式の大灯台が世界最初のものとされる。現在でもロマンス諸語でファロスという語が灯台を意味するのはこれからきている。(フランス語ファールPhare、イタリア語ファーロfaro、ポルトガル語farol、スペイン語faro)

    わが国では664年に天智天皇が遣唐使船などの船舶に利便を与える目的で、壱岐、対馬、筑紫に烽(とぶひ)をともしたものが始めとされている。それはのちに狼煙(のろし)といわれるようになった。江戸時代の燈明台は、18世紀以後商品流通の増大に伴う海運の発展のため夜間の航海や出入港が頻繁になると、廻船の安全を期して岬や主要港など100ヶ所以上もの燈明台が設けられ、重要なものは航路図上に記入されるようになった。

   幕末の開国後、外国船の出入港と幕府海軍軍艦船の増加を契機に、光力の強い西洋式灯台が必要となり、慶応3年外国貿易税率改訂に伴う約定として剣崎以下15ヶ所の洋式灯台設置が決定し、別に江戸湾付近の整備のため城ヶ島、品川などが追加された。建設事業は外国人技術者と購入機材によって進められたが、幕府倒壊後は新政府がひきつぎ、明治元年11月1日、日本初の洋式灯台、観音崎灯台(神奈川県横須賀市)が起工、明治2年2月に完成、点灯を始めた。その強い光力は旧式の燈明台とは段違いで、近代的照光装置の威力を発揮した。使用燃料は当初は植物性油で、のちに高能率の石油に変えた。また蒸気船の普及などから洋式灯台の設置は急ピッチで進み、明治9年には北は納沙布岬、南は九州南端の佐多岬まで30余ヶ所に達し、明治末年には100ヶ所を超えた。大正末期にはより強力な光源の電気化が始まり、それが普遍化した現代では機械類の自動化が急速に進んでいる。(参考:石井謙治「国史大辞典」,11月1日)

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