気になる日本語「ボタンの掛け違い」
日本は社会の隅々にまで、一様性がまかり通っている。ある物事に対して、だれに聞いても似たような言い回しをすることが多い。だから、「だれもがそう言うのだから、きっとそうなんだろう」と思うようになる。発端はテレビによくでている評論家やタレントたちの言い回し。視聴者が口まねをして、職場や学校で使う。たとえば「ボタンの掛け違い」「上から目線」「モチベーションを高める」「温度差」など便利な言葉である。「持続可能な社会をめざします」とか「人と人との心をつなぐ絆の大切を知りました」といえば優等生に見られることを子供たちも知っている。ほんとうに常套句を上手に使いこなすだけの人間でいいのだろうか。新聞・雑誌の原稿を書く人、政治家の演説の下書きを書く人、みんな耳障りのよい言葉を選んで無難なことを書いている。とくにNHKのアナウンサーの言葉が酷い。実況中継が多かったむかしのアナウンサーはその場の雰囲気をつかんでなめらかに話していた。一様性、均一性は思考の劣化をまねく。
気になる日本語の一つに「ボタンの掛け違い」という言い回しがある。洋服のボタンをつける際に、最初のボタンを間違えると、その後のボタンがすべてずれてしまい、最後にその間違えに気づくという状況に由来している。気障な表現で私は使わない。いつ頃、誰が使い始めたのかは、正確なことはわからない。昭和30年代にはあまり耳にしないような言葉である。いろいろ調べると、結構古いようだ。伊丹万作という有名な映画監督の文章に似たような表現が見つかる。「戦争責任者の問題」に「最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。」とある。(「映画春秋」創刊号 昭和21年8月)
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