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2025年10月30日 (木)

教育勅語

   明治23年のこの日、国民道徳を説いた「教育勅語」が発布された。教育勅語の普及は徹底したもので、戦前に学校教育を受けた者なら皆、全文暗記していた。戦後80年も経つのでもう死滅したものだと思っていた。なんと女性初の新総理・高市早苗は「わたしは幼い頃に両親から教育勅語を教わった」と教育勅語を称賛している。高市早苗の親は戦前の国民小学校世代なので教育勅語を暗記していたとしても不思議ではないが、子供にまで家庭で教えていたとは驚きである。日常知とは何か。教育学などでしばしば使われる用語で、学校や教科書、カリキュラムで得られる知識を「学校知」とよぶのに対して、普段の経験を通して得られる知識を「日常知」という。戦前、学校で暗唱させられた教育勅語のように上から強制的に教え込まれた知識などは、典型的な悪しき学校知である。英語では学校知=教養、school knowledge、日常知=常識 commonsence knowledge。学歴偏重の官僚国家のなかにあって、日本には学校知のみに優れ、コモンセンスの無い官僚が多くみられる。(10月30日)

 

 

 

 

ニュルンベルグのマイスタージンガー前奏曲

 リヒャルト・ワーグナー1867年に完成した楽劇。ワーグナーは1861年にベネチア旅行し、サンタマリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の祭壇画「聖母昇天図」(ティツアーノ)を観て感動した。作曲家が1枚の絵画から受けたインスピレーションから曲が生まれた。

 

トライアスロン

 トライアスロンは水泳・自転車ロードレース、長距離走の順に連続して行う3種競技。1977年のこの日、ハワイのアメリカ海兵隊員の宴会の席で、トライアスロンが考案された。しかしトライアスロンの起源はこれより3年前、アメリカのカリフォルニア州サンディエゴで、世界初のトライアスロン大会がすでに実施されている。(10月30日)

 

 

血液型と性格は関係なし

   本日は、1981年10月30日に死去した日本に血液型性格分類を普及させた能見正比古の忌日である。人間の人間の血液にA型、B型、0型の種類があることを最初に発見したのは、ウィーン大学の生物学者カール・ラントシュタイナー(1868-1943)で、1901年のことである。この血液型と性格との関連性を初めて論文としたのは日本人で、大正5年に原来復と小林栄が「血液ノ類属的構造ニ就イテ」(医事新報954号)であるが、そののち古川竹二(1891-1940)が書いた「血液型と気質」(1932年)で広く知られるようになった。戦後は、フランスの心理学者レオン・ブールデル(1907-1966)が「血液型と気質」(1960年)、能見正比古(1925-1981)の「血液型人間学」「血液型でわかる相性」がベストセラーになった。その後も血液型性格診断は相性判断となって、酒席で「B型っぽい」とか「A型らしくないね」という話題をすれば盛り上がり、社会的にも広まった。しかしながら、ほんとうに血液型で性格がわかるのだろうか。現在のところ、血液型による性格判断は科学的に証明されていない。血液型性格診断は根拠がなく擬似科学性が指摘されている。血液型と性格とは関係ないとする根拠としては、人間の性格は脳の働きによって表出すると思われるが、脳のなかには血液型を決めている糖類はない。血液型を決める物質が脳にないのに、なぜ脳の働きに影響を及ぼすのか。

   大谷翔平の血液型はB型。「A型は几帳面」とか「B型の男は自分勝手で我が儘」といえば、なぜか思い当たることがある。だれにでもあてはまることを言われると、自分のことと思ってしまう心理がはたらく。これをバーナム効果という。先ごろ、九州大の縄田健吾講師が、血液型と性格の関連性に科学的根拠はないとする統計学的な解析結果を発表した。最近では、血液型によって就職などで差別されるブラッドタイプ・ハラスメントが問題化している。このように日本や韓国では、血液型と言えば、相性や性格診断のイメージが強いが、欧米では血液によって「病気リスク」の差があるという研究が進んでいる。血液型の中で、最も免疫力が少ないのはA型で、いちばん病気に強いのはO型である。O型の人は脳梗塞、心筋梗塞になりにくいらしい。だがO型が新型コロナに感染しにくいとか、蚊に刺されやすいとかいう話しは迷信の類である。

 

 

 

 

八百屋お七「丙午」伝説

 今日から2026年の年賀はがきが発売される。えとは「馬」で、それも60年に一度の「丙午(ひのえうま)」である。なぜ丙午は悪い年とされるのか?丙午の年に生まれた女子は気性が激しく、夫の命を縮めてしまう、という奇妙な俗信が古来からあるそうだ。それは八百屋お七の伝説と結びついて広まった。本郷駒込にある天台宗円乗寺(文京区白山)に八百屋お七(1668-1683)の墓がある。天和2年(1682)12月の大火で家が焼け、菩提寺の円乗寺に避難したが、そこで小姓の山田左兵衛と恋仲になった。やがて家は再建されて戻ったが左兵衛会いたさに付け火をした。放火の大罪でお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた。ところで、お七の恋人の名は、山田左兵衛(近世江都著聞集)説のほか、生田庄之介(天和笑委集)など諸説ある。だが井原西鶴を参考にした小野川吉三郎の説をとるものが多い。NHKドラマ「あさきゆめみし」では木下順庵から儒学を学ぶ吉三郎という名になっている。お七は「丙午」生まれで、気性が激しく夫の命を縮める、という江戸時代からの迷信があり、近代になっても続き、明治39年、昭和41年には出生率が激減した。次回の丙午の年は来年、2026年、令和8年である。昭和41年の出成率は前年に比べて25%も下がった。「ひのえうま追放運動」などの啓発を呼びかけた自治体もあった。しかし丙午生まれは、高校、大学受験が他の年より容易なので利点もある。来年の丙午が、さまざまなメディアからの情報などで、人口変動が起こる可能性は否定できない。(参考:「2026年の出生についての学生の意識調査」名寄市立大学 紀要13 2019年)

 


 

2025年10月29日 (水)

支那について

 1930年のこの日、日本政府が「支那」の呼称を改ため「中華民国」とするように通達を出している。ただし、あまり徹底はされず昭和20年までは「支那」と呼ぶ方が一般的だった。ところで「支那」が差別語だという人が多いが、語源を調べるとかなり古い言葉で、玄奘「慈恩伝」の中に「支那」という語が見える。7世紀頃仏教関係者は使っていたことばで、差別的な意味は含まれていなかった。また、秦(Chin)とも音が似ているが、語源的には無関係である。(10月29日)

 

 

食生活を見直す

Photo ドラマ「小さい頃は、神様がいて」出演の仲間由紀恵さん。痩身に長い髪の美少女がイメージだったが、ふっくらとした体形が話題になっている。実年齢の46歳を考慮すると、何ら不思議はないし、美しさは変わらないのだが。ハワイや沖縄など南国の女性は年を重ねると肥満になることが多い。沖縄県は、女性の肥満率は全国ワースト1位である。(厚生労働省)。「娘の命を奪つたヤツを殺すのは罪ですか?」に出演中の新川優愛さんも急激に太ったみたいだ。ママ友のボスという役作りかもしれないが、貫禄十分の悪女だ。肥満の原因は脂肪分の多い食生活にある。余計なお世話かもしれないが、食生活の見直しが大事だろう。 ついつい塩辛いおかずとご飯の食べ過ぎでカロリーも塩分もどんどん増えていきます。肥満を解消しようと急激なダイエットで失敗し、体調を崩してしまいました。1日3回きちんとバランスのよい食事を心がける。十分な睡眠、そして運動。風呂はぬるまゆにゆっくりとつかる。

   昨夜の「ガッテン!」。テーマは「糖質制限ダイエットの落とし穴」。糖質ダイエットの効果がブームとなる中、しかし方法を誤ると危険である。逆にめまいや筋力低下、あるいは栄養失調になるおそれもある。日本人の平均摂取カロリーは2000キロカロリーで、実はたんぱく質15%、糖質25%、糖質炭水化物60%、糖質が多く占めている。カットすると総カロリーが不足しがちになり栄養がいきわたらなくなる。肉・魚・大豆・野菜など脂肪やたんぱく質をしっかり食べて、満腹感を得る事が大切だという。ガッテン!

インターネットの日

4e781b2ca4aaefce0486765a023e3b37   現代は情報の時代である。日本人のおよそ9割の人がインターネットやSNSをスマホで毎日1回以上、利用している(総務省2019年統計89.8%)。まさに高度情報社会である。これほど多くの人がテレビなどのように受け身で情報を得るのではなく、自ら必要な情報を求める時代になるとは誰が予測したであろうか。SNSが急激に普及して、情報を得ることや共有することが簡単になり、便利になっていく反面、「炎上」「バッシング」「パズる」などというネガティブな言葉をよく目にしたり耳にする機会が多くなっきた。気象情報や防災情報など命を守る安全面においても重要度が増している。情報について基礎から学ぶことが大切になっている。ところで日本において「情報化社会」とか「情報社会」とか言われ出したのはいつ頃からであろうか。情報が新たな行動を起こすための原動力となりうるものとして意識されるようになったのは、1950年代以降のことである。インターネットは開発当初、軍事目的の情報通信媒体であったが、1990年代に商業利用が始まると急速に普及した。「新詳地理資料CPOMPLETE」6頁によると、

1990年代半ば 携帯電話が普及する
2007年ごろ スマートフォンが登場する

 10月29日は「インターネットの日」。1969年のこの日、インターネットの元型であるARPAネットで初めての通信が行われた。カリフォルニア大学ロサンゼルス校からスタンフォード研究所に接続し、「LOGIN」と入力して「LO」まで送信した所でシステムがダウンした。NPLサーチで「情報」「知識」をキーワードにして検索すると、初期の文献がヒットする。

1963年 藤川正信「第二の知識の本」

1967年 川添登「情報社会と思想の自立」 展望107

1968年 増田米二「情報社会入門:コンピュータは人間社会を変える」

1969年 林雄二郎「情報化社会:ハードな社会からソフトな社会へ」

 林雄二郎の著書は有名で「情報化社会」をわが国で最初に紹介したといわれる。しかし、それ以前からビジネスの世界では「情報収集」が企業の存立にとても重要との認識が広まっていた。それは1960年代の高度成長期であり、慶應図書館学科の藤川正信が情報の重要性を唱えた嚆矢である。その後、有田恭助の「情報の集め方」(カッパ・ビジネス、1964年)は梶山季之の産業スパイ物のブームを背景にベストセラーとなった。書き出しは「人間の一生は、情報収集の連続である。私たちは、この世に生を受けたときから、死に至るまでのあいだ、つねに、外部の情報を集め、それを分析して行動を決める、という仕事を行なっている」。著書は産業スパイが反社会的行為であり、いかに正々堂々と情報を収集するか、その意義を説いている。いまのような情報検索システムが普及する以前は、図書館の目録カードがこの役割を果たしていた。わたしは1970年代に図書館の整理業務にたずさわり、目録の編成に心血をそそいだ。しかし、書名目録、分類目録は機能したが、主題から検索できる件名目録は充分な成果をあげることができなかった。件名目録は日本図書館協会より刊行された基本件名標目表にある統制語によって構成される。つまり今のネット検索のように何でも思いつくワードで検索できるのではなく、限定されたワードしかヒットしない。利用者も件名目録の特性を十分に理解する人はなく、件名目録が十分に活用した図書館はほとんどなかった。現在このBSHが現場でどれくらい活用されているかしる由もないが、おそらく自然消滅のような状態になっているのだろう。しかし図書館学における検索機能が何らかの形で現代の情報検索機能に反映されているものと思っている。

    このような情報化社会にあって、反対に「情報はいらない」「新聞は読まない」と豪語する有名人がいる。タレントの長嶋一茂さんだ。元プロ野球選手で、現在はテレビのバラエティ番組などでその顔を見ない日はないほどの売れっ子タレントぶりの活躍である。発言内容の天然ぶりと苦労しらずの人柄が面白い。なぜコメンテーターをしながら、多くの知識を入れようとしないのか。ネットでエゴサーチをすると不快な記事を読むからかもしれない。「勉強しない」とかの発言も反知性主義とみることもできる。経済的な不安を知らずに育った一茂さんは、一種の貴族的な地位にあり、勉強したり、世間に認められようという立身出世主義は皆無の生き方をしてきた。広く多くの情報を入手して正しい結論を導くのではなく、自己の直感でコメントするようである。現代マスコミの寵児がこの情報の時代に情報を全否定することも面白い。つまり誰でもが簡単に情報が入手できるので、総合的な知識とか、いわゆる教養とは要らないと考える。反知性主義のようなものが若者たちの間に自然と広まっていることを憂慮している。

 

 

 

 

 

 

 

ハロウィンがやってくる

   仮装やコスプレをして、パーティを開いて楽しむハロウィーンもずんぶんと広まってアジアにも定着してきました。でもハロウィンが日本で知られるようになったのは1970年代になってからのことです。レイ・ブラッドベリの小説「ハロウィーンがやってきた」(1975年)やジョン・カーペンター監督の「ハロウィン」(1978年)などによるものです。ハロウィーンを題材とした映画は意外と少なくて「キャスパー」(1995年)や「ホーカス・ポーカス」(1993年)など数本しかありません。東京ディズニーランドでイベントが催されたり、渋谷で大勢の若者が集まったりして、日本でも90年代末頃から浸透してきました。でも雑踏にはご用心!2021年はには韓国・ソウル梨泰院で集まった多数の若者たちが転倒して158人が死亡するという痛ましい事故が起こりました。韓国語では「イテウォナプササゴ」と呼ぶらしい。大半が20代から30代の若者たちである。なぜこれほど大数の若者が1カ所に集結したのであろうか。死因の多くが圧死という。厳しい受験競争や兵役がある韓国では、ストレス発散になるハロウィン・イベントは孤独な若者が自分を発散している側面がある。トックと呼ばれる若者たち(日本語のオタクが訛った言葉)が、大好きなことを、思いっきり楽しもう、という感覚がある。そもそもハロウィーンって何なのか?もとはアングロ・サクソン系の祭日。10月31日すなわちキリスト教の万聖節の前日をいう。古くはヨーロッパの原住民ケルト族の収穫感謝の祭日「サウィン祭」で、ケルト暦の大みそかにあたり、ケルト伝説によればこの夜、悪霊たちが迫りくる長い冬を避けて遠くに飛び去り、魔術師たちが戸外を駆け巡って来年の予想を声高に叫び歩いたという。現在でもこれらの習慣が残されており、仮面をかぶって広場で踊り、子供たちがカボチャをくりぬいたランプを提げて行脚を行う。「ジャック・オ・ランタン」(Trick-or-treating)と言って近所を回る。本来はカブのランタンをともしながら暗い道を歩き続けたというアイルランドの伝説に由来される。

 

 

 

 

 

 

 

秋は灯火親しむべし

  10月27日から11月9日まで「秋の読書週間」が行われる。今年で第79回を重ねるが、第1回はまだ戦火の傷痕がいたるところに残っている1947年11月17日から開催された。それから70有余年、「読書週間」は日本の国民的行事として定着してきた。今年の標語は「bb\s

こころとあたまの、深呼吸」。全国各地でさまざまな本に関する展示や行事が開かれる。

   どうして読書の秋といわれるのだろうか?すでに1918年の読売新聞には「読書の秋」という表現が使われている(1918年9月21日付)から日本語としておよそ100年以上の歴史を経ている。それ以前から「燈火親しむの候」という時候のあいさつは定着していた。一説によると「読書の秋」はどうやら中国の風習にあるといわれる。故事は唐の詩人、韓愈が息子に贈った詩に由来する。

時 秋にして積雨霽(は)れ

新涼 郊墟に入る

燈火 稍 親しむべく

簡編巻舒すべし

降り続く長雨がやんで、空がすっきりと晴れ渡り、郊外の丘では、秋を感じさせる涼しさが感じられる。そんな秋の夜長は、明かりをつけて、そのもとで読書をするのに適した季節だ。図書館で一日おこもり読書も贅沢な時間のすごしかた。

  唐代の詩人、韓愈は愛息に対して詩を贈って勉強を勤しむことを励ましたのである。ここから「灯火親しむべし」という語が生まれた。

 

おしぼりの日

   いろいろある記念日のなかでも「おしぼりの日」の理由がかなり苦しい。10月は「て(ten)」の語呂合わせと10本の指から。29日は「ふ(2)く(9)」(拭く)の語呂合わせで、「手を拭く」からきている。「おしぼり」は日本独特の習慣で英語には「おしぼり」のあたる決まった単語はない。「a moist hand towel」と表現する。「おしぼり」はもともと、お公家さんが客人を家に招く時に出していた「濡れた布」がはじまり。その後、江戸時代に木綿の手拭いが広まり、旅籠で客が桶の水に手拭いを浸して手足をぬぐった、「しぼる」行為から「おしぼり」という言葉が生まれたといわれる。(10月29日)

2025年10月28日 (火)

遠島配流、悲劇の日本史

    戦に負け、政争に敗れ、絶海の孤島に流された貴人・英雄が日本史には幾多いる。日蓮、世阿弥は佐渡に流されている。保元の乱に敗れた源為朝は伊豆大島、関ヶ原の役で敗れた宇喜多秀家は伊豆八丈島に流され、在島49年で死去した。八丈島の流人明細表を見ると日蓮宗不受不施派の僧の流人が多い。

   1221年の承久の乱で隠岐へ配流となった後鳥羽上皇は、在島19年この地で生涯を閉じた。1333年、隠岐へ流罪となった後醍醐天皇は、翌年に無事脱出に成功。1177年、鹿ヶ谷の謀議で九州の南の鬼界ヶ島流罪された俊寛は在島3年で死去した。悲惨な死を遂げた俊寛の物語は、能の「俊寛」や、歌舞伎の「平家女護島」に取り上げられて、広く知られている。西郷隆盛は1859年、奄美大島へ、3年後には沖永良部島と2度も島流しに遭っている。

ハーバード大学図書館

   アメリカ最古の高等教育機関であるハーバード大学が、いつの時点で発足したのかは、はっきりとしていない。一般には1636年10月28日を創立年とみなしている。ハーバード大学図書館は1638年に創立され、アメリカで最も古い歴史がある図書館になっている。この大学と図書館は、イングランド生まれの聖職者ジョン・ハーバードが1638年に死去した際に、遺言で400冊の蔵書と所有不動産の半分をカレッジに寄付するとともに、自分も名前を遺すことになった。1790年ころの蔵書数はわずか1万2000冊を超すにすぎなかったが、図書館の飛躍は、1915年に総合図書館であるワイドナー図書館が創設されてからのことで、当時の蔵書数は56万冊を超えていた。現在、この大学図書館組織には70を超える図書館が所属しており、あわせた蔵書数は1310万冊に及ぶ。世界で米国議会図書館、大英図書館、フランス国立図書館に次いで4位となっている。

ミルウィウス橋の戦い

Battle20of20milvio   312年のこの日、コンスタンティヌス帝(274-337)が、マクセンティウスをローマ郊外のミルウィウス橋で敗死させる。戦いのときコンスタンティヌス帝は天空に十字架(ラバルム)と「汝これに勝て」との文字が浮かんでいるのを見て勝利を収め、ローマに入城した。マクセンティウスは橋から落ちて溺死した。彼の2人の遺児は処刑され、彼に連なる者はみな殺害された。コンスタンティヌス1世は西ローマ帝国の単独皇帝となり、313年2月3日ミラノ勅令を発布。キリスト教会を公認し、禁教令を廃しする。(Millvio,ConstantinusⅠ、10月28日)

2025年10月27日 (月)

花と美少年

  映画「ベニスに死す」に出演した、「世界一の美少年」として一世を風靡した俳優のビヨルン・アンドレセンさんが亡くなった。70歳だった。ギリシア神話で人が花に変身する話がいくつかある。水仙に変身したナルシス。アネモネに変身したアドニス。ヒアシンスに変身したヒアキントス。いずれも美少年である。古代ギリシア人にとって、花にふさわしいのは美少女よりも、美青年だったらしい。それは花の命は儚いものの代表だが、美少年の美もつかの間に移り変わる。美少年はあっという間に男になってしまう。そしてここが肝心なのだが、美少女は美女になるが、美少年は長じて美男子になる例は少ない。美少年はただの男になってしまう。16歳のビヨルン・アンドレセン。時よ止まれ、君は美しい。

 

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城崎にて

 交通事故、殺人事件、病死などなど。最近、悲惨なニュースが毎日流れている。死は人間だけでなく、生きとし生けるものすべてにおとづれる。蜂、鼠、イモリ、小さな生き物たちに死がやってくる。連休で賑わう温泉街で火事があった。5日、兵庫県の城崎温泉の旅館「千年の湯 権左衛門」で出火し、6棟が焼けた。亡くなった人がいなかったのは不幸中の幸いだが、旅行客は恐怖を体験しただろう。ネットでは毎日たくさんの死亡記事があるので、日々、死について考えさせられる。城崎温泉といえば志賀直哉の小説「城崎にて」が有名です。発表したのは大正6年だが、療養のために城崎温泉に行ったのは大正2年8月のことだそうです。直哉30歳。

冷え冷えとした夕方、寂しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考えることはやはり沈んだことが多かった。寂しい考えだった。しかしそれには静かないい気持ちがある。自分はよく怪我のことを考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなと思う。青い冷たい堅い顔わして、顔の傷も背中の傷もその儘で。祖父や母の屍骸が傍らにある。それももうお互いになんの交渉もなく、こんなことが想い浮かぶ。

志賀直哉は没後70年が経過していないので著作権法の関係で全文掲載はできない。

ある朝のこと、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴつたりとつけ、触角はだらしなく貌へたれ下がっていた。ほかの蜂はいっこうに冷淡だった。

 「城崎にて」と似たテーマを扱った作品に「豊年虫」がある。長野県千曲市の戸倉温泉に逗留して執筆した。直哉44歳。「豊年虫」が所収した本が手元になかなか見つからなかった。中央公論社版の「日本の文学 22巻」に収録されている。志賀は長生きしたので死後70年経過するのはまだだいぶん先の話である。

 

秋月の乱

 明治9年のこの日、福岡県秋月で士族の反乱がおこる。元秋月藩士の宮崎車之助や礒淳らが一派を結成し、熊本の神風連と共に今村百八郎、益田静方らが挙兵した。今村は穂波半太郎を斬首したが、小倉鎮台の乃木希典率いる新政府軍によって鎮圧された。(10月27日)

 

 

吉田松陰先生御真影の謎

0045_r  大河ドラマ「花燃ゆ」は幕末・明治維新の精神的支柱であった吉田松陰の妹「文(ふみ)」の目を通して幕末・維新の動乱を描いたドラマだった。これまで吉田松陰の御真影は存在しないと思っていた。だが国立国会図書館の「近代日本人の肖像」に左のような画像が掲載されている。写実的な絵画のような、絵画に修正を加えた写真のような怪しげなシロモノである。実物と似ているのか、松下村塾生の渡辺嵩蔵にみせたところ、松陰のものではないと否定している。真相は謎に包まれている。

   安政6年のこの日、安政の大獄で捕らえられた吉田松陰が小塚原刑場で処刑された。松陰が萩の野山獄から江戸に送られた理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が、萩で吉田松陰に会ったことを話したためだった。評定所が松陰に質問したのは、安政3年冬、雲浜と話した内容と、京都の御所に手紙を置いたのが松陰ではないのか、という2点。これは違うという松陰の主張が了解された。そこで、松陰は意見を聞いてもらえる絶好の機会だと思い、「倒幕のために公卿に手紙を出した。そして幕府の間部詮勝を迎え撃つことを計画した」と告白した。評定所の役人は、予想もしなかった老中暗殺計画に驚いた。評定所の判断は最初島流しだったが、大老井伊直弼が死罪に書き直したといわれている。死刑を受けると松陰は、辞世の詩を詠み、人々に別れを告げた。「吾れ今、国の為に死す。死して君親に負(そむ)かず。悠々たり、天地の事、鑑照、明神に在り」 維新の先覚者として種をまいた松陰は30歳でこの世を去った。(10月27日)

2025年10月26日 (日)

伊藤博文暗殺される

Essay17_1 Anjugun
  川上俊彦(としつね)        安重根

   明治42年のこの日、伊藤博文がハルビン駅で朝鮮の抗日運動家・安重根に暗殺された。伊藤は直ちに列車内のベッドに運ばれた。一杯のブランデーをすすめられ、のみほして若干気を取り直して伊藤は側近に、「誰がやったのか」と聞いた。「朝鮮人です」と答えると、「馬鹿な…」と言いかけて絶命した。撃たれて15分後のことである。安倍晋三が犯人について何も知らないままに死んだことを考えると大きな違いがあった気がする。このとき、伊藤博文の随行員の5人も被弾した。明治・大正の外交官、川上俊彦(1861-1935)もその場に居合わせて被弾した一人である。ここでは彼と関わりのあった3人の男とその死について述べる。1人目は伊藤博文(1841-1909)明治42年10月26日、暗殺される。2人目は乃木希典(1849-1912)大正元年9月13日、自殺。3人目はアドリフ・ヨッフェ(1883-1927)昭和2年11月16日、自殺。

    明治42年10月26日午前9時、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。列車を降りて各国外交団の前を進もうとした時、安重根(1848-1915)の拳銃から発射した6発のうち3発は伊藤に命中し、随行の川上、森、田中、室田、中村らも流れ弾があたった。伊藤博文は午前10時に絶命し、川上俊彦は重傷であった。森槐南はその傷がもとで数ヶ月のち死亡した。

    大正元年9月13日、乃木希典は明治天皇が没すると、妻静子とともに殉死した。川上俊彦は日露戦争の旅順陥落で乃木とステッセルとの水師営での会見のとき、ロシア語通訳をしていた。

    第一次大戦後のシベリア出兵でソ連との基本条約締結に向けた予備交渉を川上は後藤新平から命ぜられた。大正12年2月1日、ソ連のヨッフェが来日した。6月29日から始まった予備交渉はなかなか進まなかった。夏になり、ヨッフェの病状が思わしくなく8月10日に彼は帰国した。川上とヨッフェはその後、二度と会うことはなかった。ヨッフェはその後スターリンの大粛清によって追い込まれて、1927年11月16日、自殺した。

    川上俊彦は水師営の会見、伊藤博文暗殺、ヨッフェ会談など重要事件に遭遇している外交官である。(参考文献:西原民平編「川上俊彦君を憶ふ」昭和11年) 10月26日

柿の日

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規

   今日は「柿の日」。明治28年10月19日、正岡子規は静養先の松山から広島、須磨、大阪を経て奈良に至る。10月26日、宿泊した奈良の老舗旅館「對山楼」で御所柿という柿を食べた。そのうまさに感動したところ、東大寺の鐘が鳴った。東大寺としなかったのは、法隆寺の御所柿が有名だからだろう。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」いかにも秋だなぁと、しみじみ感じる句である。数年前に子規の妹の孫である造園家・正岡明が「子規の庭」を對山楼の跡地に造った。

 

里古りて柿の木もたぬ家もなし 芭蕉

 

熟れ柿を溜め若者の消えし村 古田舟水

 

これを見て美濃の豊かさ富有柿 誓子

 

渋柿も熟れて王維の詩集哉  漱石

 

 

2025年10月25日 (土)

稲架

稲架の道 朝夕きよくなりにけり  林火

 稲架(はさ)は、刈り取った稲を乾燥させるために組まれた木組みのことで、秋の季語です。読みは、「はさ」のほかに「はざ」ともいう。この自然乾燥の「稲架掛(いねかけ)」を「稲架(とうか)」「かけいね」「いなぎ」「たもぎ」「いねほす」など地方により様々な別称があります。

チャイコフスキー、謎の死因

Img_503040_31003385_0   ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)は11月6日(ユリウス暦10月25日)、生水を飲んで、当時流行っていたコレラにかかって死んだというのが一般に信じられている死因である。しかし、このことは死の当初から疑問があった。甥のユーリイ・ダヴィドフ(1876-1965)は、回想記の中で次のように述べている。

   「いくつかの新聞に死因に対する疑問が出た。毒殺、自殺、その他馬鹿げた説がささやかれ始めた。私は確信をもって証言する。ピョートルおじさんを死なせた病気は正真正銘のコレラで、その当然の余病が腎臓にきて尿毒症を引き起こし、そのために衰弱した体が回復できなかったのである」と。

   ところが最近出た国際的に権威のある音楽事典「ニュー・グローヴ」(1980年)が、チャイコフスキーの自殺説を支持する論文を採用したことで、死因に関する論争は再燃した。恐ろしい伝染病にもかかわらず、チャイコフスキーの死には多数の親戚、知人が集まり、死者の別れの接吻をしているが、誰一人としてコレラに罹ったものはいない。生水を飲んでコレラで死んだという話は捏造かもしれない。(Chaikovskii)

島原の乱(1637年)

Martyres20japonenses20802   肥前島原・天草地方は、寛永11年以来凶作続きであったが、農民は島原領主松倉勝家や天草領主寺沢堅高の苛酷な年貢の取立てに苦しめられた。年貢未納者には「蓑踊り」「倒吊り」などの苛酷な処刑が行われた。寛永14年(1637年)10月25日、天草四郎を総大将とする一揆が勃発する。島原・天草のキリシタン農民は、代官・林兵左衛門を殺し、神社仏閣を焼き、島原城下に放火して藩主松倉重政の居城を襲撃した。板倉重昌の率いる幕府軍と城代三宅藤兵衛らが約4万の一揆軍と戦うが敗死する。だが4か月後の寛永15年2月28日、武器・兵糧がつきた原城は陥落し、16歳の天草四郎時貞も戦死した。幕府の戦後処理はきわめて厳しいものとなった。捕虜は婦女子を含めてすべて斬罪。一方、乱の原因をつくった島原藩主松倉勝家は改易、斬罪。唐津藩主寺沢堅高は天草を没収されるが、この裁定を不満としてのちに自害、御家断絶となる。幕府はこれを機にさらに禁教を強化した。(10月25日)

 

2025年10月24日 (金)

戦艦武蔵沈没

 1944年のこの日、戦艦武蔵がレイテ沖、ジブヤン海戦でアメリカ軍機の集中攻撃を受け沈没した。艦長は猪口敏平。戦死者は全乗組員2399名中、1023名、1376名は生存した。実際の沈没日時は10月24日午後7時35分であるが、海軍では記録上、10月25日の午前1時30分とある。太平洋戦争時の巨大戦艦大和と武蔵。両艦は同型艦で、ビジュアルでは、ほぼ同じで区別がつかない。館内の内装や調度品は、武蔵の方が良かったといわれている。微妙な違いを挙げれば、昭和19年7月時点で、改造された装備のうち、武蔵は25ミリ機銃が大和より24挺少ない130挺だったことだ。竣工時の25ミリ機銃は大和が24挺、武蔵が36挺でしかなかったが、対空砲火力を強化するために、途中で増設したのである。(10月24日)

神風連の乱

 1876年のこの日、熊本の士族・太田黒伴雄らが新政府の熊本鎮台を攻撃した。旧肥後藩の士族らによって結成された敬神党により、廃刀令への反対運動として起こっていた。24日深夜、種田政明、安岡良亮宅を襲撃した。その後、全員で熊本鎮台を襲撃し、砲兵営を制圧した。しかし翌朝になると、児玉源太郎ら政府軍が反撃し、鎮圧した。敬神党側の死者め自刃者は計124名。残りの約50名は逮捕された。この事件に呼応して秋月の乱や萩の乱も発生し、翌年の西南戦争へとつながる。(10月24日) 参考図書:神風連実記 荒木精之 新人物往来社 1981年

 

 

世界恐慌と株価大暴落

  1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街の株式取引所で株価が大暴落、これが世界恐慌にきっかけとなった。これは「暗黒の木曜日」と呼ばれる。そして58年後の1987年10月19日の月曜日にニューヨーク証券取引所で株価が急落した。ブラック・マンデーである。それは1929年の「暗黒の木曜日」と29日の「暗黒の火曜日」を上回る、史上最大の508ドル32セント安、下げ率22.6%(ダウ工業株30種平均)を記録。暴落は、ヨーロッパや日本の株式市場に波及、各市場で空前の下げ幅を記録する。20日の東京証券取引所でも過去最大の14.9%、3836円48銭安を記録した。2008年のリーマンショックの影響では日経平均株価も大暴落を起こし6000円台にまで下落した。(Black Monday)

2025年10月23日 (木)

鼻毛のお手入れは入念に

 平安時代後期に末法思想が強まると、貴族や庶民の間では浄土信仰が広まった。栄華物語には藤原道長は死ぬときに仏間に置いてある阿弥陀仏から引いた糸を掴んで臨終を迎えたと記述されている。阿弥陀様は清潔を好むので、衣類は新しいものに着替えて、鼻毛などの手入れは入念にした。鼻毛が伸びていると極楽往生できないのだそうだ。(参考;NHK歴史探偵)

 

 

 

高市早苗、総理大臣に就く

 日本初の女性総理大臣が誕生した。読売世論調査によると「支持する」と答えた人は71%、「支持しない」と答えた人は18%だった。これまで数人の女性が総理の椅子を狙いチャレンジしたが、「ガラスの天井」と譬えられるほど見えるけれども手の届かぬものであった。なぜ高市早苗は天下取りに成功したのか。難しい政策や哲学的な話などではなく、答えは通俗的、かつシンプル。答えは、小学校のどこの図書館にも備えられている豊臣秀吉の生涯を描いた「太閤記」にある。秀吉は足軽として織田信長に仕えて、しだいに頭角を現し、武将として取り立てられた。本能寺で信長が急死すると、信長の遺志を継ぐような形で政権の中枢の座にすわるようになった。高市の場合も類似しているように見える。出自は世襲議員でもなく、足軽の身分ではないにしろ資産家階級とは言えまい。10代、20代の頃はバイクやヘビーメタルのドラマーとして青春を謳歌していたようだ。転機は松下政経塾に入ったことによる。めまぐるしい政界の再編の中で、安倍晋三に近づいたことが成功の最大の一因であろう。安倍晋三の側近となり、党内で最も影響力のある長老の麻生太郎からの支持を得たことが総裁選の勝因の一つである。状況判断力、コミュニケーション力、バランス感覚、すべての点で玉木や野田を凌いでいた。つまり男性でも女性でも関係なく努力次第で誰でも総理大臣になれるということを彼女は体現したのである。だが総理の職務は過酷である。経済対策など喫緊の課題が山積している。明日の所信表明演説を聴きたい。

ブルータス、お前もか

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 「カエサルの死」  ヴィンチェンツォ・カムッチーニ画

  スペインの研究チームがカエサルの暗殺された場所を特定したという。ローマ中心部のトッレ・アルジェンティーナ広場の一角。「ブルータス、お前もか」 シェイクスピアの芝居、「ジュリアス・シーザー」で有名なこの言葉が本当に史実かどうかはさておき、シェークスピアより先に芝居で使われていた名セリフだそうだ。歴史家カッシウス・ディオは「暗殺者がいっせいにおそいかかったため、カエサルは言葉を発することも抵抗することもできずにたおれた」という伝承がもっとも真実に近いとしている。紀元前42年の10月23日は暗殺者の一人、ブルータスが自害した日である。

   ブルータス、正式名はマルクス・ユニウス・ブルートゥス(前85頃ー前42)。暗殺事件当時43歳で、母親のセルウィア・カエピオニスはカエサルの愛人だった。父はブルトゥスが幼い頃に死んでおり、彼はカエサルを父親代わりに育ったといわれる。カエサルもクレオパトラとの間にできたカエサリオン以外、子宝にはほとんど恵まれなかったので、彼を可愛がったといわれる。フィリッピの戦いで死んだブルトゥスの遺灰は母セルウィアの元に届けられた。彼女の晩年については歴史は何も記していない。(Caesar,Largo di Torre Argentina) 参考:毛利晶「カエサル 貴族仲間に嫌われた英雄」世界史リブレット人007 山川出版社 2007

曹操の時代

   西暦200年のこの日、曹操が袁紹の烏巣の陣に夜襲、官渡の戦いに勝利した。

  曹操(155-220)。字は孟徳、一名吉利(きつり)、幼名を阿瞞(あまん)という。沛国譙県(安徽省)の人。魏の太祖、武帝。父の曹嵩は、宦官曹騰の養子に迎えられ、のち大尉の位を一億銭をもって買いとった人物である。曹操は、手のつけられぬ不良少年時代を過ごすが、やがて首都警備隊長に就任、厳格な取り締まりによって都中ふるえあがらせた。

   184年、黄巾の乱が起きると、近衛騎兵隊長として頴川の戦場に派遣され、功績をあげた。その後、いったん郷里に引きこもったが、首都防衛のため西園八校尉が新設されると、積極的意欲を示して典軍校尉となった。

   189年、大将軍の何進らが反宦官クーデターを起こしたが、曹操は傍観者の立場をとった。やがて都を制圧した董卓に協力を求められるが、その傍若無人の振舞いに嫌気がさし、これを断わり、変装変名して都を脱出、陳留で反董卓の兵をあげた。

  192年、董卓が呂布に殺され、英雄たちが争いあう戦国時代的状況が現出する。以後、曹操は、青州の黄巾軍を討伐して自軍に編入し、さらに大義名分を得るため献帝を本拠地の許に迎えて、袁紹と対抗する強大な勢力をきずきあげた。

   200年、官渡で袁紹を破り、ここで曹操の覇権はゆるぎないものとなった。ついで208年、荊州の劉琮を降伏させ、一気に呉をめざした。しかし、呉の孫権と劉備の連合軍に、赤壁で大敗をくらい、以後、魏・呉・蜀の鼎立時代を迎える。とはいえ、天下の三分の二は曹操の支配下にあり、216年には魏王となった。こうして群雄割拠の時代から三国時代が導かれた。中国の北と南という「概念」はこうして作られたわけである。だいたい3世紀から6世紀にわたる400年間は中国の分裂の時代である。そして曹操は220年、66歳で病死する。

    許劭は曹操を評して「治世の能臣、乱世の姦雄」と評している。屯田制を施行し、農業生産に安定をもたらすなど政治的手腕を発揮し、戦略論の大家(諸家の兵法を集めた「接要」、および孫武の兵法に注釈を施した書を著わしている)にして五言詩の基礎をつくった詩人であった。政治家としても、武人としても、詩人としても曹操は傑出した人物であった。しかし中国においては、「三国志演義」の強い影響により、曹操の悪玉的な一面だけがあまりに強調されてきた。その誤った、あるいは不完全な曹操評価を是正しようとする研究が近年進んでいる。(参考:丹羽隼兵・竹内良雄「三国志人物事典」別冊歴史読本中国史シリーズ1  10月23日)

几董忌

   蕪村の高弟高井几董(1741-1789)は京都の高井几圭の次男として生まれ、中興俳諧の指導的役割を担った。寛政元年、松岡士川の伊丹の別荘で、49歳で急逝した。几董忌は陰暦10月23日、冬(11月)の季語。

 

  悲しさに魚食ふ秋の夕かな

 

  舟慕ふ淀野の犬や枯尾花

 

  馬鹿づらに白き髭見ゆけさの秋

 

 裏店やたんすの上の雛祭り 

 

 紙草紙に鎮おく店や春の風 

 

 やはらかに人わけゆくや勝角力 

 

 虹の根に雉なく雨の晴れ間かな

 

 

2025年10月22日 (水)

柳原白蓮

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  人妻の恋愛が姦通罪に問われた時代に、恋愛の自由を実際の行動にうつして世間の注目を浴びた一組の男女がいた。柳原白蓮(37歳)と宮崎龍介(30歳)。閨秀歌人白蓮は九州一の炭鉱王伊藤伝右衛門の妻でありながら、東京大学の社会思想団体「新人会」の宮崎龍介と恋におちた。大正10年10月22日付の東京朝日新聞には、

    「もはや今日はわたしの良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機にのぞみました。すなわち虚偽を去り真実につくときがまいりました。よってこの手紙によりわたしは金力をもって女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の訣別を告げます」という公開絶縁状を掲載した。

    新聞記者たちは、京都祇園の「伊里」へ殺到した。商用を終えた伊藤伝右衛門は妾が経営しているその料理屋にいた。「そんなばかなことがあるものか」事実を知らされた伊藤は怒り叫び、ただちに毎日新聞にその反論を載せ、世論はこの問題に沸いたという。白蓮の行動を勇気ある決断として声援すべきか、それとも、不道徳の名のもとに糾弾すべきか、白蓮夫人は揺れ動く世論の渦に巻き込まれた。この恋の結末は、白蓮の家族からの除籍と総べての財産没収により離婚が成立した。人妻の恋という奔放な行動で世間を騒がせたふたりの恋の結末は、幸福なものだったといえるであろう。

 

 

平安京遷都(794年)

Student4image1  延暦13年のこの日、桓武天皇は長岡京から遷都し、11月8日、新京を「平安京」とする詔を発布した。今の京都である。平安京は都城の制としては平城京と同様に唐の都城を範としたものである。桓武・嵯峨から延喜の治といわれる10世紀初めごろまでは、律令政治の再建がある程度の効果をあげ、律令国家は動揺しながらもその形態をたもっていた。律令官制の規定にない官職を令外の官という。按察使、勘解由使、蔵人頭、検非違使、押領使など。石山寺に伝わる延喜8年の周防国玖珂郡玖珂郷の戸籍を見るとほとんどが女性ばかりである。女性は律令制では税が軽くなっている。そのためにこのような実際にはあり得ないような女性ばかりの戸籍が作られている。このような嘘の戸籍を偽籍という。このように平安時代中期には律令制が行き詰まってきた。(10月22日)

2025年10月21日 (火)

マゼラン海峡の発見

 1520年のこの日、マゼランが南米大陸とフェゴ島の間に海峡を発見。後にマゼラン海峡と命名される。 

    日本語では海峡は海峡だが、英語ではchannelとさらに短い距離しかないstraitに分かれる。英仏間の海全体はEnglish Channelイギリス海峡であり、最も距離が短い部分だけが、Strait of Doverドーヴァー海峡(フランスではPas de Calaisカレー海峡)と呼ばれている。

   島国日本は海峡で事実上の国境をなしている。対馬海峡、宗谷海峡、根室海峡、野付海峡、択捉海峡、占守海峡、台湾海峡など。ベーリング海峡はアメリカとロシアとの国境をなす。マラッカ海峡はマレーシアとインドネシア、ホルムズ海峡はイランとオマーン、ジブラルタル海峡はスペインとモロッコの国境を隔てている。バシー海峡、スンダ海峡。

 10月21日は何かが起こる日だ。これを「特異日」という。過去の歴史をふりかえってみると、トラファルガーの海戦(1805年)、エジソンが白熱電球を発明(1879年)、神宮外苑競技場で学徒出陣壮行大会(1943年)、東京オリンピックでアベベがマラソンで優勝(1964年)、南海ホークスの野村克也が三冠王(1965年)など。本日、わが国で初の女性総理が誕生した。(10月21日、Bering,Malacca,Hormuz,Gibraltar)

村八分

 最近はほとんど聞かれない言葉だが、「村八分」は手元の国語辞典にも載っている。「村のしきたりや約束を守らなかった者を、村民全部がのけものにして苦しめること。仲間はずれにすること。」とある。現代社会では人格権の侵害に当たることもあり、放送禁止用語となっている。
 ところで、「村八分」であっても、「村十分」完全な交際拒否ではなつたところが特色である。村八分の残りの二分、つき合いを拒否してはいても、つき合いはすると残していたのは「火事」と「葬式」だったそうだ。このときだけは例外としたわけです。

 

 

名古屋名物「ういろう」の由来

  名古屋銘菓として知られる羊羹に似た菓子を「ういろう」という。名古屋の「小倉ういろ」を売る餅文という店は、万治2年(1659年)の創業という。もとは「外郎餅」と呼ばれていた。「外郎」という薬に似ていることからそういわれた。外郎薬とは、江戸時代に小田原や京で売り出された、たん切りの薬であった。そのなかの透頂香(とうちんこう)という細長いものの形に似せて作った菓子が外郎餅として売り出されたのである。

  もともとは「外郎」の語は、中国の官名にもとづいている。元の礼部(天地の神の祭りや宮廷の葬儀を扱った役所)員外郎という役にあった陳宗敬(

陳延祐)が、元滅亡後の室町時代、足利義満の頃に来日し博多に移住し医術を業として、陳外郎(1322-1395)と名乗り、外郎薬を創製した。子孫も代々外郎と名乗り、のち宇野氏と改名した。

市川団十郎(二代目)が激しい咳に悩まされたときに服用したところ、たちどころに咳が止まったという。感激した団十郎が、この話を歌舞伎にして上演したことで有名になった。同時に外郎は、渋い薬の口直し用の薬として、江戸時代の当主が小田原に移り、透頂香と名付けて売り出した。菓子の「ういろう」はこの薬の名に由来するといわれている。(武光誠「歴史から生まれた日常語の由来辞典」、エポニム)

直哉忌

049siga  小説家、志賀直哉は1971年10月21日、午前11時58分、肺炎と老衰により関東中央病院で死去した。享年88歳。命日は「直哉忌」というだけで、「河童忌」(芥川龍之介)や「桜桃忌」(太宰治)のような別名はない。そういえば立派な文学記念館や作品が映画化される企画もまずない。どうやらご本人のはっきりとした遺志があるそうだ。無駄のない文章は、小説文体の理想のひとつと見なされ現在でも評価が高い。墓は東京の青山霊園にある。豪壮な墓が多く並ぶ霊園の片隅で、祖父母や父たちと並んで、彼らの墓よりは頭一つ低い位置に立つ、「小説の神様」の墓にしてはつつましい感がある。1980年3月、志賀が亡くなって9年もしてから墓が何者かに荒らされるという事件が起こった。数日後の朝、青山墓地内で志賀直哉のものらしき骨が散乱しているのが見つかった。志賀の墓から300m離れたよその家の墓の敷地の中で、その家の人が墓参りに来た際に見つけたものである。骨壷は益子焼の濱田庄司の高価なものであったためそれを目当ての犯行らしい。犯人は依然として見つかっていない。(10月21日)

2025年10月20日 (月)

車裂き、磔、ギロチン、切腹、火あぶり、いろいろな死刑の話

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    ある学者は「人とサルとが本質的に違うのは、サルは死刑という制度をもっていないことである」と言っている。人類は文明が進むと同時に死刑制度を定めたが、その方法にはいろいろな種類がある。世界史上で最も残酷な死刑は轘刑(車裂き)である。古代中国では、首や手足に縄をかけ、4~5台の車で四方に曳き、身体をバラバラにするという極めて残酷な死刑方法が実行されていた。おそらくこのような残酷な刑罰は先秦時代までであろう。漢代では漢律が整い、死刑は梟首、腰斬、棄市(磔)の三種と決められていた。車裂きの刑はヨーロッパでは近代法が整備されるまで行われていた。日本では豊臣秀吉の時代、石川五右衛門の釜ゆでなど、残酷な刑を6歳の子どもにまで科したという記録が残されている。

   世界的にみて近代以前の罪人処刑の方法として最も一般的な方法が、磔刑である。イエス・キリストが処刑されたことでよく知られるが、起源は古代オリエントからあり、アッシリア人、エジプト人が考案した。斬首は古代ローマ人が考案したものであるが、のちにヨーロッパでも広まった。当時の斬首には斧や刀が使われていたが、死刑執行人が未熟な場合には、囚人の首を何度も斬りつけるなど、受刑者に多大な苦痛をあたえることがあった。

 そこで機械的な拷問具や斬首台が発明された。イタリアでは13世紀、マナイアとよばれていた。ドイツでも中世から一般的な処刑法になり、その設備はディーレ、ホッペル、ドラブラなどとよばれた。イギリスではメイドン(鉄の処女)という名前をつけられ、多くの歴史上の重要人物がこの道具で首を落とされた。時は流れて、18世紀のフランス革命期、フランス人はギロチンを使うようになった。絞首刑はアングロ・サクソン系の民族が用いて、新大陸の西部劇映画などでもよく見ることがある。日本でも死刑には絞首刑が用いられている。

    切腹という日本の独特の腹切り刑は、世界でも珍しい死刑方法である。江戸時代、武士には死刑のかわりに自殺を強制した制度である。ヨーロッパでは15世紀末から、宗教上の異端者に対して火あぶりという処刑法を用いた。魔女狩り裁判といわれる宗教弾圧が最高潮に達したのは1580年から1670年にかけてのことである。ドイツではこの時期に少なくとも3200人以上が処刑された。ヴィーゼンタイクの町では、1562年の1年間だけで63人の女性が妖術使いの罪で火刑になった。

八百長の語源は相撲にあり

   大正8年の「大日本国語辞典」に、「八百長 相撲にて、あらかじめ両力士が打合せをしておきながら、表面上よそおひて相撲を取ること」とある。いまでは日本語の隠語「八百長」は相撲やスポーツ等勝負事に限らず、内々示しあわせておいて、なれあいで事を運ぶことをいうが、もともとはこんな話がある。金指基「相撲大事典」によれば、明治のはじめ、相撲会所の出入であった八百屋の長兵衛(山本長造)という男が、そのころの相撲年寄であった伊勢海五太夫の囲碁の相手をするたびに、お得意様のごきげんをとるために、わざと負けたりすることがあり、これが仲間の人たちに知れわたり、それから相撲で故意に負けることを「八百長する」といいはじめた。いつしか相撲の隠語となっていたのが、いつのまにか、イカサマやインチキでなれあいの勝負をすることを八百長とあざけり罵るようになった。当時、八百屋では野菜だけでなく、乾物、海藻などいろいな商品をとりあっかっていたため、「たくさん」という意味で「八百屋」と呼ばれていた。協会では「八百長は今回が初めてで、過去は一度もなかった」と説明しているが、おそらく、相撲と八百長とは切っても切れない関係が昔からあるのだろう。7勝7敗の給金相撲。なんとか負けてくれと頼まれると、大負けしている自分は断わりきれず、勝を譲るということは当然起りうるだろう。もっとも協会ではこれを八百長とはいわず無気力相撲と呼んでいるそうだが。「八百長の情は人の為ならず」

2025年10月19日 (日)

越後高田藩騒動(1680年)

 越後高田藩では松平光長の跡継ぎを巡りお家騒動がおきた。延宝7年に一旦は採決が下されたが、将軍家綱が死去して綱吉が就任すると、翌年親裁で厳しい処分が下された。高田藩は改易処分となった。

ブルガーニン

   ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン(1895-1975)は1895年6月11日、ロシアのニジニ・ノヴゴロドに生まれる。ブルガーニンという旧ソ連の首相の名前はあまり記憶にない。だが山川の高校世界史には出てくる。マレンコフ後、フルシチョフ(Khrushchov)と「B・Kコンビ」を組んで、冷戦の緩和に努めた。1955年にはアイゼンハウアー、ブルガーニン、イーデン、フォールの四巨頭会談がジュネーヴでおこなわれた。しかし、反フルシチョフの事件に関与したとして1958年に首相を解任されている。わが国にとっては、ブルガーニンは記憶すべき政治家であろう。1956年10月19日、モスクワにおいて鳩山一郎・ブルガーニンとの間で日ソ共同宣言が交わされた。しかし同文書にある両国の平和条約役締結は未だ実現していない。これまで日本語で書かれたブルガーニンの評伝は1冊もない。

関係図書

ブルガーニン首相へ贈る書簡 内藤民治 カレント社 1956

晩翠忌

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 ケペルの愛読書の一冊に中村孝也「新世界史」(ポプラ社)全10巻がある。昭和30年初版だが所有しているのは昭和34年の再版のものである。第1巻には土井晩翠の長詩「星落秋風五丈原」が載っていて何度か繰り返し読んでいた。だがこの詩にはメロディーがあり、明治の学生たちは唱和したものらしいが、歌われなくなった。歌詞が難解なことも一因であろうが、いまではほとんど聴くこともない。ところが最近、youtubeで聴くことができた。「荒城の月」「箱根の山」にも劣らない名曲である。とくに末尾の「丞相病篤かりき」のところは胸にしみる。(10月19日)

 

   星落秋風五丈原

 

祁山悲秋の風更けて

 

陣雲暗し五丈原

 

零露の文は繁くして

 

草枯れ馬は肥ゆれども

 

蜀軍の旗光無く

 

鼓角の音も今しづか

 

丞相病篤かりき

 

丞相病篤かりき

2025年10月18日 (土)

六郷満山

 六郷満山とは、国東半島にある6つの郷(来縄・因染・伊美・国東・武蔵・安岐)に発展した寺院群である。伝説によれば、仁聞菩薩が、養老2年頃に国東半島の各地に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれている。古来の山岳信仰が、近隣の宇佐神宮及びその神宮寺である弥勒寺を中心とする八幡信仰ねさらには天台系修験と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成され、修行地となった。六郷満山の文化財で最も有名なのが、国宝に指定されている「富貴寺大堂」(豊後高田市)である。平安時代の浄土教の仏像が残されている。

信長の上洛

Photo_3   永禄10年、織田信長(1534-1582)は美濃の斎藤龍興(1548-1573)の本拠井ノ口城を陥れた。信長はここを岐阜と改めるとともに、僧沢彦に撰ばせた「天下布武」の印をつくって、武力統一に対する抱負を示した。翌年9月7日、美濃・尾張を平定した信長は、大軍を率いて岐阜城を出発した。そうして、その途中、六角義賢の支城箕作、その他の城々を一蹴し、義賢の居城観音寺山を陥れた。9月28日、信長は足利義昭(1537-1597)を擁して京都に入った。上洛を遂げた信長は東寺に陣し、義昭は清水寺に入った。信長が入京するというので、一時京都市中はパニック状態となったが、入京した信長は、細川藤孝に御所の警備を命ずる一方、軍勢を厳格な軍規統制のもとにおき、市中の動揺もまもなく鎮静した。京都周辺では、三好長逸、三好政康、岩成友通の三好三人衆や篠原長房らに擁立された足利義栄が摂津富田城(高槻市)に、三好三人衆がそれぞれ山城勝竜城(長岡京市)、摂津芥川城(高槻市)、越水城(西宮市)に拠って信長に抵抗していたが、勝竜寺城は29日に、他の諸城も数日のうちに攻略され、三好党は阿波へ敗走した。10月18日、足利義昭は室町幕府15代将軍に就任した。

2025年10月17日 (金)

川端康成「雪国」

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 1968年のこの日、川端康成は日本人としては湯川・朝永博士に次いで3人目のノーベル賞を受賞した。川端がノーベル文学賞を受賞したニュースは当時、明るい話題として大きく取り上げられた。対象作品は「雪国」「千羽鶴」「古都」と、短編「水月」「ほくろの手紙」などであったが、なかでも「雪国」は広く読まれた作品で、何度も映画・ドラマ化されている。

   国境の長いトンネルをぬけると雪国であった。島村は年の暮れの寒さのなかを女に会うためにやって来たのである。無為徒食の島村は、ともすれば失いがちな自身に対するまじめさを呼びもどすために、この春、一人で国境の山々を歩きまわり、山をくだって、たまたま泊まった温泉宿で駒子と馴染んだ。駒子は三味線と踊りの師匠の家にいた娘だったが、今度は芸者になって出ていた。頬を染めて懐かしそうに島村の手をにぎる駒子に、島村は来るべきところへ来た思いがするのだった。駒子はからだをぶつけるように、しげしげと彼に会いに来た。ついには朝がきても帰らず、師匠の家にいる葉子に三味線を持ってこさせて、島村のまえでさらったりした。駒子の三味線は文化三味線譜で習ったものだが、山峡の自然を相手に稽古したその撥の音は、どこまでも強く、冴えかえり、聞きほれる島村の心に孤独な女のひたぶるな純粋さが、せつなくしみ通るのだった。駒子には夫婦になるはずだった師匠の息子がいた。彼は病気で、駒子が芸者に出たのも、その病気の費用を出すためだった。島村が東京へ帰るとき、駅まで送った駒子のもとへ、葉子が息子の急変を知らせてきたが、駒子は葉子を追いかえし帰ろうとしなかった。葉子は息子を愛していた。

   三たび女をもとめて島村がやって来たのは、秋だった。細かい羽虫や蛾の飛び回る部屋で、駒子は激しく島村の胸に身を投げかけた。このまえ駅まで送ってきた駒子が、とうとう師匠の息子の死に目にも会えなかったらしいことを知った島村は、駒子をさそって息子の墓へ参った。墓には葉子がいて、燃える目で刺すように二人を見た。駒子は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄っていった。そんなことが狭い土地のうわさになれば、身を滅ぼすと知りながら、駒子は「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、顔を赤らめるのだった。駒子は「あの子を見てると、行く末私のつらい荷物になりそうな気がするの」と島村に言った。葉子はその駒子を島村のまえで憎いと言った。かとおもうと、「よくしてあげて」と真剣にたのむ。「私を東京へ連れていって」とも言うのだった。

   ついに雪の降る季節がきた。ある晩、映画をやっていた繭倉から火が出た。自動車で偶然そこを通りかかった島村と駒子は、逃げおくれた葉子が失神したまま低い二階から落ちるのを見た。夢中で駆けよった駒子は、芸者の長い裾を引いて葉子を抱きかかえると、「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」と叫ぶのだった。それが島村には、駒子が自分の犠牲か刑罰かをいだいているように見えた。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社、10月17日)

マグノリアの花たち

 ルイジアナの小さな町。病身なのを心配してとめる母サリー・フィールドにさからさって結婚式をあげたものの、子供を残して死んでしまうジュリア・ロバーツ、美容院経営のドリー・バートン、その店に雇われたダリル・ハンー、世にも醜い面相のワンちゃんを連まわる金持の未亡人シャーリー・マクレーンその他の女優たちの笑いあり涙ありの人生模様を、ハーバート・ロス監督が、なたせらかで滋味あふれるタッチで描いた作品。1989年。

 

 

 

 

 

2025年10月16日 (木)

マリー・アントワネットとクロワッサン

 1793年のこの日、マリー・アントワネットはギロチンで処刑された。パリ五輪の開会式。マリー・アントワネットに扮したと思われる女性が赤いドレスに身にまとい、自身の生首を抱えて歌い始めた。この奇抜な演出には賛否が分かれた。マリー・アントワネットはいまでも世界史で最も有名な女性の一人でエピソードも数多くある。バターをたっぷり練り込んだ生地を重ねて焼き上げたパン「クロワッサン」。クロワッサンが生まれたのは17世紀後半のオーストリアのウィーンである。オーストリアはトルコと戦争をしていた。ウィーンを包囲したオスマントルコ軍は、地下道を掘ってウィーンを陥落させようと目論んでいた。ところがある日、地下の工房で働いていたウィーンのパン職人が、トンネルの掘る怪しい音に気づいて軍に通報。彼の通報のおかげでオスマントルコ軍を撃退できたのである。オーストリアの皇帝はパン職人の功績をたたえ、喜んだパン職人は、戦勝を記念してオスマントルコの国旗に描かれた三日月の形をパンを焼いた。これがやがてフランスに伝わり、現在のクロワッサンになったといわている。それはあのマリー・アントワネットが大きくかかわっている。1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの第15子としてウィーンのシェーンブルン宮殿で生れた。14歳でフランス王ルイ16世の妃としてベルサイユへ輿入れした。盛大な結婚式のとき、オーストリアからパン職人も連れてきて、「キプフェル」という三日月形のパンも食卓を飾った。その後、パリのパン職人も皇太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった。フランス語では三日月をクロワッサンというので、「キプフェル」は「クロワッサン」と名を変えて世界中で知られるようになった。

    マリー・アントワネットがどんなに思慮のない、浪費家だったかを物語るエピソードは多数の残されているが、お菓子に関する話を一つ。パリの飢えたおかみさんたちが「パンをよこせ」と叫んで、雨の中をベルサイユ宮殿に押し寄せた。その時彼女は、人民どもはなんだってあんなに騒いでいるの、と側近のものにたずねた。パンがないのですからと答えると、彼女は「パンがなければブリオッシュ(一種の菓子パン)を食べればいいじゃないの」と言ったと伝えられている。

 マリー・アントワネットは、軽佻浮薄、乱費贅沢の限りをつくしたといえども、一掬の涙を誘うものがある。むかし深田恭子が「わたしはチョコレートが好きでマリーもチョコが好き」とか、誕生日(11月2日)が同じで「私はマリー・アントワネットの生まれ変わり」と言っていた。(10月16日)

 

 

道長「この世をば」の和歌について

この世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば

    藤原道長は、娘・彰子を一条天皇の后妃としたが、なかなか子供が生まれない。兄・道隆の娘・定子には既に皇子が生まれているので、やきもきしていたであろう。道長は皇子誕生を吉野の金峯山にまで行って祈願する。金峯山の効験があったのか、ようやく皇子が誕生する。入内して7年目のことである。出産に際しては、今度は安産を願って、加持祈祷などを常軌を逸するほどにののしり騒ぐのである。その験厚く、無事に皇子が誕生するや、道長は、皇子の敦成(あつひら)親王、後の後一条天皇を我がものにして喜ぶ。長和5年、敦成は8歳で天皇に即位し、道長は摂政となり、権勢を振った。四人の娘を入代させ、皇室の外戚として政権を独占した。翌17年長男頼通に摂政を譲り、自分は太政大臣となりその後も勢力をふるった。道長、頼通父子は、後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇の摂政・関白として約50年間栄華を極め、摂関政治の全盛期を現出した。

「この世をば」の歌は、寛仁2年(1018年)10月16日、四女の威子が後一条天皇の女御から皇后に昇進したのを喜んで、道長自身が即興的に詠んだといわれる。「御堂関白日記」には見えず、道長に批判的だった小野宮右大臣藤原実資の日記「小右記」に記されているため、世に知られることとなった。

 栄華をつくした道長の姿は「源氏物語」の主人公として光源氏に投影され、また「栄華物語」では理想的な人物として描写されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年10月15日 (水)

龍馬の婚約者・千葉佐那

 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。馬によく乗り、剣も強く、長刀もできて、力は並の男より強く、美貌で知られた。龍馬と知り合い、婚約したが、帰国後は疎遠になった。龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごした。明治29年10月15日、59歳で死去した。墓地は、甲府市清運寺にあり、墓石には「坂本龍馬室」と彫られている。

 

 

 

きのこの日

Com0669a  キノコのことを「クサビラ」という。狂言「くさびら」では、ある男の家の庭にキノコがたくさん生えてきて、取っても取ってもなくならない。山伏に頼んで祈ってもらうが、キノコはさらに増え続け、山伏につきまとい、いたずらをするので、山伏は「許しておくれ」と言いながら逃げていくというお話である。日本は元来、森林の国であり、キノコは森の生物のため、日本民族はキノコ好きである。しかキノコ切手の図案はたった1種類しか発行されていない。1974年の「国際食用きのこ会議記念」のシイタケ図案のみである。

Tsukiy02  日本には天然に約5000種類のキノコが存在しており、そのうち約50種類が毒キノコである。明治以来、毎年500人以上のキノコ中毒が発生しているが、そのうち7、8人ずつの死者を出していた。近年はやや減少して、この10年間で1000人以上の人が毒キノコで食中毒になっています。キノコの種類としては、ツキヨタケ(画像)、クサウラベニタケ、カキシメジ、ドクササコ、テングタケ、二ガクリタケ、シロタマテングタケ、ベニテングタケなど。

   食用キノコの中で味、香り、希少性において秋の味覚の最高峰ともいえるのが「松茸」である。松茸は高級食材として取引されているが、かつてはシイタケより安かった。松茸は栄養素の高い腐葉土には生育しない。プロパンガスが普及したため、山中に燃料を採取し無くなり、自然生育する松茸が減少し、価格が高くなった。(10月15日)

西行出家をめぐる謎

   西行は保延6年のこの日、23歳の若さで突然出家した。北面の武士として仕えた西行はなぜ出家したのだろう。西行、俗名を佐藤義清(1118-1190)という。鳥羽上皇に北面の武士と仕えたので、平清盛と面識があったと考えられるが資料としては残っていない。西行と頼朝とは面識があったことは証明されている。西行が出家隠遁したのは、保延6年、23歳のときで、動機については古来諸説ある。①友人が急死し、無情を感じたという説②待賢門院璋子に失恋したという説③崇徳天皇への同情。

①の無常観説は、明日を約束して別れた同僚が、次の日家を訪ねてみたら死亡していたという。そして、家に帰ってみたところ、4歳になる娘が喜んでむかえてくれた。かわいいと思ったが「この思いが煩悩だ」と悟り、娘を縁の下へ蹴落とし、自ら髻を切って出家したという。②の失恋説は、女性と一夜を共にしたが別れぎわに「これきりですよ」と言われ、身分違いを痛感、世俗の秩序から離れようと出家したという。③の説は、保延6年は崇徳天皇の帝位失墜の前年であり、皇位交替をめぐる宮廷内部の情勢に義憤を感じたという。

 50年間、自由な身で自然を愛し、四国・九州・奥州行脚と漂泊の旅を続けた。(10月15日)

 

 

2025年10月14日 (火)

徳川慶喜と大政奉還

Yosinobu  慶応3年10月14日、徳川慶喜は二条城で大政奉還の上表を提出した。それは江戸幕府が倒れて明治政府にとってかわる過程の中での、一つの大きな出来事であった。大政奉還は西南雄藩の武力倒幕運動を先手を打ってその口実を奪うためのものであった。慶喜は、幕府勢力を温存させる方向で、当面政局を打開と収拾をはかったのである。

  慶喜を「ヨシノブ」と読むことは小学生でも知っている。だが手元の漢和辞典で「慶」を調べても「ケイ」「キョウ」とはあるが、「ヨシ」とは出ていない。人の名前に使われる特別な読み方を、「名乗り(なのり)」という。頼朝、正成、家光の朝(トモ)、成(シゲ)、光(ミツ)も特別な読み方である。「お言葉ですが…」で知られる高島俊男もなぜ「朝(とも)」と読むのか分からないと書いている。つまり名乗りは長い間の慣用的な読み方でいまでは理由を説明することは学者でも困難な場合が多い。現行法では人名に使用する漢字は制限されるているが、読み方は戸籍に記載されないから、自由に読んでよいとされている。徳川慶喜は現行の法体系以前の人物だから、関係ないのだが、仮に、現在でも「慶喜」と書いて「ヨシノブ」と読ませることに、何ら支障はない。ただし、読みは自由といっても、100人のうち99人までが読めない命名は避けたほうがいい。人名読み方の基本や名乗り事典にある範囲内にとどめるべきだろう。ちなみに徳川慶喜自身は「けいき様」と呼ばれることを好んだといわれる。「ヨシノブ→世忍ぶ」という音韻連鎖を嫌ったのだろうか。 

 

大小切騒動

  明治5年に起こった山梨県の農民一揆。米納を基本とする江戸時代において、米の取れなかったため甲府では近世以前の金納税制が適用されていた。だが明治政府は明治5年大小切税法の廃止を命じたため、国中三郡(山梨郡・八代郡・巨摩郡)ではこれに対する反対運動が起こった。しかし軍隊の出動により農民勢は鎮圧された。首謀者の島田富十郎、小沢留兵衛には絞首が行われ、処罰は3772人に上った。参考;「黎明の農夫たち:甲州大小切騒動」中村芳満 郁朋社 2011年

 

 

渟足柵(「ヌ」事項索引)

 「鵺(ぬえ)」はツグミ科のトラツグミの異称。森の中で「ヒ―ヒョー」と鳴くので怪鳥視されるようになった。これから、正体不明のものや、得体のしれないものに対して「鵺のような」という表現が用いられる。現在では禁止されている言葉。▽「渟足柵(ぬたりのき)」越国(現在の新潟)におかれた古代の城柵。647年に造営された。▽「ぬりかべ」夜道を歩く者の前に突然立ちはだかり、行く手を遮るという悪戯をする妖怪。▽「ヌクレオチド」ヌクレオシドにリン酸基が結合した物質。▽「布引の滝」(神戸市)は平安貴族が風雅を楽しんだ景勝地として「伊勢物語」第87段などでも広く知られている。▽「ヌーヴェル・ヴァーグ」1959年頃フランスに起こった映画運動。「新しい波」を意味する。代表作「いちこ同志」「大人は判ってくれない」「勝手にしゃがれ」▽「ヌース」Nousギリシア語。心、またはその本質としての理性を意味する。▽「ヌートリア」げっ歯目のイリネズミ科に属する哺乳類。南米原産。▽「白膠木の耳五倍子」ぬるでのみみふし。アブラムシ科の昆虫。(ぬぬぬぬ)

ヌー(怒江)
ヌアクショット(モーリタニア)
ヌイイ条約(1919年)
ヌーヴェル・ヴァーグ
鵺(ぬえ)
ヌエバ・エスパーニャ副王領
ヌエボラレド(メキシコ)
ヌオロ(イタリア)
額田王
ぬかに釘
糠平温泉
泥濘
ヌクアロファ(トンガ)
ヌクレイン
ヌクレオチド
ヌサンタラ(インドネシア)
ヌーシャテル(スイス)
ヌジャメナ(チャド)
ヌース
渟足柵(ぬたりのき)
ヌートバー(榎田達治)
ヌドラ(ザンビア)
ヌートリア
沼河比売(ぬなかわひめ)
ヌニェス・デ・アルセ
ヌーノ・ベッテンコート(ギタリスト)
沼波瓊音(ぬまなみけいおん)
布引五本松堰堤
布引の滝(神戸市)
ぬばたまの
ヌビア砂漠(エジプト)
ヌバール(フランス)
ヌーボー・ロマン
沼津市(静岡県)
沼間守一
ヌマ・ポンピリウス
ヌミディア
ヌラーゲ
ぬりかべ
ヌルスタン(カザフスタン)
ヌルッラバイ宮殿
ヌルデ
白膠木の耳五倍子(ぬるでのみみふし)
ヌルハチ
ヌルミ
温湯温泉(ぬるゆおんせん)
ヌレデバ
ヌワラ・エリヤ(スリランカ)
ヌンチャク

 

 

イギリスの古城、ドーヴァー城

Dovercastle

 

    イングランド南東端の断崖ドーヴァーには早くから城砦が築かれたが、ローマ軍が撤退したのちはアングロ・サクソン人が引き続いてここに城郭を構えた。1066年10月14日、ノルマン王ギョームが対岸のノルマンディから海岸を渡ってイングランドを制圧しようとするや、これを察したイングランド王ハロルドは1064年にドーヴァー城をいっそう強化して待機したが、ノルウェー軍との交戦中に不意をつかれて別の場所に上陸されてしまった。あわてて引き返して応戦したもののハロルドは敗死してしまい、その後は、征服王ウィリアム1世(ギョーム)によるノルマン朝の時代に入る。ウィリアム1世は、この港町を重視してドーヴァー城の防備を厳にした。だが、ドーヴァー城が今日みられるように整備されて高度の城郭となったのは、プランタジネット朝の初代、ヘンリー2世(在位1154-1189)の時代である。中心をなすキープからこれを取り巻く城壁や空濠、塔や城門までが完全に残っており、ドーヴァー城はイギリスを代表する古城である。

鉄道の日

Hayabusa_m  本日は「鉄道の日」。明治5年10月14日、新橋・横浜間に鉄道が開通した。台風のため3日延期されたが、この日、晴れの鉄道開業式が挙行された。明治天皇も試乗され、砲兵の祝砲・軍艦の賀砲がとどろき、2万人に赤飯が配られ、にぎやかな開業式であった。「鉄道記念日」は1922年に正式に決められた。1994年に「鉄道の日」と改称される。

 蒸気機関を小型化して台車や船に取り付け、交通機関の動力として利用しようという試みは、19世紀初頭のヨーロッパで起こったが、日本人の鉄道の知識は数十年遅れて、1840年代から一部の蘭学者のあいだに広まっていたと考えられる。1855年には佐賀藩精錬所で模型機関車が制作された。1864年には海軍操練所の佐藤政養(1821-1877)が鉄道知識をえる。1865年にはイギリス人トーマス・グラバー(1838-1911)が長崎・大浦海岸で英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号、鉄道の試運転を行い300m走行した。1867年にはアメリカ公使館書記官アントン・ポートマンが江戸ー横浜間鉄道建設の免許を得たが、幕府の倒壊によって無効となった。1869年、明治政府はイギリス駐日公使ハリー・パークス(1828-1885)の進言をいれ、大隈重信・伊藤博文らが中心となって鉄道建設を決定し、1870年3月新橋ー横浜間の工事を開始した。イギリスからの資金提供と、エドモンド・モレル(1840-1871)以下のイギリス人技術者および資材が導入された。新橋ー横浜間開通に先立ち5月7日には、品川ー横浜間が仮開通していた。鉄道は陸蒸気(おかじょうき)とよばれ、客車は上等・中等・下等に分けられていた。この開通を先駆けに、鉄道は政府の重要施策となり、官営・民営による各地の鉄道建設が進められることになる。そして、1874年大阪ー神戸間、1877年京都ー大阪間、1884年上野ー高崎間、1887年仙台ー郡山間、1889年東海道が開通する。

    明治初年の鉄道開設には「鉄道の父」といわれた佐藤政養の功績が大きい。佐藤は明治4年に初代鉄道助(現在の運輸次官)に就任している。ちなみにNHK大河ドラマ「龍馬伝」では有薗芳記が演じていた。(10月14日)

2025年10月13日 (月)

青木昆陽の墓

 本日は「さつまいもの日」。「栗よりうまい十三里」ということから、昭和62年にこの日が定められた。人生の最後の食事で食べたいものは?って言われたら、巨人の丸佳浩選手は、ズバリ「おいも」と答えた。JR山手線・目黒駅を降りて、太鼓橋を渡ると、目黒不動尊がある。正式には泰叡山龍泉寺(天台宗)といい、境内に豊かな湧水があり、古くから不動信仰の霊地である。幕府の庇護も厚く、江戸近郊における人びとの参詣行楽の地として繁栄をきわめていた。独銛の滝に打たれて水垢離をとり、不動尊に祈願成就を祈るのである。この滝は「江戸名所図会」や広重の浮世絵にも描かれている。寺の裏手に青木昆陽の墓がある。昆陽は、八代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、「和蘭文字略考」「和蘭貨幣考」「和蘭語訳」など著述する。また「蕃藷考」を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために「甘藷先生」と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和六年歿。行年72歳。(10月13日)

 

 

 

海潮音

B0081843_20423554   1905年のこの日、上田敏の訳詩集「海潮音」が刊行された。西洋詩の翻訳として、一世を風靡したこの詩集の題はなんと法華経からきている。海鳴りの音の響きが人々の胸に浸み入るようにという気持ちが込められている。(10月13日)

秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみてひたぷるにうら悲し

鐘のおとに胸ふたぎ色かへて涙ぐむ過ぎし日のおもひでや

げにわれはうらぶれてここかしこ

さだめなくとび散らふ落葉かな・・・。

   落葉   ヴェルレーヌ

 

 

名曲アルバム「交響詩 ターボル」

 ターボルは15世紀、チェコの宗教改革派の拠点となった町。スメタナはフス派信徒の英雄的な戦いを讃えて、1878年に管弦楽曲「我が祖国」の第5曲に「ターボル」を作曲。フスは教会を烈しく非難して破門され、焚刑に処せられた。しかしその死後、その教理を信奉する者たちが団結し、フス戦争を起こす。この戦いは18年にも及ぶものであったが、結果としてフス運動は失敗に終わった。しかし、これをきっかけにチェコ人が民族として連帯を一層深めることになった。

 

 

安山岩

 安山岩は火山岩の一種で、日本の火山には一番多い岩石である。暗い灰色で黒や白の斑点がある。構成鉱物は中性の斜長石(つまりアンデシンやラブラドライト)と輝石や角セン石であるが、黒雲母があることもある。安山岩には、それがふくんでいるおもな有色鉱物によって、シソ輝石安山岩、複輝石安山岩、輝石安山岩、角セン安山岩、黒雲母安山岩などの種類がある。ふつう輝石をもっているものほど塩基性で玄武岩に近い性質をもち、角セン安山岩、黒雲母をもつものほど酸性である。さらに酸性になると構成鉱物として石英がはいるので、とくに石英安山岩とよんでいる。かたくて耐火力が強いので建築石材や墓石に使われる。すなわち神奈川県の根府川石、福島県の白河石、群馬県の秋間石など。また薄板状の長野県諏訪の鉄平石は、安山岩の板状節理を利用して採取したものである。

スポーツの日

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 施薬院解男体臓図 1798年

 

  本日は「スポーツの日」。各地でスポーツ系イベントが予定されているが、あいにくの雨模様である。北海道~北陸は雨、関東~九州は午前中は雨、午後は晴れ間の所もある。昭和39年10月10日、東京で第18回オリンピックが開かれた。これを記念として、10月10日を「体育の日」として、国民の休日とした。2020年からは10月の第2月曜を「スポーツの日」と変更された。 体育の普及の手段としての内容は体操からスポーツを中心に移行し、近代スポーツは、オリンピック大会、アジア大会、ユニバーシアード大会、国体などの大きなスポーツ行事と、一般人の場合しリクレーションとしてのスポーツが急激に発達し、ややもすれば体育はむしろスポーツにおきかえられた感がある。ここにスポーツと体育の混同をきたした。医師や保健婦からも「あなたはスポーツはなにもしないのですか?」と聞かれる。「身体的な体操や運動は日常的にしていますが、競技としてのスポーツは何もしていません」というと、けげんな顔をされる。とくに日本の場合、明治の初期からフィジカル・トレーニングとしての体操と、競技としてのスポーツがほぼ同時に学校で取り入れられたため古くから混同されてきた。

 

  では体育とは何か。ここでは少しふるいが、アメリカにフィットネスの概念を導入した体育生理学者アーサー・スタインハウス(A.H.Steinhaus)の「体育の四原則」を紹介する。

 

1.人間尊重の原則

体育が教育であるためには人間尊重の原則を忘れてはならない。教育である手段では、特に身体的、精神的、道徳的のために相当のトレーニングを必要とする場合もあろうが、その手段としてはいろいろなスポーツが用いられる。しかし、それらスポーツ種目と人間が同価値のものではあり得ない。たとえば、コーチや学校を有名にするためそれを行なわせたとすれば、人間性は無視され教育の分野から除外される。

 

2.オーバー・ロードの原則

筋や呼吸循環機能は、現在能力をこえた、一般人が1日作業する強度をこえた負荷(刺激)を与えない限りそれ以上の発達はしない。

 

3.可逆性の原則

人間のからだはトレーニングを反復しなければ元に戻る。身体運動というストレスを長く与えると多くの組織器官はこれに対する適応力を与えられるが、これを中断して実行しなければ可逆的である。

 

4.integrationとintegrityの原則

全身の全機能を動員する能力、心身一体の行動をintegrationというが、この機能が社会から容認された理想に向かって、社会的因子、知的因子、情緒的因子が統合作用に権威と方向を与えるときintegrityである。体育はこの両面がなければならない。(参考文献:森脇勤「保健体育学概論」啓文社)

2025年10月12日 (日)

米国女優ダイアン・キートンさん死去

 ロサンゼルス出身。1970年「ふたりの誓い」で映画デビュー。この作品でコッポラの目に止まり「ゴッドファーザー」のケイ・アダムズ役に抜擢された。その後ウッディ・アレンのミューズとなり、「「ボギー俺も男だ」「ウッディー・アレンの愛と死」「アニー・ホール」と連続出演した。「ミスター・グッドバーを探して」では麻薬とセックスに溺れる女教師を体当たりの演技で見せた。複雑な現代女性を代弁した知的でファショナブルな役が得意だった。

   主な出演作「インテリアン」「マンハッタン」「レッズ」「シュート・ザ・ムーン」「リトル・ドラマー・ガール」「ロンリー・ハート」「ラジオ・デイズ」「赤ちゃんはトップレデイがお好き」「花嫁のぱぱ」「マイ・ルーム」「恋愛適齢期」など。

 

 

 

 

 

創見は難く、模倣はやすし

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  世界史上における最も重要な業績の一つとして、すぐ思いつくのは、コロンブスのアメリカ大陸発見であろう。1492年10月12日、コロンブス率いるスペイン艦隊が西インド諸島に初上陸した。アメリカの多くの州では10月第2月曜を「コロンブス・デー」の祝日としている。

  クリストファー・コロンブス(1451-1506)は「地球は丸い」とする学説に基づき、大西洋を西に進めばアジアに到達できると考えていた。第1回航海(1492-93)は船3隻、乗員120人で、1492年8月、パロス港を出発し、カナリー諸島を経由して西航した。配下の者が航海について不安になって反抗を起こそうとするのを抑えて航海をつづけ、10月12日バハマ諸島の一つグアナハニ島に到着した。彼はこの島をサン・サルバドルと名づけた。現在のワトリング島がこれに当たるものと推定される。次にサマナ・ケイ島付近にも立ち寄ったとされる。これがアメリカ発見の端である。帰還するとコロンブスは英雄として迎えられた。しかしこの偉業をただ西へ向かって航海したら偶然に出くわしただけではないか、と評する人々もいた。コロンブスは目の前の卵を立てることができるかと質問した。誰もできないのを見た彼が教えた方法は、卵の尻をたたいて平らにすることだった。創業というものが、最初に考え、最初に実行するところに意義があるのだということを示したというコロンブスの有名な逸話は残念ながら史実ではない。この話はイタリアの建築家ブルネレスキ(1377-1446)のことといわれる。そうなると、ブルネレスキの卵という方が正確かもしれない。(Columbus)

2025年10月11日 (土)

「ほ」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Jose_de_san_martin_por_navez     ホセ・デ・サン・マルティン(1778-1850)はアルゼンチンの軍人。南アメリカ諸国をスペインから独立されるために活躍した。1822年ボリーバルとの会談の結果、すべての地位を辞職し、フランスに亡命、貧窮のうちブーローニュで没した。▽「ポーラ・ラドクリフ」女子マラソン世界記録保持者、2時間15分25秒。▽「ポール・アンリ・チリ―・ドルバック」1723-1789。フランス語で著作活動をしたドイツ出身の哲学者。▽「ポール・ベルナ」フランスの児童文学者。「首のない馬」1908-1994。Jose de San Martin。▽「ポール・モラン」フランスの作家・外交官。代表作は「夜ひらく」。▽「ホーレス・ケプロン」明治初期、北海道の開拓顧問を務める。▽「ポンセ・デ・リオン」1474-1513。スペインの探検家。1513年フロリダを発見。

ボー・ブリッジス
ホー・シャオシェン
ホー・チ・ミン
ホアキン・フェニックス
ホイットニー・ヒューストン
ホーギー・カーマイケル
ホセ・アルベルト・ムヒカ・ユルダノ
ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ
ホセ・オルテガ・イ・ガセット
ホセ・パディーヤ・サンチェス
ホセ・フェラー
ボニー・ベデリア
ホノリウス
ポッパエア・サビナ
ボニー・ライト
ボビー・シャーマン
ボビー・ジョーンズ
ボビー・ダーリン
ボブ・ケイン
ボブ・ディラン
ボブ・フォッシー
ボブ・ホスキンス
ボブ・ホープ
ホープ・ラング
ボボ・ブラジル
ホーマー・ハルバート
ホメイニ師
ボーヤイ・ヤーノシュ
ポーラ・ネグリ
ポーラ・ラドクリフ
ポリー・ウォーカー
ホリー・ハンター
ボリス・ジョンソン
ボリス・チチェーリン
ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン
ポリス・カーロフ
ポリス・パステルナーク
ポーリーヌ・レアージュ
ポール・アレン
ポール・アザール
ポール・アンカ
ポール・アンリ・チリ―・ドルバック
ポール・ヴァーホーヴェン
ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ
ポール・ウォーカー
ポール・オースター
ポール・ギャリコ
ポール・グリーングラス
ポール・ゴーギャン
ポール・サミュエルソン
ポール・ジアマティー
ポール・シニャック
ポール・ジュリアス・ロイター
ポール・スコフィールド
ポール・ストランド
ポール・セザンヌ
ポール・ティベッツ
ポール・デルヴォー
ポール・トーマス・アンダーソン
ポール・ニザン
ポール・ニューマン
ポール・ハギス
ポール・フレデリク・サイモン
ポール・ベタニー
ポール・ベルナ
ポール・ヘンリード
ポール・モラン
ポール・モーリア
ポール・ラマディエ
ポール・ラングラン
ポール・ロジャー・ローレンス
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
ポル・ポト
ポール・マザースキー
ポール・マッカートニー
ポール・ムニ
ホルスト・ケーラー
ホルスト・ブッフホルツ
ホルへ・ルイス・ボルヘス
ホルローギン・チョイバルサン
ホレーショ・アルジャー
ホレーショ・ゲイツ
ホレーショ・ネルソン
ホレス・ウォルポール
ホーレス・ケプロン
ポレスワフ1世(ポーランド)
ポーレット・ゴダード
ポン・ジュノ
ポンセ・デ・レオン

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   ポール・ヘンリード(写真左)はナチを避け渡米したオーストリア出身のスター。「カサブランカ」では反ナチスの指導者ラズロを演じた。

 

 

配給統制と山口良忠の死

2011624151638_2   1947年のこの日、東京地裁の判事、山口良忠は終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して配給食糧のみの生活のため栄養失調で死んだ。死後20日ほど経って、朝日新聞で報道され、その存在が知られるようになった。

 

「帰りきてふるさとの空かくばかり 

 

 青かりしとは知らざりしかな」

 

これは山口判事の辞世の歌である。

 

   戦後の復興期はインフレへ対応するためのさまざまな経済統制が実施されていた。「臨時物資需給調整法」によって戦後配給統制が再開された。こうした政府の配給統制に対して、ヤミ市が各地に発生した。ヤミ市は、政府の定める公定・配給価格よりも高値をつけたが、配給のみでは円滑に調達できなかった生活必需品を人々はヤミ市で購入した。ヤミ市は不法であったが、政府は取り締まりなかせらも黙認する側面があった。山口良忠は、大正2年11月16日、佐賀県杵島郡白石町に生まれる。小学校教師の長男。京都大学卒業後、判事となる。昭和17年に東京民事裁判所に、転任後、昭和21年10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。この部署では、主に食糧管理法違反者を担当しているため、それを取り締まる自分が闇米を食べてはいけないのではないかと思うようになり、この頃から闇米を拒否するようになった。山口判事は配給のほとんどは二人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活した。周囲の人はその身を案じて食糧を送ったり、食事に招待するなどしたものの、山口判事はそれらも拒否した。昭和22年8月27日、地裁の階段で倒れ、ようやく故郷の佐賀県白石町で療養したが、10月11日、栄養失調がもとによる肺浸潤(初期の肺結核)のため33歳で死去した。

 

   「食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれを服従せねばならない。自分はどれぼど苦しくともヤミ買い出しなんかは絶対にやらない」「自分等の心にいちまつの曇があり、どうして思い切った正しい裁判ができようか」「自分はソクラテスならねど、食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ」などと綴られた病床日記が没後、報道されて大きな反響を呼んだ。

 

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2025年10月10日 (金)

永田町決戦の時

 8日は草花に降りた冷たい露が秋の深まりを告げるとされる二十四節気の一つ「寒露」。大阪の最高気温は31度で驚くほど蒸し暑い一日だった。今年は寒露をすぎてもまだ暑い日が続く。高校の漢文で習った十八史略の故事「合従連衡」を思い起こさせる。2025年、永田町「秋の陣」は高市新総裁と野党が推す統一候補との一騎打ちという構図だが、10日は、これまで自公連立をとってきた公明党が連立解消を発表し、衝撃が走った。野党が政権を奪取する千載一遇のチャンスがめぐってきた。野党第1党の立憲民主党は国民新党の玉木雄一郎を首相候補に担ぐという奇策を打ち出したが、維新の吉村の画策により、3野党連立政権は夢幻に終わった。高市早苗の女性初の首相誕生は現実のものとなりつつある。

 

素逝忌

  古書漁りして昏れにけり素逝の忌 (松崎豊)

 10月10日はホトトギスの歌人長谷川素逝(1907-1946)の忌日。素逝は日華事変に召集され、戦場の体験を句集「砲車」で詠み、世間に知られた俳人。

マグロの日

 本日は「マグロの日」。726年のこの日、山部赤人が明石を訪れ、まぐろ漁で栄える地を讃える歌を詠んだ。「鮪釣ると海人舟騒ぎ塩焼くと人が多にある」と万葉集にある。1986年に日本かつお・まぐろ組合が「マグロの日」を制定した。(10月10日)

 

 

缶切りは缶詰ができてから半世紀後に発明された

Po20100528_0016  1877年のこの日、北海道石狩町で日本初の本格的な缶詰工場が営業を開始した。

    ドラマ「最高の離婚 第7話」で八千草薫が「缶詰が発明されたのが1810年で缶切りが発明されたのが1858年。おかしいでしょ?でも、そういうことあるのよ。大事なものが後から遅れてくることもあるのよ。愛情だって、生活だって」というセリフが利いている。ところで缶詰は遠征における食料補給に悩まされていたナポレオンがフランス兵士向けの携帯食としてアイデアを募ったところ、ニコラ・アペールのアイデアが採用された。ただし瓶詰だったので重くて破損しやすいとう欠点があった。実用的な缶詰を発明したのが1810年イギリス人のピーター・デュランドで、日本の茶筒をヒントにしてブリキ缶を作った。缶切りは1858年アメリカのエズラ・J・ワーナーが発明した。では缶切りができるまでどうして開けたのか。しかたがなくハンマーと鑿で抉じ開けたらしい。そのような話はほかにある。ライターはマッチより早く発明された。ライターが発明されたのは1722年のことで、マッチが初めて発明されたのは1827年。ライターのほうがマッチより50年以上も前に発明されていた。((10月10日)

 

 

 

 

2025年10月 9日 (木)

カッパブックスの時代

Kappa   1954年のこの日、光文社が新書版の「カッパブックス」の刊行を開始した。多湖輝「頭の体操」、岩田一男「英語に強くなる本」「英単語記憶術」、三島由紀夫「葉隠入門」、安田徳太郎「人間の歴史」「万葉集の謎」、塩月弥栄子「冠婚葬祭入門」などベストセラーを連発した。(10月9日)

バイオントダム災害(1963年)

 バイオント川は、イタリア北東部のヴェネト州を流れるピア―ヴェ川の支流川である。バイオントダムは1957年に着工し、1960年に竣工。262mの堤高は世界一であった。1963年10月9日、大規模な地滑りによって貯水湖から押し出された水が津波となって、ダムの下流の集落に壊滅的な被害をもたらした。2000名以上が死亡したとされる。Vajont

 

瑠橡川

  北海道、オホーツク海に面した興部町を流れる小さな渓流、瑠橡川。ルロチ川と読むが、アイヌ語に由来する地名で、海水がいっぱいある川という意味。

最新研究・文明の始まり

 いま文明の起源が歴史学者の間で見直されようとしている。世界最古の文明メソポタミア、それより5000年以上前につくられた謎の巨大遺跡がトルコ南東部、ギョベック・テぺ(トルコ語で太鼓腹の丘を意味する)で発見された。直径20mほどの円形の石の建物が並ぶ。そびえる石の柱の高さは5m以上。それは濃厚が始まるずっと前で、考古学上でいえば中石器時代の頃である。土器も金属器もない狩猟採集の時代に文明が誕生していたのだろうか。

 日本では文明の誕生は大河流域に発達した四大文明が長らく唱えられていた。しかし今世界では四大文明説を始まりとする考えをしている国はほとんどない。1967年刊行された「大世界史」の第1巻、三笠宮崇仁著の「ここに歴史がはじまる」がベストセラーとなり、最古の文明の担い手はシュメル人だと考えられた。文明形成の過程をよくあらわしているのがメソポタミアの遺跡である。長い年月にわたる生活の痕跡が、テベとか、テルとよばれる遺丘の形をとり、層位的に把握できる。シャニダール(前10000年ころ)、カリム・シャヒル(前8000年ころ)の遺跡は原始的な農耕と、粗放な牧畜による、早い段階の村落をしめしている。今日、中石器時代のナトゥフ文化(前10000年-前8000年)と呼ばれている。ジャルモ遺跡(前6800-前5800年ころ)は、それよりも格段に進歩した文化を持っている。もはや季節的な住居ではなく、牧畜をもった家屋が50戸ほどの集落で300人が住んでおり、エンマー小麦・豆類、ヤギ・犬・豚の家畜化がなされ、初期村落共同体に特有の粗製土器のほか、輸入品と考えられる彩文土器があり、すでに原始的な交流がおこなわれていたことをしめしている。その結果、人々は飢えの心配が少なくなり、村落ができて定住生活がはじまる。このような食料生産の開始は、18世紀後半にイギリスではじまった産業革命にもくらべられる大きな変革なので、食料生産革命といわれる。(Jarmo、世界史、文明の誕生)  文献:世界の農耕起源 スチュアート・ヘンリ編著 和田久彦ほか訳 雄山閣 1986 

 

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表裏があるパラグアイの国旗

  国旗はふつうは表裏一帯のものがほとんど。だがパラグアイの国旗は世界でも珍しい表と裏のデザインが一部分異なるものだ。赤、白、青の三色旗のベースは同じだが中央の白地にある紋章が表裏で異なる。表側が正式な国章、裏側が国庫の証印が表示されている。このほかモルドバ、サウジアラビアの国旗も表裏がある。(Paraguay)

 

Photo 表側

 

Photo_2 裏側

ノーベル賞の季節がやって来た

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   免疫学の研究で大阪大の坂口志文特任教授がノーベル生理学・医学賞を受賞した。そして京都大学の北川進教授もノーベル化学賞を受賞した。今年こそは村上春樹のノーベル文学賞が実現するか期待が高まった。東京荻窪のブックカフェ「6次元」に集まったハルキストたちが文学賞の発表を見守る。しかし残念ながら今年も受賞ならず。「また来年ね!」今年はハンガリーの作家、クラスナホルカイ・ラ―スローさんが受賞した。いつごろからか村上春樹のファンをハルキストと呼ぶ。村上の小説やエッセイから伺える趣味や生活スタイルに影響を受けることが多い。映画・文学・音楽・料理・マラソン・水泳・猫など都会的で冷めた感じの若者をイメージさせる。とくに団塊の世代以降に多く、戦前・戦中派は村上文学などはほとんど読まない。かつて村上といえば村上元三だった。このようなハルキストの存在を村上自身がどのように感じているかは分からない。代表的ハルキストとして内田樹がいる。彼は「村上春樹は世界的に人気があるから偉い。だから普遍的で、とうぜんノーベル賞に値する」とつねづね語っている。世界中でたくさん本が売れるということと、文学としての価値があり、永遠性があるかという問題がイコールとして捉えられるかは疑問である。本がよく読まれる、売れる、商業的な成功が全てという考えにはむしろ反対する人も多いのではないだろうか。ある意味で内田のような単純な文学観を語る人は幸せなのだろう。司馬遼太郎が時代物の大衆作家から国民的文豪といわれるようになったころ、関西大学の谷沢永一がやたらと司馬をほめあげて、解説本をたくさん出すようになった。芸術家一般に売れずに必死に書いているときはいいものが生まれるが、地位と名声、お金がたまって大家になると保守的になってつまらなくなる。ハルキストや谷沢のような存在は迷惑だが、村上にとってノーベル賞をもらわないことのほうが作家として幸運だと思いたい。村上以外にも、海外では多和田葉子や小川洋子のように日本人の作家が高く評価されており有力候補である。

2025年10月 8日 (水)

骨と関節の日

 本日は骨と関節の日。「骨」の「ホ」の字が「十」と「八」に分けることができ、「体育の日」にも近いため、骨と関節の健康に気をつけようと、日本整形外科学会が制定した。

   パソコンや読書など長時間前傾姿勢でいると、どうしても背中が丸くなって猫背になることが多い。

   猫背、医学用語で脊柱後湾症。英語で言うカイフォシス(Kyphosis)は、悪い姿勢の代表だと考えられる。この姿勢は胸とへその距離を縮め、首、肩、関節及びそれらの筋群の機能を低下させ、更には呼吸・循環機能にも悪影響を与える。一般的な猫背は、機能的猫背であり、永久的なものではない。お年寄りに多く見られる。骨粗鬆症などに起因する猫背、英語で言うハンプバック(humpback)とは異なる。ハンプバックは、骨量の減少により胸椎前方がくさび型化されたために起こるもので、骨そのものが変形しているため治ることはない。(10月8日)

 

 

 

 

 

金持ちと貧乏人

  本日はドイツの医学者エルンスト・クレッチマーの誕生日。彼は1888年ヴェステンロートで生まれた。中学の保健体育で習う体格性格論で知られる。体格と気質の関係をやせ型・肥満型・闘士型の三類型で説明する。1921年の著書「体型と性格」のなかで提唱した。有名芸能人で例えれば、やせ型・高橋一生は知的でクール、もの静かで控えめなタイプ。肥満型・小林亜星は躁鬱気質で怒りっぽい。闘士型(筋骨型)は高倉健や阿部寛などは筋肉質で粘着気質といい、礼儀正しく、義理がたいタイプ。だが実際のところこの区分は大雑把で必ずしもすべて当てはまるものではない。

    作家のフィッツジェラルドは「特定の個人を書こうと思って書き出すと、いつの間にか、一つのタイプの人間を創造しているのに気づくものだが、あるタイプの人間を書こうと思って書き始めると、いつの間にかそこに生み出されているものは、全く何一つ無きに等しいことに気がつく。これはつまり、われわれ人間というものが妙な動物で、一皮むいたその下には、顔つきや話しぶりとはおよそ違った、人には知られたくない、自分でもそれとは気づかぬ一風変わったところを隠し持った存在だからだ。自分で自分のことを、「普通の正直な開けっ放しの人間」だと称する人もいるけれども、そういう人にぶつかると、私は、これは何かひとと変わったところ、おそらくは悪く変わったところがあって、そいつを隠すことにしているんだな、善良で正直で開けっ放しの人間だと自分から言明するのは、その秘匿行為をそういう形で自分に言いきかせていることにほかならないのだ、と、そう思う。タイプなどというものはないのだ。複数は存在しないのである。」(「金持ちの青年」)

  つまりフィッツジェラルドの言うように、性格のタイプなどというのはないと思う。十人十色である。あえて、人を二つに分けるとすれば、お金持ちか貧乏人、そのどちらかである。(10月8日)

 

 

2025年10月 7日 (火)

安政の大獄(1859年)

  安政5年、6年は幕末維新史上、重要な年だった。安政5年1月、幕府は日米修好通商条約調印の勅許を奏請するが、孝明天皇はそれを拒否した。6月、勅許のないまま、幕府が上記条約を調印したため、天皇は激怒する。このころ橋本左内(1834-1859)は越前藩主松平慶永の側近となり、上洛、一橋慶喜待望説を遊説。しかし、井伊直弼が大老に就任し、慶永が処罰されると左内も、安政6年10月7日、江戸伝馬町獄舎で斬首された。26歳の若さであった。頼三樹三郎、飯泉喜内の2人も刑場の露と消えた。だが井伊直弼も翌年桜田門外の変で暗殺され、安政の大獄を取り仕切った直弼の側近、長野主膳も、2年後、藩内の尊攘派岡本黄石らのクーデターで失脚、斬首された。(10月7日)

横浜に近代水道成る(1890年)

   開港後、横浜は急激に発展した。しかし良質な水に恵まれず、ほとんどの井戸水は塩分を含み、飲み水には適さなかった。このため神奈川県知事はイギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーを顧問に迎え、水道の建設に着手し、明治20年10月7日、日本初の近代水道として給水を開始した。

 

 

ホロコーストとポグロム

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 ヴィクトール・E・フランクル著「夜と霧」というナチスの強制収容所での体験記録が出版されて半世紀以上、世界中で読み継がれてきた。本書に「ユダヤ人」も「ユダヤ教」も、ただの一度出てこない。それはユダヤ人に対しての虐殺ではなく、人類そのものへの悲劇として、自己の体験を提示したのだと言う。

   ホロコーストとは元来、ユダヤ教の燔祭(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で、のちに転じて火災による大虐殺、大破壊を意味するようになった。現在では、第二次世界大戦中のドイツがユダヤ人などに対して行った大量虐殺を指す。ホロコーストの犠牲者数は諸説あるが、900万人から1100万人にも上るといわれる。強制収容所やゲットーなどは計2200ヶ所もある。欧米ではヒトラーを嫌うあまり改名や改姓をする人がいる。欧米では、戦後アドルフというファースト・ネームを息子につけた親はほぼ皆無に近い。ドイツやオーストラリアでは「ホロコーストがなかった」と発言することを違法行為と定めている。特にアメリカではメディアを牛耳るユダヤ人の力は絶大で、ヒストリー・チャンネルでは、ほとんど毎週必ずホロコーストや第二次世界大戦に関するドキュメンタリーを放送している。

    20世紀初頭には、「ポグロム」という「破壊」を意味するロシア語が世界語になるほど、ユダヤ人に対する弾圧が酸鼻をきわめた。大規模なポグロムは過去3度あったといわれる。1648年から1657年までの間にウクライナに起こったコサックのボグダン・フメリニツキー(1595-1657)の乱のとき行われたもの。ユダヤ人迫害史の中でも最悪の事件の一つである。1881年アレクサンドル2世暗殺事件ののち南ウクライナで行われたもの。そして1903年から1907年にかけてロシア国内284個所以上で行われたもの。

 

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ミステリ―記念日

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1849年のこの日、ミステリ―小説の先駆者、エドガー・アラン・ポーが死去した。1845年に発表された「モルグ街の殺人」が世界初の推理小説と言われている。エドガー・アラン・ポー(1809-49)は、幼くして孤児となり、リッチモンド市の商人ジョン・アランに引き取られ、イギリスで初等教育を受けたのち、1826年バージニア大学に入学するが、1年たらずで退学。1833年「瓶の中から出た手記」が懸賞に当選し、作家としての、また雑誌記者としての道が開けた。その後のポーはリッチモンド、ニューヨーク、フィラデルフィアの各地で雑誌の編集にたずさわり、数多くの評論や書評を書くかたわら、数多くの小説を発表した。1849年10月7日、40歳で亡くなった。

    ポーは人間の心にひそむ内的恐怖や無意識にみごとな形態を与えた怪奇小説や幻想小説の書き手、明敏でときには辛辣な批評家、それに今日隆盛をきわめる推理小説(「モルグ街の殺人」)やSF小説の元祖であった。しかしポーの文学は、その生存中はかれの実力にふさわしい理解と賞賛とを受けなかった。それと同じように、人間としてのポーについても、これを伝える人々のことばに大きなへだたりを残したまま今日にいたっている。ボーの誹謗者たちはかれを神経病的な酔っ払いの麻薬常用者と考え、感情生活のいつも不安定な、道徳的誠実さの欠除している男とみなした。他方、かれを弁護する人々は、かれのすべての困難を、かれを嫌悪した人々の悪意、時代がかれに加えた苛烈な仕打ち、あるいはまた、かれをなやましたさまざまな肉体的、精神的病気のためであるといっている。かれについての真実がそのどちら側にあるかは、今でさえなお不明である。ポーがアルコールや阿片に過度なまでにふけったということがあまりにも伝説的になっているが、かれの場合には、他の多くのロマン派詩人のように、多分にかれ自身の偽悪的な面がはたらき、実際のかれ自身よりも自分をそのような姿に見せようとすることばや暗示があったであろうことを考えておく必要がある。(参考:「玉川百科大辞典16 西洋文芸」) 

2025年10月 6日 (月)

腕に虹だけ

 昨夜の新BS日本のうた。山内惠介水森かおりスペシャル。最高に良かった。「闇にご用心」「北の断崖」の持ち歌はもちろん、カバー曲「腕に虹だけ」(山内)「面影の君」(水森)など選曲がナイス。とくに「腕に虹だけ」の歌詞「光もいらないやすらぎもいらない愛もいらない腕に虹だけ抱いて」という孤独感・寂寥感は高齢者にならないとなかなかわからない。内館牧子の作詞で「寝たふりしている男たち」エンディングテーマ。

2025年10月 5日 (日)

レモンの日

 きょうは「レモンの日」。英語では、レモンを使ったことわざがあります。

When life gives lemons,make lemonade.

  直訳すれば、「人生があなたにレモンを与えたならレモネードを作れば良い」ですが、レモンには困難という意味があり、つまり「人生で良くないことが起こっても、良い方向に持っていけば良い」という意味になります。

   中国漢字圏ではカタカナのような元の発音に近い音で表記する記号がないので、いろいろな外来語はすべて漢字を充てている。日本でも明治になって西洋の新しい文物が移入されると、当初は漢字表記していた。瓦斯(ガス)、珈琲(コーヒー)、煙草(タバコ)、手巾(ハンカチ)、頁(ページ)、燐寸(マッチ)、果酒(ワイン)などなど。レモンは明治4年ころイタリア人が熱海に梅とレモンを日本にもたらしたとされている。

  ある調査で「読めるけど、書けない漢字」のランキングは、1位は薔薇(ばら)、2位は檸檬(れもん)、3位は葡萄(ぶどう)である。日本人は「レモン」が入って来たとき、中国語の「檸檬(ねいもう)」を借用した。中国の古辞書には宋代にすでに「黎朦」として現れており、中国語にとって外来語である「レモン」に充てた漢字かどうかは分からない。おそらく「レモン」という外来語より古くからあったという説のほうが有力である。「檸檬」と書くようになったのは、清代のことで、「n」と「l」とが交替する広東もしくは福建方言の地からである。

Img_3   テレビ情報誌「ザテレビジョン」の表紙はなぜか有名人がレモンを手に持って写っている。1982雑誌年の創刊号で薬師丸ひろ子(当時18歳)をいい表情にするためレモンを持たせた。当時はレモンを持つお決まりはなく、以後約4年間は誰もレモンを持っていなかった。ところが、177号で荻野目洋子が「私もレモンを持ちたい」とレモンを持つ表紙が復活した。以後、レモンを持つことが定番となった。(10月5日)

 

 

 

 

 

菠夢 パイナップル

 

香蕉 バナナ

 

香木瓜 パパイヤ

 

芒果  マンゴ

 

橘子  みかん

 

甜瓜  メロン

 

荔枝  ライチ

 

萃果  りんご

 

西紅柿 トマト

 

巻心菜 キャベツ

 

黄瓜   キュウリ

 

可口可楽 コカ・コーラ

 

漢堡   ハンバーガー

 

三明治  サンドイッチ

 

比薩   ピザ

 

蔬菜   野菜

 

草苺   イチゴ

 

葡萄酒  ワイン

 

蛋     たまご

 

可可   ココア

 

奇異果  キウイ

 

 

 

 

バレエ組曲「エスタンシア」

 エスタンシアとはアルゼンチンなどの大規模な農園のこと。アルゼンチンの作曲家ヒナステラは現地を取材し、「エスタンシア」を作曲した。ガウチョと呼ばれる先住民とスペイン人との混血の生活、パンパに住む人々の描いた民族色豊かな作品となった。失われゆくガウチョの生活がフィナーレにあたる「終幕の踊り(マランボ)」は近年人気が高まりよく演奏されている。

雨恐怖症

666celebritywallpaper1fbab 台風22号が発生し小笠原近海を北上している。週の中頃には日本に影響する見通しで、今後の進路に要注意が必要だ。最近の台風襲来や集中豪雨の気象情報で線状降水帯が発生したとか、大雨に対する警戒感が高まっている。雨恐怖症という言葉もある。英語で訳すと、ombrophobia。雨のザッーと言う音や、雨が降ることに対して、恐怖感を抱く。反対に女性には雨の日が好き、という人もいる。晴れの日の厳しい紫外線から逃れられるという理由からである。高所恐怖症や閉所恐怖症、対人恐怖症などいろいろある。ところで6月6日は「恐怖の日」。我が国ではこの日は昔から踊りや邦楽などの芸事は6歳の6月6日から始めると上達するといわれた吉日だった。ところが1976年に映画「オーメン」が公開されて以降、悪魔の子ダミアンが6月6日の6時に誕生し、頭に666の文字が隠されていて、666は獣の数字としてキリスト教では嫌われていることが知られるようになった。一般的に言っても、1、3、5などの奇数は吉数で、2、4、6などの偶数は不吉な数というのは、だいたいどの民族でも共通しているらしい。とくに6という数字はキリスト教以外にも、仏教において、「六(ろく)」は「殺人」「殺傷」、「六字(ろくじ)」は「死ぬこと」を意味する。これは南無阿弥陀仏が6文字であるためである。また三途の川の渡し賃が六文銭というのも死と係わりがあるためであろう。兵庫県川西市の郵便番号が「666」である。6という数字は見えないところに隠れて存在するかもしれない。

達磨忌

Img_1006663_23364974_0    達磨忌や壁にむかひし揚豆腐

              池西言水

  禅宗の開祖は達磨といわれている。その伝記については不明なところが多いが、今日では実在説が強い。南天竺、あるいは波斯国の人といわれる。520年頃に梁にやってきた。武帝との会見で、仏教興隆を自慢する武帝に「無功徳である」と言いきった、という有名な話があるが、史実とはいいきれない。しかし慧何(487-593)が雪の中を達磨を訪ねて、自らの片腕を斬り落として弟子にしてくれと頼んだという逸話についてはかなり明確な記録がある。慧何は入門を許され、第二祖となった。そして第三祖が僧璨、第四祖が道信、五祖が大満弘忍と牛頭法融に及び、大満の下から玉泉神秀と、大鑑慧能、嵩山慧安らの系統に分かれた。そして六祖の慧能によって中国禅は確立される。慧能の禅は頓悟禅ともいわれ、南の地方で盛んになったので、南宗禅ともいわれ、今日、禅宗といえば、この南宗禅を指すことが多い。日本の曹洞宗、臨済宗も南宗禅の系統である。達磨の没年はわからないが、道元の「正法眼蔵25」によると、達磨の高名を妬んだ菩薩流支が達磨を毒殺したとされる。(10月5日)

 

 

智恵子記念館

10月6日、智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました。昨夜遺骸を自宅に連れてきました。あはれな一生だったと思ひます。(難波田竜起宛てはがき)

 

    高村光太郎の妻智恵子は昭和13年10月5日、肺結核で亡くなった。52歳だった。造り酒屋の娘であった長沼智恵子の生家には智恵子記念館(福島県二本松市)がある。記念館には彼女の油絵、紙絵が展示されている。

 

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2025年10月 4日 (土)

ハリウッド「名声の歩道」

   ハリウッドの観光名所の一つ、ウォーク・オブ・フェーム。映画・テレビ・ラジオ・音楽などハリウッド・エンタメ界で活躍した著名人の名前が星型のプレートに5㎞に渡り歩道に刻まれている。1960年2月9日、女優のジョアン・ウッドワードが最初の星を獲得した。現在、2700以上の星がある。しかし、ハリウッドにはもう一つチャイニーズ・シアターの「スターの手型・足型」がある。いまでは300人ぐらいがハリウッド大通り6925番地に刻まれている。事の発端は、1927年1月5日にノーマ・タルマッジが誤って、まだ乾いていないセメントに足を踏み入れてしまった。つまり、うっかりミスから始まったと言われている。それ以後、ハンフリー・ボガート、マリリン・モンロー、クラーク・ケーブル、エリザベス・テーラー、ジェームス・ディーンといったハリウッド黄金時代のスターの手型がある。

 

 

 

 

ええじゃないか

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「ええじゃないか」は、慶応3年7月半ば頃から12月にかけて、東海地方から近畿地方で空から御札がふってくるという現象が起こり、それを喜んだ民衆が「ええじゃないか」と唱えながら踊り続けたという騒動である。「ええじゃないか」踊りは、お蔭参りの変型したものという説がある。誰がこのようなことを始め、なぜ一気に広がったのかは諸説あり、よく分かっていない。討幕派が世の中を混乱させるために仕組んだという説もあるが、想像の域を出ていない。

 

世界動物の日

29154f84dad74bc592d4216e5bb50e36   10月4日は「世界動物の日」。 動物の守護聖人であるアッシジのフランチェスコの聖名祝日。フランチェスコは心優しく小鳥と言葉を交わしたり、自然の美を賛美したことで知られる。

 ヒトと動物のかかわりは古い。最初はお互いを餌として戦い、そして家畜として人類が動物を利用してきた。家畜化に成功した動物と、家畜化できない動物がある。イヌ、ネコ、ブタ、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ラクダ、トナカイなど。しかしサルやクマは家畜化できなかった。

古本屋 消える街角 そぞろ寒

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  古書の日。本屋の減少。経産省が書店の振興にプロジェクトチームを設置するという。どこまで本気なのかな。秋の到来で、それとなく感ずるほどの寒さ。漫ろ寒。うそ寒。喪中はがきが届く。ご無沙汰して知らなかった。75歳じゃ、まだ死ぬには早すぎる。ご冥福をお祈りします。(10月4日)

 

 

2025年10月 3日 (金)

アンパンマンの日

 1988年のこの日、「それいけ!アンパンマン」の放送が日本テレビで開始された。キャラクターが豊富で1000体以上あり、「登場キャラクターが最も多いアニメシリーズとしてギネス記録に認定されている。ばいきんまん、ドキンちゃん、コキンちゃんなど悪役キャラが魅力的で人気がある。(10月3日)

山ガール

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  本日は「登山の日」。アウトドアブームで、ここ数年、女性登山者が急増している。これまで中高年者が多かったが、最近は20~30歳代の若い女性が山登りを始める人が増えてきた。そんな彼女たちを巷では、「山ガール」と呼ぶ。明るい色の組み合わせで山男たちの視線を釘づけにする山ガール・ファッションとはどういうものなのだろうか。まず帽子は必要不可欠。背中には本格的なデカリック。上着は防水加工のマウンテンパーカ。定番の山スカート(お尻を隠すためか)かわいい柄タイツ。トレッキング・ブーツ。芸能人では釈由美子、工藤夕貴、本上まなみ、南野陽子、杏、小島聖、KIKIなどが登山が趣味と言っている。自然に親しむことはいいことだが、山には危険がつきものなので1人ではなくグループ(4人~5人以上)で計画性をもって行動しよう。先日も滋賀県の霊仙山で女子大生が一人で登山して遭難し、山中斜面で遺体が発見された。(10月3日)

SOS(エスオーエス)

    936fullanighttorememberposter1906年のこの日、万国無線電信会議第1回ベルリン会議で救難モールス信号SOSが採択された。現在モールス符号らよる遭難通信の取り扱いは1999年で廃止されている。

  ちなみに1912年4月14日、タイタニック号が遭難したとき当時制定されたばかりのSOSが始めて使われた。(10月3日)

2025年10月 2日 (木)

豆腐に歴史あり

Hiyayakko   本日は「豆腐の日」。森羅万象、世のいかなるものにもそれぞれに歴史がある。島国日本は、朝鮮半島経由で中国から伝来したものが多い。漢字や仏教からに箸文化の日用品や食品に至るまで数多くある。日本で最も愛される妖怪、河童も実は中国に由来するという説があるがはっきりしない。

  毎日の食卓にみる豆腐は日本人に親しみのある食材のひとつ。夏は冷奴で、冬はお鍋で1年中食べる。木綿豆腐に醤油とカツオ節が一般的な食べ方。豆腐の発明は中国人のもので、前漢の淮南王劉安といわれる。彼は学者を集めて著書を刊行したが、そのなかに「淮南王万畢術」 という本がある。それに豆腐の製法が述べられていたという。

  豆腐が我が国に渡来した時期はあまりはっきりしない。日本に伝わったのはおそらく奈良時代だろうが文献には見えず、鎌倉・室町時代に中国に留学した僧侶が、製法を覚えてきて広まったと考えられる。文安元年(1444年)の『下学集』に豆腐という語がのっている。豆腐はとくに江戸時代になって庶民にまで広まった。

    徳川家光の慶安御触書では農民に飲酒、喫茶、煙草など禁止している。また衣類は木綿以外は着用しないこととある。贅沢禁止に関連して豆腐の製造を禁止している。家光自身は豆腐が大好物だったが、農民たちが豆腐を食べると大豆が高騰することを懸念したからであろうか。(10月2日)

藤堂高虎

 

 むかしNHKの「連続クイズホールドオン」(311回)でこんな問題があった。戦国の武将、藤堂高虎は処世に長けて、浅井氏に属し姉川の戦では織田軍と戦ったが、その後、豊臣秀吉、徳川家康と主を変えて、大名となった。戦国武将の藤堂高虎にちなむ「藤堂とらまる」は毎年秋に行われる「高虎時代絵巻」を応援するなど地元に根付いていますがこのご当地キャラクターはどこのものでしょう?

岐阜市、大津市、津市、奈良市。

   だが4人のなかで正解者は一人もいなかった。「藤堂とらまる」の全国的知名度は低かった。わたしは関西人なので藤堂高虎が伊勢国津藩の初代藩主として津市の基礎を作ったことを知っている。やはりご当地ということは大きい。

   たとえば「草津」といえば、全国的には群馬県の草津温泉を思いうかべるだろう。だが関西人ならほとんどは滋賀県の草津である。東海道本線の関西の普通電車は西明石から草津を走っている。

   NHK地域発ドラマをBSで放送している。「田上(たなかみ)トパーズ」。「田上」とは新潟県田上町(たかみまち)や大津市田上町ではなく、滋賀県豊郷町が主な舞台だったのでややこしい。

無償の営為

   本日は良寛の誕生日である(1758年)。最近の子どもは、良寛さんを知らないらしい。ある児童書出版社の子ども向け伝記シリーズの顔ぶれがずいぶんと変わっている。野口英世、二宮金次郎、一休、良寛などは消えていき、本多光太郎、松下幸之助、オードリー・ヘップバーン、イチローなどが加えられているという。さきごろの文化功労者でもそうだが、社会的、経済的に十分に成功を収め、評価される人が受賞することが多い。国民だれもが知っているスターやヒーロー、著名人ではあるが、何か腑に落ちないものを感じている。最近、大リーグで活躍する野球選手やサッカーの人気選手を学校へ招いて話をさせる。内容はみな一様に「努力すれば夢はかなう」とか「愛と勇気」である。テレビ番組制作サイドではそれは高視聴率となり、みな感動したと口をそろえる。だが本当に教育効果はあるかは10年先、20年先を見ないとわからないが、疑わしい。なぜなら偶像を自らつくりあげても、別人格であるし、時代状況も変化するし、現実には努力しても報われないことのほうが多い。むしろ自己をみつめ、現実をしることのほうが大切である。結果がすべてではなく、無償の営為に尽力することの大切さを学ばせることこそ大事である。人が見ているとか見ていないとか、いますぐ儲かるからとか、ノーベル賞をもらうとか、文化勲章をもらうとかでなく、平凡でもいいからつつましく生きている人を敬う気持ちを育てるべきである。坂本龍馬や織田信長を小学生にすすめても史実を理解しないかぎり、あまり意味はない。ある小学生にどんな人になりたいか聞いたら、「紅白歌合戦で審査委員になりたい」とマジで言っていたのには呆れた。子どもは大人の感覚を真似るものである。(10月2日)

望遠鏡の日

09082501galileostelescope_big 人類史上、最大の発見といえば宇宙の発見だろう。それを可能にしたのは望遠鏡だ。1608年のこの日、オランダの眼鏡技師ハンス・リッペルスハイが望遠鏡を発明した。翌年にはイタリアのガリレオ・ガリレイが望遠鏡が発明されたことを知るや、自身でそれを製作し、太陽や月、木星など天体を観測した。(10月2日,Hans Lippershey)

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2  朝ドラ「ばけばけ」。主人公の少女松野トキは没落士族の娘。父はトキにいい暮らしをさせたいと一大決心をする。うさぎで商売をしようとする。この話は本当だろうか。小泉湊がウサギの投機で失敗したとは聞かないのでおそらく創作だろう。だが明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であったのは事実である。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

 

 

2025年10月 1日 (水)

難読地名(市の部)

Photo_7  全国には792の市がある(令和7年10月1日現在)。市名は地名の中でも最も馴染みのあるものなので、難読と言ってもたかが知れている。全部読める人もいるだろう。

 千葉県匝瑳市と千葉県匝瑳市と兵庫県宍粟市は読み方が難しい市名の東西の横綱といわれている。匝瑳(そうさ)の「匝」という漢字はふだん見慣れないが、「匝線」(渦巻き状の曲線)という熟語もある。宍粟(しそう)は「あなぐり」とか「ししぐり」とか読まれることが多い。両市では近年、さまざまな交流を通して市のPRを始めている。宍粟市には千種高原へ向かう「おごしき山」と「空山」の山頂に「平成之大馬鹿門」(彫刻家・空充秋)があることで知られる。

   能登半島の最北端にある石川県珠洲市は「すず」と読む。能登地震で有名になつた。愛知県新城市は愛知県新城市は「しんしろ」と読む。地名としては珍しい重箱読み。「しんじょう」と誤読されることが多い。福岡県前原市(現在は廃市)は「まえばる」。

だれでも読みやすい「いすみ」「あわら」「うるま」「うきは」「かほく」などひらがなの市名も29市あるが、欠点としてぱイメージがつかみにくく位置がわからないことが多い。

 

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コーヒーの日

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 17世紀のロンドン・コーヒーハウス

  きょうは「コーヒーの日」。一杯のコーヒーを傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。では世界で一番最初にコーヒーを飲んだのは誰なのだうか?

 コーヒーの発祥地はエチオピアでコーヒーの液汁を飲んだのが始まりですが、実を煎じて飲むことを考えついたのは、5~9世紀のアラビア人だといいます。すくなくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。

   今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。イギリスのコーヒーハウスは男性しか入れなかった。やがて女性たちは紅茶を飲むようになり、19世紀中頃からアフタヌーンティーの習慣へと発展する。

   日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代のことで、キリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーの味を初めて知った日本人はおそらく幕府のオランダ通詞であろう。「紅毛船上にてカウヒイというものを飲めり。焦げくさくして味わうるに堪えず」と、太田蜀山人は感想を語っている。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。

 コーヒーが健康に与える影響については科学者たちが何年にもにわたって研究してきた。飲みすぎるとカフェイン依存症につながる一方、毎日適量飲むと心臓病のリスクが下がるという報告もされている。コーヒーの健康効果についてはいまだ謎が多い。DNA遺伝子が関係しており、からだにいい人と悪い人と、人によって違いがあるらしい。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13) 10月1日

 

 

難読地名 山、峠の部

  わが国は国土の三分の二以上が山である。大きな山から小さな山まで、それこそ無限にある。難読の山・峠を北から挙げてみよう。

風不死岳 ふっぷしだけ

徳舜瞥山 とくしゅんべつやま

狩勝峠  かりかちとうげ

雲谷峠  もやとうげ

 

 

秋の京都名所観光

Kinkakuji1    年間約5000万人もの観光客が訪れる観光都市京都。旅行割引が開始され、紅葉シーズン、秋の京都は魅力がいっぱい。人気スポットは、清水寺、嵐山、祇園、鞍馬、貴船、八坂神社、鴨川、金閣寺、二条城、銀閣寺、南禅寺、相国寺、天竜寺、建仁寺、龍安寺、高台寺、平安神宮、嵯峨野、伏見稲荷大社、仁和寺。初めて寺の拝観料をとったのは、清水寺である。京都五山では1386年に南禅寺をその上位とした。でも修学旅行といえばやはり金閣と銀閣。国宝指定は、金閣ではなく銀閣である。銀閣寺の観音殿と東求堂は共に国宝指定。金閣は1950年7月2日、僧侶の放火により焼失。現在の建物は1955年に再建されたが、国宝指定は解除された。犯人の林承賢は「金閣寺の優美さを呪い、反感を抑えきれなかった」と動機を語ったが、いまだ不明な部分も多い。林は1955年に出所したが、翌年、26歳の若さで病死している。

国勢調査の基準日

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 今日は5年に一度の「国勢調査の基準日」です。長嶋茂雄さんも橋幸夫さんも天国へ逝かれた。国勢調査といえばやはり人口。人口4人に1人が65歳以上という超高齢化社会の日本は多死時代でもある。大正9年10月1日、第1回の国勢調査が実施された。その時の人口5596万3053人だった。  わが国の人口は単調に増加し続けたのではなく、増加と停滞、あるいは減少を何度か繰返しながら、発展してきた。人口増加は、弥生時代から10世紀にかけてみられる稲作農耕とその普及による人口増加と、19世紀から現代にいたる工業化に支えられた人口増加という2つの大きな流れがある。「少子化」が社会用語として使用されだしたのは、1989年に合計特殊出産率が1.57を記録し「1.57ショック」という言葉で社会問題化された。

   縄文時代には約10万~約26万人であり、弥生時代には約60万人であった。奈良時代には約450万人、平安時代には約550万人となり、室町から戦国時代にかけて人口は1000万人を超えるようになった。慶長時代は約1220万人といわれている。江戸時代には17世紀に人口が増加し、2000万人を超え、18世紀には停滞して、おおむね3100万人から3300万人で推移した。明治になって4000万人を超えて、大正9年には5596万人、昭和15年には7193万人、昭和35年には9342万人、昭和41年3月31日、日本の総人口は1億人を突破した(法務省住民登録集計による)    昭和55年には1億1706万人、平成12年には1億2638万人となった。平成22年に1億2800万人をピークに達し、その後、人口は減少に転じている。総務省統計局発表によると、令和7年9月1日現在(概算値)の日本の総人口は、1億2317万人で、2010年から15年連続で減少している。世界の国の中で第12位です。(10月18日)

ネクタイの日

Photo_5   写真は25歳前後のチャイコフスキー。ネクタイは紐状のものであるが、結び目、幅など現在のものとはだいぶん異なる。もともとネクタイの原型はフランスのクラバット(cravat)といわれる。17世紀にフランスの兵士たちが妻や恋人から贈られた白いスカーフを首に巻いていた。ルイ14世がそれに興味を示し、「あれは何か?」と尋ねたところ、側近の者はクロアチアの兵士について尋ねられたと勘違いし、「クラバット(クロアチア)です」と答えたために、その布をクラバットと呼ぶようになったという逸話がある。その後、19世紀に入ってイギリスで、伊達男としてその名を馳せたジョージ・ブライアン・ブランメルが、ネッククロースという紐状の固いタイを締めたスタイルを考え出したところ、これが評判になり世界中に流行した。チャイコフスキーのネクタイもその流行の先端であろう。さて、日本人で初めてネクタイを締めた人は誰だろうか?。おそらく中浜万次郎(ジョン万次郎)ではないだろうか。1884年10月1日、小山梅吉が日本で初めてネクタイを製造した。この日にちなんで「ネクタイの日」を制定している。(Chaikovsky)

私は勝利を盗まない

34855932     紀元前331年10月1日、ガウガメラの戦いでの話。マケドニアのアレクサンダー大王がペルシア帝国と戦っていた。前方の平原がペルシア軍のかがり火で埋めつくされているのを見て、幕僚の一人パルメニオンが大王に進言した。「大王、夜襲をしかけてはいかがでしょうか」すると大王は答えた。「私は勝利を盗まない」と言った(夜襲などの小手先技で勝とうとはせず、正々堂々と戦う、の意)。実はこのときペルシア軍は罠を張ってマケドニア軍の夜襲を待ち伏せしていたのだ。大王は、翌日の会戦にあたって、ペルシア軍の左翼と中央の間に少し隙間ができたことを見てとると、「突っ込め!」とばかり、騎兵親衛隊の先頭に立って、ダリウス3世めがけて進軍した。大王の中央突破作戦は見事成功し、大勝利だった。(AlexandrosⅢ,Gaugamela)

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