安政の大獄(1859年)
安政5年、6年は幕末維新史上、重要な年だった。安政5年1月、幕府は日米修好通商条約調印の勅許を奏請するが、孝明天皇はそれを拒否した。6月、勅許のないまま、幕府が上記条約を調印したため、天皇は激怒する。このころ橋本左内(1834-1859)は越前藩主松平慶永の側近となり、上洛、一橋慶喜待望説を遊説。しかし、井伊直弼が大老に就任し、慶永が処罰されると左内も、安政6年10月7日、江戸伝馬町獄舎で斬首された。26歳の若さであった。頼三樹三郎、飯泉喜内の2人も刑場の露と消えた。だが井伊直弼も翌年桜田門外の変で暗殺され、安政の大獄を取り仕切った直弼の側近、長野主膳も、2年後、藩内の尊攘派岡本黄石らのクーデターで失脚、斬首された。(10月7日)
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