信長の上洛
永禄10年、織田信長(1534-1582)は美濃の斎藤龍興(1548-1573)の本拠井ノ口城を陥れた。信長はここを岐阜と改めるとともに、僧沢彦に撰ばせた「天下布武」の印をつくって、武力統一に対する抱負を示した。翌年9月7日、美濃・尾張を平定した信長は、大軍を率いて岐阜城を出発した。そうして、その途中、六角義賢の支城箕作、その他の城々を一蹴し、義賢の居城観音寺山を陥れた。9月28日、信長は足利義昭(1537-1597)を擁して京都に入った。上洛を遂げた信長は東寺に陣し、義昭は清水寺に入った。信長が入京するというので、一時京都市中はパニック状態となったが、入京した信長は、細川藤孝に御所の警備を命ずる一方、軍勢を厳格な軍規統制のもとにおき、市中の動揺もまもなく鎮静した。京都周辺では、三好長逸、三好政康、岩成友通の三好三人衆や篠原長房らに擁立された足利義栄が摂津富田城(高槻市)に、三好三人衆がそれぞれ山城勝竜城(長岡京市)、摂津芥川城(高槻市)、越水城(西宮市)に拠って信長に抵抗していたが、勝竜寺城は29日に、他の諸城も数日のうちに攻略され、三好党は阿波へ敗走した。10月18日、足利義昭は室町幕府15代将軍に就任した。
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