記者が揶揄した言葉だった「印象派」
1871年、ロンドンからオランダを経由して、ふたたびフランスに戻ってきたモネ一家は、アルジャントゥーユに家を借りて落ち着いた。パリから数㎞のセーヌ河畔のこの地での生活は、モネの生涯で実りの多い時期でもあった。
印象派画家たちが最も結束を固めたのもこのころであり、1874年には第1回印象派展が開催された。会場は写真家ナダールの店。30人の参加者のなかにはモネ、セザンヌ、ドガ、ルノワール、シスレーなどがいた。モネの出品「印象、日の出」(1872年)を、見る者を驚かせあきれさせる絵の「印象」にひっかけて、新聞記事のタイトルには「印象主義者たちの展覧会」とつけられた。新聞記者ルイ・ルロアは「なんという気ままさ、なんという無造作!」と風刺のきつい『シャリバリ』紙上で酷評し、愚弄の意味の込めた「印象主義」という呼び名をつけたが、以後もモネたちに呼ばれるようになり「印象主義」の誕生となった。けなし言葉だった「印象派」は、今日では美しい響き持つ言葉となった。印象派展は1886年までさらに7回が開催された。モネは合計8回のうち5回に出品している。しかし、この展覧会は商業的には失敗であった。
1880年代に入り、40歳になったモネはアリスや子どもたちとともに、ディエップ、プールヴィル、ヴァランジュヴィルといったノルマンディーの海岸地域を転々とするが、1883年に、やっとパリから60㎞離れたエプト河畔のジベルニーに腰をすえた。このころまでに、初期印象派グループはほぼ解散状態となっていたが、モネは印象派の理念である「自然の追求」をなおも試み続けていた。(参考:『モネ 週刊グレート・アーティスト3』同朋舎)
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